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カテゴリー「「甲子夜話」」の421件の記事

2025/12/22

甲子夜話卷之八 33 諏訪備前守、尾州へ御使の途中、松山侯と爭論、石川主水正裁斷せし事 /甲子夜話卷之八~了

8―33 諏訪備前守、尾州へ御使の途中、松山侯と爭論、石川主水正裁斷せし事

 

 近き頃のことなり。

 番頭(ばんがしら)諏訪備前守、尾州ヘ、御使(おんし)、蒙りて赴(もむき)しに、東海道の何驛にてかありし、松平隱岐守が松山表(おもて)よりの飛脚、行違(ゆきちがひ)しに、上使(じやうし)の事なれば、往來の者に聲掛け、下坐させしに、其飛脚計(ばかり)、下坐せざりしかば、諏訪の徒士(かし)、飛脚を捉(とら)へけるに、下供(しもども)[やぶちゃん注:諏訪備前守の道中に付き添う下級の中間ら。]、馳集(はせあつま)り、散々に打擲(ちやうちゃく)しけり。

 このこと、松山の邸吏(ていり)より、勘定奉行の道中方心得(だうちゆうがたこころえ)たる服部備後守へ訴出(うつたへいで)て、雙方(さうはう)、吟味になりける。

 松山藩にては、

「上使にてもあれ、餘り、無體(むたい)の仕方なり。」

とて、大(おほい)に怒り、其(その)曲直(きよくちよく)を明白に立(たて)んとす。

 又、番頭(ばんがしら)の輩(やから)は、

「此事、もし、松山の意(い)、立(たつ)ときは、上使の權(けん)の、輕重に預(あづか)ることなり。」

とて、各(おのおの)、諏訪に荷擔(かたん)して、紛々(ふんぷん)の論、起(おこ)る。

備後守も、裁判(さいはん)しかねて、數日(すじつ)を經(ふ)る中(うち)に、轉職して、小普請組支配(こぶしんぐみしはい)となり、其獄(そのごく)[やぶちゃん注:この場合の「獄」は「訴え」の意味であるので注意。]は、跡役(あとやく)の石川主水正(もんどのしやう)へ送りに成(なり)ける。

 主水正は、再吟味にも及ばず、松山の邸吏を呼(よび)、

「扨(さて)。此度(このたび)のこと、曲直(きよくちよく)の論は、姑(しばら)く置き、第一、公義を憚らず、我意(がい)を立てゝ、上使の權を挫(くじか)んとするは、御普第(ごふだい)の家(いへ)の本意(ほい)に非(あらざ)るべし。此事(このこと)、定めて、隱岐守の所存(しよぞん)なるべからず。役人の心得違(こころへちがひ)なるべし。よく、此旨(むね)を家宰(かさい)に申(まうし)て、明日(みやうにち)、來(きた)り、答詞(たうし)を述(のぶ)べし。夫(それ)とも、官威(くわんい)を立(たつ)るの意なく、其藩の威(い)を立(たて)んとして、勝負を爭(あらそふ)の心あらば、我等、再吟味の上、たとひ、松山の人の、直(ちよく)なるにもせよ、奉行所にては、曲事(くせごと)に申付(まうしつく)べし。」

と、色を厲(な)して言(いひ)けるに、邸吏も、頓首(とんしゆ)して退(しりぞ)きけるが、翌朝、邸吏、來り、

「昨(きのふ)の利解(りかい)を、家宰に申聞(まうしき)けるが、松山の家においては、殊更(ことさら)、官へ對し、曲直勝負(きよくちよくしやうぶ)を爭ふこと、いかであるべき。眞(まこと)に恐懼(きようく)の至(いたり)なり。此一件、何とぞ、内濟(ないさい)に奉ㇾ願(ねがひたてまつる)。」

の旨(むね)を演說しければ、卽(すなはち)、願(ねがひ)の通り、內濟に申付(まうしつけ)しとなり。

 實(まこと)に「片言析獄[やぶちゃん注:ママ。]」とも云(いひ)つべし。

 

■やぶちゃんの呟き

 まず、最後の静山の附言の「片言析獄」は恐らく、底本(東洋文庫版)の誤判読か、誤植であろう(ママ注記はないから、静山の誤字ではない)。「片言折獄(へんげんせつごく)」で、「辞書オンライン 四字熟語辞典」のここによれば、『一言で人々を納得させる裁判の判決を下すこと。また、一方の言い分だけを信じて裁判の判決を下すこと。』とあり、『「片言」は短い言葉や一方的な言い分。』、『「折」は「断」と同じ意味で、善悪を判断して決定を下すこと。』、『「獄」は訴訟のこと。』とあり、『「片言(へんげん)獄(ごく)を折(さだ)む」とも読む。』とある。

「諏訪備前守」諏訪頼存(よりつぐ)か。判らぬ。識者の御教授を乞う。

「松平隱岐守」伊予松山藩の藩主であるが、誰かは、私には判らない。識者の御教授を乞う。

「服部備後守」後に幕府勘定奉行となった旗本服部貞勝か。判らぬ。識者の御教授を乞う。

   *

 なお、本篇は、百合の若氏の「甲子夜話のお稽古」のこちらに、現代語訳がある(但し、注はない)。

   *

 遅々として進まぬものの、やっと、「卷九」を終えた。私の多くに手をつけてしまった諸電子化注プロジェクトの中で、私が死ぬまでに全部を完遂することは、不可能と思っている。せめても、脳が働くなるまでに、正編は終わらせたいとは思っているが……さればこそ、「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」と手抜きをしているのである。お許しあれかし……

甲子夜話卷之八 32 大番頭水野山城守の事

8―32 大番頭水野山城守の事

 

 享保中、番頭(ばんがしら)勤めし水野山城守、初(はじめ)は十兵衞と呼(よび)しが、今に人口に膾炙する一代の偉人なり。

 若き時、いまだ、寄合(よりあひ)にて在(あり)し頃、徒士(かち)なども、大男を擇(えら)び、召(めし)つれて、道の眞中(まなか)を通りけるに、小身(しやうしん)の御旗本衆(おはたもとしゆ)、侍に草履取(ざうりとり)計(ばかり)の行粧(かうさう)にて來りしが、これも同(おなじ)く道の眞中を通りて避(さけ)ず。

