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カテゴリー「「甲子夜話」」の262件の記事

2022/05/08

甲子夜話卷之七 7 有德廟信濃國へ人參御植つけ、且生育の事

7ー7

秋山元瑞と云る醫者の【龍野侯の臣】話なりとて、或人より聞しは、德廟、朝鮮國の寒氣は吾邦の信州と均しと御考ありて、信州に人參を植させ給ふに、其生產、氣味、朝鮮に異らず。因屢々人をして視せられし故、土人これを厭ひて、密に彼草に湯を濯ぎ、土不ㇾ協など申上しより、竟其こと廢せしと云。萬民の爲を思召ての御仁心をはゞみし者ども、誅してもあまりある罪人とこそ云べき。又元瑞の門生、信州に歸住せし者の話しと聞しは、今も其種の遺りしものあるに、土地に應じて生育宜しとなり。彌可レ恨【元瑞は太宰純に學びたる者なりとぞ】。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」徳川吉宗。

「秋山元瑞」播磨国龍野藩藩医。彼が仕えたのは第八代藩主で寺社奉行・老中であった脇坂安董(やすただ:藩主在位:天明四(一七八四)年~天保一二(一八四一)年:老中在任中に急死)。

「均し」「ひとし」。

「因」「よつて」。

「密に」「ひそかに」。

「土不ㇾ協」「土、協(あ)はず」。

「竟」「つひに」。

「彌」「いよいよ」。

「太宰純」大儒太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の本名。

甲子夜話卷之七 6 宗左が水甁の銘の事

7-6

千宗左召に因て江都に出るの間、紀邸の長屋に寓し、茶器を求て客中の用に當たるが、皆麤惡を極たり。就ㇾ中水さしの水を度々かゆるは煩しとて、僕に命じて大なる水甁を錢三百文に買て、これを爐邊に置て用ひたり。其甁に不性者と銘題しけり。暇を賜り發足するに及で、門人所ㇾ置の茶器を乞需む。宗左これに應て配分せり。門人輩謝儀として方金一二三思々に贈る。時に宗左僕に謂て曰。嚮に汝が買來れる大甁三百匹に所望せられたれば、其金は汝に與ふと言ふ。僕拜受して退かんとす。宗左が曰。待べし。かの甁は我もと三百文を出せし者なり。三百文は返すべしと云て、其中錢三百文を取り、殘りの金は皆其僕に與しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「千宗左」先般、既出既注

「麤惡」「そあく」。「粗悪」に同じ。

「水甁」「すいびやう」と読んでおく。

「乞需む」「こひもとむ」。

「應て」「こたへて」。

「思々に」「おもひおもひに」。

「嚮に」「さきに」。

甲子夜話卷之七 4 林子の常に從事する所を問事 / 5 前人寓意の事

 

4―4

林蕉軒に常に志して從事する所を問ものあり。答云。文武、和漢、古今、雅俗。この今と俗と云ところ、深く咀嚼すべし。又娛樂する所を問へば、答云。風月、山水、詩歌、管絃。

■やぶちゃんの呟き

「林蕉軒」お馴染みの林述斎。

 

4-5

前人一時寓意の聯あり。

   醜石雜花、此レハ家之大弓寶玉

   素弦又淸管、或以謂老子之醇酒婦人

これは「蕉軒集」外の文なれば錄す。

■やぶちゃんの呟き

 訓読しておく。

   *

醜石(しうせき)と雜花(ざつくわ)と、此れは、是れ、我が家の大弓(だいきゆう)・寶玉と爲(な)す。

素弦(そげん)、又、淸管、或いは、以つて、老子の醇酒(じゆうしゆ)・婦人と謂へり。

   *

「聯」はここでは「対句」の意。

2022/05/02

甲子夜話卷之七 3 千宗左、眞臺司上覽。茶器を賜り歸京の事

7ー3

紀の藩中に千宗左と云あり。京住にして利休の末なり。享保の頃關東に召され、其家傳せし眞臺司の手前を上覽あり。御暇のとき御茶盌を下さる。宗左發足の前、相率たる從者を還し、御茶盌を袋に納め、自ら首に懸て、僅に殘せる僕一二人と發す。京の家内門人の輩、先立歸着せるものに其事を聞き、宗左が歸を待つ。不日にして宗左歸り、江都の云云を話し、恩賜の御茶盌を以て、一會を催さんと門人に云ふ。因て門人等、茶室露次を洒掃して、事既に成れども來客誰と云を不ㇾ知。故に誰をか招給ふと宗左に問へば、妻を客とせんと云。門人妻に告ぐ。妻驚て辭退す。宗左曰。辭すべからず。我は此家に聟養子として入り、其方は先人の女なれば、家の統は其方なり。吾祖先の餘薰に依り、今度の大惠を蒙ること、其本は汝が身に由れり。然れば祖恩に報ぜんには、其方をぞ客禮にて待遇すぺし。必辭すべからずと云。妻も其理に伏し、會席に赴く。宗左彼の御茶盌を上器とし、妻を一客とし、茶禮式の如く畢り、御茶盌は門生等にも示さず、其まゝ匱藏せりと。宗左が爲ㇾ人かくの如し。信に祖先の利休に恥ずと云べし。

