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カテゴリー「「甲子夜話」」の414件の記事

2024/08/12

甲子夜話卷之八 26 長橋局の居所幷赤前埀の事

8-26 長橋局(ながはしのつぼね)の居所(きよしよ)幷(ならびに)赤前埀(あかまへだれ)の事

 

 近頃、京都、御卽位のとき、諸大名より使者を上(のぼ)す。

 予が家の使者、上着(じやうちやく)してある間に、京邸の留守居某、使者に、

「禁廷を拜見すべし。」

とて、誘行(さそひゆ)く。

 紫宸殿など拜見して、長橋局の住所(すみどころ)に往(ゆき)たり。

 玄關を見れば、翠簾(すいれん)を掛け、上下(かみしも)着たる侍、並居(ならびゐ)たり。

 某、使者を案内(あない)して入らしむ。

『この住所は、御所につゞきて、有る。』

と覺ヘ[やぶちゃん注:ママ。]て、公家の家人(けにん)と見ゆる婦女、行通(ゆきかよ)へり。

 定めて、御儀式、拜見などするにや。

 又、その住所の奥の方に擂鉢(すりばち)の音、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

「何(い)かに。」

と、問へば、

「長橋どのゝ厨所(くりやどころ)なり。」

とて、案内する故、入(いり)て見れば、はした女(め)と見えて、味噌を、する者もあり、野菜をきる者もありて、四、五人計(ばかり)居《をり》たるが、皆、赤き前埀を着たり。

 使者、

「こは、何(いか)なる者ぞ。」

と、問(とひ)たれば、

「これは長橋の婢(ひ)なり。緋袴(ひばかま)、着るべけれど、周旋、不便(ふべん)なれば、中古より、省略して如ㇾ此(かくのごとく)、赤布を、前にのみ、着(ちやく)せり。是より、京地(けいち)の婦女は、赤き前埀をきることになりぬ。」

と、云(いひ)けり。

 然(さ)れば、

『今、京・攝の間に、妓家・茶店などの婦女、赤前埀、着ることは、緋袴の餘風なり。』

と、初(はじめ)て心付(こころづき)しなり。

 古(いにしへ)は、女も、袴は貴賤とも、着せしこと、古畫など見ても知(しる)べきなり。

■やぶちゃんの呟き

「長橋局」宮中に仕えた女官で、勾当内侍(こうとうのないし)の別称。清涼殿の東南隅から、紫宸殿の御後(ごご:紫宸殿の賢聖障子(けんじょうのそうじ)の北側の広廂(ひろびさし)のこと)に通ずる細長い板の橋を「長橋」と呼、その傍(そば)に勾当内侍の局(つぼね)があったことから、この称が生まれた。後宮十二司の一つで、内侍司(ないしのつかさ)の女官の内、奏請(そうせい)・伝宣(てんせん)・陪膳(ばいぜん)のことに当たった「尚侍」(かみ)や「典侍」(すけ)は、その立場上、妃(きさき)となることが多く、三等官の「掌侍」(じょう)(定員四人)が、事実上、当司を代表する女官となった。そこで単に「内侍」と言った場合、「掌侍」のことを指すようになり、とくに掌侍四人の内、首位の者が、本来、尚侍や典侍の行うべき職掌に当たったことから「勾当」(「専ら、事に当たる。」の意)の内侍(略して単に「勾当」とも)と呼ばれるようになった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「近頃、京都、御卽位のとき」十一項前の記事が文政四(一八二一)年の翌年の記事であるから、これは、仁孝天皇の即位式(文化一四(一八一七)九月二十一日)の前のこととなる(彼は在位のまま、弘化三(一八四六)年一月二十六日に没している。この仁孝から明治の一世一元の制への移行を経て、昭和までの歴代天皇は、孰れも終身在位で、先帝の崩御に伴う皇位継承をしている)。

