譚 海 作者津村津村正恭淙庵の後書・柳塘主人「序」/ 「譚海」~九年四ヶ月を経て全電子化注終了
[やぶちゃん注:「譚海」の電子化注は、今までのプロジェクトでは、最も時間がかかった。始動は二〇一五年二月九日であった。実に九年四ヶ月を費やした。感慨無量――
以下は、まず、漢文のままに電子化し(返り点のみが附されてある)、後に推定訓読を示す。
なお、底本には、「目錄」が冒頭にあるが、それは総ての投稿で標題にしたものであり、カテゴリ「譚海」で全標題が一目で順に見えるので、屋上屋はせぬこととする。]
予壯歲有二志于四方一而塵鞅不ㇾ果、每厠二稠人談一、及二四方之事一、亦不ㇾ爲ㇾ尠焉。遂記二矢口之言一名二譚海一其始也偶然筆ㇾ之、中則荒二於其業一、終則勇二於其成一。既而二十年成二十五卷一、亦復足ㇾ贘二初志一耳。今也老矣、時時展玩、如三別閱二宇宙一也、呵々。
寬政七仲夏之吉 淙庵道人識
○やぶちゃん推定訓読
予、壯歲(さうさい)、志(こころざし)、四方(しはう)に有り。而して、塵鞅(ぢんわう)ありて、果たせず、每(つね)に稠人(ちうじん)の談に厠(まじ)り、四方(よも)の事に及びて、亦、尠(すこ)しも爲(な)さず。遂に矢口の言を記(き)して、「譚海」と名づく。其の始めや、偶然、之れを筆(ひつ)し、中(なかごろ)には、則ち、其の業(ぎやう)、荒れ、終(つひ)に、則ち、其れを成さんと勇めり。既にして二十年、十五卷、成り、亦復(またまた)、初志を贘(ほむ)るに足(た)るのみ。今や老いたり、時時(じじ)、展玩(てんぐわん)し、三別して宇宙を閱(けみ)するがごときなり。呵々(かか)。
寬政七仲夏 吉 淙庵道人識
[やぶちゃん注:「塵鞅」この世の足手纏い。
「稠人」衆人。多くの人。
「矢口の言」次々と放たれる弓矢の如き人々の語りの意か。明和七(一七七〇)年一月に江戸外記座にて初演された人形浄瑠璃「神靈矢口渡」に引っ掛けたものかとも思ったが、私の知るその語りには、ピンとくるものがなかった。
「厠」「廁」の異体字であるが、動詞で「まじる・まじえる」の意がある。
「寬政七」一七九五年。
「展玩」見て楽しむこと。
「三別」「三」は単にパートを大きく分けることを言っていよう。]
[やぶちゃん注:本底本冒頭にある「序」。但し、これは底本の竹内利美氏の冒頭解題に、この「序」は筆者した際に「柳塘主人」 が『勝手に書き加えたもののようである』とあったことから(後で当該部を引用した)、わざと外したものである。ここに参考までに掲げることとする。竹内氏によれば、この「序」は国立国会図書館本にしかない、とされる(国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、ここ)。そして、『筆者の柳塘主人は幕末の漢詩人小栢軒(晩翠軒)と思われるが、淙庵との関係は未詳である。しかし淙庵自身の依頼によるところではなく、後に筆写の際、勝手に書き加えたもののようである』とあるのである。電子化は以上の後書に準じた。この漢文の訓読は、かなりクセがあって、少し手間取った。万一、よりよい訓読法があれば、御教授願いたい。]
序
古往今來、受二人身一生二南瞻部州一者何限、而電光石火之際、多與二草木一偕朽、寥々無ㇾ聞、是可ㇾ咲矣、然則以ㇾ何、不下與二草木一化朽上也、受二人身一者、可ㇾ有ㇾ爲耳、𡉌士得ㇾ志、則以二其所一レ學施二其所一レ行、德加二百姓一、功蓋二一世一、是現宰官身、最上得意者所爲也、朝遊二花街一、暮宿二柳樓一、或呂二名香一、或鬪二芳茗一視ㇾ酒如ㇾ水、擲ㇾ金若ㇾ土、豪邁不覉、自我作ㇾ古者、雖ㇾ非二善男子一、然互必竟有ㇾ爲者也、然是得二其時與勢一者也、不ㇾ得二其時與勢一、而不下與二草本一偕朽上者、最難矣、淙