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カテゴリー「佐藤春夫」の113件の記事

2024/10/14

山之口貘の処女詩集「詩集 思辨の苑」の「序文」の『佐藤春夫「山之口貘の詩稿に題す」』(初版・正規表現版)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いた。当該部はここ。]

 

   山之口貘の詩稿に題す

 

家はもたぬが正直で愛するに足る靑年だ

金にはならぬらしいが詩もつくつてゐる。

 

南方の孤島から來て

東京でうろついてゐる。風見みたいに。

 

その男の詩は

枝に鳴る風見みたいに自然だ しみじみと生活の季節を示し

單純で深味のあるものと思ふ。

 

誰か女房になつてやる奴はゐないか

誰か詩集を出してやる人はゐないか

 

     一九三三年十二月二十八日夜 

 

                   佐 藤 春 夫

 

[やぶちゃん注:さても……私が何をおっ始めようとしていることは、もう、お判りであろう……。判らん方は、このブログの欄外のリンク「山之口貘」(私のブログ・カテゴリ)の一番下の記事を、どうぞ!]

2023/07/22

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 原作者の事その他・目次 / 「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」電子化注~完遂

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。]

 

   原作者の事その他

 

[やぶちゃん注:パート標題(底本では、見開き左ページで、右ページに前に電子化した芥川龍之介の遺稿詩篇が載る)。

 その、裏の右ページに右に転倒して以下のフランス語が記されてある。底本ではローマン体。]

 

     Mais où sont les neiges d'antan ?

            ――Frangois Villon

 

[やぶちゃん注:「Frangois Villon」フランス十五世紀最大のピカレスク詩人フランソワ・ヴィヨン(一四三一年~?)。小学館「日本大百科全書」を主文とし(佐藤輝夫の後半の解説が素晴らしい)、フランス語の彼のウィキも参考にした。『百年戦争の末期、ジャンヌ・ダルクが処刑された年、パリに生まれた。聖ブロア教会付き司祭』ギョーム・ド・ヴィヨン(Guillaume de Villon)に『養育され、その姓を名のる。本名はモンコルビエMontcorbierまたはデ・ロージュDes Loges』。一四五二年、『パリ大学学芸学部を卒業、文学士の称号を得、のち法学部に籍を置いたが、その修業は不明』。一四五五年六月、『堕落司祭フィリップ・セルモア』(Philippe Sermoise)『と口論』に及び、『これを殺傷して』、『パリを逐電』、『翌年』一『月、国王の赦免状を得てパリに帰る。同年』十二月の『キリスト降誕祭の前夜、仲間とともにナバール神学校に押し入り、大金を盗み』、再び、『パリを去って』、『放浪生活に入る。この折り、「形見の歌」を作っている。放浪はロアール川沿いのオルレアン』・『ブロア』・『アンジェ一帯の中部フランスに及ぶ。投獄されること』、『二度』、『三度、その』都度、『運よく放免される。この間』、『ブロアで大公シャルル・ドルレアン』(Charles d'Orléans)『に謁して』、『詩を奉り、その詩会に参加したことは確実である』。一四六一『年の夏、マン・シュル・ロアールの司教牢獄』『につながれ』、十『月に解放されて』、『パリに帰る。大作』「遺言書(遺言詩集)」を書いた。翌年十一月、『窃盗の嫌疑でシャトレ獄に収監、やがて釈放されるが、ある喧嘩』『騒ぎに連累して死一等を免ぜられ』、十『年間パリ追放の宣告を受け』、一四六三年一月に『パリを去る。以後』、『その足跡はまったく不明で、やがて疲労と病魔のため死亡したであろうと一般に信じられている。しかし死んだという確証もなく、延命生存説をとるむきもある』。『ビヨンの生涯は失敗の連続で』、『百年戦争直後の混乱した社会そのものの影響も考えられるが、弱い性格の持ち主であったことは疑えない。しかしその反面、精神のなかには強くたくましいものがあった』。十五『世紀そのものの』持っていた『二面性の現』われと言える。『彼は笑いを好むとともに、自己の内部と外部とを見つめた。その凝視のなかから』、『彼の詩は生まれる。ビヨンは徹底的なリアリストである。彼の叙情詩で非現実的なものは』、『ほぼ皆無である。アイロニーを好むので、逆説をしばしば弄』『するが、それは』、『かならず』、『現実に立脚している。彼は貧乏で食うに事欠くこともしばしばあった。彼は社会の残滓』『であった』。従って、『人間関係で発言すると、その詩は復讐』『の詩となり、また』、『感謝の表現となった。その復讐と感謝は』「形見の歌」の『なかでは諧謔』『や揶揄』『の色合いを帯びる。彼は笑い飛ばした』が、それは『若さの表現である。しかし』、『長年の放浪は、彼に種々深刻な経験を与えた』「遺言書」の中では、『その揶揄と嘲笑』『には苦味が加わる。その苦味が内心の吐露となると、その叙情は沈痛となり、ときには非常に人間的となる』。「遺言書」の内、最も『美しいのはこの部分である。「昔の貴女のバラード」「老媼(ろうおう)おのが若き日を憶(おも)いて歌える」など、そのもっとも優れたものであり』、「雑詩編」の中の『「受刑者のうた」などには、惻々』『としてわれわれの胸を打つものがある。