 既に口論に及ばんとせしが、とかくして、濟(すみ)ぬ。

 後に城州(じやうしう)、兩番頭(りやうばんがしら)となりしとき、その人、組の番士たりしが、

「勇氣あり。」

とて、城州、目を掛(かけ)し、となり。

 又、惇廟(じゆんびやう)[やぶちゃん注:徳川家重のこと。]、御多病(ごたびやう)により、

「御運動(おんうんどう)の爲め、亂舞(らんぶ/らつぷ)の御相手なるべき人を、擇(えらめ)る。」とて、參政より、

「組の中に、亂舞、よくする人や、ある。」

と、尋(たづね)しかば、

「拙者組(せつしやぐみ)に、左樣の田分者(たはけもの)は、御坐なく候。」

と、答へし、となり。

 又、組より、進物番(しんもつやく)へ出役(しゆつえき)せしもの、何(なん)の時にや、席の疊目(たたみめ)を違(たが)へしことありて、とやかく、むづかしかりしを、城州、一向に聞入(ききい)れず。

「我等、見て居(をり)候が、疊目は、違(たがひ)申さず。」

と、云張(いひはり)て、その者の不調法(ぶちやうはう)に、せず。

 扨(さて)、後(のち)、その者を呼びて、

「頃日(けいじつ)[やぶちゃん注:近頃。]のことは、いかにも、疊目、違ひたり。然(しか)れども、『武士を、疊目の違ひたるなど、云(いふ)ことにて、恥かゝすることや、あるべき。』と、我等、御役(おやく)に替(かへ)ても、云張(いひはり)たり。倂(しかし)、もし、事に臨(のぞみ)たるとき、一足(ひとあし)も、引(ひか)ば、それは、許しは、いたさぬぞ。」

と戒(いましめ)し、となり。

 其(その)風采(ふうさい)、おのづから、上にも聞(きこえ)し及(およ)ばせ玉(たま)ひしや、大番頭(おほばんがしら)へ擢(ぬきんで)られしとき、上意(じやうい)を蒙(かうむ)ると、平伏して、暫(しばらく)、頭(かしら)を揚(あげ)ず。

 やうやうに、御次(おんつぎ)へ退(の)きし跡(あと)に、落淚の痕(あと)、席に殘りしを、德廟[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、御覽ありて、御小姓衆(こしやうしゆ)に指(ゆび)さしたまひ、

「あれ見よ、鬼(おに)の淚は、これぞ。」

と、仰(おほせ)ありし、となり。

 其後(そののち)、何事か、殿中にて、老職衆(らうしよくしゆ)、

「面談する。」

とて、城州を呼(よば)れけるとき、同朋頭(どうぼうがしら)、申傳(まうしつた)へしに、城州、徐々(ゆるゆる)と、步み來(きた)る。

 同朋頭、

「早く、步み玉へ。某殿(なにがしどの)、待居(まちゐ)られ候に。」

と、云へば、大番頭は、

「左樣に、かけ𢌞(まは)るものにては、無し。」

と云(いひ)て、自若(じじやく)たりし、となり。

 又、淸水殿【俊德院殿。[やぶちゃん注:徳川家重の次男で、後の清水徳川家初代当主なった徳川重好。]】、幼稺(えうち)のとき、御表(おんおもて)の席々へ、遊びながら、出玉)いでたま)ふこと、あるに、其席にあるもの、樣子を見繕(みつくろ)ひ、皆、逃(のが)るゝことなりしに、一日(いちじつ)、「菊の間」に、城州、ありしとき、淸水殿參られしが、付添(つきそひ)たる小納戶衆(こなんどしゆ)、城州を見て、

「早く、にげたまへ。」

と云(いひ)ければ、城州、何(なに)しらぬ顏(がほ)にて、

「番頭は、にげるもので、なし。」

と云(いひ)て、堅坐(けんざ)して、動かざりし、となり。

 

■やぶちゃんの呟き

「水野山城守」水野忠英である。個人ブログらしき「寛政譜書継御用出役相勤申候」の「水野 6700石(元高6000石)」のページに、『甲子夜話(1)147頁』(=本文)『に出ている水野山城守はこの人の祖父(忠英『寛政譜』(6)117頁)。道を譲る譲らないで自分に盾突いた相手を見どころありと抜擢する話。その相手の旗本は、『耳袋』(岩波文庫版)上巻243頁で瀬名伝右衛門と知れる。』とあった。この話、実は、私の二〇一〇年四月九日に公開した「耳囊 卷之二 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事」がそのものであり、その注で、既に考証してあるので、見られたい(古過ぎて、すっかり忘れていた。トホホ……)。

「亂舞」この場合は、能楽で、演技の間に行う速度の速い舞。また、能のこと。「らっぷ」とも言う。

「疊目」「疊の目」とも言い、これは、「畳の敷き方」を指す。そこには、祝儀・不祝儀に扱われる複雑な禁則規定が存在する。幾つかのサイトを見たが、この本文の書き方では、どのような誤りがあったのかが、判然としないので、具体的な問題個所は、よく判らない。目から鱗の解説に遂に行き至らなかった。取り敢えず、「さわはた畳屋」公式サイトのブログの「畳の敷き方にも基本的なルールがあります。こっちの畳とあっちの畳を入れ替えてみたいけどできるの?」で、何となく、私は理解し得たと感じた。本文の謂いを、より、ズバリと解き明かしているところがあるのであれば、御教授下されると、幸いである。

2025/12/21

甲子夜話卷之八 31 大岡越州よく鄙事に通達せし事

8―31 大岡越州よく鄙事(ひじ)に通達せし事

[やぶちゃん注:チョー有名人が出現した。「鄙事」は、この場合、冒頭で「瑣事(さじ)」(少しばかりのこと・取るに足りないつまらないこと)と言っているように、広義の「俗事(ぞくじ)」の意。今回は、早合点で、途中で注を施してしまった……トホホ……。]

