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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の287件の記事

2021/06/18

譚海 卷之四 水戶光圀卿水練幷前身を知り給ふ事

水戶光圀卿水練幷(ならびに)前身を知り給ふ事

○黃門光圀卿水戶入部のとし、中川と云(いふ)湊にてはだかにて舟より水中ヘ入給ふ、近從騷動大形(おほかた)ならず。第三日の朝水上にうかび出、壺を一つ抱(かかへ)て出られたり。其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ、「中川」とて第一の祕器なりとぞ。又其年水戶御領の神社佛閣の内陣をひらかせ、自ら殘りなく拜せられ、祕佛といへども自身鍵を明(あけ)御覽ぜられしに、何の八幡宮とかやの御戶牢(かた)くとざしてあかざりつるを、山中雲平といふ士に仰(おほせ)有(あり)て明(あけ)させられしとき、覺えず脇指(わきざし)はしりぬけて、雲平右の手を切落したり。それより雲平御奉公をやめ隱居せしとぞ。光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし、たしかなる證を水戶に得給ひ、則(すなはち)埋骨の地に寺をたて、公儀へ御朱印地に御願(おんねがひ)有、免許の後(のち)無二亦寺(むにやくじ)と號せるとぞ。

[やぶちゃん注:「黃門光圀卿」常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年:よく言われる黄門は古代の国政を掌った太政官中納言の唐名黄門侍郎の略。光圀は没する十年前の元禄三(一六九〇)年に員外権中納言に任ぜられたことによる)稱代藩主徳川頼房三男。水戸城下柵町(さくまち:現在の水戸駅周辺に当たる茨城県水戸市宮町の内。南東に接して旧名の柵町が残る)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた。光圀は強烈な儒教崇拝の排仏派で(父以降の藩主の葬送は儒式で行われ、墓地も独特な石棺と廟であり、茨城県常陸太田市瑞龍町の瑞龍山にある墓域(グーグル・マップ・データ航空写真拡大。以下同じ)には一般人は立ち入ることが出来ない)自身の発案になる生涯ただ一度の長旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘で、藩内は精力的に巡検しているが、他には日光東照宮・勿来・熱海ぐらいしか行っちゃいないのである)である鎌倉への途次、六浦では石製地蔵像を縛って引き倒し、損壊して歓喜するなどの乱暴狼藉を働いており、「大日本史」「新編鎌倉志」(私はサイトのこちらで全篇を電子化注してある。また、その濫觴である「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)の電子化注もブログで完遂している)などの指揮は高く評価するが、人間的にはかなり異常行動(辻斬りや成敗と称した家臣の殺人を含む。ここでの山中雲平の脇差が走り抜けて右手を切断というのもすこぶる怪しい)の見られる近づきになりたくない人物である。詳しくは当該ウィキなどを参照されたい。

「入部」最初に彼が水戸城に入ったのは寛永九(一六三二)年(翌寛永十年十一月に世子と決められた)だが、藩主としてではなく、しかも数え五歳であり得ない。寛文元(一六六一)年七月二十九日、父頼房が水戸城で死去しており、この時が、最初の入部で数え三十四である(正式な藩主就任は八月十九日)。元禄三(一六九〇)年十月十四日に六十三で隠居しているから、その間の二十回ほどの参勤交代の、まあ、初期の話であろう。

「中川と云(いふ)湊」茨城県ひたちなか市和田町の那珂川河口の那珂湊港であろう。但し、こんな海辺は正規の参勤交代のルートではないはずである。まあ、彼ならやりかねないことではある。

「第三日の朝水上にうかび出」それはないでショウ?!

「壺」「其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ」『「中川」とて第一の祕器なり』「中川」は採取した地をつけた壺の名。壷の現存は不詳。

「何の八幡宮とかや」不詳。言い方から、知られた水戸八幡宮ではあるまい。リンクの北西にも八幡神社がある。

「山中雲平」不詳。

『光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし』うへぇエ!?! ホンマにいいんかいな? 黄門はん? 排物の権化が「高野聖」たぁお釈迦さまでも御存じあるめえ!

