フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

カテゴリー「杉田久女」の350件の記事

2024/02/03

杉田久女 朱欒の花のさく頃 (正規表現版・オリジナル注附)

[やぶちゃん注:杉田久女の本随想は初出誌は不詳。底本では、最後に『(大正九』(一九二〇)『年十月三十一日』の執筆或いは脱稿クレジットがある。標題の中の「朱欒」は文末にひらがなで出る通り、「じやぼん」(じゃぼん)と読んでおく。今は「ざぼん」が優勢だが、第二世界大戦前は「じやぼん」と呼んでいたとするネット記事が多くある。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima

 底本は所持する一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した。そうすることが、敗戦前までが、俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである(久女は昭和二〇(一九四五)年十月末に大宰府の県立筑紫保養院に入院し、翌昭和二十一年一月二十一日に同院で腎臓病で逝去している。満五十五歳であった)。

 一部の読みで若い読者が躓きそうな箇所に限って、《 》で歴史的仮名遣で読みを添えた。傍点「﹅」は太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、篇中に挙げられてある句、

   塀外の膚橘かげを掃きうつり

「膚橘」は、上記底本の誤植か、或いは、原原稿の誤記、或いは、判読の誤りである。私の「杉田久女句集 133 塀そとの盧橘かげを掃き移り」を見られたい。そこでは、久女は「たちばな」とルビしている。なお、私は「青空文庫」の新字新仮名のそれを(底本の親本は私の底本と同じ)、一切、参考にしていないが、たまたま、Q&Aサイトのこちらで、これを「青空文庫」の誤植と批判しているのを見かけたので(個人的には、強い疑惑――私の電子化データが加工データとして杜撰に複数回流用されている可能性で、例えば、ここ)――から大嫌いな「青空文庫」ではあるのだが)、それは「青空文庫」の入力者の誤植ではないことを言い添えておく。以下の本文を参照されたい。

 最後にオリジナル注を附した。]

 

 

 朱欒の花のさく頃

 

 

 私が生れた鹿兒島の平(ヒラ)の馬場の屋敷といふのは、明治十年鹿兒島にわたつて十七年間も住つてゐた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母《くねんぼ》や朱欒、枇杷《びは》、柹《かき》など色々植ゑてあつたと母からよく聞かされてゐた。

 城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、櫻島の噴煙も、西鄕どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只冠木門だけがうつすら頭にのこつてゐる。

 年若な官員樣であつた父は、母と幼い長子とを神戶に殘して一足先に鹿兒島へ赴任すると間もなくあの西南戰爭で命からがら燃えつゝある鹿兒島を脫出して、櫻島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらつたり、山中に避難してゐる中《なか》官軍の勝になつたので、縣の書類丈《だけ》を身にしよつてゐたのをもつて碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろひしたと云ふ。

 母達も其翌春かにはるばる鹿兒島に上陸した時は、只まつ暗な燒野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晚とめて貰つたが言葉はわからず怖ろしかつた相《さう》である。だが十七年もすみついてすべてに豐富な桃源の樣なさつまで私の兄姊達は皆鹿兒島風にそだてあげられた。私は長姊の死後三年目に生れたので父母が大變喜んで、舊藩主久光公の久の一字にちなみ長壽する樣にと命名されたものだとか。三四歲迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年來一度も遊んだ事はないが、兄月蟾《げつせん》が十數年前、平の馬場の其家をたづねて見たところ今は敎會に成つてゐて家も門もそつくり其儘殘つてゐたのであまりの懷しさに兄は其庭には入《い》つて朱欒や柹の樹の下に佇んで幹をさすつたり仰いだり去りがたく覺えたといふ事を私に語つてきかせたことがあつた。

 一體私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の實を常世の國から携へ歸つた田道間守《たぢまもり》の、但馬の國出石(いづし)の產なので、こじつけの樣ではあるが、私が南國にうまれ、其後又琉球、臺灣と次第に南ヘ南へ渡つて絕えず朱欒や蜜柑の香氣に刺激されつゝ成長した事も面白くおもはれる。

 臺北の官舍では芭蕉や佛桑花《ぶつさうくわ》、蘭など澤山植ゑてあつたが、私のまつ先に思ひ出すのは父が一番大切にしていた[やぶちゃん注:ママ。]一株の佛手柑《ぶつしゆかん》である。指をもつらした樣な面白い形の佛手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に靑磁の花甁などと共にかざられてゐた。

 佛手柑は香氣が高くて雅致のあるものだつた。

 臺灣では文旦《ぶんたん》といふ形の尖つたうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて每日の樣《やう》土人が賣りにきた。

 ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買つて石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌ひだつた私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入つて、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍《たうきび》をかじり、香りの高い鳳梨《ほうり》[やぶちゃん注:パイナップルの漢名。]をむいたり、びろど[やぶちゃん注:「びろうど・ビロード」に同じ。]の樣な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついてゐるバナナの房を軒に吊しておく樂しみなど、すべて香氣のつよいしたたる樣な熱帶地方の果物のうまさを思ひ出すと今でもよだれが出る樣で、實際よくもあんなにたべられたものと思ふくらゐ。お正月など、お雜煮も御飯もたべず私は顏の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や佛手柑を思ひ出すと、私達の帶や布團や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色[やぶちゃん注:不詳だが、これ、「櫻(桜)桃色」の誤植か、判読の誤りのように思われる。]などの幅廣い反物が色どりよくつみ上げられてゐた土人の吳服店の事や、まつりくわの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繡靴などを斷片的に思ひ起すのである。

 其頃母からおちごといふ牛若丸のやうな髷《まげ》にいつも結つてもらつて友禪の被布《ひふ》をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を讀みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だつた私は、南國といふものによほど緣があると見え、嫁して二十五年餘り、小倉の町にすみ馴れて年每に柑橘の花をめでるのである。

 靜かな屋敷町の塀の上から、或は富野《とみの》邊《あたり》の大きなわら屋根の門口から、まつ白い膚橘の花が匂つてきたり、まつ白に散りしいたりしてゐるのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙《なつだいだい》や柚の花よりずつと大きくて花數もすくないが、膚橘の方はもみつけた樣に花を咲きこぼす。もとゐた堺町の家の簷《ひさし》にも一本夏みかんの木があつて年々花をつけては塀外《へいそと》へこぼれるのを每朝起きて掃くのがたのしみで二、三句出來た事がある。

  塀外の膚橘かげを掃きうつり

 私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公會堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいつてもいいだらう。八方から支へ木《ぎ》で支へた老樹の枝は何百といふ朱欒をるゐるゐと地に低くたれてゐた。

 先年大阪でひらかれた關西俳句大會の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺(たちばなでら)へ行つた時鐘樓の簷にかげてあつた美しい橘の實の幾聯《いくれん》も、橘のかげをふみつゝ往來し、或は時じくの香ぐの實の枝をかざして歌つた萬葉人と共になつかしいものの一つであつた。今南國の小倉邊では深綠の葉かげにまつ靑な橙がかつちり實のり垂れ、町の人々はふぐちぬが手に入る度《た》びに、庭のだいだいをちぎつて來ては湯豆腐々々《どうふ》としきりにこのき酢《す》[やぶちゃん注:「生酢」。]の味をよろこぶ時候となつてきた。

 つい四、五日前も門司の棧橋通りの果物店の前に佇んで富有柹や林檎やバナナに交つて靑みかんや臺灣じやぼんが並べられてゐるのを見ると、私の生れたあの鹿兒島の家の朱欒ももうゆたかに實り垂れてゐるのであらうと思ひ出されるのであつた。

[やぶちゃん注:「鹿兒島の平(ヒラ)の馬場」現在の鹿児島県鹿児島市平之町の、この鹿児島教会(グーグル・マップ・データ)のある場所であろう。

「明治十年」一八七七年。

「父母」久女の父赤堀廉蔵は長野県松本市宮淵(みやぶち:現行では「宮渕」。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ出身で、久女(本名は久(ひさ))が生まれた(明治二三(一八九〇)年五月三十日)時は、鹿児島県庁勤務の官吏で、母きよは、旧姓岡村で、兵庫県出石町(いづしちょう)出身。

「九年母」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属コウキツ(香橘)Citrus nobilis var. kunep のこと。クネンボの方が知られる。他に「クニブ」、沖繩方言では「九年母木(くんぶぬき/くぬぶんぎ/ふにゃらぎ)」と呼び、沖縄在来の柑橘「カーブチー」や「オート―」、及び、本土の「温州蜜柑」の祖先とされる蜜柑品種の一つ。名の由来については種を植えてから実がなるのに九年かかる、「クニブ」という音の「ニブ」が、ヒンディー語の「酸味の強い小さいレモン」の意で、それが、語源ともされる。本来はインドシナ半島原産で南中国を経て、琉球に渡り、羽地(はねじ:現在の名護市)で栽培が盛んに行われたことから「羽地蜜柑」とも呼ばれた。果皮は厚く、表面に凹凸が見られ、味は濃厚で酸味が強く、テレピン油に似た独特の香りを特徴とする。十六世紀、室町期には琉球から日本本土にも伝えられて栽培もされ、果実サイズが大きなために、もて囃された。水戸黄門は、これを「マーマレード」にして食したという記録も残っている。中でも美味しさを誇る琉球産は重宝されたという。江戸期までは、日本本土に於ける柑橘の主要品種であったものの、その後、「紀州蜜柑」が広まり、また、近代に至って大正八(一九一九)年からのミカンコミバエ(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis)の侵入阻止のため、移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、今では沖縄本島にも数本しか残っていない貴重な木となってしまった(以上は主に、非常によく纏められてある puremcolumn 氏のブログ「The Herb of Ryukyu」の「クネンボ 01 柑橘の母」の記載、及び、同記載のリンク先などを参考にさせて戴いた)。

「朱欒」ムクロジ目ミカン科ミカン属ザボン Citrus maxima。漢字では「朱欒」「香欒」「謝文」などと表記するが、私は「ブンタン」(文旦)或いは「ボンタン」(同じく漢字表記は「文旦」)という呼称の方が親しい。私の亡き母の郷里は鹿児島で、小さな頃から郷里の祖母が送って呉れた「ボンタン飴」がいつもオヤツだったし、あの巨大な生の実も食べたことがあるからである。梶井基次郎の「檸檬」(私のサイト版)ではないが、剝き始めは、まさに劉基(一三一一年~一三七五年:元末明初の軍人政治家で詩人)の「賣柑者之言」(賣柑者(ばいかんしや)の言(げん))の「鼻を撲(う)つ」それであった(関東の人はブンタンを生食したことのある人はあまり多くないと思う)。

「城山」平の馬場の後背地。城山公園展望台(グーグル・マップ・データ)をリンクさせておく。因みに、城山には私の母方の美しい伯母が住んでおり、懐かしい場所である。

「私達兄弟五人」久女は三女。後で語られるように、姉の一人は彼女の生まれる三年前に夭折している。

「西鄕どん」平の馬場の東北の直近、城山直下に知られた西郷隆盛銅像が立つ。

「兄月蟾」次兄の赤堀月蟾(げっせん:本名は忠雄)。久女は二六歳の大正五(一九一六)年の秋に、彼から俳句の手ほどきを受け(結婚後六年で次女が八月に生まれている)。翌大正六年『ホトトギス』一月号お「台所雑詠」に五句が掲載された(「杉田久女句集 1 春の日の小景」の私の冒頭注に掲げたものがそれ)。同年五月、早くも高浜虚子に会っている。

「あの時じくの香ぐの木の實を常世の國から携へ歸つた田道間守」記紀等に伝わる古代日本の人物。垂仁(すいにん)天皇の代に、常世(とこよ)の国にあるとされた「非時香菓(ときじくのかくのみ:別に「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」とも記す)を求めて派遣された説話上の人物。「多遅摩毛理」とも書く。「古事記」・「日本書紀」は「非時香菓」を「橘(たちばな)」とみなし、田道間守が十年後に「香菓」と八竿(やほこ:矛)・八縵(やかげ)(葉をとった枝、葉のついた枝、各八枝の意)を持って帰国したが、すでに垂仁天皇は崩御しており、天皇の陵墓のそばで、嘆き悲しんで死んだと物語る。渡来系の三宅連(みやけのむらじ)らの祖先と伝える。「古事記」の応神天皇の条には、「天之日矛(あめのひぼこ)」の子孫の系譜を記し、そこに「多遅摩毛理」の名が見える。「日本書紀」が田道間守の常世訪問の説話中で、「常世の国」を「神仙の秘区」と書くように、その常世伝承には中国の神仙思想の影響があることが判る。この「常世行き説話」を垂仁天皇の代の出来事とするのは、垂仁天皇を長寿とした有様(ありよう)(「古事記」では百五十三歳、「日本書紀」では百四十歳)と関連があるとみなす説がある(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「其後又琉球、臺灣と次第に南ヘ南へ渡つて」私の「杉田久女 南の島の思ひ出 (正字正仮名版)」を参照されたい。以下の語りの内容が、より細かに語られてある。

「佛桑花」ハイビスカス(hibiscus)。アオイ目アオイ科フヨウ属 Hibiscus の種群の総称。こと。また、そこに含まれる植物の総称。

「佛手柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。私の「杉田久女 梟啼く (正字正仮名版)」の注を引用した。

 佛手柑は香氣が高くて雅致のあるものだつた。

「文旦」ザボンに同じ。

「ぽんかん」ミカン属マンダリンオレンジ 変種ポンカン Citrus reticulata var poonensis

「すいかん(ネーブル)」ミカン属オレンジ変種ネーブルオレンジ Citrus sinensis

「唐黍」トウモロコシ。

「ザザクサ」不詳。識者の御教授を乞うものである。

「被布」着物の上にはおる上衣。襠(まち)があり、たて衿(えり)・小衿がつき。錦の組み紐で留める。江戸時代、茶人や俳人などが着用して流行し、後、一般の女性も用いた。おもに縮緬・綸子(りんず)などで作る。女児用の袖なし被布もあり、ここは、それ。

「おとぎ文庫」『日本おとぎ文庫』初期刊行を調べ得ないが、博文館発行の子ども向けの絵入り昔話叢書。

「松山鏡」落語。原話は仏典の「百喩経」(ひゃくゆきょう)で、明末の笑話集「笑府」に入り、日本で民話になった。能「松山鏡」や狂言「鏡男」もそれを受けて成立したもので、類話も各地に残るが、その落語化である。越後松山村の正助は、親孝行で領主に褒められ、望みの品を問われたので、亡父に会いたいと答えた。そのころ、村に鏡がなかったので、領主は鏡を与えた。正助は鏡に写る自分を父と思って、ひそかに、日夜、拝んでいた。女房が不審がり、夫の留守に鏡を見ると、女の顔が写るので、けんかになった。比丘尼が仲裁に入り、鏡をのぞき「二人とも心配しなさるな。中の女は、きまりが悪いといって坊主になった」でオチとなる八代目桂文楽が得意とした(小学館「日本大百科全書」に拠った。

「小倉の町にすみ馴れて」久女が杉田宇内(うない)へ嫁したのは、明治四〇(一九〇七)年八月(満十九)で、宇内は東京上野美術学校西洋画科出身で、福岡県小倉中学校の美術教師として赴任、住まいは小倉市鳥町(とりまち)の神崎方であった。現在の福岡県北九州市小倉北区魚町

「富野邊」同小倉北区富野。但し、そこを航空写真にすると、完全な山間地であるので、その下の平地の住宅地である小倉北区常盤町、及び、その海側の上富野附近の広域を指しているように思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、まさに現在の「上富野」の位置に、「富野」とあるからである。

「福岡の公會堂」旧福岡県公会堂貴賓館であろう。ストリートビューで見ても、画像が鮮明でないので、よく判らないが、周辺は整備された「天神中央公園」となっており、恐らく、「日本一」の「朱欒の巨樹」は、樹種から考えても、公園にはちょっとと思われ、もうないように思われる。「旧福岡県公会堂貴賓館 朱欒」の検索でもかかってこない。

「先年大阪でひらかれた關西俳句大會の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺(たちばなでら)へ行つた時」この旅は年譜には書かれていないので、不詳。

ふぐ」条鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。古くからの食用種としてはトラフグ属トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes・トラフグ属マフグ Takifugu porphyreus が知られる。孰れも猛毒で解毒剤のないテトロドトキシン tetrodotoxin(TTX:C11H17N3O8:真正細菌ドメイン Bacteriaプロテオバクテリア門Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱Gammaproteobacteriaビブリオ目 Vibrionalesビブリオ科ビブリオ属 Vibrioやガンマプロテオバクテリア綱シュードモナス目Pseudomonadalesシュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas などの一部の真正細菌由来のアルカロイド)を持つ(卵巣・肝臓は猛毒で皮膚と腸も強毒性を持つ)。

ちぬ」ここは、スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名としてよい。

「だいだい」ミカン属ダイダイ Citrus aurantium 。]

2022/07/24

杉田久女 日本新名勝俳句入選句 (久女には珍しい名句「谺して山ほととぎすほしいまま」の自句自解)

 

[やぶちゃん注:久女には極めて珍しい自句自解である。しかも、リアリズムに富み、この手の俳人の自解にありがちな、言いわけめいた誇大表現もなく、非常にさわやかなものとなっていて、まことに好ましい。発表は昭和六(一九三一)年だが、底本(後述)では、掲載誌の記載がない。この久女を代表する名句は、この年の四月に、『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』主催の「新名勝俳句」に入選句である。底本年譜によれば、『山岳の部英彦山』(ひこさん)『で帝国風景院賞句二十句中の金賞』で、他に、

 橡(とち)の實のつぶて颪(おろし)や豐前坊(ぶえんばう)

の句が銀賞となり、トップを独占した形となったのであった。当時、久女は満四十歳であった。或いは、受賞した際に主催者から感想を求められて書かれたもののようにも見える。因みに、以上の二句を含む「英彦山」での六句については、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」でオリジナル注を附してあるので参照されたい。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した。そうすることが、敗戦前までが俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである。冒頭の句の前後を一行空けた。

 最後に注を附した。]

 

 日本新名勝俳句入選句

 

       英彥山

 

  谺して山ほととぎすほしいまま  久 女

 

 昨夏英彥山に滯在中の事でした。

 宿の子供達がお山へお詣りするといふので私もついてまゐりました。行者堂の淸水をくんで、絕頂近く杉の木立をたどる時、とつぜんに何ともいへぬ美しいひゞきをもつた大きな聲が、木立のむかうの谷まからきこえて來ました。それは單なる聲といふよりも、英彥山そのものゝ山の精の聲でした。短いながら妙なる抑揚をもつて切々と私の魂を深く强くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつゝ聲は次第に遠ざかつて、ぱつたり絕えてしまひました。

 時鳥! 時鳥! かう子供らは口々に申します。

 私の魂は何ともいへぬ興奮に、耳は今の聲にみち、もう一度ぜひその雄大なしかも幽玄な聲をきゝたいといふねがひでいつぱいでした。けれども下山の時にも時鳥は二度ときく事が出來ないで、その妙音ばかりが久しい間私の耳にこびりついてゐました。私はその印象のまゝを手帳にかきつけておきました。

 其後、九月の末頃再登攀の時でした。いつもの樣にたつたひとりで山頂に佇んで、四方の山容を見渡してゐますと、七人ばかりのお若い男の方ばかりが上つてきて私の床几の橫にこしをかけて、あれが雲仙だ、阿蘇だとしきりに眺めてゐられます。きいて見るとその人々は日田の方達で、その中に俳人もあり、私が小倉のものだと申すと、「では久女さんではありませんか」と云はれました。そんな話をし乍ら六助餠をたべてゐます折から、再び足下の谷でいつかの聞きおぼえある雄大な時鳥の聲がさかんにきこえはじめました。

 靑葉につゝまれた三山の谷の深い傾斜を私はじつと見下ろして、あの特色のある音律に心ゆく迄耳をかたむけつゝ、いつか句帳にしるしてあつたほととぎすの句を、も一度心の中にくりかへし考へて見ました。ほととぎすはをしみなく、ほしいまゝに、谷から谷へとないてゐます。じつに自由に。高らかにこだまして。

 その聲は從來歌や詩によまれた樣な悲しみとか、血をはくとかいふ女性的な線のほそいめめしい感傷的な聲ではなく、北嶽の嶮にこだましてじつになだらかに。じつに悠々と又、切々と、自由に――。

 英彥山の絕頂に佇んで全九州の名山をことごとく一望にをさめうる喜びと共に、あの足下のほととぎすの音は、いつ迄も私の耳朶にのこつてゐます。

 

[やぶちゃん注:「谺」「こだま」。

「ほととぎす」「時鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。

「英彥山」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る山で標高は一一九九メートル。日本三大修験山の一つに数えられ、また、耶馬(やば)日田(ひた)英彦山国定公園の一部を成す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、支持なしのリンクのみは同じ)。詳しくは、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」の私の注を参照されたい。彼女は英彦山が好きで何度も登頂している。しかも和装でである。

「昨夏」昭和五(一九三〇)年夏。

「床几」「しやうぎ」。

「日田」当時は日田町(ひたちょう:現在の大分県北西端にある日田市(英彦山は北端の直近に当たる)の中心市街)を中心とした日田地区。この時には既に旧日田郡は廃止されていた。

「六助餠」(「餠」の字は江戸時代より近現代まで「餅」の字が優勢であるが、敢えてここはこの字体を用いた。個人的に「餅」よりは「餠」の方が好きだからである。正直、「并」という字は生理的に好きになれないのである)は不詳。但し、同じ英彦山での句に、

 六助のさび鐵砲や秋の宮

があり、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」の注で私が記したように、戦国期の毛谷村(現在の大分県中津市山国町(やまのくにまち)槻木(つきのき)。「毛谷村神社」と神社名に旧村名が残っているのが判る。英彦山の大分県側である)出身の怪力無双の義人毛谷村六助(木田孫兵衛)にあやかった力餅の名物餅か。調べてみたが、現在は売られていない模様である。

「三山」英彦山には北岳・中岳・南岳の三つの峰がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「嶮」「けん」と音読みしておく。嶮しくそそり立った巌(いわお)。]

杉田久女 安德帝の柳の御所跡にて (句集未収録句五句)

 

[やぶちゃん注:杉田久女の本随想は発表誌や未詳で(本文から雑誌発表作或いは投稿予定稿であることは判る。「仰せにより」とあって句を掲げていることから、誰か俳人の主宰する俳誌であった可能性は高いであろう)、その「柳の御所跡」を訪れた年月日も未詳である。一つ、私の「杉田久女句集 124 龍胆」で注を附したが、角川学芸出版二〇〇八年刊の坂本宮尾「杉田久女 美と格調の俳人」の七〇ページに、『龍胆も久女が好んだ花で、門司近くの大里(だいり)の野にこの花を摘みに行った』とあり、これは坂本氏の著作では「Ⅱ 昭和六年まで」のパートにあるもので、坂本氏が、もし時系列で正確に記載をなさっているとすれば、同書にある大里訪問は昭和四(一九二九)年(満二十九歳)の秋となる。この時は、『ホトトギス』に投句しており、同年三月には吉岡禅寺洞の『天の川』の雑詠婦人俳句欄選者となっている。但し、本篇もこの同じ時であるという保証はなく、当時の住まいも小倉で、ごく近く、それ以後の再訪である可能性もすこぶる高いから、一概には言えない。但し、句柄は久女のものとしては、初期の若さを感ずるものではある。しかし、やはり、判らぬ。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した(「跡」は江戸時代以降、特に近現代では、こうした熟語では「蹟」としない表記が圧倒的に多いので、「跡」とした)。そうすることが、敗戦前までが俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである(久女は昭和二〇(一九四五)年十月末に大宰府の県立筑紫保養院に入院し、翌昭和二十一年一月二十一日に同院で腎臓病で逝去している。満五十五歳であった)。

 なお、最後のある五句は、孰れも、現在、知られている杉田久女の句集類には所収しない句である。句は上下を揃えて割付されているが、ブログ・ブラウザでは上手く配置できないので、各句とも詰めた。

 最後に注を附した。]

 

 安德帝の柳の御所跡にて

 

 初冬の一日私は門司市大里(ダイリ)に柳の御所跡をたづねました。都落された安德帝は平家の一門にようせられて、筑前遠賀郡山鹿(塢舸(をか)の水門(みと))から更らにこの、豐前柳が浦に移らせ給うたことが平家物語にも見えてゐる樣であります。小倉から浦づたひ戶上山麓にあたるこの宮は、今は新開の町中に挾まれてゐますが、碑の御製

  都なる九重のうち戀しくば柳の御所をたづねても見よ

を拜しますと、此邊一帶が大里の松原(萬葉の菊の高濱)につどいてゐたといふ漁村の昔、馴れぬ雲上人に朝夕の戶上颪、壇の浦の御沒落迄をこゝにこもらせられたおいたはしさ。大瀨戶から彥島へかけて平家の兵船がみちみちてゐたであらうなどと、私はひとり巨柳のかげに佇んで、榮枯盛衰の感にうたれました。

 然し又、再びめぐむ柳の春に思ひいたると、國破れて山河ありで、人間の興亡にかゝはらず大自然の悠久も一しほ思はれ、眼前にそばだつ戶上山の姿に、ぬかづきたい敬虔な心地も起るのでした。

 輝しい天地の春を待つ心持で、御一家にも御誌の上にも祝福あらん事をはるかにいのります。

 仰せにより習作ながら

     大里の宮にて

  この宮や柳ちりしく夕颪  久 女

  柳ちる御製の俳にぞ佇めり

  町の名にのこる内裏や柳ちる

  散り柳掃く宮守もなかりけり

  ちりいそぐ柳のかげにたもとほり

 

[やぶちゃん注:「安德帝の柳の御所跡」「門司市大里(ダイリ)」大里は現在の福岡県北九州市門司区の地名及び地域名で門司区の南西部に位置する。参照したウィキの「大里」 他によれば、『九州最北端の宿場町として古くから繁栄した』とあり、嘗つての地名表記は「内裏(だいり)」であったが、享保年間(一七一六年~一七三六年)、『この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に変更された』。この旧地名は寿永二(一一八三) 年に、この地に安徳天皇の御所であった柳の御所があったことに由来し、現在の御所神社(グーグル・マップ・データ。以下指示のないリンクは同じ)のある門司区大里戸ノ上一丁目附近が、その柳の御所の比定地となっているとある。『享保の頃、 この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとし て大里に変更された』とあり、明治三五(一九〇二)年の『明治天皇の九州行幸の』際には、『御所神社の社殿が明治天皇の休憩場所に使われた』が、これは『安徳天皇の慰霊が目的だったとされる』ともある。

「ようせられて」「擁せられて」。

「筑前遠賀郡山鹿(塢舸(をか)の水門(みと))」「塢舸の水門」「岡の水門」は「をかのみなと」とも読み、現在の福岡県の遠賀川河口附近の地の古称である。神武天皇東征の際、に皇子や舟師を率いて到着した所とされる。因みに、ここや遠賀川流域は久女がとても愛した場所であった。

「豐前柳が浦」現在の北九州市門司区の大里を含む海辺の古称。「御製」が天皇及び皇族の和歌にしか用いないことを知らなかったとすれば、やはり久女の若い頃の感じがしてくる。

「戶上山」(とのうえやま)と読む。柳の御所の南東後背(頂上までは直線で約一・七キロメートル)に当たる同じ門司区大里の戸ノ上山(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「御製」ちょっと痛い久女のミス。これは、かの歌の名手平忠度の一首である。サイト「源平史蹟の手引き」の「柳の御所<福岡県北九州市>」のページが写真が豊富で、碑や解説板などもよく見えるのでお勧めである。ただ、この碑、見るからに新しい感じだ。

「萬葉の菊の高濱」巻十二の「別れを悲しびたる歌」の最後に配されている一首(三二二〇番)、

   *

 豐國(とよくに)の

     企救(きく)の

    高濱高高(たかだか)に

  君待つ夜(よ)らは

          さ夜ふけにけり

   *

この「企救」は豊前の古い郡名で、現在の北九州市門司区及び小倉区に亙る。現在も大里のある半島の名として「企救半島」の名が残る(国土地理院図)。「ら」は「等」で、名詞に付いて語調を整えるもの。

「戶上颪」「とのかみおろし」。「颪」は冬季に山などから吹き下ろす風のこと。

「大瀨戶」(おおせと)関門海峡のこの附近の広域呼称。

「彥島」(ひこしま)は関門海峡の対岸の山口県下関市の南端にある陸繋島。本州最南西端に当たり、嘗つては大瀬戸と小瀬戸(こせと)の間の島であったが、小瀬戸が一部埋立てられた昭和一二(一九三七)年以来、人工の陸繋島となっている(当該ウィキに拠った)。ここ(国土地理院図)。

「たもとほり」「徘徊り」(動詞・ラ行四段活用の連用形)で「 行ったり、来たり、歩き回って」の意。]

2020/12/10

杉田久女 龍眼の樹に棲む人々

 

[やぶちゃん注:本随筆は大正九年一月と二月発行の『ホトトギス』に分載された。初出のそれは、年譜記載のルビから、「龍眼」(そこでは「竜眼」ではなく、「龍眼」となつているので、気持ちよく本文も「竜眼」も、かく書き換えた)で「かじゆまる」と読ませていたものと推測出来る。久女満二十九歳の新春であった。但し、「龍眼」はムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan であり、「がじゆまる」はクワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa で全くの別種である。これ以前、沖繩本島にも住んだ久女が、それら熱帯性樹種を混同誤認して、初出ではうっかりかく振ってしまったものと思われる。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 冒頭、「弟の死後」と語り出されるが、これは二年前の同じ『ホトトギス』(大正七(一九一八)年十一月発行)に発表済みの弟の死を描いた哀しい追想である「梟啼く」の読者を意識しての書き出しである。

 禁欲的に文中にポイント落ちで注を附した。]

 

 

 龍眼の樹に棲む人々

 

        

 弟の死後私共一家は縣廳の椋の木蔭を去つて、龍眼の樹のある家へ移つて行つた。

 そこは鄭成功か何かを祭つた大きな廟のあとで、表の方は幅の狹い土人町の四辻に位ゐし、裏は土人の小家や草つ原を隔てゝ城壁に對してゐた。土で積み固められたせのひくい土人の家許りの中に有つて、此赤煉瓦の宏壯な建物は、其丸屋根の上にぬきでて遠くから目標とされてゐた巨大な龍眼の樹を擁してゐる事に依つて一層立派に見榮えがして見えた。此龍限の樹の根は、その太い幹を中心として庭の四方へ山脈の奔る樣に隆起してゐた。或ところはコブの樣に、或るところはラクダの背の樣に、不規則に凸凹して終りになる程次第に突起の度を減じ、遂に中心點から一間許りのところで、土の表面から全く消えてしまつてゐるのであつた。椎の樣にこんもり茂つたその葉蔭には茶褐色の丸い實がびつしりになつてゐた。天氣續きのカサカサした空氣の時になると此龍眼の實はめだつて白ぢやけて見えた。南部の方に多いペタコ(鳥の名)は每日々々無數に來て、龍限の實をつゝいた。此長方形な龍眼の中庭を圍んで三棟の煉瓦建があつた。倂し三棟の建物は、塀の樣な何物をも囘らしてゐるのではなく建物それ自身のぶあつな壁が直ちに外部との牆壁であり塀であつたので、三棟の各自を連續させる爲に少しづ高塀らしいもの或は丈夫な門があるのみであつた。[やぶちゃん注:「ペタコ」スズメ目ヒヨドリ科シロガシラ属シロガシラ Pycnonotus sinensis の中国語名のカタカナ音写。「白頭」。台湾語「白頭鵠仔(pe̍h-thâu-khok-á)」に基づく。]

 表通りに面した第一の棟は、石を敷きつめた廣い表庭を持つてゐた。(其門際には石の唐獅子が向き合つ臺石の上に乘つてゐた)

 第二の棟は橫丁の門から入る樣になつてゐて、第一の棟の丈餘の煉瓦が背を其鼻先にすりよせてゐた。此第二、第三の二た棟は寺の内房ともいふべきところで、第一の入口とは全然違つた此橫門から出入し得る樣に、すべてが切離されてゐた。そして龍眼の庭を橫ぎる廊下を斜めに渡つて第三の棟へ行く事が出來るのであつた。此第三の棟には、日本人の賄の爺や、土人の子の寮外が居たし第一の棟の中には――一棟卽ち一室で煙瓦が敷つめられてゐた――竹の寢臺が兵舍の樣に並べられ、ここに父をたよつて内地から來た部下の人々が二十何人か一處に住まつてゐた。其人々は皆獨り者で、中には妻子を國へ殘して來てゐる人々もあつたが、城内の此邊でも土匪等の危險の爲、内地人同志は大抵よりかたまつて暮してゐる頃だつたので、女子供許りの私共一家の爲には此第一の棟の人々は、護衞の樣なもので、非常に心强く思はれた。かくして二棟から成る日本人の一團を入れた此龍眼の樹の家は、貧弱な土人の家に圍饒されて王國の樣な態度を示してゐた。[やぶちゃん注:「寮外」本来は正規に居住権を持たず、久女の父が非公式に私的に同居を許可した、本来はこの家宅(日本の公務員住宅としての「寮」)の「外」の地元民の使用人を指している。しかし、既にしてこの呼称自体に差別意識が潜んでいることは批判的に読むべきではあろう。]

 土のあらはな庭といつては只かの龍眼の庭だけであとは第一第二に附隨した庭共皆石を敷きつめてあつたし龍眼の庭とても其の樹の根のはびこるに任せて、鍬を入れる餘地は更になかつたが、私共の住宅と定められた「第二の棟」の門を出たところにはかなりたつぷりと畠地があつた。そこには砂糖黍も植ゑられてあるし、一尺餘もある樣な長胡瓜、長茄子の木、せの高い一年越しに茂つた胡椒木、赤い花が咲いて靑い實のなる山桐も、ニラも、太陽の强い光りを吸つて異常な發育をとげてゐた。竹垣には臺灣ひるがほの牡丹色に近い花が(日本のひるがほの樣な優しみはなく、葉の形も毒々しく芋蔓そつくりの太い赤い丈夫な蔓が夜となく晝となくドシドシのび、黑綠色の其葉は、垣が見えすかぬ迄に、あつく厚く卷きついてしまふ)その臺灣ひるがほの日盛りの强い影を、葉の中に埋めてゐるのや、鳥かぶとの樣な色と形とをした毒々しい艷の花が咲いたりしてゐた。庭の隅には佛手柑が樹の小さなわりに澤山珍奇な大きな實をつけてゐるのもあつた。[やぶちゃん注:「臺灣ひるがほ」やや花の色に不審があるが、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属モミジヒルガオ Ipomoea cairica のことであろ(花の色は薄紅紫色で、中心部は濃紫色を呈するが、「牡丹色」というのはやや不審である。因みに本邦のヒルガオはナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ Calystegia japonica である)。別名を「タイワンアサガオ」と呼び、ウィキの「モミジヒルガオ」によれば、『茎は次第に太くなり、ツタのようにイボイボになり、カリマンタン島の林では大木の幹にへばりついて樹上まで先端を伸ばす』とあるからである。「佛手柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。]

 愛兒を失なつた父は、役所から歸ると、直ぐに上衣をぬいだまゝの姿で、夕方迄この花園とも畠ともつかぬ茂りの中にたたずんで暮す事を唯一の慰さみとしてゐた。すべての草木に鋏を入れたりつくりつけてしまふ事の大嫌ひな父は、何でもめについた草なり植木なりを手あたり放だい植ゑつけて只其蔓や葉やがのびる丈けのび成長し得る丈け成育してゆく自然の有樣を心ゆく迄眺めて樂しんでゐるのであつた。であるから父がどこからかこいで來て値ゑた山桐でも、最初はやせてひよろひよろした木であつたのが、肥えた上に移され朝晚丹精して肥料をあたへられて、おしまひには栴檀の木も、あたりの草本も凌いで、艷々しい廣葉を思ひ切りのばしてゐるのであつた。全く父は朝も晚も默々として、土をこなし、鍬を入れてさらでも成長の速かな熱帶地の植物を一層異常に成長せしむべく努力してゐた。[やぶちゃん注:「こいで來て」恐らくは「自然に生えいた若木を引き抜いて来た」の意であろうと思う。「こいで」は「こぎて」のイ音便と考えれば、「扱ぐ」の連用形「扱ぎて」であり、これは「根のついたままで引き抜く・根こぎにする」の意だからである。]

 その幅のひろい肩がこの山桐の葉かげに見られ、土で荒れるのをふせぐ爲めの白い手袋をはめた手で、土塊をさばいてゐる問間の父は、何者をも忘れてゐるらしく見えた。私はよく、朝顏鉢の持ち運び方や撒水や色々の手傳ひをさせられた。寮外は每日桶の水を此畠中に埋めた甕へ運ぶ役目であつた。ところが私の家のぢき裏手にある土人の家の豚が時々畠を荒しに來た。畠の入口には有つても左程用をなさぬ樣な御粗末な竹の戶が一寸おしつけてある許りであつたので豚の群れは芋の樣な短軀をヨチヨチと小走りにやつて來て、短いしつぽを振りながら、

 グーグーギユーギユー[やぶちゃん注:最後の「ギユー」は踊り字「〱」で、或いは「グーグーギユーグーグーギユー」であるのかも知れぬが、長過ぎて、「吶喊」(とつかん)、則ち、突貫する叫び声としては寧ろ間延びすると判断して、かくした。]

 奇妙な吶喊をあげつつ押しあひへしあひ狹い木戶口を畠へなだれ入つた。やつと家の者が氣がついてソレと云ふので橫手の門から飛び出して行くと、豚は逃げ場を失つて大まごつきにまごついて、人目の木戶を扼されて[やぶちゃん注:「やくされて」。抑えつけられて。]ゐる爲め、晝顏の卷きついてゐる垣根をむりやりに押し破つてグーグーギユーギユー、危かしい足付で逃げてゆく。畠の靑物はさんざんに豚に荒され朝顏の鉢はころげてしまひ、柔かい豆の葉や草花の芽でも出てゐようなものなら皆無慘にふみにじられてしまつてゐた。

 かういふところに御役所から父が歸つて來ると、父は大不機嫌で寮外も嚴しく叱られた。それは、几帳面な父は出勤前の忙しい時でもキツト木戶の掛金をかけておくのだけど、其あとで掛金をはづし此畠へ這入つて行く者は、水を運ぶ寮外か、此畠地の隅に三尺四方位の地を父から與へられて、草花を作つてゐる私かに定まつてゐるのであつたから、でも父は決して口やかましくは言はれなかつた。

 なぜ掛金をはづしておいた?

