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カテゴリー「「今昔物語集」を読む」の38件の記事

2022/05/21

「今昔物語集」巻第二十 讃岐國女行冥途其魂還付他身語第十八

 

[やぶちゃん注:テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」の当該話で確認した。所持する小学館「日本古典文学全集」(三)を参考にした。読み易さを考えて、読みの一部を送り出したり、漢字をひらがなにしたりし、また、段落等も成形した。なお、本篇には原拠があり、平安初期の仏教説話集「日本靈異記(にほんりやういき)」(正しくは「日本國現報善惡靈異記』。全三巻。薬師寺の僧景戒(きょうかい)の著。弘仁一三(八二二)年頃の成立。雄略天皇から嵯峨天皇までの説話百十六条を年代順に配列する。その多くは善悪の応報を説く因果譚)の中巻の「閻羅王の使(つかひ)の鬼、召す所の饗(あへ)を受けて恩を報いる緣(えん)第二十五」である(同書は私の偏愛する一書である)。国立国会図書館デジタルコレクションの「群書類從」の第拾七輯のこちらで活字で読める(漢文訓点附き)。そちらでは、時代設定を聖武天皇の治世(神亀元(七二四)年~天平感宝元(七四九)年)とする。]

 

  讃岐國(さぬきのくに)の女(をむな)冥途に行きて其の魂(たましひ)還(かへ)りて他(ほか)の身に付く語(こと)第十八

 

 今は昔、讃岐の國山田の郡(こほり)に、一人の女(をむな)、有りけり。姓(しやう)は布敷(ぬのしき)の氏(うぢ)。

 此の女、忽ちに身に重き病ひを受けたり。然(しか)れば、直(うるは)しく□味[やぶちゃん注:「百味(ひやくみ)」が擬せられる。いろいろな御馳走の意。]を備へて、門の左右(さう)に祭りて、疫神(やくじん)を賂(まひなひ)て[やぶちゃん注:賄賂を贈って宥めることを指す。]、此れを饗(あるじ)す。

 而(しか)る間、閻魔王の使ひの鬼(おに)、其の家に來りて、此の病ひの女を召す。其の鬼、走り疲れて、此の祭の膳(そなへもの)を見るに、此れに靦(おもね)りて[やぶちゃん注:恵比寿顔になって。]、此の膳を食(く)ひつ。

 鬼、既に女を捕へて將(ゐ)て行く間、鬼、女に語らひて云はく、

「我れ、汝が膳を受けつ。此の恩を報ぜむと思ふ。若(も)し、同じ名・同じ姓なる人、有りや。」

と。女、答へて云はく、

「同じ國の鵜足(うたり)の郡に、同名同姓の女、有り。」

と。[やぶちゃん注:「讃岐の國山田の郡」「同じ國の鵜足の郡」前者は現在の香川県木田郡三木町で、後者は同県の三木町の西方に高松市の一部を挟んである綾歌郡(グーグル・マップ・データ)。]

 鬼、此れを聞きて、此の女を引きて、彼(か)の鵜足の郡の女の家に行きて、親(まのあた)り、其の女に向ひて、緋(あけ)の囊(ふくろ)より、一尺許りの鑿(のみ)を取り出だして、此の家の女の額に打ち立てて、召して將て去りぬ。

 彼の山田の郡の女をば、免(ゆる)しつれば、恐々(おづおづ)、家に返る、と思ふ程に、活(よみが)へりぬ。

 其の時に、閻魔王、此の鵜足の郡の女を召して來たるを見て、宣はく、

「此れ、召す所の女に非ず。汝ぢ、錯(あやま)りて此れを召せり。然(さ)れば、暫く此の女を留(とど)めて、彼(か)の山田の郡の女を召すべし。」

と。鬼、隱す事、能はずして、遂に山田の郡の女を召して、將て來たれり。

 閻魔王、此れを見て、宣はく、

「當(まさ)に此れ、召す女なり。彼の鵜足の郡の女をば、返すべし。」

と。

 然(しか)れば、三日を經て、鵜足の郡の女の身を、燒き失ひつ。

 然れば、女の魂、身、無くして、返り入る事、能はずして、返りて、閻魔王に申さく、

「我れ、返らされたりと云へども、體(むくろ)、失せて、寄り付く所、無し。」

と。

 其の時に、王、使ひに問ひて、宣はく、

「彼(か)の山田の郡の女の體は、未だ有りや。」

と。

 使ひ、答へて云はく、

「未だ、有り。」

王の宣はく、

「然(さ)らば、其の山田の郡の女の身を得て、汝が身と爲すべし。」

と。

 此れに依りて、鵜足の郡の女の魂、山田の郡の女の身に入りぬ。

 活(よみが)へりて云はく、

「此れ、我が家には、非ず。我が家は、鵜足の郡に有り。」

と。

 父母(ぶも)、活へれる事を喜び悲しぶ[やぶちゃん注:泣かんばかり喜んでいる。]間に、此れを聞きて云はく、

「汝は、我が子なり。何の故に、此くは云ふぞ。思ひ忘れたるか。」

と。

 女、更に此れを用ゐずして、獨り、家を出でて、鵜足の郡の家に行きぬ。

 其の家の父母、知らぬ女の來れるを見て、驚き怪しむ間に、女の云はく、

「此れ、我が家なり。」

と。

 父母の云はく、

「汝は、我が子に非ず。我が子は、早う燒き失ひてき。」

と。

 其の時に、女、具さに、冥途にして、閻魔王の宣ひし所の言(こと)を語るに、父母、此れを聞きて、泣き悲みて、生きたりし時の事共(ことども)を問ひ聞くに、答ふる所、一事として、違(たが)ふ事、無し。

 然(しか)れば、體(むくろ)には非ずと云へども、魂、現はに其れなれば、父母、喜びて、此れを哀(あは)れび養ふ事、限り無し。

 又、彼(か)の山田の郡の父母、此れを聞きて、來て見るに、正しく我が子の體(むくろ)なれば、魂、非ずと云へども、形を見て、悲しび愛する事、限り無し。

 然(しか)れば、共に此れを信(むべな)ひて、同じく、養ひ、二つの家の財(たから)を領(れう)じてぞ有りける。此の女、獨りに付囑して、現(うつつ)に四人(よたり)の父母を持ちて、遂に二つの家の財を領じてぞ有ける。

 此れを思ふに、饗(あるじ)[やぶちゃん注:御馳走。]を備へて鬼を賂(まひな)ふ、此れ、空しき功に非ず。其れに依りて、此れ、有る事なり。又、人、死にたりと云ふとも、葬(さう)する事、怱(いそ)ぐべからず。萬が一にも、自然(おのづか)ら此(かか)る事の有ればなりとなむ、語り傳へたるとや。

2022/04/29

南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.63MB・49頁)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/04/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(3) / 卷第十 宿驛人隨遺言金副死人置得德語第二十二 / 「今昔物語の硏究」~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、そちらの正規表現の原話を読まれたい。珍しく熊楠は原話全体を、相応に、訓読表現で、やや彼風の漢字表記で書き改めて記して紹介している。参考までに、ここでも冒頭にちらと出す南方熊楠がずっと批判してきた芳賀矢一の「攷証今昔物語集」の当該話のテクスト本文をリンクさせておく。底本ではここから。本篇は「今昔物語の硏究」の掉尾であり、さらりと読めるようにしたいので、読みは私が推定で歴史的仮名遣で( )で補った。]

 

〇宿驛人隨遺言金副死人置得ㇾ德語第二十二《宿驛の人、遺言に隨ひて金(こがね)を死にし人に副(そ)へて置きたるに德を得たる語(こと)》(卷一〇第二二)此語も芳賀博士は、出處類話共に出して居らぬ。其話は「今昔震旦の□□代に人有て他州へ行く間、日晚て驛と云ふ所に宿しぬ、其所に本より一人宿りして病む、相互に誰人と知る事无(な)し、而るに本より宿して病む人今宿りせる人を呼び語て云く、我れ今夜死むとす、我腰に金二十兩有り、死後必ず我を棺に入れて其金を以て納め置べしと、今宿る人、其姓名生所(せいしよ)を問ひ敢(あへ)ざるに、此病人絕入ぬれば、死人の腰を見るに實に金二十兩有り、此人死人の云しに隨て其金を取出して、少分を以て此死人を納め置くべき物の具共を買調へ、其殘りをば約の如く少しも殘さず死人に副(そへ)て納めけり、誰人と知ずと雖も如此(かくのごとく)して家に還りぬ。其後、不思懸(おもひかけざる)に主を知ざる馬離れ來れり、此人此れ定て樣有むと思て取り繫で飼ふ。而るに、我れ主也と云ふ人無し、其後亦飇(つむじかぜ)の爲に縫物の衾を卷き持來れり、其れも樣有むと思て取り置きつ。其後ち人來て云く、此馬は我子某と云し人の馬也、亦衾も彼が衾を飇の爲に卷揚げられぬ、既に君が家に馬も衾も共に有り此れ何(いか)なる事ぞと、家主答て云く、此の馬は思懸ざるに離れて出來れる也、尋ぬる人無きに依て繫で飼ふ、衾亦飇の爲に卷き持來れる也と、來れる人云く、馬も徒(いたづら)に離れて來れり、衾も飇卷き持來れり、君何なる德か有ると、家主答へて云く、我更に德無し、但し然々の驛に夜宿せりしに、病煩(やまひわづらひ)し人、本より宿して絕入にき、而るに彼が云しに隨て彼が腰に有りし金を以て葬(はうふ)り、殘りをば少しをも、殘さず彼に副て納め置て還りにし、其人の姓名生所を知らずと、來れる人此事を聞て地に臥し丸(まろ)びて泣く事限り無し、云く其死人は我子也、此馬も衾も皆彼が物也、君の彼が遺言を違へざりしに依て、隱れたる德有れば顯れたる驗(しるし)有て、馬も衾も天の彼が物を給ひたる也と云て、馬も衾も取らずして泣々還るに、家主、馬をも衾をも還し渡しけれども遂に取ずして去にけり。其後此事世に廣く聞え有て、其人直(ただしき)也けりとして世に重く用られけり、此を殆として飇の卷持來れる物をば本の主に還す事無し、亦主も我物と云事も無し、亦卷き持來れる所をも吉(よ)き所とも爲す也となむ語り傳へたるとや」(略文)と有る。此故事から始つたとは附會だらうが、兎に角今昔物語の成(なつ)た頃の風俗として、暴風が飛(とば)し込(こん)だ主知れぬ物品を其家主の所得と成しても後日(ごじつ)本主(もとのぬし)が異論を言得(いひえ)ず、隨(したがつ)て其場所を吉相の地としたと見える。

 扨此話の出處らしきものを往年控え置(おい)たのを、今(三月一日)夜見出(みいだし)たから書付(かきつけ)る。後漢書に云ふ、王忳甞詣京師、於空舍中見一書生疾困、愍而視之、書生謂忳曰、我當到洛陽、而被病、命在須臾、腰下有金十斤、願以相贈、死後乞藏骸骨、未及問姓名而絕、忳卽鬻金一斤、營其殯葬、餘金悉置棺下、人無知者、後歸數年、縣署忳大度亭長、初到之日、有馬馳入亭中而止、其日大風飄一繡被、復墯忳前、忳後乘馬到雒縣、馬遂奔走、牽忳入它舍、主人見之喜曰、今禽盜矣、問忳所由得馬、忳具說其狀、幷及繡被、主人悵然良久乃曰、被隨旋風、與馬俱亡、卿何陰德而致此二物、忳自念、有葬書生事、因說之、幷道書生形貌、及埋金處、主人大驚號曰、是我子也、姓金名彥、前往京師、不知所在、何意卿乃葬之、大恩久不報、天以此章卿德耳、忳悉以被馬還之、彥父不取、又厚遺忳、忳辭讓而去《王忳(わうじゆん)、甞つて京師(けいし)に詣(いた)る。空舍の中に於いて、一書生の疾ひに困(くる)しむを見いだし、愍(あは)れみて、之れを視る。書生、忳に謂いて曰はく、「我れ、當(まさ)に洛陽に到るべくも、病ひを被(かふむ)り、命は須臾(しゆゆ)に在り。腰の下に金(きん)十斤有り。願はくは、以つて相贈らん、死後に骸-骨(むくろ)を藏(をさ)められんことを乞ふ。」と。未だ姓名を問ふに及ばずして、絕ゆ。忳、卽ち、金一斤を鬻(ひさ)ぎ[やぶちゃん注:売り。]、其の殯葬(ひんさう)を營み、餘れる金は、悉く棺の下(もと)に置く。人、知る者、無し。後、歸りて、數年、縣は、忳をして大度(だいど)の亭長[やぶちゃん注:地名かも知れぬが、大きな川の渡し守(地方の下級官吏で地区長)の意で採る。]に署(わりあ)つ。初めて到るの日、馬、有り、亭中に馳せ入りて止(とど)まる。其の日、大風(たいふう)、一(いつ)の繡被(しゆうひ)[やぶちゃん注:刺繍を施した衾(ふすま)。通常、着衣の形を成している。]を飄(ひるがへ)して、復た、忳の前に墮つ。忳、後、馬に乘り、洛縣に至るに、馬、遂に奔走し、忳を牽(ひき)て、他(よそ)の舍(やしき)に入る。主人、之れを見て、喜びて曰はく、「今、盜(ぬすびと)を禽(とら)へたり。」と。忳に、馬を得たる所-由(いは)れを問ふ。忳、具(つぷさ)に、其の狀(さま)を說き、幷(ならび)に繡被にも及べり。主人、悵然(ちやうぜん)たり[やぶちゃん注:失意の状態で嘆くさま。]。良(やや)久しくして、乃(すなは)ち曰はく、「被(ひ)は旋風(つむじかぜ)に隨ひて、馬と俱に亡(うしな)へり。卿(けい)は何の陰德ありてか、此の二物を致(いた)せるや。」と。忳、自(おのづか)ら、書生を葬りし事有るを念(おも)ひ、因りて之れを說き、幷(あは)せて、書生の形貌(かほかたち)及び金(きん)を埋(うづ)めし處(ところ)を道(い)へり。主人、大きに驚き、號(さけ)びて曰はく、「是れ、我が子なり、姓は金、名は彥(げん)、前(さき)に京師へ往き、所在を知らず。何ぞ、意(い)はんや、卿、乃(すなは)ち、之れを葬らんとは。大恩、久しく報ひず、天、此れを以つて、卿の德を彰(しやう)すのみ。」と。忳、悉く被(ふすま)と馬を以つて之れに還さんとするも、彥(げん)の父、取らず、又、厚く、忳に遣(や)るも、忳、辭讓して去れり。》。此話の方が今昔の方より前後善(よ)く纏まつて居るが、其を記憶し損ねて今昔の話が出來たのだらう。

     (大正三年鄕硏第二卷第三號)

[やぶちゃん注:「漢書」のそれは「卷一百十一」の「獨行列傳第七十一」にある「王忳傳」である。原文対照校訂には「中國哲學書電子化計劃」のこちらから始まる影印本を視認したが、例によって、冒頭・掉尾及び中間部に省略がある上、一部を改変しており、かなり漢字に違いがある。或いは伝版本の違いかも知れぬが、底本よりも影印本を尊重し、改変部及び字の異なるものの内、熊楠のそれより判りが良いと判断したものは、上記リンク先の表字に、原則、改めた(熊楠がカットした部分は、確かに紹介するに必要条件ではないので、復元しなかった)。芳賀矢一の考証ならざるそれを補填して余りある。やったね! 熊楠先生!!!

