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カテゴリー「柳田國男」の337件の記事

2024/03/30

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(1)

[やぶちゃん注:以下、長いので、分割する。]

 

 

      

 

 

[やぶちゃん注:季標題。以下、本文。]

 

 

   桃色に雲の入日やいかのぼり 其 木

 

 句意は格別說明するまでのこともあるまい。この句の生命は云ふまでもなく「桃色」にある。夕日の空に凧の上つてゐるところは、必ずしも特色ある景色といふことは出來ないが、「桃色」を先づ點じ來つた爲、夕雲の鮮な色が眼に浮ぶやうに思はれる。

 北原白秋氏の歌に「鳩鳥の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ」といふのがあつた。かういふ色彩に對する感覺は、近代人の得意とするところであるが、古人も決して閑却してゐたわけでないことは、この一句によつても自ら明であらう。

[やぶちゃん注:白秋の一首は歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年)に後に補填したもので、決定版で「野ゆき山ゆき」の「一」に出る一首。国立国会図書館デジタルコレクションの『白秋文庫』第一(昭和一二(一九三七)年アルス刊)の「文庫版『雀の卵』覺書」の「Ⅱ 訂正作について」の中に、そこでは、「『花樫』葛飾閑吟集」の冒頭に、

   *

     野ゆき山ゆき

鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ

   *

とあり、更に、「現代短歌全集『北原白秋集』葛飾閑吟集」の冒頭に、

   *

     野ゆき山ゆき

鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)のゆふがすみねもごろあかし春もいぬらむ

   *

の形で出るが、先行する同コレクションの「雀の卵」三部歌集同巻(大正一〇(一九二一)年アルス刊)では、「野ゆき山ゆき」の「一」(二首)の二首目に、ここにある通り、

   *

鳩鳥(にほどり)の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ

   *

とあった。]

 

   鍬の刅の夕日に光ル田打かな 嘯 風

 

 今日の眼から見ると、何となく平凡な句のやうに見える。併しこの句の出來た元祿時分にも、果して平凡だつたかどうかは疑問である。夕日に光る鍬の刅は、當時にあつてはむしろ新しい見つけどころではなかつたろうかといふ氣もする。

 振上げ打おろす鍬の刄が、夕日を受けてきらりと光る。さういふ動作は句の表面に現れてはゐないけれども、「田打」といふ言葉によつて、同じやうな動作を繰返しつゝあることが連想されるのである。

「振あぐる鍬のひかりや春の野ら」といふ杉風の句も、略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同樣な光景に著眼しているが、この句に比べるとよほど大まかなところがある。杉風は「振あぐる」といふ動作に重きを置いてゐるに反し、嘯風はそれを「田打」といふ語に包含せしめ、夕日を點ずることによつて時閒的背景を明にした。兩句の相異は主としてその點から來てゐる。

[やぶちゃん注:句の「刅」は右端の「﹅」がない「刃」(ここは「は」と訓じてゐる)の異体字で「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、最も近い「刅」に代えた。

「嘯風」兼松嘯風(かねまつしょうふう 承応三(一六五四)年~宝永三(一七〇六)年)は蕉門の俳人。加茂郡深田村(現在の美濃加茂市深田町)の農家の生まれ。内藤丈草と各務支考と交流があった。宝永元(一七〇四)年、美濃派俳諧の集大成として編んだ美濃派俳人の句集「國の華」(全十二巻)の第四巻「藪の花」の選を担当し、可児・加茂地区の部分を担当した。蜂屋の俳人堀部魯九は嘯風に俳諧の手解きを受けている。交流のあった俳人たちとともに宝永二年の秋、句集「ふくろ角」を選集したが、刊行前の翌年五月に病没した。嘯風の子で俳人の水尺が嘯風追悼の句を加えて刊行している(以上は「美濃加茂市民ミュージアム」公式サイト内の「美濃加茂事典」のこちらに拠った)。]

 

   うぐひすや內等の者の食時分 默 進

 

 この句を讀むと直に蕪村の「うぐひすや家內揃うて飯時分」を思ひ出す。「食時分」はやはり「メシジブン」とよむのであらう。かう二つ竝べて見ると、「內等の者の」は「家內揃うて」よりも表現が不束な[やぶちゃん注:「ふつつかな」。]やうに思はれる。そこに修辭上における元祿と天明との差が認められるのであるが、「家內揃うて飯時分」といふ言葉には多少の俗氣があつて、蕪村の句としては上乘のものといふことは出來ない。食事時に鶯が啼くといふ全體の趣向からいつても、已に元祿にこの句がある以上、蕪村の手柄はやや少いわけである。

 鶯の句には尙元祿に

 

   鶯や宮のあかりの起時分 幾 勇

 

といふのがあり、天明にも

 

   鶯のなくやきのふの今時分 樗 良

 

といふのがある。「何時分」といふ語で結ぶ句がいくつもあるのは偶然であるか、どれかの先縱に倣つたものであるか、その邊はよくわからない。

[やぶちゃん注:「樗良」三浦樗良(ちょら 享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)。名は元克。志摩国鳥羽の人。初め、貞門系の百雄に学んだが、次第に伊勢派に近づき、伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。宝暦九(一七五九)年、南紀に旅して「白頭鴉」(しらががらす)を編み、翌年には加賀へ、翌々年は、再び南紀に在って「ふたまた川」を編した。後、伊勢山田に庵を結び、門下を擁して「我庵」で自風の確立を示した。既白・闌更らと往来し、明和八(一七七一)年にも信濃から加越を巡って「石をあるじ」を編み、翌年は播磨に青蘿を訪ねた。安永二(一七七三)年からは、たびたび上洛して蕪村一派と親しく交わり、三年後には京に定住の居を得た。加越には、その後も、再三旅して俳圏を広げ、京近辺にも門人を増やし、中興諸家と交流して、その運動の一端を担って「天明俳諧」の立役者の一人となった。性格は放縦の一面、純心素朴で、句は平淡ながら、自然を深く詠みとって、微妙に香気を放つ。和歌の「あはれ」に心を寄せ,詩人風の繊細な感受性と、みずみずしい情感は、蕪村一派の共感を得た。編書は、そのほかにも多く、「樗良七書」、また『樗良七部集』が編まれている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。私の非常に好きな俳人である。]

 

   鶯や片足あげて啼て見る 桃 若

 

 スケッチである。鶯は昔から愛玩される鳥だけに、その形についてもいろいろな觀察が下されてゐるが、其角の「鶯の身を逆にはつねかな」にしろ、蕪村の「うぐひすの啼くやちひさき口明て」にしろ、梅室の「尾をそらす鶯やがて鳴きにけり」にしろ、皆これを遠く見ず、近く觀察してゐる點に注意すべきであらう。而もその動作がいづれも啼く場合のものであるのは、聲に重きを置く鳥だからである。桃若の句も鶯が片足あげてちよつと啼いて見たといふ、平凡な事柄のようでありながら、そこに一脈の生氣が動いてゐる。實際觸目の句なるが故に相違ない。

 この作者は「豐後少年」といふ肩書がついてゐる。由來少年の句といふものは、大人の影響が多いせいか、子供らしいところを失ひがちなものであるが、この句などは比較的單純率直な部類に屬する。

 

   籾ひたす池さらへけり藪の中 鶴 聲

 

 苗代に種を蒔くに先つて[やぶちゃん注:「さきだつて」。]、籾種を水に浸して置く。普通に「種浸」[やぶちゃん注:「たねひ(び)たし」。]とか「種かし」とかいふのがそれで、浸す場所によつて「種井」とも「種池」とも呼ばれてゐる。この句はその籾を浸す前に池を浚つたといふ、やや特別な趣を捉へたのである。

 藪の中にあるといふのだから、この池はさう大きなものとは思はれない。池を浚つて冬以來溜つてゐた水を一掃するのは、籾種を浸す爲に先づその水を淸からしむるのであらうと思ふ。農家の人々から見たら、あるいは平凡な事柄であるかも知れぬが、こういふ句は机上種浸の題を按じただけで拈出し[やぶちゃん注:「ひねだし」。]得るものではない。實感より得來つた、工[やぶちゃん注:「たくま」。]まざるところに妙味がある。

 

   草に來て髭をうごかす胡蝶かな 素 翠

 

 このままの句として解すべきである。「草に來て」といふ上五字に重きを置いて、花に來ないで草に來た、といふ風に解すると、理窟に墮する虞がある。この句の特色は蝶が草にとまつて髭を動かしてゐるといふ、こまかな觀察をしてゐる點にあるので、表現法の問題はともかく、古人の觀察も往々かくの如く微細な方面に亙ることを認めなければならぬ。

 其角に「すむ月や髭を立てたる蛬[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]」といふ句がある。きりぎリすは姿態の美を見るべき蟲でないから、長い髭が目につくのも當然であるが、蝶は翅の美に先づ目を惹かれるものだけに――又その髭がさう著しいものでもないだけに、これに著眼することが、いさゝか特異な觀察になるのである。尤も觀察の精疎は直に句の價値を決定する所以にはならぬから、以上の理由だけを以て、この句をすぐれたものとするわけではない。

 

   拍子木も絕て御堀の蛙かな 一 箭

 

 拍子木を打つて廻つてゐた音が聞えなくなつて、御堀の蛙がしきりに鳴立てる。句の上にはこれだけしか現れてゐないけれども、城のほとりか何かで、夜も稍〻更けた場合かと想像される。「拍子木」と云ひ「蛙」と云つただけで、その音なり聲なりを連想させるのも、馴れては誰も怪しまぬが、俳諧一流の省略的表現である。

 子規居士の「石垣や蛙も鳴かず深き濠」といふ句は、蛙が鳴くべくして鳴かぬ、閑寂たる深い濠を想像せしめるが、見方によつては夜と限らないでもよさそうな氣がする。この「御堀の蛙」が直に夜景を思ひ浮べしむるのは、上に「拍子木も絕て」の語があるからである。かういふ連想の力を除去すれば、俳句はかなり索然たるものになり了るに相違ない。

 

   打はらふ袂の砂やつくくし 源 女

 

 一見何人も婦人の句たることを肯定するであらう。女流俳句の妙味は常にこういふ趣を發揮する點にある。

 吾々は元祿のこの句に逢著する以前、明治の『春夏秋冬』に於て

 

   裏がへす袂の土や土筆 秋 竹

 

といふ句を讀んでゐた。頭に入つた順序は全く逆であるが、この「裏がへす」の句は「打はらふ」の句を換骨奪胎したものとは思はない。むしろ作者も選者も元祿にかういふ句のあることを、全然知らなかつたのではないかといふ氣がする。土筆を採つて袂に入れて歸る場合、いくらも起り得べき事實であるだけに、二百年を隔てて殆ど同一地點に掘り當てるやうなことになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「秋竹」竹村秋竹(しゅうちく 明治八(一八七五)年~大正四(一九一五)年)愛媛県生まれ。本名は修。四高在学中、金沢で正岡子規派の結社「北声会」を組織。東京帝大在学中、子規庵に出入りしたが、明治三四(一九〇一)年、子規の選句を無断で掲載した「明治俳句」を刊行して子規の怒りに触れ、一門を離れた。]

 併し正直に云ふと、甞て「裏がへす」の句を讀んだ時には、別に女性的な句だとも感じなかつた。さう考へるやうになつたのは、「打はらふ」の句を知つた後である。吾々の鑑賞とか批評とかいふことも、存外種々な先入觀念に支配されがちなものであるらしい。

 

   春雨や桐の芽作る伐木口 本 好

 

 根もとから伐つた桐の株に新な芽を吹いて來る。桐の芽立は勢のいゝものではあるが、「桐の芽作る」といふ言葉から考へると、これはまだあまり伸び立たぬ時分であらう。春雨はしづかにこの伐株の上に降る。「伐木口」とあるが爲に、その木口も鮮に浮んで來るし、そこに「芽作る」新な勢の籠つてゐることも想像される。

 桐の芽立は春の木の芽の中では遲い方である。長塚節氏の「春雨になまめきわたる庭の內に愚かなりける梧桐の木か」といふ歌は、その芽立の遲いところ、他の木におくれて猶芽吹かずにゐる有樣を詠んだのであるが、本好の句は已に芽吹かんとする趣を捉へてゐる。普通の芽立と、伐株の芽立との相違はあるにしろ、春雨の中の桐の木を描いたことは同じである。春もよほど暖になつてからの雨であることは云ふまでもない。

 

   雉子啼や茶屋より見ゆる萱の中 蓑 立

 

 野景である。今憩ひつゝある茶店から萱原が見える。その萱の中から雉子の啼く聲が聞えて來る、といふ句であるが、この茶店と萱との距離は、そう遠くないやうに思はれる。

 雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない。眼に訴へる方の雄雉子ならば、距[やぶちゃん注:「けづめ」。中・大型の鳥の後脚の後部にある突起。]で「美しき貌かく」其角のそれにしても、「木瓜の陰に貌たぐひすむ」蕪村のそれにしても、胸裏に浮べ易いに拘らず、雄子の聲になると、直に連想に訴へにくいのである。勿論これは吾々の見聞の狹い結果に過ぎぬ、柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ。束京にいても耳にする機會はいくらもあつたらしいのである。

 けれどもこの「萱の中」の句は、吾々が讀んでも雉子の聲が身に親しく感ぜられる。萱との距離が遠くなささうに思はれるのも、畢竟雉子の聲の親しさによるのであらう。その點は

   雉子啼や菜を引跡のあたりより 鞭 石

といふ句もさうである。畑に來て何かを求食り[やぶちゃん注:「もとめあさり」。]つつある雉子の聲は、前の句より更に人に近い親しさを持つてゐる。尤もこの「引跡」といふ言葉は、文字通りに現在菜を引きつつある、その近くまで雉子が來て啼くものと考へなくても差支ない。菜を引いた跡の畑に來て啼くといふことでよからうと思ふ。

 前の句は萱の中から聲が聞えるので、無論雉子の姿は見えて居らず、後の句も「あたりより」といふ漠然たる言葉によつて、やはり姿を表面に現さないでゐる。しかもこの場合、雉子の聲が毫も他のものに紛れぬ響を持つてゐるのは、實感の然らしむる所に相違ない。

[やぶちゃん注:「雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない」私は親しい。ワンダーフォーゲル部や山岳部の顧問であったから、山行でも何度も見かけたし、また、二校目に勤務した戸塚の舞岡高等学校の校門の上の斜面には、仲のいい雌雄のキジが住んでいて、毎日のように鳴き声や姿を見た。六年ほど前、千葉の夷隅地方に連れ合いと旅した際、「いすみ鉄道」のある駅(駅名失念。私は鉄ちゃんではない)で、向かいの畑地を行く雌雄の雉子を見た。いかにも長閑にともに歩き鳴いていた。この時、連れ合いは初めて野生の雉子を初めて見たのだった(私は職場結婚であったが、彼女が転任してきた私の最後の一年には、同校では雉子は見なくなっていた)。

[やぶちゃん注:『柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ』これは、柳田國男の「おがさべり――男鹿風景談――」(『東京朝日新聞』秋田版(大正七(一九一八)年六月一日附発行)が初出で、当該条は「雉の聲」の一節である。後に「雪國の春」(昭和三(一九二八)年岡書院刊)に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここが当該条で、当該部はここの左ページ一行目からの段落に当たる。短いので、同条総てを視認して電子化しておく。

   *

      雉  の  聲

 斯ういふ心持から、自分が男鹿の風景の將來の爲に、最も嬉しい印象を以て聞いて還ったのは、到る處の雉の聲であつた。雉だけは今でもまだ此半島の中に、稍多過ぎるかと思ふ程も遊んで居る。それがもう他の地方の旅では、さう普通の現象では無いのである。

 又例の餘計な漫談であるが、雉の聲で思ひ出す自分の旅の記念は、多くは無いが皆美しいものであつた。若狹の海岸は島が內陸と繫がつて、中間に潟湖を作つた點は男鹿とよく似て居る。たゞ其山が迫つて、水が小さく幾つかに區切られて居るだけである。この湖岸の林にはやはり雉が多く啼いて居た。六月始めの頃であつたが、小舟に乘つて三つ續いた湖水を縱に渡つて行くと、よく熟した枇杷の實を滿載して來る幾つかの舟とすれちがつた。紺のきものを著た娘などの乘つて居る舟もあつた。岸には高桑の畠が多かつた。此鳥の住んで居るやうな土地にはどこかにゆつたりとした寂しい春がある。

 信州の高府(タカブ)[やぶちゃん注:ルビではなく本文。]街道といふのは、犀川から支流の土尻川[やぶちゃん注:「どじりがは」。]の岸に沿うて越える山路だが、水分れの高原には靑具[やぶちゃん注:「あをく」。現在の長野県大町市美麻青具(みあさあおく:グーグル・マップ・データ)]といふ村があつて、五月の月末に桃山吹山櫻が盛りであった。それから下つて行かうとすると、眞黑な火山灰の岡を開いて、菜種の畠が一面の花であり、そこを過ぎると忽ち淺綠の唐松の林で、其上に所謂日本アルプスの雪の峰が連なつて見える。雉が此間に啼いて居たのである。山の斜面は細かな花剛岩の砂になつて居て、音も立てずに車が其上を軋つて下ると、折々は路上に出て遊ぶ雉の、急いで林の中に入つて行く羽毛の鮮やかなる後影を見たことであつた。

 斯ういふ算へる程しかない遭遇以外には、東京が却つて此鳥の聲を聞くに適して居た。春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中からいつでも雉の聲が聞こえて居た。年々繁殖して今はよほどの數になつて居る樣子である。駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉が遊んで居て啼いた。

 男鹿の北浦などは、獵區設定の計算づくのもので、多分もう農夫の苦情もぽつぽつと出て居るであらうと思ふが、何とか方法を講じて此狀態を保存させたいのは、春から夏の境の一番旅に適した季節に、斯うして雉の聲を聞きにでも行かうかといふ土地が、今では非常に少なくなつてしまつたからである。瀨戶內海の小さな島などでは、或は保存に適したものもあらうが、實はあの邊では人間が少し多過ぎて、おまけに精巧をきわめた鐵砲を持ち、一日に七十打つたの百羽捕つたのと、自慢をしたがる馬鹿な人が直ぐ遣つて來る。秋田縣の北のはづれの獵區の如きは、設定者の爲には少し氣の毒かも知れぬが、そんな金持はまだ當分は來ても少なさうである。

   *

「鞭石」福田鞭石(べんせき 慶安二(一六四九)年~享保一三(一七二八)年)は江戸前・中期の俳人。京都生まれ。富尾似船(じせん)に学んだ。編著に「磯馴松」(そなれまつ)がある。]

2023/04/15

柳田國男 「鴻の巢」

 

[やぶちゃん注:本篇は以下に示す底本の「内容細目」によれば、大正二(一九一三)年十二月発行の『鄕土硏究』第一巻第十号初出の論考である。これは、現在進行中の「續南方隨筆」の「鹿杖に就て」に必要となったため、急遽、電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「定本柳田国男集」第二十九巻(一九七〇年筑摩書房刊)のここにあるものを使用した。なお、本篇は所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」(一九九一年完結初版)には所収していない。今回は底本で見開き一ページであるから、完全に視認によるタイピングとした。

 底本ではルビが少ないが、躓き易いもの、或いは、難読と思われる箇所には推定で《 》によって歴史的仮名遣で読みを添えた。冒頭で述べた理由での電子化であるので、注は必要最小限度に留めた(つもりだが、結局、あれこれ附した)。]

 

     鴻 の 巢

 