「たしかなる證を水戶に得給ひ」現存する。次の注の「妙経筒碑文」がそれらしい。

「無二亦寺」茨城県ひたちなか市市毛に日蓮宗一乗山無二亦寺として実在する。公式サイトのデータによれば、寛文五(一六六五)年の当時の藩主徳川光圀公の命により、次代の第三代綱条(つなえだ)公の代に建立された寺とあり、「縁起」PDF)によれば、『無二亦寺が創建されたのは、この地から青銅製の経筒が出土したいわれによる。高さ』十二センチメートル『ほどで 』、六『角形』のそれ『には、数十字が刻みこんであり』、『光圀という人が法華経一部を納めたことが記されていた。当時、現在の常陸太田市に久昌寺を建てるなど、日蓮宗に手厚い保護を加えていた徳川光圀は、このことを聞いて一寺を建立することを思いたった。』元禄一〇(一六九七)年に六十『石の地が除地として寄せられ』、『伽藍を造営したが、開堂は光圀の生存中に間に合わず』、元禄一四(一七〇一)年の『春に供養された』とあり、「妙経筒碑文」の写しの写真がある。一行目末から『本化宗者常陸人光圀納妙經之筒也』とあるのが判る。「本化(ほんげ)宗」は日蓮宗に同じ。末尾クレジットは『寶永四年丁亥』で一七〇七年である。さらに、『その翌年の元禄』十五年に『日遙が第二住職として入寺すると、藩の命令によって市毛・津田・田彦に住む者は全て無二亦寺の檀家に定められた。同時に、市毛の鹿島、吉田両明神は三十番神に、津田の鹿島明神も三十番神に、田彦の熊野三社権現は七面大明神に、それぞれ定められた上で、無二亦寺の支配にまかせられた』。『このようにみてくると、無二亦寺は水戸の徳川家と深い関係を持ち、神社を寺にとりこむことに成功した点が注目される。その信仰は、現世利益の祈禱という面がもとから相当に強かったようである』(これは昭和五〇(一九七五)年発行の「勝田市史」(民俗編)からの引用らしい)とある。『本尊は宗門で定める十界曼荼羅を掲げ、日蓮上人の木像を安置する』。『開山は京都本圀寺の僧であった日輝で』、『江戸時代には、水戸藩の保護を受けて栄えたが、幕末に徳川斉昭が断行した棄仏毀釈によって廃寺になり』、明治一〇(一八七七)年『頃にようやく再建された』とある。私としちゃあ、斉昭がやらかした気持ちは腑に落ちるね。尊崇する黄門公の瑕疵に他ならないからね。]

2021/05/30

譚海 卷之四 東海道掛川驛東西の分たる事

東海道掛川驛東西の分たる事

○東海道は、遠州掛川の驛をもつて、東西の分とするに似たり。掛川までは京都の風俗あり、夫よりこなたはみな江戸の風俗にかよへり。

[やぶちゃん注:「掛川の驛」掛川宿は東海道五十三次の二十六番目の宿場で確かに丁度、ほぼ中間地点に当たり、地図上でも直線距離で、実際にそうである。現在の静岡県掛川市の中心部(グーグル・マップ・データ)に相当し、山内一豊が改修して棲んだことで知られる掛川城の城下町でもある。当該ウィキによれば、『また、駿河湾沿岸の相良(現在の牧之原市)から秋葉山(現在の浜松市天竜区春野町)を経て、信濃国へ通じる塩の道が交差している宿場でもあった。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」』(同ウィキの画像)『には秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ秋葉山と参詣者の姿が描かれた。現在でも「秋葉通り」「秋葉路」などの地名がある』とある。]

譚海 卷之四 加州能生の事

加州能生の事

○加賀國に能生(のふ)[やぶちゃん注:底本のルビ。]と云所あり、則ち北國往還の海道なり。神のひらきたる道なりとて、みな盤石のうへをかよふ。左右は椿のはやし陰森として白日に黃昏を行くが如し、壹里あまりかくのごとし。

[やぶちゃん注:不詳。現在の新潟県糸魚川市になら、能生(のう)があるが。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

譚海 卷之四 加賀境錦帶橋の事

 

○加賀と越前との境に錦帶橋といふあり。大川にかかりたるはしなり。兩國のさかひなるゆゑ加賀の方よりは材木を用てかけられ、越前の方より石をもちてかけらる、壹つのはしを木と石にて造りたるめづらしき製作也。

