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カテゴリー「「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】」の100件の記事

2016/11/30

諸國百物語卷之五 二十 百物がたりをして富貴になりたる事 / 「諸國百物語」電子化注完遂!

 

     二十 百物がたりをして富貴(ふつき)になりたる事


100hukki

 京五條ほり川の邊に米屋八郎兵衞と云ふものあり。そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが、あるとき、子どもに留守をさせ、大津へ米をかいにゆかれけるが、子どもに、

「よくよく留守をせよ、めうにち、かへるべし」

と、いひをかれける。その夜、あたりの子ども、七、八人、よりあひ、あそびて、古物がたりをはじめけるが、はや、はなしの四、五十ほどにもなれば、ひとりづゝ、かへりてのちには、二、三人になり、咄八、九十になりければ、おそれて、みなみな、かへり、米屋のそうりやうばかりになりけり。惣領、おもひけるは、

『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』

とて以上、百物かたりして、せどへ小べんしにゆきければ、庭にて毛のはへたる手にて、しかと、足を、にぎる。そうりやう、おどろき、

「なにものなるぞ、かたちをあらはせ」

といひければ、そのとき、十七、八なる女となりて、いふやう、

「われは、そのさきの此家ぬしなり。産(さん)のうへにてあひはて候ふが、あとをとぶらふものなきにより、うかみがたく候ふ也。千部の經をよみて、給はれ」

と云ふ。そのとき、かのそうりやう、

「わが親はまづしき人なれば、千ぶをよむ事、なるまじきぞ。ねんぶつにて、うかみ候へ」

と云ふ。かの女、

「しからば、此せどの柿の木に金子をうづめをき候ふあいだ、これにてよみて、給はれ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。夜あけて、親八郎兵衞、かへりけるに、よいの事どもかたりきかせければ、さらば、とて、柿の木の下をほりてみれば、小判百兩あり。やがて、とりいだし、ねんごろにあとをとぶらひける。それより、米屋しだいにしあわせよくなり、下京(しもぎやう)一ばんの米屋となりけるとなり。

 

    延寶五丁巳卯月下旬

         京寺町通松原上ル町

             菊屋七郎兵衞板

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「百物語して福貴□成事」。文中の『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』は底本では二重鍵括弧はなく、本文続きであるが、特異的にかくした。

「京五條ほり川」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが」「惣領十六を頭(かしら)にとして、子供、十人持ち、久しく鰥夫(やもめ)にて居るらけるが」。本篇ではこの貧しかった当時の米屋の父に尊敬語を用いている。正直、五月蠅く、ない方がよい。

「かいにゆかれけるが」「買ひに行かれけるが」。行く先が大津であるのは、問屋ではなく、名主や庄屋から直接に仕入れ買いに行ったようである。

「めうにち」「明日(みやうにち)」。歴史的仮名遣は誤り。

「古物がたり」「ふるものがたり」。

「しやうれつ」不詳。仮名表記と文脈に合うものは「勝劣」(百話で出現する物の怪の恐ろしさ具合が優れて恐ろしいか、或いは、意外にも大したことのない劣ったものであるかを見極める)であるが、これではあまりに余裕があり過ぎ、また「從列」「生列」(百話に合わせて物の怪が百鬼夜行となって列を成して次々と生まれ出現してくる)という語と造語してみても何だか締りがなくて弛んでしまう気もする。しっくりくる熟語があれば、是非、お教えいただきたい。差し換える。

「むけう」「無興」。

「せど」「背戸」。裏口の方。

「小べん」「小便」。

「そのさきの此家ぬしなり」「この今よりも以前の、そなたの住まうところの、この家の女主人で御座いました。」。

「産(さん)のうへ」異常出産のために子とともに亡くなったのであろう。夫も直前か直後に亡くなり、それ以前の子もなかった後家であったものか。

「あとをとぶらふものなきにより」「後(世)を弔ふべき者無きにより」。

「うかみがたく候ふ也」「成仏出来ずにおるので御座います。」。

「延寶五丁巳卯月下旬」延宝五年は正しく「丁巳」(ひのとみ)でグレゴリオ暦一六七七年。旧暦「卯月」はグレゴリオ暦で五月一日、同月は大の月で五月三十日はグレゴリオ暦五月三十一日に相当する。第四代将軍徳川家綱の治世。

「京寺町通松原上ル町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菊屋七郎兵衞」板木屋七郎兵衛(はんぎやしちろべえ 生没年不詳)。「菊屋」とも号した。京で出版業を営み、後に江戸にも出店した地本(じほん)問屋(地本とは江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。草双紙の内訳としては赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻が含まれる)。主に鳥居清信の墨摺絵や絵本などを出版している(ここはウィキの「板木屋七郎兵衛」に拠った)。

「板」板行(はんぎょう)。版木を刻して刊行すること。

 

 これが、本「諸國百物語」の擱筆百話目である。さて……今夜、あなたのところに起こる怪異は一体、何であろう……何が起きても……私の責任では、ない……ただ私の電子化に従って読んでしまったあなたの――せい――である…………

2016/11/29

諸國百物語卷之五 十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力

 

     十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力(ほふりき)

 

 相模の國に信久(のぶひさ)とて高家(かうけ)の人あり。此奧がたは土岐玄春(ときげんしゆん)といふ人のむすめ也。かくれなきびじんにて、信久、てうあひ、かぎりなし。こしもとにときわといふ女あり。これも奧がたにおとらぬ女ばうなりければ、信久、をりをり、かよひ給ふ。ときはは、それよりなをなを、奧がたに、よく、ほうこういたしける。あるとき、奧がた、うかうかとわづらひ給ひて、しだひにきしよくおもりければ、信久、ふしぎにおもひ、

「もしは、人のねたみもあるやらん」

とて、たつとき僧をたのみて、きとうをせられければ、僧、經文をもつて、かんがへて申しけるは、

「此わづらひは人の生靈、つき申したり。よりつけといふことをし給はゞ、そのぬしあらはれ申べし」

と云ふ。信久、きゝ給ひて、

「よきやうに、たのみ申す」

とありければ、僧、十二、三なる女を、はだかにして、身うちにほけ經をかき、兩の手に御幣をもたせ、僧百廿人あつめて法花經をよませ、病人のまくらもとに檀をかざり、らうそく百廿丁とぼし、いろいろのめいかうをたき、いきもつかずに經をよみければ、あんのごとく、よりつきの十二、三なる女、口ばしりけるほどに、僧は、なをなを、ちからをゑて、經をよみければ、そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり。僧のいわく、

「まことのすがたをあらはせよ」

との給へば、ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、火のきゆると一度に、奧がたも、むなしくなり給ふ。信久、むねんにおもひ、かのときはをひきいだし、奧がたのついぜんにとて半ざきにせられけると也。

 

[やぶちゃん注:「信久」不詳。本話柄の時代設定は最後の私の注を参照されたい。

「高家(かうけ)」由緒正しき家系の家。

「土岐玄春」不詳。医師っぽい名ではある。

「てうあひ」「寵愛」。

「こしもとにときわといふ女あり」「腰元に常盤(ときは)といふ女有り」。歴史的仮名遣は誤り。

「をりをり、かよひ給ふ」しばしば常盤の部屋にお通いになっておられた。これは必ずしも秘かにではなく、正妻も承知の上のことであったかも知れぬが、話柄の展開上は、不倫事としないと全く面白くない。

