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カテゴリー「「甲子夜話」」の411件の記事

2024/02/02

甲子夜話卷之八 23 越前の雪中、鹿を捕る事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。標題の「え」はママ。]

 

8-23 越前の雪中、鹿を捕る事

 予が堅士に越前生れのものあり。その言(いひ)しは、

「越前は、山國ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、寒(さむさ)、甚々(はなはだし)。雪も、屢(しばしば)、ふれり。又、鹿、多く產す。因(よつ)て、農夫、雪の降積(ふりつみ)たるときを見て、數(す)百人、寄集(よりあつま)り、鹿を、山々より逐出(おひだ)して谿間(けいかん)の處に、驅(かけ)ゆかしむ。又、豫(あらかじ)め、㵎流(たにながれ)の中(なか)に、竹もて、格子(かうし)を造り、雪に埋(うづ)め置く。鹿、㵎を渡(わたら)んとして、竹上(たけうへ)に、のれば、四足を格子に陷入(おちい)れて、步動(ほどう)すること、能(あた)はず。その時、馳寄(かけより)て、竹槍を以て、突(つき)て、これを獲(とる)。一時(いつとき)、三十餘頭、或(あるい)は、一日、百四、五十に及ぶ。」

となり。

「故に、寒(さむさ)强き翌年は、必ず、豐作なり。これ、雪の瑞(ずゐ)によるのみならず。常年(つねのとし)、鹿、多(おほく)して、穀(こく)を害す。鹿を取ること、多きときは、其(その)患(わずらひ)、少きを以て、故に豐年なり。」

と。

 其國の者は目前(もくぜん)のことなれど、山川を隔(へだて)ては、吾邦のことにても、知らざる事、多き也。

甲子夜話卷之八 22 京都御所えは申樂入ことを禁ず。又、「平家」をかたるも、撿校、申樂へは、不ㇾ傳事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。標題の「え」はママ。]

 

2-22 京都御所えは申樂(さるがく)入(いる)ことを禁ず。又、「平家」をかたるも、撿校(けんげう)、申樂へは、不ㇾ傳(つたへざる)事

 禁廷の御能には、能役者、其場に入ることを禁ず。

 因(よつ)て素人(しろうと)のみなれば、能役者のする能を、關東にて見物する如くならず。

 院御所には、その禁、なし。

 先年、觀世大夫、上京のときも、召(めし)て叡覽あり、と。

 此等の談話、今春、高倉宰相の旅館に赴(おもむき)たるとき、聞(きき)し所なり。

 時に、傍(かたはら)に、勝與八郞、居(をり)て云(いふ)。

「平家をかたるも、能役者には、撿校等(ら)、傳へず。」

と。

 是も始(はじめ)て聞(きき)たり。河原者(かはらもの)を賤(いや)しめる古風の遺(い)なり。

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相」「甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖」で注済み。

「勝與八郞」御勘定組頭であったようだ。

「河原者」江戸時代における諸舞台の役者を始め、芝居関係者・大道芸人・旅芸人などの蔑称。「河原乞食」(かわらこじき)とも称した。本来は、中世に、河原に居住した人々の称で、十二世紀頃から、天災・戦乱・貧困などによる流亡民のうち、非課税地の河原に逃れた者を卑称したのが始まりである。零細な農耕・行商・屠畜、皮革の加工・染色、清掃・死体埋葬などのほか、散楽(さんがく)の伝統を引く雑芸能を行なう者が多かったのが特色である。近世に入ると、彼らの一部は、独立した職業として確立したが、大半は、厳格な身分制度の下で、四民の下の「制外者」(にんがいもの)扱いにされ、差別を受けた。しかし、寺社の権力を背景にして、いろいろな特権を得て、特に、諸種の芸能の勧進興行は河原で催されることが多かったため、河原者が、その支配権を握り、説経・浄瑠璃・操(あやつ)り・からくり等に、地方の新芸能も加わって、近世の庶民芸能は、殆んどが、河原を発信・発展した経緯がある。京都・四条河原で行われた「出雲の阿国」の歌舞伎踊りは、最も有名で、こうした発生の由来から、劇場が河原を離れた後も、「河原者」という語が、芝居関係者への差別語として用いられ、一般社会から卑しめられる風習が明治になるまで続いた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

甲子夜話卷之八 21 塙撿校の詠歌

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。本篇は前の「甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事」の塙保己一のことを受けて、書かれたもの。「又、云」とあるからには、話者は同じ林述斎。]

 

2-21 塙撿校の詠歌

 又、云(いふ)。

「塙和、學に長じたる始末は、世の人、知る所なり。その緖餘にて、たまたま、よめる歌も、頗る采(と)るべきもの、多し。

   曉梅

 月はとく人し軒端も開(ひらく)梅の

      花の光に明(あけ)がたのそら

   きさらぎ

 かりがねのゆくゑやいづこつばくらめ

      軒のふる巢にきさらぎの空

   霞中春雨

 そことなく霞む夕(ゆふべ)もくつの音に

      やがて雨しる庭の眞砂地(まさごぢ)

[やぶちゃん注:「雨しる」「雨(あめ)著(し)る」で、「しっかりと降り始めた」の意か。]