「十斤」貨幣単位ではなく、重量。後漢の「一斤」は二百二十二・七三グラムであるから、二・八キログラム弱となる。

「雒縣」洛陽のこと。周代には「洛邑」(らくゆう)であったが、後漢になって「雒陽」に改名され、後漢終末期を除いて首都であった。後の魏の時代に「洛陽」に戻されている。

 なお、最後の初出記載は、底本では、最終行末の下インデントである。

 本篇を以って「今昔物語の硏究」は終わっている。数少ないネット上の私の読者に心より御礼申し上げるものである。なお、一括PDF縦書ルビ版を何時ものように作成し始めたが、ルビ化に恐ろしく時間がかかるので、暫くお待ち戴きたい。少し疲れたし、他にもやりたいものがある。悪しからず。

2022/04/26

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(2) / 卷第九 歐尙戀父死墓造奄居住語第八

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇歐尙戀父死墓造奄居住語第八《歐尙、死にける父を戀ひ、墓に菴(いほり)を造りて居住(きよぢゆう)せる語」(卷九第八)予も此語の出處を確かに知ぬが、話中の記事に似た二傳說を淵鑑類函四二九から見出だし置た。乃ち王孚安成記曰、都區寳居父喪、里人格虎、虎匿其廬、寶以簑衣覆藏之、虎以故得免、時負野獸以報、寳由是知名《王孚(わうふ)の「安成記」に曰はく、都區寶(とくほう)、父の喪に居(を)れり。里人、虎を格(う)つ。虎、其の廬(いほり)に匿(かく)る。寶、簑-衣(みの)を以つてこれを覆ひ藏(かく)す。虎、故を以つて免(のが)るることを得(え)、時に野獸を負ひて以て報(むく)ゆ。寶、これに由りて名を知らる。》と有るのが、甚だ本話に似て居る。又[やぶちゃん注:「又」は熊楠の本文。]晋郭文嘗有虎、忽張口向文、文視其口有橫骨、乃以手探去之、虎至明日乃献一鹿于堂前《晉の郭文、嘗つて、虎、有り、忽ち、口を張りて文に向かふ。文、其の口を視るに、橫骨(よこぼね)、有り。乃(すなは)ち、手を以つて探り、之れを去る。虎、明日(みやうにち)、至りて、乃ち、一(いつ)の鹿(しか)を堂前に献ず。》是は羅馬帝國のアンドロクルスが、獅子の足に立た刺を拔た禮返しに食を受け、後日又其獅子に食るべき罪に中り[やぶちゃん注:「あたり」。]乍ら、食はれなんだ話に似居るが、虎が鹿を献じただけが今昔物語の此話に似て居る。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。南方熊楠は、この本が結構、好きで、他の論文でもしばしば引用元として挙げている。原文は「漢籍リポジトリ」のこちらを参考にした。

「安成記」元代の、現在の江西省の年代記。散佚しているが、後代の書に引用が見られる。

「都區」不詳。一種のある地区を管理する下級の者か。

「橫骨」摂餌した獣の骨が口蓋内で横に刺さってしまったものであろう。

「アンドロクルス」ローマの奴隷。Bakersfield氏のブログ「クラバートの樹」の「アンドロクレスとライオン」に、まず、ざっくりと梗概が紹介されており、それによれば、『逃亡奴隷のアンドロクレスが闘技場でライオンの餌食になりかけたとき、ライオンは彼を認識し、抱擁を交わして再会を喜び合った』、『不審に思った皇帝が事情を尋ねると、奴隷はかつてそのライオンの足の棘を抜いてやったことがあるという。ライオンはその恩を忘れずに彼を助けたのである』。『この話に感銘を受けた皇帝はアンドロクレスを赦ゆるし、ライオンともども自由の身にした』とある。以下、話が細かく語られてあるので(ディグが博物学的で敬服した)、一読をお勧めする。この皇帝が、かのカリギュラとあって、「ほう!」と思った。また、「イソップ寓話集」の「羊飼いとライオン」でリメイクされてもいるそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(1) / 卷第三阿闍世王殺父王語第(二十七)

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。なお、現行の諸本では標題最後の話柄ナンバーは欠落している。ここは底本では経典の漢文は白文で返り点が打たれていない。参照した「大蔵経データベース」の画像でも返り点はなく、訓読に難渋した。前回に引き続き、熊楠の本文がかなり読み難いので、( )推定の読みを歴史的仮名遣で附した。]

 

      

〇阿闍世王殺父王語《阿闍世王(あじやせわう)、父の王を殺せる語(こと)》(卷三第二七)此話は經律論共に屢ば繰り返された所で、其れ其れ文句が多少異つて居る。芳賀博士の纂訂本二五〇――二頁には、出處として法苑から大智度論と未生怨經と菩薩本行經を孫引きし居るが、孰れも確(しか)と精密に物語の本文と合はぬ。

[やぶちゃん注:芳賀矢一のそれは、ここからで、最後に以上が並べて置いてある。]

 予が明治二十八、九年書き拔き置た課餘隨筆と云(いふ)物を搜し出し見ると、物語の前半は佛說觀無量壽經(劉宋譯)から出たらしい。如是我聞、一時佛在王舍城耆闍崛山中云々《是くのごとく、我れ、聞く、一時、佛、王舍城、著闍崛山(ぎしやくつせん)の中に在り云々》。時に王舍大城の太子阿闍世其父を幽す、置於七重室内、制諸群臣、一不得往、國大夫人名韋提希、恭敬大王、澡浴淸淨、以酥蜜和麨、用塗其身、諸瓔珞中盛葡萄漿、密以上王、爾時大王、食麨飮漿、求水漱口、漱口云々《七重の室内に置き、諸群臣を制し、一(ひとり)も往(ゆ)くを得ず。國の大夫人、韋提希(いだいけ)と名づく。大王を恭敬し、澡浴(さうやく)[やぶちゃん注:体を洗い清めること。]して淸淨にし、酥(そ)[やぶちゃん注:牛乳から製した食用油。]と蜜を以つて麨(むぎこがし)に和(あ)え、以つて用ひるに、其の身に塗り、諸(もろもろ)の瓔珞(えうらく)の中(なか)に葡萄の漿(しる)を盛り、密かに以つて王に上(たてまつ)れり。爾(こ)の時、大王、麨を食し、漿を飮む。水を求めて口を漱ぎて云々。》、大目犍連(だいもくけんれん)、平生(へいぜい)王と親しかりし故、可鷹隼飛疾至王所、日日如是、授王八戒、世尊亦遣富樓那、爲王說法《鷹・隼の飛ぶべく、疾(はや)く王の所に至り、日々是くのごとくして、王に八戒を授く。世尊、亦、富樓那(ふるな)を遣はし、王の爲めに法を說く。》三七日[やぶちゃん注:二十一日。]斯くのごとし。王(わう)守門者(しゆもんしや)を鞫(ただ)し子細を聞き、怒(いかつ)て、即執利劍、欲害其母、時有一臣、名曰月光、聰明多智、及與耆婆、爲王作禮、白言大王、臣聞燈昆陀論經說、劫初已來、有諸惡王、貪國位故、殺害其父、一萬八千、未曾聞有無道害母、王今爲此殺逆之事、汚刹利種、臣不忍聞是栴陀羅、我等不宜復住、於此時、二大臣說此語竟、以手按劍、却行而退云々。王聞此語、懺悔求救、即便捨劍、止不害母、勅語内官、閉置深宮、不令復出《即ち、利劍を執り、其の母を害せんとす。時に一(ひとり)の臣有り、名づけて「月光」と曰ふ。聰明多智にして、耆婆(ぎば)[やぶちゃん注:大臣の名前。則ち、ここでは諫言する重臣が二人に分離しているのである。]と共に王の爲めに禮を作(な)し、大王に白(まう)して言はく、「臣、『昆陀(こんだ)論』[やぶちゃん注:狭義にはバラモン教の根本聖典で、広義にはウパニシャッド文献も含めたヴェーダ聖典を指す。但し、その経典自体は散佚してない。]の經說を聞くに、劫初已來、諸(もろもろ)の惡王有り、國位を貪る故に、其の父を殺害(せつがい)せるは、一萬八千あるも、未だ曾つて、無道に母を害せるもの有るを聞かず。王、今、この殺逆の事を爲さば、刹利(せつり)[やぶちゃん注:古代インドにおける四姓(カースト)の一つとして知られるクシャトリアの漢音訳。最高の婆羅門族の次位にして王族及び士族階級を言う。]の種(しゆ)を汚(けが)さん。臣、是の旃陀羅(せんだら)[やぶちゃん注:インドで四姓の最下級のスードラ=首陀羅(しゅだら)よりもさらに下の階級であるチャンダーラの漢訳。屠畜・漁猟・獄守などの職業に携わった。所謂、存在自体が穢ていると認識された不可触民のこと。]たらんことを聞くに忍びず。我等、宜しく、復た、住するべからざるなり。」と。時に二大臣、此の語(こと)を說き竟(をは)れば、手を以つて劍を按じ、卻-行(あとしさ)りして退(しりぞ)く云々、王、此の語を聞きて、懺悔して、救ひを求め、即ち、劍を捨て、止(や)め、母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉(とざ)し置き、復た、出でしめず。》とある。寶物集には葡萄を蒲桃に作れるが、本草綱目に葡萄一名蒲桃《葡萄、一(いつ)に蒲桃と名づく。》と有る。芳賀博士が引いた三經よりは、此經の文がずつと善く物語の文に合(あふ)て居(を)る。なほ此の經の異譯諸本を見たら一層善く合たのも有るだらうが、座右に只今無い故調査が屆かぬ。涅槃部の諸經にも阿闍世王父を害したことが出居るから、其等の中にも有るだらうが、一寸見る譯に行かぬ。

[やぶちゃん注:「課餘隨筆」これ、実は、漢籍などの書名ではなく、南方熊楠自身が、思いついた時に種々の書物から抜書をするための資料ノートの私的な標題であるらしい。されば、以下、経典が引かれているのだが、正確に「佛說觀無量壽經(劉宋譯)」に再度当たったかどうか、甚だ怪しい気がする(特に末尾の断りはそれを深く窺わせる)。返り点がないことからも、これはその過去に於いて熊楠が書写したものがベースである可能性があり、「大蔵経データベース」で、同一であるはずの同経と比べてみても、かなり表記漢字に異同があるのである。個人的には、底本よりも、より確度が高いと判断される「大蔵経データベース」のものを優先した。

「耆婆」大臣の名前。則ち、ここでは諫言する重臣が二人に分離しているのである。

「昆陀論」狭義にはバラモン教の根本聖典で、広義にはウパニシャッド文献も含めたヴェーダ聖典を全体を指す。但し、その最古層の重要だった経典そのものは散佚して、ない。「刹利」古代インドにおける四姓(カースト)の一つとして知られるクシャトリアの漢音訳。最高の婆羅門族の次位にして王族及び士族階級を言う。

「旃陀羅」カースト最下級のスードラ=首陀羅(しゅだら)よりも、さらに下の階級とされるチャンダーラの漢訳。屠畜・漁猟・獄守などの職業に携わった。所謂、存在自体が穢(けが)ていると認識された不可触民のことを指す。]

 

