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カテゴリー「「甲子夜話」」の276件の記事

2022/09/19

フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧・記号も用いた。標題の「明ずの間」は以下の本文に従って「あけずのま」と読んでおく。]

 

22―28

大阪の御城内、御城代の居所の中に、「明けずの間」とて、有り、となり。此處《このところ》、大《おほい》なる廊下の側《かたはら》にあり。こゝは、五月落城のときより、閉《とざ》したるまゝにて、今に一度もひらきたること、なし、と云《いふ》。因て、代々のことなれば、若《も》し、戶に損じあれば、版《いた》を以て、これを補ひ、開かざることと、なし置《おけ》けり。此《ここ》は、落城のとき、宮中婦女の生害《しやうがい》せし所、となり。かゝる故か、後、尙、その幽魂、のこりて、こゝに入る者あれば、必ず、變殃《へんわう》を爲すこと、あり。又、其前なる廊下に臥す者ありても、亦、怪異のことに遇ふ、となり。觀世新九郞の弟宗三郞、かの家伎《かぎ》のことに因て、稻葉丹州、御城代たりしとき、從ひ往《ゆき》たり。或日、丹州の宴席に侍《じし》て、披酒[やぶちゃん注:ママ。「被酒(ひしゆ)」(酒を飲むこと)の誤判読か誤字と思う。]し、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、彼《かの》廊下に醉臥《すゐぐわ》せり。明日《みやうじつ》、丹州、問《とひて》曰く、「昨夜、怪《あやしき》こと、なきや。」と。宗三郞、「不覺。」のよしを答ふ。丹州、曰《いはく》、「さらば、よし。こゝは、若《もし》、臥す者あれば、かくかくの變、あり。汝、元來、此ことを不ㇾ知《しらず》。因て、冥靈《めいりやう》も免《ゆる》す所あらん。」と、云はれければ、宗三《さうざ》、聞《きき》て始《はじめ》て怖れ、戰慄《ふるへおののき》、居《を》る所をしらず、と。又、宗三、物語しは、「天氣、快晴せしとき、かの室の戶の透間《すきま》より窺《うかが》ひ覦《み》れば、其おくに、蚊帳《かや》と覺しきもの、半《なかば》は、はづし、半は、鈎《かぎ》にかゝりたるもの、ほのかに見ゆ。又、半揷《はんざふ》の如きもの、其餘の器物どもの、取ちらしたる體《てい》に見ゆ。然れども、數年《すねん》、久《ひさし》く、陰閉《いんぺい》の所ゆゑ、たゞ其狀《さま》を察するのみ。」と。何《い》かにも、身毛《みのけ》だてる話なり。又、聞く、「御城代某侯、其威權を以て、こゝを開きしこと有しに、忽《たちまち》、狂を發しられて、止《やみ》たり。」と。誰《たれ》にてか有けん。此こと、林子《りんし》に話せば、大咲《おほわらひ》して曰《いはく》、「今の坂城《はんじやう》は豐臣氏の舊《もと》に非ず。偃武《えんぶ》の後《のち》に築改《きづきあらため》られぬ。まして、厦屋《かをく》の類《たぐひ》は、勿論、皆、後の物なり。總て世にかゝる造說《ざうせつ》の實《まこと》らしきこと、多きものなり。其城代たる人も、舊事《きうじ》、詮索なければ、徒《いたづら》に齊東野人《せいとうやじん》の語を信じて傳《つたふ》ること、氣の毒千萬なり。」と云《いふ》。林氏の說、又、勿論なり。然《しかれ》ども、世には、意外の實跡も有り。又、暗記の言《げん》は的證とも爲しがたきなり。故に、こゝに兩端を叩《たたき》て、後定《こうぢやう》を竢《まつ》。

■やぶちゃんの呟き

「五月落城のとき」言わずもがな、「大坂夏の陣」。慶長二〇(一六一五)年五月八日、大坂城は落城、豊臣秀頼は母淀君とともに城内で自害した。

「觀世新九郞」能の小鼓方(ここの「家伎」はそれ)の流派名。

「稻葉丹州」稲葉正諶(まさのぶ 寛延二(一七四九)年~文化三(一八〇六)年)。従五位下丹後守。享和二(一八〇一)年十月十九日に大坂城代に就任し、文化元(一八〇四)年一月二十三日に京都所司代に転任、従四位下侍従となっている。彼は「寛政の改革」にも加わっている。

「半揷《はんざふ》」現代仮名遣「はんぞう」。「はざふ(はぞう)」等とも呼び、「𤭯」「楾」「匜」等の漢字もある。湯水を注ぐのに用いる器で、柄のある片口の水瓶であり、柄の中を湯水が通るようにしてある。その柄の半分が器の中に挿し込まれてあるところから、この名称がつけられた。

「林子《りんし》」お馴染みの、静山の盟友である儒者林述斎(はやしじゅっさい)。

「偃武」天下泰平。

「厦屋」大きな建造物や家屋内の作り物や調度具。

「造說」根拠のないことを言いふらすこと。

「舊事、詮索なければ」そのような古いことは、調べようがないことであるから。

「齊東野人」物の道理を知らない田舎者。人を軽蔑していう語。「孟子」の「万章(ばんしょう)上」に基づく。「斉東」は斉(せい)国の東の辺境で、「野人」は「田舎者」の卑語。

2022/09/18

フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

30―20

世に云ふ。姬路の城中に「ヲサカベ」と云《いふ》妖魅《えうみ》あり。城中に年久《としひさし》く住《すめ》りと云ふ。或云《あるいは、いふ》。天守櫓《てんしゆやぐら》の上層に居《ゐ》て、常に、人の入ることを、嫌ふ。年《とし》に一度《ひとたび》、其城主のみ、これに、対面す。其餘《そのよ》は、人、怯《おそ》れて不ㇾ登《のぼらず》。城主、対面する時、妖、其形を現《あらは》すに、老婆なり、と傳ふ。予、過《すぎ》し年、雅樂頭忠以朝臣《うたのかみただざね》に此事を問《とひ》たれば、「成程、世には然云《しかいふ》なれど、天守の上、別に替《かは》ること、なし。常に上る者も有り。然れども、器物を置《おく》に、不便《ふべん》なれば、何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に、昔より、日丸の付《つき》たる胴丸、壱つ、あり。是のみなり。」と語られき。其後、己酉《つちのととり/きいう》の東覲《とうきん》、姫路に一宿せし時、宿主《やどぬし》に、又、このこと問《とは》せければ、「城中に左樣のことも侍り。此處にては『ヲサカベ』とは不ㇾ言《いはず》、『ハッテンドウ』と申す。天守櫓の脇に此祠《やしろ》有り。社僧ありて、其神に事《つか》ふ。城主も尊仰《そんぎやう》せらるゝ。」とぞ【寛政「東行筆記」。是予所嘗錄下倣ㇾ此。】。

■やぶちゃんの呟き

「ヲサカベ」通常は漢字では「刑部姬」と表記される。「朝日日本歴史人物事典」の宮田登先生の解説によれば(コンマを読点に代えた)、『兵庫県の姫路城の天守閣に祭られている城の地主神といわれる。伝説では、天守閣に棲む妖怪とみなされる老女であり、築城の際に人柱となった女の変化とみられている。各地の人柱伝説では、築城や架橋の際に女性が埋められ、のちに神に祭られたと説明されている。刑部姫がいるという天守閣には、人は近づいてはならないとされ、ただ年に』一『回だけ、城主が対面を許されたという。築城以前に、この地域が聖地であり、土地の神が、そのまま地主神として、城の守護神に昇化したが、その霊異が強調されて禁忌が成立したと推察される。おさかべは、このあたりでは青大将(蛇)をさしており、原型は大蛇が地主神として崇拝されたものである』とある。

「雅樂頭忠以朝臣」播磨姫路藩第二代藩主酒井忠以(宝暦五(一七五六)年~寛政二(一七九〇)年)。

「己酉」天明九・寛政元(一七八九)年。「甲子夜話」で清(静山)自身の記録で、正確なクレジットが示されるのは、それほど多くはない。これは特異点の一つである。数え三十歳の時で、彼は安永四(一七七五)年二月、祖父誠信(さねのぶ)の隠居により、家督を相続している。

「ハッテンドウ」「ドウ」の表記にはちょっと問題があるが(会話だから仕方がない)、これは伝承に従えば、「八天堂(はつてんだう)」である。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「姫山の地主神」に、姫路城築城を、実務上、指揮したのは池田輝政(永禄七(一五六五)年~慶長一八(一六一三)年)であるが、その『池田家では、鬼門』『にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされて』おり、これに『関しては』、『史料がある』として、『小野市歓喜院(おのしかんぎいん)と多可町円満寺(たかちょうえんまんじ)には、「播磨のあるじ」を名乗る天狗が輝政にあてた書状と言われるものや、それにまつわる記録類が残されているのである』とあり、『この書状は』、『城内に寺院を建てよ』、『と輝政に要請するもので、慶長』一四(一六〇九)年十二『月と、現在の天守閣が完成したばかりのころの年代がついている。この書状は』、一旦は、『城内で発見され、直ちに輝政にも見せられたが、その時は黙殺された、という』。『しかし、その』二『年後、輝政が病』い『に倒れた。池田家では、円満寺の明覚(みょうかく)を招いて祈祷を行わせたが、その最中に、先の天狗の書状が』、『あらためて藩士から提出された。明覚は、この書状が要求するとおりに寺院を建立することを勧めたので、池田家では、鬼門(きもん)にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされている』。『さらにこの』頃、『輝政の病』いは、『城が建っている姫山(ひめやま)の地主神(じぬしがみ)である長壁神(おさかべがみ)のたたりだ、との噂も流れていたという。長壁神は、もともとは姫山の上にまつられていたが、羽柴秀吉』『の姫路築城にともなって、城下の播磨総社(そうしゃ)に移されていた。そこで池田家では、長壁神社をも城内にまつり直した、とされている』とある。なお、引用元では、「諸国百物語」の中の関連怪談の二話を名指しのみしているが、それは私の「諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事」と、「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」で既に電子化注してあるので、読まれたい。

「東覲」参勤交代のこと。それ自体を「參覲交代」とも書いた。「覲」は「御目見えする」ことを指す。

『寛政「東行筆記」。是予所嘗錄下倣ㇾ此。』清(静山)は若き日より、筆記魔で、多くの記録を残している。これは寛政期の参勤交代の行き来に記したもの。後の部分は、「是れ、予が嘗つて錄せる所の下(か)」(条下)「に此れを倣(なら)ふ。」である。

