梅崎春生「つむじ風」(その19) 「遁走」 / 「つむじ風」~了
[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。文中の「□」の太字は実際の太字であって、傍点ではない。本章が最終章である。]
遁 走
午前の十時頃から、風がそろそろ強くなり始めた。
加納明治は朝風呂から上り、リヴィングキチンの食卓に向って、オートミール、オムレツ、果物という献立の、遅い朝食を摂っていた。
顔色が冴えないのは、近頃引き受けた仕事がうまく行かず、せっせとせき立てられているからである。
そこで昨夜も、十二時就寝のところを、午前二時まで伸ばしたのだが、どうも成果は上らなかった。今朝いささか寝坊したのは、そのせいなのである。
「紅茶、おいれしましょうか」
調理台を背にして佇(た)っていた塙女史が、加納に声をかけた。加納のその食べ方によって、食欲なしと判断したものらしい。
「ミルクにしましょうか。それともレモンに?」
「うん。レモンにして呉れ」
それをしおに加納は匙(さじ)をおき、鬱然として答えた。
塙女史に対する加納のひと頃の叛逆は、陣太郎の出現以来、中絶の形となっていた。その中絶の形を、加納が屈伏したものと塙女史は判定したらしく、それまでのつめたい態度は捨てて、元の母性的態度に立ち戻っていた。
「仕事がうまく行かない時でも、やはり十二時にはおやすみになった方が、よろしゅうございますのよ」
レモン入り紅茶を食卓に乗せながら、塙女史はやさしく言った。
「何と言っても、身体が大切でございますからねえ」
「いくら身体が大切と言っても――」
加納は茶碗に手を仲ばしながら、ぶすっとした声を出した。
「小説が書けなきゃ、商売にならない」
「いいえ、正しい精神と頑健な身体、これが作品を産み出す原動力ですわ」
「そんなことはないよ。現に僕は大酒を止めたし、ワサビ類も全然食べてない。女史の言う通りの生活をしているのに、筆の方がうまく動いて呉れないのだ。これじゃあ、筆を折って、他の商売に転向するほかはないな」
「おほほほ」
掌で口をおおって、塙女史はころころと笑った。
「小説以外の他のことが、先生にお出来になるものですか」
「で、できないことがあるものか」
しかしその加納の言葉は、語尾が急に弱まって消えた。あまり自信がなかったのであろう。
「先生にはお出来になりませんわ」
笑いを消して、塙女史ははっきりと断言した。
「先生は生れつきの芸術家で、生活人ではありませんわ。その証拠に、先生は気が弱く、やさしくて、消極的で――」
その瞬間、玄関のブザーが鳴りわたった。塙女史は足早に玄関に歩き、扉を内から押し開いた。長身の若者がそこに立っていた。
「ぼ、ぼくは松平陣太郎先生の秘書で、泉竜之助と申す者ですが――」
竜之助はおどおどと塙女史の顔を見た。
「加納先生はいらっしゃいますでしょうか」
「おります」
塙女史はつめたい声で言った。
「どうぞお上りください」
泉竜之助を書斎に通すと、塙女史は廊下を小走りして、リヴィングキチンに戻ってきた。加納明治は肩が凝っているらしく、両肩を交互に上げ下げさせながら、レモン紅茶を飲んでいた。
「先生。またやって来ましたわよ」
塙女史は呼吸をはずませて、加納にささやきかけた。
「松平陣太郎の秘書と称する背高のっぽが!」
「え? なに、背高のっぽ?」
加納は茶碗を下に置き、眼をぎろりとさせた。
「泉竜之助と言う若者か」
「そうですわ。書斎に通して置きました」
「よし!」
加納は決然と立ち上った。歩を踏み出した。
「あんなチンピラにやられちゃダメですよ。先生」
塙女史は忙しくキチンを見廻し壁から中型のフライパンを外し、それを背後にかくし持って、加納のあとを追った。
書斎の机の前に、竜之助はつらそうに両膝をそろえ、きちんと坐っていた。加納がぶすっとした顔で坐ると、竜之助は座蒲団からすべり降り、頭を畳にすりつけた。
「またお伺いいたしました。泉竜之助です」
塙女兜は竜之助の斜後方に坐った。フライパンは背後にかくしたままである。
「一体何の用事だい」
加納は竜之助をにらみながら、煙草に火をつけた。
「今日は陣太郎君は一緒じゃないのか」
「陣太郎先生は、今日はアパートに残っておられます」
竜之助は言いにくそうに用件を切り出した。
「その、陣太郎さんから、頼まれまして――」
「何を頼まれた?」
「これです」
覚悟をきめたらしく、竜之助は眼をつむって、内ポケットから一枚の写真をぐいと引っぱり出した。
「こ、これを先生に、十万円で買っていただきたいと思いまして――」
「なに!」
つけたばかりの煙草を灰皿にこすりつけて、加納は怒鳴った。
「そんな横着な言い草があるか! この間もそいつで、五万円持って行ったばかりじゃないか!」