Mais où sont les neiges d'antan ?」詩集「形見の歌」(Lais:“lai”は、一般に八音綴詩句からなる中世の物語詩・叙情詩・小詩のことを指す)の中の一句。「昔の雪は何処に行っちまったんだ?」の意。

 以下、解説本文。作者名の一部のみが太字に見えるのはママ。有意な字空けもママ。読みは一切ないが、既に出した、それぞれの作者の解説提示で私が難読と思われるものに添えてあるので、そちらを参照されたい。]

 

杜秋娘  西曆七世紀初頭。 唐。 もと金陵の娼家の女。 年十五の時、大官李錡の妾となった。 常に好んで金縷曲――靑春を惜しむ歌を唱へて愛人に酒盞を酭めた。 ここに譯出したものが今に傳はつてゐるが、「莫情」「須惜」「堪折」「須折」「空折」 など疊韻のなかに豪宕な響があるといふのが定評である。 李錡が後に亂を起して滅びた後、彼女は召されて宮廷に入り憲宗のために寵せられた。 その薨去の後、帝の第三子穆宗が卽位し、彼女を皇子の傅姆に命じた。 その養育した皇子は壯年になつて漳王に封ぜられたが、漳王が姦人のために謀られ罪を得て廢削せられるに及んで彼女は暇を賜うて故鄕に歸つた。 偶〻杜牧が金陵の地に來てこの數奇にも不遇な生涯の終りにある彼女を見て憫れむのあまり杜秋娘詩を賦したが、それは樊川集第一卷に見られる。

 

  十一世紀初頭。 宋朝。 海寧の人である。 幼少の時に兩親を失ひ充分に夫を擇ぶこともし得なかつた。 市井の民家に嫁して無知凡庸な夫を持つたことを常に歎き、吟咏によつて胸中の憂悶を洩した。 その詩詞集は斷膓集と呼ばれ、前集十一卷後集七卷があるが、その中には胸中の不平抑へがたいものが屢々現はれ風雅と稱するには激越にすぎたものも見える。 詩藁も沒後夫の父母によつて焚かれたものの一部分が遺つたのを、好事者が顏色如花命如秋葉その薄命を憐れむの餘りにこれを編んだものだと傳へてゐる。 彼女は朱文公の姪だという說もあるけれども、朱子は新安の人で海寧に兄弟が居たといふことは聞かないから、多分後人が彼女を飾るための僞說だらうと言はれる。 とにかく生涯はあまり明かではないらしい。 ハイネの小曲に、「胸中の戀情は夜鶯の聲となる」といふ意を咏じたものがあつたと思ふが、ここに掲げた絕句は正に同工異曲である。

 

孟  珠  三世紀前半。 ただ魏の丹陽の人とのみで未詳である。 陽春歌三章が今傳はつてゐる。譯出したものはその第二章である。 皐月まつ花たちばなに昔の人の袖の西を聞くに比べて、香花を愛人の氣息と思ふのは大膽で露骨で濃密な詩境である。 我彼の詩情の相違を見るべきであらう。 西歐の詩には孟珠のものと同想があるだらうと思ふ。 この作者の他の二章をも併せ揭げて參考とする。 陽春二三月、草與水同色、道逢游冶郞、恨不早相識。」 望觀四五年、實情將襖惱、願得無人處、回身與郞抱」。 蕩思放縱ではあるが詩美は充分に保たれてゐると思ふ。

 

