績妖異博物館
はしがき
笑談から駒が出た形で「績妖異博物館」が出版される運びになつた。然も今度は怪談季節の眞最中である。前卷の終りにあつた靑蛭房主人の呪文が、どうやら若干の效力を發揮したらしく思はれる。
由來續篇と銘打つたものに、面白いもののあつたためしがない。いつそ別の書名にしたらどうだといふ説も出たが、さうむやみにいゝ名前が案出される筈もなし、書名は内容を左右するに足るものでもないから、續篇は續篇らしく面白くない所以を明かにした方がよからうといふことで、既定方針通り進むことにした。
尤も續篇と云つたところで、話の續きでないのは勿論、話の方角も大分變つてゐる。前卷にも支那の話を引合に出さぬことはなかつたが、今度はその色彩がよほど強く、時には支那を主にしたのではないかと思はれる箇所が出て來た。日本の話にしても、前卷の主流であつた江戸時代より、少し遡つたところに話題を求めた。もし「續妖異博物館」が「妖異博物館」に比して何か違ふところがあるとすれば、先づこの點に歸すべきであらう。またその程度の變化もないとしたら、わざわざ二册の書物を作る必要がないことになる。
支那の志怪と日本の妖異譚との關係は、支那料理と日本料理のやうなものである。似て意ゐるやうで違ひ、違ふかと思へば似てゐる。昔からその間に交流のあつた消息は、貧弱なこの博物館の陳列だけ見ても、或點までは看取し得るかも知れぬ。
[やぶちゃん注:本「續 妖異博物館」は、電子化注済みの青蛙房(せいあぼう)から先に刊行した「妖異博物館」(昭和三八(一九六三)年一月二十五日刊)の続編として、同じ青蛙房から、丁度、半年後の同年七月二十五日刊行された。
「靑蛭房主人」昭和三〇(一九五五)年に出版社青蛙房を創業した岡本経一(きょういち 明治四二(一九〇九)年~平成二二(二〇一〇)年)。岡山県生まれで、岡本綺堂の書生となり、後に彼の養子になった。正編で特異的にしばしば近代物に岡本綺堂の作品を挙げていたのには、柴田の、養子であった彼へのサーヴィスが見て取れるのである。
「呪文」岡本氏は著作権が存続しているので、「あとがき」(『昭和三十八年初春』と記す)の全文を示すことは出来ないが、恐らくはその最終段落の頭にある次の一節『それにしても、今どきこんな本を書く奴も出す奴もないだろうと、著者と出版者は相かえりみて苦笑した。柴田さんは書いてしまうと、後は一向に氣にしない人である。わたしも本造りには夢中になるが、發賣してしまうと賣行きは氣にしない方である。しかし、「妖異博物館」と大きく外題を据えて、續編、續々編を狙ったのは我ながら慾がふかい。願わくは、天狗や河童や、その他もろもろのお化けの眷族の御加護をもって讀者諸賢にエレキが通じますように』を指しているものと思われる(この後のコーダでは『スーダラ大將』『お呼びでない?』『ハイ、それまでよ』『無責任時代』という、辛うじて私の世代以上で理解出来るチャチャを入れて擱筆しておられる。当該出版物の出版社社長の「あとがき」自体が珍しい上に、なかなか面白い内容で、電子化出来ないのが惜しいほどである。なお、正編の冒頭の私の注で記したように、正編「はしがき」によれば当初、柴田宵曲自身は本書の外題を「奇談類考」といったような辛気臭いもので考えていたのを、青蛙房からの指示でかく事大主義的なものに変えたと推定出来、それと、この岡本氏の謂いは頗る一致を見るのである。因みに『續々編』は出ておらず、ちょっと淋しい。]
月の話
月に關する奇譚を集めたら、恐らく一部の書をなすであらう。その中からいくつかこゝに並べて見る。
