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カテゴリー「堀辰雄」の44件の記事

2023/02/09

堀辰雄「曠野」(ブログ版再校正・サイト版「曠野」オリジナル原典訳注附も再校正・訳注改稿・PDF縦書ルビ化版ファイルごと変更)

古い電子化で、正字化に不満があったブログ・カテゴリ「堀辰雄」内の「曠野(あらの)」のブログ版(同作の原典・現代語訳を含む)を総てリニューアルし、合せて、やはり、不満足であったサイト版「曠野 やぶちゃんオリジナル原典訳注附」を再校正し、原典及び訳注をも改稿、PDF縦書ルビ化版(1.35MB)として、ファイルごとリニューアルした。後者はこちら

2023/02/03

堀辰雄「十月 附やぶちゃん注」全面再校正(サイト版はPDF縦書にファイル変更)終了

 遅蒔き乍ら、2015年に既公開の堀辰雄「十月 附やぶちゃん注」の正字化不全と誤字分について、再度、校正し直し、ブログ版(全十三分割)分を直し、公開していたWord縦書版も全改訂して、PDF縦書ルビ化版にリニューアル変更した。教え子がFacebookで一部を引用して呉れたのだが、そこで私自身が、中に正字化不全(当時はWordのUnicodeを使いこなしていなかったため)と明白な誤字を発見して、赤面してしまった。彼がそうして呉れなければ、恐らく長く放置していたと思う。反面教師のそれと言える。
 なお、当時、続けて電子化した堀辰雄の「曠野」も、同じ不全があるので、同じ処理を施さなければならないのだが、こちらは、外付けのバック・ファイルの全損壊で、Wordの原原稿が消失してしまっているため、かなり時間がかかりそうで、今回の作業でも、かなり眼が疲れた。時期を見てやりたく思ってはいる。悪しからず。
 しかし、再校正で、結果して「十月」を三度ほど読み直した形になったが、堀辰雄のこの随想は、「浄瑠璃寺の春」(ブログ版はここ。サイト版はPDF縦書でこれ)に次いで、実に、いい。

2016/07/13

靑い眼   アポリネエル 堀辰雄譯

 

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説L'Œil bleu(一九〇三年:音写するなら「ル・ウィュ・ブルゥー」。「Œ」はフランス語他で用いられる「O」と「E」の合字)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば初出は以下の底本である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。傍点「ヽ」は太字とした。

 第三パートの第一段落の「級中(クラス)」の「クラス」のルビは前記の岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「級」のみに振られているが、底本は「ス」が「中」の右上半分まで占めているので、「級中」全体のルビと採った。以下、少し、いらぬ語注を附しておく。

「彌撒」老婆心乍ら、「ミサ」と読む。

「フランソア一世」(François Ier 一四九四年~一五四七年)はヴァロワ朝(dynastie des Valois)第九代フランス王(在位:一五一五年~一五四七年)。フランス・ルネサンス期を代表する国王。

「シヤルマァニユ」(七四二年~八一四年)はフランス語で「シャルルマーニュ(Charlemagne)」、ドイツ語で「カール大帝(Karl der Große)」と呼称した、フランク王国(フランス語:Royaumes francs/ドイツ語:Fränkisches Reich:五世紀~九世紀に西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国で現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図(はんと)はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及んだ。国名はゲルマン系フランク人であるサリー・フランク族が建国したことに由来する。首都は五〇八年にパリに置かれが、このカール大帝時代は現在のベルギー国境に近いドイツ西端のアーヘン(Aachen)に王宮が置かれ、ここが事実上の首都となっていた)の国王(在位:七六八年~八一四年)。

「ルイ一四世」(Louis XIV 一六三八年~一七一五年)はブルボン朝(dynastie des Bourbons)第三代フランス王国国王(在位:一六四三年~一七一五年)。言わずもがな医、王朝の最盛期を築いて「太陽王」(Roi-Soleil)と呼ばれた王である。以上の三人の人物の事蹟を踏まえて戴くと、堀辰雄の、「フランソア一世は誰の後継者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答ヘました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ一四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。」という訳がやや不親切であることが判る。原文は“comme on me demandait à qui avait succédé François Ier, je dis à tout hasard, mais sans conviction, que c’était à Charlemagne, et ma voisine, chargée d’éclairer mon ignorance, fut d’avis qu’il avait succédé à Louis XIV. On avait bien autre chose à faire que de penser à la chronologie des rois de France :”であるが、例えば、一九七九年青土社刊「アポリネール全集Ⅱ」の窪田般彌氏の訳では、ここは『フランソワ一世は誰のあとを継いだかときかれて、何の確信もないままに、ほんの出まかせにシャルルマーニュ大王と答えたりしました。そして、わたしの無知を教えただす役目の隣りの娘(こ)は、フランソワ一世はルイ一四世のあとを継いだと思いこんでいました。誰の頭にもフランス王家の年代記のことなどはまったくなく、別のことを思いめぐらしていたのです。』となっており、本来、語っている老婦人が少女であった頃のこと、本来ならいつも正しい答えをこっそり教えて呉れていた、博識の救いの天使であった隣りの席の少女でさえ、とんでもない誤りを口にしてしまったほどにクラス中の少女たちが皆、上の空だった、というのである。高校時代に世界史を選択した方には釈迦に説法であろうが、私は生憎と地理と政経であったので(極めて珍しい。高校時代の所属した演劇部の顧問であった世界史の先生からは「藪野君、それじゃ、大学に受かりませんよ」と言われたものだった)、蛇足の注を敢えて附した。悪しからず。]

 

 

   靑い眼

 

 私は老婦人たちが彼女らの少女だつた時分のことを話すのを聞くのが好きだ。

「私が十二の時でした、私は南佛蘭西の或る修道院に寄宿してをりました。(と記憶のいい老婦人の一人が私に物語るのであつた。)私たちは、その修道院に、世間から全く離れて、暮らしてをりました。私たちに會ひに來られたのは兩親きりで、それも一月に一遍宛といふことになつてゐました。

「私たちは休暇中も、その廣い庭園と牧場と葡萄畑にとりかこまれた修道院の中で過したのでした‥‥

「私はその幽居には八つの時から入つてゐましたが、やつと十九になつた時、結婚をするため、はじめて其處を出たやうなわけでした。私はいまだにその時のことを覺えてゐます。宇宙の上に開いてゐるその大きな門の閾を私が跨いだ刹那、人生の光景や、自分の呼吸している何だかとても新しいやうな氣のする空氣や、いままでになかつたはど輝かしく見える太陽や、それから自由が、遂に、私の咽喉をしめつけたのでした。私は息がつまりさうになつて、もしその時腕を組んでゐた父が私を支へて其處にあつたべンチヘ連れて行つてくれなかつたら、私はそのままぼうと氣を失つて倒れてしまつたでせう。私はしばらくそのべンチに坐つてゐるうち、やつと正氣を取戾したのでした。

 

       *

     *

       *

 

「さて、その十二の時のことですが、私はいたつて惡戯好きな、無邪氣な少女でした。そして私の仲間もみんな私のやうでした。

「授業と遊戯と禮拜とが私たちの時間を分け合つてゐました。

「ところが、コケツトリイの魔が私のゐた級(クラス)のうちに侵入してきたのは、丁度その時分でありました。そして私は、それがどんな策略を用ひて、私たち少女がやがて若い娘になるのだといふことを、私たちに知らせたかを忘れたことはありません。

「その修直院の構内には誰もはひることが出來ませんでした。彌撒をお唱へになつたり、説教をなさつたり、私たちの微罪をお聽きになつたりする司祭樣を除いては。その他には、三人の年老いた園丁が居りました。が、私たちに男性といふ高尚な觀念を與へるためには殆ど何の役にも立たないのでした。それから私たちの父も私たちに會ひに來ました。そして兄弟のあるものは、彼等をまるで超自然的なもののやうに語るのでした。

「或る夕方、日の暮れようとする時分に、私たちは禮拜堂から引き上げながら、寄宿舍の方へ向つて、ぞろぞろと步いてゐました。

「突然、遠くの方に、修道院の庭園をとりまいてゐる塀のずつと向うに、角笛の音が聞えました。私はそれをあたかも昨日の事のやうに覺えてゐます。雄々しい、そしてメランコリツクなその角笛の亂吹が、黃昏どきの深い沈默のなかに鳴りひびいてゐる間中、どの少女の心臟も、これまでになかつたくらゐ激しく打ちました。そして木魂となつて反響しながら、遠くの方に消えていつたその角笛の亂吹は、なにやら知らず、神話めいた行列を私たちに喚び起させるのでした‥‥

「私たちはその晩、それを夢にまで見ました‥‥

 

       *

     *

       *

 

 翌日、教室からちよつと出てゐたクレマンス・ド・パムブレといふ名前の、小さなブロンドの娘が、眞靑になつて歸つてきて、隣席のルイズ・ド・プレセツクに耳打ちしました、いま薄暗い廊下でばつたり靑い眼に出會つたと。そしてそれから間もなく級中(クラス)の者が、その靑い眼の存在を知つてしまひました。

「歷史を私たちに教へくれてゐる修道院長の言葉も、もう私たちの耳にははひりませんでした。生徒たちは今は突拍子もない返事をしました。そしてこの學科のあんまり得意ではなかつた私自身も、フランソア一世は誰の後継者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答ヘました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ一四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。私たちは靑い眼のことを夢見てゐたのでした。

 

       *

     *

       *

 

「そして一週間足らずのうちに、私たちは誰もかも、その靑い眼に出會ふ機會をもちました。

「私たもはみんな眩暈をもつたのでした。それに違ひはありません。が、私たちはみんなそれを見たのでした。それはすばやく通り過ぎました、廊下の暗い蔭へ美しい空色の斑點をつくりながら。私たちはぞつとしました、が、誰一人それを尼さんたちに話さうとはしませんでした。

「私たちはそんな恐しい眼をしてゐるのは一體誰なのか知らうとして隨分頭を惱ませました。私たちのうちの誰だつたか覺えてゐませんが、或る一人のものが、それはきつと、まだ私たちの記憶の中にその泣きたくなるまでに抒情的(リリカル)な響が尾を曳いてゐる、あの數日前の角笛の亂吹の眞中になつて通り過ぎた獵人らの中ので一人の眼にちがひないといふ意見を述べました。そしてそれにちがひないといふ事に一決いたしました。

「私たちは皆、その獵人の一人がこの修道院の中にかくれてゐて、靑い眼は彼の眼であることを認めました。私たちは、そのたつた一つの眼が片眼(めつかち)なのだとは思ひませんでしたし、それから古い修道院の廊下を眼が飛ぶのでもなければ、彼等の身體から拔け出してさまよふのでもないと考ヘました。

「そんなうちにも、私たちはその靑い眼と、それが喚び起させる獵人のことばかり考へてをりました。

「とうとうしまひには、私たもはその靑い眼を怖がらなくなりました。それが私たちを見つめるため、ぢつとしてゐればいいとさへ思ふやうになりました。そして私たちはときどき廊下の中へ唯一人で、いりのまにか私たちを魅するやうになつたその不思議な眼に出會ふために、出てゆくやうなことまでいたしました。

 

       *

     *

       *

 

「やがてコケットリイの魔がさしました。私たちは誰一人として、インキだらけの手をしてゐる時など、その靑い眼に見られたがらなかつたでしたらう。みんなは廊下を橫ぎるときは、自分がなるたけ好く見えるやうにと出來るだけのことをしました。

「修道院には姿見も鏡もありませんでした。が、私たちの生れつきの機轉がすぐそれを補ひました。私たちの一人は、踊場に面してゐる硝子戸のそばを通る度毎に、硝子の向うに張られてゐる黑いカアテンの垂れを卽製の鏡にして、そこにすばしつこく自分の姿を映し、髮を直したり、自分が綺麗かどうかをちよいと試したりするのでした。

 

       *

     *

       *

 

「靑い眼の物語は約二ケ月ばかり續きました。それからだんだんそれに出會はなくなりました。そしてとうとうごく稀にしか考へなくなりましたが、それでもときたまそれに就いて話すやうなことがありますと、やはり身顫ひしずにはゐられませんでした。

「が、その身顫ひの中には、恐怖と、それからまたあの快樂――禁斷の事物について語るあの祕やかな快樂に似た或る物がまざつてゐたのでした。」

 君たちは決してそんな靑い眼の通るのを見たことなんぞはなからうね、現代の少女諸君!

 

[やぶちゃん注:原文を見ると、最後の一行の前には、例のアスタリスクによる行間が空けられてある。空けるべきである。最後の一文の原文を見ておこう。

 Vous n’avez jamais vu passer l’œil bleu, ô petites filles d’aujourd’hui !

