[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]
ワレカラ 海中ノ藻ニスム小貝ナ
リ古歌ニヨメリ色淡黒大キサ
三四分ニ不過其殻(カラ)ワレヤスシ
ミゾガイ。井 ガイナトニ似テ
小
ナリ
此
藻ハ。ナゴ ヤト云淡靑
色カハケバ紫色ナリ日ニ※(サラ)セバ
白色可ㇾ食性不好或曰松葉ト云藻ニモ此貝アリ松藻ハ長ク乄莖大也
[やぶちゃん注:「※」=「月」+「慕」。「曝」の誤字としか思えない。訓読ではそれに代えた。]
○やぶちゃんの書き下し文
われから 海中の藻に、すむ小貝なり。古歌に、よめり。色、淡黒、大きさ、三、四分に過ぎず。其の殻(から)、われやすし。「みぞがい」・「ゐがい」などに似て、小なり。此の藻は、「なごや」と云ふ。淡靑色。かはけば、紫色なり。日に曝(さら)せば、白色。食ふべし。性、好からず。或いは曰はく、『「松葉」と云ふ藻にも此の貝あり』〔と〕。松藻は長くして、莖、大なり。
――――――――――――――――――
梅花貝
形小ナリ長五分許
ヲモテニ文アリ
ウラ白
――――――――――――――――――
アメ
長一寸餘海邊ノ岩ニ付ケリ
ウラニ肉アリ食ヘバ味甘シ肉ノ
色微紅シ
生ニテモ
煮テモ
食フ
[やぶちゃん注:以下は、下方の図のキャプション。]
アメノ背ノ甲也
節段ノ文アリ
○やぶちゃんの書き下し文
あめ
長〔(た)け〕一寸餘り。海邊の岩に付けり。うらに肉あり。食へば、味、甘し。肉の色、微〔(かすか)に〕紅し。生にても、煮ても、食ふ。
『「あめ」の背の甲なり』
『節〔(ふし)の〕段の文〔(もん)〕あり』
――――――――――――――――――
海中ノ所ㇾ生スル色白珊瑚琅玕
之類如ㇾ樹有二小乄而數寸ナル者一
其質玉石之
類如ㇾ花ノ
者非
ㇾ花似二
莖端ニ一
○やぶちゃんの書き下し文
海中の〔→に〕生ずる所〔のもの〕。色、白〔し〕。珊瑚・琅玕〔(らうかん)〕の類。樹のごとし。小さくして數寸なる者、有り。其の質、玉石の類〔なり〕。花の如きは、花に非ず。莖の端に似〔たり〕。
[やぶちゃん注:「ワレカラ」ここで貝と言っているが、無論、現在のワレカラは、貝類ではなく、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類である。代表種は、
ワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons
トゲワレカラ Caprella scaura
スベスベワレカラ Caprella glabra
などである。しかし、益軒は、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の本文でも、「われから」を微小貝で「殻の一片なる螺」(殻が一片しかない巻貝)という奇体な表現で示しているのである。現行、江戸以前の本邦での「われから」を、現在のワレカラ以外の生物に比定している記載や人物を私は知らないが、しかし、私は実は、本当に中古以降から見られる古文献の「われから」と近代以降の生物学的な「ワレカラ」がイコールであると考えることに、ある種の躊躇を感じている。「伊勢物語」第五十七段(モデルの在原業平は元慶四(八八〇)年没であるから、原「伊勢物語」自体はそれ以降の成立であるが、内容自体は無論、それ以前に遡る内容である)、
*
むかし、男、人知れぬもの思ひけり。つれなき人のもとに、
戀ひわびぬ海人(あま)の刈る藻に宿るてふ
われから身をもくだきつるかな
*
や、それを受けて、物語の一つに挿入として再現される、同書の六十五段の女の詠む一首、
*
海人の刈る藻に住む蟲のわれからと
音をこそ泣かめ世をば恨みじ
*
が、最も時間的に古い使用事例となる。何故なら、この歌は「古今和歌集」(原初版は延喜五(九〇五)年奏上)の巻第十五「戀歌五」に(八〇七番)、典侍(ないしのすけ)藤原直子(なほいこの)朝臣の歌として出るからである彼女は生没年未詳であるが、貞観一八(八七四)年従五位下、延喜二(九〇二)年正四位下に上っている。典侍は従四位下以上でなくてはなれないからである。「枕草子」(ほぼ全体は長保三(一〇〇一)年成立)の、「虫尽くし」の章段の冒頭に、
*
蟲はすずむし、ひぐらし、蝶、松蟲、きりぎりす、はたおり、われから、ひを蟲[やぶちゃん注:蜉蝣(かげろう)のこと。]、ほたる。
*
