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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の343件の記事

2022/05/08

譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事

 

○信州にては、窮僻(きゆうへき)の高山に登りて常に薪を取(とる)也。登る時は蔦(つた)かづらにすがり、岩角などをふみてやうやうに登り、思ふまゝに薪を取、かずかずにつかねて、山よりなげおとして、一日の内に夥敷(おびただしき)薪を取事也。扨(さて)下らんとする時は、道なきけはしき山をも、薪の束(つか)ねたるを五六把(ぱ)腰にゆはへ付(つけ)て、夫(それ)に乘(のり)て絶壁をすべりて下(くだ)るといふ、和歌に柴車とよめるも此類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:「窮僻」極めて辺鄙な場所。

「柴車」「しばぐるま」。柴を丸く束ねておいて、それを山の上から転がし落とすこと及びそのものを言う。ここに言うように、歌語として知れる。例えば、「堀河百首」(堀河百首(長治二(一一〇五)年か翌年頃)の「雜」の大江匡房(まさふさ)の、

 柴車落ち來るほどにあしひきの山の高さを空に知るかな

や、同じ折りの修理大夫顕季の、

 峯高きこしのを山にいる人は柴車にてかへるなりけり

或いは、「梁塵秘抄」の巻第二「雜 八十六首」の三七四番の以下などがある。

   *

 すぐれて速きもの

 鷂(はいたか) 隼(はやぶさ) 手なる鷹

 瀧の水 山より落ち來る柴車(しばぐるま)

 三所(さんしよ) 五所に申すこと

   *

「鷂」は私のこちら、「隼」はこちらを参照。最終行は熊野三所権現と熊野五所王子への祝詞(のりと)の意。]

譚海 卷之五 同國猿の事

 

○四國の猿は、飼(かひ)なして舞踏ををしふるに、よく曲節(きよくふし)にあたりて、觀物(みせもの)に供するに足る。他邦の猿はかく在(ある)事なし。四國にてもかしこき猿ならでは、敎(をしへ)を立(た)つる事成難(なりがた)し。山中の民此猿を生(いけ)どるには、戶棚を拵(こしら)へ、戶の内にくろゝを仕付(しつけ)、戶をたつれば内にてくろゝ下(さが)るやうにせしを山中へ持行(もちゆき)、戶棚の内に食物(くひもの)を置(おき)て、猿のあつまり來たるとき、先(まづ)その人戶棚の内へ入(いり)て戶をさしあけて出で、又入て戶をさし、此體(このてい)をあまたたび猿に見せ置(おき)て、其後かくれて伺ひをれば、猿ども此食物をくらはんとして、戶棚に入て生(いけ)どらるゝ也。但(ただし)愚(おろか)なる猿は、戶棚の内に入て物くふばかりにて、やがてにげ行(ゆく)ゆゑ生どらるゝ事なし。かしこき猿は戶棚に入て、跡より友猿(ともざる)の來らん事をはかりて、戶をたてて物くふ故、くろゝ下りて出る事あたはず、生どりにせらるゝと云。

[やぶちゃん注:「同國」前話を受ける。

「くろゝ」「くるる」の音変化であるが、「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部(左丁六行目)を見たところ、はっきりと「くるゝ」(「類」の草書体「る」)となっていることが確認出来た。「枢」で、戸締まりのために戸の桟から敷居に差し込む止め木及びその仕掛けを指す。]

譚海 卷之五 土州夏月潮いきれ幷豆州南海黑汐の事

 