 

 なお、底本ではこの後に堀辰雄による「ノオト」がある。以下に電子化しておく。

   *

 アポリネエルは一八八〇年八月羅馬に生れた。母はポオランドの或る將軍の娘であつたが、彼はその私生兒であつた。彼は少年時代をモナコとニイスとで送つた。暫く南獨逸に遊んだこともある。それから巴里に行つて、彼は詩や小説や美術批評などを書き出した。一九一四年、彼も戰爭に行つた。そこから彼は一九一六年に重傷を負ふて歸つて來た。戰地でも彼は詩を書いて、謄寫版刷りの詩集を出したりした位であつた。そして彼は一九一八年十一月に死んだ。それはしかしスペイン感冒のためであつた。

   *]

2016/07/11

ヒルデスハイムの薔薇   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説La Rose de Hildesheim ou les Trésors des Rois mages (一九〇三年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『山繭』(昭和二(一九二七)年五月刊の通巻第二十号)である。なお、原題はご覧通り、「ヒルデスハイムの薔薇或いは東方三博士の財宝」が正しい。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。傍点「ヽ」は太字とした。

 「ヒルデスハイム」“Hildesheim”はニーダーザクセン(Niedersachsen)州南部の都市で、北部ドイツの最高峰ブロッケン(Brocken)山(標高一一四一メートル)などがあるハルツ(Harz)山地の北方、北ドイツ平原の南、現在のドイツ連邦共和国の中央やや北に位置する。中世から近世にかけては聖俗両面に於いて有力な都市で、学問の分野でも「中心地」と目された。第二次世界大戦によって『歴史的建造物を含む街の多くが破壊されたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されている』。(ここはウィキの「ヒルデスハイム」に拠った)。ここはヒルデスハイム聖マリア大聖堂(Hildesheimer Dom St. Mariä Himmelfahrt)及びヒルデスハイム聖ミヒャエル聖堂(St. Michael zu Hildesheim)で知られ(初期ロマネスク様式の荘厳美を持った二つのこの聖堂も、やはり一九四五年の空襲によって孰れも完全に破壊されたが、戦後に再建されている)、ウィキの「ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル聖堂によれば、前者の『大聖堂には中庭があり』、一三二一年に『建造されたゴシック様式のアンネのチャペルがある。大聖堂の後陣の中庭側の壁には』、樹齢千年のバラが『茂っている。このバラはヒルデスハイムの繁栄を象徴していると信じられており、伝説によると』、このバラが繁茂する限り、ヒルデスハイムは繁栄すると伝える。一九四五年に『この大聖堂が爆撃されたときもバラの根は残り、現在も毎年花を咲かせている』とある。ドイツ語版ウィキの“Hildesheimer Dom” (前の日本語版とはリンクしていないので注意)によれば、この薔薇はDer Tausendjährige Rosenstock(千年の薔薇の木)・Hildesheimer Rose(ヒルデスハイムの薔薇)と呼ばれていることが判る。なお、この小説の主人公の女性の名はドイツ語「イルゼ」Ilseであるが、これはフランス語や英語のElisabethで、その語源はギリシャ語の「Elis(s)avet」に由来し、元は「旧約聖書」の登場人物アロンの妻に当たるエリシェバ(Elisheva)に濫觴する。ヘブライ語の「エリシェバ」の「エリ」は「我が神」、「シェバ」は「誓い」「守り続けること」を意味し、併せて「我が神は我が誓い」「我が神は我が支え」の意となり、また、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ:ラテン:Ioannes Baptista)の母エリサベトにもちなんでいる(ここは主にウィキの「エリザベス」に拠った)。

 因みに冒頭で堀辰雄は、ここを「ハンノワに近い」と訳しているが(原文は“à Hildesheim, près de Hanovre,”)、“Hanovre”はヒルデスハイムの西北三十キロメートルほどのところにあるハノーファー(Hannover)のこと。ライネ(Leine)川沿いにある北ドイツの主要都市で現在のニーダーザクセン州の州都である。また、主人公の発音を「ハンノワのアクセント」と言っているが、これは所謂、低地ドイツ語(Niederdeutsch:低ザクセン語Niedersächsisch)のオストファーレン語(Ostfälisch)と呼ばれる方言ではあるが、参照したウィキの「低地ドイツ語」によれば、『発音に関してはハノーファー都市部の発音が最もドイツ語の標準語に近いとされる』とある。]

 

 

   ヒルデスハイムの薔薇

 

 前世紀の末、ハンノワに近いヒルデスハイムにイルゼといふ一人の少女がいた。彼女の薄いブロンドの髮はすこし金色の反射をして月光のやうな印象を與へた。彼女の身體はすらりとしてゐた。彼女の顏は明るくて愛嬌があつて、笑ふときにはそのふつくらした下顎にすばらしい靨が出來た。鼠色の眼はそんなに美しくはなかつたが、彼女の姿にはよく似合つて、小鳥のやうにたえず動いてゐた。彼女の優しさには比べるものがなかつた。彼女は、大抵のドイツ娘がさうであるやうに、家政や裁縫が非常に下手だつた。家事を終へてしまふと、彼女はピアノの前に坐つて、人魚について物語られてゐることを唄ふのだつた。でなければ彼女は本を讀むのだつた。その時の彼女は一人の女詩人を思はせた。

 彼女が話すときには、馬の言葉だと言はれてゐるドイツ語も、婦人の言葉であると言葉はれるイタリイ語よりいつそう優美になつた。それに彼女はハンノワのアクセント( S が決して Ch の音をしない)を持つてゐるので、彼女の會話は、實に魅惑的であつた。

 ずつと前に、アメリカへ行つてゐたことのある彼女の父は、そこでイギリスの女と結婚し、それから數年の後、親ゆづりの家に住むため故郷へ歸つて來たのである。

 ヒルデスハイムは、世界の中で最も美しい小都會の一つである。その町は、並はずれた屋根のある、異樣な恰好の、彩られた家々とともに、まるで妖精物語から拔け出して來たやうであつた。その町役場の前の廣場の風景は、いかなる旅人も、忘れることが出來ないであらう。實に、それは、詩の額緣をつけるために描かれた一枚の繪であつた。

 イルゼの兩親の住居もヒルデスハイムの多くの家のやうに非常に高かつた。ほとんど垂直である屋根は正面(ファサード)全體より高まつてゐた。鎧扉のない窓がそとに向つて開かれていた。窓はいくつもいくつもあつた。そしてその窓と窓との間には、わづかしか空間が無いのであつた。門と梁との上には、敬虔なのや顰め顏をしている像が彫刻されてあつた。それには古い獨逸語の詩か、それとも羅典語の銘かで註釋がついてゐた。對神三德、最高四德、七大罪、四福音書著者聖徒、乞食に外套を與ふる聖マルタン、聖女カテリイヌと車輪、鵠、楯形、等等がそこにあつた。それらすべては靑と赤と綠とで彩られてゐた。上の階が下の階よりも突き出してゐるので、家全體はさかさまの階段のやうだつた。それは多彩な、愉快な家であつたのである。

 イルゼはごく小さい時分からこの住居に移つて來て、ここで大きくなつたのであつた。彼女が十八の頃には、彼女の美しいといふ評判はハンノワまで擴がり、そこからさらにベルリンにまで達してゐた。千年の薔薇の木や寺院の寶物を見るためにヒルデスハイムの美しい町を訪れる者で、「ヒルデスハイムの薔薇」といふ綽名をつけられてゐるこの少女を讃美しに來ないものはなかつた。彼女は何度も結婚を申込まれた。しかしいつも、いま歸つて行つたばかりの求婚者の長所を賞めちぎつてゐる父に向つて、彼女は眼を落しながら答へるのであつた。自分はもつと娘でゐて自分の若さをたのしみたいのだと。すると父は言ふのであつた。

 ――お前は間違つてゐる。だが、お前の好きなやうにするがよい。

 そして求婚者は忘れられていつた。

 イルゼが散步から戻つて來ると、家の上に浮彫にされていゐるすべての像は、彼女に、お歸りなさいと云ふかのやうに微笑むのだつた。そして、「諸罪」らは合唱しながら、彼女にこう叫ぶのだつた。

 ――私たちを御覽なさい、イルゼ。私たちは七大罪を象徴しているのです。しかし私たちを浮彫にして彩つた人たちは、私たちを恕すべからざる罪とするほどの惡意は、私たちには持つてゐなかつたのです。私たちを御覽なさい。私たちは恕さるべき七つの罪です。ごく輕い罪なのです。私たちはあなたを誘惑しようとは思ひません。むしろ反對です。私たちはこんなにも醜いのですから。

 そして「諸德」らは、輪舞をするためのやうに手と手をとりあひながら、かう歌ふのだつた。

 ――リンゲル、リンゲル、ライエ(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)私たち七人の者はあなたの德を象徴してゐるのです。だが、私たちを御覽なさい。私たちのどの一人だつて、あなたほど美しくはありません。リンゲル、リンゲル、ライエ。

 

       *

     *

       *

 

 ところが、イルゼには、ハイデルベルヒで勉強をしている一人の從兄があつた。彼はエゴンと言つた。彼は大きくて、金髮で、肩幅が廣く、そして空想家だつた。休暇中、ドレスデンで暮してゐるうちに、この若い二人はお互に愛し合つた。彼等はその戀をラフアエルの讃美すべきマドンナ・シクスチイヌの畫の前で打ち明けたのであつた。その時から、イルゼはいくらか天使に似た優しい顏だちを持つやうになつた。

 エゴンはイルゼとの結婚を申込んだ。しかし彼女の父は、もちろん財産と地位とを要求した。そこで、この靑年はハイデルベルヒに歸つてからは、勉強とヒルシユガツセの決鬪との閑暇さへあれば、城のほとりの哲學者の小徑へ行つては、自分に從妹を娶(めと)らせてくれる財産を手に入れるための手段を夢みるのであつた。

 

       *

     *

       *

 

 一月の或る日曜日、彼が説教を聞きに行つたとき、牧師が、馬槽のなかの基督のところへ訪ねて行つた東の博士たちのことを話した。牧師はマタイ傳福音書の一節を引用した。そのとき牧師は、基督のために黃金や乳香や沒藥を持つて行つた博士たちの數や身分については少しも觸れなかつた。

 それからと云ふもの、エゴンは東の博士たちのことを考へずにはゐられなかつた。彼は新教徒ではあつたが、カトリツクの傳説に從つて、王冠をかぶつたガスパルとバルタザルとメルヒオルとの三人を想像した、それらの東の博士たちは、黑人を眞中にして彼の前を練り步くのであつた。彼には彼等が三人とも黃金を携へているごとくに思はれた。それから數日過ぎると、彼はもはやその三人を、通りすがりにあらゆるものを黃金にしてしまふ魔法使の、錬金術師の顏だちと服裝との下でしか、見ないようになつた。

 かういふあらゆる幻覺は、從妹と自分とを結婚させてくれる、黃金を愛するがためにのみ生じたのであつた。彼はそのために食ふことも飮むことも忘れた。恰もこの新しいマイダスは、その食物としては、ケルンの本寺がその殘骸を所持していることを誇りとしてゐる、あの占星家らによつて變質せられた地金以外には、何も持つてゐないかのやうであつた。

 彼は圖書館を漁つて、三人の東の博士たちを問題にしてゐる、あらゆる書物を讀んだ。ヴエネラブル・ベエド、古傳説、福音書の眞正を論じた現代のあらゆる著書等。それから步きながら、彼はその金色の空想を走らせるのであつた。

 ――そのすばらしい黃金の寶は、測り知れない價格になるに違いない。そしてその寶が、分配されたとか、使用されたとか、消費されたとか、盜まれたとか、又は發見されたとか云ふやうなことは、何處にも書かれてはいないのだ。

 遂に或る晩、彼は自分が東の博士たちの寶を欲しがつてゐると云ふことを自覺した。それを發見することは彼に、戀人としての幸福のほかに、動かしがたい名譽をも與へるであらう。

 

       *

     *

       *

 

 彼の奇異な振舞はやがてハイデルベルヒの教授や學生たちを氣づかはせだした。彼の仲間でないものは、彼を狂人と呼ぶのに躊躇しなかつた。彼の仲間のものは彼を辯護した。それがために決鬪の果しない連續が生じたくらゐであつた。(ネツカ河畔ではそれはいまだに物語られてゐるのである。)それからまた彼に關するさまざまな逸話が擴がつた。彼が田舍を散步しているとき、或る學生が彼の後をつけていつた。そしてその學生は、エゴンが一匹の牛に近よつて行つてこんな風に話しかけてゐたと告げるのであつた。

 ――僕は小天使(ケルビム)を探してゐるのだ。それに似てゐるものは僕を感動させる。僕は一匹の牛を見つけたぞ。小天使(ケルビム)は、もつとも翼のある牛なのだが。‥‥だが、どうか僕に言つておくれ、草を食んでゐる美しい牛よ、‥‥氣立のいいお前はきつとあの天使の中でも最高階級に屬する動物どもの知識の一部を保存してゐるだらう。どうか僕に言つておくれ、お前たちの種族の間ではクリスマスの慣例はすこしも續けられてゐないのか? それにしてもお前はお前の仲間の一人が馬槽のなかの幼兒をその息で温めてやつたことを名譽としてはいないのか? それにしてもお前はきつと知つてゐるだらう。小天使(ケルビム)に型どつてつくられた氣高い動物よ、お前は知つてゐるだらう、東の博士たちの寶が何處にあるのか? 僕は、僕を神聖な財産で富ましてくれるその寶をば探してゐるのだ。ああ、返事をしておくれ、牛よ、僕の唯一の希望よ! 僕はそれを駿馬にも聞いて見たのだがあいつらは獸(けだもの)に過ぎないのだ。そうしていかなる天使にも似てはゐないのだ。ああ、あいつら精力的な動物どもの知つてゐた返事といつたら、唯、しやがれた獨逸語の肯定詞だけだつたのだ。

 それは丁度黃昏が終らうとする時分だつた。遠くの家々の中にはランプがともされてゐた。そして村々は四方にかがやきはじめてゐた。牛はしづかに首を動かしてモオモオと唸つた。

 

       *

     *

       *

 

 ヒルデスイムでは、イルゼはすつかり信賴して、從兄からの狂ほしい愛の手紙を受取つてゐた。彼女とその兩親は、エゴンが財産をつくりかけてゐるのだと思つてゐた。

 冬になつた。雪がふつた。それは見たところ白鳥のうぶ毛のやうに溫かさうであつた。家々の彫刻した聖人らは、雪に掩はれながら寒さにふるへてゐるやうに見えた。クリスマスがやつて來た。そしてきらめいてゐる木のまはりで人々は唄ふのだつた。

    クリスマスの木は

     木のなかで一番美しい木だ

    なんと不思議な木よ

    なんと綺麗な花の咲いてゐることよ

     小さな花がきらきらしてゐる

     小さな花がきらきらしてゐる

      ああ きらきらしてゐる

 

       *

     *

       *

 

 小さな町の中を橇が滑り出した結氷期の或る朝、エゴンの兩親の住んでゐるドレスデンの消印のある一通の手紙が屆いた。イルゼの父は眼鏡が見つからなかつたので、それをイルゼに高い聲で讀ませたのであつた。その手紙は短かつた。しかし悲しかつた。エゴンの父は、彼の息子が戀のために氣の狂つてしまつたことを告げるのであつた。そして彼の息子がどうしても東の博士たちの寶を欲しがつてゐることを、彼の發作が彼を餘儀なく隱れ家のなかへ閉じ込めさせてゐることを、それから彼が發作中たえずイルゼの名前を繰り返してゐることを告げるのであつた。

 イルゼは、その手紙以來、急に衰弱していつた。頰は瘦せ、唇は靑ざめ、眼はいつそう光を增した。彼女は家事や針仕事をすつかり止めてしまつた。そしてすべての時間をピアノの前で過すか、または、ぼんやりと夢見てゐるのであつた。そして二月の半頃になると、彼女も床へつかなければならなくなつた。

 

       *

     *

       *

 

 その同じ頃、一つの噂がヒルデスハイムの全町民を動搖させてゐた。その町の創立のふしぎな立會人、あの千年の薔薇の木が、寒氣と老齡とのために死んでしまつたのである。本寺の裏の、閉鎖された墓地の中を匍ひまはつてゐた、その古い木が、枯れてしまつたのである。人々は心痛した。町役場では最も熟練した植木屋たちに救助を依賴した。しかし、どの植木屋も自分にはそれを蘇らせることは出來ないと言ふのであつた。遂に、ハンノワから一人の植木屋がそれを療治にやつて來た。彼は彼の技術の中で最も巧妙な手段を用ひた。すると三月の始めの或る朝、ヒルデスハイムの町中に、突然大きな歡聲が起つた。人々はみんな近づきあつてお互に祝ひ合ふのだつた。

