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カテゴリー「柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」」の21件の記事

2023/04/16

蒲松齡「聊齋志異」 柴田天馬訳註「禽俠」

 

[やぶちゃん注:現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」の「鴻の巢」の電子化注に急遽必要になったので、電子化する(実は、昨日、半分まで注を附したところで、ひと眠りした後、本未明午前二時半に起き、八時間半ぶっ続けでやったのだが、まだ注が終わらない。その殆んど最後の作業が、これからやる、これを含めて五つの電子化が相当するのである)。熊楠の論考中には、返り点附き原文が載り、私の訓読文も載せてあるので、それらは省略する。今まで通り、柴田氏の快刀乱麻のルビは総て再現する。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の柴田天馬訳「定本 聊齋志異」巻四(昭和四二(一九六七)年修道社刊)の当該部のここからのそれを視認した。但し、同じ柴田氏訳の角川文庫版「完訳 聊齋志異」第三巻所収の別訳(昭和五一(一九七六)年第五版)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。何故、以上の底本に拘るのかと言えば、正字正仮名版だからである。踊り字「〱」「ぐ」は生理的に嫌いなので正字化した。一箇所、誤植と断じ得るものがあったが、たまたま同じ表現になっている角川版の箇所で訂した。特に指示しない。「註」は全体が二字下げで、「註」以外はポイント落ちで、二行に渡る場合は四字下げであるが、総て引き上げポイントも同じとした。なお、「こうのとり」の正しい歴史的仮名遣は「こふのとり」である。]

 

禽 俠(きんけふ)

 

 天津の、某(ある)お寺の屋根の鴟尾(しやちほこ)(一)のそばに、鸛鳥(こうのとり)が巢をつくつた。

 お堂(だう)の承塵(ひさし)の上に盆のやうな大蛇が藏(かく)れてゐて、いつも、鸛(こう)の雛が、團翼(かたま)つてゐるのをみては、出て來て、淨(きれい)に呑食う(のみ)盡くすので、鸛は悲しさうに鳴きながら、幾日(いくにち)かして、去(い)つてしまふのだつた。

 そんなことが三年つゞいた。

 群(みんな)は必(きつ)と復(も)う其の鳥はこないだらうと料(おも)つてゐたが、次の年も、故(もと)のやうに巢をつくり、雛が、ほゞ長成(そだ)つたころになつてから、忽(たちま)ち、どこへか去(い)つて、三日めに、始(やつ)と歸つてくると、巢に入つて、啞々(くうくう)いひながら、初(まへ)のやうに、子(こども)を、哺(はぐ)くみそだてるのだつた。

 蛇が又蜿蜒(うね)りながら上つて來て、巢に近づくと、二羽の鸛(こう)は驚いて、哀しさうに鳴き急(さわ)ぎつゝ直上靑(あをぞら)冥(たか)く飛んでいつた。

 そのとき、俄かに蓬々(ざあつ)(二)といふものすごい聲(おと)が聞えて、一瞬間(たちまち)天地が晦(やみ)のやうにくらくなつた。みんなは駭き異(あやし)んで、共にかなたを視あげると、大きな鳥が翼で天日を覆ひ、風雨のやうな驟(はや)さで、疾(さつと空からまひ下り爪ではつしと蛇を擊つた。蛇の首は立ちどころに堕(お)ちてしまひ、その連(はづみ)でお堂(だう)の角(すみ)が、何尺も摧(くだ)けた。

 大きな鳥は翼を振つて去(かへ)つていつた。鸛(こう)はそれを送るかのやうに、其の後についてとんでいつた。

 巢が傾いたので、二羽の雛が落ちたが、みると一つは生き一つは死んでゐた。僧(ばう)さんは生きてるのを取りあげて、鐘樓の上に置いてやつた。

 しばらくすると鸛は返つてきて仍(もと)のやうに巢に就いて、之(それ)を、哺(はぐ)くみ、翼が成(で)きあがつてから去(い)つてしまつた。

 

 濟南のある營兵が、鸛(こう)のとりのとんで過(ゆく)のを見て、之(それ)を射ると、弦おとと應(とも)に落ちてきたが、喙中(くち)に魚を銜(ふく)んでゐるのは、子(こども)に哺(はぐ)くまうとしてゐたのであらう。或人が、矢を技いて放してやれと勸めたが、營卒は聽かなかつた。

 しばらくすると、鸛は矢を帶びたまゝで飛び去つたが、その後二年餘りも、故(もと)のやうに矢に貫かれながら、近郭間(しろのちかま)を往つたり來たりするのを見かけた。

 ある日營卒が轅門(おもてもん)(三)のところに坐つてゐると、鸛のとりが其の上を飛んでいつた。そして帶びてゐた矢を地に堕した。

 營卒はそれを拾つて眺めながら、

 「この矢も固無恙無哉(ぶじだつたな)!」

 とじやうだんを曰つた。そのとき急に耳が癢(かゆ)くなつたので、矢を耳搔の代りにしてゐると、だしぬけに大風が吹いて門を摧(あふ)り、門が驟(いきな)り闔(しま)つて矢に觸れたため、矢が腦(あたま)にさゝつて死んでしまつた。

 

       註 

(一) 鴟尾又はの鴟吻ともいふ。本當は魚尾といふので、屋上の棟の兩端の裝飾である。漢武の柏梁殿が火災に罹つた時、術者が上奏して、天上に魚尾星がある、其の形をとつて屋上に冠し、火除けのまじなひにしたらよいと曰つたので、屋根に魚尾をつくつたといふ。こゝでは鯱鉾と譯しておく。

(二) 盛んなるかたちである。詩に、其葉蓬々とある。こゝでは、ざあつと、と譯しておく。

(三) 車をおりる官衙の外門である。

 

2023/02/11

以下の三つのデータを更新した

サイトの

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注

及び

梅崎春生全詩集(私のオリジナル初出に基づくもの)

の二つは、Word文書縦書公開だけであったものを、PDF縦書版を追加した。

さらに、読者からのメールでダウン・ロード不全があったことが発覚した、2015年6月20日附の、『竹靑(蒲松齡「聊斎志異」柴田天馬譯)』のワード縦書版のリンクを修正した。

2022/06/19

昨晩ブログ・アクセス1,760,000アクセスを突破、「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」にアクセス集中

昨晩、午後八時前、ブログ・アクセスが1,760,000を突破した。今月に入って、毎日、900から1000アクセス超えで、異様。因みに、特異点アクセス・ベスト1は、2014年5月4日の「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」。今月の半月だけで、1571アクセスもあった。またぞろ、高校か大学の芥川龍之介の小説「酒蟲」辺りの研究課題が出たんだろうなぁ。なお、気がついたら、ルビを入れたリッチ・テキスト形式で投稿したのだが、不具合があってある二行が重なってしまっていたので、先ほど、修正した。記念テクストは鋭意作成中。今日中には公開できるだろう。

2022/05/21

ブログ・アクセス1,730,000アクセス突破記念 柴田天馬訳・蒲松齢「聊斎志異」中の「長淸僧」を(PDF縦書版・ルビ附)でここで公開した

柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」の「長淸僧」をPDF版でここに公開する。

ダウンロード - tyouseisou.pdf

【午後二時過ぎ追記】先ほど、ブログ・アクセスが1,730,000アクセスを突破したのであるが、記念テクストを作っている暇がない。これを急遽、その代替とする。悪しからず。

2021/12/14

我古き記事「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」大繁盛の語(こと)或いはコピペは「危険がアブナい」語


 過去最短の十六日で一万アクセスがきた。ここのところ、一日のアクセスが500を有意に越える。

のアクセスが上位にあるのは納得なのだが、一つの不審が、夏以来の特異点として、

が、実は、四、五ヶ月、ほぼ毎日、単独アクセス最多を維持し続けている点である。一記事としては、今までにない、かなり異様な事態だ。既に単独1000回アクセスを超えている。

 思うに、大学の漢文或いは近代文学の芥川龍之介の「酒虫」の原拠比較の宿題か? 私には、

もある(サイトのアクセス・カウントは一切行っていない)。

 高校教師時代、漢文の実力試験用に使ったことはあったが、内容的に今は教科書には載り難いから、やはり、大学の課題か、予備校の受験用の出題かとも思われる。後者はスマホでのアクセスが有意に多いことからの推測である。

 古くに、知られたQ&Aサイトの回答で私の上記ブログのリンクが紹介されており、検索しても、「柴田天馬訳 酒虫」で以上の私のブログ記事がトップに出てくる。

 予備校はどうでもいいが、後者の私のを、大学の課題でコピペすると、すぐ、バレるぜ。「危険がアブナいよ――」

2017/07/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「虎の皮」

 

 虎の皮

 

  虎が人になり、人が虎になる支那の話の中で、特に奇妙に感ぜられるのは虎が美人に化する話である。蒲州の人崔韜なる者、旅中仁義館といふところに宿る。館吏の話によると、この建物は惡い評判があつて、誰も宿泊せぬといふことであつたが、崔は構はずに一夜を明すことにした。夜の十時頃、突然門があいて、一疋の虎が入つて來たので、崔もびつくりして暗がりに身をひそめたが、虎は毛皮を庭に脱ぎ捨て、綺麗に著飾つた女子になつて上つて來た。相手が人間の姿になれば別にこはくもないから、一體獸になつて入つて來たのはどういふわけか、と尋ねた。女子はそれに答へて、願はくは君子怪しむことなかれ、私の父兄は獵師でありますが、家が貧しいために良緣を求めることが出來ません、それで夜ひそかにこの皮を被り、自分の生涯を托すべき人を待つてゐるのですが、皆恐怖して自ら命をなくしてしまふのです、今夜は幸ひにあなたのやうな方にお目にかゝることが出來ました、どうか私の志を聽き屆けて下さい、と云ふ。崔も係累のない獨身者であるから、二人の結婚は忽ち成立した。崔は例の毛皮を館の裏にあつた空井戸に投げ込み、匆々に女子を連れて立ち去つた。崔はその後官途に就いて次第に立身し、地方に赴任するに当當り、久しぶりで仁義館に一宿した。彼に取つては忘れ得ぬ記念の地なので、早速裏の空井戸に行つて見ると、投げ込んだ毛皮は依然としてもとのままに在る。そこで妻に向つて、お前の著物はまだあるよ、と云つたら、まだありますか、と云つて妻は眼を輝かしたが、人に賴んで井戸の底から取り出して貰つた。やがて妻は笑ひながら、私はもう一度これが著て見たいと云ひ、階下に下りて行つたかと思ふと、忽ちに虎に化して上つて來た。話はこれまでにして置きたいのであるが、一たび人間から虎に變つた以上は仕方がない。崔もその子も虎に食はれてしまつたと「集異記」に書いてある。

[やぶちゃん注:「蒲州」(ほしう)は現在の山西省にあったそれであろう。

「崔韜」「サイトウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は「太平廣記」の「虎八」に「集異記」を出典として「崔韜」で載る。

   *

崔韜、蒲州人也。旅遊滁州、南抵歷陽。曉發滁州。至仁義舘。宿舘。吏曰。此舘凶惡。幸無宿也。韜不聽、負笈昇廳。舘吏備燈燭訖。而韜至二更、展衾方欲就寢。忽見舘門有一大足如獸。俄然其門豁開、見一虎自門而入。韜驚走、於暗處潛伏視之、見獸於中庭去獸皮、見一女子奇麗嚴飾、昇廳而上、乃就韜衾。出問之曰。何故宿餘衾而寢。韜適見汝爲獸入來、何也。女子起謂韜曰、「願君子無所怪。妾父兄以畋獵爲事。家貧、欲求良匹、無從自達。乃夜潛將虎皮爲衣。知君子宿於是舘。故欲託身、以備灑掃。前後賓旅、皆自怖而殞。妾今夜幸逢達人、願察斯志。」。韜曰、「誠如此意、願奉懽好。」。來日、韜取獸皮衣、棄廳後枯井中、乃挈女子而去。後韜明經擢第、任宣城。時韜妻及男將赴任、與俱行。月餘。復宿仁義舘。韜笑曰、「此舘乃與子始會之地也。」。韜往視井中、獸皮衣宛然如故。韜又笑謂其妻子曰、「往日卿所著之衣猶在。」。妻曰、「可令人取之」。既得。妻笑謂韜曰、「妾試更著之。衣猶在請。妻乃下階將獸皮衣著之纔畢。乃化爲虎。跳躑哮吼。奮而上廳。食子及韜而去。

   *]

 

 これとよく似た話は「原化記」にも出てゐる。旅中一宿した僧房に於て、十七八の美人を見ることは同じであるが、この方は虎になつたのを目擊したわけでなく、虎の皮をかけて熟睡してゐるに過ぎなかつた。この皮をひそかに取つて隱してしまひ、然る後その美人と結婚する。役人となつて地方に赴任し、また同じ僧房に宿るまで、「集異記」の話と變りはない。たゞこの女房は、主人公が往年の事を云ひ出したら、びどく腹を立てて、自分はもと人類ではない、あなたに毛皮を隱されてしまつた爲、已むを得ず一緒になつてゐるのだ、と云つた。その態度が次第に兇暴になつて、いくらなだめても承知せぬので、たうとうお前の著物は北の部屋に隱してある、と白狀してしまつた。妻は大いに怒り、北の部屋を搜して虎の皮を見付け出し、これを著て跳躍するや否や大きな虎になつた。全體の成行きから見ると、この方が悲劇に終りさうに見えるが、林を望んで走り去り、亭主が驚懼して子供を連れて出發することになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「虎二」に「原化記」を出典として「天寳選人」という題で載る。

   *

天寶年中、有選人入京、路行日暮、投一村僧房求宿。僧不在。時已昏黑、他去不得、遂就榻假宿、鞍馬置於別室。遲明將發、偶巡行院。至院後破屋中、忽見一女子。年十七八、容色甚麗。蓋虎皮。熟寢之次、此人乃徐行、掣虎皮藏之。女子覺、甚驚懼、因而爲妻。問其所以、乃言逃難、至此藏伏。去家已遠、載之別乘、赴選。選既就、又與同之官。數年秩滿、生子數人。一日俱行、復至前宿處。僧有在者、延納而宿。明日、未發間、因笑語妻曰、「君豈不記余與君初相見處耶。」。妻怒曰、「某本非人類、偶爾爲君所收、有子數人。能不見嫌、敢且同處。今如見耻、豈徒為語耳。還我故衣、從我所適。」。此人方謝以過言、然妻怒不已、索故衣轉急。此人度不可制、乃曰、「君衣在北屋間、自往取。」。女人大怒、目如電光。猖狂入北屋間尋覔虎皮。披之於體。跳躍數步、已成巨虎、哮吼囘顧、望林而往。此人驚懼、收子而行。

   *]

 

「河東記」に出てゐるのも、旅中風雪の夜にはじめて相見た少女と結婚する話で、夫妻唱和の詞などがあり、才子佳人の情話らしく思はれるのに、末段に妻の家に歸つたところで、壁に掛けた故衣の下から虎の皮を發見すると、妻は俄かに大笑し、あゝこれがまだあつたか、と云ひ、身に著けると同時に虎になつて咆哮し、門を衝いて去るとある。前に虎になることは勿論、虎の皮の事も全く見えぬ。最後に虎の皮を得て忽ち虎に化し去るのは、何だか取つて付けたやうで、少しく唐突の嫌ひがないでもない。

[やぶちゃん注:以上は「河東記」に出る「申屠澄」。

   *

申屠澄者、貞元九年、自布衣調補濮州什邠尉。之官、至眞符縣東十里許遇風雪大寒、馬不能進。路旁茅舍中有煙火甚溫煦、澄往就之。有老父嫗及處女環火而坐、其女年方十四五、雖蓬發垢衣、而雪膚花臉、舉止妍媚。父嫗見澄來、遽起曰、「客沖雪寒甚、請前就火。」。澄坐良久、天色已晚、風雪不止、澄曰、「西去縣尚遠、請宿於此。」。父嫗曰、「不以蓬室爲陋、敢不承命。」。澄遂解鞍、施衾幬焉。其女見客、更修容靚飾、自帷箔間復出、而閑麗之態、尤倍昔時。有頃、嫗自外挈酒壺至、於火前暖飮。謂澄曰、「以君冒寒、且進一杯、以禦凝冽。」。因揖讓曰、「始自主人。」。翁卽巡行、澄當婪尾。澄因曰、「座上尚欠小娘子。」。父嫗皆笑曰、「田舍家所育、豈可備賓主。」。女子卽囘眸斜睨曰、「酒豈足貴、謂人不宜預飮也。」。母卽牽裙、使坐於側。澄始欲探其所能、乃舉令以觀其意。澄執盞曰、「請徵書語、意屬目前事。」。澄曰、「厭厭夜飮、不醉無歸。」。女低鬟微笑曰、「天色如此、、歸亦何往哉。」。俄然巡至女、女復令曰、「風雨如晦、雞鳴不已。」。澄愕然嘆曰、「小娘子明慧若此、某幸未昏、敢請自媒如何。」。翁曰、「某雖寒賤、亦嘗嬌保之。頗有過客、以金帛爲問、某先不忍別、未許、不期貴客又欲援拾、豈敢惜。」。卽以爲托。澄遂修子婿之禮、祛囊之遺之、嫗悉無所取、曰、「但不棄寒賤、焉事資貨。」。明日、又謂澄曰、「此孤遠無鄰、又復湫溢、不足以久留。女既事人、便可行矣。」。又一日、咨嗟而別、澄乃以所乘馬載之而行。既至官、俸祿甚薄、妻力以成其家、交結賓客、旬日之、大獲名譽、而夫妻情義益浹。其於厚親族、撫甥侄、洎僮僕廝養、無不歡心。後秩滿將歸、已生一男一女、亦甚明慧。澄尤加敬焉。常作贈詩一篇曰、「一官慚梅福、三年愧孟光。此情何所喩、川上有鴛鴦。」其妻終日吟諷、似默有和者、然未嘗出口。每謂澄曰、「爲婦之道、不可不知書。倘更作詩、反似嫗妾耳。」。澄罷官、卽罄室歸秦、過利州、至嘉陵江畔、臨泉藉草憩息。其妻忽悵然謂澄曰、「前者見贈一篇、尋卽有和。初不擬奉示、今遇此景物、不能終默之。」。乃吟曰、「琴瑟情雖重、山林志自深。常尤時節變、辜負百年心。」。吟罷、潸然良久、若有慕焉。澄曰、「詩則麗矣、然山林非弱質所思、倘憶賢尊、今則至矣、何用悲泣乎。人生因緣業相之事、皆由前定。」。後二十餘日、復至妻本家、草舍依然、但不復有人矣。澄與其妻卽止其舍、妻思慕之深、盡日涕泣。於壁角故衣之下、見一虎皮、塵埃積滿。妻見之、忽大笑曰、「不知此物尚在耶。」。披之、卽變爲虎、哮吼拿攖、突門而去。澄驚走避之、攜二子尋其路、望林大哭數日、竟不知所之。

   *]

 

 虎の因緣の頗る稀薄な最後の話はしばらく除外するとして、「集異記」及び「原化記」の話は、一面に於て餘吾の天人以來の白鳥傳説を連想せしめると同時に、他の一面に於て「情史」の「情仇類」中の話と多少の連關を持つてゐる。鉛山に人あり、一美婦に心を寄せてゐたが、容易にその意に從はぬ。たまたまその夫が病氣になつた時、大雨の日の晦冥に乘じ、花衣兩翼を著け、雷神のやうな恰好をしてその家に到り、鐡椎を揮つて夫を殺してしまつた。今なら到底こんな事でごまかせるものではないが、當時は雷雨中の出來事だけに雷に打たれたものとして怪しまなかつたと見える。それから稍時間を置いて、人を介して結婚を申し込み、首尾よく本望を達し得た。夫婦仲も不思議に睦まじく一子を擧げた後、この前のやうな雷雨があつたので、男の方から一部始終を話し、もしあの時あゝいふ非常手段を執らなかつたら、お前を妻にすることは出來なかつたらう、と云つた。妻はさりげなく笑つて、その著物や翼は今でもありますか、と尋ねる。こゝにあると箱から出して見せたのが運の盡きで、妻は夫の外出を待ち、これを證據物件として官に訴へ、夫は申開きが立たず、死罪になつた。この話には妖味はないが、隱して置いた祕密を自ら持ち出した爲、運命の破綻に了ることは、前の虎の話と揆を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:「餘吾の天人」「近江国風土記」に記載される現在の滋賀県長浜市にある余呉湖(琵琶湖の北方にある独立した湖。ここ(グーグル・マップ・データ))を舞台とした羽衣伝説の天人。この伝承では天女が衣を掛けるのは柳となっている。

