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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の429件の記事

2023/12/09

譚海 卷六 勢州二見浦津浪の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 勢州二見の浦に、山、有り。

 そのいたゞきに、「伊勢三郞物見の松」といふ所あり。

 そのかたはらに鹽をやく所あり。これは大神宮の御にへに、そなふる所なれば、この山を「みしほ殿(どの)」といへり。

 寬政四年七月十二日、晝、この「みしほ殿」の山より、

「雲、おびたゞしく、立(たち)のぼる」

と見るほどに、沖の方より、高なみ、立(たち)きたる事、五度ばかり、

「津浪なるべし。」

と、浦人、さわぎあへるに、「みしほ殿」の山より、神馬(しんば)の如きもの、かけくだりて、往來、甚だ、いそがはしく、さながら、海にのぞんで、波をふせぐ體(てい)に見えたるにあはせて、やうやう、何事なく、波、をさまりぬ。

 後(のち)、この馬、また、その浦つゞきに、大神宮の別宮ある所へ、はしり行きたり、とぞ。

「これは、津波の來(きた)るべきを、全く神明(しんめい)のふせぎ給ひしなるべし。」

とて、その比(ころ)、殊に噪(さはぎ)傳(つたへ)して、神德を仰ぎけるとぞ。

 板にまで、由來を、ゑりて、傳へたるといへり。

[やぶちゃん注:「勢州二見の浦」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。以下の「山、有り」、「そのいたゞきに」「伊勢三郞物見の松」「といふ所あり」とあって、「そのかたはらに鹽をやく所あり」『この山を「みしほ殿」といへり』と、すらすらかく以上は、この「二見の浦」と「山」「のいたゞきに」ある「伊勢三郞物見の松」と、「そのかたはらに鹽をやく所」があって、そ「の山を」「みしほ殿」と呼ぶと言っているからには、「二見の浦」・「山」・「伊勢三郞物見の松」・「そのかたはらに鹽をやく所・そ「の山」=「みしほ殿」は総て直近に位置しなくてはおかしい。さすれば、「二見の浦」は「夫婦岩」よりも有意に西の海岸線を指し(上記データでは『二見浦』)、その西、現在の伊勢市二見町(ふたみまち)荘(しょう)にある「御塩殿(みしおどの)神社」がある、こんもりした丘陵が「山」であることになる(拡大すると、その神社の境内の海岸に近い位置に「御塩殿神社御塩焼所」を確認出来る)。「伊勢三郞物見の松」ここには見当たらないが、この人物、源義経の家臣伊勢三郎義盛で、襲い来る頼朝の軍勢を松に登って見張ったという伝説がある松であるが、現在はずっと内陸のこちら(サイト「観光三重」の「伊勢三郎物見の松」。地図有り)になら、ある。その解説によれば、『五代目の松が植えられている』とあるから、「みしほ殿」山に元あったのではあるまい。津村は実際に行って見た内容を書いたらしいものもあるが、伝聞で聴いたものも多いようんで、他の譚でも、地名や位置関係に甚だ重篤な誤りが、よくあるのである。

「寬政四年七月十二日」グレゴリオ暦で一七九二年八月二十九日。この日に、伊勢沖で、津波の発生するような地震は起こっていない。この年の四箇月余り前の旧暦四月一日に発生した、日本史上、最大最悪の災害を齎した「島原大変肥後迷惑」で、津波が島原や対岸の肥後国を襲ったことからデッチ上げた、伊勢神宮の神異創作物であったろう。]

2023/11/29

譚海 卷之五 狐猫同類たる事 附武州越ケ谷にて猫おどる事 / 卷之五~了(ルーティン仕儀)

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。なお、この前の前の「譚海 卷之五 相州の僧入曉遁世入定せし事」、及び、前の「譚海 卷五 同國小田原最勝乘寺にて狸腹鼓うちし事」は孰れも既にフライング公開してある。標題の「おどる」はママ。

 なお、本篇を以って、「卷之五」は終わっている。]

 

○深川小奈木澤近き川邊に、或人、先祖より久敷(ひさしく)住居(すみゐ)て有(ある)宅あり。田畑近く、人氣(ひとけ)すくなき所成(なり)しに、ある夕暮、あるじ、庭を見てゐたれば、緣の下より、小(ちさ)き孤、壹つ、はひ出(いで)て、うづくまり居(ゐ)しを、家に飼置(かひおき)ける猫、見附(みつけ)て、あやしめる樣成(やうなる)が、頓(やが)て、行(ゆき)て、おづおづ、近寄(ちかより)、狐の匂ひを嗅(かぎ)て、うたがはず、なれ貌(がほ)に寄添(よりそひ)、後々は、時として、ともなひありきなどして、友達に成(なり)けるが、終(つひ)に、行方(ゆくへ)なく、かい失(うせ)ぬるとぞ。「元來、同じ陰獸なれば、同氣(どうき)相和(あひわ)して怪(あやし)まず、かく有(あり)けるにや。」と其人の語りぬ。すべて、猫は「狸奴(りど)」と號して、狐狸(こり)の爲(ため)、つかはるゝ物なれば、誘引せらるゝ時は、共に化(ばけ)て、をどりあるく事也。狐狸のつどふ所には、猫、必(かならず)、交(まぢは)る事あり。或人、越ケ谷に知音(ちいん)有(あり)て、行(ゆき)て、兩三日、宿りたるに、每夜、座敷の方(かた)に、人の立居(たちゐ)する如く、ひそかに手を打(うち)て、をどる聲、聞ゆる故、わびしく寢られぬまゝ、亭主に、「かく。」と語ければ、「さもあれ、心得ざる事。」とて、亭主、伺ひ行ければ、驚きて窓のれんじより、飛出(とびいづ)る物、あり。つゞきて飛出る物をはゝき[やぶちゃん注:箒(ほうき)。]にて打(うち)たれば、あやまたず、打落しぬ。

