[やぶちゃん注:現在、作業中の南方熊楠の「南方閑話」中の「巨樹の翁の話」に必要になったので、フライングする。底本はここ。]
(二一二)
ヤマベ 一名アメノ魚【紀州】コサメ【熊野阿宅】ミヅグモ【本草啓蒙】アメゴ【同上伊州】イモコ【同上若州】ヒラツコ【同上和州白矢村】ヤマガハ【同上丹後】ヤマコ【同上】
啓蒙曰形香魚ノ如ク長サ七八寸身ニ黑斑及ヒ細朱㸃アリ鱗細ナリ
按此魚山溪ニ住シ下流ニナシ春月味美ニ乄秋ハ劣レリ其骨軟ナリ
俗覽曰石鱗魚生石澗中長四五寸許色似銀多脂而骨柔善驚匿釣者常
以暮夜又有赤黑色者ヤマベノ類也湖魚考日「アマゴ」湖ヨリ遠キ山中
溪川ノ岩クエノ甚タギル瀨ニアリテ湖水ヘハ入來ラズ形「アメノ魚」
ノ如クニ乄小ク大キナルモノ四五寸ニ過ズ川上ノ能クタギル所ノ
淵ニアリフルセノ物ハ大キシ六七寸モアリ狀脊ノ方薄靑ク薄黑キ
形有腹ノ方白ク銀ノ如クニシテ「アメノ魚」ノ如ク赤キ斑アリ鱗細ク
口大キク齒アリ眼形ヨリハ大キシ腹膓少シ蜘蛛蠅ナトモテ釣又蚊
頭ノ鉤ニテモウル也㋑エノ葉 大和本草曰山中ニエノ葉ト云魚ア
リ形味ヨク鱒ニ似テ小也味ヨシ長サ六七寸春山川ニ上ル
○やぶちゃんの書き下し文
やまべ 一名「あめの魚」【紀州。】・「こさめ」【熊野阿宅(あたぎ)。】・「みづぐも」【「本草啓蒙」。】・「あめご」【同上。伊州。】・「いもこ」【同上。若州。】・「ひらつこ」【同上。和州白矢(しらや)村。】・「やまがは」【同上丹後】・「やまこ」【同上。】
「啓蒙」に曰はく、『形、香魚(あゆ)の如く、長さ、七、八寸。身に黑斑及び細(こま)かなる朱㸃あり。鱗、細(さい)なり。』と。按ずるに、此の魚、山溪に住(ぢゆう)し、下流に、なし。春月、味、美にして、秋は、劣れり。其の骨、軟かなり。「俗覽」曰はく、『石鱗魚。石澗中に生(しやう)じ、長さ、四、五寸許(ばかり)。色、銀に似る。脂(あぶら)、多くして、骨、柔か。善く釣る者を、常に暮夜(ぼや)を以つて、匿(かく)れいでて、驚かす。又、赤黑色(せきこくしよく)の有る者、「やまべ」の類(るゐ)なり。』と。「湖魚考」日はく、『「あまご」。湖より遠き山中溪川(たにがは)の岩くえの、甚(はなは)だ、たぎる瀨に、ありて、湖水へは、入り來らず。形、「あめの魚」の如くにして、小さく、大きなるもの、四、五寸に過ぎず。川上の、能(よ)くたぎる所の淵にあり。「ふるせ」の物は、大きし。六、七寸もあり。狀(かたち)、脊(せ)の方(かた)、薄靑く、薄黑き形(かたち)、有り。腹の方(かた)、白く、銀の如くにして、「あめの魚」の如く、赤き斑(まだら)あり。鱗、細く、口、大きく、齒、あり。眼、形よりは、大きし。腹膓(はらわた)、少し。蜘蛛・蠅など、もて、釣り、又、蚊(か)の頭(かしら)の鉤(はり)にても、うる也。㋑「えの葉」 「大和本草」曰はく、『山中に「えの葉」と云ふ魚あり。形・味、よく鱒に似て、小(しやう)也。味、よし。長さ、六、七寸。春、山川に上(のぼ)る。』と。
[やぶちゃん注:「やまべ」は「やまめ(山女)」の異称である。条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou に比定してよい。本種は、サクラマスのうち、降海せず、一生を河川で過ごす陸封型個体を指す。北海道から九州までの河川の上流などの冷水域に棲息する。ここに出る「あめの魚」は、タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス(琵琶鱒)Oncorhynchus masou rhodurusビワマスの古くからの異名でもあるが、ビワマスは琵琶湖にのみ棲息する日本固有亜種であるから、違う。ビワマスは産卵期の間の、大雨の日に群れを成して、河川を遡上することから、「雨の魚」(鯇・鰀・江鮭)という異名を持つ。
「熊野阿宅」現在の和歌山県西牟婁郡白浜町安宅(グーグル・マップ・データ)。
「和州白矢村」現在の奈良県吉野郡川上村白屋(グーグル・マップ・データ)。
『「みづぐも」【「本草啓蒙」。】』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで調べたところ、小野蘭山の記述は、「葭魚」「イハナ」の項から引いてしまっていることが判った。次の丁に以上の引用が出る。従って、この引用部分は総て無効である。同書では、「アメノウヲ」は「鯇魚」のここに異名を記し、その解説は明らかにビワマスの記述であることが判る。そもそもヤマメはアユには似ていない。