庵老人、生-一長市朝之間一、且其生計頗窮、不ㇾ得二時與勢一最甚者也、而風流溫藉、勤ㇾ學不レ倦、其緖餘著二譚海一書一、雖ㇾ書ㇾ以二國字一、上從二廟堂遺事一、下到二里巷鎖說一、及二山川土草本、禽魚之微一、上下數百年、縱橫千萬里、目所ㇾ視耳所ㇾ聽、筆之不ㇾ洩、奇々妙々、使ㇾ人閱二斯書一、猶ㇾ行二會稽道上一、唯恐、其書也是可三以傳二後世一矣、後世得二奇々妙々之賜於淙庵老人一、又使丁後世知丙南瞻部州、有乙淙庵老人甲者有、而不下與二草木一化朽上也、夫在二此一書一哉、僕不ㇾ堪二艷羨一乃歌曰、富耶貴耶、一肱手眠、北邙之土、埋ㇾ醜埋ㇾ娟、唯其著述、可二以永年一、遂書以爲ㇾ序
柳 塘 主 人
○やぶちゃん推定訓読
序
古往今來、人身を受け、南瞻部州に生まれしは、何(いづ)れが限りか。而して、電光石火の際、多くは、草木(さうもく)と偕(とも)に朽ち、寥々(れうれう)として、聞く無し。是れ、咲(わら)ふべし。然れば、則ち、何(いづ)れを以つて、草木と化(かわ)して朽ちざらんや。人身を受くるは、爲す有るのみ。𡉌(ひさし)く、士、志(こころざし)を得て、則ち、其の學ぶ所を以つて、其の行く所に施す。德は百姓(ひやくせい)に加へ、功(こう)、一世(いつせい)を蓋(おほ)ふ。是れ、現宰(げんさい)・官身(かんしん)、最上の得意の者の所爲(しよゐ)なり。朝(あした)に花街(くわがい)に遊び、暮(くれ)に柳樓(れうらう)に宿(やど)す。或いは、名香(めいかう)を呂(き)き、或いは、芳茗(はうめい)を鬪(あらそ)ひ、酒を視れば、水のごとく、金を(なげう)ちて、土(つち)のごとく、豪邁不覉(がうまいふき)、自づから、「我れ、古(ふる)きを作(な)すは、善男子(ぜんなんし)に非ざると雖も、然(しか)も互ひに必竟(ひつきやう)、爲(な)すこと有る者なり。然(さ)れば、是れ、其の時の與勢(よせい)を得たる者なり。其の時の與勢を得ざれば、而して、草本と偕(とも)に朽ちざる者は、最も難(なん)たり。」と。淙庵老人、市朝(してう)の間(かん)に生まれ、且つ、其その生計(なりはひ)、頗窮(ひんきゆう)たり。時の與勢を得ざるは、最も甚しき者なり。而れども、風流にして溫藉(をんしや)、學に勤めて、倦(う)みず、其の緖餘(しよよ)、「譚海」一書を著(ちよ)す。國字を以つて書くと雖も、上(かみ)は廟堂遺事より、下(しも)は里巷鎖說(りかうさせつ)に到る。山川(さんせん)・土(ど)・草本(さうほん)、禽魚(きんぎよ)の微(び)に及ぶ。上下(かみしも)數百年(すひやくねん)、縱橫(じゆうわう)、千萬里、目(め)、視る所、耳、聽く所、筆、之れ、洩らさず、奇々妙々、人をして斯(こ)の書を閱(けみ)して、猶ほ、會稽(くわいけい)の道上(だうじょう)を行くがごとし。唯だ恐る、其の書や、是れ、以つて後世(こうせい)に傳ふべきに、後世、淙庵老人より、奇々妙々の賜(たまはり)を得て、又、後世、南瞻部州に、淙庵老人、有るを知らしめし者、有(あ)りて、而して、
「草木と與(とも)に化して朽ちざるや。夫(そ)れ、此の一書に在(あ)るや。」
と。僕(ぼく)、艷羨(えんせん)に堪へず、乃(すなは)ち、歌ひて曰はく、
「富(ふ)や貴(き)や 一肱手(いつこしゆ)の眠(ねむ)り 北邙(ほくばう)の土(つち) 醜(しう)に埋(うづ)み 娟(けん)に埋む」
と。唯だ、其の著述、以つて永年なるべければ、遂(つひ)に書き、以つて、「序」と爲(な)す。
柳 塘 主 人
[やぶちゃん注:「寥々」「ものさびしくひっそりとしているさま」「空虚なさま」「むなしいさま」「寂莫」の他に、「数の非常に少ないさま」の意がある。総てハイブリッドに含むと考えてよい。
