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カテゴリー「小泉八雲」の678件の記事

2026/01/29

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その9) 「京店と北堀時代」(そのⅤ) 〔雜事〕・「小泉八雲略傳」・奥附 / 桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」~了

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔雜    事〕

 

〔桑原〕 八雲先生の御手醫者は誰れでしたか。

[やぶちゃん注:「御手醫者」「おていしや(おていしゃ)」は「お抱え医師・出入り医者」のこと。主に江戸時代に用いられた語である。]

〔高木〕 先生も奥樣も極めて壯健で、一同もお醫者の見舞はありませんでした。

〔桑原〕 先生と奧樣と御同棲當時は談話が和英チヤンポンで隨分滑稽なことがあつたろうと想像しますが、御記憶のことはありませんでしたか。

〔高木〕 先生は何時も和英對譯の字引をお持ちでして、それでどうかこうか用事が片付きました。しかし間違いは每々のことでして、込み入つた用談は、大槪西田先生がお立ち合いのようでした。

〔桑原〕 八雲先生は自分が眼が惡く、その平癒囘復を祈るため先生自身が、每月一畑藥師に月詣りをされたという珍聞を聞きますが、それはほんとうでしたか。

〔高木〕 先生が一畑藥師に參詣されましたことは、富田旅館時代に一度あつたと聞きますが、その後はありません。しかし先生の眼のために月詣りには私の母が先生の代參として月一度は必らず參詣致しました。勿論これは奥樣の御指示でした。

〔桑原〕 先生の日常生活は極めて規則正しく、時間勵行であつたように聞きますが、どんな風でした。

[やぶちゃん注:「勵行」は「れいかう(れいこう)」で、「決めたこと・決められたことをその通りに実行すること」を言う。]

〔高木〕 先生の時間勵行と几帳面なことは、まことに間違いないことでありました。その一例を今思い出しましたから申しましよう。

 何日頃かはつきり致しませんが、或る日、私がお風呂の焚き付けを始めていました際、フト私は每晩定刻に先生に差上げます朝日ビールの殘りが殆んどなくなつていたことを思出しました。ところが早や時間がないためにこれは大變なことをしたと狼狽し、私は風呂焚きの際とて跣足[やぶちゃん注:「はだし」。]でオマケに尻はしおりながらその儘で駈出して[やぶちゃん注:「かけだして」。]、大橋詰の山口藥店まで約十町許りを往復して、呼吸も絕えだえで漸く時間通りに先生に朝日ビールを差上げることが出來ました。これとても別段先生より叱られるのが恐ろしいという意味は少しもなく、ただ當時先生の過程萬事が時間勵行に仕付られていた習慣から、我知らず飛び出した次第で、途中行遇う人々が私のこの風體[やぶちゃん注:「ふうてい」。]を何んと見たであろうかと、後年この事を子供等に話しまして笑いましたことでした。

[やぶちゃん注:「尻はしおり」「尻端折(しりはしを(しりはしおり)」で、現行は「しりはしょり・しりっぱしょり・しりばしょり」と表記・発音することが一般的である。走るために着物の裾を捲(まく)り上げ、帯の後ろに挟んで留めることを指す。]

(桑原) 先生の文章は何れも苦心推敲の末で、度々書直しをされたと伺いますが、定めて澤山の書損い[やぶちゃん注:「かきぞこなひ(かきぞこない)」。]があつたと思いますが、その反古はどうなりましたか。

[やぶちゃん注:「反古」この聴き取りが行われた時代では「ほぐ」が普通である。漢字は「反故」とも書き、「書・画などを書き損じて不用となった紙」を指す。但し、「ほご・ほうご・ほうぐ」とも呼んだり、書いたりした。しかし、「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」の「反故の語誌」に拠れば(私の所持する「日本国語大辞典」は初版で、この記載はない)、

   《引用開始》

1 )奈良期に「本古紙」〔正倉院文書‐天平宝字四年(七六〇)六月二五日・奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳〕、「本久紙」〔正倉院文書‐天平宝字六年(七六二)石山院牒〕の表記で見えるのが古い。また、「霊異記‐下」には「本垢」とあり、当初の語形はホゴ・ホグ、あるいはホンク(グ)であったと考えられる。

(2)平安期の仮名文では「ほく」と表記されることもあるが、ホンクの撥音無表記とも見られる。「色葉字類抄」には「反故 ホク 俗ホンコ」とあり、鎌倉時代においては、複数の語形があったこと、正俗の意識があったことなどが分かる。

(3)「日葡辞書」の「Fongo(ホンゴ)」の項に「Fôgu(ホウグ)と発音される」との説明があるところから、中世末期においてはホウグが優勢であり、近世になってからもホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグなどとともに主要な語形として用いられている。

   《引用終了》

とある。別の項で、同辞典に、

   《引用開始》

「反故」「反古」を表わす語形は数が多く、そのいくつかは同時代に並行して用いられている。ホグ・ホゴの語形も古くからあったが、特に近代になって有力となった。明治・大正期の国語辞書の多くは、「ほぐ」を主、「ほご」を従として項目を立てており、「ほご」の語形が一般的になったのは比較的最近のことである。

   《引用終了》

とあったことから、私は「ほぐ」を採用した。]

〔高木〕 每朝先生の書齋の反古籠を掃除すると、澤山の書き損ないの反古がありましたが、それは皆な每日の風呂焚きなどに使いまして。一枚も殘りませんでした。

〔桑原〕 先生は奧樣と每日二人連れで外出されましたか。

〔高木〕 海水浴場のような所へは何時も御同行でした。また買物には大慨御一緖でした。しかし神社、佛閣、舊蹟、名所と申す所へは、西田先生の御同行の方が多かつたように思います。

〔桑原〕 これでまず私が考えていたことは八百さんより大槪伺つた積りですが、次に登志さんに伺いますが、何か平素お母さんが茶飮み話に當時の珍話をなさつたことで今日伺うた外に何にか御氣付のことはありませんか。

〔高木登志〕 ただ今母より申上ました外には、別段心當ることはありませんがただ一つ母よりきゝましたことに、或る時白魚の吸物を召上がつた時、フト先生は椀の蓋を開けたまゝ靜かに耳を傾けておられましたが、奧樣に向つて、「この魚泣く」と申されました。奧樣はそれは魚が泣くのではありません。入れ物が漆器で、餘り熱い汁を入れたためで、どうかすると、こんな音がするものですと說明され、先生もようやく納得され、あとで皆々大笑いになつたことがあつたとのことでした。

[やぶちゃん注:「白魚」は、この場合は「しろうを(しおうお)」と読み、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeシロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii である。これは、語り出すと、エンドレスになるので、まず、私の「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」を見て戴き、それで、理解された上で、「日本山海名産図会 第四巻 白魚」の本文(作者に誤認箇所があるので注意されたい)を通読され、誤認を指弾した私の迂遠な注を見られたい。]

〔桑原〕 白魚が泣いたと先生がいぶかつた話は、過日岸崎豐子さんにも伺いました。また豐子さんが、家族と共に年を鰹て自宅に歸られたちようどその日に、八雲先生が熊本より上京の途中に松江に立寄り、西田先生と共に松江の舊居を懷かしみ、訪問されたことなども伺いましたが、これらは既に或る人の著書に出ていますので私はただ今は伺いませんでした。

[やぶちゃん注:「岸崎豐子」いろいろと、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、遂に、この人物の正体や記事に行き当たることはなかった。識者の御教授を乞うものである。

〔高木〕 ただ今登志が申したことも實際ありました。しかしこの外に何分五十年の昔のことで忘れたことも澤山ありましようが、兎に角自分の覺えていたことは、御尋ねのついでに皆申上げました。マーこの上は私には種切れと申す次第であります。

〔桑原〕 お二人にはまことに長時間御迷惑をかけました。どうも松江時代の八雲先生の私生活の記錄というものが、簡略に過ぎたり、間違つているように私は氣がついて伺つた次第ですが、お蔭でいろいろの點がはつきり致しました。誠に有難うございました。厚く御禮申上げます。

 

[やぶちゃん注:これを以って、本書の本文は終わっている。

 以下、添えられた「小泉八雲畧傳」である。底本では、ここから。順に言うと、人名の日本語音写表記に、まず、問題がある。続く、生地の島の名も同じく問題があり、さらに、その領有国も誤っていたりする大きな誤りがあるので、注意されたい。そうした誤りは、後注で示す。

 

 

   小 泉 八 雲 畧 傳

 

 小泉八雲は西曆一八五○年(嘉永三年)六月二十七日ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)に生れた。父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン、母はローザ・テシマである。三歲の時父母に伴われてアイルランドのダブリン府に歸つたが、その翌年父母合意の離緣となり、母はギリシヤに歸つた。その後八雲は大叔母の手に養育され、十七歲の時またも不幸にも父に死別し、ついで大叔母なる人も破產してしまつた。幼時は家庭に學び、十四歲で英國ダルハムのアシヨウ・カレツヂに入學し、その後フランスのイーヴトーに於ける學校に轉じたが、二十歲の時米國に向つて流浪の旅に上り、まずシンシナチーに着き、ここでは一面非常な生活苦と鬪い、一面苦學を積んだ。二十五歲の時はじめて新聞記者となり「鞣皮所の殺人」「都市の鳥目觀」を書いてようやく時の人に認められた。二十八歲で南部ニユー・オルレアンズに移り、ここでも新聞社に勤めて「チタ・ラスト島の話」という創作によつてあまねく文名を認められるに至つた。

[やぶちゃん注:「ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)」ウィキの「レフカダ島」に拠れば、『レフカダ島 (レフカダとう、ギリシア語: Λευκάδα / Lefkada、ギリシア語発音: [le̞fˈkaða])は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ (Lefkada (city)) 』で、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている』とし、注に『「ラフカディオ・ハーン」の名で知られているが、本名は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」であり、「ラフカディオ」(レフカズィオス=レフカダ島の)はミドルネームである』とある。『ギリシャ共和国西部、行政的なイオニア諸島地方(ペリフェリア)のほぼ中央部に所在する、イオニア諸島では4番目に大きな島で』、『北西方向に』、『やや離れてケルキラ島・パクシ島があり、南にケファロニア島とイタキ島がある。島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている。本土とは土手道と浮き橋によってつながっている』。『島の南端にはレフカタス岬がある』とする。但し、『1797年、ナポレオン』Ⅰ『世によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった。1799年にはロシア海軍が諸島を占領し、1800年にロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった。1807年のティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが、1809年以降イギリスの攻勢にさらされた。レフカダ島は1810年、イギリスによって占領されている。1815年の第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμένον Κράτος των Ιονίων Νήσων)が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とあり、『186462日にイオニア諸島はギリシャ王国に引き渡された』とあり、小泉八雲が生まれた時、レフカダ島はイギリス領であったのである。しかし、笠原氏の本書が刊行された時点では、ギリシャ王国であり、一九二四年に一度、共和国となったが、一九三五年の王制復活を経て、一九七三年に現在の共和国となった経緯があるので、まず、本文の「ギリシヤの一島」という謂いは、本書刊行時点に於ける言い方としては、誤りではない。

「父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン」(Charles Bush Hearnチャールズ・ブッシュ・ハーンここは恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」の音写を採用した。なお、私は、今まで、出生から来日までのラフカディオ・ハーンについて、注したことがない。されば、以下、この年譜を大いに引用させて戴くこととなったことをお断りしておく。なお、私が示す時はは当時の本名の「ハーン」ではなく、一貫して「八雲」とすることとした)は、同年譜に、彼は『アングロ・アイリッシュの旧家の出で、ダニエル・ジェームズ・ハーンの長男として、一一八一八年にアイルランドに生まれ』、小泉八雲が生まれた『当時』は『ギリシヤ駐在の第四』十『五ノッティガム歩兵連隊の軍医補であった』とあり、八雲の書簡記載の中に、『英国七』十『六連隊の軍医少佐であったというハーンの記憶』『は、父の弟ロバートとの混同による』とあった。

「母はローザ・テシマ」(Rosa Antoniou Cassimati:ローザ・アントニオ・カシマチ/音写は同前。セカンド・ネームの英文転写したものは、中国語の「維基百科」の「小泉八雲」にあるものに従った)。同年譜に、彼女は『セリゴ島(現地呼称キシラ)の旧家の出で、父アントニーの娘として、一八二三年に生まれる』とあり、以下、『ハーン誕生にいたる両親の関係』が年譜式に続く。一八五〇年『十月』に、父チャールズ・ブッシュ・ハーンが『英領西インド諸島への赴任を命じられ、ドミニカに到着する。数カ月の後、グラナダに転属する。ハーンは父が西インド諸島にいたことは、一八九一年に異母妹アトキンソンと文通をするまでは知らず、そこにいた時、前に見たことがあるという奇妙な霊感「既視感」』(フランス語: déjà-vu:デジャ・ヴュ)『に襲われたという』。『この間、ローザとハーンはサンタ・モウラで暮らす。「そういうわたくしに、ある場所と、ある不思議な時の記憶がある⋯⋯」ではじまる「夏の日の夢」(『東の国から』)の美しい追憶部分で、「むかし、遠い遠い日のこと、山の奥の峯と峯のあいだの峡谷に、浄らかな日をおくっていたころ」と回想されているのは、この頃のことである。』とある。これは、私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』の「四」の途中で語られる以下である。

   *

 私は或場所と不思議な時の事を覺えて居る、そこでは日と月は今よりもつと大きく、もつと明るかつた。この世の事か、いつか前の世の事か、私には分らない。ただ私はその空は遙かにもつと靑く、そして地に近かつた事、――赤道の裏の方へ走る汽船の帆柱の上に近いと思はれる程であつた事を知つて居る。海は生きてゐて、いつも話をした、――そして風が觸れると私は嬉しさに叫んだ。以前山の間に住んでゐた聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]日に、一二度私は同じ風の吹いて居る事をただ暫らく夢想した事がある、――しかしそれはただ記憶であつた。

   *

 年譜に拠れば、翌一八五二年の項に、『ローザとハーンをダブリンに送り届ける仕儀は、父チャールズの『二人の弟、特にパリに住』んでいた三男の『画家リチャードが』その『最終的役割を受け持った』とあり、同年『八月一日(日)午前七時、リチャードに伴われて、母と子』は『ハーン家に到着』した。『当時のハーン家は、ダブリンの北部の高級住宅地ロウアー・ガーディナー通り四八番地にあり、チャールズの母エリザベスが娘ジェーン夫婦と住んでいた』とある。しかし、この年譜の最後には、母子のダブリンへの移転に就いて、『歓迎の気持ちとうらはらに、当時のアイルランドにおける厳しいカトリック教徒とプロテスタントの宗教的・政治的対立は、プロテスタント旧家としてのハーン家にカトリックに近いギリシア正教を信ずるローザが同居することが、だんだん難しくなる不二木を生み出した』とある。

 翌一八五三の『十月八日(土)、』父『チャールズが』勤務地であったグラナダから『ダブリンに到着する』とあり、その後に、八雲の書簡からの引用があり、『「乳が連隊とともに帰還した時、父が私を一緒に馬の背に乗せてくれたことを私は憶えています。赤いコートと縞入りのズボンの多数の士官と一緒の晩餐の席、子供の私は食卓の下を這いまわって軍人さんの脚をつねてまわった」』とある。しかし、翌日の条に、『ハーン家において再会した一家が食卓を囲』んだが、早速、『その夜、チャールズとローザのあいだに激しいあらそいがあった』(父チャールズの妹(三女)スーザンの日記に拠るとする注記がある)とある。この年の最後に、『暗い北海の風土を嫌い、英語もたどたどしいローザは精神が不安定となり、時に激しい発作にかられて二階から身を投げようとしたり、子供に当たったり、暗く沈むことが多くなった。チャールズはボートベロー兵舎近くの村ダンドラムに母子を住まわせた』。『小泉セツは後年、E・ウェットモア夫人』(エリザベス・ビズランド・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)はアメリカの著名なジャーナリスト・編集者で、ニューオーリンズで新聞社『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』( New Orleans Times Democrat )に勤めた際、既に記者メリカ在住中の小泉八雲と知り合い、以降、生涯、親交を結び、八雲の没後には、英語による伝記を執筆したことでも知られる。詳しくは、当該ウィキを見られたい)『に、生前のハーンの言葉を次のように伝えている。「私、四歳[やぶちゃん注:恐らく数えで答えている。]の時でしたと思います。ある日、大層いたずら致しました。ママさん立腹で、私の顏を打ちました。その時、私ママさんの顔をよく見ました。髪の毛の黒い、大きな黒い眼でした。日本人のような小さい女、ママさんを覚えたようです」』とある。なお、小泉八雲ははっきりした母ローザの面立ちの記憶を持っていなかった。この回想は、そうした一瞬のカットの瞬時映像のそれである。実際、後の八雲は、親族とは殆んど関係を持たなかったが、翌年に生まれる八雲の実弟に手紙して、何とかして母の写真を探し出して貰うことを頼んでいる。実は――怒った母の黒い眼の映像だけ――が彼の唯一の「母の記憶」であったのである。

 而して、翌一八五四年四月二十一日、チャールズは「クリミア戦争」に従軍したが、その時、『ローザは懐妊していた』のであった。そして、『初夏、』ローザは『ハーンを』を可愛がって呉れた親族の女性『ブレナンの援助でセリゴ島に帰』った。ローザは、その島で八月十二日に、八雲の実弟ダニエル・ジャームズ・ハーンが生まれた。同年末尾には、『ローザには子供を見棄てるつもりはなかった。ハーンは弟ジェームスに手紙を書いて、「母に対する不実な言葉を信じてはいけない。母はできるだけ君を愛したのだ。どうしようもなかったのだ」と慰めている』とある。

 一八五五年は解説のみであるが、小泉八雲の生活史の中でも最も重要な箇所であるので、前掲年譜から全文を引く。

   《引用開始》

一八五五年(安政二年)五歳

 父母と離れて、大叔母ブレナン[やぶちゃん注:父の母エリザベスの妹で、カトリックに改宗した未亡人サラ・ホームズ・ブレナン(Sarah Holmes Brenane)。]のもとで生活をする。繊細で、神経質な幼年時代を回想して、後年まで強い印象を残しているのは、恐怖の体験であった。「私が子供の時、悪夢が私にとっては実際の形状と明瞭さを帯びて現われた」[93106]。夢魔の恐怖は後に、自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)で詳細に語られる。夜の世界は十歳の頃までつづく。

 また楽しい想い出として、「ブレーネン大叔母の許に居た間は年々誕生日には御馳走され、蠟燭を立てて祝って貰った。それで六月二十七日が自分の誕生日である事をよく記憶している。誕生日がすむと間もなく、海岸へ大叔母に連れて行かれるのが例であった」【小泉一雄(一九五〇)九一―九二】。海岸はウォーターフォード州のトレモアや、ウェールズのバンゴー、そして叔母キャサリン・エルウッド夫人の住むメイヨー州ラウ・コリップ地方であった。「私は少年の頃に人々から『君は会場に乗り出すことはできない、そんなひどい近眼では⋯⋯』と忠告されて、大いにだだをこねて泣き叫んだ」[9520]。

   《引用終了》

ここに出た『自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)」とは、一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された来日後の第七作品集“ SHADOWINGS (名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ・第二パート“ JAPANESE STUDIES (「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES の第五話目に配された作品で、原題は“ NIGHTMARE-TOUCH (「夢魔の接触」)である。私の「小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)」を見られたい。但し、この岡田氏の訳は佶屈聱牙で、今一つ、好きになれない。なお、以上に出る重要な大叔母は、八雲の祖父の妻で、姻族に当たるので、同年譜の下方に出る『ラフカディオ・ハーン系図』には載らない。

