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カテゴリー「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】」の30件の記事

2020/11/22

梅崎春生「幻化」PDF縦書(オリジナル注附)決定版としてリロード

梅崎春生の「幻化」のPDF縦書(オリジナル注附)を再校訂し、取り敢えず「決定版」としてリロードした。

2016/08/29

胸に残る強い郷愁――熊本と私――   梅崎春生

   胸に残る強い郷愁

    ――熊本と私――

 

 昨年の秋、熊本に寄った。ある旅行雑誌の頼みで、鹿児島県坊津にルポルタージュを書きに出かけ、その帰途である。東京から鹿児島行きは富士航空で、大分に降り鹿児島に着陸した。今思うと両空港ともこの間事故をおこしたところだ。私は割合飛行機を信用するたちだが、こんなに続出してはうかうかと乗れないような気がする。

 同行は女房。銅婚式のつもりで、まだ見ない南九州を見せたいとの気持があった。鹿児島から汽車で、夜遅く熊本着。熊本城近くのいこい別荘。(この宿は清潔でサービスも行き届いていた。)宿料はめっぽう安い。旅行のため鉄道弘済会員の名を一時もらっていたせいもあろう。

 私は熊本には昭和七年から十一年の四年間いた。五高の生徒としてである。丁度(ちょうど)青春の花が開こうとしていた時期だし、生れて初めて親元を離れて生活したせいもあり、私はその四年間がたいへん楽しかった。形成などと言うと大げさになるが、いろんなことを覚え(いいことだけでなく悪事も含む)それが私の将来を決定したと言っても言い過ぎではない。ふつう高校は三年だが、つい遊び過ぎて落第し、四年在学ということになった。落第した時はつらかったが、今となっては友達が増えた勘定で得をしたと思っている。木下順二なども後期の方の同級である。

 でも、あれから三十年経つから、知り合いはほとんどない。街の形も大いに変っている。藤崎神宮から子飼橋に至る道、昔は上通町で酒を飲み、放歌高吟して戻ったものだが、その頃は暗い道筋で「赤提灯」という売春宿が一軒あっただけだ。私も一度そこに泊り、朝起きて二階から道を見おろすと、五高の教授や生徒らが続々と登校して行く。私はびっくり仰天して二階の隅に身をひそめ、正午頃まで蟄居(ちっきょ)していたことがある。それにこりて、もうここには二度と泊らなかった。

 その道筋が今は大繁昌で、いろんな売屋が並び、昔日の面影はない。この道だけでなく、熊本総体が変ってしまったようだ。

 翌日、車を呼んで阿蘇に向かう。

「今日は好か天気ですばい」

 運転手が言う。私も阿蘇に何度か登ったけれども、いつも曇ったり雨が降っていたりして、うまく行かなかった。四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した。その時の経験を本紙(熊本日日新聞)に連載した「てんしるちしる」の冒頭にくり込み、いささかの弁解となした。

 で、昨年の登山は成功であった。大津街道あたりからも阿蘇の姿や噴煙がはっきりと眺められた。坊中から頂上まで一気に自動車でかけ登る。火口に達すると、噴煙がまっすぐ上っている。風が全然ないのである。火口にぼこぼこ立つ泡も見え、火口壁の奇怪な肌や色も眼のあたりに見えた。こんな好天気に恵まれたのは初めてである。草千里まで降りて、運転手君を交えて昼飯を食べた。草千里には黒服の高校生や中学生が、ばらばらに散らばって遊んでいたが、まるで散乱する鴉(からす)のように見えた。

 熊本に戻り、博多行きの汽車まで時間があったので、上通町の「フロイント」に行く。この店はたしか昭和六年開業だから、ほぼ私の入学時に重なる。三十年の年月がこの店を大きくしていた。ここまで仕立てるには、なみなみならぬ苦労があったのだろう。

「お互いに齢をとりましたね」

 てなあいさつをマダムと交し、コーヒーを飲んで駅に向かった。一年に一度くらいは熊本に行ってみたいと思っている。熊本には四年しかいなかったけれど、かなり強烈な郷愁があるのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月三日附『熊本日日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭の「昨年」の後にはポイント落ちで「(昭和三十八年)」という割注が入るが、これは底本全集編者によす挿入と断じて、除去した。ここにまず書かれた鹿児島の坊津行は雑誌『旅』(当時の刊行元は日本交通公社)の取材旅行で、昭和三八(一九六三)年十月、熊本・福岡にも立ち寄っており、春生が述べている通り、妻の恵津さんを同伴している。この短いエッセイを読んでも判る通り(初めの航空機事故の話に始まり、売春宿「赤提灯」のエピソード、阿蘇登山に至るまで)、これが二年後の遺作となってしまった名作「幻化」(リンク先は私の『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』PDF一括縦書版。ブログ版分割がよろしければこちらで)のいろいろなシークエンスに繋がっていることからも知れるように、「幻化」執筆の動機となる重要な旅であった。「幻化」のこちらのオリジナル注でも引いたが(リンク先はブログ版の当該部)、以下は非常に印象的なので再掲しておく。『読売新聞』のネット上の二〇一五年十一月二十四日附の山内則史記者の記事『梅崎春生「今はうしなったもの、二十年前には…」』には(ここでは再訪を十一月としている)、未亡人恵津さん(取材当時九十二歳)の回想として、『「きれいな所だから一緒に行かないか、カメラマン代わりで、と誘われました。坊津の海があまり美しく、船の陰でもいいから1泊したいと私が言ったら、役場に聞いて宿を見つけてきた。梅崎にとって戦争が終わった解放感と自然の美しさは、一つになっていたのでしょう」』と記し、『坊津の港、沖の島々、東シナ海まで見晴らせる坊津歴史資料センター輝津館で、恵津さんの描いた日本画と出会った。ダチュラの白に照り映える、花の下の乙女。件(くだん)の紀行文で梅崎は、宿の主人に請われて一筆書いたと記している』。『〈坊ノ津二十年を憶へば/年々歳々/花相似たれども/我れのみ/老いたるが如し〉』。但し、この時、既に春生には変調が起こっていた。旅の前々月の八月には蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、この旅から二ヶ月後の同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とある。翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となった。

「藤崎神宮」「ふじさきじんぐう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)のこと。熊本市域の総鎮守として信仰を集める。詳細は「藤崎八旛宮」公式サイト或いはウィキの「藤崎八旛宮」を見られたい。

「子飼橋」「こかいばし」と濁らない。JR熊本駅の東北三・九キロメートルの白川が北に大きく蛇行した部分に架かる橋。「幻化」にも登場する(ここここ。リンク先は私のブログ版。後者のシークエンスはその光景とともに「幻化」の印象的な回想シーンの一つである。そこの私の注も参照されたい)。個人サイト「熊本市電写真館」の「子飼」のページが、よい。旧五高の雰囲気も現在の熊本大学内にある「五高記念館」の写真で偲ばれる。

「上通町」「かみとおりちょう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区上通町。当時から商店街で今もアーケード街として知られる。ウィキの「上通」を参照されたい。先に電子化した梅崎春生のエッセイ「さつま揚げ」にも登場している。

「四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した」先に電子化した梅崎春生の「デパートになった阿蘇山」(『週刊現代』連載の「うんとか すんとか」第六十三回目。昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分)に顛末が語られてある。この記事の四年前の昭和三五(一九六〇)年の春のことであった。

「てんしるちしる」昭和三六(一九六一)年六月から翌年四月まで連載した小説。ここでは「本紙(熊本日日新聞)に連載した」とあるが『中国新聞』他、数紙に連載したもの。但し、沖積舎版全集には不載で、私は未読である。

「大津街道」江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩の参勤交代に用いられた、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約百二十四キロメートル(三十一里)に及ぶ豊後街道(肥後国熊本城の札の辻から阿蘇・久住を経、豊後国鶴崎に至る)の内、熊本市から菊池郡大津町(阿蘇外輪山のずっと手前)に至る部分を大津街道と呼ぶ(ここはウィキの「豊後街道」に拠った)。

「坊中」(ぼうちゅう)は現在の大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る豊肥(ほうひ)本線の阿蘇駅附近の地名。阿蘇坊中。この当時は熊本県阿蘇郡阿蘇町(まち)であった(現在は阿蘇市黒川)。同駅は大正七(一九一八)年一月二十五日に「坊中」駅として鉄道院が開設したが、昭和三六(一九六一)年三月二十日に「阿蘇」駅に改称している(ウィキの「阿蘇駅」に拠る)。従ってこの記事当時は既に「阿蘇」駅であるが、梅崎春生の熊本五高時代、ここは「坊中」駅であった。

 

『上通町の「フロイント」』試みに検索してみたら、関係あるかないか不明であるが、熊本県熊本市中央区上通町に「フロイントビル」なるビルが現存する。]

2016/08/26

私のノイローゼ闘病記   梅崎春生

   私のノイローゼ闘病記

 

 ノイローゼにもいろんな種類や症状があるらしい。ここでは私の場合を書く。

 昭和三十三年秋頃から、調子がすこしずつおかしくなり始めた。

 その遠因として、血圧のことがある。その一年ぐらい前、囲碁観戦のために鶴巻温泉に行った。観戦の余暇にある人と碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。何とも言えないいやな気持で、痙攣(けいれん)のようなものがしきりに顔を走る。横になって医師を頼んだ。医師が来て血圧をはかったら、最高が百七十あった。根を詰めて碁を打ったせいだろう。二日ばかり安静にして東京に戻った。血圧は百三十に下っていた。

 それに似た発作が、その後三度ばかり起きた。街を歩いて起きると、あるいは起きそうになると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。または医者を呼んでもらう。注射してしばらく安静にしていると、元に戻る。

 いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった。

 死と言っても、死について哲学的省察をしているわけではない。また自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。やり切れなくなって酒を飲む。口の端に歌がうかび上って来る。

「……北風寒き千早城」

 軍歌の一節だが、この文句が一番頻繁に出て来た。私は今でもこの一節をくちずさむと、当時の荒涼とした不安な状態を思い出す。

「これはおかしい」

 と私は思った。私は身近に何人もノイローゼの患者を知っているし、私自身青年時代にその状態になったことがある。青年の時のは被害妄想を伴っていて、下宿に住んでいたが、壁の向うや廊下で私の悪口を言うのが聞える。何でおれの悪口を言うのかと女中を難詰したり、揚句の果て下宿の婆さんを椅子で殴って、留置場に一週間入れられたことすらある。それにくらべると今度のは執拗に憂鬱で、その憂さを晴らすすべもない。

「これはやはり病的だ」

 私はついに旧知の広瀬貞雄君(その頃松沢病院勤務の医師)の自宅を訪ねて、相談をした。広瀬君はいろいろ私の話を聞いて、やはりノイローゼと診断した。

「すぐ入院した方がいい。早けりゃ早いほどなおりが早いですよ」

 私は納得した。が、すぐ入院するわけには行かない。今は精神安定剤などがあるが、当時としては持続睡眠療法や電気ショックが主で、持続睡眠療法は退院後半年か一年ぐらい精密な仕事が出来ないとのことである。

 私は給料生活者ではないので、入院費と一年徒食する金を用意しなければならぬ。当時私は三社連合(西日本、中部、北海道新聞)に連載小説を書いていた。それを書き終えれば大体一年分ぐらい徒食出来るだろう、という計算で、他の仕事は全部断ることにした。一回分が一時間で書ける。苦虫をかみつぶした表情で、おろかしい人間たちの絵そらごとを書く。「人も歩けば」という題で、もし読者の中にこれをお読みになった方があれば、私がそんな状態で書いていたことを了解して下さい。苦虫はかみつぶしていても、サービス精神はよろしきを得たとみえ、割に評判がよく、二百五十回の予定が三百四十回ぐらいに伸びた。映画にもなって、徒食の我が家の家計をたすけた。一日一時間の仕事。あとは家人につきそわれて散歩や、ベッドに横になって読書。むつかしい本やまとまった小説は読めない。集中力が散漫して、手に取る気もしない。せいぜい随筆集や旅行記、雑誌や週刊誌のたぐいで、もっぱら心をまぎらわすためである。またはテレビ。

