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カテゴリー「立原道造」の461件の記事

2026/08/12

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿第6版)

《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。

 

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。

 されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFこちらである。

 

 今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。

 それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、

★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、

■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、

昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

であり、而して、

■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、

昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

で、

時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、

しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、

その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった

のである。

言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、

本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること

である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。

 

 則ち、

この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった

のである。

 

 思うに、

「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。

 と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。

 

 私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。

 しかし、そこには、当然、致命的に

★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している

のであり、それを、

★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない

ということである。

 なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

 単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

   *

 私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、

――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――

ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。

 ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、

「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。

それに対して、

「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。

 さて、以上の二篇を見てみよう。

 正統である知られた「燕の歌」は、

   *

 

  燕の歌

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き

山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた

やさしい朝で★いつぱいであつた――

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら

とほい村よ

 

僕は★ちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐる

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつた

 

   *

 ここで★と下線を引いた箇所は、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――

のである。

 ところが、「燕の歌(二)」では、

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根は★もうくたびれた

海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない

 

私は★いつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると ★さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には

★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもう★くたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ

 

   *

 ここで下線を引いた箇所は、明らかに、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――

のである。

 いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。

 そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。

 なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

 一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、

ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯

音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯

と、水彩画で描き、次でブレイクして、

「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。

 「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。

 しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。

 さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。

 物理的な事実が、それを証明する。

★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

であるのに対し、

★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、

『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)

で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。

恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。

 そして、最終聯、

   *

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

   *

には、注意が肝要である。

本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。

 但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。

しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。

 而して、最終聯の、

   *

私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」

   *

の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、

――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――

であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた

★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている

と、私は信ずるものである。

 

 

   §   §   §

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

       ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――

それは、物理的にあり得ない

のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。

 因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。

『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?

 

 さて。分析に入ろう。何より、

本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である

ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、

★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる

のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、

○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯の発表は、

・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊

で、二年一ヶ月十二日も離れているが、

○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、

『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊

で、実は、

この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――

なのである。

※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。

 ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。

※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。

 而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!

 さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、

「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう

からである。何度も言っているが

――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない

のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、

――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから

である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、

――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage

なのである。

 この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。

 但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。

 まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。

 さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。

 第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。

 第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。

 さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。

 而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、

「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯

となる。そして、年譜的事実に即すなら、

★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。

 『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、

   《引用開始》

 なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I  燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I  うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。

   《引用終了》

と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。

 

   *

 

   夏への四つのプレリユウド

 

  燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

   *

 

こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。

 しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。

   ◆

 「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯

   ◆

 「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯

   ◆

 「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯

   ◆

 「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯

   ◆

★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!

★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

 表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。

 また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。

 なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。

 初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。

 なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。

『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。

 なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。

 

 分析に入る。

 まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!

(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)

 更に言っておくと、私は、

★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた

のである。

 この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。

 しかし、そんなもんじゃない!!!

 以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠    ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく

――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――

に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!

 すなわち、

★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである

と私は断言するものである。

 

 ここで、最後に、話を変える。

 このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。

 が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。

 それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。

 しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、

☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である

のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(ここここ)、

「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である

からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。

 しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。

 私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。

 そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。

 一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。

   ※

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。

   ※

 

 

  それが どういふことか 

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

 

   ※

 最後は、「立原道造草稿詩篇  (この闇のなかで⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

 

   ※

 さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。

 而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。

 これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。

 作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。

 それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。

 作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。

 結果して、第二聯は

――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――

と私は推理する。

 されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。

 そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。

 先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。

   *

 

  僕は おまへに

        夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

   *

 この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。

 基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。

――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――

 

   *

 

  それが どういふことか

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

   *

 これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。

――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――

   *

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

   *

 ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。

――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!

 この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、

★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」

の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、

★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。

 

   *

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

   *

 最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。

 思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。

 しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。

 さて、私は、

★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?

と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、

既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話

なのである! 私の、この分析は、

★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている

と言ってもよいのである。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

 

 第二聯第四行のルビ「かほり」はママである。既に述べた通り、底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記が散見されることから、道造の慣用誤記であることが判明している。初出は『文藝汎論」第六十六号昭和一二(一九三七)年二月号(二月一日刊)である。直前の「Ⅲ 窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)であるから、七ヶ月後である。

 而して、この間、道造には、外的な大きな変化が起こっている。即ち、昭和十二年四月一日、石本建築事務所に初出勤しているのである。底本全集の年譜を見ると、『石本所長に愛され』、同僚の友人武基雄(後に多くの優れた建築作品を残した)も出来たが、翌日二日に書いた神保光太郞宛書簡(ここの「二八二」)に、『出發は決して祝福されてゐませんでした 貧しく みすぼらしく こともなげでした これをしも 祝福と今は僕は呼ばねばならないのせうか』と述懐しており、年譜には『繁華街でのオフィス勤めは、さすがに索漠として苦痛だったらしい』とある。

 一方で、七月一日には、三月以来、掲載が遅延していた物語「鮎の歌」が『文藝』七月号に発表され、四日頃には、処女詩集「萱草に寄す」が、やっと刊行されており(年譜のここ)、詩人としての自信を新たにしてもいた。本詩が発表された八月には、彼は『土曜日午後に上野を立って追分に行き、月曜の朝帰京して事務所に出るというようなことが以後しばしばくり返された』とある。八月二十九日(日曜日)軽井沢発信の武基雄宛の最後には『何の悔いもよろこびもなく、これが休らひといふのだろか。』と記している(ここの「413」)。

 本「薄明」が書かれた前後、こうした社会人と詩人の挟間で、道造は苦悶していたのである。そうした事実・心的相克を以って、この詩を読み直す必要があるのである。

 

 しかも、それは、既にして、第一聯に出現しているではないか!

 「フーガ」である!

 コントラプンクト(ドイツ語:Kontrapunkt:対位法)を主体とした楽曲形式フーガ(イタリア語:fuga:遁走曲・追走曲)が聴こえる――それは――まさに、この時の道造の抱えていたアンビバレンツ(ドイツ語:Ambivalenz:愛憎併存)を音楽なのである!

 それは、また――この時期以前に道造が経験してきた複数の女性に対する恋慕と破恋の繰り返し――をも、直ちに想起させるではないか!

