フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「「甲子夜話」」の232件の記事

2021/02/18

甲子夜話卷之六 26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓

 

6-26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓

誠嶽君【諱、誠信。肥前守。】、淸に謂給ひしは、

「我は御代替の誓詞を、兩度まで、老職の邸にて、爲たり。其時、坐席に小刀を用意してあるが、其小刀にて指を刺せば、出血、こゝろよからずして、血判、あざやかならず。因て、大なる針を能く磨き、懷中して、是にて其事を遂たり。又、豫め、膏藥を懷にし、事、畢れば、乃、これをつけたり。」

と、の給ひたる故に、淸も當御代替の誓詞のときは、誨の如く、針を以て指を刺たるに、快く血出て、血判の表も、恥しからざりし。

 其席を退きて、血流、止らざりければ、卽、右を以て、用意したる膏藥を疵口につけたれば、血止りぬ。慈敎、かたじけなきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「誠嶽君」(せいがくくん)「諱」(いみな)「誠信」「肥前守」松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)。肥前国平戸藩第八代藩主。従五位下・肥前守。本書の筆者同第九代藩主静山(本名・清(きよし))の祖父。静山の父は誠信の三男政信で宝暦七(一七五七)年に兄で嫡子であった邦が早逝したため、代わって嫡子となったが、彼も結局、家督を継ぐことなく、明和八(一七七一)年に三十七歳で亡くなってしまったことから、祖父の命によってその長男であった清が嫡子となった。因みに、静山(清)の十一女愛子は中山忠能に嫁し、慶子を産んだが、この慶子は明治天皇の母であるから、静山は実は明治天皇の曾祖父なのである。

「御代替」「おだひがはり」。

「兩度」実子政信に譲るために事前に書き置いのが一度、静山に譲るために二度ということであろう。

「淸も當御代替の誓詞のとき」静山は文化三(一八〇六)年、数え四十七で三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した。なお、本書はそれから十五年後の文政四(一八二一)年十一月甲子の日(十一月十六日:グレゴリオ暦十二月十日)の夜に執筆を開始したことが、書名の由来とする。

「誨」「をしへ」。

「血流」「けつりゆう」。

「慈敎」「じきやう」。

2020/11/27

甲子夜話卷之六 25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事

 

6-25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事

享保中、御醫師望月三英、河原者の市川團十郞が重病を治療し、効驗ありしとて人々沙汰せしを、橘收仙院が、御脈をも診奉るものゝ有まじき事とて詰りしかば、三英申は、醫治の事に於ては、乞食非人といふとも、求るもの有時は藥を與へ候心得のよしを答たりしとぞ。後御聽に入り、尤のよし御諚ありしと也。近頃は、官醫は貴人の治療のみするやうに心得るもの多し。これらの事知る人も稀なるにや。

■やぶちゃんの呟き

「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「御毉」「おんい」。「毉」は「醫」と同義とし、「醫」の異体字ともするが、本来はこの字は巫術による医療、シャーマンのそれを表わしたものに由来する字形とも思われる。

「望月三英」(もちづきさんえい 元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の医師で、名は乗、号は鹿門。讃岐国丸亀藩の医者雷山の子。江戸生まれ。儒学を服部南郭、医学を父に学んだ。享保一一(一七二六)年に表御番医師(おもてごばんいし:若年寄配下で殿中表方に体調不良者が出た際に診療に当たった)となり、やがて奥医師(若年寄配下で江戸城奥に住まいする将軍及びその家族の診療を行った。殆んどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった)・法眼(ほうげん:僧位のそれに倣って医者・儒者・絵師・連歌師などに授けられた敬称)に叙せられた。博学と医療技術の高さゆえに将軍徳川吉宗に愛され。衣類・乗物など、全てに朱色(江戸時代は表向きは将軍家を表象する禁色(きんじき)であった)を許されたという。野呂元丈・今大路元勲(八代目道三)らとともに唱えたその「古方書学」は、ドグマに満ちた吉益東洞流などと異なり、広く古医書(蘭書・和医方を含む)を読み、経験に鑑みる総合的な医学であった。「江戸古方」として京坂のそれと区別すべきその医学は、「医官玄稿」・「又玄余草」(ゆうげんよそう)などの彼の著書の中によく記されてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「河原者」「かはらもの」。中世以降の賤民の差別呼称。由来は、河原などの町村落の境界域の課税されない土地に追いやられて住み、牛馬の屠畜や各種芸能などを以って生業としていた人々であったが、中には村落共同体から半ば放逐された手工業者なども含まれており、総合的には中世の民衆文化の主要な柱となっていた。しかし、身分・職業・居住地などで差別を受け、江戸時代になると、農村の周辺域に定着させられ、かく呼ばれた被差別者も多かったが、門付を含む大道芸人・旅役者はもとより、歌舞伎役者などの広義の芸能従事者にも、この卑称が長く用いられ、社会の差別認識による自己の有意措定の構造を支えた差別用語として、「河原乞食」などとも呼ばれ、現代までもその差別語の亡霊は生きている。次の注の後半の引用も参照のこと。

