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カテゴリー「「甲子夜話」」の309件の記事

2023/09/27

フライング単発 甲子夜話卷之五十二 13 仙波喜多院鐸を禁ず / 甲子夜話卷之五十三 2 喜多院禁鐸【再起】

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。これは別々な巻に載るものだが、第一話での疑問を受けて、第二話は、再度、自身でその疑問に答えようと、起筆・追加されたものである。されば、特異的にカップリングして示すこととした。]

 

52-13

 或(ある)人、語る。

「仙波(せんば)の喜多院は、境内に十六坊あり。然るに、寺内にて、鐸(レイ[やぶちゃん注:珍しい静山のルビ。])を振る間鋪(まじき)との制札、建てあり。かゝれば、寺内の者は、皆々、心得て有れども、囘國の行者など、知らずして、寺内に於て、佛前の拜禮などに鐸を振へば、寺坊か、又は、門前の民家に、必ず、火(ひ)、發(はつ)して、禍(わざはひ)を爲す。是故(これゆゑ)に、寺内に、これを禁ず。」

と云ふ。

 何(いか)なるゆゑ有(あり)て然(しか)る乎(か)。

■やぶちゃんの呟き

「仙波の喜多院」「川越大師」で知られる、現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗の星野山(せいやさん)喜多院(グーグル・マップ・データ)

 

53―3

 前に、第五十二卷に、「喜多院にて鐸(レイ)を振るを禁ずること」を云ふ。

 然(しか)るに、又、異聞あるは、天海僧正、住持のとき、何(い)かなる故にや、庭前(ていぜん)に、蛇、出ること有れば、必ず、食を與へらる。

 因(よつ)て、鐸を振(ふり)て呼(よぶ)ときは、蛇、卽ち、來(きた)る。

 これより、歲霜(さいさう)を歷(へ)て、蛇、漸々(やうやう)大きくなり、出(いづ)るときは、卽(すなはち)、護摩壇の邊(へん)に及ぶ。

 然(しか)る故に、加持修法等のとき、鐸を振ること、能はず。因(よつ)て禁と爲すと云ふ。茲(ここ)を以て、火の禍あると云ふもの、不審にして、蛇の爲に禁ずること、然る歟(か)。

■やぶちゃんの呟き

「喜多院禁鐸」これは現在も、基本、生きている。サイト「川越水先案内板」の「徳川家ゆかりの地 喜多院と、伝説の七不思議めぐり」の第一に「山内禁鈴」が挙がっている(アラビア数字は漢字に代えた)。最初に写真があるが、「鰐口(わにぐち)」にも鳴らすために下に下がるはずの「鉦(かね)の緒(お)」がなく、鰐口の上部も、縄で括られているのが判る。

   《引用開始》

「喜多院の境内では、鈴を鳴らしてはいけない」という伝説です。

昔々、喜多院に現れた一人の美女が、和尚さんにこんなお願い事をしました。

「今日から百日間、お寺の鐘を撞かないと約束してください。もし約束を果たしてくれたら、この鐘をもっと立派な音色にしてさしあげます」

その様子があまりにも熱心だったため、和尚さんはお願いを承諾します。

鐘を撞かなくなってから九十九日目。

今度は物静かで麗しい女性が喜多院を訪れ、和尚さんにこう告げました。

「今夜一夜だけでも構いません。どうか寺の鐘をお撞きになって、私に音色を聞かせてください」

女性の気高い雰囲気に魅せられた和尚さんは申し出を断ることができず、言われるがまま鐘を撞いてしまいました。

すると、和尚の目の前にいた女性はみるみるうちに大きな竜へと姿を変え、雲を呼び、風を起こし、和尚さんを天高く吹き飛ばしてしまったのです。

和尚さんは嵐の中で独楽の様に九十九回も回された挙句、どうにか着地。

この事件が起きて以来、喜多院では鐘を撞くことが禁止されました。

現在は正安二年の銅鐘のみ、年に一度だけ除夜の鐘として撞かれています。

   《引用終了》

以上の話の中で、「竜」が出る。一般に、竜の昇天する以前の元は蛇類であるとされるから、親和性があるとは言える。また、龍のサイトとしては、最も信頼している「龍鱗」に、「山内禁鈴・怒った大蛇 埼玉県川越市」として、池原昭治氏の著「続・川越の伝説」(川越市教育委員会)より要約されたものが出る。

   《引用開始》

昔、喜多院の何代目かの住職で、たいそう蛇好きな人がいた。毎日鈴を鳴らして餌をやったので、蛇たちも鈴の音を楽しみにしていた。蛇たちは喜多院はもちろん人家にも決して迷惑はかけなかった。ところが、この住職さんが病に倒れ、帰らぬ人になってしまった。