「これも奧がたにおとらぬ」美人の、である。

「うかうかと」心が緩んでぼんやりしているさま、或いは、気持ちが落ち着かぬさまを指し、ここは心身の状態がすこぶる不安定なことを言っていよう。

「しだひにきしよくおもりければ」「次第(しだい)に氣、色重りければ」。次第次第に病「ねたみ」「妬み」。

「たつとき」「尊き」。

「きとう」「祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「僧、經文をもつて、かんがへて」僧が経文を唱えてて、それに対する病者の様子(反応)などを以って勘案してみた結果として。

「よりつけ」「依付(よりつけ)」。患者に憑依している物の怪を、一度、別な「依代(よりしろ)」と呼ばれる人間に憑依させ、それを責め苛み、而して正体を白状させた上で調伏退散させるという呪法。

「そのぬし」「其の主」。憑依して苦しめている物の怪。この場合は実際に現世に生きていて生霊を飛ばしている(意識的にか無意識的には問わない)人物。

「十二、三なる女」依代には若い処女の少女が向いているとされた。

「身うち」全身。

「ほけ經」「法華經」。

「御幣」「ごへい」。

「檀」密教で呪法に用いる護摩壇。

「らうそく」「蠟燭」。

「めいかうをたき」「名香を焚き」。

「いきもつかずに」息をしないかの如く、一気に。

「あんのごとく」「案の如く」。

「口ばしりける」その生霊が憑依して不断の調伏の祈禱によって依代から逃げ出すことも叶わず、苦しんで思わず、生霊自身が依代の少女の口を借りて、苦悶の言葉を吐き始めたのである。

「そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり」私は正直、この箇所は、上手くない、と思う。せめて、

 

 其の時、女の樣なるものの苦しめる姿(かたち)、朧(おぼ)ろけに檀の上に立ち出でたるが如く、幽かに見えたり

 

としたい。さすればこそ、「まことのすがたをあらはせよ」が生きてくると言える。さらに言っておいくと、迂闊な読者の中には、下手をすると、ここに実際の腰元の常盤がどたどたと登ってきてしまうというトンデモ映像を想起してしまうからでもある。

「ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、」ここも「常盤」を出してしまっては、B級怪談である。ここは例えば、

 

 かの面影(おもかげ)に見えし女、衣紋(えもん)引き繕ひ、打掛(うちかけ)をして出で、上なる小袖を、

「ばつ!」

としければ、百二十丁の蠟燭、一度に消えけるが、

 

としたい(複数箇所の歴史的仮名遣は誤り)。「打掛」帯をしめた小袖の上に羽織る丈の長い小袖で、武家の婦人の秋から春までの礼服であったが、江戸時代には富裕な町家でも用いられた。この蠟燭が一斉に消えるシーンは圧巻! 撮ってみたい! いやいや! それ以上に本話が語り終えたその時、九十九本目の蠟燭が消されることにも注意されたい! 残りは一本! いよいよ怪異出来(しゅったい)まで残り、一話!

「むねんにおもひ、かのときはをひきいだし」「無念に思ひ、かの常盤を引き出だし」。

「ついぜん」「追善」。

「半ざき」「半裂き」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『罪人の手足に二頭、または四頭の牛をしばりつけ牛を走らせて、体を裂く処刑。室町時代の処刑法の一つ』とする。こういう注を高田氏はわざわざ附しているということは、本話の時制を室町時代まで遡らせているということになる。]

2016/11/28

諸國百物語卷之五 十八 大森彦五郎が女ばう死してのち雙六をうちに來たる事

 

     十八 大森彦五郎が女ばう死してのち雙六(すごろく)をうちに來たる事

 

 丹波のかめ山に、大もり彦五郎とて、三百石とる、さぶらひあり。此人の女ばう、かくれなきびじんなりしが、産(さん)のうへにてむなしくなり給ひければ、彦五郎もなげきかなしび給ひけれども、かひなし。この内儀に七さいのときよりつかわれしこしもと女ありしが、この女、ことになげきて、七日のうちにはじがいをせんとする事、十四、五度におよべるを、やうやうなだめをきて、はや三とせをすごしける。一もんより、あひいけんして、彦五郎に又、つまをむかへさせけり。のちの内儀は女なれども、よくみちをわきまへたる人にて、はじめの内儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ、はじめの内儀も、くさばのかげにては、よろこび給ふと也。はじめの内儀ぞんじやうのとき、かのこしもとと、つねづね、すご六をすきてうたれしが、あひはてられても、そのしうしんのこりけるにや、よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、

「よなよな、あそびに御座候ふ事、すでに三ねんにおよべり。われ、七さいのときより、ふびんをくわへさせ給ふて、かやうにせいじんいたし候へば、いつまで御奉公をいたし候ひても、御をんはほうぢがたく候へども、今は又、かはりの女らうも候へば、もしもかやうに、夜な夜な、御出で候ふ事、しれ申し候はゞ、ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし。今よりのちはもはやきたり給ふな」

と申ければ、

「まことにそのはうが申すごとく、此すご六にしうしんをのこしたるとは人も、いふまじ。今よりのちは、まいるまじ」

とて、かへられけるが、そのゝち彦五郎ふうふの人に、こしもと女、物がたりしければ、

「さては、さやうにありつるか」

とて、すご六ばんをこしらへ、かの内儀の墓のまへにそなへて、ねんごろにとぶらひ給ひけると也。

 

[やぶちゃん注:本話柄は、邪悪な悪心を持った者が一人として登場しない非常に清澄にして透明なる美しい怪談で、コーダ近くに相応しい。

「大森彦五郎」不詳。

「雙六(すごろく)」これは盤双六で、古くエジプト或いはインドに起こったとされ、中国から奈良時代以前に本邦へ伝わった室内遊戯。盤上に白黒一五個ずつの駒を置き、筒から振り出した二つの骰子(さいころ)の目の数によって駒を進め、早く敵陣に入った方を勝ちとする。中古以来、成人男子の賭博(とばく)として行われることが多くなり江戸末期まで続いた。発音は「双六」の古い字音に基づく「すぐろく」の転訛したものである。

「丹波のかめ山」現在の京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった亀山城。丹波亀山藩藩庁。

「産(さん)のうへにて」子は残されていないから、異常出産で母子ともに亡くなったものと思われる。

「じがい」「自害」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『殉死。当時、恩義ある人、義理ある人の死に際して殉死の風習があったため、これに対する、つよい禁制が出されていた』とあるが、ウィキの「殉死」によれば、『主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層真似をする者が増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった』。第四代将軍徳川家綱から第五代綱吉の『治世期に、幕政が武断政治から文治政治、すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行』し、寛文三(一六六三)年の武家諸法度寛文令の改訂『公布とともに殉死の禁が口頭伝達され』、寛文八(一六六八)年に起った宇都宮藩での「追腹一件(おいばらいっけん:同年二月十九日に藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子長男奥平昌能は忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「未だ生きているのか」と詰問、杉浦が直ちに切腹した事件)では『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』。この後、延宝八(一六八〇)年に『堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている』。天和三(一六八三)年の武家諸法度天和令に於いて、『末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行されたものであはあるが、ここまでの話柄の時制は、それよりも遙かに前であるものの方が圧倒的に多かった。従って本件が家光以前であれば、必ずしも高田氏のそれは有効な注とは言えない。

