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カテゴリー「柳田國男」の290件の記事

2022/05/13

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」 / 「後狩詞記」電子化注~了

 

[やぶちゃん注:底本のここから。以下は、底本では各標題「一」のみが行頭で、抜きんでいるが、その解説部は一字下げである。その箇条の「一」の後に、すぐ、文が続くのだが、これがちょっと読み違えそうなので、一字空けた。また、本文上に横罫があり、その上方にポイント落ちで柳田國男の頭注が入る。それは【 】で同ポイントで適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。〔 〕が割注である。なお、このパートでは下線は左傍線で、「序」の「十」にあったように、柳田が意味不明であった部分をかく表示したものである。文中の字空けはママ。]

 

    附錄

 

      狩之卷

    西山小獵師    獅子式流

一 山に出る時、生類〈しやうるゐ〉に行あふてまつるとなへ。

  山の神もてんとの事はめされ鳧〻〻〻〻

 と唱へ、もゝ椿の枝にて拂ふ也。但し道の上を折る

[やぶちゃん注:「西山」不詳。単に西の方の山間の意か。西方浄土に掛けるか。

「てんとの」不詳。「天殿」か?

「鳧」「けり」。

「〻〻〻〻」は「鳧」のくり返しではなく、「めされ鳧」のくり返しであろう。

「もゝ椿」不詳。或いは、「椿桃」「油桃」で「づばきもも」とも称したモモの変種のことか。流通名「ネクタリン」で知られる、バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ  Amygdalus persica var. nectarina 。中国西域原産であるが、古くから日本やヨーロッパに伝わった。一般に果実は無毛でモモよりやや小さく黄赤色を帯びる。果肉は黄色で核の周囲は紅紫色。核は離れやすい。七~九月に成熟し、生食する。在来品種は消滅したが、近年、ヨーロッパ系品種が渡来し、植栽されている。「つばきもも」「つばいぼう」とも呼ぶ。「桃」や「椿」の意なら、柳田が傍線するはずがない。]

 

    宍垣〈ししがき〉の法

一 鹿は上をしげく、猪は下をしげく。後宍垣、前は三尺二寸。腰袖しがきと云ふは二尺三寸也。其時 小摩〈しやうま〉の獵師猪をとる事數不知〈かずしらず〉 小摩が内の者【△今も椎葉にては男女の下人(メローとデエカン)を「内の者」といふ】に辰子と云へる男 せつ子といへる女に しゝを手向よと乞けるに 男女共にせなをかるひはぎなとして 小摩の獵師に仕ふる後一人は山川に飛入〈とびいり〉アダハヘとなる ひとりは海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也 其時しゝをとりてかふら戶を祭る かぶらは山の御神一人の君に奉る 骨をばみさき【△「みさき」は小田林の呪文にも「御先御前」とあること前に見ゆ】に參らする 草脇〈くさわき〉をば今日〈こんにち〉の三體玉女に參らする そも々々小摩がもとは藤原姓也 如何なる赤不淨黑不淨にくひちがへても 小摩が末〈すゑ〉たがふまじと誓ひたまふ 大摩〈たいま〉の獵師は山神の御母神にわりごを參らせず よつて三年に嶺の椎柴一つゆるされしが 三年に白きししの貳と一つゆるされ 三年にかは一枚 みなふこと一筋とたふへしや 奧山三十三人 中山三十三人 山口三十三人 山口太郞 中山二郞 奧山三郞 嶺の八郞 おろふの神谷原行司 三年原の行司 只今の獵師の末に相逢ふて あだ矢射させまじ獵師や 柳の枝七枝 小摩が年の數〔五十より〕かり文ましきのごく 白き粢(しとぎ)かけの魚とり調へ 昔の神かふざき 中頃の神かふざき 當代神かふざき【△「かふざき」は前にいふ「コウザキ殿」のことと見ゆ】 山の御神に懈怠〈おこた〉らず謹むで申奉る

[やぶちゃん注:「小摩の獵師」当地椎葉村の伝承中の人物名。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに柳田関連の論文からとして、『大摩』(たいま)『と小摩』(しょうま)『という二人の猟師がいた。七日間浄斎した飯を神にあげた。大摩はアダバエとなり、小摩だけが猟師となることができた。』とあった。「アダバエ」は意味不詳。

「せなをかるひはぎなとして」意味不明。以下、傍線部は柳田國男も判らなかったのであるから、個人的に推理出来そうなもの以外は注さない。

「アダハヘ」不詳。妖怪の名か。

「かふら戶」不詳。アニミズムの精霊の名か。

「かぶら」当初は「鏑」で、嘗つては猪鹿(しし)を矢で射る訓練に用いた鏑矢のことかとも思ったが、ここは後に「骨」とあるから、猪の頭をかく言っているものと思う。

「草脇」前掲。胸部部分。

「海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也」一寸は異様に小さいから、『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』で私が一番の候補に挙げたオニオコゼではあり得ない。思うのは、私自身、熊楠の「オコゼ」で、当初、ちらっと頭を過った、成魚でも十センチ前後で、しかし棘毒が半端ないカサゴ目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis が候補と挙がってくるように私には思われる。

「赤不淨黑不淨」一般の習俗では「死穢」(しえ)=「死の穢れ」を「黒不浄」、出血を伴い魂が二つ存在している出産前後のそれを「白不浄」、広義の血に纏わる「血の穢れ」を「赤不浄」と呼ぶが、「赤不浄」は専ら女性の月のものの穢れを指す

「粢〈しとぎ〉」神に供える餠。糯米を蒸し、少し搗いて卵形にしたもの。その形状から「鳥の子」とも呼ぶ。一説に、逆に粳(うるち)米の粉で作ったものとも言う。「しとぎもち」「粢餠(しへい)」。]

 

    椎柴の次第

一 上瀨にさか柴。但ししでを付る。

[やぶちゃん注:「しで」紙垂。注連縄・玉串・祓串(はらえぐし)・御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った例の紙。]

 

    御水散米の法

一 中瀨は椎柴也。木の柴三丸かし也。柴の上より粢みさき祭る。亦ごく【△「亦ごく」は赤御供なるべし、「ごく」は外にも見ゆ】七まへ、尤柴の右の三方より立掛火を放。心經讀誦。しゝは其柴にかけ置事。口傳。

一 中瀨みてぐら三本。但し水神の幣也。ごくしとぎごまひを備へ、諸神くわん

一 神崎三本。亦は七本。【△「神崎」は亦かふざきなるべし】

 ちゝみ右數にして備ふ。

 

    小獵師に望の幣【△左右の「六」と「八」何れかあやまりならん】

 

Nusa

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミング清拭した。]

 

    朝鹿の者けぢな祭る事【△「けぢな」は「けばな」とも見ゆ「け」は本の字分明ならずふり假名による】

一 ちはやふる神のおもひも叶しや

         けふ物數に千たびもゝ度

 

    完草(ウダグサ)返し

一のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神 本山本地居なほくち 得物を多くたびたまへ きざらだやはんけの水【△「はんけの水」前にも見ゆ】をたつね來て生をてんじて人に生れよ 夫(ヲ)じゝ五カ 婦(メ)じゝ四カや 步行。口傳。

一初しゝには頭にまなばしをあてず、矢びらきに掛る也。

一神崎まつり 〔串長 二寸二分 燒物串 右同斷〕

むかしありといひしや 中頃ありといひしや 地主かんどかうさき かんのかうざき 今當代かんどかうさき 簗のかうさき 祭人玉女にむかふ【△此文句などはきはめてよく沖繩の「オモロ」に似たり】

一丸頭 今日の日の三度三體玉女殿にかけ法樂申 野の神山の神 天日の神 三日の神 同所のちんじゆ森 かくら山の御神に參らする【△「カクラ」は前に出でたり狩倉と同義なるべし】 猶も數の得物たび玉へ ぐうぐせひのものたすくるといへどたすからず 人に食して佛果に至れ。六じの名號。

 

    掛隨

一 しやち頭 今日の日の三體玉女に參らする 二つの兩眼は日天月天  犬はな打きんのみさき 左のふたは所の鎭守森 かくら諸神にかけ法樂申奉る 草脇は草の御神 こしわきは尻指のみさき【△尻指のみさき】 八枚の折肌は八人のかんどかうさき 天竺の流沙川水神殿 同法界いなり ほつかい水神 め谷を谷のはゝ かりこの行司 かりこの子とも おろふの神 さけふの神 谷の口におりやらせ玉ふは山のみさきに掛け法樂申す とんたのとほみとしたの其子に掛け法樂申す 同じ山の木柴おりからし ほう丁まなばしまな板かうばし せんくやうくなきやうに 得物をくし玉へ まつりはづしはあか良原殿 はづしのなきやうに あとのちよとのにかけ法樂申奉る

一 完所に女來るときは、必ずしゝをふるまふべし。女心えはきたる草履の裏にて受れば、なり木の枝をしき、其上にしゝを置てわたすべし

[やぶちゃん注:「掛隨」「かけしたがひ」と読んではおく。願掛けの祝詞の文か。]

 

    山神祭文獵直しの法

一 抑〈そも〉山の御神 數を申せば千二百神 本地藥師如來にておはします 觀世音菩薩の御弟子阿修羅王 緊那羅王〈きんならわう〉 摩睺羅王〈まぎらわう〉と申〈まうす〉佛は 日本の將軍に七代なりたまふ 天〈あまの〉の浮橋〈うきはし〉の上にて 山の神千二百生れ玉ふや 此山の御神の母 御名を一神の君と申す 此神さんをして 三日までうぶはらをあたゝめず 此浮橋の上に立玉ふ時 大摩〈たいま〉の獵師毎日山に入り狩をして通る時に 山の神の母一神の君に行あひ玉ふとき 我さんをして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 汝が持ちし割子〈わりご〉を少し得さすべしと仰せける 大摩申けるは 事やうやう勿體なき御事也 此わり子と申〈まうす〉は 七日の間〈あひだ〉行〈ぎやう〉を成し 十歲未滿の女子〈をなご〉にせさせ てんから犬にもくれじとて天上にあげ ひみちこみちの袖の振合〈ふれあひ〉にも 不淨の日をきらひ申す 全く以て參らすまじとて過〈すぎ〉にけり 其あとにて小摩〈しやうま〉の獵師に又行あひ 汝高をいふもの也 我こそ山神の母なり 產をして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 山のわり子を得さすぺしとこひ玉ふ 時に小摩申けるは さてさて人間の凡夫にては 產をしては早くうぶはらをあたゝめ申事なり ましてや三日まで物を聞しめさずおはす事のいとをしや 今日山に不入〈いらず〉 明日山に不入とも 幸ひ持〈もち〉しわり子を一神の君に參らせん かしきのごく 白き粢〈しとぎ〉の物を聞しめせとでさゝげ奉る 其時一神の君大によろこび いかに小摩 汝がりうはやく聞せん 是より丑寅の方に的〈あたり〉て とふ坂山といへるあり 七つの谷の落合に りう三つを得さすべし 猶行末々たがふまじと誓て過玉ふ きうきうによりつりやう 敬白【此大摩小摩の物語は如何にも形式のよくととのひたる神話なり此筋より求入〈もとめい〉らば更に面白き發見あるべき也】

[やぶちゃん注:「緊那羅王」インド神話に登場する音楽の神々又は精霊。仏教では護法善神の一尊となり、天龍八部衆の一人とされる。

「摩睺羅王」摩睺羅伽(まごらが)が一般的。サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味する。本来は古代インドの神であったが、仏教に取り入れられた。身体は人間で、首は大蛇或いは頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれる。八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされるが、ナーガがコブラを神格化したものであるのに対し、このマホーラガはニシキヘビのような、より一般的な蛇を神格化したものとされる。やはり、護法善神の一尊で天竜八部衆・二十八部衆に数えられる。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられてある(当該ウィキに拠った)。]

一 上日さかな。へんはい口傳。

   みさきあらばかせと車に打のりて

        かへりたまへやもとのみ山に

一 友引。一大事。

一 我まへに來るかくれしゝ打つまじき事。

 

    熊の紐ときの傳 (大祕事)

一 なむめいごのもん  三返

     腹に手をあて

 ろてん中天なりばざつさい あとはならくのこんりんざい

     紐分

一 是より天竺の流沙か嶽の邊にて めんたはつたといへる鍛冶の打ぬべたる 彌陀の利劍を以て解いたる紐にとがはあるまじ

     歌

   月入て十日あまりの十五日

        のこる十日はみろく菩薩へ

     月の輪二つに割るとなへ

一 こんがうかい たいざうかい 兩部の万だら 大日如來。

[やぶちゃん注:「万だら」は底本献本では自筆で「方」を取消線して「万」と修正してある。]

      ねんぶつ十二返

 右小刀三本にてみつ柴口傳

     紐とく間のきやうもん

 

一なふまくさまんだもとなんそはらちことやきやなんおんのんしふらはらしふらうしゆしゆりそふはしやせんちんきやしりゑいそはか【△此呪文何に在りとも知らず切に識者の敎を待つ】

 同。しゝにまなばしをたてゝ九字の文にて九刀にきる。

     引導【△有難さうなる經文なれども編者も山中の人と共に夢中にて寫し置く】

一 ぐわんにしきどく平號しゆいつさいおんゆふく百さいちん守らいやうおんしゆりれうちごくがきしゆらのくをのがれしきやう成就となるべし

一 諸行むじやうぜしやうめつぽふ生めつめついじやくめつゐらくひがふぐんせいのもの助るといへども助らず人に食してぶつくわに至れ

 六字の名號。ごしんぼふ

一南無御本尊界行摩利支天

 のうへ影向〈やうがう〉あつて

   ヲンソワウロタヤソワカ。   七返。

 右產所の流といへり。

 

大山祇命

       山の御神也

豐玉姬命

 

 

   寬政五年八月  奈須資德相傳也

         ―――――――――――――

   右一卷日向國西臼杵郡椎葉村之内大字大河内椎葉德藏所藏之書以傳寫本一本謹寫訖

    明治四十二年二月二日  柳 田 國 男

 

[やぶちゃん注:本書には奥付が存在しない。既に述べたが、柳田國男が相原某に献呈した国立国会図書館デジタルコレクションの別の所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り)では、非常に読み難いが、こちらのここに奥付がある。左ページの右下方である。]

2022/05/12

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「色々の口傳」・附記

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、標題本文は行頭からだが、その解説部は一字下げで、それが二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

    色々の口傳

 

飛走中の猪を止まらすること。

 竹笛を一口短く微〈かすか〉に吹く。

 竹笛無きときは同じくウソを吹く。

 猪は元來眼よりも耳の感覺鋭敏なり。近距離に居りても動きさへせねば之を知らず。物音は之に反す。故に一寸微に物音をすれば、附近に人の在るを疑ひて小止りをして考を付るなり。されど此法は素人は行ふべからず。

[やぶちゃん注:「ウソ」前に注した通り、ここは「口笛」を指す。]

猪を見ずして其大小肥瘠〈ひせき〉を知ること。

 蹄〈けづめ〉の跡小さくとも地中に印すること深きは大。

 蹄の跡小さくとも跡と跡との距離長きは大。

 蹄の跡大なりとも地中に印すること淺きは瘠肉〈やせにく〉也。

 蹄の跡に立つ形あるものは多くは瘠肉也。

 蹄の跡の向爪〈むかうづめ〉と後爪との間廣がり居るものは猪が疲憊〈ひはい〉せる兆〈しるし〉也。疲憊せる猪は遠くへ往かず、近所に潛伏するものと見る。

 蹄の跡の雪中に印するものは、小猪なりとも大猪と見誤まることあり。日射の爲蹄跡の雪融解すれば也。

丸の儘なる猪の肥瘠を知ること。

 牡猪は脊部肥え牝猪は腹部肥え居〈を〉るが常なり。故に牝猪の腹部の肥えたるを見て、全身肥滿のものと思ひ購〈あがな〉ふときは損をすべし。

 脊部の毛色白く且つ全身綿の如き綿毛にて蔽はれ居るものは肥肉にて、全面毛色黑く且つ疎なるものは瘠肉也。

[やぶちゃん注:「後爪」猪は後ろに「副蹄(ふくてい)」という小さな跡がつくのが特徴で、それを言う。サイト「マイナビ農業」の「獣害の犯人は? 足跡で獣を特定しよう ~動物の足跡12種~」を見られたい。]

猪の肉量を知ること。

 臟腑のみを除きたる丸の儘の猪ならば、之に六を掛くれば純肉の量なり。但し此は十貫目以内の猪のことにて、十貫目を超ゆる者は大槪七を掛け、二三十貫目の大猪となれば八を掛くる也。其殘〈のこり〉は骨又は蹄などなり。

[やぶちゃん注:「十貫目」三十七・五キログラム。]

銃聲を聞きて命中と否とを知ること。

 トンと短く纏まりたる反響は命中とす。

 トーンと長く散じたる反響は不とす。

彈の數のこと。

 一丸も二丸も場所によりて利害は色々なり。

 一丸は命中正確なるも飛走中の猪には二丸を利なりとす。一丸は熟練者に於て採用し、二丸は未練者に利あり。

 熊笹の如き障碍物密集の場所にて、狙ひ定まらざる場合には、誰人〈たれびと〉も多くは二丸を込むるを利とす。

 二丸を二ツ矢と云ふ。

獵犬を仕込むこと。

 猪狩向きの犬には決して兎を逐はしむべからず。若し兎を逐ひたるときはいたく叱し懲〈こら〉すべし。

 幼犬を仕込むに最良の法は、小猪を半死の中に繫ぎ置き、長く引ずりまはして咬殺〈かみころ〉さしめ、さて後時々其肉の小片を切りて與ふる也。

 幼犬の側にて發砲するときは、幼犬喫驚〈きつきやう〉して常に銃聲を恐るゝの癖を生ずるもの也。

 幼猪を伴ひたる牝猪に接したるときは、幼犬に付〈つき〉てはよほど注意すべし。何となれば幼犬は悅びて小猪を咬まんとす。若し放任するときは母猪歸り來〈きたつ〉て幼犬を噬殺〈かみころ〉すことあり。故に母猪の引返すを伺ひて速〈すみやか〉に射殺すべき也。

 幼犬もし猪罠にかゝりたるときは、直ちに罠を切り解くべからず。罠の杭を撓〈たわ〉め罠を弛〈ゆる〉めて、犬をして自ら之を噬み切るの習慣を養はしむるを肝要とす。

 

 

           ――――――――――――

茲に椎葉村の地圖を揭ぐることを得ば讀者に便なりしならんも、適當なる原圖を得ざりき。もし熱心なる人あらば、大日本陸地測量部にて出版したる五萬分一圖中、左の圖幅を參照せられんことを望む。共に延岡號の中なり。

     椎葉村。 神門(ミカド) 。諸塚山。 鞍岡。 村所(ムラジヨ)。

 

           ――――――――――――

[やぶちゃん注:以上は附記で、本文とは分離して、底本では次の「附錄」の見開き右ページ中央にポイント落ちで記されてある(底本のここ)。既に注で「ひなたGPS」を示しているが、地図をダウン・ロードして自由に見たい方は、「ひなたGPS」の元版である私がよく使う「Stanford Digital Repository」の明治三五(一三〇二)年測図・昭和七(一九三二)年修正図で陸軍参謀本部作成の「秘」印のあるそれがよい(ネット上の画面だと、拡大表示ではディスプレイ一杯に示されてしまい、使い勝手が実は悪い)。以下のリンク先からどうぞ。ダウウ・ロード・リストの下から二番目の最大の「Whole image (14423 x 11083px)」がよい(サイズの関係上、最初に開くとファイル破損で開けないとする表示が出るが、暫くそのままにしておくとちゃんと表示され、二度目からは出ないので安心されたい)。「椎葉村」はここ、「神門」はここ、「諸塚山」はここ、「鞍岡」はここ、「村所」はここである。五枚全部でも百二十六MBである。

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩の作法」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、本文は行頭からだが、以下二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

     狩の作法

 

獵法。 狩は陰曆九月下旬に始り、翌年二月に終る。狩を爲さんとする當日は、未明にトギリを出し、其復命に由り狩揃ひを爲し、老練者の指圖に依り各々マブシに就き、後セコカクラに放つ。オコゼを有する者は背負籠に之を納めて出るなり。

 マブシに在る者は、セコより竹笛にて合圖を爲す迄は、最も靜肅を旨とし、竹笛にて幽〈かすか〉に合圖をするはよけれども、決して言語を發すべからず。若し咳嗽〈がいさう〉起らば地上に伏して爲すものとす。既に猪が突到〈つきいた〉らば息を凝らし、數步の近きに引受け、肺臟心臟の部分を狙ひて發砲す。其狙ひ所を小肘〈こひぢ〉のハヅレと云ふ。

[やぶちゃん注:「トギリ」以下、概ね前二章で既出。未明に出発する猪の索敵係。

マブシ」猪を迎え撃つための猪の獣道の近くの一定の箇所を指す。

カクラ」猪が潜伏している区域。

オコゼ」「山の神」に入山・山猟のために安全と豊猟を祈誓するための供物。前章の「一五 オコゼ」を参照されたい。

セコ」勢子。狩場で鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役の担当者。

「咳嗽」せき。「咳」は「痰が無くて咳音のある症状」を言い、「嗽」は「咳が殆んど伴わず痰の絡む症状」を言う。]

タテ庭、吠庭始まりたるときは、受持のマブシを離れ、山の上の方に囘り靜に近寄るべし。萬一擊損ずるか又は負傷せしめたるときは、硝煙の未だ照尺を拂はざる中に、猪は突進し來りて股を切り、倒るれば、胴を切る也。故に未練者は楯に寄るに非ざれば近よるべからず。此時尙大〈おほい〉に注意すべきはハヒジシに在り。ハヒジシ(這ひ猪)とは負傷せる猪が怒りて人〈ひと〉犬に當らんが爲に、伏して假死狀を爲し居るを云ふ。此考無くして近よりたるときは、猪は矢の如く飛びかゝり、牡猪なるときは牙にて股をえぐり、牝猪なれば牙なき故肘と無く頸〈きび〉と無く咬〈くは〉へて粉碎せんとするなり。

[やぶちゃん注:「タテ庭」前掲。猟犬が猪を取り囲んで戦うことを指す。

「吠庭」同前。猪が包囲域が崩れて拡大してしまっても、さらに当該対象との狩猟を続ける様態を指す。]

猪斃れたるときはヤマカラシ(短刀のことなり)を拔きて咽喉〈のど〉を刺し、次に灰拂〈はひばらひ〉を切取る。灰拂を切取るは最先に射斃したる證とする也。其後ヤマカラシと耳とを一つに束ね、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:「灰拂」不詳。但し、推理するに、これは「蠅拂」で、獣毛を束ねて柄をつけた、蠅や蚊を追うためのものを指し、後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた仏具があることから、逆に、蠅を嫌がって払う猪の頭部の部分を想起すると、耳(恐らく両耳)を指すのではないかと思われる。但し、ネットではこの「灰払」では熟語自体がヒットしない。識者の御教授を乞う。