 

 「だれも聞いてゐないのに」「よくきこえる」「ちひさなフーガ」は、道造の心の中の、対象者たちも、自分自身も、どうしようも出来ない絡みに絡んだ竹の根の如き、不可塑性のアンビバレンツの「音樂」である。

 それは薊の「花のあひだを」、「草の葉の」薊の「あひだを」、「染めてながれる」「フーガ」なのである。

 彼は心限りに求める――ただ「窓をひらいて 窓にもたれればいい」と――「土の上に影があるのを」ただ「眺めればいい」――ただそれだけで、「ああ 何もかも美しい!」と感じているのである――如何なる他者も――誰もが――「私の身體の」「外に」「私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと」であれかし! と――一緒になって! 謳歌しようとする⋯⋯

 そうして「私は ささやく おまへにまた一度」「――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ」!――「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」と――高らかにともに叫ぼうとする⋯⋯

 しかし⋯⋯「やまない音樂のなかなのに」⋯⋯「小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き」⋯⋯「影は長く 消えてしまふ」のだ!――誰も彼も!⋯⋯「――そして 別れる」⋯⋯⋯⋯と、凄絶なコーダで終わっている。

 

 私は、少なくとも、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の中で、この「Ⅳ 薄明」は、最もブルージィであり、「救い」を諦めた孤高に屹立している一篇として特異点である、と考えている。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅴ 民謠

         ――エリザのために

 

絃(いと)は張られてゐるが もう

誰もがそれから調べを引き出さない

指を觸れると 老いたかなしみが

しづかに歸つて來た⋯⋯小さな歌の器(うつは)

 

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に

人はときをりこれを手にとりあげる

弓が誘ふかろい響――それは奏でた

(おお ながいとほいながれるとき)

 

――昔(むかし)野(ばら)が咲いてゐた

野鳩が啼いてゐた⋯⋯あの頃⋯⋯

さうしてその歌が人の心にやすむと

 

時あつて やさしい調べが眼をさます

指を組みあはす 古びた唄のなかに

――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 

 

 既に単発テクストで述べた通り、昭和一〇(一九三五)年十月十四日号『帝國大學新聞』初出で、さらに、編註に拠れば、『初出は殆んどルビ付であるが、本編は山本書店版第一巻のルビのみを採用した』とある。これには、納得がゆく。当時の新聞類――但し、本公開は大学発行の新聞であるから、全く同列に並べてよいかどうかは、微妙ではあるけれど――では、概ね、発行先の記者が勝手にルビを振るのが、当たり前であったので(例えば、私のカテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』で行なった「『東京朝日新聞』」の『夏目漱石作「心」』の掲載日をシンクロさせたものを見られたい。そこで、漱石は、勝手に誤ったルビを振ることに怒り心頭に発している箇所が、複数回、出てくるのである)旧全集の当該部(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一六(一九四一)年版のここ)のルビのみとしたのは至当であると言える。そもそも、道造は、一詩篇を全ルビすることは、ソネット形式に拘って後は、まず、そんな視覚的に五月蠅いルビを、全漢字に附すなどということは、逆立ちしても、あり得ないからである。

 さて、既に電子化した草稿詩『夏の旅』(ここ)には、添え題に『エリザの記念に』とある。これは、後に「SONATINE No.1」冒頭の「はじめてのものに」(これは私の古い電子化注で、底本が旧全集であることから、表記(リーダ数)に問題がある。それを修正していないことは、追加注で述べておいた)に結実するのであるが、そこで、諸氏の注を示した通り、道造が偏愛したドイツの抒情詩人テオドール・シュトルム作の小説「みずうみ」の女主人公であると、ほぼ断定されては、いる。

 しかし、前の「Ⅳ 薄明」の制作は昭和一二(一九三七)年二月一日発表であるのに対し、

★本篇は、それより――凡そ一年三ヶ月も前の詩篇――

なのである。即ち、この詩篇は「Ⅳ 薄明」よりも、ずっと前の感懐を詠んでいるのであり、読者の誰もが考える――道造が愛した実在の複数の女性たちの影を――否(いや)が応(おう)にも――想起せざる能わざる事態を惹起するのである。

 しかも、新全集の年譜の昭和十年の九月のパートを見ると(ここの左丁の九行目以降)、道造より二歳下の松竹少女歌劇団に所属して芸名を「北麗子」と名乗っていた今井春枝と、道造が邂逅し、道造が――実際に震えるほど――強く惹かれていることが、明らかに語られているのである。

 無論、再三述べた通り、私は、各個詩篇に登場する道造が愛した女性たちを、それぞれ特定することに興味を全く所持していないし、それを詮索する研究者の論文を読もうとは、殆んど、思わない人種なのである。しかし、私の読者の中には、『そこを無視して通らずに分析するというのは手抜きだろう。』と指弾する方もいることは、重々、理解してはいる。

 個人的には、敢えて、そう、もの言いされる方には、私が、道造が愛した女性たちを示して、しかも、フラットな形で提示されておられる、サイト「杉篁庵」主の「山小屋 ぱれっと 北軽井沢」の、「立原道造詩集」の中の「立原道造の生涯Ⅱ ―ゆうすげびとの抒情― 詩人の出発(帝大時代・卒業論文提出まで)」の中の、「十四行詩形の獲得」のパートを強くお薦めするものである。特に、どうしても、ご紹介したい箇所を引用させて戴く。

   《引用開始》

道造がエリザベートとか鮎子とかの名で呼んだ女性たちとのめぐり合いもこの追分でのことであった。全集年譜は「エリザヘエトはたまたま追分を訪れた柴岡の遠縁にあたるひと」「鮎子はおいわけの或る由緒ある宿屋の娘さんで、東京の学校から夏休みで帰ってきていた。」とある。(エリザヘエトは別荘の少女、横田ケイ子。「あの人はそのまま黄色なゆふすげの花となり」と歌った黄色い帯の少女は関鮎子。秋に恋心を抱いた少女は今井春枝という)。

 九月下旬、追分を去る頃このエリザベートとのめぐり合いをうたって「はじめてのものに」という十四行詩を書いた。これは「四季」十二号(十一月号)に発表され、やがて、これが詩集「萓草に寄す」の冒頭の詩となる。

   《引用終了》

この方の述べ方に、私が強い共感を感じるのは、私が考えている、

   *

――道造は、確かに、具体的な個々人の女性たちを、愛した。そして、実際の各個詩篇が、当初、詠まれた際には、それが特定の個人であったに相違ない。しかし、それらの感情は、後に総てが融合し、「賢者の石」(ラテン語: lapis philosophorum:ラピス・フィロソポルム)へと変成したのだ。――

   *

という認識と通底する、と思うからである。

 

 実は、特異的に、この「Ⅴ 民謠」についての分析は、凡そ一ヶ月の間、考えつつ、なかなか書けなかった。別な大きな仕事が後半に生じ、そちらにリキを入れてしまったためでもあるが、何より