「一もん」「一門」。大森一門。大森氏の主家。

「あひいけんして」「相ひ意見して」。後妻を迎えて世子を設け、家系を存続させることが侍としての本義であるといった説得をして。

「はじめの内儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ」「初めの内儀を呼び出だし、持佛堂にて每日囘向せられければ」。後妻となった女性は、なんと、亡き先妻のためにわざわざ持仏堂を設け申し上げ、そこに先妻の御位牌をお迎え申して捧げ奉り、そこでまた、毎日、欠かさずに回向をなさったので。

「くさばのかげ」「草葉の蔭」。

「ぞんじやう」「存生」。

「そのしうしんのこりけるにや」「その執心、殘りけるにや」。その双六にて遊ぶことへ、強い執心が残っていたものか。ゲーム・アプリにうつつを抜かして致死事故を起こす現代人には、これを以って笑う権利など、ない。

よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、

「ふびんをくわへさせ給ふて」「不憫を加へさせ給ひて」。お可愛がり下さいまして。

「かやうにせいじんいたし候へば」「斯樣に成人致し候へば」。

「御をんはほうぢがたく」「御恩報じ難く」。

「かはりの女らう」「代はりの女﨟」。二代目の高貴なる女主人。後妻である現在の内儀を指す。

「しれ申し候はゞ」家内や近隣に者どもに知れてしまわれ遊ばされては。

「ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし」彼らは皆、貴女さま(先妻)が後妻に対して妬みを以ってその執心から化けて出て来られているにではなかろうか、と思うに違い御座いませぬ。それでは貴女さまにとっても、また、心から貴女さまを追善なさっておられる今のご内儀さまにとっても、心外で無用な心配を引き起こすこととなるのでは御座いますまいか? といったこの腰元の誠意溢るるニュアンスであることをおさえておかねばなるまい。

「彦五郎ふうふの人に」彦三郎夫婦二人に対して。]

 

2016/11/27

諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事

 

     十七 靏(つる)の林(はやし)うぐめのばけ物の事


Turunohayasi

 寛永元年のころ、みやこのひがしに靏(つる)の林と云ふ廟所(びやうしよ)有り。此ところへ、よなよな、うぐめと云ふばけ物、きたりて、あか子のなくこゑするとて、日くるれば、とをる人なく、此あたりにはせどかどをかためて人出で入りせず。ある人、これをききて、

「それがし、見とゞけん」

とて、ある夜、あめふり、物すさまじきおりふし、靏の林にゆきて、うぐめをまちゐける所に、あんのごとく、五つじぶんに、しら川のかたより、からかさほどなる、あをき火、宙を、とび、きたる。ほどちかくなりければ、人のいふに、たがわず。あか子のなくこゑ、きこへければ、かのもの、やがて、刀をぬき、とびかゝつて、きつておとす。きられて、たうど、おちたる所を、つゞけさまに二刀さし、

「ばけ物、しとめたり。出あへ、出あへ」

と、よばはりければ、あたりの人々、たいまつをとぼし、たちより見ければ、大きなる五位鷲にて有りけるとなり。よしなき物にをそれたり、とて、人々、大わらひして、かへりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「靏の林うふめの事」。実録風疑似怪談落し咄。呵々大笑してエンディング。私なら、これを鷺鍋にして皆して食ってしまってオチにする。「耳嚢 巻之七 幽靈を煮て食し事」が、まさに、それ。

「靏(つる)の林(はやし)」不詳。「靏」は「鶴」の異体字。「鶴の林」或いは「鶴林(かくりん)」とは、釈迦の涅槃の折り、釈迦を覆っていた沙羅双樹の木の葉の色が、瞬時に白く変じ、白鶴のようになったことを指すが、これはこれで実在地名らしい。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『不詳。室町期「鶴の本」と言った所か?』とするが、その現在位置は記されていない。識者の御教授を乞う。

「うぐめ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種ともされた妖怪産女(うぶめ)。今まで搦め手的にしか引いていないので、ここはウィキの「産女」を本格的に引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「寛永元年」一六二四年。第三代将軍徳川家光の治世。

「せどかどをかためて」「背戸(せど)、門(かど)を固めて」。「背戸」は家の裏口。

「五つじぶん」午後八時頃。

「しら川」これは現在の白川(滋賀県大津市山中町の山麓を水源として西へ流れ、京都府京都市左京区に入って吉田山北東部鹿ヶ谷付近で南西に転じ、南禅寺の西側で現在は琵琶湖疏水を合わせているそれ)と考えられるから、この謎の「靏の林」は鴨川以東、白川以西と考えるのが自然で、現在の平安神宮から京都大学附近を想定してよいかと思う。

「からかさ」「唐傘」。これは「あをき火」の玉の大きさを指しているから、実は五位鷺(ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax)の靑白い色がそう見えたのである。サギが羽ばたいているならば、唐傘大と表現してもおかしくない。但し、天候(雨降り)と時刻(午後八時)から考えると、それが視認出来たといのはやや無理がある気はする。なお、ゴイサギの大型個体の屹立した後姿というものは全く以って人に見え、それは恰も蓑を着て川漁をする漁師のようでもあり、或いは、山野に遁世している隠者が瞑想しているかのようでもある。私はそうした姿を何度も目撃した。殊の外私の好きな、禅僧か哲学者が佇んで何か考え込んでいるみたような不思議な姿なのである。

「あか子のなくこゑ」実はゴイサギの鳴き声。ウィキの「ゴイサギ」によれば、『夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜む。夜間月明かりで民家の池にも襲来して魚介類・両生類を漁る。主につがいや単独で行動する。都市部の小さな池にも夜間飛来し、金魚や鯉を漁ることもある』とある。ゴイサギの鳴き声は例えば、これ! うひゃ! 赤ん坊と言えぬこともないが、ドラキュラの断末魔のようで、夜間のこれは流石の私も聴きたくない。ヤバシヴィッチ!

「たうど」前出の「江戸怪談集 下」の脚注には、『どうど。落ちる音を「うぐめ」の異称唐土鳥(とうどのとり)に語呂合わせして、しゃれた』とある。この洒落にはこの注を読まなければ気づかなかった。高田先生に感謝。

「たいまつをとぼし」「松明を點し」。

「よしなき物」つまらぬもの。]

2016/11/26

諸國百物語卷之五 十六 松ざか屋甚太夫が女ばううはなりうちの事

 

     十六 松ざか屋甚太夫(ぢんだゆふ)が女ばううはなりうちの事

 

 京むろ町、中立(なかだち)うり邊に、うとくなる後家ありけるが、子をもたざりけるゆへ、いもうとの子を養子してそだてけるに、せいじんして、みめかたち、うつくしかりければ、あなたこなたより、こいしのびける。そのあたりに、松ざかや甚太夫と云ふ人あり。此内儀、りんきふかき女ばうにて、甚太夫、ほかへいづれば、人をつけてあるかせける。甚太夫、あまりうるさくおもひて、いとまをいだしける。そのあとへ、かの後家のむすめをよびけるが、ほどなく、くはいにんして産所にゐけるに、七夜(しちや)のよの事なるに、座敷のつま戸、きりきりと二度なりしを、内儀は、おいち、と、いひけるが、ふしぎにおもひ、みければ、十八、九の女ぼう、白きかたびらに、しろき帶をして、かみをさばき、ほそまゆをして、かの、おいちを見て、にこにこと、わらふとおもへば、又、きつと、にらみける。おいち、おどろき、

