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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の946件の記事

2024/04/25

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(1) / 最終巻突入!

[やぶちゃん注:遂に最終巻に到達した。本電子化オリジナル注は二〇〇九年二月九日に始動したから、既に十五年を超えている。現在のブログ・カテゴリでは開始からは最長のものとなった。

 本巻は「目錄」でも上記の巻の総評題が示されているだけで、極めて短い条が羅列されている。前の巻と同様に複数の条々を纏めて電子化する。現在、本カテゴリはこれで946件になっている。カテゴリは1000件を超えると、下部に頭の部分が出なくなってしまうので、後54回で何とか終わりにしたいと考えている。【 】は底本では二行割注。]

 

  譚 海 卷の十五

 

 

〇眼のあらひ藥、石菖根(せきしやうこん)・黃岑(わうごん)・黃連・紅花・連翹・菊花・金銀花、已上七品。

[やぶちゃん注:「石菖根」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus の根を元にした漢方生薬名。以下、最後の説明文は省略する。

「黃岑」キク亜綱シソ目シソ科タツナミソウ属コガネバナ Scutellaria baicalensis の根の周皮を取り除き、乾燥させたもの。

「黃連」キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「連翹」シソ目モクセイ科Forsythieae連レンギョウ属レンギョウ Forsythia suspensa(中国原産)シナレンギョウ Forsythia viridissima の成熟果実を、一度、蒸気を通したのち、天日で乾燥したもの。

「金銀花」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の別名。漢方生薬名は「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を天日で乾燥したもの。]

 

○又一方

 明礬(みやうばん)・ウイラウ・燈心【三味各三匁。】・梅干五つ・文錢(もんせん)十文【能(よく)洗(あらふ)。】

 右、寒の水、一升、入れ、せんじ、あらふべし。

[やぶちゃん注:「ウイラウ」底本では右に編者補正注で『(茴香)』とある。セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。現在は英語の「フェンネル」(Fennel)の方が通りがよい。我が家の猫額庭にも二メートルにもなるものが鎮座ましましておる。食用には、ほぼ全草が用いられるが、薬用には果実が使用される。

「燈心」灯芯。綿糸などを縒り合わせて作る。

「文錢」原料は銅に鉛・錫を合わせたもの。]

 

○又一方

 明礬、よく燒(やき)て、茗荷(みやうが)の根、七切れ、石菖の根、七切れ、右三味を盃(さかづき)に、水、一つ、入(いれ)、そのうへへ、紙を一枚置(おき)て、紙の上より、指へ、水を付(つけ)て、あらふ也。此藥、甚(はなはだ)、妙、如ㇾ神(しん)。

 

譚 海 卷之十四 信州より三州へ往來關所の事 日蓮宗派の事 上方穢多の名目の事 駿州猿𢌞し 芝居狂言の者御關所手形事 宇治黃檗山住持の事 禁中非蔵人の事 同御佛師の事 江戶神田犬醫者の事 京都米相場の事 京・大坂非人・穢多の事 京西陣織の價の事 禁裏公家町の草掃除の事 京壬生地藏狂言の事 下野栃木町の事 附馬九郞武田うば八の事 琉球人朱の事 御鷹雲雀の事 婦人上京のせつ御關所手形の事 江戶商家十仲ケ間の事 爲登船荷物問屋の事 江戸より諸方へ荷物附送る傅馬の事 / 譚海卷之十四~了

[やぶちゃん注:「駿州猿𢌞し」はママ。「(の)事」がないのは特異点。]

 

○「草津の湯より信州へ越(こえ)る所に、かり宿新田といふ所に關所あり。此關所は上州あがつま郡なるに、上州の女は通(とほ)す事、ゆるさず。信州の女は其所(そこ)の名主の判形(はんがた)にて往來を禁ぜず。昔より右の次第也。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「かり宿新田」これは現在の群馬県吾妻郡高山村中山のここに(「中山宿新田本陣の大けやき」をポイント。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)があるが、位置的に「信州へ越る所」ではないから違う。さらに調べると、信州に通う吾妻郡内の関所或いは宿駅を探してみたところ、草津の東の境は高い山脈で、通行が当時は非常に困難と思われたため、南に下がって探してみたところ、やっと、群馬県吾妻郡長野原町(ながのはらまち)応桑(おおくわ)に残る「旧狩宿茶屋本陣」というのを発見した。「『新田』の地名もなけりゃ、関所でもないじゃないか!」という御仁のために、当該部の「ひなたGPS」の地図の方をお見せする。まず、国土地理院図の方に現在の桑応地区に相当するど真ん中に『新田』の地名がある。そうして、戦前の地図を見ると、『桑應』地区名の直ぐ左下に『關趾樅』ってのが、ある。而してこれは、旧狩宿茶屋本陣の旧区域に含まれることは間違いない。ここで決まりである。

 

○日蓮宗に「八本勝劣」と云(いふ)は、駿河國岡の宮、興長寺と云(いふ)根本[やぶちゃん注:「根本道場」。]也。「四卷法華」と云は、駿河富士郡北山村、本門寺根本にて、廿八品(ほん)の内十四品を用ゆ。初の釋文を捨(すて)、後の本文十四品を用(もちゆ)る也。「壹品勝劣」は得量品ばかりを用ゆ。富士の大石寺根本にて、衣も鼠衣也。又、阿佛といふ有(あり)。佐渡國より、はじまりたる日蓮宗なり。差別、分明ならず、身延山廿八品を、さながら用るなり。

[やぶちゃん注:「八本勝劣」日蓮宗の「勝劣派」を作る一派。「法華経二十八品」では、後半の「本門」が勝れ、前半の「迹門」(しゃくもん)が劣ると説くもの。現在の法華宗本門流・法華宗陣門流・顕本法華宗・本門法華宗・法華宗真門流・日蓮正宗などがそれに当たる。対して「一致派」があり、こちらは「法華経」の「迹門」と「本門」とに説かれる理りは、一致したものであって、勝劣はないと説くもので、現在の一般的な日蓮宗はこれに該当する。なお、私は無神論者であるが、思想家としては親鸞を最も高く評価し、巧妙なプロパガンダに長じ、エピソード形成に巧みであった実践的宗教者としての日蓮を次に面白いと感じている人種である。

「駿河國岡の宮、興長寺」静岡県沼津市岡宮(おかのみや)にある法華宗本門流の大本山長寺(こうちょうじ)の誤りだろう。

「駿河富士郡北山村、本門寺」静岡県富士宮市北山にある日蓮宗七大本山の一つで、日興の法脈を継承した富士門流の富士山法華本門寺根源。]

 

○上方には穢多(ゑた)の異名を、「けど」と云(いふ)也。隱遊女(かくしいうぢよ)などを捕(とらふ)るに、上方にては同心衆をば。やらず、穢多をして、とらへしむる故、

「『けど』が入(いり)たる。」

と云(いふ)也。

[やぶちゃん注:「隱遊女」非合法の遊女。俗に「夜鷹」「比丘尼」「ころび芸者」「惣嫁」(そうか)「ぴんしょ」「茶屋女」「隠し売女(ばいた)」などとも呼んだ。捕縛された彼女らは新吉原へ交付され、二年の年季を勤めさせられた。]

 

○駿河國に、猿𢌞(さるまはし)、二村、住所(すむところ)、有(あり)。此者、春は、猿を帶(たいし)て、人家に到(いたり)て猿を舞(まは)せて、錢をもらひ、秋は茶筅(ちやせん)を拵へて、民家に贈り、麥(むぎ)にかへて、もらふて歸る。「穢多の下にあるもの」のよし。世に「茶せん」と唱(となふ)るものあるは、此等の輩(やから)なるにや。

 

○芝居狂言をつとむる戲者、京・江戶往來の時、道中、御關所手形は、みな、穢多の頭(かしら)より貰(もらひ)て、往來する也。江戶より上京するには、淺草團左衞門、手形をいだす也。京郡より江戶へ下るには、四條智恩院橫町に住する穢多の頭(かしら)天部(あまべ)より、手形を出(いだ)す也。

[やぶちゃん注:「四條智恩院」浄土宗総本山知恩院

「穢多の頭天部」「青空文庫」の喜田貞吉「えた源流考」によれば(書誌・初出はリンク先の最後の「底本」データを見られたい)、『今の天部(あまべ)部落は、もとこの鴨河原の住民で、後に四条河原の細工とも呼ばれ、やはりここで放牧葬送の地の世話をしておったのがその起原であったかと察せられるのである。これらの島や鴨河原へ、餌取(えとり)や余戸(あまべ)の本職を失ったものが流れ込んで、所謂河原者をなし、その或る者はエタと呼ばれ、或る者は天部(あまべ)と呼ばるるに至ったものではあるまいか。しからば所謂「エタの水上」なる京都に於いては、もと鴨河原や島田河原の葬送や放牧の世話をしていたものに、餌取・余戸等の失職者が落ち合ったのを以て、所謂エタ源流中の本流とすべきものと解せられる。その中にも、「穢多の始は吉祥院の南の小島を以て本と為す」という「雍州府志」の記事は、ここがエタ最初の場所だと語り伝えられていたものと思われる』とある。その被差別民の支配頭目を同じく「天部」と呼んだもののようである。]

 

○宇治黃檗山、萬治年中開基より、今、寬政に至る迄、百三十年餘に及ぶ間、開山隱元禪師より住持の僧廿三人也。此内十八人は唐山の僧、五人は日本の僧住持す。

 此比(このごろ)に至つて、來朝唐山の僧、なければ、已來は、日本の僧のみ住持する事に成(なり)たりと聞ゆ。

「柴山よりも願(ねがひ)に因(より)て、彼(かの)國へも仰遣(おほせつかは)されぬれど、近年、來朝僧、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「宇治黃檗山」京都府宇治市にある黄檗宗の大本山黄檗山萬福寺当該ウィキによれば、『万治元』(一六五八)年、明の渡来僧『隠元は江戸へおもむき、第』四『代将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し』万治三年には、『幕府によって山城国宇治にあった近衛家の所領で、後水尾天皇生母中和門院の大和田御殿があった地を与えられ、隠元の為に新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初』、三『年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局』、『日本に骨を埋めることとなった』。『寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元』(一六六一)年に『開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝』七(一六七九)年『頃にほぼ完成した』とある。]

 

○禁裏院中等の御用、武家より辨ぜらるゝには、非藏人(ひくらうど)といふもの、取次で御用かゝりの公家衆へ、申述(しんじゆつ)す。此非藏人といふもの、無官にて、禁裏ヘ參内の路次(ろし)は、上下(かみしも)にて參り、禁中詰所にて、衣官[やぶちゃん注:底本では「官」の右に編者補正注で『(冠)』とある。]に着代(きがへ)てつとむる也。尤(とちと)も、衣官も無位の裝束なれば、木綿の樣なる直衣(なほし)を着る也。

 此非藏人の中(うち)、古老壹人、每年元日には天子を拜し奉る。

 此古老、年限ありて、「卿藏人」と云(いふ)物に成(なり)て勤め、又、年月をへて「古藏人[やぶちゃん注:底本では、この右に編者補正注で『(召次)』とある。]」と云物に被ㇾ成(なされ)、又、年月を勤(つとむ)れば、「極﨟(ごくらう)」といふ物に成(なる)也。

 極﨟、昇進するには、五位の官を賜(たまは)る。極﨟を勤むる年限ありて、三位に敍せられ、始(はじめ)て公卿と同班(どうはん)の列に成(なる)なり。

 凡俗より殿上する事、其家にあらずして昇進するは、非藏人ばかり也。

 されども、かく年月を重(かさね)ざれば、昇進成(なり)がたき事ゆゑ、至つて、かたき事にて、長壽の人ならでは、成(なし)がたき事、とぞ。

[やぶちゃん注:「非藏人」既出既注だが、再掲すると、江戸時代、賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や、家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。]

 

○禁裏の御佛師は、七條左近といひて、世々、上京(かみぎやう)に住す。諒闇(りやうあん)御中陰の中、禁裏御法事の本尊、日々、かはる事なるを、此左近、其日の佛像を、かはがはる、調進する斗(ばかり)の御用勤(ごようづとめ)斗(ばかり)にて、平日、閑暇のくらしにてあれども、中古已來、家の例によりて如ㇾ此有(ある)事也。

[やぶちゃん注:「諒闇」「諒陰」「亮陰」とも書き、「らうあん(ろうあん)」とも読む。「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎・慎み」の意、「陰」は「もだす」で、「沈黙を守る」の意。天皇が、その父母の死にあたり、喪に服する期間。また、天皇・太皇太后・皇太后の死にあたり、喪に服する期間を指す。]

 

○江戶神田柳原土手内(うち)に、「犬醫者」といふもの、一人、拜領屋敷、給はり、住居す。

 是は寶永中、公(こう)の犬を大切に被仰付候より、出來たる醫者にて、今時(こんじ)は、一向、無用の人なれども、其節被仰付たる儘にて、ある事也。

 拜領屋敷も、殊の外、大きなる所なれども、「犬醫者」の名、惡(あしく)て、おのづから、屋敷沽劵(やしきこけん)も下直(げぢき)なる事、とぞ。

「其餘の御用と云(いふ)は、御鷹の犬の療治を役にする事のみ也。右御鷹犬、療治料として、上(かみ)より、別段に、壹ケ年に金三兩づつ賜ふ。夫(それ)を、今は、其儘、御鷹匠の方(かた)へ送りやりて、あの方にて、犬の療治、合細[やぶちゃん注:「がつさい」。一切「合切」(いっさいがっさい)の誤字であろう。]、賴み遣す事(こと)故、殊更に鷹犬の療治をする事には非ず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「寶永中」一七〇四年から一七一一年(宝永八年)。犬公方綱吉は宝永六年一月十日に逝去している。ウィキの「生類憐みの令」によれば、『綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが、同月には犬小屋の廃止の方針などが早速公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった』。但し、『牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、継続した法令もある。また、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は綱吉の死後も続き』、これは第八『代将軍』『徳川吉宗によって廃止されている』。『鷹狩が復活したのも、吉宗の代になってからである』。家宣が「生類憐みの令」を『撤回したのを農民は喜んでいた』とある。]

 

○京都の米相場は、大坂堂島にて、肥後米の直段(ねだん)をしるして、江州大津へ送る。其直段に、大津にて、江州の米直段を引合)ひきあは)せ、高下(かうげ)して、京へ送りて、京都の米相場は極(きま)る也。

 

○京都の乞食は「非田兒(ひでんじ)」といふ。穢多をば「天部(あまべ)」と云(いふ)。「非田兒」は非田院村に住する故、かく、いへり。穢多は、天部村に住する故、かく、いふ。鴨川北岸に非田院村あり、今は此村に「溜(ため)」の牢を置(おく)るゝあひだ、「非田兒」、牢守にせらるゝ故、爰に聚落して居(を)る也。

 非田院村に、つゞきて、上天部村、有(あり)、爰(ここ)に穢多の部落あるゆゑ、都(すべ)て、穢多の總名を、よんで、「天部」といふ也。

 京都に、上下(かみしも)の「天部村」、有(あり)。下の天部村は、大佛の邊にあり、此天部にも、穢多、住居する、おほし。

 大坂の非人をば、「かいと」といふ。「垣外」と、文字には、かく。「常の人に異(こと)なる」心にて、「かいと」と書(かく)也。

 「垣外」四箇所の「長吏」の支配なり。「長吏」とは、穢多の事を、大坂にて、いふ。大坂、邊土の四方に分れて居(を)るゆゑ、「四ケ所の長吏」とは、いふなり。

[やぶちゃん注:「かいと」は「ほかひびと」(ほかいびと)の縮約であろう。通常は「乞兒」で、これは「家の戸口に立ち、祝いの言葉を唱えて物を乞い歩いた人」を指す語であったものが、乞食のみでなく、渡り歩く芸人を広く指し、広く被差別民の卑称となった。「垣外」は意訳の当て字であろう。]

 

○京西陣にて織出(おりいだ)す反物、至つて價(あたい)、廉(れん)に、渡世に引(ひき)あはぬほどなれども、かさ[やぶちゃん注:「量(かさ)」。]を織出すをもて、渡世とする也。たとへば、大機(おほはた)を織(おる)とき、上の二階に居(ゐ)て、絲をさばく事をするもの、壹人づつ、織人の外(ほか)に、あり。此一日の雇ひ錢、十六文づつ也。其節、絲をくり、絲を染(そめ)、種々(しゆじゆ)の事に價の費(つひへ)、多く懸る事(こと)故、隨分、廉に、やとひものせねば、賣物(うりもの)に引(ひき)あはず。

 たとへば、羽二重(はぶたへ)壹反、種々の事に、あたひのかゝりたるを集め、織あぐる手間(てま)迄も勘定して、壹兩壹步貳朱餘(あまり)かゝりて出來る事なれども、賣捌(うりさばく)あたひは、壹兩貳步より、高價(たかね)には售(うり)がたし。

