甲子夜話卷之八 26 長橋局の居所幷赤前埀の事
8-26 長橋局(ながはしのつぼね)の居所(きよしよ)幷(ならびに)赤前埀(あかまへだれ)の事
近頃、京都、御卽位のとき、諸大名より使者を上(のぼ)す。
予が家の使者、上着(じやうちやく)してある間に、京邸の留守居某、使者に、
「禁廷を拜見すべし。」
とて、誘行(さそひゆ)く。
紫宸殿など拜見して、長橋局の住所(すみどころ)に往(ゆき)たり。
玄關を見れば、翠簾(すいれん)を掛け、上下(かみしも)着たる侍、並居(ならびゐ)たり。
某、使者を案内(あない)して入らしむ。
『この住所は、御所につゞきて、有る。』
と覺ヘ[やぶちゃん注:ママ。]て、公家の家人(けにん)と見ゆる婦女、行通(ゆきかよ)へり。
定めて、御儀式、拜見などするにや。
又、その住所の奥の方に擂鉢(すりばち)の音、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、
「何(い)かに。」
と、問へば、
「長橋どのゝ厨所(くりやどころ)なり。」
とて、案内する故、入(いり)て見れば、はした女(め)と見えて、味噌を、する者もあり、野菜をきる者もありて、四、五人計(ばかり)居《をり》たるが、皆、赤き前埀を着たり。
使者、
「こは、何(いか)なる者ぞ。」
と、問(とひ)たれば、
「これは長橋の婢(ひ)なり。緋袴(ひばかま)、着るべけれど、周旋、不便(ふべん)なれば、中古より、省略して如ㇾ此(かくのごとく)、赤布を、前にのみ、着(ちやく)せり。是より、京地(けいち)の婦女は、赤き前埀をきることになりぬ。」
と、云(いひ)けり。
然(さ)れば、
『今、京・攝の間に、妓家・茶店などの婦女、赤前埀、着ることは、緋袴の餘風なり。』
と、初(はじめ)て心付(こころづき)しなり。
古(いにしへ)は、女も、袴は貴賤とも、着せしこと、古畫など見ても知(しる)べきなり。
■やぶちゃんの呟き
「長橋局」宮中に仕えた女官で、勾当内侍(こうとうのないし)の別称。清涼殿の東南隅から、紫宸殿の御後(ごご:紫宸殿の賢聖障子(けんじょうのそうじ)の北側の広廂(ひろびさし)のこと)に通ずる細長い板の橋を「長橋」と呼、その傍(そば)に勾当内侍の局(つぼね)があったことから、この称が生まれた。後宮十二司の一つで、内侍司(ないしのつかさ)の女官の内、奏請(そうせい)・伝宣(てんせん)・陪膳(ばいぜん)のことに当たった「尚侍」(かみ)や「典侍」(すけ)は、その立場上、妃(きさき)となることが多く、三等官の「掌侍」(じょう)(定員四人)が、事実上、当司を代表する女官となった。そこで単に「内侍」と言った場合、「掌侍」のことを指すようになり、とくに掌侍四人の内、首位の者が、本来、尚侍や典侍の行うべき職掌に当たったことから「勾当」(「専ら、事に当たる。」の意)の内侍(略して単に「勾当」とも)と呼ばれるようになった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「近頃、京都、御卽位のとき」十一項前の記事が文政四(一八二一)年の翌年の記事であるから、これは、仁孝天皇の即位式(文化一四(一八一七)九月二十一日)の前のこととなる(彼は在位のまま、弘化三(一八四六)年一月二十六日に没している。この仁孝から明治の一世一元の制への移行を経て、昭和までの歴代天皇は、孰れも終身在位で、先帝の崩御に伴う皇位継承をしている)。