 第八號に高木君[やぶちゃん注:民俗学者高木敏雄。]が「魔除《まよけ》の酒」の說明として引かれた仙臺地方の昔話に付いては、自分は又別の方面から深く報告者たる菅野氏[やぶちゃん注:不詳。]の勞を謝すべき埋由をもつて居る。あの話の全體の組立は所謂 Beast and Beauty [やぶちゃん注:物語や映画で知られる近世フランスで書かれた異類婚姻譚民話「美女と野獣」( La Belle et la Bête )。当該ウィキを参照されたい。]系統から別れた一つの動物報恩譚で、蟹滿寺(かいまんじ[やぶちゃん注:])の緣起以來我邦にもありふれたるものではあるが、其中心なる一節に「蛙の易者の入智惠《いれぢゑ》」で、裏の植の樹に巢を食つて居る鴻の鳥の卵を、蛇の婿に取らせに遣る。婿は蛇の形を現はして木に登り、鴻の巢に首を入れると、忽ち親鳥に其頭を啄《つつ》かれて落ちて死んだ」と云ふ條(くだり)は、あまり外では見なかつた型である。自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た。此奇拔な鳥と蛇との鬪爭(あらそひ)の話は、傅說の形を以て二三の地方に分布して居るのであるが、どうもまだ由來が判らない。手控《てびかへ》にあるだけを序《ついで》に此へ列べて置かうと思ふ。新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立鴻巢町大字鴻巢の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る。

[やぶちゃん注:「鴻」この字が現わす鳥類は、必ずしも、ここで柳田がお気軽に(自身の主張に合わない多種の鳥である話柄は都合よく完全排除して)

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

として語っているほど、そんなに単純明快なものではない(後に電子化する「續南方隨筆」の「鴻の巢」の冒頭部で、南方鳥が盛んに柳田鳥を鋭い嘴で啄(つっ)きまわしているのは極めて正当である)。例えば、江戸中期の「和漢三才図会」でさえ、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を見られば判る通り、挿絵も記載も、到底、木の上に営巣する大型のコウノトリを叙述しておらず、私は最終的にそこに記された種を一種と認めず、

カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ(菱喰) Anser fabalis serrirostris 及びオオヒシクイ Anser fabalis middendorffii

と、ヒシクイ類ではない別種の

マガン属サカツラガン(酒面雁)Anser cygnoides

に同定している。さらに言えば、「鴻」は本来、漢語にあっても、一種を指す語ではなく、広義の「大きな白い(水)鳥」の総称であったのであり、南方鳥も以上の論考の冒頭、「鶴の一声」でブチ挙げている通り、『「本草啓蒙」に、鴻は鵠と同物で、ハクチョウのこととし』てあり、本邦のコウノトリの本邦での繁殖個体群及び周年棲息する個体群が絶滅してしまった現在、「鴻」の字は、寧ろ、お馴染みの、

カモ科ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus Cygnus

を指すものとして認識されているはずである。だいたい、自然界でコウノトリを本邦で見たことがある読者は極めて少ないだろう(私はない)。しかも、古くも、木の上にとまっていた白い鳥が、イコール、コウノトリであったという認識は、お笑いに等しいもので、実際には、絶対に木の上に営巣しない白いツル類がたまたま飛翔してとまっていた場合や、木の上に営巣してその糞で木が枯れてしまう白いサギ類をも、「鴻」と呼び、その巣群を「鴻の巣」と呼称していたと考える方が自然である。但し、真正のコウノトリが、嘗つては、本邦でも明治以前には、一般に見られた時期や場所はあった。その証拠が、幕末から明治初期に成った、『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「かう」』(私の電子化注)で絵図とともに確認出来る。

「蟹滿寺(かいまんじ)の緣起」現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗普門山蟹満寺(かにまんじ)の起源縁起譚(経緯の中に毒蛇と娘の異類婚姻譚を含む)として知られる「蟹の恩返し」伝承で知られる。当該ウィキによれば、『本寺の創建年代や由緒については不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(』七『世紀末)の創建と推定されている』おあり、また、『寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」』(柳田のルビ「かんまん」はこの撥音「カン」を誤認したか、もっと致命的に芭蕉の名句で知られる秋田の象潟の蚶満寺(かんまんじ)の読みと錯誤したものかとも思う)は、『と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになった』(これが事実ならば起源譚は後付けとなる)『とする』とあって、『この伝説が』「今昔物語集」に『収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは』、『平安』『後期以前にさかのぼることがわかる』とする。ここで言う「今昔物語集」のそれは、巻第十六の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」(山城國(やましろのくに)の女人(によにん)觀音の依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六)である。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。

「蛙の易者の入智惠」こういう書き方は甚だ気に入らない。「今昔物語集」の当該話を知らない読者は、その中にそんなシークエンスがあるのかと誤認する謂いでよろしくない。これは「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の宮城県の「十宮(とみや)」伝承に現われるモチーフである。但し、そこでも「鴻」が登場しており、娘を孕ませた蛇を噛み千切って退治している(但し、蛇の子を孕んだ娘は恥じて入水自殺し、話は悲劇として終わっている)。

「自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た」思っても言わない方が良かったのでは、ありませんか? 柳田先生? 結果して倍返し型の論考が書かれて、先生がますます不愉快になっただけでしょう?

「新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立鴻巢町大字鴻巢の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る」国立国会図書館デジタルコレクションの明一七(一八八四)年内務省地理局刊のここ(「氷川社」の条)で視認出来る。この「今の北足立鴻巢町大字鴻巢」「鎭守氷川社一名鴻の宮」は現在の埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻(こう)神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、「コウノトリ伝説」として、『昔、「樹の神」と言われる大樹があり、人々は「樹の神」の難を逃れるためにお供え物をして祭っていた。これを怠ると必ず祟りが起こり人々は恐れ慄いていた。ある時、一羽のコウノトリが飛来して、この木の枝に巣を作り』、『卵を産み育て始めた。すると大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。これに対し』、『コウノトリは果敢に挑み』、『これを撃退させた。 それから後は「樹の神」が害を成す事は無くなったという。人々は木の傍に社を建て「鴻巣明神」と呼ぶようになり、土地の名も鴻巣と呼ぶようになったと伝えられている。』とはあるが、出典は示されていない。「羅山文集」は江戸初期の朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の「羅山林先生文集」。]

「傳說す、昔大樹あり、樹神と稱す、民《たみ》飮食を以て之を祀る。しかせざれば則ち人を害す、一旦鵠《こく》來つて枝上に巢(すく)ふ、巨蛇其卵を吞まんと欲す。啄《つひば》みて之を殺す、是より神《かみ》人を害せず、是に於てか鵠が害を除き益あるを以ての故に鵠巢《かうのす》と砂一し、逢に此に名づけて地號とす云々。」鵠の字を用ゐたのは道春《だうしゆん》先生[やぶちゃん注:林羅山の後の別号。]の考へからで、實際は始《はじめ》から鴻巢と書いて居た。今の社傳も同樣で、行囊抄《かうなうしやう》にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にあるから、念のため其内に彼《かの》書を見ようと思ふ。此話だけでは蛇又は鴻と今の社との關係はまだ不明であるが、次の備前の話を見ると、此戰鬪は卽ち神社の爭奪であつたことが知れる。備陽記(享保六年自序あり)卷六に曰く、「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。昔の氏神は正體大蛇なりしが、鴻常に此宮山に巢を掛け寶殿も鳥の糞に穢《けが》し、其上氏子の參詣も鴻の巢あるときは、恐れて怠りぬ。氏子共歎きて神に祈りけるは、如何にして氏神鳥類に惱されたまふぞや(中略)神力正にあらば忽ち鴻を亡《ほろぼ》したまふべしと申しけれぱ、其夜氏子共が夢に神現れ出でゝ、汝等祈る所至極せり、然らぱ明日辰の一天[やぶちゃん注:「一點」で午前七時から七時半であろう。]に鴻を退治すべし、汝等出でゝ見よとあらたかに告げたまふ。氏子も奇異の思を爲し殘らず神前に蹲踞して心を澄ます所に寳殿震動して大蛇一つ現れ出で、鴻の巢掛けたる大木に登り互に暫し戰ふ所に、鴻ども多く來りて終《つひ》に一蛇を突殺《つきころ》しぬ。夫《それ》よりして鴻の宮と謂ふと所の老翁共語る。此段不審なれども書き記し置かざれば此說を知らざるかと言はれんこと恥かし」とある。近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある。下總の三《さん》の社《やしろ》と云ふ宮にて、社の木に鴻棲み、蛇や石龜を食ひ散し、此地を穢《けが》す。氏子之を見て次第に神威を疑はんとするするとき、神託あり日を期して鴻を治罰せんと云ふ。共日の巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]となり、白蛇あり舌を閃《ひらめ》かして其木に登る。雌雄の鴻之を見て急ぎ蛇を捕へ、骨のみ殘して食ひ盡す。それより其鴻を神に祀り鴻の巢と呼ぶ(以上)。靈鳥が蛇を滅《ほろぼ》したと云ふだけの話ならばさして珍しくは無い。白井眞澄の紀行齶田濃刈寢(あきたのかりね)、羽後飽海《あくみ》郡遊佐鄕永泉寺の條に、昔鳥海山に手長足長《てながあしなが》と云ふ毒蛇住み往來の人を害す。諸天萬神之を憫《あはれ》みたまひ、梢に怪しの鳥を棲ませて、毒蛇居れぱ有哉(うや)と鳴き、在らぬときほ無哉(むや)と鳴かしむ。故に其地を有哉無哉關《うやむやのせき》と云ふとある。但し此話には寺臭《じしう》がある。通例手長足長は害敵の名に用ゐられぬ。多くの社の末社に手長明神あり、二體あるときに手長足長の神といふ。それは仲居卽ち侍者の義かと思ふ。此話なども元の形ではやはり鳥の方が毒鳥であつたのではなからうか。兎に角に三つの鴻の宮の口碑が共通に神の敗北の記事を傳へて居るのは妙では無いか。氏子が元の氏神を見限つて新《あらた》なる優勝者を迎へたと云ふ點は、通例の毒龍譚と一括しては說きにくい。何か幽玄なる意味のある話であらうと信じ、些《いささか》でも考へ附いたことがあつたら又報告したいと思ふ。

[やぶちゃん注:「行囊抄にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にある」「風土記」は「新編武藏國風土記稿卷之百四十八 足立郡之十四」の「鴻巢領」の右下段の「神社」の冒頭の「氷川社」の条(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部)。「行囊抄」は江間氏親の著になる地誌紀行のそれか。元禄九(一六九六)自序。

『備陽記(享保六年』(一七二一年)『自序あり)卷六に曰く、「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。……』国立国会図書館デジタルコレクションの「備陽記 本編」(石丸定良編・一九六五年日本文教出版刊・手書本の写真版であるが、問題なく読める)のここ(右上段から下段にかけてある「一 八幡宮」が当該部)。「「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮」は現在の岡山県倉敷市児島下の町(しものちょう)にある鴻(こう)八幡宮(グーグル・マップ・データ)。

「近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある」偶々、最近、電子化注した「大和怪異記 卷之四 第二 下総国鵠巣の事」がそれで、底本は原伝本に従った活字版底本であるから、是非、参照されたい。

「三の社」後身と思われる埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻神社(こうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)の公式サイト内のこちらに、『鴻神社は明治』六(一八七三)『年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりました』とある。

「白井眞澄の紀行齶田濃刈寢(あきたのかりね)、羽後飽海《あくみ》郡遊佐鄕永泉寺の條に」白井眞澄は江戸後期の本草学者にして希代の旅行紀行家として知られる菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本名。彼は天明四(一七八四)年九月十日に出羽国(現在の山形県及び秋田県)に入り、日記紀行文「齶田濃刈寢」を記し始めた。以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書 別集』第四(昭和七(一九三二)年秋田叢書刊行会刊)の「菅江真澄集」第四のこちらの「うやむやの關」で視認出来る。

「有哉無哉關」「有耶無耶の關」は山形・宮城両県境の笹谷峠にあったとされる関所。「むやむやの関」「もやもやの関」などとも呼ばれ、古くより歌枕となっているが、位置は定かではない。個人サイトの中の「奥の細道をゆく」の「有耶無耶の関」で候補地が考証されてあるので見られたい。一応、山形県と秋田県の県境にある三崎峠付近が「有耶無耶関趾」(グーグル・マップ・データ)の比定地として存在しはする。私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花」の注の、「曾良随行日記」の象潟到着の前日の六月十六日(グレゴリオ暦では一六八九年八月一日)の条に、

   *

○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿(めが)。是ヨリ難所。馬足不ㇾ通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不ㇾ入手形。塩越迄三リ。半途ニ關と云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ關成ト云。此間、雨强ク甚濡。船小ヤ入テ休。

   *

と出る。]

2023/04/14

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鹿杖に就て

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では標題次行の丸括弧附記(そちらではずっと下方)の右手に『柳田國男「鉢叩きとその杖」参照』と添えてある。これは、同誌前号に柳田が発表したその論考に対する、南方熊楠の見解の主張である。この柳田の論考は、幸いにして、「ちくま文庫」版全集に載り、正字正仮名版も国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来ることから、昨日、急遽、先行して当該論考「柳田國男 鉢叩きと其杖」を電子注をしておいた。まずは、そちらから見られたい。但し、かなり旧被差別民への配慮のない言及があり、問題の箇所もあるので、心して読まれたい。

 なお、標題の「鹿杖」は「かせづゑ」と読み、突く方の先が二股になった杖、また、上端をT字形にした杖で、「 撞木杖(しゅもくづえ)」を、また、僧侶などが持つ、頭部に鹿の角を附けた杖を言う。]

 

     鹿 杖 に 就 て (大正三年十月『鄕土硏究』第二卷第八號)

         (『鄕土硏究』第二卷第七號四〇三頁以下)

 「嬉遊笑覽」卷二中に、『「和名抄」に『唐韻云𣈡橫首杖也(漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖)」』。斯かれば、今、俗、「撞木杖(しゆもくづゑ)」と云物也』。

[やぶちゃん注:『「嬉遊笑覽」卷二中』国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻二の「器用」パートの「杖」にあり、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の上巻(正字)(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)の左ページ後ろから五行目からに出る。但し、ここは、引用が入れ子構造で、甚だ読み難いから、ここは特別に、以下に分離して訓読して示す。

   *

『唐韻云𣈡橫首杖也(漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖)」』

〔「唐韻」に云はく、『「𣈡」は橫首杖(よこくびづゑ)なり。』と。〕

[やぶちゃん注:以下、源順による割注。]

〔(「漢語抄」に云はく、『「𣈡」は「加世都惠(かせづゑ)」、一(いつ)に云はく、「鹿杖(かせづゑ)」と。』と。〕。

   *

なお、この「𣈡」の現行の音は「テイ」或いは「ダイ」だが、「倭名類聚抄(鈔)」の国立国会図書館デジタルコレクションの版本の当該部を見ると、南方も柳田も省略してしまった割注の最初の反切指示部分に『他禮反』とあることから、この場合は「タイ」と音を示していることになる。因みに、「𣈡」は古くから「歩行する際の補助杖」を指す語である。]

 熊楠按ずるに、「大和本草」にシユモクザメを『カセブカ』と記し、「形、經(たていと)・緯(よこいと)を卷く所の『カセ』と云《いふ》器《き》に似たり。」とある。

[やぶちゃん注:「大和本草」の記載は二箇所あり、私のブログの電子化注では、まず、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○カセブカ其首橫ニヒロシ甚大ナルアリ』と出、また、「大和本草諸品圖下 鮪(シビ)・江豚(イルカ)・スヂガレイ・カセブカ (マグロ類・イルカ類・セトウシノシタ・シュモクザメ)」にバッチリ絵入りで、キャプションに『カセブカ』として、『其ノ橫ハ縱(タテ)ニ比スレハ少シ短シ橫ノ兩端ニ目アリ』。『是フカノ類』『味亦同』『形狀甚異ナリ』『其形狀婦女ノ布ノ經緯ヲ卷トコロノカセト云器ニ似タリ』と出ている。「カセブカ」はメジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名で、本邦産種は(シュモクザメという標準和名種は存在しない)、

シロシュモクザメ Sphyrna zygaena

ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran

アカシュモクザメ Sphyrna lewini

の三種である。因みに、「かせぶか」の漢字表記は「挊鱶」で、「桛(かせ)」とは、紡(つむ)いだ糸を巻き取るH型やX型の器具で、頭部の形状をそれに見立てたもので、以上のキャプションが言っているのも、そのことである。]

 「本草啓蒙」には『撞木の如くカセヅエの頭に似たり』と見ゆ。紀州にて、「かせ糸」・「かせ繰《く》り」・「かせ屋」など云ふたのは、件《くだん》の糸を卷く器に基ける名か。

[やぶちゃん注:「本草啓蒙」では、巻是四十]の「鱗之四」の「鮫魚」(サメ類)の項に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の版本の当該部を視認して電子化する。【 】は二行割注。

   *

帽鯊【閩書】一名雙髻鯊 雙髻紅【共同上】 了[やぶちゃん注:底本では同字の異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、正字で出した。]髻鯊【寧波府志】バカセブカ【大和本草】一名シユモクザメ シユモクブカ 子[やぶちゃん注:「ネ」。]ンブツブカ【肥前】〉ハラヒザメ【大坂】 カイメウ【豐前】 ソノ首横ニ廣ク兩端ニ眼アリテ撞木(シユモク)ノ形ノ如ク、横首杖(カセヅエ[やぶちゃん注:三字へのルビ。])ノ頭ニ似タリ大和本草ニ形經緯ヲ卷トコロノカセト云器ニ似リト云フ

   *

とある。]

 「笑覽」に又「鹿杖に誠の鹿角を杖の頭に附けたる者、古畫に見ゆるは、空也の徒なるべし。」と言ひて、別に言《いは》く、『「平家物語」に、老僧かせ杖の二叉(ふたまた)なるにすがつて、と有るなど、古畫にて見れば、二股の方《かた》を地に突きたり。橫首(わうしゆ)と云《いふ》には背《そむ》けるにや。』と。

[やぶちゃん注:前掲当該部を参照(左ページ後ろから四行目から)。]

 因《よつ》て考ふるに、支那の仙人の侍童などが、頭の歪んだ杖に主公の瓢簞や經卷を掛けて步く圖で見る如く、橦木形なり鹿角頭(しかづのかしら)なり、上端に物を懸けて運び得る杖を、すべて、「かせ杖」と呼んだのだらう。姚秦《たうしん》[やぶちゃん注:中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年)の別称。]の頃、譯されたらしい「毘尼母論《びにもろん》」卷四に、佛制、不ㇾ聽捉ㇾ杖人說法、杖頭若鐵若鹿角、皆應ㇾ著也、何以故、恐杖盡故。〔佛の制(おきて)に、杖を捉(とら)ふる人の、爲(ため)に說法するを、聽(ゆる)さず。杖の頭(かしら)には、若(も)しくは鐵、若しくは鹿の角を、皆、著(つ)くべし。何を以つての故に。杖の盡(つ)くるを恐るるが故なり。〕されば、佛の本規には、說法師の持つ杖は、磨耗(すりへ)らぬ爲に、鐵や鹿角を頭に附ける事としたのだ。

[やぶちゃん注:「毘尼母論」は「毘尼母經」と同じであろうと思い、「維基文庫」で当該の巻五の電子化中に、同じ文脈が出るので、それで校合した。熊楠の引用は誤りがあり、意味が通ぜず、おかしいので、本文及び返り点も私が半可通乍ら、推定で補填した。御叱正を俟つ。]

 鹿は、佛、出世前から、梵敎に緣厚く、「毘奈耶雜事」二八、「大藥」の傳に、婆羅門、鹿皮《しかかは》を著る。「毘奈耶破僧事」九に、摩納婆《マーナヴァカ》、鹿皮に臥す。北凉譯「菩薩投身餓虎起塔經」に、於ㇾ是栴檀摩太子、披鹿皮衣住山中、從ㇾ師學ㇾ道〔是(ここ)に於いて栴檀摩提太子《せんだんまだいたいし》は、鹿皮の衣を被(き)、山中に留(とど)まり住みて、師に從ひて道を學ぶ。〕など、例が多い。惟《おも》ふに此樣《かやう》な事どもが内典に多くあるを幸ひと、阿彌陀聖や空也の徒が、殺生を事とする下等民に敎《をしへ》を宣《のぶ》る爲、鹿角杖や鹿皮を用ひ、後には平定盛に殺された鹿皮を裘《かはごろも》とし、鹿角を杖としたまふ、などの傳說を作出《つくりだ》したんだろ。

[やぶちゃん注:『北凉譯「菩薩投身餓虎起塔經」』は「大蔵経データベース」では見当たらなかったので、そこにあった同経の法盛訳の「佛說菩薩投身飴餓虎起塔因緣經」にほぼ同文の文句があったので参看した。]

