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カテゴリー「飯田蛇笏」の120件の記事

2016/07/02

其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句   飯田蛇笏

 

[やぶちゃん注:末尾のクレジットから発表は昭和二(一九二七)年一月二十一日(初出記載なし)。底本は飯田蛇笏「俳句道を行く」(昭和八(一九三三)年素人社書屋(そじんしゃしょおく)刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書当該パートの画像で視認して電子化した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」「〲」は正字化した。句の表示の字配やポイント違いは再現していない。また、諸文章等の長い引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので、引用終了箇所には注意されたい。以下、少し語注を施しておく。私は高浜虚子が嫌いなので、本テクストも専ら芥川龍之介についての後半部にのみ興味があり、虚子について述べた前半部を省略することも考えたぐらいに虚子嫌いであるが、それでは飯田蛇笏氏に失礼に当たるし、内容面でも読解にやや難が出る箇所があるのでやめた。当初は注もあまり附さない気でいたが、結局、バランス上、同じように注を附さざるを得ない仕儀となった。

〈高浜虚子パート〉

 第一段落「どべこべに」不詳。どれもこれも(ただ)の、意か。

 同「炳たる」「へいたる」で、光り輝いている、疑う余地がないほどに明らかな、の意。

 同「儼乎」「げんこ」で、おごそかなさま・いかめしいさま。

 第二段落「瞭かな」「あきらかな」。

 同「新俳句」明治三一(一八九八)年民友社刊の正岡子規を首魁とする子規派初の大規模な選集。

 同「卷を蓋ふ」「くわんをおほふ(かんをおおう)」一書を覆い尽くす(ほどに)。

 虚子の句の「菌山」は「きのこやま」。

 同「梭」は織物を織る際に経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通すのに使われるシャトル状の道具で、本来はこれは「ひ」ある。しかし音数律がおかしいので、ここは虚子は「をさ(おさ)」と訓じていると思われる。但し、「おさ」は「筬」が正しく、同じ織機具の一つながら、竹の薄片を櫛の歯のように並べて枠をつけたものを指し、織物の幅と経糸を整え、梭(ひ)で打ち込まれた緯糸を押さえ、織り目の密度を決める道具である。但し、これらは混同して呼ばれたり、字が通用されたした経緯はある。

 同「彈初」「ひきぞめ」。新年になって初めて琴・三味線などを弾くこと。

 四段落「意嚮」は「いかう(いこう)」で「意向」に同じい。

 同「偖て」「さて」。

 同「這の」指示語。「この」。実はこれは元を糺すと全くの誤用であって、宋代に「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書いたが、その「遮」や「適」の草書体を誤って「這」と混同したことに基づく。

 第五段落「庶幾」「しよき(しょき)」或いは「そき」と読み、心から願うこと。

 第六段落「本間久雄」(明治一九(一八八六)年~昭和五六(一九八一)年)は山形出身の英文学者・国文学者。本篇公開当時は早稲田大学講師で『早稲田文学』主幹。後に早稲田大学名誉教授。「民衆芸術の意義及び価値」(『早稲田文学』大五(一九一六)年八月)〈民衆芸術論〉の口火を切ったことで知られるが、この「藝術に於ける眞について」は初出不明。

 第八段落(本間の引用の次)「枉ぐ」「まぐ」曲げる。

 虚子パート最終段落部の「輓近」は「ばんきん」で、近頃・最近・近来の意。「輓」自体、時代が遅い、の意があり、それは結局、時間が現在に近い、の言いとなる。

 同段落の芭蕉の句「明日は粽難波の枯葉夢なれや」は「(あすはちまきなにはのかれはゆめなれや」と読み、西行の「津ノ國の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(「山家集」)をインスパイアしたもの。――明日は五月五日で端午の節句……人は皆、粽を作って食べる……その粽は葦の葉で包む……上人の歌ったように……その葦の葉は一場の夢の如く一瞬にして枯葉となるのであろう――延宝五(一六七七)年、芭蕉三十四歳の時の作であるが、この年に芭蕉は俳諧宗匠として立机(りっき:生業(なりわい)としての本格的な俳諧師となること)したと考えられている。

 

〈芥川龍之介パート〉

 第一段落『近著「梅、馬、鶯」』「梅・馬・鶯」(そのまま「うめ うま うぐひす」と読む。本体背と表紙にはひらがなで「うめうまうくひす」と記す。装幀は佐藤春夫で龍之介のたっての依頼による。それは既に自裁を決していた彼の、友への別れの記念のつもりだったと言われている)は随筆集。新潮社から大正一五(一九二六)年十二月二十五日、大正天皇崩御、昭和改元の当日に刊行されたものである。

 同「蕪雜」「ぶざつ」は雑然としていて整っていないこと。「蕪」はもと「荒蕪」と使うように、雑草が茂って荒れている荒れ地を指し、そこから粗雑で入り乱れているの意を派生した。

 引用句「お降りや」の「お降りや」は「おさがり」と読む。元日三ヶ日の雨又は雪を言う。新年の季語。

 「一游亭」龍之介無二の盟友で洋画家の小穴隆一(おあなりゅういち 明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに「父と思え」と言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓を貰ったものである。

 第七段落「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」の引用の直前の「冒頭におかれてある。」の句点はママ。

 同句引用の直後の「曩に」は「さきに」と訓ずる。また、同じ箇所の「またに」のママ。

 第八段落「だれ」とあるが、所謂、動詞の「だれる」の名詞化した謂いであろう。気持ちに張りや締りがなくなること・気が緩みだらけること・退屈な雰囲気になる・新鮮味が失われることの意ととっておく。

 同「些々たり」「ささたり」とは、僅(わず)かばかりである、の意。

 第九段落「芥川氏は、久保田萬太郎氏を書くに當つて」大正十三(一九二四)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「微哀笑」、後に「久保田万太郎氏」と改題される芥川龍之介の短評(蛇笏は「萬」とするが、岩波旧全集でも当該テキスト中では一貫して「万」である)。久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家にして俳人。芥川龍之介とも仲が良かった(万太郎の方が三つ年上)。「傘雨」は「さんう」で彼の俳号。東京市浅草区田原町(現在の東京都台東区)に生まれ、慶応義塾大学文学部卒(大正三(一九一四)年)。明治四四(一九一一)年に小説「朝顔」・戯曲「遊戯」が『三田文学』に発表され、また『太陽』に応募した戯曲「Prologue」が当選、作家としてデビュー、翌年に「浅草」を刊行後、小説・戯曲・俳句の各面で幅広く活躍した。大正期の代表作として「末枯」「寂しければ」などがあり、昭和初年代の作品としては「大寺学校」「春泥」、昭和十年代の作品として「釣堀にて」「花冷え」、戦後の作品として「市井人」「三の酉」などがある(「三の酉」は昭和三二(一九五七)年に読売文学賞受賞)。昭和七(一九三二)年に築地座が結成されてからは舞台演出も手掛けるようになり、昭和一二(一九三七)年には岸田国士・岩田豊雄らと文学座を結成、没するまで幹事を務めている。俳句の面でも、昭和二(一九二七)年五月「道芝」を刊行しているが(ここまでは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」を参照した)、最晩年の芥川龍之介が記したこの句集「序」が万太郎文学世界の的確な評となっていて実に素晴らしい。

 同引用文中の「曩日」は「なうじつ(のうじつ)」で先日の意。

 「風落ちて曇り立ちけり星月夜」ここで述べた内容とほぼ同じ内容と引用を私は全く偶然にもやぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句のこの句のオリジナル注に附している。参照されたい。

 最終クレジットは底本では改行せずに最終行の下一字空けインデントで配されてある。] 

 

      其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句 

 

 虛于翁は、近詠百二十一句――大正十五年八月から同十二月までの句稿のうちから自選されたものを、「ホトトギス」二月號に發表してある。いずれも、纔かな文字で綴られてある短い形式の俳句ことである。進むというてもとゞまるというても、極めて微かなところにあるのは當然である。日頃、俳句といふものに、指を染めて居ない側の人に見させたなら、恐らく、芭蕉の句でも、蕪村の句でも、子規の句でも、虛子の句でも、どべこべに唯俳句として見過ごすことであらう。否、山鳥の尾のながながしく文子をつゞりつける癖づけられて居る創作家其の他の、作中の個人性や、創作態度などをやかましく云ふ人々の間にあつても、之をどべこべに觀ることなしに鋭く、深く、さうして明瞭に觀、味うてゆくことは、決して易々たることであるとのみ言ひ難からう。俳句にたづさはる者が、之を觀照し翫味する上に、自意識の強きに過ぐることは嗤ふべきことだとしても、他の作品に對して、其の、縫針の光端を見るやうな、炳たる一閃の中に、儼乎として存する、悠揚たる而して又實に惨憺たる藝術的苦心をば、十分に敬虔な心持をもつて、透徹鐡を貫くの氣で、熟讀翫味することの同じ藝術奉仕者として義務があらうかと考へる。この義務を荷ふことに、俳句にたづさはり甲斐もあらうといふものである。

 虛子翁の句が、總じて、近年主唱されるごとく、平靜な、吾人からこれを見れば大いに澁味のある寫生的作風に移つて來たことは、瞭かな事實である。寫生といふことは、今日や昨日に始まつたことではなく、遠くその源を、子規生前に發するのであるが、當時の「新俳句」にも勿論卷を蓋ふ寫生句を見、それから引きつゞいて今日に至るまで、ひつきりなしに、寫生といふことは俳句として、繼續され來つて居るのである。が、同じ寫生というても「新俳句」時代の寫生句といふものと、今日の寫生としての俳句とは、其の内容實質に於て遠い隔りがあるのである。虛子翁の作句そのものが即ちそれで、其の沿源から過程を敍述することは他に機を得るとして、今日見るありの儘に於て、俳壇一般と云はんより、尠くとも虛子翁その人の句それ自體に、寂び澄んで來て居ることを、あきらかに發見せしめられるのである。

 近業百二十一句中には、やはり通りいつぺんの寫生としての作句もあることではある。例へば

   馬遠く繋ぎてあるや淸次茶屋    虛子

   絲つむぐ車の下やちゝろ鳴く    同

   頂上に大きな旗や菌山       同

   稻刈て婆が茶店もあらはなり    同

   町並の梭の響や鵙の晴       同

のやうなもので、此等は、いづれ一と通り立派な俳句で、勿論別に難すべき箇所とてもなく、それだけ又、俳句とは忿うしたものであるといふむきに、これから俳句を學んでみようといふ側の人に、示したりするには良い手引であるのだが、同時に又、それは、前々から、虛子翁自身の作にも澤山にあつた句境で、別に進轉のあとをとゞめたものとして見ることは出來ないといふことにもなる。

 寧ろ、虛子翁これまでの主張に添ふところは、

   彈初の姊のかげなる妹かな     虛子

   徐々と掃く落葉箒に從へる     同

   行く我に戾る君あり寒げいこ    同

   ところどころ多田の道の缺けてなし 同

のごとき作で、一見したところでは、奈邊にその面白味が、といふよりは其の價値が存するかをせんさくするに苦しむ體をもつものである。が、直ちに判らないなら判らないとしても、寫生といふことに、眞に忠實であれといふ意嚮から推して考へ、深く此等の句を一々吟味してみると、その極めて平凡な事柄と思はれる裡に、一脈通ずる何物かがある。例へば最初の「彈初」の句にしても、姊の後ろに妹が坐つて居る。姊妹の禮節からいつても普通のことだし、後ろであるから妹が姊のかげであることもあたり前のことである、と然う云つてしまへば何でもないが、偖てそこに虛子翁の主張があるところで、彈初をして居る姊が、得意になつて三味か何か樂器を彈いて居る。妹は小さい態(なり)で――この小さい態といふことが、平凡といへば平凡だが作者は中々平凡とは思はぬのである。妹のちつぽけな顏が、到底姊にはかなはぬといつた表情で、若しくは、なに糞ッ負けるものかといつた表情で、ちんまりとひかへたところがみものではないかと云ふ所である。それをあらはに強調せず、有るが儘に、實態を寫して、讀者の豐かな想像にまかそようとするのである。以下解説は煩はしいので略すが、這の句、這の主張は、これから俳句といふものをやつてみようといふやうな人、若しくは少しばかりやり出した極めて初歩の人々にとつてとしては暫く措き、すでに、ながらく俳句にたづさはつて居て、惡達者に、駄作を連發する人々、或はなまじ低級の主觀を弄して、漸く月並に陷らんとするやうな側の人々にとつては、最大にして無比の救ひでなければならぬ。この點に於て、子規が、過去に、客觀を尊び、寫生句を主張した事に考へ合せてみて、虛子翁のこの主張なり作句なりは、より明瞭(はつきり)して居り、より確乎(しつかり)したものと認むることが出來る。

 けれども、此の近業に於て虛子翁は、更に一歩を瞭かに踏み出して居ると私は觀るのである。即ち大成に庶幾した作品の少くとも數句を私は認めぬわけにはゆかぬ。

 同じ自然界の事象を客觀的に寫生するとした所で、個々の實在を、鹽梅し、とり入れて來るのは、自己自體の心の動かし方である。心の動かしがなかつたならば、俳句、藝術、總て何の創作もがあり得ないと同時に、其の動かしの如何に價値標準は決まるべきである、最近、本間久雄氏は「藝術に於ける眞について」と題して此處を明瞭に言つて居るので、試にとり入れてみよう。

 「藝術は、少くとも理論としては、明かに假想の世界の創造である。決して自然そのまゝ、現實そのまゝの徹底的な寫實などといふことはあり得ない。自分では、どんなに徹底した寫實だと思つて居ても、これはその作家の心内の幻象の描寫にほかならない。作家は、j自然や現實の世界から材料を得て來て、これを自己の主觀の坩堝に溶かし込み、新しい別た世界――藝術の世界として讀者の前に提供する。だから、同じ材料でも、これを主觀の坩堝に溶かし込む、その溶かし込み方によつて、全く味ひの異つた作品の生れて來るのは當然なことだ。忌憚なき眞實の描寫といふことは文字通りの意味では斷じてあり得ない。もし、あつたらそれは藝術ではなく、生活の單なる寫眞に過ぎない。」

