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カテゴリー「芥川龍之介 手帳【完】」の151件の記事

2018/03/10

芥川龍之介メモランダ――軍艦「金剛」乗艦時のノート――

 

[やぶちゃん注:本資料は岩波新全集第二十三巻(一九九八年一月刊)で初めて翻刻されたもので、原資料(メモ四枚)は山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」(一九九三年同館刊)の画像から起したもので、同全集では「ノート」パートに入れ、『「軍艦金剛航海記」ノート』という仮題がつけられてある。確かに内容から海軍機関学校の英語科教授嘱託であった折りの大正六(一九一七)年六月二十日(本文に従えば午後一時半前後)、当時の日本帝国海軍の誇る超弩級新鋭巡洋艦「金剛」(排水量二万六千三百三十トンで全長は二百十四メートル。イギリスに発注された最後の戦艦であった。大正二(一九一三)年八月十六日に竣工、回航は日本海軍の乗員によって行なわれたが、大艦であったためにスエズ運河を通れず、喜望峰回りで同年十一月五日に横須賀に到着している)に同校生徒の航海見学実習に付添として乗艦、横須賀を発して翌々日の六月二十二日の午後に山口県由宇(ゆう)に到着するまで、稀有の軍艦乗船体験をした。これは後、「軍艦金剛航海記」(「青空文庫」で正字正仮名の正統な形で全文が読める。以下リンクは同じ)として同年七月二十五日から二十九日までの『時事新報』に連載されることとなる。本メモはその時のことを記したものである。但し、後に記すように、別に手帳にも詳細なメモがあることから、これは或いは後日、時系列で記憶をメモランダしたものかも知れないし、或いは別に共時的に記した日記風のものなのかも知れないが、記載内容とその順序が一ヶ月後に発表された「軍艦金剛航海記」との構成一致が顕著であるから、新全集が仮題するように、「軍艦金剛航海記」を書くための構想メモの可能性が大ではある。

 しかも、その新全集の「後記」によれば、これら四枚とは別に、『他に艦の部所の名称を記した五枚もあ』る、とあるのである。私はそれが何故、ここで一緒に電子化されていないのか、大いに不審であり、不満である。ただの名前の羅列だから外したというのであれば、芥川龍之介の手帳類の個人住所も同等であり、寧ろ、個人情報保護の観点から見れば、それをだらだらと住所と名前まで活字化しているのは、遙かに問題の大きい翻刻であるとさえ言い得るからである。

 そうして底本が翻刻しなかった部署の羅列や艦内の図を想起して以下のメモと合わせて考えると、それはもう、私が既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」で電子化注した芥川龍之介 手帳 1―15から芥川龍之介 手帳 1-18の内容を髣髴させるものと考えてよかろう(「1-16」等では、まさに以下に出てくる司令塔や砲塔の手書きの模式図・構造図も添えてある)。とすれば、本メモは私の完結したブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」に添えるに、これほど相応しいものはないと考えた。

 底本は無論、岩波新全集第二十三巻に基づいたが、今までの仕儀通り、漢字は概ね、正字化した。用紙の仕様が「後記」には書かれていないのでよく判らないが、罫線(或いは原稿用紙かも知れぬ。その場合は、四百字詰)の引かれたもので、欄外への書き込みが認められる。【欄外】としたものがそれである。用紙ごとに翻刻し、それぞれでオリジナルに注した。なお、本文内のアラビア数字は総て縦書正立(二桁は二桁そのままで)である。【2018年3月10日 藪野直史】]

 

 

□1枚目

【欄外】ブイ赤し 山靑し 空高し

 

午後一時三十分あまり ランチにて金剛に至る 途上 岩邊大佐を榛名におくる

金剛へつく途中 艦長のランチ(はるな)の爲に 舷梯につくをまてり ランチ大にゆる

上れば 右舷砲塔下に四五人の士官 副長と共にあり 白衣 日に光る 帽をとらんとしてとれず 副長の顏 趨雲に似たり[やぶちゃん注:上の「副長の顏 趨雲に似たり」の箇所は改行の可能性もあるが、私はそのようには判断しなかった。]

田中先任部長に導かれ ウアドルームに至る 飛行機を見 艦長をとひ 小憩後 艦内旅行をなす

14吋砲口に 人あるを見る 八田氏にあふ

 

【欄外】ウアドルームは白し 丸窓 バア臺に鏡 銀の花瓶 黑きゴム布をかけし卓 電氣扇 電燈(二つ(1)は 砲の發射の爲やぶると云ふ)

 

部屋定まる 中甲板の一室 机 寢臺 輪旋椅子 白き周圍に眞鍮の金具 赤毛布

機關少尉三人と共に語る 艦は二隻の小蒸氣によりて 方向を轉ぜんとしつつあり 出航準備のラツパなる 少尉一人來る 航海準備のラツパと共に直去る 颯爽たり ドラなる 夕食なり 鮭とさつま汁

 

【欄外】蝶(蛇の目蝶)とぶ さびし

 

[やぶちゃん注:「ランチ」launch。小型の蒸気船。汽艇。

「岩邊大佐」後に海軍中将となる岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)であろう。熊本県下益城郡小川町(現在の宇城市)生まれ。明治二七(一八九四)年に海軍機関学校卒業後、機関士候補生として防護巡洋艦「高千穂」に乗組み、日清戦争に従軍する。装甲巡洋艦「八雲」回航委員となり、明治三七(一九〇四)年二月には戦艦「八島」分隊長として日露戦争に出征、翌年一月、海軍機関少監に進み、通報艦「八重山」機関長に転じた。明治三九(一九〇六)年、海軍機関少佐に進級、翌年、元小川町長岩辺知言の養子となった。本記載の二年後の大正八(一九一九)年六月(この年の二月に芥川龍之介は既に機関学校を退職している)、海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月、横須賀鎮守府機関長に就任している。大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年、予備役。二年後に退役した。以上はウィキの「岩辺季貴」に拠った。本時制は、この下線太字の間となり、当時は大佐になっているわけで、既に当時の横須賀鎮守府の機関長の上層部の一人であったことが判る。この時は伴走した「榛名」に乗船臨検したものか

「榛名」「金剛」型戦艦の三番艦。排水量二万六千三百三十トン・全長二百十四メートル。太平洋戦争では、ガダルカナル島の戦い・レイテ沖海戦を経て、呉に帰港したが、昭和二〇(一九四五)年七月二十四日と二十八日の呉軍港空襲の爆撃によって、大破浸水し、着底してしまった。敗戦後の翌年、解体された。参照したウィキの「榛名(戦艦)」によれば、『榛名は』太平洋戦争『開戦時』で既に艦齢二十六年の『老朽艦で』あった『にも拘らず』、『最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことがなく「幸運の空母」とも賞される空母』「瑞鶴」『と対照的であるが、この』二『艦は駆逐艦』「雪風」『などとともに「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また』、『日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる』とある。この当時の「榛名」艦長は上田吉次大佐(?~昭和三八(一九六三)年:山形出身海軍兵学校を明治三一(一八九八)年第二十六期卒)である。

「艦長のランチ(はるな)の爲に」伴走する「榛名」艦長の上田吉次大佐の乗ったランチが「榛名」の舷梯に到着するのを洋上で待ったというのである。

「趨雲」(?~二二九年)後漢末から三国時代の蜀漢にかけての将軍で、劉備に仕えたことで知られる名雄。「三国志演義」で「五虎大将軍」(彼と関羽・張飛・馬超・黄忠)の一人として、『非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている』とウィキの「趙雲」にある。

「田中先任部長」不詳。「先任部長」は「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる、兵学校同期生間での当該職への先任順位を指す(本来の海事用語の「ハンモック・ナンバー(釣床番号)」は兵員が使用するハンモック(釣床)に記された番号を指す。例えば、兵員に割り当てられたそれに「三一八四」と記入されている場合、その兵員が「第三分隊第十八班第四部員」であることを意味し、その番号によって艦内での戦闘配置などが自動的に決まった)。海軍ではその差がはっきりしており、同時に同階級に任ぜられて、しかも同じ軍艦等で勤務する同期生の間にあっても「先任」か「後任」の区別は厳然としてあり、軍令承行令による指揮系統の序列は勿論、式典での整列の際などでも、このハンモック・ナンバー(序列)の順に並んだ。以上はウィキの「ハンモックナンバー」に拠った。

「ウアドルーム」wardroom。軍艦内の士官室。

「艦長」当時の「金剛」艦長吉岡範策(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年:当時は大佐かと思われる)。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌高等学校を経て、明治二四(一八九一)年に海軍兵学校第十八期として卒業、海軍少尉となった。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。防護巡洋艦「橋立」艦長から、装甲巡洋艦「浅間」艦長に補せられ、まさにその日に始まった第一次世界大戦に於いて、ドイツ艦隊の捜索や南洋群島の占領作戦に従事、大正四(一九一五)年、巡洋戦艦「筑波」艦長、本巡洋戦艦「金剛」の艦長を経て、大正六年、海軍少将に昇進して教育本部第二部長となった。その後、第一艦隊参謀長・連合艦隊参謀長を歴任、大正十年に海軍中将・海軍砲術学校長となり、大正十三年、五十五歳で予備役となった。「砲術の神様」と称された。以上はウィキの「吉岡範策」に拠った。

14吋砲口」三十五・五六センチメートルであるから、「金剛」が四基装備していた四十五口径三十五・五センチ連装砲のこと。他に五十口径十五・二センチ単装砲が十六基、五十三センチメートル魚雷の発射管が八門、装備されていた。ここはウィキの「金剛(戦艦)」に拠る。砲塔内の掃除をしていた兵が砲塔から頭を出していたのであろう。

「八田氏」「軍艦金剛航海記」の「一」と「三」に「八田機關長」という名が出る。

「夕食」海軍の夕食は早い。午後四時半には食べる

「蛇の目蝶」「じやのめてふ」。鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ジャノメチョウ亜科ジャノメチョウ属 Minois に属するジャノメチョウ、或いは、狭義の和名ジャノメチョウ Minois dryas。翅は表裏ともに一様に茶褐色で、前翅に二つ、後翅に一つの眼状紋を有するが、他のジャノメチョウ亜科亜科 Satyrinaeに多く見られる金色の輪郭がないために、あまり目立たない。「軍艦金剛航海記」では登場しない代わりに、エンデイング(「五」)に『やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黃いろい褄黑蝶が一つとまつてゐる。僕は文字通りはつと思つた。驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。が、それが人に通じる筈はない。機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。僕は――唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである』と出る。『褄黑蝶』とは狭義には鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン属ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius であるが、本土では現認されることは非常に珍しい。芥川龍之介がジャノメチョウをかく呼んだのかも知れる。「蛇の目蝶」では如何にも暗い。或いは、龍之介の小説としての俳諧的諧謔季節表示の手法であったのかも知れぬ。しかし、いいコーダではある。]

 

 

□2枚目

前部艦橋に至る speed mark, revolution mark 等の説明をきく(あみ笠狀のもの) 黑の洋傘の連なるもの二つあるは標的をひける所なりと云ふ 一兵あり サウンディングプラットフォームにて 測鉛をふる 古のくさり鎌つかひの如し 十五 十七とさけぶ 尋の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

司令塔 海圖室 無線電信室等を見 艦尾に至る 艦の行く 飛ぶが如きを知る

ウァードルームにかへり 少時にして又 八田機關長と共に前部艦橋に至る 航海長以下 皆海圖を檢して 針路を定めつつあり 天水共に蒼茫 一點 觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ 風涼し

[やぶちゃん注:「艦橋」「かんけう(かんきょう)」は軍艦中央部の高い構築物で、展望が利き、将校が常駐して艦の指揮を執る中枢。所謂、「ブリッジ」である。

speed mark」速力標。マストのヤード(左右に張り出した支柱)から下がっている信号旗を掲げるためのロープの内、マストから見て一番外側にある赤い網状のもの出来た速力標。編隊航行中や洋上給油に於いて、相手に自艦の速力を知らせたり、諸条件下での所定のスクリュー回転数の増減を知らせるための「赤黒マーク」と言われる信号旗。Old Sailor 氏のブログ「Old Sailors never die; they just」の「護衛艦マストの両端に掲げられる速力標と赤黒マークの意味」を参考にさせて戴いた。

revolution mark」不詳。当初、戦闘態勢にあることを示す戦旗標かと思ったが、英語でこのようには言わない。寧ろ、芥川龍之介が直後に『(あみ笠狀のもの)』と言っているのは、前の速力標のことであるから、ここはスクリューの「回転数・旋回のレベル・回転運動・運動周期」のことを言っているのではないかと推理した。

「サウンディングプラットフォーム」sounding platform。測深台(そくしんだい)。主に対象との距離の測定(測程)と水深の測定(測深)に用いるためのもので、古い艦船では上甲板艦尾に突き出すした板状の台であったらしい。個人ブログ「軍艦三笠 考証の記録」の「測深台:Sounding platformを参照されたい。写真有り。但し、ここは艦橋からの眺めなので、測深台は少なくとも船尾ではない。スクリューへの巻きこみの虞れを考えるなら、艦首附近か。

「測鉛」繩の先に錘(おもり)の紡錘型の鉛を附けた測深索条。「古」(いにしへ(いにしえ))の武具である「鎖鎌(くさりがま)使い」のそれのように扱う、という表現が戯作好みの芥川龍之介らしくて楽しい。

「尋」水深の一尋(ひろ)は六尺で、百八十一・六メートル。

の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

「ウァードルーム」前の「ウアドルーム」wardroomのこと。士官室。

「天水」大空と海原。

「蒼茫」見渡す限り、青々として広いさま。

「觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ」大正六(一九一七)年六月二十日当日の神奈川県横浜日没は午後六時五十九分。ここは浦賀水道を抜けて、三浦岬の沖を相模湾に入った辺りである。]

 

□3枚目[やぶちゃん注:「※」の箇所に最初に掲げた手書き図が入る。「□□」は原資料自体の二字分の芥川龍之介自身による欠字。メモであり、内容的に伏字にする必要のあるものとも思かれないから、本メモが後になってから纏めて記されたとすれば、ただ姓を忘れただけかも知れぬ。]

Hammock

かへりて ハムモックの※の如くつれる下をくぐり くぐり 機關長室に至り 雜談す 黃笠の電氣 妻子の寫眞 造花の菊 日蓮上人 法華經等あり 籐倚子及輪轉倚子 丸窓は蓋ありと思ふ程くらし 手を出して 外の空しきを知る

バスに入りて(齋藤君の褌)後 夜食す

 

【欄外】さうめん 酒 ビール

 

醉ひて面白し いつまでもねると云ふ好男兒は 航空隊の□□大尉なり 十二時近く 就寢す

廿一日

砲塔

 

【欄外】下部發令所 彈庫 火藥庫

 

水電室

無線電信室

主機關部

汽罐部 ミルトン

夕方 軍歌をうたふ(勇敢なる水兵) ケープス

[やぶちゃん注:「ハムモック」hammock。ハンモック(麻布製の吊り床)のこと。

「外の空しきを知る」余りに暗黒なので、外にカバーする別な遮蔽蓋があると思って手を突き出して調べてみたが、空しく外気に触れたばかりであった、というのである。

「齋藤君」不詳。付添に同行した海軍機関学校の同僚であろう。

「夜食す」士官室で出た夜食。「軍艦金剛航海記」の「四」の後半の段落に出る。

「さうめん」「素麺(そうめん)」。

「下部發令所」私の「芥川龍之介手帳 1―16」の図を参照されたい。

水電室」不詳。当時、イオン交換法によって有意な電力供給が行われたとは思われない。これは「水雷室」(魚雷室)の誤りではなかろうか?

