[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って十一段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。以下の添え辞の「今昔物語集」の標題は私の記事標題が正しく、不全である。読みは「四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)」である。またまた、読みが難しい字が他出するので、今回は私が推定で( )で読みを直接に入れ、数少ない底本のそれは、《 》で示した。]
三
(通四國邊地僧被打成馬語出典考承前)
予一切經を通覽せしも、此羅馬俗話其儘の同話又類話は無い、然し前の部分に酷似(よくに)たのと、後の部分に大體似たのが別々に有る、乃(すなは)ち唐の義淨譯根本說一切有部毘奈耶(いうぶびなや)雜事二七に、鞞提醯國の善生王(ぜんしやうわう)の夫人男兒を生む、此兒生れ已(をは)りて國民皆な飮食(おんじき)を得易く成(なつ)た迚、足飮食(すうおんじき)と名く、善生王の後又別に夫人を娶り子を生み、立(たて)て太子とす、足飮食王子住(とど)まれば、必ず誅せらるべしとて、半遮羅國に遯(のが)れ、其王女を娶り男兒を生む、其日國中飮食得易かつたので多足食(たすうじき)と名く。程無く父王子歿しければ、王命により其妃を或る大臣に再嫁し、多足食王子も母に隨て其大臣方に在り、時に、大臣家有ㇾ雞栖宿、相師見已、作二如是語一、若其有ㇾ人、食二此雞一者、當二得爲一ㇾ王、大臣聞已、不ㇾ問二相師一、便殺二其雞一、謂二其妻一曰、汝可三營ㇾ膳待二我朝還一、夫人卽令二烹煮一、時多足食從二學堂一來、不ㇾ見二其母一、爲二飢所一ㇾ逼、見ㇾ有二沸鐺一、便作二是念一、我母未ㇾ來、暫觀二鐺内一、有ㇾ可ㇾ食不、遂見二雞頭一、卽便截取、以充二小食一、母既來至、問言食未、答曰且食二雞頭一、母卽與ㇾ食、令ㇾ歸二學所一《大臣の家に鷄(にはとり)有りて、栖み宿る。相師[やぶちゃん注:占い師。]、見已(をは)りて、是くのごとき語を作(な)す、「若し、其れ、人、有りて、此の鷄を食らへば、當(まさ)に王と爲(な)るを得べし。」と。大臣、聞き已りて、相師に問はずして、便(すなは)ち、其の鷄を殺し、其の妻に謂いて曰はく、「汝、膳を營んで、我が朝(てう)より還るを待つべし。」と。夫人、卽ち、烹煮(はうしや)せしむ。時に、多足食、學堂より來たりて、其の母を見ず。飢えの逼(せま)る所と爲(な)りて、沸ける鐺(なべ)の有るを見るや、便ち、是れ、念(おも)ひを作(な)すに、『我が母、未だ來たらず。暫く鐺の内を觀(み)ん、食ふべきものの、有りや不(いな)や。』と。遂に鷄の頭を見、卽ち便ち、截り取りて、以つて小食に充(あ)つ。母、既に來たり至り、問ふに、「食せりや、未だしや。」と言ふ。答へて言はく、「且つは、鷄の頭を食せり。」と。母、卽ち、食を與へ、學所に歸らしむ。》、大臣歸り見ると鷄頭無し、妻に問(とう)て兒が食(くふ)て去つたと知る。抑(そもそ)も此の鷄を全(まる)で食(くふ)て王と成得るか、少しく食ふても成れるかと疑ひを成(しやう)じ、彼(かの)相師に問ふと、答ふらく、全身を食(くは)ずとも、頭さへ食(くふ)たら王に成る、若し他人が鷄頭を食たなら、其奴(そやつ)を殺し、其頭を食ふと王に成ると、大臣便ち彼(かの)繼子を殺さんとて、妻に夫と子と何(いづ)れが王に成(なつ)て欲(ほし)いかと尋(たづね)る、妻、お座成(ざなり)に夫の方を望むと答へ、私(ひそか)に子をして其亡父の生國へ逃れしめた、其の途上で、丁度亡父の弟王病死し、群臣嗣王(しわう)を求むるに出會ひ、此兒人相非凡だから、選ばれて王に成(なつ)たと有る。
[やぶちゃん注:「鞞提醯」「選集」には『ヴイデハー』とルビする。古代インドのどこかは不詳。
「善生王(ぜんしやうわう)」底本は「無生王」。「選集」の表記を「大蔵経データベース」で同経典を確認して訂した。後の同語も、かくした。]
「半遮羅」「選集」には『パンチアーラ』とルビする。同前。
「父王子」原文を見たが、以上のパートはもっと複雑で恐ろしく長い。熊楠はそれを、無理矢理、簡略化しているのである。そのため、判り難いが、ここは逃れた半遮羅国の義父王の嗣子の王子が亡くなったのである。以下、二国の継嗣問題が絡んでいるために実はかなり解読が難しいのだが、私はそのように読んだ。]
一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行、卷二、頁一八に、「グラニ」人年々鷄の宴を催す、各村の戶主各一鷄を僧方に持集(もちよ)り、大鍋で煮た後、その僧一片づゝ鷄肉を一同へ輪次盛り廻るに、鷄頭を得る者は、其年中、特にアリ聖人の贔屓を受(うく)るとて欣喜す、此輩又墓上に鷄像を安置し、鷄像を形代(かたしろ)として諸尊者の祠に捧ぐと見ゆ、熊楠謂ふに、古印度の提醯國民も、此波斯(ペルシヤ)のグラニ人も、梵敎と囘敎を信じ乍ら、以前鷄を族靈《トテム》として尊崇した故風を殘存したのであらう。
