桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ)
[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁四行目から。]
〔桑原〕 これまでの書物には、八雲先生と小泉節子さんの結婚はお宅であつたと書いてありますが、最近西田精博士の說によれば、京店の織原の借家時代とのことですが、どれがほんとうですか。
[やぶちゃん注:「京店」「きやうみせ(きょうみせ)」と読む。ここ。以下、少々、私自身の意識の中での迂遠にして神経症的な注にお付き合い戴きたい(特異的に段落を作る)。
私は、小泉八雲を偏愛すること、人後に落ちないが、鳥取・島根に旅したのは、十五年前、八雲が優れた紀行を残した隠岐(私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (一)』以下、全三十五回の長篇)に三泊で行ったきりで、一昨年の十二月上旬に連れ合いがセットした紅葉狩のツアーで行ったのが、初めてであった。されば、松江は、驚いたことに、コースで松江城に登るだけのタイトな状況で、甚だ悲しいことに、八雲の松江の足跡を辿ることは、殆んど、出来なかった(但し、初日の鳥取では、八雲がセツさんと新婚旅行に行った海岸沿いの景色や神社を訪ね、八雲が感動した海に対した墓地群を遠見乍ら、堪能出来たことは素晴らしかった)。されば、松江市内のことにも、全く冥い。されば、この「京店」を冠した地区名も、躓いた。
まず、ツネさんの語りから、松江の特定の商店を多く持つ広域の街区を指す呼称であることは判った。しかし、その由来は、ゼロから調べねばならなかった。
ともかく、グーグル・マップ・データを見てみた。旧富田旅館の北直近の東西に走る「松江京店商店街」がある。
が、ふと、見ると、西の方にある南北の細い道路に「京屋小路」とあった。
さて。ここで、ちょっと戸惑った。
現在の小路(しょうじ:松江市では「こうじ」ではなく、「しょうじ」と読むのが一般的のようである。新しい小路名でも「しょうじ」と読んでいるものがある。「しょうじ」の読みは、特異的なものではないが、私は鎌倉及びその周辺の郷土史研究をしているが、「せうじ」「せうろ」の呼称を史料等で見聞したことはない。但し、直近の、安来港に面した明治期の商家や小路(しょうじ)といった古い町並みが残る安来市安来町の新町にも同様の呼称があることが、「山陰中央新報デジタル」の記事(ブログ「建築・まちづくり通信」の画像で確認出来た)の「京屋小路」(きょうやしょうじ)の解説碑から、宍道湖湖岸に南に走るものを「京屋小路(きょうやしょうじ)」と呼称している。そのサイド・パネルの解説碑の画像から起こすと、
『ここから今夜小路(こんやしょうじ)から、反対側の南の宍道湖岸に至る通りが京屋小路です。江戸時代に塩で財を成した豪商京屋萬五郎の大店』(一般的な江戸時代の呼称で「おほだな(おおだな)」「おほみせ(おおみせ)」があるが、私は前者に馴染んでいる)『に接していたことから、小路の名となりました』。『湖岸の京屋灘座敷(現在』の『ふこく生命ビル』』(ここ)『は、伊能忠敬が文化3(1806)年』、『松江地方測量のため、1カ月間逗留(とうりゅう)し、療養しながら測量の基地とした場所でもあります。』とあった。
「京店」とこの「京屋小路」の関連性はあるのか? それが気になったのだが、しかし、この小路は、どうみても、位置的に「京店」とは、イコールではあり得ないと感じた。
ここでツネさんの言っている「京店」は、前に地図リンクした東西に走り、しかも、大橋川河岸の部分までの幅の広い地域を呼ぶものと推定される。それは、「富田旅館」から、直ぐ東側の地にハーンと節子は借家に移っているのを、富田ツネさんが、そこを「京店」と呼んでいるからである。
而して、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」(同組合本部は、ここ。富田旅館があったところにより近い)の解説に(行換えを詰めた)、『約60店舗のお店からなる京店商店街』で、『100年以上続く老舗』とし、『茶人として名高い不昧公好みを受け継ぐ菓子店』、『和食・洋食・中華などの飲食店』、『オシャレなブティックや美容室』、『めのう、八雲塗りの漆器・陶器、安来鋼の刃物店』があり、『頑固な店主の話を聞いたり、かわいい小物を手にとったり』、『色々な楽しみ方ができる京店商店街』と紹介し、『【京店商店街の始まり・歴史】』の項には、『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われています』(☜)。『現在は「星ふる街・恋する街 京店商店街」をコンセプトに、まちづくりをしています。時代の流れとともに京店商店街は大きく変わりましたが「歴史・伝統・文化を感じるまち」ということは、これからも大切にしていきます』とあるのである。