 続く一九五六年(八雲六歳)では、父チャールズがダブリンに帰宅し、その途中、彼は、嘗つての恋人(未亡人)に偶然、逢った。この女性はアリシア・ゴスリン・クロフォードという名で、ギリシャに行く前、彼が求婚したものの、相手の両親が反対したために諦めた人物であった。されば、彼は、再び、『彼女との結婚を求めて、ローザとの離婚をはかることになる。大叔母はこれに反対した。この頃、父に連れられて、「髪の毛がきらきら光った、全身白いドレスをまとった」「天使のように美しい」婦人に会った時の思い出が』書簡にあるとし、『クロフォードの意地の一人ウェザオール夫人は、この頃会ったハーンの様子について、「長く細い黒髪を顔の両側に垂らし、飛び出た近視の眼をして、夢見るような放心した表情をして、人形をしっかり握っていた」という』とある。

 翌一八五七年(八雲七歲)の一月一日、『新離婚・結婚訴訟法が発効し、離婚申し立てが容易にな』り、『これにもとづいて、チャールズによって』ローザとの『結婚無効の申し立てがなされ、受理される』とあり、七月十八日、チャールズは先に示したアリシアと結婚している。結婚式の『証人の一人は弟リチャードである』とある。そこに、『ハーンはリチャードについて、「大きなひげをはやしていたこと、つげのこまをくれたこと、大叔母が彼のパリでの生活ぶりを嫌っていたこと」を憶えている』とある。リチャードは画家であった。『大叔母はローザとの離婚を怒り、チャールズを遺産相続人からはずし、彼への貸金(六〇〇ポンド以上)を返済させた』とあり、それに続いて、『七月、トレモアの海岸で夏を過ごしている時、海岸であったのが、父を見た最後である。障害で五度会っただけという』とあり、その後の、八月四日の記事の後に、八雲の母のことが記されてある。『〔ローザはセリゴで船会社オーストリア・ロイドの代理人であったジョン・カバリーニと結婚する。〕』とあった。ここには、まだ、八雲が憶えている話が載るのだが、先に進まないので、涙を呑んで、やめることとした。

 一八五八年(八雲八歳)の項の第二段落。

   《引用開始》

 ハーンの学校前の少年時代は、夏の明るい幸福感に満ちた短い日々と、冬の暗い恐怖につつまれた長い夜々の交代であった。家族じゅうでウェールズのバンゴーで過ごし、はなやかな避暑地の社交のなかで可愛がられ、カーナボンの城を訪れ、時にはコイント出の乳母と二人きりで、東洋の珍品あふれた航海者の別邸で過ごしたこともあった[9475]。また叔母やキャサリン・エルウッド[やぶちゃん注:祖父ダニエル・ジェームズの長女。父ジェームズより二十歲年下。]の住むメイヨー州コングの町で、従兄たちと三四七エーカーの農園で遊んだ様子が、「ひまわり」(『怪談』)という作品で、ウェールズに場所を移し変えて語られている。「夏の日の夢」(『東の国から』)の追憶の場面の多くは、エルウッド夫人を中心としている[9444]【ケナード(一九一二)三三――三四、四一】ともいわれ、また地中海を母とともに渡った時の原風景ともいう。そして長い冬の雰囲気は、大叔母の厳格きわめる宗教的訓練と合わせて、恐怖の叫びと嫌悪に満ちていた。「カズン・ジェーン」と呼ばれた少女の生と死は、ハーンの体験の一つの極となる(「私の守護天使」、「偶像崇拝」、「本意なき精霊たち」)。「一八五八年から母のことはきいていない」[9002]。

   《引用終了》

『「ひまわり」(『怪談』)』原題“ HI-MAWARI ”は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。私の「小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)」を見られたい。

『「夏の日の夢」(『東の国から』)』来日後の第二作品集「東の國から」(原題は“ OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)本篇「夏の日の夢」(原題“ THE DREAM OF A SUMMER DAY ”。「或る夏の日の夢」)は、本書が初出ではなく、これ以前の明治二七(一八九四)年七月二十八日発行の英字新聞『ジャパニーズ・ウィークリー・メイル』紙( Japanese Weekly Mail )に投稿したものである。私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』を見られたい。

「私の守護天使」と「偶像崇拝」は、国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第十二卷」(昭和二(一九二七)年第一書房刊)のここの「自傳斷片」で、二篇を田部隆次氏の訳で続けて視認出来る。

一八五九年(八雲九歳) 冒頭に『大叔母ブレナンが生活の中心をダブリンのアパー・リーソン通り七三番地に移す』とあり、その後に、のちに大変なことになる大叔母ブレナンの相続関係の記載が載るが、引用が膨大になるので略す。

 ここで一八六三年(八雲十三歳)まで飛ばすと、八雲は『九月九日』、『ダラム市近郊のウショー』(Ushaw)『にある聖カスバート校』(St Cuthbert's College)『に入学する。聖職教育を目的とし、当時三百人の生徒が在学していた』。『ハーンはその厳正な宗教教育に反発し、聖書の真理に疑問を投げかけ、告解で女性の誘惑を求めていると語り、ギリシアや北欧神話を題材にした文学を愛読するなど、活発な生徒として自由な精神を養った』とある。

 一八六四年(八雲十四歳)の十一月一日の記事を部分引用する。『学校の教科はラテン語中心で、わずかなギリシア語、英語、そして知識中心の古代史、地理数学であった。ラテン語、ギリシア語、数学が不得手で、フランス語も後年の翻訳を予想させるものはなかったが、英語は三年間クラスのトップクラスだった』とあり、『学校ではいつも「パディ」と呼ばれていた。家族のこと、住まいのことを語りたがらなかった。「彼は後になると旧家のあいだもウショーを去ることは決してなかった」』とし、『集団的ゲームに関心をしめさなかった』とある。

 一八六五年(八雲十五歳)には、『「少年の頃、芝生に横になり、夏の青空を見上げて、その中に溶け込み、その一部になりたかった。こんな空想には汎神論の愚劣と邪悪を説いた宗教主任教師に意図せざる責任があると思う。私はこの時、弱冠十五歳にして汎神論者となった。私の想像は私を誘って大空を遊び場とするだけではなく、空そのものになりたかった」(「偶像礼拝」)』と八雲の言葉のみが、ある。この「偶像礼拝」は、一八五八年の箇所で示したものと同名であるが、これ、何度読み返しても、以上の引用と一致するような文章部が、全く見出せない。実は私は恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』(全十五巻)を所持していないので、何んとも、答えようがない。取り敢えず、先程、古書店に、急遽、全巻揃いを購入契約した。入手後に確認して追記をするので、今少し、お待ちあれかし。【2016年1月30日追記】同著作集を入手したが、豈図らんや、全く、解決に至らなかった。私は、複数のプロジェクトを並行して作業しており、これに何時までも熟考する暇がない、向後も、気にかけては、おく。何か、御存知の方は、是非、御教授下さると、助かる。

 一八六六年(八雲十六歳)には、『九月、第三学年への進級に失敗する。寄宿舎、教室、図書室その他、学校生活すべてにわたって友人たちから隔てられる。』とあり、この年、『「ジャイアンツ・ストライド」と呼ばれるゲームで、飛んできたロープの結び目で左眼を打つ(友達の拳ともいう)』とある。この“giants stride”とは、私の鎌倉市立玉縄小学校にもあった「回転遊木(かいてんゆうぼく)」と呼んでいた「回旋塔」で、それは円形のグリッドであったが、ここで言うのは、繩或いは鎖が上からぶら下がっていて、そこに吊り輪があり、それを摑んで複数の者が回転する遊戯である。英文サイト“ Sweet Americana Sweethearts ”の“The Giant Stride by Shanna Hatfield)がよい。例画像四種の最後の二枚が、最も近いものである。この遊技は、少なくとも本邦では、現在、危険な遊具として禁止され、まず、見ることは、ない。事実、私の小学校では、私が五、六年の時、幼稚園児の女の子が、これにぶら下がっている最中、中央の回転軸塔が根元から折れ、遊具全体の下敷きとなって亡くなっている。新聞に、優しかった亀井教頭先生が警官か記者に説明している写真と記事が、新聞の湘南版のページに載っていたのを強く記憶している。続けると、『ダブリンで手術をするが』、『失敗し、左眼を失明する』』とあり、『「私は左眼を失って恐ろしく醜くなっています」』と書簡で述懐している。これが、後天的な身体的ハンディとして彼の生涯の心傷(トラウマ)として沈殿したことは言うまでもない。なお、この年の『十一月二十一日』、『父チャールズがマラリアを病んで除隊し、インドより帰国する途中、スエズ運河を通過』中、『船上で死去』し、『水葬される』とあった。ともかくも、八雲のウィキにある通り、『父親には』終始、『嫌悪感を、母親には生涯に渡って思慕の念を抱いていたという』とあるのは、全くの真実である。謂わば、これこそが、彼が背負った最大の心傷として、生涯を貫き刺したのである。なお、ここに本文ウィキの『1866年 まだ片目を失明して間もない16歳頃の写真』というキャプションのあるものを、以下に掲げておく。無論、パブリック・ドメインである。

   

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 一八六七年(八雲十七歳)九月、大叔母ブレナンが、『ほとんど全部の資産を』突如、失ってしまう。八雲曰く、『「私の親戚の一人の相場師のために金持ちから貧乏になって」』、『「ロンドンの』『冒険家に破産された」』、『財産も没収された」』『と記しているように、ハーンはこの間の経過をくわしく知っていた』とある。

 さればこそ、同年『十月二十八日』、『聖カスパート校を学期中途』の『人文学の第三学期』に『退学』している。八雲曰く、『「カトリックの学校(複数形)で数年たいへん不幸な日を送った」』と回想し、『「英国の学校は乱暴で諸運教育にふさわしくない。頑固な宗教的保守主義が無益な修業を課す」』と述べている。この後に編者の長い補論がある。引用しないが、是非、読まれたい。

 以下、年譜は細かに続くが、ここは、八雲のウィキの『フランスの神学校で教育を受け、この時期にフランス語が得意になる。アイルランドに戻り、イギリスで3番目に歴史が長い名門大学 ダラム大学』(Durham University)『で教育を受けた後、1869年に渡米』したという引用で、ここの注を閉じる。ともかくも、彼は、心的には、この時点で、すっかり独りぼっちのVagabond (フランス語:音写「ヴァガボン」:放浪者)となってしまうのである。

 

 三十八歲の時ハ-パー書肆の文學寄書家として西印度マルチニーク島に航し、一たんニユーヨークに歸つたが、翌明治二十三年三月(西曆一八九〇年)四十一歲の時同書肆の依囑によつて東洋の日本に向い、四月十三日橫濱に上陸した。八月の末松江に着き、松江中學の敎師となり、その翌年二月頃小泉節子と結婚してはじめて家庭の人となつた。斯くて明治二十四年十一月、松江中學校敎師を辭して熊本第五高等學校に轉任し、ついで明治二十七年十月熊本高等學校を辭して神戶クロニツクル社記者となり、翌年の秋歸化して小泉家入夫[やぶちゃん注:「にふふ(にゆうふ)」。]の手續を完了して小泉八雲となつた。明治二十九年八月東京文科大學講師となり、明治三十六年三月まで敎鞭をとり、明治三十七年四月旱稻田大學に轉職したが、同年九月二十六日、心臟麻痺のため五十五歲をもつて東京府下豊多摩郡西大久保村二六五番地の寓居に歿した。墓は東京市外雜司ヶ谷墓地にある。戒名は正覺院殿淨華八雲居士である。

[やぶちゃん注:以下は、前注の終わりと同じく、簡便にするために、本邦の小泉八雲のウィキと、英文の“Lafcadio Hearn”のそれを参考に、恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の「年譜」で補足して箇条型で示す。私が日本語を文を加工したので、引用符は、一部を除いて、その「年譜」からの引用以外には、附さない。

一八六九年(十九歳) リヴァプールからアメリカ合衆国のニュー・ヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。そこで『印刷やヘンリー・ワトキンを知り、仕事を教えられ、やっと夢を織る場所が与えられる。公立図書館で毎日のように本を読』むようになる。書簡に拠れば、『「暇を見ては本を読み、物語を書きました。書いた作品はもうとうにつぶれた安っぽい週刊誌に載りました。原稿料は一度ももらえませんでした」』とあり、『「十九歳から二十一歳までのあいだ、懐かしい『ボストン・インベスティゲーター』』(“ Boston Investigator ”)『に寄稿していた」』とあり、物書きとしての小泉八雲のルーツは、ここにあるようである。

一八七〇年(二十歳) 『この頃、シンシナティのユニテリアン』協会(the American Unitarian Associationのユニタリアニズム(Unitarianism)とは、キリスト教の正統派の教義の中心とされる「三位一体(父と子と聖霊)」の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称を指し、イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、彼の神としての超越性は否定する思想で、一般のキリスト教会は「異端」とする。同協会は一七九六年に、イギリスからアメリカに移住したジョゼフ・プリーストリーが、ペンシルバニア州フィラデルフィアで知識人十二人を指導して最初のそれを創設した。後、一九六一年に「アメリカ・ユニテリアン協会」は「アメリカ・ユニヴァーサリスト教会」と合併、「ユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会」を設立している)『の牧師トマス・ヴィーカーズの指摘秘書として、周三ドルの報酬で』、『おそらくフランス語の翻訳の仕事をする』とあり、また、この年には、『ボストンの週刊誌「ボストン・インベスティゲイター」に「フィアット・ルクス」(「光あれ」の意)の筆名で投稿する。』とある。

一八七一年(二十一歳) 『一月十三日』、大叔母『サラ・ブレナンが卒中でトレモアで死去する。「私は五〇〇ポンドの年金を遺言書で受け取ることにあっていた。⋯⋯』が、しかし、ブレナンが信頼していた遺産相続を担当した人物からは、手紙で、『私に送るものがたくさんあるなどと言い、自分が唯一の遺言執行人になったと言いながら、遺言書につては一言も触れていなかった。⋯⋯手紙を書いたが、たぶん不興をかったのであろう、二度と連絡はなかった』』と書簡にある。八雲は受けるべき正当なものを総て横領されたのであった。この年、とある『印刷所で通信係をする』とある。

一八七二年(二十二歳) 『この年の初め頃、「シンシナティ・トレード・リスト」誌』(“ Cincinnati Daily Enquirer”)『の創刊に当たって共同所有者兼編集者』の『編集助手となる』とある。八雲はこの時知るまでもないが、『五月二十五日』、『母ローザがコルフ島の国立精神病院に入院する。その死まで退院することはなかった』とある。『夏頃』、ある『出版者の植字工兼校正係となる』とあり、それによって『その地方の印刷業組合の一員に加えられていた』とある。『十一月、「シンシナティ・インクワイヤラー」紙の編集室を訪ね、主筆ジョン・A・コッカレルに会う。持ち込み原稿に金を払うこともあると言われ、編集者の机に現行を置くと草々に立ち去ったという』(コッカレル自身の一八九六年の書籍に拠る)とあり、『以後、同誌の有力な寄稿者となる』とあり、最後に、現在、分かっている同紙に彼が執筆した記事の数が、この年から一八七五年六月までで三分割で記されており、それは計二百五十三篇に登ることが判る。まさに本格的な「物書きハーン」となっていたのである。

一八七三年(二十三歳) 『九月以降、不定期的であるが、文学の新刊書評、美術の展覧会評を書くようになる』とある。また、『この年の終わり頃、自由恋愛の㸃商社ヴィクトリア・ウッドフルに共鳴する。十二月には神霊術への関心を深め、N・B・ウルフ博士『現代神霊術の驚くべき事実』を読み、占星術師ラファエ夫人などいかがわしい占師の詐術を実見し、あばくようになる』とあり、また、『カトリックの活動が社会問題化する中で、宣教師たちの活動を冷たい眼で見ていた』と記す。

一八七四年(二十四歳) 『この年の初め頃、インクワイアラー社に正式社員となり』、先の『校正係をやめる。コッカレルの事務所に机を与えられる』とあり、また、『この頃、競争紙「ガゼット」の記者ヘンリー・E・クレイビール炉の交友がはじまる。また、フランス文学の翻訳に没頭し、視力が一層弱くなる』と記す。また、この年の中『頃、墓地や骸骨など、恐怖趣味に関する探訪を試みる。また、画家の友人フランク・デュベネックの誘いによって、女性の裸体美、理想美を求めて』、『アトリにでかけ、モデル嬢を文章でデッサン』したりしている。『十一月七日』、猟奇的な殺人事件『「タン・ヤード事件」』が起こり、『友人と』『ともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをひき起こし、記者としての名を確立する』とある。この事件は、「小泉八雲記念館」のInstagramのここで、解説を見ることが出来る。なお、本文に出る

「鞣皮所の殺人」(なめしがはじよのさつじん(なめしがわのさつじん))

というのが、この「タン・ヤード事件」の記事で、「年譜」の下段(八雲の著作欄)に、初回が十一月九日掲載の『「皮革制作所殺人事件」』以下に連載された記事名が確認出来る。

一八七五年(二十五歳) 『下宿で料理人をしていた』アルシア・マティ・フォリー(Alethea "Mattie" Fole)『と結婚を考えるようになる』。彼女は『一八五四年二月四日、ケンタッキー州メイスヴィルで白人農場主と奴隷女』性『のあいだに生まれ』た。『一八六八年八月』に『男児』『を出産』しており、相手は『スコットランド人という』。以下、彼女及びハーンの関係について、十六項目もの証言が載っている。しかし、オハイオ州では、当時、黒人との結婚は違法であった。二人の正式な結婚届け出が受理された形跡はない。結婚式は、最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式を行った。しかし、『二人の同棲生活は数カ月で破綻』した。マティとの結婚も一因となり、ハーンは『七月、インクワイアラー社を退社する』(英文ウィキでは「解雇される」とある)。『八月』、インクワイアラー社のライバル会社だった『「シンシナティ・コマーシャル」紙』(“ Cincinnati Commercial ”)『に寄稿を』始めて、『十二月から翌年の三月までのあいだに、同誌の正規の記者になる。』末尾に、一八七五年九月から一八七八年四月までの寄稿数が記されており、合計百六十四篇である。また、『他に風刺画の挿絵多数』と付記されてある。なお、本文に出る、

「都市の鳥目觀」

というのは、「年譜」の下段に一八七五年五月二十六日に『「尖塔に登って」』とある記事が、それであることが判った。それが判明したのは、国立国会図書館デジタルコレクションで検索を繰り返す中で見出した小泉八雲著・佐藤春夫譯「尖塔登攀記 小泉八雲初期文集」(白水社昭和九(一九三四)年刊)の中の表題作名に拠ってで、★ここから、読むことが出来る。これも、と言うより、一冊総てを、後に電子化注したく思っている。

一八七六年(二十六歳) 『四月下旬のある日、パーティで地元の医師の妻エレン・R・フリーマンと会い、エレンの息子が集めている考古学の蒐集品の展示会についての記事を書くことを依頼される。このことをきっかけに親密な手紙のやりとりがはじまり、贈り者をしたり自宅に誘うなど、夫人の積極的な愛情がハーンにそそがれる。ハーンは適当な距離を置きながらも、深みにはまることを避けつづけるが、十月頃、藤Kなら送られた写真に対して、ハーンが残酷な批評をしたことから、ハーン宛の手紙がすべて送り返され、二人の交際は終わった』とある。この年の記事はこれのみである。

一八七七年(二十七歳) 「年譜」冒頭に、『夜業の合間に、一律商業図書館にこもってゴーチェの物語の翻訳をはじめる』とある。而して『この秋、マティとの関係が破局を迎える』として、経過が記されてあり、『マティはハーンを捨てて町を出、ハーンもその留守にこの街を出る決心をして、十月のある日、コマーシャル社を退職』した。その後、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ向かった。「年譜」では、その途中のメンフィスでの記載が、かなり語られてある。ニューオーリンズ着は十一月十二日で、その後、なかなか就職活動が上手くいかなかった。