 扨物語本文の後半の出處として予が書留置(おい)たは、北凉曇無讖(どんむせん)が詔を奉じて譯した大涅槃經で、その卷十九及二十の文頗る長いから悉く爰に引き得ぬが、此後半話の出處は一向芳賀氏の本に見えぬから大要を述(のべ)んに、耆婆(ぎば)、王に說(とき)て、阿鼻地獄極重之業、以是業緣必受不疑云々。唯願大王速往佛所、除佛世尊、餘無能救、我今愍汝故相勸導《『阿鼻地獄の極重(ごくぢゆう)の業(ごふ)、是れを以つて業緣、必ずや受けんことを疑はず』云々、『唯だ、願はくは、大王、速やかに佛所へ往(ゆ)かれんことを。佛世尊を除いて、餘(ほか)に能く救ふ、無し。我れ、今、汝を愍(あは)れむが故、相ひ勸導す』。》といふ。此時、故(こ)父王の靈、像(すがた)無くして、聲のみ、有り、耆婆の勸めに隨ひ佛に詣(まゐ)れと敎へ、王之を聞(きき)て大(おほい)に病み出す。佛之を知つて、入月愛三昧、入三昧已、放大光明、其光淸凉、往照王身、身瘡卽愈、欝蒸除滅、王語耆婆言、曾聞人說、劫將欲盡、三月並現、當是之時、一切衆生患苦悉除、時既未至、此光何來、照觸吾身瘡苦除愈、身得安樂《月愛三昧(がつあいざんまい)に入る。三昧に入り已(をは)つて大光明(だいくわうみやう)を放つ。その光、淸凉にして、往(ゆ)きて王の身を照らす。身の瘡(かさ)、卽ち愈え、鬱蒸(うつじよう)、除滅す。王、耆婆に語りて言はく、「曾つて人の說(と)くを聞くらく、『劫(こう)、將(まさ)に盡きんとすれば、三つの月、並び現(げん)ず。是の時に當(あ)たりて、一切衆生の患苦(げんく)、悉く、除かる。』と。時、既に、未だ至らざるに、此の光り、何(いづ)くより來たつて、吾が身を照-燭(てら)し、瘡苦(さうく)、除き愈え、身の安樂を得たるや。」と。》。耆婆、是は佛の光明なりと說き佛に詣るべく勸めると、王言我聞如來、不與惡人同止坐起語言談論、猶如大海不宿死屍云々《王言はく、「我れ、聞く、『如來は、惡人と同じくあるも、坐し、起き、語り、言ひ、談論をば同じく與(とも)にはせず。猶ほ、大海の、死屍を宿(とど)めざるがごとし。』[やぶちゃん注:この部分、訓読に自信がない。識者の御教授を乞う。]と。」云々》。其より耆婆長たらしく諸譬喩を引た後言く、大王世尊亦爾、於一闡提(無佛性(むぶつしやう)の奴)輩、善知根性而爲說法、何以故、若不爲說、一切凡夫當言如來無大慈悲云々《大王、世尊も亦、然り、一(ひとり)の闡提(せんだい)(無佛性の奴[やぶちゃん注:この熊楠の謂いはちょっと大きな誤解を与える。ここは「仏法を謗(そし)り、成仏する因を、今現在は持っていない者」を指す。])の輩(やから)に、能く根性(こんじやう)を知りて、爲めに法を說く、何を以つての故ぞ。若し、爲めに說かずんば、一切の凡夫、將に言ふべし、『如來には大慈悲なし。』と云々。》とて、如來が良醫の能くいかなる難症をも治する如くなるを言ふ。於是(ここにおいて)王然らば吉日を撰んで佛に詣でんといふと、耆婆吉日も何も入らぬ、即刻往き玉へと勸む。王便ち夫人と嚴駕車乘《嚴(いかめ)しき駕-車(くるま)に乘り》、大行列を隨へて佛に詣る。車一萬二千、大象五萬、馬騎十八萬、人民五十八萬、王に隨行したと有る。物語に五萬二千車五百象と有るは、經文が餘りに大層だから、加減して何かの本に出たのを採(とつ)たのだろ[やぶちゃん注:ママ。]。爾時佛告諸大衆言、一切衆生、爲阿耨多羅三藐三菩提近因緣者、莫先善友、何以故、阿闍世王、若不隨順耆婆語者、來月七日、必定命終墮阿鼻獄、是故近因莫若善友、阿闍世王復於前路聞、舍婆提毘流離王乘船入海遇火而死、瞿伽離比丘生身入地至阿鼻獄、須那刹多作種種惡、到於佛所衆罪得滅、聞是語已、語耆婆言、吾今雖聞如是二語、猶未審定、汝來耆婆、吾欲與汝同載一象、設我當入阿鼻地獄、冀汝捉持、不令我墮、何以故、吾昔曾聞得道之人不入地獄。《爾(そ)の時、佛、諸(もろもろ)の大衆に告げて言はく、「一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の近き因緣と爲(な)る者は、善友より先なるは莫(な)し。何を以つての故に。阿闍世王、復た耆婆の語(ことば)に隨順せずんば、未月(びげつ)七日、必定、命、終はり、阿鼻獄に墮ちん。是の故に、近き因は善友に若(し)くは無し。」と。阿闍世王、復た、前路に於いて、聞くらく、「舍婆提(しやばだい)の毘瑠璃(びるり)王は、乘船して、海に入り、火に遇ひて死す。瞿伽離(くぎやり)比丘は生身(しやうしん)にて、地に入り、阿鼻獄に至る。須那刹多(すなせつた)は、種種の惡を作(な)せしに、佛所に到りて、衆罪、滅するを得たり。」と。この語(ことば)を聞き已(をは)りて、耆婆に語りて曰はく、「吾れ、今、是くのごとき言を聞くと雖も、猶ほ、未だ審かに定(じやう)せず。汝、來たれ、耆婆よ、吾れ、汝と同じき一象に載らんと欲す。設(まう)けて、我れ、當(まさ)に阿鼻地獄に入るべきならば、冀(ねがは)くは、汝、捉(と)り持つて、我れをして墮ちしめざれ。何を以つての故に。我れ、昔、曾つて、『得道の人、地獄に入らず。』聞けばなり。」と。》其より佛の說法を拜聽し、證果得道した次第を長々と說き有る。

[やぶちゃん注:「月愛三昧」釈迦が、まさにこの阿闍世王の身心の苦悩を除くために入(はい)られた三昧の名。清らかな月の光が青蓮華(しょうれんげ)を開花させ、また、夜道を行く人を照らして歓喜を与えるように、仏が、この三昧に入れば、衆生の煩悩を除いて、善心を増やさせ、迷いの世界にあって、悟りの道を求める行者に歓喜を与えるとされる。

「鬱蒸」もの凄い蒸し暑さ。無間地獄への阿闍世王の懼れが生んだ心身症的なそれであろう。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って十一段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。以下の添え辞の「今昔物語集」の標題は私の記事標題が正しく、不全である。読みは「四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)」である。またまた、読みが難しい字が他出するので、今回は私が推定で( )で読みを直接に入れ、数少ない底本のそれは、《 》で示した。

 

        

  (通四國邊地僧被打成馬語出典考承前)

 

 予一切經を通覽せしも、此羅馬俗話其儘の同話又類話は無い、然し前の部分に酷似(よくに)たのと、後の部分に大體似たのが別々に有る、乃(すなは)ち唐の義淨譯根本說一切有部毘奈耶(いうぶびなや)雜事二七に、鞞提醯國の善生王(ぜんしやうわう)の夫人男兒を生む、此兒生れ已(をは)りて國民皆な飮食(おんじき)を得易く成(なつ)た迚、足飮食(すうおんじき)と名く、善生王の後又別に夫人を娶り子を生み、立(たて)て太子とす、足飮食王子住(とど)まれば、必ず誅せらるべしとて、半遮羅國に遯(のが)れ、其王女を娶り男兒を生む、其日國中飮食得易かつたので多足食(たすうじき)と名く。程無く父王子歿しければ、王命により其妃を或る大臣に再嫁し、多足食王子も母に隨て其大臣方に在り、時に、大臣家有ㇾ雞栖宿、相師見已、作如是語、若其有ㇾ人、食此雞者、當得爲ㇾ王、大臣聞已、不ㇾ問相師、便殺其雞、謂其妻曰、汝可營ㇾ膳待我朝還、夫人卽令烹煮、時多足食從學堂來、不ㇾ見其母、爲飢所ㇾ逼、見ㇾ有沸鐺、便作是念、我母未ㇾ來、暫觀鐺内、有ㇾ可ㇾ食不、遂見雞頭、卽便截取、以充小食、母既來至、問言食未、答曰且食雞頭、母卽與ㇾ食、令ㇾ歸學所《大臣の家に鷄(にはとり)有りて、栖み宿る。相師[やぶちゃん注:占い師。]、見已(をは)りて、是くのごとき語を作(な)す、「若し、其れ、人、有りて、此の鷄を食らへば、當(まさ)に王と爲(な)るを得べし。」と。大臣、聞き已りて、相師に問はずして、便(すなは)ち、其の鷄を殺し、其の妻に謂いて曰はく、「汝、膳を營んで、我が朝(てう)より還るを待つべし。」と。夫人、卽ち、烹煮(はうしや)せしむ。時に、多足食、學堂より來たりて、其の母を見ず。飢えの逼(せま)る所と爲(な)りて、沸ける鐺(なべ)の有るを見るや、便ち、是れ、念(おも)ひを作(な)すに、『我が母、未だ來たらず。暫く鐺の内を觀(み)ん、食ふべきものの、有りや不(いな)や。』と。遂に鷄の頭を見、卽ち便ち、截り取りて、以つて小食に充(あ)つ。母、既に來たり至り、問ふに、「食せりや、未だしや。」と言ふ。答へて言はく、「且つは、鷄の頭を食せり。」と。母、卽ち、食を與へ、學所に歸らしむ。》、大臣歸り見ると鷄頭無し、妻に問(とう)て兒が食(くふ)て去つたと知る。抑(そもそ)も此の鷄を全(まる)で食(くふ)て王と成得るか、少しく食ふても成れるかと疑ひを成(しやう)じ、彼(かの)相師に問ふと、答ふらく、全身を食(くは)ずとも、頭さへ食(くふ)たら王に成る、若し他人が鷄頭を食たなら、其奴(そやつ)を殺し、其頭を食ふと王に成ると、大臣便ち彼(かの)繼子を殺さんとて、妻に夫と子と何(いづ)れが王に成(なつ)て欲(ほし)いかと尋(たづね)る、妻、お座成(ざなり)に夫の方を望むと答へ、私(ひそか)に子をして其亡父の生國へ逃れしめた、其の途上で、丁度亡父の弟王病死し、群臣嗣王(しわう)を求むるに出會ひ、此兒人相非凡だから、選ばれて王に成(なつ)たと有る。

[やぶちゃん注:「鞞提醯」「選集」には『ヴイデハー』とルビする。古代インドのどこかは不詳。

「善生王(ぜんしやうわう)」底本は「無生王」。「選集」の表記を「大蔵経データベース」で同経典を確認して訂した。後の同語も、かくした。

「半遮羅」「選集」には『パンチアーラ』とルビする。同前。

「父王子」原文を見たが、以上のパートはもっと複雑で恐ろしく長い。熊楠はそれを、無理矢理、簡略化しているのである。そのため、判り難いが、ここは逃れた半遮羅国の義父王の嗣子の王子が亡くなったのである。以下、二国の継嗣問題が絡んでいるために実はかなり解読が難しいのだが、私はそのように読んだ。]

 

 一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行、卷二、頁一八に、「グラニ」人年々鷄の宴を催す、各村の戶主各一鷄を僧方に持集(もちよ)り、大鍋で煮た後、その僧一片づゝ鷄肉を一同へ輪次盛り廻るに、鷄頭を得る者は、其年中、特にアリ聖人の贔屓を受(うく)るとて欣喜す、此輩又墓上に鷄像を安置し、鷄像を形代(かたしろ)として諸尊者の祠に捧ぐと見ゆ、熊楠謂ふに、古印度の提醯國民も、此波斯(ペルシヤ)のグラニ人も、梵敎と囘敎を信じ乍ら、以前鷄を族靈《トテム》として尊崇した故風を殘存したのであらう。

[やぶちゃん注:「選集」では、以上の段落は全体が一字下げである。確かに、次の段落では

『一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行』イングランドの男爵クレメント・アウグストゥス・グレゴリ・ピーター・ルイス・ドゥ・ボーデ(Clement Augustus Gregory Peter Louis De Bode, baron 一七七七年~一八四六年)かと思われる。この“Travels in Luristan and Arabistan”の作者として知られるだけのようである。「ルリスタン」が現在のイランのロレスターン州:ラテン文字転写:Lorestān)。イランでも古い歴史をもつ地域で、紀元前第三千年紀・第四千年紀に、外から入ってきた人々がザーグロスの山地に住み着いたのが起源とする。位置は当該ウィキ地図を参照されたい。「アラビスタン」は旧アラビスタン首長国。十五世紀から一九二五年まで元「アラブ首長国連邦」であったが、現在はイランの一部。位置は英文ウィキ「Emirate of Arabistan」地図を参照。「Internet archive」で原本が見られるが、熊楠の指示したページにはない。「選集」でも同じページだが、今までにも、誤記を見出した経緯があったので、ダメモトでフル・テクストを機械翻訳して調べたところが、図に当たった! これは「一八〇頁」の誤りであった! 久々に南方熊楠のオリジナル注で快哉を叫んだ! ご覧あれ! 「180」ページの十一行目に「the Gúrani」とあり、「181」の十一行目に「Ali」、十四行目に「アリ聖人」の意らしい「Ali-Iláhi」とあって、ここで熊楠の言っていることが確かに載っている! 「南方熊楠全集」再版本では注して訂すべし!