■やぶちゃんの呟き

「千宗左」(せんのそうさ 慶長一八(一六一三)年~寛文一二(一六七二)年)の初代は江戸初期からの表千家の当主。宗旦の第三子。初代紀州侯徳川頼宣に仕えた。但し、ここには「享保の頃」(一七一六年~一七三六年)とあり、「聟養子」とあるから、初代ではない。時代が正しいとすると、第七代千宗左(宝永二(一七〇五)年~寛延四(一七五一)年)が相当するが、彼は第六代家元覚々斎原叟宗左の実子であるから、違う。養子となると、第九代(安永四(一七七五)年~文政八(一八二五)年)が茶人久田宗渓の長男で、第八代の婿養子となって家元を継いでいるが、彼は松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)と同時代人であり、彼と間違えるというのは、ちょっとおかしい。なお、第八代も紀州徳川家の茶頭となっている。しかし、確信犯で本篇は綴られていることから、この「享保」というのは、享和(一八〇一年~一八〇四年)の誤りなのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。【同日15:50/削除・追記】いつも御教授を戴くT氏より、只今、メールを頂戴し、表記の千宗左は第六代覚々斎原叟宗左(延宝六(一六七八)年~享保一五(一七三〇)年)であるとの御指摘を受けた。サイト「茶道本舗 和伝.com」の「三千家の誕生」の「表千家六代」「覚々斎原叟宗左」を紹介して下さった。彼は久田家三代久田徳誉斎宗全の子であったが、表千家第五代随流斎良休宗左の婿養子となったとあり、彼の妻はその養父の三女で、彼は、享保八(一七二三)年十月八日に第八代将軍徳川吉宗より唐津焼の茶碗を拝領したとある。茶碗の銘は「桑原」。最速の修正が出来た。T氏に心より感謝申し上げるものである。

「眞臺司」「しんのだいす」。「真台子」とも書く。「真」は台子(正式の茶の湯に用いられる四本柱の棚。風炉(ふろ)・茶碗・茶入れ・建水(けんすい:茶碗を清めたり、温めたりした際に使った湯や水を捨てるために使う椀)などの諸道具を載せておくもの。他に及台子・竹台子などの種類がある)を飾る基本的な方式。「真の台子」の点茶法は、点前(てまえ)の最上位に有り、その伝授を得て、宗匠となる。

「上覽」徳川吉宗のそれ。

「京住」「きやうずみ」。

「御暇」「おいとま」。

「御茶盌」「おちやわん」。

「相率たる」「あひつれたる」。

「先立」「さきだちて」。

「不日」「ふじつ」。日ならずして。

「江都」底本の東洋文庫に従い、「えど」と読んでおく。

「洒掃」「さいさう」「洒」は「水を注ぐ」意。掃除。

「女」「むすめ」。

「統」「とう」。血統・血筋。

「其本」「そのもと」。

「必」「かならず」。

「其理」「そのことわり」。

「匱藏」「ひつざう」。箱に入れて秘蔵すること。

2022/04/28

甲子夜話卷之七 2 婦女の髮結樣、時世に從て替る事

 

[やぶちゃん注:今回は、余りにも多くの読みを注せねばならず、煩瑣なので、本文に特定的に読みを底本の東洋文庫にないものは(原本の読みのルビは存在しない)、推定で入れ込んみ、記号も挿入した。

 