王先生なる者が烏江のほとりに住んで居つた。妖ではないかなどと蔭口を利く者もあつたが、里中に火事が起つた時、この人が出かけて聲をかけたら、忽ち火が消えたといふ事件があつて、それ以來皆が尊敬するやうになつた。長慶年間に楊晦之といふ男が長安から呉楚に遊ぶ途中、かねてこの人の名を聞いてゐたのでその門を敲いた。先生は黑い薄絹の頭巾を被り、褐色の衣を著けて悠然と几(つくゑ)に向つてゐる。晦之が再拜して鄭重に挨拶しても、輕く一揖するのみであつた。倂し晦之を側に坐らせての暢談は容易に盡きさうにもないので、晦之は一晩泊めて貰ふことになつた。先生の娘といふのが出て來たが、七十ばかりで頭髮悉く白く、家の中でも杖をついてゐる。これはわしの娘ぢやが、惰(なま)け者で道を學ばぬものぢやから、こんな年寄りになつてしまつた、と云ひ、娘を顧みて月の用意をせよと命じた。この日は八月十二日であつたが、暫くして娘が紙で月の形を切り、東の垣の上に置くと、夕べに至り自ら光りを優し、室内はどんな小さなものでもはつきり見えるので、晦之は驚歎せざるを得なかつた。
[やぶちゃん注:「烏江」後に「呉楚」が出るから、かの垓下(がいか)で敗れた項羽が自刎して美事な最期を遂げた、長江沿いの渡し場「烏江」(うこう)と採っておく。現在の安徽省巣湖市和県烏江鎮附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「長慶年間」中唐末期の第十五代皇帝穆宗の治世で使用された元号。ユリウス暦八二一年~八二四年。
「楊晦之」「ようくわいし(ようかいし)」と読んでおく。
「一揖」「いちいふ(いちゆう)」と読む。中国の古式の礼の一つ。両手を胸の前で組み、これを上下或いは前に進めたりしてする挨拶
「暢談」「ちやうだん(ちょうだん)」と読み。心おきなくのびのびと語り合うこと。
「八月十二日」旧暦であるから暗くなる前の夕方には月は没してしまう。]
「宣室志」に書いてあるのは右の通りであるが、「酉陽雜俎」や「列仙全傳」ではこれが唐居士になつてゐる。訪問者は楊隱之といふので「宣室志」に似てゐるが、夜になつて居士が娘を呼び、片月子を持つて來いと命ずる。片紙のやうなものを持つて來て壁に貼り付けると、居士はこれに向つて禮拜し、今夕客あり、光明を賜ふべしと云ふや否や、室内は燭を置いたやうに明るくなつた。時代は同じ長慶年間だから、一つの話が二樣に傳はつてゐるのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「宣室志」(せんしつし)は唐の張読の撰になる伝奇小説集。もとは十巻あったと考えられるが、散逸し、後代の幾つかの作品に引用されて残る。これは同書の「王先生」。中文サイトのものを加工して示す。
有王先生者、家於烏江上、隱其跡、由是里人不能辨、或以爲妖妄。一日、里中火起、延燒廬舍、生卽往視之、厲聲呼曰、「火且止、火且止。」。於是火滅。里人始奇之。長慶中、有弘農楊晦之、自長安東遊呉楚、行至烏江、聞先生高躅、就門往謁。先生戴玄綃巾、衣褐衣、隱几而坐、風骨淸美。晦之再拜備禮、先生拱揖而已、命晦之坐其側。其議論玄暢、迥出意表。晦之愈健慕、於是留宿。是日乃八月十二日也。先生召其女七娘者、乃一老嫗也、年七十餘、髮盡白、扶杖而來、先生謂晦之曰、「此我女也、惰而不好道、今且老矣。」。既而謂七娘曰、「汝爲吾刻紙、狀今夕之月、置於室東垣上。」。有頃、七娘以紙月施於垣上。夕有奇光自發、洞照一室、纖毫盡辨。晦之驚嘆不測。及曉將去、先生以杖畫地、俄有塵起、天地盡晦、久之塵斂、視其庭、則懸崖峻險、山谷重疊、前有積石盡目。晦之悸然背汗、毛髮豎立。先生曰、「陵谷速遷、吾子安所歸乎。」。晦之益恐、灑泣言曰、「誠不知一旦有桑田之變、豈仙都瞬息、而塵世已千歳乎。」。先生笑曰、「子無懼也。所以爲娯爾。」於是持帚掃其庭、又有塵起。有頃、塵斂、門庭如舊。晦之喜、卽馳馬而去。
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柴田が「月」とは無縁なところからカットしてしまった、翌朝の晦之が体験する驚天動地の王先生の遊びのシークエンスが、とても素敵!