 

 又同書卅に、老娼他の妓輩と賭(かけ)して、女嫌ひの若き商主を墮(お)とさんとて、自分の子も商用で久しく不在也、名も貌も同じき故、吾子同然に思う迚親交す、商主老娼の艷容無雙なるに惚れ、一所に成(なら)んと言出(いひだ)すと、汝の財物悉く我家に入(いれ)たら方(まさ)に汝が心を信ぜんと言ふ、因て悉く財物を運び入れしを、後門より他へ移し去り、酒に醉睡(ゑひねむ)れる商主を薦(こも)に裹んで衢(まち)へ送り出す、大に悲んで日傭(ひやとひ)となり、偶然父の親交有りし長者方に傭はれに之(ゆ)くと、その名を聞(きき)て憐れみ慰め、女婿(ぢよせい)とすべしと云ふ、商主何とか老娼に詐(かた)り取れた財貨を取還した上(うへ)にせんと、暫時婚儀の延期を乞ふ、是時遊方(商主の名)出ㇾ城遊觀、於大河中、見死屍隨流而去、岸上烏鳥欲ㇾ餐其肉、舒ㇾ嘴不ㇾ及、遙望河邊、遂以ㇾ爪ㇾ捉、箸揩拭其嘴、嘴便長、去食其死肉、食ㇾ肉足已、復將一箸揩ㇾ嘴、令縮如ㇾ故無ㇾ異。遊方見已、取ㇾ箸而歸、遂將五百金錢、往婬女舍、報言、賢首、往以無錢、縛ㇾ我舁出、今有錢物、可ㇾ共同歡、女見ㇾ有ㇾ錢、遂便共聚、是時遊方既得其便、即將一箸彼鼻梁、其鼻遂出、長十尋許、時家驚怖、總命諸醫、令其救療、竟無一人能令ㇾ依ㇾ舊、醫皆棄去、女見醫去、更益驚惶、報遊方曰、聖子慈悲、幸忘舊過、勿ㇾ念相負、爲ㇾ我治ㇾ之、遊方答曰、先當ㇾ立ㇾ誓、我爲ㇾ汝治、先奪我財、並相還者、我當爲療、答言、若令ㇾ差者、倍更相還、對衆明言、敢相欺負、即取一箸、揩彼鼻梁、平復如ㇾ故、女所ㇾ得物、並出相還、得ㇾ物歸ㇾ家、廣爲婚會云々《是の時、遊方(いうはう)(商主の名)、城を出でて遊觀す。大河の中に於いて、死-屍(しかばね)、有り、流れに隨ひて去るを見る。岩の上の烏鳥(うてう)その肉を餐(くら)はんと欲し、嘴(くちばし)を舒(の)ぶれども、及ばず。遙かに河邊(かはべ)を望み、遂に爪を以つて箸(はし)を捉(と)り、その嘴を揩-拭(こす)るに、嘴、便(すなは)ち長(の)ぶ。去(い)にて其の死肉を食らひ、肉を食らひ、足り已(をは)るや、復た、一つの箸を將(と)つて嘴を揩(こす)り、縮みて、故(もと)のごとく異なること無からしむ。遊方、見已りて、箸を取りて歸る。遂に五百金錢を將(も)つて、婬女の舍(いへ)に往(ゆ)く。報(つ)げて言はく、「賢首(そもじ)、往(さき)に、錢無きを以つて我れを縛りて、舁(かつ)ぎ出だせり。今は、錢-物(ぜに)有り。同じく歡を共にすべし。」と。女、錢あるを見て、遂に、便ち、共に聚(むつ)む。是の時、遊方、既に其の便(すき)を得て、即ち、一つの箸を將(も)て、彼の鼻梁を揩(こす)る。其の鼻、遂に出でて、長さ十尋(ひろ)[やぶちゃん注:中国では一尋は八尺。引用本は唐代であるから、一尺は三十一・一センチメートルなので、二メートル四十八・八センチメートルとなる。]許りなり。時に家のもの、驚き怖れ、總ての諸醫に命じて、其れを救療せしむ。竟(つひ)に、一人も、能く舊(もと)に依(もど)さしむるもの、無し。醫、皆、棄てて去る。女、醫の去るを見て、更に、益(ますま)す驚き惶(おそ)れ、遊方に報げて曰はく、「聖子(せいし)よ、慈悲もて、幸ひに舊過(きうくわ)を忘れ、相ひ負(そむ)くを念(おも)ふ勿(な)かれ、我が爲めに之れを治せよ。」と。遊方、答へて曰はく、「先(ま)づ、當(まさ)に誓ひを立つべくんば、我れ、汝が爲めに治せん。先(さき)に、我が財を奪ひしを、並(みな)、相ひ還(かへ)さば、我れ、當に爲めに療ずべし。」と。答へて言ふ、「若し、差(い)えしむれば、倍して、更に相ひ還さん。衆(しゆ)に對し、明言す。敢へて相ひ欺-負(あざむ)かんや。」と。即ち、一つの箸を取りて、彼の鼻梁を揩(こす)るに、平復して故(もと)のごとし。女、得し所の物、並(みな)、出だして相ひ還す。物を得て家に歸り、廣く婚會(こんくわい)を爲す云々》。

[やぶちゃん注:「同書三〇」は話が前々段落に戻って「根本說一切有部毘奈耶雜事」の第三十巻となる。ここでは、「大蔵経データベース」の当該巻のデータに不審があったので、「漢籍リポジトリ」のそれに切り替えた。このサイトは「本草綱目」の引用でよく使っており、信頼度は私的には非常に高い。]

 

 此二話は、「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話一九〇六年板八章と十一章に出居るが、唐譯と少く異(ちが)ふ、唐譯英譯共に趣向凡て羅馬譚に似て居るが、草を食はせて女を驢にし報復する代りに、鼻を揩(こすつ)て高くし困らすとし居る。だから高木氏が、此篇の終りに明記を添えられ度(たい)のは、幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否(いなや)で、其が有らば、日本には存(そん)せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有(あつ)たと見て可(よ)い。又前にも言(いつ)た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作(な)すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ。

[やぶちゃん注: 『「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話』「西藏說話」に「選集」では『チベタン・テイルス』とルビする。調べたところ、エストニア生まれのドイツの言語学者・チベット学者であったフランツ・アントン・シェイファー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)がドイツ語で書いたものを、一八八二年にイギリスのロシア学者で翻訳家でもあったウィリアム・ラルストン・シェッデン-ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年~一八八九年)が一八八二年に英訳した“Tibetan tales”と思われる。「Internet archive」のこちらで当該版の英訳原本が読める。ちょっと当該章を読むエネルギは、ない。悪しからず。

「幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否で、其が有らば、日本には存せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有たと見て可い。又前にも言た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ」今回、再度、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」に出る「板橋三娘子」(はんきょうさんじょうし)の話を「河東記」で読み直してみた。すると、まず、熊楠の言う「草」というのは、ある。驢馬にするのに用いたものは、家の中のミニチュアの畑で、木彫りの牛と人形を使役して生えさせた蕎麦の実を元にした焼餅(シャオピン)だからである。また、鞭を打って驢馬にするシーンはないが、後半で驢馬にされてしまった三娘子に跨って主人公の李和(彼はその驢馬が三娘子であることを知っている)が驢馬に鞭打って旅をするというシークエンスはある。但し、乗る驢馬に鞭打つのは当たり前だから、熊楠の必要条件には、残念ながら、該当しない(因みに、彼女は最後には不思議な老人が、驢馬の口と鼻との辺りに手をかけて二つに裂くと、彼女がそこから躍り出て、目出度く元の人間に戻り、姿を晦まして、大団円となる)。やはり、かなり親和性の強い類話であることは、最早、間違いない。しかし、では、「今昔物語集」の例の話の原拠と言えるか? と問われると、やはり、クエスチョン、とせざるを得ない。]

 

 幼時和歌山で老人に聞いた譚に、或人(あるひと)鼓(つづみ)を天狗とかより授り、之を打つとお姬樣の鼻が無性に長くなり、又打變(うちかへ)ると低く成ると云(いふ)事有(あつ)たが、田邊には知(しら)ぬ人勝(ひとがち)だ。和歌山へ聞合(ききあは)せた上、本誌へ寄(よす)べし。

[やぶちゃん注:以上の短い段落は、やはり補足的なもので、「選集」では全体が一字下げになっている。なお、この類話は昔話にかなりある。]

 

 草を食(はせ)て人を驢とする話佛經にもあるは、出曜經卷十に、昔有一僑士、適南天竺、同伴一人、與彼奢婆羅呪術家女人交通、其人發意、欲ㇾ還歸家、輒化爲ㇾ驢、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴語曰、我等積年離ㇾ家、吉凶災變永無消息、汝意云何、爲ㇾ欲歸不、設欲ㇾ去者可時莊嚴、其人報曰、吾無遠慮、遭値惡緣、與呪術女人交通、意適欲ㇾ歸、便化爲ㇾ驢、神識倒錯、天地洞燃爲ㇾ一、不ㇾ知東西南北、以ㇾ是故、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴報曰、汝何愚惑、乃至ㇾ如ㇾ此、此南山頂、有ㇾ草名遮羅波羅、其有人被呪術鎭壓者、食彼藥草、即還服ㇾ形、其人報曰、不ㇾ識此草、知當如何、同伴語曰、汝以ㇾ次噉ㇾ草、自當ㇾ遇ㇾ之、其人隨語、如彼教誡、設成爲ㇾ驢、即詣南山、以ㇾ次噉ㇾ草、還服人形、採取奇珍異寶、得同伴安隱歸家《昔、一りの僑士(たびびと)有り、南天竺に適(ゆ)くに、一人と同伴するに、彼(か)の奢婆羅(じやばら)呪術家[やぶちゃん注:阿修羅を信望する呪術の家系の意か。]の女人(によにん)と交-通(まじは)りたり。其の人、發意(ほち)して、家へ還-歸(かへ)らんと欲すれば、輒(すなは)ち、化(け)して驢(ろば)と爲り、歸るを得る能はず。同伴、語りて曰はく、「我等(われら)、積年、家を離れ、吉凶災變、永く消息無し。汝の意は云何(いかん)、歸らんと欲するや不(いな)や。設(まう)けて去らんと欲さば、時に莊嚴(しやうごん)すべし。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「吾れ、遠き慮(おもんぱか)りなく、惡緣に遭(めぐ)り値(あ)ひ、呪術の女人と交-通れり。意、適(たまた)ま歸らんと欲すれば、便ち、化して驢と爲る。神識[やぶちゃん注:精神と意識。心。]、倒錯し、天地、洞然(どうねん)として[やぶちゃん注:すっかり抜けきってしまい。]一つとなり、東西南北を知らず。是の故を以つて、歸るを得る能はず。」と。同伴、報(こた)へて曰はく、「汝、何ぞ愚-惑(おろ)かなること、乃(すなは)ち、此くのごときに至るや。此の南の山の頂きに草有り、『遮羅波羅(じやらばら)』と名づく。其れ、人の呪術に鎭厭(ちんよう)[やぶちゃん注:「鎮圧」に同じ。]せらるる有らば、彼(か)の藥草を食せば、即ち、還(かへ)りて、形(すがた)を服(もど)す。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「此の草を識らず。知るには當(まさ)に如何にすべき。」と。同伴、語りて曰はく、「汝、次(つぎつ)ぎに、以つて、草を噉(くら)はば、自(おのづか)ら之れに遇ふべし。」と。其の人、語(ことば)に隨ひ、彼(か)の敎誡のごとく、設(もくろ)み成(な)して、驢と爲(な)り、即ち、南の山に詣(いた)り、次に、以つて、草を噉ひ、還(ま)た、還りて、人の形(すがた)を復(もど)せり。奇珍異寶を採取し、同伴と與(とも)に、安穩(あんのん)に家に歸ることを得たり」》、既に驢に化(かし)た人に復(もど)す草有りと云ふのだから、人に食はせると驢と成す草有りとの信念も行れた筈だ。

[やぶちゃん注:今回は、再び、原文を「大蔵経データベース」をもととした。]

 

 紀州田邊の昔話に、夫婦邪見なる家へ異人來り、祈りて其夫を馬に化す、妻懼れ改過(かいくわ)[やぶちゃん注:過ちを改めること。]し賴む故、其人復(また)祈り、夫の身體諸部一々人形(じんぎやう)に復すと、是れ何の據(よりどこ)ろ有るを知らずと雖も、外國に似た話有り、例せば、アプレイウスの金驢篇卷十に、「ルシウス」過つて自身に魔藥を塗り、驢に化し見世物に出で、能く持主の語を解するを見て、一貴婦其主に厚く餽(おく)り、一夜化驢(ばけろば)と交會して歡を盡せしより、更に死刑に當れる惡婦を其驢と衆中で婬せしめんとする話有り。蓋し羅馬が共和國たりし昔、「ラチウム」邊の法、姦婦を驢に乘せ引き廻せし後、其驢をして公衆環視中に其婦を犯さしめたるが、後には多人(あまたのひと)をして驢に代わらしめ、屢ば其婦死に至つた。其間其人々驢鳴(ろばなき)して行刑(しおき)したとぞ(一八五一年板ヂユフワル遊女史卷一、頁三一四以下)。希臘の古傳に、「クレト」島王「ミノス」神罰を受け、其后「パシプハエ」卒(にはか)に白牡牛に著(じやく)し[やぶちゃん注:色情を発し。]、熱情抑え[やぶちゃん注:ママ。]難く、靑銅製の牝牛像内に身を潛めて、牡牛の精を受け、怪物ミノタウロス(牛首人身又は人首牛身と云)を生み(グロート希臘史、一八六九年板卷一頁二一四)、埃及の「メンデス」の婦女は神廟附屬の牡山羊に身を施し、以色列《イスラエル》の女人亦神牛に身を捨(すて)し徵(あかし)あり(ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步、一七八五年板、一卷三二二頁)中世歐州の法に、婦女驢と交(まじは)るの罪有り、十九世紀にも馬驢牛等と姦し、其畜と俱に燒かれし人多し、(ヂユフワル卷三、頁二七六、卷六、頁一八―二五)近代醫家が實驗せる歐州婦女畜と交れる諸例、孰れも狗(いぬ)のみが共犯者たりと云ふ(ジヤクー編内外科新事彙、三九卷、五〇三頁、オット、ストール民群心理學上の性慾論、一九〇八年板、九八三―六頁參照)。

