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カテゴリー「立原道造」の173件の記事

2025/01/01

林檎みのる頃 シユトルム(立原道造譯) 正字正仮名版・オリジナル注附

[やぶちゃん注:立原道造の訳になる、ドイツの司法官で、詩的リアリズムの詩人・作家として知られるハンス・テーオドール・ウォルゼン・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm 一八一七年~一八八八年)の“ Wenn die Äpfel reif sind (「林檎の熟する時」:一八五六九年)。因みに、シュトルムは「みずうみ」( Immensee 一八四九年)を始めとして若き日より私の偏愛する作家である。立原道造のこの訳は、以下の底本に所収されたものである。

 底本はテオドル・シユトルム・立原道造譯「林檎みのる頃」(昭和一一(一九三六)年十一月山本書店刊。道造が肺結核で亡くなる直前の前年末の刊行。道造は昭和一四(一九三九)年三月二十九日に満二十四歳で没した)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。正字正仮名である。

 但し、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」をOCRで読み込み、加工データとした。

 なお、本底本にはルビは、極めて、少ない。それは《 》で示した。ただ、若い読者、日本語がネイティヴでない読者のために、私が附すべきだと感じたところに、ストイックに正仮名で丸括弧で読みを振った。

 さらに、特異的に、最初に簡単に注をしておく。なお、参照した本作の原文は、ドイツ語の文学サイト“LITERATUR PORT”の、こちらにある電子化されたものを参考にした。

●本作中、六ケ所、出てくる「ちようど」は総てママである。恐らくは、立原の慣用的な書き癖であったようである。

●第二段落の「黃鼬」は「てん」と読んでいるものと思われる。岩波文庫でもそう振っている。事実、原文は“Marder”であるから、それで――取り敢えずは――よい。但し、「黃鼬」は、私に言わせると、正直、全く戴けない訳で、せめても「黃貂」であってほしかったところなのである。何故かというと、結果的に、立原は多重的に誤っているからである。確かに、○本邦では、「黄鼬」(言うまでもないが、「鼬」は食肉(ネコ)目イタチ科イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela 、或いは、日本固有種ニホンイタチ Mustela itatsi を指す)と書いて「黄貂」を指す事実がある。また、○彼らを呼ぶ場合、個体異名として「キテン」(これは、見た目で、軀体部が黄色を呈する個体を指し、褐色の個体を「スス(煤)テン」と称する)があることも事実である。学名はイタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus である。立原は軽井沢で、このホンドテンを見かけているはずである。私は、小学生の時、軽井沢で、実際に見ているから確かである。則ち、「本土貂」の和名で判る通り、日本固有種であるから、①原作者のイメージしている種ではないものを、本邦の読者にイメージさせてしまう点で第一の大きな誤りであるのである。細かいことを言うと、実は、②「キテン」の語源も、「黄貂」ではなく、木登りが非常に上手いことに基づく「木貂」とする説があるのである(ウィキの「ホンドテン」を見られたい)。さらに、③シュトルムが知っているドイツに棲息するテンは、テン属マツテン Martes martes であり、当該ウィキを見て戴くと判るが、頰から頸部にかけてのみに明黄色、或いは、淡黄色の斑紋が入るだけで、軀体部は赤茶色・灰褐色・濃褐色の、言わば、「スステン」系であって、「黃鼬」ではないから、なのである。

●「マンチエスタア」原文“Manchester”。ここでは、「各種綿製品」の代名詞として使われているか。後に引用する高橋秀夫氏に解説によれば、『コール天』のこととされる。所謂、「コーデュロイ」(英語:corduroy)で、綿を横ビロード織りにしたパイル(pile:元は「平織か綾織で編地の片面または両面に下地から出ている繊維」を指すが、そうした加工を施した毛羽やループを有する生地で、タオルや絨毯などに使われる)織物の一つである。

●「石庭」原文“Steinhof”。「石をあしらった中庭」。「せきてい」と読むと、本邦では、概ね、寺院の「枯山水」を指すので、「いしには」と訓じておいた。

●「二タアレル貨幣」原文“Doppeltaler”。これは、当該ウィキによれば、『ターラー(ターレル、ThalerTalerとも)は』、十六『世紀以来』、『数百年に』亙って、『ヨーロッパ中で使われていた大型銀貨』を指す。同ウィキには、「ドイツのターラー」の項があるが、本作が発表されたのは、一八五六九年であるが、『プロイセン王国は』十四『分の』一『ケルンマルクの銀を含むターラー銀貨を使用していたが、プロイセンの勢力伸長とともに』、一八三七年『の関税同盟ではプロイセン・ターラーが「南ドイツグルデン」』(Gulden:七分の四ターラーに等しい)『とともにドイツ南部やラインラントの通貨となった』、一八五〇年『には、多くの領邦が自前通貨とともにこのターラーを用いていた』。一八五七年に『オーストリア帝国がフェアアインスターラー(統一ターラー、ユニオンダラー、Vereinsthaler)を定め、ドイツ全土で通用するようになった。各地でこれに』伴い、『フェアアインスターラーが通貨となった(プロイセン王国のプロイセン・フェアアインスターラー、ザクセン王国のザクセン・フェアアインスターラーなど)。フェアアインスターラーは』「普墺(ふおう)戦争」(一八六六年に起こった『プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後』、『ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった』「ケーニヒグレーツの戦い」で、『プロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した』。「七週間戦争」・「プロイセン=オーストリア戦争」『とも呼ばれる。この戦争によって、ドイツ統一は』、『オーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった』とウィキの「普墺戦争」にあった)の結果』、一八六七年、『オーストリア帝国での』ターラーの『打刻が停止され、ドイツ統一後の』一八七二年『には』、『ドイツ帝国でも金マルクに切り替えられた』とある。

●「つぐのんでゐる」「噤吞んでゐる」。「ぐっと口を結んで黙っている」の意。

●「思ひもうけぬ」ママ。「思ひ設(まう)けぬ」。「思いもしていなかった」の意。

 私はドイツ語には冥いのだが、それでも、読んでみると、三人しか登場しないのに、人物の認識が錯雑して、思わず、読み返す箇所がある。「立原道造・堀辰雄翻訳集」の末尾にある著名なドイツ文学者で、優れた文芸評論家でもあられた高橋秀夫氏(二〇一九年に逝去された)の解説に当たる「青春の本訳」にも、以下のように記されてある。