   夏天象

 わか葉もる月こそあらめ大空の

      ほしの林も影ぞ涼しき

   原照射

 ともしけつ木の下露(したつゆ)や棹鹿(さをしか)の

      いのちとたのむ宮木のゝ原

[やぶちゃん注:前書きは「はら、てりいる」か。「棹鹿」これは当て字で、「さをしか」は「小牡鹿」で、「さ」は美称の接頭語で「雄の鹿・牡鹿(おじか)」。思うに、これは、「源氏物語」の「匂宮」の帖の「秋は、よの人のめづる女郎花、さをしかのつまにすめる萩の露にも、をさをさ、御心、うつし給はず。」辺りをインスパイアしたものか。]

   水鷄(くひな)

 岩間もる音も聞へて山かげの

      柴の戶たゝく水の庭とり

[やぶちゃん注:「水鷄」鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。]

   泉

 すゞしさを秋ともいはゞいはし水

      いづこに夏は木がくれのやど

   秋水

 朝貌(あさがほ)のませがき近くせき入て

      いさごもるりのそこの池水

   蟲

 夜をのこす霧の籬(まがき)になくむしは

      明(あけ)てもしばし聲のひまなき

   秋鳥

 もみぢ葉はのこらぬ枝にてりうその

      猶つれなくも秋をしむ聲

[やぶちゃん注:「てりうそ」「照鷽」で、スズメ目アトリ科ウソ属ウソ亜種ウソ Pyrrhula pyrrhula griseiventris の雄を指す語。ウソの雄は頬・喉が淡桃色を呈するが、雌には、この特徴は発現しない。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸒(うそどり) (鷽・ウソ)」を参照されたい。]

   庭初雪

 つもれるも待(まち)し日數にくらべては

      まだ淺ぢふの庭のしら雪

   鴛鴦敷翅(おしどりしきばね)

 くるゝ日やおしとなくらん波にしく

      つばさの錦廣澤(ひろさは)の池

   冬獸(ふゆけもの)

 あさるべき木の實もそこと白雪に

      うきをましらの冬ごもりして

[やぶちゃん注:「ましら」猿。]

   月前獸(つきまへけもの)

 窓とぢてみぬ月かげや晴(はれ)ぬらん

      門(かど)もる犬の聲ぞさやけき

   寄夢懷舊【故水戸宰相殿三年忌。】

 うつゝとはたれか三とせの花の陰

      月のまとゐも夢のまにして

[やぶちゃん注:「故水戸宰相殿三年忌」。常陸水戸藩第七代藩主徳川治紀(安永二(一七七三)年~文化一三(一八一六)年)。この歌は珍しく詠歌の時期が文政元(一八一八)年八月に特定されていることになる。

「月のまとゐ」「月の圓居(まとゐ)」。月見のために治紀が人を呼び集めて団欒したことを指す。]

これら、

「たまたま、臆記(おくき)したり。」

とて、林氏、談中に、吟じけり。撿校が詠は、

「風調、卑(ひ)くし。」

との世評なり。

 當人の意は、

「風調の高き所は、搢紳家(しんしんけ)にあるべし。我輩は、たゞ、陳腐ならず、尖新(せんしん)なるほどにて、事足(ことた)るべし。」

と常に云(いひ)けり。

 予も、年來(ねんらい)の相識(さうしき)なり。

■やぶちゃんの呟き

「搢紳家」笏 (しゃく) を「紳」 (おおおび) に「搢」 (はさ) むの意から、「官位が高く、身分のある家系を指す。

甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-20 萩原宗固(はぎはらそうこ)幷(ならびに)門人塙撿校(はなわけんげう)、橫田袋翁の事

 蕉軒(せうけん)、云(いふ)。

「萩原宗固は『百花庵』と號して、一時(いつとき)、和歌には名高き人なりけり。

 門人の内、橫田孫兵衞【與力士なり。退休して「袋翁(たいをう)」と稱す。】には、

『和學は、よきほどにせよ。たゞひたすら、歌、よむべし。』

と敎へ、保己一(ほきいち)【盲人なり。後に「塙撿校」と呼ぶ。】には、

『歌に心入るべからず。專ら、和學に出精(しゆつせい)せよ。』

とこそ、誡(いまし)めける。

 是を聞(きく)もの、咄(はなし)けるは、

『目の明(あき)たるものに、和學は、させず。歌を、よませ、目しひたる者に、歌を考(かんがへ)させず。和學さするほど、事の倒(さかしま)なることは、よもあらじ。いかなる師の訓(をしへ)にや。』

と、人々、評しけり。

 然(しか)るに、兩弟子、年老(としよ)るに至(いたり)て、塙は和學、袋翁は和歌を以て、一世を動かしたり。ここに於て、宗固が、人を知る鑑(かがみ)の、凡(ぼん)ならざるを感ぜぬものぞ、無(なか)りける。

