[やぶちゃん注:まず、ネット上で最も知られていない「手帳」類から拾い始めることとする。
まず、「手帳6」(旧全集「手帳(六)」)の末尾に載る六篇を示す(リンク先は私の最新の芥川龍之介「手帳」の電子化注の末尾部分である)。本「手帳6」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は大正一〇(一九二一)年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。但し、構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)であるが、それは創作素材としてであって、以下の詩篇はやはり、大正一〇(一九二一)年の中国特派の旅行中或いは帰国後の同年中に記されたものと考えてよいと思う。これはしかし、実は非常に重要な問題を提起するものである。それは最後に記す。なお、先のリンク先を見て貰うと判るが、この六篇の後に、
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
という不気味な七・五・七・五の定型文語詩が載っているが(「矮く」「ひくく」と訓じているか)、これは分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採って、「澄江堂遺珠」との親和性は低いと判断し、採らなかった。]
○光はうすき橋がかり
か行きかく行き舞ふ仕手は
しづかに行ける楊貴妃の
きみに似たるをいかにせむ
[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずである。]
○光はうすき橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりなれど
きみに似たるを如何にせむ
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
光は薄き橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりながら
君に似たるを如何にせむ
と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。だからこそ、これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]
○女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に墮すべき
心強さはなきものを
[やぶちゃん注:この一篇は、私が本『「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ』の『■2 岩波旧全集「未定詩稿」』(末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群)の中に、
女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に堕すべき
心強さはなきものを
と相同の一篇が載る。但し、『■2 岩波旧全集「未定詩稿」』の冒頭注で既に述べた通り、この詩群は旧全集編集者(恐らくは中でも堀辰雄)による操作が加えられた可能性が極めて高い、問題のあるテクストである。]
○遠田の蛙きくときは(聲やめば)
いくたび夜半の汽車路に
命捨てむと思ひけむ
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:この一篇も、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
遠田の蛙聲やめば
いくたび■よはの汽車路に
命すてむと思ひけむ
わが夫はわれにうかりけり
(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、先の■2の中にもこれがあり、そこでは実に最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]
○松も音せぬ星月夜
とどろと汽車のすぐるとき
いくたび
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]
○墮獄の罪をおそれつつ
たどきも知らずわが來れば
まだ晴れやらぬ町空に
怪しき虹ぞそびえたる
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、
たどきも知らずわが來れば
ひがしは暗き町ぞらに
怪しき虹ぞそびえたる
などと、よく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来るのである。
さて、これらの詩篇が問題なのは、これが推定で、大正一〇(一九二一)年の中国特派の旅行中或いは帰国後の同年中に記されたものである点にある。
一般的には、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」は芥川龍之介が最後に愛した歌人片山廣子に捧げられた詩篇であると信じられている向きがあり、私自身も、概ね、そう理解してきたのであるが、それはこの六篇には適用出来ないのである。
芥川龍之介が片山廣子に強い恋愛感情を持つようになるのは、現在では大正一三(一九二四)年七月の避暑に行った軽井沢での本格的な邂逅以後のことであり(但し、大正五年六月に廣子の歌集「翡翠(かわせみ)」の評を龍之介は『新思潮』に書いており、翌年の七月以降には最初の接触はあった)、これらの詩篇は実にそれよりも三年も前に書かれたものである可能性が高いからである。
即ち、少なくとも、これら六篇をものした折りの詩人芥川龍之介の、「月光の女」、恋愛対象の女性は片山廣子ではないということである。
私はそれが誰だったかについては、例えば、鎌倉の料亭「小町園」の女将野々口豊(とよ)辺りを想起は出来るが、断定はし兼ねる(しかも私は芥川龍之介が愛した女性では海軍機関学校教官時代の同僚の物理教師佐野慶造の妻佐野花子(彼女の書いた「芥川龍之介の思い出」を私は最近、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で全電子化注し、注を外したベタ・テクストも公開してある)と片山廣子以外の女性には、実はあまり興味が湧かないことをここで告白しておく)。ただ、大正八年に不倫関係を持った歌人秀しげ子ではなかったと断言は出来るように感ずる。何故なら、龍之介はこの時既に、秀しげ子には失望し、憎悪さえ抱いていたと推定され、彼が中国特派に出たのも、一面ではストーカー的な秀しげ子からの逃避感情があったからではないか、とさえ私は感じているからである。
孰れにせよ、私がこのブログ・カテゴリを『「澄江堂遺珠」という夢魔」』としたのは、そうした一筋繩ではいかない芥川龍之介の複雑な人間関係や恋愛感情抜きには、「澄江堂遺珠」を全解析することは出来ぬからなのである。
但し、「手帳6」(旧全集「手帳(六)」)の末尾注で記した通り、除外したこの後に出る、
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
という一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点からフィード・バックすると、実は前の六篇の詩篇も含めて、これらは「湖南の扇」のモデルとなった、先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくる、即ち、これら六篇の詩篇は実在する芥川龍之介の愛した誰彼を設定したものではなく、そうした空想した強烈な愛と性(生)に生きる女傑へのオマージュであるように思えてもくるのである。大方の御叱正を俟つ。]