 以下の呪文は底本では全体が二字下げ。原文はベタだが、底本にある程度まで近づけるために、早めに改行した。]

 今日の生神三度三代。ケクニユウの神。山の神。

 東山カウソが岳の猪の鹿も。角を傾けカブを申

 受け。今成佛さするぞ。南無極〈なむごく〉。

猪はヲダトコに持下〈もちおろ〉し、一應緣の上につるし下げ、然る後解剖す。解剖に二通りあり。胴切にして四足に分ち其後〈そののち〉骨を除くを金山オロシと云ひ、肉のみを四足に分ち其後骨を除くを本オロシと云ふ。

[やぶちゃん注:「ヲダトコ」前掲。獲った猪を里に持ち降ろし、裂いて分配をするための家を指す。この『ヲダトコの家は一定しをれり』とあった。後の柳田の補注の「小田床」もそれを漢字にしただけのものである。先に出た天草の地名ではない。

金山オロシ」「金山」の読み不詳。ネットでも出現しない。山猟の関連資料も縦覧したが不明。ただ、一つ目に留まったのは、さくら氏のブログ「昨日より今日 今日より明日へ 自分を信じて♪」の「猪と金山」で(行空けを詰めた)、

   《引用開始》

日蓮大聖人は御遺文集のなかで、中国の天台大師の『摩訶止観』の一節を引用されている。

「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」と。

 猪は、金山の輝いているのを憎く思い、自分の体をこすりつけて光沢をなくそうとする。だが、こすればこするほど、金山は輝きをましてくる。あたかも、多くの河川が流れ込んで海水を豊かにし、薪が加えられると火がますます燃えさかえるように__。求羅は風にあうと大きくなるという伝説的な生き物である。

 これは、仏道修行の厳しき過程で、逆風に負けず、それを前進のための追い風に変えていけとの戒めだが、人生万般に通ずる尊い教訓が秘められていると思う。

   《引用終了》

万一、これが起源だとすると、「きんざんオロシ」と読めることにはなる。]

△分割は山にてもすることあり。之も違式には非ず。小田床〈をだどこ〉にて必ず一應は緣の上に釣下ぐるは、丸のまゝに先づ神に供ふる嚴重の儀式なりと聞けり。

分配の法は擊主には射中〈いあ〉てたる方の前肢と脂とを與ふ。其前肢の目方は總量の五分の一なり。其後又擊主をも加へて平等に分配す。擊主には草脇〈くさわき〉を與ふることもあり。その肉の量は前の場合に同じ。其他セコは一人に二人分を與へ、獵犬の分は又一人前とす。

[やぶちゃん注:「草脇」「草分き」(草を押し分けて行く部分)で「獣類の胸先」を指す。「くさわけ」とも呼ぶ。]

△曾て耳にて聞きたるは又此記事と少異あり。首と胸の肉を仕留めたる者の所得とす。首の肉は最上品なり。同じく首を落すにも、ヤマカラシを耳の元に宛てゝ、それより三轉〈みころ〉ばしにて切るも、四轉ばし目に切るもあり。地頭殿の仕留めたる折には、この轉ばし方殊に多し。執刀者にも餘分の所得あり。この慣習は中々嚴重なるものなりしが、可悲〈かなしむべし〉近年漸く廢せんとす。猪の肉が高くなると、狩人は自ら食はずして商人に渡すなり。一頭三十圓より五十圓に及ぶ。此場合には擊主の所得は代金の四分の一を定〈さだめ〉とす。

[やぶちゃん注:「ヤマカラシ」植物のそれではないので、注意。これは実用の小刀である「山刀(やまがたな)」の地方名である。主に焼畑などの山林伐採や、狩猟の際の獲物の皮剝ぎなどに用いる。これを動物との格闘の刺し突きの武器に使用するのは危急の場合に限る。一般に小型で片刃のものが多く、野鍛冶(のかじ)に打たせたもの、又は昔の脇指を切り縮めたものなどがある。地方により名を異にし、九州山地では「ヤマカラシ」、四国西部で「サッカン」、中国山地で「ホウチョウ」、青森県津軽地方で「コバヤリ」、秋田県阿仁で「マキリ」(これはアイヌ語と同じ)など各地ごとに違っている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

解剖終りたるときは。執刀者はヤマカラシを肉の上に✕に置き、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:以下の咒文は、底本では三字下げ。]

カブラは山の神越前のきさきに參らする。骨をば御先御前に參らする。草脇をば今日の日の三代ケクニユウ殿に差上ぐ。登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神。本山本地に居直りたまふて。數の獲物を引き手向けたび玉へり。ハンゲノ水を淸ければ。シヤウゲンして人々生く。南無極樂々々々々。

分配終つて後、コウザキと紙の旗をコウザキ殿に獻じ、左の祝詞を唱ふ。コウザキ殿は巖石又は大木の下、雨露のかゝらざる所に奇石を置き、折々カケグリを獻ず。カケグリとは七八寸の長さに拇指大〈おやゆびだい〉の竹を切り、十數本を束ね、此に濁酒を盛りたるもの也。

[やぶちゃん注:以下、原本は同前。]

   諏訪のはらひ

そもそも諏訪大權現と申するは。本地は彌陀のアツソンにてまします。ユウオウ元年庚戌〈かのえいぬ〉。我が羽根の下に天降らせたまふ。信濃國善光寺嶽赤根山の峠に。千人の狩子を揃へ。千匹の鹿をとり。右は地藏菩薩。左は山宮大明神。中に加茂大明神と現はれ出で。八重鎌千鎌を手に持ちて。我先の不淨惡魔を切拂ひ。水露ほども殘なく。三五サイヘイ再拜と敬て白す。

△前の呪文に「越前のきさき」とあるはコウザキ殿のことなるべしと思はる。ケクニユウ殿。ゆかしき名なれども思ひ得たる所なし。登百葉山降百葉山は、登る葉山降る葉山なること。「狩之卷」に依りて明〈あきらか〉なり。唯此字が新なる偶然の誤寫には非ずして、山民も久しく斯く唱へ來れるものとすれば興味あり。

[やぶちゃん注:柳田も思い当たらないと言っている通り、咒文(祝詞)なれば、ここの神名の実体は判らない。但し、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の「宮崎県民俗学会」副会長前田博仁氏の『宮崎の神楽「銀鏡神楽シシトギリ」にある猪霊送り』の記事が、本咒文や、その他の宮崎県内の事例を示して解説しておられ、必見である。それを参考に以下を推理してみる。

カブラ」は諏訪神社の古習俗(鹿の頭を奉納した)から見て猪の「頭(カシラ)」のことと読め、

「越前のきさき」は柳田の謂いから「えちぜん」ではなく、「コウザキ」「こしざき」で、「山の高みを越えたところにあられる山の神さま」の意ではなかろうか。

「御先御前」(「おさきごぜん」?)は山の神を前の「越前のきさき」と分離した山の入り口の一神としたものか。

「今日の日の三代ケクニユウ殿」の名はお手上げだが、形容に「今日の日の三代」とあるから、やはり、山の神を細分化して、今現在の三代目の山の神に与えた神号ととれる。こうした山の神の増殖は以下の「登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神」で明白である。

ハンゲノ水」これは「半夏生(はんげしやう)」の転訛であろう。小学館「日本大百科全書」他を参考にすると、七十二候の一つで夏至の第三候。半夏生は夏至を挟んで入梅と対称位置の時期に当たり、陽暦では七月二日頃となる。「半夏生」は多年草のコショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensisで、別名をハンゲ或いはカタシログサ(片白草)と称し、水辺や低湿地に生え、一種の臭気を持つ。「その半夏が生える頃」という意で、昔の農事暦では、この頃までに田植を終える、とされていた点で「水」との親和性が強く、また、迷信的暦注としては、この日には毒気が降るので、「前夜から井戸や泉に蓋をすべし」とされた、から、これもまた、「ハンゲノ水を淸ければ」という祝詞と、よく合うように思われる。

シヤウゲン」「正現」或いは「精進」の転訛か。

アツソン」「三尊」の転訛。

ユウオウ元年庚戌」「ユウオウ」を雄略天皇ととるなら、雄略天皇十四年(ユリウス暦四七〇年)が庚戌。仏教は伝来していないが、後付けだろうから、それは問題にならない。

「信濃國善光寺嶽赤根山」不詳。

サイヘイ」「賽幣」?

拜と敬て白す。

『「狩之卷」に依りて明なり』本篇の最後に附録として添えられたそれの、「完草(ウダグサ)返し」の祭文(底本のここ)の冒頭。『のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神』とあるのを指す。]

罠獵〈わなりやう〉。 罠獵は秋の彼岸より春の彼岸までとす。罠は猪のウヂの屈曲なく見通しよき箇所に、二尋八引〈ふたひろやつびき〉の腕大〈かひなだい〉の杭を立て、麻にて作りたる八尺の繩を末端に結び付け、撓〈たわ〉めて輪を作り、蹴絲〈けりいと〉を張り、猪が蹴絲に觸れたるときは、はづれて之を捕縛するものなり。

[やぶちゃん注:「ウヂ」前掲。猪の通り道。

「二尋八引」一尋は大人が両腕を一杯に広げた長さの身体尺で、一般には八尺を指したとされるので、二メートル四十二センチ。「引」はその八本を並べて打ち込むことか。

「蹴絲」進行する猪を引っ掛けるための地面から相応の高さで横に張った細繩のトラップ。現在の猪猟では「トリガー」と呼んでいる。]

 猪がウヂを行くには、ウヂ引の命〈みこと〉、尻指の命と云ふ二の山の神が、其前後に立ちて走るものなりと云ふ。故に罠を掛けたるときは、少量の粟を四方に散らし、ウヂ引の命尻指の命に上げ參らすると三唱する者あり。其趣意はウヂ引の命は道先の案内、尻指の命は後押を爲す神なれば、此神たちに念願を掛れば、猪を罠の方に導き、又猪踟躊〈ちちゆう〉するときは尻指の命其尻に觸れて、はと罠に飛込ましむると言ふに在り。

△又「ウヂ引尻指の命に御賴み申す、あびらうんけんそはか」と唱ふる者もあり。夜待〈よまち〉をする者猪の來る前に凡そ鼠ほどの足音して走る者あるをきく。これウヂ引の神なりと云へり。

△罠にて猪を捕るは昔より小民の業にて、鐵砲を持つ者は之を輕〈かろ〉しめをれり。故に折々は無理なる獲物爭ひをもしかくる也。罠主は七日に一度づゝ罠を見巡るが作法なり。狩人之に先〈さきだ〉ちて罠ある所に行き、既にかゝれる猪を我が追込〈おひこ〉みたるなりと云ふことあり。凡そ罠は猪の通路を圖りて立るなれども、之を立てたる山には猪より付かず。故に諸方より追込みて罠に罹〈かか〉らするは常のことなり。狩人他人の罠に猪を追掛〈おひか〉けたるときは、片肢〈かたあし〉を罠の主に與へ殘りを我が所得とす。三四日も前に罹りて眼の落くぼみたる猪を、今日我が追込みたるなり。蝨猪(シラミジシ)なりし故〈ゆゑ〉山にて燒きて來たりなどゝ欺きて、橫領する奸徒〈かんと〉も無きに非ず。

△燒畑の猪防ぎにワナといふものあり。燒占、栞の類なり、罠に似たる物を作りて畑の附近に置けば猪亦之により付かず。

[やぶちゃん注:「尻指の命」「しりさしのみこと」か。]

ヤマ獵。 ヤマは猪が燒畑作りを荒し、又は樫の實をあさりに來る箇所に設くるなり。ヤマを設くることを上〈ア〉グルと云ふ。其方法は、六七寸周りの木を六尺に切り、二十本ばかり組みて筏狀と爲し、兩側に二本の俣杭〈またぐひ〉を立て、之に橫木を置き、ヤマの一端を三尺の高さに此橫木へ釣上げ、莢〈さや〉のまゝなる小豆を一握ばかりづゝ結びて、四周とヤマの内につるし、中央の小豆を引き餌とし、猪が此の引餌を咬〈くは〉へて引きたるとき、ヤマが落下して壓殺する法なり。ヤマの上には荷石を括り付け押へとする也。

ヤマにては巨猪を獲ることありと雖〈いへども〉、悲哉〈かなしいかな〉壓搾するを以て、血液煮えて全身に行渡り、肉の品質を損ふなり。井ドモなるときは一度に四五頭を得ることあり。

[やぶちゃん注:「井ドモ」「ヰドモ」。前掲。『猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ』とあった。]

狩の紛議。 狩獵に付ては甲乙カクラ組の間又は狩組と罠主との間に、紛議を生ずること往々にしてあり。然れども一〈ひとり〉も警官に訴へ或は法廷に持出すことなく、慣例に依り之を解決するものなり。左に其慣例の二三を記す。

[やぶちゃん注:以下の箇条部は、底本では全体が一字下げ。]

一 狩組が他人の罠に猪を追掛けたるときは、前脚一本を切り罠杭に括り付け置き、心當りに通告すること。

一 甲カクラ組に於て負傷せしめたる猪が、乙カクラ組の區域に遁げ込み、乙カクラ組の手にて擊ち留められたるときは。甲乙兩組の平等割とす。

一 甲カクラより乙カクラに遁げ込みたる猪を、乙カクラ組に於て擊ち留めたるときは、乙組の所得とす。但し甲組の獵犬が追跡し來りたるときは此限に在らず。(此場合が最も紛議を生じ易し。良犬は自ら搜し出したる物なるときは、終日追跡するものなり。然るに乙組に於ては芝苞〈しばづと〉を作り、犬に負傷せしめざるやうにして之を敲き拂ふことあればなり。)

一 猪を獲たるとき、其狩組に加はりし者か否かを判定するには、當日出發の際、狩揃ひの場に出頭せし人の顏を以てす。(橫著なる者は銃聲を聞きて獲物のありたるを知り、蒼皇〈さうこう〉獵裝〈れうさう〉を爲して己も狩組に加はりしものの如くに見せかけ、解剖場に乘込むことあり。本項は此場合に之を適用す。)

[やぶちゃん注:「蒼皇」慌てふためくさま。]

裁判例の一二。判士は庄屋殿、又は小役人。

[やぶちゃん注:以下の例は底本では全体が一字下げ。]

第一例 他人の罠猪を盜みたるもの。

原告八兵衞は昨日九年山に掛けある罠を見に行きたり。四斗位の猪がかゝり大に罠場を荒したる形跡現然たり。決して逐掛けの猪とは認めず。然るに狩人は之を銃殺して持去れり。其足跡は雪を蹈みて一ツ戶の方へ向けあるを以て、彼方の狩人に疑〈うたがひ〉を入れつなぎ至れば、果して一ツ戶なる三之助の緣の上に釣し在り。彼は予が質問に對し、此猪は昨日竹之元にて追起せしを、誰人〈たれびと〉かの罠に追掛けしを以て、狩の法に依り前肢一本を罠杭に括り付け置き、今日通告せんと思ひ居りたるなりと答へ、返すことを拒みたり。

庄屋曰く和談すべし。

原被とも承諾せず。

庄屋曰く。然らば直に關係外の狩人に申付け、元起し場より猪の足跡を搜索さすべし。

此時被告の顏色稍〈やや〉變ず。

被告は他の有力者に縋り、猪を罠主に返し、庄屋前〈まへ〉を取下げたり。

[やぶちゃん注:「四斗位」「」は「眞」で、正味の意であろう。容積で七十二リットル、米換算で二百四十キログラム。相当な大物であるから、孰れも引かなかったわけだ。

「前」訴訟告発文。]

          ―――――――

第二例。甲組に於て負傷せる猪を乙組に於て擊止めたるもの。

原告三太郞は一昨日佐禮山に登り、七八名連れにて狩を入れ、暮方鷹山の元にて大猪を起し、タテニハに於て一發を加へしも、鹿遊(カナスビ)の方へ向け流血淋漓として遁げ去れり。昨日ツナギを入れたるに、鹿遊の狩人虎市等に於て擊止めたる處に出會したり。由つて仲間入りを交涉したるに。頑として之に應ぜず。剩〈あまつさ〉へ侮辱を加へたり。

小役人曰く。手負猪と知らば雙方にて程好く分配すべし。

被告虎市曰く。成ほど血液は滴り來りしも、微傷にて銃傷とは認め難し。故に拙者共の勝手にすべし。

小役人曰く。猪は射手の前、口事〈もめごと〉は言手〈いひて〉の前と云ふことありと雖〈いへども〉、獵は此節に止〈とどま〉らず。末永く互に仲好くせざれば。終には之に類する反對の位置に立ちて損をすることあり。屹度〈きつと〉小役人の指圖に從ひ、仲間として分配すべし。猪の疵だけにやめ(矢目に通ず)として、敢て言ひ爭ひを爲し庄屋殿の手を煩はすことなかれ。

被告虎市曰く。誠に左樣なることなり。一同承諾すべしと。

△中瀨氏の文章、野味ありて且つ現代の味あり。其一句一字の末まで、最も痛切に感受せられ得と思ふ。讀者以て如何と爲す。

2022/05/11

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩ことば」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。]

 

   狩ことば

 

一 トギリ。 狩を爲さんとする當日、未明に一二人を派して、猪の出入先を搜索し復命せしむるを云ふ。

二 オヒガリ。 逐狩。トギリを出さず、心あたりを空〈くう〉に狩るを云ふ。

三 オヒトホシ。 追通し。猪が小憩もせずにマブシのあたりを走り過ぐるを云ふ。猪は飛禽の如く走ると雖〈いへども〉、大槪二三十間每に凡そ二十秒ほどの間立止〈まだちとま〉るもの也。是四近の樣子に聞耳を立つる爲也。獵師は此時を待ちて發砲す。されども犬が追跡するときは、此小憩をも爲さずマブシを通り過ぐる故に、此に命中するをば追通しを擊ちたりとて大手柄とす。

[やぶちゃん注:「マブシ前掲。『猪の通路に構へて要擊する一定の箇所』を指す語。]

四 スケ。 猪が一定のマブシに出でず他に出でんとするを、囘走して擊つを云ふ。

五 タテニハ。 獵犬が猪を包圍して鬪爭するを云ふ。

六 ホエニハ。 吠庭。包圍が散開しつゝなほ鬪爭を續くるを云ふ。

△猪の犬は昔より細島〈ほそしま〉にて買ふ。兒犬の時にても二十圓もする也。狩に使ふには牝犬の方優れり。牝犬が行けば外の牡犬も追ひ行きて、捕られぬ猪も捕らるゝなり。されど牝犬を飼へば秋の比〈ころ〉に三里四方の牡犬悉く集り來て、玉蜀黍〈たうもろこし〉の畑を荒し村人に惡〈にく〉まるゝ故に、飼ふことを憚かるなり。犬は近年鹿兒島の種交りて形小さくなれり。

[やぶちゃん注:宮崎県日向市細島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した港町。]

七 九ダイ三ダイ。 獵師が當日猪の出先を占ふ方位なり。獵師は今日は何の日なるを以て猪は何代に出づと言ふなり。

八 クサククミニウツ。 猪の肌見えず、笹や草の中に在るを見込みて擊つを云ふ。

九 ヤタテ。 矢立。又矢鉾ともいふ。猪を獵獲し分配の後、三度發砲して山の神に獻ずるを云ふ。

△分配の後といふこと、如何。隣村諸塚村〈もろつかそん〉の村長堀莊氏曰く、分割の後に一發、之を「芝起し」と云ふと。ヤタテは山に在りて猪を仕止めたる時に手向くるものには非ざるか。

[やぶちゃん注:「諸塚村」ここ。椎葉村の東北に接する。当該ウィキによれば、『面積あたりの林道の密度は日本一である』とある。

「堀莊」読み方不詳。]

一〇 ガナラキ。猪の舌を云ふ。ガナラキは未だ一囘も猪を獲たること無き者には分配せず。

△新進の狩人は隨分冷遇を受く。例へば猪の腸(ワタ)は分割の場にて串に差し燒きて食ふを常とす。此のワタアラヒは必ず新參者の役なり。

一一 コウザキ。 猪の心臟を云ふ。解剖し了りたるときは、紙に猪の血液を塗りて之を旗と爲し、コウザキの尖端を切り共に山の神に獻ず。コウザキコウザキ殿と云ひ、又山の神をもコウザキ殿と云ふ。祭文は後に記す。

[やぶちゃん注:後の「狩の作法」のここに出る『咒文』というのがそれと思われる。]

一二 イリコモリ。 入籠。トギリを出したるときに、前夜は猪の出入先を發見せずと雖〈いへども〉、前々夜若くは數日前の入跡〈いりあと〉現然として、出跡〈いであと〉無きときは卽ち入り籠り居るものと見るなり。前夜の入跡をナマアトと云ひ、其以前のものをフルアトと云ふ。

[やぶちゃん注:「出跡」は「であと」かも知れない。]

一三 セコ。 包圍中のカクラに分け入り。タカウソ(竹の笛)を吹き犬を呼びつゝ、隈なく搜索して猪を追ひ出す者を云ふ。

[やぶちゃん注:「カクラ前掲。『猪の潛伏せる區域』を指す語。

タカウソ」単に「ウソ」という語は「口笛」を指す。]

一四 ハヒバラヒ。 灰拂。猪の尾端を云ふ。

一五 オコゼ。 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ、山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み、告げて曰く、オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次〈つぎ〉て幸〈さひはひ〉にして一頭を獲たるときは、又告げて曰く、御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈〈いよいよ〉世の明〈あか〉りを見せ申さんとて、更に又一枚の白紙を以て堅く之を包み、其上に小捻〈おひねり〉を以て括〈くく〉るなり。此〈かく〉の如く一頭を獲る每〈ごと〉に包藏するが故に、祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

△椎葉村にオコゼを所持する家は甚〈はなはだ〉稀〈まれ〉なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有〈けう〉なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所〈おきどころ〉を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに、不思議の紙包を解き始めしに、一日掛〈かか〉りて漸〈やうや〉くして干〈ほし〉たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包〈づつみ〉を拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇〈りんしよく〉なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

[やぶちゃん注:実は本篇の電子化注は、ブログで公開した『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』を受けたものである。そこで熊楠がこの部分に言及している。また、私はそちらの注で、ここで言う「山オコゼ」及び「海オコゼ 」の種についても考証しておいたので、重複を避けるため、そちらを是非、参照されたい。

一六 タマス。 猪肉を分配する爲、小切にしたるものを云ふ。

△此說明は少しく不精確なり。タマスは分け前といふことなり。一タマスタマスは一人前二人前なり。役により一人にて二タマスを得る者もあり。次を見よ。

一七 クサワキ。 草脇。猪の腭〈あご〉の下より尻へかけての腹の肉を云ふ。

一八 ミヅスクヒ。 猪の下腭の末端を云ふ。

△三角の形を爲せる部分なり。最うまし。

一九 セキ。 猪の腰の間にて腹を包み居〈を〉る脂肉を云ふ。二十貫以上の猪ならば脂肉のみにて六七斤もあり。幾年圍ひ置くも腐敗せず。バタの代用を爲す。

[やぶちゃん注:「二十貫以上」七十五キログラム以上。

「六七斤」三・六~四・二キログラム。

バタ」バター。]

