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カテゴリー「小泉八雲」の673件の記事

2026/01/15

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁四行目から。]

 

〔桑原〕 これまでの書物には、八雲先生と小泉節子さんの結婚はお宅であつたと書いてありますが、最近西田精博士の說によれば、京店の織原の借家時代とのことですが、どれがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「京店」「きやうみせ(きょうみせ)」と読む。ここ以下、少々、私自身の意識の中での迂遠にして神経症的な注にお付き合い戴きたい(特異的に段落を作る)。

 私は、小泉八雲を偏愛すること、人後に落ちないが、鳥取・島根に旅したのは、十五年前、八雲が優れた紀行を残した隠岐(私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (一)』以下、全三十五回の長篇)に三泊で行ったきりで、一昨年の十二月上旬に連れ合いがセットした紅葉狩のツアーで行ったのが、初めてであった。されば、松江は、驚いたことに、コースで松江城に登るだけのタイトな状況で、甚だ悲しいことに、八雲の松江の足跡を辿ることは、殆んど、出来なかった(但し、初日の鳥取では、八雲がセツさんと新婚旅行に行った海岸沿いの景色や神社を訪ね、八雲が感動した海に対した墓地群を遠見乍ら、堪能出来たことは素晴らしかった)。されば、松江市内のことにも、全く冥い。されば、この「京店」を冠した地区名も、躓いた。

 まず、ツネさんの語りから、松江の特定の商店を多く持つ広域の街区を指す呼称であることは判った。しかし、その由来は、ゼロから調べねばならなかった。

 ともかく、グーグル・マップ・データを見てみた。旧富田旅館の北直近の東西に走る「松江京店商店街」がある。

 が、ふと、見ると、西の方にある南北の細い道路に「京屋小路」とあった。

 さて。ここで、ちょっと戸惑った。

 現在の小路(しょうじ:松江市では「こうじ」ではなく、「しょうじ」と読むのが一般的のようである。新しい小路名でも「しょうじ」と読んでいるものがある。「しょうじ」の読みは、特異的なものではないが、私は鎌倉及びその周辺の郷土史研究をしているが、「せうじ」「せうろ」の呼称を史料等で見聞したことはない。但し、直近の、安来港に面した明治期の商家や小路(しょうじ)といった古い町並みが残る安来市安来町の新町にも同様の呼称があることが、「山陰中央新報デジタル」の記事(ブログ「建築・まちづくり通信」の画像で確認出来た)「京屋小路」(きょうやしょうじ)の解説碑から、宍道湖湖岸に南に走るものを「京屋小路(きょうやしょうじ)」と呼称している。そのサイド・パネルの解説碑の画像から起こすと、

『ここから今夜小路(こんやしょうじ)から、反対側の南の宍道湖岸に至る通りが京屋小路です。江戸時代に塩で財を成した豪商京屋萬五郎の大店』(一般的な江戸時代の呼称で「おほだな(おおだな)」「おほみせ(おおみせ)」があるが、私は前者に馴染んでいる)『に接していたことから、小路の名となりました』。『湖岸の京屋灘座敷(現在』の『ふこく生命ビル』』(ここ)『は、伊能忠敬が文化3(1806)年』、『松江地方測量のため、1カ月間逗留(とうりゅう)し、療養しながら測量の基地とした場所でもあります。』とあった。

 「京店」とこの「京屋小路」の関連性はあるのか? それが気になったのだが、しかし、この小路は、どうみても、位置的に「京店」とは、イコールではあり得ないと感じた。

 ここでツネさんの言っている「京店」は、前に地図リンクした東西に走り、しかも、大橋川河岸の部分までの幅の広い地域を呼ぶものと推定される。それは、「富田旅館」から、直ぐ東側の地にハーンと節子は借家に移っているのを、富田ツネさんが、そこを「京店」と呼んでいるからである。

 而して、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」同組合本部は、ここ。富田旅館があったところにより近い)の解説に(行換えを詰めた)、『約60店舗のお店からなる京店商店街』で、『100年以上続く老舗』とし、『茶人として名高い不昧公好みを受け継ぐ菓子店』、『和食・洋食・中華などの飲食店』、『オシャレなブティックや美容室』、『めのう、八雲塗りの漆器・陶器、安来鋼の刃物店』があり、『頑固な店主の話を聞いたり、かわいい小物を手にとったり』、『色々な楽しみ方ができる京店商店街』と紹介し、『【京店商店街の始まり・歴史】』の項には、『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われています』(☜)。『現在は「星ふる街・恋する街 京店商店街」をコンセプトに、まちづくりをしています。時代の流れとともに京店商店街は大きく変わりましたが「歴史・伝統・文化を感じるまち」ということは、これからも大切にしていきます』とあるのである。

 そこで、ネット検索をした結果、サイト「しまね地域資料リポジトリ」の『松江城研究4』(松江市・二〇二二年三月発行・PDFでダウンロード可能)の中の、大矢幸雄氏の「城下町松江の近代都市化に向けて-江戸時代後期から明治時代初期までの動向-」を見たところ、その「( 3 )武家地の細分化と町人地の繁栄」の「②初期町人層の交代と商業機能の集積」を読んで、やっと、私のモヤモヤがすっきりした。以下、部分引用する(太字・下線は私が附した)。なお、以下の引用文に出る「白潟」「町」・「白潟本町」は現在の、大橋川を挟んだ、現在の松江大橋を渡った右岸部分の白潟本町(しらかたほんまち)を指す。

   《引用開始》

 開府当初の「堀尾期給帳」(東大史料編纂所「山路文書」)には、家臣の武士名とともに扶持を与えられた町人、京屋万五郎、近江屋与左衛門、平田屋五兵衛、魚屋権六、難波屋庄介、桶屋善三郎、目代市右衛門(鶴屋か)宍道鉄屋久左衛門などとともに、鉄砲鍛冶屋の国友藤介をはじめ多数の細工人、大工、船頭等の名が記されている。これらは松江藩に抱えられた御用商人や職人たちと推定される。こうした城下町成立期の担い手であった御用商人・職人たちは「寛永期には遠隔地の地名が目を引くが、元禄期には商品名や領内の地域名を屋号にしているのが多い」として、城下町の経済的位置が変化していることを推測している(松本2013174)。

 元禄年間(1688-1703)「末次本町絵図」には兵庫屋、京屋、大和屋など近畿方面に縁をもつと思われる屋号が確認できるが、狭い範囲の町人地を描いた絵図のためか在郷町人と推定できる屋号は沢屋のみである。この絵図とほぼ同時期の「白潟火事図面」(延宝4 年(1676))には中世からの居住者森脇甚右衛門とともに鶴屋与兵衛、伊予屋、備前屋、尾張屋などの他国商人のほか、屋号に「櫛や、のこや、茶や、薬や、から物や、布や」と職種や商品名のついた屋号があり、開府当初からの町人層が17世紀末頃になお末次・白潟両町に居住していたと推定される。

   《引用終了》

飛んで、「⑤多様な町で構成される末次町人地」の冒頭部(注記記号は原本を見られたい)。

   《引用開始》

 末次町人地(一部を含む)を描いた絵図は翻刻図・原図・貼図を含めて4 枚確認している(表2)。

元禄年間(1688-1703)の「末次町屋図」は末次本町・京店付近を中心に描かれており、上述したように他国に縁をもつと思われる新屋(鶴屋)、大和屋、京屋、兵庫屋などの屋敷があり、沢屋など在郷町人の屋敷もある。本町角には町役の大目代・大年寄を勤める新屋伝右衛門(瀧川家)の屋敷があり、兵庫屋、虎屋とともに300坪を超える屋敷である。居宅は通りの南側に多く、北側は貸家(表借家)が多いなどの特徴があるが、総じて末次本町の中心地や代表的な商人の屋敷面積は白潟本町と比較して狭い。

   《引用開始》

以上の太字・下線部分に着目されたい。

★塩で財を成した豪商京屋萬五郎は、確かに、江戸時代の開府後の松江城の城下町成立期に大店「京屋灘座敷」を建て、名を馳せた。既に、その頃には、あの「小路」(しょうじ)は、末次町界隈で既に「京屋小路(きやうやしやうじ)」と呼ばれていたかも知れぬ。あってもおかしくはない。しかし、

それが、広域の「京店」の発祥ではなかった

のである。あくまで、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」の解説にある通り、

◎『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われてい』るというのが

◎「松江人の認識」

なのである。

 さらに言えば、京屋萬五郎が以下に豪勢な屋敷を作っても――彼京屋萬五郎は、大矢幸雄氏の論文が、二度、示す通り、「松江人」ではなかった――のであり、

◎「松江人」でない異邦人の屋敷の屋号「京屋」が「京店」になることは――絶対に――ない――

と、私は、断言するものである。『そんな、狭小なことを松江人がするか?』と言う人がいるかも知れぬ。しかし、江戸時代に国外からやって来た人々は、どんなに優秀で財を成しても、詰まるところ

――「松江人」ではない――異邦人=‘ L'Étranger ’(レトランジェ)――

なのである。

そうだ!……

ラフカディオ・ハーンが異邦人であったように!……

……既に述べた通り、小泉八雲が松江を去ったのは――「寒さ」ゆえ――ではなかったのだ!――異邦人を妻としたセツさんに対する当時の「松江人」の「洋妾(ラシャメン)」という偏見に対して――セツは勿論――八雲自身が――どうしても耐えられなかった――からなのである!…………

 さても。私の以上の検証と見解に異義がおありになれば、何時でも相手になろう。私は、鎌倉の荏柄天神の敷地内で生まれた「鎌倉人」であるが、練馬の大泉学園、富山の高岡市伏木、渋谷区東山を経て、また、鎌倉に戻った。しかし、自らを「鎌倉人」と自覚したことは、人生の中で一度も――ない。私もまた――魂のレトランジェ――である。

 長々と私のグダグダに附き合って下さった読者には、御礼申し上げるものである。

「西田精博士」西田千太郎の弟。ウィキの「西田千太郎」によれば、明治一〇(一八七七)年生まれで、昭和一九(一九四四)年逝去。『東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、九州帝国大学教授、工学博士、各地の上下水道の調査設計に尽力』したとある。

「織原の借家時代」既出の銭本健二・小泉凡編「年譜」によれば、明治二三(一八九〇)年の項に、

   《引用開始》

 十月下旬に――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷に(末次本町)に転居する。[9033][やぶちゃん注:同著作集の書簡番号。]は、十一月中旬(日)の一畑参詣の少し前に書かれたものと推定され、同書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある。ただし、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘……」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている。

   《引用終了》]

〔富田〕 それは京店の借家時代に間違ありません。實は京店の借家に先生一人置くという譯には行かず、お信と今の臨水亭の出口の安藤と申す散髮屋の娘のお萬と申すものと二人を女中として附けておき、三度のお食事は總て私方より運びました。

[やぶちゃん注:このページの左下には、切り絵でしっかりした西洋椅子が描かれ、中央上部に「椅子」と彫られてある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っている。

「それは京店の借家時代に間違ありません」国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』の「国文学年次別論文集 近代4 昭和五五(一九八〇)年」(学術文献普及会編集・一九八二年朋文出版刊)の勝部良子氏の論文「小泉八雲小論 ―小泉節子との結婚を考える―」(『園田学園女子大学国文学科報』第一巻・三月発行)の中で、本書のこの前後の質問・応答部が引用された後に(但し、漢字は総て新字となっている)、

   《引用開始》

 桑原氏は、この富田ツネの証言をある程度確実性のあるものとして、前記のように結婚を明治二十四年二月頃と訂正、明記したのであろう。

 ところが富田ツネは、『富田旅館ニ於ケル小泉八雲先生』という小冊子の中では、「先生が結論されたのは二十三年の十二月」だと言っているのである。この小冊子は、藤井準一郎氏が昭和十一年一月に富田ツネとその主人富田太平から聞き書きをとったものである。現在富田家に保存されてある。

 どちらも八雲松江在住当時から五十六年以上もたってからの懐古談であるから、信憑性に欠けるのは致し方ないことであろう。

   《引用終了》

とあり、この直後に、本書「松江に於ける八雲の私生活」の内容は、『興味本位で、記述に誤りが多いとして、この書に言及したり、資料としてとり上げることを避けている八雲研究家もいる。(『小泉八雲と松江)』八五頁)』と記している。この論文は、小泉八雲とセツの結婚は何時かという、諸研究家の考証を集めている点で、この発表時時点では、よく拾っており、手頃なものではある。さても、私は、長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の「三 ハーンとセツの結婚の実情」の中の「媒酌人と結婚の時期」の――『結婚の日付』の新暦・旧暦の違いとされる内容(69ページ)こそが――最もスマートにして、妙な勘ぐりのない、納得し得る唯一の答えである――と昔から考えて来ている。是非、長谷川氏をお読みあれかし。因みに、ウィキの「小泉八雲」には、明治二四(一八九一)年一月、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子』『が』、『住み込み女中として雇われる』。『二人はすぐに惹かれあい』、『結婚する』とあり、また、ウィキの「小泉節子」には、『同居して約半年を経た』明治二十四年七『月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎』『と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ』、『約半月』、『滞在したが、ハーンは』二『日目には』、『節子を呼びよせて』、『仲よく一緒に行動しており』、『「住み込み女中」という扱いではなかった。また』、八月十一日『にハーンが友人に出した手紙には』、『節子との結婚を報じている』とある。これでいい、これで。

