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カテゴリー「山之口貘」の292件の記事

2024/10/14

山之口貘の処女詩集「詩集 思辨の苑」の「序文」の『佐藤春夫「山之口貘の詩稿に題す」』(初版・正規表現版)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いた。当該部はここ。]

 

   山之口貘の詩稿に題す

 

家はもたぬが正直で愛するに足る靑年だ

金にはならぬらしいが詩もつくつてゐる。

 

南方の孤島から來て

東京でうろついてゐる。風見みたいに。

 

その男の詩は

枝に鳴る風見みたいに自然だ しみじみと生活の季節を示し

單純で深味のあるものと思ふ。

 

誰か女房になつてやる奴はゐないか

誰か詩集を出してやる人はゐないか

 

     一九三三年十二月二十八日夜 

 

                   佐 藤 春 夫

 

[やぶちゃん注:さても……私が何をおっ始めようとしていることは、もう、お判りであろう……。判らん方は、このブログの欄外のリンク「山之口貘」(私のブログ・カテゴリ)の一番下の記事を、どうぞ!]

2014/08/01

沖縄舞踊   山之口貘 / 現在知られる山之口貘の全詩篇(準定稿を含み、草稿は除く)電子化終了

 沖縄舞踊

 

太鼓の音にのって

蛇皮の三味線の音にのって

やがて沖縄の踊りがはじまった

踊るその手その腰その足の

いかにも情緒こまやかな花風

さつまへのぼる旅路ののぼり口説

石垣島のはとまぶし

漁村に因んだ谷茶前

あるひは旅愁の浜千鳥など

見たり聞いたりしてゐるうちに

沖縄生れはじっとしてゐられないのだ

そこでぼくも仲間入りだ

むらさき色の裂地を頭に巻いて

紺地姿の女に化けて

指笛ふいては

郷愁を呼び

毛あそびの踊りを

みんなして踊り狂ったのだ

 

[やぶちゃん注:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題では『掲載紙不明』とする。既に述べたが、新全集でこれを「その他の既刊詩集未収録詩篇」の冒頭に配しているのは、バクさんの逆編年配列志向に合わせ、恐らく本詩篇が「その他の既刊詩集未収録詩篇」五篇中で最も新しい創作であると考えたからと思われる。

 創作年を私なりに推理する。

 まず、これは詩全体の醸し出す雰囲気からは沖繩での実体験ではない。明らかにバクさんの昭和三三(一九五八)年十月の沖繩帰郷以前の作であると読める。これは本土で開かれた沖繩舞踊のイベントと考えた時、バクさんの郷愁を搔き立てて最も自然に読めるのである。

 とすると、素材である沖縄舞踊から、一つの可能性が年譜上に浮かび上がってくるのである。

 旧全集年譜の昭和二七(一九五二)年(バクさん四十九歳)の条に、『夏、沖縄展(於西武デパート)に出席。期間中毎日琉球舞踊を踊る』とあるのである(後に出る詩篇「お金の種類」の注も参照されたい)。このイベントで実に十五日もの会期中(随筆「関白娘」に拠る。本随筆についてもやはり詩篇「お金の種類」の注を参照されたい)、毎日ずっと沖繩舞踊を踊り続けたエクスタシーがこの詩を生んだと考えると、私は如何にもしっくりと腑に落ちるのである。

 以上から、私は本詩の創作年を昭和二七(一九五二)年夏以降と踏むものである。

 

 以下、語注を附す。恐らくは私の電子化したバクさんの分かり易く読み易いものばかりの全詩の中で最も附注率が高い特異点の一篇である。「※」は前の語注内の語に対する更なる注であることを示す。

 

・「蛇皮の三味線」ルビがないが、私は「じゃびのさんしん」と読みたい。

 

・「花風」は「はなふう」と読み、庶民の暮らしぶりをモチーフとした沖繩舞踊の一種。『雑踊りの中で準古典ともいわれている。那覇の港から船出する愛しい人を三重城の丘から見送る遊女の別れの切なさをしっとりと表現している。髪を辻結いにし紺地の絣を帯を使わないウシンチーにして着、肩に花染手巾、手に日傘をもち白足袋で踊られる』(以上は沖縄県総合教育センター提供になる「琉球舞踊用語集」に拠った。以下、特記しない引用部はここから)。琉球舞踊家奥間圭子氏のサイト「奥間圭子の琉球舞踊への誘い」の琉球舞踊についての「花風」も参照のこと。舞踊動画