[やぶちゃん注:「選集」では、以上の段落は全体が一字下げである。確かに、次の段落では
『一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行』イングランドの男爵クレメント・アウグストゥス・グレゴリ・ピーター・ルイス・ドゥ・ボーデ(Clement Augustus Gregory Peter Louis De Bode, baron 一七七七年~一八四六年)かと思われる。この“Travels in Luristan and Arabistan”の作者として知られるだけのようである。「ルリスタン」が現在のイランのロレスターン州:ラテン文字転写:Lorestān)。イランでも古い歴史をもつ地域で、紀元前第三千年紀・第四千年紀に、外から入ってきた人々がザーグロスの山地に住み着いたのが起源とする。位置は当該ウィキの地図を参照されたい。「アラビスタン」は旧アラビスタン首長国。十五世紀から一九二五年まで元「アラブ首長国連邦」であったが、現在はイランの一部。位置は英文ウィキ「Emirate of Arabistan」の地図を参照。「Internet archive」で原本が見られるが、熊楠の指示したページにはない。「選集」でも同じページだが、今までにも、誤記を見出した経緯があったので、ダメモトでフル・テクストを機械翻訳して調べたところが、図に当たった! これは「一八〇頁」の誤りであった! 久々に南方熊楠のオリジナル注で快哉を叫んだ! ご覧あれ! 「180」ページの十一行目に「the Gúrani」とあり、「181」の十一行目に「Ali」、十四行目に「アリ聖人」の意らしい「Ali-Iláhi」とあって、ここで熊楠の言っていることが確かに載っている! 「南方熊楠全集」再版本では注して訂すべし!]
又同書卅に、老娼他の妓輩と賭(かけ)して、女嫌ひの若き商主を墮(お)とさんとて、自分の子も商用で久しく不在也、名も貌も同じき故、吾子同然に思う迚親交す、商主老娼の艷容無雙なるに惚れ、一所に成(なら)んと言出(いひだ)すと、汝の財物悉く我家に入(いれ)たら方(まさ)に汝が心を信ぜんと言ふ、因て悉く財物を運び入れしを、後門より他へ移し去り、酒に醉睡(ゑひねむ)れる商主を薦(こも)に裹んで衢(まち)へ送り出す、大に悲んで日傭(ひやとひ)となり、偶然父の親交有りし長者方に傭はれに之(ゆ)くと、その名を聞(きき)て憐れみ慰め、女婿(ぢよせい)とすべしと云ふ、商主何とか老娼に詐(かた)り取れた財貨を取還した上(うへ)にせんと、暫時婚儀の延期を乞ふ、是時遊方(商主の名)出ㇾ城遊觀、於二大河中一、見下有二死屍一隨流而去上、岸上烏鳥欲ㇾ餐二其肉一、舒ㇾ嘴不ㇾ及、遙望二河邊一、遂以ㇾ爪ㇾ捉、箸揩二拭其嘴一、嘴便長、去食二其死肉一、食ㇾ肉足已、復將二一箸一揩ㇾ嘴、令二縮如ㇾ故無一ㇾ異。遊方見已、取ㇾ箸而歸、遂將二五百金錢一、往二婬女舍一、報言、賢首、往以二無錢一、縛ㇾ我舁出、今有二錢物一、可ㇾ共二同歡一、女見ㇾ有ㇾ錢、遂便共聚、是時遊方既得二其便一、即將二一箸一揩二彼鼻梁一、其鼻遂出、長十尋許、時家驚怖、總命二諸醫一、令二其救療一、竟無二一人能令一ㇾ依ㇾ舊、醫皆棄去、女見二醫去一、更益驚惶、報二遊方一曰、聖子慈悲、幸忘二舊過一、勿ㇾ念二相負一、爲ㇾ我治ㇾ之、遊方答曰、先當ㇾ立ㇾ誓、我爲ㇾ汝治、先奪二我財一、並相還者、我當二爲療一、答言、若令ㇾ差者、倍更相還、對二衆明一言、敢相欺負、即取二一箸一、揩二彼鼻梁一、平復如ㇾ故、女所ㇾ得物、並出相還、得ㇾ物歸ㇾ家、廣爲二婚會一云々《是の時、遊方(いうはう)(商主の名)、城を出でて遊觀す。大河の中に於いて、死-屍(しかばね)、有り、流れに隨ひて去るを見る。岩の上の烏鳥(うてう)その肉を餐(くら)はんと欲し、嘴(くちばし)を舒(の)ぶれども、及ばず。遙かに河邊(かはべ)を望み、遂に爪を以つて箸(はし)を捉(と)り、その嘴を揩-拭(こす)るに、嘴、便(すなは)ち長(の)ぶ。去(い)にて其の死肉を食らひ、肉を食らひ、足り已(をは)るや、復た、一つの箸を將(と)つて嘴を揩(こす)り、縮みて、故(もと)のごとく異なること無からしむ。遊方、見已りて、箸を取りて歸る。遂に五百金錢を將(も)つて、婬女の舍(いへ)に往(ゆ)く。報(つ)げて言はく、「賢首(そもじ)、往(さき)に、錢無きを以つて我れを縛りて、舁(かつ)ぎ出だせり。今は、錢-物(ぜに)有り。同じく歡を共にすべし。」と。女、錢あるを見て、遂に、便ち、共に聚(むつ)む。是の時、遊方、既に其の便(すき)を得て、即ち、一つの箸を將(も)て、彼の鼻梁を揩(こす)る。其の鼻、遂に出でて、長さ十尋(ひろ)[やぶちゃん注:中国では一尋は八尺。引用本は唐代であるから、一尺は三十一・一センチメートルなので、二メートル四十八・八センチメートルとなる。]許りなり。時に家のもの、驚き怖れ、總ての諸醫に命じて、其れを救療せしむ。