   《引用開始》

 実際、立原でも堀でもところどころ、誤訳やピンボケに出あう。立原訳「林檎みのる頃」では、幹に攀じ登り林檎を盗んでいる腕白小僧のズボンの尻を、青年がぐいと摑(つか)む個所がある。そこの青年の科白を、立原は「おまえに何かしるしをつけといてやる!」を「まあ何て、ひどい布なんだ!」と訳しているのだが、これは「おまえにお灸をすえてやる!」「何て丈夫な布なんだ!」ぐらいが正しいだろう。ズボンは「マンチェスタア」(Manchester)と原文にあるが、これは英国マンチェスターから製造が始まって普及した「コール天」のこと。ただし「林檎みのる頃」はどうやら立原道造訳が本邦初訳らしいので、あちこちに点在するミスは、あえて肯定的かつ比喩的に受け取るならば、満天に鏤(ちりば)められた言葉の星空に、ときどき流れ星が走って消えるようなものか、こんなふうに思うことはできよう。

   《引用終了》

とあった。

 なお、本公開は、二〇二五年元旦に公開した。昨年の後半は、「和漢三才圖會」植物部 に入れ込んで、純文学の電子化が、例年に比して、有意に少なかったのが、甚だ、不満であったので、大晦日に用意を開始し、今朝未明に起き、やっと今、公開に漕ぎつけた。私はシュトルムも立原道造も、偏愛する詩人であるが、今回は、別に意識して選んだのではなかったが、たまたま、リンク先のプロジェクトで、リンゴ類で七転八倒した直後であったからであろう、半無意識的に題名に引かれたものででも、あったのかも知れない。昨年は、実父の逝去があり、年始の挨拶はしない代わりに、本作を年初の儀礼的エポックとして配しておく。

 

   林檎みのる頃

     Wenn die Äpfel reif sind  Theodor Storm 

                   立原道造譯

 

 それは眞夜中であつた。庭の板塀に沿うて立つてゐる菩提樹のかげからちようど月がのぼり果樹の尖(さき)を透して家の裏壁をてらした。やがて垣で庭とは仕切られてゐる狹い石庭にさしいつた。白い窓掛が低い小窓のかげにすつかりその光にてらされた。ときをり小さい手がその窓掛を摑(つか)むと、こつそりとおしあけるのである。そこには少女の姿が窓臺に凭れてゐた。かの女は白い小さな首卷を頤(あご)の下に結んでゐた。女持ちの小型の時計を月の光に向けては針の向きを注意ぶかく讀まうとするやうに見えた。外の敎會の塔から四十五分を知らせる鐘がちようど鳴ったのである。

 下の方では、庭の茂みの間に、坂徑(さかみち)や芝生はくらくひつそりしてゐた。ただすももの木のなかにゐる黃鼬ばかりは舌鼓を打つて食事をしてゐた。爪で樹皮を引搔いてゐた。不意に黃鼬は鼻をあげた。何かが塀の外を滑る音がした、大きな頭がこちらを覗いてゐるのである。黃鼬は一跳(ひとつと)びで地に飛びおりると家の間(あひだ)に消えてしまつた。すると外からはずんぐりした腕白小僧がのそりのそりと庭のなかに塀を攀(よ)ぢてしのびいつた。

 すももの木と向ひあひに、塀から間近に、そんなにも高くはない林檎の木があつた、林檎はちようど實つてゐて、枝は折れさうに鈴生(すずな)りであった。腕白小憎はずつと前からそれを知つてゐたにちがひない、齒をむき出して笑ふとその木に向つてうなづいたから。さうして爪先立ちでそのまはりをぐるりと一まはりしたのである。それから、しばらくぢつと佇(たたず)んで聞き耳をたててから、身體(からだ)から大きな袋をとりはづし、考へぶかげに木登りにとりかかつた。間もなく上の方の枝の間でぽきぽきと小枝が折れ、林檎はひとつびとつ短い規則正しい時をおいて袋のなかに落ちこむのである。

 そのうちに、ひとつの林檎が偶然に地に落ちてころころと轉がるとすこし先の茂みのなかにころげこんだ、そこには茂みにすつかり蔽(おほ)はれて、石で出來た庭卓《にはづくゑ》の前にひとつのベンチがおいてあつた。その卓(つくゑ)には――小僧の思ひもよらなかつたことだが――ひとりの若い男が頰杖(ほおづゑ)をついて身動(み)《じろ》ぎもせずに坐つてゐたのである。林檎が足もとに觸《さは》ると、その男はびつくりして飛びあがつた。ほんのしばらくのあと、彼は用心ぶかく小徑(こみち)に踏み出してゐた。見上げると、月の照つてゐるところに、よく熟(う)れた實をつけた林檎の枝がはじめは氣づかない程だつたがやがて次第次第にはげしくあちらこちらへと搖れうごいていた。そしてひとつの手が月の光のなかに飛び出してすぐにまた林檎をひとつ摑むと木の葉のふかいかげのなかに隱れてしまつた。

 下にゐる男はこつそりと木の下にしのびよつて、たうとう腕白小僧が大きい眞黑な毛蟲のやうに幹にぶらさがってゐるのを見つけた。この男が獵人《かりうど》かどうかは、小さい口髭(くちひげ)と刻目(きざみめ)のある獵服(れうふく)にも拘らず、定めることはむずかしい。しかしこの時には彼に何かはげしい獵の熱病のようなものが取憑(とりつ)いたにちがひない。この腕白小僧を林檎の木のなかに捕へるためにのみここにかうして半夜を待つてゐたかのやうに、枝のなかに手を延ばして、しづかにしかししつかりと力なく幹にぶらさがつてゐる長靴を手に摑んだのである。長靴はぴくりぴくりと動いた、上の方の林檎むしりはやんだ。しかしまだ何の言葉もかわされないのである。腕白小僧は足をひいた、獵人はそれを捕へてかかつた、しばらくの間は全くこのままである。しかしたうとう腕白小僧は命乞ひにとりかかつた。

「且那!」

「泥棒め!」

「夏中あいつらは塀の上からちらちらしてゐたんですもの!」

「まあ、待て、おれがおまへに何かしるしをつけといてやる!」

 さう言ひながら、男は高く摑みかかり、腕白小僧のズボンの尻を鷲摑みにした。

「まあ何て、ひどい布なんだ!」と言つた。

「マンチエスタアなんです、且那!」

 獵人はポケツトからナイフを取り出した、あいている方の手で刄(は)をひらこうとした。腕白小僧はばねのぱちんという音を聞くとじたばたと木から降りようとした。一方では降りさせまいとするのである。

