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カテゴリー「「甲子夜話」」の240件の記事

2021/07/26

甲子夜話卷之六 五十四 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事

 

6―54 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事

松平出羽守隱居、南海と稱せしは、茶事に名高く、且學者の人なり。出入の坊主衆某も、茶事に達したるを以て、常に懇遇なりしが、或時某が別宅へ日を訂して茶讌に赴んと、南海約せられければ、茅屋の光輝これに過ずとて、某善で諾す。その別宅は東山の根岸にありける。其日に及び、約期違はず南海訪問せられしに、門も鎖し住居も閉戶して塵も拂はず。從臣門番人へ尋れば、一向に知らずと答ふ。從臣の中一人、かねて某が茶室に至りし者ありて、自ら路次に入りて見れば、蛛網樹枝に纏ひ、通行すべきやうも無し。扨は日を誤訂したることよとて、君臣とも興を醒して、門を出行く。この時、小路の橫徑より、某蓑笠の形にて網を肩に掛け、從僕兩三、大なる桶を荷ひ來り、南海を見てこはいかにと云ふに、相共に驚き、今其宅に至り、しかじかなれば歸る所なりと云。某恐懼して、今朝より荒河へ鯉打んとて罷りしが、生憎不獵にて遲刻し、無興なりしことを頻りに陳謝し、何とぞもとの宅地に戾り玉へと乞へば、南海も止事を得ず、さらばとて立返らる。某先に立案内して、今度はかねてありし住居より、畑を越、遙か奧にて、樹竹生茂れる蔭に、新に設たる路次へぞ案内しける。飛石は新らしき土俵を以て、おもしろく道を取り、手水所は白木の湯桶にて、數奇屋一切新規に造作し、其席に入れば、白木の爐ぶちには釜かゝりて、はや勝手口より某茶具を持出るに、水指も建も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の今燒にて、茶を勸め、會席のときの椀も、皆陶器にて土器蓋、膳盆の類、悉皆白木造りにして、鯉一式の料理組なりしには、流石の南海も、意表に出て驚歎せられ、尤も興に入りしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「松平不昧【出羽守】」出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる。但し、「南海」とあるのは治郷の実父で先代藩主であった松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居後に入道した際の法号であるから、誤りである。

「坊主某」茶「坊主」の「某」(なにがし)。

「赴ん」「おもむかん」。「東洋文庫」版は『ゆか』とルビする。

「訂して」日時を取り決めて。

「茶讌」「ちやえん」。茶の会を設け、打ち解けて寛いで語り合うそれを指す。

「東山の根岸」「とうざんのねぎし」。現在の東京都台東区根岸(グーグル・マップ・データ)。「東山」は、江戸時代、ここは武蔵国豊島郡金杉村の一部であったが、正保三(一六四六)年に東叡山寛永寺領となったことによる。また、ウィキの「根岸台東区によれば、金杉村の中央以南の地の字名(あざめい)は、旧村の南部を「根岸」とし、西北及び新田部分を「杉ノ崎」、東北を「中村」、そのさらに東北を「大塚」と分けて呼んだが、「根岸」が最も南側に当たるため、江戸では、これらの四つの地を纏めて「根岸」と呼んだ、とある。

「尋れば」「たづぬれば」。

「蛛網」「くも(の)あみ」。

「橫徑」「よこみち」。

「其宅」「そこたく」。そなたの屋敷。

「荒河」荒川。

「鯉打ん」「こひ、うたん」。

「無興」(ぶきやう)「なりしこと」は、不興な思いをさせてしまったこと。

「止事を得ず」「やむことをえず」。

「某先に立案内して」「某(なにがし)、先に立ち、案内して」。

「畑を越」「はたをこえ」。

「手水所」「てうづ(ちょうず)どころ」。手を洗うそれ。

「建」「けん」、茶道具の建水(けんすい)。茶碗を清めたり、温めたりしたときに使った湯や水を捨てるための入れ物。「こぼし」とも呼ぶ。形状は筒型・桶型・壺型・碗型などさまざまであるが、湯を捨てやすいよう、口は大きく開いているものが殆んどである。

も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の

「今燒」「いまやき」。広義には、古い伝統的なものや骨董の名品に対して、新しく焼かれた焼き物の謂いで、茶の湯では、歴史的には利休時代の「楽焼き」などを指すものの、慶長年間(一五九六年~一六一五年)には、茶入れ・黒茶碗・香合なども「今焼き」と呼ばれた。ここは、妙に御大層な逸品というわけでなく、各地の新しいもので、原義でよかろう。寧ろ、構える感じになる名器などでないところが、逆に気をつかうことなく、楽しく楽しめることを不昧は喜んだのであろう。

「土器蓋」「どきふた」か。素朴な素焼きの椀物などに被せてある蓋。

「悉皆」「ことごとく、みな」。

「料理組」「れうりぐみ」。献立が鯉尽くしであったのである。

2021/06/17

甲子夜話卷之六 33 又、彌五右衞門の事

6―33 又、彌五右衞門の事

此彌五右衞門も一ふしある人也けり。ある時組同心使に參りたるを、扣居候樣にとて留め置、やがて自ら出て逢ひ、近頃、倅弓稽古精出し候が、御役弓の手前見たきよし申候。一矢射て見せられ候へと所望ありし。折よく其同心かねて誂たる弓鞢を、途中より取りて懷中に有しかば、其まゝ射て見せけるに、彌五右衞門手を拍て、さすが御役弓勤ほど有て鞢も用意ありしとて、誠に感賞し、有合の袴地とり出して同心に與へしと也。この頃の卸先手衆、いかにも人物の揃ひたる事ども也き。

■やぶちゃんの呟き

 うん! 何とも言えず、いい話だな! 好きだな!

