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カテゴリー「柳田國男」の294件の記事

2022/07/23

南方熊楠・柳田國男往復書簡(明治四五(一九一二)年三月・三通)

 

[やぶちゃん注:以下は、先般、電子化注を始めた「續南方隨筆」の「十三人塚の事」の注に必要となったため、急遽、電子化した。従って、注はどうしても必要なものと判断したものに限った。

 底本は一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻 南方熊楠 柳田國男 往復書簡」の「245」ページから「250」ページまでをOCRで読み込んだ。南方二通と柳田一通である。三通目は最後の部分が必要と考え、添えた。なお、底本は新字新仮名で書き変えられており、気持ちが悪いが、仕方がない。]

 

  南方熊楠から柳田国男ヘ

          明治四十五年三月六日

 拝啓。貴著『石神問答』山中笑氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり。しかし、十三仏ということはなし。小生按ずるに、この十三は十二に一を合わせたるものならん。(十二月に一の太陽を合わせ、十二神将に一の薬師仏を加うるごとく)、なにかまた暦占学・天文学上より出でたることかと存じ候。さて今日まで一切経およそ十分の六、七通り見たが、日本にいう十三仏は無論ないが、十三仏名ということはあり。貴下に目下何の用もないことかも知れねど申し上げ候。宋の紹興年中に王日休が校輯せる『仏説大阿弥陀経』巻上に、十三仏号分第十三あり、弥陀仏の十三の名を挙げたり。無量寿仏、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、難称光仏、超日月光仏の十三なり。貴下の「己が命の早使い」の条はすでにでき上がりたりや。小生これに類せる話一、二見出でたれど、すこぶる長く要を摘むに困る。貴下のその条全文見せ下され候わば、貴下の入用らしき相似の点のみ書き抜き添記申すべく候。

[やぶちゃん注:「貴著『石神問答』山中笑氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり」「石神問答」は明治四三(一九一〇)年刊で、翌年には序を付して再刊している。日本民俗学の先駆的著作として広く知られる。日本に散見される各種の石神(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神・象頭神など)についての考察を、著者と日本メソジスト教会の最初の牧師の一人で民俗学者でもあったペン・ネーム山中共古(きょうこ)の名で知られる山中笑(えむ)・人類学者伊能嘉矩(かのり)・歴史学者白鳥庫吉(しらとりくらきち)・歴史学者喜田(きた)貞吉・「遠野物語」の原作者佐々木喜善(繁)らとの間に交わした書簡をもとに柳田國男が編集した、一風変わった構成の論考著作である。国立国会図書館デジタルコレクションで初版本が視認出来るが、ここで熊楠が言っているのは、「書簡一 柳田國男より駿河吉原なる山中笑氏へ」の四ページ目にある「十三」の条を指す。読まれたい。

「十三仏ということはなし」博覧強記の熊楠にして、ちょっと意外。私でさえも知っている。当該ウィキによれば、中国で偽経によって形成された地獄思想の『十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる』十三『の仏(正確には仏陀と菩薩)』、閻魔王を初めとする冥途の裁判官たる十王と、『その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地』(ほんじ)『とされる』仏に関わる十王信仰、また、この十三仏は『十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられ』ているとある。十三の冥王と本地仏は、リンク先で表になっているので、参照されたい。

「紹興年中」中国、南宋の高宗趙構の元号。一一三一年から一一六二年まで。

「王日休」(おうにっきゅう 一一〇五年~一一七三年)。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「王日休」によれば、『宋代の』処士で『浄土教者』。現在の安徽省舒城生まれ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。南宋の初代皇帝高宗の治世(一一二七年~一一六二年)に『国学進士に推挙された』。学識深く、「春秋」・「易経」や刑法及び地誌関係の著書として膨大な著作があるほか、「金剛経」注釈書「金剛経解」四十二巻があるなど、その著述は広汎且つ大部に及ぶ。交遊関係も広く、『官吏仲間や宰相ばかりでなく、看話禅』(かんなぜん:禅宗用語。一つの公案を目標として、それを理解し得た後、更に別の公案を目標に立てて、最終的に悟りに至ろうとする禅風。元は南宋の宏智正覚(わんししょうかく)が大慧宗杲(だいえそうごう)の禅風を評した語であった。臨済宗は、この看話禅の伝統を現在も受け継いでいる)『の大成者として知られる大慧宗杲や』、『その門人達との関係も深かった。しかし晩年の王は、官職を捨てて浄土教に帰し、その布教に尽力しつつ、困窮者などへの救済活動(賑済)も実践していた』。紹興三二(一一六二)年には、「無量寿経」の異訳四本を校合した「大阿弥陀経」(ここに出る「仏説大阿弥陀経」に同じ)『二巻を編集し、同年末頃、仏教の民衆化・活性化を旗印に、あらゆる階層に浄土教を浸透させるため、経論や諸伝記から』、『広く』、『浄土教の要文を集めて』「龍舒浄土文」(りゅうじょじょうどもん)十巻を『撰述し、その流布につとめた。その後乾道九年』、六十九歳で『廬陵』(現在の江西省吉安(きつあん)市)『において』、『阿弥陀仏の来迎引接を得て』、『往生を遂げた』とある。

「十三仏号分第十三あり、弥陀仏の十三の名を挙げたり」「大蔵経データベース」で確認したが、誤りはない。

「無礙光仏」「むげこうぶつ」。

「無対光仏」「むたいこうぶつ」。]

 

  柳田国男から南方熊楠ヘ

         明治四十五年三月八日夕

 拝復。此方よりは御無沙汰のみ致しおり候に、御多忙にもかかわらずたびたび御報導を給わり御親切感佩仕り候。白井、高本の二氏とは折々相見るの折あり、間接にも御消息を知りおり候。小生は伝説の小篇あまり早く計画を人に漏らせしため、この夏ごろまでに公表せねば一分立たず、しかも材料はあとからもあとからも出て来るので幾度となく稿を改め、今なお長者栄華第七の辺にあり。それに本務がはなはだしく煩劇なるより、疲労と負懊悩とのために不眠症を起こし、これを医するために折々田舎を旅行する故、時間の不足はなはだしくついつい手紙をかくこと能わず候いき。申し上げたきことはなはだ多けれども一々思い出し得ず。さしあたりの分より追い追い申し上げ候。

[やぶちゃん注:「伝説の小篇」「選集」の注を参考にすると、柳田が「伝説十七種」と呼称していた考証物を指す。後にその内の部分が結実したのが、刊本「山島(さんとう)民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された)である。この刊本は日本の民譚(民話)資料集で、特に、河童が馬を水中に引き込む話柄である「河童駒引(かっぱこまびき)」伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる「馬蹄石(ばていせき)」伝承の二つを大きな柱としたものである。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同書の再版版(正字正仮名)の昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で起こして全八十九分割で電子化注を終えている。

「長者栄華第七」これは柳田没後、かなりたった昭和四四(一九六九)年に刊行された平凡社東洋文庫の「増訂 山島民譚集」に収録された生前未発表の「副本原稿」と呼ばれるものので、巻頭に「第七 長者栄華」と標題して出る。現在、「ちくま文庫」版の第五巻に東洋文庫底本で「山島民譚集㈢(副本原稿)」として収録されてある。なお、同巻の「山島民譚集㈡(初案草稿)」も加えて見ると、「十七」の内、「十四」までが載るが、「第八」は『欠』とあり、第十五から第十七までは稿自体がもともと存在しなかったようである。そのテーマは、まさに柳田國男の南方熊楠宛書簡の明治四十四年十月一日附に記されてあった。それを並べると(丸括弧の中の『 』は柳田の添え書き)、「川童駒引」・「神馬の蹄」(以上二種は刊本「山島民譚集」相当)・「ダイダ法師」「姥神」(『山姥のことなど』)・「榎の杖」(『杖をさして樹木生長することなど』)・「八百比丘尼」「長者栄花」・「長者没落」・「朝日夕日」「金の鶏」「隠れ里」「椀貸」「打出小槌」・「手紙の使」(『鬼より手紙を托せられたるに、その中に自分を殺せとかきてありし話など』)・「石誕生」・「石生長」・「硯の水」が挙げられている。この内、下線を附したものが、「山島民譚集㈡(初案草稿)」に載るもの、下線太字が「山島民譚集㈢(副本原稿)」]に載っている相同かごく相似の標題物である。「長者没落」は、「ちくま文庫」版が『欠』とする箇所と一致するが、しかし「朝日夕日」の冒頭は「長者塚」で、それとなく、「長者没落」の草稿が嘗つてはあったことを匂わせている。全く見当たらないのは最後の四つである。但し、柳田は南方が明治四十四年十月六日附の柳田宛の書簡で「手紙の使い」よりは「己が命の早使い」の方がよいのではないかと書いており、柳田はこの言を入れて、「己が命の早使ひ」と改めて、同年十二月発行の『新小説』で「己が命の早使ひ」として発表している(次の段落も参照)。当該論考、というよりはごく短い随筆は「万葉文庫」の「定本柳田國男集」の第四巻で読める。

なお、この「伝説十七種」というのは、明治四三(一九一〇)年十二月『太陽』発表の「伝説の系統及の分類」に於ける十三種の分類を発展させたもので、そこでは「一 長者伝説」・「二 糠塚伝説」・「三 朝日夕日伝説」・「四 金雞伝説」・「五 隠里伝説」・「六 椀貸伝説」・「七 生石伝説」・「八 姥神伝説」・「九 八百比丘尼伝説」・「一〇 三女神伝説」・「一一 巨人伝説」・「一二 ダイダラ法師伝説」・「一三 神馬伝説」・「一四 池月磨墨伝説」・「一五 川童馬引伝説」を掲げている。同論考は「万葉文庫」の「定本柳田國男集」第五巻で読める。]

 十三仏のことにつきては、かの後きわめてわずか日本のことを調べ候のみに候ところ、宋代の『大阿弥陀経』に十三仏名ありときき便を得申し候。十三塚などの十三の数は一加[やぶちゃん注:「くわえ」。]十二なるべきこと、先に『石神問答』中に仮定せし後、追い追いにその証を得申し候。大学出板の『史料』第四編(源平時代)各巻に当時各種の修法壇のプラン出でおり候が、いずれの法にも必ず障礙[やぶちゃん注:「しょうがい」。障碍・障害に同じ。]調伏のためとおぼしく十二天壇と聖天壇とを相接して設け有之候。十三塚は必ずこれと因あるべく存ぜられ候。聖天塚または十二大塚と申す塚も有之候。益軒翁の十三仏説は十三度の忌日に地獄の十王または地蔵を配せし十三仏妙の説より思いつきし説ならんも、十三塚の中にて一塚が特に大なる理由はこの説にては解くこと能わず候。鳥居竜蔵君が実見せし外蒙古各地の十三塚にも必ず右の大将塚有之候よしに候。日本にても早くよりこれを十三仏に托して十三坊とも申し、あるいは十三仏塚と申す所も有之。あるいは班足王十三人の子を殺して十三塚というとの説も古くより有之。蒙古のもまた十三人の兄弟なりとも釈迦と十二弟子とも申す由に候。この問題だけは発見も小生、解決も小生引き受け、何とぞしてこの東方文明の聯鎖点を明白に致したく、しきりに材料をあつめおり候。近きうち『考古学会雑誌』に第三回目の報告をするつもりに候。先年横浜の外人、かの附近の十三塚を発掘せしことあり、一物も出土せざりし由に候。

[やぶちゃん注:「宋代の『大阿弥陀経』に十三仏名あり」近日公開の「續南方隨筆」の「十三人塚の事」に羅列される。

鳥居龍蔵」(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。

「近きうち『考古学会雑誌』に第三回目の報告をするつもり」底本の編者注記に、『大正二年一月『考古学雑誌』三巻五号に、「十三塚の分布及其伝説」を発表している。』とある。「私設万葉文庫」の「定本柳田國男集」第十二巻で電子化されてある。(485)ページで検索されたい。]

「命の早使」は十七篇中最も材料の少なき部分に候。かの題名はせっかく頂戴したれども、いろいろ考え候えばかの点は要素にあらずと考え申し候。二カ所の神霊が通信をするに人間を使役せりという点が根本にて、命を取れと書き込みたりというは後年の附加らしく候が、御見込み如何にや。しかりとすれば、この章名は当たらず候。むしろ「橋姫」と題せんか「謡坂(うたうさか)」とせんかなど思いおり候。御見当りの箇条はやはり一切経中にあるにや。一切経は手近にいずれの板も有之候につき、単に経名巻数標目のみにてもぜひ御聞かせ下されたく候。もっとも今回の書物にはせっかく神足石などにつきて国外の類例たくさん御示し下され候えども、他の部門には一言も外国との比較のできぬものあり、本の趣旨も国内の所有伝説を蒐集するにある故、各章の権衡上これを列載する能わず候も、御話のごとくば系統の解説上必ず多少の便宜を得べく存じ申し候。

[やぶちゃん注:「今回の書物」先に注した「伝説十七種」の仮構想の本を指す。

「権衡」(けんこう)は「均衡」に同じ。]

 このついでに伺いたきこと三条あり、御存じならば御示教下されたく候。

 その一は二又(ふたまた)の木または竹をもって霊異とすることに候。諸寺の什宝に二又竹多し。杖化成木伝説にも二又の木のことあり。絵巻などに見ゆる昔の人の杖は

Hutamata1

かかるもの多く、単に滑らぬ用心と思われず候。昨年下野茂木町辺にて岐路頭に立てたる犬頭観世音の塔婆、すなわち犬の死にたるを供養する木標のこと、前にも申し上げしが、

Hutamata2

かかる形に有之。奥羽山中に漂泊する一種の山民にてマタギ、又木、权とも書くもの有之。この者とは関係なきかと想像いたし候。

[やぶちゃん注:画像は底本から画像で取り込み、トリミング補正した。

「杖化成木伝説」「じょうかせいぼくでんせつ」。地面に突き刺した人工的に木材を加工した杖に、根が生え、一本の成樹となったとする類型伝説譚を指す。

「下野茂木町」(しもつけもてぎまち)現在の栃木県芳賀(はが)郡茂木町(もてぎまち)茂木

「岐路頭」読みが不明だが、「きのろとう」(分岐路の路頭)と読んでおく。

「犬頭観世音」(「いぬがしらかんぜおん」或いは「けんとうかんぜおん」)「の塔婆、すなわち犬の死にたるを供養する木標」最後は「もくひょう」或いは「きしるべ」。これ、甚だ興味があるのだが、現存しないようだ。残念!]

 第二には卍のことに候。この象を万の義とするは何に始まり候や、御承知にや。仏教には限らざるよう存じ申し候。これをマンジというは万字なりとの説あれど疑わしく候。小生はもしや蠱などのマジと関係あるにあらずやと考え候が御説奈何。

[やぶちゃん注:「卍」仏の胸や手足などに表される徳の象徴。「万字」とも書く。左万字(「卍」)右万字(「卍」の右に旋回した反転形)とがあるが、現今の本邦では左万字が圧倒的に多く用いられているが、インドの彫刻の古いものには右万字のものが多く、寧ろ、その方が元来は正しかったと言うべきかも知れないが、中国や本邦ではその区別はない。サンスクリット語でスバスティカ或いはシュリーバッツアといい、「吉祥喜旋」(きちじょうきせん)「吉祥海雲」とも訳す。インドの神ビシュヌの胸にある旋毛が起源ともされるが、実際は、もっと古く、偉大な人物の特徴を示すものだったらしく、瑞兆或いは吉祥を示す徳の集まりを意味するように変化したものである。本邦では地図を始め、仏教や寺院を示す記号・紋章・標識として一般に用いられている。なお、右万字は十字架の一種として、世界各地で古代から用いられたが、その起源に関しては異説が多い(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「象」「かたち」。

「蠱」音で「コ」であるが、ここは「まじ」「まじもの」「まじくり」と訓じているかも知れない。元は道教系の呪術(黒魔術)を指すが、ここは広義の咒(まじな)いの意。]

 第三には鍬をもって舞踏する風は、シャマンに限られたることに候や。たとえばアイノの鍬先のごときも、かの辺に根原をもつものなるべくや。近代の鍬神のことは『石神問答』にも書き候が『備中話』という書に、吉備郡(旧下道郡)上原村に上原相人(そうにん)という巫覡の一部落住す。近村の民家に頼まれて狐憑きを落とす祈禱をなす。二、三人打ちより、弓弦をならし鼓を打ち主人の悪事を歌にうたい罵る故、ザンゲ祈禱という。舞終わりての後鍬先を火にやきて赤くし、その上に抹香を載せて薫じ病室をふすべあるく行事有之。一異聞に候。アイノの鍬先は図を見るに、甲[やぶちゃん注:「かぶと」。]の鍬形のごとく流蘇を附すべき穴多くあり、手に持ちて振りまわすために造れるものなり。アイヌの中に山丹産の什器多きことは申すまでもなく候わんも、この物彼より輸せりということを聞かず候。

[やぶちゃん注:「シャマン」シャーマン。呪術師。

「アイノの鍬先」「アイノ」は「アイヌ」に同じ。「鍬先」は「くわさき」だが、鍬の先の意ではなく、昔の兜(かぶと)の頂に当人の標識として附けた鍬形に似た宝具の一種。The Sumitomo Foundationのページのこちらに写真がある。そこに『金属製品で、アイヌ社会では上位に位置づけられる宝物である。新井白石の「蝦夷志」や蛎崎波響の画像にも描かれている』。『土中に保管されることが多かったと考えられ、現在までに二十余例の発見が認められているものの、その多くは現状を留めていない』とある。

「備中話」全十三冊の備中の未完の地誌。著者は江戸後期の備中松山藩の漢学者・漢詩人のであった奥田楽山(安永六(一七七七)年~万延元(一八六〇)年)。彼は藩校有終館の学頭を務め、火災で廃校の危機にあった有終館を再建・復興させ、晩年は自宅の「莫過詩屋」に「五愛楼」と称する書斎を新築し、風流をもって自ら楽しんだという。

「吉備郡(旧下道郡)上原村」下道郡は「しもつみちのこおり」或いは「かとうぐん」と読んだ古代からあった旧郡。現在の総社(そうじゃ)市富原(とんばら)。

「上原相人」(そうにん)というのは、古くは人相見を指す語であるか、ここでは広く民間祈禱を行う呪術集団を指している。「大谷大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る豊島修氏の同大学の学会研究発表会要旨「民間陰陽師の宗教活動」(『大谷学会大谷學報』第六十巻第四号・一九八一年一月発行)に、『備中地方(現・岡山県)には「平川ヤンブシ(山伏)・湯野タユウ(太夫)」という伝承があるように、古くから修験山伏や陰陽師太夫等の民間宗教者の活動が盛んであった。すでに『備中町誌』(民俗編)には、このような民間宗教者として巫女、サオ(社男)、法者、コンガラ、カンバラ、山伏等をあげ、かれらの多くが激しく崇りやすい一面をもつ荒神・ミサキを管理する一方、病気の祈禱や憑きもの落し、家相等の祈禱活動をおこなっていたことを指摘している。とりわけ備中南部、備前を中心に瀬戸内沿岸を信仰圈とするカンバラ太夫と称呼された陰陽師博士の宗教活動には注目すべきことが多い。この陰陽師博士は近世から近代にかけて、下道郡上原村枝富原(現・総社市富原)を根拠として、主に病気の旧悪を懺悔する祈禱をおこない、それをカンバラ祈禱と別称されて、この地方庶民の精神生活や社会生活に影響をあたえてきたのである』とあり、以下、この『総社市富原の陰陽師について』のより細かな解説が続く。そこに『近世には富原が備中地方の一大陰陽師村であったこと、それは土御門家配下の一派で、祈禱または狐付け落しを専業としていたことが知られる。また『吉備之志多道』(下道郡之部)にも「下原村の北に上原村と云あり。此所陰陽師一邑をなす。土人上原相人と称す。(中略)俗に云ふ妖巫の類なり。(中略)病気の旧悪を懺悔する事也。」云々とあるように、「上眠相人」と称する妖巫の類で、祈禱すなわち病気の旧悪を懺悔する「懺悔祈禱」をおこなっていたことがわかる。したがって富原の陰陽師を別称カンバラ相人(太夫)といわれたのは、一つに上原村に居住する相人という地名から呼称されたと考えられるが』、『この陰陽師太夫の祈禱作法によって「神祓い」をおこなう呪法から』こうした呼称がなされたのであろうと述べられ、さらには、『確証はないが』と断りをお入れになった上で、かの安倍晴明との血脈が、この地に伝えられたとする伝承も記されてある。

「山丹」「さんたん」と読む。ウィキの「山丹交易」に、『江戸時代に来航した山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウリチ族や大陸ニヴフなど』の『黒竜江(露名:アムール川)下流の民族)からの中国本土や清朝の産品が、主として蝦夷地の樺太(露名:サハリン)や宗谷のアイヌを仲介し松前藩にもたらされた交易をさす。広義には黒竜江下流域に清朝が設けた役所と山丹人を含む周辺民族との朝貢交易から、松前藩と樺太北東部のウィルタなどのオロッコ交易も含む』とある。]

 秈[やぶちゃん注:「うるち」。]すなわち赤米、大唐米[やぶちゃん注:「だいとうまい」。]をトウボシということ、前にも申し上げ候が、関東の地名にトウボシ田という地名多く候。この物薄地(やせち)に生じ易く農民もこれを賤しみて、この辺には食する者を知らず。何故にこの名ありや不審に堪えざりしには一解を得申し候。上総茂原在の上永吉という地に行き候時その旧記を見るに、村開発の当時慶長前後にや三河辺より土坊師と称する一種の人民、土方体[やぶちゃん注:「どかたてい」。]の賤しき者三百人ほど一団体をなしてこの村に来たり、村居より丘一つ北なる谷に住む。この者山側を穿ちて窟居し、畑を作るとて遺址多く存せり。この土坊師はトウボシにて、流作場などの人の棄てて顧みぬ地に右の赤米を作りて生活せし故に、かの米をトウボシと申せしにはあらず候か。もちろん数多の旁証を得ざれば断定は下さず候も試みに申し上げ置き候。何かこれに関係あること御聞きなされ候わば御報下さるべく候。上総の東海浜には別にエンゾッホなどいう一種の居所不定の部落あり。この地方普通の崖地などに小屋をつくり、乞食はせず、冬も赤裸にて水に入り魚など取り候よしに候。