[やぶちゃん注:「アプレイウスの金驢篇」「二」~(5)で既出既注。

「クレト島」クレタ島。

「ミノス」ギリシア神話に登場するクレタ島の王で、冥界の審判官の一人。『クノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる』。『ヘロドトスやトゥーキュディデスはミノスを実在の人物と考え、プルタルコスはミノスの子ミノタウロスを怪物ではなく』、『将軍の一人だとする解釈を示している』。『近年、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡から世界最古の玉座とともに古文書が見つかり、その碑文の中にミヌテ、ミヌロジャ』『という名前があったことから、ミノス王の実在を示すものではないかと言われている』(より詳しくは引用(名前の中の長音符のあらかたは省略した)元の当該ウィキを参照されたい)。

「パシプハエ」現行では「パーシパエー」と表記することが多い。当該ウィキによれば(名前の中の長音符のあらかたは省略した)、『太陽神ヘリオスとペルセイスの娘で』、『クレタ島の王ミノスの妻とな』った。専ら、『ミノタウロスの母として』『知られる』。『魔術に優れており、また』、『神の血を引くために不死だったとも伝えられている』、『その名の意味は「すべてに輝く」であり、本来はクレタ島の大地の女神だったと考えられている。ミノスは義父であるクレタ王アステリオスが死んだとき、クレタの王位を要求したが』、『受け入れられなかった。そこでミノスは王国が神々によって授けられた証に、自分の願いは何でもかなえられると言った。彼は海神ポセイドンに犠牲を捧げ、海から牡牛を出現させることを願い、その牡牛をポセイドンに捧げると誓った。すると願いはかなえられ、海中から』一『頭の美しい牡牛(クレタの牡牛)が現れたので、ミノスは王位を得ることができた。ところがミノスはその牡牛が気に入って自分のものにしてしまい、ポセイドンには別の牡牛を捧げた。ポセイドンは怒って牡牛を凶暴に変え、さらにパーシパエーが』、『この牡牛に強烈な恋心を抱くように仕向けた』とある。また、『別の伝承では』、『愛の女神アプロディーテが、パーシパエーが自分を敬わなかったため、あるいは父であるヘリオス神が軍神アレスとの浮気をヘーパイストスに告げたことを怨んで、パーシパエーをエロスに彼の弓矢で射させ、彼女に牡牛への恋を抱かせたとされる』。『パーシパエーは思いを遂げるため工匠ダイダロスに相談した。するとダイダロスは木で牝牛の像を作り、内側を空洞にし、牝牛の皮を張り付けた。そして像を牧場に運び、パーシパエーを中に入れて牡牛と交わらせた。この結果、パーシパエーは身ごもり、牛の頭を持った怪物ミノタウロスを生んだ』。『ミノスは怒ってダイダロスを牢に入れたが、パーシパエーはダイダロスを救い出してやったともいわれる』とある。

「ミノタウロス」当該ウィキによれば(仕儀は同前)、『ミノタウロスは成長するに』従い、『乱暴になり、手におえなくなる。ミノス王はダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めた。そして、ミノタウロスの食料としてアテナイから』九『年毎に』七『人の少年』と、七『人の少女を送らせることとした。アテナイの英雄テーセウスは』三『度目の生け贄として自ら志願し、ラビュリントスに侵入してミノタウロスを倒した。脱出不可能と言われたラビュリントスだが、ミノス王の娘・アリアドネーからもらった糸玉を使うことで脱出できた』。『ダンテの』「神曲」では、『「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』。『この怪物の起源は、かつてクレタ島で行われた祭りに起源を求めるとする説がある。その祭りの内容は、牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレタ島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』とある。

「ヂユフワル遊女史」「選集」に、『イストワ・ド・ラ・プロスチチユチヨン』とルビする。ピエール・デュフォワール(Pierre Dufour 生没年未詳)の“Histoire de la prostitution chez tous les peuples du monde : depuis l'antiquité la plus reculée jusqu'à nos jous”(「世界の総ての人間世界に於ける売春の歴史:最も遠い古代から我々の時代まで」)。「Internet archive」のこちらでフランス語原本の当該一八五一年版が読める。

「ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步」「選集」に、『ルシヤーシユ・スル・デザルト・ド・ラ・グレク』とルビする。作者・書誌ともに調べ得なかった。

「ジャクー編内外科新事彙」「選集」に、『ヌーヴオー・ジクシヨネール・ド・メドシン・エ・ド・シルルジー』とルビする。スイス出身でフランスに帰化した医学者(病理学)フランシス・シギスモンド・ジャクー(François Sigismond Jaccoud 一八三〇年~一九一三年)が一八六四年から一八八六年まで監修し続けた大冊の“Nouveau dictionnaire de medecine et de chirurgie pratiques”(「実用医学及び外科新辞典」)。「Internet archive」のこちらで一八六四年初版原本が見られる。

「オット・ストール民群心理學上の性慾論」「選集」に『ガス・ゲシユレヒツレーベン・イン・デル・フオルカープシコロギエ』とルビする。スイスの言語学者・民族学者オットー・ストール(Otto Stoll 一八四九年~一九二二年)が一九〇八年に刊行した“Das Geschlechtsleben inderVölkerpsychologie”。]

 

 印度には星占の大家驢唇(ろしん)仙人の出生談が、大方等大集經(だいはうどうだいじつきやう)にも有るが、日藏經の方が較(やや)精(くはし)いから其を引(ひか)う。卷七に云く、此の賢劫初、膽波城の大三摩王聖主で、常樂寂靜云々、不ㇾ樂愛染、常樂潔ㇾ身、王有夫人、多貪色欲、王既不ㇾ幸、無ㇾ處ㇾ遂ㇾ心、曾於一時、遊戯園苑、獨在林下、止息自娯、見驢合群、根相出現、欲心發動、脫ㇾ衣就ㇾ之、驢見卽交、遂成胎藏、月滿生ㇾ子、頭耳口眼、悉皆似ㇾ驢、唯身類ㇾ人、而復麁澁、駮毛被ㇾ體、與ㇾ畜無ㇾ殊《常に寂靜を樂しみ云々、愛染を樂しまず、常に自ら身を潔くす。王に夫人有り、多く色欲を貪る。王、既に幸(みゆき)せず、心を遂ぐる處、無し。曾つて、一時に於いて、園苑に遊戯し、獨り、林下に在りて、止息(しそく)し、自ら娛(たの)しむ。驢(ろば)の合(あつ)まれる群れを見るに、根相、出現す。欲心、發動し、衣を脫ぎて、之れに就けり。驢、見て、卽ち、交わり、遂に胎藏を成す。月、滿ちて、子を生む。頭・耳・口・眼、悉く、皆、驢に似るも、唯だ、身(からだ)は人に類して、而して復た、麁澁(ざらつ)きて、駮(まだら)の毛、體を被(おほ)ひ、畜と殊なること、無し。》夫人見て怖れ棄(すて)しに、空中に在(あり)て墮ちず。驢神(ろしん)と名づくる羅刹婦(らせつふ)[やぶちゃん注:女の鬼。]拾ふて雪山に伴(つれ)行き乳哺す、兒の福力に因り、種々の靈草靈果を生じ、其を食ふて全身復た驢ならず、頗る美男と成たが、唇のみ驢に似たり、苦行上達して天龍鬼神に禮拜された相(さう)な。

[やぶちゃん注:今回の校閲は原経が見当たらなかったので、「大蔵経データベース」で語句で検索、最も近い「法苑珠林」(道世撰)のものを参考にしつつ、底本に従った。

「驢唇仙人」「選集」には『クハローチトハ』とルビがある。「佉盧虱吒」(かるしった:現代仮名遣)とも名乗る。サンスクリット語「カローシュティー」の音写。彼は釈迦の前身であるとも言われる。

「膽波」同前で『チヤンパ』とある。ガンジス河の南岸にあった国。玄奘の行った頃は小乗仏教国として記されてある。]

 

 大英博物館宗敎部の祕所に、牡牛が裸女を犯す所を彫(ほつ)た石碑が有つた、元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな。滅多に見せぬ物だが、予特許を得て、德川賴倫(よりみち)前田正名(まさな)鎌田榮吉野間口兼雄諸氏に見せた。十誦律六二に、佛比丘が、象牛馬駱駝驢騾(らば)猪羊犬猿猴麞(くじか)鹿鵝雁孔雀鷄等における婬欲罪を判(わか)ち居る、西曆紀元頃「ヴアチヤ」梵士作色神經(ラメイレツス佛譯、一八九一年板、六七―八頁)に根の大小に從ひ、男を兎(うさぎ)特(をうし)駔(をうま)、女を麞(のろ)騲(めうま)象と三等宛に別ち、交互配偶の優劣を論じ居るが、別に畜姦の事見えず。本邦には上古、畜犯すを國津罪の一に算へ、今も外邦と同じく、頑疾の者罕(まれ)に犬を犯すあるを聞けど、根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる外に、大畜を犯せし者有るを聞ず、或書に人身御供に立ちたる素女(きむすめ)を、馬頭神來り享(うけ)、終りて其女水に化せし由記したれど、其本據確かならず、但し人が獸裝を成(なし)て姦を行ふ事は、羅馬のネロ帝を首(はじ)め其例乏しからぬ、(ジユフワル卷二、頁三二二。十誦律卷五六。「ルヴユー・シアンチフヰク」、一八八二年一月十四日號に載せたる「ラカツサニユ」動物罪惡論三八頁)要するに、吾國に婦女が牛馬等と姦せし證左らしき者無ければ偶ま夫の根馬の大(おほき)さで常住せん事を願ひし話有りとも、本邦固有の者で無く、外より傳へたか、突然作り出したかだらう。

[やぶちゃん注:「德川賴倫」以下の人名注を附けるほど私は愚かなお人好しではない。悪しからず。

「元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな」これとかなり似た境界碑の民俗資料を(日本ではなく中国か台湾の孰れかであったように記憶する)確かに読んだことがあるのだが、今すぐには思い出せない。発見次第、追記する。

「騾(らば)」♂のロバと♀のウマの交雑種である家畜奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus 。その他の組み合わせが気になる方は、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)」の私の注を参照されたい。

「麞(くじか)」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis。朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、小型のシカ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」を参照。

「色神經」「選集」には『カマ・ストラ』とルビする。古代インドの性愛(カーマ)書「カーマスートラ」(「スートラ」は「経」の意)。四世紀頃のバラモンの学者バーツヤーヤナの作と伝えられる。性愛に関する事項をサンスクリットの韻文で記し、文学的価値も高い。「愛経」とも訳す。

「根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる」私のブログ版「耳囊 大陰の人因果の事 ≪R指定≫」を読まれたい。

「ルヴユー・シアンチフヰク」雑誌名だが、不詳。

「ラカツサニユ」不詳。]

 

 鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ、畜化狂とも言うべき精神病で(洋名リカンツロピー)、他人に化せられざりしと、身體の變ぜず、精神と動作のみ馬と成(なつ)た點が、今昔物語の話と差(ちが)ふ。若し見る人々の精神も偕(とも)に錯亂したなら、此人身體迄も馬に化したと見えるかも知れぬ。然る時は今昔物語の話を實際に現出する筈だ。故に這般(しやはん)の[やぶちゃん注:これらの。]諸話を全然無實と笑卻(わらひしりぞ)く可きで無い。因果物語中の卅三にも、馬に辛かうた者が、馬の眞似して煩ふた例三つ迄出し居る。歐州に狼化狂多く、北亞非利加に斑狼(ハイエナ)狂多く、今も日本に狐憑き多き如く、寬永頃馬を扱ふ事繁かつた世には、馬化狂が多かつたんだ。又同物語、下一六に、死後馬と生れし二人の例を列(つら)ぬ。是は變化(へんげ)ならで轉生(てんしやう)だ。佛典に例頗る多いが、一つを載(のせ)んに、佛敎嫌ひの梵志[やぶちゃん注:バラモン僧。]、豫(かね)て沙門が人の信施を食ひ乍ら精進せぬと、死(しん)で牛馬に生れ、曾て受(うけ)た布施を償ふと聞き、五百牛馬を得る積りで、五百僧を請じ、食を供へる、其中に一羅漢有り、神通力で其趣向を知り、諸僧に食後專心各(おのおの)一偈を說(とか)しめ、扨梵志に向ひ、最早布施を皆濟(すま)したと言(いふ)たので、大(おほい)に驚き悟道したと、經律異相卷四十に出ちよる。

[やぶちゃん注:「鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ」鈴木正三(天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:江戸初期の曹洞僧で仮名草子作家。俗名の諱では「まさみつ」と訓じている。元は徳川家に仕えた旗本で、本姓は穂積氏)が生前に書き留めていた怪異譚の聞書を、没後に弟子たち(記名では義雲と雲歩撰とする)が寛文元(一六六一)年に出版したもの。江戸初期の怪奇談集として優れたもので、何時か電子化注をしたいと思っている。「愛知芸術文化センター愛知県図書館」の「貴重本和本デジタルライブラリ―」の一括PDF版の「64」コマ目の終りから視認出来る。初版原本だが、極めて読み易い。標題は「生ながら牛と成(なる)僧」。後の「付けたり」の話の最後に、「寛永十六年の春、不圖(ふと)、煩付(わづらひつき)て、百日程、馬(むま)の真似して、雜水(ざうみづ)を馬桶(むまをけ)に入(いれ)て吞(のま)せ、卽ち厩(むまや)に入て置(をく)に、四足(よつあし)に立(たち)て、足搔(あしかき)して、狂(くるひ)、力、強(つよく)、氣色(けしき)怖布(をそろしく)なり、卅八歳にて死にけり」と終っており、以下で熊楠が、「寬永頃」(一六二四年から一六四四年までで、家光の治世)と語っているのは、この記載に拠ったものであると考えられる。