「臨水亭」当時、ここあった料亭。「百年料亭ネットワーク」の「島根県松江市 臨水亭 不昧公が通った名店 〝宍道湖七珍〟が自慢」の記事に、『明治23』(一八九〇)『年創業。島根県松江市と出雲市にまたがる宍道湖に面している。庭園越しに宍道湖を眺め、スズキやウナギ、シジミといった「宍道湖七珍」を一堂に味わうことができる』。『スズキを出雲和紙に包んで蒸し焼きにする「スズキの奉書焼き」を復活させた店として、島根県の郷土料理を松江で最初に広めた店としても名高い同店。老舗ながらも、ランチは2500円から、夜は6000円~2万円で懐石料理を楽しむことができる。松江の伝統文化を守り継ぐ一方、大広間を使ったジャズコンサートの実施や特産のシジミを使ったカレーなど新しい試みも行っており、「伝統」を守りながらも「新しさ」を融合させた松江の魅力を広く発信している料亭だ。今後も茶の文化や江戸時代からの歴史を取り入れた、新たな取り組みを展開していく』。『建物は、松江藩の御用商人の邸宅を料亭にしたもので、江戸時代は松平家によって藩の御用地として使われていたとされる。2階の大広間の欄間に白菊や雁のくぎ隠しの彫金、庭園には、殿様が立ったまま手を清めることができるよう設計された腰高のつくばいなど、歴史の面影が随所に。茶人で食通としても知られる出雲松江藩の第7代藩主、不昧公こと松平治郷がよく訪れ、正月には必ず立ち寄ったと伝えられている』。『また、近くには国宝・松江城をはじめ、北側湖畔に面した温泉地「松江しんじ湖温泉」や、文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこよなく愛し、日本夕日百選の一つである宍道湖に沈む夕日など見どころも豊富だ』とあるが、既に、二〇一九年に破産し、現在、閉業している。このページは保存しておいた方がよいようだ。

 ところが先生にどこか士族のお孃樣を奥樣にお世話したいというお話しが西田先生よりありまして、色々物色した末に、お信の友達に小泉節子さんという士族のお孃樣があり、このお方がよかろうということになり、私もそれがよかろうと同意を致しまして、私方より先生に紹介しました。ご同棲の翌日、私ははじめて京店のお宅に伺いますと、節子樣の手足が華奢でなく、これは士族のお娘樣ではないと先生は大不機嫌で、私に向つて節子は百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す[やぶちゃん注:「だます」。]、士族でないと、度々の小言でありましたので、これには私も閉口致しまして種々[やぶちゃん注:「いろいろ」。]辯明しましても、先生はなかなか聽き入れませんでしたが。しかし士族の名家のお孃さんに間違ありませんので間もなく萬事目出度く納まりました。

〕 節子夫人の手足の發達していたのは、少女時代から父の機業場[やぶちゃん注:「はたをりば(はたおりば)」。]で勞働されためだと思われる。節子夫人が機業場で一女子として働かれたことは、小泉一雄著「父八雲を憶ふ」第三二四頁による。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページをリンクしておく。右丁の「三二四」ページの最終行にある。]

 西田先生が表面の媒酌人となつているかも知れませんが實際を申せばお信の世話でした。節子さんは私方にその以前おいでたこともなく、私は御婚禮の翌朝京店にまいつて、初めて節子さまにお會い致して、その後信がお世話したに違いはありません。八雲先生は二月までは私方においででしたから、御結婚は明治二十四年の二月末あたりに間違はありません。それから女中さんが一人見えましたので、お信は私方に歸えりお萬さんはことわりました。

[やぶちゃん注:長谷川氏の「小泉八雲の妻」の「小泉八雲略年譜」の『一八九一(明治二十四) 四十一歳(セツ二十三歳)』に『二月頃、セツがハーンの家に入り、後に結婚するに至ったと思われる。』とあるのと一致する。]

 序に申しておきますが、先生は明治二十四年の正月は私方にてお迎えになり、廻禮には日本式で出かけるというので、新調の紋付、羽織、嘉平次の袴、白足袋、日より下駄と云う出立ちで人力車で巡廻するというのでありました。はじめは世問並に兩下駄を用意するはずでありましたけれども、私はとても高下駄(あしだ)[やぶちゃん注:「(あしだ)」はルビではない。本文である。]では先生はあるけまいと思い、目より下駄を買つておきました。しかるにいざ出發という時、玄關先で下駄をはかせてあげましたが、先生が歩こうとて一足あげられると下駄が拔け落ちて。始末がわるく、結極一間[やぶちゃん注:「いつけん(いっけん)」。]もよう歩けませんので、先生は大不機嫌でありましたが致し方がなく、車夫は催促するし、やむを得ず靴ばきで出られました。

[やぶちゃん注:「嘉平次の袴」嘉平次平(かへいじひら)の袴。明治中期に埼玉県入間郡の藤本嘉平次が創作したところから、この名が付いた。縦糸に座繰糸(ざぐりいと:幕末から明治まで日本で行われた繰糸(そうし)法。鍋で繭を煮て、糸を手繰(たぐ)り、抱き合わさせた生糸を、歯車仕掛けで回転する枠に巻き取ったもの。江戸時代の手引の約二倍の能率を上げたが、器械製糸に押されて衰退した)、横糸に品質の劣る糸を使って織った男物の袴地(はかまじ)。単に「嘉平次」とも言う。画像を探したが、見当たらなかった。

「高下駄(あしだ)」「高下駄」は「たかげた」で、「歯の高い下駄」を言う。「あしだ」はその別称で、感じは「足駄」である。]

 先生は正月の〆飾りが気に入りまして、一月末までその儘にしてくれと賴まれ、餘程永く懸けて先生を喜ばしたことなど懷かしい思い出であります。

〕八雲は富田旅館より郵便局舊官舍、次に油孫の舊宅に移轉し、最後に根岸邸に移轉したとの說があるがこれは誤りで、富田旅館より織原の貸家、最後に根岸邸に移住したことが明瞭となつた。

[やぶちゃん注:この左下には、切り絵があるが、当初、松江の正月の〆飾りなのかと思ったが、どう考えても、そうは見えない(そのようなものが調べても見当たらなかった)。水面の波か、雲状紋を感じさせる装飾を施した紙燈籠を、横倒しにしたように見える物で、全く、この手の物に就いては、私にはお手上げである。「ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。識者の御教授を乞うものである。

〔桑原〕 あなた方は八雲先生と七月間も一緖においでたのでしたが、大體に先生はどんな人だとお考えでしたか、一般的にお話し下さいませ。

〔富田〕 先生は實際に日本を愛しておられました。また非常に情深い人でありました。先生が私方にお着きになりまして間もなく、女中お信が時々眼が痛み且つ眇目[やぶちゃん注:「すがめ」。]であつたのに同情されて、自ら醫者を訪問して自費で療治を賴まれましたことや、荒川さんが日本の藝術家の常として生活の不如意なのに同情して、四斗樽を贈つてこれを慰められましたことがあります。また神社佛閣を崇敬して、何圓、何十圓の寄附をされました。何れも同情の現われでありましよう。

 また民謠、童話、盆踊等に深く興味をお持ちで、度々それを聽いて深く感動されたように見受けました。私方の前通りに往來する金魚賣り、花賣り、鮮魚賣り等の呼聲なども、何時も先生は耳をすまして聽いておられました。神社、佛閣、傳說地というものは隨分澤山見物に行かれましたが、同行は大概西田先生でありました。

 宿でも學校よりお歸りになると、例の浴衣に着換えて何か絶えず書き物をなさつておりました。隨分書換えをなさる方で、書換えの紙片が澤山ありましたけれど、あれ程の偉いお方とは知りませんから、その反古[やぶちゃん注:「ほご」。]は皆捨ててしまいまして、今は一枚も殘ついぇおりません。またご鄕里の寫眞や繪ハガキもトランクの中に一束もありましたが、ご所望すれば頂戴も出來ましたのに、何にも先生より貰つておかなかつたことを私共は、今に殘念に思つております。

 以上で、先生のことを書いたこれ迄の害物に漏れているのではないかと思うことを全部御話し申した積りでございます。

〔桑原〕 まことに本日は突然お邪魔を致し、あなた方ご兩人お揃いの席で、五十年も前のことを互にその記恒を織りまぜてお聽かせ下さつたことに對して、私は深甚の敬意と感謝を表する次第であります。なお、ご兩人の寫眞をいたゞきとう存じます。

2026/01/14

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが……

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。

2026/01/13

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その3) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅡ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁四行目から。]

 

〔桑原〕 先生が市內寺町の龍昌寺にある石地藏尊の彫刻に感服し、その彫刻者は當地の有名な彫刻家荒川龜齊通稱重之輔の作だということがわかり、龜齊を招請して先生がもてなされたということですがどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:「龍昌寺」現在の松江市寺町(てらまち)にある曹洞宗の白雲山龍昌寺(りゅうしょうじ:旧富田旅館の大橋川を挟んだ対岸直近に当たる。グーグル・マップで同寺の敷地内にある「小泉八雲ゆかりの羅漢像」をポイントした)。「曹洞宗 島根県第二宗務所」公式サイト内の同寺の解説が、非常に詳しい。冒頭の足利時代から江戸時代までの経緯と、秘仏である宍道湖から出た観音像の解説は、各自でお読み頂き、ハーン関連の手前から引く。『毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという』。『そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った』。『ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23928日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった』。『人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである』(私は、八雲はこの記憶のない母ローザ・カシマチの面影を感じていたものではないか、と思う)。『当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった』。『長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった』。『たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている』。『この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部』(ママ。頭部の誤植)『が欠け落ちたので、同234年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのが』、『いま』、『ある地蔵である』。『初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという』。『龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという』。『昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている』。『龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている』。『松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない』。『不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない』。『本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている』とあった。なお、先の地図の左のサイド・パネルのここで、不動像の背後に羅漢像の写真を見ることができ、また、個人ブログと思われる「お寺の風景と陶芸」の「龍昌寺 (島根県松江市) 小泉八雲ゆかり」」に添えられたこの画像では、前の写真の向かって左側の羅漢像の九体を確認出来る。更に、寺の名は記されていないが、寺町と石仏の話が、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)』の中に、以下のように出てくる。

   *

 天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。

 今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。

   *

この「徴笑を含んだ地藏」が龍昌寺のものであることは、間違いあるまい。

「荒川龜齊通稱重之輔」(あらかわきさい 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『島根県松江市横浜町出身の彫刻家で』、『名は明生、通称は重之輔』(じゅうのすけ)。『木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある』。『幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年』(明治二六年)の『シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた』。菩提寺である松江市新町(しんまち)の『洞光寺に葬られた』とある。寺はここで、龍昌寺の南方で、近い。また、「小泉八雲記念館」公式サイトの「企画展 八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」には、『荒川亀斎(初代)は1827425日、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生しました。名は明生、通称名は重之輔。亀斎は幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家でした』。『18908月に松江に赴任した小泉八雲は、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了されます。それは寺町の龍昌寺にある慈愛に満ちた地蔵で、八雲はすぐにその作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知りました。翌日、さっそく亀斎の工房を訪ねた折、その腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし』、『意気投合したといいます(山陰新聞)。その後も、八雲は』、『亀斎に作品を注文し、この彫刻家を世に紹介しようと、いわゆる作家のプロデュースを買って出ます。二人の関係は、八雲の著作や親友で島根県尋常中学校の教頭西田千太郎の日記と西田宛書簡、当時の山陰新聞などで、その交流を垣間見ることができます』。『中でも、亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」は、作品「英語教師の日記から」(『知られぬ日本の面影』所収)に詳しく紹介されています。』(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十六)』を見られたい)『これを見て大変よろこんだ八雲のもとに、亀斎は「気楽坊」を模した人形を作成し贈呈しました(小泉八雲記念館蔵)。また、八雲は、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、アドバイスもしています。この万博で「稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、亀斎は彫刻家として不動の地位を築きました』とある。]