 ――薔薇の木が蘇つた。ハンノワの植木屋が牛の血を巧妙に利用して、あの木に再び生を與へたのだ。

 

       *

     *

       *

 

 その同じ朝、イルゼの兩親は、戀のために死んだ娘の棺の側で泣いてゐた。白い布で掩はれた棺が持ち運ばれていつたとき、彩られた浮彫の聖人らは、雪に掩はれながら、古びた家の正面(ファサード)の上に震へて、啜り泣いてゐるかのやうに見えた。

 ――リンゲル、リンゲル、ライエ。(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)さようなら、イルゼ、永久に。さようなら、お前の德義に適つた諸罪よ、お前より美しくはなかつたお前の諸德よ。さようなら、イルゼ、永久に。

 その葬列の前を、軍隊が通つた。太鼓と軍笛(ファイフ)とが輕快な悲しい音樂を奏してゐた。女たちは目たたきをしながら言ふのだつた。

 ――傳説の薔薇の木は蘇された。それだのにヒルデスハイムの薔薇は埋められてしまふのだ。

 

 

[やぶちゃん注:「そうして」「さようなら」など一部の表記に歴史的仮名遣でないものが混じるが、面倒なので注記しないこととした。以下、原文は仏語サイトのこちらを参照した。

「家事を終へてしまふと、彼女はピアノの前に坐つて、人魚について物語られてゐることを唄ふのだつた。」これは堀辰雄に悪いが、語訳の類いである。原文は“Les travaux domestiques terminés, elle se mettait au piano et chantait qu’on eût dit d’une sirène,”で、一九七九年青土社刊「アポリネール全集」の窪田般彌氏の訳では『家事を片づけてしまうと、かの女はピアノに向い歌うのだったが、それは』セイレーン(人魚)の『歌声をきくようだった。』と訳しておられ、読んでいても躓きがない(引用途中のセイレーン(人魚)の箇所は窪田氏は『シレノス』と訳された上で、割注で『半人半魚の魔女。その美声は船人を難破させたという』と附しておられる)。

「對神三德」原文は“les Trois Vertus Théologales”。同前の窪田氏の訳では『三つの神徳』とあり、割注で『信仰、希望、慈悲のこと』とされておられる。

「最高四德」原文は“les Quatre Vertus Cardinales”。同前の窪田氏の訳では『四つの主徳』とあり、割注で『慎み、正義、節制、能力のこと』とされておられる。

「七大罪」原文は“les Péchés Capitaux”。同前の窪田氏の訳では『七つの大罪』とあり、割注で傲り(「倣り」とあるので外して示した)、『吝嗇、淫蕩、妬み、大食、怒り、怠惰の七つの罪』とされておられる。ウィキの「七つの大罪」によれば、『キリスト教の正典の中で七つの大罪について直接に言及され』たものはなく、これは四世紀の『エジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作に八つの「枢要罪」として現れたのが起源である』とある。『八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」である』。六世紀後半、ローマ教皇グレゴリウス一世によって『八つから現在の七つに改正され、順序も現在の順序に仕上げられた。「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「妬み」が追加された』とある。

「乞食に外套を與ふる聖マルタン」原文は“l saint Martin donnant son manteau au mendiant”。同前の窪田氏の訳では『乞食にマントを与える聖マルタン』とあり、割注で『フランスで最も尊敬されている聖人。ツールの司祭だった』とされておられる。ウィキの「トゥールのマルティヌスによれば、ラテン語で“Sanctus Martinus Turonensis”、また「マルタン」「マルチノ」とも音写され、『キリスト教の聖人で』、『殉教をせずに列聖された初めての人物で』『ヨーロッパ初の聖人でもある』。『日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教』『と表記される』とし、三一六年頃、『ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア』生まれで、三九七年(一説には四〇〇年)に『トゥーレーヌのカンドで没。ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊した。所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアン』(Amiens:現在のフランス北部の都市(コミューン:commune))『に派遣された時、「マントの伝説」が起こる』。『ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを』二つに『引き裂いて、半分を物乞いに与えた。この物乞いはイエス・キリストであったといわれ』、『これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。マルティヌスが持っていたほうの半分は、「聖マルティヌスのマント」として、フランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管された』。『ちなみに、フランクの王朝「カペー朝」は、マントを意味する「cape」にちなんでいる。礼拝堂(英 chapel、仏chapelle も、もともとはマントを保管した場所という意味である』。『除隊すると、マルティヌスは、聖ヒラリウスの弟子となるためにポワティエ』(Poitiers:現在のフランス西部の都市)『に向かうも、その前に、両親のいるロンバルディアに行こうとした。しかしアリウス派の信奉者が多く、カトリックを敵視していたため、ガリアへ戻ろうとしたが、アリウス派の勢力により聖ヒラリウスが追放されたことを知り、ティレニア湾に浮かぶガリナリア島(現アルベンガ島』(Albenga:現在のフランス国境に近いイタリア共和国リグーリア州サヴォーナ県)『)に逃れた』。『その後の勅令により、聖ヒラリウスがガリアに戻ったのを知ったマルティヌスは、ポワティエに急ぎ』、三六一年、『ポワティエから少し離れた地域(現リグージェ』(Liguge:フランスのポワトゥー=シャラント地域圏のヴィエンヌ県)『)を教化する許可を得て、多くの修道士が彼の周りに集まった』。『これが、西方教会初の修道院、リグージェ修道院である』。『マルティヌスは、伝道活動も積極的で、病気を治療したともいわれている』。三七一年(または三七二年)にトゥール』(Tours:現在のフランス中部にある都市でトゥーレーヌ(Touraine)州州都にしてアンドル=エ=ロワール県の県庁所在地)『の二代目の『司教である聖リドリウスが亡くなり、聖職者たちは、マルティヌスに新たな司教への就任を求めたが、あまり乗り気でなかったため、策略が施された。あるトゥールの市民がマルティヌスのもとを訪れ、死期が近い妻に会ってやってほしいと言って、共にトゥールの町に入ったところを、人々の喝采が出迎えたのである』。『司教となった後も、彼は、マルムーティエ修道院を作り、トゥーレーヌ一帯のキリスト教化の拠点とした』。『また、司教管区を離れて、現ドイツ領のトリーアに足を運ぶこともあった。ここはローマの皇帝たちが屋敷を構えたところで、ここで、皇帝に、犯罪者への赦しを請うこともした。異端者とされたイベリア半島の聖職者、プリスキリアーヌスへの赦しをも願ったが、結局は斬首の刑に処せられ、マルティヌスはそのことを大いに嘆いたという』。『ローマへの最後の訪問の後、マルティヌスはカンドに行き、そこで』八十一歳で没している。『その謙遜と禁欲を重視した生き方は、人々の崇拝の対象となり、偉大な聖人とたたえられた。存命中、あるいは死後に起きた奇跡についての記録も多く、多くの教会や礼拝堂が奉納され、また聖マルティヌスにちなんだ地名も多い』。『フランス、ドイツの守護聖人であ』り、『また、騎士や兵士、毛織物関連業者、靴屋、物乞い、家畜、そしてホテル経営者の守護聖人でもある。ロワール川流域でのブドウ栽培の先駆者としても知られ、イタリアではワインの守護聖人ともなっている。また、酩酊を避けたい時にも、この聖人に祈りを捧げる』とあるから、向後、私もこの聖人に祈りを捧げよう。

「聖女カテリイヌと車輪」原文は“sainte Catherine et sa roue”。同前の窪田氏の訳では『聖女カトリーヌとその車輪』とあり、『聖女カトリーヌ』の割注で『アレキサンドリアの聖女。車輪の拷問をうけた』とされておられる。ウィキの「アレクサンドリアのカタリナ」より引く。聖カタリナ又はアレクサンドリアのカタリナ(ラテン語:Sancta Catharina Alexandrina 二八七年~三〇五年)は『キリスト教の聖人で殉教者』。『正教会では聖大致命女エカテリナとして敬われ、ローマ・カトリックでは伝統的に『十四救難聖人』の一人とされている。ジャンヌ・ダルクと話したとされる聖人の一人』。『彼女の象徴として、壊れた車輪、剣、足下の王冠、霰、花嫁のヴェールと指輪、鳩、鞭、本、異教の哲学者と論争する女性、などが用いられる。キリスト教の弁証者、車輪作りの職人(陶工と紡績業者を含む)、記録保管係、教育者、研ぎ職人、弁護士、少女、機械工、製粉業者、看護師、図書司書、学者など多くの分野の守護聖人』などとされる。『聖カタリナの生涯は多くの種類の伝説で成り立っている。最も知られる話は以下のとおりである。カタリナはエジプト・アレクサンドリア知事コンストゥスの娘だった。彼女は当時最高の教育を受けたと言われる。カタリナは両親に向かって、名声、富、容姿と知性で自分を超える男でなければ結婚しないと宣言した。カタリナの母は秘密裡にキリスト教に改宗しており、娘を隠者の元へ送り出した。その隠者はカタリナに「その方(キリスト)の美は太陽の輝きよりも勝り、知性は万物を治める。富は世界の隅々にまで広がっている」と説いたという』。『幻視をした彼女は洗礼を受け、キリスト教徒となった。彼女は幻想の中で天国へ運ばれ、そこで聖母マリアによってキリストと婚約させられたという(神秘の結婚)』。『皇帝を訪問して話したいというカタリナの物語は時のローマ皇帝マクセンティウスの元にも届き、彼女は皇帝にキリスト教徒を迫害するやり方は間違っていると説こうとした。伝説では、カタリナは皇后を改宗させることに成功し、彼女は皇帝が送り込んだ』五十人の『異教の賢者たちを論破したため、彼らの多くはすぐに殺されてしまった。皇帝はカタリナに言い寄って失敗すると、彼女を牢へ入れるよう命じた。彼女が改宗させた人々がカタリナを訪問すると、彼女は車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられた。しかしカタリナが車輪に触れるとひとりでに壊れてしまったため、彼女は斬首刑にされた』。『伝説は後にさらに推敲され、天使がカタリナの遺体をシナイ山に運んだという。そこには』六世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世によって聖カタリナ修道院が建立され、この『修道院は今も残り、初期キリスト教芸術、建築、輝かしい手書き写本など有名な所蔵品』がある。『彼女の第一の象徴となるのは釘打ちされた車輪である。このことから、『カタリナの車輪』として知られるようになり、多くのキリスト教会で』十一月二十五日の『カタリナの祝祭日が祝われる』。但し、『歴史家たちはカタリナは実在しなかったと信じており、彼女は歴史上の人物というよりは理想化された人物像であったとみなしている。彼女は、異教徒の哲学者ヒュパティア』(Hypatia 三五〇年から三七〇年頃~四一五年:ローマ帝国アエギュプトゥス(ラテン語: Aegyptus:古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代の地名。エジプト(Egypt)の語源)の数学者で天文学者・新プラトン主義哲学者であった女性。「ハイパティア」「ヒパティア」とも呼ばれる。キリスト教徒によって異教徒として虐殺された)『と相対する像として作り上げられたというのである。カタリナがその目的のために特別に創造されたとするのは疑わしい。ヒュパティアのように、カタリナは高い知性を持ち(哲学と神学において)、非常に美しく、汚れなき処女であったと伝えられており、ヒュパティアの死ぬ』一〇五年前に『むごたらしく殺されたことも共通している』とする。一九六九年に『ローマ・カトリック教会は』『彼女の実在が歴史的根拠に欠けるという理由から』『典礼秘蹟省が発行する聖人の祝日を記載した暦から』カタリナの祝日十一月二十五日を一度除いたが、二〇〇二年になって『カタリナの祝日は再び暦に記載され』ている。『多くの場所で、カタリナの祝日は最上の厳粛さを持って祝われている。フランスのいくつかの司教区では』、十七世紀初頭から『聖なる日の義務とされてきた。数え切れない数の礼拝堂が彼女を守護聖人としており、カタリナ像はほとんどの教会のほど近くで、彼女の拷問の道具であった車輪を象徴化した姿の像が見つけられる。その間、カタリナの生涯に起因する象徴化が進み』、『聖カタリナは乙女と女学生の守護聖人となった。釘打ちされた車輪は聖人の象徴となり、車輪製造者と機械工の守護聖人となった。また車輪はケンブリッジ大学セント・キャサリンズ・カレッジなどの紋章になっている』とある。

「鵠」「くぐひ(くぐい)」。白鳥の古い名。但し、原文は“des cigognes”で、“cigogne”はフランス語でコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana を指す。同前の窪田氏の訳でも『こうのとり』とあり、割注で『敬愛と感謝の象徴』とされておられる。但し、ウィキの「コウノトリ」によると、『ヨーロッパでは、「赤ん坊はコウノトリのくちばしで運ばれてくる」「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」という言い伝えがあるが、生物学的にはコウノトリ Ciconia boyciana ではなく』、同じコウノトリ属のシュバシコウ(朱嘴鸛)『Ciconia ciconia である(ヨーロッパにコウノトリはいない)』とある。ウィキの「シュバシコウ」にも、『高い塔や屋根に営巣し雌雄で抱卵、子育てをする習性からヨーロッパでは赤ん坊や幸福を運ぶ鳥として親しまれている。このことから欧米には「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」または「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えが広く伝えられている。日本でもこのため「コウノトリが赤ん坊をもたらす」と言われることがある』と記す。ともかくも、堀辰雄はせめて「鸛(こうのとり)」とするべきであったとは思う。

「楯形」原文は“des écussons”。これは「エキソン」で「楯形紋地」、西洋でよく見かける武具の楯の形をした紋章のことである。

「リンゲル、リンゲル、ライエ」原文は斜体でRingel, Ringel, Reihe.。これはドイツの遊び唄の題名でもあり、調べたところ、一八四八年に出版された本に既に載るとする。短いが、その童謡はこちらの動画で少女たちの遊び方と一緒に視聴出来る。

「ラフアエルの讃美すべきマドンナ・シクスチイヌの畫」原文は“le tableau de Raphaël, l’admirable Madone Sixtine,”。最盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi 一四八三年~一五二〇年)がその晩年の一五一三年から一五一四年頃に、祭壇画の一翼として描いた「システィーナの聖母」(Madonna Sistina:ドイツ語:Sixtinische Madonna)。ラファエロが描いた最後の聖母マリア像であり、ラファエロが自分だけで完成させた最後の絵画でもある。一七五四年にドイツのドレスデン(Dresden)に持ち込まれ、その後、ドイツの美術界に大きな影響を与え続けた。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られたが、十年後にドイツに返還され、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの一つになっている。『聖シクストゥスと聖バルバラを両脇にして、聖母マリアが幼児キリストを抱きかかえている。マリアは曖昧に描かれた何十もの天使を背景に雲の上に立ち、画面下部には両翼を持つ、頬杖をついた特徴的な天使が描かれている』。『アメリカ人作家、歴史家リック・スティーヴス』(Rick Steves 一九五五年~)は、『通常では慈愛に満ちた表情で描かれるマリアがこの絵画では厳しい顔をして描かれているのは、もともとの祭壇画では中央にキリスト磔刑画が描かれていたことを反映しているためではないかとしている』。(以上はウィキの「システィーナの聖母」に拠った)。