2024/06/05

甲子夜話卷之八 25 町奉行依田豐前守、水戶邸の出火に馳入る事

8-25

 先に依田豐前守が事を記したるに、此頃(このごろ)又、一事を聞(きけ)り。

 豐州、町奉行勤役のとき、水戶邸、自火ありしかば、出馬して、町人足の集りたるを指麾(しき)して、門に入(いら)んとしけるに、水府の人、出(いで)て、

「火は、手勢にて、消し候へば、暫く、猶予し玉はるべし。」

と申(まうし)ける。

 そのとき、豐州、色を正しくし、詞(ことば)を改めて、

「彌(いよいよ)、御手勢にて消留(けしとめ)られ候はゞ、是に扣(ひか)へ候半(さふらはん)。もし、左無(さな)きときは、御定法(ごぢやうはふ)の通り、人數(にんず)をかけ候。」

とぞ申ける。

 其中(そのうち)に、火勢、次第に盛(さかん)に成行(なりゆき)しかば、豐州、馬上に立揚(たちあが)りて、

「水戶殿にもせよ、火を出(いだ)したが、わるひ[やぶちゃん注:ママ。]ぞ。かゝれ、かゝれ。」

と云(いひ)ながら、馬に、鞭打(むちうつ)て、門內に馳入(はせいり)ければ、續ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、

「ゑい、ゑい。」

聲を出(いだ)して、百千の町人足、一度に、

「どつ」

と走り込(こみ)、遂に其手(そのて)にて、火を消留し、となり。

■やぶちゃんの呟き

「町奉行依田豐前守」「先に依田豐前守が事を記したる」とあるのは、「甲子夜話卷之六 11 御留守居役依田豐前守の事蹟 / 12 同」のこと。そちらで、江戸中期の旗本依田政次(元禄一六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)の事績を詳細に注してあるので見られたい。因みに、彼は宝暦三(一七五三)年に北町奉行に就任、明和六(一七六九)年まで務めている。この火事の日時は、調べてみたが、判らなかった。

2024/06/04

甲子夜話卷之八 24 淇園先生勇氣ある事

8-24

 淇園(きえん)先生は沈勇なる人なり。

 一日、門生と與(とも)に祇園の二軒茶屋に遊ぶ。こゝは西都群會の地ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、諸人、皆、來て、宴飮す。

 時に一人、醉(ゑひ)に乘じて、刄(やいば)を拔(ぬき)て、狂するもの、あり。

 在る所の男女(なんによ)、駭怖(おどろきおそれ)て、亂走す。

 狂人、その茶屋に近づく。

 門生、言(いひ)て曰(いはく)、

「早く、避(さく)べし。」

 先生、盃(さかづき)を把(とり)て、動(うご)かず。

 門生、頻(しきり)に促(うなが)せども、自若たり。

 狂、已(すで)に前(まへ)に來(きた)り、刄を振(ふるひ)て、簷下(のきした)の挑燈(てうちん)を斫(き)る。

 燈(ともし)、三、四、中斷して、落つ。

 門生、堪(たへ)ず、先生の肩を執(とり)て引く。

 先生、嗤(わらひて)、曰(いはく)、

「すばらしきもの哉(かな)。」

とて、遂に起(た)たず。

 狂、遂に、人の爲に縛(ばく)せられて止(やみ)ぬ。

 後、門生、先生に言ふ。

「師、如ㇾ此(かくのごとき)とき、去(さら)ずして、若(もし)、かれが爲に害を受けば、都下の笑(わらひ)を惹(ひか)ん。

 先生、曰、

「否、天、あらずや。狂、それ、如予何(よをいかんせん)。」

と答たり、となり。

■やぶちゃんの呟き

「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)。「甲子夜話卷之一 12 大阪天川屋儀兵衞の事」で既出既注。

「天、あらずや。狂、それ、如予何。」「論語」の「述而第七」の二十二章に引っ掛けて応じたもの。

   *

 子曰、「天生德於予。桓魋其如予何。」。

(子、曰はく、「天、德を、予(われ)に生(しやう)ぜり。桓魋(くわんたい)、其れ、予(われ)を如何(いかん)せん。」と。)

   *

「桓魋」宋の大夫であった司馬(軍事長官)向魋(しょうたい)。紀元前四九二年、宋を訪ねた孔子を殺そうとした。当該ウィキを参照されたい。

2024/02/02

甲子夜話卷之八 23 越前の雪中、鹿を捕る事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。標題の「え」はママ。]

 