 

 大岡越前守は名譽の町奉行なり。瑣事までも、よく、下情(げじやう)に通じ、その敏捷(びんせふ)なるを想ひやらるゝこと、あり。

 一日(いちじつ)、いづれの町よりか、其店(そのたな)に、

「無商賣にて、相應に暮(くら)すものあり。」

とて、訴へ出(いで)しを、與力(よりき)、取次(とりつぎ)て申聞(まうしき)ければ、白洲(しらす)へ呼出(よびいだ)し、越州(えつしう)、出坐(しゆつざ)して、

「其方(そのはう)は、地搜(ぢさがし)か。」

と尋(たづ)ぬ。

「左候(ささふらふ)。」

と申(まうし)ければ、

「許してやれ。」

迚(とて)、坐を起(たち)ける。

[やぶちゃん注:「地搜(ぢさがし)」(読みは、東洋文庫版にあった)は、流石に、ピンとこなかった。静山は、実は、本文の終わりで説明しているのだが、各個撃破ばかり考えて、全文を読まない癖がついたのである。国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けたら、幸いに、バッシ! と模範解答を見つけることが出来た。「大名小路から丸の内へ 江戸絵図が語る丸の内三〇〇年」(玉野惣次郎編著・一九九五年菱芸出版刊)の「名奉行・大岡越前守の実像」のここで、まさに本文の当該部が引用された後に、『〝地捜し〟とは、最近は見かけなくなったバタ屋の隠語である。与力さえ知らなかった言葉を、奉行の越前守が知っていて、地捜しも商売と判断したのであった。』とあった。若い諸君は「バタ屋」でもピンとこないだろうから、老婆心乍ら謂い添えておくと、「屑屋(くずや)」・廃品回収業者のことである。当該ウィキに拠れば、『別名にバタ屋、紙くず屋、ボロ屋、くず鉄屋、てん屋がある。』とあるが、「地捜し」はない。ウィキさんよ、入れといた方がいいぜ! 私は、嘗てはウィキペディアンだったが、いい加減、勝手に私が修正したものを元に戻すことが数回あって、堪忍袋がキレて、永久にオサラバしたので、やる気はネエよ!

 又、町より、

「肴賣(さかなうり)を、其(その)最寄(もより)寺院の、女犯(によぼん)の媒(なかだち)する。」

迚(とて)、訴へ出(いで)し、あり。

 是も白洲にて、

「其方は、南向(みなみむき)か、北向か。」

と尋けるに、

「南向に候。」

と、答ければ、

「大目に見てやるぞ、北向ならば、許さぬぞ。」

と、言棄(いひすて)て、起(おこし)て、入りける。

[やぶちゃん注:「南向か、北向か」これもさっぱり判らなかった(同前で、静山は、終わりで説明している)。やはり、国立国会図書館デジタルコレクションで、又しても、模範解答を見出した。「人物探訪日本の歴史 7 将軍と大名」(一九八三年暁教育図書刊)の、徳永信一郎氏の「大岡忠相 裁決明断の江戸町奉行」の最後のここで、当該本文を次のように訳した上で、以下のように補足している。下線太字は私が附した。

   《引用開始》

 あるとき、魚売りが近所の寺院で女犯の媒介[やぶちゃん注:「なかだち」に同じ。]をしている――と訴え出たものがあった。

 忠相は、寺院の住職を白洲(しらす)へ呼び出し、

「その方は南向きか北向きか」

と問い、南向きだと答えると、

「南向きなら大目に見てやる。北向きなれば許さぬぞ」

と叱りつけ席を立った。そのころ吉原のことを北向き、魚を食うことを南向きというのが僧侶の隠語(いんご)であった。忠相が下情に通じていたという一例である。

   《引用終了》

私は、本文の「肴賣を」の「を」から、迂闊にも、魚売りが呼び出されて尋問されたものと読んでいたが、考えて見れば、この場合、それが事実なら、問題なのは、遙かに、その寺の住職であって(女犯(にょぼん)は浄土真宗僧以外は死罪であった)、当然、住職が召喚されるのが当然だと、横手を打ったのであった。

 後(のち)に、與力、

「何事なりや。」

と問(とひ)しかば、

「是等のことも知らで、町與力が、勤(つとま)るものか。」

と、叱り付けられ、與力も、

「膽(きも)を落(おと)せり。」[やぶちゃん注:「啞然とするばかりであった」の意。]

と、なり。

 この「南向」とは、「僧の肴喰(さかなぐひ)」ことなり。「北向」とは、「女犯」のことなり、とぞ。

 「地搜」とは、早天(さうてん)に、夜中、道路に落(おち)たるものを、拾ひ、賣代(うりしろ)なして、活計(くわつけい)にする名なり、とぞ。

 いづれも、そのことを匿(かく)して、人に分らぬやうに云(いふ)、鄙言(ひげん)なり、と、云(いふ)。

 

■やぶちゃんの呟き

 因みに、大岡忠相は延宝五(一六七七)年生まれで、宝暦元年十二月十九日(一七五二年二月三日)に亡くなっている。当該ウィキに拠れば、死因については、『呼吸器系・消化器系の疾患を患っていたと考えられている』とある。静山は、その死の九年後の宝暦十年一月二十日(一七六〇年三月七日)に生まれている。

 

甲子夜話卷之八 30 番頭高井兵部少輔、組士井上圖書のこと。又、其頃の番頭、風儀の事

8―30 番頭高井兵部少輔、組士井上圖書のこと。又、其頃の番頭、風儀の事

 高井兵部少輔(ひやうぶせういう)、番頭(ばんがしら)、勤めし頃は、世風(せふう)、おのづから武氣(ぶき)ありて、今の如き、軟弱の習(ならひ)は無(なか)りし、となり。