といふのである。無論、藝術として取扱はるべき俳句が、論を他に枉ぐべき筈はないのである。當然、又、俳句の進步發達の度合は、作者その人の心の動かし方によらなければならぬ。一草一木の微を、俳句として取り入れることも、作者の心は、仔細の注意力をもつて動くので、單なる土くれ、單なる草びらが、その儘實在として、紙上へ持ち來たされるやうに考へてはならぬことの反面に、その土くれ草びらを取扱ふ作者の心の動かし方を、仔細に、透徹した觀方で、觀、味はなければならぬのである。

   土近く朝顏咲くや今朝の秋     虛子

   三日月のたちまち見えぬ甍かな   同

   大石に倚れば靜かや秋日和     同

   棚ふくべあらはれいでぬ初あらし  同

   月いでゝ色に出る紅葉かな     同

      たけし息洋の袴着

   袴着や我もうからの一長者     同

の如きは、輓近、虛子翁の大成をものがたるものとして、讚歎に値するものと云ふを憚らぬ。解説の煩は敢て見合せ、左の樣に云ひたい。松尾芭蕉の宗房時代初步の作、

   月ぞしるこなたへいらせ旅の宿   芭蕉

から、桃靑時代の作、

   あすは粽難波の枯葉夢なれや    芭蕉

ヘ轉じ、更に、

   古池や蛙とび込む水の音      芭蕉

の芭蕉時代となつて、

   六月や峰に雪おく嵐山       芭蕉

   秋もはやはらつく雨に月の形    同

といつた、爛熟期の、靜かにして幽寂そのもののやうな、澄みわたつた寫生境へと進み入つたそれに對比して、私(ひそか)に我が虛子翁の爲に祝福の情を禁じ得ないもののあることを見出すのである。 

 

 芥川龍之介氏から、近著「梅、馬、鶯」を贈られたので、それの俳句についてだけ、蕪蕪雜な思ひつきだけを述べておきたい。

 ひつくるめて、この發表を、近業といふは、いさゝか當らぬかもしれぬ。大正六年より同十五年に至ると、句集終りにも附してあるが、既に、一度發表されたもので、それに對し嘗て私見をのべたものも多く散見する。けれども近業というても、全然觸れて居ないでもない。

 嘗ても云うた如く、今の俳人以外の人々で、創作家其の他に、俳句に指を染めて居る人たちは相當澤山の數に上ることであるが、その中で、氏の句境の如きは、まさに群を拔くものであることは、獨り私のみの見解ではなからうことのやうに思ふ。

 で、芥川氏の近作であるが、氏の其の後の句が、おしなべて、虛子翁の句などと同樣に、尠くとも其の姿態に於て、なだらかな調子を帶び、より平明にして穩健な風をもつて來て居ることは見のがすことの出來ない事實である。それとも一つ、傾向的に一種の寂びをふくんで見えるのである。この「寂び」は、芥川氏の創作に於ける一つの力で、事々しい發見でもあるまいと苦笑するむきもあるかもしれぬが、これまでに發表された俳句として見る時、此處に言及するの必要をずるのである。

   臘梅や枝まばらなる時雨ぞら      我鬼

   お降りや竹深ぶかと町のそら      同

      一游亭來る

   草の家の柱半ばに春日かな       同

   初秋の蝗つかめば柔かき        同

   桐の葉は枝の向き向き枯れにけり    同

   糸萩の風軟かに若葉かな        同

   さみだれや靑柴積める軒の下      同

   かげろふや棟も落ちたる茅の屋根    同

の如き、一々解説づけるまでもない。

 恁うした全部七十四句。その中、一進境を示したものとして、私をして擧げしめるならば、私は躊躇なく左の五句を擧げる。

   春雨や檜は霜に焦げながら       我鬼

   臘梅や雲うち透かす枝のたけ      同

   雨ふるやうすうす燒くる山の形     同

      震災夜增上寺のほとりを過ぐ

   松風をうつゝに聞くや夏帽子      同

      趙後より來れる婢當歳の兒をたんたんと云ふ

   たんたんの咳を出したる夜寒かな    我鬼

用意周到の氏は、自作に何囘となく眼を通して改作すべきは、十分の改作を加へて、發表されたであらうことが、句集全般を透して、よく窺へる。

 その中の一つ、冒頭におかれてある。

   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな     我鬼

に就て云ふと、此の句は、曩に「ホトトギス」へ發表された時とは違つて、またに改作されてある。前にはたしか、

   鍼條(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな 我鬼

であつたと記憶する。この句を改作した氣持、及びこの句の改作が持つ姿態は、近業全般へ流れて居るもので、價値の比較は別としても、よく一句が、近業としての證左を示すに足るものでもあるのである。

 が、他は他でよいとしても、此の句だけに於ては私は改作をとらない。この句は、我鬼といふ作者が芥川龍之介氏であることを知らなかつた時に私が推賞し、虛子翁も之を「ホトトギス」誌上で推賞したものである。その事あるが爲に、徒らに言葉ぞ盲進させるものでは斷じてないが、虛子翁の意見としては知らず、私一個としては、斯う調子をなだらかに落して、却つて失敗したと思ふ。即ち「似る」がいけないと思ふ。所謂「だれ」に陷ちたのである。この句のいゝところは、調子を出來るだけ緊張させ、矢繼早に、すさまじく讀者に迫るところにあるので、思ひ設けたい(作者は如何に思ひ設けたというても)奇なあの鐡條(ゼンマイ)を、蝶の舌なりと觀る(この場合、蝶の舌が鐡條に似たのでなく、鐡條は實に蝶の舌に似て居たのである)作者の感激は、些々たりとも碎(こは)してはならない機微なところで、その鋭い針の先きのやうな所に、明敏群を拔く芥川氏の感受性の働きがあり、當代一流の技巧家たる氏の叡智によつて表現さるゝところとなつた點に、俳句としての近代的傾向を見、芥川其の人の所謂大正の「調べ」として、敬愛措きがたいものとしたいのである。また不思議に、鐡條としてゼンマイと假名つけたりしたところに、一抹の妙味をふくまないでもない、ことほど左樣に前句を主張したい私である。

 改竄せぬとしたところで、此の句が何等芥川氏の大成を傷つけるものではないと私は信ずる。

 併し、も一つ附加へる。曩に、芥川氏は、久保田萬太郎氏を書くに當つて、恁ういうて居た。「小説家久保田萬太郎君の俳人傘雨宗匠たるは、天下の周知する所なり。僕、曩日久保田君に

  うすうすと曇りそめけり星月夜      我鬼

の句を示す。傘雨宗匠善と稱す。數日の後、僕前句を改めて、

  冷え冷えと曇り立ちけり星月夜      我鬼

と爲す。傘雨宗匠頭を振つて曰く、いけません。然れども僕畢に後句を拾てず。久保田君亦畢に後句を取らず。僕等の差を見るに近からん乎。」

と。更に又、今度發表の句集について見ると、

  風落ちて曇り立ちけり星月夜       我鬼

の一句を見出す。果して、前身は「冷え冷えと」ではなかつた歟を想ふ。

 前句「蝶の舌」の改竄を否定する私は、この芥川氏の「風落ちて」を、逡巡することなしに肯き得るものである。   (昭和二、一、二一)

2016/07/01

芥川龍之介氏の俳句   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:末尾のクレジットから発表は大正一二(一九二三)年八月四日(初出記載なし)。底本は飯田蛇笏「俳句道を行く」(昭和八(一九三三)年素人社書屋(そじんしゃしょおく)刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書当該パートの画像で視認して電子化した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、諸文章等の長い引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので、引用終了箇所には注意されたい。以下、少し語注を施しておく。

 冒頭に出る「永田靑嵐」は兵庫出身の政治家永田秀次郎(明治九(一八七六)年~昭和一八(一九四三)年)の俳号。第十八代三重県知事、第八代(在任中の関東大震災では復興に尽力した)及び第十四代東京市長、貴族院議員。第九代拓務大臣・第十八代鉄道大臣を歴任した。

 形式第二段落の「それは俳壇外の人で而も知名な人物であつてから」の「あつてから」は「あつたから」の誤植がやや疑われるが、しばらくママとする。

 第三段落の「若尾瀾水」(らんすい 明治一〇(一八七七)年~昭和三六(一九六一)年)は子規庵句会に加わったりした俳人であったが、子規没直後に俳誌『木兎(づく)』で「子規子の死」を発表したが、そこで激しい子規批判と俳句復興運動の「写生」論などの独自性を否定をするなどし、それが受け入れらずに俳壇から一時期、追放された形となった。大正期に俳誌『海月』を主宰している。

 同「最う」は「もう」と読む。

 同「中村樂天」(慶応元(一八六五)~昭和一四(一九三九)年)は本名を中村修一といった兵庫県出身のジャーナリストで俳人。明治一八(一八八五)年に上京、徳富蘇峰主宰の『国民新聞』記者から『国民之友』の編集に従事、後に『和歌山新報』『二六新報』に勤めた。正岡子規・高浜虚子に俳句を学び、晩年、俳誌『草の実』を創刊・主宰した。

 同「篠原溫亭」(明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年)は俳人で小説家。熊本県出身。本名は英喜。京都本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に学んだ後に上京、『國民新聞』」に勤めて活躍する傍ら、『ホトトギス』同人となって子規・虚子らに俳句を学んだ。大正一一(一九二二)年には俳誌『土上(どじょう)』を嶋田青峰らと共刊した。小説に「不知火」「二年越」「昔の宿」など。

 同「年齡からいうても靑嵐氏とは多分の相違があらう」芥川龍之介の生年は明治二五(一八九二)年三月一日であるから、凡そ十六歳年下になる。因みに筆者飯田蛇笏は明治一八(一八八五)年四月二十六日生まれであるから、龍之介より七つ年上である。

 『俳句が「ホトトギス」雜詠などに見え始めたのが凡そ四五年前からのことである』現在、『ホトトギス』「雜詠」欄に載った最初期の芥川龍之介の句は、大正七(一九一八)年五月刊の『ホトトギス』の、

   熱を病んで櫻明りにふるへ居る

   冷眼に梨花見て轎(かご)を急がせし

と考えられているが、この署名は「椒圖」であったため、蛇笏は認識していないと思われる(岩波旧全集でさえこれを落していた。一九九六年の新全集で初めて所収された。但し、同一の句が「我鬼窟句抄」の「大正七年」のパートには出る)。蛇笏が最初に眼をとめだしたのは恐らく、

   裸根も春雨竹の靑さかな

   蜃氣樓見むとや手長人こぞる

   暖かや葩しべに蠟塗る造り花

(以上三句・大正七年六月刊『ホトトギス』。以下、同じ)

   干し傘を疊む一々夕蛙

   水面たゞ桃に流れ木を湖へ押す

(以二句・大正七年七月号)

   鐵條(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな

   日傘人見る砂文字の異花奇鳥

   靑簾裏畑の花を幽かすかにす

(以上三句・大正七年八月)

の辺りであるが、後で「鐵條(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」のところで記されるが、蛇笏はこの署名「我鬼」が、かの芥川龍之介の俳号とは知らずに無名の者の力作の逸品と褒めたことが出、その後の叙述からも、それから後もかなり長い間、「我鬼」が龍之介だとは知らず、作家芥川龍之介の句として認識して注目し出すのは実は翌大正八年の後半ぐらいまでずれ込むようである。但し、この叙述は蛇笏の作者龍之介認知ではなく、実際に芥川龍之介が『ホトトギス』へ投稿し出した時期を客観的に述べているのであって、本執筆の大正一二(一九二三)年八月より「凡そ四五年前」ならば、大正七(一九一八)年五月刊の『ホトトギス』の初出とはよく一致する。なお、芥川龍之介俳句の初出の経緯詳細は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい(以上の引用もそこから)。

 第五段落「恁麼」は多く禅宗の仏語(その場合、多くは音の「いんも」で)として使用される疑問詞や指示語であるが、ここは後者の用法で「かくなる」と訓じていると読む。後に複数出る「恁う」も「かう(こう)」で同じく指示語である。

 同前「撤排」撤廃に同じい。

 同前「下し得る哉」の「哉」は「や」という軽い疑問(推量)で読むべきである。「かな」では幾ら俳誌主宰者とは言え、「かな」などと詠嘆されたのでは、私が読者なら、だったら同人なんど撤廃するがよかろう、と言いたくなるからである。

 同前「企及」(ききふ(ききゅう)」はここでは「肩を並べること・匹敵すること」の意。

 第六段落「原月舟」(明治二二(一八八九)年~大正九(一九二〇)年)東京生まれ。慶応義塾大学理財科卒。明治末年から『国民新聞』に投句、松根東洋城の選を受く。大正初期の虚子の俳壇復帰とともに『ホトトギス』に投句し始めて頭角を現わし、大正三(一九一四)年には同誌の募集俳句選者の一人となった。大正七年十月からは同誌に「写生は俳句の大道であります」を連載して〈『ホトトギス』流写生論〉を鼓吹したが、一方ではその瑣末な写生が批判された(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

 同「久米正雄氏との對話」(小谷野敦「久米正雄・詳細年譜」によって、これは大正八(一九一九)年二月にインタビューが行われていることが判った。蛇笏の言うように、これが『ホトトギス』の十一月号に載るとは、これどういうことか?! 季語を絶対とする守旧派でありながら年初の対談を年末に載せるたぁ! 如何にも人を馬鹿にした話じゃねぇかい!)の引用部は底本の字下げを無視して電子化した(直接話法箇所が二行に亙る箇所では発言者の柱の下までしか二行目以降は上がってこない字配となっている)。また、引用の最初の「久米」の柱の後にある「(一讀して微笑と共に)」は底本では割注で、ポイント落ち二行表記である。

 同段落同引用中の「普羅」は前田普羅(明治一七(一八八四)年~昭和二九(一九五四)年)。大正元(一九一二)年に俳句界の新人として高浜虚子に激賞されて『ホトトギス』の一翼を荷った。