 是(これ)にあはせて、おもへば、「織(おり)や」の辛苦、はなはだ、利分、すくなきには、引合(ひきあひ)かぬれども、高價に至るをおそれて、「あたひ」を原(もと)にして、諸事の費・やとひ人までをも、賤(いやし)くなして仕上(しあぐ)る事、とぞ。

 西陣に、「機のせわり」といふ者ありて、常に、あたひを制して、貴(たか)くせず、甚(はなはだ)吟味する事也。

「『せわり』とは京の方言にて、關東の詞(ことば)には、『世話役』と云ふ事と、おなじ。」

と、人の、かたりぬ。

 

○禁裏公家町の掃除、草を芟(かる)事は、御所の近邊の、六町より、賦(ふ)にて勤むる事也。六町にて請負(うけおひ)の者を立(たて)て、草をひかせなど、する。此請負料、はなはだ廉なる事なれども、草を、又、田地の「こやし」にうり[やぶちゃん注:「うる」(賣る)の誤記か誤判読。]なるゆゑ、廉にて、請負來(きた)る、といふ。

 

○京壬生(みぶ)地藏尊の狂言は、「桶取(をけとり)」と云(いふ)、濫觴也。其餘の狂言は、のちのち、能の狂言にならひて拵(こりらへ)たる物、といふ。

 始(はじめ)は、猿を集(あつめ)て狂言をなしける故、元來の名目は「猿狂言」と云(いふ)也。

 「桶取」の由來は、昔、地藏尊、

「堂守の信を、敎化(きやうげ)し給(たまは)ん。」

とて、三(み)つ指(ゆび)不具の女と化(け)して、每夜、地藏に、「あかの水」を桶に入(いれ)、かしらにささげ來(きたり)て供養しけるが、此女、もとより、容貌、美麗成(なり)しかば、堂守の僧、懸想(けさう)して、いひより、言葉を盡して、くどきける時、女、此三つ指を示(しめし)て、かたわなるよしを告(つげ)けるにより、僧の心、本心にかへりて、成道(じやうだう)しけるより、「桶取」の狂言を、たくみいだせる也。

「されば、今も『桶とり』の狂言には、三つ指をもて、桶をさゝへ、出(いづ)るを、故事とする事。」

と、人の語りぬ。

[やぶちゃん注:「猿を集(あつめ)て狂言をなしける故」私は、寡聞にして、こんな話は聴いたことがない。後代には「猿回し」がそうした演芸をしたことはあったが、これは、狂言の原型となった「猿楽」に引っ掛けて、津村に語った話者が、面白おかしく作り話をしたのではないか?

「京都の壬生狂言の代表曲目の一つ。老人(隠居、出家、大尽ともいう)が美女に言い寄って一緒に踊っている所へ、老妻が来て嫉妬するという筋。「京都大好き隆ちゃん」のブログ『京都壬生大念佛狂言(その4)「桶取(おけとり)」』に、より詳しい解説と写真が載るので、見られたい。]

 

○野州栃木は領分也。陣屋は新田と云(いふ)三里わきに有(あり)。栃木の町は廿町餘あり、繁昌の地にして富饒(ふぎやう)の者、多し。皆、江戶へ交易して生活をなす。

 江戶小網町河岸より、栃本迄は荷物船、積船賃、酒樽は壹樽にて壹匁、荷物は壹箇にて、貳匁程づつ也。

 栃木に關東第一の馬工郞[やぶちゃん注:底本では右に編者補正注で『(博勞)』とある。]あり。「武田うば八」と云(いふ)者にて、常に、馬、六、七千疋程づつを所持して、ひさぐ事を業(なりはひ)とす。馬あり餘りて、人にあづけて、つかはしむ。馬所望の者、來(きた)れば、其望(のぞみ)にまかせて、取出(とりいだ)し、あきなふ。預置(あづけおき)たるをも、遠近に隨(したがひ)て、取寄(とりよせ)てあきなふ也。奥羽をはじめ、關八州より、皆、「うば八」を志して、ひき來り、賣(うり)なす也。馬七疋を、「一はな」といふ。日々、「廿はな」・「三十はな」づつ引來(ひききた)るを、殘りなく、「うば八」、買取(かひとる)事と、いへり。

 

○琉球朱は、「葡萄」・「新ぶとう」・「から子」・「角印」とて、四品也。商賣、御制禁なき已前は、目かた九十匁に付(つき)、代銀廿匁より、廿五匁までに、價(あたひ)を捌(さばき)たる事、とぞ。

[やぶちゃん注:「琉球朱」琉球製の漆器。

「角印」読み・様態不詳。]

 

○公方樣御鷹の雲雀、御大名へ給はり候は、年々、夏秋、御鷹匠衆を上總・房州等へ遣(つかは)され、彼(かの)地にて執(とり)たるを、江戶へ送り、配分して給はりけるが、往來、日數(ひかず)を經て、雲雀、損じ多く出來(しゆつたい)、すたり有ㇾ之に付(つき)、當時は、彼地にて、鹽漬(しほづけ)にしておくるやうに被仰付ける故、一切、すたり、無レ之也[やぶちゃん注:「完全に廃った訳ではない」の意。]。且(かつ)、御鷹匠衆、他國逗留の定(さだめ)の如く、雲雀取候へば、罷歸事(まかりかへること)故、往來、日數かゝらず、房總等にても、右のまかなひ、ついへ、すくなく成(なり)たるよし。是は、寬政中、白河侯【松平越中守殿。】、御老中御勤の時より定置(さだめおか)れし、よし。仍(よつ)て、當時、拜領の雲雀は、皆々、鹽漬の物なり。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。]

 

○「江戶町家の婦、上京の節、荒井・橫川御關所等、通行御手形相願候事、先年は願(ねがひ)申出(まうしいで)、御許容、相濟候て、願人(ねがひにん)、日日、御役人宅へ、御手形、持參致し、御家來へ申入(まうしいれ)、御判申請(まうしうけ)候事(こと)故、御判取揃(とりそろへ)迄は、壹ケ月餘りも、かゝりたる所、當時、上京の願書(ねがひがき)・願人、相認(あひしたため)、其所(そこ)の名主へ指出(さしいだし)候へば、名主・願人、同道致し、町年寄三人の内、月番の宅へ罷越(まかりこし)、子細申入、願書、差出候へば、月番の年寄、右、手形を受取(うけとり)、評定御寄合の席へ持參致し、御列座にて、一日に、御判、相濟候まゝ、町年寄より名主・願人へ、配符の催促、來(きたり)て、御手形、御判、相濟候を、渡さるゝ事に成(なり)たるゆゑ、先年の如く、願人、御役人の宅へ罷越候事、無ㇾ之故、甚(はなはだ)、事、速(すみやか)に相濟(あひすみ)、辛勞なき事に罷成候。是も白河侯、御勤役中(ちゆう)より、定(さだめ)られたる事也。仍(よつ)て、當時は、婦人上京願書、御判取(ごはんとり)に指出(さしいだし)候て、大抵、五日目程には御判相濟候故(ゆゑ)、御判取に指出候ては、旅行の支度(したく)拵(そろへ)相待居(あひまちをる)程ならでは、大(おほい)に手遣(てづかひ)に成(なる)事有ㇾ之故、無油斷、右の心得にてよろしき、よし。」

名主、物語りなり。

 

○江戶、諸商賣の内、「拾仲間(じふなかま)」と號するは、[やぶちゃん注:以下二段落は底本でも改行。]

吳服物商賣・木綿太物商賣・綿ほうれい類商賣・洒屋商賣・燈油屋商賣・諸藥種商賣・小間物商賣・塗物椀家具商賣・諸鍋物類商賣・疊表荒物類商賣

右十種の問屋ども、十組、「仲間」を立(たて)、交易致し候事。

年々、□□□□と申者、相企(あひくはだて)候事にて、公儀へ御願(おねがひ)の上、右の通(とほり)に被定置候事也。

 吳服物問屋は、本町・するが町・日本橋・南芝邊、木綿太物は通旅籠町(とほりはたごちやう)、綿ほうれい類は、本町・大傳馬町、酒問屋は、靈巖島・新川・萱場町邊、燈油問屋は、大傳馬町・小船町、其外、所々。菜種問屋は本町三丁目、小間物問屋は通油町(とほりあぶらちやう)・日本橋北南邊、塗物家具問屋は同斷、鐵物(かなもの)銅眞鍮類問屋は大門通、其外、諸所。荒物類問屋、日本橋南北、其外、堀留諸所、大抵、是等、殊に群居する所也。

[やぶちゃん注:「□」は底本の欠字記号。

「通旅籠町」しばしばお世話になるサイト「江戸の町巡り」の「通旅籠町」によれば、現在の『中央区日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町二丁目』とある。

「通油町」同前で『中央区日本橋大伝馬町』とある。ここ。]

 

○いと荷物船問屋、靈巖島・新堀・新川邊、住居致し候。上下の者、道中駕籠、供の者等、相雇(あひやとひ)候には、日本橋木原店(きはらだな)に請負(うけおひ)の者、數多(あまた)住居致候。

 

○江戶より、品川・千往・板橋・四ツ谷、付出(つけだ)し傳馬相願(あひねがひ)候には、大傳馬町名主役所、南傳馬町名主古澤[やぶちゃん注:底本では「古」の右に編者補正注で『(吉)』とある。]主計(かづえ)、小傳馬町名主宮邊又四郞方へ相賴(あひたのみ)候へば、相辨(あひべんじ)候事。但(ただし)、大傳馬町名主馬込勘解由(かげゆ)事、當時、退住(たいぢゆう)仰付(おほせつけ)られ候故(ゆゑ)、傳馬町名主、代(かはり)、十二人にて、相勤候へば、右役所、相賴候事也。

 

2024/04/24

譚 海 卷之十四 三州瀧山淸涼寺の事 關東より禁裏へ鷹と鶴を獻上の事 火にて親燒死たる時の心得の事 寺幷宗旨をかふる時の事 中國銀札をつかふ事 奥州仙臺出入判の事 加州城下町の事 紙一帖數の事 油・酒相場の事 諸物目形の事 茶器諸道具價判金壹兩の事 醫の十四科の事 京・大坂へ仕入商物の事 染物・反物あつからふる事 狩野家の事 大判・小判・古金・新金・南鐐銀の事 頭陀袋の事 江戶橋新場肴屋の事 願人支配の事 上州草津溫泉入湯の次第の事 伊豆修善寺入湯の事 攝州有馬溫泉入湯次第の事

[やぶちゃん注:「かふる」はママ。なお、「三州瀧山淸涼寺の事」の前半は「譚海 卷之六 三州瀧山淸涼院年始鏡餅獻上の事」と同文で、津村がダブって記している。そちらで注したものは、採録しないので、必ず、読まれたい。]

 

○公方樣、每冬、御(おん)「こぶしの鶴」を、一羽づつ、年の内に、宿次(しゆくつぎ)にて、禁裏へ進獻あり。

 道中、鶴のはねを、延(のばし)たるまゝにて、箱に入(いれ)、桐油(きりゆ)を、おほひ、靑竹にて、になひ傳送する也。尤(もつとも)、桐油は、宿々にて用意置(おき)たるを、取替(とりかへ)、おほひ達(たつ)する故、桐油に、何(いづ)れも宿驛の名目印、有(あり)。

 殊の外、大成(だいなる)箱也。是も、旅人、下乘也。

 扨、京都にて、正月十九日、此鶴を調ぜられるについて、天子、紫宸殿に御(ぎよ)し、舞樂、御覽あり。此日は、諸人も、舞樂拜見を、ゆるされ、庭上に群集して、京洛の兒女、男子(なんし)、一日、拜見す。男子は、無刀に麻上下(あさがみしも)、僧は衣(え)、又は十德(じつとく)也。

 前年は、此日、「鶴の庖丁舞」御覽とて、内膳司(ないぜんのつかさ)、御前にて、鶴を調ずる鑾刀(らんたう)を、あはせて、舞を奏する事なりしが、炎上の後、大内裏の規模を移され、紫宸殿の前に、朱門・拔垣(ぬきがき)を、ほどこされ、日をも轉じて、十九日に定められ、鶴は小御所にて調ぜられて後、舞樂斗(ばか)り、紫宸殿にて行(おこなは)るゝ事に成(なり)たり。

 師走、東海道は、この鶴と、瀧山(さう)の御神供とにて、殊の外、混雜する事也。

[やぶちゃん注:「鑾刀」「鸞刀」とも書く。鸞鳥(私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鸞(らん) (幻想の神霊鳥/モデル種はギンケイ)」を参照されたい)の形の鈴をつけた刀。古代中国で、祭祀の生贄を裂くのに用いたもの。

「炎上の後、大内裏の規模を移され」これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の大火」を指す。当該ウィキによれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした』「応仁の乱」の『戦火による焼亡を』、『さらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた』とある。本「譚海」の終稿は寛政七(一七九五)年夏である。

「拔垣」この熟語は知らないが(読みも、あてずっぽう)、状況からみて、庶民が透き見が出来るように、隙間を開けた垣根のことかと思われる。]

 

○出火にて、親、燒死(やけじに)たる事あるときは、

「出火に付(つき)、親同道、仕立(したて)、退(のき)候處、群集にまぎれ、行方(ゆくへ)、見失ひ、唯今に罷歸(まかりかへ)り不ㇾ申候。」

と訟ふる事也。

 ありのままに、燒死たるよしあれば、其子、死刑に處せらるゝ公儀の御大法也。

 

○勝手につき、寺を替(かへ)るに、人を賴(たのみ)、旦那寺へ斷(ことわり)申遣(まうしつかは)し候時は、其人、他人たりとも、

「當人の親類にて、たのまれたる。」

由、申(まうす)事也。

 親類ならでは、寺、承知いたさぬ事、是も、諸宗の法也。

[やぶちゃん注:「勝手」「自身の思うところによって発想したこと」の意。宗旨変えは、自身の信心の問題であり、例えば、江戸時代、日蓮宗へ宗旨を変えるケースは諸記事に見られる。]

 

○中國は、大抵、銀札をつかふ也。就中(なかんづく)、因幡・伯耆・出雲・石見は、數多(あまた)、領分、入交(いれまじ)りたる上、不ㇾ殘、銀札也。半日ほど行(ゆき)て、他領に入れば、跡の領分の銀札、通用せず。聞合せて他領にいらぬ手前にて、其領分の銀札、役所にて、銀と引替(ひきかへ)、他領に入(いる)時、又、銀札を買(かひ)て遣(つか)ふべし。勝手しらぬ旅人は、ゆきかゝり、銀札、通用せず、跡へ、もどりて引(ひき)かふれば、往來の日數、無益(むえき)多く、はなはだ難儀する事哉。中國、陸路往來のもの、心得べき事也、とぞ。

 

○奧州仙臺へ行(ゆく)者は、小菅生[やぶちゃん注:底本では「小菅生」の右に編者補正注で『(越河)』とある。]といふ所にて入判(いりはん)を、もらふ。壹人に付、八錢也。仙臺を、いでて、他領へ、おもむくときも、出判(いではん)を、もらふ。壹人五錢也。仙臺より、南部へ入(いる)ところに、南部領鬼柳の關所あり。爰(ここ)にても、壹人、五十錢づつ出して、入判をもらふ。但(ただし)、南部、逆旅主人(げきりよしゆじん)に賴みて、判を取(とり)てもらふ也。

[やぶちゃん注:「小菅生」(✕)「越河」現在の宮城県白石市越河御境に「越河」(こすごう)「番所跡」が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「鬼柳」現在の岩手県北上市鬼柳町(おにやなぎちょう)町分(まちぶん)にある「南部領鬼柳御仮屋跡」がそれ。なお、南西直近にポイントされてある「相去御番所跡」(岩手県北上市相去町(あいさりちょう))の方は伊達藩の番所である。]

 

○加賀城下、町屋、三里、有(あり)。馬つぎ問屋、二ケ所にあり。又、加賀國中(かがのくにうち)の關所は、誰(たれ)にても、皆、下乘して通る也。

 

○「西の内紙」は、壹帖四十枚、「保戶村紙」は廿六枚、「靑土佐紙」は三十四枚、「仙過紙(せんくわし)」は五十枚、「杉原紙(すぎはらがみ)」は四十八枚、「薄樣(うすやう)」・「中葉(ちゆうえふ)紙」は、共に百枚、三十枚は[やぶちゃん注:ママ。]十五枚、「淺草半切紙(あさくさはんきりがみ)」は、九拾六枚を「百枚」と號す。其餘、「半切紙」、國々によりて不レ同(おなじうせざる)也。「奉書」・「美濃紙」・「小菊」等は、皆、壹帖四十八枚づつ也。「大鷹團紙」[やぶちゃん注:底本では「團」の右に編者補正注で『(檀)』とある。されば、以下の「小鷹團紙」も「小鷹檀紙」であろう。]・「小鷹團紙」は、壹帖共に、二十四枚也。