「あ、あれは陣太郎さんですよ。僕じゃありません」
「まだぬけぬけとそんなことを言ってる。同じ穴のムジナのくせに。貴様みたいなチンピラにおどされる加納だと思っているのか!」
加納は顔面を硬直させて、拳固(げんこ)を振り上げた。
「もう許して置けぬ。塙女史。一一〇番に電話をかけて、警察を呼びなさい」
「はい」
塙女史は素早く立ち上った。
「そ、それはちょっと、待って下さい」
悲鳴に似た声を立てて、竜之助は腰を浮かした。出口を求めて、膝で後退した。その竜之助の後頭部に、塙女史はフライパンをふり上げ、力をこめてふりおろした。
ギャッと言ったような声を上げ竜之助はへたへたとうずくまった。
ふだんの泉竜之助なら、フライパン如きでなぐられて、眼を廻す筈はないのであるが、栄養失調のせいもあり、またフライパンの発した音響に度胆(どぎも)をぬかれて、そのまま畳にながながと伸びて、五分間ばかり失神状態にあった。
こんな大男がかんたんにのびたのだから、加納明治と塙女史が狼狽したのも当然であろう。
「そ、それ、塙女史、早く水を、持って来なさい。それから薬も!」
フライパンを放置したまま塙女史はこま鼠のようにきりきり舞いして、金だらいやタオルや薬品箱を持ってかけ戻ってきた。その間に加納は抜け目なく、れいの写真をつまみ上げ、こなごなに引裂いて、屑箱にほうり込んでしまった。
「ううん」
濡れタオルを額に乗せたまま、やっと正気づいたらしく、竜之助はうなり声を発して、眼をぱっちりあけた。
「気がついたか」
ほっとしたくせに、加納はわざと横柄な口をきいた。
「気分はどうだ?」
「ぼ、ぼくは、一体、どうしたんです?」
竜之助は上半身をおこした。濡れタオルはすべり落ちた。竜之助はいぶかしげに、あたりをきょろきょろと見廻した。
「ひでえなあ」
畳にころがったフライパンを見て、竜之助は泣きべそ顔になった。
「フライパンで殴るなんて、ほんとにひどい人だなあ」
「君が逃げようとするからだよ」
加納がきめつけた。
「逃げようとしたからには、君には何かうしろ暗いところがあるな。陣太郎の話によると、君はたいへんな悪者で、秘書はクビになった筈ではないか。それを秘書みたいな面(つら)で乗り込んできて――」
「ち、ちがいますよ、それは」
竜之助は、むきになって口をとがらせた。
「悪者は、あの陣太郎さんですよ。僕はむしろ被害者なんです。カメラはふんだくられるし、今日だって、いやだいやだと言うのをむりやりに――」
「なになに」
加納も膝を乗り出した。
「ちゃんと筋道を立てて、話してみなさい」
竜之助は頭のこぶを撫で撫で、つっかえつっかえしながら、一部始終を話し出した。加納と塙女史は、時々質問を入れたりして、聞き終った。
「そうか。君の言うことが本当とすれば、陣太郎という奴はたいへんな奴だな」
憮然(ぶぜん)として加納は腕をこまぬいた。
「松平の御曹子(おんぞうし)にしては、けたが外(はず)れてい過ぎるぞ」
「その松平というのが、あたしは怪しいと思いますわ。陣太郎はそんな高貴の人相じゃありません」
塙女史が傍から口を出した。
「あたし、なんだったら、世田谷の松平家というところに、今から行って来てもよござんすわ」
「そうだな。そうして貰おうか」
そして加納はじろりと竜之助に視線をうつした。
「君。陣太郎のアパートはどこだ。地図を書きなさい。もしニセモノだったら、僕が行ってとっちめてやる!」
加納家の玄関を出ると、泉竜之助は長身の背を曲げて、ふらふらと風の街に泳ぎ出た。ふらふらしているのは、頭を殴られた故(せい)もあるが、吹きまくる大風のせいでもあった。
大通りに出る角の煙草屋の赤電話に、竜之助はふらふらととりつき、ダイヤルを廻した。電話の向うに管理人が出、しばらくして目指す相手が出てきた。
「もしもし。陣太郎さんですか。僕、竜之助です」
「ああ、竜之助君か。加納のところに行ったか」
「今行ってきたところです」
「そうか。それで五万円とれたか。とれたら直ぐ、富士見アパートに持ってこい」
「そ、それがダメなんですよ」
「何がダメなんだ?」
「加納さん、すっかり腹を立てて、かんかんになったんですよ。警察を呼ぶなんて言うから、びっくりして逃げ出そうとしたらね、あの女秘書からフライパンで頭をひっぱたかれて、僕、気絶しちゃったんですよ」
「フライパンで? それはムチャだなあ」
陣太郎は嘆息した。
「でも、君も少しだらしなさ過ぎるぞ。たかがフライパン如きで、気絶するなんて」
「気絶ぐらいしますよ。ろくなもの食ってないんだから」
竜之助は口をとがらせた。
「正気づいたらね、さんざん加納さんに、やっつけられましたよ。話を聞いてみると、陣太郎さんは僕のことを、極悪人に仕立ててるじゃないですか。全くひどいなあ」
「そう怒るな。そして今度は、おれのことを極悪人に仕立てたか」