そこで、ネット検索をした結果、サイト「しまね地域資料リポジトリ」の『松江城研究4』(松江市・二〇二二年三月発行・PDFでダウンロード可能)の中の、大矢幸雄氏の「城下町松江の近代都市化に向けて-江戸時代後期から明治時代初期までの動向-」を見たところ、その「( 3 )武家地の細分化と町人地の繁栄」の「②初期町人層の交代と商業機能の集積」を読んで、やっと、私のモヤモヤがすっきりした。以下、部分引用する(太字・下線は私が附した)。なお、以下の引用文に出る「白潟」「町」・「白潟本町」は現在の、大橋川を挟んだ、現在の松江大橋を渡った右岸部分の白潟本町(しらかたほんまち)を指す。
《引用開始》
開府当初の「堀尾期給帳」(東大史料編纂所「山路文書」)には、家臣の武士名とともに扶持を与えられた町人、京屋万五郎、近江屋与左衛門、平田屋五兵衛、魚屋権六、難波屋庄介、桶屋善三郎、目代市右衛門(鶴屋か)宍道鉄屋久左衛門などとともに、鉄砲鍛冶屋の国友藤介をはじめ多数の細工人、大工、船頭等の名が記されている。これらは松江藩に抱えられた御用商人や職人たちと推定される。こうした城下町成立期の担い手であった御用商人・職人たちは「寛永期には遠隔地の地名が目を引くが、元禄期には商品名や領内の地域名を屋号にしているのが多い」として、城下町の経済的位置が変化していることを推測している(松本2013:174)。
元禄年間(1688-1703)「末次本町絵図」には兵庫屋、京屋、大和屋など近畿方面に縁をもつと思われる屋号が確認できるが、狭い範囲の町人地を描いた絵図のためか在郷町人と推定できる屋号は沢屋のみである。この絵図とほぼ同時期の「白潟火事図面」(延宝4 年(1676))には中世からの居住者森脇甚右衛門とともに鶴屋与兵衛、伊予屋、備前屋、尾張屋などの他国商人のほか、屋号に「櫛や、のこや、茶や、薬や、から物や、布や」と職種や商品名のついた屋号があり、開府当初からの町人層が17世紀末頃になお末次・白潟両町に居住していたと推定される。
《引用終了》
飛んで、「⑤多様な町で構成される末次町人地」の冒頭部(注記記号は原本を見られたい)。
《引用開始》
末次町人地(一部を含む)を描いた絵図は翻刻図・原図・貼図を含めて4 枚確認している(表2)。
元禄年間(1688-1703)の「末次町屋図」は末次本町・京店付近を中心に描かれており、上述したように他国に縁をもつと思われる新屋(鶴屋)、大和屋、京屋、兵庫屋などの屋敷があり、沢屋など在郷町人の屋敷もある。本町角には町役の大目代・大年寄を勤める新屋伝右衛門(瀧川家)の屋敷があり、兵庫屋、虎屋とともに300坪を超える屋敷である。居宅は通りの南側に多く、北側は貸家(表借家)が多いなどの特徴があるが、総じて末次本町の中心地や代表的な商人の屋敷面積は白潟本町と比較して狭い。
《引用開始》
以上の太字・下線部分に着目されたい。
★塩で財を成した豪商京屋萬五郎は、確かに、江戸時代の開府後の松江城の城下町成立期に大店「京屋灘座敷」を建て、名を馳せた。既に、その頃には、あの「小路」(しょうじ)は、末次町界隈で既に「京屋小路(きやうやしやうじ)」と呼ばれていたかも知れぬ。あってもおかしくはない。しかし、
✕それが、広域の「京店」の発祥ではなかった
のである。あくまで、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」の解説にある通り、
◎『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われてい』るというのが
◎「松江人の認識」
なのである。
さらに言えば、京屋萬五郎が以下に豪勢な屋敷を作っても――彼京屋萬五郎は、大矢幸雄氏の論文が、二度、示す通り、「松江人」ではなかった――のであり、
◎「松江人」でない異邦人の屋敷の屋号「京屋」が「京店」になることは――絶対に――ない――
と、私は、断言するものである。『そんな、狭小なことを松江人がするか?』と言う人がいるかも知れぬ。しかし、江戸時代に国外からやって来た人々は、どんなに優秀で財を成しても、詰まるところ
――「松江人」ではない――異邦人=‘ L'Étranger ’(レトランジェ)――
なのである。
そうだ!……
ラフカディオ・ハーンが異邦人であったように!……