〔富田〕 先生が荒川さんと西田、中山の兩先生を私方の二階へ招待して日本料埋のご馳走をなさつた事がありましたが、その時に、先生は私共に向つて「日本では客座敷で御客及び亭主のすわる席次があるようだが亭主として自分はどこへすわるのが本當か」と尋ねて西田先生が「あなたは入口に近いところにおすわりなさい」といわれそこにおすわりでした。さて先生は日本流に箸を使いたいにも自由にならず、例によつて握り箸で、ちようど日本の三、四歲の子供のように子供のようにして馳走を上りましたが、その上り方がまことに妙でして初めに吸物を握り箸で片付けて椀を膳の外にやり、次ぎ次ぎのご馳走も、食べては直ぐさま皿でも椀でも膳の外に並べなさるため、後では膳の上には何物もないこととなりました。他の人々は日本流に吸物、燒物、酢の物、剌身とどれも少しづつ食べてその間に酒を飮んでお出ででありましたが、何分先生は近眼でその邊がわからず、少ししてから先生も氣がついて大笑いになつたことがありました。なおその後先生は荒川さんに高さ七寸許りの木彫の笑顏の童子を彫らせて大切にして眺めておいででした。

〔桑原〕 先生はお宿の二階八疊と二疊の二間を居間としておられたようですが、冬期の暖房方法はどうなさいましたか。

〔富田〕 先生は大の寒さ嫌いでして、松江の事はなんでもかんでも氣に入りましたが、雪の降ることはまことにお嫌いでした。私方には當時ストーブは勿論なく、先生は炬燵は嫌いでしたから、ただ數個の火鉢に取圍まれておられましたが、それでも寒氣が餘程身に浸んで困られたものと察せられました。

〔桑原〕 先生は冬期感冒に罹られたことなどはありませんでしたか。先生が一度胃膓病に罹られ、田野醫師が見舞われたと或る本にありますがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「田野醫師」「山陰中央新報デジタル」の「さんいん偉人学」の「島根県近代医学の草分け 田野 俊貞(松江市で医院開業)」「医学教育や衛生普及に尽力」に以下のようにある(読みが丸括弧で本文に切れ切れにあるので、必要と判断したものを一フレーズで使用し、それ以外はカットさせて頂いた)。

   《引用開始》

 田野俊貞(たのとしさだ)(1855~1910年)[やぶちゃん注:安政二年~明治四三年。]は、松江市で医院を開業しながら医学生の教育や公衆衛生の普及に尽力し、島根県や松江市医師会のリーダーを務めるなど「島根県近代医学の草分け」と呼ばれています。

 俊貞は現在の栃木県足利市の庄屋(江戸時代の村役人)の家に生まれました。13歳の時から翻訳書で西洋医学を研究し1871(明治4)年、東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に学びます。

 77(同10)年、名古屋市の愛知県病院(現在の名古屋大学医学部)に勤務。ドイツ語が得意で、外国人医師の通訳も務めました。

 後に外務大臣や逓信(現郵政など)大臣兼鉄道院総裁など国政で活躍し、山陰本線の開設に尽力した後藤新平が医師として勤務しており、俊貞は生涯、親交を結びます。

 栃木県栃木病院長などを経て84(同17)年、島根県に採用され、島根県医学校と県松江病院(松江赤十字病院の前身)が開設されると病院長に就任します。この学校と病院は、西洋医学を学ぶ医師の養成機関でした。

 しかし、県の財政難などによって松江病院が廃止されると86(同19)年に松江市苧町(おまち)[やぶちゃん注:旧富田旅館の西直近のここ。]で田野医院を開業し、間もなくして旧苧町病院の土地、建物を買い受けて医院を拡張しました。

 その後、籠手田安定(こてだやすさだ)県知事の許可を受けて解剖を公開します。

 1907(同40)年に松江市医師会が設立され、俊貞は副会長に選ばれました。09(同42)年に島根県医師会が設立されると、副会長に選任され島根県医学界の発展に尽くします。

 また、長崎で自ら被爆しながら被爆者の治療に生涯を捧げた永井隆の父親寛(のぶる)が田野医院で修業し、医師に合格しています。隆はこの病院の一室で08(同41)年に産声をあげます。隆が被爆後も病床から手紙のやりとりをするなど、親交がありました。

 文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とも親交があり、松江市の水道設置に貢献(こうけん)したスコットランド生まれの技師バルトンの招請にも努力しました。

 医学界で一層の活躍が期待される中、俊貞は10(同43)年、55歳で病死します。

 旧田野医院(田野家住宅)は、洋風建築の様式を兼ね備えた木造2階建て。松江市内で最古級の病院建築の遺構で、島根県の近代医学の草創期を支えました。この建物は2013(平成25)年、所有者から松江市へ寄付され14(同26)年、市有形文化財に指定されました。

   《引用終了》]

〔富田〕 先生は極めて壯健なお方でして、私方におられた間に病氣をなされたことは一度もなく、衛生には餘程平常心を留めておられました。從つてお醫者のお出でたことはありません。一例を申すと外出よりご歸宿の時も、宿でお書き物のすんだ後でも、必ず手を洗い含嗽[やぶちゃん注:「うがい」。]をなさいました。

〔桑原〕 先生のお食事はどんな風でしたか。

〔富田〕 先生は朝は牛乳と數個の生卵で濟まされました。晝と晚との二食はお剌身、煮付、酢の物、燒魚等なんでもお上りでした。例の握り箸で召上りますので、魚の骨は取つて置きました。その食べ方は妙なもので、まず膳の上にある副食物卽ちお菜の方から、それを一皿一皿次ぎ次ぎと悉く平げてそれから卷鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飮まれましたが何時も大槪は水を飮まれました。先生は乾物でも干魚でも萬事好き嫌いと云うことは餘りありませんでしたが、ただ糸蒟蒻だけは嫌いで「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」といつて食べられませんでした。

 生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は晝と晩日本酒一本(一号八勺入)を飮んでおられまして、洋酒を注文したことは覺えません。珈琲も飮まれせんでしたが、ただ煙草だけは大好物でして、葉卷と刻煙草[やぶちゃん注:「きざみたばこ」。]は絶えず吸つておられました。刻煙草は日本の煙管[やぶちゃん注:「きせる」。]を使うのですが、その數がだんだんふえて數十本となり、掃除は大槪お信が引受けていました。葉卷は橫濱から大箱のものを取寄せておられました。

[やぶちゃん注:実は、ここ(「15」ページ)より二ページ前の「13」ページ下方には、金津氏の切り絵で、皿に載った食パン半斤、スプーン附きの把手のあるスープか、コーヒー・カップらしきもの(受け皿附き)があり(個人的にはカップが広過ぎで、内径幅から前者にしか私には見えないのだが)、その左下には、ミルク入れらしく見える物がある。しかし、例えば、以上の記載とも、当該位置の記載とも、全く合わない代物で、ちょっと頭を傾げるを得ない。なお、この切り絵は、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。その代り、これまた、この「15」ページには、左から右上方に向かって、木製(総て檜製か)の把手の突き上げた手桶・風呂椅子・湯桶が切り絵が配されてある(手桶と湯桶の箍(たが)は総て太い繩である)。これは、前掲ブログにある。これは、本文の少し先で、桑原氏が富田ツネにハーンが就寝・入浴する際のことを問うたところでエピソードが書かれる。

「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」ここで言う「蟲」に就いては、サイト「マグミクス」の「卵の食べ方がほぼロッキーだった『ばけばけ』ヘブンの朝食 史実を見るとそんなに「盛ってない」かも」に、『ちなみに、糸こんにゃくが虫に見えて食べられないというのも、実際のエピソードに基づいています。ヘブンは「私の国にこういう虫が!」と言っていましたが、実際は1887年から2年間滞在した西インド諸島の仏領マルティニーク』(アンティル・クレオール語:MatinikMatnik・フランス語:Martinique)『島』(ここ)『にいた虫を思い出していたそうです。』と記されてあった。これは、直ちに、平井呈一氏の「仏領西インドの二年間」の「下」で一章を作る「ムカデ」を想起させる。当該原本の当該篇は、「Internet archive」のここから視認出来る(‘ Two Years In The French West Indies ’の“BÊTE-NI-PIÉ.”)。また、日本語訳は国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第二巻」昭和六(一九三一)年第一書房刊(保護期間満了)の「佛領西印度の二年間」(大谷正信譯)の、ここの「百足蟲」で読める。但し、マルティニーク島に棲息するムカデが如何なる種なのかは、調べ得なかった。⋯⋯いんにゃ! しかし!⋯⋯ムカデと糸蒟蒻は――似てないぞッツ!?!――ハーン先生!!!

 先生は橫濱で卷鮨をあがつたことがあつて、それが餘程うまかつたと見えて、私方へお出での日より、每日のように晝晩共に必らず、巻鮨をさしあげましたが、後ではお飽きになり、普通のご飯を上げました、またフライ・エツグスの製り方は先生に敎わり每々差上げました。

〔桑原〕 洋食屋は當時鎌田才次と申すものが一軒ありましたが、先生は鎌田より洋食をとつて召し上つたことがありましたか。

〔富田〕 洋食は一切上らなかつたので鎌田から洋食を取寄せた覺えはありません。一切和食でした。從つてナイフやフオークをお用い[やぶちゃん注:「おもちい」。尊敬語。]のことはありませんでした。

〔桑原〕 先生は宿で牛肉は上りませんでしたか。

〔富田〕 宿の老人が牛は四ツ足と申して、昔から室の內に入れることを嫌いますので、先生も納得して牛肉は家の內に入れませんでした。

〔桑原〕 先生の宿泊料は當時いくら位でありましたか。

〔富田〕 先生來着當時の通辯眞鍋さんとの談判でございましたが、荒方[やぶちゃん注:「あらかた」。「だいたい」の意。]の約定は、朝は牛乳と卵、晝と晩とは卷鮨に副食物の賄[やぶちゃん注:「まかなひ(まかない)」。]で、一切をこめて一日が金參拾錢であつたと思います。當時の三十錢は今日相場にしては少なくとも十倍の三圓に當ります。今日と比較しますと萬事物價の相違はただただ驚くばかりであります。

[やぶちゃん注:以上の「參拾錢」だが、「Yahoo!JAPAN 知恵袋」の『朝ドラ「ばけばけ」の時代、10円は今の価値で幾らになりますか?』に対し、「閻魔の代理」さんが、答えているのが、よい。部分引用する。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の改行を続けた。]

小泉八雲が来日したのは明治23年です。そのころの人々の給料をウェブサイトで調べてみました。当時はインフレが著しかったようで、5年もすると給料が上がっていたようです。

明治23年当時

巡査初任給 月額6円(5年後には8円)

小学校教員初任給 月額5円(5年後には8円)

東京の大工(割と高給) 日給50銭(5年後には54銭)

小泉八雲(松江中学講師)月給100円(相当な高給)

★ここから推測すると、明治23年時点の人々の給料を現代の金額に換算するにはおおむね4万倍ぐらいするのが適当で、5年後の明治28年時点の給料を現代に換算すると3万倍ぐらいするのが適当だと判断します。つまり当時の10円は明治23年ならば40万円、同28年ならば30万円ぐらいが目安ではないかと考えます。

   《引用終了》

なお、この「17」ページには、金津氏の絵馬型のが、切り絵で載る。上方左右に、形の異なる菊花様のものが配され下方には、ひらがなの「め」を右、左でその反転したものが描かれている。私は、神社の、この手のものには全く疎いので、こう説明するしかない。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っているので、この装飾の意味が判る御仁は、是非とも解説して戴けると、非常に助かる。]

〔桑原〕 八雲先生が借りておられたあの廣大な根岸邸の家賃が、僅か月三圓半と伺いますから當時は萬事安かつたものです。就眠とか入浴というようなことはどうでしたか。

〔富田〕 寢具はベツトがありませんので、布團を高く重ねてこれを代用し暑い時は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]を釣りましたが、先生が初めての時は立つたままで蚊帳に出入りされましたのにはおかしくもあり驚きもしました。

 毎日入浴されましたが、風呂から出られますといつも冷水にかかられました。湯は微温が好きでしたが、或る日湯加減の特別熱かつた時に「地獄」「地獄」と叫ばれたことは今に一口話[やぶちゃん注:「ひとくちばなし」。]になつています。

 先生が便所に行かれる光景がこれまた實に奇觀でありまして、便所へ何時もの如く葉卷をくわええ行かれるのはよいとして、どういうものか帽子を冠つて[やぶちゃん注:「かぶつて」。]入られました。

 先生は洋傘やスケツキは持つておられなかつたのでご使用のことはありません。雨降りの時は人力車を呼んで行かれました。ネクタイは非常に狹い黑いリポンか紐に限られていました。

 