[やぶちゃん注:なお、今回より、国立国会図書館デジタルコレクションで発見した国書刊行会本(大正六(一九一七)年刊。恐らくは国立国会図書館蔵本が底本)を校合に使用することとした。本条はここなお、標題の「附」は「つけたり」で、前条の「加州里數幅幷あいもとの橋の事」の附録の意である。にしても、この橋、ネット上にデータが全くない。「加賀と越前との境」にある「大川」となると、大聖寺川しか考えれないが、現在の大聖寺川は河口からすぐ北上して加賀藩支藩の大聖寺領となるので、流域に変化があるにしても、大聖寺川の河口近くあったとしか考えられない。名前といい、奇体な石と木の半々の橋――どなたか、資料があれば、切にお教え戴きたく思う。

2021/05/28

譚海 卷之四 加州里數幅幷あいもとの橋の事 附越前國船橋の事

 

○加賀國は東西殊に短し。越後より越前のさかひまで、わづかに三十五里あり、是加賀の國はゞ也。南北は百里にあまりて、城下より南信州堺までは八十里にあまれり。其外能登のはなは北海上へさし出たる所四十里よと云へば、南北は百里にあまりたり、加賀の國ざかひ、信州と越後の際に妙高山といふ殊にたかき山有、寒水石など出(いづ)る山なり。往古金ありとて掘(ほる)事二日ばかりせしかど、領主より止(とめ)られたりとなん。又其國あいもとのはしといふは、兩山の絕頂にかけたるものにて、大川兩山の際(きは)を流るゝ事瀧の如し。此はし左右よりもち出(いだし)てかけはじめ、中央にてあふやうにかけたるはしなり、人力のおよぶ所にあらず。かけはじむるとき、岸より細引のつなをさげていく筋となくさげ、それに木を橫たへかけて足代(あししろ)となし、細引にすがりてくだり、絕壁に杭をうち組あげたるはしにて、下よりのぞめは恐ろしき事いふばかりなし。又越前國には舟橋おほし、みな舟を鐡のくさりにてつなぎ、錠をさして板を舟にわたしたるうへを往來とす、平地のごとし。洪水にいたれば錠(ぢやう)をあけくさりをとけば、つなぎたる舟くさりにつらなりて左右の岸にわかれなびき、舟の損ずる事なし。

[やぶちゃん注:標題の「附」は「つけたり」と訓ずる。附録の意。

「寒水石」一般には純白の大理石を指す。

「あいもとのはし」富山県黒部市宇奈月町下立(うなづきまちおりだて)と同市宇奈月町中ノ口(なかのくち)に跨る、黒部川中流に架かる愛本橋(あいもとばし)。ここ(グーグル・マップ・データ)。よく理解していない人が多いが(大学時代に中高と富山で過ごしたと言うと、東京人に限らず、富山県の位置を正確に指せる人間が極めて少ないことに啞然としたのを思い出す)、加賀藩は加賀・能登・越中(現在の富山県)の三国の大半を領地としたから、ここも加賀藩内なのである。ウィキの「愛本橋」によれば、現在は鉄骨製トラス橋であるが、『かつては全長』六十一・四二メートル、幅三・六二メートルにも『及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の』一つに数えられた名橋であった。『かつて黒部四十八ヶ瀬ともいわれ、河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた、北陸街道の上街道に架かる橋で、加賀藩』五『代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる』。『綱紀は、弱冠』三『歳にして父』であった四『代藩主・光高が亡くなり』、五『代目藩主となったが、幼少期は』三『代利常が後見人となって、江戸屋敷にとどまっていた』。『やがて利常も亡くなり』、寛文元(一六六一)年七月満十八歳の時、『初めて領国入りした』際、『参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を無事に越えて金沢に到着した後、家臣たちを集めて会議を開き、黒部川下流域の入膳宿がある北陸道の下街道を迂回する山沿いに新道を開いて』、『黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようと相談した』。『家臣たちは、領地防衛の要害地に橋を架けることに反対したが、綱紀』は『ただひとり』、『「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれている』。『橋は、甲斐の猿橋と同じ形式の刎橋で、橋長』三十三間(約六十メートル)、幅十尺(約三メートル)で『架橋されて愛本橋と名付けられた』。『両岸は岩山で上流部をのぞけばもっとも川幅が狭く、洪水時には大量の土石と水が集中する。橋脚は』一『年も持たずに流されてしまうために橋の中間に立てることが非常に難しく、川の両岸から大木を突き出す構造であった』。『旧愛本橋が架けられていた場所に近いところには、幕末の儒学者である頼三樹三郎がこの橋を称えた詩碑があ』るとある。