「ヒルシユガツセの決鬪」原文“les duels de la Hirschgasse”。ハイデルベルク(Heidelberg)にあるヒルシュガッセの森は、十九世紀にドイツの大学で盛んに行われた、「学生決闘」などと訳される、一種の学生の通過儀礼的な疑似決闘行為である「メンズーア」(ドイツ語:Mensur)の決闘場所としてすこぶる有名であった。ウィキの「メンズーア」によれば、『決闘の方法は、二人の参加者が剣を持ち合い、フェンシングのようなスタイルで戦うというものである。当事者の片方に一定の負傷、流血が認められれば、決闘は終了となる。決闘の際には、審判を務める学生および医学の講師が立ち会う。決闘は規律に則って行われるが、あくまでも学生の通過儀礼あるいは喧嘩の延長のようなものだとみなされており、スポーツだと考えられることは少ない。また、体育の授業とは異なり、大学は医務室を開放するほかは積極的に関与していない』。『メンズーアは、学生同士の口論や暴力を発端として開始された。誰かと決闘したい、または上級生から決闘を命じられているが自分から喧嘩を仕掛けるのが憚られる場合には』、“Du bist ein dummer Junge!”(ドイツ語:「この馬鹿たれ小僧!」)『という合言葉を掛けることにより、申し込みをしたものとみなされた』。一八五〇年代に『なると、体力的に等しい者が平等に戦えるよう、学生団体同士で参加者を斡旋し合う制度が生まれてきた。また、大学によっては、あらかじめ複数の学生団体の幹部が協議を重ね、面識も反目の経験もない互いの構成員同士を決闘させる、一種の腕試しのようなことも行われた』。『一人の学生が在学中にメンズーアを経験する回数は』決闘しない者から、多い者では三十回から五十回ほどで』、フリードリヒ・バクマイステル(Friedrich Bacmeister 一八四〇年~一八八六年:同人のドイツ語版ウィキで確認)という学生は、実に在学中、百回もの『学生決闘を成し遂げたことで歴史に名を遺している。メンズーアに参加するか否かは当事者の意思に委ねられたが、郷友会やサークルの上級生によって無理やり参加させられる例もあったという。特に郷友会は、新入生に対して最低でも』一回は『メンズーアを経験する義務を課しているところが多かった。カトリックの学生団や文芸サークルなど、決闘とは縁の薄い団体は、しばしば価値の劣る存在だとみなされた。学生時代に幾度もメンズーアを経験した者は、軍隊において優遇され、早期に昇進することができた』とある。

哲學者の小徑」ハイデルベルク城の対岸に当たる河畔からハイリゲンベルク(Heiligenberg)山(聖人山)をやや上ったところをハイデルベルク旧市街アルトシュタット(Altstadt)を望みながら通る散歩道。後期ロマン派のドイツの小説家で詩人のヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(Joseph von Eichendorff 一七八八年~一八五七年)はこの道からハイデルベルクを眺めながら、新しい作品のインスピレーションを得たと言われる。二十数年前、私もたった一度だけ歩いたことがあるが、忘れ難い素敵な小道であった。

「馬槽」そのままでは「うまぶね」であるが「かいばおけ」と当て読みしたい。馬の飼料を入れる桶 ・飼い葉桶・秣(まぐさ)入れのことである。

「乳香」「にゆうかう(にゅうこう)」はムクロジ目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属のボスウェリア・カルテリィ Boswellia carterii などの同属の北アフリカ原産の常緑高木から採取される樹脂。芳香があり、古代エジプト以来、薫香料として用いられた。

「沒藥」「もつやく」も同じくカンラン科の低木コミュフォラ(ミルラノキ)属コミフォラ(ミルラ) Commiphora abyssinica から採取されるゴム樹脂。堅い塊状をなし、黄黒色で臭気が強い。エジプトでミイラ製造の防腐剤や薫香料に用いた。痛み止め・健胃・嗽(うがい)薬などにも利用される。

「ガスパルとバルタザルとメルヒオル」「新約聖書」に於いて、イエスの生誕の際にやって来て、礼拝した東方三博士(はかせ)(個人的には私は「東方三賢人」の方がしっくりくる)の名。ウィキの「東方の三博士」によれば、Casper(カスパール)は没薬に対応し、「将来の受難として死」の象徴で老人の姿で、Melchior(メルキオール)は黄金に対応し、「王権」の象徴で青年の姿で、Balthasar(バルタザール)は乳香に対応し、「神性」の象徴で壮年姿の賢者で描かれるとある。一般にはバルタザールが黒人として描かれるが、地域によってはメルキオールが黒人である場合もある。

「マイダス」原文“Midas”。ギリシア神話に出る、プリュギア(Phrygia:古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名)の都市ペシヌス(Pessinus)の王ミダスのこと。触れたもの全てを黄金に変える能力がったことで知られている。

「ケルンの本寺がその殘骸を所持していることを誇りとしてゐる、あの占星家らによつて變質せられた地金」ゴシック様式の建築物としては世界最大を誇るケルン大聖堂(Kölner Dom:正式名「ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂」(Dom St. Peter und Maria:「聖ペトロとマリア大聖堂」)にある、同聖堂の最も大事な聖遺物とされる、中央祭壇にある東方三博士の頭蓋骨を納めた「柩」のことか。添乗員サイト「新婚旅行~ヨーロッパ|世界遺産を巡る旅」のこちらの記事によれば、三賢人の頭蓋骨は一一六四年にミラノからケルンに齎されたもので、これによってケルン大聖堂はヨーロッパでも最も重要な教会の一つとなったとある。高さ一・五三メートル、幅一・一メートル、長さ二・二メートルの木製で、金細工を施した銀・銅板が張られ、一千個の宝石と真珠、三百以上の準宝石とカメオが取り付けられており、彫刻は「新約聖書」が「旧約聖書」に基づく正当なものであることを示し、全面の中央には幼子イエスを抱いたマリアを礼拝する三賢人の彫刻が施してあって、聖櫃の中に王冠を被った三賢者の頭蓋骨が収められてあるという。私も見たはずなのだが、とんと記憶にない。氷の柱のようにそそり立った聖堂に慄然とした感覚だけが残っているばかりである。

「ヴエネラブル・ベエド」原文“le vénérable Bède”“vénérable”「尊(たっと)い・貴(とうと)い」の意で、これはイングランドのキリスト教聖職者で歴史家でもあった「尊者」ベーダ(BedaBadeBæda 六七二年又は六七三年~七三五年)のことである。ウィキの「ベーダ・ヴェネラビリス」によれば、カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会では聖人とされ、九世紀以降からは「尊敬すべきベーダ」(ラテン語:Beda Venerabilis)と呼ばれる。現代の英語では、名は「Bede」と綴られ「ビード」と発音される。『ベーダは北イングランドの方ノーサンブリアのウェア河口に生まれ、生涯タイン川河口の町ジャローから出ることはなかった。イングランド教会史を齢』五十九歳で『書き終えていると自ら書いており、また校了は』七三一年頃とされる事から彼の生年は六七二年乃至六七三年頃と推定される。『彼が高貴な生まれであったかは分かってはいないが』、七歳で修道院に入り、三十歳で司祭となっている。『ノーサンブリア貴族出身の修道士ベネディクト・ビスコップと彼の後継者チェオフリドにギリシア語とラテン語、詩作、ローマの主唱を学ぶ。古いアイルランド出身の先師たちが築いた伝統により、聖書解釈に進んだ。在世時のベーダの名声も、主として聖書解釈の方面にあった』。『ベーダは多くの著作を残した。その記述は多岐にわたる。ギリシア・ローマの古典はベーダによって初めてイングランドで再生し、スコラ学の先駆者となった。ギリシア・ローマの古典を引用し、天文・気象・物理・音楽・哲学・文法・修辞・数学・医学に関してその時イギリスで集められるかぎりの文献を渉猟した。ベーダが引用した文献はプラトーンやアリストテレス、小セネカ、キケロ、ルクレティウスやオウィディウス、ウェルギリウスなどである。その絶大な勤勉さによって、弟子たちにとっては、ベーダ自身が百科事典の役割を果たしたように思われる』。『今日ベーダの主著として知られるのは』「イングランド教会史」(ラテン語:Historia ecclesiastica gentis Anglorum/英語:Ecclesiastical History of the English People)五巻で、『この書はしばしば彼の名を付して『ベーダ』とのみ呼ばれる。これは現存する最古のイングランドの通史であり、ベーダはイギリス最初の史家として』も知られる。『ベーダはブリタンニアの地理・住民とローマの支配を概括することからはじめ、聖人たちの業績や修道院の歴史を縦糸とし、イングランド各王国の盛衰を横糸として、その間にいくつかの奇跡(火災や難病治療についての)や教会内部の問題をつづり、最後に事件を年代記風に整理して、自己の略歴と著作を記して終わる。このときベーダが模範としたのは、ヨセフスの古代ユダヤを扱った歴史書、またエウセビウスの教会史であった』。この「イングランド教会史」は『イングランド初期のキリスト教の発達についてだけでなく』、七世紀初めから八世紀前半にかけての『信頼すべき史料となっている。ローマ支配下のブリタンニア、カンタベリーのアウグスティヌスの伝道、テオドルス、チャド、ウィルフリッドなど偉大な司教たちの事績や、サクソン人やジュート人の進入、スコットランド・アイルランドの当時の状況について、平易なラテン語で詳細で迫力ある叙述をおこない、文学としても高く評価されている』とある。

「ネツカ河畔」ネッカー(Neckar)川はドイツ中南部の流域を流れるライン川の支流。ハイデルベルク城はネッカー渓谷に建つ。なお、「ネッカー」の名はケルト語由来で「荒れた川」の意である。

「小天使(ケルビム)」(ラテン語 cherub/複数形:cherubin, cherubim)は天使の一種で「智天使」などとも訳される。ウィキの「智天使によれば、天使の九階級では第二位に位置づけられている(但し、出典は偽書)。「旧約聖書」の「創世記」によれば、『主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた』。「旧約聖書」の「エゼキエル書」十章第二十一節によれば、『四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という』。『「彼はケルブに乗って飛び、」』(「サムエル記」の下の二十二章十一節)『「主はケルビムの上に座せられる」。』(「詩篇」九十九編第一節)『といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる』。その『起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている』。『旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。その顔は人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔を持っていた。生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。ケルビムの全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた(知の象徴)ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている』。『なお絵画表現において、セラフィム』(ラテン語:Seraph, Seraphim:先の階級説では最上位の天使とされ、「熾天使(してんし)」などと訳す。三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで体を隠し、残り二つの翼で羽ばたく。「熾」(やく)はヤハウェへの愛と情熱で体が燃えていることに由来する)『と混同されて描かれているものもある』とある。

「ああ、あいつら精力的な動物どもの知つてゐた返事といつたら、唯、しやがれた獨逸語の肯定詞だけだつたのだ。」原文は“Hélas ! ces énergiques animaux ne savent qu’une réponse : la rauque affirmation. germanique.”で、青土社刊「アポリネール全集」の窪田般彌氏の訳では、『ああ! あの元気のいい動物ときたら、たった一つの返事しかできないんだからな。「ヤア」というドイツ語のしゃがれた肯定語を繰り返すだけさ。』と訳しておられ、腑に落ちる。

「彼の發作が彼を餘儀なく隱れ家のなかへ閉じ込めさせてゐることを、」原文では“puis ses fureurs qui l’avaient fait interner dans un asile,”の箇所だが、このアジール(asile)はある種の収容所・保護施設、ここでなら、精神病院のことであろう。同前の窪田般彌氏の訳でも、『狂乱状態のかれをさる精神病院に軟禁したが、』と訳しておられ、やはり腑に落ちる。

――リンゲル、リンゲル、ライエ。(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)さようなら、イルゼ、永久に。さようなら、お前の德義に適つた諸罪よ、お前より美しくはなかつたお前の諸德よ。さようなら、イルゼ、永久に。」ここは原文の響きが実に哀しく美しい。以下に掲げる。

 « Ringel, Ringel, Reihe. Adieu, Ilse, pour toujours. Adieu, tes péchés vertueux et tes vertus moins belles que toi. Adieu, pour toujours. »”

「軍笛(ファイフ)」原文“les fifres”“fifre”は横笛。]

2016/07/10

死後の許嫁   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説La fiancée posthume(一九一一年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『若草』(昭和八(一九三三)年七月号)である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。

 老婆心乍ら、題名の「許嫁」は「いひなづけ(いいなずけ)」と訓ずる。フィアンセ。]

 

 

   死後の許嫁

 

 ヨオロツパを旅行中であつた或る若い霹西亞人がカンヌヘ冬を過ごしに行つた。彼は、季節(シーズン)の間だけ外國人相手に佛蘭西語を教へてゐる、或る教師の家に下宿をした。

 この教師は、五十がらみの男で、ミュスカァドと云ふ苗字であつた。彼は地味な身裝(なり)をしてゐたので、もし彼がいつも蒜(にんにく)の臭ひをさせてゐなかつたならば、何處へ行つても彼は人目につかなかつたにちがひない。

 ミュスカァド夫人は三十八から四十ぐらいの年だつたが、どう見ても三十から三十二ぐらゐにしか見えぬ、温順(おとな)しい婦人だつた、かの女は金髮(ブロンド)で、肌は生き生きとしてゐたし、胴もすらりとしてゐた、が、その胸部と腰とはちよつと突き出てゐた。しかし、そのうちには微塵も挑發的なところはなかつた。そしてかの女は悲しげに見えるのだつた。

 若い露西亞人はかの女に目をつけた。そしてかの女を綺麗だなあと思つた。

 ミュスカァド夫妻はシュケェ海岸に臨んだ、小さなヴィラに住んでゐた。其處からは海の上にレランの諸島が見え、夏ならば、日の暮れ方になると、裸のしなやかな子供たちの遊び戯れる、長い沙濱が見えるのであった。ヴィラはミモザや菖蒲や薔薇や大きなユウカリプタスなどの植わつてゐる庭をもつてゐた。