8-23 越前の雪中、鹿を捕る事

 予が堅士に越前生れのものあり。その言(いひ)しは、

「越前は、山國ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、寒(さむさ)、甚々(はなはだし)。雪も、屢(しばしば)、ふれり。又、鹿、多く產す。因(よつ)て、農夫、雪の降積(ふりつみ)たるときを見て、數(す)百人、寄集(よりあつま)り、鹿を、山々より逐出(おひだ)して谿間(けいかん)の處に、驅(かけ)ゆかしむ。又、豫(あらかじ)め、㵎流(たにながれ)の中(なか)に、竹もて、格子(かうし)を造り、雪に埋(うづ)め置く。鹿、㵎を渡(わたら)んとして、竹上(たけうへ)に、のれば、四足を格子に陷入(おちい)れて、步動(ほどう)すること、能(あた)はず。その時、馳寄(かけより)て、竹槍を以て、突(つき)て、これを獲(とる)。一時(いつとき)、三十餘頭、或(あるい)は、一日、百四、五十に及ぶ。」

となり。

「故に、寒(さむさ)强き翌年は、必ず、豐作なり。これ、雪の瑞(ずゐ)によるのみならず。常年(つねのとし)、鹿、多(おほく)して、穀(こく)を害す。鹿を取ること、多きときは、其(その)患(わずらひ)、少きを以て、故に豐年なり。」

と。

 其國の者は目前(もくぜん)のことなれど、山川を隔(へだて)ては、吾邦のことにても、知らざる事、多き也。

甲子夜話卷之八 22 京都御所えは申樂入ことを禁ず。又、「平家」をかたるも、撿校、申樂へは、不ㇾ傳事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。標題の「え」はママ。]

 

2-22 京都御所えは申樂(さるがく)入(いる)ことを禁ず。又、「平家」をかたるも、撿校(けんげう)、申樂へは、不ㇾ傳(つたへざる)事

 禁廷の御能には、能役者、其場に入ることを禁ず。

 因(よつ)て素人(しろうと)のみなれば、能役者のする能を、關東にて見物する如くならず。

 院御所には、その禁、なし。

 先年、觀世大夫、上京のときも、召(めし)て叡覽あり、と。

 此等の談話、今春、高倉宰相の旅館に赴(おもむき)たるとき、聞(きき)し所なり。

 時に、傍(かたはら)に、勝與八郞、居(をり)て云(いふ)。

「平家をかたるも、能役者には、撿校等(ら)、傳へず。」

と。

 是も始(はじめ)て聞(きき)たり。河原者(かはらもの)を賤(いや)しめる古風の遺(い)なり。

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相」「甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖」で注済み。

「勝與八郞」御勘定組頭であったようだ。

「河原者」江戸時代における諸舞台の役者を始め、芝居関係者・大道芸人・旅芸人などの蔑称。「河原乞食」(かわらこじき)とも称した。本来は、中世に、河原に居住した人々の称で、十二世紀頃から、天災・戦乱・貧困などによる流亡民のうち、非課税地の河原に逃れた者を卑称したのが始まりである。零細な農耕・行商・屠畜、皮革の加工・染色、清掃・死体埋葬などのほか、散楽(さんがく)の伝統を引く雑芸能を行なう者が多かったのが特色である。近世に入ると、彼らの一部は、独立した職業として確立したが、大半は、厳格な身分制度の下で、四民の下の「制外者」(にんがいもの)扱いにされ、差別を受けた。しかし、寺社の権力を背景にして、いろいろな特権を得て、特に、諸種の芸能の勧進興行は河原で催されることが多かったため、河原者が、その支配権を握り、説経・浄瑠璃・操(あやつ)り・からくり等に、地方の新芸能も加わって、近世の庶民芸能は、殆んどが、河原を発信・発展した経緯がある。京都・四条河原で行われた「出雲の阿国」の歌舞伎踊りは、最も有名で、こうした発生の由来から、劇場が河原を離れた後も、「河原者」という語が、芝居関係者への差別語として用いられ、一般社会から卑しめられる風習が明治になるまで続いた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

甲子夜話卷之八 21 塙撿校の詠歌

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。本篇は前の「甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事」の塙保己一のことを受けて、書かれたもの。「又、云」とあるからには、話者は同じ林述斎。]