「白鳥傳説」各地に伝わる天の羽衣伝説では天女はしばしば白鳥となって舞い降りて美女に変ずるところから、古来の倭武尊や浦島伝説に登場する「白鳥伝説」とも関連性が強く、聖鳥が本体とするならばこれは、以上のような虎が女となって人と交わる異類婚姻譚と同じ系に属すとも言え、実際、ウィキの「羽衣伝説」によれば、本邦の羽衣伝説は神話学上の「白鳥処女説話(Swan maiden)」系の類型と考えられており、これは『日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる』とある。

「情史」明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)の書いた小説集「情史類略」のこと。

「情仇類」「じょうゆうるい」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は同書の「第十四卷 情仇類」の「鉛山婦」。

   *

鉛山有人悦一美婦、挑之不從。乘其夫病時、天大雨、晝晦、乃著花衣爲兩翼、如雷神狀、至其家、奮鐵椎椎殺之、卽飛出。其家以爲真遭雷誅也。又經若干時、乃使人説其婦、求爲妻。婦許焉。伉儷甚篤。出一子、已周矣。一日、雷雨如初。因燕語、漫及前事、曰、「吾當時不爲此、焉得妻汝。」。婦佯笑、因問、「衣與兩翼安在。」。曰、「在某箱中。」。婦俟其人出、啓得之。赴訴張令。擒其人至、伏罪、論死。

   *]

 

 尤も虎皮を用ゐて虎に化する話は、決して女子に限るわけではない。女の虎になるといふ話が何だか不似合に感ぜられるので、先づその話を擧げて見たに過ぎぬ。王居貞なる者が洛に歸る途中、一人の道士と道連れになつた。この男は一日何も食はずにゐて、居貞が睡りに就いて燈を消すと、囊(ふくろ)の中から一枚の毛皮を取り出し、それを被つて出かけて行く。夜半には必ず歸つて來るので、或時居貞が寢たふりをして、いきなりその皮を奪つてしまつた。道士は頗る狼狽し、叩頭して返してくれといふ。君が本當の事を云へば返すよと云ふと、實は自分は人間ではない、虎の皮を被つて食を求めに出るのだ、何しろこの皮を被れば一晩に五百里は走れるからね、といふことであつた。居貞も家を離れて久しくなるので、ちよつと家に歸りたくなり、賴んでその皮を貸して貰つた。居貞の家は百餘里の距離だから、忽ちに門前に到つたが、中へ入るわけに往かぬ。門外に豕(ぶた)のゐるのを見て、たちどころに食つてしまひ、馳せ歸つて毛皮を道士に返した。家に戾つてから聞いて見ると、居貞の次男が夜、外へ出て虎に食はれたといふ。その日を勘定したら、正に居貞が毛皮を被つて行つた晩であつた(傳奇)。――我が子の見分けも付かなくなるに至つては、物騷でもあり不愉快でもある。虎皮を被ればおのづから虎心を生じ、眼前の動物が皆食糧に見えるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「王居貞なる者が洛に歸る途中」原文を見ると判るが、「下第」で彼は科挙試を受けて落第して、消沈して帰る途中である。

「この男は一日何も食はずにゐて」原典では道士はそれを道術の「咽氣術だ」と述べたとする。

「五百里」何度も述べているが、中国唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないが、それでも二百八十キロメートル弱となる。

「傳奇」は晩唐の文人官僚裴鉶(はいけい)の伝奇小説集で、唐代伝奇の中でも特に知られたもので、本書の名が一般化して唐代伝奇と呼ばれるようになったとも言われている。ここに出るのは「太平廣記」の「虎五」の「王居貞」。

   *

明經王居貞者下第、歸洛之潁陽。出京、與一道士同行。道士盡日不食。云、「我咽氣術也。」。每至居貞睡後、燈滅。卽開一布囊、取一皮披之而去、五更復來。他日、居貞佯寢、急奪其囊、道士叩頭乞。居貞曰、「言之卽還汝。」。遂言吾非人、衣者虎皮也、夜卽求食於村鄙中、衣其皮、卽夜可馳五百里。居貞以離家多時、甚思歸。曰、「吾可披乎。」。曰、「可也。居貞去家猶百餘里。遂披之暫歸。夜深、不可入其門、乃見一豬立於門外、擒而食之。逡巡囘、乃還道士皮。及至家、云、居貞之次子夜出、爲虎所食。問其日、乃居貞囘日。自後一兩日甚飽、並不食他物。

   *

原典では後からつけたように、最後に「王居貞が虎に変じて豚に見えた自分の子どもを食べた後は、一日二日の間、腹が一杯の状態であって何も食べなかった」という象徴的なカニバリズム・ホラーの駄目押しが行われいることが判る。]

 

 由來虎の話に關する限り、道士なる者が甚だ怪しいので、石井崖なる者が或溪のところへ來ると、朱衣を著けた一人の道士が靑衣の二童子を從へて石の上に居る。その量子に語る言葉を聞けば、わしは明日中に書生石井崖を食ふ筈になつてゐる、お前達は側杖を食つて怪我をするといかんから、どこかへ行つてゐた方がよからう、といふのであつた。井崖の眼には道士の姿が見えるが、道士は井崖のゐることに氣が付かぬらしいので、驚いて旅店に匿れ、幾日も外へ出ぬやうにしてゐた。たまたま軍人がやつて來て、お前は武器を携へて居りはせぬかと問ふ。井崖は道士の言を聞いて居るから、刀を出して軍人に渡し、自分は槍の穗先を拔いて懷ろに呑んで居つた。井崖が容易に出發せぬのを見て、頻りに追ひ立てようとする。已むを得ず宿を立つ段になつて、槍の穗先を竹に仕込み、恐る恐る出かけると、果して一疋の虎が路を要して居る。井崖は忽ちに捉へられたが、用意の槍を以てその胸を突き、途にこれを發した。前の二童子もどこからか現れ、この體を見て大よろこびであつたと「廣異記」にある。この話には虎の皮の事は見えぬが、多分井崖を襲ふ前には隱し持つた虎の皮を被つて一躍咆哮したことであらう。「解頤錄」に見えた石室中の道士のやうに、已に九百九十九人を食ひ、あと一人で千人に達するといふ、五條橋の辨慶のやうな先生も居る。この道士は架上に虎の皮をひろげて熟睡してゐたといふから、道士だと云つて油斷は出來ない。道士を見たら虎と思へといふ諺、どこかにありはせぬかと思はれるくらゐである。

[やぶちゃん注:「解頤錄」(かいいろく)は唐代伝奇の一つで包湑(ほうしょ)作とするが疑わしい。

最初の話は「太平廣記」「虎七」に「廣異記」からとして「石井崖」で出る。

   *

石井崖者初爲里正。不之好也、遂服儒、號書生、因向郭買衣、至一溪、溪南石上有一道士衣朱衣、有二靑衣童子侍側。道士曰。「我明日日中得書生石井崖充食、可令其除去刀杖、勿有損傷。」。二童子曰、「去訖。」。石井崖見道士、道士不見石井崖。井崖聞此言驚駭、行至店宿、留連數宿。忽有軍人來問井崖。莫要携軍器去否。井崖素聞道士言、乃出刀、拔鎗頭、懷中藏之。軍人將刀去、井崖盤桓未行。店主屢逐之、井崖不得已、遂以竹盛却鎗頭而行。至路口、見一虎當路。徑前躩取井崖。井崖遂以鎗刺、適中其心、遂斃。二童子審觀虎死。乃謳謌喜躍。

   *

この話、幾つかの意味不明な箇所が却って話を面白くさせているように私には思われる。まず、井崖には道士が見えたのに、道士には見えなかった点で、これは逆に井崖にこそ仙骨があることの暗示であろう。武器を取り上げた軍人は道士の変じたものであろうが、さても意外な展開で虎が斃されると、例の青衣の二童子が出て来て大喜びする辺りには、道士の弟子は師匠が死なないと、真の仙道修行が出来ないのであろうと私は推測するものである。なお、これと、次の話を読むに、羽化登仙するレベルの低い手法の中には、実は一定数の人間を喰うというカニバリズムによるそれが存在したことがよく判ってくる

   *

 後者は「太平廣記」の「虎一」に「峽口道士」として載る。

   *

開元中、峽口多虎、往來舟船皆被傷害。自後但是有船將下峽之時、即預一人充飼虎、方舉船無患。不然。則船中被害者衆矣。自此成例。船留二人上岸飼虎。經數日、其後有一船、皆豪強。數有二人單窮。被衆推出。令上岸飼虎。其人自度力不能拒、乃爲出船、而謂諸人曰、「某貧窮、合爲諸公代死。然人各有分定。苟不便爲其所害。某別有懇誠、諸公能允許否。衆人聞其語言甚切。爲之愴然。而問曰、「爾有何事。」。其人曰、「某今便上岸、尋其虎蹤、當自別有計較。但懇爲某留船灘下、至日午時、若不來、卽任船去也。衆人曰。我等如今便泊船灘下、不止住今日午時、兼爲爾留宿。俟明日若不來、船卽去也。」。言訖、船乃下灘。其人乃執一長柯斧、便上岸、入山尋虎。並不見有人蹤。但見虎跡而已。林木深邃、其人乃見一路、虎蹤甚稠、乃更尋之。至一山隘、泥極甚、虎蹤轉多。更行半里、卽見一大石室、又有一石床、見一道士在石床上而熟寐、架上有一張虎皮。其人意是變虎之所、乃躡足、于架上取皮、執斧衣皮而立。道士忽驚覺、已失架上虎皮。乃曰、「吾合食汝、汝何竊吾皮。其人曰、「我合食爾、爾何反有是言。二人爭競、移時不已。道士詞屈、乃曰、「吾有罪于上帝、被謫在此爲虎。合食一千人、吾今已食九百九十九人、唯欠汝一人、其數當足。吾今不幸、爲汝竊皮。若不歸、吾必須別更爲虎、又食一千人矣。今有一計、吾與汝俱獲兩全。可乎。其人曰、「可也。」。道士曰、「汝今但執皮還船中、剪髮及鬚鬢少許、剪指爪甲、兼頭面脚手及身上、各瀝少血二三升、以故衣三兩事裹之。待吾到岸上、汝可抛皮與吾、吾取披已、化爲虎。卽將此物抛與、吾取而食之、卽與汝無異也。」。其人遂披皮執斧而歸。船中諸人驚訝、而備述其由。遂於船中、依虎所教待之。遲明、道士已在岸上、遂抛皮與之。道士取皮衣振迅、俄變成虎、哮吼跳躑。又衣與虎、乃嚙食而去。自後更不聞有虎傷人。衆言食人數足。自當歸天去矣。

   *]

 

 かういふ道士の顏觸れを見來つて、「聊齋志異」の向杲の話を讀めば、何人も自ら首肯し得るものがあらう。向は今までの話と違ひ、莊公子なる者に兄を殺され、常に利刀を懷ろにして復讐を念願としてゐる。先方もこれを知つて、焦桐といふ弓の名人を雇ひ、警衞に怠りないので、容易につけ入る隙がないけれど、なほ初一念を棄てず、あたりを徘徊してゐると、一日大雨に遭つてずぶ濡れになり、山の上の廟に駈け込んだ。こゝに居る道士の顏を見れば、嘗て村に食を乞うた時、向も一飯を饗したおぼえがある。道士の方でも無論忘れては居らぬ。褞袍(どてら)のやうなものを出して、濡れた著物の乾くまで、これでも着ておいでなさいと云つてくれた。總身の冷えきつた向は、犬のやうにうづくまつてゐたが、身體が暖まるにつれてとろとろとしたかと思ふと、自分はいつの間にか虎になつてゐた。道士はどこへ行つたかわからない。この時莊公子の事が灼き付くやうに心に浮んで、向は虎になつたのを幸ひに、敵を嚙み殺してやらうと決心した。山上の廟へ飛び込む前、自分の隱れてゐたところに來て見たら、自分の屍がそこに橫はつてゐる。はじめて自分は已に死に、後身が虎になつたものとわかつたが、自分の屍を鳶鴉の餌にするに忍びないので、ぢつとそれを守つてゐるうちに、思ひがけなくも莊公子がそこを通りかゝつた。虎は跳躍して馬上の莊公子を襲ひ、その首を嚙み切つたが、護衞の焦桐は一矢を放ち、あやまたず虎の腹に中(あた)つた。向は再び昏迷に陷り、夢の醒めるやうに氣が付いた時は、もとの人間に還つてゐた。夜が明けて家に帰ると、向杲の幾日も歸らぬのを心配してゐた家人は、よろこんで迎へたけれど、彼は直ぐ橫になつて何も話をしない。莊公子の虎に襲はれた噂は間もなく傳はつた。向は初めてその虎は自分だと云ひ、前後の事情を話した。莊の家ではこの話を傳聞して官に訴へたが、役人は妄誕として取り上げなかつた。道士の消息は更に知られて居らぬ。彼は向に一飯の恩を受けてゐたのだから、向が敵討の志願を懷いてゐることは、勿論承知だつたに相違ない。向に貸した褞袍は何であつたか。貸し手が道士だけに、もしこれが虎の皮であれば、首尾一貫するわけであるが、「聯肅志異」はたゞ「布袍」とのみ記してゐる。道士は平生この布袍によつて虎と化してゐかどうか、その邊は更に證跡が見當らぬけれど、彼は漫然この布袍を貸し、向杲は測らず虎になつたたものとは考へにくい。虎に化して敵を斃した後、虎に死し人に蘇る經緯は、すべて道士の方寸に出たらしく思はれる。

[やぶちゃん注:「向杲」「コウコウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「焦桐」「ショウトウ」(同前)と読んでおく。

 以上は「聊齋志異」の「第六卷」の「向杲」。

   *

向杲字初旦、太原人。與庶兄晟、友于最敦。晟狎一妓、名波斯、有割臂之盟、以其母取直奢、所約不遂。適其母欲從良、願先遣波斯。有莊公子者、素善波斯、請贖爲妾。波斯謂母曰、「既願同離水火、是欲出地獄而登天堂也。若妾媵之、相去幾何矣。肯從奴志、向生其可。」。母諾之、以意達晟。時晟喪偶未婚、喜、竭貲聘波斯以歸。莊聞、怒奪所好、途中偶逢、大加詬罵。晟不服、遂嗾從人折箠苔之、垂斃、乃去。杲聞奔視、則兄已死。不勝哀憤。具造赴郡。莊廣行賄賂、使其理不得伸。杲隱忿中結、莫可控訴、惟思要路刺殺莊。日懷利刃、伏於山徑之莽。久之、機漸洩。莊知其謀、出則戒備甚嚴、聞汾州有焦桐者、勇而善射、以多金聘爲衞。杲無計可施、然猶日伺之。一日、方伏、雨暴作、上下沾濡、寒戰頗苦。既而烈風四塞、冰雹繼至、身忽然痛癢不能復覺。嶺上舊有山神祠、強起奔赴。既入廟、則所識道士在内焉。先是、道士嘗行乞村中、杲輒飯之、道士以故識杲。見杲衣服濡、乃以布袍授之、曰、「姑易此。」。杲易衣、忍凍蹲若犬、自視、則毛革頓生、身化爲虎。道士已失所在。心中驚恨。轉念、得仇人而食其肉、計亦良得。下山伏舊處、見己尸臥叢莽中、始悟前身已死、猶恐葬於烏鳶、時時邏守之。越日、莊始經此、虎暴出、於馬上撲莊落、齕其首、咽之。焦桐返馬而射、中虎腹、蹶然遂斃。杲在錯楚中、恍若夢醒、又經宵、始能行步、厭厭以歸。家人以其連夕不返、方共駭疑、見之、喜相慰問。杲但臥、蹇澀不能語。少間、聞莊信、爭即牀頭慶告之。杲乃自言、「虎卽我也。」。遂述其異。由此傳播。莊子痛父之死甚慘、聞而惡之、因訟杲。官以其事誕而無據、置不理焉。

異史氏曰、「壯士志酬、必不生返、此千古所悼恨也。借人之殺以爲生、仙人之術亦神哉。然天下事足髮指者多矣。使怨者常爲人、恨不令暫作虎。」。

   *

例によって柴田天馬氏の訳を掲げておく。一部の読みは省略した。

   *

 

 向杲

 

 向杲は字を初旦と言って、大原の人だった。腹違いの兄にあたる晟(せい)と友于最敦(たいそうなかがよ)かったが、晟には波斯(はし)という狎(なじ)みの一妓(おんな)があって、割臂之盟(ふかいなか)だつたが、女の母親が高いことを言うので、二人の約束は遂げられずにいた。

 そのうちに、女の母親は、堅気になろうという気がでたので、まず渡斯を、どこへかやりたいと願っていると、前から波斯と心やすくしていた荘という家の公子が、身受けをして妾にしたいと言ってきたので、波斯は母に言った、

 「あたしも、いっしょに苦界を出ようと願ってるんだわ! 地獄を出て天堂に登ろうというんだわ! 妾になるんだったら、今と、たいして違わないじゃないの? あたしの願いをいれてくださるんだったら、向さんが、いいのよ」

 母が承知したので、晟に考えを知らせると、晟は妻をなくしてまだ結婚しない時だったから、ひどく喜んで財布をはたき、波斯を聘(めと)って帰ったのであった。

 荘はそれを聞くと、晟が好きな女を取ったと言って怒った。そして、あるとき、途中で晟に会い、たいそう晟を罵ったが、晟が、あやまらないので、供のものに言いつけ、箠(むち)の折れで、ひどく、なぐらせ、晟が死にそうになったのをみて、行ってしまった。

 それを聞いて杲が駆けつけたときには、兄は、もう死んでいた。杲はたらなくかなしかった。腹だたしくもあった。で、すぐ郡に行って訴えたが、荘は広く賄賂をおくって、その理くつを通らないようにした。杲は、くやしいとは思うけれど控訴するみちがないので、待ち伏せをして荘を刺し殺そうと思い、毎日、利刃(わざもの)を懷(の)んで山路の草むらに隠れている、その秘密が、だんだん漏れて、荘は彼の謀(たく)みを知り、出るときには、厳しい戒備(そなえ)をつけていた。そして汾州の焦桐と小う弓の上手な勇士に、たくさんな金をやって、焦を呼び迎え、護衛の一人としたため、呆は手が出せなくなったが、それでも、なお毎日ねらっているのだった。

 ある日、ちょうど、かくれているときだった。雨が、にわかに降ってきたので、ずぶぬれになり、寒さに苦しんでいるうちに、ひどい雨が、いちめんに吹き起こったと思うまもなく、続いて、あられが降ってきた。呆は忽々然(うつとり)して、痛いとか、かゆいとかいう覚えが、もうなくなったのであった。

 嶺の上には、古くから山神の祠があった。呆は強(むりや)りに走って行き、やがて廟にはいると、そこには所識(なじみ)の道士がいた。前であるが、道士がかつて村に乞いに行ったとき、呆は道士に食べさしてやったことがあるので、道士は杲を知っていた。で、杲が、ぬれねずみになってるのを見ると、布の(もめん)の袍(うわぎ)をわたし、

 「とにかく、これと易(か)えなされ」

 と言うので、杲は、それと着かえ、寒さをこらえながら、犬のように、うずくまっていたが、見ると、たちまち毛が生えて、からだは虎になっていた。道士は、もう、いなかったのである。

 杲は、心の中で驚きもし恨みもしたけれど、仇人(かたき)をつかまえて、その肉を食うには都合がよいと思いかえし、峰を下りて、もと隠れていた所へ行って見ると、自分の死骸が草むらの中に臥(ふせ)っていた。で、やっと前身は、もう死んだのだと悟り、烏や鳶の腹に葬られるのが心配だったから、ときどき見まわって守っていた。

 趣日(あくるひ)、ちょうど荘がそこを通ると、たちまち虎が出て、馬上の荘をたたき落とし、首を齕(か)みきって飲んでしまった。焦桐が、とって返して射った矢が、虎の腹にあたって、虎は、ぱったり倒れた。と、杲は在錯楚中(はやしのなか)で、うっとりと目がさめた。そして、ひと晩すぎて、やっと歩けるようになり、厭々(ぶじ)に帰って来たのだった。

 家のものはみんな杲が幾夜も帰らないのを心配しているおりからだったので、彼を見ると、喜んで、慰めたり、たずねたりしたが、呆は、ただ臥(ね)ているはかりで、口がきけなかった。

 しばらくしてから、荘のたよりを聞いて、みんなは枕もとに来て争(われさき)に話して聞かせた。で、杲は、

 「虎は、おれさ!」

 と言って、ふしぎなことを、みんなに話した。それが伝わったので、父の死を痛み嘆いていた荘のせがれは、それを聞くと悪(くや)しがって、杲を訴えたが、役人は事がらが誕(ばから)しいうえに拠(よりどころ)がないので取りあわなかった。