■やぶちゃんの呟き

「荻原宗固」(はぎわらそうこ 元禄一六(一七〇三)年~天明四(一七八四)年)は幕府の先手組に所属した幕臣で歌人。名は貞辰。号は百花庵。烏丸光栄(からすまるみつひで)・武者小路実岳(さねおか)・冷泉為村(れいぜいためむら)らに師事して、和歌・歌学を学ぶ。江戸の武家歌人として、名声高く。また、同じく幕臣で狂歌師であった内山賀邸(がてい)とともに、「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて、「天明狂歌」の原点に位置したことでも知られる。家集「志野乃葉草」、歌学随筆「一葉抄」・「もずのくさぐき」等が伝わる。「塙氏雑著」も宗固自筆の雑抄。為村との問答である「冷泉宗匠家伺書」には宗固の苦悩も、ほの見えて、興味深い(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「塙撿校」塙保己一(延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)は国学者。幼名は寅之助、号は水母子。家号は温古堂。武蔵国保木野村(現在の埼玉県児玉町)の農家に生まれ、七歳の時に失明した。十五歳で江戸に出、雨富(あめとみ)検校須賀一(すがいち)の門に入る。後、萩原宗固・賀茂真淵らに国学を学んだ。天明三(一七八三)年、検校となり、「大日本史」などを校正し、また、幕府保護の下に「和学講談所」を起こし、国学の振興に努めた。また、文政二(一八一九)年には、かのた国学・国史を主とする一大叢書『群書類従』の刊行を完成、さらに『続群書類従』の編纂に着手した。著に「武家名目抄」・「螢蠅(けいよう)抄」・「鶏林拾葉」・「花咲松」等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「蕉軒」お馴染みの静山の親友、林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。

「橫田孫兵衞」「袋翁」(寛延二(一七四九)年~天保六(一八三五)年)は詳細事績は以上以外には知らないが、音曲の歌詞を多く手掛けている。

「和學」一般に国学と同義で用いられるが、本来はもっと広く、本邦の文学・歴史・法制・有職故実などについての学問を指す。

2024/01/29

甲子夜話卷之八 19 御老中安藤對馬守、雅趣ある事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

8―19

 林子(りんし)、云(いふ)。

「辛未(しんび/かのとひつじ)歲(どし)、西上(さいじゃう)の時、江州の野路村(のぢむら)に至りたれば、道傍に、僅(わづか)ばかりの池の如きものあるを、嚮導者(きやうだうしや)、ゆび指(さし)て、

『これぞ、野路玉川(のぢたまがは)の遣蹟なり。』

と云。

 水畔に、萩、一、二株ありければ、

『何物ぞ。わざと、これを植(うゑ)けるにや。』

と思ひけるに、磐城平侯【安藤對馬守。其時、加判[やぶちゃん注:ここでは「老中」の別称。]、勤(つとめ)らる。】の、先年、上京の路次(ろし)、こゝに至りしとき、萩の無(なか)りければ、村長(むらをさ)に、

『この名所に萩を植ぬことやある。』

と申されしかば、それより、村長の植しなり。」

と云。

 微事(びじ)なれども、風流の話なり。

 この侯、京地巡見に、祇園町、通行(つうかう)のとき、左右の茶店にて、紅粉(こうふん)を粧(よそほ)ひたる少女の、世に云(いふ)「祇園豆腐」を拍子をして切るを、駕籠を駐(と)めて、ゆるゆる、觀られし、となり。

 例(ためし)、老職の、かゝることせられしこと、無りしが、其地の名物と云へば、かくあるも、

「中々、得體(えたい)なり。」[やぶちゃん注:「なかなかに、その自然な御心(みこころ)の判るお方だ。」の意であろう。]

と、人々、評しけり。

 常に、淨瑠璃を好み、間暇(かんか)のときは、奥女中に、三線(さんせん)、ひかせて、聞く計(ばかり)にて、遂に三線を手にとりたることも無く、戲‘たはむれ)にも、その文句など、謠(うた)はれしことは、無(なか)りし、となり。

 又、古畫(こぐわ)を好み、よき畫(ゑ)を購求(こうきう)すれば、畫工に毫髮(がうはつ)も[やぶちゃん注:「毫毛」に同じ。少しも。]違(たが)はぬやうに寫させて、

「都下は、火變(くわへん)、多し。」

とて、眞物(しんもつ)は封地へ送り、摸本(もほん)を留め置き、日々に引(ひき)かへ掛けて詠(なが)めし、となり。

 此侯、溫厚和平にて、赫々(かくかく)の功業もなけれども、すべて此頃の人は、さしたる節(せつ)ならねども、見所(みどころ)は、ありけり。

■やぶちゃんの呟き

「老中安藤對馬守」美濃国加納藩第三代藩主・陸奥国磐城平藩初代藩主にして、寺社奉行・若年寄・老中を歴任した安藤信成。官位は従四位下・対馬守。侍従。対馬守系安藤家六代当主であった。老中在職は寛政五(一七九三)年八月二十四日から、没した文化七(一八一〇)年五月十四日まで。享年六十八。

「林子」お馴染みのお友達、林述斎。

「辛未歲」文化八(一八一一)年。

「江州の野路村」滋賀県草津市野路(のじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「野路玉川の遣蹟」歌枕。現在、ここに「野路玉川古跡」として伝えられてある。こばやしてつ氏のサイト「すさまじきもの~歌枕★探訪~」の「野路の玉川(滋賀県草津市)」に簡単な解説と、小さな公園のように整備された現在の様子を見ることが出来る。

