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カテゴリー「梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】」の16件の記事

2020/11/22

梅崎春生「桜島」PDF縦書(オリジナル注附)決定版としてリロード

この際、「幻化」をやったら、同じ梅崎春生の「桜島」のPDF縦書(オリジナル注附)もやらずんばならずで、再校訂し、取り敢えず「決定版」としてこちらも同じく、今、リロードした。

2016/10/17

『桜島』のこと   梅崎春生

 

 最初の作品集を出すのは、実にうれしいものである。うれしいものであろうと思う。私も経験がある筈だが、もう忘れてしまった。出来上って届けられた時(届けられたか出版社に取りに行ったか、それも記憶がない)本の形や装釘や重さ、それに接した時のうれしさや感激を、どうも思い出せない。あの頃けいろんなことがあったし、それにうれしいことは、悲しいことやつらいことにくらべて、忘れやすいものだ。処女作品集の感激なんて、一過性のものである。いつまでも覚えてはいられない。

 最初の作品集は『桜島』。著作者、梅崎春生。装釘、広本森雄。発行所は、大地書房である。発行日は昭和二十三年三月二十日。定価七十円。

 この『桜島』は私の手元に一部しか残っていない。贈呈分は別として、二十部ぐらいもらった気がするが、その後人にやったり、引越しのどさくさで紛失したりして、これだけ残った。

 作品として「桜島」を発表したのは昭和二十一年九月。単行本にまとまるのに一年半もかかっているのは、集録した作品の関係もあったし出版社の方の事情もあった。原稿を渡してもなかなか本にならなかった。時勢だの物価だのが不安定で揺れ動いている時代なので、版元でもいろいろ考えたり計算したり、こんな新人のでも売れるかと惑ったり、また金繰りの関係もあったのだろう。出来上った時、誰か(たしか版元内部の人)が、今の時代にこれだけの本はめったに出来ないよ、と言ったが、今見ると表紙はぺらぺらだし、紙も仙花(せんか)紙(に毛の生えたようなもの)である。表紙は木版の桜島風景で、へんな枠のようなのは、双眼鏡でのぞいたところなのである。

 どうして発行が遅れたと判るのか。「あとがき」を読めば判る。「あとがき」の末尾に「昭和二十二年盛夏」とある。ここまで書いて思い出したが、原稿はすっかり渡したのに、言を左右にして刷って呉れないので、私は怒って原稿を取り返しに行ったことがある。どんな交渉になったか忘れたが、うまく言いくるめられたのだろう。そんな不愉快さが重なったから、出来上っても釈然として感激するわけにも行かなかったのかも知れない。それに私はその頃、金に困っていた。小説は書いていたが、一般の物価にくらべて、原稿料はひどく安かった。三十枚ぐらいの小説を書き、稿料をもらって、帰りに一杯やると、半分か三分の二ぐらいはふっ飛んでしまう。今なら稿料一枚分か二枚分で充分酩酊(めいてい)出来るが、当時はそうでなかった。(森谷均さん。あの頃神田の「ランボオ」で酩酊するのに、いくらぐらいかかりましたかねえ)

 大地書房は前借りに行っても、貸して呉れなかった。貸しても雀の涙ほど。腹が立ってむしゃくしゃして、「ランボオ」で飲むと、足が出る。どうやってあの頃食っていたのか(飲むのは百方都合して飲んでいたが)自分ながらよく判らない。

 最初の作品集なので、威勢のいいあとがきを書いている。気負ったというか、威張っているというか、とにかく大宣言じみた文章で、私は今読むと汗が出る。ところが私のことを書かれる度にこのあとがきの部分が引用されて、たいへん困惑する。私はそれでこりて、その次の作品集からはあとがきをつけないことにした。あとがきや自作解説を書くことは百害あって一利なし。尻尾(しっぽ)をつかまれるだけの話である。他人のことは知らないが、私の場合あの文章は若気のあやまちだと思っている。

 定価七十円で、何部ぐらい刷ったのだろう。初版三千部くらいかと思う。しばらくして再版して、それから、まだ売れそうな気がして、もっと刷って呉れと要求に行った。刷って呉れなきゃ、他の出版社で欲しがっているから、などとおどして、むりやりに五千部分だったか、五万円だったか、受け取ったことがある。おどしたとはオーバーだけれど、当時の情勢としては致し方なかった。受け取った分の本はとうとう出来上らず、やがて大地書房はつぶれた。だからこの最初の作品集は、造本もちゃちであったし、市場には残っていないと思う。問い合わせがあると、文庫本で読んで呉れと答えることにしている。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十一月号『本の手帖』に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「広本森雄」生没年未詳。多くの挿画・装幀を手掛けている画家である。個人ブログ「Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗」の嬉しいいただきもので本「櫻島」(表紙の表記)の初版本の画像が見られる。私は三十年ほど前、神田の古本屋で手に取ったことはあったが、当時で確か五千円以上したので買わなかったことが、今、惜しまれる。

「仙花(せんか)紙」狭義には和紙の一種で、楮(こうぞ)の皮で漉いた厚手の丈夫な紙を指す(江戸時代には帳簿・紙袋などに用いた。天正年間(一五七三年~一五九一年)に伊予の僧泉貨(せんか)が創製したという)が、ここのそれは第二次大戦後に故紙や砕木パルプなどを原料として作られた粗悪な洋紙の謂いであろう。

「あとがき」この「あとがき」の全文は底本の梅崎春生全集には何故か、所収しない。但し、先に電子化した『桜島』 ――「気宇壮大」なあとがき――(昭和三八(一九六三)年十二月二日号『週刊読書人』初出)に引用されてあるものが、その大部分であろう。引いておく。

   *

「小説という形式への疑問が、近来起りつつあるものの如くだが、私はこれに組しない。私は単純に小説というものを信じている。人間が存在する限りは小説もほろびない。小説とは人間を確認するものであり、だから小説とは人間と共にあるものだ。少なくとも私と共に確実にあるという自覚が、私を常に支えて来た。私は現在まで、曲りなりにも一人で歩いて来た。他人の踏みあらした路を、私は絶対に歩かなかった。今から先も一人であるき続ける他はない。そして私は自らの眼で見た人間を、私という一点でとらえ得ることに、未だ絶望を感じたことはないし、おそらく将来も感じることはないだろう」

   *

「森谷均」(もりやひとし 明治三〇(一八九七)年~昭和四四(一九六九)年)は岡山県出身の出版人。中央大学卒。昭和一〇(一九三五)年に東京京橋で昭森社を創業、特装本や美術書を出版、戦後は神田神保町に移転して、昭和二一(一九四六)年に総合雑誌『思潮』、昭和三十六年には本記事が載った『本の手帖』を創刊している。作家や詩人たちとの交流が深く、人柄と風貌から「神田のバルザック」と呼ばれた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

『神田の「ランボオ」』神田のすずらん通りの裏にあった喫茶店で、この隣りに昭森社があった(同社は一九九一年頃に廃業している)。私も昔、古書探しに疲れると、ここでよくコーヒーを飲んだ。ネットで調べると、現在のコーヒー・ショップ「ミロンガ・ヌオーバ」が後身らしい。]

2016/01/23

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(PDF縦書版/β版)

本文内注のリンクは機能しないのは御寛恕戴きたい。

2016/01/14

『桜島』 ――「気宇壮大」なあとがき――   梅崎春生

   『桜 島』

     ――「気宇壮大」なあとがき――

 

『桜島』が私の処女出版。(なぜ童貞出版といわないのか、男をばかにするな)

 収録作品は「桜島」「微生」「崖」「贋の季節」。版元は大地書房で、発行は昭和二十二年の末である。表紙には望遠鏡に映る桜島が描いてある。表紙もぺらぺらだし紙も仙花紙だが、当時としてはよく出来た本だ。

 あとがきに

「小説という形式への疑問が、近来起りつつあるものの如くだが、私はこれに組しない。私は単純に小説というものを信じている。人間が存在する限りは小説もほろびない。小説とは人間を確認するものであり、だから小説とは人間と共にあるものだ。少なくとも私と共に確実にあるという自覚が、私を常に支えて来た。私は現在まで、曲りなりにも一人で歩いて来た。他人の踏みあらした路を、私は絶対に歩かなかった。今から先も一人であるき続ける他はない。そして私は自らの眼で見た人間を、私という一点でとらえ得ることに、未だ絶望を感じたことはないし、おそらく将来も感じることはないだろう」

 気宇壮大なことを書いているが、実は十六年後の今でもそう思っているのである。そうでも思わなきゃ、小説なんてものは書けないではないか。

 発行部数は、数版を重ねて、二万か三万程度だったと思う。そして出版元はつぶれた。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年十二月二日号『週刊読書人』に掲載された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を用いた。

 ここで梅崎春生は単行本「桜島」を「発行は昭和二十二年の末である」と述べているが、私の調べた限りでは、単行本「桜島」の発行日クレジットは昭和二三(一九四八)年三月二十日のようである(底本解題その他による)。ところが、また多くのデータ(国立国会図書館書誌など)には春生の言うように、前年の一九四七年がクレジットされている。不審である。よくあることだが、このクレジットで実際には前年末に発売されたということであろうか? 識者の御教授を乞うものである。

 「微生」は梅崎春生二十六歳の時、自ら創刊に加わった同人誌『炎』に戦前の昭和一六(一九四一)年六月に発表したもの(同誌は二号で廃刊)。「崖」は小説としては「桜島」に次いで、昭和二二(一九四七)年二・三月合併号の『近代文学』に発表、「贋の季節」は昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に発表したものである。

 この「小説という形式への疑問が、近来起りつつあるものの如くだが、私はこれに組しない。私は単純に小説というものを信じている。人間が存在する限りは小説もほろびない。小説とは人間を確認するものであり、だから小説とは人間と共にあるものだ。少なくとも私と共に確実にあるという自覚が、私を常に支えて来た。私は現在まで、曲りなりにも一人で歩いて来た。他人の踏みあらした路を、私は絶対に歩かなかった。今から先も一人であるき続ける他はない。そして私は自らの眼で見た人間を、私という一点でとらえ得ることに、未だ絶望を感じたことはないし、おそらく将来も感じることはないだろう」という言葉はまっこと、素晴らしいと思う。それは私が「桜島」や「幻化」を初読した際に感じた――心臓の震えと――全く以って共鳴するものだから――でもある。]

八年振りに訪ねる――桜島――   梅崎春生

  八年振りに訪ねる

    ――桜  島――

 

 桜島にいたのは、敗戦の年の七月上旬から八月十六日までで、階級は海軍二等兵曹、通信科勤務である。復員後一箇月ほど福岡の実家で休養した後上京、稲田登戸にいた友人のところにころがり込み、十二月に「桜島」を書き上げた。発表は二十一年九月「素直」創刊号で、発表がこんなに遅れたのは「素直」の発刊が遅れたからだ。

 この作品は場所や風景だけがほんとで、出て来る人物は虚構である。ただ一人、桜島転勤の途中で出合う谷中尉にはモデルがあるが、吉良兵曹長も見張りの兵隊も耳のない妓(こ)も、皆私がつくった。だからあれを実録のように思われては困る。

 昭和二十八年晩春、九州旅行をしたついでに、私は桜島に行った。戦争中部隊は袴腰というところにあり、一般兵は海岸沿いの崖の大きな洞窟陣地に住み、通信室と私たちの居住区はその上の丘の中腹に、それぞれ小さな洞窟の中にあった。海岸沿いの大洞窟は入口がくずれ落ちたり、ふさがれたりして、八年間そのまま放置されていることが判った。

 南九州新聞の文化部の人たちといっしょだったが、心覚えの道をさぐって、丘の中腹を探した。丈なす草をかきわけて、やっと通信壕だけを発見した。U字形のその壕は、すっかり陥没して、辛うじて入口らしき痕跡が残っていた。この中で私たちは暗号電報を組立てたり翻訳したりしたのである。終戦のことも、この壕内で知った。文化部の人が言った。