火をともして見れば、家に久敷(ひさしく)ある猫、此客人の皮足袋(かはたび)をかしらにまとひて死(しし)て有(あり)。かゝれば、狐など、をどりさわぐは、猫なども交りて、かく有(あり)ける事と、其人、歸り、物語りぬ。

[やぶちゃん注:「深川小奈木澤」これは「深川小名木川」の誤りであろう。ここに現在もある(グーグル・マップ・データ)。「三井住友トラスト不動産」公式サイト内の「このまちアーカイブズ」の「東京都 深川・城東」に「江戸切絵図」から諸画像・近現代の写真と、当該地区の歴史的解説も豊富に書かれてあるので、是非、見られたい。

「狸奴」「貍奴」とも書き、漢語で猫の異称である。]

譚海 卷之五 尾州家士蝦蟇の怪を見る事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○尾州の家士何某、在所にありし時、來客のもてなしに、高つきに干菓子(ひがし)をもりて出(いだ)しける。客、歸りて後、亭主、睡(ねふり)を生じて、壁により、ねむりつゝ、しばし有(あり)て、ふと、目を開きたれば、高つきに有(ある)「こりん」と云(いふ)菓子、「ひらひら」と、おどりあがりて、明り障子の紙に穴あるより、飛出(とびいづ)る事、あまたなり。猶、つゞきて、いくらとなく、飛出ければ、『怪(あやし)。』と思ひ、心を留(とめ)て見れば、障子の穴より、高つきの上へ、白き絲の樣(やう)なる物、一筋、引(ひき)て、あり。「こりん」は、此白き絲の樣成(やうなる)物にひかれて、をどり出(いづ)る也。『いか成(なる)事にや。』と、ひそかに障子の破れよりみれば、年經(へ)たる大成(おほきなる)蟇がへる、庭の面(おもて)にうづくまりて有(あり)。夫(それ)が口より、此白き絲のやうなるを吐(はき)て、障子をうがちて高つきにいたり、ひきがへる、口を開けば、夫に吸(すは)れて、「こりん」、をどり出て、蟇の口に入(いる)なり。かやうの物も、年經たるは、あやしき事を、なす物と、いへり。

[やぶちゃん注:この手の蝦蟇(がま)の怪は、私の怪奇談集では枚挙に遑がない、というより、リンクを張り切れないほど、さわにある。

「こりん」「壱岐市」公式サイト内の「いきしまぐらし」のこちらに、画像入りで以下の説明がある。『ひなあられと同じような大きさですが』、『色はついていません。見た目はちょっと地味ですが、食べると』、『どこか懐かしい味がします。のし餅をサイコロ状に切って、寒の時期に』、『しっかりと干して』作るも『ので、保存食としても使えます』とあった。]

譚海 卷之五 遠州深山中松葉蘭を產する事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○松葉蘭といふ物、遠州より出(いづ)る、深山石上(しんざんせきしやう)に生ずる物にて、霧露の氣に和して、生成するゆゑ、土にうゝれば、なづみて、枯死す。唯(ただ)古き朽木(くちき)のぼろぼろする物を細末にして、夫(それ)にてうゝれば、長く、たもつ事とす。四時、葉、みどりにして、席上の盆翫(ぼんぐわん)には第一と稱すべし。日にあつる事を禁ず。時々、水をそゝげば、年を經て、叢生する事、尤(もつとも)繁く、書齋の淸賞には缺(かく)べからざる物也。石菖蒲、普通には、盆中の淸翫に供すれ共(ども)、松葉蘭、出(いで)て後は、比肩するにたらず、無下(むげ)に石菖蒲は下品の心地する也。近來(ちかごろ)、石菖のしんをば、薩摩より來(きた)る朽木のかたまりたる如きものを用ゆ。石菖を長ずるは、是に勝(まさ)る物なし。是又、昔、なき所の物なり。

