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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の277件の記事

2021/03/05

譚海 卷之四 武州玉川百姓某才智の事

 

○武州玉川の邊(あたり)、府中に何がしと云もの有。此百姓、平生、才智にて、さまざま奇特なる事多き中に、一とせ、玉川の邊を通行せしに、百姓、大勢、集りて、畑の土中より大なる箱の、深さ廣さ二間四方もあるべき物を、六つ、掘(ほり)して騷合(さはぎあひ)たる所へ行かゝり、「是は何をする事ぞ」と尋ければ、「此箱年來(としごろ)土中に埋(うづま)りて、いつの代よりあるといふ事もしりがたき程の久敷(ひさしき)ものなり、年々畑作の妨(さまたげ)になるゆゑ、此度掘出(ひりいだ)せし」と云。「掘出して何やうの事にするぞ」と尋ければ、「何の用にたてんとも存ぜず、賣拂(うりはらひ)てなりとも片付べし」と云時、「いかほどに賣拂にや」と問ければ、「鳥目五六十疋ならば賣拂べし」といふ。「さらばわれは八十疋に買取べし」と約して、則(すなはち)價を遣し、「跡より取によこすべし」とて歸りしが、其後(そののち)一年にも取(とり)に來(きた)る事なし。二三年過(すぎ)又右の所を通りけるとき百姓見受て「此箱はいかゞいたさるゝや、かく三年に及ふまで取にもこされず、連々(つらつら)かたの如く朽損(くちそん)し[やぶちゃん注:「し」はママ。]侍る」といふ。此男聞て、「苦しからず、朽たらは[やぶちゃん注:ママ。]朽次第にしてをかれよ」といひて、其後又一年餘(あまり)をへて此男來り候時、百姓又見かけて、「もはや朽過(くちすぎ)ていかにもすべき樣なし、殊に所せきものにて畑作の進退にも妨になり侍るまゝ、ひらに引取申されよ」と云。「いやいや人を遣ひ引取(ひきとら)んとするにも人步(にんぷ)かゝりて詮方(せんかた)なし、此上は所せく思はれなば、燒すてて成(なり)とも仕𢌞(しまは)れよ」といひければ、百姓ら價を出し買取しものをかくいふはいぶかしくは思ひながら、餘りもちあつかひたる事なれば、「さらば買とられしぬしの左樣申さるるうへは、燒すて侍るべし」とて、終(つひ)に火をかけてやきすてたり。此男やきすてたるを見置て一日へて人を二三人つれ參り、此箱の燒たる跡の釘(くぎ)鐡物(てつもの)を殘りなく拾ひて歸り賣拂たるに、鐡ものの價三貫八百錢に成(なり)ぬるとぞ。『かゝる物をこしらへたるは普通の鐡物にはあらじ』と思ひて、さて買置て年月打捨置たる事也と、後に聞あざみて稱譽(しやうよ)しける。釘・かすがひなど殊に丁寧にせしもの也と、天明改元のとしの事也。

[やぶちゃん注:「府中」東京都府中市。玉川左岸。現在、府中市には多摩川に沿う形で古墳群が並び、国分寺跡もある(ともにグーグル・マップ・データ)。

「聞あざみて「聞淺みて」話の始終を聞いてその意外なことに驚き、あきれかえって。

「稱譽」褒めたたえること。

「天明改元のとし」安永十年四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)改元。]

2021/02/26

譚海 卷之四 大坂に加賀屋某が事

 

○同年四月、大坂に加賀屋某と云もの有。此もの前年(さきのとし)は豪家にて、五十年前西國うんかの付(つき)たる年も、金子を出(いだ)し飢饉をすくひたるもののよしにて、此ものの先祖金子貳百兩指出(さしいだ)せし事有、すべて此うんかの救ひを出せし時の金主(かねぬし)の名をば、公儀の帳面にとめられ、御勘定所に納めあり。又別に右の名目を書(かき)しるされ、諸國の大社へ奉納遊されしとぞ。かゝるほどのものの跡なれども、漸(やうやう)微祿に成(なり)、身上(しんしやう)立(たち)がたく、其上右主人も近來(ちかごろ)死去致し、後家ぐらしにて、すでに借金七百兩に及び、借金のものより公訴に及び、家内離散の次第に至りし時、再應御吟味ありし所、右うんかの節(せつ)救(すくひ)を出せしものの内なる故、容易にも潰させられがたきよしにて、公裁(こうさい)日をへたる所、なをまた委しく御しらべありしに、此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に金子五百兩公儀へ指上置(さしあげおき)、私事當時金子不足無御座候得共、町人の事に有ㇾ之候へば、子孫いかやうなる儀あるべきも計りがたく奉ㇾ存候ゆゑ指上置度よし願にて上候金子有ㇾ之、其節右の金子大坂御奉行所にて御借付金に被ㇾ成被指置たる所、すでに今年まで五百兩の金子元利二千兩餘に成たる事御吟味相濟、右の金子此度かゞや後家へ御返し被ㇾ下、身上相立候やうに被仰付候まゝ七百兩の借金の所へ二千兩の金子頂戴致し、暴富に成たりとて大坂中御慈悲をよろこび、上裁(じやうさい)の直(ちよく)なる事を嘆美せしと聞侍りし。