2026/01/10

『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて重要な注を追記した

『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて、重要な疑問注を追記したので、是非、見られたい。簡単に言うと、「太巢」は高井几董の別号であるという言説への疑義である。御情報を乞うている関係上、特にポストした。

2026/01/08

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

    松江に於ける八雲の私生活

 

      富田旅館時代

 

 明洽二十三年(西曆一八九〇年)八月二十五、六日の頃小泉八雲は橫濱より松江に到着直ちに富田旅館に入り、明治二十四年(西曆一八九一年)二月に至るまで七ヵ月間同旅館に滯在し、同月松江末次本町卽ち京店織原氏の貸屋に移轉した。

[やぶちゃん注:本書の年譜的記載は、例えば、私の所持する内で、最も完備している恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」と対照すると、かなり大きく異なる部分が、有意にある。その辺りは、必要と考える限り、逐一、示すように心掛ける。さても、初っ端から、事実と齟齬する記載が連続する。そこでは、『八月三十日(土)、午後四時、松江着。大橋川北岸の末次本町四一番地(東本町一町目一番地)』ここ。グーグル・マップ・データ。無指示の場合は同じ)『にある富田旅館に投宿する。』とあり(これは以下の富田旅館の女将の証言でも、日付が誤っているので注意されたい。そこまで繰り返しはしない)、『ハーンは、二回の八畳と二畳の部屋を使用することになり、女将のお常と女中のお信(島根県能義郡出身、池田ノブ)が主として身辺の世話にあたった。なお、同所に十月下旬まで寄留する』とあり、同年十月の記載の最後に、『十月下旬――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷(末次本町)』(ここ。富田旅館の西隣りの直近である)『に転居する』とあり、当時の彼の『書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある』「ひなたGISの末次本町もリンクさせておく。戦前の地図によって、宍道湖大橋もなく、まさに宍道湖を直に見通せる位置にあったことが、よく判る)。『但し、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘……」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている』とあり、未だ、この時期の住所移動時期は、今も明確には判っていないようである。また、『十一月中旬(日)、富田屋の女将お常と眼の悪いお信を伴って、一畑薬師』(いちばたやくし:一畑薬師は臨済宗総本山醫王山一畑寺(いちばたし)。平安時代に遡る言い伝えで、眼病平癒のあらたかな寺院として知られる。ここ)『に参拝する』とある。]

 富田旅館に滞在中の八雲の日常私生活を検討するため、予は昭和十五年(西曆一九四〇年)六月十五日富田旅館に富田ツネ刀自及び令息卯吉氏を訪問し、予と三人鼎座してツネ刀自より當時の實況を聽取した。

[やぶちゃん注:「鼎座」「ていざ」。「鼎」(かなへ(かなえ))の足のように、三人の者が向かいあってすわること。「鼎」は音「テイ」で、古代中国に於いて飲食物を煮るのに用いた金属製の容器。二つの耳と三本の足を持つ。古くは土器であり、飲食物を煮るだけに用いたが、後、祭祀用となった。特に夏の禹王(うおう)が九ヶ国の銅を集めて「九鼎」(きゅうけい)を作ってから、王位・帝位を表わすようになった。祭器としては、本邦では訓で「かなえ」と呼ぶことが多い。]

 なおツネ刀自は、八雲が松江在住中の記事を誌せる諸書中に、必らず現われている所の當時の富田旅館の女主人で、最も多く八雲に親炙した人であることを附言しておく。

 以下は、予がツネ刀自に對してなした問答筆記である。

[やぶちゃん注:富田ツネさんは、恐らく著作権上の問題ないと推測するが、令息卯吉氏については、判らない。しかし、これは、桑原氏の聴き取りによる桑原の記載記事であり、著作権侵害には当たらないと私は考える。実際、私は、二〇二一年一月二十三日に『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を電子化注しているが、冒頭注で、この座談に出席している人物の内、二名の没年が『判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。』と記して公開したが、五年ばかり経ったが、誰一人、それを指摘された通知を受けていない。これに就いても、万一、「卯吉氏がパブリック・ドメインではないから、インタビュー記事もダメである。」という指摘があれば、当該証明法規及び公的な没年証明書を添えて通知頂ければ、彼の回答部分のみをカットする用意はある。]

〔桑原〕 なるべく既に世に發表されていない點を主に伺いたいと思いますが、八雲が富田旅館滯在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな來歷の人でしたか、まだ存生ですか。

〔富田〕 お信は出雲國能義郡廣瀨町の池田というものの子でありましたが、兩親に早くより死別し、その祖母にあたる人が、お信の七歲の時にその弟と二人を連れて、少しのゆかりを賴つて私方に參り、お信は女中代りとして手傳を致しまして、八雲先生の見えた時お信は十五、六歲の時でした。先生の御世話は萬事私とお信とが致しました。先生は大層お信を可愛がつて英語をお敎えなさいました。そしてお信はかわいそうに二十三歲でなくなりました。

〔桑原〕 八雲先生が松江到着後直ちに富田旅館に入られた時の模樣を伺いたいと思います。

〔富田〕 先生が明治二十三年八月二十五、六日頃、私方に溫到着の時は早速お風呂をたて、お湯から上られた時に白浴衣を出しましたところが、それが大層氣に入りまして、白浴衣のまゝで二階の八疊一の間に、ちようど日本人のように、膝をキチンと曲げておすわりでした。

 先生の御到着前に、縣廰より椅子テーブルを澤山借りまして、お役人方の出張を待ちましたが、縣のお方々は、西洋人に面會するというので洋服でお出でたようでしたが、先生は西洋人としては身長の低い五尺二三寸[やぶちゃん注:一・五八~一・六一メートル。]位、頭髮は灰黑色、鼻の下には髭をはやし鼻は高い方で、背を屈がめて座布團にすわり、浴衣を着ては葉卷を口にしておられる樣子が、西洋人のような日本人のような恰好で、何とも如れぬおかしさを覺えました。私共には言語がまるでわからなかつたが、聲の樣子は餘り高い方ではなく聊か錆び聲で、時々高聲に笑われました。縣廰の役人方がこれを取圍むようにして椅子に腰かけていられました體裁は、ちようど役人が罪人でも調べるような恰好でまことに珍風景でありました。

 その後先生はこの浴衣が氣に入りまして、宿においでる間は、何時も浴衣で、外出は洋服でした。餘り浴衣が汚れましたために、紺飛白の單衣物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]を作つて上げたことがありました。

[やぶちゃん注:「紺飛白」「こんがすり」。紺地に白い「かすり」のある模様。また、その木綿織物。「紺絣」とも書く。

 なお、底本では、ここの左下には、金津滋氏の、小泉八雲のであろう、右手が、箸をムンずと箸を握っている切り絵がある。左下方付着する形で「握箸」と漢字も添えて彫ってある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見られたい。]

〔桑原〕 宿屋の皆さんと先生の間の意志の交換と申しますか、談話はどんな風でしたか。言語がわからないので、互に御困りのことでしたろう。

〔富田〕 私どもは全く英語がわからず、先生も日本語はわからずまことに困りました。中學校の西田千太郞先生や中山彌一郞先生が御來訪の節は、まことに何かと便利で色々先生のお望みのことを伺つて置きましたけれども、突發のことがある時は、先生は英和字書を何時も離さずに持つておられましたために、一々字引をひいての話で用を達しまして、實に不便極まるるので、每々[やぶちゃん注:ここは会話であるから「つねづね」であろう。]間違いがありましたので大笑い致しました。

 先生ご來松[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「らいまつ」で「松江に来られること」である。]の當時は、橫濱より眞鍋晃という書生さんを通辯としてつれておいででしたが、その通辯が餘り上手とは見えませんでした。ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事情があつたと見えて、大に[やぶちゃん注:「おほいに(おおいに)」。]先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました。

 眞鍋さんがいました時のことですが、先生が每晩のように、天神社內や和多見の賣布神社等の盆踊りを見においでの時は、何時も[やぶちゃん注:私は「いつも」と読みたい。]眞鍋さんと手前の主人太平、或いはお信の二人がおともでありました。何分太平も宅の用事が忙しい時にも先生は一向おかまいなくおともを仰せつかるので、少々後では閉口していました。先生は天神境內に行かれる時は何時も附近の井戸水を釣瓶吞み[やぶちゃん注:「つるべのみ」。釣瓶桶から、直接、飲むこと。]にして喜んでおられました。

〔註〕 眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、八雲先生が橫濱附近の某寺訪問の際、同寺の書生であつて、英語を解しいいため[やぶちゃん注:ママ。「解していたため」の誤植であろう。]、それが緣故となり、八雲先生の通辯として隨行したものである。

[やぶちゃん注:この注は、底本では、ポイント落ちで、全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、同ポイントで引き上げてある。以下の〔註〕も同じ処理をした。

「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。心理学及び教育学を専攻したが、郷里島根県松江で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭兼英語教師であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで、結核で亡くなった(主文は「講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、一部は、私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)』の訳者註から増補しておいた)。異例の出雲大社昇殿も彼の仲介で実現したもので、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)にとって、まさに本邦来日後の日本人の中でも、最も大切な親友であった。

「中山彌一郞」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (二)』の私の注を引く。西田とともに松江時代に懇意にしていた人物で、ヘルンの「島根縣敎育會」での講演(第二回「西印度雜話」明治二四(一八九一)年二月十四日開催)で彼は通訳をしており(第百五十四回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース(二〇一三年六月発行)のデータに拠る。【2026年1月8日追記】現在、リンク先は機能していない)、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師で生徒監(現行の学級担任の謂いであろう)もしており、後には神戸や商館に勤めたと、根本重煕氏の「小泉八雲のことども(続き)」(『中日本自動車短期大学論叢』第十三号・一九八三年・PDF)にある。「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』のこちらの風呂鞏(ふろたかし)氏の『小泉八雲と語学教育(二)』には、彼とは『神戸時代まで交際を続けた』とある(ハーンは明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戶クロニクル社」に就職して神戸に転居、二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで、神戸に住んだ)。] 

「眞鍋晃」小泉八雲の最初の纏まった作品「知られぬ日本の面影」の「第一章 私の極東に於ける第一日」に登場する、横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生である。初登場は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (七)』である。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島や横浜等の名所を巡ることとなったウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。第三章の「お地藏さま」の「二」の冒頭で、ハーンは彼のことを、『愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髪は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える』と、その美少年振りが描かれている(「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ)。

なお、この前の

『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』

から、ちゃんと、見られたい。而して、是非!

「教え子の情報から再考証!――小泉八雲が来日最初に訪れた寺は横浜市神奈川区高島台にある旧アメリカ領事館が置かれた本覚寺ではなかったか?!――」

も見られたい。そして!

「★ラフカディオ・ハーンが最初に訪れたと推理する本覚寺を早速教え子が写真で撮って来てくれた!!!★」

も見て、チョーダイね!!! 言っとくと、銭本健二・小泉凡編「年譜」でも、この寺は特定されていないんだよ!!!