※「雑踊り」は「ぞううどぅい」と読み、『明治以後の芝居で創作振付けされた舞踊のこと。雑とは、古典舞踊の』定式的な舞踊の、孰れの『部類にも入らないもろもろの踊りといったような意味だといわれている。庶民の生活を題材にとり芭蕉布や絣など日常の衣裳を着て踊られる』ものをいう。

※「三重城」は「みーぐすく」と読む。那覇の海に臨む史跡で、かつては那覇湊から長く伸びた堤防であった。十六世紀に倭寇侵入の防御のために楚辺村の豪族王農大親(おーぬうふや)によって築かれた防壁と伝えられる。王農大親の一人娘は尚清王の夫人となった人物であり、首里王府と関わりの深い豪族であった。参照した沖繩紹介サイト「おきぽた」の三重城によれば、ここは『王ヌ大比屋(おひや)城」とも呼ばれていたそうで、村落の長らしき威厳ある場所でもあった』とする。『かつての三重城は、港全体を囲い込むように長く、途中に臨海寺という』寺があり、ここは『薩摩や中国へ行く船を見送る場所であり、尚寧王が捕らわれの身となり、薩摩へ連衡される際もこの場所で別れの手を振ったと言われています。当時の琉球では、最愛の人の旅立ちを見送る光景は、当時では珍しいことではなかったのでしょう』。と記し、『琉球舞踊『花風』は、三重城に登って、旅立つ船を見ながら手を振り、愛する人との別れと航海の安全を祈る情緒溢れる、まさに当時の情景を物語る踊りです。『花』は、遊女のことを示しています。一人の女性が、日傘を片手に、もう一方の腕は目一杯にティサージ(手ぬぐいのようなもの)を振って愛しい人を見送るのですが、船の走るスピードは速く、一瞬で見えなくなってしまいます』と詳述する。復元された三重城などの写真も含め、リンク先は必見である。

※「ウシンチー」『帯をしめないで、着物の襟の下方を袴(下着)の紐にはさみ込む女性の着付の仕方をいう。肌と着衣との間にたっぷりと隙間ができて風が自由に通りぬけるので、暑い沖縄の風土に適した着付けといえる』。グーグル画像検索「を附しておく。

※「花染手巾」「はなずみてぃさじ」と読む。『しぼり染の手巾(手拭)のこと。女性の愛情表現として用いられる。沖縄にはオナリ神信仰(兄弟を守護する姉妹の霊)があり、旅のはなむけに手巾を持たせて航海の安全を祈った。こうした、民俗と結びついた霊的な意味をもつものがウミナイ手巾である。これは、女性の心の象徴つまり愛情の表現と恋の約束のシンボルである』。グーグル画像検索「花染手巾

 

・「さつまへのぼる旅路ののぼり口説」「上り口説」は沖縄方言では「ぬぶいくどぅち」と読む。『薩摩上りを命じられた首里士族の心情と旅の風景を口説きで表現した古典二才踊り。手には扇を持って終始キビキビと二才の技をみせる。二才踊りの基本的な演技が入った演目である。以前は、一節ごとに口説ばやしと称して、踊り手が唱える文言があったが、今日ではほとんど唱えられなくなっている』。比嘉康春中村司共演る「上り口説方言で「ぬぶいくどうち詠唱演奏

※「口説」(くどぅち)は本土の「口説(くど)き」と同義的なもので同源でもある。『大和言葉の七五調が基本で、同一のメロディを繰り返しながら道行の景色を語り、物語りをするという内容のものである。浄瑠璃の口説などのような口説歌は、室町から江戸初期にかけて念仏踊り系の伊勢踊りとして踊られ、物語り風の内容を歌って全国に流行した。沖縄の口説もこれらの流れをくむものであるといわれている』。

※「二才踊り」沖縄方言では「にーせいうどぅい」と読む。『薩摩の在藩奉行を歓迎するための舞踊で』琉球舞踊の中でもかなり『古い踊りといわれる。口説形式にのり、黒紋服(最近では、水色の衣裳で踊る会派もみられる)を着てあずまからげをし踊る』。「あずまからげ」(東絡げ)とは着物の両脇を腰のあたりで引き上げて帯にはさみ、裾前を開くようにすることをいう。亀浜律子二才踊り浜」(方言めー動画

 