 後(のち)、大目付までに昇りし井上圖書頭(づしよのかみ)は、その組(くみ)にて、ありしが、殊に貧困にして、勤め續(つづく)べからざるほどのことなりしを、

「人物に、見所(みどころ)あり。」

とて、色々に勸めて、勤(つとめ)させ、遂に、御目付へ、申上(まうしあげ)て、御用召(ごようめし)になりしとき、兵部の宅へ、圖書、來り、

「明日(あす)は、召(めさ)せられ、難ㇾ有(ありがたき)ことに候へども、迚(とて)も勤め候ことは、出來不ㇾ申候(できまうさずさふらふ)に付(つき)、病(びやう)きにて、引(ひき)候の外(ほか)は無く候。格別に御見立(おみたて)下され候へぱ、御禮(おんれい)を申(まうし)て引(ひき)候。」

と、愁然として申(まうし)けるに、兵部、近習(きんじふ)を呼べば、物蔭より、廣蓋(ひろぶた)を持出(もちいで)て、圖書の前に置く。

 これを見れば、井上家紋の小袖、麻上下(あさかみしも)に金五十片を添(そへ)たり。

 其時、兵部、云(いふ)。[やぶちゃん注:底本の句点を採用したので、ここは「いはく」では、合わないと判断した。]

「いかやうにもして、勤め續れ候へ。」

と、ありしかば、思ひよらぬ厚意に感じ、圖書、翌日、登城(とじやう)し、御役(おやく)を蒙(かふむ)り、勤めし、とぞ。

 又、

『組の某(なにがし)を、見立(みた)て申上(まうしあげ)ん。』

と思惟(しゐ/しゆい)せしが、尙も、その人物を試(ためさ)ん迚(とて)、ある日、某の宅に來りて、供の者は、途中にて、辨當、用(もちひ)させたり。

「予は、『これより先に、親族、あれば、その所に至り、飯(めし)用(もちひ)ん。』と思ひしが、『近く、相番(あひばん)のあるに、それ迄へ行(ゆく)にも及ばじ。』と思ひ立(たち)、よりたり。茶漬飯(ちゃづけめし)、所望(しよまう)す。」

と、云(いひ)ければ、某(なにがし)、とりあへず、飯に香物(かうのもの)・座禪豆(ざぜんまめ)計(ばかり)にて、茶漬を出(いだ)しければ、快(こころよ)く、數椀(すわん)を喫(きつ)し、歸りて、決心して、某を書上(かきあげ)し、となり。

 その、眞率にして、少しも取飾(とりかざり)なきを、めでしなり。

 又、その組より出(いで)て、御目付勤めし某(なにがし)、あるとき、殿中(でんちゆう)混雜せし折節(をりふし)、兵部の坐(ざ)して在(あり)しに、立(たち)ながら、物言(ものいひ)けること、ありしかば、

「御自分は、我等組より見立てゝ申上(まうしあげ)しものなり。かゝる不禮の擧動におひて[やぶちゃん注:ママ。]は、申上げて、御役御免(おやくごめん)にすべし。」

と、怒りしかば、某、罪を謝しけれども、用ひず。同寮(どうりやう)、交(かは)る交る、陳謝して、やうやく、事無く濟(すみ)し、となり。

 此頃(このころ)、北條安房守、西鄕筑前守など、いづれも、番頭なりしが、皆、手强(てごは)なる、やかましき男(をのこ)どもなりし、とぞ。

 同僚、集會(しふくわい)のとき、袴(はかま)を脫(ぬぐ)と云(いふ)こともなく、遊興(いうきよう)がましきこと、少しも、無し。

「畫工(ぐわこう)を呼(よん)で、丹靑(たんせい/たんぜい)など、さすれば、珍しき遊興にてありし。」

と、人も云(いひ)たるほどのことなりし、とぞ。

 こは、『番士の手本ともなるべき身なれば』とて、互(たがひ)に嚴重(げんじゆう)なる事にて、ありし、と、なん。

 

■やぶちゃんの呟き

標題の「風儀」とは、「外形で見たところの人(々)の品行」の意。

「高井兵部少輔」花岡公貴氏の論文「高田藩の宝暦地震史料」(『上越市立歴史博物館 年報』紀要(第四号)・二〇二四年発行・PDF。宝暦は一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世)の中に、田沼意次の時代に、高井兵部少輔詮房の名を確認出来た。この人物であろう。

「番頭」江戸幕府の大番頭・書院番頭・小姓番頭・新番頭などを指す。

「大目付」老中の支配下にあって、幕府の政務の監督、諸大名の監察などに当たった。定員は四~五名で、旗本から選ばれた。

「井上圖書頭」思うに、「耳囊」の「卷之四 井上氏格言の事」に、高井の話によく似た毅然とした物言いをした、井上図書頭正在(いのうえまさあり 享保十六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)の話がある。そこで私は、彼は、明和四(一七六七)年御小性組頭、安永二(一七七三)年大目付、安永八(一七七九)年従五位下図書頭、天明五(一七八五)年普請奉行。ネット情報では、杉本苑子の小説「冬の蝉」では、まさに硬骨漢として描かれているらしい、と注した。

「金五十片」金五十両であろう。

「見立て」観察して適当な者を選び出すこと。抜擢。

「座禪豆」「唐納豆」の別名で、納豆の一種で、大豆を蒸煮して、煎った小麦粉を加えて発酵させ、食塩水に漬け、さらに香辛料を加え、長期間、乾燥させた粒状の納豆で、味噌に似た風味を持つものを指し、主として寺院で製造され、僧が座禅中、小用に立たないために食べたところからの名とされる。「ざぜまめ」とも言う。但し、この場合は、「黒大豆を甘く煮た食べ物」の意であろう。