一八七八年(二十八歳) 『ニューオリンズの伝説の教父アントワーヌの聖なる棕櫚(しゅろ)の樹の発見、クレオールの俗謡の収集と翻訳、そして旧市街の人々の生活を描くことに熱中し、東洋や西欧の物語の翻訳、創作にいそしんでいたが、デング熱(骨痛熱)にかかる。そして、三月、四月と不本意な政治的記事を書いて、かろうじて食いつないでいう。体が衰弱し、視力がひとく衰えてくる。』とあり、続いて、『「石のような盲目」にたって、金もなく、友もなく、医者に運ばれた。友はただ一つ』、『回転拳銃だけで、医者が治療に失敗したら使うつもりだったという』と凄絶な記載がある。『四月、「コマーシャル」』紙』『の通信員を辞める』が、事実としては、『稿料の遅れのことから、激しいやるとりののち』、『解雇された』のであった。病気の方は、「瓢簞から駒」で、『五月』、『骨痛熱にかかったことで黄熱病はまぬがれ』、マラリアもドイツ人の薬剤師にゴマ油をどっさり飲ませられて治り、骨痛熱の再発にはレモン汁をすすって耐えぬく』『など、荒っぽい治療で病気を克服して』いった、とある。しかし、五月から六月に至り、『困窮の極』み『に到る』とあって、書簡には「『二日に一度くらい五セントの食事――明はどこに宿をとらせてもらおうかと案じ煩うこともあるぐらいだ」』と記している。辛くも、『六月十五日』、知人の世話で『ニューオリンズ・アイテム社』(日刊紙“ Daily City Item ” を発行)『で副編集者の職を得る』とあり、仕事は『一日三時間、事務所につめて、記事を書き、校正をする、後は自由な時間という職場』で、『ハーンにとって天国であった』とある。

一八七九年(二十九歳) 『「アイテム」』社『で副編集者として健筆をふるうにつれ、ハーンの力量は認められるが』、『負担も多くな』った。昇給したものの、『勤務時間は』十『七時間にも及ぶようにな』った。彼には『新聞記者以外によって生活の安定を得たいという思いは、貧窮の最中の前年二月頃からあった。そこで、彼は、皮算用で、百ドルの貯金を目論み、『三月二日』、『なんでも五セントのレストラン「不景気屋」を開店する』に至った。経営するも、見事に失敗、『三月二十三日』には『閉店する。』但し、『相棒が売り上げ金を逃げ出したからである』とは、ある。この後に、編者による彼のクレオール文化関連等の論考がある。非常に鋭いものである。是非、見られたい。

一八八〇年(三十歳)の「年譜」の最後に『五月以後、ハーンは「アイテム」紙だけではなく』、同地の『「デモクラット」紙』(日刊紙“ Times Democrat ”)にも投稿をはじめている。ハーンの記者としての評判が高く、一つの新聞にとどめえなかったとも言える。しかしそれではなく、ニューオリンズにおける新聞界再編の動きがはじまっていて、ハーンもその動きに乗っていたと考えられる。「デモクラット」紙の記事は、いずれもフランス文学の翻訳か「海外情報」のコラム名によるはなやかな新しい文学の紹介である。」とある。

一八八一年(三十一歳) 『十二月二十八日』、『「タイムズ」紙と「デモクラット」紙の合併が発表される』とあり、八雲は『「タイムズ・デモクラット」の文藝部長として、日曜版を中心に執筆する』とあり、最後に一八八二年から一八九四年十月までの彼の寄稿数がか示されており、その総計は、実に四百九十三篇である。

一八八二年(三十二歳) 「年譜」冒頭に『ハーンの関心が東洋関係の神話や文学に集中されるようになる。』とある。『十一月、東洋の伝説集(後の『飛花落葉集』)をスクリプナー、オズグッド者に出版を依頼する』とある。『十二月』本邦のウィキでは、ここに、『この時期の彼の主な記事は』、『ニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など』であったとする。また、この年、彼にとって後半生に於いて重要な人物となる才媛との邂逅があった。『この冬、エリザベス・ビスランド』(Elizabeth Bisland :後に結婚し、Wetmore 姓を名乗る)『を知る。「死んだ恋人」を読んで心を引かれ、ジャーナストを志してニュー』・『オリンズにやってきた十八歳の才気ある美少女は、その時「タイムズ・デモクラット」の婦人記者であった』とあるのが、その人である。彼女については、邦文ウィキを参照されたい。以下、一年、飛ばす。

一八八四年(三十四歳) 「年譜」冒頭に、『この年から八六年までの三年間は、これまで培ってきた才能が一斉に開花し出し、民俗学という広大な分野を与えられて、その主題も生きてくる。だんだんと新聞を翻訳発表の場に利用し、まとまったテーマはゆっくりと時間をかけて、雑誌に発表するようになるが、その前の最も充実した一時期である。六月の『飛花落葉集』の出版』(オズクッド社刊)『は一つの目標を達成し』、メキシコ湾にある『グランド島での』八月末から一ヶ月余りに亙った『夢のような休暇ののち、ハーンは創作のなかに大きく踏み込んでゆく。まさに転換の年である』とある。

一八八五年(二十五歳) 「年譜」冒頭に、『一月から二月にかけて、ハーバー社のために』ニュー・オーリンズで開催された万国『博覧会の記事を書くことに忙殺される。特に日本館の美術および教育に関する展示品七〇四点が興味を引き』、『医学者高峰譲吉と出会い』、『日本政府から派遣されていた』農商務省官僚『服部一三と緊密な交渉かった』とある。本邦のウィキは、これを前年の項に記しており、誤りである。この年の四月から五月上旬にかけて、友人とフロリダ旅行に出たが、『旅行中』、『マラリアにかかり、帰宅後』、『発熱して、二週間』、病床に臥す。この時、看護して呉れた人々の中に『洗濯女のルイーズ・ロッシュ』がいたが、五月の項の終わりに、八雲は『博覧会の時に見た日本を取材してみたい思いがあり』(☜重要!)、『一方で、民族音楽の宝庫である西インド諸島への憧れ』『が交錯する』とあり、それについて、先の看護してくれた『ルイーズ・ロッシュは豊かな民謡の伝承者であった』とあるのも、見逃せない。

一八八六年(二十六歳) 「年譜」冒頭に『この年は『チタ』の執筆に集中した年であり、その創作にかえる意欲が高揚した気分をもたらし、新聞への寄稿も充実安定している』と記す。「チタ」は‘ Chita: A Memory of Last Island ’(彼が推敲に拘った結果、大きくズレ込み、一八八八年四月刊行となった)で、後年、多くの作品とカップリングされ、「仏領西インドの二年間」(‘ Two Years in the French West Indies ’: 一八九〇年刊)の中に組み入れられた。

一八八七年(三十七歳) 「年譜」に『二月、新聞記者生活をやめ、ハーバー社の寄稿者として作家生活に入る決心をする』とある。『六月五日』、『シンシナティ時代の記者仲間テニュスン、そしてビスランドに会』い、『成長したビスランドの美しさに魅了され』たとある。『七月上旬の日曜日〔十日か〕、夜明けにイースト・リヴァ四九埠頭から、バラクータ号でトリニダットに向け』、第一回目の西インド諸島への旅に『出発する』。その後、多島海の島々を廻り、『サン・ピエール』(Saint-Pierreここ。グーグル・マップ・データ)『に腰を据える。青い海、美しい混血の娘、夢のような町で過ごす。トリニダットでは、クーリーの村の娘たちがするような腕環を銀細工師に造らせ、ビスランドへの贈り物にする』とある。彼のビスランドへの恋情は、モノホンと言う感じが、既に、する。九月中旬、ニュー・ヨークに着く。九月末、一回目の『西インド諸島旅行の原稿が七〇〇ドルで売れ、これをもって、すぐにサン・ピエールに引き返す支度にかかる』とあり、『前の旅では』、『行く先々で写真を買わなければならなかったこと、混血の人々の分類、特にその髪型に関心をもっていたことから、カメラの必要を考え、一〇六ドルを出して』『「ディクラティブ」という当時の最高級品』を『購入する』とある。『十月二日』、再び『バラクータ号に乗船、サン・ピエールに向かう。会わずに出発するハーンをなじるビスランドに、署名の別れの手紙を書くが、最後まで会うことはしなかった』とある。彼女の方も、まんざらではない感じがするが、寧ろ、八雲の素直でない様子には、私は、女性に対する根本的な、ある種のアンビバレントなものを強く感じる。十二月の記載に、大枚を払った『カメラを十分に使いこなせず、とうとう地元の写真屋と契約する。カヌーと少年の話、高地の墓、熱帯の森と神社』(信仰の聖なる建造物とでもしないと、激しい違和感がある)『など、興味を引く題材を小品に仕上げようとする』とある。最後の部分で、編者が、滞在中の彼の女性関係について纏めている。『マルティニーク滞在中のハーンの身近にある女性の姿を伝えているのは、モン・ルージュに移ってから』津人『宛に書かれた十二月五日の手紙である。――私には、町に一人の「肉体美」(ドドン)』(現地語であろう)『がいるので、女はいらないと書いている』とし、最後に、『ハーンが借りた山小屋の老主人カプレスには、ハーンに山を案内してくれた背の高い息子イエベと、オレンジの肌の娘アドウがいた。この娘や、下宿先の娘などとの恋愛説もあるが、これらの女性たちは、ハーンの身辺を知る身近な人々であったと理解するだけで十分だろう。』と締め括っている。因みに、私の所持する恒文社版平井呈一「小泉八雲作品集」(全十二冊・一九六四年~一九六七年・所持するのは総て初版である)の「仏領西インドの二年間 上」(全原題は‘ Two Years in the French West Indies ’)の「洗濯女」の一節に、『背の高いカプレス』が、洗濯に来た十八、九の娘たちに、いたずら半分に声をかけるシークエンスがある。この『カプレス』は青年と思われるが、実際には、カプレスの子イエベがモデルであろう。小泉八雲は、来日後の作品でも、わざと実際の名前を、別な名や性別に書き換える傾向が、随所に見受けられる。それは、実在のモデルを判らなくして、特定されないようにする優しい配慮の働きでもあるのである。さて、西インド諸島滞在は、翌々年の四月まで続いた。

一八八九年(三十九歳) 二月に「ユーマ」(‘ Youma, the Story of a West-Indian Slave ’)を脱稿している。「年譜」に拠れば、『五月一日』、『ニュー』・『ヨーク行きの船に載る』とあり、同月五日にはアメリカに着いていた。『十月中旬、ビスランドの自宅』『で弟妹と一緒に夕食をとる。ビスランドへの恋心がつのる。』とある。以下、余りにも注が長くなったので、ウィキの「小泉八雲」の年譜で簡略化する(注記号はカットした)。

一八九〇・明治二十三年(四十歳) 『ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた女性でもあり、年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある』。『ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、44日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。横浜では、1887年にハーンが『ハーパース・バザー』に発表した「Rabyah's Last Ride」の熱烈な読者だった在日英国人学校ビクトリア・パブリック・スクール校長のチャールズ・ハワード・ヒントンがハーンを家に招き』、『同校での教職も与えたが、ヒントンの妻がハーンの隻眼を嫌がり決別する。なお、ヒントンの妻のマリーは、数学者ジョージ・ブールと』、『やはり』、『数学者のマリー・エベレスト・ブール(エベレスト山の由来となったジョージ・エベレストの姪)との間の娘である。このときのハーンの教え子にエドワード・B・クラークがいる』。『7月、アメリカ合衆国で知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる』。『830日、松江到着』。

一八九一・明治二十四年(四十一歳) 『1月』、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(186824 - 1932218日)が住み込み女中として雇われる。二人はすぐに惹かれあい結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川』(ひかわ)『郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)』。『11月、チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた』。

一八九四年・明治二十七年(四十四歳) 十月、『神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する』。

一八九六年・明治二十九年(四十六歳) 『東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職』。『日本に帰化し』(「小泉八雲」として入籍したのは二月十日)、『「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)』。

一八九七年・明治三十年(四十七歳) 『 二男・巌』(いわお)、『誕生』。

一八九九年・明治三十二年(四十九歳) 『清』(きよし)、『誕生』。

一九〇一年 ・明治三十四年(五十一歳) 『妻セツの養家である稲垣家を二男・巌に継がせるため、巌を義母・トミの養子にする』。

一九〇二年・明治三十五年(五十二歳) 三月十九日、『西大久保の家に転居する』。

一九〇三年・明治三十六年(五十三歳) 『東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生』。

一九〇四年・明治三十七年(五十四歳) 三月、『早稲田大学の講師を務め』たが、同年

九月二十六日、『狭心症により』、『東京の自宅にて死去、満』五十四『歳没。戒名は』「正覺院殿淨華八雲居士」。『墓は東京の雑司ヶ谷霊園』にある。私は、神奈川県高等学校国語教諭を拝命した翌日、雑司ヶ谷の夫婦塚に墓参に行っている。]

 

 節子夫人との間にて一雄、巖、淸、鈴の三男一女あり、日本のために書いた著書は十一種の多きに及び、大正四年日本に盡した功勞によつて從四位を追贈された。

[やぶちゃん注:「大正四年」一九一五年。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。上中央に金津氏の切り絵があるが、私には如何なる意匠であるのか判らない。当初、家紋のように見えたが、しっくりくるものがない。小泉家の家紋は「鷺紋」であるが、全然違う。見た限りでは、非常にデフォルメされた花瓶かとも思った。左右に大小の葉が四葉、突き出ているからである。しかし、その上の花らしきものは、私には、凡そ、如何なる種であるか判らなかった。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 50.00

昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版

昭和28年10月 1 日第3版 ・ 著者 桑原羊次郞・發行者 三宅美代治 (松江市

殿町383)  ・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383) ・印刷並發行所 山陰新報

   社(松江市殿町383)・定價1册50円・送料8円

 

[やぶちゃん注:最上部の金額は、上記の金津氏の切り絵と同じ紺色で印刷されており、奥附は赤である。奥附の上方の三行は左右が均等貼付で、最終行のみが左合わせになっている。ブラウザでは、上手く原本通りに合わせるのが面倒なので、以上の見せかけ配置とした。

 最後に――ここで私が注した来日以前の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の半生の年譜は、恒文社「ラフカディオ・ハーン著作集」の年譜を引きながら、ネット上で、記事として読めるものとしては、かなり、しっかりとしたものにした積りである。総て、視認でパッチワークしたので、誤りがあるかも知れない。おかしな箇所を発見された方はお教え下さい。

2026/01/23

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その8) 「京店と北堀時代」(そのⅣ) 〔交友〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔交    友〕

〔桑原〕 根岸邸で先生は來客の時は酒を酌みかわし、流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にありますが、それはほんとうでしたか。

[やぶちゃん注:「改良節」花酒爺氏のブログ「歌謡遺産 歌のギャラリー」の「改良節」に、『明治二十年代、時の新語「改良」を冠して』、『はやった演歌・俗謡をいう』。『当時、西を向いても東を見ても斬新を誇示する改良だらけであった。その風潮がいかにすさまじかったか』は、『ここでは割愛するが、『団団(まるまる)珍聞』明治二十一年一月十四日号の投書紹介記事が伝えている。歌謡界とて』、『その例に洩れなかったのである』。『ちなみに流行には』、『お堅い箏曲ですら「改良唱歌」という名目のもとに、何曲も新作されたほど派生唄乱造時代であった』とあった。『【例歌】』の冒頭の『改良節』『土取利行』の『弾き唄い』とある歌詞は、

   *

♪野蛮の眠りの覚めない人は、自由のラッパで起こしたい、開化の朝日は輝くぞ、さましておくれよ長の夢、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。

♪思ふ一念岩をも通す、軒のしずくを見やしやんせ、国民一致の力なら、条約改正何のその、鷲でも獅子でも鯨でも、すこしも恐るゝ事はない、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。

   *

とあった。この標題の「改良節」はリンクが張られており、「YouTube」のototatchinuru18氏の「改良節・久田鬼石(詞曲)/土取利行(唄・演奏)」で、唄と歌詞(画像)が視聴出来る。そこの解説には、『改良節(詞曲:久田鬼石) 土取利行(唄・三味線・太鼓)

「ダイナマイト節」と同様、壮士演歌草創期の唄で、久田鬼石の作。「夜が明けたとか、目をさませとかしきりにいっているのは、一に民衆の自覚如何にかかっているとうったえたわけだろう。まことに初歩的教訓である。作者久田鬼石はみちばたの教師といったところだが、後年教育界に入ったと云うのもむべなるかなと思う」添田知道』とあった。

「流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にあります」複数、確認出来る。まず、直記載で伝聞でないものとしては(以下は、総て国立国会図書館デジタルコレクションの当該部へのリンクである)、「小泉八雲全集第一卷」(第一書房昭和一二(一九三七)年刊)の『月報』の冒頭にある根岸磐井氏の「松江における小泉八雲」の、居間の項(以下全文)で、

   *

 玄關を上つて行けば南に面した四疊があつて其北側に拾疊の間がある。此れは先生の居室で居ながら三方に庭が見えると悅ばれた處である。先生は常に窓際近く座を占めて、蟬の聲に耳を傾けたり庭を眺めながら夫人と歡談し或は來客に應接し、時には所謂「お友達」と酒を酌み交しつつ拳や歌に興ぜられ、自らも當時流行の俗歌「改良節」を唄はれたこともあつた。

   *

とある。次に、以上より前の、雑誌『住宅と庭園 新年號』(第三卷第一號・昭和一一(一九三六)年発行)の藤島亥治郞「小泉八雲の松江の家」の「4」の根岸邸の借宅の客間に就いての記載(右丁中段の後ろから四行目より)に、『八雲はこの間を居間兼客間とし、三方に岩が見えると悅び、「お友達」と酒を酌み拳や歌に興じ、時には當時流行の改良節を唄ひ、澤山の煙管を座右に置いて取り換へ取り換へ之を吸つたと云はれる』とあった。

 正直、前者の根岸氏のそれは、先に引用して考証した如く、事実ではない内容が現に見受けられ、信用出来ない。また、藤島氏の記載も、『月報』以前に根岸氏が同内容を書いたものに基づくと考えて間違いない。

 なお、私の目が止まったものに、岡戶武平(をかどぶへい)氏の講談社の『日本小說新書』(叢書名の「小說」に注意)の「小泉八雲」(昭和一八(一九四三)年講談社刊)の「第三章 出雲の神」の「二」の、ここ(左丁二行目)に出るものがあった。当該段落のみ引用する。

   *

 一たん消した臺ランプをもう一度點けて、枕もとへ近づけた。まだ、夜更(よふ)けに間があるとみえて、大橋を渡る人の足音がからころと聞こえたり、船着場(ふなつきば)にもやつてゐる船の上から改良節が聞えたり、和多見の遊廓からにぎやかな三味線の音と、それに合せて歌う安來節が聞えて來りした。[やぶちゃん注:「和多見の遊廓」現在の和多見町の売布(めふ)神社の西側にあった。]

   *

この本の末尾の『覺書』の最後に岡戶氏は、『○本篇中に引用(いんよう)した八雲の原著中にある文章は、すべて小泉八雲全集(第一書房版)から收錄(しうろく)した。但し、原文に倣(なら)つて作者が創作したものも多少はある。以上。』と記しておられる。――私は、この創作映像部にこそ、「はった!」と横手を打ったのである!