「これが壕の跡とは、誰も気がつかないでしょうなあ」

 居住区の壕は、それらしき方角をしきりに探したが、どうしても見付けることは出来なかった。この方は完全に埋没したのだろう。当時は連絡のための道や小径があったが、今は使われていなくて、草ぼうぼうになっている。

 それから九年余、洞窟はすべて埋没しただろうと思っていたら、先日ある週刊誌に洞窟の一部を京大(?)の地震研究所が使っている写真が出ていた。海沿いの大洞窟だろうと思う。二十八年にはなかったようだから、その後復元されたのか。その写真を見て、一種の切ないような感慨があった。

 

[やぶちゃん注:底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を用いた。底本の解題には『初出紙未詳』とあるのに、昭和三七(一九六二)年十月一日号のクレジットは載っている(不思議である)。

 「稲田登戸」現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。

 「昭和二十八年晩春」とあるが、年譜の昭和二八(一九五三)年の四月の条に続いて、『この頃、九州に旅行、桜島を再訪する』と確かにある。

 「京大(?)」とあるが、学校法人 京都大学 防災研究所 火山活動研究センター 桜島観測所公式サイトを見たが、この旧海軍基地跡を使用した事実は掲載されていないようである。但し、現在の同観測所は南岳の火口から北西約五キロメートルの、桜島港(袴腰)の東約五百メートルの大正溶岩原に位置しているから、過去に一時的に観測に使用した可能性は極めて高いようには思われる。

 第二段落などは「桜島」のキャラクター構築の秘密が語られており、短いながらも、貴重な一篇と言える。]

桜島の八月十五日   梅崎春生

  桜島の八月十五日

 

 もうあれから十五年経つ。いろんな人がさまざまの状態で、さまざまの解放感を味わったことだろう。私の体験は平凡なものだが、十五年の心覚えのために、書きつけて置きたいと思う。

 私は三十歳。海軍二等兵曹。前年の六月の応召兵で、一年ばかり兵隊のままうろうろと苦労した揚句、拙速の下士官教育を受けて出来上った急造下士官で、軍人としてはいっこう筋金が入っていない。兵科は通信料の暗号。所属は、部隊名は忘れたが、なんとか部隊の桜島分遣隊というのである。

 八月十五日。その日は朝から暑かった。なにしろ鹿児島だから、東京あたりとは緯度が違う。沖繩から毎日グラマンなどが飛んで来るので、兵舎などはない。居住区も暗号室も、すべて壕内である。素振りの壕で、風通しが悪く、空気はじとじとと湿っている。

 それにふつうの兵隊なら、午後九時就寝午前六時起床で九時間眠れるが、電信科や暗号科はその間に三時間の夜直があるから、六時間しか眠れない。

 今の私なら、むし暑さと寝不足に負けて、たちまち病人になるところだが、あの頃の私は三十歳だったし、また病院送りになったら大変だという緊張で、どうにかもっていた。

 正午に天皇の放送があるということは、前から判っていた。電報(もちろん暗号電報で、我々がそれを翻訳した)が来ていたからだ。

 でも私は、午前九時から正午までの当直に当っていて、放送は聞けなかった。正午過ぎに居住区に戻って来て、食事をしていた。

 戦争末期にもかかわらず、九州の海軍部隊は実に豊富な食糧を持っていた。同じ鹿児島県でも、陸軍部隊は一食が茶碗一杯しかないというのに、海軍は大きな食器に一杯で、しかも三度三度米ばかりで、一日に四合やそこらは食っていたと思う。おかずも、山海の珍味とまでは行かないが、充分に栄養のあるものを摂取していた。あるいは南九州は米軍上陸の予想地点で、だから食糧も充分確保されていたのかも知れぬ。

 で、その昼飯を食べていると、放送を聞きに行った連中がどやどやと戻って来た。何の放送だったかと開くと、ラジオの性能がわるくて、があがあ言うだけで、ほとんど聞き取れなかったという。

「ますます一所懸命にやれ、という話だろう」

 ということに話は落着いた。

 天皇の放送があるという電報を翻訳した際、どんな内容のものだろうと私が予想したか、残念ながら私の記憶にはない。

 しかし、終戦の放送ではないか、とは考えなかったと思う。鹿児島の新聞社が焼けて新聞は全然来ないし、ニュースといえば暗号電報を通じてだけだから、一体世の中がどう動いているのか、政治や経済がどんな動き方をしているのか、全然めくら桟敷に置かれているのだから、予想が立たなかったのも無理はない。

 戦争が早く終ればいいという気持は、常に私の胸中にとぐろを巻いていたが、天皇の放送をそこに結びつける才覚は働かなかったのだ。

 私の次の当直は午後六時からで、昼食後からその六時まで私が何をしていたか、それも記憶がない。夕食を済ませて六時に暗号室に入り、私は当直長だったから、前直の電報綴りを調べたら、いきなり「終戦」という文字が眼に飛び込んで来て、私はぎくりとした。

 直ぐに私は席を立ち、暗号士のところに行って、戦争が終ったのは本当ですか、と訊ねた。その暗号士は学徒出身の少尉か何かで、海軍入りの前は東京の尾久あたりで小学校の先生をやっていた男だが、ちょっと妙な笑い方をして、

「そうだよ」

 という風にうなずいた。

 それで私は自分の席に戻ったが、居ても立ってもおれない気がして、便所に行くといつわって暗号室を飛び出し、何となくそこらあたりを歩き廻り、そして居住区に戻って来た。

 居住区はがらんとしていて、壕の一番奥に電信の下士官が一人、腰掛けの上に横になっていたので、私はそいつを揺り起し、

「戦争が終ったよ」

 と教えてやったら、その下士官はぼんやりと眼をあけて、うん、と答えた。

 寝ぼけでいて事の重大さを理解しなかったのか、それとも終戦のことをすでに知っていたのか、よく判らない。でも、重大なことを人に知らせてやったことで、私は気持にゆとりを取り戻して壕を出た。

 やはり重大なことは、自分ひとりで受け止めているより、他人に話してしまった方が楽になるものである。

 居住区を出て暗号室に歩く間に、本当の解放感が私の内部にじわじわとひろがって来た。それは陶酔という感じや、酩酊という感じに近かった。そういう感じは、一生に何度とあるものではなかろう。

 その日とその翌日あたりまで、部隊の表情にはほとんど変化がなかった。亢奮(こうふん)のあまりに狂躁(きょうそう)的になることもなく、失望のあまりに、虚脱状態になることもなかった。終戦前の状態とほとんど変らないのである。それを私は今でもふしぎに思う。反応がにぶいのか、それとも抑制していたのか。

 いくらか狂躁的になったのは、その翌々日ぐらいからで、部隊解散と決定したから、物資の分配をおこなう。

「何々分隊靴を取りに来たれ」

「何々分隊食糧かんづめを取りに来たれ」

 という伝令や伝声が次々にやって来て、その度に兵隊が右往左往して、ほとんど仕事に手もつかぬ風になってしまった。

 物資の分配ということになると、人間は俄然活気づくものである。生命がたすかったことよりも、物資の方が重大だとは、ふしぎに思えるけれども、事実だから仕方がない。

 そう申す私にしても、周囲が活気づくから、自然活気づかざるを得なかった。

 物資の配給があったり、演芸会があったり、ざわざわざわと一週間が過ぎた後、退職金の支給があった。少尉はいくら、二等兵曹はいくら、兵はいくらと、退職の金額が掲示され、ただし応召兵は現役兵の七割だという。

 金額指示の電報は私も電報綴りで読んでいたが、応召兵七割の指示は読まなかった。桜島分遣隊の主計科の連中が、勝手にそんな指示をでっち上げて、応召兵たちの退職金のぴんはねをしたんだと思う。

 当時桜島には、千余名の将兵がいたと推定されるが、その八割か九割までが応召の老兵たちで、壕掘りや作業に使役されていた。一人当り百円びんはねをしたとしても十万円。終戦時の十万円だから、話は大きい。

 復員後、南九州各地の海軍部隊からの復員兵に、退職金のことを問いただしてみたが、応召兵七割支給というのは、どこの部隊でもなかった。

 桜島分遣隊だけが、それをやったのである。どさくさまぎれに退職金を横領するなんて、極めて悪質な犯罪である。

 十五年経って、もう遅いかも知れないが、ここに書き記して、告発にかえる。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三五(一九六〇)年に講談社発行の『週刊現代』に連載された総標題「うんとかすんとか」という連載エッセイの第十八回として、同年の敗戦記念日前日のクレジットである八月十四日号に掲載された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を用い、以上の書誌もその解題に拠った。

 底本では三段落目の「沖繩」は「沖縄」であるが、私の字に対する生理感覚から「繩」に代えてある。

 「めくら棧敷」は聾桟敷(つんぼさじき)に同じであろう。江戸時代の歌舞伎小屋で二階正面桟敷の最後部にある最下級席。舞台から最も遠く、台詞もよく聴こえない。現在の三階席や立見席に当たる。通はここで観聴くなどと言われる。「大向こう」「百桟敷」とも呼ぶ。そこから転じて、必要な事柄を知らされずにいる疎外された立場を言う。現行では差別用語であって使用は控えねばならない。「尾久」は「おぐ」と読み、旧東京市尾久町。現在の荒川区北西部に当たる。

 小説「桜島」を解釈する上で、非常に重要な作者の実体験が述べられているのもさることながら(私が梅崎春生の日記に附した一部の解釈の誤りがこれで判明もした)、最後に記されたとんでもない犯罪は許しがたい。春生の遺志を受け継いで、ここに新たに糾弾告発するものである。]

2016/01/06

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (10)~「桜島」完

 

 壕を出ると、夕焼が明るく海に映っていた。道は色褪(あ)せかけた黄昏(たそがれ)を貫いていた。吉良兵曹長が先に立った。崖の上に、落日に染められた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹々に見え隠れした、赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。石塊道(いしころみち)を、吉良兵曹長に遅れまいと急ぎながら、突然瞼を焼くような熱い涙が、私の眼から流れ出た。拭いても拭いても、それはとめどなくしたたり落ちた。風景が涙の中で、歪みながら分裂した。私は歯を食いしばり、こみあげて来る嗚咽(おえつ)を押えながら歩いた。頭の中に色んなものが入り乱れて、何が何だかはっきり判らなかった。悲しいのか、それも判らなかった。ただ涙だけが、次から次へ、瞼にあふれた。掌で顔をおおい、私はよろめきながら、坂道を一歩一歩下って行った。

 

[やぶちゃん注:前パートに続き、昭和二〇(一九四五)年八月十五日の夕刻の桜島がコーダのロケーションである。梅崎春生にはこの翌日八月十六日の日記が底本第七巻に載る。解題を見ると、実際にはもっとあるようであるが、この敗戦の年の日記は七月二十三日・八月二日・八月九日とこの日の四日分しか掲載されていない(全公開が待たれる)。私は既に八月二日と八月九日の分は本作の注で既に電子化しており、七月二十三日分は『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注(7)』の注に電子化してある。以下、八月十六日を引く。この四日分が現在知られている彼の昭和二〇年の日記の総てである。今まで通り、これに限っては恣意的に漢字を正字化して歴史的仮名遣に改めたので注意されたい。但し、「ソ聯」の「聯」の表記は原文のママである。