 父、がまともからぐツとにらんで、私の面前に立たれると、私は只その一言でさへすくむ樣な心地がして怖しくて堪らなかつた。父はむづかしい顏を其儘また默々として、たふれた葱を起してやつたり、裏の方から竹を持つて來て破れた箇所をふさいだり、まだ畠の中にまごまごしてゐる私の前を「シツ叱ツ」と追ひのけて、一生懸命あれこれするのが常であつた。而して兎角父の手入れしてなほした畠も今二三日すると豚の群れの闖入に依つてメチヤメチヤにされてしまふのであつた。或る休みの日に父は朝から寮外と二人で畠の方々に一尺位の深さに陷穽を掘り出した。

 一番最後に木戶に近い陷穴を掘りかかつたと思ふ頃向うの方から「ヴーイヴーヴー、グーグー」と云ふ聲が近付いて來た。父と寮外は、急いで木戶を出て、門の中へかくれてしまつた。

 豚はいさましい足取りで開けひろげられた木戶へわけなく押し込んで行つた。最後の一疋が木戶へ姿を役したと思ふ頃、父と寮外はテンデに棒切れを持つて一人は直ぐに畠の中へ飛び込んだ。一人は木戶の外に待ち構へてゐた。此時四方の垣の破れは皆ていねいに繕ろはれてしまつてゐた。

 豚達は思ひがけない襲擊に出逢つて極度に度を失なつてしまつた。グーグーヴーヴー位聲をあげつつ、掘りかけた陷穴へはまりこむもの、石につまづいてころがるもの、やつと血路を見出して木戶口を逃げ出すところを待ちかまへて居た父に、ピシリと打たれて悲鳴をあげつゝ、豚はヨチヨチ、逃げて行つた。意(こころ)許り[やぶちゃん注:ばかり。]馳けてゐて、足がすくんでしまつたと云ふ樣なヨチヨチした其足取は、おかしくもあり可哀想でもあつた。寮外はフアーツ[やぶちゃん注:意味不詳。]と言つて豚のあとから少し追つかけて行つた。

 丁度龍眼の樹の裏手のあたりにある其の豚の特主の家からは、女主人らしい支那女が豚の悲鳴をききつけて門口ヘ飛び出して米たが、ヨチヨチ、ブーブー叫んで飛び込んで行く豚達の後から棒を振つて追つて行く父と察外を見ると、自分もアアヨーアアヨー、泣き聲になつて、急いで家の中に隱れてしまつた。抗議でも申込まれると思つておそれたに違ひない。

 父は豚のもがいて逃げ去つた畠のあとを見廻つて、其時こそ心から愉快げに笑つてゐた。其後は、畠の人口の木戶を、しつかりした木で造りなほし、垣根も、竹をさしそへて豚の襲來にそなへておいたが豚は再び姿を見せなかつた。かくして一時、近隣の土人達と、私共日本人の一構への者とは、意志の疎通をかいた樣にも見受けられたが日數を經るに從つて私共一家は自然に了解され親しみを持たれて來た。

 一體領臺當時、あちらに行つてゐる日本人の中には、何の考へもない人々が居て理も非もなくむやみに戰敗國たる臺灣人達(かれら)[やぶちゃん注:四字へのルビ。]をいぢめ二言めには打つたり蹴つたり、賣り物なども無茶な値で奪ふ樣に買ひ取る樣な事さへあつて表面に土人達は懼れてゐる樣でも内心には恨み疑ひ、成たけ[やぶちゃん注:「なるたけ」。なるべく。]賣物でもかけねを澤山にして、だましてやらうといふ風の態度であつた。

 倂し私達の父母は、すべての土人達に對して決してムチヤな事も言つたりせず、召使ひの寮外にも、も一人縣廳からよこされてある水汲みの土人にでも親切にしてやつたので、僞の多い、盜み心のある土人達も割合に、正直にしてゐた。其中でも寮外は十四位の男の子で、城外の貧しい家の子であつたが、土人に似げないすばしこい、氣の利いたもので、日本語もよく分るし、父母の優しいもてなしにすつかり信賴してよくまめくしく働いて吳れた。も一人の縣廳からよこされてあつた賄の爺さん(日本人)は、大抵、表の獨身の人々の世話を重にしていたし、も一人の大きい土人は城外一里許りの竹林中の泉を每目朝夕一度づゝ汲む事だけが彼のしごとで(臺灣の井戶水は皆石油色をして、雨がすこしふると直き濁つてしまつた)夜は歸つて行くし、ほんたうに、私共一家の用事をするものは此土人の少年寮外であつた。母は每日寮外に籠を持たして市場へ出かけて行つた。行くところのない私達には賑かな市場は面白い行きどころであつた。

 市場と云つても小屋掛けがあるのでも何でもない。狹い道の兩側に、土人の色々な物賣りが並んで、わけのわからぬ言葉を言ひ罵つてゐる許りであった。丈の二尺も有るやうな漬菜(つけな)の油でいためたのを賣つてゐる土人もあれば、生きたアヒルや鷄のくくつた足を手にぶらさげて賣つてゐる土人もあり、皮をむいた南京豆の山盛りにしたの、ペタリと赤い印を皮に押した豚の身、胡瓜の山、それから果物では時々によつて違ふが六七段も房のついた見事なバナナ、ジヤボン、無花果の樣な形をした黃色のスーヤア、林檎の樣な色つやの何とか云ふ果物、枝のまま一束ねにした龍眼の實、五六節の長さに切られた砂糖黍。西瓜、蜜柑、柿と、それは豐富なもので、それらは皆大きな蓋付の籠に美しくつみ上げられて、私達の注目をひくのであつた。其中でも珍らしいのは、土人の常に嚙みつゝあるビンロージの實、それは梅の實位の大きさの靑いきれいな實であつた。その檳榔子の實や、香りの高いマツリクワの花、それから年寄のあたまにさされる爲めの赤い造花、そんなものを手のついた竹籠に入れて土人の子などが賣り步いてゐるのは何となく淸新な心地がせられた。倂し雨の降つた後の市場の汚たない事は非常で、形も大きさも不規則に敷かれたデコボコの石の道には、果物の皮や、土人の嚙み捨てたかの槇榔の實が澁の樣な赤い汁をにじませてそこいらに散らばつてたりしてゐた。市場で果物や豚肉やアヒルの卵子や鷄、野菜など色々買込んだ私達は、屋根つゞきになつた土人町を歸つて來ると、額を四角くぬき上げてゐる女や、赤い造花をさして、網を髺の上にかけた老婆達が物珍らしさうにゾロゾロ出て來て、

 日本女大人(ニツポンチヤボダイジン)、おかけなさいおかけなさい。

と引つぱる樣にすゝめるのであつた。幅の廣い赤い帶をしめて、おちごに結つてゐた私共の樣な子供はどこに行つても珍らしがられた。[やぶちゃん注:「ジヤボン」ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima の別名。よく生の大きな実を送ってくれた亡き鹿児島の祖母は確かに「ジャボン」とも発音していた。因みに、いまでこそ全国区になった菓子「ボンタンアメ」の「ボンタン」も同じくブンタンの別異名である。「無花果の樣な形をした黃色のスーヤア」果実の形から、「梟啼く」で「スーヤー」に比定候補として挙げたモクレン目バンレイシ科バンレイシ属バンレイシ Annona squamos と考えてよかろう。「ビンロージ」「檳榔子」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実。長楕円形を成し、長さ五センチメートル前後で熟すとオレンジ色・深紅色となる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子を噛むことはアジアの広い地域で行われている。檳榔子を細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ』(双子葉植物綱クレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属キンマ Piper betle )『の葉にくるみ、少量の石灰と一緒に噛む。場合によってはタバコを混ぜることもある。しばらく噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。ビンロウの習慣がある地域では、道路上に赤い吐き出した跡がみられる。しばらくすると軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す』。『檳榔子にはアレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、タバコのニコチンと同様の作用(興奮、刺激、食欲の抑制など)を引き起こすとされる。石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加える』。『檳榔子には依存性があり、また国際がん研究機関(IARC)はヒトに対して発癌性(主に喉頭ガンの危険性)を示すことを認めている』。地面や『床に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると、血液が付着したような赤い跡ができ、見るものを不快にさせる。そのためか低俗な人々の嗜好品として、近年では愛好者が減少している傾向にあ』り、『台湾では現在、道路に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると罰金刑が課せられるため』、公道は概ね清潔になった、とある。「マツリクワ」シソ目モクセイ科ソケイ属マツリカ Jasminum sambac 。茉莉花。花の香りが強く、ジャスミン茶(茉莉花茶)などに使用される。「髺」「たぶさ」と読んでおく。髪の毛を頭の上に集めて束ねたその部分を指す。]

 私達の目には支那人の吳服店の棚に、赤、黃、綠、桃色その他樣々の緞子[やぶちゃん注:「どんす」。]やシュスの布地が彩どりよく大卷きにまかれて陳列されてあるのが、物珍らしくあかず眺められた。或家の軒先には、ウーロン茶や、むいた龍眼の實の黑く干してある莚があつたし、市の辻のやうなところや廟の敷石の邊には土人の稼人[やぶちゃん注:「かせぎにん」。]の爲めに栗の御汁粉の樣なものを賣つてゐたりした。朝早く通る時には、小さな塗盥で體をふいてゐる土人を見かけた事もあつた。

 色づいた蜜柑が市に出初めて日和のつゞく頃は、私共の第一の棟の表庭には、土人の子供達が集つて、石蹴をしたり、コマ廻しの樣なあそびをしてゐた。時には、その廣つぱに土人の人形芝居が來る事もあつた。繪にある樣な瓜ざね顏の目の吊り上つた美男の五寸程なお人形や、頰紅さして月の眉の美女のお人形は桃色黃藍などの緞子の上衣や袴を着て小さい木履をはいて、二尺に足らぬ舞臺の上を、巧みに土人の手にあやつられてゐた。芝居の文句はわからなかつたけれどもチャルメラか何かの樂の音につれて劍を戰はしたり舞つたりするのが私には大變おもしろかつた。その美しい精巧なお人形がほしくてほしくて見惚れて居るのであつた。四方に緞帳の樣な幔[やぶちゃん注:「まん」。「とばり」と読んでもよい。幔幕。]をかけた其小さい舞臺の奧には、煉瓦の樣に畫かれた戶口がついてゐたり金銀の箔をつけた牡丹の菊の造り花がさしてあつたり、小道具の椅子や紙の岩などおいてある事もあつた。

 

       

 私共少數の目本人の子供の爲めに縣廳の内の一室に特に、五六脚の机や椅子が並べられてそこで、學校の授業がはじまつた。先生は只一人で、私位の年の子も姊の年恰好の子も皆一處であつた。私と姊とは每日寮外に送つてもらつた。學校のお机の上で、母のあんで下さつた毛糸の袋の中から塗物のお辨當箱を取り出してマコモやアヒルの煮たのを喰べる事は私の樂しみの一つとなつた。お友達の俄かに出來たことも嬉しいには違ひなかつたが子供の時から偏屈に出來てゐた私は、いつもお友達の仲まから一人離れて椋の實をひろつたり地ベタに繪をかいたりして遊んだ。それよりも私には家へ歸つてから寮外と、人形芝居のまねをして遊ぶのが一番面白かつた。

 私達の日常に學校行きといふ一つの變化が出米た樣に私の住む家にも變化があつた。それは窓であつた。窓の一つもないぶあつな此壁は一面龍眼の樹かげにあつて日光をうけない爲めひいやりして濕める事は非常であつた。母の紋付の鼠色の縮緬は濕氣の爲め破れるものさへあつた。そこで、窓を此壁に切り開く事となつて一尺餘も厚みのある煙瓦壁は、漸く三尺四方位にクリ拔かれ、龍眼の庭を見られる樣になつた。一體此第二棟の煉瓦壁は私共の住家となつてから三つにしきつて、右左に同じ樣な六疊敷の床を張り疊建具をはめて、前に記した畠の方に位するのを父の居間、龍眼の庭に面するのを母や私達の居どころとしたので、中央の敷石の部を應接所とし、ここに大テーブルを二臺据ゑて椅子を配してあつた。丁度妹背山の舞臺面の樣な有樣であつた。窓は左右各々開かれた。永年の濕氣を含んだ厚壁の斷面には霧を吹いた樣な濕りが見られた。[やぶちゃん注:「妹背山の舞臺面の樣な有樣」浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」の「五段目」「山の段」の舞台を指す。私は何度も見ているので、ご存知ない方は、ウィキの「妹背山婦女庭訓」の当該段の解説を読まれたい。]

 私達の遊び場所は家に在つては大抵龍眼の下か、第三の棟。卽ち厨となつてゐる土間であつた。ガランとした土間の隅に寮外の竹の寢臺が淋しくおかれてある許りで外には水甁や臺所道具があつた。そこで寮外は赤い紙や靑い紙で妹の人形にキモノを着せ、手で操つつて人形芝居のまねをして見せた。時には、臺どころの白壁に、龍や佛手柑の繪を落書きして見せてくれたり、土人の村の傳說や、占領された當時の怖ろしかつた物語りを聞かせてくれた。かうして面白く遊んでゐる時に何か母の用事が出來て寮外は立つて行かねばならなくなるので私は時々放りつぱなしにされて大不平だつた。それから又何か氣に入らない事があると私や姊は寮外の髮の毛を手にグルグル卷にしてグイグイ引つぱつた。寮外の髮の毛は、黃色と赤との眞田紐で組み合して垂れてあつた。私らよりも年上ながらおとなしかつた寮外は、髮を引張られても決して手むかひせず、淚をポロポロこぼして、

 アアヨー、アアヨー、

 泣いてる許りだつた。そこへ母でも出て米ると母はキツト寮外の肩を持つて、

 なぜお前方は寮外をいぢめるの。寮外はもう新日本人になつたのですからいぢめてはいけません。

と私共を叱られるのであつた。私共は直き又仲直りした。

 お孃さん。私のウチヘ遊びに來るよろしい。あかい花や、ホヽヅキ澤山なつてゐる!!

 寮外はにこにこしてこんな事を言ふ事もあつた。私はそのホヽヅキの澤山ある寮外の家に行きたくてたまらなかつた。

 父はよく臺北や臺南地方へ御用で出張した。さういふ時には大抵護衞の巡査が三人位づゝ鐵砲を擔いで大形げに[やぶちゃん注:「おほぎやうげに」。]父についてゆくのであつたが母をはじめ私共は父の歸宅する迄は色々と安否をきづかつて待ちこがれるのが常であつた。一つには、樣々の嬉しいお土庶を待つ爲めでもあつた。留守の間は、前の棟から紬の出る[やぶちゃん注:紬(つむぎ)の産地である。]大島のはじめさんと鹿兒島人の山口さんとが每晚二人で泊りに來てくれた。二人ともおとなしい靑年だつた。他の人々は、每夜たんできして步いたり、花あはせ等をやつて惡い夜ふかしをするのに此二人はいつでもそれらの人から離れて本をのぞいたり勉强したりしてゐた。二人とも父から一番信用されてもゐた。はじめさんは額の廣い靑白い鼻の高い、崇高な顏をしてゐた。口數の少ない落着いた人であつた。そのはじめさんがぽつりぽつり、留守の永い每夜を孝行な中江藤樹のおはなしや、大江山の悲しいお姬樣のお話を聞かせて下さつた。お話し半ばから私はポトリポトリと淚が落ちてじいつと見てゐる燈がボーツと霞む樣になつて來るのであつた。[やぶちゃん注:「中江藤樹」(慶長一三(一六〇八)年~慶安元(一六四八)年)は近江国出身の江戸初期の陽明学者で「近江聖人」と称えられた人物。彼は十八の時、父親の訃報に接するや、激しく慟哭し、自らを葬りたいと願ったとされ、二十五歳の時、近江で一人で暮らす母を案じて迎えに行ったところが、母は連れ帰ろうとする申し出を断った。藤樹が子供の頃、母に慕い寄ったところ、「一たび家を出た者は軽々しく帰るものではない」と叱ったほど、躾に厳しい母親であったという。彼の名言「父母の恩德は天よりも高く、海よりも深し」がある(以上はWEB「歴史街道」のこちらの記事に拠った)。「大江山の悲しいお姬樣」大江山酒呑童子伝説で犠牲になった姬らのことであろう。]

 初さんは着てゐる大島紬の羽織の袖から白いハンカチーフを出して優しく私の頰の淚をふきつゝ

 お久さん。やめませうか……

とお聞きになる。

 いゝえ。

 私がグラグラ根のぬけたお椎兒の頭(かぶり)を振つてかういふと又初さんは靜かにその續きを話して下さるのであつた。後にあの初さんは臺北で脚氣衝心でなくなられたが、あの繪に見るヤソの樣なお顏はいまだに私の記億に殘つてゐる。淋しい御正月が濟んで久々で父が歸つていらした時の嬉しさは非常であつた。赤い鼻緖の下駄やビラビラのついたつまみ細工の簪、千代紙、ガラスの箱に入つてゐるお鍋やお皿など臺どころ道具の玩具などは、私を大喜びに醉はせた。

 仲のよかつた弟が失なつてからは誰れと云つて親しいあそび友達もなく、子供心にも、ともすれば、め入り込んで一人ボツンとしてゐる事もあつた。そんな時私の心持ちを知らぬ御友達なり母なりに、何か素つ氣なくでもされるか、意にみたぬ事のあると、私は、自分の心持ちを語る言葉もあらはし樣もなく只不機嫌さうにだんまりで人戀しい心持ちとは反對にプンとすねてしまふ。そしてうら悲しい、誰れも自分の心持を解してくれぬ淋しさにますます瞑想的な偏した氣分におちて行くのであつた。それに渡臺以米體も弱くなつてゐた私は遂にひどいマラリアにかかつてしまつた。最初のマラリアの時には姊も一所に臥してしまつた。何日間か四十度以上の大熱で、枕をならべて熱に浮かされつつ歌つたり笑つたりしてゐた。あの信光の時にお世話になつた病院長さんは、

 奧さん。今度こそお二人のお孃さんは死なせはしません。今度お二人をころしてしまつたら、私もいよいよ醫者はやめです!!

 院長の熱誠が徹つたものか、私共の熱は殆ど同時に退き出した。父は私共の枕元に坐つて、

 藥を飮んで早くよくなつてくれ。今度なほつたら二人共緞子の袴を褒美にかつてやる。

と言はれた。私はあの美しい色艷の緞子の袴をゆめ見つつ一生けんめい苦いキナエンを飮んだ。[やぶちゃん注:キニーネ(オランダ語:kinine)。キニーネ自身の水溶性が低いために塩酸キニーネ或いは硫酸キニーネの形で投与される。「緞子」(どんす)とは、織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。]

 全快後父からお揃ひに黑のツムギの紋付と、姊はエビ茶、私は緋に近い色の椴子の袴を買つて頂いた。

 その後も私のみは大抵一月に一度位、必らずマラリアをわづらつた。私は持藥の樣にして熱さましのあの苦い丸藥を飮みつづけた。

 生れつき色の黑い方の私の皮膚は、强い日光に燒きつけられ其上病氣つゞきで黃ばみかゝつて、すこしも子供子供した色艷はなく大きな目ばかり光つて腭[やぶちゃん注:「あご」。]はやせ尖つてしまつた。尤も顏色の惡くなるのは私一人でなく、臺灣に行つた人達の顏は皆土色にそまつて頰の赤味はいつか失せてしまふのが常であつた。其中で父丈はつやつやした好い顏色であつた。

 病氣勝ちになつたので私の氣分はますます憂鬱にかたむき、私の多感な感情は日一日と胸の畠につちかはれて行つた。弟を亡して末つ子になつた病身な私は、皆からはれものにふれる樣に愛され、あの嚴しい父でさへも、

 女の子がこんな我座ではしかたがない、すこししつけもしなくては……と心配する母に、

 まあまあすてとけすてとけ病身だし、久の體は信光同樣いつバタリといつてしまふかわからない。

と父はいつも母をなだめて私を叱らせなかつた。全く私の體は病身になりをへて、活發なサラリとした氣分の日は一日もなくなつた。私の偏屈を叱り手はなし、生活の方の心配はなし、我儘いつぱいになつてしまつた。そして豐潤な果物をむさぼる樣に食ひあき、自由に至つてひなびて育てられたのであつた。

 

       

 新領土の淋しい町にもやがて春が來た。

 ある目私共一家族は、表の棟の人々や、寮外や、賄の爺やや皆連れ立つて城外二里許りのところに遊びに行つた。

 父や、其他の澤山の人々は鐵砲をかついでゐる人もあり大きな鋸をさげて行く人もあつた。寮外のかついで居る前うしろの二つの籠の中には、豚の冷肉や、卷酢や、油であげたお菓子、その他いろいろの御馳走が澤山つめられてあつた。渡臺以來こんな風にして打揃つて遊びに出た事のない私共は、大勢の人々にとりかこまれて何の危險はなし、氣分も晴れ晴れとした。城外へふみ出すと、想思樹の黑ずんだ綠色は淡綠色の新芽をふき(想思樹は楊柳に似て、もつと葉の綠のつよいこんもり茂る樹で、黃色いあまい匂ひのする毛糸を束ねた樣な花が澤山さきます)うす紅色の草の花は廣い野一面に覆つてゐた。[やぶちゃん注:マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属ソウシジュ Acacia confusa 。台湾・フィリピン原産であるが、本邦には緑肥利用を目的として、明治三七(一九〇四)年に台湾から導入され、野生化も進んでいる、現在では小笠原諸島や沖縄諸島でみられるようになっている、とウィキの「ソウシジュ」にあった。]

 角の大きな水牛が方々に放し飼してあつたり、その水牛の岩の樣な背の上に白鷺がよく乘つかつたりしてゐるのを見た。五十羽も百羽ものアヒルの群れを河に放ちがひしてあるのを見、李の花の咲く土人村を過ぎて後、一行は、目的地の竹藪の中を步いてゐた。

 この竹林は孟宗藪の樣な竹の節々に、小さい年代を經た樣々の畸形な筍や、棘(バラ)の樣なものが一面に出てそれのひどいところは綱でも張つた樣、其長い刺が錯雜し到底くぐりぬけて通る事は出來ぬ樣なたちの竹藪であつた。その深い深い竹林の中を、三尺幅位の泉流が透き通るそれは美しい澄んだ色をして淙々と流れてゐるのであつた。其泉は、私の家の土人が每朝每夕一荷づゝ汲みに來るあの泉の上流であつて、流れの底には石ころがいつぱい敷かれてあり、水は一樣に三四尺の深さを持つて陽に透く竹林の色を落してゐるのであつた。

 男の連中は竹藪の中をあちこちして今目の行樂の目的である、この竹の節々のコブや棘の珍らしい形のものを探しては鋸でひいて步いた。歸り路に私は賄の爺やと、はじめさんにかはるがはる負はれて、何だかいつもの沈んだ心地でなくはしやいで嬉しかつた。寮外は御馳走を詰めていつた空の竹籠に白い李の枝をくくりつけて歸つた。翌日から父はお役所から歸つて來ると、七輪に大火を起させて太い針金を何本もまつ赤に燒いては、此の竹の子やおもしろい棘(バラ)の堅い肌へ穴をあけるので夢中であつた。採つて來た竹の節(フシ)は箱に何ばいもあつて、其他には、穴をあける針金やヤスリ小さい鋸其他いろいろの小道具が揃へて父の側におかれてあつた。永い歲月の間を存分ひねにひね風雨にさらされて愛すべき古雅な趣をそなへた大小樣々の此の筍の中には、一寸五分位の長さの中に、根の方のマキマキを一分おき位に十も二十も持つてゐるものさへあつた。この卷々の澤山あるもの程竹の地質が堅く又しあげてから美しい光澤が出るので珍重されるのであつた。穴をあけ終つた筍は今度は卷々タバコを吸ひつけその自然のヤニのけむりで氣長に每日每日いぶしあげ、それから今度は柔かい布で根氣よく艷を出すので、濃いあめ色の樣な光澤の出たパイプに出來上る迄は中々な日數がかゝつた。タバコの嫌ひな父は此筍のパイプの口へ煙草をくはへさせて何本もテーブルのフチヘ差し出してあつた。母も、每日穴あけや、艷ぶきを手傳つた。樣々なおもしろい形のパイプが箱にみちた頃今度は庭の龍眼の樹の根は、每日父と寮外とに鍬でほられ大鋸で切り取られた。此樹の根の形は竹よりもつともつと、珍らしい形のもの許りで臥龍の樣なものもあれば、窓の樣な穴を持つたのもあり獅子の頭の樣なの、天然キセルの樣な形に出來たもの色々樣々あつた。之を一々皆上皮を磨り落し、何かで磨きをかけ穴をあけたりタバコでいぶしたりするので仕上げはいつも母であつた。母はテーブルの傍の椅子に腰かけてひまさへあれば艷ぶきしてゐた。お客があると父は、不器用な手つきでこの自製のパイプに卷たばこをつけて、スーパ、スーパ煙を吸つてはノドにも鼻にもやらず直ぐ口外へ吐き出してしまふのであつた。[やぶちゃん注:「筍」以上の描写から、所謂「たけのこ」ではなく、堅く細い節くれだった竹の根のことを言っていることが判る。]

 私達は時々母に連れられて橫門を出たところの上人の家へ遊びに行く事もあつた。

 其土人の家は嘉義の舊家だつたのがその頃は零落し掛つて廣い屋敷内もよもぎが茂つたり土塀が破れたりしてゐた。そこには五十許りの女主人と九ツ許りの孫娘とたつた二人佗しく住まつてゐた。その土人の婆さんは、品のよいおとなしいお婆さんでどういふところから母と親しくなつたのか知らないが母はいつも慰めたり、九ツになる娘に私達の古い衣の布や、内地からきたお菓子などわけて持つてゆく事もあつた。九ツの娘は纏足されてよくシクシク泣いてゐた。足の骨の固まりきらない中に長い長い布で五指をすつかりまげつけて卷き上げ小さい刺繡の靴をはく習慣をつけないと、よい貴婦人になれないといふのが其老婦人の考へであつた。充分のびた足をまげられる痛さに、その娘はいつも泣いてゐた。私共はウラの庭になつてゐる蜜柑をもいで御豹走になつたりその貧しくなつて今も老婦人の唯一の思出でありほこりである美しい寢臺を見せてもらつたりした。それは美しく塗られた寢臺の四方を美しいぬひとりした種々の布地を見事につぎあはし重ねあはして、几帳の樣に垂れた立派な寢臺で、紫緞子の布團の上には長い塗枕がおかれたりしてあつた。此老婦人は耳に、玉をちりばめた黃金の耳環をはめてゐた。足には、鹿や菖蒲、蘭、鳥、柳の木その他いろいろの花鳥の刺繡を美しく色糸でぬひをしたかゝとの高い小さい小さい靴をはいてゐた。母は、これら近隣の土人の女の人達から日本女大人(チヤボタイジン)とうやまはれてゐた。

 夏のはじめ頃になつて或日市の酒屋へ寮外は、お酒をかひにやらせられた。

 父は頭にヂキ來る日本酒はいやといふので琥珀の樣に色の澄んだ採芳酒(サイワンチユー)(臺灣の地の酒で素燒の壺に二升づゝ入れられその壺には蘭の繪と酒舖の名などすられた赤い詩䇳が張つてあり、口は竹皮で雅にしばられてあつた)を土人の酒舖から買はせてゐたので此日も寮外はいつもの店からこの採芳酒(サイワンチユー)を買つて、市場でかつた鶩(あひる)や野菜を入れた籠と、酒壺とを前後に棍棒でかついで歸りかゝると、日本人の車引きかなにかに運惡く突き當つて、採芳酒の壺も竹籠もメチヤメチヤに叩き落され、なげ飛ばされ寮外は、その大きな强い日本人から散々な目に逢つて、泣き泣き歸つて來た。寮外は足の裏に怪我をし彼れの長い髮の毛はほどけてしまつてゐた。[やぶちゃん注:「採芳酒」不詳。ネット検索では掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 父も母も日本人の車引きのあまりに橫暴なやりかたを聞いて非常に怒つた。倂し相手はどこの誰れか少しもわからないので、何のほどこすすべもなく、父や母は心配と、おそれと痛みと、過ちに對する悔との爲めに、いつ迄も泣きやまぬ寮外を優しく慰さめてゐた。寮外は其後其足の疵に水がは入つてひどくいたみ出し、それに市場にゆく事を非常におそれて行き得ぬ樣になつたので、間もなく彼れは城外の實家へ養生かたがた歸される事となつた。

 寮外のかはりには縣廳から日本人の靑年をよこしてくれたけど、私共は何だか馴染がたく氣兼ねして、人形芝居のあひてをして吳れる人もなく淋しくて堪らなかつた。寮外はそれでも自分の家へ歸つてゐる間一二度遊びに來て、私や姊に、城外の自分の家へ遊びに來いと勸めてやまなかつた。寮外は二月もこなかつた。そして再び寮外が、足の痛みがすつかりなほつて私の家へ來てくれる樣になつたが、其後まもなく、私共一家は嘉義をたつて、臺北へゆかなくてはならないやうになつた。新らしく全島の○○調査局が出來る事になつて、父はさういふ方面には最も精通してゐるので再び選拔されて調査局の創立委員に上げられた爲めであつた。龍眼の樹のかげでは每日每日大きなしつかりした箱を、大工が來てこしらへるのでのこくづや木屑が、あのコブコブだらけの樹の根の間にチラばつた。そして、彫刻したあの分捕品のテーブルや、樣々の器具、美事な彫りものゝ椅子などが、前の棟の人々によつて其箱につめられた。はじめさんも山口さんもそれからあとの連中も皆大抵は父のあとから臺北へよびよせられる人々のみであつた。それらの人々から一足先に出立する私共一家は九月半ばの或朝、城外迄大勢の人達に見おくられて土人の駕籠に乘つた。それから先き半道ばかりの想思樹並木の道を私共の駕籠の兩わきについてどこ迄もどこ迄と見送つて來たものは、かの寮外と、前の支那の老婦人とそれから、はじめさん、山口さんの四人であつた。それからいよいよ麓路へかゝるといふ或る川の橋際迄來た時、そこ迄は乘らず先頭に步いてゐられた父は、駕籠を止めて、

 いや皆さん、よく遠方まで送つて來て下さつた、それではこゝで御別れとしませう。

と言ふと、ついて來て吳れた人々は、父や母に一々別れのあいさつをまたくりかへした。此時寮外は今迄手に持つてゐた私と姊の下駄を私達の駕籠の布團の下へ入れて吳れた。老婦人は一番しまひの母の駕籠の橫ヘピタリ近づいて、

 女大人(チヤボダイジン)!! 私今朝くらい中に超きて砂糖餠ついた。お孃さんたちにあげるよろしい……

 かう言つて、かゝへてゐたその砂糖餠の包みを母に渡し、私と姊の駕籠をのぞき込んで「御孃さんまた出でなさい[やぶちゃん注:「おいでなさい」。]。私たちみな待つてゐる……」

 かういつてポロポロ泣いてくれた。

 大人(ダイジン)! 女大人(チヤボダイジン)! お孃さん!! 私、淋しくなる。皆行つてしまふ……

 寮外はきれぎれにかういつて、しやくり上げてゐた。父や母のこれに答へた言葉は張りきる樣な深い感情の響きを持つてゐた。[やぶちゃん注:「全島の○○調査局」久女は父の公務に関わることなので伏字にしたものである。調べたところ、これは「臨時臺灣土地調査局」と思われる。これは「アジア歴史資料センター」公式サイト内のこちらに、明治三一(一八九八)年八月(久女の年譜の台北へ移った年と合致する)に「臨時臺灣土地調査局官制」(勅令第二百一号)により『設置され、地籍調査及び土地台帳や地図を作成する事務を管轄した。局長は台湾総督の指揮監督を受け、勅任官で当初は民政局長と兼務であり、そのほか事務官、技官、属、技手が配置された。地方支局を置くことができ、その局長には地方長官を充てる規定となっていた』。明治三二(一八九九)年十一月の「臨時臺灣土地調査局分課規程(訓令第三百十二号)により、『局長官房、監督課、調査課、測量課が置かれ、さらに官房には庶務課、会計課が置かれ』、明治三五(一九〇二)年十一月の官制改正(勅令第二百五十九号)に『よって、民政長官との兼務規程が削除されて専任局長が置けるようになった』が、明治三八(一九〇五)年三月三十一日、勅令第七十二号により『臨時台湾土地調査局官制は廃止された』とある。久女の父赤堀廉蔵が内地勤務となったのは、明治三十九年のことである。「麓路」「ふもとぢ」。嘉義は市街は盆地であるが、地形は東部の一部が竹崎丘陵地になっており、地勢は東から西にかけて緩やかな下り勾配を形成しているから、或いは彼らの住んでいたのはこの東方区域であったのかも知れない。「張りきる」の「張」の右には編者のママ注記がある。或いは「漲(みなぎ)りきる」の誤植かも知れない。]

 そこから父は駕籠に乘ると、駕籠はドンドン足早に進み出した。一言も別れの言葉を言ひ出せなかつた私は只だまつて何度も何度も振り返つて見た。想思樹のかげに立つてゐる四人の姿はいつ迄もいつ迄も動かず、朝もやの中に遂に沒してしまつた……

 かくして愛弟の終焉の地嘉義を私共は永久に去つた。弟の遺骨を護りつゝ。

 その後はじめさんは臺北の病院で死なれ、山口さんも日露戰爭の爲戰死してしまはれた。あの砂糖餠をついてくれた老婦人や寮外はもう死んでしまつたらうか。忘れ得ぬ人々として私には懷かしくおもひ出されるのであつた。

 

 

2020/12/05

杉田久女 梟啼く (正字正仮名版)

 

[やぶちゃん注:本篇は大正七(一九一八)年十一月発行の『ホトトギス』に発表された。執筆時、久女満二十八歳。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」は正字に直した。

 杉田久女の若き日の足取りは、先に公開した「南の島の思ひ出」(大正七(一九一八)年七月発行『ホトトギス』掲載)の冒頭注を見られたいが、本篇はそこにちらと出した久女の二歳年下の弟信光(明治二五(一八九二)年生まれ)での追想である。最後のちらりと出るが、久女の父赤堀廉蔵は長野県松本市宮淵の出身であった。本篇の台湾の嘉義での最後のシークエンス当時、廉蔵は四十五、母さよは四十三歳であった。

 表題は本文中で文中でひらがなで「ふくろ」と出ること、発表誌が『ホトトギス』であることから、「ふくろなく」と読んでよいと思う。ストイックに注をポイント落ちで附した。なお、公開後に気づいたが、「青空文庫」に新字新仮名で公開されているようだが、底本も異なり、私は一切データを使用していないことをここではっきり申し述べておく。]

 

  梟啼く

 