――小泉八雲が、京店の桑原氏邸の借宅で、大橋川から聴こえてくる「改良節」を聴くともなく聴いていた――という「事実伝聞」こそが、この「誤りの伝説」へと変形したものであろう――

と直感したのである。異論のあられる方は、何時でも相手になる。

〔高木〕 私の知る限りでは、來客は極めて少なく、從つて生徒さんなぞの遊びに見えました時には、酒を出すということは極めて少なく、當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています。何分先生の御用は大槪學校で辯じたものでしよう。

 生徒さんでは、今私が思い出すのは、小豆澤八三郞さんというお方でした。

 先生が自宅で酒興中に、改良節を唄われたというのは間違いでしよう。それは生徒さんに改良節や日本歌謡を唄わせて喜んで聽かれたことの間違でありましよう。

[やぶちゃん注:「當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています」この事実は、一応、八雲の家では酒の饗応は、まず、なかった、という推定箇所は正しいと思われる。但し、銭本健二・小泉凡編「年譜」の明治二三(一八九〇)年十月二十一日(火曜)に『学校の帰途、西田千太郎宅に立ち寄り、酒飯のもてなしを受ける』とあり、西田の誘いで、西田宅で饗応を受けた事実は、ある、のである。西田(彼は松江中学の教頭・校長代理であった)は、しかし、この直後に喀血している。僅か六日後の十月二十七日(月曜)、八雲は、『喀血して伏している西田千太郎を、人力車で見舞い行く』とあるからである。

〔桑原〕 外國人が根岸邸を訪問したことはありませんでしたか。大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人が、先生を尋ねた時、先生がこれを宣敎師と誤つて面會を謝絕した所が、段々フロレンツ敎授の說明で敎授が親日家で日本語、日本文學に造詣深い人だということがわかり、座敷に通し終日談話されたと或る本にありますが、御記憶はありませんか。

〔高木〕 先生はまことに交際ぎらいなお方でした。內外人共にあまり面會はありませんでした。別して外國人には一切あわれなかつたようでした。

 しかしただ今外國人のことを伺いまして、よくよく囘想致しますと、一度そんなことがありました。あの外國人さんがその先生であつたかもしれません。初めは先生が斷然謝絕せよとのことでことわりましたが、後で玄關で先生とその外国人とがお話しがあり、御居間に通してお話がはずみ、それから御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます。

[やぶちゃん注:「大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人」「お雇い外国人」として来日したドイツの言語学者・日本学者・文学者であったカール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年:小泉八雲より十五年下)。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『テューリンゲン州のエアフルトに生まれた。1883年から1886年までライプツィヒ大学でドイツ語学、比較言語学、東洋諸言語を学び、中国語とサンスクリットをゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツ』(Hans Georg Conon von der Gabelentz:一八四〇年~一八九三年)『に師事した。博士の学位を得た後、ベルリン大学で井上哲次郎』(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年):哲学者。号は巽軒(そんけん)。筑前の医家の生まれ。東大卒業後、明治一五(一八八二)年(この年に共同執筆で刊行した「新體詩抄」で『新体詩運動』の一詩人としても本邦の近代詩に名を残した)から大正一二(一九二三)年、母校で哲学を講じた。一八八四年から一八九〇年、ドイツに留学し(ハイデルベルク大学・ライプツィヒ大学・ベルリン大学)、帰国後は『ドイツ観念論』の紹介に努め、『円融実在論(現象即実在論)』を説いて東西思想の統一を試みた。また、「教育勅語」の権威を背景に、キリスト教を攻撃し、天皇制国家主義のイデオローグとして重きをなした]『に日本語を学び、このときに有賀長雄』(万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年:法学者・社会学者。専門は国際法)『の面識を得ている』。『日本政府の招聘により』明治二二(一八八九)年『に東京帝国大学に雇われ』、『ドイツ文学及びドイツ語の教鞭を執り、後にはドイツ文献学や比較言語学も教えた。また、同時期に』「日本書紀」『や日本の古典文学をドイツ語に翻訳したり、日本文化を研究する等、日本とドイツの関係を向上させた』。明治三二(一八九九)『年に東京帝国大学はフローレンツに外国人として初めて文学博士の学位を贈っ』ている。大正三(一九一七)年『に任期満了となり』、『帰国した。帰国後はハンブルク植民地研究所(ハンブルク大学の前身の一つ)の日本研究の教授として』一九三五『年まで教鞭を執った』。『主な著作物』として、‘ Geschichte der japanischen Litteratur ’(「日本文学史」一九〇六年)、‘ Dichtergrüsse aus dem Osten : japanische Dichtungen ’(「東の国からの詩の挨拶」一八九四年:ドイツ語に翻訳された分類式日本詩歌集で、三島蕉窓・鈴木華邨・新井芳宗・梶田半古・枝貞彦画の『ちりめん本』(この「ちりめん本」には小泉八雲も後期に作品を執筆している)で、好評を博し、英訳本も出た)。

「宣敎師と誤つて面會を謝絕した」ご存知とは思うが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は徹底したキリスト教嫌いであった。ハーンのフル・ネイムは“ Patrick Lafcadio Hearn ”であるが、ファースト・ネイムのアイルランドの守護聖人聖パトリック(ラテン語:Sanctus Patricius /アイルランド語:Naomh Pádraig/英語:Saint Patrick) に因んだそれを、八雲は終生、サインに用いなかった。

 フローレンツの小泉八雲面会は、銭本健二・小泉凡編「年譜」に拠れば、明治二四(一八九一)年七月の以下に記載がある(参考文献割注部は殆んどの方に無意味であるが、そのまま写した)。

   《引用開始》

 七月八日(水)正午、東京帝国大学文科大学教師のドイツ人、カール・フローレンツが汽船米子丸にて松江に到着し、ただちにハーン宅に投宿する【広瀬(一九七六)一五八】。西田千太郎が、フローレンツに面会のために訪問する【西田(一九七六)一一四】。

 七月九日(木)、「山陰新聞」に、フローレンツが来松し、ハーン宅に投宿の記事が掲載される【広瀬(一九七六)一五八】。

 七月十日(金)、午前中、フローレンツをともない中学校へ行き、西田千太郎と会談する。午後、西田千太郎をハーン宅に招き、晩餐をもてなし、快談して時を過ごす【西田(一九七六)一一五】。

 七月十一日(土)、西田千太郎がフローレンツを迎えに来る【同書、一一五】。教育会で西田千太郎の通訳によるフローレンツの講演を聴き、その後、フローレンツ、西田らと師範学校女子部の生徒と歓談する【板東(一九八六b)一七八―七九】。さらに中原倶楽部で教育会の主催により、フローレンツ、中山弥一郎、西田千太郎らとともに賓客として招かれ、饗応を受ける【西田(一九七六)一一五】

 七月十三日(月)、フローレンツが師範学校女子部の生徒に書籍を贈ることを希望しているので、その件で相談があるとのハーンからの手紙[9137]に応じ、夜、西田千太郎が書籍商を伴って訪問する。シャンペンを飲み、夜半になって西田千太郎が帰宅する【同書、一一五】。

   《引用終了》

以上の後の七月十五日分はフローレンツに触れていないのでカットする。

   《引用開始》

七月十六日(木)、西田千太郎が訪れ、フローレンツと三人で松江城の天守閣に登り市内を散歩する。望湖楼でフローレンツの饗応を受ける。

   《引用終了》

二日分を同前の理由でカットする。

   《引用開始》

七月二十二日(水)、西田千太郎がフローレンツに出雲音図の写し、出雲言葉を集めたものなどを渡すために訪問するが、同氏は大社に行って不在。西田に昼食をもてなす【西田(一九七六)一一五―一六】

七月二十四日(金)、午後、フローレンツが大社より帰る。同氏の西田千太郎、斎藤熊太郎、木村牧(中学校長)に帰松と別れの挨拶をするために出かけるが、最初に立ち寄った斎藤宅で料理屋に案内されてもてなしを受け、帰宅は十二時半から午前一時頃となる[91―40]。

七月二十五日(土)、西田千太郎がフローレンツに会うために訪問する。フローレンツと西田と一緒に松崎水亭(中原町)に行き、フローレンツが米子へ出発するのを西田とともに見送る【同書、一一六】。

   《引用終了》

「御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます」これは以上の年譜から、誤記憶である。

2026/01/22

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その7) 「京店と北堀時代」(そのⅢ) 〔習癖〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

       〔習    癖〕

〔桑原〕 先生は每日大槪何時に御起牀で何時頃御寢みになりました。

〔高木〕 先生は每日午前八時頃に御起牀で洗面はいつも臺所でした。お寢みは每晩十時頃でそれまでは書齋で何かお書きになつていました。

〔桑原〕 學校への御出勤は每日何時頃でいつ頃にお歸りでしたか。

〔高木〕 先生は每日大槪午前八、九時頃お出かけで、二時間位の御授業であつたように存じますので、晝までで大槪御歸邸でありました。

〔桑原〕 先生が煙草ずきの癖は周知ですが、その外に常人にない癖はありませんでしたか。

〔高木〕 別段他に癖と申してはありませんが、一つもつとも先生の嫌いなことは、割木をた時の煙は非常にお嫌いでした。そのために炊事は一切割木を用いませんで、すべて木炭を使いました。朝の牛乳を温めますにも勿諭炭火で、先生のお目覺め前に温ておきます。また午飯夕飯も他所より取寄せましたのも、實は先生が焚火を好まなかつたためであります。ただ寒中は炭火で室內を暖めました。

〔桑原〕 每日の風呂も炭火でしたか。

〔高木〕 勿論炭火です。先生の風呂は每日のことで、極めて微温湯で、かつ入浴時間が極めて早くいわゆる烏の行水でした。

[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の、八雲の裸足の足を、かなり歯の高い、太い緖に嵌めた切り絵があり、右下の下駄の後ろの歯の後部に「足駄」と文字を切ったものが添えてある。]

〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、先生は煙草の火がなくなつた時は伺時も江之島土產の法螺貝を吹いて合圖をされたとありますが、どうでしたか。

〔高木〕 これはたしかに東京住居の時との混線でありまして、松江では奧樣の江之島土產の法螺貝なぞ見たこともなく、また奥樣が江之島においでのこともありませんでした。

[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「煙草」で、確認出来る。「煙草」のここ(左ページにある段落)からで、

   *

 煙草盆は陽が消ゑ[やぶちゃん注:ママ。]易いからと云ふので夏も火鉢を用ゐられた。先生の座右器具の中に一つの大なる法螺貝がある。此れは夫人の江の島土產であつた。先生は「私の肺は强いから斯んな太い音が出る」と云つて頰を膨らして面白がつて吹かれる。そして之を吹くのが大層樂みであつた。夫人は煙草の火を絕やさぬやう常に注意を怠られななかつたが、若しも偶々火がなくなりでもすると、時こそ到れと豫ての約束に隨ひ、長く大きく波を打たせるやうにして吹かれる。そして火の消へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]た時は兎に角、消へ掛けた時にもブーブー鳴り出す。平素家中は息つまるやう靜肅に保たれて居る處へ、夜間など突拍子な音が遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]鳴響くので、「夫れ貝が鳴る」と皆の頰に微笑が漂ふ。

   *

が当該部で、更に、後の「松江に保存されてゐる遺品」にも、ここ(左丁八~九行目)に、

   *

法螺貝。江ノ島土產で、煙草の火のなくなつたとき女中を呼ぶのに用ゐられたが、先生は之を吹くのが大層樂みであつた。

   *

とある。確かに、小泉八雲が来日した直後の明治二三(一八九〇)年四月上旬に、鎌倉・江の島を巡っており、来日してから書いた名作 ‘ Glimpses of unfamiliar japan ’に“ Chapter Four A Pilgrimage to Enoshima ”があり、当該訳は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』の「一五」から、「一六」と、「一七」「一八」、そして、「一九」が江ノ島パートであるので、見られたい。私は、鎌倉及びその周縁の研究をしているが、特に江ノ島については、最も一家言ある江ノ島通であり、また、私の青春の思い出の地でもある。

八雲の当該本文には法螺貝は出てこないが、八雲がこの時、江ノ島内の土産物屋で売られていた法螺貝を購入した可能性は高いとは、断言出来る。だが、それは「可能性」でしかない。――しかし、以上の根岸磐井の語りは、全く信じられない。高木さんが、法螺貝の奇体な響きを全く記憶していないというのは、八雲が、かの根岸邸の借宅で、それを吹いたことはないことを明確に示している。高木さんの言うように、セツさんは、少なくとも、江ノ島に婚姻直後から熊本へ移るまでの間に、江ノ島に旅した事実はない。恐らく、後に、遺品として松江に八雲所蔵の江ノ島の法螺貝が齎されたことと、セツさん以下、御子息らの東京での法螺貝吹きの話を聴き、根岸の借宅で法螺貝を吹いたという、まさに「法螺話」を面白可笑しく創作したとしか、私には思えないのである。

 いや!

 真相の決定打は、小泉八雲の研究者なら、誰もが、読んでいるはずの、セツさんの「思ひ出の記」で、とっくの昔に、この根岸氏の大嘘はカタがついていなくては、凡そ、おかしいのである!

 国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 別册」(昭和一二(一九三七)年第一書房刊)の当該部を引用する。

   *

 書齋のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて參りました時、大層大きいのを、おみやげに買って歸つたのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。『私の肺が强いから、このような音』といつて喜びました。『面白い音です』と言つて、頰をふくらまして、而白がつて吹きました。それから煙草の火のなくなつた時に、この法螺貝を吹くと云ふ約束を致しました。火がないと、これをポオー、ウオーと云ふやうに、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。さう致しますと、臺所までも聞えるのです。內を極靜かにして、コツトリとも音をさせぬやうにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絕やさないやうに、注意をしてゐましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えるとすぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云ふので、書齋の近くに持つて參つて居りましても、吹いてゐるのでございます。この音が致しますと、女中までが「それ、貝がなります」と云つて笑ひました。

   *

 一言、言っておく。桑原氏の本書を「問題がある」とする「小泉八雲研究家」がいると言い、今も、その亡霊が、この優れた関係当事者へのインタビューをメインとする貴重な秀作を不当に棄損している。創作だらけの根岸氏の作品をさておいて、である。そこには、多くのアカデミストの疾患である、私が最も嫌悪する民間研究者の業績を「知って知らんぷりする」のと同様の腐ったキナ臭さを感じるのである。

〔桑原〕 先生が書齋で起稿に沒頭しおられる時は、その室には奧樣でも決して入ることは出來ず、先生より何か合圖があるまでは誰れも這入る[やぶちゃん注:「はいる」。漢字「這」は、この場合、当て字である。]ことは全く出來なかつたと傳えますが、そんなに嚴重でしたか。

〔高木〕 これは熊本や東京時代、御子供樣、御兩親樣にて家族が澤山御同居時代のことかも知れませんが、松江では先生方御兩人と私の三人暮しで、先生の御勉强中には奧樣も私も何かなし差控えて容易に御書齋に入らなんだ程度でありました。

〔桑原〕 先生は南國に生れた人で、暑中などでも久しく庭に御出でても平氣だつたと聞きますが、どうでしたか。

〔高木〕 先生は暑氣ということは決して苦になさらず、お好きでした。太陽直射の下で、庭の飛石や荒砂の上で大の字なりに仰向けになつて平臥しておいでのことは每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]でした。それ程日光はおすきでした。

 

2026/01/21

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その6) 「京店と北堀時代」(そのⅡ) 〔食事と嗜好品〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

       〔食事と嗜好品〕

 

〔桑原〕 先生の食事について伺いますが、朝晝晚の三食のお献立につき覺えておられることをお話し下さいませ。

[やぶちゃん注:このパートの左下には、金津氏の、書見台が切り絵で描かれてある。恐らく木製の二つの太い脚を持つ一体型の台(中央に穴が空いている)の上に本を載せるための左右に開いた薄い板(材質は不明。中央は凹んで居るものであろう)あり、そこに本が開いて置かれてある。その板の右手の下から、やや太い金属と思われるものが波打って手前にくねくねと延びており、その頭に球状(恐らく木製)の開いたページを押さえるものが附属しているものである。このような書見台は、私は見たことがないが、西洋式のものと推定はされるものである。]

〔高木〕 先ず朝食のことを申しますと、朝は牛乳二合と生卵五個が先生の常食でありました。午飯は市内殿町の今の曰本銀行支店のある所に昔[やぶちゃん注:読点が欲しい。]曳野旅館、當時はこれをしやれて曳野ホテルと申しておりましたが、この旅館より先生夫夫婦の食事を每日運びました。その献立は何んとかいうような特別の註文はなく、しかし先生は多く煮〆物[やぶちゃん注:「にしめもの」。]を愛せられ、また卵を使つた日本料理なぞがお嗜き[やぶちゃん注:「おすき」。]でした。

 夕飯は必らず洋食でありまして、まず珈琲、パンなどを加えて五品[やぶちゃん注:「ごしな」。]位の料理でありまして、その一皿は必らずビフテキでした。この洋食は松江市材木町の西洋料班店魚才こと鐮田才次より取寄せました。

[やぶちゃん注:「市內殿町」「殿町」は「とのまち」と読む。現在の松江市殿町。塩見縄手の向かい、松江城址から、現在の島根県庁の南側の京橋川まで。「ひなたGIS」の戦前の地図の中央にある銀行記号がそれであろう。

「曳野旅館」「YAHOOJAPANニュース」の株式会社プレジデント社の「PRESIDENT Online」の本年一月十六日配信の『23歳とは思えない妻・セツの我慢強さ…「ばけばけ」と全然違う、小泉八雲の"わがまま放題"な新婚生活の中身』に、本書を紹介された上で、『昼食は、曳野旅館から毎日届けられた。この旅館は、現在は市の複合施設「カラコロ工房」(旧日本銀行松江支店)が建っている場所にあった。』とあったので、前注の通り、殿町のここに存在したことが確認出来た。]

〔桑原〕 先生はお酒を召上りましたか、日本酒ですか、洋酒でしたか。

〔高木〕 先生は夕食後には必らず朝日ビールを二本づゝ飮まれました。そのビールは當時松江大橋詰の山口卯兵衞藥店だけににあつたかと思います。始終朝日ビールを何ダースか買置きまして每晩差上げました。

 先生のお肴は實に妙なものでして、每晚朝朝日ビール二本それをお飮みになりますと、必らずその後で、今は松江に見當りよせんが黃金牡丹と申しまして、卵黃製で黃色の花辯の中央が紅色になつていました。誠に柔らかい菓子を五六個食べられました。結局ビールのお肴が菓子という譯です。大體先生は菓子は何んでも食べられました。

[やぶちゃん注:「アサヒビール」「アサヒグループホールディングス」公式サイト内の「歴史・沿革」に拠れば、明治二二(一八八九)年十一月に『朝日麦酒株式会社(現アサヒグループホールディングス株式会社)の前身である大阪麦酒会社設立』とし、『日本麦酒醸造会社、札幌麦酒会社も相前後して創立され、日本のビール産業の興隆期を迎える』とあって、『鳥井駒吉、社長に就任』とする。一八九一年十月、『吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)竣工』があり、翌一八九二年五月に『「アサヒビール」発売』とあって、そこに『「アサヒビール」の発売広告』の写真があり、そこのラ楕円ベルには、最上部に右から左に『アサヒビール』とカタカナ書きで記されてある。小泉八雲が松江に着いたのは、明治二三(一八九〇)年八月三十日に松江着、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日であるから、九カ月を待って、初めて「アサヒビール」を飲んだことになる。但し、それ以前に、八雲が上陸した横浜や、神戸の外国人居留地からも舶来のビールの入手は可能ではあった。

〔桑原〕 先生は日本酒を家庭では常用されませんでしたか。

〔高木〕 日本酒は用いません。もし家庭で先生が日本泗を飮んだと記す書物があれば、それは日本人のお客の時に限ることなので、それも私の記憶ではまことに少ないことでした。大體に酒食を出したお客は餘りありませんでした。

〔桑原〕 先生は鮮魚の刺身を食べられたと聞きますが、それはほんとうですか。

〔高木〕 私の知る限りでは、先生は魚は煮付と燒魚何れも喜んで食べられましたが、刺身を上がつたことは餘りなかつたと思います。お嫌らいであつたのでしよう。

[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の切り絵で急須(蓋の上を跨ぐ竹らしき取っ手附きである)の図がある(注ぎ口は右)。左内に「土びん」の文字が切られてはいっている。]

〔桑原〕 先生の煙草嗜き[やぶちゃん注:「すき・ずき」。]は有名なものですが、を巻煙草は吸いませんでしたか。

〔高木〕 先生の煙草は葉卷と日本の刻み煙草に限つていました。煙管は日本出來[やぶちゃん注:「でき/しゆつらい(しゅつらい)」。高木さんの直話であるので、私は「でき」と読みたい。]のもの三四十本ありまして、何れも[やぶちゃん注:「どれも・いずれも」。]羅宇[やぶちゃん注:「らう」。]の長いもので一、二囘吸うと直ちに他の煙管と取換えて吸われる癖でした。私がこの三四十本の煙管の掃除をやりましてこれを一つの箱に收めて置きました。ただ今八雲記念館にある煙管棚は、東京移轉後に出來たものかと思います。