 

2-21 塙撿校の詠歌

 又、云(いふ)。

「塙和、學に長じたる始末は、世の人、知る所なり。その緖餘にて、たまたま、よめる歌も、頗る采(と)るべきもの、多し。

   曉梅

 月はとく人し軒端も開(ひらく)梅の

      花の光に明(あけ)がたのそら

   きさらぎ

 かりがねのゆくゑやいづこつばくらめ

      軒のふる巢にきさらぎの空

   霞中春雨

 そことなく霞む夕(ゆふべ)もくつの音に

      やがて雨しる庭の眞砂地(まさごぢ)

[やぶちゃん注:「雨しる」「雨(あめ)著(し)る」で、「しっかりと降り始めた」の意か。]

   夏天象

 わか葉もる月こそあらめ大空の

      ほしの林も影ぞ涼しき

   原照射

 ともしけつ木の下露(したつゆ)や棹鹿(さをしか)の

      いのちとたのむ宮木のゝ原

[やぶちゃん注:前書きは「はら、てりいる」か。「棹鹿」これは当て字で、「さをしか」は「小牡鹿」で、「さ」は美称の接頭語で「雄の鹿・牡鹿(おじか)」。思うに、これは、「源氏物語」の「匂宮」の帖の「秋は、よの人のめづる女郎花、さをしかのつまにすめる萩の露にも、をさをさ、御心、うつし給はず。」辺りをインスパイアしたものか。]

   水鷄(くひな)

 岩間もる音も聞へて山かげの

      柴の戶たゝく水の庭とり

[やぶちゃん注:「水鷄」鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。]

   泉

 すゞしさを秋ともいはゞいはし水

      いづこに夏は木がくれのやど

   秋水

 朝貌(あさがほ)のませがき近くせき入て

      いさごもるりのそこの池水

   蟲

 夜をのこす霧の籬(まがき)になくむしは

      明(あけ)てもしばし聲のひまなき

   秋鳥

 もみぢ葉はのこらぬ枝にてりうその

      猶つれなくも秋をしむ聲

[やぶちゃん注:「てりうそ」「照鷽」で、スズメ目アトリ科ウソ属ウソ亜種ウソ Pyrrhula pyrrhula griseiventris の雄を指す語。ウソの雄は頬・喉が淡桃色を呈するが、雌には、この特徴は発現しない。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸒(うそどり) (鷽・ウソ)」を参照されたい。]

   庭初雪

 つもれるも待(まち)し日數にくらべては

      まだ淺ぢふの庭のしら雪

   鴛鴦敷翅(おしどりしきばね)

 くるゝ日やおしとなくらん波にしく

      つばさの錦廣澤(ひろさは)の池

   冬獸(ふゆけもの)

 あさるべき木の實もそこと白雪に

      うきをましらの冬ごもりして

[やぶちゃん注:「ましら」猿。]

   月前獸(つきまへけもの)

 窓とぢてみぬ月かげや晴(はれ)ぬらん

      門(かど)もる犬の聲ぞさやけき

   寄夢懷舊【故水戸宰相殿三年忌。】

 うつゝとはたれか三とせの花の陰

      月のまとゐも夢のまにして

[やぶちゃん注:「故水戸宰相殿三年忌」。常陸水戸藩第七代藩主徳川治紀(安永二(一七七三)年~文化一三(一八一六)年)。この歌は珍しく詠歌の時期が文政元(一八一八)年八月に特定されていることになる。

「月のまとゐ」「月の圓居(まとゐ)」。月見のために治紀が人を呼び集めて団欒したことを指す。]

これら、

「たまたま、臆記(おくき)したり。」

とて、林氏、談中に、吟じけり。撿校が詠は、

「風調、卑(ひ)くし。」

との世評なり。

 當人の意は、

「風調の高き所は、搢紳家(しんしんけ)にあるべし。我輩は、たゞ、陳腐ならず、尖新(せんしん)なるほどにて、事足(ことた)るべし。」

と常に云(いひ)けり。

 予も、年來(ねんらい)の相識(さうしき)なり。

■やぶちゃんの呟き

「搢紳家」笏 (しゃく) を「紳」 (おおおび) に「搢」 (はさ) むの意から、「官位が高く、身分のある家系を指す。

甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-20 萩原宗固(はぎはらそうこ)幷(ならびに)門人塙撿校(はなわけんげう)、橫田袋翁の事