 私には信光といふたつた一人の弟があつた。鹿児島の平の馬場で生れた此弟が四つの年(その時は大垣にゐた)の御月見の際女巾が誤つて三階のてすりから落し前額に四針も縫ふ様な大怪我をさせた上、かよわい体を大地に叩き付けた爲め心臓を打つたのが原因でたうとう病身になつてしまつた。弟の全身には夏も冬も蚤の喰つた痕の樣な紫色のブチブチが出來、癇癪が非常に強くなつて泣く度に齒の間から薄い水の様な血がにじみ出た。私達の髮をむしつた。だけども其他の時にはほんとに聰明な優し味をもつた誰にでも愛され易い好い子であつた。五人の兄妹の一番すそではあつたし嚴格な父も信光だけは非常に愛してゐた。家中の者右皆此の病身ないぢらしい弟をよく愛しいたはつてやつた。弟は私が一番好きであつた。病氣が非常に惡い時でも私が學校から歸るのを待ちかぬてゐて「お久(しや)しやんお久(しや)しやん」と嬉しがつて、其日學校で習つて來た唱歌や本のお咄を聞くのを何より樂しみにしてゐた。鳳仙花をちぎつて指を染めたり、芭蕉の花のあまい汁をすつたりする事も大槪弟と一處であつた。

 父が特命で琉球から又更に遠い、新領土に行かなければならなくなつたのは明治三十年の五月末であつたらうと思ふ。最初臺灣行の命令が來た時、この病身な弟を長途の船や不便な旅路に苦しませる事の危險を父母共に案じ母は居殘る事に九分九厘迄きめたのであつたが信光の主治醫が「御氣の毒だけど坊つちやんの御病氣は内地にいらしても半年とは保つまい。萬一の場合御兩親共お揃ひになつていらした方が」との言葉に動かされたのと、一つには父は腦病が持病で、馴れぬ熱い土地へ孤りで行つてもし突然の事でも起つてはと云ふ母の少からぬ心痛もあり結局母はすべてのものを擲つて父の爲めに新開島ヘ渡る事に決心したのであつた。小中學校さへもない土地へ行くのである爲め長兄は鹿兒島の造士館へ、次兄は今迄通り沖繩の中學へ殘して出立する事になつた。勿論新領土行きの爲め父の官職や物質上の待遇は大變よくなつたわけで、大勢の男女子をかゝへて一家を支へて行く上からは父母の行くべき道は苦しくともこの道を執らなくてはならなかつたに違ひない。私の母は非常にしつかりした行屆いた婦人であつたが、母たる悲しみと妻たる務との爲めに千々に心を碎きつゝあつた。其の苦痛は今尙ほ私をして記億せしめる程深刻な苦しみであつたのである。

 八重山丸とか云ふ汽船に父母、姊、私、病弟、この五人が乘り込んで沖繩を發つ日は、この島特有の濕氣と霧との多い曇り日であつた。南へ下る私共の船と、鹿兒島へ去る長兄を乘せた船とは殆ど同時刻に出帆すべく灰色の波に太い煤煙を吐いてゐた。次兄はたつた孤りぼつち此島へ居殘るのである。

 送られる人、送る人、骨肉三ケ所にちりぢりばらばらになるのである。二人の兄の爲めには此日が實に病弟を見る最後の日であつた。新領土と言へば人喰ひ鬼が橫行してゐる樣におもはれてゐる頃だつたので、見送りに來た多數の人々も皆しんから別れを惜しんで下さつた。船が碇を卷き上げ、小舟の次兄の姿が次第次第に小さく成つて行く時、幼い私や弟は泣き出した……

 眞夜中船が八重山沖を過ぎる頃は弟の病狀も險惡になつて來た。その上船火事が起つて大騷ぎだつた。大洋上に出た船、而かも眞夜中の闇(くら)い潮の中で船火事などの起つた場合の心細さ絕望的な悲しみは到底筆につくしがたい。

 ジヤンジヤンなる警鐘の中にゐて、病弟をしつかり抱いた母はすこしも取り亂した樣もなく、色を失つた姊と私とを膝下にまねきよせて、一心に神佛を禱つてゐるらしかつた。

 が幸ひに火事は或る一室の天井やべッドを焦したのみで大事に至らず、病弟の容體も折合つて、三晝夜半の後には新領土の一角へついたのである。淋しい山に取かこまれた港は基隆(キールン)名物のモ濛雨におほはれて淡く、陸地にこがれて來た私達の眼前に展開され、支那のジャンクは龍頭を統べて八重山丸の舷側ヘ漕いで來た。

 今から二十何年前のキールンの町々は誠に淋しいじめじめした灰色の町であつた。たうとうこんな遠い、離れ島に來てしまつたと云ふ心地の中に、三晝夜半の恐ろしい大洋を乘りすてゝ、やつと目的の島へ辿り着いたといふ不安ながらも一種の喜びにみたされて上陸した私達は只子供心にも珍らしい許りであつたが、これからはなほさら困難な道を取つて、島内深くまだまだ入らなくてはならなかつた。

 基隆の町で弟は汽車の玩具がほしいと言ひ出して聞かなかつた。父と母とは雨のしよぼしよぼ降る町を負ぶつて大基隆迄も探しに行つたが見當らず、遂に或店の棚の隅に、ほこりまみれになつて賣れずに只一つ殘つてゐる汽車のおもちやを、負つてゐる弟がめばしこく見つけ、それでやつと氣嫌をなほした事を覺えてゐる。

 基隆から再び船にのつて、彭湖島を經て臺南へ上陸したのであるが、彭湖島から臺南迄の海路は有名の風の惡いところで此間を幾度となく引返し遂々彭湖島に十日以上滯在してしまつた。彭湖島では每日上陸して千人塚を見物し名物の西瓜を買つて船へ歸つたりした。漸くの思ひで臺中港へ着き、河を遡つて臺南の稅關へついた。そこで始めて日本人の稅關長からあたたかい觀迎をうけ西洋料理の御馳走をうけたりパイナップルを食べたりした。心配した弟の體も却つて旅馴れたせゐか變つた樣子もなく頗る元氣であつた。[やぶちゃん注:「基隆」台湾の北端の港湾都市。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「彭湖島」(ほうことう)は台湾島の西方約五十キロメートルにある台湾海峡上の島嶼群である澎湖(ペンフー)諸島の主島。「臺南」はここ。]

 臺南から目的地の嘉義縣廳迄はまだ陸路を取つて大分這入らねばならなかつた。困難はそこからいよいよ始まつた。汽車は勿論なし土匪は至るところに蜂起しつゝあつた物騷な時代で、澤山な荷物とかよわい女子供許りを連れて愈々危地へ入つて行く父の苦心は如何許りで有つたらうか。私たちは土人の駕籠に乘せられて、五里ゆき三里行き村のあるところに行つては泊り朝早く出て陽のある中に城下へ辿りつくと言ふ風に樣々な危ない旅をしたのであつた。ある時には靑田の續いた中をトロ[やぶちゃん注:トロッコ。]で走り、或時は一里も二里も水のない石許りのかわいた磧[やぶちゃん注:「かはら」。]を追つかけられる樣に急ぎ、又時には强い色の芥子畑や、わたの樣な花の咲く村を土人の子供に囃されつゝ過ぎた事もあり、行つても行つても、今の樣な磧の(或場所の石を積み上げてあるところなどは土匪でも隱れてはしないかと危ぶみ怖れつゝ)果てに雲の峰が盡きず村も三里も五里もない樣な處もあつた。或時には豪雨で橋の落ちた河へ行きあはせた事もあつた。兩岸には奔流を空しく眺めてゐる日本人や土人が澤山ゐた。郵便夫もゐた。父は裸になつて河をあつちこち泳いで深さを極め、私共は一人一人駕籠かきの土人に負さつて矢の樣に早い河を渡してもらふ事もあつた。奔流に足を取られまいとして、底の石を探り探り步む土人の足が危ふく辷りかけてヒヤリとした事も一度や二度ではない。竹藪の中の荒壁のまゝの宿屋(村で一軒しかない日本人の宿)に佗びしく寢た夜もあつた。丁度新竹から先は都合よく嘉義へ行く軍隊と途中から一處になつたので夜も晝も軍隊と前後して、割合危險少なく幾多の困難を忍んで漸く嘉義についたのは七月の初旬であつた。[やぶちゃん注:「嘉義縣」は直線で台南の北北東五十二キロメートルの位置にある(前の地図を参照)。「土匪」本来は、徒党を成して掠奪・暴行などを行う反社会的な悪党としての賊徒を指す言葉であるが、近代日本では、特に侵略をした中国に於ける反日の非正規武装集団(ゲリラ)を指した。「新竹」はここ。意想外に後戻りした遙かに北で、直線でも嘉義縣からは百八十キロメートルも北北東に当たる。]

 やれやれと思ふまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどつと寢付いて終つたのである。日本人といつても數へる程しかなくやつと縣廳所在地といふのみで上級の官吏では家族を連れてゐるのは私共一家のみといふ有樣だつたので、私共は縣廳の内の家に這入り病弟は母が付添つて市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、鎖臺當時野戰病院にしてあつたのを當り前の病院に使つてゐるので軍醫上り許りであつたし外には醫師も病院もなかつた。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲彈の痕もあり、くづれたところもあり、病室と言つても、只の土間に粗末な土人の竹の寢臺をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寢てゐる幾つもの室を通つて一番奧の室が弟の特別室であつた。隣室には中年增の淪落[やぶちゃん注:「りんらく」。落魄(おちぶ)れて身を持ち崩すこと。]の女らしいのが靑い顏をして一人寢てゐた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くづれかけた樣な高い煉瓦塀には蔓草が這ひまはり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落してゐた。院長などは非常に一生懸命盡して下さつた。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寢臺を母はいたましがつた。弟は臺南で食べた西洋料理を思ひ出してしきりにほしがつた。馴れぬ七月中ばの熱帶國の事故、只々氷をほしがつた。枕元の金盥には重湯とソップ[やぶちゃん注:スープ。]を水にひやしてあつたが水は何度取り替へてもぢきなまぬる湯の樣になる。信光は母のすすめる重湯を嫌つて

 みづう、みづう

と冷たいもの許りほしがつた。この離れ島へ遠く死にに連れて來た樣に思はれる病人の爲め出來る丈けの事をしてやり度いと思つても金の山を積んでもここでは仕方がなかつた。父は臺南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に澤山注文した。知事さんのコックに賴んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悅んだらしいけど、「信やお上り?」と聞いた母に、只うんと二三度うなづいた丈けで、力ない目にじつと洋食の皿をみつめたまゝ、

 あとで。と目をつぶつてしまつた。小さな體はいたいたしく瘦せおとろへて、藥ももうヌ吞んでも吞まなくてもよい樣な賴みすくない容體に刻一刻おちていつた。母は夜も一目も寢ず帶もとかず看護した。信(のぶ)は體を方々いたがつた。母がま夜中に、このあはれな神經のたかぶつた病兒の寢付かぬのを靜かになでつゝ

 信や、くるしいかい?

と聞くと

 うん。苦痛をはげしく訴へず只靜かにうなづく。

 ぢき直りますよ。直つたらあの嘉義(ここ)へ來る途中の田の中にゐた白鷺を取つて上げますからね。と慰めると

 うん。とまた。その頃はもう衰弱がはげしくて、口をきくのも大儀げであつたがしつかり返事してゐたさうである。子供心にも直り度かつたと見えて死ぬ迄藥丈けは厭やといはずよく吞んだ。體溫器も病氣馴れた子でひとりでにわきの下に挾んでゐた。夕方になると、土人の家の樹に啼く梟の聲は脅かす樣な陰鬱の叫びを、此廢居に等(ひと)しいガラン堂の病院にひびかせ、その聲は筒拔けに向うの城壁にこだまを返して異境に病む人々の悲しみをそそつた。

 病苦で夢中といふよりも死ぬ迄精神のたしかであつた弟は、この夕方の梟の聲を大層淋しがつた。見も知らぬ土地に來てすぐ佗しい病室に臥した弟は只父母をたより、姊をたより、私をたより、二人の兄達を思ひつゝ身も魂も日一日と、死の神の手にをさめられようとして、何の抵抗もし得ず、尙ほ骨肉の愛惜にすがり、慈母の腕に抱かれる事を、唯一の慰めとしてゐるのであつた。不慮の災からして遂に夭折すべき運命にとらはれてしまつた不幸な弟、いたはしいこの小さな魂の所有者が我儘も病苦もさして訴へず、ギーギー鳴る竹の寢臺に橫たはつてゐるのを見て、母はにじみ出る淚をかくしつゝ弟を慰め、一日を十年の樣な心持で愛撫しいとほしみつゝ最後の日に近づいてゆくのであつた。父は晝は病院から出勤し、夜は又病院で寢る爲め私と姊とは淋しい縣廳の中の家に召使とたつた三人每夜寢てゐた。晝はムクの木の下に姊と行つて木の實をひろひ、淋しい時には姊と病院の方を眺めて歌をうたつてゐた。私の齒はその頃丁度ぬけ替る時で、グラグラに動いてゐる齒が何本もあつた。一生けんめい搖すつてゐた齒がガクリとわけなく技けた或朝だつた。病院から姊と私に早く來いとむかひが來た。

 二三目前に、弟の厭やがり父母もどうせ死ぬものならといやがつてゐた、齒の根の膿を持つたところを院長が切開したところが、いつ迄も出血が止らず、信は力ない聲で、

 いやあ、いやあ、切るのいやあ。

と泣いてゐたがたうとう死ぬ迄水の樣な血が止らなかつた。前日私の行つた時はそれでも、私を喜んで大きく眼をあけてゐた。弟の病氣が重いとは知りつゝも死を豫期しなかつた私達は胸をドキドキさせてかけつけた。やつと間にあつた。院長も外の軍醫も皆枕元に立つてゐた。「それ二人とも水をおあげ」と母が出した末期の水を、夢中で信(のぶ)の唇にしめしてやつた。何とも書きつくせぬ沈默の中に、骨肉の四人の者は、次第にうはずりゆく弟の上瞼と、ハツハツハツと、幽かに外へのみつく息を見守つてゐた。母は靜かに瞼をなでおろしてやつた……

 のぶさん!! 苦しくない樣に、寢られるお棺にして上げるわ。

 私は、叫んだ。今迄の沈默はせきを切つて落した樣に破られて、すすり泣きの聲が起つた。

 その時八つだつた私の胸に之程大きく深く刻まれた悲しみはなかつた。聲いつぱい私は泣いた。

 淋しいふくろが土人の家の樹で啼いてゐた。其の日の夕方しめやかに遺骸の柩を守つて私共は縣廳の官舍へ歸つて來た。其當時の嘉義にはまだ本願寺の布敎僧が只一人ゐるのみであつた。十目間の病苦におもやせてはゐたが信のかほにはどこか稚らしい可愛い俤が殘つて、大人の死の樣に怖い、いやな隈はすこしもなく、蠟燭を燈して湯灌し經帷子をきせると死んだ子の樣にはなく、またしてもこの小さい魂の飛び去つた遺骸を悼たんだのであつた。棺は私達の希望した寢棺は出來ないで、坐る樣に出來てゐた。[やぶちゃん注:「稚らしい」読み不詳。せめも「をさなごらしい」と読んでおく。]

 お葬式は縣廳の廣庭であつた。信光の憐れな死は嘉義の日本人の多大な同情を誘つて、關係のない人々迄、日本人といふ日本人は殆どすべて會葬してくれた爲め、犬きな椋のこかげの庭はそれらの人々でうづもれた。かの病院長も來て下さつた。郊外の火葬場――城門を出て半丁程も行つた佗びしい草原の隅の小山でした――へは父と、極く親しい父の部下の人々が十人許りついて行つてくれた。

 火をつける時の胸の中はなかつた。ここ迄來てあの子をなくすとは……

と、火葬場から歸つて來た父は男泣きに鳴泣いた。母も泣いた、姊も私もないた……

 信はたうとうあの異境で死んでしまつた。

 五寸四角位な白木の箱にをさめられた遺骨は白の寒冷紗につゝまれて、佛壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちやや洋服は皆棺に入れて一處にやいてしまつた。

 せめて氷があつたら心のこりはないのに……

と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く臺南からトロで屆いた。信の基隆で買つたあの汽車のおもちやもサーベルも、あとから來た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懷の淚を流させた。

 父は思出のたねとなるからとて、信のつねに着てゐた、辨慶縞のキモノも水兵服も帽もすべて眼につくものは皆燒き捨てゝそこいらには信の遺物は何もない樣にしてしまつた。鍾愛おかなかつた末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかつた。

 姊と私とは每日草花をとつて來ては信の前へさし、バナヽや龍眼(りゆうがん)肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなへした。[やぶちゃん注:「龍眼」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan。「スーヤー(果物)」不詳。可能性としては、モクレン目バンレイシ科バンレイシ属バンレイシ Annona squamos かも知れない。和名は中国語名を転用したもので、「蕃荔枝」(ファンリージー、拼音: fānlìzhī)であるが、これが台湾語では、実の形状が螺髪を有する仏像の頭部に見えることから「釋迦」と呼ばれ、これは中国語で「シーチャー」(拼音: shìjiā)、台湾語では「シェッキャ」(sek-khia)と発音し、この「スーヤ―」に近いからである。]

 父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護(みと)りつかれて、半病人の樣なあをい顏をしつゝわづかに私達の世話をしてゐた。

 土人の子の十五六のを召使つてゐたけれども友達はなし父母は悲しみに浸つてゐ、弟はなし、私と姊とは、龍眼の樹かげであそぶにも、學校へ行くにも門先へ出るにも姊妹キツと手をつないで一緖であつた。縣廳の中の村に私達四五人の日本人の子供の爲めに整へられた敎場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならひにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎へされてゐた。全くまだ物騷であつた。或夜などは城外迄土匪が來て銃聲をきいた事もあつた。夕方など私達が門の前で遊んでゐると父は自分で出て來て、

 靜も久も家へもうおはひり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどつて下さつた。嚴格一方の父も氣が弱つた。廟をすこし修繕して疊丈け[やぶちゃん注:「だけ」。]敷いたガランとした、窓只一つのくらぼつたい家は子供心にも堪へられぬ淋しさをかんぜしめた。

 城壁のかげの草原には草の穗が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や佛手柑や龍眼肉が町に出るころは、ここに始めての淋しい秋が來た。每夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露つぽい空氣を透してあはれつぽくきこえて來た。[やぶちゃん注:ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。]

 遠く離れてゐる二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が來たのは漸く初秋のころであつたらう。

 次兄は大空にかゝつてゐる六つの光りの强い星が一時に落ちた夢を見たさうであるし、鹿兒島にゐた長兄は、つねのまゝのゴバン縞のキモノで遊びに來たとゆめ見て非常に心痛してゐるところに電報が行き、いとま乞ひに來たのだらうとあとで知つた由。二人の兄共殊に愛してゐた末弟のあまりにももろい死に樣に一方ならず力落ししたのであつた。

 それから丸一年を嘉義に過し其後臺北に來、東都に歸つた後も尙ほ暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまゝ棚の上に安置して、弟の子供の時の寫眞と共々、いつも一家のものの愛惜の種となつてゐたが、櫻木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故國松本城山の中腹にあつく祖先の碑の傍らに葬られた。

 弟が死んでからもう二十二年になるが、あの樣な地で憐れな死に樣をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思ひ出されるのである。

 

杉田久女 南の島の思ひ出 (正字正仮名版)

 

[やぶちゃん注:本随筆は大正七(一九一八)年七月発行の『ホトトギス』に掲載された。執筆時、久女満二十八歳。この年の四月号『ホトトギス』の高浜虚子選の「雑詠」に、 

 艫の霜に枯枝舞ひ下りし烏かな

の一句が初めて選ばれて載った。但し、この句底本(以下)の年譜に記されてあるだけで、第一巻の句集成にも載らない(従って私の「杉田久女全句集」(古いPDF縦書版で、ソフト・システムが旧式で文字が転倒していたりするが、許されたい)にも採用していない。それは久女が拒絶した句であると私は信ずるからであり、私も真正の「虛子嫌ひ」だからである)。掲句は底本末の年譜(久女の長女で底本全集の編者でもある石昌子氏編)に確認されたものである。発表から五ヶ月後の十二月、脳溢血のために実父赤堀廉蔵が五十四歲で亡くなっている。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」は正字に直した。

 杉田久女(明治二三(一八九〇)年五月三十日~昭和二一(一九四六)年:本名は久(ひさ))は鹿児島県鹿児島市平(ひら)の(現在の南さつま市加世田川畑平之馬場。グーグル・マップ・データのこの中央附近。以下同じ)で、当時、鹿児島県庁勤務の官吏であった赤堀廉蔵(三十八歳)と妻さよ(三十六歳)の三女(兄二人と姉二人であるが、姉は夭折している)として生まれた。なお、作中に出る弟信光は明治二十五年生まれである。三~四歳までは鹿児島に住んだが、明治二九(一八九六)年に父の沖縄県庁転勤に伴い、一家で沖縄県那覇に移住し、七歳になった翌年五月には再び父の転勤で台湾(一八九五年に日本領土となっていた)の嘉義県(現在の嘉義市)に、次いで明治三一(一八九八)年には再転勤で台湾北部の大都市台北へ移り、ここで七年余りの少女時代を過ごした。明治三九(一九〇六)年満十六歲の時、父が内地勤務となり、東京で宮内省・学習院の会計官となった。なお、彼女が福岡県立小倉中学校美術教師杉田宇内(うない)と結婚したのは、明治四二(一九〇九)年八月、満十九の年であった。

 第一章標題にある「榕樹」クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa の漢名。沖繩本島他では、大木の「がじゅまる」には「きじむなー」と呼ばれる妖精的精霊が棲むとされる。私は大学一年の時、下宿先におられた若い沖繩の婦人から、まさに直に聴き取りした彼女自身の生霊体験(沖繩では「生きまぶい」と呼ぶ)を私の実録怪奇談集「淵藪志異」に公開しているが(サイト開始当初のもので、漢字の正字表記が不全であるのは、お許しあれ。擬古文正字が苦手な方のために、「沖繩の怪異」にも同話の口語表現版も用意してある)、この彼女の生霊がいたのもガジュマルの木の上であった。

 最後に出る「波の上神社」は沖繩県那覇市若狭にある波上宮(なみのうえぐう)である(グーグル・マップ・データ航空写真)。グーグル画像検索「波上宮」をリンクさせておく。

 文中でもストイックに注をポイント落ちで附した。]

 

 

 南の島の思ひ出

 

 九州の最南端の海邊の町で、私が生れたのは、香りの高い夏蜜柑の花が、碧綠の葉かげに一齊に咲き出だす五月の中ばであつた。と云ふ事は、私の過去三〇年に近い生活も――私の幼時は父母に伴はれて、琉球から臺灣と次第に熱い國へ移り行き、處女時代の八年間を東都で暮した外は、嫁しての後も、再び南國の人として一〇年間を小倉に過して來たのである――未來も亦、南國にしかと運命づけられてゐる。といふ何等かの暗示の樣にも思はれるのである。[やぶちゃん注:「八年間」ちょっと不審。事実上の結婚以前の「東都」(東京)住まいは、長く見積もっても四年である。]

 幼時の覺束ない記憶。

 そこには年や月や日などといふ、タイムの流れに支配された觀念はすこしもなく只、非常に强い印象の斷片が、色彩濃く存してゐるばかりであつた。

 私は今玆に、其强い印象のあとを辿つて、五六才の頃渡つて行つた琉球島の、思出を順序もなく記るして見ようと思ふのである。

       一、榕樹のかげに遊びて

 島は非常に濕氣と霧が多かつた樣に覺えてゐる。

 そして陰鬱な程茂つた榕樹の大きな丸い暗紫色の影は、强烈な太陽にやけた道路の上に、城璧の樣にめぐらされたぶ厚な石垣の上に、おほひかぶさつて、その無數の日の斑を、チラチラと、そこいら一面にひらめかしてゐた。

 紫色に熟した小さい木の實は、ぽたぽたと地上に潰れてゐた。(私の家は那覇の大道路に添つて、高い石垣を巡らしたものの一つであつた)。

 草や木の茂みの中には恐ろしい毒蛇や、色彩の美しい大トカゲが隱されてゐたし、不思議の熱病、焦げ付く樣な日光。それらのものは、私達をどれ程恐怖させた事であつたらう。ひくい天井には、燈る頃から守宮がゾロゾロと澤山這ひまはつてゐた。長い箒の先でドンと一つ天井を突くと五つも六つもボタボタ落ちて來た。疊の上で叩き付けると、胴と尾の付け根から別々に切れてピクリピクリと氣味わるく左右に步いてゆく。每晚每晩守宮取をしても守宮は後からあとから殖えて、私は每夜寢るのが恐ろしかつた。ハブは家の中の鼠を取りに這入つて來るのでむしあっい夏の夕方も早く雨戶を閉めてしまふのであつた。綠靑色の菓かげには、め玉の黑い芋蟲がゐて私をおびやかしたり、遊んでゐる眼前の芭蕉の幹に、斑點のある艷々しい蛇の胴がヌルヌルいたりするのは每日の事であった。がおしまひには私共もさ程おそろしがらない樣になつた。お庭には一面に眞砂がしきつめられ、燒け切つた飛石の間にはせの高い蘇鐡が、はがねを束ぬた樣な葉をギラギラさせてゐた。友達のない私は三つ下の弟と、よくこの蘇鐵の赤茶けた綿をむしつたり、小石の間に澤山こぼれ咲いてゐる鳳仙花の葉をとつて石でピチヤピチヤ叩いてその汁で、琉球人の子供のする樣に手の爪を染めたり、そんな事をして遊んでゐた。

 家の橫手は、日光もささぬ樣な密林で、その中にはスタスタのびた靑い芭蕉の幹も交つてゐた。蛇のこはさも忘れて弟と私はその林の中に這入つては、芭蕉のあまい汁をふくむ花辨をなめたり、非常に小さく、七彩の長い長い尾を持つた美しい鳥を直ぐ頭の上に見付たり、或時は裏の木戶口から家主の庭ヘ出てブタの群れを追かけ𢌞したりした。時はいつだつたか覺えないが家主の庭には百合に似た赤い萱草の花がいつぱい咲いて、その傍には山羊が二疋飼つてあつた。萱草の赤い花や、まつ靑な莖を思ひ出す時、私はいつもキツト、あのコロコロした納豆の樣な山羊の糞を連想する。[やぶちゃん注:「萱草」「かんざう(かんぞう)」か「わすれぐさ」であるが、作品の標題からは後者で読みたい気がする。但し、沖縄の多用な方言名(後述)は圧倒的に「かんぞう」の訛ったものである。単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva であるが、複数の種が沖繩には植生するものの、特にワスレグサ亜種アキノワスレグサ(別名トキワカンゾウ)Hemerocallis fulva var. sempervirens であろう。花はノカンゾウ(Hemerocallis fulva var. longituba)に似て夏に橙赤色の花を咲かせ、常緑性であり、本邦では九州南部及び南西諸島に自生する。特に沖縄県では「クヮンソウ」「カンソウ」「グワンソウ」「ガンショウ」「クワンシヤー」「ガンソウ」「ハンソウ」「フファンサ」「ファンツァ」「フファンツア」「ニーブイグサ」「ニーブイカンソウ」「パンソー」「カンゾーバナ」「ウプンサ」「ビラティ」など多様な方言名があり、また、別に「ニーブイグサ」「ニーブイカンゾウ」と呼ぶ地域があり、これは沖縄方言で「眠い」の意の「ニーブイ」からきたもので、「眠り草」「眠り萱草」の意である。参照したウィキの「ワスレグサ」によれば、沖繩に『おいては伝統的農産物として栽培されており、野菜として用いられる他、成分であるオキシピナタニン』(Oxypinnatanine:強い鎮静効果を持つアミノ酸誘導体の一種)『による睡眠改善効果をうたったサプリメントが作られている』とある。]

 家主は、岸本と云つて那覇での素封家だつたが、六〇許りのハンシー(婆さん)と、中年のアヤメ(嫁さん)と其娘と、かうたつた[やぶちゃん注:「劫經つた」であろう。]三人の女所帶で、あとは下男や下女が三四人ゐた。大きなその琉球人の臺所には、每日每日犬笊に山程甘藷がむし上げてあつた。土間にも、頭大の泥芋がゴロゴロ積んであつた。琉球ガスリを着、をかしな結び髮に竹の笄[やぶちゃん注:「かうがい」。]をさし、足を坐禪の樣にくみあはせて坐つたそこの奴婢達は、ふかし芋――ふちがまつ黃色で、心の方はうす紫色の、非常にあまい――を常食としてゐた。煤びた自在鍋の上には、竹皮の草履が一〇足も二〇足もいぶす爲めにつるしてあつた。島國で水の惡い爲め軒には天水桶が五つも六つも並べてあつた。

 豚の血を交ぜてあるとか聞いた朱塗の重箱に、赤い色つけた肉や、油で揚げたソーメンなどの御馳走をつめて家主からはよく吳れた。けれども最初私達の家では、豚の臭ひが鼻についてどうしても喉をこさず、ソツと皆捨てさせた。遂には其油くさい料理も一家の最も好むところとなつて、私など未だに濃厚なものを好く樣になつたのだけど……

 每日每日を城壁の樣な石垣に包まれて外部と斷たれて暮してゐた私が只一つ、外界の有樣を知り得る機會といふのは、此石垣の道に面した、角のところが、特に、三坪程臺場の樣に築かれて、そこには何かの古びた小祠があった。上には大きな大きな榕樹が目を遮つて、無數の枝は房の樣に垂れてゐた、私達は時々此の榕樹の蔭のお臺場に上つて右の珍らしい四邊の有樣を、めがねでものぞく樣な心持で見下ろす事によつて、はじめて外界を知り得る許りであつた。

 そこには門前のゴチヤゴチヤした琉球人の小家や、石の井戶。はだしで豚の生きたの、野菜、魚の桶何でも皆頭にのせて賣り步く女達や、腭髭[やぶちゃん注:「あごひげ」。]をはやして銀の笄をさした悠長げな男達のゆききするのも見えたし、時には大きな栴檀の樹がうす紫の花をドツサリつけて、下を通る牛の背や、反物を頭にのせた琉球の女達の上に、そのうす紫色をこぼしているのも見えた。遠い、松山の赤土の頂や、繪で見る龍宮の樣な形をした赤瓦の屋根。强い日にやけた白い道路。それらのものは、走馬燈の樣に私のめに浮み出る……[やぶちゃん注:「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。]

       二、碧い碧い潮をあびつつ

 冬が來たのも春が去つたのも私の記億には更にない……

 雪も見なかつたらうし、優しい、菫や蓮華の花で色彩られる野邊も、あの熱帶めいた南の島にはなかつたのであらう。

 私は只碧い碧い潮を思ひうかべる。

 私共が、高い石垣の圍の中から門外へふみ出して、琉球人の子供達と遊んだり、琉球の言葉を自由にあやつる樣になつたのはいつか一年も經過して再び夏が島國におとづれた頃であつたらう。私は姊や兄と一處に、每朝起きると直ぐ、二丁もない海へ父に連れられて行つた。露にぬれた甘藷の葉の間の徑を通つて。白い美しい砂礫をふんで。

 海洋の中に浮くその島のめぐりの海は、非常に深い、碧玉の樣な色をたたへてゐた。海鳥が波にすれすれに昇つてゐた。直ぐ眼前を、和布だか何だか山の樣に藻をつんだ舟がすりぬけて行つた。洪水の樣に旭の光りが海面一ぱいにふりそそぐ頃、私共は父にをしへられて、ウキをたよりに碧い碧い潮に浸つてゐた。そして朝のお飯を食べに歸つた私達は父の出勤後、また母に連れられて、今度は幼弟も一處に、籠や木片を持つて行くのであった。其頃はもう潮はずつと仲の遠くへ退いてゐた。[やぶちゃん注:「お飯」には右に編者によってママ注記が附されてある。]

 其邊一帶の海岸は、陸と海の接ぎ目が牆壁の樣な岩でめぐらされ、海はズドンといきなり低くなつて四五丁沖迄デコボコデコボコした岩許りである。砂地といつては芋畑と牆璧の直ぐ下の邊に少しある許りだつた。

 私の今比知つてゐる濱の中で、琉球の濱邊程海の幸の裕(ゆたか)なところはなかつた。デコボコデコボコ波狀をなして敷かれた廣い岩のそこここには赤貝とかいふ平べつたい貝が取り切れない程あるし、針を値ゑた樣なウニの貝、磯ギンチヤクややどかり。それから時には岩にひたと引つ付いてゐる岩の樣な鮑を見付け出す事もあった。[やぶちゃん注:「アカガイ」若干、採取場所に疑問があるが、呼称からは斧足(二枚貝)綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ超科フネガイ科リュウキュウサルボウ亜科リュウキュウサルボウ属リュウキュウサルボウ Anadara antiquata である。「廣い岩のそこここ」を珊瑚礁の岩礁帯の抉れた部分にそれぞれ砂泥が溜まった部分ととれば、問題ない。]

 私の、名を知らない貝類は無數に、まき散らされて採るのには少しも骨が折れなかった。

 一番面白いのは、岩のところどころが風呂桶の大きさ程に深く窪んでゐるところや、手水鉢程に潮水を湛へてる處である。ひき殘された潮水がその岩の風呂桶にたまつて、岩にくつ付いた長い藻のメラメラメラメラ目に透けつつゆらめく美しさ。その藻のかげには赤靑紫、さては斑入の、鎬のサラサ形をおいた樣なの、樣々のきれいな小魚が遠く引き去られた自分達の友達の魚の事も、危い運命が迫りつつある事も知らずに、樂しさうに藻のかげを泳ぎまはつてゐる。その又小さい影が底の藻の靑や茶色に、美しい斑點を落してゐる。私達は貝を採りあきると、この岩風呂のぬるい潮水に足をひたしたり、小魚をすくつたり、キヤツキヤツ樂しい笑ひ聲を濱風に響かせて遊びふけるのであつた。弟達は時にはキモノをぬいで、其中に浸る事もあつた。潮がまだ乾き切らぬ岩の上には、たまには遠くの沖から流れて來たらしい潮木などが落ちてゐる。それには、びつしり海ほほづきが生えてゐた。

 强く照り付ける太陽と、絕えず沖から吹く潮風とに、廣い岩濱がぐんぐんかわいて、磯の香が袖にも裾にもしむ頃には私共の籠には貝やら藻やらがいつぱいになつた。何百何千年否、何萬年の昔から、かくして、洋の碧玉の潮にすりへらされた石の斷片や貝殼は、或物は枝珊瑚の樣に、或物は眞珠や瑪瑙の樣な光澤と色とをそなへ、或物は紫色に櫻色に色彩も形もそれはそれは美しくばら撒きにされてゐるのであつた。私や弟が每日の玩具やオハジキの材料は大抵此の濱邊で拾ひ集めた海の寶石のみであつた。失くしても失しても濱邊から又澤山拾つては來た。岩のお風呂の中から掬ひ取つた小魚は、瓶(ビン)に入れて、手水鉢に移してやるのであつたが、直に死んでしまふのが常であつた。

 家庭にあつては父母の限りない愛に包まれて何の苦勞も知らない私達。又終日大洋の氣を吸つて、何物にも拘束されず、自由に飛びはねて自然の寶庫を我物顏にあさつてゐた私達はほんたうに幸福だつた。

 然しながら、私の自然に脅され易い心は、他方に於いて自然の懐に入つた樣な心安さと親しさを感じてゐるのに反し或時は非常に自然を怖れ憚かつてゐた。私は子供の時から蟲類が大嫌で蟲類なら、どんな小い[やぶちゃん注:「ちひさい」。]草や木の葉と見違ふ樣な蟲でも身震して恐れた。殊にあの海の威力。夜の風の魔力は私に非常な恐怖を感ぜしめるのであつた。

 たそがれが沖のあなたから、次第に濃くひろがつて來、淋しい岩壁の影が磯に落ち來たる時、私の心は俄に淋しさに覆はれてしまふ。

 陸をめがけて押し寄せて來る高浪は非常な速力を持つて、ザザーザザーと、近付いて來る。自分達の暫らくの間領してゐた濱を、潮に再び返して、私共はだんだん芋畑の方へ退却しなくてはならなかつた。兄や姊達は波打際を面白がつて、ザアツと碎け落ちる潮をからかふ樣に、飛びのいたり、追つかけたりしてゐた。こんな時、

 お母あさん早く歸りませうよう。

 泣きたい樣な心持でしつこく母の袂を引つぱるのはいつも私だつた。あの限り知らぬひろい海の、どこから涌くとも想像のつかぬ怖しい潮は、次第次第にひろがつて遂には、大洋の中に危うく浮いてゐる樣にさへ想はれる自分達の住む島を一面海にしてしまふのではないかと、幼心には一圖に心細く思はれるのであった。私達を、あの潮が吞みに押しよせて來る樣で、仕方がなかつた。ドンドン潮の追究から逃げ出して、一丁も來てから振り返つて見る時には、もう、今迄遊んでゐた廣い磯はかげも形もなく、芋畑の綠の直ぐ下迄碧い潮にすつかり吞まれ盡してゐた。