 但し、定盛が鹿を殺して悔いた餘り、入道したちう譚も、其前に、類話なきに非ず。梁の慧皎の「高僧傳」十二に、釋法宗は、臨海の人、少《わかき》にして、遊獵を好む。嘗て剡ん《えん》に於いて孕鹿《はらみじか》を射て、墮胎せしむ。母鹿(はゝしか)、箭(や)を銜《ふく》み、猶、地に就いて子を舐(ねぶ)る。宗、乃《すなは》ち、悔悟し、貪生愛子〔生(しやう)を貪りて、子を愛す〕は、是れ、有識《うしき》の同じくする所たるを知つて出家す、とある。〔(增)(大正十五年九月記) 江西省九江府の靖居山は、昔し、姓、傅《ふ》なる者、こゝで、鹿を射しに、墮胎して死す。其人。遂に、弓矢を折り、修道せり。因て名づく(「大淸一統志」一九四)。)

追 記 (大正六年一月『鄕土硏究』第四卷第十號)芳賀博士の「攷證今昔物語集」卷十九に、藤原保昌、每度、鹿を狩る。其郞黨、最も鹿射る技に長ぜる者の夢に、亡き母、現《あらは》れ、「我《われ》、惡業の故に鹿と成れり。明日の狩に、大《おほい》なる女鹿《めじか》に逢はば、汝の母と知つて、射ること、勿れ。」と言うた。寤《めざ》めて後、此事、氣にかかり、「明日は不參。」と申し込むと、保昌、大いに怒り、「汝、參らずば、首を刎ねる。」と叱られ、詮方無く、狩に出で、大きな女鹿に逢ふと、忽ち、夢の告げを忘れて、之を射る。鹿、射られて、見返つた貌《かほ》を見ると、我母の通りで、「痛や。」と言つた。忽ち、夢のことを憶ひ出し、其場で、髮、切つて、法師と成り、山寺に入つて、貴《たふと》き聖人と成つたと云ふ話が有つて、類話として、支那の惠原《けいげん》云々、少以弓弩爲ㇾ業、至武陵山、射一孕鹿、將ㇾ死能言曰、吾先身只殺ㇾ汝、汝今遂併殺害我母子、既是緣對、應爲ㇾ汝死、復向言曰、吾尋當成佛也、汝可ㇾ行ㇾ善、生生代代勿復結ㇾ冤、惠原卽悟前緣、遂落髮於鹿死之處、而置迦藍、名耆闍窟山寺。〔少(わか)くして、弓弩を以つて業(なりはひ)と爲す。武陵山に至りて、一(いつ)の孕み鹿を射る。將に死なむとするに、言(げん)を能くして曰はく、「吾、先身(せんしん)は、只、汝を殺せるのみ。汝、今、遂に、併(あは)せ殺して、我が母と子を、害す。既にして是れ、緣(えん)の對(つい)なれば、應(まさ)に汝の爲めに死すべし。」と。復(ま)た、向かひて言ひて曰はく、「吾れ、尋(つ)いで、當(まさ)に成佛せんとす。汝、善を行なふべし。生生代代(せいせいだいだい)、復た、寃(うらみ)を結ぶこと勿れ。」と。惠原、卽ち、前緣を悟り、遂に落髮し、鹿の死せる處に、伽藍を置き、「耆闍窟山寺(きじやくつさんじ)」と名づく。〕と、「朗州圖經」に見えたる由、「太平廣記」卷百一から引いて載せて居る。保昌は、空也よりは後の人だが、この「今昔物語集」の話は、或は、定盛が空也に敎化《きやうげ》せられたと云ふ譚よりも前に生じたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:『「攷證今昔物語集」卷十九に、藤原保昌、每度、鹿を狩る。其郞黨、……』これは「今昔物語集」巻第十九の「丹後守(たんごのかみ)保昌(やすまさの)朝臣(あそん)郞等(らうどう)、母の、鹿と成りたるを射て、出家せる語(こと)第七(しち)」(丹後守保昌朝臣郞等射母成鹿出家語第七)で、熊楠の言う、その原本当該部は「攷證今昔物語集  中」芳賀矢一編に成る大正三(一九一四)念富山房刊のここだが、非常に読み難い。新字であるが、「やたがらすナビ」のこちらで、まさに本書を訓読した電子化したものがあるので、そちらを参照されつつ、比較されたい。

『「太平廣記」卷百一』の「朗州圖經」の引用は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたものと校合し、本文の一部を訂し、返り点も不全箇所があったので、手を加えた。

「保昌は、空也よりは後の人」藤原保昌(天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)は「道長四天王」と称され、道長の薦めもあり、和泉式部と結婚していることで知られる。空也上人は延喜三(九〇三)年生まれで、天禄三(九七二)年に没している。「後の人」とは言うものの、保昌数え十五の時に空也は亡くなっている。]

2023/04/13

柳田國男 鉢叩きと其杖

 

[やぶちゃん注:本篇は以下に示す底本の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年九月発行の『鄕土硏究』初出の論考である。連載論考の一つ(そのため、文中で既に掲載した記事や、これからの内容を予告したりするので注意が必要。それは、原則、一々注記しない。悪しからず)で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。これは、現在進行中の「續南方隨筆」の「鹿杖に就て」に必要となったため、急遽、電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)を視認した(ここから)。但し、加工データとして、所持する「ちくま文庫」版全集の第十一巻の「毛坊主考」に収録されたものを使用した。

 底本ではルビが少ないが、躓き易いもの、或いは、難読と思われる箇所には推定で《 》によって歴史的仮名遣で読みを添えた。一部は「ちくま文庫」版を参考にした。冒頭で述べた理由での電子化であるので、注は必要最小限度に留めた。また、一段落がだらだらと長いので、文中にも注を挟んだ。

 また、本篇は旧時代(実際には、近代にも残り、今も隠然としてある)の差別民への柳田國男自身の差別意識(注で明確に示した)や、現在は使われていない差別用語や古い情報が多量に出現する。その辺りは心して批判的に読まれたい。それに関わって、一部の地名の現在位置は敢えて注しなかった箇所があることをお断りしておく。

 

       鉢 叩 き と 其 杖

 

 關東の鉦打に對立して京以西の國々には鉢叩と云ふ部落がある。二者は單に名稱が似通うて居るのみでなく、其成立と生活狀態とに於て亦著しい類似を示し、元は一つの日知《ひじり》階級が右にも往けば左にも分れたのでは無いかと想像せしむる理由がある。ゆえに此次はその鉢叩を細敍するのが順序である。さて鉢叩と云ふ名稱は、鉦打《かねたたき》が鉦を打つから其名を得たのと同じく、鉢を叩いたが故に鉢叩だと云ふのが普通の說ではあるが、少なくも中古以來の鉢叩の叩くものは、鉢では無くて瓢《ひさご》であつた。從つて其ハチと云ふ語が不明になる爲に、色々珍しい傳說も現はれた。之に就いての意見は追つて述べて見ようと思ふ。第二の肝要なる點は、鉦打は時宗遊行上人の門徒であるに對して、鉢叩は今日までも引續いて空也上人の流れを汲む天台宗の一派であつたことである。鉦と瓢と二種の樂器の差別も、或は二派の念佛式の相異に基づくもので無いかと思ふが、それは自分のいまだ詳かにせざる所である。空也派では每年十一月十三日を以て祖師の忌日とし、其日より四十八日間卽ち除夜の晚まで、その派に屬する例の道心者が、瓢簞を叩き髙聲に念佛して每夜洛中洛外を隈なく𢌞る。之を鉢叩と稱し俳諧の冬季の一名物であつたから、京都の人で無くともよく知つて居る。但しそれが大槻如電翁などのやうな素人の思附《おもひつき》では無かつたことを、此《これ》から述べんとするのである。

[やぶちゃん注:「大槻如電(じょでん/にょでん 弘化二(一八四五)年~昭和六(一九三一)年)は学者・著述家。本名は清修(せいしゅう)。如電は号。仙台藩士大槻磐溪の長男で、弟は、かの辞書として知られる「言海」の著者大槻文彦である。彼の研究対象は歴史・地理・音楽・服飾等、非常に多岐に亙っている。詳しくは、当該ウィキを見られたい。柳田が「思附」きと批判する原拠は不明。]

 京の鉢叩の居住地は四條坊門油小路(下京區龜屋町)の極樂院光勝寺、一名を空也堂と云ふ寺の地内であつた。其寺の住僧は十八家の鉢叩の一﨟(いちあい)卽ち最年長者であつて、此人のみは頭に毛が無く法衣《はふえ》を着た眞《まこと》の和尙で、代々法名の一字に空の字を用ゐて居た。其他の鉢叩は悉く有髮妻帶《うはつさいたい》で法衣の上ばかりと見ゆるようなものを着て居たが、それも元祿以後のことであつて、昔は皆鷹羽の紋を附けた素袍《すあを》の上ばかりを着ており、常は茶筅《ちやせん》を賣つて生計を立てゝ居たと云ふ(祠曹雜識十五、閑田耕筆二、佛敎辭典)。此徒自ら稱する所に依れば、彼等が祖先は平定盛《たひらのさだもり》と云ふ者であつた。獵をもつて常の業とし後世《ごぜ》の念もなかつたのを、空也の敎化《きやうげ》に由つて發心入道し、法名を眞盛《しんせい》と呼び私宅を捨入《しやにふ》して此寺を建てたとある。此緣起はどうも單純な作言《つくりごと》で無いやうだから些しく之を分析して見たい。先づ第一に寺の開基を獵人《かりうど》の歸依とすることは非常に多くある型である(鄕土硏究二卷一九頁參照)。此が京都の眞中である故にちと珍しく聞えるが、山々の伽藍の地は多くは以前の地主から其地を乞はねばならぬので、髙僧傳道の事績は必ず山人と交涉があつた。つまり髙野山の丹生明神(にふみやうじん)、三井寺の新羅明神(しんらみやうじん)乃至は羽前《うぜん》山寺《やまでら》の磐司(ばんじ)磐三郞(ばんざぶらう)などの話を世話に碎いた一條の物語である。第二には定盛が鹿を射て發心したと云ふこと、是は後に說かうとする鹿裏(かはごろも)鹿杖(かせづゑ)の由來を說明せんとするものらしい。第三には平定盛と云ふ名である。是は諸國の空也派の口碑に天慶の亂のこと及び將門の遺族とか亡靈とかの話を折々伴つて居るのを考へると、定の字は違うが最初は平貞盛を意味して居たらしい。空也の傳記に比べて年代は合ふ。唯《ただ》何分にも平家の總領が鹿を獵して生活する野人であつてはをかしいから(さう言へば獵人が京都の中央に住んだのもをかしいが)、誰かそつと別人にして置いたのであらう。法名を眞盛と云つたなどが殊にその想像を强くする。而して[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では以下総て「しかうして」と読んでいるが、私はこの読みが甚だ嫌いで、「しかして」と読むのを常としている。従って振らずにおく。]何の爲に貞盛を引合《ひきあひ》に出したかと言へば、前にもちょつと申したごとく(鄕土硏究二卷二二六頁)、戰亂の後に於て御靈《ごりやう》の憤怨《ふんゑん》を慰めねばならぬ必要を最も多く感じた人は、征討軍の中でも將門の當《たう》の敵たる貞盛であるべく、空也の念佛は又苑目的を達するに最有效の方法であつたから、緣起としてこの二つを結合させたので、決して空想の小說では無いのである。

[やぶちゃん注:「平貞盛」天慶二(九三九)年に発生した「新皇将門の乱」を母方の叔父藤原秀郷とともに平定(翌年)した人物。]

 鉢叩は勿論京都以外の地方にも住んで居た。今其二三の例を言へば、近江栗太《くりもと》郡下田上《しもたなかみ》村大字黑津《くろづ》[やぶちゃん注:現在の滋賀県大津市黒津(グーグル・マップ・データ)。以下、無指示は同じ。]にはナツハイ堂の址と云ふ處があつた。空也の流れを汲む鉢叩と云ふ者、每年七月此處に來て瓢を叩き鉦を鳴《なら》して踊念佛をしたと傳ふ。件《くだん》の鉢叩の子孫は享保年間までは相續して居つたが、後は只此堂の跡と云ふ地に石佛二體があるのみ云々(栗太誌十九)。ナツハイ堂は夏祓堂(なつはらひだう)であらうとのことである。同國東淺井《あざゐ》郡小谷《おたに》村大字別所[やぶちゃん注:現在の滋賀県長浜市湖北町(こほくちょう)別所附近。]の枝《ゑだ》鄕大洞《おほほら》と云ふ地には、ずつと後年まで鉢叩と云ふ者が村の南方に離れて住んで居た。空也上人の流れを汲む者だと云ふ(淡海木間攫《あふみこまざらへ》十)。世俗に所謂唱門師《しよもじ》と云ふは此かとの說がある。筑後三瀦(みつま)郡江上村大字江上[やぶちゃん注:現在の福岡県久留米市城島町(じょうじままち)江上(えがみ)附近。]には、少なくも二百年前迄、歌舞妓傀儡《くぐつ》及び踊念佛を業とし俗に鉢叩と呼ばるゝ者が十戶ばかり住んで居た。嘉祝弔祭の家に行き、吉事には舞童俳優を專らとし人をして頤(おとがひ)を解《と》かしめ、凶事には念佛褊綴(へんてつ)[やぶちゃん注:「褊裰」とも書く。法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを折衷して、十徳のように製した衣。主に空也宗の鉢叩の法衣であったが、江戸時代には羽織として医師や俗人の剃髪者などが着用した。「へんてつ」とも読むが、慣用読み。グーグル画像検索「褊綴」をリンクさせておく。]を專らとして人をして感を起さしむ、其體《てい》凡俗にして或時は衣冠(!)を帶して鄕士に形容し、或時は編綴を着け僧侶に準擬《じゆんぎ》す。故に其居處を名づけて寺家《じけ》と謂ひ、世俗呼びて鉢叩又は念佛坊と謂ふ。其先を問へば傳へ云ふ空也上人の流れを汲む者と云々とある(筑後地鑑《ちくごちかがみ》上)。鉢叩が所謂河原者《かはらもの》と似たやうな業體をするのは妙であるが外にも例がある。つまり念佛を賴む人が少なくなり茶筅の需要も多くない結果の據無《よんどころな》しであらう。筑前では今の糸島《いとしま》郡前原(まへばる)町大字泊[やぶちゃん注:現在の福岡県糸島市泊(とまり)。]の大日堂[やぶちゃん注:同地区には現存しない模様だが、近くの南東のこちらに、三つの「大日堂」を確認出来る。また、サイト「お寺めぐりの友」のこちらに、泊のここにある曹洞宗の歓喜山桂木寺(けいぼくじ)について、『本堂に向かって右手奥に大日堂がある。 安置されている大日如来は』、『元は大祖山大日寺の本尊』であって、『大日寺は同じ泊村にあったが』、『明治・大正期も近隣住民不在の為、大正』一三(一九二四)年九『月にここに移された』とあって、さらに、「糸島郡誌」に『よれば、大日寺は元は』糸島市志摩芥屋(しまけや)『の大祖神社』(たいそじんじゃ:ここ)『の神宮寺であったようである』が、『建治年中』(一二七五年~一二七七年)に『大日寺は』この『泊村に移された』とする(大日如来の写真有り)。さらに驚くべきことに『桂木寺の門前の道を東に』二百メートル『程進むと、民家風の建物の扉に「高野山真言宗 太祖山大日寺」と表記された看板が掲げられている。ここが、芥屋から移転してきた大日寺の跡と思われる』とあった。調べてみてよかった(但し、この辺りだが、ストリートビューで見る限り、現在は民家自体が見当たらない)。]の傍に又數十人の鉢叩が住んで居た。此大日堂は以前の大祖山大日寺の址で、天慶四年[やぶちゃん注:九四一年。]空也上人の創立する所と稱し、本尊は志摩(しま)郡[やぶちゃん注:筑前国(福岡県)のそれ。旧郡域は当該ウィキを参照されたい。]五佛の一つで名譽の大日である。大日堂の境内に住むからか鉢叩のことをも後には人が大日と呼んだ。最初は專ら九品《くほん》の念佛を修じたのであつたが、次第に歌舞を業として四方に遊行し、淫靡の音樂をもつて俗を悅ばしめて口を糊《のり》すやうになつた。又傀儡の舞をなさしむとあるのは人形を使つたことであらう。霜月十三日をもつて空也の祭を營んだと云ふ(太宰管内志引、貝原翁[やぶちゃん注:貝原益軒。]說)。筑前の中には博多聖福寺の附近に住する寺中《じちゆう》と云ふ部落[やぶちゃん注:ママ。「博多聖福寺の附近」、「寺中と云ふ部落に住する」ではないか。現在の福岡市博多区御供所町(ごくしょまち)のこの臨済宗聖福寺附近。同寺自体は建久六(一一九五)年に本邦の臨済宗の開祖栄西が宋より帰国後に建立したもの。]、蘆屋植木[やぶちゃん注:「蘆屋」は遠賀郡芦屋町(あしやまち)、「植木」は旧鞍手(くらて)郡植木、現在の直方(のおがた)市植木。この二地区は江戸時代から芝居が盛んに上演されたことが知られている。則ち、以上の集落は一種の役者村を形成していたのである。]の念佛と名づくる人民など皆此類であつたと云ふ。蘆屋念佛が空也の徒であつたか否かはまだ知らぬが、此《これ》も亦昔は九品念佛を專らとした者が、後には歌舞の藝を諸國に鬻(ひさ)ぎて妻子を養ふやうになつたのである。而して芦屋に於てもやはり寺中町などゝ、此徒を呼んだと云ふのを考へると(太宰管内志)、博多の寺中及び筑後江上の寺家などゝ共に、何れも大寺の庇護の下に生息して居たこと恰《あたか》も東國に於て院内(ゐんない)と稱する一種の陰陽師《おんみゃうじ》が常に寺の世話を受けて終《つひ》に院内と云ふ名稱を得たのと同じでは無かつたかと思ふ。[やぶちゃん注:「院内」東日本に於いて民間陰陽師の村を称した。前の役者(彼らは「河原乞食」の蔑称でも呼ばれた)たちの多く住んだ村と同じく、しばしば非差別民とされていたことは注意しておくことが必要である。柳田は記載に際して、そうした注意を全くと言っていいほど払っていない。戦中以前の本邦の官学系民俗学者にありがちな痛い汚点と言える。というか、柳田國男は、実は、江戸以前の賤民を別な民族と考えていた確信犯の差別主義者だったのである。サイト「本の話」の角岡伸彦氏の「ケッタイな問題と私」(角岡伸彦著「はじめての部落問題」のレビュー記事)に、『柳田国男は「恐クハ牧畜ヲ常習トセル別ノ民族ナルベシ」と論じ』たとある。また、以下、すぐ後に名が出る竹葉寅一郎は慈善活動家で部落解放運動に寄与あった人物であるが、その彼が、『「えたの女が生殖器の構造異なれり」と身体構造の違いを指摘した』とある。