フライング単発 甲子夜話卷之五十九 5 加藤淸正の故邸

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

59―5

鳥羽侯【稻垣氏。】の邸《やしき》は麹町八丁目にありて、伯母光照《かうしやう》夫人、こゝに坐《おは》せしゆゑ、予、中年の頃までは、屢々、此邸に往《ゆ》けり。邸の裏道を隔《へだて》て、向《むかひ》は彥根侯【井伊氏。】の中莊《なかやしき》にして、高崖《たかきがけ》の上に、大《おほい》なる屋、見ゆ。「千疊鋪《せんじやうじき》」と、人、云ふ。又、云ふ。「この屋は、以前、加藤淸正の邸なりし時のものにて、屋瓦《やねがはら》の面には、その家紋、圓中《まるのなか》に桔梗花《ききやう》を出《いだ》せり。」と。又、この「千疊鋪」の天井に、乘物を【駕籠《かご》を云《いふ》】。釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。」。或は云。「淸正の妻の屍《しかばね》を容れてあり。」。或は云。「この中、妖怪、ゐて、時として、内より戶を開くを見るに、老婆の形なる者、見ゆ。」と。數人《すにん》の所ㇾ話《はなすところ》、この如し。然るに、その後、彼《かの》莊、火災の爲に、類燒して、「千疊鋪」も烏有《ういう》となれり。定めて、天井の乘物も焚亡《ふんばう》せしならん。妖も鬼も、倶に、三界、火宅なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伯母光照夫人」調べたところ、志摩国鳥羽藩二代藩主(鳥羽藩稲垣家六代)稲垣昭央(てるなか 享保一六(一七三一)年~寛政二(一七九〇)年)の正室は松浦誠信(さねのぶ)の娘で、院号を光照院という。誠信は、長男の邦(くにし)の死後、後継者を三男政信と定めていたが、その政信は明和八(一七七一)年に、やはり、父に先立って死去したため、嫡孫である政信の子の清(静山)を後継者として定めたので、事実上は大伯母であるが、実質的な家督嗣子の関係からは「伯母」と称して問題ない。

「淸正の妻」当該ウィキを見ると、山崎片家娘を正室とし、他に継室の清浄院、側室に本覚院・浄光院・正応院の名が見える。

2022/09/17

フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

26―15

或人曰《いはく》、「大阪の御城代某侯【名は不ㇾ聞りし。】、初て彼地に赴かれしとき、御城中の寢處は、前職より、誰《たれ》も寢ざる所と云傳《いひつたへ》たるを、この侯は心剛《かう》なる人にて、入城の夜、その所にねられしが、夜更《よふけ》て便所にゆかん迚《とて》、手燭《てしよく》をともし、障子をあけたれば、大男の山伏、平伏して居《ゐ》たり。侯、驚きもせず、山伏に、『手燭を持《もち》て、便所の導《みちびき》せよ。』と云はれたれば、山伏、不性《ふしやう》げに立《たち》て、案内して便所に到る。侯、中に入《いり》て良《やや》久しく居て出《いで》たるに、山伏、猶、居たるゆゑ、侯、『手水《てうづ》をかけよ。』と云はれたれば、山伏、乃《すなはち》、水をかけたり。侯、又、手燭を持《もた》せて、寢處へ還られ、夫《それ》より、快《こころよ》く臥《ふさ》れし。然るに、後《のち》、三夜《みや》の程は、同じかりしかど、夫よりは出《いで》ずなりし。」と。總じて、世の怪物も、大抵、その由る所あるものなるが、この怪は何の變化せしにや、人、その由を知らず。又、此侯は、本多大和守忠堯と云はれしの奧方、相良《さがら》氏【舍侯の息女。】、後、榮壽院と稱せし夫人の從弟にてありける。此話も、この相良氏の物語られしを、正く傳聞す。

■やぶちゃんの呟き

「本多大和守忠堯」(ほんだただとう 元文二(一七三七)年~宝暦一一(一七六一)年)は江戸中期の大名。播磨国山崎藩第四代藩主。官位は従五位下・大和守。本多政信系本多家第五代。

「奧方、相良氏【舍侯の息女。】」忠堯の正室於鷹は肥後国人吉藩第六代藩主相良長在(ながあり/ながあきら 元禄一六(一七〇三)年~元文三(一七三八)年)の娘。

2022/09/05

フライング単発 甲子夜話卷之十八 11 鳶の妻於よしの事

 

[以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠の「女性に於る猥褻の文身」(いれずみ)に必要となったため、急遽、電子化する。今回は特異的に読点と記号を追加し、やや読み難いと思われる語句については、推定で《 》により歴史的仮名遣で読みを附した。こういう姐さん、私は好きだ。]

 

18―11

或人の話しに、湯嶋に鳶者《とびのもの》の妻、名を「よし」と云《いふ》ありしが、寡婦《やもめ》となりて、任俠を以て聞へたり。其一事をいはゞ、湯嶋の劇場《しばゐ》に、狂人ありて、刀を拔《ぬき》て振《ふり》まわし[やぶちゃん注:ママ。]、人皆《ひとみな》、手に合はずと聞《きき》て、「我、これを取るべし。」とて、衣を脫ぎ、まる裸になり、ずかずかと、狂人の傍《かたはら》に寄り、「何をなさる。」と云へば、狂人、あきれて立《たち》たるを、其手を執《とり》て、刀を取《とり》あげ、事、穩《おだやか》に濟《すま》せしとなり。此婦、陰戶《ほと》の傍に、蟹の橫行《わうかう》して、入らんとする形をほり、入墨に爲《し》たり、と。凡《およそ》、豪氣、此《この》類《たぐひ》なり[やぶちゃん注:「比類」の誤字かとも思ったが、南方熊楠も、こう引いている。]。三十年前計《ばかり》のことにて、其婦《をんな》を目擊せし人の言《いひ》し。膚《はだへ》、白く、容顏、殊に美艷なりし、とぞ。かの亡夫の配下なりし鳶ども、强性者《がうじやうもの》多かりしが、皆、此婦に隨從して、指圖を受け、一言、云者も、なかりし、となり。

2022/08/25

フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の滝沢馬琴「兎園小説余録」に必要となったため、急遽、電子化する。今回は特異的に注は必要と思われるものを文中・文末に入れ、読点と記号を追加し、やや読み難いと思われる語句については、推定で《 》により歴史的仮名遣で読みを附した。一部でブラウザの不具合を考え、底本の文字列の位置・配置を変えた。ポイント落ちは必ずしも全部は再現していない。文書等の切れ目は一行空けた。

 本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。当該ウィキによれば、この日、『西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、ついに』、『鬱憤』、『これを抑えることができず、本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の』三『人を殿中において斬り殺し、間部源十郎および神尾五郎三郎の』二『人には傷を負わせ(間部は深手により翌日』(翌々日とも)『に死亡)』(但し、間部源十郎については、以下の資料や、彼のウィキの「間部詮芳」(あきふさ。本名)を見るに、ずっと以前に死んでいるという説や、事件後、生きていることになっていたり、甚だ不審がある)、『自らは自刃し果てた』。『事件発生後に直接の上司である酒井山城守を交えて、事件を隠蔽する工作が行われ』、『目付は正式な見分書には死者が出た事を記載せず、後の保身のために真実を記した文書を封印文書として作成した。本丸から来た侍医は』、『死亡者を危篤状態と偽るために外科的工作と虚偽報告するように頼まれ、一旦は拒んだものの』、『これに従った。血で染まった』二十『畳の畳は深夜のうちに取り替えられた。加藤曳尾庵の』「我衣」に『よれば、外記が大奥に務める伯母に鬱憤を吐露した遺言ともいえる書き置きを渡していたため、大奥を通じて事件が露見したという』。『時の老中』『水野忠成が厳重詮議を行い、殺害された』三『人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡された。なお、松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許された』。処分者は殺害された三名、及び、外記の父、また、隠蔽工作をした上役連中を含め、実に十三人に及んだ(引用元にリストと処分内容有り。実際には以下を読むと、その隠蔽に関わった(医師などは、無理矢理、関わされた感が強い)者や、刃傷沙汰を知りながら、それを制止・捕縛をしなかったとされた不作為犯も含めると、恐らくはその倍以上の者が何らかの処分を受けていることが判る)。『事件の詮議は』「西丸御書院番酒井山城守組松平外記及刃傷致自害神尾五郞三郞外二拾壱人御詮議吟味一件」に『まとめられている。この史料によれば、松平外記は普段は几帳面で神経質、普段は穏やかだが』、『癇性が強く、人付き合いが下手な人物だったと証言されている』。『また、西丸書院番の酒井山城守組は、古株による新参者へのいじめで有名な職場だった。着任早々に外記の父松平頼母の後押しによって、追鳥狩で勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢されるが、慣習を無視したこの人事によって』、『古株の反感を一身に浴びることとなった』。『追鳥狩の予行演習に遅刻した外記は重大な落ち度として責められ、拍子木役を辞退し』、『病気療養として自宅に引き籠もった。追鳥狩の翌日から職場復帰したが、古株からの嫌がらせや面罵は収まらず』、遂にこの仕儀に至ったのであった。『事件の顛末は瓦版で報じられ、落書も数多く作られた。市井の人々は』、『外記を取り押さえる事も出来ず、凶刃から逃げ惑った旗本の不甲斐なさを物笑いの種とした』。『この事件は曲亭馬琴』の「兎園小說餘錄」にも以下の通り、『収められ、歌舞伎狂言にもなった。大正時代には須藤南翠が小説化している』。『宮崎成身の雑録』「視聽草」に『よれば、事件から』七『か月後』、『昌平坂学問所で外記の模倣犯ともいえる事件が発生して』おり、『乱心し』て、三『人を殺傷した狩野軍兵衛は日頃から松平忠寛の仕業を賛美し、事件発生時も千代田の刃傷事件の書き付けを懐に所持していたという』とある。

 また、やや重複するが、ウィキの「松平忠寛」も引いておくと、『桜井松平家の庶流』(第七代忠頼の次男忠直が旗本となって、彼の次男忠治が分家し、さらにその忠治の次男忠輝が分家したできた家)である『松平頼母』(たのも)『忠順』(「ただまさ」か)『の子として』生まれた。『始めは内記と称し、後に外記と改め』た。第十一代将軍『徳川家斉に仕え』、文化八(一八一一)年に『書院番士、蔵米三百俵』となった。『弓術、馬術に長じ、廉直にして剛毅であることから』、『同輩に忌み妬まれた』。『当時、旗本の風紀は大いに乱れ、番士のなかでも新人』と『古参の区別は厳しく、新参者は奴隷のように酷使虐待されていた。その中で忠寛は、常に己が正義と信じるところを主張し、いささかも屈することがないので、ますます憎まれた』。文政六(一八二三)年四月、『駒場野の鳥狩にあたって非常な侮辱を被り』、それからほどなく、『同僚の本多伊織忠重、間部源十郎詮芳、沼間左京、戸田彦之進、神尾五郎三郎を殺傷し、切腹した』。『池田吉十郎、小尾友之進など』、『その場に居合わせた者は周章狼狽し、逃げ隠れ、殿中は大騒動であった。忠寛が部屋住であったため、父』『忠順は職を免じられたが』、『改易されず、忠寛の子の栄太郎が家を相続した。被害者』や関係責任者『らは免職、改易などされ、家禄は削減、あるいは没収など処罰を受けた。その後、番士の風紀は引き締まった。この事件は世間に喧伝され、文学、演劇などの素材となった』。『戒名は歸元院隨譽即證不退』とある。

 以下に見る通り、凄絶な「イジめ」が齎した最悪の事件であった。この「甲子夜話」の記録は、当該事件の原資料に当たっていて、馬琴の記事よりも遙かに細部が示されているばかりか、刃傷に及んだ松平外記の直接の上司が、前代未聞の殿中刃傷事件(結果的には三名が死亡し、一名が外傷を負い、外記は殿中のその場で自害した)を内輪で胡麻化そうとして、幕医らまで巻き込んで、死者を生きていたという噓の上申をした過程さえも、はっきりと暴露されているのが、これ、モノ凄い(逆にそのために同内容の文書が続くという、ややかったるい箇所もあるにはある)。それにしても、――上司から文書を改竄を強要させられ、良心に恥じて自殺された善人を出していながら、墨塗りし、平気の平左で官僚の事件を誤魔化す、どこかの国の、クソ汚ねえ官僚の嘘つき金魚の糞連中より――遙かに正統に捜査し、正当にして極めて厳しい処断をしているぜよ!