「酉陽雜狙」版の同シークエンスは「卷二」の「五 壺史」の中の次の一条。同前の仕儀で示す。
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長慶初、山人楊隱之在郴州、常尋訪道者。有唐居士、土人謂百歳人。楊謁之、因留楊止宿。及夜、呼其女曰、「可將一下弦月子來。」。其女遂帖月於壁上、如片紙耳。唐卽起、祝之曰、「今夕有客、可賜光明。」。言訖、一室朗若張燭。
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「列仙全傳」(「有象(ゆうしょう)列仙全傳」が正しい書名)は明代に書かれた仙人伝。私は所持せず、ネット上でも見当たらぬので原典は示せない。以下、同じ。]
周生は唐の大和中の人で、洞産山に廬を結んで居つたが、道術を以て多くの人の尊敬を集めた。或時廣陵の舍佛寺に居ると、これを聞いた人が何人も押しかけて來る。恰も中秋明月の夜であつたから、皎々と澄み渡る月を見て、自ら月世界の話になり、吾々のやうな俗物でも、月世界に到ることが出來るでせうか、と云ひ出した者があつた。周生は笑つて、その事ならわしも師に學んだことがある、月世界に到るどころではない、月を袂に入れることが出來る、君はそれを信ずるか、と云つた。或者はこれを妄言とし、或者はその奇を喜ぶ中に、周生は委細構はず、一室を空虛にし、四方から固く戸を鎖し、數百本の竹に繩梯子を掛けさせ、わしは今からこの繩梯子を上つて月を取つて來る、わしが呼んだら來て御覽、と云ふ。人々は庭を步きながら樣子を窺つてゐると、先刻まで晴れてゐた空が忽ち曇り、天地晦冥になつて來た。その時突如として周生の聲が聞えたので、室の戸を明けたところ、彼はそこに坐つてゐて、月はわしの衣中に在る、と云ふ。どうかその月をお見せ下さい、と云はれて、周生が衣中の月をちょつと見せると、一室は俄かに明るくなり、寒さが骨に沁み入るやうに感ぜられた。君はわしを信ぜぬやうであつたが、今は信ずるか――周生は落ち着き拂つてかう云つた。人々再拜して失言を謝し、月の光りを收めて貰ふやうに頼む。よつてまた戸を鎗す。天地は依然晦冥であつたが、暫くたつと最初の通り明皎々たる月夜に還つた。實に驚くべき幻術である。繩梯子を上つて天界に到るあたりは、仙宮の桃を取りに行く「聊齋志異」の偸桃に似てゐるかと思ふ。この話も「宣室志」に出てゐる。
[やぶちゃん注:「宣室志」のそれは「周生」。以下。
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唐太和中、有周生者、廬於洞庭山、時以道術濟呉楚、人多敬之。後將抵洛穀之間、途次廣陵、舍佛寺中。會有三四客皆來。時方中秋、其夕霽月澄瑩、且吟且望、有説開元時明皇帝遊月宮事、因相與嘆曰、「吾輩塵人、固不得至其所矣。奈何。」。周生知曰、「某常學於師、亦得焉、且能挈月致之懷袂、子信乎。」。或患其妄、或喜其奇。生曰、「吾不爲明、則妄矣。」。因命虛一室、翳四垣、不使有纖隙。又命以箸數百、呼其僮繩而架之。且告客曰、「我將梯此取月去。聞呼可來觀。」。乃閉戸久之。數客步庭中、且伺焉。忽覺天地曛晦、仰而視之、卽又無纖雲。俄聞生呼曰、「某至矣。」。因開其室、生曰、「月在某衣中爾。請客觀焉。」。因以舉之、其衣中出月寸許、忽一室盡明、寒逼肌骨。生曰、「子不信我、今信乎。」。客再拜謝之、願收其光。因又閉戸、其外尚昏晦、食頃方如初。
『「聊齋志異」の偸桃』は「卷三」の第一項「偸桃」(とうたう(とうとう))。以下。
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童時赴郡試、值春節。舊例、先一日、各行商賈、綵樓鼓吹赴藩司、名曰、「演春」。余從友人戲矚。是日遊人如堵。堂上四官、皆赤衣、東西相嚮坐。時方稚、亦不解其何官。但聞人語嚌嘈、鼓吹聒耳。忽有一人、率披發童、荷擔而上、似有所白、萬聲洶動、亦不聞爲何語。但視堂上作笑聲。即有青衣人大聲命作劇。其人應命方興、問、「作何劇。」。堂上相顧數語。吏下宣問所長。答言、「能顛倒生物。」吏以白官。少頃復下、命取桃子。術人聲諾、解衣覆笥上、故作怨狀、曰、「官長殊不了了。堅冰未解、安所得桃。不取、又恐爲南面者所怒。奈何。」。其子曰、「父已諾之、又焉辭。」。術人惆悵良久、乃云、「我籌之爛熟。春初雪積、人間何處可覓。惟王母園中、四時常不凋謝、或有之。必竊之天上、乃可。」。子曰、「嘻、天可階而升乎。」。曰、「有術在。」。乃啟笥、出繩一團、約數十丈、理其端、望空中擲去、繩即懸立空際、若有物以掛之。未幾、愈擲愈高、渺入雲中、手中繩亦盡。乃呼子曰、「兒來。余老憊、體重拙、不能行、得汝一往。」