竟(つひ)に、一人も、能く舊(もと)に依(もど)さしむるもの、無し。醫、皆、棄てて去る。女、醫の去るを見て、更に、益(ますま)す驚き惶(おそ)れ、遊方に報げて曰はく、「聖子(せいし)よ、慈悲もて、幸ひに舊過(きうくわ)を忘れ、相ひ負(そむ)くを念(おも)ふ勿(な)かれ、我が爲めに之れを治せよ。」と。遊方、答へて曰はく、「先(ま)づ、當(まさ)に誓ひを立つべくんば、我れ、汝が爲めに治せん。先(さき)に、我が財を奪ひしを、並(みな)、相ひ還(かへ)さば、我れ、當に爲めに療ずべし。」と。答へて言ふ、「若し、差(い)えしむれば、倍して、更に相ひ還さん。衆(しゆ)に對し、明言す。敢へて相ひ欺-負(あざむ)かんや。」と。即ち、一つの箸を取りて、彼の鼻梁を揩(こす)るに、平復して故(もと)のごとし。女、得し所の物、並(みな)、出だして相ひ還す。物を得て家に歸り、廣く婚會(こんくわい)を爲す云々》。
[やぶちゃん注:「同書三〇」は話が前々段落に戻って「根本說一切有部毘奈耶雜事」の第三十巻となる。ここでは、「大蔵経データベース」の当該巻のデータに不審があったので、「漢籍リポジトリ」のそれに切り替えた。このサイトは「本草綱目」の引用でよく使っており、信頼度は私的には非常に高い。]
此二話は、「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話一九〇六年板八章と十一章に出居るが、唐譯と少く異(ちが)ふ、唐譯英譯共に趣向凡て羅馬譚に似て居るが、草を食はせて女を驢にし報復する代りに、鼻を揩(こすつ)て高くし困らすとし居る。だから高木氏が、此篇の終りに明記を添えられ度(たい)のは、幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否(いなや)で、其が有らば、日本には存(そん)せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有(あつ)たと見て可(よ)い。又前にも言(いつ)た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作(な)すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ。
[やぶちゃん注: 『「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話』「西藏說話」に「選集」では『チベタン・テイルス』とルビする。調べたところ、エストニア生まれのドイツの言語学者・チベット学者であったフランツ・アントン・シェイファー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)がドイツ語で書いたものを、一八八二年にイギリスのロシア学者で翻訳家でもあったウィリアム・ラルストン・シェッデン-ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年~一八八九年)が一八八二年に英訳した“Tibetan tales”と思われる。「Internet archive」のこちらで当該版の英訳原本が読める。ちょっと当該章を読むエネルギは、ない。悪しからず。
「幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否で、其が有らば、日本には存せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有たと見て可い。又前にも言た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ」今回、再度、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」に出る「板橋三娘子」(はんきょうさんじょうし)の話を「河東記」で読み直してみた。すると、まず、熊楠の言う「草」というのは、ある。驢馬にするのに用いたものは、家の中のミニチュアの畑で、木彫りの牛と人形を使役して生えさせた蕎麦の実を元にした焼餅(シャオピン)だからである。また、鞭を打って驢馬にするシーンはないが、後半で驢馬にされてしまった三娘子に跨って主人公の李和(彼はその驢馬が三娘子であることを知っている)が驢馬に鞭打って旅をするというシークエンスはある。但し、乗る驢馬に鞭打つのは当たり前だから、熊楠の必要条件には、残念ながら、該当しない(因みに、彼女は最後には不思議な老人が、驢馬の口と鼻との辺りに手をかけて二つに裂くと、彼女がそこから躍り出て、目出度く元の人間に戻り、姿を晦まして、大団円となる)。やはり、かなり親和性の強い類話であることは、最早、間違いない。しかし、では、「今昔物語集」の例の話の原拠と言えるか? と問われると、やはり、クエスチョン、とせざるを得ない。]