7-2 婦女の髮結樣(かみゆひやう)、時世に從(したがひ)て替(かは)る事

婦女の髮結ふに、「鬢(びん)さし」迚(とて)頭髮の中にさすもの、予が幼少の頃迄は無(なか)りし。全く豔冶(えむや)の爲に設(まうけ)たる也。但(ただし)諸侯大夫士などの婦人は左有(さある)べきが、以前は娼妓(しやうぎ)の類(たぐゐ)まで「鬢さし」は無きなり。予十餘年前か、髮樣(かみざま)を古風に復(ふく)したく、侍女の輩(やから)に申付(まうしつけ)たるが、「今にては『鬢さし』なくては髮は結(ゆは)れず」と云ゆゑ、予と同齡なる老婦に、「以前は何にして結たるや」と詰(なじり)たれば、「某(それがし)もむかしを顧るに何にして結(ゆひ)たるか、今にては老髮(おひがみ)の少(すくな)きも、彼(かの)物無(なく)ては結(ゆひ)申されず」迚(とて)さて止(やみ)ぬ。又今の「鬢つけ油」と云(いふ)ものも、幼少の頃はなく、草を【「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」なり】水に漬(ひた)し其汁にて結たり。このこと貴人計(ばかり)にもなく、部屋方、婢(はしため)迄皆然り。因(よつて)貴上(きじやう)には「鬘竪(かづらたて)」、「鬢水入(びんすいいれ)」とて有(あり)て、「鬘竪」には「五味子」の莖を截(きり)て立て、「鬢水入」には水をいれ、莖を漬して櫛を納(い)れ、これにて髮を梳(すけ)るなり。故に貴上の品は、黑漆に金銀の蒔繪にし、卑下のは竹筒に、淺ましき陶器の水入(みづいれ)にて、婦女も必(かならず)この物を持(もて)り。今は絕(たえ)て其品を見ることさへ無く、稀には蒔繪のもの抔(など)骨董肆(こつとうし)に見るのみ。又油(あぶら)と謂(いふ)ものも、以前は硬き「棒油(ぼうあぶら)」と云(いふ)計(ばかり)にて、「伽羅(きやら)の油」、「くこの油」、「すき油」、「ぎん出(だし)」と云(いふ)類(たぐゐ)は、皆予が幼少のときは無りし。又今の如く「鬢さし」入(いるる)る故は、以前は髮を額へかき下げて、あとにて髮の根結(ねゆひ)をなしたる也。夫(それ)を伊達(だて)に爲(せ)ん迚、「髮指(かみさし)」を入(いれ)たる故、如ㇾ今(いまのごとく)上(うへ)へ擧りたる也。因(よつて)試(こころみ)に今も「鬢さし」を拔(ぬき)て見れば、やはり髮の風(ふう)はむかしの如く成る也。又往古は髮は結(ゆは)ずして、天然のまゝ下(さ)げ置(おき)たるなり。既に舞(まひ)など爲(せ)んとするには、頭(かしら)の振囘(ふるまは)し不自由と見へて、古畫に白拍子(しらびやうし)、曲舞(くせまひ)などの體(てい)は、何(いづ)れも下髮(おろしがみ)のもとを結(ゆひ)てあるなり。靜(しづ)が賴朝卿の爲に、鶴岡(つるがをか)にて白拍子をせしこと「義經記(ぎけいき)」に見へしにも、靜、長(たけ)なる髮を高らかに結(ゆひ)あげと見えたり。是は臨時の仕方なるべし。前に云(いふ)如く油なきゆゑ、髮は下置(さげおき)ても衣服けがれず。今にて下置ては油にて衣類よごるゝ故、卑下等(ひげら)は是非なく上に結ぶ。是自然の理なり。北村季文が云(いひ)しは、古代の婦女は、髮下(さが)りて働(はたらく)に邪魔と見へて、卑賤なる者の體(てい)は、下(さが)りたる髮を上衣(うはぎ)の下(した)に入れてある容(やう)すなりと。さすれば働も自由なり。是等を以ても、如ㇾ今(いまのごと)く髮を揚げ油(あぶら)を用(もちひ)る、亦自然のことにぞあるべき。

■やぶちゃんの呟き

「鬢(びん)さし」「鬢差し」。江戸時代、女性が髪を結う際に、鬢の中に入れて、左右に張り出させるために用いた道具。鯨の鬚や針金などを用いて細工し、弓のような形に作ってあった。上方では「鬢張り」と称した。「精選版 日本国語大辞典」の「鬢張」の挿絵を参照されたい。

「豔冶(えむや)」現代仮名遣「えんや」。「艷冶」に同じ。なまめいて美しいこと。

「詰(なじり)たるに」詰問したところが。若い下女たちでは、まるで話にならないので、ちょっとじれったくなって、ちょっときつめな感じで質してしまったのである。

「さて止(やみ)ぬ」「扨(さて)、止みぬ」か。しかし、どうも「扨」ではしっくりこない。一読した際、私は「沙汰(さた)止みぬ」の誤字か、誤判読ではないかと疑った。この場合の「沙汰」は「髪型を嘗つての古風なものに結い直そうとする目論見」である。

「鬢つけ油」「鬢付油」。髪の乱れるのを防ぐために用いる練り油で、蠟(ろう)と油とを、固く練り合わせ、香料を加えたもの。元祿(一六八八年~一七〇四年)頃から用いられた。単に「びんつけ」とも呼んだ。

『「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」』被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。

「貴上(きじやう)」上流階級。但し、ここは武家・公家のそれではなく、裕福な町方の者の謂いであるようだ。

「鬘竪(かづらたて)」「立髮鬘」(たてがみかつ(づ)ら)。通常は立髪(月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形を言うが、ここは、以下から、そのように成形するための固定サネカズラの茎材のようである。

「鬢水入(びんすいいれ)」鬢水(鬢のほつれを整え、艶を出すために櫛につける水。音に出る伽羅の油や上記のサネカズラを浸した水を用いる)を入れる金属・塗物・瀬戸物などで出来た器。長さは十五センチメートル、幅五センチメートル、深さも五センチメートル程の小判型をしていた。「鬢付入」とも言う。

「淺ましき」見栄えの悪い。

「骨董肆(こつとうし)」骨董屋。

「棒油(ぼうあぶら)」不詳。上記の「鬘竪(かづらたて)」の茎材を指すか。

「伽羅(きやら)の油」鬢付油の一種で、胡麻油に生蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)・白檀(びやくだん)・竜脳(りゆうのう)・麝香(じやこう)等の香料を配合したもを加えて練ったもの。近世初期に京都室町の「髭の久吉」が販売を始めたという(なお、本来の「伽羅」は香木の一種で、「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた)。

「くこの油」「枸杞の油」か。但し、実際の双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense からは有意に多量の精油成分は採取されないようであるから、胡麻油辺りにクコの実を混じて赤く着色したものかも知れない。