「ミルトン」不詳。

「軍歌をうたふ」ここは
「軍艦金剛航海記」の「四」の終りのシークエンスに完全に生かされている。

「勇敢なる水兵」日清戦争の逸話に基づく軍歌。佐佐木信綱作詞・奥好義(よしいさ)作曲。明治二八(一八九五)年発表。ウィキの「勇敢なる水兵」によれば、明治二七(一八九四)年九月十七日、『日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この海戦が黄海海戦であり、この「勇敢なる水兵」はその時の逸話に基づくものである』。『日本艦隊の旗艦「松島」は清国艦隊の戦艦「鎮遠」の巨弾により大きな被害を受けたが、その激戦の中、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵は副長の向山慎吉少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と訊ね、敵戦艦の「定遠』(ていえん)『」が戦闘不能に陥ったという副長の答えを聞いて微笑んで死んだ』。『この逸話は新聞で報道されるや』、『国民的な感動を呼び起こし』、『佐佐木信綱も感動して』全十『節からなるこの詞を一夜で作り上げたという。この曲は翌』『年の「大捷軍歌」(第三編)に発表された』(後、昭和四(一九二九)年に全八節に改詞されている)とある。You Tube こちらでダーク・ダックスの歌で聴ける。そこには歌詞(全八節版)も載る。

「ケープス」4枚目に続いている語で「ケープスタン」。後注する。

 

 

□4枚目

タンの上にて甲板士官 軍艦旗 落日光

夜 機關長の話

廿二日

朝 主計長の話 干物倉庫及俵倉庫に入る 十呎あまり?

 

【欄外】檣樓へ上る 室戸崎

 

軍醫部 治療室 病室及隔離室 戰時治療所

午 ひるね 句をつくる 柔道 相撲 機關長の氣合 i)腰 ii)喉 iii)背 iv)金丸

探照燈の光(本艦) 標的をてらす

ガンルーム 大導寺中尉

 

【欄外】寫眞 佐多崎 波石崎

[やぶちゃん注:「ケープスタン」capstan。キャプスタン。船舶に於いて碇(いかり)の鎖やロープを巻き上げるための、水平に回転するキノコ型の装置。車地(しゃち)・絞盤などとも呼ぶ。

「十呎」十フィート。約三メートル。四方ということであろう。そこにぎっしりと干物と米俵が詰まっているのである。

「檣樓」艦船のマストの上部にある物見台。「軍艦金剛航海記」の「五」でも、この快挙を語っている。芥川龍之介は木登りが特異で、泳ぎも達者であった。

「金丸」金玉のことか。「氣合」いの名の下に行われた、「精神棒」的な軍隊内の「シゴキ」が窺われる。「精神棒」とは日本海軍及び陸軍に於いて、古参兵・下士官が新兵を「教育」するという名目の「しごき」、体罰に用いられた硬い樫の木で出来た太い棒のこと。鞭や、その場にあった竹刀・木刀・バット・箒の柄・杓文字等で代用することもあった。孰れも兵士の尻目がけてフルスィングで叩きつけた。元は日本海軍に於いて、入隊者から人間性を奪いとり、命令には絶対服従する兵隊に仕立てることを目的で行われた虐待行為の際に使用する木の棒で、起源は英国海軍にあり、日本海軍でも通常英語で「バッター」と呼ばれ、敵性語を廃した当時は「軍人精神注入棒」と書かれていたらしい。私の梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(4)を参照されたい。

「ガンルーム」gunroom。元来は大邸宅の狩猟用銃器室を指すが、海軍では、軍艦の下級将校室、士官次室を指す。

「大導寺中尉」不詳。私ならずとも、後の大正一四(一九二五)年一月に『中央公論』にて発表された自伝的小説「大導寺信輔の半生」を思い出されるかも知れぬ。或いはその名の秘かなモデルなのかも、知れない。

「佐多崎」不詳。表記誤認が疑われる。

「波石崎」不詳。同前。]
 

2018/02/17

芥川龍之介 手帳補遺 / 芥川龍之介 手帳~全電子化注完遂!

 

手帳補遺

 

[やぶちゃん注:以下は、岩波旧全集に上記名称で載るもので、岩波新全集では第二十三巻の『ノート』パート(同巻には既に電子化注した手帳「1」から「12」が載るが、それは『ノート』パートの後に『手帳』パートとして別に項立てされている)に仮題『細木香以ノート』として「手帳」扱いせずに載るものである。新全集がこれを『手帳』ではなく『ノート』扱いにした理由は、この原本が所謂、手帳タイプのものに記されたものでないからで、新全集『後記』によれば、便箋三枚に黒インクで書かれたものだからで、この扱いは、手帳でないという事実からして至当ではある

 以上の理由から、これを私の芥川龍之介の手帳電子化注の最後に入れるに際しては、やや戸惑った。

 しかし、は今まで、芥川龍之介の電子化については概ね、正字正仮名の旧全集を唯一の正統な拠り所として来た経緯があり、これを新字正仮名という如何にも中途半端な気味の悪い(私は芥川龍之介が見たら、「これが私の全集?」と首を傾げると受け合う)新全集の、その区分けに従って外すということ自体が、旧知の盟友を裏切るのと同じ気がして如何にも増して気持ちが悪いのである

 そうして何より、最早、正しき正字体の以下の旧全集「手帳補遺」は、旧全集でしか読めなくなってしまっているのである。新字体正仮名という、途轍もなく気持ちの悪い新全集仮題『細木香以ノート』というヘンなものを我々は読むしかないということに、私は絶望的な思いがするからである

 しかも、実は新全集は写真版原資料(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年同文学館刊)を底本として(私は非常に不思議に思うのだが、新全集では新たに起された多くの新資料がこの本の写真版を元にしているというのは何故だろうと感じる。原物は同文学館が所蔵しているはずなのに、何故、次代の大衆に残すべき全集の校訂のために原資料に当たっていないのか? という素朴な疑問である。万一、同文学館が保存主義で閲覧を拒否しているからとすれば、これは文学館としてあるまじき仕儀だと思う。劣化や損壊を恐れて死蔵保管を目的として誰も見ることが出来ない資料など、あってもないのと同じだからである)いるが、その写真版にはない部分が旧全集には現に存在しているからである。新全集は無論、そこの部分は旧全集に拠って新字正仮名で記号を挿入して活字化している。最後の「*」以降の部分がそれであるが、それらを読んで戴くと判るが、これは明らかに――細木香以関連の記載ではない――。また、この「*」は芥川龍之介が打ったものとは思われず、旧全集編者が「手帳一」から「手帳十一」(旧全集には「手帳12」は存在しない。詳しくは「手帳12」冒頭の私の注を参照を作成した後に、それらから脱落してしまってどの手帳にあったものか分らない、或いは、紙質から見て全くのバラの手帳断片(一連のものとは読めるように思える)が見つかり、それを編者が「*」を附して「手帳補遺」の最後に付け足したと考えるべきものである。さればこそ、この「*」以下は、寧ろ、新全集の仮題『細木香以ノート』なんぞに附すべきものではなくて、真正の「手帳補遺」として新全集の「手帳12」の後にこそ、旧全集からとして、附すべきものだったのではないかと私は深く感ずるのである。

 以上の三つ、「*」以下が細木香以との無関係性の一件を独立させるならば四つ、の思いから、2014年3月7日から開始した、芥川龍之介の手帳類のオリジナル電子化注の掉尾を、敢えて、この資料を以って飾りたいと考えるものである。

 以下、芥川龍之介とこの大半のメモの対象者である細木香以の関係について述べる。

 芥川龍之介の養母儔とも:しばしばカタカナ表記の「トモ」を見かけるが、それは芥川家の女性の名の表記に合わせた誤りである)の母須賀は細木(さいき)藤次郎の娘であるが、その弟藤次郎(父の名の二代目を継いだ。本名は鱗(りん))は森鷗外の史伝で知られる、幕末の江戸の大通として「山城河岸(やましろがし)の津藤(つとう)」「今紀文(いまきぶん)」の呼び名で知られた、細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)であった。彼は通称、摂津国屋藤次郎(二代目)、一鱗堂と号し、俳号を仙塢(せんう)、狂名を桃江園(とうこうえん)、鶴の門雛亀(つるのとひなかめ)などと称した。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎龍池(りゆうち)の子。儒学を北静廬に、書を松本董斎に、俳諧を鳳朗・逸淵に学び、俳諧師の善哉庵永機・冬映、役者の九代目市川団十郎、狂言作者の河竹黙阿弥、合巻作者の柳亭種員のほか、書家・画工・関取などと広く交わった。その末、家産を失って晩年は千葉の寒川に逼塞し、四十九歳で没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。則ち、芥川龍之介の養母儔は香以の娘須賀と伊三郎(本文に出る)の子であるから、香以の姪であり、龍之介から見ると、系譜上は香以は(養母方の)大叔父(祖母弟)に当たる。しかも、これは孰れの龍之介研究書も全く問題としていないのだが、実は、龍之介の実父新原(にいはら)敏三の末の弟元三郎の妻ゑいの父は細木香以の息子桂二郎の娘である。則ち、芥川龍之介の実の叔父の義理の祖父が、やはり細木香以なのである(新全集宮坂覺年譜に附された系図及び翰林書房「芥川龍之介新辞典」の系図を見よ)。則ち、姻族を含む親族及びその中で行われた養子縁組上の関係を合わせると、芥川龍之介は生家である新原家及び養家である芥川家ともに、二重に細木香以と所縁(ゆかり)があるということになるのである。

 なお、芥川龍之介には主人公『自分』と細木香以との関係を冒頭で明記した上で、彼を主人公にした語り風一人称小説「孤獨地獄」(『新思潮』大正五(一九一六)年四月)があり(「青空文庫」のここで読めるが、新字正仮名である)、本資料はその直接の構想メモではないものの(同作の草稿は別に存在する)、それに先立つ記録メモであることは間違いなく、幾つかの部分が「孤獨地獄」に生かされている(私の本文注を確認されたい)。また、香以については、事実を述べた随想「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで、表記の題で掲載された・リンク先は私の電子テクスト)でも『母は津藤の姪』と、ちらっと述べている。そもそもが、森鷗外の「細木香以」(『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』大正六(一九一七)年九月から十月初出。「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)では末尾に細木香以の縁者として芥川龍之介が鷗外自らによって紹介されているのである。なお、ここは別な意味で非常に興味深い。それは鷗外のその後書きを読む限り、芥川龍之介は儔を実母として鷗外に説明している点である(そこでは鷗外は事前にそのことは小島政二郎から聞いていたとするが、私はこれは芥川龍之介が小島に鷗外には実母であると言っておいてくれと頼んだのだと考えている)。しかもその直後、鷗外が香以の墓に詣でる老女のことを彼に尋ねると、龍之介は、それは『新原元三郎といふ人の妻』で、『ゑいと云』い、彼女は『香以の嫡子慶三郎』(桂三郎の誤り)の娘であると鷗外に教授しているのである。これだけのことを言っておきながら、龍之介は実の父新原敏三の末の妹がそのゑいだとは言わない(言えない)というわけである。言えない訳は龍之介が実母の発狂のことを医師である鷗外には決して伝えたくなかったのだと読めるのである。

 以下の資料は、新全集『後記』によれば、『このメモがいつ頃記されたのかは判然としないが、養母か親戚の誰かから聞いた事の覚書と推察される』とある。

 底本は基本、原資料画像をもととした新全集に拠りつつ、旧全集を参考にして総てを概ね正字漢字表記に復元したもので示す。従って、これは旧全集の「手帳補遺」とも、新全集の仮題『細木香以ノート』とも、実は異なる電子データということになる

 改行毎にオリジナルの注を附したが、内容が通人の関連描写なので、判らぬ部分も多々ある。識者の御教授を俟つ。なお、ここでは注の後の一行空けを附さなかった。

 以上を以って私の「芥川龍之介 手帳」電子化注の総てを終了する。四年に及ぶお付き合い方、忝く存ずる。【2017年2月17日 藪野直史――六十二歳の第二日目に――】]

 

 

梅が香の句

[やぶちゃん注:森鷗外の「細木香以」の後書きで、芥川龍之介が鷗外に教えた、細木香以の真の辞世の句(鷗外は本文の「十三」で仮名垣魯文の記した「おのれにもあきての上か破芭蕉」を掲げていた)、

 梅が香やちよつと出直す垣隣

である。]

                 
モト山王町

山城河岸四番地 家も地面も賣りて 日吉町十番地に來る 兩家とも火事に燒く 二三日に死す 夜十二時 若紫コトお房に腹がへつた故 むすびを三つ拵へてくれろと云ひ それを食ふ 芝居話をし 「河竹も老いこんだな ××に信乃をさせることはない」 十二時すぎに寐 三時に起上る おフサお上水ですかと云ふ バタリと仆れる 鼾つよし だんだん靜かになる 鍼醫をよぶ 駄目と云ふ 棺は別拵へにしたり 湯灌する時に見れば兩腕に彫ものあり 一は鳥かごの口あき小鳥立つところ(田舍源氏の若紫) 一は牡丹に揚卷の紐のかかれるところ 朱の入りしホリモノ 葬式はさびし 一切伊三郎 願行寺に葬る

[やぶちゃん注:「山城河岸四番地」筑摩書房全集類聚版の「孤獨地獄」の「山城河岸の津藤」の脚注に『中央区銀座五丁目に住んでいた豪商津国屋藤兵衛』とある。の地区内(グーグル・マップ・データ)。

「モト山王町」は「日吉町」の右注。「日吉町」は不詳だが、旧山王町は恐らく現在の銀座八丁目(先の五丁目の南西直近の新橋寄り)のことではないかと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「若紫」「お房」「おフサ」は香以が吉原から引いた妾(めかけ)の一人で後妻となった女性の源氏名及び呼び名であろう。森鷗外の「細木香以」の「八」に(岩波の選集をもとに漢字を正字化した)、