などが現在、古典籍に出る最古の使用例であるが、これらから、遅くとも九世後半には既に「われから」が海藻にくっついて生活している虫(広義の海産小型生物)であることを、ろくに浜遊びをしたこともない京の上流階級の人間たちが、実際に乾燥した現物の「われから」の死骸を見て知っており、現に「われから」と名指していたと考えねばならない。「われから」が「我から」を導き出すための序詞であるなどということには、和歌嫌いの私は冷淡であるが、博物学的興味からは、非常に惹かれるのである。「われから」は即物的には「割殻」「破殻」(或いは「から」を殻だけの中身が「空(から)」と採ってもよい)であろう。古代より献納された乾した海藻類や塩蔵されたそれらに、ミイラとなった細いワレカラが附着しているのを見たら、まず、当時(とすれば、「われから」という固有名詞はなくとも、遙か古代に於いて虫或いは貝と認識されていたことになる。私はその認知は縄文時代まで遡ると考えている)の都の貴賤総ては、それを、海藻に棲んでいる虫の死骸(バッタかナナフシをごくごく小さくした虫)、或いは、中身のなくなった貝の殻と考えたことは想像に難くない。しかし、これは「われから」=「ワレカラ」等式ありきの垂直的思考であり、立ち止まって考えてみれば、或いは「われから」は、ごく小さい奇体な海老みたような今の「われから」類ではなくて、本当に貝――一時期或いは終生を海藻の藻体上に匍匐して生活していた微小貝類であった――可能性を考えてみる必要はあるのではないか? と私は思うのである。それは、後の(貝原益軒は寛永七(一六三〇)年生まれで、正徳四(一七一四)年に没している)、江戸後期に活躍した博物学者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天宝五(一八三四)年)や毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)の図譜を電子化してきた経験から、そう感ずるのである。例えば、丹洲の「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より抜粋した私のサイト版「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」の三つの別な図に出る「ワレカラ」を見られるがよい。三つ目のそれでは、まさに本「大和本草」の虫説が記されて、丹洲はそれを否定していないのである。因みに、二枚目の「われから」はナナフシ型ではなく、ワラジムシ型で、ワレカラではないのである。そこで、私はこれを海岸に打ち上がった海藻に附着していた海浜性の虫と捉え、四年前に、補正注をし、
*
下に海藻(種不明)に付着したワレカラ八個体の図。これは形状からこの図が正確なら、これが打ちあがった海藻に附着しているものであれば、
甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae
ハマトビムシ類の仲間と考えてよいと思うが、転載図である上に、図のスケールが不明(海藻が同定されれば、スケールのヒントにはなると思われるが)なため、体長十五ミリメートルの一般種の、
ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis
であるか、体長二十ミリメートルの大型種の、
ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi
であるかは不明である。但し、これが海中に浸った状態のものを描いたとすると(当時の博物画の場合はちょっと考えにくい。そのような生態描写の場合は、そうした注記をするものである。但し、これは写しの写しだからこれはその作業の実際を写した丹州自体が知らないものと思われる)、海浜の砂地及び砂中にしかいないハマトビムシは無効となり、それに形状が近く、海中の藻場で藻に附着している種ということになる。その場合は例えば、
フクロエビ上目端脚目モクズヨコエビ科モクズヨコエビ属フサゲモクズ Hyale barbicornis
などのモクズヨコエビ科 Hyalidae の仲間
などが想定出来る。
*