「又、彌五右衞門の事」前の「6-32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事」を受けたもの。

「扣居候樣に」「ひかへをりさふらふやうに」。

「倅」「せがれ」。

「御役」「おやく」。「御役目」。相手を敬ってその務めを指して一人称に代えた語。先の話柄で天野は「御先手組」(先手鉄砲組・先手弓組の併称)の鉄炮頭であることが判る。そちらで出した氏家幹人「武士道とエロス」(講談社現代新書一九九五年刊)によれば、当時の弥五右衛門の屋敷は『下谷稲荷町(現在の台東区東上野三丁目の内)』とあった。「古地図 withMaFan」で調べたところ、ズバり! 上野駅直近の下谷稲荷裏手の路次の奥詰めの西側にあった。現在の下谷神社の境内地の東北の角附近である。

「誂たる」「あつらへたる」。注文しておいた。たまたま、その日、上司天野への使いに行く途中にその店があり、それを受け取って、天野の屋敷に出向いたというのである。

「弓鞢」「ゆみゆがけ」或いは「ゆみかけ」と読む。「弓懸」「弽」「韘」などとも書く。弓を射る際に、手指が痛まないようにするために用いる革製の手袋のこと。左右一対になっているものを「諸(もろ)ゆがけ」、右手(馬手)にのみ着けるものを「的ゆがけ」、右手の拇指(おやゆび)以下の三指だけに着けるものを「四掛(よつかけ)」という。参照した精選版「日本国語大辞典」に挿絵がある

「拍て」「うちて」。

「弓勤」「ゆみづとめ」。

「有合」「ありあひ」。予備として備えてあるもの。

「袴地」「はかまぢ」。袴を仕立てるための布地。

2021/05/30

甲子夜話卷之六 32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事

6ー32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事

享保十巳年までは、中の御門は御先手組、二丸銅御門は御持組、西丸御書院御番所は大番組にて護りたるよし。其頃までは臺部屋口より理御門通りは、老中方も供なしにて、卸先手當番の同心一人付きそひ、供は中御門より寺澤御門通り、理御門外へ越して、主人に從ふ例のよし。其時御先手柘植五大夫當番の日、同僚天野彌五右衞門通りしに、同心居眠してありしかば、彌五右衞門、五大夫に向ひ、其怠りを戒むべきよしを云ふ。五大夫心付の忝を謝し、扨其邊は老中さへ供なしに往來ある所を、貴殿當番にもなく、なにゆゑ通られ候や。組のものも、頭の同僚ゆゑ見とがめもいたしがたく、眠りたるふりを致したるも難ㇾ計候。重ては妄りに通られまじくと、にがにがしく申て、後に組のものをばひそかに戒おきけるとかや。

■やぶちゃんの呟き

「御先手組」先手鉄砲組・先手弓組の併称。寛永九(一六三二)年に鉄砲十五組、弓十組の計二十五組と定めたが、後に二十八組(鉄砲二十組、弓八組)となった。江戸城内外の警衛・将軍出向の際の警固・市中の火付盗賊改などに当たった。

「柘植五太夫」織田(柘植)正信(つげまさのぶ ?~宝永四(一七〇九)年)。五大夫・隠岐守。

「天野彌五右衞門」天野弥五右衛門長重(元和七(一六二一)年~宝永二(一七〇五)年)。「思忠志集」の筆者。氏家幹人「武士道とエロス」(講談社現代新書一九九五年刊)で私はよく知っている。それによれば、貞享四(一六八七)年で御歳六十七、先手鉄炮頭(てっぽうがしら)を務めた旗本(知行二千五百石)であったとある。

「享保十巳年」享保十年乙巳(きのとみ)。一七二五年。

「中の御門」大手中ノ御門。個人サイトと思われる「城郭」内にある、「江戸城本丸図」の「中之門」であろう。

「二丸銅」(あかがね)「御門」同前の「銅門」(あかがねもん)。

「御持組」(おもちぐみ)は将軍直衛の弓・鉄砲隊。持筒組と持弓組があり、前者は鉄砲隊。時代によって増減するが、寛永九年で持筒組四組・持弓組三組。

「西丸御書院御番所」同前の「冠木御門」か。

「大番組」老中配下。江戸城・大坂城・京都二条城及び江戸市中を交代で警備した。

「臺部屋口」よく判らない。本丸東側にある台所に通じる通路のことか。先の地図では東側に「石之間」というのがある。

「理御門」「うづみごもん」。これは通常は固有名詞ではなく、城郭の石垣又は土塀の下を潜る門を指すが、先の江戸城本丸図」を見ると、本丸の南端の「富士見丸」の東側に「下埋門」と「上埋門」がある。これか。

「中御門」本丸南東にある「中之門」であろう。

「寺澤御門」中之門外を南南西に六十メートルほど行った位置に「寺沢門」がある。

「其時……」以上、静山はぐちゃぐちゃ言っているが、以下のシチュエーションの舞台は「中之門」ということにある。

「心付」「こころづけ」。注意。

「忝」「かたじけなき」。

「頭」「かしら」。

「重ては」「かさねては」。

2021/03/22

甲子夜話卷之六 31 松平左近將監、日光御參宮御請の事

6―31 松平左近將監、日光御參宮御請の事

松平乘邑、加判の列となり、いまだ筆末なりしとき、一日德廟召て御前に候じければ、年來日光山御參宮の思召あり。久しく中絕せしことなれば、差支可ㇾ申や如何との御尋なり。乘邑答奉るには、御先祖樣卸參拜のことは、恐ながら御尤の義に存上候。御筋合左樣有らる當き御こと、中絕は候へども御先蹤もこれ有ゆゑ、思召立たれ差支は有間敷御答申上て、政府に退き、同列中へ、かくかくの御尋故かくかく御答申上ぬと達けり。其後御參宮のこと仰出されしに、乘邑御用掛と命ぜられ、諸般のことども取調たるとき、道中御行列の先縱、文書散佚して傳らず。人々とやかく取計かねけるに、乘邑御右筆に紙筆を執らせ、口授して行列を立たりしに、大率其坐にて鹵簿は成けるとなり。英才の敏にして決斷のするどき、此類なりと云傳へり。

■やぶちゃんの呟き

「松平左近將監」「松平乘邑」松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は大名で老中。肥前国唐津藩三代藩主・志摩国鳥羽藩主・伊勢国亀山藩主・山城国淀藩主・下総国佐倉藩初代藩主。官位は従四位下・侍従。唐津藩第二代藩主松平乗春の長男として誕生。元禄三(一六九〇)年に父の死により、家督を相続した。正徳元(一七一一)年には近江国守山に於いて朝鮮通信使の接待を行っている。享保八(一七二三)年、老中となり、下総佐倉に転封となる。以後、足掛け二十年余りに亙って、徳川吉宗の「享保の改革」を推進し、「足高の制」の提言や、勘定奉行の神尾春央(はるひで)とともに年貢の増徴や、大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集「公事方御定書」を制定し、幕府成立依頼の諸法令の集成である「御触書集成」を纏め、「太閤検地」以来の幕府の手による検地の実施などを行った。水野忠之が老中を辞任した後、老中首座となり、後期の「享保の改革」を牽引し、元文二(一七三七)年には勝手掛(かってがかり)老中となり、「金穀の出納を掌るべき旨仰をかうぶ」ることになった乗邑は、農財政の全てをも管掌することとなった。「大岡忠相日記」によれば、関東地方(じかた)御用掛の職を務めていた大岡忠相でさえも、「月番の無構(かまいなく)」(老中の月番に関わりなく)農政に関することは、全て、乗邑に報告するよう指示されている。当時は、吉宗が御側(おそば)御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。「大岡日記」によると、元文三(一七三八)年に大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を三ヶ年に渡って実施する件について、七月末日に、御用御側取次の加納久通より、許可が出たため、大岡が八月十日に勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を、一時、断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている。将軍後継問題に関しては、吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしていたが、長男の家重が後継と決定されたため、その経緯により、家重から疎んじられるようになり、延享二(一七四五)年に家重の信任の厚かった酒井忠恭(ただずみ)が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外された。同年十一月に家重が第九代将軍に就任すると、直後に老中を解任され、加増一万石も没収となり、隠居を命ぜられてしまった。次男乗祐への家督相続は許されたが、間もなく、出羽山形に転封を命ぜられた(以上はウィキの「松平乗邑」に拠った)。

