柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(1)
[やぶちゃん注:以下、長いので、分割する。]
春
[やぶちゃん注:季標題。以下、本文。]
桃色に雲の入日やいかのぼり 其 木
句意は格別說明するまでのこともあるまい。この句の生命は云ふまでもなく「桃色」にある。夕日の空に凧の上つてゐるところは、必ずしも特色ある景色といふことは出來ないが、「桃色」を先づ點じ來つた爲、夕雲の鮮な色が眼に浮ぶやうに思はれる。
北原白秋氏の歌に「鳩鳥の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ」といふのがあつた。かういふ色彩に對する感覺は、近代人の得意とするところであるが、古人も決して閑却してゐたわけでないことは、この一句によつても自ら明であらう。
[やぶちゃん注:白秋の一首は歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年)に後に補填したもので、決定版で「野ゆき山ゆき」の「一」に出る一首。国立国会図書館デジタルコレクションの『白秋文庫』第一(昭和一二(一九三七)年アルス刊)の「文庫版『雀の卵』覺書」の「Ⅱ 訂正作について」の中に、そこでは、「『花樫』葛飾閑吟集」の冒頭に、
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野ゆき山ゆき
鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ
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とあり、更に、「現代短歌全集『北原白秋集』葛飾閑吟集」の冒頭に、
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野ゆき山ゆき
鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)のゆふがすみねもごろあかし春もいぬらむ
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の形で出るが、先行する同コレクションの「雀の卵」三部歌集同巻(大正一〇(一九二一)年アルス刊)では、「野ゆき山ゆき」の「一」(二首)の二首目に、ここにある通り、
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鳩鳥(にほどり)の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ
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とあった。]
鍬の刅の夕日に光ル田打かな 嘯 風
今日の眼から見ると、何となく平凡な句のやうに見える。併しこの句の出來た元祿時分にも、果して平凡だつたかどうかは疑問である。夕日に光る鍬の刅は、當時にあつてはむしろ新しい見つけどころではなかつたろうかといふ氣もする。
振上げ打おろす鍬の刄が、夕日を受けてきらりと光る。さういふ動作は句の表面に現れてはゐないけれども、「田打」といふ言葉によつて、同じやうな動作を繰返しつゝあることが連想されるのである。
「振あぐる鍬のひかりや春の野ら」といふ杉風の句も、略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同樣な光景に著眼しているが、この句に比べるとよほど大まかなところがある。杉風は「振あぐる」といふ動作に重きを置いてゐるに反し、嘯風はそれを「田打」といふ語に包含せしめ、夕日を點ずることによつて時閒的背景を明にした。兩句の相異は主としてその點から來てゐる。
[やぶちゃん注:句の「刅」は右端の「﹅」がない「刃」(ここは「は」と訓じてゐる)の異体字で「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、最も近い「刅」に代えた。
「嘯風」兼松嘯風(かねまつしょうふう 承応三(一六五四)年~宝永三(一七〇六)年)は蕉門の俳人。加茂郡深田村(現在の美濃加茂市深田町)の農家の生まれ。内藤丈草と各務支考と交流があった。宝永元(一七〇四)年、美濃派俳諧の集大成として編んだ美濃派俳人の句集「國の華」(全十二巻)の第四巻「藪の花」の選を担当し、可児・加茂地区の部分を担当した。蜂屋の俳人堀部魯九は嘯風に俳諧の手解きを受けている。交流のあった俳人たちとともに宝永二年の秋、句集「ふくろ角」を選集したが、刊行前の翌年五月に病没した。嘯風の子で俳人の水尺が嘯風追悼の句を加えて刊行している(以上は「美濃加茂市民ミュージアム」公式サイト内の「美濃加茂事典」のこちらに拠った)。]