   *

八月十六日

 十二月八日が突然來たように、八月十五日も突然やつて來た。

 ソ聯の參戰。そして日ならずして昨日、英米ソ支四國宣言を受諾する旨の御宣言を受諾する旨の御宣詔。

 原子爆彈。

 昨日は、朝五時に起きて、下の濱辺で檢便があつた。

 朝食後受診。依然としてカユ食。

 夜九時から當直に行つた折、着信控をひらいて見て、停戰のことを知り、目をうたがふ。これから先どうなるのか。

 領土のこと。軍隊のこと。賠償のこと。

 又、ひいて、國民生活のことなど。いろいろ考へ、眠れず。

   *

日記中の「十二月八日」は謂わずもがな、真珠湾攻撃(日本時間昭和一六(一九四一)年十二月八日未明/ハワイ時間十二月七日)と、開戦の詔勅「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」を指す。「支」は、この時は未だ中華民国(中華人民共和国はこの四年後の一九四九年十月一日建国)。文面から察するにこの時、春生はかなり重い消化器不調を訴えていたようである。「原子爆彈」この時は流石に長崎に二つ目が投下されたことを知っていたであろう。所謂「玉音」、「大東亜戰争終結ノ詔書」にも「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル」とも既にあった以上、春生が長崎原爆投下をこの時点で知らなかったとは考えられない。「夜九時」当初、『日記の書き振りから見て、これは前日十五日の九時ではなく、この十六日のことであろう』と注していたが、後の梅崎春生の桜島の八月十五日によって、これは敗戦当日十五日のことであることが判明した。

 

   ※   ※   ※

 

 最後に私の「桜島」小攷を附す。

 芥川龍之介は「或舊友へ送る手記」(同文は死の当日の昭和二(一九二七)年七月二十四日の夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で久米正雄によって報道機関に発表され、死の翌日の二十五日の『東京日日新聞』朝刊に掲載されたもの。リンク先は私の古いテクスト)で自死の理由を『何か僕の將來に對する唯ぼんやりした不安である』と述べている。彼の自殺の動機は、私は半分が極めてプライベートなものであり、後の半分は当時の日本の軍靴の音から恐懼した作家・文化人への弾圧の予兆、その果てに措定した〈生きながらの死〉のような地獄であったと考えている。

 龍之介の作家としての自死という決着は、当時十二歳で福岡県中学修猷館の一年生であった梅崎春生には強い衝撃を与えたに違いない(彼が詩作に興味を持ったのは十七歳以降、小説「地図」を発表したのは昭和一一(一九三六)年六月二十一歳の時ではある)。

 戦後、早くもこの敗戦の年の十二月に本作「桜島」を発表した以上、梅崎春生は、この「桜島」を、戦後に作家として立つための、何ものにも代えがたい試金石と考えていたに違いない。その時、梅崎春生の中には、芥川龍之介が死を以って拒絶したところの戦前戦中の軍国主義という仮想文化への決別の意識が強く働いていたと考えてよい。龍之介が「死」によって「ノン!」としたところのそれを、春生は生きねばならなかったし、実際に、生き抜いた、のであった。そうして、そのように生きた結果として、国家のために生きることの虚しさと馬鹿馬鹿しさを骨身、否、魂と肉と骨に沁み入るほどに味わったのである。即ちそれは、「ぼんやりした不安」が明確な悪鬼として現前し、春生を使役し、その魂を石臼で微塵に挽いてしまった。そうしてその終末期にあって春生が末期の眼で見、そして得たものとは、まさに村上兵曹が遂に述懐する如く、

「私は、何の為に生きて来たのだろう」? 「何の為に?――」

「私とは、何だろう」? 「生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗より高いものに自惚れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか」? 「私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬せられた瞬間、私は逃げるだろうか」? 「這い伏して助命を乞うだろうか」? 「あるいは一身の矜持を賭けて、戦うだろうか」?

という〈不条理な現実に強引に癒着させられて離れられなくなってしまった自身の肉と魂〉についての根本的なひりつくような疑義であったのだ。そうして、

「それは、その」、「もはや眼前に迫る死のぎりぎりの」「瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった」

という〈一箇の自己へのレゾン・デトール(自己証明)の掻き毟りたくなるような不安の声〉だったのであり、それはまた同時に、あの哀れな枕崎の女郎の生々しい肉声、

「ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの」

と響き合うものである。しかもそれは、見張り兵の惨めな亡骸を前に村上兵曹が心の内で、

「滅亡が、何で美しくあり得よう」!

と叫んだところの〈「ノン!」の声でしかなかった/であった〉のである。

 それは結果して、虚構としての糜爛した繁栄の文化の蔓延する〈たかが/されど〉の戦後世界を――そうした致命的な「死」のトラウマ(心傷)というスティグマ(聖痕)を十字架として背負って、「翳」のように生きることになる/生きねばならないと決意する、孤独な魂の――大叫喚地獄での谺(こだま)となってゆくのである。

 因みに言っておくが、「虚構としての」「文化」というのは、どこぞの戦後の糞評論家の言葉を引いたのではない。梅崎春生の昭和二〇(一九四五)年七月二十三日に桜島の海軍秘密基地で書いた日記に出てくる言葉なのだ(その七月二十三日分全文は『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注(7)』にある)。その中で梅崎春生は戦後をこう〈予言〉しているのである。

   *

 都市は燒かれ、その廢墟の中から、日本が新しい文化を産み出せるかと言ふと、それは判らない。

 しかし、たとへば東京、江戸からのこる狹苦しい低徊的な習俗が亡びただけでもさばさばする。

 平和が來て、先づ外國映畫が來れば、又、日本人は劇場を幾重にも取圍むだらうとふと考へた。

 何か、明治以來の宿命のやうなものが日本人の胸に巣くつてゐる。戰爭に勝つても、此の影は歷然としてつきまとふだらう。それは、つきつめれば東西文化の本質といふ點まで行つてしまふ。

 極言すれば日本には文化といふものはなかつたのだ。

(奈良時代や平安時代、そのやうな古代をのぞいて)あるのは、習俗と風習にすぎない。新しい文化を産み出さねばならぬ。

   *

 禪の公案とは問いであって、答えではない。しかもその公案の答えは、センター試験の国語の小説問題の選択肢の中の、唯一の正答として数十字で示し得るような、チンケな「主題」などという事大主義的詐術とは全く以って無縁である(ああいったものを選べるように現場で指導する国語教師というのは、自分に対して永劫、鳴らせられ続けられる禪師の鈴(りん)の音(ね)をこそ恐懼せねばならぬと言っておく)。

 梅崎春生の「桜島」が示すものも、みじめな生き物のとしての人間が、そうした「死」=「生」=「性」というのものが根源的に持つ謎――意義の不可知性や不条理性――に対する烈しい違和感の「ノン!」を孕んだ疑問を投げつける〈公案〉なのであって、禪機を示す悟達の「暗号」たる胡散臭い模範〈解答〉=国語授業の大団円たる「主題」なんどではないのである。

 しかし、それは対象が虚構であり、不可知であり、不条理である以上、実体を論理的に摑むことは当然、徒労に終わることは眼に見えている。この梅崎春生自身が投げた〈公案〉は禪問答としても、酒のCMで宇野重吉と石原裕次郎が如何にもなクサい演技で掛け合うぐらいしか聴いたことがないくらい、やりにくい公案、哲学が解き明かそうとしてやっきになってきた永遠の課題である。古代ギリシャの昔から今に至るまで、それを解くべく脳味噌を絞った哲人は数知れぬが、しかも未だに誰一人としてその答えを出てはいない。

 それは春生自身も判っていた。しかしそれでも敢えて彼は、それを、この日本の戦後に生きる/生きねばならぬ作家として、問い続けることに決したのである。

 

 さても「影」である。

 

『すると墓地裏の八幡坂の下に箱車(はこぐるま)を引いた男が一人、楫棒(かぢぼう)に手をかけて休んでゐた。箱車はちよつと眺めた所、肉屋の車に近いものだつた。が、側へ寄つて見ると、横に廣いあと口(くち)に東京胞衣(えな)會社と書いたものだつた。僕は後から聲をかけた後(のち)、ぐんぐんその車を押してやつた。それは多少押してやるのに穢(きたな)い氣もしたのに違ひなかつた。しかし力を出すだけでも助かる氣もしたのに違ひなかつた。

 北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。………』(芥川龍之介「年末の一日」終章。リンク先は私の古い電子テクスト。下線は私が附したもの。以下同じ)

ラ・モオルは、――死と云ふ佛蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姊(あね)の夫に迫つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の爲に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つた。僕の影も勿論微笑してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第二の僕のことを思ひ出した。第二の僕、――獨逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亞米利加の映畫俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、當惑したことを覺えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚(かたあし)の飜譯家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に來るのかも知れなかつた。若し又僕に來たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ歸つて行つた。』(芥川龍之介「齒車」「四 まだ?」より)

『松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子硝子(きりこがらす)を透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。………』(芥川龍之介「齒車」「六 飛行機」より)

 

 梅崎春生の「桜島」の、このエンディングにある映像を今一度、あなたの心のスクリーンに映して貰いたい。私得意のシナリオ化を試みてみる。

   *

〇桜島方崎の海軍秘密基地の丘の最上層の壕の入口

――壕から出てくる吉良兵曹長。

――少し遅れて兵曹長の後について出てくる村上兵曹。

――明るく海に夕焼が映っている。山道は色褪せかけた黄昏を貫いている。

――ジャリ! ジャリ! と音を立てて、先に立って、道をもくもくと下ってゆく吉良兵曹長。

――崖の上の、落日に染められた桜島岳。

――ジャリ! ジャリ! と歩く村上兵曹。

――彼が歩くに従い、樹々に見え隠れする赤と青との濃淡に染められた、天上の美しさに見紛う山肌。

――ずんずんと、しっかりした足取りで道を下ってゆく吉良兵曹長。

――石ころ道を吉良兵曹長に遅れまいと急ぐ村上兵曹。

ト。

――突然、瞼(まぶた)を焼くような熱い涙を流しだす村上兵曹。(クロース・アップ)

――拭いても拭いても、とめどなくしたたり落ちる涙。(クロース・アップ)

――涙の中で歪みながら分裂する風景。(村上兵曹の視線で)

――歯を食いしばり、こみあげて来る嗚咽を押えながら歩く村上兵曹(頭の中に色んなものが入り乱れて、何が何だかはっきり判らない、悲しいのか、それも判らない、ただ涙だけが次から次へ瞼にあふれるという感じで)。

――掌で顔をおおう村上兵曹。(バスト・ショット)

――なおも、しっかりした足取りで道を下ってゆく吉良兵曹長の後ろ姿。

――よろめきながら、吉良兵曹長の後ろを一歩一歩下って行く村上兵曹。(F・O)

   *

 ここで主人公村上兵曹は、

初対面から「苦手!」と思わず叫んだ、「彼を憎」んでいるはずの、「背の高い」前を行く「吉良兵曹長に遅れまいと急」ぐ「影」となっている

でことに気づく。「上官だから遅れまいと急」ぐのでは――ない。ここでは実は、

――本来、主人公村上兵曹のトリック・スターであったと思われた吉良兵曹長の、その「影」のはずの男の――まさに、名実ともに――黄昏の中の「影」――となって村上兵曹は坂を下って行く――

のである。

 ヴィトゲンシュタインが言うように――鏡像が我々を説明するのでない。我々が鏡像を説明する――かのように。

村上兵曹=梅崎春生は「影」としての吉良兵曹長にこそ、その現象的内実の一面が隠されている

と読むべきではあるまいか? 

――読者である我々は――このリベラルでアンニュイな村上兵曹や――シニックでクールな心理分析を見せる梅崎春生である以前に――「残忍」「凶暴」な表情をしばしば見せ、「鬼」を内に巣くわせている、しかし、いざとなると「いじめられた子供のように切ない表情」のようなものを見せる凶悪のトリック・スター吉良兵曹長でもある――

のではあるまいか?