幼時和歌山で老人に聞いた譚に、或人(あるひと)鼓(つづみ)を天狗とかより授り、之を打つとお姬樣の鼻が無性に長くなり、又打變(うちかへ)ると低く成ると云(いふ)事有(あつ)たが、田邊には知(しら)ぬ人勝(ひとがち)だ。和歌山へ聞合(ききあは)せた上、本誌へ寄(よす)べし。
[やぶちゃん注:以上の短い段落は、やはり補足的なもので、「選集」では全体が一字下げになっている。なお、この類話は昔話にかなりある。]
草を食(はせ)て人を驢とする話佛經にもあるは、出曜經卷十に、昔有二一僑士一、適二南天竺一、同伴一人、與二彼奢婆羅呪術家女人一交通、其人發意、欲ㇾ還二歸家一、輒化爲ㇾ驢、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴語曰、我等積年離ㇾ家、吉凶災變永無二消息一、汝意云何、爲ㇾ欲歸不、設欲ㇾ去者可二時莊嚴一、其人報曰、吾無二遠慮一、遭二値惡緣一、與二呪術女人一交通、意適欲ㇾ歸、便化爲ㇾ驢、神識倒錯、天地洞燃爲ㇾ一、不ㇾ知二東西南北一、以ㇾ是故、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴報曰、汝何愚惑、乃至ㇾ如ㇾ此、此南山頂、有ㇾ草名二遮羅波羅一、其有三人被二呪術鎭壓一者、食二彼藥草一、即還服ㇾ形、其人報曰、不ㇾ識二此草一、知當二如何一、同伴語曰、汝以ㇾ次噉ㇾ草、自當ㇾ遇ㇾ之、其人隨語、如二彼教誡一、設成爲ㇾ驢、即詣二南山一、以ㇾ次噉ㇾ草、還服二人形一、採二取奇珍異寶一、得下與二同伴一安隱歸家上《昔、一りの僑士(たびびと)有り、南天竺に適(ゆ)くに、一人と同伴するに、彼(か)の奢婆羅(じやばら)呪術家[やぶちゃん注:阿修羅を信望する呪術の家系の意か。]の女人(によにん)と交-通(まじは)りたり。其の人、發意(ほち)して、家へ還-歸(かへ)らんと欲すれば、輒(すなは)ち、化(け)して驢(ろば)と爲り、歸るを得る能はず。同伴、語りて曰はく、「我等(われら)、積年、家を離れ、吉凶災變、永く消息無し。汝の意は云何(いかん)、歸らんと欲するや不(いな)や。設(まう)けて去らんと欲さば、時に莊嚴(しやうごん)すべし。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「吾れ、遠き慮(おもんぱか)りなく、惡緣に遭(めぐ)り値(あ)ひ、呪術の女人と交-通れり。意、適(たまた)ま歸らんと欲すれば、便ち、化して驢と爲る。神識[やぶちゃん注:精神と意識。心。]、倒錯し、天地、洞然(どうねん)として[やぶちゃん注:すっかり抜けきってしまい。]一つとなり、東西南北を知らず。是の故を以つて、歸るを得る能はず。」と。同伴、報(こた)へて曰はく、「汝、何ぞ愚-惑(おろ)かなること、乃(すなは)ち、此くのごときに至るや。此の南の山の頂きに草有り、『遮羅波羅(じやらばら)』と名づく。其れ、人の呪術に鎭厭(ちんよう)[やぶちゃん注:「鎮圧」に同じ。]せらるる有らば、彼(か)の藥草を食せば、即ち、還(かへ)りて、形(すがた)を服(もど)す。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「此の草を識らず。知るには當(まさ)に如何にすべき。」と。同伴、語りて曰はく、「汝、次(つぎつ)ぎに、以つて、草を噉(くら)はば、自(おのづか)ら之れに遇ふべし。」と。其の人、語(ことば)に隨ひ、彼(か)の敎誡のごとく、設(もくろ)み成(な)して、驢と爲(な)り、即ち、南の山に詣(いた)り、次に、以つて、草を噉ひ、還(ま)た、還りて、人の形(すがた)を復(もど)せり。奇珍異寶を採取し、同伴と與(とも)に、安穩(あんのん)に家に歸ることを得たり」》、既に驢に化(かし)た人に復(もど)す草有りと云ふのだから、人に食はせると驢と成す草有りとの信念も行れた筈だ。
[やぶちゃん注:今回は、再び、原文を「大蔵経データベース」をもととした。]
紀州田邊の昔話に、夫婦邪見なる家へ異人來り、祈りて其夫を馬に化す、妻懼れ改過(かいくわ)[やぶちゃん注:過ちを改めること。]し賴む故、其人復(また)祈り、夫の身體諸部一々人形(じんぎやう)に復すと、是れ何の據(よりどこ)ろ有るを知らずと雖も、外國に似た話有り、例せば、アプレイウスの金驢篇卷十に、「ルシウス」過つて自身に魔藥を塗り、驢に化し見世物に出で、能く持主の語を解するを見て、一貴婦其主に厚く餽(おく)り、一夜化驢(ばけろば)と交會して歡を盡せしより、更に死刑に當れる惡婦を其驢と衆中で婬せしめんとする話有り。蓋し羅馬が共和國たりし昔、「ラチウム」邊の法、姦婦を驢に乘せ引き廻せし後、其驢をして公衆環視中に其婦を犯さしめたるが、後には多人(あまたのひと)をして驢に代わらしめ、屢ば其婦死に至つた。其間其人々驢鳴(ろばなき)して行刑(しおき)したとぞ(一八五一年板ヂユフワル遊女史卷一、頁三一四以下)。希臘の古傳に、「クレト」島王「ミノス」神罰を受け、其后「パシプハエ」卒(にはか)に白牡牛に著(じやく)し[やぶちゃん注:色情を発し。]