「僕はありのままを話しましたよ。すると加納さんは、陣太郎さんの身元を洗うんだって、今日女秘書が世田谷のお邸に行くことになりましたよ」
「なに、身元を洗うんだって?」
「そうですよ。つまり、陣太郎さんがニセモノかどうか」
「ニセモノだと? 加納の奴がそういうことを言ったのか」
陣太郎の声は激した。
「ニセモノとは何だ。君に教えてやるけどな、ニセモノと言うのは、おれよりも加納の方だぞ。加納だの、猿沢三吉だの、あんな連中が、人間としては典型的なニセモノだ!」
「いえ。人間としてのホンモノ、ニセモノを言ってるんじゃないんですよ。松平の御曹子というのが、ニセモノではないかと――」
「そ、それまで人を疑わなくちゃいけないのか。なさけない奴輩(やつばら)だなあ」
陣太郎の口調は沈痛な響きを帯びた。
「信じるということの尊さを、きゃつ等は知らないんだ」
「もしニセモノだったら、陣太郎さんのアパートに乗り込むんだから、地図を書いて呉れって、加納さんに頼まれた」
「なに。それで富士見アパートの地図を書いてやったのか」
「だってあの女秘書、フライパンをかまえて、にらんでるんだもの。善良な僕を殴るなんて、ほんとにあの女秘書、砂川町の警官みたいだなあ」
「そうか。でも、よく知らせて呉れた。ああ、それからこの間のクイズな、あれを三吉に突きつけてもいいよ。今が好機だろう」
「そうですか。では、早速使ってみます」
[やぶちゃん注:「砂川町の警官」「砂川闘争」の初期の流血事件を指す。同闘争は在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対して、東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市砂川町)において昭和三〇(一九五五)年から一九六〇年代まで続いた住民運動である。当該ウィキによれば、『土地収用のための測量実施と測量阻止闘争とのせめぎあいが続く中』、一九五六年十月十三日、『砂川町の芋畑で』、『地元農民らと』、『武装警官隊が衝突』し、千百九十五人が負傷し、十三人が『検挙される』『「流血の砂川」と呼ばれる事態に至』り翌日の『夜、日本政府は測量中止を決定した』とある事件である。本篇のこの、最後の連載最終回は昭和三一(一九五六)年十一月十八日附『東京新聞』であったから、極めてアップ・トゥ・デイトな比喩として、使用されていることが判る。]
「では、元気でやれよ。バイバイ」
陣太郎は受話器をがちゃりとかけた。電話室を出て、階段をとぼとぼと登った。陣太郎の表情は重くかつ暗かった。暗い怒りが陣太郎の面上に、めらめらと燃え上っていた。
真知子の部屋の前に立ち止ると、陣太郎は扉をほとほとと叩いた。
「真知ちゃん。いるか」
「いるわよ」
陣太郎は扉をあけ、のそのそと部屋に入って行った。真知子はレポートの整理の手を休め、ややまぶしげに陣太郎を見た。
「今日は風がひどいから、うちで勉強することにしたのよ」
「そうか。お茶を一杯いれて呉れ。玉露がいいな」
陣太郎はだるそうに、部屋の真中に大あぐらをかきながら、ひとりごとを言った。
「ああ。人生は退屈だ」
「え。なに?」
真知子が聞きとがめた。
「いや。何でもない。どれもこれもバカばかりで、その中で生きていることが退屈だということさ」
陣太郎は両手を上げて、大きく伸びをした。
「時に、アパートの引越しは、今日にしたがいいよ」
「だって、こんなに風が吹いてるのに」
真知子は窓外に眼をやった。
「どこかに安い部屋、見つかったの?」
「いや。でも、部屋はどこにでもある」
「では、何故今日じゃなくちゃ、いけないの?」
「実は今朝、ここの管理人に訊ねてみた」
陣太郎は畳を指差した。
「すると、この部屋には、五万円の敷金が入っているんだね。忘れたのかどうか知らないが、三吉おやじはまだそれか引出していないのだ」
「そう?」
「君がここに来て、まだ一年経ってないから、一割引きの四万五千円は戻して呉れるんだ。だから三吉おやじが引出さないうちに――」
「こちらで引出せばいいのね」
真知子はぱっと眼を輝かした。
「そりゃいい考えね。退職金をひどく値切られたんだから、敷金ぐらい頂戴しても当然ね。じゃあたし、階下に行って、貰って来るわ」
「それがいいだろう」
注がれた玉露を、陣太郎は旨(うま)そうにすすった。
「おれは運送屋を呼んでくる。敷金を受取ったら、直ぐに身の廻りを整理したがいいな。いつ三吉おやじが思い出して、飛んで来ないとも限らないからね」
「そうね」
机上のものを手早く整理して、真知子は立ち上った。
「ではあたし、管理人に会ってくるわ」
丁度その頃、塙女史は盛装して、加納邸の玄関で靴をはいていた。第一級の盛装に身をかためたのは、訪問先が松平家であるからであろう。背後から加納明治が声をかけた。