。遂以繩授子、曰、「持此可登。」子受繩、有難色、怨曰、「阿翁亦大憒憒。如此一線之繩、欲我附之、以登萬仞之高天。倘中道斷絕、骸骨何存矣。」。父又強嗚拍之、曰、「我已失口、悔無及。煩兒一行。兒勿苦、倘竊得來、必有百金賞、當爲兒娶一美婦。」。子乃持索、盤旋而上、手移足隨、如蛛趁絲、漸入雲霄、不可復見。久之、附一桃、如碗大。術人喜、持獻公堂。堂上傳示良久、亦不知其真偽。忽而繩落地上、術人驚曰、「殆矣。上有人斷吾繩、兒將焉托。」。移時、一物墮。視之、其子首也。捧而泣曰、「是必偷桃爲監者所覺、吾兒休矣。」。又移時、一足落、無何、肢體紛墮、無復存者。術人大悲、一一拾置笥中而合之、曰、「老夫止此兒、日從我南北游。今承嚴命、不意罹此奇慘。當負去瘞之。」。乃昇堂而跪、曰、「爲桃故、殺吾子矣。如憐小人而助之葬、當結草以圖報耳。」。坐官駭詫、各有賜金。術人受而纏諸腰、乃扣笥而呼曰、「八八兒、不出謝賞、將何待。」。忽一蓬頭僮首抵笥蓋而出、望北稽首、則其子也。以其術奇、故至今猶記之。後聞白蓮教能爲此術、意此其苗裔耶。
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柴田天馬氏の訳(角川文庫昭和五三(一九七八)年改版九版)で以下に示す。
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偸桃(とうとう)
子どものころ、郡(ふ)に行ったことがあり。それは、ちょうど立春であった。
古くからのしきたりで、立春の前の日、各行商賈(あきんどたち)は彩楼(やたい)を作り、笛太鼓で藩司(ふせいし)にねりこむ。それを彼らは演春と名づけていた。
自分は友人について、それを見物に行ったのである。
その日、役所の前は、遊び歩いている人たちが、垣根のように、ぐるりと取りまいて、堂の上には四人の役人が、みな赤い着ものをきて、東西に向かいあって腰かけていた。自分は、まだ幼かったから、それが、どんな役人か、わからず、ただ、そうぞうしい人声と、やかましい笛太鼓を聞いているだけであった。
たちまち、披髪(おかっぱ)の子どもを連れた人があって、荷物をになって進みでた。何とか言ってるらしいのだが、人声が騒がしいので、何を言っでいるか、聞こえなかった。
すると、堂上(ひろま)で笑い声が起こった。そして、黒い着ものの下役が大きな声で、芸をやれと言いつけた。その人は、言われるままに始めようとして、聞くのであった。
「どんな芸を、して、ごらんにいれましょう」
堂上(ひろま)の役人たちが、顔を見あって話しあうと、下役が、おりてきて、得意なものは何か、とたずねた。男は答えた、
「顚倒(あべこべ)な物を、出すことができるのでございます」
で、下役は、それを役人に申しあげ、しばらくすると、また、おりてきて、
「桃を取ってこい」
と言いつけた。術人(てずまし)は、はいと言って着ものをぬぎ、それを箱にかぶせてから、わざと恨めしそうなようすをして、言うのだった、
「お役人なんて、とても、わからないもんだ。氷が、まだ、とけもしない今ごろ、どこにだって、桃の手に入るようなところなんか、あるはずほない。けれども、取ってこないと、また、お役人に、おこられるだろうし、さあ、どうしたら、いいものか」
すると、その子が言った、
「父(ちゃん)は、はいと言っちまったんじゃないか。ことわれや、しないや!」
術人(てずまし)は、しばらくの間、惆悵(かなし)そうなふうだったが、やがて言った、
「おれは考えたよ。とっくりとな。今は、まだ春の初めで、雪が、つもっているんだから、人間には、どこにだって、探すところなんか、ありやしないが、王母のお庭は、年じゅう、葉が枯れるなんてことのないところだ。もしかすると、あるかもしれない。どうしたって、天上で盗むのが、よかろうぜ」
子どもは言った、
「えっ! はしごをかけて、天に登れるのかい?」
と、おやじは、
「術が、あるからな」
と言って箱をあけ、なかから数十丈もあろうと思われる、一かたまりの繩を取りだし、端を、そろえると、空中を望んで投げあげた。と、繩は、まるで何かにかかったように、空際(なかぞら)に、かかっていた。まもなく、いよいよ繩をくりだすにつれて、いよいよ高くなり、繩の先が、雲の中にはいって見えなくなったのと同時に、手の中の繩も尽きてしまった。
すると、おやじは、子どもを呼んで言った、
「せがれや! おいで! おれは、な、年をとっちまって身体が重いから、行かれない。おまいに行ってもらおうよ」
で、繩を子どもにわたし、
「これを持てば、登れるからな」
と言った。
子どもは繩を受けとったものの、困った顔をして、うらめしそうに言った、
