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カテゴリー「人見必大「本朝食鑑」より水族の部」の10件の記事

2018/04/01

栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注 始動

 

[やぶちゃん注:以下は、栗本丹洲が本邦産の「翻車」=マンボウ(条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola。但し、既に「栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)」の注でも述べた通り、現行では、全世界のマンボウ属のミトコンドリアDNAD-loop領域の分子系統解析によって、日本近海に棲息するマンボウ属は、少なくとも、三種(group A/B/C)に分かれるという解析結果が得られており、近い将来、新たな複数種の学名が新たに起される可能性が極めて高くなっている)について図を挿みながら、考証した、文政八(一八二五)年に記された自筆稿である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの、こちらの、表紙題簽に「翻車考 栗本丹洲自筆原稿」「完」とするものの画像を視認した。実は同コレクションには今一つ『自筆』とする「翻車考」があるのであるが(こちら)、文字を見ると、明らかに前者とは別な人間の筆跡と私は見た。則ち、後者は「自筆原稿」の写本ではないかと踏んだ(一部の絵の彩色などには見逃せないいい部分はある)ので、それは参考として見るに留めた(但し、底本は丹洲自身(或いは後の所蔵者)が剥落を補填した箇所や脱字を後から補填した部分が多数あり、判読に困る箇所もあるので大いに役立った本文は上のリンクで確認されたい(ブログの容量がパンクしかかかっているので、本文だけの頁は原則、画像としては出さない予定である。なお、最近、国立国会図書館デジタルコレクションは新たに「全コマダウンロード」というとても美味しいボタンが追加されたので容易に全ページを一発でダウンロード出来る。是非、お試しあれ!)。図は総ての頁を載せる。

 最初に、可能な限り、原典のままの表記を再現した「■翻刻1」を示す。一部の漢字が俗字である場合は、その俗字で表記した(迷った場合は正字を採用した)。また、添書き等も再現した。但し、カタカナは概ねやや小さく書かれており、中には有意に漢文の訓点の送り仮名のように、右に寄せてあるものもあるが、それは今回は無視し、総て同ポイントで示した。次に「■翻刻2」として、「■翻刻1」を読み易く書き換えたものを示し、その後の私の注を添えた。判読不能な箇所は「□」で示した。【2018年4月1日 藪野直史】]

 

□表紙題簽国立国会図書館デジタルコレクションの画像のコマ目

 

翻車考 栗本丹洲自筆原稿

              

 

[やぶちゃん注:「完」は「完本」の意であろう。この表紙には、他に、右上から下に向かって、

・「貴重品」という赤い付箋一枚

・国会図書館のものと思われる図書分類ラベル一枚(最上段に「特7」、中段に「別圖」という左を頭にした横倒しの文字(楕円の枠を持つ)、最下段に「232」という数字が見えるが、これは現行の日本十進分類法の数字ではない。三種とも印判で手書きではない)

表紙自体に押された長方形の赤い印判(上は二行割注で左右に二字があるが、判読不能。その下に大きく「帙入」とある)

・「別圖」という楕円形の印判が押された薄い和紙らしき付箋

・白い四角な紙に朱で捺された「伊藤篤太郎記」(後述)

・二枚目と全く同じ印刷様式の図書分類ラベル一枚(最上段に「別11」中段は空白、最下段に「29」という数字がある。これも無論、日本十進分類法の数字ではないが、明らかに上のものよりも後に新しく張られたものらしく(紙のヤケが弱く、上のものよりも微かに全体が白い)、また、孰れの数字も手書き(墨書き)である)

がある。現在の日本十進分類法の原型が図書館で使用されるようになるのは、昭和四(一九二九)年九月以降と考えられるから、これは帝国図書館時代の同図書館独自の整理番号であると思われ、最上部のものは間違いなく、それ以前の図書ラベルと考えてよい。最下段のものは、日本十進分類法以降のものと思われるが、自筆本という特殊性から、番号はやはり特別な同図書館で本書に与えられた整理番号と考えられる。

 次の表紙裏の識語を書いている伊藤篤太郎(とくたろう 慶応元(一八六六)年~昭和一六(一九四一)年)は植物学者。ウィキの「伊藤篤太郎」によれば、尾張国生まれで、『父親は本草学者、伊藤圭介の弟子で、圭介の女婿となった伊藤(中野)延吉である』。明治五(一八七二)年に上京し、『祖父圭介のもとで植物学を学び』、明治一七(一八八四)年から『イギリスのケンブリッジ大学などに私費留学をした』。明治二〇(一八八七)年に『帰国、愛知県の尋常中学校』で教え、明治二七(一八九四)年からは『鹿児島高等中学造士館で教職についた』。『鹿児島時代は、沖縄諸島の植物の収集を行い、後に』、帝国大学理学部植物学科教授であった松村任三(十歳年長)と「琉球植物説」(明治三二(一八九九)年)を発表している。明治二九(一八九六)年に『造士館が閉鎖になると、愛知県立第一中学校で教職についた』。また、その翌年から翌々年にかけては、『祖父圭介を顕彰する「錦窠翁九十賀寿博物会誌」や「理学博士伊藤圭介翁小伝」の編集、執筆を行っ』ている。大正一〇(一九二一)年に『東北帝国大学に生物学科が新設されると』、『その講師となった。著書に「大日本植物図彙」などがある』とある。]

 

 

□表紙裏(伊藤篤太郎の識語。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のコマ目の見開きの右頁)

■翻刻1(一行字数も合わせた原本そのまま。二箇所に解れたポイント落ちの行間添書きは原典では朱書でもっと下部にある。「品ニ」は抹消字(衍字を二つの「ヽ」と二重線で消したもの)と判断した

翻車考一篇ハ德川幕府ノ醫官、瑞仙院法印栗本丹洲ノ

所著ニ乄實ニソノ自筆原稿也。まんぼう一名うききハ古來之ヲ

楂魚ニ充テタルモ丹洲ハ新ニ之ヲ飜車ト考定セリ。

此原稿ハ丹洲ノ外孫、孟鴻大淵常範ノ舊藏ニ乄大淵文

庫ノ藏書印アリ。其後曲直瀨愛ノ所有ニ帰シ、明治十五年

四月十六日、東京上野不忍生池院ニ於テ家主父錦窠伊藤圭介

先生八十賀壽賀耋筵會開催ノ際席上ニ陳列セリ。曲直瀨愛ノ出品ニ

品ニ係ル。ソノ解題ニ曰、『栗本丹洲叟和漢諸當テ引證シテ「マンボウ」ヲ

翻車〔魚〕ニ充ツルノ説ニ乄自ラ丹青ヲ施セシ原本ナリ。元ト大淵氏ノ所

藏ニ係ルト云フ』トアリ。愛ハ秋香園ト號シ幕府醫官養安院法眼曲直

瀨直(號摂菴)ノ男ナリ。此書五十四年ノ後、今玆、余ノ架藏トナル誠ニ奇也ト謂フベシ。

 追考スルニ此書内表紙曲直瀨愛藏書印ノ上ニ「飜車考」ノ

  昭和十年八月七日 七十一齡 伊藤篤太郎識

 三字ハ愛ノ筆ナリ

 

■翻刻2(カタカナは概ね、ひらがなに代え、約物を正字化、読点や記号を追加(抹消部は除去)、さらに送り仮名の一部も出して、連続すべき箇所をジョイントした(一部は改行した)。朱書の添書きは最後に本文と同ポイントにして纏めた。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添え、読み易さを考えて添えた字は〔 〕で示した)

 「翻車考」一篇は、德川幕府の醫官、瑞仙院法印栗本丹洲の所著にして、實(じつ)に、その自筆原稿也(なり)。「まんぼう」、一名、「うきき」は、古來、之れを「楂魚」に充(あ)てたるも、丹洲は新たに之れを「飜車」と考定(かうてい)せり。

 此の原稿は丹洲の外孫、孟鴻大淵常範の舊藏にして、「大淵文庫」の藏書印あり。其の後、曲直瀨愛(まなせめぐむ)の所有に帰(き)し、明治十五年四月十六日、東京上野不忍生池院に於いて、家主(いへあるじ)〔の〕父、「錦窠(きんか)伊藤圭介先生八十賀壽賀耋筵會(てつえんくわい)」開催の際、席上に陳列せり。曲直瀨愛の出品に係る。その解題に曰く、

『栗本丹洲叟、和漢、諸(もろもろ)、當りて引證(いんしやう)して、「マンボウ」を「翻車〔魚〕」に充(あ)つるの説にして、自(みづか)ら丹青を施せし原本なり。元(も)と、大淵氏の所藏に係ると云ふ。』

とあり。

 愛は秋香園と號し、幕府醫官、養安院法眼(ほうげん)曲直瀨直(まなせなほし)(號、摂菴。)の男なり。此の書、五十四年の後、今、玆(ここ)に、余の架藏となる。誠に奇也(なり)と謂ふべし。

  昭和十年八月七日 七十一齡 伊藤篤太郎識

 

追考するに、此の書、内表紙、曲直瀨愛藏書印の上に〔ある〕「飜車考」の三字は、愛の筆なり。

 

[やぶちゃん注:「瑞仙院法印栗本丹洲」「瑞仙院法印」栗本丹洲は天保元(一八三〇)年一月に幕医の最高位である法印(近世には上位の公的に認められた医師に僧位が与えられた)に叙せられ、「瑞仙院」と号した。彼の戒名は「瑞仙院樂我居士」である。

「うきき」古くからのマンボウの異名で特に東北地方で呼ばれる。「うきぎ」とも。「浮木(魚)」の意と思われ、動作の緩慢なマンボウが弱ったりして海面に浮いたり、横たわっているのを見て名づけられたものであろう。

「楂魚」「楂」は「筏(いかだ)・浮き木」の意で、現代中国語でも、異名としてマンボウを指すようである(正式には丹洲が支持した「翻車魚」で、他に「翻車魨」「曼波魚」「頭魚」とも称する)。但し、紡錘形の魚類が、弱って水面に浮いていれば、浮き木のようだし、カツオ辺りは釣り上げられたそれは、まさに浮き木の丸太みたようなものではある。そもそも、丹洲に先行する、医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」(李時珍の「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの)では、

   *

楂魚【訓宇岐岐】

釋名【此魚無名字故據俚語製字楂者浮木也】

集解常奥海濵采之狀類海鰩大者方一二丈小者五六寸無鱗色白性愚不知死漁人遇江上則懸長釣而留使魚不能動躍用小刀割魚背取白腸而歸其腸長丈餘呼號百尋其肉味亦不惡小者海俗食之稱佳而下品然肉易餒敗不能經時故漁人不采肉而去其腸作作糟或乾曝而鬻之國守亦貢獻之

氣味甘溫無毒主治專宜癰疽瘰癧之類癰疸全不食者用未醬而煎之食肉啜汁則必進食

   *

□やぶちゃんの書き下し文

楂魚【「宇岐岐(うきき)」と訓ず。】

釋名【此の魚、名字、無し。故に俚語によりて、字を製す。「楂」は「浮き木」なり。】

集解常・奥の海濵、之れを采る。狀(かたち)、海-鰩(えい)の類にして、大なる者、方、一、二丈。小なる者、五、六寸。無鱗。色、白く、性、愚にして死ぬるを知らず、漁人、江上に遇ふときは、則ち、長釣(ながばり)を懸けて留(とど)む。魚をして動躍(どうやく)すること、能はず。小刀を用ひて、魚の背を割(さ)き、白き腸(はらわた)を取りて歸る。其の腸、長(た)け丈餘、呼びて、「百尋(ひやくひろ)」と號す。其の肉味も亦、惡しからず。小なる者は、海俗、之れを食ひて、佳(よ)しと稱すれども、下品なり。然れども、肉、餒敗(だいはい)し易く[やぶちゃん注:腐り易く。]、時を經ること能はず。故に、漁人、肉を采(と)らずして去る。其の腸(はらわた)、(しほづけ)と作(な)し、糟(かすづけ)と作し、或いは乾し曝して之れを鬻(ひさ)ぐ。國守も亦、之れを貢獻す。

腸(はらわた)氣味甘溫、無毒。主治專ら、癰疽・瘰癧の類ひに宜(よろ)し。癰疸にて全く食せざる者は未醬(みそ)を用ひて之れを煎じて、肉を食ひ、汁を啜るときは、則ち、必ず、食を進む。

   *

とあるのである。……この「本朝食鑑」の記載、愚鈍で動きが鈍い、入り江に入って来て逃げることもなく、死ぬのも知らぬ阿呆で、容易に漁師につかまってしまう、白い肉、何より腸を「百尋」など呼ぶのは、うん、確かに「マンボウ」ではある……あるが……はて……「海-鰩(えい)の類にして、大なる者、方、一、二丈。小なる者、五、六寸。無鱗」?……マンボウ、入り江なんかに入ってくるかぁ?……って感じませんか?

 さてもそこで次に、私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(正徳二(一七一二)年自序だからやはり本「翻車考」よりも百年も前)の「楂魚」をどうしても見て貰いたいのである。「うきゝ」「まんぼう」とある。解説は「本朝食鑑」と非常によく似ている(参考にした可能性が高い)。しかしだ! そこの掲げられた絵は「マンボウ」には見えない。巨大な「エイ」なのだ! しかし、この絵、凝視していると、形がマンボウそっくりなのだ!(当該図をいじってエイがマンボウに変わる実験も稚拙だがやってあるので是非見られたい) 実は「和漢三才図会」の本文も『狀、鱝(えい)に類して方にして、故に満方魚と名づく』とやらかしちゃってるんだ!

 この二つの先行する解説と良安のトンデモ絵を見た丹洲が、軟骨魚類を親しく観察して描いてきた丹洲が、

――「こんなものはマンボウじゃない! エイだよ! エイ!」

と怒り狂って叫ぶのは目に見えているではないか!

 だからこそ、丹洲はこの書を認(したた)め、

――「楂魚」はマンボウに非ず! マンボウは本草書に出る「飜車」に比定すべき!

としたのであったと私は思うのである。

「考定せり」考証して、誤った漢名を廃し、改めて正しい漢名を比定同定した。

「丹洲の外孫、孟鴻大淵常範」(おおぶちつねのり 文化一三(一八一六)年~明治二二(一八八九)年)は丹洲の孫で本草学者。「孟鴻」(もうこう)は字(あざな)で通称を祐玄(ゆうげん)と称した。父は丹洲の次子友玄であったが、彼は大淵家に養子に入った(だから「外孫」但し、この語は正確には他家に嫁いだ娘が生んだ子を指す)。本草学を栗本丹洲に学び、同じく幕府医官となって、元治元(一八六四)年には侍医法眼を授けられた。明治一五(一八八二)年には他の医師らとともに「和漢医学講究所」に於いて「温知社薬物会」を開いている。以上は「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の彼の著作「麞麝考」(しょうじゃこう:鹿の一種である麞(のろ/くじか:哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus/ノロジカ族キバノロ属キバノロHydropotes inermis chinese)と麝(じゃこうじか:反芻亜目真反芻下目亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus)に就いて和漢の諸書に見える記述を博捜した考証書。漢文久三(一八六三)年頃刊か)の備考に拠った。

「曲直瀨愛(まなせめぐむ)」生年は嘉永四(一八五一)年で、江戸生まれ。明治二一(一八八八)年没。本草学と英語を修めたと、所持する「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の「栗本丹洲」の脚注にある。伊藤は最後に「愛は秋香園と號し、幕府醫官、養安院法眼(ほうげん)曲直瀨直(まなせなほし)(號、摂菴。)の男なり」(「なほし」の読みは「めぐむ」に合わせて推定で訓読みした)と記しているが、実は彼の事蹟は殆んど判っていないようである。友田清彦論文明治初期の農業結社と大日本農会の創設(1)――東洋農会と東京談農会――(PDF)が数少ない彼の事蹟を捉えた記載で、それによれば、その特異な姓から、『戦国から安土桃山時代の著名な医家曲直瀬道三の系譜を引くのであろうか。曲直瀬姓は代々医家の家系で、幕末には曲直瀬篁庵が医家・本草家として活躍している。曲直瀬は』『静岡県士族であり、その名が『官員録』に登場するのは、管見の限りでは』明治一三(一八八〇)年『からである。すなわち、この年、内務省勧農局御用掛准判任として曲直瀬の名が見られるが、すでにその前年の』明治十二『年に刊行された内国勧業博覧会事務局発行の『明治十年内国勧業博覧会列品訳名』『は曲直瀬愛等編となっているので これ以前から雇等として官辺にあった可能性もある』。明治十四年から同十八年『まで農商務省農務局御用掛准判任を勤め』、明治十九年に農商務省農務局五等属となった。同年』十二『月改正『職員録』の農商務省には曲直瀬の名は見られない。農務局在職中の』明治十六年には我が国最初の昆虫採集保存法の単行本「採蟲指南」を『有隣堂から刊行しており、さらに』明治二〇(一八八七)年にも、「日本柑橘品彙図解」を『公にしている』ほか、島田豊纂訳「和訳英字彙 附音插図」(一八八八年)や、田中芳男・小野職愨撰「有用植物図説」(一八九一年)の『校訂なども行っている』。ともかくも、彼は『旧幕臣のテクノクラートである可能性が大きい』とある。なお、彼の著作とされる「採蟲指南」(立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)であるが、先の「彩色 江戸博物学集成」脚注には、これは実は曲直瀬が書いたものではなく、『田中善男の著といわれる』とあることを言い添えておく。

「明治十五年」一八八二年。

「東京上野不忍生池院」台東区上野公園の不忍池にある寛永寺弁天堂のこと。寛永寺直末として天龍山妙音寺生池院という別号も名乗っていた。

「家主(いへあるじ)〔の〕父」前に注した通り、伊藤篤太郎の父親は、本草学者伊藤圭介(後注参照)の弟子で、圭介の娘婿となった伊藤(中野)延吉であるから、伊藤家の形の上での家主で父権を握っていたのは伊藤圭介であったから、この謂いは頗る腑に落ちる。

「錦窠(きんか)伊藤圭介」(享和三(一八〇三)年~明治三四(一九〇一)年)は幕末から明治期に活躍した理学博士。ウィキの「伊藤圭介によれば、『「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作った事でも知られる。尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)出身。名は舜民、清民。字は戴堯、圭介』、「錦窠」は号。『町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ』、文政三(一八二〇)年に『町医の資格を得て開業』するも、翌年には『京都に遊学し、藤林泰助より蘭学を学ぶ』。文政一〇(一八二七)年、『長崎にてシーボルトより』、『本草学を学ぶ。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの』「日本植物誌」を受け取ると、これを翻訳して、文政十二年に「泰西本草名疏」として刊行している。嘉永五(一八五二)年、『尾張藩より種痘法取調を命ぜられ』る。文久元(一八六一)年、『幕府の蕃書調所物産所出役に登用される』。明治三(一八七〇)年、『名古屋を離れて東京に移り住み、明治政府に仕え』、明治一四(一八八一)年、『東京大学教授に任ぜられ』、明治二一(一八八八年)には『日本初の理学博士の学位を受けた。また初代の東京学士会院会員となった』とある。この「錦窠伊藤圭介先生八十賀壽賀耋筵會(てつえんくわい)」(「耋」は「年寄り」の意で、特に八十歳の人を指す。所謂、「傘寿」の祝いの宴会である)の折りの内容や言祝ぎの集成が、国立国会図書館デジタルコレクションの錦窠翁耋筵誌 本日寄贈ノ書並出品解説)」の画像で視認出来る。残念ながら、この「巻二」には本書は入っていない。「巻一」に載るのかも知れぬが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像には「巻一」は、これまた、残念ながら、ないのである。

「丹青」丹精。

「五十四年の後」数え。

「昭和十年」一九三五年。]

 

2015/05/28

本朝食鑑 鱗介部之三 田螺

田螺〔訓多仁之〕

釋名螭螺〔源順曰田中螺其有稜者謂之螭螺〕

集觧田蠃生水田小川及池瀆岸側其殻蒼黒類

海螄有旋文大者如大海螄小者如小螭螺其肉

頭黒身白至三四月膓内抱子一箇有三五子而

細小其形全不減母形子長則母半出殻子隨母

出而蠢于泥中農家児女采之鬻市或春初采水

田放之家庭池經一両月食之則肉脆無泥味最

爲佳大抵采之放清水盤中而養者經一両日則

無泥而味亦美矣食之煮熟和葫蒜味醬作茹或

浸椒醬以煮乾食又擊破尾尖拔去尾膓以味醬

汁而烹熟之吸食其肉烹煮之際有火之大過不

及則令殻肉相粘涸雖極力而吸之終不能出也

此俗號吸壷庖人常誇此法者也

氣味甘寒無毒〔畏麝香葱韮之類故今和葫蒜而食之則妄不通利乎最惡温也〕

主治去腹中結熱利小便赤澁消手足浮腫取

水搽痔瘻體氣

附方小便不通〔小腹急痛用大田螺大蒜車前子各等分麝香少許搗膏攤貼臍上下則通〕小児白禿〔用大田螺生鷄腸草各等分白鹽少許搗膏和調先以木片摺起患處而抹之及二三度竟痊〕

 

○やぶちゃんの書き下し文

田螺〔多仁之(タニシ)と訓ず。〕

釋名 螭螺(チラ)〔源順が曰く、田中の螺。其の稜(かど)有る者、之れを「螭螺」と謂ふ。〕

集觧 田蠃(でんら)、水田・小川及び池瀆(ちとく)の岸側に生ず。其の殻、蒼黒、海螄(カイシ)に類して、旋文(せんもん)、有り。大いなる者は大海螄のごとし。小さきなる者は小螭螺のごとし。其の肉、頭は黒く、身、白し。三、四月に至りて、膓の内、子を抱く。一箇に三、五の子、有りて、細小なり。其の形、全く母の形を減せず。子、長ずる時は則ち、母、半ば殻を出づ。子、母に隨ひて出でて泥中に蠢(うごめ)く。農家の児女、之れを采りて、市に鬻(ひさ)ぐ。或いは春初め、水田に采る。之を家庭の池に放ち、一両月を經て、之れを食する時は、則ち、肉、脆(もろ)くして泥味無く、最も佳なりと爲す。大抵、之れを采りて清水盤中に放ちて養ふこと、一両日經(ふ)る時は、則ち、泥、無くして、味も亦、美なり。

 之れを食するに、煮熟(しやじゆく)して、葫蒜(にんにく)・味醬(みそ)を和し、茹(ゆでもの)と作(な)し、或いは椒醬に浸して以つて煮、乾(かは)かして食す。又、尾尖を擊ち破り、尾膓を拔き去りて味醬汁(みそしる)を以つて之れを烹熟し、其の肉を吸ひ食す。烹(た)き煮の際、火の大過・不及有る時は、則ち、殻・肉をして相ひ粘涸(ねんこ)せしむれば、力を極めて之れを吸ふと雖ども終に出づること能はざるなり。此れを俗に吸壷(きうこ)と號す。庖人(はうじん)、常に此の法に誇る者なり。

肉 氣味 甘、寒。毒、無し。〔麝香(じやかう)・葱・韮の類を畏る。故に今、葫蒜(にんにく)に和して之を食する時は、則ち、妄りに通利せざるか。最も温を惡む。〕 主治 腹中の結熱を去り、小便の赤澁を利し、手足の浮腫を消す。水を取りて痔瘻・體氣(たいき)に搽(た)する。

附方 小便通ぜず〔小腹、急痛、大田螺・大蒜・車前子、各々等分、麝香少し許りを用ひて、膏に搗き、臍の上下に攤(ひろ)げ貼(てん)する時は、則ち通ず。〕。小児の白禿(しらくも)〔大田螺・生の鷄腸草、各々等分、白鹽少し許りを用ひ、膏に搗き、和し調じ、先づ木片を以つて、患の處を摺り起こして、之れを抹すること、二、三度に及びて竟に痊(い)ゆ。〕

 

□やぶちゃん注

 タニシは腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称。本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する。各四種の解説と卵胎生については私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」の注を参照されたい。

・「螭螺」不詳。順(したごう)が「和名類聚鈔」でなぜこの奇体な熟語を持ち出しているのかがまず不審である。本草書類にはこの語は見かけない。なお、「螭」の原義は角のない黄色い小さな龍或いは龍の子の意である。海岸で採取される螺塔の高いカニモリガイのようなものか。しかしだとすると、海螺(ウミニナ)に似ていると言った方がピンとくるのだが、これは川螺(カワニナ)との近似性を嫌った謂いか。にしても、後の「小さきなる者は小螭螺のごとし」というのはこの自己同一性とは矛盾するものである。順には悪いが、形は小さな時は「小螭螺」に似ているのであって、あくまで中国本草書では「螭螺」はタニシではないことは明白である。

・「池瀆」池や田圃の水路(溝)のこと。「説文解字」の「溝」の項「水瀆(スイトク)なり。廣さ四尺、深さ四尺なり」(漢代の一尺は二十三~二十四センチメートルであるから、幅・水深ともに九十二~九十六センチメートル程)とある。

・「田蠃」「蠃」は「螺」に同じい。

・「海螄」現在知られる種では、かの美事な形状を示す腹足綱翼舌目イトカケガイ上科イトカケガイ科Epitonium 属オオイトカケ Epitonium scalare に中国語で「綺螄螺」に名が与えられており、イトカケガイ科 Epitoniidae 自体を漢名で「海螄螺科」と称していることが分かった。大きく発達した縦肋を無視すれば、巻きの感じは確かに似ていないとは言えない。ここはバイのような海産の螺塔が高くどっしりとした巻貝を指すか。

・「椒醬」不詳。山椒の塩漬けか?

・「通利」漢方では血液などの通りを良くする法を指すが、ここはどうも、効果が期待されるべき状態よりも過剰に発し、逆によろしくなくなることを言っているらしい。

・「赤澁」尿が強い黄赤色を呈することらしい。これは私のA型急性肝炎罹患の経験上(γGTP二千振り切れ)、黄疸症状によって赤血球が多量に尿に混入している状態をいうと考える。

・「體氣」東洋文庫の島田氏の訳では体臭を指すとする。

・「搽(た)する」摺りつける、塗る。

・「車前子」シソ目オオバコ科オオバコ Plantago asiaticaの成熟種子を乾燥させたものを言う。消炎・利尿・止瀉作用を持ち、牛車腎気丸・竜胆瀉肝湯などに配合される、とウィキの「オオバコ」にある。

・「白禿」「白癬」「白瘡」とも書く。主に小児の頭部に大小の円形の白色の落屑(らくせつ)面が生ずる皮膚病で、主に真菌トリコフィトン(白癬菌)属 Trichophyton の感染によって起こる。掻痒感があり、毛髪が脱落する。頭部白癬。ケルズス禿瘡(とくそう)。ウィキの「白癬」に、『毛嚢を破壊し難治性の脱毛症を生じるものはケルズス禿瘡と呼ばれる。Microsporum canisTrichophyton verrucosumが原因の比率が高いため、猫飼育者・酪農家は注意が必要。その他、Trichophyton rubrumTrichophyton mentagrophytesTrichophyton tonsuransがある』とある。

・「鷄腸草」キク亜綱キク目キク科ヤブタビラコ属コオニタビラコ Lapsana apogonoides と思われる。タビラコ(田平子)やホトケノザ(仏の座)とも称し、春の七草の一つとしても知られる。若い葉は食用となる。島田氏もタビラコ(コオニタビラコ)に同定されておられるが、ネット上では同じ春の七草の、ナデシコ亜綱ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属 Stellaria のハコベ類とする記載も多い。

 

□やぶちゃん現代語訳

田螺〔多仁之(タニシ)と訓ずる。〕

釋名 螭螺(チラ)〔源順(みなもとのしたごう)が曰く、『田の中の螺貝。それに稜(かど)がある者、これを「螭螺」という。』と。〕

集觧 田蠃(でんら)は水田・小川及び池や田圃の水路の岸近くに棲息する。その殻は蒼黒く、海螄(カイシ)に類しており、渦を巻いたようなはっきりとした紋様を有する。大きな個体は大きな海螄に似ている。小さな者は小さな螭螺といった感じである。その肉は出張っている頭部は黒く、後に続く身の部分は白い。三、四月になって、腸(はらわた)の内部に子を抱(いだ)く。一個体に三、五の子があって頗る小さいものである。しかし、その形は全く以って母貝の形と何ら変わらない。子はそれより暫く成長すると、母貝の体内を有意に占有する結果、母貝は半分、殻の外に出てしまっている。そうなると、子は母に随伴しつつ、結果、そこから出でて泥の中に蠢(うごめ)くようになる。農家の児女はこれを採取して、市に持っていては売る。また、或いは、春の初めに水田に於いて採取した上、これを家の庭にある池に放って、一、二箇月を経て、これを食する時には、則ち、肉がいい塩梅に柔らかくなっており、泥臭さもなくて最も佳品であるとする。大抵のものは、これを採取し、清い水を湛えた水盤の中に放って飼うこと、一日、二日を経た頃には、則ち、すっかり泥を吐いてなくなっており、味もこれまた、よい。

 これを食する際には、よく煮て、大蒜(にんにく)・味噌を和し、茹でたものに誂えたり、或いは山椒の塩漬けの中にこれを浸(ひた)し漬けた上で煮(に)、それをその後、乾かして食べる。まら、尾の尖った部分を打ち破り、そこから出た尾の腸(はらわた)を綺麗に除去した上、味噌汁を以って之れをまたことこと煮た上、その肉をやおら吸い食うのである。煮焚きするの際、その火が強過ぎたり、反対に小さ過ぎた場合には、則ち、殻・肉とをこれ、すっかり粘り附かせてしまうことになるので、力を込めて、盛んにこれを吸おうとしたとしてもこれ、ついに殻から吸い出すことは出来なくなってしまう。この文字通りの微妙に手間の掛かる「吸い物」として調製する仕方を、俗に「吸壺(きうこ)」と称している。料理人は常に、この調理法の巧みに仕上げることを誇りとしている。

氣味 甘、寒。毒はない。〔麝香・葱・韮の類いとはこれ、頗る相性が悪い。それゆえに今、大蒜に和してこれを食べるのであるけれども、この合わせ方を用いると、無暗な通利を生ぜさせずに済むものか。何よりも、最も温の属性を持つものを憎み、甚だ相性が悪い。〕

主治 腹の中に凝り結んでしまった潜熱をすみやかに去らせ、赤みを帯びた病的な小便の状態に効果が見られ、手足の浮腫を消す。水を取って痔瘻や人に不快感を与えるような激烈な体臭を呈している者に、これを患部や強烈に臭いを発する患部に塗る。

附方 小便の出が頗る悪い症状〔さらに小腹に急な激しい痛みが襲った際には、大田螺・大蒜(にんにく)・車前子(しゃぜんし)をそれぞれ等分、それに麝香少しばかりを混じ用いて、軟膏状になるまで搗(つ)き、臍(へそ)の部分の上下の箇所に広げて貼りつけた折りには、これ則ち、美事に通便する。〕。小児の白禿(しらくも)〔大田螺・生(なま)の鶏腸草(けいちょうそう)をそれぞれ等分、それに白塩少しばかりを調合して、やはり軟膏様(よう)に搗き、さらにそれらが均一によく調和するように練った上、まず、木片を以って、その白禿(しらくも)の患部の部分を万遍なく、深からず浅からず。きゅつきゅつと表面を摺り起こして、やおら、これをそこに塗(まぶ)すことをこれ、二、三度繰り返し行えば、遂には病いはぴたりと癒えるのである。〕

2015/05/22

「本朝食鑑」の「海鼠」に「華和異同」を追加

 

遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。まず「海鼠」から。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。以下の他項目(「老海鼠」「海月」「烏賊」。「海馬」には「華和異同」がない)の追加分は既記事に追加する形のみ示す。

◆華和異同

□原文

  海鼠

崔禹錫食經曰海鼠似蛭而大者也李東垣食物本

草曰海生參東海海中其形如蠶色黒身多瘣※一

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]