――また⋯⋯「複合過去」べったりの「独り」の詩か⋯⋯――

というところが、少々、ガックりきたからである。ともかくも、以上で、「Ⅴ 民謠」の分析は終わる。後に、追記をするかも知れない。

2026/07/14

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿第5版)

《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。

 

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。

 されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFこちらである。

 

 今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。

 それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、

★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、

■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、

昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

であり、而して、

■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、

昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

で、

時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、

しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、

その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった

のである。

言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、

本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること

である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。

 

 則ち、

この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった

のである。

 

 思うに、

「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。

 と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。

 

 私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。

 しかし、そこには、当然、致命的に

★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している

のであり、それを、

★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない

ということである。

 なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

 単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

   *

 私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、

――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――

ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。

 ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、

「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。

それに対して、

「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。

 さて、以上の二篇を見てみよう。

 正統である知られた「燕の歌」は、

   *

 

  燕の歌

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き

山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた

やさしい朝で★いつぱいであつた――

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら

とほい村よ

 

僕は★ちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐる

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつた

 

   *

 ここで★と下線を引いた箇所は、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――

のである。

 ところが、「燕の歌(二)」では、

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根は★もうくたびれた

海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない

 

私は★いつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると ★さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には

★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもう★くたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ

 

   *

 ここで下線を引いた箇所は、明らかに、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――

のである。

 いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。

 そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。

 なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

 一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、

ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯

音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯

と、水彩画で描き、次でブレイクして、

「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。

 「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。

 しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。

 さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。

 物理的な事実が、それを証明する。

★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

であるのに対し、

★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、

『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)

で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。

恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。

 そして、最終聯、

   *

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

   *

には、注意が肝要である。

本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。

 但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。

しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。

 而して、最終聯の、

   *

私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」

   *

の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、

――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――

であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた

★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている

と、私は信ずるものである。

 

 

   §   §   §

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

       ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――

それは、物理的にあり得ない

のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。

 因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。

『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?

 

 さて。分析に入ろう。何より、

本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である

ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、

★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる

のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、

○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯の発表は、

・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊

で、二年一ヶ月十二日も離れているが、

○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、

『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊

で、実は、

この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――

なのである。

※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。

 ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。

※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。

 而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!

 さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、

「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう

からである。何度も言っているが

――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない

のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、

――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから

である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、

――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage

なのである。

 この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。

 但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。

 まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。

 さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。

 第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。

 第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。

 さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。

 而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、

「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯

となる。そして、年譜的事実に即すなら、

★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。

 『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、

   《引用開始》

 なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I  燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I  うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。

   《引用終了》

と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。

 

   *

 

   夏への四つのプレリユウド

 

  燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

   *

 

こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。

 しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。

   ◆

 「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯

   ◆

 「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯

   ◆

 「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯

   ◆

 「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯

   ◆

★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!

★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

 表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。

 また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。

 なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。

 初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。

 なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。

『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。

 なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。

 

 分析に入る。

 まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!

(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)

 更に言っておくと、私は、

★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた

のである。

 この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。

 しかし、そんなもんじゃない!!!

 以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠    ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく

――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――

に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!

 すなわち、

★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである

と私は断言するものである。

 

 ここで、最後に、話を変える。

 このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。

 が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。

 それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。

 しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、

☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である

のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(ここここ)、

「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である

からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。

 しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。

 私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。

 そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。

 一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。

   ※

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。

   ※

 

 

  それが どういふことか 

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

 

   ※

 最後は、「立原道造草稿詩篇  (この闇のなかで⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

 

   ※

 さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。

 而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。

 これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。

 作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。

 それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。

 作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。

 結果して、第二聯は

――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――

と私は推理する。

 されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。

 そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。

 先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。

   *

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

   *

 この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。

 基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。

――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――

 

   *

 

  それが どういふことか

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

   *

 これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。

――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――

   *

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

   *

 ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。

――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!

 この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、

★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」

の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、

★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。

 

   *

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

   *

 最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。

 思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。

 しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。

 さて、私は、

★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?

と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、

既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話

なのである! 私の、この分析は、

★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている

と言ってもよいのである。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

 

 第二聯第四行のルビ「かほり」はママである。既に述べた通り、底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記が散見されることから、道造の慣用誤記であることが判明している。初出は『文藝汎論」第六十六号昭和一二(一九三七)年二月号(二月一日刊)である。直前の「Ⅲ 窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)であるから、七ヶ月後である。

 而して、この間、道造には、外的な大きな変化が起こっている。即ち、昭和十二年四月一日、石本建築事務所に初出勤しているのである。底本全集の年譜を見ると、『石本所長に愛され』、同僚の友人武基雄(後に多くの優れた建築作品を残した)も出来たが、翌日二日に書いた神保光太郞宛書簡(ここの「二八二」)に、『出發は決して祝福されてゐませんでした 貧しく みすぼらしく こともなげでした これをしも 祝福と今は僕は呼ばねばならないのせうか』と述懐しており、年譜には『繁華街でのオフィス勤めは、さすがに索漠として苦痛だったらしい』とある。

 一方で、七月一日には、三月以来、掲載が遅延していた物語「鮎の歌」が『文藝』七月号に発表され、四日頃には、処女詩集「萱草に寄す」が、やっと刊行されており(年譜のここ)、詩人としての自信を新たにしてもいた。本詩が発表された八月には、彼は『土曜日午後に上野を立って追分に行き、月曜の朝帰京して事務所に出るというようなことが以後しばしばくり返された』とある。八月二十九日(日曜日)軽井沢発信の武基雄宛の最後には『何の悔いもよろこびもなく、これが休らひといふのだろか。』と記している(ここの「413」)。

 本「薄明」が書かれた前後、こうした社会人と詩人の挟間で、道造は苦悶していたのである。そうした事実・心的相克を以って、この詩を読み直す必要があるのである。

 

 しかも、それは、既にして、第一聯に出現しているではないか!

 「フーガ」である!

 コントラプンクト(ドイツ語:Kontrapunkt:対位法)を主体とした楽曲形式フーガ(イタリア語:fuga:遁走曲・追走曲)が聴こえる――それは――まさに、この時の道造の抱えていたアンビバレンツ(ドイツ語:Ambivalenz:愛憎併存)を音楽なのである!

 それは、また――この時期以前に道造が経験してきた複数の女性に対する恋慕と破恋の繰り返し――をも、直ちに想起させるではないか!