○土佐國は極南の地ゆゑ、夏月殊に凌(しのぎ)がたし。酷暑の比(ころ)は時々盬いきれといふ事有。一日海上風絕(たつ)て波のたゝぬ日は、黃昏(たそがれ)より何となく心わるく、諸人屋内に往する事叶はず、庭中或は往還の道路にいでて、むしろ或は床几(しやうぎ)などをもうけて露席(ろせき)し、食事起臥をする事とぞ。裸體に成(なり)ても堪(たへ)がたく、眠(ねむり)に就(つい)てもまどろまれず、茫然として夜(よ)をあかす。やうやう夜半曉(あかつき)ちかく成(なり)て、身體も冷敷(すずしく)心よき事にて、始めて屋内に入(いり)て寢に就(つく)事也。是は絡日炎天に照されたる潮の氣醒(さめ)ずして、一國に𣎰[やぶちゃん注:底本では右に『(熏)』と編者傍注がある。](くん)じみち、其氣に蒸(む)るゝ故(ゆゑ)堪がたく暑き也。夜半より炎氣やうやうさめゆけば、涼しくなる事といへり。江戶にても鐵炮洲(てつぱうず)の邊は、暑月は時々かやうなる事あり。但(ただし)是は黃昏よりある事にはあらず、夜分七つ比(ごろ)より明かたまで、あつく苦しくして、家々門戶を明(あけ)とほし起居(おきを)る。一時(いつとき)ばかり過(すぐ)れば、涼氣を催し、明方よりまどろむ事といへり。是も盬いきれのわざなるべし。又伊豆の南海中に、秋夏の交(かはり)は黑汐といふものあり、陸より一里斗りを隔てし波の上に、黑く凝(こり)て流るゝやうに見ゆ、是も炎氣にむされて、鹽のこりかたまりたるがなす所也。渡海の舟人惧(おそれ)て是を避(さく)る也。もし此黑汐にあへば船をくつがへさる、また左(さ)なくても、人々病氣をうくるといへり。

[やぶちゃん注:「潮いきれ」この呼称は、少なくとも現在は生き残っていないようである。

「鐵炮洲」東京都中央区東部の地名。現在の湊町・明石町に相当する。地名は徳川家康の入府当時、鉄砲の形をした洲の島であったこと、また、寛永(一六二四年~一六四四年)の頃、この洲で鉄砲の試射をしたことによるとも言う。鉄砲洲稲荷などに名称が残る。隅田川西岸にあり、江戸時代は港として栄えた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「七つ」午前四時前後。]

2022/05/01

譚海 卷之五 奥州津輕より松前へ渡り幷蝦夷風俗の事 附數の子・鮭魚漁獵の事

 

[やぶちゃん注:二〇一五年の九月に電子化注を始動したが、途中、特に「卷四」の公家方の話が退屈で、暫くスルーしていたため、なかなか進まなかった。全十四巻だから、まだ三分の一弱だが、スピードを上げる。今一度、現在の凡例を確認しておくと、底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。底本では目録に一括して示されてある標題を各話の冒頭に配した。原則、底本のままに活字化した上で(底本の句読点は、原則、いじらない)、一部、読みにくいと私が判断した箇所に、私の推定する読みを( )で歴史的仮名遣で振った。不審な箇所は、私の底本と同一底本である国立国会図書館デジタルコレクションの画像(第五巻冒頭をリンクさせた)及び「国文学資料館」の写本(同前)も参考にした。また、数少ない底本のルビは、以下の通り、その旨を指示した。]

 

 譚 海 卷の五

 