[やぶちゃん注:「松葉蘭」シダ植物門マツバラン綱マツバラン目マツバラン科マツバラン属マツバラン Psilotum nudum 当該ウィキによれば、『マツバラン科』Psilotaceae『では日本唯一の種である。日本中部以南に分布する』。『茎だけで葉も根ももたない。胞子体の地上部には茎しかなく、よく育ったものは』三十センチメートル『ほどになる。茎は半ばから上の部分で何度か』二『又に分枝する。分枝した細い枝は稜があり、あちこちに小さな突起が出ている。枝はややくねりながら上を向き、株によっては先端が同じ方向になびいたようになっているものもある。その姿から、別名をホウキランとも言う。先端部の分岐した枝の側面のあちこちに粒のような胞子のうをつける。胞子のう(実際には胞子のう群)は』三『つに分かれており、熟すと』、『黄色くなる』。『胞子体の地下部も地下茎だけで』、『根はなく、あちこち枝分かれして、褐色の仮根(かこん)が毛のように一面にはえる。この地下茎には菌類が共生しており、一種の菌根のようなものである』。『地下や腐植の中で胞子が発芽して生じた配偶体には』、『葉緑素がなく、胞子体の地下茎によく似た姿をしている。光合成の代わりに』、『多くの陸上植物とアーバスキュラー菌根』(arbuscular mycorrhiza)『共生を営むグロムス』菌『門』(Glomeromycota)『の菌類と共生して栄養素をもらって成長し、一種の腐生植物として生活する。つまり』、『他の植物の菌根共生系に寄生して地下で成長する。配偶体には造卵器と造精器が生じ、ここで形成された卵と精子が受精して光合成をする地上部を持つ胞子体が誕生する』。本邦では『本州中部から以南に、海外では世界の熱帯に分布する』。『樹上や岩の上にはえる着生植物で、樹上にたまった腐植に根を広げて枝を立てていたり、岩の割れ目から枝を枝垂れさせたりといった姿で生育する。まれに、地上に生えることもある』。『日本では』、『その姿を珍しがって、栽培されてきた。特に変わりものについては、江戸時代から栽培の歴史があり、松葉蘭の名で、古典園芸植物の一つの分野として扱われる。柄物としては、枝に黄色や白の斑(ふ)が出るもの、形変わりとしては、枝先が一方にしだれて枝垂れ柳のようになるもの、枝が太くて短いものなどがある。特に形変わりでなくても採取の対象にされる場合がある。岩の隙間にはえるものを採取するために、岩を割ってしまう者さえいる。そのため、各地で大株が見られなくなっており、絶滅した地域や、絶滅が危惧されている地域もある』が、『他方、繁殖力そのものは低いものではなく、人工的環境にも進出し得る性質をもっており、公園の片隅で枝を広げているものが見つかるような場合や、植物園や家庭の観葉植物の鉢で、どこからか飛来した胞子から成長したものが見られる場合すらもある』とある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「淸賞」「賞玩」に同じ。褒め愛でること。味わい珍重すること。

「石菖蒲」「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。]

譚海 卷之五 下野日光山房にて碁を自慢せし人の事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○下野國日光山は、天狗、常に住(すみ)ておそろしき處なり。一とせ、ある浪人、知音(ちいん)ありて、山中の院に寄宿し居《をり》けるが、一夜、院内の人々、集りて、碁を打たるに、この浪人、しきりに勝(かち)ほこりて、皆、手にあふもの、なかりしかば、浪人、心、おごりて、「此院中に、我に先(さき)させてうたんと云(いふ)人は、あらじ。」など自讚しける時、かたへの僧、「左樣成(なる)事、こゝにては、いはぬ事なり。鼻の高き人有(あり)て、ややもすれば、からきめ見する事、多し。」と、制しける詞に合せて、明り障子を隔てて、庭のかたに、からびたる聲して、「爰に、聞(きき)て居(を)るぞ。」と、いひつる聲、せしかば、浪人、顏の色も菜(な)のごとくに成(なり)て、ものもいはず、碁盤・碁石、打(うち)すて置て寢(いね)、翌日のあくるを待(まち)あへずして、急ぎ、下山して、走り去りぬとぞ。

[やぶちゃん注:本篇は、「柴田宵曲 妖異博物館 天狗(慢心)」でも取り上げており、そちらでも、電子化注してある。]