 風の激しい夜、海なりの音をききつゝ、私は、母や兄姊達とおなじ室に寢ぬつゝも、どんなに心細く淋しく、島と海との事を考へて遣るせない思ひに打たれた事でせうか……

 私は子供の時分から非常に淚もろい、泣きむしだつた。そして母から話してもらふ樣々のお伽噺も悲しいのをよろこんで、かはいさうなのを、母に願つてはしてもらつた。

       三 暗い海洋の稻妻

 暗い暗い海に突き出た、丘の樣な岩の上に私は父母や姊達と行つてゐた……

 それは秋の極くはじめででもあつたらうか。

 その岩の丘はかなり高く大きく頂には波の上神社が祭つてあつた。御宮は白木の一寸した宮で、崖のぐるりは木栅がめぐらしてある許り社務所の小家がある外には樹らしい樹もなく、草がそこいらに生えたり鹿が飼つて有つたりして、何だか淋しい處であった。

 めの下の海は只暗黑で、底知れぬ深さの中に、濤聲と海鳥の叫びがある許り。沖は庭と空のけじめもわかず。拜殿の橫にかはれてある鹿の淋しいなき聲、岩にぶつかる風の音。

 それらのものは私の心に非常な淋しさと、自然の偉大な壓力を感じさせ怖れさせた。殆ど天空に近い感じのする岩の上に坐して、ひくい島内の方を見返ると、樹々の鬱蒼と茂りかはした夜の島には燈さヘ見ず、その向うには、又くらい海が限りなく、天と連り一層島といふ淋しさを感ぜしめた。

 海のはての、はての方には折々、稻妻が、サツと、赤く光つては又もとの暗さにかへつて行くのであつた……

 

 

 

2016/07/22

葉鷄頭   杉田久女

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年一月『電氣と文藝』に発表された俳人杉田久女の小説。久女、満三十歳。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 ……お読みになれば判るが、ここには久女という女性の驚くべき強烈な「個」が、匂い立っている(特に後半部)。思わず、身を引いてしまう読者も恐らく、確実に、いるであろう。私は自分が、この原稿を送られた『電氣と文藝』の編集人である長谷川零余子(作中の孤雁子は彼である)本人であったら、どう感じたか、ということを考えた。

 しかし、それでも私は、久女を愛して、やまない。――]

 

 

   葉鷄頭

 

 

 K市の東の町はづれ。屋敷町の黑塀や煉瓦塀のとぎれたところに、木柵をめぐらした四五百坪の花畠とも野菜畠ともつかぬ畠があつた。

 野菜畠の奧には荒塗の壁をもつた、垣根も、好もないむき出しの小家が一軒、紅がら塗りの粗末な格子を打ちつけた窓を、八月末の夕暮の冷めたい雨にうちぬらしつゝ、廣い野菜畠を側面にして建てられてゐた。砂まじりの畠の土は淡黃色に濕めつて、絶えまなしに雨を吸ひ込んでゐた。

 窓のすぐ下からは畠になつてゐて此家に附屬して借りてある幾坪かのゴチヤゴチヤした畠には艷々しい紫紺色の長茄子や、白綠色の水々しい白菜の縮れ葉やひとり生えの小南瓜の色付たのなどが、此夏休み中拔きもせずにうつちやつてあつた雜草の中に交じつてあつた。かうした茄子や白菜や、雜草の茂つた間々に挾まれて、向日葵だの葉コスモス、六七尺の葉鷄頭が七八本、たがやされた柔い地中の肥を吸ひあげてすくすくと人の樣に佇んでゐた。もうのび止まつて笠の樣に丸く茂つた葉鷄頭のテツペンには緋色と鮮黃の斑が刻みつけられてゐるのもあり、またまつ靑な儘でゐるのも、黑ずんだ紅色を淡く葉末にたゞよはしてゐるのもあつて、此すばらしい背の高い葉鷄頭の群れが卵色した荒壁や、格子窓の白い障子をバックとして、初秋らしい白い夕暮の細雨をあびてゐるのであつた。

 恰度其時。畠窓の障子が家の中から開けられて白い女の顏が浮んで直ぐに消えた。かと思ふと、裏口の方から、目笊を持つた三十位の束髮の女が現はれて、髮の毛の濡れるのを厭ふ樣に、袂の先をかざしつゝ葉鷄頭の間をすり拔けて白菜の前にかゞむのであつた。彼女の藍がゝつた立縞の着物に、紫陽花か何かを絞り風に染め出した夏帶を、キチンと高くお太鼓に結んだ引しまつた後姿と白い足袋の踵が地の上にくつきりと浮いて見えた。寶石(いし)をはめた肉付のいゝ手が、白綠色の縞をびつしりとしきつめた樣な白菜のうねをあちこち動いては、間引かれた小い菜が細い髭根に泥をつけたまゝ地に置かれた笊の中に拔いては入れ拔いては入れくりかへされた。暫くたつて一杯になつた綠色の笊を抱へて立ち上つた房子の、油氣のない前髮には、こまかい雨の玉がまき散らした樣に溜つてゐた。菜をぬいてゐた方の指輪の手で後れ毛をかきあげつゝまともに顏を上げた彼女の、大きい二皮目の瞼は、泣いたあとの樣な櫻色にすこし脹れぼつたく、瞳(め)は悲しさにうるんでゐたが、然も、興奮した中に混亂した入りくんだ色を現はしてゐたし、そげ氣味の赤味のない面長な頰、見詰めるのが癖の樣な冷めたい目色、やゝ詰まつた感じのする額、輪廓のはつきりした顏全體に何となく淋しい荒んだ憂鬱な表情が漂ふのであつた。彼女は何度となく葉鷄頭の頂き越しに、此畠の奧の家への通路となつてゐるポプラの並木の方を、振り返り振り返り、何かを待ち設ける樣な目付で心を殘しつゝうつむき勝ちな靜かな足取りで、笊をかゝへた中背の後姿を向日葵の陰の裏口へかくしてしまつた。

 それから小一時間もたつた頃、もう大分夕暮れらしい薄闇でぬりこめられた格子窓の中から、房子の顏が二三度待ちあぐねた樣に浮かみ出ては消えてしまつたころ、三臺の幌俥が此並木徑の入口に現はれた。

 さうして、畠をめぐらした木柵の一端の、扉もない通用門見たいな處の、畑とも路次ともつかないポプラの入口に梶棒を突き入れ樣として停まつた最初の俥の車夫は、

「この奧にも家らしいものが有る樣だから聞いて來ませう。多分さうでせう」と言つてずんずん並木をはひつて行つた。目のさめる樣な黍の葉の海を片手に見て小一丁許り入り込むと追ひ詰められた樣な奧のとこに、柿の立木を枝のみ切り拂つて其儘門柱にしたと云ふ樣な奇妙な扉(と)のない小い門が黑塀の隅つこに形ばかりにひつついてゐた。はげた小い門札の字を辿つてづかづかと玄關の叩キへ立つた車夫は「松田さんはこちらでございますか。へい。お客樣を停車場からお連れしましたんで」かう濁つた聲を掛ると奧から房子がそはそはと出て來て、玄關にあつた下駄をつつかけて門口迄出むかへるのであつた。

「おうい、こゝだとよう」今の俥夫がもとの場所へ步みつゝ手をあげてあひ圖をすると、三臺の幌俥の中からセルの袴をはいた夏羽織の男達が下り立つて、旅行カバンを下げた車夫達を先に、此葉鷄頭の家をさして步み出した。めいめいの傘で、兩方からづしりとトンネルの樣に垂れ被さつたポプラの濡れ枝を押しわける樣に次々としごいては並木の徑を辿る。其度毎に枝や葉をサラサラと傘にこすりつける音。ポトポと砂地に降る雨露の音。車夫達がピチヤピチヤと潦(にはたづみ)を踏みわたる草鞋の音。しごく度にゆるやかに跳ね返る枝と枝、葉と葉とが觸れあふ幽かな咡き。折々ポプラの幹にコツコツと突きあてつゝ傘を持つた狹くるしい並木の徑を過ぎる時の暗ぼつたい雨の日らしい感觸に浸りつゝ一步一步、柿の木の門へ近づいてきつゝあるのがはつきりと目に寫り出した時、彼女は燕の樣に身を翻して急いで門の中へ隱れてしまつた。どやどやと此狹い門内に押し込んで來た人々の目に最初にうつつたものは濡れた石疊の間や、硬い石ころ交じりの上に生えちらばつてゐる四五寸足らずの瘦せた葉鷄頭であつた。小人の樣にひねびた形をしつゝも早や靑い葉先に黃と紅をかつきりと刻みつけて玄關口に威張つてゐる葉鷄頭に心を止めて流し目にしながら、日和下駄をカチカチと氣忙しげに敷石の上に刻んで一番先に玄關をおとづれたのは、一行の中の主賓とも云ふべき孤雁子といふ三十少し上位の東京の俳人であつた。そこにはうす暗い障子の陰の疊に坐つてつゝましやかにほゝゑんで彼等を迎へてゐる房子の顏がくつきりと夕闇に浮き上つて見られるのであつた。[やぶちゃん注:「咡き」「ささやき」(囁き)。森鷗外に用例がある。「孤雁子」モデルは高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人長谷川零余子(明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)。本作の掲載誌『電氣と文藝』も彼が編集していた。推定で大正八(一九一九)年の八月末か(第二段落)。]

 ゴトンゴトンと二つ三つの旅行鞄や手荷物が玄關の板敷におかれて車夫達は皆歸つて行つてしまつた。孤雁子と他の二人の俳人達は電氣の灯つた八疊の座敷に通された。そこにはもう座布團が敷かれてあつて、座敷の隅には、白の十の字の上布に夏羽織を着流したお醫者らしい風采の三十七八位の男が一人、鷹揚な態度で彼等に會釋した。

「先年は誠に失禮申上げました。此度は又御多用のところをわざわざお立寄り下さいまして………さぞお疲れでいらつしやいませう」

「さあ、どうぞこちらへ」かう房子は床の正面の座布團へ孤雁子を招じつゝ三年振りの挨拶を感激に述べるのであつた。

「これは泡浪(はうらう)氏す」「こちらは銀川(ぎんせん)氏です」と孤雁子は、隣の體の大きい色の白い、比較的長い幅のある顏に眼鏡をかけて何となく梟の樣な感じのするやゝ猫脊の大學生風の泡浪を紹介した。も一人の銀川氏と云ふのは房子の住んでる此市から三時間許りで行ける某市の俳人で色の淺黑く頰骨の高い、顏全體も頭髮の刈り込みも四角い、巖の樣ながつしりした感じのする人だつた。之等の人々は此房子の先輩の人達で、東京の某誌の選者であるところの孤雁子も、他の二人も、雜誌の上では日頃から親しみを覺えてゐる人々のみであつたし一二度或る席上で逢つた事がないでも無かつたが改まつてかく近々と挨拶をとり交す樣な機會は之が初めてであつた。

 で、各自の間に挨拶が一通りすむと、最後にあの座敷の隅にひかへてゐた鷹揚な風采の男が、

「私は公孫樹と云ふ者ですが、房女さんとは始終御懇意にしてゐます。どうかよろしく」ぽつんぽつんとひきちぎつた樣な、まの暢びた調子で、おうやうに言ひ終つたとき、側にひかへてゐた房子は何といふ世間ばなれのした拙い調子で挨拶をする人だらうと、親しい公孫樹の爲めにくすぐつたい樣な氣まり惡さと、そのまののびた挨拶に強い親しみを覺え乍らみまもつてゐるのであつた。

 孤雁子が東京を出てから此九州を俳句施行してゐる長旅の話し。婦人俳句會が各地でさかんな事や、孤雁子の奧さんの柏女(かしは)さんが長い間神經痛の爲めに惱んでゐられる話なんどが彼と房子との間にプログラムの樣にとり交される。だが無口らしい初對面の男の人ばかりの中に唯一人交じってゐる主人役の房子も、社交的の人ではないので、一と通りの言葉が使ひ果されたあとは皆が離れ離れの樣な心持でポツンとセルの袴の膝に手をおいて妙に押しだまつてしまふのであつた。まづ正面に、キチンと坐り込んでゐる孤雁子の五分刈頭太く厚い唇眉毛が濃くて耳朶が特別に大きくてどこもかも太い線と感じを持つてゐる顏をかうして灯の下に近々と相對して眺め乍ら旅行中の話をきいてゐた房子には久しい間唯理智一點張りで利己的な人の樣に俳句とか人の評などを透して考へさせられてきた此人。血とか淚とかの全くない親しみのない、むしろ嫌ひな部類の人の樣に考へさせられて過して來たので、それとなく心の底では反抗的な心持さへもつてゐた此先輩の俳人が思ひがけなく訪れて來て自分の目前にあると言ふ事は非常にもの珍らしい事の樣にも思へたし、孤雁子の語る物靜かな低い聲の底には深い感情といふものが流れてゐると言ふ事を直覺して、今まで考へてゐた此人に對する心持をもう一度考へ直して見た許りでなく房子の受け入れ易い心ははじめて親しく打語らう此の客人を非常な好意をもつて快よく歡待しようとするのであつた。三年前にはじめて房子は東京の婦人俳句會の席上で孤雁子に逢うつたのであるが其時はろくろく挨拶をする暇もなかつた。其後孤雁子の夫人で名の知れ渡つた俳人である柏さんとはずつと親しい手紙の往復をして來たのであるが、かうして九州旅行の歸途突然他の俳人につれられて尋ねられた事は全く意外でもあり、常々客などのめつたにない旅ガラスの侘しい住家に氣のおける未知の人々を迎へるのは非常に肩のはつたきまりの惡い事の樣な心持がした。彼女はそんな事で興奮してゐたが、かん高い聲で靜かにうけ答へしてゐつゝある彼女の、女としては線の強過ぎるはつきりしたアウトライン、段のついた高い鼻、道具立ての大きい顏は恰度塑像の顏面を眺めてゐる時の樣な硬い冷たい感じがするのであつた。

 孤雁子は約一月にわたる長旅に各地の俳句會や歡迎會などで毎夜の樣に遲く迄ひき出される體を、そこへ投げ出し度い樣に疲れ切つてゐた。それをかうしてかたくるしく坐つてゐるといふ事、口を動かしたり俳句の話などをするのでさへも、實をいへば面倒臭くて堪まらない。お互にもつと寛ぎ度い。直ぐにも辭し去り度い樣な心持に滿たされつつ彼女を前にして體を支へてゐる事に苦痛をさへ感じて來た。

 無口な銀川、泡浪の二人は、てんきり口を開く事をしないでシヤチコバツた形をして畏(かしこ)まつてゐるし、亭主役やら幹事役やらに來てもらつておいた公孫樹氏も一向とり𢌞したり、こせついたりしない型の人だつたので、皆離れ離れの寄せ集めの樣な心持を相持して、煙草をむやみにふかしてゐる許りだつた。もつと寛ぎ度い、何となくギコチない座敷の空氣を破り度いと、張り切つた心にかうすぐと感じた房子は此座敷をはづさうとする前にこんな事を言ひ出した。[やぶちゃん注:「てんきり」呼応の副詞「てんから」に同じい。]

「東京の里の母が暫らく滯在してゐましたがつい先き程須磨の姊の處へ立ちました。母を送つた私はすぐ行き違ひにあなたをお迎へ致しました。折角かうしてお出であそばしましたのに、私は今、あなたをお迎へ致した嬉しい心持と母を送つた淋しい心とでいつぱいに成つて、私の心でない樣に亂れてゐます」

何のためらひもなくすらすらと、かう言ひ終つた房子は大きい瞳をいつぱいに見開いて、視線をまつすぐに孤雁子の上へ投げかけて今の彼女の心の中にある感情を、そつくりその儘彼の前へさらけ出してしまつた。そして、今迄初對面の客達に對してゐるといふつくろつた心持を投げすてゝ、ひたとまむきな感じをかざり氣なしにつき出した彼女の目は悲しさと嬉しさと混亂した色に打沈んで前後の事情をよく知つた公孫樹以外のお客達を却つてますますギコチない妙な心持に導いて行くのであつた。默り込んで、房子の立ち去つた疊の邊へ目を落して考へこんでゐる孤雁子の前にやがて房子がすり足でお茶をはこんで來た。丸い束髮の大きい影法師を疊に落して、再びはこんで來た、朱塗の菓子皿の栗饅頭は、房子が坐らうとする時に積み重ねてあつた三つの中の一つがころげ樣としたのを、房子は、氣づいて、一度襖のかげに持ち返つて正しくなほしてから靜かに再び運んで來た。孤雁子は此の房子の行動を注意深く見てゐたやうであつた。さうかうする中にS市のMと言ふ若い俳人もやつて來て狹い座敷の中は再び紹介やら挨拶やらに打ち賑はつた。背がずんぐりとして、針の樣な硬い黑い髮を角刈にした、色艷のよい、油つこい顏のMが、洋服のポケットから手巾(ハンカチ)を取り出して額の汗をふき乍ら、明日のS市の句會の打合せや時間を極めたりH市の句會の話しが出たりして、世間なれた樣なMの態度は、大に此きゆうくつな場面をやはらげるのに效があつた。煙草の煙のうづ卷いてゐる灯の下でぽつぽつと、隔のとれかゝつた會話が交される。そこへ今度はS港迄房子の母を送つて行つた良三が歸つて來た。良三は手にしたバナナと葡萄の籠を妻に渡して來客の名などきいた後、白がすりの浴衣の上に羽織をひつかけて座敷に現はれた。良三は房子よりも大分年が上の樣に、一寸見には見えてゐたが一體にヒヨロリと細長い背の高い男で、細長い幅の狹い色白の顏は、子供の樣に紅く、耳の生え下りからアゴへかけてへりどつた樣な濃い、髭が白い顏の外ワクの樣にグルリと生え茂つてゐた。心の底に何物をも藏してゐない單純性をもつた、突きつめた心持のよい眞面目な心の持主である良三は體の細い割合に大きい筒ぬけた樣な山家聲を太いのどぼとけから出して、硬くるしい程眞面目な、ていねいな挨拶を一人一人にするのであつた。彼の髮の毛は漆の黑さと手入れのよい油のしみた艷々しさとを以つてきれいにわけられてゐた。[やぶちゃん注:実際の久女の夫宇内は六歳年上であった。]

 人數の殖えた座敷の中には今迄と達つた賑やかな、世間話や雜談がとりかはされてゐるのを襖越しに聞きながら房子は後れてしまつた夕飯の仕度にごそごそと取かゝるのであつた。そこはあの窓に面した三疊の一ト間で、うす暗い十燭の灯の下にあそんでゐた十になる長女と、四つになる女の兒とがお腹がすいたらしくシヨンボリ坐つてゐるのを見て、チヤブ臺の上で夕飯を食べさせたりその傍の古疊に栗色のお膳を並べて、皿や吸物のお椀、茶椀るゐを一つ一つ据ゑてゆく。房子は悲しいとも恥かしいとも言ひ樣のないわくわくと、耳があつくのぼせ返る樣な心持で空腹も覺えず子等の言ふ事もろくろく耳にははひらなかつた。何一つ出さうにも、チグハグで皿器具類はなし、手は足りないし、常にこんな幾人ものお客に食事を上げるなどゝいふ事のめつたにない貧しい中學教師のくらしで、馴れもせず、それに何より彼女の當惑したのは、お客樣はせいぜい二人か夫をまぜて三人前位の仕度をしておいた爲めに五人もの人數が殖えたといふ事は房子を非常に當惑させた。いつの間にか日は暮れて外には、先刻よりも強い雨が降つてゐる。風も少しはあるらしく、窓障子にサツと降りつける事もあるし下の兒はねむたがつて、「お母さんお布團しいて頂戴」だの「抱いて」だのとぐづぐづ言ひはじめた。使ひもない電話もない、どうしたらと、こんな事を思ふ丈けでものぼせ返つてしまふ樣な心持でつい子供達へお給仕をしてやる時も、お膳立てなどにわくわくして、カチカチと茶碗や器具の音をさせたり、手からお椀の蓋をとり落したりする。大聲もたてない樣に注意してゐる靜かな中にさういふ風なカチリとした大音を立てる度毎に、房子は自分の心臟が破ぶれる樣なハツとした心持がして人も見てゐないのに一人頰を赤らめたり、後れ髮をくせの樣に、そゝくさと撫であげてきまりの惡るさをおしかくす樣にするのであつた。座敷の次ぎの六疊と、此暗い三疊の臺どころに閉ぢられた襖がしばしばあけられて、上の女の子が菓子盆を運んで出たり、お茶を入れ替へたりした。粗末な菓子鉢の中にはさつき良三が持つて歸つた果物がもられてゐた。座敷の中の六人の人々に花ゴザ製の夏座布團は一枚不足してゐた。上の女の兒が三疊の襖をあけて出這入りする度に八疊の座敷の一番端じっこに席を定めた孤雁子のところからは、三疊のうすぐらい電氣にてらし出されてゐる黃色い古障子や、襖の陰からチヤブ臺の半面が佗しげに見えてゐた。房子の姿は障子の間からは見えなかつたがカチリと觸れあふ茶碗の音や、子供の睡むさうにすねる聲、房子がすかしてゐる靜かな低い聲、何かゞ煮えつゝある樣な漫然とした匂ひ、それから臺所の石疊の上をこつこつと步るく房子らしい下駄の音、こんなものが孤雁子のじつとうつむいて坐つてゐる、さうして何かを見知らうとしてゐる眼に狹い家の事とて、ひそやか乍らも、手にとる樣に古障子の中の灯の下から聞えて來るのをきいて孤雁子は淋しい佗しい感じにひしひしと胸を打たれてしまふのであつた。殊に、カチリカチリと、時時打ちあふ瀨戸物の堪へ難い佗しさをもたらす音が彼れの心を極度に暗くした。

 三疊の灯の下にごとごとと、三人前の御馳走を、五つの膳にもりわけてゐた房子は、襖をあけてはひつて來た良三を見ると、

「あのね、お客樣がふえて私どうしたらいゝでせう。今からもう遲くてまにあはないし」

とかう訴へる樣にさゝやくのであつた。

「何、僕のはいゝよ。どうせ我々の樣な教師暮しでは大した事が出來ないつて事も、道具のない事も孤雁子は御承知だらう、それより早く上げた方がいゝよ」良三は神經の過敏な妻が悲しげな潤んだ目付でみつめてゐるのをなだめる樣に言ひ捨てゝ外へ出て行つたと思ふと暫らくして四五本のビールをかかへて歸つて來て、自分でコップや栓拔やを乘せたお盆をもつて座敷へ出た。まもなく粗末な膳部が揃はぬ勝ちの器をのせて皆の前へ子供の手で運ばれた。房子は襖のかげ迄運んだまゝで座敷へは、良三と長女の昌子とが交る交る据ゑてゐた。三人分と定めてつくつておいた料理の中にはどうしても五つの膳に融通の出來ないものもあつて公孫樹と、M氏との膳部は、正客の孤雁子と銀川、泡浪等の膳の上程賑かではなく、ほんの三品ばかりにチヨクがついてゐるばかりであつた。主の良三はおしまひに自分の箸や猪口、一寸した食物を盛つた皿をのせた盆を、自身で座敷へもつて出た。さうして「さあ、いかゞですか。どなたもお一つ」とビールをつぎわけたりして主人らしく振舞つて皆にすゝめるのであつた。良三が此夏、三河へ歸省した時、土藏の長持から探し出して持つて歸つた、古い俳畫だの四郎の雁の幅。畫帳。こんなものがお互の手から手へ移されて色々な話の絲口がひつばり出されるので無口な公孫樹だの泡浪などの間にも今はもう寛いだ親しみが取交はされる樣になつた。三河と美濃との國境に近いほんとの山村に生れて育つて來た良三は子供の時から好きだつた山步きや兎追ひの話、山中の住居では今も行灯が古めかしく灯されてすゝけた天井や太い梁を暗ぼつたく色彩つてゐる事や、秋の山上のツグミの鳥屋(トヤ)の物語、矢矧川べりの簗(やな)小屋で尺餘の生き鮎を、竹串にさした物を、靑芝を土ごと長細く切り取つたのに突き立てゝ爐の火であぶつて食べる事やそれからそれへと移つて行つて、良三の好きな魚釣の事に話がおちていつた時、孤雁子は

「釣の上手な人には魚は喜んで釣られませう。あなたの樣な釣好の人の心は魚に感應すると云ふ樣な事ではないでせうか」こんな事をいひかけた。それから又、「釣の面白味と云ふのは其の釣るといふ境地を味はふ事にあるのでせうか」かうも尋ねた。[やぶちゃん注:「鳥屋(とや)」「塒」とも書き、専ら、食用にするためにツグミなどの小鳥を捕獲するために山野に設けた小屋のことを言う。「矢矧川」「やはぎがは」と読む。矢作川(やはぎがわ)とも書き、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ一級河川で明治用水などにも使られている。モデルである久女の夫宇内の故郷は愛知県西加茂郡小原村松名(現在は豊田市に編入)であった。]

「さうですな。僕は大きな魚がひつかかつた時が一番愉快ですな」大きければ大きい程一番面白味が深いといふ樣な事を良三はいかにも面白さうに愉快げに言つて、二三杯のビールにもうまつ赤になつた細長い首筋を撫でまはしつゝ糸の樣な目を一層細くしてハツハツハと笑つては、皆んなのコップヘビールをせつせとつぎわけるのであつた。かうした話の應對の間にも、孤雁子の耳は子供の聲、茶碗の音、などに相變らず何ともいへぬもの淋しい氣分を誘はれて、灯の下に淋しい心持で坐つてゐるであらう房子を心に畫き整はぬらしい不揃の器物、膳の上にあらはれた貧しい主婦の心づくしと苦衷、こうしたものをひしひしと、感じないわけにはゆかなかつた。孤雁子は生活と云ふものに房子程迫つた日常を送つてもゐなかつたし彼の尋ねて步るいたり泊つたりした家は皆その土地その土地での上の部に屬する人達許りだつたので客としてかう言つた侘しい心持を味はふのは之がはじめてゞあつた。それだけに氣兼ねしてゐる樣子であつた。三年前に東京ではじめて逢つた時の房子はもつと若々しくてたしかに今よりも美しいものをもつてゐた。それだのに孤雁子が此座敷で顏と顏とをあはした最初の瞬間に彼の受取つた感じは、以前よりも甚だしく淋しい荒んだ表情に變つてゐて、頰のあたりも、きはだつてそげてゐた。女としては比較的鋭どい頭を持つてゐて感情家らしい彼女の性格や畫家の妻であるといふ藝術的な生活や、それから彼女が子供の時から移り住んで行つた樣な土地の變化から來る南國人らしい性格、俳句にあらはれた偏した性格、さういふ風なものに興味をもつて、九州旅行の歸路をわざわざ立寄つた(彼れはこの家の敷居をまたぐ迄に、房子の境遇は大變幸福な呑氣なもので、地方での舊家で山林や田畑などをもつてゐると聞いてゐる良三の田舍から、補助でもうけてゆつたりと暮してゐるのだらうと許り思つて來たのである)。ところが彼女の家には何一つ道具らしいものはない。路次とも肥料汲みの徑ともつかない狹い道の奧荒壁ぬりの小家に住んでゐる。そして彼女はまだ三十になつた許りの顏にやつれを見せて、井戸水を汲んだり竃の下を焚いたり、時には野菜風呂敷をかゝへて外出もするであらうし、重い子供をおんぶ羽織に包んで買物する時もあらう。流行におくれた着物や帶に身を包んでゐながらもむかしの氣品を落さずにゐる房子、文藝といふものに理解を持つてゐつゝ尚ほ貧しい家庭の間もゆるがせにしないで行く妻と、日曜には必らず魚釣に出かけて畫家にして畫をかゝない、しかし乍ら妻の趣味なり心持なりを理解してやつて家事の手傳をもしてゐるらしい善良な夫と、かう比較しても考へたり、目の前の暗い古障子のかげに坐つてゐる房子の柁しい姿を心に浮べ、菓子一つ買ひに行つた事もなく生活の苦痛をも知らぬ自分の妻や、孤雁子の俳句の弟子である實業家として名の高い某氏の夫人何女、のんきに句作してゆける東京の女流俳人の誰れ彼れ、そんな人達を一々房子の境遇に引き較べて孤雁子の頭は樣々な瞑想に陷ちて行つた。雨の音が靜まつて濕つぽい屋外の空氣が軒のかぶさつた靑桐の葉を透して靜かに室内へ流れこむ。灯の下の人々は互に談笑しつゝ先程迄のギコチない空氣はすつかり取り去られてしまつてゐたが房子はまだ座敷へ出て來なかつた。三疊のうす暗い光りのもとにぐづぐづ云ふ子を賺し隅つこの布團に二兒とも寢せてしまつた彼女は布團の裾の方にこゞむ樣に坐つて、高聲で八方へ受け答へしつゝある良三の聲も、靜かな落付た孤雁子の話し聲も遠い遠い世界の物音を夢の樣に洩れ聞く心地がした。[やぶちゃん注:「三年前に東京ではじめて逢つた時」久女の句は大正六(一九一七)年一月号の『ホトトギス』の「臺所雜詠」欄に初めて載ったが、その五月に初めて高浜虚子に逢っている。この時、零余子が一緒だった可能性は高い。因みに当時の久女は満で未だ二十六、七であった。]

 唯恐しさと恥かしさとでふやける樣に成つてゐる彼女の心はしんみりした雨の音に誘はれて、今日一日の出來事を走馬灯の樣に思ひ浮べる。今頃はもう周防の平野邊りを馳つてゐるらしい汽車の窓の母を思ひ出すと、折角あゝして東京から六十七にもなる老體を運んでまで娘に逢ひに來てくれたのに、今夜のお客を待つ爲めに送りもしなかつた事。手のない忙がしい夕餉をそこくにすまして出發(たた)せてしまつた母の、ポプラの並木を步いて行く切髮の後姿。房子を悲しませまいとわざと元氣さうに、口許に笑をふくみ乍らも落込んだ目の中をうるませて別辭をのべて乘り込んだ母を、忽として堤のかげへ乘せ去つた幌俥。今日のお客にと云ふので、立ちぎはの母はアベコべに手のない房子に手傳つて女郎花を活けてくれたり、手づから庖丁をとつて今夜のお料理迄煮たきしてあとの困らぬ樣にしておいて下さつた。あんなにもう年寄つていつ死んでしまふかもしれず、またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を房子は幾度考へても心の奧から殘念に思ひ、かうした物質上に豐かでない日常の有樣を貧乏馴れない里の母に見せつけて、母を何となく遠慮がちな心持に始終置いたことをすまなく思ふ心でいつぱいだつた。房子は皺の殖えた瞼の落ち込んだ母の顏を腦裡にしつかりゑがいて、色々でまぎれてゐた別離の悲しみをかうした獨りぼつちの今、甦る樣に痛切に覺えるのであつた。それと同時にも一つは、今日の珍客へ對して心いつぱいの饗應(もてな)しも出來ない許りか二人と思つたのが五人に殖えてまごついたり、座敷と臺所とが接近してゐる爲めに色々な物音が客の耳に侘しく聞えたりする事を、割合にふつくりと鷹揚に育てられて氣位ばかり高い、世馴れぬ房子には、それはそれは心細く氣恥かしく感じて自分の役にたゝぬまごつき樣も、長い間狹い穴の樣な家と境遇とにおかれて廣い世間と沒交渉で渡つてきた事から起る、かういふ場合のへマなさまざまのしくじりも皆つきつけられる樣にはつきりと感じて、腹立しい何ともいへぬ淋しさに捕へられてしまふのだつた。何よりも先づ彼女は、所帶といふものを持つてから十年近い今日迄に、こんなに貧しい者のみじめさを突きつけられた事はない樣に一圖に思ひ込んで、佗しい茶碗の音なんかを立てたりして折角の客人に貧乏臭い哀つぽい感を抱かせるであらう事を鏡の樣に自分の心に寫し得るのが一層辛らかつた。こんな思ひに耽りつゝそつと起き上つて燗を仕樣とするとどうした事か硝子の燗瓶の底がぬけて琥珀色の酒は一滴のこらずに、七輪の炭火を消して灰かぐらとなつてしまうたので、まあ何と云ふまの惡い、そゝつかしい事だらう。使はなし町は遠し澤山もとつてない酒をこんなにしてしまつて、房子はもう悲しいやら情けないやらハツと泣き出したい樣な心持でぼんとしてしまつた。もし之が自分のお客樣でなかつたら雨のふる外へ此儘逃げ出して、冷たい雨を頭からあびつゝかけまはり度い樣な、やるせない氣になり切つて暫くは目も動かさず疊の上へへたばつてしまつた。鷹揚に呑氣に十九の年迄そだてられて、振袖ざんまいで三河の山奧へ嫁して行つた房子は馴れない貧しい教師生活に喘ぎつゝも、一文の借金もせず持つて行つたキモノは皆着破つて辛抱しつゞけてきたが、いつ迄も世話女房らしい氣分になりきれない彼女は母の袂のかげに包まれかくれては過してゐた處女時代の樣な心持で今夜の樣な、世馴れた女には何でもない失敗である場合にも唯恥かしがつて、頰をそめたり、淚をこぼしたりするのであつた。恰度そこへ良三がはひつて來て「僕一人でおとりなしをしてゐては具合が惡いから房さんも出てくれないか」と引き立てる樣にいひすてゝまた座敷へと去つた。淚ぐんで默つて閉ぢられた襖を見つめてゐた房子はやがて氣を取り直して、三疊の隅に出し放してあつた夕方のまゝの鏡臺にむかつて、髮をかき上げたり、紛おしろいの刷毛で、うす紅く脹れた瞼をさつと一刷毛はきつけたりして漸く座敷へ出ていつた。[やぶちゃん注:底本では「またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を」の「送られ」の右に編者によるママ注記がある。「ぼん」馬鹿者・間抜けの意の方言と思われる。山口県で用例がある。福岡弁では「あんぽす」「あんぼんたん」がある。後者が濁っているのはここと親和性があると私は思う。]

「こんな茅屋(あばらや)へいらして下さいました事を私はどんなに嬉しく思つてますでございませう。嬉しくつて一生懸命におもてなし申上度く思ひ乍ら私の貧しさは、何一つ差し上げる事も出來ません。お詫にはどうぞこれを御覽あそばして」

 かういつて一枚の紙片を孤雁子の前へさし出した。彼女の顏にはもう淚は消えてぼうつと上氣したうす桃色の頰に惱ましげな微笑さへたゞよつてゐた。今迄つくろひ包まうとして恥かしがつてゐた貧しさを皆の前へ殘りなくさらけ出してしまつた後の、心安さと落付とで房子は、先きの心持とは異つたはつきりとした興奮した心持に成つてゐた。孤雁子が紙片を取り上げて見ると珍客に對して香りのいゝ酒もさし上げられないといふ佗しい心持を詠つた句が、打ち崩れた樣な散漫な字體でかいてあつた。孤雁子は默つてじつと見つめてから次席の銀川へ渡す。こんな目の前の事が一層房子には恥かしかつたが、もう現はれる處迄現はれつくした貧しさも今は氣樂に話す事が出來る樣に思へた。陽氣な房子の夫の話し聲に交じって、房子の興奮したかん高なやゝかすれた聲がとりかはされて俳句の話から話題は次第に房子の身の上話に移つて行つた。彼女は今はもう一座の中心となつて一生懸命にしやべりつゞけた。彼女は一事を語りをはらない中に早や次の話題へ孔雀の尾をひろげた樣に移つていつて、感情がたかぶると限りなく話を進ませてゆく。彼我の説を一丸にして話をまとめたり崩したりする、色々な事を根ほり葉掘り聞きたがる。

「私は俳句をやめ樣と今迄に何度思つたか知れません。本をよむ時間も研究する暇もない私には唯十七字をつくると云ふ事丈でも容易な事ではありません。私の樣に年中苦みつゞけて生活してゆく者には自分の刹那刹那の感情や思想をそのまゝ表現の出來るものは詩なり歌なり創作なりでなくては、生意氣の樣ですがとても自家の心持を述べつくす事も滿足する事も出來ません。俳句ではさういふものを作つて見ても不完全なものが出來易い。でも時間と餘裕のない私には、お野菜を下げて步いてゐる時とか、子供を守(もり)する時とかの少ない時間なので長いものは書けませんから俳句でも作つてわづかに滿足してなくてはなりません。色んな苦惱の爲めに胸がいつぱいになつてもの狂ほしい樣な淋しい心持におそはれる時、私は、強い明るい色彩、高調な張りきつたものがほしくなつてまゐります。灰色のものや穩かな弱い、力ないものでは私は、苦しい悲しい私は、到底滿足出來ないのです。ですけれど俳句は進めば進む程、わからなく迷つて來ました。私は何度俳句をすてゝぼろつぎでもしたり、破れた足袋穴の一足でもついだりする事が私の樣な身分の者には相應してゐるか知れないと考へたか知れないと考へたか知れませんけど、やつぱりやめられないで、苦しみつゝ句作して居ります」彼女は燒ける樣な打ち迫つた調子でたぐり出す樣に語りつゞけるのであつた。