種長五六寸表裏俱潔味極鮮美功擅補益殽品中

之最珍者也一種長二三寸者割開腹内多沙雖刮

剔難盡味亦差短今北人又有以驢皮及驢馬之陰

莖贋爲狀味雖略同形帯微扁者是也謝肇制五雜

俎曰海參遼東海濱有之一名海男子其状如男子

勢然淡菜之對也其性温補足敵人參故曰海參按

俱是爲今之海鼠者無疑東垣初言五六寸者今之

生海鼠乎後言二三寸者今武相江上多者乎東垣

能知二者有別謝氏亦能知其佳然不言其腸者爲

恨耳近有以土肉爲海鼠者此亦相似御覧臨海水

土物志曰土肉正黒如小児臂大長五寸中有腹無

口自有三十足如釵股大中食是郭璞江賦所言者

乎南産志有沙蠶土鑽是亦此類耶 

□やぶちゃんの書き下し文

  海鼠

崔禹錫が「食經」に曰く、『海鼠、蛭に似て大なる者なり』と。李東垣が「食物本草」に曰く、『海參は東海海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとし。色、黒く、身に瘣※(いぼ)多し[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]。一種、長さ五、六寸、表裏俱に潔く、味はひ、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしひまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍なる者なり。一種、長さ二、三寸の者は、割り開きて、腹内、沙、多くして、刮剔(くわつえき)すと雖も、盡き難く、味も亦、差(やゝ)短し。今、北人、又、驢(ろば)の皮及び驢馬の陰莖を以つて贋して狀(かたち)を爲すこと有り。味はひ、略(ほゞ)同じと雖も、形、微(いささ)か扁(へん)を帯ぶる者、是れなり。』と。謝肇制(しやてうせい)が「五雜俎」に曰く、『海參は遼東海濱に之れ有り、一名、海男子、其の状(かたち)、男子の勢のごとし。然も、淡菜の對(つゐ)なり。其の性、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。』と。按ずるに、俱に是れ、今の海鼠と爲る者、疑ひ無し。東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか。東垣、能く二つの者の別有ることを知る。謝氏も亦、能く其の佳なることを知る。然れども其の腸(わた)を言はざる者(こと)を恨みと爲すのみ。近ごろ、土肉を以つて海鼠と爲(す)る者、有り。此れも亦、相ひ似たり。「御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は正黒、小児の臂(ひぢ)の大いさのごとし。長さ五寸、中に腹、有り。口、無し。自(おのづか)ら三十足有りて、釵股(さこ)の大いさのごとく、食に中(あ)つ。』と。是れ、郭璞が「江賦」に言ふ所の者か。「南産志」に沙蠶(ささん)・土鑽(どさん)有り。是れも亦、此の類か。

□やぶちゃん注

・『崔禹錫が「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・『東垣が「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。

・「刮剔」掻き抉り取ること。

・『謝肇制が「五雜俎」』謝肇淛「五雜組」が正しく、「せい」は「せつ」とも読む。明末の文人官人であった謝肇淛(一五六七年~一六二四年)の随筆集。全十六巻。天・地・人・物・事の五部に分けて古今の文献や実地見聞などに基づいた豊富な話題を、柔軟な批評眼で取り上げている。特に民俗に関するものには興味深いデータが多く、本邦でも江戸時代に広く愛読されて一種の百科全書的なものとして利用された。謝は有能な行政官でもあり、多才な詩人でもあった。「五雑組」とは五色の糸で撚(よ)った巧みな美しい組み紐の意である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「勢」陰茎。

・「淡菜」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus 。女性の会陰に酷似していることで知られる。古来、海鼠を東海男子と別称したのに対し、胎貝(いがい)は東海夫人と呼称された。私の毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)武蔵石寿「目八譜」東開婦人ホヤ粘着ノモノの図を参照されたい。

・「東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか」人見は海鼠をその大きさで別種と判断していることが見てとれる。無論、これらはマナマコ Apostichopus armata 或いはアカナマコ Apostichopus japonicas であって別種ではない。

・「御覧」「太平御覧」宋の類書(百科事典)。李昉(りぼう)ら十三名の手に成り、全千巻に及ぶ。太祖の勅命により六年を費やして太平興国八(九八三)年に成った宋代の代表的類書である。内容は天・時序・地・皇王に始まる五十五部門に分類され、各部門がさらに小項目に分けられて各項目に関連する事項が古典から抜粋収録されている。

・「臨海水土物志」「臨海水土異物志」。三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の書いた浙江臨海郡の地誌。世界最古の台湾(原典では「夷州」)の歴史・社会・住民状況を記載するという(但し、この比定には異議を示す見解もあるようである)。

・「釵股」刺股/指叉(さすまた)。U字形の鉄金具に二~三メートルの柄をつけた金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる警棒。先端金具の両端及びその下部の柄の付根附近には棘(返し)が出ており、それらが黒色で、そうした先頭部が如何にも海鼠然としている。U字部分は或いは口辺部の触手をイメージして似ていると言っているもので、ここは柄を外した先端の金具部分をのみ想起すべきところである。

・「南産志」「閩書(びんしょ)南産志」。南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる地誌で、現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作。

・「土肉」ナマコと同義。大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」の私の注を参照のこと。

・「沙蠶(ささん)」は漢籍ではゴカイ一般を指す。

・「土鑽(どさん)」同じくゴカイの仲間か、或いは、環形動物の一種と思われる。海底或いは潮間帯の泥土に穴を穿って住むの謂いだからね。  

 

□やぶちゃん現代語訳

  海鼠

 崔禹錫(さいうしゃく)の「食経(しょくけい)」に曰く、『海鼠は蛭(ひる)に似て大きなものである』と。李東垣(りとうえん)の「食物本草」に曰く、『海参は東海の海中に棲息する。その形は、蠶(かいこ)のようである。色は黒く、体中に疣(イボ)が多くある。一種に、長さが五、六寸で、表裏ともに砂泥等を附着しない至って清澄なものがおり、その味わいは、極めてすっきりとして美味い。その効用としては、自由自在に補益を促す。酒の肴の中では最も珍味なるものである。一種に、長さ二、三寸の者があるが、これは身を立ち割って開いてみると、腹中に多量の砂を含んでいて、どんなにそぎ落とし、抉り出してみても、身のあらゆる部分に砂が入り込んでいて取り尽くすことが難しく、味もまた、やや劣る。現在、内陸の北方の人々は、また、驢馬の皮及び驢馬の陰茎を用いて、贋物(にせもの)を作り、干した海鼠そっくりの形状に真似ることがある。味わいはほぼ同じであっても、形がいささか偏平に見える干し海鼠は、この贋物である。』と。謝肇制(しゃちょうせい)の「五雑俎」に曰く、『海参は遼東地方の海浜に棲息しており、一名、海男子と称し、その形状はまさに男性の陰茎にそっくりである。まさに女性の会陰と酷似する淡菜と一対をなすものである。その性質は温補で、漢方に於ける妙薬たる朝鮮人参に匹敵する効果を十分に保持している。ゆえに「海参」と称する。』と。按ずるに、「食経」「五雑俎」の記載はともにこれ、現在の海鼠とするものと考えて間違いない。「食物本草」の最初の部分で東垣が言っている五、六寸のものというのは現在の一般的な海鼠であろうか? また、その直後に記すところの二、三寸なるものという有意に小さなものは、現在、武州や相州の入り江に多く産する別種の海鼠を指すものであろうか? 東垣は、よく、この酷似した二つの種が別種であるということを認識している。謝氏もまたよく、海鼠の美味であることを認識している。しかれども、彼ら二人が、文字通り肝心の、その珍味なるところの腸(はらわた)について、一切言及していない点、これ、甚だ遺憾と言わざるを得ない。なお、近頃、「土肉」を以って「海鼠」であると記すことがある。これもまた、相い似たものである。「太平御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は真っ黒で、小児の臂(ひじ)ぐらいの太さを呈するものである。長さは五寸、体内に腹部が存在する。しかし口はない。体部から生えた三十本の足があって、まさに刺股(さすまた)の先端の金具ほどの大きさであって、食用に当てる。』と、ある。これはかの郭璞の「江賦」に詠まれたところの海鼠の仲間なのではなかろうか? 「閩書南山志」に「沙蠶(ささん)」・「土鑽(どさん)」という記載がある。これもまた、やはり海鼠の仲間なのではなかろうか?

2015/05/04

本朝食鑑 鱗介部之三 烏賊魚

烏賊魚〔訓伊加〕

釋名烏鰂〔源順曰烏賊並從魚作鰞※※亦作鰂

[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「賊」。]

時珍曰羅願爾雅翼云九月寒烏入水

化爲此魚有文黒可爲法則故名烏鰂鰂者則也

蘓頌曰南越志云其性嗜烏毎自浮水上飛烏見

之以爲死而啄之乃卷取入水而食之因名烏賊

言爲烏之賊害也或曰此魚水中逐小魚小魚疾

走不能捕之乍出腹中之黒汁令水溷黒則

小魚昏迷不動因食之故曰烏賊諸説未詳

集觧江海處處毎采之自春二三月至秋七八月

最多冬月亦有矣形如小嚢口在腹下足上眼在

口上八足聚繞口之旁其八足交腿之中閒有白

皮包雙黒骨如菱實之小或似小烏小鳶故俗號

鳶烏略與章魚同有白鬚長過尺全體俱着淡黒

薄皮皮上有斑肉白如銀味甚淡美背上有一甲

骨狀如児戯之小舟又似若葉外如鮫皮之白沙

内似刮燒塩之塊重重有紋即是海螵蛸也烏賊

腹有黒汁而如墨淋古人所謂烏賊之血味亦美

也常噀腹墨令水溷黒自衛以防人害然漁人識

而網采漁童尖利竹梢自岸上窺而刺之又鰂好

食小鯷及蛤蝦故作餌而釣之一種有泥障烏賊

者腹背如障泥比常之烏賊則稍廣大而肉軟味

亦勝美

氣味甘鹹平無毒主治益胃補肝通婦人月經

療小児雀目今俗所謂性温動熱患諸瘡之人固

禁不食是有所試歟有所據歟未詳若謂動風氣

則呉瑞日用之説也

骨〔即海鰾蛸也俗曰烏賊甲〕氣味鹹微温無毒〔惡白及白歛附子能淡鹽伏磠

縮銀〕主治癨痢聾癭少腹痛眼翳流涙前陰痛腫五

淋小児疳疾婦人肝傷不足血枯血瘕經閉崩帯

令人有子

發明李時珍詳論之謂厥陰血分藥也其味鹹而

走血則厥陰經病竅病無不治之復治肝傷血枯

月事衰少不來等症也予徃年製此方治婦人經

閉海鰾蛸去甲五錢茜草連根一莖細末以雀卵

汁丸小豆大毎五丸以干鮏魚煎汁送下甚得奇

驗本方有鮑魚是未知何之乾魚故以干鮏代之

干鮏性微温能調血本朝自古用婦人血症也詳

見鮏魚條下

附方熱眼赤翳〔攀睛貫瞳及風熱攻眼或血風或流涙不止用烏賊骨黄連黄栢雀

白屎各等分辰砂減半龍脳少計細末和乳汁以鷹羽入眼則癒甚妙〕眼胞生瘡〔烏賊

骨粉黄栢末各等分和以楊梅皮煎汁而點之〕婦人血崩〔海鰾蛸末鹽湯下〕湯火

瘡傷〔烏鰂骨粉爲細末用生薯蕷研碎作粘同和勻傅之〕停耳出膿〔海鰾蛸半錢麝

香一字爲末以蘆管吹入耳中〕趺撲出血〔及金傷血不止用烏賊骨末傅之〕

鯣〔訓須留女〕釋名字書音湯赤鱺也又音亦鱺也然本朝爲乾烏賊者久矣假用者乎宋大

明曰乾者鯗呉瑞曰鹽乾者名明鯗淡乾者名脯

鯗鯗音想乾魚之惣稱也按此鯗者乾烏賊而與

今之鯣同者乎

集觧鯣者用太刀烏賊其腹背狀細長故名之乎

或號筒烏賊此亦據形名之若用尋常之烏賊則

乾肉薄枯色黒味亦短焉太刀者乾肉厚肥色黄

白微赤軟脆而味尚美矣大抵太刀宜乾亦宜鮮

常之烏賊宜鮮不宜乾也古者混稱烏賊延喜式

神祇民部主計等部有若狹丹後隠岐豊後貢烏

賊者是皆今之鯣也近世以自肥之五嶋來爲上

品丹後但馬伊豫次之古來用賀祝之饗膳今亦

然矣源順曳崔氏食經曰小蛸魚訓須留女此亦

同種乎

氣味甘温無毒〔以曝日爲温〕主治患噎膈之人食之則

寛膈進食或強筋骨也

雛烏賊〔訓比伊加〕是烏賊之子也有黒白二種黒者常

之烏賊子白者泥障之子也狀與烏賊同但背骨

細小如芒刺今作羹食其味最美和黒汁及醬而

煮呼號黒煮凡雛多食則動蟲積令人惡心一種

身細小而長如竹管號尺八烏賊是瑣管歟猴染

亦小烏賊歟俱南産志載之

 

□やぶちゃんの訓読文(「泥障烏賊(あおりいか)」とあるのは原文の読み表記のママである。別な読みのない箇所で示したように歴史的仮名遣では「あふりいか」が正しい。)

 

烏賊魚〔伊加(いか)と訓ず。〕

釋名 烏鰂(うそく)〔源順(みなものとしたがふ)が曰く、『烏賊、並びに魚により、鰞※(うぞく)に作る。※も亦、鰂に作る。』と[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「賊」。]。時珍が曰く、『羅願が「爾雅翼」に云く、九月、寒烏、水に入りて化して此の魚と爲る。文(もん)、黒きこと、法則を爲すべく有りて、故に烏鰂と名づく。鰂は則なり。』と。蘓頌(そしよう)が曰く、『「南越志」に云く、其の性、烏を嗜(この)む。毎(つね)に自(おのづか)ら水上に浮きて、飛烏(ひう)、之を見て以つて死すると爲(し)て之を啄む。乃ち、卷き取りて水に入れて之を食ふ。因りて烏賊と名づく。言ふ心は烏の賊害たるなり。』と。或いは曰く、『此の魚、水中、小魚を逐ふ。小魚、疾(と)く走りて之を捕ふること能はず。乍(すなは)ち、腹中の黒汁を出して、水をして溷黒(こんこく)せしむ。則ち、小魚、昏迷して動かず。因りて之を食ふ。故に烏賊と曰ふ。』と。諸説、未だ詳らかならず。

集觧 江海處處毎(ごと)に之を采る。春二・三月より秋七・八月に至るまで、最も多し。冬月も亦、有り。

 形、小嚢(こぶくろ)のごとく、口は腹の下・足の上に在り、眼は口の上に在り、八足、口の旁(かたはら)に聚(あつ)まり繞(めぐ)る。其の八足交腿(かうたい)の中閒、白皮包(はくひはう)の雙黒骨(さうこくこつ)有り。菱の實の小さきなるがごとく、或いは小烏(こがらす)・小鳶(ことび)に似たり。故に俗に鳶烏(とんびがらす)と號す。略(ほゞ)章魚(たこ)と同じ。白鬚有り、長さ尺に過ぐ。全體、俱に淡黒の薄皮を着く。皮の上、斑、有り。肉、白くして銀のごとく、味はひ、甚だ淡美なり。

 背上に一甲骨有り、狀(かたち)、児戯の小舟のごとし。又、若葉に似たり。外(ほか)、鮫皮の白沙のごとく、内(うち)、燒塩(やきじほ)の塊を刮(けづ)るに似て、重重の紋、有り。即ち是れ、海螵蛸(かいひやうせう)なり。

 烏賊の腹に黒汁(こくじふ)有りて墨の淋(そそ)ぐがごとし。古人の所謂(いはゆる)、烏賊の血。味も亦、美なり。常に腹の墨を噀(は)きて水をして溷黒ならしめ自(みづか)ら衛(まも)りて以つて人の害するを防ぐ。然れども漁人、識りて網して采る。漁童(りよどう)、竹梢(ちくせう)を尖利(せんり)して、岸上より窺ひて之を刺す。又、鰂、小鯷(ひしこ)及び蛤蝦(がふか)を食ふを好む故、餌と作(な)して之を釣る。

 一種、泥障烏賊(あおりいか)と云ふ者、有り。腹・背、障泥のごとく、常の烏賊に比すれば、則ち、稍(やゝ)廣大にして、肉、軟らかに味ひも亦、勝れて美なり。

 

肉 氣味 甘鹹(かんえん)、平。毒、無し。 主治 胃を益し、肝を補ひ、婦人の月經を通じ、小児の雀目(とりめ)を療ず。今、俗に所謂、性、温、熱を動かし、諸瘡を患(うれへ)るの人、固く禁じて食せず。是れ、試むる所有るか、據る所有るか、未だ詳らかならず。若し風氣を動かすと謂はば、則ち、呉瑞が「日用」の説なり。

骨〔即ち、海鰾蛸なり。俗に曰く、烏賊の甲。〕 氣味 鹹、微温。毒、無し。〔白及(びやくきふ)・白歛(びやくかん)・附子(ぶす)を惡(い)む。能く鹽を淡くし、磠(すな)を伏(さ)り、銀を縮む。〕 主治 癨痢(くわくり)・聾癭(ろうえい)・少腹痛・眼翳(そこひ)・流涙(りうるい)・前陰痛腫・五淋・小児疳疾。婦人の肝傷、不足血枯、血瘕(けつか)、經閉崩帯。人をして子、有らしむ。

 

發明 李時珍、詳かに之を論じて厥陰血分の藥と謂ふなり。其の味はひ、鹹にして血に走る時は、則ち、厥陰(けついん)・經病・竅病(けうびやう)之を治さざる無し。復た肝傷・血枯・月事衰少不來等の症を治すなり。

 予、徃年、此の方を製して婦人の經閉を治す。海鰾蛸、甲を去つて五錢、茜草(あかねぐさ)の連根一莖を細末し、雀卵汁を以つて小豆の大いさに丸(ぐわん)ず。毎五丸、干鮏(からさけ)の魚煎汁を以つて送下す。甚だ奇驗(きげん)を得たり。本方には鮑魚と有るも、是れ、未だ何の乾魚(ほしうを)と云ふを知らず。故に干鮏を以つて之に代ふ。干鮏、性、微温、能く血を調ふ。本朝、古へより婦人の血症に用ゐるなり。詳らかに鮏魚の條下に見へたり。

 

附方 熱眼赤翳〔睛(せい)を攀して瞳を貫き、及び風熱、眼を攻め、或いは血風、或いは流涙、止まざるに用ゐ、烏賊骨・黄連(わうれん)・黄栢(わうはく)・雀白屎(じやくはくし)各々等分、辰砂減半、龍脳少し計り、細末して、乳汁に和し、鷹の羽を以つて眼に入る時は則ち、癒ゆ。甚だ妙なり。〕

 眼胞生瘡〔烏賊骨粉・黄栢末各々等分、和するに楊梅皮の煎汁を以つてして、之を點ず。〕

 婦人の血崩〔海鰾蛸末、鹽湯にて下(のみくだ)す。〕

 湯火瘡傷〔烏鰂骨粉、細末と爲さしめ、生薯蕷(せいしよよ)を用ゐて研(す)り碎(くだ)き、粘(ねばり)を作(な)さしめ、同じく和勻(わきん)して之を傅(つ)くる。〕

 停耳、膿、出づ〔海鰾蛸半錢、麝香一字、末と爲して、蘆の管を以つて吹きて耳中に入るる。〕

 趺撲(ふぼく)、血出づ〔及び金傷(かなきず)の血止まざるに、烏賊骨末を用ゐて之を傅くる。〕

 

鯣〔須留女(するめ)と訓ず。〕 釋名 字書、『音は「湯」、赤鱺なり。又、音、亦、「鱺」なり。』と。然れども本朝、乾烏賊(ほしいか)と爲(す)る者、久し。假り用ゐる者か。宋の大明が曰く、乾(ほしもの)は「鯗(せう)」。呉瑞が曰く、『鹽乾(しほぼし)は「明鯗(めいせう)」と名づく。淡乾(あはぼし)の者を「脯鯗(ほせう)」と名づく。』と。「鯗」、音は「想」、乾魚の惣稱なり。按ずるに、此の鯗は乾烏賊にして今の鯣(するめ)と同じき者か。

集觧 鯣は太刀烏賊(たちいか)を用ゆ。其の腹背、狀(かたち)、細く長し。故に之に名づくか。或いは筒烏賊(つゝいか)と號す。此れも亦、形に據(よ)りて之に名づく。若し尋常の烏賊を用ゐる時は、則ち、乾肉、薄く枯れ、色、黒く、味も亦、短し。太刀は乾肉、厚肥、色、黄白に微赤、軟脆(なんぜい)にして、味はひ、尚ほ美なり。大抵、太刀は乾すに宜(よろ)し、亦、鮮に宜し。常の烏賊は鮮に宜し、乾(ほしもの)に宜からず。

 古へは混じて「烏賊」と稱す。「延喜式」の神祇・民部・主計等の部に、『若狹・丹後・隠岐・豊後烏賊を貢する者の有り』と。是れ皆、今の鯣(するめ)なり。近世、肥の五嶋(ごたう)より來たるを以つて上品と爲(な)し、丹後・但馬・伊豫、之に次ぐ。古來、賀祝の饗膳に用ゆ。今、亦、然り。源順、崔氏が「食經」を曳きて曰く、「小蛸魚」を「須留女」と訓ず。此れも亦、同じ種か。

氣味 甘温。毒、無し。〔日に曝すを以つて温と爲す。〕 主治 噎膈(いつかく)を患(うれふ)るの人之を食ふ時は、則ち膈(むね)を寛(ひろやか)にし、食を進む。或いは筋骨を強うす。

 

雛烏賊(ひいか)〔比伊加(ひいか)と訓ず。〕是れ、烏賊の子なり。黒白二種有り、黒き者は常の烏賊の子、白き者は泥障(あふりいか)の子なり。狀(かたち)、烏賊と同じ。但(たゞ)し、背骨、細小にして、芒刺(ばうし)のごとし。今、羹(あつもの)と作(な)して食ふ。其の味はひ、最も美なり。黒汁及び醬を和して煮る。呼びて黒煮(くろに)と號す。凡そ雛(ひな)多く食へば、則ち、蟲積(ちうしやく)を動かし、人をして惡心(おしん)せしむ。

 一種、身、細小にして長く、竹管のごとし。尺八烏賊(しやくはちいか)と號す。是れ、瑣管(さかん)か。猴染(べにいか)も亦、小烏賊(こいか)か。俱に「南産志」に之を載す。

 

□やぶちゃん注

・軟体動物門 Mollusca 頭足綱 Cephalopoda 鞘形亜綱 Coleoidea 十腕形上目 Decapodiformes(シノニム:DecapodaDecembrachiata)のイカ類について、「烏賊」の命名説に始まって博物学的記載、多彩な漢方処方の数々(再度述べておくと作者の人見必大は幕医、それも将軍の主治医である)に加えて、食材としてのイカの調製法から各種イカ類をも別個に記載している。なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「烏賊魚(いか)」及びそれに続く「柔魚(たちいか)」(スルメイカ)の記載も見られたい。

・「鰂」大修館書店「廣漢和辭典」に、音「ソク・ゾク」、『①烏鰂(ウソク)は、いか。=鯽。』とあり、②では「賊」の義とするから、これ自体が既にして「烏賊」と同義であることが分かった。

・「源順が曰く……」以下は「和名類聚抄」。

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烏賊 南越志云。烏賊〔今案、烏賊並從魚、作鰞※。※、又、作鰂。見玉篇。和名「伊加」〕。常自浮水上烏見以爲死啄之乃卷取之故以名之。

[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「賊」。]

   *

以上の通り、後掲される蘇頌の説がほぼそのまま同じように引かれてある。

・『羅願が「爾雅翼」』南宋の羅願(一一三六~一一八四年)が淳煕元(一一七四)年頃に完成させた漢代の字書「爾雅」を補足解釈した訓詁学書であるが、博物学的要素に富む。

・「蘓頌」蘇頌(一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草(ずけいほんぞう)」の作者で(この引用もそれであることが島田氏の訳に示されてある)、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。

・「南越志」中国南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる現在のベトナム北部の地誌。

・「賊害」恐るべき凶悪な天敵という謂いであろう。

・「溷黒」「溷」は混濁の「混」に同じで混じり合って濁るの意。島田勇雄氏はここを『乍(たちま)ち腹中の墨汁を出して溷黒(まっくろ)にし』と当て読みなさっておられる。私にはこの「こんこく」(溷黒)の方が、後の小魚がその「こんこく」の「こんめい」(昏迷)してしまうという部分と響き合っていて、より面白く感じられる。但し、その代り、島田氏はこの引用部の最後の「烏賊と曰ふ」の箇所の「烏賊」に『くろいぞく』というルビを振っておられ、別な意味で遊び心が感じられて微笑ましい。

・「鳶烏」所謂、タコ・イカの顎(あご)或いは顎板(がくばん)の俗称である烏鳶(からすとんび)である。 一般には、その顎板の周囲の筋肉や口球部分を含み、さらにはその二つの顎板を除去したそれらの部位を加工した燻製や珍味の名としても知られる。参照したウィキの「カラストンビ」によれば、『口を前後から閉める位置に1対があり、それぞれ「上顎板」と「下顎板」と呼ばれる。外から見える部分は黒色であるが、奥へ行くにしたがって色が薄くなる。キチン質からなる硬い組織である。この顎板自体は食用に適さないため、カラストンビという名称で売られている加工食品は、顎板を取り除いて周囲の肉のみ食べるか、すでに取り除いて肉のみとなっているかである。ただし、一部の製品によっては製造工程や加工方法を工夫すると顎板自体が煎餅のようにパリパリになることから、その歯ごたえに注目した製品も売られている』。『カラストンビの周りの筋肉は硬いが、かむほどに味が出』るとある。なお、この顎板は種によって異なり、頭足類に於ける種査定の貴重な資料となる。こちらのサイトに窪寺恒己氏の手に成るその学術的な顎板による種査定マニュアルが示されてあるので一見をお薦めする。

・「白鬚有り、長さ尺に過ぐ」これはイカ類に特徴的な有意に細く長い二本の捕食腕を指しているか?

・「海螵蛸」「いかのかふ」と訓じているかも知れない。十腕形上目コウイカ目Sepiina 亜目コウイカ科 Sepiidae に属する全種に見られる硬く脆い体内構造物の通称。別に「イカの骨」・「烏賊骨(うぞっこつ)」や英名の「カトルボーン」(Cuttlebone)などとも呼ばれるが、正確には同じ軟体動物の貝類の貝殻が完全に体内に内蔵されたものである。学術的には甲あるいは軟甲と呼ぶ。これはまさに頭足類が貝類と同じグループに属することの証と言ってよい。即ち、貝類の貝殻に相当する体勢の支持器官としての、言わば「背骨」が「イカの甲」なのである。あまり活発な遊泳を行わないコウイカ類では、炭酸カルシウムの結晶からなる多孔質の構造からなる文字通りの「甲」を成し、この甲から生じる浮力を利用している。対して、後で語られるように、活発な遊泳運動をするツツイカ類では運動性能を高めるために完全にスリムになって、半透明の鳥の羽根状の軟甲になっている。ツツイカ目のヤリイカ科アオリイカは、外見はコウイカに似るが、甲は舟形ながら、薄く半透明で軽量である。これは言わば、甲と軟甲双方の利点を合わせた効果を持っている。即ち相応の浮力もあり、スルメイカほどではないにしても、かなり速い遊泳力も持ち合わせているのである。以下、ウィキの「イカの骨」から引く。『貝殻の痕跡器官であるため主に炭酸カルシウムから構成されている。もともとの形は巻き貝状、あるいはツノガイ状で、アンモナイトやオウムガイのように内部に規則正しく隔壁が存在し、細かくガスの詰まった部屋に分けられていたと考えられているが、現生種ではトグロコウイカのみがその形状を持ち、他の種はそのような部屋の形を残してはいない。矢石として出土するベレムナイトの化石も、元は貝殻である』。『コウイカの場合、それに当たる部分は現在の骨の端っこに当たる部分(写真では向かって左端、尖った部分が巻き部)であり、本体の気体の詰まった小部屋に分かれて、浮力の調節に使われる部分は、新たに浮きとして発達したものと考えられる。顕微的特徴を見ると薄い層が縦の柱状構造により結合している。このようなイカの骨は種によっては』二百なら六百メートルの水深で内部へ爆縮してしまう。『従ってコウイカの殆どは浅瀬の海底、通常は大陸棚に生息する』。『スルメイカ等では殻はさらに退化し、石灰分を失い、薄膜状になっており、軟甲とよばれている』。『その昔、イカの骨は磨き粉の材料となっていた。この磨き粉は歯磨き粉や制酸剤、吸収剤に用いられた。今日では飼い鳥やカメのためのカルシウムサプリメントに使われ』ており、また『イカの骨は高温に耐え、彫刻が容易であることから、小さな金属細工の鋳型にうってつけであり、速く安価に作品を作成できる』ともある。『イカの骨は「烏賊骨」という名で漢方薬としても使われる。内服する場合は煎じるか、砕いて丸剤・散剤とし、制酸剤・止血剤として胃潰瘍などに効用があるとされる。外用する場合は止血剤として、粉末状にしたものを患部に散布するか、海綿に塗って用いる』とある。

・「噀」は現代中国語でも、口に含んだ水を吹き出す、の意である。

・「小鯷(ひしこ)」「鯷」だけで「ひしこ」とも読める。カタクチイワシ条鰭綱ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ Engraulis japonicas の別名。これと「蛤蝦」二枚貝と海老を好物とするというのは、内臓物からの漁師の観察による聞き書きに拠るものかとも思われるが、非常に正確な記載と言える。誰も注目していないが、墨の食用化や味を美味と言っている点などと合わせて、ここは非常に貴重な博物学記載であると私は感じている。

 なお、イカ墨は聴くがタコ墨は使われない。これはタコ墨には旨味成分がなく、更に甲殻類や貝類を麻痺させるペプタイド蛋白が含まれているからとされる。私は当初、ブログ記事「蛸の墨またはペプタイド蛋白」をものしたが、その後「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「烏賊魚(いか)」で以下のように改稿した。参考までに示しておく。

   *

 イカスミは料理に使用するが、蛸の墨はタコスミとも言わず、料理素材として用いられることがないことが気になった。ネット検索をかけると、蛸の墨には、旨味成分がなく、更に甲殻類や貝類を麻痺させるペプタイド蛋白が含まれているからと概ねのサイトが記している。

 では、それは麻痺性貝毒ということになるのであろうか(イカ・タコの頭足類は広い意味で貝類と称して良い)。一般に、麻痺性貝毒の原因種はアレキサンドリウム属Alexandriumのプランクトンということになっているが、タコのそのペプタイド蛋白なるものは如何なる由来なのか? 墨だけに限定的に含まれている以上、これは蛸本来の分泌物と考える方が自然であるように思われる。

 ただ、そもそも蛸の墨は、イカ同様に敵からの逃避行動時に用いられる煙幕という共通性(知られているようにその使用法は違う。イカは粘性の高い墨で自己の擬態物を作って逃げるのであり、タコの粘性の低い墨は素直な煙幕である)から考えても、ここに積極的な「ペプタイド蛋白」による撃退機能を付加する必然性はあったのであろうか。進化の過程で、この麻痺性の毒が有効に働いて高度化されば、それは積極的な攻撃機能として転化してもおかしくないように思われる。しかし、蛸の墨で苦しみ悶えるイセエビとか、弱って容易に口を開けてしまう二枚貝の映像等というのは残念ながら見たことがない。また、蛸には墨があるために、天敵の捕食率が極端に下がっているのだという話も、聞かない。

 更に、このペプタイド蛋白とは何だ? 化学の先生にも尋ねてみたが、ペプタイドとペプチドは peptid という綴りの読みの違いでしかないそうだ。しかしその先生に言わせれば、「蛋白」という語尾自体が不審なのだそうだ。そもそも、ペプチドはタンパク質が最終段階のアミノ酸になる直前に当たる代謝物質なのであって、アミノ酸が数個から数十個繋がっている状態を指すのであってみれば、この物言いはおかしなことになる。先生は、その繋がりがもっと長いということを言っているのかも知れないと最後に呟いたが、僕も、煙幕が張られているようで、どうもすっきりとしなかった。いやいや、調べるうちに、逆に蛸壺に嵌ったわい。

 なおイカの墨から作った顔料は実在する。よく言うところの色名であるセピア sepia がそれであり、sepia はラテン語でコウイカを指す。ギリシャ・ローマ時代から使用されており、レンブラントが愛用したことからレンブラント・インクとも呼ばれる。但し、実際のレンブラント・インクは暗褐色で、現在言うところの「セピア色」とは、このインクが経年変化して色褪せた薄い褐色になった状態の色調に由来する。薄くはなるが、実際には消えない。良安が言い、信じられているところの、「消える文字」というのは、この褪色効果を大袈裟に語っているに過ぎないのであろう。なお、この墨から液晶が作られたとよく聞くが、これは誤りと思われる。液晶製造初期に於いてイカの肝臓から採取されたコレステロールから作られたコレステリック液晶(グラデーション様に表示される寒暖計等)のことが誤って伝えられたものと思われる。

・「泥障烏賊(あおりいか)」前にも書いたが、原文は片仮名で「アオリイカ」となっている。歴史的仮名遣では「あふりいか」が正しい。閉眼目 Myopsida ヤリイカ科 Loliginidae アオリイカ属 Sepioteuthis アオリイカ Sepioteuthis lessoniana 。「泥障」は「障泥」はとも書き、馬具の付属具で鞍橋(くらぼね:鞍。)の四緒手(しおで:鞍の前輪(まえわ)・後輪(しずわ)の左右につけて胸繫(むながい)・尻繫(しりがい)を結びつける革紐(かわひも)の輪。)に結び垂らして、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐもの。同種の鰭の色や形が障泥に似ることに拠る。「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「烏賊魚(いか)」には、

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障泥烏賊(あをりいか) 眞烏賊(まいか)より大にして、四周に肉緣有り。状(かたち)、障泥(あをり)に似たり【阿乎里以加(おをりいか)。】。是れも亦、鮝(するめ)と爲(し)て佳(よ)し。

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とある。

・「風氣を動かす」これは「本草綱目」の「烏賊魚」の気味に、『酸、平。無毒。瑞曰味珍美。動風氣。』とあるのに拠る。「風気」は漢方で言う風気内動・内風のことであろう。諸臓腑の機能が失調して気血が逆乱して、眩暈・痙攣・意識障害・顔面神経麻痺・上方凝視などの「風動」と呼ぶ症状が生じる病理現象を指す。

・『呉瑞が「日用」』元代の新安海寧県の医学官呉瑞が著わした食物本草書「日用本草」。一三二九年自序。

・「白及」単子葉植物綱綱 Liliopsida キジカクシ目 Asparagale ラン科 Orchidaceae セッコク亜科 Epidendroideae エビネ連 Arethuseae Coelogyninae 亜連シラン属 Bletilla シラン Bletilla striata の偽球茎(偽鱗茎(英語:pseudobulb)とも。ラン科の一部の種に見られる茎の節間から生じる貯蔵器官)の漢方名。止血や痛み止め・慢性胃炎に処方される。

・「白歛」双子葉植物綱 eudicots ブドウ目 Vitales ブドウ科 Vitaceae ノブドウ属 Ampelopsis カガミグサ Ampelopsis japonica の根のことか。漢方では解熱作用があり、腫瘍・子供の癲癇・月経痛に効果があるとする。

・「附子」双子葉植物綱 Magnoliopsida モクレン亜綱 Magnoliidae キンポウゲ目 Ranunculales キンポウゲ科 Ranunculaceae トリカブト属 Aconitum の塊根を乾燥させたものもの。ウィキの「トリカブト」によれば、烏頭(うず)又は附子(生薬名は「ぶし」、毒薬としては「ぶす」と呼ぶ)と呼ぶ。本来「附子」は球根の周り附いている「子ども」の部分を指し、漢方ではトリカブト属の塊根の中央部の「親」の部分は「烏頭(うず)」、子球のないものを「天雄(てんゆう)」と呼んでいたが、現在は附子以外の名称は殆ど用いられていないとあり、それぞれ運用法が違うとする。『強心作用、鎮痛作用がある。また、牛車腎気丸及び桂枝加朮附湯では皮膚温上昇作用、末梢血管拡張作用により血液循環の改善に有効である』。『しかし、毒性が強いため、附子をそのまま生薬として用いることはほとんどなく、修治と呼ばれる弱毒処理が行われ』、『毒性は千分の一程度に減毒される』ものの、『これには専門的な薬学的知識が必要であり、非常に毒性が強いため素人は処方すべきでない』とある。

・「癨痢」これは霍乱による急性の下痢症状であろう。炎暑の頃に暑さにあたって激しく吐き下しする病気の総称を「癨」という。島田氏はこれを「瘧痢」と判読されている(島田氏の底本と私の底本は恐らく版が異なる)が採らない。

・「聾癭」不詳。「癭」は瘤、特に首に出来る瘤を指すから(現在では極めて高い確率(八〇%)で悪性リンパ腫が疑われる)、それによって耳が圧迫されて聴覚障害を起こした症状を言うか?