「ほんとに、憒々(わからな)い、ちゃんだ。こんな一本の繩に、あたいを、つかまらして、なん万仭(まんじゃく)もある高い天に登らせようなんて。途中で繩が切れでもしたら、こなみじんに、なっちまわあ!」
すると、おやじほ、おどかしたり、すかしたりするのだった、
「おれは口をすべらしてしまったから、くやんでも追いつかないんだ。おまい、行ってくれろよ。だがな、せがれ、いやがるんじゃない。もし、桃を盗んできたら、きっと百両のご賞(ほうび)があるから、おまいに、きれいな婦(かみさん)をもらってやる」
子どもは、そこで、繩を持って、するすると登りはじめた。手が移る。足がついて行く。まるで蛛(くも)が糸を伝うように、空に入って行って、とうとう見えなくなってしまった。
と、しばらくして、桃が一つ落ちてきた。盎(わん)のような大きさである。術人(てずまし)は喜んで、それを持って広間にのぼり、役人に差しあげた。広間の人たちは、手から手にそれを回して、しばらくの間、見ていたけれど、桃の真偽は、わからなかった。
たちまち、繩が地上に落ちてきた。術人は驚いて叫んだ、
「あぶない! 空に誰かいて、わしの繩を切ってしまった! せがれは何に託(たよ)るのだ!」
そのうちに、落ちてきた物があるので、駆けよって見ると、せがれの首だった。おやじはそれを捧げて、泣きながら言うのである、
「こりやあ、きっと、桃を偸(ぬす)んだのを、番人に、さとられたにちがいない。せがれは、だめだ!」
それから、また、しばらくすると、片足が落ちてきた。そしてまもなく、足や身体が、ばらばらになって落ちてきた。もう残っているものはないのである。
術人(てずまし)は、ひどく悲しみ、いちいち拾って箱に入れると、ふたをして言うのだった、
「こいつは、おやじの一人っ子で、毎日、わしについて、南や北を歩きまわっておりましたが、今日、思わずも、仰を受けて、こんな災難にかかりました。どれ、しょって行って埋めてやりましょう」
そして、堂(ひろま)にのぼって、ひざまずき、
「桃のために、せがれを殺してしまいました。もしも、わたくしを、あわれとおぼしめしますなら、葬いの金をお助(す)けなさってくださいまし。当結草以図報(しんでもごおんはかえ)します」
腰かけていた人たちは、驚きもし、あやしみもして、おのおの術人(てずまし)に金をやった。術人は、金を受けとって腰につけてから、箱をたたいて言うのだった、
「八々児(はちはち)よ! 早く出て、ごぼうびのお礼を申しあげろ。何を、ぐずぐずしてるんだ」
と、おかっぱの子どもが、箱のふたを押しあけて首を出し、北に向かって、おじぎをした。
それは、せがれであった。
ふしぎな術だから、今になっても、まだ、それを、おぼえているが、あとで聞くと、白蓮教の者が、よく、この術をやるそうだから、この男も、白蓮教の苗裔(しそん)、かと思われる。
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底本ではこの後に語注が続くが、特にその「七」(注記号は話の末に打たれてある)が面白い。以下に引く。『接(つ)ぎ』は注全体がポイント落ちなため、ルビではなく、本文がこうなっている。
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この話は、聊斎自身の所見であるところに、格別の興味を引かれるわけだが、まさか聊斎が本気になって書いたのではなく、多少――どころじゃない――大いに修飾を加えたものだろう。実際、今日このごろ、こんな話を、まじめにする人があっても、真に受ける人はなさそうに思われるが、あに、はからんや、昭和十一年十二月二十七日付の報知新聞紙上にあるインドの修行者「ヨギ」の魔法は、ここに訳出したものと、ほとんど同じで、イギリス人ブランケット氏が親しく目撃し、かつ写真にまで撮って、天下に公表したのだというから、おもしろい。よって下に、北米イングルウッド市で行なわれたインド・ヨギ、ハレットのロープトリックなるものを転載し、この話と、いかに類似しているかを、紹介しょうと思う。「ヨギが、一本の綱を空中にバッと投げると、綱は、さながら立木のように、地上に直立する。すると、一人が、スルスルと綱を登ってゆく、と見るまに、少年の手が、足が、首が、バラバラになって、しかも、血に染まって落ちてくる。だが、平然たるヨギほ、バラバラに地上に落ちた少年の肉体を、接(つ)ぎ合わせるや、たちまちにして、また、もとの元気な少年になるのだ」うんぬん。
*
この話は「聊齋志異」の中でも私がすこぶる附きで偏愛するものである。]
