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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の361件の記事

2023/05/30

譚海 卷之十一 ギヤマンの事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考』に必要となったので、フライングして電子化する。] 

 

○ギヤマンと云もの、水晶の如く堅くて、玉のやうなる物也、おらんだ人持來(もちきた)る。又常にギヤマンを、おらんだ人無名指[やぶちゃん注:薬指の異名。]に、かねのわをかけてはさみ持(もち)て、刀創の代りに用(もちふ)る也。石鐵(せき・てつ)の類(たぐひ)何にても堅き物を、此ギヤマンにて磨(す)る時は、微塵にくだけずといふ事なし。人をも害すといへり。又(また)物をうつし取(とる)に、ことごとくあざやかにうつりてみゆる也。壁にわづか成(なる)穴あれば、穴にギヤマンをあてゝみる時は、鄙鄰の事殘らずうつりてみゆる也。全體ギヤマンと云(いふ)は鳥の名なるよし。此鳥雛を生じたるをみて、おらんだ人其ひなをとりて、鐵にて拵へたる籠(かご)に入置(いれおく)時に、親鳥ひなの鐵籠に有(ある)をみて、頓(やが)て此玉を含(ふくみ)來りて、鐵の籠を破り、雛をつれて飛去(とびさ)る。其(その)落し置(おき)たる玉ゆゑ、鳥の名を呼(よん)で、ギヤマンと云(いふ)事とぞ。此ものおらんだ人も、何國(いづこ)にある物と云事をしらずといへり。

 

2023/05/21

譚海 卷之五 日州霧島が嶽つゝじ花の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○日向國に「霧島がたけ」といふ在(あり)、滿山、みな、躑躅(つつじ)にて、花のころ、錦を張(はり)たるがごとし。「朝鮮征伐」の時、藤堂家(とうだうけ)の先祖、此山のつゝじを持歸(もちかへり)て、染井(そめゐ)の屋敷に植られしより、その花の名を、やがて、「霧島」といふ事になりたり、今、江戶に、所々にある「きりしま」も、藤堂家より、わかち植(うゑ)たるが、ひろごりたるものと、いへり。「霧島」は漢名「映山紅(えいさんこう)」といふものとぞ。

[やぶちゃん注:「霧島がたけ」霧島山(グーグル・マップ・データ航空写真)。最高峰を「韓国岳(からくにだけ)」と呼ぶ。

「藤堂家」津藩を治め、江戸では、現在の「染井通り」(グーグル・マップ・データ)の南側に津藩藤堂家の下屋敷や抱屋敷(通称「染井屋敷」)が広がっていた。因みに、「『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月15日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十六回」を見られたい。「こゝろ」の「先生」が卒論を書いた後に「私」と散歩をし、二人して、植木屋に入り込んで、議論をする重要なシークエンスがあるが、あそこは、高い確率で、染井なのだ。そして、この「染井通り」と「染井霊園」を突き抜けた先にある、日蓮宗慈眼寺(じげんじ)には――芥川龍之介が眠っているのである。

「霧島」「躑躅」被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属キリシマツツジ Rhododendron × obtusum 当該ウィキによれば、『鹿児島県下の霧島山の山中に自生するツツジの中から江戸時代初期に選抜されたもので、関東の土壌が生育に適していたこともあって江戸を中心に爆発的に流行した。 日本最古の園芸書』で園芸家水野元勝の著になる「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年刊)や、種樹家伊藤伊兵衛三之丞の書いた「錦繡枕」(きんしゅうまくら:元録五(一六九二)年刊)『などに多数の品種が記載されている。その後』、『全国に広がり、各地に古木が残存する。また、日本のみならず欧米でも、江戸時代末期から明治時代に輸出されたものが今日でも重要な造園用樹として盛んに利用されている』。『また、宮崎県えびの市にあった大河平小学校の庭に植えられているもの(通称:大河平つつじ』『)は、真紅に染まっており、ほかの場所に植え替えてもこの赤さにはならないとの伝説』『もある』とある。]

譚海 卷之五 越中國立山の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○越中の建山[やぶちゃん注:ママ。]は、六月、登山する也。甚(はなはだ)嶮岨(けんそ)にて、所々、道、絕(たえ)て、のぼりかたき所は、絕壁に鐵(てつ)のくさりを懸(かけ)てあり、夫(それ)に取(とり)つきて、のぼる也。絕頂は、わずかに十間四方[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ほどあり、みな、白き巖(いはほ)、そばたちて、犬牙(けんが)の如く、足のふむ所なしと、いへり、歸路は、かけぬけの道路在‘あり)て、平地にくだる、といふ。