、熱情抑え[やぶちゃん注:ママ。]難く、靑銅製の牝牛像内に身を潛めて、牡牛の精を受け、怪物ミノタウロス(牛首人身又は人首牛身と云)を生み(グロート希臘史、一八六九年板卷一頁二一四)、埃及の「メンデス」の婦女は神廟附屬の牡山羊に身を施し、以色列《イスラエル》の女人亦神牛に身を捨(すて)し徵(あかし)あり(ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步、一七八五年板、一卷三二二頁)中世歐州の法に、婦女驢と交(まじは)るの罪有り、十九世紀にも馬驢牛等と姦し、其畜と俱に燒かれし人多し、(ヂユフワル卷三、頁二七六、卷六、頁一八―二五)近代醫家が實驗せる歐州婦女畜と交れる諸例、孰れも狗(いぬ)のみが共犯者たりと云ふ(ジヤクー編内外科新事彙、三九卷、五〇三頁、オット、ストール民群心理學上の性慾論、一九〇八年板、九八三―六頁參照)。
[やぶちゃん注:「アプレイウスの金驢篇」「二」~(5)で既出既注。
「クレト島」クレタ島。
「ミノス」ギリシア神話に登場するクレタ島の王で、冥界の審判官の一人。『クノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる』。『ヘロドトスやトゥーキュディデスはミノスを実在の人物と考え、プルタルコスはミノスの子ミノタウロスを怪物ではなく』、『将軍の一人だとする解釈を示している』。『近年、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡から世界最古の玉座とともに古文書が見つかり、その碑文の中にミヌテ、ミヌロジャ』『という名前があったことから、ミノス王の実在を示すものではないかと言われている』(より詳しくは引用(名前の中の長音符のあらかたは省略した)元の当該ウィキを参照されたい)。
「パシプハエ」現行では「パーシパエー」と表記することが多い。当該ウィキによれば(名前の中の長音符のあらかたは省略した)、『太陽神ヘリオスとペルセイスの娘で』、『クレタ島の王ミノスの妻とな』った。専ら、『ミノタウロスの母として』『知られる』。『魔術に優れており、また』、『神の血を引くために不死だったとも伝えられている』、『その名の意味は「すべてに輝く」であり、本来はクレタ島の大地の女神だったと考えられている。ミノスは義父であるクレタ王アステリオスが死んだとき、クレタの王位を要求したが』、『受け入れられなかった。そこでミノスは王国が神々によって授けられた証に、自分の願いは何でもかなえられると言った。彼は海神ポセイドンに犠牲を捧げ、海から牡牛を出現させることを願い、その牡牛をポセイドンに捧げると誓った。すると願いはかなえられ、海中から』一『頭の美しい牡牛(クレタの牡牛)が現れたので、ミノスは王位を得ることができた。ところがミノスはその牡牛が気に入って自分のものにしてしまい、ポセイドンには別の牡牛を捧げた。ポセイドンは怒って牡牛を凶暴に変え、さらにパーシパエーが』、『この牡牛に強烈な恋心を抱くように仕向けた』とある。また、『別の伝承では』、『愛の女神アプロディーテが、パーシパエーが自分を敬わなかったため、あるいは父であるヘリオス神が軍神アレスとの浮気をヘーパイストスに告げたことを怨んで、パーシパエーをエロスに彼の弓矢で射させ、彼女に牡牛への恋を抱かせたとされる』。『パーシパエーは思いを遂げるため工匠ダイダロスに相談した。するとダイダロスは木で牝牛の像を作り、内側を空洞にし、牝牛の皮を張り付けた。そして像を牧場に運び、パーシパエーを中に入れて牡牛と交わらせた。この結果、パーシパエーは身ごもり、牛の頭を持った怪物ミノタウロスを生んだ』。『ミノスは怒ってダイダロスを牢に入れたが、パーシパエーはダイダロスを救い出してやったともいわれる』とある。
「ミノタウロス」当該ウィキによれば(仕儀は同前)、『ミノタウロスは成長するに』従い、『乱暴になり、手におえなくなる。ミノス王はダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めた。そして、ミノタウロスの食料としてアテナイから』九『年毎に』七『人の少年』と、七『人の少女を送らせることとした。アテナイの英雄テーセウスは』三『度目の生け贄として自ら志願し、ラビュリントスに侵入してミノタウロスを倒した。脱出不可能と言われたラビュリントスだが、ミノス王の娘・アリアドネーからもらった糸玉を使うことで脱出できた』。『ダンテの』「神曲」では、『「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』。『この怪物の起源は、かつてクレタ島で行われた祭りに起源を求めるとする説がある。その祭りの内容は、牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレタ島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』とある。
