甲子夜話卷之六 25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事
6-25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事
享保中、御醫師望月三英、河原者の市川團十郞が重病を治療し、効驗ありしとて人々沙汰せしを、橘收仙院が、御脈をも診奉るものゝ有まじき事とて詰りしかば、三英申は、醫治の事に於ては、乞食非人といふとも、求るもの有時は藥を與へ候心得のよしを答たりしとぞ。後御聽に入り、尤のよし御諚ありしと也。近頃は、官醫は貴人の治療のみするやうに心得るもの多し。これらの事知る人も稀なるにや。
■やぶちゃんの呟き
「享保」一七一六年から一七三六年まで。
「御毉」「おんい」。「毉」は「醫」と同義とし、「醫」の異体字ともするが、本来はこの字は巫術による医療、シャーマンのそれを表わしたものに由来する字形とも思われる。
「望月三英」(もちづきさんえい 元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の医師で、名は乗、号は鹿門。讃岐国丸亀藩の医者雷山の子。江戸生まれ。儒学を服部南郭、医学を父に学んだ。享保一一(一七二六)年に表御番医師(おもてごばんいし:若年寄配下で殿中表方に体調不良者が出た際に診療に当たった)となり、やがて奥医師(若年寄配下で江戸城奥に住まいする将軍及びその家族の診療を行った。殆んどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった)・法眼(ほうげん:僧位のそれに倣って医者・儒者・絵師・連歌師などに授けられた敬称)に叙せられた。博学と医療技術の高さゆえに将軍徳川吉宗に愛され。衣類・乗物など、全てに朱色(江戸時代は表向きは将軍家を表象する禁色(きんじき)であった)を許されたという。野呂元丈・今大路元勲(八代目道三)らとともに唱えたその「古方書学」は、ドグマに満ちた吉益東洞流などと異なり、広く古医書(蘭書・和医方を含む)を読み、経験に鑑みる総合的な医学であった。「江戸古方」として京坂のそれと区別すべきその医学は、「医官玄稿」・「又玄余草」(ゆうげんよそう)などの彼の著書の中によく記されてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「河原者」「かはらもの」。中世以降の賤民の差別呼称。由来は、河原などの町村落の境界域の課税されない土地に追いやられて住み、牛馬の屠畜や各種芸能などを以って生業としていた人々であったが、中には村落共同体から半ば放逐された手工業者なども含まれており、総合的には中世の民衆文化の主要な柱となっていた。しかし、身分・職業・居住地などで差別を受け、江戸時代になると、農村の周辺域に定着させられ、かく呼ばれた被差別者も多かったが、門付を含む大道芸人・旅役者はもとより、歌舞伎役者などの広義の芸能従事者にも、この卑称が長く用いられ、社会の差別認識による自己の有意措定の構造を支えた差別用語として、「河原乞食」などとも呼ばれ、現代までもその差別語の亡霊は生きている。次の注の後半の引用も参照のこと。
「市川團十郞」二代目市川團十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。彼のウィキによれば、初代の息子で、元禄一〇(一六九七)年、中村座の「兵根元曾我」(つわものこんげんそが)で初舞台を踏み、元禄一七(一七〇四)年の父の横死(市村座にて「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年四十五であた。半六は逮捕されたものの、動機を語らぬまま、獄死した。一説に半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である)に『よって山村座で二代目を襲名するが、力不足で悩む』十七『歳の二代目を庇護したのは当時の名優』『生島新五郎だった』(「江島生島事件」の中心人物で、大島に遠島となった。また、父を殺した生島半六の師匠でもあった)。『その頃の歌舞伎は穢多頭・弾左衛門の支配下に置かれていた』が、宝永五(一七〇八)年、京から来た傀儡師(糸からくりの人形を扱った芸人)小林新助が、弾左衛門の興行支配権行使を拒否し、彼の指示を受けた暴徒が興行に乱入、妨害されたことをお上に訴えたところ、『江戸町奉行は歌舞伎と傀儡師の支配権を弾左衛門から剥奪』した。『二代目は被差別民からの独立を果たした喜びから、小林が記録した訴訟の顛末を元に』「勝扇子」(かちおうぎ)を著し、代々伝えたという』。正徳三(一七一三)年、山村座の「花館愛護桜」(はなやかたあいごのさくら)で『助六を初じめて勤めたころから』、『徐々に劇壇に足場を築き、人気を得るようにな』り、翌正徳四年の「江島生島事件」でも『軽い処分で免れ』(本件事件との直接関与は実際は殆んどなかった)、『江戸歌舞伎の第一人者へと成長』、享保六(一七二一)年には、『給金が年千両となり』、所謂、『「千両役者」と呼ばれる』ようになった。享保二〇(一七三五)年に、『門弟で養子の市川升五郎に團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵を襲名』したとある。享保の終わりの一年ほどは、三代目となるが、まあ、二代目であろう。
「橘收仙院」私の「耳囊 卷之三 橘氏狂歌の事」に「橘宗仙院」という名が出、そこで私は、『岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の』橘元孝(もとたか 寛文四(一六六四)年~延享四(一七四七)年)の『線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職』と記した人物と考えてよい。「收」(底本は「収」)と「宗」は歴史的仮名遣では「しふ」と「しゆう」だが、当時の口語でも既に同発音であったろうから、漢字を誤ったものであろう。
「診奉るもの」「みたてまつる」。
「詰りしかば」「なじりしかば」。「詰る」は「過失や悪い点などを責めて非難する」の意。
「申は」「まうすは」。
「後」「のち」
「御聽」将軍吉宗公の御耳。
「尤」「もつとも」。
「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」貴人・主君の仰せ。