   *

天馬氏がカットした蒲松礼齡の評言は、

――「壯士、酬ひんと志ざさば、必ず、生きては返らず」とは、千古の昔より、人々に如何とも言い難いやるせない思いをさせてきた所のものである。人が誰かを殺すのに手を貸した上、以ってその人の生命(いのち)をも救ったとは、その仙人の術、これ、なんとまあ、神妙なものであることか! それにしても、この世には怒髪天を衝くが如き痛憤なる出来事が実に多い。怨みを懐かさせられる者は、これ、いつも人間なのであって、仮に暫しの間でさえも虎となれぬことを恨めしく思うことであろう。――

といった意味である(訳には平凡社の「中国古典文学大系」版の訳を一部、参考にさせて貰った。]

2017/07/19

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その2)~「龍の變り種」了

 

 盧君暢といふ人が野に出て二疋の白犬を見た。田圃道を元氣に駈け𢌞つてゐるが、その犬の腰が甚だ長い。盧もその點に不審を懷き、馬をとゞめてぢつと見てゐると、俄かに二疋とも飛び上つて、その邊にあつた沼の中に飛び込んだ。沼の水は一時に湧き上り、水烟の中から朦朧として白龍の昇天するのが見えた。雲氣はあたりに充ち滿ち、風聲雷擊交々起るといふ物凄い光景になつたので、盧は大いに恐れ、馬に鞭打つて急ぎ歸つたが、何里か來るうちに、衣服は悉く濡れ通つてしまつた。はじめて二犬の龍なるを悟ると、これは「宜室志」にある。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「龍六」に「宣室志」を出典として載せる「盧君暢」を示す。

   *

故東都留守判官祠部郎中范陽盧君暢爲白衣時、僑居漢上。嘗一日、獨驅郊野、見二白犬腰甚長、而其臆豐、飄然若墜、俱馳走田間。盧訝其異於常犬。因立馬以望。俄而其犬俱跳入於一湫中、已而湫浪汎騰、旋有二白龍自湫中起、雲氣噎空、風雷大震。盧懼甚、鞭馬而歸。未及行數里、衣盡沾濕。方悟二犬乃龍也。

   *]

 

 支那に多いのは蟄龍(ちつりやう)の話であるが、蟄龍に至つては眞に端倪すべからざるもので、どこに潛んでゐるかわからない。「龍」(芥川龍之介)の中で、猿澤の池のほとりに「三月三日この池より龍昇らんずるなり」といふ札を立てた得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところがあるが、この話は明かに「大唐奇事」に出てゐる。洛陽の豪家の子供が、眉のほとりに肉塊が出來て、いくら療治してもなほらぬ。洛城の一布衣、自ら終南山人と稱する男がこの肉塊を見て、先づ恭しく神を祭り、壺の中から一丸藥を取り出して碎いてつけたところ、暫時にして肉塊が破れ、小さな蛇が中から出て來た。はじめは五寸ぐらゐの長さであつたが、忽ちのうちに一丈ばかりになつた。山人が一擊叱咤すると、雲霧俄かに起り、蛇はその雲に乘じて昇天しようとする。山人忻然としてこれに跨がり、去つて行く所を知らずといふのである。この話などは奇拔な蟄龍譚の中に在つて、最も奇拔なものであるに相違ない。

[やぶちゃん注:「蟄龍(ちつりやう)」地中に潜んでいる竜。後は専ら「活躍する機会を得ないで、世に隠れている英雄」の譬えとして用いられることが殆んどである。

「端倪すべからざるもの」「端倪(たん げい)」は「荘子」「大宗師篇」を初出とする語で「端」は「糸口」、「倪」は「末端」の意で「事象の始めと終わり」の意であるが、後に中唐の韓愈の文「送高閑上人序」(高閑上人を送る序)で「故旭之書、變動猶鬼神、不可端倪、以此終其身而名後世」(故に旭の書、變動、猶ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以つて其の身を終ふれども後世に名あり:「旭」はこの前で述べている草書の達人)という文々から「推しはかること」の意となった。ここは後者で「その最初から最後まで或いはその総体を安易に推し量ることは出来ない・人智の推測が及ぶものではない・計り知れない」といった意。

『「龍」(芥川龍之介)』「龍(りゆう)」は大正八(一九一九)年五月発行の『中央公論』初出。「青空文庫」のこちらで全文(但し、新字新仮名)が読める。この作品全体は「宇治拾遺物語」の「卷第十」の「藏人得業猿沢池龍事」(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿沢池の龍(りよう)の事)を素材とするが、原拠では龍は昇天しない。

「得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところ」「惠印」は「ゑいん」と読む。これは悪戯で恵印が立てた札を見て呆気(あっけ)とられた婆さんが、「此池に龍などが居りませうかいな」と、何食わぬ顔をして様子を見に来た恵印に問うたシークエンスに出る落ち着き払った恵印ののたまうところの台詞である。岩波旧全集から引く。

   *

「昔、唐(から)のある學者が眉の上に瘤が出來て、痒うてたまらなんだ事があるが、或日一天俄に搔き曇つて、雷雨車軸を流すが如く降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふつつと裂けて、中から一匹の黑龍が雲を捲いて一文字に昇天したと云ふ話もござる。瘤の中にさへ龍が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟龍毒蛇がつて居ようも知れぬ道理じや。」

   *

 以上の「大唐奇事」のそれは「太平廣記」に同書からとして「異人二」に「王守一」として出る。

   *

唐貞觀初、洛城有一布衣、自稱終南山人、姓王名守一、常負一大壺賣藥。人有求買之不得者、病必死、或急趁無疾人授與之者。其人旬日後必染沈痼也。柳信者、世居洛陽、家累千金、唯有一子。既冠後、忽於眉頭上生一肉塊。歷使療之、不能除去、及聞此布衣、遂躬自禱請、既至其家、乃出其子以示之。布衣先焚香、命酒脯、猶若祭祝、後方於壺中探一丸藥、嚼傅肉塊。復請具樽爼。須臾間、肉塊破、有小蛇一條突出在地、約長五寸、五色爛然、漸漸長及一丈已來。其布衣乃盡飲其酒、叱蛇一聲、其蛇騰起、雲霧昏暗。布衣忻然乘蛇而去、不知所在。

   *]

 

「聊齋志異」にある蟄龍は書樓の中であつた。陰雨晦冥の際、螢のやうな小さな光りある物が現れて几に登つたが、その過ぎる跡は皆黑くなる。漸くにして書卷の上に達すると、その卷もまた焦げるので、これは龍であらうと思ひ、捧げて門外に出で、暫く立つてゐたところ、少しも動かなくなつた。龍に對しいさゝか禮を失したかと思ひ返して、もう一度書卷を几に置き、自分は衣冠を改め、長揖してこれを送る態度を執つた。今度は軒下に到り、首を上げ身を伸べ、書卷を離れて橫飛びに飛んだ。その時嗤(わら)ふやうな聲がしたと思つたが、縷の如き一道の光りを放ち、數步外へ行つて首を囘らした時は、已に甕の如き頭となり、恐るべき大きな龍の身を示して居つた。お定まりの霹靂一聲で天外に去つた後、書樓に戾つて調べて見るのに、それまでは書笥中に身を潛めてゐたものの如くであつた。或時は額の瘤、或時は書笥の中、竟に窮まるところを知らぬのが、龍の神變自在なる所以であらう。

[やぶちゃん注:「書樓」書斎を兼ねた多層階状の書庫。

「書笥」「しよし」。後の柴田天馬氏の訳で判る通り、本箱・本棚のこと。

 以上は「聊齋志異」の「卷四」の「蟄龍」。まず原文を示す。

   *

於陵曲銀臺公、讀書樓上、陰雨晦冥、見一小物、有光如熒、蠕蠕登几、過處則黑、如蚰跡、漸盤卷上、卷亦焦、意爲龍、乃捧送之。至門外、持立良久、蠖曲不少動、公曰、「將無謂我不恭。」。執卷返、乃置案上、冠帶長揖而後送之。方至簷下、但見昂首乍伸、離卷橫飛、其聲嗤然、光一道如縷。數步外、囘首向公、則頭大於甕、身數十圍矣。又一折反、霹靂震驚、騰霄而去。回視所行處、蓋曲曲自書笥中出焉。

   *

 柴田天馬氏の訳(昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫刊)で以下に示す。

   *

 

 蟄竜(ちつりゅう)

 

 暗い雨の日だった。銀台(つうせいし)の於陸曲(おりくしょく)公が、楼上で書を読んでいると、螢のような光のある小さな物が、うじうじ机に登って来た。その通った処は、蚰(なめくじ)の跡のように黒くなり、だんだん巻(ほん)の上に来て、とぐろを巻くと、巻も、やほり焦げるのだった。公は竜だと思ったので、巻を捧げて門外に送って行き、巻を持って、しばらく立っていたが、曲がったままで少しも動かなかった。公は、

 「我(わし)のしかたが、恭しくないと思うのではないかな」

 と言って、巻(ほん)を持って引き返し、もとのように机の上に置いて、衣冠束帯に身を正し、長揖(おじぎ)をしてから送って行った。そして軒下まで来ると、首をあげてからだを伸ばし、巻を離れて飛びあがった。しっ、という音がして、一道(ひとすじ)の光が糸すじのようであったが、数歩を離れ、公に向かって、ふりかえった時には、頭(かしら)は甕(かめ)よりも大きく、からだは数十囲であった。そして向きなおるとともに、霹靂(いかずち)が大地をふるわせ、空へ登って行ってしまった。小さい物の歩いた処を見ると、書笥(ほんばこ)の中から出て来たのであった。

   *

「銀台」は内外の上奏書を受けて処理する役所である通政司或いはその長官通政使の俗称。]「於陸曲(おりくしょく)公」原文との相違が激しく、何だかおかしいと感じたので、所持する平凡社の「中国古典文学大系」(第四十巻)版の訳を見たところ、冒頭で『於陵(山東省)の銀台にいた曲(きょく)公』と訳されてある。これはそれで腑に落ちる。「蚰」平凡社版は『みみず』(蚯蚓)とするが、「蚰」は中文サイトを見ても「蛞蝓」とするので天馬訳を採る。「長揖」平凡社版には『ちょうゆう』とルビし、割注で『拱手(きょうしゅ)した腕を上から下へおろす礼』とある。「数十囲」平凡社版は『十抱(かか)え』とする。中国特有の誇張表現と考えれば、平凡社版の方が判りはよい。しかし、仮に日本人体尺の両腕幅である「比呂(尋)」(=百五十一・五センチメートル)としても、十五メートル強となる。昇龍としてはもう充分過ぎるほど、ぶっとい。]

 

「夜譚隨錄」にあるのは、李高魚といふ人が枕碧山房の壁に掛けた古い劍である。例によつて大雷雨の日、一尺餘りの黑い物が、細い線を引いて動くあとを、紅い線のやうなものが逐つて行く。何とも知れぬ二つの線が窓から入つて來て、室内を飛び步くうちに壁に近付いて劍の鞘の中に入つてしまつた。戞々(かつかつ)といふ音がして、狹い鞘の中を動き𢌞るのに、少しも閊へる樣子がない。やゝ暫くして今度は鞘を飛び出し、蜿蜒として軒端まで行つた途端、迅雷が家屋を震はせ、紅い光りが四邊に漲るやうに感ぜられた。その時は黑い線も紅い線も、已に所在を失して居つたが、窓の下を見ると數片の鱗が落ちてゐる。穿山甲(せんざんかふ)の鱗に似たものであつた。劍の刃には蟲の巣のやうな小さな孔が無數に出來て居り、鞘もまた同樣であつた。或人は龍の變化したものだと云つたが、霹靂一擊以外、龍らしいものは姿を見せてゐない。古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」(ゑんえん)は原義は蛇などがうねりながら行くさま。そこからうねうねとどこまでも続くさまの意となった。

「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のセンザンコウ類(インドから東南アジアにかけて四種と、アフリカに四種の計八種が現存種)であるが、中国だと、南部に棲息するセンザンコウ属ミミセンザンコウ Manis pentadactyla であろう。本種は中文名でまさに「中華穿山甲」と称する。

「古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる」ここは柴田宵曲の鋭い指摘である。

 以上は「夜譚隨錄」(既出既注の清代の志怪小説)の「龍化」。

   *

李高魚枕碧山房、壁掛古劍。一日大雨雷、瞥見一黑物、長尺餘、細如線、後一紅線逐之、自窗凌空而入、繞室飛行、俄延壁上、穿入劍鞘中。即聞戛戛作聲、旋出旋入、無所阻礙。良久、忽又飛出、蜿蜒空際、甫及檐、霹靂一聲、屋宇震動、紅光燭天、不及察二物所至、唯見窗下落鱗數片、酷似穿山甲。取劍視之、鋒刃盡穿小孔、密如蟲蛀、鞘亦如之。或曰、「此龍之變化。」。想當然耳。

   *]

 

 日本の龍には遺憾ながらあまり奇拔な話は見當らぬ。建部綾足(あやたり)が「折々草」に書いた龍石の話の如き、奇といふ點では支那の諸譚に遠く及ばぬに拘らず、妙に無氣味な點で日本に於ては異彩を放つに足るかと思ふ。

 

 高取の城下に人を訪ねることがあつて、夏の夜の明けぬうちに家を出た。三里ばかりの道であるから、夜が明けるまでには著くつもりで、もう五丁ばかりといふところに到つた時、漸く東の方が白んで來た。この邊で一休みといふことになつたが、草ばかり茂つてゐて適當な石がない。二尺ばかりの石を見出して道の眞中に運び、手拭を敷いて腰をおろしたのはよかつたが、不思議な事に何となくふはふはして、座蒲團でも積み重ねたやうな氣がする。それも氣のせゐかと煙草などをくゆらし、朝日が出たのを見て步き出したが、何分暑くて堪らず、淸水に顏を洗つたりしながら、持つてゐる手拭に異樣な臭氣のあるのに氣が付いた。いくら洗つても臭氣は更に落ちぬので、新しい手拭を惜し氣もなく棄ててしまひ、それからは道にも迷はずに辿り著いた。先方の家で食事をしてゐるのを朝飯かと思へば、今日は晝飯が遲くなつたのだと云ふ。自分達は例の石に腰をおろして煙草を吹かしただけなのに、何でそんなに時間がたつたのかわからぬ。狐に化されたのではないかといふ話になつて、石の事を云ひ出したら、それは惡いものにお逢ひなすつた、あれは何の害もしないけれど、龍が化けてゐるといふので龍石といふ、妙な臭ひがするのはそのためで、あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞かれた。さう云はれると熱があるやうである。幸ひ先方の家は醫者であつたから、藥を煎じて貰つて飮み、駕籠を雇つて貰つて歸ることにした。主人は更に注意して、歸りに氣を付けて御覽、その石は必ずありますまい、と云つたが、成程どこにも見當らなかつた。あたりに石一つないところなので、人が取りのけたにしても目に入らなければならぬ。愈々怪しい事になつて來た。連れてゐた下男は休んだ時も石に觸れなかつた爲、遂に何事もなかつたが、腰かけた男の方は翌月までわづらつて、漸く快方に向つた。これに懲りた男は、山へ往つた時など、得體の知れぬ石に腰かけるものではないと、子供等に教へてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「鈍色」「にびいろ」。濃い灰鼠色。

「折々草」は既出既注。

「あれは何の害もしないけれど」と言いながら、「あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞」くのは如何にもおかしい。以下に原典を示したが、柴田は「其化物は何に侍るともしらねど」(その化け物の正体は、一体何ものでありますのかということも存じませねど)を訳し間違えているとしか思われない。

 以上は同書の「夏の部」の「龍石をいふ條」。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。カタカナで示された原典の読みのみを附した。

   *

 

    龍石をいふ條

 

 大和の國上品寺(ジヤウホンジ)[やぶちゃん注:現在の奈良県橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]とふ里にいきてあそび侍るに、此主(アルジ)物がたりしき。

 主のいとこは、同じ國高取(タカトリ)[やぶちゃん注:現在の奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は植村氏二万五千石の高取藩の居城高取城があった。]といふ城下(キモト)に土佐(トサ)といふ所に侍り[やぶちゃん注:底本の高田衛氏の注にその高取城城下の『大手口に城下土佐町村があった』とある。現在、高取町内には「上土佐(かみとさ)」「下土佐」の地名が残る(上土佐はここで、「下土佐」はその西北隣りのここ(グーグル・マップ・データ))なお、高取城は町域からは三キロメートルほど南東の離れた山上にある。]。久しくおとづれざりしかばいかむとおもひて、みな月望(モチ)計(バカリ)[やぶちゃん注:七月十五日頃。]、いとあつき比なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出て往(イキ)ける。道は三里(ミサト)ばかりなれば、明むとするころは參りつくべしとおもひて行に、そこへは今五丁(イツトコロ)[やぶちゃん注:五百五十メートル弱。]ばかりにて、やうやう東(ヒンガシ)のそらしらみたるに、「いととくも[やぶちゃん注:たいそう早く。]來たりぬ。少しやすらはゞや」とおもへど、此わたりは皆野らにて、芝生(シバフ)の露いと深く、ひた居(ヲリ)にをりかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出て、いきて腰かけむとおもへど、蚋(ブト)などや多からむに、こゝへもて來むとて、手を打かけて引に、みしよりはいとかろらかに侍る。大きさは二尺(フタサカ)斗にて、鈍色せる石也。こを道の眞(マ)中にすゑて、淸らを好(コノ)む癖の侍るに、手拭(タナゴヒ)のいと新らしくてもたるを其上に打しき、さて腰(コシ)かけたれば、此石たはむさまにて、衾(フスマ)などを疊み上て其上にをる計におぼえたる。くしき事とはおもへど、心からにや侍りけむと[やぶちゃん注:単なる気のせいに過ぎぬのであろうと。]、事もなくをりて、火打袋(ウチブクロ)をとうでゝ[やぶちゃん注:後でも出てくるが、「取り出して」の意のようである。]火をきり出し、下部(シモベ)にもたばこたうべさせなどし、稻どもの心よげに靑み立たるを打見遣りて、しばし有間(アルアヒダ)に、朝日のいとあかくさしのぼる。いざあゆまむとて立て、道二丁(フタトコロ)[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗行に、汗のしとゞに流れて唯あつくおぼえけり。淸水に立よりてかほなどあらひ侍るに、何となくくさき香(カ)のたへがたうしけるを、何ぞとおもへば、かのたなどひにいたくしみたる

 何に似たるかをりぞとおもふに、蛇(オロチ)の香にて、そがうへにえもいはずくさき香のそひたるなり。「こはけしからぬ事かな。かの石のうへにかれ[やぶちゃん注:蛇を指す。]がをり侍りけむ名殘(ナゴリ)也。さるにても洗(アラ)ひ落(オト)さむ」とおもひて淸水に打ひぢて[やぶちゃん注:「漬ぢて」浸(ひた)して。]洗へども、中々にさらず。水に入りては猶くさき香のつのりて、頭(カシラ)にもとほるべくおぼゆるに、たなどひは捨て遣りける。さて手もからだもものゝうつりたる[やぶちゃん注:これは先の臭さだけではなく、何かの「もの」=物の怪のまがまがしい気(かざ)ようなものが体に染みつく、憑依したような感じで、の意。]、たへがたければ、はやくいきて湯あみせむといそぎて、いとこのがり[やぶちゃん注:「許(がり)」は 接尾語で人を表わす名詞又は代名詞に付いて「~の所へ」「~の許(もと)に」の意を添える。「處在(かあり)」が転じたものと言われる。]いきつけば、みなまどひ[やぶちゃん注:「圓居」で車座になって座ること。歴史的仮名遣としては「まどゐ」が正しい。]して、朝食にかあらむ、物たうべてはべるが、主のいはく、「久しくみえ給はざりし。かゝるあつき時に、あかつきかけては來(キ)給はで、かく日のさかりには何しに出おはしたり」と聞ゆ。