 同段落のその後に蛇笏が引く「靑蛙汝もペンキ塗りたてか   我鬼」は、

   靑蛙おのれもペンキぬりたてか

が正しい(「おのれ」「塗りたて」)。大正八年三月『ホトトギス』に載る。なお、この時点でも蛇笏は作者を芥川龍之介とは認識していなかった。

 第八段落の虚子の評に出る龍之介の句と並べられた「炎天や大地濁して煙影」は語彙の選び方といい、私もなかなか佳句と思うが、この句も作者の「泊露」なる人物も、まさに無名人の中に埋もれてしまったらしい。情報があれば是非とも御教授を乞う。

 第九段落の「我鬼氏の座談」は正確には「我鬼氏の座談のうちから」である。大正九(一九二〇)年一月の『ホトトギス』に無署名で掲載されている。幸い、私が電子化した『「芥川龍之介氏座談我鬼氏の座談のうちから」芥川龍之介氏座談』があるので、是非、参照されたい。蛇笏が述べているように、ここに出るのは、そこで龍之介の述べた俳句論の柱の部分だけだからである。

 同段落に出る「天の川の下に天智天皇と臣虛子と」という如何にもおぞましい句は無論、高浜虚子の句である。大正六(一九一七)年に太宰府を参拝し、その夜、都府楼址に佇んで懐古した句とする。言っておくが、私はの虚子嫌いであるので、悪しからず。

 同段落の芥川龍之介の引用句の「ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏」の句は大正一〇(一九二一)年五月の中国特派の途中、漢口での嘱目吟である。「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウ(扁桃)Prunus dulcis、「アーモンド」のことを指す。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではない。実は中国から所謂、「李(すもも)」が入って来て以降(奈良時代と推測される)、本邦ではこれには「李」以外にも「牡丹杏」(ぼたんきょう)や「巴旦杏」(はたんきょう)という字と呼称が当てられてきた経緯があり、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いていると考えるのが妥当であり、蛇笏自身の後の観賞文でもそう理解して評していることが判る。因みに「すもも」としての「巴旦杏」の季語は春である。なお、私の「雜信一束 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「二 支那的漢口」をも必ず参照されたい。

 同じ引用句の最後の「笋の皮の流るゝ薄暑かな」の「笋」は、龍之介自身が「たかんな」或いはカタカナで「タカンナ」と振っている。引用する以上、読みの振れる漢字にルビを振るのは最低の礼儀である。それでなくても佶屈聱牙なる語彙を平気で自句で使う蛇笏にしてこの為体(ていたらく)! レッド・カード!

 「白桃の」句評中の「大川秀薰」は日本画の女流作家であるが、事蹟不祥。識者の御教授を乞う。この絵を見てみたい。

 「癆痎の」の句は大正七(一九一八)年十二月の作であるが、蛇笏の「内容は鼠小僧の次郎吉を書いたもの」、即ち、芥川龍之介の「鼠小僧次郎吉」初出は大正九(一九二〇)年一月の『中央公論』であるから、時系列では句の成立の方が二年も早い。また、同文中の「胡坐」は「あぐら」と読む。

 「あらあらし霞の中の山の襞」句評中の「強ひ」は、「しひ」(しい)。強引の謂いであろう。なおここで蛇笏は「作者相當に得意なものであらうことが見透かされる」と述べているが、事実、本句は芥川我鬼自身、会心の作として自負していた一句である。大正一〇(一九二一)年九月二十三日附久米正雄宛書簡に載るものが最も古いクレジットの明確なものでありそこではまさにこの通りの表記「あらあらし霞の中の山の襞」で記されている。句の前に「人あり因に問ふ 如何か是藝術 我鬼先生答へて曰」とあることからもその自信が窺われよう。因みに小島政二郎はこの句を芥川の俳句開眼と見ている。やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)の岩波旧全集書簡番号九四三に昭和五十二(一九七七)年読売新聞社刊の小島政二郎「長編小説 芥川龍之介」から本作誕生のリアルな映像が語られている。未見の方は、是非、お読みあれかし。

 「笋の」句評中の「底力」は実は底本では「庭力」。誤植と断じて異例に訂した。

 第「二」部の「水の面」の句評中の「意嚮」は「いかう(いこう)」で「意向」に同じい。

 最後から三番目の段落「即ち蜃氣樓といふものを……」の段落の内、「遂に芥川氏の詩的才能が、大空の蜃氣樓に對して憧憬……」とある箇所の「大空の蜃氣樓」は底本では「大空の蜃 樓」と脱字している。補った。

 引用句「白南風の」の「白南風」は「しらばえ」と読み、南風(はえ:南方から来る風の意であるが、漁師や水夫はこれを天候の変化の前兆として警戒する)の中でも梅雨が明ける六月末頃から吹き始める南風を指す。

 最後のクレジットは、底本では本文から改行され、下一字空けインデントで載る。]

 

 

      芥川龍之介氏の俳句

 

        一

 玄人ならざる玄人として見ることが出來る句作に秀でた技能をもつた人が現代に二人ある。その一人は永田靑嵐氏で他の一人は芥川龍之介氏である。

 折にふれて發表されるこの二人の作句には何時も敬愛の念をもつて接した。而うしてかすかなこゝろもちではあるが、何故か知ら作句が發表されてくることを心待ちにまつやうな自分であつた。それは俳壇外の人で而も知名な人物であつてから、俳句に指を染めて居るといふことに多分の興味をそゝられて居ることでもあつたが、それよりは專門に研究して居る俳人連中の作句ををさをさしのぎ氣味であるところの佳作が強く心をひくものであつた。

 永田靑嵐氏は俳歷からいふと芥川氏よりは非常に古く、すでに靑嵐氏は土佐の若尾瀾水氏等と一緒に高等學校に居た時分から俳句をやつて居たといふ話であるから、之を俳檀へひつぱつて來るとしても、最う中村樂天氏や篠原溫亭氏等と同樣に俳壇の古老として遇せられるのであるが、芥川氏は其の點はまだ古くはない、年齡からいうても靑嵐氏とは多分の相違があらうと思ふが、俳句が「ホトトギス」雜詠などに見え始めたのが凡そ四五年前からのことである。それ以前に於てひそかに研究されて居つたものであるかどうかそれは知らないが、少くとも吾人の眼に映じた俳人我鬼氏はその頃からである。

 靑嵐氏に就ては嘗て少しばかり書いたこともあるし、瀾水氏の「海月」でも一寸靑嵐氏に言及したことがあるので、玆には同氏に就ては何も云はぬこととして、芥川氏の作句に就て少しばかり思ふことを言うて見たいとおもふのである。

 大正八年の七月發行の「雲母」へ私は山廬漫筆と題して恁麼ことを書いた。

 (前略)各〻居城を異にしてその砦をまもり旗幟を飜しては居るやうなものの、仔細に之を見ると、その居城を異にするところがより多く人間と人間とを埓したるかすかな分界を意味したるもののみで、潜在した作品の内容に於ける價値如何を論究する場合に當つては寧ろこの居城を撤排してやうやく鳥瞰的論斷を下し得る哉の感がある。(中略)むしろその新しとなし古きと斷ぜんとするものの眞に俳句の大道を潤歩して磐石の重きをなし千古にその價値を傳へんとするものは、彼の居城を撤排したる大平野に於て之を見得るかの傾向が看取される。

 (中略)現俳壇に於て、私の主張する靈的表現であり主觀的寫生として愛誦措く能はざる作品は其の數相當の多きに上るであらうと思ふが、わけても「ホトトギス」雜詠に發表された、

  鐡條(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな   我鬼

の如きは其の代表的なものとして擧ぐるに躊躇せぬものである。

 俳壇知名の士が駄作はしばらく措き、無名の俳人によつて力作さるゝ逸品が選者の鋭い吟味と深い考慮とによつて世上に公表さるゝ事は嚴肅な尊い文藝界の慶事として他の何物にも企及し難い誇りを示すものである。選者はすべからく之の自受なくして可ならんやである。(下略)

 文中「無名の俳人によつて力作さるゝ逸品」などとして、芥川氏を無名呼ばはりしたりしたのは、我鬼といふ一俳人が芥川龍之介氏であつたといふことを知らなかつた頃のことで、私としても可笑しさに堪へない。

 其の後、その年の「ホトトギス」十一月號へ、原月舟君が「久米正雄氏との對話」と題して、その俳句に關する對話を掲げた。

 月舟「芥川さん(我鬼)の靑蛙の句が大分評判ですが貴方はどうお思ひでせうか、普羅さんの書かれたものがこれです。」

 久米氏(一讀して微笑と共に)「へえ、そんなに新時代を劃すと云ふ程の句とは思へませんね、私には。」

 月舟「蛇笏さんはキララでこの句を評されて、かゝる無名の一作者がかゝる佳作を發表し得るのは選者と云ふ者を必要とする俳句の一特色である、とか云ふ意味の事を書かれました。」

といふのがそれだ。常時月舟君がどう感違ひして居たのか、私の推奬したの句と普羅君が何かへ書いたといふ靑蛙の句とは同じではなかつた。靑蛙の句といふのは、たしか、

   靑蛙汝もペンキ塗りたてか   我鬼

といふ句であつたと思ふ。

 月舟君のこの書きものは少しく心に逆ふものがないでもなかつたが、發表したりして月舟君をきまり惡い思ひをさせるほどのこともないと思つたからして、當時私信で月舟君へ宛てて私の推獎した句とは違つて居る旨を告げて、多少の意見を加へて置いたまでのことだつた。

 つい先頃『ホトトギス』四月號に於て虛子翁も、

 「寫生句の中に、

   炎天や大地濁して煙影     泊露

   鐡條に似て蝶の舌暑さかな   我鬼

等の句がある。

 「鐡條」の句は、蝶々の舌を見ると、細く長く而も曲つてある、あの優しい蝶々の舌であるから、その舌もなよなよと優しいかと思ふと、どうしてく針金で拵へた堅い鐡條のやうに見える舌である。それを發見した時の感じが暑いやうな心持がしたといふのである。蝶々の舌を描き出すことが已に奇な上に、それか鐡條の如しと見たる作者の心持も決して平凡でない。併しながらこの句を讀んで感ずることは、如何にも正しい寫生句だと云ふことだ。寫生でなければ想像もつかないことである。併しながら寫生するに當つてその蝶の舌を鐡條に似たと感ずることは作者の特異な境地である。前の「大地濁して」の句の濁すと感ずることもやはり作者の主觀であるが、この鐡條に似たと感ずることは一層作者の主觀であるといはねばならぬ。云々」

として此の芥川氏の句を推獎して居られる。道理のことと思ふ。

 芥川氏の作にはこの「鐡條」の句のみでなく、恁うした主觀的寫生に立脚した句が甚だ多くこの句境に於て主として成功を收めて居るのである。嘗て「我鬼氏の座談」として「ホトトギス」誌上へ掲げられた同氏の意見のうちにも「僕は俳句を作るには三つの態度があると思ふ」として

 一、一つはありのまゝにうつす純客観の態度で写生といふのは大體これに當る。

 一、次は自然や周圍が自分に與へる印象なり感じなりを捉へて現はすもの。

 一、最後は純主觀で「天の川の下に天智天皇と臣虛子と」のやうな句がそれである。

と説き、「三つのうちでどれがいゝかと云ふことは一概に云へないけれど、私は中の態度を採る」と斷定して居る。即ちこの態度からして生ずるのが「鐡條に似て蝶の舌暑さかな」なのであつた。猶これに屬すべき氏の作句を擧げてみよう。

   裸根も春雨竹の靑さかな    我鬼

   白桃の莟うるめる立ち枝かな  同

   癆痎の頰うつくしや冬帽子   同

   夏葱にかそけき土の乾きかな  同

   靑簾裏畑の花を幽かにす    同

   古草にうす日たゆたふ土筆かな 同

   あらあらし霞の中の山の襞   同

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏  同

   笋の皮の流るゝ薄暑かな    同

等の如きは皆それである。

 「裸根も」は春雨のふりそゝぐ春竹が根をあらはにして靑々として居る。やはらかな感じで居て、而もどこやら餘寒の幽かにたゞようて居るおもむきが出て居るところが命である。

 「白桃の」は、直ぐだちした白机の枝に點々と着きならんだ莟がうるんで見えるといふおもむきで、一見極めて平凡と見えるうちに云ひしらぬ味ひをもつ句である。「うるめる」は言ふまでもなく「潤める」で、莟の白色であるべきと思ふのが澄明でなくやゝ曇りを帶て光澤を遠ざけて居るといふであらう。今春上野の日本畫會とか云つた展覽會で大川秀薰といふ人の鳩か何かを配した白桃の畫を見たが、その畫がやゝ之に近い感じを表はして居る畫であつたことを思ひ出す(たゞ畫中に配された鳩は困つたもので、何故にあんな蛇足をそへたかと思うた。生一本に白桃を畫きぬいて呉れたらよかつた)。其の畫が、莟のほころぴかゝつたうるみ色がついついと伸びきつた靑い枝に點じて居るところから貴く高い匂ひをはなつて魅するやうな氣分を與へた。この句と藝術の上の一致點をもつたものであらうといふやうなことが思ひ出される。

 「癆痎の」の句は之も感じを主とした句で、わづらうて瘦せおとろへた靑年の頰が冬帽を被つた風情美しく橫合ひから眺められるといふ、ことにやつれの見える頰のあたりを主觀的に描き出したところにうまみが見えるのである。

 私は芥川氏の創作をば多くは讀んでは居ないが、嘗て中央公論か何かで一寸讀んだことのある短篇――標題は何といつてあつたか忘れたが内容は鼠小僧の次郎吉を書いたものであつた。それが、東海道のある旅籠屋で一人の鼠小僧が賊をはたらいて旅籠屋の者に捕つてしまひ、繩か何かでからげられてから、土間にひき据ゑられて啖呵をきつて居る。俺は何をかくさう今江戸で名高い鼠小僧の次郎吉だといふやうなことを言ふ。と、それを本物の次郎吉が二階で眼をさまして胡坐か何かでのぞきこんで居るといふやうなもので、こだはりなくあつさりとやつてのけて居るうちに、あの太ッ腹の義賊次郎吉が克明に描き出されて居たことを思ひ出す。この作などを透して見ることが出來るよき藝術上才氣といふものが、矢張り俳句の方へ斯うした「癆痎の」の内容のうまみを持ち來たすものであらうと思ふ。