と大真面目に「非ワレカラ説」をぶち上げているのである。さらに、毛利梅園の「梅園介譜 ワレカラ」をまず見て貰おう。「しっかり、ワレカラじゃん!」と言うなかれ。本文をよく読みなさい。冒頭から、『藻に住む虫の「ワレカラ」とは、別なり。藻にすむ「ワレカラ」は小貝なり。貝の部に出(いだ)す』と書いてあるのだ! それが、「梅園介譜 小螺螄(貝のワレカラ)」だ! その絵がこれだ! くっついているのは? どうだい? ワレカラなんぞじゃないよ! 明らかに微小な巻貝なのだよ! 残念乍ら、梅園の絵のそれは、モズクに附着する六個体が描かれてあるが、私は微小貝の知見に乏しいので、それ以上に進むことは遠慮した。其の専門の方に見て貰って同定して戴ければ幸いと思っている。よろしくお願い申し上げるものである。キャプションによれば、「大きさ、三、四分」で九ミリメートルから一・二センチメートルで、「みぞがい」(先に倣えば、淡水の二枚貝であるイシガイ科イケチョウガイ属イケチョウガイ Hyriopsis schlegelii )或いは「ゐがい」(イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus )などをごく小さくような感じとする。しかし、ということは、このキャプションを書いた者は「われから」を明確な二枚貝と認識していたことを示すことになる。以下、「なごや」とは、益軒のフィールドである九州地方で、紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae のオゴノリ類を言う方言である。「大和本草卷之八 草之四 ナゴヤ (オゴノリ)」参照。『「松葉」と云ふ藻』「松藻」は本邦では褐藻植物門褐藻綱ヒバマタ亜綱イソガワラ目イソガワラ科マツモ属マツモ Analipus japonicus 及びイトマツモ Analipus filiformis・グンジマツモ Analipus gunjii の三種が知られる。「大和本草卷之八 草之四 松藻(マツモ)」参照。
「梅花貝」斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ツキガイ超科ツキガイ科ウメノハナガイPillucina pisidium の異名。殻長約七ミリメートルの微小貝で、梅の花弁に似ている。表面は白色又は淡黄色。北海道南部以南の水深約三十メートルまでの内湾の砂泥地に棲息する。学名でしばしばお世話になっているMachiko YAMADA氏の「微小貝データベース」のこちらで大きな画像が見られる。
「アメ」所謂、「ヒザラガイ」(膝皿貝)、海岸の岩場の上に張りついて動きを殆んど見せないように見える(多くは夜行性であるため)、比較的扁平な体で、背面に一列に並んだ八枚の殻を持っており、現生の軟体動物では節足動物のような体節制を思わせる姿を持った生物であるヒザラガイ類である(但し、「アメ」という異名はネット上では確認出来なかった。或いは、軟体部の飴色の「あめ」か?)。但し、あれは実際には体節ではなく、「偽体節」であるとされている。軟体動物門多板綱 Polyplacophora 新ヒザラガイ目 Neoloricata に属する。現生種(約八百三十種)はサメハダヒザラガイ亜目サメハダヒザラガイ科 Leptochitonidae・マボロシヒザラガイ亜目マボロシヒザラガイ科マボロシヒザラガイ属 Choriplax・ウスヒザラガイ亜目ウスヒザラガイ科 Ischnochitonidae・同ヒゲヒザラガイ科 Mopaliidae・同サケオヒザラガイ科 Schizochitonidae・同クサズリガイ科 Chitonidae・ケハダヒザラガイ亜目ケハダヒザラガイ科 Acanthochitonidae・同ケムシヒザラガイ科 Cryptoplacidaeで、本邦では現世種で約百種が知られる。参考にしたウィキの「多板綱」によれば、『現生の軟体動物では最も多くの殻を持つ』。『体が偏平で、下面は広い足となっていて基盤に吸着する点は腹足類と同じであり、特にアワビやウミウシのように全体が偏平なものはそれらと似ていなくも無いが、内部構造等には重要な差異があり』、全く『別個の分類群となっている』。『特徴的な形態を持つため、中国語ではスッポンに例えた石鼈(シービエ)という名が使われてきたが、日本にも様々なものに例えた地方名がある』。『福岡県の志賀島では「イソワラジ」と呼び』、『山口県萩市では』、『岩から剥がしたときに丸まる習性から』、『老人の背中になぞらえて「ジイノセナカ」「ジイノセナ」「ジイノセ」「オジノセ」「バアノセナ」「ジイとバア」「ジイジイババアバア」などと呼ばれる』。