そして、その後住職となった人は、蛇と聞くだけで寝込んでしまうほどの蛇嫌いで、寺のものは気を使って鈴を鳴らさなかった。そうするうちに蛇たちは飢えて死に、あるいは他に移り、長い年月が過ぎて、ただ一匹だけが残った。

そんなとき、喜多院に物売りがやって来て、鈴を鳴らして山内に入って来た。途端に一匹の大蛇が飛び出し、人々は腰を抜かさんばかりに驚き逃げ去った。大蛇は鈴の音に餌がもらえるものと喜び飛び出したのに、食べるものは何もなく、怒って大暴れをした。

それより、喜多院の山内では鈴を鳴らすことが固く禁じられ、寺にある鈴には、決して振り子をつけないようになったという。

   《引用終了》

「天海僧正、住持のとき」慶長四(一五九九)年、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第二十七世住職として入寺し、寺号を元の無量寿寺北院から喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たっている。

フライング単発 甲子夜話卷之三十一 12 獵犬の忠心二事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。二話構成なので、間を一行空けた。]

 

31-12

 筑前秋月の城下より、一里程にして、松丸と云(いふ)處に、十國峠と云(いふ)山あり。

 爰(ここ)に、古墳、三(みつつ)あり。

 云ふ、一(いつ)は、獵夫(れうふ)、一は、その婦、一は、獵犬の墓と。

 そのゆゑは、嘗(かつ)て、獵夫、此處に休らひ居《ゐ》たるに、この犬、獵夫に向ひ、頻(しきり)に、吠(ほえ)て、止まず。

 獵夫、怒(いかり)を發し、鳥銃(てつぱう)を以て、打殺(うちころ)す。

 そのあとにて、ふと、頭上を見れば、蟒(うはばみ)、樹上より臨みて、獵夫を、吞(のま)んとす。

 犬は、これを、告(つげ)たるなり。

 獵夫、始(はじめ)て、犬を殺せるを悔ひ[やぶちゃん注:ママ。]、自盡(じじん)せりとぞ。

 妻も亦、これを慕ひ、遂に死す。その墓なりと云【秋月の士、僧となり、大道と云(いひ)しが談なり。】。

 

 又、これに似たること、あり。

 吾領内、相神浦(あいこのうら)中里(なかざと)村と云(いふ)より、東、行(ゆく)道の傍(かたはら)に小堂あり【吉岡村と云(いふ)處】。

 これを「犬堂(いぬだう)」と呼ぶ。

 その中には、石を重ねたるのみにて、他物、なし。堂は、これが爲に、建(たて)たるなり。

 其故は、嘗(かつて)、獵夫あり、夜、鹿を打(うち)に山に往(ゆ)く。

 鹿の來(きたる)を待(まち)て、睡(ねぶり)を催(もよほし)たるに、率(ひき)ひ[やぶちゃん注:ママ。]往(ゆき)し犬は、頻りに吠(ほえ)て、喧(かまびす)し。

 叱れども、止まず。

 獵夫、腹をたち[やぶちゃん注:ママ。]、卽(すなはち)、犬の首を斬落(きりおとし)たれば、その首、飛揚(とびあが)ると見へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、乃(すなはち)、仰見(あふぎみ)れば、大なる蟒、樹上より、垂れ下(さが)りたる、その喉(のどぶえ)に、くひつき、蟒、これが爲に死(しに)たりとなり。

 獵夫、因(より)て、その怒りを悔ひ[やぶちゃん注:ママ。]、且(かつ)、犬を憐み、埋(うづみ)て、この堂を建(たて)しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「筑前秋月の城」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「松丸と云處に、十國峠と云山あり」この「國峠と云山」は、現在の「十石山」である。「ひなたGPS」のこちらで、「松丸」と「十石山」を、戦前の地図と、現在の国土地理院図の両方で確認出来る。そして、サイト「邪馬台国大研究」の「青春の城下町 秋月氏時代」のページ二、「十石」の名の由来とともに、何んと! 現存するこの三基の石塔の写真が載る! 是非、見られたい。

「相神浦中里村」「吉岡」「ひなたGPS」のこちらで、「相浦」と「中里村」(現在は長崎県佐世保市中里町(なかざとちょう))と「吉岡」(現在は同市吉岡町(よしおかちょう))の地名を、戦前の地図と、現在の国土地理院図の両方で確認出来る。しかも! 山のしんたろう氏のブログ「させぼばってん」の「犬堂観音堂の六地蔵 吉岡町」で、この「犬堂観音堂」跡の記載があり、現在、二基の地蔵像の写真が見られる! これも、必見!