「すき油」「梳き油」。髪を梳き用の固形の油。胡麻油又は菜種油に生蝋蠟・香料などを加えて、堅く練り合わせたもの。

「ぎん出(だし)」「銀出し油」。上記のサネカズラの蔓の皮を水に浸し、強く粘りをつけたもの。光を反射して銀色の照りが出るので「銀出し」であろう。こちらは、普通は男性の鬢付け油に使用された。

「髮指(かみさし)」「髮揷」で簪(かんざし)の本来の発音。但し、この場合は、それを挿入することで、髪型全体が高くなるようなそれを指している。

「白拍子(しらびやうし)」平安末期に起こり、鎌倉時代にかけて盛行した歌舞及びその歌舞を生業とする舞女芸能者を指す。名称の起源は、声明道(しょうみょうどう)や延年唱歌(えんねんしょうが)、神楽歌の白拍子という曲節にあるとか、雅楽の舞楽を母胎にする舞いにあるといった諸説がある。「平家物語」では鳥羽天皇の御代に「島の千歳(せんざい)」と「和歌の前」という女性が舞い始めたとあり、「徒然草」には信西が「磯の禅師」という女に教えて舞わせたとある。ここに出る「静御前」は、この「磯の禅師」の娘ともされる。また、平清盛の寵愛を得た「祇王」・「祇女」・「仏御前」、頼朝や政子の侍女で平重衡との悲恋で知られる「千手の前」、後鳥羽天皇の寵姫亀菊などは、孰れも白拍子の名手として知られている。白拍子では「歌う」ことを「かぞえる」と称し、今様・和歌・朗詠などのほか、「法隆寺縁起白拍子」のような寺社縁起も歌った。伴奏は扇拍子・鼓拍子を用い、水干・烏帽子・鞘巻(鍔のない短刀)姿で舞ったので、「男舞(おとこまい)」とも言われた。白拍子の舞は、後の曲舞(くせまい)などの芸能に影響を与えたほか、能の「道成寺」ほかにも取り入れられ、その命脈は歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」などに連綿と受け継がれていった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「曲舞(くせまひ)」室町初期におこった舞踊で、散文的な詞章を謡いながら舞うもの。常の衣装は折烏帽子に直垂で、稚児曲舞・女房曲舞では立烏帽子に水干。楽は鼓で、舞うのは通常一人であった。祭礼や宴席に招かれた。嘉吉年間(一四四一年〜一四四四年)には、そ一派から「幸若舞」が起こり、織田・豊臣・徳川三代の保護を受け、発展した(旺文社「日本史事典」に拠った)。

「體(てい)」「風體」(ふうてい)。

「鶴岡にて白拍子をせし」「義經記」を出す前に「吾妻鏡」の文治二 (一一八六) 年四月八日の条を示すのが順序であろう。私の十年前の渾身の注のある「北條九代記 義經の妾白拍子靜」で臨場感を味わって戴ければ、これ、幸いである。

2022/04/09

フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十七 9 備後國木梨海中陰〔火〕幷證謌 付 隱岐國智夫郡神火之事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。なお、⦅ ⦆は極めて珍しい原本の静山自身のカタカナ・ルビである。目録標題は「陰」では意味が通じないので、「火」の脱字と断じて、かくした。]

 

97-9 備後國木梨海中陰〔火〕幷《ならびに》證謌 付〔つけたり〕 隱岐國智夫郡《ちぶのこほり》神火《しんび》之事

予、先年、旅行せし頃、備後國、裏海⦅イリウミ⦆の邊に「糸崎八幡」と云《いふ》宮居《みやゐ》あり。每《つね》に、この社頭に駕《かご》を憩ふ。この社司の梓行《しぎやう》せし「緣記」あり。この中に有《あり》しを、今、憶《おも》ひ出《いだ》せば、云へり。備後國に木梨⦅キナシ⦆と云所あり。その海中に陰火を生《しやう》ず。里人、呼《よん》で「たくらふ」と云。肥後の「不知火《しらぬひ》」と同じ。舟人、因《より》て、この火處を認《みとめ》て海岸に達⦅イタ⦆ることを得《う》、と。昔、後醍醐帝、隱州へ遷行の後、或とき、逃《のが》れ出《いで》、中國を指《さし》て渡り給ふとき、夜《よ》闇《くら》ふして、其《その》地方《ちかた》を辨ずること、莫《な》し。然るに、遙《はるか》に火光あり。帝船、これを望んで行くに、人に非ず。彼《か》の火にして、廼《すなはち》、備後に到る。帝《みかど》、因《より》て一首の和歌を詠じ給ふ。