夷陵女子  唐朝。 未詳[やぶちゃん注:「末詳」であるが、誤植と断じ、訂した。]。

黃 氏 女  十三世紀中葉。 宋朝の理宗の時代。 閩人の潘用中といふ人が父に隨うて都に居住してゐた。 この靑年は笛を弄ぶことを愛したが、隣人黃氏の女は、潘の笛を聞いてその人を慕ひ、潘は彼女を見て帕に詩を題して胡桃をつつんで投げた。 彼女も亦、同じく胡桃をつつんだ帕に題した返事の詩がここに譯出したものである。 彼等は遂にこの緣によってむつまじい夫妻となり、帕中の詩は佳話として世間に擴まり、宮廷にまで傳はって、理宗をして奇遇だと嗟嘆せしめた。

 

子  夜 三四世紀。 晉曲で有名な子夜歌の原曲である。 子夜は歌曲の名であって作者の名ではない、といふ說もあるけれども、今はこの曲の作者たる晉の女子の名だといふ說に從ふ。 傳は無論、未詳である。 子夜歌の今に傳はるものは四十二章あるが、玉石相半している。 佳なるものはその體の簡古、情緖の切實、眞に秀絕で不朽の歌と稱していい。 宜なる哉、李白なども之に學ぶところがあつた。 後人はこの體に倣つて、子夜四時歌、大子夜歌、子夜警歌、子夜變歌等の體を作つた。

 

呂 楚 卿  明朝の妓女。 萬曆の頃であらうか。 未詳。

 

景 翩 翩  十六世紀中葉。 明朝。 建昌の妓女。 字は三味。 四川の人。閩人といふのは誤であるらしい。 後に嫁して丁長發の妻となつたが、丁は人の爲めに誣ひられて官に訴へられた時、景は竟に自ら縊れた。 その集を散花吟と名づけたといふのが、讖をなしたかとも思へて悼ましい。 才調の見るべきものがあると思ふ。

 

賈 蓬 萊  宋朝。 未詳。

 

紀 映 淮  明朝。 年代は明かでない。 宇は阿男。 金陵の人である。 菖州の杜氏に嫁し、早く寡となったが節を守つて生涯を終つたといふ。 漁洋詩話にはその秦淮柳枝を推し「栖鴉流水㸃秋光」を佳句と稱してゐる。[やぶちゃん注:「栖」は底本では(へん)が「木」ではなく「扌」であるが、誤植と断じ、「講談社文芸文庫」で訂した。]

 

趙 今 燕  十六世紀中葉。 明朝萬曆年間。 名は彩姬。 吳の人。 秦淮[やぶちゃん注:「秦」は底本では「奏」であるが、同前の文庫で訂した。]の名妓である。 才色ともに一代に聞えてゐた。 日ごろ風塵の感を抱いて妄に笑を賣ることを好まず、書を讀むことを喜び、靑樓集を著したといふ。

 

馬 月 嬌  趙今燕と同じ時代、同じく秦淮に、同じやうに名を馳せた名妓である。 名を守貞といふ。 容貌は大して美しいといふ程ではなかつたが、風流でまた豪俠の氣質の愛慕すべきものがあつた。 又、湘蘭と號して善く蘭を畫き一家の風格を得た。 その名は海外まで聞え當時シヤムの使節が來朝した時にその畫扇を得て歸つたといふ。

 

張 文 姬  九世紀末。 唐朝の貴婦人。 鮑參軍の妻である。

 

鄭 允 端  十二三世紀。 吳中の施伯人の妻である。 その著を肅雝集といふ。 今は傳はらない。

 

李  瑣  明朝の妓女。 未詳。

 

沈 滿 願  西曆六世紀。 梁の貴婦人。范靖(一說に靜に作る)の妻。 著すところ甚だ富み、詩に長ずと言はれてゐる。 唐書藝文志に憑れば滿願集三卷があるといふが、湮滅に歸した。

 

趙 鸞 鸞  唐の妓。 未詳。 その作の傳はるものは五首卽ち、雲鬟、柳眉、檀口、酥乳、纎指の五題いづれも肉體の美を咏じたものである。 もとより閨房の譃咏ではあるが、その纎細な美は同じ唐の妓女史鳳の七首などとは比ぶべきではない。 譯出したものは酥乳の轉結である。 その起承は「粉香汗濕瑤琴翰、春逗酥融白鳳膏」であるが、文字の美を去つてその意を傳へても無意味に近いからこの二句の譯は企てなかつた。

 

端 淑 卿  十六世紀(?)。 明朝。 當塗の人。 敎論端廷弼の女である。 幼時から學を好み才媛の名が高かつた。

 