「御請」「おんうけ」と読んでおく。

「加判」ここは幕府老中のこと。

「筆末」末席。

「德廟」吉宗の諡号。有徳院。

「年來」「としごろ」。

「久しく中絕せしことなれば」サイト「日本文化の入り口マガジン 和樂webのこちらの

Dyson 尚子氏の記事によれば、第四代将軍家綱を最後に日光東照宮への将軍の参拝は長く途絶えていたとある。家光の時に「日光社参」は公的行事へと格上げされており、しかも家光は実に生涯に亙って十回(九回とする説他もある)もそれを行って訪問先も増えていったという。それまでは二年に一度の割合であったのを増やした上、諸大名らも随行させた。ところが、家光のその権現様への執着が裏目に出て、参拝の規模が拡大されたために、費用の支出が半端ないものに膨れ上がってしまったのであった。そのため、逆に「日光社参」の実現が困難となり、それでも、家綱は二度、「日光社参」を執行したが、第五代将軍綱吉・第六代将軍家宣に至っては、計画だけ立ち上がったものの、幕府財政上から、すぐに頓挫した。それを実に六十五年振りに復活させたのが第八代将軍吉宗であった。享保一二(一七二七)年七月、吉宗の将軍就任から既に十一年が経過していた。そんな折り、突然、吉宗は、来年に「日光社参」を行うことを宣言し、準備に掛からせたのであった。「享保の改革」は当時の破産寸前にあった幕府財政の立て直しにあった。また、一方で、初心に帰る「諸事権現様 定め通り」という復古宣言のもとに改革が行われたのでもあった。さすれば、吉宗の「日光社参」への意欲は、家光とほぼ同じか、それ以上のものだったのかも知れない。しかし、いざ、行ってみたところが、質素倹約はどこへやらで、吉宗の「日光社参」は仰々しい大層なものとなってしまう。『当日の参加者は、譜代大名と旗本らで約』十三万三千人にも達し、『荷物を運ぶなどの仕事を行う「人足(にんそく)」が』約二十二万八千人で、合わせて実に計三十六万人にも及んだ。『人が人なら、馬の数も』もの凄く、三十二万六千頭の『馬が集められたという』。『いやいや。もっと大変なのは、参加せざるを得ない武士たちだろう。家格に応じて、付き従う家臣や武具の数が定められていたからだ。もちろん、用意するのは自腹。これを受けて賃金や物価が暴騰し、幕府からは値段の据え置きを命じる法令も出される有様。これ以外にも、街道や宿場の整備方法など、ありとあらゆる法令が乱発。これらは総称して「社参法度(しゃさんはっと)」と呼ばれている』。他に『武士以外にも涙をのんだ人たちが』いた。『ちょうど』、『農繫期と重なって困り果てたのが、農民の方々』で、『大名行列が滞りなく行われるようにと、大事な時期に街道の整備などに人手を割かれたのである。たった』一『回の通行のために、道をならして砂を敷く。街路樹は枝を切って見栄えよく。さらには、街道沿いの家屋などには修繕がなされたという。当日は』十間(約十八メートル)ごとに、『火事に備えて手桶が置かれたのだ』そうである。約十三万人の移動は想像するだに、眩暈がする。『「子(ね)の刻」、つまり午前』零『時に先頭の秋元喬房(あきもとたかふさ)が出立。そこから次々と、大名や旗本の部隊が続く。ようやく』『吉宗が、約』二千『人の親衛隊と共に城を出たのが「卯(う)の刻」。午前』六『時であ』った。さても『最後尾は松平輝貞(まつだいらてるさだ)。時刻は「巳(み)の刻」、つまり午前』十『時』で『出発するだけで』十『時間も要している』。『無事に城を出た一行は、その道中を』四『日間かけて進んでいく。なお、日光東照宮までのルートはというと』、第二『代秀忠が通ったのと同じもので』、『江戸日本橋を出て、本郷追分(ほんごうおいわけ、東京都)で、中山道(なかせんどう)と分かれる。岩淵(いわぶち、東京都)から川口(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷(はとがや、同市)、大門(だいもん、埼玉県さいたま市)と進み、岩槻城(いわつきじょう、同市)で』一『泊。幸手(さって、埼玉県幸手市)で日光街道に合流する。ここまでが「日光御成道(にっこうおなりみち)」と呼ばれる「日光社参」用のルートである。全長約』十二里三十町(約四十八キロメートル)の道のりであった。『その後、栗橋(くりはし、埼玉県久喜市)から利根川を渡って中田(茨城県古河市)へ。北上して古河城(こがじょう、同市)、宇都宮城(うつのみやじょう、栃木県宇都宮市)でそれぞれ』一『泊して、日光東照宮へ向かう。こうして』四『日目に、ようやく家康の神廟へと到着』した。『もちろん、到着後も気を抜けない。将軍が到着したらしたで、警護もやはり大変である。滞在はたったの』二『日間のみだが、領内の出入口は武士で固められ、午後』六『時半を過ぎると』、『閉門。領内の巡回のみならず、万が一のために、日光へと繋がるあらゆる主要道路が封鎖』された。『それだけではない。近くの宿場には大名や旗本が陣を置き、徳川御三家も約』十二キロメートル先に『本陣を置くほどの厳戒態勢だった』。