うぐひすや內等の者の食時分 默 進
この句を讀むと直に蕪村の「うぐひすや家內揃うて飯時分」を思ひ出す。「食時分」はやはり「メシジブン」とよむのであらう。かう二つ竝べて見ると、「內等の者の」は「家內揃うて」よりも表現が不束な[やぶちゃん注:「ふつつかな」。]やうに思はれる。そこに修辭上における元祿と天明との差が認められるのであるが、「家內揃うて飯時分」といふ言葉には多少の俗氣があつて、蕪村の句としては上乘のものといふことは出來ない。食事時に鶯が啼くといふ全體の趣向からいつても、已に元祿にこの句がある以上、蕪村の手柄はやや少いわけである。
鶯の句には尙元祿に
鶯や宮のあかりの起時分 幾 勇
といふのがあり、天明にも
鶯のなくやきのふの今時分 樗 良
といふのがある。「何時分」といふ語で結ぶ句がいくつもあるのは偶然であるか、どれかの先縱に倣つたものであるか、その邊はよくわからない。
[やぶちゃん注:「樗良」三浦樗良(ちょら 享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)。名は元克。志摩国鳥羽の人。初め、貞門系の百雄に学んだが、次第に伊勢派に近づき、伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。宝暦九(一七五九)年、南紀に旅して「白頭鴉」(しらががらす)を編み、翌年には加賀へ、翌々年は、再び南紀に在って「ふたまた川」を編した。後、伊勢山田に庵を結び、門下を擁して「我庵」で自風の確立を示した。既白・闌更らと往来し、明和八(一七七一)年にも信濃から加越を巡って「石をあるじ」を編み、翌年は播磨に青蘿を訪ねた。安永二(一七七三)年からは、たびたび上洛して蕪村一派と親しく交わり、三年後には京に定住の居を得た。加越には、その後も、再三旅して俳圏を広げ、京近辺にも門人を増やし、中興諸家と交流して、その運動の一端を担って「天明俳諧」の立役者の一人となった。性格は放縦の一面、純心素朴で、句は平淡ながら、自然を深く詠みとって、微妙に香気を放つ。和歌の「あはれ」に心を寄せ,詩人風の繊細な感受性と、みずみずしい情感は、蕪村一派の共感を得た。編書は、そのほかにも多く、「樗良七書」、また『樗良七部集』が編まれている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。私の非常に好きな俳人である。]
鶯や片足あげて啼て見る 桃 若
スケッチである。鶯は昔から愛玩される鳥だけに、その形についてもいろいろな觀察が下されてゐるが、其角の「鶯の身を逆にはつねかな」にしろ、蕪村の「うぐひすの啼くやちひさき口明て」にしろ、梅室の「尾をそらす鶯やがて鳴きにけり」にしろ、皆これを遠く見ず、近く觀察してゐる點に注意すべきであらう。而もその動作がいづれも啼く場合のものであるのは、聲に重きを置く鳥だからである。桃若の句も鶯が片足あげてちよつと啼いて見たといふ、平凡な事柄のようでありながら、そこに一脈の生氣が動いてゐる。實際觸目の句なるが故に相違ない。
この作者は「豐後少年」といふ肩書がついてゐる。由來少年の句といふものは、大人の影響が多いせいか、子供らしいところを失ひがちなものであるが、この句などは比較的單純率直な部類に屬する。
籾ひたす池さらへけり藪の中 鶴 聲
苗代に種を蒔くに先つて[やぶちゃん注:「さきだつて」。]、籾種を水に浸して置く。普通に「種浸」[やぶちゃん注:「たねひ(び)たし」。]とか「種かし」とかいふのがそれで、浸す場所によつて「種井」とも「種池」とも呼ばれてゐる。この句はその籾を浸す前に池を浚つたといふ、やや特別な趣を捉へたのである。
藪の中にあるといふのだから、この池はさう大きなものとは思はれない。池を浚つて冬以來溜つてゐた水を一掃するのは、籾種を浸す爲に先づその水を淸からしむるのであらうと思ふ。農家の人々から見たら、あるいは平凡な事柄であるかも知れぬが、こういふ句は机上種浸の題を按じただけで拈出し[やぶちゃん注:「ひねだし」。]得るものではない。實感より得來つた、工[やぶちゃん注:「たくま」。]まざるところに妙味がある。
草に來て髭をうごかす胡蝶かな 素 翠
このままの句として解すべきである。「草に來て」といふ上五字に重きを置いて、花に來ないで草に來た、といふ風に解すると、理窟に墮する虞がある。この句の特色は蝶が草にとまつて髭を動かしてゐるといふ、こまかな觀察をしてゐる點にあるので、表現法の問題はともかく、古人の觀察も往々かくの如く微細な方面に亙ることを認めなければならぬ。
其角に「すむ月や髭を立てたる蛬[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]」といふ句がある。きりぎリすは姿態の美を見るべき蟲でないから、長い髭が目につくのも當然であるが、蝶は翅の美に先づ目を惹かれるものだけに――又その髭がさう著しいものでもないだけに、これに著眼することが、いさゝか特異な觀察になるのである。尤も觀察の精疎は直に句の價値を決定する所以にはならぬから、以上の理由だけを以て、この句をすぐれたものとするわけではない。