王 氏 女  明朝。 未詳。 年ごろになって良緣がなかつた。 その悲しみを歌つたこの詩を見て、趙德麟といふ人が彼女を娶つた。 世人は二十八字媒と呼んで佳話とした。 轉句の「晚雲」を一本では「曉雲」に作つてゐる。 しかし晚雲でなければ詩情に乏しいかと思ふ。 南方の支那では一般に夏時は午睡をする習慣があることを思へば、殘睡に回頭して晚雲を見ても不自然ではないわけである。

 

劉 采 春  九世紀初頭。 唐朝、元和年間、薛濤や杜秋娘などと同時代。 越の妓女である。 その囉嗊曲――望夫の歌は古來喧傳されてゐるものである。

 

陳 眞 素  明朝の妓女。 未詳。

 

周  文  同上。

 

七歲女子  七世紀末。 唐朝。 この幼女が詩を能くすることが宮廷にまで聞え、則天武后が召して「送兄」といふ題を與へそれによって作らせたのがこれである。

 

靑溪小姑  五世紀。 宋の秣陵尉蔣子文の第三妹である。 靑溪はその居住の地名で小姑といふのは學藝ある貴婦人に對する敬稱である。 簡素な文字のなかに情感の溢れてゐるのを見る可きである。

 

魚 玄 機  九世紀。 唐朝。 薛濤などのすぐ次の時代である。 彼女の生涯に到つては最も浪漫的であまりに慘然たるものである。 長安の狹斜の地で生れた彼女が、十五歲の時、題を得て卽座に賦した江邊柳といふ五言律詩は溫庭筠をして好しと言はしめた。十八歲の時、人の妾となつたが情を解しなかつたので、彼女は送られて道觀の女道士となつた。 しかし彼女が一度情を解するや、この女道士は妓女のやうな日夕を送つた。 遂にその婢が彼の愛人と通じたのではないかといふ猜疑に驅られてこれを責めてゐるうちに誤つて婢を死に致した。 彼女は刑によつて斬せられ、その多情多恨の生涯は二十六歲で終つた。 唐女郞魚玄機詩一卷が傳はつて世に行はれてゐる。 森鷗外に「魚玄機」といふ作があつて、創作といふよりも彼女の評傳と見得るものである。 詳しくは就て看らる可きである。 その生涯を知つて「自歎多情是足愁」の詩を見ると一層感が深い。 靑春の憂悶の堪え難いのを歎いて、身の寧ろ白髮たらんことを願つたこの詩と殆んど同想同句が、現代英國の狂詩人アアサア、シモンズにあるのも亦一奇である。

 

李  筠  明朝の妓女。 未詳。

 

丁 渥 妻  十二世紀ごろ(?)。 宋朝。 その夫が游學して久しく家鄕から遠ざかつてゐた。 一夜夢にその妻が燈下で消息を認めてゐるところを見たが、文中にこの詩があつた。 後日妻から鄕信を得て見ると果してかつて夢に見た詩が記されてあつた。 譯出したのはその不思議な話の主題となるものである。

 

俞汝舟妻  朝鮮の女子であるといふ。 未詳。

 

媼  婉  宋朝の妓女。 未詳。

 

王  微  十六世紀(?)。 明朝。 字は修微、揚州の妓女である。 二度も士人の妻となつたが何れも完うしなかつた。 禪に歸依して草衣道人と號した。 集があつて期山草樾舘詩集といふ。[やぶちゃん注:「樾」は底本では「扌」のように見えるが、中文サイト及び同文芸文庫に従った。

 以下、「目次」。リーダとページ・ナンバーは省略した。凡て字間は半角ほど空いているが、再現しなかった。]

 

    目  次

 

序文                 奥野信太郞

 

たゞ若き日を惜め

春ぞなかなかに悲しき

音に啼く鳥

春のをとめ

薔薇をつめば

よき人が笛の音きこゆ

女ごころ

ほゝ笑みてひとり口すさめる

むつごと

怨ごと

蝶を咏める

水彩風景

行く春の川べの別れ

おなじく

行く春

そゞろごころ

白鷺をうたひて

池のほとりなる竹

川ぞひの欄によりて

夏の日の戀人

水かがみ

乳房をうたひて

戀愛天文學

朝の別れ

採蓮

はつ秋

秋の鏡

秋の江

手巾を贈るにそへて

月は空しく鏡に似たり

秋の別れ

秋ふかくして

戀するものの淚

もみぢ葉

思ひあふれて

秋の瀧

ともし灯の敎へ

殘燈を咏みて

つれなき人に

旅びと

貧しき女のよめる

夜半の思ひ

骰子を咏みて身を寓するに似たり

松か柏か

人に寄す

月をうかべたる波を見て

霜下の草

 