「すこしさうしてゐろよ!」と男は言つた、「おまへがぶらさがつてゐる方が、こつちは都合がいいんだ!」

 腕白小僧はすつかり面喰(めんくら)つてしまつた。

「ヒヤア……!」と言つた。「そいつは師匠のズボンなんです!――旦那(だんな)鞭(むち)を持つちやいらつしやいませんか? この身體《からだ》だけで御勘辨(ごかんべん)なすって! それでどうか御滿足なすって! これや運動服なんです。師匠も言つてます、散步服にもいい位(ぐらゐ)だって!」

 だが駄目だった――獵人は切つてしまつた。腕白小僧は、つめたいナイフが肌近く辷(すべ)り落ちたのを感じると、いつぱいになつてゐた袋を地に落してしまつた。しかし男の方では切取つた布を大切にチョツキのボケットにおさめた[やぶちゃん注:ママ。]。

「さあ、もうおりて來たつていいんだよ!」と彼は言つた。

 何の答もそれにはなかつた。刻一刻と時が移って行った、しかし腕白小僧はおりては來なかつた。下からひどい目にあわされてゐる間に、彼は高見から、突然に向うの狹い小窓が開くのを眺めてゐたのである。小さな足が突出(つきで)た――腕白小僧は白い靴下が月の光にてらされるのを見た――そして間もなく娘の姿がすつかりと石庭(いしには)の上におり立つてゐた。しばらくの間、娘は片手に明け開いたままの窓の扉の片方をおさへてゐた。それからかの女(をんな)はゆっくりと木栅(もくさく)の潛門《くぐり》のところに步みより暗い庭の方に半身を埋(う)め凭(もた)れかかつてゐた。

 腕白小僧は何もかも見屆けようとして頸(くび)が外(はづ)れさうになる程つき出してゐた。その間(あひだ)にいろいろなことがわかったらしく見えた、口を耳のあたりまでずるそうに歪(ゆが)めると、向ひの二本の枝の間に橫柄(わうへい)な格好で足をのせたのである、その間も片方の手では切られたズボンをかき合はせてゐた。

「さあ、もういいかい?」と一方では尋ねた。

「もうでせう」と腕白小僧は言つた。

「さうなら、降りて來い!」

「はじまりませんや」と腕白小僧は答えて林檎に喰(くら)ひついた、下で獵人はさくさくと嚙(か)む音を聞いた。「はじまりませんや、正(まさ)に靴屋なんですからね。」

「どうなるんだい、もしおまへが靴屋ぢやなかったら!」

「仕立屋だったら、自分でこの穴をかがつちまふんですよ。」かう言ふと、また林檎を食(く)ひつづけた。

 若い男はポケットをさぐつて見た、小錢(こぜに)がありはしないかとおもつたが、ただ大きな二タアレル貨幣があるきりだった。それでもう彼は手を引(ひつ)こめようとした、そのとき下の方の庭門のところでかけがねが鳴るのをはつきりと耳にしたのである。敎會の塔の上からは、ちようど十二時の鐘が鴫った。――若い男はちぢみ上る程びつくりした。

「ばかみた!」

 若い男は呟(つぶや)きながら額(ひたひ)を平手で叩いた。それからもう一度ポケットに手をつつこむと優しく言つた。

「おまえは貧乏人の子供なんだろうね?」

「御承知のとおりです」と腕白小憎は言った。「みんな骨の折れる儲(まう)けばつかりでさ!」

「ぢやこれを投げてやる、それで縫つておもらひ!」

 さうして若い男は貨幣を腕白小僧の方に投げてやつた。腕白小憎はそれを摑むと、月の光にあちらこちらと引(ひつ)くりかへしてみて檢(しら)べた擧句(あげく)、ほくそ笑(ゑみ)ながらポケットにねぢこんだ。

 林檎の木は花園のなかに立つていたが、それに通じて長い小徑(こみち)がつづいてゐた。そこを小刻(こきざ)みな足音と砂の上を觸れる衣摺(きぬず)れの音が向うからだんだんと聞えて來た。獵人は唇を嚙んだ。力ずくで腕白小僧を引きずり下(おろ)さうとした、しかし彼は大事そうに片方づつ足を引き上げた。どうにもならないのである。

「わかったかい?」と喘(あへ)ぐやうに男は言つた。「さあ、行つてもいいんだよ!」

「勿論!」と腕白小僧は言った。「ただ袋さへあつたら!」

「袋だつて?」

「先刻(さつき)、落したんです。」

「それがおれにどうしたつていふのかい?」

「ところで、旦那、あなたはちようど下においでです。」

 一方は身を屈(かが)めて袋を取り、ほんのすこし地(ぢ)から持上(もちあ)げて、また落した。

「かまはずにぐつと投げて下さい!」と腕白小僧は言つた。「たしかに受けとめますから。」

 獵人は諦(あき)らめきつた眼つきで木の上を見やつた、そこには薄黑いずんぐりした姿が枝の間に立つてゐる、大股をひろげて身動きもせずにつぐのんでゐるのである。しかし外から小刻みな足音が短い間をおいてだんだんと近よつて來たとき、男はあはてきつて小徑に步み出(で)た。

 思ひもうけぬうちにもう娘が男の頸(くび)にぶらさがつた。

「ハインリッヒ!」

「まあまあすこし!」と男は娘の口をふさぎ木の上を指さした。娘は男をぼんやりとして眺めた。しかし男はそんなことには頓着なく、兩手でもつて娘を茂みのなかへと押しこんだ。

「いまいましい腕白小僧め!――だが、もう二度とは來るな!」と言ひながら男は重い袋を地から引摑(ひつつか)むと、ふうふう言ふつて枝の方へ投げあげた。

「わかった、わかった!」と腕白小僧は、男の手から用心ぶかく自分の荷物を受け取りながら、言った。「これは熟したやつです、目方(めかた)もありますよ。」

 そこで、彼は紐のきれはしをポケットから取出(とりだ)して、齒で袋の端(はし)を引つぱりながら、林檎袋の上の方五寸ばかりのところにその紐を卷きつけた。それから用心深くきちんと、それを肩にのせた、荷はおなじように胸の方と脊中の方とに分(わか)たれた。この仕事を滿足のゆくようにやりをへると、頭の上に聳えてゐる大枝を握つて、兩方の掌(てのひら)でゆさぶつた。