 沖⦅ヲキ⦆の國燒火⦅タクヒ⦆の浦に燒⦅タカ⦆ぬ火の

      備後の木梨に今ぞたくらふ

『和漢三才圖會』云。隱岐國、離火(タクヒ)權現、在二海部郡島前。祭神、比奈麻治比賣神、又大日孁貴(オホヒルメノムチ)、禁裏内侍所三十番神第一離火神。是也。

『日本後紀』【桓武。】〕延曆十八丙辰【十三日。】、前遣渤海使外從五位下内藏宿禰賀茂麻呂等言。歸ㇾ鄕之日、海中夜暗、東西掣曳、不ㇾ識ㇾ所ㇾ着。于ㇾ時遠有火光。尋逐其光。忽到嶋濱。訪ㇾ之是隱岐國智夫郡、其處無ㇾ有人居。或云。比奈麻治比賣神常有靈驗。商賈之輩、漂宕海中。必揚火光。賴ㇾ之得ㇾ全者、不ㇾ可勝數。神之祐助、良可喜報。伏望奉ㇾ預幣例。許レ之。

『圖會』、又云。此乃天照太神之垂跡同一ニシテ、而於ㇾ今海舶多ルヽ漂災者、因レリ神火。最レ可カラレ疑

■やぶちゃんの呟き

「裏海⦅イリウミ⦆」瀬戸内海のことか。

「糸崎八幡」現在のここ(広島県県境に近い岡山県井原市芳井町西三原。グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、瀬戸内海側から行くの意としても、相対的にはえらく内陸ではある。

「梓行」出版すること。

「緣記」「緣起」に同じ。

「備後國に木梨⦅キナシ⦆と云所あり」広島県尾道市木ノ庄町木梨があるが、前の「糸崎八幡」に比すれば、まあ、瀬戸内海には近いが……。

「たくらふ」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、「多久良不火」(タクラウビ)として載り、元を頼杏坪(らい きょうへい 宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)編「芸藩通志」巻九十九名を出典とし、広島県三原市での怪異とし、『曙のころ、波が赤くなり、火のようなものが見える。土民はそれを』「たくらふび」『という。雨の夜に出てきて』、『波の上に燃える火も』「たくらうび」『というが、前のと』は『別である』とある。頼は儒学者で安芸竹原の出身。名は惟柔(ただなご)。杏坪は号。安永二(一七七三)年に大坂に遊学、兄春水に従い、「混沌社」に出入りした。後に兄とともに江戸に出て、服部栗斎の教えを受け、天明五(一七八五)年、広島藩の藩儒となった。宋学の興隆に専念し、春水に代わり、江戸邸の藩侯世子や在府子弟の教育に努めるとともに、甥山陽の教導にも力を注いだ。文政元(一八一八)年に、この「芸藩通志」編修の命を受け、七年で完成させた。加禄されて三次町奉行専任となって郡務に努めた篤実な人物である。

「『和漢三才圖會』云。……」以下、実は後の「日本後記」もそこに載っている。但し、静山は正しく原本に拠ったようで、表現が有意に異なる)。前者」には一部省略があるが、それも含めて、所持する原本で訓読(一部は私の推定読み仮名)しておく。「卷の第七十八」の「十八」折りの「隱岐(をき)」の項の内にある。

   *

離火(たくひ)權現  海部郡(あまのこほり)島前(たふぜん)に在り。

祭神 比奈麻治比賣神(ひなまちひめのかみ)【又の名は「大日孁貴(おほひるめのむち)」。[やぶちゃん注:天照大神の異名。]】

禁裏内侍所(きんりないしどころ)三十番神(さんじゅうばんじん)の第一に離火(たくひ)の神、有り【此れを「午比留尊(むまひるのみこと)」と云云(うんぬん)。】。是れなり。

「日本後紀」に云ふ。延曆十八年[やぶちゃん注:七九九年。]五月、渤海使【朝鮮屬國。渤海と名づく。】外從五位下・内藏宿禰(くらのすくね)賀茂麻呂等(ら)、言(まふ)す。「皈鄕(ききやう)の日、海中、夜闇(やあん)にして、着く處を識らず。時に、遠く、火の光り、有り。其の光りを尋ね逐(を)ひて、忽ち、嶋濱(しまのはま)に到(いた)る。之れを訪(と)ふに、是れ、隱岐國(をきのくに)智夫郡(ちぶのこほり)、其の處に、人、無く、比奈麻治比賣の神、或(あ)り、常に、靈驗、有り。商賈(しやうばい)の輩(やから)、海中に漂宿(へうしゆく)するに、火光を揚(あ)ぐるがごとし。之れに賴(たよ)りて、全きを得る者、勝(あ)へて數(かぞ)ふべからず。神の祐助(いうじよ)、最も嘉報とすべし。

一(いつ)に曰はく、此れ、乃(すなは)ち、天照太神の埀跡(すいじやく)同一にして、今に於いて、海舶、多く漂災(へうさい)を免(まるか)る者、神火の光りに因(よ)る。最も疑ふべからず。