[やぶちゃん注:「関西・大阪21世紀協会」公式サイトの「なにわ大坂をつくった100人」の「第84話 加賀屋甚兵衛」(延宝八(一六八〇)年〜宝暦一二(一七六二)年)が『西大坂最大の新田を開発した一族の祖』とあるから、これはこの後裔の誰彼の話であろう。『加賀屋甚兵衛は』『河内国石川郡喜志村(現在の大阪府富田林市喜志町)で生まれ』、十一『歳のとき、大坂淡路町の両替商加賀屋嘉右衛門の店に奉公人として入った。加賀屋は天王寺屋、鍵屋、鴻池など十人両替と呼ばれる大店に次ぐランクの店であった。甚兵衛は』三十五『歳で暖簾分けを許され、加賀屋甚兵衛として新たに自分の店を持つ』。『甚兵衛は商用で堺に行く途次、紀州街道の西に広がる大和川の浅瀬が新田開発に適していることを知り、新たな事業に投資すべく』、四十五『歳の年に初めて新田開発に手を染めた。宝永元年』(一七〇四年)『に付け替え工事が完成した新しい大和川は、上流から運ばれる大量の土砂で河口に砂の堆積が進み、その結果、堺の港が機能を衰退させていった。そのような中、大坂の豪商が相次いで進出した北河内の旧大和川跡での新田開発は、木綿栽培を中心に概ね順調に推移していた。とくに大坂最大の両替商の鴻池は、新田開発でも成功を収めた豪商の一つである。同業者である甚兵衛もその流れに乗ることを決断する』。『大和川付替え後、最も早く開発されたのは摂津住吉郡(現在の大阪府堺市)の南島(みなみじま)新田である。享保』一三(一七二八年)『に計画され、河内国川辺村(現在の大阪市平野区)の惣左衛門ら』四『人が請け負ったものを甚兵衛ら』二『名が権利を譲り受けたもので、甚兵衛は新大和川を挟んで南北に二分した北側(後の北島新田)の開発を請け負った』。『甚兵衛は開発工事の進捗に応じて検地を受け』、延享三(一七四六)年には『「会所幷(ならびに)借家」を建て、ほとんど常駐のかたちで同地に詰めた。翌年、家業を任せたものの』、『不行跡を繰り返す婿養子を離縁、大坂淡路町にあった店をたたんで北島新田に居を移した。そのようなことがあっても、甚兵衛は前年の』延享二(一七四五)年、『北島新田の北西地続きの砂州を選定して後の加賀屋新田となる新規の開発事業に着手していた。その一方、北島新田は着工以来』、実に二十三『年を経て、宝暦元年』(一七五一年)『に完成』した。『北島新田に転居後、甚兵衛はすでに工事を手掛けていた(加賀屋)新田開発に注力するも、資金が底をついたため、やむなく完成して間もない』、『北島新田を堺の小山屋久兵衛に売却』している。『そうした苦労の末、ようやく』宝暦五(一七五五)年に六町歩余り(約6六ヘクタール)の『(加賀屋)新田が完成した。その前年には「加賀屋新田会所」(現在の大阪市住之江区南加賀屋)を建てており、甚兵衛はここを終(つい)の棲家(すみか)としたのである。大坂代官角倉与一の検地を受け』、『「加賀屋新田」の村名を与えられた。苗字帯刀が許された甚兵衛は、出身地に因み櫻井姓を名乗ることとした』。宝暦七(一七五七)年、『甚兵衛は二人目の婿養子の利兵衛に家督を譲った。翌年剃髪して圓信と改名、会所での静かな隠居生活を送』り、宝暦一二(一七六二)年に八十三歳で没した。この『初代甚兵衛没後、二代目の櫻井利兵衛、三代・四代目の櫻井甚兵衛らによって次々と新田開発が行われ』、天保一四(一八四三)年には『加賀屋新田は』一〇五町歩余り(約百四ヘクタール)の『大新田となった。その後の拡張も含め、幕末には櫻井家(旧加賀屋)一族による新田開発総面積は住吉浦の過半を占め、西大坂随一の規模となった』。『二代目は利兵衛と称し甚兵衛の名を継いでいない。三代目以降は櫻井甚兵衛』と称したとあるから、或いはこの分家ででもあったのかも知れない。

「同年」前条を受けるので、天明元(一八七一)年。徳川家治の治世。知られた「天明の大飢饉」はこの翌年の天明二年から八年(一七八二年~一七八八年)まで続いた。

「此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に……」以下、一部が準公文書の書付を写したものなので、やや硬いから、多少の手を加えて訓読しておく。

   *

此れ、加賀屋先祖、浮塵子(うんか)の救ひ、上納せし後(のち)、外(ほか)に金子(きんす)五百兩、公儀へ指し上げ置き、

私(わたくし)事、當時、金子、不足御座無く候得(さふらえ)ども、町人の事に之れ有り候へば、子孫、如何やうなる儀あるべきも計(はか)りがたく存じ奉り候ふ故(ゆゑ)、指し上げ置き度(た)き

よし願ひにて、上げ候ふ金子之れ、有り。其の節、右の金子、大坂御奉行所にて、御借付金(おかしつけきん)に成され、指し置かれたる所、すでに今年まで、五百兩の金子元利、二千兩餘りに成りたる事、御吟味、相ひ濟み、右の金子、此の度(たび)、加賀屋後家(ごけ)へ御返し下され、身上(しんしやう)相ひ立ち候ふやうに仰せ付けられ候ふまま、七百兩の借金の所へ、二千兩の金子、頂戴致し、暴富(ぼうふ)[やぶちゃん注:急に金持ちになること。]に成りたり。

「直(ちよく)なる事」正しいこと。]

譚海 卷之四 下野國にて五銖錢を土中より掘出せし事

 

○天明元年五月、下野國某と云所にて、五銖錢(ごしゆせん)を夥敷(おびただしく)ほり出(いだ)したり。又黃金を掘(ほり)得たるが、みな慶長已前のもの也とぞ。是は小田原北條の臣某と云ものゝ屋敷の跡なり、太闇小田原責(ぜめ)の時、某は小田原に在陣せし跡へ、間道(かんだう)より太閤軍兵を遣し、燒うちにせられし所なれば、其陪臣などうづみおきたるにや、上へ言上(ごんじやう)に及(および)しとぞ。