「列仙全傳」の莫月鼎は潮州の人で、鬼魅を自由に驅使するのみならず、天象を支配することが出來た。西湖に舟を泛べて酒を酌み交してゐた際、眞夏の太陽の暑いのに困じて、雲を起してくれぬかと賴むと、彼は舟を岸に著けて獨り上陸し、どこからか木の實の殼を一つ拾つて來た。それを盃に浮べたら、見る見るうちに黑雲が起つて日光を蔽ひ去つたさうである。或年の中秋に蕃釐觀の道士が知人を招いて、觀月の酒宴を催さうとした。あいにく雲が出て折角の興がさめかけた時、道士は觀内に月鼎の寄寓してゐることを思ひ出し、彼をこの席に招くのを忘れた爲、その怒りを買つたものであらうと氣が付いたので、直ぐ人を遣はして月鼎を招き陳謝の意を表した。月鼎は何も云はず、微笑しながら手を擧げて天上を指す。今までひろがつてゐた雲は忽ちに消え、十分に清興に耽ることが出來た。
[やぶちゃん注:「蕃釐觀」「ばんりくわん(ばんりかん)」と読んでおく。道観(道教の寺院)の固有名詞。]
同じ書にある翟天師にも月の一條があつた。或江のほとりで月をめでてゐる時、弟子の一人が卒然として、月の中には何がありますかと問うた。天師は笑つて手を擧げて月を指したが、弟子どもはその意を解することが出來ぬ。各々自分の指の形に從つて月の面を覗いて見よと云はれ、天師の通りにやつて見たら、多くの金殿玉樓が軒を連ね甍(いらか)を竝べて月の面に聳えてゐた。倂し眸(ひとみ)を定めて再び見直した時は、樓殿の形は已に消えて見えなかつた。
[やぶちゃん注:「翟天師」「てきてんし」と読んでおく。]
古人は月と云へば直ちに月宮殿を想像し、その裏に在る天女の姿を心に描いたらしい。「竹取物語」のかぐや姫も元來月の都の人で、暫時の生を地上に托したのである。「竹取物語」の末段に近くなつて「子の刻ばかりに、家のあたり晝の明さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十あはせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より人雲に乘りて降り來て、地より五尺許りあがりたる程に立ち連ねたり」と書いたのは、日本の月の文學の中に在つて永く異彩を放つに足るものであらう。謠曲「羽衣」の天女も月宮殿裏に在つて「奉仕をさだめ役をなす」天少女(あまおとめ)の一人であつた。「池北偶談」の中に月夜に露坐して仰いでゐると、うるはしく著飾つた女子が鶴の背に乘り、宮扇を持つた一人がこれを衞つて、ゆるゆると月の中に入つて行つたとある如き、やはり月宮殿裏の天少女の姿でなければならぬ。
[やぶちゃん注:以上の「竹取物語」のシークエンスは、一般に「かぐや姫の昇天」と称されるパートの月の国からの来臨部分、同作でも圧巻のシーンである。少し長くなるが、柴田の賞讃するように、本朝最古の幻想文学の白眉と称してよい場面であるので、月帰還までの全文を以下に阪倉篤義校訂の岩波文庫版(一九七〇年刊)で引く。読みは一部に限った。一部は私が〔 〕で読みを入れ、阪倉氏の記号による右補訂箇所はそのまま原文と差し替えた。一部に句点を追加した。【 】は別伝本で補った。踊り字「〱」は正字化した。「返々」は「かへすがへす」と訓ずる。
*
かゝる程に、宵うち過ぎて、子の時ばかりに、家のあたり晝の明(あか)さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十あせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空(ぞら)より人、雲に乘りて下(お)り來て、土(つち)より五尺ばかり上(あが)りたる程に、立ち列(つら)ねたり。これを見て、内外(うちと)なる人の心ども、物におそはるゝやうにて、あひ戰はん心もなかりけり。からうじて思ひ起して、弓矢をとり立てんとすれども、手に力もなくなりて、萎(な)えかゝりたる。中に、心さかしき者、ねんじて射んとすれども、外(ほか)ざまへいきければ、あれも戰はで、心地たゞ痴(し)れに痴れてまもり合へり。
立てる人どもは、裝束の淸(きよ)らなること、物にも似ず。飛(とぶ)車一つ具(ぐ)したり。羅蓋(らがい)さしたり。その中に王とおぼしき人、家に、
「宮つこまろ、まうで來(こ)。」
と言ふに、猛(たけ)く思ひつる宮つこまろも、物に醉(ゑ)ひたる心地して、うつ伏(ぶ)しに伏(ふ)せり。いはく、
「汝(なんぢ)、をさなき人、いさゝかなる功德(くどく)を翁(おきな)つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下(くだ)しゝを、そこらの年頃、そこらの金(こがね)給ひて、身をかへたるがごと成りにたり。かぐや姫は、罪(つみ)をつくり給へりければ、かく賤(いや)しきおのれがもとに、しばしおはしつる也。罪の限(かぎり)果てぬればかく迎ふるを、翁は泣き歎く、能(あた)はぬことなり。はや出したてまつれ。」