「わつ」

といひてめをまわしければ、人々、おどろき、よびいけなどして、やうやう氣つきける。そのゝち、三十日ばかりすぎて、おいち、ねていられたる所へきて、

「いつぞやは、はじめて御めにかゝり候ふ。さても、うらめしき御人や、うらみを申しにまいりたり」

とて、せなかを、ほとほと、たゝき、うせけるが、それより、おいち、わづらひつきて、つゐに、あひはてけると也。はじめの女ばうのしうしんきたりけると也。

 

[やぶちゃん注:「うはなりうち」「後妻打(うはなりう)ち」。行動としては、中世から江戸時代にかけて行われた民俗風習の一種で、夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚した際(一般には先妻との離別から一ヶ月以内に前夫が後妻を迎えた場合)、先妻が後妻に予告をした上、後妻の家を襲うものを指す。ウィキの「後妻打ち」に詳しい。但し、ここはその生霊版であり、このタイプは既に「卷之一 八 後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經(ほけきやう)の功力(くりき)」で登場し、同系統の話柄は本「諸國百物語」の他の話柄にも多数、内包されている。

「松ざか屋甚太夫」不詳。現在の「松坂屋」は尾張名古屋が本拠地で、ルーツも伊勢商人であるから、無関係であろう。

「京むろ町、中立(なかだち)うり」現在の京都府京都市上京区中立売通。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「うとく」「有德」。裕福。

「りんき」「悋気」。嫉妬心。

「人をつけてあるかせける」見守り役をつけて歩かせ、女と接触しないように警戒させた。

「いとまをいだしける」「暇を出だしける」。離縁した。

「くはいにん」「懷妊」。

「産所」「さんじよ」。出産をするために拵えた場所。出産の際の血の穢れを忌んで特別に作った。産屋(うぶや)。

「七夜(しちや)」お七夜(おしちや)。子供が生まれて七日目の祝いの夜。

「つま戸」「褄戸」。開き戸。

「きりきり」枢(くるる)の軋るオノマトペイア。

「内儀は、おいち、と、いひけるが」内儀の名は「おいち」と言ったが。わざわざ名を挿入形で示すのは特異点。しかし、どうも流れが乱れてしまい、よろしくない。最初の一文で出しておくべきだった。

「白きかたびらに、しろき帶をして、かみをさばき、ほそまゆをして、かの、おいちを見て、にこにことわらふとおもへば、又、きつと、にらみける」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では「ほそまゆをして」(細眉をして)に注して、『細い眉を描いて、以上は、すべて呪詛する女の姿である』とある。『以上』とあるが、以下の表情を急激に変ずるのも、まさに、呪術のそれである。

「よびいけ」「呼び生け」。既出既注。気絶したり、仮死状態になったり、危篤の際に行う、民俗習慣としての名を叫んで離れ行こうとする霊魂を呼び返して蘇生させる「魂(たま)呼び」である。

「ねていられたる」「寢て居(ゐ)られたる」。歴史的仮名遣は誤りで、敬語があるのもおかしい。

「ほとほと」前出の「江戸怪談集 下」の脚注では、『打ち叩く音の形容。「丁々(ちょうちょう)ホトホト」(『書言字考用集』)』とある。「とんとん」ではなく、「パン! パパン!」ぐらいをイメージしたほうがよいオノマトペイアである。

「はじめの女ばうのしうしんきたりける」「初めの女房の執心、來りける」。冒頭に述べた通り、これは離別後に死んだとは書いてないから、先妻の妬心の強気によって生じた生霊による「後妻打ち」なのである。]

2016/11/25

諸國百物語卷之三 十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事 (アップし忘れを挿入)

百日目の計算が合わないので、調べて見たところが、以下を掲載し損なっていた。今日、公開して補う。これで百話目はきっぱり今月の晦日となる。僕の公開を日々御一緒に読まれてこられた方々、当日の怪異の出来(しゅったい)は自己責任として、覚悟されたい――❦ふふふ…………



     十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事

 

 尾州にて二千石とるさぶらひ、さいあいの妻にはなれ、まいよ、この妻の事のみ、をもひ出だしてゐられけるが、ある夜、ともしびをゝき、まどろまれけるに、かのはてられたる内儀、いつものすがたにて、いかにもうつくしう、ひきつくろひ、さぶらひのねやにきたり、なつかしさうにして、よるの物をあけ、はいらんとす。さぶらひ、おどろき、

「死したるものゝ、きたる事、あるべきか」

とて、かの内儀をとつて引きよせ、三刀(かたな)さしければ、けすがごとくに、うせにけり。家來のものども、かけつけ、火をとぼし、こゝかしこと、たづぬれども、なに物もいず。夜あけて見れば、戸の樞(くるゝ)のあなに、すこし、血、つきてあり。ふしぎにおもひ、のりをしたいて、たづねみれば、屋敷のいぬいのすみ、藪のうちに、あなあり。これをほりて見ければ、としへたる狸、三刀(かたな)さゝれて、死しゐたりと也。

 

[やぶちゃん注:「尾州にて二千石とるさぶらひ」尾張藩で当初(本「諸國百物語」は江戸初期の設定話が多い)、二千石取りであった家臣をウィキの「尾張藩」で調べると、代々で国老中・名古屋城城代・江戸家老などを勤めた渡辺秀綱に始まる渡辺半十郎(新左衛門)家、毛利広盛に始まる毛利氏、土岐肥田氏分流で城代家老を勤めた肥田孫左衛門に始まる肥田氏、小田原北条氏家臣大道寺政繁次男の城代家老を勤めた大道寺直重に始まる大道寺氏などがいる。

「さいあいの妻にはなれ」「最愛の妻に離れ」死別による別離である。

「死したるものゝ、きたる事、あるべきか」この侍は(その判断は結果的に正しかったわけだが)死霊の存在を鼻っから否定している点で当時としては特異点である。

「なに物もいず」「何物も居(ゐ)ず」。歴史的仮名遣は誤り。

「戸の樞(くるゝ)のあな」この場合は、戸締まりのために引き戸の桟(さん)から敷居に差し込んで留める装置の、下の敷居に空けてある孔のこと。

「のり」血糊(ちのり)。

「したいて」「慕ひて」(歴史的仮名遣は誤り)。後を辿って。

「いぬい」「戌亥(乾)」。歴史的仮名遣は「いぬゐ」が正しい。北西。]

2016/11/24

諸國百物語卷之五 十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

     十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

 いせの津、家城(いへしろ)村と云ふ所にばけ物のすむ家ありて、三十年ほど、あき家となりて有り。そのむかし、此家のぬしふうふ、ともに、とんびやうにて、あひはて、子なかりしゆへ、あとたへたる家也。あるときは、ひかり物いで、又、あるときは、火もゆる事もあり、又、あるときは、男女(なんによ)のこゑにて、

「そちがわざよ」

「いや、そのはうのわざにて、かやうに、くるしみを、うくる」

などゝ、いふ事も有り。あるとき、京より、はたちばかりなる、こま物あき人、このざいしよへくだりけるが、所のもの、此ばけ物のはなしをしければ、かのあき人、

「それがし、こよい、まいりて、ばけ物、見とゞけん」

と云ふ。所のもの、

「むよう也。れきれきのさぶらひしうさへ、一夜、たまらずにげかへり給ふ」

と云ふ。かのあき人はふた親をもちけるが、かうかうなる人にて、をやをはぐくまんために、十一のとしより、はうばうと、かせぎあるきけれども、その身、まづしくて心のまゝならざりしが、物になれたる人なりければ、

