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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の294件の記事

2021/08/05

譚海 卷之四 同年信州淺間山火出て燒る事

 

○同年六月廿九日より、信州淺間山、震動して、沙石(させき)をふらし、晝夜、闇の如く、雷電、甚し。

 七月八日に及(およん)で、震動、しばらく、しづまりたるやうに覺えて、諸人、安堵の思ひをなし、男女(なんによ)、家業をはじめ、機(はた)など織(をり)かゝりたるに、翌九日巳の時に至り、俄(にはか)に山つなみ起りて、泥を卷來(まききた)る事、十丈ばかりにて、信州・上州、人家・田畑、赤地(あかじ)に成(なり)たる所、凡(およそ)橫八里に竪十八里ほどに及べりとぞ。

 八月中、御見分の御役人、被ㇾ越候節(こされさふらふせつ)のものがたりなり。

 此(この)泥津浪(どろつなみ)は、淺間より、七、八里、辰巳(たつみ)にあたりて「あづま山」といふ有(あり)、其(その)山、絕頂、燒出(やけいだ)し、半腹よりは、泥湯・硫黃の火炎を吹出(ふきいだ)して、かくの如く成(なる)わざはひに及(および)たる也。

 其(その)吹出したる泥土、東の方、上州に、一つの山となれり。あづま山の東の根に流るゝ川を「あづま川」といふ。卽(すなはち)、武州刀禰川(とねがは)の川上にて群馬郡(ぐんまのこほり)なり。その川を隔てて、南杢村・北杢村・川島村とて、三箇所の村、殘らず、おしながされ、南に「杢の番所」といふ、川より六丈程高き所にあるを、番所の役人ともに、をしながし、鳥有(ういう)に成たり。此番所は越前三國の海道也。橋も、はしくひ、なく、左右より、もちあはせて、懸(かけ)たる橋なり。はしより、水面までは、二丈ばかりもありとぞ。其(その)川下、つなみの及ぶ所、人家、損亡して、人の死骸、手足、きれぎれになり、流れて、刀根川(とねがは)の川上を埋(うづ)め、かちわたりと成(なり)たり。硫黃(いわう)の氣に、川水、濁り變じて、川の魚、悉く死し、川水、外にあふれて、いく筋となく、えだ川、出來、又、そのながれに損ずる所の田畑、勝(かつ)て計(はかり)がたし。

 其硫黃の川水、中川より行德(ぎやうとく)へ押出(おしいだ)し、伊豆の海邊まで、ことごとく、濁り變じ、七月十八日、大南風(だいなんぷう)吹(ふき)たるとき、さし汐(しほ)にて、右のにごり、水を江戶へ吹(ふき)よせ、海の色、變じたるゆゑ、芝浦・築地・鍛炮洲邊にては、

「つなみ、おこる。」

とて、大(おほい)に騷動し、佃島の男女、殘らず、雜具をはこび、陸地に移り居る事、二日に及(および)て、はじめて、しづまりたり。

 信州・上州にて暴死のもの、凡(およそ)三、四千人、死骸、とね川をながれくだりて、房總・行德、所々のうらうらへよりたるを、其所(そこ)にて葬(はうふり)たる事、また數をしらず。

 同時(おなじとき)、淺間のふもとに何村とかやありしを、二里に三里の地、土中(どちゆう)へ落入(おちいり)、一村、殘らず、人馬、死(しに)うせたり。是(ここ)は朝士、番町の住(ぢゆう)、伊丹兵庫介殿知行所也。

 上州高崎城下は、泥の雨、降(ふり)て、人家をおしつぶし、松平右京太夫殿領所、殘らず、不毛の地と成(なり)たり。

 江戶より信州・上州邊に知音(ちいん)有(ある)もの、そのかた、とぶらひに行(ゆき)たれども、高崎の川、晝夜、いわうの火焰ながれ、雷電、止(やま)ざるゆへ、おそろしく、みなみな、高崎限(かぎり)にて江戶ヘ歸りたり。

 信州安中驛、のこらず、泥沙にてうづみ、一驛(ひとえき)、破滅に及び、木曾道中、往來、止(やみ)たる事、十日餘(あまり)に及び、江戶より行人(ゆくひと)は、深谷の宿に逗留せり。

 此(この)時節、江戶にても、六月晦日(みそか)比(ごろ)より、震動の樣(やう)に、時々、鳴(なり)ひゞき、七月八日は、戶障子へ、ひびく程に鳴たり。八日夜に入(いり)て、其音、聞えず、尤(もつとも)右兩日は、朝より、雲のいろ、赤くくもりて、日の光、うすく、北風にて、白き砂を吹(ふき)こし、軒端より、屋上にふり積る事、灰をちらしたる如し。晝過(ひるすぎ)より、南風に吹(ふき)かはりて、灰もふりこず、晚方は快晴に成たり。淺間の砂、關東に降(ふり)たる事、淺間より東は、おほかた、のこる所なく、海邊まで、みな、然り。奥道中は宇都宮邊に及ぶ。所によりて、厚薄(こうはく)あり、草賀(さうか)・越谷(こしがや)宿等は、一、二寸、下總小金邊は、三、四寸、上州御領所は、土砂、ならし、壹坪、三斗五升ほどありし、といへり。

 上州、所々、破滅せし故、かひこの種、うしなひたれば、來年は絹の類、貴(たか)かるべし、といへり。綿・麻等も、おびたゞしく損ぜしゆゑ、一倍の價(あたひ)に成たり。

 今年、江戶の米、金壹兩に、四斗二升までを商賣する事に成たり。

 全體、春二月より雨天つゞき、八月九日まで、くもりがちにて、關東の作、凶年に至り、別(べつし)て奥州、仙臺・南部・津輕は、地をはらひて、不作なるよし。奥道中、所々に、盜賊、橫行し、晝(ひる)、中(なか)の刻(こく)よりは、往還、なし。

 江戶にても、窮民、道路に立(たち)て食を乞ひ、人家に入(いり)て、飢(うゑ)を愁(うれ)ふるもの、白晝に絕(たえ)ず。往々、行(ゆき)たふれ、死(しし)たるものありて、官に訴へ、御檢使を願ひ、町の物入(ものいり)に成たる事なり。

 冬に至り、町奉行御役所にて、大坂御買米(おかひまい)有(あり)、町々へ、七斗の相場にて分(わか)ち下され、夫より、少々づつ、米價も廉(れん)に成たる也。

 