 そうして、そうであるように、梅崎春生自身も、村上兵曹の鏡像なのである。

 

 虚構としての糜爛した繁栄の文化の蔓延する戦後世界を、致命的な「死」のトラウマというスティグマを十字架として背負って「影」のように生きることを決意した孤独な魂は――当然――擦り切れざるを得ない。

 魂が擦り切れれば自己同一性を失う。

 致命的にアイデンティティを見失えば、それは、今の「文明」社会に於いては「精神疾患」のレッテルを貼られるしかない。

 そうである。

 それは梅崎春生の遺作「幻化」の主人公久住五郎に他ならぬ。

昭和二十年十二月に突如、小説中のキャラクターとして登場した小説「桜島」の「村上兵曹」は、それより後、二十年の間、「〈戦後の文学〉」という〈小説〉の主要登場人物の一人である「〈小説家梅崎春生〉」となって示現し続けた末に、昭和四十年二月、小説「幻化」の、精神を病んだ主人公「久住五郎」という本地(ほんぢ)として顕現した

のであった。

 そうして、

――「幻化」は作家梅崎春生の「死」ではなく、第二の「生」の再生第一作であった

のである! となるはずだったのである!

 「幻化」のエンディングを見よ!

 死を賭けて阿蘇の噴火口を一周する丹尾に、五郎は胸の中で叫ぶ!

 

「しっかり歩け。元気出して歩け!」

 

……しかし、梅崎春生自身の肉体は皮肉にも、そこで「生」を停止したのであった。……

 

……では……また……私の「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注」或いは「梅崎春生」でお逢いしよう……]

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (9)

 玉音の放送があるから、非番直に全部聞くようにという命令は、その日の朝に出ていた。此の部隊に関係ある電報は一通り目を通していたから、その方面の事態には通じていたとは言え、桜島に来て以来、新聞も読まずラジオも聞かないから、私は浮世の感覚から遠くはなれていた。だから、玉音の放送ということがどういう意味を持つのか、はっきり判らなかった。が、今までにないという意味から、重大なことらしいという事は想像出来た。不安が、私をいらだたせた。

 午前中の当直であったから、私は聞きに行けない。当直が終り、すぐ居住区に戻って来た。放送は、山の下の広場であった。そこに皆が集って聞いている筈(はず)であった。居住区で飯を食べ終っても、放送を聞きに行った兵隊たちは帰って来なかった。

「ずいぶん長い放送だな」

 私は莨(たばこ)に火をつけ、壕の入口まで出て行った。見下す湾には小波が立ち、つくつく法師があちらでもこちらでも鳴いていた。日ざしは暑かったが、どことなく秋に向う気配があった。目をむけると、三々五々、兵たちが居住区に戻って来る。放送が終ったのらしかった。

「何の放送だった」

 壕に入ろうとする若い兵隊をつかまえて、私は聞いた。

「ラジオが悪くて、聞えませんでした」

「雑音が入って、全然聞き取れないのです」

 も一人の兵隊が口をそえた。

「それにしても長かったな」

「放送のあとで、隊長の話があったのです」

「どういう話なんだ」

――皆、あまり働かないで、怠けたり、ずる寝をしたがる傾きがあるが、戦争に勝てば、いくらでも休めるじゃないか、奉公するのも、今をのぞいて何時奉公するんだ、と隊長は言われました」

「戦争に勝てば、と言ったのか」

「はい」

 敬礼をして、兵隊は壕の中に入って行った。私は、莨を崖の下に捨てると、暗号室の方に歩き出した。

 昨日、通信長が、暗号室に入って来て、暗号書の点検をし、こういう情勢で何時敵が上陸して来るか予測を許さんから、その時にあわてないように、不用の暗号書、あまり使わない暗号書は、焼いてしまったがよかろうと言った。今日午後、それを燃すことになった。私も、それに立会おうと思った。

 暗号室に近づくと、二三人の兵隊が、それぞれ重そうな木箱をかついで来るのに出会った。

「暗号書かね」

「そうです」

 私達は山の上につづく道を登って行った。私と同じ階級の電信の下士が、ガソリンの瓶(びん)を持って後につづくのと一緒に、私も肩をならべて山の方に引き返して歩いた。

 林を隔てて、見張台と反対の斜面に一寸した窪みがあって、兵隊はそこに木箱を下し、腰かけて汗をふいていた。私達が近づくと、それぞれ立ち上って、箱から暗号書を出し始めた。皆赤い表紙の、大きいのや小さいの、手摺(てず)れしたのやまだ新しい暗号書が、窪みにうずたかく積まれた。

 電信の下士が向う側に廻って、一面にガソリンをふりかけた。私がマッチをすった。青い焰が燃え、赤い表紙が生き物のように反(そ)り始め、やがてそれが赤い焰になって行った。かすかな哀惜の思いに胸がつまった。私は電信の下士官に話しかけた。

「今日の放送は、何だったのかな」

「さあ本土決戦の詔勅だろうと言うのだがね」

「誰が言ったんだね」

「電信長もそう言ったし、吉良兵曹長もそんなことを言った」

 私は焰を眺めていた。熱気が風の具合でときどき顔にあたった。厚い暗号書は燃え切れずにくすぶったと思うと、また頁がめくれて新しく燃え上った。煙がうすく、風にしたがって空を流れた。布地の燃える臭いが、そこらにただよっていた。時々、何か燃えはじける音がして、火の粉がぱっと散った。

「いよいよ上陸して来るかな」

 棒で暗号書をつつき、かき寄せると、また新しい焰が起った。煙がさらにかたまって上った。

「あまり煙を出すと、グラマンが来たとき困るぞ」

「今日も来ないよ。昨日も来なかったから」

 そう言えば、グラマンは、見張の男を殺した日を最後に、昨日も一昨日も姿を見せなかった。飛行機が来ないということは、上陸の期がいよいよ迫って来ているせいではないかと思った。散発的な襲撃を止めて、大挙行動する整備の状態にあるのではないか。

(上陸地点が、吹上浜にしろ、宮崎海岸にしろ、どの途(みち)此処は退路を断たれる)

 山の中に逃げ込むとしても、幅の薄い山なみで逃げ終(おお)せそうにもない。ことに、此処は水上特攻基地だから、震洋艇か回天が再び還らぬ出発をした後は、もはや任務は無い筈であった。小銃すら持たない部隊員たちに、その時どんな命令が出るのだろう。

 ぼんやり焰の色を見ていた。焰は、真昼の光の中にあって、透明に見えた。山の上は、しんと静かであった。物の爆(は)ぜる音だけが、静かさを破った。兵隊が話し合う声が、変に遠くに聞えた。なびく煙の向うに、桜島岳が巨人のようにそびえていた。その山の形を眺めているうちに、静かな安らぎが私の心に湧き上って来た。

 退路を断たれようとも、それでいいではないか。何も考えることは止そう。従容(しょうよう)とは死ねないにしても、私は私らしい死に方をしよう。私の死骸が埋まって、無機物になってしまったあとで、日本にどんなことが起り、どんな風に動いて行くか、それはもはや私とは関係のないことだ。あわてず、落着いて、死ぬ迄は生きて行こう。――

「村上兵曹。この木箱も燃しますか」

「うん。燃してしまえ」

 木箱は音を立ててこわされ、次々に投げ込まれた。新しい材料を得て、焰は飴(あめ)のように粘(ねば)っこく燃え上った。何気なく手をポケットに入れた。何かがさがさした小さなものが手指に触れた。つかんで、取り出した。一昨昨日捕えたつくつく法師の死骸であった。すっかり乾いていて、羽は片方もげていた。私の掌の上で転(ころ)がすと、がさがさと鳴った。他の者に見られないようにそっと、私はそれを火の中に投げこんだ。燃え焦(こが)れた暗号書の灰の中に、それは見えなくなった。

 死ぬ瞬間、人間は自分の一生のことを全部憶(おも)い出すとか、肉体は死んでも脳髄は数秒間生きていて劇烈な苦痛を味わっているとか、死んだこともない人間によって作られた伝説は、果して本当であろうか。見張の男の死貌(しにがお)はまことにおだやかであったけれども、人間のあらゆる秘密を解き得て死んで行った者の貌(かお)ではなかった。平凡な、もはや兵隊でない市井人(しせいじん)の死貌であった。私が抱き起したとき見た、着ている服の襟の汚れを、何故か私はしみじみ憶い出していた。――

 夕方になって、暗号書は燃え尽きた。灰をたたいて、燃え残りがないかを確かめて、私等は戻って来た。

 居住区に入ると、奥に吉良兵曹長が腰をおろしていた。片手に軍刀を支え、湯呑みから何かのんでいた。アルコールに水を割ったものらしかった。かすかにその匂いがした。

「焼いてしまったか」

「もう、すみました」

 私は手に持った上衣を寝台にかけ、卓の方に近づいた。

「兵隊」

 衣囊の整理をしていたらしい兵隊が、急いで吉良兵曹長のところに来た。

「暗号室に行ってな、今日の御放送の電報が来ていないか聞いて来い」

 兵は敬礼をすると、急ぎ足で壕を出て行った。他に兵は誰も居なかった。壕内は、私と兵曹長だけだった。皆、相変らず穴掘りに行ったのらしかった。私は吉良兵曹長に向き合って腰かけた。吉良兵曹長は例の眼で私を見返した。しゃがれた声で言った。

「いよいよ上陸して来るぞ。村上兵曹」

「今日の放送が、それですか」

「それは、判らん。此の二三日、敵情の動きがない。大規模の作戦を企(たくら)んでいる証拠だ。覚悟は出来ているだろうな」

 嘲(あざ)けるような笑い声を立てた。

「もし、上陸して来れば――此の部隊はどうなりますか」

「勿論、大挙出動する」

「いや、特攻隊は別にして、残った設営の兵や通信科は」

 俄(にわ)かに不機嫌な表情になって、私の顔を見て、湯呑みをぐっと飲みほした。

「戦うよ」

「武器は、どうするんです。しかも、補充兵や国民兵の四十以上のものが多いのに――

「補充兵も、戦う!」

 たたきつけるような口調であった。

「竹槍がある」

「訓練はしてあるのですか」

 私を見る吉良兵曹長の眼に、突然兇暴な光が充ちあふれた。臆してはならぬ。自然に振舞おう。私はそう思い、吉良兵曹長の眼を見返した。

「訓練はいらん。体当りで行くんだ。村上兵曹、水上特攻基地に身を置きながら、その精神が判らんのか」

「何時出来るか判らない穴を掘らせる代りに訓練をしたらどうかと、私は思います」

 全身が熱くなるような気になって、私も言葉に力が入った。吉良兵曹長は、すっくと立ち上った。卓を隔てて、私にのしかかるようにして言った。

「俺の方針に、絶対に口を出させぬ。村上。余計なことをしゃべるな」

 言い知れぬ程深い悲しみが、俄かに私を襲った。心の中の何かが、くずれ落ちて行くのを感じながら、私は身体を反(そ)らせ、じっと吉良兵曹長の眼に見入った。吉良兵曹長の声が、がっと落ちかかって来た。

「敵が上陸したら、勝つと思うか」

「それは、わかりません」

「勝つと思うか」

「勝つかも知れません。しかし――

「しかし?」

「ルソンでも日本は負けました。沖繩も玉砕しました。勝つか負けるかは、その時にならねばわからない――

「よし!」

 立ち断(き)るように吉良兵曹長はさけんだ。獣のさけぶような声であった。硝子玉(ガラスだま)のように気味悪く光る瞳を、真正面に私に据えた。

「おれはな、敵が上陸して来たら、此の軍刀で――

 片手で烈しく柄頭(つかがしら)をたたいた。

「卑怯未練な奴をひとりひとり切って廻る。村上。片っぱしからそんな奴をたたっ切ってやるぞ。判ったか。村上」

 思わず、私も立ち上ろうとしたとたん、壕の入口から先刻の兵が影のように入って来た。つかつかと私達の処に近づいた。両足をそろえると、首を反(そ)らしてきちんと敬礼した。はっきりした口調で言った。