「とかく此ばけもの、見とゞけ申さん。よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」

とて、その夜、かの處にゆかれしが、あんのごとく、子の刻ばかりに、井のうちより、鞠ほどなる火、ふたつ、いでけるが、屋のうち、かゞやき、すさまじき事、云ふばかりなし。そのあとより、かしらにゆきをいたゞきたる老人ふうふ、いでゝ、かのあき人にいひけるは、

「われは此家のあるじなるが、あるとき、ふうふともに、とんびやうにてはてけるが、これなる井のうちに、おゝくの金銀をいれをきたり。此かねに、しうしんをのこしける故、うかみかね、六どうのちまたにまよふ事、すでに三十ねんにあまれり。この家にすむ人あらば、この事をかたりきかせ、あとをとぶらひもらはんとおもへども、おそれて、よりつく人もなし。御身は、心かうなる人、そのうへ、親にかうかうなる人なれば、このかねを御身にあたゆる也。よきやうに親をもはぐくみ、又、われをも、とぶらひ給はれ。來たる八月五日が三十三年にあたりて候ふ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。あき人、よろこび、井のうちを見れば、金銀はかずもしれず有り。みな、ひきあげて、そのかねにて、その屋敷に寺をたて、僧をすへ、いとねんごろにとぶらひければ、そのゝちは、ひかり物もいでざりしと也。それより、あき人は此かねにて、ふた親のみやこにかへり、心のまゝにやしなひけると也。

「ひとへに、あき人、をやにかうかうなるゆへ也」

と、人みな、かんじけると也。

 

[やぶちゃん注:「そちがわざよ」の後には句点があるが、例外的に除去した。

「金」「かね」。金銭。

「いせの津、家城(いへしろ)村」正しくは「いへき」。現在の三重県津市白山町南家城(いえき)。(グーグル・マップ・データ)。

「此家のぬしふうふ」「この家の主夫婦」。

「とんびやう」「頓病」。急死・突然死に至る病いの総称。

「そちがわざよ」「お前のせいじゃが!」。

「いやそのはうのわざにてかやうにくるしみをうくる」「いんや! あんたがあんなことしたによって、かくも無惨に苦しみを受くることなったじゃ!」前の台詞を老人の、こちらを老妻のそれと私は、とる。

「こま物あき人」「小間物商人(あきんど)」。

「れきれきのさぶらひしう」「歷々の侍衆」。名立たる剛勇を誇るお武家衆。

「一夜、たまらず」一晩も経たぬうちに、あまりの恐ろしさに耐えきれず。

にげかへり給ふ」

「かうかうなる人」「孝行なる人」

「をやをはぐくまんために」「親(おや)育まんために」。歴史的仮名遣は誤り。

「はうばうと」「方々と」。

「物になれたる人なりければ」いろいろと苦しく辛い思いをしてそうした異常な事態には慣れていた人であったので。

「よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」知られた「紫式部集」の二首を引いておく。

 

     繪に、物の怪のつきたる女の、

     みにくきかたかきたる後に、鬼

     になりたるもとの妻を、小法師

     のしばりたるかたかきて、男は

     經讀みて物の怪せめたるところ

     を見て

 亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ

 

     返し

 ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ

 

 

前書は、前妻(こなみ)の鬼女となった死霊(和歌より)、その「後妻(うわなり)打ち」に遇って醜く病み衰えた後妻、その霊を調伏している最中の僧を描いた絵を見て詠んだ歌の意であり、和歌の「かごと」は「託言」、「口実・言い訳・誤魔化し」の謂いである。調伏の呪法を乞うて施術させているのは、描写外の、というよりも、絵師の視点位置にいる夫であるから、実はこの一首の「心の鬼」(多くの評釈では「疑心暗鬼を生ず」の意で専ら解されているが、私はもっと強烈で輻輳し痙攣化したコンプレクス(心的複合)状況を指すと捉えている)を持っている「鬼」=「物の怪」とは「夫である男」であるのは言うまでもない。後の返歌は式部附きの女房のものであるが、この「君」は式部を指し、式部の中に人の知ることの出来ない、深い心の闇(トラウマ)が隠されているからこそ、そうした「人の心の産み出す、実は人の心からのみ生ずるものである、おぞましき鬼」がはっきりと見えるのですね、と応じているのである。

「子の刻」午前零時。

「かしらにゆきをいたゞきたる」白髪の形容。

「うかみかね」「浮かみ兼ね」。成仏することが出来ずにおり。

「六どうのちまたにまよふ」「六道の巷に迷ふ」。

「心かうなる人」「心剛なる人」。

「三十三年」三十三回忌。死の年から数えで、三十三年目(没後満三十二年目)には、仏教では、生前にどのような所業を行った者でもこの三十三回忌を終えることによって罪無き者とされ、成仏=極楽往生するともされる。そこで、三十三回忌をもって供養を終えるのが一般的なのである。

「ふた親のみやこにかへり」二親の健在にいます京の都へ帰って。]

2016/11/23

諸國百物語卷之五 十四 栗田左衞門介が女ばう死して相撲を取りに來たる事

 

     十四 栗田左衞門介(くりたさへもんのすけ)が女(によ)ばう死して相撲(すもう)を取りに來たる事


Onnayuureisumou

 加州の御家中に栗田左衞門介とて、ちぎやう八百石とる侍あり。内儀は同じ家中のむすめにて、かくれもなきびじんなりしが、ろうがいをわづらひて、むなしくなりけるが、左衞門、ふかくかなしみて、かさねてつまをももたず、三年をすごしけるが、しんるい、よりあひ、しゐてつまをむかへさせければ、尾張より新田(につた)六郎兵衞とて五百石とりのむすめ、十七さいになるをよびむかへけるが、三十日もすぎて。左衞門、當番にて城へあがりける。内儀はこたつにあたりてねころびゐ給ふに、としのころ十八、九ばかりなる女らう、はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて、ねりのかづきにてまくらもとにきたり、

「そのはうさまは、なにとて、これには、ゐ給ふぞ」

と云ふ。内儀、おどろき、

「さやうにをゝせ候ふは、いかなる御かたぞ」

と、たづね給へば、

「われは此家のあるじにて候ふ」

と云ふ。内儀、きゝて、

「さやうの事もぞんじ候はで、ちかきころ、これへ、ゑんにつき參り候ふ。御はらだちは御尤にて候ふ。さりながら左衞門どのは、さぶらひともおぼへざる事にて候ふ。そのはうさまのやうなる、うつくしき女らうをもちながら、又ぞや、つまをかさね給ふ事、かへすがへすもくちをしく候ふ。明るさう天にかへり申さんとおもひ候へども、女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」

と、申されければ、

「いかにもゆるゆると御しまい候ひて御かへり候へ。さてさて、まんぞく申したり」

とて、かへられけるをみれば、かきけすやうに、うせにけり。さて、左衞もんは城よりかへりければ、内儀、

「われにはいとまを給はれ」

との給へば、

「にわかに、さやうにの給ふは、いかなる事にて候ふぞや。しさいをかたり給へ」

といへば、

「そのはうさまは、さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ。本妻ありながら、又、われをよびむかへ給ふ事。さりとてはひきやう也。へんじもはやく、いとまを給はれ」