譚海 卷之五 江戶町人丸屋某滅亡の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○丸屋某と云もの、江戶草創以來、大傳馬町(おほでんまちやう)三丁目に住居し、豪富にて、上方商賣も手廣くせしゆゑ、能(よ)く人にしられたるものなり。されば、「沖に見ゆるは丸屋がふねか 丸に『や』の字の帆がみゆる」と、うたひたる程の事なり。寶永年中、常憲院公方樣、丸屋門前、通御(つうぎよ)ありし折節を伺(うかが)ひ、丸屋妻(つま)、家に在(あり)て、伽羅(きやら)を、たきたり。此香(かう)、世にまれなる木也、それを所持せしを自贊(じさん)にて焚(たき)たるを、聞(きき)とがめ在(あり)て、段々、御糺(おんただし)に及び、驕奢(けうしや)の次第、御とがめにて、則(すなはち)、丸屋、流罪に仰付(おほせつけ)られ、家内、缺所(けつしよ)せられたり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大傳馬町」東京都中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ)。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年までだが、以下の「常憲院公方樣」は徳川綱吉の諡号であるから、綱吉の亡くなる宝永六年一月十日(一七〇九年二月十九日)よりも以前ということになる。

「伽羅」香木の一種。沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重される。伽羅はサンスクリット語で「黒」の意の漢音写。一説には香気の優れたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。但し、特定種を原木するものではなく、また沈香の内の優良なものを「伽羅」と呼ぶこともある。詳しくはウィキの「沈香」を見られるのがよかろう。

「缺所」「闕所」とも書く。死罪・遠島・追放などの附加刑で、田畑・家屋敷・家財などを没収すること。]

譚海 卷之五 疱瘡守札の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○「小川與惣右衞門 船にて約束の事」と書(かき)、ではいりの門、又は、戶ある口々に張付置(はりつけおく)ときは、「その家の小兒、疱瘡、輕くする。」と、いへり。是は、前年、疱瘡神、關東へ下向ありしときに、桑名の船中にて、風に、あひ、すでに、船、くつかヘらんとせしを、與惣右衞門といふ船頭、守護して、救ひたりしかば、疱瘡神、よろこびて、「此謝禮には、その方の名、かきてあらん家の小兒は、必ず、疱瘡、かろくさすべき。」と約束ありしゆゑ、かく書付(かきつく)る事と、いへり。

[やぶちゃん注:「疱瘡」は撲滅された天然痘のこと。底本の竹内利美氏の注に、多くの『疫病の流行は、かつては疫神』(やくしん・やくじん・えきしん)『の遊行』(ゆぎょう)『によると信ぜられていたので、その鎮送』(ちんそう)『の呪術や祭事がいろいろおこなわれた。「疫神を救った船頭の名を書いて張る」という素朴なマジナイもその一つだが、意外に同類の話がひろく流布した。「はだか武兵衛」といったものも他にある』とあった。ウィキに「はだか武兵」(はだかぶひょう)があり、『江戸時代後期の中山道の駕籠かき。疫病の人々を救ったという中津川の伝説的な人物。武兵衛ともいう』。『中山道鵜沼宿の出身であるという』。『中津川宿の茶屋坂というところに住んでいたが』、『年中、ふんどし一枚の裸で過ごしていたとされる』。『ある夜、木曽街道の須原宿の神社で疫病神と同宿して、兄弟分の縁を結び、武兵が来れば疫病神が逃げていくという約束をしたという』。『以来、疫病の者のところへ武兵が来ると病が治り、これが評判になったとされる』。『ある時』、『中山道の大湫』(おおくて)『宿で、江戸に向かう長州候の姫が医者も見放すような重い熱病を発したため、武兵を呼んだところ』、『嘘のように全快し、一層』、『評判を高めたという』。『現在も、中津川市字上金往還上地内の旭が丘公園の中に、はだか武兵の祠が祀られて』おり、『武兵の祠の前に置かれた舟形の石は、叩くと金属のようなチンチンという音がすることから「ちんちん石」と呼ばれ、自分の年の数だけ石を叩くと』、『病気にならないといわれている』とあった。]