 

 「だれも聞いてゐないのに」「よくきこえる」「ちひさなフーガ」は、道造の心の中の、対象者たちも、自分自身も、どうしようも出来ない絡みに絡んだ竹の根の如き、不可塑性のアンビバレンツの「音樂」である。

 それは薊の「花のあひだを」、「草の葉の」薊の「あひだを」、「染めてながれる」「フーガ」なのである。

 彼は心限りに求める――ただ「窓をひらいて 窓にもたれればいい」と――「土の上に影があるのを」ただ「眺めればいい」――ただそれだけで、「ああ 何もかも美しい!」と感じているのである――如何なる他者も――誰もが――「私の身體の」「外に」「私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと」であれかし! と――一緒になって! 謳歌しようとする⋯⋯

 そうして「私は ささやく おまへにまた一度」「――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ」!――「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」と――高らかにともに叫ぼうとする⋯⋯

 しかし⋯⋯「やまない音樂のなかなのに」⋯⋯「小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き」⋯⋯「影は長く 消えてしまふ」のだ!――誰も彼も!⋯⋯「――そして 別れる」⋯⋯⋯⋯と、凄絶なコーダで終わっている。

 

 私は、少なくとも、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の中で、この「Ⅳ 薄明」は、最もブルージィであり、「救い」を諦めた孤高に屹立している一篇として特異点である、と考えている。

2026/05/15

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。

 されば、ここで、底本編者たちや私の注を、総て除去した形で、まずは、無心に「優しき歌 Ⅰ」を鑑賞する必要性を強く感じたのである。

 今回では、完全に底本通りを採用し、総表題の一部、及び、各詩篇表題部を太字・ポイント上げとした。各詩篇の間に四行を空け、中央には、三字下げで「*」を打っておいた。

 また、表記や読み方で問題にしたものの中で、どうしても注が必要と考えたものには、後に「字注」として私の注を置いた。

 無論、私には、私なりの本「優しき歌 Ⅰ」全体を通しての感じ方がある。それは、これを元に、次回で試みるものである。

なお、本来の縦書の形態でこそ、読むべきであるからして、以下に、この横書のものをPDFで縦書にし、レイアウトを、底本に、より近づけた一詩篇一ページ別に組んだものを作成したので(ルビ化も行った。783KB・全十七ページ)、リンク(サイト内保存)させておく。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

   春來にけらし春よ春

    まだ白雪の積れども

          ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

   *

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

   *

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

   

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

[やぶちゃん字注:第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。なお、この「刃金」については、このベタ版の作業中に、各篇の確認校正をしていたところ、この語を道造が用いた理由を、是が非でも注しなければならなかったと気がつき、急遽、後注に大々的に追補したので、当該詩篇記事を見られたい。

 

 

   *

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

[やぶちゃん字注:第一聯一行目の「昨夜」は、私は、うっかり「さくや」と読みかけたが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。]

 

 

   *

 

 

  IV 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

[やぶちゃん字注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)の編註(ここ)に拠れば、『第二聯第四行 ルビママ〈かほり〉』とある。底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記があり、道造の慣用誤記であることが判る。]

 

 

   *

 

 

  Ⅴ 民謠

     ――エリザのために

 

絃(いと)は張られてゐるが もう

誰もがそれから調べを引き出さない

指を觸れると 老いたかなしみが

しづかに歸つて來た⋯⋯小さな歌の器(うつは)

 

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に

人はときをりこれを手にとりあげる

弓が誘ふかろい響――それは奏でた

(おお ながいとほいながれるとき)

 

――昔むかし野ばらが咲いてゐた

野鳩が啼いてゐた⋯⋯あの頃⋯⋯

さうしてその歌が人の心にやすむと

 

時あつて やさしい調べが眼をさます

指を組みあはす 古びた唄のなかに

――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 

 

   *

 

 

  鳥啼くときに

    式子內親王《ほととぎすそのかみやまの》による Nachdichtung

 

ある日 小鳥をきいたとき

私の胸は ときめいた

耳をひたした沈默(しじま)のなかに

なんと優しい笑ひ聲だ!

 

にほひのままの 花のいろ

飛び行く雲の ながれかた

指さし 目で追ひ――心なく

草のあひだに 憩(やす)んでゐた

 

思ひきりうつとりとして 羽虫の

うなりに耳傾けた 小さい弓を描いて

その歌もやつぱりあの空に消えて行く

 

消えて行く 雲 消えて行く おそれ

若さの扉はひらいてゐた 靑い靑い

空のいろ 日にかがやいた!

 

 

   *

 

 

  甘たるく感傷的な歌

 

その日は 明るい野の花であつた

まつむし草 桔梗 ぎぼうしゆ をみなへしと

名を呼びながら摘んでゐた

私たちの大きな腕の輪に

 

また或るときは名を知らない花ばかりの

花束を私はおまへにつくつてあげた

それが何かのしるしのやうに

おまへはそれを胸に抱いた

 

その日はすぎた あの道はこの道と

この道はあの道と 告げる人も もう

おまへではなくなつた!

 

私の今の悲しみのやうに 叢には

一むらの花もつけない草の葉が

さびしく 曇つて そよいでゐる

 

 

   *

 

 

  ひとり林に⋯⋯

 

  Ⅰ ひとり林に⋯⋯

 

だれも 見てゐないのに

咲いてゐる 花と花

だれも きいてゐないのに

啼いてゐる 鳥と鳥

 

通りおくれた雲が 梢の

空たかく ながされて行く

靑い靑いあそこには 風が

さやさや すぎるのだらう

 

草の葉には 草の葉のかげ

うごかないそれの ふかみには

てんたうむしが ねむつてゐる

 

うたふやうな沈默(しじま)に ひたり

私の胸は 溢れる泉! かたく

脈打つひびきが時を すすめる

 

 

   *

 

 

  Ⅱ 眞冬のかたみに⋯⋯

            Heinrich Vogeler gewidmet

 

追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに

立つて 見つめてゐる まつ白い雪の

おもてに ながされた 私の影を――

(かなしく 靑い形は 見えて來る)

 

私はきいてゐる さう! たしかに

私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを⋯⋯

それは淚ぐんだ鼻聲に かへらない

昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ 

 

⦅あれは頰白 あれは鶸 あれは 樅の樹 あれは

私⋯⋯私は鶸 私は 樅の樹⋯⋯⦆ こたへもなしに

私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに 

 

影は きいてゐる 私の心に うたふのを

ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに

溢れる泪の うたふのを⋯⋯雪のおもてに――

 

 

   *

 

 

  淺き春に寄せて

 

今は 二月 たつたそれだけ

あたりには もう春がきこえてゐる

だけれども たつたそれだけ

昔むかしの 約束はもうのこらない

 