・「石垣島のはとまぶし」鳩間節(はとぅまぶし)。『伊良波尹吉氏により、元曲「鳩間中森」のテンポを早くし、日本舞踊などの手を入れて創られた踊り。鳩間島の美しさと、五穀豊穣を予祝した歌詞で、村人の喜びを軽快に表現した作品』。舞踊動画はこちら

※伊良波尹吉(いらはいんきち 明治一九(一八八六)年~昭和二六(一九五一)年)は与那原生まれの俳優・劇作家・舞踊家・劇団経営者。十四歳で寒水川芝居(首里寒水川村(現在の首里寒川町)にあった芝居小屋)に入団、沖縄では『大正期から戦後にかけて活躍した二枚目スターであった』。『戦前は、伊良波一座で南洋群島へも巡業、また大正劇場では脚本に山里永吉を起用、多くの琉球史劇を上演した。戦後は、沖縄民政府の直営梅劇団の団長として活躍』した。

※「鳩間島」西表島の五・四キロメートル北方に位置する八重山諸島の面積〇・六九平方キロメートルの小さな有人島(人口六十七人(二〇一三年一月三十一日現在)。隆起珊瑚礁の島で形状はほぼ円形、周縁部は平坦であるが、中央部に鳩間中森と呼ばれる丘陵がある。現在、沖縄県八重山郡竹富町鳩間。(以上はウィキの「鳩間島」に拠る)。

 

・「漁村に因んだ谷茶前」谷茶前(たんちゃめー)の「谷茶」は現在の沖縄県本島北部恩納村にある漁村の名。そこに伝わる沖繩舞踊では最も知られるもので、『若い男女が働く喜び、生きる力を表現した雑踊りである。男は櫂を持ち、女は海の幸を入れるバーキ(ザル)を持ってたくましい振りをみせる』。ティンクティンク演奏谷茶前節動画

 

・「旅愁の浜千鳥」浜千鳥(はまちどり)は『別名「チジュヤー」とも言われ親しまれている。 ふるさとを遠く離れ、そこに残した人々を偲ぶ心情が描かれた雑踊り。紺地の絣』(かすり)『を着たさわやかな娘たちが、ウシンチー姿で哀愁に満ちた旅情豊かな「浜千鳥節」にのって踊る』。明治二八(一八九五)年頃の那覇の芝居小屋で誕生したもので、『雑踊りの傑作といえる』。舞踊動画はこちら

 

・「むらさき色の裂地を頭に巻いて」「裂地」は「きれじ」と読むが、ここは「さーじ」と読みたい。沖繩織物の布で頭に巻きつける鉢巻風の長い布巾(さーじ)。エイサーの衣裳として知られる。エイサーと沖繩衣裳の専門店「花舞流(はなまる)」のサージの巻き方を参照。因みに紫色は本土と同様、沖繩でも一種の禁色(きんじき)で、国政の要職についた士族最高位の親方(うぇーかた)は紫冠を戴いた。

 

・「紺地姿の女」琉球舞踊の女性の正装は黒紺地(くろくんじー)とされる(男性は袴)。那覇市小禄地域の小禄紺地(うるくくんじー)のが知られ、近年、復元再興された。先に掲げた奥間圭子氏のサイト「奥間圭子の琉球舞踊への誘い」の琉球舞踊についての「花風」の写真で奥間氏が着ておられるものや、動画の舞人の着ているのも皆、「紺地」である。

 

・「指笛」ページに詳細な沖繩の指笛の鳴らし方が書かれてある(あるが私は鳴らせない……とほほ……)。

・「毛あそび」毛遊び(もうあしび)。ウィキによれば、『かつて沖縄で広く行われていた慣習。主に夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会をいう』。『毛(もう)とは原野を意味し、集落によってはアジマーアシビ(辻遊び)、ユーアシビ(夜遊び)と呼ばれる例もあったという。参加を許される年齢はおおむね男子は7~25歳くらい、女子は15~22歳くらいで、ほぼ一人前となり、結婚適齢期とみなされる男女が対象となったとされる。 このような習俗は沖縄のみならず、近代以前までは日本各地にみられ、古くは『歌垣(かがい、うたがき)』と呼ばれる男女交際の場があり、恋歌の掛け合いをしながら互いの気持ちを確かめ合ったと言われている。 当然のことながら性的関係に至ることも珍しくはなかったが、毛遊びは両親をはじめとする親族や共同体公認のものであり、こうした開かれた交際の中から人間関係を築き、将来の伴侶を定めるという風習が、沖縄においては近年まで伝統として受け継がれてきたのである』。『また毛遊びは単に男女の出会いの場としてのみならず、民謡や楽器演奏技術、舞踊、民話などといった固有文化の伝承の場として重要な機能を果たしていたことも忘れてはならない。沖縄出身の多くの音楽家は毛遊びで競い合うことによって音楽的素養を磨き、即興や掛け合いの中から新しい民謡を次々に生み出していった。沖縄音楽界の重鎮と呼ばれる人々はみな毛遊びの中から生まれており、こうした文化が現代の沖縄音楽に与えた影響は計り知れないものがある』。『毛遊びは淫らで前時代的な風俗であるとして、琉球王朝時代より何度も禁止令が出されたが、昭和中期頃までは地域によっては根強く生き残ってきた。現在ではほとんど消滅した毛遊びではあるが、それに代わるものとして戦後沖縄にもたらされた文化としてビーチパーリー(beach party)が存在する。これは米軍が持ち込んだ習慣で、休日のまだ陽の高い時間に行われる海辺でのバーベキューなどをメインとした遊びである』とある。]