譚海 卷之五 京北野平野明神の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○京都北野平野明神の社は、天明より二十年ほど以前までは、昔のまゝにて殘りてあり。殊に大社にして、そのかみの結構まで、おもひやられて、かうがうしきやうすなり。いつ、修覆せられたる事もなくて、段々、破壞に及び、とる手もなきさま也。俗說には、平家の盛(さかん)なるとき、建立ありし故、かく再興せらるる事もなく、打捨(うちすて)ある事と、いへり。社頭に年經(ふり)たる杉あり、大木にて、二本、たてり、神主、餘り、社頭のあれたる事をなげき、杉を賣拂(うりはら)ひて、其金子にて、社頭再興せんと、おもひ立(たち)、みくじをとり伺(うかが)ひたれば、神慮にもかなひたるゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、上へも訟(うつた)へ事、ゆりて[やぶちゃん注:許されて。]、あたひの事も、とゝのひ、「あす、きらん。」とて用意しける。其夜、雷、おびたゞしく、はためきしが、やがて、此杉に落かゝりて、二本ながら、微塵にくだけうせぬれば、再興の事も、やみて、今は、さばかりの大社、かきはらひ、平地にいさゝかなる宮を、其跡に、つくり、祭りて、あり。神慮にかなひたるやうに、みくじにはありしかども、まことに、うけび、たまはざりしにやと、いへり。

[やぶちゃん注:これは、現在の京都市北区平野宮本町にある平野神社のことであろうが、当該ウィキを見る限り、江戸時代に、こんなに荒廃していた様子は窺われない。公式サイトを見ても、そうである。この文章、不審。]

譚海 卷之五 朝士某家藏朝鮮人さし物の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○又、朝士何がしの藏に、朝鮮人の「さし物」を傳へたり。その先祖、「朝鮮征伐」の時、彼(かの)國より、うばひきたる也、とぞ。享保年中、上覽にも入(いり)しもの也。五尺四方ほどの木綿(もめん)に、血を付(つけ)て、幟(のぼり)とせしもの也。殊の外、黑み、けがれて、幟の垂(たれ)、見えわかぬほどなれば、狩野梅春に仰付(おほせつけ)られ、別に、うつさせ、それをそへて返し、賜りたるを、ひとつに、納め置(おき)て、あり。其(その)別幅(べつふく)の寫したるを見しに、人をさかしまに釣(つり)て、左右より、鎗にて、突殺(つきころ)す所の畫(ゑ)なり、甚(はなはだ)氣味わるき繪やうなるよし。もとの幟の黑みたるは、泥中へ投(なげ)たるやうにも見得(みえ)、又、血などに、まみれたるやうにも見ゆると、いへり。朝鮮の勇士を討取(うちとつ)たるとき、其さし物をうはひて[やぶちゃん注:ママ。]歸朝せし事也と、いへり。

 

譚海 卷之五 朝士平岩七之助殿家藏舊記の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○平岩七之助殿と聞えし子孫、本所に住居(すまゐ)也。其家に、七之助殿、年々の日記、自筆にて、しるしたるものを傳へたり、東照宮、御在世の時の日記にて、殊にめづらしきもの也。七之助殿、御側(おそば)にて、常に右筆(いうひつ)の役を勤られしゆゑ、筆まめにて、かく、日記も殘されけるにや、と、いへり。その日記は、半紙をはじめ、種々の紙をとぢあつめてかきたるもの也。反古(ほご)のうらなどに書(かか)れたるもあり、とぞ。又、七之助殿、陣中、帶せられし刀、有(あり)、長さ二尺餘(あまり)有(あり)て、みじかきものなれども、甚(はなはだ)大(おほい)なる刀にして、尋常の人の、もたるゝ物に、あらず、平岩氏、さのみ强力(がうりき)の聞えある人にもあらざりしが、希代のものなり。古人は、すべて、かやうなる物、多く帶(たい)せし事、有、人をきるべき爲(ため)のみにもあらず、たゝきふすほどの事なるべしと、いへり。