譚海 卷之五 江戶芝三田濟海寺竹柴寺なる事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○江戶、芝三田の坂の上に、濟海寺(さいかいじ)と云(いふ)淨土宗の寺、有(あり)。其鄰(となり)は、何某國(なにがしのくに)の守(かみ)の下屋敷なり。此下屋しき、往古は、濟海寺の境内にてありしを、今、分れて鄰の地になれりとぞ。其下屋敷(しもやしき)の内に「龜塚」と號するもの有(あり)。玆(ここ)に觀世流外(そと)百番の謠(うたひ)に「瓶塚(かめづか)」と云(いふ)物ありて、其詞(そのことば)を見るに、「龜塚」にはあらで「瓶塚」と云(いふ)事を作りて、「さらしな日記」に云(いへ)る「竹柴寺(たけしばてら)」の事を作りたる者也。是によりて當時の住持和尙、初めて、「濟海寺は、古(いにしへ)の竹柴寺也。」と自讚して、人にも語りて、入興(にふきやう)せられける。彼(かの)日記には、『昔、むさしの國なる男、大内の役にさゝれて參て居(を)る程、「庭を、きよむる。」とて、故鄕の事を思ひ出でて、「あはれ、我國には、大なるもたひありて、それにそへたるひさごの、東風ふけば、西へなびき、西風ふけば、京へなびく。さもおもしろき事なるを、かく見もせで、遠き國にある事よ。」と、ひとりごとせしを、御門(みかど)のむすめ、ほの聞(きき)給ひて、みすをまきあげて、此男を、まねき給ひて、「いかで、我を、ともなひて、其ひさごのおもしろき、みせよ。せちに、ゆかしきに。」と、のたまへば、此男、おもひかけずながら、うちかしこまりて、みむすめを、脊(せ)におひて、都(みやこ)をにげ出(だし)、瀨田の橋を引(ひき)おとして、夜ひるとなく、にげて、あづまに、くだりける。御門より御使(おつかひ)ありて、「歸り給ふべき」よし、のたまはせしかど、すくせにや、「此所(ここ)にとゞまらまほしく、都へ歸らんとも、おもはず。」と、の給ひしかば、かさねて、此男をば、武藏守になされて、御門の御娘(おほんむすめ)と夫婦(めをと)になりて、暮しける。みむすめ、かくれ給ひし後(のち)、其家をば、やがて、寺になして、「竹柴寺」とて有(あり)けるよしを、しるせり。又、彼(かの)謠には、『此(この)もたひを埋(うづめ)ける所。』とて、「瓶塚」と、いへるよしを作れり。旁(つくり)よりどころある事にも覺ゆれど、今の濟海寺、去(さる)事あるにや、遙(はるか)なる世の事にて、覺束なし。

[やぶちゃん注:「江戶、芝三田の坂の上に、濟海寺と云土宗の寺、有」東京都港区三田にある浄土宗智恩院末寺であった周光山長壽院済海寺(グーグル・マップ・データ)。この伝承は、中世・近世の創作ではなく、非常に古くからあるらしい。「たけしば」が「竹柴」となり、それが「竹芝」に転じ、現在まで続く地名の「芝」となったとされる。

「外百番」これは「百番の外(ほか)の百番」の意で、江戸初期以来、謡曲「内百番」に対して、刊行された別の百番の謡曲を指す。但し、「百番」の曲には流派によっても出入りがあって、同一ではない。「瓶塚」は私は不詳。ネット検索でも見当たらないのだが?

『「さらしな日記」に云る「竹柴寺」』「更級日記」の「五」の「たけしば」。以下、所持する関根慶子訳注(講談社学術文庫昭和五二(一九七七)年刊)の「上」の本文を参考に、恣意的に正字化し、記号も添えて示す。

   *

 

   五 たけしば

 

 今は武藏の國になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子(すなご)白くなどもなく、こひぢ[やぶちゃん注:「泥」。]のやうにて、むらさき生ふと聞く野も、葦・荻のみ高く生ひて、馬(むま)に乘りて弓もたる末(すゑ)、見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、「たけしば」といふ寺あり。はるかに、「ははさう」[やぶちゃん注:不詳。以下から、楼閣の名らしい。]などいふ所の、らうの跡の礎(いしずゑ)などあり。

「いかなる所ぞ。」

と問へば、

「これは、いにしへ、『たけしば』といふさか[やぶちゃん注:坂。]なり。國の人のありけるを、火燒屋(ひたきや)[やぶちゃん注:宮中に設けられた、夜間中、火を焚いて衛士が番をする小屋。]の火たく衞士(ゑじ)に、さしたてまつりたりけるに、御前(おほんまへ)の庭を掃くとて、

「などや、苦しきめを見るらむ。わが國に、七つ、三つ、つくり据えたる酒壺(さかつぼ)に、さし渡したる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)[やぶちゃん注:乾した瓢簞を二つに割り、柄を附けずに用いる柄杓。]の、南風(みなみかぜ)吹けば、北になびき、北風吹けば、南になびき、西吹けば、東になびき、東吹けば、西になびくを見で、かくてあるよ。」

と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、帝(みかど)の御女(おほんむすめ)、いみじうかしづかれ給ふ。ただひとり、御簾(みす)のきはに、立ち出で給ひて、柱によりかかりて御覽ずるに、この男(をのこ)の、かく、ひとりごつを、

『いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむ。』

と、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、

「あのをのこ、こち、よれ。」

と仰せられければ、酒壺(さかつぼ)のことを、いま一(ひと)かへり、申しければ、

「われ、率(ゐ)て、行きて見せよ。さ、いふやう、あり。」[やぶちゃん注:最後の台詞は、「そのように言うのであれば、それなりの帰りたいわけがあろう。」の意。]