 さて。実は、

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は松江に横浜から赴任するに際して、この眞鍋晃が通訳としてずっと同行している

のである。しかし、この赴任の道中のエピソード(鳥取県下市(しもいち)での盆踊り見学が、よく知られている)等では、後代の映像イメージ等では、眞鍋の影は微塵も想定映像としては表現されていないのだが、ハーンはちゃんと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)』の中で、眞鍋を描いている。

 いや、実は、その後も、ここにある通り、松江に留まって、

重要な出雲大社昇殿の時も、同行しており、八雲への解説役も、彼がメインであった

のである。それは、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿」の「(二)」「(四)」「(五)」「(六)」「(七)」「(九)」を読めば、一目瞭然なのである。ところが……まさに「ところが」なのである……(次の注に続く)

「ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事精があつたと見えて、大に先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました」この事実を確認する資料は、ネット上では、見出せない。私が、新たに見出したものは、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーンと医薬―癒しと救い  ① 一畑薬師のこと」(『薬学図書館』(643))所収・二〇一九年発行・PDF)の文中の『「杵築」の記述はこのあと,アキラとの神仏に関する問答に発展し,仏の数が限りなくあること,神道に至っては八百万の神がいることが議論される。』の注(『4)』)に『真鍋 晃.横浜の寺で出会った学僧で,英語に堪能.来日直後のハーンの通訳を務め,松江にも同行.松江滞在の半年間ほどをともに過ごす.』とあるものと、国立国会図書館デジタルコレクションで『送信サービスで閲覧可能』で見つけた、『人文論究』( 61(4)20122)・関西学院大学人文学会発行)の永田雄次郎氏の「ラフカディオ・ハーンと石仏の美――横浜から熊本までの時」、ここと、ここと、ここである(本登録でないと閲覧は出来ない)。引用すると、『従来の研究所では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない』として、以下で「アキラ」の表記で、作品中の小泉八雲と彼の語りから、彼の人間像を解説しておられる。而して、最後の箇所で、『板東浩司は、不確かな推定としながらも、一八九〇年中旬に真鍋晃は松江を去るとしている』。『その理由も不明であるが、この地のハーンの通訳で、彼を理解しようとしていた松江尋常中学校教頭である西田千太郎』『の存在が浮かんでくる。』とされ、『アキラ以上に英語に通じていたであろう西田はハーンの終生の友となる。アキラも横浜の寺を近々出て行くと「極東第一日」ですでに言っている。この両者の事情が、アキラをして松江を去らせる要因となったのでのでは、ないだろうか。ハーンがアキラの人柄に疑いを持ち解雇したとの説もある』。『だが、ハーンは次のようにも語っている。そこにはアキラへのハーンの愛情を見ることであろう。』とされ、八雲の訳を示しておられる。これは、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』の冒頭相当であるから、そちらで示す。冒頭表題も添えた。

   *

       一 一八九一年七月二十日 杵築にて

 晃は最早私と共には居ない。彼は佛敎雜誌を發行するため、神聖な佛敎の都なる京都ヘ行つた。それで私は迷ひ子になつたやうな氣がする――彼は神道のことを何も知らないから、出雲ではあまり役に立つまいと、彼が再三斷言したけれども。

   *

以下、引用に戻す。『時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。横浜、鎌倉の寺院、さらには松江までの道を同行したアキラである。これまで日本で仏教美術などを実体験する時、必ずと言ってよいほど、その脇に立っていたアキラは、ここでハーンの前から完全に姿を消したのである。彼こそは、松江での別れの時まで、石仏を眺めるハーンの眼にもっとも近く立ち、品の良い英語で語りかけた青年であったに違いなかろう。』とある。

 私は、この永田氏の見解に、非常に賛同し、感動もした。

 而して、中島氏の『松江滞在の半年間ほどをともに過ごす』とあるのは、銭本健二・小泉凡編「年譜」が、来松から、半月ほど後の、明治二三(一八九〇)年の九月十四日(日)の出雲大社昇殿の翌日の、『九月十五日(月)、松江に帰る。千家家日記には、この日にハーンと真鍋晃が参詣したことが記されており、したがって、ふたたび参詣をしたのち、帰松の途についたことも考えられる』とあるのを最後に、真鍋晃の記載が、載っていないことから、『半年』というのは、ちょっと不審なのである。何故と言うと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』で、私が強い疑義を感じて、注をした通り、小泉八雲の、このクレジットには問題があり、『文学的な虚構が施されている可能性が極めて高い』と述べたからである。されば、私は、真鍋の在松は、半年より、もっと短かったのではなるまいか? と考えているのである。

 なお、富田ツネさんのスキャンダラスな内容は、作り話には見えない。しかし、或いは、これ、真鍋に一方的に思いを凝らしてしまった女性が、突如、彼を訪ねてきたのではなかったか? 女性たちは、当然、「かんぐる」ことで、噂を起こしたに違いない。真鍋は、そうした「濡れ衣」を説明しようとすれば、するほど、こうした「かんぐり」は、いや増しになるのが常である。真鍋の真面目な気質から見て、事実を詳細に語って弁解することはあり得ないと思われる。されば、日本語が判らない八雲も、「カタラレナイというのは、イケナイことだ!」と早合点したとも思われなくもないのである。向後も、真鍋についての考証は継続する。

「天神社」現在の島根県松江市天神町(てんじんまち)にある白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)のことか。現在の同天満宮の夏の大祭では、盆踊りはないようであるが、江戸時代、松江城下では盆踊りが禁止されていた経緯があるから、当時、行っていたと考えても、逆に、よいように思われる。

「和多見の賣布神社」「めふじんじや(めふじんじゃ)」と読む。現在の島根県松江市和多見町(わだみちょう)の賣布神社。ここ

「眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、……」国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」(大正一五(一九二六)年第一書房刊)の当該ページはここ。私電子化注は、ここ。]

2026/01/05

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その1) 目次その他・「序」(米空軍少佐 エモリー・L・タアリー)・「自序」・「緖言」

[やぶちゃん注:本オリジナル電子化は、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』(本登録をしないと見ることは出来ない)である桑原羊次郞 著の「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊)の画像に拠り、基本、視認してタイピングして作成する。以下の没年で判る通り、本書はパブリック・ドメインである。底本が、以上の『送信サービスで閲覧可能』扱いとなっているのは、挿絵を描いておられる松江市出身の染色工芸家であられた金津滋(かなつしげる 大正一二(一九二三)年~平成八(一九九六)年)氏が著作権継続であるためと推定される(金津氏の事跡については、当該ウィキを見られたい)。従って、本書の本文を電子化することは、何ら、問題はない。無論、随所にある金津氏の作品の画像は、非常に味わいのあるものであるが、一切、画像としては使用出来ないので、当該箇所は、私が、注で解説した。

 作者桑原羊次郞(くわばらようじろう:慶応四(一八六八)年~昭和三〇(一九五五)年)氏は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)』。『肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる』。明治四三(一九一〇)『年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた』。『代々』、『松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。在籍当時の松江中学校長は渡辺譲で、初等中学科での同級生には桂田猪熊・林玉之助・小倉寛一郎・成相伴之丞・森田龍次郎がいた』。『明治18年(1885年)7月に中学を卒業した後、上京して神田錦町に新設された英吉利法律学校に入学する。在籍当時の校長は創立者の一人である増島六一郎で、講師には菊池武夫・岡村輝彦・奥田義人・土方寧・平沼騏一郎・馬場愿治らがいた。また、後に外務大臣となる小村寿太郎が「英国法律」を講義していた。明治22年(1889年)9月、英語法学科の第1期生として特別認可部を卒業した』。『明治22年(1889年)、桑原本家7代目を継いでいた兄・猪太郎が27歳で病死したため、急遽松江に帰郷して本家8代目の家督を相続することになった。翌明治23年(1890年)、佐々木佐吉郎・諏訪部彦次郎らとともに私立松江法律学校を殿町に創立し、支持を仰いだ岡崎運兵衛が名誉校長に、羊次郎が校主兼講師となったが、明治24年(1891年)、羊次郎が渡米の意志を持って再び上京すると、同校はこの留守中に廃校となった』。『明治24年(1891年)、上京した羊次郎は菊池武夫、小村寿太郎宅を訪問し、アメリカ留学について助言を得た。同年10月、横浜港から出発して渡米し、ミシガン大学では同校卒業生並の待遇で大学院に入学、明治25年(1892年)6月「マスター・オブ・ロース」(Master of Laws:法学修士)の学位を得た』。『再び松江に帰郷し、明治27年(1894年)8月、松江商業会議所の特別会員に当選した。明治28年(1895年)10月、織原万次郎・山本誠兵衛・清原宗太郎とともに松江電灯株式会社発電所を殿町に設立。明治29年(1896年)1月には松江銀行監査役に当選、明治31年(1898年)1月同行取締役に就任した』。『大正6年(1917年)4月に、第13回衆議院議員総選挙で島根県松江市から選出された岡崎運兵衛が、大正8年(1919年)12月に死去したことに伴い、大正9年(1920年)1月に行われた補欠選挙で当選して』、『衆議院議員となり、憲政会に所属して1期在任した』。『以降、小泉八雲記念館、私立松江図書館(現島根県立図書館)、中央大学島根学員会の創設に携わる』。『昭和30年(1955年)逝去。旧蔵書や自著からなる「桑原文庫」が島根大学附属図書館にある』とある。以下、「著作」は引用元で見られたい。

 さて。私は、小泉八雲を小学生の時から、偏愛してきた八雲フリークである。さればこそ、二〇二〇年一月十五日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の作品集全十二冊総てのオリジナル電子化注を完遂している(日本語で、来日以降の八雲の作品総てを読めるのは、私のブログ・サイトだけである)。しかし、私は、実は、文学分野の評論――というか「評論家」なるものを、常に、どこか、胡散臭いものと感じている人種でもあるのである。さればこそ、最も愛する芥川龍之介に関するもの以外を除いて、文学評論の書籍を余り読んでいないし、蔵書でも相対的に少ない。而して、小泉八雲関連のものでも、尊敬する平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集に付随しているセツ夫人や長男一雄氏のものさえ、二十代の時に読んだきりであり(そこには実は桑原氏の本書に対する批判が載っているのだが、すっかり失念していた)も、ちゃんとしたものでは、以下に述べる長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」ぐらいしか読んでいない。その中で、本書については、知ってはいた(後述する)のだが、つい先日、「ばけばけ」が話題になっている中で、たまたまFacebookのある投稿で、本書の《鶯のエピソード》の部分(本底本のここの右丁の最終段落である)が写真で載っていたのを見て、それを読んで、俄然、惹かれ、この仕儀に至ったのであった。

 ところが、ここ数日、ネットを調べていると、本書については、例えば、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見て、まず、びっくりした。そこでは、本書の金津氏の挿画が、しっかり画像で載っているのである。いやいや、それは、当然なのであった。このブログ主は金津滋のお孫さんなのであった! 底本のものよりも、遙かに美麗なので、是非見られたい!……いや……しかし、そこで、ブログ主は、

『本書の内容はいささか問題ありとされているため、内容に触れることは避ける。』

と書いておられたのである。

……その瞬間! 思い出したのである!

……長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の一節を!

 幸いなことに、やはり、国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』のここで、一九八八年松江今井書店刊の当該箇所(『㈠ 実情解明の試み』の冒頭に「旧来の説明」以下)を見ることが出来る。――因みに、この長谷川氏の御本は、作者から献本されたもので、実は、長谷川氏は、私が最初に国語教師として勤務した神奈川県立柏陽高等学校で、同僚(担当は世界史)であったのである。――

 さて、そのここで、本書名が出て、その条の最終段落で、『しかし、二人の結婚に関する、この富田ツネの長男の証言は、後述の通り、事実関係に矛盾があり、その信憑性(しんぴょうせい)が疑われた。そしてセツとハーンの長男である一雄は、ハーン生誕百年の昭和二十五年に出版された『父小泉八雲』の中で、桑原羊次郎を無責任と非難し、改めて、西田千太郎を『両親の媒酌人』と呼び、二人は明治二十三年十二月に結婚したと書いたのである。桑原羊次郎一旦(いったん)封じられた。』とあるのである。

 しかし、長谷川氏は、その、続く『新しい解釈』で、鮮やかにその後の新事実が語られるのである!……さても……ここ以降は、是非、最近、新版となって書店に並んでいるので、是非、御購入戴いて、お読みあれかし!

 而して、ますます、私の中で、「このオリジナル電子化注は、せずんば、あらず!」と響いたのであった。

 なお、本書は、その奥附に(赤字で記されてある)、

『昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版昭和2810月1日第3版・著者桑原羊次郞・發行者 三宅美代治(松江市殿町383)・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383)・印刷並發行所 山陰新報社(松江市殿町383)・定價1册50円・惣領8円』とあり、初版も既に敗戦後なのであるが、実は、以下の「序」文の最後のクレジットは、『昭和十五年六月二十三日』とあるので判るように、当初の企画は戦前であったことが判る。従って、以下の本文も戦前に元原稿が出来ていたと考えてよく、従って、元原稿は、当然、歴史的仮名遣で正字であったのである。また、初版の頃も、未だ活版植字の移行期であり、しかも、初版の原印版を、後も使用し続けたらしく、漢字は旧字体が多く見られ、歴史的仮名遣の一部が残っているものが、かなり散見されるのだが、忠実に電子化するので、基本的に、そうした時代の匂いを味わいながら、読まれたい。若い読者が、激しく躓くところ以外には、ママ注記は、なるべく、しないつもりではある。而して、読みを添える場合は、歴史的仮名遣と現代仮名遣の二種を附すこととする。それが作者への、せめてもの親切心の表明と考えるからである。

 さらに言っておくが、私はドラマ「ばけばけ」に《便乗して、この電子化を手掛けているのではない》ことを明言しておく。私は無論、毎日のそれを、見ている。テレビ視聴は、それだけ、である。私は現在、ブログ・サイトに於いて、複数の電子化注プロジェクトを行っており、さらに、国内だけでなく、外国の日本文学の院生や研究者からの問い合わせや助言で、非常に忙しい日々を暮らしている。されば、テレビは「ばけばけ」だけを、録画で、昼食時に見ているだけである。さらに、《同ドラマの激しい脚色にも一家言ある人種――あまりに事実と異なる部分に対して――ある者であり、ドラマにすっかり惹かれている視聴者にとっては、聴きたくない事実をも注で語ることを辞さない》ことをも御理解戴いた上で、この電子化注を読まれるように、切に願うものである。

 

 