[やぶちゃん注:太字は底本では、傍点「﹅」。

「秈」(とうぼし)「赤米」「大唐米」「トウボシ」これは「占城稲」(せんじょうとう/チャンパとう)とも呼ぶ。ウィキの「占城稲」によれば、『チャンパ王国』(一九二年から一八三二年まで。現在のベトナムの南中部にあった。元は漢帝国の南端(日南(にちなん)郡象林(しょうりん)県)であったが、現地官吏の子の区連(くれん/おうれん)によって独立を果たした)『を原産地とする収穫量の多い早稲』(わせ)『で、小粒で細長だが』、『虫害や日照りに強く、痩せた土地や』、『あまり耕起していない水田でも良く育つ品種の稲である。「占城(チャンパ)米」の呼称で知られ、宋代の中国で盛んに栽培された』。『中国における「占城稲」』は、「唐会要」(「会要」中国の史書群「二十四史」の「志」や「表」の不足を補うもので、一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した補助歴史書の一種。中国史上で最初に編纂されたが、後周・北宋の官僚王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が編纂した本書(九六一年完成)が最古のもの)『に「以二月為歳首。稻歳再熟」とあり、唐代にはチャンパに早稲があることは知られていた。北宋時代には既に現在の福建省でわずかながら栽培されていた』。一〇一二年には『当時の真宗の命により江南地方へ移植され、後に現地種との交配も進められた。長雨に弱い反面』、『旱害に強く、手間があまり掛からずに短期間で収穫可能な占城稲の普及は、江南以南の地域における二毛作や二期作が進展する一助となり、農業生産を増加させた。この種が普及したため、長江下流の江浙地方が米作の中心地となった』。『日本では、大唐米(だいとうまい)』(☜)・『太米(たいまい)・秈(とうぼし)』(☜)『などとも呼ばれている。遅くても鎌倉時代までには日本に伝えられた。収穫量は多く』、『落穂しやすく脱穀が楽な反面、強風や長雨で傷みやすく、粘り気も少なく』、『味も淡白であった』。『それでも室町時代には降水量の少ない瀬戸内海沿岸をはじめとして西国を中心に広まり、農家の生活水準の上昇につながった。その一方で、領主や消費者である都市民には評価は高くなく、領主の中には大唐米による納付の場合の納税額を他の納付方法よりも引き上げたりすることもあった。江戸時代には「赤米」』(☜)『と呼ばれて下等品扱いされ、小野蘭山』述の「重修本草綱目啓蒙」では『「最下品ニシテ賎民ノ食ナリ」と評された』。最後の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの「重修本草綱目啓蒙」(同書の第三版で梯南洋(生没年未詳)の校訂・出版で、南洋による増補が各所にあり、中には有用な記事も少なくないが、蘭山の孫で後継者であった小野職孝(もとたか)に無断で出版したものであった。以上はサイド・パネルの「解題/抄録」にある磯野直秀先生のそれに拠った)三十五巻本の巻之十七のこちらで視認出来る。他の二版を見たところ、当該記述はなかったので、この部分はまさに南洋の追記したものと思われる。

「関東の地名にトウボシ田という地名多く候」後の大正三(一九一四)年七月発行の『郷土研究』に柳田國男が発表した短い記事「大唐田又は唐干田と云ふ地名」(前者は「だいたうだ(だいとうだ)」、後者は「たふぼしだ(とうぼしだ)」)があり、その例を列挙するが、冒頭から、関東が四つ出る。以下である。【 】の数字は私が打った。

常陸眞壁郡太田村大字野殿唐米(たうぼし)【1】

下總千葉郡千城村大字小倉唐籾(たうぼし)【2】

上總市原郡五井町大字平田當干田(たうぼした)【3】

安房安房郡曾呂村大字上野唐穗種田(たうぼしゆだ)【4】

 

【1】は現在の茨城県筑西市野殿(のどの)、【2】は現在の千葉市若葉区小倉町(おぐらちょう)附近、【3】は現在の千葉県市原市平田附近、【4】は現在の千葉県鴨川市西のこの附近。「曾呂」は「そろ」と読む。総て「今昔マップ」で最も古い地図を確認したが、孰れも字名のそれは確認出来なかった。なお、柳田の記事全体は「私設万葉文庫」のこちらの「定本柳田國男集」第二十巻で正字正仮名版が読める。ページ・ナンバー(217)で検索されたい。

「上総茂原在の上永吉という地」現在の千葉県茂原(もばら)市上永吉(かみながよし)。

「慶長前後」慶長は一五九六年から一六一五年まで。言わずもがなであるが、安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。

土坊師」「トウボシ」ネット検索では、掛かってこないので、如何なる集団か不詳。

「村居より丘一つ北なる谷に住む」上永吉のグーグル・マップ・データ航空写真を見るに、この北の丘陵の谷らしいが、柳田の言う「遺址多く存せり」は現存しない模様である。

「流作場」「ながれさくば」或いは「りゅうさくば」で、江戸時代の田の種類の一つ。河川又は湖沼の氾濫により、水害を受けやすい場所にある田地。石盛(こくもり)は下田(げでん:地味の痩せた下級の田地)より低いのを通例とした。

「上総の東海浜」この海浜辺り

「エンゾッホなどいう一種の居所不定の部落あり」不詳。]

 このごろ英国より Sayce と申す老人来遊しあり、バビロニヤ、アッシリヤのことを専門とせる学者のよし。御聞き及びなされ候人物にや。古き辞書などにも名前見えおる人ゆえ、無下につまらぬ人にもあるまじく存じ、近日中佐伯好郎氏(ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガンを研究し著書を公けにせし人なり)の通訳にて会見するつもりに候。チゴイネル原住地につき何か研究せしことありやを聞き、兼ねて日本の漂泊人種のことを話すつもりに候。

[やぶちゃん注:「Sayce」イギリスの東洋学者、言語学者アーチボルド・ヘンリー・セイス(Archibald Henry Sayce 一八四五年~一九三三年)。アッシリア学の代表的な研究者として知られ、またアナトリア象形文字解読の草分けであった。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。なお、この書簡当時で六十七歳。

「佐伯好郎氏(ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガンを研究し著書を公けにせし人なり)」言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家の佐伯好郎(よしろう 明治四(一八七一)年~昭和四〇(一九六五)年。広島生まれ。当該ウィキによれば、キリスト者で英名をPeter Saeki と称し、『言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特に』中国の『ネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり』、『「景教博士」と称された。また日本人とユダヤ人が同祖であるとする』例の「日ユ同祖論」の『最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷』の『廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした』とある。「ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガン」は“Nestorian monument of Singan”か。“Singan”「中国中部の都市」を意味する。]

「狂言記」は徳川初世より新しきなきものなかるべしといえども、因幡堂の鬼瓦はこれによりて近世までも人のよく知れることなれば、その記事あるをもって屛風の古き証拠になす能わずと存じ候。

[やぶちゃん注:以上は先行する明治四十五年二月十一日午後二時発信の南方熊楠書簡に対する見解。これはその前の明治四十五年二月九日附の柳田書簡で、南方が、かの「オコゼ屛風」に『因幡堂鬼瓦の文句があるをもって同文を足利末ころという推測』をしたことに対して反論したもので、柳田が狂言「鬼瓦」は徳川氏の世に成ったもので、それ以前に遡れないと言ったことへの明証を求めたことへの再反論である。

「狂言記」は江戸時代に刊行された能狂言の台本集。万治三(一六六〇)年刊の「狂言記」、元祿一三(一七〇〇)年刊の「続狂言記」「狂言記外五十番」、享保一五(一七三〇)年刊の「狂言記拾遺」(いずれも初版)を総称したもの。絵入りで各集五冊五十番から成る。種々の異版が刊行され、読本として流布した。群小諸派の台本を集めたものらしく、内容も一様でない(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「因幡堂の鬼瓦」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)。「因幡堂」「因幡薬師」の名で親しまれている。ここ。狂言「鬼瓦」の舞台としても知られる。但し、同寺の鬼瓦は鬼形(きぎょう)の形象は全くないらしい。Tappy氏のブログ「自社巡礼.com」の「【因幡薬師】日本三如来に数えられる、がん封じのお薬師さま(因幡堂)」の、本堂前に置かれた鬼瓦の写真とその画像の中の解説を見られたい。これは『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』でも言及している。]

 

  南方熊楠から柳田国男ヘ

       明治四十五年三月十一日夜九時

 御状拝見。因幡堂は土宜法竜師より寺僧に聞きくれしに、書上(かきあげ)を寺僧よりよこす。火事のため今は瓦なく、また瓦ありし伝もなしとのこと。小山源治氏もみずから寺に就いて聞きくれしに、その通りの返事なり。因幡堂に大なる鬼瓦ありしという記録、記事が徳川氏の世にできし書に有之(これあり)候や、御尋ね申し上げ候。狂言はいつのものか知れず、しかし、その内に大坂とか江戸とか駿府とかいうこと少しもなきより見れば、多くは徳川氏前のものと存ぜられ候。狼を山の神とするらしきことは他にも少々聞くことあり。そのうち人類学会へ出すべし。山の神オコゼを好むことも、小生は徳川氏前に記したるものあるを見ず候。土俗上必要のことにして、徳川氏前の書に一向見えぬことはこの外に多し。マルコ・ポロの支那記行に、文那人が豕(ぶた)を食うことを少しもいわぬごとく、われわれ西洋に久しくおったが、かの土でありふれたことは直(じき)に珍しくなくなり、日記に付けぬごとし。

[やぶちゃん注:「小山源治」不詳。同姓同名で、京都博物会会員で、新種の蝶を発見した人物がいるが、その人かどうかは判らない。]

 御尋問のトウボシは、小生は唐のホシイイということと存じ候。軍旅盛んなりし世にはホシイイ大切なりしゆえ多く用い、したがってかかる名もできしと存じ候。禾本科の牧草(雑草grass)にはトボシガラ、またそれに準じて大(おお)トボシガラという草も有之候(松村氏『改正増補植物名葉』一二四頁)。

[やぶちゃん注:「トボシガラ」単子葉植物綱イネ科ウシノケグサ属トボシガラ Festuca parvigluma当該ウィキによれば、『イネ科の軟弱な植物。長い芒のある小穂を長い柄の先にぶら下げ』、『全体にひょろりとした多年草。穂がないときは全く目につかない』とあり、『細い根茎があって地下を這い、茎は束になって生じる。花穂を含めて高さ』は三十~六十センチメートルで、『葉は根元から茎の途中の節につき、長さ』十~二十五センチメートル、『ざらつかず、深い緑色で光沢がある。葉鞘も葉の表と同じような質感』である。『花は』五~六『月に、茎の先端から出て、円錐花序をなす。花序の主軸は』八~十五センチメートルで、『数個の節があって、それぞれの節からは花序の枝が』一『本ずつ出るが、これが花序全体と同じくらいに長い。花序の主軸と枝は先が細くなって、そこにまばらに小穂をつける。小穂はその枝に寄り添う。花序全体としては、枝はやや主軸に沿うようにして、全体として先端が垂れるが、開花期には枝はやや広がる』。『小穂は緑色で』三つから五つの『花を含む。包穎はごく小さく、護穎は』五~六ミリメートル『あって、これがほぼ小穂の大きさにあたる。その先端からは』六~九ミリメートルの『細い芒が伸びる。内穎は護穎とほぼ同じ長さ』。『名前の由来は唐帽子殻で、古い時代の米の品種である唐帽子(とぼし)に似ていたためと』いう説と、『点灯茎』或いは『点火茎の意』とする説がある、とあって、『牧野は後者を採用しているが、その名の意味やその発祥については不明と述べている』と記す。

「大(おお)トボシガラ」ウシノケグサ属オオトボシガラ  Festuca extremiorientalis 。山地の林に植生し、葉は幅が五~十二ミリメートルで扁平、花序は長さ二十~三十センチメートル。トボシガラとともに食用にはならないようである。]

 鬼の手紙のうちのインシデント、己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語なり。小生走りがきに扣(ひか)えおけるが、デンマルク語はわずかに植物の記載を読み得るまでにて十分に読み得ず、字書を和歌山におきたるゆえなり。かつ貴著に用事少なき標子ゆえ、他日字書を取り寄せ悉皆読み訳し見ん。ちょっと摘要というわけに行かぬ、こみ入った長話なり。

[やぶちゃん注:「己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語」不詳。後の書簡にもない模様。]

 十三仏は、五仏、七菩薩、一明王の混淆なり。これを仏と称すること、いかにも俗人より出しことと存じ候。田舎には、今も紀州で、仏、菩薩、明王、諸天をカンカハン(神様(かみさま))などいうに同じ。なお障礙神法しらべ申し上ぐべく候。

  他のことはそのうちまた申し上ぐべく候。
  卍を万とよむは、インドにてこの印をマ
  ンとよむと覚え候。決して日本のことに
  あらず。賛斯の諸仏みな紋あり、これは
  釈迦仏の紋章に候。鍬形のこと、所考あ
  り、次回に申し上ぐべく候。

[やぶちゃん注:「五仏」真言密教の両部曼陀羅の法身大日如来と、如来から生じた、これを取り巻く四仏。金剛界と胎蔵界の五仏があるが、実は同体とする。金剛界では、大日(中央)・阿閦(あしゅく)(東)・宝生(南)・阿彌陀(西)・不空成就(北)をいい、胎蔵界では大日(中央)・宝幢(ほうどう)(東)・開敷華王(かいふげおう)(南)・阿彌陀(西)・天鼓雷音(北)を指す。なお、他に、阿彌陀仏を中心に観音・勢至・地蔵・龍樹の四菩薩を配した五尊のこともかく称する。

「七菩薩」七観音のことであろう。衆生を救済するために、姿を七種に変える観音。則ち、千手・馬頭・十一面・聖(しょう)・如意輪・準胝(じゅんてい(でい))・不空羂索(ふくうけんさく(じゃく))の各観音を指す。

「一明王」どの明王(みょうおう)を指すか不明。まあ、メジャーなのは不動明王だが、判らぬ。当該ウィキに主な明王に一覧がある。

「障礙神法」災厄防止の祈禱・咒(まじな)いの類。

「賛斯の」「賛斯」の読み不明。こんな熟語は見たことがない。音なら「サンシ」。「かく、さんするところ」の謂いか。]

2022/07/18

南方熊楠の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』に対する柳田國男の「南方氏の書簡について」

 

[やぶちゃん注:以下は先に電子化注した南方熊楠の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』(『郷土研究』誌上に南方の承諾を受けた上で『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』という表記標題で公開された五月十四日午前三時をクレジットとする柳田國男宛私信(三分割。同誌第二巻第五号・第六号・第七号(大正三年七・八・九月発行))に対して柳田が、その最後の第七号の末尾に載せた「南方氏の書簡について」である。

 底本は平凡社「選集」の「別巻」として「柳田国男 南方熊楠 往復書簡」として独立編集されたもの(一九八五年初版)の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』の後に配されているそれを用いた。これは筑摩書房版「定本柳田國男集」に収録されておらず、所持する「ちくま文庫」の「柳田國男全集」にも所収せず、歴史的仮名遣正字表記のものを入手出来なかったので、南方の正規表現とのバランスが悪いが、新字新仮名のままで電子化する。

 

  南方氏の書簡について   柳田国男

 記者申す。右私信を南方氏承諾の上雑誌へ掲げたのは、もちろん記事に興味が多いからですが、ついでにその議論の廉(かど)をも見て置いて下さい。けだし南方氏の主張が全部もっともであるか、はたまたいずれの点までが無理であるかは、人に由って判断も区々でありましょう。記者が承服し兼ねた点は少なくも三つありました。それを御参考までに附記して置きます。この手紙で見ると、いわゆる「貴状」はよほど愚痴な「貴状」であったようにありますが、実ははなはだ簡単なもので、一には南方一流の記事ばかりたくさんは載せ得ぬことを申しました。今一つはこの手紙と縁がないから言いません。右の手紙はその返報であります。

 まず読者に説明せねばならぬ一事は、「地方経済学」という語のことです。記者の状にはそうは書かなかったはずで、慥(たし)かにルーラル・エコノミーと申して遣(や)りました。こんな英語は用いたくはないのですが、適当に表わす邦語がないからで、これを地方経済または地方制度などと南方氏は訳せられた。今日右の二語には一種特別の意味があります故に、私はそう訳されることを望みませぬ。もし強いて和訳するならば農村生活誌とでもして貰いたかった。何となれば記者が志は政策方針や事業適否の論から立ち離れて、単に状況の記述闡明のみをもってこの雑誌の任務としたいからです。この語が結局議論の元ですからくどく言います。エコノミイだから経済と訳したと言えばそれまでですが、経済にも記述の方面があるにかかわらず、今の地方経済という用語は例の改良論の方をのみ言うようで誤解の種です。あるいはルーラル・エコノミーでも狭きに失したのかも知れぬ。新渡戸博士のようにルリオロジーとかルリオダラフィーとでも言った方がよかったかも知れませぬ。さて記者の不承知であった三つの点というのは。

 一つは、雑誌の目的を単純にせよ、輪廓を明瞭にせよとの注文であります。これは雑誌であるからできませぬ。ことにこの雑誌が荒野の開拓者であるからできませぬ。適当なる引受人に一部を割譲し得るまでの間は、いわゆる郷土の研究はその全体をこの雑誌が遣らねばなりませぬ。もとより紙面の過半は読者の領分ではありますが、記者の趣味が狭ければどうしてもその方へ偏重し易いことは、南方氏のような人までが尻馬にならのろうと仰せられるのを見ても分かります。したがって、むしろなるだけ自分等の傾向より遠いものから、材料を採るように勉強したいと思います。こうして五年と七年と続くうちには、自然に仕事の幅が定まり、かつ各方面の研究者を網羅し得ることでしょう。広告もせぬ小雑詰の一年余の経験に由って、日本の学界の機運を卜するような大胆は、記者の断じて与(くみ)せざるところであります。

 二には、郷土会の諸君がもっと経済生活の問題に筆を執れということ、これも記者の力には及びませぬ。郷土会は名は似ていても『郷土研究』の身内ではありませぬ。雑誌に取っては南方氏同様の賓客であります。否同氏以上の珍客であります。たまたま記者がその講演を筆記する以外には、とんと原稿も下されませぬ。この会の諸君が南方氏ほど本誌の成長に熱心であったら、きっと満足すべき雑誌が今少し早くできたでしょう。何となればこの会に属する人人は皆趣味の深い田舎の生活を知り抜いている人ですから。しかし、冷淡はかの学者たちの自由でして、雑誌の責任を分担してもらうわけには参りませぬ。

 三には、「巫女考」を中止せよとの注文も大きな無理です。「巫女考」は本年の二月に完結しております。川村生は曾呂利(そろり)を口寄に掛けたような饒舌家でありまして、まだまだ長く論じようとしたのを、ちと無遠慮だろうと忠告して一年で止めさせました。今は時々隅の方で地蔵のことか何かを話しているばかりです。しかし、あの「巫女考」などはずいぶん農村生活誌の真只中であると思いますが如何ですか。これまで一向人の顧みなかったこと、また今日の田舎の生活に大きな影響を及ぼしていること、また最狭義の経済問題にも触れていることを考えますと、なお大いに奨励して見たいとも思いますが如何ですか。記者はここにおいてか地方制度経済という飛入りの文字が煩いをなしたかと感じます。政治の善悪を批判するのは別に著述が多くあります。地方の事功を録するものは『斯民』その他府県の報告があり過ぎます。ただ「平民はいかに生活するか」または「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするものがこれまではなかった。それを『郷土研究』が遣るのです。たとい何々学の定義には合わずとも、たぶん後代これを定義にする新しい学問がこの日本に起こることになりましょう。最初の宣言に虚誕(うそ)は申してないが、足らぬ点があれば追い追いに附け足して行くまでです。この趣旨に由って見ますと、記者は少なくも従前の記事に無用のものがあったとは信じませぬ。

 最後に一言します。南方氏は口は悪いが善い人です。しかのみならず、われわれ編輯側の意見は代表しておられませぬ。読者はあまり気に御掛けなさらぬように願います。右の手紙は話として興味が多いから掲げました。

   (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)

[やぶちゃん注:『斯民』(しみん)は明治三九(一九〇六)年四月から昭和二一(一九四六)年12月までに発行された(全四十編四百七十一号)地方改良運動・農村更生運動等に多大な影響を与えた「中央報徳会」の機関誌。]

2022/06/14

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鳴かぬ蛙」 (附・柳田國男「蛙の居らぬ池」)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正五(一九一六)年三月発行の『鄕土硏究』三巻第十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 文中、熊楠が引く「隱州視聽合記」(いんしふしちやうがふき:寛文七(一六六七)年に著された隠岐国地誌。全四巻地図一葉。著者不詳であるが、現在は松江藩の藩士斎藤勘介が隠岐郡代として渡島した折の見聞に拠ったものとする説が有力である)の「輟耕錄」からの引用は「東京大学附属図書館コレクション」の「南葵文庫」にある前書の写本をここから視認し、それと校合した結果、底本にはかなりの異同があることが判明した(これは熊楠の縮約とも、彼の見た「隱州視聽合記」の写本の相違ともとれ、判然としない)。そこで底本や「選集」に拠らず、その「隱州視聽合記」写本と「輟耕錄」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの承応元(一六五二)年訓点附和刻本)の当該部(巻一・巻二一括版PDF70コマ目)から文字に起こした。「隱州視聽合記」自体が「輟耕錄」のかなりの部分をカットしているので、必要と思われる箇所はわざと残した。注での訓読はその両方を参考にした。