   *

 香以は暫く吉原に通つてゐるうちに、玉屋の濃紫(こむらさき)を根引(ねびき)した。その時濃紫が書いたのだと云つて「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短册が玉屋に殘つてゐた。本妻は濃紫との折合が惡いと云つて木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくの抱(かゝへ)鶴が引かせられたより前の事である。

   *

とあるからである。

「河竹」歌舞伎作家河竹黙阿弥(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)。

「××」底本新全集にはママ注記がある。

「信乃」滝沢馬琴の「南總里見八犬傳」の八犬士の一人である犬塚信乃(いぬづかしの)か? 河竹黙阿弥作では慶応四(一八六八)年五月市村座初演の「里見八犬傳」(三幕)や明治七(一八七四)年七月東京守田座初演の「里見八犬士勇傳」などがあるが、後者は香以の没後だから、前者ととっておく。黙阿弥は若い頃に馬琴を読み漁った。

「田舍源氏」柳亭種彦の未完の長編合巻(ごうかん)「偐紫田舍源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(挿絵・歌川国貞/文政一二(一八二九)年~天保一三(一八四二)年刊)。種彦の筆禍事件(本作が江戸城大奥を描いたと噂され、「天保の改革」によって版木没収となった)とその直後の死によって、第三十八編(百五十二冊)で終わった。時代を室町時代に移し、将軍足利義政の妾腹の子光氏(みつうじ)を主人公とした「源氏物語」の翻案パロディ。

「伊三郎」香以の姉須賀の夫で、山王町の書肆であった伊三郎。香以は晩年をこの夫婦の家に送った。冒頭注で述べた通り、この夫婦の間にできた娘が芥川龍之介の養母儔である。

「願行寺」現在の文京区向丘にある浄土宗の既成山願行寺(がんぎょうじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。香以の墓がある。]

 バラ緒の雪駄 唐棧の道行 五分サカユキ 白木の三尺 襦袢をきし事なし 單ものの重ね着 チヂミでもマオカでも荒磯 足袋をはかず

[やぶちゃん注:「バラ緒の雪駄」江戸時代の上方製の「下り雪駄(せった)」(江戸製のものは「地雪駄」と称した。裏革に「ハ」の字形にそれぞれ三ヶ所、左右六ヶ所を切って、裏に縫って尻鉄(しりがね)をつけたもの)に竹の皮を繩になった鼻緒をすげたものを「ばら緒」と称した(「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」のこちらを参照した)。

「唐棧の道行」「唐棧」(とうざん)は紺地に浅葱(あさぎ)・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。江戸時代、通人が羽織・着物などに愛用した。呼称は、もと、インドのサントメから渡来したことに由来する。「道行」は和装用のコート風のものの一種。襟を四角に繰り、小襟を額縁に仕立てたもの。「道行きぶり」などとも呼ぶ。

「五分サカユキ」当初、前後が衣服であるから、「ユキ」は「裄」で衣服の背縫いから袖口までの長さのことかとは思ったが、「五分」(一センチ五ミリ)はあまりに短い。「或いはこれは『サカヤキ』(月代)のことではないか?」と思って調べてみたところが、「孤獨地獄」の中に(岩波旧全集より引く)、

   *

大兵肥滿で、容貌の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまもり)と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

   *

とあった。但し、「月代」を「さかゆき」と訓ずるケースもあるので誤記ではない。筑摩書房全集類聚版の脚注に『月代が五分程に伸びたた髪。浪人・病人に扮する芝居の髪』とあって、思わず膝を打った。

「白木の三尺」前の「孤獨地獄」の引用に出る。筑摩書房全集類聚版「孤獨地獄」の脚注に『白木屋で売り出した柔小紋の三尺帯』とある。「白木屋」は「しろきや」と読み、現在の東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ(法人自体としては現在の株式会社「東急百貨店」の前身に当たる)。「柔小紋」は不詳。正絹の小紋のことか。「三尺帯」は男物の帯の一種であるが、この「三尺」は鯨尺の三尺なので、一メートル十四センチ弱である。

「單」「ひとへ(ひとえ)」。

「チヂミ」「縮織(ちぢみを)り」。布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯(よこ)糸に強撚(つよねり)の糸を用いて織り上げた後、湯に浸して揉み、皺を表したものを指し、綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮などがある。

「マオカ」「眞岡木綿」で「もおかもめん」のこと。綿織物の一種で現在の栃木県真岡(もおか)市付近並びに茨城県下館市にかけて織られていた丈夫な白木綿の織物で、真岡を集散地とした。浴衣・白足袋の地などに用いた。現在は全国的に生産されている。

「荒磯」荒磯緞子(あらいそどんす)であろう。波間に躍る鯉を金糸で織り出した豪奢な緞子(繻子(しゅす:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現れるようにした織物。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢があって肌ざわりがよい)の一つで、経繻子(たてしゅす)の地に、その裏組織の緯(よこ)繻子で文様を表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。「ドン」「ス」ともに唐音。]

    

ツンボの粗中――旅役者

[やぶちゃん注:「素」は「粗」のミセケチ(見せ消ち)であろうが、「素中」も「粗中」も不詳。その旅役者の芸名か。]

                母10

                千代40

千枝――女の俳諧師       藝者 婆さん

          >越後の人

木和――千代の夫           爺さん

[やぶちゃん注:「10」「40」は正立縦書。

「千枝」不詳。

「木和」不詳。

「千代」不詳。或いは次段の最後に出る香以のところに「居候」する者の一群か。]

津藤 小使ひのない時には鐡の棒(鍔のつきし木刀)を持つて「伊」へ來る(この棒は棺へ入れる) 「向う橫町から叔父さんが來たよ」と云へば 子供 奉公人の terror. 米でも何でも「伊」より仕送る 「伊」へ來れば鰻が好いとか鮨が好いとか云ふ 十圓位小使を持たせてやる 居候三四人ゐない事なし

[やぶちゃん注:「津藤」冒頭注で出した通り、細木香以の俗称の一つ。

「伊」は伊三郎。

terror」「恐怖の種」の意。

「十圓」明治初期(香以は明治三(一八七〇)年没)のそれは現在の三十万円から四十万円は優にする。

「居候三四人ゐない事なし」香以の気風から、宿無しの芸人や俳諧師、壮士やヤクザ者が溜まっていたものであろう。]

                   
おせき

吉原の河東節の老太夫連中(三味線びきは婆藝者)來り 「伊」方にて語る これは「伊」に馳走や何か持たせる爲なり 「津」竹の棒にて老太夫のつけ髷をとる 「ダンナ およしなんしよ」と云ふ(伊の妻河東を語る)

[やぶちゃん注:「河東節」(かとうぶし)は浄瑠璃の流派名。十寸見(ますみ)河東(江戸太夫河東)が享保二(一七一七)年二月に江戸で始めた代表的な江戸浄瑠璃。語り口は上品で力強く、三味線もまた、強い弾き方を特徴とする。

「おせき」は「婆藝者」の名であろう。

「伊の妻」芥川龍之介の養母儔の母で香以の姉須賀。]

毛氈をひき 見臺をおき 太夫二人 三味線ひき一人 「助六」などかけ合ふ 百目蠟燭 眞鍮の燭臺 うちのものだけ(親夫婦兄弟三人 婆や二人 店の番頭一人 若いもの四人 小僧二人) 他の家のものを呼ばず 津が何をするかわからぬ故

親類の鳥羽屋(三村淸左衞門 十人衆 義太夫に凝る 三味線ひきは花澤三四郎)「伊」の家に床をかけ 義太夫の揃ひをなす 三四郎の弟子は皆旦那衆 龍池と津伊と相談し 河東節をよぶこととす されど向うの義をきくも詮なしとて三人にて義太夫の急稽古す 鳥羽屋へは祕ミツ 野澤語市を師匠 阿古屋琴責め 三人及び三味線の名貼り出す 三人 肩衣をつけ 龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋 をやる 義太夫の連中のうち これをやる人椽側よりころげ落つ 「こちのや」と云ふ狂歌師なり

[やぶちゃん注:「鳥羽屋」「三村淸左衞門」香以の父龍池(龍也が本名らしい)の後妻(香以の母かよではない。かよはそれ以前に離縁されている)の実家の継嗣であろう。森鷗外の「細木香以」に『鳥羽屋三村淸吉の姉すみを納(れ)て後妻とし』とあり、また、この直後、香以=『子之助は』数え二十歳の『年十二月下旬に繼母の里方鳥羽屋に預けられた』とある。

「花澤三四郎」不詳。

「龍池」既に述べた通り、香以の父。

「津伊」香以(「津」藤)と、彼の姉須賀の夫「伊」三郎。

「義」義太夫。

「野澤語市」不詳。

「阿古屋琴責め」浄瑠璃「壇浦兜軍記(だんおうらかぶとぐんき)」(全五段。文耕堂と長谷川千四の合作。享保一七(一七三二)年大坂竹本座初演)の三段目口(くち)の通称。平家の残党平景清の行方を探す鎌倉方の畠山重忠が、遊女の阿古屋に琴・三味線・胡弓を弾かせ、その音色が乱れていないことから、嘘をついていないことを知るという場面。

「肩衣」「かたぎぬ」。ここは太夫が着る裃(かみしも)のこと。

「龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋」これは義太夫で、「龍池」が畠山「重忠」を演じ、「伊」三郎が「岩永」(重忠とともに景清を探索する岩永左衛門)を、「津」藤香以が「阿古屋」を演じた、ということを指す。

『「こちのや」と云ふ狂歌師』不詳。

 冒頭注で述べた通り、以下の部分は、新全集の原資料になく、旧全集のものであるが、ここまでの原資料や旧全集の「手帳」の電子化で判明した通り、芥川龍之介は句読点を実際には附していないケースが殆んどである。されば、旧全集のそれらも総て除去して、読点は一字空けとした。総て一字下げはママである。]

 

     *

 

 町を通ると叫聲

 瓶にさした花ありと云ふ なし かへればある

 窓ガラスの外に空中に寢た人

 メヂアム・妙な本の line をよむ

[やぶちゃん注:「メヂアム」“medium”なら、伝達・通信・表現などに関わる「手段・媒体・機関・媒介物・媒質・中間物」の意。“Median”なら「中央値」(有限個のデータを小さい順に並べたとき中央に位置する値)であるが、芥川龍之介は後者の「メジアン」を「メヂアム」とは表記しないように私は思う。

line」文字列・行・短詩。]

 家中が水になつた

 床にはつてゐる男を見る

 收容所の俘虜(支那人)日本軍人の死を見る

 足のかかとでものを見る★

Kakatotetyouhoi

[やぶちゃん注:★の部分に足先を上にした小さな上記の手書き図が入る。]

 外を通る 實在せざる stone-balustrade を見る 後數日實在する

[やぶちゃん注:「stone-balustrade」「石製欄干」。

 これらは――あたかも――アンドレイ・タルコフスキイの映像のようではないか!!!――


 

2018/02/15

芥川龍之介 手帳12 《12―22~12-24》 / 手帳12~了

《12―22》

[やぶちゃん注:以下、最後まで、総てが住所記録欄となり、実際に住所と名前(姓だけが殆んど)となるので、気になる一部のみ(姓名フルに書かれたものは総てに亙って検証した)に注をすることとする。その場合は、今までのようには注の後を一行空けないこととした。中には、芥川龍之介の親しい友人の誰それではないかと思われるありきたりな姓も含まれているが、書簡の記載の住所照らし合わせて一致を見ないものも多いので、比定推定注はごくごく一部に限ってある。]

○榛名  近藤

○阿蘇(神戸氣附)  淸水

[やぶちゃん注:「神戸」の地名気付で「阿蘇」という人物に出すと、「淸水」という人物に渡るというのか? 意味がよく判らない。]

M. 1e Prof. R. R. l'Ecole normale supérieure Paris

[やぶちゃん注:フランスのエコール・ノルマル・シュペリウール(École Normale Supérieure:「高等師範学校」の意)の教授である。]

○京都萬里小路一條上ル 關内上内方  菊地

[やぶちゃん注:菊池寛であろう。彼は明治四三(一九一〇)年に第一高等学校第一部乙類に入った同期には芥川龍之介(但し、菊池は四つ年上。これ以前、東京高等師範学校で授業をサボっていたことから除籍処分を受け、明治大学法科に入るも、第一高等学校入学を志して中退、徴兵逃れのために早稲田大学に籍のみを置いて受験勉強するといった経緯があった)や井川恭(一高卒業後は同じ京大に進んだ芥川龍之介の盟友で後の法学者恒藤(婿養子で改姓)恭)がいたが、卒業直前に「マント事件」(菊池寛が友人が盗んだと推定されるマントを質入れし、窃盗の犯人の身代わりとなったもの)原因となって退学(大正二(一九一三)四月)、その後、友人成瀬正一(芥川の友人でもあった)の実家から援助を受け、京都帝国大学文学部英文学科に入学、大正五(一九一六)年七月に京大を卒業している。本手帳の記載推定上限は、大正五(一九一六)年或いは前年度末(東京電力株式会社の前年大正四(一九一四)年発行の手帳で、一九一五年のカレンダーなどが附されてある)からであるから、この住所欄の初めの方に菊池寛の京都の下宿先が書かれていても、何ら、不思議はない。]

麻布六本木31 長岡 Jones

[やぶちゃん注:31」は正立縦書。以下、二桁半角表記のそれは総て正立縦書なので本注は略す。

Jones」既出既注のアイルランド人の友人でジャーナリストの Thomas Jones(一八九〇年~一九二三年)。岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、大正四(一九一五)年の来日の際には、『新橋驛まで出迎え』、『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』(下線太字やぶちゃん)と述べておられるから、間違いない。大正八(一九一九)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移』ったともある。彼をモデルとした名品「彼 第二」の注で、私は、芥川龍之介とジョーンズとの邂逅を大正五(一九一六)年の冬に措定したが、これは作品の中の描写によるもので、大正五(一九一六)年年初であっても何ら、問題はない(鷺只雄氏の年譜は同年冒頭の部分に、彼らが知り合ったという漠然とした記載がある)。しかもそうすると、前の菊池の住所記載の時期とも矛盾なく一致するからである。]

麻布不二見町31 Playfair

[やぶちゃん注:「Playfair」(プレイフェア)というのは外国人の姓として実際に存在する。]

淺草駒形町61  久保田

○麹町區飯田町三丁目十三番地 中島  市川

○京都上京區聖護院町上リ■■  洛陽館5

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○下谷谷中淸水町十二  依田誠

[やぶちゃん注:「依田誠」(生没年未詳)芥川龍之介の府立第三中学校時代の同級生。二人の担任で英語教師であった広瀬雄(たけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)と龍之介の三人で明治四一(一九〇八)年(或いは前年)の夏休み七月、関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。彼の名は、芥川龍之介の怪談蒐集録「椒圖志異」の「怪例及妖異」の「4」及び「魔魅及天狗」の「3」で、怪談話者(提供者)としても出る(リンク先は私の非常に古い電子テクスト)。]