 テレビを子供たちと見ていると、おかしい場面が出て来ると子供らは笑う。私だけが笑わない。おかしくないからである。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのであるが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻(どんま)している。私から笑いはなくなった。その癖ひどく涙もろくなる。気分としては荒涼たるものだ。酒を飲んでもなぐさまない。悲しい歌ばかりが口に出て来る。

「……北風寒き千早城」

「……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」

 この病的な状態を、精神力で直そうというのは無理だ。かえって悪化させるだけだ、というのが広瀬君の説だ。それには私も賛成である。一刻も早く入院したかったが、経済的その他の事情で、半年頑張り、五月二十一日下谷のE病院に入院することになった。

 入院するに当って、私は条件をひとつつけた。持続睡眠はいいけれども、電気ショックだけはしないで下さい。私は電気ショックの如何なるものか知っていたので、自分をああいう目にあわせたくなかった。医師はそれを承諾した。私の病名は、

 鬱状態(不安神経症状)

 というのである。

 それからもう一つ心配ごとがあった。

 ズルフォナールという薬がある。これを朝昼晩と服ませられる。この薬は睡眠薬だけれど、持続性があってなかなか覚めない。それを次々に服むから、だんだん蓄積されて、ついには一日中ほとんど眠るという状態になる。同時に抑圧がとれる。抑圧がとれて、酩酊(めいてい)状態になる。つまり酔っぱらいと同じことになる。精神も肉体もだ。御機嫌になってペらぺらしゃべるし、またエロ的にもなるらしい。それが私には心配であった。エロ的になって看護婦さんなんかに抱きついたりしたら、みっともない。

 出来るだけそんな状態におちいりたくない、という心構えというか抵抗というか、そんなのが私に働いていたらしい。素直な気持で療法を受ければいいのに、そんな変な頑張り方が、なおりを遅らせたのかも知れないと思う。無用な虚栄心であった。私は入院中日記をつけた。かんたんに眠らせられてたまるかという虚栄心からである。

 病室は北向きの個室で、窓から基地が見える。内臓その他の精密な検査を経て、その病室に入る。酒たばこは禁じられた。酒はそうでもないが、たばこだけはつらくて、禁止を解いてもらった。私は軍隊でも経験があるが、酒はすぐあきらめられるが、たばこはやめられない。

 この病院にも、アル中患者が何人かいた。やはり持続睡眠療法でなおそうというのである。しかし彼等は入院して酒を断(た)たれても、けろっとしている。麻薬中毒患者みたいな禁断症状はあまりないらしい。外国人はジンやウォッカなど強い酒をストレートでたしなむから、相当ひどいのもあるようだけれど、日本人はそうでない。気の弱さから酒をたしなむ。タコちゃんと呼ばれる中年男とてんぷら屋の息子という青年、両者ともアル中で当時入院していた。聞いてみると、彼等は朝から酒を飲んでいる。飲み出すとやめられない。一日中酩酊状態で、仕事が出来ない。そこで自発的に、あるいは肉親にすすめられて入院して来る。

「退院しても禁酒を続行出来るかどうか、心もとないですな」

 私の質問に答えて、タコちゃんはそう言って笑った。

 アル中の話はそれくらいにして、日記のことだが、結局私は毎日書き通した。字が乱れて判読出来ないところもあるが、とにかく書くことは書き通したのである。その日記によって治療経過を書く。

 

 五月二十二日夕方からズルフォナールを服(の)み始めた。二十三日の日記(抄)

「薬のせいかねむい。昨日からこの部屋をしばしばのぞき込む女。今朝は電話番号を教えて呉れという。電気治療で自宅の電話番号を忘れてしまったのだ」

「もうふらふらする筈なのに、しつかりしている。ビールを一本飲んだ程度。酒できたえたせいか」

 もうそろそろ利(き)き始めているのである。二十四日には、

「まだ利いて来ない。(やや足はふらつくけれど。抑圧は取れず、気分はむしろ憂鬱に傾く)」

 などとレジスタンスを試みている。

「午睡二時間、熱三十九度ぐらいある如し。(実際には六度三分)頭がぼんやりしている。一向にはればれしくなし」

 二十五日には、

「ややメイテイの傾向あり。けれどヨクアツはまだとれぬ。身体だるし。七時半(私の秘密)を見る。ちらちらして不快、ダレス死す」

 私の病室は二階で、テレビは階下の待合室にある。ふらふらするので、手すりにすがって階段を登り降りするのだ。特別見たいわけではないが、まだ覚めているぞという気持なのである。二十六日には、そろそろ音(ね)を上げている。

「ようやくふらふら(心身共に)して来た。ものが二重に見える。酔っぱらった時と同じ。新聞を読むのがつらい。薬いよいよ利いて来たのか。便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠っているからダメだとのこと。腸が眠るとは初耳なり、前代未聞なり」

 投薬と同時に通じがとまった。持続睡眠療法については、医学書であらかじめ調べて置いたのだが、便秘のことは書いてなかったので、怒っているのである。まことに厄介な患者だ。この日あたりから字が乱れ始めている。

「二十七日。便秘のことF医師に相談すると、十日や二十日の便秘は平気の由。少しムチャだと思うが致し方なし」

「テレビ見ようか、うちへ電話かけようかと思うけど、メソドウくさい気分あり。つまり酔っているのだ」

 ようやく酩酊を自覚している。

「F医師頭クラクラしないかと聞く。しないと答える。いずれクラクラする状態になるらしい」

「看護婦さんスカートまくり上げる。行儀悪いねとたしなめる」

 ここらはもちろん記憶にないが、あとで読んでぎょっとした。私がエロ的になって、看護婦のスカートをまくり、たしなめられたのかと思ったのだ。つきそいの人に調べてもらったら、看護婦が暑いから自発的にまくったことが判り、ほっと安心した。

 二十八日。

「十一時回診。黒幕をつける。まっくらになる」

 とある。外界からの刺戟をさえぎるためだろう。そのために墓地が見えなくなった。

「午後ぐつすりと眠る。夕方コツコツと音がする。はいと答えるとタコちゃんよりKさん(つきそいの人の名)へと手拭い。タコさんというのは酒屋主の由。持続。予よりあとに入る」

 字体も乱れているが、文章もへんになって来た。

「E先生数え年にて、四十一、なりとぞ。おどろき也。日記もこれでおしまいらしい」

 部屋はまっくらな筈だが、書いているところをみると、時々カーテンをあけてもらったのか。しかし日記欲は強く、二十九日も長々と書いている。我ながらあっぱれだ。

「七時起床。早くヨクアツが取れなきゃこまると思う。まだとれてない。眠る。十二時起きる。月見そば。うまくもまずくもなし。ただ食べるだけ」

 ほんとにこの頃は食物は口に押し込むだけで、うまさなんか全然感じなかった。義務で食っている。

「夜プロレスを見る」

 まだ頑張っているところがいじらしい。ぼんやりした記憶では、テレビが二重に見えるので、片目で見ていた。そんな状態でテレビが面白い筈はない。

 五月三十日になると、半分ぐらいは何を書いてあるか判らない。みみずののたくったような字で、書こうとする努力だけは判るが、意味が判らない。やっと読めるのは、

「三週間もやられたらゼツボウ也」

 何をやられたらなのか、とにかくゼツボウしている。

「夕方S君と碁を打つ。初め対にて次に六目。共に勝つ。S君二・二六事件の時のジキカン長(オヤジが也)三十七歳」

 碁を打っているし、つきそいのKさんの補筆によれば、夜テレビで巨人対国鉄戦を見ている。夢遊状態でありながら、一応人並みのことをしている。S君というのは銀行勤務で、何の症状で入院していたのか記憶にない。いい青年(?)であった。

 六月一日。

「朝食赤飯。ツイタチだから。タコちゃん文春別冊(デンワの写真)を持って来る。どういうわけか」

「昼食後医書をたずさえ、先生のところに談判に行く。便ピのことやいろいろ」

 Kさんの話では、もうこの頃は呂律(ろれつ)が廻らなくなっていたそうだ。酔っぱらいと同じくれろれろで、先生も迷惑だったろう。でも談判におもむくとは、意気さかんと言うべきだろう。いや、意気さかんというより、泥酔者と同じく鼻息が荒くなっていたのだろう。

 六月二日。Kさんの補筆で、

「朝食前、タコちゃん、キリン(S君のあだ名)と話す」

 とある。何をしゃべり合ったか知らないが、厭人癖はなおったらしい。同病相憐れむという気分なのかも知れない。酩酊状態から覚めても、私は彼等と親しくつき合った。私の字で、

「昼食エビライス(カミヤ)ケレドネ、ウドンだったので、それを食う」

エビライスを注文したが、病院の食事がうどんだったので、その方を食べたという意味だ。食欲が減退していて、エビライスよりウドンをえらんだのである。

「今日が一番足がふらつくような気がする」

 しかし字体から見ると、三十日と一日がもっとも乱れていて、二日以後の字は割にはっきりしている。峠を越したので、ふらつきの自覚が出て来たのだろう。極端にふらついている時は、かえってふらつきを自覚しないものだ。

 あとで人に聞くと、私は廊下を歩く時、大手をひろげて歩いていたそうだ。平均をとるために、そうしたのだろう。

 六月三日。

「朝回診ありたれど、眠っていたので通過。十一時半まで眠る。昼食後ひる寝。その後週刊誌のクイズを考える。夜(事件記者)を見て眠る」

 よく眠りに眠っているが、クイズを考えたりテレビを見たり、知的(?)な活動をしている。これからもう覚める一方である。

 五日にはもう散歩を許されている。ふらつく感じはほとんどなくなったが、頭はまだぼんやりしている。散歩が許されて嬉しかったので、雑誌だの果物だの、いろんなものを買い求めて戻って来た。もう死のことはあまり念頭になかった。木々の緑や街のにおいが、私にはなつかしかった。この頃から生活は快適になる。仕事はしないでいいし、寝たけりゃ寝ればいいし、散歩も出来る。やはり効果があったのである。

 しばしば大部屋に遊びに行って、花札をやったり碁を打ったりした。そして各患者とつき合い、彼等の生態を観察する余裕も生じた。だんだん散歩の範囲もひろがって、動物園に行ったり、入谷(いりや)鬼子母神の朝顔市に行ったりした。足を伸ばして本郷竜岡まで本因坊戦第一局を見に行ったこともある。つきそいのKさんを連れて行ったら、今は亡き村松梢風先生が、Kさんを私の女房と思ったらしく、ていねいにあいさつをされた。

「この人、僕の女房じゃないんです」

 と説明するわけにも行かず、私は困った。

 七月十日に退院。皆と別れるのがつらかった。退院に当って先生の指示は、

 一、食事後四十分は横になること

 二、酒は秋まで飲まぬこと

 の二条であった。

 七月十日の日記。

「空は曇り、今日より自由はわが手に戻る」

 などと書いてある。帰宅して翌日、蓼科(たてしな)高原に行った。一夏をそこで過した。半年か一年仕事が出来ないということが頭にこびりついていて、あるいはそれを利用して、毎日遊び暮した。ある日蓼科に映画会社の人が来て「人も歩けば」を映画化したいと言う。早速承諾して、金が入り、結局持ち金が全部なくなるまで、一年近く仕事をしなかった。生来怠け者なのである。