今は 二月 たつた一度だけ

夢のなかに ささやいて ひとはゐない

だけれども たつた一度だけ

そのひとは 私のために ほほゑんだ

 

さう! 花は またひらくであらう

さうして鳥は かはらずに啼いて

人びとは春のなかに笑みかはすであらう

 

今は 二月 雪に面(おも)につづいた

私の みだれた足跡⋯⋯それだけ

たつたそれだけ――私には⋯⋯

 

 

 

2026/05/08

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  淺き春に寄せて / 「詩集 優しき歌 Ⅰ」各個詩篇電子化注~了

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたい。過去にランダムに電子化注したものは、「淺き春に寄せて   立原道造」である。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、中パート表題はここ、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、本詩の初出は『「四季」第25号 昭和123月号(2月20日刊)』とある。

 これを以って、『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』の全詩篇の各個電子化注を終わる。次回は、全詩篇をセットで一記事で示し、その後に、底本の全篇の持つ特性を考察する。]

 

  淺き春に寄せて

 

今は 二月 たつたそれだけ

あたりには もう春がきこえてゐる

だけれども たつたそれだけ

昔むかしの 約束はもうのこらない

 

今は 二月 たつた一度だけ

夢のなかに ささやいて ひとはゐない

だけれども たつた一度だけ

そのひとは 私のために ほほゑんだ

 

さう! 花は またひらくであらう

さうして鳥は かはらずに啼いて

人びとは春のなかに笑みかはすであらう

 

今は 二月 雪に面(おも)につづいた

私の みだれた足跡⋯⋯それだけ

たつたそれだけ――私には⋯⋯

 

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  ひとり林に⋯⋯ Ⅱ 眞冬のかたみに⋯⋯

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたい。過去にランダムに電子化注したものは、『カテゴリ「立原道造」創始 /「ひとり林に‥‥」(草稿) 及び その決定稿「眞冬のかたみに」 並びに 別篇「ひとり林に‥‥」』である。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、中パート表題はここ、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、『「都新聞」 昭和12年9月12日号』で、その後に、『*初出の組原型は次のようである。』として、初出の記載が、全篇、載っている。新聞の記事枠の制限から一行を十七字として改行が行われている。まず、それを、【初出「都新聞」表示形】として、その一行十七字改行と全く同じ形で示す。さらにその後に、底本本文の『テキストは山田書店版第一巻に従った。』とする。その当該書籍の当該部はここである。但し、そちらでは、三ヶ所のリーダが四点「‥‥」になっているが、そこは堀內氏は採用せずに、六点リーダとしておられる。至当である。更に、『草稿詩「ひとり林に⋯⋯」(本巻収)を異文に持つ。』とする。

 これは、先般、「立原道造草稿詩篇 ひとり林に⋯⋯オリジナルに、【初稿】・【草稿】・【最終決定稿】として電子化してある。

 更に、『*gewidmet (独) widmen 献げるの意の過去分詞。』とする。この“gewidmet”は音写すると「ゲヴィッドメット」で、原型“widmen”は「ヴィトメン」である。また、註の最後に、『Heinrich Vogeler(ハインリッヒ・フォーゲラー)は、Rainer Maria Rilke(リルケ)のヴォルプスヴェデ時代の友人画家。『風景畫論』(Worpswede)中に紹介されている。』とする。当該ウィキがあるが、日本語のそれは、杜撰である。英文ウィキを、お薦めする。

 更に戻ると、『*制作時は昭和12年2月と想定する。』とあり、加えて、『〔資料〕昭和12年1月20日付・神取』(これは「神保」の誤記か誤植である)『光太郎宛』(底本全集「第五卷 書翰」のここの「三五三」)、『同月31日付・柴岡亥佐雄宛』(同前のここの「三六六」)『および2月8日付・田中一三宛書簡。』(同前のここの「三七三」)とある。

 当初、煩を厭わず、改稿・改稿(別稿)・初出表示形・原決定稿を含む推敲の跡を追うために、「立原道造草稿詩篇 ひとり林に⋯⋯」も入れ込んだものにしようと思ったが、これは、前の『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  ひとり林に⋯⋯ Ⅰ ひとり林に⋯⋯』と混雑し、却って、訳が分からなくなる虞れが強くあるため、取り止めとし、すっきりと、【初出「都新聞」表示形】・【最終決定稿】の順で電子化する。]

 

【初出「都新聞」表示形】

 

  眞冬のかたみに⋯⋯

     Heinrich Vogeler gewidmet

 

追ひもせずに 追はれもせずに 枯木

 のかげに

立つて 見つめてゐる まつ白い雪の

 おもてに ながされた 私の影を―

―(かなしく 靑い形は 見えて來

 る)

 

私はきいてゐる さう! たしかに

 私は きいてゐる その影の うた

つてゐるのを……

それは淚ぐんだ鼻聲に かへらない

 昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ 

 

⦅あれは頰白 あれは鶸 あれは 樅

 の樹 あれは

私⋯⋯私は鶸 私は 樅の樹⋯⋯⦆ 

 こたへもなしに

私と影とは 眺めあふ いつかもそれ

 はさうだつたやうに 

 

影は きいてゐる 私の心に うたふ

 のを

ひとすぢの 古い小川のさやぎのやう

 に溢れる泪の うたふのを⋯⋯雪の

おもてに―― 

 

 

[やぶちゃん注:これは、一行字数以外に、改行禁則によって、送りが、微妙な形になってしまっている。

「鶸」これは簡単には注が出来ない。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」を参照されたい。但し、軽井沢と時期から、スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科カワラヒワ(河原鶸)属カワラヒワ亜種カワラヒワ(或いは亜種コカワラヒワ)Carduelis sinica minor の可能性が最も高いと思われる。]

 

【最終決定稿】

 

  Ⅱ 眞冬のかたみに⋯⋯ 

         Heinrich Vogeler gewidmet

 

追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに

立つて 見つめてゐる まつ白い雪の

おもてに ながされた 私の影を――

(かなしく 靑い形は 見えて來る)

 

私はきいてゐる さう! たしかに

私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを⋯⋯

それは淚ぐんだ鼻聲に かへらない

昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ 

 

⦅あれは頰白 あれは鶸 あれは 樅の樹 あれは

私⋯⋯私は鶸 私は 樅の樹⋯⋯⦆ こたへもなしに

私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに 

 

影は きいてゐる 私の心に うたふのを

ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに

溢れる泪の うたふのを⋯⋯雪のおもてに――

 