「俗覽」未詳。底本頭の方にある「引用書目」にも載らない。
「石鱗魚」ネットで調べると、「赤鱗魚」とも書き、中国料理に「清炒赤魚」という料理があり、淡水魚であるが、この引用も原書が不明であるから、無効ととった方がよいような気がする。
「善く釣る者を、常に暮夜(ぼや)を以つて、匿(かく)れいでて、驚かす」かなり無理して訓読したのだが、この短いが、奇怪な内容は、ウィキの「コサメ小女郎」(コサメこじょろう)の内容と、強い親和性があるのである。『紀州日高郡龍神村(現・和歌山県田辺市)に伝わる妖怪。龍神村小又川の二不思議といわれる怪異の一つで、南方熊楠の著書』「南方閑話」に『記述がある』。『龍神村にあるオエガウラ淵という淵に住む妖怪であり、何百年という歳月を経たコサメ(魚)が妖怪と化したもの。人間の美女に化け、山に入って来たり淵に近づいたりする人間を誘惑し、水中に誘い込んで殺して食らっていたという』。『あるとき』、『小四郎という男に出会ったコサメ小女郎が、薪の灯りのもとで』七『年間飼い続けた鵜には敵』(かな)『わないと漏らしたため、小四郎がそのような鵜に淵を探らせたところ、目を抉られた大きなコサメの死体が浮かび上がった。その腹を割いたところ、中には木こりの鉈が』七『本あったため』、七『人の木こりがすでにコサメ小女郎に食べられ、すでに溶けてしまっていたことがわかったという』。『畔田伴存の著書』「水族志」には、『コサメとは紀州安宅(現・和歌山県西牟婁郡白浜町)でアメノウオ(ビワマス)を指す方言とあることから、熊楠はコサメ小女郎のコサメもアメノウオのことと推測しているが』(既に述べた通りビワマスは琵琶湖固有種で誤りである)、『近年の文献ではコサメ小女郎の正体をヤマメとしているものもある』。『類話として和歌山県熊野川町(現・新宮市)で、淵に住む大きなアメノウオが人間に化け、村人たちに毒入りの酒や食べ物をすすめて人々を困らせていたが、ある者が長年飼いならされた鵜に淵を探らせて退治したという話がある』とあるのである。
「湖魚考」国学者で博物学者でもあった小林義兄(よしえ 寛保三(一七四三)年~文政四(一八二一)年)の琵琶湖の魚類について考証した書。小林は近江彦根藩士で、国学者の藤井高尚や海量らと親しく、「万葉集」に詳しかった。また、藩主の命令で琵琶湖の魚介類を調査し、「湖魚考」・「湖魚図」を献上している。著作は他に「万葉集中禽獣虫魚草木考」がある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。然らば、この引用もヤマメではなく、ビワマスの記載が混在している可能性がある。但し、『形、「あめの魚」の如くにして、小さく』(ビワマスは四年で四十~五十センチメートルにも成長する大型魚である)とあることから、小林の記載は、琵琶湖に流れ入る河川の上流から湖にかけているヤマメを指している可能性があるので、無効とは言えない。
「あまご」タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマスOncorhynchus masou ishikawae 。日本の固有亜種でサクラマスの亜種とされる。当該ウィキによれば、『降海型や降湖型はサツキマス、河川残留型(陸封型)はアマゴと呼ばれる』。『サツキマスとアマゴを比べた場合、大きさや模様が大幅に異なることが多く、一見すると』、『別の種に見える』。『アマゴは』三十センチメートル『程度になると』、『パーマークが薄れる個体もある。降海型と見分けがつかなくなるため、この場合は塩類細胞(エラにある海と淡水を行き来するのに必要な細胞)の数で決定するしかない。雄の場合、成魚になると』、『雄のサケに見られる「両あごが伸びて曲がり込む」鼻曲がりのような状態になる個体もまれにある』。『奈良県では』二〇一二『年にキンギョ・アユと合わせて「県のさかな」に指定されている』。『「アマゴ」は、漢字で書くと、「雨子」、「雨魚」、「甘子」、「天魚」、「鯇」となり、由来は、漢字の通り、雨がちな梅雨や初夏によく釣れるためである。また、「甘い(美味しいの意)魚」という意味の呼び名が転じて呼ばれたとも言われる。