これを以って本ブログ・カテゴリで
現在知られている山之口貘の全詩篇(準定稿を含み、草稿は除く)の電子化を終了する。

底本や参考とした新旧全集編者の方に、深く感謝申し上げる。

バクさん、やっちゃった!――

(無題)   山之口貘――小山コーヒー寮店小山志づ追悼詩――

 [やぶちゃん注:以下は、無題の一篇。]

 

いつもは

をばさんと談しながら

コーヒーをのんで

ゐる筈なのだが

今日は

をばさんの

おもひ出ばかり。

 

[やぶちゃん注:底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では標題を『(いつもは……)』とするが、無題と採った。

 同解題によれば、年不詳の六月「コヤマのおばさん」と題する五月十日に五十二歳で逝去した小山コーヒー寮店小山志づなる人物を追悼する「コヤマかい・小山コーヒー寮」発行のリーフレット(印刷所は文栄堂印刷で住所は東京都港区白金町志田町)へ寄せた追悼詩とある。同リーフレットには詩人秋田雨雀及び周郷博らの詩も掲載されている、とある。

 小山コーヒー寮店及び小山志づなる人物については不詳であるが、バクさんが昭和二八(一九五三)年四月二日附『報知新聞』に掲載した随筆「池袋の店」に以下のような記載がある(前半部のみ引用)。

 

池袋の店

 

 池袋は、いま、時々刻々に変貌しつつあるのだ。池袋駅東口には、すでに、西武百貨店がその巨体を構え、西口には、東横百貨店が控えているのであるが、東口にはさらに三越や伊勢丹の姿も現われるとのことで、これら四つの大百貨店の勢揃いを想像しただけでも、近い将来の池袋の風貌がうかがわれるわけである。東口駅前も、いまは広場になっていて、各方面へのバスの便があり、地下鉄が完成したり、上越、信越線がはいってくるようになるあかつきには、すっかり大池袋に化けるのだ。

 さて、こうした新装をこらすために、池袋の祷は至るところごった返していて、落着きのない雰囲気に包まれているのだ。ちょいとご無沙汰しているうちに、旧武蔵野線の出口の筋向いあたりにあったあのゆうれい横丁も消えてしまって「平田屋」で焼酎一杯という気分も出しようのない変り方になったのだ。区画整理のためにそこら一帯も様子を変えて「小山伽排店」も場所をずらされたついでに、無理に店を拡げて、うなぎの寝床みたいな細長い格好の店になった。筆者は、原稿の押し売りとか、ぼろ生活のための金策などの往き帰りを、旧武蔵野線を利用しているので、つい「小山伽排店」に寄るのだが、模様変えしてからの客種の増えたことにはおどろいているのである。筆者の舌など、伽排の味のわかる舌ではないにしても、うまいとおもえば高く、安いとおもえばまずかったりするのは、どちらも困るのだが、この店のは安い割にしてはうまいみたいな感じのするところが一般にうけているのかも知れないのだ。筆者はここでしばしば、ステッキを片手の秋田雨雀氏の姿も見かけるのである。なにしろ、繁栄している店なのだが、来る人達の生活もこの店ぐらいに、たがいに繁栄したいものだ。[やぶちゃん注:以下略。]

 

