毛利梅園「梅園魚譜」 松魚(カツオ)+鰹魚烏帽子(カツオノエボシ)
【海魚類】
「東醫寳鑑」出
松魚(カツヲ)
【寳鑑曰性平味甘無毒。
味極珍肉肥色赤而
鮮明如松節故爲松
魚生東北海云々】
〔【「寳鑑」に曰く、『性、平。味、甘。毒、無し。味、極めて珍にして、肉、肥え、色赤くして鮮明。松節のごとし。故に松魚と爲す。東北海に生ずと云々。』】〕
「常陸国志」出
鰹魚(カツヲ)【或曰】肥滿魚
「古事記」及「萬葉集」出
堅魚(カツヲ)
順「和名抄」曰
鰹魚【加豆乎(カツヲ)式文用堅魚二字】
〔【加豆乎(かつを) 「式文」、堅魚の二字を用ふ。】〕
「雜字簿」
鉛錘魚【カツホ「東醫寳鑑」の松魚に充《(あつる)》は非也。】
保四【巳】四月
廿有七日眞寫
*
○松魚は「本草」に載せず、「東醫宝鑑」に始めて出る。
切割《(きりわり)》て蒸し、なま干《(ぼし)》なるを、生干※(なまりぶし)と云。
[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「節」。]
干乾《(ほしかはか)》したるを土佐州及び鎌倉・熊野より
多く出《(いだ)す》。鰹節、土州より出るを上品と爲《(な)す》。相州
小田原、又、伊勢より出るを鰹の鹽醢(しほから)と云《ひ》、
名産と爲す【今、土佐より煮取を出すナマリブシを製したる跡の煮こゞりを醢とす。】
○乾鰹 五六月間土人採松魚
用鹽水蒸乾爲脯味勝生者
倭俗呼鰹節無毒能調和百
古事記萬葉集及淡海公作所令
順「和名抄」等書作堅魚後世合
爲一字用鰹字堅魚非生松
魚日本上古無食生松魚只無爲
脯而其堅如石故作堅魚以徒
然草之説可證鎌倉松魚昔
下民無食後世況貴人皆多
食珍調年四月朔日定初松
魚最賞玩
〔○乾鰹(かつをぶし) 五、六月の間、土人、松魚を採り、鹽水を用ひ、蒸し、乾し、脯《(ほじし)》と爲す。味、生者《(なまもの)》に勝れり。倭俗、鰹節と呼ぶ。毒、無く、能く百味を調和す。「古事記」「萬葉集」及び淡海公の作る所の令《りやう》、順《(したごふ)》の「和名抄」等の書、堅魚に作る。後世、合《(がつ)》して一字と爲し、鰹の字を用ふ。堅魚は生の松魚に非ず。日本上古、生松魚を食ふこと無し。只、脯《(ほじし)》と爲す。而して其の堅きこと、石のごとし。故に堅魚に作れり。「徒然草」の説を以つて證とすべし。鎌倉の松魚、昔、下民も食ふこと無し。後世、況や貴人をや、皆、多く食ひ、珍調す。年に四月朔日を初松魚と定め、最も賞玩す。〕
*
鰹魚烏帽子
[やぶちゃん注:頭の「鰹」の字は実際には「土」が「虫」となっている。]
【ヱボシウヲ】
烏帽子魚 堅魚、多く集る時、
魚に先たつて、遊行《(ゆぎやう)》すと云。乾《(ほし)》たる者、
之を得《た》り、故に其まゝ記す。
*
乙未八月廿九日
眞寫
[やぶちゃん注:「梅園魚品圖正 卷一」より。掲げた画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の保護期間満了画像の当該頁(周囲をトリミングした)と、私が視認して活字に起こした(キャプションは右下の「松魚」(キャプション含む)から左上の「鰹魚烏帽子」の後の「松魚」の記載へ行き、次にその前の「鰹魚烏帽子」のキャプションへ、最後に右上の「鰹魚烏帽子」のクレジットの順に活字化した)。割注は【 】で示し、書名は「 」で囲った。読み易さを配慮して、漢文体の部分は白文で活字化した後に句読点や記号及び読みの一部を加えた書き下し文を〔 〕でオリジナルに追加した。読漢字の読みの一部や送り仮名を推定して《( )》や《 》で加えた。和漢混交の甚だしい一部は白文をやめて訓読(私の推定)したものをそのまま示した箇所もある(左上部分の最初の条など)。字配は原則、無視した。基本的に原本の一行字数と一致させたが、訓読した箇所では、そうなっていない箇所もある。