[やぶちゃん注:「西の内紙」「西ノ内紙」(にしのうちし)。当該ウィキによれば、『茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙である。コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられないことに特徴がある。江戸時代には水戸藩第一の特産物となり、各方面で幅広く使われた』。『強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた』。宝暦四(一七五四)年に刊行された「日本山海名物圖繪」では(以下、国立国会図書館デジタルコレクションの寛政九(一七九四)年板の板本で独自に視認した。標題は「越前方奉書紙」で、挿絵もある。一部、読み・句読点は私が附したものである)、

   *

凡(およそ)、日本より、紙、おおく出(いづ)る中に、越前奉書、美濃なをし、関東の西内、程(ほど)村、長門岩国半紙、尤(もつとも)上品也。

   *

『と称された』とあった。

「保戶村紙」前の注の引用から「程村紙」が正しいことが判った。当該ウィキによれば、『栃木県那須烏山市で作られる楮紙』。『烏山和紙を代表する和紙で、「厚紙の至宝」』『と評されるほどに厚手で丈夫なのが特徴』で、『品質が高いことで知られる』『那須楮を原料とする』。『起源は奈良時代とされ』、『かつて烏山町境村にあった程村地区が産地であったことに由来する』。『襖や障子等の建築部材のほか、投票用紙、皇居用の懐紙』。『烏山藩藩札などの重要書類で用いられ』、『現在は卒業証書用紙が主力である』。『宮中で年頭に行われる「歌会始の儀」でも用いられた』。『烏山地方は戦前は和紙の一大産地であったが、安価な西洋紙に押されて』、昭和三九(一九六四)年には、一『軒のみになっている』。『福井県越前市の越前奉書、岐阜県美濃市の美濃の直紙、山口県岩国市の岩国半紙、茨城県常陸大宮市の西ノ内紙と共に、日本の代表的な』五『紙の一つとされている』とあった。

「靑土佐紙」高知県で生産される「土佐和紙」の一つ。近世初期から生産の始まった青色染めの紙で、色がやや薄いものを「青土佐紙」、やや濃いものを「紺土佐紙」として区別する場合もある。表具用紙・工芸紙などに用いられる。

「仙過紙」「仙貨紙・仙花紙・泉貨紙」が正しい。楮を原料にして漉いた厚手の強い和紙。包み紙や合羽などに用いた。天正年間(一五七三年~一五九二年)の伊予の人、兵頭仙貨(ひょうどうせんか)が作り始めたとされる。

「杉原紙」鎌倉時代、播磨国揖東郡杉原村(現在の兵庫県多可郡多可町加美区地区)で産したと言われる紙。奉書紙に似て、やや薄く、種類が豊富で、主に武家の公用紙として用いられた。後、一般に広く使われるようになると、各地で漉かれた。近世から明治にかけて、色を白く、ふんわりと仕上げるため、米糊(こめのり)を加えて漉かれ、「糊入れ紙」「糊入れ」と称された。他に「すぎはら」「すいばら」「すぎわらがみ」とも呼ぶ。

「薄樣」薄手の和紙のこと。「薄葉」とも書く。「厚様(厚葉)」に対する語で、平安初期に「流し漉(ず)き法」が確立されたことにより、薄紙の漉きが容易となった。平安時代の女性に好まれ、当時の文学作品の中に多くの用例がみられる。「日葡辞書」(慶長八(一六〇三)年)に「薄樣」と「薄紙」が挙げられてあるが、特に「薄樣」は「鳥の子紙の薄いもの」といった解説がなされてある。「流し漉き法」が一般化しても、ガンピ(雁皮)類を原料とした上代の斐紙(ひし)は薄手の紙に適しているため、薄様の主流は、この系統の「雁皮鳥の子紙」が占めていた。

「中葉紙」中ぐらいの厚さの「鳥の子紙」。

「淺草半切紙」「半切紙」は杉原紙を横に半分に切り、書状に用いた紙。寸法は概ね、縦五寸(約十五・二センチメートル)・横一尺五寸(約四十五・六センチメートル)。寛文(一六六一年~一六七三年)頃から、この形に漉いたり、長く接(つ)がれて「巻紙」となったりした。単に「はんきり」「はんきれ」とも呼ぶ。「淺草半切紙」は、浅草で、使用済みの和紙(反古紙)を漉き直して作った中古の和紙「漉返紙」(すきがえしがみ)を盛んに作ったことによる。

「美濃紙」美濃国(岐阜県)から産出する和紙の総称。美濃国は古く奈良時代から和紙の産地で、「直紙」(なおし)・「書院紙」・「天具帖」(てんぐじょう)など、多くの紙を産した。現在でも「本美濃紙」・「障子紙」・「提灯紙」・「型紙原紙」など、多種の紙が漉かれている。

「小菊」楮製の小判の和紙。はながみ、または茶の湯の釜敷などに用いる。美濃国(岐阜県)で古くから製している。単に「小折」「小美濃」とも言う。

「大鷹」「團」(✕)→「檀」(○)「紙」「小鷹團紙」(✕)→「小鷹檀紙」「檀紙」は和紙の一つ。厚手白色で縮緬 のような皺がある。檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ変種マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )の樹皮で作る。包紙や目録・免許状のような文書に用い、皺や紙形により「大高」(おおたか)・「小高」の別がある。平安時代、陸奥国の産で、「陸奥紙」(みちのくがみ)と呼ばれ、現在のような形質になったのは、室町時代からである。公家・武家に用いられ、備中・越前産が有名である。]

 

○油は十樽をもて、「何十兩」と云(いふ)。酒は廿樽をもて「何兩」と定む。又、酒二樽を「壹駄」と云(いふ)。

 

○藥種は、目形(めかた)四匁を「壹兩」とす。四拾兩を「壹斤」とす。砂糖・金米糖も、是に同じ。茶は目形二百匁を「壹斤」とす。羽州にては、蠟、目方壹貫四百目を「壹斤」とす。

 

○茶器諸道具の價(あたひ)、金「壹兩」といふは、小判七兩貳步也。大判(おほばん)の相場にては、なし。

 

○唐山(たうざん)の醫、古(いにしへ)は「十四科」、有(あり)。肺胃科、亡(ほろび)て、今は、「十三科」、あり。其「十三科」は、

風科・傷寒科・大方脈・小方脈・婦人胎前科・鍼灸科・眼科・咽喉口血科・瘡瘍(さうやう)科・正骨科・金鏃(きんぞく)科・養生科・祝由(しゆくゆう)科。

 「大方脈」は、大人の療治する醫者、「小方脈」は小兒醫者、「瘡瘍」は外科(げか)の事。「正骨科」は「骨つぎ」療治、「金鏃」は金瘡(かなきず)の療治する醫者也。「貌由科」は「まじなひ」をする醫者の事也。此事、「古今醫統」に出(いで)たり。

[やぶちゃん注:「古今醫統」明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六年)によって編纂された医書。全百巻・四十冊・一六六〇年刊行。歴代の医聖の事跡の紹介に始まり、漢方・鍼灸・易学・気学・薬物療法などを解説する。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べてあり、分類された病名のもとに病理・治療法・薬物処方という構成になっている。対象は内科・外科・小児科・産婦人科・精神科・眼科・耳鼻咽喉科口腔科・歯科など、広範囲に亙る(「東邦大学」公式サイト内の「額田記念東邦大学資料室」の「額田文庫デジタルコレクション」のこちらに拠った。原本画像が総て見られる)。]

 

○江戶より京・大坂へ、買物注文いたし遣(つかは)し、其品、賣主(うりぬし)にて、荷物に拵へ、船積(ふなづみ)いたせば、大坂川口にて、破船に及(および)ても、代物(だいもつ)は、買主(かひぬし)の損に成(なる)事也。決して、京・大坂の賣主は、拘(かかは)らず。

 又、江戶より、諸品、上州をはじめ、奧州ヘ荷物にいたし遣し、其品、途中にて水に入り、又は、盜賊などに取(とら)るゝ事、ありても、買主の損金には、ならず、皆、江戶の賣主の損に成(なる)事、定法(ぢやうはう)也。

 其上、京・大坂の賣主、其品を、江戶へ積出(つみいだ)せば、かならず六十目目には、爲替(かはせ)を取(とり)て、代物を受取(うけとり)に、こす也。

 右日限、一日にても、金子、渡方(わたしかた)、延引すれば、重(かさね)て、京・大坂より、荷物、送る事を、せず。

 されば、上方と奧筯(おうすぢ)との商内(あきなひうち)は、江戶の者、損德、有(ある)事、上方の商内は、十分の「つよみ」、有(ある)事と、いへり。

 

○黑き色に反物(たんもの)を染(そむ)るならば、先(まづ)、紺屋(こうや)へ、あつらふる時、

「下染(したぞめ)を見るべき。」

よし、申(まうす)べし。下染を花色に染めたる時、取寄(とりよせ)て、一見して後、返して、黑色に染(そめ)さすれば、年を經ても、黑き色、かはる事、なし。

「唯(ただ)、あつらへし儘にて、下染を、みざれば、多く、『紺や』にて、上染斗(ばか)りする故、早く、色、さむるもの。」

と、いへり。

 

○洞雲(どううん)は「松蔭子」と、いへり。松花堂(しようくわだう)より、得たる名と、いへり。探幽は「白蓮子」、養朴は「寒雲子」と、いへり。其外、狩野家畫(ゑかき)は、俗名は、系圖に有(あり)。

[やぶちゃん注:「洞雲」狩野洞雲(寛永二(一六二五)年~元禄七(一六九四)年)は江戸前期の画家。狩野探幽の養子となるが、探幽に探信・探雪の二子が生まれ、別家となった。寛文七(一六六七)年、幕府から屋敷を与えられ、「駿河台狩野家」を立てて、表(おもて)絵師の筆頭格となった。名は益信。通称は采女。

「松花堂」松花堂昭乗(しょうじょう(歴史的仮名遣:せうじよう) 天正一二(一五八四)年~寛永一六(一六三九)年)は江戸初期の僧で書画家。堺の人。松花堂は晩年の号。男山石清水八幡宮滝本坊の住職で、真言密教を修め、阿闍梨法印となった高僧。書は「寛永の三筆」の一人で、御家流・大師流を学び、「松花堂流」を創始した。また、枯淡な趣の水墨画を多く描いたことでも知られる。

「養朴」狩野常信(寛永一三(一六三六)年~正徳三(一七一三)年)は江戸前期の画家。尚信の長男で、「木挽町狩野家」二代目。探幽没後の狩野派を代表した。古画の模写にも力を入れたことで知られる。]

 

○大判は、初め、吹立(ふきたて)られたる時、壹萬枚を限(かぎり)とせられて、今、天下に通用するは、此數(かず)の外、なし。大判、所持しても、慥成(たしかなる)持主、書付等、指出(さしだ)さゞれば、兩替屋にて、皆、引(ひき)かへず。兩替、殊の外、六つケ敷(むつかしき)事也。但(ただし)、大判の書判(かきはん)、少しも、墨色、剝落すれば、通用せず。夫(それ)故、墨色、落消(おちけ)するときは、後藤かたへ、相願(あひねがひ)、書判を、書直(かきなほ)しもらふ也。此書直し料、大判壹枚に付、金壹步づつ也【此は下直(げぢき)にて書替(かきかへ)致したるト覺ゆ。今時は、壹兩も貳兩も書替料、收(をさむる)也。】。古金(ふるがね)は引替の事、兩替屋にて、難ぜす[やぶちゃん注:これ、「せず」の誤記か誤植であろう。]。但(ただし)、金百両に付、元文小判(げんこばん)百六十五兩に引替(ひきか)ふ。六割半の增(まし)也。元文小判壹兩に付、目形(めかた)は三匁五分あり。古金は壹兩、目形、四匁八分。當時、南鐐銀、壹片の目形は、三匁七分也。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。

「後藤」近世日本の金座の当主=「御金改役」を世襲した名跡。後藤庄三郎。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

 

○「頭陀袋(ずだぶくろ)」は本名「法衣悟(ほふえご)」と云(いふ)也。「一番」・「二番」・「三番」まであり、「一番」は「九條」・「七條」等の「袈裟(けさ)」、入(はい)るやうに、せし物、也。至(いたつ)て大(だい)なれば、平生、往來に懸(かく)るには、邪魔也。「二番」も、なほ、大(おほ)し。遊山(ゆさん)登臨などに懸(かく)るには、「三番」といふもの、よきほど也。製は、江戶にては「衣や」、所々に、あり。然(しか)れども、尾張國津島の尼寺にて製する物、至(いたつ)て精工也。上方(かみがた)の婦人の所作・縫(ぬひ)やう、ともに、江戶の製に比すれば、萬々、勝(すぐれ)たり。浮家(ふけ)の貫通和尙、をしへ、製(せい)しいだせる事にて、袋の色は「香衣(かうえ)」と稱し、價(あたひ)五百錢ほど也。

[やぶちゃん注:以上に出る「袈裟」の種類は、説明するのが面倒なので、「無門關 十六 鐘聲七條」の私の「七條」の注を見られたい。

「尾張國津島の尼寺」探す気にならない。悪しからず。]

 

○鎌倉より東方、三浦・三崎鴨[やぶちゃん注:ママ。独立した「鴨」でも「走水」に附しても地名として成り立たない。思うに、これは「三崎」の「嶋」、則ち、「三浦」半島の「三崎」の先端にある「城ヶ島」を指し、「島」の異体字「嶋」の誤記か御判読であろう。]・走水(はしりみづ)・浦賀迄にて、獵漁せし魚は、皆、江戶橋新場(しんば)肴店(さかなみせ)へ、運送し商ふべき由、享保中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]、新(あらた)に定置(さだめおか)るゝ事、とぞ。

 是は、有德院公方樣[やぶちゃん注:吉宗。]、紀州に被ㇾ成御座候時、「沖鱠(おきなます)」と云(いふ)ものを召上(めしあが)られて、其通(そのとほり)に、江戶にて、料理仰付(おほせつけ)られぬれども、透と[やぶちゃん注:意味不明。「とくと」の当て字としても意味が「透」らぬ。「少しも(~ない)」の意でとっておく。]紀州の味に似ざる故、數度(すど)御吟味ありしに、新場、御納屋(おんをさめや)指上(さしあげ)候魚(うを)、料理仰付られけるに、始(はじめ)て、紀州にて召上られける如く、宜(よろ)しく出來(しゆつらい)せしかば、右、御褒賞として、如ㇾ此、定置れぬる、とぞ。

 

○願人(ぐわんにん)の總頭(そうがしら)は、京、鞍馬山大藏院也。江戶にては、右の支配、手遠(てどほ)にて、事行(ことゆ)かぬる故、東叡山へ御賴みにて、願人支配、有(あり)。江戶の支配頭(しはいがしら)住居は、芝金杉(しばかなすぎ)・四つ谷鮫ケ橋・神田豐島町(かんだとしまちやう)也。

[やぶちゃん注:「願人」「願人坊主」(がんにんぼうず)のこと。頼まれた者に代わって、神仏への代参や、代垢離(だいごり)をする坊主の姿をした門付芸人。近世、主に江戸で活躍し、「藤沢派」(または「羽黒派」)と「鞍馬派」に分かれ、集団的に居住し、寺社奉行の支配を受けた。天保一三(一八四二)年の町奉行所への書上には『願人と唱(となへ)候者、橋本町、芝新網町、下谷山崎町、四谷天龍寺門前に住居いたし、判じ物の札を配り、又は群れを成(なし)、歌を唄ひ、町々を踊步行(をどりあり)き、或は裸にて町屋見世先に立(たち)、錢を乞(こふ)』とあり、乞食坊主の一種でもあった。その所行により、「すたすた坊主」「わいわい天王」「半田行人」(はんだぎょうにん)「金毘羅行人」などとも呼ばれ、その演じる芸能は「願人踊」「阿呆陀羅經」「チョボクレ」「チョンガレ」など多種で、後、ここから「かっぽれ」や「浪花節」などが派生した。]

 

○上州草津湯は、御代官所にて、入湯の者、壹人より、三錢づつ、公儀へ運上として上(あぐ)る。

 湯屋の家は、草津町千軒程づつの内、七、八十軒あるべし。

 此湯屋、本宅は二里餘(あまり)、麓西南に、小留村・沼屋村[やぶちゃん注:底本では「屋」の右に編者補正注で『(尾)』とある。]・八所村・井堀村・下間村、右五ケ村のもの所持にして、春三月八日より、草津へ引移(ひきうつ)り、湯客を請待(しやうたい)し、冬十月八日を限りにて、又、麓の宅へ歸り住(すむ)。是を「草津の冬住(ふゆずみ)」と云(いふ)。