 

43―21 西城御書院番、刃傷一件

今年四月廿二日、西城にて、御書院番の松平外記と云《いへ》るが、部屋にて、相番《あひばん》三人を斬殺《きりころ》し、二人に、深手、負はせ、己《おのれ》は自殺してける。是に由《よつ》て、世上、種々の風說なれど、孰《いずれ》か實《まこと》なる、知《しる》べからず。因《よつて》、始に雜聞を擧《あげ》て、終に御裁許の條々を錄す。

[やぶちゃん注:「今年四月廿二日」文政六年癸未。グレゴリオ暦一八二三年六月一日。]

 

外記は西方御小納戶賴母《たのも》、總領、年廿一なり。切られしは、本田伊織、年五十八。戶田彥之進、淸水御用人嘉十郞、總領、年三十二。沼間右京、廿一。この三人は卽死せしとぞ。深手は間部源七郞、年五十八。神尾五郞三郞、年三十。外記が脇指は「村正」にて有《あり》しと。世傳ふ。この鍛冶《かぢ》は御當家に不吉なりと。然るに又、かゝることの生ぜしも不思議なり。外記、自刄せしの狀は、二階を下り、庭に出《いで》、腹、一文字に切り、鋒《きつさき》を口に含み、うつ伏になりて死せりと云。一《いつ》は、柱に倚《より》かかりて、自ら咽を剌《さし》て絕せりと云ふ。孰れか是なるや。又、本田伊織が切られしは、部屋の二階に何か書《かき》て居たるに、外記、立寄《たちより》て、刀を振上ると見へしが、はや、首は向《むかふ》に落《おち》たりとなり。五郞三郞は逃去《にげさり》て逐《お》はれ、臀《しり》を切られたりとぞ。又、この刄傷《にんじやう》の起りは、御場《おば》の騎馬に、外記、年、若けれども、撰ばれしを、年かさなる者、猜《そね》みて、御場演習のとき、不都合なること有しかば、其ときは、病と稱して御場を勤めざりしことを含みしと云。又、外記が、腹、切《きり》たる一說に、腹、切て、咽をかゝんと爲《せ》しが、血、柄《つか》につき、手、滑《ぬめ》なりしかば、立《たち》あがり、衣のすそを割取《さきとり》て、柄にまとひ、咽を刺たりと云。又、この番衆の部屋は、坊主衆の部屋の向《むかひ》にて、隔《へだて》に板塀あり。某と云《いふ》小坊主、見ゐたるに、何か騷動の音なりしが、やがて、外記、血刀を提《さげ》て、椽《えん》に出で、手水鉢の水を吞《のみ》たり。小坊主は、懼《おそろ》しく覺たれば、かの塀の戶口を〆《しめ》たり。其後は知らず、と。諺に「惡事千里」と。この一件、都下一般のとり沙汰《ざた》なれど、理外なるは、廿三日の晝前、朝川鼎《あさかはかなへ》が宅に、杉戶宿より、田夫、來り、玄關に腰をかけ居《をり》、何か話すを聞けば、この騷ぎのことなり。鼎、思ふには、『前日、哺時後《ひぐれどきあと》のことなるに、九里餘、行程ある杉戶の者、翌晝前に、かく話すこと、不審なり。』と、立出て、その田夫に「何《いか》かに。」と問《とひ》たれば、「其ときの書付など、持《もち》ゐたり。」となり。又、御小姓組なる某の示せしもの、有り。「他組のこと成《な》れど、實記にや。」と、左に寫す。

[やぶちゃん注:「御場」冒頭で引用した中の『駒場野の追鳥狩』で、駒場野は現在の東京都目黒区駒場で、江戸時代の将軍の鷹狩場。広さは約十六万坪もあった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下注なしは同じ)。戦前の「今昔マップ」も添えておく。「御場」は「御拳場」(おこぶしば)或いは「御留場」(おとめば)の略で、前者は、将軍が、自ら、拳に鷹をすえて狩りをする猟場の意であり、後者は一般人の立ち入りを止めていたのの意か、厳重な禁猟区で鳥を嚇すことさえも禁止されていた。

「朝川鼎」は儒学者朝川善庵(天明元(一七八一)年~嘉永二(一八四九)年)。鼎は本名。字は五鼎(ごけい)。当該ウィキによれば、本篇の著者『平戸藩主』『松浦氏を初めとして津藩主・藤堂氏や大村藩主』『大村氏などの大名が門人となり』、江戸本所の小泉町』(現在の墨田区両国二~四丁目相当。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版 尾張屋版 本所絵図 本所絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく)『に私塾を開いていた。

「杉戶宿」(すぎとじゅく)は江戸日本橋から五番目の奥州街道・日光街道の宿場町。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町にあった。]

 

    四月廿二日夕七時前

手負 高千五百五拾石【西丸御書院番、酒井山城守組。】

          間部《まなべ》源十郞

      宿赤坂三河臺   未四十八

  ひよめき、はすに三寸程、深さ壱寸

  五分程の疵、一ケ所。右の手首、竪

  (たて)に四寸程、深さ弐、三分程

  之疵、一ケ所。同所、大指の脇、弐

  寸程之そぎ疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「夕七時」(ゆふななつどき)不定時法で午後四時半過ぎ頃か。

「宿」「しゆく」と音読みしておく。屋敷。

「未四十八」「未」は本年(干支)のことで、数え年。

「ひよめき」本来は「乳児の頭の前頂部の骨と骨との間の隙間」を指す。

「三寸」約九センチメートル。

「壱寸五分程」約四センチ五ミリ。

「四寸程」約十二センチ。

「弐、三分程」約六~九ミリ。

「大指」「おやゆび」。

「弐寸」六センチ。]

手負 高千五百石 同   神尾五郞三郞

      宿椛町貳丁目谷  未三十

  尻こぶた、橫に三寸程、深さ五、六

  分程之疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「尻こぶた」「尻臀」。尻の左右に分かれた肉付きの豊かな部分。

「五、六分程」約一・五~一・八センチ。]

卽死 高三百俵 同 【式部御用人、可十郞、總領】

              戶田彥之進

      宿小日向冷水番所   未三十二

  かたより、ゑりへかけ、はすに一尺

  三、四寸、深さ二寸程の疵、一ケ所。

  尻こぶた、二寸程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺三、四寸」約三十九~四十二センチ。]

卽死 高八百石   同    沼間右京

      宿新道壹番町     未三十二

  右の頰の下、咽《のど》え、かけ、

  五寸程、深さ、七、八分程の疵、一

  ケ所。右の手、ひぢの下、竪に三寸

  程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「五寸程」約十五センチ。

「七、八分程」約二・一~二・四センチ。]

卽死 高八百石   同    本多伊織

      宿北本所津輕西門前南角 未五十八

  耳のわきより、あばら迄、はすに一

  尺二、三寸程の深疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺二、三寸」約三十六~三十九センチ。]

自殺 高三百俵   同 【西丸御小納戶、賴母總領。】

      宿築地小田原町  松平外記

  咽に、突疵、一ケ所。腹に、突疵、一ケ所。

或曰。この外記が自盡せしときは、腹に突《つき》たてし刀、あまり深くして引𢌞すこと、能はず。乃《すなはち》、ぬきて、咽に突たてたれど、死せず。因て、刀をぬきて、席《たた》みに置《おき》たるとき、卽ち、死せり、となり。又、外記の脇指は「村正」に非ずして、關打《せきうちの》平造《ひらづくり》の者にして、一尺三寸なりし、と云。又、一人、厠に居《をり》しを、外記、戶を開き見て、「其《そこ》もとには、遺恨なし。」迚《とて》、そのまゝ立去りながら、「掛金を外よりかけて行たれば、内より出ること能はず、こまりたり。」となり。

[やぶちゃん注:「築地小田原町」厳密には「築地南小田原町(つきぢみなみおだはらちやう)」が正しい。現在の中央区築地六丁目・七丁目(グーグル・マップ・データ)。築地本願寺の裏手にして聖路加国際病院の南西並びで、今の勝鬨橋附近の隅田川右岸に当たる。

「一尺三寸」約三十九センチ。]

 

 十月九日於堀田攝津守殿御宅仰渡候之寫

    申渡之覺

          西丸御書院番頭 酒井山城守

                  名代 高木右京

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而《て》、本多伊織、沼間右京、戶田彥之進者《は》、卽死、間部源十郞者、深手に而《て》倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候、神尾五郞三郞迄、御番所え、走出、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品《しな》能取繕《よくとりつくろひ》、僞《いつはり》之儀、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、爲ㇾ泊《とまりのため》罷出、大久保六郞右衞門より承り候はゞ、早速、遂見分、御目付、申談取斗可ㇾ申《とりはからひまをすべき》處、大病人之由、相違《さうい》之儀、宜《よろしく》、新庄鹿之助え、申、鹿之助より及催促候而も、有躰《ありてい》之儀、不申達、常躰《つねのてい》病人に可旨、數原《すはら》玄忠え、打合候儀は無ㇾ之由申聞候得共、度々、容躰書《ようだいがき》も爲引替候由、玄忠者、申立、終夜、疵人《きずびと》之療養も不ㇾ加、其分に打過在候者、右程之變事を内分に取斗度《とりはからひたき》心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立候段、彼是、如何之次第《いかがのしだい》、不束《ふつつか》之事候。依ㇾ之、御役御免、差扣《さしつかへ》被仰付者也。

[やぶちゃん注「堀田攝津守」は当時の若年寄(堅田藩藩主)堀田正敦(まさあつ)。

「差扣」江戸時代の刑罰の一つ。公家・武士の職務上の過失、又、その家来や親族に不祥事があった際、出仕を禁じ、自邸に謹慎させることを言う。無論、これは最終的な処罰ではなく、審議途中の臨時刑に過ぎない。

 以下、殆んど同一内容の文書が、二通、示されるが、これは別な複数の人物によって内容が厳重に再検証されているのであり、逆にその精度が資料として、いや高まる。]