[やぶちゃん注:「平岩七之助」戦国時代から江戸初期の家康の幼い折りからの近臣(家康と同年齢)平岩親吉(ちかよし 天文一一(一五四二)年~慶長一六(一六一二)年)のこと。詳しくは、当該ウィキを読まれたいが、そこには、『親吉には嗣子がなかったため、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、八男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、仙千代は慶長』五(一六〇〇)『年』『に早世した。ただし』、「徳川幕府家譜」では『親吉の養子になったのは、異母兄の松平松千代とある。如何に親吉が功臣としても、同母弟が後に御三家筆頭となる家系の兄を養子とするとは考えにくく、庶子の第二子である松千代の方が適当といえる』。『自身の死後、犬山藩の所領は義直に譲るように遺言していたといわれる。しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、平岩氏の所領を継がせようとした』が、『その子の母が親吉の子供ではないと固辞したため、大名家平岩氏は慶長』十六年の『親吉の死をもって断絶した(ただし、』「犬山藩史」では、『甥の平岩吉範が後を継いで元和』三(一六一七)『年』『まで支配したとされる)』。『親吉の一族衆の平岩氏庶家は尾張藩士となり』、『弓削衆と呼ばれた。また、江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、現在でも兵庫県等で』、『その系統は続いている』とある。さて、では、本所に、当時、存命していた、『平岩直筆の日記を持つ平岩七之助殿と聞えし子孫』とは、一体、どの系統の子孫なのか? ちょっと、というか、かなり、怪しい感じがする。]

譚海 卷之五 諸國寺社什物寶劔の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、諸國寺社に納(をさめ)ある什物を御取(おとり)よせ、上覽ありしに、刀劍の數(かず)は、おほく僞物にて、正眞のものは、わづかに、かぞふる程ありしとぞ。常陸鹿島神宮に、「ふつのみたまの賓劍」といふもの、あり。「世に名高きものなれば、上覽あるべし。」と仰出されけるに、「此御劍は、往古より、巖石の下に納在(をさめあり)て、終(つひ)に拜見せしもの、なき。」よし、神主、言上しければ、「さもあれ、まづ委敷(くはしく)糺すべき。」由にて、上使、參り向ひ、せんさくありしに、件(くだん)の巖石を、引(ひき)のけたれば、石槨(せきかく)の中に寶劍とおぼしきもの、袋に納めて、堅く封じ、「開(ひらく)ベからざる」よし、書付ありしかば、上使、歸りて、言上せしに、「左樣ならば、上覽に及ばず。但(ただし)、其御劍の形、いかやうなるものにや、袋の上より、探りて、委敷申上(まをしあぐ)べし。」と有(あり)。「さぐりて見たるに、誠に寶劍のやうに思はれ、殊に、太く、大(おほ)ふりなるものに覺えし。」とぞ。其次第、言上に及び、上覽なくて、止(やみ)ぬるとぞ。

[やぶちゃん注:「ふつのみたまの賓劍」底本の竹内利美氏の注に、『ここでは鹿島神宮の宝剣の名であるが、本来フツノミタマ(布都御魂)は奈良県石上』(いそのかみ)『神社の祭神で、神武天皇熊野入り折、天神の与えた霊剣の名である』とある。「鹿島神宮」公式サイトの「武甕槌大神と韴霊剣」(たけみがづちのおおかみとふつのみたまのつるぎ)を参照されたいが、ここに書かれた同剣は鹿島神宮の宝物として現存し、国宝に指定されている。全長二・七メートルを『超える長大な神剣「直刀」』で、『この直刀の製作年代はおよそ』千三百『と推定され、伝世品としては我が国の最古最大の剣』であるとあり、写真も載る。而して、『これは、神話の上では』、『この韴霊剣が武甕槌大神の手に戻ることなく、神武天皇の手を経て石上神宮に祀られたことから、現在では「二代目の韴霊剣」と解釈され、現在も「神の剣」として鹿島神宮に大切に保存されて』ある由が記されてある。]

2023/04/28

譚海 卷之五 江戶彥根領むべの事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。思うに、以上の目次にある標題中の「江戶」は「江州」の誤りかとも思われる。なお、彦根藩の場合、元和二 (一六一六) 年以降、周辺の幕府直轄領からの年貢米二万石を毎年備蓄することが定められていたと、QAサイトの回答にはあったが、彦根藩内に天領があったという記載には行き当たらなかった。]

 

