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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の215件の記事

2020/11/27

譚海 卷之三 新玉津島

 

新玉津島

〇五條俊成卿洛中に玉津島明神を勸請有(あり)、新玉津島といへるは此社也、新住吉も爲家卿の勸請にやと覺えたり。近來(ちかごろ)冷泉爲村卿新柿本の社を御勸請有、又本國寺境内福大明神の社に貫之の社をも勸請有(あり)て、冷泉門下の人々出題の和歌奉納する事に成(なり)たり。北野御室(おむろ)の邊にも新更科と云所出來(いでき)て、近來人々月を賞する所とせり。京都は商賈(しやうこ)をはじめ閑逸の所故、時時遊觀の興(きやう)有(あり)て、東山の鹿きゝ・北野の蟲きゝ・龍安寺の鴛(をしどり)見などとて、群遊する事也。

[やぶちゃん注:「五條俊成卿」歌人として知られる公卿藤原俊成(永久二(一一一四)年~元久元(一二〇四)年)。

「玉津島明神」現在の京都府京都市下京区玉津島町にある新(にい)玉津島神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。和歌山県和歌山市和歌浦中にある玉津島神社の公式サイトの解説によれば、和歌の神である衣通姫尊(そとおりひめのみこと)に憧れた俊成が文治二(一一八六)年(年)、後鳥羽天皇の勅旨を得て、衣通姫尊を勧請し、自邸内に新玉津島神社を建立したもので、『鎌倉時代にはここに「和歌所(わかどころ)」が置かれ、室町時代には足利家の保護のもと和歌の聖地として崇められ』たとある。但し、別に『新玉津島神社に衣通姫尊を勧請したのは頓阿』(とんあ/とんな 正応二(一二八九)年~文中元/応安五(一三七二)年):南北朝時代の僧で歌人)『だという説もあ』るとし、『頓阿は、吉田兼好と共に和歌四天王と称され』、「新拾遺和歌集」の『選者を二条為明から引き継いだ歌人』『僧で』、彼が『衣通姫尊を五条の俊成の屋敷地に勧請し、将軍義詮が社殿を新造したとの記録もあ』るとある(「吉田家日次記」に拠る)。『その社殿は応仁の乱などで消失し』たが、『江戸時代に再興』されており、『再興に大きな役割を果たしたのは、江戸時代の著名な国文学者で』、松尾芭蕉の師でもあった『北村季吟』であったとある。

「新住吉」京都府京都市下京区醒ケ井通(さめがいどおり)高辻下(さが)る住吉町(すみよしちょう)にある新玉津島神社の西北西直近(六百メートル弱)にある住吉神社

「爲家卿」藤原俊成の次男定家の三男為家。但し、所持する「都名所図会」の「新住吉社」の条には、やはり藤原俊成の勧請と記す。

「冷泉爲村」(正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)は江戸中期の公卿・歌人。官位は正二位・権大納言。藤原定家の子であった御子左家六代為家の子の冷泉為相から始まる上冷泉家十五代当主で、上冷泉家中興の祖とされる。歌人としてはもとより、茶の湯も嗜んだ。

「新柿本の社」前の住吉神社に明和六(一七六九)年に冷泉為村が末社「人麿社」(人丸神社)を祀っている。但し、天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京を襲った京都史上最大規模の火災である「天明の大火」により焼失した旨、サイト「京都風光(京都寺社案内)」の住吉神社のページにある。

「本國寺境内福大明神の社に貫之の社をも勸請」現在は京都府京都市山科区にある本圀寺は、嘗ては下京の六条堀川に永くあったが(その前には実は鎌倉にあった)、その間、当寺の方丈の北に「人麿塚」があったことが、「都名所図会」で判った。但し、そこ(「拾遺之卷之一 平安城」の「本國寺方丈」の条)には、『人麿塚』として『方丈の北にあり。初めは紀貫之の勸請なり。俊成卿もまた尊信したまひて社を修補したまふ。その後荒廢して、一堆の塚のみ殘れり。これを人麿塚と號す。貞和元年[やぶちゃん注:一三四五年。]當寺を鎌倉よりうつすとき、足利尊氏公、神祠を再營したまひ和歌詠ず』とあって、『行く水の柳に淀む根をとへばいつかむかしの人丸の塚』とある。冷泉為村が、この近々の時制において、それを再興した事実は確認できなかった。

「北野御室の邊にも新更科と云所出來て」「北野御室」というのはこの辺りと思う。「新更科」の名は一時、祇園南林にあったようだが、それではない。

「商賈」商人。

「閑逸」現実を離れて静かに楽しむことの謂いであろう。商家は現実が直であるが故に、却ってそうした風雅を好むところでもあるのであろう。]

2020/11/24

譚海 卷之三 近衞殿の事

 

近衞殿の事

○近衞殿御家(このゑどのおんけ)は時平公の御末故、菅神(くわんじん)の御咎めを憚り、北野へ參詣は代々せられざる事也。前年もたまたま參詣有ければ、非常の事出來て難儀なりしかば、兎角つゝしんで參詣なき事也しを、三藐院殿(さんみやくゐんどの)と聞えし御方深く歎き思召(おぼしめし)、北野へ御詫(おわび)ありて神像を千枚御書寫あり、弘(ひろ)く神威を輝(かがやか)し崇敬ましましける。此故にや當時は御參詣子細なき事に成(なり)て、何の障碍もなしといへり。三貌院關白御書寫の神影を拜見せしに、衣冠の御姿にて、梅花を折(をり)てもたせ給ふかたちを書(かき)て、