 蕉軒(せうけん)、云(いふ)。

「萩原宗固は『百花庵』と號して、一時(いつとき)、和歌には名高き人なりけり。

 門人の内、橫田孫兵衞【與力士なり。退休して「袋翁(たいをう)」と稱す。】には、

『和學は、よきほどにせよ。たゞひたすら、歌、よむべし。』

と敎へ、保己一(ほきいち)【盲人なり。後に「塙撿校」と呼ぶ。】には、

『歌に心入るべからず。專ら、和學に出精(しゆつせい)せよ。』

とこそ、誡(いまし)めける。

 是を聞(きく)もの、咄(はなし)けるは、

『目の明(あき)たるものに、和學は、させず。歌を、よませ、目しひたる者に、歌を考(かんがへ)させず。和學さするほど、事の倒(さかしま)なることは、よもあらじ。いかなる師の訓(をしへ)にや。』

と、人々、評しけり。

 然(しか)るに、兩弟子、年老(としよ)るに至(いたり)て、塙は和學、袋翁は和歌を以て、一世を動かしたり。ここに於て、宗固が、人を知る鑑(かがみ)の、凡(ぼん)ならざるを感ぜぬものぞ、無(なか)りける。

■やぶちゃんの呟き

「荻原宗固」(はぎわらそうこ 元禄一六(一七〇三)年~天明四(一七八四)年)は幕府の先手組に所属した幕臣で歌人。名は貞辰。号は百花庵。烏丸光栄(からすまるみつひで)・武者小路実岳(さねおか)・冷泉為村(れいぜいためむら)らに師事して、和歌・歌学を学ぶ。江戸の武家歌人として、名声高く。また、同じく幕臣で狂歌師であった内山賀邸(がてい)とともに、「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて、「天明狂歌」の原点に位置したことでも知られる。家集「志野乃葉草」、歌学随筆「一葉抄」・「もずのくさぐき」等が伝わる。「塙氏雑著」も宗固自筆の雑抄。為村との問答である「冷泉宗匠家伺書」には宗固の苦悩も、ほの見えて、興味深い(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「塙撿校」塙保己一(延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)は国学者。幼名は寅之助、号は水母子。家号は温古堂。武蔵国保木野村(現在の埼玉県児玉町)の農家に生まれ、七歳の時に失明した。十五歳で江戸に出、雨富(あめとみ)検校須賀一(すがいち)の門に入る。後、萩原宗固・賀茂真淵らに国学を学んだ。天明三(一七八三)年、検校となり、「大日本史」などを校正し、また、幕府保護の下に「和学講談所」を起こし、国学の振興に努めた。また、文政二(一八一九)年には、かのた国学・国史を主とする一大叢書『群書類従』の刊行を完成、さらに『続群書類従』の編纂に着手した。著に「武家名目抄」・「螢蠅(けいよう)抄」・「鶏林拾葉」・「花咲松」等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「蕉軒」お馴染みの静山の親友、林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。

「橫田孫兵衞」「袋翁」(寛延二(一七四九)年~天保六(一八三五)年)は詳細事績は以上以外には知らないが、音曲の歌詞を多く手掛けている。

「和學」一般に国学と同義で用いられるが、本来はもっと広く、本邦の文学・歴史・法制・有職故実などについての学問を指す。

2024/01/29

甲子夜話卷之八 19 御老中安藤對馬守、雅趣ある事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

8―19

 林子(りんし)、云(いふ)。

「辛未(しんび/かのとひつじ)歲(どし)、西上(さいじゃう)の時、江州の野路村(のぢむら)に至りたれば、道傍に、僅(わづか)ばかりの池の如きものあるを、嚮導者(きやうだうしや)、ゆび指(さし)て、