○江州彥根に、禁裏へ「むべ」を獻ずるものあり。大津の宮の御宇より、こゝに住居して、子孫、絕えず、今に每年、供御(くご)に獻上して、「むべの御朱印」といふ物を、つたへたるものなれば、由緖ある家なるゆゑ、數世(すうせい)の子孫の中には、惡行の者も有(あり)て、斷絕に及(およば)んとせし事、しばしば成(なり)しかども、領主よりも宥免(いうめん)ありて、今に家を傳へたり。彼が先祖、はじめて天智天皇へ供御に奉(たてまつり)し時、「むべ成(なる)もの也。」と勅諚(ちよくぢやう)ありしより、此樹の名と成(なり)し事とぞ。此(この)「むべの木」、其家にばかりあり、殊の外、大切にして、外(ほか)へちらさず、「さし木」にすれば、能(よく)生ずる物也と、いへり。

[やぶちゃん注:「むべ」常緑蔓性木本の双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。漢字は「郁子」「野木瓜」などと書く。参照した当該ウィキによれば、『和名「ムベ」は、古くに果実を朝廷に献上したオオムベが転じたものとされる』。『また』、『アケビ』(アケビ科Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata )『に似ていて常緑なので、別名「トキワアケビ」(常磐木通)ともいう』。『方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、ウンベ(鹿児島県)、ウベ』、『イノチナガ、コッコなどがある』とあり、]『日本の関東地方南部以西の本州・四国・九州・沖縄』。『その他』、『メディアで取り上げられる地域は京都府福知山市夜久野地区、日本国外では朝鮮半島南部』、『台湾、中国に分布する。暖地の山地や山野、海岸近くに自生する』。『果期は』九~十月で、果実は五~七センチメートルの『楕円形で』、『暗紅紫色に熟す。この果実は同じ科のアケビに似ているが、果皮はアケビに比べると』、『薄く柔らかく、熟しても』、『心皮の縫合線に沿って裂けることはない』。『果皮の内側には、乳白色の非常に固い層がある。その内側に、胎座に由来する半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、その間には甘い果汁が満たされている。果肉は甘く食用になるが』、『種がしっかり着いており、種子をより分けて食べるのは難しい。自然状態ではニホンザルが好んで食べ、種子散布に寄与しているようである』とある一方、『日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もある』とし、上記のような理由から、『商業的価値はほとんどないが、現在でも生産農家はあり、皇室のほか、天智天皇を祭る近江神宮、靖国神社に献上している』とある。また、脚注5にある、「産経新聞」公式サイト内の「関西の議論」の『不老不死の実「ムベ」 古代から皇室に献上された伝説の果実求め全国から人が絶えず…』の二〇一五年十一月十六日附の和野康宏氏の記事に、『琵琶湖の東岸に位置する滋賀県近江八幡市で、「ムベ」と呼ばれる伝説の果実が栽培されて』おり、『ニワトリの卵よりやや大きく、熟すと赤紫色になるこの実は、「食べると長生きする」という言い伝えから不老長寿(不死)の実といわれ、古代から昭和』五七(一九八二)年『まで皇室に献上されてきた。その後、献上はいったん途絶えたが、地元の宮司らが「地域の伝統を取り戻そう」と』、平成一四(二〇〇二)年、約二十年振りに献上を『復活させた』とあり、『ムベという名の由来は近江八幡にあ』って、『言い伝えによると、天智天皇』(在位:六六八年~六七二年)『が琵琶湖南部の蒲生野(かもうの)(現滋賀県東近江市一帯)へ狩りに出かけた際、奥島山(現近江八幡市北津田町)に立ち寄った』ところ、『そこで』八『人の息子をもつ元気な老夫婦に出会い、「お前たちはなぜ、このように元気なのか」と尋ねたところ、老夫婦は「この地で採れる無病長寿の果物を、毎年秋に食べているからです」と答え、果物を献上した。それを賞味した天皇が「むべなるかな(もっともだな)」と言ったことから、この果物が「ムベ」と呼ばれるようになったという』とあって、『以来、毎年秋になると同町の住民から皇室にムベが献上されるようになったとされる。平安時代に編纂』『された法令集「延喜式」』の三十一『巻には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」の段に、近江国からフナ、マスなどの琵琶湖の魚とともに、ムベが献上されていたという記録が残っている』とあった。

「大津の宮」天智天皇のこと。彼は天智天皇六年三月十九日(六六七年四月十七日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、そこで亡くなったことによる。

「供御」天皇の飲食物を指す尊敬語。

「宥免」(現代仮名遣「ゆうめん」)罰などを緩やかにして宥(ゆる)すこと。寛大に罪を免汁じること。

「勅諚」「勅命」に同じ。]

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