〔桑原〕 先生は小鳥とか、犬猫とかを飼つておられましたか。

〔高木〕 先生は實に小蟲[やぶちゃん注:「こむし」。]すら愛護して無益に殺生することを好まれなかつたばかりでなく、無益の殺生に對しては非常に憤慨しておられましたことは全く事實です。先生は松江在住中には小鳥とか猫犬は飼われませんでした。ただ一度[やぶちゃん注:「いちど」。]時の島根縣知事の籠手田さんの御孃さんから鶯を一羽貰われましたことがありまして、その飼い方には少々困られていました。それはわれわれ曰本人が鶯に對して懷くやうな責重觀念が先生にはなかつたためでもあつたでしよう。その日その日の世話なち飼拵[やぶちゃん注:「かいごしらへ」。餌や水や鳥籠の清掃。]などは一切私がやりましたが、熊本へ出發以前にどこかお讓りになつたようです。

 この鶯について一つの思い出があります。それはこの鶯が餌を取換える時かに籠の口を開けた際に逃げ出しまして、先生は知事の令孃より貰つたものを逃したとて大いに殘念に思われました。ところが永年[やぶちゃん注:「ながねん」。]籠に飼馴して[やぶちゃん注:「かひならして(かいならして)」。]あつたと見えまして、その夕方幸い鳥籠の口が明いたままであつたので、鶯がチヤンと籠の中にいるではありゑせんか。先生も奧樣も非常にお喜びになつたことがありました。

〕 小泉八雲全集第三卷「神國の首都松江」の四に「ほー、け、けう!」と題して鶯を禮讃してあるが、八雲先生も鶯を珍重されたに違いないがただ飼養法に困られたものと見える。

[やぶちゃん注:「島根縣知事の籠手田さんの御孃さん」当時の島根県知事籠手田安定に就いては、初回で注をしてある。「御孃さん」は籠手田淑子(本名は「よし」であるが、公的記録や自称では「淑子」としたらしい)。生年は明治五(一九一六)年らしい(「人事電信錄」の記載)。とすれば、八雲と逢った時は、十八歳前後である(因みに、小泉セツさんは慶応四年二月四日(グレゴリオ暦一八六八年二月二十六日生まれ)である)。NHKドラマ「ばけばけ」では、恋のライバルとして登場したが、私は、小泉八雲の事績の中でも、個人的に全く興味を持ったことがない。従って、今までも、調べたこともない。現在でも、調べたい気持ちはサラサラ、ない。取り敢えず、ここで注せざるを得ないので、ざっと、彼女の記載のある記事を見渡してみたところ、「@Niftyニュース」の『だから小泉八雲は「知事のお嬢様」を選ばなかった⋯朝ドラ・セツの「恋敵」が起こした前代未聞のスキャンダル【2025年12月BEST】』が、『多くの私の記事の読者が、まあ、半分は理屈上では納得するに値する、一応は、豊富な記載内容では、あるな。本当か、どうかは判らぬが⋯⋯』とは感じたので、リンクを張っておく。引用はしない。それに不満なら、もっと面白おかしく、作られたドラマに深掘りしたい諸君を惹きつけるキワものは、わんさか、あろう。どうぞ、御勝手に捜されたい。

  犬は飼つておられませんでした。近所の犬が每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]遊びに來る程度で、飼犬としては記憶がありません。

  猫は私が京店に奉公致していた頃に湖水べりで、近所の子供が小猫をいじめていたのを先生が見つけ、それを綿に包み懷に抱いて愛撫され、根岸邸移轉の節も、先生御夫婦と小猫とで引移りました。その後小猫がだんだん成長しましたが、先生の愛撫方は非常なものでした。それにもかゝわらず、ある日その猫がどんなはずみか先生の手をひつかきまして、先生は非常に不快の色を致されましたが、この小猫は嫌いだということになり中原町の某[やぶちゃん注:「なにがし」。]にやられました。こんな風で松江在住中には生き物はあまり飼われませんでした。

[やぶちゃん注:なお、このページの左下には、金津氏の、下方の両脚の間に雲形型のような切込みが入った、かなり立派な和膳の切り絵が描かれている。]

〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、女中が或る時庭の池で蛙釣をやり、かつて怒つたことのない先生を怒らせたことがありますが、そんなことがありましたか。

[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「動植物への愛」で、確認出来る。冒頭の段落にも蛙を庇う話が出ており、以上の話は、第三段落目の三行目下方から次の行にかけて出現する。]

〔高木〕 それは全く違います。私の記憶では先生が池の中の蛙を釣り上げてはまた放して喜ばれていたことです。卽ち刻煙草を少し糸につけて池に放たれました。これは每々のことで、女中が叱られたことは釣り上げた蛙をどうかしたのでしようが、今記憶致しませぬ。

 

2026/01/20

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その5) 「松江に於ける八雲の私生活」の「京店と北堀時代」(そのⅠ) イントロダクション・〔住居〕・〔衣服調度〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

        京店と北堀時代

 

 八雲は明治二十四午二月京店に移居し、住居すること四月餘であつた。しかして節子夫人を娶つた後、京店借宅の狹隘なのを厭い、同年五月北堀町根岸邸に移轉した。根岸邸にあること七ヵ月間、同年十一月十五日この邸に辭別して熊本市に向つて出發した。

[やぶちゃん注:ここにある、京店の移転に就いての現行の事実との齟齬は、先行する『(その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)』の冒頭で既に注してあるので、見られたい。同じく、根岸邸への移転もまた、現在の事実とは、全く、異なる。恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」に拠れば、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日である。明治二四(一八九一)年の当該部を引く。『六月二十二日(月)、士族屋敷、根岸千夫(たてお)』(ママ。正しくは「干夫」である。八雲会が管理されている「小泉八雲記念館」が、この旧旧居なのである。同館公式サイトのこちらのページを見られたい)『方(北堀町三一五番地)に、セツ、女中の高木ヤオ(高木令太郎の娘)、一匹の子猫とともに転居する。借家賃は三円【小泉セツ(一九六〇)】。正午、中学校に人力車をまわして西田千太郎を迎え、西洋料理をもてなす【西田(一九七六)一一三】。』とある。なお、松江に別れを告げ、熊本へ出発した年日時は問題ない。

 なお、このページには、金津氏の切り絵が左下方にある。爪除け(下駄の前に掛ける雨カバー)附きの高下駄が左に、右に洋靴(踵部分が厚く、さらにその上部も高く足首までカバーされた雪用の革靴と思われる)があり、二つの間(下駄先左と革靴右端が重なっている)に「髙足駄」と「靴」の切り絵が二つの絵を繋いである。例の「金津滋研究」のページにも載る。]

 八雲が京店に於て節子夫人と結婚して以來熊本に向けて出發當日まで、八雲に側近した高木八百刀自(當時六十七歲)について八雲の私生活の全貌を聽くため、昭和十五年(西曆一九四○年)四月二十八日より七月二十一日に至る三囘、髙木八百刀自並びに附添いとして同刀自の嫁女、同姓登志夫人を拙宅に招待し、左の問答をなした。

〔桑原〕 本日は遠路特にご老體のところ、私の熱意に動かされてご來駕を得たことは非常に感謝する次第であります。八雲先生の私的生活に就いて詳細を承りたいのですが、記事の都介上、特に京店時代のことは、お話し中にその時々ご注意を頂くことにして、先ず根岸邸に於ける生活樣式をお伺い致します。なお便宣上住居、衣服調度、食事、習癖、雜事の順序で伺います。

〔高木〕 何分五十餘年の昔のことでありまして、八雲先生が段々高名になられますに從い、常時の思い出を今日連れて來ました嫁などにも話していましたので、私の記憶の混雜していることなどは、この嫁に先年聽かしたところをもつて注意して貰うことにしてお話し致したいく存じます。

 

       〔住  居〕

 

〔桑原〕 八雲先生は富田旅館より明治二十四年二月京店にご移轉になりましたが、その家は今の何處の邊に當りますか。

〔高木〕 私の奉公致した時の八雲先生のお宅は、末次町通り卽ち京店の御掛屋(兩替店)の地內で、織原と申す人の借家でありまして、その位置は京店の本通りより左方御掛屋地內に入り、その前を左に行つた所卽ち湖水べりの家でありました。私が行つた時には、節子夫人ご結婚後間もない私の十八歲の時でした。

〔桑原〕 貴女は先生が根岸邸に移居された明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが、先生のご居間、書齋等はどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:この桑原氏の問いに着目されたい。彼は、それぞれの移転時期を確認するためではなく、京店の織原所有借家の位置と、根岸邸の居間や書斎の様子を答えるように仕向けていることに注意されたい。則ち、桑原羊次郞氏が、富田旅館時代の富田ツネさんから聴いた二回の転居の「時期」のことを信じ切って、ゼロから再確認することを省略したことが、極めて残念に感じられてならない。これは、独立した時期聴取ではない。こうした質問をされた際、八百さんは、枕に振られた年号を正しいかどうかと明確に確認し得るだろうか? 私は現在六十八歳だが、こうした第三者として、過去のことを問われた場合、この前振りの年号や月を、即座に、「間違っている」と指摘出来るとは思われないし、寧ろ、『うん、その頃だったかな。』と聴き流して、後の主問の方を、しっかり思い出して答えようとすることは、火を見るよりも明らかである。高木八百さんの年齢、さらに八百さんが以前に小泉八雲に就いて話した嫁の、より若い登志さんも同席であった以上、京店や根岸邸への転居が異なることは、或いは、まず、明確に検証する聴き取りが出来たのではないか? という気が強くしてならないのである。本書が『問題がある』という言い方がされるのは、主に聴き取った時制の問題が、後に明らかになった事実と齟齬するものがあるからに他ならないからであり、作者の恣意的な解釈や、小泉八雲やセツさんへの物言いにプライベートな微妙な問題があるからではない、と私には思われるからである。セツさんや一雄氏が本書を読んで不満や怒りを持ったから問題があるという情緒的短絡的風評は、事実誤認も甚だしい。小泉八雲の正確な時間的経緯を、時代時代の中で正確なものにしてゆく作業と、一部の「小泉八雲研究家」が評価しないという事実とは、全く以って、これ、別問題である。そうした過程の中の一つの道標として、本書は非常に価値ある作品である、と、私は断言出来るのである。

 なお、このページの左下方には、まさしく、先の『(その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ)』で語られた八雲が愛した「〆飾り」(これは間違いなく〆飾りである)の金津氏の切り絵がある。やはり、先のページに描かれたものは、「〆飾り」ではないのだ。松江の方の御教授を、更に乞うものである。

〔高木〕 先生の書齋は北向きの前に池のある六疊敷(口繪圖面を參照[やぶちゃん注:ここ。])でありまして、中央の九疊の間はご居間兼客間でお寢み[やぶちゃん注:「おやすみ」。]になつたのもこの部屋でした。奥樣のご居間は北向の書齋の東際[やぶちゃん注:「ひがしきは(きわ)」。]の五疊半敷で、また、私の女中部屋は湯殿の側の二疊の部屋でした。

〔桑原〕 根岸邸の模樣はすべてそのままよく保存してあると聞いていますが、風呂場はただ今の風呂場と違いますか。臺所ではどうですか。

〔高木〕 風呂の場所も臺所も少しもかわりません。ただ昔は風呂桶が小判形の木製でありましたが、ただ今は鐵の五右衞風呂となつており、その他一切かわらないと存じます。

 

       〔衣 服 調 度〕

 

〔桑原〕 先生が學校へおいでの時は洋服でしたか、根岸君の著書には、學校より歸宅後は直ぐ和服に着かえられたとありますがどうでしたか。

〔高木〕 富田旅館や、熊本、東京でのお住居[やぶちゃん注:「すまひ(すまい)」と読んでおく。]の時のことは知りませんが、時候が寒い時は勿論ご歸宅になりましても、そのまま洋服で椅子に掛けておいでのことが度々ありまして、また洋服ですわつておいでたこともありましたので、和服ばかりではありませんでした。

 日々お召しになつたのは鼠色の洋服でした。夏服は白洋服でしたがその素地[やぶちゃん注:「そぢ(そじ)」。]は覺えません。先生は和服も一通りはお持ちで、たとえば單物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]と袷衣綿入[やぶちゃん注:「あはせわたいれ(あわせわたいれ)」。]とか、また紋付羽織[やぶちゃん注:「もんつきはおり」。]とか袴[やぶちゃん注:「はかま」。]とか一晴れ着の衣服は一通りご所持でした。

〔桑原〕 先生の帽子はどんな色でしたか。そうして足袋[やぶちゃん注:「たび」。]ははかれましたか。

〔高木〕 先生の帽子は茶色の中折帽[やぶちゃん注:「なかをればう(なかおれぼう)」。]で、足袋は白足袋でしたが、これは家庭內のことで、外出には靴ばきでした。

〔桑原〕 先生は寒中外套と襟卷を用いられましたか。また暑中は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]の外に蚊遣線香[やぶちゃん注:「かやりせんかう(かやりせんこう)」。]のようなものを用いられましたか。

〔高木〕 先生は外套も襟卷もありませんでした。

[やぶちゃん注:このページには、左下方に金津氏の「てつびん」と、ひらがなを内側左上方に切り絵した、八角形の枠の中に把手・取り手蓋・注ぎ口附きの茶碗二つ合わせたような楕円型鉄瓶を切り入れたものがある。]

〔註〕小泉節子夫人・「思ひ出の記」小泉八雲第二四八頁の一駒[やぶちゃん注:「ひとこま」。]に[やぶちゃん注:ここの後から丸括弧まで引用。]出雲の冬の寒さには隨分困りました。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のもので[やぶちゃん注:以下から、このページの最終行までは、植字工のミスで一字下げになっていない。]す。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着て[やぶちゃん注:「きて」。]いて授業をなさいとのことでした。この時一着のオヴアーコートを持つていましたが、それは船頭の着るのだといつていましたが、それを着ていたのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまいませんでした。(以上思ひ出の記)高木八百刀自の話と矛盾する如く見える。八百刀自は二月より十一月まで奉公していられたが、今八雲の外套は思ひだせぬといつた。

[やぶちゃん注:この「思ひ出の記」は、ページ数から、国立国会図書館デジタルコレクションの田部隆次著「小泉八雲」(大正三(一九一四)年早稲田大学出版部刊)のここであることが判った。当該段落の内に部分的にカットされている箇所があること、表記に違いがあることから、改めて全段落を引用しておく。

   *

 出雲は面白くてヘルンの氣に入つたのですが、西印度のやうな熱い處に慣れたものですから、出雲の冬の寒さには隨分困りました。その頃の松江にはストーヴと申すものがありませんでした。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のものです。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着ていて授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持つて居ましたが、それは船頭の着るのだと云つて居ましたが、それを着て居たのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまい[やぶちゃん注:ママ。]ませんでした。

   *]

〔桑原〕 先生の部屋に寒中の暖房裝置はありましたか。

〔高木〕 先生は二三月中は京店の宅でありましたが、ただ火鉢が一つあつたばかりで餘程寒氣には閉口しておられました。根岸邸では、五月頃よりでしたから先生の部屋に火鉢が一つあつたばかりでした。

[やぶちゃん注:私は、本当に高木八百さんが本当に「根岸邸では、五月頃よりでしたから」と言ったのかどうか、やや疑問がある。しかし、或いは、彼女が、桑原氏が質問で言った『明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが』を受けて『五月頃よりでしたから』と応じたのだ、とも言えるかも知れない。考えてみるがよい。現在、小泉八雲とセツさんの結婚した日が、今、以て、判然としない理由の一つに、セツさんが旧暦で言ったする説があるのだ。ここで問題にされているのは、八百さん自身の話ではない、女中としての彼女に既に稀有の帰化した大作家のことを聴かれているのだから、事実は、六月だったけれど、五月と言い合わせた可能性は、十二分にあるのだ。いや、実際、八百さんは、正しく「六月頃よりでしたから」と言ったのだが、桑原氏が『「五月」の言い間違いであろう』と考えて「修正」した可能性もあるのである。しかし、この「変更」が事実だったとしても、桑原氏の贋造や嘘なのではなく――八百さんの記憶違い――として、「訂正」したものと採るべきことであり、桑原氏に責めは、私は、「ない」と考えるものである。

 こうしたことを、論って、桑原氏のこの本を誹謗する輩(やから)には、

「じゃあ、お前が! タイム・マシンで戻って! 再度、調べ直して来いよ!!!」

と指弾したいのだ!

――桑原氏の富田カネさんと、この八百さんへの、頗る貴重なインタビューは、誰もしなかった、稀有の偉業である――

と、私は、叫びたいのである!

〔桑原〕 先生は學校においでの時に手鞄をお持ちでしたか。

〔高木〕 手鞄は全然お持ちでありませんでした。何時も外出には日本の風呂敷でした。

〔桑原〕 ただ今八雲記念館にある椅子とテーブルはその當時よりありましたか。

〔高木〕 あの分をご使用になつていたのに間違いはありません。當時電燈がなかつたため、書生ランプで今記念館に陳列してある分に間違いありません。

[やぶちゃん注:「書生ランプ」まともな記載は、ネットでは見当たない。グーグルのAIの答えは、『「書生ランプ」とは、学生(書生)が読書や勉強のために使う、手元を照らすタイプの卓上照明を指し、一般的には石油ランプや、現代ではデスクライト(ブックライト)を指すことが多いですが、明治・大正時代の「ガス灯」や「石油ランプ」を指す場合もあり、レトロな雰囲気の小型照明全般を指すこともあります。昔の「書生」が使ったような、携帯可能で、温かみのある光(電球色など)を放つものがイメージされます。』とあった。AIよ! よく勉強した! 褒めて遣わす! なお、「八雲記念館 小泉八雲のランプ」のフレーズで調べたが、画像その他は掛かってこなかった。

 なお、この見開きページの左丁の左下には、金津氏の二枚目の洋椅子の切り絵図がある。右側中央に「椅子」の文字が附けてある。]

〔桑原〕 先生は和服姿で外出されたときゝますが、その時には靴の外に下駄とか木履[やぶちゃん注:「きぐつ」。]とかお用いになつたことはありませんでしたか。

〔高木〕 私が京店時代に奉公して以來先生は決して日本式の履物ははかれませんでした。外出には何時も靴でした。

〔桑原〕 根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」第三十七頁によれば「先生は鼻緖をゆるめた竹の庭下駄をはいてこの庭を逍遙された。竹の庭下駄とは、太い竹を縱に半分に割り、それに蔓の鼻緖を立てたもの」とありますが、先生が松江到着當時、富田旅館滯在中、純粹の日本生活がたいとの執心により、日本下駄を試みられたが遂に不成功に終わつたとは、これまた同書第十七頁に「白足袋の上に下駄を履くのが大仕事で、家內總掛りであつた。しかし履いても直ぐ脫げるので、履き物は止むを得ず靴に變えられた」と記せられているのに對照すると、前後矛盾するように見えて、割り竹の下駄をはかれたとは私は全く信用が出來ませんがどうでしたか。

[やぶちゃん注:『根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」』この作者は、小泉八雲が最後に松江で借りた根岸邸の当時の家主で郡長でもあった根岸干夫(たてお)の子息で、八雲の教え子にして、次の当主となった根岸磐井(元治元(一八六四)年~明治四四(一九一一)年)である。日本銀行勤務中、小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に自邸が描かれていることを知り、故郷に戻って旧居を守り、後の小泉八雲記念館設立にも貢献した人物である。当該書は、国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊:★やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションでは、前年の初版(横書)版があるが、ここでは、桑原氏の引用している部分の一部が確認出来ないので注意!)で確認出来る(但し、ノンブルは変わっているので役に立たない)。桑原氏が最初に指示しているのは、ここ(左ページ「39」の八行の部分(但し、『先生は鼻緖を緩めた竹の庭下駄を穿いて此庭を逍遙された。』の表記である)と、そのページの最後の『(註)』の内容を合成したものである(但し、『竹の庭下駄とは太い竹を縱に半分に割り夫れに蔓の鼻緖を立てたもの。』の表記である)。後に指示しているのは、ここ(左ページ「17」の後ろから四行目)である(但し、『白足袋の上に下駄を穿くのが大仕事で家內總掛りであつた。併し穿いても直ぐ脫げるので、履きものは止むを得ず靴に變へられた」』の表記である)。因みに、この根岸磐井氏の「松江に於ける小泉八雲」も、そのうち、是非、電子化したい著作である。]