 太字は底本では傍点「◦」である。]

 

     鳴 か ぬ 蛙

 

 川村氏は近江輿地誌略の一文に據つて、諸國の池の鳴かぬ蛙の俚傳は、神靈降臨するも歸り給うを見ぬの意で歸らずとを、蛙入らずと故事附けても、譯も無く反證が擧げられ得た爲、更に「居ても鳴かぬ義」に漕付て了つたのだらうと言つて反對論の有無を問はれた(鄕硏三卷六六八頁)。日本のばかりの解說は其でよいとして、全體鳴かぬ蛙の話は外國にも有る。プリニウスの博物志八の八三章に、キレネ島の蛙本來啞だつた處へ、後に大陸から鳴く奴を移した。但し今も鳴かぬ者が存在する。當時(西曆紀元一世紀)セリフヲス島の蛙も亦瘖だが他所へ移せば鳴く。テツサリアのシカンドルス湖の者亦然りと有る。是等は本邦の諸例の樣に偉人の爲に聲を封ぜられた沙汰は無い。J. Theodore Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.1 に、著者躬ら往き見しに、セリフヲス島の蛙は今はみな鳴くと有る。一生蛙に付添うて鳴く鳴かぬを檢する人も無からうが、昔右樣の說が行はれたるを考ふるに、里近く鳴かぬとか人が少しく近づけば鳴かぬとか、常の蛙と異なつた者が有つたか、又丸で鳴かぬのも全く無かつたに限らぬ事と想ふ。國により少しも吠えぬ犬有る事今日も聞及ぶ。扨本邦同樣聲を封ぜられた蛙の例は、隱州視聽合記四に、海部郡葛田山源福寺の庭の池畔に、後鳥羽上皇御遊の折り松風蛙鳴を聞て「蛙なく葛田の池の夕疊み、聞まじ物は松風の音」、是より今に至り蛙鳴ず、門を出て三五步せざるに常の如く鳴くと有つて、元之大德年間、仁宗在潛邱、日奉答吉太后駐輦、特苦群䵷亂喧、終夕無寐翼旦、太后命近侍、傳㫖諭之曰、吾毋子方憒憒、䵷忍惱人耶、自後其毋再鳴、故至今此地雖有䵷而不作聲、後仁宗入京誅安西王阿難答等迎武宗即位時大徳十一年也越四年而仁宗継登大寳と輟耕錄を引き居る。淵鑑類凾四四八、南史曰、沈僧昭少事天師道士、中年爲(ヲサム)山陰縣、梁武陵王紀爲會稽太守、宴坐池亭、蛙鳴聒耳、王曰殊廢絲竹之聽、僧昭咒厭十許口便息、及日晩、王又曰、欲其復鳴、昭曰王歡已闌、今恣汝鳴、卽便喧聒。輟耕錄曰、宋季城信州掘土南池、每春夏之交、群蛙聒耳、寝食不安、今三十八代天師張廣微、朝京囘、因以告天師朱書符篆於新瓦上、使人投池中、戒之曰、汝蛙毋再喧、自是至今寂然。又佛國のウルフ女尊者アミアン付近の小廬に住みし時、一朝ドミス尊者勤行を促がし其戶を敲きしも、蛙聲に紛れて聞えず眠り過した。ウルフ寤めて大に之を悔い基督に訴へしより、其處の蛙永く鳴き止んだ。リヲールとウアンの二尊者亦蛙が喧しくて說法と誦經を碍ぐるを惡み其鳴を永く禁じたと云ふ(Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ 1821-22, tom.i, p.39)。レグルスとベンノの二尊者傳亦同樣の事あり(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.375)。是等諸例、古希臘や西歐其から支那にも鳴かぬ蛙の話有るを示し、其國々に蛙を「歸る」と同似の名で呼ばぬから、歸らずの意味から鳴かぬ蛙の譚が出たと言ひ難い。さりとて日本の話だけは語意の取違へから生じ、外國のは地勢や蛙の生理上の影響から生じたと說かんとも鑿せるに似たりだ。   (大正五年三月鄕硏第三卷十二號)

[やぶちゃん注:「鳴かぬ蛙」両生綱 Amphibia無尾目 Anuraのカエル類は南極大陸を除いた全大陸及び多くの島嶼に棲息する(アカガエル類(無尾目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属 Ranaの一部は北極線より北にも分布する)。彼らの発声器は鳴嚢(めいのう)を膨らませることによるが、鳴嚢が咽喉の前にある種類と、両側の頰にある種類とがある。さて、鳴かない蛙であるが、決して珍しいものではなく、そもそもが多くのカエルの♀は鳴かない(鳴く種もいる。但し、カエルの雌雄の識別は素人には難しいという)。また、無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae のヒキガエル類の多くは鳴嚢が持たず、♂が繁殖期に鳴くものの、大きさに反して「クックッ」といった想像以上に小さな声で、寧ろ、鳥の声に似ている(以上は複数のウィキ及びQAサイトの「鳴かないカエル」への回答を参考にした)。

「川村氏」「選集」の割注によれば、川村杳樹とある。本電子化で何度も注した通り、柳田國男のペン・ネームの一つ。同じく「選集」割注で、以下の論考元を「蛙のおらぬ池」(『郷土研究』三巻十一号六百六十八ページ)とする。この論考、所持する「ちくま文庫」版全集には所収されていないが、調べたところ、筑摩書房の旧全集「定本柳田國男集」の第二十七巻(一九六四年刊)にあることが判った。同巻は、サイト「私設万葉文庫」のこちらで電子化されてあるので、引用させて戴く。一部の漢字を正字化し、記号も一部で削除・変更を加えた。「(ノ)」は送り字と考え、上付き括弧なしとして処理した。「?」は表示不能字であろうが、「■」に代えた。「啞」(おし)或いは、その異体字、又は同義の別字か?

   *

 

   蛙の居らぬ池

 

 紀州小倉の七不思議の一に、寺の蓮池に住む蝦蟆、上人に叱られてより聲を出さずと云ひ(鄕土硏究三卷五六一頁)、伊豫松山城の濠の蛙も殿樣の沙汰で鳴かなくなつたと云ふ(同五六三、四頁)。上州太田の吞龍樣にも同じやうな話がある。かゝる譯も無い事柄が諸國に取囃されて居るのは、それこそ却つて不思議である。總別水に住む蛙は所謂妻を呼ぶ時の外は何處でも鳴かない。又遊牝(さかり)の季節になると集まる所があつて、どこの池でも躁ぐとはきまつて居らぬ。蛙の鳴かぬ池などは寧ろ七平凡の一に數ふべきものである。但し各地でそれを不思議と認むるに至つたのは、別に何等かの仔細が無くてはならぬ。近江野洲郡篠原村大字大篠原(おじのはら)の島橋の東に、不歸の池と云ふ東西に長い池がある。池の東の岡を夕日岡と謂ひ、同じく西を朝日岡と呼ぶ。齋藤實盛の首洗池と云ふ口碑もあるが、池の名の由來として傳ふるは、此郡兵主村大字五條の兵主の神、每日三度づつ此池へ影向あつて、歸りたまふを見ず、故に歸らずの池と呼ぶ。一說には此池神池にして蛙住まず、故に蛙不入池とも云ふ由(近江國輿地誌略六十八)。たつた一つの例では勿論斷定は能はぬけれども、事によると蛙が鳴かぬと云ふ各地の不思議は、右と同樣に歸らずの池の意味が不確かになつてからの後の造說であるかも知れぬ。歸らずと云ふ語の神靈降臨を意味するらしき事は、前に大和在原寺の一村薄(ひとむらすゝき)の由來に關聯して之を述べた(鄕土硏究二卷一九九頁)。卽ち業平が或朝吉野川の上に往つたまゝ歸つて來なかつた故に、塚を築いて薄を栽ゑたと云ふのである。橋占の場所を意味するらしき姿不見橋に出でて歸らざりし下部の話を傳へ(同二卷六〇三頁)、或は奧州三戶郡の淺水橋に、前夜來て宿つた旅人が朝になると見えぬと云うて居た如き(同上)、何れもこの簡單に失する地名の爲に、或は長者の寶埋め、或は一つ家の石の枕と云ふやうな意外の方面に話が移つて行つたが、實際は何れも神靈去來の跡の凡眼には認め難いことを意味したもので、自分は同じ例の中に數ふべきものと考へて居る。中にも蛙不入の如きは下手な解釋で譯も無く反證が擧げ得られた爲に、轉じては「居ても鳴かぬ」と云ふことに說き始めたのであらう。日每に三度づつと云ふのは食時の時と云ふことで、所謂朝饌問夕饌問(あさげとひゆふげとひ)の語の通り、神は祭を享けたまふ機會にのみ此世の人に應接せられるのが、日本の古い習であつたのである(鄕土硏究一卷二〇五頁)。同じ近江の地誌には兵主明神に就て又こんな話を記して居る。源の頼朝が平治の没落の際此地を過ぎた時、歸らずの池の畔に於てどうしても馬が進まぬのに不審し土地の者に聞くと、此神一日に三度づつ池へ影向あれば、今が或は其時であらうかとの答であつた。依つて下馬禮拜して武運を祈り、天下一統の後社殿を造營せられたと云ふ(近江國輿地誌略六十九)。巫覡を意味するヨリマシと云ふ語が、飛んでも無い地方に源三位賴政を神とする原因となつたことは曾て說いたが(鄕土硏究一卷五二一頁)それと同じ錯誤で神輿の前に立つ童兒を賴朝と云ふ實例も多いことである。又神を水邊に迎へて祭をすることも古來常の事であつた。此等の點に就ては更に證據を具へて又述べるつもりであるが、今は單に■の蛙の起源として此だけの推定を下し、反對論の有無を伺うて見る迄である。

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「近江輿地誌略の一文」「近江輿地誌略」(おうみよちしりゃく)は享保一九(一七三四)年に完成した近江国地誌。膳所藩主本多康敏の命により同藩士寒川辰清が編纂したものだが、寛政一〇(一七九八)年に藩主本多康完(やすさだ)から幕府に献上されるまで実に六十五年もの間、秘匿されていた書籍であった。以上の柳田の記載で巻号が判ったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」版でここに発見した。現在の滋賀県野洲(やす)市大篠原(おおしのはら)の蛙不鳴池(グーグル・マップ・データ。以下同じ。同書では「不歸(カヘラスノ)池」とする)で、ここの池の南東直近は源義経によって平宗盛の斬殺された場所とされ、「平家終焉の地」ともある。同書には、この池が「平宗盛が首洗池」と呼ばれたともある。記事には確かに神の影向(ようごう)してお帰りになる様子がないとあるのだが、これは寧ろ、宗盛と子の清宗が京に「帰らず」に殺された「池」という方が、噂としては遙かに説得力を持つように思うのだが。

「漕付て了つた」「こぎつけてしまつた」。「池」だから「漕ぐ」か。「こじつけて」の洒落だ。

「プリニウスの博物志八の八三章に、キレネ島の蛙本來啞だつた處へ、後に大陸から鳴く奴を移した。但し今も鳴かぬ者が存在する。當時(西曆紀元一世紀)セリフヲス島の蛙も亦瘖」(おし)「だが他所へ移せば鳴く。テツサリアのシカンドルス湖の者亦然りと有る」所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。「主の地方的分布」の一節である。『キュレネではカエルは鳴かなかった。そして本土から鳴くカエルを輸入してきてもだまり種[やぶちゃん注:「だまり種」で一単語であろう。]はいなくならない。セリブス島のカエルも鳴かないが、その同じカエルもどこか他のところへ移されると鳴く。このことはテッサリアのシッカネア湖でも起るという。』。熊楠は「キレネ島」と言っているが、キュレネは島ではない。アフリカ大陸北岸の現在のリビア領内にあった古代ギリシャ都市である。「セリフヲス島」「セリブス島」は現在のギリシャの、エーゲ海にあるキクラデス諸島西部のセリフォス島。「テッサリアのシッカネア湖」テッサリアはギリシャのここだが、湖は判らない。

「是等は本邦の諸例の樣に偉人の爲に聲を封ぜられた沙汰は無い。J. Theodore Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.1 に、著者躬ら往き見しに、セリフヲス島の蛙は今はみな鳴くと有る。」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で原本が見られ、当該ページはここ

「元之大德年間、仁宗在潛邱日、……」冒頭注で述べた通りで、訓読を試みる。

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 元の大德年間、仁宗、潛邸(せんてい)に在りし日(ひ)、答吉太后(たうきつたいごう)を奉りて、輦(くるま)を懷孟(くわいまう)に駐(とど)む。特(ただただ)、群䵷(ぐんあ)の亂喧(らんけん)なるを苦しみ、終夕(しゆうせき)、寐(い)ぬること無し。翼旦(よくあさ)、太后、近侍に命じて、旨(むね)を傳へ、之れを諭(さと)して曰はく、「吾れらが母子、方(まさ)に憒憒(くわいくわい)たり。䵷、人を惱まするに忍びんや、自-後(これより)其れ、再び鳴く毋(な)かれ。」と。故に、今に至りて、此の地、䵷、有りと雖も、聲を作(な)さず。後、四年を越えて、仁宗、大寶(たいほう)に登る。

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「潛邸」は皇帝となる前の人物の居場所或いは太子となる前の地位を指す。ここは後者であろう。「懷孟」現在の河南省焦作市一帯に設置された州名。「䵷」蛙の異体字。「憒憒」ごたごたとして、乱れるさま。「地雖有䵷而不作聲」の後には、「後仁宗入京誅安西王阿難答等迎武宗卽位時大德十一年也」が入って、「越四年而仁宗継登大寳」となっている。実はこれが入っていないと、歴史的事実を誤ることになる。則ち、「大德十一年」に先々代の成宗テムルが崩御し、武宗カイシャンが次ぐが「四年後」の至大四年に急死し、アユルバルワダが「大寳」(皇帝)仁宗となるからである。「答吉太后」アユルバルワダには皇后が二人おり、一人はダルマシリ「答里麻失里皇」というが、彼女であろう。

「淵鑑類凾四四八、南史曰、……」「淵鑑類凾」はさんざん出た熊楠御用達の清の康熙帝勅撰に成る類書(百科事典)。原文との校合は「漢籍リポジトリ」のこちらに拠った。ガイド・ナンバー[453-28b]を見られたいが、かなり途中を省略している。訓読する。

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「南史」に曰はく、『沈僧昭(ちんそうしやう)、少(わか)くして天師道士に事(つか)へ、中年にして山陰縣を爲(をさ)む。梁の武陵王紀(き)、會稽の太守たり。池亭に宴坐するに、蛙、鳴くこと、耳に聒(かまびす)し。王曰く、

「殊に絲竹の聽(ちやう)を廢(めつ)す。」

と。僧昭、呪-厭(まじなひ)すること十口(じつく)許(ばか)りにて、便(すなは)ち、息(や)む。日の晚(く)るるに及び、王、又、曰はく、

「其れ、又、鳴くを欲す。」

と。昭曰はく、

「王の歡、すでに闌(たけなは)なり。今、汝の鳴くに恣(まか)す。」

と。

 卽-便(たちま)ちに喧-聒(かまびす)し。』と。

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「天師」道教の一派である天師道。五斗米道(ごとべいどう)とも呼ぶ。後漢末に起こった初期道教の宗教結社。二世紀後半に張陵が老子から呪法を授かったと告げて創始し、自らを「天師」と称し、祈禱によって病気を治し、信者に謝礼として米五斗を納めさせた。孫の張魯に至って教説が大成し、組織も確立して一大宗教集団を築いたが、魏の曹操の征伐を受け、弱体化した。

「輟耕錄曰、宋季城信州掘土南池、……」「輟耕錄」は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆。中文サイトのこちらの電子化原文と校合した。やはり省略があり、熊楠の引用には一部に不審箇所があったので訂した。訓読する。

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「輟耕錄」に曰はく、『宋の季城、信州の南池は、春夏の交(かは)り每に、群蛙(ぐんあ)、耳に聒(かまびす)しく、寢食、安(やす)んぜず。今、三十八代の天師張廣微、京に朝(てう)して囘(かへ)るや、因りて朱書を以つて新しき瓦の上に符篆(ふてん)し、人をして池中に投ぜしめ、之れを戒(いまし)めて曰はく、「汝ら、蛙、再び喧(かまびす)しきこと、毋(な)かれ。」と。是れより、今に至るまで、寂然たり。』と。

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「佛國のウルフ女尊者」引用元の「Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ 1821-22, tom.i, p.39」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」。一八二一年刊。「Internet archive」で原本が見られ、当該部はここで、そこに“Ulphe”の名があり、「ドミス」も“Domice”と出る。前者はカトリック教会によって聖人として認められている女性のサント・ウルフェ(Sainte Ulphe 七一一年~七八九年)で、後者は彼女ともに朝の礼拝をせんとした人物である。仏文の彼女のウィキに、“La légende du miracle des raines”(「蛙の奇蹟の伝説」)の項がある。機械翻訳でも十分に意味が採れるので、参照されたい。それによれば、ドミスがその泉のカエルを鳴かぬようにしたのは聖ドミスとするが、別なヴァージョンではウルフェ本人が祈って黙らせたともあって、熊楠の記すのは後者である。

「アミアン」Amiens。フランスの北部の現在のソンム県の県庁所在地。

「小廬」「せうろ」或いは「いほり」。

「寤めて」「さめて」。

「レグルスとベンノの二尊者」「Gubernatis, Zoological Mythology, 1872, vol.ii, p.375」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、そこの右ページ中央に、“St. Regulus and St.Benno”と出て、以下にカエル絡みの話が出る。]

2022/05/26

柳田國男「水の神としての田螺」

[やぶちゃん注:本篇は『人類學雜誌』第二十九巻第一号に初出された論考(掲載誌では「雑録」パートに入っている)である。私は本日、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「水の神としての田螺」(全二回)』を注するまで、柳田のこの論考を全く知らなかった。それは、所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」に載らず、親本である同社の「定本柳田國男全集」(数冊所持する)も調べたが、やはり載っていなかったからである。調べたところ、現行の新たな一九九九年刊の同社の「柳田國男全集」二十九巻に収録されていることが判明したが、試みに調べたところが、「j-stage」のこちらで初出を見出せたPDF)ので、ここに電子化することとする。]

 

    ○ 水の神としての田螺

            柳 田 國 男

 淵沼池のヌシに鯉、鯰、鰻などを說くは屢々聽くところなれども、或は又田螺を水のヌシと崇むる地方あり。日本の水神信仰の變遷を硏究するものにとりては、頗る注意すべき手掛りならんと考へ、先づ其の數例を集錄して、諸家の考證を待つべし。栗太志卷十二に依れば、物部鄕玉岡庄出庭村卽ち今の滋賀縣栗太郡葉山村大字出庭(デバ)に、出庭大明神二座います。神事は四月十日也。此神田螺を以て使令(ツカハシメ)とす。氏子等田螺を畏れ敬すること神の如し。他村に往き田螺を烹たる火を知らずして煙草など薰らすれば、忽ち戰慄を生じ、病みて數日に至る。况や之に觸れ又は食ふ者をや。耕作の時田に此物あれば、斷りをして社地に移したる後に非ざれば耕作せず。此村へ緣附きたる者、此相火の物を食ひて永病したる實例ある也(以上)。田螺を食はぬと云ふ點は鷄精進(トリシヤウジン)の類なるが如きも、神地に移すとあるを見れば、神前の池などに此物多く棲息せしなるべし。此と同じ地なりや否を知らざるも、觀惠交話卷下には左の記事あり。曰く江州に淡婦(マ﹅)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]大明神の社あり。其の前の池に大さ二三尺まはりの雌雄の田螺あり。旱[やぶちゃん注:「ひでり」。]に池をかへほし捕れば其まゝ雨降る。後又もとの如く池に放つ。其近邊の者には大に祟るなり(以上)[やぶちゃん注:原本は「崇る」であるが誤字と断じて訂した。後も一ヶ所、同じ処理をした。]。右二つの記事同じ社のことなりとすれば、二書の記述には七八十年の時代の差あれば、口碑變化の興味ある一例なるべし。雨乞の行事には神を怒らしむる目的のもの多く、地元の人民は槪して之れを好まず。從つて觸るれば祟ると云ふ俗信は常に八釜しく傳へられてある也。