[やぶちゃん注:「天明元年」一八七一年。徳川家治の治世。

「五銖錢」中国古代に流通した貨幣で、紀元前一一八年に前漢の武帝により初鋳造された。量目(重さ)が当時の度量衡で五銖(二・九五グラム)であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることから、「五銖銭」と称され隋代(六一八年滅亡)まで用いられた。参照した当該ウィキによれば、『通貨としてより』も、『中国からもたらされた貴重な文物として受け入れられたと考えられ、最も早い例は、弥生時代中期(紀元前』一『世紀)の遺跡である北九州市守恒遺跡から出土した前漢時代の五銖銭(紀元前』一一八年『初鋳)』があるとする。

「慶長」一五九六年から一六一五年まで。慶長八(一六〇三)年二月十二日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が開府している。

「太閤小田原責」関白太政大臣豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を滅ぼした「小田原征伐」天正一八(一五九〇)年二月から七月のこと。]

譚海 卷之四 上杉家士志津田孫兵衞まむし守札の事

上杉家士志津田孫兵衞まむし守札の事

○上杉家の士に志津田孫兵衞といふ人有。此家よりまむしよけの守札を出す、まむしをよくる事甚(はなはだ)奇妙なり。每年正月十六日・七月十六日兩度、此守札を百ふくづつ出す。禮物(れいもつ)鳥目(てうもく)百文にて受(うく)る事也。平常懇望すれば金子百疋禮物に出(いだ)す事也。相州三浦の專福寺奥州旅行に持參し、甚效驗に逢しよし物語也。

[やぶちゃん注:「上杉家士志津田孫兵衞」不詳。「志津田」は「しづた・しつた」と読める。上杉氏家臣で似た名前では、上杉謙信・景勝・定勝に仕え、「上杉二十五将」に数えられた志駄(しだ)義秀がいるが。

「百ふく」百服。「服」は「帯びる・持っている」の意があるので守札の数詞としては腑に落ちる。

「百文」現在の二千五百円前後か。

「百疋」一千文。ぼったくり!

「專福寺」神奈川県横須賀市佐島に浄土真宗本願寺派のそれがあり、別に神奈川県横須賀市東浦賀にも同名の浄土宗の寺がある。孰れもこの時代にはあったが、そこを「三浦」と呼ぶとなら、私は前者がしっくりくる。]

譚海 卷之四 信州須坂勝善寺の事

信州須坂勝善寺の事

○信州にもすざりの勝善寺(しやうぜんじ)とて、一向宗のある所一村みな他宗なし。此村の風俗は女子一度(ひとたび)嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて、能き掟なり。

[やぶちゃん注:「勝善寺」長野県須坂(すざか)市須坂にある真宗大谷派柳島山勝善寺(グーグル・マップ・データ)。通称「中俣勝善寺」。当該ウィキによれば、『開基は信濃源氏井上氏の井上頼重で、建久』四(一一九三)年に『比叡山で出家し、釈明空と名乗り、正治元』(一一九九)年、『信濃国水内郡中俣に勝善寺を創建した。その後、下総国磯部に移り、親鸞の弟子となり、再び信濃に戻り、当寺と普願寺(須坂市)、西厳寺、光蓮寺(長野市)、願生寺(新潟県妙高市)、本誓寺(同上越市)からなる』「磯部六か寺」『を形成した』。第九『世法印、権大僧都顕順は石山合戦で戦死し、門主により、水内郡浄興寺の鳥羽伝内』(第十世教了)『が跡目を相続した。本願寺が東西に分裂すると、伝内は東本願寺に随身し、東本願寺派全国寺院の』八『か寺に数えられ、巡讃の寺として、歴代の住職は本山に長期滞在した』。慶長三(一五九八)年の『海津城主・田丸直昌の時代に高井郡八町村に移った。江戸時代には須坂藩の庇護を受け、勝善寺文書の中に、堀直政や初代藩主堀直重から』『教了に充てられた書状が残る』。元和九(一六二三)年、第二代『藩主堀直升に迎えられ』、『現在地に遷移した』とある。この「すざり」は「すざか」の誤記・誤植かと思われる。

「一向宗」は現行では浄土真宗と同義に使用されることが多いが、狭義には、鎌倉時代の僧侶一向俊聖を祖とする浄土真宗の中の一宗派で、一向宗は自らを「一向衆」と称した。葬儀関連サイト「よりそうお葬式」のこちらによれば、一向宗は、『弥陀如来以外の仏を信仰する人々や神社に参詣する人などを排斥していきました。一応は踊り念仏を行事としますが、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出すことはなかったようです』。『一向宗の開祖は一向俊聖と言って良いでしょう。一向は現在の福岡県久留米市の草野永泰の第』二『子として生まれました』。寛元三(一二四五)年に『播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を修め』、建長五(一二五三)年には『剃髪受戒して名を俊聖とします。しかし、翌年の夏には書写山を下り』、『南都興福寺などで修行しますが、悟りを得られませんでした』。『その後、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となり』、文永一〇(一二七三)年から『各地を遊行回国します。そこで踊り念仏や天道念仏』(てんどうねんぶつ:念仏踊りの一種。天道とは太陽のことで、その名の通り、太陽を拝み、五穀豊穣を祈念する念仏踊りで、関東一円から福島県にかけての各地に分布している。福島県白河市関辺(せきべ)の八幡神社で旧六月一日に行われる天道念仏は、俗に「さんじもさ踊り」とよばれるが、「天祭り」「稲祭り」「いなご追い」「除蝗祭(じょこうさい)」とも呼ばれ、浴衣がけの男子が舞い庭の中央に組まれたお棚を回って踊る。同県郡山市内にも「てんとう念仏」の名で分布している。千葉県印西(いんざい)市武西(むざい)では「称念仏踊」と呼ばれ、二月十五日に行われるが、「江戸名所図会」に記されているように、船橋市を始め、習志野市・柏市などでも嘗ては盛んであった。他に茨城県新治(にいはり)郡や群馬県高崎市などに伝承する。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)『を修して道場を設け、近江国番場宿の蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えました』。『以後、この寺を本山として東北や関東、近江などに一向の法流を伝える寺院が分布し、教団を形成するようになりました』。『親鸞の教えを浄土真宗と言いますが、一向宗とも呼ぶこともあるようです。もともと親鸞が一向宗と言っていたのではなく、親鸞が「阿弥陀仏一仏に向け」と教えていたため、世間の人が「あれは一向宗ではないか」と勝手に呼ばれていったと伝えられています。しかも、親鸞の教えに「一向専念無量寿仏」というものがあることから、わざわざ一向宗と呼ばれていることに対して否定はしませんでした』とある。