 

          同組頭 大久保六郞右衞門

              名代 本多鍵太郞

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而、本多伊織、川間右京、戸田彥之助は卽死、問部源十郞者、深手に而倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候神尾五郞三郞迄、御番所え、走、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品能取繕、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、中之口部屋に罷候事に候得共、最初より樣子も及ㇾ承ㇾ申處、手負人之容躰、數原玄忠え、爲ㇾ見《みせ》ながら、最初より不ㇾ殘、病人之由、或者、壱人、自殺、外者、病氣之旨、御目付え、申達、容躰書も、度々、玄忠より爲引替、終夜、疵人之療養も不ㇾ加、其分に打過候者、右程之變事を内分に取斗度心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立罷在候段、彼是、如何之次第、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

 

           西丸御目付 新庄鹿之助

                 名代 春田四郞五郞

其方儀、當四月廿二日當番之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、組頭大久保六郞右衞門より、最初は、五、六人病人之由申聞、自殺壱人、病人、四、五人と申ㇾ之、又、山城守より者、六人共、病人之由に而、駕籠斷《ことわり》差出候得共、風聞も承り候事故、駕籠に而、差出候取斗、難ㇾ致、勘辨之上、可申聞旨、及挨拶候處、其後、度々致催促候而も、段々、及延引、至翌朝、自殺・手負之旨、申聞候に付、御本丸當番之外料《ぐわいれう》呼上之儀、申遣候由候得共、殿中不容易變事に而、風聞も承り候儀と申、殊に番顯・組頭申聞候趣も、彼是、致相違、數原玄忠、差出候容躰書も、度々、引替候上者、疑敷《うたがはしき》儀に付、不取敢、遂穿鑿見分取斗可ㇾ申處、翌朝に至迄、等閑《なほざり》に打過罷在候段、内談之趣をも致承知、其筋々之存意に令同意候之儀故と相聞、勤柄《つとめがら》に不似合始末、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

[やぶちゃん注:「外料」(現代仮名遣「げりょう」)は、底本では後文再出でも編者によるママ注記があるのだが、これは江戸時代、外科医を表わす語として普通に資料に出(「外科」の誤字ではない)、辞書にも載るので、この注記は甚だ不審である。

 

          同    阿部四郞五郞

               名代 阿部忠四郞

其方儀、當四月廿二日加泊之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、當番新庄鹿之助え、組頭大久保六郞右皆門より、五、六人急病人有ㇾ之由申聞、其後、山城守より者、大病人と而已《のみ[やぶちゃん注:二字の読み。]》申立候段及ㇾ承、鹿之助、取斗、可任置《まかせおくべく》、翌朝、自殺手負之旨、申聞候迄、等閑に打過罷在、殿中不容易變事之處、强而《しひて》病人と申張《まをしはり》候は、山城守、存寄《ぞんじより》可ㇾ有ㇾ之事に存候迚、段々、及延引候儀之旨申聞候段、如何之次第、不束之事候。依ㇾ之、御役御免被ㇾ成候。

[やぶちゃん注:「加泊」「かはく」と読んでおく。「泊りの当直をする(仕事に「加」わる)」という意味であろう。]

 

                 松 平 賴 母

                  名代 三枝傳五郞

 西丸御小納戶役、御免被ㇾ成候。

右、於堀田攝津守宅、若年寄・中・西丸共、出坐、同人申

[やぶちゃん注:刃傷に及んだ松平寛の父である。]

 

            御番醫師 數 原 玄 忠

其方儀、當四月廿二日、西丸當詐番に罷在、酒井山城守組御書院番、及刄傷候節、疵所之樣子、乍見請《みうけながら》、其筋筋之意存、離れ候儀、難申立迚、手負人之趣に、御目付え、容躰書、差出し、其後も任内談、色々、容躰書、引替、翌朝、手負・自殺之書面に相直候而も、疵人、何《いづれ》も存命之由、相違之儀、申立、御目付見分之節も同樣之書面、差出候段、不束之事候。

[やぶちゃん注:「其筋筋之意存、離れ候儀」その上司らの言い分と、事実が全く「相違」していることを。]

 

                 竹 内 英 仙

                 名代 田中俊哲

            同外料  曾 谷 伯 安

                 名代 岡本東明

                 河 島 周 庵

                 名代 古田瑞琢

                 天 野 良 運

                 名代 坂本養景

其方共儀、當四月廿二日於西丸酒井山城守組御書院番手負人之容躰見請候節、五人共、疵之淺深者、有ㇾ之候得共、存命之趣、見《これ、けんぶんし》、御目付え、申達書之内、三人は相果候儀候處、相違之儀、申聞候段、其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事と相聞、不束之事に候。

右於テ同人宅同人申渡之、御目付御手洗五郞兵衞・柴田三左衞門、相越。

[やぶちゃん注:「其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事」その上司連中の隠蔽工作の仕儀に積極的に添うように振る舞ったこと。]

 

 十月九日 西九御書院番一件落着被仰渡之控

    申渡之覺

[やぶちゃん注:ここに底本(一九七七年平凡社刊中村・中野氏校訂「東洋文庫」版)には『(〈 〉内小字は朱書――校訂者)』とある。太字に代えて差別化した。]

 

   【西九御書院番酒井山城守組】神尾五郞三郞

                     三十

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致轉寢《うたたね》罷在候處、夕七つ時過、物音に而目覺、松平外記、相番共を及二刄傷一候を乍見受捕押《とりおさへ》も不ㇾ仕、上り口之方え、披《ひら》き、後ろ疵を請《うけ》、二階より落《おち》、白衣、無刀之儘、御番所え缺出《かけいだし》、「蘇鐵之間《そてつのま》」迄、參り候段、卑怯之次第候。剩《あまつさへ》、有躰《ありてい》申立存、遁出《にげだし》候儀を押隱《おしかくし》罷在候段、旁《かたがた》不埓之至に候。依ㇾ之、改易被仰付者也。

[やぶちゃん注:只管、逃げまくった、本事件の最も武士としてあるまじき不面目の男の処分。確かに生きている関係者では、最も重い「改易」お家断絶である。

 

                 池田吉十郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階より下り、藪庄七郞と談居《だんじをり》候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚《おどろき》、白衣・無刀之儘、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出、外記を捕候心付も無ㇾ之、御襖を建、剩《あまつさへ》、井上政之助、着用之、上下・脇差、押而借請《おして、かりうけ》、漸《やうやう》、部屋裏之方より𢌞り、見屆候仕合《しあはせ》故、最早、外記、自殺に及候始末に至り候段、臆候次第に候。其上、有躰申立候而者《ては》、難相濟存じ、刻限は暮六つ時過に而、相番共六人者《は》、張番、六人者、膝代りに出、此者近藤小膳者、組顯部屋え、可シ二相越ス一と、「蘇鐵之間」迄參り候節、變事之由、卽死之者も存命之旨、相違之儀とも此者取繕申張罷在候段、御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方、殊に重立《かさねだて》、乍取扱、疵人之手當其外、不行屆取斗方、彼是、不埒之至候。依ㇾ之、御番、被召放。隱居被仰付候。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:「御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方」の「御」は将軍に対してのニュアンスであろう。]

 

                 間部源十郞

                    五十八

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に居眠罷在候處、松平外記、此者、頭上切付疊懸《きりつけ、たたみか》け、右之手首えも、疵、請《うけ》、眼中え、血、流れ入、其儘、倒れ罷候段、不意之儀と者《は》乍ㇾ申、油斷之次第、不心懸《ふこころがけ》之至《いたりに》候。依ㇾ之、御番被召放、隱居被仰付。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡したはずの間部隼人源十郎に対する処分。しかし、以上の通り、源十郎は死んでいないことになっている。不審。]

 

                 藪庄 七郞

                    五十一

                  近藤 小膳

                    五十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷在候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚、相番共、一同、御番所え、駈出、外記を取押候心付も無ㇾ之、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難ク申立テ存、取候樣、吉十郞え、相任、相違之儀ども、但々、申張罷在候始末、古くも乍ㇾ勤、別而《べつして》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入《こぶしんいり》、逼塞《ひつそく》被仰付者也。

[やぶちゃん注:「逼塞」現代仮名遣「ひっそく」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された。

 

                 長野勝次郞

                    三十三

其方儀、當四月廿二日、當番之節、爲使用部屋二階より下り候處、夕七つ時過、致物音、松平外記、及刄傷候由に而、二階之相番ども、駈下り候に付、驚、白衣・無刀之儘、相番一同、御番所え、駈出、御襖を建、吉十郞、部屋内之祿子、見屆候迄、押へ罷在候段、臆候次第、剩、事濟候後も、痔疾、差發《さしおこり》候迚、夜五時《よるいつつどき》頃迄、便所に罷在、殊に有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁《かたがた》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「夜五時頃」不定時法で午後八時半頃。]

 

                 川村淸次郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致休息候處、夕七つ時過、松平外記、不意に脇指を拔、本多伊織、戸田彥之進え、切付候に付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、駈下り、外相番共、御番所、駈出候節、出後《でおく》れ、左之手を御襖建付え、被ㇾ挾候事、難儀、葛籠重《つづらがさ》ね、有ㇾ之、側之《そばの》屛風を引寄せ、事濟候迄、其間に隱れ居候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁、不埓之至に候。依ㇾ之、御番被召放。小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「請取當番」先に当番であった者が、後の者に交代することであろう。

「葛籠重ね」竹を使って網代に縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱の積み重ねたもの。]

 

                  伊丹七之助

                    四十七

                  小尾友之進

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に休息致し罷候處、夕七つ時過、松平外記、腰物、拵《こしらへ》之咄《はなし》抔致、不意に脇差を拔、本多伊織、戶田彥之進え、切付候付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、缺下《かけお》り、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出し、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀、同樣、申候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 井上政之助

                    三十二

其方儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記、及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵請《うけ》候五郞三郞迄、御番所え、駈候に付、席《たたみ》を立、狼狽罷候段、勤番之詮《なすすべ》も無ㇾ之、剩、吉十郞、任ㇾ申、上下・脇差迄、貸遣《かしやり》、近藤小膳、着替之上下を着し、事濟候後も、部屋内に、疵人、爲心付罷在候儀、迷惑に存じ、夜五時頃迄、裏、濡椽《ぬれえん》え、出候段、彼是、臆候次第候。殊に有躰申立存じ、吉十郞、取繕候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 飯塚甲之助

                    四十八

                  堀長左衞門

                    四十二

                  橫山重三郞

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、外、相番一同、御番所え、駈出、外記を捕押候心付も無ㇾ之、吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難申立存、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、差扣被仰付者也。

                 内藤 政五郞

                    四十二

                  荒川三郞兵衞

                    三十六

                  日 向 政 吉

                    三十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵、請候五郞三郞迄、御番所え、駈出候に付、席を立、狼狽罷候段、勤番之詮も無ㇾ之、殊に有躰難申立存じ、吉十郞、取候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

 

                 曲淵大學

                   三十六

其方儀、駒場野追鳥狩《おひとりがり》に付、席下之松平外記、拍子木役に相成候を不心能存じ《こころよからずぞんじ》、宅え、外記、吹聽に參り候節、申《まをしあざわらひ》、同人宅え、寄合之節、半之助、任ㇾ申、致不參、外記、心に留候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共を、及刄傷候次第に至候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質《きせばなるたち》と存候はば、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷申成《てうろうがましくまをしなし》候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:ここ以降の複数の人物が、最後に松平外記忠寛に加えられた精神的な意味での「イジめ」の致命的一撃の張本連中であった。特に、この曲淵(まがりぶち)大学と、次の安西伊賀之助の実行犯二人によるそれこそ、外記をして刃傷に走らせたスプリング・ボードであった。外記が実は本当に殺したかった最悪の連中に、この二人は必ず含まれる。曲淵大学は、旗本で二千五十石、ここにある通り、小普請入りとなり、御役御免の上、屋敷も移転させられている。命が助かっただけでも、恩の字と思え!