「市川團十郞」二代目市川團十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。彼のウィキによれば、初代の息子で、元禄一〇(一六九七)年、中村座の「兵根元曾我」(つわものこんげんそが)で初舞台を踏み、元禄一七(一七〇四)年の父の横死(市村座にて「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年四十五であた。半六は逮捕されたものの、動機を語らぬまま、獄死した。一説に半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である)に『よって山村座で二代目を襲名するが、力不足で悩む』十七『歳の二代目を庇護したのは当時の名優』『生島新五郎だった』(「江島生島事件」の中心人物で、大島に遠島となった。また、父を殺した生島半六の師匠でもあった)。『その頃の歌舞伎は穢多頭・弾左衛門の支配下に置かれていた』が、宝永五(一七〇八)年、京から来た傀儡師(糸からくりの人形を扱った芸人)小林新助が、弾左衛門の興行支配権行使を拒否し、彼の指示を受けた暴徒が興行に乱入、妨害されたことをお上に訴えたところ、『江戸町奉行は歌舞伎と傀儡師の支配権を弾左衛門から剥奪』した。『二代目は被差別民からの独立を果たした喜びから、小林が記録した訴訟の顛末を元に』「勝扇子」(かちおうぎ)を著し、代々伝えたという』。正徳三(一七一三)年、山村座の「花館愛護桜」(はなやかたあいごのさくら)で『助六を初じめて勤めたころから』、『徐々に劇壇に足場を築き、人気を得るようにな』り、翌正徳四年の「江島生島事件」でも『軽い処分で免れ』(本件事件との直接関与は実際は殆んどなかった)、『江戸歌舞伎の第一人者へと成長』、享保六(一七二一)年には、『給金が年千両となり』、所謂、『「千両役者」と呼ばれる』ようになった。享保二〇(一七三五)年に、『門弟で養子の市川升五郎に團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵を襲名』したとある。享保の終わりの一年ほどは、三代目となるが、まあ、二代目であろう。

「橘收仙院」私の「耳囊 卷之三 橘氏狂歌の事」に「橘宗仙院」という名が出、そこで私は、『岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の』橘元孝(もとたか 寛文四(一六六四)年~延享四(一七四七)年)の『線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職』と記した人物と考えてよい。「收」(底本は「収」)と「宗」は歴史的仮名遣では「しふ」と「しゆう」だが、当時の口語でも既に同発音であったろうから、漢字を誤ったものであろう。

「診奉るもの」「みたてまつる」。

「詰りしかば」「なじりしかば」。「詰る」は「過失や悪い点などを責めて非難する」の意。

「申は」「まうすは」。

「後」「のち」

「御聽」将軍吉宗公の御耳。

「尤」「もつとも」。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」貴人・主君の仰せ。

甲子夜話卷之六 24 鳥越邸の池、虹を吐く事

 

6-24 鳥越邸の池、虹を吐く事

予が幼時、鳥越邸の池邊の、小亭にて游戲して居たるに、池中より泡一つ二つ出づ。始めは魚鼈の所爲ならんと思ふに、數點になりて、夫より泡のうちより煙いで、だんだん煙多く、後は釜中より煙立つ如くになりて、池水ぐるぐると囘り、輪の如く波たちたるが、やがて半天に虹を現じ、後は天に亙れり。夫よりして池邊腥臭の氣堪がたかりければ、幼時のことゆゑ恐ろしくなりて住居に立還り、後は不ㇾ知。

■やぶちゃんの呟き

珍しくも興味深い静山自身の幼児体験の怪異譚である。ちょっと全体には解明出来ない現象である。白昼夢か、夢の記憶の誤認か?