○府下柏木四三三 聖書學院前  西條

本郷西片町1ノ三 本田  小宮

○横濱市  矢代

○大森不入斗402  加藤

[やぶちゃん注:「不入斗」「いりやまず」と読む。東京府荏原(えばら)郡旧入新井町(いりあらいまち)現在の大田区大森北付近。]

○本郷森川町四七 最上  山宮

○牛込餘丁町一〇九  森口

[やぶちゃん注:東京都新宿区余丁町(よちょうまち)として現存する。]

○〃〃津久戸九 廣井家方  日夏

[やぶちゃん注:後の詩人で英文学者の日夏耿之介(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年)であろう。彼は芥川龍之介より二歳年長である(早稲田大学英文科・大正三(一九一四)年卒)が、芥川龍之介は第一短編集「羅生門」(大正六年五月二十三日発行)を彼に贈呈しており(大正六年六月十六日佐藤春夫宛書簡・旧全集書簡番号二九五)、日夏は大正六年六月二十七日の『羅生門』出版記念会にも出席している。]

○神奈川縣三浦久里濱ペルリ  小川傳六

[やぶちゃん注:ペリー上陸記念碑(明治三四(一九〇一)年七月十四日に除幕。太平洋戦争中の昭和二〇(一九四五)年二月八日に引き倒され、その半年後の敗戦から三ヶ月後の十一月に再建)のある、現在の神奈川県横須賀市久里浜七丁目附近と考えられる。「小川傳六」なる人物は不詳。機関学校時代の知人か。]

〇千葉縣東葛飾郡市川町字板木三千二百二十  鈴木定吉

[やぶちゃん注:「鈴木定吉」不詳。同姓同名の児童文学者がいるが、明治四二(一九〇九)年生まれで若過ぎる。]

○府下大久保西大久保四九二  矢内原

[やぶちゃん注:経済学者で後の東京大学総長となる矢内原忠雄(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年)である可能性を否定出来ない。彼は芥川龍之介と一高の同期であり、無教会主義キリスト教の指導者としても知られ、後に出る室賀文武とも知り合いであったからである。但し、彼は大正六(一九一七)年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社するや、別子銅山に配属されており、大正九(一九二〇)年に母校の経済学部に呼び戻され、助教授となるも、同年秋には欧州留学に出ており、東京にいた時期が非常に限定されるから、そうだとも言えない。]

○本郷森川町四七 最上方  山宮

○小石川スワ町三七 番所  久米

○岡山門内一一〇二 崇雅院  平塚

[やぶちゃん注:「崇雅院」は目を引く固有名詞であるが、全く不詳である。]

○本所淸水町二二  平松

[やぶちゃん注:後に芥川龍之介が帝国ホテルで心中未遂をする芥川の妻文子の幼馴染みであった平松素麻子(ひらまつすまこ 明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)である可能性は、住所からみて、極めて低い。また、彼女が「秋」(大正九(一九二〇)年四月『中央公論』)の情報(女性の手紙の書き方・髪型の種類など)提供者として妻文によって紹介されて、急速に親しくなる時期は本手帳の推定下限より後である。寧ろ、芥川龍之介の幼少・少年期の「本所」であるから、その頃の友人か知人である可能性が高い。]

○東糀町飯田町三ノ一一三 中島  市川

《12―23》

○芝區下高輪五十五  塚本

〇本郷千駄木五七  山本

○中澁谷四二四  ■■

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○橫濱住吉町二ノ三二  矢代

○千葉縣送船隊第六中隊  長島

○松江南殿町内中原御花畑一六七  井川

[やぶちゃん注:盟友井川恭の実家。]

○田端西大通五三三  廣瀨

○牛込天神町一三  松浦

○宇和島町神田川原112  藤岡

○小石川區小日向臺町二ノ二七  奧野

○本郷元町一ノ三 安達  平塚

○森川町一谷三〇三  山本

○駒込曙町十一 はノ八號  奧野

〇牛込廿騎町卅 純勝舍  矢羽

○白山御殿町110  眞心寮■■

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○上海四川路三物  西村

[やぶちゃん注:芥川の府立三中時代の同級生の友人西村貞吉(ていきち 生没年未詳)でんはなかろうか。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川龍之介は中国特派の際に彼に逢っており、「長江游記 一 蕪湖」の冒頭から実姓名で登場している(リンク先は私のブログ版。「長江游記」全篇サイト版はこちら)。帰国直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。]

○目白臺高田村松木田四八七  平田義雄

[やぶちゃん注:「平田義雄」不詳。]

田バタ吉田牛ノ宮田バタ方

○相州鎌倉坂の下十一  奧野

○小石川戸崎町一二  山宮

○本郷五 廿  松岡

○椛町區須田町6-19  紀愛

[やぶちゃん注:「紀愛」は苗字としては特異だが、読みさえ不詳。「きあい」か。]

○本郷區曙町十三 はノ八  オクノ

○府淀橋町字柏木湖  石田三治

[やぶちゃん注:「石田三治」明治二三(一八九〇)年~大正八(一九一九)年)はトルストイの研究で知られる評論家。北海道に生まれで、青森県七戸町で育った。東京帝国大学哲学科(美学専攻)を卒業、日本基督教青年会同盟主事を務める傍ら、ヨーロッパ文化に対する博識を駆使し、月刊誌『トルストイ研究』を始めとして、『新潮』『帝国文学』『心理研究』『新人』『日本評論』『大学評論』『開拓者』『六合雑誌』等に、客観的且つ実証的な論文及び随想を精力的に発表した。芥川龍之介・菊池寛・豊島与志雄・内村鑑三・南原繁・矢内原忠雄といった著名な作家・政治家・学者らとの多彩な交友関係があったが、病に倒れ二十九歳で夭折した。著書に「トルストイ書簡集』」(大正七(一九一八)年新潮社刊)や「全トルストイ」(大正八年大鐙閣刊)などがある(以上は「青森県近代文学館」公式サイト内のこちらのページを参照した)。]

○本所小泉町30  山内

○麻布市兵工町1の7  長岡 J.

〇四谷北伊賀町17  山宮

○小石川大塚仲町廿七  渡邊半

Schinbashi Komparu Terajimaya Kyobashi Minami Kinroku 1 Tateishi K.

[やぶちゃん注:それぞれ「七番地」「金春」「寺島屋」「京橋」「南」「金六 一」(?)「立石」(最後のイニシャルは名前か)か? この内、南金六町(みなみきんろくちょう)は当時、東京府東京市京橋区に存在した町丁名である。しかもここの旧十四番地と旧十五番地内には「金春屋敷跡」(江戸幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた(他に観世・宝生・金剛の四家)の中で最も歴史のある金春家の屋敷跡。現在も「金春通り」として名が残る)があった(現在の銀座八丁目七番五号及び十三号)。]

○西片町 10(下919  滝田哲太郎

[やぶちゃん注:「滝田哲太郎」は芥川龍之介も多くの作品を発表した『中央公論』の名編集長として知られ、多くの新人作家を世に送り出した滝田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)の本名。]

○糀町下六番町27  林原耕三

[やぶちゃん注:「林原耕三」(明治二〇(一八八七)年~昭和五〇(一九七五)年)は英文学者で俳人。福井県出身で旧姓は岡田。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介らを漱石に紹介したことで知られる。東京帝国大学英文科で芥川龍之介の先輩(七つ年上)であったが、大正七(一九一八)年卒と、年下の芥川らが東大を卒業してもなお、数年も在学したことから、「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事し、俳号は耒井(らいせい)と称した。大正一四(一九二五)年に松山高等学校教授となり、その後、台北高等学校教授・台湾総督府在外研究員として欧米に滞在、帰国後は法政・明治・専修・東京理科大学の教授を務めた(以上はウィキの「林原耕三」に拠った)。]

〇本郷彌生町3 はノ三  後藤末雄

[やぶちゃん注:「後藤末雄」(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年)は作家でフランス文学者。芥川龍之介からは『新思潮』の先輩に当たる。東京生まれ。ウィキの「後藤末雄」によれば、『「金座の後藤」と言われる工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと』、第二次『新思潮』の『創刊に参加し、小説家として出発』した。大正二(一九一三)年、東大仏文科を卒業。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中』、森鷗外らの『愛顧を得て創作を続け』た。大正六(一九一七)年から翌年にかかけて、大作「ジャン・クリストフ」の初訳を刊行したが、『同時期に創作の』方の筆は絶った。大正九(一九二〇)年、『永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり』、後、『慶應義塾大学教授』に就任した。昭和八(一九三三)年の博士論文「支那思想のフランス西漸」では、『儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった』とある。]

○東片町111  豐島

[やぶちゃん注:作家でフランス文学者となった豊島与志雄(とよしまよしお 明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)の可能性が高い。東京帝大在学中の大正三(一九一四)年に芥川龍之介・菊池寛・久米正雄らと第三次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女作「湖水と彼等」を寄稿し、注目された。]

○谷中初音町4の141 大久保方  金子保

○小石川大塚仲町廿七  渡邊

〇谷中土三崎南町40 保阪新三郎方

○御宿六軒町26

○橫濱市南太田町二の一六六 米澤方  山内

○府下千駄ヶ谷544 渡邊  蔭山

○牛込矢來町三

〇駒込林町二二  堀義二

[やぶちゃん注:同姓同名の彫刻家はいるが、同一人物かどうかは分らぬ。]

〇京橋加賀町18  新公論社

○本郷追分町19  大學評論社

○東大久保23  室賀文武

[やぶちゃん注:「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ大正六年十月二十一日。これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト)、「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。]

○海岸通 野間榮三郎方

○本郷區駒込千駄木町70 池内藤兵エ方  上瀧

[やぶちゃん注:「上瀧」龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)であろう。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。]

○永井祐之

[やぶちゃん注:不詳。]

《12―24》

○京都市上京區吉田町 神前阪吉野館

[やぶちゃん注:以上で「手帳12」は終わっている。]

芥川龍之介 手帳12 《12―21》

《12―21》

Croce : Æthetic as science of expression & general linguistics

[やぶちゃん注:ヘーゲル哲学と〈生の哲学〉を結びつけ、ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えたイタリアの哲学者・歴史学者ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce 一八六六年~一九五二年)の一九〇二年の著作L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale(「表現の科学及び一般言語学としての美学」)の英訳(以上はウィキの「ベネデット・クローチェ」を参考にした)。英訳全文をこちら(PDF)で読める。芥川龍之介よ、凄い時代になったろ?]

 

Stevenson Thrawn Janet

[やぶちゃん注:「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde(一八八六年出版)で知られるイギリスの作家ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson 一八五〇年~一八九四年)が一八八一年に発表した短篇怪談「捩じけ首のジャネット」。彼の作品の中でも秀逸のホラーである。]

 

6月14

[やぶちゃん注:今までの記載から見て、恐らくは、予定していた洋書の注文日。]

Russe1, Engravings of W. B.

同上

[やぶちゃん注:編者注で『W.B. William Blake の略』とある。イギリスの詩人で画家(銅版画家)として知られるウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「Engravings」はここでは銅版画。イギリスの美術史家アーキバルド・ジョージ・ブラームフィールド・ラッセル(Archibald George Blomefield Russell 一八七九年~一九五五年)の一九一二年の著作。]

 

Naidu : Golden Threshold

 Mysteries of Paris   Eugéne Sue

 Wanderring Jew Eugéne Sue

Thomas Y. Crovell & Co. (The Popular Library of Notable Books)

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つ。

Naidu」インドの女流詩人で政治(活動)家でもあったサロージニー・ナーイドゥ(Sarojini Naidu 一八七九年~一九四九年)。個人ブログ「トーキング・マイノリティ」のインドの女性活動家たちによれば、彼女は『ベンガル出身のバラモン女性で、南インドの非バラモンと恋愛結婚』したが、当時、『異なるカースト間の結婚でも』、『女のカーストが高い場合は逆毛婚と呼ばれ』て、『特に忌み嫌われたにも係らず、自分の意思を貫いた』人物で、『イギリス留学中から詩人として有名とな』り、『ガンディーの信奉者として民族運動に参加』、一九二五年の『インド女性初の国民会議派議長に選出され、インドにおける女性運動の指導者でもあった』とある。彼女はその詩によって「インドのナイチンゲール」と呼ばれたという。

Golden Threshold」(「黄金の敷居(戸口)」)は彼女の一九〇五年にイギリスで刊行した詩集。“Internet Archive”で英語原典が読める。

Mysteries of Paris」「Eugéne Sue」はフランスの小説家ウージェーヌ・シュー(Eugène Sue 一八〇四年~一八五七年:ウィキの「ウージェーヌ・シューによれば、パリ生まれで、父はナポレオン軍の軍医として知られ、ジョゼフィーヌ皇后が名付け親となったとされる。後、自身も海軍の軍医として働き、一八四二年から翌年にかけて新聞で連載したこの「パリの秘密」(Les Mystères de Paris)で絶大な人気を博した。同作は『パリの貧民や下層社会を描いた社会主義的な作品で、当時』、『その人気はアレクサンドル・デュマ』に匹敵したが、『大衆小説作家とみなされ、その後』は『あまり読まれなくなった』とある(下線やぶちゃん)。

Wanderring Jew」「彷徨(さまよ)えるユダヤ人」。ウージェーヌ・シューの一八四四年から翌年にかけて発表された小説。芥川龍之介には同伝承を素材とした、大正六(一九一七)年六月『新潮』発表の、ペダンチックな随想「さまよえる猶太人(ゆだやじん)」(ルビは以下に示した同作本文に拠る)があり、その冒頭で(岩波旧全集を用いた)、

   *

 基督教國にはどこにでも、「さまよへる猶太人(ゆだやじん)」の傳説が殘つてゐる。伊太利でも、佛蘭西でも、英吉利でも、獨逸でも、墺太利でも、西班牙でも、この口碑が傳はつてゐない國は、殆一つもない。從つて、古來これを題材にした、藝術上の作品も、澤山ある。グスタヴ・ドオレの畫は勿論、ユウジアン・スウもドクタア・クロリイも、これを小説にした。モンク・ルイズのあの名高い小説の中にも、ルシフアや「血をしたたらす尼」と共に「さまよへる猶太人」が出て來たやうに記憶する。最近では、フイオナ・マクレオドと稱したウイリアム・シヤアプが、これを材料にして、何とか云ふ短篇を書いた。

   *

と、彼の名(ユウジアン・スウ)を出している。同随想は「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。

Thomas Y. Crovell & Co. (The Popular Library of Notable Books)」最初は出版社名で、括弧内は叢書名(「著名書の大衆図書館」?)であろう。]

 

Félicien Rops: Verlag von Maroquardt & Co. Berlin

[やぶちゃん注:ベルギーのエッチングやアクアチント技法を得意とした版画家で、世紀末の象徴主義やデカダン派の文学運動と関係を持ち、そうした作家たちの詩集にイラストを好んで描いたフェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)の画集か評論書であろう。後半はベルリンの書店であるが、恐らくは「Maroquardt」の綴りはは「Marquardt」が正しい。]