・「眼翳(そこひ)」眼球内部の障害によって視覚が失われる白内障・緑内障・黒内障などの総称。

・「流涙」涙腺や涙道が詰まるなどすることによって涙が正常に鼻腔内へ流出されないため、涙が出続ける状態。

・「前陰痛腫」男女の生殖器の腫脹を指すものと思われる。

・「五淋」尿路に関わる五つの症状、石淋(せきりん:尿路結石症を伴う排尿障害。)・気淋(きりん:ストレスなどに因る神経性排尿障害。)・膏淋(こうりん:米の研ぎ汁のような白濁した尿の様態。)・労淋(ろうりん:疲労による慢性排尿障害)・・血淋(けつりん:血尿。)を指す。

 

・「婦人肝傷」肝炎と思われるが、「婦人」という限定は、以下の三種の病態がどれも婦人病と思われるところから、以下、総てに関わるものではないかと私は考えたので、訓読の以下の箇所の記号を変えてある。

・「不足血枯」「血枯」は現代中国語で重症の貧血を指す。

・「血瘕」月経不順。

・「經閉崩帯」「經閉」は無月経症、「崩帯」は帯下(こしけ)のことであろう。女性生殖器から出る分泌液の量が増えたり、分泌液の性質が変化して膣口から流れ出る病的なものを指す。状態によっては子宮内膜炎や子宮癌が疑われる。

・「人をして子、有らしむ」。不妊治療効果があるという意。

・「李時珍、詳かに之を論じて厥陰血分の藥と謂ふ」「本草綱目」の「烏賊魚」の「發明」(物事の意味や道理を明らかにすることの意)には、

   *

時珍曰烏下痢疳疾、厥陰本病也。寒熱瘧疾、聾癭、少腹痛、陰痛、厥陰經病也。目翳流淚、厥陰竅病也。厥陰屬肝、肝主血、故諸血病皆治之。按「素問」云有病胸脅支滿者、妨於食、病至、則先聞腥少時、有所大脱血。或醉入房、中氣竭肝傷、故月事衰少不來。治之以四烏茹爲末、丸以雀卵、大如小豆。每服五丸、飲以鮑魚汁、所以利腸中及傷肝也。觀此、則其入厥陰血分無疑矣。

   *

とある。「厥陰」はウィキの「厥陰病」によれば、漢方で「三陰三陽病」と称する病態の一種で、「少陰病」を経て生ずる最後の外感性疾病とする。「傷寒論」では、『厥陰の病たる、気上がって心を撞き、心中疼熱し、飢えて食を欲せず、食すれば則ち吐しこれを下せば利止まず。』とあって、上気して顔色は一見、赤みがかっているが、下半身は冷え、咽喉が渇き、胸が熱く疼き、空腹だが飲食出来ない症状を指し、多くはやがて死に至るとある。「血分」は出血性疾患の謂いらしい。

・「經病」後漢の張機が「素問」の「熱論篇」に基づき、「傷寒」(「外感病」)の証候と特徴を結びつけて体系化した「六経(りくけい)病」や、六臓六腑(「六臓」は肝・心・脾・肺・腎・心包、「六腑」は胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦)を巡って気血の流れている十二の経脈を意味する「十二経(けい)」(肺経から始まり、大腸経・胃経・脾経・心経・小腸経・膀胱経・腎経・心包経・三焦経・胆経を経て肝経から再び肺経に戻り、全体が一つの流れになっている)に関わる万病のことを指すか。

・「竅病」五竅病・七竅病のことであろう。「竅」は人の顔に開いた穴で、漢方では眼・舌・口・鼻・耳、或いは各二つずつの目・耳・鼻の穴及び口に由来する疾病。

・「月事衰少不來」月経不順や無月経症。

・「五錢」十八・七五グラム。「錢(せん)」は重量単位で、一銭は一貫の千分の一(三・七五グラム)。匁(もんめ)に同じい。

・「茜草」双子葉植物綱 Magnoliopsida キク亜綱 Asterdiae アカネ目 Rubiales アカネ科 Rubiaceae アカネ属 Rubia アカネ Rubia argyi ウィキの「アカネ」によれば、『アカネの名は「赤根」の意で、その根を煮出した汁にはアリザリンが含まれている。これを使った草木染めが古くから行われており、茜染と呼び、また、その色を茜色と呼ぶ。同じ赤系色の緋色もアカネを主材料とし、茜染の一種である。このほか黒い果実も染色に使用できるという』。『現在では、アカネ色素の抽出には同属別種のセイヨウアカネ(西洋茜、R. tinctorum)が用いられることがほとんどである。セイヨウアカネは常緑で、葉は細長く6枚輪生。根が太く、アカネより収量が多い。色素の構成物質がアカネとは若干異なる』。『染色用途のほかには、秋に掘り起こした根を天日で十分乾燥させたものを茜草根(せいそうこん)として、生薬に用いる』。『日本では上代から赤色の染料として用いられていた。ヨーロッパでも昆虫学者のジャン・アンリ・ファーブルがアカネ染色法の特許を取るなど、近代まで染料として重要視されていた』とある。漢方薬としては浄血・通経・止血などの処方に配合されると辞書にあった。

・「鮏」 硬骨魚綱 Osteichthyes サケ目 Salmoniformes サケ科 Salmonidae サケ属 Oncorhynchus サケ(又はシロザケ) Oncorhynchus keta 

・「本方には鮑魚と有るも、是れ、未だ何の乾魚と云ふを知らず」「本草綱目」の「烏賊魚」の「發明」の項に、

   *

時珍曰烏下痢疳疾、厥陰本病也。寒熱瘧疾、聾癭、少腹痛、陰痛、厥陰經病也。目翳流淚、厥陰竅病也。厥陰屬肝、肝主血、故諸血病皆治之。按素問」云有病胸脅支滿者、妨於食、病至、則先聞腥少時、有所大血。或醉入房、中氣竭肝傷、故月事衰少不來。治之以四烏茹爲末、丸以雀卵、大如小豆。毎服五丸、飮以鮑魚汁、所以利腸中及傷肝也。觀此、則其入厥陰血分無疑矣。

   *

とある(下線やぶちゃん)。因みにこの「鮑魚」はアワビのことではなく、塩漬けにした魚の意で、人見の言うように特定の魚類を指さない。

・「熱眼赤翳」退翳肝熱によって眼球が熱を持って充血し、腫れ上る症状を指す。「翳」は目翳(もくえい)で目の混濁の意。

・「睛を攀して瞳を貫き」島田氏は『攀睛(充血して)』とするが、私の底本は明らかに返り点があり、「睛」には明確に「ヲ」と送られてある。「睛」は瞳・黒目の意、「攀」には、すがる・憑りつくの意があるから、白目だけでなく黒目まで充血が進んでいることを指すものであろう。

・「風熱」二つの意があり、一つは風邪と熱邪が結合した病邪。今一つは風熱の邪によって生じた外感病(高熱・悪寒が軽度であるが、口の渇きや舌の尖辺が紅色になり、舌の苔が微黄を帯びて脈が速い、重くなると口の乾燥・目の充血・咽喉の痛み・鼻からの出血・咳などが見られる症状)を指す。ここは前後に目の症状をしつこく描写しているから後者である。

・「血風」血風瘡か(島田氏も同じく推定)。これは痒みが強く、掻きむしった部分に分泌液が流れ、血痕が見られる症状を指す。

・「黄連」双子葉植物綱 Magnoliopsida モクレン亜綱 Magnoliidae キンポウゲ目 Ranunculales キンポウゲ科 Ranunculaceae オウレン属 Coptis オウレン Coptis japonica 及び同属のCoptis chinensisCoptis deltoideaCoptis deltoidea の根を殆ど取り除いた根茎の生薬名。苦味健胃・整腸・止瀉等の作用があり、この生薬には抗菌作用、抗炎症作用等があるベルベリン(berberine)というアルカロイドが含まれており、黄連湯・黄連解毒湯・三黄丸・三黄瀉心湯・温清飲といったの漢方方剤に使われるとウィキの「オウレン」にある。

・「黄栢」双子葉植物綱 Magnoliopsida ムクロジ目 Sapindales ミカン科 Rutaceae キハダ属 Phellodendron キハダ Phellodendron amurense の樹皮の生薬名。現行の薬用名は「黄檗(オウバク)」。キハダの樹皮をコルク質から剥ぎ取ってコルク質・外樹皮を綺麗に取り除いて乾燥させたもの。黄柏にもやはりベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つとされる。チフス・コレラ・赤痢などの病原菌に対しても効能があり、主に健胃整腸剤として用いられ、「陀羅尼助」「百草丸」などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたという。「黄連解毒湯」「加味解毒湯」などの漢方方剤に含まれる(以上はウィキの「キハダ」に拠った)。

・「雀白屎」雀の白い糞。「白丁香」とも。腹部の腫瘤・虫歯・目の混濁などの治療に用いられる。漢方では鳥の糞がしばしば登場する。例えば鶏の白い糞は「鶏屎白」と称し、糞の白い部分を日干しした後、白酒(パイチュウ)を加えながらとろ火であぶって乾燥し、それをすって粉末にする(一般に雄鶏のものがよいとされる)。これは「黄帝内経素門」にも「鶏矢」として出る古方で、鼓脹積聚・黄疸・淋病をし、利水・泄熱・去風・解毒作用を持つとされる。本邦で鶯の糞が美顔料として親しまれていることを考えれば、奇異でも何でもない。

・「辰砂」中国の辰州(現在の湖南省懐化市一帯)で産する砂、の意。英名「cinnabar」。硫化水銀(Ⅱ)(HgS)からなる硫化鉱物。六方晶系を成し、結晶片は鮮紅色でダイヤモンド光沢がある。多くは塊状又は土状で赤褐色。低温熱水鉱床中に産し、水銀の原料や朱色の顔料として古くから用いられてきた。朱砂・丹砂・丹朱とも呼び、本邦では古来、「丹(に)」と呼んだ。漢方では鎮静・催眠を目的として、現在でも使用される。有毒であるが、有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂のような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられており、辰砂を含む代表的な処方には「朱砂安神丸」等がある(前半は辞書を、漢方部分はウィキの「辰砂」に拠った)。

・「龍脳」樟脳(双子葉植物綱 Magnoliopsida クスノキ目 Laurales クスノキ科 Lauraceae ニッケイ属 Cinnamomum クスノキ Cinnamomum camphora の枝葉を蒸留して得られる無色透明の個体で防虫剤や医薬品等に使用される。カンフル。)に似た、アオイ目 Malvales フタバガキ科 Dipterocarpaceae フタバガキ属 Dipterocarpus リュウノウジュ Dryobalanops aromatic の木材を蒸留して得られる芳香を持った無色の昇華性結晶。人工的には樟脳・テレビン油から合成され、香料などに用いられる。ボルネオールともいう。以下、ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が、6~7世紀には中国人がマレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。

・「眼胞生瘡」「眼胞」は目の瞼(まぶた)で、「生瘡」は炎症を指すから、結膜炎やトラコーマ(伝染性慢性結膜炎)か?

・「楊梅皮」双子葉植物綱 Magnoliopsida ブナ目 Fagales ヤマモモ科 Myricaceae ヤマモモ属 Morella ヤマモモ Morella rubra の樹皮から採る楊梅皮(ようばいひ)という生薬。タンニンに富むので止瀉作用がある。他に消炎作用も持つので筋肉痛や腰痛用の膏薬に配合されることもある(以上はウィキの「ヤマモモ」に拠った)。

・「血崩」生殖器からの大きな出血。

・「湯火瘡傷」火傷。やけど。

・「生薯蕷」生の単子葉植物綱 Liliopsida ユリ目 Liliales ヤマノイモ科 Dioscoreaceae ヤマノイモ属 Dioscoreaヤマノイモ Dioscorea japonicaウィキの「ヤマノイモ」によると、「山薬(さんやく)」は本来はナガイモの漢名だが、皮を剥いたヤマノイモ又はナガイモの根茎を乾燥させた生薬もこう呼ぶ。これは日本薬局方に収録されており、滋養強壮・止瀉・止渇作用があり、「八味地黄丸」「六味丸」などの漢方方剤に使われるとある。

・「停耳」耳の腫れと痛みを指す

・「麝香」哺乳綱 Mammalia 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla 反芻亜目 Ruminantia 真反芻亜目 Pecora ジャコウジカ科 Moschidae ジャコウジカ亜科 Moschinae ジャコウジカ属 Moschus の♂の成獣にある麝香腺(陰部と臍の間にある嚢で、雌を引き付けるために麝香を分泌する)から得られる香料。ウィキの「麝香」によれば、麝香『は雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬の一種で』『ムスク(musk)とも呼ばれる』。『主な用途は香料と薬の原料としてであった。 麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられていたと考えられて』おり、『アラビアでもクルアーンにすでに記載があることからそれ以前に伝来していたと考えられる。 ヨーロッパにも』六世紀には知として知られ、十二世紀にはアラビアから実物が伝来したという記録が残る。『甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として極めて重要であった。 また、興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされ、六神丸、奇応丸、宇津救命丸、救心などの日本の伝統薬・家庭薬にも使用されているが、日本においても中国においても漢方の煎じ薬の原料として用いられることはない』。『中医学では生薬として、専ら天然の麝香が使用されるが、輸出用、または安価な生薬として合成品が使われることもある』。『麝香はかつては雄のジャコウジカを殺してその腹部の香嚢を切り取って乾燥して得ていた。香嚢の内部にはアンモニア様の強い不快臭を持つ赤いゼリー状の麝香が入っており、一つの香嚢からは』凡そ三十グラム程得られる。『これを乾燥するとアンモニア様の臭いが薄れて暗褐色の顆粒状となり、薬としてはこれをそのまま、香水などにはこれをエタノールに溶解させて不溶物を濾過で除いたチンキとして使用していた。 ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地であるが、特にチベット、ネパール、モンゴル産のものが品質が良いとされていた。 これらの最高級品はトンキンから輸出されていたため、トンキン・ムスクがムスクの最上級品を指す語として残っている』。麝香の採取のために『ジャコウジカは絶滅の危機に瀕し、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)によりジャコウの商業目的の国際取引は原則として禁止された』。『現在では中国においてジャコウジカの飼育と飼育したジャコウジカを殺すことなく継続的に麝香を採取すること』『が行なわれるようになっているが、商業的な需要を満たすには遠く及ばない。六神丸、奇応丸、宇津救命丸などは条約発効前のストックを用いているという』。『そのため、香料用途としては合成香料である合成ムスクが用いられるのが普通であり、麝香の使用は現在ではほとんどない』。『麝香の甘く粉っぽい香気成分の主成分』はムスコンと呼ばれる物質でこれを〇・三~二・五%程度含有し、ほかに微量成分としてムスコピリジン・男性ホルモン関連物質であるアンドロステロンやエピアンドロステロンなどの化合物を含むが、『麝香の大部分はタンパク質等である。麝香のうちの』約十%程度が『有機溶媒に可溶な成分で、その大部分はコレステロールなどの脂肪酸エステル、すなわち動物性油脂である』。「語源」の項。『麝香の麝の字は鹿と射を組み合わせたものであり、中国明代の『本草綱目』によると、射は麝香の香りが極めて遠方まで広がる拡散性を持つことを表しているとされる』。『ジャコウジカは一頭ごとに別々の縄張りを作って生活しており、繁殖の時期だけつがいを作る。そのため麝香は雄が遠くにいる雌に自分の位置を知らせるために産生しているのではないかと考えられており、性フェロモンの一種ではないかとの説がある一方』、『分泌量は季節に関係ないとの説もある』。『一方、英語のムスクはサンスクリット語の睾丸を意味する語に由来するとされる。 これは麝香の香嚢の外観が睾丸を思わせたためと思われるが、実際には香嚢は包皮腺の変化したものであり睾丸ではない』。因みに、『ジャコウジカから得られる麝香以外にも、麝香様の香りを持つもの、それを産生する生物に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。 霊猫香(シベット)を産生するジャコウネコやジャコウネズミ、ムスクローズやムスクシード(アンブレットシード)、ジャコウアゲハなどが挙げられ』、『また、単に良い強い香りを持つものにも同様に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。マスクメロンやタチジャコウソウ(立麝香草、タイムのこと)などがこの例に当たる』とある。

・「一字」量数単位らしいが、不詳。漠然とした一片か? 識者の御教授を乞う。

・「趺撲」「趺」は足の甲や踵(かかと)を意味するが、そうした特化した傷のようには見えない。島田氏は『うちきずの意か』とされる。

・「金傷」金創。刃物による傷。

・『音は「湯」』島田氏は『陽が正しい』と訳本文注されておられる。なお、「廣漢和辭典」によれば「鯣」は音で「エキ」「ヤク」で、「するめ」は国訓であって、本字は鰻を指すとある。目から鯣、基、鰻、基、鱗。

・「赤鱺」「鱺」は「廣漢和辭典」によれば、本字では大鯰(おおなまず)で、これを「するめ」に当てるのは国訓である。

・「宋の大明」島田氏の訳本文注に『日華本草』とあるのを手掛かりにすると、これは「日中華子諸家本草」という書物らしい。著作年代不詳で、宋の掌禹錫、別名で大名明という人物の書いた本草書らしい。

・「鯗」「廣漢和辭典」によれば、音は「シヤウ(ショウ)・セウ(ソウ)」で、干物・干魚の意(他にイシモチの干物、国訓でフカの意もある)。

・「淡乾」全体にさっと少量の塩を振って干したもの。

・「太刀烏賊」「筒烏賊」ここでは一応、鯣にするイカということで、頭足綱 Cephalopoda鞘形亜綱 Coleoidea十腕形上目 Decapodiformes閉眼目Myopsidaスルメイカ亜目 Cephalopoda アカイカ科 Ommastrephidae スルメイカ亜科 Todarodinae スルメイカ属 Todarodes スルメイカ Todarodes pacificus を挙げなくてはおかしい。以下に記されている形状も概ねスルメイカに合致する。ところが、この「タチイカ」と「ツツイカ」という呼称は、現行では圧倒的に先に出た閉眼目 Myopsida ヤリイカ科 Loliginidae アオリイカ属 Sepioteuthis アオリイカ Sepioteuthis lessoniana の別名である。しかし、どうもアオリイカの形状を見ていると、凡そ太刀でも筒でもない。寧ろ、スルメイカこそが「太刀」であり、「筒」ではあるまいか? 「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「烏賊魚(いか)」に続く「柔魚(たちいか)」では叙述自体がこの「タチイカ」が「スルメイカ」であると明記している。

   *

たちいか

するめいか

柔魚

 

明鮝(するめ)〔鹽乾しの者は俗に須留女と云ふ。〕

脯鮝(ほせう)〔淡く乾す者。〕

〔俗に太知以加(たちいか)と云ふ。又は鮝以加(するめいか)と云ふ。〕

「本綱」に、『柔魚は烏賊と相似たり。但し骨無きのみ。』

△按ずるに、柔魚は烏賊に同じくして、身長く大きく、之を乾かして鮝(するめ)と爲す。肥州五島より出づる者、肉厚く大にして、味、勝れり。微(やや)炙り、食ふ〔裂きて食へば則ち佳し。切れば則ち、味、劣れり〕。或は炙らずして、細かに刻みて、膾に代ふ。皆、甘く美なり。柔魚(たちいか)の骨(こう[やぶちゃん字注:ママ。])は亦、舟の形に似て、薄く玲瓏(すきとほ)り、蠟紙に似る〔骨無きと云ふは不審。〕。又、章魚(たこ)を膞(ひつぱ)り乾(ほ)して鮝(ひだこ)と爲す〔乾章魚(ひだこ)と名づく。須留女と稱さず。〕。古者(いにしへ)は是れも亦、須留女と謂ふか〔「和名抄」に小蛸魚、須留女と訓ず。〕】

   *

・『「延喜式」の神祇・民部・主計等の部に、『若狹・丹後・隠岐・豊後烏賊を貢する者の有り』と』島田氏は原典を総て引用された上、『豊後は豊前の誤りであろう』と注しておられる。

・「古來、賀祝の饗膳に用ゆ」ウィキの「スルメ」に、『日本においては古くからイカを食用としており、保存ができる乾物加工品としてのスルメも古い歴史がある。古典的な儀式や儀礼の場では縁起物として扱われ、結納の際に相手方に納める品としても代表的なものである。結納品の場合には寿留女の当て字を用い、同じく結納品である昆布(子生婦)とともに、女性の健康や子だくさんを願う象徴となっている。また大相撲の土俵にはスルメが縁起物として埋められている』。『縁起物であるとする理由は諸説有るが、日持ちの良い食品であることから末永く幸せが続くという意味とする説、室町時代の頃からお金を「お足」『といい、足の多いスルメは縁起が良いとする説などがある』とし、『また、江戸時代中期頃から、スルメの「スル」という部分が「金をする(使い果たす)」という語感を持つため、縁起をかついで言い換えた「アタリメ」という言葉が用いられるようになった』とある。またここには「スルメ」の語源説として、『墨を吐く群を「墨群(すみむれ)」と呼んでいたところから転訛したという説があり、かつては乾燥させたタコもスルメと呼ばれていた。平安時代に編纂された辞書「和名類聚抄」には「小蛸魚 知比佐岐太古 一云須流米」(ちひさきたこ するめともいふ)とある』として、人見が烏賊、基、以下で語る発見が同じく語られてあるのが面白い。

・『源順、崔氏が「食經」を曳きて曰く、「小蛸魚」を「須留女」と訓ず』「和名類聚抄」の「海蛸子(タコ)」の直後に、

   *

小蛸魚(チイサキタコ)崔禹錫が「食經」に云く、小蛸魚〔和名、「知比佐木太古」。一に云ふ、「須留女」。〕

   *
とある。

・「噎膈」「膈噎(かくいつ)」とも言う。食道上部に起因する通過障害に基づく嚥下困難を「噎」と称し、食道下部に起因するものを「膈」とする。現在の食道アカラシア(esophageal achalasia:食道の機能障害の一種で食道噴門部の開閉障害若しくは食道蠕動運動の障害或いはその両方に起因する飲食物の食道の通過困難を訴える疾患。現在でも原因不明で、根本的な治療方法はないが、迷走神経に障害を生じると発症することが分かっている、とウィキの「アカラシア」にある)や食道癌などが疑われる症状である。

・「雛烏賊」人見は「烏賊の子なり」と述べているが、これは立派な独立した種である十腕形上目 Decapodiformes ヒメイカ目 Idiosepiidaヒメイカ科 Idiosepiidae ヒメイカ属 Idiosepius ヒメイカ Idiosepius paradoxus を当てることが出来るようにも思われる。というよりも奥谷喬司先生の「WEB版世界原色イカ類図鑑」によれば、この標準和名ヒメイカの原名(!)がヒナイカなのであるから、正統なる同定であると思っている。ツツイカ目ヤリイカ科のジンドウイカ属Loliolusもコイカ・ヒイカ等の小型種を示す別名を持つが、彼らはガタイが大きく「雛」に相応しくない。生態その他はウィキの「ヒメイカ」を参照されたい。

・「黒煮」京都の佃煮屋「六味」の公式ブログ「佃煮ふりかけ六味」の「烏賊黒煮」に、『八寸(烏賊黒煮)烏賊を洗い骨を去り皮をはぎ腹の墨袋を破らないようにして、ボウルを用意し、この時墨袋の薄皮をはがして、中の墨を取り出す。薄皮を入れたボウルに、水を適量加えてよく混ぜ、残っている墨を溶かし、ザルなどで漉します。烏賊は細く切り、お湯を沸かしてサッと霜降りをします。先ほどの墨を鍋に入れ酒、醤油にて味を調へ烏賊を入れ煮て仕上げます。香りは季節の物を使います』とある。

・「蟲積」所謂、回虫・条虫・蟯虫等による寄生虫病による症状を指す。私も一度やったことがあるイカでの感染が知られる線形動物門 Nematoda双腺綱 Secernentea 回虫目 Ascaridida 回虫上科 Ascaridoidea アニサキス科 Anisakidae アニサキス亜科 Anisakinae アニサキス属 Anisakis 等の寄生虫の寄生が、この時代に既にして知られていたことを意味するかも知れない非常に重要な記載のように私には見受けられる。

・「尺八烏賊」閉眼目 Myopsida ヤリイカ科 Loliginidae Heterololigo 属ヤリイカ Heterololigo bleekeri のことと思われる。貝原益軒の「大和本草」の第十二巻の「烏賊魚」の項に『瑣管(しやくはちいか)するめより小なり。長く骨うすし。之を食へば柔軟なり。又、さばいかとも云ふ』とあるから、人見の「瑣管か」は正しい。「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「柔魚(たちいか)」の条に他種を載せて、

   *

瑣管烏賊(しやくはちいか) 身狹く長く、竹の筒(つゝ)のごとし。故に尺八烏賊と名づく。

   *

とある。

・「猴染」閉眼目 Myopsida ソデイカ科 Thysanoteuthidae ソデイカ属 Thysanoteuthisソデイカ Thysanoteuthis rhombus の別名。但し、南方種で外洋性の大型種であって「小烏賊」ではない。そもそも「猴染」というのは明らかに中国本草好みの命名で、猿猴類の赤みを帯びた肌に似たド派手な色に由来すると考えてよい。そうすると実は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「柔魚(たちいか)」の条には他種として、

   *

龜甲烏賊(きつかふいか) 背隆(たか)くして肉厚、故に之を名づく。

   *

というのが出るのに着目されるのである。そこで私は以下のように注した。

   *

「龜甲烏賊」キッコウイカ このような呼称は現在、生き残っていない。市場での和名と形状から類推するしかないが、形態と呼称の類似からはまず、モンゴウイカという通称の方が有名なコウイカ目コウイカ科カミナリイカ Sepia (Acanthosepion) lycidas が念頭に登る。文句なしの巨大種であり、英名 Kisslip cuttlefish が示す通り、胴(外套膜背面部)にキス・マークのような紋がある。これを亀甲紋ととったとしてもそれほど違和感はない。これが同定候補一番であろうが、私はもう一種挙げておきたい欲求にかられる。ツツイカ目開眼亜目の大型種で、極めて特徴的な幅広の亀甲型(と私には見えないことはない)形態を持つソデイカ Thysanoteuthis rhombus は如何だろうか。ソデイカは地方名・市場名でタルイカ・オオトビイカ・セイイカ、はたまたロケット、などという名も拝名している(「セイイカ」の「セイ」は「勢」で男性の生殖器のことであろう。「背隆くして肉厚」と称してもグッときちゃうゼ!)。

    *

以上の同定をこの時点でも変更する意思はない。

・「狀、烏賊と同じ。但し、背骨、細小にして、芒刺のごとし」ここを読むと、私はまた「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「柔魚(たちいか)」の条に他種として載る、

   *

針烏賊(はりいか) 真烏賊に似て、骨の耑(はし:端。)に尻を顯はし、手に碑(たつ)る針鋒(しんぽう:針先。)のごとし。故に名づく。

   *

を想起してしまうのである。これは私は十腕形上目コウイカ目 Sepiidaコウイカ科 Sepiidae ハリイカ(コウイカモドキ) Sepia (Platysepia) madokai を指すと考えている。但し、市場名としてはコウイカ科コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta と混同されており、コウイカ(若しくは他のコウイカ科のコウイカ類)を「ハリイカ」と呼称する地域もある。コウイカのグループは全体に甲の胴頂方向の頭部が尖っており、生体を触ってもそれが棘のように感じられるのである。

・「南産志」「閩書(びんしょ)南山志」の誤りか。以前に注した中国南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作と思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

烏賊魚〔伊加(いか)と訓ずる。〕

釈名 烏鰂(うそく)〔源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」に曰く、『「烏賊」は、魚扁(うをへん)をそれぞれの字に附けて、「鰞※(うぞく)」に作る。「※」はまた、「鰂」とも書く。』と[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「賊」。]。時珍の「本草綱目」に曰く、『羅願(らがん)の「爾雅翼(じがよく)」に曰く、九月に寒鴉(かんがらす)が水に入って、化してこの魚となる。黒い紋様が極めて規則正しくあるが故に「烏鰂」と名づける。「鰂」は規則の「則」の意である。』と。蘓頌(そしょう)の「図経本草(ずけいほんぞう)」に曰く、『「南越志」に曰く、その性、烏(からす)を好む。常に自然体で水上に浮いていて、飛ぶ烏はこれを見て既に烏賊の死んだものと錯覚してこれを啄もうとする。すると忽ち、その烏を十本の腕で巻き取って水中に引き入れ、これを食らう。因って「烏賊」と名づける。その言うところの意は烏の天敵であることを意味している。』と。或いは曰く、『この魚は水中の小魚を追う。しかし小魚が素早く泳ぎ去ってこれを捕えることが出来ない際には、即座に腹の中の黒い汁を吹き出だして、水をこれ、真黒にさせる。すると小魚は目の前が真っ暗になって動くことが出来なくなる。それを見透かしてこれを捕食して食らう。故に「烏賊」と云う。』と。しかし諸説はいまだ詳らかではない。

集解 江海のありとあらゆる所に於いてこれは獲れる。春の二・三月より、秋の七・八月にかけて最も多く獲れるが、冬場でも、やはり獲れる。

 その形は小さな袋のような感じで、口は腹の下、足の上にある。眼は口の上にあり、八つの足は、その口の傍らに集まっていて、円周状に廻(めぐ)って生えている。その八足が交わって生えている根っこの、謂わば、八本の足の太腿に相当する箇所の中央には、白い皮に包まれた一対の黒い骨がある。小さな菱(ひし)の実のような形状を成しており、或いは小さな鴉や小さな鳶(とんび)の嘴(くちばし)によく似ている。故にこれを俗に「鳶烏(とんびがらす)」と称している。これは、ほぼ章魚(たこ)のそれと同じである。また、白い鬚(ひげ)があって、この長さは一尺を越える。全身は一様に淡黒色の薄皮をつけている。皮の上に斑点がある。肉は銀のように白く、味わいはこれ、はなはだ淡美である。