「祇園豆腐」当該ウィキによれば、『江戸時代、京都の八坂神社(祇園神社)門前の』二『軒の茶屋で売られた田楽豆腐の料理である』。『祇園神社の楼門の前、東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された。これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、「祇園豆腐」と命名された。各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった』。『豆腐を薄く平たく切り』、二『本の串を刺し、火にかけて表裏両面を少し焼き、味噌たれで煮て、上に麩粉を点じたものである。花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある』とあった。私も京都の料亭で食したことがある。

甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-18 高倉宰相家傳唐櫃(からびつ)のこと幷(ならびに)

 予、去年、衣紋のことにて、高倉家に入門したり。

 今春、官家の御用にて、宰相殿、出府せられしかば、その旅館に往(ゆき)て逢ふ。

 居間の側(かたはら)に、大(おほき)なる櫃(ひつ)あり。

 紺地、大和錦の覆(おほひ)を、かけたり。

 予、これを問(とひ)ければ、

「こは、豐臣太閤のとき、某(それがし)が祖先、往來せしに、裝束を入れし唐櫃なり。これ、乃(すなはち)、當時の物なり。」

と云(いは)れしかば、近寄(ちかより)て、細視(さいし)せしに、尋常の唐櫃よりは、大きく、桐紋を蒔繪(まきゑ)にしたり。其大さなど、大抵、覺えしを、下に圖したり。

 白布(しらぬの)の緖(を)は、櫃を結び、棒、以て、かつぐ料(れう)。今、旅行には、「わく」を構へ、武家の具足櫃(ぎそくびつ)の如くして、持(もた)せらるなど、云はれし。

 面白き古物(こぶつ)なり。

 

Hitu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、左上の箱の底の受け箱の左上に、

「中ノ底ハ

 格子ナリ」

右の隅の脇に、

「此所フチアリ」

右の底の脇に、

「此所和忘レタリ」

とあるので、図では素板であるが、何か細工が施されたあったのかも知れない。

手前の角のやや左寄りに、

此所ニ如此スカシアリ

とある。「丸菱」様の抜き型を指す。

櫃本体の左上部外に、

「三尺二三寸ホド」

とあり、以下、時計回りに、

「二尺九寸バカリ」

「此処高サ足迠二尺一寸余」

「緒コノ

  アタリニ

  タグリテ

   見エタリ」

手前上部に、

「此所ニモ

 金具に桐ノ紋アリタリ」

とある(この「桐ノ紋」を拡大して描いたのが、左下の図。次のキャプション参照)。

櫃の手前下部に、

「金具」

左端に櫃の上部左に、

「此辺アリタルカ忘レタリ」

同下方に、

「此紋後ニ出セル桐ノ紋

ナリ其外マ見エザリシ

 故覺エズ」

である。なお、この形の桐紋は、「五七桐」を全体的にデフォルメして、輪郭のみで描いたもので、豊臣筆吉が使用した一つとして知られ、特に「太閤桐」と呼ばれるものである。]

 

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相家」藤原北家藤原長良の子孫にあたる従二位参議高倉永季を祖とする公家。高倉の家名は、邸宅が京都の高倉にあったことによる。代々、朝廷の装束を担当し、「衣紋道」を家職とした。参照した当該ウィキによれば、家紋は「笹竜胆」で、主な本拠地は、現在の京都市左京区永観堂町(グーグル・マップ・データ)であったとする。

2024/01/28

甲子夜話卷之八 17 佐竹氏の墳墓

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-17

 橋場、總泉寺の佐竹氏の墳墓を見るに、兆域(てうゐき)[やぶちゃん注:墓所。]の外總門(そとさうもん)ありて、其内に、代々の墓あり。

 皆、土を封じて、墳とし、高(たかさ)四尺計(ばかり)、長(ながさ)九尺に過ぐ。

 周りに、石を疊(たた)み、其上に、芝を植ゆ。

 墳の前面に墓表を竪(た)つ。形、尋常のごとし。趺石(だいいし)も、常に、異ならず。

 面(おもて)に其法號を刻す。

 先塋(せんえい)[やぶちゃん注:先祖代々の墓。]、みな、かくの如くにして、相列(あひれつ)す。

 因(よつ)て、寺僧に、其(その)棺制(くわんせい)を問へば、

「臥棺(ぐわかん)なり。」

と云(いふ)。

 又、土に入(いる)るの深淺を問へば、

「殊に、深し。」

と答ふ。

 是、佐竹氏の葬(さう)は唐山(たうざん)の禮に據(よ)るか。

 又、吾古(がこ)の令に因りたるか。

■やぶちゃんの呟き

「佐竹氏」秋田藩佐竹氏。以下の「總泉寺」が江戸での菩提寺であった。

「橋場、總泉寺」東京都台東区橋場一丁目附近にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、現在は移転している。個人サイト「東京探索日誌」の「橋場―総泉寺の跡」が、恐ろしく詳しいので、参照されたいが、そこに『総泉寺は、愛宕の青松寺・高輪の泉岳寺とともに、江戸における曹洞宗を代表する寺院であった(『江戸名所図会』など)。橋場の西側半分を占める広い寺域だったようだ。しかし』、『関東大震災で全壊し、板橋区の小豆沢』(あずさわ)『に移転』したとある。ここ