『島根県の隠岐では「オナノツメ」』『と呼ぶほか、「ハチマイ」「ハチマイガイ」(八枚貝)と呼ぶ地方も多数ある』。『全体に楕円形等の形をしており、多少細長いものもあるが、いずれも輪郭はほぼ滑らか。左右対称で腹背方向に偏平、背面はなだらかな丸みを帯びる。背面に感覚器など特に目だった構造は無い。大きさは全長数』センチメートル『程度のものが多いが、最大種のオオバンヒザラガイ』ケハダヒザラガイ亜目 ケハダヒザラガイ科オオバンヒザラガイ属オオバンヒザラガイ Cryptochiton stelleri 『は普通で』二十センチメートル、時に四十センチメートルにも達する超大型種で世界でも最大種である(リンク先に写真有り。かなり強烈なので自己責任でクリックされたい)。『背面は厚い外皮に覆われ、刺や針、鱗片などが並んでいる。その配列に体節のような規則的な繰り返しが見られることが多い。刺は集まって刺束を形成することがあり、これもやはり』、『対をなして規則的に並ぶ』。『正中線上には、前後に並んだ』八『枚の殻板(shell plate)がある。最も前の殻板を頭板、最後尾のものを尾板、その間のものを中間板と言う。殻板は密接して並び、前端は前の板の下になった瓦状の配置をするが、互いにやや離れている例もある。殻周辺の部分を肉帯(girdle)という。このように殻が前後に分かれているので、この類は体を腹面方向に大きく折り曲げることができる。背中に向けても多少曲がるが、左右にはあまり曲がらない。ただし殻がやや離れていて細長いケムシヒザラガイ』(ケハダヒザラガイ亜目ケムシヒザラガイ科ケムシヒザラガイ属ケムシヒザラガイCryptoplax japonica )『などは左右にもかなり大きく曲がる』。『腹面の周辺部は背面の続きになっているが、中央には広く平らな足があり、その間にははっきりした溝がある。この溝は外套腔に当たる部分で、外套溝(pallial groove)と呼ばれる』。『足は腹足類の足によく似ており、粘液で覆われ、その面で岩などに吸着することができ、またゆっくりと這うことができる。足の前端の溝の間からはやや突き出した口があり、一部の種ではその周辺には触手状突起が並ぶ。この部分が頭部であるが、目や触角は無く、歯舌が発達している』。『足の側面側の外套溝には鰓があり、これは足の側面全体に対をなして並ぶものと、その後方部の一部だけにあるものとがある。鰓の数は』六『対から』八十八『対に達するものまであり、対をなしはする』ものの、『殻の配置等との対応関係は無い。また、同一種でも数にやや差があったり、左右で同数でないことも珍しくない。足の後端の後ろに肛門が開く』。『この類には、外面に目立った感覚器がない。しかし、実際には殻表面に多数の穴が開いており、これが感覚器として機能している。穴には大孔と小孔があり、ここに内部から枝状器官 (aesthete)と呼ばれる物が入り込んでいる。大孔には大枝状器官(macroaesthete)、小孔には小枝状器官(microaesthete)がはいっており、後者は前者の分枝にあたり、一つの細胞のみからなる。これらはさまざまな感覚をつかさどると考えられるものの』、『詳細は不明であるが、少なくとも光受容の機能をもつとされる。また』、『一部の群では』、『この部分にレンズを備えた殻眼をもつ』。『その他、肉帯や外套膜の下面などにも小さいながらもさまざまな感覚器がある』。『消化管は口から続く咽頭、やや膨大した胃、細長く旋回した腸からなる。口腔の底面には歯舌があり、表面には磁鉄鉱を含む小さな歯が並んでいる。また胃には腹側に』一『対の肝臓がつながる』。『循環系はよく発達した心臓と血管からなる。心臓は体後方の囲心腔に収まり』、一心室二心房を『持つ。血管は心臓から両側に伸び、体の側面側を鰓に沿って前に向かう前行大動脈となる』。『排出器は腎管系で、左右』一『対を持つ。体の両側面近くを前後の走り、前半部が内臓の間に細かい枝を出し、後方では囲心腔に』漏斗『状の口を開く。中程から外への口が外套溝に向かって開く』。『神経系は主要なものが』、『体の側方を前後に走る側神経幹と、その内側をやはり前後に走る足神経幹であり、前方では口周辺にいくつかの神経節や神経連合によってつながるが、脳と言えるほどのまとまりはない。それより後方では上記の都合』二『対の神経幹がほぼ平行に走り、それらの間にほぼ等間隔に神経連合があるため、ほぼ』梯子状『神経系となっている』。