〇津輕より松前へわたる所をたつひといふ。渡口(わたりくち)半里ほど、其間(そのあひだ)北より東へ潮の流(ながる)る事晝夜絕ず、潮はやくしてたぎり川の如し。夫故(それゆゑ)此わたり口甚(はなはだ)難儀なれば、東風はげしき折を見合(みあひ)船をいだす事なり。帆を船の橫にはり、東風をうけてわたる。隨分北によりて上のかたより船を出(いだ)せども、潮に押ながされて向ふへ着(つく)所は東のはづれへ着事也。渡るとき鼻紙などを流し見るに、暫時に十里斗りはうきつしづみつ流るるといふ。又松前にありて外(そと)[やぶちゃん注:原本のルビ。]蝦夷の地に至りて見れば、東は海にてみな赤き泥なれば、船の往來なりがたく見ゆ。泥中によしの如く葉もなき草かぎりなく生(はえ)てあり。每朝日の出る前方には、はるかに雷の如くひゞく也、其ひゞき收(をさむ)れば日はいづる、其鳴ひゞくとき、此泥中に生(お)ひたるよしの如き物のはへぎはより、ぶつぶつと沫(あは)わき、海水にえかへるやうに覺ゆ。松前は五穀を生ずる事なき故、皆他國より持渡(もちわた)りてあきなふ。夫故(それゆゑ)雪隱(せつちん)といふものもなし、大小便とも海邊(うみべ)へ仕(し)ちらし置(おく)事也。又外蝦夷の地にしりべち山と云高山有、殘らず岩ほの色五色にして見事也、山上に神ありて、時々遊戲する體(てい)山下より望み見ゆる也。蝦夷人は刄物(はもの)を作る事をしらず、又たばこも彼(かの)地になし、皆此邦より持渡りて交易する也。交易する所より奧へは此邦の人ゆく事ならぬゆゑ、交易のものを持(もち)はこびて、其所(そのところ)にならべ置けば、ゑぞ人(びと)來りて彼の方の產物に取かへもてゆく也。昔は斧・まさかり・庖丁・小刀の類、いくらもなまくら物を持行(もちゆき)て交易せしが、今はゑぞ人かしこく成(なり)て、刄物をならべ置(おく)所へ石を抱(いだ)き來り、刄物を其石にうちあてゝ試(こころみ)る、刄こぼれ又はまがりなどすれば、打やりて返りみず、刄よきものをゑりてかふる事に成たり。ゑぞの產物は大抵昆布・飴・にしむなどの類也。昆布は一ふさにて十間二拾間づつにつゞけり、百間に及ぶ物もあり。にしむといふはかづの子の親也。鮭は秋の末いくらも海よりのぼりくるを、やすといふものにてさして取也。此邦よりましけ船とて、每年五六艘十艘ほどづつ鮭をかえに行(ゆく)也。此船底(ふなぞこ)には盬百俵つみ入(いれ)、上荷(うはに)には刄物・たばこ・酒などを積(つみ)て行(ゆく)。扨(さて)每年着岸の地へ至れば、蝦夷人來りて交易を乞ふ。上積(うはづみ)せし刄物の類(たぐひ)を渡しやれば、ゑぞ人うけがひて船をとゞめ置(おき)、秋の末鮭の上(のぼ)る時、ゑぞ人海邊に出(いで)て鮭をつき取、いくらとなく船頭にわたす、一日に千二千の數に及ぶ。其鮭を船底より盬にて漬(つけ)ひたし、船の椽(ふち)に及ぶまで積(つむ)事故、夥敷(おびただしき)鮭を得る事也。夫(それ)をよき程にして歸らんとすれども、鮭の盛(さかん)に上る時は、ゑぞ人あまりきほひ勇(いさ)みて、今一日々々とゞめて、歸る事をゆるさず。然(しか)れども見はからひて早く歸船(かへりぶね)すれば難なし、もし歸りおくるゝときは、洋中(やうちゆう)にていつも颶風(ぐふう)の發(おこ)る比(ころ)に逢(あひ)て、船をくつがへさるゝ事也。萬一無難にして歸京すれば、巨萬の利を得(うる)事なれども、多(おほく)はゑぞにとどめられ、鮭の獵(れう)澤山有(ある)にひかれて逗留を過(すご)すゆゑ、無言にて歸る船少(すくな)し。年々五そふ六そふづつは破船に及べども、貪利(どんり)の徒(と)こりる事なく、ましけ船仕立(したてて)ゆく事悲(かなし)むべきわざ也。

[やぶちゃん注:「たつひ」青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍(みんまやたつはま)浜にある津軽半島の最北端龍飛崎(たっぴざき:グーグル・マップ・データ)。最も近い北海道松前郡松前町白神の白神岬とは津軽海峡を挟んで十九・五キロメート離れる。

「はへぎは」「生え際」。

「外蝦夷地」この場合、松前藩の領地以外の西蝦夷地と東蝦夷地を指す。小学館「日本大百科全書」の「蝦夷地」の解説と、「蝦夷地の範囲と略年表」の画像を見られるのがよい。本書「譚海」の成立は寛政七(一七九五)年であるから、松前藩が一応、北海道一円を支配地としてはいた。

「しりべち山」尻別岳(しりべつだけ)。標高千百七・二七メートル。アイヌの人々はピンネシリ(雄山)と呼んで、北西十キロ余にある羊蹄山(千八百九十八メートル)と対比させて呼んだ。後の入植者の呼称は「前方羊蹄山」。

「十間」十八・一八メートル。

「にしむ」条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii。「かづの子」ともに私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰊(かど) (ニシン)」を参照されたい。

「やす」漁具の突き銛(もり)の簎(やす)。

「ましけ船」不詳。時代的に見て、宝暦元(一七五一)年に松前の商人村山伝兵衛(能登国出身)が函館奉行所より、増毛場所を請け負い、増毛に出張番屋を設けて交易を始めているから、ここへ向かう内地日本の船を、かく呼んだのではあるまいか。名はアイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(鷗(かもめ)の多いところ)に由来する。まさに鮭がやってくるくるから、鷗も来るのである。