「舟橋」越中の例だが、「三州奇談卷之五 神通の巨川」の本文と私の注を、是非、参照されたい。そこでリンクさせた「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」の絶景や、「富山市郷土博物館」公式サイト内の「博物館だより」のこちらと、こちらも見られたい。]

2021/04/21

譚海 卷之四 越中國一村平氏子孫住居の事

 

○越中國に一村平家の餘類ばかり住(すめ)る所あり、其村の人俗名なし、今に名乘(なのり)をもつて稱する事なり。加賀守殿へ每年目見(めみ)へする時も、みな名乘をもちて謁する事也。重の字をなのる人多し、此村無役にて只(ただ)守(かみ)の乘馬の老(おい)たるを預け給はりて、飼(かひ)たつる事を勤(つとむ)る斗(ばか)り也とぞ。

[やぶちゃん注:越中五箇山(ごかやま)のこと。現在の富山県南西端に位置する南砺(なんと)市の旧・平(たいら)村と旧・上平村と旧・利賀(とが)村の三村を合わせた地域を指す。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。「譚海 卷之一 越中國五箇莊の事」の冒頭注参照。

「名乘」職業上など特別な用途のためにつけた本名以外の名や号。私は大学時分、五箇山の合掌造りの旧家羽馬家に泊まったことがあるが、羽馬(はば)姓は多く、概ね、住んでいる場所の地形などを添えて「~の羽馬」と名乗っておられたのを思い出す。

「重の字をなのる人多し」現在もそうかどうかは不明。

「たつる」「養う」の意であろう。]

2021/03/29

越後國里數幷日蓮上人まんだら義經謙信等故事

 

○越後國と信濃國とはうしろあはせの國にして、越後のながさ九十二里なれば、信濃の長さも九十二里なり。越後は長き國にて、北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也。此九十二里さながら北國海道にて荒磯を行(ゆき)、「親しらず」などいふ所は殊に恐ろし。懸崖絕壁のもとを通ふ道にて、荒波うちよせて道をひたし、前後によくベき所なし、五六間のあはひ殊に難所也。北國海道越後までは田舍の風俗なり、能登國に入(いり)てやうやく人物かはれり。越後てらとまりに石川七左衞門といふもの有、日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿ありし家なり。此もののかたに上人附屬のまんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ。又其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり。新潟といふ所は殊に繁華の都會なり。又其國の春日山は上杉謙信の古城跡也、高山にして山上に古井有、廣さ四五間ひでりにも水たゆる事なし。里民雨乞をするとき、石を此井に投ずればかならず雨降(あめふる)といふ。越後海道に出て望めば、目にかゝるものは佐渡の國と能登の國ばかり也。能登の出崎と佐渡のあはひは、わずかに四五間ばかりはなれたる樣に見ゆれども、廿里よをへだてたる所なり。晴天にはありありと山の姿手にとるほどにみゆるといふ。越後出雲崎の船問屋は關東屋彌平といふもの殊に大家也、四方入津(にふしん)の舟こゝにやどらずといふ事なく切れもの也。

[やぶちゃん注:「越後のながさ九十二里」三百六十一キロメートル。これはかなり大雑把な内陸直線の距離で、珍しく過小と言える。現行では、「新潟県統計年鑑」(二〇一八年)によれば、現在の新潟県の海岸線の総延長は六百三十四キロメートルにも及ぶからである。

「信濃の長さも九十二里」こちらは過大。信濃国は現在の長野県と岐阜県中津川市の一部が含まれるが、長野県で東西約百二十八キロメートル、南北約二百二十キロメートルで、南北距離で中津川をそのままドンブリで算入しても約二百五十キロメートルほどにしかならないと思われる。こちらは、どこをどう計算したものか、よく判らない。

「北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也」二十三半から二十四キロメートル半であるが、現行、最も短いのはフォッサ・マグナの糸魚川線で、約十四キロメートルであるから、過大である。

「てらとまり」現在の新潟県長岡市寺泊上片町に寺泊港(グーグル・マップ・データ)はある。

「石川七左衞門」不詳。

「日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿」確かに日蓮は流罪の際には寺泊から佐渡に渡らせている。