「鳥越邸」平戸藩松浦家の江戸上屋敷。現在の東京都台東区鳥越附近(グーグル・マップ・データ)。この屋敷には後楽園・六義園とともに都下三大名園に数えられた「蓬萊園」があった。されば、このシークエンスも、そんじょそこらの大名の上屋敷の庭をイメージしては不足である。

「魚鼈」「ぎよべつ」。「鼈」はスッポンの類い。

「腥臭の氣」「なまぐさのかざ」と訓じておく。

「不ㇾ知」知らず。

甲子夜話卷之六 23 羽州大地震のときの事

 

6-23 羽州大地震のときの事

浴恩園宴集の話次に、先年羽州大地震せしとき、始めは地の上にあがるようにありしが、凡二三丈もや揚りけん、夫より俄に下に墜下ること、ものの高處よりおつるが如くにして、夫より地振ひ出しと云。前に云たる地震は橫にゆらず、竪にゆると云。洋說に符せり。

■やぶちゃんの呟き

「浴恩園」「浴恩」は元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。

「宴集」「うたげつどひ」と訓じておく。

「次に」「ひいでに」。

「先年羽州大地震せしとき」定信隠居後は文化九(一八一二)年三月六日であるが、話は「先年」とあるから、直近の「羽州」(現在の秋田・山形を指す)での巨大地震で強力な縦揺れが発生したものとなると、文化元年六月四日(一八〇四年七月十日)に発生した象潟地震であろうか。同地震はマグニチュード7.0前後で、死者は五百から五百五十人、象潟では二メートルもの広範な地盤隆起が起こり、三~四メートルの津波が襲来、結果、芭蕉の象潟湖は大部分が隆起し、松尾芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」(芭蕉の中でも私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を参照されたい)の面影は夢の跡となった。推定では震源は象潟の十数キロメートル沖合の海底で、海岸線にほぼ平行した長さ約四十二キロメートルの逆断層の変位に拠るものとされる。

「凡」(およそ)「二」「三丈」約六~九メートル。

「墜下る」「おちくだる」。

「振ひ出し」「ふるひいだせし」と訓じておく。

「前に」「さきに」。「始めは地の上にあがるようにありし」という部分を指す。

「竪」(たて)「にゆる」通常の地震では速い縦波であるP波が起こす揺れは「初期微動」と称されるように、普通はあまり大きくない。但し、震源が真下であるとか、この象潟地震のように近い距離で大規模に起こった場合では、P波による強い縦揺れが発生することが判っている。そうした経験から記された洋書の地震の様態を説いたものと、よく一致すると静山は言っているのである。

2020/11/24

甲子夜話卷之六 22 有德院御風流の事

 

6-22 有德院御風流の事

林子曰。德廟御實政の、世を利し民に澤あるは、皆人の能知る所なり。その佗好古御風流の事は知もの稀なり。吹上の御庭にて、三月曲水宴を設られ、中秋月宴には諸臣に詩歌を命ぜらる。延喜式の染方を親ら御試ありて、凡三十餘程は吳服商の後藤に傳へ給ひ、その家にて今も御祕事の染方と稱す。御賄所に命ぜられ、式の法に傚ひ、大根を漬させられ、御上りとなりけるが、今其遺法を以て年々製造し、延喜式漬と稱す。明日香山、住太川に櫻を栽させられ、芝新渠の岸に櫨を栽へ、霜紅の美觀とし給ひ、本所羅漢寺は海棠を多く植させられしと。これは卑濕の地ゆへ、その性に叶ふべしとの思召となり。西土にては海棠を賞すること多けれども、本邦にて海棠一色の景を思し寄せられしは權輿とも云べし。今はいつ枯果しや跡方もなく、其事知るものさへなし。

■やぶちゃんの呟き

「有德院」(ゆうとくゐん)「德廟」徳川吉宗。

「林子」お馴染みの友人江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

「皆人」「みなひと」。

「能」「よく」。

「佗」「わび」。

「好古」「かうこ」。古い時代の事物を好むこと。

「親ら」「みづから」。

「御試」「おためし」。

「凡」「およそ」。

「餘程」「あまりほど」。

「吳服商の後藤」御用呉服商人後藤縫殿助。日本橋の日本橋川上流に架かる一石橋の南詰の西川岸町に並んでいた呉服町に屋敷があった。但し、ウィキの「後藤縫殿助」によれば、『享保期には八代将軍徳川吉宗による大奥の縮小を伴う享保の改革により』、『公儀呉服師も減少させられた。それでも幕府による救済策により後藤縫殿助の呉服所は幕末まで継続した』とある。