 指示の第一条は今も守っている。第二条の方は、秋とは何か。立秋をもって秋となすと都合よく解釈して、八月七日頃から飲み始めた。それを某雑誌に随筆に書いたところ、先生がそれを読んで、

「秋というのは九月頃からという意味だったのに、立秋とは一杯食わされました」

 と電話がかかって来た。

 以上が私のノイローゼ闘病記である。

 教訓。病気にかかったら、どんなことがあっても自己診断をせず、早期に専門医にかかること。私の場合は入院がすこし遅過ぎた。ことにノイローゼなどは、自分の精神力にたよってはいけない。医者に体をあずけてしまうに限る。ひとりでじたばたすればするほどひどくなる。

 それから鬱病、鬱状態は、朝起きた時が一番憂鬱である。ふつうの人間なら、朝は一日の初めであるし、活気に満ちている。活気に満ちるほどではなく、とにかくやろうという気持になっている。それなのに、

「ああ。また一日が始まるのか」

 と気分が鬱屈し、沈滞した気分におそわれるのは、あきらかに病的である。そんな自覚がある人は、直ぐさま専門医に相談する方がいい。ただし宿酔の場合は別である。あれは体の不調と自己嫌悪で心が真黒になっているのだから、一時的なものである。放って置けばなおる。しかし毎日宿酔ばかりしているような人は、アル中のおそれがあるから、診断を受けるべきだろう。

 私の場合一年間仕事をせず、損をしたような気がするが、また得がたい経験だと思えばそう損でもない。

 思えば私は体の具合の変る時、つまり青年期、それから厄年に不調がやって来た。これからしばらくは平穏状態が続くだろう。六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ。すると私の場合は野球にたとえると、二塁の曲り角だったんだろう。そんなところでわが結論は終る。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年六月号『主婦の友』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、梅崎春生は昭和三四(一九五九)年五月に本篇に「K病院」として出る台東区下谷にある近食(こんじき)病院に『入院し、持続催眠療法を受ける。七月に退院し、蓼科山荘にて身を養う』とあり、この年の八月にはやはり本文に出る「人もあるけば」が中央公論社より単行本で刊行されている(新聞三紙での連載開始は昭和三十三年五月で連載完結は翌昭和三十四年の入院直後の六月であった。なおこの作品は底本全集には不載で私自身、読んだことがない。梗概は後の注のリンク先を参照のこと)。当時、春生は四十四歳であった。なお、梅崎春生ファンならすぐにお気づきであろうが、ここに書かれた入院中の事実は、かなりの部分が、遺作となった「幻化」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)で、主人公久住五郎の精神病院入院回想シークエンスの各所にリアルに生かされてあることが判る。なお、この近食病院にはこの前年の昭和三十三年の五月に妻恵津が心因反応の病名で翌六月まで入院しており、同年譜には、本篇冒頭に書かれている通り、その記事に続いて、『梅崎自身も秋ごろから心身の違和を覚えるようになる』とある。妻の「心因反応」と春生の「鬱病」には強い連関性が認められるように感じられる。或いは、春生の鬱病(彼の発症にはアルコール性精神病の関与も私は疑っている。但し、妻恵津はこれを強く否定している)は実はこの年から始まっており、それに敏感に感応した結果、恵津は境界例である「心因反応」を起こしたのではなかろうか?

「広瀬貞雄」廣瀬貞雄(大正七(一九一八)年~平成一九(二〇〇七)年)は知られた精神科医で後に日本医科大学名誉教授となった人物であるが、この医師はかなり問題のある人物である。所謂、「臺実験(うてなじっけん)」事件に於ける執刀医だからである。ウィキの「臺実験」によれば、一九五〇年頃に東京都立松沢病院において発生した人体実験事件で精神科医の臺弘(うてなひろし:後の東京大学教授)の指揮の下、当時の松沢病院勤務の精神外科医であった廣瀬が、精神外科手術に便乗して約八十人の患者から無断で生検用脳組織を切除した事件で、『ロボトミー後に機能を停止すると予測された部分から、組織採取を行った。つまり、実際の手術の手順は、組織採取が先で、ロボトミーが後であ』った。その約二十年後の石川が昭和四六(一九七一)年三月に日本精神神経学会に於いて臺を当時東大講師であった精神科医石川清がこれを『告発したことから、東京大学や日本精神神経学会を巻き込んた論争が起こった』とある。

「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院である東京都立松沢病院。

……北風寒き千早城」遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものに少し手を加えて再掲しておく(リンク先はブログ分割版の出現箇所)。これは、大正三(一九一四)年作の海軍軍歌で、所謂、「桜井の別れ」、河内の武将で後醍醐天皇の名臣楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死したが、その今生の別れとなった正成・正行父子が訣別する西国街道桜井駅(櫻井の驛)での逸話に基づく「楠公父子(なんこうふし)」(作詞・大和田健樹/作曲・瀬戸口藤吉。著作権は詞曲ともに消滅している)の二番の末尾の一節であるが、実は「旗風高き千早城」で、「北風」ではない。「幻化」も「北風」でこれはどうやら梅崎春生自身の記憶違いか、海軍内での替え歌かも知れぬ。天翔氏のサイト「天翔艦隊」の軍歌のデータベースの「楠公父子」から全歌詞を引くが、恣意的に漢字を正字化した。仮名遣も歴史的仮名遣にしようとしたが、実際の歌曲として詠んでもらうために特異的に現代仮名遣のままとした(リンク先ではミディで曲もダウロード出来る)。

   *

   楠公父子

一、

天に溢(あふ)るるその誠

地にみなぎれるその節義

楠公父子(なんこうふし)の精忠(まごころ)に

鬼神(きじん)もいかで泣かざらん

二、

天皇(すめらみかど)の御夢(おんゆめ)に

入るも畏(かしこ)き笠置山(かさぎやま)

百萬の敵滅ぼして

旗風高き千早城

三、

七度(ななたび)人と生まれ出で

殲(つく)さで止まじ君の仇(あだ)

誓いの詞(ことば)雄雄しくも

千古(せんこ)朽ちせぬ湊川(みなとがわ)

四、

その名もかおる櫻井の

父の遺訓(おしえ)を守りつつ

葉はその陰に生い立ちし

楠の若葉のかぐわしさ

五、

再び生きて還らじと

かねて思いし合戰に

四條畷(しじょうなわて)の白露(しろつゆ)と

消えても玉の光あり

六、

忠勇義烈萬代(よろずよ)の

靑史を照らす眞心は

死せず滅びず永久(とこしえ)に

日本男兒の胸の血に

   *

なお、「千早城」は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早に鎌倉末から南北朝期にあった楠木正成の城で、元弘二/正慶元(一三三二)年の正成の奇策防衛戦で知られる「千早城の戦い」で名高い。

……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」明治三八(一九〇五)年に作られた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)。日露戦争時の戦闘を背景とする歌詞で全一四番から成る。この知られたフレーズは、その第一番の後半部。

   *
 

一、

此處(ここ)は御國を何百里

離れて遠き滿洲の

赤い夕陽に照らされて

友は野末(のずゑ)の石の下(した)

 

   *

全歌詞はウィキの「戦友軍歌を参照されたい。私はこの歌というと、栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)で「きっちゃん」(松本喜一)が歌うそれが忘れられない。

「ズルフォナール」やはり遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものを再掲しておく(リンク先はブログ分割版の初出箇所)。持続性熟眠剤スルホナール(Sulfonal)であろう。この綴りだと、近年まで医事で使用されたドイツ語では発音が「ズルフォナール」に酷似するのではないかと思う。平凡社「世界大百科事典」(第二版二〇〇六年刊)の「催眠薬 hypnotics」には「スルホナール」を挙げ(コンマを読点に代えた)、『バルビツレート以前に使用されているが、現在は特殊な場合以外には使わない。安全域が小さく、排出が遅い。精神科疾患に一回』〇・五グラムとある(この「バルビツレート」(barbiturate)は不眠症や痙攣の治療、手術前の不安や緊張の緩和のために用いられる中枢神経系抑制薬物で、向精神薬群を総称する「バルビツール酸系」薬物とは同義同語である。ウィキの「バルビツール酸系」によれば、『構造は、尿素と脂肪族ジカルボン酸とが結合した環状の化合物で』、『それぞれの物質の薬理特性から適応用途が異なる』。『バルビツール酸系の薬は治療指数が低いものが多く、過剰摂取の危険性を常に念頭に置かなければならない』。一九六〇年代には、『危険性が改良されたベンゾジアゼピン系が登場し用いられている。抗てんかん薬としてのフェノバルビタールを除き、あまり使用は推奨されていない』。『乱用薬物としての危険性を持ち、向精神薬に関する条約にて国際的な管理下にある。そのため日本でも同様に麻薬及び向精神薬取締法にて管理されている』とあり、以下にチオペンタール・ペントバルビタール・アモバルビタール・フェノバルビタールといった薬剤名が示されている)。また、同じく「世界大百科事典」の、五郎が受けたところの「持続睡眠療法continuous sleep treatment」の項に、『鎮静・催眠性の薬物を投与して持続的な傾眠ないし睡眠状態にすることによって精神障害を治療する方法。ウォルフ O. Wolff』(一九〇一年)『がトリオナールを用いたことに始まるが,さらにクレージ J.Kläsi』(一九二一年)『がソムニフェンを使用して早発性痴呆や錯乱状態の患者を治療したことで精神病に対する一つの治療手段となった。日本でも下田光造』(一九二二年)『によって躁鬱(そううつ)病患者の治療にスルホナールが用いられ,これが盛んに行われた時期がある。治療期間は』十日から二十日前後で、『主として鬱病や躁病,精神分裂病の興奮状態などがその治療対象となった。しかし,精神障害の治療に向精神薬が導入されてからは定式的なこの療法が行われることはなくなっている』ともある(下線やぶちゃん)。ネット上の信頼出来る現在の精神医学・薬学系サイトなどでは、スルホナールは睡眠導入剤(睡眠薬)としては現在は全く使用されていないと断言している記載が多い。因みに、梅崎春生の小説を読んでいると、こうした「ズルフォナール」のような薬剤名や、前に注した「ヴァスキュラー・スパイダー」(vascular spider:クモ状血管腫)、「ハビバット」(halibut:ハリバット。春生は確か「鰈」の英語としているが、これは厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus のオヒョウ類を指す)等の、一般的でない外来語の特定単語の発音に対する、一種のフェティシズムを私は強く感じる。これは彼を病跡学的に検証する際の特異点であるように思う。

「ダレス死す」悪名高き日米安全保障条約の「生みの親」とされるアイゼンハワー大統領の国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles 一八八八年~一九五九年)は、この年(昭和三十四年)の五月二十四日(春生が入院したはまさに五月)にワシントンD.C.で癌のために死去している。

「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「入谷鬼子母神」「いりや(の)きしもじん」と読む。東京都台東区下谷にある法華宗仏立山真源寺のこと。仏教を守護するとされる夜叉鬼子母神を祀り、この通称で古くから有名。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落でも知られる(以上はウィキの「真源寺」に拠る)。

「朝顔市」前の注でも参照したウィキの「真源寺」によれば、『当寺院の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論、植物園などと違い、商品として栽培しているので』、『そのまま商売となった)。その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり』、大正二(一九一三)年に『なって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが』、敗戦後の昭和二三(一九四八)年になって、『地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後』三日間(七月六日・七日・八日)に『当寺院と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している』とある。本篇の日付とも一致する。

「村松梢風」(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年) で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『「人も歩けば」を映画化したいと言う』私の好きな川島雄三の脚色及び監督(配給・東宝)で翌昭和三五(一九六〇)年二月九日に公開された。主人公砂川桂馬役をフランキー堺、彼の婿入りした先の姑を沢村貞子が演じている。梗概は「Movie Walker」の「人も歩けば」を。