   *

「『日本後紀』【桓武。】〕延曆十八丙辰【十三日。】、前遣渤海使外從五位下内藏宿禰賀茂麻呂等言……」という本篇の訓読文も別に以下に示す。多少、語を添えた。

   *

「日本後紀」【桓武。】、『延曆十八丙辰【十三日。】、前(ぜん)遣渤海使、外從五位下・内藏宿禰賀茂麻呂等、言(まう)す。鄕(くに)に歸へるの日、海中、夜暗(やあん)にして、東西に、掣(せい)し、曳(ひ)き、着く所を識らず。時に于(お)いて、遠く、火光、有り。其の光り尋ね逐ひて、忽ち、嶋濱の到る。之れを訪へば、是れ、隱岐國智夫郡、其の處に人居(じんきよ)有る無し。或いは云ふ、比奈麻治比賣の神、常に、靈驗、有り。商賈の輩、海中に宕(ほしいまま)に漂へば、必ず、火光、揚がる。之れに賴りて全きを得る者、勝へて數(かぞ)ふべからず。神の祐助、良く喜報すべし。伏して望み、幣例を預り、奉ると。之れを許す。

   *

フライング単発 甲子夜話續篇卷之十四 9 讚岐院の御陵

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

14―9 讚岐院の御陵

又、荻野長が曰《いはく》。「京の安井觀勝寺の金毘羅にも、爲義、爲朝二人の像、脇士《わきじ》たると云。永代寺の先住某の話なり。

又曰。「この安井の金毘羅は新院【崇德帝】、讚州より、御枕と、御守佛の觀世音の像とを、阿波内侍《あはのないし》のもとに「御形見に。」と贈らせ給ひしと。宇治左府【賴長。】の靈とを配して觀勝寺に祭りければ、其寺の藤の上に、每夜、光りもの、降《くだ》りて、神異を顯はせり。卽ち、今の觀勝寺の地にて、其御神靈を金毘羅權現と申す。」と。天明年中公儀へ、安井門跡「勸化願書」の趣《おもむき》も、此《かく》の如くなり。

[やぶちゃん注:以下、長いが、最後まで底本では全体が一字下げである。]

『都名所圖會』云《いはく》。「安井觀勝寺光明院は、安井御門跡前《さきの》大僧正性演、再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇德天皇の后妃阿波内侍、此所に住せ給ふ。天皇、「保元の亂」に、讃岐國へうつりましまして、御形見に、束帶の尊影、御隨身二人の像を畫《ゑがき》て、かの地より皇后に送り給へり。其後、天皇【讚岐院とも申す。】、配所松山に於て『大乘經』を書寫し、和哥一首を添給ひて、「都の内に納めん。」とて、送り給ふ。

 濱千鳥跡は都にかよへども

      身は松山にねをのみぞなく

然るを、少納言入道信西、奏しけるは、「若《もし》咒咀《じゆそ》の御心にや。」とて、御經をば、返しければ、帝《みかど》、大《おほき》に憤り給ひ、「大魔王となつて、天下を、朕《ちん》がはからひになさん。」と誓ひて、御指《おんゆび》の血を以て、願文を書《かき》給ひ、かの經の箱に、「奉納龍宮城」と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に、火、燃《もえ》て、童子、出《いで》て、舞蹈《ぶたう》す。是を御覽じて、「所願、成就す。」と宣へり。夫《それ》より、爪、髮を截《きり》玉はず。六年を經て、長寬二年八月廿六日に崩御し給ふ。御年四十六。讚州松山の白峯に葬り奉る。夫より、御靈《ごりやう》、此地に來《きたり》て、夜々《よよ》、光を放つ故に、「光堂」ともいふ。然るに、大圓法師といふ眞言の名僧、此所ヘ來つて參籠す。崇德帝、尊體を現《あらは》し、往事の趣を示《しめし》給へり。大圓、これを奏達《そうたつ》し、詔《みことのり》を蒙りて、堂塔を建立し、かの尊靈を鎭め奉り、「光明院」と號しける。佛殿の本尊は「堆昵觀音《たいじちくわんおん》」なり。奧の社は崇德天皇、北の方、金毘羅權現、南の方、源三位賴政。世人、おしなべて「安井の金毘羅」と稱し、都下の詣人、常に絕《たゆ》る事なし。崇德帝、金毘羅、同《おなじ》一體にして、和光の塵《ちり》を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生靈驗《りしやうれいげん》いちじるし、とぞ見えにける。これを見れば、御隨身二人の像を繪がきて賜ふと云《いふ》は、爲義、爲朝の像なりしか。○阿波内侍は、『日本史』「后妃傳」云《いはく》。「崇德妃、源氏、參河權守師經女《むすめ》也。生僧元性。又、「皇子傳」云。「崇德二皇子、内侍、源氏、生僧元性。宮人藤原氏、生重仁親王。」と。蓋し、源氏は阿波内侍なり。

■やぶちゃんの呟き

「荻野長」(天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)は静山の知人で幕臣。天守番を務めた。仏教学者として知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らに教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。名は長・董長。通称は八百吉。

「大圓法師といふ眞言の名僧、此所ヘ來つて參籠す。崇德帝、尊體を現し……」現在の京都市東山区下弁天町にある「安井金毘羅宮」公式サイトのこちらの「御由緒」に『崇徳天皇』『は特にこの』社にある『藤を好まれ』、久安二(一一四六)年、『堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍』『を住まわされました』。『崇徳上皇が保元の乱』『に敗れて讃岐』『で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました』。『治承元年』(一一七七年)、『大円法師』『が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ』、『往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇』『に奏上され、法皇のご命令により』、『建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています』とある。