 「夏葱に」は、夏葱の培はれてある土の幽かに上(うは)乾きした感じを命とするもので、

 「靑簾」は、句意にむづかしいところはない、やはり平凡の形といへばいふことも出來る句である。而うして誰でも一寸やれば出來るといつたやうな句境であるが、併しいざやつてみるとなると出來るものではない。やはりこの幽かにすのうまみは凡手では出來難い。一讀颯爽たる涼味を感じ來るところに強味があるのである。

 「古草に」も、土筆を取かこんで古草にたゆたうて居るうすうすした日影にひきつけられる。

 「あらあらし」は、作者相當に得意なものであらうことが見透かされる。多少の強ひ加滅がないでもないが、感じは十分に出て居る句で、やはり佳作たるを失はぬ。

 「ひと籠の」も、巴旦杏が籠の中に夏日の暑氣をうけて照り光つて居るといふ句で可たり強い感じを與へる句であるが、さうかと云うて腐れ爛れるといふやうな程度の極度な感じをうちつけて來るものではない。既に句として扱ふ根本の取材に於て、それが巴旦杏であり、又實に一と籠の巴旦杏であるだけそれだけ、どこやらすつきりしたところのあることを見逃がすわけにはゆかぬ。やはり芥川氏らしいところを十分に認める。

 「笋の」は、前置きに「加茂川」としてある句で、恐らく加茂川邊に遊んだときの實感から得られたものであらう。加茂川の水の流るゝ上を筍の皮がちつてはながされてゆく初夏の光景から薄暑のたゞようて居る感じをあらはしたもので、可なり細い線をもつて描いてゆく裡に底力をもつた感じがはつきりとよく出て居る句である。

 

        二

 

 前掲述べ來つたところは芥川氏の自ら主張もし其の努力が鮮明に表現されて居るもので、珠玉と倣すべきものであることは云ふまでもないことであるが、其外に又前にあげたものの第一項に屬すべき句、即ち物象をありのまゝにうつす純客觀の寫生の態度から産れたもので、佳作として推奬すべきものも尠くない。

   殘雪や小笹にまじる龍の髯    我鬼

   水の面たゞ桃に流れ木を湖へ押す 同

   星赤し人なき路の麻の丈ケ    同

   炎天に上りて消えぬ箕の埃り   同

   秋の日や竹の實垂るゝ垣の外   同

   野茨にからまる萩の盛りかな   同

      湯河原の宿

   三月や茜さしたる萱の山     同

   蒲の穗はほゝけそめつゝ蓮の花  同

   線香を干したところへ桐一葉   同

   日傘人見る砂文字の異花奇鳥   同

   燭臺や小さん鍋燒を仕る     我鬼

などの如きは其の實例として見るべきものである。

 「殘雪や」は、龍の髯が小笹の中にまじつて生えて居る山地などに、春先きの殘雪が鹿の子まだらに見えるといふ寫生である。

 「水の面」は、句法が少しくごたごたしては居るが、一と通り讀み終つてしまふと滑かに心ひゞいて來る句境で、「水の面たゞ」というた「たゞ」にかすかな作者の主觀的意嚮がうごいて居ないこともないが、それは枝葉のことで大體に於て、湖上へ向つて流れ木の流動する客觀描寫がひつくるめて扱はれて居る。

 「星赤し」も、亦同じやうな客觀で「人なき路の」の「人なき」はやゝ觀察しうるものがないでもないが、これも「たゞ」の程度で先づ純寫生と見て差支ない。唯「星赤し」の「赤し」が、光り澄むとか若しくは白く輝くべきであるのを餘程強く主觀を加味したものではないかといふことも疑へば疑へるが、併し實際からいうて夏の夜の星は水蒸氣か何かの關係でひどく赤光を帶びて見えることがある。其の實景に可なりふかく興味を見出して寧ろ忠實に寫生したものと見るベきであらう。この異常な實景が呼ぶ感じは此の句としての價値に可なり重石づけるわけである。

 「炎天に」は、極めて平明な客觀的句境で何等惑ふ餘地もない。

 「秋の日や」は、これも秋の日に竹の實が熟して垣外へ垂れ下つて居るといふ寫生で、誰にもよくわかる佳作である。

 「野茨に」は、野萩が眞盛りに吹きさかつて野茨に纒ひついて居るといふ光景をありの儘に寫生した句で、自然のすがたながら情味あるかの趣きにすつきりした美感を誘はれるのである。

 「三月や」は、湯河原の宿といふ前置きのある句で、作者が湯河原の温泉宿に遊んで居て恁うした實景に接して作つたものであらう。平明なよい寫生句である。

 「蒲の穗」の句咳これも無論寫生。句であるが、これまで列擧した作とは少し違つた句法に出て居るので、少しでも俳句を學んだ人にとつては何でもないが、初學の人にはやゝ解しにくく自然その趣きをも會得出來兼ねがちかもしれぬ。

 併し成る可く簡單に解をくだして「蒲の穗はほゝけつゝあり、あたりに圓盤のやうな靑い廣葉をひろげた蓮が今や其の淸楚な花を開いて居る」といふやうに觀てとればそれでいゝのである。

 「蒲の穗は」の「は」は「の」といふほどの意味である。一見して机上の作のやうにも思へるが併し此の句境は實景に接して深く心頭に刻んだ感激から發せなければ得られぬものである。

 「線香を」は、秋をむかへた桐一葉が線香を干しならべたところへ落ちたといふので、線香を拵へて居る家の庭などと思つて思へないこともないが、それよりは寺院もしくは在家でもいゝ、少し濕氣のきた線香を庭へ干した。すると其處へゆらゆらと桐の落葉がした、といふおもむきが作者の心をうごかしたところであらうと思ふ。少しもたくらむやうなところのない實景を展じて趣にうつたへた、いやみのない佳作である。

 「日傘人」は、先年「ホトトギス」の俳談會にも話題にのぼつて兎や角言はれた句で、句意は夏日路傍かどこかで砂文字をやつて色々な花や鳥など畫いて居るのを、日傘を翳した人が珍しくのぞき込んで居るといふので、その砂畫きの異花奇鳥に心をひきつけられて、恐らく小髮あたりへは汗をにじませて居るだらうほどの、暑苦しい感じなり氣分なりを出さうとした作者の意圖がうかゞはれるものである。

 この句などは果して芥川氏が今恁うした實景に接して作つたものであるかどうかは疑はしいが併したとひ實景に接したものでないとしたところで、恁うした物を客觀的に取扱ふ點からいふと同じ系統に屬して屬せられないことはないものであつて、やはり俳句一方の領域を占むるものとして存置すべき必要は十分に認むるものである。

 「燭臺や」は、又恐らく實見から來たもので、これをありのまゝにいつて倣し得た句であらうと思はれる。即ち例の落語の小さんが燭臺にともる燈に照されながら、落語三昧に入つて居る。私は落語の事はよくは知らないが、「鍋燒」といふのは、小さんの最も得意とする落語の一つである。その小さんの妙技を聽き入つてから「小さん鍋燒をつかまつる」と敍したところに、作者得意の心持も窺はれるし、又其處が寫し得て讀者を共鳴せしむるに十分であるのである。

 斯う列擧して吟味して見ても、其の句々の中に――かゝる殆ど主觀が影をひそめた客觀的寫生の作句にさへ、何れも漲りわたつて居るのは其の才氣である。此の才氣がある爲に、なまじ下手な主觀によるよりもたくみに客觀にゆかうといふ、それが構へたるものでなしに心情自らなる流露として作句の上にあらはれるものではなからうかと思はれる。

 芥川氏の主觀の句といふのをさがして見ても殆ど出逢ふことがない。或は發表しないものの中などには有るにはあるであらうが、私の僅かに見出し得たところの佳句では、

   元日や手を洗ひ居る夕心    我鬼

くらゐのもので、外にはやゝ主觀めいた、

   白南風の夕浪高うなりにけり   我鬼

   薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな  同

といつたやうたものがあつても、矢張これは前掲第二項の主觀的寫生即ち自己對自然の印象なり感じなりを表はし來つたといふ方面に傾くものであることを否むことは出來ない。

 唯、この外芥川氏の句として留意すべきものは、

   蜃氣樓見むとや手長人こぞる   我鬼

といふやうな句のあることである。前にあげた「日傘人見る砂文字の異花奇鳥」と同系のものであるといへば言へぬこともないが、其の句よりは更に進んで行つて「手長人」といふやうな空想の人間を持ち出して來て居るところに一層色彩の濃厚な或るものがある。

 即ち蜃氣樓といふものを實見したかどうかは別として、大空の中に現出するといふ珍しい蜃氣樓の光景を如何にかして之をさながらに描出しようとするとき、遂に芥川氏の詩的才能が、大空の蜃氣樓に對して憧憬もしくは讃美の情をあらはす人物を配してみたのである。即ち大空へ向つて諸ろ手をのばしきり長くさしのばして上體をば傾き加減に、人々がこぞつて居るといふ繪畫などが人々に與へる同じやうな印象をもたらすものである。

 恁うなつて來ると、此の極端さは、俳句に盛るべき内容として俄かに吾人の贊同をゆるさぬ所がないでもないが、併し此の大膽なる描寫といひ、奇拔なる着想といひ、さうして之が幼稚でなく滑稽でなく案外上滑りしてゆかぬところに吾人の相當考慮を促されるものがあるのである。

 猶、普羅君の推奬したといふ、

   靑蛙汝もペンキ塗りたてか    我鬼

の作については、私としても、殆ど他の企て及ばない芥川氏の敏感さを認め得べきものとして此の點に多大の敬意をはらふものであることを言ひ添へておきたい。要するに創作界の才人芥川龍之介氏は、やはり俳句界へ足跡を印する才人芥川我鬼として認めらるべきものであらう。   (大正一二、八、四)

2016/06/30

俳人芥川龍之介   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:底本は飯田蛇笏「俳句文芸の楽園」(昭和一〇(一九三五)年交蘭社刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認して電子化した。踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、芥川龍之介「芭蕉雑記」の引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので引用終了箇所に注意されたい。以下、少し語注を施しておく。なお、蛇笏が多く引用している「芭蕉雑記」及び草稿を含めた全文を私が電子化しているので、未読の方は参照されたい。

 形式第一段落の「遉に」は「さすがに」と訓ずる(「流石に」に同じい)。

 同段落の小穴隆一の「二つの繪」の強烈な回想引用の中の「縊り」であるが、原本(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)を私は所持するが、これは同書の「死ねる物」の一節乍ら、原文は、『芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたというふ話を聞いたときのはうが凄く感じた』で正確な引用ではなく、脚色がなされている。なお、この原文により、「縊り」は「くびくくり」と読むのが正しいことが判る。

 同段落の「羸弱」は「るいじやく(るいじゃく)」で、衰え弱ることを意味する。

 同段落末の「流眄」は「りうべん(りゅうべん)」で、流し目で見ることの意。

 第二段落に出る「西谷勢之介」(明治三〇(一八九七)年~昭和七(一九三二)年)は詩人で、『大阪時事新報』『大阪毎日新聞』『福岡日日新聞』などで記者を続け、大正一二(一九二三)年に大阪で『風貌』を創刊主宰、翌年、詩集「或る夢の貌」を発表。昭和初期にかけては佐藤惣之助の『詩の家』や中村漁波林の『詩文学』に属す一方、『文芸戦線』『不同調』などに詩や随筆を寄稿、昭和三(一九二八)年に発表した「虚無を行く」が野口米次郎に認められ、師事した。著書に詩集「夜明けを待つ」の他、「俳人漱石論」「俳人芥川龍之介論」(昭和七(一九三二)年立命館出版部刊)「天明俳人論」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠る)。

 「三つの窻」「窻」は「窓」。自裁直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表された私の偏愛する作品。本文に出る他の作品に比べると知名度はやや落ちると思われるので、電子テクストであるが、リンクさせておく。

 第五段落「犬牙錯綜」犬の牙の如くに互いに食い違ったり、入り組んだりしていること。

 同「剔刳」は「てつこ(てっこ)」で、「刳」も「えぐる」で「剔抉(てっけつ)」に同じい。

 第六段落「如上」は「じよじやう(じょじょう)」で、前に述べた通り、の意。

 同「前者は最後まで表面化さなかつた」はママ。「前者」即ち「運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想」「は最後まで」俳句作品には「表面化さ」せ「なかつた」の意である。「せ」の脱字が疑われる。

 同「決河の勢」「けつかのいきほひ(けっかのいきおい)」と読み、河川の水が溢れて堤防を切る如き猛烈な勢いの意で、勢いの甚だ強いことの譬えである。

 同「唾咳みな金玉抵に」「唾咳」は「だがい」で、「つばき」と「せきばらい」で普段の日常的で些末な感懐の比喩であるが、一般には「咳唾(がいだ)」である。「抵に」(ていに)はそれらと相当にの意で、一茶の句作が日常茶飯の月並句と珠玉の句の創作の滅茶苦茶な玉石混淆状態にあることを指す。

 同「終ひに行くに所な足疲れ衣破れて」ママ。「行くに所なく」の「く」の脱字であろう。

 第九段落「韓紅」は濃い赤色で、普通なら「からくれなゐ(からくれない)」と訓ずるところだが、飯田蛇笏はお読み戴ければ分かる通り、極めて佶屈聱牙な読みを好む俳人であるからして(俳句作品でも然り)、ここは敢えて「かんこう」と音読みしておく。その方が、本文の文脈にもしっくりくる。

 同「波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖」この自画像は芥川龍之介の絵画作品の中では自画像でありながら、最も知られていない異様な一枚と思う。面倒なので引用元は明かさないが(文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している)、日本近代文学館蔵の当該元画を以下に示す。