 

                 安西伊賀之助

                    四十一

其方儀、駒場野追鳥狩に付、席下之外記、拍子木役に相成候を不心能存じ、同人宅寄合之節、遲刻致し、於席上、外記、心に障り候儀、申ㇾ之、鼠山《ねづみやま》稽古之節も、彼是、申嘲《まをしあざわらひ》、廉立《かどだち》候及挨拶、同人、心に留り候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共え、及刄傷候次第に至り候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質と存候上は、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷儀申成候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:「安西伊賀之助」は旗本で八百五十石。同前で、小普請入り、御役御免、屋敷も移転させられた。

「鼠山」個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。]

 

                 岡部半之助

                    四十三

其方儀、外記を、伊賀之助・大學、嘲哢致し候儀、及見聞、外記儀、「席上之者を越、拍子木役に成、心配。」之旨申聞候儀も有ㇾ之、此者、相拍子木役之儀にも候得者、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不束之事に候。

[やぶちゃん注:この岡部半之助は、外記がはっきりと心配を漏らしていることから、それなりに外記が信頼していた人物と思われる。彼は「イジめ」の不作為犯ということになる。

 

                 内田伊三郞

                    四十

                  細井吉太郞

                    二十一

                  松平九郞右衞門

                    三十

其方共儀、外記を伊賀之助・大學、致嘲哢候儀及見聞候はゞ、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不行屆《ふゆきとどきの》事に候。

[やぶちゃん注:彼ら三人も「イジめ」の助勢罪の不作為犯である。]

 

           吉十郞、總領 池田市之丞

           病氣に付、名代

                御書院版八木丹波組   三島六郞

父吉十郞儀、御番被召放、隱居被仰付、知行高之内、被ㇾ減五百石。此者え、被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは盛んに出た、現場にいて、事態収拾を小賢しい悪知恵を以って虚偽に塗り固めようとした張本人池田吉十郎の処分である。病気というのも怪しいものだが、親父さん九百石から四百石を召し上げの処分を食らった。幕閣を騙そうとしたのだから、正直、ここまでの記載を見る限り、本人を重い逼塞以上にすべきであろうと思うのだが、ウィキの「千代田の刃傷」によれば、彼は養子で三島政春(九百石)の実子とあるから、或いは、この実父が幕閣にパイプを持っていたのかも知れない。]

 

           源十郞、總領 間部隼人

                   三十一

父源十郞、御番被召放、隱居被仰付候。此者儀、家替、無相違被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡した間部隼人源十郎の子に対する処分。しかし、やはり、父源十郎は死んでいないことになっている。]

 

右之通、未十月九日於評定所大目付岩瀨伊豫守、町奉行筒井伊賀守、御目付金森甚四郞、立合ヒ、落着被候申渡書之寫。

   西丸御書院番頭え、相渡候御書取寫。

   手負、相果候に付、知行、上《あげ》り候。

           酒井山城守組 本多 伊織

   同斷に付、知行・屋敷・家作、上り候。

                  沼間 右京

   同斷に付、御切米、上り候。

                  戶田彥之進

   自殺に付、御切米、上り候。

                  松平 外記

右之通候間、可ㇾ被ㇾ得其意候。尤御勘定奉行、御普請奉行、小普請奉行え可ㇾ被ㇾ談候。

[やぶちゃん注:以上の「上り」というのは、幕府が取り上げてしまうことを指す。例えば、本多伊織(膳所藩本多家一門の本多忠豪養子)は子の右膳が事件後に家督相続をしてはいるが、米三百俵支給に減ぜられており、沼間右京は改易・絶家、戸田は、職禄米の召し上げを受け、結果的には絶家となっている。]

 

  西丸御小性組番頭え、相渡候御書取寫。

   西丸御書院番酒井山城守組

    伊織養子 大久保豐後守組 本 多 右 膳

右養父伊織、相果候に付、知行上り候。尤、右膳儀、御構《おかまひ》無ㇾ之、取米三百俵幷屋敷家作共、其儘被ㇾ下候間、其段可ㇾ被申渡候。

  未十月十日森川内膳正殿、西丸御徒士頭永田與左衞門え、御渡御書取寫。

 

       西丸御徒士頭 佐 山 左 門

當四月廿二日、松平外記、及刄傷候節、其方組當番に而、組頭鈴木伴次郞取扱方、行屆、組之者共、心懸け宜《よろしき》趣、相聞候。此段、無急度沙汰候事。

[やぶちゃん注:「無急度」「きつとなく」。緩み怠ることなく厳重に(今の状態を維持せよ)。]

 

       西丸表六尺  源  太郞

其方儀、西丸御書院松平外記儀、於御場所柄刄傷候上、致自殺候一件に付相尋候處、不埒之筋も無ㇾ之間、無ㇾ構。

右、於評定所、岩瀨伊豫守・筒井伊賀守・金森甚四郞、立合、伊豫守・伊賀守、申二渡之

 

   十月九日

  彼一件後、諸向《しよむき》へ被仰達書付

西丸御書院番松平外記、相番共を及刄傷候始末、被ㇾ掛御詮議之處、相番共、常々、嘲哢ケ間敷仕成《てうろうがましきしなり》も有ㇾ之に付、差迫亂心候樣子に相聞、變事之期《へんじのご》に至候而《いたりさふらふて》も、相番共、立候者も無ㇾ之段、不覺悟之事共に候。出勤之作法、組中も申合等は、前々度々、被仰出候趣も有ㇾ之處、兎角、心懸、等閑《なほざり》に相成、古番《こばん》之者は權高《けんだか》に我意《がい》を立《たて》、新規之者を爲ㇾ致迷惑之儀《めいわくいたさすのぎ》、組え、風儀之樣に成行候而は《なりゆきさふらうては》、如何之次第に候。向後《かうご》、御番方は不ㇾ及申に、何《いづ》れ、之《これ》、向々に而も《むきぬきにても》、非常之事有ㇾ之節、勤方、相立候樣、申合、一同、相互に致和熟、御奉公相勤ムル事、專一に心懸ㇾ申候。

右之通、向々《むきむき》え、可ㇾ被相達候。

   十月

2022/06/24

フライング単発 甲子夜話續篇卷之三十 24 大名女子の旅裝

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「子供の背守と猿」の注に必要となったため、急遽、電子化する。]

 

30-24 大名女子の旅裝

 予少年より東武往還の道中多の人の旅行にも遇しが、その行装小々の殊なることは有れど、まづは似たるものなり。備中にて薩州の息女江都に上るに遇たり。調度の長櫃幾箇も持行うち、飾著たるあり。其さま竹を立、上に又橫に結び、糸を張り、小き鼓又はくゝり猿などを下げ、竹の末三處には紅白の紙を截かけにして長く垂れたること神幣の如し。或は紅の吹貫、小幡など付たるも有り。いと華やかなることにて女子の旅裝と見ゆる者なりき【「東行筆記」。】。

■やぶちゃんの呟き

「予少年より東武往還の道中多の人の旅行にも遇」(あひ)「しが、その行装」(かうさう)「小々の殊なることは有れど、まづは似たるものなり。備中にて薩州の息女江都に上るに遇」(あひ)「たり」松浦(静山)清の父であった政信は、静山の祖父誠信の跡を継ぐはずであったが、明和八(一七七一)年八月に三十七歳で家督を継がずに早世した。宝暦十(一七六〇)年一月に江戸藩邸で生まれた清は、政信の長男であったが、側室の子であったため、それまで松浦姓を名乗れず、松山姓を称していたが、同年十月十二歳の時、祖父誠信の養嗣子となり、安永三(一七七四)年四月、将軍徳川家治に御目見し、同年十二月、従五位下・壱岐守に叙任、翌安永四年二月の祖父の隠居により、十三歳で家督を相続、同年三月、藩主としての初めての帰国許可が出ている。

「長櫃」「ながびつ」。

「幾箇」「いくこ」。

「持行」「もちゆく」。

「飾著たる」「かざりつけたる」。

「立」「たて」。

「鼓」「つつみ」。

「くゝり猿」「括り猿」。四角な布に綿を縫い込み、四隅を足として一ヶ所に集めて括り、頭をつけて猿の形に作(な)した玩具。江戸時代に流行し、「幟猿」(のぼりざる:端午の幟の下につけた括り猿。風で上下する玩具)やお守りや各種の装飾に用いた。遊郭などでは客の足止めをする咒(まじな)いにもした。

「三處」「みつどころ」。

「截かけ」「きりかけ」。

「神幣」「ごへい」と当て訓しておく。

「吹貫」「ふきぬけ」。「吹き流し」に同じ。

「小幡」「こばた」。小旗。

「東行筆記」静山の藩主時代の寛政期(一七八九年~一八〇一年)の随筆「寛政東行筆記」。

2022/06/22

フライング単発 甲子夜話續篇卷之三十五 5 河神靈面圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し(カタカナのそれは珍しい静山の振ったルビで、本篇には異様に多い)、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミングして適切と思われる位置に挿入した。下線は底本では二重右傍線である。]

 

35―5 河神靈面圖

 この春【庚寅[やぶちゃん注:文政一三(一八三〇)年。]。】も亦、與淸《ともきよ》の贈《おくる》に、

【火災・水難、祓除《はらひのぞく》。】河神靈面眞圖【武藏國多麻郡高畑不動尊別當金剛寺盛雅開眼《かいげん》。】。

 

Kasinkimen

[やぶちゃん注:この彫琢された河神霊面は現存しないようである。]

 