[やぶちゃん注:前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」に引き続いて、同時期の㐧天災であった「浅間山天明の大噴火」の記事であり、長いものでもあるので、同じように段落を成形し、句読点・記号も変更・追加した。まず、ウィキの「浅間山」より、当該部を引く。浅間山の大噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した。同年旧暦(以下同じ)四月九日に『活動を再開した浅間山は』、五月二十六日・六月二十七日と、一ヶ月『ごとに噴火と』、『小康状態を繰り返しながら』、『活動を続けていた』が、六月二十七日のそれより、『噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した』。七月六日から三日間に亙った『噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約』三ヶ月『続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊』し、『これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。なお』、『爆発音は京都から四国付近、そして極めて疑わしいが』、『九州地方まで聞こえたとも言われる。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村』(かんばらむら)『(現・嬬恋村大字鎌原地域)』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ。浅間山はこの地区の南端にある)『と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成して河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり』、『大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。この時の犠牲者は』千六百二十四『人(うち上野国一帯だけで『千四百』人以上)、流失家屋』千百五十一『戸、焼失家屋』五十一『戸、倒壊家屋』百三十『戸余りであった』。『最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明』三『年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている』。『長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、低温の乾燥粉体流が災害の主要因であった』。『最も被害が大きかった鎌原村の地質調査をしたところ、天明』三『年の噴出物は全体の』五『%ほどしかないことが判明』し、また、昭和五四(一九七九)年から『嬬恋村によって行われた発掘調査では』、三『軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し』、『溶結し』て『再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。二〇〇〇『年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県の鬼怒川から茨城県霞ヶ浦、埼玉県北部にまで降下していることが確認され』ており、『また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明』三『年の水害、天明』六『年の水害などの二次災害被害を引き起こし』ていたことが判っている。『この時の噴火が天明の大飢饉の原因となり、東北地方で約』十『万人の死者を出したと』、『長らく認識されていたが、東北地方の気候不順による不作は既に』一七七〇『年代から起きていることから』、『直接的な原因とは言い切れない。一方で』、『同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火』(天明三年三月十二日(グレゴリオ暦四月十三日))した『ばかりか、アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火』・グレゴリオ暦六月八日)『とグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇』し、『噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから』、『北半球に低温化・冷害をもたらした。このため』、『既に深刻になっていた飢饉に拍車をかけ』、『事態を悪化させた面がある』とある。最後の部分は異論もある。「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」の引用を参照されたい。標題の下方の「火出て燒る事」は「ひ、いでて、やくること」である。

「辰巳」南東。しかし、おかしい。次注参照。

「あづま山」これは当時の激甚被災地と距離から見て、群馬県吾妻郡嬬恋村田代にある四阿山(あづまやさん)か、群馬県吾妻郡中之条町山田にある吾妻渓谷直近の吾嬬山(かづまやま)の誤認ではないか。但し、前者は浅間山の北西、後者は北東であり、孰れも浅間山の噴火の際に同時に噴火した記録は全くない。津村の聴き書きの誤りであろう。津村は後で『あづま山の東の根に流るゝ川を「あづま川」といふ』と言っていることから、前者の「四阿山」を指してはいると思われる。この地図で、南東に吾妻川が確認出来る。

「東の方、上州に、一つの山となれり」浅間山の北北東の「鬼押出し」のことを言っていよう。

「刀禰川(とねがは)」利根川。以下の変字も同じ。

「南杢村・北杢村・川島村」孰れも確認出来ない。天明の大噴火で最大の被害を受けたのは、現在の鎌原地区の浅間山北麓の吾妻川右岸一帯であるが、鎌原・大前・大笹などの集落であったが、ここに書かれた村名に近いものは近代初期の地図(「今昔マップ」)を見ても見出せない。ウィキの「鎌原観音堂」(堂の場所はここ)によれば、この天明の大噴火で火口から北へ約十二キロメートルの位置にあった鎌原村は、『大規模な岩屑なだれ』『に襲われ』て『壊滅』した、この時、『鎌原村の村外にいた者や、土石流に気付いて階段を上り』、この『観音堂まで避難できた者、合計』九十三『名のみが助かった。この災害では、当時の村の人口』五百七十『名のうち』、四百七十七名もの『人命が失われた』。『現在、地上部分にある石段は』十五『段であるが、村の言い伝えでは』、『かつてはもっと長いものだったとされていた』。昭和五四(一九七九)年、『観音堂周辺の発掘調査がおこなわれた結果、石段は全体で』五十『段あったことが判明し、土石流は』三十五『段分もの高さ(約』六・五『メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性』二『名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』(私はこの時の発掘の特番映像を見た記憶がある。教員になった年で、私はテレビを持っていなかったから、夏季休業中に親元へ帰った折りに見たのであろう)。『また、この『噴火で流出した土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦』、『堰き止めてから決壊』し、『大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって』、千四百九十『名の人命が奪われる大惨事に及んだ』。『また、当時鎌原村にあった「延命寺(えんめいじ)」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字応桑字小宿)にあった「常林寺(じょうりんじ)」の梵鐘が、嬬恋村から約』二十キロメートル『下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約』百二十『年後』(昭和初期)『に発見され』ている』。『大噴火によって甚大な被害を受けて不安な日々を過ごす住民は、江戸の東叡山寛永寺に救済を求めた。前年に東叡山寛永寺護国院の住職から、信州善光寺別当大勧進貫主に就任した等順が被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走、被災者一人につき白米』五『合と銭』五十『文を』三千『人に施し、念仏供養を』三十『日間施行した』。『その様子は、「数多の僧侶を従えて ほどなく聖も着き給い 施餓鬼の段を設ければ のこりの人々集まりて みなもろともに合唱し 六字の名号唱うれば 聖は数珠を爪ぐりて 御経読誦を成し給う」と』、「浅間山噴火大和讃」『として伝承されてきた』とある。大体、この前の二つの村名、こういう次第で、読み方が判らない。「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部」(左頁後ろから三行目)を見ると、そこでは「南木工村・北木工村」と書いてあるように見える。孰れにせよ、可能性としては、これらは「もくむら」と読むように思われる。この二村は或いは林業に従事する者たちが居住していたのかも知れない。

「杢の番所」不詳。前に注した通り、「もくのばんしよ」と読んでおく。ウィキの「嬬恋村」によれば、『大笹には関所が置かれた』とあるのが、それであろう。大笹はここである。