『これぞ、野路玉川(のぢたまがは)の遣蹟なり。』

と云。

 水畔に、萩、一、二株ありければ、

『何物ぞ。わざと、これを植(うゑ)けるにや。』

と思ひけるに、磐城平侯【安藤對馬守。其時、加判[やぶちゃん注:ここでは「老中」の別称。]、勤(つとめ)らる。】の、先年、上京の路次(ろし)、こゝに至りしとき、萩の無(なか)りければ、村長(むらをさ)に、

『この名所に萩を植ぬことやある。』

と申されしかば、それより、村長の植しなり。」

と云。

 微事(びじ)なれども、風流の話なり。

 この侯、京地巡見に、祇園町、通行(つうかう)のとき、左右の茶店にて、紅粉(こうふん)を粧(よそほ)ひたる少女の、世に云(いふ)「祇園豆腐」を拍子をして切るを、駕籠を駐(と)めて、ゆるゆる、觀られし、となり。

 例(ためし)、老職の、かゝることせられしこと、無りしが、其地の名物と云へば、かくあるも、

「中々、得體(えたい)なり。」[やぶちゃん注:「なかなかに、その自然な御心(みこころ)の判るお方だ。」の意であろう。]

と、人々、評しけり。

 常に、淨瑠璃を好み、間暇(かんか)のときは、奥女中に、三線(さんせん)、ひかせて、聞く計(ばかり)にて、遂に三線を手にとりたることも無く、戲‘たはむれ)にも、その文句など、謠(うた)はれしことは、無(なか)りし、となり。

 又、古畫(こぐわ)を好み、よき畫(ゑ)を購求(こうきう)すれば、畫工に毫髮(がうはつ)も[やぶちゃん注:「毫毛」に同じ。少しも。]違(たが)はぬやうに寫させて、

「都下は、火變(くわへん)、多し。」

とて、眞物(しんもつ)は封地へ送り、摸本(もほん)を留め置き、日々に引(ひき)かへ掛けて詠(なが)めし、となり。

 此侯、溫厚和平にて、赫々(かくかく)の功業もなけれども、すべて此頃の人は、さしたる節(せつ)ならねども、見所(みどころ)は、ありけり。

■やぶちゃんの呟き

「老中安藤對馬守」美濃国加納藩第三代藩主・陸奥国磐城平藩初代藩主にして、寺社奉行・若年寄・老中を歴任した安藤信成。官位は従四位下・対馬守。侍従。対馬守系安藤家六代当主であった。老中在職は寛政五(一七九三)年八月二十四日から、没した文化七(一八一〇)年五月十四日まで。享年六十八。

「林子」お馴染みのお友達、林述斎。

「辛未歲」文化八(一八一一)年。

「江州の野路村」滋賀県草津市野路(のじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「野路玉川の遣蹟」歌枕。現在、ここに「野路玉川古跡」として伝えられてある。こばやしてつ氏のサイト「すさまじきもの~歌枕★探訪~」の「野路の玉川(滋賀県草津市)」に簡単な解説と、小さな公園のように整備された現在の様子を見ることが出来る。

「祇園豆腐」当該ウィキによれば、『江戸時代、京都の八坂神社(祇園神社)門前の』二『軒の茶屋で売られた田楽豆腐の料理である』。『祇園神社の楼門の前、東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された。これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、「祇園豆腐」と命名された。各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった』。『豆腐を薄く平たく切り』、二『本の串を刺し、火にかけて表裏両面を少し焼き、味噌たれで煮て、上に麩粉を点じたものである。花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある』とあった。私も京都の料亭で食したことがある。

甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-18 高倉宰相家傳唐櫃(からびつ)のこと幷(ならびに)

 予、去年、衣紋のことにて、高倉家に入門したり。

 今春、官家の御用にて、宰相殿、出府せられしかば、その旅館に往(ゆき)て逢ふ。

 居間の側(かたはら)に、大(おほき)なる櫃(ひつ)あり。

 紺地、大和錦の覆(おほひ)を、かけたり。

 予、これを問(とひ)ければ、

「こは、豐臣太閤のとき、某(それがし)が祖先、往來せしに、裝束を入れし唐櫃なり。これ、乃(すなはち)、當時の物なり。」

と云(いは)れしかば、近寄(ちかより)て、細視(さいし)せしに、尋常の唐櫃よりは、大きく、桐紋を蒔繪(まきゑ)にしたり。其大さなど、大抵、覺えしを、下に圖したり。