……既に述べた通り、小泉八雲が松江を去ったのは――「寒さ」ゆえ――ではなかったのだ!――異邦人を妻としたセツさんに対する当時の「松江人」の「洋妾(ラシャメン)」という偏見に対して――セツは勿論――八雲自身が――どうしても耐えられなかった――からなのである!…………
さても。私の以上の検証と見解に異義がおありになれば、何時でも相手になろう。私は、鎌倉の荏柄天神の敷地内で生まれた「鎌倉人」であるが、練馬の大泉学園、富山の高岡市伏木、渋谷区東山を経て、また、鎌倉に戻った。しかし、自らを「鎌倉人」と自覚したことは、人生の中で一度も――ない。私もまた――魂のレトランジェ――である。
長々と私のグダグダに附き合って下さった読者には、御礼申し上げるものである。
「西田精博士」西田千太郎の弟。ウィキの「西田千太郎」によれば、明治一〇(一八七七)年生まれで、昭和一九(一九四四)年逝去。『東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、九州帝国大学教授、工学博士、各地の上下水道の調査設計に尽力』したとある。
「織原の借家時代」既出の銭本健二・小泉凡編「年譜」によれば、明治二三(一八九〇)年の項に、
《引用開始》
十月下旬に――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷に(末次本町)に転居する。[90―33][やぶちゃん注:同著作集の書簡番号。]は、十一月中旬(日)の一畑参詣の少し前に書かれたものと推定され、同書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある。ただし、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘……」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている。
《引用終了》]
〔富田〕 それは京店の借家時代に間違ありません。實は京店の借家に先生一人置くという譯には行かず、お信と今の臨水亭の出口の安藤と申す散髮屋の娘のお萬と申すものと二人を女中として附けておき、三度のお食事は總て私方より運びました。
[やぶちゃん注:このページの左下には、切り絵でしっかりした西洋椅子が描かれ、中央上部に「椅子」と彫られてある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っている。
「それは京店の借家時代に間違ありません」国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』の「国文学年次別論文集 近代4 昭和五五(一九八〇)年」(学術文献普及会編集・一九八二年朋文出版刊)の勝部良子氏の論文「小泉八雲小論 ―小泉節子との結婚を考える―」(『園田学園女子大学国文学科報』第一巻・三月発行)の中で、本書のこの前後の質問・応答部が引用された後に(但し、漢字は総て新字となっている)、
《引用開始》
桑原氏は、この富田ツネの証言をある程度確実性のあるものとして、前記のように結婚を明治二十四年二月頃と訂正、明記したのであろう。
ところが富田ツネは、『富田旅館ニ於ケル小泉八雲先生』という小冊子の中では、「先生が結論されたのは二十三年の十二月」だと言っているのである。この小冊子は、藤井準一郎氏が昭和十一年一月に富田ツネとその主人富田太平から聞き書きをとったものである。現在富田家に保存されてある。
どちらも八雲松江在住当時から五十六年以上もたってからの懐古談であるから、信憑性に欠けるのは致し方ないことであろう。
《引用終了》
とあり、この直後に、本書「松江に於ける八雲の私生活」の内容は、『興味本位で、記述に誤りが多いとして、この書に言及したり、資料としてとり上げることを避けている八雲研究家もいる。(『小泉八雲と松江)』八五頁)』と記している。この論文は、小泉八雲とセツの結婚は何時かという、諸研究家の考証を集めている点で、この発表時時点では、よく拾っており、手頃なものではある。さても、私は、長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の「三 ハーンとセツの結婚の実情」の中の「媒酌人と結婚の時期」の――『結婚の日付』の新暦・旧暦の違いとされる内容(69ページ)こそが――最もスマートにして、妙な勘ぐりのない、納得し得る唯一の答えである――と昔から考えて来ている。是非、長谷川氏をお読みあれかし。