 此男きゝて、「寅の時に出て、唯いまふもとにて夜の明てさぶらへ。主(ヌシ)たちも今朝食參るならずや」といへば、家の内の人皆笑らひて、「いづこにか午睡(ヒルイ)してねおびれ給へるならむ。空は未(ヒツジ)の頭(カシラ)[やぶちゃん注:午後一時頃。早朝の出立から実に九時間も経過していた。]にてさむらへ。けふは晝いひのおそくて、唯今たうぶる也」といふに、少しあやしく成りて空をみれば、日ざしも實にしかり。またあつき事も朝のほどならず。下部をみれば、これも唯あやしくおもへる顏にて、「道には何も程すごすばかりの事はしたまはず。火をきりてたばこ二吸(フタスヒ)斗(バカリ)して侍るのみ也」と申すに、主どもが、「それはかの[やぶちゃん注:底本の高田氏の注に『不詳。「かの」という妖異か。または例のものの意か』とある。考えてみると、強力或いは凶悪な霊や物の怪はその名を口にすることを忌むから、それが単なる指示語であるのは寧ろ自然な気が私にはする。]にて侍らむ。山のふもとにはよからぬ狐(キツ)の折々さるわざして侍ることの有に」といへば、「いな、狐ともおぼえず。かうかうなむ侍る事のありて、其香のいまださらず侍るにいたくなやめり。ゆあみせばや」といへば、主(アルジ)打おどろきて、「それはあしきめにあひたまへり。かの石は龍石[やぶちゃん注:底本注に不詳とする。]とて、此わたりにはかまへて[やぶちゃん注:待ち構えて。]侍り。其化物は何に侍るともしらねど、必ず蛇(オロチ)の香のし侍るをもて、所の者は龍(リヤウ)の化(バケ)て侍る也とて、それをば龍石とは申す也。是に觸(フレ)たる人は、疫病(エタシヤミ)[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及(オヨブ)者多し。御心はいかに侍る」といふに、たちまちに身のほとぼり來て[やぶちゃん注:熱を帯びてきて。]、頭(カシラ)もいたく、いと苦しく成しほどに、いとこは藥師(クスシ)なりければ、「こゝろえて侍り」とて、よき藥(クスリ)を俄(ニハカ)に煮させ、又からだに香のとまりたる[やぶちゃん注:附着浸透しているの。]をば、洗(アラ)ふ藥をもてのごはせなどしけり。「此家にかく病臥(ヤミフシ)てあらむもいかに侍れば、かへりて妻子(メコ)どもに見とらせむ[やぶちゃん注:看病させようと思う。]」とて、某日の夕つかた、堅間[やぶちゃん注:底本では『かたま』とルビし、注で『竹で編んだかご』とする。]にのりてうめきながらかへるべくす。

 又主(アルジ)のいはく、「かのやすみ給ふ所にて見させよ。必ず其石は侍るまじきに」ときこゆるに、下部(シモベ)ども心得て、「かの石は道の眞中にとうでゝ侍りける」とて、行かゝりてみれども更になし。人のとりのけしにやとてをちこちみれども、もとより石ひとつなき所なれば有べきにもあらず。「さては化(バケ)たる成けり。おのれは下部だけに、地(ツチ)にをりて侍れば、石にはふれざりける」とて、福(サイハヒ)えたるつらつきしてかへりにけり。

 かの男は、八月(ハヅキ)斗(バカリ)までいたくわづらひて、やうやうにおこたりはてぬ[やぶちゃん注:病気の勢いが弱まって良くなった。古語の「怠る」自体に、その意味がある。]と。さて後は子共らにも誰(タレ)にも、「山にいきては心得なく石にな腰かけそ」と教へ侍りきと聞えし。

   *]

 

 龍石の正體は結局わからぬが、あたりに何もないところに、この石だけあるのが怪しい上に、鈍色で思つたより輕いといふのも怪しい種の一つである。腥臭(せいしう)が腰かけた人にこびり付いて、いくら洗つても落ちぬのは無氣味なことおびたゞしい。夜が明けてから道に迷つた覺えもなく、どうして數時間も費したか、龍に化されるのは狐狸よりも氣味が惡いことになつて來る。綾足は大和でこの話を聞いたといふのであるが、水にも雨にも關せず、野中に在つて人を惑はす龍は、支那にも類がないかも知れぬ。

 

2017/05/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「大和の瓜」

 

 大和の瓜

 

 大和國から瓜を馬に積んで京へ出る者があつた。宇治の北にある成らぬ柿の木といふ木の下まで來ると、皆瓜の籠を馬から下ろして、暫くその蔭に涼んでゐるうちに、積んで來た瓜を取り出して、少しつつ食ひはじめた。そこへどこからやつて來たか、帷子に平足駄を穿き、杖をついた老人が現れて、扇を使ひながら皆の瓜を食ふのを見守つてゐたが、その瓜を一つ私にも食べさせてくれませんか、咽喉がかわいて堪らないのです、と云ひ出した。瓜を運ぶ下人達は、氣の毒だから上げたいが、これは私どもの物ではない、人に賴まれて京へ持つて行くのだから上げるわけに往かぬ、とすげなく斷つた。

 

 老人は、あなた方は情けを知らぬとか、年寄はいたはつてやるものだとか、ぶつぶつ云つてゐたが、そのうちに、下さらぬものは仕方がない、よろしい、私が瓜を作つて食ひませう、と云つたかと思ふと、木片を拾つて地面を畑のやうに掘り、下人達の食ひ散らした瓜の種をそこに埋めた。はじめの間は笑談半分に見てゐた下人達も、その種が間もなく二葉を出し、蔓を延してあたり一面の瓜畑になるのを見ては、びつくり仰天せざるを得なかつた。老人は澄ましたもので、自分がその瓜を取つて食ふだけでなしに、下人達にも食べろと云ふ。通行人にも勸める。あるほどの瓜を食べ盡してしまつたら、それでは皆さん失禮、と云つて老人はどこかへ立ち去つた。大分暇を潰したから、吾々も出かけようといふので、下人達が見ると、籠の中の瓜は一つもない。瓜をこゝに作ると見せて、籠の中から持ち出したのかと騷いでも追付かぬ。空の籠を馬に積んで大和へ引返すより外はなかつた。

[やぶちゃん注:以上は、以下に述べられる通り、「今昔物語集」の話で「卷第二十八」の「以外術被盜食瓜語第四十」(外術(ぐゑずつ)を以つて瓜を盜み食はるる語(こと)第四十しじふ))である。「外術」(げじゅつ)は(歴史的仮名遣では実は「げじゆつ」でよい)外道(げどう)の術で、魔法。幻術のこと。「下術」とも書く。

   *

 今は昔、七月許(ばか)りに、大和の國より、多くの馬(むま)共に瓜を負(お)ほせ烈(つら)ねて、下衆(げす)共多く京へ上りけるに、宇治の北に、不成(なら)ぬ柿の木と云ふ木有り。其の木の下の木影(こかげ)に、此の下衆共、皆、留(とど)まり居(ゐ)て、瓜の籠共をも皆、馬より下(おろ)しなどして、息(やす)み居て、冷(すず)みける程に、私(わたくし)に[やぶちゃん注:自分らが食う分として]、此の下衆共の具したりける瓜共の有りけるを、少々取り出でて切り食ひなどしけるに、其の邊に有りける者にや有(あ)らむ、年極(いみ)じく老いたる翁の、帷(かたびら)に中(なか)を結ひて[やぶちゃん注:単衣(ひとえ)の薄物を纏い、その腰の辺りを紐で結わいて。]、平足駄(ひらあしだ)を履きて、杖を突きて出で來たりて、此の瓜食ふ下衆共の傍らに居(ゐ)て、力弱氣(ちからよはげ)に扇(あふぎ)、打ち仕ひて、此の瓜食ふを、まもらひ居たり[やぶちゃん注:凝っと見守り続けている。]。

 暫し許り護りて、翁の云く、

「其の瓜一つ、我れに食はせ給へ。喉(のど)乾きて術無(ずつな)し。」

と。瓜の下衆共の云く、

「此の瓜は、皆、己等(おのれら)が私物(わたくしもの)には非ず。糸惜(いとほ)しさに[やぶちゃん注:気の毒に感ずるから。]一つをも可進(たてまつるべ)けれども[やぶちゃん注:差し上げたいとは思うけれども。]、人の京に遣す物なれば、否不食(えくふ)まじき也。」

と。翁の云く、

「情け不座(いまさ)ざりける主達(ぬしたち)かな。年老いたる者をば、哀れと云ふこそ、吉(よ)きことなれ、然(さ)はれ、何(いか)に得させ給ふ[やぶちゃん注:「(愚痴は)さてもそれまでとして、ではでは……そなたらは……どのようにして私に……その瓜どもを得させてくれりょうかのぅ?」。後の妖術の仕儀を暗示させる不思議な予言めいた謂いである。]。然らば、翁、瓜を作りて食はむ。」

と云へば、此の下衆共、

「戲言(たはぶれごと)を云ふなんめり。」

と、

「可咲(をかし)。」

と思ひて、咲(わら)ひ合ひたるに、翁、傍らに木の端(はし)の有るを取りて、居たる傍らの地を掘りつつ、畠の樣(やう)に成しつ。

 其の後(のち)に、此の下衆共、

「何に態(わざ)を此れは爲(す)るぞ。」[やぶちゃん注:何の真似をこの爺いはするつもりなんだ?」。]

と見れば、此の食ひ散したる瓜の核(さね)共を取り集めて、此の習(なら)したる[やぶちゃん注:平らに均(なら)した。]地(ぢ)に植ゑつ。其の後ち、程も無く、其の種瓜(たねうり)にて、二葉にて生ひ出でたり。此の下衆共、此れを見て、

「奇異(あさま)し。」

と思ひて見る程に、其の二葉の瓜、只(ただ)[やぶちゃん注:無暗に。急速に。]、生ひに生ひて這凝(はびこりまつは)りぬ。只、繁りに繁りて、花、榮(さ)きて、瓜、成りぬ。其の瓜、只、大きに成りて、皆、微妙(めでた)き瓜に熟しぬ。

 其の時に、此の下衆共、此れを見て、

「此は神などにや有(あ)らむ。」

と、恐れて思ふ程に、翁、此の瓜を取りて食ひて、此の下衆共に云く、

「主達(ぬしたち)の食はせざりつる瓜は、此(か)く瓜作り出だして食ふ。」

と云ひて、下衆共にも、皆、食はす。瓜、多かりければ、道行(みちゆ)く者共をも呼びつつ、食はすれば、喜びて食ひけり。食ひ畢(は)てつれば、翁、

「今は罷(まか)りなむ。」

と云ひて、立ち去りぬ。行方(ゆきかた)を不知(し)らず。

 其の後(のち)、下衆共、

「馬に瓜を負(お)ほせて、行かむ。」

とて、見るに、籠は有りて、其の内の瓜、一つも、無し。其の時に、下衆共、手を打ちて奇異(あさま)しがること限り無し。

「早う、翁の籠の瓜を取り出だしけるを、我等が目を暗(くら)まして不見(み)せざりける也けり。」

と知りて、嫉(ねた)がりけれども、翁、行きけむ方を知らずして、更に甲斐無くて、皆、大和へ返りてけり。道行ける者共、此れを見て、且つは奇(あや)しみ、且つは咲(わら)ひけり。

 下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、皆は不被取(とられ)ざらまし。惜みけるを翁も※(にく)みて此(か)くもしたるなんめり。亦、變化の者などにてもや有りけむ。[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「惡」。]

 其の後(の)ち、其の翁を遂に誰人(たれひと)と不知(し)らで止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この老人は何者であつたか、誰に聞いてもわからなかつたが、「今昔物語」はこの話に外術(げじゆつ)といふ言葉を使つてゐる。「列仙傳」の左慈なども時にこの手段を用ゐた。曹操が大勢の臣下を連れて郊外に遊んだ時、左慈はどこからか酒と脯(ほしにく)を持つて來て百官に振舞つた。曹操その出所を怪しみ、人を派して調べさせたら、宮中の藏に入れてあつた酒も脯も悉くなくなつてゐた、といふやうな話がある。

[やぶちゃん注:「左慈」既出既注

 以上の話は調べてみたが、「列仙傳」の中には何故か見当たらない。その代わり、「搜神記」の「第一卷」のこの話ならば、よく知っている。下線部太字部分がそれである。

   *

左慈、字符放、廬江人也。少有神通。嘗在曹公座、公笑顧眾賓曰、「今日高會、珍羞略備。所少者、松江鱸魚爲膾。」。放曰、「此易得耳。」。因求銅盤貯水、以竹竿餌釣于盤中、須臾、引一鱸魚出。公大拊掌、會者皆驚。公曰、「一魚不周坐客、得兩爲佳。」。放乃復餌釣之。須臾、引出、皆三尺餘、生鮮可愛。公便自前膾之、周賜座席。公曰、「今既得鱸、恨無蜀中生薑耳。」。放曰、「亦可得也。」。公恐其近道買、因曰、「吾昔使人至蜀買錦、可敕人告吾使、使增市二端。」。人去、須臾還、得生薑。又云、「於錦肆下見公使、已敕增市二端。」。後經餘、公使還、果增二端。問之、云、「昔某月某日、見人於肆下、以公敕敕之。」。後公出近郊、士人從者百數、放乃賚酒一罌、脯一片、手自傾罌、行酒百官、百官莫不醉飽。公怪、使尋其故。行視沽酒家、昨悉亡其酒脯矣。公怒、陰欲殺放。放在公座、將收之、卻入壁中、霍然不見。乃募取之。或見于市、欲捕之、而市人皆放同形、莫知誰是。後人遇放于陽城山頭、因復逐之。遂走入羊群。公知不可得、乃令就羊中告之、曰、「曹公不復相殺、本試君術耳。今既驗、但欲與相見。」忽有一老羝、屈前兩膝、人立而言曰、「遽如許。」。人即云、「此羊是。」。競往赴之。而群羊數百、皆變爲羝、並屈前膝、人立、云、「遽如許。」。於是遂莫知所取焉。老子曰、「吾之所以爲大患者、以吾有身也、及吾無身、吾有何患哉。」。若老子之儔、可謂能無身矣。豈不遠哉也。

   *

私はこの話全体がすこぶるつきに大好きなのである。だから、ちょっと今までなく、語りたいのである。前の部分は曹操(原文は「曹公」であるが、左慈の事蹟を調べると、これは曹操であろうと比定されている)の催した宴会での魔術で、その食卓の上の銅盤に釣り糸を垂らして曹操が足りないから欲しいといった鱸(すずき)を二尾も釣りあげ、次に、その膾に添えるために、遠く離れた僻地蜀(しょく)の生姜を持ってこさせ、序でに、「蜀に錦を買いに使者として出してあるから、その者にもう二反(たん)追加せよと言いつけよ」と難題を出す。左慈は一寸出て直きに生姜を持って帰って参り、伝言を伝えたと言う。一年後に帰って来た使者は二反多く買ってきており、その訳を聴けば、使者は「ずっと以前の何月何日に店で逢った方が公の御命令だと言って、追加の二反を買わせましたので。」と答えたという中型爆弾程度の仰天エピソードである。この話(但し、「搜神記」では「沽酒家」(百人の役人が全員ぐでんぐでんに酔ってしまったというのだから、都城中の酒屋という酒屋総ての謂いであろう)で柴田の言う「宮中」ではない)の後は、而して操は、酒を妖術で全部奪い取ったこと知って怒り、危険人物として左慈を密か殺そうとして捕えんとした。ところが、彼はすっと壁の中に消えてしまい、町を捜索させれば、町中の人間がみんな左慈となってしまっていて見分けがつかないという始末。後に陽城山の辺りで彼を見かけたという情報を受け、捕縛に向かわせると、今度は左慈は羊の群れの中に逃げ込んでしまう。捕り手が「曹公は貴君を殺そうと思ってはおられません。ただ、貴君の術を試してみようというだけのお気持ちに過ぎません。今はもうそれもよぅく分りましたから、どうか、もう、ただただ、お目にかかりたいばかりで。」と下手に出て、油断させたところが、一疋の年取った牡羊が前脚を折り曲げ、人間のように立ち上がると、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と喋った。捕り手はすかさず、「あれが左慈だッツ!」と叫んで皆して競うようにその直立した牡羊のところへ走り寄ろうとしたところが、同時に数百の羊が、総て牡羊に変じて、同じように前脚を屈めながら、人のように後ろ足立ちし、それがまた同じように、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と声をそろえて喋った。そのために、結局、どれを捕縛すればよいか判らなくなってしまった、というメガトン級痛快エピソードでシメてある個人的にはこの羊のシークエンスが好きで好きでたまらないんである!。最後の評言は、老子の言葉をまず引く。「私が最も大きな患(わずら)いとしていることは、私に肉体があることである。私から肉体が無くなるに及べば、さても、私に何の憂いが残ろうものか。」。そうして、左慈もこのような境地に遠くない存在であったのではなかろうか、と締めくくっている(梗概には竹田晃氏訳の昭和三九(一九六四)年東洋文庫版「捜神記」を参考にした)。]

 

「今昔物語」の瓜の話はそれほど大規模なものではないが、多分「探神記」にある徐光の話から來てゐるのであらう。徐光は三國時代の呉に奄つて、種々の術を行つた者である。或家に瓜を乞うた時、主人が惜しんで與へなかつたので、それでは花を貰ひたいと云つた。地面に杖を立ててその花を植ゑたら、忽ち蔓が伸び、花開いて實を結ぶ。これを採つて自ら食ひ、見物人にも與へたことは「今昔物語」と同樣である。然る後商人がその瓜を採つて賣りに出たが、中身は全部空であつた。

[やぶちゃん注:以上は前の注で私が引いた「搜神記 第一卷」の左慈の話の後の三つ目にある徐光の逸話の前半部である。そこだけ引く。

   *

呉時有徐光者、嘗行術於市里。從人乞瓜、其主勿與、便從索瓣、杖地種之、俄而瓜生、蔓延、生花、成實、乃取食之、因賜觀者。鬻者反視所出賣、皆亡耗矣。

   *]

 

 この話が支那でも後になつて「聊齋志異」に入つた時は、瓜から梨に變つてゐた。卓に梨を積んで市に賣らうとする者に對し、道士が一顆を乞うたけれども、與へようとしない。道士は、一車數百顆のうちたゞ一顆を乞ふに過ぎぬのだと云ひ、傍人もまた小さいのを一つ遣つたらいゝぢやないか、と忠告したに拘らず、頑強に讓步せぬ。途に或者が錢を出して一箱を買ひ、それを道士に渡した。道士は大いに感謝の意を表し、吾々は決して物吝(をし)みはせぬ、これはあなたに上げませう、と云ふ。折角あるものを食べたらよからうと云つても、いや、私はこの種で梨を作り、それから澤山食べます、と云つて澄ましてゐる。種から芽を生じ、樹が茂つて實がなるまでの過程は、瓜の場合と變りがない。あるだけの實が衆人によつて食ひ盡されてしまふと、入念に樹を伐り倒し、枝葉の類を肩に据いで悠々と步み去つた。梨の持主も見物の中にまじつて、ぽかんとして道士の業(わざ)を見てゐたが、道士がゐなくなつてから車の上を見れば、あれだけ積んであつた梨が一つもない。そこに置いた手綱までがなくなつてゐる。憤然として迹を追はうとする時、ずたずたに切られた手綱が垣根の下に棄ててあるのが目に入つた。彼が入念に木を伐り倒すと見えたのは、この手綱を斷ち切つたのであつた。

 

 この話は徐光の話よりも「今昔物語」の方に似てゐる。梨の種を蒔く前にも、梨を食つてしまつた後にも、「今昔物語」にないものが加はつてゐるのは、あらゆる話が簡單より複雜に赴く一例と見てよからう。已に「搜神記」に徐光の話がある以上、「今昔物語」が逆輸入されて、「聊齋志異」の話になつたと解する必要もあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは「第一卷」の「種梨」。まず原文を示す。

   *

 

 種梨

 

 有郷人貨梨於市、頗甘芳、價騰貴。有道士破巾絮衣、丐於車前。郷人咄之、亦不去。郷人怒、加以叱罵。道士曰、「一車數百顆、老衲止丐其一、於居士亦無大損、何怒爲。」。觀者勸置劣者一枚令去、郷人執不肯。肆中傭保者、見喋聒不堪、遂出錢市一枚、付道士。道士拜謝、謂眾曰、「出家人不解吝惜。我有佳梨、請出供客。」。或曰、「既有之、何不自食。」。曰、「吾特需此核作種。」。於是掬梨大啗。且盡、把核於手、解肩上鑱、坎地深數寸、納之而覆以土。向市人索湯沃灌。好事者於臨路店索得沸瀋、道士接浸坎處。萬目攢視、見有勾萌出、漸大、俄成樹、枝葉扶疏;倏而花、倏而實、碩大芳馥、纍纍滿樹。道人乃即樹頭摘賜觀者、頃刻向盡。已、乃以鑱伐樹、丁丁良久、乃斷、帶葉荷肩頭、從容徐步而去。初、道士作法時、郷人亦雜眾中、引領注目、竟忘其業。道士既去、始顧車中、則梨已空矣。方悟適所俵散、皆己物也。又細視車上一靶亡、是新鑿斷者。心大憤恨。急跡之。轉過牆隅、則斷靶棄垣下、始知所伐梨本、即是物也。道士不知所在。一市粲然。