 ミュスカァド家の間借人は散步をしたり、煙草をのんだり、讀書をしたりして冬中を過ごした。彼は町に一ぱい居る可愛らしい少女たちも見なければ、美しい外國婦人たちも見なかった。彼の目は海岸の砂の上だの、往來の地面の上だの、又は壁の上だの、いたるところにキラキラしてゐる雲母のきらめきしか見ないのだった。そして彼の想ひは、海の方から吹いてくる風に押されるままになって步いてゐる間、すつかりミュスカァド夫人の上にあつた。しかしその戀は甘く、うつとりとしたものではあつたが、決して熱情的なものではなかつた。彼はそれを打明けようとはしなかつた。

 

       *

     *

       *

 

 ユウカリプタスは香りのよい細かい毛で地面を埋めた。それは庭の小徑をすつかり埋めて、雲母のかけらを消してしまつてゐるほど、そこには澤山落ちた。そしてミモザはいい匂のする花をひとつ殘らず燃え立たせた。

 或る夕方、窓をすつかり開け放した部屋のなかの薄くらがりで、ミュスカァド夫人がランプをつけているのを若者は見たのであつた。かの女の動作は緩やかであつた。そしてその影繪(シルエット)はいかにも淑やかで、それでゐて何處か投げやりなところがあるやうに見えた。若者は思つた、「もう我慢がならない。」そしてかの女に近づいて行きながら、彼は言つたのである。

「マダム・ミュスカァド、なんといふ素晴らしい苗字でせうね! まるで呼名みたいですね。‥‥ほんたうにこの苗字は、東洋の太陽のやうにかがやかしい毛髮をなさつてゐる貴女にはよくお似合ひです。あの肉豆蔲(ミュスカァド)のなかでも一番いい匂のする實のやうにいい匂のする貴女には。‥‥鳩がそれを嚥み込んでは元のまんま排泄する、あのミュスカァドの實のことですよ。‥‥いい匂のするすべてのものは貴女の匂がします。そして貴女はあらゆる氣持のいいものの持つてゐる味がするのにちがひありません。私は貴女を愛してゐます、マダム・ミュスカァド!」

 

 ミュスカァド夫人はしかし、怒つたような樣子もしなければ、嬉しさうな樣子もせず、ただ全く無感動のやうに見えた。さうして窓から彼の方をちらりと一目見たきりで、部屋を去つて行つた。

 若者は一瞬間ぽかんとしてゐた。やがて彼は笑ひ出したくなつた。それから彼はシガレットに火をつけて外へ出て行つた。

 五時頃、彼は歸つてきた。さうしてヴィラの柵にミュスカァド夫妻が凭りかかつてゐるのを認めた。夫妻の方でも若者を認めると、人氣のない往來の方に二人して出てきた。ミュスカァド夫人はヴィラの柵を閉めてから、かの女の夫のそばに寄り添つた。かの女の夫が言つた。

 ――あなたにちよつとお話したいことがあるんですが‥‥

 ――往來でですか? 若者が訊いた。

 

 さうして彼はミュスカァド夫人の方を見つめた。かの女は落着き拂つて、身じろぎもしないのだつた。

 ――そうです、往來で、とミュスカァド氏は答へた。

 

 さうして彼は話し出した。‥‥

「あなた、どうぞ私の話を、――いや、これはまたマダム・ミュスカァドの話でもありますから、私達の話と云うべきでせう、――まあ、どうぞ最後までお聞きになつて下さい。

「私はいま五十三になります、そしてマダム・ミュスカァドは丁度四十になります。私ども、私と妻が、結婚いたしましたのは今から二十年前です。妻はダンスの教師の娘でした。私は孤兒でしたが、私の生活狀態は世帶をもつのに必要な位の餘裕はあつたのです。私たちは戀愛結婚をいたしました。

「御覽のとほり、妻はいまだに綺麗で、ちよいと惚れ惚れいたす位でございませう。しかし、もしもその當時、これがどんな繪にだつて描いてないような色をした毛髮を編んで結つてゐるところを御覽になつたのでしたら! それもみんな昔のことです、あなた、そしてこれの毛髮は、今じゃ、お誓ひしてもよろしいが、これが十七位だつたときの面影はまるで無くなつてしまひました。その頃は、この毛髮と云つたら、まるで蜜のやうでした。さもなくば、それが月かそれとも太陽のどちらに似てゐるかを決めるのに、ほとほと困つたものでした。

「私は妻を熱愛しました。そして妻の方でもまた(敢えて保證しますが)私を愛してくれました。そして私たちは結婚いたしました。それは限りのない喜び、ありとあらゆる感覺の法悦、夢にも似た幸福、幻滅のない夢でした。私の仕事はますます繁昌し、私たちの夢は續きました。」

 

       *

     *

       *

 

「それから數年經つと、すでにかくも一杯な私たちの幸福の盃をもつともつと一杯にすることが神樣のお氣に召しました。マダム・ミュスカァドは私を可愛らしい女の子の父親にさせて呉れました。神樣がその女の子を私たちに下さいましたものですから、テオドリィヌと云ふ名前をつけてやりました。マダム・ミュスカァドはその赤ん坊を自分の乳で育てたがりました。そして私はこの天使のやうなベビイの美しい乳母を愛することによつてどんなに餘計幸福になつたことでしよう。ああ、夜になつて、ランプの下で、赤ん坊に乳を飮ませてから、マダム・ミュスカァドがそいつの着物をぬがせてやるときは、何といふチャァミングな光景だつたでせう! 私たちの唇はその赤ん坊の、やはらかな、艷のよい、匂のする身體の上で、しばしば出會ふのでした。そして私たちの愉しい接吻は、その可愛らしいお尻だの、小さな足だの、むつくりした股だの、いたるところの上で音を立てました。そして私たちはいろんな愛稱を見つけました。小さな魔女、私の目の眸、鼬、貂(てん)、等々‥‥

「それから最初の步行、最初の言葉、そしてそれから、あゝ! かの女は五つの時に

死んでしまひました。

「私はいまだに、小さな寢臺の上に、小さな殉教者のやうに美しく死んでゐるかの女の姿が目にちらついてなりません。私はかの女の小さな棺をはつきり覺えてゐます。私たちはかの女を奪ひ去られました。そしてあらゆる喜び、あらゆる幸福を失つてしまひました。私たちは、私たちのテオドリィヌがいまなほ生き續けてゐる天國にでも行かなければ、もうそれらのものを見出す譯には行かないのです。」

 

       *

     *

       *

 

「かの女の死んだ日、私たちの心は急に老ひ込んでしまつたやうに感じられました。そして私たちには最早この世には何一つ面白いものがなくなりました。しかし、私たちは死なうとは思ひませんでした。私たちの生活は悲しくこそありましたが、氣持のよいくらゐ、それは靜かな生活でした。

「どうしても私たちを離れない悲しみ、そして私たちが娘のことを話し合ふ度每に私たちを泣かせずにはおかなかつた悲しみも次第に薄らいで行くうちに、數年が過ぎました。

「ときどき私たちは娘のことを話し合ひました。

「――あれが生きてゐたら十二になるんだがね、最初の聖體拜領(コミュニョン)の年だよ‥‥」

「そして或る時なぞは私たちは燒香の絶えない墓地の中のかの女の墓のかたわらで一日中泣き暮らしました。

「――あれが生きてゐたら今日で十五になるんだがなあ、そして多分もうとつくの昔に結婚を申込まれてゐるだらうに。」

 

「そんなことを言つたのは私でした、もう二年前のことです。私の妻は悲しげに微笑をしました。私たちは同じやうなことを考へてゐたのでした。翌日、私たちは貼札を出しました。「獨身者に部屋をお貸し致したし。」そして私たちは大ぜいの若い方たちに部屋をお貸ししました。イギリス人を二三人、デンマアク人とルウマニア人とを一人宛‥‥そして私たちは考へるのでした。

「――あれはもう十六になるんだよ。どうだろうね? 私たちの間借人はあれに氣に入つてゐるだろうかしら?」

 

       *

     *

       *

 

「それからあなたが來ました。そして私たちはときどき考へました。

「――テオドリィヌは十七になるんだよ。さうして若しまだ結婚してゐなかつたら、あれには屹度、この氣のやさしい、教育のある、すべての點であれに似つかはしい、この靑年が氣に入つただらうになあ‥‥」

「あなたは感動してゐますね、私にはそれがよく分ります。あなたはほんたうに好いお方で‥‥

 

「いや、いや、あゝ、私は間違つてゐます。あなたが今日の午後なさろうとしたことは、殆んど罪惡にも等しいことです。何故つて、本當のことを云ひますと、マダム・ミュスカァドが私にすつかり打明けてしまつたからです。あなたはこの立派な女の心をかきみだしました。私の心をかきみだしました。さうして、もうこんなことが起つてしまつた上は、あなたを私の家へお入れすることの出來ぬことぐらいはあなた御自身でもお解りだらうと思ひます。ごらんなさい、柵は閉つてゐます、これで何もかもお仕舞ひです。もう二度と私の庭をお通り下さいますな。あなたはそれを禁斷の快樂の庭だとお考へになつた、そしてそのお考へがあなたをそこからいま追ひ出すのです。

「あなたはもう、母親がその息子を愛するやうにあなたを愛してゐたこの女にひどく悲しい思ひをさせた、この靜かな家の中へ這入らうとなさいますな。ああ、私はどんなにあなたを何時までも私の家に置いておきたかつたことでせう! が、あなたもお解りでせうが、あなたがたとへそれを御承諾なさつても、もうそれは不可能なことです。もう何もかもお仕舞ひなのです。今夜はあなたはホテルにお泊りなさい。そしてあなたが何處へお泊りになつたかを私のところへお知らせ下さい。私はあなたの荷物をお屆けいたします、さようなら、ムッシウ。さあ、おいで。マダム・ミュスカァド、日が暮れるよ。さようなら、ムッシウ、お達者で、さようなら。」

 

[やぶちゃん注:複数の「さようなら」の表記はママ。「影繪(シルエット)」のルビは本文内の外来語の拗音表記から拗音化し、二度目に出る娘の名も二箇所とも「テオドリイヌ」であるが、最初の表記と統一して拗音化した。「聖體拜領(コミュニョン)」のルビも「コミユニヨン」であるが同様に処理した。

「シュケェ海岸」原文“côté du Suquet”。フランス南東部の地中海に面したカンヌ(Cannes)市街の西側のシュヴァリエ山一帯に広がる旧市街の海浜地区。旧港の東側をカバーする地域で、現行では「ラ・シュケ」と表記される。

「レランの諸島」原文“les îles de Lérins”。カンヌ沖合のレランス諸島。サン=トノラ島(Île Saint-Honorat)、サント=マルグリット島(Île Sainte-Marguerite)、サン=フェレオル島(Îlot Saint-Ferréol)、ラ・トラドリエール島(Îlot de la Tradelière)から成る。

「ユウカリプタス」原文“eucalyptus”。オーストラリアの原産のフトモモ目フトモモ科ユーカリ属 Eucalyptus の仲間。多様な品種を持つ。

「肉豆蔲(ミュスカァド)」原文“noix muscades”“Noix de muscade”で、実が生薬(肉荳蔲(にくずく))やスパイス(「ナツメグ」)として知られる、モクレン亜綱モクレン目ニクズク科ニクズク(ミリスティカ・肉荳蔲・肉豆蒄)属 Myristica のこと(属名はギリシャ語で「香油」を意味する「ミュリスティコス(myristicos)」に由来)。元来は熱帯性常緑高木。代表種はナツメグ Myristica fragrans。香辛料としては独特の甘い芳香と辛味と苦味を有する。ここの主人の姓も全く同じ綴りである。

「聖體拜領(コミュニョン)」原文“communion”。カトリック教会に於いてキリストの体と血となったパンと葡萄酒に身に授かること。]

アムステルダムの水夫   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ローマで私生児として生まれ、フランスで詩人・小説家・美術評論家として活躍、「surréalisme」という単語の生みの親ともされるギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年:母はポーランド貴族の血を引く。父親は現在、スイスの名家出身のシチリア王国退役軍人とほぼ確実視されている。以上の事蹟は所持する一九七九年青土社刊「アポリネール全集」の年譜に従った)の短篇小説Le matelot d'Amsterdam(一九〇七年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『辻馬車』(昭和二(一九二七)年一月号)である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。]

 

 

   アムステルダムの水夫

 

 オランダの帆船、アルクマアル丸は、香料や其他の高價な物品を滿載して、ジヤバから歸つてきた。

 船がサザムプトンに寄港すると、水夫たちは上陸することを許された。

 彼等の一人のへンドリク・ウエルステイグは、左の肩には猿を、右の肩には鸚鵡をのせてゐた。その上、印度の織物の包を負ひ革で背負つてゐた。彼は町でそれをその動物らと一しよに賣らうと思つてゐたのである。

 春のはじめ頃だつたので、早くからもう日が暮れた。ヘンドリク・ウエルステイグは瓦斯の光がわづかに照らしてゐる、霧のすこし下りた町を足輕に步いていつた。水夫はもうぢきアムステルダムヘ歸れることや、もう三年以上も會はない母のことや、モニケムダムで彼を待ちわびてゐる許嫁のことなぞを、考えてゐたのである。さうして彼は彼の動物と織物から得られる金を計算しながら、それらのエキゾチツクな品物を賣ることの出來さうな商店を探してゐたのである。

 するとアバブ・バア街の中で、一人の立派な洋服を着た紳士が彼に近づいて來た。その紳士は彼に鸚鵡の買手を探してゐるのかと訊いて、それから言つた。

「この鳥は私に丁度いい、私は誰か、私がそれに答へないでゐても、私に話しかけてくれるものを欲しいと思つてゐたのだ。私はまつたく一人暮らしなのだ。」

 ヘンドリク・ウエルステイグは、オランダの水夫の大部分のやうに、英語を話した。彼はその知らない男にふさはしいやうな値段を言つた。

 するとその知らない男は言つた。

「ぢやあ、私と一しよに來てくれたまへ。すこし遠くの方に住んでゐるのだが。さうして君の手で、その鸚鵡を、私のうちにある籠に入れてくれたまへ。それにたぶん、君がその包を開けて見せてくれたら、私の好みに合ふものがあるかもしれない。」

 こいつはお誂向きだと大層喜んで、ヘンドリク・ウエルステイグはその紳士に引張られて行つた。途々、彼は、これもーしよに賣つてしまひたいと思つたので、その紳士に自分の猿の自慢をした。これはごく珍らしい種のもので、イギリスの氣候には一ばんよく耐へるし、自分の主人には大へんよくなじむ、さう彼は言つたのである。

 けれども、すぐ、ヘンドリク・ウエルステイグは話すのを止めてしまつた。彼は彼の言葉をまつたく無駄に費してゐたからである。と言ふのは、その知らない男は彼に答へぬばかりではない。もう聞いてさへも居ないやうに思はれたのだ。