 湯代は、大がいの座敷、諸道具付(つき)にて、湯代ともに、一廻(ひとめぐ)り二百五十文づつ、但(ただし)、大壯なる座敷、借(かり)て居(を)れば、座敷代を、いだす故、右二百五十錢は、いださず。但(ただし)、瀧湯(たきゆ)は十六ケ所あり。每夏は、一萬人も、入湯の人ある故、右の瀧、殘らず、ふさがりて、療治する事、あたはざる時は、入湯の人、「組」を、たてて、二、三十人程づつ、瀧一ケ所を借切(かしきり)にする也。其時は、

「『一𢌞り』より、『三𢌞り』までを、金二步づつ。」

と定(さだめ)て、幕を引(ひき)て、外(ほか)の人を入(いる)る事をせず。金二步にて、「一𢌞り」にても、同じ料(れう)也。

 夜具は、皆。木綿(もめん)也。下品は一𢌞り二百五十錢、中品は三百錢、上品のあたらしき夜具は、四百錢なり。但、夜具代をいだしても、湯代は、別に、いだす也。

 

○伊豆修善寺湯場は、尤(もつとも)座敷代をいだす事、あり。但、壹人・貳人、入湯の節は、一日壹人、「木賃泊(きちんどまり)」といふものにて取扱(とりあつかひ)、一日の木賃、三十一文づつ也。此外に、薪代も、何も、いらず、米は自分(おのづと)調(ととのへ)てくふ事にて、湯代は、

「寺の法施(ほふせ)也。」

とて、とらず。夜具の代は、別にいだすなり。

 

○熱海は、箱根湯治場(たうぢば)のごとく、諸品、高下(かうげ)、定(さだめ)がたし。

 

○攝州有馬の湯は、一𢌞りに付(つき)、壹人より銀壹兩づつ、祝儀として、宿の主人へ、つかはす。

 湯女(ゆな)へは、壹𢌞(ひとまはり)につき、銀貳匁三步づつ、遣(つかは)す事也。

 幕湯(まくゆ)は、幾(いく)まはりにても、人數(にんず)に構はず、銀四十五匁、いだす。但(ただし)、一日に三度に限る也。

 

譚 海 卷之十四 山城醍醐寺の事 淀舟ふなちんの事 甲州身延山他宗參詣の事 駿州富士登山の事 大坂より四國へ船ちんの事 江戶より京まで荷物一駄陸送料の事 京都より但馬へ入湯の次第の事 京都書生宿の事 京都見物駕ちんの事 京都より江戶へ荷物送り料の事 京智恩院綸旨取次の事 關東十八檀林色衣の事 堺住吉神官の事 接州天王寺一・二舍利幷給人の事 淨瑠璃太夫受領號の事

○山州、上醍醐寺は、女人登山制禁なり。下の醍醐より三十六町餘にあり。西國順禮の觀音あれば、婦人順禮の札を納(をさむ)る、受取(うけとる)所は、下の醍醐にある也。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「上醍醐寺」底本の竹内利美氏の後注に、『京都市伏見区醍醐の醍醐寺。貞観十八年』(八七六年:「准胝堂」と「如意輪堂」が建立された年。開山自体は二年前)、『聖宝の開創と伝え、これか上醍醐となり、後に下醍醐に伽藍がつくられ、三宝院その他の塔頭ができた。真言宗の大寺で、上醍醐の本堂准肌観音堂は西国観音霊場第十一番の札所である。』とある。上醍醐(かみだいご)と下醍醐(しもだいご)の醍醐寺の位置関係は、こちらのグーグル・マップ・データで確認されたい(上醍醐をポイントした。醍醐寺伽藍は西の麓にある)。]

 

○淀舟、船賃、京都より大坂まで、一人に付、七十二錢也。大坂より上京するには、此倍にして、一人に付、百五十錢也。然れども、壹人錢にては、船中、乘合ゆゑ、甚(はなはだ)窮屈也。貳人分出すときは、船中を竿にて仕切(しきり)、ゆるりと坐せらるゝやうにある也。貳人分、三人前、心にまかせて、ゆるりとゐらるゝやうに成(なる)庖也。大坂より乘合をせず、船壹艘、借切(かしきり)にすれば、三貫文程也。淀夜船中(ちゆう)、くひものを乘(のせ)來りて、賣(うり)かふ小舟あり。洒肴・飯・菜、好(このみ)にしたがつて、あたふ。呼聲、

「くらはんか。」

といふ。

「古(ふるき)時より、爰(ここ)の方言也。

といふ。

 

○甲州身延山、登山するに、門内に逆旅(げきりよ)、上町、あれども、日蓮宗の者をば、止(とむ)る事あたはず。其宗旨の者は、皆、山上に、江戶諸國の寺々の取次(とりつぎ)ありて、其寺にしたがつて、坊々に、とまる也。

 町にて、とむれば、

「坊より、糺す事。」

とて、とゞめず。

 他宗の者、登山には、町の逆旅に止むる事を憚らず。

 

○駿河、富士山登り口、「すばしり」より「御馬がへし」といふまで、山腹二里八町の間は、馬に乘(のり)て登山する事を、ゆるす。

 夫(それ)より、步行にて、中宮(なかのみや)迄、一里、叢樸(さうぼく)の中を行(ゆき)て中宮に至る。[やぶちゃん注:「叢樸」草むらと荒ら木。]

 中宮にて、「山役錢」とて、壹人につき、鳥目三百五十文を出(いだ)す。「山杖」といふを、あたふる也。「あららぎ」といふにて造(つくり)たる杖なり。[やぶちゃん注:「あららぎ」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata の異名。漢字では「一位」「櫟」と書く。この杖は所謂「金剛杖」である。]

 中宮は、下の「すばしり」に、「淺間(せんげん)の宮」あるにたいして、いへる也。宮造(みやづくり)、壯麗也。

 爰(ここ)より、里數を、いはず、「一合」・「二合」といふ。「一升」といふは、「絕頂」といふなり。

 「合」ごとに石室(いしむろ)ありて、巖中に、雪を煎(いり)て、湯になし、賣る。行人(ゆくひと)、是(ここ)に休みて、飮食をなし、登山する也。

 絕頂、「御八龍」といふ。ぐるりと、まはれば、四十二町あり。[やぶちゃん注:四・五八二キロメートル。現在の火口は一周約二・六〇〇キロメートルとする。恐らく「お鉢めぐり」の火口部外側下部を含む見どころを廻るコースの実測であろう。]

 まはり終(をはり)て、砂に乘じて、中宮まで走り下る、半時ばかりに、くだる也。

 下向は甲州口より登りたる人々、皆、同じ所へ下る也。

 

○大坂より、四國、金比羅權現へ參詣、舟貨、風便(かぜだより)、遲速にかゝはらず、壹人に付、銀五包づつ、拂(はらふ)。大坂北濱に船宿あり。

 

○江戶より京都まで、荷物、壹駄三十六貫目[やぶちゃん注:百三十六キログラム。]にて、「飛脚や」へ、相賴(あひたのみ)登(のぼ)せる時、代銀、凡(およそ)貳百五十匁ほど也。

○京都より但馬へ、湯治駕籠賃、往來にて、銀三十五匁。人、壹人、やとひ代金三步。右賴(たのみ)候所、京寶町錦小路下ル所、出石屋(いづしや)山兵衞、但(ただし)、是は但馬宿也。丹後宿は、同所四條下ル所、無雙屋西右衞門と申(まうす)方へ參り、可聞合

○諸國より、上京、止宿・書生宿、三條上ル所、夷河通、又、竹屋町にも有(あり)。大てい、金二步より銀壹匁ほどづつの、あたひ也。

 又、借(かし)座敷は、三條より四條の間、新川原町、又其表通、木屋町にも、あり。座敷、大小によりて、直段(ねだん)、高下あり。大てい、金貳步より壹兩まで也。

 京都に知る人あらば、請判(うけはん)致しくれ、請文(うけもん)壹枚にて、早速、移往(うつりすむ)なる事也。

 長く店借(たながり)・住居、又、商買等にても、致し候にては、至(いたつ)て、むづかし。先(まづ)、口請人(くちうけにん)と云(いふ)者あり、是、店主へ店(たな)借(か)り度(たき)由、云入(いひいる)る也。此外に、證文を入(いれ)、請人に立(たつ)人、あり、其後(そののち)、店を借す事也。請人、二人、立(たつ)る事也。

 

○京都見物、駕籠賃、一日壹貫百文ほど也。但(ただし)、先より、先へ、とまり候ても、駕籠のもの、「とまりせん」[やぶちゃん注:「泊り錢」。]ともなり、晝食も此外にて不ㇾ構(かまはず)、何十度も、おり、くだり、見物所、不ㇾ殘、往來の約束也。

 

○京都より江戶へ、荷物壹貫目に付、十三匁程づつ也。

 

○京都、智恩院へ、諸國、淨土宗の僧、綸旨取(りんじとり)に上(のぼ)る事、一日に、二、三人程づつ也。壹人に付、金貳十五兩程づつ、入用といふ。但(ただし)、綸旨、一日に、壹人ならでは出(いだ)されざるゆゑ、二、三人あれば、段々、翌日へ、のべるゆゑ、人多き年は、逗留も日數(ひかず)かゝる也。

[やぶちゃん注:「綸旨取」底本の竹内利美氏の後注に、『勅旨をうけて蔵人が書いて出す文書が綸旨である。勅旨により僧位に任ずる形式の文書を、智恩院から交付していたのである』とある。]

 

○「關東十八檀林」の内、芝增上寺・小石川傳通院(でんづうゐん)二ケ寺は、紫衣(しえ)也。其餘は「黃衣(くわうえ)檀林」と號する也。

 

○堺、住吉明神の祠官を「社務」と號す。其下に、神主、六人あり。

 此六人は住吉明神の子孫にて、「底筒男(そこつつつのを)」・「中筒男(なかつつを)」・「上筒男命(うはつつのを)」の血脈(けちみやく)にして、家々、連綿と續(つづき)て有(あり)。

 ゆゑに、社務、あれども、社頭の鍵をば、此六人の神主、つかさどり行ふ也。社務は、「三位(さんみ)」にて、姓は、何れも「津守」と號す。京都、上下加茂の社務は、「三位」にて「住吉」と同事(おなじこと)、「公卿」也。

[やぶちゃん注:『「底筒男」・「中筒男」・「上筒男命」』住吉三神(すみよしさんじん)。「日本書紀」では、主に「底筒男命」(そこつつのおのみこと)・「中筒男命」(なかつつのおのみこと)・「表筒男命」(うわつつのおのみこと)、「古事記」では、主に「底筒之男神」(そこつつのおのかみ)・「中筒之男神」(なかつつのおのかみ)・「上筒之男神」(うわつつのおのかみ)と表記される三神の総称である。「住吉大神」とも言う場合があるが、この場合は住吉大社にともに祀られている「息長帶姬命」(おきながたらしひめのみこと:=神功皇后)を含めることがある(以上はウィキの「住吉三神」を参照した。]

 

○攝州、天王寺に、「一舍利法印」・「二舍利法印」といふあり。すべて、天王寺に屬したる社人・僧徒、此支配也。

 樂人は「舍利法印」の支配也。

 京都、天王寺の社人、あはせて、四十八人あり。俸綠四十石づつ也、とぞ。

 姓は、皆、和州、法隆寺知行所の地名を稱す。元來、聖德太子、法隆寺興立のとき、百濟・新羅等の舞樂をつたへ、をしへまはしめ給ふ伶人(れいじん)の子孫、後世、京都、天王寺などに移住せし故、在所の地名を稱する也。

 

○京都、天王寺、伶人、ともに、右方・左方、相(あひ)まじりて、業(なりはひ)を、つたふ。

 右方は「高麗樂(こまがく)」、左方は「唐樂(からがく)」也。

 江戶、紅葉山、伶人は右方斗(ばかり)也。故に關東に、舞樂、有(ある)ときは、京・攝の伶人、下向せざれば、舞樂は、興行、成(なり)がたき事、とぞ。

 

○淨瑠璃かたるもの、某(なにがし)少掾・大掾・某太夫などと稱する事、元來、人形、造りて、禁裏へ奉りしものに、受領號を、ゆるされけるが、はじまり也。

 其後(そののち)、「淨瑠璃」と云(いふ)者を語りて、人形にあはせて、「あやつり」もて、遊びしあひだ、おのづから、「淨瑠璃」語る者の、いきほひ、つよく、人形をつかふものは、其下にまはるやうに成(なり)たる故、いつとなく、人形遣ひの受領號を、淨瑠璃かたるものに、うばはれて、稱する事に成(なり)たる也。

 餅菓子・鏡師なども、禁裏へ奉りしちなみに、受領號、名乘(なのる)事に成(なり)たる也。

[やぶちゃん注:その通り!!!]

2024/04/23

譚 海 卷之十四 香の名十種の事 梅樹の名の事 櫻の名目の事 牡丹名目の事 菊花名目の事 榛名目の事 日本鍛冶受領の事 禁院御賄料の事 禁裏御門名目の事 甲州海道行程の事 加茂祭禮の事 本阿彌刀目利の事 京都大坂御奉行所の事 和州吉野山の事 伏見泉湧佛舍利の事 北野天滿宮別當の事 京堀川空也堂の事 京都寺社役人方内の事 京八条長講堂の事 紀州玉津島明神の事 同所若山旅宿掟の事 高野山女人參詣の事 同山由來の事

 

○香の名は十種有(あり)。「けいは」・「やかす」・「小草」・「花月」・「源氏」・「名所」・「宇治山」・「小鳥」。

 

○梅は、「六代」・「照水梅」薄紅・「寒梅」・「菔(えびら)」・「とび梅」薄紅・「大白摩耶」濃紅・「寒紅梅」・「末開紅」[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「末」の字の右に『(未)』とある。]・「豐後(ぶんご)」うす紅

[やぶちゃん注:「照水梅」枝垂れ梅の一種。

「菔」梅の一品種。花は淡紅色で大きく、桃の花に似ている。

「未開紅」梅の園芸品種。後に出る「豊後梅」の系統で中国渡来の品種とされる。花は紅色・大輪で、莟は多数つくが、開花するものは少ない。

「豐後」「豊後梅」は梅の変種。アンズとの雑種に由来するとみられ、葉・花・果実が大きい。花は半八重のものが多く、淡紅色で遅咲き。果実は径約五センチメートルの球形で黄赤色に熟し、赤褐色の斑点がある。果肉は厚く甘酸っぱく、梅干や煮梅にされる。「鶴頂梅」「肥後梅」「越中梅」の別名がある。]

 

○櫻は、「彼岸櫻」・「江戶櫻」・「鹽竃」・「山櫻」・「うば櫻」・「すいしひ[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「しひ」の右にあり、『(ふう)』とある。」は、「り」・「あさぎ」・「霧ケ谷」・「とらのを」・「ふげんぞう」。

 

○牡丹は、「高雄」・「むれ咲」・「泰花仙[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「花」の右にあり、『(白)』とある。」」・「壽の字」本紅小りん・「神代卷」紅中りん・「しかまやけ」大白ひらまあり・「姬小松」薄紅中りん・「北時雨」大りん紅・「風の薗」濃紫・「朝霧」・「洞雀亭」白大りん・「雲の林」薄紫

[やぶちゃん注:以上の条の花の解説部は二行割注型になっている箇所があるが、総て上附とした。以下も同じ。]

 

○菊は、「大白」・「黃ぶちひねり」・「ゑんをう」・「ぬれ鷺」・「大般若」・「沙金」かば色・「金目貫」小菊・「猩々菊」

 

○椿は、「三井寺」・「うんの」しぼり・「廣島」薄紅・「白ひげ」・「紀國大須賀ちゞみ」しぼり・「大坂もつかう」・「のゝせもの狂」・「元和」中紅・「德水」・「こしみの」薄色二階咲・「かけひ」・「ろくしやうとび入」・「風車」

[やぶちゃん注:「二階咲」思うに「二回咲」(二度咲き)のことではあるまいか?]