 異史氏曰、「郷人憒憒、憨狀可掬、其見笑於市人、有以哉。每見郷中稱素封者、良朋乞米則怫然、且計曰、『是數日之資也。』。或勸濟一危難、飯一煢獨、則又忿然計曰、『此十人、五人之食也。』。甚而父子兄弟、較盡錙銖。及至淫博迷心、則傾囊不吝、刀鋸臨頸、則贖命不遑。諸如此類、正不勝道、蠢爾郷人、又何足怪。」。

   *

次に例によって、遺愛の名訳柴田天馬氏のそれを示す。原文と天馬訳を見ると宵曲が説明を避けるために、論理的に翻案した箇所(瓜を貰った道士の台詞とその後)があることが判る。底本はいつもの通り、昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫版を用いた。注以下はポイント落ちで全体が二字下げである。

   *

 

 種梨(しゅり)

 

 郷(いなか)の人が梨を市で売っていた。たいそう甘くて芳(におい)がよかったから、たちまち値段が高くなった。すると破巾(やれずきん)、袈衣(やれぬのこ)の道士が、車の前に、もらいにきた。郷の人は叱ったが、道士は行かなかった。郷の人は怒って、ますますどなりつけた。すると道士は、

 「ひと車に数百顆(なんびゃく)とあるのじゃがな。老衲(ろうのう)は、その中の、たった一つをくださいというので、あんたにはたいした損でもないに、なぜ、そう怒りなさるのじゃ」

 と言った。見ている人たちが、劣者(わるいの)を一つやって行かせなさいと、すすめたけれど、郷(いなか)の人は聴かなかった。店の中にいた雇人は、やかましくて、たまらないので、とうとう銭を出して一つだけ買って道士にやった。すると道士は拝謝(おじぎ)をして、みんなに向かい、

 「出家人というものは、吝惜(けち)ということを知りませんのじゃ。わしに、よい梨がありますで、それを出して、お客さんがたに、あげたいと思いますじゃ」

 と言うので、ある人が、

 「あったら、なぜ自分で食わないんだ」

 と言うと、

 「わしは特に、この核をもらって、種にしようと思いましたからじゃ」

 と言って、梨を握って食ってしまい、その種を手に取ると、肩の鑱(すき)をおろして、地面を何寸か掘り、それを入れて土をかぶせ、市の人たちに向かって、かける湯をくれと言った。すると、好事者(ものずき)が路店買って熱い湯をもとめ、道士にやった。道士は、それを受けとって、掘った処を浸(ひた)た。みんなが見つめていると、勾(まが)った萠(め)が出て来る。だんだん大きくなる。にわかに樹となる。枝葉が茂る。たちまちにして花が咲く。たちまちにして実がなる。大きい芳馥(においのい)いのが、鈴なりに、なったのである。そこで道士は樹から摘みとり、見ている人たちに分けてやった。樹上の梨は、すぐになくなった。すると道士は鑱(すき)で樹を伐るのであったが、良久(しばらく)丁々(とんとん)やっているうちに、切れたので、葉のついたまま肩に荷い、静かに行ってしまった。

 初め、道士が法術をやりだした時、郷(いなか)の人も、やはり大ぜい中にまじって、首を長くして見入っていた。商売を忘れてしまっていたのである。道士が行ってしまってから車の中を見ると、梨は、もうなくなっていたので、いま俵散(わけてやっ)たのが、みんな自分の物であったのを、やっと悟ったのである。そして、よく見ると、車の靶(かじ)が一つ無くなっている。それは新たに切りとったものであった。たいそう、くやしがって、急いで迹をつけて行った。そして牆(へい)の隅(かど)を曲がると、切りとった靶が垣下(ねがた)に棄ててあった。で、道士の伐り倒した梨の木が、すなわち、これであったことを知った。道士の行くえはわからなかった。市じゅう粲然(おおわらい)をしたのである。

 

  注

 

一 衲は、ころも、のこと。それで僧のことを、衲子という。老衲は、年をとった僧という意。

二 詩の小雅に、伐木丁々、とある。丁々は、木を伐る音である。トウトウとよむ。

三 俵散とは、分ち与うることである、俵は、分つことで、たわらというのは、和訓である。

四 粲然とは、白歯を出して大笑することで、穀梁伝に「軍人みな粲然として笑う」とある。

 

   *

一つ、柴田宵曲の梗概訳で気になることがある。それは天馬氏が「靶(かじ)」と訳されている部分を宵曲は「手綱」(たづな)と訳している点である。「彼が入念に」梨の「木を伐り倒すと見えたの」が実はふにゃふにゃの手綱の繩だったというのは、おかしくはないだろうか? そこで調べてみると、この原文にある「靶」は、第一義が確かに牛や馬の引く車の「手綱」であるが、今一つ、そうした荷車・牛馬の牽引する車に乗る際に手を懸ける「握り」・「取っ手」・「柄」の意あったのである(因みに現代中国語では専ら、あの矢を射る同心円状の「的」の意)。そこで、はた! と私は膝を打ったのである。天馬氏の「かじ」というルビが腑に落ちたのである。これは、荷馬車の馭者台のような場所に乗り込む際に手を掛けるための「木製の取っ手」か、或いは手綱を引っ掛けておいて、それを引いて牛馬に進行や停止の合図を伝える「木製の棒状の楫(かじ)」なのではあるまいか? それなら小さくても「棒状でしっかりした木」であるからである。

 なお、「聊齋志異」の訳では辛気臭くてすこぶる人気がない、最後の作者蒲松齡の評言(天馬氏は思い切って一括割愛しておられる。事実、確かにだいたいが退屈な内容で、折角の志怪本文の面白さが殺がれる)は、

――まんまと騙された田舎者の愚かな様子が手にとるように見え、市中の人々に彼が笑われたのは当然と言うべきである。こうしたことはよく見かけることで、田舎の素封家と呼ばれる人が、朋輩から米を分けて呉れ頼まれると、渋面(しぶづら)をして、「これは、それ、○○日分にも相当する大事な糧(かて)だぞ!」と升(ます)でかっちり量っていやいや出すものである。或いは、災難に遇った人を援けるようにとか、貧しい者に飯を与えるように勧めると、やはり同じようにむっとして、「これは、これ、十人分、五人分に相当する大切な食物だぞ!」と升で量ってしぶしぶ出すものである。甚だしきは父や子や兄弟に対してですら、細かく算盤(そろばん)を弾きさえする。しかし、一たび、賭博や女色に溺れると、財布の底の塵まで払っても一向に平気なほどの浪費家になってしまい、そのために青龍刀や鋸を頸に当てられても命を贖う遑(いとま)もないほどに入れ込んでしまうのである。かくの如きの話の類いは、これもまた、数え上げるに、枚挙に遑がないほどに多く、この話も、かくも、ケチな田舎者の被ったことなればこそ、今さら、怪しむには足らぬことではないか。――

といった意味であろう。訳には所持する平凡社「中国古典文学大系」四十巻「聊斎志異 上」の松枝茂夫氏の訳を参考にしつつ、オリジナルに訳した。ここには漱石の「こゝろ」の「先生」のような田舎者に対する強い嫌悪感情が窺われ、作者の何かの私的な原体験に基づくトラウマがあるような感じがする点ではすこぶる興味深いとは言える。

 

2017/03/12

柴田宵曲 續妖異博物館 「雷公」

 

 雷公

 

 元和年間に大風雨があつた時、潤州延陵縣に鬼が墮ちて來た。身の丈二丈餘り、眞黑で猪のやうな顏をしてゐる。角(つの)五六尺といふのは少し長過ぎるやうだが、一丈餘りの肉翅(にくし)があり、豹の皮の褌を腰に纏うて居つた。手足の爪は皆金色で、その聲雷の如しとある。田に働いてゐた男が驚いて役人に知らせ、その邑(むら)の令がわざわざ觀に行つて、その圖を作つたりしたが、その後また雷雨があつた際に翅を持つて飛び去つたと「錄異記」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:「元和年間」唐の憲宗の治世に使用された元号。八〇六年から八二〇年。

「潤州延陵縣」現在の江蘇省丹陽市延陵鎮附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二丈」一丈は三・〇三メートルだから、三メートル十センチ弱。

「五六尺」一・六~一・八メートル。確かに身長に比して長過ぎて邪魔だ。

「肉翅」羽毛ではない、肉の一部である翼らしい。蝙蝠の伸縮性のある飛膜のようなものか。

「錄異記」唐末から五代十国時代にかけての道士で著述をよくした杜光庭(八五〇年~九三三年)の伝奇小説集。以上は「太平廣記」の「雷一」に「錄異記」よりとして引かれた「徐誗」(これは発見した村人の名らしい)と題するもの。以下に中文サイトのものを加工して示す。

   *

唐潤州延陵縣茅山界、元和春、大風雨。墮一鬼。身二丈餘。黑色、面如猪首、角五六尺。肉翅丈餘。豹尾。又有半服絳、豹皮纏腰、手足兩爪皆金色。執赤虵。足踏之、瞪目欲食、其聲如雷。田人徐誗、忽見驚走、聞縣。尋邑令親往覩焉。因令圖寫。尋復雷雨、翼之而去。

   *]

 日本の雷はいつ頃から太鼓を背負つた鬼の形になつたか知らぬが、翅のことは見當らぬやうである。反對に支那の雷には太鼓の話がない。要するに雷の所持品が問題になるのは墮ちた場合に限るので、雲を蹈んで天上を駈け𢌞る時の事はわからぬから、一斑を以て全豹を推す類であらう。但支那の書物には雷に關する材料が少くないから、その中の變つたのを少し擧げて見る。

[やぶちゃん注:「一斑を以て全豹を推す」(いつぱんをもつてぜんぴやうをおす)は豹の毛皮には斑(まだら)の模様があるが、その斑の一つを見るだけで、それを持つ一匹の豹全体が美しいかどうかを判断するということから、物事の一部分によって全体を推量することのたとえ。「晋書」の「王献之傳」を出典とするが、ここはフラットな謂いでなく、安易にごく一部で全体の属性を推量することが危うい、と柴田は言っているのである。]

 第一に唐の沈既濟の撰んだ「雷民傳」といふものがある。雷民は即ち雷の子孫であるが、どうして雷の子孫などがこの土に生れたかといふと、昔雷雨があつて晝も冥(くら)くなつた時、陳氏の庭に大きな卵がころがつてゐた。これを何かで覆つて置いたら、數箇月たつて卵が破れ、嬰兒が出て來た。これが雷の子であつたらしく、母親の雷が戸を敲いて庭に現れ、室に入つてその子に乳を飮ませる。一年餘りしてその子がものを食べるやうになつたので、もう來なくなつたが、陳氏ではこれを己れの子として育て、義といふ名を付けた、といふのである。雷民は祖先の雷を敬ひ、每(つね)に酒肴を供へたりしてゐる。勿論後々まで雷と交渉があつて、雲霧の暗く立ちこめた夕方を、その邊の人は雷耕と呼んでゐるが、明方に野へ出て見れば、必ず何者かの耕した跡がある。これを嘉祥としてよろこぶとか、雨後に落ちてゐる黑石を雷公墨と稱し、訴訟の場合には、これを普通の墨にまぜて書けば勝つとか、自ら他と異なる風習があつた。或時大雷雨の際、空中に豕首鱗身の者が現れたのを、刀を揮つて斬つたことがあり、その者は地に落ちて血を流したが、雷鳴は益々激しく、夕方に至り途に雲を凌いで見えなくなつた。その後刀を揮つた者の家は火災が頻りに起るので、雷民の父兄から擯斥されて追ひ出されてしまつた。已むを得ず山へ行つて家を造つても、火災はこゝまで追駈けて來る。崖に穴を穿つて住むやうにしたら漸く止んだ。雷民が雷の圖を作る場合には、必ず豕首鱗身に描くさうである。「錄異記」のも猪のやうな顏をしてゐたといふから、支那の雷公は日本のと大分風采が違ふらしい。

[やぶちゃん注:「沈既濟」(しんきさい 七五〇年?~八〇〇年?)は中唐の伝奇作家・歴史家。呉県(江蘇省蘇州)の生まれで、学者として知られ、徳宗の時に宰相楊炎の推薦によって史官となった。七八一年、楊炎の失脚によって処州(浙江省麗水)司戸参軍として左遷されたものの、数年後に楊炎の政敵が失脚、再び都に戻って礼部員外郎となっている。彼の作品では「枕中記」が最も人口に膾炙している。私の黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他をお読み戴きたい。

「雷民傳」私は不学にして知らぬ。ただ、極めて酷似した内容のものを「太平廣記」の「雷二」の「陳義」に見出せる(「投荒雜錄」なるものを出典とすると最後にあるが、同話である)。前の仕儀で示す。

   *

唐羅州之南二百里、至雷州、爲海康郡。雷之南瀕大海。郡葢因多雷而名焉。其聲恒如在簷字上。雷之北高、亦多雷、聲如在尋常之外。其事雷、畏敬甚謹。每具酒殽奠焉。有以彘肉雜魚食者、霹靂輒至。南中有木名曰棹。以煮汁漬梅李、俗呼爲棹汁。雜彘肉食者、霹靂亦至。犯必響應。牙門將陳義傳云、「義卽雷之諸孫。昔陳氏因雷雨晝冥、庭中得大卵、覆之數月、卵破、有嬰兒出焉。目後日有雷扣擊庭、入其室中、就於兒所、似若乳哺者。歳餘。兒能食、乃不復至、遂以爲己子。義即卵中兒也。又云、「嘗有雷民、畜畋犬、其耳十二。每將獵、必笞犬、以耳動爲獲數。未嘗偕。動。一日、諸耳畢動。既獵、不復逐獸。至海傍測中嘷鳴。郡人視之。得。十二大卵以歸、置於室中。後忽風雨、若出自室。既霽就視、卵破而遺甲存焉。後郡人分其卵甲、歳時祀奠、至今以獲得遺甲爲豪族。或陰冥雲霧之夕、郡人呼爲雷耕。曉祝野中。果有墾跡。有是乃爲嘉祥。又時有雷火發於野中、每雨霽、得黑石、或圓或方、號雷公墨。凡訟者投牒、必以雷墨雜常墨書之爲利。人或有疾、即掃虛室、設酒食。鼓吹旛葢。迎雷於數十里外。既歸。屠牛彘以祭、因置其門。隣里不敢輒入。有誤犯者爲唐突、大不敬、出猪牛以謝之。三日又送、如初禮。又云、「嘗有雷民、因大雷電、空中有物、豕首鱗身、狀甚異。民揮刀以斬、其物踣地、血流道中、而震雷益厲。其夕凌空而去。自後揮刀民居室、頻爲天火所災。雖逃去、輒如故。父兄遂擯出、乃依山結廬以自處、災復隨之。因穴崖而居、災方止。或云、其刀尚存。雷民圖雷以祀者、皆豕首鱗身也。

   *

冒頭の「雷州」は恐らく現在の広東省湛江市雷州市であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「豕首鱗身」「ししゆりんしん」と読んでおく。「豕」は訓「いのこ」で猪或いは豚のこと。まあここはイノシシとしておこう。]

 卵から生れた雷の子が陳義になつたのは、いづれ大昔の事に相違ないが、もう少し後になつて、雷州の雷民以外にも雷と交渉を生じた話がある。或村の老婆の娘が田圃で食事をしてゐた時、忽ち眞暗になつて大雨が降り來り、晴れたと思つたら、娘はもうゐなかつた。老婆は號哭して方々尋ね步いたけれど、その行方は皆目わからない。一箇月餘りの後、また天地晦冥になつて一しきり強い雨が降つたが、霽れてから庭を見ると、種々の御馳走を列べた席が設けられ、行方不明になつた娘が盛裝してそこに現れた。老婆が驚喜していろいろ尋ねるのに對し、私は今雷師の妻となつて、これから其方へ行かうと思つてゐる、親族が非常に多く、盛大な婚姻の式を擧げたが、一度人間に逢つて來いと云つて返してくれた、今度行けば再び歸ることはありますまい、と云つた。老婆がお婿さんに逢ふことは出來ぬかと聞いたら、それはむづかしいといふ答へであつた。幾晩か泊つた末、一夕風雨晦冥の事があつて、それきりすべての消息は絶えてしまつた(稽神錄)。――老婆と一緒に暮らす娘が突然姿をくらまし、やがて盛裝して歸つて結婚したことを告げ、數日にして去つてしまふなどは、現代にも珍しい話ではない。その去來に必ず風雨を伴ふに至つては、雷族と結婚した者に限られた現象であらう。

[やぶちゃん注:「號哭」「がうこく(ごうこく)」大声をあげて泣き叫ぶこと。「号泣」「慟哭」に同じい。

「稽神錄」五代十国時代から北宋にかけての政治家で学者・書家であった徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年:篆書によく通じ、篆書を中心とした「説文解字」の校訂者として知られる)の撰になる志怪小説集。以上の話は「第一卷」の「番禺村女」(番禺村(ばんぐうそん)の女(むすめ))という条である。同仕儀で示す。

   *

庚申歳【案、庚申當宋建隆元年。】番禺村有老姥與其女餉田。忽雲雨晦冥、及霽、乃失其女。姥號哭、求訪、鄰里相與尋之不能得。後月餘、復云雨晝晦、及霽、而庭中陳列筵席、有鹿脯、乾魚、果實、酒醢、甚豐腆。其女盛服而至。姥驚喜持之、女自言、爲雷師所娶、將至一石室中、親族甚眾、婚姻之禮、一同人間。今使歸返、而他日不可再歸矣。姥問、「雷郎可得見耶。」。曰、「不可得。」。字留數宿、一夕復風雨晦冥、遂不可見矣。

   *

割注の「建隆元年」が正しければ(事実、干支は庚申)、ユリウス暦九六〇年の出来事である。]

 雷車を推すといふ話も日本になくして支那にある話の一つである。「搜神後記」に周といふ人が都に出る途中、日暮れの路傍に小さな新しい家があり、一人の女が門に立つて居つたが、周を見て、もう日が暮れますと云ふ。この家に一夜の宿を乞ふと、夜の八時頃に外から子供の聲で、その女の名を呼び、雷車を推せといふ命令だと傳へた。女は周に挨拶して出て行つたが、夜が明けて見たら家も何もなく、新しい塚があるばかりであつた。この塚の主である女は何者か、何の因緣で雷車を推さなければならぬか、「搜神後記」はこれらに就いて何も書いてない。雷車なるものがどこに在つて、これを推すとどうなるのか、さつばりわからぬのである。

[やぶちゃん注:「搜神後記」四世紀、東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」を後補する書で、かの「桃花源記」が採録されていることから東晋の陶淵明の著作とされるが、仮託と考えてよい。但し、六朝志怪の面目は備えており、同時代の作であることは疑いがない。「第五卷」の以下。同前の仕儀で示す。

   *

永和中、義興人姓周、出都、乘馬、從兩人行。未至村、日暮。道邊有一新草小屋、一女子出門、年可十六七、姿容端正、衣服鮮潔。望見周過、謂曰、「日已向暮、前村尚遠。臨賀詎得至。」。周便求寄宿。此女爲燃火作食。向一更中、聞外有小兒喚阿香聲、女應、「諾。」。尋云、「官喚汝推雷車。」女乃辭行、云、「今有事、當去。」。夜遂大雷雨。向曉、女還。周既上馬、看昨所宿處、止見一新塚、塚口有馬尿及餘草。周甚驚惋。後五年、果作臨賀太守。

   *

「永和」これは東晋の穆帝の治世で使用された元号で三四五年から三五六年。言っておくと、高校生に中島敦の「山月記」の原典「人虎傳」などを読ませると、最後に高い地位に就いたとあるのだから、その怪異体験が出世を予兆しているのだなどと言った生徒がいたが、これは当時の志怪や伝奇の常套的な形式、マニエリスムとしての額縁なのであって、官職就任と怪異体験には直接の因果関係はない。]

 元和年間に建州の山寺に一宿した者が夜半に目をさますと、門外がびどくやかましい。窓から覗いて見たら、數人の者が斧を揮つて雷車を造りつゝあつた。そのうちに肌寒くなつて嚏をしたら、あたりは眞暗になり、その人は兩眼とも盲になつてしまつたと「酉陽難俎」にある。人間の見るべからざるものを窺つた爲、かういふ祟りを受けたらしい。これなどは作業中を一瞥したに過ぎぬが、「廣要記」にある話は暴雨の際に雲中から落ちて來たものがある。村女九人が一つの車を護つて居り、王老の女阿推――亡くなつてから半歳ばかりたつた女もその中に在つた。王は悲喜交々到るといふ有樣で、母親や妹も出て來て、話は容易に盡くべくもなかつたが、仲間が頻りに促すので、また車に戾つた。車が地を離れるに從つて雲がこれを蔽ひ、次いで雷聲が起る。はじめて雷車たることを知つたとある。

こゝに村女とあり、半歳前に亡くなつたともあるので、「搜神後記」の記事と結び付きさうな氣もする。

[やぶちゃん注:「建州」現在の福建省建甌(けんおう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「嚏」「くさめ」。くしゃみ。