「昼のラジオは、終戦の御詔勅であります」

「なに!」

 卓に手をついて腰を浮かせながら、私は思わずさけんだ。

「戦争が、終ったという御詔勅であります」

 異常な戦慄が、頭の上から手足の先まで奔(はし)った。私は卓を支える右手が、ぶるぶるとふるえ出すのを感じた。私は振り返って、吉良兵曹長の顔を見た。表情を失った彼の顔で、唇が何か言おうとして少しふるえたのを私は見た。何も言わなかった。そのままくずれるように腰をおろした。やせた頰のあたりに、私は、明かに涙の玉が流れ落ちるのをはっきり見た。私は兵の方にむきなおった。

「よし。すぐ暗号室に行く。お前は先に行け」

 私は卓をはなれた。興奮のため、足がよろめくようであった。解明出来ぬほどの複雑な思念が、胸一ぱいに拡がっては消えた。上衣を掛けた寝台の方に歩きかけながら、私は影のようなものを背後に感じて振り返った。

 乏しい電灯の光の下、木目の荒れた卓を前にし、吉良兵曹長は軍刀を支えたまま、虚ろな眼を凝然と壁にそそいでいた。卓の上には湯呑みが空(から)のまま、しんと静まりかえっていた。奥の送信機室は、そのまま薄暗がりに消えていた。

 私はむきなおり、寝台の所に来た。上衣を着ようと、取りおろした。何か得体(えたい)の知れぬ、不思議なものが、再び私の背に迫るような気がした。思わず振り返った。

 先刻の姿勢のまま、吉良兵曹長は動かなかった。天井を走る電線、卓上の湯呑み、うす汚れた壁。何もかも先刻の風景と変らなかった。私は上衣を肩にかけ、出口の方に歩き出そうとした。手を通し、ぼたんを一つ一つかけながら、異常な気配が突然私の胸をおびやかすのを感じた。私は寝台のへりをつかんだまま三度ふり返った。

 卓の前で、腰掛けたまま、吉良兵曹長は軍刀を抜き放っていた。刀身を顔に近づけた。乏しい光を集めて、分厚な刀身は、ぎらり、と光った。憑(つ)かれた者のように、吉良兵曹長は、刀身に見入っていた。不思議な殺気が彼の全身を包んでいた。彼の、少し曲げた背に、飢えた野獣のような眼に、此の世のものでない兇暴な意志を私は見た。寝台に身体をもたせたまま、私は目を据えていた。不思議な感動が、私の全身をふるわせていた。膝頭が互いにふれ合って、微かな音を立てるのがはっきり判った。眼を大きく見開いたまま、血も凍るような不気味な時間が過ぎた。

 吉良兵曹長の姿勢が動いた。刀身は妖(あや)しく光を放ちながら、彼の手にしたがって、さやに収められた。軍刀のつばがさやに当って、かたいはっきりした音を立てたのを私は聞いた。その音は、私の心の奥底まで沁みわたった。吉良兵曹長は軍刀を持ちなおし、立ち上りながら、私の方を見た。そして沈痛な声で低く私に言った。そのままの姿勢で、私はその言葉を聞いた。

「村上兵曹。俺も暗号室に行こう」

 

[やぶちゃん注:「玉音」天皇の肉声の意であるがここは玉音放送で、昭和二〇(一九四五)年八月十五日正午に社団法人「日本放送協会」(現在のNHKラジオ第一放送)から放送された当時の今上天皇(昭和天皇・裕仁)による終戦の詔書。ウィキの「玉音放送」によれば、正午以降に玉音盤を再生した狭義の玉音放送は約五分であったが、その前後に行われた終戦関連ニュース放送等(詔書の前後には「君が代奏楽」もある)を含む放送時間は約三十七分半もあったとある。主人公村上兵曹は当直であったためにこれを聴いていない。従って、その詔書をここに電子化する必要を私は認めない。リンク先にあるのでそれを参照されたい。

「小銃」ライフル銃。

「従容(しょうよう)」ゆったりと落ち着いている様子。

「ルソンでも日本は負けました」ルソン島(フィリピン語:Luzon)は現在のフィリピン共和国のフィリピン諸島の北に位置する最も面積の大きな島。首都マニラやケソンを擁する現在のフィリピンの政治・経済でも最も重要な位置を占める島である。当時のフィリピンアメリカ合衆国の保護国でフィリピン自治領であったが、昭和一六(一九四一)年十二月、アメリカ合衆国軍との間に開戦した大日本帝国軍がアメリカ合衆国軍を放逐してマニラ市に上陸、アメリカ合衆国陸軍司令官ダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、大日本帝国陸軍は翌昭和十七年上半期中にフィリピン全土を占領した。その後、昭和一九(一九四四)年から昭和二〇(一九四五)年にアメリカ軍を中心とする連合国軍はフィリピン奪回を目指し、防衛する日本軍との間で戦闘が行われた。日本軍は「捷一号作戦」と呼ばれる計画に基づいて防衛を試みたが、連合軍が勝利を収めた。その「フィリピンの戦い」中でもここで言うのは「ルソン島の戦い」で、昭和二〇(一九四五)年一月六日から終戦までフィリピン・ルソン島で行われた日本軍(第十四方面軍:司令官山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを指している。日本の敗戦まで戦闘は続いたものの、首都マニラは同年三月にアメリカ軍が制圧しており、村上兵曹のこの言葉はそのマニラ陥落時を指している(以上は複数のウィキペディアの記載を参考にした)。]

2016/01/05

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (8)

 丘を降りて、船着場の放水塔の下で洗濯をした。雲は無く暑かったけれども、風は絶えず東南の方向から吹いていた。洗濯物のかわきも早いだろうと思われた。放水塔の周囲には、兵隊が沢山集って洗濯をしていた。ほとんど、年多い兵隊ばかりであった。私の隣に洗濯していた兵が、もひとりの兵に話しかけるのを聞いた。

「ソ連が、参戦したそうじゃないか」

「うん」

 それ切り黙ってしまった。話しかけられた兵隊は、何か不機嫌な顔をしていた。彼等の洗う石鹼の泡が、白くふくれてかたまったまま、私の前の水溝に流れて来た。

 鹿児島の新聞社が焼けてからというものは、此の部隊に新聞は入って居ない筈であった。掌暗号長が兵たちに、ソ連参戦のことを外に洩らすなと訓示しているのを私は聞いたが、それにも拘(かかわ)らず何時の間にか拡がっているらしかった。怠業の気分が、部隊一般にかすかにただよっていた。どの点がそうだと指摘は出来ないが、腐臭のようにかぎわけられた。海岸沿いの道端に天幕を張って、士官達は一日中ごろごろしていたし、もっこを持って壕を出入する兵隊も、何かのろのろした動作であった。

 海沿い道を通り、洗濯物をかかえて、私は丘を登った。居住区の前の樹に、洗濯物を注意して拡げた。上空から見えると、うるさいのである。私は壕の中に入り、衣囊(いのう)の中から便箋を出した。私は卓の前にすわり、便箋を前にのべ、そしてじっと考えていた。

 暫(しばら)くして、便箋の第一行目に、私は、「遺書」と書いた。ペンを置いて、前の壁をじっと眺めた。

 書くことが、何も思い浮ばなかった。書こうと思うことが沢山あるような気がしたが、いざ書き出そうとすると、どれもこれも下らなかった。誰に宛てるという遺書ではなかった。次第に腹が立って来た。私は立ち上って、それを破り捨てた。

 壕を出、丘の上の方に登って行きながら、私は哀しくなって来た。遺書を書いて、どうしようという気だろう。私は誰かに何かを訴えたかったのだ。しかし、何を私は訴えたかったのだろう。文字にすれば嘘(うそ)になる。言葉以前の悲しみを、私は誰かに知って貰いたかったのだ。

(このことが、感傷の業と呼ばれようとも、その間だけでも救われるならそれでいいではないか)

 道は尽き、林に入った。見張台に行く方向である。あの健康な展望が、私の心をまぎらして呉れるかも知れない。私は、空を仰いだ。入り組んだ梢を通す斑(まだら)の光線が、私の顔に当った。

 ふと、聞き耳を立てた。降るような蟬の鳴声にまじって、微(かす)かに爆音に似た音が耳朶(じだ)を打った。林のわきに走り出て、空を仰いだ。しんしんと深碧(ふかみどり)の光をたたえた大空の一角から、空気を切る、金属性の鋭い音が落ちて来る。黒い点が見えた。見る見る中に大きくなり、飛行機の形となり、まっしぐらに此の方向に翔(かけ)って来るらしかった。危険の予感が、私の心をかすめた。此処を、ねらって来るのではないか。林の中に走り入り、息をはずませながら、なお走った。恐怖をそそるようないやな爆音が、加速度的に近づき、私の耳朶の中でふくれ上る。汗を流しながら、なお林の奥に駆け入ろうとした時、もはや爆音の烈しさで真上まで来ていたらしい飛行機から、突然足もすくむような激烈な音を立てて、機銃が打ち出された。思わずそこに打ちたおれ、手足を地面に伏せたとたん、飛行機の黒い大きい影が疾風のように地面をかすめ去った。

 地面に頰をつけたまま、私は眼を堅くつむっていた。動悸が堪え難い程はげしかった。咽喉(のど)の処に、何かかたまりのようなものがつまって居るようであった。あえぎながら、私は眼を開いた。真昼の、土の臭いが鼻をうった。爆音はようやく遠ざかった。

 のろのろと立ち上り、埃をはたいた。手拭いで汗をふきながら、梢の間から空をすかして見た。飛行機は、もはや遠くに去ったらしかった。私は歩き出した。

 此の前、見張台でグラマンを見たとき、私は狼狽(ろうばい)はしたけれど、恐いとは思わなかったのだ。今、私をとらえたあの不思議な恐怖は何であろう。歯の根も合わぬような、あのひどい畏(おそ)れは、何であろう?

 此の数日間の、死についての心の低迷が、ひびのように、私の心に傷をつけたに違いなかった。死について考えることが、生への執着を逆にあおっていたに違いなかったのだ。見張台に近い小径(こみち)を登りながら、私は、唇歪めて苦笑していた。

(遺書を書こうという人間が、とかげのように臆病に、死ぬことから逃げ廻る)

 自嘲が、苦々しく心に浮んで来た。

 見張台に登りつめた。見渡しても、例の見張の男は見えないようであった。ふと栗の木のかげに、白いものが見えた。

(まだ、待避をしているのか?)

 訝(いぶ)かしく思いながら、近づいて行った。伏せた姿勢のまま、見張の男は、栗の木の陰に、私の跫音(あしおと)も聞えないらしく、じっと動かなかった。地面に伸ばした両手が、何か不自然に曲げられていた。土埃にまみれた半顔が、変に蒼白かった。私はぎょっとして、立ち止った。草の葉に染められた毒々しい血の色を見たのだ。総身に冷水を浴びせかけられたような気がして、私は凝然(ぎょうぜん)と立ちすくんだ。

「…………」

 死体が僅かに身体をもたせかけた栗の木の、幹の中程に、今年初めてのつくつく法師が、地獄の使者のような不吉な韻律を響かせながら、静かに、執拗に鳴いていたのだ。突然焼けるような熱い涙が、私の瞼のうちにあふれて来た。

(此の、つくつく法師の声を聞きながら、死んで行ったに違いない!)