「六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ」残念ながら梅崎春生は、この記事を書いた二年後の昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となった。]

2016/02/22

梅崎春生「仮象」PDF縦書版

梅崎春生「仮象」PDF縦書版を公開した。

2016/01/21

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注(PDF縦書版/β版)

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注(PDF縦書版/β版)を公開した。

本文内注のリンクは機能しないのは御寛恕戴きたい。

2016/01/09

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (25)~梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 完

 

 

 火口が見える小高い場所で、丹尾はトランクに腰かけ、彼は平たい岩に腰をおろした。弁当を開き、丹尾はポケット瓶を出してあおった。そして瓶を彼に突出した。

「どうです。いっぱい」

「いや。おれも持っている」

 彼はポケットから自分のを取出した。蓋に注いで二杯飲んだ。丹尾はその動作をじっと見ていた。自分の瓶の残りを飲み干した。そして視線を下に向けた。

「これ、駅弁じゃないね」

 丹尾の言葉は、とたんにぞんざいになった。

「駅弁にしては、豪華過ぎる」

「君はずいぶん酔っぱらってるね」

「酔っちゃいけないかね」

「そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ」

「どこの?」

「熊本」

 五郎が食べ始めるのを見て、丹尾は安心したように箸をとる。ちらちらと景色を見ながら食べる。

「どうもいけないね」

 丹尾は箸を置きながら言った。

「どうもあの穴を食べそうな気になる」

 彼もさっきから同じような気がしていた。穴というのは、火口のことだ。あんまり雄大なので、ふと距離感がなくなり、弁当のおかずと同じ大きさに見えるのである。丹尾は景色に背を向け、口を開いた。

「ねえ。賭けをやりませんか?」

「賭け?」

「ええ。金の賭けですよ」

 顔が赤黒く染まり、手がすこし慄えている。

「ぼくは火口を一周して来ます」

「どうぞ」

「それでだ」

 弁当の残りをトランクにしまいながら、丹尾は言った。

「一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか――」

「それを賭けるというのか」

「そうです」

 五郎はめんくらって、ちょっと考えた。突然体の底から、笑いがこみ上げて来た。

「君は自分の生命を賭けようとするのか?」

「笑ってるね」

 丹尾はふしぎそうに彼の顔を見た。

「あんたと知合ってから、声を立てて笑うのは、これが初めてだよ」

 五郎は笑いやめた。しかし笑いは次々湧いて、彼の下腹を痙攣(けいれん)させた。

「しかし――」

 彼は下腹を押えながら言った。

「賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう」

「じゃ生きる方に賭けちゃどうです?」

「それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな」

「ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる」

「なるほど」

 なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった。ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。しかしそのことが笑いの原因ではない。笑いは笑いとして、独立に発生した。丹尾は言葉を継いだ。

「もしぼくが戻って来れば、賭け金の全部をあんたに差上げる」

 彼は頰杖をつき、すこし考えて言った。

「賭けの金額は、いくらだね?」

「五万円でどうです?」

「五万? そんなに持ってない」

「いくら持ってんですか?」

「二万円」

 三田村から送って来た金である。今朝現金にしたばかりだ。

「二万円?」

 丹尾はがっかりした表情を見せた。その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅ぎ取った。

〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉

 おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった。

「いいでしょう。二万円」

 丹尾はあきらめるように言った。

「じゃ二万円、出しなさい」

「出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ」

「どういうことですか?」

「君に預けると、君は飛び込まないで――」

 彼は根子岳の方を指した。

「あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を詐取されることになる」

「そんなに信用がないのかなあ」

「では君は、おれを信用しているのか?」

 丹尾は五郎の顔を見て、黙り込んだ。五郎はしばらく風景を見ていた。彼等二人のすぐ傍を、見物人が通り、また写真を撮ったりしている。見物人たちは、ここで二人の男が何を相談しているのか、全然知らないのだ。笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた。

「よろしい。いい方法がある」

 丹尾はトランクを開いて、鋏(はさみ)を取出した。そして内ポケットから、一万円紙幣を二枚つまみ出した。五郎の出した二枚の紙幣と重ねる。縦にまっ二つに切った。切り離した半分を、彼に戻した。彼は黙ってその動作を見て、受取った。

「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」

 残りの半分を丹尾は内ポケットにしまい、上衣をぱんぱんと叩いた。

「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」

「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」

「冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ」

「それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ」

 丹尾はゆっくり立ち上った。トランクを持ち上げる。

「トランクも持って行くのかい?」

「ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる」

「だって自殺するんだろう」

「自殺するとは言いませんよ」

 丹尾はきっとした眼で、五郎を見た。

「火口を一巡りして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」

「そうか。そうか」

 五郎は合点合点をした。

「ではここで待っているよ」

 丹尾は彼に背を向け、歩き出した。火口の左に進路を取る。五郎は弁当の残りを食べながら、その後姿を見ていた。

〈あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが、トランクもろとも飛び込むつもりかな〉

 後姿がだんだん小さくなって行く。動悸がし始めたので、彼はあわてて弁当を捨て、小瓶の酒を飲む。掌に汗が滲んで来た。

 五郎の視野の中で、もう丹尾の姿は豆粒ほどになっている。突然それが立ちどまる。火口をのぞいているらしい。また歩き出す。

 五郎は小高い場所からかけ降りた。あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという危懼(きく)が交錯して、五郎をいらいらさせている。火口の縁(ふち)に、有料の望遠鏡がある。五郎はそれに取りついて、十円玉を入れる。もう丹尾は半分近くを廻っている。

 無気味なほど鮮やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。五郎は用心深く仰角を上げる。二度三度左右に動かし、やっと丹尾の姿をとらえる。丹尾は歩いている。立ち止って、火口をのぞく。その真下に噴火口がある。五郎は望遠鏡を下方に移す。壁は垂直に火口から立っている。火口には熱海がぶくぶくと泡立っている。

〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉

 眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。五郎はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、丹尾の姿が戻って来た。

 丹尾はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが緩慢だ。ちょっとよろよろとした。石につまずいたのだろう。丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。

「しっかり歩け。元気出して歩け!」

 もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。―― 

 

[やぶちゃん注:「詐取」老婆心乍ら、「さしゅ」と読む。金品を騙(だま)し取ること。

「根子岳」既に注した通り、「ねこだけ」と読み、彼らのいる中岳の、ほぼ西の稜線状の先、直線で二・一キロメートル先にある。

「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」言わずもがなであるが、交換は普通の銀行でも可能であるが、本来は日本銀行本店や支店の正統な正規業務である。「日本銀行」公式サイトの「日本銀行が行う損傷現金の引換えについて」によれば、「銀行券」の場合は以下の通りである(一部に存在する空隙を除去した)。

   《引用開始》

表裏の両面が具備されている銀行券を対象とします。具体的な引換基準は以下のとおりです。

イ.券面の3分の2以上が残存するもの

額面価格の全額をもって引換えます。

ロ.券面の5分の2以上3分の2未満が残存するもの

額面価格の半額をもって引換えます。額面価格の半額に一円未満の端数がある場合には、これを切り捨てます。

なお、銀行券の紙片が2以上ある場合において、当該各紙片が同一の銀行券の紙片であると認められるときは、当該各紙片の面積を合計した面積をその券面の残存面積として、上記の基準を適用します。

   《引用終了》

私はもうじき五十九になるが、一度だけ一万円札一枚を交換して貰ったことがある。独身の三十の頃に酔って帰って、飼っているビーグル犬の「アリス」今の「アリス」の先代)を抱いて寝たら、翌日、目覚めて見ると、アリスが財布から引っ張り出した一万円札をテツテ的に嚙みしゃぶっていた。彼女の歯形だらけ、涎れでぐじょぐじょになって、しかも三つの塊りになってしまったそれを、一応は平たくのばしては見たが、札とは思えない形状に絶望的に変容していた。それでも惜しくなり、銀行に持って行って恐る恐る、「……あのぅ……犬に嚙み破られて……」と窓口のお姉さんに差し出した。お姉さんは、吹き出しそうになるのをこらえながら、「しばらくお待ち下さい」と言って奥へと行き、暫くすると、「殆んど完全に残っているのが確認出来ました♡」と笑顔で言いながら、綺麗なピン札の一万円札をくれた。そのお姉さんの顔が観音さまのように見えたのを私は、もう二十八年も経つのに、今も忘れずに、いる。

「高岳」既に注した通り、「たかだけ」と読み、中岳の、ほぼ東、直線で六百三十メートルほど、稜線沿いに計測すると九百三十メートルほどに位置する阿蘇五岳の最高峰。中岳より八六・三メートル高い。

「外輪山」阿蘇山の外輪山は、南北約二十五キロメートル・東西約十八キロメートル・総面積三百八十平方キロメートルに及ぶ、世界最大級の広大なカルデラ地形を成している(以上、ここまでの阿蘇山のデータは殆んどウィキの「阿蘇山」に拠った)。

   ※   ※   ※

 さて、私の注を読んでくれた読者の中には、この前の「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」の注の、アリス嚙み破りの私の体験談の附話を、せっかくの厳粛な「幻化」のコーダに相応しくない、不要な、不謹慎な、お茶らけた注だ、と憤慨した方もいるかも知れぬ。

 しかし、私はそれでいいと思っている。そこで笑ってもらっていいと思っている。

 なぜ?

 だって五郎自身が笑い、そして言っているではないか。「笑いは笑いとして、独立に発生」するものだ、と。

 問題は、もう一度、そこで、五郎が笑いながら、何と言ったかを思い出してもらわなければならない。笑うことが問題なのではない。笑いのために〈それ〉に気がつかないことが問題なのだ。

 彼は丹尾に対して初めて声を立てて笑いながら「なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった」と内心を述べるのだが、その後を見よ!

「ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。」

そうして五郎は、今までにない、剃刀のような冴え切った真面目さで、

「その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅ぎ取った。」

――しかもさらに、

〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉

と見抜くのである(因みにこの後の「おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった」という箇所はまたしても梅崎得意の自己韜晦的な滑稽シーンである。続くところの、「自殺」に二万円ばかしの金を賭けるのに信用不信用の論議をする男二人と周囲の観光客のモンタージュの対位法的手法も同じような感じではあるが、映像的にはここは寧ろ、「笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた」と五郎が言っても、最早、笑っている読者は殆んどいないかと私は思う)。

丹尾「そんなに信用がないのかなあ」

五郎「では君は、おれを信用しているのか?」

 読者のあなたに私が問おう。

「では君は、私を信用しているのか?」

基! 違う!

「では君は、君を信用しているのか?」

或いは

「ではおれは、おれを信用しているのか?」

だ!