『生殖系については、基本的には雌雄異体である。消化器の背面側に生殖巣が』一『つあり、左右』一『対の管を介して外套溝に口を開く』。『軟体動物はその発生などから環形動物との類縁性が主張され、また』、『環形動物は体節制の観点から節足動物と近縁と考えられていたことがある。これを認めると』、三『群は近縁であることになるので、軟体動物も本来は体節制を持っていて』、二『次的にそれを失ったものではないかとの推測があった。その根拠の一つがこの類の構造である。ただし、軟体部には体節はない。軟体部にも体節(に似た構造)が見られるのは、現生の軟体動物では単板綱のネオピリナ類』(現生貝類で正真正銘の唯一の「一枚貝」類である「生きた化石」軟体動物門貝殻亜門単板綱 Monoplacophora のTryblidiida 目 Tryblidioidea 上科ネオピリナ科 Neopilinidae 。最初の発見は一九五二年でパナマ沖の深海底で、ネオピロナ属ネオピリナ Neopilina galatheae と命名された。現在は七属二十種ほどが知られている。そもそもがこの単板類は古生代カンブリア紀からデボン紀に栄えた原始的形態をもつ軟体動物であった。「大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)」の私の注を参照)『とその近縁種のみである』。『確かに背面の殻の並びは甲殻類の背甲(例えばダンゴムシ』節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Oniscidea、或いはワラジムシ亜目 Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio 属ワラジムシ Porcellio scaber )『を思わせ、刺束を持つものでは』、『その配列もこれと連動する。また』、『内部では殻と筋肉の配列が連動しており、やはり』、『強く体節制を示唆すると取れる。しかし、鰓は対をなしてはいるものの、殻の配置とは無関係であり、またその対も完全なものではない。内部では神経系が』梯子状では『あるが、その区切りは』、『他の臓器とは必ずしも連動していない。また』、『体腔は限定され、また』、『排出器にも体節制を思わせる特徴はない。節足動物との類縁性が否定されたこともあり、近年では軟体動物は環形動物と近縁ではあるが、両者が分化した後に環形動物で独自に体節制が発達した、という考えに傾きつつあるようである』。『卵は寒天質の皮膜に包まれた紐状に海中に放出され、体外受精する。特別な配偶行動は知られていないが、一部の種で繁殖期に集まったりする例は知られている。卵割は全割で螺旋卵割が明瞭』である。『卵の中でトロコフォア幼生』(Trochophore larva:担輪子。軟体動物や環形動物の幼生期に見られる形態名)『の形を取る。トロコフォアは球形に近く、その繊毛帯の後方の背面側に殻を、腹面側に足を分化することで親の形に近くなる。この状態で孵化したものはその繊毛帯で遊泳するプランクトン生活を行う。この状態をベリジャー幼生』(veliger larva:軟体動物に広く見られる幼生の形態名。被面子。通常はトロコフォア幼生の次段階に与えられる)『としたこともあるが、一般のそれとは異なり、トロコフォアとほとんど変わらない。やがて繊毛帯より前の部分は次第に縮小して頭部となり、幼生は底性生活を始める。なお、この頃までの幼生は腹面の頭部近くに』一『対の眼を持つが、その後消失する。また、殻については最初から』八『枚が形成される例もあるが、当初は』七『枚で、最後に尾殻が追加されるものが多い』。『殻の』内、七『枚が先に生じる点は、無板類』(軟体動物門無板綱 Aplacophora。深海底に棲む蠕虫。代表種はサンゴノホソヒモ科カセミミズ属カセミミズ Epimenia verrucosa 。綱名から判る通り、殻を一切持たない)『において発生途中で』七『枚の殻の痕跡が見られるとの観察があり、両者の系統関係を論じる際に重視された経緯がある。ただし、無板類での観察は、その後認められず、疑問視されている』。『すべて海産で、一部には潮間帯の干潮時には干上がるような場所に生息するものもあるが、ほとんどはそれ以下に住み、深海に生息する種もある。岩やサンゴ、貝殻などの固い基盤の上に付着している。砂や泥の上で生活するものはほとんどいない。