 

○7月15

[やぶちゃん注:同じく注文予定日と推測される。]

 

Ricket : Pages on Art

Ricket : Gustave Moreau

Ricket : Degas

[やぶちゃん注:綴りが違うが、イギリスのイラストレーターとしてビアズリーと並称される画家チャールズ・リッケッツ(Charles de Sousy Ricketts 一八六六年~一九三一年)ではなかろうか? 英文のグーグルブックスの複数の本の注リストに、彼と思しい名とともに一九一三年の著作としてPages on Art、一八九三年の著作としてA Note on Gustave Moreauを見出せるからである。「Degas」はフランスの印象派の画家エドガール・ドガ(Edgar Degas 一八三四年~一九一七年)であろう。]

 

Butcher : Some Aspects of Greek Genius

[やぶちゃん注:アイルランドの古典学者で政治家でもあったサミュエル・ヘンリー」ブッチャー(Samuel Henry Butcher 一八五〇年~一九一〇年)の一九〇四年の著作(「ギリシャ精神の諸相」)。]

 

Andreev, The sorrow of Belgium Mac millan

[やぶちゃん注:ロシアの作家で第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家となったレオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев:ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreev 一八七一年~ 一九一九年)の一九一七年(?)の戯曲「ベルギーの哀しみ」(侵攻するドイツに果敢に戦ったベルギーを讃えたもの)。最後は書店名。]

 

308 急 1932

[やぶちゃん注:意味不明。]

2018/02/14

芥川龍之介 手帳12 《12―19/12-20》

《12―19》

1219

[やぶちゃん注:突然、説明文のない地図。前後との関係もない謎めいたものである。怪しいぞ! 右上部のそれは「寺」だが、指示線のそれの「下」の下にある字は判読出来ない。「所」「勝」か? しかし、そもそもが、目指す家は中央の斜線の家であるわけだから、その前の「○」のように(電信柱か巨木か?)、「下■」も目安になる「何か」でなくてはならず、その場合、一般人家の名ではなく、一見して分かる何かを意味していると考えるのが妥当であるが、どうも「下」で始まるそれが浮かばない。だから、ますます妖しくなってくる! 後の洋書リストと強いて関係づけるなら、洋書専門店であるが、この時代、洋書を注文出来る書店はごく限られているから、違う気がする。洋書も多く扱う古本屋かも知れない。]

 

Cardinal Farrar  Darkness & Dawn

[やぶちゃん注:「Cardinal Farrar」不詳。

Darkness & Dawn」はアメリカのSF作家ジョージ・アラン・イングランド(George Allan England 一八七七年~一九三六年)の連作“Darkness and Dawn Series”(「暗黒と黎明のシリーズ」)のことか? 英文の彼のウィキによれば、“The Vacant World”(「空虚世界」一九一二年)・“Beyond the Great Oblivion”(「大いなる忘却の彼方へ」一九一三年)・“The Afterglow”(「残光」一九一四年)がある(訳は私のいい加減なもの。以下、同じ)。]

 

Heine  Die Götter im Exils

[やぶちゃん注:ドイツの詩人で作家のクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の一八五三年の「亡命者の神々」。]

 

Grierson : La Révolte Idéaliste

[やぶちゃん注:「Grierson」はイギリス人の作曲家・ピアニストで、作家でもあったベンジャミン・ヘンリー・ジェシー・フランシス・シェパード(Benjamin Henry Jesse Francis Shepard 一八四八年~一九二七年)のペンネーム、フランシス・グリエルソン(Francis Grierson)である。「La Révolte Idéaliste」はフランス語で「理想主義の革命」で、恐らく一八八九年の作品。内容は不詳。]

 

Grierson : The Humour of the underman

[やぶちゃん注:前注のフランシス・グリエルソンの、恐らく一九一三年の作品。「従属者のユーモア」(?)。内容不詳。]

 

John Pentland Mahaffy : What have the Greeks done for modern Civilization? ": The Lowell Lectures of 1908―1909

[やぶちゃん注:アイルランドの古典主義の学者ジョン・ペントランド・マハフィー(John Pentland Mahaffy 一八三九年~一九一九年)の一九〇九年の著作。「ギリシャ人は現代文明のために何をしたか?」。]

 

William Barry  Heralds of Revolt, studies in Modern Literature & drama

[やぶちゃん注:底本の編者によって、最後の単語は『正しくはdogma』と注がある。イギリスのカトリック司祭で作家であったウィリアム・フランシス・バリー(Barry William Francis 一八四九年~一九三〇年)の一九〇四年の著作。「反乱の先駆者・現代文芸とそのドグマ(主張)の考察」。]

 

H. H. Boysesen : Earl Siguand's Xmas Eve

[やぶちゃん注:ノルウェー生まれでアメリカで作家となったヒャルマー・ヒョルス・ボワイエセン(Hjalmar Hjorth Boyesen 一八四八年~一八九五年)のことであるが、「Earl Siguand's Xmas Eve」(アール・シグアンドのクリスマス・イヴ)は不詳。]

 

Addams Civilization during the Middle Ages

[やぶちゃん注:アメリカの歴史学者ジョージ・バートン・アダムス(George Burton Adams 一八五一年~一九二五年)一八九四年の著作「中世の文明」。]

 

J. A. Symonds : Renaissance in Italy

[やぶちゃん注:イギリスの文芸評論家ジョン・アディントン・シモンズ(John Addington Symonds 一八四〇年~一八九三年)の最初期の一八六三年の評論。]

 

《12―20》

1011

[やぶちゃん注:不詳。大正五(一九一六)年から大正八年までの年譜の当該日を調べたが、特別な予定はない。因みに、大正八年(私がこの手帳の閉区間の下限と考えている年)のその日、路上で自転車とぶつかり、左足を挫いてはいる。まあ、以降の記載から見て、洋書の注文日か、入荷日であろう。]

 

Mauclair  Rodin

[やぶちゃん注:フランスの芸術批評家カミーユ・モークレール(Camille Mauclair 一八七二 年~一九四五年)のフランスの彫刻家フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin 一八四〇年~一九一七年)の評論か。フランス語の彼のウィキに、一九〇四年に書かれたそれらしいもの(複数の芸術家評の一部か)は、ある。]

 

Dunsany  The Book of Wonder

[やぶちゃん注:アイルランドの作家ロード・ダンセイニ(Lord Dunsany 一八七八年~一九五七年)の一九一二年の短編集The Book of Wonder(「驚異の書」)。]

 

Aeschylus   Drama

[やぶちゃん注:古代アテナイの三大悲劇詩人の一人で、ギリシア悲劇の確立者とされるアイスキュロス(ラテン文字転写:Aischylos 紀元前五二五年~紀元前四五六年)のことであろう。]

 

Sapho Crackar shop Wreckage

[やぶちゃん注:「Sapho」古代ギリシアの女性詩人サッポー(ラテン文字転写:Sapphō 紀元前七世紀末~紀元前六世紀初)。英語では「Sappho」とも表記され、「サッフォー」とも呼ばれる。

Crackar shop Wreckage」不詳。「Crackar」は意味不明(クラッカー(cracker)とは綴りが違う)。「Wreckage」は「漂着物・残骸・破片」。]

 

Chaucer Weininger's sex & character

  Feoria Mac's Sin Eater

[やぶちゃん注:「Chaucer」イングランドの詩人で、「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales)で知られる、小説家のジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer  一三四三年頃~一四〇〇年)。ウィキの「ジェフリー・チョーサーによれば、『当時の教会用語であったラテン語、当時』、『イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中』世『英語を使って』、『物語を執筆した最初の文人とも考えられている』作家である。

Weininger's sex & character」二十三歳で自殺したオーストリアのユダヤ系哲学者オットー・ヴァイニンガー(Otto Weininger 一八八〇年~一九〇三年)が死の直前(一九〇三年)に著した「性と性格」(ドイツ語:Geschlecht und Charakter)の英訳本。チョーサーの名と並べて書いている理由は不詳。

Feoria Mac's Sin Eater」書名っぽいが、不詳。「sin-eater」というのは「罪食い人」で、昔、英国で死者への供物を食べることによって死者の罪を引き受けてもらうために雇われた人を指す。]

 

l’œvre de Gustave Moreau

[やぶちゃん注:フランス語で「ギュスターヴ・モローの仕事」であるが、誰の本か判らぬ。ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau 一八二六年~一八九八年)は言わずもがな、フランスの象徴主義の画家。]

 

Reliure amateur, coins maroquin du Levant, tête dorée, en plus 40 fr. I. E. Bulloz, Paris

[やぶちゃん注:意味不明。全体では一向分らぬので、分解し、そのフランス語の語句からを推理してみると、「Reliure amateur」は「素人(アマチュア)の製本」でいいだろう。だとすると、「coins maroquin du Levant」というのは、地中海東部及びそこのレバント島或いは沿岸諸国で産した山羊・羊・アザラシなどを用いた高級モロッコ革で出来た、「本のカバー」とか、「本を閉じ収めるベルト」か、或いは、「挿むブック・マーク」か、はたまた、「本の背」ではないか(「coin」は「角・隅・側面」の意があるからな)?! 「tête dorée」は「tête doré」で、こりゃ、もう、天金だろ! となると、豪華だから、「en plus 40 fr.」は並装の値段に「四十フラン追加料金」という意味じゃあるまいか? 「I. E. Bulloz, Paris」はパリの古書店名ということでどうよ?! この僕の解釈、とんでもないかなぁ?……実はそういう、フランス人の素人の方が、並装のフランス語版のボード―レールの「悪の華」を、革装にした、天金に仕上げ、それにオリジナル彩色画挿入を数枚挟んで製本したものを、僕は三十年も前に、古本屋から三万五千円払って買って、今も持ってるんですけど……

 

1)The life of Mary Mag

 2)Work of Apuleius

 3)Andersen's Danish L.

[やぶちゃん注:ここには底本の編者注で『L. Legends の略』とある。]

 4) Chronicles of the Crusades

 5) Gesta Romanorum

 6)Plays of A. S.

[やぶちゃん注:ここには底本の編者注で『A.S. Arthur Symonds の略』とある。]

 7) Bjørnson's Arne

[やぶちゃん注:以上は、一冊の本としては私は不詳。

1」の「The life of Mary Mag」は福音書に登場する、かの「マグダラのマリア(ラテン語:Maria Magdalenaの生涯」だろう。

2」の「Work of Apuleius」は帝政ローマの弁論作家で、奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博したというルキウス・「アプレイウスLucius Apuleius 一二三年頃~?)。代表作とされるMetamorphoses(「変容」)はローマ時代の小説の中で完全に現存する唯一のものだそうである(ウィキの「アプレイウス」に拠る)の仕事」

3」は「Andersen's Danish Legends」だから、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンHans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年:デンマーク語のカタカナ音写:ハンス・クレステャン・アナスン)の「デンマークの民話」

4」は「Chronicles of the Crusades」は「十字軍編年史」。作者不詳。

5」は「Gesta Romanorum」「ゲスタ・ロマノルム」で、十三~十四世紀にイングランドで集められた、民間のラテン語による物語集「ローマ人物語」を指すようだ(執筆者は不詳)。

6」は「Plays of Arthur Symonds」だから、イギリスの詩人・文芸批評家「アーサー・ウィリアム・シモンズArthur William Symons 一八六五年~一九四五年)の事蹟(活動)」。]

 

○六月卅日

[やぶちゃん注:不詳。前と同じく、年譜は見てみた。]

 

Plato:Apology

    {Bannquet――Simposium

    {Cristo

    {Phaedo(phaedorus)

[やぶちゃん注:四つの「{」は底本では大きな一つの「{」。


Plato」古代ギリシアの哲学者プラトン(ラテン語転写:Plato 紀元前四二七年~紀元前三四七年)。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。

Apology」は「ソクラテスの弁明」(ラテン語転写:Apologia Socratis/英語:Apology of Socrates)で、プラトンの著名な初期対話篇。

Cristo」キリスト。キリスト教にもプラトンの思想はよく取り入れられているとされる。

Phaedo(phaedorus)」「パイドロス」(英語:Phaedrus)であろう。プラトンの中期対話篇の一つ(そこに登場する人物の名称で、副題は「美について」)。因みにプラトンの著作では私が最も愛するものである。]

 

○1月註文

[やぶちゃん注:前後孰れかの洋書の注文であろう。]

 

Delacroix

[やぶちゃん注:フランスのロマン主義を代表する画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix 一七九八年~一八六三年)。]

 

Zangwill Dramas 3

[やぶちゃん注:イギリスの作家イズレイル・ザングウィル(Israel Zangwill 一八六四年~一九二六年)。ウィキの「イズレイル・ザングウィル」によれば、『父親はロシアから亡命したユダヤ人、母親はポーランド人であった』。『初期のシオニストの一人で指導者ヘルツルのもと、ユダヤ国家樹立のために活動した。その傍ら、ユダヤ人の生活に取材した小説や戯曲を書き好評を博した。しかし』、仲間内の対立から、『シオニズム活動から遠ざかり、世界のどこであれ』、『適切な場所にユダヤ人の国を持とうという領土主義を唱えた』。『アメリカ合衆国のアイデンティティに対し』、『「メルティング・ポット」論(原型が溶かされて一つになる)を唱え、それが』一九〇八年発表の戯曲The melting pot(「坩堝(るつぼ)」)『に表れている。ここから』アメリカを評する『「人種のるつぼ」などといった表現』も『生み出された』という。イギリスの作家で「SFの父」とされる『ハーバート・ジョージ・ウェルズ』(Herbert George Wells  一八六六年~一九四六年)『とは親友であった』とある。『推理小説もいくつか書いており、なかでも』、一八九二年に発表した中篇The Big Bow Mystery(「ビッグ・ボウの殺人」)『は最も古い密室殺人ものとして』、『欧米では有名である』とある。「Dramas 3」とあるから、一つはThe melting potと考えてよいのではあるまいか。]

 

○來月注文

[やぶちゃん注:やはり、前後孰れかの洋書の注文であろう。]

 

Hugo 1

      >Bohn’s Library

 Racine 2

[やぶちゃん注:「Hugo」はフランス・ロマン主義の詩人で小説家のヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)であろう。

Racine」はフランスの劇作家でフランス古典主義を代表する悲劇作家ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine 一六三九年~一六九九年)であろう。但し、意味不明の「Bohn’s Library」(「ボーンの図書館」)とともに、後のユーゴを「1」とし、先行するラシーヌを「2」とする意味も不明。]

 

○同月11

[やぶちゃん注:洋書注文日か、入荷日か。]

 

1)The Tidings brought to Mary  Paul Claudel

2)The Note Book of L. & V.