「御賄所」「おまかなひじよ」。

「傚ひ」「ならひ」。

「明日香山」東京都北区王子にある飛鳥山公園。王寺駅南東直近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。

「住太川」隅田川。

「栽させられ」「うゑさせられ」。

「芝新渠」「しばしんぼり」。東京都港区芝二丁目の内。この辺り

「櫨」「はぜ」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum

「霜紅」「しもくれなゐ」。

「本所羅漢寺」私の大好きな寺。大学時代、中目黒に下宿しており、何度も行った。元はここにある通り、本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)にあり、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったためか、度々、洪水に見舞われて衰退し、明治四一(一九〇八)年に現在の地である東京都目黒区下目黒に移ったウィキの「五百羅漢寺」を参照した)。

「卑濕」「ひしつ」「ひしふ(ひしゅう)」。土地が低くて、じめじめしていること

「西土」「せいど」。中国・インド。

「權輿」「けんよ」「権」は秤(はかり)の錘(おもり)、「輿」は車の底の部分の意で、どちらも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり」の意となった。

2020/10/22

甲子夜話卷之六 21 内田信濃守殉死の事

 

6-21 内田信濃守殉死の事

猷廟御佗界の時、堀田、阿部の重臣を始め、侍臣迄も多く殉死せり。その中内田信濃守正信は、今夜殉死せんと期せし日、親族を呼集め、宴を設て最後の盃し、言笑いさゝかも常にかはることなし。夜に入りたれば來客に向ひ、しばし眠り候半、亥刻に至らば起し給はれ迚、其席の床ぶちを枕とし、快く鼾睡したり。その内夜も更行けど、誰も起すに忍びずありし内、いつか夜半を踰たりし頃、信州目を醒し、何時なるやと問ふ。何れも子刻や下りぬらんと答ふれば、さればこそ程よく起し給へと云しものをと言ながら、押肌ぬぎ短刀を拔き、腹十文字にかき切りて、自ら喉をかきて伏たりとなり。今百載の後に傳へ聞ても淚も落べし。かゝる潔き心底は、信に世に難ㇾ有人にぞ有ける。

■やぶちゃんの呟き

「内田信濃守」内田正信(慶長一八(一六一三)年~慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)は旗本・大名。下総小見川藩主・下野鹿沼藩初代藩主。八百石の御納戸頭内田正世の次男。寛永七(一六三〇)年から徳川家光の家臣として仕え、寛永一二(一六三五)年十二月に奥小姓、翌年六月には御手水番(ちょうずばん:厠担当)に任ぜられた。寛永一四(一六三七)年、相模国内に一千石を加増される、翌年には叙任、寛永一六(一六三九)年、下総名取郡や常陸鹿島郡などで八千二百石を加増されて計一万石の大名となり、小見川藩主となると同時に、御小姓組番頭となった。慶安二(一六四九)年、下野国内で五千石を加増されて鹿沼藩主となり、御側出頭(おそばしゅっとう)となった。慶安四(一六五一)年四月二十日の家光の死去(本文の「猷廟」(いうべう(ゆうびょう))は家光の諡号。死因は脳卒中と推定されている)に従って殉死した。享年三十九であった。跡を次男の正衆(まさもろ)が継いでいる。

「殉死」ウィキの「殉死」によれば、『徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死している』。『こうした行動の背景には』、『かぶき者や男色との関連があるという説もある』。『家光に殉じなかった松平信綱は世間の批判を受け、「仕置だてせずとも御代はまつ平 爰(ここ)にいづとも死出の供せよ」という落首が貼り出された』。第四代将軍徳川家綱及び第五代『綱吉の治世期に、幕政が武断政治から文治政治へと移行』、寛文三(一六六三)年五月の「武家諸法度」の『公布とともに、殉死は「不義無益」であるとして』、『その禁止が口頭伝達された』。寛文八(一六六八)年には』強要殉死事件が発生、『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』(追腹一件(おいばらいっけん:寛文八(一六六八)年二月十九日に宇都宮藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子で長男の昌能(まさよし)が忠昌の寵臣杉浦右衛門兵衛に対し、「未だ生きているのか」と詰問して杉浦が直ちに切腹した事件。藩主昌能は二万石減封されて出羽山形藩九万石への転封に処され、殉死者杉浦の相続者も斬罪に処するなど、幕府は異例の厳しい態度で臨んだ。これ以後、殉死者の数は激減したとされる)。『殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係の構築を意図したものだと考えられる』。『これに先立つ』寛文元(一六六一)年七月には、『水戸藩主徳川光圀が重臣団からの』、先代藩主で父の『徳川頼房への殉死願いを許さず、同年閏』八『月には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加え』ている。『この後、延宝』八(一六八〇)『年に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和』三(一六八三)『年には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。