  から衣をりてきたのの神ぞとは袖にもちたる梅にても知れ

といふ御贊あり。

[やぶちゃん注:「近衞殿御家」は藤原北家近衛流嫡流で、菅原道真を失脚させた藤原時平も藤原北家の一流であった。

「三藐院殿」近衛信尹(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)は桃山時代から江戸初期の公家。父は関白近衛前久。初名は信基。後に信輔・信尹と改名した。三藐院は号。「文禄の役」(一五九二年~一五九六年)の際には、朝鮮に渡るべく、独断で肥前名護屋に乗り込んだが、果たせず、後陽成天皇の勅勘を被り、薩摩坊津(ぼうのつ)に配流された。慶長元(一五九六)年に許され、以後、順調に昇進を遂げ、慶長十年(この二年前の慶長八年に江戸幕府は開幕している)には関白・氏長者になった。大徳寺の臨済僧春屋宗園(しゅうんおくそうえん)に参禅し、古渓宗陳や沢庵宗彭らと親交があった。また、茶道・歌道・書をよくしたが、ことに書は「寛永の三筆」(後の二人は本阿弥光悦・松花堂昭乗であるが、これは明治以降の呼称と考えられている)の一人として知られる。伝統的な青蓮院流書法に、私淑した藤原定家の書風を加え、さらに信尹独自の個性を加味した、力強い筆力で速書きの豪放な書風を確立した。近衛流・三藐院流として、生存中から多くの人々に愛好され、嫡男信尋(のぶひろ:後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衞信尹の養子となった)をはじめとする公家階層のみならず、武将や町人層にまで広まった(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「當時」これは本書執筆時制の「当今」の意。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもの。]

2020/10/22

譚海 卷之三 尊純親王 (良純法(入道)親王の誤り)

尊純親王

○尊純親王と聞へしは、後陽成院の八の宮にをはしまして、和歌も堪能に入せられ、御手跡(ごしゆせき)など殊に勝れて、聰明なる宮にましましけるが、時勢にしたがつて放蕩にましまし、伏見の墨染(すみぞめ)の遊女屋に常に遊び給ひ、御行跡(ごぎやうせき)よろしからざりしかば、終(つひ)に甲斐の國に左遷せられ、かしこにてかくれ給ふといへり。鹽(しほ)の山の禪寺の邊(あたり)に御墓ありといへり。甲州へ御首途(おんかどで)の時伏見の遊女に贈らせ給ふ訣別の御文、殊に哀(あはれ)なるもののよし、烏石(うせき)といへる書家祕藏して傳へたるを見たる人のかたりし也。

[やぶちゃん注:「尊純親王」は良純法(入道)親王の誤り。後陽成天皇第八皇子良純入道親王(慶長八(一六〇四)年~寛文九(一六六九)年)。知恩院初代門跡。五歳で知恩院門跡に治定されて同寺に入ったが、出家は先送りされ、その後、慶長一九(一六一四)年に親王宣下を受けて直輔親王と名のり、翌元和元年に徳川家康の猶子となった(これは門跡となるための儀式上の処理で、これより以後、門跡は将軍の猶子となるのが慣例となった)。元和五(一六一九)年十六歳の時、満誉尊照を戒師として出家得度し、良純と名乗った。ところが、寛永二〇(一六四三)年十一月、突如、甲斐国天目山(山梨県甲州市大和町(やまとちょう)木賊(とくさ)にある臨済宗天目山棲雲寺(グーグル・マップ・データ)であろう)に配流された。理由としては、寺務を巡る大衆との対立・酒乱による乱行(らんぎょう)・江戸幕府の朝廷及び寺院への介入への批難・待遇不満・出家不満など、諸説があるが、飾り物である門跡の地位への不満及び幕府からの圧迫に対する不満があったとする見方は一致している。後に甲府の曹洞宗興因寺(甲府市下積翠寺町(しもせきすいじまち)のここ。グーグル・マップ・データ)に移され、幽閉された。但し、ここに甲府で没したとするのも誤りで、万治二(一六五九)年には勅許によって帰京したが、知恩院ではなく、泉涌寺に住んだ。後、北野で還俗、隠退生活を送った。後には以心庵と号し、六十七歳で没し、泉涌寺に葬られて「専蓮社行誉心阿自在良尚大僧正」の諡号(おくりな/シゴウ)が贈られた。明和五(一七六八)年の百回忌に際しては、名誉回復が図られて、改めて「無礙光院宮良純大和尚」の諡号が追贈されてもいる(以上はウィキの「良純入道親王」に拠った)。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)の本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、既に名誉回復も終わった後であって、この内容は公家にも寺方にとっても頗る偏頗なものであるはずだが、彼らにとっても名誉回復してしまえば、終わった「過去の人物」であり、還俗してもいるから、寺方も特に文句は言いそうもない。それにしても、誤りが多過ぎていただけない

「伏見の墨染(すみぞめ)の遊女屋」京都府京都市伏見区墨染町(グーグル・マップ・データ)にあった遊廓のこと。サイト「遊廓・遊所データベース」の「京都府所在の遊廓の沿革と概要」によれば、『京都では、江戸・大坂と同様、近世初頭に唯一の公認として島原遊廓ができた』が、十七世紀から十八『世紀にかけての市中東部を中心とする新地開発に伴い、北野、祇園などに茶屋町が形成され、島原は早くも』十八『世紀前半から長期的な営業不振にあえいだ』。十八『世紀末の寛政改革に際して、新地の』四『か所に島原からの出稼を名目とする遊女屋営業が免許され、島原は「茶屋年寄」として出稼地からの上前を取得した(差配体制)。差配体制は、天保改革期の一時廃止をはさみ、明治』三(一八七〇)『年まで継続した』とあり、当該ページのデータの『3)明治後半以降の展開』に、明治一九(一八八六)年の『五業取締規則にもとづく京都府の遊廓統制は』、明治三三(一九〇〇)年の内務省令第四十四号『「娼妓取締規則」公布まで続』き、同『年、娼妓取締規則を受けて出された京都府令第』百『号「貸座敷取締規則」によって、それまでの子方営業は貸座敷営業と見なすようになり、新たに貸座敷営業者・芸紹介業者・娼妓の三区分にもとづいた統制が行われるようになった。規則に掲載された貸座敷営業免許地は、上七軒、五番町、先斗町、祇園新地、島原、宮川町、下河原、七条新地のほか、伏見町の墨染・恵美須町・中書島、橋本、庵我村、宮津万年新地・新浜、舞鶴朝代町の計』十六『か所であった』と記す中に、伏見町墨染があることから、ここが江戸時代からの遊廓であったのであろうことが判る。