 越後には白田螺の話甚だ乏しからず。例へば越後野志卷十四に、蒲原郡彌彥庄丸山村の御洗水池、此池の鮒は皆一目眇[やぶちゃん注:「すがめ」。]なり、又白田羸(シロタニシ)を出すとあり。尙同郡下田鄕蘆ケ平村の磨於比池(マオヒイケ)は深山中の靈湫[やぶちゃん注:「れいしう」。神聖な水域。]なり。土人漫に[やぶちゃん注:「みだりに」。]人の到ることを禁止す。白田蠃を產す。天旱するとき雨を乞ひ、祈るに驗あり。土人神とし祭り畏敬す云々とも見えたり。越後名寄卷二十には、之を古志郡蘆ケ平村と云ひ、稍詳細の記事あり。尤も此村の所在、前者には五十嵐川の上流と云ひ、後者には、諏門嶽(スモンダケ)の北麓八十里越の谷なりと云へり。同じ池の噂なることは疑なし。名寄の說にては、蘆ケ平の山中には三つの池あり。底知れず。爰に田螺あり、色白く美なり。岸に浸りし篠竹、柴などに附き居れり。大旱に雩[やぶちゃん注:「あまひき」。雨乞い。]をするとき、彼池に行き隨分音せぬやうにして取るなり。少しにても物音をすれば、水底に轉び入りて取ること難し。是を取得て大旱の雨を望む村里へ持ち來るに、降らずと云ふことなし。雨を得れば本の池に返し放つなり。自然過ちて殺すか又は失ひなどして返さゞれば、彼池大に荒れて洪水し、麓なる蘆ケ平村甚だ艱難[やぶちゃん注:「かんなん」。難儀でつらい目に遭うこと。]に及ぶ。故に村にては一向取らせじとするとぞ。深山なれば不知案内にては行く事成り難く、密かに村の者をすかし忍びてすること也。晴れたる日にも對岸には雲の懸りてある怖しき池なり。寬政六年の旱には村松藩の使捕りに往きしが得ず。只池の岸にて山伏に祈らしめしが雨降らず。それより六十年前には、池の底に潜り入り、方二丈ばかりの淵より白蟹(シロカニ)を得て返りしに、雨降りしことありと云ふ(以上。深山の池に棲み蝸牛などの如く、岸の竹樹に遊ぶと云ふ貝をタニシと斷定したるは何故なりしか。單に動物學上の問題としては、此ほど難儀なる問題はなかるべし)。白井眞澄の遊覽記卷三十二下、羽後北秋田郡の打戶(ウツト)と云ふ地の記事に、沼平(ヌマダイ)とて大なる沼あり。此沼の田螺(ツブ)は皆左り卷きにして、大なるは石碓[やぶちゃん注:「いしうす」。]ほどなるがあり。これを親ツブとて沼の主とす。されど水深ければ(著者は)淺岸にて拳ほどなるを見たるのみとあり。關東には田ニシを田ツブ又は單にツブと謂ふ地方多し。思ふにニシもツブも共に海に住む大形の貝なるを、比較に粗なる農人等、之と稍似たる一物の水田に居るを以て、直に其同類なりとし、此の如き名を下せしなるべし。彼の土中にホラと云ふ貝棲むと傳へ、亦は谿谷の崩壞するを、ホラ※[やぶちゃん注:「米」=「秡」の異体字。「グリフウィキ」のこれ。しかし、これは「拔」の誤字ではあるまいか?]と名づけ、此物時ありて逸出するが爲なりと稱するが如きは、一つには法螺を貝の名なりと誤りしこと、二つには洞又は狹き谷をボラと呼ぶ日本語あるより、二者の關係あるが如く考へたる結果の俗說ならんも、更に又地中より色々の貝殼現はれ、池沼の淺き處又は水田に、妙な貝の生息する事實も、幾分か斯る誤謬を助長せしこと[やぶちゃん注:約物であるが、ひらがなにした。]なるべし、結局するところ田ニシは微物なれども、田舍人は之を深海靈物の先陣の雜兵ぐらゐに考へて、畏れ且つ敬せしものならんか。新編武藏風土記稿を見るに、武藏橘樹郡田島村大字中島、即ち今の川崎大師堂の附近にも一箇田螺石と云ふ靈石あり。昔弘法大師筑波へ修行の途次、此邊に田螺多くして水田の障[やぶちゃん注:「さはり」。]となるを見て、法力を以て田螺の王を此石の中に封じ籠め、それより二鄕其の災を免かれたりと傳ふ(以上)。此田螺の親玉も例のホラなるべしと認む。

[やぶちゃん注:「栗太志」明治一六(一八八三)年に田中適齋貞昭によって書かれた滋賀県栗太郡の地誌であるようだが、原本はネットでは閲覧出来なかった。しかし、それを受け継いで新たに滋賀県栗太郡役所編で大正一五(一九二六)年に刊行された「近江栗太郡志」の巻四を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したところ、その「神社志」の「第七節 葉山村」の出庭(でば)神社の項のここに、以下の記載を見出すことが出来た。前の文章の最後に、『田中適齋の栗田當社の條中に』とあって、

   *

 三  ツ  石

  正殿ノ側ニ在リ往古ヨリ埓シテ之ヲ崇ムルヿ[やぶちゃん注:「事」の約物。]神ノ如シ、村人ニ其故ヲ尋ヌレトモ知ルモノナシ、

と見ゆるは古墳の石※[やぶちゃん注:「※」=「土」+「廓」。]の一部ならん、社前に石の大賓塔一基あり總長一丈にも達すべし、此石も亦石*[やぶちゃん注:前の「※」の(つくり)を「廊」としたもの。]の石を用ひて鎌倉若くは足利時代に製作せしにやに想はる、當社に一の奇傳說あ今り栗太志に左の如く記す、

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ]

此神ニ一ノ奇異アリ田螺ヲ以テ使令トス、氏子等田螺ヲ恐レ敬スルヿ神ヲ敬スルガ如シ、若シ他村ニ行キ田螺ヲ烹タル火ヲ不知シテ誤テタバコナド薫スレバ忽戰慄ヲ生シ病テ數日ニ至ル、况ヤ田螺ニ觸或ハ食フ者ヲヤ、故ニ耕作ノ時田中ニ田螺アレバ拜シテ其故ヲコトハリ[やぶちゃん注:ママ。]社地ニ移シテ後耕作スルナリ、余也[やぶちゃん注:「よや」。私は。]奇ヲ好マズ故ニ謂ラク田螺ニ靈アルニ非ズ氏子ヨリ靈トスルガ故ニ如斯奇異アルナルベシト云キ、然ルニ余ガ緣者矢島村某ノ女此村某ニ嫁ス翌年春ノ頃ヨリ病テ勞症ノ如シ、諸醫萬方ニスレトモ不癒、因テ此神ニ禱卜[やぶちゃん注:

たいぼく」。]ス、巫祝[やぶちゃん注:「ふしゆく」。]曰、田螺ノ相火ナリト【此村ノ方言ニ田螺ヲ烹ル家ニ入ルヿヲ相火ト云フ】此婦嫁シテ幾年モアラザレバ田螺ノ靈威ナルヿヲコトヲ不知、又田螺烹ル家ニ行キタルヿヲ覺ヘズ[やぶちゃん注:ママ。]ト云、然レトモ猶深ク穿鑿シレバ歸省ノ日下部[やぶちゃん注:「ひ、しもべ」。]ノ者共烹テ之ヲ食フ、其火ヲ以テ飯ヲ炊キ及ヒ茶ヲ煎シタリコレヲ食スルニ依テナルベシト、直ニ此事ヲ罪トシテ此神ニ祈リケレバ次第ニ全快ス、嗚呼奇中ノ奇ナルカナ、

   *

とあった。柳田國男が見たのは、まさにこの引用部分であることが判る。サイト「JAPAN GEOGRAPHIC」の中山辰夫氏による同神社のページがあるが、真新しい田螺の奉納石碑が確認出来るので、この信仰や禁忌は守られているものと考えてよい。また、そこに、『田螺について』とあって、『出庭神社の氏子は田螺を食わない。いやそれどころか田螺を恐れ且つ敬うさまは神様のそれと変わらない程という奇伝説がある。それについては色々の話がある』。『さる百姓が他村に出かけて行って煙草の火を借りて一服喫った所が俄かに寒気がしてならない。大病となったが、それは田螺を煮た火で煙草をつけたことによる。他に、この村へ嫁いできた丈夫な女が、突然』、『病に侵され、病名が分からないうちに衰弱が激しくなり、卜ってもらうと「これは田螺を煮ている家の門口をまたいだに違いない。そのおタタリだ』……『」とのこと。調べてみると、里帰りの途中で立ち寄った親戚が、田螺を煮て食ったばかりで、勧められたお茶もその田螺を煮た火で煎じたものと分かり、神様にお詫びして全快したという』。『里人は野良仕事の時など田螺が一つでもいたら田螺に礼拝し、訳を断りお宮の境内に移してから耕作したという』とあり、前者はこの柳田の話と一致し、後者の話は以上の記載と合致する。

「物部鄕玉岡庄出庭村卽ち今の滋賀縣栗太郡葉山村大字出庭(デバ)に、出庭大明神二座います」現在の出庭神社は滋賀県栗東市出庭のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

「鷄精進(トリシヤウジン)」知られたものでは、「河津の鳥精進酒精進」がある。当該ウィキを参照。一定期間、鶏肉・鶏卵・酒を禁忌とするもので、『いまでも、給食のメニューから鶏肉・卵が外されるなど風習が守られている』とさえある。

「觀惠交話」「落穂余談」とも呼ぶようだが、書誌不詳。ネット上では視認出来ない。柳田國男は若い頃、これの旧内閣文庫蔵本を自由に閲覧していたらしい。

「江州に淡婦(マ﹅)大明神の社あり」不詳。似た名前なら、滋賀県高島市新旭町饗庭の波爾布(はにふ)神社があるが、田螺との関連はネット上では見出せない。因みに、先の出庭神社の北西直近の滋賀県守山市笠原町に、ズバり、田螺を神使とする蜊江(つぶえ)神社(中央下方に出庭神社を配した)があることが判明した。「守山市観光物産協会」公式サイト内の同神社の解説に、『蜊江神社では「オツブさん」、つまりタニシ(蜊)を神の使いとして祀っています』。『この地は、古くから大雨のたびに、野洲川の氾濫による水害を被ってきました。江戸時代の』享保六(一七二一)『年にも堤防が破れ、社殿が流されてしまうという大規模な洪水が起こりました。しかし、タニシの付着した神輿が社殿の前で止まったため、幸いにも祭神は流されることはありませんでした。以来、タニシに感謝した人々は、御蜊様(おつぶさま)と呼び、神の使いとして大切にするようになったといわれています』。『境内の大きな池は「御蜊様池」といい、もとはタニシを保護するための人工池でした』。『現在池は枯れてしまいましたが、その後植えられたショウブは初夏になると鮮やかな花を咲かせます』。『神仏習合当時の地蔵院を残す珍しい神社』とある。

「かへほし」「返へ干し」。水を汲み上げて池を干上げ。

「白田螺」「しろつぶ」と訓じておく。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」「白田螺  シロツブ」を参照されたい。

「越後野志」水原(現阿賀野市)の書籍商小田島允武(のぶたけ)が文化一二(一八一五)年に書いた地誌。「新潟県立図書館/新潟県立文書館」の「越後佐渡デジタルライブラリー」の当該巻の「17」コマ目の右丁の最後の項である。

「蒲原郡彌彥庄丸山村の御洗水池」位置が同定出来ない。

「此池の鮒は皆一目眇なり」これは柳田國男が後に「一目小僧その他」でディグすることとなる。私はブログで同書の全電子化注を終えている

「同郡下田鄕蘆ケ平村の磨於比池(マオヒイケ)」同じく同定不能。

「越後名寄」同前の「越後佐渡デジタルライブラリー」で総て見られるのだが、「卷二十」は縦覧したが、植物の名寄部分で不審。巻数の誤りかと思ってほかの目ぼしい部分を探したが、膨大過ぎ、諦めた。悪しからず。

「古志郡蘆ケ平村」不詳。

「五十嵐川の上流」同河川の流路はサイト「川の名前を調べる地図」のここで確認されたい。

「諏門嶽(スモンダケ)の北麓八十里越の谷」現在の新潟県三条市吉ケ平(よしがひら)にある守門岳(すもんだけ)。距離はぶっ飛んでいるので信じないとして、その北麓には気になる池がある。雨生ヶ池(まごいがいけ)である。池の主(但し、大蛇)と名主の娘の悲恋の伝説が伝わるとある。

「寬政六年」一七九四年。

「村松藩」越後国蒲原郡の内、村松・下田・七谷・見附地方を支配した。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。されば、この範囲内にその田螺の池はなくてはならぬ。

「白蟹」先の「白田螺」や、神使として知られる「白蛇」「白猿」「白鹿」など、アルビノはその希少性から得な役回りとなるのは言うまでもない。

「深山の池に棲み蝸牛などの如く、岸の竹樹に遊ぶと云ふ貝をタニシと斷定したるは何故なりしか。單に動物學上の問題としては、此ほど難儀なる問題はなかるべし」民俗学上から見れば、少しもおかしくない。「蠃」「螺」は中国でも本邦でも生息域を限らず、これらの漢字に当てる「つび」「つぶ」「にし」という和語も、これまた、あらゆる巻貝状の水棲・陸産貝全部を古くから指し、「田」は田圃に限らず、広義の「田圃」「人が入って耕作するに適した場所」や、さらには、単に「自然状態の多く残る田舎」の意にも用いるからである。

「白井眞澄の遊覽記」国学者で紀行家として知られる菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本姓は白井。三河出身。国学・本草学を学び、天明三(一七八三)年より、信濃・奥羽・蝦夷地などを大いに踏破・遍歴し、享和元(一八〇一)年からは、主に出羽久保田藩領内に居住した。「遊覽記」は旅先での地理・風俗を挿絵入りで記録した日記である。多くの貴重な地誌や随筆を残した。私も非常に興味を持っている人物である。

「羽後北秋田郡の打戶(ウツト)と云ふ地の記事に、沼平(ヌマダイ)とて大なる沼あり」「Yahoo!地図」の大湯温泉の大湯川上流に「沼平発電所」が見出せる。同名の沼は見えないが、それらしい感じの池沼或いは細流れが左岸に複数ある。

「彼の土中にホラと云ふ貝棲むと傳へ、亦は谿谷の崩壞するを、ホラ※[やぶちゃん注:「米」=「秡」の異体字。「グリフウィキ」のこれ。しかし、これは「拔」の誤字ではあるまいか?]と名づけ、此物時ありて逸出するが爲なりと稱するが如きは、一つには法螺を貝の名なりと誤りしこと、二つには洞又は狹き谷をボラと呼ぶ日本語あるより、二者の關係あるが如く考へたる結果の俗說ならん」山中や田圃にホラガイが棲息するというトンデモ話は、実は非常に広く伝承されている。地震の発信源の正体を鯰ではなく、法螺貝とするものもあるようである。私は複数の例を知っているが、例えば、「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」を挙げておこう。山中の洞窟に棲息するというのは、山伏のアイテムとして必須の鳴器であるそれを、垣間見て誤認したものであろう。

「新編武藏風土記稿」文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に編まれた御府内を除いた武蔵国地誌。昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信らの指揮に拠る)で編纂された。全二百六十五巻。柳田の指す巻数は違う。やっと見つけた。巻之七十一のここの左ページ下段の「田螺石」である。]

2022/05/13

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」 / 「後狩詞記」電子化注~了

 

[やぶちゃん注:底本のここから。以下は、底本では各標題「一」のみが行頭で、抜きんでいるが、その解説部は一字下げである。その箇条の「一」の後に、すぐ、文が続くのだが、これがちょっと読み違えそうなので、一字空けた。また、本文上に横罫があり、その上方にポイント落ちで柳田國男の頭注が入る。それは【 】で同ポイントで適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。〔 〕が割注である。なお、このパートでは下線は左傍線で、「序」の「十」にあったように、柳田が意味不明であった部分をかく表示したものである。文中の字空けはママ。]

 

    附錄

 

      狩之卷

    西山小獵師    獅子式流

一 山に出る時、生類〈しやうるゐ〉に行あふてまつるとなへ。

  山の神もてんとの事はめされ鳧〻〻〻〻

 と唱へ、もゝ椿の枝にて拂ふ也。但し道の上を折る

[やぶちゃん注:「西山」不詳。単に西の方の山間の意か。西方浄土に掛けるか。

「てんとの」不詳。「天殿」か?

「鳧」「けり」。

「〻〻〻〻」は「鳧」のくり返しではなく、「めされ鳧」のくり返しであろう。

「もゝ椿」不詳。或いは、「椿桃」「油桃」で「づばきもも」とも称したモモの変種のことか。流通名「ネクタリン」で知られる、バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ  Amygdalus persica var. nectarina 。中国西域原産であるが、古くから日本やヨーロッパに伝わった。一般に果実は無毛でモモよりやや小さく黄赤色を帯びる。果肉は黄色で核の周囲は紅紫色。核は離れやすい。七~九月に成熟し、生食する。在来品種は消滅したが、近年、ヨーロッパ系品種が渡来し、植栽されている。「つばきもも」「つばいぼう」とも呼ぶ。「桃」や「椿」の意なら、柳田が傍線するはずがない。]

 

    宍垣〈ししがき〉の法

一 鹿は上をしげく、猪は下をしげく。後宍垣、前は三尺二寸。腰袖しがきと云ふは二尺三寸也。其時 小摩〈しやうま〉の獵師猪をとる事數不知〈かずしらず〉 小摩が内の者【△今も椎葉にては男女の下人(メローとデエカン)を「内の者」といふ】に辰子と云へる男 せつ子といへる女に しゝを手向よと乞けるに 男女共にせなをかるひはぎなとして 小摩の獵師に仕ふる後一人は山川に飛入〈とびいり〉アダハヘとなる ひとりは海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也 其時しゝをとりてかふら戶を祭る かぶらは山の御神一人の君に奉る 骨をばみさき【△「みさき」は小田林の呪文にも「御先御前」とあること前に見ゆ】に參らする 草脇〈くさわき〉をば今日〈こんにち〉の三體玉女に參らする そも々々小摩がもとは藤原姓也 如何なる赤不淨黑不淨にくひちがへても 小摩が末〈すゑ〉たがふまじと誓ひたまふ 大摩〈たいま〉の獵師は山神の御母神にわりごを參らせず よつて三年に嶺の椎柴一つゆるされしが 三年に白きししの貳と一つゆるされ 三年にかは一枚 みなふこと一筋とたふへしや 奧山三十三人 中山三十三人 山口三十三人 山口太郞 中山二郞 奧山三郞 嶺の八郞 おろふの神谷原行司 三年原の行司 只今の獵師の末に相逢ふて あだ矢射させまじ獵師や 柳の枝七枝 小摩が年の數〔五十より〕かり文ましきのごく 白き粢(しとぎ)かけの魚とり調へ 昔の神かふざき 中頃の神かふざき 當代神かふざき【△「かふざき」は前にいふ「コウザキ殿」のことと見ゆ】 山の御神に懈怠〈おこた〉らず謹むで申奉る

[やぶちゃん注:「小摩の獵師」当地椎葉村の伝承中の人物名。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに柳田関連の論文からとして、『大摩』(たいま)『と小摩』(しょうま)『という二人の猟師がいた。七日間浄斎した飯を神にあげた。大摩はアダバエとなり、小摩だけが猟師となることができた。』とあった。「アダバエ」は意味不詳。

「せなをかるひはぎなとして」意味不明。以下、傍線部は柳田國男も判らなかったのであるから、個人的に推理出来そうなもの以外は注さない。

「アダハヘ」不詳。妖怪の名か。

「かふら戶」不詳。アニミズムの精霊の名か。

「かぶら」当初は「鏑」で、嘗つては猪鹿(しし)を矢で射る訓練に用いた鏑矢のことかとも思ったが、ここは後に「骨」とあるから、猪の頭をかく言っているものと思う。

「草脇」前掲。胸部部分。

「海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也」一寸は異様に小さいから、『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』で私が一番の候補に挙げたオニオコゼではあり得ない。思うのは、私自身、熊楠の「オコゼ」で、当初、ちらっと頭を過った、成魚でも十センチ前後で、しかし棘毒が半端ないカサゴ目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis が候補と挙がってくるように私には思われる。

「赤不淨黑不淨」一般の習俗では「死穢」(しえ)=「死の穢れ」を「黒不浄」、出血を伴い魂が二つ存在している出産前後のそれを「白不浄」、広義の血に纏わる「血の穢れ」を「赤不浄」と呼ぶが、「赤不浄」は専ら女性の月のものの穢れを指す

「粢〈しとぎ〉」神に供える餠。糯米を蒸し、少し搗いて卵形にしたもの。その形状から「鳥の子」とも呼ぶ。一説に、逆に粳(うるち)米の粉で作ったものとも言う。「しとぎもち」「粢餠(しへい)」。]

 

    椎柴の次第

一 上瀨にさか柴。但ししでを付る。

[やぶちゃん注:「しで」紙垂。注連縄・玉串・祓串(はらえぐし)・御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った例の紙。]

 

    御水散米の法

一 中瀨は椎柴也。木の柴三丸かし也。柴の上より粢みさき祭る。亦ごく【△「亦ごく」は赤御供なるべし、「ごく」は外にも見ゆ】七まへ、尤柴の右の三方より立掛火を放。心經讀誦。しゝは其柴にかけ置事。口傳。

一 中瀨みてぐら三本。但し水神の幣也。ごくしとぎごまひを備へ、諸神くわん

一 神崎三本。亦は七本。【△「神崎」は亦かふざきなるべし】

 ちゝみ右數にして備ふ。

 

    小獵師に望の幣【△左右の「六」と「八」何れかあやまりならん】

 

Nusa

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミング清拭した。]

 

    朝鹿の者けぢな祭る事【△「けぢな」は「けばな」とも見ゆ「け」は本の字分明ならずふり假名による】

一 ちはやふる神のおもひも叶しや

         けふ物數に千たびもゝ度

 

    完草(ウダグサ)返し

一のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神 本山本地居なほくち 得物を多くたびたまへ きざらだやはんけの水【△「はんけの水」前にも見ゆ】をたつね來て生をてんじて人に生れよ 夫(ヲ)じゝ五カ 婦(メ)じゝ四カや 步行。口傳。

一初しゝには頭にまなばしをあてず、矢びらきに掛る也。

一神崎まつり 〔串長 二寸二分 燒物串 右同斷〕

むかしありといひしや 中頃ありといひしや 地主かんどかうさき かんのかうざき 今當代かんどかうさき 簗のかうさき 祭人玉女にむかふ【△此文句などはきはめてよく沖繩の「オモロ」に似たり】

一丸頭 今日の日の三度三體玉女殿にかけ法樂申 野の神山の神 天日の神 三日の神 同所のちんじゆ森 かくら山の御神に參らする【△「カクラ」は前に出でたり狩倉と同義なるべし】 猶も數の得物たび玉へ ぐうぐせひのものたすくるといへどたすからず 人に食して佛果に至れ。六じの名號。

 