二〇 ギヤウジボネ。 行司骨。猪の肋骨の端なる軟骨を云ふ。

二一 イヒガヒボネ。 飯匙骨。猪の後脚の腿骨〈たいこつ〉の端を云ふ。其形狀飯匙に似たればなり。

[やぶちゃん注:「飯匙」杓文字(しゃもじ)のこと。]

二二 ツルマキ。 絃卷。猪の首の肉なり。輪切にしたる所絃卷に似たり。味最美なりとす。

[やぶちゃん注:「絃卷」弓矢の附属具。掛け替え用の予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく道具。葛藤(つづらふじ)又は籐(とう)で輪の形に編み上げ、中に穴をあけて、箙(えびら)の腰革(こしかわ)に下げるのを例とした。弦袋(つるぶくろ)とも呼ぶ。]

二三 ソシ。 猪の背に沿ひて附著する肉なり。外部なるをソトゾシと云ひ、内部なるをウチゾシと云ふ。最〈もつとも〉不味〈ふみ〉也。

△「そじゝのむな國〈くに〉」などいふそじゝなるべし。

[やぶちゃん注:「そじゝのむな國」「膂宍(そしし)の空國(むなくに)」に同じ。猪などの獣類の背には肉が少ないことが原義であるが、そこから、「物事の豊かでない」意に喩え、「豊沃でない土地・瘦せた土地・不毛の地」の意図して記紀の時代から用いられた上代語である。]

二四 モグラジシ。 鼹鼠猪。又ブタジシとも云ふ。臭氣ありて食用に供し難し。百頭の猪の中大槪二三頭は此なり。外形少しく通常のものと異なれども、素人は解剖の上ならでは見分くること能はず。其形一見豕〈ぶた〉の如く、腹部甚しく肥滿して脚は割合に短かく、仰臥〈ぎやうぐわ〉せしむれば四肢の容態鼹鼠に酷似す。素人又は商人之を購ひ泣き出すことあり。

二五 〈いち〉ノキレ。 猪の首を云ふ。

二六 ヌリ。 負傷せる猪の血液が荊棘などに附著し。又は地上に滴り居るを云ふ。獵師はこのヌリを見て、急所に中〈あた〉り居るか擦り傷位なるかを知り、急所に中りたるものと認めたるときは、三四日間引續きても搜索する也。蓋し急所に中りたる折の血液は、黑味を帶び又脂肪を混ず。

△血をノリといふ語原はわかりたり。

[やぶちゃん注:と柳田は言っているが、それは「塗り」の転訛ということらしい。しかし、「血のり」は粘ついた凝固血の「糊」状になった「血」が語源と私は思う。]

二七 オヒサキ。 狩出したる猪を追跡するを云ふ。

二八 ツナグ。 猪の足跡を求めて搜索するを云ふ。

二九 アテ。 他人の猪を盜〈ぬすみ〉取り、又は狩場の作法に背き、不正の行爲を爲したるときは、奇妙にも獵運惡しきものなり。又獵師の妻が姙娠中は猪を獲〈から〉ず。萬一要部を射當るも斃〈たふ〉れず。斃れたりと雖〈いへども〉蘇生して逃走することあり。この二の場合をアテと云ふ。併し後のアテは大反對に出で、獵運大〈おほき〉によろしきこともありと云ふ。

三〇 ヰドモ。 猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ。

三一 ツキヰ。 附猪。ヰドモに牡の大猪が伴ひ居るを云ふ。

2022/05/10

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作短歌・「土地の名目」

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作顕歌・「土地の名目」

[やぶちゃん注:以下の柳田國男の献歌一首は、「序」の最後のページの見返し(裏)に記されてある(底本ではポイント落ち)。柳田が当初、歌人。詩人を志していたことはあまり知られていない。当該ウィキによれば、『森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿』し、『桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿』、明治三〇(一八九七)年には『田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた』(作品名は「野の花」(明治三十四年新聲社刊・単行本。後発の大正五年春陽堂版の花袋の作品集「野の花」が国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る)。『飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから』、『当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し』、『決別していった』とある。

 なお、以下の本文はメインの解説が二行に亙る場合は二行目以降は、底本では一字下げであるが、無視した。また、後に添えられた柳田自身による「編者注」(頭に△を打つ)も、底本ではポイント落ちで、全体が三字下げであるが、引き上げて同ポイントとした。]

 

        椎葉村を懷ふ

     立かへり又みゝ川のみなかみに

     いほりせん日は夢ならでいつ

 

 

      土地の名目

 

一 ニタ。 山腹の濕地に猪が自ら凹所を設け水を湛へたる所を云ふ。猪は夜々來りて此水を飮み、全身を浸して泥土を塗り、近傍の樹木に觸れて身を擦る也。故にニタに注意すれば、附近に猪の棲息するや否やを知り得べし。

△編者云、ニタは處によりてはノタともいふか。北原氏話に、信州にてノタを打つと云ふは、猪鹿などの夜分此所に來て身を浸すを狙ふなり。火光を禁ずる故に鐵砲の先に螢を著〈つけ〉けて照尺とし、物音を的に打放すことあり。ニタを必ず猪が自ら設けたるものとするは如何〈いかん〉。凡そ水のじめじめとする窪みを、有樣に由りてニタと云ふなるぺし。風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡は不知〈しらず〉、伊豆の仁田〈にた〉を初め諸國にニタといふ地名少なからず。我々が新田の義なりとする地名の中にも、折々は此ニタあるべし。例へば上野〈かうづけ〉の下仁田など。

[やぶちゃん注:これは所謂「沼田場(ぬたば)」・「ヌタ場」として知られる、ある種の四足獣類が、泥浴びをする(体表に附着しているダニなどの寄生虫や、汚れを落とすために泥を浴びるをするとされているが、明確には判っておらず、以下に見るように、動物種によって役割は多様である)「ぬた打ち」行う場所を差す。当該ウィキによれば、『沼、湖や川の畔、休耕田』『なども使われるが、谷筋の一定の場所が繰り返し使われることがある』。『日本の猟師の間ではぬた場に、山の神がいて、祈ることで獣が現れると考えられていた』。『日本の神奈川県東丹沢地域での観察によれば、ヌタ場で最も多い行動は』、『動物の種類、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、アナグマによって異なるとことが判明した。ニホンジカは飲水(オスに限るとヌタ浴び)、イノシシはヌタ浴び、タヌキとアナグマは臭い嗅ぎが最も多い行動で、ニホンジカのメスにとってヌタ場は塩場』(塩分供給)『としての機能も有している可能性があることが報告されている』とあり、ウィキの「イノシシ」によれば、『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々』、『観察される。特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味の』「ぬたうちまわる(のたうちまわる)」『という言葉が生まれた』とある。所持する松永美吉氏の労作「民俗地名語彙事典」(三一書房『日本民俗文化資料集成』版)の「ニタ」の項でも、『湿地。水のじくじくした田代として適当な谷間をいう〔『地形名彙』〕』とし、以下、猪絡みの記載が長く続く。『熊本県球磨郡水上(ミズカミ村元野では、ニタの神というのがある。桜、樫などの木が茂り、その下に水溜りがある。猪がここに来て、この水溜に入り、木の根に体をすりつけてシラミを殺す。そこでは昼でも暗く山師も寄りつかない。もしこの山の木を伐ると熱病にかかる、ニタの神様は耳も聞こえず目も見えないという〔『熊本民俗事典』〕』とあり、猪は『矢きずを負った時、ここで身体の熱をさまし、傷口を癒すらしい。重傷の手負いの猪が時折、ニタ場の近くで倒れていることがある。このニタのにごり具合で、猪が近くに居るかどうかを判断することもあり』、『ニタのつく地名が山間部に意外に多い〔前田一洋『えとのす』〕』とある。以下、一段落が霧島山付近の猪のニタでの行動様式が子細に語られていて興味深い。最後に谷川健の文章を引いて、『沖縄の宮古島の島尻という部落には、自然の湧水の濁ったくぼみをニッジヤまたはニッダアと呼んで他界への入口とみなしている』という例を挙げ、谷川はこの二つの呼称は『ニタと同義語であり』、ニタという地名は『神聖なものの出現の場所とみなすことができると思う』という谷川説が示される。豊饒の象徴である田代、先の「ニタの神」から、この谷川の説は、私は侮れないと思う。

「北原氏」「序」に既出。

『風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡』「出雲風土記」の「仁多の郡(こほり)」の条には、文字通り、「こは濕(にた)しき小國(をぐに)なり」と大穴持(おおあなむち)の命(=大国主命)が仰せられたこととに始まる。彼は、この郡の三つの郷(さと)は孰れも田が優れているとも言っているので、やはり湿潤の地であるととってよい。現在の奥出雲町及び雲南市の一部に相当する。]

二 ガラニタ。 水枯渴して廢絕せるニタを云ふ。

三 ウヂ。 猪の通路を云ふ。

△鹿のウヂ、にくのウヂなどゝも云ふ。ウヂ引尻指の神の條參照。中瀨氏はウヂは菟道〈うみち〉にて山城其他の宇治同義なりと云ふ。如何〈いかん〉。

[やぶちゃん注:所謂、四足獣類の各自が形成する自身の獣道(けものみち)のこと。

「引尻指の神の條」後の「狩の作法」の「罠獵」の後注に出る。ここ。読みが判らぬが、ルビを振っていないので、「ひしりゆび」と訓じておく。]

四 セイミ。 少しく水湧き泥狀を爲し居〈を〉る處を云ふ。猪は此水を飮み蟹蛙などをあさり食ふ。人の注意することニタに同じ。

五 シクレ。 荊棘〈いばら〉茂り合ひ人容易に通過し能はざる處を云ふ。猪は大槪シクレに伏し、又はシクレを通路とす。

六 モッコク。 シクレの中に枯木の枝打混〈うちこん〉じ、シクレの層甚しく、且小區域なる處を云ふ。モッコクは猪の好潛伏場とす。

七 ヤゼハラ。 シクレの廣く亙れる處を云ふ。

八 ドザレ。 傾斜地に砂礫疊々として通行するに一步每に砂礫の轉下する處を云ふ。ドザレは流石の猛猪も急進すること能はず。故に村田銃を以てせば五六步每に一丸を與ふることを得る也。

[やぶちゃん注:所謂、山屋の言う「ガレ場」である。

「村田銃」陸軍少将村田経芳(つねよし)によって設計された小銃で、日本陸軍で初めて制式となった国産小銃。明治一三(一八八〇)年に、フランスのグラー銃及びオランダのボーモン銃を参考に「十三年式村田銃」として開発した。ボルト・アクション単発式で口径十一ミリ、全長一メートル二十九・四センチメートル、重量四キロ、照尺千五百メートルであった。明治十八年には、一部が改良されて「十八年式村田銃」となり、これらが「日清戦争」で実戦使用された。この十八年式の制定から間もなく、無煙火薬の連発銃の時代となり、村田も明治二十二年には「二十二年式村田連発銃」(口径八ミリ、全長一メートル二十二センチメートル、重量四キロ、照尺二千メートルを完成、制定されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

九 ヒラミザコ。 凹所〈あふしよ〉急ならず弧狀を爲し、水無き迫〈さこ〉の竪〈ひき〉に引き居る處を云ふ。セイミは大槪ヒラミザコに在り。

[やぶちゃん注:「迫〈さこ〉」岡山県以西の中国地方と九州地方で「山あいの小さな谷」を指す。]

一〇 ホウバ。 樹木立込み居るも見通しのよろしき處を云ふ。卽ちセイミモッコクヤゼハラドザレの反對の地形なり。猪は遁走するにホウバを避く。故に狩人が包圍するにも、人手多き場合に限り弱卒を此處に配置するのみなり。

一一 スキヤマ。 森林にして見通しよろしき處を云ふ。スキヤマは位置ホウバに似たるも、猪は之を避けず。

一二 ツチダキ。 土瀧。岩石無く急傾斜にして滑り易く、人の通るに困難なる箇所を云ふ。

一三 クネ。 土砂隆起して大瀧の狀を爲し、橫又は斜に引き居る處を云ふ。猪は大槪クネの上下を過ぎるものなれば、クネの上に構へて要擊する也。

△對馬の久根。遠江の久根。地名辭書に見ゆ。

[やぶちゃん注:「地名辭書」明治三三(一九〇〇)年三月に第一冊上が出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された労作。

「對馬の久根」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(上巻二版)のここの左ページ上段に出、「遠江の久根」は同中巻の「山香」の中の「佐久間」の項(右ページ中段)に「久根(クネ)銅山」として出る。]

一四 マブ。 傾斜したる小谿〈しやうけい〉の水源又は小迫〈こさこ〉の頭に、塚狀を爲し居る處を云ふ。猪は大槪マブ下を通過し、巨猪は群犬を茲〈ここ〉に引受けて鬪ふ。

一五 ヨコダヒラ。 傾斜緩なる地が橫に長く亙り居る處を云ふ。

△九州南部にて廣くハエといふ地名を附する處、地形或は之と同じきか。椎葉及其附近にでは凡て「八重」と書く。勿論近代のあて字なり。例へば尾八重(ヲハエ)、野老八重(トコロハエ)などあり。或地方にては「生(ハエ)」とも書けり。「延へ」の義か。はた先住民の語か。山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり。

[やぶちゃん注:「山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり」同様の解説が前掲の松永氏の「民俗地名語彙事典」にもあった。]

一六 クモウケ。 雲受。天を眺むる如き山の頂上を云ふ。

一七 クザウダヒラ。 山々相重なり居る中に。一つの山のみが方向を異にし。斜に天を挑むるに似たる所を云ふ。

一八 カマデ。 鎌手。或目標に向ひて右の方を云ふ。

一九 カマサキ。 鎌先。同じく左の方を云ふ。

二〇 イレソデ。 入袖。燒畑又は舊燒畑跡が判然として、山林區域に對し袖狀に見ゆる所を云ふ。卽ち左圖の如し。

 

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[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。扉に献辞と署名有り)の当該部からトリミングした。キャプションは、右に、

「山林」

左に、

「入袖」

である。]

 

二一 ツクリ。 燒畑跡地にして未だ林相を爲さゞる處を云ふ。

二二 キリ。 切。昔燒畑とせし箇所が森林に復し居る處を云ふ。然らば椎葉の山林は凡てキリなるかとも云ひ得べしと雖〈いへども〉、此〈かく〉の如く解すべからず。抑〈そもそも〉キリの名稱は地面の一局部に小地名を冠する必要より生ぜしもの也。例へば往時燒畑を作りし人が五右衞門なるときは五右衞門キリ、三之助なるときは三之助切といふ一の小字〈こあざ〉となるなり。

△燒畑を經營することを此地方一帶にてはコバキリと云ふ。コバは火田〈くわだ〉にて、畑と書きてコバと訓む地名多し。人吉の南にある大畑(オコバ)[やぶちゃん注:この「(オコバ)」はルビではなく、本文。以下、丸括弧は総てルビ。]の如し。燒畑を切山(キリヤマ)。切畑(キリバタ)といふこと東西諸州に於て常のことなり。或は野畑(薩州長島)。藪(伊豫土佐の山中)とも云ふ。草里(サフリ)。佐分(サブリ)。藏連(ザウレ)。曾里(ソリ)とも云へりと見ゆ。反町と書きてソリマチ、後にはタンマチとも訓〈よ〉めり。是も燒畑に因〈ちなみ〉あること疑〈うたがひ〉なし。神奈川町の臺地に反町桐畑(タンマチキリバタケ)、昔忍ばるゝ地名なり。されど燒畑と切替畑〈きりかへはた〉とは同じ物に非ず。說長ければ略す。地方凡例錄〈ぢかたはんれいろく〉の說明は誤れり。

[やぶちゃん注:「地方凡例錄」寛政六(一七九四)年に高崎藩松平輝和の郡(こおり)奉行大石久敬(きゅうけい)の著したもので、江戸時代を通じて、農政全般に亙る各種実務書の内で、最も優れた書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの恐らく巻之二の下の内容を指しているようだが、どこを批判しているのか、ちょっと判らぬ。]

二三 カタヤマギ。 片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ。

二四 ツチベイギ。 燒畑と燒畑との境に伐り殘りの樹木が多少燒害を受けつゝも生存し居るを云ふ。

△此村竝〈ならび〉に近鄕にはをさをさ土塀を見ず。此語を土塀より出でたりとは速斷すべからず。

二五 ヨホーレギ。 斜に立ち居る木を云ふ。

二六 マブシ。 猪の通路に構へて要擊する一定の箇所を云ふ。

二七 カクラ。 猪の潛伏せる區域を云ふ。

二八 ナカイメ。 中射目。カクラの中に在るマブシなり。中射目に手員〈てかず〉を配置するは、富士の卷狩に似たる大狩場にあり。四方八方要所を堅めたるも、カクラ廣くして逐出〈ひだ〉すに困難する場合のことなり。中射目は東西雌雄を決する關ケ原なれば、此要害を占〈し〉むるの任は、老練衆に秀〈すぐ〉る獵將と雖〈いへども〉、遺憾ながら之を庄屋殿に讓らざるべからず。

△此の庄屋殿は中瀨氏自らのことなるべし。下にも見ゆ。面白からずや。

二九 シリナシヲ。 尻無尾。尾(峯)がおろし居るも低所に達せず、中途にして展開し居るものを云ふ。この尾の下は猪の遁路に當り、最肝要の箇所とす。

三〇 ズリ。 材木又は薪を落し下〈おろ〉す所なり。熊笹の如き植物密生し見通し難き場合は、此のズリにすけ行き、一目一引といふ工合にて、ころりと擊落〈うちおと〉すことあり。

[やぶちゃん注:所謂、材木の切り出しや「柴車(しばぐるま)」(私の「譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事」の同注を見られたい)を落とす場所を利用して、猪を打ち落とすことを説明している。]

△一目一引の工合、十分に想像すること能はず。すけ行くは沿ひ行くなり。わざと椎葉の方言を飜譯せず。

[やぶちゃん注:「一目一引」「ひとめひとひき」か。発見した獲物を即座に引金を引いて一発で必殺することか。]

三一 ヲダトコ。 猪を里に持下〈もちおろ〉して、割〈さ〉きて分配するに使ふ家を云ふ。ヲダトコの家は一定しをれり。

△天草下島の西海岸にも小田床村あり。神祭にゆかりある名ならんと思へど考證し得ず。

[やぶちゃん注:「小田床村」現在の天草の下島(しもしま)の熊本県天草市天草町下田南の附近。ここ。]

三二 カモ。 猪の寢床なり。笹、柴、茅などを集めて、粗末なるものを作れり。此の笹草は如何に生ひ茂れる中なりと雖〈いへども〉、決して一所に於ては採取すること無く、遠方より點々と持集〈もちあつ〉め來りて、形跡を暗〈くら〉ますなり。

△草萎〈しぼ〉めば常に新しきを取〈とり〉そふるなり。カモにては子を育つる故にかく人に知られぬやうに骨を折る。

三三 ヲタケ。 峯の橫に亙れるを云ふ。

三四 ヲバネ。 峯を云ふ。

△赤羽根、靑羽根の如く羽根といふ地名は、凡て上代に埴(ハニ)を採りし所なるより直〈ぢき〉に命名したること、例へば柚木〈ゆずき〉、久木などゝ同じ類〈たぐひ〉ならんと思ひしが、かゝる羽根もありけり。

三五 タヲ。 嶺を云ふ。

△峯と嶺とを區別するの意明ならず。タヲは三備其他中國の山中にては。乢又は峠と書けり。乢の字の形が示す如く、たわむといふ語と原由を同じくするならん。土佐にては峠を凡てトーと云ふ。たゞ山の頂をもトーと云ふ。此もタヲの訛なるべし。三浦氏の一族に大多和氏、相模の三浦郡に大多和の地ありと記憶す。

[やぶちゃん注:「峯と嶺とを區別するの意明ならず」は「峯」は単独で山頂を指し、「嶺」はピークが並ぶこと、及びその間の鞍部や峠道を持つ部分をより広く指すと私は考えてよいようには思われる。

「大多和」神奈川県横須賀市太田和(おおたわ)。ここ。そこを、航空写真に切り替えると、丘陵や山間のピークが複雑に入れ込んでいることが判る。]

三六 ヒキ。 嶺の凹所に在り。各所より逐ひ囘したる猪が最後の遁路なり。ウヂとは混ずべからず。

三七 シナトコ。 大豆、小豆、蕎麥、稗等を燒畑の内にてたゝき落し收納したる跡を云ふ。猪は來りて落穗をあさるものなり。

△燒畑に作りたる穀類は凡て實のみを家に持歸るなり。麥などは穗を燒〈やき〉切りて採るが常にて、短き麥桿〈むぎわら〉の小束が松明〈たいまつ〉の末〈すゑ〉のやうに、焦げて山に棄てゝあるを見る。麥を燒きて穗のみを收むることは奧羽にても普通なり。

[やぶちゃん注:焼き切って収穫するというのは、ちょっと驚いた。]

三八 シバトコ。人の變死したる跡を云ふ。某〈なにがし〉シバトコと稱し、死者の名を冠して地名とす。路を行く者柴を折りて之に捧ぐる風習あり。之を又柴神〈しばがみ〉とも云ふ。柴を捧ぐるは亡靈を慰するの意なり。

△又路の側に小竹を立て其端に茅〈かや〉を結び付けたるを見る。これは蝮蛇〈まむし〉を見たる者が必ず其所に立てゝ人を戒むるなり。其名を何と云ふか記憶せず。

三九 アゲヤマ。 上山。燒畑に伐るとき誤りて樹上より墜落し悲慘の死を遂ぐる者あり。上げ山と稱するは、此山の一部分を爾後燒畑にせざる旨を山の神に誓ひて立て殘しある箇所なり。

四〇 サエ。 高寒の地。村里遠く隔たりたる所を云ふ。

四一 コウマ。 サエの反對にして卽ち村里を云ふ也。因〈ちなみ〉に記す、本村の神樂歌にサヱは雪コウマは霰といふ句あり。

[やぶちゃん注:「神樂歌」の「サヱ」の表記はママ。修正していない。どちらの表記が正しいかは判らない。]

2022/05/09

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」電子化注始動 / 「序」

 

[やぶちゃん注:本篇は「のちのかりのことばのき」と読み、柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの献本(扉に献本辞と署名有り)原本のこちらを視認した。正字正仮名で、漢字表記はなるべく当該表示漢字を再現してある。なお、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」のここにある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集」の「第二十七卷(新装版)」一九七〇年筑摩書房刊)を加工データとして、使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、底本原本では、読点はなく、総ての箇所が句点であるが、これは流石に読み難いので、私の判断で一部を読点に代えた。また、やや難読と思われる箇所には私が〈 〉で読みを歴史的仮名遣で添えた(柳田のルビはカタカナなので判別は容易である。なお、読みは所持する「ちくま文庫」版一九八五年刊「柳田國男全集」第五巻の当該論文も参考にした)。下線は底本では右傍線。踊り字「〱」「〲」は私自身が生理的に嫌いなので正字に代えた。禁欲的に注を附した。冒頭に目次があるが、省略する。