2023/09/21

フライング単発 甲子夜話卷之十二 4 筑後の八女津媛の事幷神女の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「幷」の字配は正確には、「筑後の八女津媛(やとめつひめ)の事幷(ならびに)神女(しんによ/じんによ)の事」である。カタカナの読みは静山が附したもの(特異的に多い)。漢文脈は読みと送りがなを総てカタカナにしてあるので、読み相当と判断した箇所は( )で囲んだ。なお、後に〔 〕で訓読文(一部の読みは推定)を配した。]

 

12―4

 或(ある)人の曰(いはく)、

「三十五、六年前、柳川侯【筑後の領主。】の公族大夫(たいふ)に立花某と云ふあり。その領せる所を「矢部(ヤベ)」と云ふ。この地、古(いにしへ)は「八女縣(ヤメノあがた)」と云(いひ)しなり。又、八女國(ヤメノくに)とも云しこと、「日本紀」に見ゆ。其山は、侯の居城の後(うしろ)まで、はびこりし高山(たかやま)と云ふ。

 或日、大夫の臣某(なにがし)、山狩に鳥銃(てつぱう)を持(もち)、拂曉(ふつぎやう)に往(ゆき)しに、常に行馴(ゆきなれ)たる路、殊の外に、異香(いかう)、薰じたれば、怪しみながら、向(むかふ)さして行(ゆく)ほどに、丈(たけ)計(ばかり)も生立(おいたち)たる茅原(かやはら)の、人もなきに、左右へ、自(おのづか)ら分れ、何か、推分(おしわけ)て、山を下るさまなれば、傍(かた)へに寄りて、これを避(さく)るに、人は無くて、地を離るゝこと、八、九尺と覺しきに、端嚴微妙、誠に繪がけるが如き天女の、袖、ふき返しながら、麓をさして來(きた)るなり。

 因(よつ)て、駭(おどろ)き、鳥銃(てつぱう)を僵(たふ)し、平伏してありしが、やがて、

『一町も過(すぎ)たり。』

と覺しき頃、人心地(ひとごこち)つきて、山に入り、狩りくらしたれど、一物をも獲(え)ずして、復(また)、もとの路に囘るに、麓の方(かた)より、また、茅(かや)、左右に偃(ふし)て、今朝(けさ)のさまなれば、路傍に、片寄り、避(さけ)てあるに、かの天女は、奧山さして、還り入りぬ。

「人々、奇異の思ひをなしたり。」

となり。

 また、彼《かの》藩の臼井省吾と云(いひ)しは、博覽の士なりしが、是(これ)を聞きて、

「それぞ、「日本紀」に見ゆる、筑紫後(ノチノシリノ)國の八女縣(ヤメノあがた)の山中に在(ま)すと云《いふ》、「八女津媛(ヤトメツヒメ)」ならんに、今に至《いたり》て、尙、其神靈あることなるベし。「景行紀」〔「景行紀」に云はく〕、

『十八年秋七月辛卯朔甲午【四日也。】)、到筑紫(シリ)ノ國御木タマフ於高田行宮(カリノミヤ)ニ。丁酉【七日也。】到ル八女(ヤメ)ノ。則越前山以テ南望ミタマヒ[やぶちゃん注:最は底本(東洋文庫)では『ノ』とあるが、送りがなとして読めない。これは誤植と断じて「粟」の下に移した。](サキ)ヲ、詔シテㇾ之、其山峰岫重疊シテ、且美麗之(ノ)シキ。若クハ神有其山(カ)ト。時水沼(ミヌマ)ノ縣主猿大海(サルオホミ)。有女神、名八女津媛(ヤトメツヒメ)ト、常レリ山中。故八女(ヤメ)ノ國之(ノ)名由ㇾ此レリ也。』。〔十八年の秋七月辛卯(かのとう)朔(ついたち)甲午(かのえうま)【四日なり。】)、筑紫(つくし)の後國(しりのくに)の御木(みけ)に到り、高田の行宮(かりのみや)に居(まし)たまふ。丁酉(ひのととり)【七日なり。】八女(やめ)の縣(あがた)に到る。則ち、前山(まへやま)を越(こえ)て、以(もつ)て、南のかた、粟の岬(さき)を望みたまひ、之(これ)に詔(みことのり)して、曰く、「其(その)山、峰岫(みねくき)、重疊(ちようでふ)して、且つ、美麗の甚しき。若(もし)くは、神其(その)山に有るか。」と。時に水沼(みぬま)の縣主(あがたぬし)「猿大海(さるおほみ)」、奏(そうし)て言ふ。「女神、有り。名を『八女津媛(やとめつひめ)』と曰ふ。常に山中に居(を)れり。故に『八女(やめ)の國』の名、此(ここ)に由(よ)り起れり。」。〕