 Ryunosuke_self_portrait1921104yugaw  


 同「第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、/霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介/と沈痛に吟じてゐる」は、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五」で現物画像を見ることが出来るので、是非参照されたい。

 第十一段落『「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた』の「人物」とは萩原朔太郎であり、ここに記されたことは「噓説」なんぞではなく、概ね事実である(但し、「蔭口」ではない)。何よりも当の詰め寄られた萩原朔太郎が「芥川龍之介の死」の「11」で描いているからである(リンク先は私の古い電子テクスト)。未読の方は、是非参照されたい。

 第十三段落「寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」の一文はやや読み難いが、――「寧ろ」、「龍之介的芭蕉を現出」せしめんとして、「餘りに是れ」を「力」(つよ)「めんとする」過剰にして異常なる「氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」――という謂いであろうと読む。

 第十五段落「灼耀」「しやくやく」光り輝くさま。「赫奕(かくやく)」に同じい。

 最終段落冒頭の「決河の勢ひで漲り出た――」のダッシュは後半が空白になっている。植字ミスと断じてダッシュを延した。

 同前「燦」「さん」。輝いて鮮やかなさまを謂う。]

 

 

      俳人芥川龍之介

 

 重患のはげしい痛苦で、泣きわめきながら文稿をつゞつた不敵な魂の持主である正岡子規と、どうした因緣か齡を同じうして現世を去つていつたのは芥川龍之介であつた。子規と龍之介といふ人物との對照は、又別に相常興味ある問題を構成し得べきものでもあるのだが、それはそれとして、一脈相通ふところのものが看破されるのは、その不敵なたましひの有りやうである。遉に龍之介も子規といふ人物のそのたましひに次第にひかれてゆく心のすがたを見せた。小穴隆一氏の「二つの繪」によると、げにも「精も根も盡きはてた」又、「縊りの眞似をする彼よりも、押入の中でげらげら、獨りで笑つてゐる彼のはうに凄さがある」ところの龍之介であつたがために、此の羸弱と而して、ヂャールやべロナールが愈々助長せしめる慘憺たる心身の崩潰が、子規の如きそれへ流眄をはげしくしたにちがひなかつたらうことも肯ける。

 芥川龍之介の思想の中には、絶ず兩つの極面が向ひあつてゐて、それが、時に人知れぬ火花を散らすことがあつたと同時に、又多くは明鏡の如くはつきり文藝作品の上に立像を現出し來つたものゝやうである。いさゝか物故した者へ鞭觸れるかの感じで、愉快ではないけれども、故人西谷勢之介の如き、よく龍之介を理解し、龍之介を惜しむに人後に落ちなかつたものであることは、その遣著「俳人芥川龍之介論」に照らして明瞭なことであるわけだが、名の示すその通りに、餘りに俳句に觸れてのみものを云うた點にも因ることだらうけれども、龍之介の思想を觀察、檢討して其の點に觸るゝ所が見えなかつたことが、吾人をして若干の遺憾を感ぜしめた。しかも勢之介は云つてゐる。

 「傳へきくところによれば、芥川龍之介はその文人としての本領を俳道に置いてゐたとのことである。小説家としての彼が、大正昭和の文壇に最も光榮ある足跡をのこし去つたことを想ひ見るとき、右の言葉は誇張されてゐるやうであり、疑惑せずに居られぬ向もあるけれども、その凡ゆる文藝作品とよくよく吟味すれば、筆者必ずしも不當とは考へられないのである。(「俳人芥川龍之介論」緒言)と。

 この邊の觀察力に缺くるところなく油斷ない彼の研究をもつてしてゞある。

 龍之介の思想に於ける兩つの極面の現はれとして、具體的な證左をあげて云へば、一つは「三つの窻」のやうな運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想であり、一つは「羅生門」乃至「鼻」。いよいよ圓熟の域にすゝんで猶同系たる「鼠小僧次郎吉」のやりな、技巧畢竟天衣無縫の感あらしめるところの彼が明鏡的天才の絢爛さをかき抱く純悴に文藝的な思想である。さうして、此の間に介在して犬牙錯綜、血みどろな人生の葛藤を剔刳するところのものは、彼が漱石的影響のもとに、そのおほらかな天分に乘じた「鼻」の如き初期の作品から、世間彼をめざして云ふこころの所謂、「私小説」への轉換期作品に、たまたまこれを觀るのであるが、その最も顯著なるものゝ一つとして永遠に人心を衝くところのものは 「藪の中」である。であるから、龍之介の思想的全面容から見て、彼が漱石から出て常に漱石を思ひ漱石を忘れなかつたにも拘はらずその作品の或る深刻さが、哲理的背景をひそめて、どこやらに詩的な香味をたゞよはす點に於て、(例ヘば「二つの窻」の如き)故國木田獨步を思はせるものがあつた。「偸盜」や「河童」のやうな作品をのぞく以外には、多く短篇に於てその天分を發揮したことも相通ずるものがあつたのである。

 そこで、世間これを餘技と稱し、龍之介自ら微苦笑をもつて迎へながら、時に甘んじて餘技的態度をかまへながら、その実、滿を引いてはなつに怠りなかつたところの彼の俳句に就いて見るのだが、素より龍之介の俳句は龍之介なりに、幾分でも、龍之介が心臟からつたはつて流れいづるところの血潮そのもので血塗られぬ筈はないであらう。この故に、如上龍之介が思想的背景のもとに、俳句作品の二つの面影は生涯の扉を閉めた内にあざやかな姿をとゞめて鑑賞をほしいまゝにせしめてをる。だが、ここに最も注意すべきことは、前者は最後まで表面化さなかつた。これは俳人芥川龍之介に見る驚くべき事實であつた。(驚くべきことであつてその實彼にとつては驚くべからざることである所以はこの稿の終りに至りて了解し得ると信ずる)だが、さきに事實に就いてだけ云へば、これは斷末魔に至つて、決河の勢をもつてはち切れてゐるのである。俳人として左樣な例は決して多くはない、けれども少くとも小林一茶に就いて見れば的確なるものを示してゐる。一茶が天分を恣にして唾咳みな金玉抵に(この點龍之介は正反對であるが)濫作をつゞけて、終ひに行くに所な足疲れ衣破れて、郷里信濃の柏原の里にたどりついたとき、

   これがまあ終ひの栖か雪五尺   一茶

と、滂沱たる萬斛の血淚をしつてゐる。その人とその藝術の違ひこそあつたにせよ、各、個々の思想を背景として、斷崖の上に起ち、全裸のすがたをぶち出し、眞つ赤な心臟を割つて見せた點に至つては斷じて機を一つにする。龍之介にも亦これがある。

 龍之介の俳句を批判するとして彼自らの作品を直下に論ずべきは當然すぎる當然である。と同時に克明に彼が俳句道に生くる根本義を物語りその識見を披き得るところのものは、俳句史上、最大の標的松尾芭蕉に對する彼の見地に照らすことが第一である。幸にも彼は「芭蕉雜記」といふ好文献を遺してをる。就いてこれを見ると、

(一)「芭蕉の説に從へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば、如何なる流派にも屬せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に從へば齋藤茂吉氏の『アララギ』へ歌を發表するのは名聞を求めぬことであり『赤光』や『あら玉』を著はすのは『これは卑しき心より我上手なるを知られんと……』である。

と、及び、

(二)「しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――『我俳諧撰集の心なし。』芭蕉の説に從へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことゝ思はなければならぬ。然らばこの『何か』は何だつたであらう?』

と、及び、最後に、

(三)「芭蕉は大事の俳諧さへ『生涯の道の草』と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも『空』と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集をあらはすのさへ、實は『惡』と考ヘる前に『空』と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉のやうに詩を題した。がその木の葉を集めることには餘り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千餘句の俳諧は流轉に任せたのでなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥には、いつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?」

とで結んでゐる。

 (一)(二)(三)は筆者が假りに之れが段階を追ふの順序として、はつきりさせる爲だけに附けたものであつて、「芭蕉雜記」の筆者の爲業ではない。近代に生を享けて、小説家著述業者芥川龍之介が彼のぎらぎらした心頭に、鬼才龍之介の盛名はよし微塵であれ、芭蕉のこの流轉的心像に逢着してこれが深くも深く關心を買ふべく餘儀なくせられたのは、まことに當然のなりゆきでなければならぬ。龍之介が俳句道にたちあがるや、彼の不敵なる魂が、氣壓さるべきでないと手向ふものゝ、さうした精進にひるみは見せないものゝ、いつしか、此の流轉的心像にぶちあたつて不覺にも泣きぬれたる姿であるのである。

 小穴氏稿するところの限りない悲哀「二つの繪」が示す、その奧底に渺々として橫たはる所のものは果して何であつたか? 死直前の作「齒車」を賞讃する批評家もあつたし、その他、若干のベロナール乃至ヂャールをブラスする阿修羅の作品によつて鵜呑みされる甚だ非阿呆(?)の龍之介ファンが尠なからず散在したやうに見受けられもしたが、其等の盛名的外郭によることよりも故人龍之介が韓紅なる心臟を裂いて、はつきりと示すところのものは、小穴氏の主觀は小穴氏の主觀として、一事實としての盤上に盛られた「二つの繪」そのものでなければならなかつた。第一の繪の、波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖と第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介

と沈痛に吟じてゐるのである。

 だが、「芭蕉雜記」は總ての速斷をゆるさない。

 更に、同記第四項「詩人」に於て例の、

   人聲の沖にて何を呼やらん   挑鄰

   鼠は舟をきしる曉       翁

の「曉」の附句で、許六がこれを、

 「動かざること大山の如し」と賞讃したとき、芭蕉が起き上りて曰ふことに、

 「此曉の一字聞きとゞけ侍りて、愚老が滿足かぎりなし、此句はじめは「須磨の鼠の舟きしるおと」と案じける時、前句に聲の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは氣を𢌞し侍れども、一句連續せざると宜へり。予が云ふ、是須磨の鼠よりはるかにまされり(中略)曉の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん。これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる貌のみにて、善惡の差別もなく、鮒の泥に醉たるごとし、其夜此句したる時、一座のものども我遲參の罪あると云へども、此句にて腹を醫せよと自慢せしと宜ひ侍る。」

 と云ふ、此處の消息に就いて、龍之介はどう觀てゐるかといふと、

 「知己に對する感激、流俗に對する輕蔑、藝術に對する情熱、――詩人たる芭蕉の面目は、ありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に『この句にて腹を醫せよ』と大氣熖を擧げた勢ひには――世捨人は少時問はぬ、敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。」

と云ふのが彼の論斷である。凡そ、この種の論稿に於て一とくさりの皮肉は忘れることのなかつた彼にして、正直正銘、ひらき直つた態度で、かうまで喝破したものは、果して幾何か有り得る? と云へようと思ふ。實に是れは芭蕉その人を物語るよりも、龍之介彼自身を多く物語るものでなければならぬ。文人龍之介といふものゝ眞骨頂を、爰に分明に認らるゝのである。前に、不敵なたましひの持主として筆を起した、その不敵さ――彼云ふところの流俗に對する輕蔑、藝術に對する惰熱それは直ちに轉換してもつて、彼の面上に冠すべきものであるのではないか。筆者は、さうした古典味から類推することよりも、もつと生ま生ましい、人間龍之介を描き得る自信をもつ。彼、元氣旺盛なりし頃「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた。善哉河童居士、よし、その擧は空しい噓説であつたにしたところで、寒骨、鶴のごとき瘦軀を指して臆面ない、熾烈なる詩人的たましひの嚴存は、分明に居士に認めて餘りあるものである。

 閑話休題として、さて龍之介の「雜記」は、

 「芭蕉も亦世捨人になるには餘りに詩魔の飜弄を蒙つてゐたのではないだらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか? 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」と、結んでゐるのである。

 芭蕉をば十分に理解してゐる龍之介ではあるに相違ない。それは、前掲(一)(二)(三)の説述に照らしても合點されるところでなければならぬ。而も、その「詩人」(第四)の項に於て、「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは、芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を輕んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ當然の言葉である。――とする龍之介その人の矛盾に照らして見ても、芭蕉のそれを、我自身に結ばうとする、――一歩をすゝめて云へば、寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。即ち、芭蕉文藝が搔き抱く流轉相に對して反撥する彼自身の矛盾をば、敬虔に、素直に熱をこめて、而して賢明に告白するところのものでなければならぬ。鏡に向へば、忽然として其處に、「羅生門」なり「黃雀風」なり、「傀儡師」なり「夜來の花」「沙羅の花」「邪宗門」等々々斷翰零墨も亦「點心」たり「百艸」たることに於て、天下百萬の愛讀者を擁する彼れ龍之介が、彼の面前に現はれ出るのであつた。枯枝に點ずる鴉を見、人生を大夢と觀ずる飄々たる風羅坊と相對して、餘りにも絢爛たる存在の龍之介がこの豪勢さである。然もよく是を理解しこれに深く共鳴し、その途をさへたどらうとする龍之介その人であればこそであつた。

 龍之介一代の俳句作品を通じて、誰でもが直下に見得るところのものは、素晴らしい表現的技巧の冴えであつた。俳句以外の文藝作品に於て、彫心鏤骨の形容詞を賞讃の上に冠せられたことは、事新たに説くまでもないことだが、この形容詞は俳句作品の方面にも亦最もしつくりと据わるものでなければならなかつた。(否、寧ろそれに過ぎてあたら珠玉に血塗つたことさへ筆者はよく知つてゐる。)一々例を擧げて云へば、その的確なるものは枚擧に遑ないことであるが、この稿にはさうした煩はしいことを避ける。だが、唯、早く發表され若しくは上梓を得た其等のものゝ中から如何に多く次ぎ次ぎに現はれ來つた彼の著述の中に改竄されたそれを發見し得るかと云ふことだけを述ベておく。

