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カテゴリー「怪奇談集」の1000件の記事

2023/08/10

ブログ1,990,000アクセス突破記念 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」始動 /扉・「はしがき」・凡例・「会津の老猿」・「青池の竜」・「青木明神奇話」・「青山妖婆」・「赤鼠」・「秋葉の魔火」・「明屋敷神々楽」・「明屋敷の怪」・「明屋の狸」・「悪気人を追う」・「悪路神の火」・「麻布の異石」・「足長」・「小豆洗」・「小豆はかり」・「油揚取の狐」・「油盗みの火」・「雨面」・「海士の炷さし」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物で、近世の随筆書の中から、見るべき記事を抄出して、主題別に辞典型の体裁を以って配列したもので、「衣食住編」(柴田宵曲編)・「雑芸娯楽編」(朝倉治彦編)・「風土民俗編」(鈴木棠三編)・本「奇談異聞編」・「解題編」(森銑三編)の全五巻が同社から刊行されてある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。但し、総て、本登録をしないと見られない)。

 作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。漢字は新字である(ただ、時に正字を使用している箇所もある)。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 この手の怪奇談を抄録して注や解説を挿入した書は、現在も何冊も刊行されており、私も、五、六冊許り所持するが、この柴田の著作は群を抜いて優れている。現在、流通しているものは、多数の著者・編者によるものが殆んどで、全体のコンセプトが欠いた人間によってディグの深浅にばらつきが多く、中には、凡そ、その本の抄説をする資格が疑わられるような、いい加減なものも多い(私ならもっと魅力的に書けると思うものが半分以上を占める。怪奇談の裾野が浅過ぎるライターが多過ぎ)。それに対し、本書は柴田自身が、一人で作り上げており、余分な解説を極く短く、ストイックに注している点で、画期的なものである。

 踊り字「〱」「〲」は、生理的に受けつけないので、正字化した。但し、読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。但し、各項の読み等で、拗音・促音となっていない(ごく最近まで出版物のルビは読み拗音・促音はそうなっていないのが常識だった。活版印刷の無言の御約束によるもので、写植印刷になって、やっと概ね正しく印字されるようになった。半数近くの人はそれに気づいていなかった。かってに読み替えていたに過ぎない。嘘だと思うなら、十五年以上前のお持ちの本を見て御覧なさい。加工データとした筑摩書房『ちくま文芸文庫』版もそうなってまっせ)ものは、特異的に正しく修正した。また、柴田は( )で原本の割注を入れ、それをややポイント落ちにしているが、これは読み難くなるだけなので、本文と同ポイントとした。

 また、以上のような柴田の編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、一回一項或いは数項程度としたい。但し、今回は初回なので、特別に十九項目を纏めて電子化注した。なお、私は既にブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で、「妖異博物館」・「續妖異博物館」・「俳諧博物誌」・「子規居士」(「評伝 正岡子規」原題)・「俳諧随筆 蕉門の人々」の全電子化等を古くに終わっている。特に「妖異博物館」・「續妖異博物館」の二書は、本「随筆辞典 奇談異聞篇」に対し、「ちょっと何か言って欲しいなぁ」と感ずる向きには、それを満足させてくれる恰好のものとなっているので、未読の方は、是非、お薦めである。

 なお、の後に、以上のシリーズの編者四名の連名に成る「刊行のことば」が掲げられてあるが、必要を認めないので、省略した。

 また、ページの上の罫線の端にページ内の当該項標題の頭のひらがなを(但し、項の選び方や表示文字数がまるで共通していない)、たとえば、ここの場合、「あすき」・「あまお」とあるが、流石にこれは、意味ないので電子化しない。

 なお、本記事は、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,990,000アクセスを突破した記念として始動公開する。なお、本書を電子化する関係上、ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」の更新はこれが終わるまで、暫く冬眠に入る。悪しからず。【二〇二三年八月十日 藪野直史】]

 

 

 随 筆 辞 典

   ④ 奇談・異聞編

     柴 田 宵 曲 編

 

 

東 京 堂

 

[やぶちゃん注:以上は。「東京堂」は囲みがある。

 以下、柴田宵曲の「はしがき」。]