と仰せられければ、

『かしこく、おそろし。』

と思ひけれど、さるべきにやありけむ、おひ[やぶちゃん注:背負い。]奉りて下(くだ)るに、ろんなく[やぶちゃん注:「無論」。]、

『人、追ひて、來(く)らむ。』

と思ひて、その夜(よ)、「勢多の橋」のもとに、この宮を据(す)ゑ奉りて、「勢多の橋」を一間(ひとま)ばかり、こぼちて、それを、飛びこえて、この宮を、かきおひ奉りて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武藏の國にいきつきにけり。

 帝、后(きさき)、

「御子(みこ)、失せ給ひぬ。」

と、おぼしまどひ、求め給ふに、

「武藏の國の衞士の男なむ、いと香(かう)ばしき物を、首(くび)にひきかけて、飛ぶやうに逃げける。」

と申し出でて、この男を、尋ぬるに、なかりけり。

 ろんなく、

「もとの國にこそ行くらめ。」

と、公(おほやけ)より、使(つかひ)、下(くだ)りて追ふに、「勢多の橋」、こぼれて、えゆきやらず。

 三月(みつき)といふに、武藏の國にいきつきて、この男をたづぬるに、この御子、公使(おほやけづかひ)を召して、

「われ、さるべきにやありけむ、この男の家、ゆかしくて、『ゐて行け。』と、いひしかば、ゐて來たり。いみじく、ここあり、よく覺ゆ[やぶちゃん注:ここは、とても住み心地がよいと感じておる。]。この男、罪(つみ)し、れう[やぶちゃん注:「掠(れう)」でひどい罰を下すこと。]ぜられば、われはいかであれ、と。これも先(さき)の世に、この國に跡(あと)をたるべき宿世(すくせ)こそありけめ。はや、歸りて、公(おほやけ)に、此のよしを奏せよ。」

と仰せられければ、言はむ方(かた)なくて、のぼりて、帝に、

「かくなむありつる。」

と奏しければ、

「いふかひなし。その男を罪(つみ)しても、今は、この宮を、とり返し、都にかへしたてまつるべきにも、あらず。『たけしば』の男に、生(い)けらむ世の限り、武藏の國を預けとらせて、公事(おほやけごと)もなさせじ。ただ、宮に、その國を預け奉らせ給ふ[やぶちゃん注:自敬表現。]。」

よしの宣旨、下りにければ、この家を内裏(だいり)のごとく造りて、住ませ奉りける家を、宮など失せたまひにければ、寺になしたるを、「竹柴寺」と、いふなり。

 その宮の生み給へる子どもは、やがて、「武藏」といふ姓を得てなむ、ありける。

 それよりのち、「火たき屋」に、女はゐるなり。

……と語る。[やぶちゃん注:作者が聴き取りした、当地の里人が主語。]

   *]

譚海 卷之五 武州安立郡赤山村慈林寺の事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○武州安立郡[やぶちゃん注:底本では「安」の字に編者傍注で『足』とある。]赤山村に、慈林寺の藥師とて、厚き御堂(みだう)あり。聖武天皇開基、文德天皇さいこう[やぶちゃん注:「再興」。]と云(いひ)、額に、えりて有(あり)。並木・松など、年ふる寺にて、閑寂の地也。「傍(かたはら)の茂りたる小山に入(いる)人あれば、再び歸らず。」あるは、「『藥師の眷屬』とて「三足(みつあし)の雉子」、ある。」よしなど、「七不思議」と云(いふ)事をかぞへて、所の者はいひ傳ふる也。邊地には、珍しき精舍(しやうじや)也。

[やぶちゃん注:「武州安立郡」(「足」立郡)「赤山村」現在は、埼玉県川口市赤山(旧足立郡)ではなく、現行の地区の南東直近の埼玉県川口市安行慈林(あんぎょうじりん)にある真言宗智山派医王山宝厳院慈林寺(グーグル・マップ・データ航空写真)。同寺と同寺の会館の間に小山らしきものが見える。にしても、寺院でありながら、禁足地があり、そこに入ったら、行方不明となるという魔所があるというのは、これ、いただけないね。今の同寺にも迷惑だろ。]

譚海 卷之五 和州初瀨の僧辨財天に値遇せし事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。「値遇」は「ちぐ」或いは「ちぐう」で、仏教では、「仏縁あるものにめぐりあうこと」の意で用いる。本篇は、頗る厭な展開を示すので、注意されたい。]

 