原作者の事その他

 

裝釘                  小穴隆一

 

[やぶちゃん注:奥附があるが、リンクに留めておく。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「霜下の草」小夜 / 訳詩本文~了

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  霜 下 の 草

             年 少 當 及 時

             蹉 跎 日 就 老

             若 不 信 儂 語

             但 看 霜 下 草

                   子   夜

 

若き命の束の間の

よろめき行くや老來(おいらく)ヘ

わが言の葉をうたがはば

霜に敷かる〻草を見よ

 

[やぶちゃん注:作者小夜は六首既出。佐藤の作者解説は、その最初の「女ごころ」を参照。「楽府詩集」の巻四十四の「子夜歌」四十二首の其十六である。

 以下、所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)を参考に訓読文と注を示す。

   *

 子夜歌

年少(ねんしやう) 當(まさ)に時に及ぶべし

蹉跎(さだ)として 日(ひび)に老ひに就(つ)けり

若(も)し儂(わ)が語(かたれ)るを信(しん)ぜざらば

但(ただ) 看(み)よ 霜下(さうか)の草(くさ)を

   *

・「蹉跎」松枝氏の注に『ぐずぐずして時期を失すること』とある。

・「霜下の草」松枝氏の最終句の訳に丸括弧で附されて、『春は茂っているが冬になれば枯れる』とある。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「月をうかべたる波を見て」王微

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  月をうかべたる波を見て

             寒湖浮夜月

             淸淺幾廻波

             莫道無情水

             情人當奈何

                王 微

 

冬の湖(うみ)月をうかべて

さざらなり寄せてよる波

心なの水とは言はじ

人戀ふるこころさながら

 

   ※

王  微  十六世紀(?)。 明朝。 字は修微、揚州の妓女である。 二度も士人の妻となつたが何れも完(まつた)うしなかった。 禪に歸依して草衣道人と號した。 集があって期山草樾舘詩集(きざんさうえつくわんししふ)といふ。

   ※

[やぶちゃん注:作者王微については、中文サイト「中國古典戲極資料庫」の「靜志居詩話」の「卷二十三」「教坊」「王微」で、佐藤が解説した内容が確認出来る。

・「さざら」「ささら」とも言う。語素で「細かい・小さい・わずかな」などの意を表わす。が、ここでは私は「さらさらと」止めどなく岸に寄せる波音を言い、オノマトペイアと採る。

 本篇の標題は調べたところ、「夜月」であった。以下、推定訓読を示す。

   *

 夜(よる)の月

寒(さむざ)むとした湖(うみ) 夜の月を浮かべ

淸(きよ)き淺(あさききし) 幾廻(いくたび)か波だつ

道(い)ふ莫(な)かれ 無情(むじやう)の水(みづ)と

情人(じやうにん) 當(まさ)に奈何(いかん)せん

   *]

2023/07/21

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「人に寄す」溫婉

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  人 に 寄 す

             萬 木 凋 落 苦

             樓 高 獨 任 欄

             誘 幃 良 夜 永

             誰 念 怯 孤 寒

                   溫  婉

 

人目も草も枯れはてて

高殿さむきおばしまの

月にひとりは立ちつくし

歎きわななくものと知れ

月をうかべたる波を見て

 

   ※

溫  婉  宋朝の妓女。 未詳。

   ※

[やぶちゃん注:朱衛紅氏の論文「佐藤春夫『車塵集』における古典和歌との交渉」(筑波大学比較・理論文学会刊の『文学研究論集』(二〇〇一年三月発行)。「つくばリポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)によれば(注記号は省略した)、