「吾古の令」「自身の家系の古くからの仕来たり」の意か。

甲子夜話卷之八 16 沙茶碗といふものゝの圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-16

 「沙茶碗(すなぢやわん)」と云(いひ)て、越後國、寺泊と云(いふ)處の海底より、出(いづ)。

 形、圖の如し。

 

Sunajyawan

 

 大(おほい)さ、徑(わたり)四寸ばかり、かう臺(だい)、高さ五步、底に、孔あり、三步にたらず。沙をかためて、其うすきこと、五厘にたらず。

「これを得(うる)には、海底に潛入(もぐりいり)て取る。」

と云ふ。

 造化自然の器(うつは)なり。

 されど、體質(たいしつ)、もと、沙なれば、輭(やはらか)にして、損じ易し。享和改元の頃、或人、もち來(きたり)て、予に示す。

 又、佐渡國(さどのくに)にも、此物、ありて、形、小(ちいさ)し。

「『うにの巢』と云ふ。」

と。

 しかれば、海膽(うに)のするところか。

 奇品なり。

■やぶちゃんの呟き

 これは「砂茶碗」(すなじゃわん)で、静山の言うようなウニの形成するものではなく、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科 Naticidae に属する巻貝のタマガイ類の卵囊(らんのう)である。本邦の砂浜海岸で、潜水せずとも、容易に見かけるそれは、概ね、タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ亜種ツメタガイ Glossaulax didyma のそれである。当該ウィキの、この画像を参照されたい。タマガイ科の、その形成機序については、サイト「カラパイア」の「浜辺に砂でできた謎の円盤状の物体が!海岸版ミステリーサークルの正体は?」が詳しく、画像も多いので、是非、見られたい。……ああ! もう十二年以上、ビーチ・コーミングもしていないなぁ…………

甲子夜話卷之八 15 養老瀧の景勝

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 本篇は前の「甲子夜話卷之八 13 養老酒の事」の関連続篇である。漢文部の訓点不全はママ。]

 

 前の「養老酒」の條に、その瀧のことを引(ひき)たるが、後(のち)に、親(したし)く彼(かの)處に往(ゆき)たる人に、其地のありさまを聞(きく)に、

「まづ、この瀧の處に到るには、兩山の間、左右、大石(だいせき)、群立(ぐんりつ)し、谿水(たにみづ)、曲流の道を、數町、入りて、飛泉の處なり。

 瀑水、絕壁を直下すること、十四丈[やぶちゃん注:四十二・四二メートル。]、幅は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ほども有(あら)ん。

 信(まこと)に素練(すねり)を曳(ひく)が如し。

 また、其降流の下、所謂、瀧つぼまで行(ゆき)て觀らるゝなり。

 濆沫(ふんまつ)、四方に散じて、霏雪(ひせつ)[やぶちゃん注:絶え間なく降る雪。]とひとしく、其聲、轟雷(がうらい)の如く、數町に聞ふ。」

と。

「又、其瀧の、四、五町、こなたの丘陵に、一社あり。

『天神を祀る。』

と云(いふ)。この社地の中に、泉あり。「菊水の井」と云(いふ)。然(しかれ)ども、人力にて穿(うがち)たる井(ゐ)にあらずして、天然の淸泉に、四邊に石をたゝみたるなり。方二間もあるべし。

『此泉、古(いにしへ)の「養老泉」なり。』

と云(いふ)と也。

 近年、建(たて)たる碑、其泉の傍(かたはら)に在り。

 土人も、かくすれば、「瀧」と「泉」と違(たが)へるにや。

 「續紀」の文に『美泉。』とありて、「飛泉」となければ、此泉なるも、知るべからず。然ども、『多度山(たどさん)の美泉を覽(みる)。』とあれば、山上より落(おつ)る水と聞(きこ)ゆ。かの社地の泉(いづみ)は、山上に非ざれば、又、不審なり。

 又、『就而飮-。』とあり、『令シテ美濃醴泉。』などあれば、かの「菊水の井」なるや。

 愚意には、「菊水の井」は「掬水」を訛(なま)り、「泉」の語を略して「井」とのみ言傳(いひつたへ)し歟。其碑文を左に錄す。これは「瀧」と「泉」と兩處を合せ言(いふ)とも覺ゆ。尙、人の考を挨(まつ)のみ。」

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げ。]

  濃州養老泉碑銘   備藩侍讀近藤篤識

元正御極、王道平々、問疾苦、閔ㇾ物ㇾ天。當耆之郡、多度之山、天降嘉瑞、地出奇泉。淸潔可ㇾ食、養而不ㇾ窮。人受其福。王明之功、一飮一浴、不ㇾ老不ㇾ死。衰耄再、※癃可ㇾ起。有ㇾ本如ㇾ是。萬古混々、君子。鑑戒堪タリㇾ存ルニ。陵谷變遷。湮晦是懼。於ㇾ是ㇾ碑、以識ルス其所

 乾隆五十年歲乙巳正月吉旦 吳超程赤城書

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「罷」。]