 この直後に丹尾は「よろしい。いい方法がある」と言って、トランクを開き、鋏を取り出し、自分の内ポケットから一万円札二枚摘まみ出すと、五郎の出した二枚と重ねて縦に真っ二つに切断、切り離した半分を五郎に渡す。五郎は黙ってその動作を見続け、そうしてその半截した四枚の一万円札の半分の束を受取る。

「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」

「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」

(ここに、先に注した滑稽の会話を挟んで、五郎の「君が逃げ出すと、両方損だ」とか、丹尾「何も持たないと、自殺者と間違えられる」/五郎「だって自殺するんだろう」/丹尾「自殺するとは言いませんよ」「火口を一巡りして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」という何ともけったいな掛け合いの後、五郎は「そうか。そうか」と合点合点を二度も繰り返し、「ではここで待っているよ」と気軽に言い放ち、丹尾が火口を時計回りに進路を取って歩き出すのを、五郎は平然と「弁当の残りを食べながら、その後姿を見」つつ、五郎は『あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが』(食べ残しをトランクに入れたまんま)、『トランクもろとも飛び込むつもりかな』なんどと思うという、これまた、落語のようなシークエンスが続くが、これも梅崎の確信犯である。梅崎春生は真面目なことを真面目に描いても誰もそれが真面目だと気づかないことをよく知っている作家なのだ。彼が滑稽な手法を用いる時は、一緒になって笑っているだけでは、春生の真意を見逃す虞れがあることを胆に銘じておくがよい梅崎春生はそれが表面的な受け狙いと誤解されることをも百も承知であった。そのつもりではないのに、である。さればこそそれがまた鏡返しとなって作家梅崎春生の精神を蝕む強烈なストレスの一因ともなったのではないかと私は密かに考えている)。

――「丹尾の後姿がだんだん小さくなって行」く

――「動悸がし始め」る

――「掌に汗が滲んで来」る

――「五郎の視野の中で、もう丹尾の姿は豆粒ほどになっている」

――「突然それが立ちどまる」

――「火口をのぞいているらしい」

――「また歩き出す」

 

――「五郎は小高い場所からかけ降り」る

 

――『あいつが死ねるものか』

という気持ちと

――『死ぬかも知れない』

「という危懼が交錯」して「五郎をいらいらさせ」る 

 

――五郎は火口の縁に設置された有料の望遠鏡に飛びつく。

――「十円玉を入れる。」

――「もう丹尾は」、中岳の火口を「半分近く」も「廻っている」

 

さても以下、私得意のシナリオ風に一部に翻案を加えて示したい。この原作のコーダは望遠鏡の画面効果が慄っとするほど素晴らしい。

   *   *   *

○画面真黒。(擬音の下の「○」「●」は望遠鏡の「開」「閉」を示す。SE(サウンド・エフェクト)は中岳の火口からの重低音の微かな地鳴りのみ)

「カシャッ!」○

○阿蘇中岳火口(以下、望遠鏡の見た目のレンズ内映像)

――無気味なほど鮮やかな火口壁。(ゆっくりとレンズ画面、仰いでゆく。二、三度、画面、左右にパン。一度、丹尾の姿を過ぎ、また戻って、丹尾を画面中央に捉える)

――丹尾、火口の縁ぎりぎりを歩いている。

――丹尾、立ち止って、火口を覗く。

――真下に噴火口。(画面、ティルト・ダウン)

――垂直に火口から切り立っている壁。(さらにゆっくりティルト・ダウン)

――火口。ぶくぶくと泡立っている熱海。

(オフで)五郎「あそこに飛び込めば、イチコロだな。」(レンズ画面、素早くティルト・アップし、左へパン)

――高岳。(左へパン)

――根子岳。(左へ急速にパン)

――外輪山。

――その果てに遠く重なり合っている山脈群と、その上の凄まじい青さで広がっている空。(画面、部分ハレーションを起こす)

「カシャッ!」●

(画面は真黒。オフで、十円玉を入れる音)

「カシャッ!」○

――前の景色から右に急速にパンし、丹尾を一度過ぎ、右へゆっくり戻って、レンズ画面中央に再び、丹尾の姿を捉える。

――丹尾、トランクを下に置き、それに腰かけている。(トランクに陽光が反射してハレーションよろしく)

――ハンカチで汗を拭う丹尾。拭き終ると、立ち上る。

――トランクを提げて歩き出すが、足の動きがおぼつかない。(ハレーション終り)

――丹尾、石に躓(つまず)いて、ちょっとよろめく。

この直後――五郎は、こう、感ずる――(以下、次の最初の『「カシャッ!」●』まではあなたの映像でよろしく)

★「丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。」

『しっかり歩け。元気出して歩け!』

そうして――実際に――五郎は叫ぶ!

「しっかり歩け。元気出して歩け!」 

――丹尾の耳には届かないけれど――それでもなおも――五郎は叫ぶ!

「しっかり歩け。元気出して歩け!」 

「カシャッ!」●

(画面は真黒。オフで、十円玉を入れる音) 

「カシャッ!」○

――画面中央に、丹尾。

――また立ちどまり、汗を拭いて、深呼吸をし、そして、火口を覗き込む、丹尾。

――また歩き出す、丹尾。

――立ちどまる、丹尾。

――火口をのぞく、丹尾。覗く時間が、だんだん長くなって行く。

――そして再び、ふらふらと歩き出す丹尾。

「しっかり歩け。元気出して歩け!」 

「カシャッ!」●

(画面は真黒。オフで、十円玉を入れる音)

「カシャッ!」○

――レンズ画面中央に、今まで同様、トランクを片手に火口の縁を歩いている丹尾と同じ服の男。

――しかしその男は――「丹尾」――ではない。

――それはその望遠鏡を覗いているはずの――「久住五郎」である…………

(エンド・タイトル)

   *   *   *

 ここまで奇特にもお付き合い戴けた読者は私が何を言いたいか、最早、お解かりであろう。

 「ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい」と五郎が言うのを待つ前に、既にして我々は、この一ヶ月前に妻子を交通事故で亡くし、生きる望みを失ってアルコール依存症に罹り、漠然と自死を考えている丹尾章次は、久住五郎のトリック・スター、分身であるどころか、

――丹尾と五郎が持つ両断された一万円札が総て一万円として機能せず、半分の価値しか持たないように

――坊津の密貿易のかつての密貿易で用いられたに違いない、割符の符牒(それは五郎や「桜島」の村上二曹や梅崎春生自身が拘わった暗号と符合する)のように

――合してこそ一つの意味ある存在になるもの

であったのである。

丹尾と五郎は、一体となって初めて、自分の惨めな「生」(私は「生」は本質的に如何なる場合も惨めであると考えている)とは何かを「感ずる」ことが出来る/出来た

である(完了形にしたのは私のシナリオの最後を受ける)。既に山本健吉氏の引用として注したが、底本別巻の弟梅崎栄幸氏の「兄、春生のこと」にも、梅崎春生は「丹尾鷹一」というペン・ネームを昭和一八(一九四三)年前後に用いていたという内容の記載を見出せた。更に調べると、国立国会図書館の書誌情報に、赤塚書房昭和一七(一九四二)年後期版の「新進小説選集」に前に注で出した小説「防波堤」(全集未掲載で私も未読)の内容記載があり、その作者は『丹尾鷹一』とある

 その感得――私の言っているのは「感ずる」ことである。糞のような、限界とマヤカシだらけのショボ臭い「人智」による「認識」などではない。寧ろ、私の謂いは超個人的であるところの「禪機」の結果の「悟達」(それもそれなりに胡散臭いものではあることは自明であるが)のようなものと考えて戴いても全く構わぬ――するところの「惨めな生」とは同時に「惨めな性」であり、「惨めな生」を「肉として感ずる」ことは、本当の意味で「惨めな死」を「肉として知る」ことと同義である(寧ろ、私は「惨めでない生」「惨めでない死」自体が「桜島」の村上二曹が言うように否定的あり、想定することが出来ないとも言っておく)

 私は既に「桜島」の最後の注で、「桜島」と本「幻化」の連関性についての独自の考察を既に述べたが、そこでも一部述べたように、明らかに、

「桜島」の〈枕崎の哀れな耳のない妓(おんな)〉――「幻化」の〈ダチュラの女〉

「桜島」の主たる共演者〈吉良「鬼」兵曹長〉――「幻化」の主たる共演者〈丹尾章次〉

「桜島」の〈美しき滅亡を語り、グラマンの機銃掃射で撃ち殺されてしまう兵〉――「幻化」の〈酒を吞んで泳いで溺死した、或いは、自死したのかも知れないと五郎が思う「福」兵長〉

対(つい)関係を無視することは到底出来ない。そうしてこれは私には直ちに、

梅崎春生={枕崎の妓女,村上二曹,ダチュラの女,久住五郎}

梅崎春生={吉良兵曹長,村上二曹,丹尾章次,久住五郎}

梅崎春生={美しき滅亡を語る惨めに撃ち殺される兵,村上二曹,福兵長,久住五郎}

という全集合以外の何ものでもない、と感ぜられてならないのである。

 福兵長と久住五郎の重層性はあまりにもはっきりと記されているので敢えて注はしなかったが、五郎に福の死の記憶が蘇り、棺桶の中で沢山の香り高いダチュラの花に包まれた福の遺骸が思い出された後、〈ダチュラの女〉がダチュラの花を五郎に与え、五郎が密貿易屋敷に泊まると、五郎の寝た部屋に活けられたそのダチュラの花の香が充満するシーン、『淡い燈の光だけになった。ダチエラの匂いは、まだただよっている。彼は掛布団を顎まで引き上げる。女のことを思い出していた。熱い軀(からだ)や紅い唇、切ないあえぎなどを。』『五郎の体は宙に浮いて、ただよい始めた。ゆるやかに、ゆるやかに、波打際の方に。――五郎は福の体になっている。すっかり福になって、しずかに流れている。そう感じたのも束の間で、次の瞬間に五郎は眠りに入っていた』というすこぶる印象的なシーンを出せば、こと足りる。

 彼らは皆、作者「梅崎春生」という「一箇の人間」の中では――少なくとも、この「幻化」のラストにあっては――完全に一体となってこそ初めて――この人間という「惨めな生き物」の、惨めな/しかし確かな「生」と惨めな/しかし確かな「死」とが朧げながらも見え始める――ものであったに相違ない

と信じられた、と私には思われるのである。

 本作が書かれた昭和四〇(一九六五)年――本篇の熊本の旧女郎屋を訪ねる五郎のシークエンスにも何やらんプンプンするところの、学生運動の新左翼内の内ゲバの始まり――忌まわしい「大東亜戦争」を辛くも生き延びた村上二曹や久住五郎や梅崎春生は、あの若者たちのおぞましい殺し合いを、これ、どんな目で見ただろう? なお、本作の冒頭注で紹介した、本作発表の六年後、四十四年も前の中学三年の私が見、最初の梅崎春生体験となった、TVドラマ化された「幻化」(NHK/昭和四六(一九七一)年八月七日/九十分ドラマ/脚本・早坂暁/演出・岡崎栄/撮影・野口篤太郎)の冒頭では(「NHKアーカイブス」公式サイトのここに三分半だけあるが、そこにそのシーンはある)、病院を脱走した直後の久住五郎(演/高橋幸治)を俯瞰ショットのスローモーションで撮っているが、画面上半分の歩道を左へと逃げ走る五郎とは反対に、画面下半分の車道レーンを、赤旗を先頭にしたデモ隊が右へ向かうさまが描かれている。ご覧あれ。因みに、翌一九七二年二月十九日から二月二十八日には、あの連合赤軍の「あさま山荘事件」が起きている。

 「桜島」の最後の注の終りでも述べた通り、虚構としての糜爛した繁栄の文化の蔓延する戦後世界を、致命的な「死」のトラウマというスティグマを十字架として背負って「影」のように生きることを決意した孤独な魂は、当然、擦り切れざるを得ない(「虚構としての」「文化」というのは、どこぞの戦後の糞評論家の言葉を引いたのではない。梅崎春生の、昭和二〇(一九四五)年七月二十三日に桜島の海軍秘密基地で書いた日記に出てくる言葉である。詳しくは「桜島」の最後の私の注を参照のこと)。