   《引用開始》

 この詩の原題は「初冬有寄」で、原作者の温婉は宋代の女流詩人である。

 原詩は、「すべての木々の葉が枯れて散り、私も落ちぶれてしまった。楼閣の欄干に私は一人もたれる。恋人と過ごす夜は、永遠に巡ってこない。帳の中でひとり寂しい寒さに怯える私を、誰が思うだろう」という意味である。吉川発輝は原誌の承句に誤記があるとして、「(原詩の筆者注)承句は「楼高独任欄」ではなく、「楼高独凭欄」とすべきである。言いかえれば、第四字「任」は「凭」の誤記である。『春夫詩抄』と『玉笛譜」などは「凭」となっている。訳詩の底本も「凭」となっている。」と指摘している。原詩の起句「万木凋落苦」は冬の荒涼たる光景を描写しており、「万」は承句の「独」と対句をなし、そこから、かつての大勢の人に臨まれていた過去を暗示していることがわかる。そして訳詩では、「人目も草も枯れはてて」と訳している。これは、「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと忠へば」(『古今集』冬・315、源宗子朝臣)を下敷きとした訳と考えられる。「かれぬ」は掛詞であり、「草」に対して「枯死する」という意味をもっと同時に、「人め」に対して「(時間的にも空間的にも)離れる、遠のく」または「うとくなる、関係が薄れる」を意味する。また、訳詩の「人目」は、訳詩に暗示された「大勢の人に囲まれていた過去」を具体化しているものである。吉川発輝は「原詩のように対句法を使っていない」と論じている。しかし「人目」が訳詩の転句にある「ひとり」にかかり、対句的な表現をなしていることがわかるのではないだろうか。原詩の「木」が、訳詩では「草」に訳されている。これにより、訳詩の起句、承句、転句の叙景が、「草」から「高殿」、そして「月」へと視線を次第に高くし、叙景に臨場感を与え詩情を高める効果を与えているのである。

 吉川発輝は訳語の起承二句について、「やはり七五調に訳されていて、りズムを主眼とし意を従としている。また韻律美に気を配りすぎて、原意を犠牲にした訳である。」と論じている。しかし上記の分析を試みることで、訳詩は原詩の詩情を十分に伝えていることがわかるのである。

   《引用終了》

と、見事な解析を示しておられる。

 以下、以上の朱衛紅氏の解説を参考にしつつ、「任」を「凭」に変えて、推定訓読を示す。

   *

 初冬(しよとう)に寄する有り

萬木(ばんぼく) 凋落(てうらく)して 苦(くる)し

樓(らう) 高(たかくのぼ)りて 獨り 欄(おばしま)に凭(もた)れり

幃(とばり)に誘(さそ)はれて 良夜(りやうや) 永(なが)し

誰(たれ)をか念(おも)はんや 孤寒(こかん)に怯(おび)へつつ

   *

「孤寒」孤独で寂しいこと。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一六四番 桶屋の泣輪

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      一六四番 桶屋の泣輪

 

 或所の長者に齡頃《としごろ》の一人娘があつた。聟を貰ふ事になつてフレ出すと、三人の若い者が集まつて來た。大工と鍛冶屋と桶屋とであつた。

 長者は其中で一番テンド(技術)のよい者を聟にすることにした。まづ大工が家を建てることになり、鍛冶屋は(何をやつたか忘れた。)桶屋はコガ(大桶)を結《ゆ》ふことになつた。

 三人は自分のテンドウのある限りガンバつたが、鍛冶屋が到々《たうたう》[やぶちゃん注:漢字はママ。「到頭(たうとう)」が正しい。]一番先に仕上《しあげ》てしまつた。大工はまだ其時はカマズ[やぶちゃん注:不詳。溶かした鉄のことか。]が殘つて居て聟になりかねた。桶屋は最後の一輪を入れるところであつたが、少しの違ひで聟になりかねたので、泣き出した。

 それから桶屋が最後に入れる(結う)輪のことを、泣輪と呼ぶことになつた。

  (大正十五年六月、田植にて相模久治郞と云ふ人か
   ら聽いたと田中喜多美氏の御報告の分。)

 

2023/07/20

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「松か柏か」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  松 か 柏 か

             歡 從 何 處 來

             端 然 有 憂 色

             三 啼 不 一 應

             有 何 比 松 柏

                   子   夜

 

どこでどうして來やつたか

凛々しい主(ぬし)がうれひ顏

三度よぶのに知らぬふり

松か柏かきのつよい

 

[やぶちゃん注:「子夜」は五首既出。佐藤の作者解説は、その最初の「女ごころ」を参照。「楽府詩集」の巻四十四の四十二首の其二十九である。以下、推定訓読を示す。

   *

 小夜歌

歡(よろこび)は何(いづ)れの處(ところ)より來たらん

端然(ふか)く 憂ふる色(いろ)有り

三(み)たび啼(よ)ぶも 一(ひと)たびの應(いら)へもせず

松か柏(このてがしは)かに比(くら)ぶるの 何ぞかに有らんや

   *

・「端然」読みは、高橋未来・佐藤正光共著の論文「中華書局編輯部編『詩詞曲語辞辞典』に見る唐詩の特徴的な用法について(6)」(『東京学芸大学紀要』(人文社会科学系Ⅰ・巻 七十三・二〇二二年一月刊。同大学のリポジトリのこちらからダウン・ロード可能)に、この第一句と第二句を示されて、『端然は「深深地(ふかく)」というのに同じ』とあるのに従った。