 片膝をついて、私は彼の身体を起そうとした。首が、力なく向きをかえた。無精鬚(ぶしょうひげ)をすこし伸ばし、閉じた目は見ちがえるほど窪んで見えた。弾丸は、額を貫いていた。流れた血の筋が、こめかみまでつづいていた。苦悶の色はなかった。薄く開いた唇から、汚れた歯が僅か見えた。不気味な重量感を腕に感じながら、私は手の甲で涙をふいた。

 とうとう名前も、境遇も、生国も、何も聞かなかった。私にとって、行きずりの男に過ぎない筈であった。滅亡の美しさを説いたのも、此処で死ななければならぬことを自分に納得させる方途ではなかったのか。不吉な予感に脅(おび)えながら、自分の心に何度も滅亡の美を言い聞かせていたに相違ない。自分の死の予感を支える理由を、彼は苦労して案出し、それを信じようと骨折ったにちがいなかったのだ。

(滅亡が、何で美しくあり得よう)

 私は歯ぎしりをしながら、死体を地面に寝せていた。生き抜こうという情熱を、何故捨てたのか。自分の心を言いくるめることによって、つくつく法師の声を聞きながら、此の男は安心してとうとう死んでしまったのだ。

 風が吹いて、男の無精鬚はかすかにゆらいだ。死骸は、頰のあたりに微笑をうかべているように見えた。突然、親近の思いともつかぬ、嫌悪の感じともちがう、不思議な烈しい感情が、私の胸に湧き上った。私は、立ち上った。栗の木の下に横たわった死体の上に、私は私のよろめく影を見た。

 大きな呼吸をしながら、私は電話機の方に歩いた。受話器を取った。声が、いきなり耳の中に飛び込んで来た。

「グラマンはどうした。もう行ったのか」

「見張の兵は、死にました」

「え? グラマンだ。何故早く通報しないか」

「――見張は、死にました」

 私はそのまま受話器をかけた。

 男の略帽を拾い上げた。死体の側にしゃがみ、それで顔をおおってやった。立ち上った。息を凝(こ)らしながら、身体をうごかし、執拗に鳴きつづけていたつくつく法師をぱっととらえた。規則正しい韻律が、私の掌の中で乱れた鳴声に変った。物すごい速度で打ちふるう羽の感触が、汗ばんだ掌に熱いほど痛かった。生れたばかりの、ひよわな此の虫にも此のような力があるのか。残忍な嗜虐(しぎゃく)が、突然私をそそった。私は力をこめて掌の蟬を握りしめると、そのまま略服のポケットに突っ込んだ。蟬の体液が、掌に気味悪く拡がった。それに堪えながら、私は男の死体を見下していた。

 丘の下からは、まだ誰も登って来なかった。軽い眩惑が、私の後頭部から、戦慄を伴(ともな)って拡がって行った――

 

[やぶちゃん注:本「桜島」の一番のクライマックス・シークエンスである。前パートが八月九日夜で、この次のパートが八月十五日であるから、その間の八月十日から十四日までの閉区間が時制となるが、冒頭の洗濯する兵らのソ連参戦の会話と新聞云々の叙述からは、九日の翌日ではなく、八月十一日か十二日辺りのようには読め、さらに次の八月十五日のパートで「グラマンは、見張の男を殺した日を最後に、昨日も一昨日も姿を見せなかった」とあるから、十四日も十三日も外れ、そうしてその後に実は――「一昨昨日捕えたつくつく法師」――という描写が出る。従ってこの日は昭和二〇(一九四五)年八月十二日であることが判るのである私は高校教師時代、この箇所をセンター向けの現代文問題集の中に見出し、面白がって改変し、実力テストに出したという、実におぞましい記憶がある。だからこそここでは、多くを注したくない。静かに読まれたい。

「略服」前に注した軍服の下の事業服或いは作業服を指しているようである。彼は洗濯を終えて着替えていないので作業服であろう。]

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (7)

 午後の当直を終えて外に出ると、夕焼雲が空に明るかった。今日は麦酒(ビール)の配給があったと言って、交替に来た兵の中には、目縁(まぶち)を赤くしているのも居た。私が当直に立っているとき、交替時の直ぐ前だったか、緊急信が一通来た。私がそれを訳した。

 居住区の方に戻りながら、私はその電報のことを考えていた。それは決定的な内容を持った電報であった。

 居住区に入って行くと、通路の真中に卓を長く連ね、両側にそれぞれ皆腰かけ、卓の上は麦酒瓶(ビールびん)の行列であった。煙草の煙が奥深くこもり、瓶やコップの触れる音がかちかち響いた。奥の方に通り抜け、私の席についた。食器に麦酒がトクトクとつがれるのを眺めながら、私は此の騒然たる雰囲気に何か馴染(なじ)めない気がした。卓が白い泡で汚れている。私は上衣を脱ぐと、口に食器を持って行った。生ぬるい液体が、快よい重量感をもって、咽喉(のど)を下って行った。

 私の前には、電信の先任下士と吉良兵曹長が腰をおろしていた。先任下士は頰を赤くしていたが、吉良兵曹長はむしろ青く見えた。そしてその話し声がふと私の耳をとらえた。

「大きなビルディングが、すっかり跡かたも無いそうだ」

「全然、ですか」

「手荒くいかれたらしいな」

「どこですか」

「広島」

 ぼんやり聞いていた。吉良兵曹長がふと私の方に向きなおった。

「村上兵曹。何か電報があったか」

 濁ったその眼が、射るように光った。交替前の電報のことが、再び頭をよぎった。

「ソ連軍が、国境を越えました」

 私の言葉が、吉良兵曹長に少なからぬ衝動を与えたらしかった。しかし、表情は変らなかった。黙ってコップをぐっとほした。長い指で、いらだたしげに卓の上を意味なく二三度たたいた。

「参戦かね」

「それはどうか判りません。電報では、交戦中と言うだけです」

 私は吉良兵曹長の顔をじっと見つめていた。無表情な頰に、何か笑いに似たものが浮んだ。ぞっと身をすくませるような、残忍な笑いだった。私は思わず目を外(そ)らした。食器をかたむけて、麦酒を口の中に流し込んだ。再び瓶を傾けて、食器についだ。酔いがようやく廻って来るらしかった。手足の先がばらばらにほぐれるような倦怠感が、快よく身内にしみ渡って来た。

 ずっと向う側の卓で、話し声が漸(ようや)く高くなって来た。上半身裸になって、汗が玉になって流れている。出口の方に、黄昏(たそがれ)の色がうすれかかった。どうにでもなれと思って、私は肱(ひじ)を卓についたまま、ついでは飲み、ついでは飲んだ。

 次第に酔いが廻って来て、何だかそこらがはっきりしないような気持になって来た。いろいろとめ度もないことが、頭に浮んで消えた。坊津(ぼうのつ)のことをぼんやり考えていた。あの頃はまだ良かった。坊津郵便局の女事務員は、私が転勤するというので、葉書二十枚をはなむけに呉れた。衣囊(いのう)の底に、それはしまってある。まだ一枚も使わない。

 ふと自責の念が、鋭く私を打った。桜島に来て以来、私は家にも便りを出さない。桜島に来て居ることすら、私の老母は知らないだろう。私の兄は、陸軍で、比島にいる。おそらくは、生きて居まい。弟はすでに、蒙古(もうこ)で戦死した。俄(にわ)かに荒々しいものが、疾風のように私の心を満たした。此のような犠牲をはらって、日本という国が一体何をなしとげたのだろう。徒労と言うには――もしこれが徒労であるならば、私は誰にむかって怒りの叫びをあげたら良いのか?

 洞窟にこもった話し声が、騒然とくずれ始めたと思うと、出口近くの卓から、調子外(はず)れの歌声が突然起り、そしてそれに和すいろいろの声がそれに加わった。歌は「同期の桜」であった。麦酒瓶の底で卓をたたく。歌声は高く低く乱れながら、新しい歌に代って行った。卓についた肱に、卓を打つ振動が伝わって来る。眼が据(すわ)って来るのが、自分でもわかった。更に新しい麦酒を傾けて、一息にのみほした。

 黙ってしきりに麦酒をほしていたらしい吉良兵曹長が、身体(からだ)をずらして私の正面にむきなおった。もはや上半身は裸になっていた。堅そうな、筋肉質の肩の辺が、汗にぬれて艶々(つやつや)と光った。低い、いどみかかるような声で私に言った。

「兵隊どもに、戦争は今年中に終ると言ったのか。え。村上兵曹」

「そんなことは言いません」

 あの厭な、マニヤックな眼が、私の表情に執拗にそそがれている。何気なく振舞おうと思った。飲みほそうと食器を持った手が少しふるえた。

「此のように決戦決戦とつづけて行けば、どちらも損害が多くて、長くつづけられないだろうというようなことは、あるいは言ったかも知れません」

 そう言いながら、私は自らの弱さが、かっとする程腹が立って来た。私もじっと彼の顔を見据えながら言った。

「どうでもいいことじゃないですか。そんな馬鹿げたこと」

「今年中に終るか」

 執拗な口調であった。少し呂律(ろれつ)が怪しくなっているらしかった。

「村上兵曹。死ぬのはこわいか」

「どうでもいいです」

「死ぬことが、こわいだろう」

 瞳の中の赤い血管まではっきり見えるほど、私は彼の顔に近づいた。酔いが私を大胆にした。私は、顔の皮が冷たくなるような気持で、一語一語はっきり答えた。

「私が、こわがれば、兵曹長は満足するでしょう」

 はげしい憎悪の色が、吉良の眼に一瞬みなぎったと思った。それは咄嗟(とっさ)の間であった。立ち上るなと感じた。立ち上らなかった。吉良兵曹長は、首を後ろにそらせながら、引きつったような声で笑い出した。声は笑っていたが、顔は笑っていなかった。卓の下で握りしめていた私の掌に、今になって脂(あぶら)がにじみ出て来た。

 一人の兵隊が、卓からはなれて、よろめいて来た。歌声は乱れながら、雑然と入りまじった。

「兵曹長。踊ります」

「よし、踊れ」

 笑いを急に止めて、吉良兵曹長は叱りつけるような声でそう言った。

 その兵隊は、半裸体のまま、手を妙な具合に曲げると、いきなりシュッシュッと言いながら、おそろしくテンポの早い出鱈目(でたらめ)の踊りを踊り出した。よろめく脚を軸として、独楽(こま)のように廻った。手を猫の手のようにまげて、シュッシュッという合の手と共に、上や下に屈伸した。歌声が止み、濁った笑い声が、それに取って代った。

「何だい、そりゃあ」

「止めろ、止めろ」

 兵隊は、ますます調子を早めて行った。目が廻るのか、額を流れる汗が眼に入るのか、眼をつむったまま憑(つ)かれたもののように身体を烈しく動かした。よろめいて、身体を壕の壁で支えた。電灯の光まで土埃(つちぼこり)がうっすらと上って来た。けろりとした顔付になって兵隊は敬礼をした。

「終りました。四国の踊りであります」

 歌い声が新しく起った。何か弥次が飛んだようだけれど、はっきり聞えない。向うの方で、麦酒瓶が砕ける音がした。そして、雑然たる合唱がはじまった。

 

  さらばラバウルよ 又来るまでは

  しばし別れの 涙がにじむ

 

 私は、眼をつむった。動悸が胸にはげしかった。掌で、顎(あご)を支えた。顔についた土埃のため、ざらざらとした。頭がしんしんと痛かった。じっと一つのことを考えて居た。

 死ぬのは、恐くない。いや、恐くないことはない。はっきりと言えば、死ぬことは、いやだ。しかし、どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。――このまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにも惨(みじ)めではないか。生れて以来、幸福らしい幸福にも恵まれず、営々として一所懸命何かを積み重ねて来たのだが、それも何もかも泥土にうずめてしまう。しかしそれでいいじゃないか。それで悪いのか。私は思わず、吉良兵曹長に話しかけていた。

「吉良兵曹長。私も死ぬなら、死ぬ時だけでも美しく死のうと思います」

 残忍な微笑が、吉良兵曹長の唇にのぼった。毒々しい口調で、きめつけるように言った。

「おれはな、軍隊に入って、あちらこちらで戦争して来た。支那戦線にもいた。比律賓(フィリッピン)にもいたんだ。村上兵曹。焼け焦げた野原を、弾丸がひゅうひゅう飛んで来る。その間を縫って前進する。陸戦隊だ。弾丸の音がするたびに、額に突き刺さるような気がする。音の途断(とだ)えた隙(すき)をねらって、気違いのように走って行く。弾丸がな、ひとつでも当れば、物すごい勢で、ぶったおれる。皆前進して、焼け果てた広っぱに独りよ。ひとりで、もがいている。そのうちに、動かなくなり、呼吸をしなくなってしまう。顔は歪(ゆが)んだまま、汚い血潮は、泥と一緒に固まってしまう。日が暮れて、夜が明けて、夕方鴉(からす)が何千羽とたかり、肉をつつき散らす。蛆(うじ)が、また何千匹よ。そのうち夜になって冷たい雨が降り、臂(ひじ)の骨や背骨が、白く洗われる。もう何処の誰ともわからない。死骸か何か、判らない。村上兵曹。美しく死にたいか。美しく、死んで行きたいのか」