 また、私の電子化注した、早川孝太郎氏の「猪・鹿・狸」の「猪」のパートは大いに参考になろうと思う。早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ)を中心とした民譚集で非常に面白い。特に以下の注では挙げないが、未読の方は、是非、お勧めである。

 

    

 

一 阿蘇の男爵家に下野(シモノ)の狩の繪が六幅ある[やぶちゃん注:「六」は印刷では「四」であるが、自筆で「六」に修正されてある。]。近代の模寫品で、武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが、私が之を見て心を動かしたのは、其繪の下の方に百姓の老若男女が出て來て見物する所を涅槃像のやうに畫いてあるのと、少しは畫工の誇張もあらうけれども、獲物の數が實に夥しいものであることゝ、侍雜人〈ざうにん〉迄の行裝が如何にも花やかで、勇ましいと云はんよりは寧面白い美くしいと感ぜられたことゝである。下野の年々の狩は當社嚴重の神事の一であつた。遊樂でも無ければ生業では勿論無かつたのである。從つて有る限の昔の式例作法は之を守り之を後の世に傳へたことと思はれる。此が又世の常の遊樂よりも却つて遙に樂しかつた所以であつて、例としては小さいけれども、今でも村々の祭禮の如き、之を執行ふ氏子の考が眞面目であればあるほど、祭の樂しみの愈深いのと同じわけである。肥後國誌の傳說に依れば、賴朝の富士の卷狩には阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故實を聽いたとある。倂し坂東武者には狩が生活の全部であつた。まだ總角〈あげまき〉の頃から荒馬に乘つて嶺谷を驅け巡り。六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。何も偏土の御家人に問はずとも、立派に卷狩は出來たことであらうから、此說は信用するには及ばぬ。が唯この荒漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとつては神の惠の樂園であつて、代々の弓取が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明かである。處が其の大宮司家も或時代には零落して、初は南鄕谷〈なんがうだに〉に退き、次には火山の西南の方、矢部(ヤベ)の奧山に世を忍び、更に又他國の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を飜へし、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の實は最早他國の武家の收穫であつた。昔肥前の小城(ヲギ)の山中で腹を切つた大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよと言つたといふことである。其子孫が久しく故土に別れて居つたのである。嘸〈さぞ〉かし遙に神山の火を眺めて、產土〈うぶすな〉の神と下野の狩を懷かしがつたことであらう。然るに漸くのことで浦島のやうに故鄕に歸つて見れば、世は既に今の世に成つて居つた。谷々の牟田には稻が榮え、草山には馴れたる牛馬が遊んで居て、鹿兎猪狐の類は遠く古代へ遁げ去つて居つたのである。昔を寫す下野の狩の繪には、隱れたこんな意味合も籠つて居るのである。

[やぶちゃん注:「下野」恐らく「ひなたGBS」の椎葉村大河内地区のどこかにあった。現在も小字地名に残っているはずなのだが、地図類では見たらない。【二〇二二年五月十日削除・追記】以下の没落後の位置が孰れも肥後で、椎葉村と国を越えて有意に離れていることが不審だったが、その際、椎葉村字大河内小字下野という記載を発見したため(してしまったため)、大きな誤認を見逃してしまった。何時も情報を頂戴するT氏より昨日、「AsoPedia」の「下野狩」を紹介戴いた。そこに「下野狩(しもののかり)」はここに記されている通り、阿蘇大宮司家によって行われた神事的な演武の巻狩(まきがり)であって、阿蘇山麓で展開されたものであった。『鎌倉幕府を開いた源頼朝の富士の巻狩の手本となったと伝えられており、天正七年(一五七九)に阿蘇氏の没落と共に廃絶し』たとし、『下野とは、現在の坊中(黒川)』(ここ)『からの登山道、南阿蘇村下野』(ここ)『からの登山道と北外輪山麓の黒川に囲まれた広大な原野』・『沼沢地で』、『狩場は永草』(ながくさ:ここ。下野の東北直近)の「鬚捊(びんかき)の馬場」・「中の馬場」・「赤水の馬場」と三つに分かれていたとある。「下野狩」の起こりははっきりしないものの、『始めは農作物を食い荒らす害獣を駆除し、開拓神(国造神社)』(阿蘇神社の北に位置するため、通称「北宮」と呼ばれている「国造(こくぞう)神社」。約二〇〇〇年の歴史を持つ古い神社)『に贄(にえ)として捧げる小規模な』贄狩であったものが、『時代が下がるに従い、阿蘇家の勢力も拡大し、狩の方法も進化し』たとあり、『狩は武士団の軍事訓練の一環として、諸将を招集し、勢子(せこ)の動員から隊の編成、狩場での諸将の指揮振りを見る等、大規模なものとな』ったとして、その狩りの拡大や発展が解説されてある。而して、『阿蘇家には、この下野狩の様子を描いた』三『幅の「下野狩図」が残されてい』るとあり、そのカラー画像も載る(恐らくは古くにあったものの原画の部分写本であろう)。絵師は『肥後狩野派の祖とされる』薗井守供(そのいもりとも)で、精緻を極めた美麗なものでる。そして、その下方に「下野狩の推定図」が画像で記されて執行勢の進行路の指示もある。それを見るに、グーグル・マップ・データではこの画面の内部が展開地域であったことが判明した。永く私の読者として御助力頂いているT氏に心より御礼申し上げるものである。

「雜人」賤民。

「南鄕谷」現在の熊本県阿蘇郡高森町高森のこの附近。手間取ったが、「ひなたGPS」のここで阿蘇山南麓のこの旧地名を見出せる。

「矢部」位置的に見て、現在の熊本県上益城郡山都町北中島附近か。「矢部サンバレーカントリークラブ」というのがあり、阿蘇山の西南という条件に一致する。同じく「ひなたGPS」で旧地名の「矢部」を確認出来た。]

二 今の田舍の面白く無いのは狩の樂を紳士に奪はれた爲であらう。中世の京都人は鷹と犬とで雉子〈きじ〉鶉〈うづら〉ばかりを捕へて居〈を〉つた。田舍侍ばかりが夫役〈ぶやく〉の百姓を勢子〈せき〉にして大規模の狩を企てた。言ふ迄も無いが世の中が丸で今とは異なつて居る。元來今日の山田迫田(サコダ)は悉く昔の武士が開發したものである。今でこそ淺まな山里で、晝は遠くから白壁が見え、夜は燈火が見えるけれども、昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隱されて、道も橋も何も無い、烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。此中に於て、茲〈ここ〉に空閑〈くげん〉がある茲に田代〈たしろ〉を見出でたと言ふ者は。武人の外に誰が有らうか。獸を追ふ面白味に誘はれてうかうかと森の奧に入つて來る勇敢な武士でなければ出來ないことである。其發見者は一方には權門大寺に緣故を求めて官符と劵文〈けんもん〉とを申下し、他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。名字の地と成れば我が命よりも大事である。之を守る爲には險阻なる要害を構へ。其麓には堀切土居の用意をする要害山の四周は必ず好き狩場であつた。大番役に京へ上る度に。むくつけき田舍侍と笑はれても。華奢風流の香も嗅がずに。年の代るを待兼て急いで故鄕に歸るのは。全く狩といふ强い樂があつて。所謂山里に住む甲斐があつたからである。殺生の快樂は酒色の比では無かつた。罪も報も何でも無い。あれほど一世を風靡した佛道の敎も。狩人に狩を廢めさせることの極めて困難であつたことは。今昔物語にも著聞集にも其例證が隨分多いのである。

[やぶちゃん注:「迫田」山の狭い谷あいに開かれた小さな田。

「空閑」未だ人が入って田畑になっていない開発し得るような未開地。

「田代」ここは田にするに適した土地。或いはかなり古い過去の隠田(おんでん)の跡も指すであろう。

「劵文」 奈良時代以降、土地家屋などに関する権利を証する文書を指す。]

三 此の如き世の中も終に變遷した。鐡砲は恐ろしいものである。我國に渡來してから僅に二三十年の間に。諸國に於て數千の小名の領地を覆へし、其半分を殺し其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に、狩といふ國民的娛樂を根絕した。根絕せぬ迄も之に大制限を加へた。「狩詞記」の時代は狩が茶の湯のやうであつた。儀式が狩の殆〈ほとんど〉全部に成りかけて居る。大騷をして色々の文句を覺え、畫に描いた太田道灌のやうな支度で山に行つても、先日の天城山の獵よりも不成績であつたことが隨分有つたらうと思はれる。併しまだ遠國の深山には、狩詞記などゝいふ祕傳の寫本が京都に有るやら無いやらも考へずに、せつせと猪鹿〈しし〉を逐〈おひ〉掛けて居る地頭殿が有つた。併し鐵砲が世に現はれては是非も無い。弓矢は大將の家の藝であるけれども、鐵砲は足輕中間(チウゲン)に持たすべき武具である。而も其鐵砲の方が、使ひ馴れては弓よりもよく當り遠くへ屆く。平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出來るが、出陣の日が次第に多くなつては、留守中の取締は付き兼ねる。昔は在陣年を越えて領地へ歸つて見ると、野山の鳥獸は驚くべく殖えて居る。此が凱旋の一つの快樂であつた。然るに今は落人〈おちうど〉の雜兵〈ざふひやう〉が糊口の種に有合せの鐵砲を利用して居る。土民は又戰敗者の持筒〈もちづつ〉を奪ひ取つて、之を防衞と獸狩の用に供して居る。怒つて見ても間に合はぬ。山には早〈はや〉よほど鹿〈しか〉猿が少くなつた。そこで徒然〈つれづれ〉のあまり狩の故實を筆錄する老武者もあれば、之を讀んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

[やぶちゃん注:「猪鹿〈しし〉」古い言い方で振った。別に「ゐのしししか」でもいいが、リズムがだれるので好まなかっただけである。]

四 狩詞記(群書類從卷四百十九)を見ると、狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。所謂峯越す物といひ山に沿ふ物といふ「物」は鹿である。全く鹿は狩の主賓であつた。此には相應の理由のあることで、つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。北原晉氏は鐵砲の上手で、若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。然るに十年餘の間に猪を擊つたのは至つて小さいのを唯一匹だけであつた。猪は何と言つても豚の一族である。走るときは隨分早いけれども、大雪の中をむぐむぐと行く有樣は鼹鼠〈もぐら〉と同じやうである。之に反して鹿は走るときはひたと其角〈つの〉を背に押付ける。遠くから見ても近くでも、丸で二尺まはり程の棒が橫に飛ぶやうなものである。足の立所〈たちどころ〉などは見えるもので無い。之を橫合に待掛けて必ず右か左の三枚〈さんまい〉を狙ふのである。射當てた時の歡〈よろこび〉はつまり所謂技術の快樂である。滿足などゝいふ單純な感情では無い。昔から鹿狩を先途〈せんど〉とするの慣習も或は此邊の消息であらうか。乃至は未知の上代から傳へられた野獸の階級とでもいふものがあるのか、兎に角に鹿は弱い獸で、人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。奈良や金華山に遊ぶ人たちは。日本は鹿國のやうに思ふだらうけれども、普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。此因〈このちなみ〉に思ひ出すのは北海道のことである。蝦夷地には明治の代まで鹿が非常に多かつた。十勝線の生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)の停車場を始として、ユクといふ地名は到る處に多い。然るに開拓使廳の始頃に、馬鹿なことをしたもので、室蘭附近の地に鹿肉鑵詰製造所を設立した。そしたら三年の内に鹿も鑵詰所も共に立行〈たちゆ〉かぬことになつた。北海道の鹿は鐵砲の痛さを知るや否や直に其傳說を忘却すべく種族が絕えたのである。

[やぶちゃん注:「狩詞記(群書類從卷四百十九)」国立国会図書館デジタルコレクションの「新校 群書類從」(昭和七(一九三二)年内外書籍刊)の第十八巻の当該部(正しくは「就狩詞少々覺悟之事【今、狩詞記と稱す。】」)をリンクさせておく。

「三枚」肋骨の三本目を指す。鹿に限らず、猪・熊でもそこを急所とする。

「生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)」前の丸括弧はルビ、後者のそれは本文。幾つかのフレーズで検索をかけても見つからず、古い地図も調べたが、お手上げ。一つ、根室本線に「幾寅」なら、現存する。ここは現在の南富良野町幾寅であるが、十勝ではない。しかし、ここには南に「ユクトラシュベツ川」もあるから、ここか? また、調べると、アイヌ語で「ユク」は「鹿」を指し、古くはヒグマやエゾタヌキなども含めて「ユク」と読んでいたと、アイヌ工芸品店「アイヌモシリ三光」の店長のブログのこちらにあったので、以上の話との親和性が強いことが判った。【二〇二二年五月十日追記】同じくT氏より、『本序の最後に明治四二(一九〇九)年二月一日のクレジットがあるが、明治四十二年十月十二日まで、旭川―帯広間は「十勝線」であり、「幾寅駅」は明治三五(一九〇二)年十二月六日開業』との御指摘を受けた。これによって、柳田の「生寅」は「幾寅」の誤記の可能性が高いことになる。]

五 茲に假に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、勿論第二期の狩に就ての話である。言はゞ白銀時代の記錄である。鐡砲といふ平民的飛道具を以て、平民的の獸卽ち猪を追掛ける話である。然るに此書物の價値が其爲に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、其中に列記する猪狩の慣習が正に現實に當代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して、日本國の一地角に規則正しく發生する社會現象であるからである。「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是〈そんぜ〉」といふ書物の、農業生產之部第五表禽畜類といふ所に、猪肉一萬七千六百斤、其價格三千五百二十圓とあるのが立派な證據である。每年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので、此實際問題のある爲に、古來の慣習は今日尙貴重なる機能を有つて居る。私は此一篇の記事を最〈もつとも〉確實なるオーソリテイに據つて立證することが出來る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀨淳氏から口又は筆に依つて直接に傳へられたものである。中瀨氏は椎葉村大字下福良(〈シモ〉フクラ)小字嶽枝尾(タケノエダヲ)の昔の給主〈きふしゆ〉である。中世の名主職を持つて近世の名主職に從事して居る人である。此人には確に狩に對する遺傳的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜中瀨君と同宿して猪と鹿との話を聽いた。大字大河内の椎葉德藏氏の家に泊つた夜は、近頃此家に買得〈ばいとく〉した狩の傳書をも共に見た。東京へ歸つて後賴んで狩の話を書いて貰つた。歷史としては最〈もつとも〉新しく紀行としては最〈もつとも〉古めかしいこの一小册子は、私以外の世の中の人の爲にも、隨分風變りの珍書と言つてよからう。

[やぶちゃん注:「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是」この書物、未詳。識者の御教授を乞う。

「一萬七千六百斤」十トン五百六十キログラム。

「椎葉村大字下福良」ここ

「嶽枝尾」椎葉村大河内(おおかわうち)の、ここに嶽枝尾(たけのえだお)神社がある。

「給主」中世に於いて、幕府や主家から恩給としての所領を与えられた者。また、領主の命を受けて領地を支配した者。給人とも称した。江戸時代でも、幕府・大名から知行地或いはその格式を与えられた旗本・家臣などをも指した。

「買得」買い取ること。]

六 此序に少しく椎葉村の地理を言へば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が、九州では最深い山地であるが、中央の山脈は北では東の方〈かた〉豐後境へ曲り、南では西の方肥薩〈ひさつ〉の境へ曲つて居るから、空〈そら〉で想像すれば略〈ほぼ〉Sの字に似て居る。其Sの字の上の隅、阿蘇の外山(外輪山の外側)の緩傾斜は、巽〈たつみ〉の方へは八里餘、國境馬見原(マメワラ)の町に達して居る。其先には平和なる高山が聳〈そばだ〉つて、椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇莊〈ごかのしやう〉とも嶺を隔てゝ鄰である。肥後の四郡と日向の二郡とが此村に境を接し、日向を橫ぎる四〈よつ〉の大川は共に此村を水上として居る。村の大さは壹岐よりは遙に大きく隱岐よりは少し小さい。而も村中に三反とつゞいた平地は無く、千餘の人家は大抵山腹を切平げて各〈おのおの〉其敷地を構へて居る。大友島津の決戰で名を聞いた耳川の上流は村の中央を過ぎて居るが、此川も他の三川〈さんせん〉も共に如法の瀧津瀨であつて、舟はおろか筏さへも通らぬ。阿蘇から行くにも延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも、四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

[やぶちゃん注:「馬見原」現在の熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)馬見原(まみはら)

「五箇莊」落人伝説で知られる隠田集落。この附近

「大友島津の決戰」天正六(一五七八)年、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町のこの附近)を主戦場とした「耳川の戦い」。

「耳川」サイト「川の名前を調べる地図」のここ。現在は小丸川。]

七 比の如き山中に在つては、木を伐つても炭を燒いても大なる價を得ることが出來ぬ。茶は天然の產物であるし、椎蕈〈しひたけ〉には將來の見込があるけれども、主たる生業はやはり燒畑の農業である。九月に切つて四月に燒くのを秋藪〈あきやぶ〉と云ひ、七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば士が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓〈よ〉む。卽ち火田〈くわだ〉のことで常畠〈じやうばた〉熟畠の白田〈しろた〉と區別するのである。木場切の爲には山中の險阻に小屋を掛けて、蒔く時と苅る時と、少くも年に二度は此處に數日を暮さねばならぬ。僅な稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯〈たちがれ〉になつて居〈ゐ〉る有樣は、平地の住民には極めて奇異の感を與へる。以前は機〈はた〉を織る者が少なかつた。常に國境の町に出でゝ古着を買つて着たのである。牛馬は共に百年此方〈このかた〉の輸入である。米も其前後より作ることを知つたが、唯〈ただ〉僅〈わづか〉の人々が樂しみに作るばかりで、一村半月の糧にも成り兼るのである。米は食はぬならそれでもよし、若し些〈いささか〉でも村の外の物が欲しければ、其換代〈かへしろ〉は必ず燒畑の產物である。家に遠い燒畑では引板〈ひきいた〉や鳴子〈なるこ〉は用を爲さぬ。分けても猪は燒畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ爲には髮の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに插すのである。之をヤエジメと言つて居る。卽ち燒占〈やきしめ〉であつて、昔の標野(シメノ)、中世莊國の榜示〈ばうじ〉と其起原を同じくするものであらう。燒畑の土地は今も凡て共有である。又茅〈かや〉を折り連ねて垣のやうに畑の周圍に立てること、之をシヲリと言つて居る。栞も古語である。山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一〈ひとつ〉の棒では無くて、山地に向けて之を橫に寢かしたやうなのが我國のさまである。

[やぶちゃん注:「火田」「焼き畑」のこと。古くは朝鮮のそれを指した。

「引板」鳴子と同じような警鳴器。略縮して「ひた」とも呼ぶ。]

八 椎葉村は世間では奈須と云ふ方が通用する。例の肥後國誌などには常に日州奈須と云つて居る。村人は那須の與一が平家を五箇の山奧に追詰めて後、子孫を遺して去つた處だといふ。昔の地頭殿の家を始め千戶の七百は奈須氏であるが。今は凡て那須といふ字に書改めて居る。併しナスといふのは先住民の殘して置いた語で、かゝる山地を言現〈いひあら〉はすものであらう。野州の那須の外、たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。椎葉と云ひ福良と云ふも今は其意味は分らぬけれども、九州其他の諸國に於て似たる地形に與へられたる共通の名稱である。奈須以外の名字には椎葉である黑木である甲斐である、松岡、尾前、中瀨、右田、山中、田原等である。就中〈なかんづく〉黑木と甲斐とは九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本據も村の北鄰[やぶちゃん注:底本は「部」の字の誤植を手書きで「鄰」に訂してある。]なる高千穗庄であつた。明治になつて在名の禁が解かれてから、村民は各緣故を辿つて、村の名家の名字の何れかを擇んだが、其以前には名字を書く家は約三の一で、これだけをサムラヒと稱して別の階級としてあつた。其餘は之を鎌サシといふ刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。昔の面影は此外にも殘つて居る。家々の内の者卽ち下人は女をメロウといひ男をばデエカンと云ふ。デエカン卽ち代官である。近代こそ御代官はよき身分であつたが、其昔は主人を助ける一切の被管〈ひかん〉は大小となくすべて、代官であつた。

[やぶちゃん注:「肥後國誌」明治一七(一八八四)年頃に成瀬久敬の「新編肥後国志草稿」(享保一三(一七二八)年成立)を水島貫之・佐々豊水らが編纂したものを指すものと思われる。

「備後の山中にも那須といふ地名がある」現在の広島県山県(やまがた)郡安芸太田町那須であろう。

「高千穗庄」椎葉村の北東の現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町

「被管」「被官」はこうも書く。]

九 次には猪を擊つ鐵砲のことである。村に傳へらるゝ寫本の記錄「椎葉山根元記」に依れば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫(西曆一五八七―一六一三)の幕下に屬して居つた時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鐡砲が渡された。此時代は明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]の戰時[やぶちゃん注:西南戦争。]と共に、椎葉の歷史中最悲慘なる亂世であつた。十三人の地侍は徒黨して地頭の一族を攻殺〈せめころ〉した。此時の武器は凡て鐵砲であつた。元和年中[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。江戸前期。]に平和が快復して後、此三百梃は乙名〈おとな〉[やぶちゃん注:長老を意味する一般名詞。]差圖を以て百姓用心の爲に夫々〈それぞれ〉相渡したとある。寬延二年[やぶちゃん注:一七四九年。]の書上を見ると、村中の御鐵砲四百三十六梃、一梃に付銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鐵砲は必しも昔の火繩筒では無いやうだ。其數は寬延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。]度よりも增して居るや否や。運上の關係は如何〈いかに〉なつて居るかは凡て知らぬ。又如何なる方法で火藥を得て居るかといふことも知らぬ。併し鐵砲の上手は今日も決して少なく無いと考へられる。それは兎に角、椎葉の家の建て方は頗〈すこぶる〉面白い。新渡戶博士が家屋の發達に關する御說は、此村に於ては當らぬ點が多い。山腹を切平げた屋敷は、奧行を十分に取られぬから、家が極めて橫に長い。其後面は悉く壁であつて、前面は凡て二段の通り緣になつて居る。間〈ま〉の數は普通三つで、必ず中の間が正廳〈せいちやう〉である。三間ともに表から三分の一の處に中仕切があつて、貴賤の坐席を區別して居る。我々の語で言へば人側(イリカハ)である。正廳の眞中には奧へ長い爐があつて、客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。卽ち突當りの中央に壁に沿うて、床の間のやうな所があつて、武具其他重要なる家財が飾つてある。其前面の爐の側が家主の席であつて之を橫坐といふ。宇治拾遺の瘤取の話にも橫坐の鬼とあるのは主の鬼卽ち鬼の頭〈かしら〉のことであらう。橫坐から見て右は客坐と云ひ、左は家の者が出て客を款待(モテナ)す坐である。