 背の上に一つの甲骨(こうこつ)があり、その形は、丁度、玩具の小舟のような形(なり)、或いはまた、若葉の形にも似ている。またさらに他と比較するならば、その骨の感触は鮫の皮に見られるようなざらざらとした白砂(しらすな)のようで、その内部はこれ、焼き塩の塊を粗く削ったものに似ていて、幾重にも紋文(はんもん)がある。即ち、これが「海螵蛸(かいひょうしょう)」である。

 烏賊の腹には黒い汁が内臓されており、まさにそれは墨が滴るのに似ている。古人の言うところの「烏賊の血(ち)」である。これは実は味もまた美味い。常に腹の墨を吐いては水を真黒にさせて、自(みづか)らを守って、これを以って人から捕獲されるのを防いでいる。しかし乍ら、漁師は、よくこのことを知っていて網を以って獲る。漁師の子どもらは、竹の枝を鋭利に尖らして、岸の上から海面を窺っては、これを器用に突き刺して獲る。または鰂(いか)は小鯷(ひしこ)や二枚貝や小海老を好んで捕食するので、それらを餌となして、これを釣る。

 一種に「泥障烏賊(あおりいか)」というものがいる。腹と背が馬具の障泥(あおり)のようで、このびらびらした部分が普通の烏賊に比べると、やや広く大きくあって、その肉もまた軟らかで、味わいもまた、勝(すぐ)れて美味である。

 

肉 気味 甘鹹(かんえん)、平。毒はない。 主治 胃を益し、肝を補い、婦人の月経を正常に通じさせ、小児の鳥目(とりめ)を療する。今、俗に於いては、所謂、性は温にして、熱を動かす、として諸瘡を患う人が食することを固く禁じている。しかしこれは、実際にその禁忌を試してみたことがあるのか、また、そうした禁忌自体に根拠があるのかないのか、いまだ詳らかではない。但し、もし、烏賊を食すると風気を動かす、と主張するのであれば、これはまさに呉瑞の「日用本草」に載る説と相い通ずるものではあるとは言える。

 

骨〔即ち、先の「海鰾蛸」のことである。俗に「烏賊の甲」と言う。〕 気味 鹹、微温。毒はない。〔白及(びゃくきゅう)・白歛(びゃくかん)・附子(ぶす)を忌(い)む。よく、塩辛さを淡くさせ、砂(すな)を除去させ、銀を収縮させる。〕 主治 癨痢(かくり)・聾癭(ろうえい)・小腹痛・眼翳(そこひ)・流涙(りゅうるい)・前陰痛腫(ぜんいんつうしゅ)・五淋(ごりん)・小児疳疾(しょうにかんしつ)に効く。また、婦人の肝傷(かんしょう)、不足血枯(ふそくけっこ)、血瘕(けつか)、経閉崩帯(けいへいほうたい)にも良い。さらには不妊症の婦人に子を産ませる効果もある。

發明 李時珍は「本草綱目」に於いて詳かにこの烏賊の効能を論じて「厥陰血分(けついんけつぶん)の薬」として解説している。その味は鹹(しおから)いが、一度(ひとたび)、血流に入るや、直ちに、ありとあらゆる厥陰(けついん)・経病(けいびょう)・竅病(きょうびょう)、これ、治すことの出来ぬものはないほどである。また、肝傷・血枯・月経不順や無月経などの症状を癒やす。

 私は往年、この処方薬を調合して、婦人の無月経の症状を快癒させたことがある。その時は、この海鰾蛸の甲の表層部を削り去つたものを五匁(もんめ)、茜草(あかねぐさ)の根のついたままの一茎(ひとくき)を合わせて細末と成し、雀の卵の汁を以って小豆の大きさの丸薬に製剤した。これを一回に五粒ずつ、干した鮏(しゃけ)を煎じた汁を以って嚥下させた。結果、はなはだ奇々妙々なる効果があったのである。実は、「本草綱目」の処方には『鮑魚(ほうぎょ)の汁を以って飲ます。』とあるのであるが、これは、いまだ以って何の乾し魚であるのか分からない。されば、干し鮭(じゃけ)を以って代用したのである。何故なら干し鮭は、その性が微温にして、よく血を調えるものであるからで、また、本朝に於いてはこれ古えより、婦人の血の道の病いに広く用いてもいるからでもある。詳しいことは本書の「鮏魚(さけ)」の条下に見えている。

附方

 熱眼赤翳(ねつがんせきえい)〔ひどい充血が進行して瞳を貫いている病態、及び、風熱がひどく眼を襲っている病態、或いは血風の症状、或いはまた、流涙(りゅうるい)が激しく止まない症状に対して用いるに、烏賊骨(うぞっこつ)・黄連(おうれん)・黄栢(おうはく)・雀白屎(じゃくはくし)各々(それぞれ)を等分、辰砂をそれらの半分、龍脳少々を、総て細末にし、牛の乳汁に和し、鷹の羽根を以って点眼すれば、即座に癒える。これは、はなはだ絶妙なる効験を示すものである。〕

 眼胞生瘡(がんほうせいそう)〔烏賊骨の粉・黄栢の粉末を各々等分、和する際には楊梅皮(ようばいひ)の煎じ汁を以ってし、これを点眼する。〕

 婦人の血崩(けつほう)〔海鰾蛸の粉末を、塩を溶かした湯で嚥下させる。〕

 湯火瘡傷(とうかそうしょう)〔烏鰂骨の粉を細末にしたものと、生の薯蕷(やまのいも)を擂(す)り砕いて粘りが出るようになった状態のものの二品を、一緒に掻き混ぜて均質になったところで、それを患部に貼付する。〕

 耳が腫れて痛んで膿が出る症状〔海鰾蛸半匁(もんめ)、麝香を一字(じ)を粉末にし、蘆(あし)の管(くだ)を以って耳の中に吹き入れる。〕

 打撲により血が出ている症状〔及び金創(かなきず)の血が止まらない場合には、烏賊骨の粉末を用いて、これを患部に塗付する。〕

 

鯣〔「須留女(するめ)」と訓ずる。〕 釈名 字書には、『音は「湯(とう)」、赤鱺(せきれい)なり。またの音は同じく「鱺」である。』とする。しかし本朝に於いてはこれを以って「乾(ほ)し烏賊(いか)」とすること、久しい。これは乾した烏賊の名称に、その漢字を借用したものなのであろうか。宋の大明の「日中華子諸家本草」に曰く、干物は「鯗(そう)」である。呉瑞の「日用本草」に曰く、『塩干しの干物は「明鯗(めいそう)」と名づける。淡い塩干しの干物は「脯鯗(ほそう)」と名づける。』とある。「鯗」は音は「想」で、乾し魚(ざかな)の総称である。按ずるに、この「鯗」というのは「乾し烏賊」であって、今の本邦に於ける鯣(するめ)と同じものなのではあるまいか。

集解 鯣は「太刀烏賊(たちいか)」を用いる。その腹と背の形は細く長い。故にこれにかく名づけたものか。或いは「筒烏賊(つついか)」とも称する。これもまた、その筒のような形に拠ってこれに名づけたものである。もし、尋常の烏賊を鯣に用いてしまうと、その乾し肉はこれ、薄く枯れ萎(しぼ)んでしまい、色も黒く汚なく、味もまた良くない。太刀烏賊の干し肉はこれ、厚く肥えており、色は黄白色に微かな赤色を帯びて美しく、まことに如何にも軟らかな感触であって、味わいもまた、なお一層、美味い。大抵、太刀烏賊は乾して干物にするによろしく、また、新鮮な刺身にしてもよろしい。普通の烏賊は刺身にはよいが、干物には向かない。

 古えはこの乾した鯣も生の烏賊も一緒くたにして「烏賊」と称していた。「延喜式」の神祇・民部・主計などの部には、『若狭・丹後・隠岐・豊後より烏賊を貢する者がいる。』とあるが、実はこれは皆、今の鯣(するめ)なのである。近世に於いては肥前の五島(ごとう)より齎(もたら)された品を以って上品と成し、丹後・但馬・伊予の産が、これに次ぐ。古来より賀祝の饗膳に鯣は用いられてきたが、今現在もなお、同様である。源順(みなもとのしたごう)は「和名類聚抄」の「小蛸魚(ちさきたこ)」という条で、崔氏の「食経」を引用し、「小蛸魚」を「須留女(するめ)」と訓じているのであるが、はて、これもまた、同じものを指しているのであろうか。

気味 甘温。毒はない。〔日に曝すことを以って「温」となる。〕 主治 噎膈(いっかく)を患う人は、これを食せば、胸(むね)を寛(くつろ)がせ、食が大いに進む。或いは筋骨を強くするともいう。

 

雛烏賊(ひいか)〔比伊加(ひいか)と訓ずる。〕これは烏賊の子のことである。黒いものと白いものの二種があり、黒いものは普通の烏賊の子で、白い者は先に示した泥障(あおりいか)の子である。形は普通の烏賊と同じであるが、但し、背骨が細く小さく、穂芒(ほすぎ)の棘(とげ)のようである。今はこれを羹(あつもの)に製して食する。その味わいは最も良い。この雛烏賊の身を、その墨の汁及び醬油を和して煮たものを、これ、呼んで「黒煮(くろに)」と称する。但し、およそ雛(ひな)を多く食らうと、体内の虫積(ちゅうしゃく)を濫りに動かさせ、人に悪心(おしん)を起させるので注意が必要である。

 一種に、身がすこぶる細小にして長く、竹管のようなものがおり、「尺八烏賊(しゃくはちいか)」と称する。これは世間で「瑣管(さかん)」と呼んでいる烏賊と同じものであろうか。「猴染(べにいか)」と呼ぶものもあるが、これも結局は先の「雛烏賊」と同じく、小さな烏賊のことであろうか。ともに「閩書(びんしょ)南産志」にこれを載せている。
 
 
 

◆華和異同[やぶちゃん注:遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。【二〇一五年五月十三日。]

□原文

  烏賊

一名墨魚又名纜魚日華曰魚有両須遇風波即以

鬚下矴或粘石如纜故名纜魚蘓頌曰腹中血及膽

正如墨可以書字若逾年則迹滅惟存空紙能爾世言

烏賊懷墨而知禮故俗謂是海若白事小吏也物類

相感志云烏則過小滿則形小也南産志曰又名河

伯從事晒乾者閩浙謂之明府又曰柔魚似烏鰂而

長色紫漳人晒乾食之其味甘美瑣管或云即柔魚

第羗小爾又有一墨斗似鎖管而小亦能吐墨亦有

猴染大於墨斗小於鎖管此今之太刀鰂障泥鰂雛

鰂之類乎

 

□やぶちゃんの書き下し文

  烏賊

一名は墨魚、又、纜魚(らんぎよ)と名づく。「日華」に曰く、『魚に、両の須(ひげ)、有り。風波に遇へば、即ち鬚(ひげ)を以つて下矴(かてい)す。或いは石に粘じて纜(ともづな)のごとし。故に纜魚と名づく。』と。蘓頌が曰く、『腹中の血及び膽、正に墨のごとく、以つて字を書(しよ)すべし。若し、年を逾(こ)ゆる時は、則ち、迹(あと)、滅して惟(た)だ空紙を存するのみ。世に言ふ、「烏賊、墨を懷き、禮を知る」と。故に俗に是れを「海若白事小吏(かいじやくはくじしやうり)」と謂ふなり。』と。「物類相感志」に云く、『烏則(うそく)、小滿(しやうまん)を過ぐる時は、則ち、形、小きなり。』と。「南産志」に曰く、『亦、河伯從事(かはくじゆうじ)と名づく。晒し乾す者は、閩(びん)・浙、之れを「明府(めいふ)」と謂ふ。又、曰く、「柔魚(じうぎよ)」は烏鰂(うそく)に似て長く、色、紫なり。漳人(しようじん)、晒し乾して之を食す。其の味はひ、甘美なり。「瑣管(さくわん)」或いは云く、即ち「柔魚」なり。第(た)だ、羗小(きやうしやう)なるのみ。又、「一墨斗(いちぼくと)」有り。「鎖管」に似て小なり。亦、能く墨を吐く。「猴染(べにいか)」有り。「墨斗」より大ひに、「鎖管」より小さき。』と。此れ、今の「太刀鰂(タチイカ)」・「障泥鰂(アオリイカ)」・「雛鰂(ヒイカ)」の類か。

 

□やぶちゃん注

・「纜魚」「纜」は、船尾の方から出して船を繋ぎ止める舫(もや)い綱、艫綱(ともづな)のこと。

・「日華」北宋の大明の撰になる「日中華子諸家本草」。散逸したが、その内容は後の「本草綱目」等の本草書に引かれて残り、ここも「本草綱目」の「烏賊魚」の条の釈名に、

   *

大明曰魚有兩須、遇風波即以須下碇、或粘石如纜、故名纜魚。

   *

に基づく。

・「両の須」有意に長い捕食腕を指すのであろうが、烏賊、基、以下のような使い方はしないと私は思う。

・「下矴」碇を下すこと。

・「蘓頌が曰く」元は一〇六一年に北宋の大常博士であった蘇頌が完成させた薬図と解説からなる全二〇巻の勅撰本草書「図経本草」(原本は散逸)を指すが、ここは恐らく「本草綱目」の「烏賊魚」の集解からの孫引きである。

   *

頌曰近海州郡皆有之。形若革囊、口在腹下、八足聚生於口旁。其背上只有一骨、濃三、四分、狀如小舟,形輕虛而白。又有兩須如帶、甚長。腹中血及膽正如墨、可以書字。但逾年則跡滅、惟存空紙爾。世言烏賊懷墨而知禮、故俗謂是海若白事小吏也。

   *

・「若し、年を逾ゆる時は、則ち、迹、滅して惟だ空紙を存するのみ」まことしやかにこう書かれてあり、ネット上にも無批判にそう信じて込んでいる書き込みがあったりするが、実際には消えない模様である。

・「烏賊、墨を懷き禮を知る」墨から文字を知ることに通底させ、さらにそこから儒教の礼を知る有徳(うとく)の生物とする謂烏賊? 基、謂いか?

・「海若白事小吏」東洋文庫の島田勇雄氏の注によれば、『海若は海神、白事とは言上、上申。小吏は役人。「海神の書記」という意味か』とある。

・「物類相感志」島田氏の注に『宋の贊寧著。物と物とが相感して変化する事例を列挙したもの』とあるが、これも「本草綱目」の時珍の『「相感志」云則過小滿則形小也』の孫引き。

・「小滿」二十四節気の第八。通常は旧暦四月内で現在の五月二十一日前後。万物が次第に成長し、一定の大きさに達してくる頃をシンボルし、麦畑が緑黄色に色付き始める時節である。「暦便覧」(太玄斎の著になる暦の解説書で天明七(一七八七)年出版)には『萬物盈滿(えいまん)すれば草木枝葉繁る』と記す(ここは主にウィキの「小満」に拠った)。

・「河伯從事」「河伯」元来は黄河の神。数多い水神の中でも最も重要とされ、豊作や降雨を授ける力があるとされる。殷の時代から祭祀された古い神である。島田氏の注には、『「海神の秘書」という意味か』とある。

・「閩・浙」「閩」は福建省の古名、「浙」はその北の現在の浙江地方。

・「明府」地方長官。明は尊敬の接頭辞。推測であるが、イカの形状が、彼らの衣冠束帯に似ていたからではなかろうか?

・「柔魚」現行でもこれで「いか」と読ませる。これは恐らくスルメイカ Todarodes pacificus ではないかと私は推定する。

・「漳」現在の福建省漳州一帯。

・「瑣管」既注。ヤリイカ Heterololigo bleekeri と思われる。

・「羗小」島田氏はこれに『かたくちいさい』という補訳をされている。「羗」には強いの意があるから、それを謂うか。

・「一墨斗」「墨斗」は大工道具の墨壺のことを指す。墨壺は中国・朝鮮・日本などの東アジアに特徴的に見られる道具で、中国では紀元前から線引きに使われる「墨繩」という漢字が使われていたが、現在のような工具としての墨壺を意味する漢字である「墨斗」という語の出現は唐代以降のことと、有限会社スズキ金物店公式サイトの『(一)「墨斗」の語源について』にあった。確かに、墨とあの形はイカにピッタリだ。本種はただ瑣管より小さく、よく墨を吐くとしか出ないので同定は私には出来ない。

・「猴染」既注。ソデイカ Thysanoteuthis rhombus 

・「太刀鰂(タチイカ)」以下の片仮名の読みは原典のルビである。既注。スルメイカ Todarodes pacificus 

・「障泥鰂(アオリイカ)」既注。アオリイカ Sepioteuthis lessoniana 

・「雛鰂(ヒイカ)」既注。ヒメイカ Idiosepius paradoxus か。

 

□やぶちゃん現代語訳

  烏賊

一名は「墨魚」、また「纜魚(らんぎょ)」とも称する。「日中華子諸家本草」に曰く、『魚に、両の須(ひげ)が有る。風波に遇うと、即ち、鬚(ひげ)を以って碇を下す。或いはそれを以って石に附着し、丁度、纜(ともづな)のようである。故に纜魚と名づく。』と。蘓頌の曰く、『腹中の血及び膽(きも)はまさに墨のごとく、これを以って字を書くことが出来る。但し、もしそれを書いて後、一年を経過する時には、まさにその痕は全く消滅して、ただの白紙に戻るばかりである。世に言う、「烏賊は墨を懐いて礼を知る」と。故に俗にこれを「海若白事小吏(かいじゃくはくじしょうり)」と謂うのである。』と。「物類相感志」に曰く、『烏則(うそく)は小満を過ぎる頃には、まさにその形は小さくなる。』と。「南産志」に曰く、『また、河伯従事(かはくじゅうじ)と称する。晒して乾した物は閩(びん)や浙に於いては、これを「明府(めいふ)」と称する。また、曰く、「柔魚(じゅうぎょ)」は烏鰂(うそく)に似て長く、色は紫である。漳の人々はこれを晒して乾し、これを食す。その味わいは甘美である。「瑣管(さかん)」というものは或いは称して、即ち、「柔魚」であると言う。ただ、通常の烏賊よりも有意に堅く小さなだけである、と。また、別に「一墨斗(いちぼくと)」と称するものがある。これは「鎖管」に似ているものの遙かに小さい。また、よく墨を吐く種である。「猴染(べにいか)」というものがある。「墨斗」よりも大きく、しかし「鎖管」よりは小さい。』と。これは、今の本邦に於ける「太刀鰂(タチイカ)」・「障泥鰂(アオリイカ)」・「雛鰂(ヒイカ)」の類いであろうか。

2015/05/03

人見必大の烏賊が手強い

「本朝食鑑」の「烏賊魚」がなかなか手強い。判読と訓読に昨日一日、注にとりかかった今日もまだ三分の二しか終わらぬ。人見は医師であった関係上、漢方関連の記載が非常に多く、これがまた、意味の分からないことだらけ(東洋文庫版は漢方記載については失礼乍ら、注記載があまりない)。現代語訳は明日かなあ。

【只今5月4日0:30】現代語訳まで総てを一応、終えた。明日、目覚めたら訳を校正して公開予定。

2015/04/28

本朝食鑑 鱗介部之三 海馬

 人見必大著島田勇雄訳「本朝食鑑」(平凡社東洋文庫一九七六~一九八一年刊)全五巻を入手した。

 これより、これとガチで勝負を始める。

 既に私は、

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

の三篇をものしているが、今回、これらと島田氏の訳注を対照してみても、私の見解や訳に重大な誤認はなかったし、アカデミズムの哀しさで国語学者であられた島田氏の注には殆んど見られない生物学上の注に関しては相応の自負を持ってよいことが改めて意識された。

 さればこそ、自身の海岸生物に対する強い偏愛を力に、

カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」

を立ち上げることとする。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。全十二巻。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 上記三件と同様、底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの画像を視認して起こす。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後にオリジナル注と現代語訳を附した。この際、私の訳注をまず完成させその上で島田勇雄氏の東洋文庫版と最終的に比較、島田氏のそれから私の誤認誤訳と認知出来た箇所に就いては逐一その旨を記載して補正し、私の正しいと信ずる見解と異なる箇所に就いては、概ね私の疑義を表明することとする。即ち、それ以外はあくまで私のオリジナルな注であり、オリジナルな訳であるということである。

 原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で挟み、同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。異体字は原典のママとし、字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採る(例えば、「鰕」とした字は、原典では多くが「叚」の右部分が「殳」である。しかしこれは表示出来ない字であるので、文意から間違いなく「鰕」(えび)と同義と判断して総て「鰕」に統一した)。

 訓読文では原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少ない。また、「今」(いま)に「マ」が、「狀」「貌」(かたち)などには「チ」が、「者」(もの)と読む字には「ノ」が送られてあるが、これらは送り仮名としては省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、くれぐれも原典画像と対比しつつ、読者御自身の正しいと信ずる読み方でお読みになられることを強く望む(因みに、島田氏の東洋文庫版には原文・書き下し文は載らず、現代語訳と注のみである)。

 注の内、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の項立てや、五味についての語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているのでそちらを参照されたい。また「本草綱目」を引用する場合は、概ね、国立国会図書館デジタルコレクションのそれを視認して原文を示したが、披見される際に読み易さを考えて句読点や記号などを打ってある。

 たまたま上記三篇は「海月」「海鼠」「老海鼠」の順に第十二巻に並んでいるものであるので、ここは一つ、ランダムに電子化注釈をすることをせず、「老海鼠」の前後を広げる形で電子化訳注を始めることとし、まずは「老海鼠」の直後の「海馬」からスタートする((その次は次の「雀魚」(ハコフグ)ではなく、「海月」の前の「烏賊」を予定している。何故かというと、私は海洋動物では脊椎動物の魚類よりも無脊椎動物を遙かに偏愛するからである。リンク先は国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁画像)。――いざ! 伴に行かん!――江戸の博物学の迷宮(ラビリンス)へ!……

 

海馬

 集觧狀有魚體其首似馬其身類蝦其背傴僂長

 三四寸雌者黄色雄者青色漁人不采之但於里

 網雜魚之内而得之若得之則賣藥肆以備産患

 爾凡臨産之家用雌雄包收于小錦嚢以預佩之

 謂易産今爲流俗流例此物性温煖有交感之義

 乎

 氣味甘温平無毒〔本朝未聞食之者〕主治李時珍曰暖水

 臓壯陽道消瘕塊治疔瘡腫毒故有海馬湯海馬

 拔毒散未試驗以

 

□やぶちゃんの訓読文

 

海馬

 集觧 狀(かたち)、魚體なれど、其の首、馬に似(に)、其の身、鰕に類す。其の背、傴僂(うろう)、長さ三、四寸。雌は黄色、雄は青色。漁人、之を采らず。但し、罜網(しゆまう)雜魚(ざこ)の内に於いて若(も)し之を得れば、則ち、藥肆(やくし)に賣りて、以つて産患(さんかん)に備ふのみ。凡そ臨産(りんさん)の家、雌雄を用ゐて、小錦嚢(しやうきんなう)に包み收め、以つて預(あづかし)め、之を佩(は)きて、易産と謂ふ。今、流俗・流例と爲(す)。此の物、性、温煖、交感の義、有るか。

 氣味 甘温(かんをん)、平。毒、無し。〔本朝、未だ之を食ふ者を聞かず。〕主治 李時珍が曰く、『水を暖め、臓、陽道を壯(そう)し、瘕塊(かくわい)を消し、疔瘡(ちやうさう)・腫毒を治す。故に海馬湯(かいばとう)・海馬拔毒散(かいばばつどくさん)、有り。』と。未だ驗(しるし)を試みず。

 

□やぶちゃん語注

・「海馬」「かいば」と音読みしている模様で、本書では「たつのおとしご」といった読みは出ないので注意されたい(但し、島田氏はそうルビを振ってはおられる)。言わずもがな乍ら、立派な魚類である、

トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus

で、本邦産種は、

タツノオトシゴ   Hippocampus coronatus

ハナタツ      Hippocampus sindonis

イバラタツ     Hippocampus histrix

サンゴタツ     Hippocampus japonicas

タカクラタツ    Hippocampus takakurai

オオウミウマ    Hippocampus keloggi

クロウミウマ    Hippocampus kuda

の七種を数えるが、最近、

ピグミーシーホース Hippocampus bargabanti

が小笠原や沖縄で確認され(私は個人的には本当は外来語には単語の切れ目に「ピグミー・シー・ホース」を入れたいアナログな人間であることをここに表明しておく。和名であればなおさらだと思う)、通称「ジャパニーズ・ピグミー・シーホース」(ここは通称なので入れた)なる未確認種もあるやに聞いている。分類方法はズバリ! Chano 氏のサイト「海馬」このページが学術的にも正しく分かり易くビジュアル面からも最良である(昔から好きなサイトだったが二〇〇九年で更新が停止しているのが淋しい)。また、私の作成した栗本丹洲「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より)」の美事な画像もお薦めである。

・「狀、魚體にて有れど、其の首、馬に似、其の身、蝦に類す」私の敷衍訓読。底本には「にて」も「れど」も送られていないが、こう読まないと自然には読めない。幾つかの訓読を試みたが、これが私には最もしっくりきた。「似」の「に」の読みは右に打たれた「ニ」を読みと呼んだ。これを送り仮名として「似(にる)に」と読めないこともないが、それではやはり下と続きが悪い。

・「傴僂」は、背をかがめること。差別用語としての「せむし」の意もあるが、ここは本来の意味でよいであろう。

・「三、四寸」約一〇~一二センチメートル。

・「雌は黄色、雄は青色」は誤り。体色は種のみでなく、個体間でも変異が多い。雌雄の区別は腹部を見、直立した腹部の下方に尻ビレが現認出来、腹部全体が有意に膨らんでいるのがメスである。前掲サイト「海馬」の「オスとメスの見分け方」を参照。

・「罜網」当初、安易に「罜」を「里」と誤読して、地引網の類いかなどと想像したのであるが、島田氏の訳の『罟網(あみ)』で目から鱗であった(島田氏の底本は私の視認している版とは異なるものと思われ、明らかに国会図書館蔵本では「罜」である)。「罜」(音「シュ」)は小さな網のことである。寧ろ、大きな網ではなく、和船で曳く網のことであろう。

・「藥肆」「肆」は商店の意。漁師がそこに持ち込んだというより、そうした漢方薬を扱う薬種問屋の仕入れ商人が定期的に巡回していたものと私は推測する。

・「産患に備ふ」以下の「易産」、所謂、安産の御守りについて、かつて寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海馬」で述べた私の注を以下に引く。タツノオトシゴの♂が「出産する」ことは、現在、よく知られている。♂には腹部に育児嚢があり、♀は交尾時に輸卵管を♂の下腹部にあるこの育児嚢に挿入、その中に産卵する。♂がそれを保育し、約二週間ほどで、親と同じ形をした数十~数百匹の子供を♂がかなり苦しそうな動きをしながら「出産する」のである。幾つかの説が、このタツノオトシゴの生態から安産のお守りとなったという説を載せている。しかし、「和漢三才圖會 巻第四十七 介貝部」の「貝子」(タカラガイ)の項の注で述べたように、私はタツノオトシゴが胎児(若しくは妊婦の姿そのもの)と似ているからであろうと考えている。フレーザーの言うところの類感呪術の一つである。その生態としての♂の育児嚢からの出産から生まれた風習という説は、考えとしては誠に面白いが、古人がそこまでの観察と認識から用いたとは、残念ながら私には思えないのである。但し、それを全否定できない要素として、ここで雌雄をセットで御守としている点が挙げられはする。但し、これに対しても受卵前の雌雄若しくは個体(雌雄の判別のところで述べたが、受卵前の♂は腹部のラインがすっきりとスマート、逆に♀は有意に膨らんでいる。加えて受卵し保育する♂も有意に膨らむ)が丁度、出産の前と後とのミミクリーであるとの見解を私は持っている。……いや、その最初の発案者たる呪術師はもしかすると、水槽にタツノオトシゴを飼育し、その雌雄の生態(但し極めて高い確率で♂と♀を取り違えていたと思われるが)を仔細に観察していたのかも知れぬ。……しかし、何故に、彼若しくは彼女(巫女かも知れぬ)はタツノオトシゴを飼育していたのであろうか?……タツノオトシゴを見る巫女……何だか僕は Hippocampus なロマンを感じ始めたようだ。……

・「交感の義」次のまさに前注で私が述べた、「氣味」の『甘温、平。無毒』(これは「本草綱目」の引き写しである)という性質の類感的呪術効果ではないか? と人見は推理しているものと思われる。しかし、これは実は「本草綱目」に、海老と同じ効能であると、かく断定されてある。人見は自分が治験してみたことがない(末尾参照)のでかく言っているのであろう。

   *

發明時珍曰海馬雌雄成對,其性溫暖、有交感之義、故難及陽虛房中方術、多用之、如蛤蚧、郎君子之功也。蝦亦壯陽、性應同之。

   *

・「本朝、未だ之を食ふ者を聞かず」とあるが、「タツノオトシゴを捕獲して食す」に、『IT検索すると唐揚げしたり、あるいは卵を漁村ではご飯にかけて食べたり、中国ではかりかりに焼いて串に刺して売っていたりするそうです。揚げたものは所謂骨せんべいの味とのこと』とあり、実際に食べた味が語られてある。私は中国で料理に入っているものを食べた経験はあるものの、味は中華の濃い味付けで良く分からなかったが、恐らく美味いものであろうとは容易に想像出来る。

・「主治」以下の引用部は概略で、実際には「本草綱目」では「海馬湯」について、対象疾患と処方の具体が別々に以下のように細かく示されてある。

   *

附方〔新二。〕海馬湯治遠年虛實積聚癥塊。用海馬雌雄各一枚、木香一兩、大黃(炒)、白牽牛(炒)各二兩、巴豆四十九粒、青皮二兩(童子小便浸軟、包巴豆扎定、入小便再浸七日、取出麩炒黃色、去豆不用)、取皮同衆藥爲末。每服二錢、水一盞、煎三五沸、臨臥溫服。 「聖濟錄」海馬拔毒散治疔瘡發背惡瘡有奇効。用海馬(炙黃)一對、穿山甲(黃土炒)、朱砂、水銀各一錢、雄黃三錢、龍腦、麝香各少許爲末、入水銀研不見星。每以少許點之、一日一點、毒自出也。 「秘傳外科」

   *

・「陽道を壯し」先に引いた「本草綱目」の「發明」にはっきり『陽虛房中方術』と記す。男性用の媚薬である。

・「瘕塊」腹中に塊の出来る症状をいう。必ずしも癌とは限るまい。

・「疔瘡」口腔内に出来た黄色ブドウ球菌などによる皮膚感染症である口底蜂窩織炎(こうていほうかしきえん)のこと。蜂窩織炎の中でも性質(たち)が悪い劇症型に属する。これが口ではなく鼻や頰などに生じたものが「面疔(めんちょう)」である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

海馬(かいば)

 集觧 形は、魚体であるが、その首は馬に似ており、その身は海老に類している。その背は著しく屈(かが)まった形をなし、長さは三、四寸。雌は黄色、雄は青色を呈する。漁師は、これを漁の対象としては獲らない。但し、引網の中の雑魚(ざこ)の類いの中に於いて、もしこの生き物を獲り得た時には、直ちに薬種問屋に売る。

 しかしこれは食うのでは勿論なく、以って難産の際の御守りとして商品化するばかりである。

 およそ出産を間近に控えた妊婦のいる家では、この海馬の雌雄を用いて、小さな錦の袋に包み収め、以ってこれを妊婦に持たせ、これをその腰に下げさせておくと、安産となると言う。今も、この民草の間での習俗は極めて一般的に市井に行われている。

 これはこの海馬の気味の性質が温暖であるからして、その交感の象徴性によって、体を温める効果が得られるからなのであろうか。

 気味 甘温(かんおん)、平。毒はない。〔但し、本朝に於いては、未だ、これを食べるということは聞いたことがない。〕主治 李時珍の曰く、『体内の水気を暖め、男性の陽気をいやさかに昂(たか)め、腹腔内に生じたしこりや腫れ物を消し、口に生じた重い疔瘡(ちょうそう)や腫物に由来する毒害を癒やす。ゆえに「海馬湯(かいばとう)」「海馬拔毒散(かいばばつどくさん)」と言った処方がある。』と。但し、私は、これらの処方及び海馬単品の服用による効果は、これ、いまだ試みてみたことはない。

2015/04/27

密かにカテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始

1977年平凡社東洋文庫刊の国語学者大島勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本「本朝食鑑」を入手した。流石は国語学者、注の引用がもの凄い堆積である。その代り、生物学的考証記載は失礼乍ら、頗る貧困である。まずは順に「海鼠」から取り掛かってみたが、当初、考えていた公開版を残しての補正は、少なくとも「海鼠」では厳しい。これは僕の誤りが多いというのではなくて、公開から大島本を今日、見るまでの間に、全く個人的に自分の記載に対して、幾つかの補正が必要となったからである。現在、その改稿に着手しているが――これ、なかなか手強い。――しかし、だからこそ面白い。――今暫く、お待ちあれかし。――とりあえず、カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始し、僕の新しいプロジェクトの予告と致す所存である。
 
ガチで――勝負だ!!!