「リカンツロピー」lycanthropy。ライキャンスォロフィー。狼狂・狼憑き。ギリシア語(ラテン文字転写)「lykos」(狼)と「anthrōpos」(人間)の合成語。

「變化」「選集」では『メタモルフオシス』とルビする。初出誌のルビかと思われる。

「轉生」同前で『トランスミグレーシヨン』とルビする。]

 

 歐州にも馬化狂がある。九年前の「ノーツ、エンド、キーリス」に據(よる)と、葡萄牙に「ロビシヨメ」とて、若い男女形貌枯槁し、長生せず、夜每に馬形を現じ、曙光出る迄休み無く山谷を走り廻る、夜中彼が村を走り過(すぐ)る音を聞く土民、十字を畫く眞似し、「神ロビシヨメを愍(あは)れみ祐(たす)けよ」と言ふ。之を救ふ法は唯一つ、勇進して其胸を刺し、血を出し遣(や)るのだ。或は言ふ、其人顏靑く疲れ果て、形容古怪で、他人之と語らず、怖れ且憐れむ、婦女續けて七男子を生むと、最末子(さいばつし)が魔力に依て「ロビシヨメ」となり、每土曜日驢形を受け、犬群に追れつゝ沼澤邑里(いうり)を走廻り、些(いささか)も息(やす)み無し、日曜の曙を見て纔かに止む、之を創(つ)くれば永く此患無しと。又言く、同國で狼に化する兒を「ヨビシヨメ」と言ひ、今も地下に住む「モール」人が、嬰兒に新月形(囘敎徒の徽章)を印し、斯(この)物に作(な)すと。熊楠謂ふに、「ロビシヨメ」「ヨビシヨメ」名近ければ、元或は驢又馬或は狼に化すとしたのが、後に二樣に別れたんだらう、之と較(やや)近いのは、同國の俚譚に、王后が馬頭の子でも可(よい)からと、神に祈つて馬頭の太子を產み、後年募(つのり)に應(わう)じ其妻と成(なつ)た貧女の盡力で端正の美男と成たと有る。(一八八二年板、ペドロソ葡萄國俚譚二六章)。誰も知る通り、印度の樂神乾闥婆(けんだつば)は馬頭の神だ(グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七)

        (大正二年鄕硏第一卷十號)

[やぶちゃん注:「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。

「ロビシヨメ」lobisomem。但し、現在のポルトガル語では「ロビゾーメーン」で、後の「ヨビシヨメ」の「狼憑き」を指す語である。

『地下に住む「モール」人』HG・ウェルズの「タイム・マシン」(The Time Machine:一八九五年)に登場する未来世界の地底人モーロック(Morlock)の元となったとされる、旧約聖書に出る「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれ、人身御供が行われたことで知られる古代の中東で崇拝された神モレク(Molech)の変化したものか。綴りが判らないので調べようがない。

「ペドロソ葡萄國俚譚」ポルトガルの歴史家・民俗学者のゾフィモ・コンシリエーリ・ペドロソZófimo Consiglieri Pedroso 一八五一年~一九一〇年)が一八八二年にロンドンで発行した「ポルトガル民話譚」(Portuguese Folk-tales)。「Internet archive」で見つけた(対訳本)。英文の当該箇所はここ(右ページ)から。

「乾闥婆」「選集」では『ガンダールヴアス』とルビを振る。サンスクリット語「ガンダルヴァ」の漢音写で、「食香」「尋香」「香神」などと意訳する。仏法護持の八部衆の一人。帝釈に仕え、香(こう)だけを食し、伎楽を奏する神。「法華経」では観音三十三身の垂迹の一身に数えている。

「グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七」既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」(Zoological Mythology)。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ但し、決定的な記載は三六九頁の注辺りであろう。]

2022/04/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(5) / 卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四 / 二~了

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って四段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。]

 

〇通四國邊地僧行不ㇾ知所、被打成ㇾ馬語《四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)》(卷卅一、第十四、本誌一卷五〇頁參照)人を馬にする談は諸國に多く、一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁に夥しく亞細亞歐羅巴の諸傳を列ね居るが、亞非利加にも其例有るは、一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記卷二、章三三に其證いづ。亞比西尼亞では、「ブーダ」と呼で、鍛工が自分をも他人をも獸に化する力有りとす、著者が遇た人々親しく、片足は人、片足は驢蹄の婦人を觀たと云ふ。此婦死して埋めた墓邊へ一人來たり、僧を語ひ其屍を購ひ、掘出し持去た、將來死人の家の門を過て市へ往く鍛工が、此頃から驢に乘て往く事と成たが、其驢が此家を過り、又家の子供を見ると髙聲を發し近づき來らんとする、子なる一人何と無く、此は自分の母だらうと思付き、人をも驢をも執へると、驢、淚を流し、子に鼻を擦付る。色々鞫問すると鍛工終に白狀したは、此婦を魔法で死人同樣にし、扨[やぶちゃん注:「さて」。]埋後購ひ去て驢に化したと、其なら本へ復したら罪を赦すと約して、魔法で漸々本へ復し、片足丈驢蹄だつた時、鬱憤爆發して其子が鍛工を槍き殺したので、その母一生一足驢蹄で終つたと云ふ。

[やぶちゃん注:「本誌一卷五〇頁」初出誌である『鄕土硏究』の論文収載部の指示。「選集」に編者による『前出赤峯論文』という割注があるが、ここを指す

『一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁』「選集」には書名に『ポピユラル・テイルス・エンド・フイクシヨンズ』というルビが振られてある。これはイギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)の“Popular Tales and Fictions” (「人気の高い譚と通俗小説」)。「Internet archive」のここから原本当該部が視認出来る(パート標題は“MAGICAL  TRANSFORMATIONS”(「魔術的変容」)。

『一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記』「選集」には同前で『ライフ・イン・アビシニア』というルビが振られてある。「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)“Life in Abyssinia”の初版。「Internet archive」のこちらからが当該部。ど真ん中に「ブーダ」(Bouda)と出る。

「鍛工」「かぢや」。

「驢蹄」「ろてい」。驢馬(ロバ)の蹄(ひづめ)。

「購ひ」「あがなひ」。「選集」は『購(か)い』と訓じている。

「將來」ここは「選集」に従い、「これまで」と訓じておく。

「過り」「よぎり」。

「驢」「ろば」。

「人をも驢をも執」(とら)「へる」「人」は乗っていた鍛冶屋。

「鞫問」「きくもん」と読む。厳しく問い糺すこと。「詰問」に同じ。

「終に」「つひに」。

「埋後」「まいご」と読んでおくが、あまり聴かないな。

「漸々」「やうやう」

「槍き」「つき」。]

 

 嬉遊笑覽十二に、「四國を巡りて猿と成ると云ふ諺は、風來が放屁論に、今童謠に、一つ長屋の佐次兵衞殿、四國を廻りて猿と成るんの、二人の伴衆は歸れども、お猿の身なれば置て來たんのと云り、其頃云初しには有可らず。諺は本より有しにや。扨此諺は誤ならむ、四國猿と云事より移りしか、舊本今昔物語に、通四國邊地僧行不ㇾ知所、被打成ㇾ馬語有り、奇異雜談に、丹波奧郡に人を馬に成て[やぶちゃん注:「なして」。]賣し事、又越中にて人馬に成たるに、尊勝陀羅尼の奇特にて助かりし事抔見ゆ、皆昔物語よりいひ出し事なり。されば此諺久しき事と知らる。後人、これを猿といひかへたりと思はる。又按るに搜神記に、蜀中西南高山之上、有物與猴相類。長七尺、能作人行、善走。名猴、猳。一名馬化、或曰玃、伺道人、有後者、輙盜取以去云々。取ㇾ女去而共爲室家、其無子者終身不得還、十年之後形皆類之《蜀中の西南、高山の上に、物、有り、「猴」と相ひ類(るゐ)す。長(た)け七尺、能く、人の行(おこなひ)を作(つくりな)し、善く、走る。「猳(か)」と名づけ、一つ、「馬化(ばくわ)」とも名づく。或いは「玃猨(かくえん)」とも曰ふ云々。女を取り去つて、共に室家を爲(な)す。其の子無きは、終身、還るを得ず、十年の後、形、皆、之れに類す。》と有り、是抔より出たる事か知るべからず。猴に類すと云へば、猴の形に似つかはしく、又馬化ともいふ名をひがめて[やぶちゃん注:底本(左ページ六行目)は「曲めては」。変更理由は次の注を参照。]は、馬ともいふべくや」と有る。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。岩波文庫版(筆者自筆本底本)で全巻を所持するが、漢字が新字なので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊(上下二冊の「下」)の当該部を比較視認して校訂し、さらに、「捜神記」は上記二册の孰れもが複数個所で不審があるため(私は高校生の時以来、同書を偏愛している愛読者である)、「中國哲學書電子化計劃」の影印本(ここの最終行から次のページにかけて)で一部(異名の漢字が二冊とも受け入れ難いおかしなもであった)表記を正した。熊楠の引用も表記が熊楠の好みで書き換えられている箇所が多いため、結果して、南方熊楠の引用表現の一部を改めることとなったが、これは正規の正当な表現に限りなく近づけるための仕儀であり、批判される筋合いは全くないと信ずるものである。なお、ここで喜多村が引いている、「奇異雜談集」(これが正しい書名。「きいぞうだんしゅう」(現代仮名遣)と読む)のそれ、「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」は、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で電子化してある。

「風來が放屁論」これは風来山人(かの平賀源内の号の一つ)の書いた戯文。江戸両国橋で人気のあった昔語花咲男という曲屁芸人を論評するという形をとって、当時の閉塞した身分制社会を批判したもの。安永三(一七七四)年刊。

「猴」「玃」などは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を参照されたい。]

 

 諸國の人を馬や驢と作た[やぶちゃん注:「なした」。]話に就て、此方法を按ずるに、或は魔力有る藥料を身に塗付たり、(アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三)、或は魔力有る飮食を與へたり、(奇異雜談上、一八章、コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板二八頁クラウストン上出)或は手綱や轡を加へるのだ(クラウストン同上、グベルナチス動物譚原一八七二年板卷一、三四二頁)。就れも[やぶちゃん注:「孰れも」の誤字か。]斯くして畜と成れた後で、鞭笞苦困[やぶちゃん注:「べんちくこん」。鞭打たれて苦役されること。]さるるが、此今昔物語の一條のみ、笞を以て打ち据て、引起こすと馬に成て居と[やぶちゃん注:「をると」。]有るは、此物語の特色と見える。但し高木君は幻異志の板橋三娘子の譚が此語の本源たる事疑ひ無しと言れたが、それに果たして笞で打て驢と作すと有りや、予も幻異志を見た事が有るが、十九年前の事故、一向記憶せぬ、如し[やぶちゃん注:「もし」。]笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ。高木君は本文を出さぬ故詳を知る能はざるも、其叙する所を見ると、件の幻異志中の譚は、「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話と同源の物に非ざるか。

[やぶちゃん注:「アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三」「選集」では書名に『デ・アシノ・アウレオ』と振る。北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家ルキウス・アプレイウス(Lucius Apuleius 一二三年頃~?:奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した)の代表作である「変容、又は『黄金の驢馬(ロバ)』」(Metamorphoses  sive  Asinus Aureus)は、彼のウィキによれば、『魔術に興味を抱いた主人公ルキウスが誤ってロバに変えられ、数多の不思議な試練に堪えた後、イシスの密儀によって再び人間に復帰するという一種の教養小説』で、ローマ時代の小説のうち、完全に現存する唯一のものである、とある。

「奇異雜談上、一八章」これはその類別から、明らかに先の「喜遊笑覧」のそれを差しているとしか私には思えない。但し、「奇異雑談集」は、上下巻はなく、第一巻の第一話から数えると第三巻のそれは十六話目ではある。

「コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板、二八頁」「選集」には書名に『ジクシヨネール・アンフエルナル』というルビが振られてある。フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に刊行した“The Dictionnaire infernal” (「地獄の辞典」)。

「グベルナチス動物譚原一八七二年板、一卷三四二頁」同前で『ゾーロジカル・ミソロジー』とルビされている。本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が書いた“Zoological Mythology”(「動物に関する神話学」)。「Internet archive」の第一巻同年版原本の当該部はここ

「高木君」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。ここで言う論文の収載書誌は不詳(『鄕土硏究』であろうとは思われる)。私も読みたい。

「幻異志の板橋三娘子の譚」「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」を参照。

「如し笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ」私はてっきりこれが典拠と思っていたが、言われてみると、確かにそんなシーンはないので、類話かなぁ。

『「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話』先の“Popular Tales and Fictions”の第一巻であるが、Internet archive」の一八八七年板(先に熊楠が挙げたものと同年)で調べたところ、この長いローマの物語は、熊楠の指示したページよりももっと前の、この「93」ページから「98」ページまでがそれであることが判明した。