「御佗界」「ごたかい」。「御他界」に同じ。

「設て」「まうけて」。

「言笑」「げんせう」。談笑。

「候半」「さふらはん」。意志を表わす「はん(はむ)」に漢字を当てたもの。

「亥刻」「ゐのこく」。午後九時過ぎ。

「迚」「とて」。

「床ぶち」「とこぶち」。床縁。床の間の前端の化粧横木。

「鼾睡」「かんすゐ」。鼾(いびき)をかいて眠ること。

「その内夜も更行けど」「そのうち、よも、ふけゆけど」。

「誰も」「たれも」。

「踰たり」「こえたり」。

「何時」「なんどき」。

「子刻」(ねのこく)「や下りぬらん」午前零時過ぎ。

「伏たり」「ふしたり」。

「今百載」(さい:年に同じ)「の後」この百年は単に遠い時間の隔たりを指す。正信の殉死は慶安四(一六五一)年で、「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年十一月十一月十七日甲子の夜であるから、有に百七十年以上経っている。

「信に」「まことに」。

「難ㇾ有人」「有り難き人」。

甲子夜話卷之六 20 松平幸千代元服のとき有德廟上意

 

6-20 松平幸千代元服のとき有德廟上意

德廟の御時、松平幸千代【出羽守こと】は八歲にて殿上元服。御盃下さるゝ時、御酌は目賀田長門守なりしが、過て盃に盈る計につぎたりしかば、早くも御覽ぜられて、其酒給ばいたみ申さん。滴み候得と仰ありしに、幸千代騷がず一口吞、さて左の袂へ酒のまゝ盃をさし入れしかば、何れも不思議の若ものよ迚、内々稱美しけるを聞しめして、人は年相應の智をよしとす。餘りに年不相應也とて、思召に應ぜざりしと也。

■やぶちゃんの呟き

「松平幸千代」出雲国松江藩第六代藩主松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年五月二十八日~天明二(一七八二)年)。ウィキの「松平宗衍」を見ると、彼は隠居後に奇行を繰り返したとして、かなり「異常」と呼べる内容が記されてあるので、是非、見られたい。

「有德廟」(うとくべう)徳川吉宗。宗衍は偏諱。

「八歲」とあるが、誤り。彼の元服は寛保二(一七四二)年一二月十一日で数え十四である。この時、従四位下に叙位され、侍従に任官、後に出羽守を兼任した。

「目賀田長門守」目賀田守成。吉宗には紀州藩より従って側近として仕え、旗本となった。

「過て」「あやまちて」。

「盈る計に」「みつるばかりに」。

「給ば」「たば」。飲んだのでは。これも次もその次も吉宗の自敬表現ととる。

「いたみ申さん」【2020年10月23日改稿】いつも御指摘を戴くT氏より、これと次の注は間違っていると御指摘を戴いたので修正する。T氏より、『「いたみ申さん」 は、酔っぱらてしまう』の意であり、『「滴み候得」は多すぎる酒の量なので、一口のんで残りは 「 滴み 」(たらす =捨てる )し、杯を空にするよう』に、と吉宗は気を使って指示したのであって、私の『「代わりのものを用意させよう。」では、目賀田長門守の不調法が、目出』ってしまうので、それは、ない。さて、『「将軍の言う通り」に 松平幸千代が酒の残りを 「 滴み 」 ( たらす =捨てる)した場所が、自分の袖の中』であったことが、『「内々稱美しける」内容と見ました』。『将軍は、杯を載せてきた三方か何かにでも、 「 滴み 」 ( たらす = 捨てる)とおもいきや、袖の中』にさっと零し入れたことに『意表をつかれ』、逆に『「子供らしくない」と考えたようです』とあった。正しくそうとって、総てが自然な画面となる。何時もながら、T氏に感謝申し上げる。