基盤上をはい回り、歯舌でその表面のものを嘗め取るようにして食べるのが普通である。多くは草食性で付着藻類を食べるものが多いが、より深い水域ではヒドロ虫類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱 Hydrozoa)『やコケムシ類』(外肛動物門 Bryozoa。淡水産よりも海産種が多く、潮間帯から深海にまで分布する。微小な個虫が、多数集まって樹枝状・鶏冠状・円盤状などの群体を形成する。群体は石灰質又はキチン質を含んでおり、硬く、岩石や他の動植物に付着する。それぞれの個虫は虫室の中に棲んでいる)『を食べるもの、雑食性のものも知られる。肉食性の種でババガセ』(ウスヒザラガイ亜目ヒゲヒザラガイ科ババガセ属ババガセ Placiphorella stimpsoni )『などは動かずに口の部分を浮かせて物陰を作り、そこに潜り込む小動物を捕食する』。『多くは夜行性で、昼行性の種は少ないとされる。運動は緩慢で、ゆっくりと這う。一部では決まった場所に付着し、移動後もそこに戻る帰巣性が知られている。また、特定の基質と結び付いて生活するものも知られ、ある種の海藻の上に付着するもの、海綿の群体の上に生活するもの、深海底に沈んだ材木に付着するものなどがある。熱水鉱床に出現するものも知られる』。『岩に張り付く際には、体が殻に覆われてはいないが』、『その表面は丈夫であり、また殻の配列も曲げられるため、岩の表面やくぼみにぴったりした形になって張り付くので、非常に剥がしづらい。剥がした場合には腹面を折り曲げるようにして丸くなる。その様子はダンゴムシ』(ワラジムシ亜目Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科オカダンゴムシ科 Armadillidiidae のダンゴムシ類。或いは、同科オカダンゴムシ属オカダンゴムシ Armadillidium vulgare )『にやや似ている』。『分布域としては世界に広くあるが、特にオーストラリア周辺に多いとされ、日本近海はむしろ種数が少ないという』。『ヒザラガイ類は一般的に小柄なものが多く、生息場所によってはカビのような臭みの強いものがおり、また採集や処理が面倒なことから』、『他の多くの地域では食品として重要なものではなかった。食用とすることは可能で、筋肉質の足が発達しており』、『アワビなど磯の岩場に張り付く巻貝類と似た感覚で食べられ、生息条件の良い場所のものは海藻の旨味を凝縮したような風味がある』。本邦のヒザラガイの代表的な一種であるウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科ヒザラガイ属ヒザラガイ Liolophura japonica 『などは、鹿児島県奄美群島の喜界島では「クンマー」という呼び名で呼ばれる高級食材であり、茹でたあと』、『甲羅(殻)を取り、酢味噌和えや煮付けや炒め物で食べられることが多い。また、台湾の離島蘭嶼の東海岸ではタオ語で bobowan と呼ばれ』、『食用にするが、乳児のいる女性は食べてはいけないとされている』。『喜界島以外の奄美群島では、「グズィマ」「クジマ」』『などと呼ばれ、まれに食用にされる寒流域のオオバンヒザラガイは』、『大型で』、『肉質も柔らかく、その生息域では重視された』。『アイヌやアメリカ先住民(アレウト族など)は古くから食用としており、前者では』、『アワビとの間の住み分け由来話の伝承があるなど、注目されていたことが分かる』(これは後述する)。『アイヌ語では「ムイ」という』。『また、オオバンヒザラガイの殻の』一枚一枚は『蝶の様な形をしている事から、襟裳岬では「蝶々貝」と称して土産品として売られている』とある。残念なことに、私は未だ食したことがなく、何時か必ず食べたく思っているのだが、茸本朗(たけもとあきら)氏のサイト「野食ハンマープライス」の「ヒザラガイで割とリアルに死にかけた話:野食ハンマープライス的 自然毒のリスクプロファイル③」を見ると、かなり重篤なアレルギー症状が出る場合があることが判る。アレルギー体質の方はやめた方がよい。