 なお、以下の梗概は、例の熊楠特有の送り仮名の簡略や、変わった読み連発される。それを注形式で挿入すると、五月蠅くなるばかりで、読みのリズムが崩れてしまう。そこで特異的に「選集」を参考にしつつ、私の判断で独自の読みを( )で添えることとした。「私は読める」と言う御仁は、どうぞ、ご自由に。原本当該部で。

 

 言(いは)く貧人の二子(にし)、林中で大鳥が卵を落したるを拾ふと字を書付有る、庄屋に見せると、「吾頭を食ふ者帝たらん、吾心臟を食ふ者金(かね)常に乏しからじ」と有る。庄屋自身頭も心臟も食(くは)んと思ひ、二人に、是は此鳥を食ふと旨いと書て居(を)る、だから强(したたか)な棒を準備して、彼鳥を俟(まち)受けて殺せと命ず、斯(かく)て翌日二人其鳥を殺し、庄屋を待受(まちうけ)て食はんと炙(あぶ)る内、鳥の頭が火の中へ落(おち)た、焦(こげ)た物を庄屋に呈(おく)るべきで無いと思ひ、弟が拾ふて食ふて了(しま)ふ、次に心臟が火の中へ落て焦たから、兄が食て了ふ、所へ庄屋が來て、大に失望して怒り散(ちら)して去る、父に話すと斯(かか)る上は他國へ出(いで)よと云ふので、二人宛(あて)もなく旅立つ、其から每夜旅舍で睡(ねむ)ると、兄の枕の下に金が出て來る、弟其金を持(もつ)て兄より前に都に入ると、丁度國王が死んで嗣王(つぎのわう)を擁立する所だつたが、金(かね)の光で此弟が忽ち王と立てられた、斯(かく)とも知らず、兄も都に入(はいつ)て、母と娘二人暮しの家に宿ると、例の如く枕の下から金が每夜出る、娘此男を賺(すか)して事實を知り、吐劑(とざい)を酒に入れて飮せて、彼鳥の心臟を吐出さしめ、男を追出す、詮方無くて川畔(かはばた)に歎き居(を)ると、仙女三人現れ愍(あはれ)んで、手を探る每に金を出す袂有る衣を吳(くれ)る、男愚かにも其金で餽(おく)り物を求め、復た彼家へ往く。娘諜(てふ)して[やぶちゃん注:さりげなく探りを入れて。]其出處を知り、僞衣(にせごろも)を作り、男が睡つた間に掏(す)り替へる、明旦起出て其奸(かん)を知れども及ばず、復た河畔に往くと、仙女來て、案(つくえ)を打(うて)ば何でも出る棒を吳る、復た娘の宅へ往き竊まれる、例により例の川邊で、何でも望の叶ふ指環を貰ふ、是が最終だから、取れぬ樣注意せよと言れたが、懲(こり)ずに娘の宅に往き問落(とひおと)される、娘言く、そんなら吾等二人向ふの山へ飛往(とびゆ)き、鱈腹(たらふく)珍味を飮食(のみいくひ)せうと望んで見なさいな、依(よつ)て男其通り、環に向(むかひ)て望むと忽ち望み叶ふ、此時娘、酒に麻藥(しびれぐすり)を入(いれ)て男を昏睡せしめ、指環を盜み、自宅へ還らうと望むと、忽ち還り去る。男眼覺(めざめ)て大に弱り、三日泣き續けて夥しく腹空(すけ)る故、無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ、麓迄下りて其處(そこ)な草を拔くと、忽ち人身に復(かへ)つた、因(よつ)て其草をも籃に入れ、姿を替(かへ)て彼(かの)娘の宅前に往き、莱を買はぬかと呼ぶ、娘菜は大好(だいすき)で、其草を執(とつ)て嘗みると、便ち驢形(ろばのかたち)に變ず、男之を打ち追(おつ)て街を通る、其打樣(そのうちやう)が餘り酷い故、町人之を捕へ王に訴出(うつたへで)る、男其王を見ると骨肉の弟だから、乞(こひ)て人を退(しりぞ)け事由(ことのよし)を談(かた)る。其處で王命じて驢化(ろばくわ)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと本(もと)の人身に復した。(此項つゞく)

       (大正二年鄕硏第一卷九號)

[やぶちゃん注:「無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ」個人的には、自分の背の両側に懸け渡されてしまった二つ籠に、ロバになった彼が、どうやってその籠を外し、草を入れることが出来たのか、そのシーンが私には頭に描けないのだが? まあ、お伽話だから、目をつぶることと致そうか。

「其處で王命じて驢化(ろばか)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと」老婆心乍ら、最後の部分は、

   *

「其處(そこ)で王」(兄弟の弟の方)]は、「驢」(ろば)と「化」(か)した、その性悪「女」に対して、再び再会できた実の「兄と」「俱に」その驢馬女の前に毅然として立ちはだかって、まず、

――「宅(いへ)」「に歸つて、從來」(今まで)「盜んだ」沢山の「物を」、「悉く」持ち主に「返」すように――

と厳命した上で、加えて、

――「其後(そののち)」に、この「靈草を食せよ」――

と「命じ」た。

   *

という謂いである。私が最初に読んだ時、たった一ヶ所にしか読点のないこの文にちょっと躓いたので、一言言い添えた。]

2022/04/24

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(4) / 卷第五 王宮燒不歎比丘語第十五

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここ。]

 

〇王宮燒不歎比丘語《王宮(わうぐう)燒くるに歎かざりし比丘の語(こと)[やぶちゃん注:頭の「天竺」(天竺の)が脱落している。]》(卷五第十五)芳賀博士の今昔物語集の四二九頁に、此語の出處、類話一切出て居無い[やぶちゃん注:「をらない」。]。予も出處を知らぬが、類話を、趙宋の初め智覺禪師が集めた宗鏡錄卷六四より見出した。此書は今昔物語の作者てふ源隆國の薨去より先づ百廿年前に成た。其文は、諸苦所ㇾ困、貪欲爲ㇾ本、若貪心瞥起、爲五欲之火焚燒、覺意纔生、被三界之輪繫縛、如帝釋與脩羅戰勝、造得勝堂、七寶樓觀、莊嚴奇特云々、天福如之妙力能如ㇾ此、目連飛往、帝釋將目連看堂、諸天女皆羞目連、悉隱逃不ㇾ出、目連念、帝釋著樂、不ㇾ修道本、卽變化火、燒得勝堂、爀然崩壞、仍爲帝釋說無常、帝釋歡喜、後堂儼然、無灰煙色《『諸苦、困(くる)しむ所のものは、貪欲を本(もと)と爲(な)すなり。若(も)し、貪心、瞥(べつ)して[やぶちゃん注:ちょっとでも。]起こらば、五欲の火に焚き燒かれ、覺意[やぶちゃん注:ここはそれに触れることで生じてしまう悪しき意識を指す。]、纔かに生じて、三界の輪に繫縛せらる。如(たと)へば、「帝釋、修羅との戰ひに勝ち、勝堂(しやうだう)を造り得て、七寶の樓觀、莊嚴(しやうごん)奇特(きどく)たり」』云々、『「天福、之(か)くのごとく、妙力、能く此(か)くのごとくあらんも、目連、飛び往くに、帝釋、目連を將(ひき)ゐて堂を看(み)せしむに、諸天女、皆、目連に羞(は)ぢ、悉く、隱れ逃れて、出でず。目連、念(おも)ふに、「帝釋は樂しみに著(おぼ)れ、道の本(もと)を修めず。」と。卽ち、火に變化(へんげ)し、得勝堂(とくしやうだう)を燒き、爀然(かくぜん)として崩壞せり。仍(よ)りて、帝釋が爲めに、無常を廣く說けり。帝釋、歡喜したり。後(のち)、堂、儼然としてあり、灰煙の色、無し。」となり』。》と云[やぶちゃん注:「いふ」。]ので、多分四阿含抔の中に出た語と思ふが、多忙故今一寸見出し得ぬ。

[やぶちゃん注:「趙宋」宋(ここは北宋)に同じ。この呼称は王室の姓に基づくもの。

「智覺禪師」永明延寿(九〇四年~九七六年)は五代十国の呉越から北宋創建初期に生きた法眼(ほうげん)宗(中国の禅宗五宗の一つ)の僧。諡は宗照大師。杭州余杭県出身。「教禅一致」を説いた。なお、北宋は五代最後の王朝後周を九六〇年に滅ぼして成立した。その後、残っていた十国の国々も平定し、最後に北漢を九七九年に滅ぼして中国を統一しているので、熊楠の言う「宋の初め」というのは正しい(次注の成立年を見よ)。雪峰義存の弟子翠巌令参の下で出家し、天台徳韶の嗣法となった禅僧。

「宗鏡錄」現行では「すぎょうろく」(現代仮名遣)と読む。仏教論書。全百巻。九六一年成立。延寿の主著で、当該ウィキによれば、『禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』。『この総合化の姿勢は』『後世になって、「禅浄双修」「教禅一致」が提唱された時』、『注目されることとなった』とある。

「帝釋、修羅との戰ひに勝ち」帝釈天が阿修羅と戦ったという話はしばしば仏典に現われる。ウィキの「阿修羅」によれば、『阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されているが、阿修羅はもともと天界の神であった。阿修羅が天界から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある』。『阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる』。『阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また』、『阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ』、『帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった』。『帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところ』、『蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から』、後退している『軍を止めた。それを見た阿修羅は』、『驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという』。『一説では、この話が天部で広まって』、『阿修羅が追われることになったといわれる。また』、『一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうち』、『赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると』、『善心を見失い妄執の悪となる。このことから』、『仏教では天界を追われ』、『人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる』とある。ここでは、阿修羅側ではなく、逆に帝釈天の奢りが描かれていて、面白い。私は、無論、阿修羅が好きである。遠い昔、教え子に案内されて見た興福寺の阿修羅像には、甚だ心動かされたのを思い出す。

「四阿含」四種の「阿含経」(あごんきょう)を指す。「長阿含経」(全二十二巻)・「中阿含経」(全六十巻)・「増一阿含経」(全五十一巻)・「雑阿含経」(全五十巻)の総称。原始仏教の経典を四部に分類したもので、仏教の系統としては、北方系の分類法に属す。南方系では五部に分ける。「大蔵経データベース」の検索で、ちょっとやりかけてみたが、熊楠ではないが、対象が膨大に過ぎ、語句での絞り込みも上手く出来なかったので、中途でやめた。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(3) / 巻第三 金翅鳥子免修羅難語第十