「颶風」強く激しい風。]

2022/04/30

譚海 卷之四 同所小山驛天王寺古跡幷大谷の觀音・ゆづる觀音・岩船地藏尊の事 / 譚海 卷之四~了

 

○同所小山(おやま)驛に天王寺といふ有、小山判官の菩提寺也。驛より東の方ヘ松杉茂(しげ)たる道を四五町行(ゆく)所に有。則小山判官の系圖同じく鎧かぶとなど什物に傳(つたへ)て有。又此寺四五町脇に小山氏の古城の跡有、澤をわたりて山をこえて至る、荊棘(けいきよく)道をふさぐ。大(おほき)なる銀杏樹(いちやう)のもとに古井(ふるゐ)有、其かたわらに七つ石とて、殊に大なる石七つ有、はまぐりの如く、半月の形ちの如く、龜の甲の如く、ひきかへるの如く、皆一丈餘なる物也。此城の堀は昔龜の字の畫(ゑ)にほるといへり。めぐりめぐりて半(なかば)は草に沒し、人跡(じんせき)まれなる所とぞ。又ゆづる・岩船(いはふね)・大谷とて參詣する所は、日光山の西に付(つき)てあり。ゆづるの觀世昔は山谷(さんこく)の間にして岩を切(きり)うがち、洞(ほら)の中に丈六の觀音を同じ岩に鑱付(ほりつけ)て有。其洞の入口の上のかたに大蓮花をえり付(つけ)たる。わたり一丈餘有、山水(やまみづ)此蓮花をつたひてしたゝるゝ面白き事也。山上に胎内くゞりなどとて深き洞穴(ほらあな)有、甚(はなはだ)せばくして漸(やうやう)ぬけらるゝ所ありとぞ。又岩船地藏尊は山の高き所に、船のかたちにて大なる一枚の岩(いは)深谷(ふかきたに)にさし出(いで)てあり。其へさきに石體(せきたい)の地藏ぼさつ、谷のかたへむいて立(たち)ておはす、夫(それ)を正面より拜み奉らんとて、此岩船をめぐりて、谷をうしろにして地藏尊をおがむ事也、足うごもちて甚おそろしき所也。其岩の上より遠望すれば、村落所々に有(あり)て甚(はなはだ)佳景なりとぞ。又大谷の觀音は同じく深山中にあり、谷にのぞきて、大なるいはほかさなり出たるうヘに、本堂をつくりかけて、其堂なかばは岩石をつくり足したるもの也。山を洞の如くきりひらきて、奥に丈六の觀音をほりうがちたり、此邊すべて大石のみ多し、別當の庭池をうがち、山水を引(ひき)佳景也。

[やぶちゃん注:「同所」前の「下野國萱橋白蛇の異病はじまる事」を受けたもの。

「小小山驛に天王寺といふ有、山判官の菩提寺也」この寺は栃木県小山市本郷町にある曹洞宗の天翁院(てんのういん)の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『小山氏の菩提寺として知られ』久寿二(一一五五)年、『小山政光の開基といわれる。当初は北山(小山市中久喜地内)に創建されたが』、文明四(一四七二)年、『小山持政が培芝正悦(ばいし しょうえつ)を中興開山の師として招聘し、現在地に移建した。とくに』十八『代小山高朝に崇敬され、この頃に小山市の菩提寺として発展した』。『院号の天翁院は、小山高朝の法名「天翁考運」にちなむ』とある。但し、ここに出る三人の当主は孰れも「判官」を名乗ったことはない。官位で判官を名乗ったのは小山氏第八代当主小山秀朝や、一族の一人である小山隆政がいるが、彼らを上の三名を差し置いて示すのはおかしい。よく判らぬ。以下の城の謂いから、津村は鎌倉初期の小山家の祖である政光を指してこう言っているものと断ずる。