「林檎盜人(りんごぬすつと)!」と腕白小僧は叫んだ。さうして、四方八方へ熟(う)れた實が枝を通してぱらぱらと飛散った。

 すると下の茂みから娘の聲で銳い叫び聲がした、庭のくぐり門がきしんだ。そして、腕白小僧がもう一度頸(くび)をさし出したときには、ちようどあの小さな窓がまたぱたんと言つて閉じ白い靴下がそのなかに消えるのが見えた。

 間もなく、腕白小僧は庭の板塀(いたべい)に馬乘りになり、道のかなたをうかがつた、そこにはたつた今知り合いになつたばかりの男が大股で月の光のなかをあちらへ駈け去つて行くのである。腕白小僧はポケットのなかに手をいれて銀貨を指で撫でてみて、うす氣味わるくしのび笑ひを洩(も)らした、それで肩の上では林檎が踊るのである。たうとう、家の人たちが出そろつて杖やあかりを持つて庭のなかをあちらこちらと走つてゐる間に、音も立てずに塀のあちら側に滑りおりた。さうして、道を橫切るとぶらりと隣りの庭にはいつた、そこが實に腕白小僧の家であつたのである。

 

2016/07/02

忘れがたみ シユトルム作 立原道造譯

[やぶちゃん注:立原道造訳になる、ドイツの司法官で詩的リアリズムの詩人・作家として知られるテオドール・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm 一八一七年~一八八八年)の“ Posthuma (一八四九年/一八六〇年)。因みに、シュトルムは「みずうみ」( Immensee 一八四九年)を始めとして若き日より私の偏愛する作家である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊テオドル・シユトルム・立原道造譯「林檎みのる頃」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。「*」の三画配置は底本では同記号を正三角形の頂点位置に小さな「*」を配した記号である。

 但し、第二段落の「そしてたうとう冬になつた、雪がただ降るばかり」の「雪」は底本では「雲」であるが、意味が通じないので、誤植と断じ、二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」を確認の上、例外的に「雪」と訂した。

 以下、簡単に注を附す。

 「まつゆき草」「待雪草」で英名「スノードロップ」(snowdrop)と呼ばれる単子葉綱キジカクシ目ヒガンバナ科ガランサス属 Galanthus の総称。冬の終わりから春先にかけて各三枚ずつの長い外花被と短い内花被を持つ、可憐な白い六弁の花を咲かせて「春を告げ花」として知られる。

 「雁來紅」は一応、そのまま「がんらいこう」で読んでおくが、所謂、我々の知っている双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科 Amaranthoideae 亜科ヒユ属 Amaranthus tricolor 亜種ハゲイトウ Amaranthus tricolor subsp. tricolor 変種ハゲイトウ(ヒユ)Amaranthus tricolor var. mangostanus のことである。漢名は雁の来る頃に葉が紅色になることに由来する。

 「三十ロオト」信頼出来るサイトのドイツ語原本を画像視認したところ、“Lot”とある。ドイツ語の辞書で調べると、これは「ロート」で、現行では水深を計測する「測鉛」「垂直線」「弾丸・砲弾」などの意であるが、別に古い重量単位で一ロートは約三〇分の一ポンドとあった。一ポンドは訳四百五十三・六グラム弱だから、一ロートは約十五グラムで三十ロートはたった四百五十グラムである。] 

 

  忘れがたみ

                        Posthuma Theodor Storm )立原道造譯

 

 葬ひの行列が墓地に人つた。細長い柩が、花環をのせて、六人の人に擔はれて、二人の人に伴はれて。それは靜かな夏の早朝のことであつた、墓地は大部分まだしめつぽい蔭のなかに橫たはつてゐた。ただ眞新しい墓のまはりに、盛り上げられた土がもう陽に照りつけられてゐた。ここにその柩は埋められた。人びとは帽子を脫いで、しばらくの間、頭を垂れてゐた、それからしやべりながらまた來た道を歸つて行つた。墓掘人夫に殘つた後仕末はすつかり任せて。――間もなく土が穴に投げいれられ墓は堆高く蔽はれた、再び靜寂と、さびしい日の光ばかりになつた。そしてただ十字架と記念の額と骨壺と、オベリスクの影が移るともなくひそかに芝生の上を滑つて行つた。

 この墓は貧しい人々の場所にあつた、そこでは何の石も墓の上におかれないのである。はじめは土が低く盛り上げられる。それから風が吹いて來て塵をだらしなく道の上に吹き飛ばす。それから雨が空から降りそそぎ、角のところをながして行く。夏の夕ぐれには子供が飛びこえ、そしてたうとう冬になつた、雲がただ降るばかり、ふかくふかく積つてしまふ。しまひにはすつかりとそれが蔽はれてしまふほど。――しかしいつまでも冬ではゐない。また春となり、さうして夏が來た。よその墓にはまつゆき草の花が地からあらはれ、雁來紅の花が咲き、薔薇が大きな芽を出した。今やここでも。墓はすつかり蔽はれた。はじめはきれいな綠の草に、それから赤いいらくさに、また薊や、人たちが雜草といふ植物に。そして暑い夏の眞晝には蟋蟀の歌でいつぱいだつた――。やがてまた或る朝、薊や雜草はすつかり刈り取られ美しい草ばかりが殘される。それから二三日たつとその一方のはしに飾り氣もない黑い十字架が立てられた。そして最後に、その十字架には、道から外れて少女の名が刻みこまれた、それはちひさな文字であつた、彩りもなく近よらなくては見わけ難いほどだつた。

         *
        *
         *            

 夜となつた。町では窓はくらくすべてはすでに眠りに就いてゐた。ただ、或る大きな家の上の方の高い窓に、若い一人の男が眼覺めてゐた。彼は蠟燭を消して眼をとぢて安樂椅子に坐つてゐた。下ではもうみんなが休んだかと。聞耳を立てながら。手には白い薔薇の花環を持つてゐた。彼はかうして長いこと坐つてゐたのである。

 戶外では別の世界が生きてゐた。夜の生きものたちがあちこちと步き、とほくでは何かが呻いてゐた。男が眼をひらいたときに、部屋は明るかつた。彼は壁の上に物の形が映つてゐるのを見わけることが出來た。窓を通して、隣りの建物の眞向の壁が月のひかりに明るく照らし出されてゐるのを見た。彼の思ひは墓地への道を辿つてゐた。