「滴み候得」「したみさふらえ」。【2020年10月23日改稿】「残りは滴せてて、飲まぬがよかろう」。

「一口吞」「ひとくち、のみ」。

「何れも」その場にあった者たち誰もが、後に。

「迚」「とて」。

「内々」非公式な噂話として。

「稱美しける」若いのに洒落た処置だと褒め称えあったのである。

「聞しめして」「きこしめして」。

「思召に應ぜざりしと也」「おぼしめしにおうぜざりしとなり」。そうした過剰な少年への讃美を、年齢不相応な出過ぎた小賢しい振舞いであるとして、お採り上げになられなかった、というのである。但し、八歲なら、この話、「御尤も」と思うが、事実の、十四であれば、どうか? という気は私は、する。しかし、晩年の様態を見ると、吉宗の不快は、寧ろ、当たっているという気がする。

2020/09/04

甲子夜話卷之六 19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

 

6-19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

神祖の駿城に坐ましける頃、若き御旗下の面面、とかく二丁町と云花柳ある處に夜々參るよしを、板倉防州聞へ上しかば、上意に、二丁町に參るもの共、定めて夜は寐ずあるべし。さすれば何かの時は直にかけつけて味方はすべき也。夫式のことは捨置べしとの仰なりしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「御坐」「おまし」。

「旗下」「はたもと」。

「二丁町」(にちうやうまち)「と云」(いふ)花柳」(くわりゆう)は駿府にあった二丁町遊郭のこと。ウィキの「二丁町遊郭」によれば、現在の静岡市葵区駒形通五丁目(グーグル・マップ・データ)付近で、静岡県地震防災センターがある辺りとある。『大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で』、一『万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いた』。天正一三(一五八五)年、『徳川家康が終焉の地を求めたとき、今川家の人質として幼少から青年期にかけての多感な時代の大半を過ごした地であること、東西の要衝であること、家康がこよなく愛したと言われる富士山が目前であることから、駿府築城を開始した。築城時に全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まっていた。その者達の労をねぎらうために遊女や女歌舞伎も多く集まっていた。しかし、彼女等を巡っての争い事が絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じた。そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が』、『自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに』一『万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである』。『後に、町の一部を江戸の吉原遊廓に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になった』。『駿府城下には町が』九十六『か町あり、その内』七『か町が遊廓であった。その内の』五『か町分が江戸へ移り、残った』二『か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する』が、『空襲で焼失し、今ではその名残すら見えないが、存在を確かめることができる稲荷神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『が僅かながらにひっそり佇んでいる』とある。

「板倉防州」板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。駿河国生まれで板倉勝重の長男。下総国関宿藩藩主。秀忠の将軍宣下に際して従五位下周防守に叙任され、大坂の両陣に従軍。書院番頭を経て、京都所司代となり、父勝重とともに名所司代として知られた。

「聞へ上しかば」ママ。「聞こえあげしかば」。「言ひ上ぐ」の謙譲語。申し上げる。

「直に」「ただちに」。

「味方すべき也」護衛に着くことが出来ようほどに。

「夫式」「それしき」。

「捨置べし」「すておくべし」。

甲子夜話卷之六 18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸

 