「小山氏の古城の跡有」小山城。別名は「祇園城」。当該ウィキによれば、久安四(一一四八)年に『小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し』、『藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った』。『小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった』。康暦二(一三八〇)年から永徳二(一三八三)年に『かけて起こった』「小山義政の乱」(室町前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱)『では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は』この『乱で鎌倉府により追討され』、『断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した』。『その後は、代々小山氏の居城であったが』、天正四(一五七六)年に『小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点と』なった。『小田原征伐ののち』、慶長一二(一六〇二)年『頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は』元和五(一六一九)年、『宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった』とあり、さらに過去に『発掘調査で礎石と思われるものが確認され』、『小山城のあった場所は、現在、城山公園となっている。すぐ近くにある小山市役所の正面入り口前の駐車場に「小山評定跡」石碑と由来碑が設置されている。各曲輪はいずれも空堀によって隔てられており、土塁、空堀、馬出しなどの遺構が明瞭に残っている。また遺構は隣接する天翁院(小山氏の菩提寺)にも残っており、空堀や土塁が確認できる。城山公園の南側には小山御殿跡』(元和八年)があるとあり、また、『城跡内には実無しイチョウという古木があり、小山市の天然記念物』『に指定されている』とある。「龜」の字型の堀というのは異様に複雑で、そんな痕跡があるのであれば、これは見て見たいものだ。城跡はここ

「ゆづる・岩船・大谷」底本の竹内利美氏の注に、以上は、『いずる観音・岩舟地蔵・大谷観音』を指し、『栃木県の出流(いづる)山の観音、石灰洞の奇勝に仏を奉安する満願寺がある。大谷観音は多気山の洞窟に石仏を奉置してある、大谷寺。大谷石の産地でもある。岩舟山は都賀郡にあり、山上に地蔵尊を祭る高勝寺がある。同じく岩山の奇勝で、石材の産出もおこなわれている。』とある。一番目は栃木県栃木市出流町にある真言宗出流山(いずるさん)満願寺。本尊は伝空海作の千手観世音菩薩。二番目は。栃木県宇都宮市大谷町にある天台宗天開山浄土院大谷寺(おおやじ)。三番目は栃木県栃木市岩舟町静にある天台宗岩船山高勝寺の岩船地蔵尊

「うごもちて」どうもぴんとこない。この語はモグラの古名「うごろもち」で判る通り、「土などが高く盛り上がる」の意である。怖くなって足がむくんで思うように動かなくなるということか。]

譚海 卷之四 下野國萱橋白蛇の異病はじまる事

 

○下野(しもつけ)結城萱橋の邊にて、天明卯年淺間山燒(やけ)たる後より白蛇纏(しろへびまとひ)と云(いふ)病はやるよし。その病體(びやうたい)背中にかんぴやうほどの太さにて白きもの一筋橫に出來る。日數(ひかず)を經(ふ)ればたすきをかけたる如く胸へまはり、はらのうへにて此筋(このすぢ)合(がつ)するときは死するなり。醫療殊にむづかしく、難治の症也、いかなる事ともしらず、昔よりなき病(やまひ)也といへり。

[やぶちゃん注:「下野結城萱橋」栃木県小山(おやま)市萱橋(かやはし)(グーグル・マップ・データ)。この話、非常に興味があるのだが、ネット上には全く記載がない。何か見つけたら、追記する。]

譚海 卷之四 湖水の氣雲となり幷富士山雨占候の事

 

○甲州の人かたりしは、湖水の氣のぼりて雲と成(なる)と覺えたり。其國に湖水多し、時(とき)有(あり)て湖水の上に雲(くも)現ず。苒々(ぜんぜん)にして鮮(あざやか)なる形(かたち)其儘の湖水の中に現(あらは)る也。空に現ずる雲の姿にて湖水の形しらるゝといへり。又わたぼうしほどの雲空に現じて、苒々にふじの山に近づく、富士山の上に雲至る時、黑き色に成(なる)時はまのあたり雨ふる、白ければ雨降(ふら)ずと云。

[やぶちゃん注:「苒々」この場合は、時間がゆっくると経過するさまを言う。]

譚海 卷之四 箱根の湖水を拔取て甲州の田にかくる事

 

○近年箱根の湖水を拔(ぬき)て、甲州の田地にひたす事有、御代官田中氏の工夫也といへり。甲相のあひだにあたりて、湖水より三里ほど退(のき)てあらたに山間を掘(ほり)て、水道をこしらへたれば、三里のあひだ湖水地中を伏しくゞりて水道に出(いで)、迅瀨(はやせ)と成(なり)て落(おつ)るとぞ。豆州三島宿にて深夜に至る程、いづこともなく水の音漕々(さうさう)と聞ゆるは、此湖水の甲州へぬけるひゞきとぞ。