    掛隨

一 しやち頭 今日の日の三體玉女に參らする 二つの兩眼は日天月天  犬はな打きんのみさき 左のふたは所の鎭守森 かくら諸神にかけ法樂申奉る 草脇は草の御神 こしわきは尻指のみさき【△尻指のみさき】 八枚の折肌は八人のかんどかうさき 天竺の流沙川水神殿 同法界いなり ほつかい水神 め谷を谷のはゝ かりこの行司 かりこの子とも おろふの神 さけふの神 谷の口におりやらせ玉ふは山のみさきに掛け法樂申す とんたのとほみとしたの其子に掛け法樂申す 同じ山の木柴おりからし ほう丁まなばしまな板かうばし せんくやうくなきやうに 得物をくし玉へ まつりはづしはあか良原殿 はづしのなきやうに あとのちよとのにかけ法樂申奉る

一 完所に女來るときは、必ずしゝをふるまふべし。女心えはきたる草履の裏にて受れば、なり木の枝をしき、其上にしゝを置てわたすべし

[やぶちゃん注:「掛隨」「かけしたがひ」と読んではおく。願掛けの祝詞の文か。]

 

    山神祭文獵直しの法

一 抑〈そも〉山の御神 數を申せば千二百神 本地藥師如來にておはします 觀世音菩薩の御弟子阿修羅王 緊那羅王〈きんならわう〉 摩睺羅王〈まぎらわう〉と申〈まうす〉佛は 日本の將軍に七代なりたまふ 天〈あまの〉の浮橋〈うきはし〉の上にて 山の神千二百生れ玉ふや 此山の御神の母 御名を一神の君と申す 此神さんをして 三日までうぶはらをあたゝめず 此浮橋の上に立玉ふ時 大摩〈たいま〉の獵師毎日山に入り狩をして通る時に 山の神の母一神の君に行あひ玉ふとき 我さんをして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 汝が持ちし割子〈わりご〉を少し得さすべしと仰せける 大摩申けるは 事やうやう勿體なき御事也 此わり子と申〈まうす〉は 七日の間〈あひだ〉行〈ぎやう〉を成し 十歲未滿の女子〈をなご〉にせさせ てんから犬にもくれじとて天上にあげ ひみちこみちの袖の振合〈ふれあひ〉にも 不淨の日をきらひ申す 全く以て參らすまじとて過〈すぎ〉にけり 其あとにて小摩〈しやうま〉の獵師に又行あひ 汝高をいふもの也 我こそ山神の母なり 產をして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 山のわり子を得さすぺしとこひ玉ふ 時に小摩申けるは さてさて人間の凡夫にては 產をしては早くうぶはらをあたゝめ申事なり ましてや三日まで物を聞しめさずおはす事のいとをしや 今日山に不入〈いらず〉 明日山に不入とも 幸ひ持〈もち〉しわり子を一神の君に參らせん かしきのごく 白き粢〈しとぎ〉の物を聞しめせとでさゝげ奉る 其時一神の君大によろこび いかに小摩 汝がりうはやく聞せん 是より丑寅の方に的〈あたり〉て とふ坂山といへるあり 七つの谷の落合に りう三つを得さすべし 猶行末々たがふまじと誓て過玉ふ きうきうによりつりやう 敬白【此大摩小摩の物語は如何にも形式のよくととのひたる神話なり此筋より求入〈もとめい〉らば更に面白き發見あるべき也】

[やぶちゃん注:「緊那羅王」インド神話に登場する音楽の神々又は精霊。仏教では護法善神の一尊となり、天龍八部衆の一人とされる。

「摩睺羅王」摩睺羅伽(まごらが)が一般的。サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味する。本来は古代インドの神であったが、仏教に取り入れられた。身体は人間で、首は大蛇或いは頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれる。八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされるが、ナーガがコブラを神格化したものであるのに対し、このマホーラガはニシキヘビのような、より一般的な蛇を神格化したものとされる。やはり、護法善神の一尊で天竜八部衆・二十八部衆に数えられる。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられてある(当該ウィキに拠った)。]

一 上日さかな。へんはい口傳。

   みさきあらばかせと車に打のりて

        かへりたまへやもとのみ山に

一 友引。一大事。

一 我まへに來るかくれしゝ打つまじき事。

 

    熊の紐ときの傳 (大祕事)

一 なむめいごのもん  三返

     腹に手をあて

 ろてん中天なりばざつさい あとはならくのこんりんざい

     紐分

一 是より天竺の流沙か嶽の邊にて めんたはつたといへる鍛冶の打ぬべたる 彌陀の利劍を以て解いたる紐にとがはあるまじ

     歌

   月入て十日あまりの十五日

        のこる十日はみろく菩薩へ

     月の輪二つに割るとなへ

一 こんがうかい たいざうかい 兩部の万だら 大日如來。

[やぶちゃん注:「万だら」は底本献本では自筆で「方」を取消線して「万」と修正してある。]

      ねんぶつ十二返

 右小刀三本にてみつ柴口傳

     紐とく間のきやうもん

 

一なふまくさまんだもとなんそはらちことやきやなんおんのんしふらはらしふらうしゆしゆりそふはしやせんちんきやしりゑいそはか【△此呪文何に在りとも知らず切に識者の敎を待つ】

 同。しゝにまなばしをたてゝ九字の文にて九刀にきる。

     引導【△有難さうなる經文なれども編者も山中の人と共に夢中にて寫し置く】

一 ぐわんにしきどく平號しゆいつさいおんゆふく百さいちん守らいやうおんしゆりれうちごくがきしゆらのくをのがれしきやう成就となるべし

一 諸行むじやうぜしやうめつぽふ生めつめついじやくめつゐらくひがふぐんせいのもの助るといへども助らず人に食してぶつくわに至れ

 六字の名號。ごしんぼふ

一南無御本尊界行摩利支天

 のうへ影向〈やうがう〉あつて

   ヲンソワウロタヤソワカ。   七返。

 右產所の流といへり。

 

大山祇命

       山の御神也

豐玉姬命

 

 

   寬政五年八月  奈須資德相傳也

         ―――――――――――――

   右一卷日向國西臼杵郡椎葉村之内大字大河内椎葉德藏所藏之書以傳寫本一本謹寫訖

    明治四十二年二月二日  柳 田 國 男

 

[やぶちゃん注:本書には奥付が存在しない。既に述べたが、柳田國男が相原某に献呈した国立国会図書館デジタルコレクションの別の所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り)では、非常に読み難いが、こちらのここに奥付がある。左ページの右下方である。]

2022/05/12

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「色々の口傳」・附記

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、標題本文は行頭からだが、その解説部は一字下げで、それが二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

    色々の口傳

 

飛走中の猪を止まらすること。

 竹笛を一口短く微〈かすか〉に吹く。

 竹笛無きときは同じくウソを吹く。

 猪は元來眼よりも耳の感覺鋭敏なり。近距離に居りても動きさへせねば之を知らず。物音は之に反す。故に一寸微に物音をすれば、附近に人の在るを疑ひて小止りをして考を付るなり。されど此法は素人は行ふべからず。

[やぶちゃん注:「ウソ」前に注した通り、ここは「口笛」を指す。]

猪を見ずして其大小肥瘠〈ひせき〉を知ること。

 蹄〈けづめ〉の跡小さくとも地中に印すること深きは大。

 蹄の跡小さくとも跡と跡との距離長きは大。

 蹄の跡大なりとも地中に印すること淺きは瘠肉〈やせにく〉也。

 蹄の跡に立つ形あるものは多くは瘠肉也。

 蹄の跡の向爪〈むかうづめ〉と後爪との間廣がり居るものは猪が疲憊〈ひはい〉せる兆〈しるし〉也。疲憊せる猪は遠くへ往かず、近所に潛伏するものと見る。

 蹄の跡の雪中に印するものは、小猪なりとも大猪と見誤まることあり。日射の爲蹄跡の雪融解すれば也。

丸の儘なる猪の肥瘠を知ること。

 牡猪は脊部肥え牝猪は腹部肥え居〈を〉るが常なり。故に牝猪の腹部の肥えたるを見て、全身肥滿のものと思ひ購〈あがな〉ふときは損をすべし。

 脊部の毛色白く且つ全身綿の如き綿毛にて蔽はれ居るものは肥肉にて、全面毛色黑く且つ疎なるものは瘠肉也。

[やぶちゃん注:「後爪」猪は後ろに「副蹄(ふくてい)」という小さな跡がつくのが特徴で、それを言う。サイト「マイナビ農業」の「獣害の犯人は? 足跡で獣を特定しよう ~動物の足跡12種~」を見られたい。]

猪の肉量を知ること。

 臟腑のみを除きたる丸の儘の猪ならば、之に六を掛くれば純肉の量なり。但し此は十貫目以内の猪のことにて、十貫目を超ゆる者は大槪七を掛け、二三十貫目の大猪となれば八を掛くる也。其殘〈のこり〉は骨又は蹄などなり。

[やぶちゃん注:「十貫目」三十七・五キログラム。]

銃聲を聞きて命中と否とを知ること。

 トンと短く纏まりたる反響は命中とす。

 トーンと長く散じたる反響は不とす。

彈の數のこと。

 一丸も二丸も場所によりて利害は色々なり。

 一丸は命中正確なるも飛走中の猪には二丸を利なりとす。一丸は熟練者に於て採用し、二丸は未練者に利あり。

 熊笹の如き障碍物密集の場所にて、狙ひ定まらざる場合には、誰人〈たれびと〉も多くは二丸を込むるを利とす。

 二丸を二ツ矢と云ふ。

獵犬を仕込むこと。

 猪狩向きの犬には決して兎を逐はしむべからず。若し兎を逐ひたるときはいたく叱し懲〈こら〉すべし。

 幼犬を仕込むに最良の法は、小猪を半死の中に繫ぎ置き、長く引ずりまはして咬殺〈かみころ〉さしめ、さて後時々其肉の小片を切りて與ふる也。

 幼犬の側にて發砲するときは、幼犬喫驚〈きつきやう〉して常に銃聲を恐るゝの癖を生ずるもの也。

 幼猪を伴ひたる牝猪に接したるときは、幼犬に付〈つき〉てはよほど注意すべし。何となれば幼犬は悅びて小猪を咬まんとす。若し放任するときは母猪歸り來〈きたつ〉て幼犬を噬殺〈かみころ〉すことあり。故に母猪の引返すを伺ひて速〈すみやか〉に射殺すべき也。

 幼犬もし猪罠にかゝりたるときは、直ちに罠を切り解くべからず。罠の杭を撓〈たわ〉め罠を弛〈ゆる〉めて、犬をして自ら之を噬み切るの習慣を養はしむるを肝要とす。

 

 

           ――――――――――――

茲に椎葉村の地圖を揭ぐることを得ば讀者に便なりしならんも、適當なる原圖を得ざりき。もし熱心なる人あらば、大日本陸地測量部にて出版したる五萬分一圖中、左の圖幅を參照せられんことを望む。共に延岡號の中なり。

     椎葉村。 神門(ミカド) 。諸塚山。 鞍岡。 村所(ムラジヨ)。

 

           ――――――――――――

[やぶちゃん注:以上は附記で、本文とは分離して、底本では次の「附錄」の見開き右ページ中央にポイント落ちで記されてある(底本のここ)。既に注で「ひなたGPS」を示しているが、地図をダウン・ロードして自由に見たい方は、「ひなたGPS」の元版である私がよく使う「Stanford Digital Repository」の明治三五(一三〇二)年測図・昭和七(一九三二)年修正図で陸軍参謀本部作成の「秘」印のあるそれがよい(ネット上の画面だと、拡大表示ではディスプレイ一杯に示されてしまい、使い勝手が実は悪い)。以下のリンク先からどうぞ。ダウウ・ロード・リストの下から二番目の最大の「Whole image (14423 x 11083px)」がよい(サイズの関係上、最初に開くとファイル破損で開けないとする表示が出るが、暫くそのままにしておくとちゃんと表示され、二度目からは出ないので安心されたい)。「椎葉村」はここ、「神門」はここ、「諸塚山」はここ、「鞍岡」はここ、「村所」はここである。五枚全部でも百二十六MBである。

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩の作法」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、本文は行頭からだが、以下二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

     狩の作法

 

獵法。 狩は陰曆九月下旬に始り、翌年二月に終る。狩を爲さんとする當日は、未明にトギリを出し、其復命に由り狩揃ひを爲し、老練者の指圖に依り各々マブシに就き、後セコカクラに放つ。オコゼを有する者は背負籠に之を納めて出るなり。

 マブシに在る者は、セコより竹笛にて合圖を爲す迄は、最も靜肅を旨とし、竹笛にて幽〈かすか〉に合圖をするはよけれども、決して言語を發すべからず。若し咳嗽〈がいさう〉起らば地上に伏して爲すものとす。既に猪が突到〈つきいた〉らば息を凝らし、數步の近きに引受け、肺臟心臟の部分を狙ひて發砲す。其狙ひ所を小肘〈こひぢ〉のハヅレと云ふ。

[やぶちゃん注:「トギリ」以下、概ね前二章で既出。未明に出発する猪の索敵係。

マブシ」猪を迎え撃つための猪の獣道の近くの一定の箇所を指す。

カクラ」猪が潜伏している区域。

オコゼ」「山の神」に入山・山猟のために安全と豊猟を祈誓するための供物。前章の「一五 オコゼ」を参照されたい。

セコ」勢子。狩場で鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役の担当者。

「咳嗽」せき。「咳」は「痰が無くて咳音のある症状」を言い、「嗽」は「咳が殆んど伴わず痰の絡む症状」を言う。]

タテ庭、吠庭始まりたるときは、受持のマブシを離れ、山の上の方に囘り靜に近寄るべし。萬一擊損ずるか又は負傷せしめたるときは、硝煙の未だ照尺を拂はざる中に、猪は突進し來りて股を切り、倒るれば、胴を切る也。故に未練者は楯に寄るに非ざれば近よるべからず。此時尙大〈おほい〉に注意すべきはハヒジシに在り。ハヒジシ(這ひ猪)とは負傷せる猪が怒りて人〈ひと〉犬に當らんが爲に、伏して假死狀を爲し居るを云ふ。此考無くして近よりたるときは、猪は矢の如く飛びかゝり、牡猪なるときは牙にて股をえぐり、牝猪なれば牙なき故肘と無く頸〈きび〉と無く咬〈くは〉へて粉碎せんとするなり。

[やぶちゃん注:「タテ庭」前掲。猟犬が猪を取り囲んで戦うことを指す。

「吠庭」同前。猪が包囲域が崩れて拡大してしまっても、さらに当該対象との狩猟を続ける様態を指す。]

猪斃れたるときはヤマカラシ(短刀のことなり)を拔きて咽喉〈のど〉を刺し、次に灰拂〈はひばらひ〉を切取る。灰拂を切取るは最先に射斃したる證とする也。其後ヤマカラシと耳とを一つに束ね、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:「灰拂」不詳。但し、推理するに、これは「蠅拂」で、獣毛を束ねて柄をつけた、蠅や蚊を追うためのものを指し、後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた仏具があることから、逆に、蠅を嫌がって払う猪の頭部の部分を想起すると、耳(恐らく両耳)を指すのではないかと思われる。但し、ネットではこの「灰払」では熟語自体がヒットしない。識者の御教授を乞う。

 以下の呪文は底本では全体が二字下げ。原文はベタだが、底本にある程度まで近づけるために、早めに改行した。]

 今日の生神三度三代。ケクニユウの神。山の神。

 東山カウソが岳の猪の鹿も。角を傾けカブを申

 受け。今成佛さするぞ。南無極〈なむごく〉。

猪はヲダトコに持下〈もちおろ〉し、一應緣の上につるし下げ、然る後解剖す。解剖に二通りあり。胴切にして四足に分ち其後〈そののち〉骨を除くを金山オロシと云ひ、肉のみを四足に分ち其後骨を除くを本オロシと云ふ。

[やぶちゃん注:「ヲダトコ」前掲。獲った猪を里に持ち降ろし、裂いて分配をするための家を指す。この『ヲダトコの家は一定しをれり』とあった。後の柳田の補注の「小田床」もそれを漢字にしただけのものである。先に出た天草の地名ではない。

金山オロシ」「金山」の読み不詳。ネットでも出現しない。山猟の関連資料も縦覧したが不明。ただ、一つ目に留まったのは、さくら氏のブログ「昨日より今日 今日より明日へ 自分を信じて♪」の「猪と金山」で(行空けを詰めた)、

   《引用開始》

日蓮大聖人は御遺文集のなかで、中国の天台大師の『摩訶止観』の一節を引用されている。

「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」と。

 猪は、金山の輝いているのを憎く思い、自分の体をこすりつけて光沢をなくそうとする。だが、こすればこするほど、金山は輝きをましてくる。あたかも、多くの河川が流れ込んで海水を豊かにし、薪が加えられると火がますます燃えさかえるように__。求羅は風にあうと大きくなるという伝説的な生き物である。

 これは、仏道修行の厳しき過程で、逆風に負けず、それを前進のための追い風に変えていけとの戒めだが、人生万般に通ずる尊い教訓が秘められていると思う。

   《引用終了》

万一、これが起源だとすると、「きんざんオロシ」と読めることにはなる。]

△分割は山にてもすることあり。之も違式には非ず。小田床〈をだどこ〉にて必ず一應は緣の上に釣下ぐるは、丸のまゝに先づ神に供ふる嚴重の儀式なりと聞けり。

分配の法は擊主には射中〈いあ〉てたる方の前肢と脂とを與ふ。其前肢の目方は總量の五分の一なり。其後又擊主をも加へて平等に分配す。擊主には草脇〈くさわき〉を與ふることもあり。その肉の量は前の場合に同じ。其他セコは一人に二人分を與へ、獵犬の分は又一人前とす。

[やぶちゃん注:「草脇」「草分き」(草を押し分けて行く部分)で「獣類の胸先」を指す。「くさわけ」とも呼ぶ。]

△曾て耳にて聞きたるは又此記事と少異あり。首と胸の肉を仕留めたる者の所得とす。首の肉は最上品なり。同じく首を落すにも、ヤマカラシを耳の元に宛てゝ、それより三轉〈みころ〉ばしにて切るも、四轉ばし目に切るもあり。地頭殿の仕留めたる折には、この轉ばし方殊に多し。執刀者にも餘分の所得あり。この慣習は中々嚴重なるものなりしが、可悲〈かなしむべし〉近年漸く廢せんとす。猪の肉が高くなると、狩人は自ら食はずして商人に渡すなり。一頭三十圓より五十圓に及ぶ。此場合には擊主の所得は代金の四分の一を定〈さだめ〉とす。

[やぶちゃん注:「ヤマカラシ」植物のそれではないので、注意。これは実用の小刀である「山刀(やまがたな)」の地方名である。主に焼畑などの山林伐採や、狩猟の際の獲物の皮剝ぎなどに用いる。これを動物との格闘の刺し突きの武器に使用するのは危急の場合に限る。一般に小型で片刃のものが多く、野鍛冶(のかじ)に打たせたもの、又は昔の脇指を切り縮めたものなどがある。地方により名を異にし、九州山地では「ヤマカラシ」、四国西部で「サッカン」、中国山地で「ホウチョウ」、青森県津軽地方で「コバヤリ」、秋田県阿仁で「マキリ」(これはアイヌ語と同じ)など各地ごとに違っている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

解剖終りたるときは。執刀者はヤマカラシを肉の上に✕に置き、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:以下の咒文は、底本では三字下げ。]

カブラは山の神越前のきさきに參らする。骨をば御先御前に參らする。草脇をば今日の日の三代ケクニユウ殿に差上ぐ。登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神。本山本地に居直りたまふて。數の獲物を引き手向けたび玉へり。ハンゲノ水を淸ければ。シヤウゲンして人々生く。南無極樂々々々々。

分配終つて後、コウザキと紙の旗をコウザキ殿に獻じ、左の祝詞を唱ふ。コウザキ殿は巖石又は大木の下、雨露のかゝらざる所に奇石を置き、折々カケグリを獻ず。カケグリとは七八寸の長さに拇指大〈おやゆびだい〉の竹を切り、十數本を束ね、此に濁酒を盛りたるもの也。

[やぶちゃん注:以下、原本は同前。]

   諏訪のはらひ

そもそも諏訪大權現と申するは。本地は彌陀のアツソンにてまします。ユウオウ元年庚戌〈かのえいぬ〉。我が羽根の下に天降らせたまふ。信濃國善光寺嶽赤根山の峠に。千人の狩子を揃へ。千匹の鹿をとり。右は地藏菩薩。左は山宮大明神。中に加茂大明神と現はれ出で。八重鎌千鎌を手に持ちて。我先の不淨惡魔を切拂ひ。水露ほども殘なく。三五サイヘイ再拜と敬て白す。

△前の呪文に「越前のきさき」とあるはコウザキ殿のことなるべしと思はる。ケクニユウ殿。ゆかしき名なれども思ひ得たる所なし。登百葉山降百葉山は、登る葉山降る葉山なること。「狩之卷」に依りて明〈あきらか〉なり。唯此字が新なる偶然の誤寫には非ずして、山民も久しく斯く唱へ來れるものとすれば興味あり。

[やぶちゃん注:柳田も思い当たらないと言っている通り、咒文(祝詞)なれば、ここの神名の実体は判らない。但し、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の「宮崎県民俗学会」副会長前田博仁氏の『宮崎の神楽「銀鏡神楽シシトギリ」にある猪霊送り』の記事が、本咒文や、その他の宮崎県内の事例を示して解説しておられ、必見である。それを参考に以下を推理してみる。

カブラ」は諏訪神社の古習俗(鹿の頭を奉納した)から見て猪の「頭(カシラ)」のことと読め、

「越前のきさき」は柳田の謂いから「えちぜん」ではなく、「コウザキ」「こしざき」で、「山の高みを越えたところにあられる山の神さま」の意ではなかろうか。

「御先御前」(「おさきごぜん」?)は山の神を前の「越前のきさき」と分離した山の入り口の一神としたものか。

「今日の日の三代ケクニユウ殿」の名はお手上げだが、形容に「今日の日の三代」とあるから、やはり、山の神を細分化して、今現在の三代目の山の神に与えた神号ととれる。こうした山の神の増殖は以下の「登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神」で明白である。

ハンゲノ水」これは「半夏生(はんげしやう)」の転訛であろう。小学館「日本大百科全書」他を参考にすると、七十二候の一つで夏至の第三候。半夏生は夏至を挟んで入梅と対称位置の時期に当たり、陽暦では七月二日頃となる。「半夏生」は多年草のコショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensisで、別名をハンゲ或いはカタシログサ(片白草)と称し、水辺や低湿地に生え、一種の臭気を持つ。「その半夏が生える頃」という意で、昔の農事暦では、この頃までに田植を終える、とされていた点で「水」との親和性が強く、また、迷信的暦注としては、この日には毒気が降るので、「前夜から井戸や泉に蓋をすべし」とされた、から、これもまた、「ハンゲノ水を淸ければ」という祝詞と、よく合うように思われる。

シヤウゲン」「正現」或いは「精進」の転訛か。

アツソン」「三尊」の転訛。

ユウオウ元年庚戌」「ユウオウ」を雄略天皇ととるなら、雄略天皇十四年(ユリウス暦四七〇年)が庚戌。仏教は伝来していないが、後付けだろうから、それは問題にならない。

「信濃國善光寺嶽赤根山」不詳。

サイヘイ」「賽幣」?