「鹽(しほ)の山」山梨県甲州市塩山地区のことであろうが、先の二ヶ寺は孰れも塩山からは東西に有意に離れているので、これも誤りである。

「烏石といへる書家」」江戸中期の書家松下烏石(元禄一二(一六九九)年~安永八(一七七九)年)。ウィキの「松下烏石」によれば、『幕臣の松下常親の次男として生まれる。書は佐々木玄竜・文山兄弟に学んだ。欧陽詢の流れを汲んだ唐様の書法だったという。また』、『詩文を服部南郭に学んでいる。表面にカラスの模様のある天然石を磐井神社(東京都大田区大森)に寄進したことで知られる。この石は「烏石」と呼ばれ』、『評判となり、多くの文人墨客が見学に訪れたという』。『江戸古川に住んでいたが』、『明和年間に京都に移り』、『西本願寺の賓客として晩年を送』ったというとある。そこに出た「烏石」については、私の「耳囊卷之三 鈴森八幡烏石の事」の本文及び注を参照されたい。実は、この松下烏石というのも、かなり問題のある人物だったようである。]

2020/08/18

譚海 卷之三 小倉殿の事

 

小倉殿の事

○近世小倉殿と聞えしは、詩文章に名ある御方(おんかた)にて、南郭文集はじめ、諸人の集に往々贈答の事見えたり。此相公ばかりは、昔繪にある如く頰つらに髭を長く生(はやし)て、束帶の體(てい)など異形に見えられけるとぞ。

[やぶちゃん注:「小倉殿」羽林家の家格を有する公家小倉家。藤原北家閑院流。西園寺家一門の洞院家庶流。家業は神楽。江戸時代の家禄は百五十石。鎌倉時代に従一位・左大臣であった洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年:太政大臣・西園寺公経の子)の二男権中納言公雄(きんお 生没年未詳。出家したのは文永九(一二七二)年)が創設した。

「南郭文集」「南郭先生文集」享保一二(一七二七)から宝暦八(一七五八)年にかけて刊行された、江戸中期の儒者で漢詩人の服部南郭の撰になる漢詩文集。四編・四十巻・二十四冊。服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)は京都生まれ。江戸で柳沢吉保に歌人として仕え、荻生徂徠に学んだ。吉保没後は私塾を開いて、「経世論の太宰春台」に対して、「詩文の南郭」として徂徠門下の双璧と称された。享保九年には「唐詩選」を校訂して出版し、唐詩流行の端緒を作った。]

2020/07/28

譚海 卷之三 細川家和哥の事

 

細川家和哥の事

○石田治部少輔謀反の時、玄旨法印丹後の城に籠られしに、逆徒貴詰(せめつめ)て既にあやうかりし由叡聞(えいぶん)に達し、和歌の名匠なる事を悼み思召(おぼしめし)、逆徒へ勅使を立られ、早速圍(かこみ)をとき無事に成(なり)たり。其時玄旨法印必死の覺悟ゆゑ、年來和歌相傳の書を箱に入(いれ)、光廣卿へ傳へられ、往反(わうはん)贈答の詠に及ベり。子息三齋殿此事を殘念に存ぜられ、和歌の事に拘(こだは)りて武士の死(しす)ベき時に死せざる恥(はづ)べき事とて、以後三齋和歌を詠ぜられずといへり。今時(きんじ)も細川家斗(ばか)りは京都隱居住(ぢゆう)する事相叶(あひかな)ふ例(ためし)のよし、和歌の事によりて然るにやといへり。

[やぶちゃん注:「石田治部少輔」石田三成。

「謀反」豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じずに敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長五(一六〇〇)年六月に諸将を率いて東下した(「会津征伐」)が、家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げたことを指す。その緒戦が慶長五年七月十九日から九月六日にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市のここ。グーグル・マップ・データ)を巡りって起こったのがここで挙げられた「丹後田辺城の戦い」である。本籠城戦は広義の「関ヶ原の戦い」の一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。参照したウィキの「田辺城の戦い」によれば、『西軍は、まず』、『畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めた。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする』一万五千の『兵が包囲した』。『忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる』五百名に『すぎなかった』。『幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく』、七月十九日から『始まった攻城戦は、月末には落城寸前となった』。『しかし西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃は積極性を欠くものであった。当時幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続』、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上している。『ついに天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。勅命ということで幸隆と幽斎はこれに従い』、九月十三日、『田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなった』。『この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍』一万五千は、この間、『田辺城に釘付けにされ、開城から』二日後に起こった「関ヶ原の戦い」本戦に『間に合わな』くなったのであった。

「玄旨法印」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「光廣」先の「元和の比堂上之風儀惡敷事」の私の注を参照。

「子息三齋殿」細川藤孝(幽斎)の長男で当時は丹後国宮津城主。後、豊前国小倉藩初代藩主となった細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)。「田辺城の戦い」の開城の一件で、一時、父と不和になっており、それがこの述懐に現われている。

「以後三齋和歌を詠ぜられずといへり」事実かどうかは不詳。]

2020/07/03

譚海 卷之三 烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

 

烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

○烏丸(からすまる)光廣卿又連歌などを好(このま)れ、玄旨法師の門弟となり、澤庵・江月などと云(いふ)大德寺の僧徒と往來密にして、漢和の百韻など度々興行有。光廣卿殊に禪學に入られけるゆゑ、詠歌其氣を帶(おび)てあらき作意也。其上連歌の餘執(よしふ)に引(ひか)れて、はいかい體(てい)にながれしゆゑ、詠歌半(なかば)はたゞごと歌になり、俗語をまじへよまれしまゝ、狂歌の風に落(おち)たり。玄旨法印の和歌も半は狂歌まじれり。若狹守長嘯子(わかさのかみちやうしやうし)・牡丹花老人(ぼたんくわろうじん)など右の窩窟(くわくつ)をまぬかれず、小堀遠州などの詠歌も同じやうのことなり。朝廷に和歌の道すたれしより、東野州(とうやしう)などと云(いふ)人專ら委任し、地下(ぢげ)の歌よみ盛(さかん)に成(なり)て、古今傳(こきんでん)などと云(いふ)事を私(わたくし)に考へ、二條流の說などをまじへて興行せしより、古今の讀(よみ)まちまちにわかれ、却て深祕不可說ある事の樣にとりはやしぬる事になりぬ。西三條家など雷同せられて、搢紳(しんしん)過半地下の歌よみになびきよられしかば、又一旦は和歌の道さかんの樣に見えぬれど、まつたく歌道亂世によりて地に落たる災(わざはひ)也と人のいへり。