 又ハチと呼ぶ部落がある。事によると右の鉢叩と同類であるかも知れぬ。ハチの分布に就いては自分は殊に詳しく無いが、紀州熊野でハチ又はハチソボと云ふ階級はシクの下エタの上に置かれて居て其婦人は或は口寄巫《くちよせみこ》を業としている(鄕土硏究一卷二五三頁)。伊賀では鹽房(をんばう)(隱坊)[やぶちゃん注:古く、火葬や墓所の番人を業とした人。江戸時代、賤民の取り扱いをされ、差別された。原義は、本来、寺の下級僧が行っていたことから「御坊」であったものが卑称として転じたものと考えられる。]のことをハチと云ひ土師(はじ)と書いたものもあつた(賤者考《せんじやかう》[やぶちゃん注:紀州徳川家に仕えた国学者本居内遠(もとおりうちとお)の制度考証書。弘化四(一八四七)年成立。江戸時代に置ける被差別身分の由来を凡そ五十二項目に亙って考証したもの。その起源を古代の律令制に求める一方、同時代の被差別民の区分を細かく記し、特に芸能民の資料が詳しい。但し、その歴史的起源については誤りが多く、古代を是とする国学思想の偏見から、結局のところ、差別する立場を取っているのが惜しまれる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)]。穢多《ゑた》ではあるが昔は僧形であつたと云ふ(竹葉寅一郞氏報告)。この點はまだ些しく疑はしい。文化四年[やぶちゃん注:一八〇七年。]松平大隅守家來より寺社奉行へ出したる書上によれば、其領分丹後國にも鉢と稱する者が居た。竹細工をもつて渡世とし、村竝《むらならび》には住居すれども家居を混雜せず、百姓町人と緣組はせざれども穢多非人の類には非ずとある(祠曹雜識《しさうざつしき》四十)。この竹細工云々の記事から考へるとハチはどうやらハチヤ又はチヤセンと稱する部落と同じ者らしい。鉢屋ならば山陰の諸國に澤山居た。前に引用した賤者考の中にも、「出雲にては番太《ばんた》をハチヤと謂ふよし、彼國より留學に來れる者言へり」とある。伯耆志を見ると村々の雜戶《ざつこ》に鉢屋甚だ多く、屠兒《とじ》[やぶちゃん注:中・近世、家畜などの獣類を屠殺することを業とした人を指す卑称。]とは別にして揭げてある。米子《よなご》に久しく居られた沼田賴輔[やぶちゃん注:「よりすけ/らいすけ」。紋章学者・歴史学者。神奈川生まれ。]氏は、伯州のハチヤは關東の番太に似た者で穢多ではないと言はれたが、勿論番太專業では此だけの人口は食へぬから他の職も色々あつたらう。因幡岩美郡中ノ鄕村の鉢屋などは石切細工が生業であつた(因幡民談三。三浦周行《ひろゆき》[やぶちゃん注:歴史学者。]氏は出雲の人であるが、その鄕里のハツチヤに就いて斯う言はれた。彼等は箕を直し茶筅を作り又石を切る。古くより土着して居るので金持も多い云々。此徒茶筅を作るが故に又一にチヤセンとも呼ばるゝことは次の章でさらに說はうと思ふ[やぶちゃん注:「茶筅及びサヽラ」。底本のここから]。而して鉢屋茶筅が亦空也の門派であることは明白な證據がある。松平出羽守家(松江侯)の同じ文化四年の書上に曰く、此領内では茶筅と鉢屋とは同じものである。牢番を職とし取扱いは穢多に近い。國内に鉢屋寺が三箇寺ある。去《さる》丑年(文化二年)のことであるが、京都空也堂の院代と稱する僧下り來り、雲州鉢屋は我寺末派の者である故、爾今《じこん》取扱《おりあつかひ》を改めて貰ひたいと申し出《い》でた云々とあつて、之を謝絕した顚末が詳しく記してある(祠曹雜識四十。之を見ると此派の勢力が小さくて遠國の門徒の世話が時宗の鉦打ほども行屆かず、終に本業の念佛は忘却して色々の雜役を拾ふ所から、次第に特殊の待遇を受けねばならぬやうになつたのかと思ふ。山陽道は一般に茶筅の名で通つて居るが、獨り廣島領のみは之を穢多と同一に取り扱ひ、藝藩通志などにも屠者(としや)と瞽者(こしや)と二種より外の名目が見えぬ。今の廣島縣安佐《あさ》郡龜山村には大畑・靑・丸山・大野などの特殊部落[やぶちゃん注:差別用語として現在は使用してはいけない。以下同じ。]がある。此地の口碑によれば、昔はエタに長利派(ちやうりは)八矢(はちや)中間(なかま)の三種族があつたが後に皮田《かはた》と云ふ一種族新たに起り專ら獸類の皮を取扱ふやうになつた云々(廣島縣特殊部落調)。此古傳は頗る鉢屋退步の歷史を語るものゝやうに思ふ。

 鉢叩には鉦打と違ひ色々妙な持物《もちもの》があるために、其由來を訊ねるのによほど手懸りが多い。瓢簞と茶筅の事は別にまとめて之を說くつもりである。今一つ注意すべきものはワサヅノと名づけ鹿の角を頭に取附けた杖である。鉢叩が此杖を持つことは七十一番の職人盡歌合《しよくにんづくしうたあはせ》の歌にも見え(和訓栞《わくんのしをり》)、又明應年間[やぶちゃん注:一四九二年~一五〇一年。]に出來たと云ふ甘露寺[やぶちゃん注:不詳。寺名ではなく人名か。]の職人盡の繪にも、鹿の角の附いた杖に瓢《ひさご》を下げて之を地に立て、鉢叩が其傍で別の瓢を叩いて居る所がある(筠庭雜考《きんていざつかう》三)。後世の俳諧の鉢叩は左の手にフクベを持ち、右には一尺ばかりの細い篠竹を持つて之を打つてあるくから(增訂一話一言《いちわいちげん》四十六)、終に鹿の角とは別れてしまつたが、以前は杖も鉢叩に缺くべからざる道具で、而も鉢叩に限つて持つものと認めて居たらしい、と云ふのは三百年前の編述に係る空也上人繪詞傳、及び次いで世に出た雍州府志《ようしうふし》卷四にも、上人が北山に假住《かりずみ》せられし頃、每夜來て鳴いた鹿を例の平定盛が射殺したので、憐憫の餘り其角と皮とを乞ひ受け、皮は之を裘(かはぶくろ[やぶちゃん注:ママ。「かはごろも」の誤りであろう。「ちくま文庫」版も『かわごろも』と振っている。])として着用し角は之を杖頭に插した云々。遠慮の無いことを言へば此話は夢野の鹿の燒直しである。著聞集か何かにも下僕が鶯を射留めた話があつたが[やぶちゃん注:「古今著聞集」にそんな話、載ってるかなぁ? 私は記憶にないんだが。]、昔の人は克明だから斯う云ふ出典のある緣起をこしらえたので、虛誕(うそ)にしても罪が淺い。ワサヅノの空也門徒ばかりの物で無いことは證據がある。例へば袋草紙に惟成辨(これなりのべん)出家をして後、賀茂祭の日にワサヅノを持ちて一條大路を渡るとあり、夫木集の歌に「ワサヅノを肩に掛けたる皮衣けふのみあれを待《まち》わたる哉」[やぶちゃん注:衣笠内大臣藤原家良(いえよし)の一首。]などゝあるのは、昔は賀茂の祭にかゝる風體《ふうてい》の者が出たからであらう(和訓栞)。或は賀茂と貴船との關係から、此も空也上人の因緣に基いたやうに說き得るかも知らぬが、些し模倣の時代が早過ぎるやうに思ふ。今昔物語には金鼓《こんぐ》を叩き萬(よろづ)の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある。此なども空也に隨從した鉢叩の先祖と見られぬことは無かろうが、他に之を推測せしむる材料なき限《かぎり》は當時の聖《ひじり》なる者が一般にこんな杖を突いて居たと解するのが正しいと思ふ。

[やぶちゃん注:「夢野の鹿」「夢野の牡鹿(をじか)」とも言う。摂津国菟餓野(とがの)に住んでいた、ある鹿についての伝説。菟餓野の牡鹿が、自分の背に雪が降り積もり、薄が生える夢を見、それを妻の牝鹿に話したところ、牝鹿は、かねがね、夫が淡路島の野島に住む妾のもとに通うのを妬んでいたことから、この夢を、「『薄』は矢が立つこと、『雪』は殺された後で白塩を塗られること。」と占って、夫が妾のもとに行くことを止めた。しかし、夫は聞き入れないで淡路島へ出かけ、途中で射殺されたという。この後、「菟餓野」は「夢野」と改名された。「日本書紀」の仁徳三十八年七月の条や、「摂津風土記」逸文に見える伝説で、後、和歌などにもよく詠まれている。この伝承から転じて、「気にかかっていた物事が予感通りになること・心配していた事柄が現実となって現われること」の喩えとして故事成句として使用される(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「今昔物語には金鼓を叩き萬(よろづ)の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある」「今昔物語集」巻第二十九の「阿彌陀聖殺人宿其家被殺語第九」(阿彌陀の聖(ひじり)、人を殺して、其に家に宿り殺されし語(こと)第九)を指す。「やたがらすナビ」のこちらで新字だが、電子化されたものが読める。……しかし、これ、厭な話だぜ。]

 さてワサヅノと云ふ語の意味であるが、此迄未だ明瞭なる解說をした人が無い。ワサとは今でも紐を結んで輪にした形を謂ふから、各地を漂泊する旅の法師が其杖の頭を鹿角にした最初の趣旨は、荷物などを之に引つ掛けて肩にせんが爲ではなかつたか。此點は聖の根原を知る爲によほど重要な事であるから、支那其他の外國の類例を比較して詳しく調べたいものである。自分が之と關係があらうと思ふのは、古來鹿杖の漢字を宛てゝ居るカセヅエのことである。倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠《かせつゑ》、同じく行旅具《かうりよぐ》の部に橫首杖、唐韻云𣈡橫首杖也、漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖。卽ち古代の漢名は𣈡[やぶちゃん注:音は「テイ・ダイ」。]で、又橫首杖とも云ふを以て察すれば、近世の坐頭が用ゐて居た所謂手木杖(しゆもく《づゑ》)のことかとも思はれる。此事に就いては伴信友《ばんのぶとも》の最も綿密な考證があるが(比古婆衣《ひこばえ》九)、其結論のみはまだ容易に信じられぬ。其說の大要に曰く、カセヅヱのカセは機織《はたおり》に使ふ挊で(古名カセヒ)絲を卷く爲に作つた二股の器《き》である。古く鹿をカセギと謂つたのも其角の形が似て居るからで、此と同樣に後世の所謂サンマタ或は枯木の枝をもカセギと呼んだのであると云ひ、挊杖《かせづゑ》の名の起りも其杖の尻が二股に分れて居た爲だらうと、繪卷などの中から尻の二股なる多くの例を寫し出して居る。而して其一名を橫首杖《よこくびづゑ》と云つた說明としては、單にさう云ふ尻の挊形なる杖が多くは其頭を手木形にして居たからと云ふことにして居るが、此點は自分の承認しにくい說である。現に伴翁の引證した繪の中にも、尻二股にして頭の橫首ならぬもの、橫首杖にして尻の普通のものもある。又平家物語の淸盛高野登りの條にも、老僧の白髮なるがかせ杖の二股なるにすがつて出で來給えりとあるを見ても、カセヅヱ必ずしも尻二股でなかつたことが分り、之を挊と名づけた所以は寧ろ頭の手木形であつたからと想像せねばならぬ。法師が挊杖を持つた例は外にもある。京都實法院の什物たる解脫房貞慶上人の像などはそれで、坐像の前に挊杖と草履が置いてある(考古圖譜四)。この上人は源平の亂の後京の眞如堂再建の爲に勸進聖《くわんじんひじり》となつて諸國を巡つた人と云ふから(眞如堂緣起)、多分は其德を記念したものであらう。仍《よつ》て思ふに橫首杖を行旅具に算へたのは、此杖も亦ワサヅノと同じく荷物などを結附《むすびつ》けて肩にするの用があつた爲で、更に之を鹿杖(ろくじやう)と書くのは單にカセの字の宛字では無く、鹿角を杖頭《つゑがしら》に插した空也上人などのワサヅノも亦カセヅエのことであつた證據かと思ふ。前に引いた今昔の阿彌陀聖の條に、「鹿の角の杖の尻には金のにしたるを突き」[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]とあるが、机の字は杈《またぶり》椏《また》などの誤りかも知れぬ。さすれば伴翁の說の通り、此種の杖には尻の二股なのが多かつたと云ふ一例になる。是も亦行旅の必要からであらうが、西洋では鑛物又は地下水を搜索する術者が、昔からこの二股の杖を用いて居たのは注意すべきことである。

[やぶちゃん注:「倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠、同じく行旅具の部に橫首杖、唐韻云𣈡橫首杖也、漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖」「和名類聚鈔」の国立国会図書館デジタルコレクションの元和三(一六一七)年の版本の当該部を示す。前の「僧房具」のそれは、ここ。後者の「行旅具」のそれは、ここ

「鹿の角の杖の尻には金のにしたるを突き」「やたがらすナビ」では、「朳(えぶり)」となっている。これは「柄振り」で農具の一種。長い柄の先に長めの横板の附いた鍬のような形のもので、土を均(なら)したり、穀物の実などを搔き集めたりする際に用いる。「えんぶり」とも言う(なお、能の小道具の一つで、これを元に簡略様式化したもので、竹竿の先に台形の板を附けたもの。雪搔きの仕草に用いるのものもかく呼ぶ)。「今昔物語集」は全部で五種を所持するが、池上洵一編の抄録本の岩波文庫「今昔物語集 本朝部 下」(二〇〇一年刊)の脚注に、『「杈」(またぶり)』が正か。二股。杖の下端には二股の金具えお付けていた意』とされた上、まさに、続けて『このあたりの姿は六波羅蜜寺の空也上人像に似て、阿弥陀聖の基本的スタイル。』とある]

 東京西郊の納凉地熊野十二所《じふにそう》の森ある村の名を古くより角筈(つのはず)と云ふ。今は淀橋町《よどばしちやう/よどばしまち》の一《いち》大字《おほあざ》である[やぶちゃん注:現在の新宿区西新宿のここで、「ひなたGPS」の戦前の地図の方を参照されたい。]。江戸志には十二所緣起を引いて、伊勢神宮の忌詞《いみことば》に僧を髮長《かみなが》と稱し尼を女髮長《をんなかみなが》と稱し優婆塞《うばそく》[やぶちゃん注:在家信者。]を角筈と云ふ、其角筈であらうとある。成程熊野は昔より優婆塞の齋《いつ》き祀る神であるから、其社に近い角筈の說明としては尤もらしい。而して右の神宮の忌詞の古く物に見えて居るのは、延曆二十三年[やぶちゃん注:八〇四年。]八月造進と稱する大神宮儀式帳である。優婆塞と云ふ梵名が日本では例の聖又は沙彌《しやみ》を意味して居たことは此からも追々立證する考へである。其ヒジリを何故に角波須《つのはず》と呼ばしめたか。今までは此と云ふ心惡(《こころ》にく)い說も出なかつた。自分の見る所ではやはり亦ワサヅノまたはカセヅヱに基くものと思ふ。筈は言海には「打違《うちちが》ひたる文、又くひちがひ」とある。それ迄には進まずとも弓端調と書いてユハズノミツギと讀ませた古例を推せば、頭《かしら》を鹿角にした杖を突くのが特色である故に、角筈を以て聖の隱語としたと云ふても無理はあるまい。さうなれば鉢叩の本源は稍又明らかになるのである。

 坐頭卽ち盲人の良い階級に手木杖《しゆもくづゑ》を持つことを許した理由も、自分はやはり同じ方向より觀察したいと思ふが今は枝葉に亙るから略して奥。本節の論ずる所を一括すれば、要するに鉢叩鉢屋と云ふ部落も亦毛坊主であつて、空也派に從屬し踊躍念佛《ゆやくねんぶつ》を專業とした一種である。彼等の持つ杖は昔の放浪生涯を表示して居る。今は土着して居るが世間の待遇は冷《ひやや》かであつた。彼等の職業は賤しかつたが其說く所の由緖は堂々たるものであつた。さうして作り言《ごと》が多かつたらしいと云ふ迄である。關東の鐘打と如何によく似て居るかは尙追々と立證せられるであらう。

 

2023/04/09

柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」

 

[やぶちゃん注:本篇は、現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」の「池袋の石打」のために必要となったため、急遽、電子化する。従つて、注は最小限度に留める(調べてみて、容易に注が出来そうにないものは、立項自体をしなかった。悪しからず)。初出は以下の底本の巻末にある「内容細目」に、大正八(一九一九)念八月発行の『鄕土硏究』とある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第九巻(一九六二年筑摩書房刊)の正字正仮名版の当該篇を視認した。但し、所持する「ちくま文庫」版『柳田國男全集』の当該部(巻十一所収の「巫女考」収録のもの)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。( )は底本のルビ、《 》は私が推定で補った歴史的仮名遣の読みである(一部は「ちくま文庫」版のルビを参考にした)。

 なお、標題は本文の柳田のルビに従えば、「いけぶくろのいしうち、と、ひだのごんぼだね」と読む。]

 

       池袋の石打と飛驒の牛蒡種

 

 市外山手電車線の分岐點池袋の驛から、西北に當つて大きな森が池袋村である。百年この方此村に付《つい》て妙な一の浮說があつて、多くの江戶人の隨筆に出て居る。又今日でもそれを見た聞いたと云ふ者の噂がある。勿論村の者は之を否認し、自分も亦必ずしも之を信じては居らぬが、話の筋はざつと斯《か》うである。市中の家で此村の娘を女中に置くと必ず色々の不思議がある。或は生板《まないた》に澤庵漬と庖丁を載せたまゝ棚の上へ上つたとか、行燈《あんどん》が天井に引着《ひつつ》いてしまつたとか、其他にも信じ難い樣々の說があるが、就中《なかんづく》著名であることは、家の内へ何處《いづこ》からとも無く絕えず石を打込《うちこ》む。或はそれは單に下女に雇入《やとひい》れたゞけで此不思議があるのでは無い、其家の主人が其女に手を掛けると始めて起る現象であると云ふ。果してどちらであるかは究めにくい問題であるが、兎に角に其女を還して了《しま》へば不思議は直《ぢき》に止むと云ふ。村の氏神が氏子を他處《よそ》の者の自由にさせるのを嫌はれる爲だと云ふのが普通の說明である。老人たちはいくらも似寄つた話を聞いて居るであらうが、自分の知つて居る一二の例を申せば、文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒《おもちづつ》組與力高須鍋五郞と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。種々《いろいろ》の祈禱・守札《もりふだ》も何の效驗も無かつた處に、ふと心附くと此騷動の最中に其女ばかりは平氣で熟睡して居る。もしやと云ふので訊ねて見ると當時の人が目《もく》して原因と爲《な》すべき事實があつた。早速其者に暇《いとま》を遣ると其日より石が飛ばなくなつた。何でもオサキ持《もち》の家の娘であらうとの說であつた(十方庵遊歷雜記第四編の上)。最近の例としては明治四十年[やぶちゃん注:一九〇七年。]頃のことであるが、ある家に頻《しきり》に石打の不思議があつた。どうしても原因が解らなかつたが、一日《いちじつ》天氣がよくて細君は外へ出て張物か何かをしてをり、下女は井戶端の盥《たらひ》に向つて洗濯をして居ると、又々盛《さかん》に石が戶や壁に當る。其時にふと見ると右の下女がそこらの小石を拾つて足の下から之を投げる、其すばやいことは殆と[やぶちゃん注:ママ。柳田の書き癖。]目にも留らぬ程で而《しか》も彎曲をして妙な方角に打着(ぶつゝ)かるので、今迄其女の所業であることが知れなかつた。此話をした人は其下婢が何の爲にそんな仕打をしたかは聞いて居なかつたが、其女は確かに池袋の者と云ふことを聞いたと云ふ(畑田保次君談)。又一說には池袋の村民は他村の人と婚姻を結ぶことを忌んで居る。其譯は昔からの言傳へに產土神《うぶすながみ》の村の人が減ずるのを嫌ふ爲か、若《も》し他村へ嫁に遣る家があれば、其家ヘ何處《いづこ》からとも無く石を打ち又は行燈が天井へ擧がる等の奇怪があるからである(人類學會報告七、若林氏)。此もあまり古代の事實では無いらしい。之を見ると村の女を占領した者の祟《たたり》を受けるは勿論で、之を許した氏子の側でも責任を免れないのである。從つて石打の行爲が假に村の娘の所作であるとすれば、說明が一寸と六つかしくなる。

[やぶちゃん注:「文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒《おもちづつ》組與力高須鍋五郞と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。……」「耳囊 巻之二 池尻村の女召使ふ間敷事」を参照されたいが(「耳囊」は旗本で南町奉行の根岸鎮衛(しづもり)が佐渡奉行時代(一七八四年~一七八七年)に筆を起こし、死の前年の文化一一(一八一四)までの約三十年に亙って書きためた全十巻の雑話集)、その私の注の内ウィキの「池袋の女」の引用で、発生は文政三(一八二〇)年三月のことである。