 二人は並びながら默つて道をつづけて行つた。ただ、ときどき、故郷の森をなつかしむやうに熱帶の方を向きながら、猿が、霧を怖がつて、生れたばかりの赤ん坊の泣聲に似た小さな叫びを發したり、鸚鵡が羽ばたきをしたりしてゐた。

 その知らない男が突然に口をきいたのは、それから一時間ばかり步いた後だつた。

「もうすぐ私の家だ。」

 二人は郊外へ入つて行つた。道は大きな園でふちどられたり、柵で圍はれたりしてゐた。ときどき小屋の明るい窓が、立木をよぎりながら、かがやいてゐた。さうして、遠くの、海の方からは、汽笛の不吉な叫びがときたま聞えてきた。

 その知らない男は一つの柵の前に立止ると、衣囊から鍵の小束を出して門を開けた。さうしてヘンドリクが中へ這入つてしまふと、彼はそれを閉めてしまつた。

 水夫はすこし變な氣がした。彼は、庭の奧の方に、非常に恰好のいい小さな別莊を、漸つと認めることが出來たが、その閉つてゐる鎧扉は内側からすこしの光をも洩らしてはゐないのである。

 この無口の知らない男といひ、この死んだやうな家といひ、すべてが彼を非常に氣味惡がらせた。だが、ヘンドリクはふと、この知らない男が一人住ひをしてゐることを思ひ出した。

「この人は變り者なんだらう。」さう彼は考へた。そしてオランダの水夫なんぞは、追剝が目的でこんな家へ引つぱり込まれるほどの金持ではないので、彼はその一瞬間の不安を寧ろ羞しいものにさへ思つたのであつた。

 

       *

     *

       *

 

「マツチを持つてゐたら一寸つけてくれたまへ。」

 さう、その知らない男は、小屋の門を閉めるため、その錠のなかへ鍵をつつこみながら言つた。

 水夫は言はれる通りにした。さうして二人が家のなかへ入つてしまふと、その知らない男はランプを何處からか持つてきた。ランプはすぐ、好い趣味で飾られた客間を照らしたのである。

 ヘンドリク・ウエルステイグはまつたく安心した。そして彼はこの奇妙な同伴者が自分の織物をどつさり買つて呉れるやうな期待さへも持ちはじめだした。

 客間から出ていつたその知らない男は、籠を持つて、再び歸つてきた。彼は言つた。

「君の鸚鵡をこの中へ入れて呉れたまへ。私がそれを仕込んで、私の言つて貰ひたいことをこれが言ふやうになるまでは、私はこの鳥を止り木の上へ置いてやらないのだ。」

 それから、そんな中に入れられて鳥がびつくりしてゐる籠を閉めてしまふと、彼は水夫にランプを持つて隣りの部屋へ行くやうにと乞うた。そこには織物をひろげるのに便利なテイブルがあるのだとふのである。

 そこでヘンドリク・ウエルスティグは自分に指定された部屋の中へ、言はれる通りに入つていつた。すると突然、彼は自分のうしろのドアが閉められて、鍵がまはされるのを聞いた。彼はとりこにされてしまつたのだ。

 狼狽しながら、彼はランプを机の上に置いて、ドアを破るため、それに飛びかからうとした。そのとき一つの聲が彼を止めた。

「一足でも動くと、貴樣の命はないぞ!

 顏をあげたへンドリクは、そのとき始めて氣のついた明り窓ごしに、彼の上ヘピストルが向けられてゐるのを見たのである。ぎよつとして彼は立ち止まつた。

 抵抗は不可能であつた。彼の短刀は、かういふ狀況では、彼を助けることは出來なかつたし、それにピストルがあつたつて無駄だつたのである。もうすつかり彼をわが物にしてしまつた、その知らない男は、明り窓のところの壁のうしろに身をかくして、そこから水夫を監視してゐた。そしてそこから出てゐるのは、ただピストルを向けてゐる彼の手だけだつた。

 その知らない男が言つた。

「おれの言ふことをよく聞いて、おれに言はれた通りにしろ。もしお前がさうしたら、おれはお前に報酬をやる。だがお前は選んではいけない。躊躇しないでおれの言ふ通りにしなければいけないのだ。でないと、おれはお前を犬のやうに殺してしまふだらう。さあ、テイブルの抽出しをあけろ。‥‥そこに五發だけ彈丸の入つた、六連發がある‥‥それを取りあげろ。」

 オランダの水夫は、ほとんど無意識に、その通りのことをした。猿は、彼の肩の上で、恐ろしさに叫びながら、震へてゐた。するとその知らない男は續けて言つた。

「部屋の奧にカアテンがあるだらう。それを引きはがすのだ。」

 カアテンは引きはがされた。そこには床の間があつた。そしてへンドリクは見たのであつた、そこのベツドの上に、手と足を縛られて猿ぐつはをはめられた、一人の女が絶望にみちた眼で彼を見つめてゐるのを。

 知らない男は更に言つた。

「その女の繩をといて、猿ぐつはをはづしてやれ。」

 彼は言はれた通りのことをした。するとその若い、何とも云へずに美しい女は、明り窓のそばへ、かう叫びながら跪いた。

「ハリイ、まあ、なんてひどいやり方なの! あなたはあたしを殺すためにこの別莊へ引き込んだのです。あなたはあたし達の和解の最初の時を過すためにこの別莊を借りたのだと言つてゐました。あたしはあなたを説き伏せたのだと信じました。あたしはあなたが私に罪のないことをとうとう確信したのだと思つていました。‥‥ハリイ、ハリイ、あたしには罪はありません。」

「おれはおまへを信じない。」さう男は冷淡に言つた。

「ハリイ、あたしには罪はありません。」若い女はいかにも苦しさうな聲で繰り返した。

「それがおまへの最後の言葉になるだらう。おれはそれをよく記憶しておいてやる。

そしておれは生涯繰り返し繰り返しそれを聞くだらう。といふのは‥‥(そこで男の聲がすこし震へたが、すぐまた元の通りのしつかりした聲になつた。)おれはおまへをまだ愛してゐるからな。たとへ昔ほどはおまへを愛さなくなつてゐようとも。おれはお前を殺してやる。だが、それはこのおれ自身には出來ない。おれはおまへをまだ愛してゐるからな‥‥

 さあ、水夫、おれが十まで數へてしまはないうちに、お前がこの女の頭の中へ彈丸を射ち込まなかつたら、お前はその女の足許に死骸になつてころがつてしまふのだぞ。いいか、一つ、二つ、三つ‥‥」

 さうしてその知らない男が四まで數へてしまはないうちに、ヘンドリクは、跪ゐたまま彼をぢつと見つめてゐる女を、夢中になつて射つた。そのとき女が床の上へ顏を伏せたので、彈丸は額にあたつた。と同時に、明り窓からもピストルが射たれた。それは水夫の右の顳顬にあたつた。水夫はテイブルの上に倒れていつた。その間に、猿は、恐ろしさにとがつた叫びを發しながら、水夫服の中へもぐつていつた。

 

       *

     *

       *

 

 翌日、サザムプトンの郊外の一つの小屋から、異樣な叫びが聞えてくるのを、通行人が聞いて、それを警官に知らせた。すぐに警官はそこへ行つて門を破壞した。

 若い女と水夫の死骸が發見された。

 そのとき不意に、一匹の猿が、主人の水夫服の中から飛び出してきて、警官の一人の首に飛びついた。その猿は警官たちを怖がらせた。そのため警官たちは、猿が數步うしろへさがつたとき、再び近づいて來ない先に、それをピストルで擊ち殺してしまつた。

 裁判は下された。水夫がその女を殺したあとで自殺したことは明白だつた。けれども、その出來事の事情はどうも不可解であつた。二つの死骸の身許はすぐ分つた。さうして、イギリスの貴族の妻のフインガル夫人が、どうしてこんな寂しい田舍家の中にたつた一人で、前日サザムプトンに着いた水夫と一しよにゐたのだらうか、と人々は不審に思つたのである。

 別莊の持主も何等この裁判を明らかにさせるやうな報告を與へることは出來なかつた。小屋は出來事の八日前に借りられたのであつた。借りたのはマンチエスタアのコリンズと稱する男だつたが、その男はどうしても見つからなかつた。そのコリンズと言ふ男は眼鏡をかけて、どうも贋物らしい、長い焦茶色の髭をつけてゐたさうである。

 貴族は大いそぎでロンドンから到着した。彼は自分の妻を尊敬してゐた。そして彼の歎きは見るに堪へないくらゐだつた。彼も、世間のすべての人々と同樣に、この出來事を理解できないのであつた。

 彼は、この出來事以來、世間から隱遁した。彼はケンシントンの自分の家に住んで、啞の下僕と一匹の鸚鵡のほかは、誰も自分のそばへ寄せつけなかつた。さうしてその鸚鵡はたえずかう繰り返してゐたのである。

「ハリイ、あたしには罪がありません。」

 

 

[やぶちゃん字注:第二パートで一ヶ所、主人公の名前の「イ」が「ウエルスティグ」と拗音表記になっているのは底本のママ。

 「カアテンは引きはがされた。そこには床の間があつた。そしてへンドリクは見たのであつた、そこのベツドの上に、手と足を縛られて猿ぐつはをはめられた、一人の女が絶望にみちた眼で彼を見つめてゐるのを。」の「そこのベツドの上に」は。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、「そこの床の間の上に」となっている。「ベツト」がよい。

「ハリイ、まあ、なんてひどいやり方なの!……」という女の台詞の中の「とうとう」はママ。

   *

 「モニケムダム」原文“Monikendam”。正しい綴りは“Monnickendam”。アムステルダムの北東郊外にある小さな港町。

 老婆心乍ら、「顳顬」は「こめかみ」と読む。]

2016/07/04

生けるものと死せるものと ノワイユ伯爵夫人 堀辰雄譯 (附 原詩)

[やぶちゃん注:フランスの詩人・小説家のアンナ=エリザベート・ド・ノアイユ伯爵夫人(La comtesse Anna-Élisabeth de NoaillesAnna de Noailles 一八七六年~一九三三年)の詩Les Vivants et les Morts(「生者と死者」一九一三年)の堀辰雄による訳。昭和一八(一九四三)年青磁社刊・菱見修三編「續佛蘭西詩集」に訳載された。底本は昭和二一(一九四六)年角川書店刊「絵はがき 堀辰雄小品集」に「飜譯小品」の一篇として載るものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。末尾に仏文の Wikisource Les Vivants et les Mortsより冒頭の当該原詩を引いた。私の好みでローマンの斜体表示とした。

 第五連三行目「されども、此の世の重き荷(に)はいよいよ增さん」の「いよいよ」は二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「いよよ」で擬古文訳の本篇には「いよよ」の方がしっくりくる。底本の誤植の可能性も高いが、初出を現認出来ないので、しばらくママとする。

 第七連第四行「あるひはまた印度の蓮(はちす)が花か」は同前「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「あるひはまた印度の蓮(はちす)の花か。」と格助詞「が」が「の」となっており、しかも末尾に句点が打たれている。他の各連終行第四行末にはリーダの場合を除いて必ず句点を打っているから、脱落の可能性が深く疑われるがこれもやはり初出を現認出来ないので、しばらくママとする(前後を見ても、総ての行末に必ずしも句読点を振っていない点も考慮した)。格助詞は前行の二つの比喩の「の」の対表現という修辞上の問題は措くとして、実際に朗読してみると実はここは「が」の方が据わりよいと私は感じている。

 第十一連四行目「床(ふしど)やいかに。」は同前「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「臥床(ふしど)やいかに。」となっている。「臥床(ふしど)」の方が無論、よい。

 第十四連二行目「すでに死者と異(こと)ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覺えき」の末にはご覧の通り、句点はない。同前「立原道造・堀辰雄翻訳集」で「すでに死者と異(こと)ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覚えき。」と句点がある。視覚上のバランスからはあった方がよいと思うが、第七連第四行の注同様、しばらくママとする。

 第十五連四行目「わが孤獨の伴侶(とも)たりし汝よ」も前同様に「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「わが孤独の伴侶(とも)たりし汝よ。」と句点がある。同前。

 第二十一連三行目「いたましき死より汝を隔つる障屛(しやうへい)の」の「屛」の字は底本では「屏」であるが、ここのみ、二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の正字表記「屛」の方を採用した。]

 

 

 生けるものと死せるものと

 Les Vivants et les MortsAnna de Noailles) 堀辰雄譯

 

汝(なれ)は生けり。なが面(おも)おほへる靑空を呑みつつ、

なが笑(ゑ)まひをわれは佳(よ)き小麥のごとき糧(かて)とす。

われは知らず、汝(なれ)が心疎(うと)ましくなりて、

   われを飢(う)ゑ死なしむるはいつの日か。

 

孤獨に、絶えず脅(おびや)がされつつ、さすらひゆく

われには、未來もなく、屋根ももはやあらじ。

われはひたすら恐るなり、家も、日も、年も、

   汝がためにわれの苦しみし……

 

われをとり繞(めぐ)らせる空氣のうちに、われのなほ

汝を見、心ちよげに汝の見ゆるときすら、

汝がうちなる何物かはわれを棄ててやまず、

  そこに在(あ)りながら、汝は既に去りゆく身なれば。

 

汝は去り、われは止(とど)まる、もの怯(お)づる犬のごと、

日は赫(かがや)ける砂のうへに額(ひたひ)すりよせ、

口うごかして、その影を捉(とら)へんとすれば、

   蝶は飛び立つてひらひら……

 

汝は去りゆく、なつかしき船よ。汝を搖(ゆ)すりつつ、

海は誇(ほこ)りてをらん、遙かかなたなる樂土(らくど)を。

されども、此の世の重き荷(に)はいよいよ增さん、

   わが靜かなる廣き港に。

 

みじろがずにあれ。汝がせはしげなる吐息(といき)、

汝が身ぶりは、蘆間(あしま)を分くる泉に似て、

わが心のそとに出づれば、盡(ことごと)く涸(か)れん。いましばし止まれ、

   わが憩(いこ)ひなる、この胸騷(むなさは)ぎのうちに。

 

わが目(まな)ざしのなが目ぎしとひとつになりて燃ゆるとき、

わが瞳(ひとみ)の汝に見するは、いかなる旅か。

そはガラタのゆふべか、アルデンヌの森か、

   あるひはまた印度の蓮(はちす)が花か

 

ああ、汝が飛躍、汝が出立に胸壓(お)しつぶされ、

われの手にてはもはや汝をこの世に止め得ずなりしとき、

われは思ふ、やがては汝にも襲ひかからん

  倦怠(けんたい)の凄(すさ)まじさやいかに。

 

快闊にして、心充(み)ち足(た)り、勇氣ありし汝(なれ)、

王者のごとくにすべての希望を意のままにせし汝、

汝もまた遂にはかの奴隷(どれい)の群れに入るか。

   默默(もくもく)として、耐へて臥(こ)やせる……

 