3)Tolla, the Courtesan by E. Rodocanachi

[やぶちゃん注:「1」はフランスの劇作家で外交官でもあったポール・ルイ・シャルル・クローデル(Paul Louis Charles Claudel 一八六八年~一九五五年)の一九一〇年発表の中世風奇跡劇であるL'Annonce faite à Marie(英訳:The Tidings brought to Mary(「マリアへのお告げ」)。

2」の「The Note Book of L. & V.」は不詳。

3」の「Tolla, the Courtesan by E. Rodocanachi」はフランスの歴史家で作家でもあったと思われるエマヌエル・ピエール・ロドカナチ(Emmanuel Pierre Rodocanachi 一八五九年~一九三四年)の一七〇〇年のロマン主義的書簡体小説“Tolla, la courtisane, esquisse de la vie privée à Rome en l'an du jubilé”(「トラにて、クルチザンヌ、ローマでの私的生活に就いてのエスキス(スケッチ)」。一八九七年発表)か。フランス語の彼のウィキからで、訳はいい加減。「トラ」はよく判らぬが、サルジニア島の北のトレス島の地名ではないかと私は思う。「クルチザンヌ」はフランス語で「高級娼婦」の意であり、特にロマン主義の文学作品などで主題としてしばしば取り上げられた対象である。]

2018/02/10

芥川龍之介 手帳12 《12―17・12-18》

《12―17》

Söderberg : (Anatole Fran)

Strangers short

Errors  long

Martin Birk's Youth.

Dr. Glas

[やぶちゃん注:「Söderberg」ヤルマール・セーデルベリィ(Hjalmar Söderberg 一八六九年~一九四一年)はスウェーデンの翻訳家で、ストリンドベリと並ぶスウェーデンのモダニズムを代表する小説家でもある。フランスの作家で芥川龍之介が傾倒したアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)の主要な作品をスウェーデン語に訳しており、以上の丸括弧メモはその覚書きであろう。他にもモーパッサン・ミュッセ・ハイネといった作家の翻訳も手がけている。

Strangers」セーデルベリィの一九〇三年刊の短篇小説(原題)Främlingarneの英訳。

Errors」セーデルベリィの長篇小説らしいが、不詳。最初の文壇デビュー作は長篇小説で一八九五年刊の“Förvillelser”であるが、これは英文ウィキではDelusionsと訳されている。この英語は「惑わし・欺き」「迷い・惑い・妄想・思い違い」「被害(誇大)妄想」「妄想」の意であるから、当たらずとも遠からずの感じがするから、これか?

Martin Birk's Youth.」原題Martin Bircks ungdom。一九〇一年刊。

Dr. Glas」一九〇五年刊の小説。原題Doktor Glas。「医師グラスの殺意」として邦訳が出ているらしいが、とあるブログ記事()によると、訳が話にならないほど酷いそうである。]

 

La Rôtisserie de la Reine Pédauque

[やぶちゃん注:アナトール・フランスの一八九二年作のLa Rôtisserie de la reine Pédauque。「鳥料理レエヌ・ペドオク亭」という邦訳で出されたことがあるらしいが、訳の評判は良くない。ネット上の記載を読むと、錬金術やオカルティックな彼の初期の異色作らしい。]

 

○京

⑴川馬 女 弟――弟兄をたづぬ

   弟    兄は何大納言にあり

         馬をつれし男にきく

         なしと

         リレキ

⑵弟何大納言に行く 侮蔑 盜賊の噂

⑶祭

 騷動 女をすくふ    著聞集

            >

 且女を救ふ兄を見かく  鬪諍

弟捕はる 牢内 婆來る 手紙

[やぶちゃん注:これも「偸盗」の構想メモであるが、寧ろ、これは彼の「偸盗」改作用のメモかも知れない実は「偸盗」には執筆中から芥川龍之介自身、不満が相当に鬱積していた模様で、例えば、一回目の脱稿(大正六(一九一七)年三月十五日。現在の「一」から「六」までのパート)直後の三月二十九日附松岡譲宛書簡(旧全集書簡番号二七三)では『「偸盜」なんぞヒドイもんだよ安い繪双紙みたいなもんだ中に臨月の女に堕胎藥をのませようとする所なんぞある人は莫迦げていゐると云うふだらうその外いろんなトンマな噓がある性格なんぞ支離滅裂だ熱のある時天井の木目が大理石のやうに見えたが今はやつぱり唯木目にしか見えない「偸盜」も書く前と書いた後とではその位差がある僕の書いたもんぢや一番惡いよ一體僕があまり碌な事の出來る人間ぢやないんだ』と告白しており、二回目の脱稿直後(同年四月二十日。但し、その掲載は何故か、二ヶ月後の七月一日(無論、同じ『中央公論』)の同じ松岡への書簡(四月二十六日クレジット(消印は前日)・旧全集書簡番号二八一・次の二八二と連送葉書で頭に『⑴』とある)では、冒頭から『偸盜の續篇はね もつと波瀾重疊だよ それだけ重疊恐縮してゐる次第だ』『何しろ支離滅裂』だ、『僕が羽目をはづすとかう云ふものを書くと云ふ參考位にはなるだらう とにかくふるはない事夥しいよ』そのナーバスな感じは、かなり深刻なものであることが判る。しかも、同年五月七日附松岡書簡(旧全集書簡番号二八七)では、「續偸盜」を脱稿したばかりであるにも拘わらず『偸盜を大部分書き直しかけている。九月にどこかへ出してもらふつもりで』と記しているのである。しかも、それから十八日後の中根駒十郎宛書簡(旧全集書簡番号二九〇)では、『「偸盜」なるものは到底あのままで本にする勇氣はなしその上改作をこの九月に發表する雜誌まできまつてゐる』とさえ記しているしかし誠に残念なことに、この改稿草稿は現存しない)。ところが、同年七月二十六日附松岡譲宛書簡(三〇七)では急激にトーン・ダウンしてしまい、『偸盜はとても書き直せ切れないから今年一ぱい延期して九月には新しいものを二つ出さうと思つてゐる』と、諦めと新規巻き直しによる他の構想への興味の転換が起ってしまっていることが判る。それでも、彼の「偸盜」の大幅な改作意欲自体(それだけ、実は芥川龍之介にとって「偸盜」は実は捨て難い秘かな偏愛作であったのである。私も非常に好きな一作である)は内的には旺盛であり続け、書簡では三年も経った大正九(一九二〇)年四月二十六日附小島政二郎宛書簡(旧全集書簡番号七〇七)では、小島の近作(「睨み合ひ」)を褒め上げた(多少の瑕疵箇所への助言も添えている)上、最後の二伸で『僕も「睨み合」[やぶちゃん注:ママ。]に發奮して「偸盜」の改作にとりかゝりたいと思ひます』と言い添えている。しかし、またしても残念なことに、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の「偸盗」の須田千里氏の解説によれば、この『言及を最後に、改作は結局実現を見なかった』のであった。なお、「偸盜」は芥川龍之介生前の単行本には未収録である。

「⑴」の内容はエンディングの「丹後守何某」のシークエンスに似ているが、「大納言」は決定稿には出て来ない。もしこれが、あの最後のシーンだとするならば、「⑵」「⑶」「⑷」は現行の展開とは異なる、改作による「續偸盜」(初出の第二回の題名)の「續々偸盜」の構想の可能性さえ考え得るのである。

 

「著聞集」現行の芥川龍之介の「偸盜」は「今昔物語集」からは、複数の話(凡そ七篇)が素材とされていることが判っているが、芥川龍之介は「今昔物語集」の「卷第二十九」に「或所女房、以盜爲業被見顕語第十六」(或る所の女房、盜みを以つて業(わざ)と爲し、見顕(みあらは)さるる語(こと)第十六)という題名しか残っていないものから、欠損した本文が類話であろうされる、後の「古今著聞集」の「検非違使別當隆房家の女房大納言殿、強盗の事露顯して禁獄の事」を素材として用いる用意をしていたのではないかと私は推理する。]

 

《12―18》

⑸破牢 兄弟對面

⑹兄の話 國守の書見(父) 沙金の母 婆は乳母 witch 爺はその夫

[やぶちゃん注:明らかに改作の「偸盜」案メモと私は読む。]

 

○「それでね」「それで何さ」「それでおしまひ」

Mantle & other stories by Gogol

[やぶちゃん注:ウクライナ生まれのロシア帝国の作家ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь/ロシア語: Николай Васильевич Гоголь/ラテン文字転写:Nikolai Vasilievich Gogol 一八〇九年~一八五二年)の『「外套」他』という英訳の彼の短篇集(彼の名作「外套」(Шинель)は一八四二年刊)。]

2018/02/09

芥川龍之介 手帳12 《12―16》

 

《12―16》

Bain

[やぶちゃん注:不詳。]

 

Russian Fairy Tales 415

[やぶちゃん注:ロシアの民俗学者。ロシア民話研究の第一人者で、「ロシアのグリム」とも称されるアレクサンドル・ニコライェヴィチ・アファナーシエフ(Александр Николаевич Афанасьев 一八二六年~一八七一年)が一八五五年から一八六三年にかけて刊行したНародные Русские Сказки(「ロシア民話集」)の英訳本。]

 

Danish Fairy Tales

[やぶちゃん注:削除された「Danish」は「デンマークの」。]

 

Janvier  Legends of the Mexico 250

[やぶちゃん注:「Janvier」アメリカの小説家トマス・アリボーン・ジャンヴィアー(Thomas Allibone Janvier 一八四九年~一九一三年)。

Legends of the Mexico」ジャンヴィアーの一九一〇年刊のLegends of the City of Mexico。]

 

Myths & Le. of Ancient Egypt 415 Spence

[やぶちゃん注:底本編者注に『Le. Legends の略』とある。Ancient Egyptian Myths and Legendsは、イギリスのジャーナリストで作家・民俗学者であったジェームズ・ルイス・スペンス(James Lewis Thomas Chalmers Spence  一八七四年~一九五五年)の一九一五年刊の著作。]

 

Hero Tales & Legends of the Rhine 175 Spence

[やぶちゃん注:ジェームズ・ルイス・スペンスの一九一五年の刊本。

Rhine」ライン川。]

 

Mackenzie  Indian Fairy Tales 195

[やぶちゃん注:ジャーナリストで作家・民俗学者であったドナルド・アレクサンダー・マッケンジー(Donald Alexander Mackenzie 一八七三年~一九三六年)の一九一五年刊のIndian Fairy Storiesであろう。]

 

Magnus

[やぶちゃん注:人名か、書名の書き消しかは、これでは、不明。]

 

On Love Sterldhal 415 & Raleigh Style 275

[やぶちゃん注:フランスの小説家スタンダール(Stendhal 一七八三年~一八四二年:本名・マリ=アンリ・ベール Marie Henri Beyle)の一八二二年刊の随筆集「恋愛論」の英訳本。原題はDe l'Amour

Raleigh」不詳。イングランドの女王エリザベス世の寵臣にして探検家・詩人であったウォルター・ローリー(Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年:新世界アメリカに於いて最初のイングランド植民地を築いたことで知られる。信頼されていたエリザベス世が一六〇三年四月に死去すると、同年十一月に内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで凡そ十二年監禁されている。それが解かれた同年、南米にエル・ドラド(黄金郷)を求める探検隊を指揮して向かったが、その途中、部下らがスペインの入植地で略奪を行い、一行がイングランドに帰還後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世に彼の死刑を求め、一六一八年十月十八日に斬首刑に処せられている。以上はウィキの「ウォルター・ローリー」に拠った)のことか? しかし「Style」が繋がらない。]

 

H. J.  Notes on Novelists 415

[やぶちゃん注:底本編者注に『H. J. Henry James の略』とある。アメリカ生まれでイギリスで活躍した作家ヘンリー・ジェイムズ(Henry James 一八四三年~一九一六年が一九一四年に刊行した文芸批評。「小説家たちに就いての覚書」とでも訳すか。]

 

Pathos of D.  Huneker 440

[やぶちゃん注:底本編者注に『D. Distance の略』とある。アメリカの芸術・文芸批評家ジェームズ・ギボンズ・ハネカー(James Gibbons Huneker 一八五七年~一九二一年)の一八一三年の作品。「距離(隔たり)のパトス(情念)」?]

 

Degeneration Nordau 135

[やぶちゃん注:ハンガリー出身のシオニズム指導者で医師・小説家・哲学者・社会評論家であったマックス・ジーモン・ノルダウ(Max Simon Nordau 一八四九年~一九二三年)が一八九二年に発表した「頽廃論」(原題(ドイツ語):Die Entartung)の英訳本。ウィキの「マックス・ノルダウによれば、当時、『オーストリア帝国の一部だったペストにて、貧しいユダヤ人の家庭に生まれる。父ガブリエル・ズュートフェルトはプロイセンでラビをしていたが、ブダペストで塾講師を営む傍ら、ヘブライ語で詩を書いていた。家庭の信仰は敬虔な正統派ユダヤ教であり、ジーモンはユダヤ人小学校からカトリックの中学校を経て医学部を卒業した。学業の傍ら』、一八六三年から『文学活動を開始し、同年に詩や随筆や小説を出版している』。『ブダペストの小新聞社で記者生活を送った後』、一八七三『年にベルリンへ移住し、ノルダウと改名した。まもなく『新自由新聞』(Die Neue Freie Presse)の通信員としてパリに移り、それ以後は生涯の大半をパリで過ごした』。『本来』、『ノルダウは同化ユダヤ人の典型であり、プロテスタント女性と結婚し、ドイツ文化に親しみを感じ、「』十五『歳になった時、私はユダヤ的な生活態度とトーラーの研究を放棄した』。……『以来、ユダヤ教は単なる思い出となり、私は自らをドイツ人以外の何者でもないと感じるようになった」と記したこともあるが』一八九四『年のドレフュス事件を機にシオニストとなる』。『社会評論家としては』「文明人の因襲的な嘘」(Die Konventionellen Lügen der Kulturmenschheit 一八八三年)や、この「頽廃論」、一八九六年の「逆説」(Paradoxe)等の『著書を世に問い、議論を呼んだ。当時』、『話題となった著作の大半は』現代では顧みられることは少ないが、「頽廃論」の一作だけは、今、なお、『世人の記憶に残り、しばしば引用されている』。「頽廃論」に於いてノルダウは、『反ユダヤ主義をデカダンスの一形態として非難した』のである『が、皮肉なことに、彼の頽廃芸術批判論は後年、ナチによってユダヤ人芸術家たちへの迫害の口実として利用された』とある。]

 

Stories of R Life

[やぶちゃん注:不詳。]

 
    275
    
415
    
440
    135

 ――――――
   
 1265

[やぶちゃん注:計算式の意味は不詳。書式はこのままで全部縦書。]

 