「六丈」十八・一八メートル。

「はしくひ」橋杭。

「左右より、もちあはせて、懸(かけ)たる橋なり」猿橋のように、両岸に穴を開け、差込んだ「はね木」を重ねて橋を支えているものを指す。

「かちわたりと成たり」多量の土砂・崩落した建造物・死者の遺体で川が埋まり、徒歩渡(かちわた)りする状態になったというのである。

「中川」現在は利根川右岸を並走する細い中川があるが、それか。この川は現在は江戸川とは別に、海より少し手前で本流は荒川に合流し、残りが旧江戸川として東京湾に至っている。それが判る位置を示す

「行德」千葉県市川市行徳地区。利根川から分岐した江戸川河口附近の旧称。

「伊豆の海邊まで、ことごとく、濁り變じ」話の展開が急に長距離を駆け抜けて、ちょっと俄かには信じられない感じがするが、津村は、この当時、江戸に住んでいたはずだから、事実なのだろう。

「つなみ、おこる」「海の色」が「變じた」ことから、これが遠く浅間山の噴火によるものとは、誰も思わず、大津波の前兆と勘違いしたというのである。

「淺間のふもとに何村とかやありしを、二里に三里の地、土中(どちゆう)へ落入(おちいり)、一村、殘らず、人馬、死(しに)うせたり」先の鎌原地区のことであろう。

「朝士」旗本ことだろう。

「伊丹兵庫介殿」調べれば判るのだろうが、労多くして、益がなさそうなので、調べない。悪しからず。

「松平右京太夫殿」当時上野国高崎藩主であった松平輝規(てるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。彼は従四位下右京大夫であった。

「信州安中驛」群馬県安中市中宿(なかじゅく)附近であろう。旧中山道が貫通している。

「深谷の宿」埼玉県深谷市深谷町のこの附近。実測で安中の手前三十六キロ以上手前である。

「草賀」草加のこと。埼玉県草加市

「越谷」草加の北の埼玉県越谷市

「下總小金」千葉県松戸市小金

「上州御領所」上野国の幕府領は多数あったので特定不能。

「土砂、ならし」降った土砂を綺麗に均(なら)しところ。

「晝、中の刻」所謂、朝でない午前八時・九時頃以降か。そもそも昔の旅人は未明のうちに出立し、午後遅くまで歩くことは稀れであった。

「往々、行(ゆき)たふれ、死(しし)たるものありて、官に訴へ、御檢使を願ひ、町の物入(ものいり)に成たる事なり」行路死亡人は知らん振りをしていると、罰せられたので、必ず、見かけ次第、奉行所に届けなければならなかった(所謂、事件性が認められるからである)が、検死にやってきた奉行の世話や接待にかかる費用や食事は、皆、当該の町村が全部を負担しなくてはならなかったのである。落語にもあったかと思うが、そうした行き倒れの死体を、隣りの町境まで運んで、向こうへ放り出したところ、向こうも同じようにもとの町の方へどける、というような、実は笑えないひどいこともあったようである。]

譚海 卷之四 天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事

 

○天明三年秋、北國飢饉にて、南部・仙臺・津輕餓死に及べり。

 その秋、南部より、山ごしに、羽州秋田へ來れる同國の行者(ぎやうじや)、物がたりけるは、

『南部領を過(すぎ)し時、いづかたにも、白く、小山のごとく、積置(つみおき)たるもの、多し。

「何ぞ。」

と、みれば、みな、餓死人の死骸、二十、三十、集め置(おき)たるなり。扨(さて)、山中かゝり、日暮(ひくれ)ぬれば、大(おほい)なる家あるゆゑ、

「宿をからん。」

とて、入(いり)て見るに、ゐろりのそばに、老人一人、たふれふして有(あり)、其(その)外は、人氣なし。

「宿を、かしてたべ。」

と、いひければ、老人、

「安き事に侍れども、何もまいらすものとては、米一粒だに、なし。」

と云(いふ)。修行者、

「それは心づかひに及ばず、囘國(くわいこく)の事なれば、米は、たくはひ、もちたり、ただ、宿をかして玉(たまは)らば、うれしかるべし。」

といへば、老人、

「それならば、入てとまり玉へ、夜着・ふとんも、澤山にもちて侍る。」

とて、いりてかたるに、老人云(いはく)、

「われら、家内四十餘人侍(はべり)しが、今年、きゝんに、段々、死(しに)うせて、今日(こんにち)に至りては、我ら、一人、命、つれなく殘り、かく、孫子(まごこ)どもにおくれ、『哀(あはれ)、一日も早く死なばや。』と願ひ侍れど、いかなる惡業にひかれてや、猶、生(いき)とまり侍るが、うたてき事。」

と、かきくどき、かたりければ、修行者も哀(あはれ)を催して、

「敷日(すじつ)、もの、まいらであるは、不便(ふびん)なる事也、こゝに、少し、たくはひもちたる米も侍れば、今宵は此(これ)を參るべし、我等も、報謝のこころにて、まいらせ度(たし)。」

といへば、老人、

「かく、生殘(いきのこ)りたるが、つらし、とさへ思ひ侍るに、何によりてか、又、ものをくひて、一日(ひとひ)も生ながらへ、うきめを見侍るべき、しかじ。只、ものくはで、はやく、うえ死に成(なり)なん事を願ひ侍るのみ。」

とて、一向(いつかう)に、うけつく氣色(けしき)あらねば、修行者、

「さらば。力、なし。」

とて、自身の飯を、かしぎ焚(たか)んとて、井に行(ゆき)て、つるべをさげ、くむに、すべて、水なし。

 歸りて、老人に、とふ、

「又、こゝの外(ほか)に井は侍るや。」

と、いへば、

「少し遠けれども、そこにも有(あり)。」

と敎へければ、行(ゆき)て汲(くむ)に、さきの如く、すべて、水、なし。

 井に、何やらん、もののあたりて覺えければ、ともし火をもちて、井をてらしみるに、餓死に及(および)て、身をなげし人のかばねにや、かさなりて、有(あり)。

 はじめの井も、又、如ㇾ此(かくのごとく)、死人、みちて、水色も、わかず。

 せんすべなくて、田ある方(かた)に行(ゆき)て、やうやう、水口(みなぐち)より、わかるゝ水を、くみもちきて、飯をたきて、くひけり。

 夜ふけて、老人、いひけるは、

「我は、あすの命も計難(はかりがた)し。我等、家もまづしからず、金子も、おほくたくはへてあり、そこそこにあり。何とぞ、もちておはして、此(この)なきもの・我等がために、ぼたいにならん事をして、後世(ごぜ)をすくはせ給へ。」