[やぶちゃん注:表紙。]

 

 

松江に於ける

 

 

 

[やぶちゃん注:中央に切り紙風の黒い円の中に八雲の真右からの顔。]

 

 

[やぶちゃん注:。]

 

松江に於ける

 

 

 

[やぶちゃん注:中央に切り紙風の四つ角を内側に窪ませた中に、上に首の先と煙管(きせる)の羅宇(らう:吸い口部分)、下に同じ煙管の首の根本と雁首(がんくび:火皿(ほざら))の図。]

 

〔島 根 叢 書〕

― ⑪ ―

 

1 9 5 0

 

[やぶちゃん注:「目次」。ここの右丁。下方に中央に、「扉」とは異なる煙管の切り紙風の図がある(三本から成るもので、上に大きな太い全景、中央左に異なるものの吸い口部分、下に別な短い小さなもののほぼ全景)。中央に朱印の国立国会図書館蔵書印(年月日は『52, 9. 16』。国立国会図書館所蔵記号番号が左上(手書き)・下中央(スタンプ)が打たれてある(記号番号は異なる)。リーダーとノンブルは省略した。「目次」・「裝𤲿・カット」はゴシック。]

 

   目  次

序     文   エモリー・L・タアリー

自     序

緖     言

八雲の私生活

 富 田 旅 館 時代

 京店と北堀時代

 住     居

 衣 服 調 度

 食 事 と 嗜 好 品

 習     癖

 交     友

 雑     事

小泉八雲略傳

     裝𤲿・カツト  金 津  滋

 

[やぶちゃん注:写真ページの一枚目(写真ページは総て印画紙。画像も恐らく著作権満了と思われるが、万一の場合を考えて、示さない)。ここの左丁。上左半分に小泉八雲の知られた右からの楕円形縦のポートレイト写真。以下は、その写真の左下のキャプション(縦書)。]

 

 ヘルンの肖像

 

[やぶちゃん注:以上の下半分。横長の写真一葉。恐らく、記念写真葉書かとも思われる。以下、その写真の右請上のキャプション(横書・左から右へ。最後の鈎括弧無しはママ)。]

 

 史 蹟  「小泉八雲旧居」松江市北堀町(全景)

 

[やぶちゃん注:ここの右丁。写真二枚。上と下の写真へのキャプション(左下方にある)。一行字数を合わせた。]

 

 上 八雲遺愛の品々。トラン

   ク、机、椅子、ランプ、

   ペン皿、火鉢、キセル等

   八雲記念館(八雲旧居隣

   接)内に陳列。

 

 下 八雲遺愛のルリヤナギ、

   旧居玄関入口。

 

[やぶちゃん後注:以上の「ルリヤナギ」というのは、漢字で「瑠璃柳」=ナス科ナス属ナス科ナス属 Solanum melanoxylonsynonymSolanum glaucophyllum )。小低木で、ヤナギに似た葉と星形の花を咲かせ、切り花にも好まれる。暖かな地方では花の後に瑠璃色の実がなる。]

 

[やぶちゃん注:ここの左丁。写真三枚。それらの写真へのキャプション(右中央にある。同前)。モノクロームであが、かなり上手く撮られてある。]

 

 上 八雲の居間より根岸邸前庭を望む。

 

 中 根岸邸前庭より八雲の居間を望む。

 

 下 八雲の居間より書斎を通して蓮池を望む。

 

[やぶちゃん後注:「根岸邸」八雲が住んだ屋敷は、江戸後期の松江藩士であった根岸家の武家屋敷であった。]

 

[やぶちゃん注:写真ページの最後。ここの右丁。手書き(作者不詳)であるが、よく書けている(全体は枠ではなく、塀である。左上納に勝手口がある。方位指示附きで、『正門』・『土蔵』『四・五坪』・『物置』『六坪』・母屋の各部屋の詳細配置(各部屋の畳帖数明示)が描かれ、庭も池らしきものもある。図に右下方に『建坪四七・七五坪』とある。非常に見易いので、地図内の細かなキャプションの全部までは電子化しない。以下は図の下方にキャプション(印刷)のみ示す。]

 

 小泉八雲舊居平面圖。松江市北堀町に現存、

 昭和15年8月史蹟の指定を受く。

 

 

     

 

 ラフカデイオ・ハーンのこれらのささやかな追憶を世の人々に保存して來た桑原氏の先見に對してこの著書の讀者は最大の感謝を感じているに違いない。

 短期間ではあつたがハーンの松江在住に際して彼にかしずいた二人の婦人の記憶をひき出した、これらの小さなそして非常に新しいスケツチは無限の價値を持つものであり、またハーンと彼を深く愛する歸依者たちとの間をつなぐなお一つのリンクを形ずくる[やぶちゃん注:ママ。]ものである。

 ハーンは松江とその善良な人々に屬する愛を決して失わず、たえず彼の妻に對して松江ヘの歸還を許容するようにと、熱心に求めた。しかし大都市の魅力を節をとりこにした。そして短い来訪を除外しては彼は再び愛する出雲へ歸ることができなかつた。

 もし彼が松江を離れなかつたとしたら、またもし彼が松江に歸えることを許されていたとしたら、彼の世界はたしかにより豐かなものになつていたであろう。なぜなら彼が〝古日本〟の小片を學んでから後は再び妖幻なタツチを得ることはできなかつたからである。

 松江時代はいくつかの理由からハーンの日本生活に於ける最重要なものであつたといえる。ここで彼は彼の妻節に會い、彼の友にしてまたよきアドバイザーであつた西田千太郞、彼にとつて貴重な文學的アシスタントであつた大谷正信、そして古日本の最後の姿に際會したのだ。

 ここで彼は自身を特異な生活の樣式に適應させ、また出雲傳說へふみ入れさせていつた。また彼は彼自身を家長とするサムライ家族たらんとする考えを確立させた。そして彼こそはあるがままの日本の生活を實際に見得るものとして三浦按針(ウイリアム・アダムス)以來の最初の西歐人であると感じたのである。

 彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた。それは玉手箱の中をのぞき見た時突如として仙境から現實にひきもどされたあの浦島太郞に似ていた。

 桑原氏のこの示唆に富んだ著書にふくまれている事件や常識では吹き出してしまうようなナンセンスの數々は、ハーンの松江時代の幸福を形ずくつた生活の小片である。これらのことがらから現實にはあり得ない夢幻の世界が作られまた彼の現實からの開離[やぶちゃん注:ママ。「乖離」。]は、彼に關して起つた事柄について、愉快にも理解の手のとどかなかつたことによるところ少し[やぶちゃん注:「すくなし」。]としなかつたのである。

 家族圏內に起きた多くの危機に際してハーンと節の間に緩衝を用意した西田千太郞の思慮と氣轉、この小さなプロフエツサーを幸福にならしめるために籠手田知事によつて與えられた敎訓はイルージヨンを保存する上に大きな効果となつている。

 一九四九年六月、松江を訪れる機會があつたので私はこの美しい土地へのハーンの感情を諒解できるのである。私はあえていうがこの美しい土地は戰爭にもかかわらず殆ど變つていない。停車場と電車線――その何れもが都市のプロパーには入つていないが――[やぶちゃん注:助詞「が」が欲しい。]出來た以外にはハーンが彼の夢幻の世界を破壞することを恐れていた工業主義のタッチは少ない。實際自轉車があり、少々の自動車があるが、カランコロンの下駄の音が昔のままに大橋の上や露路に響いている。

 私の訪問は短時間であつたが、變化に富んだ宍道湖やあらゆる方角に峨々たる地平を劃す靑い山脈の見通しにハーンが感じたと同じノスタルジヤを私も感じた。人が桑原氏の作品を讀む時「知られざる日本の面影」の記憶の薄らがぬ人々を同樣のノスタルジヤがひきつけるであろうと信ずるものである。

   一九四九年七月二十日 東京にて

     米空軍少佐 ヱモリー・L・タアリー

 

[やぶちゃん注:原文を書いた「米空軍少佐」である「ヱモリー・L・タアリー」という人物は、かなり探してみたが、見出すことが出来なかった。識者の御教授を乞うものである。にしても、全体に、極めて好意的な、素敵な献辞である。一九四九年時で少佐であったということから、既に亡くなられており、著作権満了であろうと推定するが、万一、著作権が継続していることが判ったら、カットする用意はある。但し、これは、桑原氏の訳者権が第一にあるのであればこそ、カットする必要は、私は、無い、と考えるものである。

「彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた」現在、小泉八雲(当時はラフカディオ・ハーン)が松江を去って、熊本五高のお雇い教師となったのは、実際には、妻の節さんを見る当時の松江の人々の偏見に満ちたそれに、八雲が堪えられなかったからであることが、明らかになっている。繊細な小泉八雲なればこそ、である。

「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「大谷正信」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。

「籠手田知事」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。元平戸藩士で剣術家としても知られた。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された。島根県知事退任は明治二四(一八九一)年四月九日)。ハーンと籠手田の接触は早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の三ヶ月後には、『東京で』、『当時』、『島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給』百円で、『ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、ウィキの「籠手田安定」も参照されたい。ハーンが一目で惹かれた古武士のような肖像写真が見られる。

「プロパー」 ‘proper’は、形容詞で「その分野に本来的で固有な」の意。この訳では、準名詞的用法で、当時の「現代風の要素を代表するもの」の謂いである。但し、「戦後の松江にあっては、それらは既に当たり前の対象であって、当たらなくなっているが、」というヱモリー少佐の印象表現である。

「知られざる日本の面影」小泉八雲が日本来日後、最初に纏まって書いた作品“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”。私が最初にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で本格的に電子化注したのも、この作品である。そこでは、主訳者であった落合貞三郎氏によって「知られぬ日本の面影」と訳されてある。]

 

 

[やぶちゃん注:以下。「自序」。「出版に當つて」はゴシック。署名は底本では、二字上げインデントである。]

 

   自 序

 

 私は松江人である。八雲が松江に來た明治二十三年は私の松江歸住中の時代で、私の師友である西田千太郞氏が松江市上、つとに八雲と共に徘徊しておられるのに遭遇したことがあり、その都度西田氏と挨拶を交換すると同時に、ただ八雲に目禮をなすまでの程度で、私は直接に交渉を有するものではない。

 明治四十三年(西曆一九一〇年)私は日英博覽會美術部擔任者としてロンドンにあり早やくも八雲の盛名を聽いた。その後欧米を歷遊して大正二年(西曆一九一三年)歸國に至る間、歐米到るところに於て八雲の文名の甚だ高いのに驚嘆した。

 當地出身友人法學博士岸淸一君もまたしばしば歐米に旅行して八雲の文名の高いのに驚愕した一人で、私は歸國後同博士とはかつて八雲顯彰のことに努めんことを約した。幸い私は鄕里松江にあつた關係上、大正四年(西曆一九一五年)松江市に於て知人數人と相謀り、八雲會を創設して今日に至つた。私は以上の如き因緣によつて今囘八雲の松江に於ける私生活を委細に檢討し、その全貌を後世に傳えて八雲傅記に數頁を加えんと欲するものである。

 要するに私は本書に於て、八雲が斯くの如く考えていたということをいうのではない。八雲は斯くの如き私生活をしていたというのである。けだし私は一文豪の全人格はその著書と書簡を精しく檢討するだけではなく、赤裸々な些細な私生活を透してこれを觀察するのでなければ決してこれを把握することが出來ないと信ずるからである。

   昭和十五年六月二十三日

           雙蛙 桑 原 羊 次 郞

[やぶちゃん注:「雙蛙」「さうあ(そうあ)」。彼の雅号。「Web NDL Authorities」の彼のページで確認した。]

 

 出版に當つて 私が本稿を完稿したのは實に十年以前で、當時既にヘルン先生に關して識者の注意があつたことは勿論であるが、今日の如く盛んではなかつた。しかし本年はヘルン先生百年祭の計畫があり、その生涯を映𤲿化する盛擧あり、國會もこの計畫に賛同するとの決議をなしたと聞く。けだしヘルン先生顯彰運動はその最高潮に達したかの感があるので、これを好期とする本書の出版は最も時機を得たものと思う。こゝにいささかその來由を述べるものである。

   昭和二十五年四月

          八十三翁 桑 原 羊 次 郞 再 識

[やぶちゃん注:「出版に當つて」はゴシック。
「法學博士岸淸一」(きしせいいち 慶応三(一八六七)年~昭和八(一九三三)年)は弁護士・法学博士。島根県生まれ。東京帝大卒。スポーツの振興に努め、大日本体育協会会長・国際オリンピック委員となる。没後、その功労を記念して「岸体育館が建てられた」。貴族院議員(以上の主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、「緖言」。『ハン』はママ。『』『』『』『四』はゴシック。セツ夫人の「思ひ出の記」の引用は、全体が一字下げで、行末は最後まであるが、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]