是を證すべし。」。

 又、八、九十年にも過(すぎ)ん。予が中(うち)に、大館逸平と云(いヘ)る豪氣の士あり。

 常に殺生を好み、神崎(かんざき)と云ふ處の【平戶の地名。】山谿(さんこく)に赴き、「にた待ち」とて、鹿猿の澗泉(かんせん)に群飮(ぐんいん)するを、鳥銃(てつぱう)を以て、打(うた)んとす。

 此わざは、いつも、深夜のことにして、時は、十五日なるに、折しも、風靜(しづまり)月晴(はれ)、天色、淸潔なりしが、

『夜半にも過ぎん。』

と覺しきに、遙(はるか)に、歌うたふ聲、きこへ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

『かゝる山奧、且(かつ)、深夜、怪しきこと。』

と思ふうちに、近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の、空中を、步み、來れり。

 その歌は、

「吹けや松風 おろせや簾」

とぞ、聞えける。

 逸平、卽ち、

『鳥銃にて打(うた)ん。』

と思(おもひ)たるが、流石の剛强者も、畏懼(ゐく)の心、生じ、これを僵(たふし)て居たれば、天女、空中にて、

「善き了見々々。」[やぶちゃん注:繰り返し記号は前の全体「善き了見」を売り返すものと読む。]

と、言ひて、行過(ゆきすぎ)し、となり。

 是らも、彼(か)の八女津媛(ヤトノツひめ)の肥(ひ)の國まで遊行(ゆぎやう)せらるゝものか。

 又、前の逸平の、相識(あひしれ)る獵夫(れうふ)も、平戶嶋、志自岐(しじき)神社の近地(ちかきち)の野徑(のみち)を、深夜に往行(わうかう)せしに、折から、月光も薄く、時は丑の刻計(ばかり)なるに、衣裳、鮮明にして、容貌、正しき、婦人に、逢ひたり。

 獵夫、乃(すなは)ち、

『これを、斬(きら)ん。』

と思ひたるが、頻りに、懼心(くしん)、生じ、刀を拔(ぬき)得ずして過(すご)したり。

「是より、深夜に山谷(さんこく)をば、行くまじ。」

と云(いひ)しと、語(かたり)傳ふ。

 亦、かの神、遊行の類(たぐひ)か。

■やぶちゃんの呟き

「大夫(たいふ)」五位を受けた者。

「矢部(ヤベ)」現在の福岡県八女(やめ)市矢部村矢部附近か(グーグル・マップ・データ)。

「侯の居城」頭に「柳川侯」とあるので、柳川藩の柳川城跡。八女市からは、かなり隔たるが、グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、八女市の東の山塊の南西部が、この城の東近くにまで迫っているのが判る。

「一町」百九メートル。

「御木(みけ)」「高田の行宮(かりのみや)」現在の福岡県大牟田市三池のここに比定されている。

「粟の岬(さき)」福岡県大牟田市岬(みさき)のこの附近(グーグル・マップ・データ)に比定する説がある。

「神崎(かんざき)」佐賀県神埼(かんざき)市神埼町(かんざきまち:グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代より前は皇室領荘園であった。

「にた待ち」この「にた」は猪の泥浴びで知られる「ヌタ場」のことであろう。湿地や水溜まりで、獣が来て、体をこすり付ける場所。寄生虫やダニなどを除去したり、体温を下げるために行うものと考えられている。私は猪以外に熊がそれをするのを、ごく最近、TVで見たことがある。

 

2023/09/20

フライング単発 甲子夜話續篇卷之五十一 8 松浦和州、東覲の旅途聞說【三事】(の内、二つ目の肥前神崎の「雷狩」の部分)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「東覲」は「とうきん」で参勤交代のこと。]

 

51-8(部分)

 又、曰(いはく)、肥前國神崎(かんざき)にて聞く。此處、三、四月の頃に、「雷狩(カミナリカリ[やぶちゃん注:静山のルビ。])」と云ふこと有り。

 その「雷」と稱する者は、その形、白雲(しらくも)の如くにして、大きさ、鞠(まり)の程なる、圓(まど)かなるものなり。

 空中を飛行(ひぎやう)す。

 時として、人家の上に墜(おつ)ることあり。然(しか)るときは、忽(たちまち)、火災となる。

 或(あるい)は、原艸(はらくさ)の間(かん)に墜ること有れば、其火、沒して見へ[やぶちゃん注:ママ。]ずと。

 故に里人《さとびと》、これを畏れ、此物、飛來(とびきた)ること有れば、廼(すなはち)、衆人、家器(かき)をかたづけ、屋脊(をくはい)に水桶(みづをけ)を上げ、金鼓(きんこ)を鳴(なら)して、これを逐(お)ひ、火災を避(さ)く。