――魂が擦り切れれば……自己同一性が失われる……

――致命的にアイデンティティを見失えば……今の社会では「精神疾患」のレッテルを貼られるしかない……

――それこそがこの「幻化」の主人公たる「久住五郎」に他ならぬ

のである。

――昭和二十年十二月に突如、小説中のキャラクターとして登場した小説「桜島」の「村上兵曹」

はそれより後、

――二十年の間、「〈戦後の文学〉」という〈小説〉の主要登場人物の一人である「〈小説家梅崎春生〉」となって示現し続けた

末、

――昭和四十年二月、小説「幻化」の、精神を病んだ主人公「久住五郎」という本地(ほんぢ)となって顕現した

のであった。

 「幻化」とは、人間という惨めな生き物の「惨めな/しかし確かな生」を摑まんがために、梅崎春生が自身の総ての小説上のキャラクターをオール・スター・キャスティグして、過去の、作家「梅崎春生」を「死」滅させ、第二の「生」を探求すべく放った――第二の新生「梅崎春生」――まことの自分の霊肉の融合した肉感の実感を伴った「生」の再生のため――丹尾や五郎と同様――命を賭けて放った――新生の第一作であったのである。

「しっかり歩け。元気出して歩け!」

と、五郎が丹尾に叫ぶように――五郎が五郎に叫ぶように――春生自身が、春生自身に、叫んでいる…………

――昭和四〇(一九六五)年七月十九日――

――『……小説「桜島」や「日の果て」で知られる作家の梅崎春生さんが、肝硬変のため、本夕刻、亡くなられました。五十歳でした。……』…………

2016/01/08

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (24)

 

 バスの終点でぞろぞろ降りた。かなり広い待合所がある。そこからケーブルカーが出る。壁にかかった大きな時間表の前に立ち、丹尾は見上げていた。五郎は近づいて、うしろから肩をたたいた。丹尾はぎょっとして振返った。

「あ!」

 丹尾は黒眼鏡を外(はず)し、とんきょうな声を立てた。丹尾の体から酒のにおいがぶんぷんただよっている。五郎は言った。

「また逢ったね」

「あんた、まだ生きてたんですか?」

 君はまだ生きていたのか、と彼は反問しようと思ったがやめた。

「生きているよ。おれに死ぬ理由はない」

「では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?」

「坊津に行ったよ」

「おかしいな」

 丹尾は首をかしげた。丹尾の顔は疲労のためか、酔いのせいか、四日前にくらべると、すこし憔悴し荒んでいた。

「坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった」

「電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった」

 丹尾は返事をしないで、彼の顔をじっと見ていた。少し経って、かすれた声で言った。

「散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」

「君には関係ないことだよ」

 以前にも同じ質問を受け、同じ答えをしたような気がする。

「君はケーブルカーに乗るんだろ」

「どうしようかと、今考えているところです」

 丹尾はトランクを下に置いた。

「来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする」

「ケーブルが切れて墜(お)ちることかね?」

 五郎は言った。

「君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという――」

「そ、そりゃ出来てますよ」

 丹尾は憤然と言った。自尊心を傷つけられたらしく、顔に赤みがさした。

「じゃケーブルに乗りましょう」

 ケーブルカーに乗り込む時、丹尾はたしかに力んでいた。必要以上に肩や手に力を入れ、トランクを抱いたまま、眼をつむっている。ケーブルカーの下の土地には、もう緑は見えず、一面茶褐色の岩や石だけである。

 終点についた。丹尾は全身から力を抜き、彼といっしょに降りた。火口はすぐである。火口壁の近くに立った時、さすがに五郎も足がすくんだ。

 火口壁はほとんど垂直に、あるいは急斜面になっていた。色は茶褐、緑青、黄土などが、微妙に混り合い、深く火口に達している。眼がくるめくほどの高さだ。風がないので、白い煙やガスがまっすぐに立ち昇っている。たぎり立つ熱泥が見える。眺めていると、体ごと引込まれそうだ。丹尾はひとりごとのように言った。

「自殺者にはあつらえ向きの場所だ」

 五郎は黙っていた。

〈なぜこの男は、おれと自殺とを結びつけようとするのだろう〉

 羽田を発つ時から、丹尾はそう決めてかかっていた。度度訂正をしたのに、その考えを捨てていない。それが彼には解(げ)せなかった。

「馬はどうです?」

 馬子が馬をひいて近づいて来た。

「火口を一周しますよ」

 五郎は手を振って断った。四、五歩後退しながら、丹尾に言った。

「弁当を食べないか?」

「弁当?」

 いぶかしげに丹尾は反問した。

「弁当、持ってんですか?」

「持ってるよ。二人前」

 彼は風呂敷をといた。中から折詰がふたつ出て来た。丹尾はあきらかに驚愕した。

「ぼくの分もつくって来たんですか?」

 彼は返事に迷った。女指圧師のことをしゃべるのは、面倒であり、重苦しくもあった。

「そうだよ」

 少し経って彼はうなずいた。

「ひとつは君の分だ」

「ど、どうしてぼくが――」

 丹尾はどもった。どもって、絶句した。

 

[やぶちゃん注:「とんきょう」「頓狂」「頓興」などと書き、出し抜けで調子はずれであるさま、間が抜けて調子外れであるさまを言うが、私などは「素っ頓狂(すっとんきょう)」以外に単独で使ったことはない(「すっ」は接頭語で、漢字表記通り「素(す)」に促音が添加されたもの。名詞・動詞・形容動詞に付いてその意味を強める)。

「ケーブルカー」本邦では山岳の急斜面などを鋼索(ケーブル)が繋がれた車両を巻上機等で巻き上げて運転する「鋼索(こうさく)鉄道」を「ケーブルカー」と称し、ロープウェイやゴンドラリフトなど(「普通索道」というらしい)のことを「ケーブルカー」というのは現行では一般的ではないが、参照したウィキの「ケーブルカー」には『イギリス英語では、Cable carはロープウェイを指す』とある。ここは鋼索鉄道のケーブルカーではなく、阿蘇山の火口縁に架かって営業されているゴンドラ型の「阿蘇山ロープウェー」を指している。ウィキの「阿蘇山ロープウェー」によれば(言っておくと、この営業上の固有名詞表記は「ロープウェー」でロープウェイではないので注意されたい)、営業開始は昭和三三(一九五八)年四月十日で、営業距離は八百五十八メートル、高低差は百八メートルある。『全世界で初の活火山に架けられたロープウェイ。阿蘇山中岳の西側から火口の縁までを登る』。現在の阿蘇山ロープウェー」公式サイトによれば、「阿蘇山西駅」から「火口西駅」までの所要時間四分とある。但し、現在(二〇一六年一月八日)は残念ながら、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)であるため、運行休止中である。

「緑青」老婆心乍ら、「ろくしょう」と読む。ここは色名の緑青色であるから、くすんだ緑、淡い青緑のことである。
 
「熱泥」老婆心乍ら、「ねつでい」と読む。

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (23)

 

   火 

 

 九時三十四分の準急。ぎりぎりまで待ったが、女は来なかった。五郎は風呂敷包みを提げ、決然と改札口を通った。座席はわりにすいていた。汽車は動き出した。

〈やはり来なかったな〉

 弁当二人分が入った包みを網棚に乗せながら、五郎は思つた。失望や落胆はなかった。来ないだろうという予想は、今朝からあった。ぱっとしない中年男と山登りして、面白かろう筈はない。

〈しかも拐帯者と来ているからな〉

 昨日の指圧の後味は悪くなかった。自分が自分でない男に間違えられた。つまり本当の自分は消滅した。彼は自分が透明人間になったような気分で、夜の盛り場を歩き廻り、パチンコをやったり、ビヤホールに入ったりした。街の風景は、昼間と違って、違和感はなかった。そして宿に戻る。部屋は上等の方にかわっていた。ぐっすり眠った。

 今朝眠が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。

「化けおおせたことが、そんなに嬉しいのか?」

 彼は顔を洗い、むっとした顔で朝食をとった。食べながら、女中に弁当を二人分つくることを命じた。阿蘇に登るのももの憂(う)い。計画を中止して、ここでじっと待とうか。そうしたいのだが、女指圧師が駅で待っているかも知れない。おそらく来ないだろうと思うが、約束した以上、駅まで行かねばならぬ。

 駅まで行った。とうとうすっぽかされたと判った時、よほど宿屋にこのまま戻ろうかと考えた。が、ついに決然と乗ってしまった。坐して迎えを待つのは、やはりいやだったのである。

 彼は窓ぎわに腰をおろし、外の景色を眺めていた。しばらく平野を走り、しだいに高地へ登って行く。右側に時々白川が見える。大体白川に沿って汽車は走っているらしい。発電所が見え、大きな滝が見え、火山研究所の建物が見える。天気は昨日につづいて好かった。風もない。阿蘇中岳の火口から、白い煙が垂直に上っている。

 昨夜の一時的の躁状態(と言えるかどうか)の反動で、五郎の気分は重く淀(よど)んでいた。彼は脱出した病院のことを考えていた。電信柱もチンドン屋も大正エビも、相も変らずベッドに寝そべっているだろう。いなくなった五郎のことなど、もう忘れたかも知れない。彼は今一番興味をもって思い出せるのは、診察室や廊下で顔を合わせるエコーラリイの患者である。その男はまだ三十にならぬ青年だ。病人は多少とも卑屈になり、おどおどした態度を示すものだが、その青年はその気配は微塵(みじん)も見せなかった。昂然として廊下をまっすぐ歩くのだ。

〈あれはうらやましいな。無責任で〉

 医師や看護婦から、病状の質問を受ける。たとえば、

「昨夜はよく眠れたかね」

 すると青年はすぐ言い返す。

「昨夜はよく眠れたかね」

 何を訊ねても、同じ言葉を返すだけだ。壁を相手にして、ピンポンをやる具合に、同じ球がすぐに戻って来るのである。動作も同じだ。そっくり相手の動作を真似る。

 答弁するということは、責任をもってしゃべることだ。その青年は答弁をしない。責任を相手に投げ返すだけだ。すべての責任から逃れている。エコーラリイというのは、病気の本体ではない。症状なのである。その症状がちょっとうらやましい気がするのだ。

 一時間余りで、阿蘇駅に着いた。

 駅前はごたごたしている。土産物屋や宿屋や、歓迎と書いた布のアーチまで立っている。阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしい趣きがあった。

〈なぜおれは阿蘇に登るのか?〉

〈登らなくてはならないのか?〉

 五郎はその理由を忘れている。確かにあった筈だが、どうしても思い出せない。睡眠療法を受けると、記憶力がだめになるのだ。それは療法を受ける前に、医師に告げられていた。

 バスは八割ぐらいの混み方であった。彼は後部の座席に腰をおろす。バスガールが説明を始める。うねった道がだんだん高くなり、景色が開けて来る。放牧の牛の姿が、ところどころに見える。

 草千里というところで、ちょっと停車した。

〈あれは映画セールスマンじゃないか〉

 そう気がついたのは、そこを発車してしばらく経ってからである。その丹尾らしい男は、前から三番目の席に坐っていた。坊中からいっしょだったのか、草千里から乗って来たのか、よく判らない。うつむき加減の姿勢で、時々頭を立てて、景色をきょろきょろ見廻す。黒眼鏡をかけている。五郎は視線を網棚に移した。見覚えのある小型トランクが、そこに乗っていた。

〈なぜ丹尾が阿蘇ヘ――〉

 彼はいぶかった。しばらくして思い出した。鹿児島から枕崎へのハイヤーの中で、丹尾がそんなことを言っていた。すると丹尾は鹿児島での商取引は済ませたのか。五郎はじっと丹尾の様子を眺めていた。丹尾は洋酒のポケット瓶を取出し、一口ぐっと飲んで、またポケットにしまう。貧乏ゆすりをしている。何だか落着きがない。――