「附屬」謝礼として添えて与えたものの謂いであろう。

「まんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ」確認出来ない。この「まんだら」とは無論、「曼荼羅」で、「南妙法蓮華經」の文字に拠る独自の文字曼荼羅であろう。鎌倉の妙本寺にある日蓮「臨滅度時の御本尊」と呼称される「十界曼荼羅」のようなものと思われる。私の「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に画像を置いてある。参照されたい。

「其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり」源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃げのびた際、一行が海上で遭難して寺泊へ漂着し、土地の豪族五十嵐邸へ身を寄せて、幾日間、逗留したという伝承がある。サイト「新潟伝承物語」の「弁慶の手掘井戸」に、『五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室に』一行を匿い、『従者の弁慶が義経の手洗いや』、『洗顔の用にと』、『わざわざ』、『その裏に井戸を掘ったと伝えられてい』るとある(地図有り)。

「春日山は上杉謙信の古城跡也」新潟県上越市中部にある春日山(かすがやま)。標高百八十九メートル。北に越後府中であった直江津と日本海を望み、南に高田城下を望み、高田平野を一望出来、戦国時代には、この山頂に後に上杉謙信の本拠地となる春日山城が築かれ、北陸地方屈指の城砦として名を馳せた。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「能登の出崎」狭義には七尾港の出崎(現在の矢田新町と万行町の境の海岸)を言うが、ここはその東北の能登観音埼のことであろう。但し、これを能登半島の狼煙(のろし)などのある出崎という一般名詞でとることも可能。

「四五間」七・五~九・一メートル。蜃気楼かい!

「廿里よ」七十八・五四キロメートル。先の能登観音崎からは百二十八キロメートル、狼煙の禄剛崎からなら、八十四キロメートル。禄剛崎は、中二の時、友人と能登半島を一周した時の、思い出の場所。その後も、二度行った、私の能登の特異点である。

「越後出雲崎」新潟県三島郡出雲崎町

「船問屋」「關東屋彌平」現在の新潟県三島郡出雲崎町尼瀬(あまぜ)の、旧年寄に関東屋弥兵衛の名を古文書の中に確認出来る。

「切れもの」敏腕家。やり手。]

2021/03/24

譚海 卷之四 奥州仙臺風俗の事

 

○奥州仙臺にあそぶ人は、大木戶を入(いれ)ば越河といふ所にて入判といふものをもらふ。錢三文を出してもらふ事なり。せんだいを出るときは、いづくの出口にても又出判をとりて出(いづ)る、五錢をいだしてとる事也。又仙臺城下に釋迦堂といふ有、繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戶の戲者(やくしや)も往來して藝をのぶる所也。其土着に市川今五郞といふもの芝居の魁首(かいしゆ)にしてせんだいにては御(お)くに團十郞と號す。此寺境内ひろく、花樹數多(あたま)ありて、常に國人の遊觀たえずといふ。

[やぶちゃん注:「大木戶」現在の福島県伊達郡国見町(くにみまち)大木戸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。この伊達郡は江戸時代は天和二(一六八二)年以降は一貫して天領であった。

「越河」宮城県白石市(しろいしし)越河(こすごう。歴史的仮名遣も判らないので、本文には振らない。

「入判」「出判」この藩の出入りにかかるシステムは不詳。ネットで検索しても、全く掛かってこないので、お手上げである。識者の御教授を乞う。読みも判らないので、取り敢えず「いりはん」・「ではん」と読んでおく。