 

Okarinokotobanoki

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り。なお、非常に読み難いが、こちらにはここに奥付がある。左ページの右下方)の当該部からトリミングした。キャプションは、上から下へ、右から左へで、

   *

「廏」(=廐(うまや))

「障子又ハ雨戶」

「ウシロハ切崖」

「キヤクザ」

「エンガハ」

「シキダイ」

「トコ」(=床の間)

「カマト」(=竃(かまど))

「戶」(=勝手口)

「戶」(同前)

「泉又ハ筧」

   *]

 

遠來の客は多くの家の客坐に於て款待せられた。緣の外は僅の庭で其前面は全く打開〈うちひら〉けて居る。開けて居ると言つても狹い谿を隔てゝ對岸は凡て重なる山である。客坐の客は少し俯〈うつむ〉けばその山々の頂を見ることが出來る。何年前の大雪にあの山で猪を捕つた、あの谷川の川上で鹿に逢つたといふやうな話は、皆親しく其あたりを指さして語ることが出來るのである。之に付けて一つの閑話を想出すのは、武藏の玉川の上流棚澤の奧で字〈あざ〉峯といふ所に、峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行つて二晚とまり、羚羊〈かもしか〉の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。東京から十六里の山奧でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の緣に腰を掛けて狩の話を聽いた。小丹波川の波頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を擊つたときに。手袋の上から二所〈ふたどころ〉爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縱橫に長い瘢痕があつた。あの犬にも十年逢はぬ。此の親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。懷かしいことだ。

[やぶちゃん注:「棚澤」現在の神奈川県厚木市棚沢附近であろう。

「宇治拾遺の瘤取の話」「宇治拾遺物語」の知られた瘤取り爺さんの話。「鬼ニ瘤被取事」(鬼に瘤取らるる事)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。

「羚羊」獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)。私は槍ヶ岳から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。]

十 椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。此の慣習と作法とは山中のおほやけである。平地人が注意を拂はぬのと交通の少ない爲に世に知られぬだけで、我々は此智議を種に平和なる山民に害を加へさへせずば、發表しても少しも構はぬのである。之に反して「狩之卷」一卷は傳書である。祕事である。百年の前迄は天草下島の切支丹の如く、暗夜に子孫の耳へ私語〈ささや〉いて傳へたものである。若し此祕書の大部分が既に遵由〈じゆんいう〉の力を現世に失つて、椎葉人の所謂片病木(カタヤマギ)の如くであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかゝる大膽な決斷を敢てせぬ筈である。併し畏るゝには及ばぬ。狩之卷は最早歷史になつて居る。其證據には此文書には判讀の出來ぬ箇所が澤山ある。左側に――を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ。それのみならず實の所私はまだ山の神とは如何なる神であるかを知らないのである。誰か讀者の中に之をよく說明して下さる人は無いか。道の敎〈をしへ〉は知るのが始〈はじめ〉であると聞く。もし十分に山の神の貴さを會得したならば。或は大に悔いて狩之卷を取除くことがあるかも知れぬ。其折には又狩言葉の記事の方には能〈かな〉ふ限〈かぎり〉多くの追加をして見たいと思ふ。

 

   明治四十二年二月一日 東京の市谷に於て

                  柳 田 國 男

[やぶちゃん注:「遵由」頼りにして従うこと。

「片病木(カタヤマギ)」以下の本文の「土地の名目」の「二三」に出る。そこに『カタヤマギ。片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ』とある。]

2022/04/12

尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」

 

[やぶちゃん注:本篇は大正四(一九一五)年六月発行の『鄕土硏究』に尾芝古樟(こしょう)の変名で柳田國男が発表した論文である。尾芝は柳田國男の母の実家の姓である。柳田國男の談話「故郷七十年」(「青空文庫」のこちらで読める)の「匿名のこと」に、『私の匿名の一つに尾芝古樟(こしょう)というのがある。これは北条の母の実家の姓と、同家にあった古い樟くすの老樹にあやかったものである。』と記しているが、思うに、この当時、彼は貴族院書記官長となっていたから、官職を憚ってのことであろうと推定する。後の昭和二八(一九五三)年実業之日本社から刊行された「柳田國男先生著作集 第十二册」に「神樹篇」と総題する中の一篇として再録されている(戦後の刊行物であるが、正字正仮名表記である)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションにある、その「柳田國男先生著作集 第十二册」の当該論文に拠った。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集 第十一卷(新装版)」(一九六九年筑摩書房刊))を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本電子化は、現在、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の、南方熊楠の論文「龍燈に就て」で取り上げられていることから、急遽、電子化することとした。そちらが私のメイン作業であるからして、時間をかけたくないので、一部気になる箇所以外は注をしない。傍点「﹅」は太字に代えた。典籍注記の( )等はポイント落ちであるが、同ポイントとした。]

 

      龍 燈 松 傳 說

 

 盆の燈籠は、やはり柱松の行事と系統起原を同じくするものであらう。角な切籠(きりこ)が廢れて、圓い岐阜提燈(ぎふちやうちん)が多く行はれると共に、今では軒に吊(つる)すのが盆燈籠の常の習のやうになつて居るが、昔は是も高い柱の上に揭げたものであつた。明月記寬喜二年[やぶちゃん注:一二三〇年。]七月十四日の條に、長竿の末に紙を張つて灯樓(とうろう)を附けて立つる風、次第に流行すると云ふ記事は、松屋筆記其他の隨筆類に引用せられて既に有名である。而も鬼貫(おにつら)の發句で世に知られた攝州伊丹(いたみ)の高燈籠の類は、近世になつても決して珍しい例では無かつた。例へば百年前の秋田の風俗答書にも、七月には三丈四丈の伸良(のびよ)き丸太を立て、其尖(さき)に燈籠を揚げることを述べ、新佛(しんぼとけ)ある家で三年目まで、其後は七年十三年と年回每に立てるもあれば、年々立てる家もある。七月は朔日に始つて晦日に至る。大抵一町内に三四箇所は必ず立つ故に、高い處より望めば星の林のやうだと言つて居る。柱の構造としては、尖端に近く橫木を結ひ附けて、三角に繩を張り幣(しで)を切掛け、三角の角ごとに杉又は笹の葉を附け、燈籠は其橫木に吊るすのだとあつて精密な揷畫があるが、山中笑翁が明治二十年の七月三十日に、相模平塚の附近を通行して、目擊せられたと云ふ農家の高燈籠の見取圖が、不思議なほどそれとよく似て居る(共古日錄十九)。卽ち此も亦繩と橫木を以て三角形を作つて兩端に杉の葉を附け、燈籠は其下に吊したものである。而して以前江戶市中に於て立てたと云ふものも亦殆と[やぶちゃん注:「ほとほと」「ほとんど」はこれが塩転訛したもの。]同樣であつた。昔々物語に、「昔は御旗本衆死去し其年七月高燈籠と云ふ物を立る云々。大方七回忌まで每年立るもあり、七八間ばかりの杉丸太の上に三角に甍(いらか)結(ゆ)ひ、杉の葉にて包みしでを切りて附け、燈籠は辻番の行燈なりに、上へ開き下つぼませ、屋根は板にて拵らへ、玄關と臺所との間の廣き所に立つ。七月朔日より晦日まで每夜暮六つより明六つまでとぼす。一向宗にては見ず、他宗は皆々此の如し、見分哀に見ゆるなり云々」。今から略々二百年前の事を述べたもので後は絕えたやうに見えるが、必ずしもさうでなかつた證は十方菴の遊歷雜記初篇にある。卽ち靑山百人町に住する與力同心などの組屋敷では、それから尙百年の後まで七月中此柱を立てゝ燈籠を點(とぼ)し、之をば星燈籠と呼んで居た。家々柱の高きを競ふ故に遠くから見えて壯麗であつた。是は八代將軍目黑御成の歸途に此光景を賞せられ、一統の者に銀を下された。それより愈古例となつて永く殘つたと云ふ。之を以て推測すると、少なくも市中に於て揚燈籠の風が衰へたのは、經費が次第に多くかゝつて、箇人の所作に適しなくなつた爲であるかと思ふ。

 盆の聖靈祭(しやうりやうまつり)が家々別々の祭となつたのは、さして古い時代の事で無かつたらしい。所謂三界萬靈(さんがいばんりやう)の中から、各自有緣の亡者を持分けて供養することになると、柱松の設備は成ほど些し大規模に過ぎるやうである。木材も人手も有餘る片田舍で無ければ、冨豪大身の他は、其入費の負擔に堪へなかつた筈である。是に於てか或地方では、此點ばかりを永く部落の共同事業として、個人主義の新念佛道との不調和を來し、他の地方では之に代ふるに門火(かどび)や軒提灯の略式を以てし、何れも次第に柱祭(はしらまつり)の古い思想から、遠ざかるに至つたものであらう。然るに茲に一つ、偶然にも都合のよかつたことは、所謂檀那寺の仲介と調和とである。御寺は個々の檀家の信仰上の代表者として、祖師檀の片脇などに、家々から多數の位牌を預つて置いて供養すると同じく、個人の獨力では實行し難いこの柱祭の任務を、一手に請負うて勤めたものらしい。是は單に盆の柱祭のみでは無かつた。葬式の跡始末でも、春秋の彼岸の施餓鬼(せがき)でも、何れも個人が父祖を追慕するの情を傷ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]ことなしに、昔の厲鬼[やぶちゃん注:「れいき」と読む。流行病などを起こさせる悪神、厄病神のこと。]驅逐の術を完成し得た故に、常に村の爲に有用であつたのである。此號に阿波の遠藤君が報ぜられた眞言寺の招き旗なども、現に陸中遠野鄕の村々では、今なほ新盆の家では家々に於て之を建てること、恰も他の地方の五月幟と同じやうである(遠野物語序[やぶちゃん注:私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の柳田の序を参照されたい。])。西京では大和大路四條の東南の角に、眼疾地藏(めやみぢざう)を以て有名な仲源寺の如き、每歲盆には門前に揚燈籠(あげとうろう)を燃した。山州名跡志には其由來を說明して、此邊は慶安の頃まで農村であつて、此寺が恰も村の總堂(墓所?)であつた爲に、此種の遺風が存するのだと云つて居るが、それだけでは寺が其任務を引受けた理由が充分明白で無い。必ず別に個人にも部落にも之を繼續し得なかつた事情のあるものと認めねばならぬ。尤も寺院の境内に高い柱を建てることが、新たに柱祭の委託を受けた時に始つたか、はた又朝鮮の刹柱[やぶちゃん注:「さつちゆう」は仏塔の中心にある柱を言う。]などの如く寺には古くより柱を立てる風があつて、其爲に村の總代として此儀式を行ふに好都合であつたのかは、決して容易に決し得べき問題では無いが、兎に角次に言はんとする諸國の龍燈松(りうとうまつ)の傳說、多分は其傳說が意味するらしい寺々の高燈籠は、御靈會(ごりやうえ[やぶちゃん注:「え」はママ。])卽ち集合的聖靈送りの衰微、竝に之に伴つて盛になつた佛敎の個人主義と、深い因緣のあるものに違ひない。

 柱松と高燈籠と、假令同じく中元の習俗であつたにしても、一方は騷々しい破壞的事業で他の一方は美觀を專とする靜かな行事であれば、或は二者を一括して論ずるのを不當と考へる人があるかも知れぬ。此は自分の說の出發點だから確かにして置くが、其非難は恐らくは蠟燭の普及せず燈蓋(とうがい)の工夫せられなんだ時代を想像したら、容易に消滅するだらうと思ふ。語を換へて申せば、二種の柱の火の相異は、單に篝火(かゞりび)と軒行燈(のきあんどう)、又は松明と提灯との差別である。簡便に高い處で火を燃して置く方法が無いから、大袈裟な傘や酸漿を造つた迄である。其目的は生きた人間に對するものから類推しても知らるゝ如く、暗夜の道しるべに他ならぬので、此用途に向つて時代相應の人の智慧を働かせたのである。此說明は尙進んで柱と天然の樹木との關係にも適用し得られる。高燈籠の頂點に杉の葉を附ける風は、柱の材木が杉丸太であることゝ考へ合すべきものであらう。卽ち柱は單に高い處へ燈火を達せしむる手段であつて、天然の喬木があれば之を用ゐたのが本意であらう。此點は折口君も既に言はれたから詳しくは論ぜぬが、我邦の神木崇敬を批評する人たちには、是非とも一顧を煩はすべき事柄である。

 諸國に數多くもてはやさるゝ龍燈(りうとう)松、又は龍燈の杉の傳說が、槪ね大社舊寺の緣起と終始して居るのは注意すべきことゝ思ふ。全體緣起と名の附いた昔話には型に嵌(はま)つたものが多く、殊に漢文を以て書かれたものに至つては、殆と一步も元亨釋書の外へ蹈出さぬのが通例であるが、それにしても本尊の靈驗乃至は開祖の道力と、必ずしも適切な關係が無いのに此松此杉が無ければ寺門の格式を墮しでもするかの如く、競うて一本の名木(めいぼく)を稱讃するのは、單純なる流行とは認めにくいやうである。蓋し龍燈と云ふ漢語はもと水邊の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火(しらぬひ)河内の姥が火等に該當する。時あつて高く喬木の梢の邊を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸ると云ふに至つては、則ち日本化したる龍燈である。察する所五山の學僧などが試に龍燈の字を捻し[やぶちゃん注:「ねんし」ひねくりいじって。]來つて此燈の名としたのが最初で、龍神が燈を獻じたと云ふ今日普通の口碑は、却つて其後に發生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山(とうろうづかやま)、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、龍燈松の昔の俗稱は多分それであらうと思ふ。

 此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。尤も人が龍燈と云ふ物の中にも、夏秋の交[やぶちゃん注:「かはり」と訓じておく。]大小多數の火が螢などの如く水邊より出て四方を飛んであるくと云ふのがある。近刊の入間郡誌に八十歲の老人之を記憶すと云ふ同郡小畔川(をぐろがは)の龍燈、長久保赤水の東奧紀行等に記した磐城四倉(いはきよつくら)の龍燈、さては越後野志卷十四に龍燈天燈と題して各地に多くありと云ふものなどはそれである。佐渡の根本寺に於て或浪人が弓を以て射留めた龍燈は、實は大なる鷺であつた(松屋筆記七十八所引、佐渡奇談)。此等は龍燈と云ふ漢語の本の意味に合致するもので、不思議は不思議ながら要するに一種の天然現象である。之に反して每年特定の一夜又は數夜、特定の木の上に來て懸ると云ふ龍燈に至つては、卽ち人間界の不思議と言はねばならぬ。近い例から擧げると、江戸名所記には東郊木下川(きねがは)淨光寺の藥師、每月八日と元三(ぐわんさん)の朝と、本尊の前に龍燈揚ると云ひ、別に木下川藥師緣起の一篇があつて、嘉曆二年[やぶちゃん注:一三二七年。]といふ靑龍出現の瑞相が重くるしく說立[やぶちゃん注:「ときたて」。]てゝある(柳庵隨筆九)。下總印旛沼附近の天竺山龍角寺の龍神社では、每月朔日十五日二十八日の三度、燈火此沼の百丈穴より飛上つて社頭に懸つたと云ふは(相馬日記)あまりに律義な龍燈である。常陸筑波山の龍燈は五月の晦日の晚揚り、其月小なるときは二十九日に揚つた(一話一言補遺)。此等は皆龍神の手元に其年の曆が無い限りは一寸守り難い約束であり、新曆の今日はどうなつたか聞きたい。此類の期日の中でかの柱松の行事を思合さしむるものは七月と十二月の龍燈である。阿波那賀郡見能林(みのはやし)村の津峯權現と、同郡加茂谷村舍身山大龍寺との兩所は、何れも除夜の晚に山の頂上へ龍燈が上つた(阿州奇事雜話一)。大龍寺には龍燈杉と云ふ山中第一の名木があつたのを、大佛殿建立の爲に豐太閤の時に伐つたと言へば、今では其龍燈も昔話であらう。能登鳳至(ふげし)郡穴水鄕(あなみづがう)に鎭座する最勝森住吉神社は、一名を龍燈社とも呼ばれた。每年十二月晦日の夜、龍燈の奇事があつた故に此名がある(能登國式内等舊社記)。龍燈の奇事とは奇現象か、はた奇習俗か、社傳にも之を詳かにせぬと見える。更に七月の例を言ふと、紀州で有名な紀三井寺(きみゐでら)では、爲光上人[やぶちゃん注:「ゐくわうしやうにん」。]大般若書寫の功成らんとするとき龍女化現の奇異があつた。其時の約により每年七月九日の夜、本堂の艮(うしとら)五町ばかり千手谷(せんじゆだに)の松間に龍燈が現はれたと云ふ(續風土記十五)。此等の高燈籠は果して龍族の寄進するものと當初から信ぜられて居たのか、或は單に昔あの邊に燈籠が揚つたと云ふだけの言傳へに、斯る荒唐なる說明を附したものか。勿論此だけの材料では決し兼ねるが、特に一定の日を期して此事のあつたと云ふ話は、自分の如く解釋するのが、自然では無いかと思ふ。越後南魚沼郡八海山(はつかいざん)の頂上には八海明神の社がある。麓の里に住む人々は每年七月晦日の夜は登山參拜して一宿する習であるが、此夜山から麓の方を下し臨めば、數十の火が燈の如く連り聯綿として山中に飛來るを見る。土人は之を八海明神を遙拜する山下諸邑の人の捧ぐる燈が自ら飛來るのだと信じ、因つて其夜は諸村の者も戶每に燈燭を捧げて八海山を遙拜する。飛火に大小があるのは捧げる燈の大小に由ると云つて、各人燭の大なるを競うたと云ふことである(越後野志)。此話も亦寺々の龍燈と同じく、何れの點までが神祕で何れの點迄が實際生活であるかを區分し難いが、此夜が恰も神を送るの季節であつたことを考合せると、信仰ある者の夜目の迷ひにも若干の因由が無かつたとは言はれぬ。

 之を要するに自分の解する龍燈松は、天然の樹木を利用した柱松の故跡である。而も此が又柱松の本然の形式であつた。但し人が喬木の梢に燈火を揭げたと云ふ例證は不幸にしてまだ見出さぬが、略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]其光景を伺はしむべき昔話も亦殘つて居る。例へば美作久米郡稻岡北庄(きたのしやう)の櫔社山(とちこそさん)誕生寺は、法然上人誕生の舊地である。寺の東南五十町ばかりの地にある龍燈松は、一名を篝松(かゞりまつ)と謂ふ。弘治年間[やぶちゃん注:戦国時代の一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。]のことであるが、此松の邊に神燈屢現れた。住持玉興なる者夜々來つて經を誦し居ると、一夕恍然として故上人が此樹上に現ずるを見た。彌陀の名號を唱ふること十餘遍、玉興拜して之に和す。少時にして冉々として天に昇る。後人時々異光を見る者多かりしより、此木を龍燈松と名づけたと云ふ(作陽誌)。此話は前に揭げた平家物語の一說とすこぶる似て居る上に、篝松の名は其火の曾ては篝であつたことを思はせる。備後深安郡の深津と云ふ所に燈明松(とうみやうまつ)と稱する古木が今もある。福山侯入部の當時埋立新田を拓いて鹽崎明神を祀り、松は其時其社の傍に栽ゑた木である。世人此樹の下に燈明を點し八百萬の神を祀りしより、燈明松の名が出來たと云ふ(大日本老樹名木誌)。樹下と云ふことは果して誤聞で無いだらうか。尙彼地の人に訂したいと思ふ。瀨戸内海の埋立地には往々にして龍燈木の話がある。水に近いから龍神の緣が深いと見ればそれ迄であるが、何か別に此類の開作に住む者に、永く柱松風の祭典を營むべき特殊の事情があつたのでは無からうか。殊に八百萬を祀るとあつて、鹽崎明神を祭ると言はぬのは意味があるやうに思ふ。

 柱の天然の樹木との關係を說いたついでに、一つ最近の見聞を附記して置かう。此まで汽車で東海道線を通るたびに心附いて居たのであるが、美濃の西部大垣驛の前後に二三ケ所、高い松の梢上に赤色の旗を立てた村がある。もとは天氣豫報の標幟であらうと思つて居たが、今度の旅で此地方出身の今西龍君に聞いて見ると、全く一種信仰上の物であるらしい。今西氏は曰く、自分は美濃でばかりすることゝは今まで心附かなんだ。日淸戰爭の頃にふと何れかの村でやり始め、追々に之に倣ふ者が出來た。村の中でも最も高い木を擇び、非常な骨折を以て攀ぢ登り、あの赤い旗を頂邊の枝に結はへ附けて來るので、もとは戰捷祈念の意味を以てしたものらしいと。此習慣はどう考へても突如として起るべきもので無い。從前樹木に旗を立てゝ祈念する風があつたのか。或は又柱に旗を附けて立てる風のみあつて、高きを競ふ極[やぶちゃん注:「きはみ」。]、此の如き樹梢を利用することになつたのか。赤色は何を意味するか。何れも更に揖斐地方の人に尋ねたいものである。柱の燈と柱の旗とは、至つて密接な關係を有して居るかと思ふ。夜の祭の柱松に對して、我々は尙晝の祭の旗鉾(はたほこ)を、講究して見なければならぬのである。

     (大正四年六月、鄕土硏究三卷四號)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧のクレジット・初出は底本では最終行の下インデントであるが、ブラウザの不具合を考慮して、改行し、上方に引き上げた。]

2019/06/28

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2) / 山島民譚集~完遂

 