因みに、ウィキの「小泉八雲」には、明治二四(一八九一)年一月、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子』『が』、『住み込み女中として雇われる』。『二人はすぐに惹かれあい』、『結婚する』とあり、また、ウィキの「小泉節子」には、『同居して約半年を経た』明治二十四年七『月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎』『と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ』、『約半月』、『滞在したが、ハーンは』二『日目には』、『節子を呼びよせて』、『仲よく一緒に行動しており』、『「住み込み女中」という扱いではなかった。また』、八月十一日『にハーンが友人に出した手紙には』、『節子との結婚を報じている』とある。これでいい、これで。
「臨水亭」当時、ここにあった料亭。「百年料亭ネットワーク」の「島根県松江市 臨水亭 不昧公が通った名店 〝宍道湖七珍〟が自慢」の記事に、『明治23』(一八九〇)『年創業。島根県松江市と出雲市にまたがる宍道湖に面している。庭園越しに宍道湖を眺め、スズキやウナギ、シジミといった「宍道湖七珍」を一堂に味わうことができる』。『スズキを出雲和紙に包んで蒸し焼きにする「スズキの奉書焼き」を復活させた店として、島根県の郷土料理を松江で最初に広めた店としても名高い同店。老舗ながらも、ランチは2500円から、夜は6000円~2万円で懐石料理を楽しむことができる。松江の伝統文化を守り継ぐ一方、大広間を使ったジャズコンサートの実施や特産のシジミを使ったカレーなど新しい試みも行っており、「伝統」を守りながらも「新しさ」を融合させた松江の魅力を広く発信している料亭だ。今後も茶の文化や江戸時代からの歴史を取り入れた、新たな取り組みを展開していく』。『建物は、松江藩の御用商人の邸宅を料亭にしたもので、江戸時代は松平家によって藩の御用地として使われていたとされる。2階の大広間の欄間に白菊や雁のくぎ隠しの彫金、庭園には、殿様が立ったまま手を清めることができるよう設計された腰高のつくばいなど、歴史の面影が随所に。茶人で食通としても知られる出雲松江藩の第7代藩主、不昧公こと松平治郷がよく訪れ、正月には必ず立ち寄ったと伝えられている』。『また、近くには国宝・松江城をはじめ、北側湖畔に面した温泉地「松江しんじ湖温泉」や、文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこよなく愛し、日本夕日百選の一つである宍道湖に沈む夕日など見どころも豊富だ』とあるが、既に、二〇一九年に破産し、現在、閉業している。このページは保存しておいた方がよいようだ。]
ところが先生にどこか士族のお孃樣を奥樣にお世話したいというお話しが西田先生よりありまして、色々物色した末に、お信の友達に小泉節子さんという士族のお孃樣があり、このお方がよかろうということになり、私もそれがよかろうと同意を致しまして、私方より先生に紹介しました。ご同棲の翌日、私ははじめて京店のお宅に伺いますと、節子樣の手足が華奢でなく、これは士族のお娘樣ではないと先生は大不機嫌で、私に向つて節子は百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す[やぶちゃん注:「だます」。]、士族でないと、度々の小言でありましたので、これには私も閉口致しまして種々[やぶちゃん注:「いろいろ」。]辯明しましても、先生はなかなか聽き入れませんでしたが。しかし士族の名家のお孃さんに間違ありませんので間もなく萬事目出度く納まりました。
〔註〕 節子夫人の手足の發達していたのは、少女時代から父の機業場[やぶちゃん注:「はたをりば(はたおりば)」。]で勞働されためだと思われる。節子夫人が機業場で一女子として働かれたことは、小泉一雄著「父八雲を憶ふ」第三二四頁による。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページをリンクしておく。右丁の「三二四」ページの最終行にある。]
西田先生が表面の媒酌人となつているかも知れませんが實際を申せばお信の世話でした。節子さんは私方にその以前おいでたこともなく、私は御婚禮の翌朝京店にまいつて、初めて節子さまにお會い致して、その後信がお世話したに違いはありません。八雲先生は二月までは私方においででしたから、御結婚は明治二十四年の二月末あたりに間違はありません。それから女中さんが一人見えましたので、お信は私方に歸えりお萬さんはことわりました。