野を、水を、時間を超(こ)えて、彼處(かしこ)に、

明瞭なる一點として、われは見る、

孤立せるピラミッドに似て、何か魅(み)するがごとく、

   汝の小さき墓の立てるを。

 

されど、悲しいかな、その墓のかなた、

汝の最後に往きつく先はわれには見えず、買い

汝を押(お)し戾して、其處に歩み止まらしむるその限界(げんかい)、

   汝を憩(いこ)はしむる床(ふしど)やいかに。

 

汝は其處にて死してあらん、かのダビテの輩(やから)や、

槍投げするテエベびとの死すごとく。

あるは海べの博物館にて、その灰の目方をわが量(はか)りてみし

   希臘の踊り子の死すごとく。

 

――われは嘗(かつ)て、或太古の岸邊(きしべ)に立ちて、

烈日(れつじつ)の熱(あつ)さを天の侮(あなど)りのごとく耐へつつ、

石棺(せきくわん)の底にここだ殘れる人骨を見しことあり。

   そが額(ひたひ)とおぼしきあたりの骨にもわれは手觸れつ。

 

そのとき、それら遺骨をうち眺むるわれとても、

すでに死者と異(こと)ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覺えき

わがしなやかなる身の、かかる骨に化するは、

   束(つか)の間(ま)のうつろひに過ぎざれば……

 

われはかかる恐ろしき暗き運命をも否(いな)まじ、

われはそれらの底なき穴の穿(うが)たれし眼(まなこ)となるもよし。

されど、わが生の悦びたりし棕櫚(しゆろ)の樹よ、

   わが孤獨の伴侶(とも)たりし汝よ

 

ナイル河のごとく、わが心の擴(ひろ)がれる、

神祕なる王國を汝の手にて治(をさ)むるやう、

あたかも打ち負けし王子のおのが劍を與ふるごと

   ものいはずしてわれの赦(ゆる)せし汝よ。

 

絶えまなく搖(ゆ)らげる湖(うみ)に影をうつして、

みづからの姿を千々(ちぢ)にうちくだく宮殿のごとく、

わが夢も、わが苦しみも、わが悦びも、すべてうち挫(くだ)きつつ、

   われの向ひてゐし水の流れ、汝よ。

 

汝もまた、運命に引き入れられて、

かの痲痺したる灰色の群れの一人となりて、

肩に首をうづめしまま、佇みてゐるほかなきか、

   いたく怯(おび)えたる容子(やうす)して。

 

氷よりも冷たく、目も見えず、耳も聞えず、

宇宙の卵のうちに胚種(はいしゆ)のまどろむがごとく、

汝はにがき蠟になれかし! さらば、親しげに寄りくる

   蜜蜂もすみやかに飛び立たん。

 

それら亡靈どもの間に無氣力に立ちまじりて

彼らと歎(なげ)きを共にするのみにては、われは足らじ。

アンドロマク、或はスパルタのヘレナにも增して、

   人びとの諍(いさか)ふ目ざしを見しわれは。

 

わがいとしきものよ、われはわれを厭(いと)ひ、

又、王女らのもてるにも似し、わがはかなき衿持(ほこり)を蔑(さげ)しむ。

いたましき死より汝を隔つる障屛(しやうへい)の

   炎とすらもなりえぬ我ならずや。

 

されども、生を超ゆるものはすべて過ぎゆかざれば、

われは夢む、この暮れなんとする夕空の下に、

汝のもはや其處より出づることなき

   時間と空間との永遠を。

 

――おお、春のごとく美しかれ。雪のごとく愉(たの)しかれ。

大いなる壺(つぼ)のやすらかに閉ざされし内部に在りて、

すべての歌聲(うたごゑ)の、よろこばしきアルペジオとなりて、

   絶えず涌(わ)きあがるがごとくにあれ。

 

 

 

Les Vivants et les Morts

Anna de Noailles

 

Tu vis, je bois l’azur qu’épanche ton visage,

Ton rire me nourrit comme d’un blé plus fin,

Je ne sais pas le jour, où, moins sûr et moins sage,

Tu me feras mourir de faim.

 

Solitaire, nomade et toujours étonnée,

Je n’ai pas d’avenir et je n’ai pas de toit,

J’ai peur de la maison, de l’heure et de l’année

Où je devrai souffrir de toi.

 

Même quand je te vois dans l’air qui m’environne,

Quand tu sembles meilleur que mon cœur ne rêva,

Quelque chose de toi sans cesse m’abandonne,

Car rien qu’en vivant tu t’en vas.

 

Tu t’en vas, et je suis comme ces chiens farouches

Qui, le front sur le sable où luit un soleil blanc,

Cherchent à retenir dans leur errante bouche

L’ombre d’un papillon volant.

 

Tu t’en vas, cher navire, et la mer qui te berce

Te vante de lointains et plus brûlants transports.

Pourtant, la cargaison du monde se déverse

Dans mon vaste et tranquille port.

 

Ne bouge plus, ton souffle impatient, tes gestes

Ressemblent à la source écartant les roseaux.

Tout est aride et nu hors de mon âme, reste

Dans l’ouragan de mon repos !

 

Quel voyage vaudrait ce que mes yeux t’apprennent,

Quand mes regards joyeux font jaillir dans les tiens

Les soirs de Galata, les forêts des Ardennes,

Les lotus des fleuves indiens ?

 

Hélas ! quand ton élan, quand ton départ m’oppresse,

Quand je ne peux t’avoir dans l’espace où tu cours,

Je songe à la terrible et funèbre paresse

Qui viendra t’engourdir un jour.

 

Toi si gai, si content, si rapide et si brave,

Qui règnes sur l’espoir ainsi qu’un conquérant,

Tu rejoindras aussi ce grand peuple d’esclaves

Qui gît, muet et tolérant.

 

Je le vois comme un point délicat et solide

Par delà les instants, les horizons, les eaux,

Isolé, fascinant comme les Pyramides,

Ton étroit et fixe tombeau ;

 

Et je regarde avec une affreuse tristesse,

Au bout d’un avenir que je ne verrai pas,

Ce mur qui te résiste et ce lieu où tu cesses,

Ce lit où s’arrêtent tes pas !

 

Tu seras mort, ainsi que David, qu’Alexandre,

Mort comme le Thébain lançant ses javelots,

Comme ce danseur grec dont j’ai pesé la cendre

Dans un musée, au bord des flots.

 

J’ai vu sous le soleil d’un antique rivage

Qui subit la chaleur comme un céleste affront,

Des squelettes légers au fond des sarcophages,

Et j’ai touché leurs faibles fronts.

 

Et je savais que moi, qui contemplais ces restes,

J’étais déjà ce mort, mais encor palpitant,

Car de ces ossements à mon corps tendre et preste

Il faut le cours d’un peu de temps…

 

Je l’accepte pour moi ce sort si noir, si rude,

Je veux être ces yeux que l’infini creusait ;

Mais, palmier de ma joie et de ma solitude,

Vous avec qui je me taisais,

 

Vous à qui j’ai donné, sans même vous le dire,

Comme un prince remet son épée au vainqueur,

La grâce de régner sur le mystique empire

Où, comme un Nil, s’épand mon cœur,

 

Vous en qui, flot mouvant, j’ai brisé tout ensemble,

Mes rêves, mes défauts, ma peine et ma gaîté,

Comme un palais debout qui se défait et tremble

Au miroir d’un lac agité,

 

Faut-il que vous aussi, le Destin vous enrôle

Dans cette armée en proie aux livides torpeurs,

Et que, réduit, le cou rentré dans les épaules,

Vous ayez l’aspect de la peur ?

 

Que plus froid que le froid, sans regard, sans oreille,

Germe qui se rendort dans l’œuf universel,

Vous soyez cette cire âcre, dont les abeilles

Ecartent leur vol fraternel !

 

N’est-il pas suffisant que déjà moi je parte,

Que j’aille me mêler aux fantômes hagards,

Moi qui, plus qu’Andromaque et qu’Hélène de Sparte,

Ai vu guerroyer des regards ?

 

Mon enfant, je me hais, je méprise mon âme,

Ce détestable orgueil qu’ont les filles des rois,

Puisque je ne peux pas être un rempart de flamme

Entre la triste mort et toi !

 

Mais puisque tout survit, que rien de nous ne passe,

Je songe, sous les cieux où la nuit va venir,

A cette éternité du temps et de l’espace

Dont tu ne pourras pas sortir.

 

O beauté des printemps, alacrité des neiges,

Rassurantes parois du vase immense et clos

Où, comme de joyeux et fidèles arpèges,

Tout monte et chante sans repos ! …

2015/05/27

堀辰雄 十月 附やぶちゃん注 Word2010縦書版→2023年2月3日PDF縦書版に再校訂して変更

堀辰雄「十月」附やぶちゃん注(Word2010縦書版)を「心朽窩旧館」に公開した。

今まで行っていないドキュメント・テクスト形式としたのは、PDF化では後からリンク挿入作業が煩瑣なこと、漢字の正字が一部で転倒することによる。向後も、リンクが多いデータではこのやり方で公開してゆくことにする。その方が本当にじっくりと縦書で原文や僕のフリーキーな注を読みたい人のために、僕もかなり楽にデータを提示することが出来、しかも書式やフォントを加工されれば、より自分好みのスタイルで自由に読めるであろうからである。

【2023年2月3日削除・追記】既公開の堀辰雄「十月 附やぶちゃん注」の正字化不全と誤字分について、再度、校正し直しブログ版(全十三分割)分を直し、公開していたWord縦書版も全改訂して、PDF縦書ルビ化版にリニューアル変更した。御笑覧あれかし。

2015/05/17

堀辰雄「曠野」 正字正仮名版 やぶちゃんオリジナル原典訳注附 PDF縦書版

 
『堀辰雄「曠野」 正字正仮名版 やぶちゃんオリジナル原典訳注附』(PDF縦書版)
 
を公開した。総てルビ化を施しており、原典はブログ公開分より読みを大幅に追加してある。少なくとも原典についてははすこぶる読み易くなっている――というより目障りな( )を気にせず――読む気になれる――のでご覧になられたい。
またブログ公開版にさらに以下の私の感想を追加した。

【附説】
 堀辰雄の「曠野」では、トリック・スターである軽薄な田舎の青侍の出番が大幅に減ぜられて、悲恋の湖の深淵に一途に静かに読者が沈み得るように創られてある。しかも、原典にある、青侍が女の対の屋の辺りを企略を以って徘徊するというシークエンスを、そっくり元夫が忍んで垣間見する印象的なものに換骨奪胎したのは、原典を超えて優れて辰雄調のオリジナルな恋愛世界にメタモルフォーゼさせた一番の手柄と言える(但し、原話のこの場面も、これはこれで原作に於いて次の展開への極めて自然なリアルなテンポを与えてもいるのであって、原作者の「才」をこそ寧ろ私はここに感ずるものでもあるのである)。
 なお、辰雄は後半の再会のロケーションにやや手を加えていて、再会は公庁の国府館ではなく、郡司の屋敷という設定にしてある。これは、原話が再会の貢納の場の段以降、実際には女〈京の〉と郡司とが慌ただしく国府館と郡司の館を行き来する五月蠅さを嫌ったものであろう。確かに辰雄の方がずっと落ち着いてしみじみとしており、最後の悲劇的なコーダへのジョイントもすこぶるよい。
 ただしかし、私はそうした操作の結果として、看過出来ない矛盾が生じているようにも感ぜられるのである。それはこの郡司の館の位置の問題である。郡司の館については、元夫である新任国守が着任早々、国内巡検に出た際、「郡司の館のある湖(みづうみ)にちかい村にかかつたときは、ちやうど冬の初で、比良(ひら)の山にはもう雪のすこし見え出した頃だつた」と述べている。この「比良の山」は古くから近江八景の一つとして知られる「比良の暮雪」の比良、現在の滋賀県琵琶湖西岸に連なる比良山地(最高峰は武奈ヶ(ぶなが)岳(たけ)で一二一四・四メートル)を指す。このシーンは振り仰いでいるのではなく、遠景に雪を頂く比良の山々を見た謂いであろう。とすれば「曠野」の方の「郡司」が治めていたのは琵琶湖の東岸の南、後代の郡区分ではあるが、滋賀郡・蒲生(がもう)郡・愛知(えち)郡・犬上郡辺りでなくてはならない。しかし何故それが齟齬と私が言うのかというと、辰雄の言うように、「郡司の館のある湖(みづうみ)にちかい村」という設定では、最後の印象的な、女が琵琶湖の打ち寄せる浪の音を聴き馴れぬ不思議な怖ろしい音と聴いて最後に問いかけるという大切なシーンが、如何にも奇異に映るからである。
 実際、私は「曠野」を最初に読んだ際、この女は哀しみと恥ずかしさの余り、精神に異常をきたして、幻聴と言わぬまでも、湖畔の浪音が異様に増幅して聴こえたのであろうか?……はたまたそれは不吉な死を呼び込む魔性の「音」であって、実は浪の音ではなかったのではないか?……(或いは無粋にも)彼女はこの瞬間、脳溢血等の症状をきたしており、その場合に耳の背後で聴こえるというざわざわという音を幻聴しているのではなかろうか?……といった藪医者的推理まで仕出かしたのであった(無論、こうした視聴覚的な対象の見当識欠如は「伊勢物語」や「源氏物語」に現われる如く高貴な出の女の典型的カマトト属性ではある。それでも普段聴いたことのある音を怖れるという嘘を彼女らはつかないであろう)。しかし、私は寧ろ原話では――郡司は近江の国でも有意に湖岸からは離れた(湖岸の浪の音が聴こえない程度に。但し、国司庁と数時間で行き来出来る程度の位置に郡司の館はある)東の方の郡(野洲(やす)郡・甲賀郡などの内陸地域)域を治めていた――だからそこで婢として仕えていた〈京の〉は琵琶湖の漣さえ知らない――だから『江(え)の浪(なみ)の音(おと)聞えければ、女、此れを聞(きき)て、「此(こ)は何(な)にの音(おと)ぞとよ。怖(おそろ)しや」と』言ったのだ――と考えて初めて腑に落ちるのである。少なくとも原話のくだくだしい〈京の〉が毎晩郡司の館と国司館を行ったり来たりする事実の背後に、逆にそうしたすこぶる「自然」な事実が隠されているように私には思われるのである。

2015/05/15

堀辰雄「曠野」原典――「今昔物語集」 卷第三十 中務大輔娘成近江郡司婢語 第四――やぶちゃん現代語訳

 