○古今の傳と云(いふ)事は、二條家斷絕ののちは、上冷泉殿御家に傳へられたるのみ古來の正說とする事也。天子古今御傳受のとき、宗匠をめされて聽聞(ちやうもん)ある時は、そば聞(ぎき)と云(いひ)て、壹人(ひとり)昵近(ぢつこん)の公卿を許され、始終御傍にて承る事也。是を古今傳受せらるゝとはいはね共、自然其公卿の家に其說のこりとゞまりて、世にひろまる事とも成(なり)ぬるよし。

○光廣卿禪に入られける故にや、放蕩なる人にて、寐所(しんじよ)なども晝夜枕席(ちんせき)を收(をさむ)る事なく、眠(ねむり)來(きた)ればいつにても入(いり)て寐られけるとぞ。後陽成院禁裏の高どのより公卿の屋敷をえいらん有けるに、殊に破損して見苦敷(みぐるしき)家有(あり)、誰(た)が家ぞと勅問有(あり)、光廣卿の宅の由を申上(まうしあげ)ければ、餘り荒たるとて修覆仰付られけるとぞ。【但(ただし)光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし】

[やぶちゃん注:「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)「元和の比堂上之風儀惡敷事」に既出既注なので、参照されたい。江戸前期の公卿で准大臣烏丸光宣の長男で、官は正二位権大納言に至り、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ人物で能書家としても知られるが、ここにある通り、私生活はトンデモ法外なる公卿である。

「玄旨法師」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「澤庵」知られた安土桃山から江戸前期にかけての臨済僧沢庵宗彭(そうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)。

「江月」(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は江戸初期の臨済僧で茶人。津田宗及(そうぎゅう:安土・桃山時代の堺生まれの豪商で茶人。信長・秀吉の茶頭となった)の子。名は宗玩(そうがん)。別号に欠伸子。和泉の人。大徳寺住持となり、皇室を始めとして上流階層の帰依を得、特に茶道を好み、父津田宗達及び小堀遠州について奥義を究めた。

「大德寺」京都市北区にある臨済宗大徳寺派大本山。山号は竜宝山。開創は正中元(一三二四)年、開山は宗峰妙超、開基は赤松則村。後醍醐天皇から勅額を賜り、五山の一となったが、後、その位を辞し、在野的寺格を保った。「応仁の乱」で焼失したが、堺の豪商の帰依を得て一休宗純が再建。多数の塔頭があり、有名な茶室・茶庭も多い。

「はいかい體(てい)」「俳諧」の「體」。「はいかいたい」でもよいが、私は批判がましい謂いであるところから「てい」と読んでおきたい。

「若狹守長嘯子」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。

「牡丹花老人」(嘉吉三(一四四三)年~大永七(一五二七)年)は室町中期の連歌師・歌人で歌学者。准大臣中院通淳(なかのいんみちあつ)の号。京生まれ。若くして出家し、連歌師宗祇より伝授された「古今和歌集」・「源氏物語」の秘伝を、晩年に移住した堺の人々に伝え、「堺伝授」の祖となった。「古今和歌集古聞」など、講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては宗祇・宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」などが伝わる。「牡丹花」は「ぼたんげ」とも読むらしい。

「窩窟(くわくつ)」以下にも下卑て非難めいた謂いで、寧ろ、江戸の歌人としても名を馳せた筆者津村であるとは言え、こうした畳掛けが彼自身の嫌らしさを感じさせるところである。

「小堀遠州」(天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年)は江戸初期の茶人で遠州流の祖であり、また、江戸幕府の奉行として建築・土木・造園を手がけたことでも知られる。名は政一。近江国小堀村(現在の長浜市)生まれ。初め、豊臣秀吉に仕え、後、徳川家康に従い、父正次の死後は家を継ぎ、近江小室一万石を領して遠江守に任ぜられた。早くより古田織部に茶の湯を学び、品川御殿作事奉行の任にあった寛永一三(一六三六)年には同御殿で第三代将軍徳川家光に献茶し、ここから、所謂、将軍家茶道師範の称が起った。和歌・書・茶器鑑定にも優れ、陶芸も指導した。

「東野州」東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年頃)は室町前期の武家の歌人。法名は素伝。従五位下下野守であったことから「東野州」と称せられた。東国の武門の名家千葉氏の支流の東益之(とうのますゆき)の子で美濃国郡上領主。宝徳元(一四四九)年から二条派の堯孝(ぎょうこう)、冷泉派の正徹に歌を学び、翌年、正式に堯孝に入門した。この頃の歌についての話を書き留めたものが「東野州聞書」である。幕府の命で東国に転戦し、晩年は美濃に帰った。篤学で古典に詳しく、文明三(一四七一)年には、かの宗祇に「古今和歌集」や「百人一首」などを講じている。特に「古今和歌集」の秘説を切紙(きりがみ)に記して伝えたが(次注参照)、これが「古今伝授」の初めとして、後世、重視された。但し、彼は実際には当時の歌壇では大物と目されてはおらず、その死後、宗祇が自身の権威附けのために宣伝して、著名になったと考えられている。なお、「伊勢物語」・「新古今和歌集」・「拾遺愚草」などの講説も現存する。