本図は「松魚(カツヲ)」が、
脊索動物門
Chordata 脊椎動物亜門
Vertebrata 条鰭綱
Actinopterygii スズキ目
Perciformesサバ科
Scombridae マグロ族
Thunnini カツオ属 Katsuwonus カツオKatsuwonus pelamis
で、その上部に描かれたものは、呼称・形状及び触手の様態から見て、
刺胞動物門
Cnidaria ヒドロ虫綱
Hydrozoa クダクラゲ目
Siphonophora 嚢泳亜目
Cystonectae カツオノエボシ科
Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalis
の完全乾燥品かとも思われるのであるが、やや疑問が残る。それは、触手が如何にも実際の烏帽子(この泳鐘体(浮袋)の形状はあまりにも揉(もみ)烏帽子に似過ぎている)の緒とこれまたそっくりに描かれている点、群体性で器官的分化の特化しているカツオノエボシは乾燥すると青いプラスチック・ケースのようにはなるものの、触手体の長い部分は、乾燥してもこのように綺麗に真っ直ぐな二本の直状形状を呈することはまずないのではないかと思われるからである。
寧ろ、この名筆の毛利の筆致に少しも立体感が感じられない泳鐘体部分は、まさに事実、立体感がない堅い扁平なものなのであり、取って附けたような緒のような二本の触手様のものは実際の触手ではなく、人工的に青く染めた植物性の紐のような偽物を毛利に持って来た誰かがまさに取って附けたのではないかと疑われるのである。その場合、捏造加工素材として格好のものとなるのは、本物のカツオノエボシ
Physalia physalis の泳鐘体ではなく、生体自体のそれが、同じく青みを帯び、しかも堅い板状を呈して、まさしく揉烏帽子そっくりな、しかし、カツオノエボシとは全くの別種である、
ヒドロ虫綱花クラゲ目
Anthomedusae 盤泳亜目
Disconectae ギンカクラゲ科
Porpitidae カツオノカンムリ属 Velella カツオノカンムリ Velella velella
であると私は思うのである(但し、カツオノカンムリにはごく短い触手しかない)。私としてはそうした人為的捏造疑惑を完全払拭出来ない限りは、敢えてこれもこの「鰹魚烏帽子」の今一つの同定候補として示さねば気が済まないのである。
なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「堅魚(かつを)」も参照されたい。
「東醫寳鑑」(とういほうかん:朝鮮語音写:トンイボガム)は許浚の著になる李氏朝鮮時代の医書。二十三編二十五巻。一六一三年刊。出版されるや、朝鮮第一の医書として高い評価を得るとともに中国・日本を含めて広く流布した。日本では官版医書として徳川吉宗の命で享保九(一七二四)年に日本版が刊行されており、寛政一一(一七九九)年にも再版本が刊行されている。中国では清代の乾隆帝の一七六三年に乾隆版が、光緒帝の一八九〇年には日本から版木が輸出されて日本再版本を元とした復刻本が出ている(以上はウィキの「東医宝鑑」に拠った)。
「常陸国志」著者・成立年代不詳の地誌「常陸國志草」(ひたちこくしそう)のことか。
「順」既出既注の字書「和名類聚抄」の作者源順(みなもとのしたごう)。「和名類聚抄」の「卷第十九 鱗介部」には、