「ホンモノかニセモノか、とにかく判ったら直ぐ電話するんだよ」
「はい」
塙女史は立ち上った。
「では、行って参ります」
午前十一時半、猿沢家の嬢部屋で、一子(かずこ)と二美は額をつき合わせ、こそこそと相談ごとにふけっていた。
「ねえ。どうやってお金をつくる?」
「何か売ろうか」
「売るのはイヤよ。それより何か質に入れようよ」
「そうねえ。質屋なら、あとで取り戻せるものね。何を質に入れる」
「二美の時計はどう?」
「イヤよ。あたしの時計なんて。それよかお姉さんのを入れたらいいじゃないの」
「うん。それでもいいよ」
一子は手首から腕時計を外して、ぶらぶらと振った。
「あたしが時計を提出するから、二美が質屋に行って来るのよ」
「あたしが? あたし、質屋なんて、まだ一度も行ったことがないのよ。どうすればいいの?」
「かんたんよ。あそこの裏通りに、山城屋ってのがあるでしょう。あそこに入って、時計を差し出せばいいのよ。そうすれば、向うの方で値をつけて呉れるわ」
「そう。じゃ、行って来るわね」
二美は姉から腕時計を受取り、だるそうに立ち上った。一子が下から声をかけた。
「念のために、米穀通帳を持って行った方がいいよ。台所にぶら下ってるから」
「そう。では、行って参ります」
「早く戻って来るんだよ。おなかがぺこぺこなんだから」
二美は部屋を出て、足音を忍ばせて台所に廻り、米穀通帳をぶらぶらさせながら、裏口から飛び出した。
一方、茶の間では、チャブ台をはさんで、三吉とハナコが坐っていた。ハナコは縫物をしていた。
「風が強くなってきたな」
三吉は時計を見上げながら言った。
「三根と五月はまだ学校から戻って来ないのか」
「今日は二人とも給食ですよ」
ハナコが応じた。
「三根も五月も、この間までは、大の給食嫌いだったのに、近頃ではすっかり好きになったようよ」
「それはあたり前だ。うちで芋飯ばかり食ってりゃ、給食好きになるにきまっている」
三吉はだるそうに舌打ちをした。
「ああ。わしは三根や五月がうらやましい」
「うらやましいって、あたしだって、うらやましいわよ」
ハナコはみずばなをすすり上げた。
「三根や五月は、給食があるからいいけれど、一子や二美は何もなくて、可哀そうだわ。二人ともずいぶん瘦せたようよ」
「かえってスマートになって、結構だろう」
「結構なもんですか。食うものも食わずに瘦せ細るなんて」
「そう言えば、今朝の食事に、一子も二美も姿をあらわさなかったようだな。あとで食べたか?」
「いいえ」
縫物をやめてハナコは顔を上げた。
「そう言えば変ねえ。食い盛りの二人が」
「まさかハンガーストライキを始めたんじゃあるまいな」
三吉は時計を見上げた。
「そろそろ早昼[やぶちゃん注:「はやひる」。]にしよう。あれたちもおなかをすかせてるだろうから」
[やぶちゃん注:「米穀通帳」一度、リンクさせたウィキの「米穀配給通帳」によれば、『一時期は、市町村長の公印が捺された公文書の上、世帯主・住所が記述されていたので、身分証明書としての役目も果たしていたが、健康保険証や年金手帳、そして運転免許証が、身分証明書の機能を取って代わっていった』。『また戦中・戦後においては、相当の価値を持ち』、昭和二四(一九四九)年に『公開された日本映画「野良犬」(黒澤明)では、拳銃を手に入れるのに「米穀通帳を持ってくるように」指示されている』(拳銃を掏(す)られた主人公村上刑事(三船敏郎演)が復員した浮浪者に変相して、闇の「ピストル屋」に渡りをつけるシークエンスで「ピストル屋」が売る条件として「米の通帳持って来な」と言うシーンがある。所持する台本(岩波書店『全集 黒澤明』第二巻)では「36」部分で、「Internet archive」の同映画の「28:50」を見られたい)。『身分証として使われた映画としては他に』昭和三七(一九六二)年『公開の「ニッポン無責任野郎」(古澤憲吾)があり、主人公・源等(植木等)が、銀行で米穀通帳を提示し、預金通帳を作るシーンがあった』。『なお、有効期間内に他の地方公共団体に転居や転出した際は、速やかに届け出をして、記載の訂正を受けなくてはならなかった』とある。]
二美はあたりを見廻しながら、裏口から入り、足音を忍ばせて娘部屋に戻ってきた。掌には数枚の紙幣が、ぎっしりと握られていた。一子はむっくりと起き直った。
「どうだった。いくらになった?」
「大成功よ?」
二美は掌を拡げて見せた。
「二千五百円、貸して呉れたわよ」
「そう。そりゃよかった」
勢いづいて立ち上り、一子は外出の身支度にとりかかった。
「では、予定通り、珍満に行くことにしようよ」
「それがいいわね。スブタにフヨウハイ。でも、御飯を五杯もおかわりしたら、笑われるわよ」