・「柏」は中国では古来から、本邦の被子植物門のブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とは全く縁のない別種である、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指す。中国北部の原産とされ、韓国・中国北部に分布するが、本邦では、園芸品種が人気で、庭木・生け垣・鉢植えなどでよく見かける。私の家にも嘗つて、教え子が呉れたものが、一メートル半まで伸びてあった(惜しくも十数年前の台風で折れてしまった)。中文の同種のウィキによれば、中国では、寺院・墓などに好んで植えられ、家具や寺院・霊廟の建築材としてもよく用いられるとあった。]

2023/07/19

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「骰子を咏みて身を寓するに似たり」金陵妓

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  骰子を咏みて身を寓するに似たり

             一 片 微 寒 骨

             翻 成 面 面 心

             自 從 遭 點 汚

             抛 擲 到 如 今

                   金 陵 妓

 

枯れさらばうた骨の屑

これがみなさまの御心配

汚㸃(しみ)をつけられ申してより

ほうり投げられてまづ斯樣(かよう)

 

[やぶちゃん注:佐藤の作者解説には、金陵妓の項はない。これは「金陵」(南京の古名)の「妓」女という意味だから、無名なのだろう。時代も判らない。

 但し、国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここによれば、佐藤は詩句を、転句と結句の二箇所で弄っていることが判る。それによれば、『「點汚」「如今」を『名媛詩篇』では「點染」「于今」に作る。『古今女史』詩集巻四も同じ。『名媛璣囊』巻四は「點汗」「于今」に作る。「于」は「於」に通じて意味に差異はないが、訳者は「如今」のほうが一般読者には分かり易いと判断したものと推察される』と述べておられる。また、標題も載り、「詠骰子」である。

 佐藤の訳題の「骰子」は「ガイシ」よりも「さいころ」と訓じたい気がする。

 個人的には、転句のそれは「點染」を採りたい。それで、原詩の一型を復元し、以下、推定訓読する。

   *

 詠骰子

一片微寒骨

翻成面面心

自從遭點染

抛擲到于今

  骰子(さいころ)を詠む

一片(いつぺん)の微(わづ)かなる寒骨(かんこつ)たれり

翻(か)へりて 面面(めんめん)が心(おもひ)と成る

染(し)みを點(つ)けらるるに遭(あ)ひしより

抛擲(なげうちす)てられ 今に到(いた)れり

   *

・「自從」は前置詞で「~より・~から」で本邦の助詞に当たるので、ひらがなとした。]

2023/07/17

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「夜半の思ひ」景翻翻

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  夜半の思ひ

             夜 靜 還 未 眠

             蛩 吟 遽 難 歇

             無 那 一 片 心

             說 向 雲 間 月

                   景 翻 翻

 

しづけさを寢(い)もいね難く

蟲だにもやめぬ歌あり

いかでかは思ひなからむ

語るなり 雲間の月に

 

[やぶちゃん注:作者景翻翻は既出(三篇出るが、一篇は作者は周文の詩篇で誤り。作者解説は初出の「怨ごと」を参照。今一篇は「行く春」である)。標題は中文サイト「采詩網」のこちらによって、「閨情」四首の内の一篇であることが判った。

 佐藤の訳題の「夜半」は「よは」と訓じたい。

 以下、推定訓読を示す。

   *

 閨(ねや)の情(おも)ひ

夜(よる) 靜かにして 還(ま)た 未だ眠れず

蛩(こほろぎ) 吟(ぎん)じ 遽(あわただ)しくして 歇(や)み難(がた)し

那(いか)んぞ 一片(いつぺん)の心(こころ)も無(な)からんやと

說(と)く 雲間(くもま)の月に向ひて

   *

「蛩」蟋蟀(シッシュ/こおろぎ)。コオロギ類は、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科コオロギ亜科 Gryllinae に属する種群を狭義に指すとするのが、より正しいと私は考えている。詳しい考証は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」を参照されたい。]

2023/07/16

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「貧しき女の咏める」兪汝舟妻

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  貧しき女の咏める

             夜 久 織 未 休

             戛 々 鳴 寒 機

             機 中 一 疋 練

             終 作 阿 誰 衣

                   俞 汝 舟 妻

 

寢もやらで長き夜ごろを

梭(をさ)の音のひびきもさむき

この機のこのねり絹は

織りあげて誰が着るぞも

 