「一向宗のある所一村みな他宗なし」少なくとも、現在の須坂地区には浄土宗・曹洞宗の寺院を確認出来た。

「此村の風俗は女子一度嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて」無論、このようなことは現在は確認出来ない。]

2021/02/25

譚海 卷之四 江州風俗の事

江州風俗の事

○近江湖(あふみのうみ)の土を、村民夏に至ればとりて、日にほしかためて火入(ひいれ)にいゝるに、炭の如くよく火をたもつ也。その名をすくもと云。又同國鏡の宿に源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり。此所に鏡の宿の長(をさ)の子孫といふものも有、またゑこまの德勝寺といふ禪寺有、卽(すなはち)ゑこまといふ所は淺井家の領地にして、淺井三代の墓も此寺にあり、御朱印二百石の寺也。長澤といふ所に福田寺(ふくでんじ)といふ本願寺派あり、開山は淺井家の臣にて、德勝寺の旦那也。今は京都より藤浪殿御子息住職にて華麗なる事なり。又高宮には金光寺といふ本願寺派あり。是も開山は高宮三河守とて、淺井家の味方せし人の末也。太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり。太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ。金光寺は元來淺井家草創の寺也。又長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有、開山は後鳥羽院の御末にて、播磨の御房と申(まうす)人の御弟子也、此末寺八百箇寺に及べり。その内に毛坊主と稱するもの有、頭をざんぎりの如くして、衣を着し妻帶にして、一村の旦那寺の事を取行ふ、毛坊主村とて一村有。

[やぶちゃん注:「火入」煙草などの火種を入れておく小さな器。

「すくも」葦や萱などの枯れたもの。一説に藻屑或いは葦の根とも。

「鏡の宿」平安時代から見える近江国蒲生郡鏡山の北(現在の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡。グーグル・マップ・データ)にある東山道の宿駅。早朝に都を出た旅人の多くが最初の宿泊地とした。「平治物語」で源義経が自ら元服した地として知られる。承安四(一一七四)年三月三日、十六歳であった遮那王(牛若丸)は、稚児として預けられていた鞍馬寺を出奔し、その日の晩、この鏡の宿に到着すると、夜も更けてから、自分で髻(もとどり)を結い、懐から取り出した烏帽子を被って元服したとされる。成人した名を付ける烏帽子親もいないかったことから、自ら「源九郎義経」と名乗ったとされる(以上は概ね当該ウィキに拠った)。

「源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり」この場所は現在の鏡神社(前記同地に所在)の近くと考えられる(後注参照)。「竜王町観光協会」公式サイトの「鏡神社」の解説に、『垂仁(すいにん)天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅(しらぎ)国の王子天日槍(あめのひぼこ)の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び祖神として彼を祀ったことに始まり、のち近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が崇敬して護持(ごじ)したと伝えられています』。『本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)、こけら葺(ぶき)で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されています』とあり、さらに『源義経(みなもとのよしつね)元服のおり参拝』をした神社とし、『鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は兄頼朝を尋ねんと、奥州の金売り吉次と下総の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります』。『平家の追っ手が探しているのを聞き、稚児(ちご)姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決心します』。『そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子(えぼし)を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし』、『元服をしたと伝えられています』。『自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした』とした後、『源氏は新羅系、平家は百済系と言われています』と注する。『鏡神社の参道には義経が参拝したときに松の枝に鳥帽子をかけたとされる鳥帽子掛けの松があります』ともある。恐らくグーグル・マップの同神社のサイド・パネルのこちらの切株がそれらしい。

「鏡の宿の長」前注の引用に出るところの澤彌傳であろう。同じく「竜王町観光協会」の「源義経宿泊の館「白木屋」(しらきや)跡」の解説に、『本陣の東隣りが「源義経宿泊館跡」で現在は畑地となっており、中央に石碑が建てられています』。『京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝』『の「白木屋」の旅籠に泊まりました』。『源九郎義経となる義経誕生の地です』。『写真のような藁葺きの屋根でしたが』(旧写真有り)、『現在は台風のため』、『壊れてしまい、取り除かれて石碑のみとなっています』。昭和三十『年代までは義経にあやかる男児の「とがらい祭り」』(サイト「祭の日」のこちらによれば、毎年十二月第二の午の日に鏡の宿で元服した源義経を忍び、子供と老人が語り合う祭りで、義経の御霊を招き奉る「湯たて神楽」や神事を行った後、子供たちが、鐘と太鼓を打ち鳴らし、「とうがらい、まあがらい、まぁがあったらとうがらい」と大声で囃しながら里山を練り歩く、その囃子から「とがらい祭り」と呼ばれるようになったとあり、この囃言葉は、当時の宿場町としての鏡の白木屋などの宿屋が、客引きのために「泊まらい、まあ上がらい、まあ上がって泊まらい」と言っていたのが起源とされているとある)『の斎場として使われていました』。『烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し』、今は『民家裏側の竹やぶになっています』とある。位置はサイト「4travel.jp」の「白木屋跡」にあるグーグル・マップで確認出来る。グーグル・ストリートビューのここ。鏡神社の東北東百六十メートルほどの位置である。