「此こと、四、五年間には、必ず、有り。」

と云(いふ)。

■やぶちゃんの呟き

「肥前國神崎」佐賀県神埼(かんざき)市神埼町(かんざきまち:グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代より前は皇室領荘園であった。

2023/09/17

フライング単発 甲子夜話卷之十 31 蚊、打皷を妨る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「妨る」は「さまたぐる」。]

 

10―31

 觀世新九郞、言(いひ)しは、

「蚊は、小蟲なれども、伶俐なるものなり。夏、夜に、皷(づづみ)を打(うつ)とき、しらべを握りたる方(かた)の手にとまらず、打手(うちて)の方にとまりて、血を吸ふ。握りたる手にとまりては、打手にて、うたるゝ慮(おもんぱか)り有るかと思はるゝ。」

 新九郞、その業(わざ)の者にて、

「年來(としごろ)、經驗するに、替らず。」

と云ふ。

■やぶちゃんの呟き

「皷」は底本では「鼓」であるが、江戸期の書を見ると、「皷」と書くケースがしばしば見られるため、敢えてこれに代えた。

「しらべ」「調べ」。邦楽用語。動詞「調ぶ」の名詞形で、日本の伝統音楽に於いて、「演奏する」・「調律する」・「試奏する」などの意味を持っている。小鼓は、左手で持って、右肩に置くが、左手は単に支えるだけではなく、緒(お)を絞めたり、緩めたりして、調子に変化を加えて、右手で打ち鳴らす。

2023/09/15

フライング単発(部分) 甲子夜話續篇卷之八十『寬政紀行』の内の寛政十二年十月十四日の早岐での記事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。

 この当該巻は、巻全体が『寬政紀行』で、長いため、とても今までのようなフライング単発で全部を電子化する余裕はない。されば、特異的に当該部分をのみを示す。なお、この紀行は、静山がこの寛政一二(一七九九)年、在国中に病気(足の痛みと浮腫が生じた旨の記載がある)になり、幕府に申請して、冬を江戸で養生することに決し、十月十三日に平戸を出立、この十一月末に江戸へ至る間のそれである。全体は、行く先々の出来事や珍奇な対象を語って、なかなかに面白いものではある。なお、以下の「(早岐の河童の手の事)」は、私が勝手に作った標題である。]

 

80―(早岐の河童の手の事)

 十四日、佐々(さざ)をうちたち、早岐(はいき)に赴(おもむく)とて半坂(はんざか)の嶺(たうげ)に息(やす)らひ、四方の景色をながめけるに、多くの嶋山の間、蒼海を連ねて、眼の際(きは)、みな、我領地にこそ、これわが賴み誇るべきことにあらず。

 祖先の舊邦とはいひながら、ひとへに、道可(だうか)公の功(いさほし)にてぞ坐(ましま)しける。

 されば、かかる御蹟を嗣(つぎ)奉りししるしに、この民を安んじ、患(わづらひ)なからしめんことぞ、わがせめての繼志の孝にやと思(おもふ)に、

乀日(ひ)午(うま)[やぶちゃん注:昼の十二時前後。]のほどに、佐世保に到り、庄屋に休(やすら)ひ、日宇(ひう)に赴く。

 其路の傍(かたはら)に、人、ふたり、跪(ひざまづき)ゐけるを見るに、年每に、予が輿(こし)を舁(かい)て吾妻(あづま)の往還する、やとい人、新次郞・源四郞といへる者なり。

「こはいかに。此旅は定(さだま)りし時にもあらず、且(かつ)、御允(ごいん)し、豪(ごう)たるたよりを聞(きき)て、不日(ふじつ)に途(と)に赴(おもむき)ぬれば、かくと告(つげ)やるべきならねば、言(げん)もおくらず、いかにして來りしや。」[やぶちゃん注:「御允」は君主が臣下の申し出を受けて許すことを言う。ここは、第十一代将軍徳川家斉と、静山の間のやり取り、ということになる。]

と聽(きく)に、

「其頃は、江都(かうと)[やぶちゃん注:江戸の雅称。]に候ひしが、去月(いぬるつき)の中(なかば)、其事のきこゑ候へしゆゑ、十七日に御第(ぎよだい)に參りて、御國(おんくに)たたせ給ふころを、尋(たづね)まいらせしに、此月半(このつきなかば)にやあらんと承りて、さらば、いそぎ御國にいたり、從ひ申さむと、其明日に江都を打立(うつたち)、夜を、日に、つぎて、はせ下りぬ。」