拍子木も絕て御堀の蛙かな 一 箭
拍子木を打つて廻つてゐた音が聞えなくなつて、御堀の蛙がしきりに鳴立てる。句の上にはこれだけしか現れてゐないけれども、城のほとりか何かで、夜も稍〻更けた場合かと想像される。「拍子木」と云ひ「蛙」と云つただけで、その音なり聲なりを連想させるのも、馴れては誰も怪しまぬが、俳諧一流の省略的表現である。
子規居士の「石垣や蛙も鳴かず深き濠」といふ句は、蛙が鳴くべくして鳴かぬ、閑寂たる深い濠を想像せしめるが、見方によつては夜と限らないでもよさそうな氣がする。この「御堀の蛙」が直に夜景を思ひ浮べしむるのは、上に「拍子木も絕て」の語があるからである。かういふ連想の力を除去すれば、俳句はかなり索然たるものになり了るに相違ない。
打はらふ袂の砂やつくくし 源 女
一見何人も婦人の句たることを肯定するであらう。女流俳句の妙味は常にこういふ趣を發揮する點にある。
吾々は元祿のこの句に逢著する以前、明治の『春夏秋冬』に於て
裏がへす袂の土や土筆 秋 竹
といふ句を讀んでゐた。頭に入つた順序は全く逆であるが、この「裏がへす」の句は「打はらふ」の句を換骨奪胎したものとは思はない。むしろ作者も選者も元祿にかういふ句のあることを、全然知らなかつたのではないかといふ氣がする。土筆を採つて袂に入れて歸る場合、いくらも起り得べき事實であるだけに、二百年を隔てて殆ど同一地點に掘り當てるやうなことになるのかも知れない。
[やぶちゃん注:「秋竹」竹村秋竹(しゅうちく 明治八(一八七五)年~大正四(一九一五)年)愛媛県生まれ。本名は修。四高在学中、金沢で正岡子規派の結社「北声会」を組織。東京帝大在学中、子規庵に出入りしたが、明治三四(一九〇一)年、子規の選句を無断で掲載した「明治俳句」を刊行して子規の怒りに触れ、一門を離れた。]
併し正直に云ふと、甞て「裏がへす」の句を讀んだ時には、別に女性的な句だとも感じなかつた。さう考へるやうになつたのは、「打はらふ」の句を知つた後である。吾々の鑑賞とか批評とかいふことも、存外種々な先入觀念に支配されがちなものであるらしい。
春雨や桐の芽作る伐木口 本 好
根もとから伐つた桐の株に新な芽を吹いて來る。桐の芽立は勢のいゝものではあるが、「桐の芽作る」といふ言葉から考へると、これはまだあまり伸び立たぬ時分であらう。春雨はしづかにこの伐株の上に降る。「伐木口」とあるが爲に、その木口も鮮に浮んで來るし、そこに「芽作る」新な勢の籠つてゐることも想像される。
桐の芽立は春の木の芽の中では遲い方である。長塚節氏の「春雨になまめきわたる庭の內に愚かなりける梧桐の木か」といふ歌は、その芽立の遲いところ、他の木におくれて猶芽吹かずにゐる有樣を詠んだのであるが、本好の句は已に芽吹かんとする趣を捉へてゐる。普通の芽立と、伐株の芽立との相違はあるにしろ、春雨の中の桐の木を描いたことは同じである。春もよほど暖になつてからの雨であることは云ふまでもない。
雉子啼や茶屋より見ゆる萱の中 蓑 立
野景である。今憩ひつゝある茶店から萱原が見える。その萱の中から雉子の啼く聲が聞えて來る、といふ句であるが、この茶店と萱との距離は、そう遠くないやうに思はれる。
雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない。眼に訴へる方の雄雉子ならば、距[やぶちゃん注:「けづめ」。中・大型の鳥の後脚の後部にある突起。]で「美しき貌かく」其角のそれにしても、「木瓜の陰に貌たぐひすむ」蕪村のそれにしても、胸裏に浮べ易いに拘らず、雄子の聲になると、直に連想に訴へにくいのである。勿論これは吾々の見聞の狹い結果に過ぎぬ、柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ。束京にいても耳にする機會はいくらもあつたらしいのである。
けれどもこの「萱の中」の句は、吾々が讀んでも雉子の聲が身に親しく感ぜられる。萱との距離が遠くなささうに思はれるのも、畢竟雉子の聲の親しさによるのであらう。その點は
雉子啼や菜を引跡のあたりより 鞭 石
といふ句もさうである。畑に來て何かを求食り[やぶちゃん注:「もとめあさり」。]つつある雉子の聲は、前の句より更に人に近い親しさを持つてゐる。尤もこの「引跡」といふ言葉は、文字通りに現在菜を引きつつある、その近くまで雉子が來て啼くものと考へなくても差支ない。菜を引いた跡の畑に來て啼くといふことでよからうと思ふ。
前の句は萱の中から聲が聞えるので、無論雉子の姿は見えて居らず、後の句も「あたりより」といふ漠然たる言葉によつて、やはり姿を表面に現さないでゐる。しかもこの場合、雉子の聲が毫も他のものに紛れぬ響を持つてゐるのは、實感の然らしむる所に相違ない。