との給へば、左衞門、きゝて、

「これは、おもひもよらぬ事をおゝせ候ふものかな。はじめより申し入れ候ふごとく、三年いぜんに女にはなれてより此かた、そのはうよりほかに、つまとては、もち申さず」

とて、せいごんたてゝ申されける。そのとき、内儀、ゆふべかやうかやうの女らう、きたり給ふよし、のこらず、物がたりし給へば、左ゑもん、きゝて、

「さては、三年いぜんの、つまのゆうれいなるべし。べつのしさいは有るべからず。此うへは、われにいのちを給わるとおぼしめし、とゞまり給へ。いとまはいだし申すまじ」

と、いわれければ、内儀、ぜひなく、とゞまり給ひける。そのゝち、左ゑもんのるすの夜、またはじめの内儀、きたりて、

「さてさて、いぜん、かたく、やくそくなされ候ひて、今に御かへりなきこそ、うらめしく候ふ」

と申されければ、内儀、きゝ給ひ、

「そのはうさまは、今は此世にましまさぬ御身のよし。なにとて、さやうにしうしんふかく、まよい給ふぞ。とくとく、かへり給へ」

との給へば、はじめの内儀、申されけるは、

「ぜひぜひ御歸りなく候はゞ、相撲をとり候ひて、そのはう、まけ給はゞかへり給へ。それがしまけ候はゞ、かさねてまいるまじ」

と、いふよりはやく、とびかゝる。内儀も、こゝろへたり、とて、くみあひ、うへをしたへとかへす所へ、左ゑもん、かゑりければ、ゆうれいはきへて、うせにけり。そのゝち、左ゑもん、るすなれば、きたりて、すもふをとる事、五たび也。内儀はこれを物うき事に思ひ、しだひに、やせおとろへて、わずらいつき給へば、ほどなく、むなしくなり給ふ。今をかぎりのとき、左ゑもんに申されけるは、

「内々申しまいらせ候ふゆうれい、そのゝちたびたび出で給ひ、われをなやましけるを、おそろしくはおもひけれども、一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは、ぜひなく思ひくらし、今、かく、あひはて申す也。ねんごろにあとをとぶらひ給ふべし。此しだい、われらがをやにかたり給ふな」

とて、つゐに、はかなくなり給ふ。左ゑもんはかなしみて、野べのおくりをいとなひつゝ、かきをき、したゝめ、内儀のおやにおくり、その身は出家し、しよこくしゆぎやうに出でけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「女のゆうれいすまふをとる事」(歴史的仮名遣は誤り)。

「栗田左衞門介」不詳。

「相撲」私も調べて驚いたが、ウィキの「相撲」によれば、「日本書紀」雄略天皇十三年(四六九年)には.『秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある』とある(下線やぶちゃん)。また、言わずもがな乍ら、『相撲は神事としての性格が不可分である。祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは』一勝一敗『で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった』ことは今、忘れられつつある。先般、旅した隠岐の島後(どうご)では今も土地の神事相撲が盛んであるが、そこでも最初は本気でやり、今一番は勝った力士が業と負けるという由緒正しき仕儀が守られているのである。ここで「後妻(うわなり)打ち」の如くに行われるそれも、そうした神事システムの文脈で考えるなら、相撲勝負を後妻が受諾した瞬間から、その掟に組み込まれてしまっており、後述するように後妻が生気を吸い取られて、死に至ることは既にして決していると読むべきであって、後妻が勝って大団円という図式は民俗社会ではありえないことに気づかねばならぬと私は思うのである。なお、ウィキの「女相撲」によれば、興行物としての「女相撲」の歴史は江戸中期の十八世紀中頃からの流行とあり、当初は事実、女同士の取り組みで『興行したが、美人が少なく』、『飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる』とし、『江戸時代中期、江戸両国で女性力士と座頭相撲の座頭力士(つまり男の盲人)とを取り組ませたとされ』、延享二(一七四五)年の「流行記」の「延享二年落首柳営役人評判謎」には『「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」との記述がある』とあり、大坂でも明和六(一七六九)年、『女相撲興行が始められ』、「世間化物気質」には『「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」とあり、その人気が伺える』。また「孝行娘袖日記」の明和七(一七七〇)年版には、『「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある』という。『女性と盲人との相撲が江戸で評判となり、安永年間』(一七七二年~一七八一年)から寛政年間(一七八九年~一八〇一年)にかけて、『女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。寛政年間には、羊と相撲をとらせる女相撲もおこなわれた』。『しかし安永の頃から女相撲の好色なひいきが申し合わせて興行人・世話人に金銭を与え、衆人環視の中で男女力士に醜態を演じさせることが再三あったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになった』。文政九(一八二六)年になると、『両国で女性と盲人との相撲が復活し』たものの、『女同士の相撲の興行については、興行者にも企図する者があったものの、その後の禁止で復活を果たせず、結局』、嘉永元(一八四八)年に『至り、名古屋上り女相撲の一団が大坂難波新地にて興行を復活させることになった。このときそれまで女力士が島田、丸髷姿であったものを男髷に改めた』。この興行は「大津絵節」で『「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末の興行界で異彩をはなった』とあるが、本「諸國百物語」は遙か以前の延宝五(一六七七)年の刊行であり、見世物として完成された、こうした「女相撲」の趣向の影響は認められない

「加州」加賀藩。

「ちぎやう」「知行」。

「かくれもなきびじん」「隱れもなき美人」。美人として広く世間で知れ渡っていることを指す。

「ろうがい」「労咳」。肺結核。

「しゐて」「強ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「新田六郎兵衞」不詳。

「こたつにあたりてねころびゐ給ふに」「炬燵にあたりて寢轉び居たまふに」。

「女らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて」「肌には白き小袖、上には總鹿子(そうかのこ)の小袖を着て」。「總鹿子」は布を小さく摘まんで括(くく)った絞り染め。全体に白い小さな丸が紋として表わされる。

「ねりのかづきにて」「練絹(ねり)の被(かづ)き」。「被き」は高貴な婦人がお忍びの際に顔を隠すためなどに上から被ることを専用とした着物のこと。

「そのはうさま」「其の方樣」。亡者といえど、生前、高貴な婦人なれば、言葉遣いが丁寧である点に注意。

「あるじ」女主人の意。直ちに栗田左衛門介の正妻を意味する。

「ゑんにつき參り候ふ」「緣に付き參り候ふ」。縁あって正式に栗田左衛門介に嫁入りして参った者にて御座いまする。

「はらだち」「腹立ち」。

「つまをかさね給ふ事」後妻の彼女に、夫が既に正妻があることを言わずに、しかも正妻として迎えた不届き(現在の重婚罪)を批判しているのである。

「明るさう天」「あくる早天(さうてん)」。この夜の終わって、明日の明け方早く。

「女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」夫に告げずに実家に戻る訳には行かぬから、暫しの猶予を求めたのである。

「御しまい候ひて」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『持物道具などかたづけて』とある。

「まんぞく」「滿足」。

「さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ」「侍に相ひ申さぬことのさふらふ」。侍らしからぬ、不届きなるところが御座いまする。

「ひきやう也」「卑怯なり」。

「へんじもはやく」「片時も早く」。一刻も早く。

「女にはなれて」先妻と死別して。

「せいごんたてゝ」「誓言立てて」神仏に誓って。

「べつのしさいは有るべからず」「別の子細はあるべからず」。「そなたが私の正妻としていることには何らの支障も、これ、あろう筈もない!」。

「さやうにしうしんふかく」「左樣に執心深く」。

「物うき事」(夫に秘めているが故に一層、)心にいとわしく切なく思い。夫に心配させるまいという遠慮から、先妻の幽霊と組んず解れつの修羅の相撲を取るという地獄を語らぬ、孤独なる苦悶なのである。笑いごとなどではなく、話柄は遂にカタストロフへと一気に進むのである。