『ただ』、『吉宗からすれば、周囲の苦労は別世界だったようで』、『日光に到着したその翌日が、ちょうど家康の命日である』四月十七日で、『吉宗は、心ゆくまで霊廟に拝礼し、目的を達成して満足げに往路を引き返した』。さて、この時、『吉宗がつぎ込んだ総額はというと』、これ、『ざっと見積もっても、この』一『回の「日光社参」で約』二十『万両以上。一両』七『万円に換算すれば、約』百四十『億円もの金額となる。質素とはほど遠い、絶叫する金額である』。『道中の利根川を渡るところだけで約』二『万両』で凡そ十四『億円』かかっている。これは、『通常なら』、『渡し船で利根川を渡る』ところを、『栗橋』と『中田』の『間に、臨時に橋が設置された』ためであった。『橋というのも「舟橋(ふなばし)」』で、『高瀬舟をズラッと並べて綱で繋ぎ、その上に板を敷くアレである。なんと繋いだ舟の数は』五十一『隻』だったという。『その上、板を何枚も重ねるだけでは足りず。当日は、馬が滑らないように板の上に白砂まで撒かれていたという』。しかも『欄干まであったというから』、『恐れ入る。もちろん、渡っている最中に揺れるなど』、『もってのほか』で、『両岸より太い綱(虎綱、とらつな)で固定された。工期に』四『ヶ月も費やしたのだが、「日光社参」の終了後に解体。なんとも、勿体ない話である』。『一体、ここまでして「日光社参」を行う必要があったのかと』、誰だって疑問に思うはず』で、『質素倹約を奨励していた当時は、どのように捉えられたのか』? 何故、『吉宗自身』、『矛盾と思わなかったのだろうか』? という素朴な疑問が生じる。『これには多くの理由が考えられる』。実は、『吉宗の将軍在位期間は約』三十『年』で、『そのうち、特に積極的な改革を推し進めたのが』、享保七(一七二〇)年から享保一五(一七三〇)年の間』で、『ちょうど』、六十五『年ぶりに「日光社参」を復活させた享保』一三(一七二八)『年は、その真っ只中の年となる』。『未だ途中ではあるが、この時点で既に自身の改革は大成功。だからこそ、莫大な費用がかかる「日光社参」も復活させることができたのだと。そう内外にアピールしたかったと考えられる』。『加えて、直系の血筋ではない』『吉宗だが、ことのほか、初代家康を尊敬する気持ちは強かったとも』言われる。『祥月命日の前日に悪夢を見ては申し訳ないと、一睡もしなかったという逸話もあるほどだ』。『そんな純粋な気持ちも、もちろんあってのことだが』、『吉宗の改革の目標は、初代家康の治世の回帰』に『加えて、家康の絶対的な権威を、直系ではない自分にそのまま引き継ぐ』という、『そんな狙いもあったのではないだろうか。家康を崇めることが、ダイレクトに自分に返ってくる。そんなしたたかなところも全く』なかった『とは言い切れない』。『しかし、それにしても』、『莫大な費用をかけ』過ぎで、『これらの理由で、そこまでの費用対効果は見込めないだろう』と、誰もがやはり感じる。『じつは、他にも理由がある。それ』は、『「日光社参」は、徳川勢力を総動員した軍事演習だったという』事実である。『江戸時代、諸藩は軍事行動が一切できず』、『軍事関係は、将軍が一手に掌握していた』。『そのため、軍事行動がなされる場合には、承認許可となる将軍の「黒印状(こくいんじょう)」が必要であった』。『今回の「日光社参」』では、『なんと、この黒印状』を以って『参加命令が出ているのである。言い換えれば、これは軍事行動にあたる』ということなのである。『そして、参加したのは、外様大名』『以外』であった。『つまり、旗本、譜代大名の徳川勢力を集結させて行われたのであ』った。『特に、戦国時代とは異なり、世は平和の時代』で、大袈裟に言えば、『馬に乗れない者や』、『草鞋』『の結び方さえ知らないという現代っ子の武士たちも』いたやも知れぬ。『平時はよいが、いざという時の避難訓練と同様』、『吉宗も軍事演習が必要だと判断したのだろう』。「徳川実紀」を見ると、『この「日光社参」に備えて、江戸城吹上(ふきあげ)にて行軍の予行演習がなされたとの記述がある。「日光社参」という名目で、戦とは無縁の生活に慣れ切った者たちに、実践とはいかないまでも、大規模な軍事演習を行ったのであ』った。こう見ると、『「日光社参」は、リスクマネジメントの』一『つといえるのかもしれない。武士』一人一人に『危機意識を持たせつつ、徳川勢力の団結を図る。同時に、これは、外様大名らの謀反の牽制となる示威行動でもあった』。『一石三鳥ほどの効果となれば、莫大な費用をかけても、お釣りがくる。頭脳明晰な』『吉宗なら、そんな計算をサクッとしたに違いない』。『最後に』。『この「日光社参」で、一番得をしたのは誰かというと』、『まさかの「罪人」』であった。『恩赦により』、実に百三十九『人の罪人が放免されたといわれている』。『武士も農民も』『準備や当日の社参で、てんてこまい。にもかかわらず、罪人が得をしたとは』、『何とも皮肉な話で』は『ある』。『皮肉といえば』、『神廟の中から、子孫の参拝を見ていた家康も』、『簡素な造り、簡素な参拝はどこへやら』『……』『きっと、目に涙をためて、言葉を失ったに違いない』と結んでおられる。Dyson 尚子氏の文章は実に楽しく読める。ちゃんと引用元でお読み戴きたい。