「ヂユフワル遊女史」「選集」に、『イストワ・ド・ラ・プロスチチユチヨン』とルビする。ピエール・デュフォワール(Pierre Dufour 生没年未詳)の“Histoire de la prostitution chez tous les peuples du monde : depuis l'antiquité la plus reculée jusqu'à nos jous”(「世界の総ての人間世界に於ける売春の歴史:最も遠い古代から我々の時代まで」)。「Internet archive」のこちらでフランス語原本の当該一八五一年版が読める。
「ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步」「選集」に、『ルシヤーシユ・スル・デザルト・ド・ラ・グレク』とルビする。作者・書誌ともに調べ得なかった。
「ジャクー編内外科新事彙」「選集」に、『ヌーヴオー・ジクシヨネール・ド・メドシン・エ・ド・シルルジー』とルビする。スイス出身でフランスに帰化した医学者(病理学)フランシス・シギスモンド・ジャクー(François Sigismond Jaccoud 一八三〇年~一九一三年)が一八六四年から一八八六年まで監修し続けた大冊の“Nouveau dictionnaire de medecine et de chirurgie pratiques”(「実用医学及び外科新辞典」)。「Internet archive」のこちらで一八六四年初版原本が見られる。
「オット・ストール民群心理學上の性慾論」「選集」に『ガス・ゲシユレヒツレーベン・イン・デル・フオルカープシコロギエ』とルビする。スイスの言語学者・民族学者オットー・ストール(Otto Stoll 一八四九年~一九二二年)が一九〇八年に刊行した“Das Geschlechtsleben inderVölkerpsychologie”。]
印度には星占の大家驢唇(ろしん)仙人の出生談が、大方等大集經(だいはうどうだいじつきやう)にも有るが、日藏經の方が較(やや)精(くはし)いから其を引(ひか)う。卷七に云く、此の賢劫初、膽波城の大三摩王聖主で、常樂一寂靜二云々、不ㇾ樂一愛染二、常樂潔ㇾ身、王有一夫人二、多貪一色欲二、王既不ㇾ幸、無ㇾ處ㇾ遂ㇾ心、曾於一一時二、遊一戯園苑二、獨在一林下二、止息自娯、見一驢合群二、根相出現、欲心發動、脫ㇾ衣就ㇾ之、驢見卽交、遂成一胎藏二、月滿生ㇾ子、頭耳口眼、悉皆似ㇾ驢、唯身類ㇾ人、而復麁澁、駮毛被ㇾ體、與ㇾ畜無ㇾ殊《常に寂靜を樂しみ云々、愛染を樂しまず、常に自ら身を潔くす。王に夫人有り、多く色欲を貪る。王、既に幸(みゆき)せず、心を遂ぐる處、無し。曾つて、一時に於いて、園苑に遊戯し、獨り、林下に在りて、止息(しそく)し、自ら娛(たの)しむ。驢(ろば)の合(あつ)まれる群れを見るに、根相、出現す。欲心、發動し、衣を脫ぎて、之れに就けり。驢、見て、卽ち、交わり、遂に胎藏を成す。月、滿ちて、子を生む。頭・耳・口・眼、悉く、皆、驢に似るも、唯だ、身(からだ)は人に類して、而して復た、麁澁(ざらつ)きて、駮(まだら)の毛、體を被(おほ)ひ、畜と殊なること、無し。》夫人見て怖れ棄(すて)しに、空中に在(あり)て墮ちず。驢神(ろしん)と名づくる羅刹婦(らせつふ)[やぶちゃん注:女の鬼。]拾ふて雪山に伴(つれ)行き乳哺す、兒の福力に因り、種々の靈草靈果を生じ、其を食ふて全身復た驢ならず、頗る美男と成たが、唇のみ驢に似たり、苦行上達して天龍鬼神に禮拜された相(さう)な。
[やぶちゃん注:今回の校閲は原経が見当たらなかったので、「大蔵経データベース」で語句で検索、最も近い「法苑珠林」(道世撰)のものを参考にしつつ、底本に従った。
「驢唇仙人」「選集」には『クハローチトハ』とルビがある。「佉盧虱吒」(かるしった:現代仮名遣)とも名乗る。サンスクリット語「カローシュティー」の音写。彼は釈迦の前身であるとも言われる。
「膽波」同前で『チヤンパ』とある。ガンジス河の南岸にあった国。玄奘の行った頃は小乗仏教国として記されてある。]