と、いひし。

 廿七日の間に、四百里のはるかなるを、來りにけり。

 是、利の爲ならば、かくも有べきに、我もとに來りしとて、彼等やとひぬる價(あたひ)は定(さだま)りぬるほどにて、餘多(あまた)の惠(めぐみ)あるにもあらず。これは、年每(としごと)のことなれば、彼等も知れる所なり。

 されば、利の爲ならず。

 又、必しも、人に從はむと思はば、我にかぎらず、東都には、いかほども隨行方(ずいかうがた)は有りて、其(その)口腹(くちはら)は養ふべし。

 しかるに、遼遠の路を志し來ぬるは、年頃(としごろ)の恩義によりて、かく、有(あり)けむと、卑き者なれど、我(わが)こころの中(うち)を省みぬれば、恥かしくこそ。

乀早岐の町、魚問屋與次兵衞(名字は岩永といふ)のもとに、河童の手とてありと、きく。

 とりよせ視るに、全(まつた)からで、掌(てのひら)よりさきのみ、あり。

 皮は、脫して、骨のみなるが、其形は、大(だい)なる猿の手とも、いはむものにて、指、四枝(しし)ありて、長く、屈節、三ツ、あり。

 爪も、つきたるが、狗(いぬ)の爪ともいふべく、先、尖り、色、赭(あか)し。

 年經たりと覺しく、乾枯(かんこ)したるに、指のまたに、水かきと見えしもの、殘れり。

 予が藏し、享保の頃[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。])、江都に捕えし河童の圖[やぶちゃん注:これは、先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童」』の最初に掲げた挿絵のあるそれである。]、と想比(おもひくらぶ)るに、いかさま、其物の手といふも、眞(まこと)なるべし。

「何(いづ)れにて、獲(とり)て傳しか、其由も、知らず。ただ、祖父の時より、有り。」

といふのみ。

■やぶちゃんの呟き

「佐々」現在の長崎県北松浦(きたまつうら)郡佐々町(さざちょう:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「早岐」長崎県佐世保市早岐町(はいきちょう)。

「半坂の嶺(たうげ)」長崎県佐世保市八の久保町内に史跡「半坂峠駕籠立場」がある。

「道可公」静山の八代前の戦国大名で嵯峨源氏一流松浦氏二十五代当主であった松浦隆信の法名。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「日宇」長崎県佐世保市日宇町(ひうちょう)。

「予が藏し、享保の頃、江都に捕えし河童の圖と、想比(おもひくらぶ)るに、いかさま、其物の手といふも、眞(まこと)なるべし」この謂いから、静山は河童の実在を疑っていないことがはっきりする。彼は、一種、自由人としてロマンチストでもあったように思うのである。そこが、好き!

2023/09/09

フライング単発 甲子夜話続篇卷之十二 7 天狗災火を走る

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

12-7

 或人の語りけるは、

「世に火災あるは、天狗、火焰の中を、走り𢌞(まは)りて、火勢を助(たす)く。」

と。

 また、近頃、某(なにがし)の話せしは、

「去(いんぬる)冬、小石川に火事ありしとき、人の鼻をつまむ者、ありて、目には見えず。步行(ありき)の者は、若(も)しや、傍人(かたはらのひと)の爲(なせ)しも知らざれど、馬上の者も、斯(かく)の如く、或ひは、耳をひくことも、有りし。」

とぞ。

「これも、天狗の所爲(しよゐ)ならん。」

と言ヘり。

2023/09/07

フライング単発 甲子夜話卷之二十一 26 三州吉田にて捷步の異人を見る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

21―26

「市井雜談集(しせゐざうたんしふ)」云(いはく)【三州吉田の人、林自見著。】、

『去る元文二巳年、正月廿三日の、夜七つ、八、九分の頃、予が町内に、亂髮裸形の者、彷徨(さまよへ)り。

 番の者、行き向ひて、

「何者なりや。」

と問へど、答(こたへ)ず。

 時に、番人、以爲(おもへらく)、

『定(さだめ)て、入牢の者、脫(ぬ)け出(いで)たるならん。』

と。

 廼(すなはち)、近所の者を起す。

 其時、予も立出(たちいで)たるに、

「龍招寺門前へ適(ゆ)きたり。」

と云ふ。

 因(より)て、五、六人、追掛(おひかけ)しに、後姿はちらと見えしが、その犇(はし)る事、走狗(さうく)のごとくして、遂に逝方(ゆくへ)を見うしなひ、それよりして、町内へ還(かへ)れば、東方、既に白(しらみ)たり。