2018/02/07

芥川龍之介 手帳12 《12-12~12-15》

《12―12》

○しげみに陣をとる敵は小勢 黑く人數厚くみゆるは勝 赤くうすく見ゆるはまけ むかふ風惡し かへる風よし 貝の賣物を云ふ聲など天にびびく時に彼くる 胸づもりは騎馬一人に一間半

[やぶちゃん注:如何にも芥川龍之介の小説にありそうなのだが、どうも見当たらない。発見し次第、追記する。]

 

○左經記――二君(二禁) 二顏

[やぶちゃん注:「左經記」「さけいき」と読む。平安中期の貴族源経頼(寛和元(九八五)年又は貞元(九七六)年~長暦三(一〇三九)年):宇多源氏で左大臣源雅信の孫。正三位・参議)の日記。ウィキの「左経記」によれば、『題名は経頼が参議兼左大弁の地位にあった事に由来する』。また、名の「経頼」のそれぞれの文字の(へん)の部分から「糸束記」『(しそくき)という別称もある』。長和五(一〇一六)年より長元八(一〇三五)年まで『途中に欠失があるものの、伝存している。また、別個に』、『後世の人が』本日記から長元二(一〇二九)年から同九(一〇三六)年までの『災異記事を抽出した』「類聚雑例(るいじゅうざつれい)」『という書もある』。同時代の公卿藤原実資(天徳元(九五七)年~永承元(一〇四六)年:有職故実に精通した当代一流の学識人で、藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終官位は従一位・右大臣で、「賢人右府」とも称された)の知られた日記「小右記」(おうき/しょうゆうき)と『比較して簡略ではあるものの、両者の比較研究によって』十一『世紀前半の政治・社会情勢の研究に資するところが大きいとされている』とある。

「二君(二禁)」「にきび」(「面皰」)と読む。大正一一(一九二二)年四月発行の雑誌『新潮』に発表した「澄江堂雜記」(同題のものが三つ、「澄江堂雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」も含めると四つ)あるが、その最初のもの。リンク先は私の電子テクスト。なお、その他のものの私のテクストへのリンクと読み方をガイドした記事もブログで公開している)の、「にき び」の条に(原文の傍点「ヽ」は太字とした)、

   *

 

       にきび

 

 昔「羅生門」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人の頰には、大きい面皰のある由を書いた。當時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜すれば當推量に據つたのであるが、その後左經記に二君とあり、二君又は二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。二君等は勿論當て字である。尤もかう云ふ發見は、僕自身に興味がある程、傍人には面白くも何ともあるまい。

 

   *

「二顏」こんな当て字の用例は知らぬが、芥川龍之介はこれで「にきび」とするのはどうか、と思って書いたのかも知れない。]

 

Persia

 Slave

 Israel

Arabs

[やぶちゃん注:三つの「}」は底本では大きな一つの「}」。しかし、次の「Arabs」を前と無関係とする(柱の「○」を附す)のは私にはいただけない。敢えて纏めたものとして示しておく。]

 

《12―13》

○浮世繪4號を見よ Harunobu Kurth

[やぶちゃん注:「浮世繪4號」大正四(一九一五)年に酒井庄吉(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年:酒井家は江戸後期の第六代酒井平助義明より浮世絵蒐集を手掛け、現在、日本浮世絵博物館を運営している)が酒井好古堂から創刊した雑誌『浮世絵』。大正九(一九二〇)年終刊。

Harunobu」江戸中期の浮世絵師鈴木春信(享保一〇(一七二五)年?~明和七(一七七〇)年)。

Kurth」ドイツの美術研究家ユリウス・クルト(Friedrich Erdmann Julius Kurth 一八七〇 年~一九四九 年)。浮世絵の研究でも知られ、グーグルブックスの検索で英語版の浮世絵研究書の中にドイツ語であったが、彼の書いた鈴木春信の論文らしきものの書誌記載(一九一〇年のクレジットがある)があった。]

 

○酒のみつつ Lanjerin

[やぶちゃん注:「Lanjerin」人名のようであるが、不詳。]

 

○貞享日記

       >德川實記

 常憲院實紀

{御當家令條

{憲廟實錄◎

{野史參略

{甘露叢

{柳禁祕鑑

{元祿日記◎

[やぶちゃん注:六つの「{」は底本では大きな一つの「{」。

「貞享日記」貞享は一六八四年から一六八八年まで、時期から見て、「徳川実紀」に取り入れられたそれは、「常憲院殿御實紀」正式には「常憲院贈大相國公實紀」(第五代将軍徳川綱吉の治世の記録で全五十九巻・附録三巻。後に出る「常憲院實紀」「憲廟實錄」と同じ。綱吉の寵臣であった柳沢吉保が荻生徂徠らに命じて纏めた綱吉公一代記。正徳四(一七一四)年成立で、綱吉の死後に親交があった公弁法親王(後西天皇皇子・日光輪王寺門主・天台座主)の依頼で編纂されたもの)の中の一資料と推定される。

「徳川實記」誤り。「徳川実紀」が正しい。幕府編纂になる徳川家の歴史書。五百十六巻。林述斎の監修のもと、文化六(一八〇九)年に着手し、嘉永二(一八四九)年に完成した。

「御當家令條」近世中期の法令集で「令条記」「令条」などの書名でも伝わる。全三十七巻。慶長二(一五九七)年九月から元禄九(一六九六)年十月までの百年間の、主として、江戸幕府の法令約六百通を収め、他に慶長以前の数通を含む。正徳元(一七一一)年の藤原親長の序文があり、彼が編纂者と目されるものの、どのような人物であったかは未詳。成立自体は元禄九(一六九六)年から元禄一三(一七〇〇)年の間である可能性が強い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「野史參略」不詳。幕末の朱子学派の儒者で水戸弘道館教授であった青山延光(文化四(一八〇七)年~明治四(一八七一)年)の著である史書「野史纂略」の誤字と考えられる

「甘露叢」延宝九()年より元禄一六(一七〇三)年に至る二十余年の記録。内容は将軍綱吉の動静・幕府の諸行事・幕政に関する諸事・諸災害の被害状況・市井の事件等、多岐に亙る。

「柳禁祕鑑」江戸幕府の年中行事・諸士勤務の際の執務内規・格式・故事・旧例などを記した「柳營祕鑑」の誤字か誤判読と考えられる。ウィキの「柳営秘鑑」によれば、『幕臣の菊池弥門著』で寛保三(一七四三)年成立。『柳営秘鑑は、江戸幕府の年中儀礼、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などが記載された書。三つ葉葵紋の由来、扇の馬印の由来、譜代の列(安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代など)等が記載されている。著者は菊池弥門』。全十巻であるが、『続巻が多く』存在する。『江戸幕府の教育施設で林羅山に由来する昌平坂学問所の旧蔵本が、はじめの』十『巻と続巻を含めた形で原本として存在する』。『大名の格式等に関する法曹法(役所の執務内規)として用いられた。書名にある柳営とは、幕府、将軍、将軍家を指す用語である』。但し、『内容は江戸時代を通してのものではなく、享保期中心に記載されている。

「元祿日記」この書名では限定比定出来ない。]

 

○明治18年9月

四人:紺メルントン及紺茶ぶちのせびろ わらじ

[やぶちゃん注:「明治18年」一八九五年。

「メルントン」melton(メルトン)のことであろう。毛織物の一種で、布面が密に毛羽(けば)で覆われた、手触りの暖かい紡毛(ぼうもう:羊などの比較的短い毛や再生毛などで作った糸。毛羽が多く、縮絨(しゅくじゅう:毛織物の仕上げ工程の一つで、水で湿らせて熱・圧力を加え、長さと幅を縮めて組織を密にすることを言う)し易い)織物。コート地などに用いる。]

 

○和船

○御くら島

[やぶちゃん注:現在の東京都御蔵島村に属する伊豆諸島の御蔵島。三宅島の南方洋上。ここ(グーグル・マップ・データ)。近世初期には住民がみられ、十八世紀初めに三宅島から分離して一村を形成した。江戸時代から、ツゲ材を共有・販売して生活必需品を購入し、無償で配布するという独特の扶持米(ふちまい)制度によって住民の生活が維持されてきたが、昭和一四(一九三九)年に完全に廃止された。]

 

12月中 月令中は家前の小屋に入る十二日前に瀧の水をあぶ

[やぶちゃん注:或いはこれと後総て(《12―13》終りまで)は御蔵島の民俗習俗を誰から聞き書きしてめもしたものなのかも知れない

「月令」は(がつりょう:現代仮名遣)元は漢籍分類の一つで月毎(ごと)の自然現象・行事・儀式・農作業などを記したものを指す(「礼記」の中の「月令」有名)が、ここは本邦の民俗社会の暦上のそれ(行事・儀式)を指しているようである。しかし、どうも違和感がある。「月令中」などという謂い方を少なくとも私は和書で見たことがない。「月令」の「中」で「は」~せよとある、という記載なら、判るが、どうもおかしい。そもそも「月令中は家前の小屋に入る」というのは、家の中に入ることを禁じている、則ち、禁忌(タブー)として家の前に建てた掘立小屋で過ごすという意味であろう。しかも「ある特定の日」(この場合、家から出てその小屋に入る日)の「十二日前に瀧の水をあ」びる、というのだ。新暦でも旧暦でも非常に寒い時期である。掘立小屋や瀧に打たれるなんてことをするのはとてものことに尋常ではない。されば、これは女性の「月経」、生理の誤りではないだろうか? 新年を迎えるに当たって大事な十二月に生理による血の穢れを主家から遠ざけるために行う古い日本の田舎の習俗(と推定する)を芥川龍之介はここにメモしたのではあるまいか? これは次の一条、「姙中」(妊娠中)その「夫」は「山に入る能(あた)はず」(夫も広義の出産の血の穢れのプレ状態にあるからである。さらには「山の神」は女神であるから、嫉妬するという別な意味もあろう)「入れば」タブーを犯したということで、他の仲間らに「米一升」を「罰」として差し出さねばならない、と読め、これはごく当たり前に、古くからの民俗社会に当たり前にあった禁忌の一つだからである。因みに、日本に限らず、洋の東西を問わず、出産に際しての多量の出血が非常な穢れとして認識され、出産は家とは別に設けた産屋で行うというのも広く見られる民俗である。

 

○姙中夫山に入る能はず 入れば米一升罰

[やぶちゃん注:前注参照。]

 

○十人ぎりの木――1反がだんだんへる―枝のびる爲

[やぶちゃん注:意味不明。]

 

○若者二十人十なた(始三人なりと云ふ)

{小學教員夫婦

{醫者  夫婦 月經なしと云ふ

[やぶちゃん注:「醫者  夫婦」の「夫婦」は底本では「〃〃」であるが、特異的にかく示した。

「若者二十人十なた(始三人なりと云ふ)」意味不明。]

 

○名主――開化人

                        
三島へゆく

{八丈島の長樂寺の僧(島>内地)

{同  へゆきし金物屋(4圓)┌(絹ばかり)

{女と關係す 煙草と米    └ 炭

[やぶちゃん注:「名主――開化人」その当時(明治)の名主は近代西洋知識を持った人物であったのでそれまでの民俗社会にあった血の穢れのタブーなどは、一切、問題とせず、島内の近代化を図ったとでもいうようなことか?

「八丈島の長樂寺」現在の東京都八丈島八丈町(まち)中之郷に現存する。浄土宗。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「(島>内地)」の不等記号の意味は、右に「内地」に傍注する「三島へゆく」(「三島」は無論、「内地」である静岡県東部の伊豆半島の中北端(半島の東の根っこ近く)に位置する三島であろう)を含めて不明。

「同  へゆきし金物屋(4圓)」「絹ばかり」「炭」「同」は「八丈島」だが、意味不明。八丈島では通貨がなく、絹と炭で支払われたということ?

「女と關係す」「煙草と米」これも売春しても、金ではなく「煙草」と「米」を要求するということか? まるでどうもこの見開きの後半部分のメモは今一つ、意味がつかめない。]

 

○兩に6升――3升

[やぶちゃん注:やっぱり、意味不明。]

 

《12―14》

○縮緬揃丸髷

[やぶちゃん注:或いは、これも前の《12―13》の続きかも知れぬ。]

 

○弟

  \

   \ 

    >女

   /女鼠鳴き

  /女

 兄

[やぶちゃん注:斜線と「>」は総て底本では綺麗に繋がったもの。これは「兄」「弟」(「偸盜」の太郎と次郎)で一人の「女」という図式、「女」が合図に「鼠鳴き」する(「三」で沙金(しゃきん)が太郎を熊のばばの家に招き入れるのに『鼠鳴をして、はいれと言ふ』と出る)点で、大正六(一九一七)年四月及び七月の『中央公論』に発表した「偸盜」(発表時は七月の第二回分の標題は「續偸盜」)の構想メモであることが判る「偸盜」は「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。]

 

《12―15》

       女をすてる

       女はA殿ににくまる

 祭   兄 

 │  /  隨身の見こみなし

 │ /   女の鼠鳴き

○│<

 │ \

 │  \ / 姥をすくふ

 弟  弟<

 兄    \

[やぶちゃん注:底本では直線は繋がった一本、「<」斜線とは総て綺麗に繋がったもの。「兄弟」は底本では左から右に横書。以上も同じく「偸盜」のメモ、或いは、改作用(芥川龍之介は同作執筆中から甚だ同作に展開に不満で、積極的に改作を意図していたが、遂に改作されることはなかった経緯がある。これは後に注で詳細に語る)メモ

「A殿」というイニシャルであると、「阿濃(あこぎ)」であるが、完成した「偸盗」では「阿濃」が「沙金」を憎んでいるという設定は少なくとも面には出ていないし、「阿濃」を「殿」と呼ぶのは設定上、おかしい。寧ろ、頻りに沙金を憎んでいると繰り返す(同時にアンビバレントに恋もしているのであるが)のは弟の次郎である。或いは、初期設定(又は改作案)は現在と異なるものであったのかも知れない。

「隨身の見こみなし」こんな設定は決定稿にはない。「隨身」はエンディングで、十年の後、尼となって子供を育てていた阿濃が、『丹後守何某の隨身』が通るのを見かけて、それが太郎であることに気づくシーンにしか出てこない。改作案か?