 

   緖 言

 

 小泉八雲(ラフカデイオ・ハン)――松江ではヘルンと稱す――は、曰本に來朝以來、橫濱、松江、熊本、神戶、東京と五度その居所を換えているが、各地に於ける八雲の業績とその著書、あるいは彼の沒後に現われた八雲書簡集などについては既に發表された著書も少なくなく屈指にいとまあらずというてよい。しかして私はこれらについて何等の文的學論評をなすものではない。

[やぶちゃん注:「文的學論評」何となく奇妙な熟語である。思うに、「文學的論評」の誤植であろうかと思うのだが、第三版まで修正されていないというのも異様ではある。一応、そのままに示した。]

 私はただ八雲がその生活中最も愛着した松江僑居中に於ける日常私生活を詳記したもののの甚だ少ないことを遺憾とするものである。試みにその參考として左記諸書を引照する。

[やぶちゃん注:「僑居」歴史的仮名遣「けうきよ」(きょうきょ)で、「仮に住むこと・その住(す)まい・仮ずまい・寓居(ぐうきょ)」。]

 、「小泉八雲」

  田部隆次著、早稻田大學から大正三年(西曆一九一四年)四月十八日發行。

[やぶちゃん注:「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。

 なお、この著作は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで、誰もが、読むことが出来る。]

 、「思い出の記」

  前記田部氏著書に掲載されている小泉夫人節子の記述である。

[やぶちゃん注:正しくは「思ひ出の記」である。小泉セツ(慶応四年二月四日(一八六八年二月二十六日)~昭和七(一九三二)年二月十八日)は当該ウィキに拠れば、『戸籍上の名前は小泉セツだが、本人は節子の名を好んだ』とある。解説にある通り、この作品は前の田部隆次「小泉八雲」の『第十一章 思ひ出の記』で『小泉節子』名義で、初めて活字化された。]

 、「松江に於ける小泉八雲」

 根岸磐井著、松江市八雲會から昭和五年(西曆一九三〇年)十二月二十日會行。

[やぶちゃん注:「根岸磐井」(ねぎしはんせい/いはゐ 元治元(一九六四)年~平成五(一九九三)年)は小泉八雲旧居当主にして、小泉八雲の教え子。「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の「小泉八雲と根岸家」に拠れば、『この屋敷は、松江藩士・根岸家の武家屋敷でした。八雲が松江にいた当時、家主の根岸干夫(たてお)は郡長として転勤していたため』、『この家は空いており、庭のある侍の屋敷に住みたいと希望する八雲に貸すことになりました。八雲が気に入った旧居の庭は、根岸家によって1868(明治元)年に造られたものです』。『また干夫の長男である磐井(いわい)は島根県尋常中学校、熊本第五高等中学校、東京帝国大学で八雲の指導を受けた教え子でした。東京帝国大学卒業後、磐井は日本銀行に勤務していましたが、八雲が愛した旧居を保存するために1913(大正2)年に松江に帰り、1920(大正9)年から屋敷の一部を公開しました。その後、記念館設立などにも尽力しました』。『旧居は代々根岸家によって保存され、2018(平成30)年に松江市の所有となった後も、その意思を継いで大切に保存されています』とある。]

 四、「父八雲を憶ふ」

  小泉一雄著、警醒社から昭和六年(西曆一九三一年)七月十五日發行。

[やぶちゃん注:「小泉一雄」(明治二六(一八九三)年~昭和四〇(一九六五)年)は東京生まれで、小泉八雲の長男にして文筆家。早大卒業後、拓殖大教務部、横浜グランドホテルに勤務。後、父の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった(ここまでは講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。著作「父小泉八雲」もある。この「父八雲を憶ふ」の初版は国立国会図書館デジタルコレクションのここで、『送信サービスで閲覧可能』で見ることが出来る。]

 これらの既刊四書を熟讀して、松江市に於ける八雲の日常私生活を調査すれば、四書ともにこれを全く記していないというわけではないが、往々遺漏するものがあり、誤傳と見るベきものもあり、また矛盾と見るべきものがあつて何れも甚だ不備簡略に過ぎている。これこそ私をして訂正もしくは詳述して置くことの必要を感じさせた所以である。

[やぶちゃん注:ここより以下の内容は、本書の本文に語られる内容をダイジェストしているものであるので、人物・通称地名等の注はそちらでしっかりやることとし、難読かと思われるものは、調べて、読みだけは割注したが、基本、注は附さない。

 中でもその最も著しい誤傳と見るぺき一例は、これまでの諸書がすべて一致して八雲の結婚は明治二十三年十二月とも他旅館に於て擧行されたとなしていることである。しかし本年(西曆一九四〇年)六月十七日附八雲の親友西田千太郞氏の令弟、元九州帝國大学敎授西田精[やぶちゃん注:恐らく「せい」。ここPDF)の写真に添えられた自筆英文サインのイニシャルから推定。]博士の書簡によれば、博士が度々令兄の使者として京店裏[やぶちゃん注:「きやうみせうら」。根拠は本文で示す。]の八雲借宅(明治二十四年(西曆一八九一年)二月富田旅館からこの借宅に移居す)を訪問した時は、まだ節子夫人を見かけず、その後間もなく同宅に於て節子夫人と結婚式を擧げられたため、明治二十三年十二月に結婚したとの記事は何れも誤傳であると斷定したことである。その他八雲が根岸邸住居時代に、割竹の庭下駄をはいて愉快に庭園を散步したなどとの記事は、私をして大疑問を發せしめた事項で、その他これらに類似した諸點を解決すると同時に、その日常私的生活の全貌を詳記しておくことの決して無駄ではないことを信ずるものである。

 この目的を注するために最も緊要かつ適切な方法は、八雲が松江住居中、彼に最も接近した即ち朝夕八雲に親灸した人々を探し出して、その實見談を聽取することで、私はこの方法以外他によりよき方法のあるとは考えられないのである。

 そこで私はまず根岸磐井氏未亡人菖蒲[やぶちゃん注:「アヤメ」である。先の「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の写真のキャプションにあった。]及び同氏令妹岸崎豐子の二女史を訪問して、八雲に親近した人々のうち今なお生存している人はないかと質したところ、幸いにも兩女史から節子夫人の「思ひ出の記」の中の次の一文中に見える、

 「この末次の離れ座敷(京店の偕宅)は湖に臨んでいま
  したので湖上の眺望が殊に美しく氣に入りました。し
  かし私と一緖(八雲の結婚)になりましたので、ここ
  では不便が多いというので、二十四年の夏のはじめに
  北堀(根岸宅)というところの士族屋敷に移りまして
  一家を持ちました。私共と女中と小猫とで引越しまし
  た。」

[やぶちゃん注:この当該部は、先の田部隆次「小泉八雲」の「第十一章 思ひ出の記」のここ(二行目以下)。但し、二つの段落になっている(後者は冒頭のみ)ものを接合して部分引用してある。]

 と記載してあるこの女中というのが、小泉氏の親戚高木苓太郞[やぶちゃん注:恐らく「りやうたらう(りょうたろう)」。]氏の一女、卽ち高木八百刀自で當年六十七歲を以て今なお健在でいられるのを紹介され、これについで更に驚くべき新發見の人物は往年八雲が富田旅館[やぶちゃん注:「とみたりよくわん(とみたりょかん)」。大森拓也氏のサイト「朝ドラマニア」の『ばけばけ』旅館の主人・花田平太(生瀬勝久)のモデルは誰?小泉八雲が宿泊した「富田旅館」の史実]に拠る。]滯在中、もつぱら八雲を世話した旅館主の妻ツネ刀自當時三十二歲で今なお八十三歲の高齡で富田別莊に隱棲していられるのを見出したことである。

[やぶちゃん注:「刀自」「とじ」と読む。女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓は「オホトジ」である。戸主=トヌシの約か、ともいうが、不詳。七~八世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称として見え、「万葉集」にも「妣刀自(ははとじ)」等の例がある。「さまざまなレベルの人間集団を統率する女性」が、原義か。族刀自(ぞくくとじ)的なものから、家刀自(いえとじ)へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もおり、後世のような主婦的存在に限られていない。後宮(こうきゅう)の下級女官(にょかん)にも刀自がいた。以上は小学館「日本大百科全書」を主文に使用した。]

 斯くの如き好奇緣に惠まれた私は、天惠ともいうべきこの好機逸すべからずと、從来世人が閉却している富田ツネ、高木八百[やぶちゃん注:恐らく「やほ(やお)」。]兩刀自に面接して、この記錄を作成し得たことを最も喜びとするものである。

 なお本書中〔註〕とあるのは私がこの聽取書を完了した後に加えたものである。

   昭和十五年六月二十三日

 

          雙 蛙 桑 原 羊 次 郞 識

 

2026/01/03

桑原羊次郎「松江に於ける八雲の私生活」のタイピング開始

本日、桑原羊次郎「松江に於ける八雲の私生活」のタイピングを開始した。

2025/10/27

昨日夕刻に俳優の佐野史郎さまから小泉八雲関連のメールを頂戴した件について

 

ナマコの清拭を行なって、一段落着き、夕食の手伝いをするためにネットを切ろうとした際、なんと!

かの俳優の佐野史郎さまからのメールが届いており、吃驚仰天した。

ざっと読むと、佐野さんが、『小泉セツ著「思ひ出の記」や、小泉八雲作品で構成した

「小泉八雲朗読のしらべ〜セツが語ったへルンの怪談〜」


を、十一月十六日に、島根県松江市のプラバホールにて、十二月十二日に東京都北区の「北とぴあ つつじホール」で上演するに当たって、
解説文を観客の方々に配布予定されておられ、その中で、

『「やぶられた約束」の解説に、ぜひ、そちらのブログの記載の引用をお願いできればと、ご連絡させていただきました。』

という内容が記されてあり、解説の原稿を添付なさり、『ご検討のほど、何卒、よろしくお願い申し上げます。』と記されてあったのである。

私は夕食で酒を飲んでいたので、今朝、未明、佐野さまに、許諾のよしを含め、佐野さまが主人公を演じられた、私の好きなラヴ・クラフトの「インスマスの影」をインスパイアした、小中千昭(この方も私の好きな脚本家である)作の「蔭洲升を覆う影」をテレビ・ドラマにした、その主人公を演じられたのを、非常に面白く観たこと、また、私と同じ世代(佐野さまは私より二年年上)で、『ウルトラ第一世代』であり、私が尊敬して止まない、円谷プロで脚本を執筆した、沖縄出身の金城哲夫氏のドキュメント番組でエスコート役をされて、素晴らしかったこと等を書いて、申し入れを快諾したのであった。

先ほど、丁寧な返信を頂戴した。と、言うより、甚だ、恐縮したのであった。

その解説原稿では、まさに、先月末、「やぶられた約束」の原拠を指示されたメールを下った、怪談・妖怪の学術研究をされておられる文化人類学者・民俗学者で、国際日本文化研究センター名誉教授の小松和彦先生のお名前があり、そこに続けて、私が以前に電子化注していた、
諸國百物語卷之二 九 豐後の國何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事」を、私のブログ名と、私の姓名を附してあったのである。

私の、先般、正字不全を補正した、

「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」

を見られたいが、正直言うと、私が暴虎馮河で小泉八雲の英文を訳した、

サイト版「破られし約束」 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳(別に、英文原文と、拙訳の縦書版も作製してある)

を、憚り乍ら、お薦めしたいのである。特に冒頭の私の注で、作品中に出る亡くなった女性の戒名の、諸翻訳家の訳に対する不信は、私が秘かに自負している物言いなのである。

最後に、佐野史郎さまの、ますますのご活躍を、心より、願って、終わりとする。

2025/10/01

「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」の原拠に就いて小松和彦先生からのメールを拝受し訂正を行った

昨日未明、かの怪談・妖怪の学術研究をされておられる文化人類学者・民俗学者で、国際日本文化研究センター名誉教授の小松和彦先生から、「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」で、私が、注で原拠不明としていたことについて、情報提供のメールを頂戴した。私自身、小松先生の御著作を多く読まさせて戴いていただけに、驚天動地で驚いた。いろいろと些事があったために、修正が遅れたが、先ほど修正公開したので、必ず、読まれたい。

2025/06/09

小泉八雲「若返りの泉」(『ちりめん本』原英文+藪野直史拙訳)――これを以って、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」は、唯一の来日以後の全作品の電子化訳を完遂した。――