 諾樂(ナラ)西藥師寺は、天武天皇白鳳九年[やぶちゃん注:私年号(「日本書紀」に現われない元号)で六八〇年。]に創建たまひしより、後奈良院天皇享祿二年[やぶちゃん注:一五二九年。]まで、囘祿(ヒノワザハヒ)に罹(カヽ)れること、三度(ミタビ)なれど、天武の時の東塔(トフタフ)、長屋王(ナガヤノオホキミ)の建立(タテ)られし東金堂(トウコンダウ)【東禪院堂といふ、これ也。】及(マタハ)、佛足石碑は、災(ヒ)に免(マヌカ)れて、往昔(ムカシ)のまゝなるぞ、奇(クス)しく妙(タヘ)なるや。此東金堂の天井(テンジヤウ)の上(ウヘ)に、古き彫物(ヱリモノ)など、多く存(ノコ)れる中、鬼(オニ)神の假面(メン)ありとて、護法院の密道法師がおこせたるをみれぱ、水火の難(ナン)を祓除(ハラヒノゾク)といへる河伯《かはく》の古面(フルキカタ)なりけり。

 河伯、又は、河神《かはのかみ》といふ。

 「神代記」【上卷。】に、伊弉册尊(イザナミノミコト)川を生(ウミ)たまふとある、これ也。「仁德記」【十一年四月の條。[やぶちゃん注:機械換算で三二三年。]】に、「河伯」とも、「河神」とも書き、「神名帳《じんみやうちやう》」【下卷・「陸奧國」「亘理(ワタリ)《の》郡《こほり》」の部。】に、阿福麻河伯神社(アフクマノカハノカミノヤシロ)、「倭名類聚抄」【寶生院本・「神靈」の部。】〕に、「兼名苑」云、『河伯、一名水伯、河ナリ也【和名「加波乃賀美(かはのかみ)」。】など、みゆ。「蜻蛉日記」【附錄。】には、

はらがら(同腹兄)[やぶちゃん注:「はらがら」に対する静山に左ルビ。以下、同仕儀。]の陸奧守(長能《ながとう》)にてくだる(下向)を、長雨しけるころ(頃)、そのくだる(其下)日、はれ(晴)たりければ、かの(彼)國に「かはく(河伯)」といふ神ありとて、歌に、

〽わがくにの神のまもり(守)やそへ(添)りけんかはくけありし天つ空かな(指陸奥國)【藤原長能。】

返し、

〽かく(斯)ぞしる(知)かはく(河伯)ときけ(聞)ば君がためあまてる(天照)神の名にこそ有けれ【右大將道綱母。】

とも、よめり。

 「壒囊抄《あいなうしやう》【十の卷。】に、毘沙門(ビシヤモン)の鎧前(ヨロヒノマヘ)の鬼面(オノニメン)は河伯(カハク)面にて、大國(タイコク)の鎧具(グ)なり。佛師がカハヌといふも、河伯面(カハメ)を誤(アヤマ)れる歟(カ)。秦皇の裝束にもありて、オビクヒとよぶ。字(モジ)は「帶食」「帶頭」など、書けり。河伯は「抱朴子」・「靑金傳」などに出て、花陰潼鄕《くわいんとうきやう》の馮夷《ひようい》といふ者(モノ)、八月上《じやう》庚《かのえ》の日、河に溺死(オボレシニ)たるを、天帝、署(シル)して、「河伯」とせるよし、論(アゲツラヒ)たり。

 「魚龍河圖《ぎよりゆうかと》」【「史記」、「封禪書《ほうぜんしよ》」所ㇾ引。】・「搜神記」・「西溪叢語」・「下學集」などの說、はた、鄰(チカ)し。

 「淮南子《えなんじ》」【「氾論訓《はんろんくん》」。】には、河伯、人を溺死(シナ)しむるゆゑ、羿(ゲイ)、その左目を射(イル)といひ、「漢書」【「王尊傳」。】・「穆天子《ぼくてんし》傳」・「易林」・「續博物志」などをはじめて、所見、擧(アグル)に遑(イトマ)なし。

 花陰潼鄕隄首《ていしゆ》人にて、姓(ウヂ)「呂」、名「公子」。夫人「馮」、名夷とも。又、一人にて、姓「馮」、名「夷」、字「公子」ともいひ、「水仙」と號(ナヅク)とも、いへり。

 さて、此古面、千百餘年の神靈の物なれば、八月初(ハジメ)の庚日(カノエノヒ)、酒漿《しゆしやう》を捧(サヽゲ)て祭る人、必(カナラズ)、水火(ヒミヅ[やぶちゃん注:ママ。])の災難(ワザハヒ)を免(マヌカ)るゝこと、「易林」・「續博物志」の說にて、疑(ウタガヒ)なし。文政十二年[やぶちゃん注:一八二九年。]八月上庚九日、江戸松屋主人小山田與淸識。

■やぶちゃんの呟き

「與淸」「江戸松屋主人小山田與淸」国学者・故実家であった小山田与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)。号は松屋 (まつのや) 。江戸の高田氏の養子となり、漕運業を営み、後に隠居して小山田の本姓に復し、学問に専念した。村田春海門下であるが、漢籍にも造詣が深く、博覧を以って知られ、特に考証に力を尽した。蔵書五万巻に及び、「群書捜索目録」の編纂に心血を注いだ。平田篤胤・伴信友とともに春海・加藤千蔭以後の大家と称される。「考証随筆松屋筆記」(文化末年(一八一八)頃から弘化二年(一八四五)頃までの約三〇年間に和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在知られているものは八十四巻)は著名(概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「武藏國多麻郡高畑不動尊別當金剛寺」東京都日野市高高幡にある真言宗智山派別格本山明王院金剛寺(グーグル・マップ・データ)。「高幡不動尊」の通称で知られる。本尊は大日如来。大学生の時に訪ねた。平安時代後期の木造不動明王及び二童子像(向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)。左に制吒迦童子(せいたかどうじ)が脇侍)が重要文化財。不動堂のそれは当時の私が見惚れるほど素晴らしかった。但し、実物は奥殿にある。不動堂のものはレプリカなので注意。公式サイトの不動三尊の画像のあるページをリンクさせておく。

「盛雅」恐らくは当時の、同寺の第二十七貫主。

「天武の時の東塔(トフタフ)」事実、薬師寺東塔は創建当初から回禄などを受けず、唯一現存するもので、平城京最古の建造物とされて今にある。参照した公式サイトのページをリンクさせておく。

「長屋王(ナガヤノオホキミ)の建立(タテ)られし東金堂(トウコンダウ)【東禪院堂といふ、これ也。】現行では「東院堂」と呼ばれている。養老年間(七一七年~七二四年)に長屋王正妃であった吉備内親王が、母の元明天皇の冥福を祈って建立したもの。但し、後の弘安八(一二八五)年に正面七間・側面四間の入母屋造本瓦葺で南向きに再建され、また、建造物全体を享保一八(一七三三)年に西向きに変えている。鎌倉後期の和様仏堂の好例とされる。参照した公式サイトのページをリンクさせておく。

「佛足石碑」「仏足石」は側面の銘文により、天平勝宝五(七五三)年に作られたことが判明している。古代の仏足跡は例が少なく、この薬師寺仏足石は現存する最古の仏足跡とされる。「仏足跡歌碑」は『奈良時代に彫られた歌碑で、仏足跡への賛歌や仏教道歌』二十一『首刻まれてい』る。無論、仏足跡歌は「五七五七七七」の一首三十八文字から成る「仏足跡歌」体で詠まれているが、『この歌体は』この『仏足跡歌碑のほか』には「古事記」・「万葉集」などに『数点のこるだけで、極めて貴重で』、二十一『首はすべて万葉仮名で書かれ、奈良時代の人びとの信仰と文化の高さを今に伝えてい』るとある。孰れも国宝。参照した公式サイトのページをリンクさせておく(仏足石及び歌碑の写真もある)。

「護法院の密道法師」不詳。現在の薬師寺の塔頭にはこの名はない。

「神名帳」神社名・神名を記した名簿。「しんめいちやう」と読んでもよい。公的には特に延喜式」の巻九・巻十に載せる「神名式」の上・下を「延喜式神名帳」と呼ぶ。律令制下の官社を国・郡毎に挙げて、社格(大社・小社)・祭儀の種類を記す。二千八百六十一社・三千百三十二座に及び、記載される神社は「延喜式内社」(式内社)と呼ばれる。早く中世には写本が作られ、研究が始まっていた。

『「陸奧國」「亘理(ワタリ)《の》郡《こほり》」の部。】に、阿福麻河伯神社(アフクマノカハノカミノヤシロ)」国立国会図書館デジタルコレクションの昭和四(一九二九)年大岡山書店刊の皇典講究所・全国神職会校訂「延喜式」上巻(全二巻)の「卷十 神祇十 神名下」のここに、『安福河伯神社』とある。安福河伯神社として、宮城県亘理郡亘理町(わたりちょう)逢隈田沢(おおくまたざわ)字(あざ)堰下(せきした)に現存する。ここ当該ウィキによれば、主祭神は速秋津比売神(はやあきつひめのかみ:水神)とし、景行天皇四一(機械換算一一一)年八月六日、『日本武尊により勧請されたと伝わる。清和天皇の御世の貞観』四(八六二)年六月二十五日に『官社に列し、正五位上を授けられた。往古は旧田沢村一円が神領地に指定されていたが、天正時代に戦乱が相次いだ影響で神領地は廃絶した』。『境内の由緒書によれば、安福河伯神社は阿武隈川の治水用水・大和朝廷の北辺守護のために創建されたという。創建当初は、現在の鎮座地から東の逢隈田沢字宮原の阿武隈川のそば(常磐線の線路の西』二百メートルの『堤防下)に鎮座していた。その後、現在の鎮座地である水上山の上へ遷座されたという』。『代々の領主からも篤く崇敬され』、『寄進が行われた』とある。

『「倭名類聚抄」【寶生院本・「神靈」の部。】〕に、「兼名苑」云ク、『河伯、一名ハ水伯、河ノ神ナリ也【和名「加波乃賀美(かはのかみ)」。】』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の版本で起こす。二十巻本の巻二の「鬼神第五」「神靈類第十六」の以下である。

   *

河伯(カハノカミ) 「兼名苑」に云はく、『河伯、一(いつ)に「水伯」と云ひ、河の神なり【和名「加波乃加美(かはのかみ)」。】』と。

   *

『「蜻蛉日記」【附錄。】』これは右大将藤原道綱の母の「蜻蛉日記」本文とは全く別のもので、彼女の没後十年前後の寛弘年間(一〇〇四年~一〇一二年)に作者に所縁のある人物によって日記以外の歌を伴う断片が集められたもので、成立後に、誰かの手によって(例えば藤原定家辺りか)「日記」本文に附録されたものである。

「はらがら」親族の同胞(はらから)。

「陸奧守(長能《ながとう》)藤原長能」不審。小山田与清の附したものであろうが、所持する岩波「日本古典文学大系」版(一九五七年刊)の鈴木知太郎氏の頭注によれば、実は本当に長兄長能かどうかは実は判っていない。今一人の次兄理能(まさとう)の孰れかであるが、二人の任官は孰れも陸奥守ではなかったからである。