「あたりまえだよ。三杯ぐらいで止めて置くんだね」
その時茶の間の方から、三吉のどら声が飛んできた。
「一子に二美。御飯だぞ」
一子と二美は顔を見合わせ、めくばせしながら廊下に出た。足音も荒々しく茶の間に歩み入った。
「ばたばた歩くんじゃない」
チャブ台のそばでハナコがたしなめた。
「おや。お前たち、どこかへ出かけるのかい?」
「そうよ」
立ちはだかったまま、一子は答えた。
「あたしたち、おなかがぺこぺこだから、御飯を食べに行くの」
「え。御飯を食べに?」
三吉が眼を剝いて反問した。
「どこに食べに行くんだ。食べに行かなくても、うちにあるじゃないか」
「もう芋飯なんかイヤよ。大切な青春を、芋飯なんかで、だいなしにしたくないわ」
「そうよ。そうよ」
二美が勢いこんで相槌を打った。
「今から珍満に行くのよ。スブタにフヨウハイ。そしてたらふく御飯を食べるのよ」
「珍満?」
そう反問したまま、あとは三吉は絶句した。言いようのない悲哀感が、三吉の面上を走って消えた。
「そうよ。珍満よ」
二美は母親に呼びかけた。
「お母さん。一緒に珍満に行かない? あたしたち、おごって上げるわよ」
「そうよ。ねえ、お母さん。一緒に行きましょうよ。時にはうまいものを食べないと、ほんとの栄養失調になってしまうわよ」
「おごって呉れるって、お前たち」
ハナコはなみだ声を出した。
「お金はどうしたんだい?」
「あたしの腕時計を、山城屋に質入れしたのよ。二千五百円、貸して呉れたわ」
「山城屋?」
ハナコははらはらと落涙した。
「ま、あ、お前たち、質屋通いまでして――」
そしてハナコはエプロンで眼をぬぐい、思い切ったようにすっくと立ち上った。エプロンを外し始めた。
「じゃ、お母さんも、ついて行って上げる」
「おお、ハナコ、お前もか!」
兇刃にたおれるジュリアス・シーザーみたいに、悲痛極まる声を三吉はしぼり出した。
「お前まで行ってしまうのか。わしだけ居残って、芋飯を食えと言うのか!」
ハナコと娘たちがどやどやと出て行くと、がらんとした茶の間に、退潮[やぶちゃん注:「ひきしお」。]に乗りそこねたカレイみたいに、三吉ひとりがぽつねんと残された。
「ああ」
三吉はうめき声を洩らして、チャブ台ににじり寄った。戦争末期の日本軍部のように、皆から見離された恰好であるが、それでも三吉は最後の力をしぼり、虚勢を張ってつぶやいた。
「負けないぞ。わしは負けないぞ」
チャブ台の白布をとり、三吉は自分の茶碗に芋飯をこてこてと盛り上げた。熱い番茶をぶっかけると、ごそごそとかっこみ始めた。ひとりで食べる芋飯は、まるで砂利(じゃり)みたいに味がなかった。
その時、玄関の扉が開かれ、案内を乞う声がした。
「ごめん下さい。猿沢さん、いらっしゃいますか」
「おう」
三吉は箸を置き、ふらふらと廊下を歩いた。玄関に立っているのは、泉竜之助であった。
「おお。竜之助君か。何か用事か」
三吉はわざとぶすっとした声を出した。
「降服使節としてやって来たのか。まあ上れ」
「上らせていただきます」
竜之助は靴を脱ぎ、三吉のあとにつづいて、あちこちを見廻しながら、茶の間に入った。
「おじさんひとりですか。皆さんは?」
「うん。ちょっとそこらに出かけた」
三吉は渋面をつくって答えた。自分にそむいて珍満に出かけたとは言えないのである。
「まあそこに坐れ」
「おお。おじさんとこの食事も、ずいぶんしけて、いや、倹約してますなあ」
茶碗の芋飯を眺めて、竜之助は感にたえた声を発した。
「うちは麦飯にメザシだけど、おじさんとこは更に徹底してますねえ」
「あたり前だ。このくらい徹底しなければ、とても長期戦には勝てない」
三吉はうまそうに、芋飯をひとかき、かっこんで見せた。
「わしんちの三吉湯は、四円に値下げしても、まだやって行けるんだぞ。時に君は昼飯を食ったか。なんならわしと一緒に、この芋飯を――」
「いえいえ。結構です」
竜之助はあわてて辞退した。
「おばさんもお嬢さんたちも、芋飯は――」
「喜んで食べとる!」
三吉は声を大にした。
「時に、君のおやじは、いや、おやじさんは、話に聞くと、すっかり前非を悔いてるそうではないか」
「そ、そのことにつきまして――」
竜之助は膝を乗り出した。
「前非を悔いてもおりますし、こういうつまらない競争は、お互いの損だと――」
「それはわしも近頃、痛感している」
三吉はおうように受けた。
「うちのお父さんが言うには、三吉おじさんはいい人物である。将棋こそからっ下手だが、人物としては見上げたところがあると」
「な、なに?」
三吉は肩をそびやかした。
「将棋がからっ下手だと?」
「いえいえ。文字通りのからっ下手じゃないが」
反応の大きいのにおどろいて、竜之助はあわてて訂正した。
「あまり上手ではないと――」
「同じようなことだ」