 小説に於て金石文字たり、俳句に於て天衣無縫たらしめよりとする、その彫心鏤骨の精進にあたつて、絶えず心を來往する灼耀たるもの影の一つに、俳人芭蕉その人があつたことは、既に述べた通りである。而してその芭蕉的影響が、近代人の中に聳えた近代人龍之介の雙びない尖鋭の神經に美妙にも若干のゆとりを加へ、若しくはめまぐるしく拍車を加へた。彼謂ふところの「僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」心境から、巖をしぼれる雫のやうに、滴りおちた彼の俳句作品であるに相違なかつた。彼が、人生の大團圓に於て、日常文人生活の惱みであり、さうして、實に前述の「二つの繪」である大關門の扉が細目に突つ放なされたとき、そこに、

   水洟や鼻の先だけ暮れのこる   龍之介

かぎりない寂然たる天地が覗かれた。

 これ即ち、決河の勢ひで漲り出た――と云ふよりもむしろ潜みに潜んだ鬼才龍之介の、最も恐るべき、驚くべき方面の、一極面の思想を背景とするものが、玉の如く凝つて如實にぶち出されたのである。尚、一度「二つの繪」によれば、「二つの繪」の筆者がこの天才の最後の場面、納棺に際してちらつと一瞥したところ、胞衣と一緒にした幼名が「龍之介」ではなく「龍之助」であつたかもしれぬ、と云ふ。それを讀んだとき、果然、芥川龍之介は最後を燦として此方へ光つた。筆者はあくまでも「龍之介」に左袒するものである。(昭和九、九、二一)

享年三十六歳

正岡子規が脊椎カリエスで亡くなった時、享年36であった。――芥川龍之介が薬物を服用して自裁したのも同じ享年36であった。――

2016/03/22

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 新鮮なる蔬菜 後記 奥附 / 山響集~完

  新鮮なる蔬菜

 

田攏(たぐろ)芋花さく丈けに霧しづく
 
 
[やぶちゃん注:「
田攏(たぐろ)」は「田畔」とも書き、田のくろ、畦のこと。この芋は特に特殊な芋を指すとは採らなかった。

 

蔬菜籠みるみる露の日翳せり

 

[やぶちゃん注:「みるみる」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

熟れすぎし胡瓜美(くは)しもあまた垂る

 

[やぶちゃん注:「美(くは)しく」の「くはし」は古語。「詳し」と同語源で、対象の組成が細やかで、洗練されている様子を指す。微妙に美しい、繊細で美しい、の意。]

 

人ごゑにおちつぐ茄子のかぐら蟲

 

[やぶちゃん注:「かぐら蟲」神楽虫で「テントウムシ」の方言と思われる。「日本国語大辞典」には茨城・静岡・愛知の採集地が示されてある。ネット検索したところ、ある記載に、『黄色の体に黒のヒゲがぐるりと取り巻いたような』『蛾の幼虫』とあるのであるが、句のイメージとしては生理的にちょっと私は採りたくない。]

 

白晝のむら雲四方に蕃茄熟る

 

見(み)のしゞに越瓜(しろうり)を匐ふちちろむし

 

[やぶちゃん注:「見のしゞ」の「しじ」は「四時」で、ここは広義に見るといつも、の意で採っておく。「ちちろむし」蟋蟀(こおろぎ)の別名。]

 

葉を擡(もた)げ茄子日々に生(な)り雲鎖す

 

茄子と採る蔓豆籠をたれにけり

 

[やぶちゃん注:「蔓豆」マメ目マメ科マメ亜科インゲン連フジマメ属フジマメ Lablab purpureus か。ウィキの「フジマメ」によれば、『アフリカ、アジアを原産地と』日本には九世紀以降に『度々導入された。関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはサンドマメと呼ばれている』。『岐阜県では飛騨・美濃伝統野菜に「千石豆」として、石川県では加賀野菜の一つとして「加賀つるまめ」の名でブランド化されている』。『若い莢を天ぷらや和え物、汁の実にして食べる。種子は熟したもの、若いもの、双方食べられる。熟した種子は堅い外皮で覆われているため、料理の際は長時間の加熱を必要とする。加熱の際には何度か水を換える。大量に摂取すると毒性が強く危険。乾燥させた種子は豆粕に加工したり圧縮、発酵させて納豆のようにして食べる。加熱してそのまま食べても良い』とある。]

 

草の香に南蠻熟るゝ厄日明け

 

[やぶちゃん注:「南蠻」はトウモロコシとトウガラシの別名だが、総標題は「新鮮なる蔬菜」だから前者でもよいが、ここは印象的に後者の赤を私は配したい。]

 

新榧子(しんかや)を干しひろげたる地べたかな

 

[やぶちゃん注:「榧子」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera の実であろう。ウィキの「カヤ」によれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭くアクが強いので数日間アク抜きしたのち煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き後乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある』とある。]

 

刈草の樝子(しどみ)つぶらに露しめり

 

[やぶちゃん注:「樝子」既出既注。]

 

蔬菜籠娘が暮れ暮(ぐ)れに滿てしはや

 

[やぶちゃん注:「暮れ暮れ」の後半は底本では踊り字「〲」であるので、例外的に読みを補った。]

 

 

 

 

    後   記

 

 わたくしの句集は、第一に雲母社發行の「山廬集」、第二に改造社發行の「靈芝」があるのでこれは第三句集となるわけである。この書名を山響集(こだましふ)としたのは、わたくしが自分の中に生活して山響を愛するが故である。ひとり山中に佇つて、われとわが聲をよつて聽くとき、いかにも自分の作品のそれに接する場合を思はせられるのである。で、こんどこの集は、河出書房主の慫慂により江湖にまみえることにたつたのであるが、全作品、わたくしの主宰する雜誌「雲母」はもとより、現在世に行はれてゐるあまたの雜誌及び新間へ約五箇年にわたつて掲載した多數のなかから自選したものである。左樣に多數のものへ掲載したのであるから、選出したとはいふものの、なほ見失つてゐるものも若干あらうかと思はれる。掲載の雜誌や新聞の名を一々附記し、且つその折々の題名など書き入れることも、自分自身のみにとつては多少の興味あることのやうにも思はれたことではあるが、再選した結果、或は一二句にとゞまるのもあれば、全部抹殺するやうな場合にも出逢つたりしたために、さうしたことを一排し、そのう數篇だけをそつくりこの集にとゞめるだけにした。さうして、今年晩春から一箇月あまり私は朝鮮から滿洲及び北支那へかけて旅行したのであるが、これを一區畫としその旅行吟發表までを此の集にとゞめることにした次第である。この一集を記念し、私は更に新たなる足踏みを句道難行につゞけたいと考へるものである。

  昭和十五年九月十一日     蛇 笏

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。底本では二重の黒枠(外側が太い)内に配されてある。字配やポイントは再現していない。判読出来ない「〇」は丸の中に「停」の記号で、これは当時の商工・農林省の「暴利取締令」改正(昭和一五(一九四〇)年六月二十四日附)により価格表示規程が書籍雑誌にも適用されたもので、一般商品に対しては「九・一八価格停止令」以前の製品であることを示すものらしい(しかし十月発行なのは不審。改正猶予期間があったものか?)。なお、発行日の「三十一」は明らかに後から貼りつけた跡がある。]

 

昭和十五年十月二十七日印刷

昭和十五年十月三十一日發行

 

山響集

  〇金貳圓五拾錢

 

著作者          飯田蛇笏

 

   東京市日本橋區通三丁目一番地

發業者          河出孝雄

 

   東京市牛込區山吹町三ノ一九八

印刷者          萩原芳雄

 

   東京市日本橋區通三丁目一番地

發行所          河出書房

       振替東京一〇八〇二番

       電話日本橋二七七七番

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 冬

〈昭和十五年・冬〉

 

氣おごりて日輪をみる冬景色

 

積雪に月さしわたる年の夜

 

月の輪の侘びねに光る大晦日

 

湯ざめして聖(きよ)らの處女書に溺る

[やぶちゃん注:秘やかな艶句とおぼゆ。]

 

蟲たえて冬高貴なる陽の弱り

 

   小山養雞組合

 

雞舍(とや)灯り嶽の月さす障子かな

 

[やぶちゃん注:「小山養雞組合」不詳。]

 

さるほどに獵衣耐ふべくぬくもりぬ

 

[やぶちゃん注:「獵衣」「れふい(りょうい)」と音読みしていよう。]
 
 

ウクレレをめで流眄(ながしめ)す冬果の紅

 

冬晴れし夢のうすいろ遠嶺空

 

[やぶちゃん注:「遠嶺空」「とほねぞら(とおねぞら)」。]

 

茶の花に空のギヤマン日翳せり

 

淸流は霜にさゝやき寒の入り

 

老いるより寒土戀ほしく住ひけり

 

風邪窶れして美しき尼の君

 

風邪の子の餅のごとくに頰豊か

 

冬の星屍室の夜空更けにけり

 

埠頭冬咽ふがごとく星更けぬ

 

大膽に銀(ぎん)一片を社會鍋

 

うす闇にもともきらひな社會鍋

 

[やぶちゃん注:以降の句などから見て、「もとも」は「最も」で、「きらひな」は「嫌ひな」か。私も社会鍋は何か、かつての傷痍軍人の物貰いのイメージと妙にダブり、しかも軍人見たようなおぞましい服装で金管楽器をぶいぶいいわせて「嫌ひ」である。トンデモ解釈かも知れぬ。]

 

かるがるとにげあしのびて社會鍋

 

[やぶちゃん注:「かるがる」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

社會鍋守る娘にたれも惚れざりき

 

伊達の娘がみてとほりたる社會鍋

 

   幽棲逍遙

 

年逝くや山月いでて顏照らす

 

鶴病みて水べに冴ゆる冬花かな

 

鶴は病み日あたる巖凍みにけり

 

昃(ひかげ)れば雪蟲まひて鶴病みぬ

 

鶴妙(たへ)に凍ててともしき命(いのち)かな

 

鶴病みて片雲風にさだまらず

 

病む鶴に人影(ひとかげ)凍てて佇ちにけり

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 夏/秋

〈昭和十五年・夏〉

 

チェロを擁(だ)き夏夕月の黃をめづる

 

夏風邪の娘のはなやかに愁ひけり

 

旅愁あり浴房(バス)にたゞよふ夏日翳

 

風鈴に雨やむ闇の更たけぬ 

 

窓近く立葵咲く登山宿

 

   樹海を出て河口湖に向ふ

 

五湖のみちゆくゆく餘花の曇りけり

 

[やぶちゃん注:「ゆくゆく」の後半は踊り字「〱」。「余花」は「よくわ(よか)」で、夏になっても若葉の中に咲き残っている桜の花を指す。歳時記によれば初夏の季語で、立夏前のそれは「残花」、立夏後に「余花」になるとある。というより、これは古語の雅語であり、季語嫌いの私としてはそれなら腑に落ちるのである。]

 

   哈爾賓滯在  三句

 

白露の娘瞳の水色に夏きたる

 

楡靑葉して白露の娘虹を見る

 

露人墓地靑葉隱りに虹消ゆる

 

[やぶちゃん注:「哈爾賓」旧満州国ハルビン(現在の中国人民共和国黒竜江省省都)。ウィキの「飯田蛇笏によれば、昭和一五(一九四〇)年の春に、『雲母』の『小川鴻翔とともに朝鮮半島から中国北部にかけてを縦断旅行し』、四月七日に開催された『京城俳句大会など大陸各地で俳句会や講演を開いた』とある。関係性は不明であるが、飯田蛇笏の三男飯田麗三は、この四年後の昭和一九(一九四四)年にハルピンで応召されている(戦後抑留され、昭和二十一年五月に外蒙古アモグロン収容所にて労働使役中の事故により死亡している。病死とも)。]

 

群ら嶺立つ雲海を出て夏つばめ

 

雲うすく夏翳にじむお花畑

 

夏嶽の月に霧とぶさるをがせ

 

[やぶちゃん注:「さるをがせ」樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類で、山地や高山帯に植生する菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ(猿尾枷・猿麻桛)属 Usnea の総称。「霧藻」「蘿衣」とも称する。ブナ林など落葉広葉樹林の霧のかかるような森林の樹上に着生し、木の枝状に枝分かれして下垂する。本邦ではヨコワサルオガセUsnea diffracta(「横輪」。糸状の枝状体に環状の割れ目を持つ)やアカサルオガセ(アカヒゲゴケモドキ)Usnea rubrotincta(皮層が赤色を呈する)以下、凡そ四十種が確認されている(ウィキの「サルオガセ他、複数の記載を参照した)。]

 

合歡咲いて嶽どんよりと川奏づ

 

山茱萸の風にゆれあふ實を擇りぬ

 

[やぶちゃん注:「山茱萸」「やまぐみ」と読んでおく(後述)。私はこれは季節的に見て、我々が「茱萸」と認識しているバラ亜綱バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のナツグミ Elaeagnus multiflora の偽果(通常の果実のような子房ではなくて隣接組織に由来する果実状器官)であるように思われる。ウィキの「ナツグミによれば、『本州の関東〜中部、四国の山地に自生する落葉小高木であるが、庭木にされることもある』。四〜五月頃に『淡黄色の花(正確には萼筒)を咲かせ』、『果実(正確には偽果)は』六月頃に『赤く熟して食べることができる』とある。実は正真正銘の和名ではミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ(山茱萸) Cornus officinalis があり、同じく黄色い花で赤い偽果をつけるのであるが、ウィキの「サンシュによれば、「ハルコガネバナ(春黄金花)」・「アキサンゴ(秋珊瑚)」・「ヤマグミ(山茱萸)」とも呼ばれ、『季語は春』。『晩秋に付ける紅色楕円形の実は渋くて生食には向かない』。但し、『内部にある種子を取り除き乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬に利用され、「サンシュユ」の名で日本薬局方に収録されており、強精薬、止血、解熱作用がある』。『温めた牛乳にサンシュユの枝を入れ、保温して一晩置くとヨーグルトができる。ブルガリアにはヨーグルトの木と呼ばれる木があり、サンシュユはヨーグルトの木の親戚にあたるため、実際に同じようにヨーグルトを作れる』。『山茱萸の音読みが、和名の由来で』、『早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから、「ハルコガネバナ」とも呼ばれ』、『秋のグミのような赤い実を珊瑚に例えて、「アキサンゴ」とも呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあることから、後者ではあり得ない。従ってこれはあくまで、「やま」の「ぐみ」(山の赤茱萸。ナツグミ Elaeagnus multiflora の「実」)であって、「さんしゆゆ(さんしゅゆ」の「実」ではないと私は判断したのである。大方の御叱正を俟つ。]