 

 

    は し が き

 

 束寺の門に雨宿りをした日野資朝が、その辺にいる不具者を見て、いずれも一癖あって面白いと思ったが、暫く見ているうちに厭わしくなり、やはり平常なものの方がよろしいと感ずるに至った。資朝は多年桂木を好み、枝ぶりなどの異様に曲析あるものを珍重していたが、これは畢竟不具者を愛するに外ならぬと、帰来鉢桂の木を悉く掘り棄ててしまった、という話がある。奇なるものが一応目をよろこばし、久しきに及んで厭わしくなるのは、奇である以上、何者にも免れぬところであろうか、あるいは皮相の奇にとゞまって、真の奇でない為であろうか。

[やぶちゃん注:「日野資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)は鎌倉末期の公卿・儒学者・茶人。当該ウィキによれば、『中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った』。正和三(一三一四)年、『従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保』二(一三一八)年の『後醍醐天皇即位後も院司として引き続き』、『花園院に仕えていたが』、元亨元(一三二一)年、『後宇多院に代わり』、『親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという』。『花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている』。元亨四年九月十九日(一三二四年十月七日)、『鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが』、『無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)』。元弘元(一三三一)年、『天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した』「元弘の乱」が『起こると、翌』年、『に佐渡で処刑された』とある。以上の話は、「徒然草」の第百五十四段に載る逸話である。

   *

 この人[やぶちゃん注:この前の二段が資朝関連の記事となっている。]、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に[やぶちゃん注:「であって」の意。]、異樣(ことやう)なるを見て、『とりどりに、たぐひなき曲者(くせもの)なり。もつとも愛するに足れり。』と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがて、その興(きやう)、つきて、見にくく、いぶせく覺えければ、『ただ、すなほに珍しからぬ物には、しかず。』と思ひて、歸りて後(のち)、「この間(あひだ)、植木を好みて、異樣に曲折(きよくせつ)あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かの、かたはを、愛するなりけり。」と、興なく覺えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆、掘り捨てられにけり。さもありぬべき事なり。

   *]

 奇談の奇ということも、人により書物によって固より一様ではない。余りに奇に偏し径に傾けば、久しきに及んで、厭にならぬまでも、単調に陥る虞れがないとも云えない。色彩や香気の類にしろ、刺激の強い中に暫くおれば、無感覚に近くなるようなものである。

 江戸時代には奇談と銘打った書物がいくらも出ており、奇談小説と呼ばれる一群の作品もある。随筆の筆者も亦頻りに奇談を録するに力めた。奇趣を欠いた随筆なるものは、他に多くの利用価値があっても、読む場合には索莫を免れぬ。

 本書は主として随筆中の奇談を収めると共に、巷談街説に属する異聞の類をも蒐録した。これは書物の単調化を避けたばかりではない。随筆として闘くべからざる材料だからである。但あまりに話数の多い奇談集――例えば「新著聞集」のような書物は、はじめからこれを採らなかった。これらは仮令「日本随筆大成」に収録されていても、自ら別扱いにすべきものと信ずる。

[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちょもんじゅう)は、寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。]

 本書は随筆による奇談異聞集で、話材の範囲が限られているのみならず、辞典の名にそぐわないという人があるかも知れぬ。俳しこの種の奇談異聞は、随筆中の最も有力なる談柄である。その談柄の豊富なもの、狐狸の如き、天狗の如き、河童の如き、亡霊幽魂の如きは、類聚排列することによって、いさゝか研究の領域に近づくことが出来るであろう。「随筆辞典」の奇談異聞編である本書が、奇談異聞集の随筆編として見られる結果になっても、編者に於いて格別の異議はないのである。

 奇を好み径を談ずるは趣味の正常なるものでないにせよ、人間生活の続く限り、この趣味の絶滅することは先ずあるまい。現代人も常に談柄の奇を求めつつある。たゞその奇の内容が江戸時代と異るだけで、天狗や河童が跳梁跋扈しなくなれば、他の者がその代役を勤める。行燈、蠟燭の世界と、蛍光燈、ネオン・サインの世界とに、同じ奇談が通用すべくもないが、現代に立って汀戸時代を考える場合、乃至汀戸時代の事柄を現代に推し及ぽす場合、これらの奇談が何等かの役に立つことがないとも云えぬ。