《訓読》

 【竈】更ニ今一タビ馬蹄ト竃トノ因緣ヲ說クべシ。馬ノ前蹄ノ上ニ兩空處アリ名ヅケテ竃門(ソウモン)ト謂フ。凡ソ善ク走ルノ馬、前蹄ノ痕地ニ印スルトキニ、後蹄ノ痕反リテ其先ニ在リ。故ニ軍中ニ良馬ヲ稱シテ跨竈トハ云フナリ〔一話一言所引獅山掌錄〕。兩空ト云フコト自分ニハ解セザレドモ、馬ノ足跡ノ三邊著クシテ中空洞ナルハ誠ニ竃ノ形トヨク似タリ。之ニ由リテ猶想像スレバ、馬醫等ガ馬ノ蹄ヲ磨ギシ岩ヲ靈地トシテ尊崇スルヤ、其形狀ノ如何ニモ家々ノ竃ト似タルヨリ、竃ノ神ト馬ノ神トハ同一又ハ深キ關係アリト信ズルニ至リシニハ非ザルカ。若シ然リトスレバ、後年新ニ馬ノ爲ノ手術場ヲ選定スルニ、亦力メテ地形ノ竃ニ似タル處ヲ求メ、或ハ廣敞ノ地ナラバ圓ク之ヲ劃シテ其三方ヲ圍ヒ、恐クハ南ノ一方ヨリ馬ヲ曳キ入ルヽコトヽナセシナラン。【ソウゼン場】越後南蒲原地方ニテハ馬ノ蹄ヲ切ル爲ニハ特定ノ用地アリ、之ヲ名ヅケテ「ソウゼン場」ト云フ〔外山且正君談〕。【勝善神】「ソウゼン」ハ即チ前章ニ述べタル蒼前神又ハ勝善神ニテ、今モ猿屋ノ徒ガ祀ル神ナリ。關東地方ノ村々ニモ、山野ノ片端ニ此種ノ一地區ヲ構フルモノ多ケレドモ、普通ニ之ヲ何ト呼ブカヲ知ラズ。信州小田井ノ光月ノ輪ハ、中仙道ノ通衢ニ近クシテ夙ニ其奇ヲ說ク者多シ。所傳既ニ失ハルト雖亦一箇ノ蒼前場ナルニ似タリ。今ノ北佐久郡御代田村ト岩村田町ノ境ハ以前ハ原野ナリ。往來ヨリ些シ脇ニ、一町バカリ眞丸ニ幅二尺ホドノ道輪ノ如クニ附キタリ。大勢ノ足ヲ以テ蹈ミ附ケタルガ如シ。輪ノ内外ハ夏草ナドノビヤカニ生ヒ茂リタルニ、道トオボシキ處ノミ草悉ク偃シタリ。之ヲ光月輪ト稱ス。俗談ニ所ノ氏神夜每ニ馬ヲ責メタマフ處ナリ、折トシテ轡ノ音ナド聞ユト云ヘリ〔本朝俗諺志一〕。此說ハ諸書若干ノ異同アリ。或ハ輪ノ中ノ草夏ニ入レバ枯ルト云ヒ〔和訓栞〕、或ハ草全ク生ゼズ雪モ亦此中ニハ積ラズ、【權現】木幡山ノ權現夜ハ出デテ此地ニ遊ビタマフト云ヒ〔和漢三才圖會〕、或ハ雪ノトキ輪ノ處ノミ低ク見ユト云ヒ、其附近別ニ一輪アリテ馬ヲ其中ニ乘リ入ルレバ必ズ死ストテ人之ヲ怖シガルト稱ス〔百卷本鹽尻二十五〕。輪ノ大サ及ビ數ニ就キテモ區區ノ說アリ、而モ今ハ既ニ跡ヲ留メザルガ如キナリ。【カウゲ】光月ノ輪ノ「クワウゲツ」ハ芝原ヲ「カヾ」又ハ「カウゲ」ト呼ブ古語ヨリ出デ、之ニ月ノ輪ヲ思ヒ寄セシモノナルべキモ、何ガ故ニカヽル地貌ヲ呈スルニ至リシカハ之ヲ解說スル能ハズ。近年東京ノ近郊ニ數多起リタル競馬場、賭事ノ禁令ヲ勵行スルニ及ビテバタバタト廢業シ、其址多クハ大正ノ新月ノ輪トナリタル例アレド、山上ノ農鳥又ハ農牛ヲ見テモ明ラカナル如ク、前代傳フル所ノ者ハ皆天然ノ一現象ナルべシ。甲州南都留郡盛里村ト北都留郡大原村トノ境ノ山ニ、賴朝公ノ大根畝(ウネ)ト呼ブ處アリ。頂ヨリ麓マデ數峯起伏シテ畝ノ如シ。其間ニ草ノ圓ク枯ルヽ所數所アリ。徑四五尺遠望スレバ環ノ如シ。【螺】其下ニ螺ノ潛メル爲此ノ如シト云フ。巖ノ上ニ天狗松アリ、之ヲ伐レバ災アリ〔甲斐國志三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉ノ上ニ赭山アリ。黑キ岩斑ヲ爲スニヨリ名ヅケテ斑山(マダラヤマ)ト云フ。地中ニ螺ヲ棲マシムルガ故ニ草木ヲ生ゼズト傳ヘタリ〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組ノ太日向山ニハ、山ノ草ノ圓形ニシテ黑ク見ユル處二所アリ。【山癬】之ヲ山癬(ヤマタムシ)ト云フ。圓形ノ大キサハ四十步バカリ、近ヅケバ見エズ、遠ク望メバ瞭然タリト云フ〔同上三十〕。今モアリヤ否ヤヲ知ラズ。「ホラ」ト云フ動物ガ地中ニ住ムト云フハ甚ダ當ニナラヌ話ナリ。法螺ト云フハモト樂器ナレド、之ヲ製スべキ貝ヲモ亦「ホラ」ト呼ビ、山崩レヲ洞拔ケナドヽ云フヨリ、ソレヲ此貝ノ仕業ト思フニ至リシナリ。此ノ如キ思想ハ疑モ無ク蟄蟲ヨリ起リシナランガ、大鯰白田螺ノ類ノ元來水底ニ在ルべキ物、地中ニ入リテ住ムト云ヒシ例少ナカラズ。備前赤磐郡周匝(スサイ)村ノ山ニハ、山腹ニ之ニ似タル圓形ノ地アリテ、一町或ハ二町ノ間夏ニ入レバ草枯ル。【蛇食】土人之ヲ蛇食(ジヤバミ)ト名ヅケ其地蛇毒アリテ此ノ如シト云ヘリ〔結毦錄[やぶちゃん注:底本では「結耗錄」であるが、これは誤字或いは誤植で、「結毦錄」(「けつじろく」と読む)が正しいので、特異的に訂した。]〕。土佐ニ於テ土佐郡秦村大字秦泉寺ノ中ニ、一所圓クシテ草ノ生ゼザル所アリ。【地下ノ寶】土人之ヲ解說シテ凡ソ土中ニ金銀アレバ草生ゼザルナリト云ヘリ〔土佐海續編〕。此等ノ土地ハ古今共ニ必ズシモ馬ノ祭場トシテハ用ヰラレズ。唯其外觀ノ如何ニモ顯著ナルガ故ニ、苟クモ駒形信仰ノ行ハルヽ地方ニ於テハ、終ニ之ヲ輕々ニ看過スル能ハザリシナルべシ。加賀ノ白山ノ上ニハ花畠平ト云フ地アリ。【サヘノカハラ】其一部ヲ「サヘノカハラ」ト云ヒ、其北ヲ角力場ト云フ。八九尺ノ間圓形ニシテ自然ニ角力場ヲ爲セリ〔白山遊覽圖記二〕。出羽ノ莊内ノ金峯山ノ峯續キニ鎧峯アリテ、山中ニ天狗ノ相撲取場ト云フ禿アリ。常ニ綺麗ニシテ草木ヲ生ゼズ〔三郡雜記下〕。陸中ノ大迫(オハザマ)ノ山ニ於テ龍ガ馬場ト云ヒシハ恐クハ之ト似タル處ナルべシ。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代ノ鏡野ト云フハ、神代ニ天孫八咫鏡[やぶちゃん注:ここも底本は「八呎鏡」であるが、流石に誤植と断じて特異的に訂した。]ヲ齋キ祀リタマフ處ト稱ス。此原野ノ内ニ周圍一町バカリ、正圓ニシテ草ノ色他處ニ異ナル一區アリ。四季共ニ茂リテ霜雪ニモ枯レズ。又年々ノ例トシテ此野ヲ燒クニ、圓キ處ノミハ燒ケズト云ヒ、邑人常ニ之ヲ尊ビテ牛馬ヲ放チ繫グコト無シ〔三國名勝圖會〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原ノ月ノ輪ト云フ地モ、平地ニシテ狀況ヨク小田井ノ光月輪ト似タリ。往古ヨリ不淨アレバ牛馬損ズト言傳ヘテ、牛馬ニ草モ飼ハズ、永荒(エイアレ)減免ノ取扱ヒヲ受クル荒地ナリ〔東作誌〕。往來筋ニ接近シテ人ヨク之ヲ知ル。【月】時トシテ月影澤一面ニ見ユルコトアリト云ヘバ低濕ノ地ナルガ如ク、村ノ名ヲ池ケ原ト呼ブニ由ツテ案ズレバ、以前ノ池ノ漸ク水アセタルモノカ。東京ノ西郊ナドニハ、所謂井ノ頭ノ泉涸レテ、羅馬ノ劇場ノ如キ形ヲシテ殘レルモノ處々ニ在リ。信濃美作ノ月ノ輪モ亦此類ナリトスレバ、草ノ生長、霜雪ノ消エ積ル有樣、自然ニ他ト異ナルモノアリト云フモ怪シムニ足ラザルノミナラズ、之ヨリ推及ボシテ更ニ第二ノ奇跡、【ダイダラボウシ】「ダイダラボウシ」ノ足跡ヲモ解釋シ得ルノ見込ミアルナリ。

 

《訓読》

 【竈(かまど)】更に、今一たび、馬蹄と竃との因緣を說くべし。馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ。凡そ善く走るの馬、前蹄の痕、地に印するときに、後蹄の痕、反(そ)りて其の先に在り。故に軍中に良馬を稱して「跨竈(こそう)」とは云ふなり〔「一話一言」所引「獅山掌錄」〕。兩空と云ふこと、自分には解せざれども、馬の足跡の三邊、著(しる)くして[やぶちゃん注:非常にくっきりとしていて、しかも。]、中、空洞なるは、誠に竃の形と、よく似たり。之れに由りて、猶ほ想像すれば、馬醫等が馬の蹄を磨(と)ぎし岩を靈地として尊崇するや、其の形狀の、如何にも家々の竃と似たるより、「竃の神」と「馬の神」とは同一、又は、深き關係ありと信ずるに至りしには非ざるか。若し然りとすれば、後年、新たに馬ノ爲めの手術場を選定するに、亦、力(つと)めて、地形の竃に似たる處を求め、或いは廣敞(くわうしやう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「こうしょう」で「高くて広々としているさま」の意。]の地ならば、圓(まろ)く之れを劃(かく)して、其の三方を圍(かこ)ひ、恐らくは南の一方より馬を曳き入るゝことゝなせしならん。【そうぜん場】越後南蒲原地方にては、馬の蹄を切る爲には特定の用地、あり。之れを名づけて「そうぜん場」と云ふ〔外山且正君談〕。【勝善神】「そうぜん」は、即ち、前章に述べたる「蒼前神(さうぜんしん)」又は「勝善神(しやうぜんしん)」にて、今も猿屋の徒が祀る神なり。關東地方の村々にも、山野の片端に此の種の一地區を構ふるもの、多けれども、普通に之れを何と呼ぶかを、知らず。信州小田井の「光月(くわうげつ)の輪」は、中仙道の通衢(つうく)[やぶちゃん注:四方に通じた交通の便の良い道路。往来の多い街道。]に近くして、夙(つと)に其の奇を說く者、多し。所傳、既に失はると雖も、亦、一箇の「蒼前場」なるに似たり。今の北佐久郡御代田村と岩村田町の境は以前は原野なり。往來より些(すこ)し脇に一町ばかり[やぶちゃん注:約百九メートル]、眞丸(まんまる)に、幅二尺ほどの道、輪のごとくに附きたり。大勢の足を以つて蹈み附けたるがごとし。輪の内外は夏草などのびやかに生ひ茂りたるに、道とおぼしき處のみ、草、悉く偃(ふ)したり[やぶちゃん注:「伏されてある・倒されている」の意。うっひゃあぁつっ! ミステリー・サークルそのものじゃんか!! 面白れええぞ!。之れを「光月輪(くわうげつのわ)」と稱す。俗談に、『所の氏神、夜每に、馬を責めたまふ處なり。折りとして、轡(くつわ)の音など聞ゆ』と云へり〔「本朝俗諺志」一〕。此の說は諸書、若干の異同あり。或いは、『輪の中の草、夏に入れば、枯るる』と云ひ〔「和訓栞」(わくんのしほり)〕、或いは、『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕、或いは、『雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ』と云ひ、『其の附近、別に一輪ありて、馬を其の中に乘り入るれば、必ず死すとて、人、之れを怖ろしがる』と稱す〔百卷本「鹽尻」二十五〕。輪の大きさ及び數に就きても、區區の說あり、而も今は既に跡を留めざるがごときなり。【かうげ】「光月の輪」の「くわうげつ」は、芝原を「かゞ」又は「かうげ」と呼ぶ、古語より出で、之れに「月の輪」を思ひ寄せしものなるべきも、何が故にかゝる地貌(ちぼう)を呈するに至りしかは、之れを解說する能はず。近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど、山上の「農鳥(のうとり)」又は「農牛(のううし)」[やぶちゃん注:『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり。頂きより麓まで、數峯、起伏して畝のごとし。其の間に草の圓く枯るゝ所、數所あり。徑(わた)り四、五尺、遠望すれば、環のごとし。【螺】其の下に「螺(ほら)」の潛(ひそ)める爲め、此くのごとし、と云ふ。巖(いわほ)の上に天狗松あり、之れを伐れば、災ひあり〔「甲斐國志」三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり。黑き岩、斑(まだら)を爲すにより、名づけて「斑山(まだらやま)」と云ふ。地中に「螺(ほら)」を棲ましむるが故に、草木を生ぜず」と傳へたり〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組の太日向山には、山の草の圓形にして黑く見ゆる處、二所あり。【山癬】之れを「山癬(やまたむし)」と云ふ。圓形の大きさは四十步(ぶ)[やぶちゃん注:約百三十二平方メートル。畳換算で八十畳敷き相当。]ばかり、近づけば見えず、遠く望めば、瞭然たりと云ふ〔同上三十〕。今もありや否やを知らず。「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下の広義の「虫」類の内でも、特に地中に潜り潜む(冬眠や夏眠とは限らなくてよい。土中で孵化して地面から出現する種も含まれる)種類を指している。観察上は蛙・蛇・陸生貝類やミミズ・蟻・蟬或いはモグラなども皆、「蟄蟲」となろう。]より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。【蛇食(じやばみ)】備前赤磐郡周匝村(すさいそん)の山には、山腹に之れに似たる圓形の地ありて、一町或いは二町[やぶちゃん注:約二メートル十八センチメートル。]の間、夏に入れば、草、枯(か)る土人、之れを「蛇食(じやばみ)」と名づけ、其の地、蛇毒ありて此くのごとしと云へり〔「結毦錄(けつじろく)」〕。土佐に於いて、土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺(じんぜんじ)の中に、一所、圓くして草の生ぜざる所あり。【地下の寶】土人、之れを解說して、『凡そ、土中に金銀あれば、草、生ぜざるなり』と云へり〔「土佐海」續編〕。此等の土地は、古今共に、必ずしも馬の祭場としては用ゐられず。唯だ、其の外觀の如何にも顯著なるが故に、苟(いやし)くも駒形信仰の行はるゝ地方に於いては、終に之れを輕々に看過する能はざりしなるべし。加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。【さへのかはら】其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ。八、九尺の間、圓形にして自然に角力場を爲せり〔「白山遊覽圖記」二〕。出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)ありて、山中に「天狗の相撲取場」と云ふ禿(はげ)あり。常に綺麗にして草木を生ぜず〔「三郡雜記」下〕。陸中の大迫(おはざま)の山に於いて「龍が馬場」と云ひしは、恐らくは之れと似たる處なるべし。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す。此の原野の内に周圍一町ばかり、正圓にして、草の色、他處に異なる一區あり。四季共に茂りて、霜雪にも枯れず。又、年々の例として此の野を燒くに、圓き處のみは燒けずと云ひ、邑人(むらびと)、常に之れを尊(たつと)びて、牛馬を放ち繫ぐこと無し〔「三國名勝圖會」〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地も、平地にして狀況よく小田井の「光月の輪」と似たり。往古より、不淨あれば牛馬損ず、と言ひ傳へて、牛馬に草も飼はず、永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地なり〔「東作誌」〕。往來筋に接近して、人、よく之れを知る。【月】時として、月影、澤一面に見ゆることありと云へば、低濕の地なるがごとく、村の名を「池ケ原」と呼ぶに由つて案ずれば、以前の池の、漸(やうや)く、水、あせたるものか。東京の西郊などには、所謂、「井の頭」の泉、涸れて、羅馬(ローマ)の劇場のごとき形をして殘れるもの、處々に在り。信濃・美作の「月の輪」も亦、此の類ひなりとすれば、草の生長、霜雪の消え積る有樣、自然に他と異なるものありと云ふも、怪しむに足らざるのみならず、之れより推し及ぼして、更に第二の奇跡、【だいだらぼうし】「だいだらぼうし」の足跡をも、解釋し得るの見込みあるなり。

[やぶちゃん注:「馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ」これは中国由来だね。中文サイトの「跨竈」を見られよ。馬蹄の後は確かにその通り! しかし、「自分には解せざれども」に諸手を挙げて、賛成! 蹄は竈の形に確かに似ている。しかし、その二つの空隙は確かに判らんね。

「越後南蒲原地方」旧南蒲原郡。ウィキの「南蒲原郡」の地図で旧域を確認されたいが、現存する南蒲原郡(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、この表示域が概ね旧郡域)の他、三条市全域・長岡市の一部・加茂市の一部・見附市の一部・燕市の一部が含まれた。

「勝善神(そうぜんしん)」「蒼前神(さうぜんしん)」「勝善神(しやうぜんしん)」既出既注或いは「蒼前神」「勝善神」孰れも歴史的仮名遣を無視して「そうぜんしん」と読むのかも知れない。少なくともリンク先で引用した「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」の解説はそのように読めるからである。但し、「ちくま文庫」版は「勝善神」に『しょうぜんしん)』のルビを振っている。

「信州小田井」面倒なことに、長野県佐久市小田井と、長野県北佐久郡御代田町小田井が現存するが、以下の叙述から見て前者である。

「北佐久郡御代田村と岩村田町の境」長野県北佐久郡御代田町御代田の東西で、長野県佐久市岩村田の東北で、長野県佐久市小田井は接する。小田井は御代田を中に挟んで飛び地であるが、この謂い方と現在の地割から見ると、小田井の東の飛び地にそれはあったか。

「『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕「和漢三才図会」の「巻第六十八」の「信濃」の以下。所持する原本画像から電子化する。

   *

小田井 廣野也此野草芝中自成輪形而草不生雪亦

 不降積其輪大尺許經一町許呼曰髙月輪未知其所

 以也相傳曰向山名木幡山其峯在權現社此神乘馬

 夜出遊于此

○やぶちゃんの書き下し文

小田井 廣き野なり。此の野、草芝の中、自(おのづ)から、輪の形を成す。草、生えず。雪も亦、降り積もらず。其の輪、大いさ尺許り。經(さしわたし)一町許り。呼んで「髙月輪(かうげつのわ)」と曰ふ。未だ其の所以を知らざるなり[やぶちゃん注:どうしてそうなるのかという理由は判らない。]。相ひ傳へて曰ふ、『向ふの山を「木幡山」と名づく。其の峯に、權現の社、在り。此の神、馬に乘り、夜、出でて此に遊ぶ』と。

   *

「木幡山」は確認出来ないが、良安は「向ふの山」と言っており、私の比定地が正しいとすれば、まさに湯川の対岸の長野県佐久市横根のここがそれらしく見える(国土地理院図)。南山麓に神社も確認出来、また、この「峯」を南東に登ると、千百五十五メートルの「平尾富士」があり、山頂には神社もある。如何にもこれっぽい感じはする。

「雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ」そんなの、全然、不思議じゃないぜ、柳田先生。

『近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど』出ました! 柳田先生の落語!

『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり』「甲州南都留郡盛里村」は山梨県都留市盛里で、「北都留郡大原村」は山梨県大月市猿橋町であるから、現在の九鬼山であろう。標高九百七十メートルで、大月市の百蔵山で生まれた桃太郎が鬼退治にやってきた山と言う伝承を持ち、東北東六百メートル弱の位置に「天狗岩」もある。登山サイトを見ると、この天狗岩から北西に下る尾根辺りを「賴朝公の大根畝」と称したらしい。この辺りが頼朝の狩場であったという伝承があることに由るらしい。

『同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり』山梨県北杜市須玉町(すたまちょう)小倉(こごえ)。これは「甲斐国志」の巻之二十九の「山川部第十」にある。リンク先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に電子化する。カタカナを平仮名に代え、句読点や濁点を加えて読み易くした。傍点「ヽ」は太字にした。

   *

一〔斑  山〕東は塩川[やぶちゃん注:原典は「鹽」とごちゃついた字体。現行も「塩川」。]、西は玉川[やぶちゃん注:現行では「須玉川」。]に界し、南は東向、大蔵、小倉諸村に跨り、北は津金山に續き、頗る高大にして兀山[やぶちゃん注:「こつざん」。禿げ山。]なり。赭土の間に、往々、黑岩ありて斑文[やぶちゃん注:「はんもん」。斑紋。]をなす。故に名づく。今、訛して曼荼羅山、萬鳥山、眞鳥山なども云へり。土俗、云、地中に螺(ほら)を棲ましむるに因りて、草木を生ぜずと。○東向村御林 長百五拾間、橫五拾四間[やぶちゃん注:縦二百七十二・七メートル、横約九十八メートル。]。

   *

「同郡淸哲村靑木組の太日向山」山名の読み不詳。この名では現認出来ないが、「同郡」(旧北巨摩郡)となれば、山梨県北杜市白州町白須の日向山(ひなたやま)か。

『之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり』「之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼」ぶ、とは本末転倒。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis は古くからオセアニア・東南アジア・日本で楽器(本邦では平安時代に既に見られる)として使用され、本邦では特に修験道の法具に用いた。ホラガイについては私の『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』を参照されたい。ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

「白田螺(しろつぶ)」「ちくま文庫」版は『しろたにし』とルビするが採らない。私はこれは「白い」「田」=陸地に居る「螺」(つび・つぶ:巻貝の総称)で、実はホラガイのやや小型化した妖怪(同じく崩落や地震を起こす)を指すと考えるからである。この読みに異論のある向きは、例えば「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「シロツブ」を見られたい。そこでは「越後野志」巻十四を引用元として、かく訓じている(但し、その場合のそれはアルビノのタニシ(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae)ではある)。無論、陸生貝類(有肺類)の誤認としてもよいが、純陸生のそれは日本本土では大型の個体は極めて少なく、しかもそのアルビノとなると、まず、ここで比定候補に挙げるべきものはない。

「備前赤磐郡周匝村(すさいそん)」「そん」はウィキの「周匝村」に拠った。それによれば、現在の岡山県赤磐(あかいわ)市河原屋(かわらや)・草生(しそう)・周匝(すさい)・福田(リンク先で河原屋地区から時計回りで川沿いに展開するのが判る)に当たるとある。草生地区(航空写真)は名前がそれらしくは見える。

「蛇食(じやばみ)」小学館「日本国語大辞典」に、山野で直径五~十メートルほどの円形に草木が生えない場所とあり、「俚言集覧」(十九世紀前期に成立したと考えられる国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著の「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られる。全二十六巻。これは先行する国学者石川雅望(まさもち)の古語用例集「雅言集覧」に対するものとして企画したもので、口語・方言を主として扱い、諺も挙げてある。現行では後の幕末に井上頼圀・近藤瓶城(へいじょう)が五十音順に改めて増補刊行した「増補俚言集覧」(全三冊)が一般に使用される。江戸期の口語資料として重要。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)に載ることが記されてある。