「古今傳」「古今伝授」。歌学用語で「古今伝受」とも書く。「古今和歌集」の解釈上の問題点を。師匠から弟子へ教授し。伝えていくことで、「三木三鳥」などと呼ばれる同集所見の植物や鳥についての解釈を秘説とし、これを短冊形の切り紙に書き、秘伝として特定の弟子に授ける、所謂、「切り紙伝授」が特に有名であるが、本来は同集全体についての講義を行うことで、証本を授与することもあったらしい。その萌芽は、藤原俊成が藤原基俊に入門し、「古今和歌集」についての教えを受けたことを本源とする。俊成は息子の定家にこれを伝え、定家は「僻案抄」ほかを著わして、若干の弟子にこれを教えている。伝授の形式は、基俊・俊成・定家以来の教えを伝えていると称する東常縁が宗祇に伝授した時から整えられた。宗祇以後、「御所伝授」(宗祇-三条西実隆-細川幽斎-智仁親王-後水尾院)、「堺伝授」(宗祇-肖柏-宗伯)、「奈良伝授」(肖柏-林宗二(りんそうじ))などの各流が派生した。本来は純然たる古典研究であったが、中世の神秘思想の影響を受けて、室町以降、空疎な内容や末梢的な事柄を秘事として尊信する形式主義に流れ、近世の国学者らから批判を受けたものの、文化史的な意義は見逃せない(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「二條流」中世に於ける和歌の流派である二条派。藤原北家御堂流の御子左家(みこひだりけ)は藤原俊成・定家・為家と和歌の家系としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていたが、為氏の庶弟為教(ためのり)・為相(ためすけ)と相続を巡って不和となり、為教は京極家に、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世(ためよ)、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(後の南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(後の北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立し、勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派の実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまった。その後、秘伝は、先に出た東氏を経て、三条西家(藤原氏で公家)に伝わり、明治を迎えた。世に言う「古今伝授」がこれである。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家・宮家・堂上家・地下家にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家・烏丸家も二条派に属する(以上はウィキの「二条派」に拠った)。

「深祕不可說」禅宗で言う教外(きょうげ)別伝に引っ掛けたものであろう。

「西三條家」三条西家に同じ。藤原北家閑院(流嫡流の三条家の分家である現在の嵯峨家(正親町三条家)の、そのまた、分家。大臣家の家格を持つ公家。「西三条家」とした時期もある。前注に示した通り、室町から明治に至るまで、二条家正嫡流を伝承する三条西家が、定家の後継者として、歌壇の主流を占めていた。

「搢紳」官位が高く、身分のある人。「笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)む」の意から。

「上冷泉殿御家」ウィキの「冷泉家」の「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。冷泉為尹(ためまさ)は応永二三(一四一六)年に次男持為(もちため)に『播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するため』、『為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り』、『地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年には『為満が勅勘を蒙り、再び地方に下った。上冷泉家の家督は中山家から為親が新たに当主として迎えられ』、『冷泉為親を名乗る』。『しかし秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、徳川家康の執り成しに『よって前当主であった為満が都へ戻り』、『再び当主となることが出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め』、『公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『為満の復帰により』、『為親は上冷泉家の当主でなくなったが』、『別に新たに中山冷泉家を興せることとなり、その新たな堂上家の当主となった』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「枕席」寝具一式。

「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。以下の話は在位中の江戸時代、慶長一四(一六〇九)年七月に起きた「猪熊事件」(侍従猪熊教利による女官密通事件)に光広が連座して勅勘を下し(官停止・蟄居)、慶長一六(一六一一)年四月にそれを勅免して還任した後のことであろう。

「えいらん」「叡覽」。

「光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし」この割注、意味が私にはよく判らない。識者の御教授を乞うと記したいが、実際には、私は判ろうとする気持ちが起こらないのである。この辺りの津村、正直、全く、面白くなく、ゲロが出るほど生理的に厭だからである。]

2020/04/18

譚海 卷之三 應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事

 

應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事

○應仁一亂後戰國に入(いり)て、京師住居數度兵火の災にかゝり、(住居(すみゐ)成(なり)がたきにより、)諸公卿大半緣に付(つき)て諸國へ寄食せられしかば、禁中參仕の人少く、朝廷衰微極り、殘り留(とどま)る公卿朝夕の煙を立(たて)かね、色紙短册等を書寫し、ついぢの上にかけて、行路の人に賣(うり)あたへ、漸々(やうやう)衣食せられける事也。和歌の道も亂世に隨(したがひ)て衰へ、ただ連歌のみ盛(さかん)にもて興ずる事とせしは、時勢のいそがはしきにつるゝ風俗成(なる)べし。依(より)て撰集の沙汰は止(やみ)て連歌の撰起り、「新つくば集」などと云(いふ)もの出來(いでき)たり。紹巴法橋(ぜうはほつきやう)など云もの、筑紫より連歌をもて京師に來り、終に志を得て名を傳ふる事に成たり。當時の諸將武人連歌を嗜(たしな)まざる人なく、松永彈正(だんじやう)人の許(もと)にて連歌せしに、「薄(すすき)にまじる蘆(あし)の一むら」と云(いふ)句に付(つけ)わづらひて、沈思(ちんし)したる折(をり)しも、二三度宿所(しゆくしよ)より來りて密事(みつじ)にさゝやく事ありしが、猶案じ入(いり)て「古池の淺きかたより野と成(なり)て」と付(つけ)て、やがて「火急の事出來(いでき)ぬ」とて立歸るに、「何事にや」と傍(かたはら)の人尋(たづね)しかば、「以前より宿所へ野伏蜂起してよせ來るよししらせ侍り、急ぎ罷向(まかりむかひ)て追(おひ)ちらし侍らん」とて歸りけるよし。さるにてもかくはげしき中(なか)にて、かくまで連歌をすけるも、一時の風俗なりけりと人のかたりし。

○紹巴法橋一とせ松島一見に仙臺へ下りし比(ころ)、紹巴が名を傳へ聞(きき)て、こゝかしこにて招き、數會の一座ありけり。政宗卿一日(いちじつ)城中にて片倉小十郞と閑話の序(ついで)申されけるは、「此比(このごろ)京都より紹巴下りて連歌殊に盛に翫(もてあそ)ぶと聞(きけ)り、紹巴をめして我も連歌して見ん」とて呼(よば)れければ、やがて紹巴來りて謁しける。折しもほととぎす鳴(なき)ければ、政宗卿、「なけきかふ身が領分の郭公(ほとぎす)」と發句(ほつく)せられけるに、小十郞傍にありてあぐらかきて居ながら、「脇(わき)仕(つか)ふまつりたり」とて、「なかずばだまつて行けほとゝぎす」といひければ、紹巴をかしくや思ひけん第三に、「どふ成(なれ)と御意(ぎよい)にしたがへ時烏(ほととぎす)」と付(つけ)たる由、誠に三句迄「ほとゝぎす」をつゞけたる、をかしき事に覺(おぼえ)れど、「身が領分の時鳥」とある詞(ことば)、誠に一國の主(あるじ)の句成(なる)べし。「だまつてゆけ時鳥」といへるも、社稷(しやしよく)の臣の心顯れて、主人たりとも放埒ならば其まゝにをくまじと覺ゆる志(こころざし)、句の上にあらはれたり。紹巴は此二句の「時鳥」を重ねたるを弄(ろう)して、「どふ成と御意に隨へ」といへる詞を付たるなれども、さすがに連歌に身をよせて食を人に乞ふ志、下(しも)に顯(あらはれ)て哀也(あはれなり)と人のかたりし。