「十方庵遊歷雜記」は文化九(一八一二)年から文政一二(一八二九)年まで、江戸を中心に房総から尾張地方に至る各地の名所・旧跡・風俗・伝説・風景等を詳細に記した見聞記で、著者は津田敬順、本名は大浄、「十方庵」(じっぽうあん)は号で、江戸小日向廓然寺(かくねんじ)の住職である。国立国会図書館デジタルコレクションの『江戸叢書』巻六(大正五(一九一六)年江戸叢書刊行会刊)の同書同巻の「第四拾八 秩父郡の三害お崎狐なまだこ」の中の一節で、ここの右ページ後ろから二行目以降に現われる。原文はもっと描写が細かい。是非、見られたい。

「人類學會報告七、若林氏」「J-STAGE」で、『東京人類學會報告』第一巻第七号(明治一九(一八八六)年九月発行)の原本当該記事PDF)が視認でき、その若林勝邦氏の「婚姻風俗集 第五」の冒頭の「村内結婚」の条がそれである。

 此等の噂は要するに取留も無いことであるが、巫女《ふぢよ》問題の硏究者に取つては一笑に付し去るべくあまりに流布して居る。固《もと》より動機又は理由のはき[やぶちゃん注:ママ。]とせぬのは直接に池袋の人から聞くことが能(でき)なかつた爲であらう。池袋の村民はそれは自分の村では無く少し離れた沼袋村の事だと主張する(山中共古翁談)。フクロとは水に沿うた地形を意味し、武藏には殊に多い地名であるから間違ひさうな話である。現に享和[やぶちゃん注:一八〇一年~一八〇四年。]の頃に出來た野翁物語《やをうものがたり》卷六には、之と類似の一事例を擧げて、目黑邊の某村と云ひ、氏神が氏子の他出するを厭ひ此処村人を雇ふ家には不思議ありと記して居る。だから其村が池袋であるか否かは未詳として置いてよろしい。唯東京に近い村に妙な心理上の威力を有する部落があることだけは爭ふべからざる事實である。而も此話は昨今に始つたもので無い證據には、偶發の事實としては昔の人も往々に之を記錄して居る。其一の例は享保九年閏四月二十二日、江戶の旗本遠山勝三郞殿家來神田宅右衞門なる者の小屋に、何方《いづかた》よりとも不相知《あひしらず》石瓦打込み申し候、初の程は隣屋敷松平隼人殿屋敷の子供の仕業かと存じ候處、左樣には無之《これなく》、後々は樣々の物を打込み申侯。右打込み候石瓦取集め印を致し置き候へば、いつの間にか不殘《のこらず》失せ、祈禱致し候ても不相止《あひやまず》云々。此家の主人は同月二十八日に根井新兵衞と云ふ人を招き蟇目鳴弦(ひきめめいげん)の式を行はせると、それより二日目に駿府から召抱《めしかか》へた猪之助と云ふ十四歲の調市(でつち)に野狐《やこ》が附いて居た。段々糺明すると每々樣々なる儀を仕り候事白狀により悉く顯はれ、正氣に罷成《まかりな》り五月に入りては常の通《とほり》何事も無之、透《すき》と相止み申候とある(享保世話)。次には出羽の鶴ヶ岡の出來事で只寅年とのみあるが元祿十一年の事らしい。藩士加藤利兵衞の屋敷に石を打込む者があつた。三月に始り五月に入つて殊に甚しく、座敷に飛込み障子などを破る。五月十五日の如きは一日に石の數二百三十ほども打つた。一寸から四五寸迄の石である。日蓮宗本住寺の僧に祈禱せしむるに、何の驗《しるし》も無かつたが、ふとした事より手懸りを得、段々穿盤して下女の仕業であることが知れた。それからも氣を附けて居ると、十八日の日其下女が奧庭に往きて石を拾つて居るのを發見した。然《しか》るに石を打附けんとする手元を押捉へて、嚴しく詮議をしても一語をも吐かず、却つて正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない。そこで女の母親を呼び共々に起して見ると、一時ばかり目を明けたがやはり何事をも言はぬ。さして本性は違つたとも見えないが、事の外草臥(くたび)れたやうであつた。乃《すなは》ち請人《うけにん》を呼んで引渡してしまつた。勿論石打の怪はそれで絕えたのである(大泉百談卷三)。

[やぶちゃん注:「沼袋村」現在の中野区沼袋一~四丁目及び野方(のがた)一丁目等が相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。池袋からは南西に三~四キロメートル離れた位置にある。

「享保九年閏四月二十二日、……」グレゴリオ暦一七二四年六月十三日。「享保世話」(享保七年から同十年に至江戸市井の巷談を集めたもの)のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集」第二(国書刊行会編・一九七〇年刊・正字正仮名・活字本)のこちらの、左ページ下段中央から当該部が視認出来る。

「蟇目鳴弦(ひきめめいげん)」「ひきめ」は「響目」(ひびきめ)の略。朴(ほお)又は桐製の大形の鈍体の響鳴器である鏑(かぶら)を矢先に装着した矢。矢を射た際に音を響かせるところから言った(別にその音を出すために開いた穴の形が蟇の目に似ているからとも言う)。本来は「犬追物」(いぬおうもの)や「笠懸」などで、射る対象を傷をつけないようにするために用いたもので、本体に数個の穴があり、射ると、この穴から風が入って音を発する。この音が鳴弦と同じように、妖魔を退散させる呪力を持つと考えられた。

「調市(でつち)」「丁稚・丁児」(でっち)に同じ。少年の使い走り。

「出羽の鶴ヶ岡」現在の山形県鶴岡市。

「元祿十一年」一六九八年。

「本住寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大泉百談」庄内藩士杉山宜袁(よしなが 元文六・寛保元(一七四一)年~文化八(一八一一)年:庄内藩主酒井家の三河以来の譜代の臣で、家老にまで出世し、郷土史に造詣深く、庄内の古今にわたる事跡を調査記録して後世に残した)が「大泉散士」の名で著した庄内史。]

 此二つの話などは原因が又所謂池袋とは別であるらしい。鶴ヶ岡の方は調べて見ると誠に埒も無い恨《うらみ》であつた。最初草履取の六藏なる者の脇差を此女が戲れに取つて差したのを、六藏が立腹してひどく叱つた。それが口惜くて六藏所持の錢一文を取つて呪詛したと自白して居る。併しそれからどうして石を打つことになつたか、どうしても理由を告げない。又祈禱僧が生靈か死靈か何かほかの驗を見せよと空に向つて宣言すると、忽ち錢二文を紙に包んで投げたので、或は下女などの仕業かと彼等の針箱を搜査することになつたとも見えて居る。何の事かよくは解らぬが、今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる。若し當時此等の婦人又は少年の身元を詳しく尋ねたら、或はかの東京附近の一村に似た話があつたのかも知れぬが、殘念ながら記錄は此きりである。併し我々は猶他の一方に世間の人から略《ほぼ》之と同じやうな意味に於て敬して遠ざけられて居る多くの家又は部落を聯想して見ねばならぬ。此等特殊の家族の起原を考へて見ると、其今日に於ける社會上の地位は同情に値する者がある。誠に婚姻交通の遮斷は怖しいもので、其結果は日常生活の慣習にも同化が行はれず、家庭の内情を知り得る機會が無い爲に愈〻《いよいよ》色色の臆說が起り、終《つひ》には魔術を以て人を苦しめるの、邪神を信じて富を求めるのと、不愉快な風評のみ多くなつたが、其本人等の極めて無邪氣なのを見ても明らかなる如く、最初に於ては決してさういふわけのものでは無く、單に職業の特殊であつたこと、又は奉仕する所の神が他の人と違つて居たに過ぎなかつたのであらう。職業と云つた所が決して後世のやうに神主專門巫女專門と云ふので無く、一方には家に附屬の田地があつてそれを耕して食ふこと他の百姓と區別は無い。又邪神と云ふのも程度の話で、近世の神道にこそ牴觸《ていしよく》はするが、昔はさまで奇怪でも無かつた諸國の社《やしろ》である。現に今でも田舍には狐を祭り蛇を祀つたといふ例がいくらもある。其爲に賤しめられる道理が無い。故に自分の解する所では、本來ある荒神《こうじん》の祭祀に任じ、託宣の有難味を深くせん爲に正體をあまりに祕密にして居た御蔭に、一時は世間から半神半人のやうな尊敬を受けて居たこともあつたが、民間佛敎の逐次の普及によつて、追々と賴む人が乏しくなつて來ると、世の中と疎遠になることも外の神主などよりは一段早く、心細さの餘りにエフエソスの市民の如く自分等ばかりで一生懸命に我《わが》神を尊ぶから、愈以て邪宗門の如く看做《みな》され、畏《おそろ》しかつた昔の靈驗談《れいげんだん》が次第に物凄《ものすさま》じい衣《ころも》を着て世に行はれることになつた。此が恐らくは今日のヲサキ持《もち》、クダ狐持《ぎつねもち》、犬神猿神猫神、蛇持《へびもち》トウビヤウ持《もち》などゝ稱する家筋の忌嫌《いみきら》はるゝ眞の由來であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる」と柳田が言っているのは興味深い。先のシークエンスを見ると、「正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない」で、母親が呼ばれたにも拘わらず、見当識が一向に回復しないというのは、私には演技というよりも、強い眠気の発作を主な症状とする睡眠障害ナルコレプシー(narcolepsy)が疑われるようにも思われた。或いは、奉公が実は彼女の強いストレスとなっていて、重度の強迫神経症を発症し、病的な被害妄想が昂進、石打ち行動を半ば無意識的にやっていた可能性もあるようにも思えてくる。悪戯がバレたことによる演技と大方は思われるかも知れないが、これは、事と場合によっては、御手打ちになっても文句は言えない行動であり、果して、ここまでやるか? という疑問も生じてくるのである。所謂、心霊現象(特に物が投げられたり、移動するポルターガイストや、亡霊の声が聴こえるといった複数の多く事例では、必ず、未成年の少女が、その事件に関わっていることが、よく知られている。少女期の第二次性徴前後に、神経症的な漠然とした不安や不満を生じた彼女たちが、目的や理由を持たずに、似非心霊現象を作為したり、主張したりすることは頓に知られる事実なのである。知られたものでは、アメリカの「ハイズビル事件」(ウィキの「フォックス姉妹」を参照)が最も有名で、霊現象ではないが、かのコナン・ドイルがマンマと騙された「コティングリー妖精事件」(リンク先は当該ウィキ)も知られる。しばしば、「こっくりさん」で集団パニックを起こすケースも小・中・高の少女であることが、断然、多く、精神医学者による、その発生メカニズムを解説した書物や専門雑誌論考も、私はかなりの数、読んでいる。私は少年期から今に至るまで、UFOフリークであると同時に、心霊現象の熱心な否定的ウォッチャーでもあるのである。

「ヲサキ持」私は次に出る「くだぎつね」と同義同類と思う。小学館「日本国語大辞典」にも「おさきぎつね」(御先狐・尾(を)裂狐)として、『人間に憑(つ)くとされる狐。関東地方西部で信じられ、狐持ちの家ではこれを飼いならし、種々の不思議を行なうとされた。管狐(くだぎつね)。おさき。』とある。

「トウビヤウ持」「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(25) 「川牛」(5)」の私の『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』の注を参照されたい。その注の前では、「犬神」「オサキ狐」「クダ狐」の解説も私の電子化注の記事にそれぞれリンクさせてあるので、そちらを見られたい。

 巫蠱(ふこ)の家が不使用に由《よ》つて元の職務を忘れてしまふと云ふことも、託宣の機會が時代の進むと共に追々と減少した事實を考へたら、强《あなが》ち無理な推定とは言はれまい。彼等は夙《つと》に一定の地に土着して食ふには事缺かぬ田畑ある上に、世間からは兎角不安の眼を以て視られ、時としては迫害をも受ける、更に又次の章に言ふ如く自分の家に取つても必ずしも有難い神樣でも無かつたから、何かの手段があつたら過去と絕緣したいと云ふ希望も漸次に强くなつて、老いたる親の死亡と共に祕傳や口授の相續せられざりし場合も多かつたと見ねばならぬ。故に一方には人の祀らぬ野狐が增加してやたらに子女に災《わざはひ》する。犬神の主《あるじ》を離れて野に住み人に憑く者をノイヌと云ふ(和訓栞《わくんのしをり》)。四國地方の犬神由來の傳說に、弘法大師が與へた狼除けの護符を無智の者が開いて見た爲に此神が四方に飛散したと云ふのも、見やうによつては此信仰の衰微と頽廢とを暗示する者とも言はれる。前に引いた遊歷雜記に、武州秩父邊の俗信として三種の家筋の忌むべきものを擧げて居る。其一は例のオサキ狐《ぎつね》の家、二にはナマダゴ(生團子)とて彼岸月見などに團子を作るに、甑(こしき)の中にきつと三づゝ生の團子が出來る家、第三にはネブツチヤウと云ふのは小蛇の類である。之を祀る家筋の者の住んだ屋敷は、元の主が死《しに》絕えた後も代つて來たり住む者が無く、荒れ次第に捨てゝ置くとある。此等は何れも世間から觀た所謂邪神の末路であつて、其家筋の者は忘れようとしても、周圍の者が却つていつ迄も記憶して居つた爲に、斯う云ふ噂が永く殘つて居るのである。

[やぶちゃん注:「巫蠱(ふこ)」「巫」は「巫女(みこ)」、「蠱」は「呪(まじな)い師」の意。  呪法によって人を呪うことをも指すが、ここは所謂、主にブラック・マジックに関わる憑き物を使役する呪術師、及び、それを伝えている家系の主人を指している。

「次の章」この記事は『郷土研究』への連載記事で、次回のそれは、底本のここにある「蛇神犬神の類」である。]

 前に述べた池袋の一村がヲサキ持の筋であると云ふことは頓《とん》と外では聞いたことが無い。此は恐らくは根の無い想像であつて、斯かる災《わざはひ》を人に被《かうむ》らしめる者はオサキ家《いへ》の外にはあるまいと云ふ誤れる前提から出た說であらう。口寄《くちよせ》の徒《と》が祭る神は所謂八百萬《やほよろづ》である。總稱して荒神と云ふ祟の烈しい神は、今でも地方によつて種々雜多の名を以て齋《いつ》かれて居る。山陽美作記(さんやうみまさかき)卷上に、塀和(はが)の善學(ぜんがく)、木山の生靈(しやうれう[やぶちゃん注:ママ。])、加茂の神祇、久世(くせ)の生竹(なまたけ)明神、これらは荒神であつて、もし其氏子と諍《あらそひ》でもすれば必ず相手に取付きて惱ます故に諸人之を恐るとある。中にも塀和の善學は、昔塀和村に善學と云ふ坊主があつて、其飼つて居た狐である。坊主死去の後此狐諸人に憑きて災を爲しける故に村人之を神に齋(いは)ひ、其坊主の名を以て之を呼んだのである。四國は犬神蛇持《へびもち》等の盛んな地方であるが、やはり之と別種の家筋で永く不思議の威力を有する者がある。阿波名西(みやうさい)郡下分上山(しもぶんかみやま)村の内字《あざ》粟生野(くりふの)と云ふ處の庄屋は、代々の主人必ず身の内に黑い月の輪がある。此人の草履を外の者取違《とりちが》へて履《は》く時は忽ちに腹痛する。此には速か《すみやか》に其草履を脫いで我家の竃《かまど》の上に置き詫言《わびごと》をすれば痛みが止む。又此人に對して無禮をして忽ち身體の噤(すく)んだと云ふこともある。根元《こんげん》故ある家筋だと云ふが或は神孫であらうかとある。尤も近世如何《いかが》の譯かかの月の輪は腰の邊まで下《さが》つて草履の奇事も別して無いやうになつた(阿州奇事雜話卷三)。黑い月の輪は些《すこ》しをかしいが、多分圓い痣《あざ》が八犬傳の勇士などの如くあつたことを謂ふのであらう。此種の家筋に身體の特徵のあると云ふことは自然の話である。同じ國美馬(みま)郡穴吹山(あなぶきやま)の内宮内の某家には、今でも其家に生るゝ者は必ず背中に蛇の尾の形がある(同上)。豐後の緖方氏が嫗嶽《うばだけ》の蛇神の末であるが故に蛇の尾の形があると云ふのと同日の談で、しかも阿州の方でも自ら尾形の一黨と稱して居るのである。豐後の緖方三郞の由緖は盛衰記以來の昔話である。人は之を三輪の神話の燒直しとして信用を置かぬが、兎に角四五百年前の古傳であれば、我々の硏究に取つては重要なる參考である。自分の解する所では山の名の嫗嶽はやがて長者の愛娘《まなむすめ》が神に婚(めと)られたと云ふ傳說の根據を爲す者で、ウバとは則ち第一世の巫女、譜第の神主の祖神として主神の傍に併《あは》せ祀られた者のことかと思ふ。若し然りとすれば緖方三郞の背の痣も九州の一隅を風靡するに於て大なる效果のあつたことであたう。

[やぶちゃん注:「塀和(はが)」現在の岡山県久米郡内の垪和(はが)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「阿波名西(みやうさい)郡下分上山(しもぶんかみやま)村の内字《あざ》粟生野(くりふの)」現在の徳島県名西(みょうざい)郡下分上山粟生野(くりゅうの)。サイト「いつもNAVI」のこちらで、やっと確認出来た(地図有り)。

「美馬(みま)郡穴吹山(あなぶきやま)の内宮内」現在の徳島県美馬市穴吹町(あなぶきちょう)口山宮内(くちやまみやうち:グーグル・マップ・データ)。

「嫗嶽」現在の大分県竹田市神原にあった旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図のこちらで、確認出来る。]

 飛驒の國でよく聞く牛蒡種(ごんぼだね)と云ふ一種の家筋の性質は、右に列記した諸國の類例と比較して始めて說明がつくやうに思はれる。此名稱はもと彼等が「よく人に取附くこと牛蒡の種のやうである」と云ふ處から出て居る。最初吉城(よしき)郡の上高原(かみたかはら)に住んで居たと云ふが、今では此國北部の諸村に分散して只の農家に交《まぢは》り、別に一つの部落を爲す者は無い。此家筋の特質は名稱と同じく凡て外部から附與したもので、彼等は常に絕對に之を否認する。世間の信ずる所では、此者に恨まれ又は惡《にく》まれると必ず物憑(《もの》つき)となつて大いに煩《わづら》ふ。それが牛蒡種の仕業であることはいつでも病人の口から聞くのである。祈禱加持を以て攻立《せめた》てゝ居ると、其苦に堪へずして我は某《なにがし》村の某と名乘り、或は逐立《おひた》てられて足腰のきかぬ病人が走つて其家の戶口まで往つて倒れる。さうすれば物憑は落ちたのである。又どうしても動くことのならぬ重病であれば、其憑いて居るとふ牛蒡種の本人を連れて來て、病人を介抱させると落ちるとも云ふ。勿論彼《かの》者は覺えの無いことを主張するが、自稱被害者がどうしても承知をせず、强ひて引張つて來るのである。此話は二三年前の旅行の際自分が吉城の人から聞取つた所であるが、どの點まで精確であるか、又今日でも果して此通りであるか否か、猶多くの報告を綜合して見ねばならぬ。押上中將《おしあげちゆうじゃう》が親しく上寶《かみたから》の村長から聞かれた所では、牛蒡種は他鄕に行けば何の力も無くなると云へば、追々には沿革を無視する新人物が入込《はいりこ》んで、愈巫道《ふだう》の痕跡を此世から拭ひ去ることも遠くはなからうと思ふ。併し近い頃までは牛蒡種の邪視《じやし》の力は非情の草木にさへ及んで、此眼で視られると畠の菜大根までが萎れ痛むと云つたものである。