〔高木〕 八雲先生が松江滯在中、そのような下駄をはかれたことは決してありません。殊更割竹の下駄なぞは、日本人でも老人なぞはあぶないようなものです。これはたしかに誤傳であります。

[やぶちゃん注:「割竹の下駄」私は、正に、太い竹を縦に半分に割ったものに緒を附けただけのシンプルなものを、幼少の頃、母の故郷で見たことがある。ネット検索では出てこないのだが⋯⋯。]

〔桑原〕 それでは先生が根岸邸の庭を逍遙された時は靴ばきでありましたか。

〔高木〕 先生は靴も下駄もはかず、全く靴下ばかりで砂の上や飛石の上を逍遙されました。しかし根岸邸の前庭[やぶちゃん注:「まへには(まえにわ)」。]は荒島砂と申して大粒の大豆か小豆位の砂で、また後庭[やぶちゃん注:前に合わせて「おくには」と当て訓しておく。]は今こそ土庭[やぶちゃん注:「つちには(つちには)」。]ですが、當時は前面に一寸位の黑の玉砂利[やぶちゃん注:「たまじやり(たまじゃり)」。]が敷[やぶちゃん注:「しき」。]つめてありましたから、そのまま庭から座敷にあがられても、靴下で座敷を汚す[やぶちゃん注:「よごす」。]等のことはありませんでした。八雲自身の著書にも「庭には大きな樹はない。靑い石か一面に敷いてあつて中央に小池がある」と記している。

[やぶちゃん注:この最後の一文は、どうみても、高木さんの肉声ではない。恐らく、桑原氏が以下の註として書いたものを、うっかり、ここに配してしまったものと考えられる。

註一〕 著者はこの庭の砂に就き、最近根岸邸に至り、主婦に尋ねたところ同樣のことを伺つた。

註二〕 小泉一雄君の「父八雲を憶ふ」第二八七頁の一齣に燒津の濱で海にはいる僅かな道も、柔かな古布で草履を作つて貰い云々とあるのによつて察するに、先生は終生日本式の履物を使用し得ないことは明らかである。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページはここ。「四 海へ」の一齣。右丁の「二八八」ページの一行目以下にある。興味深い小泉八雲の身体(足)に就いてハンディに就いての記載があるので、前のページの段落開始箇所から、総てを引用する(小泉一雄氏の著作は既にパブリック・ドメインである)。

   *

 父は兩足の中指と藥指が重り合つた儘膠著してゐました。これは幼少の頃爪先の尖(とが)つた貴族的な靴のみを履かせられた結果だと申して、先の尖(とが)つた洒落靴のことを「野蠻の履物」といつて呪つてゐました。それ故父は先の幅廣な兵隊靴然たる靴を常に履いてヲました。縱ひフロツクの場合と雖もこれを履いて平然たるものでした。此の黑の兵隊靴然たる編上が二足ある他靴の持合せはなかつたのです。子供等にも下駄や草履を奬勵して、なるべく靴を履かせぬように仕向けました。足は頗る達者で二三里を步く位何とも思はぬ父でしたけれど、その足の裏は私等子供よりも遙かに柔かく、裸足で濱邊を步く事などはとても出來ぬ人でした。砂地が無く小石計りである燒津の濱では海へ這入るのにも小石を踏むで行く僅[やぶちゃん注:「わづか」。]の間が父に取つてはなかなかに苦痛でした。これを見兼ねて乙吉さんがなるべく柔かな古布を選び、それで草鞋[やぶちゃん注:「わらぢ」。]を編んで海岸行の時は父に履かせてくれました。而も海へ這入る時と海から上る時とには必ず父の手を執つて案內してくれました。

   *

ここに出てくる「乙吉さん」は、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注を見られたい。]

〔桑原〕 ついでに伺いますが、節子さんが結婚後はどんな服裝で、どんな髮でしたか。

〔高木〕 節子さんは終始日本服で、髷は丸髷で、實に立派な奧樣振りで大層先生の氣に入つでおりました。

〔桑原〕 八雲先生宅には、日本の日用家具はどんな風でした。

〔高木〕 食器、御膳、煎茶器、土瓶、鐵瓶その他日本家庭に必要な調度は一切揃つておりました。これは奧樣が日本人で、日本人の來客もありよく調つておりました。

〔桑原〕 先生の寢具はベツトでしたか。

〔高木〕 先生は日本式というので敷布團を澤山重ねてお寢みでした。

 

2026/01/15

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ) / 「富田旅館時代」~了

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁四行目から。]

 

〔桑原〕 これまでの書物には、八雲先生と小泉節子さんの結婚はお宅であつたと書いてありますが、最近西田精博士の說によれば、京店の織原の借家時代とのことですが、どれがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「京店」「きやうみせ(きょうみせ)」と読む。ここ以下、少々、私自身の意識の中での迂遠にして神経症的な注にお付き合い戴きたい(特異的に段落を作る)。

 私は、小泉八雲を偏愛すること、人後に落ちないが、鳥取・島根に旅したのは、十五年前、八雲が優れた紀行を残した隠岐(私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (一)』以下、全三十五回の長篇)に三泊で行ったきりで、一昨年の十二月上旬に連れ合いがセットした紅葉狩のツアーで行ったのが、初めてであった。されば、松江は、驚いたことに、コースで松江城に登るだけのタイトな状況で、甚だ悲しいことに、八雲の松江の足跡を辿ることは、殆んど、出来なかった(但し、初日の鳥取では、八雲がセツさんと新婚旅行に行った海岸沿いの景色や神社を訪ね、八雲が感動した海に対した墓地群を遠見乍ら、堪能出来たことは素晴らしかった)。されば、松江市内のことにも、全く冥い。されば、この「京店」を冠した地区名も、躓いた。

 まず、ツネさんの語りから、松江の特定の商店を多く持つ広域の街区を指す呼称であることは判った。しかし、その由来は、ゼロから調べねばならなかった。

 ともかく、グーグル・マップ・データを見てみた。旧富田旅館の北直近の東西に走る「松江京店商店街」がある。

 が、ふと、見ると、西の方にある南北の細い道路に「京屋小路」とあった。

 さて。ここで、ちょっと戸惑った。

 現在の小路(しょうじ:松江市では「こうじ」ではなく、「しょうじ」と読むのが一般的のようである。新しい小路名でも「しょうじ」と読んでいるものがある。「しょうじ」の読みは、特異的なものではないが、私は鎌倉及びその周辺の郷土史研究をしているが、「せうじ」「せうろ」の呼称を史料等で見聞したことはない。但し、直近の、安来港に面した明治期の商家や小路(しょうじ)といった古い町並みが残る安来市安来町の新町にも同様の呼称があることが、「山陰中央新報デジタル」の記事(ブログ「建築・まちづくり通信」の画像で確認出来た)「京屋小路」(きょうやしょうじ)の解説碑から、宍道湖湖岸に南に走るものを「京屋小路(きょうやしょうじ)」と呼称している。そのサイド・パネルの解説碑の画像から起こすと、

『ここから今夜小路(こんやしょうじ)から、反対側の南の宍道湖岸に至る通りが京屋小路です。江戸時代に塩で財を成した豪商京屋萬五郎の大店』(一般的な江戸時代の呼称で「おほだな(おおだな)」「おほみせ(おおみせ)」があるが、私は前者に馴染んでいる)『に接していたことから、小路の名となりました』。『湖岸の京屋灘座敷(現在』の『ふこく生命ビル』』(ここ)『は、伊能忠敬が文化3(1806)年』、『松江地方測量のため、1カ月間逗留(とうりゅう)し、療養しながら測量の基地とした場所でもあります。』とあった。

 「京店」とこの「京屋小路」の関連性はあるのか? それが気になったのだが、しかし、この小路は、どうみても、位置的に「京店」とは、イコールではあり得ないと感じた。

 ここでツネさんの言っている「京店」は、前に地図リンクした東西に走り、しかも、大橋川河岸の部分までの幅の広い地域を呼ぶものと推定される。それは、「富田旅館」から、直ぐ東側の地にハーンと節子は借家に移っているのを、富田ツネさんが、そこを「京店」と呼んでいるからである。

 而して、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」同組合本部は、ここ。富田旅館があったところにより近い)の解説に(行換えを詰めた)、『約60店舗のお店からなる京店商店街』で、『100年以上続く老舗』とし、『茶人として名高い不昧公好みを受け継ぐ菓子店』、『和食・洋食・中華などの飲食店』、『オシャレなブティックや美容室』、『めのう、八雲塗りの漆器・陶器、安来鋼の刃物店』があり、『頑固な店主の話を聞いたり、かわいい小物を手にとったり』、『色々な楽しみ方ができる京店商店街』と紹介し、『【京店商店街の始まり・歴史】』の項には、『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われています』(☜)。『現在は「星ふる街・恋する街 京店商店街」をコンセプトに、まちづくりをしています。時代の流れとともに京店商店街は大きく変わりましたが「歴史・伝統・文化を感じるまち」ということは、これからも大切にしていきます』とあるのである。

 そこで、ネット検索をした結果、サイト「しまね地域資料リポジトリ」の『松江城研究4』(松江市・二〇二二年三月発行・PDFでダウンロード可能)の中の、大矢幸雄氏の「城下町松江の近代都市化に向けて-江戸時代後期から明治時代初期までの動向-」を見たところ、その「( 3 )武家地の細分化と町人地の繁栄」の「②初期町人層の交代と商業機能の集積」を読んで、やっと、私のモヤモヤがすっきりした。以下、部分引用する(太字・下線は私が附した)。なお、以下の引用文に出る「白潟」「町」・「白潟本町」は現在の、大橋川を挟んだ、現在の松江大橋を渡った右岸部分の白潟本町(しらかたほんまち)を指す。

   《引用開始》

 開府当初の「堀尾期給帳」(東大史料編纂所「山路文書」)には、家臣の武士名とともに扶持を与えられた町人、京屋万五郎、近江屋与左衛門、平田屋五兵衛、魚屋権六、難波屋庄介、桶屋善三郎、目代市右衛門(鶴屋か)宍道鉄屋久左衛門などとともに、鉄砲鍛冶屋の国友藤介をはじめ多数の細工人、大工、船頭等の名が記されている。これらは松江藩に抱えられた御用商人や職人たちと推定される。こうした城下町成立期の担い手であった御用商人・職人たちは「寛永期には遠隔地の地名が目を引くが、元禄期には商品名や領内の地域名を屋号にしているのが多い」として、城下町の経済的位置が変化していることを推測している(松本2013174)。

 元禄年間(1688-1703)「末次本町絵図」には兵庫屋、京屋、大和屋など近畿方面に縁をもつと思われる屋号が確認できるが、狭い範囲の町人地を描いた絵図のためか在郷町人と推定できる屋号は沢屋のみである。この絵図とほぼ同時期の「白潟火事図面」(延宝4 年(1676))には中世からの居住者森脇甚右衛門とともに鶴屋与兵衛、伊予屋、備前屋、尾張屋などの他国商人のほか、屋号に「櫛や、のこや、茶や、薬や、から物や、布や」と職種や商品名のついた屋号があり、開府当初からの町人層が17世紀末頃になお末次・白潟両町に居住していたと推定される。

   《引用終了》

飛んで、「⑤多様な町で構成される末次町人地」の冒頭部(注記記号は原本を見られたい)。

   《引用開始》

 末次町人地(一部を含む)を描いた絵図は翻刻図・原図・貼図を含めて4 枚確認している(表2)。

元禄年間(1688-1703)の「末次町屋図」は末次本町・京店付近を中心に描かれており、上述したように他国に縁をもつと思われる新屋(鶴屋)、大和屋、京屋、兵庫屋などの屋敷があり、沢屋など在郷町人の屋敷もある。本町角には町役の大目代・大年寄を勤める新屋伝右衛門(瀧川家)の屋敷があり、兵庫屋、虎屋とともに300坪を超える屋敷である。居宅は通りの南側に多く、北側は貸家(表借家)が多いなどの特徴があるが、総じて末次本町の中心地や代表的な商人の屋敷面積は白潟本町と比較して狭い。

   《引用開始》

以上の太字・下線部分に着目されたい。

★塩で財を成した豪商京屋萬五郎は、確かに、江戸時代の開府後の松江城の城下町成立期に大店「京屋灘座敷」を建て、名を馳せた。既に、その頃には、あの「小路」(しょうじ)は、末次町界隈で既に「京屋小路(きやうやしやうじ)」と呼ばれていたかも知れぬ。あってもおかしくはない。しかし、

それが、広域の「京店」の発祥ではなかった

のである。あくまで、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」の解説にある通り、

◎『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われてい』るというのが

◎「松江人の認識」

なのである。

 さらに言えば、京屋萬五郎が以下に豪勢な屋敷を作っても――彼京屋萬五郎は、大矢幸雄氏の論文が、二度、示す通り、「松江人」ではなかった――のであり、

◎「松江人」でない異邦人の屋敷の屋号「京屋」が「京店」になることは――絶対に――ない――

と、私は、断言するものである。『そんな、狭小なことを松江人がするか?』と言う人がいるかも知れぬ。しかし、江戸時代に国外からやって来た人々は、どんなに優秀で財を成しても、詰まるところ

――「松江人」ではない――異邦人=‘ L'Étranger ’(レトランジェ)――

なのである。

そうだ!⋯⋯

ラフカディオ・ハーンが異邦人であったように!⋯⋯

⋯⋯既に述べた通り、小泉八雲が松江を去ったのは――「寒さ」ゆえ――ではなかったのだ!――異邦人を妻としたセツさんに対する当時の「松江人」の「洋妾(ラシャメン)」という偏見に対して――セツは勿論――八雲自身が――どうしても耐えられなかった――からなのである!⋯⋯⋯⋯

 さても。私の以上の検証と見解に異義がおありになれば、何時でも相手になろう。私は、鎌倉の荏柄天神の敷地内で生まれた「鎌倉人」であるが、練馬の大泉学園、富山の高岡市伏木、渋谷区東山を経て、また、鎌倉に戻った。しかし、自らを「鎌倉人」と自覚したことは、人生の中で一度も――ない。私もまた――魂のレトランジェ――である。

 長々と私のグダグダに附き合って下さった読者には、御礼申し上げるものである。

「西田精博士」西田千太郎の弟。ウィキの「西田千太郎」によれば、明治一〇(一八七七)年生まれで、昭和一九(一九四四)年逝去。『東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、九州帝国大学教授、工学博士、各地の上下水道の調査設計に尽力』したとある。

「織原の借家時代」既出の銭本健二・小泉凡編「年譜」によれば、明治二三(一八九〇)年の項に、

   《引用開始》

 十月下旬に――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷に(末次本町)に転居する。[9033][やぶちゃん注:同著作集の書簡番号。]は、十一月中旬(日)の一畑参詣の少し前に書かれたものと推定され、同書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある。ただし、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘⋯⋯」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている。

   《引用終了》]

〔富田〕 それは京店の借家時代に間違ありません。實は京店の借家に先生一人置くという譯には行かず、お信と今の臨水亭の出口の安藤と申す散髮屋の娘のお萬と申すものと二人を女中として附けておき、三度のお食事は總て私方より運びました。

[やぶちゃん注:このページの左下には、切り絵でしっかりした西洋椅子が描かれ、中央上部に「椅子」と彫られてある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っている。

「それは京店の借家時代に間違ありません」国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』の「国文学年次別論文集 近代4 昭和五五(一九八〇)年」(学術文献普及会編集・一九八二年朋文出版刊)の勝部良子氏の論文「小泉八雲小論 ―小泉節子との結婚を考える―」(『園田学園女子大学国文学科報』第一巻・三月発行)の中で、本書のこの前後の質問・応答部が引用された後に(但し、漢字は総て新字となっている)、

   《引用開始》

 桑原氏は、この富田ツネの証言をある程度確実性のあるものとして、前記のように結婚を明治二十四年二月頃と訂正、明記したのであろう。

 ところが富田ツネは、『富田旅館ニ於ケル小泉八雲先生』という小冊子の中では、「先生が結論されたのは二十三年の十二月」だと言っているのである。この小冊子は、藤井準一郎氏が昭和十一年一月に富田ツネとその主人富田太平から聞き書きをとったものである。現在富田家に保存されてある。

 どちらも八雲松江在住当時から五十六年以上もたってからの懐古談であるから、信憑性に欠けるのは致し方ないことであろう。

   《引用終了》

とあり、この直後に、本書「松江に於ける八雲の私生活」の内容は、『興味本位で、記述に誤りが多いとして、この書に言及したり、資料としてとり上げることを避けている八雲研究家もいる。(『小泉八雲と松江)』八五頁)』と記している。この論文は、小泉八雲とセツの結婚は何時かという、諸研究家の考証を集めている点で、この発表時時点では、よく拾っており、手頃なものではある。さても、私は、長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の「三 ハーンとセツの結婚の実情」の中の「媒酌人と結婚の時期」の――『結婚の日付』の新暦・旧暦の違いとされる内容(69ページ)こそが――最もスマートにして、妙な勘ぐりのない、納得し得る唯一の答えである――と昔から考えて来ている。是非、長谷川氏をお読みあれかし。因みに、ウィキの「小泉八雲」には、明治二四(一八九一)年一月、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子』『が』、『住み込み女中として雇われる』。『二人はすぐに惹かれあい』、『結婚する』とあり、また、ウィキの「小泉節子」には、『同居して約半年を経た』明治二十四年七『月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎』『と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ』、『約半月』、『滞在したが、ハーンは』二『日目には』、『節子を呼びよせて』、『仲よく一緒に行動しており』、『「住み込み女中」という扱いではなかった。また』、八月十一日『にハーンが友人に出した手紙には』、『節子との結婚を報じている』とある。これでいい、これで。

「臨水亭」当時、ここあった料亭。「百年料亭ネットワーク」の「島根県松江市 臨水亭 不昧公が通った名店 〝宍道湖七珍〟が自慢」の記事に、『明治23』(一八九〇)『年創業。島根県松江市と出雲市にまたがる宍道湖に面している。庭園越しに宍道湖を眺め、スズキやウナギ、シジミといった「宍道湖七珍」を一堂に味わうことができる』。『スズキを出雲和紙に包んで蒸し焼きにする「スズキの奉書焼き」を復活させた店として、島根県の郷土料理を松江で最初に広めた店としても名高い同店。老舗ながらも、ランチは2500円から、夜は6000円~2万円で懐石料理を楽しむことができる。松江の伝統文化を守り継ぐ一方、大広間を使ったジャズコンサートの実施や特産のシジミを使ったカレーなど新しい試みも行っており、「伝統」を守りながらも「新しさ」を融合させた松江の魅力を広く発信している料亭だ。今後も茶の文化や江戸時代からの歴史を取り入れた、新たな取り組みを展開していく』。『建物は、松江藩の御用商人の邸宅を料亭にしたもので、江戸時代は松平家によって藩の御用地として使われていたとされる。2階の大広間の欄間に白菊や雁のくぎ隠しの彫金、庭園には、殿様が立ったまま手を清めることができるよう設計された腰高のつくばいなど、歴史の面影が随所に。茶人で食通としても知られる出雲松江藩の第7代藩主、不昧公こと松平治郷がよく訪れ、正月には必ず立ち寄ったと伝えられている』。『また、近くには国宝・松江城をはじめ、北側湖畔に面した温泉地「松江しんじ湖温泉」や、文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこよなく愛し、日本夕日百選の一つである宍道湖に沈む夕日など見どころも豊富だ』とあるが、既に、二〇一九年に破産し、現在、閉業している。このページは保存しておいた方がよいようだ。