 言い終ると、身の毛もすくむような不快(いや)な声でわらい出した。じっと堪えながら、私は谷中尉のことを思っていた。あの若い元気な中尉も、美しく死にたいという考えは、感傷に過ぎぬと話して聞かせた。しかしそれが何であろう。虚無が、谷中尉にしろ吉良兵曹長にしろ、その胸に深い傷をえぐっているに過ぎぬ。私がもつ美しく死にたいというひそやかな希願と、何の関係があるか。

 不思議な悲哀感が、私を襲った。私は、再び吉良兵曹長の方は見ず、虚(うつ)ろな眼(まな)ざしを卓の上に投げていた。騒ぎはますます激しくなって行くようであった。昏迷しそうになる意識に鞭(むち)打ち、私は更に麦酒を口の中にそそぎ込んだ。かねてから私を悩ます、ともすれば頭をもたげようとするのを無意識のうちに踏みつぶし踏みつぶして来たあるものが、俄(にわ)かにはっきりと頭の中で形を取って来るらしかった。私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に?――

 私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗より高いものに自惚(うぬぼ)れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬(ぎ)せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の矜持(きょうじ)を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。

(ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの)

 耳の無いあの妓(おんな)がこう聞いた時、その声は泣いているようでもあったし、また発作的な笑いを押えているような声でもあった。酔いの耳鳴りの底で、私は再び鮮かにその幻(まぼろし)の声を聞いた。私は首を反(そ)らして、壁に頭をもたせかけ、そして眼をつむった。頭の中で、蟬が鳴いている。幾千匹とも知れぬ蟬の大群が、頭の壁の内側で、鳴き荒(すさ)んでいる――

 洞窟の内の、此の不思議な宴は、ますます狂躁に向い、変に殺気を帯びて来た。入口から風が吹き抜けると、歌声がまた新しく起った。卓子がぐらぐらゆれる。私は眼を開いた。ソ連の参戦も糞(くそ)もあるか。頭を強く二三度振り、今までの考えから抜け出ようと努力しながら、歌でも歌おうとよろめく足をふみしめ、卓に手をかけ立ち上ろうとした。吉良兵曹長の声が、吹き抜けるように洞内にひびいた。

「兵隊。軍刀を持って来い!」

 黒白もわかたぬほど酔っているらしかった。目が据(すわ)り、顔がぞっとする程蒼かった。立ち上ろうとして、平均を失い、卓に肱をついた。麦酒瓶が大袈裟(おおげさ)な音を立てて倒れ、白い泡が土間にしたたり落ちた。卓に片手をついて、下座の方を見据えた。

「剣舞をやるから、持って来い。軍刀」

 ふらふらと進み出た。

 雑然たる騒音の中から、獣のような声を出して、詩を吟(ぎん)じ始めた。誰の声か判らない。文句も節もはっきりしないままに、吉良兵曹長は軍刀を抜き放った。拍手が三つ四つ起って、すぐ止んだ。笑い声がする。詩を吟ずる声が二つ重なったと思うと、起承も怪しいまま、転々と続いて行くらしい。軍刀をかざしたまま、吉良兵曹長の上体はぐらぐらと前後に揺れた。眼をかっと見ひらいた。軍刀を壁に沿って振り下すと、体を開いてこぶしを目の所まで上げた。よろよろとして倒れかかり、私の肩にがっとしがみついた。軍刀は手から離れて、土の上に音無く落ちた。

「村上。飲め。もっと飲め」

 彼の掌に摑まれて、私の肩はしびれるように痛かった。それに反抗するように肩を張り、私は更に新しい麦酒瓶に左の手を伸ばして居た――

 

[やぶちゃん注:以下のシークエンスの時間は、まず会話に出る、

「広島」への原爆投下が昭和二〇(一九四五)年八月六日午前八時十五分

で、

「ソ連軍」が「国境」を越えて日本軍と「交戦中」となるは、昭和二〇(一九四五)年八月八月九日の日本時間午前零時(現在の時差で計算)のソ連軍対日攻勢作戦発動した以降で、同時刻頃には牡丹江市街(現在の黒竜江省南東部にある牡丹江市)が敵の空爆を受け、午前一時三十分頃(現地時間ならば日本時間は午前零時三十分)には新京(現在の吉林省長春市)郊外が空爆を受けている頃を「事実」は指す(後注参照)

である。但し、

その――ソ連軍国境ヲ越エタリ――といった暗号電報が桜島まで齎されたのは、場面(「黄昏の色がうすれかかった」)から見ても八月九日の夕刻遅く

である。ところが、この

八月九日とは長崎への原爆投下の当日(八月九日午前十一時二分

でもある。しかし、本文には長崎の原爆投下を知っている登場人物は出てこない。彼らは誰も、広島どころか同じ九州の、しかも、自分らを管轄する佐世保鎮守府に近い長崎に、広島と同じ凶悪な爆弾が落されたことを、その当日、しかも海軍秘密基地の兵であるのにも拘わらず、不思議に知らないのである。新型爆弾による壊滅的破壊は軍内部でも扱いを慎重にしていたものらしいことは知っている。ここではかの吉良兵曹長でさえ、この日にやっと、広島の原爆投下の惨状の事実を先任下士官からここで聴いて一瞬、呆然としていることからも判る(但し、広島のそれは六日にラジオ報道があり、八月七日に大本営が発表、八月八日には各新聞が広島が新型爆弾で攻撃されたことを一面トップで報じているから、次のパートに出るように「鹿児島の新聞社が焼けてからというものは、此の部隊に新聞は入って居ない」としても、この四日も経った八月九日まで下士官である吉良が広島の新型爆弾攻撃を知らないというのはやや不自然に思われる。長崎の原爆投下も六時間以上が経過しているのに、海軍秘密基地の連中が誰も何も知らないというのも、やはり変な気はする……が! どうもこれは事実のようなのである……それは、以前にも引いた梅崎春生自身の同日(!)の日記から判明するのである。以下、底本全集第七巻の「日記」から引く。但し、前に示したのと同じく、これに限っては戦前の記載であるので恣意的に漢字を正字化して歴史的仮名遣に改めたので注意されたい。「直」に「ちよく」(ちょく)とルビが振られているが、梅崎春生自身の附したものとは思われないので外した。

   *

八月九日

 松本文雄が召集されて來ているのに會ひ、一しよに酒を飮みに行つた夢を見る。大濱氏も出て來る。

 昨夜は夕食にジヤガ芋つぶしたのを少量、燒酎小量のみ、十二時より直に立つとやはり胃の調子惡し。

   *

この「松本文雄」は熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」のかざしの園という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。「十二時」とは昼の十二時であろう(小説に即すなら、前夜に飲んで時間が経っていないから腹具合が悪い、という解釈が成り立つが、実際には、この前の二日の日記に『胃が極度に弱つてゐるらしい』とあり、後の敗戦翌日の十六日では消化器の激しい衰弱が読み取れる)。ともかくも、これは広島と同じ恐るべき新型爆弾がこの日の朝に同じ九州の長崎に落されたことを知っている日記ではない。さて、以上より、

 

――本パートのロケーションは昭和二〇(一九四五)年八月九日の夕刻六時以降から八時前頃までを想定してよいと考える(八時前は巡検時間から)。

 

「ソ連軍が、国境を越えました」ソヴィエト連邦の宣戦布告は正確には昭和二〇(一九四五)年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされているが、ウィキの「ソ連対日参戦」によれば、『事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとした。ヴャチェスラフ・モロトフは暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかしモスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった』。八月九日午前一時(ハバロフスク時間:現行と同じならば日本時間は午前零時)『にソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。同じ頃、関東軍総司令部は』第五軍司令部からの『緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街』(黒現在の竜江省南東部にある牡丹江市)『が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに』午前一時三十分頃(現地時間ならば日本時間は午前零時三十分)には新京(現在の吉林省長春市)『郊外の寛城子が空爆を受けた。総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、』午前六時に『「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。この攻撃は関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。さらに総司令官は宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた』とある。

「ふと自責の念が、鋭く私を打った。桜島に来て以来、私は家にも便りを出さない」これは梅崎春生自身の事実は反するように思われる。先に示した彼の同年八月二日(本ロケーションの一週間前)の日記の中に、

   *

 東京からも便りがない。うちからも。

   *

とあり、これは彼が東京の友人や福岡の実家に手紙を出したにも拘らず、返事もない、という意でとれるからである。

「私の老母は知らないだろう」梅崎春生の母貞子は昭和二九(一九五四)年に子宮癌で享年六十四歳で亡くなっているから、生年は明治三三(一九〇〇)年生まれとして、敗戦時は五十五歳で「老母」というにはやや若い気はする。なお、彼の父建吉郎は昭和一三(一九三八)年二月(春生二十三歳)に享年五十八歳で脳溢血と床擦れから敗血症を起こして亡くなっているから、父の生年は明治一四(一八八一)年生まれとなり(底本年譜に拠る)、父母の年齢は十九も離れている。

「私の兄は、陸軍で、比島にいる。おそらくは、生きて居まい」春生より三つ年上の兄は実際には戦死していない。春生の実兄梅崎光生(大正元(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)は東京文理科大学哲学科卒で、哲学者で作家。二度応召され、敗戦時には米軍の捕虜となった。昭和二一(一九四六)年六月にフィリピン(本文の「比島」は「ひとう」と読み、フィリピン諸島のこと)の俘虜収容所から復員帰国し、佐世保港に上陸、博多駅に降りている。この兵隊体験をもとに後年に創作を試み、「無人島」などの戦記物や、戦争体験をもとにした日常生活などを描く作品を書き続けた。著書に「ルソン島」「ショーペンハウアーの笛」、作品集に「暗い渓流」「春の旋風」「幽鬼庵雑話」「君知るや南の国」などがある。参考の一部にしたこちらの記載には、『幼少年時代の思い出は短篇「柱時計」のなかに、「父の家は佐賀の貧乏士族で、結婚当時は福岡の連隊に中尉としてつとめており、母の家は同じく佐賀の町家であった。/私が生まれたのも、物心ついたのも、福岡市の舞鶴城つまり連隊の近く簀子町という所であった」などとあり、また『幽鬼庵雑話』には弟の梅崎春生のことや閲歴が語られている』とある。本パートの吉良兵曹長のフィリピンでの体験談は勿論、春生の後の「日の果て」「ルネタの市民兵」「B島風物誌」などは春生の実体験にはない南方戦線が舞台であり、彼がネタ元ではないかとも思われる。

「弟はすでに、蒙古(もうこ)で戦死した」梅崎春生の実弟梅崎忠生(昭和四(一九二九)年~昭和二〇(一九四五)年)は彼をモデルにした「狂い凧」によれば、出征中に喘息の治療薬として用いた麻薬の中毒に罹患し、敗戦直前に自殺している(この内、病態は金剛出版昭和五〇(一九七五)年刊の春原千秋・梶谷哲男共著「パトグラフィ叢書 別巻 昭和の作家」の「梅崎春生」(梶谷哲男氏担当)を参考にし、生年は「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」の『長兄と末弟には17歳の歳のひらきがあった』という記載から逆算、没年は底本年譜に『終戦直前に自殺』という記載から推定した。彼忠生については事蹟記載がすこぶる少ない)。厳密には実際の彼の死は「戦死」ではなく、「戦病死」或いは「変死」扱いである。但し、底本の別巻にはこの忠生のさらに下の弟(梅崎家は男ばかりの六人兄弟)であった梅崎栄幸氏の「兄、春生のこと」が載るが、そこに『戦後五年ほどして忠生兄の死は、実は戦死ではなくて睡眠薬による自殺であったことを聞いた』とあるから、梅崎春生自身ももしかすると弟の自死の事実は知らず、戦死と認識していたのかも知れない(本作発表は敗戦の年の昭和二〇(一九四五)年十二月)。

「同期の桜」特攻隊員に好んで歌われ、その後に広く知られるようになった軍歌「同期の櫻」は大村能章作曲。原詞は西條八十によるが、知られたそれは西条のものではない。参照したウィキの「同期の桜」より引く。『原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で』、昭和一三(一九三八)年一月号『少女倶楽部』に『発表された西條の歌詞が元になっている。直接の作詞は、後に』特攻兵器人間魚雷「回天」の第一期搭乗員となった帖佐裕(ちょうさひろし)海軍大尉(彼は生き残って戦後は銀行の重役となった)が、『海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にした』ことが戦後に明らかにされた。但し、五番まである歌詞のうち、三番と四番は『帖佐も作詞していないと証言しており』、『人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在することから、真の作詞者は特定できない状態にある』とある。歌詞を引こうと思ったが、調べてみると西条氏(一九七〇年没)も帖佐氏(一九九四年没)も著作権が切れていないのでやめた。ネット上には全歌詞が蔓延しているが、これでいいのかね? 重箱隅をほじくるのが好きなはずの日本音楽著作権協会(JASRAC)さんよ?
 