「ゑこまの德勝寺」現在の滋賀県長浜市平方町にある曹洞宗徳勝寺。前身は応永年間(一三九四年~一四三八年)に東浅井郡上山田村(現在の長浜市小谷上山田町)に建立された医王寺で、小谷城内に移って浅井氏の菩提寺となったが、浅井氏の滅亡によって長浜城内に移り、江戸時代に長浜城下に、また、移転した。境内には浅井亮政・久政・長政の浅井三代の墓がある(ここまではサイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに拠った)。冠してある地名「ゑこま」の現在地は不詳で漢字表記も判らない。津村が「淺井三代の墓も此寺にあり」と書いているからには、長浜市或いは平方町の旧名でなくてはならないはずだが、判らない。

「長澤といふ所に福田寺といふ本願寺派あり」滋賀県米原市長沢にある浄土真宗本願寺派布施山福田寺(ふくでんじ)。「長沢御坊」とも称される。サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらによれば、『開創当時は布施寺と』称し、『現在の長浜市布施町にあり、三輪法相宗(みわほっそうしゅう)に属し』『たが、後に天台宗となり、鎌倉時代末に今の浄土真宗本願寺派に改められ』、『現在地に移ったのは南北朝時代で』あるとする。『朝廷と関わりの深かった近江の豪族・息長氏(おきながうじ)の菩提寺でもあったことから』、『息長寺とも呼ばれて』おり、『息長氏は、古代、伊吹山山麓で製鉄にかかわったといわれる豪族で』三『世紀の後半』から六『世紀にかけて大和朝廷に皇后を送り込』んだ有力豪族で『米原市の近江町には息長氏の古墳が残されてい』るとある。寺の『南庭は』『国の名勝に指定され』ており、『浅井長政寄進の室町時代前期の石灯篭も優れたもの』であるとあることで、浅井と繋がった。但し、「德勝寺の旦那」はいいとしても、「開山は淺井家の臣」とするのは不審である。再興したのが、その人物というのならば、まだ、判るが。

「藤浪殿」不詳。

「高宮には金光寺といふ本願寺派あり」滋賀県彦根市葛籠町(つづらまち)にある浄土真宗本願寺派金光寺。東北直近が旧高宮宿である。

「高宮三河守」高宮城主高宮三河守頼勝。浅井長政に仕えたが、後に織田信長に応じた。

「太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり」こうした事実や、それらが現存するかどうかも、ネット上では全く確認出来ない。

「太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ」全く不詳。「はしかたしごき」の意味も諺というのも丸で判らない。お手上げ。

「長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有」滋賀県長浜市にある真宗大谷派別院無礙智山(むげちざん)大通寺。「長浜御坊」「御坊さん」と呼ばれる。やはり、サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに、慶長七(一六〇二)年に本願寺第十二代『教如(きょうにょ)を開基として長浜城内に長浜御堂を創建』されたが、『翌年、慶長』八(一六〇三)年に『本願寺は東西に分立』、『その後、長浜城の廃城に伴って大通寺(長浜御坊)も』慶安四(一六五二)年に『現在地に移転し』たとする。『もともと湖北は、蓮如』『が他力念仏の教えを広める布教活動の拠点だった地』であり、『真宗王国と呼ばれた湖北三郡(坂田、浅井、伊香)の中心道場であった総坊を前身として、長浜城内に長浜御堂を創建した』。『寺伝によれば、入母屋造りの本堂(阿弥陀堂)と書院造りの大広間(附玄関)は、伏見城の建物を徳川家康から東本願寺』の『教如へと寄進されたもので、本願寺(東本願寺)の御影堂として用いたものを、承応年間』(一六五二年〜一六五四年)『に移建したものと』されるとある。

「播磨の御房」不詳。

「毛坊主」「真宗大辞典」の「毛坊主」よれば、『普段は妻子とともに生活し、農林業などを営んでいるが、俗人のままで僧侶の役をする者。近世には、山深く、近くに寺僧がいない所では、そうした家筋があった。俗家の一間を道場とよび、大津絵の十三仏や弥陀の画像、名号などをかけ、袈裟を着て』、『経を読み』、『念仏を称えて、死者を葬した。髪を伸ばした俗人が導師となって弔うので』、『このように称したが、正規の僧ではない』。「本朝俗諺志」四や「笈埃随筆」などを見ると、『飛驒にみられたことが出ている。近江や安芸』『にもそのような道場があって』、『一向宗の手次坊主』(てつぎぼうず:農民・町人などが僧形になって仏事を行う者を指す)『となっていた。この毛坊主の前身は』、『古代から存在した在俗性の強い聖(ひじり)であった』。「日本霊異記」や「三州俗聖起請十二箇条事」などに『出てくる、得度をしない半僧半俗の民間宗教者がそれである。有髪に袈裟を着た法師が俗間に遊行するものもあり』、『彼らをも毛坊主といえないことはない』とある。

「毛坊主村」確認不能。非差別的な臭いがする。]

2021/02/23

譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事

 

○肥前溫泉ケ嶽(うんぜんがだけ)の湯は、わきあがる事數丈にいたる、嶽上(がくじやう)より望めば、深(ふかき)谷の底より沸騰して、はしらの如く數丈立のぼり、たふるゝ音雷(いかづち)のごとく、恐しき事云ばかりなし、溫泉(おんせん)皆黑水(こくすい)の如しとぞ。入湯の所は別村にありて、湯も澄(すん)であつからずと云。

[やぶちゃん注:【2021224日改稿】何時も情報を戴くT氏より、これは「和漢三才図会」の巻第八十の「肥前」の「溫泉嶽(ウンゼンガダケ)」の記載に基づくものであろうという御指摘を頂いた。以下に所持する同書原本から訓読して電子化する。〔 〕は私が推定で附した読みで、句読点や記号も私が附した。原文の一部は略字・異体字を使用しているが、通用の正字に改めて統一した。