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇金翅鳥子免修羅難語《金翅鳥(こんじてう)の子(こ)、修羅の難を免(まぬか)れたる語》」(卷三、第十)芳賀博士の纂訂本一九三頁に、私聚百因緣集より少しく異文の同話を擧げた斗りで、出處も類語も載せず、予も此語の出處を見出し得ぬが、同態の類語が、姚秦竺佛念譯、菩薩處胎經四に出でたるを知る。云く、佛、智積菩薩[やぶちゃん注:「ちしやくぼさつ」。]の問に對ふらく、吾昔一時無央數劫、爲金翅鳥王云々、於百千萬劫時、乃入ㇾ海求ㇾ龍爲レ食、時彼海中有化生龍子、八日、十四日、十五日、受如來齋八禁戒法、不殺ㇾ不ㇾ盜不ㇾ婬不妄言綺語不ㇾ勸ㇾ飮ㇾ酒不ㇾ聽レ作倡伎樂香花脂粉高廣床、非時不ㇾ食。奉持賢聖八法、時金翅鳥王、身長八千由旬、左右翅各各長四千由旬、大海縱廣三百三十六萬里、金翅鳥以ㇾ翅斫ㇾ水取ㇾ龍、水未ㇾ合頃、銜ㇾ龍飛出、金翅鳥法、欲ㇾ食ㇾ龍時、先從ㇾ尾而吞、到須彌山北、有大緣鐵樹、高十六萬里、銜ㇾ龍至ㇾ彼、欲得ㇾ食噉、求龍尾、不ㇾ知處、以經日夜、明日龍出尾、語金翅鳥、化生龍者我身是也、我不ㇾ持八關齋法者、汝卽灰滅我、金翅鳥聞ㇾ之悔過自責《『吾れ、昔、一時、無央數劫(むあうしゆがふ)に、金翅鳥王(きんしてうわう)と爲る』云々、『百千萬劫の時に、乃(すなは)ち、海に入りて龍を求め、食と爲(な)す。時に、彼(か)の海中に化生(けしやう)せる龍の子(こ)あり。八日・十四日・十五日に、如來の八つの禁戒を齋(さい)する法を受く。殺さず、盜まず、婬せず、妄言綺語せず、酒を飮まず、倡伎の樂と香花と脂粉と、高く廣き床を作(な)すを聽かず、非時に食せず、賢聖の八法を奉持す。時に、金翅鳥王は、身の長(た)け八千由旬[やぶちゃん注:一由旬は説にはばがあり、七~十四・五キロメートル。]、左右の金翅、各各(おのおの)長さ四千由旬、大海は縱廣(じゆうくわう)三百三十六萬里なり。金翅鳥は、翅(はね)を以つて、水を斫(き)り、龍を取るに、水、未だ合はざる頃(ころあ)ひに、龍を銜(くは)へて、飛び出づ。金翅鳥の法(はう)は、龍を食らはんとする時、先づ、尾よりして吞み、須彌山(しゆみせん)の北に到るに、大鐵樹、有りて、高さ十六萬里。龍を銜へ、彼(か)に至りて、食ひ得て、噉(くら)はんと欲(ほつ)するも、龍の尾を求むるに、知れざる處(ところ)、以つて日夜を經(へ)たり。明日(みやうにち)、龍、尾を出し、金翅鳥に語(い)はく、「化生せる龍は、我が身、是れなり。我れ、八關の齋法(さいはふ)を持(じ)せざれば、汝、卽ち、我れを、灰滅(くわいめつ)せしならん。」と。金翅鳥、之れを聞きて、過(あやま)ちを悔ひて自責す。』と。》、夫より鳥王其宮殿に化生龍を請じ、八關齊法[やぶちゃん注:「はつかいさいはふ」。]を受け、誓ふて自後殺生せなんだと有る。中阿含經に見えた聖八支齊は則ち八關で、佛敎の初生時代には尤も信徒間に重んじ行はれた者だ、大智度論に、六齊日に八戒を受け、福德を修むる譯は、是日惡鬼逐ㇾ人、欲ㇾ奪人命、疾病凶衰、令人不吉、是故劫初聖人、敎人持齋、修ㇾ善作ㇾ福、以避凶衰、是時齋法、不ㇾ受八戒、直以一日不食爲ㇾ齋、後佛出世、敎語ㇾ之言。汝當一日一夜如諸佛八戒過ㇾ中不ㇾ食、是功徳將ㇾ人至涅槃《是の日、惡鬼、人を逐(お)ひ、人命を奪はんと欲し、疾病・凶衰もて、人をして不吉ならしむ。是の故に、劫初(こうしよ)の聖人(しやうにん)は、人に齋(さい)を持(じ)するを敎へ、善を修め、福を作(な)し、以つて凶衰を避けしむ。是の時の齋法は、八戒を受けずして、直(た)だ、一日、食らはざるを以つて齋と爲す。後、佛、出世し、敎へて之れを語りて言はく、「汝、當(まさ)に、一日一夜は、諸佛のごとく八戒を持し、中(ひる)を過ぎて食はざるべし。」と。是の功德、人を將つて涅槃に至らしむ》と有る、然るに佛敎支那に入て後、この八關齊は如法[やぶちゃん注:「によほふ」。仏陀の教えた教法の通りであること。]に行はれず、自分の戒行を愼み修めて涅槃を願ふよりも、死人の追善を重んじ、四十九日の佛事を專ら營む事と成たので、八關齊を七七日の施に切替へ、龍と金翅鳥を(類似重複の話が經中に多きを厭ひ)金翅鳥と阿修羅王と作た[やぶちゃん注:「つくつた」。]のだらう。釋氏要覽に、瑜伽論曰、人死中有身、若未ㇾ得生緣、極七日住、死而復生、如ㇾ是展轉生死、至七七日、決定得ㇾ生、若有生緣、卽不ㇾ定、今尋經旨極善惡無中有、(極善卽惡生淨土、極惡惡卽地獄)今人亡、每七日營亡毎至七日。必營齋追福者、令中有種子不ㇾ轉生惡趣也《人、死して中有(ちゆうう)の身ありて、若し未だ生緣を得ざれば、七日を極(かぎ)りとして住(ぢゆう)し、死して、復た、生く。是くのごとく、展轉として、生死(しやうじ)し、七七日(しちしちにち)に至りて決定(けつじやう)して生(しやう)を得(う)。若し生緣(しやうえん)有れば、卽ち、定まらず。今、經旨(きやうし)を尋ぬるに、極善惡(ごくぜんあく)の者は、中有、無し(極善は、卽ち、淨土に生まれ、極惡は、卽ち、地獄に生まる。)。今、人、亡(ばう)じて七日每(ごと)に齋を營み、追福(ついぶく)するは、中有の種子(しゆじ)をして惡趣に轉生(てんしやう)せざらしむるものなり。》とあるを見ても、七七日の佛事と云ふ事は、後世佛敎徒間に起つた事らしい。

[やぶちゃん注:ここでの経典引用は、表記だけでなく、各部分からに合成部が甚だ多く、特に後の「釋氏要覽」からのそれは、原文中に丸括弧で挿入されるのを見ても不審が判る通り、切り張りが甚だしく、「大蔵経データベース」から、すっきり原文を抜き取ることが出来なかった。どう切り張りしたかもよく判らない箇所多かった(或いは正規の同書原本とは異なる抄録本を引用元に用いているのかも知れぬ)ため、やむを得ず、部分的に底本に従った箇所がある。但し、「齋」の字については、経典部分では「大蔵経データベース」に従い、「齋」を用い、熊楠の語る部分では、底本表記を重んじて、「齊」の字で表記した。なお、今さら言うまでもないとは思うのだが、若い読者のために注しておくと、「齋」=「齊」=「斎」は仏教語の和訓では「とき」と読み、「時」とも書き、僧侶の本来の午前中の一度きりの食事を指す。今や誰も実行している本邦の僧侶はいないと思うが、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないのである。しかし、現実的に、それだけでは、身が持たず、修行も滞るばかりか、栄養失調になって話にならないことから、非常に古くから、午後に非公式の食事を摂ることが許された。それを正しくない摂餌として心に戒めるために「非時」と呼ぶのである(現代では、そんなことを心にとめておる僧は、これまた、おるまいが)。なお、僧侶に布施として捧げる食物や物品・金銭を広く「斎料」(ときりょう)とも呼ぶ。

「第十」私の電子化訳注を見ればお判り戴ける通り、実際には、岩波「新日本古典文学大系」の底本「東大甲本」では話柄の数の番号が欠落している。但し、順列通りで欠損がないとすれば、「第十」である。

「芳賀博士の纂訂本一九三頁に、私聚百因緣集より少しく異文の同話を擧げた斗りで、出處も類語も載せず」ここ。「私聚百因緣集」(しじゆひやくいんねんしふ)は鎌倉前期の説話集。正嘉元(一二五七)年に当時四十八歳であった常陸国の浄土教の僧愚勧住信著。全九巻百四十七話。仏法の正しさを説話によって示し、衆生に極楽往生を遂げさせる機縁とすることを目的として著わされたもの。仏教の歴史に関する説話・高僧の伝記などが多いが、その総てが諸書からの引用で、その中でも特に「今昔物語集」の影響が著しく、他に「日本往生極楽記」や「発心集」の引用が目立つ。直接の関係は見られないが、親鸞布教前後の東国の浄土教の広まりを知る貴重な資料とされる。しかし、芳賀の引用を見ても判る通り、これは殆んど本篇に基づいて引用したに過ぎず、概ね、後代の本書に基づく類話や、甚だ怪しい類話でさえない話を挙げて「攷証」を書名に冠して満足している芳賀のそれは、今時の大学生でも出来てしまう頗る羊頭狗肉のつまらぬ論証が多過ぎる。私には南方熊楠の激しい苛立ちがよく判る。

「姚秦」「えうしん」(ようしん)。五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年の別名。先行する統一国家秦と区別するための呼称。

「八關齊法」「八斎戒」に同じ。インド仏教の戒律。在家信者が一昼夜の間だけ守ると誓って受けるところの八つの戒律。則ち、㊀生物を殺さない。㊁他人のものを盗まない。㊂嘘をつかない。㊃酒を飲まない。㊄性行為をしない。㊅午後は食事をとらない。㊆花飾りや香料を身に附けず、歌舞音曲等を見たり聞いたりしない。㊇地上に敷いた床のみで寝て、脚の高立派な寝台を用いない、という八戒で、主に原始仏教と部派仏教で行われた。一般に在家信者は一ヶ月に六回、日の出とともに、この戒を受けて、翌朝の日の出までそれを守った。そこから「一日戒」(いちじつかい)とも称した。在家信者の、所謂、「精進日」で、出家者に準じた在家信者の修行の一つであった。

「中有」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。]

2022/04/23

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(2) / 巻第四 震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。今回のものは本篇の「一」の『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(3)』に対する追加記事である。元が雑誌『鄕土硏究』所収のものを一括再録したものであることからこうした形を採っている。底本ではここ。当該原話は『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)』の私の注にあるので、そちらを参照されたい。]

 

〇震旦國王前阿竭陀藥來語第(一の三六四頁)に追加す。本語に、「國王阿竭陀藥と聞き給て。其藥は服する人死ぬる事无かなり。皷に塗て打つに、其音を聞く人皆病を失ふ事疑ひ无しと聞く」。此事は予未だ出處を見出し得ぬ。但し似た事は有る。北凉譯大般涅槃經九に、有人、以雜毒藥、用塗大鼓、於大衆中、撃ㇾ之發ㇾ聲、雖ㇾ無心欲ㇾ聞聞ㇾ之皆死《人、有り、雜(もろもろ)の毒藥を以つて、用ひて、太鼓に塗り、大衆の中に於いて、之れを擊ちて、聲を發せば、聞かんと欲する心、無しと雖も、之れを聞けば、皆、死す。》と見ゆ。又姚秦頃譯せしてふ無明羅刹經に、折叱王が疫鬼を平げに往く出立を記して、以阿伽陀藥遍塗身體《阿伽陀藥を以つて遍(あまね)く身體に塗る》と有る、此の藥は通常樹葉に包まれ居たと見えて、蕭齊の朝に譯せる百喩經下の末に、編者僧伽斯那此經を譬へて、如阿伽陀藥、樹葉而裹ㇾ之、取藥塗ㇾ毒竟、樹葉還棄ㇾ之、戯笑如ㇾ葉裹、實義在其中、智者取正義、戯笑便應ㇾ棄《阿伽陀藥のごときは、樹の葉にて之れを裹(つつ)む。藥を取りて、毒に塗り、竟(をは)らば、樹の葉は、還(ま)た、之れを棄つ。戯笑は、葉の裹むがごとく、實義は、其の中にあり。智者は正義を取り、戲笑は、便(すなは)ち應(まさ)に棄(す)つべし。》と有る、是等の文に據ると、最初專ら毒を防ぎ毒を解く藥だうたのが追々誇大して、何樣な[やぶちゃん注:「どんな」。]病人でも此藥を見せたら忽ち治ると持囃され(華嚴)、其から鼓に塗て打つ音聞いても病が去ると信ぜられたらしい。似た例を一二擧んに、本草綱目に、鼯鼠[やぶちゃん注:「むささび」。]を一に飛生鳥と名ける譯は、此物飛乍ら子を產むからだ、其皮毛を臨產の婦女に持せ、又其上に寢せ、又其爪を懷かせても催生[やぶちゃん注:即効性の意。「選集」では『はやめ』とルビする。]の效有ると見え居る、實は子に乳を飮せ乍ら飛行[やぶちゃん注:「とびゆく」。]を見て、飛つゝ子を產むと速斷したのだ、斯る信念は、今に熊野の山地にも存し、二年前拙妻姙娠中、予安堵峰で鼯鼠を獲、肉を拔き去り持歸つた。皮を室の壁へ懸置いた處へ山民が來て、是は怪しからぬ事をする、此物は見ても催生の力が烈しい、臨月でも無い姙婦が每々見ると流產すると話され、大に氣味惡く成り棄てて了ふた。又熊野や十津川の深山大樹に寓生する蔦の實は、血を淸むるので、血道に大効有ると云ふのみか、眺むる斗りでも婦女を無病にする由で、微い[やぶちゃん注:「ちいさい」。]小屋住居にさへ栽られ居る。

[やぶちゃん注:「(一の三六四頁)」「一」の分が載った『鄕土硏究』のページ数。

「本語に」「ほんこと」にと読んでおく。

「死ぬる事无かなり」後半は「なかんなり」。一般的でなかった「ん」の無表記で、「死ぬ危険は全くありません」の意。

「皷」「鼓(つづみ)」」に同じ。

「此事は予未だ出處を見出し得ぬ」現在でも出典は不詳のようである。

「姚秦」「えうしん」(ようしん)。五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年の別名。先行する統一国家秦と区別するための呼称。

「蕭齊」「しやうせい」(しょうせい)。南北朝時代に江南に存在した方の斉(四七九年~五〇二年)を、先行する春秋戦国の一国である「齊」と区別するための呼称。

「僧伽斯那」一般に「僧」を名に繋げて「そうぎやしな」と読まれる。

「戯笑」一部の経典にあるような、半ばふざけたように見える方便の経説のことを指すか。

「本草網目に、鼯鼠を一に飛生鳥と名ける」李時珍は大分類に於いてさえ、「獸」でも「鼠」でもなく、巻四十八のまさに「禽之二」に入れている(一度は正しく「獸」部に入れたものもあったのに、わざわざ配置換えをしていて致命的)。「漢籍リポジトリ」のこちら[112-50a] から[112-50b]を見られたい。ムササビは「䴎鼠」(ルイソ)という名で立項されてあるが、「鼯鼠」の表記も既にあげられてあり、「釋名」の最後に、その「飛生鳥」を認める。そうして、「發明」の箇所に、確かに、あった。「時珍曰、能飛而、且產。故、寢其皮懷其爪、皆、能催生。其性、相感也。濟生方治、難產、金液丸用、其腹下毛。爲丸服之。」がそれだ。寺島良安も本書に倣って「原禽類」に分類してしまい、この異名と、「飛びながら出産する」の部分を引いてはいる。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。但し、良安はどこかでこの鳥の仲間とする分類法に、深く疑問を持っていたようで、「第三十九 鼠類」にも、盛んにムササビらしき動物が、複数回、顔を出している。

「安堵峰」『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。地図をリンクさせてある。

「皮を室の壁へ懸置いた處へ山民が來て、是は怪しからぬ事をする、此物は見ても催生の力が烈しい、臨月でも無い姙婦が每々見ると流產すると話され、大に氣味惡く成り棄てて了ふた」熊楠先生の優しさがちらっと見えて、ええ感じやな❤

「蔦」「選集」では『やしお』とルビするが、この読みを聴いたことがなく、また、検索でも掛かってこない。更に、木蔦の特定種を指すのかどうかも判らなかったので、ここで注するに留める。]

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