2026/05/07

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  ひとり林に⋯⋯ Ⅰ  ひとり林に⋯⋯

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたい。過去にランダムに電子化注したものは、『カテゴリ「立原道造」創始 /「ひとり林に‥‥」(草稿) 及び その決定稿「眞冬のかたみに」 並びに 別篇「ひとり林に‥‥」』である。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、中パート表題はここ、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、『「コギト」第38号 昭和12年3月号(3月1日刊)』で、その後に、『*「火山灰ノート」に同題詩三篇があり、その一つが本篇の異文である。』とある。

 しかし、底本全集の「第四卷 評論・ノート・翻譯」の「火山灰ノート」(同巻の堀內氏の註に拠れば、『原ノート消失・山本書店版第三巻(昭和18年7月1日付刊)』とあり、『*テキストは次のような特徴を持つ。』として、『イ、冒頭に「火山灰」の大文字がある』。『その命名は、この』昭和一〇(一九三五)年『夏』、『はじめてみた火の山(浅間山噴火)からの感動にちなむものでろう。』とあり、ノートの推定時期が示されてあり、二篇とも、『昭和11年秋―12年3月』相当とある。)を見ると、同題詩は、二つしかない。同ノート全体を何度も見たが、「同題詩」は他になく、無題の同内容の詩も見当たらない。されば、これは『三篇』ではなく、「二篇」の誤記か、誤植と思われる。ノート順に画像を示すと、ここと、ここである。

 而して、本決定稿に酷似するのは、その内の、前者である。

 そこで、私は、まず、【初稿】として、前者を示し、次に採用しなかった別の後者を【別稿】として掲げ(前者よりノートの後にあるのであるから問題ない)、最後に【決定稿】として本詩篇を置くこととした。

 

【初稿】

 

  ひとり林に⋯⋯

 

だれも 見てゐないのに

咲いてゐる 花と花

だれも きいてゐないのに

啼いてゐる 鳥と鳥

 

通りおくれた雲が 梢の

空たかく ながされて行く

靑い靑いあそこには 風が

さやさや 過ぎるのだらう

 

草の葉には 草の葉のかげ

うごかないそれの ふかみには

てんたうむしが ねむつてゐる

 

歌ふやうな沈默(しじま)にひたり

私の胸は 溢れる泉! 高く

脈打つひびきが 時をすすめる

 

 

【別稿】

 

  ひとり林に⋯⋯

 

山のみねの いただきの ぎざぎざの上に

あるのは 靑く淡い色 あれは空⋯⋯

空のかげに かがやく日 空のおくに

ながれる雲⋯⋯私はおもふ 空のあちらを

 

夏の日に咲いてゐた 百合の花も ゆふすげも

薊の花も 堅い雪の底に かくれてゐる

みどりの草も いまはなく 梢の影が

葵色の こまかい線を 編んでゐる

 

ふと過ぎる⋯⋯あれは頰白 あれは鶸

透いた林のあちらには 山のみねのぎざぎざが

ながめてゐる 私を 私たちを 村を――

 

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら

耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる

――ああ この眞白い野に 蝶を飛ばせよ!⋯⋯

 

 

[やぶちゃん注:私は、よく理解もしないで、『カテゴリ「立原道造」創始 /「ひとり林に‥‥」(草稿) 及び その決定稿「眞冬のかたみに」 並びに 別篇「ひとり林に‥‥」』で、これを採録していたのであった。なお、底本が違うので、表記に異同がある。それは、比較されたいが、決定テキストはこれとなる。⋯⋯それにしても⋯⋯ああ! 五十八歳の私をちょっと褒めてやりたくなった気は、した⋯⋯。]

 

【決定稿】

 

  Ⅰ ひとり林に⋯⋯

 

だれも 見てゐないのに

咲いてゐる 花と花

だれも きいてゐないのに

啼いてゐる 鳥と鳥

 

通りおくれた雲が 梢の

空たかく ながされて行く

靑い靑いあそこには 風が

さやさや すぎるのだらう

 

草の葉には 草の葉のかげ

うごかないそれの ふかみには

てんたうむしが ねむつてゐる

 

うたふやうな沈默(しじま)に ひたり

私の胸は 溢れる泉! かたく

脈打つひびきが時を すすめる

 

 

[やぶちゃん注:【初稿】との異同は(表題上の「Ⅰ」は除く)、

第二聯最終行目の「過ぎる」が「すぎる」に、

第四聯第一行目の「歌ふ」が「うたふ」になり、

同第四聯第一行目下部の「ひたり」の前に一字空けを置き、

第四聯第二行目の末尾を「高く」から「かたく」に変えて、

最終行が「脈打つひびきが 時をすすめる」から「脈打つひびきが時を すすめる」と字空けを変えている

の五点である。]

2026/05/06

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  甘たるく感傷的な歌

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたい。過去にランダムに電子化注したものは、「甘たるく感傷的な歌   立原道造」である。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、詩の表題を『甘たるく感傷の的なうた』としているが、これは誤植である。以下、註。『「四季」第21号 昭和1110月号(9月20日刊)』とある。]

 

  甘たるく感傷的な歌

 

その日は 明るい野の花であつた

まつむし草 桔梗 ぎぼうしゆ をみなへしと

名を呼びながら摘んでゐた

私たちの大きな腕の輪に

 

また或るときは名を知らない花ばかりの

花束を私はおまへにつくつてあげた

それが何かのしるしのやうに

おまへはそれを胸に抱いた

 

その日はすぎた あの道はこの道と

この道はあの道と 告げる人も もう

おまへではなくなつた!

 

私の今の悲しみのやうに 叢には

一むらの花もつけない草の葉が

さびしく 曇つて そよいでゐる

 

 

[やぶちゃん注:「まつむし草」日本固有種である双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ(松虫草・山蘿蔔)目マツムシソウ科マツムシソウ属マツムシソウ Scabiosa japonica であるが、本ロケーションは軽井沢であるから、高山型変種であるタカネマツムシソウ(高嶺松虫草) Scabiosa japonica var. alpina も挙げておく必要がある。前者は、ウィキの「マツムシソウ」の画像が花のショット方向が甚だ気に入らないので、私が最も信頼するKatou氏のサイト「三河の植物観察」の「マツムシソウ 松虫草」をリンクし、後者は当該ウィキにある、大型画像をリンクする。