さて、私の大好きな、アイヌに伝わるムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビとの間の戦いと住み分けの物語である。ここでは、まず、室蘭市の公式「ふるさと室蘭ガイドブック」(PDF)から引用する。「85」ページにある「銀屏風とムイ岩の伝説」である。注意が必要なのは、ロケーションで、神話であるだけにスケールがワイドであることである。「銀屏風」の方は室蘭市の絵鞆岬のここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)で、「ムイ岩」は「銀屛風」そこから南に直線で約七十キロメートルほども離れた函館の東方亀井半島の南の函館市浜町に属する「武井の島」である。島の全景は対岸にある「武井の島展望台 (憩いの丘公園)」のサイド・パネルの写真がよい。なお、ここで登場するアワビはロケーションから腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビ Haliotis discus discus の北方亜種とされるが、同一種説もある) と考えてよい。
《引用開始》
銀屏風には「チヌイェピラ」(彫刻してある崖)というアイヌ語地名がついていました。絵鞆町に近い方がポン(小さなという意味)チヌイェピラ、マスイチ浜に近いほうがポロ(大きなという意味)チヌイェピラです。そして、その白い断崖が波に洗われて出来た小さな島を、アイヌは「ムイ」(箕(み)という意味で大きなザルのこと)と言っていました。
昔、チヌェカムイ(アワビの神)とムイカムイ(箕の神)が、勢力争いのために、ここで戦ったことがあります。この戦いで、ムイカムイは箕で砂をかき集め立派なチャシ(砦)を築いて立てこもり、チヌエカムイは貝で砂を集めてチャシを作りました。箕と貝では砂を集める量が比べものにならず、アワビの神のチャシは貧弱なものでした。結局、アワビの神は箕の神に負けて逃げ出してしまうのですが、この時に流した涙が岩を削り、その跡がポンチヌイェピラとポロチヌイェピラ、そして、箕の神のつくったチャシが箕の形をした「ムイ岩」だと言うのです。
なお、ムイとは、赤褐色の体内にウロコ型の 8 枚の貝殻を持つ貝の一種で、アワビを貝の中から抜いたようなものです。大きいものは、体長 40cm にも達します。
《引用終了》
ここでは大事な住み分けの部分が示されていない。そこで、オオバンヒザラガイの写真(軟体部に埋もれている八枚の貝殻も見られる。なお、こちらはまず問題なく見られるので、大丈夫)や生態学も含めて非常によく書かれある、「北海道大学」公式サイト内の「水産学部水産科学院 北方圏貝類研究会」の「函館市の都市伝説」のものを引くと(コンマを読点に代えた)、
《引用開始》
函館市の戸井町にある戸井漁港の沖合に武井ノ島(むいのしま)という岩礁がある。ムイとはアイヌ語で箕(みの)を意味し、岩礁の名前の由来は、箕に似ていることに由来すると考えられている。昔, この海域にムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビが雑居していたが、アワビは貝殻で武装していないオオバンヒザラガイのことを骨なしの意気地なしと軽蔑していたが、ムイのほうも固い岩のような家をかぶって這い回り、話をかけても、顔も見せずに返事をしないアワビを頑固者として毛ざらつけていた[やぶちゃん注:「毛嫌いしていた」の意?]。これが原因となって両方の間に戦いを起こした。海底での戦いは容易に勝負が決まらずお互いの損得が多いので、話し合いの結果、仲直りをし、このムイの岩礁を境にして西はアワビの領地、 東はムイの国として住むようになった。
《引用終了》
というのである。私はこの話を、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「ヒザラガイ」の項の「民話・伝承」更科源蔵・更科光共著「コタン生物記」(初版は一九七六~一九七七年法政大学出版局刊)の要約で知り、非常に興味を持った。そこで、その部分を引用させて戴く(コンマ・ピリオドは句読点に代えた)。
《引用開始》