 其日、新居《あらゐ》より、予が從弟(いとこ)、來(きたり)て曰く、

「今朝、橋本の西大倉戶にて、亂髮裸形のあやしき者を見たり。村人、集りて、その來(きた)る處を問ふに、一向、言語、不ㇾ通(つうぜず)、又、食を與ふるに、何にても、不ㇾ喰(くはず)。其所(そこ)の沼に、薄の枯穗ありしを取(とり)て、少し、喰ひ、それより、山の方へ逃(にぐ)る故、里人等(ら)、追懸(おひかけ)しに、迅足(はやあし)、恰(あたかも)飛鳥(ひてう)のごとくして、追著不ㇾ得(おひつきえず)。斯(かく)て、跡を、したひ、鷲津村に至れば、村中の者、大勢、海端《うみばた》にあり。其者共に問へば語(かたり)て曰く、

『先刻、あやしき者、來り、村中、大(おほい)に驚騷し、「捕(とらへ)ん」とせしに、海に入(いり)て見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。暫(しばらく)過(すぎ)、亦、海上に浮(うか)むを見れば、魚をとらへ、その儘、喰ふ。村中の者、船を出(いだ)し、其所(そこ)へ乘り到れば、亦、海に入て、それより、今に、見えず。』

と語れり。」

となり。

 但し、吉田より大倉戸まで、道法(みちのり)、四里半あり。大倉戸に到りし刻限を聞(きく)に、

「明六(あけむ)つ、少(すこし)過(すぎ)也。」

と云ふ。また、

「鷲津村に到りしは、六つ半前たるべし。」

と云(いふ)。

 

鷲津迄、吉田より、五里半餘の道なり。それを、わづか半時(はんとき)計(ばかり)に行きし、と見えたり。

 實(げ)に無双の捷步(はやみち)たり。その後、此者の逝方、語る者、なし。

 何國《いづく》いかなる嶋人《しまびと》なりや(校書餘錄)。

■やぶちゃんの呟き

「市井雜談集」「三州吉田の人、林自見著」「国文学研究資料館」の「国書データベース」のこちらで宝暦一四(一七六四)刊の原版本の当該部が視認出来る。読みの一部はそれに従った(但し、かなり読み難い)。林自見(元禄九(一六九六)年頃~天明七(一七八七)年)は三河国吉田呉服町(現在の豊橋市)の林弥次右衛門正封の長男に生まれた。名は正森、自見は号。二十五歳の時、吉田町年寄役、並びに、利(とぎ)町・世古町の庄屋を兼ねた。元文二(一七三七)年、吉田宿問屋役となり、宝暦五(一七五五)年まで務めた。この間、杉江常翁に師事し、和漢の学を修めた。著書に「三州吉田記」・「雑説彙話」・「三河刪補松」(みかわさくほまつ)・「世諺弁略」・「戯言胡蘆集」・「技術蠡海録」(ぎじゅつれいかいろく)・「雑戯栄」などがある。

「三州吉田」現在の愛知県豊橋市呉服町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「元文二巳年、正月廿三日」グレゴリオ暦一七三七年二月二十七日。

「夜七つ、八、九分の頃」「夜七つ」はないので、「夕七つ」を言い換えたものであろう。不定時法で、この時期なら、午後六時過ぎ頃か。

「龍招寺」これは恐らくは、字起こしの誤りである。上記原本では確かに「龍□寺(りうてうじ)」で、「□」の字は「招」にも見えるのだが、林の住んでいた呉服町のごく直近に、「龍拈寺」(りゅうねんじ)が現存するから、これは「拈」であろう。

「新居」静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居。浜名湖の海への開いた開口部の「今切口(いまきれぐち)」の西岸。

「鷲津村」現在の静岡県湖西(こさい)市鷲津。浜名湖の南西岸。

「橋本の西大倉戶」「橋本の西」はちょっと判らないが、「大倉戶」は現在の静岡県湖西市新居町浜名の大倉戸(おおくらど)であろう。

「明六つ、過」同前で、午前五時半過ぎ頃。

「六つ半前」同前で御前六時半頃前後。

「五里半餘」約二十一キロ六百メートル。自転車並みの速度相当。

「半時」現在の一時間。

「校書餘錄」静山の自著に「感恩斎校書余録」なるものがあるので、それであろう。則ち、そちらに既にメモしてあったものを、「甲子夜話」で再録したという意味であろう。

 

フライング単発 甲子夜話續篇卷之三 7 伏見道、柏屋の鬼子

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。なお、この巻、目録では二項に分けたものを、本文では一つに纏めてしまったため、「目録」上の順列番号と標題との間に致命的なズレが起こってしまっている。ここでのアラビア数字は本文の番号である。]

 