と、いひければ、

「夫(それ)は、たふとき事なれども、加樣(かやう)に囘國する身にては、金など、もちありきては、かへりて、行脚の妨(さまたげ)になり侍れば、おもひもよらぬ事也。さほどにおぼさば、その金子(きんす)をもちて、われらと、いづくもおはして、米ある所に住(すみ)つきて、せめて、いきのび給へ。」

とすゝめけれど、老人、さらにうけひかず、

「われらは、かくて死(しな)ん事を願ふ外は、望み、侍らず。」

とて、聞(きき)いれず。

 しひて、老人、すゝめければ、鳥目(てうもく)壹貫文、もらひて、きぬる。』

とぞ。

『老人、

「是(これ)まで、段々、死(しに)うせ侍るものは、是(ここ)に、侍る。」

とて、一間(ひとま)を明(あけ)て見せければ、さながら、死人、一座敷(ひとざしき)に重りみちて、目もあてられず、くさき事、云(いふ)ばかりなし。

 夜あけて、こゝを立(たち)いでなんとする時、老人、あへなく、息絕(いきたえ)て、うせにし。』

とぞ。

『哀れなる事共を見つる。』

と、かたりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:特異的に(今までは殆んど読みを加えるだけで、底本をいじっていいない)段落を成形し、句読点や記号なども変更・追加して、凄惨な臨場感を再現することに努めた。また、一部、不審な箇所を「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部(リンク先は開始頁)で確認し、修正した。具体には、「一向(いつかう)に、うけつく氣色(けしき)あらねば、」の箇所で、底本は「一向にうけひく氣色あらねば、」である。ここの右頁三行目下部が相当する。

 小学館「日本大百科全書」の「天明の飢饉」を引く(一部に語注を挿入しておいた)。「享保の飢饉」・「天保の飢饉」と並ぶ江戸時代の三大飢饉の一つ。天明年間(一七八一年~一七八九年)には連年に亙って飢饉が発生し、とくにここで語られる天明三(一七八三)年と、天明六年は惨状が甚だしかった。西日本、特に九州は天明二年に飢饉にみまわれたが、西日本の場合は、天明年間前半には収束していた。飢饉は、むしろ、東日本、特に東北地方太平洋側(陸奥国)・北関東一帯で猛威を振るった。津軽地方では、早くも安永年間(一七七二年~一七八一年)末期にも凶作の兆しがあったが、八戸地方では、天明三年の夏に「やませ」が吹いて、冷害となり、稲が立ち枯れ、東北飢饉の前触れとなった。そこへ、同年七月の上州浅間山の大噴火が重なり、噴火による降灰の被害は関東・信州一円に及び、その被害の甚だしかった北関東(上野・下野・信濃)では、凶作から、飢饉となった。かくて陸奥では「神武以来の大凶作」といわれた「卯歳(うどし)の飢饉」(天明三年は癸卯(みずのとう)年)となった。これは、霖雨(りんう)・低温・霜害・冷害などの自然的悪条件だけでなく、過酷な封建的搾取や分裂割拠の支配体制による津留(つどめ:荷留(にどめ)。領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。呼称は多くが津(港)で行なわれたことによる。室町時代からあったが、江戸時代には商品の移出入統制が物価調節・自領内産業の保護等、経済的な理由による場合が多くなり、自領と他領を連絡する水陸交通の要路には口留番所などを置いて、人や物資の自由な領外移出入を取り締まった)・穀留(こくどめ:同前の他領への米穀類流出を制限・停止をしたこと。同じく要所に穀留番所が置かれた)政策の犠牲という政治的・社会的原因が、飢饉の惨状を極度に悪化させた。このために津軽藩では天明三年九月から翌年の六月の十一ヶ月(天明四年は閏一月がある)、領内の人口のうち、八万一千百人余の飢餓・病気による死亡、八戸藩では六万五千人のうち、餓病死者三万人余と記録されており、また、陸奥辺境部各地では、人肉相い食(は)む凄惨な話が伝えられている。この飢饉の主因は天明二(一七八二)年から天明七(一七八七)年まで顕著に連続的に発生した気象異変であった。浅間山の噴火が原因とされているが、すでに天明二年から異常が現れているところから、噴火の影響があるとすれば、浅間山噴火以前の、例えば安永八(一七七九)年以来続いた桜島の大噴火などが関与しているものと思われ、さらに一七八三年(天明三年)は、世界的に見ても、著しい異常低温の夏であったが、欧州の場合はアイスランドにおける噴火が大きく影響していたが(ここまでが前記引用の主文)、近年の研究ではこのアイスランドの噴火も本邦の異常気象の要因であったとされている。また、当該ウィキによれば、『異常気象の原因は諸説あり、完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で』、一七八三年六月三日に発生した『アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と』、『同じくアイスランドの』、一七八三年から一七八五年にかけてのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の噴火である。これらの噴火は』一『回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を招いた。天明の飢饉のほか』、『フランス革命の遠因と』も『なったという。また』、天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には岩木山が噴火』、八月五日には『浅間山の天明の大噴火が始まった。降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉を悪化させた』。『なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は』十『年程度』は『続いたと考えられる』。但し、『異常気象による不作は』天明三(一七八二)年から続いており、翌年の『浅間山とラキの噴火だけでは』天明四(一七八三)年までの『飢饉の原因を説明』することは『できない』とある。また、しばしば語られる人肉食は、事実、発生しており、『被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約』二『万人)が餓死したと杉田玄白は』「後見草」(のちみぐさ:事件や天災などを語った警世の書で、天明七(一七八七)年成立。上・中・下の三巻から成る)で『伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ』、『犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている』(太字は私が附した)。『しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば』、『死者』は実に十『数万人に達したとも伝えられており』、『逃散した者も含めると』、『藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には』安永九年から天明六年(一七八〇年~一七八六年)の間に実に九十二『万人余りの人口減を招いたとされる』とある。]

2021/08/04

譚海 卷之四 羽州秋田・奥州南部境の事

 