三吉はぶすっとさえぎった。
「わしのような好人物と、競争する非を恵之助が悟ったと、こういうわけだな」
「そうです。そうです」
竜之助は急いで合点々々をした。
「お互いに湯銭を十五円に戻し、生活水準を復帰させたい。メザシや芋飯は止めにして、食べたけりゃマグロのトロでも、スブタでもフヨウハイでも――」
「なに?」
「いや、たとえばという話ですよ。うまいものを食べて、精力を回復し、将棋の百番勝負でも指したいと――」
「うん。わしだって、将棋は指したい」
「そしてあの新築中の建物ですな」
やっと竜之助は本題に入った。
「あれの建築資金の半分を、自分が持ちたいと、こうおやじが言ってるんですよ」
「半分持つ?」
なかばいぶかしげに、なかば嬉しげに、三吉は反問した。
「それはありがたい、いや、半分ありがたいけれど、それでどうするつもりなんだね?」
「風呂屋は止めにして、劇場にしようと言うんですよ。名前も、三吉劇場じゃおかしいから、三吉(みよし)劇場ということに――」
「勝手にきめられてたまるか!」
三吉は眉をぐいと吊り上げた。
「恵之助がそんな身勝手なことをきめたのか」
「いえ。お父さんじゃありません。ぼくたちが――」
「ぼくたち? 君と他に誰だ」
「ぼくや陣太郎さんなんかです」
竜之助は覚悟をきめて坐り直した。
「あれを風呂屋にされては、うちのおやじの立つ瀬はないんですよ。だからどうしても、果てしない泥仕合となる。そして飛ばっちりが僕らにかかって、僕はメザシに泣き、一ちゃんは芋飯に位くという大悲劇が――」
「一子のことなら余計なお世話だ」
三吉はそっけなくきめつけた。
「新築について、君らの指図は受けん!」
「では、仕方ありません・泉湯でもクイズをやりますよ。泉グラム」
「勝手にやればいいだろう」
「いいですか。そんなことを言って」
竜之助は内ポケットから、一枚の紙片をまさぐり出し、三吉につきつけた。
「これですよ!」
「なんだと?」
三吉は眼を据(す)えてそれを読んだ。
□□□□は□を□っているその□を真□子という□太郎
「こ、これは誰がつくった?」
三吉は顔色を変えた。
「陣太郎さんです」
「ああ。あの陣太郎の奴め! あれほど尽してやったのに、最後のどたん場で、このわしを裏切りやがったな!」
全身を怒りでわなわな慄わせながら、三吉はすっくと立ち上った。いそがしく身支度をととのえた。
「もう許しては置けぬ。わしは今から富士見アパートに行って、陣太郎の奴を徹底的にとっちめてやる!」
加納邸の電話がぎしぎしと鳴り渡った。それっとばかり加納明治は受話器に飛びついた。
「もしもし、塙女史か。どうだった?」
加納の顔にはほのぼのと血の気が上った。
「そうか。やっぱりインチキか。なに、家令の件も、全然でたらめだって? 飛んでもない野郎だ」
加納の声はおのずから高くなった。根も葉もないことをタネに、前後二回で十五万円も持って行かれたのであるから、声が高くなるのも無理はない。
「よろしい。話は判った。僕は今から直ぐ富士見アパートに行く。陣太郎の奴を徹底的にとっちめてやるぞ。うん。では後ほど」
がちゃんと受話器をかけると、加納は両手を前に構えて、拳闘の真似ごとをした。万一に側えてのトレイニングのつもりなのであろう。
「ちくしょうめ!」
加納は小走りに書斎にかけ込み、手早く洋服に着換えた。玄関を出てギャレージに直行、自動車に乗り込んだ。
大風の中を、加納の自動車は走り出した。
一方猿沢三吉は、泉竜之助を自宅に置き放して、これまた自動車を引き出し、大風の街を疾走した。
富士見アパートの玄関前に、オート三輪が一台とまっていた。真知子の荷物の積込みはすでに完了、やがて玄関からのそのそと、陣太郎がリュックサックをぶら下げて出て来た。
「どうする?」
陣太郎は真知子をかえり見た。
「電車で行くか。それともこれに乗り込んで行くか」
「そうね」
真知子は空を仰いだ。空にはねじくれた形の雲が、いくつもいくつも風に乗って飛んでいる。
「風が強いようだけど、大丈夫よ。これに乗って行きましょうよ」
「そういうことにするか」
陣太郎はリュックサックを放り上げ、エイヤッと荷台に飛び上った。真知子が下から手をさし伸べた。
「手を引いて」
陣太郎の手を借りて、真知子も荷台に這(は)い上った。
「ここに住んだのは短い間だったけど」
荷台上でアパートをふり返り、髪のほつれを直しながら、真知子がしみじみと言った。
「ちょっと名残借しい感じがするわね」
「今から強く生きて行こうと言うのに」
陣太郎はたしなめた。
「あまりセンチメンタルになるんじゃないよ」
中年女のアパート管理人が、二人を見送りに、玄関から出てきた。その管理人に陣太郎は声をかけた。
「誰かおれを訪ねてきたらね、二附のおれの部屋に案内して下さい。扉に訣別の文章を貼って置いたから」