「それでもあなたは、句作したり時々畫を書いたりなさる時間があるではありませんか」と孤雁子は雜誌などで見た二三の短い文章について尋ねて見た。

「いゝえ。文章はいつも夜中に起き出したりして書いたのでした。それでなくてさへ働き馴れない手の足りない事を考へますと餘裕はすこしもありません。けれども文藝を捨てゝしまつた後の私はどんなに淋しいでせう。私は物質的には何ものをも持ちません。私は社會的にも精神的にも孤獨です。ただ拙ない俳句を生み出す事によつてのみ小い自分を創り上げ度いと願つて努力してゐるのですが………」かういつて言葉をとぎらせてしまつた房子の顏には熱し切つた赤い血がサツと漲り走る音迄もきこえるかと思はれる許りに熱し、左の上唇は痙攣的に引つ吊つた樣な表情となつて目は大きく靑く燃えてゐた。頭は白熱的に灼れ、積極的に何に事もつきつめて行かうとする勢ひ、底深い淋しみを徹底的に見極め樣とする心持、性格と境遇との矛盾、其他樣々な書きつくせない精神的な惱みを語る時の興奮した態度にひきかへて、物質的方面の話しに移つてゆくと彼女の靑い目は幽欝な沈んだ色にとぢこめられて、少しも氣勢が上らない。子供を育て家事をとつてゆく貧しい一般的な妻の心持、さういつた境遇をあきらめるといふ心持にどうしても到達する事の出來ない彼女は、いつ迄たつても、今の自分に滿足し樣とはせず、或時は個性を曲げつけて迄も自分を引き下げ樣と無理無體に自分をしひたげて見樣としたり、或時には、のべつに刈り込まれ樣としてゐる自分といふものを、何物の拘束をもおそれず暢ばせる丈けのばして見たいと強い心になつて見たり、どうしてもあきらめられなかつた。迷惑さうな顏付をして坐つてゐた良三は、

「私の妻は油畫をすこし書きますが實にいゝ色を出す事がありますよ。然し畫いてゐる自分自身にそれがいゝのか惡いのか解らなくつて批評なんかすると却つていゝところを塗りつぶしてしまつたりします。どこかに感じのいゝ獨創的なところはありますがどの繪もどの繪も未成品で取留めがないのです。房子の俳句もきつとそんな風な程度のものでせうと思ふ」と橫合から房子の話をかきまはす樣にこんな事を孤雁子に話すのであつた。話はいつか彼女が書いた短い文章の中の幼兒の事に移つて行つた。房子は突きつめた樣な目色をじつと疊におとして、熱した一語一語は日常の彼女の聲とはまるで違つたうるほひを持つて音樂の樣に響いてきた。今はもう隔ても全くとれてしまつたので、日頃人とあまり語つた事のない心の底の泉が湧き出る樣にその赤い厚い唇からはぐんぐん彼女の惱みと淋しみとが言葉となつてあふれ出るのであつた。

「私は鹿兒島の平の馬場と云ふところで生れました。それは五月の末で、あのまつ白な夏蜜柑の花がもうい小さい實になつて紫陽花の藍色の花があの町の到るところに咲き初める頃でした。さうして三つの年に、大地震の後の大垣へ父が任命されたので私共一家は引移つて行つた、それからと言ふもの私の運命は南へ南へと移つていつてあの絶海の孤島そこには龍宮の樣な王城と、灰色の厚い霧と、毒蛇と、紫の雲の樣な栴檀の花がちつてゐるせいの高い石垣をめぐらした榕樹の屋敷町、碧玉の色をした海。かうしたなつかしい記憶を刻みつけられた琉球に幾年かを住み、それからまた鱶の海を渡つて、芭蕉林と赤い花とに包まれてゐる臺灣の南部へも、領臺後まもなく私達は、父に從つて行つたのである。そこではまだ鐵道もない、或時には土人の駕にのり、或時にはトロッコにおされて、何里もに渡つたごろごろ石のやけつく樣なかわいた河原を、果しない雲の峰をながめつゝ走つた事もあり、或日は橋の落ちた濁流を土人のカゴカキに負はれて渡つたり、色のつよい明るい芥子畠を打過ぎたり、ずゐぶん子供心にも旅から旅へとおそろしい人少ない土地へ步るきまはつて行つたりして私の生來の多感な偏した性格は猶更らこんなに淋しい惱ましいものとなつてしまつたのである」こんな幼ない時の追懷を彼女は、熱心に物語つた。呑みかけたビールのコップを膝の上に支へられたまゝ目をつぶつた樣に、じいつときいてゐた孤雁子は、話のとぎれた時に、顏をあげて、「あなたはおいくつの時から大垣へお出ででしたか」と熱心な樣子で聞くのであつた。[やぶちゃん注:久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日に父赤堀廉蔵、母さよの三女として官吏であった父の任地であった鹿児島県鹿児島市平(ひら)の馬場(現在の鹿児島市の中央部である鹿児島県鹿児島市平野町)で生まれたが、その後、父の転勤で久女四歳の時に岐阜県大垣へ、翌年辺りには沖繩県那覇市へ、明治三一(一八九七)年には台湾の台北へと移り住んでいるから、ここに書かれた内容は全くの事実と捉えてよい。「大地震」明治二四(一八九一)年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震である濃尾地震のこと(現在の推定ではマグニチュードは八・〇程とされる)。「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。「榕樹」精霊キジムナーの住むとされるバラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

「私は三つか四つか、はつきりした事は覺えません。ですけれどもそれは大地震のあつた二年ばかり後でまだ參りたては、晝夜に何回となくおそろしい地震がありました。私はそのたんびに母の足にしつかとまとひついて泣きました」と房子は緊張した表情で答へた。

「さうですか、不思議ですね。私も子供の時、さうですね三つから七ツ位迄を大垣にゐた事があります。私は地震の起つた年の春頃、大垣を去つて國の方へ歸りました」孤雁子は眉間に立て皺をよせて思出深さうに瞬きながら語り出した。美濃の大地震を境として今こゝに相對してゐる二人の人達が大垣に住んでゐたと言ふ事は何となく奇異な興味深い事に思はれて、一座の人々は二人の話しに耳を傾けて居つた。孤雁子と房子の話は大垣を興味の中心として次第に水輪の樣に擴がつてゆく。

「私は幼い時でよく覺えてませんが、何でも、大垣小町とか名づけられてゐた美しい娘が兩腕を梁の下に組敷かれて不具乍らも命丈けは助かつた事だの、大きな龜裂(ひび)割れた大地へ呑まれる樣に人間ぐるみ陷ち込んでしまつた家の話だの怖ろしい事許り母から寢物語に聞かされました」房子のかういふ話に續いて、「私の住んでゐた家のあとに來た人達も地震に押し潰されて全滅してしまつたさうです。私達は堤に振つた竹藪のある家に住んでました。そこいら邊には泥龜が澤山ゐて、私はよく繩で縛り上げて父の飮殘したお酒を無理に口へつぎ込んだりして遊びました。それから又私には一つ違ひの聲の美しい妹がありましたが妹は五つの年に三日許り病(わづら)つて死んでしまひました。それは恰度お正月前で、仲よしの妹と私はいつも門の前の日當りのいゝ草の上なんかに坐つて『もういくつするとお正月が來る』なんて二人で幼い心持にいつぱいの樂しみを抱いて遊んでゐたのがふつと死んでしまつたのです。今でも大垣で妹とうつした古ぼけた唯一枚の寫眞を私は取りだして妹の事を思ひ出します」

 疊に目を伏せてゆつくりと低い音聲で語りつぐ孤雁子を理智一點張りの鐵の樣な心持の人、淚のない人といふ風に解してゐたがさうした話の中にも感情といふものがサツと浮かび出すのを見得るのであつた。此座敷には入つて來てから一度も聲を立てゝ笑はない、じいつとものを考へこんでゐる樣な無口な、山國の血をうけた人らしい此客人孤雁子を、房子は理性の底に深い感情を包んでもつてゐる人らしいと考へて見た。

「私達もあの河堤(かはづつみ)に住んで居りました。私は大垣といふとすぐに曼珠沙華とれんげと狐とを思ひ出します」と房子は遠いむかしの記憶を引よせる樣なうつとりとした目付で次の樣な話をした。懸命に續けた膳部だのビールの瓶をのせたお盆だのはもう綺麗に次の間へとりさげられてゐた。雨はいつの間にかやんだらしく此畠中の一軒家は靜かに更けてゆく。小いマジョリカ燒の灰皿はすひ殼でいつぱいになつてゐた。

「私は兄妹中で一番大きい鈴の樣な瞳の持主で、怒りつぽで、我儘で、そのくせ泣きむしな女の兒でした。私が一處にまゝごとでもして遊んでゐる時、強情を張つたり我儘言つたりすると、

『房ちやんはお母樣の子ぢやないのよ。明神さまの森(鹿兒島の)に捨てられて、オギアオギヤつて泣いてゐたのをお母樣が、お星樣のいつぱい光つてゐる暗い晩にひろつて來て育てゝあげたのよ』つて、兄や姊はよくからかつたものです。

『なあぜ?』と私が首をかしげると、

『だつて房ちやんの樣な大きな黑い目は家中に一人もゐないのだもの』

 こう言はれると私はそれがほんとの樣な氣がして、ぽろぽろと淚をこぼし乍ら、『うそようそよ』とかぶりをふるのでありました。私がかぶりを振るたんびに、ふさふさしたおかつぱさんの髮がばさりばさりと頰にあたる。私はほんとに心配して明神樣の森に捨てられてゐたかどうかを母に聞きたゞすのでした。堤の上の其家は郊外に近うございましたので毎日の樣に、私達は低い草山に遊びに行きました。其草山の處々にはまばらに松などが生えてゐましたが、足許をみつめて步いて行く私の目に水々しい土筆が、時々ひよつこり現はれる。そこで、

『まあお母さん、姊さん。房子の目は大きいから一番先きにつくしんぼが見つかつた』

 そんな時の私の頰には輝いた微笑が刻まれます。そして目の大きいのをどんなに心嬉しくも誇らしくも思つた事でございましたらう。それから又あなたは御承知かどうか知りませんが秋の彼岸の頃にこの草山にまゐりますと曼珠沙華の深紅の花が、葉も何にもない、孤りぽつちの樣に長い莖をぬきんで、淋しさうにぽつんぽつんと咲いてます。あの曼珠沙華の焰の樣な色と、不可思議な糸の樣な花辨とは羽子板の押繪なんかで見る、びらびらの簪をさした振袖のお姫樣の裾にもえてゐる狐火を思ひ出させるのでございました。實際にあの邊には狐が多かつたのでせうか。私は度々狐を見得たのでございませうか」

「紫雲英の紅でぬりつぶされた樣なたんぽゝを、摘んでは束ね束ね步いてゐると、まつ白いれんげが時々めにはひりました。

『白いれんげは狐の簪よ』

 幼な友達にかう囁かれて、私は摘みかけた手をひつこめてしまふ。かうした白い紫雲英の印象から得たまぼろしなのか」

「麥の穗がうれて淡黃色の光りの波を漂はすその中から、狐の尖つた顏がひよつこり目の前に浮き上つて房子をじいつと凝視(みつめ)て直ぐまた麥の浪に沈んでしまひました……」

「あれはほんとの出來事であつたのでせうか。それとも幼い私の幻覺が、蜃氣樓の樣に築き上げた眞實でせうか」房子は、こどもの樣に首をかしげて、皆を見まはし乍ら、そんな事を孤雁子に話した。「よく覺えてお出ですね。私は狐の事は、覺えがありませんけど、曼珠沙華や紫雲英は思ひ出しますよ。あなたが御遊びになつた山かどうか判りませんが、私の住んでゐた家の裏の方の山では鐵道の敷設工事が始まつてゐて、毎日鶴嘴を打ち込む音が聞かれました。そしてやつぱり秋になると掌(てのひら)の筋を血でそめたやうな眞紅(まつか)な曼珠沙華が雜草の中に一面に咲いてましたつけ」と孤雁子が言ふと「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にしますよ」「感じのいゝ花ですな。僕はどういふわけか、友切丸か何かで切りつけられた土蜘妹の精が地にひいて逃げていつた血潮の痕から咲き出た花。と言ふ樣な妖怪めいた感じをあの花から受けますがね」傍から二つの聲がかちあふ樣に放たれた。[やぶちゃん注:「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にします」古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされた。私が嘗て書いた「曼珠沙華逍遙」という記事を紹介しておく。]

「あなたは日比野のお孝さんといふ人を御存知ありませんか」孤雁子からかう聞かれて、

「私は其頃まだやつと四つか五つ位ゐだつたものですからよくは存じませんけど、お孝さんといふよそのお姊さんは一人ありました。その人は何でも色の淺黑い目の大きいしつかりとした顏立の人の樣に覺えてますけど、違ふかも知れません」と房子は、癖の樣に額髮をかきあげながら答へた。

「日比野のお孝さんはお母さんとたつた二人でひろいひろ家に住んでゐました。慥か御家老の家筋でした。私はお孝さんに可愛がられて毎日の樣に遊びにいつたり泊つたりしてました。快活な人でしたが細面ての綺麗なすらりとした人の樣に私は覺えてゐます」と孤雁子が言つた。

「たしか私の姊のお友達でした。大洪水(おほみづ)の出た時姊とお孝さんとが、塀に寄せてつないであつた小舟に乘つて遊んでゐて、どうしたはづみにか二人共落ち込んで大騷ぎした事を私はおぼろげに覺えてゐる位のものでございます」

「その兩方のお孝さんが全く同一の人で有つたとして、あなた方の中の一人が大垣に行かれて年寄つたお孝さんと、さういふ風な追懷談でも出るのだと、立派な小説になりますね」無口な公孫樹が、團扇の柄をいぢくりながら、面白さうに、下ぶくれの福々しい長い頰でにやにやと笑ひつゝ橫槍を入れた。

「ほんたうですね。かも知れませんわ。遊び友達のことをおつしやいましたので思ひ出しましたが大垣といふ處は鼬の多いとこでございますね」と房子が白い齒を出して笑ひながら言つた。

「さうですかなあ。私は細かしい記憶はあまりありません」孤雁子は相變らず靜かな低い聲でうつむきかげんにぽつつりと受け答へをする。いかにも疲れたといふ顏である。それだのに房子の方は輝いた目付、話亢つてやゝ上氣した仰向けの頰。かん高いすらすらと湧き出す樣に手まねをまぜたおしやべりすべてが孤雁子の容子と此の場合全然相違した對照を、並らべて眺めてゐる他の五人の人々は、興味深かさうにのつぺりした顏や、退屈げなしびれの切れた樣子、四角い顏や酒の醉が發してしきりに睡魔のおそふらしい細い目付や、苦蟲をかみつぶした鍾鬼樣見たいな顏やを灯の下にならべあつて互に押しだまつて聞いてゐる。房子はそんな事には一向おかまひなしに、色濃く押しよせて來る潮の樣な思出を尚ほもつきせず押しすゝめてゆくのであつた。[やぶちゃん注:「話亢つて」「はなしたかぶつて(はなしたかぶって)」。]

「其頃やつと步み初めた許りの弟が居た私は毎日の樣に『河野の叔母さん』とこへ遊びに行きました。其途中でいつも私は茶褐色の鼬が行く手の徑をすばしこく橫ぎつて藪に走りこむ、そのとたんに、ずるさうな目付で私の方をチラと見る。そんな淋しい細道を通らなくてはならなかつたのです。河野の叔母さんには子供が無かつたので私はよく叔母さんのお家に寢泊りしてゐましたが、そこは、銀杏の樹が覆ひかぶさつた古家で、秋も末の夜なんか風がない夜でもサラサラサラサラと限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ。幼い私は此銀杏の散る音をきくと堪まらなく悲しくなつて、『叔母さんとこへ泊り度い泊り度い』と寢床の中に坐つては泣き出すのでした。そんな時、叔母さんはきつと、私を抱いて厠へ行く緣側の戸を一枚くつて、

『あれを御覽なさい。向うの方に赤い灯が澤山見えるでせう。あれは狐のともすお提灯ですよ』と指さす。まつ闇らな田圃の向うの、あの曼珠沙華の小山へ續いてゐる道の方に黃色を帶びた赤い灯が二つ三つ。動くともなく動いてゐる。目の前には大銀杏が私をおびやかす幽靈の樣に黑く聳えてゐました。私は、其まゝじいつと目をつぶつて、叔母さんの寢衣の胸に顏を埋めて、靜かに背を叩かれながら、いつのまにか夢に入つてしまふ。[やぶちゃん注:「サラサラサラサラ」は底本では「サラ」の後に踊り字「〱」、その後また正字で「サラ」として再び踊り字「〱」の表記となっている。私は個人的に五十九になる現在までこの踊り字「〱」「〲」を自分の自筆の文章で用いたことは一度もなく、生理的に嫌いなのであるが、今回、ここに限っては「限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ」その音を表わすのに踊り字は効果的だ、と強く感じた。]

 それでも、こりずに、よく泊りに行つたものでございます。舞扇の樣な銀杏の葉が濕つたお庭に散り敷いてゐる中に、私はかゞんで襞のとつてある油やさんに、銀杏の葉を拾ひ入れたり、銀杏の實を燒いてもらつたり、私の大好きな、きんちようゐんのお饅頭をもらふのが何より嬉しうござんした。大垣について、一番私の悲しい思出は、弟の大怪我でございます。あれは丁度日淸戰爭の頃で、福島中佐(其頃の)が馬でシベリヤを橫斷された雙六を私らは買つて頂いたり、女中に連れられて、兵隊さんの汽車の盛んな送迎を見に行つたりしました。[やぶちゃん注:「油やさん」「油屋さん」で油屋の商人の前掛けに似ていることから、幼児の首から腹まで覆う一体になった前掛けを言う語。「あぶらいさん」「あぶちゃん」とも呼ぶ。「きんちようゐんのお饅頭」大垣名物の「金蝶園(きんちやうゑん)のお饅頭」の誤りであろう。岐阜県を代表する銘菓である。「金蝶園総本家」公式サイトの金蝶園饅頭ページをリンクさせておく。「福島中佐」陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~ 大正八(一九一九)年)のこと。最終階級は陸軍大将で情報将校。ウィキの「福島安正によれば、明治二五(一八九二)年、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長』らに報告している、とある。]

 それから後弟は高い處から落ちて、虛弱(かよわい)心臟や肺を叩きつけたのが原因(もと)で全く病弱な者と成つてしまひました。そして明治三十年の夏、父が領臺後まのない嘉義へ赴任して行くと直ぐあちらの淋しい病院で、六つで死んでしまつたのです。あれから最う二十何年かたちました。私の實家(さと)にも大垣でうつした色のあせた寫眞がたつた一枚大事にしまつてありまして、弟の面影を朧氣乍らも偲ばれるものは今はもうあれ許りでございます」[やぶちゃん注:「嘉義」中華民国台湾南部に位置する現在の嘉義市(かぎし)。ウィキの「嘉義市によれば、一八九五年(明治二十八年)の『下関条約により日本に割譲された台湾では、台湾総督府によりたびたび地方改制が実施された』が、一九〇六(明治三十九)年の嘉義大地震によって、『清代に建築された県城は東門を除いて全壊する。災害復興に際し総督府は都市計画を実施し新生嘉義市の建設に力を注ぐこととなる。近代都市として再生された嘉義市は商業及び交通の発展により、南部地域の中心都市としての地位を確立することとなった』とある。]

 かう長々と語り終つた房子の目には、淚が光つてゐた。孤雁子は默つて低い溜息をついた。共通點の多い幼時の大垣の話。殊に夭折した互の弟なり妹なりの淋しい物語りを繼ぎ合して考へて見た孤雁子は何となく傷ましい樣な心持がいつぱいに擴がつてゆく樣に感じるのであつたらう。他の者も皆押し默つて坐つて居た。次の間の柱時計はもう十二時をさしてゐたがワザと停めて有つたので鳴りはしなかつた。

 布團も何もない狹いこゝの家に三人の客を泊める事は出來ないので今夜は三丁許り隔てゐる公孫樹(ある病院のお醫者さん)の家へ皆な泊まる事に相談をきめて、公孫樹は用意の爲め一足先に歸つて行くしMも暇乞して立ち去つた。夫れから小半時して、細長い提灯をぶらさげた良三は三人の先に立つて並木道を送つて行くのであつた。雨はもうすつかりやんでしまつて、まつ黑い空、ポプラの並木の上にはまき散らした樣に銀河が橫はつてゐた。バスケットや鞄は房子の家へ明日の朝迄あづかる事にして、明日の句會の御約束などをしながら三人の俳人連は、着た切りの手ブラで、手拭一つ持たずに房子の家を辭し去らうとする。房子は座敷の電灯の紐を玄關迄のばして來て、暗い門口を照らした。濕つた砂地をサクサクとふみしめつゝポプラの並木を拔け樣とする三人の耳に、ぽとりぽとりと、まを置いて葉をまろび落ちる雨上りの露の、地上をうがつ音のみが夜更けらしい靜寂な響をつたへてゐた。良三のさげてゐる提灯の口の輪が、覆ひ被さつたポプラの濡れたまつ靑な葉の塊を次々に明るく色どつて、木の根の潦にチラチラうつつたり、黍畠の長細い葉をハガネの樣にギラギラと照し出したりするのであつた。一人八疊の座敷に取り殘された房子は、飮みさしの茶器だの吸殼の溜つた灰皿だの、座布團だのが亂れたまゝの其中にぐつたりと坐り込んで、其等の貧しい器物と乏しい食物を眺め乍ら魂のない人形の瞳の樣に冷めたく見開いた、硝子玉の樣な動かない瞳色(めいろ)であてもなく灯をみつめたまゝ淋しい感情に浸されて、靑ざめた頰を無意識に兩手でおさへつけてゐた。さうして靑い冷めたい瞳からぽとりぽとりと大粒の淚が止め度もなく頰を流れては頰から膝にしたゝり落ちた。それは自分を憐れむ情と客に對してブザマな自分の仕打を激しく責め苛む羞恥の念と、曝露され突きつけられた我が生活の貧弱さ、みじめさに對して我れと感じる呪はしい侮蔑の感じ、壓へ樣壓へ樣と努めてもあきらめきれない運命といふものに對しての憤懣。そんなものを撚り合はした心持が渦卷く樣にいつぱいに、硝子の樣な透きとほつた、刃の樣に冴え切つた頭の中に氾濫するのであつた。良三が畠をぬけて歸つて來て戸口をしめたり、吹き消した提灯を三疊の壁に掛けたりごとくするのに氣付もせず房子はいつ迄もくじつと動かずに物思ひに耽つてゐるのであつた。

 

河畔に棲みて(十九)~(二十七)   杉田久女 ~「河畔に棲みて」(完)

       十九

 

 翌日は朝から客などあつて房子は子猫の事は忘れてゐた。店へ行つた序に房子は子猫の爲めにイリボシを五錢程買つて歸つた。そして猫を探したが猫はどこにも見えなかつた。

 冷たい竃の中にやせた顏をうづめてこはばつて死んでゐる子猫を見出したのは其翌る朝だつた。

 房子の胸はいつぱいであの前々の夜間いたニヤアニヤアいふ鳴聲が耳について離れない。朝飯の時は皆子猫の死を語りあつてさすがに澄子も、その小さい目になみだを浮べるのであつた。竹の葉の靑々と吹き出した垣根の隅の土に透は小さい穴を掘つた。房子は、布でつつんだ子猫の亡骸を穴へ入れた。土をかぶせて地をならした上に、澄子は、野からとつて來た、色のあせかゝつた野菊や、赤のまんまをさした。[やぶちゃん注:「赤のまんま」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。]

 房子は二三日打沈んだ淋しい顏をして子猫の事を言ひ出しては、兄達に笑はれた。子猫の句がいつぱい手帖に認められた。[やぶちゃん注:杉田久女の初期秀句の一つと私の思うものにまさにこの時の一句「ひやゝかの竈に子猫は死にゝけり」がある。]

 自分の弱い赤ん坊の運命を暗示されてゐる樣な不安さをも感じたのであつた。

 さうかうしてゐる中透は、かの就職の事について某氏の女婿で或炭礦長をしてゐる人の所へ逢ひに行く日が來た。透は、ホクホク喜んで出かけた。先達(せんだつて)のまゝの服裝で。けれども透の歸宅後の談は、良三夫婦の豫期を裏切るものであつた。兄も甚だ興奮した面持で話した。何でも履歷書にかゝれた透の前會社に知人があつて人物をしらべたところ勿論反對派の人々ではありあゝして去つた會社故よく言ふ筈は決してない。何か兄に不利な報告があつたと見へ「實は相應に責任あるところへ、來て頂く心組なりしところ右前會社の言もありそれを承知で責任をおあづけする事は出來ぬ。しかし御懇談もありし事故兎に角一時炭礦の方の事務に來てはどうだ。外には一寸あきがない」との話であつた。

「何も法律上の罪惡を冒した譯ではなし僕の將來發展の道迄前會社から掣肘されるわけはない」と透は頗る激して言つた。今の話の口はまるでお話しにならない待遇で、「工夫したつて二十圓やそこいらはとれる。まあ工夫頭の樣な仕事ですからね。僕は斷然斷はらうかと思つたが、あなたから斷はつてもらふのが至當だと思つて其儘歸つて來た」

 透は酒や女位の爲め、自分は何も天地に恥じる事はないと言ひ張つた。そして暗に、良三が外の運動を中止してあまり某氏へ信賴し過ぎた爲め今に至つて行くべき道はとぎれてしまつたといふ憤りを諷刺した。倂し良三は格別それに對して怒りも辯解もしなかつた。

「炭礦と云ふ處はあまりよいとこではありませんね」かう良三は言つたが透の性質の或る缺點は認めてゐた。そして今後もいくら自分が骨折つても、又々こんな以前の事の爲めに、ぶちこはれる樣では誠に困つたものだと、つくづく思つた。あなたも惡いのだと良三には言ひ切れなかつた。

 たとへ法律上の罪惡でないにしろ前會社に對しての兄のすてばちな態度は惡いと妹も思つた。折角十中八九まで先方も好意を持つて成立しさうに成つてゐたものが破れたのは全く兄の性癖の爲めだと房子も思つたが夫婦ともそこをあからさまに口に出しては言へないのは苦しい立場だつた。

 房子はむしろ、夫の苦心を十も知りつゝ、

「あなたが八方へ手を出して、もうすこし多く口をかけなかつたからですわ」と、透の言ひたげな事を言つてしまつた。

 兄妹二人からかう言はれて自分の苦心は全く消えてしまつた良三は、心中大に憤慨に堪へない樣だつたが、唯口をつぐんで、さつさと寢床へ入つてしまつた。

 透も自分で床をのべて寢てしまつた。房子は夫に對して一言でも兄が感謝でもしてくれたらと、思つて、一人吐息をついた。

 

      二十

 

 玄海から吹き通して來る凄じい夜風はまつ暗な田を越えて野の中に建てられた電車の停留所に突當つてはヒユウヒユウと鳴る。トタン張の屋根をガタガタと搖するのであつた。邊りには家一軒もない。

 うす暗い街灯停留所の、小緣の樣なところに二三人縮まつてかけて居る人を辛じて照らす許りであつた。

「寒い晩だなあ」と呟く樣に言つたのは透であつた。並んでゐた良三は「兄さんあなた御寒いでせう。私のこれをお着なさい」と自分の着て居るマントを脱がうとするのを透はおしとめた。

「何、もうぢき乘るのだからかまひません。あなたこそ、下りて大分あるから僕は房さんから眞綿をドツサリきせて貰つたから、町へ出ればこんなに寒い事はないんでせう」とどうしても聞かない。停留所と云つても、唯だ屋根と壁一方のみで三方は吹き放しでこの海風を遮ぎる何物もないのであるから風は着物を透し隙間から吹き込んで體溫をすつかり奪ひ取つてしまふ。骨身にしみて、冷たい冷たい耳なし風とさへあだなされてゐる風であつた。二人とも銘々くつたくさうに默り込んで、痛い樣に顏に突き當る風を浴びてゐると、町の方からの電車が向うの高處を徐々として下りて來る。靑い灯の幅を暗い線路に藁屋根に草土堤に投げて、浮き出る樣な明るさを窓いつぱいに漂はしながら停留所めがけて走つて來た。二人は待ち兼ねた樣立ち上つた。[やぶちゃん注:「耳なし風」確認出来なかったが、強く冷たい風で体温の低い耳介部分の感覚が消失し、引き千切られて無くなってしまったかのような感じするという謂いの呼称であろう。モデル・ロケーションの北九州の小倉は、関門海峡を挟んで、対岸の安徳天皇や平家一門を祀った赤間神宮(山口県下関市内)に近く、ここを舞台としたかの「耳なし芳一」伝承との親和性もあり、腑に落ちる呼称のようには思われる。「くつたく」現行では概ね否定構文でしか持ちられなくなった名詞なので注記しておくと、「屈託」で、「気にかかることがあるために心が晴れないこと。心理的に一つの対象に拘ってしまってくよくよすること」 或いは「心身ともに疲れてあきあきすること」である。ここは漠然とした比喩であるから、後者の意でとる方が自然である。]

 電車が彼等の前で停ると二人許りの人が下りた。

ぢあ行つて參ります」と良三は洋服の男の後から乘り込んだ。

 電車は透一人を殘して直ぐ海岸の方の線路へかけ去つた。今下りた人達が凍てた樣な下駄の音をコツコツと川添の道に立てゝ遠ざかつて行くのが可成隔てゝ迄も尚ほ聞えて來た。身を切る樣な風は透一人に益々吹き荒んだ。暗い灯の中に腕組して突立つた彼れは何だか背中から首すぢへかけて折々水をあびせられる樣な寒さを覺えたが電車に乘りさへすればと格別氣にもしなかつた。狹い海を渡つて此寒い夜にわざわざ自分の勤め口を求める爲めに、一日の疲れをも厭はず出掛て呉れた妹聟が氣の毒な氣もした。やつれた樣な髮をしてせつせと縫ひつゝ自分の事や樣々の事を案じつゝ溜息でもついてゐる樣な妹の顏もちらついた。ここへ來てからもう三月に成るのにいまだに口も定らず、妹夫婦が何ものも捨ておいて朝に晩に重荷の樣にして焦せつて呉れるのも氣の毒に堪へない。どんなつまらない處でもよいから一時的なものなりと年内に勤め先を見附けたいものだと彼は繰り返しこんな事を思つては溜息をついた。

 ボーオと云ふ長い電車の笛がぢき野の隅の丘の彼方で鳴つた。そして段々近づいて來た。電車はパツと幅廣な靑い光線を濱邊の松原に投げていよいよ曲り角へ其明るい總體をあらはした。さうして長い長い間――唯の十五分ながら――寒風に吹きさらされてゐた透を明るい扉の中に吸ひ入れて、又町へと馳せ出した。電車はいつぱい混んで居たので彼は戸口に立つてゐた。寒氣は中々やまなかつたがしめ切つてある爲め堪へ難い惡感はなかつた。町の灯を縫つて走つた電車はやがて透の下りるべきB驛へ停つた。透は電車から下りて幅の狹い賑かい街をドンドン步いた。年の暮が近づいたので、店々は球灯やビラを下げて何となく活氣づいて居た。厚い毛皮の襟卷やマントを着た人や、流行の肩掛にくるまつた女達が買物のつゝみをぶらさげて景氣よささうに笑ひながら步いて來る。サツササツサと行き違つて行く人々は皆何等かの職業と、家と、日當とを持つて居る樣に眺められた。鼻緒のゆるんだ桐柾の下駄を引ずりながら外套一枚も羽織らないで寒い思ひに堪へつゝ就職口を賴みに行きつゝある自身を透は如何にもみすぼらしい樣にヒシヒシ感じてゐるのであつた。今年の樣な寒い冬を迎へた事はない。東京から早く外套の金を送つて呉れればよいのに……彼はこんな事を考へつゝ洋食屋の軒の下をくゞりぬけた。厨と覺しい窓からは物を煎りつけるバタの甘さうな香氣が、あふれる樣に透の鼻先へ突當つた。其二階には瓦斯が明るくついて花などさゝれたテーブルが窓から見上げられる。透は馬鹿らしい樣な心地に駈られつゝ急に薄暗い橫丁へ這入つた。チリンチリンとゴム輪の車が鈴を鳴らして走つてきた。車の上には派手な友染を着たお酌の人形の樣にぬりたてたあでやかな顏や、上半身が蠟燭の灯で浮き出す樣に透の眼に映つて直ぐ又消えた。[やぶちゃん注:「賑かい街」はママ。]

 

       二十一

 

 一丁許り行くと角に小ぢんまりした二階建のそばやがあつた。透は一寸立停まつて考へて居たが、ツツと暖簾をくぐつて這入ると「いらつしやい」と丸髭の若い女が迎へたが透の顏を見ると、

「おや岡本さん。さあさあお上りなさいまし」と愛想よく言つて、

「あなた。岡本さんですよ」と奧の方に聲をかけた。どてら姿のそこの養子が出て來て透は快よく二階に通された。[やぶちゃん注:杉田久女(旧姓と本名は赤堀久(ひさ))の母方の旧姓は「岡村」である。]

やあ、先日は失禮しました。丁度僕は湯に入つてゝね、歸つて來て、君が來られたつていふからなぜお通ししなかつたつて言つてやつたんです」主人は如才なくこんな事を親しげな口調で語つた。

「いやどうあんな町中でバツタリ君に逢はうなんて思ひもよらなかつたよ。僕は三月も前からK市(ここ)へ來てたんだが」と透が言ふと、

「ふしぎなもんですね。臺灣でお別れしてからもう十二三年ですな、でもあなたは相變らず若い。どうですな此節も矢張り俳句はおやりですか」と主人は聞く。

 この蕎麥屋の若い養子と透とは臺灣にゐたころ同じ鐵道部へ勤めて、文學趣味が合ふ處から非常に親しくしてゐた。別れてからは長い間音信もしなかつたが、つい先達透は町中で「やあ岡本さんぢやありませんか」と呼びとめられて、意外の邂逅に驚いたのであつた。遠い親類先にあたる此家に養子に來た彼は晝は或官邊へ雇員として通つてゐる。一度是非遊びに來給へと言つて其日は別れた。

「時に、お勤口が定りましたか」と養子は親切げに尋ねた。

「どうも一向ないんで困つちまいましたよ。例の方もだめになつたし、妹達も氣の毒な程あちこち探して呉れるんだけど、中々無くつてね。僕はもうかうしてぶらぶら遊んで居るのが苦痛だよ。炭鑛の石炭掘でも工夫でも、もう何でもいいから腕つかぎりやつて見たくなつた。實際親切にされゝばされる程、妹の家にいつ迄厄介になるのも居づらいしね」透はつくづくかう言つた。落附いた聲で。

「だけど君炭鑛なんかへうつかりふみこんだらそれこそもうだめですよ。僕も實はよそながら一二ケ處聞き合して見るつもりだ。焦らず探せば是丈澤山な會社だもの空のないと云ふ事はない」と透を慰めるのであつた。言ひ附けてあつたと見えて下から、前の丸髷に赤い手柄の、丸々した若主婦が德利だの、蕎麥だの一寸した煮付の樣なものをのせた塗膳を運んで來た。

やあもうどうぞ奧さん、そんな心配はおいて下さい」透はかう言つて、主婦さんと挨拶など取り交した。氣の毒さうに辭退する透の、飮(い)ける口なのを知つた亭主は盃をとり上げて度々注ぐのであつた。まだ何となく寒氣がしてたまらない透は種物の蕎麥に藥味をほり込んで熱いのを食べ、酒も二合の餘流し込んだせゐか、いゝ按排に寒氣がやんで何だかボーツと頬の邊がほてるのを覺えた。[やぶちゃん注:「種物の蕎麥」「たねもののそば」とは蕎麦の上に天麩羅・鴨肉・玉子とじなどの種(たね)、即ち、具を既に載せてある蕎麦を指す。]

いつかう上りませんね。何もないが、ゆつくり上つて下さい」

 友達は心から隔意なく透をあしらつて、透が東京時代の俳句のホラなど話すのに合槌打つのであつた。

 

      二十二

 