日本特産のため、漢字はあとから当てられたようで、地域により使い分けられていたようである』。『地方名』に『アメゴ、アメノウオ(長野・近畿・四国)、コサメ(紀伊半島南部)、ヒラベ(山陰)、エノハ(九州)』があり、ヤマメとの混同が甚だしい。『天然での分布域は神奈川県西部以西本州太平洋岸、四国、九州の瀬戸内海側河川の一部。在来個体群は堰堤など河川構造物による流路の分断や森林伐採により』、『生息環境が悪化し、生息数が減少している』、『以前はヤマメと分布が分かれていたが、近年盛んになった遊漁目的の放流により分布が乱れ、混在するところがある(遺伝子汚染)』。『本来、日本海側や琵琶湖には生息していないが、無秩序な放流により』、『福井県』『や富山県の日本海側の河川にも生息する。ヤマメ域にアマゴ、アマゴ域にヤマメが放流され、両者は容易に交配してしまいヤマメとアマゴの中間的な魚も発見されており』、『分布域は曖昧になりつつある。近年、富山県の神通川ではサツキマス(アマゴ)との交雑によるサクラマスの魚体の小型化が報告されている』。『なお、琵琶湖に生息』『する個体は』、一九七〇『年以降に琵琶湖に流入する河川に人為放流されたサツキマスの子孫と考えられ、固有種のビワマスと誤認されている場合もある。また、琵琶湖ではビワマスとサツキマスの交雑個体が確認されている』。『アマゴ(サツキマスの陸封個体)』と『ヤマメとの外見上の大きな違いは、側線の上下から背部にかけて朱点が散在することであ』り、『体長は』三十五~五十センチメートル『程度で、サクラマスよりは小型』で、『鼻曲がりになって』おり、『パーマークは消失』せず、『銀毛化してい』て、『サケに似ている』とある。嘗つて、教え子と奈良の路地を入った偉そうな飲み屋の主人が、さも御大層にアマゴの鮨を出し、「東ではヤマメと呼んでおる魚やな。」と、にやついて得意げに言っていたが、あいつは、とんだ半可通だった(まあ、昔は、二種は同一種という誤認はまかり通ってはいたのだが)。
「岩くえ」「岩崩え」(「くえ」は動詞「崩(く)ゆ」の連用形)岩の崩れた所。
「たぎる」「滾る」水が逆巻いて激しく流れる。
「ふるせ」「古背・古脊」で、本来は、「旬を過ぎて大きくなったもの」・「季節はずれのもの」を指す。淡水魚の大型個体は、概して美味くないのは事実である。
「あめの魚」この場合、畔田がビワマスを限定していると、一応はとっておくが、実際に彼がビワマスをヤマメとの生体個体を対照比較した可能性は、私はかなり低いと考えている。
「蜘蛛・蠅など、もて、釣り、又、蚊(か)の頭(かしら)の鉤(はり)にても、うる也」これは事実である。NHKの番組で、カトンボの大型のものを針につけ、水面のやや上方で動かしてヤマメを釣るシークエンスを見たことがある。また、私の「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな」の本文及び私の注も参照されたい。
「えの葉」『「大和本草」曰はく、『山中に「えの葉」と云ふ魚あり。……』「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」の最後の一節。
*
○山中に「榎(え)の葉」と云ふ魚あり。形、味、よく、鱒に似て小なり。味、よし。長さ、六、七寸。春、山川に上る。小なるゆへ〔→ゑ〕、性、輕し。凡そ諸物、大小あり。是れ、鱒の類〔ひ〕にて、小なるなり。
*
そこで私は、「榎(え)の葉」に注して、『サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ Oncorhynchus masou masou(サクラマスの内で一生を河川で過ごす「河川残留型(陸封型)」個体の和名)及び、サクラマス亜種サツキマス(アマゴ)Oncorhynchus masou ishikawae(同じくサツキマス陸封型個体。嘗つては両者を同一種とした)の両亜種を合わせて、九州の一部地域(福岡県・熊本県・大分県など)で現在も「エノハ」と呼んでいるという記載がウィキの「ヤマメ」にあった。また、個人サイトと思われる「渓流茶房エノハ亭」の』『「文献資料から見えるエノハ(榎葉魚)の姿 江戸中期以降」は当時の記載類を渉猟して考証されており、必見! そこではやはりサクラマス・サツキマス・ヤマメを「エノハ」に同定比定されておられる』とした。]