 奇談を一歩離れた異聞になると、特にその感が強い。過去と現在とに截然たる区別をつけるのは、現代人の通弊であるが、表面の事柄はともかくも、人間そのものにはそれほどの違いがあるわけではない。今の吾々が経験したり感じたりしているようなことを、存外昔の人も親しく経験したり感じたりしていたのである。それは過去の文芸作品にも現れておるに相違ないが、随筆は筆者の作為の加えられる余地が少ない為に、最も端的に読者に感ぜしむる力を持っているように思う。

 奇談異聞の内容は一目瞭然たるように見えて、細説すればなかなか面倒である。出来るだけ広汎に亘り、興味ある談柄を集める必要があるので、最初は共編にするような話であったのが、中途から編者一人の仕事になってしまった。その結果は御覧の通りで、固より不備を免れぬが、一種の奇談集として存在する位の価値は無いこともあるまい。

 「衣食住編」には原本から種々の挿画を取り入れた。第二部は殊に材料が多かったが、奇談異聞になると、適当なものが見当らない。たまたま挿画のある書物があっても、多くは読本(よみほん)じみていて、辞典に用いるには工合が悪い。清少納言は「絵にかきておとるもの」の中に「物語にめでたしといひたる男女のかたち」を挙げた。由来奇談の妙味は形似《けいじ》[やぶちゃん注:東洋画で、対象の形態を忠実に写すこと。]に現わしがたい辺に存するのだから、その空気は読者の想像に任せるより仕方がない。僅かに入れた挿画は「衣食住編」に用いたのと大差ない程度のものであった。

[やぶちゃん注:以上の清少納言のそれは、言わずもがな「枕草子」の物尽くしの章段の一つで、

   *

 繪に描(か)き劣りするもの。なでしこ。菖蒲(さうぶ/しやうぶ)。櫻。物語にめでたしと言ひたる男(をとこ)、女(をんな)の容貌(かたち)。

   *]

 挿画ばかりではない。引用書目の数も、索引の件数も、「衣食住編」に比してかなり少ないように見える。これは奇談異聞の性質上、どうしても或る随筆に集中され易い傾向のあること、各項が衣食住よりも長いこと、その他の理由に帰すべきであろう。なるべく前巻より見劣りせぬ方がいゝとうが、内容の然らしむるところだから、どうにもならぬのである。

  昭和三十五年十二月

                    柴  田  宵  曲

 

[やぶちゃん注:以下、「凡例」。底本では二段になっていて、「凡例」の上には「目次」があるが、電子化する必要を感じないものであるので、省略した。]

 

     凡   例

 

一、見出し語は現代かなづかいによって五十音順に配列し、そのふりがなも現代かなづかいによった。

一、編者が見出し語の下につけた概要、説明文は現代文により小活字で組んだ。[やぶちゃん注:電子化では、同ポイントで【 】で示した。]

一、引用の文章は原文に従った。その用字については、主として当用漢字、新字体を使用したが、内容の性質上、旧字体、異体字を使用した個所が少なくない。

一、出曲の書名は〔 〕で囲み、原文中に使用された注は(  )に統一した。

一、編者が加えた説明は六ポ活字を用い、〈 〉で囲んだ。[やぶちゃん注:電子化では、上付きにした。]

一、原文の句読点は、おおむね原本のままを踏襲したが、適当でないものについては、編者において改めたところがある。

一、また、読みやすいように仮名を漢字に、漢字を仮名に改めた個所がある。

一、随筆の記述は時に横道に入りすぎることがあるので、本文に関係のないところは時々省略した。その場合は〈略〉として、その旨を明らかにして置いた。

 

 

   随 筆 辞 典   奇談異聞編

 

[やぶちゃん注:以上は本文前標題ページ。]

 

 

        

 