 透が郊外の家へ歸つてきたのはまだ十時前だつた。良三はまだ歸つてなかつた。蠟燭を持つて玄關へ迎へた房子は兄の元氣の無い顏色を見ると「どうかなさつたの」と氣遣はしげに聞いたが兄は「ウン」と大儀げに言つたまま帽子を柱にかけて電灯の間へ上つて行つた。「何だか馬鹿に寒氣がしていかん」と言ひながら透は右の袂からアンチピリンの包を出した。[やぶちゃん注:「アンチピリン」(antipyrine)はピリン剤の一つで解熱・鎮痛・鎮静剤。ピリン疹や血液障害の副作用があるため、現行の市販薬ではアスピリン(aspirin)に主流が移っている。]

「風邪だらうと思ふんだが、房さん一寸水を呉れ」と言ふ。房子が煮ざましを持つて來ると透は一服呑んで、

「良三さんはまだか。遲いなあ、友達のとこで酒と蕎麥をよばれたら其當座は大分暖まつてたが」

「薄着だからおかぜをめしたのでせう。早くお休みなさいな。私家の中で縫つてても隨分寒かつたんですもの」と房子は炬燵にかけてあつた透の寢卷を出した。寢床には炬燵の嫌ひな透の爲め湯婆(ゆたんぽ)が入れてあつた。透が床の中へもぐり込むと房子は枕許へ來て肩をつめたり裾の方へ座布團をのせたり、押入の鞄をあけて透の體溫器を出して、透に渡したりした。

 透の風邪は翌日も矢張り熱があつた。透は房子の煮て呉れたお粥を少し食べた許りで寢通してゐた。

「兄さん醫者に診て貰ふ方がいゝぢやありませんか」と勸めてもまあもう一日經過を見ようと、矢張買藥を呑んで居た。熱が下らないので町から醫者に來て貰つたが今のところでは風邪らしいとの事だつた。十二月ももう二十日過ぎたので或日は慌しい樣な短日の日ざしがパツと透の寢てゐる障子を染める事もあつたが灰色の密雲が松原の邊りへ凝固した樣に垂れ下つて夕方からチラリチラリと粉雪が降り出す日もあつた。房子は凍てた樣な朝も早くから起きて透の粥を煮たり藥取りに町まで行つたりその歸りには重い氷をさげて歸つた。

 良三は二十五日迄は每日學校の方へ出なければならなかつたので房子は子供らの春着や、自分達の直しものやら山程、師走の用事を抱へつゝ看護に掛つてゐた。

 十二月の初めから夫婦は透の就職口を何でもかんでも年内に見付けなければと、重荷の肩にある樣な責任觀念から、益々不健康な赤ん坊の體を顧る暇もなくその方に奔走してゐた。透の病氣は運惡く數日の後チブスらしいと言ふ醫者の宣告を受けた。神經の鋭敏な透はさう言われる二三日前からしきりに「熱の按排がどうも唯の風邪ではない樣だが」と氣にして、何度となく體溫器を枕元からとり上げては腋へはさむのであつた。房子もないないそれを心配してゐたが愈々と成ると是非入院しなくてはならないが困つたと思つた。[やぶちゃん注:「チブス」(ドイツ語:Typhus)ここは水や食物に混入した腸チフス菌によって起こる消化器系感染症で高熱が持続して全身が衰弱する腸チフスのこと。詳細は、ごく最近の私が芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強しの「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」に附した注を参照されたい。]

「困つたなあ」醫者が歸つて行くと透はあふむきに天井をみつめたまま「僕だつてふだんならおいそれと入院するんだがどうも今の身では此上送金してもらふのもつらいし………」と聲をとぎらせるのであつた。熱にほてつた顏に淋しい屈託の色を浮べて當然の事を氣兼ねしてたゆたつてゐる兄の樣子を見て良三も房子も胸の痛い樣な氣がした。「でもね外の事とは違ひますもの、嚴しいたつてお父樣はきつと快よく出して下さるにきまつてますわ。心配なさらないで入院ときめませうよ。ねえ兄さん………」房子は慰める樣言つたが聲は打沈んでゐた。三人は思ひ思ひに沈默した。折角かうして賴まれながらまだ勤め口もない中に病人にしてしまつて申譯ない。多大な費用を更にまた送つて貰ふと言ふ事はいかにも言ひ難い氣の毒な事だと良三は思ひ詰めた。この郊外の村一帶はチブスの非常に多いところだ。ことに房子の井戸はどこからか汚水が流れ入つてよく濁る事もあつた。だが責任は食物の調理をする私にある。東京にも兄にも濟まない。と房子は房子で思ふのであつた。[やぶちゃん注:「たゆたつてゐる」躊躇(ためら)っている。この用法は今はあまり使わないので注しておく。]

 

       二十三

 

 遂々入院と定つた。だが氣丈な透は人力車で行くと言ひ張つた。[やぶちゃん注:「遂々」「たうとう(とうとう)」(到頭)と読む。当て字。]

 ふらふらする體を獨りで起き上つて房子の着せかけて呉れるシャツや綿入に手を通した。氷囊だの體溫計、手帳、そんなものを包んだハンカチを持つて、玄關へ下りた透は、良三と房子を見つめて「お二人とも大變お世話をかけました」と何だか暇乞の樣な言葉を殘して毛布にくるまつて俥に乘つた。外套を透に着せた良三は何も着ずに後の車に乘つた。

「兄さん氣を落さず御大事になさい」と房子はうるんだ聲でかう言つた。「さやうなら」と透も淋しげに見返つた。

 家の中へ這入つた房子は敷き放しの布團や、熱臭い襯衣(シャツ)などを兎に角一とまとめにしたり、埃をかぶつた藥瓶や、粉藥の袋を始末しつゝ今出しなに兄の殘して行つた言葉を思ひ出してホロリとした。催ほしてゐた雲は夕方から大きな牡丹雪をしきりに降らした。見る見る中に門前の苫船も河原の枯蘆も田も屋根も白く成つて行つた。兎に角大した異常もなく手順よく市立病院の隔離の一室へ落付いたと言つて良三が歸つて來たのはもう夕方近かつた。「行つて診察を待つ中何だか大變苦しくなつて見えてね。直ぐ部長が診てくれた。持つて行つた氷囊が役に立つて直ぐ落附いた。擔架で隔離の方へ行かれた」「兄さんは以前心臟が惡かつた事があるから熱がつゞくと心臟の方が心配だと部長が言つた」良三はせかせかと夕食を詰めつゝ話して又病院へ手續の爲め行かねばならなかつた。近處から十四五の男の子を賴んで來て透の敷いてた布團、新らしい寢卷、新聞紙其他ちよいちよいした入用の品を一まとめにして荷車にのせて病院へ行かせた。牡丹雪がどんどん降りつゝ日はもう暮れかけゐた。提灯や、蠟燭の用意をさせ、良三自身は電車で先へ行つて布團を受取るべく出掛けた。家の中は灯がついたが何だかそここゝに暗い隈がある樣で房子も子供らも非常な淋しさに襲はれた。子供らが皆寢てしまふと房子は、東京の兩親へこまごまと手紙を書いた(電報は既に良三から打つた)全く私の不注意から起ツた事で誠に申譯ない。と彼女は繰返し繰返し謝まつた。附添をつける事にしても、初めての病院の夜は淋しからうと思ひ遣つて房子は淚を流した。その日はもう元日が明後日といふさし迫つた夜であつた。正月の用意も餠搗も彼女の家ではする間がなかつた。

 翌日も朝から良三は病院に行つたり、東京へ自分も通知を出したり、入用の品物を買つて病院へ持つて行つたり、其暇々には、電車で郊外の家へ歸つて來て、正月の入用の物について、せめて〆飾(しめかざり)や餠位はと言ふので買ひ整へても來た。

 良三は昇汞水の手を嗅ぎながら「もう正月の仕度なんか此場合やめて、掃除もやめなさい。食器――兄さんの――類やすべて使はれたものは熱湯で消毒するんだね」[やぶちゃん注:「昇汞水」「しようこうすい(しょうこうすい)」は昇汞(塩化第一水銀)に食塩を加えて水に溶かしたもので毒性が強いが、かつてはよく消毒液として使用された。]

「なに僕は傳染なんかしない」

 かう言つて途中で買つて來た正宗を盃に二盃程飮んだ。今日たつた一日と言ふ今年最終の日をいか程あせつてもどうする事も出來ない。房子は、赤ン坊を背負つたまゝせめては臺處のガラクタでもしまつしようと思ひ立つて厨だけは心地よくすました。每年の年越の日は重詰も見事につくり活花もいけて打揃つて目出度く年を越すのであつたが今年は思はぬ透の病氣の爲め折角買つた木附(ぼくつき)の冬至梅も水仙も臺處の隅の瓶に浸けた儘だつた。

 夕方病院の拂ひを濟して歸つて來た良三は「お鏡餠だけは緣起直しに大きいのを買つて來た」と重いのに五升の重ね餠をさげて來た。

 兄さんはと聞くと「變つた事もないが何だか神經が興奮して種々氣にされるのが病氣に惡いね」と答へた。そして「兄さんにも淋しい正月だが小いお重ねを持つてつて上げる」と小餠の重ねを半紙に包んだ。水仙の花を持つて良三は出かけた。

 

       二十四

 

 敬神家の良三は小さいお神酒入れなども買つて來た。煮豆にお煮〆丈がやつと忙がしい中で煮られた。年越の夜ではあるが夫は病院が淋しからうと歸つて來ない。父を待ちくたびれた子達に夕飯をたべさして寢せて後房子は明け放つて掃除をした。雪はしんしんと暗い夜空に降つて積んで行つた。房子は寒さをも忘れて蠟燭の灯で緣をふいたり、玄關の叩きを洗ひ流したりした。それでもどうやらかうやら家中を氣持よく掃除し終つて床の間にはお供餠も飾られ梅も投込ながら插された。水引を掛けた根の附いた小松をコツコツと入口の柱に打附けた。晝の間に汲み込んで置いた風呂も焚きつけた。か樣にあれこれと働いた房子は、もう十時近い座敷の床に蠟燭をつけて、非常に敬虔な心持で八百よろづの神々へ祈をさゝげた。彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた。唯彼女の胸の中にある「神」に向つて、兄の病氣を祈り一家の無事を祈り、遠く父母の健康を祈つた。寒さは骨身にさす樣食事もせず十一時近く迄働き詰めてゐた房子の體中を包んだ。けれども彼女は燃える樣な熱誠を包んで、唯だ祈りをさゝげた。石膏のビーナスの胸像にも細い蠟燭が灯されてあつた。[やぶちゃん注:「彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた」久女や夫宇内(うない)がキリスト教に強く惹かれるようになるのは後の大正一〇(一九二一)年のことである(翌大正十一年二月に小倉メソジスト教会にて受洗した。同年十二月には夫宇内も受洗している)。「石膏のビーナスの胸像」画家で美術教師である夫のデッサン用のそれである。]

 彼女は夫の藝術的成功をビーナスの女神に祈りを捧げたのちしづかに、蠟燭を吹きけした。

 戸外の雪は餘程積つたと見えて庭前の樅の枝から折々ドサリと重い雪の塊がなだれ落つる音もした。

 外套の羽根も帽子もまつしろにして夫の歸つて來たのは夫れから間も無かつた。門口でコンコン下駄の齒をはたいた良三は「まだ起きてたのか。うん僕は病院で食べて來たよ」と言ひながら上つて「別に變つた事はないがどうも熱が非常に高い。檢鏡の結果愈々チブスと決定したが、正月でもあり發表は二三日のばしてもらふ事にした。何しろ心臟の事を醫者は非常に心配してゐる。だめだとは言はないが………」と沈んだ表情をして「あまりひどく東京へ知らせれば心配をよけいかけるし、かといつて萬一の事のあつた場合には申譯なし、輕率に來て貰ふのも遠方だから困るし……」

「意識はたしかなのですか」

「意識が確か過ぎて、行けば平常通り話されるし困るんだ。あの通り神經が鋭く成つてゐるから病人に餘り重く思はせ度くはなし」と良三は言つた。大變いゝ附添の婆さんだ、など話してた。良三は、「子供達に正月の羽根など買つてやらうと思つたんだが、可愛さうだから今から町へ行つて來る」と房子の留めるのも開かず、又外套をはおつて出て行つた。入れ違ひに東京から電報が來た。

 カネ五十オクルヨオダイシラセ大晦日と云ふのに兄重態入院の電報を突然受取つた兩親の驚きは如何許りであらう。病症が病症故にと房子は胸の痛くなるのを覺えるのであつた。房子一家はK市へ來てから唯の一度も入院する樣な大病を一家の中から出した事はなかつた。房子は衞生なんかといふ方は非常にさわいで氣を付ける方でもあつた。それに傳染病者を出して、この年の暮れのごたごたの中に弱い赤ん坊やヤンチヤな上の娘を抱へてこの心配の渦に飛入る事は何と思つてもまあとんだ大災難だとつくづく思つた。兄に萬一の事でもあつた時は猶更大變である。年老つた兩親が出て來る……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣死を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪して來て友も、妻も、家庭も皆すてゝ淋しい佗しい生活に堪へて來た兄が種々な佗しさを胸に疊んで死んで行くのかと思ふと彼女はたまらなく兄が可愛想で留度もなく淚が流れた。[やぶちゃん注:「留度」「留め處(ど)」。]

 

      二十五

 

 夫は十二時過ぎても歸つて來なかつた。電車は通はなくなつた。

 房子は晴い風呂場で火を焚きつゝ留度もなく泣いたり、父への手紙を書いたりした。兄はすつかり近來性格もぢみに變つて來た。今度こそ腕限り奮鬪すると言つてゐた。入院する時も父母へすまないと言つてためらつた位で、大熱で臥しつゝも父母の大恩を感謝しすまぬすまぬと言つてる兄をどうぞ可愛想だと思つて許して上げて下さい。萬一の場合あの佗しい心地の儘死なしては可愛想だ。一寸感動しても直ぐ熱の上る兄へ何卒ひどく叱つて下さるな、と彼女は淚にぬれつゝ美しい感情と淚とに充ちた長い手紙を書きつゞけた。

 戸をしめかゝつた、今年最終の夜の店々で子供達の喜ぶ玩具や、羽根や、美しいお菓子を買ひあつめた良三は電車が無いので半道の餘の暗い道をテクテク雪にまみれて歸つて來た。妻の房子はまだ起きて漸やう書き終つた手紙の上書をしてゐるところだつた。「遲いものだからもうどこの店もしめてるんだもの。でもよその子がお正月なのにうちの澄子だけしよんぼりしてゐるのも可愛想だからね」かう言つて風呂敷づゝみから種々取出した良三は袂からみ籖を出して「あまり今年は惡い年だしするから歸りにお祇園樣へおまゐりして祈願して來た。もう十二時過ぎて年は新たまつてゐるし本年の初參詣は僕だ」と珍らしく笑んで大吉と云ふみ籖を房子に渡した。

「だが考へ樣によつては僕等一家の危難を透さんが一人で背負つて下さつたのかも知れない。非常な打擊と心配と不幸を兄さんの爲め受けた樣思ふより我々は不幸中にも一家四人無事で怪我一つなく今年を終つた事を感謝しなくてはならない……」腕ぐみしてかう言つた良三の顏は大變嚴肅な引締つた目色であつた。二人の間に暫くおごそかな沈默がつゞいた。

「子供達を湯に入れてやらう」

 裸になつて、沸きすぎた湯を五六杯バケツでうめた良三は、眠い子供を抱いて房子が來ると一人づつ入れてやつた。湯殿の棚には蠟燭がゆらゆら燃えてゐた……

 正月の二日三日が一番危險とせられてゐた透の病氣も天佑か良三夫婦の熱誠が屆いたのか、正月の五日から、十數日目で初めて熱が下り初めた。一時は四十度三分などゝいふ高熱が續いた。危篤の電報さへ打てば兩親共直ぐ出立すると言ふ豫定だつた。良三の心痛ははたの見る目もいたはしい位で彼は責任と云ふ重い觀念を頭に漲らして出來る丈けの世話をした。透は少し熱が下がつて來ると高熱中の事はちつとも覺えが無かつた。熱は日每に順調に一分へり二分へり遲々として下つて行つた。倂し針の樣に尖つた神經が何事かに觸れる度又俄かに熱は、上つて行つたりした。流動物のみ攝取して、讀書は禁じられるし每日きつと午後から夕食の頃迄來て呉れる良三を待つのが何よりの樂しみだつた。

 房子は時々一人で病院に來ては蜜柑をもつて來て呉れたり枕元の椅子にかけて二時間位ゐ話して行つた。命がけで病んだ彼は、ひとりでに罪のすべてを許された。

「兄さんお父さんからお手紙でね、何も心配せず早く病氣を癒せつて言つて來ましたよ」と房子が來て言ふと彼れは鼻のみツンと高く瘠せ衰へた顏に皺を寄せるやう微笑したが目には淚がにじむ樣に光つた。姊や母からも、病人の心を興奮させぬ樣直接の音信は無かつたが度々手紙で案じて來たし、經費はをさめる期日におくれぬやうキチンキチンと送つて來た。例の蕎麥屋の養子も見舞に來た。房子からの細かい手紙で透の句兄弟某氏からも直ぐ見舞狀が來た。[やぶちゃん注:「句兄弟某氏」これが誰であるかは不詳であるが、モデルである、俳名を赤堀月蟾(げっせん)と称した久女の実兄は渡辺水巴門ではあった。]

 

       二十六

 

 妻のお芳も、良三の電報がつくと直ぐ兩親の許へ呼びよせられて病狀を語られたので看護に來たかつたがそれは許されず、非常に心痛しかつ良三夫婦に世話になつた禮をのべて來た。すべての狀態は圓滑になつて今は唯一日も早く透の快復を待つのみだつた。一體が至極強健な彼は快復期に入つては非常の早さであつた。妹から暮れに屆けてくれた水仙の花の淸淨さを透は朝に夕に眺め郊外の河畔の家がしきりに戀しくなると端書に病床中の有樣や、隣室の病人が昨夜死んで非常に貰ひ泣きしたとか窓の外に梅が咲いたとか云ふ樣な事を寢床の上で鉛筆の走り書きして附添婆さんに投函して貰つた。いかな雨の日も、寒い日も、雪の日も良三は入院中一日もかゝさず市外の家から電車で通つた。電車を下りてからまだ病院迄は十五六丁あつて道の泥濘でない日はめつたに無かつた。附添の婆さんへ心附けなども良三の手からとして出された。親切な附添の婆さんは實に行屆いた世話をまごゝろからして透はつひぞ一度も怒り度い事さへなかつた。

「全くよく命が助かつたものですね。僕は病前の禁酒や鰻などでウンと滋養物を取つたから身體が堪へられたと思ふ」と良三の來る度に透は語るのであつた。

 よい按排に某鐵工場の事務の主任にあきが出來たので世話し樣と言ふ人があつて、それこそ退院を大變せいて、一月の末には許された。郊外の電車を下りて房子の家迄一丁半許りを步いて、良三と歸つて來た透は疲れを覺えた。房子も子供も皆いそいそして彼れを出迎へた。六疊の間にはチヤンと布團が敷いてあつた。

「ほんとにお目出度うございました」と房子は言つたが目には淚がにじんでゐた。「伯父さんやせたのね」と澄ちやんもいたいたしさうに伯父を見てゐた。

「どうも今度はあなた方お二人に何とお禮を言つていゝか、僕は感謝してる」と透は言つた。

 明るい燈の下に、久し振りで、甦つた樣な透を取りかこんで一家は賑かな笑ひに充ちた。當分の中は服藥もし、天氣のよい暖い日は洋杖をついて、外套や首卷をし、母から送つてきた綿のドツサリ這入つた胴着や、羽織を着ぶくれて、そろりそろりと病院通ひする事もあり、町の潮湯へ行く事もあつた。

 こんな風で透は次第に快復しつゝあつたが房子の赤ん坊は、十二月の末から腸をこはしたり、輕い風邪を引いたりして、全くひよわな身體を冬枯の樣にいぢけさせて、肥るどころか次第次第に瘦せて來た。さすがに兩親とも氣附いたが、透の病院の騷ぎの爲め遂に哀れな赤ん坊は閑却されてゐた。絶えず腸をいためて粘液の樣なわるいわるい下痢をした。神經が鋭くなつて泣いては夜も目をさました。

「此子は死ぬのではないかしら」房子は每日かういふ怖れを抱いて居たが透も病院通ひも一人で出來、食物も、幾分手もかゝらなく成つて來たので、或日彼女は、町のお醫者樣へ連れて行つた。それはK市では指折りの小兒科醫で物質萬能のK市には珍らしい樣な高い人格者だつた。ストーブの焚かれてある診察室で、着物をぬがせた赤ん坊の、ほねぼねしい肋骨の邊や、蒼白な瘦せた皮膚の色。手も足も人形よりもつとしなしなと小い身入の惡いのを醫師は丁寧に診をはつて昨年來の容體を聞いてから「兎に角非常に御衰弱ですね。さうです。榮養不足です」お世辭もない醫師は信じた通り言つて滋養糖のこしらへかた、乳のうすめ方など、親切にこまごま教へて下さつた。眞綿でくるむ樣にして着物を着せ終つて、此病院の門を出た彼女は泣き度い樣な心地で無意識に電車通りを步いた。「此子はもう手遲れだ、死ぬかもしれない……」かう思ふと堪らなく可愛想で房子は、道行く人々がけげんさうに彼女の樣子を見て過ぎるのも知らず吐息をついた。藥屋でミルクや乳鉢や飴や、吸い口、ゴムの管の樣なものを買ひ揃へて房子は飛ぶ樣に家へ歸つた。

 

       二十七

 

「此子は助かるでせうか」房子はじつと灰色の雲を見詰めて言つた。「大丈夫。春が來て暖かくなれば屹度むくむく肥り出すよ」良三は信ずるやうかう言つた。「さうとも。命と言ふものは神の手で審判(さば)かれるものだ………」と透はひくい、倂し力の籠つた聲で同意するのであつた。

「快復の見込は充分ある」と信じ切つてゐる醫師からかう言はれたので房子は驚くべき熱心を以て、赤ん坊の不健康を癒す爲めに努力した。彼女は每日家の用事が一渡り片附くと家を締め、長女を連れて、おんぶ羽織をきて、電車で病院通ひをした。病院には病兒を連れた親達が、もうあふれるやう待つて居た。やつと自分の番が來て診察がすむと今度は藥取に暇がかゝつた。女中達に早く札を取らして置いておしやれしてゆつくり來て房子達より却つて先に、サツサと歸つてゆくやうな結構な身分の人達と違つて手の足りない中から何ものも投げ捨てゝ遠くから出て來る房子達には病院がよひが殆ど一日仕事であつた。そそくさと歸つて來て透の食事や、夕食の買物などにも、又步るかなければならなかつたが此場合そんな事は言つてられなかつた。飴やメリケン粉やをミルクに交ぜ合して丁度よいかげんに調合した光子の飮物を硝子器に入れてやると赤ん坊は口をコツクンコツクンと言はせて見てるまにクツクと吸ひへらして行くのであつた。赤ん坊の腸は藥と飮物の爲め次第に調へられては來たが、たまに一日でも藥を休むと翌日は必らず惡い徴候があつた。隔日每に出かけて二日分の藥をもらつては郊外へ歸つて來る房子はもう彼れ是れ一月近くなるのに格別好い方にも成らず、肥りもせないのがもどかしくてたまらなかつた。倂し此衰弱し切つた赤兒の腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で、一向效驗の見えない病人を約二月近く判を押したやう連れて行くと云ふ事は非常に根の入る仕事であつた。でも親切な醫師の盡力と房子の熱誠と、もう一つは自然の偉大な愛の力とに惠まれた爲め赤ん坊は一日は一日より、誠に遲々たる步みであつたが快癒の方へ向つて行つた。朝鮮人參なども殆ど每日のやうに小さい土鍋で、長火鉢の上に煎じ出されて、日に數回づゝ赤ン坊に飮まされた。[やぶちゃん注:底本では「腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で」の「ではなくては」の最初の「は」の右手に編者のママ注記があるが、私はそれほど奇異に感じない。]

 早く春が呉ればよい。暖くなつたら赤ン坊も肥り出すだらうと房子は春の復活のみ待つた。恐ろしく寒い日が又歸つて來て田の向うに見える貫(ぬき)足立(あだち)の連峰がまつしろになつたり、四五日は雪解の風が、郊外に吹きまくり電車へ辿る土堤はひどい泥濘になる事もあつたが、長い間寒冷に壓しつけられて地にくつつくやう矮さくなつてゐた庭先の菜は、目立つて綠色の葉を成長させた。そしてその間引きもせず、重なり合つた菜の葉の中にはどれも皆莟をもう潛めてゐるのであつた。春めいた何となく暖かい日が庭土に枯木の影を濃く落すやうな日が三四日も續くと此菜の赤ン坊とも云ふべき樣な菜は、一齊にめざめたやう、二三寸程の矮さい弱々しい薹をぬき出した。そして其細い莟の先には靑い莟をささげて、いかにも餘寒らしい淡い、小さい花辨を開く事もあつた。庭の隅にはいぢけたやうな蕗の薹がかたい顏を地上に現はしたりしてゐた。[やぶちゃん注:「貫(ぬき)足立(あだち)の連峰」現在の福岡県北九州市小倉南区の北端にある標高七一二メートルの貫山(ぬきさん)から同北九州市小倉北区にある標高五九七・八メートルの足立山(別名「霧が岳(きりがたけ)」)へ続く峰々のこと。「矮さく」「ちひさく(ちいさく)」(小さく)。]

 子供を背に負ぶつて川堤をブラブラしてゐると、頭を手拭でまいた漁師町の女達が手に手に食べる爲めの蘩蔞(はこべ)や芹などを携へて田圃の方から歸つてくる群れを見出した。磯の方から來る子供達の籠には砂まぶれの蜊(あさり)や、おごと言ふ藻や、靑海苔なんどが、いつぱいはみだすやう入れられてあつた。[やぶちゃん注:「おご」紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides の方言名。福岡など名産である「おきゅうと」の原料。同じ紅藻綱で刺身のツマや寒天の材料にする(但し、石灰処理をしないものは有毒(毒素は複数説有り)なので注意)オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla とは全くの別種である。]

 まだ冷たい川水に股まで入れて網打つ人、土堤の上から見てゐる人々にも何となく春めいた日ざしが漂ふやうにも見られたが、枯薄の根や塀かげにいぢけて萌え初めた草にも、河深く泊まつてゐる漁旗のはためきにも、餘寒が漂つてゐるのであつた。

 透が、ボツボツ拔け初めた頭髮を氣にして、わざと短かく刈り込まず、今迄と變つて油などつけて橫撫でになでつけては、某鐵工場へ每日出勤する樣になる頃には、赤ン坊も次第に藥に遠ざかつて、小さい腮の邊も肉がつきそめ、愛らしい笑顏も洩れるやうになつて來た。早く暖かなほんとの春が來ればよい。「春になつたら東京のおばあ樣のとこへ連れてつて上げませう」房子は、甦(い)き得た愛子(あいし)を抱いては頰ずりした。

 河畔の家に住む彼等一家族は、長い間の苦勞から追放され、二つの甦つた肉體を守りつゝ、ほんとにまじめに、地上に春が復活する喜びの日を待ちつゝ暮すのであつた。

 

 

[やぶちゃん注:最終文の「追放」には編者によって右にママ注記が附されている。

 第「二十四」章の末尾を二十八歳(執筆投稿された大正八(一九一九)年年初)の久女は、こう書いている(読み易く読みを加え、読点を打ち、〔 〕で語を補助した)。

   *

……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣(やう)〔に、まさに〕死〔といふもの〕を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪(へうらう)して來て友も、妻も、家庭も皆、すてゝ、淋しい、佗しい生活に堪へて來た兄が、種々(いろいろ)な佗しさを胸に疊んで〔其の儘に〕死んで行くのか、と思ふと、彼女は、たまらなく、兄が可愛想で、留度(とめど)もなく淚が流れた。

   *

……この二十七年後……久女は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、入院先であった福岡市郊外の大宰府にあった県立筑紫保養院に於いて、腎臓病(精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(平成一五(二〇〇三)年富士見書房刊坂本宮尾著「杉田久女」一九八頁より孫引き))のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった…………

2016/07/21

河畔に棲みて(十)~(十八)   杉田久女

       十

 

 透の就職について某實業家が愈々會見したいと云ふ知らせの來たのは十一月の中程であつた。其日は砂ぼこりの強い日であつた。透は妹に手傳つて貰つて、しつけを去つた新らしい羽織や袴を着た。

 肩幅の異常な迄ひろい中ぜいながらがつしりした體格の透は、髮も五分頭で、鬚も生えないたちなので打見たところ四十に二三年しか間のない男とは見えなかつた。

 すつかり仕度の出來た透は例の鞄の中から自分の名を書いた名刺だのハンカチーフの樣なものを取り出して袂に入れた。それから

「これは僕の運命の石だ」

と紫色の小袋に入れたものを内懷に祕めた。

アラまだあれを持つていらしたの」と房子も笑つた。

 それは透が前の會社へつとめる爲今日の樣にして重役へ會見に行く時、母が「これは運命の石ですよ、愈の時は袂の中で此石を握りしめて、しつかり談判なさい」と透に授けたもので、其實は何でもない唯の石だつたが其石が占をなして談(はなし)が整つたのであつた。透はその後十何年の今日も猶其石に因つて再び自己の運命を展かんとしつゝあるのであつた。落のない樣こまかい世話までやいて、緊張した透を送り出した房子は兄の歸宅のみが待たれた。明るい緣先で、房子は張板に赤や靑の布をつぎつぎに張りのばしたり、子供に乳を呑ましたり、割合にひま取る透を、何度も緣側から見やつたが透は晝近い頃やつと歸つて來た。[やぶちゃん注:最後の一文中の「何度も」は底本では「同度も」である。色々な読みを想定して見たが、このままでは読めないと判断、結果して、これは見た目から「何」と「同」の誤植と断じた。大方の御批判を俟つが、恣意的に「訂正」して示した。]

まあ御ゆるりでしたね」

 かう言つて飛出して行つた房子は、兄の顏を見た瞬間ホツと安心した。砂ぼこりでしろくなつた繻子の足袋をハンカチーフで拂つてから玄關を上りつゝ、

「歸りは電車に乘らずブラブラ來たから……だが隨分あるね。O坂の峠茶屋で田舍餠をパクついたが腹がへつてたせゐかうまかつた」透は機嫌よくこんな事まで言つて、房子の長女を笑はした。袴や羽織をぬぎすてゝ井戸端へ顏洗ひに行く兄の後から房子も追かけて色々と會見の樣子を聽くのであつた。

「行つたら客があつてね二十分程應接室にまたされたが……」

 某氏は氣易げに面會して今迄の職業だの、どういふ目的で當地へ來たのかと色々と聞いた。透は、當地方の有望な事をきゝ是非腕一本で働きたい。最初から多大な地位はのぞまないから腕ののばせる場所で働き度い希望をのべた。某氏は、唯今といつても空もなし自分は直接雇員の事については關與せないが近日中一方の長たる者へ紹介するから何とかなる事と思ふとの話しで、會見の時間は約四十分位だつたさうな。絹物づくめでもなく一見書生つぽの樣な風體の透の落付いた、そして急所急所に要領を得たキビキビした言葉などは、某氏に初對面の好感をあたへた樣で、

「履歷書も方々からこんなに澤山來てゐますが鈴木氏(良三)からの特別な依賴ある事ですからつて見せたがね、成程澤山來てるわい。まああの口付では十中八九は大丈夫だね」

 柔術できたへ上げた腕節を力(りき)ませつ透は得意げに笑つた。自分の談判の成功を誇る樣に……

 夕方良三は、細長い體をヒヨイヒヨイ飛ぶ樣な步み振りで急いで歸つて來ると、

どうでした、今日の結果は」と直ぐ透にきゝかけた。

やあお歸りなさい。まあ先達の話と大した違ひもないんですが」

 透はにこにことまた繰り返して話し出す。

「伯父さんはね。歸る時田舍のおばさんの店でお餠を五つもめし上つたのよ」と傍に遊んでゐた澄子が言つた。

それはよかつた。安心しました。十中八九は大丈夫でせう」

 良三はかう言つて成功を確信してゐるらしくうなづいた。

 

       十一

 

 會見の次第は直樣東京へ房子から知らしてやつた。そして三人共成功をやゝあてにして次の會見を待ちつゝ暮らすのであつた。

 釣は相も變らず每夜根氣よく續けられた。透のは、この禁欲的な世間と斷たれた淋しさ退屈さを紛れる爲めの魚釣であつたが良三のはほんとに好きの爲めに釣るのであつた。秋が深く成つて其邊一帶の岡の上にも河畔にも、櫨(はぜ)が紅葉し、河原薄は薄樺色に陽にかゞやき、野菊の花は星の樣に無數の花を至るところに點じてゐた。河原に橫たはる澤山の船も、遠山も、田も、房子の家を取り卷くすべての自然界のものは皆驚ろくべき高調な「秋の色彩」をのべて、どこを切り離しても皆これ立派な水彩畫であり、油畫であつた。けれども畫かなくては成らない畫家の良三は、終日の疲勞に、歸宅してからはもう再び繪筆を取る程の根氣はなかつた。俗務に追はれ、俗人にしひたげられつゝ不快な沈んだ顏色をして、裏金のついた重い靴をひきつゝ河畔を歸つて來る事もあつた。十年間彼は眞に感興にそそられて筆を取つた事など一度もない。スケッチ板は塵にまみれ、たまたま調色板にひねり出される繪具は皆、畫かないではかたくなつてしまふのであつた。忙がしい職務の爲のみでなく苦勞なしに育つて來た、相續者の地位にある彼れは、格別あせつて繪をかく氣にもならなかつた。一つには彼の體質が華奢過ぎる程、華奢に出來てゐるからでもあつた。天氣の好い日曜日など朝から海釣りに行かうとして、餌を買ひ步いたり、丹念にテグス(釣糸)や釣針のしまつをしてゐる良三を見ると房子は何だかあんまりな樣な心地がした。[やぶちゃん注:底本では第二文の「紛れる」の右に編者による、ママ注記がある。「調色板」は「てうしよくばん(ちょうしょくばん)」でパレット(フランス語/英語:palette)のこと。]

「釣にばつかり行つてらしてちつとも御畫きなさらないのね」妻の房子にこうづけづけと言はれるのが良三は一番氣がねだつた。外に道樂もたのしみもない良三には、房子のつくつて呉れる西洋料理を食べる事と釣とが最大の慰籍なのであつた。

「いゝぢやないか。活動一つゆかないんだもの、さうヤイヤイ言はれたつて繪なんかかけるものぢやあないよ」鉛の重石を作つてた良三は、頰の生えさがりつづいてゐる頰ひげの邊をなでつゝ定つてかう答へるのであつた。[やぶちゃん注:「定つて」「きまつて(きまって)」。]

「すきなものは釣るがいゝよ」

「何も、大した費用がかゝるのでもないから。道樂としてはよい道樂ですよ」机に頰杖突て見て居つつ透はいつも良三の方のひいきした。男同士二人は至極仲よく、釣の話を取交した。房子は現實生活の貧しい爲めにも時々は色々な佗しさを見出し、おなじお茶の水出の友達が皆社會の上流に屬する生活をしてゐるのに、自分丈がかういふ光彩のない生活の中に、貧とたゝかつて暮すと云ふ事を淋しく思ふ日もあつたが唯感激に生きてゐるといふ樣な彼の女は、夫等の苦勞よりも、惰性で活きてゆく樣な沈滯した中に、唯平凡と安逸とを貪つて暮して行く、そして輝いた藝術品一枚も畫かないで、次第次第に教師型になつてゆきつゝあるといふ事の方が悲しかつた。

 彼女は、只一圖に藝術的な生活を求め度いと夫のみ願つた。光輝ある藝術家として夫が立つならば富も入らない。榮譽も欲しない。

 彼女は、海軍中佐夫人になつてゐる彼女の實姊に貧しさをそしられた時も、決して貧と云ふ事を恥かしいとは思はなかつた。幾多の勳章のかがやいた胸よりも、彼女の爲めには唯一枚の畫、唯一本の繪筆を手にしつゝある藝術家を貴しと見たからである。彼女の大きな目は、美しい空想の爲め、黑曜石の樣に輝いてゐた事もあつた。又房子自身の性質も、まるで空想と詩との權化の樣なものであつた。よく悲しみよく泣き、よく大自然の懷に入つて、樂しむ事が出來た。倂し夫の良三は、趣味の人でもあり、淸淨な人格者でも有つたが、家を繼ぐと云ふ事を温厚な彼れは第一の目あてとしてゐたしどちらかと言ふと常識の勝つた堅くるしい人物なので、白熱的な藝術欲はなかつた。