 ところが先生にどこか士族のお孃樣を奥樣にお世話したいというお話しが西田先生よりありまして、色々物色した末に、お信の友達に小泉節子さんという士族のお孃樣があり、このお方がよかろうということになり、私もそれがよかろうと同意を致しまして、私方より先生に紹介しました。ご同棲の翌日、私ははじめて京店のお宅に伺いますと、節子樣の手足が華奢でなく、これは士族のお娘樣ではないと先生は大不機嫌で、私に向つて節子は百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す[やぶちゃん注:「だます」。]、士族でないと、度々の小言でありましたので、これには私も閉口致しまして種々[やぶちゃん注:「いろいろ」。]辯明しましても、先生はなかなか聽き入れませんでしたが。しかし士族の名家のお孃さんに間違ありませんので間もなく萬事目出度く納まりました。

〕 節子夫人の手足の發達していたのは、少女時代から父の機業場[やぶちゃん注:「はたをりば(はたおりば)」。]で勞働されためだと思われる。節子夫人が機業場で一女子として働かれたことは、小泉一雄著「父八雲を憶ふ」第三二四頁による。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページをリンクしておく。右丁の「三二四」ページの最終行にある。]

 西田先生が表面の媒酌人となつているかも知れませんが實際を申せばお信の世話でした。節子さんは私方にその以前おいでたこともなく、私は御婚禮の翌朝京店にまいつて、初めて節子さまにお會い致して、その後信がお世話したに違いはありません。八雲先生は二月までは私方においででしたから、御結婚は明治二十四年の二月末あたりに間違はありません。それから女中さんが一人見えましたので、お信は私方に歸えりお萬さんはことわりました。

[やぶちゃん注:長谷川氏の「小泉八雲の妻」の「小泉八雲略年譜」の『一八九一(明治二十四) 四十一歳(セツ二十三歳)』に『二月頃、セツがハーンの家に入り、後に結婚するに至ったと思われる。』とあるのと一致する。]

 序に申しておきますが、先生は明治二十四年の正月は私方にてお迎えになり、廻禮には日本式で出かけるというので、新調の紋付、羽織、嘉平次の袴、白足袋、日より下駄と云う出立ちで人力車で巡廻するというのでありました。はじめは世問並に兩下駄を用意するはずでありましたけれども、私はとても高下駄(あしだ)[やぶちゃん注:「(あしだ)」はルビではない。本文である。]では先生はあるけまいと思い、目より下駄を買つておきました。しかるにいざ出發という時、玄關先で下駄をはかせてあげましたが、先生が歩こうとて一足あげられると下駄が拔け落ちて。始末がわるく、結極一間[やぶちゃん注:「いつけん(いっけん)」。]もよう歩けませんので、先生は大不機嫌でありましたが致し方がなく、車夫は催促するし、やむを得ず靴ばきで出られました。

[やぶちゃん注:「嘉平次の袴」嘉平次平(かへいじひら)の袴。明治中期に埼玉県入間郡の藤本嘉平次が創作したところから、この名が付いた。縦糸に座繰糸(ざぐりいと:幕末から明治まで日本で行われた繰糸(そうし)法。鍋で繭を煮て、糸を手繰(たぐ)り、抱き合わさせた生糸を、歯車仕掛けで回転する枠に巻き取ったもの。江戸時代の手引の約二倍の能率を上げたが、器械製糸に押されて衰退した)、横糸に品質の劣る糸を使って織った男物の袴地(はかまじ)。単に「嘉平次」とも言う。画像を探したが、見当たらなかった。

「高下駄(あしだ)」「高下駄」は「たかげた」で、「歯の高い下駄」を言う。「あしだ」はその別称で、感じは「足駄」である。]

 先生は正月の〆飾りが気に入りまして、一月末までその儘にしてくれと賴まれ、餘程永く懸けて先生を喜ばしたことなど懷かしい思い出であります。

〕八雲は富田旅館より郵便局舊官舍、次に油孫の舊宅に移轉し、最後に根岸邸に移轉したとの說があるがこれは誤りで、富田旅館より織原の貸家、最後に根岸邸に移住したことが明瞭となつた。

[やぶちゃん注:【2026年1月20日:追記】たまたま、京店のヘルン旧居をネット上で調べていたところ、「八雲会」の「八雲会の本」の年刊雑誌『へるん』の第59号(2022年刊)のページを見てみたところ、『II ヘルンゆかりの人々・ゆかりの地』に押田良樹氏の『ヘルン第二の住まい—「諸説」に終止符を—』という記事を発見、検索したところ、幸いにも、PDFで入手することが出来た。本書の以上の記載もあった。最後に、決定された――織原氏所有の八雲の借宅位置が示されれてあるのみ、是非、見られたい。その地図に従って、グーグル・マップの航空写真で調べたところ、★この中央の路地の東側に南北に長い住居があるが、ここが、京店の旧八雲の借宅があったところ★である。私が想定していた位置より、松江大橋を越えた、旧富田旅館より、かなり西よりであった。因みに、前で考証した、嘗つて「京屋小路」にあった豪商京屋萬五郎の大店「京屋灘座敷」(※航空写真でここ)と極めて似ているように見えるが、そこは、西に百メートル強離れた別な場所であるので、注意されたい。

 なお、この左下には、切り絵があるが、当初、松江の正月の〆飾りなのかと思ったが、どう考えても、そうは見えない(そのようなものが調べても見当たらなかった)。水面の波か、雲状紋を感じさせる装飾を施した紙燈籠を、横倒しにしたように見える物で、全く、この手の物に就いては、私にはお手上げである。「ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。識者の御教授を乞うものである。

〔桑原〕 あなた方は八雲先生と七月間も一緖においでたのでしたが、大體に先生はどんな人だとお考えでしたか、一般的にお話し下さいませ。

〔富田〕 先生は實際に日本を愛しておられました。また非常に情深い人でありました。先生が私方にお着きになりまして間もなく、女中お信が時々眼が痛み且つ眇目[やぶちゃん注:「すがめ」。]であつたのに同情されて、自ら醫者を訪問して自費で療治を賴まれましたことや、荒川さんが日本の藝術家の常として生活の不如意なのに同情して、四斗樽を贈つてこれを慰められましたことがあります。また神社佛閣を崇敬して、何圓、何十圓の寄附をされました。何れも同情の現われでありましよう。

 また民謠、童話、盆踊等に深く興味をお持ちで、度々それを聽いて深く感動されたように見受けました。私方の前通りに往來する金魚賣り、花賣り、鮮魚賣り等の呼聲なども、何時も先生は耳をすまして聽いておられました。神社、佛閣、傳說地というものは隨分澤山見物に行かれましたが、同行は大概西田先生でありました。

 宿でも學校よりお歸りになると、例の浴衣に着換えて何か絶えず書き物をなさつておりました。隨分書換えをなさる方で、書換えの紙片が澤山ありましたけれど、あれ程の偉いお方とは知りませんから、その反古[やぶちゃん注:「ほご」。]は皆捨ててしまいまして、今は一枚も殘ついぇおりません。またご鄕里の寫眞や繪ハガキもトランクの中に一束もありましたが、ご所望すれば頂戴も出來ましたのに、何にも先生より貰つておかなかつたことを私共は、今に殘念に思つております。

 以上で、先生のことを書いたこれ迄の害物に漏れているのではないかと思うことを全部御話し申した積りでございます。

〔桑原〕 まことに本日は突然お邪魔を致し、あなた方ご兩人お揃いの席で、五十年も前のことを互にその記恒を織りまぜてお聽かせ下さつたことに對して、私は深甚の敬意と感謝を表する次第であります。なお、ご兩人の寫眞をいたゞきとう存じます。

2026/01/14

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが⋯⋯

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。

2026/01/13

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その3) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅡ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁四行目から。]

 

〔桑原〕 先生が市內寺町の龍昌寺にある石地藏尊の彫刻に感服し、その彫刻者は當地の有名な彫刻家荒川龜齊通稱重之輔の作だということがわかり、龜齊を招請して先生がもてなされたということですがどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:「龍昌寺」現在の松江市寺町(てらまち)にある曹洞宗の白雲山龍昌寺(りゅうしょうじ:旧富田旅館の大橋川を挟んだ対岸直近に当たる。グーグル・マップで同寺の敷地内にある「小泉八雲ゆかりの羅漢像」をポイントした)。「曹洞宗 島根県第二宗務所」公式サイト内の同寺の解説が、非常に詳しい。冒頭の足利時代から江戸時代までの経緯と、秘仏である宍道湖から出た観音像の解説は、各自でお読み頂き、ハーン関連の手前から引く。『毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという』。『そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った』。『ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23928日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった』。『人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである』(私は、八雲はこの記憶のない母ローザ・カシマチの面影を感じていたものではないか、と思う)。『当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった』。『長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった』。『たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている』。『この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部』(ママ。頭部の誤植)『が欠け落ちたので、同234年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのが』、『いま』、『ある地蔵である』。『初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという』。『龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという』。『昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている』。『龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている』。『松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない』。『不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない』。『本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている』とあった。なお、先の地図の左のサイド・パネルのここで、不動像の背後に羅漢像の写真を見ることができ、また、個人ブログと思われる「お寺の風景と陶芸」の「龍昌寺 (島根県松江市) 小泉八雲ゆかり」」に添えられたこの画像では、前の写真の向かって左側の羅漢像の九体を確認出来る。更に、寺の名は記されていないが、寺町と石仏の話が、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)』の中に、以下のように出てくる。

   *

 天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。

 今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。

   *

この「徴笑を含んだ地藏」が龍昌寺のものであることは、間違いあるまい。

「荒川龜齊通稱重之輔」(あらかわきさい 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『島根県松江市横浜町出身の彫刻家で』、『名は明生、通称は重之輔』(じゅうのすけ)。『木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある』。『幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年』(明治二六年)の『シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた』。菩提寺である松江市新町(しんまち)の『洞光寺に葬られた』とある。寺はここで、龍昌寺の南方で、近い。また、「小泉八雲記念館」公式サイトの「企画展 八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」には、『荒川亀斎(初代)は1827425日、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生しました。名は明生、通称名は重之輔。亀斎は幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家でした』。『18908月に松江に赴任した小泉八雲は、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了されます。それは寺町の龍昌寺にある慈愛に満ちた地蔵で、八雲はすぐにその作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知りました。翌日、さっそく亀斎の工房を訪ねた折、その腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし』、『意気投合したといいます(山陰新聞)。その後も、八雲は』、『亀斎に作品を注文し、この彫刻家を世に紹介しようと、いわゆる作家のプロデュースを買って出ます。二人の関係は、八雲の著作や親友で島根県尋常中学校の教頭西田千太郎の日記と西田宛書簡、当時の山陰新聞などで、その交流を垣間見ることができます』。『中でも、亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」は、作品「英語教師の日記から」(『知られぬ日本の面影』所収)に詳しく紹介されています。』(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十六)』を見られたい)『これを見て大変よろこんだ八雲のもとに、亀斎は「気楽坊」を模した人形を作成し贈呈しました(小泉八雲記念館蔵)。また、八雲は、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、アドバイスもしています。この万博で「稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、亀斎は彫刻家として不動の地位を築きました』とある。]

〔富田〕 先生が荒川さんと西田、中山の兩先生を私方の二階へ招待して日本料埋のご馳走をなさつた事がありましたが、その時に、先生は私共に向つて「日本では客座敷で御客及び亭主のすわる席次があるようだが亭主として自分はどこへすわるのが本當か」と尋ねて西田先生が「あなたは入口に近いところにおすわりなさい」といわれそこにおすわりでした。さて先生は日本流に箸を使いたいにも自由にならず、例によつて握り箸で、ちようど日本の三、四歲の子供のように子供のようにして馳走を上りましたが、その上り方がまことに妙でして初めに吸物を握り箸で片付けて椀を膳の外にやり、次ぎ次ぎのご馳走も、食べては直ぐさま皿でも椀でも膳の外に並べなさるため、後では膳の上には何物もないこととなりました。他の人々は日本流に吸物、燒物、酢の物、剌身とどれも少しづつ食べてその間に酒を飮んでお出ででありましたが、何分先生は近眼でその邊がわからず、少ししてから先生も氣がついて大笑いになつたことがありました。なおその後先生は荒川さんに高さ七寸許りの木彫の笑顏の童子を彫らせて大切にして眺めておいででした。

〔桑原〕 先生はお宿の二階八疊と二疊の二間を居間としておられたようですが、冬期の暖房方法はどうなさいましたか。

〔富田〕 先生は大の寒さ嫌いでして、松江の事はなんでもかんでも氣に入りましたが、雪の降ることはまことにお嫌いでした。私方には當時ストーブは勿論なく、先生は炬燵は嫌いでしたから、ただ數個の火鉢に取圍まれておられましたが、それでも寒氣が餘程身に浸んで困られたものと察せられました。

〔桑原〕 先生は冬期感冒に罹られたことなどはありませんでしたか。先生が一度胃膓病に罹られ、田野醫師が見舞われたと或る本にありますがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「田野醫師」「山陰中央新報デジタル」の「さんいん偉人学」の「島根県近代医学の草分け 田野 俊貞(松江市で医院開業)」「医学教育や衛生普及に尽力」に以下のようにある(読みが丸括弧で本文に切れ切れにあるので、必要と判断したものを一フレーズで使用し、それ以外はカットさせて頂いた)。

   《引用開始》

 田野俊貞(たのとしさだ)(1855~1910年)[やぶちゃん注:安政二年~明治四三年。]は、松江市で医院を開業しながら医学生の教育や公衆衛生の普及に尽力し、島根県や松江市医師会のリーダーを務めるなど「島根県近代医学の草分け」と呼ばれています。

 俊貞は現在の栃木県足利市の庄屋(江戸時代の村役人)の家に生まれました。13歳の時から翻訳書で西洋医学を研究し1871(明治4)年、東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に学びます。

 77(同10)年、名古屋市の愛知県病院(現在の名古屋大学医学部)に勤務。ドイツ語が得意で、外国人医師の通訳も務めました。

 後に外務大臣や逓信(現郵政など)大臣兼鉄道院総裁など国政で活躍し、山陰本線の開設に尽力した後藤新平が医師として勤務しており、俊貞は生涯、親交を結びます。

 栃木県栃木病院長などを経て84(同17)年、島根県に採用され、島根県医学校と県松江病院(松江赤十字病院の前身)が開設されると病院長に就任します。この学校と病院は、西洋医学を学ぶ医師の養成機関でした。

 しかし、県の財政難などによって松江病院が廃止されると86(同19)年に松江市苧町(おまち)[やぶちゃん注:旧富田旅館の西直近のここ。]で田野医院を開業し、間もなくして旧苧町病院の土地、建物を買い受けて医院を拡張しました。

 その後、籠手田安定(こてだやすさだ)県知事の許可を受けて解剖を公開します。

 1907(同40)年に松江市医師会が設立され、俊貞は副会長に選ばれました。09(同42)年に島根県医師会が設立されると、副会長に選任され島根県医学界の発展に尽くします。

 また、長崎で自ら被爆しながら被爆者の治療に生涯を捧げた永井隆の父親寛(のぶる)が田野医院で修業し、医師に合格しています。隆はこの病院の一室で08(同41)年に産声をあげます。隆が被爆後も病床から手紙のやりとりをするなど、親交がありました。

 文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とも親交があり、松江市の水道設置に貢献(こうけん)したスコットランド生まれの技師バルトンの招請にも努力しました。

 医学界で一層の活躍が期待される中、俊貞は10(同43)年、55歳で病死します。

 旧田野医院(田野家住宅)は、洋風建築の様式を兼ね備えた木造2階建て。松江市内で最古級の病院建築の遺構で、島根県の近代医学の草創期を支えました。この建物は2013(平成25)年、所有者から松江市へ寄付され14(同26)年、市有形文化財に指定されました。

   《引用終了》]

〔富田〕 先生は極めて壯健なお方でして、私方におられた間に病氣をなされたことは一度もなく、衛生には餘程平常心を留めておられました。從つてお醫者のお出でたことはありません。一例を申すと外出よりご歸宿の時も、宿でお書き物のすんだ後でも、必ず手を洗い含嗽[やぶちゃん注:「うがい」。]をなさいました。

〔桑原〕 先生のお食事はどんな風でしたか。

〔富田〕 先生は朝は牛乳と數個の生卵で濟まされました。晝と晚との二食はお剌身、煮付、酢の物、燒魚等なんでもお上りでした。例の握り箸で召上りますので、魚の骨は取つて置きました。その食べ方は妙なもので、まず膳の上にある副食物卽ちお菜の方から、それを一皿一皿次ぎ次ぎと悉く平げてそれから卷鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飮まれましたが何時も大槪は水を飮まれました。先生は乾物でも干魚でも萬事好き嫌いと云うことは餘りありませんでしたが、ただ糸蒟蒻だけは嫌いで「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」といつて食べられませんでした。

 生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は晝と晩日本酒一本(一号八勺入)を飮んでおられまして、洋酒を注文したことは覺えません。珈琲も飮まれせんでしたが、ただ煙草だけは大好物でして、葉卷と刻煙草[やぶちゃん注:「きざみたばこ」。]は絶えず吸つておられました。刻煙草は日本の煙管[やぶちゃん注:「きせる」。]を使うのですが、その數がだんだんふえて數十本となり、掃除は大槪お信が引受けていました。葉卷は橫濱から大箱のものを取寄せておられました。

[やぶちゃん注:実は、ここ(「15」ページ)より二ページ前の「13」ページ下方には、金津氏の切り絵で、皿に載った食パン半斤、スプーン附きの把手のあるスープか、コーヒー・カップらしきもの(受け皿附き)があり(個人的にはカップが広過ぎで、内径幅から前者にしか私には見えないのだが)、その左下には、ミルク入れらしく見える物がある。しかし、例えば、以上の記載とも、当該位置の記載とも、全く合わない代物で、ちょっと頭を傾げるを得ない。なお、この切り絵は、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。その代り、これまた、この「15」ページには、左から右上方に向かって、木製(総て檜製か)の把手の突き上げた手桶・風呂椅子・湯桶が切り絵が配されてある(手桶と湯桶の箍(たが)は総て太い繩である)。これは、前掲ブログにある。これは、本文の少し先で、桑原氏が富田ツネにハーンが就寝・入浴する際のことを問うたところでエピソードが書かれる。

「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」ここで言う「蟲」に就いては、サイト「マグミクス」の「卵の食べ方がほぼロッキーだった『ばけばけ』ヘブンの朝食 史実を見るとそんなに「盛ってない」かも」に、『ちなみに、糸こんにゃくが虫に見えて食べられないというのも、実際のエピソードに基づいています。ヘブンは「私の国にこういう虫が!」と言っていましたが、実際は1887年から2年間滞在した西インド諸島の仏領マルティニーク』(アンティル・クレオール語:MatinikMatnik・フランス語:Martinique)『島』(ここ)『にいた虫を思い出していたそうです。』と記されてあった。これは、直ちに、平井呈一氏の「仏領西インドの二年間」の「下」で一章を作る「ムカデ」を想起させる。当該原本の当該篇は、「Internet archive」のここから視認出来る(‘ Two Years In The French West Indies ’の“BÊTE-NI-PIÉ.”)。また、日本語訳は国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第二巻」昭和六(一九三一)年第一書房刊(保護期間満了)の「佛領西印度の二年間」(大谷正信譯)の、ここの「百足蟲」で読める。但し、マルティニーク島に棲息するムカデが如何なる種なのかは、調べ得なかった。⋯⋯いんにゃ! しかし!⋯⋯ムカデと糸蒟蒻は――似てないぞッツ!?!――ハーン先生!!!