 

○京都に、日本中の鍛冶の受領をいだす鍛冶(かぢ)の家、有(あり)。敕許の者にて、世々、西洞院通竹屋町下ル所に住居す。鍛冶の受領の禮金、二百疋づつ出(いだ)す事也。日々、受領を取(とり)に來るもの、おびたゞしき事也。

 此者の家にて打(うち)たる太刀・小刀の類、「雷除(かみなりよけ)」とて、賞し、傳ふる也。其銘、十六葉の菊を打(うち)、

「雷除日本鍛冶宗匠伊賀守金這道 如ㇾ此打也」

 丹波守も兼帶也。

[やぶちゃん注:「鍛冶の受領」底本の竹内利美氏の後注に、『鍛冶師が国守名を免許されること。中世の座の伝統をうけつぎ、京都の座元の家から「××守」の官名を認許されるのである』とある。]

 

○禁裏御賄料は、三萬石。仙洞御所は、壹萬石。本院御所は五干石。其餘、臨時御入用は、皆、關東より調進也。禁裏御取締り役と云(いふ)者、壹人づつ、關東より定居(ぢやうをり)に被仰付相勤(あひつとむ)也。諸寺院・宇治・瀨田橋等の造替(つくりかへ)、御修覆等も、取締り役の掛り也。

 

○禁裏外御門は、南方に壹ケ所、北方に壹ケ所、東方に三ケ所、西方に四ケ所、都合九門。是を以て「九重」に比せらるゝと云(いふ)。所ㇾ謂(いふおころ)、下立賣(しもだちうり)・境町(さかひまち)・今出川、是を「三門」と稱して、取しまり役、掛り也。又、武家門【「寺町御門」ともいふ。】・新在家御門【「蛤御門」共云(ともいふ)。】・乾(いぬゐ)御門・中立賣・石藥師・淸和院口【「小廣池」とも云。】、是を「六門」と稱して、非藏人(ひくらうど)、かゝり也。

[やぶちゃん注:「非藏人」江戸時代、賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や、家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。]

 

○甲州街道は、京より東海道筋富士川の西通り、西河内より岩淵へ下り、十島村【此間、御關所、有(あり)。】、波木井郡、【身延山迄、かけこし。】鰍澤(かじかざは)村、富士川を渡り、東郡(ひがしごほり)筋、靑沼迄、夫より甲府・伊澤・鶴背・郡内領・江戶街道へ出(いで)、小佛峠【是、相模・武藏の堺、御關所、有。】、木曾海道[やぶちゃん注:ママ。「街道」。]なれば、下の諏訪より甲州敎來石(けうらいいし)【甲・信、境。】。是より、身延へ參詣すべし。

[やぶちゃん注:ルートの地名は以下を除き、検証しない。

「敎來石」山梨県北西端、現在の北杜市にある地名。釜無川に沿い、江戸時代は甲州街道の台原(だいがはら)・蔦木(つたき)の間にあった旧宿駅。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

○加茂祭禮は、中比より斷絕せしを、常憲院公方樣、御再興被ㇾ成、舊例に復せり。每年祭禮料として、關東より、七百石づつ、米を加茂の社司へ賜ふ。是にて「御蔭神事」上下(かみしも)、「あふひ祭」、五月五日「競馬」等まで、勤(つとめ)おこなふ事也。

[やぶちゃん注:「常憲院」徳川綱吉の諡号。]

 

○刀目利(かたなめきき)「本阿彌」の者、江戶に七軒、有(あり)。右七人の内、五年目に、壹人づつ、上京して、禁裏御寶劔の類を拭(ぬぐひ)、御用、相勤(あひつとめ)、壹ケ年づつ、在留也。

[やぶちゃん注:『刀目利「本阿彌」』底本の竹内利美氏の後注に、『本阿弥(ほんあみ)家は刀剣鑑定の名家で、始祖妙本は南北朝末期の人。その末孫は足利・豊臣・徳川の代々に仕えて、刀剣の鑑定にあたった。十一の分家が生じ、本家をあわせ、本阿弥十二家と称された』とある。]

 

○京都大坂町奉行衆は、寺社支配兼帶也。京都の役所は、二條御城西と南方橫町に有(あり)。

 大坂は、御城近所、内町に有(あり)、「御西御東」と稱す。大坂獄屋も同所にあり、牢の前とて、銀物商人、多く居(を)る所也。

 

○吉野山に實城寺櫻本坊とて、山伏の先達の寺二ケ所あり。實城寺は聖護院宮の先達、櫻本坊は醍醐三法院宮の先達也。何れも宮の峯入の時は、宿し給ふ坊にて、美麗なる座敷、有(あり)。實城寺は、南帝の皇居を其儘に殘し傳へたる座敷也。

「同所に喜藏院とて有(ある)は、日本國中の山伏の、印可、出(いだ)す寺なり。」

と、いへり。

 又、此山中に、後醍醐帝の遺臣の家筋の者、二十人、有(あり)。鄕侍(がうし)のやうにて居住し、公儀御巡見使など、登山有(ある)時は、案内を勤(つとむ)る事を役とす。

 今も、後醍醐帝の御陵、有。如意輪寺の寶庫の鍵を、二十人にて、つかさ取(どり)、右の寺の什物拜見の事、望む時は、一人、鍵を持來(もちきた)りて、藏を開(あけ)、御物(ぎよぶつ)を取出(とりいだし)て拜見さする也。御物拜見の料、鳥目百文づつ、鍵をつかさどる人に遣(つかは)す事也。

 

○京伏見、泉涌寺の舍利拜見も、燈明料とて、鳥目百文、奉納する事也。佛舍利、黃金の寶塔ありて、敕封、有(あり)。

 御卽位の後は、かならず、舍利參内と云(いふ)事ありて、住持、持參し、天覽に備(そなへ)奉れば、先帝の御封を開かれ、當今の御封を改封せらるゝ事、とぞ。

 泉涌寺、天子御代々の御陵、有(あり)。此外に、京都に般舟三昧院(はんじうざんまいゐん)といふは、禁裏の内道場とて、御法事は爰(ここ)にても行(おこなは)るゝ也。般舟院は京都今出川通、「定家(ていか)の厨司(ちゆうず)」といふ所にあり。則(すなはち)、式子内親王の住所にて、親王の御墓幷後鳥羽院御陵など、此寺に有(あり)。御法事のとき、禁裏女房、參詣の座敷も、有ㇾ之。

[やぶちゃん注:「般舟三昧院」京都市上京区般舟院前町にあった天台宗指月山般舟院の別称。現在は西圓寺(グーグル・マップ・データ)という単立寺院となっている。]

 

○北野天滿宮は、神主は、なし。別當斗(ばかり)也。別當、大勢、有(あり)、中松梅院と云(いふ)、其(それ)、勾當(こうたう)なり。

「北野別當、實子なくては、職を嗣(つぐ)事、あたはず。實子なければ、其家督、斷絕せらるゝ故、昔より、よほど、斷絕に及(および)たる別當、多し。」

と、いへり。

 

○空也堂は、京堀河たゝき町に有(あり)。正徳庵・東之坊・壽松庵・利淸庵・金光庵・德正庵・南之坊・西岸庵とて、寺中八ケ寺有。

 此中(このうち)、正德庵は住持の和尙、居往也。殘りは、皆、妻帶にて、茶筌(ちやせん)をあきなふ事を業(なりはひ)とす。八ケ寺、まはりまはりして、住持す。

 住持になるときは、妻帶をせず、一代、淸僧也。

 又、朝暮勤行(てうぼごんぎやう)の文(ぶん)は、空也上人、作り給ふ由(よし)。古雅なる文詞(ぶんし)也。寒中、「鉢たゝき」の、洛中をうたひありく詞(ことば)は、又、外の文詞也。

 勤行の體(てい)、住持壹人、伴僧貳人、此三人は僧也。此外に、うはつのぞく、四人、法衣(ほふえ)を着て、むねに鉦鼓(しやうこ)を、かけ、左右に、たち向(むかひ)て、同音に文句をくわし[やぶちゃん注:ママ。底本では、「くわ」の右に編者に拠る補正右傍注があり、『(和)』とある。]、せうこ[やぶちゃん注:ママ。]を、ならす。往持は、文句をとなふる計(ばかり)なり。伴僧貳人、手にて瓢簞をたゝき、文句を和し、終(つひ)には、互ひに、おどりいでて、ぜん後、入(いれ)ちがひ、いきほひこみて、勤行をなす。これを「歡喜踊躍念佛(かんぎゆやくねんぶつ)」と號せり。

 

○大德寺・妙心寺をはじめ、五山に、みな、行者(あんじや[やぶちゃん注:底本のルビ。])あり。僧形(そうぎやう)にて、妻帶也。寺務を司り、はなはだ、いきほひあり。法事の時は、素絹(そけん)を着する也。

 

○京都寺社役人に、「方内(はうない)」といふ者、四人ありて、東西南北を、わかち、おのおの一方の支配を司る。至つて、いきほひ有(ある)もの也。寺社見物に、方内の書翰を、もらひて、いたれば、殊に珍重して、いたる所の寺社、ねんごろに、あい[やぶちゃん注:ママ。]しらふ事也。

 

○八條の長講堂は、後白河院御陵、有(あり)。御法事の度ごとに、勅使を、つかはさるゝ也。

 

○紀州和歌浦、玉津しま明神の社、右に寶庫あり。禁裏御奉納の和歌を納置(をさめおく)所、とぞ。

[やぶちゃん注: 現在の和歌山県和歌山市和歌浦にある玉津島神社(グーグル・マップ・データ)。現在もその宝庫があるかどうかは判らないが、同神社公式サイトの『和歌三神を祀る「和歌のふるさと」』を見られたい。]

 

○同所、和歌山城下、逆旅(げきりよ)は、武家を宿さする事を、甚(はなはだ)むづかしく取扱(とりあつかふ)事也。帶刀せざる旅人をも、一宿きりにて、二宿におよぶ時は、鄰家、逆旅、轉宿する事也。米は八合を壹升とし、木賃(きちん)とまりなどの約(やく)を定(さだむ)る事也。

[やぶちゃん注:「木賃とまり」宿駅で、客の持参した食料を煮炊きする薪代(木銭・木賃)だけを受け取って宿泊させた、最も古い形式の旅宿形態。食事付きの「旅籠」(はたご)に対して言う。]

 

○高野山、女人堂(によにんだう)までは、婦人、參詣す。婦人は、こゝにて、止(とどま)り、男子斗(ばか)り、登山すれば、登山、宿坊より女人堂まで、酒食を遣はして、婦人をねぎらふ事也。高野山にて調ふる經帷子(きやうかたびら)、一領の料、三百文也。九重の、寺に、皆、あたひ、定(さだま)りて、もらひうくる事也。

[やぶちゃん注:「女人堂」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○高野山、大師の廟所[やぶちゃん注:底本には「所」の右に編者に拠る補正傍注があり。『(前)』とある。]に、萬燈堂ありて、參詣の者、亡靈のために、燈油料十二錢を納(をさむ)るときは、堂僧、油を、つぎたす。堂中の燈光、螢火の如し。堂の左に骨堂(こつだう)あり、爪・髮・遺骨を納(をさむ)る所なり。右に經堂あり、石田治部少輔三成、母の菩提の爲に造立せし、よし、額に、しるしあり。

 

2024/04/22

譚 海 卷之十四 參覲の大名江戶着日の事 朝鮮人登城日御役人通用の事 百姓町人婚禮脇差の事 大和國春日御神領の事 唐土より渡りし織物品々の事(三十七条)

[やぶちゃん注:「甲州海道」はママ。「唐土」(もろこし)「より渡りし織物品々の事」は「○」附き条だけで示した通り「三十七条」もある、本書の特異点である。但し、それらには、異国のものではない、本邦独自の織物も、多く含まれている。正直、今日、五時間近く、かかった。ちょっと、疲れたわ……。

 

○參覲(さんきん)諸大名、幷(ならびに)、遠國御役人等、江戶參着の義、公儀御精進日にても不ㇾ苦、勝手次第たるべきよし。寶永七亥の年四月被仰出候事、とぞ。

[やぶちゃん注:「寶永七亥」一七一〇年。第六代徳川家宣の治世。]

 

○朝鮮人登城日、表向(おもてむき)御役人、登城・退出とも、坂下御門、出入のよし、御定(ごぢやう)也。

[やぶちゃん注:「坂下御門」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○百姓・町人の婚禮に、脇指(わきざし)など遣(つかは)し候義、無用のよし。賓永亥のとし、五月仰渡(おほせわた)されし、よし。

 

○大和國、春日の御神領は、貳萬三千石也、此外に鹿領(しかりやう)とて五百石あり。貳萬三千石の内にて、二[やぶちゃん注:底本には編者による補正右傍注があり、『(五)』とある。]千五百石は社司十四人の領する所也。此社司の内、極﨟(きやくらふ)は、三位に敍せらるゝもの、二、三輩あり。其下に、八百八、禰宜、有(あり)、雜役を相勤(あひつとむ)るもの也。

 常陸國、鹿しま大明神にも大宮司あり。春日の社司と同姓也。現在、塙(はなわ)大和守と云(いふ)者也。

 春日社司、富田三位(さんみ)の子にて、塙へ養子に遣(つかは)したり。此大宮司の親、いさゝかの科(とが)ありて、久しく同所揖取の社内に蟄居せしが、今漸(いましばら)く、訴訟、叶(かなひ)て、鹿島へ歸住せり、と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「富田三位」春日大社の旧社家は確かに富田家であるが、詳細は不詳。]

 

○「吳郡の綾」・「蜀江の錦」とて、二品は織物の最上第一とす。すき者の「時代きれ」とて、用(もちゆ)るも、此二品にすぐるは、なし。秦の始皇の比(ころ)は、いまだ、織物もさだかならざるゆゑ、金箔を以て、紋を、おし、つくりたるを、今、「印金」といふ也。

[やぶちゃん注:以下、冒頭注で述べた通り、ここから「唐土より渡りし織物品々の事」は「○」附き条だけで、三十七条が続く。私は生地や織物には全く興味がなく、全く冥いので、総てが理解出来ている訳ではなく、疑問の名称も多々あるが、それらを「不詳」と注すると、このソリッドな部分の注が、不詳の堆積になるだけであるので、底本の注以外は、ごく一部のみを注した。悪しからず。

「吳郡の綾」「蜀江の錦」底本の竹内利美氏の後注に、『中国古代に蜀の国から産出した錦織が蜀江の錦であり、呉国から産出したのが呉郡の綾織である。ともに精巧な織物で、後世これに模した織物もつくられた』とある。]

 

○緞子(どんす)、わたりは、紋がら、麁(そ)にして、いやしく、うら・おもてに、つや、有(あり)。幅は、かね[やぶちゃん注:「曲尺(かねじやく)」。]二尺四寸迄也。京織は、もんがら、うつくしく、少し、のりけあるやう也。中(ちゆう)ものより已下は、「裏引(うらびき)」とて、のりを引(ひき)、もよう、さまざまありといへども、古來より、ありきたる「ぼたん」・「からくさ」・「菊」・「らん」也。

[やぶちゃん注:「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた以下に出る「繻子」(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出したものを指す。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。]

 

○「顯紋紗(けんもんしや)」には、ほそきを「せんしや」といふ。「けんもん」は總(さう)の地に、もん、有(あり)、「とびもん」も有(あり)、「花の丸」・「扁寺」の字等(など)あり。「總もん」は「ひしたすき」、或は、「小あふひ」・「竹のふし」・「むぎわらすぢ」・「金もんしや」・「銀もんしや」、ともに、「とびもん」也。片面、有(あり)、幅壹尺二寸より、三尺に至る。

[やぶちゃん注:「紋紗」(もんしゃ:古くは「もんじや(もんじゃ)」とも呼んだ。文様を織り出した紗)の一種。紗の地に、平織で文様を織り出したもの。「けんもんさ」「けもんさ」「けんもさ」「けんもん」とも呼ぶ。]

 

○「鹿の子纈(かのこしぼり)」は「をくゝり」、「縊(くくり)」は「めくゝり」といふ。

 

○「紗水(しやすい)かん」・「ちや羽織」等、夏の服に用ゆ。

 

○「繻珍(しちん/しゆちん)」は、もやう、こまかにして、「わり紋」とて總地、「もん物」也。「おりいれびし」・「卍字(まんじ)」・「三重たすき」・「花わちがひ」・「きつこう」・「長春唐草」・「わりびし」等を、五色の絲にて織(おり)つくる。地色(ぢいろ)、きはまりなし。いづれも、「どんす」のもようとは、ちがひ、「うけもん」也。「どんす」は、「かたもん」也。

[やぶちゃん注:「繻珍」底本の竹内利美氏の後注に、『シチン、またはシュチン。ポルトガル語のSetim、あるいは唐音七糸緞(しちんたん)の略という。瞎子地に色糸などで浮模様を織出したもの。帯地等に主に用いる』とある。]

 

○「莫臥龠(もうる)」、「もうる」は國の名也。「どんす」と「しゆちん」との二品に似たるもの也。「大もやう」・「小もやう」、有(あり)。但(ただし)、「うけもん」の間へ、「かたもん」をまぜたるもの也。五色の絲をもちて織(おり)、地(ぢ)は「しゆす」に似たり。「とびきん」を、あしらひたるを、「きんもうる」といふ。いかにも上品也。もよう、さまざま也。