「結毦錄(けつじろく)」儒者で博物学的本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達)が宝暦九(一七九六)年刊の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像を視認して以下に電子化する。同前の仕儀に記号も加えて読み易くした。但し、読みは一部に留めた。

    *

  「蛇ばみ」の事

備前周斉周匝(すさい)村と云村あり。その邉(あだり[やぶちゃん注:ママ。])の山に、夏に至れば、俄に山の半腹(はんふく)の処、一處[やぶちゃん注:両漢字表記の違いはママ。]、月暈(かさ[やぶちゃん注:「暈」ののみへのルビ。])の如く、一町餘も、草、枯れて、圓(まどか)にして、草、生(しやう)ぜず。春時は、草、生ずれども、夏に至れば枯(か)る。毎年(まいねん)此(かく)のごとし。土人、「蛇(じや)ばみ」と云。村田生[やぶちゃん注:不詳。松岡の門弟の学生か。]、物語に、『信州、「武藏野(むさしの)」と云[やぶちゃん注:「いふ」。]処あり。野中、夏に至れば、右の説の如く、圓(まろ)く圍(かこ)みの中(うち)、草を生ぜず。六、七十間(けん)[やぶちゃん注:百八~百二十七メートル。]、或いは半町[やぶちゃん注:五十九センチメートル。]餘(よ)も、かくのごとし。土人、「月の輪(わ)」と云』と。

    *

「土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺」高知県高知市東秦泉寺(ひがしじんぜんじ)・北秦泉寺・中秦泉寺附近(西に向かって展開している)であろう。

『加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ』私は白山に登ったことがないのでよく判らぬが、「ヤマケイ・オンライン」のこちらの「白山」の地図の東北部に「お花松原」があり、その西北には「地獄谷」が、白山方向に戻れば、「血の池」もあるので「さへのかはら」(賽の河原)も当然あろう。「角力場」は現認出来ない。

「出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)」山形県鶴岡市砂谷のここ金峯山はその東北(直線で一・三キロメートルで、登山実測例では一時間かかる)のここ

「天狗の相撲取場」確認出来ない。なお、この手の有意な空隙地をかく呼称するケースは日本各地に見られる。

『陸中の大迫(おはざま)の山』岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)大迫はここ(国土地理院図)。大迫を冠する地区は広いが、ここが本家っぽいから、この北後背地の何れかのピークか。

「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す」この地名は確かに現在の薩摩川内(さつませんだい)市五代町(ちょう)なのであるが、かなりややこしい感じがする。何故なら、この八咫鏡を祭神としていた鏡山(かがみやま)神社は、五代町に西で接する鹿児島県薩摩川内市小倉町にあったのであるが(ここは伝承では邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わる)後に小倉町の八尾神社に合祀されて廃絶している。ところがこの八尾神社というのは、現在は鹿児島県薩摩川内市宮内町(五代町東で隣接)の新田神社の境外末社になっているのである。従って、この三つの町が候補地になろか。しかし、最後の新田神社は合祀の結果であるから、もう除外してよい。そうすると、現在の小倉町か五代町が比定候補地となる。私は心情的には、失われた小倉町にあった鏡山神社の跡地(位置不明)附近を比定したくはなる(以上はウィキの「新田神社(薩摩川内市)」を参考にはした)。「鏡野」なんて素敵な名なのになぁ。【二〇一九年六月三十日追記】最後の最後までお世話になってしまった。T氏より昨日メール来信。

   《引用開始》

六か月に渡る「山島民譚集」有難うございます。

余計な御世話として、「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野」の貴下註が面白く、『三國名勝圖會』の当該巻十三・十四の「薩摩國高城郡」の「水引」を読んでみました。

   *

鏡野【地頭館より酉方、四十町許、】 宮内村五代にあり、傳へ稱す、高古瓊々杵尊天降玉はんとするや、天照大神の御形見として親から皇孫に授け玉へる八咫(タ)鏡を齋き奉り玉ふ所なり、故に其名を鏡野といふ、今此原野の内周廻一町許、正圓(マンマル)の内艸の色他所に異りて四季共に生え茂り、霜雪にて枯るゝことなし、是其靈蹟なる故なりといへり、又年々火を以て、此野を燒ける例なるに、此一圓の所のみは、曾て燒る事なし、世人此傳を知らざる者見ても、艸色の異なるに驚くべし、邑人も常に尊ひ崇めて、牛馬を放ち繋がず、

[やぶちゃん注:以下、漢詩は一行二句表示であるが、ここのみ私が原典の訓点を加えて、その分、格好が悪くなったので、一段組みに直した。]

  鏡野叢       釋不石

 平野周遭似鏡圓

 春風春雨草綿々、

 人放火無煙起

 拍手同歌大有年、

   *

文章では、これだけですが、同じ巻十三にある図を見ると、「一之磧觀音堂」に「鏡野」と「小倉」(コクラ)の家並み及び川内川が描かれています。

推測するに、小倉川が川内川に流れ込む当たりの家並みが描かれ、其の奥に「鏡野」をもつ山があります。五代町と小倉町とは高城川右岸の山の稜線で区切られています。この位置関係をもとに国土地理院地図で見ると、七迫(ななさこ)の北にある「標高106.1」の山が「鏡野」を持つ山の候補となります(この山の北北東奥の「標高114」では川内川から見ると、手前のこの「標高106.1」が邪魔になるように思われます)。この山(奧の山でも)であれば、「五代」の人は五代、「小倉」の人は小倉と言ってもおかしくないと思います。

一番の収穫は「巻十三の図」に尽きます。

   《引用終了》

いや! この図はほんまに! ええなあ! 完結のT氏からのプレゼントや! みんな! 見なはれや!

『美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地』岡山県津山市池ケ原。北を肘川が貫通し、池沼が有意に多い湿潤な一帯であることが、地図からもよく判る。「月の輪」も残したかった地名だなぁ。

「不淨あれば牛馬損ず」「永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地」……窪地……馬が死ぬ……永く荒れ果てた地で、年貢の対象からも外されてきた、異常な不可触禁忌の一帯……これを読んだ時、私は妖怪「だり」を直ちに想起した。……窪地で、そこにいると突然、身体が不自由になり、動けなくなる。それを妖怪「だり」の仕業とする記載を遠い昔に読んだ。ウィキの「ヒダル神」に、『人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』とあるものである。八甲田山では一九九七年、野外演習中の陸上自衛隊員三人が窪地で昏倒して死亡する事故があった。 その原因については二酸化炭素或いは硫化水素の滞留による中毒による窒息死が推定されたように記憶している。ウィキの「ヒダル神」にも『植物の腐敗で発生する二酸化炭素』中毒起因説が仮定の一つとして挙げられてある(酸素(純粋酸素は極めて強毒である)ほどではないが、二酸化炭素も有毒気体である)。この〈ミステリー・サークル〉は、実はそうした自然が自ずと形成した危険地帯だったのではなかったか? と私が思ったことを、ここに最後に言い添えておきたい気がした。

 以上を以って、本「山島民譚集」の本文は終わる。以下、この後、底本ではここから「目次」が載るが、略す。次に奥附を字配・ポイントを無視して電子化しておく。]

 

 

山島民譚集

  ―日本文化名著集―

 

昭和十七年十一月廿五日 印 刷

昭和十七年十一月三十日 發 行

      五千部發行

  • 定價 貮 圓

 

出文協承認

 50.441

 (検印)

[やぶちゃん注:以上の三行は上部横書(上記通りの左から右書き)。検印は「柳」の一字で、下地添付紙は「丸に違い矢」の紋が印刷されたもの。]

 

著 者  柳 田 國 男(やなぎたくにを)

發行者  矢 部 良 策

     大阪市北區樋上町四五番地

印刷者  井 村 雅 宥

     大阪市浪速區稻荷町二丁目九三五

        (會員番號西大一一九二)

配給元  日本出版配給株式會社

發行所  株式会社 創 元 社

     (會員番號第一一五、五〇一號)

     大阪市北区樋上町四五番地

     振替大阪五七〇九九番

     電話北三六八六・三七〇八番

 

[やぶちゃん注:以上を以って柳田國男「山島民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月甲寅(こういん)叢書刊行会刊(「甲寅叢書」第三冊))の再版版である昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)の全電子化注を終わる。

 結局、年初から五ヶ月半もかかってしまった(当初は、せいぜい三ヶ月ぐらいの短期で仕上げるつもりだった。やはり注に拘り過ぎたのが元凶であった)。

 なお、本作には「ちくま文庫」版全集第五巻で「山島民譚集㈡(初稿草案)」と「山島民譚集㈢(副本原稿)」という二篇の〈続篇〉稿が載る。実際、内容的には本書の続篇として確かに読めるものではあるのだが(特に「山島民譚集㈡(初稿草案)」は初っ端から『第三 大太法師』のタイトルで突然『二一 いろいろの物の足跡』という柱から始まるのは、完全に「山島民譚集」の続編として始まる(柱数字の「二一」は不明。或いは本「山島民譚集」の小項目見出しを整理して数を減らし、さらに書式(後述)も全部書き変えるつもりであったものと思われる)、何より書法が全く異なり(平仮名漢字交じりの完全口語表現)、個人的に読んで受ける印象は続篇の額縁を附けた全くの別物という感じである。しかも草稿或いは推敲原稿であり、注記号があって注がない箇所が殆んどであったりと、作品として読むには不備不満が多い(電子化し出したら、その不完全で不満な箇所に、これまた、過剰な注を附けたくなるに違いない)。されば、今は全く食指が動かぬ。少なくとも、本年中にこれらに手を着けるつもりは全くないこと、将来的にやるとしても、全く注を附けないものとなろうことを言い添えておく。

 さても。ここまでお付き合い戴けた数少ない読者の方々、取り分け、たびたび多くの注での誤認や不明箇所を御指摘戴いたT氏には心から感謝申し上げるものである。藪野直史]

2019/06/27

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(46) 「光月の輪」(1)

 

《原文》

光月ノ輪  蓋シ左右ノ馬寮ガ諸國ノ官牧ヲ支配セシ時代ニハ、儼然トシテ馬師馬醫ノ職アリキ。【馬學退步】彼徒行フ所ノ相馬ノ術醫養ノ法、之ヲ我々ノ理學ニ由リテ判ズレバ、固ヨリ「マジツク」ノ域ヲ脫スル能ハザルモノ多カリシナランモ、而モ學說ニ由來アリ推理ニ系統アリテ、幸ニ漸次ノ實驗ヲ以テ之ヲ補正スルヲ得シナラバ、終ニハ一科ノ技藝トシテ、永ク世用ヲ完ウスルモノトナリシヤ必セリ。惜シキカナ王制中ゴロ弛ミ法規行ハレズ、官ニ屬セシ術者四散シテ草莽ニ入リシヨリ、又其技ヲ究ムルノ機會無ク、僅カニ土民ガ馬ヲ愛スルノ情ニ賴リテ、生ヲ支ヘ職ヲ世(ヨヽ)ニスルヲ得ルノミナレバ、符呪ヲ以テ未熟ヲ補ヒ神異ヲ說キテ平凡ヲ蔽フノ傾キ、世降ルト共ニ愈盛ナリシナルべシ。サレバ彼ノ馬洗ト稱シテ馬ヲ沼川ノ水ニ入ルヽ風習ト、【野飼】野飼又ハ夏越ナドト云ヒテ一定ノ日家畜ヲ水邊ニ繫ギ置ク儀式ト、水神ヲ誘ヒテ牝馬ニ種付セントスル迷信トハ、何レカ起原何レカ變遷ト決スべキ。必ズシモ尋常進化ノ理法ヲ以テ輕々ニ推論スルコトヲ得ザルナリ。例ヘバ駒ケ池ノ跡ト稱スル地、大阪生魂神社ノ東、南谷町筋ニ殘レリ。【聖德太子】聖德太子駒ノ足ヲ濯ギタマヒシ處ト傳フ〔浪華百事談二〕。同ジ名ノ池ハ又天王寺ノ境内ニモアリキ〔同上七〕。太子ノ此地方ニ關係アルコトハ古來ノ說ナレドモ、此場合ニ於テハ單ニ所謂厩師ノ開祖某ト云フニ過ギザルべシ〔猿屋傳書〕。彼等ガ職トスル所、時々厩ニ來タリテ祈禱ヲ爲スニ止マラズ、或ハ一定ノ水邊ニ居ヲ占メテ農家ノ爲ニ馬ノ治療ヲ引受ケテアリシコトモ、略之ヲ想像シ得ルナリ。【猿橋】甲州ノ猿橋ハ近國ノ猿牽共集リ來リ、勸進シテ其架換ノ費ヲ辨ズルコト古クヨリノ風ナリキト聞ク。此橋下ノ碧潭モ亦恐クハ馬ノ醫術ト因緣アルモノナラン。馬蹄石ノ由來ノ如キモ必ズシモ解キ難キ謎ニハ非ズ。既ニ一區ノ靈場ヲ指點シテ馬ノ保護者ノ宅スル處ナリトスル風アル以上ハ、【駒爪石】附近ノ岩石ノ天然ノ形狀略馬蹄ニ髣髴スルモノヲ覓メ出シテ、之ヲ神變ノ現出セシメタル所ト推測スルハ、必ズシモ巫覡ノ詭辨ヲ煩ハスコトヲ要セズト雖、少ナクモ一部分ノ駒岩ニ在リテハ、更ニ一段ト顯著ニ、恐クハ實際傳說製作者ノ眼前ニ於テ、馬ノ跡ヲ其岩ノ上ニ印スルノ現象アリシナラン。此說甚ダ奇ヲ衒フニ似タレドモ然ラズ。石ヲ以テ馬ノ蹄ヲ磨スルハ古代普通ノ風習ナレバ、村ニ住スル馬醫等ノ其仕事ヲ托セラルヽ者、馬ヲ神前ノ岩上ニ曳キ來リ、特ニ之ガ爲ニ淨メ置キタル場處ニ繫ギテ、每囘同ジ窪ニ於テ馬ノ蹄ヲ磨ギシヨリ、終ニハ神馬ノ蹄ノ跡ト云フ物ヲ生ジタリトスレバ、諸處ノ口碑ノ多數ハ何等ノ誇張無キ歷史トシテ之ヲ受ケ入ルヽコトヲ得ルナリ。【馬蹄砥】延喜ノ左馬寮式ニ、季每ニ請フベキ馬藥ノ中ニ、每年馬蹄ヲ作ルノ料砥二顆トアリ〔延喜式四十八〕。右馬寮亦之ニ準ズ。安房日向等ノ馬蹄硯ハ勿論天產ニシテ、其生成ノ由來ハ岩石學者ノ說明ヲ乞フべキモノナランモ、他ノ一方ニ右ノ如キ砥石ノ古クナリテ形相似タルモノ、磊々トシテ到ル處人ノ目ニ見馴レタリトスレバ、比較ニヨリテ此ノ如キ名ヲ附與スルコトノ、決シテ不自然ナル事態ニ非ザリシヲ知ルナリ。

 

《訓読》

光月(くわうげつ)の輪  蓋し、左右の馬寮(めりやう)が諸國の官牧を支配せし時代には、儼然(げんぜん)[やぶちゃん注:「厳然」に同じ。動かし難い威厳のあるさま。]として馬師・馬醫の職ありき。【馬學退步】彼の徒(と)、行ふ所の相馬の術[やぶちゃん注:馬の相(そう)を見ること。]・醫養の法、之れを我々の理學に由りて判ずれば、固より「マジツク」の域を脫する能はざるもの多かりしならんも、而も學說に由來あり、推理に系統ありて、幸ひに漸次の實驗を以つて之れを補正するを得しならば、終には一科の技藝として、永く世用(せよう)を完(まつと)うするものとなりしや、必(ひつ)せり。惜しきかな、王制、中ごろ、弛(ゆる)み、法規、行はれず、官に屬せし術者、四散して草莽(さうまう)に入りし[やぶちゃん注:野に下ってしまった。これもまた、馬の縁語になっていますね、柳田先生。]より、又、其の技を究むるの機會無く、僅かに土民が馬を愛するの情に賴りて、生を支へ、職を世(よゝ)にするを得るのみなれば、符呪(ふじゆ)[やぶちゃん注:怪しげな呪(まじな)いや、御札・御守りの類い。]を以つて未熟を補ひ、神異を說きて、平凡を蔽ふの傾き、世降ると共に、愈々、盛んなりしなるべし。されば彼の馬洗と稱して馬を沼川の水に入るゝ風習と、【野飼】野飼又は夏越(なごし)などと云ひて、一定の日、家畜を水邊に繫ぎ置く儀式と、水神を誘ひて牝馬に種付(たねづけ)せんとする迷信とは、何れか起原、何れか變遷と決すべき。必ずしも尋常進化の理法を以つて輕々に推論することを得ざるなり。例へば、駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ〔「浪華百事談」二〕。同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき〔同上七〕。太子の此の地方に關係あることは古來の說なれども、此の場合に於いては、單に所謂、厩師の開祖某と云ふに過ぎざるべし〔「猿屋傳書」〕。彼等が職とする所、時々、厩に來たりて祈禱を爲すに止まらず、或いは一定の水邊に居を占めて、農家の爲に馬の治療を引き受けてありしことも、略(ほ)ぼ之れを想像し得るなり。【猿橋】甲州の猿橋は、近國の猿牽共、集まり來たり、勸進して、其の架換(かけかへ)の費(つひへ)を辨ずること、古くよりの風なりきと聞く。此の橋下の碧潭も亦、恐らくは馬の醫術と因緣あるものならん。馬蹄石の由來のごときも、必ずしも解き難き謎には非ず。既に一區の靈場を指點(してん)して馬の保護者の宅(たく)する處なりとする風ある以上は、【駒爪石】附近の岩石の天然の形狀、略ぼ馬蹄に髣髴するものを覓(もと)め出だして、之れを神變の現出せしめたる所と推測するは、必ずしも巫覡(ふげき)の詭辨を煩はすことを要せずと雖も、少なくも、一部分の駒岩に在りては、更に一段と顯著に、恐らくは、實際。傳說製作者の眼前に於いて、馬の跡を其の岩の上に印するの現象、ありしならん。此の說、甚だ奇を衒(てら)ふに似たれども、然らず。石を以つて馬の蹄を磨するは、古代普通の風習なれば、村に住する馬醫等の其の仕事を托せらるゝ者、馬を神前の岩上に曳き來たり、特に之れが爲めに淨め置きたる場處に繫ぎて、每囘、同じ窪(くぼ)に於いて、馬の蹄を磨ぎしより、終には「神馬の蹄の跡」と云ふ物を生じたりとすれば、諸處の口碑の多數は、何等の誇張無き歷史として、之れを受け入るゝことを得るなり。【馬蹄砥】「延喜」の「左馬寮式(さまりやうしき)」に、季每(ごと)に請ふべき馬藥の中に、每年、馬蹄を作るの料砥(りやうし)[やぶちゃん注:砥石として準備しておく物。]二顆(か)とあり〔「延喜式」四十八〕。右馬寮(うまりやう)、亦、之れに準ず。安房・日向等の馬蹄硯は、勿論、天產にして、其の生成の由來は、岩石學者の說明を乞ふべきものならんも、他の一方に、右のごとき、砥石の古くなりて、形、相ひ似たるもの、磊々(らいらい)として[やぶちゃん注:石が多く積み重なっているさま]、到る處、人の目に見馴れたりとすれば、比較によりて、此くのごとき名を附與することの、決して不自然なる事態に非ざりしを知るなり。

[やぶちゃん注:「光月(くわうげつ)の輪」次の本書の最終段落で語られるので、ここでは注しない。

「夏越(なごし)」既出既注

「駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ」「大阪生魂神社」は現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「生魂」(いくたま)は通称。「南谷町(みなみたにまち)筋」柳田國男は「生魂(いくたま)神社の東」と言っているが、調べた限りでは正確には旧南谷町は神社の東北に当たるように思われる。現行、この遺跡はない模様であるが、この画面の上右半分辺りにあったものかと私は推定する。

「同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき」聖徳太子建立七大寺の一つとされる大阪市天王寺区四天王寺にある荒陵山(あらはかさん)四天王寺。「天王寺」は四天王寺の略称。生國魂神社の南南東一キロほどとごくごく近いことから、この「聖徳太子駒洗いの池」は同一伝承の分化に過ぎないのではなかろうか。私は寺の中にちんまりあったそれより、上記の方が原型のようには感ずる。因みに「き」の過去形が気になっていた。現在の同寺の境内には現存しないようである。なお、ウィキの「四天王寺」によれば、同寺は『天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗』(教学上にそれ。三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上を「南都六宗」と呼ぶ)・天台宗・真言宗)『兼学の寺であった』。『日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から』、昭和二一(一九四六)年、『「和宗」の総本山として独立している』とある。「四天王寺」公式サイト内の解説を見たところ、『戦前までは長らく天台宗に属していましたが、近年では日本の宗派の種類が増えていたこともあり、建立当初の基本に戻るべく、どの宗派の方でも四天王寺をご参詣いただける様にと願いを込めて』、上記の敗戦の翌年に『天台宗から独立し、十七條憲法の第一條「和を以って貴しとなす」の「和」をいただいて』昭和二四(一九四九)年に独自の『「和宗」となりました』とあった。

「甲州の猿橋」山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:両岸の懸崖から刎ね木を何段にも重ね、それで橋桁を受けるもの)として知られる「甲斐の猿橋」。因みに、現在のものは昭和五八(一九八三)年着工で翌年の八月に完成したもので、総工費は三億八千三百万円である(リンク先のサイド・パネルの大月市教育委員会の説明板に拠る)。その事実確認や費用の単純換算比較は出来ぬにしても、嘗つての猿回しの芸をした人々の隆盛がいよよ偲ばれるではないか。私は幼稚園児だった頃(私は昭和三二(一九五七)年二月生まれである)、練馬の大泉学園の日蓮宗倍光山(ばいこうざん)妙延寺の縁日で見たのが、一度、絶滅した猿回しの最後であった。]

2019/06/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)

Surusumitoukotu

 熊谷氏ノ馬ノ首

駿國雜志卷二十五ヨリ

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプション。「駿國雜志」江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、旗本正章(知行六千石)の子。通称は大学。文化一四(一八一七)年九月、駿府加番となり、駿府城の守衛等を担った。任期は一年であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土等を調査した)が榊原長俊の著した「駿河国志」を元として天保一四(一八四三)年に完成させた全四十九巻の駿河国の地誌。底本や「ちくま書房」版は画像が著しく悪いので、国立国会図書館デジタルコレクションの静岡の明治四五(一九一二)完刊の吉見書店刊の同書の刊行本の第八冊(附図集成巻)のこちらからトリミングし、汚損を清拭して示した。

 

第百三十二圖

 磨墨首骨の図

  (巻之廿五

   九  二)