   *

溫泉嶽(うんぜんがだけ) 髙木郡[やぶちゃん注:現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙にある雲仙岳。グーグル・マップ・データ航空写真。標高九一一メートル。]に在り【五十町[やぶちゃん注:約五キロメートル半。これは山尾根伝いの実測距離と思われる。]上に普賢嶽[やぶちゃん注:「国土地理院図」で示す。そこでは標高を千三百五十九・三メートルとする。]に在り。】。

往昔(そのかみ)、大伽藍有り、日本山[やぶちゃん注:ママ。「溫泉山(うんぜんさん)」が正しい。]大乘院滿明蜜寺と號す。文武帝大寶元年[やぶちゃん注:七〇一年。]、行基、建立。三千八百坊、塔、十九基りと云ふ。天正年中[やぶちゃん注:一五七三年~一五九二年。])耶蘇(やそ)の宗門、盛んに行はれ、僧俗、邪法に陷いる者、多し。當寺の僧侶、亦、然り。故に破却せられ、正法〔しやうぼふ〕に歸せざる者は、生-身(いきながら)、當山「地獄池」の中に陷いる。礎石或いは石佛のみ、今、唯〔ただ〕、僅〔わづか〕に一箇寺及び大佛有り[やぶちゃん注:「る」の誤記。]のみ。方一里許〔ばかり〕の中〔うち〕、「地獄」と稱す。穴、數十箇處、兩處、相並〔あひなら〕び、髙さ五、六尺、黑泥の煙、湧(わ)き起〔た〕つ。之れを「兄弟〔はらから〕の地獄」と名づく。黃白に靑色を帶びて、沫滓〔あはかす〕、麹(かうじ)に似る者、之れを「麹造屋(かうじや)地獄」と名づく。靑綠色、藍汁に似たる者、之れを「藍染家〔あをや〕の地獄」と名づく。濁白色、稍〔やや〕冷えて、米泔(しろみづ)に似たる者、之れを「酒造家(さかや)の地獄」と名づくるの類〔たぐひ〕の名目、亦、可笑(をか)し。猛火〔みやうくわ〕、出〔いで〕て、「等活大焦熱」[やぶちゃん注:等活大焦熱地獄のこと。]と謂つべし。流水、稍、熱くして、湯のごとくなるの小川の中に、每〔つね〕に、小魚、多く游行〔ゆぎやう〕するも奇なり。凡そ、一山の地、皆、熱濕。鞋〔わらぢ〕を透(とを)す。跣足〔はだし〕の者は、行き難し。麓に溫泉多く有りて、浴湯、人、絕へず。

   *

「日本山大乘院滿明蜜寺」真言宗雲仙山(うんぜんさん)大乗院満明寺(まんみょうじ)は雲仙温泉(「入湯の所」。雲仙岳南で普賢岳の南西のここ(グーグル・マップ・データ航空写真))のここ(同前)にある。]

譚海 卷之四 阿波國石筒權現の事

 

譚 海 卷の四

 

○阿波國に石筒權現と申(まうす)おはします。橫崎といふ所より八里半のぼりて、高山の上に御社有、其間の嶮岨言語同斷也。絕頂にいたる處鐡のくさりにすがりてのぼる、其くさりの長さ三十三間有、つゝじの古かぶにつなぎてあれども、とりすがりてのぼるに、切るゝ事なし。くさりを登りはつる所に鳩の息つきの水といふ有、わづかなる淸水のたまりたる岩の上に、石にて造りたる鳩ひとつ水にのぞみて有、此水人々すくひのめども、終にたゆる事なし。每年六月十八日より七日の間參詣する事也。殊の外をそろしき山にて、時々人のけがされて血にまみれたるかばねなど、樹のうらにかゝりてある事多し、諸人潔齋して登る山也。