北海道のアイヌは、オオバンヒザラガイのことをムイとかメヨとかケロとよぶが、渡島半島戸井町のアイスのあいだには、次のような伝説が伝わる。昔、同地の海に、オオバンヒザラガイ(メヨ)とアワビがいっしょにすんでいた。しかしアワビは、オオバンヒザラガイを〈骨なしの意気地なし〉といって馬鹿にしていた。このヒザラガイは、貝のくせに殼がなく、武装をしていないからだ。ところがヒザラガイはヒザラガイで、岩のような重いものをかぶって這いまわり、話しかけてもなんの反応もないアヮビを頑固者だときらっていた。そしてとうとう、この反目がこうじて両者のあいだで戦いがはじまったが、なかなか勝負が決まらない。そこでムイ(箕の意)という岩礁を境に、西側をアワビの領地、東側をヒザラガイの領地と定め、別々にくらすようになったという。なお北海道には、これと似たような伝説が各地で語りつがれている。アワビとヒザラガイは、形状はそっくりなのに、アヮビには殼があり、ヒザラガイにはない。またアワビが岩礁地帯に生息しているのに対し、オオバンヒザラガイは砂地の海底にいる。そこで上記のような伝説によって、これらのちがいを説明づけようとしたらしい(更科源蔵・更科光《コタン生物記》)。
《引用終了》
これで私のヒザラガイの偏愛の憂鬱は完成した。
さて、●最後の標題のないそれ●は、骨軸が硬いことから、
刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ミドリイシ科 Acroporidae 或いはミドリイシ属 Acroporaの一種、又は同属のエダミドリイシ Acropora squarrosa ・ツガミドリイシ Acropora quelchi
かと思われる。但し、この絵に描かれた個体は、その死骸骨格の漂着物であろう。白色というのも、それで納得出来るからである(但し、キャプションを書いた人物は「花」という表現から生体も現認しているか、生体を知っている者から話を聴いたものであろう)。小学館「日本大百科全書」の「ミドリイシ みどりいし/石蚕 緑石」他によれば、イシサンゴ類のなかではもっとも繁栄している属で、世界中の暖海に約百五十種が分布し、サンゴ礁を形成する造礁サンゴのなかでも、最も造礁性の高い仲間である。ムカシサンゴ亜目 Astrocoeiina のなかで、隣接する莢の間に発達する骨格を持ち、それが多孔性であるミドリイシ科に属する。莢壁の内外に内莢と外莢を欠くことで、アナサンゴ類 Astreopora と区別され、中軸個虫を持つことで、コモンサンゴ類 Montipora から区別される。生時の色彩は多くは褐色であるが、緑色・緑褐色・青色・紫色などがある。群体の形状も変化に富み、樹枝状・卓状・板状・被覆状・塊状などがある。多くの種では群体上方に枝を出し、その先端に中軸個虫を餅、枝の側面には中軸個虫より小さな側生個虫が全面に密生する。各個虫の莢は骨格表面から円筒状に突出する。莢内には十二枚の隔壁があり、そのうち六枚は大きい。主としてインド洋から西太平洋及び西インド諸島の暖海サンゴ礁に分布し、サンゴ礁を形成するイシサンゴ類の最大のグループであり、暖海においては一年間に数センチメートルの成長がみられる。日本では房総半島以南に分布する。この類の内、高い枝状となる種はシカツノサンゴと総称され、卓状となる種はテーブル・サンゴと総称される。代表種であるミドリイシ Acropora studeri は、千葉県の館山湾以南の太平洋からインド洋までのサンゴ礁の浅海に最も普通に産する種で、岩礁側面に柄部で付着し、その上面に平板状の群体を形成し、各枝は短く水平方向に伸び、先端はやや斜め上方に立ち上がり、下面では各枝は成長に伴って互いに癒合する。全体としてはm岩面につく棚状の群体となるところからタナミドリイシの別名がある。近縁種に、卓状の群体となるエンタクミドリイシA. leptocyathus と、クシハダミドリイシA. pectinata が本州中部以南に分布する。エンタクミドリイシは卓状に広がった枝間がほとんど骨格によって埋められるが、クシハダミドリイシは柄部付近を除いて、枝の間は癒着しない。また、枝状の小塊となるエダミドリイシ、ツガミドリイシや、被覆状のオヤユビミドリイシ A. humilis 、ナカユビミドリイシ A. digitifera などが、本州中部以南に分布する、とある。キャプション中の「琅玕」とは、『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の注で書いたが、「大和本草」では、その「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしており、その「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモ」に拠った)。]