[やぶちゃん注:これは「箱根用水」。「深良(ふから)用水とも呼ぶ。但し、「甲州」というのは「駿州」の誤りである(津村はどうも地理に弱かったらしく、他でも、地理上のトンデモ齟齬を有意にやらかしている)。小学館「日本大百科全書」によれば、箱根外輪山湖尻峠の下に隧道を掘り、相模国芦ノ湖の水を駿河国駿東(すんとう)郡深良村(現在の静岡県裾野市)の深良川に注ぎ、さらに流路変更や新川掘削工事などを施して黄瀬(きせ)川に結び、嘗つての駿河国の井組(現在の水利組合)二十九ヶ村(現在の御殿場市の一部及び裾野市・長泉町(ながいずみちょう)・清水町などに相当する広域)、面積五百ヘクタール余に灌漑用水を供給した用水。この用水の特色は、相駿国境及び水系を越えた用水路であること、また、湖尻峠の下に長さ千三百四十一・八メートル、平均勾配二百五十分の一、取入口と取出口の標高差が九・八メートルという巨大な隧道を持つことである。深良村以南の地は箱根山及び愛鷹(あしたか)山の裾に開け、北から南に黄瀬川が流れているが、水量も少なく、また、深い侵食谷を形成しており、灌漑用には不十分で開発も不可能であった。寛文三(一六六三)年頃、深良村の名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)が、江戸浅草の商人と伝えられる友野与右衛門らと図り、芦ノ湖の水につき、伝統的に権限をもつ箱根権現の別当快長の理解も得て、大庭・友野らが元締めとなって、幕府に開削願いを提出、寛文六(一六六六)年に着工、四年後の寛文十年に完成させた。動員された人夫は三十三万余人、工事費も六千両とも九千七百両などともされ、工法も、火薬などを用いず、鉄鑿(のみ)だけで掘り開けたという。隧道工事の進展につれ、箱根関所の存在に関ることから、幕府などの妨害をしばしば受け、また、完成後まもなく、友野らが消息不明になるなどの奇怪な事件もあった、とある。]

譚海 卷之四 豆州あたみ溫泉・修禪寺溫泉の事 附すゝの池・帝子孫彌陀等の事

 

○伊豆國三島郡は、箱根山にて北をふさぎたる故冬も暖氣也、江戶よりは綿入一つ滅ずるといへり。梅花も冬月の内いつも盛也。又同所熱海入湯は春秋冷(すず)しき時を見はからひて行(ゆく)べし。暑月には其往還南山の腰をめぐりて行(ゆく)所四里ばかりの處有、草いきれて人(ひと)病(やむ)事也。南山四里の際(きは)休むべき人家なく、高山にて南をふさぎたれば一陣の風もなく、北に谷をみてめぐりゆけども、谷のかたは木竹(ぼくちく)しげりて又風をうくる所なし。生ひかぶさりたるきりとほしを行(ゆく)事ゆゑ、盛暑(せいしよ)は甚(はなはだ)苦しく、土地の人も日中は往來せずといへり。又あたみの溫泉ほど奇麗なるはなしとぞ、海中より盬湯(しほゆ)湧(わき)て出(いづ)るを、湯屋の軒端(のきば)つづきに懸樋(かけひ)をして湯をとる也。湯のわく事晝夜二度、潮のさしくる時ばかりわきあがるゆゑ、潮のさすまへかたに湯船をあらひこぼして、鹽湯の湧てくるを待(まつ)ゆゑ、湯船每日掃除するゆゑ奇麗也。その湯のわく時に至りては、海邊壹丈ばかり湯けぶり立のぼる、恐しき體(てい)也。中々寄(より)つかるゝ事にあらずとぞ。又豆州修善寺の溫泉をば今は湯の河原と稱す。三島驛より本道七里有、外に山中をゆけば二里ほど近道なれども、山中蛭(ひる)おほくして甚(はなはだ)難儀なり。入湯をはつて同じ山中を歸るに、蛭一切脚(あし)にとりつく事なし。溫泉の氣を蛭きらふと見えたりと人のいへり。此外所々山中に溫泉有。又奧伊豆に靑すゝの池といふ有、東鑑(あづまかがみ)に見へて古跡也、今は人跡絕(たえ)て蛇蝎(じやかつ)の叢(くさむら)也、稀に遊山(ゆさん)する人冬のあいだに行(おこなふ)事なり。又同國帝王のみだは南海にむかひたる岸に有。乘船の岸(きし)甚(はなはだ)峻岨(しゆんそ)にして、船の着(つく)べき樣(やう)なければ、五六尺を隔てて船へとび入(いる)也。さて船頭五六人にて帝王のみだへ至る、南海の岸の風をうくる所に洞(どう)有、それへ船を乘入(のりいるる)ゆゑ、波(なみ)入(いり)て船をゆりあくれば[やぶちゃん注:ママ。「あぐれば」であろう。]、洞(ほら)の喉(のど)にあたり船を碎(くだ)くゆゑ、舟人杓子(しやくし)のやうなるろにて波のうつ度(たび)に、洞をさゝへつゝ漕入(こぎい)る。十間斗り眞黑なる内を行(ゆき)て彌陀如來立(たた)せ給ふ。波のうつ度にひらひらと金色の現ずるを拜する也。さて船に繩を繫留(つなぎとめ)て洞の内にて舷(ふなばた)をたゝけば、外に引出(ひきいだ)す也。又三島と沼津との間にさかい川といふ跡有、昔は大河成(なる)にや、かち渡りの人足、錢を上(かみ)より給はりたる事舊記に有(あり)といへり。千貫戶樋のあなた也といへり。