[やぶちゃん注:「阿波國に石筒權現」底本の「日本庶民生活史料集成」第八巻の武内利美氏の注に『四国の石鎚山』(いしづちさん)『の神。阿波ではなく、伊予の国の石鎚山』(千九百八十二メートル)『であろう。四国第一の高峰で、山上に石鎚神社があり、役』の『行者の開創と伝える。山岳信仰の中心の一つで、今日も七月一日から十日にわたる大祭には、多数の白衣行者が登拝する』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの写真を見ると、険しさの様子が判る。当該ウィキによれば、『石鎚山は古くから山岳信仰の山とされ』、『奈良時代には修行道場として知れ渡った。役小角や空海も修行したとされ山岳仏教や修験道が発達し、信仰の拠点として石鎚神社、前神寺』(ぜんじんじ)、『極楽寺、横峰寺がある。(石鎚神社中宮成就社のある成就は明治初期の神仏分離以前は常住と呼ばれていた。)』。『古代の石鎚山は笹ヶ峰、瓶ヶ森』(かめがもり)『および子持権現山が石鈇信仰の中心であったとする説、あるいは現在の石鎚山と笹ヶ峰の東西』二『つの霊域を想定する説がある』。『(新居浜市の正法寺では奈良時代の石鎚山が笹ヶ峰を指していたことに基づき、現在でも石鎚権現の別当として毎年七『月に笹ヶ峰お山開き登拝が行われている。)』。『開山の伝承として』、斉明天皇三(六五七)年に『役の行者とその供をした法仙が龍王山(瓶ヶ森の中腹標高』八百四十メートル『辺り)で修行のすえ石土』(いしづち)『蔵王権現を感得したという。そして、そのすぐ下の広い場所に天河寺を開創する』。天平九(七三七)年に石土蔵王権現はさらに高い瓶ヶ森の絶頂に祀られ』「宮とこ」と呼ばれ、天平勝宝五(七五三)年には『芳元が熊野権現を勧請した。その山は石土山』(いしづちさん)『と云われていて、天河寺はその別当として栄えた。一方、現在の石鎚山となる山は石撮峰と呼ばれ、法安寺(愛媛県西条市小松、飛鳥時代創建)の住職である石仙(灼然)により横峰寺が開かれ、さらに当山中腹の常住に前神寺の前身となる堂が造られた。その後、黒川谷で修業をした上仙菩薩(伊予国神野郡出身)が石鎚蔵王大権現を称え、登山道を山頂へと開く。そして』、天長五(八二八)年には、『瓶ヶ森より石土山を現在の石鎚山へ光定』(こうじょう)『(伊予国風早郡出身)により移され、石鈇山』(いしづちさん)『と呼ばれるようになる』。『平安時代前半には神仏習合が行われたとされ、山岳信仰特有の金剛蔵王権現および子持権現が祀られた。そして、桓武天皇』(七八二年〜八〇五年)『が自身の病気平癒祈願と平安京奉謝などの成就をしたことにより、国司に命じ常住に七堂伽藍を建て勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜された。天正年間には河野通直、村上通聴』(読み不明)『が社領』を、慶長一五(一六一〇)年には『豊臣秀頼が社殿を前神寺に寄進した。寛文年間には小松藩主一柳氏、西条藩主松平氏の帰依により社殿が整備された』。『江戸時代初期には信者の増加に伴い、前神寺は麓に出張所を設置してからは常住の本寺を奥前神寺、麓の出張所を里前神寺と呼ぶようになった。その後、本寺機能は里に移っていった。そして、別当職や奥前神寺の地所をめぐって西条藩領の前神寺と小松藩領の横峰寺との間に紛争が起こった。古来、石鈇山蔵王権現別当は前神寺が専称していたのに対し』、享保一四(一七二九)年に『横峰寺が「石鈇山蔵王権現別當横峰寺」の印形を使用したのが発端であるとされ、双方が京都の御所に出訴するに至った。そこで、地所は小松藩領の千足山村、管理権と「石鈇山蔵王権現別當」の専称は前神寺とし、奥前神寺は常住社と名称変更され、横峰寺は「佛光山石鈇社』『別當」と称するとの裁決が下された』。明治四(一八七一)年の『神仏分離により、石鈇蔵王権現は石土毘古命』(いわつちびこのかみ)『となり』、『前神寺の寺地は全て石鉄』(『いしづち』神社に、前神寺は廃寺に、横峰寺は横峰社となった。両寺はその後すぐに復興し』、『真言宗に所属することとなった。明治三五(一九〇二)年に『石鉄神社から石鎚神社に変更が決定され』、『石鎚毘古命(石鎚大神)、石鎚山となる。そして明治時代中期以降は石鎚神社、前神寺、横峰寺はさらに多くの信者を集めるに至った』。『毎年』、七月一日から十日までの『間に「お山開き」の神事が執り行われ、多くの信者が参拝登山に訪れる。古くからお山開きの期間中は女人禁制とされてきたが、現在では』七月一日『だけが女人禁制となった。当日は女性は成就社まで、また土小屋遥拝殿までで山頂まで登る事が出来ない』。『石鎚山の頂は、通常は天狗岳のことを指すが、弥山から天狗岳までが岩場であることや、天狗岳に多人数がとどまれるスペースがないこともあり、天狗岳直前(約』二百メートル『手前)の弥山』(みせん)『までの登山者も多い。弥山には石鎚神社の鎮座のほか』、『山頂小屋がある』。『弥山まで』三『箇所の鎖場があり、下から』「一の鎖」(三十三メートル)・「二の鎖」(六十五メートル)・最後も「三の鎖」(六十七メートル)と続くが、『迂回路もある。「一の鎖」の手前に前社ヶ森』(千五百九十二メートル)『の岩峰にかかる「試しの鎖」』(七十四メートル)『があり、これが最も急勾配である。弥山への鎖は近世頃より掛けられたとされ、安永八(一七七九)年に』鎖が切れ、翌安永九年に『鎖の掛け替えを行ったとする記録である』「石鉄山弥山鎖筋之覚」が『前神寺旧記に残されている。山頂からは瀬戸内海、および土佐湾、見通しのよい日には大山を始めとする中国山地、九州の九重連山まで望むことができる』。『主な登山コースは、石鎚登山ロープウェイ使用の成就社コース、石鎚スカイラインまたは瓶ガ森林道を使用の土小屋コース、面河渓谷コースの』三『つが一般的であるが、ロープウェイを使わないコースとして』、『西ノ川登山口から夜明かし峠に至るコースや、今宮道から成就社に至るコースもある。成就からの登山道が表参道、面河からが裏参道と呼ばれる』。『西ノ川登山口からのコースで毎年遭難騒ぎが起きているので不十分な用意は禁物である。天狗岳直下には傾斜が強くオーバーハングした北壁が落ちており、四国一といってもよいロッククライミングのフィールドを提供している』。『さらに、「石鎚山旧跡三十六王子社」という行場を巡りながらの登拝もあるが』、『経験者の案内のもとに行かないと行き着けない』とある。

「橫崎といふ所より八里半のぼりて」この地名は現在の地図やスタンフォード大学の旧地図を見ても見出せない。思うに、これは原本の「橫峰」の誤字或いは判読の誤りではあるまいか? 但し、これは地名ではなく、寺名で、現在の愛媛県西条市小松町にある真言宗石鈇山(いしづちざん)福智院横峰寺で、四国八十八箇所の第六十番札所。グーグル・マップ・データ航空写真を見て戴くと判るが、石鎚山の真北(直線で八キロ弱)に位置し、東西を迂回して行くとしても、恐らく登攀実測では三十キロメートルはあるからである。この寺は標高七百四十五メートル付近にあり、伊予国では最高所の寺であり、八十八箇所の全体の中でも二番目の高地に建っている。私の試算がおかしいとなら、ウィキの「横峰寺」に、以下のように書かれている事実をお示しする。『いつのころか四国霊場巡拝は、当寺を打った後、当寺より』五『町未申の方角』(約五百メートル南西)『に上がった鉄ノ鳥居(星ヶ森)で参拝し、ここより』九里(注に「奉納四國中邊路之日記」(元禄九(一六九六)年)の記述の距離に拠るとある)『先の山中にある石鈇山蔵王権現(前神寺)への参拝を済ますようになっていた』とあるので如何か?