「あの墓は影にうもれてゐる。」と彼は言つた。「月のひかりはあの上をてらさない。」と。それから彼は立ちあがり、用心ぶかく扉をひらき、花環を手にして階段をおりて行つた。玄關でも、もう一度聞耳を立て、それからしづかに扉をひらいた。そして、街に出て家々の影をたどり步いて行つたのである。しばらく月かげのなかを行くと、やがて彼は墓地に着いた。

 それは全く彼の言葉のとほりであつた。墓は墓地の壁のふかい影にうもれてゐた。彼は薔薇の花環を黑い十字架にかけた、さうして頭をそれにもたせかけた。――番人は戶外をあちらに行きすぎた、しかし彼のゐることには氣づかなかつた。月夜の物音が眼をさました。草のざわめき、夜の花のほとばしり、風のなかのこよない歌聲。しかし、彼はそれを耳にしなかつた。彼はもう過ぎてかへらない時のなかに生きてゐた。少女の腕に抱かれて、そしてその腕はもう胸打たない心臟の上にずつと以前に結ばれてしまつたのに。蒼白い顏が彼の顏に迫りより、子供のやうに靑い二つの瞳が彼の瞳に見いつてゐた。

 かの女は生きてゐる日にすでに死を抱いてゐた。しかもかの女は若く美しかつた。かの女は彼を愛した、かの女は彼にすべてをなした。たぶたび彼のことで家の人から叱られた。しかしかの女はそのときしづかな眼で見つめてゐるばかりで、そのあともそれが改まるといふことはなかつた。春淺く寒い夜のことかの女は古びた着物を着て彼のところへ庭をはいつて來た。彼はいつもそれを思ひだすのである。

 彼はすこしもかの女を愛してはゐなかつた。ただ欲望をみたすためにだけであつた。そして不注意にもかの女の唇から氣づかはしげな炎をうけとつたのだつた。

「もしも僕がおしやべりだつたら、」と彼は言った。「明日はきつとみんなに言ひちらすだらう、僕にこの町えいちばん美しい少女がくちづけしてくれた。」と。

 かの女は信じはしなかつた、彼がかの女をいちばん美しいとおもつてゐるとは。また信じもしなかつた、彼が默つてゐるだらうとは。

 低い籬が、彼たちの立つてゐる場所を街道から距ててゐた。足音が近づいて來るのが聞えた。彼はかの女をいつしよに連れて行かうとおもつた。しかしかの女は引止めた。

「どうでもいいのよ」とかの女は言つた。

 彼はかの女の腕から逃れ、ひとりきりで引歸した。

 かの女はそこに立つたままであつた、身動きもせずに。ただ兩手で眼を蔽てゐた。――さうしてかの女は立ちつづけてゐた、戶外を人があちらに通りすぎ、その足音が家のあひだをだんだんと消えて行く間。かの女は、彼が再び歸つて來てその腕をかの女の頸にからませるのを見てはゐなかつた。しかしかの女がそれを感じたとき、頭をなほも低く垂れた。

「恥しいのでせう!」とかの女は言つた「わたくしはよく知つてをりますわ。」と。

 彼は何とも答へなかった。彼はべンチに腰をおろし、物も言はずにかの女を引きよせた。かの女はなすままに任せてゐた、自分の唇を彼の美しいらうたげな手にさしあてた。かの女は自分が彼をかなしませはしなかつたかと恐れてゐたのである。

 彼はほほゑみながら、かの女を膝の上に抱き上げた、何の重みも感じられずに、ただやさしい妖精(エルフ)のやうな身體の形ばかりが感じられるのをいぶかしがりながら。彼は冗談半分にかうささやいた、おまへは魔物だ、目方三十ロオトもありはしないもの、と。――風が枯れた梢を透つて吹いて來た、彼は自分のマントでかの女の足を包んだ。かの女はよろこばしげな眼で彼を見あげた。

「寒くはありませんの」とかの女は言ひ、自分の額をしつかりと彼の胸におしあてた。かの女は彼のなすままであつた。もう決してひとりにならうと思はなかつた。――彼はかの女をいたはつた。それは彼がかの女を憐れんだからでもなく、また愛もないのにかの女を自分のものと呼ぶことに彼が罪を感じたからでもなかつた。しかし、かの女をひとり占めしようとすると、何者かが彼を妨げるのであつた。彼はそれが死であらうとは知らなかつた。――

 彼は立ち上り、行かうとした。

「おまへはひえるよ」と彼は言つた。しかしかの女は手をとると自分の頰にあて、また自分の額を彼の額に觸れた。

「わたしは熱くてよ。觸つてみないこと、燃えるやうに熱くてよ!」とかの女は自分の腕を彼の頸にからませ、子供のやうに彼の頸にぶらさがつた、そして、我を忘れてうつとりと默つて彼を見つめた。 

         *
        *
         * 

 この晩から一週間程して、かの女はもうベットから起き出ることが出來なかつた。二月の後に、かの女は死んだ。彼はそれきり二度とかの女に會はない。しかしかの女の死んだ後、彼の欲情は消えた。彼は今やすでに數年のあひだ、かの女の鮮やかな繪姿を心に持ち、この死せる少女を愛するやうに强ゐられてゐるのである。

 

《オルフエへのソネツト・Ⅱ》 Die Sonette an Orpheus Ⅱ (Rainer Maria Rilke)立原道造譯

[やぶちゃん注:立原道造訳になるオーストリアのドイツ語詩人ライナー・マリア・リルケRainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)の詩集Die Sonette an Orpheus(「オルフェウスへのソネット」一九二三年)の中の第一編第二番。

 昭和一一(一九三六)年五月号『未成年』第六号に訳載された。

 底本(書誌も含む)は二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」を用いたが、私のポリシーに則り、漢字を恣意的に正字化し、題の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。

 第一連の「面紗」はルビなしである以上、「めんしや(めんしゃ)」と読んでおくが、ベール(veil)のことである。]

 

 

 《オルフエへのソネツト・

 Die Sonette an Orpheus  Rainer Maria Rilke立原道造譯

 

そしてやうやくそれは少女であつた

これらの幾つかの 歌と琴とのしあはせからあらはれ

そして 明るくきらめいた 春の面紗を透し

そうして ベッドをつくつた 私の耳に。

 

そして眠つた 私の内に。そしてすべては眠りであつた。

樹木よ、それを私は或る時感嘆した、これらの

感じられる遠い景色、感じられた牧場、

そしてあれらの驚き、それが私にやつて來た。

それは世界を眠つた、うたの神よ、どうして

それをつくられたか、少女が覺めてゐるのを望まなかつた

世界を? みそなはせ、少女は蘇生しながら眠つてゐる。

どこにあるのだらうか、死は? おお、この主題(モチーフ)を

なほ創られるだらうか、あなたの歌の終らぬうちに?