「一文」江戸中・後期のそれは凡そ現在の十二円相当。

「釋迦堂」現在、宮城県仙台市宮城野区榴岡(つつじがおか)にある日蓮宗光明山孝勝寺境内にある釈迦堂(仙台市登録有形文化財)であろう。仙台市公式サイト内のこちらによれば、仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るために榴ヶ岡に建てた持仏堂で、元禄八(一六九五)年の建立であったが、昭和四八(一九七三)年の宮城県立図書館建設に伴い(現在の同図書館は後に再度移転したもので、この当時に新築された同図書館は現在の「宮城県婦人会館」が建っている場所に建ったものであったから、そこが釈迦堂の旧地で、本篇の立地もそこと考えてよいだろう)、現在の孝勝寺本堂脇に移された。孝勝寺は初子が帰依し、葬られた寺院であった。釈迦堂は三間四方で、一間の向拝(こうはい)が付き、以前は四周に縁が廻らされていた。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺形銅板葺で、正面中央間に折桟唐戸(おりさんからど)、その両脇に花頭窓(かとうまど)が付く。内陣には厨子を備え、釈迦像が安置されているとあった。孝勝寺は第二代藩主伊達忠宗の正妻振姫に続き、初子も帰依し、以後、仙台藩の厚い保護を受けた寺であった。この初子は、伊達騒動を素材とした人形浄瑠璃「伽蘿先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の重要な登場人物である政岡のモデルとさられ、寺から東に少し離れた飛び地にある。なお、本文ではその釈迦堂も寺の境内あったと書かれているが、実は孝勝寺は往時は相応の寺域であったのだが、今は周囲が住宅地に呑み込まれてしまっているのである。

「のぶる」「延ぶる」か。棧敷や観劇席を敷いて興行を行うの謂いであろうか。

「土着」地元の田舎歌舞伎の一座。

「市川今五郞」東北歴史博物館の笠原信男氏の論考「仙台の田植踊と歌舞伎」PDF・二〇二〇年の同館館長講座資料)によれば(注記号は省略した)、『仙台藩は公式には歌舞伎の上演を禁じていた。先に見た享保9年(172412月の史料に歌舞伎に触れたところがある。10人巳上は控えることの但し書きで、「かぶき等に紛(まぎ)れ候様(そうらうさま)成る義(ぎ)は仕らせ間敷事」としている。歌舞伎に紛れて10人以上で田植踊をしてはいけないということであろう。歌舞伎は享保9年(172412月以降に禁じられ、さらに、宝暦2年(1752)までには、腰に面をつける「はさミ人形」の人形浄瑠璃として上演されるようになった。以後、何度かの禁制を経て幕末まで、「歌舞伎は相成らず、人形操の申し立てにて候間、江戸より(歌舞伎)役者が参り候ても、こし(腰)へ人形の面を附ケ」て上演された』という興味深い面白い事実が記されてあった。さらに、『江戸時代後期の古今の書物に書かれた記事を抜き書きした冊子に初代市川団十郎(蝦蔵)の多賀城出身説が見え』、『「陸奥坪の碑の近きにわたり市川村といふ所あり、そこの浦にて捕海老を役者蝦とよべり、こは芝居役者市川蝦蔵が生まれし里なり」』という驚くべきことが記されてあり、さらに、まさに本篇(底本も同じ)を引いて、『また、仙台城下に御くに団+郎こと市川今五郎という役者がいた。「仙臺城下に釈迦堂といふ有り。繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戸の戯者(やくしゃ)も往来して芸をのぶる所也。その土着に市川今五郎といふもの芝居の魁首(かいしゅ)にして、せんだいにては御(お)くに団十郎と号す」。』(ここで笠原氏に振られたルビを本文の当該部に適用した)とし、『釈迦堂は、祭日前後に芝居上演が公認された、仙台城下の「六ケ所神事場」であるが、この史料が記された天明5年(1785)頃は常設であったらしい』とあうことから、実際には歌舞伎は役者が腰に人形の面をぶら下げで行われていたことが判るのである。

「魁首」座長。]

2021/03/22

譚海 卷之四 同所新島椎の實幷牛角の事

 

○江戸市中にてあきなふ椎の實は、大半伊豆のにい島より來(きた)る也。市中に散在してはさのみに見へざれども、にゐ島[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]より浦賀へ積(つみ)くる船にてみるときは、五斗入百俵百五拾俵ほどづつ一度につみくるなり。にゐ島すべてしゐの大木多し。年寄又は幼少のものの所作にひろひとる事なり。その木は海舶(うみぶね)の櫓(ろ)梶(かぢ)などに伐出(きりいだ)す。遠所にある椎は伐たふしたるまゝにて谷へ積置(つみおき)、それが自然(おのづと)朽(くち)てとしへたるにはしひたけを生ずるを、又取(とり)てあきなふなり。また新島より牛の角をいだす。島(しま)牛おびただしく畜(かひ)てしかも田地なきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、耕作のやうにたたず、只(ただ)角をとりて漁獵(ぎよらう)の用に沽却(こきやく)するなり。依(より)て新島にて牛狩(うしかり)といふ事をする也。流人(るにん)の壯者(さうしや)を集(あつめ)て牛を驅(かけり)て追つめて、角を打(うち)おとす、牛の痛哭(つうこく)する聲聞(きく)にたえず。しかれども牛の用に立(たた)されば[やぶちゃん注:ママ。]、是非なき事なり。落(おち)たる口に小(ちさ)きしんあり、それも年をふれば長ず。