大英博物館宗敎部の祕所に、牡牛が裸女を犯す所を彫(ほつ)た石碑が有つた、元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな。滅多に見せぬ物だが、予特許を得て、德川賴倫(よりみち)前田正名(まさな)鎌田榮吉野間口兼雄諸氏に見せた。十誦律六二に、佛比丘が、象牛馬駱駝驢騾(らば)猪羊犬猿猴麞(くじか)鹿鵝雁孔雀鷄等における婬欲罪を判(わか)ち居る、西曆紀元頃「ヴアチヤ」梵士作色神經(ラメイレツス佛譯、一八九一年板、六七―八頁)に根の大小に從ひ、男を兎(うさぎ)特(をうし)駔(をうま)、女を麞(のろ)騲(めうま)象と三等宛に別ち、交互配偶の優劣を論じ居るが、別に畜姦の事見えず。本邦には上古、畜犯すを國津罪の一に算へ、今も外邦と同じく、頑疾の者罕(まれ)に犬を犯すあるを聞けど、根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる外に、大畜を犯せし者有るを聞ず、或書に人身御供に立ちたる素女(きむすめ)を、馬頭神來り享(うけ)、終りて其女水に化せし由記したれど、其本據確かならず、但し人が獸裝を成(なし)て姦を行ふ事は、羅馬のネロ帝を首(はじ)め其例乏しからぬ、(ジユフワル卷二、頁三二二。十誦律卷五六。「ルヴユー・シアンチフヰク」、一八八二年一月十四日號に載せたる「ラカツサニユ」動物罪惡論三八頁)要するに、吾國に婦女が牛馬等と姦せし證左らしき者無ければ偶ま夫の根馬の大(おほき)さで常住せん事を願ひし話有りとも、本邦固有の者で無く、外より傳へたか、突然作り出したかだらう。
[やぶちゃん注:「德川賴倫」以下の人名注を附けるほど私は愚かなお人好しではない。悪しからず。
「元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな」これとかなり似た境界碑の民俗資料を(日本ではなく中国か台湾の孰れかであったように記憶する)確かに読んだことがあるのだが、今すぐには思い出せない。発見次第、追記する。
「騾(らば)」♂のロバと♀のウマの交雑種である家畜奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus 。その他の組み合わせが気になる方は、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)」の私の注を参照されたい。
「麞(くじか)」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis。朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、小型のシカ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」を参照。
「色神經」「選集」には『カマ・ストラ』とルビする。古代インドの性愛(カーマ)書「カーマスートラ」(「スートラ」は「経」の意)。四世紀頃のバラモンの学者バーツヤーヤナの作と伝えられる。性愛に関する事項をサンスクリットの韻文で記し、文学的価値も高い。「愛経」とも訳す。
「根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる」私のブログ版「耳囊 大陰の人因果の事 ≪R指定≫」を読まれたい。
「ルヴユー・シアンチフヰク」雑誌名だが、不詳。
「ラカツサニユ」不詳。]
鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ、畜化狂とも言うべき精神病で(洋名リカンツロピー)、他人に化せられざりしと、身體の變ぜず、精神と動作のみ馬と成(なつ)た點が、今昔物語の話と差(ちが)ふ。若し見る人々の精神も偕(とも)に錯亂したなら、此人身體迄も馬に化したと見えるかも知れぬ。然る時は今昔物語の話を實際に現出する筈だ。故に這般(しやはん)の[やぶちゃん注:これらの。]諸話を全然無實と笑卻(わらひしりぞ)く可きで無い。因果物語中の卅三にも、馬に辛かうた者が、馬の眞似して煩ふた例三つ迄出し居る。歐州に狼化狂多く、北亞非利加に斑狼(ハイエナ)狂多く、今も日本に狐憑き多き如く、寬永頃馬を扱ふ事繁かつた世には、馬化狂が多かつたんだ。又同物語、下一六に、死後馬と生れし二人の例を列(つら)ぬ。是は變化(へんげ)ならで轉生(てんしやう)だ。佛典に例頗る多いが、一つを載(のせ)んに、佛敎嫌ひの梵志[やぶちゃん注:バラモン僧。]、豫(かね)て沙門が人の信施を食ひ乍ら精進せぬと、死(しん)で牛馬に生れ、曾て受(うけ)た布施を償ふと聞き、五百牛馬を得る積りで、五百僧を請じ、食を供へる、其中に一羅漢有り、神通力で其趣向を知り、諸僧に食後專心各(おのおの)一偈を說(とか)しめ、扨梵志に向ひ、最早布施を皆濟(すま)したと言(いふ)たので、大(おほい)に驚き悟道したと、經律異相卷四十に出ちよる。