○和州長谷[やぶちゃん注:底本の編者傍注に『(初瀨)』とある。]の僧何某、勤修、多年に及(および)けるが、寺中に辨才天の木像を安置せる所有(あり)、時々、參りて、法施奉り拜み奉りけるに、辨天女の形、殊に端麗に覺えて、いつとなく、なつかしく、忘れがたければ、しきりに參りて拜みまゐらするまゝ、おほけなく戀慕(れんぼ)の心、おこりて、『いかにもして、世中(よのなか)にかゝる女(をんな)あらば、一期(いちご)の思ひ出に逢見(あひみ)てまし。』など、あらぬ事に、心、移りて、破戒の事も思はず、今は、つやつや、物も覺えず、病(やまひ)にふして、あかしくらしけり。おもふあまりの心を、天女も、あはれみたまひけるにや、ある夜、うつゝの如く、辨財天、此僧にまみへ給ひて、「汝がよしなき心を起して、年頃の勤行(ごんぎやう)、いたづらにせん事、淺間敷(あさましき)おもふ儘(まま)、かく現じ來りたり。此事、かまへて、人にかたるな。」と、いたく口堅(くちがた)めましまして、天女、僧のふすまに入給ひぬ。僧、よろこびにたへず、夫婦(めをと)のかたらひを、なしつ。かくて、心も、のどまり[やぶちゃん注:「和(のど)まる」。落ち着き。]、病も、又、怠(おこた)り[やぶちゃん注:ここは「病気が癒える」というポジティヴな意。]ぬれば、勤修(ごんしゆ)、ますます、たゆみなく、はげみける。夫(それ)より後は、夜な夜な、天女、ましまして、僧と語(かたり)給ふ事、絕(たえ)ず。月目を經て、この僧、心にうれしく思ふ餘り、ふと、同法のしたしき物語の序(ついで)に、「かゝる事も、ありける。」と、ほのめかしける其夜、又、天女、おはして、殊にいかり腹立(はらだち)給ひて、「汝がまよひをはらして、成佛(じやうぶつ)の緣をとげしめんためにこそ、かりそめに、かく、契(ちぎり)は、かはしつるを、はかなくも、人にもらしつる。今は、かひなし。汝がもらす所の慾水、かへしあたふるぞ。」とて、つまはぢきして去(さり)給ふ。其時、あまた、水の面(おもて)にかくると覺しが、やがて、此僧、らいびやうを、やみて、いく程もなく、身まかりぬ、と、いへり。ふしぎの事にこそ。

[やぶちゃん注:「和州長谷」「(初瀨)」現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)。ここには知られた名刹長谷寺があるが、話しが話しなだけに、編者は、津村は地名を用いたのであろうから、「目次」の標題通り、「初瀨」とすべきだ、と考えたものと思われる。

「慾水」精液。

「らいびやう」「癩病」。ハンセン病の旧差別病名。私は何度も、繰り返し、近代以前、激しく差別されたこ病気について、詳細に注し、今も、その差別の亡霊が未だにいることを注意喚起してきた。たとえば、最近のそれの一つとして、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の私の注を必ず読まれたい。

譚海 卷之五 江戶深川靈光院塔中養壽院弟子俊雄事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。書付けの文は句読点を使わず、代わりに字空けをして読み易くした。]

 

○江戶深川靈光院地中(ぢちゆう)、養壽院といふに、俊雄(しゆんゆう)といふ所化(しよけ)あり。平生、正月廿五日圓光大師の御忌に、往生を遂度《とげたき》よし、人にもかたりけり。天明七年正月廿五日養壽院の住持、他行《たぎやう》の留守をせしに、俊雄、下部(しもべ)をたのみて、いふやう、「けふは、同寮の者に誘引せられて、據(よんどころ)なく、遊女の所へ行(ゆく)べきやくそくをせし也。今更、いなみがたければ、何とぞ、此衣類を、ひそかに典物(てんもつ)にして、金子壹兩壹步、こしらへくれよ。」とて、衣服を、あまた取出(とりいだ)して、あつらヘけるに、いなみけれど、再應、わりなくたのみければ、あるまじき事にもあらずと覺えて、此男、うけがひて、質屋へ持行(もちゆき)、右の金子、調へ來り、「小袖、金子の價(あたひ)より、おほかりし。」とて、「三つ、戾し侍りぬ。」と、いひければ、此僧、大によろこび、やがて金子を錢に兩替し、此男にも、酒・豆腐など求(もとめ)て、振舞(ふるまひ)て、扨、我が部屋に入(いり)て、轉寢(うたたね)などして、晚景に成(なり)て起出(おきい)で、「かならず、院主へ沙汰ししらすな。」と、堅く口がためして、出行(いでゆ)けり。其夜も歸らず、翌朝、俊雄の同伴、澄嚴といふ僧、この程は靈岸寺の地藏の守僧なるが、元來、養壽院にありし事なれば、いつも晨朝(しんてう)のつとめには、養壽院に來(きた)る事とて、廿六日早朝、來り、「院主は、いまだ臥(ふし)て起居(おきをら)ざれば、先(まづ)佛前に參じて禮をせん。」とて、見れば、かたわらに俊雄の位牌、立(たて)てあり。年月も願(ぐわん)の如く、昨日の事にしるし付(つけ)たれぱ、大に驚きながら、又、無常のはかなき事を思ひやり、多年、願ひ、成就せし事も、たのもしく覺えて、『いと、あやし。』と、おもひながら、「先(まづ)、禮せん。」とて、りんを打(うち)たるに、一向に、ひゞき出(いで)ず。又、打(うち)たれども、同じ事にて、何やらん、内に有(ある)やうにおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、手を指入(さしいれ)て見れば、りんの底に、鳥目貳百文、紙につゝみて、有(あり)。取あげてみれば、俊雄の手跡にて、「くはしき事は 拙僧 單笥の引出しの内に有ㇾ之(これあり)」と書付あるゆゑ、いよいよ、驚き、いそぎ、院主をおこして尋(たづね)けるに、院主も、位牌を見て、初めて、おどろき、諸共(もろとも)に單笥の内を穿鑿しければ、書置(かきおき)の一紙あり。壹兩壹步の錢を、三百文づつに包(つつみ)わけ、同法知音(ちいん)の僧に分ちやるべき名を、殘りなく記し、小袖・帶の類(たぐひ)迄も、皆々、形見に配頌すべき書付、つまびらかに有(あり)。「年來(としごろ) 御忌の日に往生とげたき念願なりしが 年を經て もだしがたく 今日(けふ) しきりに往生の機(き) 進み侍れば 思ひ立(たち)て 本望をとげ侍る されども 死該は 決して見せまじき」よしをしるせり。皆々、殊に尊(たつと)く、哀(あはれ)を催して、感淚を押(おさ)へかねて、別時念佛など、いとなみて、後々のとぶらひまで、ねんごろにしけると、人のかたりし。