 

[やぶちゃん注:「同所」というのは、前の「豆州南海無人島の事」の「豆州」(伊豆國)を指す。

「新島」(にいじま)は伊豆諸島を構成する島の一つで、東京から南に約百六十キロメートル、静岡県下田市から南東に三十六キロメートルの位置にある。行政上の所属は東京都新島村。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「椎」本邦産種はブナ目ブナ科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata (関東以西に分布。実は球形に近く、以下のスダジイに比べて小さい)・スダジイ Castanopsis sieboldii (シイ属の中では最も北に進出してきた種。成木の大きなものでは樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県及び新潟県の佐渡島にまで植生する。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis  とする場合がある。沖縄では伝統的にそれを「イタジイ」の名で用いられてきた。両者が共存する地域では、ツブラジイが内陸に、スダジイが海岸近くに出現することが多い)である。私は特異的に椎の実が好きな人間で、都会でも山中でも即座に見つけることが出来る。個人的にはスダジイのそれを好む。

「五斗」二リットルのペットボトルで四十五本分。

「所作」ここは「仕事・作業」の意。

「しひたけ」椎茸。菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科又はホウライタケ科又はツキヨタケ科ともする)シイタケ属シイタケ Lentinula edodes

「漁獵の用」釣り針や銛の鏃(やじり)或いは錘(おもり)用。

「沽却」売ること。

「しん」「芯」。牛の角は洞角(どうかく)・ホーン(英語:Horn)と呼ばれる。ウシ科(哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目真反芻下目ウシ科 Bovidae)とプロングホーン(英語:pronghorn)科(真反芻下目キリン上科プロングホーン科 Antilocapridae)の角である。生きた骨の核をタンパク質とケラチン(角鞘)が覆っている。角鞘のみに着眼すると、「空洞」に見えるので、かく呼ばれる(ここでは生きた骨の核(かく)の部分を含めて切り落としているので、それを「芯」と呼んでいるのである)。角鞘は皮膚の表皮が強く角質化したもので、発生学的には、洞角は皮下の結合組織(頭皮の下)から発生して、後に前頭骨に融合する。核の骨部はシカ科(鯨偶蹄目反芻亜目シカ科 Cervidae)の角(枝角)のように生え替わることはないが、プロングホーンでは角質部(角鞘)が生え替わる。ウシ科では角質部も生え替わることはない。洞角は通常、湾曲状或いは渦巻状の形をしているが、しばしばリッジ(ridge:稜(りょう))があったり、扁平であったりする。多くの種では、♂♀ともに洞角を持つが、♀のものは小さい。洞角は、生後、すぐに成長し、一生を通じて成長を続ける(角質部が生え替わるプロングホーンを除く)。洞角は殆どの種で一対であるが、二対以上生じる種もあり(例えば四角羚羊(ウシ科ウシ亜科ヨツヅノレイヨウ属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornis )、また、家畜化されたヒツジでは二対以上を持つものがいる(以上はウィキの「洞角」に拠った)。]

2021/03/15

譚海 卷之四 豆州南海無人島の事 附同國大島薩摩櫻島燒る事

 

○伊豆の東南海百里にあたりて無人島有。公儀より人の住居なるべき所にやと度々御用船遣(つかは)され、近來(ちかごろ)方角もよほど委しくしれたる事に成たりとぞ。此島元來四方(しはう)高巖(たかきいはほ)にして船を着(つく)べき所なし。波に船を打上(うちあげ)させて折よく岩の上に船をうちあげたる時相圖して岸にのぼる事也。波のよせくる首尾あしければ、船を巖(いはほ)にうちあてて損ずる事(こと)故(ゆゑ)、岸にのぼる波あひを待(まつ)事大事也とぞ。同所大島も又同じく波あひをみはからひて船をよせざれば、岸に寄付(よせつく)事成難(なりがた)しとぞ。此大島天明三年より燒はじめて、折々江戶の地までも地震の如くひゞく事あり。今二年へたれどなを[やぶちゃん注:ママ。]燒(やき)やまず、やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり。同じ比(ころ)薩州のさくら島もやけたり、是は一島殘りなく燒(やけ)くづれて海へやけ入(いり)、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ。櫻島は廿萬石の田地ある所といへり。