[やぶちゃん注:「鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ」鈴木正三(天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:江戸初期の曹洞僧で仮名草子作家。俗名の諱では「まさみつ」と訓じている。元は徳川家に仕えた旗本で、本姓は穂積氏)が生前に書き留めていた怪異譚の聞書を、没後に弟子たち(記名では義雲と雲歩撰とする)が寛文元(一六六一)年に出版したもの。江戸初期の怪奇談集として優れたもので、何時か電子化注をしたいと思っている。「愛知芸術文化センター愛知県図書館」の「貴重本和本デジタルライブラリ―」の一括PDF版の「64」コマ目の終りから視認出来る。初版原本だが、極めて読み易い。標題は「生ながら牛と成(なる)僧付」。後の「付けたり」の話の最後に、「寛永十六年の春、不圖(ふと)、煩付(わづらひつき)て、百日程、馬(むま)の真似して、雜水(ざうみづ)を馬桶(むまをけ)に入(いれ)て吞(のま)せ、卽ち厩(むまや)に入て置(をく)に、四足(よつあし)に立(たち)て、足搔(あしかき)して、狂(くるひ)、力、強(つよく)、氣色(けしき)怖布(をそろしく)なり、卅八歳にて死にけり」と終っており、以下で熊楠が、「寬永頃」(一六二四年から一六四四年までで、家光の治世)と語っているのは、この記載に拠ったものであると考えられる。
「リカンツロピー」lycanthropy。ライキャンスォロフィー。狼狂・狼憑き。ギリシア語(ラテン文字転写)「lykos」(狼)と「anthrōpos」(人間)の合成語。
「變化」「選集」では『メタモルフオシス』とルビする。初出誌のルビかと思われる。
「轉生」同前で『トランスミグレーシヨン』とルビする。]
歐州にも馬化狂がある。九年前の「ノーツ、エンド、キーリス」に據(よる)と、葡萄牙に「ロビシヨメ」とて、若い男女形貌枯槁し、長生せず、夜每に馬形を現じ、曙光出る迄休み無く山谷を走り廻る、夜中彼が村を走り過(すぐ)る音を聞く土民、十字を畫く眞似し、「神ロビシヨメを愍(あは)れみ祐(たす)けよ」と言ふ。之を救ふ法は唯一つ、勇進して其胸を刺し、血を出し遣(や)るのだ。或は言ふ、其人顏靑く疲れ果て、形容古怪で、他人之と語らず、怖れ且憐れむ、婦女續けて七男子を生むと、最末子(さいばつし)が魔力に依て「ロビシヨメ」となり、每土曜日驢形を受け、犬群に追れつゝ沼澤邑里(いうり)を走廻り、些(いささか)も息(やす)み無し、日曜の曙を見て纔かに止む、之を創(つ)くれば永く此患無しと。又言く、同國で狼に化する兒を「ヨビシヨメ」と言ひ、今も地下に住む「モール」人が、嬰兒に新月形(囘敎徒の徽章)を印し、斯(この)物に作(な)すと。熊楠謂ふに、「ロビシヨメ」「ヨビシヨメ」名近ければ、元或は驢又馬或は狼に化すとしたのが、後に二樣に別れたんだらう、之と較(やや)近いのは、同國の俚譚に、王后が馬頭の子でも可(よい)からと、神に祈つて馬頭の太子を產み、後年募(つのり)に應(わう)じ其妻と成(なつ)た貧女の盡力で端正の美男と成たと有る。(一八八二年板、ペドロソ葡萄國俚譚二六章)。誰も知る通り、印度の樂神乾闥婆(けんだつば)は馬頭の神だ(グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七)
(大正二年鄕硏第一卷十號)
[やぶちゃん注:「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and Queries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。
「ロビシヨメ」lobisomem。但し、現在のポルトガル語では「ロビゾーメーン」で、後の「ヨビシヨメ」の「狼憑き」を指す語である。
『地下に住む「モール」人』H・G・ウェルズの「タイム・マシン」(The Time Machine:一八九五年)に登場する未来世界の地底人モーロック(Morlock)の元となったとされる、旧約聖書に出る「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれ、人身御供が行われたことで知られる古代の中東で崇拝された神モレク(Molech)の変化したものか。綴りが判らないので調べようがない。
「ペドロソ葡萄國俚譚」ポルトガルの歴史家・民俗学者のゾフィモ・コンシリエーリ・ペドロソZófimo Consiglieri Pedroso 一八五一年~一九一〇年)が一八八二年にロンドンで発行した「ポルトガル民話譚」(Portuguese Folk-tales)。「Internet archive」で見つけた(対訳本)。英文の当該箇所はここ(右ページ)から。
「乾闥婆」「選集」では『ガンダールヴアス』とルビを振る。サンスクリット語「ガンダルヴァ」の漢音写で、「食香」「尋香」「香神」などと意訳する。仏法護持の八部衆の一人。帝釈に仕え、香(こう)だけを食し、伎楽を奏する神。「法華経」では観音三十三身の垂迹の一身に数えている。
「グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七」既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」(Zoological Mythology)。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。但し、決定的な記載は三六九頁の注辺りであろう。]