 先生は橫濱で卷鮨をあがつたことがあつて、それが餘程うまかつたと見えて、私方へお出での日より、每日のように晝晩共に必らず、巻鮨をさしあげましたが、後ではお飽きになり、普通のご飯を上げました、またフライ・エツグスの製り方は先生に敎わり每々差上げました。

〔桑原〕 洋食屋は當時鎌田才次と申すものが一軒ありましたが、先生は鎌田より洋食をとつて召し上つたことがありましたか。

〔富田〕 洋食は一切上らなかつたので鎌田から洋食を取寄せた覺えはありません。一切和食でした。從つてナイフやフオークをお用い[やぶちゃん注:「おもちい」。尊敬語。]のことはありませんでした。

〔桑原〕 先生は宿で牛肉は上りませんでしたか。

〔富田〕 宿の老人が牛は四ツ足と申して、昔から室の內に入れることを嫌いますので、先生も納得して牛肉は家の內に入れませんでした。

〔桑原〕 先生の宿泊料は當時いくら位でありましたか。

〔富田〕 先生來着當時の通辯眞鍋さんとの談判でございましたが、荒方[やぶちゃん注:「あらかた」。「だいたい」の意。]の約定は、朝は牛乳と卵、晝と晩とは卷鮨に副食物の賄[やぶちゃん注:「まかなひ(まかない)」。]で、一切をこめて一日が金參拾錢であつたと思います。當時の三十錢は今日相場にしては少なくとも十倍の三圓に當ります。今日と比較しますと萬事物價の相違はただただ驚くばかりであります。

[やぶちゃん注:以上の「參拾錢」だが、「Yahoo!JAPAN 知恵袋」の『朝ドラ「ばけばけ」の時代、10円は今の価値で幾らになりますか?』に対し、「閻魔の代理」さんが、答えているのが、よい。部分引用する。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の改行を続けた。]

小泉八雲が来日したのは明治23年です。そのころの人々の給料をウェブサイトで調べてみました。当時はインフレが著しかったようで、5年もすると給料が上がっていたようです。

明治23年当時

巡査初任給 月額6円(5年後には8円)

小学校教員初任給 月額5円(5年後には8円)

東京の大工(割と高給) 日給50銭(5年後には54銭)

小泉八雲(松江中学講師)月給100円(相当な高給)

★ここから推測すると、明治23年時点の人々の給料を現代の金額に換算するにはおおむね4万倍ぐらいするのが適当で、5年後の明治28年時点の給料を現代に換算すると3万倍ぐらいするのが適当だと判断します。つまり当時の10円は明治23年ならば40万円、同28年ならば30万円ぐらいが目安ではないかと考えます。

   《引用終了》

なお、この「17」ページには、金津氏の絵馬型のが、切り絵で載る。上方左右に、形の異なる菊花様のものが配され下方には、ひらがなの「め」を右、左でその反転したものが描かれている。私は、神社の、この手のものには全く疎いので、こう説明するしかない。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っているので、この装飾の意味が判る御仁は、是非とも解説して戴けると、非常に助かる。]

〔桑原〕 八雲先生が借りておられたあの廣大な根岸邸の家賃が、僅か月三圓半と伺いますから當時は萬事安かつたものです。就眠とか入浴というようなことはどうでしたか。

〔富田〕 寢具はベツトがありませんので、布團を高く重ねてこれを代用し暑い時は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]を釣りましたが、先生が初めての時は立つたままで蚊帳に出入りされましたのにはおかしくもあり驚きもしました。

 毎日入浴されましたが、風呂から出られますといつも冷水にかかられました。湯は微温が好きでしたが、或る日湯加減の特別熱かつた時に「地獄」「地獄」と叫ばれたことは今に一口話[やぶちゃん注:「ひとくちばなし」。]になつています。

 先生が便所に行かれる光景がこれまた實に奇觀でありまして、便所へ何時もの如く葉卷をくわええ行かれるのはよいとして、どういうものか帽子を冠つて[やぶちゃん注:「かぶつて」。]入られました。

 先生は洋傘やスケツキは持つておられなかつたのでご使用のことはありません。雨降りの時は人力車を呼んで行かれました。ネクタイは非常に狹い黑いリポンか紐に限られていました。

 

2026/01/10

『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて重要な注を追記した

『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて、重要な疑問注を追記したので、是非、見られたい。簡単に言うと、「太巢」は高井几董の別号であるという言説への疑義である。御情報を乞うている関係上、特にポストした。

2026/01/08

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

    松江に於ける八雲の私生活

 

      富田旅館時代

 

 明治二十三年(西曆一八九〇年)八月二十五、六日の頃小泉八雲は橫濱より松江に到着直ちに富田旅館に入り、明治二十四年(西曆一八九一年)二月に至るまで七ヵ月間同旅館に滯在し、同月松江末次本町卽ち京店織原氏の貸屋に移轉した。

[やぶちゃん注:本書の年譜的記載は、例えば、私の所持する内で、最も完備している恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」と対照すると、かなり大きく異なる部分が、有意にある。その辺りは、必要と考える限り、逐一、示すように心掛ける。さても、初っ端から、事実と齟齬する記載が連続する。そこでは、『八月三十日(土)、午後四時、松江着。大橋川北岸の末次本町四一番地(東本町一町目一番地)』ここ。グーグル・マップ・データ。無指示の場合は同じ)『にある富田旅館に投宿する。』とあり(これは以下の富田旅館の女将の証言でも、日付が誤っているので注意されたい。そこまで繰り返しはしない)、『ハーンは、二回の八畳と二畳の部屋を使用することになり、女将のお常と女中のお信(島根県能義郡出身、池田ノブ)が主として身辺の世話にあたった。なお、同所に十月下旬まで寄留する』とあり、同年十月の記載の最後に、『十月下旬――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷(末次本町)』(ここ。富田旅館の西隣りの直近である)『に転居する』とあり、当時の彼の『書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある』「ひなたGISの末次本町もリンクさせておく。戦前の地図によって、宍道湖大橋もなく、まさに宍道湖を直に見通せる位置にあったことが、よく判る)。『但し、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘⋯⋯」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている』とあり、未だ、この時期の住所移動時期は、今も明確には判っていないようである。また、『十一月中旬(日)、富田屋の女将お常と眼の悪いお信を伴って、一畑薬師』(いちばたやくし:一畑薬師は臨済宗総本山醫王山一畑寺(いちばたし)。平安時代に遡る言い伝えで、眼病平癒のあらたかな寺院として知られる。ここ)『に参拝する』とある。]

 富田旅館に滞在中の八雲の日常私生活を検討するため、予は昭和十五年(西曆一九四〇年)六月十五日富田旅館に富田ツネ刀自及び令息卯吉氏を訪問し、予と三人鼎座してツネ刀自より當時の實況を聽取した。

[やぶちゃん注:「鼎座」「ていざ」。「鼎」(かなへ(かなえ))の足のように、三人の者が向かいあってすわること。「鼎」は音「テイ」で、古代中国に於いて飲食物を煮るのに用いた金属製の容器。二つの耳と三本の足を持つ。古くは土器であり、飲食物を煮るだけに用いたが、後、祭祀用となった。特に夏の禹王(うおう)が九ヶ国の銅を集めて「九鼎」(きゅうけい)を作ってから、王位・帝位を表わすようになった。祭器としては、本邦では訓で「かなえ」と呼ぶことが多い。]

 なおツネ刀自は、八雲が松江在住中の記事を誌せる諸書中に、必らず現われている所の當時の富田旅館の女主人で、最も多く八雲に親炙した人であることを附言しておく。

 以下は、予がツネ刀自に對してなした問答筆記である。

[やぶちゃん注:富田ツネさんは、恐らく著作権上の問題ないと推測するが、令息卯吉氏については、判らない。しかし、これは、桑原氏の聴き取りによる桑原の記載記事であり、著作権侵害には当たらないと私は考える。実際、私は、二〇二一年一月二十三日に『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を電子化注しているが、冒頭注で、この座談に出席している人物の内、二名の没年が『判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。』と記して公開したが、五年ばかり経ったが、誰一人、それを指摘された通知を受けていない。これに就いても、万一、「卯吉氏がパブリック・ドメインではないから、インタビュー記事もダメである。」という指摘があれば、当該証明法規及び公的な没年証明書を添えて通知頂ければ、彼の回答部分のみをカットする用意はある。]

〔桑原〕 なるべく既に世に發表されていない點を主に伺いたいと思いますが、八雲が富田旅館滯在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな來歷の人でしたか、まだ存生ですか。

〔富田〕 お信は出雲國能義郡廣瀨町の池田というものの子でありましたが、兩親に早くより死別し、その祖母にあたる人が、お信の七歲の時にその弟と二人を連れて、少しのゆかりを賴つて私方に參り、お信は女中代りとして手傳を致しまして、八雲先生の見えた時お信は十五、六歲の時でした。先生の御世話は萬事私とお信とが致しました。先生は大層お信を可愛がつて英語をお敎えなさいました。そしてお信はかわいそうに二十三歲でなくなりました。

〔桑原〕 八雲先生が松江到着後直ちに富田旅館に入られた時の模樣を伺いたいと思います。

〔富田〕 先生が明治二十三年八月二十五、六日頃、私方に溫到着の時は早速お風呂をたて、お湯から上られた時に白浴衣を出しましたところが、それが大層氣に入りまして、白浴衣のまゝで二階の八疊一の間に、ちようど日本人のように、膝をキチンと曲げておすわりでした。

 先生の御到着前に、縣廰より椅子テーブルを澤山借りまして、お役人方の出張を待ちましたが、縣のお方々は、西洋人に面會するというので洋服でお出でたようでしたが、先生は西洋人としては身長の低い五尺二三寸[やぶちゃん注:一・五八~一・六一メートル。]位、頭髮は灰黑色、鼻の下には髭をはやし鼻は高い方で、背を屈がめて座布團にすわり、浴衣を着ては葉卷を口にしておられる樣子が、西洋人のような日本人のような恰好で、何とも如れぬおかしさを覺えました。私共には言語がまるでわからなかつたが、聲の樣子は餘り高い方ではなく聊か錆び聲で、時々高聲に笑われました。縣廰の役人方がこれを取圍むようにして椅子に腰かけていられました體裁は、ちようど役人が罪人でも調べるような恰好でまことに珍風景でありました。

 その後先生はこの浴衣が氣に入りまして、宿においでる間は、何時も浴衣で、外出は洋服でした。餘り浴衣が汚れましたために、紺飛白の單衣物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]を作つて上げたことがありました。

[やぶちゃん注:「紺飛白」「こんがすり」。紺地に白い「かすり」のある模様。また、その木綿織物。「紺絣」とも書く。

 なお、底本では、ここの左下には、金津滋氏の、小泉八雲のであろう、右手が、箸をムンずと箸を握っている切り絵がある。左下方付着する形で「握箸」と漢字も添えて彫ってある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見られたい。]

〔桑原〕 宿屋の皆さんと先生の間の意志の交換と申しますか、談話はどんな風でしたか。言語がわからないので、互に御困りのことでしたろう。

〔富田〕 私どもは全く英語がわからず、先生も日本語はわからずまことに困りました。中學校の西田千太郞先生や中山彌一郞先生が御來訪の節は、まことに何かと便利で色々先生のお望みのことを伺つて置きましたけれども、突發のことがある時は、先生は英和字書を何時も離さずに持つておられましたために、一々字引をひいての話で用を達しまして、實に不便極まるるので、每々[やぶちゃん注:ここは会話であるから「つねづね」であろう。]間違いがありましたので大笑い致しました。

 先生ご來松[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「らいまつ」で「松江に来られること」である。]の當時は、橫濱より眞鍋晃という書生さんを通辯としてつれておいででしたが、その通辯が餘り上手とは見えませんでした。ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事情があつたと見えて、大に[やぶちゃん注:「おほいに(おおいに)」。]先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました。

 眞鍋さんがいました時のことですが、先生が每晩のように、天神社內や和多見の賣布神社等の盆踊りを見においでの時は、何時も[やぶちゃん注:私は「いつも」と読みたい。]眞鍋さんと手前の主人太平、或いはお信の二人がおともでありました。何分太平も宅の用事が忙しい時にも先生は一向おかまいなくおともを仰せつかるので、少々後では閉口していました。先生は天神境內に行かれる時は何時も附近の井戸水を釣瓶吞み[やぶちゃん注:「つるべのみ」。釣瓶桶から、直接、飲むこと。]にして喜んでおられました。

〔註〕 眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、八雲先生が橫濱附近の某寺訪問の際、同寺の書生であつて、英語を解しいいため[やぶちゃん注:ママ。「解していたため」の誤植であろう。]、それが緣故となり、八雲先生の通辯として隨行したものである。

[やぶちゃん注:この注は、底本では、ポイント落ちで、全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、同ポイントで引き上げてある。以下の〔註〕も同じ処理をした。

「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。心理学及び教育学を専攻したが、郷里島根県松江で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭兼英語教師であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで、結核で亡くなった(主文は「講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、一部は、私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)』の訳者註から増補しておいた)。異例の出雲大社昇殿も彼の仲介で実現したもので、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)にとって、まさに本邦来日後の日本人の中でも、最も大切な親友であった。

「中山彌一郞」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (二)』の私の注を引く。西田とともに松江時代に懇意にしていた人物で、ヘルンの「島根縣敎育會」での講演(第二回「西印度雜話」明治二四(一八九一)年二月十四日開催)で彼は通訳をしており(第百五十四回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース(二〇一三年六月発行)のデータに拠る。【2026年1月8日追記】現在、リンク先は機能していない)、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師で生徒監(現行の学級担任の謂いであろう)もしており、後には神戸や商館に勤めたと、根本重煕氏の「小泉八雲のことども(続き)」(『中日本自動車短期大学論叢』第十三号・一九八三年・PDF)にある。「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』のこちらの風呂鞏(ふろたかし)氏の『小泉八雲と語学教育(二)』には、彼とは『神戸時代まで交際を続けた』とある(ハーンは明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戶クロニクル社」に就職して神戸に転居、二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで、神戸に住んだ)。] 

「眞鍋晃」小泉八雲の最初の纏まった作品「知られぬ日本の面影」の「第一章 私の極東に於ける第一日」に登場する、横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生である。初登場は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (七)』である。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島や横浜等の名所を巡ることとなったウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。第三章の「お地藏さま」の「二」の冒頭で、ハーンは彼のことを、『愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髪は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える』と、その美少年振りが描かれている(「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ)。

なお、この前の

『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』

から、ちゃんと、見られたい。而して、是非!

「教え子の情報から再考証!――小泉八雲が来日最初に訪れた寺は横浜市神奈川区高島台にある旧アメリカ領事館が置かれた本覚寺ではなかったか?!――」

も見られたい。そして!

「★ラフカディオ・ハーンが最初に訪れたと推理する本覚寺を早速教え子が写真で撮って来てくれた!!!★」

も見て、チョーダイね!!! 言っとくと、銭本健二・小泉凡編「年譜」でも、この寺は特定されていないんだよ!!!

 さて。実は、

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は松江に横浜から赴任するに際して、この眞鍋晃が通訳としてずっと同行している

のである。しかし、この赴任の道中のエピソード(鳥取県下市(しもいち)での盆踊り見学が、よく知られている)等では、後代の映像イメージ等では、眞鍋の影は微塵も想定映像としては表現されていないのだが、ハーンはちゃんと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)』の中で、眞鍋を描いている。

 いや、実は、その後も、ここにある通り、松江に留まって、

重要な出雲大社昇殿の時も、同行しており、八雲への解説役も、彼がメインであった

のである。それは、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿」の「(二)」「(四)」「(五)」「(六)」「(七)」「(九)」を読めば、一目瞭然なのである。ところが⋯⋯まさに「ところが」なのである⋯⋯(次の注に続く)

「ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事精があつたと見えて、大に先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました」この事実を確認する資料は、ネット上では、見出せない。私が、新たに見出したものは、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーンと医薬―癒しと救い  ① 一畑薬師のこと」(『薬学図書館』(643))所収・二〇一九年発行・PDF)の文中の『「杵築」の記述はこのあと,アキラとの神仏に関する問答に発展し,仏の数が限りなくあること,神道に至っては八百万の神がいることが議論される。』の注(『4)』)に『真鍋 晃.横浜の寺で出会った学僧で,英語に堪能.来日直後のハーンの通訳を務め,松江にも同行.松江滞在の半年間ほどをともに過ごす.』とあるものと、国立国会図書館デジタルコレクションで『送信サービスで閲覧可能』で見つけた、『人文論究』( 61(4)20122)・関西学院大学人文学会発行)の永田雄次郎氏の「ラフカディオ・ハーンと石仏の美――横浜から熊本までの時」、ここと、ここと、ここである(本登録でないと閲覧は出来ない)。引用すると、『従来の研究所では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない』として、以下で「アキラ」の表記で、作品中の小泉八雲と彼の語りから、彼の人間像を解説しておられる。而して、最後の箇所で、『板東浩司は、不確かな推定としながらも、一八九〇年中旬に真鍋晃は松江を去るとしている』。『その理由も不明であるが、この地のハーンの通訳で、彼を理解しようとしていた松江尋常中学校教頭である西田千太郎』『の存在が浮かんでくる。』とされ、『アキラ以上に英語に通じていたであろう西田はハーンの終生の友となる。アキラも横浜の寺を近々出て行くと「極東第一日」ですでに言っている。この両者の事情が、アキラをして松江を去らせる要因となったのでのでは、ないだろうか。ハーンがアキラの人柄に疑いを持ち解雇したとの説もある』。『だが、ハーンは次のようにも語っている。そこにはアキラへのハーンの愛情を見ることであろう。』とされ、八雲の訳を示しておられる。これは、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』の冒頭相当であるから、そちらで示す。冒頭表題も添えた。

   *

       一 一八九一年七月二十日 杵築にて

 晃は最早私と共には居ない。彼は佛敎雜誌を發行するため、神聖な佛敎の都なる京都ヘ行つた。それで私は迷ひ子になつたやうな氣がする――彼は神道のことを何も知らないから、出雲ではあまり役に立つまいと、彼が再三斷言したけれども。

   *

以下、引用に戻す。『時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。横浜、鎌倉の寺院、さらには松江までの道を同行したアキラである。これまで日本で仏教美術などを実体験する時、必ずと言ってよいほど、その脇に立っていたアキラは、ここでハーンの前から完全に姿を消したのである。彼こそは、松江での別れの時まで、石仏を眺めるハーンの眼にもっとも近く立ち、品の良い英語で語りかけた青年であったに違いなかろう。』とある。

 私は、この永田氏の見解に、非常に賛同し、感動もした。

 而して、中島氏の『松江滞在の半年間ほどをともに過ごす』とあるのは、銭本健二・小泉凡編「年譜」が、来松から、半月ほど後の、明治二三(一八九〇)年の九月十四日(日)の出雲大社昇殿の翌日の、『九月十五日(月)、松江に帰る。千家家日記には、この日にハーンと真鍋晃が参詣したことが記されており、したがって、ふたたび参詣をしたのち、帰松の途についたことも考えられる』とあるのを最後に、真鍋晃の記載が、載っていないことから、『半年』というのは、ちょっと不審なのである。何故と言うと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』で、私が強い疑義を感じて、注をした通り、小泉八雲の、このクレジットには問題があり、『文学的な虚構が施されている可能性が極めて高い』と述べたからである。されば、私は、真鍋の在松は、半年より、もっと短かったのではなるまいか? と考えているのである。

 なお、富田ツネさんのスキャンダラスな内容は、作り話には見えない。しかし、或いは、これ、真鍋に一方的に思いを凝らしてしまった女性が、突如、彼を訪ねてきたのではなかったか? 女性たちは、当然、「かんぐる」ことで、噂を起こしたに違いない。真鍋は、そうした「濡れ衣」を説明しようとすれば、するほど、こうした「かんぐり」は、いや増しになるのが常である。真鍋の真面目な気質から見て、事実を詳細に語って弁解することはあり得ないと思われる。されば、日本語が判らない八雲も、「カタラレナイというのは、イケナイことだ!」と早合点したとも思われなくもないのである。向後も、真鍋についての考証は継続する。

「天神社」現在の島根県松江市天神町(てんじんまち)にある白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)のことか。現在の同天満宮の夏の大祭では、盆踊りはないようであるが、江戸時代、松江城下では盆踊りが禁止されていた経緯があるから、当時、行っていたと考えても、逆に、よいように思われる。

「和多見の賣布神社」「めふじんじや(めふじんじゃ)」と読む。現在の島根県松江市和多見町(わだみちょう)の賣布神社。ここ

「眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、⋯⋯」国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」(大正一五(一九二六)年第一書房刊)の当該ページはここ。私電子化注は、ここ。]

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