 以上の「酉陽雜俎」は「卷八」の「雷」の以下。

   *

元和末、止建州山寺中。夜中、覺門外喧鬧、因潛於窗欞中觀之。見數人運斤造雷車、如圖畫者。久之、一嚏氣、忽斗暗、其人兩目遂昏焉。

   *

「廣要記」不詳。されば、原文も探り得ない。]

 さうかと思ふと、またこんな話もある。北都介休縣の民が晉祠の軒に宿つたところ、夜半に門を敲いて、介休王、暫く霹靂車をお貸し下さい、これこれの日に介休の麥を收めてしまひたいのです、といふ聲が聞える。暫くして人が出て來て、霹靂車は今忙しいから貸すことは出來ない、といふ大王の話を傳へた。けれども借りに來た方はなかなか引き下らず、繰り返して歎願するので、遂に人が五六人、燭を秉(と)つて廟の後から現れた。介山の使者は馬に乘つたまゝ門を入り、旗のやうなものを授かつた。旗はすべて十八枚あつて、一枚每に稻妻のやうな光りを發する。かういふ情景を目擊した男は急いで家に歸り、麥は早く刈り取つた方がいゝ、今に大風雨が來るといふことを近村に觸れ𢌞つたが、誰も信ずる者がない。自分のところだけさつさと麥を刈り收め、親戚等と共に高い丘の方へ避難してゐると、果してその日の午頃に至り、介山上に起つた雲氣が忽ちに天を蔽ひ、すさまじい大雷雨になつた。千餘頃(けい)の麥は全くめちやめちやになり、數村の民は妖としてこれを訴へたと「酉陽雜俎」に見えてゐる。霹靂車も雷車も大体似たものであらうが、愈々出でて愈々わからなくなつて來る。

[やぶちゃん注:「北都」唐代の太原府のこと。以下の注参照。

「介休縣」東洋文庫版今村与志雄氏の注によれば山西省介休県とする。現在の山西省晋中市介休市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「晉祠」(しんし)は同じく今村氏の注によれば、『山西省太原[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の西南』の『縣甕(けんおう)山麓にある。晋水の水源』で『周の武王の弟であり、唐に封ぜられた唐叔虞(しゅくぐ)を祭祀する』とある。

「千餘頃」「頃」(けい)は中国の面積単位で「一頃」は 約 66,667 平方メートルであるから、「千頃」で六十七平方キロメートル。因みに八丈島は七十平方キロメートルである。

 以上は「酉陽雜俎卷八」の「雷」の以下。同前。

   *

李墉在北都、介休縣百姓送解牒、夜止晉祠宇下。夜半、有人叩門云、「介休王暫借霹靂車、某日至介休收麥。」良久、有人應曰、「大王傳語、霹靂車正忙、不及借。」。其人再三借之、遂見五六人秉燭、自廟後出、介休使者亦自門騎而入。數人共持一物如幢扛、上環綴旗幡、授與騎者曰、「可點領。」。騎者卽數其幡、凡十八葉、每葉有光如電起。百姓遍報鄰村、令速收麥、將有大風雨、村人悉不信、乃自收刈。至其日、百姓率親情據高阜、候天色及午、介山上有黑雲氣如窯煙、斯須蔽天、注雨如綆。風吼雷震、凡損麥千餘頃。數村以百姓爲妖訟之、工部員外郎張周封親睹其推案。

   *]

「聊齋志異」の「雷曹」は樂雲鶴なる者が壯士に伴はれて天界に遊ぶ話である。その中に二頭の龍の駕車に乘り、貯へた水を雲間に注ぐところがある。壯士は卽ち雷曹で、三年間地上に謫せられ、今その期限が滿ちたものとわかつた。別るゝに臨み、駕車の長い繩につかまらせ、これで下りればいゝと云ふ。樂頗る危ぶんだが、雷曹笑つて心配はないと云ふ。その言に從つたら、忽ちにして地に達し、然もそこは自分の村の外れであつた。繩は次第に縮まつて雲中に收まり、また見えなくなつた。久しい旱(ひで)りの頃で、十里内外のところはろくに雨が降らなかつたが、樂の村だけは彼が天上から注いだ水で、溝が一杯になつてゐた。――この話は童話的要素があつて甚だ面白い。樂が天上で袖に入れて來た星屑を机の上に置くと、晝は黑い石のやうだが、夜に入れば光明煥然として四壁を照らすなどといふのも、童話的要素の附錄と見るべきものである。

[やぶちゃん注:原文は以下。同前。

   *

樂雲鶴、夏平子、二人少同里、長同齋、相交莫逆。夏少慧、十歳知名。樂虛心事之、夏亦相規不勌、樂文思日進、由是名並著。而潦倒場屋、戰輒北。無何、夏遘疫卒、家貧不能葬、樂鋭身自任之。遺襁褓子及未亡人、樂以時恤諸其家、每得升斗、必析而二之、夏妻子賴以活。於是士大夫益賢樂。樂恆産無多、又代夏生憂内顧、家計日蹙。乃嘆曰、「文如平子、尚碌碌以沒、而況於我。人生富貴須及時、戚戚終歳、恐先狗馬填溝壑、負此生矣、不如早自圖也。」。於是去讀而賈。操業半年、家貲小泰。

一日、客金陵、休於旅舍。見一人頎然而長、筋骨隆起、彷徨座側、色黯淡、有戚容。樂問、「欲得食耶。」其人亦不語。樂推食食之、則以手掬啗、頃刻已盡。樂又益以兼人之饌、食復盡。遂命主人割豚肩、堆以蒸餅、又盡數人之餐。始果腹而謝曰、「三年以來、未嘗如此飫飽。」。樂曰、「君固壯士、何飄泊若此。」。曰、「罪嬰天譴、不可説也。」。問其里居、曰、「陸無屋、水無舟、朝村而暮郭也。」。樂整裝欲行、其人相從、戀戀不去。樂辭之。告曰、「君有大難、吾不忍忘一飯之德。」。樂異之、遂與偕行。途中曳與同餐。辭曰、「我終歳僅數餐耳。」。益奇之。次日、渡江、風濤暴作、估舟盡覆、樂與其人悉沒江中。俄風定、其人負樂踏波出、登客舟、又破浪去、少時、挽一船至、扶樂入、囑樂臥守、復躍入江、以兩臂夾貨出、擲舟中、又入之、數入數出、列貨滿舟。樂謝曰、「君生我亦良足矣、敢望珠還哉。」。檢視貨財、並無亡失。益喜、驚爲神人、放舟欲行。其人告退、樂苦留之、遂與共濟。樂笑云、「此一厄也、止失一金簪耳。」。其人欲復尋之。樂方勸止、已投水中而沒。驚愕良久。忽見含笑而出、以簪授樂曰、「幸不辱命。」江上人罔不駭異。

樂與歸、寢處共之。每十數日始一食、食則啖嚼無算。一日、又言別、樂固挽之。適晝晦欲雨、聞雷聲。樂曰、「雲間不知何狀。雷又是何物。安得至天上視之、此疑乃可解。」。其人笑曰、「君欲作雲中遊耶。」。少時、樂倦甚、伏榻假寐。既醒、覺身搖搖然、不似榻上、開目、則在雲氣中、周身如絮。驚而起、暈如舟上。踏之、耎無地。仰視星斗、在眉目間。遂疑是夢。細視星嵌天上、如老蓮實之在蓬也、大者如甕、次如瓿、小如盎盂。以手撼之、大者堅不可動、小星動搖、似可摘而下者。遂摘其一、藏袖中。撥雲下視、則銀海蒼茫、見城郭如豆。愕然自念、設一脱足、此身何可復問。俄見二龍夭矯、駕縵車來。尾一掉、如鳴牛鞭。車上有器、圍皆數丈、貯水滿之。有數十人、以器掬水、遍灑雲間。忽見樂、共怪之。樂審所與壯士在焉、語衆云、「是吾友也。」。因取一器授樂、令灑。時苦旱、樂接器排雲、約望故、盡情傾注。未幾、謂樂曰、「我本雷曹、前誤行雨、罰謫三載、今天限已滿、請從此別。」。乃以駕車之繩萬尺擲前、使握端縋下。樂危之。其人笑言、「不妨。」樂如其言、飀飀然瞬息及地。視之、則墮立村外。繩漸收入雲中、不可見矣。

時久旱、十里外、雨僅盈指、獨樂里溝澮皆滿。歸探袖中、摘星仍在。出置案上、黯黝如石、入夜、則光明煥發、映照四壁。益寶之、什襲而藏。每有佳客、出以照飲。正視之、則條條射目。一夜、妻坐對握髮、忽見星光漸小如螢、流動橫飛。妻方怪咤、已入口中、咯之不出、竟已下咽。愕奔告樂、樂亦奇之。既寢、夢夏平子來、曰、「我少微星也。君之惠好、在中不忘。又蒙自天上攜歸、可云有緣。今爲君嗣、以報大德」。樂三十無子、得夢甚喜。自是妻果娠、及臨蓐、光輝滿室、如星在几上時、因名「星兒」。機警非常、十六歳、及進士第。

異史氏曰、「樂子文章名一世、忽覺蒼蒼之位置我者不在是、遂棄毛錐如脱屣、此與燕頷投筆者、何以少異。至雷曹感一飯之德、少微酬良友之知、豈神人之私報恩施哉、乃造物之公報賢豪耳。」。

   *

柴田天馬氏の訳文「雷曹」を先の角川文庫版で示す。

   *

 

 雷曹(らいそう)

 

 楽雲鶴(らくうんかく)と夏平子(かへいし)の二人は、小さいころから同じ里(さと)に住み、大きくなっては同じ斎(しょさい)で勉強する、莫逆(したしい)い交わりであった。

夏は小さいときから賢く、十歳になると、もう名を知られていたので、楽は、すなおな気持ちで、彼を、うやまい、夏も、たがい規(ただ)しあって、倦まず、はげましてくれる。それで楽の学問も日に日に進歩し、夏と碧で、名亮られるようになったのだが、二人とも試験運が潦倒(わる)くて戦輙北(らくだい)した。

 まもなく、夏は病気にかかって死んだが、貧乏で葬ることができないのを、楽は進んで引き受け、あと残った襁褓子(あかご)と未亡人に対し、ときどきその家に行って恤(めぎ)む。一升でも一斗でも、手に入るごとに、きっと二つに分けてあたえる。それを頼(たより)に、夏の妻子は生きてゆくのだった。

 そんなことから、士大夫(がくしゃ)たちは、ますます楽を賢良な人だといって尊敬したのであるが、もともと楽の財産は多くもなかったのに、夏に代わって暮らしむきの心配をしてやるので、家計が日に日にに苦しくなってきた。

 彼は嘆息した、

 「平子ほどの文章家でさえ、つまらなく死んでしまうのに、おれなんかが、どうなるものか。人生富貴つかむのは時がたいせつだ。年じゅう、ぐずぐず心配しているだけでは、犬や馬より先に、のたれ死にをして、この生命にそむくことになるだろうから、早く考えたほうがよい」

 彼は読書をやめて賈(あきんど)なり、半年ほど、あきないをして、いくらか楽になったのである。

 ある日、金陵に旅をして旅舎(はたご)に休んでいると、背の高い、筋骨の隆起(もりあが)った人が、そばを、うろうろしているのを見た。薄黒い顔色をして、悲しそうなようすなので、

 「食いたいのですか」

 と聞いたが、黙っているのだ。楽が食いものを推しやって、お食べなさいと言うと、その人は手ですくって、ぺろりとたいらげた。楽は、また二人まえの食事をやったが、また、すぐに食ってしまった。で、楽は、あるじに言いつけ、豚の肩肉を切り、蒸餅を、つみあげて出させた。それは何人まえかの食事なのだが、その人は、また、あまさず食ってしまい、やっと果腹(まんぷく)したらしく、

 「三年このかた、こんなに食い飽きたことはありません」

 と礼を言った。楽が、

 「きみのような、りっぱな男が、どうして、こんなに、うろついてるのかね」

 と聞くと、

 「天罰を受けているのです。話せません」

 と言った。楽が、また里居(すまい)をたずねると、

 「陸に屋(いえ)なく、水に舟なしで、朝は村、暮(より)は郭(いしがき)です」

 と言った。やがて楽は支度をして旅舎を出たが、その人は、なごり惜しげに、ついてくるので、楽は、来るなと、ことわった。

 すると、

 「きみには、大難がある。ぼくは、一飯の親切を忘れることができない。きみの大難を黙って見てはいられないのだ」

 と言った。楽は、ふしぎ思って、とうとう、いっしょに行くことにしたが、途中で食事をともにしようと思って引っぱると、

 「ぼくは、一年に数(なんど)しか食わないのです」

 と言ってことわるので、楽は、ますます、ふしぎに思うのだった。

 次の日、長江を渡るときにわかに風波が起こって、幾そうかの估舟(あきんどぶね)は、ことごとく、くつがえり、楽も、その人も、ともに江中に沈んだが、やがて風が静まると、その人は楽を負い、波を踏んで出てきて、楽を、その船に助け入れ、臥(ね)て番をしていろ、と言いつけてから、また江中に飛びこんだ。どうするのかと思っているうちに、両手に貨(しなもの)を夾(はさ)んで出てきて、舟の中に投げ入れ、また水にはいったのである。何度かはいって、何度か出た。品物は舟いっぱいに並べられた。

 楽は、感謝して、

  「きみは、ぼくを生かしてくれた。それで充分だ。品物の、かえることまで望みはしないよ」

 と言いながら調べて見た。品物は少しもなくなっていないのだ。楽は、ますます驚いて、神人(かみ)だと思ったのである。やがて、舟を出して行こうとすると、その人は別れを告げるので、楽は苦(しい)て引きとめ、とうとういっしょ江を渡りながら、楽はにこにこして、

 「今度の災難は、金の簪を一本失っただけで、すんだ。ありがとう」

 と言った。すると、その人は、また探そうとする。楽が、とめようとしたときには、もう水中に飛びこんで見えなかった。楽は驚いて、しばらく水面を見ていると、たちまちにこにこしながら水から出てきて、簪を楽にわたし、

 「お望みどおりに、うまく探せた」

 と言うのだった。江上の人たちで、ふしぎがらぬ者はなかった。

 楽はその人といっしょに帰り、寝室をともにして暮らすのであったが、彼の食事は十幾日ごとに、やっと一度で、食うとなると、数えきれぬはど食うのである。

 ある日、また別れると言うのを、楽は固(しい)て引きとめたが、それは、ちょうど、雨の降りそうな暗い昼で雷(かみなり)の音が聞こえていたから、楽は、

 「雲のなかは、どんなようすだろう。雷とは、またどんな物かな。なんとかして天上に行ってみることができたら、疑いが解けるのだが」

 と言った。すると、その人は、

 「きみは、雲中の遊びを、しようというのか」

 と言って笑った。

 しばらくすると、楽は、ひどく、だるくなったので、榻(ねだい)に俯(うつぶ)して、うたた寝をした。やがて目がさめたが、身体が、ゆらゆらして、榻の上のようではない。目をあけると、雲の中にいて、まわりは絮(わた)のようである。驚いて立ちあがると、舟の上みたいに目まいがするし、踏んでみても、やわらかで、地めんはないのだ。上を見ると、星が目の前にあるので、夢だと思った。よく見れば、星は、蓬(つと[やぶちゃん注:花托(かたく)の意。])のなかにある蓮の実のように、雲の中に嵌(は)めこまれていた。大きいのは甕(かめ)ぐらい、次は瓿(つぼ)ぐらいである。手でゆすぶってみた。大きいのは堅くて動かなかったが、小さいいのは、ぐらぐらして、摘み取れるようだったから、その一つを摘んで袖の中にしまった。

 雲を押しわけて見おろすと、蒼茫(はてのない)銀海のようで、城郭が豆ぐらいに見える。楽は驚いて、もし足をすべらせたら、自分は、どうなるかしれないと思うのだった。

 と、二つの竜が、夭矯(はね)ながら、幌車(ほろぐるま)を引いてきた。尾を振るたびに、牛鞭を鳴らすような音が響くのである。

 車の上の器(うつわ)は、すべて、周囲が何丈もある大きなもので、水が満々と貯えてあった。数十人が器を持って水をすくい、まんべんなく雲なかに撒いていたが、ふと楽を見つけて、みんな、ひどく怪しむのであった。楽が、仲間を、よく見ると、その中に大食の壮士がいた。彼は、みんなに向かい、

 「これは、わしの友だちだ」

 と言い、一つの器を楽にわたして水を撒かせた。そのときは、ひどい旱(ひでり)が続いていたから、楽は器を受け取って雲を排(ひら)き、故郷の方を望んで、こころ尽くしの水をそそいだのである。

 まもなく、彼は楽に向かい、

 「わしは、もとは雷曹(かみなり)だが、あやまって雨を降らした罰で、三年の間、下界に謫(や)られ、今、やっと期限が満ちたのだ。これで別れよう」

 と言うと、車につけた一万尺もあろうかと思われる、長い繩の一端をつかみ、それにすがって、おりろと言った。楽は、あやぶんだが、彼が笑いながら、

 「だいじょうぶだ」

 と言うので、言われたとおりにした。するすると、またたくうちに地上についた。見ると、村はずれに落ちて立っているのだ。繩は、だんだん雲の中におさまって見えなくなったのである。

 そのときは長い旱が続いていて、せっかくの雨も、十里以外は、わずかに指のかくれるほどであったが、楽の里(むら)だけは、溝や小川が満ちあふれるほどに降った。

 家に帰って、たもとを探ると、摘んできた星は、そのままあった。たもとから出して机の上に置いたが、昼は黒ずんで石のように見えながら、夜になれば、光り輝いて、あたりを照らすのである。楽は、ますます宝として、大事にしまっておき、佳(よ)い客があるごとに、それを出して酒席を照らしたが、まともに見つめると、光のすじが目を射るようであった。

 ある夜、妻は、星と向きあって髪を結っていた。と星の光は、だんだん螢のように小さくなって、すっと流れた。妻が怪しんで、あっと言ったときには、もう口の中にはいっていた。吐きだそうとしたが、出なかった。とうとう喉を通ってしまった。

 妻は驚いて、楽のところに走ってゆき、そのことを告げたので、楽も、ふしぎなことだと思った。やがて寝てから、夢に夏平子が来て、

 「ぼくは少微星なのだ。きみの親切は、こころの中で忘れるひまもない。それに、天上から連れ帰られたのは、縁があるというものだから、きみの嗣(よつぎ)になって大恩に報いたいと思う」

 と言った。楽は三十になって子がなかったから、夢をみて、ひどく喜んだ。

 妻ははたして娠(みおも)になって、子どもの生まれる時には、光が部屋じゅうに輝き、星が机の上にあるときのようであった。で、星児(せいじ)と名づけたが、非常に賢く、十六歳で進士の試験に及第したのである。

   *

流石、天馬空を行くが如き名訳と存ずる。]

 狂言の「針立雷」は田舍𢌞りの藪醫者が天上から墜落した雷を療治する話である。雷は腰の痛みもすつかり癒えて天上するまでになつたが、醫者に拂ふ藥代の持ち合せがない。水損旱損のないやうにしてやる約束で天上してしまふ。日本にも雷に關する話は大分あるが、支那のやうに人間と交渉を生ずる話はあまり見當らぬ。「針立雷」などはその少い中の一つとして、記憶して置いてよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:「針立雷」「はりだていかづち」と読む。個人ブログ「クリコの観能日記」ので黒川能のそれを画像附きで楽しめる。]

 支那の雷にはかういふ卑小なのは少いが、「子不語」中の一話などは、こゝに擧げて置くのに恰好のものかも知れぬ。杭州に萬姓の富家があり、大厦高樓をつらねて居つたところ、一日雷が落ちた。恰も萬の家に産婦があつたので、その穢(けがれ)に觸れた雷公は昇天出來なくなり、已むを得ず高い木の上に蹲つて居つた。「子不語」の傳へる雷公の風采は、雞の如き爪、尖つた嘴で、手に錐を持つてゐるといふのだから、日本のとは大分違ふ。下から見てゐる連中には何者とも知れなかつたが、漸くにして雷公とわかつたので、萬は笑談半分に、どうだ、誰かあの錐を取つて來る者はないか、賞銀は十兩出すぞ、と云ひ出した。皆默つて尻込みする中に、聲に應じて現れたのは瓦屋であつた。彼は日暮れの暗がりに紛れて攀ぢ登り、雷公が睡つてゐるのに乘じ、その錐を偸んで來た。萬が手に取つて見ると、鐡でもなければ石でもない。まぶしいやうに光つて居り、長さは七寸ばかりで、先が甚だ鋭く、石を刺すことが泥の如くである。折角手に入れたものの、人間には使ひ途がないので、いつそ刀に作り直したらよからうといふことになり、鐡工に命じて火に入れさせたら、忽ち一陣の靑姻と化し去つた。俗に天火は人火を得て化すといふ、信(まこと)に然りと書いてある。

[やぶちゃん注:これは「小不語」の「卷八」にある「雷錐」である。以下に以前の仕儀で示す。

   *

杭州孩兒巷有萬姓甚富、高房大廈。一日、雷擊怪、過婦房、受汙不能上天、蹲於園中高樹之頂、雞爪尖嘴、手持一錐。人初見、不知爲何物、久而不去、知是雷公。萬戲諭家人曰、「有能得雷公手中錐者、賞銀十兩。」。眾奴嘿然、俱稱不敢、一瓦匠某應聲去。先取高梯置牆側、日西落、乘黑而上。雷公方睡、匠竟取其錐下。主人視之、非鐵非石、光可照人、重五兩、長七寸、鋒棱甚利、刺石如泥。苦無所用、乃喚鐵工至、命改一刀、以便佩帶。方下火、化一陣靑煙、杳然去矣。俗云、「天火得人火而化。」。信然。

   *

うむ! これは確かに能狂言「針立雷」の真正大陸版の趣きがある!]