 会津の老猿 【あいづのろうえん】 福島県会津地方の話〔中陵漫録巻五〕余〈佐藤成裕〉先年、奥州会津に在りて、黒沢〈現在の福島県南会津郡朝日村黒沢〉といふ処に至る。其処の山中に至つて大なる猿あり。その猿に従ふ猿二百ばかりありて、皆食を運び与へ、またその猿の居る下の枝に皆在りて、必ずしもその上に登る事なし。これ猿の王たる事しるべし。その猿[やぶちゃん注:「底本「献」。所持する「中陵漫録」(吉川弘文館『随筆大成』版)で訂した。]、常に大なる黒き円き一物を持ちて自ら玩弄す。或人、この山中に来て甚だ怪しみ、鳥銃にてこの猿を打ち落す時は、一の猿来てその一物を持ちて二十間ばかりの処に逃げて行き、その打落されたるを皆驚きて、その弾丸の穴に木の葉を取りてふさぎ、血の出るを恐れて皆驚き見て居るなり。また弾丸をこめてその一物を打殺しければ、この音にて二百余の猿ども、ひらひらと飛びて木に移りて逃げ去る。その一物を取りて来りて見れば、火箸の如く細く曲りて朽ちたる短刀なり。この猿、何(いづれ)よりこれを取り来るや、何の時に持ち居るや。この猿、猿中の王なれば、これを宝物として常に大切にすると見えたり。この猿もこの宝物ある故に、人の怪を容れて命を没す。宝物の身を災する事、多くは是の如し。また賀州〈加賀国の別称〉にて、山中の猿、常に円き一物を持てあるくを見る。或人、鳥銃にて打て見れば、木の葉にて幾重も重ね包みてある。これを破りて見れば、内に鳥銃の弾丸[やぶちゃん注:所持する「中陵漫録」では二字に「タマ」とルビする。]一つありと云ふ。凡そ獣類も人に近き者は、何となく珍しき物なりと思ひて、手に離さずして宝物と思ふなるべし。按ずるに『淵鑑類函』曰く、「瓜哇国[やぶちゃん注:ジャワの漢名。]山多猴。不ㇾ恐ㇾ人。授以果実則其二大猴先至。土人謂之猴王。夫人食畢群猴食其余」。これの猿にも王ある事知るべし。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」佐藤中陵(号。本名が成裕(せいゆう))の随筆。佐藤は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などを経て、弘道館本草教授となった。引用は、少しだけ、カットがある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。

「現在の福島県南会津郡朝日村黒沢」現在は福島県南会津郡只見町(ただみまち)黒沢(グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)。

「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、一七一〇年成立。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[437-2a]及び[437-2b]で電子化されたものと、影印本画像を見ることが出来る。なお、「夫人」は「そのひと」で猿の王を擬人化した表現である。]

 

 青池の竜【あおいけのりゅう】 兵庫県明石市久保田町付近にある青池の竜の話 〔孔雀楼筆記巻一〕享保庚戌ノ秋七月、予<清田儋叟>母氏ニ従テ明石ニユク。城下ノ半里余リ西ニ森田村〈現在の兵庫県明石市大久保町森田〉アリ。西国往還ノ大路ニアリ。右森田村ノ近所ニ、青池トイフ池アリ。道ハタノ右手ニアリ。サノミ大ナル池ニテハナケレドモ、五十余年水涸ルヽコトナシト言ヒ伝フ。ソノ年ノ八月ニ、森田ノ一民、晩ニ畠ヨリ帰リ、カノ池ニテ鍬ヲ洗フ。尺余ノ一蛇アリ。池ヨリ出テ鍬ノ柄ニノボル。払ヒオトスコト二三度、又ノボル。トキニ鍬ヲ取ナホシ、柄ニテ蛇ノ頭ヲウツ。蛇飛テ池ニ入ル。何トヤラン怖(オソロ)シカリケレバ、足ハヤク立帰ル。アヤマタズ疾風黒雲怒雨驚雷コレニ従フ。竜アリ、池中ヨリ起ル。森田ノ農家十三家ヲ、雲中ニ巻上ゲ、二里余西ナル海手ノ、東嶋・西嶋〈現在の兵庫県姫路市内か〉トイフ村ノアタリニテ、空中ヨリ散落ス。コノ夜城下モ雷雨甚シ。予ガ叔父ノ岳翁(シウト)執政間宮氏ト、ソノ隣木崎氏トノ間ニ、一大松樹アリ。雷コノ松ニ震ス。間宮氏ノ長屋ニ使ハル婢女、仆《たふ》レテ気絶ス。翌日カノ池ノアタリニテ、村民竜鱗(タツノウロコ)ヲ拾ヒ得。予モ間宮氏ノ宅ニテコレヲ見ル。六七枚連レリ。一鱗ノ大サ一寸バカリ、八角ニテ色ハ水色ニテ、鱗ハ甚ダ薄シ。表六七枚ニテ、幾クヱモ重ルコト、磨菰蕈(ヒラタケ)・シメジ〈以上担子菌類。食用茸〉ナドノ重リタルガ如シ。竜鱗ナルトナラザルトハ、知ルベカラズ。