「御筋合」事の運びよう。

「左樣有らる當き御こと」「さやうあらるべきおんこと」。

「思召立たれ」「おぼしめちたたれ」て、それは。

「差支は有間敷御答」「さしつかへはあるまじきおんこたへ」

「政府」老中伺候の間。

「達けり」「たつしけり」。報告した。

「取計かねけるに」「とりはかりかねけるに」。具体的な行軍形態を計画しかねていたところが。

「立たりしに」「たてたりしに」。

「大率」「おほむね」。「槪ね」に同じい。

「鹵簿」「ろぼ」。儀仗 を備えた行幸・行啓や貴人の行列。

「成ける」「なりける」。口述筆記で行軍詳細は完成したのである。凄い!

2021/03/15

甲子夜話卷之六 30 婦女の便所へ行を憚りと云事

6―30 婦女の便所へ行を憚りと云事

婦女の便所へ行に、手水にゆくと云は、小用のことは避て手を洗ふと計に申成すこと、體を得たる詞也。近頃は憚りにゆくとも云。其さして云を憚る意なるべし。「左傳」襄十五年、師慧過、將ニスㇾ私セント焉。其相、朝也。慧、無ㇾ人焉。相、朝也。何ランㇾ人。注曰。私小便、師慧樂師也と記せしを以見れば、其頃も便所にゆくには、人陰にゆきて見晴の處にはあらざる故なり。ある日此事を林氏に咄合ければ、林氏云、「漢書」に更衣とあるも、便所のことを語を淸く換て云たるなり。廁へ行には冠裳等脫して入り、出て原服を着れば、もとより更衣するなり。その詞を用て聞へる[やぶちゃん注:ママ。]やうに云る文章也。又、「越絕書」には起居と云たり。起-道傍と見へて、これは泄瀉して道ばたに便せる語を換て云にぞありける。

■やぶちゃんの呟き

「手水」「てうづ」(ちょうず)。

「計」「ばかり」。

「申成す」「まうしなす」。

「體」「てい」。

「其さして云を憚る」「それ、指して云ふをはばかる」。

『「左傳」襄十五年……』「注に曰く、『私は小便なり。師慧は樂師なり。』と。」は後代の注。大修館書店「廣漢和辭典」には⑬として『ゆばり。ゆばりする』とあって、まさにこの「春秋左氏伝」のこの部分が引かれてある。但し、静山は後半の大事な部分をカットしてしまっている。以下にソリッドに示す。師慧は宋に逃げた「鄭(てい)の尉氏・司(し)氏の乱」の残党との交換交渉で、鄭から宋に護送された盲目の楽師であった。会話の相手は「相」とは障碍者である彼の扶助役(介添え役)を指す一般名詞である。

   *

 師慧過宋朝、將私焉。私、小便。其相曰、朝也。慧曰、無人焉。相曰、朝也。何故無人。慧曰、必無人焉。若猶有人、豈其以千乘之相、易淫樂之矇。必無人焉故也。子罕聞之、固請而歸之。

   *

静山の訓点は不全なので従わず、全部を我流で訓読しておく(一九八九年岩波文庫刊の小倉芳彦氏の現代語訳を一部で参考にした。注も同じ)。

   *

 師慧(しけい)、宋の朝(てう)[やぶちゃん注:朝廷。]を過ぐ。將に私(ゆばり)せんとす。其の相(しやう)の曰く、

「朝(てう)なり。」

と。慧日く、

「人、無し。」[やぶちゃん注:「人はいないからね。」。]

と。相曰く、

「朝なり。何の故に、人、無からんや。」[やぶちゃん注:反語。「宋の御殿ですぞ!?人がいないなんてありえませんよ!」。]

と。慧曰く、

「必ず、人、無からん。若(も)し、猶ほ、人、有らば、豈に、其れ、千乘の相(しやう)を以て[やぶちゃん注:立派な一国(鄭)の宰相らの要請だからと言って。]、淫樂の矇(まう)と易(か)へんや[やぶちゃん注:反語。「賤しい盲目の芸人と反乱軍のメンバーを交換するなどということがあろうはずがない」。]。必ず、人、無きが故なり。」

と。

 子罕[やぶちゃん注:宋の高官(司城職)。]、之れを聞き、固く[やぶちゃん注:宋公。]請ひて、之れ[やぶちゃん注:師慧。]を歸す。

   *

「人陰」「ひとかげ」。人から見えない場所。

「見晴」「みはらし」。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「咄合」「はなしあひ」。

「漢書」前漢の歴史を紀伝体で記した歴史書。八〇年頃成立。後漢の班固が撰し、妹の班昭らが補った。全百二十巻。後世の史書の模範とされた。

「更衣」確かに中文サイトの辞典に「便所へ行くこと」を避けるための婉曲表現とあった。

「語を淸く換て云たるなり」「ごを、きよく、かへて、いひたるなり」。

「冠裳等」「かんむり・もすそなど」。

「その詞を用て聞へる」(ママ)「やうに云る文章也」その言い換えの特定の語句を用いて、暗に解るように言った文章なのである。

「越絕書」(えつぜつしよ)は後漢初期に書かれた春秋戦国時代の呉(紀元前五八五年頃~ 紀元前四七三年)と越(紀元前六〇〇年頃~紀元前三〇六年)に関する書物。現行本は十五巻。同じく呉と越を扱った後漢の書に「呉越春秋」があり、内容も多く重なるが、成立年代は「越絶書」の方が早く、「呉越春秋」の記事の中には、この「越絶書」を元にした箇所が多くあるとされる。著者は呉越の無名の賢人とも、或いは、孔門十哲の一人子貢や呉王夫差によって遺体を辱められた悲劇の忠臣伍子胥などが挙げられている。成立年代は西暦五二年前後とされる。

「起居」「ききよ」。辞書等では確認出来なかったが、富士敬司郎氏のサイト「たまねぎ地獄」の「日本のトイレ」の「トイレの隠語」の中にあった。この章、なかなか面白いので、全部を引用させて戴く。

   《引用開始》

日本はトイレにさまざまな隠語を作ったことで知られます。ざっと挙げただけでも次のようなものがあります。

樋屋(といや)、厠(かわや)、廁(かわや)、川屋(かわや)、閑所、閑考所、隠所、装物所(よそものどころ)、鬢所(びんじょ)、便所、雪隠、雪陣、雪陳、青椿(せいちん)、惣雪隠(そうせっちん)、思按所、分別所、洗所(せんちょ)、大便所(だいへんちょ)、小便所(しょうせんちょ)、後架、更衣室、起居[やぶちゃん注:☜ここ。]、用達所、用立所、手洗、手水所(ちょうずしょ)、手水場(ちょうずば)、風呂、風呂屋、フール、せんだぶく、いきがめ、川便所、はばかり、不浄、御不浄、化粧室、山、お山、渡辺、おばさん、ばばから、つめ、遠方、杉屋、東司(とうす)、おとう(東司の隠語、皇室用語)、西浄、東浄、登司、毛司、茅司、洒浄(せんじょう)、高野山、持浄、流廁、廁院、軒、背屋、かど、WC、トイレ、etc

人前でトイレの話題を出すことがはばかられる接客業などでは、「雉(きじ)撃ちに行く」「花摘みに行く」「遠方に行く」などの言葉を使います。変わったところでは、大手百貨店Tの「仁久」というのがあります。「仁」は「4」、「久」は「~を重ねる」の意味で、つまりは「シーシー」というわけです。同じ理由で、香具師(やし)の間では「十六」と言うのが流行りました。「シーシー十六」というシャレです。

「雪隠(せっちん)」の語源については諸説あるようで、一般的には、鎌倉時代に「霊隠寺(禅宗)」の雪宝和尚が、トイレの中で大悟(さとり)を開いたことから、「霊隠寺」の「隠」、「雪宝和尚」の「雪」で「雪隠」と呼ぶようになった、という話が伝えられてますが、これには異論もあり、「青椿(せいちん)」がなまったという説もあるようです。

椿(つばき)は別名「避邪香」と呼ばれ、非常に匂いの強い植物です。また、葉も大きく、冬になってもその葉を落としません。そのため、トイレを覆い隠すのによく使われたのです。現在も旧家のトイレの周辺には、椿をはじめとする常緑樹が植えられていることが多いそうです。