[やぶちゃん注:本作が第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていないことは、既に述べた。なお、今回、調べた結果、この謎を孕んだ作品について、優れた考証を展開しておられる石井花氏の論文「 小泉八雲とちりめん本――『若返りの泉』の成立過程を中心に――」(『ヘルン研究』第四号・富山大学ヘルン(小泉八雲)研究会・二〇一九年三月刊・「富山大学学術情報リポジトリ」のここでPDFで入手可能・論文+資料編)を、まず読まれるにしくはない、ことが判ったので、是非、読まれたい。従って、原拠探索や、死後に刊行された経緯等も、そちらに詳しい。石井氏の骨折りに敬意を表し、ここでは、そうした背景への注は、一切、行わない。

 以下、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらのラベル「富山大学蔵書」蔵書番号「1230124737」の画像、及び、そこにリンクされた二番目のもの英文を参考底本とし、英語嫌いな私の拙訳を添えた。一切の他者の訳したものを参考にすることなく、完全にオリジナルなものである。

 

[やぶちゃん注:表紙。]

 

JAPANESE FAIRY TALE

 

THE FOUNTAIN

            OF  YOUTH

 

Rendered into English

   by Lafcadio Hearn

 

[やぶちゃん注:裏表紙。奥附相当ページ。邦文は縦書。紙質の関係上、字のように見えるところもあるが、判読出来ず、本来の意味を想到出来ないので、空欄とした箇所があり、また、旧字か新字か判読出来ない場合は、旧字を採用した。]

 

All Rights Reserved

Hasegawa,

Tokyo

 

 著作權所有

大正十一年十二月十日 㐧一版發行

同十四年十一月十日 㐧二版印刷

 

 英 譯 者

   故 ラフカヂオ ヘルン

 

 編輯幷発行者

     長谷川武次郞

 

 印 刷 者

     西 宫 與 作

  右同所

 

[やぶちゃん注:以下、本文。“Readered”のミス・スペルはママ。本文冒頭の“L”は原本では二行目にかけて配された特大活字である。]

 

 

THE FOUNTAIN OF YOUTH

 

Readered into English by

LAFCADIO HEARN

━━━━

LONG, long ago there lived somewhere among the mountains of Japan a poor woodcutter and his wife. They were very old, and had no children. Every day the husband went, alone to the forest to cut wood, while the wife sat weaving at home.

 

   One day the old man went further into the forest than was his custom, to seek a certain kind of wood; and he suddenly found himself at the edge of a little spring he had never seen before. The water was strangely clear and cold, and he was thirsty; for the day was hot, and he had been working hard. So he doffed his huge straw-hat, knelt down, and took a long drink.

 

   That water seemed to refresh him in a most extraordinary way. Then he caught sight of his own face in the spring, and started back. It was certainly his own face, but not at all as he was accustomed' to see it in the bronze mirror at home. It was the face of a very young man! He could not believe his eyes. He put up both hands to his head which had been quite bald only a moment before, when he had wiped it with the little blue towel he always carried with him. But now it was covered with thick black hair. And his face had become smooth as a boy's: every wrinkle was gone. At the same moment he discovered himself full of new strength. He stared in astonishment at the limbs that had been so long withered by age: they were now shapely and hard with dense young muscle. Unknowingly he had drunk of the Fountain of Youth; and that draught had transformed him.

 

First he leaped high and shouted for joy; then he ran home faster than he had ever run before in his life. When he entered his house his wife was frightened; because she took him for a stranger; and when he told her the wonder, she could not at once believe him. But after a long time he was able to convince her that the young man she now saw before her was really her husband; and he told her where the spring was, and asked her to go there with him.

   Then she said: "You have become so handsome and so young that you cannot continue to love an old woman; so I must drink some of that water immediately. But it will never do for both of us to be away from the house at the same time. Do you wait here, while I go." And she ran to the woods all by herself.

   She found the spring and knelt down, and began to drink. Oh! how cool and sweet that water was! She drank and drank and drank, and stopped for breath only to begin again.

   Her husband waited for her impatiently; he expected to see her come back changed into a pretty slender girl. But she did not come back at all. He got anxious, shut up the house, and went to look for her.

    When he reached the spring, he could not see her. He was just on the point of returning when he heard a little wail in the high grass near the spring. He searched there and discovered his wife's clothes and a baby, a very small baby, perhaps six months old.

   For the old woman had drunk too deeply of the magical water; she had drunk herself far back beyond the time of youth into the period of speechless infancy.

   He took up the child in his arms. It looked at him in a sad wondering way. He carried it home,murmuring to it, thinking strange melancholy thoughts.

━━━━

 

[やぶちゃん注:この後には、“JAPANESE FAIRY TALE SERIES.”(「日本の妖精譚シリーズ」)“ENGLISH EDITTION”(「英語版」)と標題し、“ON CRLPE PAPER WITH ILASTRAYTIONS IN COLOURS.”(「カラー版挿絵附きの『縮緬(ちりめん)本』」)という添え辞を持った“1”番から“22”番までのリストが載るが、それは電子化しない。

 次が、原本の裏表紙で、鉞(まさかり)に海石榴の花枝を結び付けた挿絵が中央にあり、右手下に絵師の署名があるが、私には読めない。私の書道に堪能な教え子同士の御夫婦に判読を依頼してあるので、それを待って、捜索してみようと思っている。

 以下、私の拙訳であるが、本邦を舞台としたおとぎ話の形式であることを鑑みて、本邦の同型の語彙や文体に似せたものにしてある。無論、読者は子どもであることを考えて、全体のコンセプトは、小泉八雲の訳したワン・フレーズには束縛さない形で読点を入れたり、時に文を切り、敬体の近代的な口語型とした(翻案にはならないように細心の注意はした積りであるが、英文はシチュエーションを、子どもたちに判るようには十全に叙述していないので、私がその部分を添えておいた。いや、今や、小学生でも英文の方がよく読めてしまうのだろうが)。子どもが読むことを考慮して、読みを大幅に入れ、シチュエーションが判るように一部の表現を附加した(間接表現を直接表現にして改行した箇所もある)。実際、展開上、中には、一段落でなく、段落を新たにした方がいいと強く思う箇所もあったが、それは、八雲先生の呼吸として、厳に守った。但し、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で電子化したものに合わせ、漢字は正字を用い、歴史的仮名遣を用いた。なお、本文の冒頭にあるものは、表紙と同じものであるので、カットした。]

 

◆藪野直史オリジナル譯

 

 日本(につぽん)のおとぎばなし集(しゆう)

       若返(わかがへ)りの泉(いづみ)

 

  ラフカディオ・ハーン による

             英語譯(えいごやく)

 

 

 昔々(むかしむかし)、日本の山の奥(おく)に、貧(まづ)しい樵(きこ)りと、そのおかみさんが住んでゐました。彼ら二人は、たいさう年老(お)いてをり、子どもも、をりませんでした。おぢいさんは、每日、おばあさんが家で機織(はたお)りをしてゐる間(あひだ)、獨(ひと)りで、森へ、木を伐(き)りに行きました。

 或(あ)る日のことです。おぢいさんは、とある木を探(さが)すため、何時(いつも)より更(さら)に森の奥深(おくぶか)くまで行きました。すると、突然(とつぜん)、今まで見たこともない、小さな泉(いづみ)に辿(たど)り着(つ)きました。

 そこの泉の水は、不思議なほど澄(す)んでゐて、冷たいのです。おぢいさんは喉(のど)が渇いてゐました。暑(あつ)い日でしたし、一所懸命(いつしよけんめい)に働いてゐたからです。そこで、おぢいさんは大きな麥藁帽子(むぎわらばうし)を脫(ぬ)ぎ、跪(ひざまづ)いて、一氣(いつき)に水を飮みました。

 その水は、おぢいさんが吃驚(びつく)りするほど、元氣づけて吳(く)れたやうでした。

 ところが、その時、おぢいさんは、泉に、ちらと映(うつ)つた自分の顏(かほ)を見て、思わず、泉のたもとに引き返しました。それは、確(たし)かに自分の顏ではあつたのですが、家の銅(あかがね)で出來た鏡(かがみ)で見慣(みな)れてゐる顏とは、これ、全(まつた)く違(ちが)つてゐたからです。それは、とても若い男(をとこ)の顔だつたのです! おぢいさんは、自分の目が信じられませんでした。おぢいさんは兩(りやう)の手で、頭を押さえてみました。ほんの少し前までは、何時(いつ)も持ち步(ある)いてゐる小さな手拭(てぬぐ)ひを頭を覆(おほ)つたばかりで、すつかり禿(は)げ上がつてゐたはずだつたからなのです。しかし、今は、何んと、濃(こ)い黑髮(くろかみ)に覆(おほ)はれてゐたのです。そして、おぢいさんの顏はといふと、少年のやうに滑(なめ)らかになつてゐて、皺(しは)は消えてゐたのでした。同時に、おぢいさんは、自分が新しい力(ちから)に滿(み)ち滿ちてゐることにも氣づきました。おぢいさんは、嘗(か)つては、あんなに堅(かた)くて不自由だつた手足を、驚(おど)いて見つめてゐました。年を取つたことで、すつかりしなびてゐた腕(うで)は、今や、若く張(は)りのある筋肉(きんにく)の形(かたち)を見せて、がつしりしてゐるのでした。おぢいさんは、知らず知らずのうちに、「若返りの泉」を飮んでゐたのです。そして、その、水のわづかな一杯(いつぱい)が、おぢいさんの姿を、すつかり變(かへ)たのでした。

 まづ、おぢいさん――もう、「おぢいさん」ではないので、「彼(かれ)」と言ひませうね。――彼は、高く飛(と)び上がり、よろこびの叫び聲(ごゑ)を擧(あ)げました。――それから、生まれてこの方(かた)、そんな速(はや)さで走つたことのない驚くべき速さで、家まで走つて歸つたのです。家に入(はひ)ると、おばあさんは、彼を『見知らぬ他所者(よそもの)ぢや。』と思ひ、怯(おび)えました。彼が、自分が感じた驚(おどろ)きを話しても、おばあさんは、直(す)ぐには信じられませんでした。しかし、長い時間をかけて、彼は、おばあさんに、今、目の前にゐる若い男が、本當(ほんたう)におばあさんの夫(をつと)であるおぢいさんだ、といふことを納得(なつとく)させることが出來ました。さうして、泉の場所を敎へ、

「一緖(いつしよ)に行かう。」

と誘(さそ)ひました。

 すると、おばあさんは言ひました。

「あなたはすつかり若く美しくなられましたから、この年老いたばあさんを愛し續(つづ)けることは出來ません。だから、私は、すぐ、その水を飮まなければなりません。でも、私たち二人(ふたり)が一緖(いつしよ)に家を離れるのは物騷(ぶつさう)で出來ません。私が行つて歸つて來るまで、ここで待つてゐて下(くだ)さいな。」

 さうして、おばあさんは、獨りで森へ走つて行きました。

 おばあさんは、彼(か)の泉を見つけると、跪(ひざまづ)いて、水を飮み始めました。

「ああつ、この水は、なんて冷たく、甘いのでせう!」

と、おばあさんは、飮み、そして、飮み、ひたすら、飮み、息をつくための一度(ひとたび)の休みさへ、もどかしさうに、再(ふたた)び、飮み始めたのでした。

 さて、彼女の夫は、彼女が歸つて來るのを、待ち焦がれてゐました。――『きつと、美しい、細(ほつ)そりとした娘になつて、戾ってくる。』と待ちに待つてゐました。しかし、幾(いく)ら待つてゐても、彼女は一向(いつかう)に戾(もど)つて來ないのでした。夫は心配になつて、しつかりと家の戶締(とづ)まりをして、彼女を探しに出かけました。

 泉に辿(たど)り着いた時、彼女の姿は見えませんでした。立つたまま、何處(どこ)を見渡(みわた)して見ても、見えません。仕方(しかた)なく、彼が丁度(ちやうど)、家に戾(もど)ろうとしたその時、泉の近くの背の高い叢(くさむら)の中から、小さな泣き聲が聽(き)こえて來ました。彼が、其處(そこ)を探して見たところが、おばあさんの着てゐた衣服(いふく)と、赤(あか)ん坊(ばう)を見つけました。――それはそれは、とても小さな赤ん坊で、生まれて六ヶ月くらいの赤ん坊だつたのです。

 さうです、おばあさんは、泉の魔法(まはう)の水を飮(の)み過ぎてしまつたのでした。若い頃を遙(はるか)に越え、喋(しやべ)ることも出來ない赤ん坊の時間に到(いた)る時まで、彼女は、すつかり醉(よ)ひ痴(し)れてしまつてゐたのでした。

 彼は赤ん坊を腕に抱き上げました。赤ん坊は悲しさうに、不思議そうに、彼を見詰(みつ)めてゐました。彼は赤ん坊に何かを囁(ささや)きつつ、奇妙で、もの哀(がな)しい思ひを巡(めぐ)らせながら、家へと、連れて歸つたのでした。

 

 

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