[やぶちゃん注:「南山」考えるに、ここでは江戸の読者に向けて書いているのが明白であるから、現在の広義の呼称の箱根山全体(南足柄から明神ヶ岳)を言っているように思われる。「腰をめぐりて行」というのは、しっくりくるからである。

「海中より盬湯(しほゆ)湧(わき)て出(いづ)るを」現在の「大湯間歇泉」がそこである(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「靑すゝの池」「東鑑」(吾妻鏡)「に見へて古跡也」とあるが、私は通常の人よりも「吾妻鏡」を読んでいるが、こんな池の名を見た記憶はない。試みに、「国文学研究資料館」の「吾妻鏡データベース」で「池」と「沼」の全検索を総て見たが、このような固有名詞は検検索結果を総て見た限りでは(見落としがなければ)、存在しない。ご存知の方は御教授あられたい。

「帝王のみだ」これは現在の静岡県賀茂郡南伊豆町手石(ていし)にある自然に形成された海食洞「手石の弥陀窟(阿弥陀三尊)」で、ここ(サイド・パネル画像も見られたい)。現在も陸からは行けず、小型の舟でしか入ることは出来ない(私は行ったことがない)。「伊豆半島ジオパーク」公式サイトの「弥陀窟とその周辺」によれば、『弥陀窟は国指定天然記念物にも指定された海食洞で』、『周辺には海底を流れた溶岩(水冷破砕溶岩)が分布しており、弥陀窟はこの溶岩の中の亀裂に沿って浸食されてできたもので』あり、『波の静かな晴天で大潮の正午に入ると、奥の暗闇に』三『体の仏像が浮かび上がるといい』。『海上からしかアクセスできない上、潮が大きく引かないと船が入れ』ないとあって、『年に一度一般参拝客向けに舟が出』るとあった。弥陀三尊は恐らくシミュラクラと思われる。にしても、標題の「帝子孫」や、ここの「帝王の」という冠は異様で意味も判らぬ。まあ、思うのは現在の「手石」という地名が「帝子」や「帝」になって、それに訳の分からぬ「孫」や「王」がおどろおどろしい下らぬ尾鰭となってくっ付いた昔話にありがちな変容なのかも知れぬ、ということぐらいなものである。

「十間」十八・一八メートル。

「三島と沼津との間にさかい川といふ跡有」サイト「川の名前を調べる地図」で確認。これであろう。]

譚海 卷之四 西國うんかの年に肥後熊本・備前の事 附肥前天草の事

 