[やぶちゃん注:「莫臥龠」底本の竹内利美氏の後注に、「もうる」とルビされ、『モール。莫臥児(モゴル)はインドの地名。もとモゴル産の織物から出た名という。緞子に似た厚地の浮織の織物。金糸や銀糸を緯糸に用いたものか、金モールあるいは銀モールで、後にはそれが金銀糸だけを織合せたものになった』とある。]

 

○「金欄(きんらん)」は、「やき金」・「あを金」・「こいろきん」・「かなら」・「しんちう」・「金銀らん」等也。模樣は「菊」・「ぼたん」・「梅」・「八ツ藤」・「十二の小ぼたん」・「孔雀」・「桐」・「から草」・「おほちきり」・「雲龍」・「たからづくし」・「浪の丸」・「石だゝみ」・「ほうとう」・「きんくわてう」・「水ながし」・「小桐」、その外、つくしがたし。「銀らん」も、おなじ。

 

○「雪の下」、「らんけん」に似て、地(ぢ)あひ、うすし。「とびもん」は「かたもん」也。地(ぢ)もんは、「うけもん」也。模樣は、さだかならず。凡(およそ)、「梅の折枝」・「ごとう桐」・「つくりつち」・「『せいがい』に水鳥」・「小鳥に『なり物』」・「菊から草」・「たからづくし」・「稻妻」、其外、盡(つく)しがたし。

 

○「龍紋」織色は、なし。何(いづれ)も染色也。「繻子」(しゆす)のうらを見るがごとし、きよく、つまりたり。裏・表、なし。模樣、なし。「平(ひら)けん」なり。「へいけん」とは、無地を、いふ。「りうもん」は其所(そのところ)の名也。絹の名に用(もちい)來り、京にても、よく織(おる)也。

 

○「卯花[やぶちゃん注:底本では右に編者に拠る補正傍注があり、『(印華)』とある。]布(いんくわふ)さらさ」は、「とうゐん[やぶちゃん注:底本では右に編者に拠る漢字表記『(唐音)』とある。されば、歴史的仮名遣は「たういん」が正しい。]」也。紋を印(いん)にして、布に、おす。織もののごとく、南京より渡る。「えびす國」よりも來(きた)る。日本にて洗へども、少しも、はげず、「ぶた」の油をもちて染(そむ)ると云(いふ)。「唐(から)あかね」とて、あかきは、乙切草(おとぎりさう)の汁を取(とり)て製すると、いへり。いまだ、しらず。和にては、肥前の國より來るを、よし、とす。今、なし。

[やぶちゃん注:「卯花」(✕)「印華」底本の竹内利美氏の後注に、『印花布つまり更紗(サラサ)。種々の模様を捺染した金巾』(かなきん/かねきん:細めの単糸を固く撚った糸を緻密に平織した綿織物で、金巾の中には加工や織り方によって派生したキャラコ/キャリコ、キャンブリック、シーチングという三種類の生地もある)『または絹物。インド西岸のスラタあるいはシャムなどから、渡来した織物。日本でも作られた』とある。]

 

○「堺とゝやおり」、せんしう堺に、「とゝや」といふ唐人、來(きた)り、おりものを、をしへて、おらしめし也。渡り絹よりも、すぐれたり。「とゝや」は國の名也。多(おほく)は「どんす」也。其外、「もうる」の如くなるものも、あり。「とゝや」の「いどちやわん」などいへる「めいぶつ」も、此ときより、のこりて、あり。

 

○「えぞ切地(きれぢ)」、ふとく、つまり、錦・金欄、ともに、よろし。金は「わうごん」には、あらず、日本にて「唐(から)しんちう」といふもの也。金の色、すぐれて、よろし。絞(しぼり)がら、「上ほん」にして、餘國に、およばざるところ、有(あり)。模樣は、さまざま、あれば、書(かき)つくるに、いとまあらず。

 

○紗綸(しやりん)は「どんす」に似て、地(ぢ)あひ、うすく、「つや」は、「りんず」よりも、つよし。もんがら、尤(もつと)も、よろし。いづれの曰より渡ると云(いふ)事、いまだ、しらず。白きも、あり、おほくは織色也。模樣、さまざま有(あり)。幅、かね[やぶちゃん注:「曲尺。]壹尺四五寸より、二尺四、五寸まで也。

[やぶちゃん注:「紗綸」底本の竹内利美氏の後注に、『サリン。綸子』(りんず:絹の紋織物。経緯(たてよこ)とも生糸を用い、普通、繻子(しゅす)組織(くみおり)の地織(じおり)に裏繻子(うらしゅす)で紋様を織り出す。縮緬(ちりめん)に繻子組織で紋様を出した綸子縮緬、駒撚(こまより)糸による駒綸子などもある。光沢に富む格調高い織物で、白無地は式服(白無垢)とし、色、無地染。友禅染などでは振袖・訪問着・紋付などにする)『に似た地合の薄い織物。』とある。]

 

○繻子(しゆす)は五色ともに織色也。つやあるを第一とす。南京より渡るを、ほうひして[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が、「ほ」の字の右に『(お)』とある。しかし、「おうひする」という意味が判らない。識者の御教授を乞うものである。]、「あぶうしゆす[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注は「う」の字の右に『(ら)』とある。「油繻子」で油のような光沢を指すか。]」といふ、少し、次なるを「むりやう」と云(いふ)。然れ共、一品に非ず。「むりやう」といふは、繻子に似て、別物也。能々(よくよく)、見わくべし。

 

○「光綾(ひかりあや)ぬめ」は、「りんず」の一品たるもの也。無紋にして、つや、繻子に似て、白き有(あり)、織色(をりいろ)も有(あり)、くゝり、かの、「ことう」にして、最上下、「ほん」あり、裏に、のりを引(ひき)たるは、つや、なし。

[やぶちゃん注:「りんず」底本の竹内利美氏の後注に、『綸子。紋織物の一。絹織した後、精練し厚くなめらかにし、光沢を出す。木綿糸を緯糸としたものを綿綸子という』とある。]

 

○縮緬(ちりめん)は南京を上とす。次に「おらんだ」をよしとす。朝鮮も、よし、とす。最上なる物を「やかた縮緬」と云(いひ)、ちゞみ、こまかなり。是を上品とする。「京ちりめん」も、よろし。ちゞみ、細かに織出(おりいだ)す。幅、かね壹尺二寸也。渡りは、大(おほきい)とこ、といへば、壹尺四寸も有(あり)。「たんごちりめん」は、ちゞみ、あらく、すぐれず、色、うるみあり。

 

○「ふうつ」も國の名也。地は「しゆちん」に似て、うすきものなり。地色、さまざま、ありて、多くは、「もん」は白絲也。模樣は、「しよつかう」・「わちがひ」・「きつかう」・「つるたすき」・「『せいがい』に『をし鳥』」・「龍の丸(たま)」・「雨龍」・「稻妻」・「もみぢ流し」・「れんげ」・「から草」・「ひしかう」・「はなまき」・「水に『なりもの』」・折枝(をりえだ)」也。金入(きんいり)の「ふうつ」も有(あり)。

[やぶちゃん注:「ふうつ」不詳。但し、これは「風通織」(ふうつうおり)のことではあるまいか? 二重織りの一種で、表裏に異色の糸を用い、文様の所で、糸を交換し、色の異なる同じ文様が表裏に織り出されたものを言う。]

 

○天鵞絨(びろうど)は黑を常とす。其外は、皆、「色替(いろがはり)」と云(いふ)。「紋びろうど」・「花びろうど」・「わな紋びろうど」・「皇都びろうど」、地、こまかにして、最上也。今一品、「毛びろうど」といふ有(あり)。此毛に、ながきも、短きも、有(あり)、一、二分、或は、壹寸迄も、あり。敷物にして、よし。

 

○「紋縞(もんじま)」は、「もんけん」に似て、模樣、繁(しげ)し。奧州より折出(をりだ)す和物なり。「花」・「から草」・「わり絞」、有(あり)て、縞には非ず。地あい[やぶちゃん注:ママ。]、あつく、地紋、うけ絲なる故に、絞所(しぼるところ)を、ぬひにせんがために、多くは、「こくもち」に、殘したり。武家より、「御(ぎよ)ふく」を賜るには、多く、此物也。

[やぶちゃん注:「こくもち」「石持」。紋付の生地を染める際、紋を入れる個所を、白く円形に染め抜いたもの。また、その紋付の衣服を指す。既製染めの留袖や、喪服などは、石持になっていて、客の注文に応じて定紋を描き入れる。これを「紋章上絵描き」と称する。「輪なし」の紋の場合は誂え染めにする。]

 

○「どんす」は、「ふしゆ」・「かんれいし」・「ほうわう」・「立わき」・「雲龍」・「大ひし」・「桐」・「からくさ」・「金くはてう紋」也。

[やぶちゃん注:「金くはてう紋」歴史的仮名遣が合わないが「金」の「花蝶紋」か?]

 

○「綸子(りんず)」は京渡り、共に、白し。織色は、なし。染色也。「もんがら」は、「つづきまんぢ」、或は、「折いれ稻妻」・「三重たすき」、右は地もん、「菊」・「梅」・「からはな」・「らん」等の「とびもん」有(あり)。地色、うす綠に、すきとほるを、よし、とす。南京・朝鮮より來る、尤(もつとも)、よし。

○鹿子(かのこ)は、「ひつた」・「そうかの子」・「けしかのこ」・「江戶かのこ」等、也。色は、「紅い[やぶちゃん注:ママ。]」・「紫」・「かちん染」・「あい地」、其外、色々、染(そむ)れ共(ども)、宜(よろ)しからず。「かうけつ」とて、二品、有(あり)、「かう」は、鹿子也。「けつ」は、「くゝし」也。「かの子」を「めくゝり」といふ。「くゝし」を。「ゝり」といふ。地は「りんず」・「どんす」・「ちりめん」・「しよろん」也。

[やぶちゃん注:「しよろん」漢字、想起出来ず。]

 

○「沙綾」は、「もんさや」・「むぢさや」・「とびさや」、有(あり)、「とうもん」は三尺計(ばかり)、「とふしげもん」は、壹尺計、とびたるも、有(あり)。模祿は、「ぼたん」・「からはな」・「てつせん」・「枝ぎく」、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「浪の丸(たま)」・「をなが鳥」・「『ぶどう』に『りす』」等、也。色は、何れも、染色(そめいろ)也。白くおる、紋沙綾は「きつかうびし」等、也。

[やぶちゃん注:「沙綾」底本の竹内利美氏の後注に、『サヤ。絖(ぬめ)』(生糸を用いて繻子織りにして精練した絹織物。生地が薄く、滑らかで光沢があり、日本画用の絵絹や造花などに用いられる。天正年間(一五七三年~一五九二年)に中国から京都西陣に伝来し、本邦でも織られた)『のある絹織物。稲妻・菱垣などの模様が織出してある』とある。]

 

○「八丈」は、多く島[やぶちゃん注:「縞」。]に織(おり)、無地も有(あり)。八丈島より渡る。草の葉のしるをもちて、染(そむ)る。

 此草、水引(みづひき)の如くなる草也。草の名、說、多し。何れを夫(それ)と定めがたし。夏の比(ころ)、しろく、ちひさき「はな」、さく。

「『しつ』[やぶちゃん注:湿気。]を、はらひ、『きり』[やぶちゃん注:錐。]を、とほさぬ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:所謂、「黄八丈」は、当該ウィキによれば、単子葉植物綱イネ目イネ科コブナグサ(子鮒草)属コブナグサ Arthraxon hispidus で染めるとある。ウィキの「コブナグサ」によれば、『全草を煎じて染めたものは黄八丈と呼ばれる。当地ではこの草のことをカリヤス(苅安)と呼んでいる(ただし、本来のカリヤス(Miscanthus tinctorius)はススキ属の植物であり別のものである)。そのための栽培も行われていると言う』とあった。カリヤスはイネ科ススキ属である。]

 

○咬𠺕吧(しやがたら[やぶちゃん注:底本のルビ。])は「大がひ島[やぶちゃん注:縞。]」に織(おる)。木綿に絹絲を織(おり)まじへ、ねらざるもの也。尤(もつとも)、織色・珀色・島[やぶちゃん注:縞。]の模樣は、さまざまなる故、圖に、あらはさず。尤(もつとも)、京にて織(おる)も、「渡り」に、よく似たり。「こゞめ島」といふが如し。

[やぶちゃん注:「咬𠺕吧(しやがたら)」底本の竹内利美氏の後注に、『ジャガタラ。ジャカルタの古い呼名。ここはジャガタラ縞のことで、ジャガタラ渡来の綿織物。だいたい縞(島)物であった』とある。]

 

○「紅夷縞(おらんだじま)」は、あつく、たて・橫、共(とも)にあり。茶と、こん[やぶちゃん注:「紺」色。]、「かき」・「白絲」・「もえぎ」、多く紫色のうちを、いでず。すべて、「廣東(かんとん)」と、いへるは、皆、此類也。「廣東嶋」に赤き絲にて織(おり)たる模樣、多し。是にも京織(きやうおり)、有(あり)。

 

○「かびたん[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「び」の字の右に『(ぴ)』とある。」は、「りうもん」の地あひに似て、うすし。底に、つや、有(あり)。織色(おりいろ)、有(あり)、染色も有(あり)、つよく、はねる事、なかれ。

[やぶちゃん注:「かびたん」(✕)「かぴたん」底本の竹内利美氏の後注に、『甲比丹。江戸期に長崎に駐留したオランダ商館長のことであるが、カピタンの持参した縞織物のことをもさした。今口は経に染糸、緯に白糸を用いたオボロ珀の織物をいう。なお、オランダ縞は広東(カントン)と同類と次項にあるが、カントンは広東縞・広東絹といい、広東地方から産出した縞織の絹織物の称である』とある。]

 

○「さんとめ」は、「じやがたらじま」に似たり。白地に、あかきいとにて、たて橫を織(おり)、こゝにていふ「あづきじま」とよぶ物、このすがたより、いづる。

[やぶちゃん注:「さんとめ」底本の竹内利美氏の後注に、『桟留。ポルトガル語のSao Thome、インドの=ロマンデル地方の別称。ここは桟留縞のことで、竪縞の綿織物。サントメから渡来したもの』とある。]

 

○「べんからじま」、さまざま、あり。ぢくろに、茶のしま、あかき地に、くろき嶋、茶地に、白嶋、有(あり)、地あひは、「かびたん」に似たり。

[やぶちゃん注:「べんからじま」底本の竹内利美氏の後注に、『弁柄縞。経は絹糸、緯は木綿糸の織物。オランダ人がインドから持参したもの。ベンガラはインドBengal地方の産出による名という』とある。]

 

○「小倉島」は、隨分、厚(あつく)、「もろより」の木綿絲にて、島を、おる。おほく、地いろ、「すゝ竹じま」、「かき」・「こん」・「白」、わたりものに、似たり。

[やぶちゃん注:「小倉島」底本の竹内利美氏の後注に、『小倉織。木綿の縞織物で、袴地や帯地に用いた』とある。]

 

○「縫箔(ぬひはく)」は、「地、なし。」とも云(いふ)。雲鳥(くもとり)の模樣に、さまざまのもようを、箔にて、すり、其地を、花鳥を、ぬひ、其あひだに、「くゝし染(ぞめ)」をして、「もえぎ」・「べに」・「あい」・「かちん」の「くゝしいろ」の間、ぢを、箔にて、すり、「くるり」にして、少しも、ぢに、あかぬほどに、模樣を付(つく)る。

 

○「かねきん」は、所の名也。「かねきん山」といへる山の邊(あたり)にて、織(おり)、渡る、木綿也。爰(ここ)にて、「河内山の『ねぎもめん』」と云(いふ)如し。ほそき事、絹の如し。

[やぶちゃん注:「かねきん」底本の竹内利美氏の後注に、『カナキン。木綿の堅目の薄い織物。ポルトガル語のCanequimによる』とある。]

 

○「越後ちゞみ」は麻織(あさおり)也。「絹ちゞみ」に、おとらず、ほそし。「ゆきさらし」とて、冬、野山に、ひろげ、其上に、雪、降(ふり)つみたるを、とくる迄、置(おく)也。

 

○「京羽二重(きやうはぶたへ)」は、日本絹の第一の織物。迚(とて)も、是には、まさらず。「絲め」、極めて、さいみつにして、「こぶし」もなく、模樣を染(そむ)る。外(ほか)の絹の及(およば)ぬ事也。

 

○「奧縞」は、すべて紺縞也。「地こん」に、茶絲ある「いと」にて、立島(たてじま)をおり、「らふ」[やぶちゃん注:「蠟」。]を、ひきかため、うちつめたるもの也。

 