と言ふ。翁答へて申す、
「かぐや姫を養ひたてまつること廿餘年に成りぬ。かた時との給ふに、あやしくなり侍りぬ。又異(こと)所にかぐや姫と申す人ぞおはすらん。」
と言ふ。
「こゝにおはするかぐや姫は、重き病(やまひ)をし給へば、え出でおはしますまじ。」
と申せば、その返事はなくて、屋の上に飛車(とぶくるま)を寄せて、
「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所にいかでか久しくおはせん。」
と言ふ。立て籠(こ)めたるところの戸、すなはち、たゞ開(あ)きに開きぬ。格子どもゝ、人はなくして開きぬ。女抱(いだ)きてゐたるかぐや姫、外(と)に出ぬ。え止(とゞ)むまじければ、たゞさし仰(あふ)ぎて泣きをり。竹取心惑(まど)ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ、
「こゝにも心にもあらでかく罷(まか)るに、昇(のぼ)らんをだに見おくり給へ。」
と言へども、
「なにしに、悲しきに見おくりたてまつらん。我をばいかにせよとて、捨てゝは昇り給ふぞ。具して出でおはせね。」
と、泣きて伏せれば、心惑ひぬ。
「文を書おきてまからん。戀しからんをりおり、とり出でて見給へ。」
とて、うち泣きて書く言葉は、
「此國に生まれぬるとならば、歎かせたてまつらぬほどまで【侍るべきを】、侍らで過ぎ別れぬること、返々本意(ほい)なくこそおぼえ侍れ。脱ぎおく衣(きぬ)を形見(かたみ)と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見捨てたてまつりてまかる、空よりもおちぬべき心地す。」
と、書きおく。
天人の中に持たせたる箱あり。天(あま)の羽(は)衣入れり。又あるは不死(ふし)の藥(くすり)入れり。ひとりの天人言ふ、
「壺(つぼ)なる御藥(くすり)たてまつれ。穢き所のものきこしめしたれば、御心地惡しからむ物ぞ。」
とて、もて寄りたれば、わづか嘗な)め給ひて、すこし形見とて、脱ぎおく衣(きぬ)に包まんとすれば、ある天人包ませず、御衣(みそ)をとり出でて着(き)せんとす。その時にかぐや姫、
「しばし待て。」
と言ひて、
「衣着(きぬき)つる人は心異(こと)になるなり。物一(ひと)こと言いひおくべき事あり。」
と言ひて、文書く。天人、
「おそし。」
と心もとながり給ひ、かぐや姫、
「もの知らぬこと、なの給ひそ。」
とて、いみじく靜かに公(おほやけ)に御文(ふみ)たてまつり給。あわてぬさま也。
[やぶちゃん注:以下、の書簡部分は底本では全体が一字下げ。]
「かくあまたの人を賜ひて止(とゞ)めさせ給へど、許さぬ迎へまうで來て、とりゐてまかりぬれば、くちをしく悲しき事。宮仕(づか)へ仕(つか)うまつらずなりぬるも、かくわづらはしき身にて侍れば。心得ず思(おぼ)しめされつらめども、心強(つよ)くうけたまはらずなりにし事、なめげなる物に思(おぼ)しめし止(とゞ)められぬるなん、心にとゞまり侍りぬる。」
とて、
今はとて天の羽衣きるをりぞ君をあはれと思ひいでける
とて、壺の藥そへて、頭中將呼びよせて、たてまつらす。中將に天人とりて傳(つた)ふ。中將とりつれば、ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとほしく、かなしと思(おぼ)しつる事も失せぬ。此衣(きぬ)着つる人は物思ひもなく成りにければ、車に乘りて百人ばかり天人具して、昇りぬ。
*
「五尺」約一メートル半。
『謠曲「羽衣」』「丹後風土記」逸文に代表される所謂「羽衣伝説」に基づく能。一説に世阿弥作とされるが、信じ難い。柴田の引用は、後半の地で、
白衣黑衣(びやくえこくえ)の天人(てんにん)の。數(かず)を三五(さんご)にわかつて。一月夜々(いちげつやや)の天乙女(あまをとめ)。奉仕(ほうじ)を定め役(やく)をなす
とあるところの一節。これによれば、この白衣と黒衣を着分けた天乙女たちが十五人ずつに分かれて、旧暦の一ヶ月間、夜毎(よごと)に定められた役目として、専ら月の満ち欠けを司っているという説明譚にもなっていることが判る。
「池北偶談」清第一の詩人とされる王漁洋(士禎)の随筆。全二十六巻。以上は「談異」の「卷二十六」の「月中女子」である。今までと同じ仕儀で示す。
*
德州趙進士仲啟(其星)、嘗月夜露坐、仰見一女子、妝飾甚麗、如乘鸞鶴、一人持宮扇衞之、逡巡入月而沒。此與予前所記二事相類。羿妻之事、信有之矣。