○羽州秋田領より奥州南部へこゆる所を澤うちといふ、嶮岨の道也。澤うちをこゆれば南部領也。兩國のさかひに天狗橋といふあり、長さ十三間[やぶちゃん注:二十三・六三メートル。]を杉丸太二本にてわたしたる橋他。此はし十二三箇年程には朽(くち)る、くちれば其谷岸に代りになる程の杉二本づつ生立(おひたち)て、橋の用を缺(かく)事なし、ゆゑに天狗橋といふとぞ。橋を過(すぎ)て大日堂あり、九間[やぶちゃん注:十六・三六メートル。]四面の堂也。往古は是までも秋田領なりしを、南部にて押領せしとぞ。大日堂のかなもの、みな日の丸扇子の紋なり、二萬石南部へとりたると云り。又あけびといふ草あり、秋田領に生ずるは三葉、南部領に生ずるは二葉なり、此をもちて境をたゞすにみな然り。此天狗橋より南部のをさる澤といふ銅山ヘ通ふ道なり。をさる澤の銅山と秋田阿仁の銅山と並びてあり。秋田の銅をほるとき岩をうがつに、頭上足下などに、南部の銅をほる音時々聞ゆる事ありといへり。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に、『秋田領から南部領にこえるところとあるのは、明らかに秋田県鹿角[やぶちゃん注:「かづの」。]郡地方で、現在の岩手県和賀郡沢内村ではない。米代川の上流の渓谷で、鹿角郡八幡平村のあたりをさしている。菅江真澄の「けふのせば布」には、小豆沢村の大日堂を過ぎて行くと、菱床橋の朽ち果てた跡に出た、昔、天狗がかけ初めたというので、天狗橋と呼び、また別のところに両岸から鈎の木を渡していたら夜明けになったので、そのままになったという跡もあり、そこを夜明け島というと、しるしてある(天明五年)[やぶちゃん注:一七八五年。]。これによると、天狗橋の位置はかなり南部領に入ってからの所である。尾去沢と阿仁の両銅山が並んでいるというのもおかしい。噂話の地理の不正確さである』とある。

 確かに、

現在の秋田県鹿角郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)

で、南に

鹿角市

がある。ところが、旧岩手県和賀郡沢内村は、

現在の岩手県和賀郡西和賀町の内で、ここ

で、鹿角地方からは四十キロメートル以上も南である。さて、

秋田県鹿角市八幡平小豆沢はここ

である。而して、ここに出る「大日堂」というのは、菅江の記載と位置関係から、

秋田県鹿角市八幡平長牛にある現在の大日神社

と推定され、その神社の北西直近に、ズバリ、

夜明島川

があり、右岸には「山渡」というそれらしい地名もある。なお、現行では、

天狗橋

があるものの、これは東北自動車道で、夜明島川が合流する米代川に架橋されてある。さらに調べたところ、この自動車道の「天狗橋」の近く、八幡平小豆沢碇と八幡平大地平の間で米代川に架橋している古い橋があり、それもまた、

天狗橋

と呼ばれていることが、鹿角の情報サイト「スコップの「湯瀬渓谷でアウトドアを楽しみませんか?だんぶり長者伝説縁の地!」の記事で判った。赤い擬宝珠のある、中央附近が有意に広がった独特の橋の写真が載っていた。そこに記されたルートを頼りに調べてみると、グーグル・マップ・データ航空写真で見るに(地図の方では橋はない)、恐らくは間違いなく、

ここが、その「天狗橋」

であると私は判断する。但し、孰れも、大日神社からは東北へ五キロメートルほどずれている。或いは、伝承の夜明島川にあった、その名を、孰れもここに移したものである可能性が高いように思われる。

 ただ、この鹿角郡が当時、非常に微妙な位置にあったことは確かで、当該ウィキによれば、旧同郡の『花輪出身の地理学者、佐々木彦一郎は、「鹿角郡の南部・秋田・津軽三国に対する関係は宛も独・仏の間に狭在するアルサス・ローレイン州の如き関係にあるところである」』『と記している』。『のちの鹿角郡の主要な資源は、天然杉と鉱産物であった』がm『この天然資源をめぐる領有権争いは、鎌倉時代の鹿角四氏(成田・奈良・安保・秋元(秋本)氏)の関東武士団の時代から存在し、鹿角四十二館が建設されて領内の守りが固まってからも変わることはなかった。室町時代後期、戦乱を経て、東の南部氏の支配が確立した。それでも、鹿角郡の地は、三藩境に存し』、天正一八(一五九〇)年の『豊臣秀吉朱印状により、鹿角郡は南部領と確定した。これにより、南部盛岡藩の軍事的拠点となり、津軽領への警戒を怠ることなく、秋田領との境界紛争も絶えることがなかった』。寛永一六(一六三九)年八月、「キリシタン山狩事件」が発生し、十二月には、『小坂と大館境の山中で、藩境の扱いを発端』として『両藩士の小競り合いが起きた』。延宝六(一六七七)年には、『幕府の検使により、評定所において秋田藩と南部藩との境界を記した絵図を作成して、それを決するに至った』とある。

「日の丸扇子」戦国大名時代の秋田氏が「扇に月丸」紋を使用している。「日の丸」はよくある誤認で、月が正しい。

「あけび」「木通」。キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連 アケビ属アケビ Akebia quinata

「秋田領に生ずるは三葉、南部領に生ずるは二葉なり」「二葉」は不審。普通のアケビとアケビとミツバアケビの自然交配種ゴヨウアケビ Akebia × pentaphyllaの小葉は五枚、ミツバアケビ Akebia trifoliata は小葉が三枚である。「三」「二」は孰れも草書では「五」に誤読し易い。

「南部のをさる澤といふ銅山」秋田県鹿角市尾去沢(おさりざわ)獅子沢にあった南部藩の尾去沢鉱山。黄銅鉱を多く産出した。

「秋田阿仁の銅山」秋田県北秋田市阿仁町にあった秋田藩の阿仁鉱山。金・銀・銅が採掘され、特に銀鉱・銅鉱の産出が多く、享保元(一七一六)年には産銅日本一となり、長崎からの輸出銅の主要部分を占めた。しかし、御覧の通り、並んでなんかいない。尾去沢鉱山の三十二キロメートルも南西である。これは、竹内氏が仰る通り、総てが都市伝説並みの劣悪なトンデモ記載である。]

2021/07/26

譚海 卷之四 常州筑波山幷椎名觀音の事

 