ここに出る「小山珈琲店」と同一であることは間違いない(現存しない模様である)。

 因みに、周郷博(すごうひろし 明治四〇(一九〇七)年~昭和五五(一九八〇)年)は教育学者。千葉県生。東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、昭和一二(一九四七)年、東京女子高等師範学校講師。その後は新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は付属幼稚園園長も兼務した。参照したウィキ周郷博によれば、『教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。ティヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。平和教育、芸術教育な関心が深かったが、後年は、育児、子育てについての文章も多い』とある。

 秋田雨雀の没年は昭和三七(一九六二)年五月十二日であるから、そこが本詩の創作時期の最下限となるが、底本がこれを最後に配していること及び「池袋の店」からは、私の推定年代ではあるものの、前の詩「龍舌蘭」の昭和二八(一九五三)年頃かそれよりも前の可能性が高いか。]

龍舌蘭   山之口貘

 龍舌蘭

 

熱帯うまれの

龍舌蘭が

植物園の温室に泊ってゐた

龍舌蘭はいつも緑で

ぐるりのみんなが紅葉に着替えても

ひとりいつでも緑のまゝだった

 

ある日

雪が降った

龍舌蘭は雪を見たいとおもった

龍舌蘭は雪を見たことがなかった

そして温室から飛び出さうとした

すると園長さんがびっくりして

風邪をひくから

およしなさいと云った。

 

[やぶちゃん注:削除線は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題に書かれてある推敲跡の解説を復元したものである。

 拗音表記と内容からは明らかに戦後の詩で、しかも詩想からは児童詩である。

 戦後のバクさんの詩の中で「龍舌蘭」が詠み込まれているのは実はバクさん五十歳の折りの懐旧の望郷詩「耳と波上風景」しかない(初出は昭和二八(一九五三)年三月発行の『おきなわ』。バクさんの帰郷はその五年後の昭和三三(一九五八)年十月であった。因みに戦前では「南方」(初出は昭和一〇(一九三五)年十一月号『文藝』)一篇のみ)。

 バクさんの現認されている戦後の最初の児童詩は、昭和二八(一九五三)年九月号『中学生の友』(小学館)に掲載された「腕ずもう」で、そこでは既に拗音表記が行われている(但し、この後の詩でも拗音表記の行われていないものもある)。

 本作は沖繩を詠ったものではない。しかし、それを字背に感じさせる。バクさんは沖繩を児童詩では詠み込んでいない。従って、この「龍舌蘭」は一種の特異点に近いものであると言える。

 これは擬人法を用いている点でも児童詩のみならず、バクさんの詩篇の中では比較的珍しいタイプである。しかもその比喩は沖繩を飛び出して、いっかな、帰りたくても帰れぬバクさんのジレンマをネガとしているように私には見える。

 以上から私は、本作は「腕ずもう」と同時期、昭和二八(一九五三)年前半に創作された、バクさんの児童詩の実験的作品(試行錯誤)の一つではなかったかと推理するものである。]

お金の種類   山之口貘

 お金の種類

その日その日の

口にさへ追はれてゐるところへ

税務所からはなんとか

はやく納めてもらひたいと来るのだ

そこへ娘の学校は学校で

滞納の月謝五ヶ月分を

大至急御送付下さいと来て

おまけに女房が

病気で倒れる始末なので

しばらくの間を待つてもらいたい■たのんだが

なんともお気の毒ながら

金は金だからなんとかしてもらひたいと云ふのだ

 

[やぶちゃん注:■については底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では、『と』と推定している。同解題では『掲載紙不明』とする。

 本詩について創作年次を考証してみる。

 バクさんの随筆「関白娘――可憐なる関白と貧乏詩人」(昭和二七(一九五二)年十月二十五日号『サンデー毎日中秋特別号』掲載。旧全集では「第二巻 小説」所収)の中で、当時、名門私立大学の付属小学校に通っていたミミコ(泉)さんが、二年生の学年末と三年生の四月の学期始めに、滞納している学費五ヶ月分(本文では四千円とある)についての催促状を学校から貰ってバクさんに渡すシーンが出てくる。泉さんは昭和一九(一九四四)年三月生まれで、バクさんはこの「関白娘」の中で、作中のミミコさんを『いまは、小学三年生なのだ』とするから、これは事実なら(昭和二七(一九五二)年の四月以降の情景ということになり、初出である同年秋という時制と完全に一致することが分かる。