『「兵隊どもに、戦争は今年中に終ると言ったのか。え。村上兵曹」/「そんなことは言いません」/あの厭な、マニヤックな眼が、私の表情に執拗にそそがれている。何気なく振舞おうと思った。飲みほそうと食器を持った手が少しふるえた。/「此のように決戦決戦とつづけて行けば、どちらも損害が多くて、長くつづけられないだろうというようなことは、あるいは言ったかも知れません」』前段で、桜島に村上二曹が着任してまだ日の経たないある日、空気が淀んでしようがない暗号室のある壕に、通風のための穴を一つ掘っている兵隊らが働いているのを監督がてら、掘り終るのを計算したところが、

   *

……此の風穴が完成するのは少くとも三箇月はかかるのである。十一月頃になったら、さだめし涼しい風が吹きこむことであろうと、むしろ腹立たしく、私は兵隊に話しかけた。

「此の工事は誰の命令だね」

「吉良兵曹長です」

「それまで此処が保(も)つと思うのかね」

 その兵は、もっこをわきに置いて、私の前に立った。

「此の穴が出来上らないうちに、米軍が上陸して来ますか」

 真面目な表情であった。十五歳になるという少年暗号員である。私は莨(たばこ)を深く吸い込みながら、聞いた。

「勝つと思うか?」

「勝つ、と思います」

 童話の世界のように、疑いのない表情であった。ふっと暗いものを感じ、私は掌(て)をふって作業を始めるように合図した。そのとき、私は不機嫌な顔をしていたに違いない。私は立ち上り、莨を踏み消した。そしてあるき出した。

   *

の箇所を指すものであろう。
 
 
「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「四国の踊り」徳島の阿波踊りの男踊り(半天踊り)か、そこから派生した『一人が凧を操る役、そしてもう一人がやっこ凧として操られる様を表現したアクロバティックな「やっこ踊り」』か?(ウィキの「阿波踊り」から引用)。

「さらばラバウルよ 又来るまでは/しばし別れの 涙がにじむ」ラバウル小唄。ウィキの「ラバウル小唄より引く。若杉雄三郎(明治三六(一九〇三)年~昭和三〇(一九五五)年)『作詞、島口駒夫作曲の戦時歌謡』で昭和二〇(一九四五)年に発売された。本来は昭和一五(一九四〇)年に『ビクターより発売の、南洋航路(作詞作曲は同じ人物)が元歌である。 歌詞に太平洋戦争の日本海軍の拠点であったラバウルの地名が入っていたこともあり、南方から撤退する兵士たちによって好んで歌われた。 このため、戦争末期に日本で流行したため、レコードとして広まったというよりかは、兵士たちが広めたという方が正しいだろう』。『歌詞については、二つのパターンが存在する。 一つは、「さらばラバウルよ」の歌い出しで、後に元歌である南洋航路の歌詞が続くものである。 二つ目は、歌い出しは一緒であるが、二番が「船は出ていく」とオリジナルのものとなり、後が元歌という形である。 なお、一つ目では南洋航路の歌詞がすべて入っているが、二つ目は元歌三番目の歌詞「流石男と」の部分が欠けている』とある。以下、サイト「軍歌、戦時歌謡アルバム」の「ラバウル小唄」を参考に一部表記を正字化、歴史的仮名遣にした。ルビは私が振った。

   *

 

一、

さらば ラバウルよ また來るまでは

しばし 別れの 涙がにじむ

戀し懷(なつか)し あの島 見れば

椰子(やし)の 葉かげに 十字星

 

二、

船は 出てゆく 港の沖へ

いとし あの娘(こ)の 打ちふるハンカチ

聲をしのんで こころで泣いて

兩手 合はせて ありがたう

 

三、

波の しぶきで 眠れぬ夜は

語り あかそよ デツキの上で

星が またたく あの星 みれば

くわへ 煙草も ほろにがい

 

四、

赤い 夕陽が 波間に沈む

果ては 何處(いづこ)ぞ 水平線よ

今日も はるばる 南洋航路

男 船乘り かもめ鳥

 

五、

さすが男と あの娘は 言ふた

燃ゆる 思ひを マストに かかげ

ゆれる 心は 憧れ はるか

今日は 赤道 椰子の下

 

   *

「死ぬのは、恐くない。いや、恐くないことはない。はっきりと言えば、死ぬことは、いやだ。しかし、どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。――このまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにも惨(みじ)めではないか。生れて以来、幸福らしい幸福にも恵まれず、営々として一所懸命何かを積み重ねて来たのだが、それも何もかも泥土にうずめてしまう」(下線太字やぶちゃん)主人公の村上兵曹の本心の心の叫びの部分である。私はここを読むと、梅崎春生の「輪唱」の「猫の話」(ブログ横書版PDF縦書)のカロを思い出さずにはいられない。その授業案(ブログ横書版PDF縦書版)も宜しければ読まれたい。私が思い出さずにはいられない意味がよりお分かり戴けるものと思う。

「陸戦隊」海軍陸戦隊。大日本帝国海軍が編成した陸上戦闘部隊。ウィキの「海軍陸戦隊より引く。『元々は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが』、一九三〇年代(昭和五年から十四年)には『常設的な部隊も誕生した』。『太平洋戦争では戦域が拡大するにつれ、島嶼や局地防衛の必要から、特別陸戦隊のほか警備隊や防衛隊などの名称で陸戦隊が次々と編成された。また、海軍独自の空挺部隊(パラシュート部隊)(陸軍の空挺部隊とともに空の神兵の愛称)や戦車部隊も保有した。空挺部隊は』昭和一七(一九四二)年一月に、現在のインドネシア中部のセレベス島(当時はオランダ領東インドの植民地)『メナドで日本最初の落下傘降下作戦を実施し、指揮官の堀内豊秋中佐はその功を讃えられ、特別に昭和天皇に拝謁した。終戦前には本土決戦に向けて艦艇部隊などの多くが陸戦隊に改編され、総兵力は』十万人に『達していた』。『このように、日本海軍の陸戦隊は拡充を続けたものの、アメリカ海兵隊の様に陸・海軍から独立した軍種となることはなかった。太平洋戦争前に、常設の地上戦部隊として海兵隊を復活させることなどが陸戦隊関係者から提案されていたが、採用されなかった』。『海軍内で陸戦隊はあくまで二義的な任務として捉えられ、一般的な海軍士官にとって根拠地隊などの常設的性格の陸戦隊への配置は左遷に近い扱いであった』。もっと詳しい「編成」「装備」等の記載がリンク先にあるので参照されたい。

「谷中尉」冒頭から二パート目の枕崎で出逢った海軍士官。本作全体を貫く命題「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」を最初に開示した人物である。そうしてこの回想が直ちに、その時に買った耳介の欠損した女郎の回想に繋がる辺りは梅崎の真骨頂と言える部分である。

「あの若い元気な中尉も、美しく死にたいという考えは、感傷に過ぎぬと話して聞かせた。しかしそれが何であろう。虚無が、谷中尉にしろ吉良兵曹長にしろ、その胸に深い傷をえぐっているに過ぎぬ。私がもつ美しく死にたいというひそやかな希願と、何の関係があるか」主人公の、いや、作者梅崎春生の公案の提示である。

「私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に?――/私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗より高いものに自惚(うぬぼ)れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬(ぎ)せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の矜持(きょうじ)を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。/(ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの)」変形して公案が再提示される。「擬(ぎ)せる」とは武器などを体に刺し当てる、の意。「三十年」本作の最初に注した通り、梅崎春生が敗戦当時二十九、数えで三十であったことと完全に一致する。

「頭の中で、蟬が鳴いている。幾千匹とも知れぬ蟬の大群が、頭の壁の内側で、鳴き荒(すさ)んでいる」これは何年にも亙って常時、慢性的な耳鳴りに悩まされている私などには頗る実感として落ちる。駄句二句をお笑い序でに掲げておく。二〇一〇年五十三歳の時の句である。

 

  ノイズ・キャンセリング 夏

 蟬時雨耳鳴りの音ねも森の内

 

  ノイズ・キャンセリング 秋

 蟲すだく耳の内なる蝸牛管(かたつむり)

 

「軍刀」ウィキ軍刀より引く。海軍の士官・特務士官・准士官の正式な軍刀は、昭和一二(一九三七)年に制定されている。『陸戦隊士官が第一次上海事変で使用した従来のサーベル様式の長剣は実戦の際に重大な欠陥を露呈した。「護拳が邪魔」などの陸軍と同じ苦情のほかに、「雨や泥に濡れて柄の鮫皮や鞘の革が剥がれる」「石突の金具から水が入り刀が錆びる」などの海軍長剣ゆえの問題点が生じた。そのためこれら難点を是正し、また当時の国粋主義思想もあって太刀型へと変更された。しかしながらあくまで海軍は陸戦主体でないため、儀礼的な要素を幾分か残した外装となった』。佩環(はいかん:腰の革帯に佩用にするための金属製の鞘とり付けられた輪)は『二個固定、柄は黒漆の塗られた鮫皮に茶色の柄糸、鞘は黒漆塗りが多く、一部には黒漆塗の研出鮫皮や、陸戦隊向けの黒シボ革で包んだ物もあった。鍔は装飾のない丸型。等級は一等・二等の』二種類があった。『陸軍と同じく太平洋戦争開戦以降は外装品位の低下が起き、普通塗料による鞘塗装や略式外装も普及し』、昭和二〇(一九四五)年には『更に臨時特例』(佩環を一個に省略し、部品も省略した革巻きの鞘のもの)『が出された』とある。但し、それとは別に、「異種軍刀」と呼ばれるものがあり、これは『陸海軍の軍人軍属を問わず、上記の制式軍刀外装とは異なり旧来の日本刀拵(打刀・太刀)を軍刀として使用できるように改造したものである。最低限』、『軍刀の形を成すため、鞘に革覆を巻き吊鐶を付したものが大半で、鍔や兜金の一部を軍刀部品に変更したものもある。その歴史は古く、日露戦争当時の写真にも佩用がみられる。支那事変勃発以降、折からの軍刀供給不足によりこうした改造品の佩用は認められていた』とある。このシーンのそれはこちらの「異種軍刀」かも知れない。

「黒白」ここは「こくびゃく」と読みたい。]

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