譚 海 卷之十四 諸國大名武器海運相州浦賀御番所手形の事 御代官納米の事 駕籠願の事 大刑の者の妻子の事 訴狀裏書等の事 公儀御役所御休日の事 國々御構者の地名事 萬石以下領所罪人の事 猿樂配當米の事 歲暮御禮申上候町人獻上品の事 道中御傳馬役の事 二挺立三挺立・船幷町駕事 出居衆の事 本馬輕尻等江戶出立駄賃の事 大赦行る事

○西國・四國・奥州大名等、在所、或は、大坂表へ、武器の類、船つみにいたし登(のぼ)せ候時は、相州浦賀御番所にて、改(あらため)を請(うけ)、登せ候事也。其大名より、兼て、御老中へ申達、有ㇾ之、

「拙者家來、何がし印形にて、此末(このすゑ)、浦賀御番所通用致させ申度(まうしたき)。」

段、御願、有(あり)。印鑑、差出有ㇾ之候へば、右印鑑、御老中より、浦賀奉行所ヘ、御渡しなされ、御老中より、印鑑・御書付、御添(おんそへ)、被仰渡有ㇾ之。

 其(その)已後、右印鑑を以て、通用致(いたす)事也。

 其船積(ふなづみ)、書面の覺(おぼえ)は、

大坂何町誰船爲積登申、武器の事、

一、鑓壹本

  頭書壹口 數壹本 頭書とは一と言事也。

  一つと書(かく)所二つあれば、頭書貳口

  と書(かく)事也。

右は誰(たれ)家中、武器荷物、自江戶大坂迄、積爲ㇾ登申候。浦賀御番所無相違御通被ㇾ成可ㇾ被ㇾ下候。右武器に付、自今已後、出入も御座候はば、私可申譯候。爲後日價仍(よつ)て如ㇾ件。

  年號支干[やぶちゃん注:「干支」の誤記。]月日

                 誰内 留主居名判

相模國浦賀

 御番所

  御番衆中

 

○御代官所、納米口米(をさめまいくちまい)は、上方、御物成(おものなり)、伊勢・美濃までは、壹石に付、三升づつ、三河より關東迄は、三斗五升入(いり)壹俵に付、壹升づつ、口永錢(くちえいせん)は、壹貫文に付、三文づつの、よし。奥州は、御物成、壹石に付、口米三升づつの、よし。

[やぶちゃん注:「納米口米」通行税の一種。近世、諸国の年貢米が神領などを通過する際、運送船から取った金。

「御物成」江戸時代の年貢。「本途物成」(ほんとものなり:田畑に課せられた本年貢)と「小物成」(こものなり:正税である「本途物成」以外に山野・湖沼の用益などに課した雑税)とがあったが、特に「本途物成」を指す。

「口永錢」「口永」とも言う。江戸時代、金納の貢租に附加された銭、又は、銀のこと。本租永一貫文に対して三十文を定率とした。銀納の場合を「口銀」(くちぎん)、銭納の場合を「口銭」(くちせん)と称した。]

 

○勤仕(ごんし)の者、病身に付(つき)、駕籠勤(かごづとめ)相願(あひねがひ)候者、月限(つきかぎり)に御免あるものの、よし。

 

○大刑に處せられ候ものの子供は、死罪のよし。

 但(ただし)、十五歲已前にて、父の惡事にたづさはり申さねば、親類へ、十五歲に成(なる)迄は御預け有ㇾ之、其後、遠島、仰付らるる由也。

 其内、出家願(しゆつけねがひ)に致(いたし)候へば、遠島に處せられざるものの由(よし)也。

 又、他家へ養子に遣(つかは)したる子どもは、事の子細によりて、御構(おかまひ)なき事も、有ㇾ之。

 大刑の者の妻・娘などは、御構無ㇾ之事も有(あり)。子細によりて、奴(やつこ)に仰付らるゝ事もあり、とぞ。

[やぶちゃん注:「奴」これは、前の「妻・娘」を受けた附記と見て、江戸時代の身分刑の一つで、重罪人の妻子や関所破りをした女などを捕らえて籍を削って牢に入れるものの、希望者には、その女を与えて「婢」(ひ:はしため)とした者のことを言っていると読む。

 なお、以下の二条は、底本では全体が一字下げで、それぞれ二行目以降はさらに、二字下げになっているが、これは二条ともに「訴狀裏書等の事」に相当するものであり、字下げの意味は不明である。国立国会図書館本では、一行目は行頭から始まり、二行目以降は一字下げで、これは訴状をそのまま転写したことを示す組版であって、違和感がない。なお、ブラウザでは不具合が生じるので、字下げはカットした。二条目は「○」をカットして、前に並べてもいいが、今までにこのようなものはなかったので、独立した形で、示した。但し、条の間の一行空けは、なし、とした。

 

○一、訴訟裏判取揃相手へ渡候はば、請取候といふ判形、取(とり)て、相手、差(さす)月に不參候はば、公事は、先(まづ)さし置、不參の科(とが)、手錠也。

○一、裏判付候處、和談にて濟(すみ)候へば、相手は出るに不ㇾ及。付(つき)候者計(ばかり)、初判へ訴へ、評定所へ出(いづ)る。評定所より「濟口證文(すみくちしようもん)」出(いづ)る。段々、判(わ)けしに、𢌞濟(まはしすま)し、初判へ上り、雙方、於評定所勝劣裁許(さいきよ)相濟(あひすみ)、返答書、遣合(やりあひ)候て、出(いで)候處、劣(おとり)候もの、順に、印闕に𢌞る事也。

[やぶちゃん注:「印闕」「缺印」か。江戸時代の訴訟用語で、幕府の評定公事の「目安」(訴状)の裏書に必要である評定所一座(寺社・町・公事方勘定奉行)全員の加印があるものと、不服あって、ある奉行の印が押されていないもののことか。]

 

○「正月七日・十六日、『御休日』とて、出仕せぬは、御家人に『はしたなき事』と覺え候間(あひだ)、やはり、登城可ㇾ仕(つかまつるべき)や。」

と御伺(おうかがひ)有(あり)しに、

「古來より致し來り申(まうす)事なれば、其通り、休日に致(いたす)べき。」

よし、仰出(おほせいだ)されし、となり。

 三月朔日・五日朔日、節句近きにより、登城、なし。

 

○公儀より御構(おかまひ)の道中、東海道・中仙道・甲州海道・奧州海道・日光海道也。

[やぶちゃん注:「御構」江戸時代の刑罰の一つ。特定場所(御構之地・御構場等)への立ち入りを禁ずる刑で、ここは、その通行禁止とされた街道であろう。]

 

○萬石已下の領所にて罪あるものは、自分として其所(そこ)にて仕置申付(まうしつく)る事はならず、公儀の御仕置の由。

 

○猿樂配當米は、壹ケ年、高、三萬六千石也。壹萬石にて、三石づつ、割合也。御法事施行米は三百俵也。

 

○歲暮御禮申上候御用聞(ごようきき)の分、後藤庄三郞、紗綾三卷、猷上。庄三郞世悴(せがれ)は、麻上下二具。

 銀座年寄は紅糸壹斤。銀座總中は銀子拾貳枚。銀役五人は銀子五枚。

 大黑屋長左衞門は紅糸二斤。

 御爲替方(おんかはせかた)の者四人は綿十把。

 箔座の者は扇子壹本。

 年頭には、御爲替の者、金ちりめん五反。朱座の者、朱百兩。此外、獻上は、歲暮におなじ事、とぞ。

[やぶちゃん注:「後藤庄三郞」初代(?~寛永二(一六二五)年)は江戸初期の江戸幕府の金座主宰者。基は橋本姓で遠江出身。天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛徳乗の門人。文禄二(一五九三)年に徳川家康の要請で金銀御用のため、後藤家名代として関東に下ることとなっていた徳乗の弟七良兵衛が病気であったため、代わって庄三郎が名代を勤めることになり、後藤家の養子として一族に加えられ、その時から庄三郎光次(みつつぐ)と名乗った。光次は同四年(一説では翌年)、本邦最初の鋳造小判である「武蔵墨書小判」を、関八州の領国向け通用のため、江戸で初めて鋳した。次いで、小額金貨である短冊型の一分金試作にとりかかり、小判についても、広く頻繁に通用出来る「極印打(ごくいんう)ち」に改め、慶長五(一六〇〇)年に、量目・品位とも、一定な、所謂、「慶長小判」・「一分判」を大量に鋳造・発行させた。翌年には、末吉勘兵衛とともに「銀座」を設立、徳川氏の金銀貨を全国貨幣として流通させるため、指導性を発揮した。また、光次は、家康の厚い信任を得て、その側近の一人として、幕府財政にも深く関わり、「朱印状」の発給や、外交交渉にも、他の重臣とともに関与するなどした。「大坂夏の陣」(慶長二〇(一六一五)年)の後は、眼病を得て、隠居し、庄右衛門と称した。 金座主宰者としての職は、その後も庄三郎家が代々継承したが、金貨への極印は幕末まで初代の「光次」名で打たれた。但し、第十一代光包(みつかね)の時、金包方に不正が発覚し、文化七(一八一〇)年、伊豆三宅島に流罪となって、二百年余続いた同家は絶家となった(主文は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大黑屋長左衞門」ウィキの「大黒常是」(だいこくじょうぜ)によれば、「大黒常是」は、近世の「銀座」の「吹所」(ふきしょ)で「極印(ごくいん)打ち」を『担当していた常是役所の長として』、『代々世襲の家職に与えられた名称である』とあり、慶長六(一六〇一)年、『徳川家康が和泉堺の銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛に大黒常是を名乗らせたのが始まりであった。常是という名称は豊臣秀吉により堺の南鐐座の銀細工師に与えられたものであった』。細かくはそちらを見られたいが、『京都銀座は湯浅作兵衛の長男である大黒作右衛門、江戸京橋銀座は次男である大黒長左衛門が銀改役となり以後世襲制とされた。寛政』一二(一八〇〇)『年には』、『江戸の八代目長左衛門常房が家職放免となり、銀座機能の江戸蛎殻町への集約移転に伴い、京都の十代目作右衛門常明が罷下りを命ぜられ』、『蛎殻町銀座の御用を務めることとなった』とあり、そこにある「大黒作兵衛常是家」の系図を見ると、「長左衛門」の代々が判る。

「箔座」本邦で金箔の歴史において実際に存在した金銀箔類の統制機関。]

 

○道中、御傳馬役、上(かみ)十五日、南侍馬町にて相勤(あひつとめ)、下十五日は、大傳馬町にて相勤(あひつとむ)る也。

 

○貳丁立、三丁立等の船、御停止は、正德三年なり。屋形船の數は百艘に限(かぎり)候御定(ごぢやう)の由、町駕籠の数は三百丁に限候御定の、よし。

[やぶちゃん注:「貳丁立」「二挺立」。二挺の櫓(ろ)をつけて漕ぐ和船の総称。 江戸時代、吉原通いに使用された「猪牙船」(ちょきぶね)や日除船は、その代表的なもの。

「三丁立」「三挺立」。江戸市中の茶船の一種。櫓三挺を立てて、「猪牙舟」より、やや大型の茶船の俗称。ここにある通り、正徳三(一七一三)年に「二挺立」とともに禁止された。]

 

○無商賣の物のかたに「出店衆(でみせしゆ)」と申(まうす)者、差置(さしおき)候事は御制禁なり。何にても商賣致し候者のかたに、「出店衆」は御構(おかまひ)なきよし也。「人宿組合(ひとやどくみあひ)」と申者も出來候。此方(このはう)、取逃(とりにげ)・訣落(かけおち)等の、益(えき)にも相(あひ)ならざる故、人宿、御停止(ごちやうじ)にて、古來の通(とほり)、何者にかぎらず、慥成(たしかなる)請人(うけにん)、有ㇾ之(これある)奉公人、召抱(めしかかへ)候やう、正德三年、御觸(おふれ)のよし也。

[やぶちゃん注:「出店衆」標題に出る「出居」と同じで「出居衆(でゐしゆ)」のこと。近世、日傭取(ひようとり)を営んだり、武家奉公や商用などの出稼ぎをするため、町方で部屋借りをして暮らした者たちを指す。

「人宿組合」使用人の周旋をする商売屋の組合。「口入れ宿」「人置き」などとも言った。]

 

○江戶より品川・内藤宿・板橋・千住、右四ケ所へ、日本橋より本馬壹疋に付(つき)、駄賃九十四文づつ、輕尻(からじり)は、本荷駄賃の三分一也。人足は、本荷半駄賃也。

[やぶちゃん注:「輕尻」「からしりうま」「からしり」とも呼んだ、江戸時代に宿駅で旅人を乗せるのに使われた駄馬を指す。人を乗せる場合は手荷物を五貫目(十八・八キログラム)まで、人を乗せない場合は、本馬(ほんま)の半分に当たる二十貫目まで荷物を積むことが出来た。]

 

○將軍宣下の御祝儀には、大赦取行(とりおこなひ)候に付(つき)、諸大名領分・百姓等に至るまで、公儀へ御伺(おうかがひ)、有ㇾ之、罪人は勿論、自分に罪科(つみとが)申付(まうしつく)るに至(いたる)者も、差免(さしゆるし)候て、仕置に相滯(あひとどこほる)筋(すぢ)無ㇾ之分は、其品(そのしな)により、相應に赦免、又は、歸參等の義も、主人、心次第に宥免(いうめん)可ㇾ致よし、被仰渡有ㇾ之事也。

 

譚 海 卷之十四 囚獄罪人月代そり髮ゆふ日の事 醬油の事 公事訴訟人死去の時の事 公事出入に付人を預る次第の事 御裏書拜見文言書法の事 夫妻離緣狀延引の時御定めの事 公儀より大名へ御預け者の時の事 武士途中慮外者にあひたりし時の事 綿打弓價の事 沙糖價の事 ほふれい綿價の事 犬鑓の事 戰場にて首討取時の事 穢多團左衞門支配の事 金座の事

○江戶牢獄の罪人、七月十三日・十二月十三日、一年兩度、月代(さかやき)を剃(そら)せらるゝ。

 江戶中、髮結商賣のもの、役にて牢屋へ行(ゆき)てする事也。髮結、六十人づつ罷出(まかりいで)、一人にて、二人づつ、月代、そる事也。

 

○醬油一樽は八升入(いり)也。樽代を引(ひき)て、正味、七升五合あり。みそ一樽は目形(めかた)、十九貫目也。是も、樽代を、壹貫目、引(ひき)て、正味、十八貫目ある事也。

[やぶちゃん注:「十九貫目」七十一・二五〇キログラム。

「十九貫目」六十七・五〇〇キログラム。]

 

 ○公事訴訟等にて、町所へ預置(あづかりおか)れたる者、又は、借金の出入等、不相濟内に死去せし人は、公儀へ死去のだん、御屆申上(おとどけまうしあげ)、御檢使を請(うけ)て後、葬送する事也。御屆け不申上御檢使不ㇾ濟亡者は、寺にて葬禮を行(おこなは)ざる法也。

 

○請出人(うけだしにん)、事有(あり)て、其人を家主へ預(あづけ)る時、「預る」とは、いはぬ事也。「預る」とは、公儀の御詞(おことば)にて、私(わたくし)には成(なし)がたき事也。

「其元(そこもと)樣、御店内、誰(たれの)事、何々の出入(でいり)に付(つき)、御屈け申候。爲ㇾ念書付可ㇾ被ㇾ下(ねんを、なし、かきつけ、くださるべし)。」

と可ㇾ申事也。

 家主、答(こたへ)に、

「まづ、當人を召(めし)よせ、得(とく)と承合(うけあひ)候上(うへ)、書付、出(いだ)し可ㇾ申。明日(みやうにち)御越可ㇾ有ㇾ之。」

と申さば、明日、又、參るべし。

 其内(そのうち)、家主、取扱、内濟(ないさい)にせば、よし。さもなくば、書付を とり、名主方へ參(まゐり)、

「御支配の家主、誰(たれの)店(たな)、何がし、出入御座候に付、家主より、書付を申請(まふしうけ)候間、御屆申候。」

と、いふべし。名主、

「庭帳(にはちやう)に、しるし、御念入候義(おんねんいりにさふらふぎ)。」

と答ふ。

 其後、公儀へ御願申べし。

 家主、書付、文言(ぶんげん)。

「拙者店誰事 其元何々の事 御座候に付 御屆なされ、致承知候」

と書(かくベし。

 此外、吟味・詮議・仕置などいう[やぶちゃん注:ママ。]詞も、公儀御詞にて、下(しも)の人の、私にいふべき事ならずと、知るべし。

[やぶちゃん注:「庭帳」ここは「人別帳」の意。]

 

 ○御裏書(おんうらがき)拜見、家主、文言。

「私店(わたくしだな)何某(なにがし) 何(なんの)出入(でいり)に付(つき) 來(きた)る何日の御裏書、慥(たしかに)奉拜見候 仍而如ㇾ件(よつてくだんのごとし)