 此次に自分の述べたいのは諸國の土甁(とうびやう)又は犬神系統の家々の話であるが、之と比べて見て最も面白いと思ふ點は、彼等の中には蛇なり狐なり何か平素から家に養はれて居る魔物が、本主の旨を受け若しくは意を體《たい》して出て往つて人を惱《なやま》すに反して、飛驒の牛蒡種に在つては災を爲す者は直接に人の生靈《いきりやう》だと云ふことである。之を見ても元一個の迷信の傳播《でんぱ》と見るのが誤りで、時代趨向《すうかう》の然《しか》らしむる所、諸國の俗神道《ぞくしんだう》が一樣に略《ほぼ》相《あひ》類似した、而も地方的に小變化のある發展をしたことが推測せらるゝのである。

[やぶちゃん注:「牛蒡種」当該ウィキによれば、『牛蒡種(ごぼうだね、ごんぼだね)は、長野県、岐阜県、福井県に伝わる憑き物』で、『特定の家筋につく憑き物とされるが、狐憑きや犬神のような動物霊ではなく、人間の生霊を憑かせるといわれる』。『岐阜県飛騨地方では例外的に、牛蒡種は人間の霊ではなく』七十五『匹の動物が憑いているといって』、「七十五匹」の『別名で呼んでおり、かつて九尾の狐の化けた殺生石を源翁心昭が砕いた際、その破片の一つが飛騨に飛び散って牛蒡種が生まれたものとされている』。『牛蒡種の力は妬みや羨望の念がもとになるといわれており、この家の者に憎まれて睨まれた者は頭痛や精神疾患を患うといい』、『さらには牛蒡種の家の者が他家の農作物、カイコ、陶器など器物の良さを誉めただけでも、それら農作物やカイコが駄目になったり、器物が壊れたりするともいう』。但し、『郡長、村長、警察署長といった高い地位の者に対してはその効力がないともいう』。『牛蒡種の名称は、修験者が仏法守護の護法善神を憑依させる儀礼「護法実(ごぼうざね)」、または牛蒡種の憑きやすさが』、『植物のゴボウの種の付着しやすさに似ていることなどが由来と考えられている』。『南方熊楠は』「十二支考」の「蛇に關する民俗と傳說」の中で『牛蒡種を邪視に類するものと述べている』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの一九五一年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第一巻 から、当該部を示すと、『本邦にも、飛驒の牛蒡種てふ家筋有り、其男女が惡意もて睨むと、人は申すに及ばず菜大根すら萎む。他家へ牛蒡種の女が緣付て、夫を睥むと忽ち病むから、閉口して其妻の尻に敷れ續くと云ふが、覿切(てつきり)西洋の妖巫に當る』とある。

「吉城(よしき)郡の上高原」「上寶」ここは、この岐阜県高山市の上宝町(かみたからちょう)地区の広域(グーグル・マップ・データ)である。旧神岡鉱山の上流に当たる。

「土甁(とうびやう)」先に出て注した「トウビヤウ」に同じ。

「押上中將」陸軍中将押上森蔵(おしあげもりぞう 安政二(一八五五)年~昭和二(一九二七)年)。岐阜生まれ。台湾守備混成第一旅団参謀長・東京陸軍兵器本廠長・陸軍砲兵大佐・陸軍少将・陸軍兵器本廠長を経て、陸軍中将として旅順要塞司令官を務めた。柳田國男との交際機縁は不詳だが、南方熊楠(こちらの機縁も不詳)とも、かなり仲が良かったようで、熊楠の論考にもその呼称がしばしが出る。]

2023/03/28

柳田國男 鯨の位牌の話

 

[やぶちゃん注:本篇は大正二(一九一三)年四月刊の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表されたもの。所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」には収録されていない。本電子化は現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」中の「鄕土硏究第一卷第二號を讀む」のために、急遽、電子化する必要が生じたために作成した。されば、注はごく一部に留める。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の「定本 柳田国男集」第二十七巻(昭和四五(一九七〇)年筑摩書房刊)の正字正仮名版を視認した。但し、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は「定本 柳田國男集」第二十七卷(新装版・筑摩書房・一九七〇年初版の一九七二年の三刷)の新字正仮名の当該論考を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。]

 

   鯨 の 位 牌 の 話

 

 狩の前後の儀式には各國とも珍しい慣習が伴つて居る。山狩の後で山の神を祀る祭を弘く狩直し祭と謂ふ。ナホシは機嫌を直すなどのナホシで、物の命を絕つても災をせぬやうにとの趣意であるらしい。佛敎と獨立したよほど古い思想であることは改めて述べたいと思ふが、爰には就中奇拔の一事を擧げて置く。東京人類學會雜誌第百十一號秩父紀行浦山村の條に、獵師熊鹿などを捕りし時には、殺した獸の生肝を取出して山の神に供へ、スハノモン、マイコノモンと唱へるとある。スハ、諏訪であることは次の話でわかるが、マイコはメイゴでは無いか。何のことであるか知らぬが、日向の椎葉山でも、熊の紐解の祕傳として、ナムメイゴノモンと三度唱へる。此事は後狩詞記に載せて置いた。此山村でも獲物の心臟を山の神に供へる。又矢開の祭の祭文の中に、グウグセヒノ物助クルトイヘド助カラズ、人ニ食シテ佛果ニ至レと云ふ語がある。或は引導と稱してヒガフグニセイノ物助クルトイヘド云々とも云ふ。帝國書院本の鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し妄に火を穢す。恐くは佛家の意より出でたり、今其札と云ふを見るに神代の故に非ず、業盡有情、雖放無生、故宿生身、同證佛果と書きたり、是全く佛者の方便の說なりとある。竹抓子(ちくはし)と題する或江戶人の隨筆に、諏訪の神と宇都宮とは祭に鳥獸を供へる。諏訪では中の酉の日の大祭に鹿の頭三十(?)五を生板の上に列べて神前に供へ、別に鹿の肉を料理して社人之を食す、他人も神官より箸を受けて食へば穢無し、又鹿を食ふ者に與へる札がある。業盡有情、雖放不生、故宿人中、同證佛果とあるのは大般若經の文句である云々。大般若經は驚入るが、諏訪の信仰は九州でも天草又は薩摩に迄及んで居るから、椎葉山の祭文も是れから出たものである。

[やぶちゃん注:「浦山村」現在の埼玉県秩父市浦山(グーグル・マップ・データ。以下の無指示は同じ)。

「此事は後狩詞記に載せて置いた」私の『柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」』を参照されたい。

「鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し……」国立国会図書館デジタルコレクションの「鹽尻」上巻(室松岩雄校訂・明四一(一九〇八)年国学院大学出版部刊)のこちらの右ページ下段の後方で視認出来る。]

 業の盡きたる有情は放つと雖生きず、故に人中に宿して同じく佛果を證せよと云ふのは諏訪明神の託宣であると云ふことは、以前何かの本で見たことがあるが本の名を忘れた。(甲賀三郞終篇)然るに右の山の神の呪文を直に海の獸に對して應用した例がある。長門風土記に依れば、此國大津郡通島は鯨取の盛な島である。此浦の向岸寺の抱なる觀音堂の中に、元祿五年に安置した鯨の位牌がある。立派な位牌で上に梵字を書き眞中に南無阿彌陀佛とあつて、其左右に業盡有情、雖放不生、故宿人天、同證佛果と書いてある。長門仙崎の寺にも之と同樣の位牌があつて、雙方共に每年三月に鯨の供養をする例であつた。人天は人中よりも大分哲學的であるが、兎に角手前勝手な文句である。一休和尙の逸事にも之に似た話がある。手前勝手とは云ひながら之をすら遣らない今の人は笑ふ事は出來ぬ。殺すけれども化けるなは少なくとも一箇の挨拶であつた。昔者は此の如く非類とも精神上の附合をして居たのである。羽後の男鹿半島の光飯寺では每年十月、朔日に鰰の祭をした。鰰は秋田名物八森鰰云々の歌もあつて、此海で澤山に捕られる魚である。風俗問狀答に依れば、此日は浦々の漁民めいめい小石を多く持來る、寺の僧此石に光明眞言を一字づつ書し神前に法樂加持す、漁民之を持歸り五穀を添へ己が漁場の海中へ散し入る。是漁業の利を得んことを折り、且つ數萬の魚の爲に冥福を囘向するとなりとある。米を散すと云ふ一點からも魚の精靈に對する浦人の態度がよく窺はれるのである。

[やぶちゃん注:「大津郡通島」山口県長門市の北の日本海にある青海島(おおみじま/おうみじま)の東部分の通(かよい)地区(グーグル・マップ・データ)。この島は以前は、本土の一部を含めて大津郡仙崎通村(せんざきかよいむら)であった。拡大すると、「くじら資料館」があり、「向岸寺」(浄土宗)も現存する。

「抱なる」「かかへなる」と訓じておく。「所属であって管理している」の意であろう。

「長門仙崎」上記の青海島と陸の岬部分も含む長門市仙崎。「寺」は島に複数あり、岬にもあるので、特定は不能。

「男鹿半島の光飯寺」寺名は「こうぼうじ」と読む。半島岬のど真ん中のここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「鰰」言わずもがな、「はたはた」と読み、スズキ目ハタハタ科ハタハタ属ハタハタ Arctoscopus japonicus

「風俗問狀答に依れば、……」「風俗問狀答」は「ふうぞくとひじやうこたへ」と読み、出羽国秋田領の「答書」(こたえがき)。主な執筆者は秋田藩の藩校明徳館の儒者那珂通博(なかみちひろ)で、跋文により、文化一一(一八一四)年に成立したことが判る。国立国会図書館デジタルコレクションの「諸國風俗問狀答」(中山太郎校註・昭和一七(一九四二)年東洋堂刊)の活字本のここで当該部が視認出来る。]

2023/03/07

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その9) / ヤギヤウサン・クビナシウマ・後記 / 柳田國男「妖怪談義」(全)電子化注~了

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここ。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。

 これを以って、柳田國男の単行本「妖怪談義」の全篇電子化注を完遂した。]

 

ヤギヤウサン 阿波の夜行樣《やぎやうさま》といふ鬼の話は民間傳承にも出て居る(三卷二號)。節分の晚に來る髭の生えた一つ目の鬼といひ、今は嚇《おど》されるのは小兒だけになつたが、以前は節分・大晦日・庚申の夜の外に、夜行日といふ日があつて夜行さんが、首の切れた馬に乘つて道路を徘徊した。これに出逢ふと投げられ又は蹴殺《けころ》される。草鞋を頭に載せて地に伏して居ればよいといつて居た(土の鈴一一號)。夜行日は拾芥抄《しふがいしやう》に百鬼夜行日とあるのがそれであらう。正月は子の日、二月は午の日、三月は巳の日と、月によつて日が定まつて居た。

[やぶちゃん注:ウィキの「夜行さん」を見られたい。そこには、大晦日・節分・庚申の日・夜行日(陰陽道による忌み日。正月と二月の子の日、三月と四月の午の日、五月と六月の巳の日、七月と八月の戌の日、九月と十月の未の日、十一月と十二月の辰の日)に現われる鬼形の物とする。

「土の鈴」民俗学者本山桂川(『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと』で既出既注)が編集していた民俗学雑誌。

「拾芥抄」本邦で中世に編纂された類書(百科事典)。全三巻。詳しくは当該ウィキを見られたい。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長年間の板本の第三巻のここに、

   *

夜行夜途中歌

 カタシハヤエカセニクリニタメルサケテヱヒアシエヒ我シコニケリ

   *

とあるのは、百鬼夜行に出逢わないように唱える防御のための呪文らしい。底本では最後の「我シコニケリ」の「コ」が右向きに反転しているが、ネット上の複数の記載で「コ」と訂した。或いはこの反転自体が何らかの呪術である可能性もあろうか。それらの記載では、次のように切っているものが多い(以下はこちらに従った)。

   *

 カタシハヤ エカセニクリニ タメルサケ テヱヒ アシエヒ 我シコニケリ

   *]

クビナシウマ 首無し馬の出て來るといつた地方は越前の福井にあり、又壹岐島にも首切れ馬が出た。四國でも阿波ばかりでなくそちこちに出る。神樣が乘つて、又は馬だけで、又は首の方ばかり飛びまはるといふ話もある。

[やぶちゃん注: 先のウィキの「夜行さん」には、鬼の「夜行さん」は首切れ馬(首のない馬の妖怪)に乗って徘徊するとある。但し、ウィキには独立した妖怪としての「首切れ馬」もある。

 以下は、一行空けの後、底本では全体が一字下げ。]

 

 示現《じげん》諸相の中でも、最も信者の少ない妖怪のいひ傳へは、實在の言葉で採錄して置くより他に、その形體を把捉するの途が無いので、諸君の力を借り、出來るだけ多くの名と說明とを集めて見ようとするのである。まだ中々續きさうなので、これからは時々中絕するつもりであるが、中絕しても蒐集を止めて居るのではない。五十音順にでも整理して置いて、なほ續々不足を補はれんことを希望する。

[やぶちゃん注:「五十音順にでも整理して」せめても本篇自体をそうして欲しかったな、柳田先生。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その8) / ヒトリマ・ヒヲカセ・ミノムシ・キツネタイマツ・テンピ・トビモノ・ワタリビシヤク・トウジ・ゴツタイビ・イゲボ・ケチビ・ヰネンビ・タクラウビ・ジヤンジヤンビ・バウズビ・アブラバウ・ゴンゴロウビ・ヲサビ・カネノカミノヒ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。

 以上の十九条は総てが、怪火の怪であるから、長いが、ソリッドに纏めた。

 

ヒトリマ 火取魔といふ名はたゞ一つ、加賀山中溫泉の例が本誌に報告せられたのみであるが(民間傳承三卷九號)、路傍に惡い狐が居て蠟燭の火を取るといふ類の話は諸處にある。果してこの獸が蠟燭などを食ふものかどうか。或は怪物の力で提燈の火が一時細くなるといふ石川縣のやうないひ傳へが、他にもあるのでないかどうか。確めて見たい。

[やぶちゃん注:「火取り魔」当該ウィキを参照。

「果してこの獸が蠟燭などを食ふものかどうか」人間も食用に出来る蜜蝋なら食わぬでもなかろうが、通常の蝋燭を雑食性のホンドギツネか食うとは私にはちょっと思われない。

「怪物の力で提燈の火が一時細くなる」当該ウィキにある、加賀山中温泉の『こおろぎ橋』(ここ)『の近くに姥の懐』(うばのふところ)『と呼ばれる場所があり、夜にここを人が提灯を灯して通ると、提灯の火がまるで吸い取られるように細くなり、そこを通り過ぎるとまた元通り明るくなるという』。『土地の住民からは、この現象は火取り魔という妖怪の仕業と呼ばれており』、当『温泉ではキツネが悪さをしているともいう』。『河童が正体ともいわれる』とあるのを指す。「姥の懐」であるが、choraku氏のブログ「山中温泉のてんこもり」の「姥のふところってどこよの巻」で古地図も示されて推理されておられるので、見られたい。]

ヒヲカセ 火を貸せといふ路の怪が出る場處が、三河の北設樂《きたしたら》郡にはある。昔鬼久左《おにきうざ》といふ大力の男が夜路を行くと、さきへ行くおかつぱの女の童がふりかへつて火を貸せといつた。煙管を揮つて打据ゑようとして却つて自分が氣絕してしまつた。淵の神の子であつたらうといふ(愛知縣傳說集)。或はこれとは反對に、夜分人が通ると提燈のやうな火が出て送つて來るといふやうな所もあつた。或村の古榎の木の下まで來ると消える。それでその古木を伐つてしまつたら出なくなつたといふ(同上)。

[やぶちゃん注:「北設樂郡」愛知県の北東部の郡名。旧域は当該ウィキ地図を見られたい。

「愛知縣傳說集」国立国会図書館デジタルコレクションの愛知県教育会編で郷土研究社昭和一二(一九三七)年刊の原本のここの「59 龜淵の河小僧(北設樂郡)」で視認出来る。但し、主人公の「鬼久左」はそちらでは、『鬼久左右衞門』であり、前の「58 山犬(北設樂郡)」にも登場しており、本名は『小石久右衞門、俗に鬼久右衞門と言ふ名の三人力又五人力といはれる力持』ちであったとある。

「夜分人が通ると提燈のやうな火が出て送つて來るといふやうな所もあつた。或村の古榎……」同原本のここの「65 おくり火(寶飯郡)」である。]

ミノムシ 越後では評判の路の怪で或は鼬のしわざともいふ。小雨の降る晚などに火が現れて蓑の端にくつゝき、拂へば拂ふほど全身を包む。但し熱くはないといふ(西頸城郡鄕土史稿二)。信濃川の流域にはこの話が多く、或はミノボシともいふ。多人數であるいて居ても一人だけにこの事があり、他の者の眼には見えない(井上氏妖怪學四七九頁)。[やぶちゃん注:底本に句点はないが、おかしいので、「ちくま文庫」版で補った。]雨の滴が火の子のやうに見えるのだともいふ(三條南鄕談)。越前坂井郡でも雨の晚に野路を行くとき、笠の雫の大きいのが正面に垂れ下り、手で拂はうとすると脇へのき、やがて又大きい水玉が下り、次第に數を增して眼をくらます。狸のしわざといひ、大工と石屋とにはつかぬといふのが珍しい(南越民俗二)。秋田縣の仙北地方で蓑蟲といふのは、寒い晴れた日の早天に、蓑や被り物の端についてきらきら光るもので幾ら拂つても盡きないといふから、これは火では無い(旅と傳說七卷五號)。利根川圖誌に印旛沼のカハボタルといつて居るのは、これは夜中に出るので火に見えた。これも越後のミノムシと同じものだらうといつて居る。

[やぶちゃん注:ウィキの怪火(擬似も含む)「蓑火」(みのび)を参照されたいが、そこでは冒頭に『近江国(現・滋賀県)彦根に伝わる怪火』とするが、ここの「越後」は、「概要」部に、『同種の怪火は各地に伝承があり、秋田県仙北郡、新潟県中蒲原郡、新潟市、三条市、福井県坂井郡(現・坂井市)などでは蓑虫(みのむし)、蓑虫の火(みのむしのひ)、蓑虫火(みのむしび)、ミノボシ、ミーボシ、ミームシなどという。信濃川流域に多いもので、主に雨の日の夜道や船上で蓑、傘、衣服に蛍状の火がまとわりつくもので、慌てて払うと』、『火は勢いを増して体中を包み込むという。大勢でいるときでも一人にしか見えず、同行者には見えないことがあり、この状態は「蓑虫に憑かれた」と呼ばれる。逆に居合わせた人々全員に憑くこともあり、マッチなどで火を灯すか、しばらく待てば』、『消え去るという。中蒲原郡大秋村では、秋に最も多く出るという』とあることで、問題ない。

「井上氏妖怪學四七九頁」国立国会図書館デジタルコレクションのここ(479ページ)の同原本の左ページ五行目から視認出来る。かなり長く、485ページ末まで続く。所持する一九九九年柏書房刊の「井上円了・妖怪学全集」では第一巻の「妖怪学講義」の「第二 理学部門」の五三三ページ以降に載っている。電子化してもいいが、長過ぎるこれは、科学的に妖怪殲滅を標榜する円了が大嫌いな柳田國男には不愉快だろうから、敢えてやめておく。是非と懇望されれば、当該部を別記事で電子化するので、ご連絡戴きたい。

「三條南鄕談」『日本民俗誌大系』第七巻(北陸)に載る外山暦郎著「越後三条南郷談」である。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「怪火」の章の「蓑虫」の項である。

「寒い晴れた日の早天に、蓑や被り物の端についてきらきら光るもので幾ら拂つても盡きない」これは所謂、「ダイヤモンド・ダスト」のことであろう。

「利根川圖誌に印旛沼のカハボタルといつて居るのは、これは夜中に出るので火に見えた。これも越後のミノムシと同じものだらうといつて居る」「埼玉県立図書館」デジタルライブラリーのビューア版の第四巻11コマ目から「利根川圖志」(医師赤松宗旦が著した利根川中・下流域の地誌。安政五(一八五八)年刊)原版本の当該部が読める。非常に読み易いが、本書は私の愛読書でもあるので、電子化しておく。私は使い勝手のいいPDF一括版を用いた。「﹆」があるが、句読点・記号を私の判断で変更・追加した。読みは一部に留めた。下線は原本では二重右傍線。臨場感がある文章なので、読み易さも考え、段落を成形した。【 】は二行割注。