「そうですか」
管理人は合点々々をした。
それを合図に、オート三輪は動き始めた。
風を避けるために、陣太郎と真知子は、荷台の上で、抱き合うようにしてうずくまった。
オート三輪の姿は、風の中をやがて小さくなり、見えなくなった。
陣太郎、真知子を乗せたオート三輪が、姿を消して間もなく、同番号の小型自動車が二台前後して、富士見アパートの横丁にすべり込んできた。
相並ぶように停車すると、前の車からは加納明治が、後の車からは猿沢三吉が、それぞれ運転台からころがり出てきた。
出たとたんに空風[やぶちゃん注:「からっかぜ」。]が吹きつけてきて、三吉の方は栄養不足であるからして、不覚にもよろよろと二三歩よろめいた。
二人は先をあらそうようにして、富士見アパートの玄関に入った。管理人が出て来た。
「松平、陣太郎はいますか?」
加納が険しい声で言った。
「上ってもよろしいか」
「松平さんはお引越しになりましたよ」
「引越した?」
傍から三吉が怒鳴り声を出した。
「何時(いつ)?」
「今さっき。五分ほど前に」
「引越し先はどこだ?」
今度は加納が怒鳴った。
「どこだともおっしゃいませんでした」
二人の剣幕がすさまじいので、管理人はたじたじと後退りした。
「さきほど、オート三輪で、西尾真知子さんと一緒に――」
「なに。真知子も一緒だと?」
三吉は頭髪をかきむしった。
「ちくしょうめ。やりやがったな」
「お別れの文章が――」
管理人は二階の方を指差した。
「松平さんの部屋の扉に貼ってありますよ」
二人はそれを聞くと、また先を争うようにして、階段をかけ登った。
便所の傍の扉に、れいの『陣内陣太郎用箋』の一枚が、鋲(びょう)でとめてあった。陣太郎の筆跡で、こう書いてあった。
おれたちは今回考えるところあり、富士見アパートを
立去り、よそで新しい生活を始めることにしました。
短い間の御交情を感謝します。陣太郎・真知子
「ちくしょうめ!」
「あの悪者め!」
憤怒の言葉が同時に、両者の唇から洩れ出た。そしてそのことにびっくりしたように、二人は顔を見合わせた。
「あ、あんたも被害者ですか?」
三吉が忌々(いまいま)しそうに口を開いた。
「そうですよ」
加納はじだんだを踏みながら、扉から紙片をひったくり、ぐしゃぐしゃに丸めて廊下に落し、足で踏みつけた。
「ああ、腹が立つ。こうでもしなきゃ、腹がおさまらないぞ」
「わしにも踏ませて呉れえ。わしにも踏む権利がある!」
加納にかわって、今度は三吉の足がそれを踏みつけた。紙片はさんざん踏まれて、平たくぺしゃんこになってしまった。
踏むだけ踏んでしまうと、二人はキツネがおちたような呆然たる面もちになり、相手の顔を眺め合った。
「どういう被害を受けられたのか存じませんが――」
自嘲の笑いと共に加納は言った。
「あんなチンピラにしてやられるなんて、お互いにあまり利口じゃなかったようですな」
「そうですなあ」
三吉も憮然(ぶぜん)として賛成した。
「全くわしはバカでしたよ」
加納明治と猿沢三吉は、ぐったりとくたびれた表情で、富士見アパートから風の街に出て来た。横丁へよろめき歩いた。
「おや」
三吉の自動車の前で加納は足をとめた。
「あなたの車の番号も三・一三一〇七ですな。ふしぎなこともあればあるものだ」
「なるほど」
加納の車の方に三吉も眼を見張った。
「ほんとだ。そっくり同番号だ。三・一三一〇七、佳人の奇遇というわけですかな」
よせばいいのに三吉はまた妙な言葉を使用した。
「では」
「では」
具合悪そうにぺこりと頭を下げ合うと、二人はそそくさとめいめいの車にうち乗った。一刻も早くここを離れたい風情で、それぞれ勝予な方向にハンドルを切り、勝手な方向をさして走り去った。風はその二つの自動車の上をもぼうぼうと吹いた。
「ああ」
建てかけの三吉湯の方角に、車を急がせながら、三吉はうめいた。大風で材木や板が飛ばされはしないか。その心配もあったが、陣太郎如きに真知子を奪い去られたのが、かなしく口惜しく、心外なのであった。
「ああ。わしはもう妾(めかけ)を囲うのは、生涯やめることにしよう」
建ちかけ三吉湯の前には、泉恵之助が長身をステッキで支えて、梁(はり)や骨組をぼんやりと見上げていた。前日竜之助に宣言した如く、瘦身(そうしん)を鞭打って、進行状態を観察に来たのであろう。その十米ほど手前で、おんぼろ自動車は停止し、中から三吉がごそごそと這い出てきた。
「…………」
「…………」
両老人は同時に相手の存在に気が付き、ぎょっとしたように身体を固くして、無言で路上に相対した。
むくんでやつれた三吉の姿を、恵之助は凝然(ぎょうぜん)と見守った。瘦せ細ってひょろひょろの恵之助の姿を、三吉は凝然と見守った。この数ヵ月でめっきり老い込んだ旧友の姿を、両老人ははっきりと見守って、確認し合った。風がそこらを騒然と吹き荒れた。