「御目付」江戸幕府では、若年寄の支配下で旗本・御家人を監察した。

「北條安房守、西鄕筑前守」忙しく、私は調べる価値を認めないので、御自分でお調べ下され。

「丹靑」絵の具で描くこと。

2025/12/20

甲子夜話卷之八 29 十八大通の事

8―29 十八大通事

 寶曆の後(のち)の事かとよ。

 江都に「十八大通(じふはちだいつう)」と云(いへ)る狂客(きやうかく)ありて、その「巨魁(きよくわい)」と呼(よび)しは、「杏雨(きやうう)」と號せし者なり【御藏前(おくらまへ)の札刺(ふださし)坂倉治兵衞(ぢへゑ)。後(のち)、隱居して更名(かうめい)、又、「杏翁(きやうわう)」とも云へり。】。

 或時、いづ方の町か、肆店(してん)にて、口論あり。相手は、鳶(とび)の者の强氣(つよき)なりし男(をのこ)なれば、中々、諸人(しよにん)、手に合はず。

 人を、はせて、杏雨に告ぐ。

 杏雨、速(すみやか)に、その處に來り見れば、鳶の男は、夜叉(やしや)の如き體(てい)なるを、杏雨は、意ともせず、

「己(をの)れ、憎き奴(やつ)かな、早々、立去(たちさる)べし。」

と、云(いひ)ながら、鳶の手先を、とりて、ねぢつけたるに、さしも、剛强(がうきやう)と見へし鳶、

「あいた、あいた、」

と言(いふ)まゝに、地上に、ねぢ伏せられたり。

 杏雨は、やがて、懷中より、煙管(きせる)づゝを出(いだ)し【此頃(このころ)は、裂(キレ)にて、長き烟管筒(きせるづつ)を縫ひ、上を結べる習(ならひ)なればなり。】、兩手を縛り、引(ひき)ずりて、町役人に、

「この野郞を、町外(まちそと)に連行(つれゆ)き、縛(ばく)を解(と)き、追放つべし。」

迚(とて)、還りぬ。

 見(みる)者、堵(かき)の如し。

 皆、駭入(さはぎいり)て、

「流石(さすが)、杏翁かな。年、既に八十に及べる老人の、かゝる夜叉を、自在にすることよ。」

とて、感歎せぬは、無(なか)りける。

 後(のち)、竊(ひそか)に聞(きく)に、杏雨、告(つげ)を聞(きく)と、卽(すなはち)、其(その)口論の譯(わけ)を問(とふ)に、僅(わづか)に一星金(いつせいきい)を、借(か)れども、貸(かさ)ざるの出入(でいり)[やぶちゃん注:悶着沙汰。]なり。

 因(より)て、金五片を密(ひそか)に持往(もちゆ)き、かの手を、握るとき、持添(もちそへ)て、ねぢたる[やぶちゃん注:捻じ込んでやった。]ゆゑ、一言(いちごん)に及ばず、自由にせられたり、と也(なり)。

「是(これ)ぞ、『十八大通』の所以(ゆゑん)なるべし。」

と、人、評せり。

 

■やぶちゃんの呟き

「寶曆」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。本書は、文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆を開始しているから、六十年ほど前の話となろう。

「十八大通」「大通」は小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『遊里の事情や遊興の道によく通じていること。また、その人。ほんとうの通(つう)。明和年間(一七六四‐七二)に江戸に起こった語で、安永年間(一七七二‐八一)に大いに流行し、それが西にひろがり、寛政(一七八九‐一八〇一)から文化・文政(一八〇四‐三〇)にかけて上方でも流行語となった。』とあるが、この手の話は、私は興味が全くないので、ウィキの「十八大通」を見られたい。

「狂客」原義の「並外れた奇抜な行ないをする酔狂人」を含んだ「風流を愛する人」の意。

「杏雨」「坂倉治兵衞」ウィキの「十八大通」のリストの冒頭に挙がっている、号・通称『暁雨・暁翁』で、屋号は『大口屋治兵衛』、商売『札差、明和四年』(一七六一~二年)『廃業』とあるのが、彼である。前の解説に『その多くは札差であった』とある。

「御藏前」現在の台東区蔵前

「札刺」札当該ウィキ「札差」を見よ。

「更名」雅号の改名。

「杏翁(きやうわう)」この読みは確認出来なかったので、私の推定である。

「一星金」「一分金(いちぶきん)」(金貨)の別称。一両(一千文)の四分の一。米価が安定していた宝暦頃では、一両は米換算で現在の五~六万ほどで、一万二千五百円から一万五千円ほどになるか。まあ、一般町人にとっては、それよりも、やや低めであろう。

「借れ」「貸してくんな!」で『「つけ」にしろ!』と言ったのである。

「出入」悶着沙汰。

「金五片」小判五両であろう。

「ねぢたる」手の中に捻じ込んでやった。

2025/09/17

甲子夜話卷之八 28 西丸の御多門は伏見の御城より移されしこと幷同處さはらずの柱、不ㇾ掃の事

8―28 西丸(にしのまる)の御多門(ごたもん)は、伏見の御城(ごじやう)より移されしこと、幷(ならびに)、同處(どうしよ)、「さはらずの柱(はしら)」、掃(はらは)ずの事

 

 西丸御玄關前の御多門は、もと、伏見の御城の燒餘(やけあまり)を引移(ひきうつ)されしもの也、とぞ。

 故に、御多門の上には、鳥井彥右衞門(とりゐひこゑもん)【元忠。】生害(しやうがい)の蹟あり、と云(いふ)。

 正しく見し人に聞(きく)に、其上の間(ま)の方(かた)は、今、御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)の詰處(つめしよ)なり。

 其間の側(そば)の柱に、「さはらずの柱」と唱(となふ)る、あり。此(この)柱、卽(すなはち)、元忠が自害のとき、倚(より)かゝりて腹切(はらき)たる柱ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今に其(その)精爽、遺(のこ)りて、人、倚(よ)るときは、變、あり、と傳ふ。