3-7

 傳話(つたへばなし)に、京伏見海道五條下る、問屋柏屋と云ふ、大家、有り。江戸にても、本町筋に、店、有りて、京四條より下にては、富豪なり。

 この主(あるじ)四十歲許り、本妻は、三井の娘なり。

 然(しかる)に、この六月初旬、妾腹(めかけばら)に、子、出生(しゆつしやう)せしが、顏は、人の如(ごとく)なれど、舌は三稜(さんりよう)にて、脊には、鱗(うろこ)、生(しやう)じ、髮は白し、とか。

 生れながら、能(よ)く言ふ。

 因(より)て、

「生け置かば、惡しからん。」

と、穩婆(かくしばば)、これを殺さんと爲れども、手に合はず。

 剩(あまつさ)へ曰(い)ふ。

「若(も)し、我を見せ物にし、又は、命をとらば、此家は、忽ち、野原とすべし。」

と。

 聞(きき)て、丈夫なる箱に入れ、鐵網(てつのあみ)を戸に張り、もとより、乳は飮まざれば、燒飯二つ宛(づつ)食はせ、庫(くら)の内に入れ置き、晝夜とも二人づゝ番をしてあり、と。

「これは、右の主人、高臺寺の萩見物に往(ゆき)て、彼處(かしこ)にて、白蛇(はくじや)を見つけ、酒興の上(うへ)、殺したる。」

抔(など)云(いひ)ふらす。

 また、

「土御門の考(かんがへ)を賴(たのみ)たれば、『山神(やまのかみ)の祟り。』と云へり。」

 この柏屋は、豪家にして、白木屋の一族なり。「柏」を分けて「白」「木」となるなり。

「かゝる風聞にて、勢(いきおひ)、くじけ、これより、下り坂にならん。」

などと、皆人(みなひと)のうはさなりとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「京伏見海道五條下る」この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「舌は三稜にて」舌が平たく柔らかでなく、舌の表面に三つの凸になった隆起筋がるということらしい。

「脊には、鱗、生じ」先天性魚鱗癬である。

「穩婆」読みは、あてずっぽ。妖怪の名にあるが、ここは思うに、堕胎などを請け負う半ば非合法な老婆の生業を指すのであろう。

「高臺寺」京都市東山区にある臨済宗建仁寺派鷲峰山(じゅぶさん)髙臺壽聖禪寺(こうだいじ)は。豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るために建立した寺院。その庭園は小堀遠州作とされ、石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園とされる。また、今もこの庭は、萩とシダレザクラの名所として知られている。

「土御門」平安時代以来、天文道・陰陽道を以って朝廷に仕えた家系。阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の子孫安倍晴明を祖とし、代々、その業を世襲した。

2023/09/06

フライング単発 甲子夜話卷之七 25 蛇、女を見こみたる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

7―25

 一日(いちじつ)、久留里(くるり)侯の別邸を訪(おとなひ)しとき、その臣等、打よりての話(はなせ)し中(うち)に、その領邑《りやういふ》の事なりとかや。

 藩士某(なにがし)、野外を通行せしに、路傍の草むらある處に、一女子(いちぢよし)の立(たち)ては踞(うづくま)り、又、立(たち)ては踞ること、屢(しばしば)

にして、ことに難儀の體(てい)なりしかば、

「いかにして、如ㇾ斯(かくのごとき)や。」

と問へば、女、答ふ。

「あれ、見給へ。向ふの土穴(つちあな)の中の蛇、我を見込みたりと覺(おぼえ)て、穴より首を出(いだ)し、我立(たた)んと爲(す)れば、穴より出(いで)て、追來(おひきたら)んとするの勢(いきおひ)あり。因(よつ)て、踞れば、また、穴に入(い)る。故に逃去(にげさら)んとすれども、不ㇾ能(あたはず)。」
と云(いふ)。

 士、因(より)て、試(こころみ)に、其女を立(たた)しむれば、其言(げん)の如し。

 士、云ふ。

「憂(うれふ)ること、勿(なか)れ。我、一計あり。」

 女、涕泣して脫(のが)れんことを求む。

 士、乃(すなはち)、佩刀を拔き、穴口に當て、女を使(し)て、急に逃去らしむ。

 蛇、忽(たちまち)、穴を出(いで)て、追はんとするに、首(かう)べ、刀(かたな)に觸(ふれ)て、兩段となり、女は、遂に、難を免(まぬ)れたりとなり。

■やぶちゃんの呟き

 この手の話は中古以来、さわにある。

「久留里侯」上総国望陀(もうだ)郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)の久留里城を居城とした藩。ここ(グーグル・マップ・データ)。房総半島の、まさに臍に当たる。

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