[やぶちゃん注:「阿蘇中岳」熊本県の阿蘇山を構成する山の一つで、中央火口丘群のほぼ中央に位置し、最も活発な活動をしている標高千五百六メートルのピークである。外輪山と数個の中央火口丘から成る阿蘇山の内、カルデラ内部に出来た中央火口丘群の中核を成す、ほぼ東西に一列に並んだ五つのピークを「阿蘇五岳」と呼ぶが、この中岳はその中の最高峰で中岳の少し東に位置する標高一五九二・三メートルの高岳(たかだけ)に次ぐ(五岳の他は、最も東の根子岳(ねこだけ:一四〇八メートル)と、最西に南北にある烏帽子岳(えぼしだけ:一三三七メートル)・杵島岳(きしまだけ:一二七〇メートル)で、それ以外にも往生岳(一二三五メートル)などの千メートル級の峰が連なる)。

「昂然」「こうぜん」は、意気盛んなさま、自信に満ちて誇らしげなさま。

「阿蘇駅」「阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしい趣きがあった」大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る豊肥(ほうひ)本線の阿蘇駅は、この当時は熊本県阿蘇郡阿蘇町であった(現在は阿蘇市黒川)。大正七(一九一八)年一月二十五日に坊中(ぼうちゅう)駅として鉄道院が開設したが、昭和三六(一九六一)年三月二十日に阿蘇駅に改称している(ウィキ阿蘇駅に拠る)。五郎は先に「学生時代、二度阿蘇に登ったことがある」と述べており、五郎より五つ年上になる梅崎春生の熊本五高時代も、ここは「坊中」という名の駅であったのである。

「草千里」烏帽子岳の北麓に広がる直径約一キロメートルの草原地帯。もと二重式火口の跡で中央には大きな池があり、前には噴煙を上げる中岳が聳える。放牧馬が草を食み、阿蘇でも最も知られるロケーションである。御多分に洩れず、ただ一度、二十九年も前、修学旅行の引率で行っただけなのだが、担任していた女生徒の後ろ姿をここで写真に撮ったら、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」のワン・シーンのように見え、とても気に入ったのを思い出す。]

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (22)/「町」~了

 

 宿に戻った。番頭らしい男はさっきと同じ表情で、五郎を出迎えた。女中が案内した部屋は、貧しくよごれている。ふだんは布団部屋に使っているのではないか。埃(ほこり)のにおいから、彼はそう推定した。しかし彼は反対のことを、女中に言った。

「いい部屋だね」

 彼は皮肉を言ったつもりではない。穴倉のようで自分にはかっこうの部屋に見えたのだ。女中は困った顔になり、返事をしなかった。

「あんまか指圧師を呼んで呉れないか」

「御食事前にですと?」

「そうだ」

「聞いち来ますけん」

 女中が去ったあと、五郎は壁に背をもたせ、足を投げ出す。筋肉はまた痛みを取戻していた。それはもう怒りとはつながらない。ただの痛みとして、彼の背や肩にかぶさっている。

〈昨日今日とよく歩き廻ったからな。野良犬みたいに!〉

 五郎はくたびれていた。昨日のことを考えていた。昨夜のあんまのことから運転手、そして少年のことを考えた。それからズクラのことなども。――少年は悪意をもって彼を遇したのではない。もてなしたのだ。もてなしたついでに、ちょっぴり親孝行をしただけのことだ。疲労の底で、五郎はそう思おうとしている。氷水を食べたあたりから、彼の気分は下降し始めていた。怒りによる上昇は、束の間に過ぎなかった。

〈真底くたびれたな〉

 障子をあけて、女中が入って来た。手に宿帳を持っている。

「どうぞ、ここに――」

 女中は言った。

「指圧はすぐ来ますばい」

 偽名を書こうかと迷う。次の瞬間、彼は三田村のことを思い出した。本名でないと、返事が届かない。彼は本名を記入した。元の姿勢に戻る。

「ズクラ」

 と発音してみた。あれはへんな魚だ。よその海で泳いでいると、ボラなのだが、吹上浜に来ると、ズクラになる。実に平気でズクラになる。

 戻り道に買った洋酒のポケット瓶の栓をあけた。いきなり口に含む。ポケット瓶を持ち歩くのは、あの映画セールスマンの真似(まね)だ。真似だと気付いたのは、買ってからしばらく後である。彼はすこしいやな気がした。病院にそんな患者が一人いた。相手の動作や言葉を、すぐに真似するのだ。たしかあれはエコーラリイ(反射症状)だと看護婦が教えて呉れた。

〈しかしおれは、反射的に真似するんじゃなく、時間を隔てているからな〉

 そう思っても、真似をしたことは、事実であった。五郎は落着かない表情で、もう一口あおった。栓をして残りは床の間に立てかける。胃がじんと熱くなる。

 やがて指圧師がやって来た。若くて体格のいい女だ。彼はほっとした。昨夜のように陰々滅々なあんまでは、かなわない。女指圧師は入って来るなり言った。

「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」

「仕方がないんだ」

 五郎は答えた。

「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」

 上衣を床の間に放り投げる。とたんにポケットから白い貝殻が二、三個、畳にころがり出た。彼はそれを横眼で見ながら、毛布の上に横になった。

 妙なこり方をしている。そのことから、湯之浦温泉の話になった。女は話好きらしく、いろんなことを問いかけて来る。背中が揉(も)みほぐされると同時に、酔いが背に廻って来る。やはりくすぐったい。が、昨夜ほどではない。圧(お)し方が素直なのだろう。

「うん。飛行機や汽車に乗ったり、足でてくてく歩いたり――」

 彼は身元調べをされるのが、いやであった。いい加減にあしらう口調になる。

「ここに来て、ズクラになった」

「ズクラ?」

「いや。何でもないんだ。おれの故郷の方言だよ」

「熊本は初めて?」

「うん。いや。昔いたことがある」

「いつ頃?」

「君がまだ生れる前さ」

「ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう」

「うん。よく判るね」

 彼はうそをついた。

「今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね」

「どぎゃん風(ふう)に?」

「何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと――」

 彼は半身をひねりながら言った。

「言って置くけれど、無断でおれに乗らないで呉れよな」

「乗るもんですか。いやらしか」

 女は邪慳(じゃけん)に彼の体を元に戻した。冗談を言ったと思ったらしい。

「乗せたかとなら、他んひとば捜しなっせ」

「そ、それはかん違いだよ」

 五郎は弁明した。指圧されながらそう言われると、乗せたい気持がないでもなかった。

「乗るというのは、またがるという意味じゃない。上に立つということだ。湯之浦で、それをやられたんだ。ふと見ると、あんまの顔が天井に貼りついていた」

 その時障子がたたかれて、別の女中が入って来た。盆の上に電報と電信為替が乗っている。五郎は起きて、電報を開いた。

『明日そちらに行くから、宿屋で待機せよ。外出するな』

 そんな意味の電文があった。差出人は三田村である。為替の金額は、二万円だ。五郎は二度三度、電文を読み返して思った。

〈はれものにさわるような文章だな〉

「よか部屋があきましたばい――」

 老女中は言った。

「お移りになりますか?」

 五郎はその問いを黙殺した。電文の意味を考えていた。二万円あれば、もちろん東京に戻れる。それなのに何故三田村は、ここに来ようとするのか。しかも外出しないで、宿で待てという。医者に相談したのか、それとも三田村の意志なのか。

〈御用だ。動くな。神妙にせよ〉

 捕吏にすっかり周囲をかこまれたような気もする。眼を上げると、女中の姿は見えなかった。

「今日、子飼橋を見て来た」

 彼はかすれた声で言った。

「ずいぶん変ったね。あの橋も」

「洪水のためですげな」

「そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに馬糞(ばふん)が落ちているような橋だったよ」

「兵隊の頃?」

「兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の――」

 女の指の動きがとまった。

「出来っですたい。お客さんは将校じゃなかね。兵隊ばい」

 にがい笑いがこみ上げて来た。女の指が脛(すね)の裏側を圧し始めた。

「どうしてお客さんの足や、びくびくふるえっとですか?」

「くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね」

 子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった。その主人は、足がびっこであった。ソバはうまかった。

〈あれは何が悲しかったんだろう?〉

 学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた。夜が更け、客は彼一人である。主人が店仕舞をしたがっているのは、その動作や表情で判った。だから彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえって殖えて来る傾きがあった。彼はついにあきらめて、店を出た。寒い夜だ。子飼橋にさしかかった時、左手の方遠くに、赤い火が見えた。阿蘇が爆発していることを、彼は新聞で知っていた。彼は立ちどまる。闇の彼方の彼方に、二分間置きに、パッと火花が上る。小さな火柱と、落下する火の点々が見える。そして闇が戻って来る。また二分経つと、音もなく火柱が立ち、点になって散る。彼は三十分ほど、爆発の繰り返しを眺めていた。悲しみはそれでも去らなかった。その気分は覚えているが、今五郎はその根源を忘れている。

「今日、子飼橋から、阿蘇が見えたよ」

 五郎は低い声で言った。

「空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた」

「よか天気でしたなあ。今日は」

 女は五郎の体を表にした。腹這(ば)いからあおむけになったので、彼は女の顔や手の動きが見える。鼻の孔の形や色が、妙になまなましく感じられた。こんな角度から女の鼻孔を見るのは、初めてだったので、彼は眼をそらした。

「明日、阿蘇に登ってみようかな」

 思わずそんな言葉が口に出た。すると急にそれは彼の中で現実感を帯びた。さっき橋の上から眺めた時、眺めるだけの眼で、彼は山を眺めていたのだが。――

〈よし。登ってやる!〉

 三田村の電報が、底にわだかまっている。気合としては昨夜の温泉で、あんまを呼ぶために、呼鈴を押した感じに似ていた。しかし呼鈴を押したばかりに、妙な段取りが完成した。

「そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん」

「保証するのかい」

「保証しますたい」

 女は笑いながら、彼の肋骨を一本一本押えた。スラックスに包まれた厚ぼったい膝が、彼の脇腹を自然と押す形になる。その感覚に自分をゆだねながら、彼は三田村のことを考えていた。

〈あいつは明日来るというが、何で来るのだろう。飛行機か、それとも汽車か〉

 背中より肋(あばら)の方がくすぐったかった。

「ここの空港は、どこにあるんだね?」

「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」

「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」

 名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている。

「朝八時半か九時に羽田を発つと、午前中に着くね」

「はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん」

 三田村はああいう性格だから、やはり飛行機でやって来るだろう。

「友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ――」

「友達?」

 女は立って足の方に廻り、彼の膝を曲げ、胸に押しつけたり伸ばしたりする作業を始めた。それはかなり刺戟的な運動であった。

「そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか」

「そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く」

「持っち行く?」

 女は妙な顔をした。

「まっで荷物んごだんね」

「荷物だよ。おれは」

 饒舌(じょうぜつ)になっている、と自分でも思う。女は彼の体をまた裏返しにした。

「足ん裏ば踏んじゃろか。サービスですたい」

 五郎の足裏に、しめった女の足が乗った。初めはやわらかく控え目に、つづいて全体量をこめて、交互に動いた。女の厚ぼったい足に接して、彼は自分の蹠(あしうら)がスルメみたいに薄く、平たいことを感じる。それ故にこそ、なまなましい肉感が彼に迫って来た。

〈こんなものだ〉

 彼は声にならないうめきを洩らしながら思う。渇仰(かつごう)に似た欲望が、しずかに彼の体を充たして来た。

〈こんなに厚みがあって、ゆるぎなく、したたかなもの――〉

「お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ」

「だから明日は山に登るんだ」

「ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ」

 女は足から降りた。

「そんなにかんたんに行けるのか。では、火口を一廻りする」

 五郎は正座に戻り、女の顔を見た。

「君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう」

「暇は暇ですばってん――」

 女は彼の背後に廻った。頭の皮膚を押し始めた。佐土原あんまと同じやり口である。頭の皮は動いても、頭蓋骨は動かない。皮と骨の間に漿液(しょうえき)か何かが、いっぱいつまっているらしい。それが皮をぶりぶり動かせるのだ。