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鰹魚 「唐韻」云く、鰹【音、堅。「漢語抄」に云く、加豆乎。式文、堅魚の二字を用ゆ。】は、大鮦也。大を鮦と曰ひ、小を鮵【音、奪。】と曰ふ。野王[やぶちゃん注:南梁から陳にかけての学者顧野王(こやおう 五一九年~五八一年)のことか。]、按ずるに、鮦【イ音、同。】は蠡魚(れいぎよ)なり【蠡魚、下の文に見えたり。今、按ずるに可の堅魚と爲すは、之の義、未だ詳らかならず。】。
*
とある。よう、判らん。
「式文」平安期の法令集「弘仁式」「貞観式」「延喜式」などの法文。
「雜字簿」「雜字簿」は中国から伝わった漢字俗字単語集で、ここのそれは嘉永三(一八五〇)年に書写された「譯官雜字簿」(やっかんざつじぼ)か。
「保四【巳】四月廿有七日」天保四年癸巳(みずととみ)。グレゴリオ暦一八三三年六月十四日。
「本草」「本草綱目」。確かに、同書にはそれらしいものは載らない。
「土佐州」土佐国。これで「とさのくに」と訓じているかも知れぬ。後の「土州」(どしゅう)も同じ。
「鰹の鹽醢(しほから)」所謂、現在もある魚の内臓を主体とした塩辛「酒盗」であるが、ここに書いてある通りだとすると、現在のそれとは製法が異なるが、実際には身を漬け込んだそれもあるので不審ではない。
「醢」「しほから」と訓じておくが、「ししびしほ」と読んでいる可能性も排除は出来ぬ。
「脯《(ほじし)》」干物。
「淡海公」藤原不比等(斉明天皇五(六五九)年~養老四(七二〇)年)の諡号(おくりな)。
『「徒然草」の説を以つて證とすべし。鎌倉の松魚、昔、下民も食ふこと無し』鎌倉末期に成立した卜部兼好の「徒然草」のよく知られた第百十九段を指す。
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鎌倉の海に、鰹といふ魚は、かの境(さかひ)には、雙(さう)なきものにて、このごろ、もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、
「この魚(うを)、己(おのれ)らが若かりし世までは、はかばかしき人(ひと)の前へ出づる事、侍らざりき。頭(かしら)は、下部(しもべ)も食はず、切りて捨(す)て侍りしものなり。」
と申しき。
か樣(やう)のものも、世の末(すゑ)になれば、上樣(かみざま)[やぶちゃん注:上流階級の食卓。]までも入(い)りたつ[やぶちゃん注:美味い食材として入り込む。]わざにこそ侍るなり。
*
「況や貴人をや」この部分の訓読には自信がない。「貴人」のカタカナの送り仮名は「ウ」に見える。或いは「ニシテ」の約物か。しかし「況」への返り点がある。
「珍調」珍重に同じい。
「烏帽子魚 堅魚、多く集る時、魚に先たつて、遊行《(ゆぎやう)》すと云」本州の太平洋沿岸に鰹が到来する時期、たまたま同じ海流に乗ってくることから、鰹の豊漁の予兆とされた。激しい刺胞毒を持つが故に実際には漁師は怖れ、忌み嫌ったはずであるが、そうした有毒性や特異な泳鐘体の形状が、あたかも鰹を先導し守る、鰹の霊性をシンボライズする式帽たる「烏帽子」にも見えたのであろう。この名は一般には三浦半島や伊豆半島で起った呼称と考えられている。
「乾《(ほし)》たる者、之を得《た》り」梅園先生、本当にそれがカツオノエボシだとしたら、気をつけないといけませんよ! すっかり乾燥させたものであっても、刺胞の物理的機能は湿気を帯びれば、正常に作動し、毒成分も干したからといって消滅しないからです! 何? 『お前の言っている「鰹の冠」の方だったら平気だろう?』ですって?! だめだめ! カツオノカンムリも触手は短いですが、やはり強く、同じく危険なんですって!
「乙未八月廿九日」天保六年の八月二十九日は閏七月があったため、グレゴリオ暦では一八三五年十月二十日となる。]