「堆昵觀音」不詳。この名の観音名を見たことが私はない。ネット検索でもかかってこない。「僧元性」崇徳天皇の第五皇子で、真言僧となった覚恵(仁平元(一一五一)年~元暦元(一一八四)年)の舊僧名。母はここに出る村上源氏の三河権守源師経の娘。重仁親王(足の疾患により二十三で早逝した)の異母弟。「宮法印」と呼ばれた。当該ウィキによれば、応保二(一一六二)年に『仏門に入り』、『叔父覚性』(かくしょう)『法親王のもとに入室。法名は初め元性』(げんしょう)『と称し、その後』、『覚恵と改めた』。仁安四(一一六九)年二月、『仁和寺観音院において灌頂を受けた後、同寺華蔵院に住し、法印に叙された』とある。

フライング単発 甲子夜話卷之六十 18 金毘羅の靈異邦に及ぶ

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。

 本篇標題は以下の通りであるが、タイトルでは訓読文で示した。]

 

60-18 金毘羅の靈及異邦

去々年か、行智、讚州に往《ゆき》て、金毘羅に詣《まうで》たるに、堂に大なる橫匾《よこがく》に、行書の三大字を揭ぐ。

  「降神觀」

前に「乾隆四十三年」云云、後に「仁和弟子劉靈臺敬立」と書せりと。行智、因《より》て里人に聞《きく》に、日《いはく》。「寬政の頃、劉雲臺、長崎に來りしに、洋中にて惡風に遭《あひ》、舶《ふね》、已に傾《かたぶき》覆《ふく》せんとす。時《ときに》、四方、雲、覆ひ、闇夜の如《ごとく》にして、向《むかふ》べき方《かた》を辨ぜず。折ふし、神、有《あり》て、船に現じて曰《いはく》。『洋中、火光《くわくわう》を見る方に向はゞ、免るゝことを得べし。我は日本金毘羅神なり。』と告《つげ》て消《しやう》す。卽《すなはち》火光を尋《たづね》て行き、舶の全きことを得たり。因て、崎に滯留の間、額を造りて、かの祠《し》に奉賽《はうさい》せしとぞ。我神靈、異國に逮《およ》ぶも、亦、奇なり。

又、長崎、立山《たてやま》の後山《うしろやま》にも金昆羅祠あり。この祠にも、唐商《たうしやう》の揚《あげ》たる額、多し。又、年々、渡來の商舶より、銀子等を賽《さい》すること多く、祠、甚《はななだ》、繁昌なり。」とぞ。これ、洋中安穩を祈るためなり。俗、云ふ。「商舶、唐山《たうざん》を發して、その州《くに》の見ゆる迄は『天后聖母』【長崎、これを「ボサ」と謂ふ。】を祈り、日本の地を望む所よりは、『金毘羅』を祈る。」とぞ。さすれば、必ず、靈應ありて、難風を免る、と。因て、願成就の額、其餘《そのよ》にも各種を寄附すること絕《たえ》ずと云《いふ》。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

先年、費晴湖と云《いふ》商も、金毘羅信仰にて、長崎にて金毘羅山の全景を畫《ゑが》きし、となり。晴湖は畫を善くするの名あり。

■やぶちゃんの呟き

「行智」静山の知り合いの修験者の名。

「乾隆四十三年」一七七八年。

「寬政」一七八九年から一八〇一年まで。松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられた。作品内にクレジットがあるものは少ない。但し、正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻であるから、二十年を概ね三分した年代でだいたいを推定するのは問題ないであろう。

「劉雲臺」彼の書いた扁額は現在の金比羅宮に現存する。参拝階段の途中にある旭社の楼上に掲げられてあり、「金刀比羅宮 参拝ガイド 御本宮編」のこちらで確認でき、この『「降神觀」の額は、清国の翰林院侍讀探花及第王文治の筆で、同国の劉雲臺の献納』したものであるという記載がある。

「長崎、立山の後山にも金昆羅祠あり」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「唐山」「州」中国本土。

「天后聖母」「長崎、これを「ボサ」と謂ふ。」航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に広い信仰を今も集めている道教の女神媽祖(まそ)の別名。詳しくは当該ウィキを見られたい。「ボサ」というのは、別名の一つである「媽祖菩薩」のそれであろう。

「費晴湖」(生没年不詳)は清の商人で画家。当該ウィキによれば、『江戸時代中期、日本に渡来し』、『南宗画様式の画技を伝え』た。『名は肇陽』(ちょうよう)、『字は得天。晴湖と号し』、『他に耕霞使者と称した。湖州府呉興県の人』。『天明から寛政年間』(一七八一年から一八〇一年)『に船主として来舶した。同じく来舶清人の費漢源の同族とされる。父が長崎に居を構えていたが』、『薩摩沖で遭難して』亡くなり、『その遺骨を引き取ることを長崎奉行所から許され』、寛政七(一七九五)年に『祖国に持ち帰ったという記録がある』。『増山雪斎の名を受けて、長崎に遊歴した画家・春木南湖や十時梅厓が』、『晴湖から画技と書法を伝授されている。背丈は標準で』、『赤黒い顔色、逞しい体格だったと伝えている』。「費氏山水画式」(一七八七年)の『序文には』、明代の文人として知られた董其昌(とうきしょう)と、北宋末の文人で書家として知られる米芾(べいふつ)に『私淑して筆意を得たという。女流俳人・一字庵菊舎に会』い、『その漢詩と七弦琴の才能を喜び、漢詩と序文を贈っている』。また、『晴湖を来舶四大家の一人』『とすることがある』とある。