 「関白娘」にはミミコさんが『過日、池袋の西武百貨店で、沖縄舞踊の紹介並びに、織物の展覧会のあった際にも、こころよく色々のことを手伝い、舞踊の手伝いにも出て曲がりなりにも十五日の間、舞台にも立ったし、ついこの間は、NHKのテレビジョン実験放送のためにもたのまれたりして、顔には、どうらんを塗り、沖縄の女性に装って踊ったり、詩など朗読したり』したとあるが、旧全集年譜の昭和二七(一九五二)年(バクさん四十九歳)の条には、『夏、沖縄展(於西武デパート)に出席。期間中毎日琉球舞踊を踊る。』『九月、NHKテレビの実験放送時代』(NHKは昭和二三(一九四八) 年六月に戦後初めてのテレビ公開実験を行った後、昭和二七(一九五〇)年二月にはNHK放送技術研究所内にテレビ実験局を開設、同年十一月より毎週一日だけ三時間の定期的実験電波を発射していた。本放送の開始は昭和二八(一九五三) 年二月一日であった)、三十分『番組「沖縄舞踊」に南風原朝光と共に出演』とある(南風原朝光(はえばるちょうこう 明治三七(一九〇四)年~昭和三六(一九六一)年)は洋画家。昭和四(一九二九)年に日本美術学校を卒業し、沖縄へ帰郷するも翌年再び上京、公募展に作品を発表する傍ら、バクさんとともに沖縄の伝統文化の紹介に尽力、戦後、帰郷して「とまり劇場」を設立、伝統芸能の振興にも尽くした。静物画と風景画を得意とした。バクさんより一つ下の同学齢)。これからも「関白娘」は小説ではなく、そこに書かれた内容も実際の事実と完全一致することが分かる(因みに、この「関白娘」はすこぶる面白いエッセイである。学費の督促状を持って帰るミミコさんや、彼女が学校のお友だちのうちにはピアノがある、「おとうさま、ミミコのうちにも、ピアノはほしいわ。」というシーン、バクさんが二冊の予定された著作が出版社が潰れて払えなくなっただのという弁解をし、金策のために借金に奔走するという内容は、本作が冒頭、ミミコさんをネタに物を書くバクさんに抗議をするミミコさんから始まるのを思うと、何だかなぁ、と感じさせるところのあきれた面白さ、という意味で、である)。

 これらを総合すると、本詩はミミコさんに督促状が届いた昭和二七(一九五二)年三月三月末以降、極めて酷似した内容を持つ随筆「関白娘」が書かれた翌昭和二七年秋から年度末頃までの創作と推定される。詩をさしおいて同内容の文をバクさんが認めて発表するというのは、私の感触では〈バクさんらしくない〉。とすれば、私は二度目の督促でミミコさんへの哀れな気持ちから金策に尻を上げざるを得なくなった時期、即ち、昭和二七(一九五二)年四月以降、その詩想が「関白娘」というエッセイへと向いていったであろう同年の夏の終わり辺りまでの五ヶ月間まで、創作時期を絞ることが出来るように思われる。

 本詩は内容を見ても、これは定稿とはちょっと思われない。バクさんの貧乏詩借金詩特有の、あのポジティヴで強靭な〈生の張り〉が如何にも弱く、散文的に流れてしまっているのである。だからこそ、これは詩ではだめだと、バクさんは見切ったのではなかったか? 私はこの五ヶ月間のかなり早い時期に、バクさんは本詩想を「関白娘」へのエッセイ化へと路線変更したのだと思うのである。その場合、この詩のような、ミミコさんの学費滞納と税金滞納が並列になることは許されなかった――それは〈可憐なる関白娘のデリケートな心を震わせた一大事〉を、〈たかが税金の滞納なんど〉と並列することはバクさんには出来なかった――のではなかったか?――事実、「関白娘――可憐なる関白と貧乏詩人」には税金滞納の件は一言も出てこないのである――]

2014/07/31

にこにこ正月   山之口貘

[やぶちゃん注:以下、本ブログ・カテゴリ「山之口貘」で示す五篇は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「その他の既刊詩集未収録詩篇」に載る、初出の確認が出来なかった残されていた原稿の中で定稿或いは清書原稿に近いと編者松下博文氏によって判断され選択された作品である。これは、そうした判断や選択から除外された草稿類が多く残存することを意味するのであるが、それらは同新全集第四巻(二〇一四年七月現在未刊)で公開されるものと思われる。

 注が容易と思われる詩から順に選んだ関係上、ブログ版では以下の詩篇の順列は底本とした上記新全集の順列とは異なる。上記新全集の順列は、

 