 

       十二

 

 九年間是といふ病人も家内になし、平々凡々で押し通して來た彼等夫婦は、外出といへば必ず一緒に出る、客が來れば房子も出てもてなす。彼等の仲間でも一番幸福な家庭とされてゐた。又實際係累はなし、大した波瀾もなかつたし郊外に住んで、すきな野菜や花をつくつて樂しむ事の出來る彼等、繪についても四季の自然についても充分理解をもつた妻の房子と語り得る事は良三の滿足でもあつたし、何一つとして二人の間には祕密もなくほんたうに力と成りあふ世の旅路の伴侶であつた。けれども長い生活の斷片を底の底迄とり出して見る時、そこにはさうさういつもいつも平和のみは漂つてゐなかつた。不平もあれば爭もあつた。殊に房子は感じ易い非常に鋭敏な神經をもつた女で、天氣が曇れば心も曇る、浪の音をきけば孤獨に泣くと云ふ樣な、體は良三よりも丈夫なよい體をもつてゝ肉體に何のわづらひもない身でありながら心は絶えず樣々の感情に動搖されてゐた。

 姑息な沈滯した教師生活も嫌ひだつた。夫の繪をすこしもかゝないと云ふのが先づ第一番の不平だつた。相續者の妻としてあの汽車から何里か奧へ這入つた、山村の暗い大きな家に入つて因習と舊慣の中に多感の身をうづめねばならない運命に步一步近づきつゝあると云ふ事も彼女の爲には堪へがたい不安であつた。神を想つて信じ得ず、現實化しようとあせつても物質のみでは安心も出來ず、かと言つて世に對する執着もつよし奔放な思想にもかられた彼女には到底かゝる微温的な空氣の中に、憂愁なしには暮してゆかれなかつた。柔順(おとな)しい夫と、愛すべき子とにかこまれつゝも彼女はしきりに孤獨と憂欝に浸る事もあり、事ある每に、現實生活の不安を覺えた。他人に對してはめつたに爭つたりしない良三も母の死後家庭の紛爭などの爲めめつきり此頃は怒りつぽくなつて、一時赫つとする事もよくあつた。

 何でもないことで夫婦は、其針の樣な神經をお互に打ふるはしつゝ爭ふ日もあつた。

 でも透がこの家へ來てからは夫は妻の兄の手前爭つた事などめつたになかつたが何かの拍子で房子が夫に不平を洩した爲め良三はまつかになつて怒つた。それは夕食後の灯の下だつた。

 怒つたが良三は妻の兄の手前激しい言葉や罵る樣な事をする男ではなかつた。唯細面の顏を引しめて、

「どうせ僕は意氣地なしだから樫村さんの樣な出世は出來ない」と取つて括りつけた樣言ふのみであつた。樫村と云ふのは房子の姊の嫁入つた姓であつた。

「私だつて隨分長い間苦勞も心配も辛棒もしてますわ。何も私は勳章がほしかつたり月給の高いのを希望むんぢやあありません。もつともつと貧しくてもよいから、意義のある藝術生活に浸りたい……」

 房子は目にいつぱい涙をためて言つた。良三にも房子が虛榮の女でなく隨分辛棒してゐるのは判つてゐた。でも、彼女は時々我儘だ、あまり瞑想家だと心の中に思つた。

まあいゝぢやないか、喧嘩したつてしかたがない。何とかかんとか言つたつて君達の家庭は幸福なものだよ、子寶はあるし、國には財産もあるし、房子さんも、すこし位の事は女の方で折れなくちやあだめだ。僕の樣に酒も女もといふ夫でもやつぱり仕方がないんだもの。やつぱり家庭程よいものはないよ」

 透はかう呑み込んだ樣言ふのであつた。

 

       十三

 

 例の返事はまだ何とも無かつたが大概は成るものと安心してゐたので、再會見の通知を只管まつのみで其他の運動はしばらく手びかへの形だつた。

 河畔の家には每日每日柿や茸を賣りに來た。

 柿の好きな兄の爲め、房子は柿賣の女を門前に呼びとめて、柿を選る事も度々であつた。或日はゆるんだ樣な表情となり、或日は非常にまた印象のゆたかな顏ともなる大まかな彼女はきれいにお化粧して、漁師町に近い店々へ、兄や子供のおやつを買ひにゆく事もあつた。

 實費として食費を東京の父から每月十日前後には送つて來た。

 明確に何錢何厘と兄一人のものを割出すなんて事も出來なかつたし勿論兄の食費としてはそれは充分であつた。倂したとへ親身の兄でも一人殖えて見ればどこそこそれにつれて家の者の方も、體裁をまさねばならぬわけで、金錢には淡泊な房子もさういふこまかしい遣繰にひとり侘しい思ひを抱いた。實際每月のをはりにはすこしづゝの不足が出來て來た。一軒にゐてさうさう切り離す樣にも出來ない場合もあり、兎角生計が切り込みがちであつた。夫れに透は、布團も自分で敷く、顏洗ふ水も汲んで洗ふ風呂水も每日汲みこんでくれるし手のない時は赤ん坊も抱へてはもらへるけれども、それでも男一人殖えた家庭は洗濯にしろチヨイチヨイした雜用にしろ目にも留らぬことの爲め房子は朝から晩の十時過迄クツクと働かねばならぬ。

 五人家内の世話を手一つでしてゐるので、そろそろぬけそめた髮の毛の手入れなどもゆるゆるするひまはなかつた。

 川霧が降る樣に下りる晩も相變らず橋の上で釣つてゐた。

 子達を寢せつけてしまつた房子は、燈の下に夜なべの冬着をひろげつゝせつせと縫ふのであつた。

 時々、町の方へ行く電車が海邊の方から近づいて、停つては又靜かに走せ去る音を聞くのみで、田舍の夜はひつそりとしてゐた。

 臺所の竃の邊には、夜每にきゝなれた蛼(こほろぎ)が、引き入れられる樣な聲でとぎれとぎれにないてゐるのであつた。此頃から透にすゝめられて俳句と云ふものを作り初めた彼女は、虫の音をじいつと聞き入りながら、それをどういふ風に現はさうかなどしきりに考へるのであつた。或時には髯の長い虫が、パタリパタリと疊を飛んで來て句想にふけつてゐる房子の直ぐ前へじつとつくばつてゐた事もあつた。彼女は直ぐそれを「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」などゝ調も何もかまほずそして出來次第無數に手帳に書き入れた。[やぶちゃん注:「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」現存する実際の杉田久女の(リンク先は私の作成したPDF版全句集)にこの句はないが(これは小説であるからなくても不審ではない。また実際の句であったとしても、最初期のものであるから、後の久女の意に沿う句ではなかった故に句としては抹消された可能性も高い)、類型句に「蟋蟀も來鳴きて默す四壁かな」があり、初五の相似句では「燈に縫うて子に教ゆる字秋の雨」がある。因みに、杉田久女は「灯」と「燈」を句に於いては厳密に使い分けているので、本篇では底本の「灯」は「燈」としていない。]

 かうした靜かな彼女を再三驚かすものはけたたましい、くゞり戸の鈴の音だつた。

「房さん房さん。一寸灯を見せてくれ大きな奴がかゝつた」

 それは透の時もあり、良三の時もあつた。房子が蠟燭をつけて持つて行くと、氣味の惡い程大きい鰻のヌラクラもがくのを、ギユツトおさへて片手に、呑まれた針を引出したりしてゐた。或時は又川底の牡蠣殼や芥などに、糸を引かけて切つてしまつたりして、糸の附け替へに歸つて來る事もあつた。房子が仕事をかたづけて、兄の布團を六疊の間にのべたり、食卓の上に、二人が歸つて來てから一寸一口飮む爲め、殘りものゝ肴でも用意して、先に寢るのは十一時ごろであつたが、雨降りの夜か何かでなければめつたに其頃歸つて寢る事は、二人ともなかつた。二人の羽織の袖口の邊には鰻のヌラヌラが白く光つてゐた。

 よく釣れた夜は二人のをあはして大小十七八本も釣れた。中には一本で百目以上のが四本も交つてゐた。落鰻とはいふものゝ上手に料理すればたしかに、玄海灘一本釣のピチピチした鯛でもうなぎの味には適はない。[やぶちゃん注:「百目」三百七十五グラム。]

 

      十四

 

 鰻を料理するのはいつも透であつた。房子は火をバタバタ起した。兄妹は俳句のはなしや、もう某氏の返事もありさうだと云ふ事などそれからそれへと語りつゝ陸じく蒲燒をこしらへた。

 透も漸やう河畔の家に馴れて今は漂浪らしい淋しさも薄らぎ時々に寂寞を感ずる事もあつたが次第に落付いた心地に成る事が出來た。

 兩親――殊に母――には退屈まぎれに近況など始終知らせた。

 父からは例の如く、べからず流の謹嚴一方の訓戒めいた手紙が來たが母からの代筆はこまこまと家の事情や、一日も早く就職の定まるのを待つてゐる事や、近頃透から母へ宛てた手紙は以前の樣でなく大變優しい手紙で一同喜んでゐる。

 どうか早く母に安心の道を確定させてくれと云ふやうなことが認めてあつた。そして「某氏の方も有望らしけれど萬一不成立の時が無いとも限らぬ故御氣の毒ながら口は處々へかけて置いた方がよい」などゝも書き添へて在つた。透も、隨分志望者も多い世の中だから八方賴んでおく方が大丈夫だとの意見で良三に兄妹で言ひ出して見た事もあつたが良三は此頃つとめの方が每日忙がしかつたりして寸暇のない爲め、も一つは、

「あの人があれ丈迄斷言してゐるのだもの十中八九は誤りない」

と言つてあまり他へは手をひろげなかつた。恰度、其炭礦家の某氏が用事で上京されたりした爲め一層其方は延期された。透は節酒の苦痛もここへ來たて程ははげしく感ぜぬ樣成つたし釣等も非常によい影響をあたへた。知人もなし行き場所も見るとこもないK市の事故長年都會生活の強い濃い人間味の勝つた生活から急にこの、自然の懷に立ち返つた樣な日每日每。

 比較的精神的な良三夫婦の單純な質實な生活に入つたと云ふ事は透をしてたまたま現實の生活から脱し多少なりとも自己を反省し考慮し得る絶好の時であつた。彼は學校を出て今日迄唯酒や女や權勢富等の外に頭をつかふ事は餘りなかつた。靜かに瞑想する事もない。いつもいつも刹那刹那の歡樂を追つかけまはしてゐた。此頃の樣に頭を澄ませて超然と魚釣をしたり自然を觀察したり、何物をも澄んだ心持で見得る樣な頭に成り得た事は絶えて無かつた。さういふ意味から考へて、透の境遇が一時かゝる淋しいものに陷つてゐると云ふ事は却つて喜ばしい事であつた。

 透は精神的に生きるのである。たとへ前程のパツパとした生活はしないでも眞面目な、眞實味の籠つた態度で兄が生きる樣な事ならその方が遙に貴いと房子はかう考へたので有つた。透は朝早く起きて海邊を散步する。夜は外出など絶えてした事なくてでつぷりとつき出した下腹に力を入れて腹式呼吸をしなくては寢につかなかつた。[やぶちゃん注:太字「かう」は底本では「う」にしか傍点がない。傍点の脱落と断じ、特異的に「か」まで太字とした。]

「此頃は食事が大變うまい。夜も實によく寢る」

と彼はかう言つて、逞ましい肉付の肩の邊を撫でまはした。

「兄さん、いらした頃よりずつとお肥りなさいましたわ」

と房子は兄の立派な體格を見て言つた。

ウン。風呂へ行くと漁師達があんたの腹はどうしてさう太いのぢやと先日も聞くから腹式呼吸の事を話してやつたら感心してたつけ……」と透は笑つた。

 兄妹が何かと秋の夜の燈下で語つてゐる側に、良三は長く成つてうたたねしてゐる事が多かつた。

 さうでない時はそろそろ始りかけた試驗の採點などで追はれつゝあつた。

「房さん、ちつとは出來たかい。見せてごらん」

と透は時々催促しては、房子の俳句帖を見てやつた。其中にはまだ幼稚なものが多かつた。透は之に○だの◎だのつけて添削してくれた。彼女は忙がしい家事の傍ら或時は赤ン坊に乳をふくませながら或時は土堤を步みつつ作句するのであつた。

 

       十五

 

 河向うの堤の櫨もいつの間にかすつかり散つて、特殊な枝振をした其枯木のみが潮の引去つた河原の破舟の上へさし出てゐたりした。お宮の松の下邊には菜の綠色がのべられた。或朝丘の上の木の雜木や櫨の葉は一度にどつと散りつきて、雪を頂いた、紫色の三角形した帆柱山をはつきりと丘の背後に見出した事もあつた。

 刈りつくされた淋しい田の面。

 眺めの展けた田畠のここかしこを縫ふものは唯菜畠の生き生きした綠のみであつた。夜每に川面は深い霧がこめて沖へ出る船の艫聲や漁具などを船底へ投げつける音などもポツトリと聞えるのであつた。寒くなると此川上へ上つて來て――丁度房子の門前のところに ――海風を避けて冬中を凌ぐ烏賊(いか)舟の老船夫、それは家も女房も子もないほんとにひとりぼつちで此半分朽ちかけた小舟を一年中の家として住んでゐる侘しい老人だつた。外の船は皆出拂つた夜も此老舸子の舟一つは、苫の中からチラチラと灯かげをのぞかせて、どんな寒い夜も風の夜も此船の中に寢るのであつた。暗い寒い堤をコツコツと往來する人々は船を石崖にひつつけコトとも音のせぬ此すきまだらけの苫の燈を見て如何許り淋しい感に打たれる事であつたらう。河へ塵捨になど出る度房子は唯一つの此灯を暗い河面に見入つて、時には咳入るのさへも聞くのであつた。雨が降ると爺さんは柄の長い柄杓で船中にたまる水を搔い出してゐた。いつも頭に頭巾の樣なものを被つた、つぎはぎの胴着をきた赤銅色の小さい爺さんは、漁師町の方へ章魚などさげて賣りに行く事もあり、往來の人に馬刀貝(まてがい)を賣り付けてゐる事もあつた。ねぎられでもすると、

「當世は米だつて薪だつて前の何倍もする世の中だ。あほらしい考へて見んさい」老船頭は一こくにぶりぶり怒つて笊を仕まひ込んでしまふのであつた。薪を一把だの、小さい德利の石油壺をかかへて漁師町の方からトボトボ歸つて來る彼を見る夕方もあつた。[やぶちゃん注:「舸子」「かこ」舵取り。漁夫。「苫」は「とま」で、菅(すげ)や茅(かや)などで編んで作った舟覆いや、漁師が雨露を凌ぐのに用いる仮小屋のこと。]

 これらの舟にも老船頭の哀れな有樣にも心をひかれた房子は、見るもの聞くもの皆彼女の句の中に取り入れ樣と不相應に焦つた事もあつた。

 出嫌ひで瞑想好きの房子には拙いながらも俳句は忽ちに大好に成つてしまつた。河畔の家に東京の俳句雜誌が其後は每月配達される樣に成つた。

 夜寒がヒシヒシと迫つて來て、寒がりの透は、ぬいだ着物から座布團迄、布團の裾において寢る樣に成つた。荒れた庭の枯蔓はひまひまに透の手でひきはがされて川へ捨てられて、急に明るくなつた替り庭の面はあらはな寒さを覺えた。葉鷄頭も今は立ち枯れて、まつ赤な葉を朝々の霜に散らすのであつた。菜の成長も遲々として目立たぬ樣に成つていつた。

 生れて間もなく腸をいためたりなどして弱々しかつた赤ん坊は房子の乳の足りない爲めに尚更肥る事が出來なかつた。二つの乳はあふれる程張つた事は決してない。

 少し呑んではやめる。直きお腹がすく。また泣く。寢てもすぐ目がさめた。だらしなく呑むので腸もよくいためた。牛乳を補ひとして用ゐた事もあつたが結果がよくなかつた。乳の不足といふ事が一番の原因でよその子のドンドン肥つてゆくのに此子はいつ迄も生れた時の大きさと大差なかつた。榮養不充分の爲め一寸した呑み過しにも、衰弱した身體はぢき故障を起し易かつた。人形の樣な目鼻立の色白い此子は又人形の樣小さく髮の毛はシヨボシヨボと赤く少し生えてゐるのみであつた。[やぶちゃん注:「シヨボシヨボ」の傍点は三文字にしか附されていないが、下の三文字にも及ぼした。]

 

       十六

 

 人一倍子煩惱な房子が何故、此赤ん坊の榮養不足に心づかないで打すておいたものか。隨分久しい間、かはいさうに赤ん坊はいつも腹いつぱい母の乳を吸ふ事なしに飢ゑがちに暮して來た。全く房子の誤りであつた。

「なぜ此子はかう小さいでせうねえ。ちつとも大きくなりませんのね。どこか惡いのではないでせうか」と房子はそれでも度々氣にかけて夫や兄に話したが、

なあたちだよ。死(な)くなつたお婆樣みたいに小さなたちだ」と夫は無造作に答へた。

「房さんみたいに心配してゝは仕方ない。人間の子なんて、そんな弱い者ではないよ。別にどこつて惡いとこもなささうではないかね」と透も笑つた。

 さう言はれゝばそんな氣もしたが湯に入れる時など裸にして抱き上げると皮膚は靑白くて胴のまはりでも足でも人形の樣に小さくいたはしい樣な心地がした。一寸した物音にもよくおびえて、目をさました。房子は夜晝となく赤ン坊の寢てゐる時は話聲さへ氣をつけた。

 だけども度々目をさましてチビチビと呑むので夜中赤ン坊も母親もぐつすり寢込むと云ふ事は殆どなかつた。秋空の樣な澄んだ目をもつては居たが赤ン坊は實によく泣いた。その聲は小く疳高であつた。[やぶちゃん注:「チビチビ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 語る事の不可能な赤ン坊は、此悲しい泣聲によつて絶えず周圍の人々へ飢を訴へるのであつたが周圍の者は唯無意味な泣聲としか受取らずに、

みいちやんはよつぽど泣きみそね」と笑ふのみであつた。

 母親たる房子の不注意は勿論である。が母も父も、肉親の子の泣聲に耳を傾ける暇もない程一方には又兄の爲め朝に夕に心を勞した。その心勞もテキパキと外面にはあらはれてはこなかつたけれど、彼等夫婦は透と共に愁ひ、透と共に樂しむので、透の一身上の事が定まる迄はあけてもくれても、頭の上にものが押しかぶさつて居る樣で、氣に成つた。

 が房子には、何となく不健康な我子の樣子が朝夕直覺された。

 よその人の抱いてゐる赤ン坊を見かけると風呂やでも電車の停留所でも、

まあ御宅のお坊さんはいつお生れなさいましたの」とのぞき込む樣に問ひかけて、我子と見くらべるのであつたが彼女の赤ン坊より後に生れたと言ふ子らも皆クリクリと肥つて健康さうに笑つてゐた。房子は羨ましげにつくづくと見入る事が度々だつた。[やぶちゃん注:「クリクリ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 乳の不足と云ふ事は氣付なかつたが房子の赤ン坊をいたはる事は非常であつた。風の強い日は滅多に外へも連れて出なかつた。

 自宅で湯のない夜は冷たい子の手足を、湯をわかして温めて寢かした。海からの荒い風が絶えず吹きつけるので、夕方などは門口より外へは踏み出さなかつた。

 風邪一つひかなかつた爲め此日陰の花の樣な弱々しい小さな小兒は幸ひに、母親が、養育方針のあやまつてゐた事を氣付いて、醫者へ行く樣に成る日迄、奇蹟の樣に病氣もせず、いぢけたまま生きて行くのであつた。

 全くそれは天佑の樣なものであつた。もしこの弱々しい體に何等かの障りがあつたならこの子は、たやすく失はれてゐるのであつたらう。

 長女の澄子は、丈夫になつて每日空風にふかれつゝ茨の實や、薄の穗をぬいて外でのみ遊んでゐた。

 近所の下品なませた友達の中には入つてわるいくせを覺えるのを彼女は何より恐れたがそれは到底せきとめ得る事ではなかつた。遠く遊びに行つて歸らぬ澄子を案じて房子は、そここゝと長くく探𢌞る事も度々だつた。

 

       十七

 

 房子達が去年こゝへ移つて來た時、前の人の飼つて居た老猫がひとり此家に殘つてゐた。猫の好きでない房子は、格別憎みもせず、三度の食物は規則の樣に與へて居たが、家の中に上る事は絶對にさせなかつた。家付きの猫は唯食ブチをもらつてゐる許りで一向家人とは沒交渉な暮しをしてゐたが此年の夏、房子が産をする十日許り前に五疋の子を生んだ。

 長女を産する時大變重い産をした房子は此度の産で私は死ぬかも知れない、などゝ始終言つてたし里の母もわざわざ心配して遙々來て呉れる程で、良三も口に出しては言はなかつたが心配してた。そこへ安々と産をした猫を見て皆、よい前兆だと嬉しがつた。

 房子の産も今度は大變安々とすんだ。

 そのうち親猫は、每日猫の巣につききつて眺めてゐる長女を怖れたのか、又は時々來る洋犬を怖れたのか、或夜の中に五疋の子猫をつれていづこかへ行つてしまつた。

「親猫がかみころしたのではないかしら」

「犬にたべられたのだらう」

と皆は口々に噂して、生れた許りの子猫を案じた。しかし親猫は時々歸つて來ては、ものほしさうに土間につくばつて居た。其乳房はふさふさと垂れ下つて今も尚ほ子猫達に乳を呑ましてゐる事は判明した。猫の皿に食ものを入れてやるとさもお腹がすいた樣に、一粒も殘さずねぶつてしまふのであつた。そして又どこか出て行つた。

「子猫をどこかにかくしてゐるに違ひない」と皆は言ひあつた。

 二十日許りたつと、猫は、ぞろぞろ五疋の子猫をつれて、戻つて來た。暫くの中に子猫は皆大分大きくなつてどれこれも、可愛い顏をしてゐた。たつた一つ三毛のがゐてあとは四疋とも黑の斑があつた。犬をおそれて、土間に箱をうつしてやつたので子猫は、下駄にじやれついたり、コロコロかさなりあつて遊んだり下駄箱の橫に尿をしたりした。澄ちやんは、每日猫を抱いたりおんぶしたりして子猫と遊んだ。

 透が來て後も相變らず五疋の子猫はもらひ手もなし、親の乳をしやぶつてごろごろしてゐた。

「猫はきたないね。こんなに澤山居たつてしかたがないから捨てたらどうだ」と透は言つた。

「もうすこし大きくなつたら捨て樣と思つてるのですけど、まだ、何だか可愛さうですから」と房子は答へた。

「そんな事言つてゝは仕方がないよ。すてるなら今位ゐが丁度よい。僕が持つてつて捨てゝやらう」

 澄子も猫をすてるのは嫌だつたが、何疋も居てはあの一番きれいな三毛が肥らないと言はれて其氣になつた。そして或朝捨てにゆく伯父さんについて行つた。

 透は三疋の猫を風呂敷に包んで河向うの人家の傍へ持つて行つた。

 そして風呂敷から出してやると子猫達は自分の運命の迫つてゐる事も知らず、いつもの樣に三疋コロコロ上下になつてふざけまはつてゐた。澄子は持つて行つた、小皿の御飯を側において、子猫のなめにかゝつたのを見捨てゝ家へ引揚げた。其夜は、宵からしみる樣な時雨が絶え間なしに降つて、房子には、三疋の子猫の事が忘られなかつた。母親もしきりに、失はれた子猫を探しまはつてゐる樣子だつた。

「時雨るゝや松の邊に捨てし猫」房子は十燭の燈の下に、縫ひながら、捨てられた子猫の運命。何となくひよわな自分の子の事などがつぎくに考へられて、こんな句を手帳に書きつけた。[やぶちゃん注:この句に相当する句は現存の久女の句には、ない。]

 淋しい心地で猫の箱をのぞいて見ると猫は丸くなつて、親子寄りそつて暖かさうに淋しさうに寢て居るのであつた。

 

      十八

 

 それから一週間許りすると透は再び親猫と、も一疋の子猫とを捨てに行くと言ひ出した。家付きの親猫だしあとに一疋限りとなる三毛が可愛さうだ、と房子も言つたけど、透と良三は、

「なあに、こんな老猫はもう捨てた方がいゝよ。おまけに女猫だから又産むとせわだ」と言つた。

 房子も強ひて止めはしなかつたので遂々家付の猫は自分自身も、子等と離れ離れに追放される事となつた。透は例の通り風呂敷に親子二疋の猫をつゝんで、電車で、市中の、それも海邊裏のゴタゴタと小家がちな、とある路次へ持つて行つて捨てゝしまつたので再び歸つては來なかつた。恐らく二疋のものは、泥棒猫にでもなり終つて漂浪してしまつたのであらう。後にはいよいよ三毛がたつた一疋となつた。三毛の首には美しいよだれかけがかけられた。三度のご飯の上には鰹節をまぶつてやつた。けれども、今迄親の乳のみ吸つてゐた三毛は、あまりご飯をたべ樣とはしなかつた。彼はいかにも淋しさうにポツンとして、畜生ながらも戀しい親を探す樣ニヤアニヤア鳴くのであつた。[やぶちゃん注:久女はこの「三毛」を「彼」と呼称しているが、三毛猫は性染色体に依存する伴性遺伝の典型例で通常、♀は殆んどいない。ウィキの「三毛猫」によれば、オスの三毛猫が生まれる原因は、クラインフェルター症候群Klinefelter's syndromeと呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXYなど)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移った場合に限って出現し、三毛猫のクラインフェルター症候群の♂の出生率は三万分の一しかない。そうした奇形個体でなかったとは断言出来ないが、この「三毛」(確かに三毛であったなら)は♀だったと考えた方が自然であり、それは外見上、容易に識別出来るから、寧ろ、ここで久女がこの「三毛」を♂、男として扱っているのは久女の病跡学的な興味、精神分析学的興味を私には喚起させるものである。]

 美しく毛を洗つてやり度いと思つてもそんな暇もなし、それにどうしたのか三毛の目は、だんだんやにが出る樣になつて、クシヤクシヤした、穢らしい目になつてしまつた。體のクリクリ丸かつたのが何だかゲツソリと瘠せて來た。

 房子が下駄をはいて土間へ下りる度、人戀しさうに、ニヤアニヤア鳴いて、着物の裾にすりつけて來る樣は哀れつぽく見えたがヤニだらけの目や竃の灰によごれた體を抱く氣にもなれなかつた。

 澄ちやんさへ此頃はもう抱かうとはしなかつた。男達は、見向ても見なかつた。ますます孤獨な子猫はやせおとろへた體をシヨンボリと、日もさしこまぬつめたい土間にすゑて、ひくい聲でニヤアニヤアないて居た。ぬくもりのさめぬ竃には入つて丸くかゞんで寢る事が子猫の爲めには一番の樂しみであつた。フチの缺けた小皿には忘れず、食物を入れてあつたが子猫はペロペロすこしなめて見て直ぐ、竃の中へかくれてしまふのであつた。

 夜寒がつゞくと子猫はますます淋しい有樣と成つて行つた。彼には唯親のぬくみと乳とを慕つたが冷たい土間と冷たい臥床が有るのみで長い夜中の寒さに、血の氣の少ない身を堪へがたかつた。けれども家の中には絶對に上げなかつたし哀れな猫の子はキツチリしめられた障子を押し破つては入る程の元氣ももうなかつた。

 房子はさすがに哀れに思つて日中は、箱に藁をあつくして其中に入れたまま庭の日當りにひなたぼつこをさせてやつた。子猫はそろそろ這ひ出して枯れた菊の根をごそごそ步いたりしたが大きな犬が垣根からは入つて脅かされる事もあつた。ツンと兩耳がやせ尖つて、はそ長く成つた。影ぼふしを、緣の直下の石の上にうすく引きつゝじいつと、坐つて動きもせぬ子猫を見ると房子は可愛さうでならなかつた。殊に夜寒がひしひしと夜なべの膝にもかんぜられる夜房子は、子猫がニヤアニヤアと訴へる樣になくのを聞くと土間に下りて行つて、赤ん坊のおしめの綿の入れたのでクルリと子猫をくるんでやつた。そして自分の懷の懷爐を子猫の中へ入れてやつた。ニヤアーと子猫は小い聲で鳴いては人戀しさうに、房子の手をなめるのであつた。寢しなにも一度下りて見に行つた房子は、子猫がいゝあんばいにおしめの中で丸くなつて暖まつて寢てゐるのを見て安心して寢た。

 夜中になると、戸外には雪の樣にまつしろい大霜が降りた。しんしんと月光が大地に凍てついて、それはそれは冷やかな夜であつた。[やぶちゃん注:「しんしん」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 子猫は何度も寢返りをした。そして床の中でおしつこを垂れた。

 懷爐は消えてしまつてぬれたおしめは水の樣に成つた。子猫はニヤアニヤアーと力なく鳴いたが家の人々は皆布團の中にぬくぬくと寢入てゐた。子猫は箱を出て竃の灰の中へは入つたが夕方焚いたその竃の灰はもう冷えきつてゐた。[やぶちゃん注:ここ以降は、 SE(サウンド・エフェクト)として傍点は久女の打ったままを原則とした。]

 子猫はつめたい灰の中へもぐりこむ樣に身をうづめてニヤアア、ニヤアー……と、ひくい聲で何かを求める樣に鳴いた。

 房子は時々日をさまして、子猫の哀つぽい鳴き聲を耳にしたが、睡いのと寒いのとで、氣にしつゝ見にも起きず、また寢入つてしまふのであつた……。

河畔に棲みて(一)~(九)   杉田久女

[やぶちゃん注:どうもここ数ヶ月、どうにも気分が滅入っていっこうに晴れやらぬ。

 さればこういう時は、極私的に、全く個人的に、誰のためでもない電子テクストをやらかそう。

 しかし、「誰のためでもない」とは言いつつも、自慰的仕儀は意に沿わぬ。

 されば、恐らくは現行では殆んど誰も読んだことのないもの、読みがたいもの、が、これ、よかろう。

 そうして原則、注は附さぬのだ。

 といっても結局、私の神経症的気分はそれを許さぬだろう。一部、どうしても附さねばならぬ、したい、と感じたものは本文内の段落末にストイックにポイント落ちで入れ込んではどうか。

 これはこれで、私の切なる欲望だから私には差し障りは、ない。

 さればこそ、これ以上は、気は重くは、なるまい、よ。

 

 まず、愛する俳人杉田久女の小説にしよう。

 

 「河畔に棲みて」は久女満二十八の大正八(一九一九)年に発表された、恐らくは彼女の処女小説である(久女の俳句が『ホトトギス』に初めて載ったのは大正六(一九一七)年一月で満二十六)。同年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたもので全二十七章である。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」が多用されているが、これはブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 因みに、この舞台となった旧居とロケーションを北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の「板櫃川河口」で詳細に現認することが出来る。画像も豊富で本作を鑑賞するにすこぶる相応しい。是非、ご覧あれ。【2016年7月21日始動】]

 

 

 河畔に棲みて

 

       一

 

 房子は結婚後直ぐ夫の良三と一緒に、其つとめ先のK市へ來た。

 四人の兄妹の一番末つ子で何の不自由もなく大きく成つた彼女が俄かに田舍の教師の妻として質素な生活をしなければならぬと云ふ事は可成り房子に取つては苦しい努力であつた。が良三は長男で、其家と云ふのは田舍で相應な資産家であつたので、長女が生れる頃迄は彼等二人は至極呑氣な苦勞のない生活をしてゐた。處が結婚してから五年目の秋良三の大事な母親が死んで後は、彼の父は賤しい妾を引き入れ家の中は一時動搖し波瀾も樣々起つて良三夫婦も從來の樣に呑氣にのみはしてゐられなくなつた。はじめて悲しい辛い目にも逢つた。けれども何と言つても父の家とは三百餘里も離れて住つてゐたので直接其厭(いと)はしい渦の中にも卷き込まれず、心配も苦勞も、對岸の火事を見る樣な心地であつた。

 酒も煙草も呑まず眞面目一方の夫を持つた房子は、或時には女なみの不平も持つたが親子三人水入らずで、丈夫で、不自由勝の生活の中にも好きな繪を畫いたり、野菜や草花をつくつたり充分田園趣味を味はう事が出來る境遇に居ると云ふ事を樂しく思つて暮して來たのであつた。[やぶちゃん注:「不自由勝」の「勝」は、ともすればそうなり易い・そうであることの方が多い状態を表わす接尾語の「がち」である。]

 實際この九年間の彼女の生活には強ひて苦勞らしい苦勞と云ふものもなく平穩な單調な生活をかき亂されずにズツと來てしまつた。

 丁度其九年目の夏に房子は次女の光子を生んだ。

 長女の方はもう六つに成つてゐて格別手はかゝらなかつたけれども、産後の肥立が暫らく惡かつたのと乳が出なかつたりして赤ン坊に手のかゝる事は大變だつた。

 それに産前から雇つてあつた女中も、お宮詣りがすむとまもらく歸へしてしまはなければならなかつた。九月の末になると急に朝晩はうすら寒くなつて、引しまつた心持で房子は片手に赤ン坊を抱き抱へつゝ、おむつの洗濯もし裁縫もする。かなり忙がしい思ひをして暮すのであつた。[やぶちゃん字注:「まもらく」はママ。誤植或いは「奈」(な)と「良」(ら)の一部の仮名変体は似ているので校正者の誤読であろう。]

 十月に入つてからは天氣がズツとつゞいた。

 二丁許り下手で海へ注ぎ入る川添ひの房子の家では、緣先の日當りのよい庭に二畝ばかりの葱や、菜が植ゑられてあつた。畠のまはりには四五木の立木が朝顏の枯れ草を卷き付けたまゝ立つてゐた。

 其立木の枝から枝に竿を渡して小さい襦袢だの赤い着物だの、お襁褓だのが每日干された。畠の一方には、背の高い雁來紅が五六本秋晴れの遠山の藍を背景にして赤く燃えてゐた。[やぶちゃん注:「雁來紅」音は「ガンライコウ」で、雁の来る頃に紅くなることに由来する「葉鶏頭(はげいとう)」の別名であるが、ここは「はげいとう」と当て読みしたい。]

 かうした彼女一家の生活に突然變化を與へた者は、ヒヨツコリと此河畔の家を訪づれた房子の兄の透(トホル)であつた。

 最初、突然に東京の父から「透も今度暫らく御地に行く事と決定して出立した。委細は到着後本人に御聞下さるべし」

と云ふ例の簡單な、夫宛の手紙を讀んだ時、夫婦は顏を見合はして、

「まあどうしたんでせう」

「まだ口もしつかり定まつたのでもないのに……」と房子が言ふと「さうだ。折角遙る遙る來られて、長く遊ぶ樣にでもなるとお氣の毒だ……」と良三も訝かつた。

 長く離れて暮して居る此兄を大變氣兼ねの樣にも思へたし、今迄の水入らずの中に急に大人を一人交じへる事の色々の氣遣ひ、それから赤ン坊片手の忙がしさなど考へ合せて、こんな、不自由がちな、客布團一枚、勝一枚もろくろく無い樣な生活の中に、察しもなく押しかけるなんて、すこし無理だと房子は考へて、妙に沈んでしまつた。

 でも又やつぱり親身の情で三四年振りに兄に逢へるのは大變待ち遠しい心地もした。

「丁度明日あたりですね」

 房子は日附を指折つて見たり古い汽車の時間表を繰つたりした。

 

       二

 

 翌旦房子は朝から兄を待つた。

 低い岡をバックにして野原の片隅にたてられた電車の停留所は房子の家の緣側から近くに見えた。

 町の方から來る電車は五分問おき位に菜畠の間を走つて來て、玆の停留所に四人の人々を吐き出しては又海邊の方へ走(は)せ去るのであつたが、電車を下りて川堤を步いて來る人々の中にも遂に兄の姿は見出す事が出來なかつた。

 夜着く汽車に違ひないと獨りぎめにきめた房子は午後になるとおんぶ羽織に赤ン坊をしよつて電車で、町へ買物に出かけた。乾燥した秋の町には綠色の半襟をかけた美しい女が步いてゐたり、飾窓には、新柄の反物や帶地が陳列してあつたりした。幅の廣い電車通りの街には活動寫眞の廣告が囃し立て、通つて居た。町角にはもう靑い小蜜柑や靑柿などを賣る女達が並んでゐた。始終郊外にすつこんでめつたに出た事のない出嫌ひの房子には、かうした街の色彩なり感じなりがかなり鋭敏に受取られた。