『かの(彼)國に「かはく(河伯)」といふ神あり』先の安福河伯神社を指す。

「指陸奥國」「陸奥(みちのく)の國を指して云ふ」。

「〽わがくにの神のまもり(守)やそへ(添)りけんかはくけありし天つ空かな」「かはく」は「河伯」に晴れ渡った門出を言祝ぐ「乾く」を掛けたもの。

「〽かく(斯)ぞしる(知)かはく(河伯)ときけ(聞)ば君がためあまてる(天照)神の名にこそ有けれ」鈴木氏の頭注に、『阿武隈の河伯の神は、君にとって天照る御神にもあたるあらたかな神の名だ。』と通釈がある。

「壒囊抄」「塵添壒囊鈔」(じんてんあいのうしょう)。単にかくも呼ぶ。十五世紀室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻十の「十七」条「毘沙門ノ鎧のノ前ニ。鬼面アリ。其名如何」である。そこでは痘瘡の流行にニラとネギとを食すことで効果があった旨の記載がある。小山田は後半に考証を認めずに記していないが、最後に、『或書云。河伯面是海若(アマノシヤク)云』とあって、河伯と天邪鬼の連関性を言う説が既にあったことが判り、興味深い。

「抱朴子」晋の道士で道教研究家の葛洪(かつこう 二八三年~三四三年)の書いた神仙思想と煉丹術に関する彼の著になる理論書。

「靑金傳」不詳。

「花陰潼鄕」「隄首」「花陰」縣は現在の陝西省内だが、以下の地名は不詳。

「馮夷」中国の神話にみえる水神。冰夷とも記す。「山海経」の「海内北経」に『馮夷は人面にして兩龍に乘る』と見え、人面魚身の河伯が黄河の神であるのに対し、馮夷は竜形の神である。司馬相如の「大人賦」(たいじんのふ)、曹植の「洛神賦」に女媧(じょか)と並称され、また郭璞(かくはく)の「江賦」に、江妃と男女神とされることもあり、南方の水神である。女媧と並称されるのは、伏羲(ふっき)から分化した水神であろう。「荘子」の「大宗師篇」には、道を得て大川に遊ぶもの、とされている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「八月上庚の日」旧暦八月の最初に「庚」となる日。

『「魚龍河圖」「ぎよゆうかと」【「史記」、「封禪書」所ㇾ引。】』原本は失われているようである。「封禪」は中国古代に帝王が行なった報天の祭儀で、最重要の秘儀とされた。「封」は天を祀る儀式で、泰山の上に土壇を設えて行い、「禪」は地神を祀るもので、麓の地で成された。秦の始皇帝が紀元前二一九年に泰山に於いて始皇帝が執行したのが始まりとされ、漢の武帝、後漢の光武帝、魏の明帝、唐の玄宗、宋の真宗ら多くの帝王によって盛大に営まれている。封禅の意義は、当初は山神・地神に不老長寿や国運の長久を祈願するところにあったが、莫大な国費を投じて行われる国家的祭儀であったため、後には、次第に帝王の威武を誇示する政治的な祭儀へと形を変えていった(主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「搜神記」四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集。

「西溪叢語」南宋の姚寛の随筆。

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的は、その語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。

「羿(ゲイ)」中国古代神話の伝説中の弓の名人。「春秋左氏伝」によると、夏王から支配権を奪って有窮国(現在の山東省地方)に君臨した羿は、狩猟に耽溺して悪政を敷いたため、家臣に殺されたとする。しかし「淮南子」では、堯帝の時、十個の太陽が同時に出たため、地上が炎熱の世界となったので、堯の命を受けた羿は、そのうちの九個を射落としたとする。また、「山海経」によれば、羿は天帝の命令によって怪物を退治するなど、民衆の苦しみを救ったとある。元来、東方民族の英雄神であったものが、後の中原(ちゅうげん)の神話の中で、巧みな弓を奢って狩猟に溺れた悪徳君主として姿を変えたものであろう。他に仙女西王母から与えられた不死の薬を、妻の恒娥に盗まれたという別伝承もあり、羿神話の体系化は困難である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「王尊傳」王尊(生没年不詳)は前漢の官僚。当該ウィキを読まれたいが、そこに紀元前二十七年頃、東郡太守であった時、『黄河で大水があり、東郡でも害を成していた。王尊は河の神を祀り、自分の身をもって洪水を鎮めようとした。民や役人が王尊を止めても』、『王尊は去ろうとせず、堤防が決壊しそうになっても微動だにしなかったが、水は次第に引いていった。この功績で王尊には中二千石の秩と黄金が与えられた』とあるのが、その記事であろう。

「穆天子傳」当該ウィキによれば、周の穆王の伝記を中心とした全六巻から成る歴史書。「周王遊行」とも呼ばれる。穆王在位五十五年間の南征北戦(外征)について詳しい。その記録は崑崙山への九万里の西征で西王母と会い、帰還後は盛姫という美人に対する情愛についての記録で終わっている。「春秋左氏伝」の歴史記述様式と異なり、穆王を中心とした描写風の随筆になっている、とある。

「易林」「焦氏易林」か。前漢の宣帝(紀元前八十年)の頃に易学者の孟喜(もうき)が「周易」に暦を配置し、弟子の焦延壽(しょうえんじゅ)が「周易」の六十四卦を累乗発展させて「四千九十六卦」とした。一卦ごとに四言絶句の詩を当てて、約七万四千字なったものがそれである(サイト「綾小路 蘭堂先生」のこちらに拠った)。

「續博物志」宋の李石が、晋の張華が著した幻想的博物書「博物志」に倣って、諸種の異聞を集め、天象・地理等の順に分類配列した書。

「八月上庚九日、江戸松屋主人小山田與淸識」与清、お洒落だねぇ!

2022/06/21

フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。四図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。]

 

65-5 福太郞の圖

 先年、領國に、あやしき版施《はんせ》のものを到來す。後、思ひ出《いで》て、是を尋索《たづねもとむ》るに、有る處を審《つまびらか》にせざりしが、この頃【乙酉《きのととり》[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年]。】、ふと篋裡《けふり》よりその故紙を獲《え》たり。その圖。

 

Kappagohu

[やぶちゃん注:護符に記されたそれは「水難除」(すいなんよけ)・「福太郎」・「疱瘡除」(はうさうよけ)。「疱瘡」は天然痘。頭部がもっさりと髪で覆われている。身体はミイラに近い感じである。]

 

 前圖に小記を添ふ。最《もつとも》鄙文《ひぶん》なれど、其旨《むね》を述ぶ。

「訓蒙圖彙」に云《いはく》、『川太郞。水中に有時は小兒の如くにして、長《た》け金尺《かねじやく》八寸より一尺二寸あり。「本草綱目」云、『水虎。河伯。』。

 出雲國に「川子《かはご》大明神」といふ。豐後國には「川太郞」。山國には「山太郞」【「山」の下、「城」の字を脫するか。】。筑後國には「水天狗」。九州には「川童子《かはどうじ》」。

 これ、恩返しに福を授く。因て「福太郞」と謂ふ。抑《そもそも》その由來は、相州金澤村の漁者重右衞門の家に持傳《もちつたへ》たる箱に、「水難・疱瘡のまもり」と記し有て、そのまゝ家内に祭り置くに、享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]五月十五日夜、重右衞門の姊、夢中に童子來り、

「我、この家に年久しく祭らるれども、未だ能く知る者なし。願くは、我が爲めに一社を建給るべし。然らば、水誰・疱瘡・麻疹《はしか》の守神として應護あらん。」

と見へて、忽《たちまち》、夢、覺《さめ》たり。姊、訝《いぶか》しく思ひ、親類に告《つげ》て相集り、共に箱を啓《ひら》き見るに、異形のもの、あり。面《おもて》は猿の如く、四支に水かきありて、頭には凹《くぼ》かなる所あり。因て、前書の說にきわめ、夢告の故を以て、「福太郞」を稱す。後、又、某侯の需《もとめ》にて、その邸《やしき》に出《いだ》すに、某侯にも同物ありて、同じく夢告により、「水神」と勸請し、江都、その領國に於《おいて》も、屢々、靈驗ありとぞ。又、云《いはく》、今、この祠を建立に因て、「水神」と唱ふ。信心の輩は、この施版《せはん》を受《うけ》て、錢《ぜに》十二孔《こう》を寄せんことを請ふ。

  南八丁堀二丁目自身番向《むかひ》    丸屋久七

 又、この後に圖を附す。是は他人の添《そへ》る者なり。これも亦、こゝに載す。

 

Kappa31

[やぶちゃん注:以上の図にはキャプションがあり、「長ケ三尺」(約九十一センチメートル)・「重サ拾六貫目」(六十キログラム)とある。]

 

Kappa32

 

Kappa33

 

【重さ、圖の所記、信じ難し。されども、第十卷に記する、室賀氏の僕、辨慶堀にして岡へ引上んと爲《せ》しに、その力、盤石の如くにして、少も動かずと云へば、重さの如ㇾ此《かくのごとき》も、誣《しふ》ベからず[やぶちゃん注:「ありもしないことを事実のように言っていると断ずることは出来ぬ」の意。]。又、この圖を以て見れば、第三十二卷に所出の河童の圖は眞寫にして、全く一物のみ。この圖は甚《はなはだ》拙《つたな》し。】

 總じて、川童の靈あることは、領邑《りやういふ》などには、往々云《いふ》ことなり。予も先年、領邑の境村にて、この手と云《いふ》物を見たり。甚だ猿の掌に似て、指の節、四つありしと覺ゆ。又、この物は、龜の類《たぐひ》にして、猿を合せたる者なり。

 或は、

「立《たち》て步することあり。」

と云。

 又、鴨を捕るを業《なりはひ》とする者の言を聞くに、

「水澤《みづさは》の邊《あたり》に窺居《うかがひゐ》て見るに、水邊を步して、魚貝を取り、食ふ。」

と。又、

「時として、水汀《みぎは》を見るに、足跡あり。小兒の如し。」

と。

 又、漁者の言には、

「稀に網に入ること、あり。漁人は、この物、網に入れば、漁獵なし迚、殊に嫌ふことにて、入れば、迺《すなは》ち、放捨《はなちす》つ。網に入《いり》て擧《あが》るときは、其形、一圓、石の如し。是は藏六の體《てい》なればなり。因て、廼ち、水に投ずれば、忽《たちまち》四足・頭尾を出《いだ》し、水中を行去《ゆきさ》ると。然れば、全く龜類なり。

■やぶちゃんの呟き

「版施」御札として施される刷られたもののことであろう。

「訓蒙圖彙」儒学者・本草学者中村惕斎(てきさい 寛永六(一六二九)年~元禄一五(一七〇二)年:京の呉服屋の子。店が零落しても意に介さず、学問に専心し、ほぼ独学で朱子学を修めた)によって寛文六(一六六六)年)に板行された図入りの類書(百科事典)。しかし、ネット上で異なる原本を三種見たが、以下の文字列は遂に見出せなかった。「~訓蒙圖彙」という似たようなものは後に複数出ているが、それらも管見した限りでは、見出せなかった。不審。