[やぶちゃん注:「雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない」私は親しい。ワンダーフォーゲル部や山岳部の顧問であったから、山行でも何度も見かけたし、また、二校目に勤務した戸塚の舞岡高等学校の校門の上の斜面には、仲のいい雌雄のキジが住んでいて、毎日のように鳴き声や姿を見た。六年ほど前、千葉の夷隅地方に連れ合いと旅した際、「いすみ鉄道」のある駅(駅名失念。私は鉄ちゃんではない)で、向かいの畑地を行く雌雄の雉子を見た。いかにも長閑にともに歩き鳴いていた。この時、連れ合いは初めて野生の雉子を初めて見たのだった(私は職場結婚であったが、彼女が転任してきた私の最後の一年には、同校では雉子は見なくなっていた)。
[やぶちゃん注:『柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ』これは、柳田國男の「おがさべり――男鹿風景談――」(『東京朝日新聞』秋田版(大正七(一九一八)年六月一日附発行)が初出で、当該条は「雉の聲」の一節である。後に「雪國の春」(昭和三(一九二八)年岡書院刊)に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここが当該条で、当該部はここの左ページ一行目からの段落に当たる。短いので、同条総てを視認して電子化しておく。
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雉 の 聲
斯ういふ心持から、自分が男鹿の風景の將來の爲に、最も嬉しい印象を以て聞いて還ったのは、到る處の雉の聲であつた。雉だけは今でもまだ此半島の中に、稍多過ぎるかと思ふ程も遊んで居る。それがもう他の地方の旅では、さう普通の現象では無いのである。
又例の餘計な漫談であるが、雉の聲で思ひ出す自分の旅の記念は、多くは無いが皆美しいものであつた。若狹の海岸は島が內陸と繫がつて、中間に潟湖を作つた點は男鹿とよく似て居る。たゞ其山が迫つて、水が小さく幾つかに區切られて居るだけである。この湖岸の林にはやはり雉が多く啼いて居た。六月始めの頃であつたが、小舟に乘つて三つ續いた湖水を縱に渡つて行くと、よく熟した枇杷の實を滿載して來る幾つかの舟とすれちがつた。紺のきものを著た娘などの乘つて居る舟もあつた。岸には高桑の畠が多かつた。此鳥の住んで居るやうな土地にはどこかにゆつたりとした寂しい春がある。
信州の高府(タカブ)[やぶちゃん注:ルビではなく本文。]街道といふのは、犀川から支流の土尻川[やぶちゃん注:「どじりがは」。]の岸に沿うて越える山路だが、水分れの高原には靑具[やぶちゃん注:「あをく」。現在の長野県大町市美麻青具(みあさあおく:グーグル・マップ・データ)]といふ村があつて、五月の月末に桃山吹山櫻が盛りであった。それから下つて行かうとすると、眞黑な火山灰の岡を開いて、菜種の畠が一面の花であり、そこを過ぎると忽ち淺綠の唐松の林で、其上に所謂日本アルプスの雪の峰が連なつて見える。雉が此間に啼いて居たのである。山の斜面は細かな花剛岩の砂になつて居て、音も立てずに車が其上を軋つて下ると、折々は路上に出て遊ぶ雉の、急いで林の中に入つて行く羽毛の鮮やかなる後影を見たことであつた。
斯ういふ算へる程しかない遭遇以外には、東京が却つて此鳥の聲を聞くに適して居た。春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中からいつでも雉の聲が聞こえて居た。年々繁殖して今はよほどの數になつて居る樣子である。駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉が遊んで居て啼いた。
男鹿の北浦などは、獵區設定の計算づくのもので、多分もう農夫の苦情もぽつぽつと出て居るであらうと思ふが、何とか方法を講じて此狀態を保存させたいのは、春から夏の境の一番旅に適した季節に、斯うして雉の聲を聞きにでも行かうかといふ土地が、今では非常に少なくなつてしまつたからである。瀨戶內海の小さな島などでは、或は保存に適したものもあらうが、實はあの邊では人間が少し多過ぎて、おまけに精巧をきわめた鐵砲を持ち、一日に七十打つたの百羽捕つたのと、自慢をしたがる馬鹿な人が直ぐ遣つて來る。秋田縣の北のはづれの獵區の如きは、設定者の爲には少し氣の毒かも知れぬが、そんな金持はまだ當分は來ても少なさうである。
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「鞭石」福田鞭石(べんせき 慶安二(一六四九)年~享保一三(一七二八)年)は江戸前・中期の俳人。京都生まれ。富尾似船(じせん)に学んだ。編著に「磯馴松」(そなれまつ)がある。]