 沖縄舞踊

 にこにこ正月

[やぶちゃん補注:この間に「坂」という詩が入るが、これは底本製本終了後にバクさんの詩友淵上毛錢(本名、喬)の詩であることが判明、「訂正とお詫び」の投げ入れが入る。バクさんは彼の詩集の序詩(昭和一八(一九四三)年一月詩文学研究会(東京市麻布区霞町)発行の「淵上喬詩集 誕生」の序文が初出。詩集「鮪に鰯」に収録された例の「チェロ」である)も書いている。思潮社の投げ入れによれば、この詩稿は不思議なことにバクさんの自作自筆原稿の中に作者を記さずに混入していたためにこのような事態が出来した旨の記載がある。既に昭和四七(一九七二)年に国文社から刊行された「淵上毛銭全集」の拾遺詩篇に「坂」として全く同一の詩篇が載っているとある。正直言うと、新全集を手にした際に一番吃驚したのはこの大きなミスであった。]

 お金の種類

 龍舌蘭

 (いつもは……)

[やぶちゃん補注:最後の『(いつもは……)』は説明がないが、詩題がないために、一行目の詩句にリーダを配して丸括弧で括って仮に示したものと思われる。私は無題とした。]

 

である。この順列については解題に説明がないが、底本の配列全体に細心の緻密な配慮をなさっておられる松下氏のことであるから、バクさんの癖である逆編年順列を考証しての配置であると私は思っている。]

 

 にこにこ正月

 

あけまして おめでとう

どの子も にこにこ

おめでとう

 

ひろ子ちやんも おめでとう

みゝ子ちやんも おめでとう

はねをついて にこにこ

まりをついて にこにこ

 

まことちやんも にこにこ

凧々あがれ おめでとう

天まであがれ おめでとう

 

みずえちやんも にこにこ

小さな おてゝに

大きな

みかんのお正月 おめでとう。

 

[やぶちゃん注:拗音表記がないのはママ。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題では『掲載紙不明』とし、『原稿は一枚のみ』で『(正月の朝)に類する』と注記する。正月朝」は底本の「既刊詩集未収録詩篇」(旧全集は「児童詩」)のパートに所収するもので、初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学五年生」である。そこではミミコ(泉)さんが登場し、年齢を言うシーンが出ることから私は『これはシチュエーションとしては実に正しく前年昭和三十年のお正月の景であることを表わしている。バクさんは満五十一歳』と注した。「にこにこ」というリフレインという共通性、「みゝ子ちやん」の登場からも、この「おめでとう」は「正月の朝」と同一時期でしかも同一シチュエーションを素材とした創作のようには思われる。バクさんが有意に年月をおいて似たフレーズを詩篇で濫用することはあまりないように思われるからでもある。問題は拗音表記の有無で、「正月の朝」は拗音が表記されてあり(「いった」二箇所と「ちょっと」二箇所)、そこから遡って「既刊詩集未収録詩篇」を調べると、拗音表記がない詩篇は「古びた教科書」(児童詩。松下博文氏の解題によれば昭和三〇(一九五五)年頃の創作と推定される)である。しかし、この「古びた教科書」での松下氏の推定が正しいとするなら、やはり本詩「おめでとう」が昭和三十年の創作である可能性が結果として高くなるのである。]

2014/07/30

石神井東中学校々歌   山之口貘作詞(案) ★注意:不採用

 石神井東中学校々歌   山之口貘作詞(案)

[やぶちゃん注:「山之口貘作詞(案)」は私が附した。この校歌は不採用となったものである。後注参照。]

 

むかしをしのぶ     武蔵野の

緑の原に        そゝり立つ

甍(いらか)がもとに  つどひ来て

われらは学ぶ      若人ぞ

 

秩父の山脈(なみ)に  胸を張り

はるかに富士を     ながめつゝ

四季の色彩(いろどり) めぐまれて

そだつわれらは     若人ぞ

 

文化日本を       背負ひ立つ

われらの肩に      力あり

いざ若人よ       もろともに

理想を高く       掲げなん。

 

[やぶちゃん注:所収する思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、創作は昭和三三(一九五八)年頃。現在の練馬区立石神井東中学校の校歌は草野心平の作詞(渡辺浦人作曲。同校公式サイトで確認。新全集解題は「渡辺浦」とするが脱字か)で、昭和三三(一九五八)年三月一日に校歌として制定されているとある(採用された草野心平のそれは二番の頭で「秩父山脈(ちちぶやまなみ)」を詠んでいる以外は、詩句も構造(草野版は二番まで)も似ていない)。但し、草野心平はバクさんと同い年の詩友でもある。あくまで推測であるが、依頼されて作ったものの、何らかの注文がつけられて厭になり、草野心平に頼って、結局、譲ったものなのかも知れない。]