どこに沈むのだらうか、それは私から? ……その、ほんの少女……

眞面目な時 Ernste Stunde (Rainer Maria Rilke) 立原道造譯

[やぶちゃん注:立原道造訳になるオーストリアのドイツ語詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)の詩集Das Buch der Bilder(「形象詩集」一九〇二年/一九〇六年)の中のErnste Stunde

 昭和一〇(一九三五)年十一月号『未成年』第三号に訳載された。

 底本(書誌も含む)は二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」を用いたが、私のポリシーに則り、漢字を恣意的に正字化し、題の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。]

 

 

 眞面目な時

 Ernste Stunde Rainer Maria Rilke)立原道造譯

 

今どこかで世界のなかで泣く人は

理由もなく世界のなかで泣いてゐる人は

あれは私のことを泣いてゐる

 

今どこかで世界のなかで笑ふ人は

理由もなく世界のなかで笑つてゐる人は

あれは私のことを笑つてゐる

 

今どこかで世界のなかで步む人は

理由もなく世界のなかで步いてゐる人は

あれは私の方へ步みよつてゐる

 

今どこかで世界のなかで死ぬ人は

理由もなく世界のなかで死んで行く人は

あれは私の方を見いつてゐる

2016/06/13

散步詩集 (全)   立原道造

[やぶちゃん注:一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「未刊詩集」の「散歩詩集」に拠り、恣意的に正字化した。底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある。「魚の話」と「食後」の冒頭は、洋書によく見られる書き出しの印字法で、実際には第一行と第二行の頭に大きな活字のそれが配されてある。ブログでは仕方なく、かく、した。散文詩部の一行字数は底本のママ。ブログで読まれる方は、ブラウザのフォントの大きさを「中」にされて読まれたい。]

 

 

散步詩集

 

 

   魚の話

 

る魚はよいことをしたのでその天使がひとつの

  願をかなへさせて貰ふやうに神樣と約束してゐ

たのである。

かはいさうに! その天使はずゐぶんのんきだつた。

魚が死ぬまでそのことを忘れてゐたのである。魚は

最後の望に光を食べたいと思つた、ずつと海の底に

ばかり生れてから住んでゐたし光といふ言葉だけ沈

んだ帆前船や錨★からきいてそれをひどく欲しがつ

てゐたから。が、それは果されなかつたのである。

天使は見た、魚が倒れて水の面の方へゆるゆると、

のぼりはじめるのを。彼はあわてた。早速神樣に自

分の過ちをお詫びした。すると神樣はその魚を星に

變へて下さつたのである。魚は海のなかに一すぢの

光をひいた、そのおかげでしなやかな海藻やいつも

眠つてゐる岩が見えた。他の大勢の魚たちはその光

について後を追はうとしたのである。

やがてその魚の星は空に入り空の遙かへ沈んで行つ

た。

 

[やぶちゃん注:「散步詩集」の第一篇。八行目の「錨」の直下の★の位置には所謂、「錨」のマーク(現在の地図記号の「地方港」の頭の丸い部分を除去したもの)が入る。ブログでは当該位置に上手く挿入出来ないので。底本からスキャンしたものを以下に示す。

Ikari_7

悪しからず。]

 

 

 

  村の話 朝・晝・夕

 

村の入口で太陽は目ざまし時計

百姓たちは顏を洗ひに出かける

泉はとくべつ上きげん

よい天氣がつづきます

 

 

 

郵便配達がやつて來る

ポオルは咳をしてゐる

ヸルジニイは花を摘んでます

きつと大きな花束になるでせう

この景色は僕の手箱にしまひませう

 

 

 

虹を見てゐる娘たちよ

もう洗濯はすみました

眞白い雲はおとなしく

船よりもゆつくりと

村の水たまりにさよならをする

 

[やぶちゃん注:第二連の「ポオル」と「ヸルジニイ」はフランスの植物学者で作家でもあったジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールJacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre 一七三七年~一八一四年)が一七八七年に発表した悲恋小説「ポールとヴィルジニー」(Paul et Virginieの愛し合う男女の主人公の名。立原道造の「鮎の歌の「Ⅳ」でも言及される(リンク先は私の電子テクスト)。嘗てはよく読まれた恋愛小説で、私も十代の終りに読んだが、最早、その内容もうすっかり忘れてしまっていた。個人ブログ「マルジナリア」の「サン・ピエエル作・ポオルとヴィルジニイ」をお読みあれ。]

 

 

 

  食後

 

そこはよい見晴らしであつたから靑空の一とこ

    ろをくり拔いて人たちは皿をつくり雲のフ

ライなどを料理し麺麭(パン)・果物の類を食べたのしい食

欲をみたした日かげに大きな百合の花が咲いてゐて

その花粉と蜜は人たちの調味料だつたさてこのささ

やかな食事の後できれいな草原に寢ころぶと人の切

り拔いたあとの空には白く晝間の月があつた

 

 

 

  日課

 

葉書にひとの營みを筆で染めては互に知らせあつた

そして僕はかう書くのがおきまりだつた 僕はたの

しい故もなく僕はたのしいと

空の下にきれいな草原があつて明るい日かげに浸さ

れ小鳥たちの囀(さへず)りの枝葉模樣をとほしてとほい靑く

澄んだ色が覗かれる 僕はたびたびそこへ行つて短

い夢を見たりものの本を讀んだりして毎日の午後を

くらした 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに百合が

咲いてゐる時刻である

郵便〒配達のこの村に來る時刻である

きつとこの空の色や雲の形がうつつて それでかう

書くのがおきまりだつた 僕はたのしい故もなしに

僕はたのしいと

日曜日 (全)   立原道造

[やぶちゃん注:一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「未刊詩集」の「日曜日」に拠り、恣意的に正字化した。底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある。]

 

 

日曜日

 

 

  風が‥‥

 

《郵便局で 日が暮れる

《果物屋の店で 燈がともる

 

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

 

  唄

 

裸の小鳥と月あかり

郵便切手とうろこ雲

引出しの中にかたつむり

影の上にはふうりんさう

 

太陽と彼の帆前船

黑ん坊と彼の洋燈(ランプ)

昔の繪の中に薔薇の花

 

僕は ひとりで

夜が ひろがる

 

 

 

  春

 

街道の外れで

僕の村と

隣の村と

世間話をしてゐる

《もうぢき鷄が鳴くでせう

《これからねむい季節です

 

その上に

晝の月が煙を吐いてゐる

 

 

 

  日記

 

季節のなかで

太陽が 僕を染めかへる

ちやうど健康さうに見えるまで

 

……雨の日

埃だらけの本から

僕は言葉をさがし出す――

黑つぐみ 紫陽花(あじさゐ) 墜落

ダイヤの女王(クヰーン)……

 

(僕は僕の言葉を見つけない!)

