甲子夜話卷之八 28 西丸の御多門は伏見の御城より移されしこと幷同處さはらずの柱、不ㇾ掃の事
8―28 西丸(にしのまる)の御多門(ごたもん)は、伏見の御城(ごじやう)より移されしこと、幷(ならびに)、同處(どうしよ)、「さはらずの柱(はしら)」、掃(はらは)ずの事
西丸御玄關前の御多門は、もと、伏見の御城の燒餘(やけあまり)を引移(ひきうつ)されしもの也、とぞ。
故に、御多門の上には、鳥井彥右衞門(とりゐひこゑもん)【元忠。】生害(しやうがい)の蹟あり、と云(いふ)。
正しく見し人に聞(きく)に、其上の間(ま)の方(かた)は、今、御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)の詰處(つめしよ)なり。
其間の側(そば)の柱に、「さはらずの柱」と唱(となふ)る、あり。此(この)柱、卽(すなはち)、元忠が自害のとき、倚(より)かゝりて腹切(はらき)たる柱ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今に其(その)精爽、遺(のこ)りて、人、倚(よ)るときは、變、あり、と傳ふ。
又、其間の奧の上に、「掃はずの間」と云(いふ)あり。
廣き處には非(あら)ず。昔より掃(はき)たること、なし。
其間の中(うち)に、元忠自害のとき、敷(し)たる席(たたみ)、今に、有り。
又、死せんと爲(せ)しとき、水吞(みづのみ)し石の手水鉢(ちやうずばち)・柄杓(ひしゃく)等も納(をさめ)てあり、と云。
もし、それ等(ら)の物を動かせば、亦、變を生ず、と傳ふ。夫(それ)ゆゑ、今に、掃除せざる、となり。
又、番頭(ばんがしら)の詰處(うめしよ)より、二た間(ま)を隔(へだて)て、家賴の詰處あり。此間の外がは、物見牖(ものみまど)のある所、左右の柱に、席(たたみ)より、一尺ばかり上と覺しき所、火箭(ひや)の痕(あと)か、徑(わた)り五寸、深さ三寸餘(あまり)ほども、燒込(やけこみ)たる蹟(あと)、あり。
伏見城攻(ふしみじやうぜめ)に、火箭を打(うち)たること、記錄には見へざれども、燒痕(やけあと)は、正しく、火箭の中(あた)りたるなるべし、と。
御家人某の話なり。
■やぶちゃんの呟き
二ヶ月半ほど、ほおっておいたところが、理由は全く判らないが、今月に入って、本カテゴリそのものへのアクセスが一番(281アクセス)になっていたので、お茶濁しに作成した。
私は城郭に全く興味がないので、伏見城からの移転説については、渡辺功一氏のブログ「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の「江戸城西丸の伏見櫓」が参考になるので、リンクさせておく。
「鳥井彥右衞門【元忠。】」一般には「鳥居」であるが、当該ウィキの脚注の「3」に『高野山成慶院の記録『檀那御寄進幷消息』中に「鳥井』(☜)『彦右衛門室馬場美濃守息女之文」記述あり』とあり、ネットでも、「鳥井」一族を「鳥居」とも書くケースを見出せた。小学館「日本大百科全書」によれば、鳥居元忠(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)安土桃山時代の武将。通称、彦右衛門。松平氏の家臣鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。「姉川の戦い」に先駆けしたのをはじめ、各地に転戦して戦功を重ね、「三方ヶ原の戦い」では、負傷して片方の足が不自由になったと伝えられる。天正一〇(一五八二)年、北条氏勝を甲斐に破り、甲斐郡内地方において、領地を与えられ「城持衆」(しろもちしゅう)の一人として一手を預かった。その後は、徳川氏の武将として先手(さきて)を勤め、天正一八(一五九〇)年の「小田原攻め」では、相模の築井(つくい)城(現在の相模原市緑区内)、武蔵の岩槻(いわつき)城(現埼玉県)を攻め下し、功により下総国矢作(やはぎ)(現千葉市)で四万石を与えられた。「関ヶ原の戦い」に際し、伏見城を守ったが、豊臣方の包囲され、落城・戦死した、とある。この最期については、当該ウィキに、やや詳しい。そこに、本篇の絡みでは、『最期の地になった伏見城に残された血染め畳は』、『元忠の忠義を賞賛した家康が』、『江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちの頭上に掲げられた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は』、『明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり』、『元忠を祭神とする精忠神社』(せいちゅうじんじゃ)『の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院』『をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている』とある。