■やぶちゃん現代語訳

   中務大輔(なかつかさたいふ)の娘、近江の郡司の婢(はしため)となったる話 第四 

 今となってはもう……昔のことじゃが……中務大輔(なかつかさのたいふ)であられた何の何某と申さるる御仁の御座った。男の子はのうて、娘子ただ独りだけがおられた。

 その頃には既に家内(かない)不如意にて御座られたが、兵衛佐(ひょうえのすけ)何の誰彼(たれかれ)と申さるる御方を、その娘に娶(めあ)わせて婿となし、年月(としつき)を過ごしておられた。この間(かん)、貧しき中(うち)にも、これ、なんやかやと遣り繰りしては、婿殿のお世話をなさっておられたによって、かの婿も、その娘の許を去りがとぅ思うておるうち、中務大輔殿、これ、亡くなられてしもうた。されば後見は御母堂一人ぎりとなって、娘は何かと心細く思うておるうち、その母君もじきに病いにお臥しになられ、永く患いついて御座られたによって、娘はたいそう深ぅ悲しみ歎いておった。ところが結局、その御母堂も亡くなってしもうたによって、娘独り、取り残され、泣き悲しんでおったものの、最早、かくなってはどうにもならなんだ。

 すると、次第に家内に仕えておった者どももこれ、皆々、出て行ってしまい、すっかり人気(ひとけ)ものぅなってしもうたによって、娘は夫の兵衛佐に、

「……親のあらしゃいましたうちは、なんとか致いては、あなたさまのお世話をし申し上げて参りましたものの、このように、たよれる生計(たつき)の方もおらずなりましたによって、最早、あなたさまのお身の回りのお世話をさえ叶わずなりましてございまする。……どうして……宮仕えにお見苦しいお姿であらっしゃるなんどということが許されましょう。……これよりは、ただ……あなたさまの――よきように――おとり計らいなさられて下されませ……」

と申したによって、男はこれを聴き、ひどぅ不憫に思うて、

「……どうして! そなたを見棄てるようなことをするものか。」

なんどと答えては、なおも女の屋敷にともに住んではおったものの、じき、出仕の装束(しょうぞく)なんども見苦くなったかと感じたかと思うと、みるみるうちに、みすぼらしゅうなりゆくことの著(しる)ければ、妻は、

「……どこか外の方へ移られなさっても……妾(わらわ)をいとおしゅう思し召された折りなどには、またお訪ね下さいませ。……どうして……どうして、このようなお姿にて宮仕えなさるることのできましょうや。あまりに見苦しゅうございまする……」

と、しきりに勧めたによって、男は遂に屋敷を去って行った。……

 さればこそ、女独りとなり、いよいよこの上もなきほどに、悲しく心細き思いをつのらせておった。家もがらんとして、人気も、これ、ない。……ただ独り残っておった幼き女童(めのわらわ)が一人御座ったものの……これもまた、着る物にも、もの食うことにも事欠くありさまとなったなれば……ふと気づいた時には、どこぞへ去(い)んで、姿の見えずなって御座った。……

 さてもかの夫はと申せば、これ、初めのうちこそ『如何にも不憫』と、思うて気にはかけてはおったものの、じき、他の女の婿になったによって、かの女へ手紙を送ることさえものうなって御座った。女の方も、手紙の来ずなったことへの不満なんどを表立って言い遣ることなど、これもまた、思いの外のことで御座ったれば、結局、出でて行ったきり、二度と、かの女の許を訪ぬることは絶えてしもうたと申す。されば女は、これ、見るもおぞましく壊(こぼ)ったる寝殿の片隅に、ひっそりと独り、住まうておった。……

 さて、その寝殿のまた片端に、これ何時の頃よりか、一人の年老いたる尼の住みつくようになって御座ったが、この尼、かの女の境涯を気の毒に思うて、時に、果物やら食い物やらの余れるもののあれば、それをもち来たっては恵んでおった。されば、ひとえにその恩恵を唯一つの糧となして、女は年月暮らしておったのであった。ところがそのうち、この尼の許へ、近江国(おうみのくに)より長宿直(ながとのい)と申す役に当たったとして、とある郡司(ぐんじ)の子なる、一人の若き男が上京して参り、宿をとった。さてもこの若者、とある日のこと、その尼に向って、

「――体(からだ)を持て余しておる女童(めのわらわ)でも一人、これ、世話して下さらぬかのぅ?」

と申した。尼は、

「……我れらは年老いて外歩きなんどもようせねば、何処に女童のおるかというようなことも知らぬ。……じゃが……そうじゃ!……このお屋敷にこそ、たいそう見目麗しくあらっしゃいます、姫君の、たった独り、いかにも現(うつつ)にあらんこともなきように……あらっしゃいますがのぅ……」

と応じたによって、男はそれを聴くや、

「――そ、その女、我らに会わせて下さっしゃれ!……さてもさても!……そのようにお心細くてお過しになさるるよりは――事実、ほんに、お美しいお方ならばこそ――一つ、国へ連れ下って、我らが妻にもしようとぞ思う!!」

と大乗り気に言うたれば、尼は、

「ならば、近々、その旨、伝えてみましょうぞ。」

と請けがった。

 この男、こう言い出してよりそのかた、尼に――先の話は通して下さったか?――何?――まだ?――何故、まだお話下さらぬのじゃ?!――早う早う!……と、頻りにせっついては責め立て参ったによって、尼は仕方なく、かの女の許に、いつものように果物などもて行きたるついでに、

「……このように……このままこうして……いつまでもお独りにて身過ぎなさっておらるるわけにも、これ、参りますまいに……」

などと水を向けた後(あと)、

「……さても……実はここに、近江より然るべき御身分の御方の御子(おんこ)の、上京しておられまするが、この度、このお屋敷の御主(ごしゅ)であらるる、あなたさまのことをお話申し上げましたところが、『そのように不如意のままに御座(おわ)しまさるるよりも、自分の国へとともにお連れ申し上げたいものじゃ』と、これがまあ、すこぶる熱心に申しておられますのじゃが……一つ、そのようにさせなさいまし。……このように……何もなさることものぅ、お淋しきままに、お暮らしなさいまするよりは……」

と慫慂したところが、女は、

「……ど、どうして……どうしてそのようなること、これ、出来ましょう。」

ときっぱり否んだによって、尼はその場は引き下がって帰った。……

 この男は、尼より事の不首尾を聴くや、いやさかに女への思いを切(せち)に募らせ、その日の夜になるや、弓なんどを携え、その女の対(たい)の屋のほとりへと参った。されば、辺りにおった野良犬のこれを嗅ぎつけ、大きに吠えたてたによって、女は普段にもまして、もの怖しゅう感じ、もの凄き思いに怯えて御座った。夜(よ)の明けて後(のち)、かの尼、また何食わぬ顔をして、女の許へと訪れたところが、かの女の曰く、

「……昨夜は、もう……まっこと……どうにも……もの怖ろしゅうて……なりませなんだ……」

と訴えた。されば、尼、すかさず、

「だから申し上げたので御座いまする!――かのように申す者に、うち具してお下りなさいませ――と。……かく身過ぎなされておられたのでは……これ、やりきれぬことばかりしか、起きは致しませぬのでは、御座いますまいか?……」

と、上手くまたしても水を向け得たによって、女も『まことに一体どうしたらよかろうか』と思うままに、如何にも逡巡する気色を見せて御座った。さればこそ尼はこれを察し、その夜(よ)――こっそりと――かの男を女の対の屋へと導き入れたので御座った。……

 それより後(のち)、男はすっかり女に夢中になった。――田舎の侍なれば、こうした京のやんごとなき娘のそれは、初めての味わいにて御座ったによって、もう一夜(ひとよ)にして離れがたく思うて、長宿直(ながとのい)の明くるや、早々に近江へと連れ下って御座った。女も『かくなっては最早、致し方のないこと』と思うて、ともに下ったのであった。ところが、近江に着いて見れば、この男、前々より国元に既に妻を持って御座ったことの知れた。女は取り敢えず、父郡司が家に住むこととなったものの、その本妻たる者、じきにこの女のあるを聴き知り、ひどく妬み、男を激しく罵ったによって、男は結局、この京から連れ帰った女の許へは一向、寄りもつかずなってしもうたのじゃった。されば、この京の人、親の郡司に使われて、身過ぎ致すことと相い成って御座った。すると、そのうち、その国に新しき国守の決まって、お下りになられるということになったによって、これはもう、国を挙げての大騒ぎと相い成って御座った。

 そうこうするうち、

――早や、守殿(こうのとの)が国府へお着きになられた!

という報知のあれば、女が仕えておった郡司の家内も大騒ぎとなって、果物やら食べ物などの饗応の品々を立派に調え揃え、国司の館(やかた)へと運ぶ込むことと相成った。――その頃、この京の人のことを父郡司の家では〈京の〉と名づけて、郡司のお気に入りとして永年、婢(はしため)として使っていたのであったが――館へその物品々を運ぶに際し、多くの男女(なんにょ)が要ったがため、この〈京の〉にも、物を持せて館へと向かわせたのであった。

 さても、守(かみ)は館にあって、多くの下々の者どもが、これ数多(あまた)の品々を持ち運び来たるを眺めて御座った。すると、その中に、他の下人らとは異なり、これ、なんとも言えずそそらるる面持ちをしたる〈京の〉が、守に目に留まった。されば、守は御自身の小舎人童(こどねりわらわ)を召し出だして、こっそりと、

「あの女は如何なる者であるか? それを訊ねて――今宵――我らが方へ連れて参れ。」

と命じられた。小舎人童が仕切を致いておる下役人に訊ねたところが、しかじかの郡司の婢(はしため)なることが知れた。されば小舎人童はその場に参上して立ち会って御座った郡司に、

「……かくの如く、守殿(こうのとの)の、女をご覧じなられて……かく仰せられておられまする。……」

と耳打ちした。

 郡司は大きに驚きて、家にとって返すや、ともに連れ帰った〈京の〉に湯浴みをさせるやら、髪を洗わせるやら、大働きの世話をなし、頭の天辺から足先に至るまで、これ、念入りに磨き立ててやった。その装いの成ったるを、郡司、いちいち点検した末、己れの妻に向って、

「これ見よ! 〈京の〉の着飾ったるこの見目の、なんとまあ! 麗しさを!」

と感嘆したと申す。

 さても、その夜、衣(きぬ)などをも羽織らせ、守のおらるる国守の館へと、この〈京の〉をさし出したのであった。

 ――ところが! さてもまあ、なんと! この新任の近江守(おうみのかみ)と申さるる御方はこれ、かの〈京の〉の本の夫、兵衛佐(ひょうえのすけ)であられた御仁の、大成なされたお姿で御座ったんじゃ!――……さても守は、この〈京の〉を近くへお召し寄せになられ、とくと見ようとしたところが、如何にも不思議なことに、いつかどこかで見たことがあるようにお感じなられたによって、この〈京の〉を抱(だ)いて添い臥したところ……なにか……まっこと……親し気で懐かしい感じが……身体(からだ)から伝わって来るのであった。されば、

「……お前は一体……如何なる素性の者じゃ?……何とも不思議なことに……いつかどこかで逢ったことのあるように、これ、思えてならぬのじゃが。……」

と女の耳元に口を寄せて囁いたが、女はしかし――この男がまさかかつての夫兵衛佐であろうなどとは思いもよらざれば――、

「……妾(わらわ)はこの国の者にては御座いませぬ……かつては……確かに京におりました者にては御座いまする……」

と言葉少なに答えるばかりであった。守は、『……京の者が田舎へと落ちて参り、郡司の館に使われておるに過ぎぬということなのだろう……』と勝手に想像したりして御座ったが、この女の麗しさが如何にも希有のものに感ぜられたによって、それより、毎夜、召し出しては、夜伽させた。すると、なおも、身も心も摩訶不思議に異様な懐かしさの貫くを覚え、どうもやはり、一度逢ったことのある女のように思われてならなかった。されば、守は女に向い、

「――さても、京にては如何なる身分の者で御座った? さるべき前世より結ばれし因縁に依るものにてもあろうか、実はなんとも、しみじみと、いとおしく思わるればこそ、こうして問うておる。一つ、隠さずに言うてみよ。」

と質(ただ)したによって、女は、もはや、隠すことの出来ずなって、

「……実は、まことは……しかじかの者にてございまする……もしや……あなたさまは……妾(わらわ)の古き殿方であられたお方の……その所縁(ゆかり)のお方などにても、あらっしゃるかとも存じましてございましたによって……このお召しを受けてよりこのかた、それを口に致すことを、これ、憚ってございましたが……そのように強いてお訊ねになられましたれば……お答え申し上げましてございまする…………」

と、ありのままに語って、そのまま、泣き伏してしまった。守は、

『……さればこそ! 不思議に懐かしく思われておったも道理!……こ、この女は、やはり! わ、私の――昔の妻――であったのだ!!……』

と思うにつけても、何とも言えず、胸の詰まって、ともすると涙が零れ出でんとするを、女に気取られぬよう、さり気なく振る舞(も)うて御座った。

 すると――

 その時――琵琶湖の湖水の浪の音(おと)が、聴こえてきたのだった。

 女は、これを耳にすると、

「……こ、この……音は……何の音なのかしら?……ああっ! 怖しいこと!……」

としきりに怯えて御座ったによって、守はそこで、かく和歌を詠んだ。

  これぞこのつひにあふみをいとひつつ

     世にはふれどもいけるかひなみ

そうしてすぐに、

「――我れは――まっこと! そなたの夫ではないか!」

と小さく叫んで、涙を流した。すると女は、

『……ああっ!……さてはやはり……この人は私の元の夫、その人であったのだ!……』

と心づいたものか、そうして……その途端に、心の内に言いようのない哀しみと恥ずかしさが怒涛の如く襲い来たって……遂には……それに耐えられずなったものか……ふっと……ものも言わずなって……守が咄嗟に抱き寄せた、その身は……意識も、すでになく……手足も痙攣して硬直し……そのまま……ただただ、冷えに冷え入ってゆくばかりであった。…………

 守は、

「……こ、これは! いったい! どういうことかッツ!?……」

と喚き騒いでいるうち、女は儚(はかな)くなっていた。…………

   ――――――

 筆者の思うに、この主人公の女、これ、まことに哀れな存在である。女は『……ああっ!……さてはやはり……この人は私の元の夫その人であったのだ!……』と心づくや、己(おの)れが前世より業(ごう)として背負うてきた因縁の思いやられて、その哀しさと恥かしさに耐えきれずに遂には死に至ったのである。守(かみ)なる男には、最も大切な、傷心の女への思いやりの心が決定的に欠けていたのである。その事実――自分が元の夫であるという事実――を明らかにせず、ただただ、この幸薄かった女を引きとり、よく世話をなしてやればよかったものを、と思うのである。

 なお、この事件については、女が死して後(のち)、この男がどうしたかについては、これ、よく分からぬと、かく、語り伝えているとかいうことである。

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