「汽車の切符も弁当も、用意しておくよ」

 女はしばらく黙っていた。すこし経って、

「悪かことば聞いてんよかね?」

「いいさ」

「お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう」

 五郎の眼はつり上った。自分でつり上げたのではなく、女の指の動きで、自然にそうなったのだ。

「よく判るね」

 皮膚の動きが収まって、彼はやっと口をきいた。今度は女の指先があられのように、頭皮に当った。

「どうして判る?」

「かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん」

「そうか。拐帯者(かいたいしゃ)の足は薄いか。いい勉強になったな」

「そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来っとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで」

 得意そうな、言いさとすような声を出した。彼はその声に、ふと憎しみを覚えた。

「だから登るんだよ」

「なして?」

「最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が――」

「しばし別れの――」

「うん。そうだ」

 女の笑いに和そうと思ったが、声には出なかった。指のあられはやんだ。指圧はこれで終ったのだ。

 五郎は上衣を引寄せ、紙幣とともに、鹿児島で買った時間表を取出した。

「九時半の準急があるな。これにしよう。切符売場で待っている」

 

[やぶちゃん注:「エコーラリイ(反射症状)」他の人の言葉・動作・表情を不随意に真似る病的な状態を指すエコプラクシア(Echopraxia)があり、病態としては、統合失調症や老人性認知症などにしばしば見られる。そのエコプラクシア一種で、他者が話した言語を繰り返して発声する言葉の反復行動や病的様態をエコラリア(Echolalia)、「反響言語」と称するものがあり、ここはそれを指している。以下、ウィキの「反響言語」から引くと、これは健常児や成人でも普通に見られるが、自閉症や発達障害初期、統合失調症・アスペルガー症候群・アルツハイマー病、脳卒中の予後などの症状として見られる(但し、多くの場合はこの現象は収まっていく)。『例えば、母親から「晩御飯に何を食べたい?」と訊かれた子が「晩御飯に何を食べたい?」と鸚鵡返しに答えることを即時性反響言語(即時エコラリア)という』。『これに対し、自閉症の児童がテレビCMの気に入ったフレーズや親からの叱責の言葉などを、時間が経ってからも状況に関わらず繰り返し話すことを遅延性反響言語(遅延エコラリア)という。後者には、肯定的な気持ちを表したり、自らの行動を制御するなど』七種類の類型があるとする。『D.M.Ricksの研究によれば』、三~五歳の『自閉症児は録音された自らの発声のみを模倣し、大人や他の自閉症児の発声は無視する傾向がある』。『精神科医レオ・カナーは、「周囲からは意味不明に思える言語仕様であっても、本人にとってはその言葉を覚えたときの特定の事物や場面と結びついており、聴き手がその個人的な体験にたどりつければ、なぜその言葉を選ぶのか理解することができる」と述べている』。何故、このエコラリア「反響言語」を引いたかというと、以前にも述べたが、私はこのシーンの直前の「ズクラ」のように、梅崎春生の作品に登場する人物(殆んどが春生自身がモデルと見られるキャラクター)には特定の単語(外来語やカタカナ表記のそれが多い)に対する、奇妙な拘りやそれを繰り返し口に出す、まさに反響言語行動、エコラリア的反応が有意に多いからである。私は健常者でもしばしば生ずる一種のゲシュタルト崩壊(特定の漢字や文字列を見たり、聴いたりしているうちに、それらの部分がバラバラに認知され、その集合体である当該漢字や文章が、何故、そう読み、何故、そういう意味になるのか、という疑義が湧いてきて強い違和感を抱く例がそれ。因みに最近の私の語注の傾向にはこのゲシュタルト崩壊的焦燥に駆られたものがあるように自身で感じていることを告白しておく)を想起していたが、もしかすると、このエコラリアの観点からそれらを解明出来るかも知れないと強く感じたからである。

「陰々滅々」薄暗く陰気で、気が滅入るようなさま。

「邪慳(じゃけん)」「邪険」とも書く。もとは、仏教で因果の理法を否定する誤った邪(よこしま)な考え或は正しくない見解の意の「邪見」で、「意地が悪く、人に対して思いやりのないさま」「薄情」の意である。現行では動詞化して「邪慳にする」で「退け者にする」「意地悪する」を「邪慳する」、或いは受身形「邪慳にされる」で用いることが殆んどである。文字通り「邪」は「よこしま」、「慳」は心が誤った方向に向かって堅くなって凝り固まってしまい、善悪の区別が出来なくなった状態を指す。

「子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった」これもモデルがありそうである。哀しいかな、私は修学旅行の引率でただ一度しか熊本には足を下ろしたことがない。もし、御存じの方がおられれば、御教授下さるとありがたい。

「〈あれは何が悲しかったんだろう?〉」「学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた」「彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえって殖えて来る傾きがあった。彼はついにあきらめて、店を出た。寒い夜だ。子飼橋にさしかかった時、左手の方遠くに、赤い火が見えた。阿蘇が爆発している」「彼は立ちどまる。闇の彼方の彼方に、二分間置きに、バッと火花が上る。小さな火柱と、落下する火の点々が見える。そして闇が戻って来る。また二分経つと、音もなく火柱が立ち、点になって散る。彼は三十分ほど、爆発の繰り返しを眺めていた。悲しみはそれでも去らなかった。その気分は覚えているが、今五郎はその根源を忘れている」最早、五郎も思い出せない、例の「翳を引いている」「過去」の一つである。それだけにやけに気になる。

「阿蘇が爆発していることを、彼は新聞で知っていた」梅崎春生の事蹟に合わせて調べると(久住五郎は春生より五歳若く設定しており、その年齢で検証する意味はないと私は判断した)、春生が熊本五高に入学した昭和五(一九三二)年に『空振のため阿蘇山測候所窓ガラス破損』、十二月十八日、火口付近で負傷者十三名とあり、翌昭和八年には『第二、第一火口の活動活発化。直径』一メートル『近い赤熱噴石が高さ、水平距離とも数百』メートルも飛散したとある。作品内の季節からは前者がしっくりし、激しい火炎の立ち上るところからは後者で、春生の両方の記憶が原景なのかも知れない。

「しかし呼鈴を押したばかりに、妙な段取りが完成した」春生の時系列のパッチ・ワークでやや見えにくくなっているが、かの湯之浦の爺さんの按摩に憤激して、その怒りの勢いのままに、五郎はこの日、一気に熊本まで来てしまったのである。

『「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」/「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」/名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている』「水前寺」は水前寺公園(JR熊本駅から真西に六キロメートル強)で知られる熊本県熊本市中央区の町名で、「健軍」は「けんぐん」と読み、熊本市東部の旧町名で、現在は熊本市東区内。水前寺町の東に接する。現行でも汎用地名として概ね、健軍商店街周辺の東区若葉一丁目・新生二丁目・健軍三丁目と東本町の一部を指し、健軍本町という町名も現存する。戦中まではここに陸軍の健軍飛行場(太平洋戦争が始まった昭和一六(一九三一)年に三菱重工業熊本航空機製作所が建設された際に作られたもので旧陸軍によって軍用飛行場としても利用されていた)があり、戦後は、熊本空港として昭和三五(一九六〇)年の四月に跡地に千二百メートル滑走路で開港した。この後の昭和四六(一九七一)年四月の現熊本空港の開港に伴い、廃港となった(現在の熊本空港からは西南西約八キロ附近)。この健軍飛行場部分は主に佐伯邦昭氏のサイト「インターネット航空雑誌ヒコーキ」の「航空歴史館」のこちらの記載や、「とりさん」氏のブログ「空港探索・2」の「旧熊本空港(旧陸軍健軍飛行場)跡地」を参照させて頂いた)。

「渇仰(かつごう)」もとは仏教用語で、喉の渇(かわ)いた者が水を切望する如く、仏を仰ぎ慕うの意で、深く仏を信ずることを指し、そこから広く、対象を心から憧れて慕うことを指すようになった。

「漿液(しょうえき)」医学で言った場合は体液や体内外への分泌液の性質を表わす語で、粘性の低いさらさらした液体を指す。主に消化・排泄・呼吸に関与するところの唾液・胃液などの消化液から、漿膜(腹膜・胸膜・心膜などの身体内面や内臓器官の表面を蔽っている薄い半透明の膜で、表面は滑らかで漿液を分泌する細胞から構成されている)からの分泌液など全般を指す。但し、頭皮の下はと頭蓋骨であって、ここで五郎が言うような漿膜のような部分は存在しない。これは所謂、脳漿(のうしょう)、頭蓋骨内部で脳を満たしているところの脳脊髄液と勘違いした表現のように思われる。

「拐帯者(かいたいしゃ)」人から預かった金品を持ち逃げした者。もしかすると、この指圧師の女性は五郎を横領した中年サラリーマンが横領したはいいが、結局、罪の意識に苛まれて、阿蘇に飛び込んで自殺でもしようと思っている、と考えているのではあるまいか、と私は思ったりする。拐帯――横領――様子のおかしい中年男――阿蘇――これだけの揃い踏みなら、私でもそう考えるのである。読者の意識の中にも、そうした噴火口への飛び込み自殺のイメージが潜在的に浮かぶように仕組まれているように私には思われる。それが本作の最後のクライマックスの伏線となるかのように――である。

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (21)

 

 戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。二、三年経って、彼にまとまった金を借りに来た。

「何に使うんだね?」

「家を建てたいんだ」

「まだあの人といっしょかね?」

「あの人って?」

「紫の袴をはいていた女さ」

「ああ」

 小城はちょっと顔をあからめた。

「あれは今、ぼくの女房だ」

 小城が家を建てるために、なぜおれが金を貸さねばならぬのかと、彼はいぶかった。

「金のことなら、お断りするよ」

 五郎は言った。

「そんな金はない」

「そうかね」

 小城は別にがっかりした風でもなかった。少壮学者らしく、顔は青白く、額にぶら下る髪を時々かき上げて、むしろ軒昂(けんこう)たる風情(ふぜい)もあった。

 私大の教授もしていたし、どこからか金はつくったのだろう。建前の日に招待された。そこで小城の妻の顔を見た。紫の袴を見てから、二十年も経つ。へんてつもない中年の女で、五郎にはもう興味がなかった。それよりも建前の行事、夕暮の空に立つ柱や梁(はり)、その下で汲合う冷酒やかんたんな肴(さかな)、大工の話などの方が面白かった。この日以後、彼は小城と顔を合わせたことがない。

 それから数年後、小城はある若い女が好きになった。ある進歩的な出版社から発行される雑誌の編集部につとめる女だ。その女といっしょになるために、小城は妻を捨てた。その話を彼は三田村から聞いた。

「そういう男なんだ。あいつは!」

 三田村ははき捨てるように言った。

「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。エゴイストだね」

 五郎は何となく、向日葵(ひまわり)の方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、炎(も)えている感じは、もうなくなっていた。

「何が何でも!」

 終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた。

 

[やぶちゃん注:「軒昂」奮い立って勢いがある様子。畳語。「軒」は「挙」と同義で「高く上がる」「高く上げる」の意。「昂」はもと「日が昇る」で、そこから「上へ上へ高く上がっていく」「感情や意気が激しく昂(たか)ぶる」、昂奮するという意味が生まれた。

『五郎は何となく、向日葵(ひまわり)の方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、炎(も)えている感じは、もうなくなっていた。/「何が何でも!」/終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた』形容の「生」=「性」のアナグラムと言い、映像と台詞の覚悟のマッチング、「終末的な力みだけで、枝が花を支えている」の表現が、普通の向日葵を異様な肉質のものにメタモルフォーゼさせてゆく。]

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