○筑波山は四時登山する也。結城よりのぼるには先(まづ)西の方男體山に登り女體に至る、男體女體の際六七十間ばかりあり、いとちかし。それより東へくだれば椎名の觀音に至る、大伽藍也、すべてかけこし三里也。山はみな巖石にて樹木も又おほし。落かゝる樣なる大石の下を通る、山中に人家なし。日出(いづ)れば麓よりのぼりて見せをひらき、餅あるひはだん子をうる也。水もふもとより汲來(くみきた)るゆゑ一椀五錢づつなり。東海を遙にのぞみて、風景言語同斷也とぞ。

[やぶちゃん注:【二〇二一年七月三十一日削除・改稿】「結城」は旧結城郡であろう。現在の結城郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下注記のないものは同じ)。

「男體山」「女體」国土地理院図のこちらで確認出来る。西側の男体山は標高八百七十一メートル、東側の女体山は八百七十七メートル。両者は直線で七百二十四メートルほど離れている

「六七十間」百九~百二十七メートル。これはそれぞれのピークの計測点を誤っているように思われる。或いは、六百七十間(一キロ百二十八メートル)の誤記かも知れない。高低差を入れて山道を実測すれば、それぐらいにはなりそうだ。現在の整備されたそれでは、登山サイトを見ると、両ピーク間は実測八百五十メートルで、時間にして片道三十分ほどかかるとある。

「椎名の觀音」距離から見ると、茨城県石岡市半田にある観音堂かとも思ったが、大伽藍ではない。嘗て大きな寺となら、この近くに関東八十八ヵ所霊場第三十六番札所の阿彌陀院があるが、観音はなさそうだし、だいたい、孰れも「椎名」という呼称と縁がない。お手上げ。識者の御教授を乞うものである。

【同前追記】いつも情報を指摘して下さるT氏より以下の旨のメールを戴いた(少し手を加えさせて貰った)。

   《引用開始》

上記項の元ネタは、「倭漢三才図会」の巻第六十六の「常陸國」の「筑波山權現」の記載で、国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここに、

   *

筑波山權現 在筑波郡【自椎尾三里】 社領五百石

 祭神 稻村權現   【別當眞言】知足院

 桓武天皇朝德一上人當山開基後万巻上人勸請

 權現鎭守 源家光公再興シ玉フ

 大御堂(ミトウ) 千手觀音 堂塔樓門最美ナリ

   *

と冒頭にあり、「椎名」は「椎尾」の誤写です。

椎尾は、現在の茨城県桜川市真壁町椎尾[やぶちゃん注:ここ。]で、「結城よりのぼるには」とありますが、実際は旧常陸国真壁郡椎尾から「男體山に」椎尾「よりのぼるには」が正しいということになります。

 観音は、以上に出る「知足院大御堂」「千手觀音」となります。知足院は明治の神仏分離で廃寺になった後、昭和五(一九三〇)年に再建されています。ウィキペディアの「筑波山神社」の「中善寺」の項や、坂本正仁氏の論文「近世初期の知足院」[やぶちゃん注:PDF日本印度学仏教学会『学術大会紀要』(二)・第二十六回学術大会・一九七六年]に知足院と幕府初期の関係が書かれています。

   《引用終了》

以上のウィキのリンク先には、『中禅寺(ちゅうぜんじ)は、筑波山神社拝殿』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を主とする一帯に存在した真言宗の無本寺寺院』。『山号は筑波山、院号は知足院(ちそくいん)。本尊は千手観音。また、坂東三十三箇所第25番札所であった』。『法相宗の僧、徳一が筑波山寺を開いたことに始まるとされ、筑波山寺の記載は鎌倉時代の』「元亨釈書」にもあり、『その開基年は、延暦元年』(七八二年)、『延暦年間』(七八二年~八〇六年)、『天長元年』(八二四年)、『天長年間』(八二四年~八三四年)』などと伝える。『この筑波山寺の開山に伴い、筑波山の男女二神は観音を本地仏とする「筑波山両部権現」として祀られるようになったという』。『筑波山は古くより山岳修行の場であったため、その後次第に寺勢が盛んになり、寺名も中禅寺(筑波山知足院中禅寺)と称するようになったとされる』。『中世には日光山(輪王寺)・相模大山(大山寺)・伊豆走湯(伊豆山三所権現)等とともに、関東では有数の修験道の霊場であったといわれ』、『その別当は筑波為氏(明玄)に始まる筑波氏が担った』。『中世の様子は詳らかでないが、江戸時代に入ると』、『幕府の鬼門の祈願所として庇護を受け、寺勢は再び隆盛した』。『徳川家康は』慶長五(一六〇〇)年『に筑波山別当から筑波氏を廃し、新たに宥俊を任命して中興の祖とし、慶長』七年『に神領として』五百石、慶長十五年『には寺領として』五百石を寄進し』ている。また、三代『将軍徳川家光は山頂の二社を修復するとともに、本堂(大御堂)、三重塔、鐘楼、楼門、神橋、日枝・春日・厳島の各境内社を造営し』、五代『将軍徳川綱吉の時には「護持院」と改称され、寺領は』千五百『石を数えた』。『その後も江戸時代を通じて霊山として発展し、門前町も発達していった』が、『明治維新後、廃仏毀釈によって中禅寺の機能は停止し、一部の社殿を除いて堂塔は破壊され、法具も各地に散逸した』が、昭和五(一九三〇)年に『筑波山神社拝殿の南西に真言宗豊山派の寺院として大御堂(おおみどう)が再興され、現在に至っている』とあるここ。また、サイト「神殿大観」の「江戸・護持院」を見ると、『護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。本尊は不動明王。筑波の知足院の別院が起源。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。元禄寺とも。元号寺。真言宗新義派の江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。山号は筑波山、元禄山』と冒頭概説にある。護国寺は東京都文京区大塚のここにある。ウィキの「護国寺」を見ると、『護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した「護持院」(筑波山大御堂の別院)は、新義真言宗僧録であり、新義真言宗で最も格式の高い寺院であった。護持院は明治時代に護国寺に合併』とある。

 T氏の御指摘を受けて、国立国会図書館デジタルコレクションの原本活字本(底本の親本は狩野文庫本と加賀文庫本にこの国立国会図書館本を対照させたもの)を見たが、やはり「椎名」と誤っており、さらに今回さらに発見した「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見ても、「椎尾」ではなく、「椎名」と書かれているように見える(字の崩し方が激しく判読しづらいものの、「尾」よりも「名」の崩しである可能性の方が遙かに高い)ので、T氏の言うように、津村の原本からの写した際の誤写である可能性が高いように思われる(ただ、孰れも始めの「結城」の方もはっきりそう書かれており、「椎尾」ではないので、或いは津村の原本の崩し字自体が判読しづらいものであった可能性もある)。孰れにせよ、T氏の仰る通り、「結城」は「椎尾」の誤りであり、「椎名觀音」は「椎尾」の観音と考えるべきであろう。ここにはまた、今一つなやましいことがあるように思う。それは、筑波山知足院中禅寺は少なくとも現在の椎尾地区とは有意に離れていること、同寺の千手観音が「椎尾観音」と呼ばれていたことは奇異であり、資料でも確認出来ないことである。ともかくも、T氏に心より御礼申し上げるものである。]