 又、其間の奧の上に、「掃はずの間」と云(いふ)あり。

 廣き處には非(あら)ず。昔より掃(はき)たること、なし。

 其間の中(うち)に、元忠自害のとき、敷(し)たる席(たたみ)、今に、有り。

 又、死せんと爲(せ)しとき、水吞(みづのみ)し石の手水鉢(ちやうずばち)・柄杓(ひしゃく)等も納(をさめ)てあり、と云。

 もし、それ等(ら)の物を動かせば、亦、變を生ず、と傳ふ。夫(それ)ゆゑ、今に、掃除せざる、となり。

 又、番頭(ばんがしら)の詰處(うめしよ)より、二た間(ま)を隔(へだて)て、家賴の詰處あり。此間の外がは、物見牖(ものみまど)のある所、左右の柱に、席(たたみ)より、一尺ばかり上と覺しき所、火箭(ひや)の痕(あと)か、徑(わた)り五寸、深さ三寸餘(あまり)ほども、燒込(やけこみ)たる蹟(あと)、あり。

 伏見城攻(ふしみじやうぜめ)に、火箭を打(うち)たること、記錄には見へざれども、燒痕(やけあと)は、正しく、火箭の中(あた)りたるなるべし、と。

 御家人某の話なり。

 

■やぶちゃんの呟き

 二ヶ月半ほど、ほおっておいたところが、理由は全く判らないが、今月に入って、本カテゴリそのものへのアクセスが一番(281アクセス)になっていたので、お茶濁しに作成した。

 私は城郭に全く興味がないので、伏見城からの移転説については、渡辺功一氏のブログ「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の「江戸城西丸の伏見櫓」が参考になるので、リンクさせておく。

「鳥井彥右衞門【元忠。】」一般には「鳥居」であるが、当該ウィキの脚注の「3」に『高野山成慶院の記録『檀那御寄進幷消息』中に「鳥井』(☜)『彦右衛門室馬場美濃守息女之文」記述あり』とあり、ネットでも、「鳥井」一族を「鳥居」とも書くケースを見出せた。小学館「日本大百科全書」によれば、鳥居元忠(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)安土桃山時代の武将。通称、彦右衛門。松平氏の家臣鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。「姉川の戦い」に先駆けしたのをはじめ、各地に転戦して戦功を重ね、「三方ヶ原の戦い」では、負傷して片方の足が不自由になったと伝えられる。天正一〇(一五八二)年、北条氏勝を甲斐に破り、甲斐郡内地方において、領地を与えられ「城持衆」(しろもちしゅう)の一人として一手を預かった。その後は、徳川氏の武将として先手(さきて)を勤め、天正一八(一五九〇)年の「小田原攻め」では、相模の築井(つくい)城(現在の相模原市緑区内)、武蔵の岩槻(いわつき)城(現埼玉県)を攻め下し、功により下総国矢作(やはぎ)(現千葉市)で四万石を与えられた。「関ヶ原の戦い」に際し、伏見城を守ったが、豊臣方の包囲され、落城・戦死した、とある。この最期については、当該ウィキに、やや詳しい。そこに、本篇の絡みでは、『最期の地になった伏見城に残された血染め畳は』、『元忠の忠義を賞賛した家康が』、『江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちの頭上に掲げられた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は』、『明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり』、『元忠を祭神とする精忠神社』(せいちゅうじんじゃ)『の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院』『をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている』とある。

2025/06/28

甲子夜話卷之八 27 御能のとき、觀世新九郞、𪾶りて老松を半ば打たる事

8―27 御能(おのう)のとき、觀世新九郞、𪾶(ねぶ)りて「老松(おいまつ)」を半ば打(うち)たる事

 

 小技曲藝(こわざきよくげい)も、上達に至(いたり)ては理外(りがい)なることもある也。

 壬午(みづのえうま/じんご)三月、御大禮(ごだいれい)二日目、御能のとき、小鼓打(こつづみうち)の觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】、「翁」の頭取(とうどり)をうちたり。脇鼓(わきつづみ)は其弟總三郞なり。

 御能、畢(をは)り、歸宅して、總三郞[やぶちゃん注:「そうさぶらう」か。]始(はじめ)、弟子などを呼集(よびあつ)め、新九郞、云(いふ)よう[やぶちゃん注:ママ。]、

「我、是(これ)まで頭取をうちたること數十度(すじゆうたび)、然(しか)るに、今日の如く出來宜(よろ)しと覺へしこと、なし。因(より)て、心、甚(はなはだ)悅(よろこ)ばしければ、汝等を饗(きやう)せん。」

とて、酒・吸ものなど、出(いだ)して相共(あひとも)に歡飮(くわんいん)せり。

 酒、酣(たけなは)なるとき、新九郞、曰(いはく)、

「脇能『老松』のとき、この喜(よろこび)ゆゑか、思はず、『𪾶りたり。』と覺へて、しばし、恍惚たり。驚(おどろき)、寤(さむ)れば、其舞(そのまひ)の三段目の所にてありける。仕手(シテ)拍子を蹈(ふむ)に心づきて、三段の頭打(かしらうち)にて取續(とりつづ)きたり。」

と語れり、と。

 然(さ)れば、其前(そのまへ)は夢中にてうちゐたるが、練熟(れんじゆく)の極(きはみ)にて擊節(げきふし)の違(たが)はざるも、上手(じやうず)故(ゆゑ)なるべし。

 