「東司(とうす)」は寺院でよく使われる隠語です。禅寺のトイレが、主に東側に作られていたことからのネーミングですが、なぜか不思議なことに、北にあっても、西・南にあっても「東司」と呼ばれます。別の名で呼ぶ必要がある場合には、西は「西浄」、南は「登司」、北は「雪隠」などの呼称を使います。東側に作ることが多いのは、西側に作ると直射日光で排泄物が腐敗し、ウジが大発生することが多いからとも言われています。

   《引用終了》

「起-道傍」「道の傍らに起居(ききよ)す」。但し、「越絕書」を見てみたが、どうも見当たらない。

「泄瀉」(せつしや)は通常は下痢・腹下(はらくだ)しを謂う。

甲子夜話卷之六 29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事

6-29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事

此時は、勘定奉行の松本伊豆守、赤井越前守など云輩も、互の贈遺冨盛を極たり。京人形一箱の贈物などは、京より歌妓を買取て、麗服を着させ、それを箱に入て、上書を人形としたるなりしとぞ。又豆州、夏月は蚊幬を廊下通りより、左右の小室幾間も、隔なく往來するやうに造り、每室に妾を臥さしめ、夜中いづれの室に至るにも、幬中になるやうに設けたりしとかや。又子息の中に、癇症にて雨の音を嫌ものありしとて、屋上に架を作り、天幕を張ること幾間と云を知らず、雨の音を防しとなり。其奢侈想像すべし。

■やぶちゃんの呟き

「同時」前条の同時期を受けた謂い。

「松本伊豆守」松本秀持(享保一五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)は幕臣。通称は十郎兵衛、伊豆守。代々、天守番を務める身分の低い家柄であったが、老中田沼意次に才を認められて勘定方に抜擢され、明和三(一七六六)年に勘定組頭、後に勘定吟味役となり、安永八(一七七九)年、勘定奉行に就任して五百石の知行を受けた。天明二(一七八二)年からは田安家家老も兼帯した。下総国の印旛沼及び手賀沼干拓などの事業や、天明期の経済政策を行った。また、田沼意次に仙台藩江戸詰医師工藤平助(私がブログ・カテゴリを作っている優れた女流文学者であった只野真葛の実父)の「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査について上申し、本邦初の二回に及ぶ公式の調査隊を派遣した。それを受けて蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明六(一七八六)年の田沼意次の失脚(八月から十月)により、頓挫した上、同年閏十月には、田沼失脚に絡み、小普請に落とされ、逼塞となった。さらに「越後買米事件」の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった(天明八(一七八八)年五月に赦された)。

「赤井越前守」赤井忠皛(ただあきら 享保一二(一七二七)年~寛政二(一七九〇)年)天明二年に京都町奉行から勘定奉行となり、田沼意次の下で財務を担当したが、田沼の失脚とともに西丸留守居となった。

「富驕」「ふきやう」。

「冨盛」「ふせい」。

「極たり」「きはめたり」。

「贈物」「ざうもつ」と音読みしておく。

「買取て」「かひとりて」。

「上書」「うはがき」。

「人形としたるなりしとぞ」気持ち悪!

「豆州」「づしう」。

「蚊幬」「かや」。蚊帳に同じい。「幬」は「帳」に同じく「とばり」の意。

「廊下通り」「らうかどほり」。廊下にさえ隙間なく張り巡らしたのである。

「小室」「こしつ」。

「幾間」「いくま」。

「隔なく」「へだてなく」。

「每室に」「へやごとに」と返って訓じておく。

「妾」「せう」。側室。

「幬中」「ちうちゆう」。「かやうち」と訓じたくはなる。

「嫌もの」「きらふ者」。

「架」「たな」と訓じておく。

「幾間」「いくけん」。

「防し」「ふせぎし」。

「奢侈」「しやし」(しゃし)。度を過ぎて贅沢なこと。身分不相応に金を費やすこと。

甲子夜話卷之六 28 田沼氏權勢のとき諸家贈遺の次第

6-28 田沼氏權勢のとき諸家贈遺の次第

田沼氏の盛なりしときは、諸家の贈遺樣々に心を盡したることどもなりき。中秋の月宴に、島臺、輕臺を始め負劣らじと趣向したる中に、或家の進物は、小なる靑竹藍に、活潑にして大鱚七八計、些少の野蔬をあしらひ、靑柚一つ、家彫萩薄の柄の小刀にてその柚を貫きたり【家彫は後藤氏の所ㇾ彫。世の名品。其價數十金に當る。】。又某家のは、いと大なる竹籠に、しび二尾なり。此二つは類無しとて興になりたりと云。又田氏中暑にて臥したるとき、候問の使价、此節は何を翫び給ふやと訊ふ。菖盆を枕邊に置て見られ候と用人答しより、二三日の間、諸家各色の石菖を大小と無く持込、大なる坐敷二計は透間も無く並べたてゝ、取扱にもあぐみしと云。その頃の風儀如ㇾ此ぞありける。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏」田沼意次(享保四(一七一九)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の幕府老中。父田沼意行(もとゆき)は紀州藩の足軽で、徳川吉宗に従って江戸に入り、幕臣となった。意次は十五歳で西の丸附き小姓として仕え、元文二(一七三七)年に主殿頭(とのものかみ)、宝暦元(一七五一)年には御側御用取次となった。第九代将軍徳川家重の隠居後、第十代将軍家治の信任を得、明和四(一七六七)年七月に側用人に進み、一橋家や大奥との関係を深めて勢力を固めた。遠江相良(五万七千石)に城を築き、老中格として専横の振舞いがあったことから、家治の没後、領地も削られ、失脚した。世に「田沼時代」として知られる彼である。

「贈遺」(この「遺」は「贈る」に同じい)物品を贈ること。また、その物品。

「島臺」(しまだい)は客の接待や婚礼の儀などに用いる飾りの「台の物」。古くは「島形」と称し、蓬莱を象った島形や洲浜(吉祥の意味を持った置物。屈曲する海岸線の状態を表現した、ほぼ楕円形の板に、短い脚を付け、上に岩木・花鳥などを飾る。平安時代に流行したが,後世は上の飾りを省略して酒杯・肴などを置く形となった)形などがある。台上に肴を盛り,祝儀には松竹梅・鶴亀・尉(じょう)・姥(うば)を配して飾りとする。本来、古くに宮中などで草合(くさあわあせ:「合わせ物」遊戯の一種。五月五日の節供に、種々の草を採り集めて、その種類や優劣を競った。宮廷でも行われ、負けると衣服を脱いで、勝った者に与える風習があったとされる。鎌倉時代も子供の遊戯として残ったが、その後に衰えた。「競狩(きおいがり)」「闘草」(中国名由来)「草尽くし」とも称する)・花合(もとは平安時代の貴族の間で流行した「桜合」などにように、単に花を持ち寄り、左右に分かれてその優劣を競う遊びであったが、やがてこれに歌も詠み添えられるようになり、「歌合」の遊戯と結びつくに至ったもの。室町時代の記録には「七夕法楽」の「花合」のことがしばしば見られるが、これが華道の成立の淵源の一つとなったとされる)・根合(端午の節供などで左右に分かれて菖蒲(しょうぶ)の根の長短を比べ合い、歌などを詠んで勝負を決したもの。様々の意匠を凝らし、州浜などに飾りなどして出した。「菖蒲根合」「菖蒲合」とも呼んだ)など歌合の遊戯の際、その合せ物を載せたものという。