               家主 何某在判

  年號月日

   誰 殿

 扨、御裏書をみせて持歸(もちかへ)り、當日、御奉行所へ差上(さしあぐ)るなり。貸金、出入(でいり)ならば、御裏書を、濟切(すみきる)まで、大切に所持する事也。

 

○「夫婦離別の上、早速、離緣狀を指越(さしこさ)ば、よし。萬一、延引に及(およんで)で、其間に、夫(をつと)、既に後妻を入(いれ)たらば、夫、「まけ」也。下々(しもじもは、兩人の妻なき故(ゆゑ)也。又、離緣狀延引の内は、妻方(つまがた)の扶持・小遣を贈るべし。おくらざれば、又、夫の「まけ」也。又、持參金あらば、離緣狀、取(とる)の後(のち)、さいそくの上、返さずば、公訴に及ぶべし。かへさずば、不ㇾ叶(かなはざる)事。)

と、人の語りぬ。

 

○公儀より大名へ御預け者ある時、請取(うけとり)に出(いづ)る役人、申上(まうしあぐ)べきは、

「途中にて、狼籍、御座候はば、如何(いかに)取(とり)はからひ可ㇾ申哉(や)。」

と伺ふべし。

 其時は、公儀より、

「其方共(そのはうども)、勝手次第。」

と仰渡(おほせわた)され、有(ある)べし。

「是は、若(もし)、狼藉者、召人(めしうど)、奪取(うばひとら)んなどする事ある時は、打捨(うちすて)たり共(とも)、くるしからざるよし、古禮也。」

と、人のかたりぬ。

 

○武家、途中にて、慮外者に、あひ、止事(やむこと)を得ず切殺(きりころ)しぬるときは、とゞめをさゝぬ、古禮也。

 又、「かたきうち」は、とゞめをさす事、古禮也。死人の「かしら」のかたに居(をり)て、とゞめを、さすべし。是、古禮也、とぞ。

 

○綿打弓(わたうちゆみ)料(れう)、銀十三匁五分。槌(つち)は、貳匁六分。弦は、五匁五、六分より、壹匁七八分まで也。

[やぶちゃん注:「綿打弓」繰(く)り綿(わた)を柔らかくするために打ち叩く道具。形状が、中国の弾弓(はじきゆみ)に似ていることによる名称。「わたゆみ」「わたうち」とも呼ぶ。個人ブログ「着物のよろず 針箱」の「草綿一覧―木綿の生地ができるまで 2」の二枚の画像(東京国立博物館資料画像)の下方の図を参照されたい。]

 

○雪大白砂糖(ゆきだいしろさとう)、銀百廿五六匁。出島は百七匁。黑砂糖は、十五樽ほど、目形(めかた)二百六十貫目にて廿五匁程、是は寬政三年春の相場也。

[やぶちゃん注:「二百六十貫目」九百七十五キログラム。

「寬政三年」一七九一年。]

 

○「ほうれい綿」は、壹駄、貳十七貫、九百匁也。十駄、貳百七十九貫目也。寬政三年より、關東、豐作に付(つき)、九十七兩の相場に、三年己前迄は、拾駄にて貳百五十兩ぐらひ、せし事也。

[やぶちゃん注:「ほうれい綿」「豐麗綿」か。上質の美しい綿。

「十七貫」六十三・七五〇キログラム。

「貳百七十九貫目」約一・〇四六トン。]

 

○「犬鑓(いぬやり)」とは、馬上の鑓・「塀こし」・「垣越」・「溝越」などの鑓を、誠の「手がら」の如く高言するを、似せもの、おほきゆゑ、「犬鑓」といふ也。敵と對して、あはせたる鑓の外は、手柄にならぬ事、とぞ。

[やぶちゃん注:「犬鑓」「犬」は卑しめて言う語で、 敵が不意に出て、槍で突くこと。また、柵・垣根、又は、溝を越えようとする相手を突くこと、槍を投げつけることなどを言うこともあり、いずれも不名誉な行為とされた。

「似せもの」「贋物」(にせもの)。]

 

○戰場にて、首、あまた打取(うちとる)時は、邪魔に成(なる)故、耳・はな斗(ばかり)を切(きり)て證據(しようこ)に、とゞむる事也。尤(もつとも)證人なくては、あしし。耳は、鬢(びん)の毛を付(つけ)て、そぎ、鼻は、髭を付て、そぐ也。何れも鎧の引合(ひきあひ)に入(はい)る事也。

[やぶちゃん注:「鎧の引合」鎧の胴の右側の合わせ目を言う。]

 

○穢多(ゑた)、團左衞門支配は、四十餘、有(あり)。其内に藍屋壺立といふ物あり。是は無地の紺染(こんぞめ)ばかりを業(なりあひ)とする染物やの事也。

 又、世間に、非人にもあらずして、絹布類を着し、袖乞(そでこひ)をなして、渡世する一種、有(あり)。此もの、「こうむれ」と號す。文字には「乞胸」と書(かく)事也。此類も穢多の支配なり。

「國初よりの『御定書(おさだめがき)』には、穢多の支配のもの、種々の家業をなすもの有(あり)、占なひを業とするものも、穢多の支配也。右の御書付の内に乘せられたり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「團左衞門」その他は、先行する「譚海 卷之二 江戶非人・穢多公事に及たる事」の私の注を参照されたい。

 

○金座小判・小粒等、製するもの、ごくいん打候もの、共に後藤庄三郞長屋に住居し、或は、他所にも住居する有(あり)。是は「座人」と稱して、小判を製するかたに、國初より仰付られあるものにて、庄三郞支配にて、庄三郞家來には、あらず。庄三郞家來は、家老初め、別にあり。

2024/04/21

譚 海 卷之十四 出雲國造幷かづら姬の事 正月十一日御連歌の事 幸若太夫の事 芝增上寺行者の事 東叡山坊官諸大夫執頭の事 諸社神主祭禮の節乘物の事 神田聖堂學生の事 江戶天文生の事

[やぶちゃん注:「かづら姬」はママ。]

 

○出雲國造(いづものくにのみやつこ)、京都の「かつら姬」、每年正月、關東へ下向、御守札獻上、御目見得仕る也。「かつら姬」は、藝者をも業(なりはひ)とす。

[やぶちゃん注:「出雲國造」出雲大社の神官千家を指す。

「かつら姬」底本の竹内利美氏の後注に、『京都の桂女。桂の里に住む巫女の一種で、年賀参上の例があったのである』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」の「桂女(かつらめ)」によれば、『山城国葛野郡桂の里(現在の京都市西京区桂一帯)に住んだ女性のこと。その多くは桂の里特産の飴や桂川でとれたアユなどを京の町に売りに出たが』、『そのとき』、『頭に白布を巻きつけるのを常とし』、『それを』「桂包み」『と称したため』、『この呼称が生れた。狭義には婚礼』・『出産』・『祈祷などの際』、『巫女のような仕事をした桂の里の女性をさす。もとは御香宮(ごこうのみや)に属して石清水八幡宮にも仕えた巫女に由来する。ここの名主は明治まで女系相続を守った。なお現在では』、『時代祭の行列にその扮装が見られるだけとなっている』とあった。]

 

○正月十一日、御連歌會衆、國初より、十一人、極(きま)りて、出勤する也。當日、御目見得終(をはり)て、御料理下され、時服、拜領、定例也。

 御坊主衆、寺町三知(てらまちかずとも)といふ者、和歌の事に好(すき)、御連歌の出席相願候て、御咎(おんとが)蒙り、御城太鼓御役、相勤(あひつとむ)る事に黜(しりぞけ)られたり。

[やぶちゃん注:「寺町三知」(?~宝暦一二(一七六二)年)は幕府表坊主で歌人。号は新柳亭・言満。通称は百庵・蜑子。]

 

○越前國、幸若太夫、關東御目見得の序(ついで)、其家の傳來の曲、一番、御前にて申上(まうしあぐ)る、定例也。逗留中、「幸若」の曲、聽聞所望すれば、聞(きか)るゝ也。請人(うけにん)、麻上下ならでは、うたひて聞せぬ也。

[やぶちゃん注:「越前國、幸若太夫」底本の竹内利美氏の後注に、『室町期に挑井幸若丸直詮がはじめた舞曲。越前にその家元が近世残り、将軍家へ年頭参向する例であった』とある。]

 

○芝、增上寺に行者(あんじや[やぶちゃん注:底本には珍しい原本のルビである。])と云(いふ)者、有(あり)。僧形にて、妻帶にして、御靈屋御用(おたまやごよう)等相勤(あひつとむ)る也。服は素けん・袴(はかま)也。公儀御法事有ㇾ之節、諸大名御靈屋拜禮の節は、此行者、御香爐の火等、取扱ふ故、諸侯よりも附屆(つけとどけ)の目錄、給はり、富有(ふいう)に暮すなり。

 

○東叡山に坊官・諸太夫等ありて、一寺の事を管領す。前(さきの)大僧正は、法務の事ばかり領する故、論議等の題を命ずる故、山にては「探題僧正」と號す。只、壹人なり。權僧正は、二、三人、四、五人におよべり。其(それ)、「行執頭」と申(まうす)二人、有(あり)て、公儀の事をはじめ、天台諸末寺に至る迄、日本の寺令(じれい)を掌る事也。

[やぶちゃん注:「行執頭」標題から推すに、読みは「ぎやうしつとう」であろう。]

 

○赤坂山王・神田明神神主、祭禮の節、手輿(てごし)に乘成(のるなり)。本所龜井戶天神の社僧ばかりは、祭禮の節、車に乘(のる)なり。

 是は、

「往昔、神主の先祖、筑紫宰府の宮[やぶちゃん注:太宰府天満宮。]に居(をり)たる者にて、其什物を奪取(うばひとり)て江戶へ逃來(にげきた)り、今の社を建立せし故、宰府の舊物(きうもつ)は、多く、龜井戶に有(あり)、車も、其比(そのころ)、取來(とりきた)りて乘たりし故、例に成(なり)て、かくある事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:何だか、理由が納得出来んのだが?]

 

○神田聖堂學生(がくしやう)は、公儀より定(さだめ)られたる所、十人也。一人扶持づつ給はり、林家へ屬せられし故、學生の扶持も林家へ給はる也。林家にて十人學生の内、四、五人を存して、春秋、祭禮の役につかふこと也。學生の外に、學頭(がくとう)といふもの有(あり)。是は、人數(にんず)、定らず。學生は、聖堂住居(すまひ)、他(ほか)、學頭は、住居、便宜にまかす。

[やぶちゃん注:「神田聖堂」寛政二(一七九〇)年、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設である「昌平坂学問所」。「昌平黌」(しょうへいこう)とも呼ぶ。]

 

○江戶天文生(てんもんしやう)は、京、土御門殿に屬する也。曆面(こよみおもて)は關東にて、とゝのへ、下段の文を、土御門殿にて記(しるせ)らるゝ也。

譚 海 卷之十四 京都五山長老對馬御用相勤る事 奥州諸侯往來跡おさへの諸侯の事 兩本願寺の事 諸侯關東へ御機嫌書狀御返翰の事

○國初より、京都五山の長老、一人づつ、對馬へ相詰(あひつめ)、三年づつ逗留して、朝鮮人御用相勤る事也。

 三年の期に及べば、交代の長老一人、先(まづ)、關東へ下向し、獨禮(どくれい)御目見得仕(つかまつり)、右御用、仰付られ、時服、拜領ありて、翌年夏、京都より對馬へ發足する也。尤(もつとも)、勤役中、公儀より、御あてがひ、年々、百石づつ給(たまは)り、御用、相濟(あひすみ)、歸京の後も、長老、生涯は、百石づつ被ㇾ下事なり。

 對馬勤役中は、宗(そう)氏よりも「寒暑見舞」として、朝鮮人參一斤づつ、送ることなり。

 扨、勤方は、朝鮮より宗對馬守殿へ、書翰、來れば、そのまゝ、長老、受取、開封して、其次第を和語に譯し、江戶表へ注進申上、宗家の家司へも、用の趣、長老より申渡す事なり。

 是は、室町家の時、五山長老、書翰の役を仰付られしより、例になりて、今は對州の目附を兼て相勤る事なり。されば、五山長老は譯學なくては、ならぬ事に成(なり)てあり。

 五山長老、關東へ罷下(まかりくだ)る時、先(まづ)、其寺の和尙、形(かた)に成(なり)て下る事也。四條建仁寺にて和尙位(ゐ)に成(なる)時は、開山千光國師、宗朝より傳來の袈裟を懸(かけ)て、一日の事を執行(とりおこな)ふことなり。

 然るに、いつの比の事にや、ある長老、和尙位に成(なり)て、此「けさ」を、かけて、事を取行ひ、方丈へ歸りて、其儘、此袈裟を切賣にして、諸所へ分散せり。元より、名物の切(きれ)の事なれば、茶入の袋等に、京・大坂豪富の者、殘らず、買取(かひとり)たり。後、此事、露顯して公裁(こうさい)をへ、嚴敷(きびしく)御穿鑿ありければ、切分(きりわけ)散(ちる)の品、一色(いつしき)も紛失せず、返り集りたり。

 今時(こんじ)は、其きれぎれを、つゞり合(あは)せて、元のごとく袈裟となし、着する事と、いへり。

[やぶちゃん注:「京都五山」底本の竹内利美氏の後注に、『南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の六カ寺。南禅寺は五山の上首で別格である』とある。]

 

○奧羽御譜代大名衆、諸侯の「おさへ」、有(あり)。

 仙臺侯押へは會津殿也。

 佐竹侯、押(おさへ)は丹羽侯也。

 仙臺參觀の發足ありて後、倉津侯、いつも國元を出府なり。

 丹羽侯も又、是に同じ。

 依(よつ)て、兩家、發足の日限(にちげん)有(ある)は、會津・丹羽兩家へ、其届、有(ある)事、とぞ。

[やぶちゃん注:「おさへ」底本の竹内利美氏の後注に、『仙台侯は伊達家、会津段は会津若松松平家、佐竹侯は秋田藩主佐竹家、丹羽侯は二本松藩主丹羽家である。外様大名を譜代系大名が看視したのである』とある。]

 

○京都兩本願寺僧正、關東下向の時は、定りて御味方申上る誓詞を奉る事なり。尤(もつとも)、道中往來、十萬石大名の格成(なる)よし。兩本願寺より、時々、公儀へ、時の獻上物、たえず。其寺より、飛脚の者、十人づつ、常に道中に往來するに、かまへあれば、江戶のやうす、一時に、早く京都へ知るゝは、兩本願寺ほど便成(たよりなる)は、なき事、とぞ。

 

○兩本願寺末寺、大抵、關東は、奧羽の末に至るまで、東本願寺派の寺、多し。西は其三ケ一(さんがいち)也。京都より西は、さつまのはてに至る迄、西本願寺派のみ、多し。東派は十に一也。

 

○在國の大名より、使者を以て、年始・寒・暑に、御機嫌伺の書翰を、關東御老中迄、差上(さしあぐ)る。其返言、又、老中より遣さるゝ。其時々、兩本願寺使僧も、諸侯、同前に書翰奉り。相勤(あひつとむ)る也。

 抑、返翰御右筆衆、調(しらべ)終りて、一々、一同に、諸侯の使者、御催促あり。城中「そてつの間」にて、其使者へ相渡さるゝ事なり。

 當日、諸藩の使者、相詰(あひつめ)たる時、先(まづ)、御右筆衆、出席、上座より、列席の順をしらべ、御返翰も席順の如く違(たがひ)なきやうに重ね置(おき)て、其後、當番の御老中、御一人、出席有(あり)。使者を、一人づつ、呼(よび)給へば、其名に隨(したがひ)て、使者、膝行して罷出(まかりいづ)る。

 其時、右筆衆、御老中の御後(おんうしろ)に居(をり)て、一通づつ、返翰を指出(さしいだ)す。

 御老中、後手(うしろで)にて、受取(うけとり)、取直し、其使者へ相渡さるゝ。

 順々、相終(あひをはり)て後、兩本願寺使者、呼出(よびいだ)さるゝ時、兩使僧、左右より、一同に罷出、膝行、出席、兩僧ともに、遲速なく、一同樣(いつどうやう)に坐する事にて、少しも、席のすゝみ、しりぞきあれば、やかましき事也。

 上より、御取扱も、甲乙なく、せらるゝ事にて、本願寺の時は、老中、左右の手を、後(うしろ)へ、まはさるる。右筆、兩寺の返翰を、左右の手に渡し申す。

 則、老中、臂(ひぢ)を、めぐらし、左右の手に返書を持(もち)て、兩僧ヘ、一時に渡さるゝ事也。

 かやうの事(こと)故、東西、返翰相渡さるゝに、間違(まちがひ)なきやうに、兼て、右筆衆、用意有(ある)事、とぞ。

 

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