[やぶちゃん注:「清田儋叟」(せいたたんそう 享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年)は江戸中期の儒学者。名は絢。儋叟は号で、孔雀楼もその一つ。当該ウィキによれば、『京都の儒学者伊藤竜洲の三男として生まれ、父の本姓清田氏を称した』。『長兄の伊藤錦里、次兄の江村北海とともに秀才の三兄弟として知られた』。『青年期、明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学んだ』。寛延三(一七五〇)年三十一『歳で福井藩に仕えたが、主として京都に住んだ』。始め、『徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じ』、『越前国福井藩儒とな』った。「孔雀楼筆記」は随筆。他に「孔雀楼文集」などがある。「人文学オープンデータ共同利用センター」内の「KuroNetくずし字認識ビューア」のここから原本が視認出来る。

「兵庫県明石市久保田町」「森田」現在の兵庫県明石市大久保町(おおくぼちょう)森田。接して池があり、「雲楽池(くもらいけ)」があるが、それであろう。但し、現行の池は明石市藤江雲楽(ふじえうんらく)に属する。

「二里余西ナル海手ノ、東嶋・西嶋」「〈現在の兵庫県姫路市内か〉」「トイフ村」柴田の推定する「姫路市」では遠過ぎ、「二里余」が全く合わないから違う(最短でも現在の姫路市の海に近い場所の端でも直線で二十キロ以上ある)。それらしい距離の場所を「ひなたGPS」の戦前の地図で探したところ、ここに発見した。地名『島』を中央に配し、東西に『西島』と『東島』の地名を確認出来る。ここは現在の兵庫県高砂市米田町(よねだちょう)島(しま:グーグル・マップ・データ)である。

 

 青木明神奇話【あおきみょうじんきわ】 〔閑田耕筆巻一〕近江坂田郡番場駅(ばんばのうまや)〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉より八丁[やぶちゃん注:約八百七十三メートル。]北に、能登勢村〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉のとせ川あり。『万葉』第三に「さされ浪磯越道(いそこせぢ)なる能登湍(のとせ)川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」といへる所なり。この歌のごとく、今もあまた所に滝落ちていさぎよしと、百如律師(りっし)の話なり。私《わたくし》に案ず。古く近江と註せるを、『代匠記』〈契沖著『万葉集代匠記』〉に大和の巨勢か、又こせぢは越路にて北陸道にや、能登瀬川は能登国にある歟とみゆ。然るに同『万葉集』第十二に、高湍(こせ)なる能登せの川とあるは、古訓たかせとよめれど、こせと読むべしといふ説は従ふべし。今の歌も近江にしては二の句穏かならねば、大和なるべけれど、地景のあへるもまた一奇なり。またこゝを青木の里ともいふ。あふきと称《とな》ふ。「こがらしの風のふけどもちらずして青木の里や常盤なるらん」といふ歌も有り。こゝに青木明神とまうすは、相殿大梵天王、古は大社にて、今も藪村の産土神(うぶすな)となん。因に奇話あり。一とせ請雨せしに、林頭より水気のぼりて、他よりは失火の烟歟とて、見さわぎしほどなりしが、大雨ふりて其あづかる村々のみ潤ひける。その時拝殿に人々会集せし所へ、一尺ばかりの白蛇出たるも不思議なり。また或時、大風にて数十本の樹、倒れながら五十日ばかりをへしかば、幸ひに売らんとせしに、一夜何ともしらず、物音村中にきこえ、明るあした見れば、もとのごとく起直りて、次第に繁茂せりと。回じく百如律師、其ほとりに庵居して、正しき視聴の旨をかたらる。又男資規、その辺りをよく知りて話す。この社の北の方山崖の巌の中より、三尺ばかりの椿二股なるが生ひ出たり。昔よりこの樹此の如しといふ。その二股片枝は枯れ、片枝は繁茂す。年によりてまた枯枝繁茂しかはるなり。その繁るかたにあたれるさとは田作実のり、枯れたるはよからず。としまざきに替ることもあり。二年も続き片枝のみ繁ることも有り。いとふしぎなり。もしこの木全く枯る時は、神この社にいまさじと神詫有りし由、村老はいへりとなん。