「三十三間」約六十メートル。先の引用を参照。山頂の石鎚神社への鎖り場の最後の「三の鎖」りの現在の長さも六十七メートルである。

「鳩の息つきの水」現行では確認出来なかった。

「けがされて」「怪我されて」ではおかしいから、潔斎をせずに登って「穢されて」(権現さまから「穢れたる身」と断ぜられて)の謂いととる。]

2021/02/22

譚海 卷之三 譚海の事 / 譚海 卷之三 電子化注~了

譚海の事

○譚海一書時々人の物語を聞置しわざのわすれがたき事を書とめぬれど、わかき程は聞捨たるまゝにて書(かき)も止めざりしを、四十歲計(ばかり)の此より思ひ立てかくはしるしたれど、もと聞し事も覺束なく成(なり)て書もらしぬる事多し。殊に此卷は傳聞のたがひ、事案のあやまりもおほかるべけれども、せめては聞すてん事の名殘(なごり)なく覺えて、閑(かん)を消(しやう)するなぐさめに一わたり書しるせる事となりぬ。猶あやまりあらん事をば、見ん人あらため補(おぎなは)んわざをねがふにこそ。

[やぶちゃん注:「譚海」の一つの区切りとして記したもの。これを以って「譚海」の「卷之三」は終わっている。]

   *

今日は、睡眠薬を飲んでいるのに、御前三時前にすっかり目が覚めてしまった。仕方なく、只管、「譚海 卷之三」完結に勤しんだ。七時間ぶっ通しで、やっと終わった。2015年2月9日に始めて六年で全三巻、か……しかし……「譚海」は……全十五巻……このペースでは……生きてるうちには無理かもな…………

譚海 卷之三 山崎の妙喜庵

山崎の妙喜庵

○山崎に妙喜庵と云寺あり。其數寄屋(すきや)三疊大目(さんじやうだいめ)の根本也、千宗易作る所にて、豐臣太閤の袖すり松と云も此庭に有。今は枯たるを其樹を取て香合(かふがふ)に製したるもの、名ぶつにて世中に有。京都はすべて數寄屋の本色(ほんしよく)とするもの、千家をはじめ諸寺院にあまたあり、大德寺塔中は殊に多し。茶器の細工も釜師を始め、一閑張(いつかんばり)細工・茶碗師の類迄、その家を傳へて今に絕ず、精密なる事いふべからざるもの也。

[やぶちゃん注:「妙喜庵」京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう)にある現在は臨済宗。山号は豊興山。江戸時代には一時、地蔵寺の塔頭であった。室町時代の明応年間(一四九二年~一五〇一年)の開創で、開山は東福寺開創聖一国師法嗣の春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。当該ウィキによれば、待庵は『日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には』、天正一〇(一五八二)年の「山崎の戦い」の折り、『羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し』、『移築したとある』。慶長一一(一六〇六)年に『描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の』連歌師山崎宗鑑の『旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる』。『茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける』。『室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。この荒壁は仕上げ塗りを施さない民家では当たり前の手法であったが、細い部材を使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもあった。床は』四尺幅(内法三尺八寸)で、『隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろどこ)」である。天井高は』五尺二寸ほどで、『一般的な掛け軸は掛けられないほど低い。これは利休の意図というより』、『屋根の勾配に制限されてのことと考えられる。床柱は杉の細い丸太、床框は桐材で』、三『つの節がある。室内東壁は』二『箇所に下地窓、南壁には連子窓を開ける。下地窓(塗り残し)の小舞』(「木舞」とも書く。屋根や壁の下地で、竹や貫を縦横に組んだもの)『には葭が皮付きのまま使用されている。炉はにじり口から見て』、『部屋の左奥に隅切りとする。現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はない。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに』二『畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされている。ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱を保護する目的もあったと考えられる。天井は、わずか』二『畳の広さながら』、三『つの部分に分かれている。すなわち、床の間前は床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込みの化粧屋根裏とする。この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫と解せられる。二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っている。つまり』、『一見』、『複雑な待庵の天井の中心には床柱があり、この明晰性が二畳の天井を三つに区切っていても』、『煩わしさを感じさせない理由となっている。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて』一『畳に幅』八『寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて次の間の北側に一畳の「勝手の間」がある。一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが未だ明らかになっていない』とある(茶室の一九五二年刊の「国宝図録」第一集所収のモノクロームの写真が有る)。

「三疊大目」「三疊臺目」とも書く。丸畳三畳の客座と台目畳一畳の点前座で構成された茶席のこと。サイト「茶道」のこちらに詳しい。

「千宗易」千利休の号。

「豐臣太閤の袖すり松」「古美術ささき」のこちらに、その松材で作った茶杓(銘「老松」)というのがあった。製作者は武田士延(昭和六(一九三一)年生)氏で彼は妙喜庵住職(昭和三五(一九六〇)年就任)である。

「香合」「香盒」とも書く。香を入れる小さな容器。香箱。

「一閑張」紙漆(かみうるし)細工或いはその紙漆細工を作る方法のこと。「一貫張」とも書く。当該ウィキによれば、『明から日本に亡命した飛来一閑が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説がある。農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので』、『一閑張と呼ばれるようになったという説もある』。『一貫』(三・七五キログラム)『の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方もある』。『竹や木で組んだ骨組み(最近では紙ひもを用いた物もある)に和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。張り子と作り方が似ている』。『食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている』。『食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない』とある。ウルシ・アレルギの私には永久に縁がない代物である。]

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