譚海 卷之四 房州きさらづ・丹後橋立の事

 

○房州きさらづ海中に井五箇所有。浦に近き所なれば常に汲(くみ)つかふ事也。潮の中ながら湧出(わきいづ)るゆゑ、淸水にして潮まじる事なしとぞ。又丹波國天のはしだてにも松原の際に井有、左右は海にして淸水潮の氣ある事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「海中」はママ。不審に思いつつ調べたところ、やはり海中ではなく、海辺でもない、内陸である。「君津市」公式サイト内の『山本(やまもと)の「殿の下井戸」』に、この千葉県君津市の『山本には』、十四『町歩の水田を潤していた市の沢の水源不足対策と農業環境保全のために、昭和』六二(一九八七)『年掘削の自噴井戸が』五『カ所あります』。『かつてこの地には、現在の木更津市下郡』(☜:ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『字湯名谷とまたがり、里見氏の臣下、山本由那之丞の居城がありました』(「千葉懸誌」大正二(一九一三)年刊)。『今でも「東殿の下」「殿の下」などの小字名が残っており』、五『カ所の自噴井戸の内』、『「殿の下」にある』二『カ所の井戸は、「殿の下井戸」』(ここ)『と呼ばれています』。『この井戸は、完成後から』三『年ほどで生活用水として利用され始め、地元約』五十『戸の生活になくてはならないものとなりました。井戸は深いもので地下』六百『メートルもあり、水量は毎分』百五十『リットルから』四百『リットルで、無色無臭の豊富な地下水が』二十四『時間湧き出ています』。『現在、この井戸水は、地元の生活用水や農業用水に利用されているだけでなく、市内はもとより、遠くは東京都内からも汲みに来る人が増えています。また、最近ではゲンジボタルが確認できるほどに自然の再生がみられ、小・中学生のホタル狩の風情も垣間見ることもできます』、『自然の恵みに感謝する地元の人々の気持ちから、水天宮(水神様)の短柱が設置されている山本の「殿の下井戸」は、上総掘りによる「久留里の自噴井戸」と同じく本市の貴重な「水」の遺産です』とある。掘削は現代だが、恐らくは江戸時代には、その原型となるものがあったのであろう。

「丹波國天のはしだてにも松原の際に井有」「磯清水」として知られている。ここ。現在は引用不可で、私は手だけを洗った。]

譚海 卷之四 常州外川銚子浦幷紀州加多・江戶佃島等の事

 

○常州の外川は、銚子のうらつゞきにて紀州領なり。皆漁鼠を業とし、一村妻子を帶する事なし、妻子は紀州の賀多に住する也。又江戶の佃島も紀州賀多の漁人雜居し、一島みな本願寺宗旨にて他宗なる事なし。

[やぶちゃん注:底本では、二箇所の「賀多」に編者が注して、『(加田)』(「田」はママ)とし、後注で、『常州の外川とあるが、千葉県(下総)銚子の南にある漁村。紀州漁夫の出かせぎ漁村として発達した特殊なところ。多くは紀州加太浦のもので、イワシ地曳網漁業の開発によるものであった』とある。現在の千葉県銚子市外川町(とかわまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紀州加太浦」和歌山県和歌山市加太。]

譚海 卷之四 下總國行德德願寺住持入定の事

 

○下總國行德に德願寺といふ有。其住持年﨟つもり念佛の功能いちじるしき事廿年あまりに及び、都下の貴賤男女常に參詣し群をなせしが、今年天明二年二月十八日、住持八十餘にして入定せられぬ、哀にとふとき事也。

[やぶちゃん注:「下總國行德德願寺」現在の千葉県市川市本行徳にある浄土宗海蔵山普光院徳願寺(グーグル・マップ・データ)。

「年﨟」(ねんらふ(ねんろう))は「年臘」とも書く。仏語で、生年と戒﨟(出家受戒してからの年数)。則ち、生まれてからの年数と、受戒して僧となってからの年数であるが、転じて僧侶の年齢を指す語となった。

「今年天明二年」(一七八二年)「二月十八日、住持八十餘にして入定せられぬ」この住持の生年は元禄一四(一七〇一)年以前となる。なお、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚集であるが、珍しく巻四のこの条の執筆時制が天明二年二月十八日以降であったことが判明する特異点である。]

2021/06/18

譚海 卷之四 水戶光圀卿水練幷前身を知り給ふ事

水戶光圀卿水練幷(ならびに)前身を知り給ふ事

○黃門光圀卿水戶入部のとし、中川と云(いふ)湊にてはだかにて舟より水中ヘ入給ふ、近從騷動大形(おほかた)ならず。第三日の朝水上にうかび出、壺を一つ抱(かかへ)て出られたり。其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ、「中川」とて第一の祕器なりとぞ。又其年水戶御領の神社佛閣の内陣をひらかせ、自ら殘りなく拜せられ、祕佛といへども自身鍵を明(あけ)御覽ぜられしに、何の八幡宮とかやの御戶牢(かた)くとざしてあかざりつるを、山中雲平といふ士に仰(おほせ)有(あり)て明(あけ)させられしとき、覺えず脇指(わきざし)はしりぬけて、雲平右の手を切落したり。それより雲平御奉公をやめ隱居せしとぞ。光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし、たしかなる證を水戶に得給ひ、則(すなはち)埋骨の地に寺をたて、公儀へ御朱印地に御願(おんねがひ)有、免許の後(のち)無二亦寺(むにやくじ)と號せるとぞ。