6-18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸

林氏云。京紳の歌も、近世は多くは依ㇾ樣畫胡廬の類なり。偶々人の傳るを聞中、秀逸とも云べきは耳底に殘りて、忘れたくも忘れられず。これぞ名歌とも云べき。

   春江霞     文化十二年 御 製

 月花の影も匂ひもこめてけり

      霞あやなす春の入江は

   落花        閑院美仁親王

 のどかなる春日なれども櫻花

      ちる木のもとは風ぞ吹ける

   五月雨

 さみだれのふるやのゝきにすくふ蜂の

      晴まを待てたゝんとやする

   春月       西洞院風月入道

 櫻には霞かねたる影見えて

      花より外は春のよの月

   郭公       裏松入道固禪

 いざゝらば月も入りけりほとゝぎす

      夢に待夜の枕さだめむ

   月前時雨     前中納言實秋

 床寒き寐覺の友の窓の月

      またかきくもりふる時雨哉

   月前雁

 雲霧もなくそら高くすむ月の

      南に向ふはつかりの聲

   夜雨

 つれづれの雨もいとはじあすは猶

      花の木のめやはるの手枕

■やぶちゃんの呟き

「林氏」お馴染みの林述斎。

「依ㇾ樣畫胡廬」「樣(やう)に依りて胡廬(ころ)を畫(ゑが)く」。決まりきった様式に従って瓢簞(ひょうたん)を描く」という凡庸なマニエリスムから、「手本の通りにだけ行って、少しも工夫されていないこと」を揶揄する故事成句。「胡蘆」が普通。小学館「日本国語大辞典」によれば、宋の太祖は、尚書陶穀の起草した制誥(せいこう)詔令(詔勅に同じ)は「様によって胡蘆を描くものだ」として重んじなかったので、穀は「堪ㇾ笑翰林陶学士、一生依ㇾ様画葫蘆」と詠じて自嘲したという「続湘山野録」などに見える故事からとし、『様式にのみたよって、真実みのない外形だけの瓢箪の絵を描く意で、表面の形状、先例の通りをまねて何ら独創的なところがないことのたとえ』とある。

「文化十二年 御 製」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年/在位: 安永八(一七八〇)年~文化一四(一八一七)年)。

「閑院美仁親王」閑院宮美仁親王(かんいんのみやはるひとしんのう 宝暦七(一七五八)年~文政元(一八一八)年)。歌道に造詣が深かったという。

「西洞院風月入道」公卿西洞院時名(にしのとういんときな 享保一五(一七三〇)年~寛政一〇(一七九八)年)。風月は号。従五位上・少納言・備前権介を経て桃園天皇に仕える。竹内式部に師事して神道・儒学及び尊王思想を学び、朝権の回復を志したが、前関白一条道香(みちか)・関白近衛内前(うちさき)らに弾圧され、式部門下の公卿二十余名とともに処罰され、免官・永蟄居(閉門の上、自宅内の一室に謹慎させ、生涯解除を認めないもの)を命ぜられた(宝暦事件)。

「裏松入道固禪」公家で有職故実家裏松光世(みつよ 元文元(一七三六)年~文化元(一八〇四)年)。内大臣烏丸光栄(からすまるみつひで)の五男。裏松益光の養子となった。固禅は法名。思想家竹内敬持と往来があり、前注に出た「宝暦事件」に連座し、江戸幕府の忌諱に触れ、遠慮(自主的な自宅軟禁で、夜間の秘かな外出は黙認された)の処分を受け、その二年後には「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰で永蟄居を命ぜられ、出家させられた。三十年の蟄居生活の間に「大内裏図考證」を著したが、天明八(一七八八)年に内裏が焼失し、その再建に当たって彼の著書の考證を参考とすることとなり、その功により、勅命により、赦免されている。

「前中納言實秋」不詳。

2020/08/18

甲子夜話卷之六 17 武州への天子來り玉ふこと有る考

 

6-17 武州への天子來り玉ふこと有る考

成島邦之助【司直】云。昔より武藏國へ天子の來り給ふ事は無き事なるに、此頃風と見出したり。承應三年九月、嚴廟右府御轉任の時、花町兵部卿宮下向ありて、雲光院を旅館とし、中川修理大夫館伴を勤めしこと、御日記に見ゆ【此雲光院は、淨土宗龍德山雲光院。光嚴敎寺とて、元馬喰町にあり。阿茶の局建立なれば、當時さぞ莊嚴なることにて有けん。今は深川靈巖寺の隣に移されたり】。兵部卿宮は後水尾帝の皇子にて、後光明帝御早世により、兵部卿宮御踐祚あり。後西院と申奉りし也。さあれば武州へ天子來り給ふも同じ事なりと云。此花町宮と申は、古くは櫻町宮とも云。今有栖川宮と云家なり。