[やぶちゃん注:津村がかく記したによって、無名の俊雄の事績は、かく、残った。何か、私は非常に胸打たれた。

「江戶深川靈光院地中、養壽院」前者は東京都墨田区吾妻橋に現存する。浄土宗瑞松山榮隆院霊光寺(グーグル・マップ・データ)である。いつもお世話になる「猫の足あと」の同寺の解説によれば、『霊光寺は、木食重譽上人霊光和尚を開山として創建、寛永』三(一六二六)年、『寺院となしたと』伝えるとある。「養壽院」は現存しないようだが、「塔中」(塔頭(たっちゅう)に同じ)「地中」とあるから、この現在の霊光寺境内にあったものである。

「所化」修行中の僧を指す語。

「圓光大師」法然の没後四百八十六年後の元禄一〇(一六九七)年一月十八日、東山天皇より勅諡された法然の大師号。

「天明七年正月廿五日」グレゴリオ暦一七八七年三月四日。

「別時念佛」道場や期間を定めておいて、その間、只管、称名念仏行に励むこと。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項によれば、法然は「七箇条の起請文」で『「時時(ときどき)別時の念仏を修して心をも身をも励まし調え進むべきなり。日日に六万遍を申せば、七万遍を称うればとてただあるも、いわれたる事にてはあれども、人の心様はいたく目も慣れ耳も慣れぬれば、いそいそと進む心もなく、明暮あけくれは心忙しき様にてのみ疎略になりゆくなり。その心を矯め直さん料に、時時別時の念仏はすべきなり」(聖典四・三三八/昭法全八一二~三)といって、日々六万遍、七万遍の称名念仏を修することが望ましいと常に心得ていながらも、その気持ちは日々の生活の中で薄れてしまうものであるといい、その気持ちを正すために』、『時々』m『別時の念仏を修するべきであるとしている。また続けて、「道場をも引き繕い花香をも参らせん事、殊に力の堪えんに随いて飾り参らせて、我が身をも殊に浄めて道場に入りて、あるいは三時あるいは六時なんどに念仏すべし。もし同行なんど数多あらん時は、替る替る入りて不断念仏にも修すべし。かようの事は各事柄に随いて計らうべし。さて善導の仰せられたるは、月の一日より八日に至るまで、あるいは八日より十五日に至るまで、あるいは十五日より二十三日に至るまで、あるいは二十三日より晦日に至るまでと仰せられたり。各差し合わざらん時を計らいて七日の別時を常に修すべし。ゆめゆめすずろ事ともいうものにすかされて不善の心あるべからず」(聖典四・三三九/昭法全八一三)ともいい、道場も花を供えて』、『香をたくなど』、『できる限り整え、一日を六時間に分けたなかの』、『三時もしくは六時に念仏行をするとし、一日から八日、また八日から一五日など、期間を定め、不善の心を起こさずに念仏すべきであるとしている。また、聖光は』「授手印」を『記して』、『世に広まっていた誤った念仏義を正そうとした際に、肥後往生院と宇土西光院にて四十八日の別時念仏を修したとされている。また』、「西宗要」では、『「日を一日七日に限り、若しは九十日に限り、其の身を清浄にして清浄の道場に入り、余言無く、一向に相続無間に称名するを以て別時と云なり」(浄全一〇・二〇八上~下)といって、期間を決めて絶え間なく念仏行を修することであると細かく示しており、また』、「浄土宗名目問答」の下では、『道場を荘厳』(しょうごん)『し、自身を清浄にする方法が細かく示されている(浄全一〇・四一七下~八上)』とある。]