「しだひに、やせおとろへて、わずらいつき」「次第(しだい)に、瘦せ衰へて、患ひつき」(複数箇所の歴史的仮名遣の誤りがある)。現代の精神医学なら、重度のノイローゼか、或いは統合失調症の初期幻覚とも見做せるが、陰気のみで出来た亡者と組み合うということは生きた人間としての陽気を確実に喪失していくことと同義であるから、民俗社会的にも腑には落ちる。

「一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは」武士の妻として、である。

「いとなひつゝ」「營ひつつ」。「営みつつ」に同じい。葬儀を執り行いながら。

「かきをき、したゝめ」「書き置き、認め」。恐らくは妻の願いを破って、死に至った理由を具さにしたためたのであろう。彼女が語ることを禁じたのは、あくまで「武士」としての夫の名誉を守るためであったからである。しかしそれは今となっては無用なのであった。彼はこの直後に「出家し」、諸国修行に旅立ったからである。後妻の健気さは勿論ながら、先妻の妬心の執心に浅ましさはあるにしても、しかしどうしても先妻を憎む気には私はなれぬ。私は本話柄の全体に、ある種の哀感を禁じ得ないのである。]

2016/11/22

諸國百物語卷之五 十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事

 

     十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事


Ikioni

 丹波の國さいき村と云ふ所に、あさゆふ、まづしきものあり。をやにかうかう第一なる人なりしが、あるとき、たきゞをとりに山へゆかれしに、をりふし、のどかわきければ、谷にをりて水をのまんとて、水中を見ければ、大きなる牛のよこたをれたるやうなる物あり。ふしぎに思ひ、よくよく見れば、ねんねん、山よりながれをちてかたまりたる、うるし也。是れ、ひとへに天のあたへ、とおもひて、此漆をとりにかよひ、ひだと京へもち行きうりければ、ほどなく、大ぶげんしやとなりにける。此となりに、大あくしやうなるものありけるが、此事をつたへきゝ、いかにもしてかのものゝ此所に來たらぬやうにして、わればかり、とらん、とたくみて、大きなる馬(ば)めんをかぶり、しやぐまをきて、鬼のすがたとなり、水のそこに入り、かのものをまちければ、いつものごとく、かのもの、うるしをとりに來たりて、みれば、水のそこに、鬼あり。おそろしくおもひて、にげさりぬ。かのあくしやうもの、しすましたり、とよろこび、水のうちよりいでんとすれども、うごかれず。そのなりにてしにけると也。

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「丹はの國生なから鬼に成事」か。これは実録風疑似怪談である。前話といい、或いは、この筆者、能が好きだったのかも知れぬ。

「丹波の國さいき村」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『桑田郡佐伯村か。とすれば現京都府亀岡市薭田野町の内』とする。現行の表記は平仮名化され「ひえ田野町佐伯」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「をやにかうかう第一なる人」「親(おや)に孝行(かうかう)第一なる人」。歴史的仮名遣は誤り。

「たきゞ」「薪」。

「をりふし、のどかわきければ」「折節、咽喉渇(かは)きければ」。

「よこたをれたるやうなる」「橫倒(よこたふ)れたる樣なる」。歴史的仮名遣は誤り。

「ねんねん」「年々」。

「うるし」「漆」。前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 及びその近縁種の『樹皮からとった樹脂。漆器の塗料として、当時は貴重なもので、ここでは、その漆の溶液が天然に流れ集まり、水中で固まったもので、これは山中に自然』の金鉱脈を偶然に『発見するのと同じほどの幸運なことであった』とある。落雷その他の自然現象によって、木の幹が傷つき、そこからたまたま渓流の溜まり水に向かって流れ落ち、それが長い時間をかけて分泌蓄積されたということか? こういうことが実際に自然界で起こり得るのかどうか? 識者の御教授を乞うものである。

「ひとへに天のあたへ」「偏へに天の與へ」。「もうただただ、天の配剤!」。

「ひだと」「ひたと」の誤りであろう。直ちに。直接に。

「大ぶげんしや」「大分限者」。大金持ち。

「此となりに、大あくしやうなるものありける」「この隣りに、大惡性なる者、在りけるが」。所謂、昔話の常套形式。

「此所に」「ここに」。漆が水中に固まっている渓流。人の好い前の男は、隣りの男にその場所を教えてしまったか、或いは、この生来悪しき性分の隣人がこっそりと尾行をしてその場に至ったのであろう。だから「ここ」なのである。

「たくみて」「企(たく)みて」。企(たくら)んで。

「馬(ば)めん」「馬面」。前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、『竜に似た仮面で、馬の面に当てる具。「馬面 バメン 馬飾也」(『文明節用集』)』とある。

「しやぐま」「赤熊」。或いは「赭熊」とも書く。赤く染めたヤクの尾の毛。また、それに似た赤い髪の毛。仏具の払子(ほっす)・鬘(かつら)、兜(かぶと)・舞台衣装・獅子舞の面の飾りなどに用いる。

「水のそこに入り。」この句点はママ。

「しすましたり」「やり遂(おお)せわ!」或いは「してやったり!」。

「うごかれず」塗料としての漆には接着剤としての機能もあり、江戸時代にはよく使われた。ウィキの「漆」によれば、『例えば、小麦粉と漆を練り合わせて、割れた磁器を接着する例があ』り、硬化には二週間『程度を要する』とある。また、漆の『主成分は漆樹によって異なり、主として日本・中国産漆樹はウルシオール(urushiol)』である。『漆は油中水球型のエマルションで、有機溶媒に可溶な成分と水に可溶な成分、さらにどちらにも不溶な成分とに分けることができる』。『空気中の水蒸気が持つ酸素を用い、生漆に含まれる酵素(ラッカーゼ)の触媒作用によって常温で重合する酵素酸化、および空気中の酸素による自動酸化により硬化する。酵素酸化は、水酸基部位による反応で、自動酸化はアルキル部位の架橋である。酵素酸化にはある程度の温度と湿度が必要であり、これがうまく進行しないとまったく硬化しない。硬化すると極めて丈夫なものになるが、二重結合を含んでいるため、紫外線によって劣化する。液体の状態で加熱すると酵素が失活するため固まらなくなり、また、樟脳を混ぜると表面張力が大きくなるため、これを利用して漆を塗料として使用する際に油絵のように筆跡を盛り上げる事が出来る。また、マンガン化合物を含む『地の粉』と呼ばれる珪藻土層から採取される土を混ぜることで厚塗りしても硬化しやすくなり、螺鈿に分厚い素材を使う際にこれが用いられる』とある。この悪性の男、漆の精にでも化けたつもりで、多量に川底に蓄積した半固形の山の上に立ち、漆の中に足が嵌って、いろいろな条件下のなかで、身体に強く吸着、はずそうとして、水中に潜った際、シャグマの毛や馬面が張り付いて、溺れて死にゆくさまを想像するに、ひどく凄惨にして滑稽ではある。まあ、自業自得というものであろう。]

 

2016/11/21

諸國百物語卷之五 十二 萬吉太夫ばけ物の師匠になる事

 

     十二 萬吉太夫(まんきちだゆふ)ばけ物の師匠(ししやう)になる事

 


Mankitidayuu

 