「輕臺」(しまだい)不詳。「島台」を簡略・軽量化したものか。

「負劣らじ」「まけじおとらじ」。

「靑竹藍」「あをだけかご」。

「活潑」活きのいい。

「大鱚」「おほぎす」。大型個体のスズキ目キス科キス属シロギス Sillago japonica 或いはそれによく似たアオギス Sillago parvisquamis も挙げてよいだろう。私の大和本草卷之十三 魚之下 きすご (シロギス・アオギス・クラカケトラギス・トラギス)」を参照されたい。

「計」「ばかり」。

「野蔬」「やそ」。野菜。

「靑柚」「あをゆず」。

「家彫」(いへぼり)は装剣金工細工の中でも、後藤派の彫った鐔(つば)や小道具などの総称。民間の町彫(まちぼり)に対する名称。後藤家は初代祐乗(ゆうじょう)以来、歴代の将軍家に抱えられ、装剣金工の制作に当たった家系で、江戸時代以降、将軍家を始めとして大名が正装する場合は、後藤派の制作になる装飾金具で刀剣を飾るのが定例であった。

「萩薄」「はぎ・すすき」。

「小刀」「さすが」。

「所ㇾ彫」「彫る所(ところ)」。

「しび」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnusの海水魚の中・大型個体の総称。クロマグロ・キハダ・メバチ・ビンナガなどが含まれ、これでは限定は出来ない。私の「大和本草卷之十三 魚之下 シビ (マグロ類)」を参照されたい。

「二尾」「にび」。

「類無し」「たぐひなし」。

「中暑」「ちゆうしよ」。「暑気中(あた)り」のこと。

「候問」「こうもん」。病中見舞い。

「使价」「しかい」。使者。「价」も「使」に同じい。

「翫び」「もてあそび」。楽しんで。

「訊ふ」「とふ」。

「菖盆」「しやうぼん」。ショウブ(菖蒲。狭義には単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. ensata )を植え込んだ盆栽。アヤメ・ショウブ・カキツバタの識別法は私の「北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たはむれ」の「菖蒲」の私の注を参照されたい。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。多年草。北海道を除く日本各地に自生し、谷川などの流れに沿って生える。庭園の水辺などにもよく植えられる。全体はショウブをごく細くした感じで、同じ芳香もあるが、各部が小型で、根茎は細くて硬く、葉も細く、幅は一センチメートルほど、長さ二十~五十センチメートルの線形を成し、ショウブと異なり、中肋が目立たない。四~五月頃、葉に似た花茎を出し、中ほどに淡黄色の細長い肉穂花序をつける。グーグル画像検索「Acorus gramineus」をリンクさせておく

「大なる坐敷二計」「おほきなるざしきふたつばかり」。

「透間」「すきま」。

甲子夜話卷之六 27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事

6―27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事

○、酒井讚岐守忠勝は、猷廟羣臣を捐玉ひし後、每月御忌に當る日、一室を淨掃し、沐浴齋戒し、麻上下を着して、自ら樣々の物を備へて、其入口を閉ぢ、人の來るを許さず。或時誤りて、一人其間へ走り入りしに、讚州奠供の前に平伏してありしが、振返りて、しいしいと言て手にて制したる形狀、眞に御前にある樣子なりしとなり。家來中密々語り合て、皆其至誠を感じけるとなん。

■やぶちゃんの呟き

「酒井忠勝」(天正一五(一五八七)年:三河~寛文二(一六六二)年:江戸)は当初は後に第二代将軍となる徳川秀忠の家臣。徳川家康家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子。入道して空印と号した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に徳川秀忠に従って出陣した同十四年に讃岐守となり,同 十九年、下総国で三千石を領し、元和八(一六二二)年には七千石を加増されて深谷城主となった。寛永元(一六二四)年、老中となって二万石を加え、同三年には武蔵国忍(おし)藩五万石に封じられた。翌四年、同国川越で八万石、同九年に十万石で従四位下・侍従となり、同十一年には若狭国小浜十二万三千石に封ぜられた。同十五年、大老、翌年、左少将に昇任、明暦二(一六五六)年致仕。「日本王代一覧」・「日本帝王系図」などの編纂物がある。

「大猷院廟」さんざん既出の第三代将軍徳川家光の諡号。家光の没したのは慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)。

「羣臣を捐玉ひし後」「羣」は底本のママ。「捐玉ひし」は「すてたまひし」。主君の死を言う。

「奠供」「てんぐ・でんぐ」。供物を手づから伝え渡して仏前に供えること及びその儀式・祭壇・仏壇。

「しいしい」感動詞「しい」を重ねた語。強く制止する時に発する語。転じて、貴人の出入り・通行などの先払いの際に発する警蹕(けいひつ)の語として知られ、更に、現行の「しっ!」ように静かにするように促す時に発する語となった。言わずもがなだが、ここは原義の用法。

2021/02/18

甲子夜話卷之六 26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓

 

6-26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓

誠嶽君【諱、誠信。肥前守。】、淸に謂給ひしは、

「我は御代替の誓詞を、兩度まで、老職の邸にて、爲たり。其時、坐席に小刀を用意してあるが、其小刀にて指を刺せば、出血、こゝろよからずして、血判、あざやかならず。因て、大なる針を能く磨き、懷中して、是にて其事を遂たり。又、豫め、膏藥を懷にし、事、畢れば、乃、これをつけたり。」