[やぶちゃん注:「黃門光圀卿」常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年:よく言われる黄門は古代の国政を掌った太政官中納言の唐名黄門侍郎の略。光圀は没する十年前の元禄三(一六九〇)年に員外権中納言に任ぜられたことによる)稱代藩主徳川頼房三男。水戸城下柵町(さくまち:現在の水戸駅周辺に当たる茨城県水戸市宮町の内。南東に接して旧名の柵町が残る)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた。光圀は強烈な儒教崇拝の排仏派で(父以降の藩主の葬送は儒式で行われ、墓地も独特な石棺と廟であり、茨城県常陸太田市瑞龍町の瑞龍山にある墓域(グーグル・マップ・データ航空写真拡大。以下同じ)には一般人は立ち入ることが出来ない)自身の発案になる生涯ただ一度の長旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘で、藩内は精力的に巡検しているが、他には日光東照宮・勿来・熱海ぐらいしか行っちゃいないのである)である鎌倉への途次、六浦では石製地蔵像を縛って引き倒し、損壊して歓喜するなどの乱暴狼藉を働いており、「大日本史」「新編鎌倉志」(私はサイトのこちらで全篇を電子化注してある。また、その濫觴である「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)の電子化注もブログで完遂している)などの指揮は高く評価するが、人間的にはかなり異常行動(辻斬りや成敗と称した家臣の殺人を含む。ここでの山中雲平の脇差が走り抜けて右手を切断というのもすこぶる怪しい)の見られる近づきになりたくない人物である。詳しくは当該ウィキなどを参照されたい。

「入部」最初に彼が水戸城に入ったのは寛永九(一六三二)年(翌寛永十年十一月に世子と決められた)だが、藩主としてではなく、しかも数え五歳であり得ない。寛文元(一六六一)年七月二十九日、父頼房が水戸城で死去しており、この時が、最初の入部で数え三十四である(正式な藩主就任は八月十九日)。元禄三(一六九〇)年十月十四日に六十三で隠居しているから、その間の二十回ほどの参勤交代の、まあ、初期の話であろう。

「中川と云(いふ)湊」茨城県ひたちなか市和田町の那珂川河口の那珂湊港であろう。但し、こんな海辺は正規の参勤交代のルートではないはずである。まあ、彼ならやりかねないことではある。

「第三日の朝水上にうかび出」それはないでショウ?!

「壺」「其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ」『「中川」とて第一の祕器なり』「中川」は採取した地をつけた壺の名。壷の現存は不詳。

「何の八幡宮とかや」不詳。言い方から、知られた水戸八幡宮ではあるまい。リンクの北西にも八幡神社がある。

「山中雲平」不詳。

『光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし』うへぇエ!?! ホンマにいいんかいな? 黄門はん? 排物の権化が「高野聖」たぁお釈迦さまでも御存じあるめえ!

「たしかなる證を水戶に得給ひ」現存する。次の注の「妙経筒碑文」がそれらしい。

「無二亦寺」茨城県ひたちなか市市毛に日蓮宗一乗山無二亦寺として実在する。公式サイトのデータによれば、寛文五(一六六五)年の当時の藩主徳川光圀公の命により、次代の第三代綱条(つなえだ)公の代に建立された寺とあり、「縁起」PDF)によれば、『無二亦寺が創建されたのは、この地から青銅製の経筒が出土したいわれによる。高さ』十二センチメートル『ほどで 』、六『角形』のそれ『には、数十字が刻みこんであり』、『光圀という人が法華経一部を納めたことが記されていた。当時、現在の常陸太田市に久昌寺を建てるなど、日蓮宗に手厚い保護を加えていた徳川光圀は、このことを聞いて一寺を建立することを思いたった。』元禄一〇(一六九七)年に六十『石の地が除地として寄せられ』、『伽藍を造営したが、開堂は光圀の生存中に間に合わず』、元禄一四(一七〇一)年の『春に供養された』とあり、「妙経筒碑文」の写しの写真がある。一行目末から『本化宗者常陸人光圀納妙經之筒也』とあるのが判る。「本化(ほんげ)宗」は日蓮宗に同じ。末尾クレジットは『寶永四年丁亥』で一七〇七年である。さらに、『その翌年の元禄』十五年に『日遙が第二住職として入寺すると、藩の命令によって市毛・津田・田彦に住む者は全て無二亦寺の檀家に定められた。同時に、市毛の鹿島、吉田両明神は三十番神に、津田の鹿島明神も三十番神に、田彦の熊野三社権現は七面大明神に、それぞれ定められた上で、無二亦寺の支配にまかせられた』。『このようにみてくると、無二亦寺は水戸の徳川家と深い関係を持ち、神社を寺にとりこむことに成功した点が注目される。その信仰は、現世利益の祈禱という面がもとから相当に強かったようである』(これは昭和五〇(一九七五)年発行の「勝田市史」(民俗編)からの引用らしい)とある。『本尊は宗門で定める十界曼荼羅を掲げ、日蓮上人の木像を安置する』。『開山は京都本圀寺の僧であった日輝で』、『江戸時代には、水戸藩の保護を受けて栄えたが、幕末に徳川斉昭が断行した棄仏毀釈によって廃寺になり』、明治一〇(一八七七)年『頃にようやく再建された』とある。私としちゃあ、斉昭がやらかした気持ちは腑に落ちるね。尊崇する黄門公の瑕疵に他ならないからね。]

2021/05/30

譚海 卷之四 東海道掛川驛東西の分たる事

東海道掛川驛東西の分たる事

○東海道は、遠州掛川の驛をもつて、東西の分とするに似たり。掛川までは京都の風俗あり、夫よりこなたはみな江戸の風俗にかよへり。

[やぶちゃん注:「掛川の驛」掛川宿は東海道五十三次の二十六番目の宿場で確かに丁度、ほぼ中間地点に当たり、地図上でも直線距離で、実際にそうである。現在の静岡県掛川市の中心部(グーグル・マップ・データ)に相当し、山内一豊が改修して棲んだことで知られる掛川城の城下町でもある。当該ウィキによれば、『また、駿河湾沿岸の相良(現在の牧之原市)から秋葉山(現在の浜松市天竜区春野町)を経て、信濃国へ通じる塩の道が交差している宿場でもあった。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」』(同ウィキの画像)『には秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ秋葉山と参詣者の姿が描かれた。現在でも「秋葉通り」「秋葉路」などの地名がある』とある。]

譚海 卷之四 加州能生の事

加州能生の事

○加賀國に能生(のふ)[やぶちゃん注:底本のルビ。]と云所あり、則ち北國往還の海道なり。神のひらきたる道なりとて、みな盤石のうへをかよふ。左右は椿のはやし陰森として白日に黃昏を行くが如し、壹里あまりかくのごとし。

[やぶちゃん注:不詳。現在の新潟県糸魚川市になら、能生(のう)があるが。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

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