[やぶちゃん注:この無人島が現在の何処を指すか、今一つ、条件が足りないのだが、四方が高い岩山であること、海岸が全面に岩礁性であること、本書が刊行された当時は無人島であった可能性が高いことなどを考えると(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたものであるが、ここで津村は「今二年へたれど」と言っていて、珍しくこの執筆時がほぼ天明五(一七八五)年であろうことが判明する特異点の記事となっている点にも注目されたい)、太平洋上の八丈島の南方六十キロメートルの位置にある伊豆諸島の一つである現在の東京都青ヶ島村青ヶ島(グーグル・マップ・データ)が一番に想起された。本土の伊豆下田から多少のカーブを描いて計測して二百七十キロメートルはある(「百里」は三百九十三キロメートルだが、これはもう遠距離のドンブリ表示と考えてよいから意味をなさない)。ここの名産の芋焼酎「青酎」は私の好きな焼酎である。

「同所大島」まあ、同じ伊豆諸島ではあるけどねぇ。青ヶ島だとすると、二百五十キロメートルぐらいは離れてるんですけど?

「大島天明三年より燒はじめて」伊豆大島の三原山は天明三(一七八三)年に噴火し、降灰があったが、実際にはこれは安永六(一七七七)年八月三十一日に三原山山頂火口から噴火が始まった、「安永の大噴火」の大規模な六年余りに亙ったマグマ性噴火の沈静期のそれに過ぎなかった。翌天明四年も噴火、天明六年にも噴火らしき現象があり、寛政元(一七八九)年頃に噴火して降灰があった。「安永の噴火」の完全な鎮静は寛政四(一七九二)年頃であった(ここは「気象庁」公式サイト内の「伊豆大島 有史以降の火山活動」のデータに基づいた)。

「江戶の地までも地震の如くひゞく事あり」近世から今日までの噴火では、現在のところ最後の大規模噴火であるから、軽々に大袈裟とは言えない。

「やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり」一九八七年十一月十五日から二十三日にかけての三原山の中規模噴火の際、私は二十一日の夜、友人と湘南に遊んだが、江ノ島の背後に直立して噴き上げるマグマの柱が手にとるように見えた。私はその時、千葉県の工場の燃焼煙突の炎だと勘違いしたほど、その紅蓮の炎ははっきりとしていたのを、今でも鮮やかに思い出す。

「同じ比薩州のさくら島もやけたり」これは「同じ比」と言っているが、「一島殘りなく燒くづれて海へやけ入、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ」という叙述からは、安永八(一七七九)年十一月八日から始まった桜島の「安永大噴火」の伝聞情報が混ぜこぜになったものであろう。やはり「気象庁」の「桜島 有史以降の火山活動」のデータによれば、この日の『数日前から地震頻発、当日朝から海岸の井戸沸騰流出、海水』が『紫に変色』、午前十一時『頃から南岳山頂火口から白煙』、午後二時頃、『南岳南側中腹から黒煙を上げ』、『爆発、まもなく北東側中腹からも噴火』した。『翌日早朝から溶岩を流出。夜には北東沖で海底噴火が始まる。その後』、安永一〇・天明元(一七八一)『年までに海底噴火により』、『津波が発生、船が転覆する等の被害』が起こり、『海底噴火地域の隆起により』、『桜島北東海中に』八『つの小島が出現、その後接合あるいは水没して』五『島とな』った(「大正噴火」の後に更に一島が水没して現存するものは四島のみである)。この「安永大噴火」では死者が百五十余名にも上った。安永九(一七八〇)年にも海底噴火によって津波が発生、天明元(一七八一)年四月には高免(こうめん)沖の島で噴火が発生、津波を起し、死者八名・行方不明者七名・負傷者一名・船舶六隻損失、同年五月にも同じく高免沖で海底噴火が発生、翌年一月にも高免沖で海底噴火、天明三年九月にも南岳山頂火口で噴火が起こっている。]

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