フライング単発 甲子夜話卷之五十二 13 仙波喜多院鐸を禁ず / 甲子夜話卷之五十三 2 喜多院禁鐸【再起】
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。これは別々な巻に載るものだが、第一話での疑問を受けて、第二話は、再度、自身でその疑問に答えようと、起筆・追加されたものである。されば、特異的にカップリングして示すこととした。]
52-13
或(ある)人、語る。
「仙波(せんば)の喜多院は、境内に十六坊あり。然るに、寺内にて、鐸(レイ[やぶちゃん注:珍しい静山のルビ。])を振る間鋪(まじき)との制札、建てあり。かゝれば、寺内の者は、皆々、心得て有れども、囘國の行者など、知らずして、寺内に於て、佛前の拜禮などに鐸を振へば、寺坊か、又は、門前の民家に、必ず、火(ひ)、發(はつ)して、禍(わざはひ)を爲す。是故(これゆゑ)に、寺内に、これを禁ず。」
と云ふ。
何(いか)なるゆゑ有(あり)て然(しか)る乎(か)。
■やぶちゃんの呟き
「仙波の喜多院」「川越大師」で知られる、現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗の星野山(せいやさん)喜多院(グーグル・マップ・データ)
53―3
前に、第五十二卷に、「喜多院にて鐸(レイ)を振るを禁ずること」を云ふ。
然(しか)るに、又、異聞あるは、天海僧正、住持のとき、何(い)かなる故にや、庭前(ていぜん)に、蛇、出ること有れば、必ず、食を與へらる。
因(よつ)て、鐸を振(ふり)て呼(よぶ)ときは、蛇、卽ち、來(きた)る。
これより、歲霜(さいさう)を歷(へ)て、蛇、漸々(やうやう)大きくなり、出(いづ)るときは、卽(すなはち)、護摩壇の邊(へん)に及ぶ。
然(しか)る故に、加持修法等のとき、鐸を振ること、能はず。因(よつ)て禁と爲すと云ふ。茲(ここ)を以て、火の禍あると云ふもの、不審にして、蛇の爲に禁ずること、然る歟(か)。
■やぶちゃんの呟き
「喜多院禁鐸」これは現在も、基本、生きている。サイト「川越水先案内板」の「徳川家ゆかりの地 喜多院と、伝説の七不思議めぐり」の第一に「山内禁鈴」が挙がっている(アラビア数字は漢字に代えた)。最初に写真があるが、「鰐口(わにぐち)」にも鳴らすために下に下がるはずの「鉦(かね)の緒(お)」がなく、鰐口の上部も、縄で括られているのが判る。
《引用開始》
「喜多院の境内では、鈴を鳴らしてはいけない」という伝説です。
昔々、喜多院に現れた一人の美女が、和尚さんにこんなお願い事をしました。
「今日から百日間、お寺の鐘を撞かないと約束してください。もし約束を果たしてくれたら、この鐘をもっと立派な音色にしてさしあげます」
その様子があまりにも熱心だったため、和尚さんはお願いを承諾します。
鐘を撞かなくなってから九十九日目。
今度は物静かで麗しい女性が喜多院を訪れ、和尚さんにこう告げました。
「今夜一夜だけでも構いません。どうか寺の鐘をお撞きになって、私に音色を聞かせてください」
女性の気高い雰囲気に魅せられた和尚さんは申し出を断ることができず、言われるがまま鐘を撞いてしまいました。
すると、和尚の目の前にいた女性はみるみるうちに大きな竜へと姿を変え、雲を呼び、風を起こし、和尚さんを天高く吹き飛ばしてしまったのです。
和尚さんは嵐の中で独楽の様に九十九回も回された挙句、どうにか着地。
この事件が起きて以来、喜多院では鐘を撞くことが禁止されました。
現在は正安二年の銅鐘のみ、年に一度だけ除夜の鐘として撞かれています。
《引用終了》
以上の話の中で、「竜」が出る。一般に、竜の昇天する以前の元は蛇類であるとされるから、親和性があるとは言える。また、龍のサイトとしては、最も信頼している「龍鱗」に、「山内禁鈴・怒った大蛇 埼玉県川越市」として、池原昭治氏の著「続・川越の伝説」(川越市教育委員会)より要約されたものが出る。
《引用開始》
昔、喜多院の何代目かの住職で、たいそう蛇好きな人がいた。毎日鈴を鳴らして餌をやったので、蛇たちも鈴の音を楽しみにしていた。蛇たちは喜多院はもちろん人家にも決して迷惑はかけなかった。ところが、この住職さんが病に倒れ、帰らぬ人になってしまった。
そして、その後住職となった人は、蛇と聞くだけで寝込んでしまうほどの蛇嫌いで、寺のものは気を使って鈴を鳴らさなかった。そうするうちに蛇たちは飢えて死に、あるいは他に移り、長い年月が過ぎて、ただ一匹だけが残った。
そんなとき、喜多院に物売りがやって来て、鈴を鳴らして山内に入って来た。途端に一匹の大蛇が飛び出し、人々は腰を抜かさんばかりに驚き逃げ去った。大蛇は鈴の音に餌がもらえるものと喜び飛び出したのに、食べるものは何もなく、怒って大暴れをした。
それより、喜多院の山内では鈴を鳴らすことが固く禁じられ、寺にある鈴には、決して振り子をつけないようになったという。
《引用終了》
「天海僧正、住持のとき」慶長四(一五九九)年、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第二十七世住職として入寺し、寺号を元の無量寿寺北院から喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たっている。