2015/04/23

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

 

[やぶちゃん注:「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」「博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載」「本朝食鑑」の第三弾。私の偏愛するクラゲである。「本朝食鑑」については上記「12」のリンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁から始まる「海月」パートの画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海月」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。二度出て来る「鰕」とした字は原典では「叚」の右部分が「殳」であるが、表示出来ない字であるので、文意からこれと判断して示した。「蔵」「静」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「狀」など)は正字で採った。

 注文するも未だ東洋文庫版は到着せず。――暴虎馮河のオリジナル現代語訳を敢えて公開する。【二〇一五年四月二十三日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したので、追記箇所が分かるようにして補足した。訳のうち、最後の「然れども微温か。未だ詳らかならず」の箇所のみ島田氏の訳を参考に修正を行った。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

海月〔訓久良介〕

 釋名水母〔鰕附從之如子之從母故曰水母源順

 曰食經海月一名水母貌如月在海中

 故以名之凡自古以海月而名者尚矣以形色名

 之則於水母不相當雖圓形而不正其色亦殊一

 種有水海月者色白形圓言之乎陳蔵器

 李時珍俱以江瑤爲海月是形色相當矣〕

 集觧狀如水垢之凝結而成渾然體静隨波逐潮

 浮于水上其色紅紫無眼口無手足腹下有物如

 絲如絮而長曳魚鰕相隨※1其涎沫大者如盤小

[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]

 者如盂其最厚者爲海月頭其味淡微腥而佳江

 東未見之海西最多故煎茶渣柴灰和鹽水淹之

 以送于東而爲魚鱠之伴或和薑醋熬酒以進之

 一種有唐海月者色黄白味淡嚼之有聲亦和薑

 醋熬酒以進之是自華傳送肥之長﨑而來本朝

 亦製之其法浸以石灰礬水去其血汗則色變作

 白重洗滌之若不去石灰之毒則害人一種有水

 海月者色白作團如水泡之凝結亦曳絲絮魚鰕

 附之隨潮如飛漁人不采之謂必有毒又有無毒

 者而味不好江東亦多有之古人詠艶情之歌有

 海月遇骨之語是誕妄乎

 氣味鹹平無毒〔或曰鮾則生腥臭然微温乎未詳〕主治婦人朱血

 及び帶下食之而良或謂伏河豚毒

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「尚(ヒサ)シ」・「水海月(クラケ)」(「水」にはない)・「水垢(アカ)」(「水」にはない)とあるのみである。また、「貌」(かたち)には「チ」が、「者」(もの)には「ノ」が、「狀」(かたち)には「チ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕

 釋名 水母〔鰕(えび)、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし。故に水母と曰ふ。源順(みなもとのしたごふ)が曰く、『「食經」、海月、一名、水母。貌(かたち)、月の海中に在るがごとし。故に以つて之れに名づく。』と。凡そ、古へより海月を以つて名づくる者、尚(ひさ)し。形・色を以つて之れに名づくれば、則ち、水母、相ひ當(あた)らず。圓形と雖も不正なり。其の色も亦、殊(こと)なり。一種、水海月(みづくらげ)と云ふ者、有り。色、白く、形、圓(まどか)にして之を言ふか。陳蔵器・李時珍、俱に江瑤(かうえう)を以つて海月と爲(な)す。是れ、形・色、相ひ當れり。〕

 集觧 狀(かたち)、水垢(みづあか)の凝(こ)り結びて成るがごとく、渾然、體(てい)、静かなり。波に隨ひ、潮を逐ふて、水上に浮かぶ。其の色、紅紫。眼・口、無く、手・足、無し。腹の下、物、有りて絲のごとく、絮(ぢよ)のごとくにして、長く曳く。魚鰕、相ひ隨ひて其の涎沫(よだれ)を※1(す)ふ[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]。大なる者は盤のごとく、小さきなる者は盂(はち)のごとし。其の最も厚き者は、海月の頭と爲る。其の味はひ、淡(あは)く微腥(びせい)にして佳なり。江東、未だ之を見ず。海西、最も多し。故に煎茶渣(かす)・柴灰(しばはひ)、鹽水に和して之を淹(あん)じて、以つて東に送りて、魚鱠(うをなます)の伴と爲す。或いは薑醋(しやうがず)・熬酒(いりざけ)に和して、以つて之を進む。一種、唐海月(からくらげ)と云ふ者、有り。色、黄白、味はひ淡く、之を嚼(は)みて、聲、有り。亦、薑醋・熬酒に和して、以つて之を進む。是れ、華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す。其の法、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つてして其の血・汗を去る。則ち、色、變じて白と作(な)る。重ねて之を洗ひ滌(のぞ)く。若(も)し、石灰の毒を去らざれば、則ち、人を害す。一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團(だん)を作(な)し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り。古人、艶情の歌を詠(えい)じて、「海月、骨に遇ふ。」の語、有り。是れ誕妄(たんばう)か。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒、無し。〔或いは曰く、『鮾(あざ)る時は則ち、腥臭(せいしう)生ず。』と。然れども微温か。未だ詳らかならず。〕 主治 婦人の朱血及び帶下(こしけ)、之を食ひて良し。或いは謂ふ、河豚(ふぐ)の毒を伏すと。

 

□やぶちゃん語注(私は既に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の――「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)の項――則ち、クラゲの項――の私の注で、包括的なクラゲについての概説と見解を述べてある。出来ればそちらも是非、参照されたい。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕……」以下、「くらげ」の語源説が示されてある「水母」のそれは私には初耳乍ら、その是非は別としても、クラゲの生態をよく観察していて興味深い(後注参照)。本邦の水族館としてのクラゲの本格常設展示の濫觴の後身である新江ノ島水族館の公式ブログ「えのすいトリーター日誌」の『9は9ラゲの9~(その5)「クラゲ」の語源』には、表記としては他に「水月」「鏡虫」「久羅下」を掲げ、

 ・海の中をクラクラと浮遊しているから、クラゲ

 ・暗闇にいる化物→暗化け→クラゲ

 ・目がなくてさぞかし暗いだろうから、暗げ

 ・丸くてくるくる回っている→くるげ→くらげ

 ・いるとなんとなく暗いから、暗げ

という語源説示す。目がないとされたところから「暗い」意或いは「黒い」意とするのは、松永貞徳「和句解」(寛文二(一六六二)年)や貝原益軒「本釈名」(元禄一二(一六九九)年)に載る旨、ネットのQ&Aサイトにあった。また、ウィキの「クラゲ」には別に、『丸い入れ物「輪笥(くるげ)」に由来するとの説』を見出せるが、この一見、古さを感じさせ、まことしやかに見える説については、村上龍男・下村脩共著「クラゲ世にも美しい浮遊生活 発光や若返りの不思議」(二〇一四年PHP研究所刊)の「クラゲの語源」で、『確かに形は似ているかもしれないが、比較的身近にいる生き物より、二つの言葉』(「くるむ」「くるめく」などの「丸い」の意を含む接頭辞「輪(くる)」と食器の「笥(け)」の二語ということ)『が合成されてでき上がった人工物の名のほうが古いとは考えにくいのではなかろうか。実際、「輪笥」という言葉は、古事記にも万葉集にも出てこない』とあり、私も頗る同感である。

 語源は辿れぬものの、私が遙かに興味深いのは、本邦の文学・史書に最初に現われる最初の生物こそが、この「くらげ」である事実なのである。ご存じのように、それは日本最古の史書にして神話である「古事記」の、それもまさに冒頭に登場するという驚天動地の事実なのである。「古事記」本文の冒頭を引く。

〇原文

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御巢日神、次神巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

〇やぶちゃんの訓読

 天地(あめつち)の初めて發(おこ)りし時、高天(たかま)の原に成れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)、獨神(ひとりがみ)に成り坐(ま)して身を隱すなり。

 次に、國、稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、九羅下(くらげ)なす多陀用弊(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)のごと、萌(も)え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(あめのとこたち)の神。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、獨神と成り坐(ま)して、身を隱すなり。

「獨神」とは、男女神のような単独では不完全なものではない相対的存在を超越した存在の意で、また「身を隱す」というのは、天地の本質の中に溶融して一体となったことを意味すると、私は採っている。「葦牙」は、生命の誕生の蠢動を象徴する春の葦の芽の意。

 これを見ても分かる通り、日本神話に於いてはこの地上の地面そのものがカオスからコスモスの形態へと遷移する浮遊状態にあったそれを「久羅下(くらげ)」に比しているのである。まさに――「くらげ」は日本に於いては世界で最初に神によって名指された生物である――ということになるのである! 私は「古事記」を大いにしっかり授業でやるべきだと考えている(『扶桑社や「新しい歴史教科書」を編集している愚劣な輩へ告ぐ!!!』をも参照されたい)。それは、若者たちが、こういう博物学的な興味深い事実にこそ心打たれることが大切だと考えるからである。それは、強い神国としての日本をおぞましくも政治的に宣揚するためにではなく、である。

・「鰕、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし」すぐ頭に浮かぶのは鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchiana であるが(私は二〇〇八年前に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」ではこの共生するエビ類について『ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)』と述べたが、今回、二〇一一年刊の『広島大学総合博物館研究報告』の大塚攻・近藤裕介・岩崎貞治・林健一共著の論文「瀬戸内海産エビクラゲNetrostoma setouchiana に共生するコエビ類」によって『コエビ類の共生はエビクラゲのみから確認され』たこと、それによって『宿主特異性が高いこと』が判明していることが分かった)、さらに好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類(この後者の二種は触手動物門や原索動物尾索類だ、などと鬼の首を捕ったように言う勿れ。彼らは広い意味で永く水中を漂う立派な「クラゲ」として「~クラゲ」としてその名を附して呼ばれたり、同じ仲間として認識されてきたのである)に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi などの同クラゲノミ亜目に属するウミノミ類の仲間辺りが挙げられよう。それ以外にも刺胞毒の強いヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali 等に共生(私はエボシダイがクラゲの体の一部を食べることがあること、エボシダイに明白なカツオノエボシの刺胞毒に対する耐性が認められることなどから、寄生或いは胡散臭いので好きな言葉ではないのだが片利共生と考えている)しているスズキ目エボシダイ科エボシダイ Nomeus gronovii の幼体など、調べて見れば、クラゲを「母」とする、特定の「子」は実は決して稀ではないことが分かるはずである。そうしてそういうものを目にしてきた漁師やそれを伝聞した本草家がいたということ、それがこうして記載されていることこそが、幸せな博物学の時代を象徴するしみじみとした事実として私の心を打つのだとだけは言っておきたいのである。

・「源順」(延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)は平安中期の学者で歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫左馬允源挙(みなもとのこぞる)の次男。以下、ウィキの「源順」によれば、若い頃より奨学院において勉学に励んで博学として知られ、二十代で日本最初の分類体辞典「和名類聚抄」を編纂した。天暦五(九五一)年には和歌所の寄人(よりゅうど)となり、「梨壺の五人」の一人として「万葉集」の訓点と「後撰和歌集」撰集に参加した。漢詩文に優れた才能を見せる一方、天徳四(九六〇)年の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者を務めるなど和歌にも才能を発揮した。特に斎宮女御徽子(きし/よしこ)女王とその娘規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元二(九七七)年の斎宮規子内親王の伊勢下向の際にも随行した。『だが、彼の多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらし』い。それでも康保三(九六六)年に『従五位下下総権守に任じられ(ただし、遥任)、翌年和泉守に任じられるなど、その後は受領として順調な昇進を遂げるが、源高明のサロンに出入りしていたことが安和の変』(安和二(九六九)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚)『以後に影響を与え』、以後の昇進は芳しくなかった。『三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられ』ている。以下は「和名類聚抄」からの引用。であるが、国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁を視認すると、やや異なる。以下に示す。

   *

海月 崔禹錫食經云海月一名水母〔和名久良介〕貌似月在海中故以名之

   *

・「食經」唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「水海月」現行、狭義のそれ、真正の「ミズクラゲ」は刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita 。なお、本邦には他に北海道に分布するキタミズクラゲ Aurelia limbata がいる。これは傘径が三〇センチメートル前後と大型で(ミズクラゲは十三センチメートル前後)、放射管が網目状になっている点、触手や傘の辺縁部が褐色を帯びる点でミズクラゲ Aurelia aurita と識別出来る。しかし、本項の最後の叙述などを見ると、これは現在の狭義のミズクラゲとは一致しない謂いと私は採る(後注参照)。

・「陳蔵器」(六八一年?~七五七年?)は唐代の医学者で本草学者。浙江省の四明の生まれ。開元年間(七一三年~七四一年)に博物学的医書「本草拾遺」を編纂している。

・「李時珍」(一五一八年~一五九三年)は明代を代表する医学者で本草学者。湖北省の蘄州(きしゅう)の生まれ。中国古来の植物・薬物を研究、兼ねて動物や鉱物を加味しながら主として医用の立場で集成した本草学の確立者にして伝統的中国医療の集大成者。本「本朝食鑑」が模しているところの彼の主著「本草綱目」(五十二巻)は一五九六年頃の刊行で、巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種一八九二種、図版一一〇九枚、処方一一〇九六種にのぼる。

 

・「江瑤」「瑤」は美しい宝玉の意。蔵器と時珍は「海月」に相当するものを「江珧」と呼んでいる事実はある。しかし、

 「海月」=「江珧」≠クラゲ

なのである(それは人見も認識しているようである)。例えばこの「江瑤」が、貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」にも以下のように表れている(これは貝の足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギである。学名を示さないのには理由がある。リンク先を必参照)。以下、リンク先で私が書き下したものを示す(下線やぶちゃん)。

   *

たいらぎ 殻、大にて、薄し。肉柱、一つあり、大なり。食すべし。腸(はらわた)は食ふべからず。和俗、※1の字を用ゆ、出處なし。江瑤(かうえう)及び玉珧(ぎよくえう)は本草諸書にのせたり。肉柱、四つあり。殻、瑩潔(えいけつ)にして美なり。たいらぎは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし。「※2※3」は本草に載せたり。「たいらぎ」と訓するは非なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

   *

この「江瑤」がどこから出て来たものか、今の所、その水源を捜し得ないのであるが、まず「本草綱目」のどこに「江珧」が出るかというと、貝類の載る「介之二」なのである(底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した。下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている。語釈を附すと、痙攣的に注が終わらなくなるので一部を除いて略した。以下の引用でも同じ)。

   *

海月〔拾遺〕

釋名玉珧〔音姚〕 江珧 馬頰 馬頰〔藏器曰、『海月、蛤類也。似半月、故名。水沫所化、煮時猶變爲水時珍曰馬甲、玉珧、皆以形色名萬震贊云、厥甲美如珧玉、是矣。〕

集解〔時珍曰劉恂「嶺表錄異」云海月大如鏡、白色正圓、常死海旁。其柱如搔頭尖、其甲美如玉。段成式「雜俎」云玉珧形似蚌、長二三寸、廣五寸、上大下小。殼中柱炙蚌稍大、肉腥韌不堪。惟四肉柱長寸許、白如珂雪、以雞汁瀹食肥美。過火則味盡也

附錄海鏡〔時珍曰一名鏡魚、一名瑣、一名膏藥盤、生南海。兩片相合成形、殼圓如鏡、中甚瑩滑、映日光如云母。有少肉如蚌胎。腹有寄居蟲、大如豆、狀如蟹。海鏡飢則出食、入則鏡亦飽矣。郭璞賦云、『瑣※3腹蟹、水母目蝦、即此。〕

 

[やぶちゃん字注:「※3」=「王」+「吉」。]

氣味甘、辛平。無毒。主治消渴下氣、調中利五臟、止小便。消腹中宿物、令人易飢能食。生薑、醬同食之〔藏器〕。

   *

「拾遺」というのは「本草拾遺」だから、少なくとも時珍は蔵器の「海月」(ひいては「江珧」)も同一物だと言っているということになって、人見の言と一致はすることになると言える。しかし、この文脈、中国語の出来ない私がぼーぅと読んでいても、これは貝――それも貝柱を食用にする二枚貝、殻の形が月の様に丸いてなことを述べていることぐらいは分かる。即ち、この「海月」は「クラゲ」でないのである。しかもここに出る「海鏡」の形状はこれはまた今度はタイラギではなく、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイPhacosoma japonicum 、いや寧ろ、光沢を持つ点では斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科 ナミマガシワ科マドガイPlacuna placenta が同定候補に浮上してくるという、まさに痙攣的な大混戦の様相を呈しているのである。但し、何と! 驚くべき偶然か? ここに出る郭璞の「江賦」からの引用の『水母目蝦』の「水母」というのは、それこそこれ私が前で注した、クラゲとそれに寄生する甲殻類と思われてくるではないか?!

 では戻って、例えば「本草綱目」にクラゲは出ないのかと言えば、これが出ているのである。しかしそれは「鱗之四」の「海※4」(「※4」=「虫」+「宅」。「かいた」或いは「かいだ」。〕なのである。底本はやはり国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した(下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている)。

   *

海※4〔「拾遺」〕

釋名水母〔拾遺〕 樗蒲魚〔拾遺〕 石鏡〔時珍曰作、宅二音。南人訛爲海折、或作蠟、 者、並非。劉恂云閩人曰、※4廣人曰水母。「異苑」、名石鏡也。〕

集解〔藏器曰、※4、生東海、狀如血■、大者如牀、小者如斗、無眼目腹胃、以蝦爲目蝦動。※4沉、故曰水母目蝦亦猶※5※5之與※6※7也。煠出以薑醋進之海人以爲常味。時珍曰、水母、形渾然凝結其色紅紫、無口眼腹。下有物如懸絮、羣蝦附之、其涎沫浮泛如飛。爲潮所擁、則蝦去而※4不得歸。人因割取之、浸以石灰礬水、去其血汁色遂白。其最濃者、謂之※4頭、味更勝。生、熟皆可食茄柴灰和鹽氷淹之良。〕

[やぶちゃん字注:「■」は判読不能。「血」+(「焰」-「火」のような(つくり)か?)。「※5」=「跫」-「足」+「鳥」。「※6」=「馬」+「巨」。「※7」=「馬」+「虛」。

氣味鹹、溫。無毒。主治婦人勞損、積血帶下、小兒風疾丹毒、湯火傷〔藏器〕。療河魚之疾〔時珍出異苑〕。

   *

因みに、後に寺島良安は、この部分を「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で以下のように訓読している(私の語注がリンク先にある)。

   *

「本綱」に『海※2は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に物有り。絮(しよ)を懸けたるがごとし。羣蝦(むれえび)、之に附きて、其の涎沫(よだれ)を(す)ふ。浮汎(ふはん)すること、飛ぶがごとく、潮の爲に擁せらるれば、則ち蝦去りて、※2、歸るを得ず。人、囚りて割〔(わけ)〕て之を取る。常に蝦を以て目と爲す。蝦、動けば、※2、沈む。猶ほ蛩蛩(きようきよう)の※6※7(きよきよ)とのごとし。其の最も厚き者、之を※2頭と謂ふ。味【鹹、温。】、更に勝れり。生・熟、皆、食ふべし。薑醋(しやうがず)を以て之を進む。茄柴の灰、鹽水に和して、之を淹(い)れて良し。又、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つて、其の血汁を去れば、其の色、遂に白し。』と。

   *

 以上で検証は一先ず終りとするが、私にはやはり調べれば調べるほど、人見の叙述は多様な別種を神経症的に羅列し、博物学的には興味深いものの、なかなか真正のクラゲに至っていないやや迂遠な解説、という気がしてならないのだが、如何であろう?【二〇一五年四月二十八日追記】島田氏の注に、「国訳本草綱目」(戦前の刊行なので「支那」とあるので注意)に「和名いたやがひ」とし、その頭注で白井光太郎氏が『海月・王珧、元ト二物、時珍之ヲ合ス誤リナリ』とし、木村康一氏は『海月ハ扇状ノ二枚貝。左右概ネ不同ニ膨ラム。殻表ハ淡褐赤色ナリ。支那本土ニ海岸ニ分布ス』と附しているとある。これだと、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科イタヤガイ Patinopecten albicans ということになる(同定候補としてはそれもありではあろう)。また、島田氏は中国でのその貝の異名として王珧・江瑤・馬頰・角帯子・江珠・楊妃舌・江瑤柱を示しておられる。因みに楊妃舌は現代中国語ではイタヤガイ科のホタテガイ Patinopecten yessoensis を指す。

 

・「渾然」全く差や違和感がなく、一つのまとまりになっているさま、もしくは角や窪みのないさまを言う。まさに、クラゲのためにあるような語である。

・「腹の下、物、有りて絲のごとく、絮のごとくにして、長く曳く」は、主として鉢クラゲ類で目立つ口腕及び一部の種のその口腕の付属器を指しているのであろう。当然、その他の縁弁を含む傘縁触手や有櫛動物の場合の触手も含んでいると考えてよい。「絮」は綿・真綿・草木の綿毛の意。

・「涎沫」音は「センマツ」で、ここもこう音読みしている可能性は高いと思われるが、私は達意の観点から確信犯で「よだれ」と訓じた。唾(つばき)や口から吹いた泡のこと。

・「※く」(「※」=「口」+「匝」)この字は音「サフ(ソウ)」で、射は吸う・啜るの意。

・「盤」食物を盛る大きな皿。盥(たらい)の意もある。

・「盂」本来は中国古代の礼器の一つで土器・青銅器ともにあり、飲食物の容器で大口の深鉢に足と左右の取手が附いているものを言うが、ここは比較的小さな飲食物を盛る口の広い鉢を指している。

・「海月の頭と爲る」クラゲの親分になるというのか? それもおかしいので一応、クラゲの頭部(傘)となると訳しておいた。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注でも『最も厚いところは海月の頭といわれ』と訳しておられた。

・「江東、未だ之を見ず。海西、最も多し」ここでは既にして、食品加工用の特定のクラゲを指している。即ち、鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta 、その近縁種で有明海固有種のヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 、ビゼンクラゲに極似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)である。但し、最後のスナイロクラゲの分布域は九州から陸奥湾に広く分布するのであるが、恐らくは古くより、これらを採取して食品として加工する技術が主に西日本で発達したことに由来する、分布理解の不十分な認識によるものであろう。なお、後で注するが、同科の現在の日本近海では主に有明海と瀬戸内海に棲息する本邦のクラゲ中でも最大級の種としてのエチゼンクラゲ Nemopilema nomurai は、実は江戸時代には食用クラゲとしての加工の歴史はなかったので、ここには出していない。

・「唐海月」「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)に、

   *

肥前水母【又、唐水母と名づく。】 一物にして、異製なり。其の製、明礬に鹽を和して揉み合はせ、之を漬ける。色、黄白ならしめ、使ふ時、能く洗浄し、礬氣を去る。肥前の産、最も佳し。故に名づく。其の味、淡く、之を嚼(か)むに聲有り。

   *

と出る。これに就いて私は当該注で、以下のように記した。

   *

「肥前水母」ヒゼンクラゲ 良安はこれを塩クラゲの製法違いとしているが、既に横綱エチゼンクラゲに土俵入りしてもらっている以上、やはり種としてのヒゼンクラゲにも控えてもらおう。

 ところが、その前に片付けておかなくてはならない事柄がある。私は実は、肥前(ひぜん:佐賀県と長崎県の一部)や備前(びぜん:岡山県と兵庫県の一部)といった採取された旧国名からついた和名が極めて似ているため、このヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum という種とビゼンクラゲ Rhopilema esculenta という種が同一のクラゲのシノニムであると思っていた(事実、前掲の二冊のかなり新しいクラゲの出版物でも索引にはビゼンクラゲしか載らない)。次に少し経って、ヒゼンクラゲというのは、ビゼンクラゲに極めて類似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi のシノニムではないかとも疑った。ところがレッドーデータ・リスト等を検索する内、実際にはこの三種はすべて別種であるという記載があり、また多くの観察者の記載を見るに、私もこれらは異なった種であろうという印象を持つに至った。即ちクラゲ加工業者の間で「白(シロクラゲ)」と呼称されるヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum は有明海固有種であり、私がシノニムを疑ったスナイロクラゲ Rhopilema asamushi はその分布域が九州から陸奥湾に広く分布するという記述だけで最早同一ではあり得ず、またビゼンクラゲ Rhopilema esculenta は業者が「赤(アカクラゲ)」と呼称するように、傘が有意に褐色を帯びており(但しヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum でも傘に紅斑点があるものがあり、その方が塩クラゲにするには上質とされるらしい)、見るからに異なったクラゲに見えるのである。今後のアイソザイム分析が楽しみである。

 更に付け加えておくと昨今、大量発生で問題になっているエチゼンクラゲについては、実は日本では過去に塩クラゲ加工の歴史はなかった、というのも眼からクラゲであった。昔は来なかったんだよな。はい、江戸博物書の注であっても、やっぱり温暖化の問題は避けて通れませんね。

 更に追伸。「唐水母」という名称は、今の異名としては残っていない。ところが「唐海月」という語ならば、井原西鶴の「好色一代女」卷五の冒頭「石垣戀崩」に『おそらく我等百十九軒の茶屋いづれへまゐつても。蜆やなど吸物唐海月ばかりで酒飲だ事はない。』と出て来る(近世物は苦手なので注釈書が手元にないのでこれまでである)。しかし、これはもしかするともともとは中国製の加工食品としての塩クラゲを言う言葉ではなかったか。その製法が江戸期に日本に伝わり、肥前で作られたものにこの呼称が残ったとは言えまいか(あ、さればそのルーツはまさにエチゼンクラゲ製であったかも知れないぞ)。

 最後にちゃんと名前を挙げよう。鉢クラゲ綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 。種名の頭は「ヒ」! 「ビ」じゃあない!

   *

くどいが、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta とヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum はご覧の通り、違う種である。八年も前の自分の叙述に、不覚にも思わず読み入ってしまった。……

・「華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す」以上述べた通り、中国からの舶来の加工クラゲの原材料は本邦では対象としなかった(或いは漂ってこなかった)エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai のものである可能性が大きく、後者はビゼンクラゲ Rhopilema esculenta・ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum・スナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)であったということになる。味わいの違いはそうした素材種や個体の大小の違い(無論、処理方法の違いもあるであろうが)によるものであったとも言えよう。なお、現行の加工過程は「国立研究開発法人 水産総合研究センター 中央水産研究所」公式サイト内の『水産加工品のいろいろ「塩蔵クラゲ」』がよい。ここでは石灰の使用が記載されていないが、他サイトを見るとやはり使用しているようである。またサイト「くらげ普及協会」もなかなかに必見である。

・「石灰・礬水」「礬水」は「どうさ」と当て字読みし、膠(ニカワ)とミョウバンを水に溶かした液体のことを指す。一般には和紙や絹地の表面に薄く引いて、墨や絵具等が滲むのを防ぐ効果を持つ顔料である。しかし、ここでは単に明礬(ミョウバン)=硫酸アルミニウムカリウム12水和物AlK(SO4)212H2Oの水溶液を指していると考えられる。言うまでもないが「石灰」は消石灰=水酸化カルシウムCa(OH)2のことである。

・「一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團を作し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り」ここまで総てがこの「水海月(みづくらげ)」なるものの、一貫した記載であるとしか読めないのであるが、これはどうもミズクラゲの単種を指しているとはどうしても読めない。まず漁師が「必ず、毒、有る」と確信犯で述べている点である。これは漁師の言としてはやや奇異である。但し、ミズクラゲの刺胞毒は極めて弱いことで知られるが、個人差があってミズクラゲでも刺される人はおり、体質によっては結構な症状を呈する。私の高校時代の友人にもミズクラゲで痛みを感じ、実際に炎症を起こす者がいた。例えば「三重県農林水産部水産資源課」公式サイト内の「ミズクラゲに刺される ミズクラゲを侮るなかれ」を参照されたい(そもそも真正のクラゲ類では、まず刺胞毒が全くないものといのは極めて稀で殆んどないとと言ってもよい。本邦産のものは基本、如何なるクラゲも刺胞には安易に触らぬ神にの類いではある。但し、傘なら安全と言う訳でもない。海外のケースであるが、TV番組で傘だけを持ったレポーターが数日後に激しい炎症を起こした事例を知っている)。話を戻すと、私は当時の漁師にとって「必ず毒がある」としてまず採らないというのは強毒のアカクラゲやカツオノエボシなどで(通称言うところの電気クラゲであるアンドンクラゲなども強い刺胞毒を持つが、この手のクラゲは獲るも獲らないも、小さ過ぎて初めから漁獲対象足り得ないから挙げない)、ミズクラゲに対して、このような忌避表現をするとは思えないというのが一。今一つは、「亦、絲絮を曳きて、魚鰕、之に附く」という部分で、ミズクラゲにも幼魚や甲殻類がいることはあるものの、「絲絮を曳きて」と表現するのは寧ろ、やはりアカクラゲやカツオノエボシで、それらには前に述べたようにエボシダイの幼魚や小海老と言うべきウミノミ類のような寄生や片利共生を容易に現認出来るからである。

・「古人、艶情の歌を詠じて、海月、骨に遇ふの語、有り」延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の巻二十七雑九に、

 

  我が戀は浦の月をぞ待ちわたるくらげのほねに逢ふ夜ありやと  仲正

 

とあるのを指すものであろう(寺島は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で本歌をやや手を加えて引いている)。源仲正(仲政とも書く)は平安末期の武士で、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、鵺(ぬえ)退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。訳しておくと、

   *

やぶちゃん訳:私の恋は、浦に上る遅い月をひたすら待ち続けるようなもの……意地悪くも、その上ぼる月が水面に映ったかと見紛う海月……その海月の骨に出逢う夜が――世が――時が――やって来るのであろうか? いや、それは海月に骨がないように、私の恋は、決して成就することなどないに違いない……

   *

といった感じである。

・「誕妄」「妄誕」で「ばうたん(ぼうたん)」の方が一般的か。言うことに根拠のないこと、また、その話の意。「妄」は「まう(もう)」と読んでもよい。

・「鮾る」魚肉などが腐る。

・「然れども微温か。未だ詳らかならず」漢方で軽く温める効果を持つものを「微温」と称するが、腐ると腥い臭気を帯びるものは微温ではなく微寒の効果を持つはずなのに、という人見の疑問か? ここ、文脈の繋がり方がよく分からない。識者の御教授を乞うものである。訳では分からないながらに逐語訳して誤魔化した。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注では、この割注全体は『鹹平。無毒。あるいは鮾敗(くさ)ると腥臭を発生するともいうが、微温かどうかはは未だ詳らかでない』と訳しておられるので、ここは「然れども微温なるかは未だ詳らかならず」で、私の認識とは逆に――腐ると腥(なまぐさ)い臭いを発するという以上、微温の性質であるということであるらしいが、本当にそうかどうかはいまだよく分からない――という意味である。その方が叙述としては自然に感じられるので、私の訳もそのように今回改変した。

・「失血」不詳。漢方用語にはない。以下の並列する「帶下」から考えると貧血ではバランスが悪く、生殖器からの異常な不正出血を指すものか。

・「帶下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

・「河豚の毒を伏す」先の海鼠の記載にも出るが、不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳(読み易さを考えて適宜改行した。一部、前後の文脈との齟齬のある箇所は翻案している。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ずる。〕

 釋名 水母〔小海老がついてきてこれに従う。子が母に從うが如くである。故に「水母」と言う。源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」に言う、『「食経」に、「海月、一名、水母。形(かたち)は月の海中にあるかの如くである。故に以って、かく名づけている。」と。』とある。

 およそ、古えより「海月」を以って名づくる海産動物は、これ、随分とあって、また相応に古いものである。

 形と色を以ってこれに名づけるとするならば、如何にも「水母」というのは相応しくない。そもそも円形を成していると言っても、その形は正円ではなく歪(いびつ)である。さらにその色もまた多種多様で、月の如き清澄な銀色を呈していないものも多い。但し、一種に「水海月(みずくらげ)」という種がおり、その色は確かに白く、形も円(まど)かであるから、これを以って「海月」と称しているものか。陳蔵器や李時珍はともに、二枚貝の「江瑤(こうよう)」を以って「海月」と同定している。これならば形・色ともに、よく当たっている。〕

 集觧 形は水垢(みずあか)が凝結して成った如きもので、渾然一体となった体を持ち、至って静かな生態を持つ。波に随い、潮を追って、水上に浮かんでいる。その色は紅紫色を呈する。眼や口はなく、手足もない。腹の下に一物があって、これは糸の如く、綿毛の如きものであって、それを長く曳いている。魚や小海老が、この垂下物につき随っており、その海月が摂餌の滓(かす)として垂らす涎沫(よだれ)を吸っては、またそれを餌としている。大きなものでは盥(たらい)ほどもあり、小さなものでは小鉢ほどといった感じである。その最も大きく厚い部分が、所謂、「海月の頭(あたま)」、傘となるのである。