譚海 卷之五 單誓・澄禪兩上人の事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○正德の比、單誓(たんせい)・澄禪(ちやうぜん)といへる兩上人、有(あり)。淨家の律師にて、いづれも生れながら成佛(じやうぶつ)の果(くわ)を得たる人なり。澄禪上人は俗成(なり)しとき、近江の日野と云(いふ)町に住居ありしが、そこにて出家して、專修念佛の行人(ぎやうにん)となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修(ごんしゆ)怠らず、生身(せいしん)の彌陀の來迎(らいがう)を、をがみし人也。八年の後、富士山より近江へ飛帰(とびかへ)りて、同所平子(ひらこ)と云(いふ)山中(さんちゆう)に籠られたり。單誓上人も、いづくの人たるを、しらず。是は、佐渡の國に渡りて、かしこの「だんどくせん」といふ山中の窟(いはや)に、こもり、千日修行して、みだの來迎を拜(おがま)れけるとぞ。その時、窟の中(うち)、ことごとく金色の淨土に變(かはり)、瑞相(ずいさう)、樣々成(なり)し事、木像に、えりて、「塔の峯」の寶藏に收(をさ)めあり。此兩上人、のちに、京都東風谷(こちだに)と云(いふ)所に住して知音と成(なり)、往來、殊に密也しとぞ。單誓上人は、其後、相州箱根の山中、「塔の峯」に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終(つひ)に、かしこにて、臨終を遂(とげ)られける。澄禪上人の終(しゆう)はいかゞ有(あり)けん聞(きき)もらしぬ。東風谷の庵室をば遣命にて燒拂(やきはらひ)けるとぞ。共にかしこきひじりにて、存命の内、種々奇特多かりし事は、人口に殘りて記(しるす)にいとまあらずといふ。

[やぶちゃん注:「正德」一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・徳川家継の治世。しかし、以下登場人物の私の注で判る通り、これは少なくとも次の僧の没年から明らかに時制誤認である。

「單誓」「彈誓」の誤り。浄土宗の僧弾誓(たんぜい 天文二一(一五五二)~慶長一八(一六一三)年)。尾張国海辺村の人。幼名「弥釈丸」(これは「弥陀・釈迦」二尊を表わす名である)。九歳で出家し、名を弾誓と改めた。その後、美濃・近江・京都・摂津一の谷・紀州熊野三社など、各地を遊行(ゆぎょう)し、慶長二(一五九七)年、佐渡において、生身の阿弥陀仏を拝し、授記を受け、十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀仏となって「弾誓経」六巻を説法した。その後は、甲斐・信濃を経て、江戸に至り、学僧幡随意(ばんずいい)より、白旗一流の法を授かった後、再び京に戻った折り、古知谷(こちだに:本篇の「東風谷」は誤り)に、瑞雲が棚引くのを見、最後の修行地と定めた。そこで自身の頭髪を植えた本尊を刻み、光明山阿弥陀寺を建立した。六十二歳で入寂したが、その遺骸は、石棺に納め、本堂脇の巌窟に即身仏として安置されてある。長髪・草衣・木食という弾誓の僧風は、澄禅・念光らに受け継がれ、その流れは浄土宗において「捨世派」の一流と位置づけられている(「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項に拠った)。

「澄禪」(承応元(一六五二)年~享保六(一七二一)年)。江戸中期の「捨世派」念仏聖。精蓮社進誉。近江国日野の人。十四歳の時、自ら剃髪し、日野大聖寺在心の下で受戒。十八歳で、増上寺に入り、宗戒両脈を相承するが、学問を求めず、専ら、坐禅称名に努めた。隠遁の心止み難く、貞享五(一六八八)年、遂に学林を逃れて、霊山聖跡を巡錫した。相模国曽我の岩窟を始め、塔の峰阿弥陀寺(後注する)の「遅岩洞」、富士山での修行を経て、近江平子山、京都大原山に籠り、苦修練行すること数十年、衣食住の禁欲に徹し、日課念仏十万遍、貴賤男女の帰依を集めた(同前に拠った)。

「淨家」浄土宗。

「近江の日野」滋賀県蒲生郡日野町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「平子」滋賀県蒲生郡日野町平子

「だんどくせん」檀特山。「たんとくさん」「だんとくせん」とも呼ぶ。標高九〇七メートル。古い民謡に「お山・檀特山・米山薬師、三山かけます佐渡三宮」と歌われ、「金北(きんぽく)山(お山)」・「金剛山(米山薬師)」と並び、「大佐渡三霊山」と通称される。山頂までに四十八滝と言われる多くの滝があり、修験の霊場として名高い。

「塔の峯」現在の神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤(標高三百メートル)にある浄土宗阿弥陀寺。慶長九(一六〇四)年創建。開山は弾誓上人、開基は当時小田原城主であった大久保忠隣(ただちか)。

「京都東風谷」「東風谷」は「古知谷」の誤り。現在の京都市左京区大原古知平町にある古知谷(こちだに)の浄土宗光明山法国院阿弥陀寺(こちだにあみだじ)。即身仏は公開されいないが、その封じられた石棺の扉までの写真が並ぶ、「こすもす」氏の「生きたままミイラになった即身仏を見に行ったら 京都大原 古知谷・阿弥陀寺」がお勧めである。]

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