「桔梗」キク目キキョウ科キキョウ亜科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras

「ぎぼうしゆ」単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目キジカクシ科リュウゼツラン(龍舌蘭)亜科ギボウシ(擬宝珠:「ぎいぼうしゅ」の音の転訛)属 Hosta 当該ウィキに拠れば、四十『種ほどがあるが、種間雑種ができやすく(特に栽培品種には多い)、分類には諸説ある』とする。私は山岳部の顧問をしていた関係上、最も見かけたものは、オオバギボウシオオ(大葉擬宝珠)Hosta sieboldiana であったが、軽井沢ロケで、あの大きなものがあったのでは、ちょっと邪魔な気がする。濃い紫色から淡紫色の花を、やや下向きに附けて、筒部分に透明な線が入いるコバギボウシ(小葉擬宝珠)Hosta sieboldii が、相応しく思う。グーグル画像検索「コバギボウシ 花 Hosta sieboldii」オミナエシをリンクさせておく。

「をみなへし」マツムシソウ目オミナエシ(女郎花)科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia 。]

2026/05/05

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  鳥啼くときに (★重要な私の見解を冒頭注で述べた)

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたいが、その中の、本底本の解説・編註の引用を漫然としか読まれていない読者は、今一度、しっかりと読まれたい。而して、今回の前注は、やや長めものとなる。

 さて、今まで、私は――過去にランダムに電子化注した――と述べてきたが、

★本「鳥啼くときに」は漏らしていた

のであった。それについて、私は「優しき歌 序の歌 / Ⅰ 爽やかな五月に   立原道造」(「優しき歌Ⅱ」の「序の歌」と「Ⅰ爽やかな五月に」相当。所謂、「優しき歌Ⅱ」の方は、順列で過去に電子化注済みである)の注の最後で、

   *

 因みに、岩波文庫版杉浦明平編「立原道造詩集」(一九八八年刊)では、この従来の「優しき歌」を「優しき歌Ⅱ」として、それに先立って、「燕の歌」「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」、ここに中表題「薊の花のすきな子に」を立てて、次篇以下にローマ数字を頭に打ちつつ「Ⅰ 憩らひ――薊の花のすきな子に」「Ⅱ 虹の輪」「Ⅲ 窓下楽」「Ⅳ 薄明」と続き、「Ⅴ 民謡――エリザのために」(この「Ⅴ」が冒頭のクレジットなしの「民謡」と「鳥啼くときに」・「甘たるく感傷的な歌」の三篇から構成される)と続き、その後に中表題「ひとり林に⋯⋯」が立って「Ⅰ ひとり林に⋯⋯」「Ⅱ 真冬のかたみに⋯⋯」「浅き春に寄せて」の都合、全十二篇からなるものを「優しき歌Ⅰ」として載せている。現物の解説を読んでいないので論評は避けるが、私はこの怪しげに極めて複雑怪奇な「優しき歌Ⅰ」群の存在規定と構成を現時点では、立原道造の想起企図していたプレ「優しき歌」群として、認める気には全くならないとのみ言いおくこととする。

   *

と乱暴に吐いたのであった。

 私は選集詩集の解説を蔑ろにする癖がある。以上を吐いた直後に杉浦版を入手してからも、ちゃんと解説を読んでいなかったことを自白する。既に、初回の解説・編註で引用した通りであるが、正直、ダラダラと長くて、通し見に終わる読者も多かろうから、杉浦氏の二群の「優しき歌」についての簡潔明快な新発見・編集経緯・事実記載を引用する。

   《引用開始》

○『優しき歌Ⅰ』風信子叢書第四篇、ソネット一二篇、初出は一九二五年から二七年まで入り混じっている。戦後『優しき歌Ⅱ』が編成されたのち、立原の遺品からこの『優しき歌Ⅰ』に収録する作品を並列したメモが出現、第三次全集委員会によって集成された。

○「優しき歌Ⅱ」角川書店から、一九四七年三月十日付『優しき歌』(飛鳥新書)として刊行。堀辰雄が小山正孝、野村英夫、中村真一郎の協力によって編集した。そのさい、中村の記憶に基づいてこの『優しき歌』が編成された。ソネット一一篇、全篇生前未発表、歿後に前六篇『四季』に掲載。使用された原稿用紙などから一九三七年初めから三八年八月ごろまでの作と推定されるし、『暁と夕の詩』に接続する詩集と考えれば、ほぼ妥当な見解としてよい。

   《引用終了》

 以上から、既に賢明な読者であれば、既知の当たり前のことであろうが、「優しき歌」の「Ⅱ」は、道造が亡くなってから八年後の昭和二二(一九四七)年になって、読者に知られたものであり、「Ⅰ」に至っては、本底本の角川書店「立原道造全集」の「第一卷 詩集Ⅰ」が刊行された昭和四六(一九七一)年六月、実に、死後三十二年になって初めて、読者が目にした詩群であったのであった。私の立原道造の初体験は、明確には憶えていないが、自由律俳句の「層雲」に加わった中学二年生(昭和四五(一九七〇)年)頃以降の後のことであろうと記憶する。実際に彼の詩集を纏めて読んだのは、高校生になってからであり、所持する最も古いものが、新潮社『日本詩人全集28』の「伊東静雄 立原道造 丸山 薰」で昭和五二(一九七七)年刊だから、既に大学三年、次ぐのは、角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」は昭和六一(一九八六)年改版三十版であるから、これは、高校教師となって七年後、二十七歳であった。但し、私はそれよりも前、教員になってすぐに、「草に寢て⋯⋯」を教授しており(一般に高校国語教師は詩の授業は大半が苦手であり、「あんなものは一切やらない」と豪語する奴らがゴマンといた)、正直、この詩に激しいシンパシィを受け、三度以上、後に教え子の結婚式で失恋の詩であるのに、確信犯で朗読したものだったから、私が真正の道造フリークとなったのは、二十代の初め、一九八〇年代初期である。されば、私が、この「優しき歌Ⅰ」を通読したのは、この世に出てより、十年以上あと、下手をすると、それより後、へたをすると、四十代前半、学校図書館で垣間見したことになろうかと思う。何故かと言えば、同新全集を持っていた勤務校が極めて限られるからであり、以上の私の過去の乱暴な注の批判的謂いから、味読した訳でもなく、寧ろ、その「優しき歌Ⅰ」全体の詩群構成全体に強い違和感を持っていた、と推定されるからである。

 而して、私は、今、現在も、「優しき歌Ⅰ」には違和感を覚えている。それは、それぞれの詩篇のレベルが低いというのでは、ない。要は、

★それらの相応に異なった心理的時間空間の中で形成された複数の詩篇を――そのような「群」としての連詩とする確信犯としての意志が――各詩篇の作詩当時にしっかりと構想としてあったとは思えない