 

蒟蒻の花ゑみわるゝ驟雨霽れ

 

[やぶちゃん注:「蒟蒻の花」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac の花は、ある程度の大きさまで成長しないと『花はつかない。栽培下では』開花するまでは五~六年かかる。『開花するときには葉は出ず、また開花後に株は枯れる。花は全体の高さが』二メートルほど『にもなる。いわゆる肉穂花序の付属体は円錐形で高くまっすぐに伸び上がり、仏縁苞は上向きにラッパ状に開き、舷部(伸び出した部分)は背面に反り返る。花全体は黒っぽい紫。独特の臭いを放つ』(ウィキの「コンニャクより引用。下線やぶちゃん)。私も見たことがあるが、形状は同じサトイモ科のテンナンショウ属マムシグサ Arisaema serratum に似ていると思うが、とてつもなくでかく、色が毒々しくて臭いともに頗る禍々しいと私は感じた。因みに世界最大の花として知られるコンニャク属ショクダイオオコンニャク Amorphophallus titanium はその激しい腐臭でも有名である。そういう意味では本句はある種、「鬼趣」を持つ佳句(生理的には厳しいが、私は昨年に前頭葉を挫滅し嗅覚を失ているから今は平っちゃらである)と思うのである。]

 

 

 

〈昭和十五年・秋〉

 

草は冷め巖なほ温く曼珠沙華

 

屠所の花卉冷気にみだれ渡り鳥

2016/03/20

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 春

   昭和十五年

 

〈昭和十五年・春〉

 

禱る窓かもめ瀟洒に年立ちぬ

 

年新た嶺々山々に神おはす

 

老の愛水のごとくに年新た

 

松すぎし祝祭の灯にゆき會へり

 

獸園の日最中にして羽子の音

 

遣羽子にものいふ眼(まみ)を見とりけり

 

柴垣を罩めたる雲に機はじめ

 

[やぶちゃん注:「罩めたる」「こめたる」で、前後に掛けてあるようであるが、どうも気に入らぬ。]

 

雲こめて巖濡れにけり松の内

 

   雲水宋淵大菩薩下山

 

大嶺より雲水きたる松納

 

奥嶺路に春たち連るゝ山乙女

 

港路に復活祭の馬車を驅る

 

クロス垂る市場(いちば)の婆々も聖週間

 

舷梯に耶蘇祝祭の花を提ぐ

 

膚に耀る聖土曜日の頸飾り

 

頰あかきグリルのをとめ聖周期

 

護謨樹と寶石復活祭の飾り窓

 

復活祭ふところに銀(ぎん)一と袋

 

[やぶちゃん注:ユダの報酬を皮肉に思い出したものか。]

 

   泊船祝日

 

濤に浮き昇天祭の陽は舞へり

 

思想ありけさ春寒のめを瞠(みは)る

 

れいらくの壁爐古風に聖母祭

 

聖燭の夜をまな妻が白鵞ペン

 

陶に似て窓のアルプス聖母祭

 

マリヤ祀る樹林聖地の暮雪かな

 

壁爐冷え聖母祀祭の燭幽か

 

脣(くち)赤きニグロ機嫌に聖母祭

 

ともしつぐ灯にさめがたき寢釋迦かな

 

常樂會東國(あづま)の旅に出てあへり

 

[やぶちゃん注:「常樂會」は「じやうらくゑ(じょうらくえ)」で、狭義には釈迦入滅の日とされる陰暦二月十五日に興福寺・四天王寺・金剛峰寺などで行う涅槃会(ねはん)を特に指して言うが、ここは広義の普通に二月十五日に行われている涅槃会の謂いであろう。「涅槃會」としては初五の音に合わないからというだけのことか。]

 

お涅槃に女童(めろ)の白指觸れたりし

 

眞つ赤なる涅槃日和の墓椿

 

山霞みして奥瀑のひゞきけり

 

さるほどに樝子(しどみ)咲く地の蒼みけり

 

[やぶちゃん注:「樝子」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)Chaenomeles japonica 。]

 

彌生盡山坂の靄あるごとし

 

堰おつるおとかはりては雪解水

 

師を追うて春行樂の女づれ

 

弟子ひとり花園あるき師を思ふ

 

春の夢さめざめと師の泣き給ふ

 

[やぶちゃん注:「さめざめ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

春寒く蘖ながく伸びにけり

 

   天目山懐古

 

嶺々嶮(こゞ)し春やむかしの月の金(きん)

 

[やぶちゃん注:「嶮(こゞ)し」「凝(こご)し」で、岩などがごつごつしていることを形容する上代からの古語。]

 

   K社春の神事

 

巫女(かむなぎ)に冴返りたる燭の華

 

[やぶちゃん注:「K社」何故、このような匿名にしているのかが、私には不審。]

 

植林すこゝろに春の世は豐か

 

植林の暾影靑雲にしみ透る

 

[やぶちゃん注:「暾影」既注。「ひかげ」で朝日の意。]

 

植林の娘が笠に相聞歌一つ

 

植林の春を小霰降りてやむ

 

春雲光り思ひ倦むとき植林歌

 

きゞす啼き娘らの植林歌春を趁ふ

 

[やぶちゃん注:「趁ふ」「おふ」(追ふ)。]

 

植林を終ふ娘らが手をみな垂れぬ

 

植林の唐鍬をうつ谺はや

 

植林のこだまあおそびて五百重山

 

[やぶちゃん注:「五百重山」「いほへやま(いおえやま)」幾重にも積み重なっている山並みのこと。]

 

春霜の草鞋になじむ晨(あした)かな

 

雞舍(とや)灯り春の行人なつかしむ

 

祝祭の嶺々はうす色梅の牕(まど)

 

岨の梅日は蕩々と禽啼かず

 

柴垣はぬれ白梅花うすがすむ

 

谷の梅栗鼠は瀟洒に尾をあげて

 

溪聲の聾するばかり白梅花

 

谷梅にまとふ月光うすみどり

 

小晝餐(ランチ)終へ出る霽色に薔薇さけり

 

[やぶちゃん注:「霽色」「せいしよく(せいしょく)」で雨が上がりのすっかり晴れ渡った景色の意。「晴色」に同じい。]

 

やはらかに月光のさす白薔薇

 

薔薇咲き詩に倦みがたきしづごころ

 

白薔薇さきそろふ暾のうるほへり

 

冷え冷えと綠金ひかる薔薇の蟲

 

[やぶちゃん注:「冷え冷え」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

靑草の凪ぎ蒸す薔薇の花たわゝ

 

日輪にひゞきてとべる薔薇の蟲

 

草濡れて薔薇培ふほとりかな

 

福々と鬱金薔薇の大蕾

 

ぬれいろに夜晝となく緋薔薇咲く

 

うす紅に霑ふ薔薇の末葉かな

 

[やぶちゃん注:「末葉」「うらば」と読む。草木の先端の葉。万葉以来の古語。]

 

鎌新た靑若茎の薔薇をきる

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 木食僧 /昭和十四年~了

  木食僧

 

僧こもる菩薩嶺の雪また新た

 

雲水に大鷲まへる雪日和

 

   宋淵法師白皚々たる大菩薩嶺を下り來る

 

雲水の跫音もなく土凍てぬ

 

[やぶちゃん注:「宋淵法師」臨済僧中川宋淵(なかがわそうえん 明治四〇(一九〇七)年~昭和五九(一九八四)年)。東大大学院在籍中の昭和六(一九三一)年に山梨県塩山にある向嶽寺の勝部敬学老師に就いて得度、昭和八年三月より木食生活に入る。この頃、蛇笏を訪ねてその門下となっている。後に三島の龍澤寺に入った。海外での禅普及にも努めた。五十鈴氏のサイト「小さなうつわのメッセージ」のに詳しい。

「白皚々」「はくがいがい」と読む。如何にも明るく白いさま。あくまで白いさま。]

 

暮雪ふむ僧長杖をさきだてぬ

 

嚴冬の僧餉をとりて齒をみせず

 

木食す僧嚴冬をたのしめり

 

雲水の寒風呂いたくたしなみぬ

 

僧の前籠に淸淨と冬蔬菜

 

   相携へて故紫明の忌へ參ぜんと

 

忌へ連れて雲水飄と寒日和

 

[やぶちゃん注:「紫明」不詳。この号を持つ俳人は複数いる。]

2016/02/20

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 長良と紀の海

 

 長良と紀の海

 

  鵜飼

 

鵜舟並み瑞(みづ)の大嶽雲新た

 

[やぶちゃん注:「瑞の」瑞々(みずみず)しい・清らかな・美しい・目出度いの意を添える接頭辞。「大嶽」とはあるが、金華山(標高三百二十八・八六メートル)よりも対岸の岐阜市内最高峰百々ヶ峰(どどがみね:標高四百十七・九メートル)などが長良川から見える峰は他にもある。但し、後に「瑞山(みづやま)を大瀨繞りて河鹿鳴く」などの景色からは、これは金華山を指しているような感じはする。]

 

南無鵜川盆花ながれかはしけり

 

[やぶちゃん注:八月十五日の景と判る。長良川鵜飼の「岐阜市鵜飼観覧船事務所」公式サイトで確認したが、現行でも納涼鵜飼として、例えば本年二〇一六年度は盆の中日に行われる予定となっている。参考までに現行ではこの納涼鵜飼は日に二度行われており、乗合船の出舟時刻は一回目が十八時十五分・十八時四十五分・十九時十五分の三回、鵜飼は十九時三十分から二十時二十分頃まで行われ、二回目は出舟が二十時四十分一度で、鵜飼は二十一時十分から二十二時零分頃まで行われている。]

 

ぞろぞろと浪花女つれし鵜飼かな

 

[やぶちゃん注:「ぞろぞろ」の後半は底本では踊り字「〱」。関西弁の聴覚印象が句背に響く。]

 

鵜船ゆき翠黛の瀑みえわたる

 

[やぶちゃん注:「翠黛」本来は青みがかった色の黛(まゆずみ)或いは美人の眉、又は、緑にかすんで見える山色を指すが、ここは低い落差を流れ落ちる川水の色を指していよう。「瀑」は蛇笏ならば「ばく」と音読みしているように感ずる。長良川鵜飼の行われる周辺には遠望出来る落差の大きい滝はないように思われので、前の記したように、川の一部が、堰のようになっていて、そこを落ちるさまを「瀑」と呼んだと私は採る。]

 

豆も咲き鵜宿門べの蕃茄生る

 

[やぶちゃん注:「蕃茄」は「ばんか」でトマトの異名。蛇笏なら音読みしていよう。「まめもさき/うしゆくかどべの/ばんかなる」である。]

 

朝露にひたる籠の鵜影ひそむ

 

玉鵜籠朝日さし又夕影す

 

[やぶちゃん注:一日を微速度撮影した印象的な句である。]

 

並みつるゝこれの鵜籠に朝ぐもり

 

あまたある鵜籠の形(なり)のまどかかな

 

河岸沿ひに暑往寒来鵜飼宿

 

   鵜匠頭山下邸に案内され同氏の懇ろなる説明をきく

 

花活くる袂(たもと)くはへて鵜匠の娘

 

[やぶちゃん注:「鵜匠頭山下」「氏」山下幹司(明治二七(一八九四)年~昭和四〇(一九六五)年)大正から昭和の鵜匠。岐阜県出身で岐阜中学卒。大正五(一九一六)年に宮内省式部職鵜匠に任ぜられた。昭和一四(一九三九)年にサンフランシスコ万国博覧会で長良川鵜飼を世界に紹介し、岐阜市の観光の目玉に育てた長良川の名鵜匠として知られる(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

 

鵜をめづる婦ら猗儺(いだ)として暑に耐ふる

 

[やぶちゃん注:「猗儺(いだ)」はなよなよとして弱々しく、しかもそれが美しいさまを指す形容詞。「あだ」とも読む。]

 

鵜の氣魄瞳の潮色にやどりけり

 

[やぶちゃん注:「瞳」は「とう」と音読みしておく。「潮色」は「しほいろ(しおいろ)」で、通常は潮目と同義で海水域で用いる語であるが、ここは水の流れの微妙な色の違いの謂い。]

 

貪婪(どんらん)の鵜が甘ゆるや老鵜匠

 

荒鵜の屎水のごとくに萩穢る

 

[やぶちゃん注:「屎」は「くそ」。糞。]

 

鵜籠出し彦丸猛き瞳の眞如

 

   註=長良第一の鵜、名づけて彦丸といふ

 

[やぶちゃん注:「眞如」「しんによ(しんにょ)」は元来は梵語「タハター」の漢訳で、在るがままに在ることを指し、仏教の存在の本質・存在の究極的な姿としての真理そのものを指す。大乗仏教では「法性」「実相」などとほぼ同義的に用いるが、ここは鵜の眼の黒く真円の中にそうした真如の実態を作者は見ているのである。]

 

のど瀨沿ひ靆く夏靄に鵜籠並む

 

[やぶちゃん注:「のど瀨」は「閑瀨」「和瀨」で、穏やかで静か、のどかな川瀬の謂いか。「靆く」老婆心乍ら「たなびく」と読む。「夏靄」夏場の地水から立ち上るもやであるが、どうも「カアイ」と音読みしているように感ぜられる。]

 

   井の口丸

 

ゆかた着の帶は錦繡鵜飼船

 

[やぶちゃん注:「井の口丸」鵜飼見物の乗合舟の船名であろう。因みに、この時代、女性は鵜舟に載ること自体が出来ず、当然、女性の鵜匠もいなかったはずである。]

 

鵜飼見の酒樽に凭り酌みそめぬ

 