[やぶちゃん注:今回は直接話法が多いので、読み易さを狙って、特異的に鍵括弧を施した。

「應仁亂後」「応仁の乱」は応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年に一応の決着を見た。ここでも津村が明言しているように、「応仁の乱」が室町幕府の権力が崩壊し、戦国時代が始まったという古くからの説が一般的であるが、近年では幕府の権威は「明応の政変」(明応二(一四九三)年四月に細川政元が管領となり、将軍が足利義材(よしき・後の義稙(よしたね))から足利義遐(よしとお。後の義澄)へと代えられ、以後、将軍家が義稙流と義澄流に二分された)頃まで一応保たれていたという見解もあり、「明応の政変」以降を戦国時代の始まりとする説もある。但し、「応仁の乱」以降、身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない(以上はウィキの「応仁の乱」他に拠った)。

「紹巴」(大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)は室町末期の連歌師。奈良生まれ。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を生業(なりわい)としていたともされる。後に師里村昌休(さとむらしょうきゅう)より姓を受けたので「里村紹巴」(さとむらじょうは)と呼ばれることが多い。号は臨江斎。十二歳で父を失い、興福寺明王院の喝食(かっしき:寺院に入って雑用を務めた少年)となり、その頃から連歌を学んだ。十九歳の時、奈良に来た連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)に和歌や物語を学んだ。天文二〇(一五五一)年頃より、独立した連歌師として活動を始め、昌休の兄弟子であった宗養(そうよう)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの戦国武将をはじめ公家・高僧らとも交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、「本能寺の変」直前に光秀と連歌を詠み(「愛宕(あたご)百韻」)、変の後には、秀吉に句の吟味を受けたことはよく知られる。秀吉の側近として外交・人事などにも関わったが、文禄四(一五九五)年の秀次の切腹事件に連座して失脚し、失意のうちに没した。彼は連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営を中心としたため、作風や理論に新しみが少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価も一部でなされているが、連歌を広く普及させた功績も大きく、優れた句もまま見られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ついぢ」築地。柱を立てて板を芯とし、両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀。公家方は屋敷の周囲にこれを巡らすのが通例であったことから、公卿方の代名詞ともなった。「新つくば集」室町後期の準勅撰連歌集「新撰菟玖波集」。南北朝時代の正平一一/文和五(一三五六)年に関白二条良基が救済(ぐさい)の協力を得て撰した堂上方の準勅撰連歌集「菟玖波集」(全二十巻)に擬して作られた。飯尾宗祇を中心に兼載・肖柏・宗長らが参加した。全二十巻。明応四(一四九五)年成立。一条冬良(ふゆら)の「仮名序」がある。永享以後約六十年間の二千句余を集め、作者は心敬・宗砌(そうぜい)・専順・大内政弘・智蘊(ちうん)・宗祇・兼載・宗伊・能阿・行助・三条西実隆・肖柏ら二百五十名余に及ぶ。宗祇時代の連歌を代表し、「菟玖波集」とともに連歌史上、重要な集である。大内政弘の奏請により、勅撰に準じた。

「法橋」法橋上人位の略。律師の僧綱(そうごう)に授けられる僧位で、法印・法眼とともに貞観六(八六四)年に制定された。後に一般の僧にも授けられるようになり、人数も次第に増加し、さらに仏師や絵師にも叙任されるに至った。

「筑紫より連歌をもて京師に來り」不審。出羽国の大名で最上氏第十一代当主にして出羽山形藩初代藩主で、伊達政宗の伯父に当たる最上義光(よしあき)の家臣の兵法家としてしられた堀喜吽(きうん ?~慶長五(一六〇〇)年)という御伽衆がおり、彼は筑前生まれで「筑紫喜吽」とも称し、連歌にも長じて、紹巴とも同座しているので、混同したものか? 彼は慶長の「出羽合戦」の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死している。

「松永彈正」戦国大名松永久秀(永正五(一五〇八)年~天正五(一五七七)年)。連歌を好んだ。

「政宗」仙台藩藩祖伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。やはり連歌を好んだ。

「片倉小十郞」伊達家家臣で伊達政宗の近習であった片倉景綱(弘治三(一五五七)年~元和元(一六一五)年)の通称。後に軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏初代。

「社稷の臣」元来は古代中国で天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)で、そこから転じて「国」の意。

「をく」ママ。]

2020/02/04

譚海 卷之三 本願寺卽位の料を獻ず

本願寺卽位の料を獻ず

○後柏原院の御時、戰鬪打つゞき、既に御卽位の禮行るべき樣なかりしに、本願寺より御卽位料として三千貫の鏡を獻ぜしに付て、御卽位の禮調へられ、此賞に仍(よつ)て門跡の號を賜り、大僧正に任ぜられたりとぞ。是より代々本願寺相襲(さうしふ)して、門跡と稱する事に成(なり)たりとぞ。又一度は御卽位料毛利家より奉りける事有といへり。

[やぶちゃん注:「後柏原院」後柏原天皇(寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年/在位:明応九(一五〇〇)年~没まで)。彼は明応九(一五〇〇)年十月二十五日に後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかし、「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年まで約十一年間に亙って継続した)後の混乱のため、朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は二十六年に及んだが、即位の礼を挙げるまで実に二十一年を待たなくてはならなかった。第十一代将軍足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金し、それを天皇の即位の礼の費用に当てることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王とは認められない。儀式を挙げなくても、私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など、無駄なことである」と反対し、群臣も同意したため、この献金は沙汰止みとなり、期待される主要な献金元であるはずの室町幕府や守護大名も逼迫していたため、資金はなかなか集まらなかった。費用調達のため、朝廷の儀式を中止するなど、経費節約をし、幕府や本願寺九世実如(長禄二(一四五八)年~大永五(一五二五)年:蓮如の五男)の献金を合わせることで、即位二十二年目の大永元(一五二一)年三月二十二日、漸く即位の礼を執り行うことが出来た。但し、この時も、直前に将軍足利義稙(よしたに:第十代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して、開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行、警固の責を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった、とウィキの「後柏原天皇」にある。]