2022/03/23

甲子夜話卷之七 1 寶曆衣服の制仰出

 

甲子夜話七

 

7-1 寶曆衣服の制仰出

享保質素の令もおのづから薄らぎしや、寶曆九卯年に、衣服の制を仰出されける旨ありし頃は、老中の供𢌞り、絹の小紋羽折着たるもあり。御城の坊主は、皆無地の黑絹羽折なりしとぞ。町𢌞りの同心、兩國橋にて商人の妻、黑縮緬の袷にもうるの帶、茶の腰帶、下に白帷子を着たりしを咎めて番所へ預け、黑き縮緬の小袖一にて錢湯に赴く少婦の胸に封をつけしとぞ。これは能役者觀世大夫が妾と聞へし。神田邊にて靑梅縞の袷、裏に黑繻子つけ、金魚を縫たるを著したる少女も、襟に封をつけられたり。糀町にて輕き男、木綿袷の上に飛紗綾の帶を結たるを、其町へ預くるとて名主を呼出したれば、袴羽折にて出たるが、其羽折縮緬の小紋なりしとて、先これを大に叱り、しばらく遠慮申付たるよし。

■やぶちゃんの呟き

「寶曆九卯年」一七五九年。

「もうる」「莫臥兒」。ポルトガル語の「mogol」に当てた語。モール。本来はインドのモゴル(ムガル)帝国時代の特産と言われ、緞子(どんす:織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる)に似た浮織の織物。経は絹糸で、緯に金糸を用いたのを「金モール」、銀糸を用いたのを「銀モール」と称し、後世は、金糸又は銀糸だけを撚(よ)り合わせたものを言う。

「白帷子」「しろかたびら」。

「少婦」「せうふ(しょうふ)」。年若い娘或いは若い嫁。

「能役者觀世大夫」この年代から、観世流十五世宗家観世左近元章(もとあきら 享保七(一七二二)年〜安永二(一七七四)年)であろう。ウィキの「観世流」によれば、この頃、『観世流は徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占』する一方、『京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章は』、『これらの状況を受けて、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、国学の素養を生かした小書を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註』した上、『上梓するなど、旺盛な活動を行った』とある。

「妾」「めかけ」。

「靑梅縞」「あをうめじま」。

「糀町」「かうぢまち(こうじまち)」。

「飛紗綾」「とびざや」。地が紗綾(さあや:絹織物の一種。平織り地に「稲妻」「菱垣(ひしがき)・「卍」(まんじ)などの模様を斜文織(ななめあやお)りで表わした光沢のある絹織物。中世末頃から江戸初期にかけて多く用いられた)に似て厚く、とびとびに花紋のある織物。

「先」「まづ」。芋蔓式のエンディングが面白い。

甲子夜話卷之六 43 駿城勤番、蛇を畜置し人の事 / 甲子夜話卷之六~了

6-43

駿城勤番の輩、在住となりしより絕しが、それより前は御書院組番士、交替して城守することにぞありける。其頃在番の面々、倦怠の餘、或は酒宴又は碁象棋、さまざまの遊をして日を暮せしが、其末色々の流弊生じて、集會の習ひよからぬ事どもありしとなり。されど其會に赴ざれば、同寮の好みを失ひ、差支る事も多ければ、人々此在番には甚苦しみけるとぞ。一人在番の中に、蛇を畜養ふものあり。大小の匣に各色の蛇あり。人々來りてこれを見、むさきものを好む人とて、宴會ありても招くものなし。遂に在番中の弊を免れしとなり。古人所謂、有ㇾ托而逃者と云意を能く得たることなり。

■やぶちゃんの呟き

「駿城勤番の輩、在住となりしより絕し」ウィキの「駿府城の「駿府在番・勤番」よれば、『駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが』、寛永一六(一六三九)年には、『大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約』百五十年間、『駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米』(こうりょくまい/ごうりきまい:江戸幕府が二条城・大坂城在番、及び、二条城・大坂城・駿府城の諸奉行に給与した米)『の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる』。『しかし』、寛政二(一七九〇)年、『書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた』とある。

「流弊」「りうへい」。以前からの狎れ合った悪い習慣。

「赴ざれば」「おもむかざれば」。

「好み」「よしみ」。

「差支る」「さしつかふる」。

「甚」「はなはだ」。

「畜養ふ」「かひやしなふ」。

「匣」「はこ」。

「各色」「かきいろ」。この「色」は色彩ではなく、「種類」の意。

「有ㇾ托而逃者」「托(たく)すこと有りて逃(に)ぐる者」か。「別にある目的があって、ある状況から首尾よく逃げ去る者」の意か。出典は判らないが、「易経」や道家思想辺りから生まれた諺か。

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