■やぶちゃんの呟き

 どこまでが、「親く彼處に往たる人」の言であるかが、判然としない。林述斎の引用などでは、その直接話法だけの場合も、ないことはないが、私は、静山の記述方法では、通常は、自身の感想や意見を添えるのが、普通であるので、私は、当初、「愚意」以下の漢文前の箇所のみを、静山の考えたこととしようとしたのだが、静山が自分の意見を「愚意」と謙遜表現したものを、今までは、一度も見たことがない。近藤篤(後注参照)の作った漢文の前に、それを挟むというのも、どうも受け難かった。従って、以上は、最後まで、この「親く彼處に往たる人」の見解とすべきであると断じた。

「こなたの丘陵に、一社あり」「天神を祀る」「と云」「菊水霊泉」の東直近にある養老神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。ここの祭神には菅原道真が含まれてある。この境内に、本来の「菊水泉」が別にある。

「濃州養老泉碑銘」を以下で訓読する(但し、静山の振った訓点には必ずしも捉われなかった)が、この「備藩侍讀近藤篤」とは、儒者で備前岡山藩の藩校教授を勤めた近藤西涯(せいがい 享保八(一七二三)年~文化四(一八〇七)年)の本名。河口静斎に朱子学を、文雄(もんのう)に音韻学を学び、詩もよくした。古学派が有力な同藩内で、果敢に朱子学を唱えた。享年八十五歳。著作に「韻鏡発蘊」・「西涯館詩集」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。本篇が書かれた文政五(一八二一)年は、亡くなって十四年が経っている。而して、この近藤が記した「養老の泉碑銘」は養老の霊泉のどこかに、まだ、残っているはずであると私は考えている(グーグル・マップのサイド・パネルで幾つかの場所を探してみたが、見当たらなかったのは残念である。ご存知の方はご一報あれ!)。何故なら、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、三浦千春著「美濃竒觀」の「下」巻のここに、『〇養老山碑七基あり』とあって、その『養老泉碑銘』の第一に、『備藩侍讀』『近藤篤 識』とあって、ここには、以上の碑文の全文が載るからである。さらに、「ヤフオク!」のここに、「中国古拓本 備藩侍讀近藤篤 呉超 程赤城 乾隆五十年 麋城 煙漁老屋」(中国古拓本はママ。お笑いである)として、この石碑を拓本したものが、売りに出されてあるからでもある。因みに、漢文の本文を読んで、「乾隆」云々とあるのを不審に思った方も多かろうが、そこには最後に、『乾隆五十年ハ我天明五年』(西暦一七八五年)『なり。程赤城ハ浙江の乍浦といふ所の人にてそのころ年々長崎へ耒』(きた)『る商沽』(商人)『なりきを西遊旅談に見えたり』とあることで、氷解する。恐らく、書道をよくした人物なのであろう。

   *

 「濃州養老の泉」碑銘   備藩の侍讀(じどく)近藤篤(とく)識(しき)す

元正の御極(おほんきわみ)、王道、平々、民の疾苦(しつく)を問ひ、物を閔(あはれ)み、天に則(のつと)る。當耆(たき)の郡(こほり)、多度の山、天(てん)、嘉瑞(かずい)を降らし、地、奇(くす)しき泉を出だす。淸潔にして、食(く)ふべく、養ひて、窮(きは)まらず。人、其の福を受く。王明(わうめい)の功、一飮一浴、老(お)いせず、死せず。衰耄(すいもう)、再び盛んに、※癃、起こすべし。本(もと)に有りて、是(かく)のごとし。萬古(ばんこ)混々(このこん)、君子は、是れ、取るなり。鑑戒(かんかい)、存(ぞん)ずるに堪(た)へたり。陵谷(りやうこく)は變遷す。湮晦(いんくわい)、是れ、懼(おそ)る。是れに於いて、碑を建て、以つて、其の所を識(し)るす。

 乾隆五十年の歲(とし)の次り[やぶちゃん注:静山の送りがなに従うが、読みも意味不明。]乙巳(いつし/きのとみ)正月の吉旦 吳超の程赤城(ていせきじやう)書(しよ)す

   *

・「元正」元正(げんしょう)天皇(在位:霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年)。女帝。

・「當耆の郡」養老郡養老町が含まれた旧多芸郡(たぎぐん)の上古の呼称。

・「※癃」(「※」=「疒」の中に「罷」)で、所持する「廣漢和辭典」にも載らず、読みどころか、意味も判らない。但し、「癃」は「背中が盛り上がって曲がる病」の意ではあるから、二字で老人性の骨壊死や骨変形症の類いであろう。読みは一応、「ひりゆう(ひりゅう)」としておく。

・「鑑戒」「戒めとすべき手本。

・「混々」尽きることがなくして。

・「湮晦」「堙晦」とも書く。「湮」は「隠れる」、「晦」は「暗い」の意で、「うずもれ、隠れること・姿や才能をくらますこと」の意。ここは「死」の意か。

甲子夜話卷之八 14 駱駝來る事幷圖 + フライング 甲子夜話卷之九 24 兩國橋畔にて駱駝の造物を見する事 + フライング 甲子夜話卷之五十六 17 上古駱駝來

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 今回は、後に出る駱駝話二話をフライングで電子化し、都合、三話を合せておいた。前の二話の挿絵は底本の『東洋文庫』版のそれをOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]

 

8―14 駱駝(らくだ)來(きた)る事幷(ならびに)