 房子は一寸飾窓の前に立留まつて、子供用の緋繻珍(ひしゆちん)の帶の値など讀んだ後魚市場の方へ足を移した。[やぶちゃん注:「緋繻珍」現代仮名遣「ひしゅちん」は繻子織(しゅすおり:経糸或いは緯糸の孰れかが表面に長く渡る織り方。サテン)の地に多色の絵緯(えぬき)と呼ばれる緯糸で文様を織り出した滑らかで艶のある絹織物の、赤味の強いもの。「しゅちん」という呼称は七色以上の色糸を用いたので「七糸緞(しちしたん)」と呼ばれていたものの転訛とされる。中国伝来で室町末期から織られ、幕末から明治期には専ら、打掛や女帯に用いられた。]

 そしてあれこれと買ひ整へた重い風呂敷包をさげて又コツコツと野外の家へ歸つて來たのは三時過ぎてであつた。背中で寢てしまつた赤ソ坊をしよつたまゝ水を汲んだり兄を迎へる爲めの料理をするのであつた。けれども兄は遂に、最終の十一時何分かの汽車が、直ぐ川下の鐵橋を渡りつゝあるのを聞きをはつてから暫らくの後も彼女の宅に來ないでしまつた。

 その翌朝、房子はいつもの樣に夫を送り出して仕舞つてから長女の髮を梳いてやつたり、食卓の後かた付けをしたりしてゐるところに兄はヒヨツコリやつて來た。布團らしい大きな菰包と手提鞄と絹張の洋傘太い銀柄の洋杖(ステツキ)なぞをくゝり合はしたのと是丈の荷物を車夫が玄關の板敷に運ぶ間透は土間に立つてゐた。透は高下駄の新らしいのを履いて手にはも一本毛繻子の洋傘を持つてゐた。久し振で兄を見た刹那房子は此前東京で逢つた時よりも大變ふけて、着物などもあの贅澤やが着馴れた縞の銘仙のふだん羽織に、汽車で寢起した時のうす皺をよせてゐる樣が何だか兄の此頃の境遇を語る樣にも覺えられて、じつと、車夫に銀貨を出してやる透の背をみつめるのであつた。透は落付いた態度でズツと座敷へ通つた。

「兄さん。しばらく……さぞお疲れでしたでせう」

 房子が座布團をすゝめながら叮嚀にお辭儀をすると、

「やあどうも、今度はとんだお世話になります」

 透も一寸あらたまつて挨拶した。

 上の娘は外へ遊びに行つたし、赤ン坊は寢て仕舞つたので家の中は靜かだつた。久し振りに相對した兄妹の間には、東京の兩親のはなしやら其後の御互の消息やら、いろいろな話しが次から次へと語り續けられた。話が透の今度玆へ來る樣に成つた譯に落ちて行つた時、

「僕は最初父からK市へ兎に角行けと話のあつた時斷はつたんだ。まだ就職口がはつきり定まつたんでもなし、それに僕は官吏は嫌ひだしね、東京には俳句の友達も澤山居て、どこかに世話してやらうと言つても呉れたし……子供の二人も居る房子さん處へ押しかけて來るのも氣の毒だから、と言つたんだが」と透は答へて、

 當市へ來るのなら旅費もやらうし就職口のある迄の食費其他入用の物丈は不自由ない樣に送るから直ぐ立て、でないと一切以後は窮狀を告げて來てもかまはない。と一徹な父に足許から、鳥の立つ樣に言はれて、透も不承不承都を發つて來たのだ、などとも語つた。

「それで嫂さんはどうなすつたの?」と聞くと透は淋しく笑つて、

「うん、お芳か。K市へ來る事は知らしてないんだ……」

と答へるのであつた。

 

       三

 

 房子は驚いて

「まあどうして?」と聞くと

「僕は滿洲の方へ口を探しに行くから當分居所を定めずいつ歸るとも判らない。口が定まつたら呼びよせるとかう言つた丈けだ。何しろ父から話が有つてから三日目には發ったんだからね」

「そして嫁さんはどうなすつたでせう」と房子が熱心に聞くと、

「さあ里へでも歸つてるだらう……」透の顏は流石(さすが)に曇つて居た。何でも透は、家財も鷄も一切始末してしまふ事を言ひ置いて、自分は只房子の家へ持ち運ばれた菰包と手提鞄丈を身につけて、只一人見送る人もなく知友にも知らさず瓢然と旅へ出たのであつた。此失意の兄を目前に迎へた房子は、昨日迄の何となく水臭い心持を捨て、眞心から、淋しい透の心持に共鳴する事が出來た。やがて晝に成つたが、婢もなし買ひに出てもこの近所の店には野菜一つろくなものは無かつた。この遠來の客を迎へる初めての膳の上には只三品許りの貧しい皿が並べられてゐるのみであつた。

「兄さん。お話ばかりして居たのでほんとにお氣毒な樣に何も無いんですよ」房子は心から極り惡く思つてかう言つた。

「何結構だ。僕はもう今日からお客樣ぢやないこゝの人に成つたんだもの。僕も此節は手輕に暮しつけてるよ」かう氣サクに答へてまつさきにフライに箸を付けた透は、

「これは、家でしたのか」

「はあ……」透が一口食べて其儘皿へおいて終つたのを見ると房子は何だか、こんなもの食べられないと言はれた樣でドキンとした。それは昨夜のフライの揚げ直しだつたから……。食事が濟むと、透は退屈さうに表へ出て、潮の退いた川原を眺めたり、緣先へ立つたりした。房子が子供に乳を呑ましたり、コチコチと下駄の音をさせながら風呂水を汲み込むのを見遣りつゝ、兄妹中で一番末つ子の、子供の樣に思つてゐた妹がすつかりと主婦めいて來たのをつくづくと見守つたり、産をしたせゐかふけたなど思つて見た。

 家の中は古びた疊建具で、それに天井も柱も緣も黑つぼく塗つて有る爲め一層陰氣な感じがした。

 床の間には花のない花器が置かれてる許り。目ぼしい道具もなく總べての有樣が華やかな氣分は少しもなかつた。臺所の方から手を拭き拭き出て來た妹の顏を見ると透は緣の柱に身をよせたまゝ、

「隨分荒れた庭だなあ」と思つた儘をヅケヅケ言つた。

「エエ。手が屆かないものですから」と房子は笑ひながら答へたが立ち枯れた向日葵にも枯木にもいつぱいクルクル卷き付いてゐる蔓朝顏。それから隅の方に咲いてる石蕗の黃色い花。その向うに三畝許り蒔かれた柔い冬菜の綠色。風に搖れつゝある赤い竿の着物夫(それ)等の物にも土にもいつぱいに午後の秋日がさしこんでゐる樣は、所謂庭園らしく造りつけてない荒れた侘しい感じはするが其佗しい打沈んだ庭の面に、色彩に水彩畫的の豐富な調子が見出されるのであつた。房子はすべてに明るいパツとした強い刺激を漁つて派手に暮してゐた會社時代の透を思出して、この十年この方質素な貧しい生活の中に土臭いのを樂しみに暮して來た自分と、兄と非常な隔りのあるのを知ると共に、今この古柱に、漂浪の身を寄せて、いまだに歡樂の夢を追つてゐる樣な淋しい兄の目を見るのであつた。

 殊に手傳はせて庭先で解かれた菰包の中からは、綿の薄い布團や常着が、二三枚出て來た外には俳書のみだつた。大分前からのホトトギスや俳書が可成澤山あつた。

「外の物は皆賣つても惜しくは無かつたが俳書丈はをしかつたよ。まるで二足三文なんだもの。でも是丈はどうも手離しかねて持つて來た」と透は言つてゐた。

「あの鞄の中は着物?」と房子から聞かれると透はカラカラ笑つて、

「着物は着た切り雀さ。あの中は俳人の端書だの短册許りだ」

 房子は本を高く積み重ねては何度も何度も庭先から床の間へ運んだ。そして座敷の次の間を兄の間に定めた。透は例の鞄の中から蒔繪の硯箱や文鎭筆立の樣なものを取出して並べた。筆立の中には錐。萬年ペン。耳の穴を掃除する小道具の樣な類迄さゝれた。

 

       四

 

 長い間官吏生活を續けてゐた彼等の父に從つてあちこちと子供の時から移り住んで行つた彼等は、透の中學校を卒業して上の學校へ入る時分からはズツト離れて三年目に一度か四五年目にやつと逢ふ位のもので、しみじみと兄妹らしく語つた事は無かつたのが、かうして一緒に暮す樣に成つたので當分の間は朝から話許りしてゐた。

 殊に、秋雨がじめじめと際限もなく降り出して、良三の掘りかけた畠の隅の土にも菜畠にも、うそ寒さが漂ふ樣な日は、透は障子を閉め切つて机の傍に火鉢を引きよせつゝほどきものなどする妹としきりに語り續けた。

 透は本所の某會社に十年あまりも購買の方の主任を勤めて重役の一人から非常な信任を得、透自身も其重役の爲めには骨身惜まずにつとめた。才氣走つた彼は何事もテキパキと敏活に仕上げて行つた。

 或點は豪膽でもありどこ迄も男性的に出來上つてゐる活動家の透は隨分大酒も豪遊もして居たが會社の方の仕事丈は非常な熱心でやつてゐた。處が透を引立てゝくれる其重役が肺病で死んでしまつた後は急に日頃反對派のもの達が勢力を占め日頃の妬みを一時に逆寄せて來た。自我が強くて負けず嫌ひで、阿諛の下手な透は、邪魔者扱にしてるなと氣が付くと、重役でも何にでも反對に出た。時には殊更に突當つて行つた。會社の内情に一番精通してゐるのをカサに着て、中々降らなかつた。おしまひにはヤケ半分に休みつゞけたりした。

 度々申出たが辭職の願は取上げられなかつた。そして充分會社の方の準備の出來た頃十二月も押し迫つてから突然ポンと、辭職を強ひられた。豫期した事ながら彼は非常に憤慨して即刻やめてしまつた。夫婦の仲には、結婚してから六年めに成つても子供は遂になかつた。その故か、透と其妻のお芳との間は兎角圓滿を缺いた。一つは透の素行の惡いなどの點からもあるが、一つは又、早く兩親に別れて繼母の手に育つたお芳の性質のひがみ易い、一向優しみのない氣強い性質、柔順も涙も無いと言つた樣な彼女の性質が一層衝突を容易ならしめた。でも又仲のよい時は子の無い夫婦は隨分贅澤な身なりをして芝居見に出掛たり、凝つた料理を食べて𢌞つたり。或時の透の誕生日には、知人を二三十人も呼んで盛宴を張つたりした。透の洋服にプラチナ鎖が垂れゝばお芳の指にはダイヤの指環が光る。一流の料亭に遊び更かして二時三時頃上野の家へ歸る時には大つぴらに自動車を門先に乘り付けて芳子の心を搔き亂さした。かくの如くして或時は妻に氣の毒な憂ひを抱かしめる。彼れは又時々の妻の我儘も大目に見逃さなくてはならない時があつた。透と芳子との間が次第に危機に陷つた時彼等夫婦と、兩親との間も色々な事情の爲め甚だ圓滑を缺いて居た。透は母に隨分永い間我儘も言ひ心配も苦勞も山程かけた。一徹な子に嚴しい父を執成して幾分父の怒を慰さめ和げるものはいつも母であつた。透の酒色の爲めの出費や會社の不首尾は謹嚴な古武士の樣な父の決して喜ばぬ處だつた。遊興費はすべて母の手でつけられた。けれども透夫婦は面と向つては叱言など言はない父よりも、當然あれこれと父に叱らせぬ前に叱言を言ふ親切な母を父へ惡樣(あさいざま)に告げる樣にさへひがんだ。[やぶちゃん注:「搔き亂さした」底本には「亂さ」の右に編者によるママ注記が附されている(が、私は寧ろここは特に気にならない)。なお、「執成して」は「とりなして」と訓ずる。]

 

      五

 

 そして突然夫婦は、兩親に通知もせず巣鴨へ引移つて、いよく困る迄ハガキ一本出さなかつた。父は勘當すると激怒した。種々な事の爲め次々に家庭に心配が漂つた。夏房子のお産を心配して遙々K市へ來た母は、

「透等の事は寢てもさめても心配してる。K市邊は會社も多しどうかお前方夫婦の手で勤め口を探して呉れないか」としみじみ言はれて、房子夫婦は苦勞の多い、母の爲め、兄の就職口を探す事を快よく引受た。

 だがおとなしい靜かな性質の良三は、腕も切れる代りに酒も呑み遊びもすると云ふ樣な透の性質に思ひ至つた時、少し自分には荷が重過ると感じた。怖ろしい豫感をさへ抱くのであつた。妻の房子も同じ樣な氣持がして「兄さんもお酒さへ止めなされば申分ないけれど……」と言つた。

「もう今度こそ丸一年も遊び續けて懲り懲りしたから透も以前の樣な馬鹿な事はしますまいよ。それに萬一の事があつても私達が居る以上はお前達に迷惑のかゝる樣な事は決してしない」

 母はかう言つて呉々も賴んで行つた。其後或る官吏に一寸したあきのあつた事を透の許へ知らしてやると「自分は官吏は嫌ひだがどこか會社にでもあつた節は知らして呉れ」と言ふ返事が來た。透も最初の間は高賣してゐて、可成り方々の口もあつたのを皆氣に入らないで斷つて居たが居食に約一年遊び暮して中々思はしい口も無し九州の有望な景氣を母の口から聞き一徹な父へ母からとりなして貰つて絶對に酒なぞやめる約束で來る事と成つた。話上手な透の話を熱心に聞いて居た房子は、時々ほどき物の手を休めて兄の話に切り込んで行つた。[やぶちゃん注:「居食」「ゐぐひ(いぐい)」と読む。働かずに手持ちの財産でのみ生活していくこと。無為徒食。この私藪野直史のような輩を言う。]

「巣鴨にいらつしやつた時はどんな風に暮していらしたの」

「會社をやめた當座は夫婦で每日每日遊び步いたよ。芝居にも隨分よく出かけたね。それから好きな鷄も九羽許り飼つて居た。困るとはいふものゝ夫婦切りだし多少餘裕もあつたから晩酌も每晩やつたよ。食いたいものも喰つた」

 透は面白さうに答へてカラカラと笑つた。巣鴨時代は透も茶屋遊びなどは全くやめて割合に眞面目に成つたので芳子との仲も却つて不自由の無い時代より睦まじかつたらしい。飮食の欲望は可成盛んな透も金錢には至極淡泊で、有れば有る丈パツパと成丈派手に使ひたい方なので、二三年はやつて行ける筈の貯へもぢき乏しく成り掛けて來たらしい。[やぶちゃん注:「成丈」「なるたけ」で以下の「派手に使ひたい」に係る。]

「何しろ暇なものだから俳句に凝て暮した。大抵な句會には缺かさず出席もしたし知名な俳人達とも交際した」とは何よりの自慢らしく話した後で例の鞄を押入から持ち出した。中古の天鵞絨張の鞄の中からは、俳壇で一流と言はれる人々の短册二十枚が出た。[やぶちゃん注:「天鵞絨張」「ビロードばり」。]

 透は一々夫れを讀み聞かせたり、其短册を書いて貰つた時の有樣を話したりした。其短册の中には、俳巨人と言はれて全國の俳人達から活神樣の樣に敬はれてゐる某氏のも四五枚あつた。それから又透は、夫等著名の俳人の風丰(ふうぼう)や逸話をも聞かせた。俳巨人某氏の寫生文の有難味や、能樂の非常に得意な事。夫から某老大家の話自分と句兄弟である英新聞の記者某氏が江戸つ子肌で非常に透と意氣投合し且氣持の好い人物である事などをこまこま語つて後、自尊心の強い彼れは、自己の俳句界に於いての地位を殊に力説した。自己を相應に「認めらるゝ俳人」として自負してゐる彼は、「心を引締て愈々勤め口の決定する迄は俳人等とも交遊を斷つて只管(ひたすら)謹愼せよ」と父から文通さへ止められた事を唯一の遺憾とした。種々な事情の爲めに、

「朝晩往來してゐた俳人仲間へ一言の暇乞もせずに來てしまつた。俳句は自分の生命でもあるし變に夜逃げでもした樣思はれては僕として一番殘念だ」と彼れは切に訴へるのであつた。實際透の爲めには妻に無斷で遠地へ漂浪し初めた事よりも俳人仲間と交渉を斷つた事の方が餘程苦痛らしく見えた。房子は俳句も知らず、俳人仲間の名さへ初めて聞くのであつたが一體に文學趣味を持つてゐる彼女はもの珍らしく多大の興味を以つて、兄の寶物の樣大事がつてゐる短册や、手紙、端書の類を眺めるのであつた。[やぶちゃん注:「風丰(ふうぼう)」のルビは正しい。風貌と同義であるが、風貌の場合は歴史的仮名遣は「ふうばう」であるが、この「風丰」は「ふうぼう」である。]

 

       六

 

 兄を唯自我の念の勝つた理智一點の人間の樣に思つて居た房子は每日透と膝突き合はして語る中次第に兄を理解もし今の境遇に對して同情もよせた。兄の過去を憎めない心地もした。「兄さんもうお酒はやめて眞面目に今度は成つて下さい。お母さんも本當に心配していらしたわ。折角好いとこに勤めていらしたのに、惜かつたのねえ」と言ふと、

「なあに人間だもの七轉び八起だよ。僕は決して悲觀しない。吃度(きつと)今度はやつて見せる」と緊張した面持に成つて「だが隨分一時は無茶な事をやつたよ」と其當時の殆ど常識から考へては馬鹿らしい豪遊振や物質上のケパケバしい生活を得意げに語り出す事もあつた。夫は房子などの考へも及ばぬ現實味の勝つた世間臭い物だつた。

 其生活の中には精神的な安心も、愛も、敬虔な信仰もない。只爭鬪や、上辷のした歡樂のみがあつた。[やぶちゃん注:「上辷」「うはすべり(うわすべり)」。]

「兄さんの今迄の榮華はすべて泡錢や虛飾から出來上つてるのですね。自然覆る筈ですわ。あなたは夫で面白ろ可笑くお暮しでしたでせうが、いつも遊蕩費を負ふのはお母さんなのですもの、兄さんも最う昔とは違ふのですもの、今度こそは御兩親に心配かけないで下さいな。ねえ兄さん……」

 思ひ切つて、切り出した房子の聲は震へてゐた。只自己の歡樂のみを追うて年老つた父母の心配をも忘れ、いつまでも兩親の懷を當にしてパアパア湯水の樣に使つてしまふ透の生活は、あまり物質的であつた。もすこし淸い荒(すさ)まない兄にしたい。母の苦勞を減らしたいと彼女は熱心に思ひつゞけた。

 母への感謝は忘れてまだまだ母の愛が足りない、母は長兄のみ大事にすると言つて、透は自分から優しく只の一度もしないで、寧ろ母に突當る樣にして來たのであつた。

 房子は燃える樣な熱心で、或時はおめず屈せず、物質萬能の兄を罵り母の愛を説き、母の苦心を聞かせ、或時は涙を流して兄の荒んだ心持を純なものにしたいと願つた。だが兄は盛んに房子の説に反對し不平を並べもし、自己に都合のよい説をまうけていつかな彼女の精神的な心持を受入れようとはしなかつた。のみならず、話上手な議論好きな彼は、上手に理屈をくみ立てゝ往々房子へ肉迫して來た。[やぶちゃん注:「おめず」マ行下二段活用の自動詞「怖(お)める」(現行では使用頻度が低い)の未然形に打消の助動詞「ず」の連用形が附いたもの。]

 房子は充分心には思ひつゝ筋道立てゝ、縱橫に辯説を構へる兄を説得すべく出來能はなかつた。[やぶちゃん注:「出來能」「できよう」と訓じていよう。「よう」は「能(よ)く」の音変化だから「やう」(樣)ではない。]

 が自分の眞心と熱誠を以つて必らず、母の愛をつぎ込み、兄を幾分なりとも精神的にしたいと彼女は心の中に誓つた。房子は何でも率直に、言ふと云ふたちの女なので怖れず、自分の正しいと思ふ事はヅケヅケ言つた。倂し兄妹とも至極眞面目に各自の立場立場から爭ひ合つたにもかゝはらず、彼等は決して怒つてはゐなかつた。

 火の樣に熱して語りあつてゐると頭の上で、ポカリと電氣が點いた。隣りへ遊びに行つてゐた、長女の澄子が歸つて來て、

「お母さん御飯まだ?」

と催促する事もあつた。

「おやおやもう五時過ぎてますよ。伯父樣があまり強情おはりになるものだから」

と房子は笑ひながら、仕事を片附けてソソクサと夕飯の仕度にかかる事もあつた。

 夕方もう日の暮れ暮れに房子の夫が歸つて來ると、燈の下に賑かな食卓が持ち運ばれる。「謹愼中は酒は一滴も呑むべからず。衣は寒さに堪へ得、食は飢をふせぎ得れば足る」と言ふ樣な手紙を父からは、兄の許へ寄越して來た。母からも懇々賴みもあるので房子はわざと酒はめつたにつけなかつた。每夜の樣晩酌の二三合づゝ飮みつゝあつた透の爲めには夕の膳の上に盃を見ないと云ふ事は當分の中一番苦痛であつた。

 

       七

 

 房子の家では着物は極くかまはない方だつたが食物だけは割合に氣をつけてゐた。房子の父は非常な食道樂だつたので房子も自然食物を料理する事には興味を持つてゐた。一個の馬鈴薯一本の牛蒡をも彼女は樣々に工夫して料理した。

 或時には牛の舌が煮られる事もあり、豚のロースがテーブルに並ぶ事もあつた。一寸繪心の有る彼女は、料理の體裁なども氣をつけ色彩などにも注意して樣々に變化させ美化させる事に苦心した。貧しい厨ではあつたが萬事應用して行く事に興味を見出してこの粗末な卓上にも折々豐富な料理がならべられた。だが兄の透に取つては一寸一口、盃のふちへ唇を付けないと云ふ事が非常に淋しいものに思はれた。房子達は皆で兄さん兄さんと、精一ぱいまごゝろから大事にしては呉れたが、どうか飮まして呉れとは流石な彼も言ひ出しかねて、直樣お茶碗を取り上げた。[やぶちゃん注:「直樣」これで「ぢきさま(じきさま)」とも読むが、「すぐさま」で読みたい。直ちに。]

 寢ようとすれば布團しきにも來てくれ、嫌な感じは少しもなかつたが自分の家にゐて思ひ通りにするのとは萬事勝手も違ひ時々は解きすてた過去の家庭をなつかしいとも思つた。

 何か祝日とか日曜の夜とかは房子は兄を慰める意で、河畔の店へお酒買ひにいつた。そして酒飮の口にあふやうなものを二三品つくり添へた。わづか二合程の酒を、チビリチビリと樂しみつゝ機嫌よく飮んで呉れる兄を見ると房子は兄の樣な性質の男がかうしておとなしく淋しい生活を續けてゐるのを氣の毒にも思へた。

 子供は「伯父さん伯父さん」と馴付いて、透の散步へゆくにも湯に行くにも離れなかつた。良三も透を大事にしてくれた。一家はお互にいろいろな辛さを忍んで至極平和に、最初心配した樣な氣まづさもお互にあぢははず暮す事が出來た。

 夫の良三は、兄の就職口を奔走する爲めいろいろな手蔓を賴つて方々自ら賴み𢌞つた。

 野心も企圖も燃える樣な四十に手のとゞく男が、なす事もなくブラブラと日を送る事の無聊な苦痛や、妻に別れ家をすて友にも背いて、今は彼の最も貴しとする富や權力に遠ざかり、酒色をも顧ず唯あけても暮れても貧しい妹一人を話相手としてわづかに活きて行かねばならぬ彼の心中の寂莫は非常であつた。過去の失敗も失脚も運命とあきらめて、敝履の如く榮華を捨てゝしまつた彼れは、一面に於て夫れを一向意にも介せず、

「なあに」と至極呑氣にかまへてはゐたが其半面には都會人らしい非常に鋭敏な感情をも持つてゐた。感傷的ではなくどこまでも女々しい事は口にしない性質で、

「なあに、今に盛り返して見せる。吃度僕だつて、此儘朽ち果ててしまふ樣な意氣地なしではないんだ」と力を入れて言ふのであつたが、其明晰な頭は何事に逢着しても充分徹底的な判斷を下さないでは氣がすまなかつた。彼れは苦痛をも口に出さず、内心に深く深く刻みつけ考へ詰めもした。自信の強い、或時は圭角ある物言もする兄を房子は憎めないで却つて俳趣味のどこかにひそんだ、兎に角轉んでもつまづいても、何となく元氣があつてテキパキしてゐる兄の性質を「面白い性質」だと思つた。親達に優しくないのも一つは彼の淡泊な性質からだとも思へた。房子は透の襯衣(シヤツ)を洗濯したり、朝晩のチヨイチヨイした身のまはりの世話をも成丈(なるたけ)まめまめしくした。[やぶちゃん注:「敝履」「へいり」。弊履に同じい。破れた履き物。使い物にならない物の喩えとしても用いる語。「圭角」「けいかく」。「圭」は硬い宝玉の意で、玉石にある角(かど)から転じて、性質や言動に角(カド)があって円満でない様子を指す。]

 また兄の動靜を知らせる東京への手紙の中には「兄は丈夫で至極まじめで每日暮してゐる。以前の兄とは違つて、兄も今度こそ辛抱が出來るでせう」といつも兄の味方になつた。淋しい兄の爲めせめて俳人達との文通丈許して頂だき度いと房子は手紙の度に父へ賴んだが父は「出立後まだ一月にもならぬのにもう左樣な言を申樣では前途の謹愼も覺束ない」と却つて不興げな返事を兄妹に宛てよこした。一緒に讀んでゐた透は苦笑しつゝも強ひてとは言はず、此河畔の家に世と斷つて起居した。

 

      八

 

 十一月に入ると朝晩はめつきり寒く成つたが秋晴の爽かな日和が續いた。手の無い房子の爲めに晝は赤ン坊を抱へて呉れたり、長女を連れてたまには買物にも行つたり、又川向うの漁師町を見物に出かけたり、漁船の歸つて來るのを見に行つたりして日を消してゐた透は魚釣を初める事に依つて此禁慾的な生活の中に、一道のまぎれ場を見出し得たのであつた。

 日が高く上つて川向うの水神の小雨の邊がはつきり現はれる頃になるともう土堤の黃樺色した芒の中にも橫へられた河原の船にも、枯蘆の中にも、突出た石垣の上にも鯊(はぜ)釣の人達が、雨の降らない限りは吃度十三四人も見えて居るのであつた。午前中にたつ漁師町の競り場で小海老の餌サを買つて置く事は透の每日の定つた仕事の一つであつた。彼は押入の中のあの鞄をあけて、布で縫つた財布から白銅をつまみ出して、クルクル紙にくるんで、餅の羽織の袂へほり込んで、それから緣の庇へ吊つてある魚藍(びく)を下して行くのであつた。澄子はいつも草履をバタバタ言はせながら「本所の伯父さん」に吃度從いて行つた。[やぶちゃん注:「黃樺色」「樺色」は赤みの強い茶黄色であるから、それの強く黄色に偏移した色。薹のたった薄の穂であるから薄い鬱金(うこん)色といった感じである。]

 天氣のよい日堤に立つて川面を見てゐると上潮につれてグングン小河豚や鯊などのせり上げて來るのや、銀色した鯔(いな)が跳るのを見た。當地へ來てから初めての、釣には新米な透は、素早く呼吸を會得して朝つから釣てゝもダボ鯊一尾もよう釣らぬ下手な人々の貧弱な魚藍をのぞき𢌞つては餌サの付け鹽梅や、糸を引きあげる瞬間の呼吸等ををしへる事さへあつた。そして自分では小い河豚や鯊を釣つても「江戸子はこんな小魚は喰はないや」なんて、針からはづして川中へはふり込んでしまふのであつた。尤も透の呼吸は釣好きな良三に負ふところが多かつた。晝は河豚に餌を奪られてしまふので彼等二人は夜釣一方だつた。二人は釣竿と魚藍と、提燈を持つてすぐ前の川で釣るのであつた。釣れるものは、さし潮につれて上つて來る一年子二年子位な海鰤(ちぬ)やセイゴなどで、外には鰻が大變釣れた。釣りには月のない夜がよいので暗い堤に、二人の釣る提灯が時々場所を替へたり、一とつところで釣つたりするのが、房子の家の緣側からよく見えた。時には他の提灯が彼等の提灯に近よつて行く處も見えた。或時は庭の樅の梢を透して、漁師町へ渡る橋の中程に釣る彼等の提灯が霧の中にボーツと見えた。大抵の夜が十二時、一時頃迄。暗い水の上を見つめる樣にしてもう引くか引くかと只一本の糸に心を集中してしまふので、其間は何も考へない。引かゝつたり、時には逃したり、透の興味は只魚が釣れ樣がつれまいがすべてを忘れて、魚釣に一心を傾け盡すと云ふ事それ丈が、今の境遇に於いての唯一の活動でもあり努力でもあつた。寢坊な良三の方は却つて、釣竿を手にしたまゝゐ眠などして、透の樣に眞劍で釣りはしなかつた。[やぶちゃん注:「鯔(いな)」地方によって異なるが、一般的には出世魚である条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の成魚(「ボラ」と呼称)になる前の幼魚或いは成魚となる直前の段階十八センチから三十センチほどの大きさのものを指す。「海鰤(ちぬ)」「茅渟」の漢字表記の方がよい。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii のことであるが、後で久女は「黑鯛」と記すところを見ると、その成魚前の中小型のクロダイをかく呼んでいるように思われる。「セイゴ」やはり出世魚として知られるスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で、関西では全長が四十センチ以下(一年物と二年物が含まれる)のものを一律に「鮬(せいご)」と呼ぶ。]

 時には電車に乘つて、市の西方の突堤などへ出かけ終夜荒い波を被ぶりつゝ釣りをする事もあつた。

 そういふ時は夕飯を早くすました透と良三は外套だの眞綿だのをかしな程色々着込んで、西洋乞食の樣な風をして出かけて行くので房子は、正宗の二合瓶に、一寸した折詰などを整へて渡す。夜通し防波堤の上で一睡もせず、釣りした二人は翌朝最初の電車の通ひ初めた頃疲れ切つて歸るのであつた。潮時になると途中一二ケ所防波堤のゴロゴロ岩は潮に浸されて陸へ歸る事は、潮の再びひく迄は不可能であつた。出迎へた房子は

「昨夜は如何でした。釣れましたか」と吃度聞いた。

 魚藍の中には黑鯛やアラカブ、目張、時には七八寸の海鰤が銀色の鱗を光らせて交つてる事もあり、生きた蟹がゴソゴソと魚藍の中で手足を動かす音もした。概して釣の成績は非常によかつた。[やぶちゃん注:「アラカブ」棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus の九州方言。他に「がらかぶ」「がぶ」などとも呼ぶ。「目張」同じカサゴ亜目フサカサゴ科(又はメバル科)メバル属 Sebastes(シロメバル Sebastes cheni・アカメバル Sebastes inermis・クロメバル Sebastes ventricosus の三種がいる。アカメバルは「沖メバル」とも呼ぶが、沿岸域にも棲息する)。]

 

       九

 

 透の就職口に就いて或日良三は北九州でも指折りの某實業家を訪ねて行つた。其子息達が良三の學校に通つてゐたと云ふ樣な只ほんの淡泊(あつさり)した因緣を手(た)ぐつて正直細心な良三としては押づよく出かけて行つたのであつた。その某氏の經營してゐる宏大な學校を通り拔けて、松山の麓に其邸宅があつた。

 可成立派な應接室に通されて良三は、某氏から至極居心地のよい應接を受けた。透の事を切り出して賴むと「今どこと申して空もなし直ぐにと云ふわけには行かないが兎に角御話の趣は承知した。一應近日御本人に逢ひ度い」と言はれて先づ絶望する事はない、逢つて貰へば本人の如何な人物かと云ふ事も判るからと良三は喜んで歸つて來た。透も房子も、「逢つて貰へば又話しの進め樣もある」と喜んだ。

 逢ひに行くにしても今の透は袴も羽織(紋のもの)も持つて無かつた。房子は早速手紙を書いて東京に送つた。

「まだ成否は判らないけれども某氏は當縣でも屈指の實業家でもあり、學校の方の關係もある故兄上面會の上は決定せぬとも限らぬ」由を認めドンナ袴でもよいから一着送つて下さいと母の許へ賴んだ。

 折返し來た返事は房子の姊の代筆で、申越の物は取揃へて送るが母も中々色々と、出費も多し父上は一徹で中々苦勞も多い故兄上も、充分氣をつけて心を引締め、母の情けを充分心に刻みつけて貰ひたいとの意が、あまり露骨に書かれてあるのを透は例の「なあに」と云ふ氣質なので、

こんなに僕も身を苦しみ不自由も忍んでるのにさうさう子供の樣に辛棒辛棒と、大概程度もあるぢやあないか」と大變不機嫌な顏附で、「房さんも僕の味方に成つてちつとは僕の自由になる樣取計らうべきが、兄妹の情なのに、大小洩さず、監視的に、報告して、益々僕を檻に入れ樣とするんだね」

 房子に突掛る樣に言つた。

まあ兄さん。あんまりですわ、兄さんこそひがんで……」

 房子もむきに成つてむか腹を一寸立てた。だが二人の小い爭ひも直ぐ消えてしまつた。

それから三四日すると東京から小包と菰包が着いた。小包の中には、兄の外出着や新らしい袴。それから里の定紋の付いた黑紋付の羽織に紐もチヤンと揃へてあつた。外に、大變世話になるからとて、房子や子供達へめいめい色々と、美しいものが入れ添へてあつた。房子の好物の海苔の箱入もあつた。こまこました是等の送りものを一々見入つて居た房子は事滋い母が年寄りの手に、かうして何から何迄心配して整へて下さるのが勿體なくて涙のこぼれる樣な心地がした。

 菰包の方は布團とかいまきだつた。寒がりの透は、其癖ゴロゴロ寢卷を着て寢(やす)む事の出來ない性で嚴冬でも洗ひざらしの單衣一枚で毛布の柔かい布團にくるまつて寢る癖がついてゐたので此夜頃俄かに寒く成つて來たので初め持つて來た薄布團では足りなかつた。有難い母の情けが、あればこそ、彼は、小使錢からはきものかうして布團迄も送つて貰へるのであつた。

 父は或點に於ては非常に鷹揚で、かうした子供四人の世話から家事一切、總て母が細心に苦勞して行くのであつた。布團の中には更にまだ、縫はない絣の反物が裏地もそへて「これは、不斷着も澤山持つて行かなかつたから綿入にして着せて貰たい。倂し房さんも子持ちで忙がしからうから外へ縫ひに出してくれ」とて、仕立代までも添へられてあつた。母から自筆の手紙が來たが其中には、「透も不自由であらうが辛棒して呉れ。この三圓は小使に」と、小爲替が封入してあつた。手紙は短かいけれど母の温情は溢れる程に認められ流石の透も母の情がしみじみと胸にしみた樣であつた。

「兄さん御覽なさいな。この通りお母樣はあなたを案じていらつしやるのですわ! この夏からのお母樣の心配をお知りに成つたら兄さんも、今迄の樣にお母樣を水臭いなんて思はないで下さい」

 感激した房子は熱心に母の心持を説いた。そして、兄自身も、進んで老いた、長い間世と戰つて來たあの母を喜ばせてほしい。何も品物や金錢で喜ばせなくても母は唯眞心さへ捧げれば嬉しがるのだ。例へば手紙一つにしろ報告文の樣にせず母の氣の安まる樣優しく、老人に得心のゆく樣書いてほしい。子の爲めに若い時から苦勞し續けた母は、只わづかな注意で、母に優しくすれば母は滿足する。そんな事を色々に話した時透ははじめて「さうだ。僕は今迄格別親不幸したとは思つてなかつたが、自分から進んで喜ばせ樣なんて思つた事は一度もなかつた。母の得心する樣僕の氣持も書いて送らう」兄のすなほに答へるのを聞いて房子は非常に喜んだ。

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「和漢三才圖會」植物部 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐々木喜善 佐藤春夫 兎園小説【完】 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 只野真葛 和漢三才圖會 禽類(全)【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 和漢三才圖會卷第三十九 鼠類【完】 和漢三才圖會卷第三十八 獸類【完】 和漢三才圖會抄 和漢卷三才圖會 蟲類(全)【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 室生犀星 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 小酒井不木 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 怪奇談集Ⅱ 日本山海名産図会【完】 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 柴田宵曲Ⅱ 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生日記【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 泉鏡花 津村淙庵「譚海」【完】 浅井了意「伽婢子」【完】 浅井了意「狗張子」【完】 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介 書簡抄 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔 芸術・文学 萩原朔太郎 萩原朔太郎Ⅱ 葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版【完】 蒲原有明 藪野種雄 西尾正 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