○天明より六拾年前、西國うんかといふ災(わざはひ)有。列國の大名の人民、餓死をまぬかれたる者少し。其中に備前と肥前島原と、肥後熊本とは餓死なかりしと也。備前はその儒者熊澤了海、三年のたくはひをこしらへ置(おき)たる米をもちて一國をすくひ、三十五萬石の内一人も窮民なかりし事也。島原は松平主殿頭(とものかみ)殿領所也、其(その)奉行其(それ)兼て一日一人一錢といふ事を工夫致し置(おき)、年來(としごろ)儲置(まうけおき)たる錢を此時に出(いだ)し、七萬石の内一人も餓死なかりし故(ゆゑ)上聞に達し、有德院(ゆうとくゐん)殿御目見被仰付(おめみえおほせつけられ)、御紋付拜領にて、今に其子孫あふひの時服(じふく)を着し、國家老にて有(あり)とぞ。熊本は細川家の領所にて、其用達町人(ようたつのちやうにん)倉田七郞右衞門有德(うとく)なるもの也しが、身上(しんしやう)を抛(なげう)ち仕送(しおくり)せしゆゑ、五拾四萬石又困窮に及ばず。仍(より)て細川殿自筆の賞狀を七郞右衞門に賜り、永々二百人扶持賜りけるとぞ。此賞狀當人の子、萱場町(かやばちやう)鄰家(りんか)出火に、燒失せしかども、今猶勤功(きんこう)をもちて每月二十金づつ合力(こうりよく)せらるゝ、右うんかの年(とし)功あるもの三人也と人のいへり。

[やぶちゃん注:「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「西國うんかといふ」災底本の竹内利美氏の注に、『稲の害虫イナゴやウンカが異常発生して災害をもたらしたことは、しばしばあったが、特に享保十七(一七三二)年、西日本の徨害ははなはだしく、餓死者一万二千余、飢者二六五万人に及んだという。天明より約六十年前である。』とある。イナゴ(蝗)は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧒂螽(いなご)」を、ウンカ(浮塵子)は「生物學講話 丘淺次郎 五 生血を吸ふもの~(2)」の私の注を参照されたい。

「熊澤了海」陽明学者熊沢蕃山(ばんざん 元和五(一六一九)年~元禄四(一六九一)年)の字(あざな)の一つ。当該ウィキによれば、彼は正保四(一六四七)年から明暦三(一六五七)年まで岡山藩に出仕し、承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた』が、『大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし』、『また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた』(彼は幕府からも終生に亙って睨まれた)結果、致仕している。ただ、この津村の言う天明の六十年前には、彼は既に亡くなっている。或いは、彼が慶安四(一六五一)年に岡山城下の花畠にあった屋敷「花畠教場」で陽明学を講じ、「花園会」会約を起草し、『これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった』とあり、これは実は日本最初の藩校であったと別な記載で確認出来たので、或いは、津村の言うような備蓄制度を在藩中に蕃山が提案しており、それがその後も行われたために、後代、飢饉を免れたということかも知れないが、これはただの思いつきで、よく判らぬ。

「松平主殿頭殿」肥前国島原藩の初代藩主松平忠房(元和五(一六一九)年~元禄一三(一七〇〇)年)が知られるが、ここは以下で、藩主の功として「有德院」(徳川吉宗の戒名の院号)の「御目見」を拝し、蓄財を図った奉行の子孫は国家老であるとあるからには(吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年で忠房はとうに亡くなっている)、松平分家の旗本深溝松平伊行の次男で忠房の養子となった、第二代藩主松平忠雄(延宝元(一六七三)年~享保二一(一七三六)年)となる。彼も官位は忠房と同じ主殿頭である。しかし、忠雄のウィキを見ると、元禄一五(一七〇二)年から『凶作が相次ぎ、さらに元禄期の貨幣経済の浸透により農業が衰退して藩財政が悪化した。このため、長崎商人の融資を受けている』とあり、『晩年の忠雄は次第に精彩を失うようになり』、種々の事件が勃発し、『島原藩は大いに混乱した。さらに』享保一五(一七三〇)年には五十人の『百姓が逃散し』、享保一八(一七三三)年『には虫害』(☜)、翌年には『養子に迎えていた忠救の早世』し、享保二〇(一七三五)年一月には『藩内で疫病が流行するなど、不幸の連続が続いた』とあって、竹内氏が注で指示しておられる六十年前がまさにその時期に当たり、調べれば調べるほど、うまくない反証事実しか出てこないというのは、この津村の話も話半分どころか、半分以下という気がしてくるのである。いや、そもそも最後の「倉田七郞右衞門」というのも、一体、何を生業としている御用町人一人が、どうやったら、熊本藩全体の飢民を救えるというのだ? そんな豪商で義人となら、当然の如く名も残って当たり前だろうに、ちょっと調べ見ても、見当たらない(というか、前の二つでやる気をなくしたから、熱心には調べていない。もし、実在するというのであれば、御教授戴きたい。――しかし、こうなると、これ、「三大ガッカリ」という感じが、強くしてきた。

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