 去年、蘭舶(らんぱく)、駱駝を載(のせ)て、崎[やぶちゃん注:長崎]に來(きたる)る。

 夫(それ)より、

「此獸(けもの)、東都に來(きた)るべしや。」

など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず。

 先年、某侯の邸(やしき)に集會せしとき、畫工某(なにがし)、その圖を、予に示す。

 今、舊紙の中より見出したれば、左にしるす。

 

Rakida1

 

 圖に小記を添(そへ)て曰(いはく)、

「享和三癸亥(みづのとゐ)七月、長崎沖へ、渡來のアメリカ人拾二人、ジヤワ人九十四人、乘組の船、積乘(つみの)せ候馬の圖なり。前足は三節のよし、爪(つめ)迄は、毛の内になり。『高さ、九尺、長さ、三間。』と云(いふ)。その船、交易を請(うけ)たるが、『禁制の國なれば。』とて、允(ゆる)されずして、還(かへ)されけり。」

 これ、正しく「駱駝」なるべし。此度(このたび)にて、再度の渡來なり。

■やぶちゃんの呟き

 駱駝の来日は、「アドミュージアム東京」の『第3回「駱駝(らくだ)が江戸にやって来た!」』という記事がよい。この図から、これは哺乳綱鯨偶蹄目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus bactrianu であることが判る。同種の野生個体は中国北西部とモンゴルにのみ分布する。紀元前二〇〇〇年頃には既に家畜化されていたとされる。敦煌に旅行した際に乗ったが、どうもラクダと私は性が合わない感じだった。

「去年」文政四(一八二一)年。来日は六月。但し、この時来たのは、前記リンク先によれば、これは『アラビア産の』ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius(同種は北アフリカと西アジア、及び、「アフリカの角」と呼ばれる地域、則ち、スーダン・エチオピア・ソマリアに分布していた。但し、既に、それらの原生地においての野生個体群は、残念ながら、消滅している)で、静山は、「此獸、東都に來るべしや。」「など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず」とあるが、実際には、このラクダ、時を経て、江戸に来ている。『牡と牝のつがいで長崎港に渡来し』、『長崎を振り出しに、九州、四国、和歌山、大坂、京都と各地を巡業しながら、木曽街道を経て』、『江戸に着いたのが』、三『年後のことで』あったからである。『らくだは牡』八『歳、牝』『歳とされ、見世物興行始まって以来の珍獣はいたるところでもてはやされ』、『道中も終始一緒で』、『仲睦まじく、見物するだけで夫婦和合のご利益もあるとされ』たとあり、『川添裕氏の著書』「江戸の見世物」(岩波新書)』(私も所持する)『によると、「ラクダの両国広小路での入場料は』一人三十二文『と高価であったが、日に』五千『人を超えることもあった。日延べを繰り返し、ついには』、『半年以上の超ロングラン』となり、『空前の巨大興行収入は』実に二『千両にもなった。見世物小屋の周辺で売られた品々も錦絵はじめラクダグッズも多彩だった」とあり』、『その人気ぶりは』、『流行り歌にまでなっ』た。その「ラクダ節」が紹介されており、『♪今度遠つ国からお江戸へはるばる夫婦で下りイ、あの両国で大根喰っちゃ遊んでまた、こいつア又、らくだろう♪』とある。

「享和三癸亥七月」グレゴリオ暦では旧暦七月(大の月)は一八〇三年八月十七日から九月十五日まで。

「高さ、九尺」約二・七三メートル。フタコブラクダでは、瘤までの体高は一・九〇から二・五〇メートルとされるので、大型の方である。

「長さ三間」五・四五メートル。これは、何らかの誤伝か、単位換算の誤りで、長過ぎる。通常、同種の体長は二・二〇から三・五〇センチメートルである。

 

   *

 

9-24 兩國橋畔にて駱駝の造物(つくりもの)を見する事

 この三月、兩國橋を渡(わたら)んとせしとき、路傍に見せものゝ有るに、看版を出(いだ)す。

 駱駝の貌(かほ)なり。

 又、板刻(はんこく)して、其狀(そのかたち)を刷印(すりいん)して、賣る。曰(いはく)、

「亞剌比亞國(あらびあこく)中(うち)、墨加(めか)之產にして、丈(たけ)九尺五寸、長さ一丈五尺、足、三つに折るゝ。」

 予、乃(すなはち)、人をもて、問(とは)しむるに、答ふ。

「これは、去年(こぞ)、長崎に渡來の駱駝の體(てい)にして、眞物(しんもつ)は、やがて、御當地に來(きた)るなり。」

と言(いひ)たり。

 因(よつ)て、明日(みやうにち)、人を遣(つかは)し、視(み)せ使(し)むるに、作り物にて有(あり)けるが、その狀(かたち)を圖して歸る。

 

Rakida2

 

[やぶちゃん注:キャプションがあり、右臀部の上方に、

『總』(さう)『乄』(して=じて)『毛』

『薄赤』

とあり、頭頸部の後ろに、指示線を添えて、

『此処』

  『白毛』

とし、左下方の頸部の中央やや上に指示線を添えて、

『此アタリ黃毛』

とある。

 以下は、底本では全体が一字下げ。]