 その味わいは、淡くして、やや海の香を香らせて、良きものである。

 東日本では、いまだこの類を見ない。西日本の海に、最も多くこれが認められる。

 故に煎茶の渣(かす)や柴を燃やした残りの灰(はい)に塩水(えんすい)を混ぜて、その液の中に、この生の海月を塩漬けにして、以って東に送って、魚の刺身の友としている。

 或いは生姜酢や熬(い)り酒を加えて、以ってこれを珍味として出だす。

 一種に「唐海月(からくらげ)」と言うものがいる。この色は黄白色を呈し、味わいは頗る淡いもので、これを噛むと、きゅっきゅっという如何にも絶妙な音を立てる。これもまた先と同様に生姜酢や熬酒を注いで、以ってこれを珍味として出だす。これは、中華より肥前の長崎に伝送されて齎(もたら)される舶来の品である。本朝に於いてもまた、これと同じものを製する。

 その方法は、まず、石灰と明礬(みょうばん)の水溶液に海月を浸し、以ってその血や体液を取り去る。すると色が変じて白色となる。これをさらに水で洗って汚れを細かに取り除く。特に万一、この折りに有毒な石灰の除去が不完全であると、食した者に害が及ぶ。

 一種、「水海月(みずくらげ)」というものがいる。色は白くして団塊状をなして、謂わば、水泡が凝結したかの如き形態であり、また、下に糸や綿毛様のものを長々と曳いていて、そこに小魚や小海老が好んで住みついている。潮に随って飛ぶように漂う。漁師はこれを獲らない。何故と謂うに、「必ず、毒があるから。」とのこと。また、毒がないものもいるけれども、その味わいは、これ、良くない、と。この「水海月」は東日本にもまた多くいる。

 古人に、艶情の思いを歌に詠じて、「海月、骨に遇う。」という表現をする。これは、無論、根拠のない戯言(たわごと)というべきものであろう。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒はない。〔或いは言う、『塩海月は腐りかけた時には、すなわち、腥(なまぐさ)い臭いをずる。』と。しかし、本当に「微温」の性質を持つ食材であるかどうかについては、いまだ私にはよく分からない。〕 主治 婦人の失血及び帯下(こしけ)の症状には、これを食して良い効果がある。或いは言う、河豚(ふぐ)の毒をよく制する、とも。
 
 
 

◆華和異同

□原文

   海月

曰水母曰※或名樗蒲魚又名石鏡或謂華之海月

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]

者江瑤也然崔氏食經云海月一名水母貌似月在

海中然則華人以水母亦爲海月惟疑崔氏所言者

以色白者則指水海月而言乎海月色紫不似月之

色若以團容而言則可也南産志曰色正白濛濛如

沫者今之水海月也乎

 

□やぶちゃんの書き下し文

   海月

曰く、水母(すいぼ)。曰く、※(たく)[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは樗蒲魚(ちよぼぎよ)と名づく。又、石鏡(せききやう)と名づく。或いは華の海月と謂ふ者は江瑤(かうえう)なり。然れども崔氏が「食經」に云く、『海月。一名、水母。貌(かたち)、月に似て、海中に在り。』と。然らば則ち、華人、水母を以つても亦、海月と爲す。惟だ、疑ふ、崔氏が言ふ所は、色、白きを以つてする時は、則ち水海月(みづくらげ)を指して、言ふか。海月、色、紫、月の色に似ず。若し、團容(だんよう)を以つて言ふ時は、則ち可なり。「南産志」に曰く、色、正に白にして濛濛(もうもう)として沫(あは)のごときとは、今の水海月ならんや。

 

□やぶちゃん注

・「樗蒲魚」「樗蒲」は「かりうち」とも訓じ、中国から伝来した博打(ばくち)の一種を言う。「かり」と呼ばれる楕円形の平たい四枚の木片を采(さい)とし、その一面を白、他面を黒く塗って、二つの采の黒面に牛、他の二つの采の白面に雉子を描き、投げて出た面の組み合わせで勝負を決するものを言うから、恐らくはその采の形状をクラゲに擬えたものであろう。

・「江瑤」本文の私の同注を参照されたいが、ここで人見はまさにこれをクラゲではない、恐らくは斧足類のタイラギやカガミガイとして理解しようとしているように私には読める。

・「水海月」ここでは、ここに限ってなら、これは現行のミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita と採ることが可能である。

・「海月、色、紫」人見はクラゲの一般的な色彩を「紫」と言っている。鉢虫綱根口クラゲ目ムラサキクラゲ Thysanostoma thysanura は一般には黄褐色(実際には目につくクラゲ類ではこの色のクラゲ類が最も多いように私には思われる)であるが、時に非常に美しい紫色を呈する個体もいる。他の種でも、色彩の変異がしばしば見られ、当時の紫という色範囲が青味の強いものも含むから、ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali まで含まれると考えれば、強ち、おかしな認識とは言えないように思われる。

 

□やぶちゃん現代語訳

   海月

「水母(すいぼ)」と言う。「※(たく)」とも言う[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは、「樗蒲魚(ちょぼぎょ)」と名づける。また、「石鏡(せききょう)」と名づける。或いは、中国に於いて「海月」と言った場合、その物は二枚貝の一種である「江瑤(こうよう)」を指す、とする。しかし、崔禹錫氏の「食経」には、『海月。一名は水母。その形は月に似ており、海中に棲息している。』と述べてある。とするならば、中国人は本邦で言う「水母(くらげ)」を以ってしても、二枚貝の「江瑤」を「海月」というのと別にやはり、「海月」と称しているのである。但し、疑問に思うことは、ある。崔氏が謂うところの生物は、色の白いものを以ってかく称しているということで、則ちこれは、今言うところの「水海月(みずくらげ)」を指して言っているのだろうか、という疑義なのである。何となれば現在、私の知れる一般的な海月(くらげ)の色は基本、紫色であって、白銀の月の色には似ていないからである。但し、もしも海月(くらげ)の頭のその丸い形を以ってして海の「月」と称しているのであるとするならば、それはそれで正しいとも言える。さすれば、「閩書南産志」に曰く、『色は真っ白で、その形は何かぼんやりとしていてはっきりと捉えることが出来ぬ、謂わば水面に浮いた泡のような』とあるのも、現在の「水海月(みずくらげ)」のことを指して言っているのであろうか。

2015/04/20

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」を受けて作成したものである。「老海鼠」は「海鼠」の条の次にあり、ホヤはナマコに劣らず、私の偏愛の対象だからでもある。

 「本朝食鑑」については上記リンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「老海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「老海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。「殻」「帯」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「状」など)は正字で採った。

 「本朝食鑑」は東洋文庫で訳注が出ているが、私は現在所持しないので、語注と現代語訳は全くの我流の産物である。真に学術的なものを求めておられる方は、そちらをお薦めする。何箇所かで意味が通じない箇所にぶつかったため、恣意的な翻案もしてある。大方の御批判を俟つものである。

 なお、この記載はおかしな部分が異様に多い。人見御大には失礼乍ら、注では相当に指弾批難しているので、悪しからず。また、申し上げよう。私の読解は好事家の恣意的なそれではあるが、相応に本気だ。――今朝、アカデミックな東洋文庫の訳注本を全巻注文しておいた。私の拙考や訳が下らないものかどうか? その時は私の記載はそのままに補足を致したく存ずる。……さても……鬼が出るか? 蛇が出るか?……お楽しみあれ――♪ふふふ♪……では、それまでまた……【二〇一五年四月二十日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したが、披見したところ、手を加える必要性を認めなかったので、これをそのまま私の定稿とする(ちょっと残念)。但し、同書(巻四三三〇~三三一頁)にある注四は恐らく平安から近世に至るまでのホヤの記載の蒐録として現在最も詳しい記載と拝察する。必読である。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

老海鼠

 釋名保夜〔此俗訓古亦然〕

 集觧狀如言海鼠之老變而一箇肉片色紫赤外

 雖有如※鼇之殻者而粘石脱去肉味類海鼠而

[やぶちゃん字注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 硬或似鰒耳水母而極堅應節而生花如披人之

 指掌也江淹郭璞同言石蜐乎今芝品川間有之

 相豆總之海濵亦希采海西最多醃而送傳之古

 者若狹作交鮨貢之而不知造法内膳部有參河

 國保夜一斛今未聽國貢也

 氣味鹹冷無毒主治利小水止婦人帯下

 

□訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「間(マヽ)」とあるのみである。また、「今」(いま)には「マ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

老海鼠

 釋名 保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕

 集觧 狀(かた)ち、海鼠(なまこ)の老變(らうへん)と言ふがごとくにして、一箇の肉片。色、紫赤。外、※鼇(けいがう)のごとき殻有ると雖も、石に粘(ねん)じて脱け去る。肉味、海鼠(なまこ)に類して硬し。或いは鰒(あはび)の耳・水母(くらげ)に似て、極めて堅し。節に應じて花を生ず。人の指掌(ししやう)を披(ひら)くがごとし。江淹(かうえん)・郭璞(かくはく)、同じく言ふ、「石蜐(せきけふ)」か。今、芝・品川、間(まま)之れ有り。相(さう)・豆(づ)・總(さう)の海濵にも亦、希れに采(と)る。海西、最も多し。醃(しほづけ)して之を送り傳ふ。古へは若狹、交鮨(まぜずし)と作(な)して之を貢す。造法を知らず。「内膳部」に『參河(みかは)の國、保夜一斛(ひとさか)。』と有り。今、未だ國貢(こくこう)を聽かざるなり。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 氣味 鹹冷(かんれい)。毒、無し。主治 小水を利(り)し、婦人の帯下(こしけ)を止(と)む。

 

□やぶちゃん語注(既に私がものした、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠」

「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」

「海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載」

「海産生物古記録集■5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載」

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ」

などでさんざん注を施してきたので、寧ろ、それらを参考がてら、お読みに戴けるならば、恩幸、これに過ぎたるはない。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「老海鼠」食用としての記載であるから、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓(しゅうさい)亜目ピウラ(マボヤ)科 Pyuridae マボヤHalocynthia roretzi 及びアカボヤHalocynthia Aurantium を挙げておけばよかろう。本書より後の寺島良安の「和漢三才図会」では、巻第四十七の「介貝部」に「老海鼠」を入れており(これは現代の一部の魚屋が本種を「ホヤガイ」と呼んで貝類と思い込んでいるのと同じである)、そこでは『「和名抄」は魚類に入る。以て海鼠の老いたる者と爲すか』と記している。因みに、人見はこの「老海鼠」を棘皮動物の「海鼠」と条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の魚類「海馬」(タツノオトシゴ)の間に挟み入れている(「本邦食鑑」の配列には強い細かな分類意識は働いていないように私は感じられる)。人見も「狀ち、海鼠の老變と言ふがごとくにして」と言っている辺り、海鼠と近縁と考えるにはやや躊躇があったようにも感じられはするが、寺島ほど強い批判的雰囲気は感じられない。

・「保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕」しばしば俗にホヤには強壮効果があって「夜に保つ」ことからこう書くという説があるが、「保夜」は「ホヤ」という生物呼称が成立して以降に生まれた当て字であって誤りである。「ほや」という呼称は平安以前の非常に時代に発生しており、現在はその語源を解き明かすことは出来ない。

・「※鼇」(「※」=(上)「觧」+(下)「虫」)この「※」は「蟹」の異体字と判断する。「鼇」は大亀で、現行では大きなウミガメ(海亀)やスッポン(鼈)の類を指す。確かにホヤの「殻」(皮革質の被嚢)は蟹の甲羅やスッポン及びウミガメ類でも皮骨と鱗から成る比較的軟らかいオサガメの類の甲羅が発達しないタイプのそれによく似ているとは言えると思う。

・「節に應じて花を生ず。人の指掌を披くがごとし」問題の箇所である。この二箇所はどう考えてもホヤの生態、少なくとも食用にするマボヤやアカボヤのそれではあり得ない叙述である。百歩譲って、着底したホヤが成体となることを「花」と言い、被嚢の入水管・出水管の二本と皮革状の表面に発生する疣状或いは突起状のもの三つを合わせて「人の」「掌」(てのひら)や五本の「指」に譬えたのだと措定してみても、それを自然な表現であるとする人はまずいないはずである。あれは「花」には見えないし、五本の指のある人の掌には決して見えない。これがホヤだというのなら、その言っている本人は、実際の海中での生体としてのホヤは勿論、採れたての捌かないホヤを実見したことがない人間による誤った記載としか思われないのである。まず、この「人の指掌を披くがごとし」というのは、「披く」が明白に「花」を受けているから、前の「節に應じて花を生ず」ような運動に対する明白な補足比喩である。しかも後の「石蜐」の注で示すように、これは郭璞の「江賦」の中にある「石砝」(石蜐に同じい)の叙述である『石砝應節而揚葩』という表現を無批判に安易に自分の言葉として使ってしまった誤り(と私は断言する)なのであって、到底、人見が生体のホヤ実見していたとは思えないのである。しかもしかし、ここで一旦、立ち止まってよく見ると、これは、

――「節」(時。季節とは限らない。満潮時・干潮時も立派な「節」である)に「應じ」るかのように、「人の指掌」のようなものが窄(すぼ)んだ状態から、ぱっと「掌」を「披」いたかのように、「花を生」じたかのように見える、それは時によって人の「指」や閉じた「掌」のように見え、時によってそこから「花」に見紛うようなものが「掌」をぱっと開くように出て来る――

という運動を見せる生物体を描写していると読むのが自然であるということが分かってくる。こう書けば、少しでも海岸動物を知っておられる方は、これがホヤなどではなく、

甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

の形状にぴったり一致していることがお分かり戴けるはずである。そうして何より、「石蜐」は現代中国語でまさしくカメノテを指していることがはっきりと分かるのである(例えば中文サイトのここここをご覧あれ)。

・「殻有ると雖も、石に粘じて脱け去る」この叙述もおかしい。生体を水中で鋭利な道具を以って直接切り裂くのでもなければ、如何に乱暴な漁獲法を持ってしても、被嚢は容易には抜け落ちることはない。これを見ても人見はホヤ漁はおろかホヤの無傷の生体個体を実見したことがないように思われてならないのである。

・「肉味、海鼠に類して硬し。或いは鰒の耳・水母に似て、極めて堅し」この描写も、また大いに矛盾する。食用にするホヤの筋体部は硬くなく、寧ろぐにゃぐにゃしている。海鼠のそれに比すならこれは遙かに軟らかいし、凡そアワビの歩足体の外套膜の胴辺縁のように硬いのは筋体ではなく被嚢である。クラゲを出しているのは食用に処理されたクラゲの硬さを言っていると読めるが、ホヤのコリコリする硬い可食部は被嚢との入・出水口の接合部分のぐらいしかない。しかもそれは極めてそれは僅かな部位である。即ち、この人見が異様に硬いと言っているのは、どう考えても食べられない被嚢(皮革)部分を指しているである。これも人見がホヤの実体に極めて疎いことが知れ、彼は実はホヤの可食部をよく分かっていないのではないか、という強い疑惑を抱かざるを得ない奇妙な叙述なのである。

・「江淹」(四四四年~五〇五年)は六朝時代の文学者。河南省考城 の生まれ。字は文通。宋・斉・梁の三代に仕え、梁の時、金紫光禄大夫に至った。貧困の中で勉学に励み、若くして文章で名を挙げた。詩文に清冽な風格をもつが、特に「恨賦」「別賦」は抽象的な感情を題材として精緻な描写のうちに深い情緒を込めた、六朝の賦の一方の代表作とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「江淹」によれば、南宋の詩人厳羽の「滄浪詩話」には「擬古は惟(こ)れ江文通、最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康樂に擬すれば康樂に似、左思に擬すれば左思に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。獨り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」とあるとする。因みに「康樂」は東晋・南朝宋の詩人謝霊運のこと、「左思」は西晋の知られた文学者である(下線はやぶちゃん)。

・「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「石蜐」現代仮名遣「せききょう」(「せきこう」とも読める)。江淹のそれは彼の「石蜐賦序」にある『海人有食石蜐、一名紫𧄤、蚌蛤類也』に基づき、郭璞のそれは、彼の博物的な長江の生物層を詠じた「江賦」の中にある『石砝應節而揚葩』とある「石砝」を指しており、先の「節に應じて花を生ず」という人見の記述も、実はそれに拠っていることが分かる(以上の原文引用は中文サイトの検索による複数の情報から最も信頼出来ると判断したものから引用した)。前注で解き明かした通り、これは――生活史の一部にあって高等な脊索を持った尾索動物のホヤ――とは全く以って無縁で、似ても似つかぬ、逆立ちしたまま固着して動かない(そこは偶然にもホヤの生活史と一致するが)エビ――蔓脚類のフジツボの仲間であるカメノテのこと――なのである。

・「芝」現在の東京都港区芝。浜松町駅の南西、東京タワーの南東に位置し、江戸時代には付近一帯の海岸は「芝浜」と呼ばれ、その中に「雑魚場(ざこば)」と呼ばれる魚市場があった。江戸前の小魚や魚介類などが豊富に水揚げされ、「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、江戸庶民に賞味され、浅草海苔の生産地としても知られたが、江戸末期以降には漁獲量も減り、周辺の湾岸も徐々に埋め立てられて昭和四五(一九七〇)年には雑魚場のあった海岸も完全に埋めたてられ、その跡は本芝公園となった(この情報は芝四丁目の町内会「本芝町会」公式サイトの「町会の概要」の記載に基づいたものである)。

・「海西、最も多し」不審。皆さんもお分かりのように、ホヤ、特に最も食用に供されるマボヤは海西どころか、東北や北海道に多く、特に牡鹿半島・男鹿半島以北に多い。人見は北前船で回って来たホヤの塩辛が、西で獲れてそこで処理されてもたらされたものと勘違いしているのではあるまいか? とすれば、彼は少なくともホヤに関しては生態どころか、流通経路にも暗かったことになる。あんまり考えたくないが、そう思わないとこの悉くおかしな叙述は私には理解出来ないのである。

・「醃(しほづけ)」音は「エン」で、広く魚・肉・卵・野菜・果物などを塩・砂糖・味噌・油などで漬けることを言うが、ここは塩漬けで訓じた。

・「古へは若狹、交鮨と作して之を貢す」「交鮨」は「まぜずし」と訓じておいたが、これは一般的には見かけない語ではある。ところが「古へは若狹」が大きなヒントなのだ。「福井県文書館」公式サイト内の「『福井県史』通史編1 原始・古代」の「第四章 律令制下の若越 第二節 人びとのくらしと税 三 人びとのくらし」の「漁村のくらし」の中に、「延喜式 主計部 上」に『若狭からの調品目に貽貝保夜交鮨というのがある』とし、前文で紹介されてある若狭国遠敷(のちの大飯)郡青郷(里)に関わる木簡の『貽貝富也交作』や『貽貝富也并作』という記載について、『おそらく木簡にみえる交作・并作は交鮨のことであろう。そうであるならこれは、貽貝と海鞘とを混ぜこんで作った鮨ということになろう』と記されてあるのである。そうしてこれはほぼ間違いなく「いすし」、「飯寿司」「飯鮨」、本邦では非常に古くからあった飯と食材を「交」ぜて乳酸発酵させて作る「なれずし」のことを指しているのである。そうしてそれは平安時代の「土佐日記」や「枕草子」にさえ出ることは「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」で既に述べたところである。

・「内膳部」「延喜式」のそれ。宮内省の内膳司(ないぜんし:皇室・朝廷の食膳を管理した役所。)に関するパート。

・「一斛」一石。「斛」は古代の体積の単位で、一斛は十斗で約百八十リットル。米換算なら百四十キログラムほど。

・「帯下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

老海鼠(ほや)

 釋名 保夜(ほや)〔これは俗訓。古えもまた、この通り。〕

 集觧 形は海鼠(なまこ)の老いて変じたとでも言ふようなものであって、一箇の肉片である。色は赤紫(あかむらさき)。肉の他に、蟹や鼈(スッポン)の如き殻を持ってはいるがしかし、この殻は石に強く附着していて、漁(と)った際に抜け去る。肉の味は、海鼠(なまこ)に類しており、硬い。或いは鮑(あわび)の耳や食用に加工された水母(くらげ)に似て、極めて堅い。

 この生物はまた、時節に応じて花のようなものを体表に生ずる。それは、あたかも人が掌の指をぱっと開くような感じである。

 江淹(こうえん)や郭璞(かくはく)の二人が、孰れも「石蜐(せきこう)」と呼んでいるものは、実はこの老海鼠(ほや)なのか?

 今、武蔵の芝・品川に於いて、まま、これを獲る。相模国・伊豆国・上総国や下総国の海浜にてもまた、稀(まれ)にこれを獲る。

 対して西日本では、これは最も多く漁獲され、塩漬けにして各地へ、その珍味が送られ齎(もたら)されるのである。

 古えは若狭に於いて馴(な)れ鮨(ずし)になして、これを貢納していた。しかし、その造法は詳らかでない。「延喜式 内膳部」にも『三河の国、保夜一斛(ひとさか)。』とある。しかし今は、この古えの「老海鼠の馴れ鮨」なるものが国へ貢納されているということは全く以って聴かない。

 気味 鹹冷(かんれい)。毒はない。主治 小水(しょうすい)の出をよくし、婦人の帯下(こしけ)を抑える。
 
 

◆華和異同

□原文

  老海鼠

石蜐又有紫𧉧〔音却〕紫〔音枵〕龜脚之名南産志曰石𧉧

福曰黄※1泉曰仙人掌莆曰佛爪春而發華故江賦

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]

有石𧉧應節而揚葩之語而謝朓詩亦云紫※2曄春

[やぶちゃん字注:「※2=(くさかんむり)+「噐」。]

流今按春而發華者春月肉吐在外秋冬則否

 

□やぶちゃんの書き下し文

  老海鼠

石蜐(せきけう)。又、紫𧉧しけう)〔音、劫(けう)。〕・紫(しけう)〔音、枵(けう)。〕・龜脚(ききやく)の名、有り。「南産志」に曰く、『石𧉧福に「黄※1」と曰ふ[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]。泉に「仙人掌」と曰ふ。莆(ほ)に「佛爪」と曰ふ。春にして華を發(ひら)く。故に「江の賦」、「石𧉧、節に應じて葩(はな)を揚ぐ」の語、有りて、謝朓(しやてう)が詩にも亦、云く、「紫※2、春流に曄(かゝや)く」と。』と[やぶちゃん字注:「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]今、按ずるに春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否(しから)ず。

 

□やぶちゃん注

・「龜脚」これだけは本邦の「ホヤ」ではなくて「カメノテ」にしっくりくることは言を俟たぬ。但し、その場合もミョウガガイやエボシガイなどもこう表現する可能性が高く、既に本文の「石蜐」の注でさんざんっぱら、いちゃもん考証をしたように他にも全く異なる種を指している可能性があり、必ずしも完全に限定同定は出来ないので注意が必要である。

・「南産志」「閩書南産志」。既注。

・「福」福州。現在の福建省の北の臨海部にある省都。閩江(びんこう)下流北岸にある港湾都市で木材・茶の集散地として知られる。

・「黄※1」(「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。)音不詳。「クワウイン(コウイン)」か?

・「泉」泉州。福建省の台湾海峡に面する港湾都市。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じていた。マルコ=ポーロが「ザイトン」の名でヨーロッパに紹介している。

・「莆」現在の福建省莆田(プーテン)県。古くは興化(現在の江蘇省興化市とは別)とも呼ばれ、莆陽(プーヤン)・莆仙(プーシェン)とも呼ばれる。北は福州と隣接、南は泉州と隣接する。西には戴雲山脈があり、東南は台湾海峡に面している。世界的にも稀な三つの河口を有し、臨海部には百五十に及ぶ島嶼群がある。

・「江の賦」既注の「文選」所収の東晉の郭璞の手になる「江賦」。

・「謝朓が詩」謝朓(しゃちょう 四六四年~四九九年)は南朝の斉の詩人。陽夏(現在の河南省)の生まれ。字(あさな)は玄暉(げんき)。宣城の太守であったので謝宣城と呼ばれ、詩人として知られる同族の謝霊運(しゃれいうん 三八五年~四三三年:六朝時代の宋の詩人。字は宣明。)に対して「小謝」とも称された。但し、ここで人見が引く「詩」とは彼の詩ではなく、以下に見るように、まさにその謝霊運の方の詩である。

・「紫※2、春流に曄(かゝや)く」(「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。)前注で示した通り、これは謝朓の詩ではなく、謝霊運の「郡東山望溟海」(郡の東山にて溟海を望む)の一節である。個人の中国史サイト「枕流亭」の掲示板のこちらの過去ログの中にある殷景仁氏の投稿(投稿日三月五日(金)13236秒のもの)によれば(リンク先には原詩が総て載る)、

   *

白花皜陽林 白花 陽林に皜(て)り

曄春流 (しこう) 春流に曄(かかや)く

   *

で、当該部分を、

   《引用開始》

花の白さは南の林の中で映え、よろいぐさの紫色は春の川の流れの中で一際明るく輝く。

   《引用終了》

と訳しておられ、この「紫をセリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ Angelica dahurica とされている。ロケーションからも(題名に海が出るが、実はこの詩には海の景観は読み込まれていない。リンク先の殷景仁氏の解説を必参照のこと)、この「紫」は「ホヤ」でも「カメノテ」でもないのである。これは全くの人見の見当違いなのである。因みに、これについて東洋文庫の島田氏の訳注が一切、問題にされていないのは、頗る不審と言わざるを得ない。

・「春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否ず」意味不明。ホヤやカメノテの習性にこのような現象は見られない。私がさんざん本文で考証したように、人見は中国の本草書の「石蜐」を安易に一律に「老海鼠」(ホヤ)と同定してしまった結果、自分でも何を言っているのか分からないような、苦しい説明に堕したものと私は判断するものである(そうして言わせてもらうなら、人見はホヤの生態を全く以ってご存じないのに、分かったように書いている事実がここでもはっきりと見てとれるということである)。序でに言わせて頂くと、島田氏の訳(『春に華を発(ひら)くとみえるのは、春月に肉を外に吐き出しているんでおあって、秋・冬にはそんなことはない。』)も失礼乍ら、私には何だか半可通なものである。誤解なら誤解なりに納得出来る訳を心掛けるべきだと、若輩者乍ら、私は思うのである。そういう訳としたつもりである。

 

□やぶちゃん現代語訳

  老海鼠

石蜐(せききょう)。又、紫𧉧(しきょう)〔音、劫(きょう)。〕・紫(しきょう)〔音、枵(きょう)。〕・龜脚(ききゃく)の名がある。「閩書南産志」に曰く、『石𧉧(せききょう)は福州に於いては「黄※1(きいん)」と言い、泉州に於いては「仙人掌」と言い、莆(ほ)州に於いては「仏爪(ぶっそう)」と言う。春になると花を開いたように見える。故に郭璞(かくはく)の「江(こう)の賦」に、「石𧉧、節に応じて葩(はな)を揚ぐ」の語があり、謝朓(しゃちょう)の詩にもまた、「紫※2(しこう)、春流に曄(かかや)く」とある。』と記す。今、按ずるに、春になって華を開くという謂いは、春の時節には、この老海鼠(ほや)がその肉を外にべろりと吐きだしている状態を表現したものである。老海鼠は確かに、秋や冬には、そのような現象を見せない。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]

2015/04/19

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載 《2015年4月27日改訂版に差替え》

 

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に本「本朝食鑑」の「海鼠」内の「海鼠腸」が引用されていたのを受けて作成したものである。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁以降の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。その他の異体字(「黒」「児」など)は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採った。

 「本朝食鑑」には一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本の労作があるが、当初、このテクスト訳注は二〇一五年四月十九日に初稿を公開した際には、私は「本朝食鑑」を所持していなかった。そのため、最初のそれは全くの我流の産物であったのだが、その公開から八日後にたまたま同書を入手し、それと校合してみると私の読解や注に幾つかの問題点を見出した。実は当初は、私の最初の公開分に削除線と追加を施すことで対応しようと不遜にも考えていたが、この「海鼠」に関しては、島田氏の訳注を披見する以前に、さらに自分の中で改稿したい記載不備が幾つか発生していたため、今回、ここでは思い切って全面改稿することとした。但し、改稿の追加分の内で、入手した東洋文庫の島田氏の訳注から少しでも恩恵を被った箇所については、それと分かるように逐一洩らさず『島田氏注に』『島田氏の訳では』などと明記しておいた。従ってそれ以外は私の初稿のオリジナルなものとお考え戴いてよろしい。【二〇一五年四月二十八日改稿】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十一日追記】 

 

□原文

海鼠〔訓奈麻古〕

 釋名土肉〔郭璞江賦土肉石華文選註曰土肉正

 黒如小児臂大長五寸中有腹無口目

 有三十足故世人

 以似海鼠爲別名〕

 集觧江海處處有之江東最多尾之和田參之柵

 嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多采就中

 小豆嶋最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後

 两口長五六寸而圓肥其色蒼黒或帶黄赤背圓

 腹平背多※1※2而軟在两脇者若足而蠢跂來徃

[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]

 腹皮青碧如小※1※2而軟肉味略類鰒魚而不甘

 極冷潔淡美腹内有三條之膓色白味不佳此物

 殽品中之最佳者也本朝有海鼠者尚矣古事記

 曰諸魚奉仕白之中海鼠不白爾天宇受賣命謂

 海鼠曰此口乎不荅口而以細小刀拆其口故於

 今海鼠口拆也一種有長二三寸腹内多沙味亦

 差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黄

 腸如琥珀淹之爲醬味香美不可言爲諸醢中之

 第一也事詳于後其熬而乾者亦見于後今庖人

 用生鮮海鼠混灰砂入籃而篩之或抹白鹽入擂

 盆中以杵旋磨則久而凝堅其味鮮脆甚美呼稱

 振鼠也

 肉氣味鹹寒無毒〔畏稲草稲糠灰砂及鹽伏河豚毒〕主治滋腎凉

 血烏髮固骨消下焦之邪火袪上焦之積熱多食

 則腸胃冷濕易洩患熱痢者宜少食或療頭上白

 禿及凍瘡

 熬海鼠〔或熬作煎俱訓伊利古〕釋名海參〔李東垣食物曰功

 擅補益故名之乎

 世人間有稱之者

 本朝式稱熬海鼠〕

 集觧造之有法用鮮生大海鼠去沙腸後数百枚

 入空鍋以活火熬之則鹹汁自出而焦黒燥硬取

 出候冷懸列于两小柱一柱必列十枚呼號串海

 鼠訓久志古大者懸藤蔓今江東之海濵及越後

 之産若斯或海西小豆嶋之産最大而味亦美也

 自薩州筑州豊之前後而出者極小煮之則大也

 作熬之海鼠以過六七寸者其小者不隹大抵乾

 曝作串作藤用之先水煮稍久則彌肥大而軟味

 亦甘美或合稲草米糠之類而煮熟亦軟或埋土

 及砂一宿取出洗浄而煮熟亦可也自古用之者

 久矣本朝式神祇部有熬海鼠二斤主計部志摩

 若狹能登隱岐筑前肥之前後州貢之今亦上下

 賞美之

 氣味鹹微甘平無毒主治滋補氣血益五臓六腑

 去三焦火熱同鴨肉烹熟食之主勞怯虛損諸疾

 同猪肉煮食治肺虛欬嗽〔此據李杲食物本草〕殺腹中之悪

 蟲然治小児疳疾

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

 海鼠腸〔訓古乃和多〕集觧或稱俵子造腸醬法先取鮮

 腸用潮水至清者洗浄數十次滌去沙及穢汁和

 白鹽攪勻收之以純黄有光如琥珀者爲上品以

 黄中黒白相交者爲下品今以三色相交者向日

 影用箆箸頻攪之則盡變爲黄或腸一升入雞子

 黄汁一箇用箆箸攪勻之亦盡爲黄味亦稍美一

 種腸中有色赤黄如糊者號曰鼠子不爲珍焉凡

 海鼠古者能登國貢海鼠腸一石主計部有腸十

 五斤今能登不貢之以尾州参州為上武之本木

 次之諸海國采海鼠處多而貢腸醬者少矣是好

 黄膓者全希之故也近世參州柵嶋有異僧守戒

 甚嚴而調和於腸醬者最妙浦人取腸洗浄入盤

 僧窺之察腸之多少妄擦白鹽投于腸中浦人用

 木箆攪勻收之經二三日而甞之其味不可言今

 貢獻者是也故以參州之産爲上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醬以尾州之産爲第一世皆稱

 奇矣

 附方凍腫欲裂〔用鮮海鼠煎濃汁頻頻洗之或用熱湯和腸醬攪勻洗亦好〕頭

 上白禿〔生海鼠割腹去腸掣張如厚紙粘于頭上則癒〕濕冷蟲痛〔及小児疳傷泄痢常食而好又用熬海鼠入保童圓中謂能殺疳蟲〕 

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で、

「但(タヽ)」・「略(ホヽ)」・「尚(ヒサ)シ」・「白(マウ)ス/サ」(二箇所)・「天宇受賣命(ノウスメノミコト)」(「天(あめ)」にはない)・「荅へざる口(クチ)」・「拆(サ)ケタリ」・「差(ヤヽ)」・「振鼠(フリコ)」・「烏(クロ)クシ」・「熬海鼠(イリコ)」・「伊利古(イリコ)」・「間(マヽ)」・「串海鼠(クシコ)」・「久志古(クシコ)」・「彌(イヨイヨ)」(後半の「イヨ」は底本では踊り字「〱」)・「コノワタ」(二箇所)・「タワラコ」(「ワ」はママ)