   ※

俞汝舟妻  朝鮮の女子であるといふ。 未詳。

   ※

[やぶちゃん注:作者「俞汝舟妻」は「ゆぢよしふのつま」と読んでおく。ネット上のある日本語の漢詩ページでは、唐代の人物とするが、ちょっとそれは、以下に示す引用から考えて、採れない。ともかく、この詩篇、調べて見ると、作者に大きな疑義があることが判った。丹羽博之氏の論文「蚕婦詩の系譜」(『大手前大学論集』第十号・二〇〇九年発行・こちらからPDFでダウン・ロード可能・雑誌発行年はPDFの各頁の柱では二〇〇九年だが、冒頭書誌には二〇一〇年三月発行とあって不審)の最後の「追記二」に以下のようにあるからである。

   《引用開始》

 作る者と着る者の矛盾を嘆いた詩には、他にも明の兪汝舟(ゆじょしゅう)の妻の詩がある。(一海知義先生ご教示。『漢詩の散歩道』日中出版一九七四年十月 筧久美子先生担当一六九頁〜一七一頁)。その詩は、

    貧女吟     兪汝舟妻

 夜久織未休 夜久しくして 織ること未だ休(や)めず

 憂憂鳴寒機 戛戛(かつかつ) 寒機鳴る

 機中一匹練 機中一匹の練(れん)

 終作阿誰衣 終(つい)に阿誰(あすい)の衣と作(な)る

というもの。同書には、「作者とされる兪汝舟の妻は明代の人だが、夫婦ともにくわしいことはわからない。」とある。

 ところが、最近になって気づいたことであるが、この詩は、韓国の『韓国歴代名詩全書』(一九九七年五月明文堂五〇〇頁))には、次のようにある。

    貧女吟     兪汝舟妻

 夜久織未休 夜久しくして 織ること未だ休(や)めず

 軋軋鳴寒機 軋軋 寒機鳴る

 機中一匹練 機中 一匹の練(れん)

 終作阿誰衣 終(つい)に阿誰(あすい)の衣と作(な)る

とあり、二句目が軋軋となっているが、同一の詩である。

 作者の解説には、「姓は金氏の女性で兪賢良に嫁ぎ、兪汝舟夫人と呼ばれ、詩集一巻が伝わっている。」とあり、『漢詩の散歩道』の作者と同一人物ということになろう。清銭謙益『列朝詩集』の末に「朝鮮」の項目があり、その末に「兪汝舟妻」の名前が見える(覧文生氏ご教示)。

 更に調べると、李氏朝鮮の最高の女流詩人、許楚姫(一五六三〜一五八九)の詩集『蘭雪軒集』に「貧女吟四首」が揚げてあり、その三首目の詩は、前掲、明の兪女舟妻の作と一字の違いも無い(前掲『三韓詩亀鑑』の崔致遠の「江南女」の詩の「参考」にもこの四首が載っている)。ということは、李氏朝鮮時代の女流詩人のトップに位する蘭雪軒(許楚姫の号) の作と愈汝舟の妻の作のどちらかが誤って伝わったのであろう(兪女舟妻の生没年は調査中)。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

この「許楚姫」は、彼女のウィキによれば、『許 蘭雪軒』(ホ・ナンソロン/きょ らんせつけん 一五六三年~一五八九年)、又は、『蘭雪軒 許氏』(ナンソロン・ホシ/らんせつけん きょし)で『李氏朝鮮時代の女流詩人。本名は許楚姫』(ホ・チョヒ/きょ そき)』で、『蘭雪軒は号。蘭雪とも』。『本貫は陽川許氏。江陵』(現在の韓民国江原特別自治道東部の江陵(カンヌン)市)『出身』である。病いのため、二十七で夭折した。

 標題は「貧女吟」でよかろう。以下、以上の訓読を参考にしつつ、推定訓読しておく。

   *

 貧しき女(をんな)の吟(よ)める

夜(よ) 久しく織(お)りて 未だ休(や)めざる

戛戛(かつかつ)と 寒(さむざむ)とした機(はた)を鳴らす

機(はた)の中(うち) 一疋(いつぴき)の練(ねりぎぬ)

終(つひ)に作(な)れるこれ 阿誰(たれ)の衣(ころも)か

   *

・「戛戛」「カツ! カツ!」で、堅い物同士が触れ合う音。また、その音を立てるさま。一種のオノマトペイアであろう。但し、現代中国語の音写は「ヂィアヂィア」である。

「阿誰」誰(だれ)。何人(なんびと)。]

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