   *

カハボタル 俚言にカハボタルといふものあり。亡者の陰火なる由。

 形ち、丸くして、大さ、蹴鞠の如く、光りは螢(ほたる)火の色に似たり。夏秋の夜、あらはるゝ。雨の夜は、至つて、多し。水上、一、二尺離れて、いくつも出(いで)て、遊行するが如し。或は聚り、或は散じ、又は髙く、また、低く、はしる時は、矢のごとし。久雨(きうう)の節(せつ)は、夜な夜な、多く、是を見る。また、花嶋山[やぶちゃん注:「はなしまやま」。この条の後に出る通り、印旛沼の中にあった島の旧名。そこで既に『今は田畑となれり。島の廽(めぐ)り一里といへり。此絶頂にむかし寺あり大日本寺といふ。今は不動堂と篭り堂のみ殘れり』とある。「今昔マップ」を調べたが、旧地は見当たらなかったが、「利根川図志」の前の方に出る(一括版7コマ目)の絵図の「筑波山」と「吉高」の配置から推定すると、この中央附近にあったのではないかと踏んだ。]へ龍燈(りやうとう)の上ることあり。[やぶちゃん注:「龍燈」は南方熊楠の「龍燈に就て」(私の注附き一括PDF縦書版)を参照されたいが、「今昔マップ」の旧印旛沼の全体の形はまさに龍に相応しく、実際に龍伝承が印旛沼にはある。ウィキの「印旛沼の竜伝承」を読まれたい。

 さて、陰火・龍燈のたぐひ、種々(くさぐさ)の書に多く見ゆれど、詳かなるは、春暉[やぶちゃん注:医師で旅行家として多くの機構を残した橘南谿の本名宮川春暉(はるあきら)の名。但し、礼儀上、宗旦は音読みして「しゆんき」と読んでいるはずである。]が見たるとて、「西遊記」にしるしたる『筑紫(つくし)のしらぬ火』、また、越後國新道村(しんだうむら)飯塚氏の咄しを、牧之(ぼくし)老人雪譜[やぶちゃん注:これまた私の偏愛する「北越雪譜」。]に出したる、『頸城郡(くびきごほり)米山(よねやま)[やぶちゃん注:ここ。]の竜燈』なり。

 こゝに又、一竒說を擧ぐ。

 義知[やぶちゃん注:宗旦の本名。]壯年の頃、印旛江の邊(ほと)り、吉髙(よしたか)【「和名抄」に云『印旛郡吉髙』。】にありしとき、頃は五月の末なりしが、朋友(ともだち)來りて云ひけるやう、

「今宵は、そらもはれて、いと靜かなれば、慰みに釣に行べし。」

と、いひけるゆゑ、予も、

『幸(さいはひ)の事なり。』

と思ひ、早速、仕度とゝのへ、二人、連立ち、河岸(かし)に行き、手に手に、小舟に、うち乘り、江の半に至り、朋友(ともだち)の舟と、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかり隔(へだて)て、棹、つき立て、舟を繫ぎ、釣をたれて居(ゐ)たりけるに、最早、子刻(よなか)ともおぼしき頃、俄(にはか)に、空、かき曇り、朦𪱨(もうろう)として、物さびしく、程なく、大風、吹起り、雨、降りいだし、誠に、しんの闇となり、十間計りはなれ居たる朋友の舟も、見えずなりぬ。

『こは、いぶかし。』

と思ふ内、幽(かすか)に、遠き水中より、一つの靑き火、

「閃々(ひらひら)」

と燃(もえ)あがりぬ。

『是なん、かの亡者のカハボタルならん。』

と見居たるに、だんだんと、わが方に近付き來りぬ。

『逃げかへらん。』

と思へども、風、つよければ、舟を動かす事もならず、衣服はぬれて、戰慄(ぞつと)するに、心をしづめ、

『朋友を、呼ばん。』

とすれど、更に声も出(いで)ず。

『如何がはせん。』

と、ためらふ内、カハボタルは、わがふねの舳(へ)さきに乘(のり)たり。

『こは、かなはじ。』

と思へども、すべきやうなく、たゞ、目をとぢて、一心に念佛するのみなり。

 暫(しばらく)して、雨、やみ、風も、ちと靜まりぬれば、こはごはと、目を開き見るに、はや、カハボタルは何𠙚(いづこ)へか消(きえ)うせ、空も、少し晴れて、朋友(ともだち)の舟、もとの𠙚に居たり。

 このとき、はじめて、こゑをいだし、

「今の、カハボタルを、見しや。」

と問へば、

「我も見たれ共、おそろしさに、物も云はず。」

と荅(こた)ふ。

 やうやう、人心地(こゝち)付て、早々、我家にかへり來りぬ。

 翌朝、漁師ども、大勢居たる所にて、右の咄しを、くはしく物語せしに、猟師ども、云けるは、

「其くらゐの事は、度々のことなり。我らは、一昨夜、漁に出しに、彼(かの)カハボタル、我か舟に乘(のり)たり。其時は、大勢ゆゑ、おそろしとも思はず、舟棹(ふなざを)を以て、力に任せ、打たゝきし所、碎(くだ)け散(ちつ)て、舟一面に火となり、塗(ぬり)付けたる如く、その腥(なまぐさ)き叓[やぶちゃん注:「事」の異体字。]、譬(たと)ふべき物なし[やぶちゃん注:「譬」は底本では、「壁」の左上部分を「石」にした字体。表示出来ないので以上に代えた。]。其質(しつ)、油の如く、阿膠(にかは)の如く、ぬるぬる、ひかひかとして、落ず[やぶちゃん注:「おちず」。]。みなみな、打寄り、やうやうと、洗ひ落しぬ。」

と、大勢の物語なり。

 又、其内一人の云ひけるは、

「四、五年以前の叓なるが、われ、或夜、投網(とあみ)うちの艫漕(ともこぎ)に出でし所、彼(かの)カハボタル、いくつともなく出來り、舟近く、ふはふはと、飛(とび)めぐる。網とりは剛氣(かうき)の男ゆゑ、此時、小声にて、我に、さとしければ、我も、うなづきながら、舟を廽(めぐ)らし、かのカハボタルを、追ひかけまはす。網とりは、あみを小脇に引かまへ、舟の舳(へ)さきに突立(つゝたち)あがり、手頃(てごろ)を見さだめ、『こゝぞ。』と網を投(うち)ければ、按(あん)にたがはず、カハボタル一ツを、打かぶせぬ。其時も、腥きこと、いはん方なく、網の中は、一面に、青き火となり、ぬるぬるして、落(おち)ず。いかんともすべきやうなく、手にて、もみ洗ひければ、其手、二、三日も腥かりし故、一昨夜も、大勢にて、舟を洗ひしが、我は以前にこりて居(おり)しゆゑ、それと云はず、手を付けざりし。」

と、いひて、大に笑ひぬ。

 かのカハボタルといふものを生捕りて、その形質をあらはししは、印旛江の猟師なるべし。

   *

個人的には、潰すと腥く、臭いが残るというのは、ホタル類の属性と一致するし、淡水の水辺で多量に発生し、夜間に発光し、しかも飛翔するのは、それ以外には考えられない。]

キツネタイマツ 狐火と同じものらしいが、羽後の梨木羽場といふ村では、何か村内に好い事のある際には、その前兆として數多く現れたといつて居る(雪の出羽路、平鹿《ひらか》郡十一)。どうして狐だといふことが判つたかゞ、寧ろより大きな不思議である。中央部では普通に狐の嫁入といふが、これは行列の火が嫁入と似て居て、どこにも嫁取が無いからさう想像したのであらうが、それから更に進んで、狐が嫁入の人々を化かし、又は化けて來たといふ話も多く出來て居る。

[やぶちゃん注:「羽後の梨木羽場」秋田県横手市十文字町梨木羽場下(なしのきはばした)附近。

「雪の出羽路、平鹿郡十一」国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書』第七巻のこちらにやっと見つけた(「○梨木羽奈場村(一)」の「○古名字地」の末尾)。左ページ一行目半ばから。『きつね松明(たいえまつ)』とあり、『村に幸なる事あれば、數もしらず千々の狐火を燭(とも)す』とあって、これは半端ない凄い数だ。因みに、私の父は敗戦直後、考古学調査に行った鬼石(おにし:群馬県藤岡市鬼石)で実際の山を登ってゆく狐火の列を目撃している。泊った村の人がそう教えて呉れたそうである。]

テンピ 天火。これは殆と主の知れない怪火《くわいくわ》で、大きさは提燈ほどで人玉のやうに尾を曳かない。それが屋の上に落ちて來ると火事を起すと肥後の玉名郡ではいひ(南關方言集)、肥前東松浦の山村では、家に入ると病人が出來るといつて、鉦を叩いて追出した。或はただ單に天氣がよくなるともいつたさうである。

[やぶちゃん注:当該ウィキを参照されたい。

「肥後の玉名郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「南關方言集」不詳。この「南關」というのは。熊本県玉名郡南関町のことであろう。当該書籍は確認出来なかった。

「肥前東松浦」郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、「山村」とあるから、これは現在の唐津市の南東部の、この中央附近と考えるのが妥当であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

トビモノ 光り物といふ言葉は中世には色々の怪火を呼んで居る。この中には流星もあり、又もつと近い處を飛ぶ火もあつた。茨城縣北部では現在も飛び物といつて居る。蒟蒻玉が飛びものになつて光を放つて飛ぶことがあるといふ。山鳥が夜飛ぶと光つて飛びものとまちがへることがあるともいふ。京都でも古椿の根が光つて飛んだといふ話などが元はあつた。

[やぶちゃん注:所持する柴田宵曲編「奇談異聞辞典」(二〇〇八年「ちくま学芸文庫」刊)に二箇所の記載がある(柴田はパブリック・ドメイン。私は既にブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で彼の「妖異博物館」の正・続の総ての電子化注を終わっている)。

   *

 飛物(とびもの) 〔反古のうらがき巻一〕四ツ谷裏町〈東京都新宿区内〉の与力某打寄りて、棊(ご)を打ちけるが、夜深けて各〻(おのおの)家に帰るとて立出しに、一声がんといひて光り物飛び出で、連立ちし某がながしもとあたりと思ふ所へ落ちたり。直に打連れて其所に至り、挑燈(ちょうちん)振りてらして尋ねけるに、何もなし。明(あく)る朝主人立出て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付きたる真鍮の大鈴一ツ打込みてあり。神前などにかけたる物と覚えて、ふるびも付きたり。かゝる物の此所に打捨て有るべき道理もなければ、定めて夜前の光り物はこれなるべしと云へり。この大鈴何故光りを放して飛び来けるや、その訳解しがたし。天保初年の事なり。この二十年ばかり前、十月の頃八ツ時(午後二時)頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、〈鈴本桃野〉が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の声鳴渡りけり。時ならぬこととばかり思ひて止みぬ。一二日ありて聞くに、早稲田と榎町〈共に新宿区内〉との間、とゞめきといふ所に町医師ありて、その玄関前に二尺に一尺ばかりの玄蕃石(げんばいし)[やぶちゃん注:長方形の板石。敷石又は蓋石に用いる。]の如き切り石落ちて二つに割れたり。焼石と見えて余程あたゝかなり。其所にては響も厲(はげ)しかりしよし。浅尾大嶽その頃そのわたりに住居して、親しく見たりとて余に語る。これも何の故といふことをしる者なかりし。後に考ふるに、南の遠国にて山焼ありて吹上げたる者なるべし。切石といふも方直に切りたる石にてはなく、へげたる物なるべし。

   *

 白昼の飛び物(はくちゅうのとびもの) 〔梅翁随筆巻八〕己未の十月十四日、天気快晴にて風もなく、霞めるごとくにて、さながら二三月頃にことならず。この日大坂にて、淀川の方より天王寺の方へ、蜘蛛の巣のごときもの、先は丸くかたまりたる物、いくらといふ事なく引つゞき飛行、落ちんとしてまた上りて行く多し。その中に一ツ二ツ地に落ちたるを取て見るに、全く蜘蛛の囲[やぶちゃん注:「ゐ」。]のごとくにて、その糸よほど太し。掌に入れてもめば、皆消え行きて跡にものなし。この日昼頃より飛びはじめて、昼過ぐる頃ことに多く飛びて、八ツ時半(午後二時)頃にいたりてやみぬ。何ゆゑといふ事を知らず。翌日も天気昨日のごとく快晴なり。風は少々あり。きのふみぬ人も多ければ、朝とくより暮れがたまで心がけ居たれども、いさゝかの飛ものもなし。これらの事は、いかなるゆゑならんといぶかし。

   *

UFO研究家の私としては、後者はまさに「エンジェル・ヘア」である。御存じない方は、「カラパイア」の「UFOの目撃情報と関連して報告されるエンジェルヘア現象とは?」を見られたい。UFO絡みでは、一九五二年のフランスのオロロンで発生した事件が最も知られる。「exciteニュース」の『UFO出現で降り注ぐ粘着物質「エンジェルヘア」とは? 1500年間で225例、科学者も熱視線』を読まれたい。]

ワタリビシヤク 丹波の知井の山村などでは光り物が三種あるといふ。その一はテンビ、二は人ダマ、三はこのワタリビシャクで蒼白い杓子形のものでふわふわと飛ぶといふ。名の起りはほゞ明らかだが、何がこれになるのかは知られて居ない。

[やぶちゃん注:「丹波の知井」現在の京都府美山町地区。]

トウジ 暴風雨中に起る怪光をトウジといふ(土佐方言の硏究)。不明。

[やぶちゃん注:「土佐方言の硏究」高知県女子師範学校郷土室編・昭一一(一九三六)念高知県女子師範学校刊。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のこちらの方言リストの中に「トージ」として出る。]

ゴツタイビ 鬼火のことゝいふ(阿山《あやま》郡方言集)。

[やぶちゃん注:「阿山郡方言集」阿山は三重県にあった旧郡。旧郡域は当該ウィキを見られたい。三重県西北部端である。本書は正しくは明治三七(一九〇四)年阿山郡教育会編刊の「阿山郡方言訛語集」である(日文研「怪異・妖怪伝承データベース」の「ゴッタイビ」で確認)。]

イゲボ 伊勢度會《わたらひ》郡で鬼火をイゲボといふ。他ではまだ耳にせぬので、名の由來を想像し難い。

[やぶちゃん注:「伊勢度會郡」旧郡域は当該ウィキを見られたい。]

キカ 薩摩の下甑島《しもこしきじま》で火の玉のことだといふ。大きな火の玉の細かく分れるものといふ。鬼火の漢語がいつの間にか、こんな處に來て土着してゐるのである。

[やぶちゃん注:「下甑島」鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市下甑島。]

ケチビ 土佐には殊にこの話が多い。大抵は人の怨靈の化するものと解せられて居る(土佐風俗と傳說)。竹の皮草履を三つ叩いて喚べば近よるといひ(鄕土硏究一卷八號)、又は草履の裏に唾を吐きかけて招けば來るといふのは(民俗學三卷五號)、もとは人の無禮を宥《ゆる》さぬといふ意味であつたらしい。佐渡の外海府にも人魂をケチといふ語がある。

[やぶちゃん注:「土佐風俗と傳說」寺石正路編。国立国会図書館デジタルコレクションで『爐邊叢書』二十七のここから読める。柳田の記載は短いが、原本では「其七 怪火火玉」で膨大な「怪火(けちび)」の記載が読める。

「佐渡の外海府」大佐渡の大陸側の約五十キロメートルの長大な海岸線を指す。]

ヰネンビ 沖繩では亡靈を遺念と呼び從つて遺念火の話が多い(山原《やんばる》の土俗)。二つの注意すべき點は、大抵は定まつた土地と結び付き、さう自由に遠くへは飛んで行かぬことゝ、次には男女二つの靈の火が、往々つれ立つて出ることである。これは他府縣でもよく聽く話で古い形であらうと思ふ。但し亡靈火と現在よばれて居るのは、專ら海上の怪火《くわいくわ》のことで、これは群を爲し又よく移動する。

[やぶちゃん注:「ヰネンビ」とあるが、沖縄方言では「いにんびー」である。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」の「イニンビー」で確認した。そこには百『年くらい前に美しい娘がいて、若者と恋に落ちた。それを島の若者たちに囃したてられた娘は、恥ずかしさと驚きから、崖から落ちて自殺した。それをみた恋人の若者も後を追って自殺した。浮かばれない二人の怨霊が遺念火の由来である』という悲恋譚がちゃんと記されてある。同様に「亡靈火」という語も出典を明らかにして欲しかった。甚だ不満である。]

タクラウビ 備後御調《みつぎ》郡の海上に現れるといふ怪火で、火の數は二つといふから起りは「比べ火」であらう。藝藩通志卷九九に見えて居るがこの頃はもういはぬやうである。藝備の境の航路には又京女郞筑紫女郞といふ二つの婦人の形をした岩の話などもあつて、もとは通行の船の信仰から起つたことを想像せしめる。

[やぶちゃん注:「備後御調郡」「ひなたGPS」で旧「御調郡」を中央にポイントした。この海岸部である。

「藝藩通志卷九九」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここで視認出来る。下段の「多久良火」であるが、柳田の紹介は杜撰。かなりちゃんと書かれている。読まれたい。]

ジャンジャンビ 奈良縣中部にはこの名をもつて呼ばれる火の怪の話が多い。飛ぶときにジャンジャンといふ音がするからともいふ。火は二つで、二つはいつ迄も逢ふことが出來ぬといひ、これに伴なふ乙女夫川《めをとがは》・打合ひ橋などの傳說が處々にあつた(旅と傳說八卷五號)。柳本《やなぎもと》の十市城主の怨靈の火と傳ふるものは、又一にホイホイ火ともいふ。人が城址の山に向つてホイホイと二度三度喚ぶと、必ずジャンジャンと飛んで來る。これを見た者は病むといふから(大和の傳說)、さう度々は試みなかつたらうが今でも至つて有名である。

[やぶちゃん注:私の好きな怪火。ウィキの「じゃんじゃん火」を見られたい。

「柳本の十市城」十市城跡は奈良県橿原市十市町のここ。現在の柳本地区(奈良県天理市柳本町(やなぎもとちょう))はその北東に当たる。次注参照。

「大和の傳說」国立国会図書館デジタルコレクションの大和史蹟研究会刊高田十郎ら編の同書の増補版(昭和三四(一九五九)年版)のこちら(「一八九、ホイホイ火 天理市柳本町 (旧磯城郡[やぶちゃん注:「しきぐん」。]柳本町柳本)」)を参照。]

バウズビ 加賀の鳥越村では坊主火といふ火の玉が、飛びあるくことが有名である。昔油を賣る男が惡巧みをして鬢附けを桝の隅に塗つて桝目を盜んだ。その罰で死んでからこの火になつたといつて居る(能美郡誌)。しかし油商人なら坊主といふのは少しをかしい。

[やぶちゃん注:日文研「怪異・妖怪伝承データベース」の「ボウズビ」に、同じ典拠で、『油を売る男が悪巧みをして鬢付け油を桝の隅に塗って桝目を盗んだ。その罰で、男は死んでからこの坊主火になったといわれている。まずは数百の火光列を作ってあちこちにいって、やがて一直線状、そして一個となってから上空に消えたという。しばしば見られるという』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「石川縣能美郡誌」(大正一二(一九二三)年刊)のここで視認出来る。

「油商人なら坊主といふのは少しをかしい」火の玉の形状を坊主頭のミミクリーとするなら、おかしくはあるまい。]

アブラバウ 近江野洲《やす》郡の欲賀(ほしか)といふ村では、春の末から夏にかけて夜分に出現する怪火《くわいくわ》を油坊といふ。その火の焰の中には多くの僧形を認めるといつてこの名がある。昔比叡山の僧侶で燈油料を盜んだ者の亡靈がこの火になつたと傳へられる(鄕土硏究五卷五號)。河内枚岡《ひらをか》の御社に近い姥《うば》が火を始めとしてこの怪し火には油を盜んだ話がよく附いて居る。或は民間の松の火が、燈油の火に進化した時代に、盛んにこの空想が燃え立つた名殘かも知れぬ。越後南蒲原の或舊家に昔アブラナセといふ妖怪が居て家の者が油を粗末に使ふとすぐに出て來てアブラナセ、卽ち油を返濟せよといつたといふ話がある(三條南鄕談)。鬼火では無いがこれと關係があるらしい。以前は菜種は無く皆《みな》胡麻油であつた。つまり今日よりも遙かに貴重だつたのである。

[やぶちゃん注:「近江野洲郡の欲賀」滋賀県の旧郡。郡域は当該ウィキの地図を見られたい。「欲賀」は現在の滋賀県守山市欲賀町(ほしかちょう)。

「三條南鄕談」既出既注の『日本民俗誌大系』第七巻(北陸)に載る外山暦郎著「越後三条南郷談」。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の「怪火」の章の「油なせ」の項である。]

ゴンゴロウビ 越後本成寺《ほんじやうじ》村には、五十野《ごじゆうな》の權五郞といふ博徒が、殺された遺念といつてこの名の火の燃える場處がある。今では附近の農家ではこれを雨の兆《きざし》とし、この火を見ると急いで稻架《はさ》を取込むといふ(三條南鄕談)。

[やぶちゃん注:前注のリンク先と同じ個所に所載する。読みはそこに拠った。

「越後本成寺村」現在の新潟県三条市西本成寺。]

ヲサビ 日向の延岡附近の三角池といふ池では、雨の降る晚には筬火(をさび)といふのが二つ出る。明治のなかば迄は折々これを見た人があつた。昔二人の女が筬を返せ返したで爭ひをして池に落ちて死んだ。それで今なほ二つの火が現れて喧嘩をするのだと傳へて居る(延岡雜記)。二つの火が一しよに出るといふ話は、名古屋附近にもあつた。これは勘太郞火と稱してその婆と二人づれであつた。

[やぶちゃん注:「三角池」不詳。一部のネットで心霊スポットとされる金堂(こんどう)ヶ池が候補となるか。

「勘太郞火」ryhrt氏(東洋大学非常勤講師廣田龍平氏)のブログ「妖怪と、人類学的な雑記」の「勘太郎火と勘五郎火」が不審を明らかにして(「その婆と二人づれ」とは勘太郎とその母の霊である)詳細に解説して呉れている。必見!]

