甲子夜話卷之九 一 松平一心齋の事
9―1 松平一心齋の事
松平一心齋は【備前岡山侯。内藏頭治政、一心齋は退隱後の稱。】、性、剛毅(がうき)なる人なり。
大鼓打(たいこうち)に孫兵衞と云(いひ)し者、あり。時々、伽(とぎ)に來て、氣に入り、左右(さいう)せり。
或(ある)夏のことなりとかや、其邸(そのやしき)に往(ゆき)て申入(まうしい)れたれぱ、取次(とりつぎ)の者、
「今、庭に居(を)られ候。申通(まうしつう)ずべし。」
迚(とて)、入りしが、頓(やが)て出(いで)て、
「直(ぢき)に庭へ參らるべし。」
と云(いふ)。
故(ゆゑ)に、園中に入(いり)ければ、折ふし、夕景にて、自身、池水(いけみづ)を汲(く)み、水銃(みづてつぱう)もて、地に灑(そそ)ぎ居(をれ)られし。
孫兵衞、目通(めどほり)に出(いで)ると、一語(いちご)にも及ばず、水銃にて、水を、つきかくる。
孫兵衞も、
『戲(たはむれ)。』
と心得て、左右に逃(にぐ)る體(てい)を爲(なし)たるが、乃(すなはち)、下知(げち)を傳へ、庭中(にはなか)に出居(いでをり)し人々、皆、水銃を以て、つきかくる故(ゆゑ)、孫兵衞は、目口(めくち)へ、水(みづ)、入(いり)、滿身、水を流し、懷中の物に至るまで、濡(うるほ)はざるは、なし。
其時、孫兵衞、立腹し、
「いかに懇意の上(うへ)迚(とて)、戲(たはむれ)も、ほど、あるべし。」
と言(いひ)ければ、諸人(しよにん)、
「どつ。」
と、咲(わら)ける。
孫兵衞、彌(いよいよ)、腹にすゑかね、無言にて、其處(そこ)を去(さり)て、表(おもて)に行き、
『用人(やうにん)に就(つき)て、この事、言(いは)ん。』
と、思(おもひ)しに、はや、その所(ところ)に、小姓頭(こしやうがしら)ども、待居(まちゐ)て、
「御苦勞千萬なり。主人、遄(はやく)申付置(まうしおきつけ)たれば、これ、着更(きかへ)せらるべし。」
迚、上着・下着・袴(はかま)・帶(おび)、其餘(そのほか)、懷袋(ふところぶくろ)、扇子(せんす)等(など)まで、一切(いつさい)そろへ、皆、もと着(ちやく)せしより、遙(はるか)に品(しな)まさりたる物を與(あた)へたり。
孫兵衞も、愕然(がくぜん)として老侯(らうこう)の奇策に伏(ふく)したり。
是より、又、一夕(いちゆう)、出(いで)たるに、これも、水うちの折(をり)なれば、此度(このたび)は、世に謂ふ『酢(す)を買(か)ふ』心(こころ)にて、わざと、水銃の筒先(つつさき)などに立囘(たちまは)りても、一向(いつかう)に、とり合ふ者も、なし。
たまりかねて、
「さあ、つき給へ、つき給へ。」[やぶちゃん注:原文では『さあつき給へ々々』で前後の文に繋がってあるが、表記上、異様になるので、踊り字を正字で示した。]
と云(いひ)ければ、やがて、如ㇾ前(まへのごとく)、さんざんにつきける故(ゆゑ)、わざと十分に濡(ぬれ)て、
『又、賜物(たまもの)や、あらん。』
と勝手に至(いた)りて見れども、何一つ、無く、人も、居(をら)ざる體(てい)にて、大(おほい)に望(のぞみ)を失(うしな)ひ、空(むな)しく歸りし、と云ふ。
侯の氣象(きしやう)、かくの如きこと、多かりし、となり。
■やぶちゃんの呟き
「松平一心齋」「備前岡山侯。内藏頭治政、一心齋は退隱後の稱。」備前岡山藩五代藩主で、岡山藩池田家宗家七代の池田治政(いけだはるまさ 寛延三(一七五〇)年~文政元(一八一九)年)のこと。詳細は当該ウィキを見られたいが、そこに、『治政は老中・松平定信が行なった、倹約や統制を主とした寛政の改革に反対し、豪勢な大名行列を編成して江戸に参勤した。このため、江戸市民は「越中(定信の官位)が越されぬ山が二つある。京で中山(中山愛親)、備前岡山(治政のこと)」という落首を詠んだという。治政は定信失脚後の翌年に45歳で隠居しているが、これは定信の後継者として幕政を主導していた松平信明の報復を受けたためとされている』とあり、さらに『隠居後は、島津重豪(薩摩藩隠居)や徳川治済(一橋徳川家隠居)らと交流があった』。『天明4年(1784年)、盗賊田舎小僧新助が岡山藩邸に忍び込んだ際、寝所で寝ていた治政に発見された。治政は家臣も呼ばず、自ら鉄の鞭を振るって追い回し、新助は夜闇に紛れて辛うじて逃げ延びた。翌年に捕えられた新助は、この時ほど慌てたことも恐ろしかったこともないと供述している』とある。なかなかに、剛毅にして型破りな大名であった。なお、ここで、彼は「松平」姓を名のっているが、これについては、ウィキにもないけれども、サイト「家族のルーツ」の「岡山藩家臣のご先祖調べ」の解説の中に、『池田家は池田輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた忠継・忠雄の家系であることから、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され』、『親藩に準ずる家格を与えられたといいます』とあることで氷解した。さらに、以上に続いて、『池田光政は陽明学者熊沢蕃山を登用し、先駆けて岡山藩藩学を開校し、庶民のための学校閑谷学校も開いています。そのほか新田開発・治水事業で成果をあげ、水戸の徳川光圀・会津の保科正之とともに江戸初期の3名君として称されています。』とあり、相応の知識人でもあったことが判る。なお、静山は、十歳年下であるが、同時代人であり、面識があった。静山が本書を書き始めた時期には、光政は隠居していたが、存命であった。反骨であり、静山好みの人物という気がする。
「大鼓打」二〇一〇年十一月に「岡山市デジタルミュージアム」で行われた『池田家文庫絵図展「絵図にみる中国四国地方の城下町」』のパンフレット(PDF)の8ページの「9 松平新太郎宛松平宮内書状」に、因幡鳥取藩主であった時の『池田光政が、能を演じたこと』が記されていたことから、光政は自身が、能楽師を雇っていたことが判るので、この「孫兵衞」とは、その囃子方(はやしかた)の太鼓方(たいこかた)の人物であることが推定される。
「懷袋(ふところぶくろ)」は私が勝手に読みを附したのだが、所持する小学館「日本国語大辞典」には載らず、他の辞書、及び、ネットの検索でも、この読みは出てこない。しかし、この訓読以外にはしっくりこないので、敢えて振った。これは、江戸時代、懐に入れていた「紙入れ」のことであろうと思われる。これは、当時、鼻紙だけでなく、金銭・鼻紙・薬品・爪楊枝などを入れて持ち歩く入れ物(札入れ・財布)である。濡れては、一番、困る貴重品を入れていたのである。この読み以外に相応しい読み方があれば、お教え戴けると嬉しい。