*]
月を懷ろにして還る周生の話は奇拔であるが、それだけ月が小さなものになつてゐることを否み難い。苛も天界の月ならば、造かにこれを仰望して、時に金殿玉樓の竝ぶのを見るぐらゐが恰好のところと思はれるが、月世界旅行の夢は古今を通じてあり、それがいろいろな文學に現れてゐる。「列仙全傳」の羅公遠などもその一つである。
[やぶちゃん注:ウィキの「羅公遠」から引く。生没年未詳の唐の玄宗に仕えた道士。「新唐書」では「羅思遠」とするが、唐代の伝奇小説では「羅公遠」と記す。『鄂州の出身。幼いころから、道術を好んでいたという。州の刺史に、人間に化けた白龍を叱りとばし、その正体を見せたことから見いだされた。刺史の推薦で長安に赴き、張果、葉法善に冷笑された。手に握った碁石の数当てをさせられたが、二人の手から気づかれずに、碁石を自分の手に移したため、二人と同列とされた』。『月までの橋をかけ、玄宗を月宮に連れて行った話(玄宗はこの時、霓裳羽衣の曲を編み出したとされる)が残っている』(柴田が後の段落で語っている)。『また、三蔵法師(不空金剛)と術比べをし、雨の祈祷をした話や、竹の枝を七宝如意に変えた話、玉清神女を操り、三蔵法師の操る菩薩や金剛力士を出し抜き、その袈裟を奪った話が伝えられている』。『羅公遠は玄宗に、隠形の術を乞われ、皇帝がすることでないと強く諫めた。玄宗が詰問したところ、逃げて柱の中に隠れた。玄宗が柱を破壊すると、礎石に入り、とりかえても別の石に入った。石を壊しても、その一つ一つに羅公遠の姿が入っていた。玄宗がわびを入れ、やっと姿をあらわした。しかし、結局、羅公遠は術を伝え、それが不完全なものであったために、玄宗は彼を殺してしまった』。『数年後、宦官の輔仙玉が蜀の地で羅公遠と会った。彼は、「お上は、なんとひどいことをされる」と話し、玄宗に伝言を頼んだという』。その後、再び玄宗と会い、「三峯歌」八首を『進講した。玄宗が修行したところ、精力が充実してきたという。その後、羅公遠はまた立ち去った』。七五六年の「安史の乱」『勃発後、玄宗が蜀の地に出奔した折り、羅公遠は再度あらわれ、成都まで送っていった後、去っていった。玄宗の蜀出奔を予言していたと言われる』。「広異記」には『天狐と術比べをし、捕らえて新羅に送ったという説話が残っている』。]
開元の某年、宮中に觀月の酒宴が催された時、玄宗皇帝は良夜の淸光を仰ぎ、かやうな晩に月宮殿に到り得たら、さぞ愉快であらうと獨語された。羅公遠は帝の側に侍してゐたが、それは造作もない事でございます、もし御意とあらば只今からでも御案内致しませう、と申し上げたので、直ちに月世界に遊ばれることになつた。羅公遠は座を立つて緣先に出ると、持つてゐた杖を空に投げる。杖は化して浮橋となり、銀のやうに光り輝いたが、その端は遠く雲に隱れてゐて、どこまで續いてゐるかわからない。羅公遠は玄宗皇帝を誘うて浮橋を渡り、忽ちに月宮殿に到つた。宮裏には畫にかいたやうな仙女が數百人居り、光り輝く衣裝を著て霓裳羽衣(げいしやううい)の曲を御覽に入れた。二人が月宮を辭して歸る時、例の浮橋は步むに隨つて消え、無事歸著すると共に影も形もなくなつてゐたさうである。
玄宗皇帝はこの時の記念として、親しく月宮殿で見物された霓裳羽衣の曲の大體を伶人に傳へ、それに摸した一曲を作らしめられた。白樂天は「長恨歌」の中で「漁陽鼙鼓動地來。驚破霓裳羽衣曲」と云ひ、また「風吹仙袂飄飄擧。猶是霓裳羽衣舞」と二度までこの曲名を用ゐてゐるが、月世界旅行の記念だと思ふと、そこに無限の趣致を生ずるやうな氣がする。
[やぶちゃん注:「長恨歌」は高校の漢文で読んでいるはず(授業でやらない教師は読めないし意味も分らないのだと馬鹿にしてよい)だが、一応、訓読を示しておく。
「漁陽鼙鼓動地來。驚破霓裳羽衣曲」
漁陽(ぎよやう)の鼙鼓(へいこ) 地を動かして來たり
驚破(きやうは)す 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲
「漁陽」は安禄山の根拠地。「鼙鼓」は騎兵が馬上で打ち鳴らす攻め太鼓。なお、曲としての「霓裳羽衣曲」は改元年中(七一三年~七四一年)に楊敬述が作曲したもので、元は「婆羅門(ばらもん)」と言った。白居易には別に「霓裳羽衣歌」という長詩もある。
「風吹仙袂飄飄擧。猶是霓裳羽衣舞」「飄飄」は「飄颻」の、「是」は「似」の誤り。
風は仙袂(せんべい)を吹きて 飄飄(へうえう)として擧がり
猶ほ霓裳羽衣の舞(まひ)に似たり。
この前だけなら校正ミスも疑われるが、二ヶ所あるのは柴田の責任が免れぬ。冒頭の一篇のコーダなだけに甚大な瑕疵と言わざるを得ない。]