彦根市立西中学校々歌   山之口貘

 彦根市立西中学校々歌

 

むかしも文(ふみ)の  華(はな)さきし

城のふもとに      つどいきて

学ぶわれらは      西中健児

「おのこの瞳(ひとみ) 陽(ひ)にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

夢はうるはし      もろともに。

 

伊吹の山        琵琶の水

四季のながめに     めぐまれて

そだつわれらは     西中健児

「おのこの瞳      陽にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

こころはつよし     もろともに。

 

ひこねの要(かなめ)  金亀(きんき)の城に

われらは文化の     要ぞと

西中健児の       意気映(は)ゆる

「おのこの瞳      陽にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

希望はたかし      もろともに。

 

 *昭和二十七年四月二十八日 日本独立の日に

  彦根市立西中学校の前途に幸多からんことを祈りつゝ

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十一月に滋賀県彦根市立西中学校校歌として正式に制定されたもの(作曲は静岡県浜松市出身の音楽家市川都志春氏)。「滋賀県彦市立西中学校の校歌」で男女混声二部合唱(詩中の鍵括弧部分男声女声個別パート。但し、以下のリンク先を見て戴くと分かるように、「おのこの瞳/陽にもえて」は女声パート、「み空の星か/おとめの瞳」は男声パートなので注意されたい)の本歌を聴くことが出来る。男女混声二部合唱の校歌というのは恐らく極めて珍しいものと思われる(リンク先では『全国唯一の』とある。因みに私の母校である富山県高岡市立伏木中学校は「伏木中学校の歌」であって校歌ではない。これが校歌の代わりなのである。校歌のない学校というのもやはり珍しいと思う。以下の私のブログ僕の中学校――「伏木中学校の歌」――記事内の下の方の『この「歌」』の同中学公式サイトのリンク先で、伏木の出身で同中学校卒業生でもある作家堀田善衛氏の作詞になる詞本文と歌曲自体(作曲は団伊玖磨氏)を聴くことが出来る)。

「昭和二十七年四月二十八日 日本独立の日に」とは第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約「日本国との平和条約」(Treaty of Peace with Japan:昭和二七年条約第五号。別名「サンフランシスコ条約」「サンフランシスコ平和条約」「サンフランシスコ講和条約」)が発効した日である。参照したウィキ「日本国との平和条約」によれば、前年の昭和二六(一九五一)年九月八日にサンフランシスコに於いて『全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された』。『この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認』、『国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。条約に参加しなかった国との戦争状態は個別の合意によって終了している』とある。]

うちのしろ   山之口貘

 うちのしろ

 

わんわん わんわん

わんわん ほえるのが

わんわんくんの

やくめだ

 

わんわん わんわん

しろが ほえたてた

でっかい トラックに

ほえたてた

 

わんわん わんわん

わんわん ほえるのが

わんわんくんの

やくめだ

 

わんわん わんわん

しろが ほえたてた

みみずが うごいたら

ほえたてた

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三八(一九六三)年二月発行の『児童ブック ことり』(東京都渋谷区上通(かみどおり)の国際情報社発行)。現在、砕身の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「既刊詩集未収録詩篇」の中で最も新しい、則ち、最後のバクさんの詩である。「鮪に鰯」の冒頭と二番目にある「ひそかた対決」(昭和三八(一九六三)年三月号『小説新潮』初出)]と「弾を浴びた島」(昭和三八(一九六三)年三月号『文藝春秋』初出)の直前、三番目にある「桃の花」(昭和三八(一九六三)年二月二十一日附『家庭信販』初出)と同時期か若しくは先の発行になり、これら、現存するバクさんの最後の詩篇群の一篇である。]

りんね   山之口貘

 りんね

 

朝になつたり

夜になつたりして

その日その日が廻つて

 

朝になつたり

夜になつたりして

その月その月が廻つて

 

朝になつたり

夜になつたりして

その年その年が廻つて

 

どの人もどの人も

起きては地球を廻して

地球を廻してはまた寝て

 

窓の上では

誰だか

タクトを振りつ放し

 

[やぶちゃん注:標題の平仮名書きと最終行の「振りつ放し」はママ。昭和三七(一九六二)年二月頃から翌昭和三八(一九六三)年二月頃の創作と推定される一篇(根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題を参照されたい)。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

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