拜と敬て白す。

『「狩之卷」に依りて明なり』本篇の最後に附録として添えられたそれの、「完草(ウダグサ)返し」の祭文(底本のここ)の冒頭。『のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神』とあるのを指す。]

罠獵〈わなりやう〉。 罠獵は秋の彼岸より春の彼岸までとす。罠は猪のウヂの屈曲なく見通しよき箇所に、二尋八引〈ふたひろやつびき〉の腕大〈かひなだい〉の杭を立て、麻にて作りたる八尺の繩を末端に結び付け、撓〈たわ〉めて輪を作り、蹴絲〈けりいと〉を張り、猪が蹴絲に觸れたるときは、はづれて之を捕縛するものなり。

[やぶちゃん注:「ウヂ」前掲。猪の通り道。

「二尋八引」一尋は大人が両腕を一杯に広げた長さの身体尺で、一般には八尺を指したとされるので、二メートル四十二センチ。「引」はその八本を並べて打ち込むことか。

「蹴絲」進行する猪を引っ掛けるための地面から相応の高さで横に張った細繩のトラップ。現在の猪猟では「トリガー」と呼んでいる。]

 猪がウヂを行くには、ウヂ引の命〈みこと〉、尻指の命と云ふ二の山の神が、其前後に立ちて走るものなりと云ふ。故に罠を掛けたるときは、少量の粟を四方に散らし、ウヂ引の命尻指の命に上げ參らすると三唱する者あり。其趣意はウヂ引の命は道先の案内、尻指の命は後押を爲す神なれば、此神たちに念願を掛れば、猪を罠の方に導き、又猪踟躊〈ちちゆう〉するときは尻指の命其尻に觸れて、はと罠に飛込ましむると言ふに在り。

△又「ウヂ引尻指の命に御賴み申す、あびらうんけんそはか」と唱ふる者もあり。夜待〈よまち〉をする者猪の來る前に凡そ鼠ほどの足音して走る者あるをきく。これウヂ引の神なりと云へり。

△罠にて猪を捕るは昔より小民の業にて、鐵砲を持つ者は之を輕〈かろ〉しめをれり。故に折々は無理なる獲物爭ひをもしかくる也。罠主は七日に一度づゝ罠を見巡るが作法なり。狩人之に先〈さきだ〉ちて罠ある所に行き、既にかゝれる猪を我が追込〈おひこ〉みたるなりと云ふことあり。凡そ罠は猪の通路を圖りて立るなれども、之を立てたる山には猪より付かず。故に諸方より追込みて罠に罹〈かか〉らするは常のことなり。狩人他人の罠に猪を追掛〈おひか〉けたるときは、片肢〈かたあし〉を罠の主に與へ殘りを我が所得とす。三四日も前に罹りて眼の落くぼみたる猪を、今日我が追込みたるなり。蝨猪(シラミジシ)なりし故〈ゆゑ〉山にて燒きて來たりなどゝ欺きて、橫領する奸徒〈かんと〉も無きに非ず。

△燒畑の猪防ぎにワナといふものあり。燒占、栞の類なり、罠に似たる物を作りて畑の附近に置けば猪亦之により付かず。

[やぶちゃん注:「尻指の命」「しりさしのみこと」か。]

ヤマ獵。 ヤマは猪が燒畑作りを荒し、又は樫の實をあさりに來る箇所に設くるなり。ヤマを設くることを上〈ア〉グルと云ふ。其方法は、六七寸周りの木を六尺に切り、二十本ばかり組みて筏狀と爲し、兩側に二本の俣杭〈またぐひ〉を立て、之に橫木を置き、ヤマの一端を三尺の高さに此橫木へ釣上げ、莢〈さや〉のまゝなる小豆を一握ばかりづゝ結びて、四周とヤマの内につるし、中央の小豆を引き餌とし、猪が此の引餌を咬〈くは〉へて引きたるとき、ヤマが落下して壓殺する法なり。ヤマの上には荷石を括り付け押へとする也。

ヤマにては巨猪を獲ることありと雖〈いへども〉、悲哉〈かなしいかな〉壓搾するを以て、血液煮えて全身に行渡り、肉の品質を損ふなり。井ドモなるときは一度に四五頭を得ることあり。

[やぶちゃん注:「井ドモ」「ヰドモ」。前掲。『猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ』とあった。]

狩の紛議。 狩獵に付ては甲乙カクラ組の間又は狩組と罠主との間に、紛議を生ずること往々にしてあり。然れども一〈ひとり〉も警官に訴へ或は法廷に持出すことなく、慣例に依り之を解決するものなり。左に其慣例の二三を記す。

[やぶちゃん注:以下の箇条部は、底本では全体が一字下げ。]

一 狩組が他人の罠に猪を追掛けたるときは、前脚一本を切り罠杭に括り付け置き、心當りに通告すること。

一 甲カクラ組に於て負傷せしめたる猪が、乙カクラ組の區域に遁げ込み、乙カクラ組の手にて擊ち留められたるときは。甲乙兩組の平等割とす。

一 甲カクラより乙カクラに遁げ込みたる猪を、乙カクラ組に於て擊ち留めたるときは、乙組の所得とす。但し甲組の獵犬が追跡し來りたるときは此限に在らず。(此場合が最も紛議を生じ易し。良犬は自ら搜し出したる物なるときは、終日追跡するものなり。然るに乙組に於ては芝苞〈しばづと〉を作り、犬に負傷せしめざるやうにして之を敲き拂ふことあればなり。)

一 猪を獲たるとき、其狩組に加はりし者か否かを判定するには、當日出發の際、狩揃ひの場に出頭せし人の顏を以てす。(橫著なる者は銃聲を聞きて獲物のありたるを知り、蒼皇〈さうこう〉獵裝〈れうさう〉を爲して己も狩組に加はりしものの如くに見せかけ、解剖場に乘込むことあり。本項は此場合に之を適用す。)

[やぶちゃん注:「蒼皇」慌てふためくさま。]

裁判例の一二。判士は庄屋殿、又は小役人。

[やぶちゃん注:以下の例は底本では全体が一字下げ。]

第一例 他人の罠猪を盜みたるもの。

原告八兵衞は昨日九年山に掛けある罠を見に行きたり。四斗位の猪がかゝり大に罠場を荒したる形跡現然たり。決して逐掛けの猪とは認めず。然るに狩人は之を銃殺して持去れり。其足跡は雪を蹈みて一ツ戶の方へ向けあるを以て、彼方の狩人に疑〈うたがひ〉を入れつなぎ至れば、果して一ツ戶なる三之助の緣の上に釣し在り。彼は予が質問に對し、此猪は昨日竹之元にて追起せしを、誰人〈たれびと〉かの罠に追掛けしを以て、狩の法に依り前肢一本を罠杭に括り付け置き、今日通告せんと思ひ居りたるなりと答へ、返すことを拒みたり。

庄屋曰く和談すべし。

原被とも承諾せず。

庄屋曰く。然らば直に關係外の狩人に申付け、元起し場より猪の足跡を搜索さすべし。

此時被告の顏色稍〈やや〉變ず。

被告は他の有力者に縋り、猪を罠主に返し、庄屋前〈まへ〉を取下げたり。

[やぶちゃん注:「四斗位」「」は「眞」で、正味の意であろう。容積で七十二リットル、米換算で二百四十キログラム。相当な大物であるから、孰れも引かなかったわけだ。

「前」訴訟告発文。]

          ―――――――

第二例。甲組に於て負傷せる猪を乙組に於て擊止めたるもの。

原告三太郞は一昨日佐禮山に登り、七八名連れにて狩を入れ、暮方鷹山の元にて大猪を起し、タテニハに於て一發を加へしも、鹿遊(カナスビ)の方へ向け流血淋漓として遁げ去れり。昨日ツナギを入れたるに、鹿遊の狩人虎市等に於て擊止めたる處に出會したり。由つて仲間入りを交涉したるに。頑として之に應ぜず。剩〈あまつさ〉へ侮辱を加へたり。

小役人曰く。手負猪と知らば雙方にて程好く分配すべし。

被告虎市曰く。成ほど血液は滴り來りしも、微傷にて銃傷とは認め難し。故に拙者共の勝手にすべし。

小役人曰く。猪は射手の前、口事〈もめごと〉は言手〈いひて〉の前と云ふことありと雖〈いへども〉、獵は此節に止〈とどま〉らず。末永く互に仲好くせざれば。終には之に類する反對の位置に立ちて損をすることあり。屹度〈きつと〉小役人の指圖に從ひ、仲間として分配すべし。猪の疵だけにやめ(矢目に通ず)として、敢て言ひ爭ひを爲し庄屋殿の手を煩はすことなかれ。

被告虎市曰く。誠に左樣なることなり。一同承諾すべしと。

△中瀨氏の文章、野味ありて且つ現代の味あり。其一句一字の末まで、最も痛切に感受せられ得と思ふ。讀者以て如何と爲す。

2022/05/11

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩ことば」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。]

 

   狩ことば

 

一 トギリ。 狩を爲さんとする當日、未明に一二人を派して、猪の出入先を搜索し復命せしむるを云ふ。

二 オヒガリ。 逐狩。トギリを出さず、心あたりを空〈くう〉に狩るを云ふ。

三 オヒトホシ。 追通し。猪が小憩もせずにマブシのあたりを走り過ぐるを云ふ。猪は飛禽の如く走ると雖〈いへども〉、大槪二三十間每に凡そ二十秒ほどの間立止〈まだちとま〉るもの也。是四近の樣子に聞耳を立つる爲也。獵師は此時を待ちて發砲す。されども犬が追跡するときは、此小憩をも爲さずマブシを通り過ぐる故に、此に命中するをば追通しを擊ちたりとて大手柄とす。

[やぶちゃん注:「マブシ前掲。『猪の通路に構へて要擊する一定の箇所』を指す語。]

四 スケ。 猪が一定のマブシに出でず他に出でんとするを、囘走して擊つを云ふ。

五 タテニハ。 獵犬が猪を包圍して鬪爭するを云ふ。

六 ホエニハ。 吠庭。包圍が散開しつゝなほ鬪爭を續くるを云ふ。

△猪の犬は昔より細島〈ほそしま〉にて買ふ。兒犬の時にても二十圓もする也。狩に使ふには牝犬の方優れり。牝犬が行けば外の牡犬も追ひ行きて、捕られぬ猪も捕らるゝなり。されど牝犬を飼へば秋の比〈ころ〉に三里四方の牡犬悉く集り來て、玉蜀黍〈たうもろこし〉の畑を荒し村人に惡〈にく〉まるゝ故に、飼ふことを憚かるなり。犬は近年鹿兒島の種交りて形小さくなれり。

[やぶちゃん注:宮崎県日向市細島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した港町。]

七 九ダイ三ダイ。 獵師が當日猪の出先を占ふ方位なり。獵師は今日は何の日なるを以て猪は何代に出づと言ふなり。

八 クサククミニウツ。 猪の肌見えず、笹や草の中に在るを見込みて擊つを云ふ。

九 ヤタテ。 矢立。又矢鉾ともいふ。猪を獵獲し分配の後、三度發砲して山の神に獻ずるを云ふ。

△分配の後といふこと、如何。隣村諸塚村〈もろつかそん〉の村長堀莊氏曰く、分割の後に一發、之を「芝起し」と云ふと。ヤタテは山に在りて猪を仕止めたる時に手向くるものには非ざるか。

[やぶちゃん注:「諸塚村」ここ。椎葉村の東北に接する。当該ウィキによれば、『面積あたりの林道の密度は日本一である』とある。

「堀莊」読み方不詳。]

一〇 ガナラキ。猪の舌を云ふ。ガナラキは未だ一囘も猪を獲たること無き者には分配せず。

△新進の狩人は隨分冷遇を受く。例へば猪の腸(ワタ)は分割の場にて串に差し燒きて食ふを常とす。此のワタアラヒは必ず新參者の役なり。

一一 コウザキ。 猪の心臟を云ふ。解剖し了りたるときは、紙に猪の血液を塗りて之を旗と爲し、コウザキの尖端を切り共に山の神に獻ず。コウザキコウザキ殿と云ひ、又山の神をもコウザキ殿と云ふ。祭文は後に記す。

[やぶちゃん注:後の「狩の作法」のここに出る『咒文』というのがそれと思われる。]

一二 イリコモリ。 入籠。トギリを出したるときに、前夜は猪の出入先を發見せずと雖〈いへども〉、前々夜若くは數日前の入跡〈いりあと〉現然として、出跡〈いであと〉無きときは卽ち入り籠り居るものと見るなり。前夜の入跡をナマアトと云ひ、其以前のものをフルアトと云ふ。

[やぶちゃん注:「出跡」は「であと」かも知れない。]

一三 セコ。 包圍中のカクラに分け入り。タカウソ(竹の笛)を吹き犬を呼びつゝ、隈なく搜索して猪を追ひ出す者を云ふ。

[やぶちゃん注:「カクラ前掲。『猪の潛伏せる區域』を指す語。

タカウソ」単に「ウソ」という語は「口笛」を指す。]

一四 ハヒバラヒ。 灰拂。猪の尾端を云ふ。

一五 オコゼ。 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ、山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み、告げて曰く、オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次〈つぎ〉て幸〈さひはひ〉にして一頭を獲たるときは、又告げて曰く、御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈〈いよいよ〉世の明〈あか〉りを見せ申さんとて、更に又一枚の白紙を以て堅く之を包み、其上に小捻〈おひねり〉を以て括〈くく〉るなり。此〈かく〉の如く一頭を獲る每〈ごと〉に包藏するが故に、祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

△椎葉村にオコゼを所持する家は甚〈はなはだ〉稀〈まれ〉なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有〈けう〉なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所〈おきどころ〉を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに、不思議の紙包を解き始めしに、一日掛〈かか〉りて漸〈やうや〉くして干〈ほし〉たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包〈づつみ〉を拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇〈りんしよく〉なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

[やぶちゃん注:実は本篇の電子化注は、ブログで公開した『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』を受けたものである。そこで熊楠がこの部分に言及している。また、私はそちらの注で、ここで言う「山オコゼ」及び「海オコゼ 」の種についても考証しておいたので、重複を避けるため、そちらを是非、参照されたい。

一六 タマス。 猪肉を分配する爲、小切にしたるものを云ふ。

△此說明は少しく不精確なり。タマスは分け前といふことなり。一タマスタマスは一人前二人前なり。役により一人にて二タマスを得る者もあり。次を見よ。

一七 クサワキ。 草脇。猪の腭〈あご〉の下より尻へかけての腹の肉を云ふ。

一八 ミヅスクヒ。 猪の下腭の末端を云ふ。

△三角の形を爲せる部分なり。最うまし。

一九 セキ。 猪の腰の間にて腹を包み居〈を〉る脂肉を云ふ。二十貫以上の猪ならば脂肉のみにて六七斤もあり。幾年圍ひ置くも腐敗せず。バタの代用を爲す。

[やぶちゃん注:「二十貫以上」七十五キログラム以上。

「六七斤」三・六~四・二キログラム。

バタ」バター。]

二〇 ギヤウジボネ。 行司骨。猪の肋骨の端なる軟骨を云ふ。

二一 イヒガヒボネ。 飯匙骨。猪の後脚の腿骨〈たいこつ〉の端を云ふ。其形狀飯匙に似たればなり。

[やぶちゃん注:「飯匙」杓文字(しゃもじ)のこと。]

二二 ツルマキ。 絃卷。猪の首の肉なり。輪切にしたる所絃卷に似たり。味最美なりとす。

[やぶちゃん注:「絃卷」弓矢の附属具。掛け替え用の予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく道具。葛藤(つづらふじ)又は籐(とう)で輪の形に編み上げ、中に穴をあけて、箙(えびら)の腰革(こしかわ)に下げるのを例とした。弦袋(つるぶくろ)とも呼ぶ。]

二三 ソシ。 猪の背に沿ひて附著する肉なり。外部なるをソトゾシと云ひ、内部なるをウチゾシと云ふ。最〈もつとも〉不味〈ふみ〉也。

△「そじゝのむな國〈くに〉」などいふそじゝなるべし。

[やぶちゃん注:「そじゝのむな國」「膂宍(そしし)の空國(むなくに)」に同じ。猪などの獣類の背には肉が少ないことが原義であるが、そこから、「物事の豊かでない」意に喩え、「豊沃でない土地・瘦せた土地・不毛の地」の意図して記紀の時代から用いられた上代語である。]

二四 モグラジシ。 鼹鼠猪。又ブタジシとも云ふ。臭氣ありて食用に供し難し。百頭の猪の中大槪二三頭は此なり。外形少しく通常のものと異なれども、素人は解剖の上ならでは見分くること能はず。其形一見豕〈ぶた〉の如く、腹部甚しく肥滿して脚は割合に短かく、仰臥〈ぎやうぐわ〉せしむれば四肢の容態鼹鼠に酷似す。素人又は商人之を購ひ泣き出すことあり。

二五 〈いち〉ノキレ。 猪の首を云ふ。

二六 ヌリ。 負傷せる猪の血液が荊棘などに附著し。又は地上に滴り居るを云ふ。獵師はこのヌリを見て、急所に中〈あた〉り居るか擦り傷位なるかを知り、急所に中りたるものと認めたるときは、三四日間引續きても搜索する也。蓋し急所に中りたる折の血液は、黑味を帶び又脂肪を混ず。

△血をノリといふ語原はわかりたり。

[やぶちゃん注:と柳田は言っているが、それは「塗り」の転訛ということらしい。しかし、「血のり」は粘ついた凝固血の「糊」状になった「血」が語源と私は思う。]

二七 オヒサキ。 狩出したる猪を追跡するを云ふ。

二八 ツナグ。 猪の足跡を求めて搜索するを云ふ。

二九 アテ。 他人の猪を盜〈ぬすみ〉取り、又は狩場の作法に背き、不正の行爲を爲したるときは、奇妙にも獵運惡しきものなり。又獵師の妻が姙娠中は猪を獲〈から〉ず。萬一要部を射當るも斃〈たふ〉れず。斃れたりと雖〈いへども〉蘇生して逃走することあり。この二の場合をアテと云ふ。併し後のアテは大反對に出で、獵運大〈おほき〉によろしきこともありと云ふ。

三〇 ヰドモ。 猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ。

三一 ツキヰ。 附猪。ヰドモに牡の大猪が伴ひ居るを云ふ。

2022/05/10

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作短歌・「土地の名目」

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作顕歌・「土地の名目」

[やぶちゃん注:以下の柳田國男の献歌一首は、「序」の最後のページの見返し(裏)に記されてある(底本ではポイント落ち)。柳田が当初、歌人。詩人を志していたことはあまり知られていない。当該ウィキによれば、『森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿』し、『桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿』、明治三〇(一八九七)年には『田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた』(作品名は「野の花」(明治三十四年新聲社刊・単行本。後発の大正五年春陽堂版の花袋の作品集「野の花」が国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る)。『飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから』、『当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し』、『決別していった』とある。

 なお、以下の本文はメインの解説が二行に亙る場合は二行目以降は、底本では一字下げであるが、無視した。また、後に添えられた柳田自身による「編者注」(頭に△を打つ)も、底本ではポイント落ちで、全体が三字下げであるが、引き上げて同ポイントとした。]

 

        椎葉村を懷ふ

     立かへり又みゝ川のみなかみに

     いほりせん日は夢ならでいつ

 

 

      土地の名目

 

一 ニタ。 山腹の濕地に猪が自ら凹所を設け水を湛へたる所を云ふ。猪は夜々來りて此水を飮み、全身を浸して泥土を塗り、近傍の樹木に觸れて身を擦る也。故にニタに注意すれば、附近に猪の棲息するや否やを知り得べし。

△編者云、ニタは處によりてはノタともいふか。北原氏話に、信州にてノタを打つと云ふは、猪鹿などの夜分此所に來て身を浸すを狙ふなり。火光を禁ずる故に鐵砲の先に螢を著〈つけ〉けて照尺とし、物音を的に打放すことあり。ニタを必ず猪が自ら設けたるものとするは如何〈いかん〉。凡そ水のじめじめとする窪みを、有樣に由りてニタと云ふなるぺし。風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡は不知〈しらず〉、伊豆の仁田〈にた〉を初め諸國にニタといふ地名少なからず。我々が新田の義なりとする地名の中にも、折々は此ニタあるべし。例へば上野〈かうづけ〉の下仁田など。