からである。

 長々とお附き合い有難く存ずる。果して、「優しき歌Ⅰ」群に、そうした全体としての躓きのない総譜の曲たり足り得ているか? という大問題は、最後に、予定通り、改めて全詩を並べて見て、判断をすることとする。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、『「未成年」第6号 昭和11年5月号(5月1日刊)』とあり、さらに、『*初出は物語「ちひさき花の歌」(Ⅳ)の「ひとつのソネツト」。』とある。私は道造の「物語」物は殆んど電子化していないので、同全集で当該部を示す。ここ。確認した。全く同じである。また、『*式子内親王歌「ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ」『新古今和歌集』(岩波文庫)の「雑歌上」第一四八四番。』とあり、さらに、『*Nachdichtung (独)詩文の改作の意。』とある。この“Nachdichtung”は音写すると、「ナーハ・ディヒトゥング」で、辞書を見ると、「(文芸作品の自由な)翻案」とあった。和歌の私の注は、後注でする。]

 

  鳥啼くときに

    式子內親王《ほととぎすそのかみやまの》による Nachdichtung

 

ある日 小鳥をきいたとき

私の胸は ときめいた

耳をひたした沈默(しじま)のなかに

なんと優しい笑ひ聲だ!

 

にほひのままの 花のいろ

飛び行く雲の ながれかた

指さし 目で追ひ――心なく

草のあひだに 憩(やす)んでゐた

 

思ひきりうつとりとして 羽虫の

うなりに耳傾けた 小さい弓を描いて

その歌もやつぱりあの空に消えて行く

 

消えて行く 雲 消えて行く おそれ

若さの扉はひらいてゐた 靑い靑い

空のいろ 日にかがやいた!

 

 

[やぶちゃん注:「式子內親王《ほととぎすそのかみやまの》」注では『第一四八四番』とするが、「新編国歌大観」では『1486』番に変更されているので注意されたい。式子内親王(しよくし(しょくし)/しきし《のりこ》ないしんのう 久安五(一一四九)年~建仁元(一二〇一)年)は後白河天皇の第三皇女。母は藤原成子(しげこ:藤原季成の娘)、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王(もちひとおう)は同母兄弟。高倉天皇は異母弟。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。和歌は、新日本古典文学大系11「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注/一九九二年刊)に拠った。「卷第十六 雜歌上」の一首。漢字表記は正字に代え、読みは一部で私が添え、上句と下句を分離した。

   *

  いつきの昔を思ひ出でて   式子內親王

ほとゝぎすそのかみ山の旅枕(たびまくら)

  ほのかたらひし空(そら)ぞ忘(わす)れぬ

   *

訳を引用する。『郭公よ。その昔賀茂山で旅寝した折のこと、お前がほのかに語りかけてきた、あの空のけしきを今も忘れない。』。語注も一部をカットして示す。西暦は半角であるが、全角で示した。

・「いつきの宮」『斎宮』(いつきのみや)『・斎院(さいいん)を「いつきの宮」』『という。ここは斎院であった当時。平治元年(一一五九)十月から嘉応元年(一一六九)七月病気で退下』(たいげ)『するまでの間。』。

・「そのかみ山」『その昔の意と「其神山(賀茂山)」(上賀茂神社の北北西にある標高三百一メートルの御神体の山である神山(こうやま)。ここ(「垂迹石(すいじゃくいし)」をポイントした。グーグル・マップ・データ))と掛詞。』。

・「旅枕」『賀茂祭の当日、神館』(かんだち:見よ注の示す「182」歌の注を引くと、『神職が参籠してして潔斎する殿舎。ここは賀茂の祭(四月中の酉)の当夜、斎院が一泊する上社の神館。』とある)『に一泊したこと。』。

・「かたらひ」『睦まじく話す。郭公の鳴き声をいう慣用語。』。

・最後に『参考』があり、「源氏物語」の「花散里」の帖から、

    *

をち返りえぞ忍ばれぬ郭公

   かたらひし宿の垣根に

   *

を引いてある。サイト「源氏物語の世界 再編集版」の「花散里」の当該部のガイド・ナンバー「1.2.3」を見られたい。現代語訳附きである。

「羽虫」の「虫」はママ。道造は「蟲」の字を特に嫌う傾向はないようで(嫌う近代作家作家は芥川龍之介を始めとして、結構、多い)、他では、「蟲」の字を用いており、混用している。]

2026/05/04

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅴ 民謠

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたい。過去にランダムに電子化注したものは、民謠   立原道造である。これは、昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」の画像を用いたものであるが、必要があって、本底本で修正してしまってある。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、『「帝國大學新聞」 昭和101014日号』とあり、さらに、『*初出は殆んどルビ付であるが、本編は山本書店版第一巻のルビのみを採用した』とあるから、原稿は残っていないものと思われる。その旧全集の当該部はここである。また、『草稿詩『夏の旅』(本巻収)の副題「エリザの記念に」』とある。その草稿詩篇は、先般、「立原道造草稿詩篇 夏の旅」として電子化してある。]

 

  Ⅴ 民謠

     ――エリザのために

 

絃(いと)は張られてゐるが もう

誰もがそれから調べを引き出さない

指を觸れると 老いたかなしみが

しづかに歸つて來た⋯⋯小さな歌の器(うつは)

 

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に

人はときをりこれを手にとりあげる

弓が誘ふかろい響――それは奏でた

(おお ながいとほいながれるとき)

 

――昔(むかし)野(ばら)が咲いてゐた

野鳩が啼いてゐた⋯⋯あの頃⋯⋯

さうしてその歌が人の心にやすむと

 

時あつて やさしい調べが眼をさます

指を組みあはす 古びた唄のなかに

――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 

 

[やぶちゃん注:添え題中の「エリザ」については、旧版「民謠」の私の注で、『「エリザ」』『中村氏の注によれば、これは「SONATINE No.1」冒頭の「はじめてのものに」の「エリーザベト」で中村氏が注している『ドイツの作家』『シュトルム』『の小説「みずうみ」の女主人公の名、めぐりあった少女をなぞらえたもの』の『エリザベートか?』と注する。』としてある。なお、角川書店版新全集「第一卷 詩集」の「SONATINE No.1  はじめてのものに」編註(堀內達夫)に、はっきりと『「みづうみ」の女主人公。』と断定している。

立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅳ 薄明

[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたい。過去にランダムに電子化注したものは、薄明   立原道造である。これは、現在の国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を用いたものである。

 今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、『「文藝汎論」第66号 昭和12年2月号(2月1日刊)』とあり、さらに、『第二聯第四行 ルビママ〈かほり〉』とある。底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記があり、道造の慣用誤記であることが判る。]

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる 

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと 

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

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