2020/01/16

譚海 卷之三 御讓位の節の事

御讓位の節の事

○往古は天子の寶璽(ほうじ)六つありしが、亂世をへて悉く紛失せりとぞ。今世もし一つを得て奉る人あれば、宮人に拜せられるゝといへり。天明五年[やぶちゃん注:ママ。]春、筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)と云所にて、地を掘て金印壹を得たり。倭奴國王(かんのわのなのこくわう)の四字有、後漢孝武帝[やぶちゃん注:ママ。]賜るもののよし。當時筑紫に熊襲(くまそ)有て、使を通じたるに賜りたる者にやと云り。

○御讓位の時、院の御所へうつらせ給ふ御供に、時の關白殿束帶にて、三種の神寶を隨身(ずいじん)有。同じ院の御所へ參られ、直に又新帝へ神寶を御渡有由にて、關白殿引返し神寶を持歸り、禁中へ納めらるゝ也。院の御所へ御移の時鳳輦(ほうれん)也。舁(かく)所の棒四角に稜ありて、殊に重きやうす也。數十人にて舁事にして、舁人は皆地子(ぢし)免許の町人勤(つとむ)る也。是は前年出火の時火内裏に及しに、駕輿丁間にあはざる事ありしを、京都の町人走り參り、鳳輦を舁てのけ奉りし勞によりて、長く地子免許ありしより、今に鳳輦をば此町人かく事になれりとぞ。京都の町人地子免許の者は、門に諸役免許の札をかけ置也。

[やぶちゃん注:目録から、二つを並べて採った。

「天明五年春」金印の発見は現在は天明年間(一七八一年~一七八九年)とし、或いは天明四年二月二十三日(一七八四年四月十二日)に限定する説もあるウィキの「漢委奴国王印」に拠る)。

「筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)」これは博多湾に突き出た現在の福岡県福岡市東区大字志賀島(しかのじま)の叶浜(かのうがはま)(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「漢委奴国王印」には、大正三(一九一四)年に『九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には』大正一二(一九二三)年に『「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された』。しかし、その後、第二次世界大戦後、二回に亙って『志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された』。『ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく』、『新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない』。後に二回、『福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている』とある。しかし、「福岡市博物館」公式サイト内の「金印」によれば、『出土地について文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場します。ここにいう「叶崎(かなのさき)」は「叶ノ浜」に含まれる海に突き出た部分と考えられます。金印の出土地点を最初に推定したのは病理学者でもあった九州考古学の草分け中山平次郎で、大正時代の初めのことです。その根拠となったのは古老の記憶と志賀海神社宮司の安雲(あずみ)家に伝わる『筑前国続風土記附録』の付絵図の描写によるものでした』とあって、さらに『金印の出土地は中山平次郎が推定したように石碑から海に向かって右斜め前に行ったところとするのが妥当のようです』とある。現在の「金印公園」は東区大字志賀島内であり、リンクの地図でも判る通り、現在の叶浜よりもやや南東の位置にある。まあ、古くはこの金印公園から現在の大字叶浜一帯を「叶浜」と呼んでいたと考えれば、齟齬はない。因みに、「叶う」というのは「大きな船が停泊することが叶う浜」という意味であろうという記載を個人ブログ「ひもろぎ逍遥」のこちらで見出せた。また、ウィキによれば、『水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち』、『金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に』人為的に『隠されていた』(太字下線は私が附した)ということになる。『発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は』「後漢書」に『記述のある金印とはこれのことであると同定し』、「金印弁」という『鑑定書を著している』とある。ここに出る「後漢書」のそれは「卷八十五」の「列傳卷七十五 東夷傳」にある、

   *

建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬

(建武中元(けんぶちゆうげん)二年、倭奴國(わのなのくに)、貢を奉じて朝賀す。使人、自ら「大夫」と稱す。倭國の極南の界(さかひ)なり。光武、賜ふに印綬を以つてす。)

   *

を指す。「建武中元二年」は紀元後五十七年に相当する。また、ウィキには『九州王朝説』(歴史学者古田武彦によって戦後に提唱された七世紀末まで九州に日本を代表する王朝「邪馬台国」があり、太宰府がその首都で、それが倭国の前身であるとする説。但し、現在は学問的にも邪馬台国論争でも支持されていない)『では、皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い』『(金印は陪臣に与えるものでない)こと』、『及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはなく、卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり』、『倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が使われ続け、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたとし、従って「漢委奴國王」印の最後の所有者は卑弥呼であったと』している(いた)とある。

「後漢孝武帝」後漢王朝の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年)の誤り

「筑紫」(ちくし/つくし)福岡県のほぼ全域を指す古称であるが、さらに古くは九州全体或いは九州中南部を称する語でもあった。ここは後者で採るべきか。

「熊襲(くまそ)」記紀の伝承では、九州中南部に住み、長く大和朝廷に服属しなかった種族とされ、「風土記」では球磨噌唹(くまそお)と連称しており、「くま」は肥後国球磨郡地方を、「そお」は大隅国噌唹郡地方を指す。熊襲はこれらの地方に勢力を揮った種族と考えられるが、確かなことは不明で、人種・民族の系統も不詳ながら、隼人(はやと)族(古代南九州に居住していた部族。主として大隅・薩摩地方を根拠地としていた。五世紀中頃には大和朝廷に服属し、勇猛敏捷であったため、徴発されて、宮門の警衛や行幸の先駆などを勤めた)と同一種族で、南方系民族とする説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

【二条目】

「隨身」身辺に供としてつき従うこと。

「鳳輦」屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿(こし)。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩で担(かつ)ぐ。天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会・御禊(ごけい)・朝覲(ちょうきん)・節会などの晴れの儀式の行幸に用いた。