[やぶちゃん注:これは所謂「沼田場(ぬたば)」・「ヌタ場」として知られる、ある種の四足獣類が、泥浴びをする(体表に附着しているダニなどの寄生虫や、汚れを落とすために泥を浴びるをするとされているが、明確には判っておらず、以下に見るように、動物種によって役割は多様である)「ぬた打ち」行う場所を差す。当該ウィキによれば、『沼、湖や川の畔、休耕田』『なども使われるが、谷筋の一定の場所が繰り返し使われることがある』。『日本の猟師の間ではぬた場に、山の神がいて、祈ることで獣が現れると考えられていた』。『日本の神奈川県東丹沢地域での観察によれば、ヌタ場で最も多い行動は』、『動物の種類、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、アナグマによって異なるとことが判明した。ニホンジカは飲水(オスに限るとヌタ浴び)、イノシシはヌタ浴び、タヌキとアナグマは臭い嗅ぎが最も多い行動で、ニホンジカのメスにとってヌタ場は塩場』(塩分供給)『としての機能も有している可能性があることが報告されている』とあり、ウィキの「イノシシ」によれば、『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々』、『観察される。特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味の』「ぬたうちまわる(のたうちまわる)」『という言葉が生まれた』とある。所持する松永美吉氏の労作「民俗地名語彙事典」(三一書房『日本民俗文化資料集成』版)の「ニタ」の項でも、『湿地。水のじくじくした田代として適当な谷間をいう〔『地形名彙』〕』とし、以下、猪絡みの記載が長く続く。『熊本県球磨郡水上(ミズカミ村元野では、ニタの神というのがある。桜、樫などの木が茂り、その下に水溜りがある。猪がここに来て、この水溜に入り、木の根に体をすりつけてシラミを殺す。そこでは昼でも暗く山師も寄りつかない。もしこの山の木を伐ると熱病にかかる、ニタの神様は耳も聞こえず目も見えないという〔『熊本民俗事典』〕』とあり、猪は『矢きずを負った時、ここで身体の熱をさまし、傷口を癒すらしい。重傷の手負いの猪が時折、ニタ場の近くで倒れていることがある。このニタのにごり具合で、猪が近くに居るかどうかを判断することもあり』、『ニタのつく地名が山間部に意外に多い〔前田一洋『えとのす』〕』とある。以下、一段落が霧島山付近の猪のニタでの行動様式が子細に語られていて興味深い。最後に谷川健の文章を引いて、『沖縄の宮古島の島尻という部落には、自然の湧水の濁ったくぼみをニッジヤまたはニッダアと呼んで他界への入口とみなしている』という例を挙げ、谷川はこの二つの呼称は『ニタと同義語であり』、ニタという地名は『神聖なものの出現の場所とみなすことができると思う』という谷川説が示される。豊饒の象徴である田代、先の「ニタの神」から、この谷川の説は、私は侮れないと思う。

「北原氏」「序」に既出。

『風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡』「出雲風土記」の「仁多の郡(こほり)」の条には、文字通り、「こは濕(にた)しき小國(をぐに)なり」と大穴持(おおあなむち)の命(=大国主命)が仰せられたこととに始まる。彼は、この郡の三つの郷(さと)は孰れも田が優れているとも言っているので、やはり湿潤の地であるととってよい。現在の奥出雲町及び雲南市の一部に相当する。]

二 ガラニタ。 水枯渴して廢絕せるニタを云ふ。

三 ウヂ。 猪の通路を云ふ。

△鹿のウヂ、にくのウヂなどゝも云ふ。ウヂ引尻指の神の條參照。中瀨氏はウヂは菟道〈うみち〉にて山城其他の宇治同義なりと云ふ。如何〈いかん〉。

[やぶちゃん注:所謂、四足獣類の各自が形成する自身の獣道(けものみち)のこと。

「引尻指の神の條」後の「狩の作法」の「罠獵」の後注に出る。ここ。読みが判らぬが、ルビを振っていないので、「ひしりゆび」と訓じておく。]

四 セイミ。 少しく水湧き泥狀を爲し居〈を〉る處を云ふ。猪は此水を飮み蟹蛙などをあさり食ふ。人の注意することニタに同じ。

五 シクレ。 荊棘〈いばら〉茂り合ひ人容易に通過し能はざる處を云ふ。猪は大槪シクレに伏し、又はシクレを通路とす。

六 モッコク。 シクレの中に枯木の枝打混〈うちこん〉じ、シクレの層甚しく、且小區域なる處を云ふ。モッコクは猪の好潛伏場とす。

七 ヤゼハラ。 シクレの廣く亙れる處を云ふ。

八 ドザレ。 傾斜地に砂礫疊々として通行するに一步每に砂礫の轉下する處を云ふ。ドザレは流石の猛猪も急進すること能はず。故に村田銃を以てせば五六步每に一丸を與ふることを得る也。

[やぶちゃん注:所謂、山屋の言う「ガレ場」である。

「村田銃」陸軍少将村田経芳(つねよし)によって設計された小銃で、日本陸軍で初めて制式となった国産小銃。明治一三(一八八〇)年に、フランスのグラー銃及びオランダのボーモン銃を参考に「十三年式村田銃」として開発した。ボルト・アクション単発式で口径十一ミリ、全長一メートル二十九・四センチメートル、重量四キロ、照尺千五百メートルであった。明治十八年には、一部が改良されて「十八年式村田銃」となり、これらが「日清戦争」で実戦使用された。この十八年式の制定から間もなく、無煙火薬の連発銃の時代となり、村田も明治二十二年には「二十二年式村田連発銃」(口径八ミリ、全長一メートル二十二センチメートル、重量四キロ、照尺二千メートルを完成、制定されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

九 ヒラミザコ。 凹所〈あふしよ〉急ならず弧狀を爲し、水無き迫〈さこ〉の竪〈ひき〉に引き居る處を云ふ。セイミは大槪ヒラミザコに在り。

[やぶちゃん注:「迫〈さこ〉」岡山県以西の中国地方と九州地方で「山あいの小さな谷」を指す。]

一〇 ホウバ。 樹木立込み居るも見通しのよろしき處を云ふ。卽ちセイミモッコクヤゼハラドザレの反對の地形なり。猪は遁走するにホウバを避く。故に狩人が包圍するにも、人手多き場合に限り弱卒を此處に配置するのみなり。

一一 スキヤマ。 森林にして見通しよろしき處を云ふ。スキヤマは位置ホウバに似たるも、猪は之を避けず。

一二 ツチダキ。 土瀧。岩石無く急傾斜にして滑り易く、人の通るに困難なる箇所を云ふ。

一三 クネ。 土砂隆起して大瀧の狀を爲し、橫又は斜に引き居る處を云ふ。猪は大槪クネの上下を過ぎるものなれば、クネの上に構へて要擊する也。

△對馬の久根。遠江の久根。地名辭書に見ゆ。

[やぶちゃん注:「地名辭書」明治三三(一九〇〇)年三月に第一冊上が出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された労作。

「對馬の久根」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(上巻二版)のここの左ページ上段に出、「遠江の久根」は同中巻の「山香」の中の「佐久間」の項(右ページ中段)に「久根(クネ)銅山」として出る。]

一四 マブ。 傾斜したる小谿〈しやうけい〉の水源又は小迫〈こさこ〉の頭に、塚狀を爲し居る處を云ふ。猪は大槪マブ下を通過し、巨猪は群犬を茲〈ここ〉に引受けて鬪ふ。

一五 ヨコダヒラ。 傾斜緩なる地が橫に長く亙り居る處を云ふ。

△九州南部にて廣くハエといふ地名を附する處、地形或は之と同じきか。椎葉及其附近にでは凡て「八重」と書く。勿論近代のあて字なり。例へば尾八重(ヲハエ)、野老八重(トコロハエ)などあり。或地方にては「生(ハエ)」とも書けり。「延へ」の義か。はた先住民の語か。山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり。

[やぶちゃん注:「山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり」同様の解説が前掲の松永氏の「民俗地名語彙事典」にもあった。]

一六 クモウケ。 雲受。天を眺むる如き山の頂上を云ふ。

一七 クザウダヒラ。 山々相重なり居る中に。一つの山のみが方向を異にし。斜に天を挑むるに似たる所を云ふ。

一八 カマデ。 鎌手。或目標に向ひて右の方を云ふ。

一九 カマサキ。 鎌先。同じく左の方を云ふ。

二〇 イレソデ。 入袖。燒畑又は舊燒畑跡が判然として、山林區域に對し袖狀に見ゆる所を云ふ。卽ち左圖の如し。

 

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[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。扉に献辞と署名有り)の当該部からトリミングした。キャプションは、右に、

「山林」

左に、

「入袖」

である。]

 

二一 ツクリ。 燒畑跡地にして未だ林相を爲さゞる處を云ふ。

二二 キリ。 切。昔燒畑とせし箇所が森林に復し居る處を云ふ。然らば椎葉の山林は凡てキリなるかとも云ひ得べしと雖〈いへども〉、此〈かく〉の如く解すべからず。抑〈そもそも〉キリの名稱は地面の一局部に小地名を冠する必要より生ぜしもの也。例へば往時燒畑を作りし人が五右衞門なるときは五右衞門キリ、三之助なるときは三之助切といふ一の小字〈こあざ〉となるなり。

△燒畑を經營することを此地方一帶にてはコバキリと云ふ。コバは火田〈くわだ〉にて、畑と書きてコバと訓む地名多し。人吉の南にある大畑(オコバ)[やぶちゃん注:この「(オコバ)」はルビではなく、本文。以下、丸括弧は総てルビ。]の如し。燒畑を切山(キリヤマ)。切畑(キリバタ)といふこと東西諸州に於て常のことなり。或は野畑(薩州長島)。藪(伊豫土佐の山中)とも云ふ。草里(サフリ)。佐分(サブリ)。藏連(ザウレ)。曾里(ソリ)とも云へりと見ゆ。反町と書きてソリマチ、後にはタンマチとも訓〈よ〉めり。是も燒畑に因〈ちなみ〉あること疑〈うたがひ〉なし。神奈川町の臺地に反町桐畑(タンマチキリバタケ)、昔忍ばるゝ地名なり。されど燒畑と切替畑〈きりかへはた〉とは同じ物に非ず。說長ければ略す。地方凡例錄〈ぢかたはんれいろく〉の說明は誤れり。

[やぶちゃん注:「地方凡例錄」寛政六(一七九四)年に高崎藩松平輝和の郡(こおり)奉行大石久敬(きゅうけい)の著したもので、江戸時代を通じて、農政全般に亙る各種実務書の内で、最も優れた書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの恐らく巻之二の下の内容を指しているようだが、どこを批判しているのか、ちょっと判らぬ。]

二三 カタヤマギ。 片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ。

二四 ツチベイギ。 燒畑と燒畑との境に伐り殘りの樹木が多少燒害を受けつゝも生存し居るを云ふ。

△此村竝〈ならび〉に近鄕にはをさをさ土塀を見ず。此語を土塀より出でたりとは速斷すべからず。

二五 ヨホーレギ。 斜に立ち居る木を云ふ。

二六 マブシ。 猪の通路に構へて要擊する一定の箇所を云ふ。

二七 カクラ。 猪の潛伏せる區域を云ふ。

二八 ナカイメ。 中射目。カクラの中に在るマブシなり。中射目に手員〈てかず〉を配置するは、富士の卷狩に似たる大狩場にあり。四方八方要所を堅めたるも、カクラ廣くして逐出〈ひだ〉すに困難する場合のことなり。中射目は東西雌雄を決する關ケ原なれば、此要害を占〈し〉むるの任は、老練衆に秀〈すぐ〉る獵將と雖〈いへども〉、遺憾ながら之を庄屋殿に讓らざるべからず。

△此の庄屋殿は中瀨氏自らのことなるべし。下にも見ゆ。面白からずや。

二九 シリナシヲ。 尻無尾。尾(峯)がおろし居るも低所に達せず、中途にして展開し居るものを云ふ。この尾の下は猪の遁路に當り、最肝要の箇所とす。

三〇 ズリ。 材木又は薪を落し下〈おろ〉す所なり。熊笹の如き植物密生し見通し難き場合は、此のズリにすけ行き、一目一引といふ工合にて、ころりと擊落〈うちおと〉すことあり。

[やぶちゃん注:所謂、材木の切り出しや「柴車(しばぐるま)」(私の「譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事」の同注を見られたい)を落とす場所を利用して、猪を打ち落とすことを説明している。]

△一目一引の工合、十分に想像すること能はず。すけ行くは沿ひ行くなり。わざと椎葉の方言を飜譯せず。

[やぶちゃん注:「一目一引」「ひとめひとひき」か。発見した獲物を即座に引金を引いて一発で必殺することか。]

三一 ヲダトコ。 猪を里に持下〈もちおろ〉して、割〈さ〉きて分配するに使ふ家を云ふ。ヲダトコの家は一定しをれり。

△天草下島の西海岸にも小田床村あり。神祭にゆかりある名ならんと思へど考證し得ず。

[やぶちゃん注:「小田床村」現在の天草の下島(しもしま)の熊本県天草市天草町下田南の附近。ここ。]

三二 カモ。 猪の寢床なり。笹、柴、茅などを集めて、粗末なるものを作れり。此の笹草は如何に生ひ茂れる中なりと雖〈いへども〉、決して一所に於ては採取すること無く、遠方より點々と持集〈もちあつ〉め來りて、形跡を暗〈くら〉ますなり。

△草萎〈しぼ〉めば常に新しきを取〈とり〉そふるなり。カモにては子を育つる故にかく人に知られぬやうに骨を折る。

三三 ヲタケ。 峯の橫に亙れるを云ふ。

三四 ヲバネ。 峯を云ふ。

△赤羽根、靑羽根の如く羽根といふ地名は、凡て上代に埴(ハニ)を採りし所なるより直〈ぢき〉に命名したること、例へば柚木〈ゆずき〉、久木などゝ同じ類〈たぐひ〉ならんと思ひしが、かゝる羽根もありけり。

三五 タヲ。 嶺を云ふ。

△峯と嶺とを區別するの意明ならず。タヲは三備其他中國の山中にては。乢又は峠と書けり。乢の字の形が示す如く、たわむといふ語と原由を同じくするならん。土佐にては峠を凡てトーと云ふ。たゞ山の頂をもトーと云ふ。此もタヲの訛なるべし。三浦氏の一族に大多和氏、相模の三浦郡に大多和の地ありと記憶す。

[やぶちゃん注:「峯と嶺とを區別するの意明ならず」は「峯」は単独で山頂を指し、「嶺」はピークが並ぶこと、及びその間の鞍部や峠道を持つ部分をより広く指すと私は考えてよいようには思われる。

「大多和」神奈川県横須賀市太田和(おおたわ)。ここ。そこを、航空写真に切り替えると、丘陵や山間のピークが複雑に入れ込んでいることが判る。]

三六 ヒキ。 嶺の凹所に在り。各所より逐ひ囘したる猪が最後の遁路なり。ウヂとは混ずべからず。

三七 シナトコ。 大豆、小豆、蕎麥、稗等を燒畑の内にてたゝき落し收納したる跡を云ふ。猪は來りて落穗をあさるものなり。

△燒畑に作りたる穀類は凡て實のみを家に持歸るなり。麥などは穗を燒〈やき〉切りて採るが常にて、短き麥桿〈むぎわら〉の小束が松明〈たいまつ〉の末〈すゑ〉のやうに、焦げて山に棄てゝあるを見る。麥を燒きて穗のみを收むることは奧羽にても普通なり。

[やぶちゃん注:焼き切って収穫するというのは、ちょっと驚いた。]

三八 シバトコ。人の變死したる跡を云ふ。某〈なにがし〉シバトコと稱し、死者の名を冠して地名とす。路を行く者柴を折りて之に捧ぐる風習あり。之を又柴神〈しばがみ〉とも云ふ。柴を捧ぐるは亡靈を慰するの意なり。

△又路の側に小竹を立て其端に茅〈かや〉を結び付けたるを見る。これは蝮蛇〈まむし〉を見たる者が必ず其所に立てゝ人を戒むるなり。其名を何と云ふか記憶せず。

三九 アゲヤマ。 上山。燒畑に伐るとき誤りて樹上より墜落し悲慘の死を遂ぐる者あり。上げ山と稱するは、此山の一部分を爾後燒畑にせざる旨を山の神に誓ひて立て殘しある箇所なり。

四〇 サエ。 高寒の地。村里遠く隔たりたる所を云ふ。

四一 コウマ。 サエの反對にして卽ち村里を云ふ也。因〈ちなみ〉に記す、本村の神樂歌にサヱは雪コウマは霰といふ句あり。

[やぶちゃん注:「神樂歌」の「サヱ」の表記はママ。修正していない。どちらの表記が正しいかは判らない。]

2022/05/09

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」電子化注始動 / 「序」

 

[やぶちゃん注:本篇は「のちのかりのことばのき」と読み、柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの献本(扉に献本辞と署名有り)原本のこちらを視認した。正字正仮名で、漢字表記はなるべく当該表示漢字を再現してある。なお、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」のここにある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集」の「第二十七卷(新装版)」一九七〇年筑摩書房刊)を加工データとして、使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、底本原本では、読点はなく、総ての箇所が句点であるが、これは流石に読み難いので、私の判断で一部を読点に代えた。また、やや難読と思われる箇所には私が〈 〉で読みを歴史的仮名遣で添えた(柳田のルビはカタカナなので判別は容易である。なお、読みは所持する「ちくま文庫」版一九八五年刊「柳田國男全集」第五巻の当該論文も参考にした)。下線は底本では右傍線。踊り字「〱」「〲」は私自身が生理的に嫌いなので正字に代えた。禁欲的に注を附した。冒頭に目次があるが、省略する。

 また、私の電子化注した、早川孝太郎氏の「猪・鹿・狸」の「猪」のパートは大いに参考になろうと思う。早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ)を中心とした民譚集で非常に面白い。特に以下の注では挙げないが、未読の方は、是非、お勧めである。

 

    

 

一 阿蘇の男爵家に下野(シモノ)の狩の繪が六幅ある[やぶちゃん注:「六」は印刷では「四」であるが、自筆で「六」に修正されてある。]。近代の模寫品で、武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが、私が之を見て心を動かしたのは、其繪の下の方に百姓の老若男女が出て來て見物する所を涅槃像のやうに畫いてあるのと、少しは畫工の誇張もあらうけれども、獲物の數が實に夥しいものであることゝ、侍雜人〈ざうにん〉迄の行裝が如何にも花やかで、勇ましいと云はんよりは寧面白い美くしいと感ぜられたことゝである。下野の年々の狩は當社嚴重の神事の一であつた。遊樂でも無ければ生業では勿論無かつたのである。從つて有る限の昔の式例作法は之を守り之を後の世に傳へたことと思はれる。此が又世の常の遊樂よりも却つて遙に樂しかつた所以であつて、例としては小さいけれども、今でも村々の祭禮の如き、之を執行ふ氏子の考が眞面目であればあるほど、祭の樂しみの愈深いのと同じわけである。肥後國誌の傳說に依れば、賴朝の富士の卷狩には阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故實を聽いたとある。倂し坂東武者には狩が生活の全部であつた。まだ總角〈あげまき〉の頃から荒馬に乘つて嶺谷を驅け巡り。六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。何も偏土の御家人に問はずとも、立派に卷狩は出來たことであらうから、此說は信用するには及ばぬ。が唯この荒漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとつては神の惠の樂園であつて、代々の弓取が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明かである。處が其の大宮司家も或時代には零落して、初は南鄕谷〈なんがうだに〉に退き、次には火山の西南の方、矢部(ヤベ)の奧山に世を忍び、更に又他國の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を飜へし、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の實は最早他國の武家の收穫であつた。昔肥前の小城(ヲギ)の山中で腹を切つた大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよと言つたといふことである。其子孫が久しく故土に別れて居つたのである。嘸〈さぞ〉かし遙に神山の火を眺めて、產土〈うぶすな〉の神と下野の狩を懷かしがつたことであらう。然るに漸くのことで浦島のやうに故鄕に歸つて見れば、世は既に今の世に成つて居つた。谷々の牟田には稻が榮え、草山には馴れたる牛馬が遊んで居て、鹿兎猪狐の類は遠く古代へ遁げ去つて居つたのである。昔を寫す下野の狩の繪には、隱れたこんな意味合も籠つて居るのである。

[やぶちゃん注:「下野」恐らく「ひなたGBS」の椎葉村大河内地区のどこかにあった。現在も小字地名に残っているはずなのだが、地図類では見たらない。【二〇二二年五月十日削除・追記】以下の没落後の位置が孰れも肥後で、椎葉村と国を越えて有意に離れていることが不審だったが、その際、椎葉村字大河内小字下野という記載を発見したため(してしまったため)、大きな誤認を見逃してしまった。何時も情報を頂戴するT氏より昨日、「AsoPedia」の「下野狩」を紹介戴いた。そこに「下野狩(しもののかり)」はここに記されている通り、阿蘇大宮司家によって行われた神事的な演武の巻狩(まきがり)であって、阿蘇山麓で展開されたものであった。『鎌倉幕府を開いた源頼朝の富士の巻狩の手本となったと伝えられており、天正七年(一五七九)に阿蘇氏の没落と共に廃絶し』たとし、『下野とは、現在の坊中(黒川)』(ここ)『からの登山道、南阿蘇村下野』(ここ)『からの登山道と北外輪山麓の黒川に囲まれた広大な原野』・『沼沢地で』、『狩場は永草』(ながくさ:ここ。下野の東北直近)の「鬚捊(びんかき)の馬場」・「中の馬場」・「赤水の馬場」と三つに分かれていたとある。「下野狩」の起こりははっきりしないものの、『始めは農作物を食い荒らす害獣を駆除し、開拓神(国造神社)』(阿蘇神社の北に位置するため、通称「北宮」と呼ばれている「国造(こくぞう)神社」。約二〇〇〇年の歴史を持つ古い神社)『に贄(にえ)として捧げる小規模な』贄狩であったものが、『時代が下がるに従い、阿蘇家の勢力も拡大し、狩の方法も進化し』たとあり、『狩は武士団の軍事訓練の一環として、諸将を招集し、勢子(せこ)の動員から隊の編成、狩場での諸将の指揮振りを見る等、大規模なものとな』ったとして、その狩りの拡大や発展が解説されてある。而して、『阿蘇家には、この下野狩の様子を描いた』三『幅の「下野狩図」が残されてい』るとあり、そのカラー画像も載る(恐らくは古くにあったものの原画の部分写本であろう)。絵師は『肥後狩野派の祖とされる』薗井守供(そのいもりとも)で、精緻を極めた美麗なものでる。そして、その下方に「下野狩の推定図」が画像で記されて執行勢の進行路の指示もある。それを見るに、グーグル・マップ・データではこの画面の内部が展開地域であったことが判明した。永く私の読者として御助力頂いているT氏に心より御礼申し上げるものである。