とあるのみである。また、

「中」(なか)には「カ」が、一部の「者」(もの)には「ノ」が(これ以外は「は」と読ませるための区別かとも思われる)、「今」(いま)には「マ」が、「後(のち)」には「チ」が、「處」(ところ)には「ロ」が

それぞれ送られてあるが、総て省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ず。〕

釋名 土肉〔郭璞が「江賦(かうのふ)」に、『土肉石華。』と。「文選註」に曰く、『土肉は正黒(せいこく)、小児の臂(ひ)の大いさのごとくにして、長さ五寸、中に腹(はら)有りて、口・目、無し。三十の足有り』と。故に世人、以つて海の鼠に似たるを別名と爲(す)。と。〕。

集觧 江海、處處、之れ有り。江東、最も多し。尾の和田、參の柵(さく)の嶋(しま)、相の三浦、武の金澤本木(ほんもく)なり。海西にも亦、多く采(と)る。中(なか)ん就(づ)く、小豆嶋、最も多し。狀(かた)ち、鼠に似て、頭と尾、手足、無し。但(た)だ前後に、两口、有るのみ。長さ五、六寸にして圓く肥ゆ。其の色、蒼黒或いは黄・赤を帶ぶ。背、圓(まど)かに、腹、平らかなり。背に※1※2(いぼ)多くして軟かなり。两脇に在る者は足の若(わか)きにして蠢跂來徃(しゆんきらいわう)す[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]。腹の皮、青碧、小※1※2(しやういぼ)のごとくにして軟かなり。肉味、略(ほぼ)、鰒魚(ふくぎよ)に類して甘からず。極めて冷潔淡美。腹内、三條の膓、有り。色、白くして味ひ、佳ならず。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。本朝、海鼠と云ふ有る者(もの)、尚(ひさ)し。「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と。一種、長さ二、三寸、腹内、沙多くして、味も亦、差(やや)短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者有り。腹内、三條の黄腸(きわた)、琥珀のごとくにして之を淹(つけ)て醬(しやう)と爲し、味はひ香美、言ふべからず。諸(しよ)醢(ひしほ)中の第一と爲すなり。事、後(しり)へに詳かなり。其の熬(いり)して乾く者は亦、後へに見えたり。今、庖人(はうじん)、生鮮の海鼠を用ゐて、灰砂に混じて籃に入れて之を篩(ふる)ふ。或いは白鹽を抹(まつ)して擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以つて旋磨(せんま)する時は、則ち久しくして凝堅(ぎやうけん)す。其の味はひ、鮮脆(せんぜい)、甚だ美、呼びて「振鼠(ふりこ)」と稱すなり。

肉 氣味 鹹寒。毒、無し。〔稲草・稲糠・灰砂及び鹽を畏(おそ)る。河豚(ふぐ)の毒を伏す。〕。 主治 腎を滋し、血を凉(すず)しふし、髮を烏(くろ)くし、骨を固くし、下焦(げしやう)の邪火を消し、上焦の積熱(しやくねつ)を袪(さ)る。多く食へば、則ち腸胃、冷濕、洩らし易く、熱痢を患(うれへ)る者、宜しく少食すべし。或いは頭上の白禿(しらくも)及び凍瘡を療す。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ず。〕 釋名 海參〔李東垣(りとうゑん)「食物」に曰く、『功、補益を擅(ほしいまま)にす。』と。故に之(これ)、名づくるか。世人、間(まま)、之を稱する者、有り。「本朝式」に『熬海鼠』と稱す。〕。

集觧 之を造るに、法、有り。鮮生の大海鼠を用ゐて、沙・腸を去りて後(のち)、数百枚、空鍋(からなべ)に入れて、活火(つよび)を以つて之を熬る時は、則ち鹹(しほじる)汁、自ら出でて焦黒(くろくこ)げ、燥(かは)きて硬(かた)きを、取り出し、冷(さむる)を候(うかが)ひて两(りやう)小柱に懸け列(つら)ぬ。一柱、必ず十枚を列ぬ。呼びて「串海鼠(くしこ)」と號す。「久志古(くしこ)」と訓ず。大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵及び越後の産、斯(か)くのごとし。或いは海西、小豆嶋の産、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豊の前後より出ずる者は、極めて小なり。之を煮る時は、則ち、大(おほ)ひなり。熬(い)りと作(な)すの海鼠は、六、七寸を過る者を以てす。其の小きなる者は佳ならず。大抵、乾曝(かんばく)するに串と作(な)し、藤と作(な)し、之を用ゆ。先づ水に煮(に)、稍(やや)久しく時んば、則ち、彌(いよいよ)肥大にして軟なり。味も亦、甘美なり。或いは稲草・米糠の類と合(あは)して煮熟すも亦、軟らかかり。或いは土及び砂に埋(うづ)むこと一宿にして取り出だし、洗浄して煮熟(しやじゆく)すも亦、可なり。古へより之を用ゐる者、久し。「本朝式」「神祇(じんぎ)部」に『熬海鼠二斤。』と有り、「主計部」に『志摩・若狹・能登・隱岐・筑前・肥の前後州、之を貢す。』と。今、亦、上下、之を賞美す。

氣味 鹹、微甘、平。毒、無し。 主治 氣血を滋補し、五臓六腑を益し、三焦(さんしやう)の火熱を去る。鴨肉と同じく、烹熟(はうじゆく)して之を食すれば勞怯・虛損の諸疾を主(すべ)る。猪肉と同じく煮食すれば肺虛・欬嗽(がいそう)を治す〔此れ、李杲(りかう)が「食物本草」に據(よ)る。〕。腹中の悪蟲を殺(さつ)し、然して小児の疳疾を治す。

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然して」の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ず。〕 集觧 或いは俵子(たわらこ)と稱す。腸醬(ちやうしやう)を造る法、先づ鮮腸を取りて潮水の至つて清き者を用ゐて洗浄すること數十次、沙及び穢汁(わいじふ)を滌去(てききよ)して白鹽に和して攪勻(かくきん)して之を收む。純黄の光り有りて琥珀ごとき者を以つて上品と爲(な)す。黄中、黒・白相ひ交じる者を以つて下品と爲す。今、三色相ひ交じる者を以つて日影に向けて箆(へら)・箸を用ゐて頻りに之を攪(か)く時は則ち盡く變じて黄と爲(な)る。或いは腸(わた)一升に雞子(けいし)の黄汁(きじる)一箇を入れ、箆・箸を用ゐて之を攪勻するも亦、盡く黄と爲る。味も亦、稍(やや)美なり。一種、腸中に、色、赤黄(しやくわう)、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰(い)ふ。珍と爲(な)さず。凡そ海鼠、古へは能登の國、海鼠腸一石を貢す。「主計部」に『腸十五斤』と有り。今、能登、之を貢せず。尾州・參州を以つて上と爲し、上武の本木、之に次ぐ。諸海國(かいこく)、海鼠を采る處、多くして、膓醬を貢(けん)する者の少なし。是れ、黄膓は好む者、全く希(まれ)なるの故なり。近世、參州柵(さく)の島(しま)に異僧有り、戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸を取りて洗ひ淨めて盤(うつわ)に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白鹽(なまじほ)を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木篦(きべら)を用ゐて攪勻して之を收む。二、三日を經て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻する者、是なり。故に參州の産を以つて上品と爲(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醬を調へて尾州の産を以つて第一と爲(す)。世、皆、奇なりと稱す。

附方 凍腫裂れんと欲(す)〔鮮海鼠の煎濃汁(せんのうじふ)を用ゐて頻頻(ひんぴん)、之を洗ふ。或いは熱湯を用ゐて腸醬を和し、攪勻して洗ひ、亦、好し。〕。頭上の白禿(しらくも)〔生(なま)海鼠、腹を割(さ)き、腸を去り、掣(お)し張りて厚紙のごとくにして頭上粘する時は則ち癒ゆ。〕。濕冷の蟲痛(ちゆうつう)〔及び小児の疳傷(かんしやう)・泄痢(せつり)、常食して好し。又、熬海鼠を用ゐて保童圓(ほどうゑん)の中に入れて、謂ふ、能く疳の蟲を殺すと。〕。 

 

□やぶちゃん語注(この本文を引用した先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で載せた私の注を煩を厭わず再掲しておいた。それが引用元である本書への礼儀でもあろうと考えたからである。原則、再掲であることを断っていないので、既にお分かりの方は飛ばしてお読みになられたい。なお、他にも私の寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の項及び「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」などからも注を援用しているので、寧ろ、それらも参考にお読みになられんことをお勧めしておく。)

・「海鼠」ここで語られる海鼠は、ほぼ棘皮動物門ナマコ綱楯手目マナマコ科の旧来のマナマコと考えてよいが、実は近年までマナマコ
Apostichopus japonicusSelenka, 1867とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armataSelenka, 1867とアカナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.2003により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus 属の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっている(倉持卓司・長沼毅「相模湾産マナマコ属の分類学的再検討」(『生物圏科学』Biosphere Sci.494954(2010))に拠る)。これ今までの私のナマコ記載では初めて記す、私は今回初めて知ったことであるが、この学名提案については、サイト「徳島大学大学院ソシオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部 水圏生産科学研究室(仮称)」の「マナマコの標準体長&学名」の「マナマコの学名について」に、『最近,本種全体に用いられてきた従来の学名 Apostichopus japonicas を赤色型に限定し,青色型と黒色型を Apostichopus
armata
 とすることが提案されています(倉持・長沼,2010)。しかし,この種小名 armata は,過去に北方系のマナマコに提案されたものであり,北方系のマナマコについては南方系マナマコとは別種とみる研究者もおり,その分類学的位置づけは検討段階にあります。仮に北方系マナマコが別種とされた場合には,種小名 armata の使用は北方系のマナマコに限定されることになります。そうすると,種小名 armata を使って記述された論文の追跡が困難になるなどの恐れもあり,現段階では,従来の学名 Apostichopus japonicas を使用し色型と産地を明記する記述スタイルが無難であると考えています』とあるので使用には注意を有する。

・「奈麻古」「和名類聚抄」に(「国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認)、

   *

崔禹錫食經云海鼠〔和名古本朝式加熬字云伊里古〕似蛭而大者也

(崔禹錫が「食經」に云く、『海鼠。』〔和名、『古』。「本朝式」に「熬」の字を加へて『伊里古』と云ふ〕。蛭に似て大なる者なり。)

   *

とある。これによれば、本来のナマコの和名古名は文字通り「古(こ)」であって、「延喜式」には後述する煮干して調製した製品をこれに「熬」(いる)の字を加えて「伊里古(いりこ)」と称すというのである。寧ろ、この「いりこ」(熬った古)に対して生じた謂いが「なまこ」(生の古)であり、その「古」の腸(わた)が「古(こ)の腸(わた)」なのであろう。これは国語学者の島田勇雄氏も東洋文庫版の注で推定しておられる。

・「釋名」まず扱う対象の物名及び字義を訓釈すること。本書は李時珍の「本草綱目」の構成を模しており、後の囲み字である「集觧」・「氣味」・「主治」・「附方」は総て同書を真似ている(但し、何故か不思議なことに「本草綱目」には海鼠(海参)に相当するものが載らない)。

・『土肉〔郭璞が「江賦」に、土肉」「石華」「文選註」……』以下、非常に注が長くなるのでご注意あれ。しかも答えは……必ずしも出ない。……まず先に『郭璞が「江賦」』を説明する。「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「江賦」はその郭璞の創った長江(揚子江)を主題とした博物学的な詩賦(賦は中国韻文文体の一つで漢代に形成された抒情詩的要素の少ない事物を羅列的に描写することを特徴とする)で、同じく彼の手になる「海賦(かいのふ)」と対を成す。「文選」に所収する(だから本文に「文選註」が引かれるのである)。しばしば参考にさせて戴いているm.nakajima 氏のサイト「MANAしんぶん」内の「真名真魚字典」の古書名・引用文献注の「江賦」の解説によれば、『実在種を想定できるものから、想像上の生きものまで多種をあげ、幾多の文章に引用され、それがどのような生きものであるかの同定を考証家たちが試みてきた』作品とある。この「江賦」に、

 「王珧海月、土肉石華」(王珧は海月、土肉は石華)

と出るのである(この考証は次の注に譲る)。

 以下、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」で試みた私の注を援用しつつ、この「土肉」以下の考証を進める。

 まず、かの寺島良安は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項で、

   *

石華が「文選」の註に云ふ、『土肉は、正黑にして、長さ五寸、大いさ、小兒の臀のごとく、腹有りて、口・目無く、三十の足、有り。炙り食ふべし。』と。

   *

とこの「本朝食鑑」と全く同じ箇所を引いた上で(下線やぶちゃん)、

   *

按ずるに、海鼠(なまこ)は中華(もろこし)の海中に之れ無く、遼東・日本の熬海鼠(いりこ)を見て、未だ生なる者を見ず。故に諸書に載する所、皆、熬海鼠なり。剰(あまつさ)へ「文選」の土肉を「本草綱目」恠類獸の下に入る。惟だ「寧波府志(ねいはふし)」言ふ所、詳らかなり。寧波(ニンハウ)は日本を去ること甚しく遠からず、近年以來、日本渡海の舶の多くは、寧波を以て湊と爲す。海鼠も亦、少し移り至るか。今に於て唐舩(からぶね)長崎に來る時、必ず多く熬海鼠を買ひて去(い)ぬるなり。

   *

と記している。そしてこれについて、平凡社一九八七年刊東洋文庫訳注版「和漢三才図会」(島田勇雄・竹島淳夫・樋口元三巳訳注)には以下の注を記す(《 》部分は私の補填。下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

『文選』の郭璞(かくはく)の「江賦」に、江中の珍しい変わった生物としてあげられたものの説明の一つであるが、石華については、《「文選」註に》「石華は石に附いて生じる。肉は啖(くら)うに中(あ)てる」とあり、《その同じ「江賦」の「文選」註の》土肉の説明が『臨海水土物志』《隋の沈瑩(しんえい)撰の博物誌》を引用したこの文である。《しかし「江賦」の記載に於ける》石華と土肉は別もので、どちらも江中の生物。良安は石華を人名と思ったのであろうか

   《引用終了》

(言わずもがなであるが、編者の下線部の疑問は、寺島の引用の下線部に対応している)この編者注でちょっと気になるのは、「どちらも江中の生物」と言っている点である。即ち、どちらも「江」=淡水域であるということを編者は指摘している(「江賦」は揚子江の博物誌だから当然ではある。「江」という語は大きな河川を指す語で、海の入江のような海洋域を指すのは国訓で中国語にはない)。従って、東洋文庫版編者は「石華」は勿論、「土肉」さえもナマコとは全く異なった生物として同定しているとも言えるのである(因みに淡水産のナマコは存在しない)。しかし、「土肉」は「廣漢和辭典」にあっても、明確に中国にあって「なまこ」とされている(同辞典の字義に引用されている「文選」の六臣注の中で「蚌蛤之類」とあるにはあるが、ナマコをその形態から軟体動物の一種と考えるのは極めて自然であり、決定的な異種とするには当たらないと私は思う)。さらに「江賦」が揚子江の博物誌であったとしても、揚子江の河口域を描けば当然そこには海洋生物の海鼠が登場してきたとして、おかしくない。さすれば、「土肉」は「ナマコ」と考えてよい。

 次に気になるのは「石華」の正体である。まず、書きぶりから見て、寺島は、東洋文庫版注が言うように、「石華」を「土肉」について解説した人名と誤っていると考えてよい(まどろっこしいが、「文選」注に引用された郭璞の注の中の、更に引用元の人物名ということになる。しかし、人見の書き方は、「土肉」の間と「石華」の間に熟語を示すダッシュを入れているだけで一切の送り仮名を振っていないから、これはシンプルに「江賦」の「土肉石華」を引いていて、「土肉は石華」という意で読んでいると考えてよい)。しかし、実はそんな考証は私には大切に思えないのである。「生き物」を扱っているのだから、それより何より、「石華」を考察することの方が大切であると思うのである(東洋文庫では少なくともここで「石華」の正体について何も語っていない。ということは編者らは「石華」は「海鼠」と無批判に受け入れたということになる。確かに岩礁に触手を開いた彼らを、本邦でもアカナマコと呼びアオナマコと呼びするから、彼らを「石の華」と呼んだとして強ち、おかしくは無いとも言える。しかし本当にそれで納得してよいのだろうか? これは本当に「土肉」=「石華」なのだろうか?

 そこで、まず、ここで問題となっている郭璞の注に立ち戻ろうと思う。

 「石華」と「土肉」の該当部分は中文ウィキの「昭明文選 卷十二」から容易に見出せる(引用に際し、記号の一部を変更させて貰った)。

   *

王珧〔姚〕海月、土肉石華。[やぶちゃん注:「江賦」本文。〔姚〕は「珧」の補正字であることを示す。以下、注。記号を追加した。]

郭璞「山海經」注曰、『珧、亦蚌屬也。』。「臨海水土物志」曰、『海月、大如鏡、白色、正圓、常死海邊、其柱如搔頭大、中食。』。又曰、『土肉、正黑、如小兒臂大、長五寸、中有腹、無口目、有三十足、炙食。』。又曰、『石華、附石生、肉中啖。』。

   *

これを恣意的に我流で読み下すと、

   *

王姚・海月、土肉・石華。

郭璞「山海經」注に曰く、『珧は亦、蚌の屬なり。』と。「臨海水土物志」に曰く、『海月は、大いさ鏡のごとく、白色、正圓、常に海邊に死し、其の柱、搔頭(かいたう)の大いさのごとく、食ふに中(あ)てる。』と。又、曰く、『土肉は、正黑、小兒の臂の大いさのごとく、長さ五寸、中に腹有り、口・目無く、三十の足有り、炙りて食ふ。』と。又、曰く、『石華、石に附きて生じ、肉、啖ふに中てる。』と。

   *

脱線をすると止めどもなくなるのであるが――「王珧〔=姚〕」は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「王珧」でタイラギ、「海月」は同じく「海鏡」でカガミガイ又はマドガイである(「海鏡」は記載が美事に一致する。なお、それぞれの学名については該当項の注を参照されたい)。――

 さてここに出る「土肉」は、その記載内容からみても最早、間違いなくナマコである。

 では、「石華」はやはり海鼠だろうか? そのようにも読めないことはない。当初、私は極めて少ない記載ながら、これを海藻類と同定してみたい欲求にかられた(勿論、「肉」と言っている点から、海藻様に付着するサンゴやコケムシや定在性のゴカイ類のような環形動物及びホヤ類も選択肢には当然挙がるのだが、「肉は啖(くら)ふに中(あ)てる」という食用に供するという点からは、定在性ゴカイのエラコ
Pseudopotamilla occelata  かホヤ類に限られよう)。すると「石花」という名称が浮かび上がってくるのであった。例えば、「大和本草」の「卷之八草之四」の「心太(こころふと)」(ところてん)の条に、「閩書」(明・何喬遠撰)を引いて「石花菜は海石の上に生ず。性は寒、夏月に煮て之を凍(こほり)と成す」とする。即ち、「石華」とは、一つの可能性として紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科マクサ Gelidium crinale  等に代表されるテングサ類ではなかろうかと思ったのである。

 ところが最近、これ以外にも「石華」の強力な同定候補が浮かび上がってきたのである。――「石」に「生じ」(生える)、「華」が開くように鰓を出す、その中身の「肉」が食用になる――それは本条の初回公開の直後にものした『博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』の注で私が示したカメノテである。リンク先を是非、お読みあれ。これも私は立派な「石華」であるように私には思えるのである(但し、まずいことにこれ、「江賦」では「石砝」(石蜐)として別に出るのである)。……ともかくも――「石華」というもの――これは一筋繩ではいかぬということでは、ある。向後も考証を続けたい。

・「臂」狭義には肘(腕の関節部)から手首までの「一の腕」を指す語。広義には肩からの腕総てをも指すが、ここは前者でしっくりくる。

・「五寸」約十五センチメートル。マナマコでは大型個体は三十センチメートルに達するものもあるが、伸縮の度合いも甚だしいので、この数値は健康な生体個体の標準値としては低めながら自然な数値で、実際、続く解説中ではより大型個体が示されている。

・「三十の足有り」ナマコは棘皮動物に共通する五放射相称の体制を持ち、腹側には中央とその両側に管足が並ぶ歩帯があり、背側には左右両端に歩帯(管足が変形した疣足が並ぶ)があって、全身はこの放射状に縦に並んだ五本の歩帯(とその間充組織)によって構成されている。腹側の管足は主に移動に用い、先端は吸盤となっている(但し、無足目と隠足目のナマコは管足を持たず、蠕動運動によって移動する。板足目のナマコ類はその多くが深海性で、一部には太く大きな管足を持つ種類もいる。ここはウィキの「ナマコ」に拠った)。無論、管足の本数は三十本ばかりではない。何百本である。

・「集觧」集解。「しつかい(しっかい)」「しふげ(しゅうげ)」とも読むが、私は「しふかい(しゅうかい)」と読んでいる。「觧」は「解」の異体字。対象に就いての解釈を多く集めて纏めることを指す。

・「江東」この場合は東日本を指すとしか読めないが、一般的な語ではない。後に「海西」(島田氏はこれに『さいこく』(西国)とルビされておられる)が現われ、これは明らかに西日本で、その対語としてある以上、東日本(但し、尾張以東である)ととっておく。島田氏はこれに『かんとう』とルビを振られ、関東とされる。続く地名(しかし尾張や三河は今も昔も関東ではない)や流通の集中度や情報の収集域から言えば、それでおかしくはないのであろうが、そうすると東北部が含まれず、海鼠等の場合は頗るおかしな印象を拭えなくなる。「仙臺 きんこの記 芝蘭堂大槻玄澤(磐水)」の金華山のキンコの例(これは凡そ百年後の文化七(一八一〇)年の刊行ではあるが、既に東北の海鼠類が豊富なことは知られていたはずである)を考えても、ここは関東ではおかしいと私は判断する。

・「尾の和田」「尾」は尾張国。現在の愛知県西部。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも次に出る名産地佐久島はここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

・「參の柵の嶋」「參」は三河国。現在の愛知県中部。佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島」によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。

・「武の金澤本木」「武」は武蔵国。現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「五、六寸」十五~十八センチメートル。

・「※1※2(いぼ)」(「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。)「※1」は音「ハイ」でかさぶた・かさ(瘡)/できもの/腫れ物の意である(大修館書店「廣漢和辭典」による)。「※2」については、同じ字が「和漢三才図会」の「胡瓜」の項(「卷之百 七」)に「痱※2(いらぼ)」(但し私が判読した底本の字が掠れており、読みの「ぼ(原典はカタカナ)」を含め自信がない)とあり、東洋文庫版現代語訳ではこれを『ぶつぶつ』と訳している(最も可能性があるのは「痱*」(*「疒」+中に「雷」)で、これは「廣漢和辭典」に、「廣韻」に「痱、痱*」(痱(ひ)は、痱*(ひらい)なりと出ており、その意味として『小さなはれもの。ぶつぶつ』とある)。以上の「胡瓜」の同全テクストと注は、私の「耳嚢 巻之十 白胡瓜の事」の注に示してあるので参照されたい。なお、島田氏は『※1※2』に『ぶつぶつ』、次の文に再登場する箇所では別に『ふきでもの』とルビを振られており、多様な表現で理解を進めようとなされた面白い訳法である。

・「蠢跂來徃」(若干、字が不鮮明で気にはしていたのだが、この「跂」を私は当初「抜跋」と誤読していた。今回、島田氏の訳を見、「跂」が正しいことを知り、この改稿で訂したことを最初に申し述べておく)「蠢」が蠢(うごめ)く、「跂」が虫が這い歩く、「来徃」は来往で行ったり来たりの意であるから、蠕動して這い歩き回ることを言う。島田氏はこの四字をそのまま訳に用いられ、『蠢跂來往(たえずうごめか)し』と訓じておられる。これはなかなかに面白い訳で、しかもこの場合、島田氏はこれを海鼠本体の移動・運動ではなく、管足が盛んに動く様として訳しておられる。非常に示唆に富む訳であり、海鼠個体の観察としてはその方が正しいようにも感じられるけれども、私としては最初の敷衍訳を変更することを望まない。何故なら実際、この管足を以って海鼠は思ったよりも活発に匍匐運動を行うからである。

・「鰒魚」「あはび」と訓じているかも知れない。本字はフグをも指す語で御丁寧に「魚」までついているが、これは明らかに鮑(あわび)である。事実、後の氣味の項にフグは「河豚」の表記で出る。

・「冷潔淡美」ひんやりとしてすっきりと清らかで、その味わいはさわやかな旨味を持つとことであろう。

・「三條の膓」私の愛読書である昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊の大島廣先生の「ナマコとウニ」では(一二二頁)、この『三条の腸とあるのは、ナマコ類は一般に、その消化管が体の後端んに達して折れ返り、上に向って前端に達し、再び後方に向う。その下向二条、上向一条あるのを合わせて数えたものと見える』と解説なさっておられる。海鼠を捌いたことのない方のために、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのインターネット公開(保護期間満了)の広島文理科大学広島高等師範学校博物学会編「日本動物解剖図説」のナマコの解剖図を以下に示しておく。この、「12」「19」「20」の腸の第一部から第三部というのが、まさにそれに当たる。

 

Namakokaibouzu

 

・「色、白くして味ひ、佳ならず」この部分、不審。ここは一種の補足か割注のような感じで、例えば、

……腹内、三條の膓、有り〔但し、色の白きは味ひ、佳ならず。〕。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。

とあるならば、腑に落ちるのである。取り敢えず、これは腸(わた)が黄色ではなく、白っぽい色を成しているものは美味しくない、という補足で採り、訳では(  )に入れた。

・「殽品」「殽」は「肴」と同義で、広義の魚、海産生物の調製品の謂い。島田氏は『さけのさかな』とルビされている。島田氏はここに膨大な量の近世の海鼠の調理法を引用されておられ、圧巻である。

・『「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と』島田氏の訳ではこの「細小刀」の箇所を『紐小刀』とする。以下に見る通り「古事記」の原文では確かに「紐小刀」(飾り紐付きの小刀)であるが、私の底本としたものでは明らかに「細」であって「紐」ではない。「天宇受賣命」は、ご存じ、かの閉じられた天の岩戸の前でストリップを演じた日本最古の踊り子にして芸能の女神である。以下に「古事記」から引用する(書き下し文及び訳は上代の苦手な私の仕儀につき、ご注意あれ。過去形で訓読するのが一般的であるが、敢えて現在形で臨場感を出した)。

   *

於是送猿田毘古神而、還到、乃悉追聚鰭廣物鰭狹物、以問言、汝者天神御子仕奉耶、之時、諸魚皆、仕奉、白。之中、海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云、此口乎、不答之口、而以紐小刀拆其口。故、於今海鼠口拆也。

是に於て猿田毘古神(さるたびこのみこと)を送りて、還り到りて、乃ち悉く鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狹物(さもの)を追ひ聚め、以て問ひて言ふ、

「汝(な)は、天つ神の御子に仕へ奉らむや。」

と。之の時、諸々の魚、皆、

「仕へ奉らむ。」

と白(まを)す。この中、海-鼠(こ)のみ白さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、海鼠に謂ひて云く、

「此の口や、答へざるの口。」

と。而して紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故に、今に於いて海鼠の口、拆くるなり。

やぶちゃん訳:天宇受売命は、ここで天孫降臨の先導を務めてくれた猿田毘古神(さるたひこのみこと)を送って帰って来て、即座に海中の大小のあらゆる魚たちを悉く呼び集めて尋ねて言った、

「お前達は天つ神の御子に従順に仕え奉るか?」

と。すると、魚どもは皆、

「お仕へ奉りまする。」

と申し上げる。

 と、その中、海鼠だけは答えようとしない。

 ここに天宇受売命(あめのうずめのみこと)は海鼠に向かって言った、

「この口は、答えぬ口なのね。それじゃあ、こんな口はいらないわ。」

と。

 そして飾り紐の付いた小刀で、その海鼠の口を裂いた。故を以て今に至るまで海鼠の口は裂けているのである。

   *

本説は古来からの大神であったサルタヒコさえ天孫の膝下に下り、そこにダメ押しとしての畜生(衆生)のシンボルたる総魚類の従属を示して、それに従おうとしなかった海鼠が原罪への処罰として口を切られ、その反スティグマは永遠に消えない程に恐ろしいのだと語っているのであろう。私には生理的に厭な話である。この「切られた口」なるものは、ナマコの口部を取り巻く十~三十本の触手(ちなみのこれは管足が巨大に変形したもので、生物学的に五放射体制に対応して触手の数も五の倍数であることが分かっている)を示すのだが、海鼠ぐらい駘蕩として平和主義者然とした哲人はいない。「古事記」のこの女神による海鼠制裁事件は大和朝廷の先住民族への暴政を隠蔽するための冤罪である。とっくに時効ではあるが、ナマコたちよ! 名誉回復のための訴訟には、いつでも私が特別弁護人になって上げるよ!