 

Russian Silhouettes

[やぶちゃん注:ロシアの影絵。ロシア人風のシルエット。]

芥川龍之介 手帳12 《12-11》

《12―11》

○女とその許嫁と女の弟 弟は姉を愚と思ふから許嫁のほれてゐるわけがわからない 最後に「姉さんは女だからだ」とさとる

{鼻くらうどの話

{宇治拾遺

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つの「{」。以下は同一グループの条と推定されるが、後と混同しないようにここにこの注を入れておいた。従って、次は一行は空けない。]

{辻村の話            }

{娘にとつた養子のにげた事をはなす}今昔――隆國をかけ

{はなす興味――その後の落莫   }

[やぶちゃん注:三つの「{」及び「}」は底本では大きな一つの「{」「}」。

「鼻くらうどの話」「宇治拾遺」これは「宇治拾遺物語」の「巻第十一」の「藏人得業猿澤池龍事」(藏人得業(くらうどとくごふ)、猿澤の池、龍の事)で、王朝物の小説「龍」(大正八(一九一九)年五月『中央公論』。「青空文庫」のこちらで読める)の素材となったものである。「宇治拾遺物語」の原文では、冒頭、主人公を、

   *

 これも今は昔、奈良に、藏人得業惠印(ゑいん)といふ僧ありけり。鼻大きにて、赤かりければ、「大鼻の藏人得業」といひけるを、後(のち)ざまには、ことながしとて、「鼻藏人(はなくらうど)」とぞいひける。なほ後々には、「鼻藏(はなくら)鼻藏」とのみいひけり。

   *

と紹介する(ナビ」で原文全体が読める)。

「辻村」不詳。

「今昔――隆國をかけ」「隆國」はかつて「今昔」物語集の作者ともされていた(現在は否定的)、宇治大納言と称された公卿源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)。彼は現存しない説話集「宇治大納言物語」の編者であったとされる(「宇治拾遺物語」序にある。著者不詳の「宇治拾遺物語」(十三世紀前半頃成立)は、「宇治大納言物語」から漏れた話題を拾い集めた物語という意)。小説「龍」の冒頭の「一」と最後の「三」にはこの源隆国が登場し、会衆らに面白い話を所望し、『陶器造(すゑものづくり)の翁』が「龍」の話(「二」パート)をするという額縁式の構造になっている。この「をかけ」とは、「宇治拾遺物語」の「藏人得業猿澤池龍事」を失われた「宇治大納言物語」の作者源隆国に引っ「掛け」て語る構成を指しているように私には読める。

「はなす興味――その後の落莫」「落莫」寂寞(せきばく)と同じで、もの寂しいさま。メモ上は「辻村の」語った「話」で、辻村は「娘にとつた養子のにげた事をはな」したが、その「はなす興味」は、話を聴いた「その後」にある種「の落莫」を抱かせる――という風に読める。しかし、ここを小説「龍」に牽強付会させて読み解くなら、「龍」の話の結末の陶器造の翁の心境、或いは聴いた隆国の心境、ひいては「龍」を読んだ読者の心境を想定して芥川龍之介は記しているようにも読める。因みに「龍」の最後は、芥川龍之介自身が自身の「鼻」を暗に宣伝する形で終わっており、「鼻」のエンディングの何とも言えない「落莫」感と繋がるようにも思われる。しかし、このメモ、頭の『女とその許嫁と女の弟 弟は姉を愚と思ふから許嫁のほれてゐるわけがわからない 最後に「姉さんは女だからだ」とさとる』とか、「娘にとつた養子のにげた事をはなす」というのが、決定稿の「龍」とは全く関係がないのが不審である。或いは、芥川龍之介現在の純粋な王朝物である「龍」とは異なった構造、額縁構造の全体がさらに現代物の入れ子になっているものを構想していた可能性があるのかも知れない。]

 

○幽靈の話(竹馬 白衣 赤昆蒻)

[やぶちゃん注:意味不明。芥川龍之介怪奇談蒐集録「椒圖志にもそれらしいものは載らぬ(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

Elen House(clay Hall)

oodford Hall

Water House

[やぶちゃん注:「Elen House(clay Hall)」不詳。建物名か?

「Woodford Hall」同前。

Water House」同前。イギリスの画家で神話や文学作品に登場する女性を好んで描いたジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse 一八四九年~一九一七年)がいるが、こんな綴り方が絶対にしないから違うだろう。イギリスの建築家にAlfred Waterhouse(一八三〇年~一九〇五年)もいるが。]

 

Tracts for the Times

[やぶちゃん注:「Tracts for the Times」「ブリタニカ国際大百科事典」の「オックスフォード運動 Oxford Movement」の項に(コンマを読点に代えた)、『トラクト運動 Tractarianism、ピュージー運動 Puseyismともいう』十九『世紀にオックスフォード大学を中心に起ったイギリス国教会内の刷新運動で、カトリック的要素の復活によって、国教会の権威と教権の国家からの独立回復を目指すアングロ・カトリシズムの運動』。一八三三年、『キーブルの説教が改革の機運をつくり、J.ニューマンを主に、時局小冊子』“Tracts for the Times”『を刊行して世論に訴え、ピュージーもこれに参加』したが、一八四一年、『反プロテスタント的内容が反発を招き』、『トラクトは終刊、理論的指導者ニューマンはローマ・カトリック教会に』戻った。一方、『ピュージーはキーブルとともに国教会を固守、運動の精神を継いで実践活動に努めた。国教会の権威を取戻させ、礼拝に生気を与えた点で,この運動は評価される』とある。]

 

Oxford Exter

[やぶちゃん注:オックスフォードにあるエクセター・カレッジか。ライト裕子氏のブログ「英国便り」のオックスフォード エクセター・カレッジに、一三一四年にエクセター司教が創設したとある。松蔭大学松浦広明氏のサイト内のオックスフォードに来たら訪ねておくといい楽しいカレッジ・ガイドも参照されたい。]

芥川龍之介 手帳12 《12-9~12-10》 

 

《12―9》

酋長の笛ふく春の日なかかな

海なるや長谷は菜の花花大根

雲ひくし風呂の窓より瓜の花

[やぶちゃん注:以上の最初の句の体(てい)を成している三句は葛巻義敏の「芥川龍之介未定稿集」にも所収し(但し、三句の順序が真逆である。やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を参照)、大正六(一九一七)年から翌年頃の作で、未発表という編者による注がある。]

《12―10》

水8―10 垣内

 火13 藤

 火8―10 芳

 水13 笠谷

 水10―12 Syntax & Prosody

 火10―12 H of E.L.

 土10―12 S

 木―1010―12 K & B

 金89 松

 木8―10 松

 金―― 太

 木―― 

 土10―12 桑

[やぶちゃん注:「」は判読不能字。冒頭注で述べた通り、この曜日と時間と人名らしき物(注は省略するが、総て不詳)及び「Syntax」「Prosody」(他の英文略字は総て不詳。同前)というメモは明らかに、横須賀の海軍機関学校教官(教授嘱託・英語)当時の即時的な授業のメモランダである(但し、その意味するところは不明である。しかし、彼の海軍機関学校時代の資料から見て数字は授業の開始時間と終了時間と見てよい)。因みに、再掲しておくと、芥川龍之介の、

海軍機関学校就任 大正五(一九一六)年十二月一日

軍艦金剛に乗艦しての横須賀から山口県由宇までの航海見学 大正六(一九一七)年六月二十日~二十四日

海軍機関学校退職 大正八(一八一九)年三月三十一日(最終授業:三月二十八日)

である。

Syntax」構文。

Prosody」作詩術。韻律法。]

 

John Harris

 金をかす

○雷門    >Johns

 愛國心

[やぶちゃん注:「>」の開いた方はそれぞれ「金をかす」と「愛國心」の下まで伸びて、以上の三点を総括する。後に述べるように、「雷門」の上の丸は私が新たに打った

John Harris」不詳。

Johns新全集編者は後の三行を前の不詳の「John Harris」とセットにしているが(底本では「」は「John Harris」の頭にしかない)、ここは「Johns」であって「John」ではないという点で、新しい柱(則ち、「John Harris」(ジョン・ハリス)なる不明の人物と「Johns」(ジョーンズ:カタカナ音写は後で詳述する)は全くの別人ととってよい、とるべきだと私は思っている。そこで恣意的にを附した

 そうした上で(即ち、John Harris」を無関係な記載として切り離して)考えてみると、

・この「Johns」に芥川龍之介が金を貸したかも知れないこと、或いは、「Johns」が誰かに金を貸した(がそれっきり戻ってこないというような話を芥川龍之介にしたかも知れないこと。

・この「Johns」は有意に「愛國心」の旺盛な人物であった可能性が高いこと。

・東京の浅草雷門界隈で芥川龍之介はこの「Johns」と初めて逢ったか、或いは「Johns」がその近くに住んでいたか、或いは「Johns」は雷門が好きだったのかも知れないこと。

を可能性として挙げることが出来る。そうして、こうした事実が芥川龍之介が知り得る、こうした事実関係と芥川龍之介が関わるということは、芥川龍之介とその「Johns」なる人物が相応に近しい人間であることを意味することは言を俟たない。

 さてそこで、本手帳記載推定閉区間(大正四(一九一五)年年初か前年末~大正八(一九一九)年四月(下限は私の独時の推定))に「Johns」或いはその発音に近い外国人の知人がいないか、以上の条件を満たし得る人物がいないかという点を述べるなら、これが、確かに、いるのである。

 但し、綴りは違って「Johns」ではなく、「Jones」ではある

 ネイティヴの発音を聴くと、「Johns」はカタカナ音写で「ヂャーンズ」或いは「ヂョンズ」、「Jones」の方は「ヂョォゥンズ」と、ある意味、明確に違って聴こえはする。しかし、これらは現行のカタカナ音写では概ね、孰れも同じく「ジョーンズ」と書かれている事実があり、外人に多い「ジョーンズ」という名の場合に英文学専攻の芥川龍之介であっても普通に思わず「Jones」を「Johns」と筆記してしまうことはあり得ることだし、少しも不審ではないと私は思う(因みに私の姓「藪野」の「藪」の字を一発で正しく書ける人間は極めて稀れで、大きく手書きして見せても、それを写し間違える人もきわめて多い。しかも私の名は「直史」であるが、これを正しく一発で読んだ人間は私は生涯でたった一人(それは教えていた生徒であった)しかいない。因みに、これで「ただし」と読む)。

 而して彼は誰か?

Thomas Jones(一八九〇年~一九二三年)

芥川龍之介の参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人で、大正四(一九一五)年に来日し、大蔵商業(現在の東京経済大学)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されてある(以上は岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等に拠った)。

芥川龍之介には実に彼をモデルとした優れた小説「彼 第二」(大正一六(一九二七)年一月一日(実際には大正天皇の崩御によって、このクレジットは無効となり、昭和元年となる)の『新潮』に「彼・第二」の題で掲載。なお、この時、トーマス・ジョーンズは亡くなっていた。彼は三十三歳の若さで天然痘に罹患し、上海で客死、同所の静安寺路にある外人墓地に埋葬された)があり、私はそこ(上記リンク先の私の電子テクスト)で、モデルとなったこのトーマス・ジョーンズに就いてかなり詳しい注を附しているので、是非、見て戴きたいのであるが、その注で私は小説のロケーションから、芥川龍之介とジョーンズの邂逅を大正五(一九一六)年の冬と考えた(当時の芥川は大学を七月に卒業、十二月一日に海軍機関学校教授嘱託となって、同時に塚本文と婚約している。但し、これは小説であるから、事実に即しているとは限らぬので私の推定は実は無効であるとも言える)。鷺只雄氏の年譜(一九九二年河出書房新社刊「年表読本 芥川龍之介」)では、大正五年の項の頭に『このころ、トーマス・ジョーンズと知り合う』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜では、初会時を記さずに、大正五年九月六日の条に『夜、トーマス・ジョーンズを訪ねる』(書簡による)とある。この宮坂氏の記載から見て、この大正五(一九一六)年九月六日以前に芥川龍之介はトーマス・ジョーンズと知り合っていたことは確かなようである。]

 

○エレヴエータアと死と

――Dilettante 世事を輕んす 和泉式部を ancient love の對象として思ふ

[やぶちゃん注:「かろんす」はママ。削除されたそれは、大正六(一九一七)年一月二十九日発行の『大阪朝日新聞』夕刊に発表した掌編小説「道祖問答」のメモである。

「僧」「道祖問答」では天王寺別当の道命阿闍梨(どうみょうあじゃり(芥川龍之介の「道祖問答」では『あざり』とルビ) 天延二(九七四)年~寛仁四(一〇二〇)年)である。ウィキの「道命」によれば、『父は藤原道綱。母は源近広の娘。阿闍梨、天王寺別当。中古三十六歌仙の一人』。『若くして出家し、天台座主・良源の弟子となった』。長和五(一〇一六)年に天王寺別当に就任している。『花山上皇と親しく、上皇の死を悼む歌が残されている』。「宇治拾遺物語」(巻頭を飾る「卷第一」の「一 道命於和泉式部許讀經五條道祖神聽聞事」(一 道命、和泉式部の許に於いて經を讀み、五の道祖神、聽聞する事)で、芥川龍之介はこれを主素材として「道祖問答」を書いている、初出文末には「附記」があり、そのことを明記している。「宇治拾遺物語」の原文は「やたがらすナビ」のこちらで読める(新字正仮名))『などには、和泉式部と親しかったという説話がある』。「後拾遺和歌集」(十六首入集)『以下の勅撰和歌集に』五十七首が採られている。家集に「道命阿闍梨集」があり、また、彼は『読経の声に優れていたという』とある。「道祖問答」は多情の女和泉式部と一夜を過ごした彼が暁に床を抜け出して不浄極まりないままに「法華経」を誦経するシーンから始まる。「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名)。

Dilettante」(しばしば軽蔑的意味合いを以って)学問・芸能などを趣味として愛好する人。好事家。ディレッタント。もとはイタリア語で「~に喜びを見い出す人」の意。

ancient love太古の愛。人間の原初の形の愛。]

 

○師の死待つ安息

[やぶちゃん注:これは大正七(一九一八)年十月一日発行の雑誌『新小説』に掲載された枯野抄」の内藤丈草(事実は漱石の臨終の床での芥川龍之介自身がモデルと考えられる)の内心のメモと読める(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

 {戰爭

○{鳩の子 鼠

 {Christian ―― etwas があつた

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つの「{」。底本の編者は前の「師の死待つ安息」を以上とセットにしており、柱の「○」はないが、前のそれとこれらは、私は別物と判断し、特異的に「○」を附した

etwas」ドイツ語。エトゥワス。(何かあるもの・何かあること)に相当する不定代名詞。「何もない」のではなく、何らかは「ある」状態を指す語である。]

 

 {⑴看の爲  番人

○{⑵人と接觸 侍

 {⑶病的   醫

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つの「{」。底本の編者は前の「戰爭」「鳩の子 鼠」「Christian ―― etwas があつた」を以上とセットにしており、柱の「○」はないが、前のそれとこれらは、私は別物と判断し、特異的に「○」を附した。これも枯野抄」の構想メモと推断出来る。それは「看の爲」「番人」が「看」病の「爲」めにのみ、病床の芭蕉の傍に「番人」のように寄り添っていた小説中の「老僕の治郎兵衞」(事実は青年。芥川龍之介が基本素材とした文暁著「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)が実は偽書(創作)であったことによる誤り)のことと考えられること、「病的」「醫」は芭蕉の門人で最期を看取った主治医木節の心内を意味していると読めるからである。]

 

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