と、の給ひたる故に、淸も當御代替の誓詞のときは、誨の如く、針を以て指を刺たるに、快く血出て、血判の表も、恥しからざりし。

 其席を退きて、血流、止らざりければ、卽、右を以て、用意したる膏藥を疵口につけたれば、血止りぬ。慈敎、かたじけなきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「誠嶽君」(せいがくくん)「諱」(いみな)「誠信」「肥前守」松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)。肥前国平戸藩第八代藩主。従五位下・肥前守。本書の筆者同第九代藩主静山(本名・清(きよし))の祖父。静山の父は誠信の三男政信で宝暦七(一七五七)年に兄で嫡子であった邦が早逝したため、代わって嫡子となったが、彼も結局、家督を継ぐことなく、明和八(一七七一)年に三十七歳で亡くなってしまったことから、祖父の命によってその長男であった清が嫡子となった。因みに、静山(清)の十一女愛子は中山忠能に嫁し、慶子を産んだが、この慶子は明治天皇の母であるから、静山は実は明治天皇の曾祖父なのである。

「御代替」「おだひがはり」。

「兩度」実子政信に譲るために事前に書き置いのが一度、静山に譲るために二度ということであろう。

「淸も當御代替の誓詞のとき」静山は文化三(一八〇六)年、数え四十七で三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した。なお、本書はそれから十五年後の文政四(一八二一)年十一月甲子の日(十一月十六日:グレゴリオ暦十二月十日)の夜に執筆を開始したことが、書名の由来とする。

「誨」「をしへ」。

「血流」「けつりゆう」。

「慈敎」「じきやう」。

2020/11/27

甲子夜話卷之六 25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事

 

6-25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事

享保中、御醫師望月三英、河原者の市川團十郞が重病を治療し、効驗ありしとて人々沙汰せしを、橘收仙院が、御脈をも診奉るものゝ有まじき事とて詰りしかば、三英申は、醫治の事に於ては、乞食非人といふとも、求るもの有時は藥を與へ候心得のよしを答たりしとぞ。後御聽に入り、尤のよし御諚ありしと也。近頃は、官醫は貴人の治療のみするやうに心得るもの多し。これらの事知る人も稀なるにや。

■やぶちゃんの呟き

「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「御毉」「おんい」。「毉」は「醫」と同義とし、「醫」の異体字ともするが、本来はこの字は巫術による医療、シャーマンのそれを表わしたものに由来する字形とも思われる。

「望月三英」(もちづきさんえい 元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の医師で、名は乗、号は鹿門。讃岐国丸亀藩の医者雷山の子。江戸生まれ。儒学を服部南郭、医学を父に学んだ。享保一一(一七二六)年に表御番医師(おもてごばんいし:若年寄配下で殿中表方に体調不良者が出た際に診療に当たった)となり、やがて奥医師(若年寄配下で江戸城奥に住まいする将軍及びその家族の診療を行った。殆んどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった)・法眼(ほうげん:僧位のそれに倣って医者・儒者・絵師・連歌師などに授けられた敬称)に叙せられた。博学と医療技術の高さゆえに将軍徳川吉宗に愛され。衣類・乗物など、全てに朱色(江戸時代は表向きは将軍家を表象する禁色(きんじき)であった)を許されたという。野呂元丈・今大路元勲(八代目道三)らとともに唱えたその「古方書学」は、ドグマに満ちた吉益東洞流などと異なり、広く古医書(蘭書・和医方を含む)を読み、経験に鑑みる総合的な医学であった。「江戸古方」として京坂のそれと区別すべきその医学は、「医官玄稿」・「又玄余草」(ゆうげんよそう)などの彼の著書の中によく記されてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「河原者」「かはらもの」。中世以降の賤民の差別呼称。由来は、河原などの町村落の境界域の課税されない土地に追いやられて住み、牛馬の屠畜や各種芸能などを以って生業としていた人々であったが、中には村落共同体から半ば放逐された手工業者なども含まれており、総合的には中世の民衆文化の主要な柱となっていた。しかし、身分・職業・居住地などで差別を受け、江戸時代になると、農村の周辺域に定着させられ、かく呼ばれた被差別者も多かったが、門付を含む大道芸人・旅役者はもとより、歌舞伎役者などの広義の芸能従事者にも、この卑称が長く用いられ、社会の差別認識による自己の有意措定の構造を支えた差別用語として、「河原乞食」などとも呼ばれ、現代までもその差別語の亡霊は生きている。次の注の後半の引用も参照のこと。

「市川團十郞」二代目市川團十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。彼のウィキによれば、初代の息子で、元禄一〇(一六九七)年、中村座の「兵根元曾我」(つわものこんげんそが)で初舞台を踏み、元禄一七(一七〇四)年の父の横死(市村座にて「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年四十五であた。半六は逮捕されたものの、動機を語らぬまま、獄死した。一説に半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である)に『よって山村座で二代目を襲名するが、力不足で悩む』十七『歳の二代目を庇護したのは当時の名優』『生島新五郎だった』(「江島生島事件」の中心人物で、大島に遠島となった。また、父を殺した生島半六の師匠でもあった)。『その頃の歌舞伎は穢多頭・弾左衛門の支配下に置かれていた』が、宝永五(一七〇八)年、京から来た傀儡師(糸からくりの人形を扱った芸人)小林新助が、弾左衛門の興行支配権行使を拒否し、彼の指示を受けた暴徒が興行に乱入、妨害されたことをお上に訴えたところ、『江戸町奉行は歌舞伎と傀儡師の支配権を弾左衛門から剥奪』した。『二代目は被差別民からの独立を果たした喜びから、小林が記録した訴訟の顛末を元に』「勝扇子」(かちおうぎ)を著し、代々伝えたという』。正徳三(一七一三)年、山村座の「花館愛護桜」(はなやかたあいごのさくら)で『助六を初じめて勤めたころから』、『徐々に劇壇に足場を築き、人気を得るようにな』り、翌正徳四年の「江島生島事件」でも『軽い処分で免れ』(本件事件との直接関与は実際は殆んどなかった)、『江戸歌舞伎の第一人者へと成長』、享保六(一七二一)年には、『給金が年千両となり』、所謂、『「千両役者」と呼ばれる』ようになった。享保二〇(一七三五)年に、『門弟で養子の市川升五郎に團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵を襲名』したとある。享保の終わりの一年ほどは、三代目となるが、まあ、二代目であろう。

「橘收仙院」私の「耳囊 卷之三 橘氏狂歌の事」に「橘宗仙院」という名が出、そこで私は、『岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の』橘元孝(もとたか 寛文四(一六六四)年~延享四(一七四七)年)の『線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職』と記した人物と考えてよい。「收」(底本は「収」)と「宗」は歴史的仮名遣では「しふ」と「しゆう」だが、当時の口語でも既に同発音であったろうから、漢字を誤ったものであろう。

「診奉るもの」「みたてまつる」。

「詰りしかば」「なじりしかば」。「詰る」は「過失や悪い点などを責めて非難する」の意。

「申は」「まうすは」。

「後」「のち」

「御聽」将軍吉宗公の御耳。

「尤」「もつとも」。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」貴人・主君の仰せ。

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