■やぶちゃんの呟き

表題の「考」は「かう(こう)」と音読みしておく。

「成島邦之助【司直】」成島司直(なるしまもとなお 安永七(一七七八)年~文久二(一八六二)年)は儒学者・歴史家・政治家・文筆家・歌人にして江戸幕府奥儒者。東岳及び翠麓と号した。極官は従五位下・図書頭。幕府の正史である「御実紀」(通称「徳川実紀」)の編集主幹であった。ウィキの「成島司直」によれば、天保一二(一八四一)年七月十四日(一八四一年八月三十日)には「御実紀」の発起人にして統括であった静山とも懇意で本書にもしばしば登場する『林述斎が死去し、司直が公的にも正史事業の主宰者になる。さらに』、天保十四年四月には第十二代将軍徳川家慶の『日光東照宮参詣にも陪従』、『栄華の極みにあった』が、「御実紀」『完成直前の』天保一四(一八四三)年十月、『突如、御役御免と隠居謹慎を言い渡され、子の筑山まで連座で罰せられてしまう』。『御実紀調所』(「御実紀」編集本部に相当する)は『昌平坂学問所に移され、その正本全』五百十七『巻は、述斎・司直という史学界の両巨頭が不在のまま、同年』十二月(一八四四年初頭)、『家慶に献上されることとなった』。『その後、司直は、死までの』二十『年間近く、幕府に再び用いられることはなかった』。『失脚の理由は一切公表されず、現在でも憶測の対象になっている』。『木村芥舟によれば、家慶に寵用され、たびたび外政にも干渉したので、それを妬んで讒言した者がいたからだという』。『岡本氏足(岡本近江守)によれば、その妬んだ者とは目付の鳥居耀蔵であるという』『(ちなみに耀蔵は司直の元上司・林述斎の二男でもある)』。『山本武夫は、司直失脚は、天保の改革の主導者だった水野忠邦の失脚』(同年閏九月十三日)『の直後であることから、これと関係があるのではないか、と推測している』。後、嘉永二(一八四九)年十一月に、子の筑山が「御実紀」『副本を完成させたことで賞賜され、司直の存命中に成島家は名誉回復されている』とある。

「風と」「ふと」。

承應三年九月一六五四年十月相当。しかし、これは「承應二年」の誤りのようである。後注参照。

「嚴廟右府御轉任」「嚴廟」は第四代将軍徳川家綱の諡号「厳有院」の略。「右府御轉任」以下は彼が承応二(一六五三)年七月十日(「幕府祚胤伝」では八月十二日)に右大臣に転任(右近衛大将兼任如元)したことを指す。

「花町兵部卿宮」後の後西(ごせい)天皇(寛永一四(一六三八)年~貞享二(一六八五)年/在位:承応三年十一月二十八日(一六五五年一月五日)~寛文三(一六六三)年三月)。諱は良仁(ながひと)。幼名は秀宮。別名を花町宮(はなまちのみや)・花町殿と称した。ウィキの「後西天皇」によれば、『後水尾天皇の第八皇子。母は典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘)』。元後水尾天皇の第四皇子であった『後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく』、『他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し』て『即位するまでの繋ぎ』『として』の即位であった。但し、『即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている』とある。なお、後西『天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説』『・江戸幕府説』『が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄』(綱宗の母が後西天皇の母方の叔母に当たる)『という天皇の血筋が問題視されたとする説がある』一方、『譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている』とある。以上、太字や下線部から、本文の「承應三年九月」は「承應二年九月」の誤りと思われる。月遅れの名代到着は問題ない。鎌倉時代からそうである。

「雲光院」現在は東京都江東区にある浄土宗龍山雲光院(グーグル・マップ・データ)。慶長一六(一六一一)年に徳川家康の側室阿茶局(戒名:雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)の開基。元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、火事等で度々、移転を繰り返し、天和三(一六八三)年に現在地に移転した。静山が本項を書いた当時は既に現在位置にあった。但し、花町兵部卿宮が旅所とした際、元の日本橋馬喰町にあったものかどうかは判らぬ。

「中川修理大夫」不詳。時制上からは豊後国岡藩三代藩主中川久清(慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)が相応しいが、「寛政重脩諸家譜」も見たが、彼は修理大夫になったことはない(彼の祖父久成や第八代藩主久貞は修理大夫であるが、時制が全く合わない)。

「館伴」「くわんばん(かんばん)」接伴役。御馳走役。

「莊嚴」「しやうごん(しょうごん)」。

「靈巖寺」先のグーグル・マップ・データの雲光隂の北西三百メートル弱の位置にある浄土宗道本山東海院霊巌寺。

「後光明帝御早世」享年二十二。

「有栖川宮」後西天皇の第二皇子有栖川宮幸仁親王が寛文七(一六六七)年に高松宮を継承したが、後の寛文十二年に有栖川宮と宮号を変更している。

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Memorandum Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「澄江堂遺珠」という夢魔 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐藤春夫 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 只野真葛 和漢三才図会巻第三十九 鼠類【完】 和漢三才図会巻第三十八 獣類【完】 和漢三才圖會 禽類【完】 和漢三才圖會 蟲類【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 津村淙庵「譚海」 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介 書簡抄 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芸術・文学 萩原朔太郎 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