「𡉌(ひさしく)、士」「𡉌」は漢語ではなく、「Unicode(ユニコード)一覧とURLエンコード検索・変換サイト」を名乗る「0g0.org」のここによれば(このサイト、難字を検索すると、しばしがかかるのであるが、その解説では、やはり意味を記さず、それでいて、周辺情報を記すという、糞AIが作った文章のような、常体・敬体ゴチャ混ぜで、全体に気持ち悪さ満載である。以下の引用を見られたい)、『江戸時代末期に作られた字体である。この字体は、当時のみんなが描く文字に対して、より美しい字体を求めた結果生まれました。そこで、書道家たちは文字の形を考え抜き、その結果『𡉌』という文字が生まれました。 この文字は、四角くて対称的な形をしており、線が細く曲線も繊細です。それ故、細かな作業が必要とされ、書くことはとても難しいと言われています。しかし、綺麗に書かれた𡉌の文字は、美術品のような美しさを持っているため、多くの人々から愛されています。 𡉌は、現代でもなお、書道家や美術家たちから関心の的となっています。また、近年では、この書体を使用したデザインやロゴなどが注目を集めるようになっており、その魅力が再び見直されているといえます。 このように、𡉌という文字は、美しい形状とその歴史的な背景により、現代でも愛され続けています』とあるのである。だったら、ネットの目立とう精神満々の書道家や美術家が、この字を示したページが一杯なきゃ、おなしいだろ? 但し、事実、複数の中文サイトでは、意味を示さず、「輸入された漢字」という附記があった。というわけで、意味不明。当初、「𡉌士(きうし)」と読んでいたが、これでは意味が解らないから、まあ、(つくり)の「久」が意味であろうと踏めば、この分離で読んでおいたものである。
「柳樓」「靑樓」に同じ。妓楼だが、江戸では特に官許の吉原遊郭を指した。
「呂(き)き「呂」に動詞の用法はない。日本や中国の音楽で陰(偶数番目)の音階を指す「呂律」(りょりつ)である。そこで、香道で「香を聞く」と言うから、それを私が、かく、洒落て訓読したものである。
「芳茗」香りのよい高級茶。
「豪邁不覉」「豪邁」は「気性が強く、人より勝れていること」、「不覉」は「物事に束縛されないで行動が自由気ままであること」、また、「才能などが並はずれていて、枠からはみ出すこと」だが、ここは前の意でよかろう。
「溫藉」心が暖かく、広いこと。
「緖餘」残されたもの。
「里巷鎖說」田舎や市街の巷間に関わる繋ぎ合わされた諸説。ここは、噂話・都市伝説等の尾鰭のついた流言飛語を底辺の老いた謂いか。
「土(ど)」は「風土」で、民俗社会を指していよう。
「會稽の道上を行く」知られた「臥薪嘗胆」の「會稽の恥を雪ぐ」をインスパイアした表現。遂に「譚海」だけが残った「𡉌」(ひさ)しく精進努力した、埋もれていた士、津村淙庵が、この書が大衆に読まれることで、屈辱を晴らし、名誉回復すると、大讃歌をぶち上げたのである。
「後世、淙庵老人より、奇々妙々の賜(たまはり)を得て、」原文「後世得二奇々妙々之賜於淙庵老人一、」の返り点では私は読めないと判断したので、かく訓じた。
「艷羨」羨ましく思うこと。
「富(ふ)や貴(き)や 一肱手(いつこしゆ)の眠(ねむ)り 北邙(ほくばう)の土(つち) 醜(しう)に埋(うづ)み 娟(けん)に埋む」「一肱手の眠り」は、ちょっとの間、手の肘を曲げて転寝(うたたね)することであろう。富貴(ふうき)は勿論、人生そのものがそのように無常にして一瞬の果敢ないものだというのであろう。而して「北邙」が出る。これは一般名詞で「墓場」の意である。結句は、「果敢ない富貴とは対照的に、富貴であっても遺体は醜く埋められ、無名にして貧しくとも、その遺体は艶やかで美しい。」と言うのであろう。]