 

夜が下手にうたつてきかせた

眠られないと 僕はいつも

夜汽車に乘つてゐると思ひだす

 

[やぶちゃん注:「黑つぐみ」鳥綱スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis鳴き声はで。]

 

 

 

  旅行

 

この小さな驛で 鐵道の柵のまはりに

 夕方がゐる 着いて僕はたそがれる

 だらう

 

……路の上にしづかな煙のにほひ

 

僕の一步がそれをつきやぶる 森が見

 える 畑に人がゐる

この村では鴉(からす)が鳴いてゐる

 

やがて僕は疲れた僕を固い平な黑い寢

 床に眠らせるだらう 洋燈(ランプ)の明りに

 すぎた今日を思ひながら

 

[やぶちゃん注:字配は底本に従った「洋燈」の「ランプ」はルビであるので、本来の下インデントは同じである。]

 

 

 

  田園詩

 

小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、

落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。

 

 

 

  僕は

 

僕は 背が高い 頭の上にすぐ空がある

そのせゐか 夕方が早い!

 

 

 

  曆

 

貧乏な天使が 小鳥に變裝する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

 

名前のかげで曆は時々ずるをする

けれど 人はそれを信用する

 

 

 

  愛情

 

郵便切手を しやれたものに考へだす

 

 

 

   帽子

 

學校の帽子をかぶつた僕と黑いソフトをかぶ

つた友だちが步いてゐると、それを見たもう

一人の友だちが後になつてあのときかぶつて

ゐたソフトは君に似あふといひだす。僕はソ

フトなんかかぶつてゐなかつたのに、何度い

つても、あのとき黑いソフトをかぶつてゐた

といふ。

 

[やぶちゃん注:字配は底本のママ。]

 

 

  跋(ばつ)‥‥

 

      チユウリツプは咲いたが

      彼女は笑つてゐない

      風俗のをかしみ

      《花笑ふ》と

      僕は紙に書きつける

             ……畢(をはり)

 

[やぶちゃん注:字配とポイント落ちは底本とほぼ同じ(ブログ表示の不具合を考えて本文全体を上げてはある)。]

さふらん (全)   立原道造

[やぶちゃん注:一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「未刊詩集」の「さふらん」に拠り、恣意的に正字化した。底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある。] 

 

   さふらん

 

  ガラス窓の向うで

ガラス窓の向うで

朝が

小鳥とダンスしてます

お天氣のよい靑い空

 

 

  腦髓のモーターのなかに 

 

腦髓のモーターのなかに

鳴きしきる小鳥たちよ

君らの羽音はしづかに

今朝僕はひとりで齒を磨く

 

 

  コツプに一ぱいの海がある

 

コツプに一ぱいの海がある

娘さんたちが 泳いでゐる

潮風だの 雲だの 扇子

驚くことは止ることである

 

 

  忘れてゐた

 

忘れてゐた

いろいろな單語

ホウレン草だのポンポンだの

思ひ出すと樂しくなる

 

[やぶちゃん注:「ポンポン」キク目キク科キク亜科ハルシャギク連ダリア属 Dahlia の品種の一つで、管状の花弁が球状に万重咲(まんじゅさ)き(チアー・ガールの持つポンポン状)になったもので、大きさ五センチメートルほどの、筒状に内側に巻いた小さな花弁が重なりあった球状の花が沢山咲く、ポンポン・ダリアのことであろう。色は各種ある。]

 

 

  庭に干瓢(かんぺう)が乾してある

 

庭に干瓢が乾してある

白い蝶が越えて來る

そのかげたちが土にもつれる

うつとりと明るい陽ざしに

 

 

  高い籬(まがき)に沿つて

 

高い籬に沿つて

夢を運んで行く

白い蝶よ

少女のやうに

 

 

  胸にゐる 

 

胸にゐる

擽(くすぐ)つたい僕のこほろぎよ

冬が來たのに まだ

おまへは翅を震はす

 

 

  長いまつげのかげ 

 

長いまつげのかげ

をんなは泣いてゐた

影法師のやうな

汽笛は とほく

 

 

  昔の夢と思ひ出を

 

昔の夢と思ひ出を

頭のなかの

靑いランプが照してゐる

ひとりぼつちの夜更け

 

 

  ゆくての道 

 

ゆくての道

ばらばらとなり

月 しののめに

靑いばかり

 

 

  月夜のかげは大きい

 

月夜のかげは大きい

僕の尖つた肩の邊に

まつばぼたんが

くらく咲いてゐる

 

 

  小さな穴のめぐりを

 

小さな穴のめぐりを

蟻は 今日の營み

籬(まがき)を越えて 雀が

揚羽蝶がやつて來る

 

 

一日は‥‥   立原道造

 

   一日は‥‥

 

 

   

 

搖られながら あかりが消えて行くと

鷗(かもめ)のやうに眼をさます

朝 眞珠色の空氣から

よい詩が生れる

 

   

 

天氣のよい日 機嫌よく笑つてゐる

机の上を片づけてものを書いたり

ときどき眼をあげ うつとりと

窓のところに 空を見てゐる

壁によりかかつて いつまでも

おまへを考へることがある

そらまめのにほひのする田舍など

 

   

 

貧乏な天使が小鳥に變裝する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さな薔薇(ばら)の花をつける

 

   

 

ちつぽけな一日 失はれた子たち

あて名のない手紙 ひとりぼつちのマドリガル

虹にのぼれない海の鳥 消えた土曜日

 

   

 

北向きの窓に 午(ひる)すぎて

ものがなしい光のなかで

僕の詩は 凋れてしまふ

すると あかりにそれを焚き

夜 その下で本をよむ

 

   

 

しづかに靄(もや)がおりたといひ

眼を見あつてゐる――

花がにほつてゐるやうだ

時計がうたつてゐるやうだ

 