[やぶちゃん注:「凭り」老婆心乍ら、「より」と読む。凭(もた)れるの意。]

 

星雲にこの山水の鵜飼船かな

 

しばらくは船の葭戸に遠花火

 

[やぶちゃん注:「葭戸」「よしど」で「葭簀(よしず)」(葦の茎を編んで作った簾)を張った船中の目隠し。]

 

半玉の帶の鈴鳴る鵜飼船

 

[やぶちゃん注:「半玉」未だ一人前として扱われていない、従って玉代(ぎょくだい:芸妓の揚げ代)も半人前でしかない若い芸者。御酌(おしゃく)。]

 

ほのくらく酒盞を洗ふ鵜川かな

 

[やぶちゃん注:「酒盞」「しゆさん(しゅさん)」と読む。盃。酒杯。]

 

轉寝(うたゝね)に鵜飼の興の夢淡し

 

日月の隱れてさむき鵜飼船

 

鵜飼見の小夜の戀路を敍しにけり

 

[やぶちゃん注:小唄か何からしいが、不学にして語られている「小夜の戀路」の物語が何か判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

はやり鵜に金銀の翳火籠ちる

 

[やぶちゃん注:「はやり鵜」老婆心乍ら、「逸(はや)り鵜」で勇み立つって昂奮している鵜のこと。]

 

水翳を曳くはやり鵜に鮎光る

 

驟雨迅し鵜篝りたかく又低く

 

[やぶちゃん注:「驟雨」老婆心乍ら、「しうう(しゅうう)」と読み、急に降り出して強弱の激しい変化を繰り返しながらも急に降り止む、にわか雨のこと。「夕立」の謂いでもあるが、実景の時間からは遅過ぎる。]

 

はやり鵜の篝りに映ゆる檜繩はや

 

[やぶちゃん注:「檜繩」「ひなは(ひなわ)」と読んでいよう(「火繩」と同素材で同音だがここは用途が異なる)。檜(ひのき)皮の繊維を繩状に縒り合わせて編んだ紐繩で、鵜飼の手繩や釣瓶繩に使う。鵜飼では鵜と鵜匠を結ぶ手繩の鵜匠側の長さ一丈(三・〇三メートル)分に用いる。手繩の鵜の方の端には鯨の髭製の「ツモソ」と呼ばれる長さ一尺二寸(約三十七・九センチメートル弱)の紐を繋げ、その末端を曲げて鵜の咽喉下部に縛るつける。]

 

篝り去る遊船の舳に夜の秋

 

[やぶちゃん注:「舳」は「へさき」ではなく単音「へ」で読んでいよう。]

 

篝火の翳疲れ鵜に瞬(またゝ)けり

 

金華山軽雷北に鵜飼畢ふ

 

[やぶちゃん注:「畢ふ」老婆心乍ら、「をふ(おう)」で終わるの意。]

 

舷に並むあげ鵜うつろひ水豐か

 

鵜は舷に小夜の北風吹く屋形船

 

瑞山(みづやま)を大瀨繞りて河鹿鳴く

 

[やぶちゃん注:前の本章冒頭の「鵜舟並み瑞(みづ)の大嶽雲新た」の句の私の注を参照。]

 

舷の鵜に屋形萬燈遠ざかる

 

鵜飼畢ふ水幽らみつつ翳流る

 

[やぶちゃん注:「幽らみつつ」「くらみつつ」と訓じていよう。]

 

闃として人煙絶ゆる鵜川かな

 

[やぶちゃん注:「闃として」「げきとして」と読み、静まりかえって、ひっそりとして人気(ひとけ)のないさまを言う。]

 

金華山大瀨を闇に夜の秋

 

河鹿鳴く瀨を幽(かす)かにす金華山

 

晝中は舳をふりねむる鵜舟かな

 

   四季の里 三句

 

風騷(ふうざう)の夜を水無月の館かな

 

[やぶちゃん注:「四季の里」不詳。但し、検索すると現在の岐阜県羽島郡笠松町田代藤掛地内に「四季の里広場(パターゴルフ場)」があり、そこには芭蕉の句碑があって、またここは前のロケーションの長良川からは南で近くに位置し、しかも後の句に出る木曽川の右岸でもある。]

 

木曾の瀨も暗らめる㡡に旅疲れ

 

[やぶちゃん注:「㡡」は「かや」と訓じていよう。蚊帳。]

 

寝しづみて燈影煌たる夏館

 

   紀伊路

 

和歌の浦あら南風(はえ)鳶を雲にせり

 

[やぶちゃん注:「和歌の浦」は和歌山県北部、現在の和歌山市南西部に位置する海浜を含む広域の景勝地で古来よりの歌枕でもある。ウィキの「和歌浦」によれば、現行の『住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する』とあり、「万葉集」にも『詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られない』ともある。『和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が』、

 若の浦に 潮滿ち來れば 潟をなみ 葦邊をさして 鶴(たづ)鳴き渡る(「万葉集」巻第六(九一九番歌))

『と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている』。『平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる』とある。]

 

群燕に紀伊路の田居は枇杷熟るる

 

[やぶちゃん注:「田居」は「たゐ(たい)」と読む。田のある所、田圃であるがここは広義の田舎の意。]

 

水無月の雲斂(をさま)りて和歌の浦

 

つばめむれ柑園霽れて仔山羊鳴く

 

柑園のみち鷗翔けバス通る

 

   御坊町中吉旅館

 

夏早き燈影に濡るる蘇鉄苑

 

[やぶちゃん注:「御坊町」(ごぼうちやう)は和歌山県日高郡にあった町。現在は御坊市の中心部で日高川の右岸に相当する。和歌山県の中央部西岸の紀伊水道沿岸。「中吉旅館」は不詳。現存しないか。]

 

蘇鐡かげ聖土曜日の燈がともる

 

[やぶちゃん注:「聖土曜日」はカトリック用語で復活祭(イースター)前日の土曜日を指す。調べてみると、本パートの昭和一四(一九三九)年の一般的なイースターは四月九日(日曜)に相当したので、本句は四月八日の嘱目吟と一応比定することが可能ではあるが、前後は盛夏の句でこの日ではない。不審。識者の御教授を乞う。]

 

旅の風呂熱くて赫つと夕日影

 

尼もゐて卓の苹果に夏灯

 

[やぶちゃん注:「苹果」「ひやうくわ(ひょうか)」でリンゴの実のこと。「夏灯」「なつあかり」と訓じているか。仏前の燈明である。]

 

枇杷を攝る手の艶(なま)めきて尼僧かな

 

上布(じやうふ)きて媼肥(うばご)えしたる尼の膝

 

[やぶちゃん注:上布「じやうふ(じょうふ)」上質の麻糸で織った軽く薄い織物で、ここは夏用の高級和服。それが「媼肥(うばご)え」と響き、映像としてもっこりとした「尼の膝」にクロース・アップしてまことに面白い一句である。]

 

翼張る窓の蘇鐡に蚊遣香

 

尼すずし更闌けてさる蚊帳隱くり

 

   元の脇海岸

 

高潮に遠岬初夏の雲しろむ

 

[やぶちゃん注:「元の脇海岸」紀伊水道を挟んだ対岸である四国は徳島県阿南市中林町にある全長二キロメートルに及ぶ砂浜海岸。]

 

詠人に海女がたつきも初夏の景

 

白靴に岩礁はしる潮耀りぬ

 

濤蒼し智慧をわすれし蜑の夏

 

蜑さむく不漁(しけ)し炎暑の煙上ぐる

 

あら南風の洋白馬跳ね狆(ちん)戲(ざ)るゝ

 

[やぶちゃん注:「あらはえの//なだ/はくば/はね//ちん/ざるる」と訓じておく。]

 

   岩窟を栖とする蜑夫婦あり

 

薊咲き岩戸の暾影夏匂ふ

 

[やぶちゃん注:「暾影」何度も注しているが、「ひかげ」で、「暾」(ひ)は朝日の意。]

 

瀾掠む微雨かがやきて夏薊

 

   鮑取りを見る

 

腰繩の刀いかつくて鮑取

 

[やぶちゃん注:「刀」は「たう(とう)」と読んでいよう。]

 

潮ゆたにもぐりし蜑や油照り

 

[やぶちゃん注:「潮ゆた」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

岩礁の瀨にながれもす鮑取

 

渦潮の底礁匐へる鮑とり

 

[やぶちゃん注:「底礁」「ていせう(ていしょう)」と音読みしておく。]

 

夏潮を出てべんべんと蜑の腹

 

[やぶちゃん注:「べんべんと」は「便便と」でここでは、太って腹の出ているさま。]

 

葦咲いて蜑の通ひ路ながし吹く

 

三伏の旅路に濤の音も愁ふ

 

[やぶちゃん注:「三伏」は「さんぷく」と読み、夏の最も暑い時期のこと。夏至の後の第三の庚(かのえ)の日を「初伏(しょふく)」、第四の庚の日を「中伏(ちゅうふく)」、立秋後の最初の庚の日を「末伏(まっぷく」と称し、この三つを合わせて言う。夏の季語。]

 

   望洋館にて

 

舟蟲に莊の花卉照る墓ほとり

 

[やぶちゃん注:「望洋館」不詳。]

 

黴雨明けの夏爐ほのかなる茶の煙り

 

[やぶちゃん注:「黴雨」「つゆ」と読む。梅雨に同じいが、どうも時系列の齟齬がこれらの句群非常にイラっとくる。]

 

舟蟲に欄の濤翳松落葉

 

[やぶちゃん注:「濤翳」強い高波に射す光に翳がちらつくことか。御で「たうえい(とうえい)」と音読みしたい。]

 

青蘆を一茎活けし夏館

 

   望洋館女將既に亡し

 

靑蘆活け婀娜の死靈を偲びけり

 

[やぶちゃん注:「婀娜」「あだ」で、女性の色っぽく艶めかしいさま、或いは美しく嫋(たお)やかなさまで、ここは前者の謂いをも匂わせた後者の謂いと採る。「死靈」「しれい」と読みたい。]

 

鯒(こち)釣るや濤聲四方に日は滾(たぎ)る

 

[やぶちゃん注:「鯒(こち)」これは魚類学的には甚だ困った呼称で、『上から押し潰されたような扁平な体と比較的大きな鰭を持った、海底に腹這いになっていることが多い(従ってベントス食性であるものが多い)海水魚を総称する』語で、参照したウィキの「コチ」によれば、どれも外見は似ているが、目のレベルでは異なる二つの分類群から構成される、とする。まず大きな「コチ」群は、カサゴ目コチ亜目Platycephaloidei に含まれる。

 カサゴ目コチ亜目

  アカゴチ科 Bembridae

  ウバゴチ科 Parabembridae

  ヒメキチジ科 Plectrogehiidae

  コチ科 Platycephalidae(代表種で真正和名とも言える本邦近海産のマゴチ Platycephalus sp. はここに含まれる)

  ハリゴチ科 Hoplichthyidae

なお、マゴチの学名が“sp.”となっているのは複数存在するからでは、ない。ウィキの「マゴチ」によれば、これは最近まで『奄美大島以南の太平洋、インド洋、地中海に分布する Platycephalus indicus と同一種とされていたが、研究が進み別種とされるようになった。ただし、まだ学名が決まっていないので、学名は"Platycephalus sp. " コチ属の一種)という表現が』なされているためである。属名Platycephalus“Platys”(平たい)+“kephalē”(頭)の意である。

 もう一つの「コチ」群は、スズキ目ネズッポ亜目 Callionymoideiに属するもので、

 ネズッポ科 Callionymidae

 イナカヌメリ科 Draconettidae

釣り人が「メゴチ(女鯒)」と称するのは、圧倒的にこのネズッポ科ネズミゴチ(鼠鯒)Repomucenus richardsonii であるが、天麩羅にして旨い「コチ」はこれであったり、先のカサゴ目コチ科メゴチ Suggrundus meerdervoortiiであったりする(「メゴチ」という標準和名は後者に与えられている)ので、ややこしや、である(但し、生体ならばネズミゴチなどのネズッポ類は体表が粘液に覆われていること、下向きのおちょぼ口で有意に小さいこと、頭部の骨板がないこと、鰓蓋に太い棘があることで全くの別種であることは容易に分かる)。魚の一般人の分類への関心が低い欧米では“gurnard”と呼び、コチ亜目ホウボウ科ホウボウChelidonichthys spinosus と一緒くたになってさえいるのである。]

 

綸(いと)吹かれ潮かゞよひて土用東風

 

[やぶちゃん注:「土用東風」は「どようごち」で、夏の終わりの土用(七月二十日頃から立秋前日まで。一般に一年中で最も暑い時期とされる)の最中に吹く東風。晩夏の季語。「綸(いと)」から前句との組み句であろう。]

 

沖通る帆に黑南風の鷗群る

 

[やぶちゃん注:「黑南風」「くろはえ」と読む。一般には梅雨の始めの強い南風を「黒南風」、梅雨間の強い南風を「荒南風(あらはえ)」、梅雨明けを予兆するように吹くそれを「白南風(しろはえ)」と呼ぶ。「白」「黒」は雲の色に由来する。しかし、ロケーションは晩夏の紀伊半島であることは確かであるから、蛇笏のこれらの海風の語の用法は厳密でない。寧ろ、名の由来の雲の色から詠じたに過ぎないと捕えた方が悩まずに済むように思われる。]

 

大瀾に南風曇りして蜑のみち

 

[やぶちゃん注:「大瀾」は「だいらん」と音読みしているか「おほなみ(おおなみ)」と訓じているか分からぬ。確信犯の佶屈聱牙の蛇笏ならばこそ「だいらん」で読みたい。大波に同じい。]

 

磯山の霖雨小歇みに蟬しぐれ

 

[やぶちゃん注:「霖雨」通常は幾日も降り続く長雨のことであるが、わざわざそれをこのシチュエーションに持ち出して輻輳させるのが好きなのは蛇笏の癖である(それが私はこの句では成功しているとは思われない。梅雨は明けたのであり、いや、今は晩夏ではないのか?!)。「小歇み」「こやみ」。小止みに同じい。]

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