[やぶちゃん注:長谷川氏の「小泉八雲の妻」の「小泉八雲略年譜」の『一八九一(明治二十四) 四十一歳(セツ二十三歳)』に『二月頃、セツがハーンの家に入り、後に結婚するに至ったと思われる。』とあるのと一致する。]
序に申しておきますが、先生は明治二十四年の正月は私方にてお迎えになり、廻禮には日本式で出かけるというので、新調の紋付、羽織、嘉平次の袴、白足袋、日より下駄と云う出立ちで人力車で巡廻するというのでありました。はじめは世問並に兩下駄を用意するはずでありましたけれども、私はとても高下駄(あしだ)[やぶちゃん注:「(あしだ)」はルビではない。本文である。]では先生はあるけまいと思い、目より下駄を買つておきました。しかるにいざ出發という時、玄關先で下駄をはかせてあげましたが、先生が歩こうとて一足あげられると下駄が拔け落ちて。始末がわるく、結極一間[やぶちゃん注:「いつけん(いっけん)」。]もよう歩けませんので、先生は大不機嫌でありましたが致し方がなく、車夫は催促するし、やむを得ず靴ばきで出られました。
[やぶちゃん注:「嘉平次の袴」嘉平次平(かへいじひら)の袴。明治中期に埼玉県入間郡の藤本嘉平次が創作したところから、この名が付いた。縦糸に座繰糸(ざぐりいと:幕末から明治まで日本で行われた繰糸(そうし)法。鍋で繭を煮て、糸を手繰(たぐ)り、抱き合わさせた生糸を、歯車仕掛けで回転する枠に巻き取ったもの。江戸時代の手引の約二倍の能率を上げたが、器械製糸に押されて衰退した)、横糸に品質の劣る糸を使って織った男物の袴地(はかまじ)。単に「嘉平次」とも言う。画像を探したが、見当たらなかった。
「高下駄(あしだ)」「高下駄」は「たかげた」で、「歯の高い下駄」を言う。「あしだ」はその別称で、感じは「足駄」である。]
先生は正月の〆飾りが気に入りまして、一月末までその儘にしてくれと賴まれ、餘程永く懸けて先生を喜ばしたことなど懷かしい思い出であります。
〔註〕八雲は富田旅館より郵便局舊官舍、次に油孫の舊宅に移轉し、最後に根岸邸に移轉したとの說があるがこれは誤りで、富田旅館より織原の貸家、最後に根岸邸に移住したことが明瞭となつた。
[やぶちゃん注:この左下には、切り絵があるが、当初、松江の正月の〆飾りなのかと思ったが、どう考えても、そうは見えない(そのようなものが調べても見当たらなかった)。水面の波か、雲状紋を感じさせる装飾を施した紙燈籠を、横倒しにしたように見える物で、全く、この手の物に就いては、私にはお手上げである。「ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。識者の御教授を乞うものである。]
〔桑原〕 あなた方は八雲先生と七月間も一緖においでたのでしたが、大體に先生はどんな人だとお考えでしたか、一般的にお話し下さいませ。
〔富田〕 先生は實際に日本を愛しておられました。また非常に情深い人でありました。先生が私方にお着きになりまして間もなく、女中お信が時々眼が痛み且つ眇目[やぶちゃん注:「すがめ」。]であつたのに同情されて、自ら醫者を訪問して自費で療治を賴まれましたことや、荒川さんが日本の藝術家の常として生活の不如意なのに同情して、四斗樽を贈つてこれを慰められましたことがあります。また神社佛閣を崇敬して、何圓、何十圓の寄附をされました。何れも同情の現われでありましよう。
また民謠、童話、盆踊等に深く興味をお持ちで、度々それを聽いて深く感動されたように見受けました。私方の前通りに往來する金魚賣り、花賣り、鮮魚賣り等の呼聲なども、何時も先生は耳をすまして聽いておられました。神社、佛閣、傳說地というものは隨分澤山見物に行かれましたが、同行は大概西田先生でありました。
宿でも學校よりお歸りになると、例の浴衣に着換えて何か絶えず書き物をなさつておりました。隨分書換えをなさる方で、書換えの紙片が澤山ありましたけれど、あれ程の偉いお方とは知りませんから、その反古[やぶちゃん注:「ほご」。]は皆捨ててしまいまして、今は一枚も殘ついぇおりません。またご鄕里の寫眞や繪ハガキもトランクの中に一束もありましたが、ご所望すれば頂戴も出來ましたのに、何にも先生より貰つておかなかつたことを私共は、今に殘念に思つております。
以上で、先生のことを書いたこれ迄の害物に漏れているのではないかと思うことを全部御話し申した積りでございます。
〔桑原〕 まことに本日は突然お邪魔を致し、あなた方ご兩人お揃いの席で、五十年も前のことを互にその記恒を織りまぜてお聽かせ下さつたことに對して、私は深甚の敬意と感謝を表する次第であります。なお、ご兩人の寫眞をいたゞきとう存じます。