きつと誰かが歸つて來る

誰かが旅から歸つて來る

 

   

 

もしもおまへが そのとき

なにかばかげたことをしたら

僕はどうしたらいいだらう

 

もしもおまへが……

そんなことをぼんやり考へてゐたら

僕はどうしたばかだらう

 

   

 

あかりを消してそつと眼をとぢてゐた

お聞き――

僕の身體の奧で羽ばたいてゐるものがゐた

或る夜 それは窓に月を目あてに

たうとう長い旅に出た……

いま羽ばたいてゐるのは

あれは あれはうそなのだよ

 

   

 

眠りのなかで迷はぬやうに 僕よ

眠りにすぢをつけ 小徑を だれと行かう

 

[やぶちゃん注:底本の一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の、風信子(ヒヤシンス)叢書第三篇の「田舎歌」群の掉尾の詩篇。但し、これは生前の立原道造が出したものではなく、彼の遺したメモによって角川書店第三次「立原道造全集」上梓の際に、同題賛辞全集委員会によって編成されたものである。しかし、杉浦氏の解説によれば、この「田舎歌」ⅠからⅢ(Ⅰ・Ⅱは後述するように私は電子化済み)を纏めた『これを第三篇とするプランは立原』自身『によって破棄された疑いがあり、内容は一九三四年』(昭和九年)『の作品から成る』とある(下線やぶちゃん)。

の「マドリガル」は(英語:madrigal)イタリアのマドリガーレ(madrigale古くは、十四世紀のイタリアで栄えた詩形式及びこれに基づく多声楽曲であるが、これは直に廃れ、後にそれらとは全く無関係に同名称で十五世紀から十六世紀にかけてイタリアで発展した、主として無伴奏の重唱による芸術的な多声歌曲をも指すようになった。後者は「ルネサンス・マドリガーレ」とも呼ぶ)、及び、その影響を受けてエリザベス朝(一五五八年~一六〇三年)のイギリスその他の国で成立した歌曲の総称。ここはルネサンス・マドリガーレ及び最後のものを指すと考えてよい。ウィキの「マドリガーレ」によれば、『詩節が無く』、『リフレインも無い自由詩を用い、テキストの抑揚に併せてメロディーが作られた。感情表現を豊かにするためにポリフォニーやモテットの様式、模倣対位法、半音階法、二重合唱法などあらゆる音楽形式が採られ、多くの作曲家が作品を作った』。十七世紀に入ると、『カンタータに取って代わられたが、その後も幾人かの作曲家がこの形式の作品を残している』とし、「イングリッシュ・マドリガル」は『エリザベス朝イングランドの宮廷作曲家達によって、イタリアの形式を真似て作られたが、イタリア』のそれほどには『複雑で無く』、『和声を主体にした曲が多い』とある。

の「凋れて」は老婆心乍ら、「しほれる(しおれる)」と読む。

 なお、私は既にここに示された「田舎歌」群のⅠとⅡに相当するものは、

 

村ぐらし(ここでの底本では『Ⅰ』とローマ数字が頭に振られてあるものとほぼ相同)

【字配りとルビの有無を除くと、有意な異同は以下の二箇所。

●第六パート一行目

『晝だからよく見えた 街道が』(昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」)

   ↓(助詞「が」が「を」)

『晝だからよく見えた 街道を』(一九八八年岩波文庫刊杉浦明平編「立原道造詩集」)

●第七パート第二文(これは編者による読みの異なりと思われ、これは杉浦明平氏の読みを私は支持したい)

『遠眼鏡(えんがんきやう)』(中村版)

   ↓(ルビ違い)

『遠眼鏡(とほめがね)』(杉浦版)】

 

   *

 

詩は  (ここでの底本では『Ⅱ』とローマ数字が頭に振られてあるものとほぼ相同)

【字配りと踊り字とルビの有無を除くと、有意な異同は以下の二箇所。

●第十パート二行目

『落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。』(中村版)

   ↓(読点なし。このパートは二行構成で一行目には読点が使用されている)

『落葉を踏みながら 暮れやすい一日を。』(杉浦版)

●最終第十二パート内の最後の二行に出る二箇所出るところの、

『背中』(中村版)

   ↓(字体違い。これは杉浦版が正しいのではないかと推定される)

『脊中』(杉浦版)

 

は本ブログで電子化注してある。私は冒頭で太字及び下線で示した部分に鑑み、これらを纏めて一括して示すこと(岩波文庫版のように)にはやや疑義を感ずる。読者が現行の番号に従ってⅠ・Ⅱ・Ⅲと順に読むことは無論、あってよく、そこでは確かに相応な一つの道造の意識の流れを感じ取ることは出来、それについて違和感は感じないものの、道造自身がこの構成企画を破棄した可能性がある以上、底本のように連作として読まれることを道造は実は望んでいない可能性があることを意味すると考えるからである。]

啞蟬の歌――三好達治氏に   立原道造

 

  啞蟬(おしぜみ)の歌

           ――三好達治氏に

 

僕は もう歌はなくなつてゐた

夕雲に靑い山を眺めてゐた

物のよろこびととかなしみを見わけることがなくなつてから

明るい空ばかりを美しい色で描いて

ああして 幾日が經つたらう

 

僕は もう歌はなくなつてゐた

杉の梢も 楡(にれ)の木も 學校歸りの子供らも 消えてばかりゐる雲も

たつた一つのいのちのためには

どれだけのかげが投げられたのだらう

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。これで底本とした一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「エチユード」は総てである。既に述べた通り、この「エチユード」は底本の親本である角川書店第三次版「立原道造全集」に「前記草稿詩篇」(推定昭和七(一九三二)年から昭和一〇(一九三五)年)として収められた二百三十六篇から編者杉浦明平氏が『気のままに選び出したもの』である。『気のままに選び出した』という編集権を侵害しないように(私は恣意的に正字化しているので、そのまま纏めて出しても編集権を侵害しないと考えてはいるが)、公開順列を意識的に変更してある。

詩   立原道造

 

  詩

 

紙を裏返すと白かつた――

 

僕の頭のなかでは 幾行かの詩が

こせこせした積木細工であつた

とりどりに色がまはり 滑り

四角な旗がとほくまであるのだ

それが言葉かどうかわからないうちに

何か怒つたやうな聲がきこえた

幾行かの詩が 僕を捨てたらしい

紙を裏返すと 白かつた

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

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