 雷の奇譚を列擧すれば容易に盡きぬであらう。もう一つ「子不語」にあるのは、黃氏の老婆が獨り室内に坐つてゐると、突然劇しい風雨になり、霹靂一聲と同時に、左側の壁の下に置かれた器物が室中に移動し、壁を離るゝこと四五尺のところに止まつた。この壁を塗つた白い壁土は、厚さ三分ぐらゐに過ぎなかつたが、これもまた壁を離れ、四五尺ばかりの距離に直立し、寸毫の壞れたところもなかつた。老婆は驚きの餘り氣絶し、暫くして蘇つたが、何に擊たれたかわからず、家の中を點檢しても、その外にこれといふ被害はなかつた。

[やぶちゃん注:これは「續不子語」の「卷九」にある「雷異二則」の最初の事例である。例の仕儀で以下に示す。

   *

滁州某村有黃氏嫗獨坐室中、午後風雨暴至。忽霹靂一聲、左壁下諸器物皆移置室中、離壁四五尺、壁上白泥厚不過三分、亦離壁四五尺、植立如堵、絲毫不損。嫗驚樸、良久乃蘇、不知所擊何物,其家亦無他異。

   *]

 かういふ話は雷公が姿を現すものよりも或意味に於て恐ろしい。「劇談錄」にも元積といふ人の別莊が出來上つたばかりの時、疾風甚雨があり、油を入れた甕が六つ七つ、霹靂一聲と共に梁上に整列し、油は一滴もこぼれなかつた話がある。その年主人が亡くなつたといふのを見れば、これは明かに凶兆であつた。

[やぶちゃん注:「劇談錄」唐の康餅の伝奇小説集。これは「太平廣記」の「卷第三百九十四 雷二」に「劇談錄」からとして、以下のように出る。中文サイトから今回は校注部(丸括弧部分)を含め、例の仕儀で引く。それだと「元積」はかの知られた中唐の詩人元稹である可能性があるか?

   *

唐元稹(「稹」原作「積」、據明抄本改)鎮江夏。襄州賈墅(明抄本「墅」作「塹」)有別業。構堂、架梁才畢、疾風甚雨。時各輸油六七甕、忽震一聲、甕悉列於樑上、都無滴汙於外。是年稹卒。

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2017/03/09

柴田宵曲 續妖異博物館 「はしがき」+「月の話」

 

 績妖異博物館

 

 

 はしがき

 

 笑談から駒が出た形で「績妖異博物館」が出版される運びになつた。然も今度は怪談季節の眞最中である。前卷の終りにあつた靑蛭房主人の呪文が、どうやら若干の效力を發揮したらしく思はれる。

 由來續篇と銘打つたものに、面白いもののあつたためしがない。いつそ別の書名にしたらどうだといふ説も出たが、さうむやみにいゝ名前が案出される筈もなし、書名は内容を左右するに足るものでもないから、續篇は續篇らしく面白くない所以を明かにした方がよからうといふことで、既定方針通り進むことにした。

 尤も續篇と云つたところで、話の續きでないのは勿論、話の方角も大分變つてゐる。前卷にも支那の話を引合に出さぬことはなかつたが、今度はその色彩がよほど強く、時には支那を主にしたのではないかと思はれる箇所が出て來た。日本の話にしても、前卷の主流であつた江戸時代より、少し遡つたところに話題を求めた。もし「續妖異博物館」が「妖異博物館」に比して何か違ふところがあるとすれば、先づこの點に歸すべきであらう。またその程度の變化もないとしたら、わざわざ二册の書物を作る必要がないことになる。

 支那の志怪と日本の妖異譚との關係は、支那料理と日本料理のやうなものである。似て意ゐるやうで違ひ、違ふかと思へば似てゐる。昔からその間に交流のあつた消息は、貧弱なこの博物館の陳列だけ見ても、或點までは看取し得るかも知れぬ。

[やぶちゃん注:本「續 妖異博物館」は、電子化注済みの青蛙房(せいあぼう)から先に刊行した「妖異博物館」(昭和三八(一九六三)年一月二十五日刊)の続編として、同じ青蛙房から、丁度、半年後の同年七月二十五日刊行された

「靑蛭房主人」昭和三〇(一九五五)年に出版社青蛙房を創業した岡本経一(きょういち 明治四二(一九〇九)年~平成二二(二〇一〇)年)。岡山県生まれで、岡本綺堂の書生となり、後に彼の養子になった。正編で特異的にしばしば近代物に岡本綺堂の作品を挙げていたのには、柴田の、養子であった彼へのサーヴィスが見て取れるのである。

「呪文」岡本氏は著作権が存続しているので、「あとがき」(『昭和三十八年初春』と記す)の全文を示すことは出来ないが、恐らくはその最終段落の頭にある次の一節『それにしても、今どきこんな本を書く奴も出す奴もないだろうと、著者と出版者は相かえりみて苦笑した。柴田さんは書いてしまうと、後は一向に氣にしない人である。わたしも本造りには夢中になるが、發賣してしまうと賣行きは氣にしない方である。しかし、「妖異博物館」と大きく外題を据えて、續編、續々編を狙ったのは我ながら慾がふかい。願わくは、天狗や河童や、その他もろもろのお化けの眷族の御加護をもって讀者諸賢にエレキが通じますように』を指しているものと思われる(この後のコーダでは『スーダラ大將』『お呼びでない?』『ハイ、それまでよ』『無責任時代』という、辛うじて私の世代以上で理解出来るチャチャを入れて擱筆しておられる。当該出版物の出版社社長の「あとがき」自体が珍しい上に、なかなか面白い内容で、電子化出来ないのが惜しいほどである。なお、正編の冒頭の私の注で記したように、正編「はしがき」によれば当初、柴田宵曲自身は本書の外題を「奇談類考」といったような辛気臭いもので考えていたのを、青蛙房からの指示でかく事大主義的なものに変えたと推定出来、それと、この岡本氏の謂いは頗る一致を見るのである。因みに『續々編』は出ておらず、ちょっと淋しい。]

 

 

 

 月の話

 

 月に關する奇譚を集めたら、恐らく一部の書をなすであらう。その中からいくつかこゝに並べて見る。

 王先生なる者が烏江のほとりに住んで居つた。妖ではないかなどと蔭口を利く者もあつたが、里中に火事が起つた時、この人が出かけて聲をかけたら、忽ち火が消えたといふ事件があつて、それ以來皆が尊敬するやうになつた。長慶年間に楊晦之といふ男が長安から呉楚に遊ぶ途中、かねてこの人の名を聞いてゐたのでその門を敲いた。先生は黑い薄絹の頭巾を被り、褐色の衣を著けて悠然と几(つくゑ)に向つてゐる。晦之が再拜して鄭重に挨拶しても、輕く一揖するのみであつた。倂し晦之を側に坐らせての暢談は容易に盡きさうにもないので、晦之は一晩泊めて貰ふことになつた。先生の娘といふのが出て來たが、七十ばかりで頭髮悉く白く、家の中でも杖をついてゐる。これはわしの娘ぢやが、惰(なま)け者で道を學ばぬものぢやから、こんな年寄りになつてしまつた、と云ひ、娘を顧みて月の用意をせよと命じた。この日は八月十二日であつたが、暫くして娘が紙で月の形を切り、東の垣の上に置くと、夕べに至り自ら光りを優し、室内はどんな小さなものでもはつきり見えるので、晦之は驚歎せざるを得なかつた。

[やぶちゃん注:「烏江」後に「呉楚」が出るから、かの垓下(がいか)で敗れた項羽が自刎して美事な最期を遂げた、長江沿いの渡し場「烏江」(うこう)と採っておく。現在の安徽省巣湖市和県烏江鎮附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長慶年間」中唐末期の第十五代皇帝穆宗の治世で使用された元号。ユリウス暦八二一年~八二四年。

「楊晦之」「ようくわいし(ようかいし)」と読んでおく。

「一揖」「いちいふ(いちゆう)」と読む。中国の古式の礼の一つ。両手を胸の前で組み、これを上下或いは前に進めたりしてする挨拶

「暢談」「ちやうだん(ちょうだん)」と読み。心おきなくのびのびと語り合うこと。

「八月十二日」旧暦であるから暗くなる前の夕方には月は没してしまう。]

「宣室志」に書いてあるのは右の通りであるが、「酉陽雜俎」や「列仙全傳」ではこれが唐居士になつてゐる。訪問者は楊隱之といふので「宣室志」に似てゐるが、夜になつて居士が娘を呼び、片月子を持つて來いと命ずる。片紙のやうなものを持つて來て壁に貼り付けると、居士はこれに向つて禮拜し、今夕客あり、光明を賜ふべしと云ふや否や、室内は燭を置いたやうに明るくなつた。時代は同じ長慶年間だから、一つの話が二樣に傳はつてゐるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「宣室志」(せんしつし)は唐の張読の撰になる伝奇小説集。もとは十巻あったと考えられるが、散逸し、後代の幾つかの作品に引用されて残る。これは同書の「王先生」。中文サイトのものを加工して示す。

有王先生者、家於烏江上、隱其跡、由是里人不能辨、或以爲妖妄。一日、里中火起、延燒廬舍、生卽往視之、厲聲呼曰、「火且止、火且止。」。於是火滅。里人始奇之。長慶中、有弘農楊晦之、自長安東遊呉楚、行至烏江、聞先生高躅、就門往謁。先生戴玄綃巾、衣褐衣、隱几而坐、風骨淸美。晦之再拜備禮、先生拱揖而已、命晦之坐其側。其議論玄暢、迥出意表。晦之愈健慕、於是留宿。是日乃八月十二日也。先生召其女七娘者、乃一老嫗也、年七十餘、髮盡白、扶杖而來、先生謂晦之曰、「此我女也、惰而不好道、今且老矣。」。既而謂七娘曰、「汝爲吾刻紙、狀今夕之月、置於室東垣上。」。有頃、七娘以紙月施於垣上。夕有奇光自發、洞照一室、纖毫盡辨。晦之驚嘆不測。及曉將去、先生以杖畫地、俄有塵起、天地盡晦、久之塵斂、視其庭、則懸崖峻險、山谷重疊、前有積石盡目。晦之悸然背汗、毛髮豎立。先生曰、「陵谷速遷、吾子安所歸乎。」。晦之益恐、灑泣言曰、「誠不知一旦有桑田之變、豈仙都瞬息、而塵世已千歳乎。」。先生笑曰、「子無懼也。所以爲娯爾。」於是持帚掃其庭、又有塵起。有頃、塵斂、門庭如舊。晦之喜、卽馳馬而去。

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柴田が「月」とは無縁なところからカットしてしまった、翌朝の晦之が体験する驚天動地の王先生の遊びのシークエンスが、とても素敵!

 「酉陽雜狙」版の同シークエンスは「卷二」の「五 壺史」の中の次の一条。同前の仕儀で示す。

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長慶初、山人楊隱之在郴州、常尋訪道者。有唐居士、土人謂百歳人。楊謁之、因留楊止宿。及夜、呼其女曰、「可將一下弦月子來。」。其女遂帖月於壁上、如片紙耳。唐卽起、祝之曰、「今夕有客、可賜光明。」。言訖、一室朗若張燭。

   *

「列仙全傳」(「有象(ゆうしょう)列仙全傳」が正しい書名)は明代に書かれた仙人伝。私は所持せず、ネット上でも見当たらぬので原典は示せない。以下、同じ。]

 周生は唐の大和中の人で、洞産山に廬を結んで居つたが、道術を以て多くの人の尊敬を集めた。或時廣陵の舍佛寺に居ると、これを聞いた人が何人も押しかけて來る。恰も中秋明月の夜であつたから、皎々と澄み渡る月を見て、自ら月世界の話になり、吾々のやうな俗物でも、月世界に到ることが出來るでせうか、と云ひ出した者があつた。周生は笑つて、その事ならわしも師に學んだことがある、月世界に到るどころではない、月を袂に入れることが出來る、君はそれを信ずるか、と云つた。或者はこれを妄言とし、或者はその奇を喜ぶ中に、周生は委細構はず、一室を空虛にし、四方から固く戸を鎖し、數百本の竹に繩梯子を掛けさせ、わしは今からこの繩梯子を上つて月を取つて來る、わしが呼んだら來て御覽、と云ふ。人々は庭を步きながら樣子を窺つてゐると、先刻まで晴れてゐた空が忽ち曇り、天地晦冥になつて來た。その時突如として周生の聲が聞えたので、室の戸を明けたところ、彼はそこに坐つてゐて、月はわしの衣中に在る、と云ふ。どうかその月をお見せ下さい、と云はれて、周生が衣中の月をちょつと見せると、一室は俄かに明るくなり、寒さが骨に沁み入るやうに感ぜられた。君はわしを信ぜぬやうであつたが、今は信ずるか――周生は落ち着き拂つてかう云つた。人々再拜して失言を謝し、月の光りを收めて貰ふやうに頼む。よつてまた戸を鎗す。天地は依然晦冥であつたが、暫くたつと最初の通り明皎々たる月夜に還つた。實に驚くべき幻術である。繩梯子を上つて天界に到るあたりは、仙宮の桃を取りに行く「聊齋志異」の偸桃に似てゐるかと思ふ。この話も「宣室志」に出てゐる。

[やぶちゃん注:「宣室志」のそれは「周生」。以下。

   *

唐太和中、有周生者、廬於洞庭山、時以道術濟呉楚、人多敬之。後將抵洛穀之間、途次廣陵、舍佛寺中。會有三四客皆來。時方中秋、其夕霽月澄瑩、且吟且望、有説開元時明皇帝遊月宮事、因相與嘆曰、「吾輩塵人、固不得至其所矣。奈何。」。周生知曰、「某常學於師、亦得焉、且能挈月致之懷袂、子信乎。」。或患其妄、或喜其奇。生曰、「吾不爲明、則妄矣。」。因命虛一室、翳四垣、不使有纖隙。又命以箸數百、呼其僮繩而架之。且告客曰、「我將梯此取月去。聞呼可來觀。」。乃閉戸久之。數客步庭中、且伺焉。忽覺天地曛晦、仰而視之、卽又無纖雲。俄聞生呼曰、「某至矣。」。因開其室、生曰、「月在某衣中爾。請客觀焉。」。因以舉之、其衣中出月寸許、忽一室盡明、寒逼肌骨。生曰、「子不信我、今信乎。」。客再拜謝之、願收其光。因又閉戸、其外尚昏晦、食頃方如初。

『「聊齋志異」の偸桃』は「卷三」の第一項「偸桃」(とうたう(とうとう))。以下。

   *

童時赴郡試、春節。舊例、先一日、各行商賈、綵樓鼓吹赴藩司、名曰、「演春」。余從友人戲矚。是日遊人如堵。堂上四官、皆赤衣、東西相嚮坐。時方稚、亦不解其何官。但聞人語嚌嘈、鼓吹聒耳。忽有一人、率披發童、荷擔而上、似有所白、萬聲洶動、亦不聞爲何語。但視堂上作笑聲。即有青衣人大聲命作劇。其人應命方興、問、「作何劇。」。堂上相顧數語。吏下宣問所長。答言、「能顛倒生物。」吏以白官。少頃復下、命取桃子。術人聲諾、解衣覆笥上、故作怨狀、曰、「官長殊不了了。堅冰未解、安所得桃。不取、又恐爲南面者所怒。奈何。」。其子曰、「父已諾之、又焉辭。」。術人惆悵良久、乃云、「我籌之爛熟。春初雪積、人間何處可覓。惟王母園中、四時常不凋謝、或有之。必竊之天上、乃可。」。子曰、「嘻、天可階而升乎。」。曰、「有術在。」。乃笥、出繩一團、約數十丈、理其端、望空中擲去、繩即懸立空際、若有物以掛之。未幾、愈擲愈高、渺入雲中、手中繩亦盡。乃呼子曰、「兒來。余老憊、體重拙、不能行、得汝一往。」。遂以繩授子、曰、「持此可登。」子受繩、有難色、怨曰、「阿翁亦大憒憒。如此一線之繩、欲我附之、以登萬仞之高天。倘中道斷、骸骨何存矣。」。父又強嗚拍之、曰、「我已失口、悔無及。煩兒一行。兒勿苦、倘竊得來、必有百金賞、當爲兒娶一美婦。」。子乃持索、盤旋而上、手移足隨、如蛛趁絲、漸入雲霄、不可復見。久之、附一桃、如碗大。術人喜、持獻公堂。堂上傳示良久、亦不知其真偽。忽而繩落地上、術人驚曰、「殆矣。上有人斷吾繩、兒將焉托。」。移時、一物墮。視之、其子首也。捧而泣曰、「是必桃爲監者所覺、吾兒休矣。」。又移時、一足落、無何、肢體紛墮、無復存者。術人大悲、一一拾置笥中而合之、曰、「老夫止此兒、日從我南北游。今承嚴命、不意罹此奇慘。當負去瘞之。」。乃昇堂而跪、曰、「爲桃故、殺吾子矣。如憐小人而助之葬、當結草以圖報耳。」。坐官駭詫、各有賜金。術人受而纏諸腰、乃扣笥而呼曰、「八八兒、不出謝賞、將何待。」。忽一蓬頭僮首抵笥蓋而出、望北稽首、則其子也。以其術奇、故至今猶記之。後聞白蓮教能爲此術、意此其苗裔耶。

   *

柴田天馬氏の訳(角川文庫昭和五三(一九七八)年改版九版)で以下に示す。

   *

 

 偸桃(とうとう)

 

子どものころ、郡(ふ)に行ったことがあり。それは、ちょうど立春であった。

 古くからのしきたりで、立春の前の日、各行商賈(あきんどたち)は彩楼(やたい)を作り、笛太鼓で藩司(ふせいし)にねりこむ。それを彼らは演春と名づけていた。

 自分は友人について、それを見物に行ったのである。

 その日、役所の前は、遊び歩いている人たちが、垣根のように、ぐるりと取りまいて、堂の上には四人の役人が、みな赤い着ものをきて、東西に向かいあって腰かけていた。自分は、まだ幼かったから、それが、どんな役人か、わからず、ただ、そうぞうしい人声と、やかましい笛太鼓を聞いているだけであった。

 たちまち、披髪(おかっぱ)の子どもを連れた人があって、荷物をになって進みでた。何とか言ってるらしいのだが、人声が騒がしいので、何を言っでいるか、聞こえなかった。

 すると、堂上(ひろま)で笑い声が起こった。そして、黒い着ものの下役が大きな声で、芸をやれと言いつけた。その人は、言われるままに始めようとして、聞くのであった。

 「どんな芸を、して、ごらんにいれましょう」

 堂上(ひろま)の役人たちが、顔を見あって話しあうと、下役が、おりてきて、得意なものは何か、とたずねた。男は答えた、

 「顚倒(あべこべ)な物を、出すことができるのでございます」

 で、下役は、それを役人に申しあげ、しばらくすると、また、おりてきて、

 「桃を取ってこい」

 と言いつけた。術人(てずまし)は、はいと言って着ものをぬぎ、それを箱にかぶせてから、わざと恨めしそうなようすをして、言うのだった、

 「お役人なんて、とても、わからないもんだ。氷が、まだ、とけもしない今ごろ、どこにだって、桃の手に入るようなところなんか、あるはずほない。けれども、取ってこないと、また、お役人に、おこられるだろうし、さあ、どうしたら、いいものか」