「地子(ぢし)免許」「地子」は「ちし」とも読み。律令制下に於いては、諸国の官有地を農民に貸し付けて上納させた地代を指し、定額は収穫の五分の一であった。位田・職田・没官(もつかん)田・乗田など、地子を納める田を「輸地子田」といった。荘園制下の地子は、田地に課せられる年貢に対して、公事、殊に畑や屋敷に課せられる税を意味し、銭による納入の場合が多かった。江戸時代に於いては、地子は専ら、町屋地に課せられる税の意に用いられ、銀或いは銭を以って納めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここはそれを納める義務を朝廷から公式に免除されたことを指す。

「前年」「さきのとし」で、広義の記載時よりも前の年の謂いで、これは宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に京都で発生した「宝永の大火」であろう。禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上し、九条家・鷹司家を始めとする公家の邸宅や、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした四百十七ヶ町、一万三百五十一軒が焼けた。天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に発生した天明の大火でも御所が延焼しているが、本篇は「譚海」の「卷三」所収なわけだが、底本の竹内利美氏の解題によれば、「卷二」から「卷四」は最新記事でも天明五年が下限であるから、それではない。

「丁間」「ちやうかん(ちょうかん)」或いは「ちやうけん(ちょうけん)」であろう。「丁」は「町」で「町屋」、庶民の住む区画の謂いで、「間」はその街路の幅のことと思われる。ここは鳳輦が大き過ぎて、町屋の間を抜けて避難する(本文の「のけ」(退く))際に難渋したのを、その町人たちが自発的に担いで渡し、ことなきを得たことを指していよう。]

2019/12/25

譚海 卷之三 山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事

山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事

○營中の重器に、凡河内躬恆(おほしかふちのみつね)が所持の山下水といふ箏(こと)有。眞(まこと)に貫之が眞蹟にて、足曳の山下水は行かよひことのねにさへながるべらなりと云(いふ)和歌しるしあり。又蟬丸所持の琵琶といふものあり、又王羲之(わうぎし)・佐理(すけまさ)卿の眞蹟有。羲之は弘法大師にかよひ、佐理卿は東坡居士に似たりといへり。小倉色紙(おぐらしきし)は赤人の田子の浦の歌ありとぞ。神功皇后のゑびらのうつしといふもの有、京都の寺に本(もと)あるをうつさせられしと也、竹にてこしらへたる物也。又さかつらと云ゑびらは重器にて、殊に拜見成難(なりがた)き事也とぞ。豐臣太閤より進ぜられし十文字の鑓(やり)は、五三の桐の紋あり。又虎の皮のなげさやの鑓は、鎭西八郞爲朝の矢の根也とぞ。儲君(ちよくん)御持鑓(ごじやり)もその如くに、下取[やぶちゃん注:「取」には編者竹内利美氏により脇に『(板)』と補正注が有る。「したいた」。]うちて奉るとぞ。新古ともに分ちがたき程の出來也。只古身(ふるみ)は少しやせて見ゆるばかり也。御旗印は金の扇子也。長さ九尺、ほねのわたりは壹間なり。にくろめにて中の十本はくじらの骨也。東照宮御所持の御手槍は、御庭御步行(おんありき)にも隨身(ずいじん)ある事也とぞ。

[やぶちゃん注:「凡河内躬恆」(生没年未詳。一説に、貞観元(八五九)年頃~延長三(九二五)年頃とも)は平安前・中期の歌人。諸国で目(さかん)・掾(じょう)などの地方官を務め、延喜二一(九二一)年に淡路権掾(あわじのごんのじょう)となっている。この間、「古今和歌集」の撰者となり、同集には紀貫之に次ぐ六十首もの歌が採られている。三十六歌仙の一人。

「箏」ここは近世以後の代字(当て字)の「琴」と同義であろうと踏んで「こと」と訓じた。ここで言うそれが現在も残っているかどうかは私は不詳。同名異物の徳川秀忠が娘和子の嫁入り道具として作った琴「山下水」があるので注意されたい。

「蟬丸」平安前期の歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子ともされる謎の人物で、逢坂の関辺りに住んだ盲目の僧。「後撰和歌集」(天暦(九四七年~九五七年)末年頃には完成したか)以下に四首入集し、「今昔物語集」巻二十四・「平家物語」巻十一などにその名が見え、能及び近松門左衛門の浄瑠璃に「蝉丸」がある。琵琶の名手で、逢坂関明神に祀られてある。

「王羲之」(三〇七年~三六五年)は東晋の「書聖」とされる書家。琅邪臨沂(ろうやりんき)(現在の山東省)出身。その書は古今第一とされ、行書「蘭亭序」、草書「十七帖」などが有名。子で書家の王献之とともに「二王」と称される。

「佐理(すけまさ)」藤原佐理(天慶七(九四四)年~長徳四(九九八)年)は平安中期の公卿で能書家。藤原北家小野宮流で摂政関白太政大臣藤原実頼の孫、左近衛少将藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書の達人として知られる。

「小倉色紙」藤原定家筆と伝えられる「小倉百人一首」の色紙。「明月記」の嘉禎元(一二三五)年の条に、定家が嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇以下百人の和歌を書いた記事があり、世に称する「小倉色紙」はこれに相当すると言い、それならば、定家七十四歳の折りの書となるが、現存する複数の色紙は後世に筆写したものもあり、疑問な点が多い。

「五三の桐の紋」桐紋の内で一般的な、花序につく花の数が三・五・三である「五三桐(ごさんのきり/ごさんぎり)」。これウィキの「桐紋」の画像)。

「なげさや」貂(てん)・豹・虎などの毛皮を袋として鞘を包んで上端を長く垂らした投鞘(なげざや)のこと。

「儲君(ちよくん)」皇太子(東宮・儲王(もうけのきみ)の異名。

「下取→下板」不詳。鎗の刀身の下部(柄に差す上部)に板を打ち付けたものか。

「古身」刀身部か。

「壹間」一メートル八十二センチメートル弱。開いた扇子の横最大長であろうか。

「にくろめ」不詳。煮黒目(にぐろめ)か。硫化カリウム溶液を浸けて化学変化で黒に色上げしていく技法で、溶液の濃度や浸ける時間によって黒の濃さを調整することが出来る。]

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