 白布(しらぬの)の緖(を)は、櫃を結び、棒、以て、かつぐ料(れう)。今、旅行には、「わく」を構へ、武家の具足櫃(ぎそくびつ)の如くして、持(もた)せらるなど、云はれし。

 面白き古物(こぶつ)なり。

 

Hitu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、左上の箱の底の受け箱の左上に、

「中ノ底ハ

 格子ナリ」

右の隅の脇に、

「此所フチアリ」

右の底の脇に、

「此所和忘レタリ」

とあるので、図では素板であるが、何か細工が施されたあったのかも知れない。

手前の角のやや左寄りに、

此所ニ如此スカシアリ

とある。「丸菱」様の抜き型を指す。

櫃本体の左上部外に、

「三尺二三寸ホド」

とあり、以下、時計回りに、

「二尺九寸バカリ」

「此処高サ足迠二尺一寸余」

「緒コノ

  アタリニ

  タグリテ

   見エタリ」

手前上部に、

「此所ニモ

 金具に桐ノ紋アリタリ」

とある(この「桐ノ紋」を拡大して描いたのが、左下の図。次のキャプション参照)。

櫃の手前下部に、

「金具」

左端に櫃の上部左に、

「此辺アリタルカ忘レタリ」

同下方に、

「此紋後ニ出セル桐ノ紋

ナリ其外マ見エザリシ

 故覺エズ」

である。なお、この形の桐紋は、「五七桐」を全体的にデフォルメして、輪郭のみで描いたもので、豊臣筆吉が使用した一つとして知られ、特に「太閤桐」と呼ばれるものである。]

 

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相家」藤原北家藤原長良の子孫にあたる従二位参議高倉永季を祖とする公家。高倉の家名は、邸宅が京都の高倉にあったことによる。代々、朝廷の装束を担当し、「衣紋道」を家職とした。参照した当該ウィキによれば、家紋は「笹竜胆」で、主な本拠地は、現在の京都市左京区永観堂町(グーグル・マップ・データ)であったとする。

2024/01/28

甲子夜話卷之八 17 佐竹氏の墳墓

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-17

 橋場、總泉寺の佐竹氏の墳墓を見るに、兆域(てうゐき)[やぶちゃん注:墓所。]の外總門(そとさうもん)ありて、其内に、代々の墓あり。

 皆、土を封じて、墳とし、高(たかさ)四尺計(ばかり)、長(ながさ)九尺に過ぐ。

 周りに、石を疊(たた)み、其上に、芝を植ゆ。

 墳の前面に墓表を竪(た)つ。形、尋常のごとし。趺石(だいいし)も、常に、異ならず。

 面(おもて)に其法號を刻す。

 先塋(せんえい)[やぶちゃん注:先祖代々の墓。]、みな、かくの如くにして、相列(あひれつ)す。

 因(よつ)て、寺僧に、其(その)棺制(くわんせい)を問へば、

「臥棺(ぐわかん)なり。」

と云(いふ)。

 又、土に入(いる)るの深淺を問へば、

「殊に、深し。」

と答ふ。

 是、佐竹氏の葬(さう)は唐山(たうざん)の禮に據(よ)るか。

 又、吾古(がこ)の令に因りたるか。

■やぶちゃんの呟き

「佐竹氏」秋田藩佐竹氏。以下の「總泉寺」が江戸での菩提寺であった。

「橋場、總泉寺」東京都台東区橋場一丁目附近にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、現在は移転している。個人サイト「東京探索日誌」の「橋場―総泉寺の跡」が、恐ろしく詳しいので、参照されたいが、そこに『総泉寺は、愛宕の青松寺・高輪の泉岳寺とともに、江戸における曹洞宗を代表する寺院であった(『江戸名所図会』など)。橋場の西側半分を占める広い寺域だったようだ。しかし』、『関東大震災で全壊し、板橋区の小豆沢』(あずさわ)『に移転』したとある。ここ

「吾古の令」「自身の家系の古くからの仕来たり」の意か。

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