カネノカミノヒ 伊豫の怒和(ぬわ)島では大晦日の夜更に、氏神樣の後《うしろ》に提燈のやうな火が下り、わめくやうな聲を聽く者がある。老人はこれを歲德神《としとくじん》が來られるのだといふさうである。肥後の天草島では大晦日の眞夜中に、金《カネ》ン主《ヌシ》といふ怪物が出る。これと力くらべをして勝てば大金持になるといひ、武士の姿をして現れるともいつた(民俗誌)。多くの土地ではこれは一つの昔話だつたやうである。夜半に松明をともして澤山の荷馬が通る。その先頭の馬を斫《き》れば黃金だつたのに、氣おくれがして漸く三番目の馬を斫つたら、荷物は全部銅錢であつて、それでも結構長者になつたなどといつて居る(吾妻昔物語)。

[やぶちゃん注:「伊豫の怒和(ぬわ)島」愛媛県松山市に属する島。ここ

「民俗誌」「天草民俗誌」。浜田隆一著。国立国会図書館デジタルコレクションの『諸國叢書』第一編(昭和七(一九三三)年郷土研究社刊)のここ「(八)金(カネ)ン主(ヌシ)」が視認出来る。

「吾妻昔物語」これは「吾妻むかし物語」か。国立国会図書館デジタルコレクションの『南部叢書』第九冊の同書を見たが、下巻の「第四 瀨川淸助俄に有德に成し事」が、かなり酷似した話柄であるが、柳田國男の梗概とは一致を見ない。或いは、別伝本があるか。]

2023/03/06

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その7) / オイテケボリ・オツパシヨイシ・シヤクシイハ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

オイテケボリ 置いてけ堀といふ處は川越地方にもある。魚を釣るとよく釣れるが、歸るとなるとどこからとも無く、置いてけ置いてけといふ聲がする。魚を全部返すまでこの聲が止まぬといふ。本所七不思議の置いてけ堀などは、何を置いて行くのか判らぬやうになつたが、元はそれも多分魚の主《ぬし》が物をいつた例であらう。

[やぶちゃん注:「本所七不思議」の一つとしてよく知られるもの。「本所七不思議」は旧本所(現在の東京都墨田区のこの広域の旧地域)に江戸時代頃から伝承される怪奇談の名数。当該ウィキによれば、『伝承によって登場する物語が一部異なっていることから』八『種類以上のエピソードが存在する』とあって、「置行堀」・「送り提灯」・「送り拍子木」・「燈無蕎麦(あかりなしそば:別名「消えずの行灯(あんどん)」)・「足洗邸(あしあらいやしき)」・「片葉(かたは)の葦」・「落葉なき椎」・「狸囃子」(別名「馬鹿囃子」)・「津軽の太鼓」が挙がっており、総て独立リンクがあるので参照されたい。因みに、「置いてけ堀」の正式名は「錦糸堀」で、江東区登録史跡としての「おいてけ堀跡」はここにあり、その声の主(ぬし)を河童とするモニュメントはこちらにある。

「置いてけ堀といふ處は川越地方にもある」サイト「妖怪伝説の旅」の「おいてけ堀/置行堀(宮代町、川越市、越谷市)」には、標題にあるように、川越周辺外にもあるようである。それによれば、川越のそれは現在の埼玉県川越市吉田とされているらしい。]

オツパシヨイシ 土地によつてはウバリオン、又はバウロ石などともいふ。路傍の石が負うてくれといふのである。德島郊外のオッパショ石などは、或力士がそんなら負はれいといつて負うたら段々重くなつた。それを投げたところが二つに割れ、それきりこの怪は絕えたと傳へられて、永くその割れた石があつた(阿波傳說物語)。昔話の正直爺さんが、取付かば取付けといふと、どさりと大判小判が背の上に乘つたといふのと、系統を一つにする世間話で、實は格別こはくない例である。

[やぶちゃん注:「オツパシヨイシ」「オッパショ石」。当該ウィキによれば、『もとは徳島市二軒屋町』(ここ)『に存在し、名のある力士の墓石とされていた』。『この墓ができてから』二、三『ヶ月後、石が「オッパショ」と声を出し始めたので、この名前で呼ばれるようになった』とする。『「オッパショ」とは「背負ってくれ」という意味で、言われるがままに石を背負うと、最初は軽く感じるものの、次第に重さを増したという』。『この噂が高まったためにこの石のそばを通る者は少なくなったが、噂を聞きつけた力自慢の男が石のもとを訪れ』、『確かに「オッパショ」と声を上げるので背負ったところ、次第に重くなり始めた』。『この石には何者かが取り憑いていると直感した男は、石を力任せに地面に叩きつけたところ、石は真っ二つに割れた』。『その後、石が声を出すことは無くなったという』とあり、『現在ではこの石は、徳島市西二軒屋町と城南町境にある焼香庵跡墓地』(ここ)『に存在する』とあった。グーグル・マップ・データ航空写真を視認し、墓群とまさに「オッパショ大明神」を発見した。サイド・パネルの画像を見られたい。柳田は「妖怪談義」(狭義の正篇)の「八」でも言及している。

「ウバリオン」、新潟県三条市に伝わる妖怪「おばりよん」であろう。当該ウィキによれば、『大正時代の新潟の民俗誌』「越後三条南郷談」には、『「ばりよん」の名で記載があり』、『他にも「おんぶおばけ」「うばりよん』」『「おぼさりてい」とも言われる』とある。

「バウロ石」前掲と同系統の妖怪石。「ばうろ」とは、やはり、「おばうて呉れ」と言葉を発する「石」の意であろう。

「阿波傳說物語」国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで「オツパシヨ石の由來」が視認出来る。]

シヤクシイハ 作州箱村の箱神社の近傍に在る杓子岩は、夜間人が通ると味噌をくれといつて杓子を突出したのでこの名があるといふ(苫田《とまた》郡誌)。味噌を持つてあるく人もさう有るまいから、これはもと味噌を供へて祭つた石かと思はれる。

[やぶちゃん注:「作州箱村の箱神社」不詳。以下の「苫田郡誌」を国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、ここに当該部があったが、その「(六)杓子岩」の項には、『泉村大字箱舊箱神社の近傍に在り』とある。旧苫田郡を探ってみると、岡山県苫田郡鏡野町(かがみのちょう)の中に「鏡野町 泉公民館」を見出せた。この近くの「泉神社」のサイド・パネルの画像を見たところ、多量の氏神合祀を記した解説板の中に、『箱字茅ノ葉尻』として、『村社』『箱中神社』というのに目が止まった。しかして、遅ればせながら、この南西直近に岡山県苫田郡鏡野町箱(はこ)を発見出来た。ここのどこかに、この「箱神社」は在ったと考えてよい。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その6) / ヌリカベ・イツタンモメン・ノブスマ・シロバウズ・タカバウズ・シダイダカ・ノリコシ・ミアゲニフダウ・ニフダウバウズ・ソデヒキコゾウ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から、この最後の「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇の分割パートはここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本通り

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一三(一九三八)年六月から十月までと、翌十四年三月発行の『民間伝承』初出である。]

 

ヌリカベ 筑前遠賀《をんが》郡の海岸でいふ。夜路をあるいて居ると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といつて怖れられて居る。棒を以て下を拂ふと消えるが、上の方を敲《たた》いてもどうもならぬといふ。壹岐島でヌリボウといふのも似たものらしい。夜間路側《みちばた》の山から突出《つきだ》すといふ。出る場處も定まり色々の言ひ傳へがある(續方言集)。

[やぶちゃん注:やはり水木しげるによって全国的に知られるようになった、個人的には好きな妖怪の一つである。当該ウィキを見られたい。

「筑前遠賀郡」福岡県のその旧郡域は広い。当該ウィキの地図を参照。海岸線は、ほぼ九州の日本海側北東端部分を占める。

「續方言集」これは山口麻太郎著の「續壹岐島方言集」のことであろう。国立国会図書館デジタルコレクションの「山口麻太郎著作集 二(方言と諺篇)」の当該書のここで視認出来る。但し、そこでの見出しは「リボー」(下線はアクセント不明を示す)である。]

イツタンモメン 一反木綿といふ名の怪物。さういふ形のものが現れてひらひらとして夜間人を襲ふと、大隅高山《かうやま》地方ではいふ。

[やぶちゃん注:当該ウィキを読まれたいが、本来は近代以前にはメジャーな妖怪ではなかった。『一反木綿は古典の妖怪絵巻などによる妖怪画が確認されていないため、かつては比較的無名な妖怪だったが、水木しげるの漫画』「ゲゲゲの鬼太郎」に『登場してから一躍、名が知られることとなった』。『現在では同作での九州弁のトークと気のいい性格や、ユニークな飛行の姿などの理由で知名度も高く、人を襲うという本来の伝承とは裏腹に人気も高』く、『水木の出身地・鳥取県境港市の観光協会による』「第一回妖怪人気投票」『では』一『位に選ばれた』とある。私の亡き母の生地は以下の伝承地に比較的近いが、母は全く知らなかった。

「大隅高山地方」現在は地名変更で肝属(きもつき)郡肝付町(きもつきちょう)後田(うしろだ)となった。]

ノブスマ 土佐の幡多《はた》郡でいふ。前面に壁のやうに立塞《たちふさ》がり、上下左右ともに果《はて》が無い。腰を下して煙草をのんで居ると消えるといふ(民俗學三卷五號)。東京などでいふ野衾《のぶすま》は鼠(むささび)か蝙蝠《かうもり》のやうなもので、ふわりと來て人の目口を覆ふやうにいふが、これは一種の節約であつた。佐渡ではこれを單にフスマといひ、夜中後《うしろ》からとも無く前からとも無く、大きな風呂敷のやうなものが來て頭を包んでしまふ。如何なる名刀で切つても切れぬが、一度でも鐵漿《かね》を染めたことある齒で嚙切《かみき》ればたやすく切れる。それ故に昔は男でも鐵漿をつけて居たものだといひ、現に近年まで島では男の齒黑《はぐろ》めが見られた(佐渡の昔話)。用心深い話である。

[やぶちゃん注:当該ウィキもあるが、ここは私の「古今百物語評判卷之四 第三 野衾の事」がよかろう

「土佐の幡多《はた》郡」旧郡域は高知県の西部広域。当該ウィキの地図を参照。

「佐渡の昔話」不苦楽庵主人著(昭一三(一九三八)年池田商店出版部刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部が視認出来る。]

シロバウズ 泉州では夜分路の上でこの怪に遭ふといふ畏怖が今もまだ少し殘つて居る。狸が化けるものゝやうにいふが無論確な話でない。狐は藍縞《あゐじま》の着物を着て出るといふから、この白坊主とは別である。

[やぶちゃん注:当該ウィキがある。確かに「白坊主」は本邦の妖狐にして稲荷神である「白蔵主・伯蔵主・白蔵司(はくぞうす)」、所謂、狂言の「釣狐」(つりぎつね)のそれを直ちに想起するのだが(そちらの当該ウィキはこちら)、「白坊主」の「大阪府」の項で、『南部では、夜道で人が出遭うといわれるのみで、それ以上の具体的な話は残されていない。タヌキが化けたものという説があるが、定かではない』。『大阪の和泉では目・鼻・口・手足のはっきりしない、絣の着物を着た全身真っ白な坊主とも』、『風船のように大きくて丸い妖怪ともいい』、『いずれも人を脅かすだけで危害を与えることはない』。『キツネが化けたものともいうが、土地の古老によれば、この地方のキツネは藍染めの縞模様の着物を着て現れるため、キツネではないという』。『見越入道に類するものとする説もあるが、見越入道のように出遭った人間の前で背が伸びてゆくといった特徴は見られない』。『のっぺらぼうの一種とする説もある』と確かにあった。]

タカバウズ 讃岐の木田《きた》郡などで評判する怪物。背の途法も無く高い坊主で、道の四辻に居るといふ。阿波の山城谷《やましろだに》などでは高入道《たかにふだう》、正夫谷《しやうぶだに》といふ處に出る。見下せば小さくなるといふ(三好郡誌)。

[やぶちゃん注:「讃岐の木田郡」旧郡域は当該ウィキの地図を参照。

「阿波の山城谷」現在の徳島県三好市山城町(やましろちょう)白川(しらかわ)。簡易郵便局名に旧地名が冠されてある。

「正夫谷」徳島県三好市井川町(いかわちょう)井内東(うちひがし)正夫谷はここ。ちょっと山城谷からは東にずれる。バス停検索では読みは「まさおたに」かも知れない、とあった。]

シダイダカ 阿波の高入道とよく似た怪物を、長門の各郡では次第高といふ。人間の形をして居て高いと思へば段々高くなり、見下してやると低くなるといふ。

[やぶちゃん注:ウィキの「次第高」があるので見られたい。言い得て妙なる名である。]

ノリコシ 影法師のやうなもので、最初は目の前に小さな坊主頭で現れるが、はつきりせぬのでよく見ようとすると、そのたびにめきめきと大きくなり、屋根を乘越して行つたといふ話もある。下へ下へと見おろして行けばよいといふ(遠野物語再版)。

[やぶちゃん注:「遠野物語再版」昭和一〇(一九三五)年刊の「遠野物語 增補版」のこと。その柳田國男の補填した「遠野物語拾遺」の「一七〇」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここ。電子化しておく。【 】は底本の頭書を適当な箇所に挟んだもの。

   *

一七〇 ノリコシと謂ふ化け物は影法師の樣なものださうな。最初は見る人の目の前に小さな坊主頭になつて現はれるが、はつきりしないのでよく視ると、その度にめきめきと丈(たけ)がのびて、遂に見上げる迄に大きくなるのださうである【見越入道】。だからノリコシが現はれた時には、最初に頭の方から見始めて、段々に下へ見下(おろ)して行けば消えてしまふものだと謂はれて居る。土淵村の権蔵といふ鍛冶屋が、師匠の所へ徒弟に行つて居た頃、或夜遲く餘所から歸つて來ると、家の中では師匠の女房が燈を明るく灯して縫物をして居る樣子であつた。それを障子の外で一人の男が𨻶見をして居る。誰であらうかと近寄つて行くと、その男は段々と後退(ずさ)りをして【不氣味な後退り】、雨打ち石のあたりまで退いた。さうして急に丈がするすると高くなり、たうとう屋根を乗り越して、蔭の方へ消え去つたと謂ふ。

   *]

オヒガカリ 備後の比婆郡などでいふ化物の一種。あるいて居ると後から覆ひかゝつて來るものといふ。

[やぶちゃん注:現代仮名遣では「オイガカリ」だが、柳田の説明からは「覆(おお)い懸り」となろうか。「負ひ懸り」もありだろう。かの猿人「ヒバゴン」(リンクは当該ウィキ)はその先祖返りかのぅ?

「備後の比婆郡」明治三一(一八九八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、広島県庄原市の大部分(東城町新免・東城町三坂・総領町各町を除く)と、島根県仁多(にた)郡奥出雲町の一部(八川字三井野)。この附近。]

ノビアガリ 伸上り、見るほど高くなつて行くといふ化け物。川獺が化けるのだといふ。地上一尺ぐらゐの處を蹴るとよいといひ、又目をそらすと見えなくなるともいふ(北宇和)。かういふ種類の妖怪の、物をいつたといふ話は曾て傳はつて居ない。出て來るのではなくて、人が見るのである。

[やぶちゃん注:日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「ノビアガリ」愛媛県西予(せいよ)市城川町(しろかわちょう)採取として、『土居』(どい:ここ)『のアカハゲ』(不詳)『という所の大木に人が花を見ようと行くと、化け物がいた。顔はつるつるで、始めは奇妙な丸い大石のような物で手と足はあるようでない。それを見つめるとだんだん細長く大きくなり、見上げれば見上げるほど大きくなる。誰言うとなくノビアガリといって恐れた』とある。

「北宇和」愛媛県の郡。旧郡域は当該ウィキの地図を参照。]

ミアゲニフダウ 東京などの子供が見越し入道といふのも同じもの、佐渡では多く夜中に小坂路を登つて行く時に出る。始めは小坊主のやうな形で行く手に立塞がり、おやと思つて見上げると高くなり、後には後へ仰けに倒れるといふ。これに氣づいたときは、

   見上げ入道見こした

といふ呪文を唱へ、前に打伏せば消え去るといひ傳へて居る(佐渡の昔話)。壹岐では東京と同じに見越し入道といふが、夜中路をあるいて居ると頭の上でわらわらと笹の音を立てる。その時默つて通ると竹が倒れかゝつて死ぬから、やはり「見こし入道見拔いた」といはなければならぬといつて居る(續方言集)。

[やぶちゃん注:ウィキの「見上入道」を参照。

「小坂路」固有地名ではなく、一般名詞のようである。

「佐渡の昔話」前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここの「見上げ入道」で視認出来る。]

ニフダウバウズ 入道坊主、見越し入道のことである。三河の作手《つくで》村で曾てこれを見たといふ話がある。始めは三尺足らずの小坊主、近づくにつれて七八尺一丈にもなる。先づこちらから見て居たぞと聲を掛ければよし、向ふからいはれると死ぬといふ(愛知縣傳說集)。

[やぶちゃん注:「三河の作手村」愛知県新城市の作手地区

「愛知縣傳說集」国立国会図書館デジタルコレクションの愛知県教育会編の原本(昭和一二(一九三七)年郷土研究社刊のこちらで当該部が視認出来る。]

ソデヒキコゾウ 埼玉縣西部では袖引小僧の怪を說く村が多い。時は夕方路を通ると後から袖を引く者がある。驚いて振返ると誰も居ない。あるき出すと又引かれる(川越地方鄕土硏究)。

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、『埼玉県比企郡川島町中山上廓』(じょうかく:この附近)『や埼玉県南部付近に伝承が残る妖怪』とする。

「川越地方郷土研究」後の版だが、国立国会図書館デジタルコレクションの埼玉県立川越高等女学校編で一九八二年国書刊行会刊のここで視認出来る。]

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