「雜人」賤民。

「南鄕谷」現在の熊本県阿蘇郡高森町高森のこの附近。手間取ったが、「ひなたGPS」のここで阿蘇山南麓のこの旧地名を見出せる。

「矢部」位置的に見て、現在の熊本県上益城郡山都町北中島附近か。「矢部サンバレーカントリークラブ」というのがあり、阿蘇山の西南という条件に一致する。同じく「ひなたGPS」で旧地名の「矢部」を確認出来た。]

二 今の田舍の面白く無いのは狩の樂を紳士に奪はれた爲であらう。中世の京都人は鷹と犬とで雉子〈きじ〉鶉〈うづら〉ばかりを捕へて居〈を〉つた。田舍侍ばかりが夫役〈ぶやく〉の百姓を勢子〈せき〉にして大規模の狩を企てた。言ふ迄も無いが世の中が丸で今とは異なつて居る。元來今日の山田迫田(サコダ)は悉く昔の武士が開發したものである。今でこそ淺まな山里で、晝は遠くから白壁が見え、夜は燈火が見えるけれども、昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隱されて、道も橋も何も無い、烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。此中に於て、茲〈ここ〉に空閑〈くげん〉がある茲に田代〈たしろ〉を見出でたと言ふ者は。武人の外に誰が有らうか。獸を追ふ面白味に誘はれてうかうかと森の奧に入つて來る勇敢な武士でなければ出來ないことである。其發見者は一方には權門大寺に緣故を求めて官符と劵文〈けんもん〉とを申下し、他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。名字の地と成れば我が命よりも大事である。之を守る爲には險阻なる要害を構へ。其麓には堀切土居の用意をする要害山の四周は必ず好き狩場であつた。大番役に京へ上る度に。むくつけき田舍侍と笑はれても。華奢風流の香も嗅がずに。年の代るを待兼て急いで故鄕に歸るのは。全く狩といふ强い樂があつて。所謂山里に住む甲斐があつたからである。殺生の快樂は酒色の比では無かつた。罪も報も何でも無い。あれほど一世を風靡した佛道の敎も。狩人に狩を廢めさせることの極めて困難であつたことは。今昔物語にも著聞集にも其例證が隨分多いのである。

[やぶちゃん注:「迫田」山の狭い谷あいに開かれた小さな田。

「空閑」未だ人が入って田畑になっていない開発し得るような未開地。

「田代」ここは田にするに適した土地。或いはかなり古い過去の隠田(おんでん)の跡も指すであろう。

「劵文」 奈良時代以降、土地家屋などに関する権利を証する文書を指す。]

三 此の如き世の中も終に變遷した。鐡砲は恐ろしいものである。我國に渡來してから僅に二三十年の間に。諸國に於て數千の小名の領地を覆へし、其半分を殺し其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に、狩といふ國民的娛樂を根絕した。根絕せぬ迄も之に大制限を加へた。「狩詞記」の時代は狩が茶の湯のやうであつた。儀式が狩の殆〈ほとんど〉全部に成りかけて居る。大騷をして色々の文句を覺え、畫に描いた太田道灌のやうな支度で山に行つても、先日の天城山の獵よりも不成績であつたことが隨分有つたらうと思はれる。併しまだ遠國の深山には、狩詞記などゝいふ祕傳の寫本が京都に有るやら無いやらも考へずに、せつせと猪鹿〈しし〉を逐〈おひ〉掛けて居る地頭殿が有つた。併し鐵砲が世に現はれては是非も無い。弓矢は大將の家の藝であるけれども、鐵砲は足輕中間(チウゲン)に持たすべき武具である。而も其鐵砲の方が、使ひ馴れては弓よりもよく當り遠くへ屆く。平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出來るが、出陣の日が次第に多くなつては、留守中の取締は付き兼ねる。昔は在陣年を越えて領地へ歸つて見ると、野山の鳥獸は驚くべく殖えて居る。此が凱旋の一つの快樂であつた。然るに今は落人〈おちうど〉の雜兵〈ざふひやう〉が糊口の種に有合せの鐵砲を利用して居る。土民は又戰敗者の持筒〈もちづつ〉を奪ひ取つて、之を防衞と獸狩の用に供して居る。怒つて見ても間に合はぬ。山には早〈はや〉よほど鹿〈しか〉猿が少くなつた。そこで徒然〈つれづれ〉のあまり狩の故實を筆錄する老武者もあれば、之を讀んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

[やぶちゃん注:「猪鹿〈しし〉」古い言い方で振った。別に「ゐのしししか」でもいいが、リズムがだれるので好まなかっただけである。]

四 狩詞記(群書類從卷四百十九)を見ると、狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。所謂峯越す物といひ山に沿ふ物といふ「物」は鹿である。全く鹿は狩の主賓であつた。此には相應の理由のあることで、つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。北原晉氏は鐵砲の上手で、若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。然るに十年餘の間に猪を擊つたのは至つて小さいのを唯一匹だけであつた。猪は何と言つても豚の一族である。走るときは隨分早いけれども、大雪の中をむぐむぐと行く有樣は鼹鼠〈もぐら〉と同じやうである。之に反して鹿は走るときはひたと其角〈つの〉を背に押付ける。遠くから見ても近くでも、丸で二尺まはり程の棒が橫に飛ぶやうなものである。足の立所〈たちどころ〉などは見えるもので無い。之を橫合に待掛けて必ず右か左の三枚〈さんまい〉を狙ふのである。射當てた時の歡〈よろこび〉はつまり所謂技術の快樂である。滿足などゝいふ單純な感情では無い。昔から鹿狩を先途〈せんど〉とするの慣習も或は此邊の消息であらうか。乃至は未知の上代から傳へられた野獸の階級とでもいふものがあるのか、兎に角に鹿は弱い獸で、人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。奈良や金華山に遊ぶ人たちは。日本は鹿國のやうに思ふだらうけれども、普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。此因〈このちなみ〉に思ひ出すのは北海道のことである。蝦夷地には明治の代まで鹿が非常に多かつた。十勝線の生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)の停車場を始として、ユクといふ地名は到る處に多い。然るに開拓使廳の始頃に、馬鹿なことをしたもので、室蘭附近の地に鹿肉鑵詰製造所を設立した。そしたら三年の内に鹿も鑵詰所も共に立行〈たちゆ〉かぬことになつた。北海道の鹿は鐵砲の痛さを知るや否や直に其傳說を忘却すべく種族が絕えたのである。

[やぶちゃん注:「狩詞記(群書類從卷四百十九)」国立国会図書館デジタルコレクションの「新校 群書類從」(昭和七(一九三二)年内外書籍刊)の第十八巻の当該部(正しくは「就狩詞少々覺悟之事【今、狩詞記と稱す。】」)をリンクさせておく。

「三枚」肋骨の三本目を指す。鹿に限らず、猪・熊でもそこを急所とする。

「生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)」前の丸括弧はルビ、後者のそれは本文。幾つかのフレーズで検索をかけても見つからず、古い地図も調べたが、お手上げ。一つ、根室本線に「幾寅」なら、現存する。ここは現在の南富良野町幾寅であるが、十勝ではない。しかし、ここには南に「ユクトラシュベツ川」もあるから、ここか? また、調べると、アイヌ語で「ユク」は「鹿」を指し、古くはヒグマやエゾタヌキなども含めて「ユク」と読んでいたと、アイヌ工芸品店「アイヌモシリ三光」の店長のブログのこちらにあったので、以上の話との親和性が強いことが判った。【二〇二二年五月十日追記】同じくT氏より、『本序の最後に明治四二(一九〇九)年二月一日のクレジットがあるが、明治四十二年十月十二日まで、旭川―帯広間は「十勝線」であり、「幾寅駅」は明治三五(一九〇二)年十二月六日開業』との御指摘を受けた。これによって、柳田の「生寅」は「幾寅」の誤記の可能性が高いことになる。]

五 茲に假に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、勿論第二期の狩に就ての話である。言はゞ白銀時代の記錄である。鐡砲といふ平民的飛道具を以て、平民的の獸卽ち猪を追掛ける話である。然るに此書物の價値が其爲に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、其中に列記する猪狩の慣習が正に現實に當代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して、日本國の一地角に規則正しく發生する社會現象であるからである。「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是〈そんぜ〉」といふ書物の、農業生產之部第五表禽畜類といふ所に、猪肉一萬七千六百斤、其價格三千五百二十圓とあるのが立派な證據である。每年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので、此實際問題のある爲に、古來の慣習は今日尙貴重なる機能を有つて居る。私は此一篇の記事を最〈もつとも〉確實なるオーソリテイに據つて立證することが出來る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀨淳氏から口又は筆に依つて直接に傳へられたものである。中瀨氏は椎葉村大字下福良(〈シモ〉フクラ)小字嶽枝尾(タケノエダヲ)の昔の給主〈きふしゆ〉である。中世の名主職を持つて近世の名主職に從事して居る人である。此人には確に狩に對する遺傳的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜中瀨君と同宿して猪と鹿との話を聽いた。大字大河内の椎葉德藏氏の家に泊つた夜は、近頃此家に買得〈ばいとく〉した狩の傳書をも共に見た。東京へ歸つて後賴んで狩の話を書いて貰つた。歷史としては最〈もつとも〉新しく紀行としては最〈もつとも〉古めかしいこの一小册子は、私以外の世の中の人の爲にも、隨分風變りの珍書と言つてよからう。

[やぶちゃん注:「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是」この書物、未詳。識者の御教授を乞う。

「一萬七千六百斤」十トン五百六十キログラム。

「椎葉村大字下福良」ここ

「嶽枝尾」椎葉村大河内(おおかわうち)の、ここに嶽枝尾(たけのえだお)神社がある。

「給主」中世に於いて、幕府や主家から恩給としての所領を与えられた者。また、領主の命を受けて領地を支配した者。給人とも称した。江戸時代でも、幕府・大名から知行地或いはその格式を与えられた旗本・家臣などをも指した。

「買得」買い取ること。]

六 此序に少しく椎葉村の地理を言へば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が、九州では最深い山地であるが、中央の山脈は北では東の方〈かた〉豐後境へ曲り、南では西の方肥薩〈ひさつ〉の境へ曲つて居るから、空〈そら〉で想像すれば略〈ほぼ〉Sの字に似て居る。其Sの字の上の隅、阿蘇の外山(外輪山の外側)の緩傾斜は、巽〈たつみ〉の方へは八里餘、國境馬見原(マメワラ)の町に達して居る。其先には平和なる高山が聳〈そばだ〉つて、椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇莊〈ごかのしやう〉とも嶺を隔てゝ鄰である。肥後の四郡と日向の二郡とが此村に境を接し、日向を橫ぎる四〈よつ〉の大川は共に此村を水上として居る。村の大さは壹岐よりは遙に大きく隱岐よりは少し小さい。而も村中に三反とつゞいた平地は無く、千餘の人家は大抵山腹を切平げて各〈おのおの〉其敷地を構へて居る。大友島津の決戰で名を聞いた耳川の上流は村の中央を過ぎて居るが、此川も他の三川〈さんせん〉も共に如法の瀧津瀨であつて、舟はおろか筏さへも通らぬ。阿蘇から行くにも延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも、四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

[やぶちゃん注:「馬見原」現在の熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)馬見原(まみはら)

「五箇莊」落人伝説で知られる隠田集落。この附近

「大友島津の決戰」天正六(一五七八)年、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町のこの附近)を主戦場とした「耳川の戦い」。

「耳川」サイト「川の名前を調べる地図」のここ。現在は小丸川。]

七 比の如き山中に在つては、木を伐つても炭を燒いても大なる價を得ることが出來ぬ。茶は天然の產物であるし、椎蕈〈しひたけ〉には將來の見込があるけれども、主たる生業はやはり燒畑の農業である。九月に切つて四月に燒くのを秋藪〈あきやぶ〉と云ひ、七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば士が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓〈よ〉む。卽ち火田〈くわだ〉のことで常畠〈じやうばた〉熟畠の白田〈しろた〉と區別するのである。木場切の爲には山中の險阻に小屋を掛けて、蒔く時と苅る時と、少くも年に二度は此處に數日を暮さねばならぬ。僅な稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯〈たちがれ〉になつて居〈ゐ〉る有樣は、平地の住民には極めて奇異の感を與へる。以前は機〈はた〉を織る者が少なかつた。常に國境の町に出でゝ古着を買つて着たのである。牛馬は共に百年此方〈このかた〉の輸入である。米も其前後より作ることを知つたが、唯〈ただ〉僅〈わづか〉の人々が樂しみに作るばかりで、一村半月の糧にも成り兼るのである。米は食はぬならそれでもよし、若し些〈いささか〉でも村の外の物が欲しければ、其換代〈かへしろ〉は必ず燒畑の產物である。家に遠い燒畑では引板〈ひきいた〉や鳴子〈なるこ〉は用を爲さぬ。分けても猪は燒畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ爲には髮の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに插すのである。之をヤエジメと言つて居る。卽ち燒占〈やきしめ〉であつて、昔の標野(シメノ)、中世莊國の榜示〈ばうじ〉と其起原を同じくするものであらう。燒畑の土地は今も凡て共有である。又茅〈かや〉を折り連ねて垣のやうに畑の周圍に立てること、之をシヲリと言つて居る。栞も古語である。山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一〈ひとつ〉の棒では無くて、山地に向けて之を橫に寢かしたやうなのが我國のさまである。

[やぶちゃん注:「火田」「焼き畑」のこと。古くは朝鮮のそれを指した。

「引板」鳴子と同じような警鳴器。略縮して「ひた」とも呼ぶ。]

八 椎葉村は世間では奈須と云ふ方が通用する。例の肥後國誌などには常に日州奈須と云つて居る。村人は那須の與一が平家を五箇の山奧に追詰めて後、子孫を遺して去つた處だといふ。昔の地頭殿の家を始め千戶の七百は奈須氏であるが。今は凡て那須といふ字に書改めて居る。併しナスといふのは先住民の殘して置いた語で、かゝる山地を言現〈いひあら〉はすものであらう。野州の那須の外、たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。椎葉と云ひ福良と云ふも今は其意味は分らぬけれども、九州其他の諸國に於て似たる地形に與へられたる共通の名稱である。奈須以外の名字には椎葉である黑木である甲斐である、松岡、尾前、中瀨、右田、山中、田原等である。就中〈なかんづく〉黑木と甲斐とは九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本據も村の北鄰[やぶちゃん注:底本は「部」の字の誤植を手書きで「鄰」に訂してある。]なる高千穗庄であつた。明治になつて在名の禁が解かれてから、村民は各緣故を辿つて、村の名家の名字の何れかを擇んだが、其以前には名字を書く家は約三の一で、これだけをサムラヒと稱して別の階級としてあつた。其餘は之を鎌サシといふ刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。昔の面影は此外にも殘つて居る。家々の内の者卽ち下人は女をメロウといひ男をばデエカンと云ふ。デエカン卽ち代官である。近代こそ御代官はよき身分であつたが、其昔は主人を助ける一切の被管〈ひかん〉は大小となくすべて、代官であつた。

[やぶちゃん注:「肥後國誌」明治一七(一八八四)年頃に成瀬久敬の「新編肥後国志草稿」(享保一三(一七二八)年成立)を水島貫之・佐々豊水らが編纂したものを指すものと思われる。

「備後の山中にも那須といふ地名がある」現在の広島県山県(やまがた)郡安芸太田町那須であろう。

「高千穗庄」椎葉村の北東の現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町

「被管」「被官」はこうも書く。]

九 次には猪を擊つ鐵砲のことである。村に傳へらるゝ寫本の記錄「椎葉山根元記」に依れば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫(西曆一五八七―一六一三)の幕下に屬して居つた時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鐡砲が渡された。此時代は明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]の戰時[やぶちゃん注:西南戦争。]と共に、椎葉の歷史中最悲慘なる亂世であつた。十三人の地侍は徒黨して地頭の一族を攻殺〈せめころ〉した。此時の武器は凡て鐵砲であつた。元和年中[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。江戸前期。]に平和が快復して後、此三百梃は乙名〈おとな〉[やぶちゃん注:長老を意味する一般名詞。]差圖を以て百姓用心の爲に夫々〈それぞれ〉相渡したとある。寬延二年[やぶちゃん注:一七四九年。]の書上を見ると、村中の御鐵砲四百三十六梃、一梃に付銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鐵砲は必しも昔の火繩筒では無いやうだ。其數は寬延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。]度よりも增して居るや否や。運上の關係は如何〈いかに〉なつて居るかは凡て知らぬ。又如何なる方法で火藥を得て居るかといふことも知らぬ。併し鐵砲の上手は今日も決して少なく無いと考へられる。それは兎に角、椎葉の家の建て方は頗〈すこぶる〉面白い。新渡戶博士が家屋の發達に關する御說は、此村に於ては當らぬ點が多い。山腹を切平げた屋敷は、奧行を十分に取られぬから、家が極めて橫に長い。其後面は悉く壁であつて、前面は凡て二段の通り緣になつて居る。間〈ま〉の數は普通三つで、必ず中の間が正廳〈せいちやう〉である。三間ともに表から三分の一の處に中仕切があつて、貴賤の坐席を區別して居る。我々の語で言へば人側(イリカハ)である。正廳の眞中には奧へ長い爐があつて、客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。卽ち突當りの中央に壁に沿うて、床の間のやうな所があつて、武具其他重要なる家財が飾つてある。其前面の爐の側が家主の席であつて之を橫坐といふ。宇治拾遺の瘤取の話にも橫坐の鬼とあるのは主の鬼卽ち鬼の頭〈かしら〉のことであらう。橫坐から見て右は客坐と云ひ、左は家の者が出て客を款待(モテナ)す坐である。

 

Okarinokotobanoki

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り。なお、非常に読み難いが、こちらにはここに奥付がある。左ページの右下方)の当該部からトリミングした。キャプションは、上から下へ、右から左へで、

   *

「廏」(=廐(うまや))

「障子又ハ雨戶」

「ウシロハ切崖」

「キヤクザ」

「エンガハ」

「シキダイ」

「トコ」(=床の間)

「カマト」(=竃(かまど))

「戶」(=勝手口)

「戶」(同前)

「泉又ハ筧」

   *]

 

遠來の客は多くの家の客坐に於て款待せられた。緣の外は僅の庭で其前面は全く打開〈うちひら〉けて居る。開けて居ると言つても狹い谿を隔てゝ對岸は凡て重なる山である。客坐の客は少し俯〈うつむ〉けばその山々の頂を見ることが出來る。何年前の大雪にあの山で猪を捕つた、あの谷川の川上で鹿に逢つたといふやうな話は、皆親しく其あたりを指さして語ることが出來るのである。之に付けて一つの閑話を想出すのは、武藏の玉川の上流棚澤の奧で字〈あざ〉峯といふ所に、峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行つて二晚とまり、羚羊〈かもしか〉の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。東京から十六里の山奧でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の緣に腰を掛けて狩の話を聽いた。小丹波川の波頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を擊つたときに。手袋の上から二所〈ふたどころ〉爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縱橫に長い瘢痕があつた。あの犬にも十年逢はぬ。此の親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。懷かしいことだ。

[やぶちゃん注:「棚澤」現在の神奈川県厚木市棚沢附近であろう。

「宇治拾遺の瘤取の話」「宇治拾遺物語」の知られた瘤取り爺さんの話。「鬼ニ瘤被取事」(鬼に瘤取らるる事)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。

「羚羊」獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)。私は槍ヶ岳から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。]

十 椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。此の慣習と作法とは山中のおほやけである。平地人が注意を拂はぬのと交通の少ない爲に世に知られぬだけで、我々は此智議を種に平和なる山民に害を加へさへせずば、發表しても少しも構はぬのである。之に反して「狩之卷」一卷は傳書である。祕事である。百年の前迄は天草下島の切支丹の如く、暗夜に子孫の耳へ私語〈ささや〉いて傳へたものである。若し此祕書の大部分が既に遵由〈じゆんいう〉の力を現世に失つて、椎葉人の所謂片病木(カタヤマギ)の如くであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかゝる大膽な決斷を敢てせぬ筈である。併し畏るゝには及ばぬ。狩之卷は最早歷史になつて居る。其證據には此文書には判讀の出來ぬ箇所が澤山ある。左側に――を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ。それのみならず實の所私はまだ山の神とは如何なる神であるかを知らないのである。誰か讀者の中に之をよく說明して下さる人は無いか。道の敎〈をしへ〉は知るのが始〈はじめ〉であると聞く。もし十分に山の神の貴さを會得したならば。或は大に悔いて狩之卷を取除くことがあるかも知れぬ。其折には又狩言葉の記事の方には能〈かな〉ふ限〈かぎり〉多くの追加をして見たいと思ふ。

 

   明治四十二年二月一日 東京の市谷に於て

                  柳 田 國 男

[やぶちゃん注:「遵由」頼りにして従うこと。

「片病木(カタヤマギ)」以下の本文の「土地の名目」の「二三」に出る。そこに『カタヤマギ。片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ』とある。]

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