・「二、三寸」六~九センチメートル。

・「味も亦、差短き者、有り」この「短き」は味が劣るで採った。島田氏も『差短(ややうまくな)い』と訳しておられる。

・「七、八寸」二十一~二十四センチメートル。

・「淹て」島田氏は『淹(しおづけ)して』とされる。これは次の「醬と爲し」からの敷衍訳で結果としては正しいが、単漢字の「淹」には漬けるの意はあっても、塩漬けにするの意はないので従えない。

・「醢」音なら「カイ」、訓では別に「ししびしほ(ししびしお)」。塩漬けの肉や塩辛。

・「振鼠」これは前の記載から「生鮮の海鼠を用」い、一つは「灰砂に混じて籃に入れて之を篩ふ」という調理を経るもの。今一つは「白鹽を抹して」(かける・擦り込む・まぶすの意のように思われる)「擂盆中に入れて、杵を以つて旋磨する」という一番目とはかなり異なった調理を経るもので、しかもこの二つの方法を経て時間を置いたものは、意外にも、全く同じように「凝堅」した塊となり「其の味はひ、鮮脆、甚だ美」であるというのである。現行の生海鼠の調理法によって出来上がった海鼠料理は私は聴いたことがない。前記の大島先生の「ナマコとウニ」にもこの名は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。因みに、知られた処理法として似た響きを持つ「茶振り海鼠」というのは知っている。一応、以下、レシピを「天満屋ハピータウンおすすめレシピ」の「茶ぶりなまこの酢の物」から引いておく(表記法を一部変えさせて戴いている。材料及び分量はリンク先を)。

   *

1 なまこは塩少々をふってぬめりを取り、両端を少し切り落として腹を縦に開き、ワタを除いて水の中で洗い、水けをきる。

2 1のなまこを厚さ七~八ミリメートルの小口切りにし、塩少々をふって十分ほどおく。

3 なべになまこがかぶるぐらいの湯(摂氏七十~八十度)を入れ、番茶の葉をひと握り加える。

4 2のなまこをざるに入れ、3のなべの中で、ざるごとサッとふり洗いして水にとり、水けを切る。

5 合わせ酢にゆずの輪切りとしょうがのせん切りを加え、4のなまこを半日ほどつけて味を含ませる。

   *

但し、私は実は海鼠は総てそのまま生、酢などを加えないものの生食こそが美味だと考える人間で、この「茶振り海鼠」の処理自体には頗る批判的な人間であることを言い添えておく。

・「鹹寒」漢方で、陰陽五行説の相生相克を食物の気(薬性)の働きに当て嵌めたもので、食物を味覚に於いて「酸・苦・甘・辛・鹹」の五つに分ける。さらに食物の保持する特有の性質をやはり「寒・微寒・平・温・微温」の五つに分ける(大別すれば気には「寒・温・平」の三種類があり、その「寒」は食物や生薬が体の中に入った時に冷やす効果を持つもの、「温」は温める効果を持つも、そして「寒」・「温」孰れにも偏らずに働きがフラットとなものを「平」とする。軽く冷やす効果が「微寒」、軽く温めるそれが「微温」である)。漢方では、この「気」の働き「味」の働きを合わせたものを「気味」と称し、その「気味」の組み合わせによって食物や生薬が体に作用する状態をこれらの文字で規定表示している(以上は「自然の理薬局」の「漢方医学の概念」を参照に纏めた)。

・「河豚の毒を伏す」不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

・「下焦」漢方に於ける「五臓六腑」の臓器の「六腑」の一つである「三焦(さんしょう)」。三つの熱源の意で、上焦は横隔膜より上部、中焦は上腹部、下焦は臍下(さいか)にあり、生命の源である体温を保つために絶えず熱を発生している器官とされる。「みのわた」とも呼ぶ。これはさらに「上焦」「中焦」「下焦」の三つのパートに分けられている。「上焦」は、気を取り入れて邪気を排出する働きを有し、心や肺の燃焼に関わり、「中焦」は食べ物を取り入れて血(栄養)に変える働きを有し、胃・脾・肝などの燃焼に関わり、「下焦」は不要なものを排出する働きを掌り、大腸や膀胱の燃焼させるという。西洋医学上の該当臓器は存在しないが、実際には以上に出た実際にある支配臓器総体を包括した形而上学的な臓器概念のように思われる。

・「邪火」幾つかの漢方サイトを管見するに、これはどうも炎症などの具体な漢方症状ではなく、三焦孰れにもよくない状態として生ずる、「客熱」(本来のものではない異常な熱。他から侵入して来た熱。意識を朦朧とさせるような邪悪な熱気)の邪悪(悪質)な性質を示す語のように見受けられる。

・「上焦」先の「下焦」を参照。

・「積熱」ここは上焦のそれであるが、漢方サイトでは中焦の不具合として、消化管内の停滞によるガス発生や便・炎症による刺激のために腹部膨満感や腹痛、発熱性疾患を引き起こすものとして「腸胃積熱(ちょういという」というのが散見される。また別に「三焦積熱」ともあるから、本来あるべきではない熱源が生命を燃焼させる三焦に鬱積して負荷をかけている状態を指していることが分かる。そもそもここは「下焦」と「上焦」の熱を去ることを言って「中焦」を含む「三焦」全体の温度の正常な状態への就下を言っている。

・「袪」本来は袖・袂の意であるが「去る」(除く)の意をも持つ。

・「白禿」「白癬」「白瘡」とも書く。主に小児の頭部に大小の円形の白色の落屑(らくせつ)面が生ずる皮膚病で、原因菌は主に真菌トリコフィトン(白癬菌)属 Trichophyton の感染によって起こる。掻痒感があり、毛髪が脱落する。頭部白癬。ケルズス禿瘡(とくそう)。ウィキの「白癬に、『毛嚢を破壊し難治性の脱毛症を生じるものはケルズス禿瘡と呼ばれる。Microsporum canisTrichophyton verrucosumが原因の比率が高いため、猫飼育者・酪農家は注意が必要。その他、Trichophyton rubrumTrichophyton mentagrophytesTrichophyton tonsuransがある』とある。

・「熬海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「熬海鼠」の注を援用追記しておく。「いりこ」という呼称は、現在、イワシ類を塩水で茹でて干したにぼしのことを言うが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡(島田氏注に『関根真隆氏によれば、平城宮出土木簡に「能登国能登郡鹿嶋郷戸主若倭部息島戸同□調□(海カ)鼠六斤、天平宝字三円四月□日」とある由である』とある)や「延喜式」に、能登国の調として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後述されるコノワタやクチコも載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。大島廣先生の「ナマコとウニ」には、明治二九(一八九六)年の調査になる農商務省報告に、各地方に於けるイリコの製法がいちいち詳述されており、それらを綜合した標準製法が示されているとする(以下同書からの孫引だが、カタカナを平仮名に直し、〔 〕で読み・意味を加え、適宜濁点を補った)。

   《引用開始》

「捕獲の海鼠は盤中に投じ、之に潮水を湛〔たた〕へ、而して脱腸器を使用して糞穴より沙腸を抜出し、能く腹中を掃除すべし。是に於て、一度潮水にて洗滌し、而して大釜に海水を沸騰せしめ、海鼠の大小を区別し、各其大小に応じて煮熟の度を定め、大は一時間、小は五十分時間位とす。其間釜中に浮む泡沫を抄〔すく〕ひ取るべし。然らざれば海鼠の身に附着し色沢を損するなり。既に時間の適度に至れば之を簀上〔さくじやう:すのこの上〕に取出し、冷定〔れいてい?:完全に冷えること〕を竢〔まつ=待〕て簀箱〔すばこ〕の中に排列し、火力を以て之を燻乾〔くんかん:いぶして干すこと〕すべし。尤〔もつとも〕晴天の日は簀箱の儘交々〔かはるがはる〕空気に曝し、其湿気を発散せしむべし。而して凡〔およそ〕一週間を経て叺〔かます〕等に収め、密封放置し、五六日許りを経て再び之を取出し、簀箱等に排列して曝乾〔ばつかん〕するときは充分に乾燥することを得べし。抑〔そもそ〕も実質緻密のものを乾燥するには一度密封して空気の侵入を防遏〔ばうあつ:防ぎとどめること〕するときは、中心の湿気外皮に滲出〔しんしゆつ:にじみ出ること〕し、物体の内外自から其乾湿を平均するものなり。殊に海鼠の如き実質の緻密なるものは、中心の湿気発散極めて遅緩なれば、一度密蔵して其乾湿を平均せしめ、而して空気に晒し、湿気を発散せしむるを良とす。已に七八分乾燥せし頃を窺ひ、清水一斗蓬葉〔よもぎば〕三五匁の割合を以て製したる其蓬汁にて再び煮ること凡そ三十分間許にして之を乾すべし」

   《引用終了》

まことに孫引ならぬ孫の手のように勘所を押さえた記述である。なお、最後の「蓬汁」で煮るのは、大島先生によると『ヨモギ汁の鞣酸(たんにん)と鉄鍋とが作用して黒色の鞣酸鉄(たんにんてつ)を生じ、着色の役割をするものである』と後述されている。

・「海參」寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」に、

   *

「五雜組」に云ふ、『海參は、遼東の海濱に之有り。一名、海男子。其の狀、男子の勢(へのこ)のごとし。其の性、温補、人參に敵するに足り、故に海參と曰ふ。』と。

   *

あるように、陽物や朝鮮人参のよう形状、しかも朝鮮人参同様に「功、補益を擅にす」であることから「故に之、名づくるか」と推定しているのである。因みに「補益」とは不足を補い、益を与えることで、漢方の効能の常套表現。

・『李東垣「食物」』李東垣(一一八〇年~一二五一年)は金・元医学の四大家の一人とされる医師。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る))の「食物本草」。これは、明代の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。

・「本朝式」「延喜式」のこと。

・「自ら出でて」島田氏は『自出(にじみで)て』と訳されている。謂い得て妙の訳である。

・「串海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「串海鼠」の注を再掲しておく。「串海鼠」について前掲書大島廣「ナマコとウニ」に以下のように記す。

   《引用開始》

 串(くし)に貫いて梯子(はしご)のような形にしたものは、筆者も沖繩本島ののハネジイリコで初めて見たのだが(第二十五図[やぶちゃん注:大島先生の著作権は継続中なので省略])、古くは広く行われた方法らしく、いろいろな書物にこれを見ることができる。[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 「串に刺し、柿の如くして乾したるを串海鼠と云ふ」(伊勢貞丈)

 「毎十箇懸張二小柱而如梯之形者名串海鼠」(『倭漢三才図会』)

 「凡(およそ)串(くし)に貫(つらぬ)くものはクシコ、藤に貫くものはカラコと云ふ」(武井周作)

 「海上人復有以牛革譌作之ノ語アリ。此即八重山串子(ヤエヤマクシコ)ト俗称スルモノニシテ、味甚薄劣下品ノモノナリ」(栗本瑞見)

 この最後の記事は贋物(にせもの)の追加である。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

最後のものは、私が「海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲 (「栗氏千蟲譜」卷八より)」で電子テクスト化した中に現われるもの。そちらも是非、御参照の程! さても贋物と言えば、良安の「食物本草」の引用にはナマコの偽物として「驢馬の陰莖」によるものがあると記している。驢馬一頭を犠牲にしてまで……それは、何か、ひどく哀しい海鼠の歴史ではないか。

・「六、七寸」十五~二十一センチメートル。

・「古へより之を用ゐる者、久し」これを島田氏は『昔からこの方法を用いて久しい』と訳しておられるが、私は「之」は熬海鼠の製法を指すのではなく、熬海鼠という調整品を指すものと解釈する。そう読んでこそ、それを受けて以下の「延喜式」からの引用がごく自然に読めるからである。

・「神祇部」律令制で祭祀を司る神祇官に関わる記載部。

・「二斤」一・二キログラム。

・「主計部」「主計」は訓ずると「かずえ」。主計寮(しゅけいりょう)は律令制に於いて民部省に属した主に税収(特に「調」)を把握・監査した機関。具体的には租税の量を計算して規定量に達しているかを監査した。訓は「かずえのつかさ」(以上はウィキの「主計寮」に拠る)。なお、島田氏の注ではここに熬海鼠貢納についての驚くべき膨大なデータ引用がある。

・「今、亦、上下、之を賞美す」島田氏はここに近世の熬海鼠の調理法を引用されておられる。

・「三焦」先の「上焦」を参照。

・「火熱」先の「積熱」を参照。

・「勞怯虛損」虚損労傷。労怯・労損ともいう。五臓の機能低下による種々の疾病を指す。先天的なものや後天的なもの或いは各種の虚弱や症候などは全て「虚労」の範疇に入るとされ、機能が衰えて体力のないのが「虚」といい、「虚」から戻ることが出来ない状態を「損」とし、「損」が長期間続くものを「労」という。虚・損・労は疾病の発展状況を表わす言葉である(漢方検索サイトの古いキャッシュより)。「怯」も漢方では甚大な不足を意味する。

・「肺虛」呼吸器系全般の機能低下によって生ずる症状全般を指す。

・「欬嗽」咳。

・「李杲」前掲の李東垣の名。

・「疳」疳の虫によって起こるとされた小児の神経症疾患。夜泣きやひきつけなどの発作を起こす。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛(以下、「攪勻」までの注の多は、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で施した注を概ね再掲したが、「尾張名所図会」は必ずしも本書に忠実に引用していない(例えば別名の「俵子」などは省略されている)ので読みや注に微妙な違いがあるので注意されたい)。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・「俵子」前掲書大島廣「ナマコとウニ」にこの「タワラゴ」という呼称についての複数の語源説について以下のように記す。

   《引用開始》

 「海鼠(ナマコ)の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり」(伊勢貞丈)。

 「俵子(たわらこ)は沙噀の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり」(喜多村信節『嬉遊笑覧』一八五六)。

 「俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし」(蔀関月)。

   《引用終了》

因みに、文中の『沙噀』は「さそん」と読み、海鼠の別称である。

・「膓醬」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことわり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「滌去」洗い去ること。

・「攪勻」ここでは原典を視認するに「カクキン」と音読みしているとしか思われないので、「尾張名所図会」での「攪(か)き勻(なら)して」という訓読とは差別化させた。これは明らかに底本は漢文脈で音読みしているものが多いものと思われること(既に述べたが、それでもつまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所がある)、「尾張名所図会」が有意に前後の仮名文脈表現に影響されて見えることを勘案したものである。

・「一種、腸中に、色、赤黄、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰ふ。珍と爲さず」これは「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ばれる、私垂涎のナマコの卵巣「口子(くちこ)」である。ウィキの「くちこ」によれば、海鼠は厳冬期の一月から三月になると産卵期を迎えて『発達肥大した卵巣を持つようになり、それが口先にあることから「くちこ」と呼ばれている。主な産地は能登半島周辺。一般的に平たく干したものが能登の高級珍味として親しまれているまとめた卵巣を、横に渡した糸にまたぐように吊るして干すが、このとき水滴が早く落ちるように先端を指でまとめるため、仕上がりは平たい三角形状となる。干した姿が三味線のばちに似ていることから、ばちことも呼ばれている。開いた卵巣を何枚も連ねて一枚に干し上げるが、一枚作るのに十数キロのナマコが必要であるため、大変高価なものとなる。そのまま食べるか、炙ってから、お吸い物・熱燗に入れても良い』。『生のものは、塩漬けされた塩辛として出回ることが多いが、取り出して瓶などに詰めただけの「生」のものもあ』り、『酒の肴として好適である』とする。「海鼠子」について、前掲書大島廣「ナマコとウニ」には次のように記す。

   《引用開始》

 紐(ひも)状の生殖線[やぶちゃん注:「腺」の誤字。]を海鼠鮞(このこ)という。これを乾したものを俗にくちこ[やぶちゃん注:「くちこ」に「丶」の傍点。]と名づけ、能登、丹波、三河、尾張の四地方産のものが知られており、ことに能登鳳至郡穴水湾産のくちこは古い歴史をもっている。毎年一二月下旬から翌年一月までの間にナマコを採取してその生殖腺を取り、塩水でよく洗い、之を細い磨き藁(わら)に掛けて乾かすか、又は簀(すのこ)の上に並べて乾す。雅味に富んだ佳肴(かこう)である。

   《引用終了》

口子(クチコ)・干口子(ヒグチコ)は、その製品が三味線の撥(バチ)に似ているのでバチコとも言う。コノワタ以上に珍味とされ、まさに撥大のぺらぺら一枚が軽く五千円を越える。八年前、私は遂に名古屋の料理屋でこれを食したが――掛け値なし――自慢なし――誇張なし――で大枚払って食してみる価値は――確かに――ある珍味である。しかし乍ら……島田氏の注にも「日本山海名産図会」を引き、『一種蝶の中に色赤黄にてのりのごときものあり。号(なづ)けて海鼠子(このこ)といふ。味よからず』と駄目押しがあって、この時代は製したものの好まれなかったとは……ちょっと意外だ……あの血のような色のせいかしらん?……

・「一石」当時の単位で米換算なら約百五十キログラム。俵にして二俵半。

・「十五斤」六百グラム。

・「附方」症例に応じた個別な具体的症状とそれへの処方例及び古い処方例佚文などを纏めたものと私は理解している。

・「保童圓」本邦のオリジナルな漢方の薬方の名である。青森市公式サイトの「あおもり歴史トリビア第五十五号二〇一三年四月二十六日配信「浪岡の桜の名所」の中に、室町時代のこの浪岡城(青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町))の城主であった浪岡北畠氏が公家山科言継(やましなときつぐ 永正四(一五〇七)年~天正七(一五七九)年)のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようと、さまざまな根回しをしていたことが山科の「言継卿記(ときつぐきょうき)」に残っているとある記事の中に、賄賂として送ったもの中になんと『煎海鼠(いりこ、干しナマコ)』があり、また、逆に『昆布や煎海鼠をたびたび送ってきている浪岡北畠氏の使いの者、彦左衛門に保童円(ほどうえん)三包と五霊膏(ごれいこう)三貝を遣したともあります。保童円の「円」は練り薬のことですから旅の疲れを癒すために服用するように、また五霊膏の「膏」は膏薬のことですから、疲労した脚にでも塗るように遣わしたのかもしれません。言継の旅人をいたわる心遣いがうかがわれ、身近な人のように感じてしまいます』とたまたま書かれてあったので、特に引いておきたく思う。但し、京都府京都市下京区中堂寺櫛笥町にある「寶蓮寺」の公式サイトの「歴史」の記載には、『京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている』とあって、ここでは丸薬である(以上の下線部はやぶちゃん)。 

 

□やぶちゃん現代語訳(さらに読み易くするために、パートごとに行間を空け、適宜、改行も施した。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ずる。〕

釋名 土肉〔郭璞の「江賦」に、『土肉。』とある。「石華」の「文選註」に謂う、『「土肉」は正黒色をなし、小児の肘ほどの大きさのを示す生き物で、長さ五寸、体内に腸(はらわた)があるけれども、口や目はない。三十の管のような足を持っている。この見た目を以って、世人は「海の鼠」に似ているということから、「海鼠」を別名としている。』とある。〕。

集觧 近海海中の各所にこの生物は棲息する。東日本に最も多い。尾張の和田・三河の柵(さく)の島(しま)・相模の三浦・武蔵の金澤本木(ほんもく)が、その知られた主な産地である。西日本に於いてもまた、これは多く漁獲される。中でも、小豆島が最も多い。

 その形状は、鼠に似ているが、頭と尾及び手足は、ない。ただ、前と後ろに当たる部分に一つ宛(ずつ)開いているばかりである。長さは五、六寸で、円く肥えている。その色は蒼黒或いは黄や赤を帯びている。背は、ふっくらと丸みを帯びており、腹の部分は平らになっている。背には疣(いぼ)状の突起物が多くあって軟らかである。体の体幹の両脇には、これ管の如き足の、生えたばかりの若い部分であって、これを用いてゆっくりと這い蠢き、想像以上に器用に行ったり来たり動く。腹の皮は青碧(おあみどり)で、やはり小さな疣(いぼ)のような感じの突起物があり、背と同じく軟らかである。

 その肉の味は、ほぼ鮑(あわび)に類(るい)したものであるが、甘くはない。極めて冷潔にして淡美な味わいを持つ。

 腹の内に三条の腸(わた)がある(但し、この腸の色の白いものは味が良くない)。この「腸(わた)」なるものこそ、海産物中の最上の佳品とされるものなのである。

 本朝にて於いては、この海鼠という生物のいるということは知られて久しいものである。

 かの最古の歴史書たる「古事記」に、

『――諸々の魚介水族、降臨し給える神に、

「お仕え奉ります。」

と誓詞を言葉に出して申し上げた中で、かの海鼠だけが、黙ったまま、何も申さなかった。

 そこで、同道なされた天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、かの不埒な海鼠に謂い諭しつつ、断じ、

「この口か! 答えぬ口は!」

と言うなり、細き小刀(さすが)を以ってその口を矢庭に拆(さ)いた。

 故に今に於いて、これ海鼠の口は拆(さ)けたままなのである。』

と。

 さてもまた一種、長さ二、三寸とやや短く、しかも腹の内に砂を多く含んでいて、味もこれはまた、やや劣るものがおり、別に一種、長さ七、八寸と大きく、しかもよく肥え太っていて、大きなものもある。

 腹の内にある三条の黄いろい腸(わた)はこれ、琥珀(こはく)の如きものにして、これを塩に漬けて醢(ししびしお)となせば、その味わい、香んばしく美味なること、これ、言いいようもない。本邦のあらゆる塩辛(しおから)の中にあっても第一とするものである。このことは後に詳述する。

 なおまた、これとは別に生の海鼠を煎って乾かした者についてもまた、後述することとなる。

 現在、包丁人が、生きのよい海鼠を用いるに、一つ、灰砂(はいずな)をまぶし、それをそのまま竹籠に入れて、これを篩(ふる)う。或いは一つ、白塩(なまじお)を擦り付けて擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以ってこれをぐるぐると潰さぬように擂り扱(こ)ぐと、これら孰れも、そのまましばらく時の経てば、不思議に等しく同じように、煮凝りのように固まって堅くなる。その口に含んだ時の味わいたるや、如何にもこれ、さわやかにしてしなやか、はなはだ美味で、これを特に呼ぶに、「振鼠(ふりこ)」と称している。

海鼠の肉

氣味 鹹寒(かんかん)。毒はない。〔稲藁・稲の糠(ぬか)・灰砂(はいずな)及び塩を畏(おそ)れる。また、河豚(ふぐ)の毒を制する。〕。

主治 腎を健やかにし、熱を持った血を穏やかに下げ、髪を黒々とさせ、骨を堅固にし、下焦(げしょう)の客熱を収め、上焦(じょうしょう)の鬱積した熱を速やかに去る。多く食べると、直ちに腸・胃が急速に冷濕(れいしつ)の性に向かうため、排泄に於いては洩らし易くなるので、熱を伴う痢病(りびょう)を患っている者の場合は、くれぐれも適量たる少量を食すよう、心掛ける必要がある。なお、これとは全く別な附方として、頭部に出来た白癬(しらくも)及び、やや進行した凍傷を療治することが出来る。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ずる。〕

釋名 海参(かいさん)〔李東垣(りとうえん)の「食物本草」に謂う、『その功、あざやかにすばらしく補益を恣(ほしいまま)にする。』と。さればこそ、「海の人参」と名づけたのであろうか? 世人は、まま、この「海参」を以って海鼠を称する者を見かける。古えの「延喜式」にもすでに『熬海鼠』と称して載っている。〕。

集觧 これを造るには特殊な方法がある。

 生の新鮮な大海鼠を用いて、沙や腸を取り去った後(のち)、数百枚を空鍋(からなべ)に入れて、強火を以ってこれを煎る。すると、即座に塩辛い汁が海鼠の体から自ずと出でて、黒く焦げる。十分に水分が出て乾き、硬くなったそれを取り出だし、冷めるのを待って、二本の小柱に懸け列ねる。一柱につき、必ず十枚を列ねるのが決まりで、これを称して「串海鼠(くしこ)」と号している(これは「久志古(くしこ)」と訓ずる)。特に大きなものの場合は、藤蔓(ふじづる)に懸ける。

 今、東日本の海浜及び越後の産は、このようにして製する。或いは西日本は小豆島の産は、この最も大なるものにして、味もまた良い。また、薩摩・筑紫・豊前・豊後より出ずるものはこれ、極めて小さい。しかし乍ら、これを煮る時には、則ち、大きく膨らむ。但し、この「熬(い)り」として製するところの海鼠は、六、七寸を過ぐる大きなものを以ってするのが上製となるであって、そうした小さなものは結局は佳品にはならない。

 大抵、乾して曝(さら)すに串に刺し、或いは藤蔓にて挟み止め、しかしてこれを食材として用いる。

 まず、水にて煮(に)、やや久しく煮込むと、則ち、いよいよ肥大して軟かくなるのである。味もまた、甘美である。

 或いはまた、稲藁や米糠の類と合わせて煮熟(しゃじゅく)〔充分に煮詰めること。〕しても、これも軟らかいものになる。

 或いは土及び砂に埋ずめること一夜にして、翌日には掘り出して洗浄して煮熟してもまた、よろしい。

 古えより永くこれを食材として用いる者のあることは久しい。「延喜式神祇(じんぎ)部」にも『熬海鼠(いりこ)二斤(きん)。』と載り、「延喜式主計部」にも『志摩・若狭・能登・隠岐・筑前・肥前・肥後、これを貢(こう)する。』とある。今また、貴賤に拘わらず、これを賞味している。

氣味 鹹(かん)・微甘(びかん)にして平(へい)。毒はない。

主治 気血をよく補い、五臓六腑を活性化させ、三焦(さんしょう)の邪火(じゃか)・客熱(きゃくねつ)を去る。鴨の肉と同じく、十分に烹込んでこれを食すれば、あらゆる虚弱虚損に基づく諸疾患を快方へ向かわせる。猪の肉と同じく、煮て食すれば、弱った肺や咳を治癒する〔これは李杲(りこう)の「食物本草」に拠る。〕。また、腹の中の悪しき虫を殺し去り、然して小児の疳の虫をも快癒させる。

 

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ずる。〕

集觧 或いは「俵子(たわらこ)」とも称する。この腸醤(ちょうしょう)を造る方法は以下の通りである。

 まず新鮮な海鼠の腸(わた)を取って、潮水(しおみず)の至って清浄なるものを用いて洗浄すること、数十次、砂及び汚れた汁(しる)をきれいに洗い流し去ってから、白塩(なまじお)に和して攪拌しつつ、塩とよく合わせて平らにならした上、これを保存する。

 至って黄色い光りを帯びて琥珀の如きものを以って上品とする。黄色の中に黒や白の部分が相い交じっているようなものはこれ、以って下品とする。

 しかし、今、この三色の相い交じっているものを以ってこれを日の光に当てつつ、箆(へら)や箸を用いて、存分に攪拌し続けると、則ち、ことごとく黒白の部分の変じて、全く黄色となる。

 或いはまた、腸(わた)一升に対して鶏卵の黄身一箇を投入し、やはり箆や箸を用いて、これを均一になるまで攪拌してもまた、ことごとく黄色となる。これは味もまた、他の色の交っていた時に比すれば、やや美味となる。

 一種に、腸中に色の強い赤みを帯びた黄色の、糊のようなものがある場合があるが、これは呼んで「鼠子(このこ)」と言う。但し、これは海鼠腸(このわた)の中では珍味とはしない。

 およそ海鼠に就いては、古えは能登の国が海鼠腸一石を貢(こう)した。「延喜式主計部」にも『腸十五斤』と載る。しかし今は能登の国はこれを貢していない。

 尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近頃の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通りである。

 浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

 僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(なまじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

 その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

 かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味なのである。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以って、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。

附方 凍傷が進行して腫れた部分が破れかけている症状〔新鮮な海鼠を煎って、そこで出来た濃い煮汁を用いて、それを以って何度も何度も頻繁にその患部を洗浄する。或いは熱湯を用いてそれに腸醤を和し、掻き均して何度もこれを以って洗うのもまた、良い。〕。頭部に生じた白癬(しらくも)〔生(なま)の海鼠の腹を割(さ)き、腸(わた)を抜き去って、それをそのまま強く患部に押し張って、ちょうど厚紙のようにして患部の頭の上に貼り付けておけば、則ち、快癒する。〕。冷たい湿気に基づく虫痛(ちゅうつう)〔また、それ及び小児の疳の虫に由来するところの痛みや訴えと下痢の症状に対しては、これを常食して効果がある。また、熬海鼠(いりこ)を用いて、知られる処方の保童円(ほどうえん)の中に合わせ入れてそれを用いたならば、伝え聴くところでは、よく疳の虫を殺す効果があるとする。〕。 

 

◆華和異同

□原文

  海鼠

崔禹錫食經曰海鼠似蛭而大者也李東垣食物本

草曰海生參東海海中其形如蠶色黒身多瘣※一

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]

種長五六寸表裏俱潔味極鮮美功擅補益殽品中

之最珍者也一種長二三寸者割開腹内多沙雖刮

剔難盡味亦差短今北人又有以驢皮及驢馬之陰

莖贋爲狀味雖略同形帯微扁者是也謝肇制五雜

俎曰海參遼東海濱有之一名海男子其状如男子

勢然淡菜之對也其性温補足敵人參故曰海參按

俱是爲今之海鼠者無疑東垣初言五六寸者今之

生海鼠乎後言二三寸者今武相江上多者乎東垣

能知二者有別謝氏亦能知其佳然不言其腸者爲

恨耳近有以土肉爲海鼠者此亦相似御覧臨海水

土物志曰土肉正黒如小児臂大長五寸中有腹無

口自有三十足如釵股大中食是郭璞江賦所言者

乎南産志有沙蠶土鑽是亦此類耶

□やぶちゃんの書き下し文

  海鼠

崔禹錫が「食經」に曰く、『海鼠、蛭に似て大なる者なり。李東垣が「食物本草」に曰く、海參は東海海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとし。色、黒く、身に瘣※(いぼ)多し[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]。一種、長さ五、六寸、表裏俱に潔く、味はひ、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしひまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍なる者なり。一種、長さ二、三寸の者は、割り開きて、腹内、沙、多くして、刮剔(くわつえき)すと雖も、盡き難く、味も亦、差(やゝ)短し。今、北人、又、驢(ろば)の皮及び驢馬の陰莖を以つて贋して狀(かたち)を爲すこと有り。味はひ、略(ほゞ)同じと雖も、形、微(いささ)か扁(へん)を帯ぶる者、是れなり。』と。謝肇制(しやてうせい)が「五雜俎」に曰く、『海參は遼東海濱に之れ有り、一名、海男子、其の状(かたち)、男子の勢のごとし。然も、淡菜の對(つゐ)なり。其の性、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。』と。按ずるに、俱に是れ、今の海鼠と爲る者、疑ひ無し。東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか。東垣、能く二つの者の別有ることを知る。謝氏も亦、能く其の佳なることを知る。然れども其の腸(わた)を言はざる者(こと)を恨みと爲すのみ。近ごろ、土肉を以つて海鼠と爲る者、有り。此れも亦、相ひ似たり。「御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は正黒、小児の臂(ひぢ)の大いさのごとし。長さ五寸、中に腹、有り。口、無し。自(おのづか)ら三十足有りて、釵股(さこ)の大いさのごとく、食に中(あ)つ。』と。是れ、郭璞が「江賦」に言ふ所の者か。「南産志」に沙蠶(ささん)・土鑽(どさん)有り。是れも亦、此の類か。

□やぶちゃん注

・『崔禹錫が「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「刮剔」掻き抉り取ること。

・『謝肇制が「五雜俎」』謝肇淛「五雜組」が正しく、「せい」は「せつ」とも読む。明末の文人官人であった謝肇淛(一五六七年~一六二四年)の随筆集。全十六巻。天・地・人・物・事の五部に分けて古今の文献や実地見聞などに基づいた豊富な話題を、柔軟な批評眼で取り上げている。特に民俗に関するものには興味深いデータが多く、本邦でも江戸時代に広く愛読されて一種の百科全書的なものとして利用された。謝は有能な行政官でもあり、多才な詩人でもあった。「五雑組」とは五色の糸で撚(よ)った巧みな美しい組み紐の意である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「勢」陰茎。

・「淡菜」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus 。女性の会陰に酷似していることで知られる。古来、海鼠を東海男子と別称したのに対し、胎貝(いがい)は東海夫人と呼称された。私の『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』の図を参照されたい。

・「東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか」人見は海鼠をその大きさで別種と判断していることが見てとれる。無論、これらはマナマコ Apostichopus armata 或いはアカナマコ Apostichopus japonicas であって別種ではない。

・「御覧」「太平御覧」宋の類書(百科事典)。李昉(りぼう)ら十三名の手に成り、全千巻に及ぶ。太祖の勅命により六年を費やして太平興国八(九八三)年に成った宋代の代表的類書である。内容は天・時序・地・皇王に始まる五十五部門に分類され、各部門がさらに小項目に分けられて各項目に関連する事項が古典から抜粋収録されている。

・「臨海水土物志」「臨海水土異物志」。三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の書いた浙江臨海郡の地誌。世界最古の台湾(原典では「夷州」)の歴史・社会・住民状況を記載するという(但し、この比定には異議を示す見解もあるようである)。

・「釵股」刺股/指叉(さすまた)。U字形の鉄金具に二~三メートルの柄をつけた金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる警棒。先端金具の両端及びその下部の柄の付根附近には棘(返し)が出ており、それらが黒色で、そうした先頭部が如何にも海鼠然としている。U字部分は或いは口辺部の触手をイメージして似ていると言っているもので、ここは柄を外した先端の金具部分をのみ想起すべきところである。

・「南産志」「閩書(びんしょ)南山志」の誤りか。南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作と思われる。 

 

□やぶちゃん現代語訳

  海鼠

崔禹錫(さいうしゃく)の「食経(しょうけい)」に曰く、『海鼠は蛭(ひる)に似て大きなものである。李東垣(りとうえん)の「食物本草」に曰く、海参は東海の海中に棲息する。その形は、蠶(かいこ)のようである。色は黒く、体中に疣(イボ)が多くある。一種に、長さが五、六寸で、表裏ともに砂泥等を附着しない至って清澄なものがおり、その味わいは、極めてすっきりとして美味い。その効用としては、自由自在に補益を促す。酒の肴の中では最も珍味なるものである。一種に、長さ二、三寸の者があるが、これは身を立ち割って開いてみると、腹中に多量の砂を含んでいて、どんなにそぎ落とし、抉り出してみても、身のあらゆる部分に砂が入り込んでいて取り尽くすことが難しく、味もまた、やや劣る。現在、内陸の北方の人々はまた、驢馬の皮及び驢馬の陰茎を用いて贋物(にせもの)を作り、干した海鼠そっくりの形状に真似ることがある。味わいはほぼ同じであっても、形がいささか偏平に見える干し海鼠は、この贋物である。』と。謝肇制(しゃちょうせい)の「五雑俎」に曰く、『海参は遼東地方の海浜に棲息しており、一名、海男子と称し、その形状はまさに男性の陰茎にそっくりである。まさに女性の会陰と酷似する淡菜と一対をなすものである。その性質は温補で、漢方に於ける妙薬たる朝鮮人参に匹敵する効果を十分に保持している。ゆえに「海参」と称する。』と。按ずるに、「食経」「五雑俎」の記載はともにこれ、現在の海鼠とするものと考えて間違いない。「食物本草」の最初の部分で東垣が言っている五、六寸のものというのは現在の一般的な海鼠であろうか? また、その直後に記すところの二、三寸なるものという有意に小さなものは、現在、武州や相州の入り江に多く産する別種の海鼠を指すものであろうか? 東垣は、よく、この酷似した二つの種が別種であるということを認識している。謝氏もまたよく、海鼠の美味であることを認識している。しかれども、彼ら二人が、文字通り肝心の、その珍味なるところの腸(はらわた)について、一切言及していない点、これ、甚だ遺憾と言わざるを得ない。なお、近頃、「土肉」を以って「海鼠」であると記すことがある。これもまた、相い似たものである。「太平御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は真っ黒で、小児の臂(ひじ)ぐらいの太さを呈するものである。長さは五寸、体内に腹部が存在する。しかし口はない。体部から生えた三十本の足があって、まさに刺股(さすまた)の先端の金具ほどの大きさであって、食用に当てる。』と、ある。これはかの郭璞の「江賦」に詠まれたところの海鼠の仲間なのではなかろうか? 「閩書南産志」に「沙蠶(ささん)」・「土鑽(どさん)」という記載がある。これもまた、やはり海鼠の仲間なのではなかろうか?

 

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