■やぶちゃんの呟き

「壬午三月、御大禮」当初、私は、辞書的な狭義の意味での「御大禮」と採って、『この干支は月の前にあるので、年号のそれでしか採れないのだが、静山が誕生から逝去する間に、「壬午」の年に天皇の即位は見当たらない。静山の生まれる前も調べたが、ない。不審。静山の誤りかと思われる。』と注していたのだが、私は能楽には詳しくないので、本篇全体について、私の最大の秘蔵っ子――というより私が柏陽高校で最初に三年間ずっと担任をした若き親友――にして能楽に詳しい彼に、書いた記事を見て貰ったのだが、何よりまず(太字は私が附した)、『静山が甲子夜話を書き始めた直後の』(彼は文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜に執筆を開始した)文政五(一八二二)『年が壬午にあたります。時に将軍は家斉。後』の天保八)一八三七)『年に将軍の地位に着くことになる家慶が』、この文政五『年壬午の年のまさに』三『月』五日に『正二位、内大臣に昇叙されているようです』ウィキの「徳川家慶」によれば(太字は私が附した)、『将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事であ』り、『世子であった家慶』『の官位も異例の高位のものとなった』とある)。『この祝いの席上での演能であるかと推測します』とメールで伝えて呉れた。而して、小学館「日本国語大辞典」を見ると(太字・下線は私が附した)、「大礼」には『国家・朝廷の重大な儀式。即位・立后などの類』とあり、さらに、見たところ、後に『大礼能』(ここでは「たいれいのう」の清音の見出しである)があり、そこに、『江戸時代、将軍家に大礼があった時、あったときに催された能。町入能(まちいりのう)。』とあるのを見つけた(濁音と清音の違いは、しばしば、正規の儀式と、それに附属する儀式を差別化する際に、古くからあった風習である)。されば、彼の示してくれたものが、この「御大禮」であることは、間違いない。因みに、事実、「御大禮」という語が使用された、まさに家斉のケースに就いて、サイト「慶應義塾大学文学部古文書室」内の「展示会」の「御引移御用掛御役人付 天保八年版」があり、その「知る」に、『江戸幕府11代将軍徳川家斉(1773-1841)から12代家慶(1793-1853)への代替わりにあたって行われた様々な儀式に関し、御用掛となった大名・幕臣、朝廷からの使者に任じられた公家等を一覧にしたものである。徳川家斉が天保842日に隠居すると、家慶が徳川将軍家を相続して大納言から左大臣に昇進、同年9月の将軍宣下で正式に征夷大将軍となった。将軍の世継ぎ(世子)として江戸城西丸に居住していた家慶は、大御所となった家斉と入れ替わる形で本丸へ移ることとなった。表題にある「御引移御大礼」』(☜)『はその儀式を指している。家斉は大御所となったのちも実権を握り、その側近が政治を左右したことから、「西丸御政事」とも呼ばれた。政治の実権も家斉の移動とともに、西丸へ移ったのである。本資料冒頭に名前がみえる「水野越前守」は、家斉の死後、「天保の改革」の名で知られる幕政改革に着手する老中水野忠邦(1794-1851)である』とあり、「見る」の「展示画像一覧」のここの左上二番目の扉に「御大禮御用掛御役人附」(☜)(「掛」は異体字表記)とあるのを見出した。因みに、長いので引用はしないが、ネットで調べた中では、サイト「能楽を旅す。」の「コラム」の「能が江戸幕府の儀式に欠かせない式楽となるまで」も大いに参考になるので、是非、読まれたい。

「觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】」調べてみると、小鼓観世家十世で享和三(一八〇三)年時点で、当時の家元であった。この年で、静山は数え四十四歳である。

「頭取」能で、「翁」(おきな)・「三番叟」(さんばそう)を上演する際、小鼓方三人のうち、中央に座る主奏者。

「脇能」「デジタル大辞泉」によれば、本来、「翁」の次に演じられ、『「翁」の脇』の意から、かく言う能の分類の一つを指す。正式の五番立ての演能で、最初に上演される曲であり、神などをシテとする。神能(かみのう)・脇能物・初番目物。

「擊節」原義は「節」は「叩いて拍子をとる竹の楽器」の意。ここは、鼓を叩いて拍子をとることを指す。

 なお、教え子は、本篇の内容について、『それにしても佳い話です。江戸時代の人々が小鼓のリズムに感じることのできた恍惚を、もう現代の我々は感じることはできないでしょう』と添えつつ、さらに、追加のメールでは、『この話、真実であると確信します。私の経験から言うのですが、そもそも能は夢見心地に浸る時に最も強烈な陶酔を引き起こします。理性や意識が働いているうちは』、『まだダメです。私が今まで最も深く酔った瞬間は、うたた寝から』、『ふと』、『目覚めた瞬間、眼前に静かにたゆたう《羽衣》の序の舞でした』と添えて呉れた。

 これで、この注は完璧なものとなった。彼に心から御礼申し上げるものである。

2024/08/12

甲子夜話卷之八 26 長橋局の居所幷赤前埀の事

8-26 長橋局(ながはしのつぼね)の居所(きよしよ)幷(ならびに)赤前埀(あかまへだれ)の事

 

 近頃、京都、御卽位のとき、諸大名より使者を上(のぼ)す。

 予が家の使者、上着(じやうちやく)してある間に、京邸の留守居某、使者に、

「禁廷を拜見すべし。」

とて、誘行(さそひゆ)く。

 紫宸殿など拜見して、長橋局の住所(すみどころ)に往(ゆき)たり。

 玄關を見れば、翠簾(すいれん)を掛け、上下(かみしも)着たる侍、並居(ならびゐ)たり。

 某、使者を案内(あない)して入らしむ。

『この住所は、御所につゞきて、有る。』

と覺ヘ[やぶちゃん注:ママ。]て、公家の家人(けにん)と見ゆる婦女、行通(ゆきかよ)へり。

 定めて、御儀式、拜見などするにや。

 又、その住所の奥の方に擂鉢(すりばち)の音、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

「何(い)かに。」

と、問へば、

「長橋どのゝ厨所(くりやどころ)なり。」

とて、案内する故、入(いり)て見れば、はした女(め)と見えて、味噌を、する者もあり、野菜をきる者もありて、四、五人計(ばかり)居《をり》たるが、皆、赤き前埀を着たり。

 使者、

「こは、何(いか)なる者ぞ。」

と、問(とひ)たれば、

「これは長橋の婢(ひ)なり。緋袴(ひばかま)、着るべけれど、周旋、不便(ふべん)なれば、中古より、省略して如ㇾ此(かくのごとく)、赤布を、前にのみ、着(ちやく)せり。是より、京地(けいち)の婦女は、赤き前埀をきることになりぬ。」