 圖を視(みる)に、恐(おそら)くは、眞(しん)を摸(も)して造るもの、ならじ。「漢書(かんじよ)」、「西域傳」の師古の註に所ㇾ云(いふところ)は、

『脊上肉鞍隆高若封土。俗呼封牛。或曰。駝狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有蒼褐黃紫數色。』

 然るに、この駝(だ)、形には、「肉鞍隆高」の體(てい)もなく、その形も、板刻の所ㇾ云(いふところ)と合はず。前册に駝のことを云しが、それ、是ならん。

■やぶちゃんの呟き

 ここで静山は不審を漏らすが、フタコブラクダとヒトコブラクダの二種がいることを知らないのだから、仕方がない。

「三月」文政五年三月。グレゴリオ暦一八二二年四月二十二日から五月二十日相当。

「墨加」サウジアラビアにあるイスラム教の生地メッカ。

「丈九尺五寸」二・八七メートル。ヒトコブラクダの成獣の肩高は、一・八〇から二・四〇メートルであるから、やや高めの謂いである。

「長さ一丈五尺」四・五五メートル。ヒトコブラクダの成獣の体長三・五〇メートルであるから、これはドンブリで長過ぎる。まあ、客寄せにはありがちな誇大広告である。

「足、三つに折るゝ」股関節と膝関節及び踝の関節を折りたたむと、かく表現するのは、違和感はない。

『「西域傳」の師古の註』これは「漢書」(後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。全百巻。最終成立は紀元後八二年)の「西域傳」で、唐の訓詁学者で「漢書」学者でもあった顔師古(五八一年~六四五年)による優れた注を指す。

「脊上肉鞍隆高若封土。俗呼封牛。或曰。駝狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有蒼褐黃紫數色。」(訓点不全はママ)自然流で訓読を試みる。

   ※

脊(せ)の上(うへ)、肉、鞍(くら)のごとく、隆(たか)くして、高きこと、封(ふう)ぜる土(つち)のごとし。俗に「封牛(ふうぎう)」と呼ぶ。或いは曰はく、「駝(だ)の狀(かたち)、馬に似て、頭(かしら)、羊に似たり。長き項(うなじ)、垂れ耳(みみ)にして、蒼(あを)・褐(かつ)・黃(わう)・紫(むらさき)の數色(すしよく)、有り。

   ※

「垂れ耳」というのは、砂嵐に耐えられるように、睫毛や耳の中の毛が発達していることから、見かけ上そう見えたのであろう。実際には、ヒトコブラクダもフタコブラクダも「垂れ耳」ではない。

 

   *

 

56―17 上古駱駝來(きたる)

 前に駱駝の來れることを云(いひ)き。

 今は、都下の口實(こうじつ)とせり。

 享和には、人、不ㇾ見(みず)。この度(たび)は、普(あまね)く見て、

「珍(めづら)し。」

とす。

 然(しかる)に、このほど、燕席[やぶちゃん注:「宴会の席・酒宴の席」の意の一般名詞。]にて、或人、云ふ。

「上古、この獸(けもの)、吾邦に來(きた)ること、あり。」

と。

 因(よつ)て、「國史」を閱(えつす)るに、云(いは)く、

『推古天皇七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻。』

と見ゆ。至ㇾ今(いまにいたるに)、一千二百二十六年なれば、世人、珍とするも、尤(もつとも)なり。

 又、「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり。

■やぶちゃんの呟き

「口實」よく口にする言葉。かのヒトコブラクダの興行は、それほど、人気を博したのである。

「享和」寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日に改元し、享和四年二月十一日(グレゴリオ暦一八〇四年三月二十二日)に「文化」に改元。その後が「文政」。

「推古天皇七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻。」「日本書紀」の記載。以下に訓読する。

   ※

推古天皇の七年、秋九月癸亥(みづのとゐ)朔(ついたち)、百濟(くだら)、駱駝(らくだ)一疋、驢(うさぎうま)一疋、羊二頭、白雉(しらきぎす)二隻(さう)を、貢(みつぎ)す。

   ※

この内、「駱駝」は中国経由で入手したフタコブラクダと思われる。「驢(うさぎうま)」は哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属アフリカノロバ亜種ロバ Equus africanus asinus である。これが、驢馬(ロバ)の最古の来日記録とされている。「白雉」は鳥綱キジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノと推定される。

「推古天皇の七年」ユリウス暦五九九年。

「至ㇾ今、一千二百二十六年」機械計算では、数えで文政七(一八二五)年相当。

『「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり』「和名鈔」は「和名類聚鈔(「抄」ともする)」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。その、「卷十一」の国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚鈔」全二十巻の「第十一卷」から「第二十卷」(正宗敦夫編纂校訂・一九五四年風間書房刊)のここに(訓読し、読み・記号・句読点を推定で打った)、

   ※

駱駞(らくだ) 「本草」に云はく、『駱駞【「洛」・「陁」の二音。「良久太乃宇末(らくだのうま)」。】「周書」に云はく、「𩧐駝(らくだ)【「駝」は、即ち、「駞」の字なり。「𩧐」の音は「卓」。亦(また)、「駞」に作る。は、即ち、「駱駞」なり。】、肉の鞍(くら)有りて、能く重きを負ひて、遠くへ致す者なり。

   *

とあった。

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