 すると、その子が言った、

 「父(ちゃん)は、はいと言っちまったんじゃないか。ことわれや、しないや!」

 術人(てずまし)は、しばらくの間、惆悵(かなし)そうなふうだったが、やがて言った、

 「おれは考えたよ。とっくりとな。今は、まだ春の初めで、雪が、つもっているんだから、人間には、どこにだって、探すところなんか、ありやしないが、王母のお庭は、年じゅう、葉が枯れるなんてことのないところだ。もしかすると、あるかもしれない。どうしたって、天上で盗むのが、よかろうぜ」

 子どもは言った、

 「えっ! はしごをかけて、天に登れるのかい?」

 と、おやじは、

 「術が、あるからな」

 と言って箱をあけ、なかから数十丈もあろうと思われる、一かたまりの繩を取りだし、端を、そろえると、空中を望んで投げあげた。と、繩は、まるで何かにかかったように、空際(なかぞら)に、かかっていた。まもなく、いよいよ繩をくりだすにつれて、いよいよ高くなり、繩の先が、雲の中にはいって見えなくなったのと同時に、手の中の繩も尽きてしまった。

 すると、おやじは、子どもを呼んで言った、

 「せがれや! おいで! おれは、な、年をとっちまって身体が重いから、行かれない。おまいに行ってもらおうよ」

 で、繩を子どもにわたし、

 「これを持てば、登れるからな」

 と言った。

 子どもは繩を受けとったものの、困った顔をして、うらめしそうに言った、

 「ほんとに、憒々(わからな)い、ちゃんだ。こんな一本の繩に、あたいを、つかまらして、なん万仭(まんじゃく)もある高い天に登らせようなんて。途中で繩が切れでもしたら、こなみじんに、なっちまわあ!」

 すると、おやじほ、おどかしたり、すかしたりするのだった、

 「おれは口をすべらしてしまったから、くやんでも追いつかないんだ。おまい、行ってくれろよ。だがな、せがれ、いやがるんじゃない。もし、桃を盗んできたら、きっと百両のご賞(ほうび)があるから、おまいに、きれいな婦(かみさん)をもらってやる」

 子どもは、そこで、繩を持って、するすると登りはじめた。手が移る。足がついて行く。まるで蛛(くも)が糸を伝うように、空に入って行って、とうとう見えなくなってしまった。

 と、しばらくして、桃が一つ落ちてきた。盎(わん)のような大きさである。術人(てずまし)は喜んで、それを持って広間にのぼり、役人に差しあげた。広間の人たちは、手から手にそれを回して、しばらくの間、見ていたけれど、桃の真偽は、わからなかった。

 たちまち、繩が地上に落ちてきた。術人は驚いて叫んだ、

 「あぶない! 空に誰かいて、わしの繩を切ってしまった! せがれは何に託(たよ)るのだ!」

 そのうちに、落ちてきた物があるので、駆けよって見ると、せがれの首だった。おやじはそれを捧げて、泣きながら言うのである、

 「こりやあ、きっと、桃を偸(ぬす)んだのを、番人に、さとられたにちがいない。せがれは、だめだ!」

 それから、また、しばらくすると、片足が落ちてきた。そしてまもなく、足や身体が、ばらばらになって落ちてきた。もう残っているものはないのである。

 術人(てずまし)は、ひどく悲しみ、いちいち拾って箱に入れると、ふたをして言うのだった、

 「こいつは、おやじの一人っ子で、毎日、わしについて、南や北を歩きまわっておりましたが、今日、思わずも、仰を受けて、こんな災難にかかりました。どれ、しょって行って埋めてやりましょう」

 そして、堂(ひろま)にのぼって、ひざまずき、

 「桃のために、せがれを殺してしまいました。もしも、わたくしを、あわれとおぼしめしますなら、葬いの金をお助(す)けなさってくださいまし。当結草以図報(しんでもごおんはかえ)します」

 腰かけていた人たちは、驚きもし、あやしみもして、おのおの術人(てずまし)に金をやった。術人は、金を受けとって腰につけてから、箱をたたいて言うのだった、

 「八々児(はちはち)よ! 早く出て、ごぼうびのお礼を申しあげろ。何を、ぐずぐずしてるんだ」

 と、おかっぱの子どもが、箱のふたを押しあけて首を出し、北に向かって、おじぎをした。

 それは、せがれであった。

 ふしぎな術だから、今になっても、まだ、それを、おぼえているが、あとで聞くと、白蓮教の者が、よく、この術をやるそうだから、この男も、白蓮教の苗裔(しそん)、かと思われる。

   *

底本ではこの後に語注が続くが、特にその「七」(注記号は話の末に打たれてある)が面白い。以下に引く。『接(つ)ぎ』は注全体がポイント落ちなため、ルビではなく、本文がこうなっている

   *

この話は、聊斎自身の所見であるところに、格別の興味を引かれるわけだが、まさか聊斎が本気になって書いたのではなく、多少――どころじゃない――大いに修飾を加えたものだろう。実際、今日このごろ、こんな話を、まじめにする人があっても、真に受ける人はなさそうに思われるが、あに、はからんや、昭和十一年十二月二十七日付の報知新聞紙上にあるインドの修行者「ヨギ」の魔法は、ここに訳出したものと、ほとんど同じで、イギリス人ブランケット氏が親しく目撃し、かつ写真にまで撮って、天下に公表したのだというから、おもしろい。よって下に、北米イングルウッド市で行なわれたインド・ヨギ、ハレットのロープトリックなるものを転載し、この話と、いかに類似しているかを、紹介しょうと思う。「ヨギが、一本の綱を空中にバッと投げると、綱は、さながら立木のように、地上に直立する。すると、一人が、スルスルと綱を登ってゆく、と見るまに、少年の手が、足が、首が、バラバラになって、しかも、血に染まって落ちてくる。だが、平然たるヨギほ、バラバラに地上に落ちた少年の肉体を、接(つ)ぎ合わせるや、たちまちにして、また、もとの元気な少年になるのだ」うんぬん。

   *

この話は「聊齋志異」の中でも私がすこぶる附きで偏愛するものである。]

「列仙全傳」の莫月鼎は潮州の人で、鬼魅を自由に驅使するのみならず、天象を支配することが出來た。西湖に舟を泛べて酒を酌み交してゐた際、眞夏の太陽の暑いのに困じて、雲を起してくれぬかと賴むと、彼は舟を岸に著けて獨り上陸し、どこからか木の實の殼を一つ拾つて來た。それを盃に浮べたら、見る見るうちに黑雲が起つて日光を蔽ひ去つたさうである。或年の中秋に蕃釐觀の道士が知人を招いて、觀月の酒宴を催さうとした。あいにく雲が出て折角の興がさめかけた時、道士は觀内に月鼎の寄寓してゐることを思ひ出し、彼をこの席に招くのを忘れた爲、その怒りを買つたものであらうと氣が付いたので、直ぐ人を遣はして月鼎を招き陳謝の意を表した。月鼎は何も云はず、微笑しながら手を擧げて天上を指す。今までひろがつてゐた雲は忽ちに消え、十分に清興に耽ることが出來た。

[やぶちゃん注:「蕃釐觀」「ばんりくわん(ばんりかん)」と読んでおく。道観(道教の寺院)の固有名詞。]

 同じ書にある翟天師にも月の一條があつた。或江のほとりで月をめでてゐる時、弟子の一人が卒然として、月の中には何がありますかと問うた。天師は笑つて手を擧げて月を指したが、弟子どもはその意を解することが出來ぬ。各々自分の指の形に從つて月の面を覗いて見よと云はれ、天師の通りにやつて見たら、多くの金殿玉樓が軒を連ね甍(いらか)を竝べて月の面に聳えてゐた。倂し眸(ひとみ)を定めて再び見直した時は、樓殿の形は已に消えて見えなかつた。

[やぶちゃん注:「翟天師」「てきてんし」と読んでおく。]

 古人は月と云へば直ちに月宮殿を想像し、その裏に在る天女の姿を心に描いたらしい。「竹取物語」のかぐや姫も元來月の都の人で、暫時の生を地上に托したのである。「竹取物語」の末段に近くなつて「子の刻ばかりに、家のあたり晝の明さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十あはせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より人雲に乘りて降り來て、地より五尺許りあがりたる程に立ち連ねたり」と書いたのは、日本の月の文學の中に在つて永く異彩を放つに足るものであらう。謠曲「羽衣」の天女も月宮殿裏に在つて「奉仕をさだめ役をなす」天少女(あまおとめ)の一人であつた。「池北偶談」の中に月夜に露坐して仰いでゐると、うるはしく著飾つた女子が鶴の背に乘り、宮扇を持つた一人がこれを衞つて、ゆるゆると月の中に入つて行つたとある如き、やはり月宮殿裏の天少女の姿でなければならぬ。

[やぶちゃん注:以上の「竹取物語」のシークエンスは、一般に「かぐや姫の昇天」と称されるパートの月の国からの来臨部分、同作でも圧巻のシーンである。少し長くなるが、柴田の賞讃するように、本朝最古の幻想文学の白眉と称してよい場面であるので、月帰還までの全文を以下に阪倉篤義校訂の岩波文庫版(一九七〇年刊)で引く。読みは一部に限った。一部は私が〔 〕で読みを入れ、阪倉氏の記号による右補訂箇所はそのまま原文と差し替えた。一部に句点を追加した。【 】は別伝本で補った。踊り字「〱」は正字化した。「返々」は「かへすがへす」と訓ずる。

   *

 かゝる程に、宵うち過ぎて、子の時ばかりに、家のあたり晝の明(あか)さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十あせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空(ぞら)より人、雲に乘りて下(お)り來て、土(つち)より五尺ばかり上(あが)りたる程に、立ち列(つら)ねたり。これを見て、内外(うちと)なる人の心ども、物におそはるゝやうにて、あひ戰はん心もなかりけり。からうじて思ひ起して、弓矢をとり立てんとすれども、手に力もなくなりて、萎(な)えかゝりたる。中に、心さかしき者、ねんじて射んとすれども、外(ほか)ざまへいきければ、あれも戰はで、心地たゞ痴(し)れに痴れてまもり合へり。

 立てる人どもは、裝束の淸(きよ)らなること、物にも似ず。飛(とぶ)車一つ具(ぐ)したり。羅蓋(らがい)さしたり。その中に王とおぼしき人、家に、

「宮つこまろ、まうで來(こ)。」

と言ふに、猛(たけ)く思ひつる宮つこまろも、物に醉(ゑ)ひたる心地して、うつ伏(ぶ)しに伏(ふ)せり。いはく、

「汝(なんぢ)、をさなき人、いさゝかなる功德(くどく)を翁(おきな)つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下(くだ)しゝを、そこらの年頃、そこらの金(こがね)給ひて、身をかへたるがごと成りにたり。かぐや姫は、罪(つみ)をつくり給へりければ、かく賤(いや)しきおのれがもとに、しばしおはしつる也。罪の限(かぎり)果てぬればかく迎ふるを、翁は泣き歎く、能(あた)はぬことなり。はや出したてまつれ。」

と言ふ。翁答へて申す、

「かぐや姫を養ひたてまつること廿餘年に成りぬ。かた時との給ふに、あやしくなり侍りぬ。又異(こと)所にかぐや姫と申す人ぞおはすらん。」

と言ふ。

「こゝにおはするかぐや姫は、重き病(やまひ)をし給へば、え出でおはしますまじ。」

と申せば、その返事はなくて、屋の上に飛車(とぶくるま)を寄せて、

「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所にいかでか久しくおはせん。」

と言ふ。立て籠(こ)めたるところの戸、すなはち、たゞ開(あ)きに開きぬ。格子どもゝ、人はなくして開きぬ。女抱(いだ)きてゐたるかぐや姫、外(と)に出ぬ。え止(とゞ)むまじければ、たゞさし仰(あふ)ぎて泣きをり。竹取心惑(まど)ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ、

「こゝにも心にもあらでかく罷(まか)るに、昇(のぼ)らんをだに見おくり給へ。」

と言へども、

「なにしに、悲しきに見おくりたてまつらん。我をばいかにせよとて、捨てゝは昇り給ふぞ。具して出でおはせね。」

と、泣きて伏せれば、心惑ひぬ。

「文を書おきてまからん。戀しからんをりおり、とり出でて見給へ。」

とて、うち泣きて書く言葉は、

「此國に生まれぬるとならば、歎かせたてまつらぬほどまで【侍るべきを】、侍らで過ぎ別れぬること、返々本意(ほい)なくこそおぼえ侍れ。脱ぎおく衣(きぬ)を形見(かたみ)と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見捨てたてまつりてまかる、空よりもおちぬべき心地す。」

と、書きおく。

 天人の中に持たせたる箱あり。天(あま)の羽(は)衣入れり。又あるは不死(ふし)の藥(くすり)入れり。ひとりの天人言ふ、

「壺(つぼ)なる御藥(くすり)たてまつれ。穢き所のものきこしめしたれば、御心地惡しからむ物ぞ。」

とて、もて寄りたれば、わづか嘗な)め給ひて、すこし形見とて、脱ぎおく衣(きぬ)に包まんとすれば、ある天人包ませず、御衣(みそ)をとり出でて着(き)せんとす。その時にかぐや姫、

「しばし待て。」

と言ひて、

「衣着(きぬき)つる人は心異(こと)になるなり。物一(ひと)こと言いひおくべき事あり。」

と言ひて、文書く。天人、

「おそし。」

と心もとながり給ひ、かぐや姫、

「もの知らぬこと、なの給ひそ。」

とて、いみじく靜かに公(おほやけ)に御文(ふみ)たてまつり給。あわてぬさま也。

[やぶちゃん注:以下、の書簡部分は底本では全体が一字下げ。]

「かくあまたの人を賜ひて止(とゞ)めさせ給へど、許さぬ迎へまうで來て、とりゐてまかりぬれば、くちをしく悲しき事。宮仕(づか)へ仕(つか)うまつらずなりぬるも、かくわづらはしき身にて侍れば。心得ず思(おぼ)しめされつらめども、心強(つよ)くうけたまはらずなりにし事、なめげなる物に思(おぼ)しめし止(とゞ)められぬるなん、心にとゞまり侍りぬる。」

とて、

  今はとて天の羽衣きるをりぞ君をあはれと思ひいでける

とて、壺の藥そへて、頭中將呼びよせて、たてまつらす。中將に天人とりて傳(つた)ふ。中將とりつれば、ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとほしく、かなしと思(おぼ)しつる事も失せぬ。此衣(きぬ)着つる人は物思ひもなく成りにければ、車に乘りて百人ばかり天人具して、昇りぬ。

   *

「五尺」約一メートル半。

『謠曲「羽衣」』「丹後風土記」逸文に代表される所謂「羽衣伝説」に基づく能。一説に世阿弥作とされるが、信じ難い。柴田の引用は、後半の地で、

白衣黑衣(びやくえこくえ)の天人(てんにん)の。數(かず)を三五(さんご)にわかつて。一月夜々(いちげつやや)の天乙女(あまをとめ)。奉仕(ほうじ)を定め役(やく)をなす

とあるところの一節。これによれば、この白衣と黒衣を着分けた天乙女たちが十五人ずつに分かれて、旧暦の一ヶ月間、夜毎(よごと)に定められた役目として、専ら月の満ち欠けを司っているという説明譚にもなっていることが判る。

 

「池北偶談」清第一の詩人とされる王漁洋(士禎)の随筆。全二十六巻。以上は「談異」の「卷二十六」の「月中女子」である。今までと同じ仕儀で示す。

   *

德州趙進士仲(其星)、嘗月夜露坐、仰見一女子、妝飾甚麗、如乘鸞鶴、一人持宮扇衞之、逡巡入月而沒。此與予前所記二事相類。羿妻之事、信有之矣。

   *]

 月を懷ろにして還る周生の話は奇拔であるが、それだけ月が小さなものになつてゐることを否み難い。苛も天界の月ならば、造かにこれを仰望して、時に金殿玉樓の竝ぶのを見るぐらゐが恰好のところと思はれるが、月世界旅行の夢は古今を通じてあり、それがいろいろな文學に現れてゐる。「列仙全傳」の羅公遠などもその一つである。

[やぶちゃん注:ウィキの「公遠から引く。生没年未詳の唐の玄宗に仕えた道士。「新唐書」では「羅思遠」とするが、唐代の伝奇小説では「羅公遠」と記す。『鄂州の出身。幼いころから、道術を好んでいたという。州の刺史に、人間に化けた白龍を叱りとばし、その正体を見せたことから見いだされた。刺史の推薦で長安に赴き、張果、葉法善に冷笑された。手に握った碁石の数当てをさせられたが、二人の手から気づかれずに、碁石を自分の手に移したため、二人と同列とされた』。『月までの橋をかけ、玄宗を月宮に連れて行った話(玄宗はこの時、霓裳羽衣の曲を編み出したとされる)が残っている』(柴田が後の段落で語っている)。『また、三蔵法師(不空金剛)と術比べをし、雨の祈祷をした話や、竹の枝を七宝如意に変えた話、玉清神女を操り、三蔵法師の操る菩薩や金剛力士を出し抜き、その袈裟を奪った話が伝えられている』。『羅公遠は玄宗に、隠形の術を乞われ、皇帝がすることでないと強く諫めた。玄宗が詰問したところ、逃げて柱の中に隠れた。玄宗が柱を破壊すると、礎石に入り、とりかえても別の石に入った。石を壊しても、その一つ一つに羅公遠の姿が入っていた。玄宗がわびを入れ、やっと姿をあらわした。しかし、結局、羅公遠は術を伝え、それが不完全なものであったために、玄宗は彼を殺してしまった』。『数年後、宦官の輔仙玉が蜀の地で羅公遠と会った。彼は、「お上は、なんとひどいことをされる」と話し、玄宗に伝言を頼んだという』。その後、再び玄宗と会い、「三峯歌」八首を『進講した。玄宗が修行したところ、精力が充実してきたという。その後、羅公遠はまた立ち去った』。七五六年の「安史の乱」『勃発後、玄宗が蜀の地に出奔した折り、羅公遠は再度あらわれ、成都まで送っていった後、去っていった。玄宗の蜀出奔を予言していたと言われる』。「広異記」には『天狐と術比べをし、捕らえて新羅に送ったという説話が残っている』。]

 開元の某年、宮中に觀月の酒宴が催された時、玄宗皇帝は良夜の淸光を仰ぎ、かやうな晩に月宮殿に到り得たら、さぞ愉快であらうと獨語された。羅公遠は帝の側に侍してゐたが、それは造作もない事でございます、もし御意とあらば只今からでも御案内致しませう、と申し上げたので、直ちに月世界に遊ばれることになつた。羅公遠は座を立つて緣先に出ると、持つてゐた杖を空に投げる。杖は化して浮橋となり、銀のやうに光り輝いたが、その端は遠く雲に隱れてゐて、どこまで續いてゐるかわからない。羅公遠は玄宗皇帝を誘うて浮橋を渡り、忽ちに月宮殿に到つた。宮裏には畫にかいたやうな仙女が數百人居り、光り輝く衣裝を著て霓裳羽衣(げいしやううい)の曲を御覽に入れた。二人が月宮を辭して歸る時、例の浮橋は步むに隨つて消え、無事歸著すると共に影も形もなくなつてゐたさうである。

 玄宗皇帝はこの時の記念として、親しく月宮殿で見物された霓裳羽衣の曲の大體を伶人に傳へ、それに摸した一曲を作らしめられた。白樂天は「長恨歌」の中で「漁陽鼙鼓動地來。驚破霓裳羽衣曲」と云ひ、また「風吹仙袂飄飄擧。猶是霓裳羽衣舞」と二度までこの曲名を用ゐてゐるが、月世界旅行の記念だと思ふと、そこに無限の趣致を生ずるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「長恨歌」は高校の漢文で読んでいるはず(授業でやらない教師は読めないし意味も分らないのだと馬鹿にしてよい)だが、一応、訓読を示しておく。

「漁陽鼙鼓動地來。驚破霓裳羽衣曲」

 漁陽(ぎよやう)の鼙鼓(へいこ) 地を動かして來たり

 驚破(きやうは)す 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲

「漁陽」は安禄山の根拠地。「鼙鼓」は騎兵が馬上で打ち鳴らす攻め太鼓。なお、曲としての「霓裳羽衣曲」は改元年中(七一三年~七四一年)に楊敬述が作曲したもので、元は「婆羅門(ばらもん)」と言った。白居易には別に「霓裳羽衣歌」という長詩もある。

「風吹仙袂飄飄擧。猶是霓裳羽衣舞」「飄飄」は「飄颻」の、「是」は「似」の誤り

 風は仙袂(せんべい)を吹きて 飄飄(へうえう)として擧がり

 猶ほ霓裳羽衣の舞(まひ)に似たり。

この前だけなら校正ミスも疑われるが、二ヶ所あるのは柴田の責任が免れぬ。冒頭の一篇のコーダなだけに甚大な瑕疵と言わざるを得ない。]

 

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