[やぶちゃん注:原典図のキャプションを電子化する。まずは右上キャプション。最後の( )は割注状に大きな一つの丸括弧の中に二行書き。柳田國男の「山島民譚集」では「磨墨首骨の図」(「図」は或いは「圖」にも見える)の一行のみで前後は全くない。以下では、しかし私は有意な異同は認めない。

 

図の如く苧縄を

以て耳穴より引

通し上を結ひ梁

の臍に掛たり

[やぶちゃん注:左上。「苧縄」は「をなは(おなわ)」で、麻糸を縒り合わせて作った縄のこと。「梁の臍」「はりのほぞ」。梁(構造物の上部からの荷重を支えるため、または柱を繫ぐために架け渡す水平材。特に、桁(けた:柱の上に懸け渡した横木)に対して直角に渡されたものを指す)の材を接合するための突起のこと。]

 

耳穴[やぶちゃん注:図の上部左右に二箇所。]

眼穴[やぶちゃん注:図の眼窩の左右に二箇所。]

齒[やぶちゃん注:図の下部の左右と最下部で三箇所。]

 

眼穴竪一寸七分

横一寸八分計

[やぶちゃん注:右下。「一寸七分」五・一五センチメートル。「一寸八分」四・八五センチメートル。]

 

首大さ先の尖より前歯迠

長一尺四寸牙歯迄八寸

[やぶちゃん注:左下。「一尺四寸」四十二・四二センチメートル。「八寸」二十四・二四センチメートル。]

 

《原文》

 【硯ノ水】大ナル磐石ノ上ノ窪ミ、通例稱シテ神馬ノ足跡トスルモノノ中ニ、若シ絕エズ一泓ノ水ヲ湛フル處アレバ、人ハ又之ヲ硯ノ水ト名ヅケテ尊敬シタリシコト其例甚ダ多シ。昔ノ田舍者ハ本書ノ著者ノ如ク徒書(ムダガキ)ノ趣味ハ解シ居ラザリシ故ニ、硯ト言ヘバ經文トカ證文トカ、イヅレ重要ナル物ヲ認ムべキ道具ト考ヘタリシナリ。之ト靈馬ノ足跡トガ結合スレバ一通リヤ二通リノ有難サニ非ザリシハ勿論ノ話ナリ。從ヒテ磨墨ト云フ馬ガ其名ヨリモ實ヨリモ萬人ノ仰グべキモノトナリ得タリシハ想像シ易キコトニテ、斯ル名ヲ選定シタル昔ノ誰カハ智者ナリト謂フべシ。石見那賀郡石見村大字長澤ニハ、馬蹄ノ形ニ似タル石ヲ神體トスル社アリキ〔石見外記〕。石見國ハ硯ニ似タリ竹生島ハ笙ノ如シナドト云フ古諺モアレバ、此モ硯ノ水ノ信仰ト多少ノ因緣アリシカト思ハル。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊ノ駒形神社ノ御正體モ亦一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿國雜志〕。此ハ多分安倍川ノ流ヨリ拾ヒ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ傳ヘ居タリシナラン。此地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顯著ナル風習ニシテ、此村ニモ彼村ニモ其遺跡充滿ス。前ニ擧ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外ニ、【馬ノ首】安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコノシユク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ數百年ノ間家ノ柱ニ引掛ケタリ。其爲ニ此家ニハ永ク火災無ク、且ツ病馬悍馬ヲ曳キ來タリテ暫ク其柱ニ繫ギ置クトキハ、必ズ其病又ハ癖ヲ直シ得べシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思フニ、諸國ニ例多キ駒留杉鞍掛松駒繫櫻ノ類ハ恐クハ皆此柱ト其性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名將ノ一旦ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ話ナルべシ。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(ミヽドリ)稻垣氏ノ邸内ナル老松ハ、昔此家ノ先祖山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其馬狂フトキ之ヲ此木ヘ繫ゲバ必ズ靜止スルニヨリ、之ヲ奇ナリトシテ其庭ニ移植スト云ヘリ〔大日本老樹名木誌〕。此說頗ル古意ヲ掬スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加フレバ、此種ノ靈木ハ亦馬ノ靈ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル爲ニ馬頭ヲ以テ其梢ニ揭ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ圖トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル爲ニ耳ノ穴ニ繩ヲ通シテアル外ハ些シモ異ナル點無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ變遷少ナキコトヲ感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類學會雜誌第百八號〕。百五六十年前ノ江戶人ノ覺書ニ、羽前ノ芹澤ト云フ山村ヲ夜分ニ通行セシ時、路傍ノ林ノハズレニ顏ノ長ク白ク眼ノ極メテ大ナル物ノ立ツヲ見テ、化物カト驚キテ更ニヨク檢スレバ、竹ノ尖ニ馬ノ髑髏ヲ插ミ古薦ヲ纏ハセタル山田ノ案山子ナリシ事ヲ記セリ〔寓意草下〕。此モ只ノ鳥威シナランニハ斯ル手數ヲモ掛クマジケレバ、何カ信仰上ノ目的アリシモノト考ヘラルヽナリ。今些シ古キ處ニテハ、攝州多田鄕ノ普明寺ノ什物ニ馬頭アリ。【多田滿仲】多田滿仲曾テ龍女ノ爲ニ大蛇ヲ退治シ、其禮トシテ名馬ヲ贈ラル。【馬塚】滿信ノ代ニ此馬死シ之ヲ塚ニ埋ム。文明二年ノ頃ニ至リ馬塚ニ每夜光明ヲ放ツ。和尙之ヲ禮スレバ馬首出現ス。【龍馬神】之ヲ金堂ニ納メテ龍馬神トスト云ヘリ〔和漢三才圖會七十四〕。馬首出現トノミアリテハ漠然タル不思議ナレド、實ハ寺僧ガ塚ヲ發キテ頭骨ヲ得來リシナリ。村民駒塚山頂ノ光物ヲ怖レテ戶ヲ出ルコト能ハザリシニ、之ヲ金堂ニ鎭祭シテ其妖熄ムト見エタリ〔攝陽群談三〕。【馬鬼】思フニ死馬ノ骨ヲ重ンズルノ風、今人ハ古人ノ如クナラザリシガ故ニ、終ニ信ズべカラザル馬鬼ノ說ヲ起シ、或ハ南部ノ高架(タカホコ)ニ七鞍ノ大馬ヲ說キ、サテハ豐後直入郡朽網鄕(クダミガウ)ノ嵯峨天皇社ニ、神馬黑嶽山ニ入リテ鬼ト爲ルコトヲ傳フルガ如キ〔太宰管内志〕、寧ロ國内ノ馬蹄遺跡ヲシテ其眞ヲ誤ラシムルノ傾キ無シトセズ。古伯樂道ノ名譽ノ爲、返ス返スモ悲シミ且ツ歎ズべキコトナリ。

 

《訓読》

 【硯の水】大なる磐石(ばんじやく)の上の窪み、通例、稱して「神馬の足跡」とするものの中に、若(も)し、絕えず一泓(いちわう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「いちおう」。有意な大きさの水溜り。]の水を湛ふる處あれば、人は、又、之れを「硯の水」と名づけて尊敬したりしこと、其の例、甚だ多し。昔の田舍者は本書の著者のごとく徒書(むだがき)の趣味は解し居(を)らざりし故に、硯と言へば、經文とか證文とか、いづれ、重要なる物を認(したた)むべき道具と考へたりしなり。之れと靈馬の足跡とが結合すれば、一通りや二通りの有り難さに非ざりしは、勿論の話なり。從ひて、磨墨と云ふ馬が、其の名よりも實(じつ)よりも萬人の仰ぐべきものとなり得たりしは想像し易きことにて、斯(かか)る名を選定したる昔の誰かは、智者なりと謂ふべし。石見那賀郡石見村大字長澤には、馬蹄の形に似たる石を神體とする社ありき〔「石見外記」〕。石見國は硯に似たり、竹生島は笙(しやう)のごとし、などと云ふ古諺(こげん)もあれば、此れも硯の水の信仰と多少の因緣ありしかと思はる。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社の御正體(みしやうたい)も亦、一箇の馬蹄石なり〔「駿國雜志」〕。此れは多分、安倍川の流れより拾ひ上げし物にて、元は亦、磨墨の昔の話を傳へ居(ゐ)たりしならん。此の地方に於いて、磨墨を追慕することは、極めて顯著なる風習にして、此の村にも彼の村にも、其の遺跡、充滿す。前(さき)に擧げたりし多くの馬蹄石の外に、【馬の首】安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村の熊谷氏にては、「磨墨の首の骨」と云ふ物を、數百年の間、家の柱に引き掛けたり。其の爲めに、此の家には、永く、火災無く、且つ、病馬・悍馬(かんば)[やぶちゃん注:性質の激しい荒馬。]を曳き來たりて、暫く其の柱に繫ぎ置くときは、必ず其の病ひ又は癖を直し得べしと信ぜられたり〔同上〕。之れに由りて思ふに、諸國に例多き駒留杉・鞍掛松・駒繫櫻の類ひは、恐らくは皆、此の柱と、其の性質・目的を同じくするものにして、之れを古名將の一旦の[やぶちゃん注:ある時のただ一度の。]記念に托言するがごときは、此の素朴なる治療法が忘却せられて後の話なるべし。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)稻垣氏の邸内なる老松は、昔、此の家の先祖、山に入りて草を刈るに、其の馬、狂ふとき、之れを此の木へ繫げば、必ず靜止するにより、之れを奇なりとして、其の庭に移植すと云へり〔「大日本老樹名木誌」〕。此の說、頗る古意を掬(きく)する[やぶちゃん注:汲み取って(推し量って)理解する。]に足れり。更に一段の推測を加ふれば、此の種の靈木は亦、馬の靈の寄る所にして、古人は之れを表示する爲めに、馬頭を以つて、其の梢に揭げ置きしものには非ざるか。前年、自分は遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道にて、小笠郡相草(あいくさ)村のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、【馬頭神】馬の髑髏(どくろ)を、一箇の石塔と共に其の中に安置してあるを見しことあり。それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり。羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり〔『東京人類學會雜誌』第百八號〕。百五、六十年前の江戶人の覺書に、羽前の芹澤と云ふ山村を、夜分に通行せし時、路傍の林のはずれに、顏の長く、白く、眼の極めて大なる物の立つを見て、「化物か」と、驚きて、更によく檢(けみ)すれば、竹の尖(さき)に馬の髑髏を插み、古薦(ふるごも)を纏はせたる「山田の案山子(かかし)」なりし事を記せり〔寓意草下〕。此れも只だの鳥威(とりをど)しならんには斯(かか)る手數をも掛くまじければ、何か信仰上の目的ありしものと考へらるゝなり。今、些(すこ)し古き處にては、攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)の什物に馬頭あり。【多田滿仲】多田滿仲、曾つて龍女の爲めに大蛇を退治し、其の禮として名馬を贈らる。【馬塚】滿信の代に、此の馬、死し、之れを塚に埋む。文明二年[やぶちゃん注:一四七〇年。]の頃に至り、馬塚に、每夜、光明を放つ。和尙、之れを禮すれば、馬首、出現す。【龍馬神】之れを金堂の納めて「龍馬神」とすと云へり〔「和漢三才圖會」七十四〕。馬首出現とのみありては漠然たる不思議なれど、實は寺僧が塚を發(あば)きて頭骨を得來りしなり。村民、駒塚山頂の光物を怖れて戶を出づること能はざりしに、之れを金堂に鎭祭して、其の妖、熄(や)む、と見えたり〔「攝陽群談」三〕。【馬鬼】思ふに、死馬の骨を重んずるの風、今人(きんじん)は古人のごとしくならざりしが故に、終に信ずべからざる馬鬼の說を起こし、或いは南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き、さては、豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社に、神馬、黑嶽山に入りて鬼と爲ることを傳ふるがごとき〔「太宰管内志」〕、寧ろ、國内の馬蹄遺跡をして其の眞を誤らしむるの傾き、無しとせず。古伯樂道の名譽の爲め、返す返すも、悲しみ、且つ、歎ずべきことなり。

[やぶちゃん注:「石見那賀郡石見村大字長澤」島根県浜田市長沢町(ちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。 現在、町内には長澤神社しか見当たらないが、それが「馬蹄の形に似たる石を神體とする社」の後身なのかどうか(或いはここに合祀されているとか)は判らない。引用が過去形だし。

「石見國は硯に似たり」石見国の形を馬鹿正直に古地図で見えも始まらない。「石見」の二字を結合して「硯」に似たりと言っている言葉遊びの類いである。

「竹生島は笙(しやう)のごとし」島の形が雅楽器の笙に似ている(とは私は思わない)ことから「笙」を分解して「竹生」島となったという、これまたまことしやかな島の名の語源説の一つだが、寧ろ、古来より「神を斎(いつ)く島」であったその「いつくしま」が「つくぶすま」と訛り、「ちくぶしま」となったとする説の方が遙かに腑に落ちる。

「駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社」駿府城址の南西の静岡県静岡市葵区駒形通にある駒形神社であろう。安倍川の左岸で川にも近い。

「安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村」静岡県静岡市駿河区丸子泉ヶ谷(いずみがや)(国土地理院図。右下方が丸子市街地が旧鞠子宿)。地図で見ると、山家と見えるが、実はここにある臨済宗吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は今川家七代当主に仕えた連歌師宗長(宗祇の弟子)が、京の銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺め、余生を送った場所として知られ、借景や枯山水で国の名勝史跡にも指定されており、庵の前庭には北斗七星を模して配置した「七曜石」があって、古くから大名や文人が訪れた場所であった。

「陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)」岩手県紫波郡紫波町東長岡耳取(みみどり)であろう。「美々鳥」の方が美しいのになぁ。

「稻垣氏の邸内なる老松……」「大日本老樹名木誌」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁)。

「遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道」「小笠郡相草(あいくさ)村」静岡県牧之原市相良がここで、「堀之内の停車場」というのは静岡県菊川市堀之内の東海道本線の菊川駅であろう。旧相草村は確かにその間(南東から北西に御前崎の根の部分を突っ切る形となる)の現在の菊川市南東部に当たるのであるが、この辺りは旧地名がごっそり消失してしまっており、この辺りとしか言いようがない。

『それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり』と言うか、馬の頭骨が極端に違ってたら、それこそ化け物でげしょう?!

「羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり」どうも昨今はこの風習は廃れたようで、ネット検索に掛かってこない。淋しい。

「羽前の芹澤」山形県長井市芦沢か。

「攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)」兵庫県宝塚市波豆(はず)字向井山ここは旧摂津国である)にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『平安時代中期に多田庄の領主であった源満仲の四男頼平が開山したと伝わる』。『当初』、『真言宗の寺院であり、長徳年間』(九九五年~九九八年)『には一条天皇の勅願寺となって寺領を有し栄えたと伝わる。しかし、鎌倉期以降は多田源氏の没落により』、『寺勢が傾き』、『衰退したという』。『江戸時代の初期には廃寺同様となっていたが、寛文年間』(一六六一年~一六七二年)の頃に『曹洞宗の寺院として再興され』た。現在も『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』が『寺宝として』あり、『雨乞いに使われる』とある。「多田滿仲」は既出既注「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話」の「普明寺の龍馬神」が、満仲と龍女の話から、ここで語られる普明寺住職玉岩和尚(室町時代の文明二年のこととするから彼は真言僧である)のものまでも総てしっかり語れていて、必見!

『「和漢三才圖會」七十四』巻第七十四「攝津」の「川邊郡」のここ(標題。左下最後の一行のみ)とここ。国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年の版本。什物の「馬頭」の部分のみを所持する原本で電子化する。

   *

馬頭【什物】康保四年冬滿仲公入能勢山遊獵時夢龍

女來曰川下池有大蛇與我爲仇數年願君退治矣爲

贈一龍馬也果一馬在側滿仲以爲奇異乘其馬伐喪

大虵焉滿仲逝去後至滿信【滿仲之孫】甚愛之馬亦死焉藤

原仲光【家臣】埋馬屍於山岳上建一宇號駒塚山峯堂

後土御門院文明二年三月十八日以後毎夜駒塚有

光輝於普明寺住持玉岩和尚到駒塚誦普門品忽震

雷而馬首出現焉和尚携還納金堂以爲龍馬神

○やぶちゃんの書き下し文

馬頭【什物。】 康保四年[やぶちゃん注:九六七年。]の冬、滿仲公、能勢(のせ)の山に入り、遊獵する時、夢に、龍女、來たりて曰はく、「川下の池に大蛇有り。我と仇(あだ)を爲すこと、數年なり。願はくは、君、退治したまへ。爲めに一龍馬を贈る」と。果して、一馬、側らに在り。滿仲、以つて奇異と爲して、其の馬に乘りて大虵(だいじや)を伐(う)ち喪(ほろぼ)しぬ。滿仲逝去の後、滿信【滿仲の孫。】に至り、甚だ之れを愛すも、馬も亦、死せり。藤原の仲光【家臣。】、馬の屍(しかばね)を山岳に埋み、上に一宇を建て、「駒塚山(くちやうさん)峯の堂」と號す。後土御門院の文明二年三月十八日以後、毎夜、駒塚に光有り、普明寺に輝く。住持玉岩和尚、駒塚に到りて、「普門品」を誦すに、忽ち、震雷して、馬の首、出現す。和尚、携(たづさ)へ還り、金堂の納む。以つて「龍馬神」と爲す。

   *

ここに出る能勢の山」は兵庫県川西市及び大阪府豊能郡豊能町(とよのちょう)・能勢町及び京都府に跨る妙見山の異名で、山頂には嘗つて行基建立と伝える為楽山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると、源満仲を遠祖とする能勢氏が領主となり、その地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸初期に当時の領主能勢頼次の帰依を受けた日乾(後の日蓮宗総本山身延山久遠寺二十一世)の手によって新たな妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見堂である(ここはウィキの「妙見山(能勢)」に拠った)。この山、馬との強い絡みがあることが判る。

「南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き」既出既注。未だに「高架」は限定的にはどこだか判りませんが。

「豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社」大分県竹田市久住町大字仏原の宮處野(みやこの)神社。ここは嵯峨天皇を祭神の一柱としていることから、旧称を「嵯峨宮樣」と呼ばれていた。こちらの解説によれば、原型は『景行天皇がこの地方の土蜘蛛を征伐した際の行宮跡に天皇をお祭りしたことに始まると伝えられて』おり、『その後、平安時代に直入擬大領の女『腎媛』が嵯峨天皇の采女とな』って、『上皇崩御の後、故郷来田見に帰り』、『剃髪し』て『尼となり、恩賜の品を産土の境内に埋め』、『日夜勤仕する。女の兄はこれを見て哀れみ』、『景行官の傍らに神宮を造営した。これが現在の神社の起源で『嵯峨宮様』と呼ばれ』、『永くこの地方の人々に崇敬され、明治になって宮処野神社と改称された』とある。

「黑嶽山」同神社の後背地と思われるが、不詳。

「太宰管内志」以上は同書の中巻の「豐後之四」の「直入郡」の「○嵯峨天皇社」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四三(一九一〇)年日本歴史地理学会刊の版本)に書かれてある。えぇい! 序でだ! 視認して電子化するわな! 句読点や推定訓読を施して読み易くした。

   *

 ○嵯峨天皇社

〔社記略〕に、豐後國直入郡朽網鄕市村嵯峨、毎年十月十五日、當社に於いて神保會を行ふ。神官日野姓、此社に仕ふ。大友家、代々、神馬を献ず。大友政親[やぶちゃん注:文安元(一四四四)年~明応五(一四九六)年。室町・戦国時代の守護大名。豊後国大友氏第十六代当主。]の時に當り、神馬、放失し、畢んぬ。大友義鑑[やぶちゃん注:よしあき。戦国大名。文亀二(一五〇二)年~天文一九(一五五〇)年。同第二十代当主。]の時に至り、彼の馬、鬼に現じ、黑嶽山に住みて、晝夜を分かたず往來の人及び六畜[やぶちゃん注:馬・牛・羊・犬・豕・鶏の家畜。]等を取り食らふ。義鑑、此の事を聞き、將に黑嶽に狩らんとす。大友家臣大久保藏人(くらうど)・城後(じやうご)因幡二人、此の事を乞ひ請け、夜中、黑嶽の麓に到り、今の水越大草場に於いて、之れを待つ。黑嶽の上より、馬鬼、飛び來たり、城後を襲ふ。城後、長刀(なぎなた)を以つて、之れを貫き、大久保も亦、矢を放つ。羽を呑み、馬鬼、遂に死すとあり。〔森氏[やぶちゃん注:不詳。]云はく、〕嵯峨天皇社の祭を「かたげ市」といふ。祭の夜に參詣するもの、男女、みだりにあふことあり〔万葉集九卷〕に、『筑波嶺(つくばね)に登りて嬥歌會(かがひ)[やぶちゃん注:上代の東国地方で歌垣(うたがき)を指す語。]を爲(せ)し日に作れる歌』、『嬥歌は東(あづま)の俗語(くによりのこと)に「賀我比(かがひ)」と曰ふ』[やぶちゃん注:以上は一七五九番の前書と、後書の原注。]とあり、是れ、彼(か)の「嬥歌會」の遺風なるべしといへり。嬥歌會の事は日田郡五馬媛(いつまひめの)社の件(くだり)にも云へるを、かんむがふべし【嵯峨天皇の社の馬鬼の事は〔九州治亂記〕にも見えたり。さて、「かたげ市」と云ふは、かの神保會の事なるか、いまだ委しくも考へず。】。

   *

現在も宮處野神社の秋季大祭を「神保会(じんぼえ)」と称し、現行では毎年十月第二土曜日に行われている。先に引いたこちらの解説によれば、『県選択無形民俗文化財』に指定されており、これは『新任国司が有名神社へ神宝を奉った祭儀を』指す、「神宝会」に『由来すると云われている』とある。「五馬媛(いつまひめの)社の件」はここであるが、そこでも九月の祭礼の間、市が立っている間は、毎夜、男女が契る(野合であろう)ことが自由で、女性でも未婚既婚を問わず、既婚者の夫もこれを咎めないとあり(夫も他の女と交合するからとある)、それをやはり「かたげ市」と称するとする(古称は「かがひ市」であったかと推定している)。しかも、その最後の割注で筆者は、『こゝの方言にも男より、しひて女に交はるを「カタゲル」といふなり。是れなるべし』とも述べている。これは思うに「神保会」=「かがひ市」「かたげ市」なのではなく、神保会の「ハレ」の時空間に於ける神人交合の写しであり、これは近現代まで各地で「八朔の祭り」などと称して盛んに行われていたものである。それを「かがい」と呼んだのは如何にもお洒落ではないか。それで子供ができたらどうするかって? それは自分らの子と夫が認知するか、或いは「神の子」として秘かに処分するか、或いは「神の子」として村が責任を持つて共同で育てるのである。――自分の子を平気で捨てたり、虐待の末に殺す輩が跋扈している現代と――どっちが野蛮か――よく考えてみるがよかろう。]

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