と、云(いひ)けり。

 然(さ)れば、

『今、京・攝の間に、妓家・茶店などの婦女、赤前埀、着ることは、緋袴の餘風なり。』

と、初(はじめ)て心付(こころづき)しなり。

 古(いにしへ)は、女も、袴は貴賤とも、着せしこと、古畫など見ても知(しる)べきなり。

■やぶちゃんの呟き

「長橋局」宮中に仕えた女官で、勾当内侍(こうとうのないし)の別称。清涼殿の東南隅から、紫宸殿の御後(ごご:紫宸殿の賢聖障子(けんじょうのそうじ)の北側の広廂(ひろびさし)のこと)に通ずる細長い板の橋を「長橋」と呼、その傍(そば)に勾当内侍の局(つぼね)があったことから、この称が生まれた。後宮十二司の一つで、内侍司(ないしのつかさ)の女官の内、奏請(そうせい)・伝宣(てんせん)・陪膳(ばいぜん)のことに当たった「尚侍」(かみ)や「典侍」(すけ)は、その立場上、妃(きさき)となることが多く、三等官の「掌侍」(じょう)(定員四人)が、事実上、当司を代表する女官となった。そこで単に「内侍」と言った場合、「掌侍」のことを指すようになり、とくに掌侍四人の内、首位の者が、本来、尚侍や典侍の行うべき職掌に当たったことから「勾当」(「専ら、事に当たる。」の意)の内侍(略して単に「勾当」とも)と呼ばれるようになった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「近頃、京都、御卽位のとき」十一項前の記事が文政四(一八二一)年の翌年の記事であるから、これは、仁孝天皇の即位式(文化一四(一八一七)九月二十一日)の前のこととなる(彼は在位のまま、弘化三(一八四六)年一月二十六日に没している。この仁孝から明治の一世一元の制への移行を経て、昭和までの歴代天皇は、孰れも終身在位で、先帝の崩御に伴う皇位継承をしている)。

2024/06/05

甲子夜話卷之八 25 町奉行依田豐前守、水戶邸の出火に馳入る事

8-25

 先に依田豐前守が事を記したるに、此頃(このごろ)又、一事を聞(きけ)り。

 豐州、町奉行勤役のとき、水戶邸、自火ありしかば、出馬して、町人足の集りたるを指麾(しき)して、門に入(いら)んとしけるに、水府の人、出(いで)て、

「火は、手勢にて、消し候へば、暫く、猶予し玉はるべし。」

と申(まうし)ける。

 そのとき、豐州、色を正しくし、詞(ことば)を改めて、

「彌(いよいよ)、御手勢にて消留(けしとめ)られ候はゞ、是に扣(ひか)へ候半(さふらはん)。もし、左無(さな)きときは、御定法(ごぢやうはふ)の通り、人數(にんず)をかけ候。」

とぞ申ける。

 其中(そのうち)に、火勢、次第に盛(さかん)に成行(なりゆき)しかば、豐州、馬上に立揚(たちあが)りて、

「水戶殿にもせよ、火を出(いだ)したが、わるひ[やぶちゃん注:ママ。]ぞ。かゝれ、かゝれ。」

と云(いひ)ながら、馬に、鞭打(むちうつ)て、門內に馳入(はせいり)ければ、續ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、

「ゑい、ゑい。」

聲を出(いだ)して、百千の町人足、一度に、

「どつ」

と走り込(こみ)、遂に其手(そのて)にて、火を消留し、となり。

■やぶちゃんの呟き

「町奉行依田豐前守」「先に依田豐前守が事を記したる」とあるのは、「甲子夜話卷之六 11 御留守居役依田豐前守の事蹟 / 12 同」のこと。そちらで、江戸中期の旗本依田政次(元禄一六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)の事績を詳細に注してあるので見られたい。因みに、彼は宝暦三(一七五三)年に北町奉行に就任、明和六(一七六九)年まで務めている。この火事の日時は、調べてみたが、判らなかった。

2024/06/04

甲子夜話卷之八 24 淇園先生勇氣ある事

8-24

 淇園(きえん)先生は沈勇なる人なり。

 一日、門生と與(とも)に祇園の二軒茶屋に遊ぶ。こゝは西都群會の地ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、諸人、皆、來て、宴飮す。

 時に一人、醉(ゑひ)に乘じて、刄(やいば)を拔(ぬき)て、狂するもの、あり。

 在る所の男女(なんによ)、駭怖(おどろきおそれ)て、亂走す。

 狂人、その茶屋に近づく。

 門生、言(いひ)て曰(いはく)、

「早く、避(さく)べし。」

 先生、盃(さかづき)を把(とり)て、動(うご)かず。

 門生、頻(しきり)に促(うなが)せども、自若たり。

 狂、已(すで)に前(まへ)に來(きた)り、刄を振(ふるひ)て、簷下(のきした)の挑燈(てうちん)を斫(き)る。

 燈(ともし)、三、四、中斷して、落つ。

 門生、堪(たへ)ず、先生の肩を執(とり)て引く。

 先生、嗤(わらひて)、曰(いはく)、

「すばらしきもの哉(かな)。」

とて、遂に起(た)たず。

 狂、遂に、人の爲に縛(ばく)せられて止(やみ)ぬ。

 後、門生、先生に言ふ。

「師、如ㇾ此(かくのごとき)とき、去(さら)ずして、若(もし)、かれが爲に害を受けば、都下の笑(わらひ)を惹(ひか)ん。

 先生、曰、

「否、天、あらずや。狂、それ、如予何(よをいかんせん)。」

と答たり、となり。

■やぶちゃんの呟き

「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)。「甲子夜話卷之一 12 大阪天川屋儀兵衞の事」で既出既注。

「天、あらずや。狂、それ、如予何。」「論語」の「述而第七」の二十二章に引っ掛けて応じたもの。

   *

 子曰、「天生德於予。桓魋其如予何。」。

(子、曰はく、「天、德を、予(われ)に生(しやう)ぜり。桓魋(くわんたい)、其れ、予(われ)を如何(いかん)せん。」と。)

   *

「桓魋」宋の大夫であった司馬(軍事長官)向魋(しょうたい)。紀元前四九二年、宋を訪ねた孔子を殺そうとした。当該ウィキを参照されたい。

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