怒りともつかぬ、かなしみともつかぬ、あわれみともつかぬ、不思議な激情が、同時に両老人の胸の中にも吹き荒れた。三吉は思わず一歩を踏み出した。
同時に恵之助も一歩を踏み出しながら、将棋の駒をひょいと突き出す手付きをして見せた。
「どうだ。やるか?」
「なに」
三吉は肩をぐいとそびやかした。
「やるとは何だ。からっ下手のくせに!」
「なんだと!」
恵之助はステッキでぐいと地面をこづいた。
「からっ下手とは何だ。この間も負けたくせに!」
「あれは怪我負けだ――」[やぶちゃん注:「怪我負け」「けがまけ」。負けるはずがない者が何のはずみで負けることを言う。]
三吉は怒鳴り返した。
「じゃあ今度は、五百番勝負と行こう。五百番だぞ!」
「五百番でも、千番でも、やってやるわい」
恵之助もわめいた。
「そのかわり、負けたら、手をついてあやまるんだぞ!」
半年経った。
泉恵之助と猿沢三吉が、あの大風の日に、将棋の挑戦にかこつけて、妙な形の仲直りをして以来、新築の方は突貫工事で完成、三吉(みよし)劇場の看板がたかだかとかかげられた。もちろん恵之助の出資もあるから、三吉と恵之助の共同経営である。
共同経営とは言うものの、実務はもっぱら浅利圭介支配人が掌握、貸劇場として、毎月確実な黒字を出しているそうである。
圭介も銭湯の支配人から劇場の支配人に昇格したのだから、当人も身を入れて働き、また妻のランコも満足している風で、近頃は圭介のことを『おっさん』呼ばわりはしなくなった。そこで圭介も『おばはん』呼ばわりを中止した。息子の圭一は相変らず元気で毎日小学校に通っている。
三吉湯も泉湯も、大風の翌日から、湯銭は十五円に復旧した。
おかげで三吉も恵之助も、つまらぬことで心を労することがなくなり、毎日々々相手の家を訪ねて将棋ばかり指している。仲直り以来、千数百番を指したが、成績はほとんど指し分けである。そんなに数多く指しても、両者の棋力はいっこうに向上のきざしはない。相変らず王手飛車で飛車が逃げたり、せっぱつまって王様が盤から飛び降りて逃げたり、そんなことばかりしている。
加納明治はあれ以来、塙女史にすっかり頭があがらなくなり、塙女史の言うままの理想的生活をつづけている。その結果、とうとう小説が書けなくなり、近頃ではせっぱつまって児童ものに転向、これは案外好調で、次期の児童文学賞の有力侯補の一人に目されている。
仲直り以来、両家の食糧事情はぐっと好転、泉家ではメザシが姿を消し、猿沢家からは芋飯が姿を消した。両家の家族たちの栄養状態もたいへんに良くなった。
竜之助と一子の恋愛はどうなったかと言うと、これがふしぎなもので、おやじたちが仲直りしたとたんに、すっと冷却してしまったようである。
思うに、竜之助と一子の恋愛は、父親たちの無理解な圧迫という特殊な条件のもとで、フェーン現象みたいなものが起き、それでパッと燃え上ったのであるから、その条件が取り除かれると、自然と冷却におもむいたものに違いない。
二人ともキツネが落ちたような按配(あんばい)で、一子は一子で、
「あんな背高ノッポは、あたしに似合わないわ」
と言っているし、竜之助は竜之助で、
「あんなチンピラ小娘、僕の趣味に合わぬ」
と公言している始末で、もうふたたびお互いに燃え上るおそれはないと見ていいだろう。
栄養失調から回復すべく、一子と二美はせっせと食べ、美容体操にいそしみ、竜之助もせっせと食べ、ボディビルにいそしんでいたが、いそしみ過ぎて竜之助は若干胸を悪くして、只今は清瀬の療養所に入っている。
上風タクシー会社は、その後も毎日の如く、所属運転手が人をひき殺したり、はね飛ばしたりしたので、弔慰金支出増大のため、とうとうつぶれた。上風徳行社長は今では、生命保険の外交員になって、毎日てくてくと勧誘に歩いている。三吉も義理で一口入らせられた。
陣太郎、真知子の消息は、その後杳(よう)として知れない。
[やぶちゃん注:本篇は面白いとは思うが、どうも私の好きなラブクラフトのクトゥルフ神話系小説「インスマウスの影」に出るような顔つきをした、トリック・スター陣内陣太郎の設定や映像想起が、話しの半ば辺りから、甚だしい生理的嫌悪感を私に催し、好きになれないので、縦書PDFは成形しない。梅崎春生のものでは、他に縦書PDF版にし損なっているものが、未だ多くある。而して、その私の偏愛する作品の範疇には本長編小説は含まれないのである(私がブログで電子化注したものをPDF縦書版にすることは、比較的、容易いので、ご希望があれば、何時でも応じるので、遠慮なくどうぞ)。悪しからず。
初回冒頭注で述べた通り、私の中の二〇一六年一月一日に始まった《梅崎春生の季節》はこれを以って、一区切りとする。――では、また、何処かで――]