『「本草綱目」云、『水虎。河伯。』』とあるが、明の李時珍(一五一八年~一五九三年)の「本草綱目」(一五七八年に完成したが、板行は作者の死から一三年後の一五九六年であった)には「水虎」は出るが、「河伯」は出ない。「水虎」は巻四十二の「蟲之四」の「溪鬼蟲」の項の「集解」の末尾に出、それを説明するために直後の「附錄」に載る。「溪鬼蟲」というのは、正体不明の怪虫で、容易にはモデル生物(或いは、何らかの人体に有害で、時に致命的に作用する「現象」と言うべきかも知れない。当初、私はフィラリア症を考えていたが、それでは総てを説明し難い)を同定出来ない。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」の私の注を読まれたい。その初出部分は、

   *

又、「水虎」あり。亦、水狐の類(たぐひ)なり。「鬼彈」有り、乃(すなは)ち、溪毒の類なり。葛洪(かつこう)が所謂(いはゆ)る「溪毒」なり。射工(しやこう)に似て、而して無物の者、皆、此の屬なり。並びに之れを附す。

   *

とあって、以下に続いて「水虎」と「鬼彈」が略述される。

   *

附錄水虎【時珍曰はく、「襄沔記(じやうべんき)」に云はく、『中廬縣に涑水(そくすい)有り、「注」に『沔中(べんちゆう)に、物、有り、三、四歲の小兒のごとく、甲(かふら)、鱗鯉(せんざんかう)のごとし。射(い)るも、入(い)る能はず。秋、沙の上に曝(さら)す。膝頭(ひざがしら)は虎の掌(てのひら)の爪に似て、常に水に沒す。膝を出だして、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、咬(か)む。人人、生(しやう)にて得る者(もの)、其の鼻を摘(つま)みて、小小、之れを使ふべし。名づけて「水虎」と曰ふ。】

   *

この形状と最後の部分の意味不明さで、私が一筋縄ではいかないと言っている理由がお判りだろう。なお、「河伯」はしばしば河童のルーツのように言われるが、私は全く関係ないと考えている(九州の河童伝承には河伯との意味付けがなされてあるものがあるが、私は後付けと疑っている。本邦の河童伝承は中国の河伯などとは形態も属性も異なっている)。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中国の神話にみえる北方系の水神』。「山海経(せんがいきょう)」の「大荒東経」に、『殷の王亥が有易(狄(てき))に身を寄せて殺され、河伯も牛を奪われたが、殷の上甲微が河伯の軍をかりて滅ぼした。そのことは』「楚辞」の「天問」篇にも『みえ、殷と北狄との闘争に河伯が殷に味方したことを示す。卜辞に河の祭祀をいうものが多く、五十』もの『牛を犠牲』(いけにえ)『として沈めることがあり、水神と牛との関係が注意される』「楚辞」の「九歌」篇にある「河伯」は、『その祭祀歌である』とある。当該ウィキによれば、「河伯」は中国音「ホーポー」で、『中国神話に登場する黄河の神』とし、『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)によ』って、『左目を射抜かれた』とある。而して、『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり』、『河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この』ことから、『研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とある。というのを読んでも、私の無関係説は変わらない。悪しからず。

『出雲國に「川子大明神」といふ』現在の島根県仁多郡奥出雲町下阿井にある河童伝承のある川子神社である。「奥出雲町」公式サイトの「奥出雲町遺産 第1回認定」の「【遺産認定No4】川子神社と河童伝説(推薦:阿井地区川子原自治会)」に、『川子神社は、古来より玉日女命』(たまひめのみこと:当該ウィキによれば、「出雲国風土記」にのみ見られる神名で、『仁多郡の条に』ただ『一度だけ登場する』神名とある)『を祭神とし、古老の伝えによれば、阿井川の下流よりワニが恋い慕って登ってくるので、困った玉日女命が大きな石を投げ込み塞ぎ、現在地にお座りになったという伝説を残しています。また、有名な伝説に河童伝説があります。その昔、川子原の竜が淵にカワコ(河童)が棲んでおり、馬を淵の中へ引きずり込もうと馬の尻尾をつかんだが、馬の力にかなわず』、『長栄寺』(ここ)『の境内まで引きずられていったという。カワコは頭の皿の水も少なくなり、和尚さんに簡単に捕まり、「私が悪かったです。命だけは助けてください」と一生懸命に頼んだので、和尚さんは、「そんなに頼むなら許してやろう。だが、竜が淵の岩に文字を刻みつけ、その文字が消えるまでは決して悪さをしてはならないぞ」といって、淵に逃がしてやりました。それ以来、カワコは姿を見せなくなったと伝えています。興味深い伝説を残す神社として地域で親しまれています』とある。

「川太郞」「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「かはたらう 川太郎」を参照されたい。十二年も前の古い電子化物であるが、かなりリキを入れて注してある。

「相州金澤村」横浜市金沢区

「重右衞門の家に持傳たる箱に、……」この伝承、意外にもネット上には、この「甲子夜話」本篇以外のヒットがない。静山がこれだけ詳しい記事を書いているからには、他にもソース元の記事があると考えるの自然なのだが?

「錢十二孔」江戸時代を通じて汎用された穴開き銅銭である寛永通宝には一文銭と四文銭があったが、ここは通常の前者で十二文であろう。

「南八丁堀二丁目」江戸切絵図と対照し、現在の中央区新富一丁目のこの中央附近に断定出来る。

「自身番」江戸時代、江戸・大坂などの大都会で、市中の警備のために各町内に置かれた番所。当初は地主自ら、その番に当たったが、後、町民の持ち回りとなった。

「丸屋久七」不詳。

「第十卷に記する、室賀氏の僕、辨慶堀にして岡へ引上んと爲しに、その力、盤石の如くにして、少も動かず」この電子化に先立って「フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事」として電子化しておいた。

「第三十二卷に所出の河童の圖」同前で「フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」。河童の絵図はこれ

「全く一物のみ」「見るからに、全く以って、同一の生物体と言わざる得ぬ」という感嘆。

「領邑の境村」村名としてかなり探してみたが、不詳。

「この物は、龜の類にして、猿を合せたる者なり」この「河童の手」と称するものは、カメの手(四肢)に猿の腕(かいな)のミイラを接(つ)き合わせたものである、と静山は鋭く河童、ならぬ、喝破しているのである。

「稀に網に入ること、あり。漁人は、この物、網に入れば、漁獵なし迚、殊に嫌ふことにて、入れば、迺ち、放捨つ。網に入て擧るときは、其形、一圓、石の如し」もう、これは幻想の妖怪河童なんぞではなく、明らかに実際に網に掛かって甚だ困る、海生哺乳類のアシカやアザラシの類、或いは、次注にように、大形の淡水カメやウミガメの類である。静山はこれを以って最終的には河童の正体はカメ類だと断定しているようである。

「藏六」四本の足と頭と尾の「六」つを甲の内に蔵(=隠)「かくす」ところから、カメの異称。

フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に副次的に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。]

 

32―9 河太郞幷圖

 對州《たいしう》には河太郞あり。浪よけの石塘《いしども》に集り、群《むれ》をなす。龜の石上に出《いで》て甲を曝《さらす》が如し。その長《たけ》二尺餘にして、人に似たり。老少ありて、白髮もあり。髮を被《かぶ》りたるも、又、逆に天を衝《つ》くも、種々、ありとぞ。人を見れば、皆、海に沒す。常に人につくこと、狐の人につくと同じ。國人の患《わづらひ》をなすと云。又、予、若年の頃、東都にて捕へたると云《いふ》圖を見たり。左にしるす。

 

Kappa1

 

 これは享保中、本所須奈村の芦葦《ろゐ/あし》の中、沼田の間に子をそだてゐしを、村夫、見つけて、追出し、その子を捕《とらへ》たるの圖なり。太田澄元《ちやうげん》と云へる本草家の父岩永玄浩《げんこう》が鑑定せし所にして、

「水虎なり。」

と云。

 又、本所、御材木倉《おざいもくぐら》取建《とりたて》のとき、芦藪を刈拂しに狩出して獲たりと云【「餘錄」。】。

■やぶちゃんの呟き

「對州」対馬。

「石塘《いしども》」加藤清正が熊本の井芹(いせり)川を高橋方面に向ける治水事業を行った際に分流のために築いた堤の名称の読みを用いた。ここは石を積み敷いた防波堤。

「天を衝《つ》く」「天」は「あたま」或いは「かしら」と当て読みしているかも知れない。要するに、尖って頭髪がない頭を言う。この辺り、何らかの海産哺乳類、アシカやアザラシのように感じられる。

「つく」「憑く」。河童が人に憑依するというのは、東日本ではあまり聴かないが、九州ではポピュラーである。「和樂web」の鳩氏の記事「河童とはどんな妖怪?伝説と正体を調べてみた!」の『九州の「河童憑(かっぱつき)」』に、『九州地方には古くから「河童は人間に取り憑く」という言い伝えがあります』。『例えば、熊本県では河童が若い女性に取り憑く言い伝えがあり』、『「河童が棲む水辺ではふしだらな様を見せないように」と戒められ、河童に取り憑かれると、甘ったるい声で言い寄るようになると言われていました』。『また、大分県では河童は少女を狙って取り憑き、一度取り憑かれてしまうと、心身ともに消耗し』、『記憶喪失のようになり』、『ふらふら行動するようになってしまうと言われています。同じように長崎県でも、河童に取り憑かれると譫言(うわごと)を喋り』、『食事も取らなくなると伝えられてきました』とある。

「享保中」一七一六年から一七三六年まで。

「本所須奈村」サイト「長崎県の河童伝説」の本篇の紹介記事「対州の河太郎」の注に、『須奈村について、河童村村議会の河童に、お尋ねしましたところ、以下の回答を得ました』として、『江東区に亨保年間以前から砂村新田という地名が有りました』(現在の『江東区砂町、北砂町)』。『この村は新田という名前からも開拓地であり、砂村新四郎と言う人が開拓したことから砂村新田という名前が付いたという説と、砂地で有ったので砂村と言う説の二説あります』。『しかし、須奈村では無くて砂村です』。『音をあわせて須奈村と書き記したのではないでしょうか』とあった。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「太田澄元」(享保六(一七二一)年~寛政七(一七九五)年)は江戸出身の本草家。実父岩永玄浩に学び、後に幕府奥医師多紀氏の医学館「躋寿(せいじゅ)館」で教えた。その講義の筆記録「神農本経紀聞」があり、他に「本草綱目示蒙」「救荒本草臆断」などの著作がある。

「岩永玄浩」(生没年未詳)は本草家で医師。松岡恕庵に学んだ。享保一九(一七三四)年頃、和人参の栽培を試みている。元文元(一七三六)年には「詩経」等に記載されている動植物名を考察した「名物訳録」を編集している。名は「元浩」とも書く。

「本所、御材木倉」御竹蔵の前身。後に猿江御材木蔵へ移った。

「取建」建造すること。

「餘錄」「感恩斎校書餘錄」で「感恩斎」は松浦静山の別号。一種の手控えの随筆か。

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