 京(きよう)上立(かみたち)うりに、萬吉太夫と云ふ、さるがく、有りけるが、能(のふ)、へたにて有りしゆへ、しんだいをとろへて大坂へくだるとて、ひらかたの出ぢや屋にて、ちやをのみ、やすらいゐるうちに、日もそろそろくれがたになりければ、

「こゝに、一夜の宿をからん。」

といへば、ちや屋、申しけるは、

「やすき事にて候へども、此所には、よなよな、ばけ物きたりて、人をとり申すゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、夜はわれらもこゝにはゐ申さず。」

とかたる。萬吉、きゝて、

「それとても、くるしからず。」

とて、その夜はそこに、とまりける。あんのごとく、夜半のころ、川むかいより、人のわたるおと、しける。見れば、たけ七尺、ゆたかなる坊主也。萬吉、これを見て、やがてことばをかけ、

「いやいや、さやうのばけやうにては、なし。まだ、ぢやくはいなるぞ。」

といへば、ぼうず、きゝて、

「そのはうは、いかなる人なれば、さやうには、の給ふぞ。」

と云ふ。萬吉、きゝて、

「われは、みやこのばけ物なるが、此所にばけ物すむと聞きおよびて、あふて、上手か、へたか、心みて、上手ならば、師匠とせん。へたならば、弟子にせん、とおもひて、これにとまり候ふ。」

と云ふ。坊主、

「さらば、そのはうの、ばけてぎわ[やぶちゃん注:ママ。]を、見ん。」

と云ふ。萬吉、

「心えたり。」

とて、つゞらより能のしやうぞくとりいだし、鬼になりてみせければ、坊主、おどろき、

「さてさて上手かな。女(ぢよ)らうにばけられよ。」

と、のぞむ。

「心ゑ[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

とて又、女になる。ぼうず、申しけるは、

「おどろき入りたる上手かな。今よりのちは師匠とたのみ申すべし。われは川むかいのゑの木のしたにすむ、くさびら也。數年、この所にすんで、人をなやます也。」

とかたる。萬吉、きゝて、

「その方は、なにが、きんもつぞ。」

と、いふ。

「われ、三年になりぬる、みそのせんじしるが、きんもつ也。」

と云ふ。

「又、そのはうは。」

と、とふ。萬吉、きゝて、

「我れは、大きなる鯛のはまやきが、きんもつにて、これをくへば、そのまま、いのち、をわり申す。」

と、たがいにかたるうちに、夜は、ほのぼのと、あけにける。坊主も、いとまごひして、かへる。萬吉太夫は、ひらかた、たかつき、あたりへ、かたりきかせければ、みなみな、たちあひ、だんがうして、太夫のいわれしごとく、三年になるぬかみそをせんじて、かのくさびらに、かけゝれば、たちまち、じみじみとなり、きへにけり。そのゝちは、ばけ物、いでざりしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「萬吉太夫はけ物のしせうに成事」(歴史的仮名遣は誤り)。植物妖怪のテツテ的笑怪談。

「萬吉太夫」不詳。

「京上立うり」現在の京都市に「上立売通(かみだちうりどおり)」として現存する地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「さるがく」「猿楽・申楽」。ここは以下の「能」が「へた」(下手)であったがため、「しんだいをとろへ」(身代衰え:能楽師としての地位が落ちて、家が零落してしまい)た、というところを読めば分かる通り、能楽の旧称なので注意されたい。

「ひらかた」「枚方」。現在の大阪府枚方市。

「出ぢや屋」街道筋や道端などに小屋掛けをして出している簡易の茶店。掛け茶屋。

『「こゝに一夜の宿をからん」といへば、ちや屋、申しけるは、「やすき事にて候へども、此所には、よなよな、ばけ物きたりて、人をとり申すゆへ、夜はわれらもこゝにはゐ申さず」』これが江戸時代の設定だと、これは違法行為であり、泊まった万吉太夫も貸した出茶屋の主人も処罰される。当時は正規の宿駅の正規の旅籠業を営むところ以外では一般人は宿泊することもさせることも禁じられていたからである(行脚僧などは例外)。但し、それは表向きで、緊急や急病・疲弊などの折りに、こうした交渉と宿貸はしばしば行われた。しかしそれでも露見すれば、罰せられたことは知っておいてよい。但し、この時代設定は江戸よりも前とも思われるので、あまり問題にする必要はないか。

「川むかい」「川向ひ」。川向う。川は枚方の西北境界線を流れる淀川と見てよかろう。川幅はかなりあるが、渡って来るのは妖怪ですから、問題ありますまい。

「七尺」二メートル十二センチ。

「ゆたかなる」肉づきのいい。ぼってりとした。挿絵を見よ。

「さやうのばけやうにては、なし」「左樣の化け樣にては、無し」。「そのような生っちょろい化け様(よう)にては、化けたとは言われぬわ!」。

「ぢやくはい」「若輩」。経験が乏しく未熟であること。

「ばけてぎわ」「化け手際」。

「しやうぞく」「裝束」。

「女(ぢよ)らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「ゑの木」「榎(えのき)」。歴史的仮名遣は誤り。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis

「くさびら」「菌(くさびら)」。茸(きのこ)のこと。榎の根元だから、菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ(榎茸)Flammulina velutipes を想起しての設定であることは明白。エノキダケは実際にエノキに生え、他にカキ・コナラ・クワ・ヤナギなどの広葉樹の枯れ木や切り株に寄生する木材腐朽菌である(「ナメコ」「ナメタケ」は本種の別称である)。参照したウィキの「エノキタケ」によれば、傘は直径二~八センチメートルで『中央が栗色あるいは黄褐色で周辺ほど色が薄くなり、かさのふちは薄い黄色またはクリーム色である。かさの表面はなめらかで強いぬめりと光沢がある。かさは幼菌では丸みが強く、のちしだいに広がり、まんじゅう型からのち水平に近く開く』とあり、ここででっぷりした坊主(様の頭)で出現するところもエノキダケを意識していると言える。

「きんもつ」「禁物」。禁忌物。天敵。

「三年になりぬる、みそのせんじしる」三年熟成させた味噌を煎じた汁。

「鯛のはまやき」「鯛の濱燒」。尾頭附きの鯛を塩焼きにしたもので、主に祝いの膳に用いる。本来は古来の入浜式塩田の製塩中の熱い塩の中に、獲れたての活け鯛を入れ、塩釜蒸し風にしておいて焼いたことから、この名があるようである。

「そのまま」たちまちのうちに。

「たかつき」現在の大阪府高槻市。まさに枚方の淀川を挟んだ対岸域。「くさびら妖怪」の本拠地である。

「かたりきかせければ」体験した奇体な事実を子細に語って廻ったところ。

「たちあひ、だんがうして」「立ち合ひ、談合して」。枚方と高槻の淀川沿いの主だった者たちが揃って集まり合い、申し合わせた上。

「太夫のいわれしごとく」「太夫の言はれし如く」。歴史的仮名遣は誤り。

「じみじみ」当初は溶け崩れてゆくさまのオノマトペイアかと思ったが、これは「ぢみぢみ」が正しいのではないかとも思われる。「地味地味」で、「形や模様などがはなやかで大きかったものが、忽ちのうちに溶け崩れて色褪せ、萎んでしまうさま」である。大ナメコの味噌汁は私の大好物であるが、かけて暫くすると、ナメコはくったりとなって、遂にはどろどろになって液状化してしまう。なんとなく、それを思うと、この「くさびら」のお化けも可哀想な気が、私はしてくるのである。]

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