[やぶちゃん注:「青木明神」現在の滋賀県米原市能登瀬にある青木神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。

「近江坂田郡番場駅(ばんばのうまや)〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉」現在の滋賀県米原市番場のこの附近

「能登勢村〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉のとせ川」現在の米原市能登瀬。「のとせ川」は不詳。中西進編「万葉集事典」(講談社文庫昭和六〇(一九八五)年刊)によれば、『所在未詳。滋賀県坂田郡近江町能登瀬付近を流れる天野川(あまのがわ)か』とある。前のリンク地図を参照されたい。現在の能登瀬の北の境に沿って流れている。

「さされ浪磯越道(いそこせぢ)なる能登湍(のとせ)川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」波多朝臣小足(はたのあそみをたり)の雑歌(三一四番)。

「百如律師」不詳。

「契沖著『万葉集代匠記』」「まんようだいしょうき」と読む。国学者で「万葉集」の研究で知られる契沖が著した「万葉集」の注釈・研究書。当該ウィキによれば、『「代匠」という語は』「老子」下篇と「文選」第四十六巻の「豪士賦」の『中に出典があり、「本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう」という意味である』ともされる。『当時、水戸徳川家では、主君の光圀の志により』、「万葉集」の諸本を集めて校訂する事業を行っていて、寛文・延宝年間に下河邊長流』(しもこうべ ちょうりゅう/ながる)『が註釈の仕事を託されたが、ほどなくして長流が病』いのため、『この依頼を果たせなくなったので、同好の士である契沖を推挙した』。「代匠記」の着手は天和三(一六八三)年『頃であり、「初稿本」は貞享』四(一六八七)『年頃に、「精選本」は元禄』三(一六九〇)『年に成立した。「初稿本」が完成した後、水戸家によって作られた校本』「詞林采葉抄」が『契沖に貸し与えられ、それらの新しい資料を用いて「初稿本」を改めたのが』、『「精選本」である。「初稿本」は長流の説を引くことが多く、一つの歌に対する契沖の感想や批評がよくあらわれている。純粋に歌の解釈のみを提出し、文献を基礎にして確実であるという点では、「精選本」の方が優れているという』。『「初稿本」は世の中に流布したが、「精選本」は光圀の没後における水戸家の内紛などにより』、『日の目を見ることのないまま水戸家に秘蔵され』、『明治になって刊行された』。「万葉集」『研究としての』本書は、『鎌倉時代の仙覺や』、『元禄期の北村季吟に続いて、画期的な事業と評価されて』おり、『仏典漢籍の莫大な知識を補助に、著者の主観・思想を交えないという註釈と方法が、もっともよく出ている契沖の代表作で、以後の』「万葉集」『研究に大きな影響を与えた』とある。

「こがらしの風のふけどもちらずして青木の里や常盤なるらん」作者不詳で、実に「閑田耕筆」のこの部分に基づいて(推定)、青木神社境内に果歌碑が建てられたが、現在は風化著しく、文字の判読も困難であったため、青木神社を境内地とする後背にある山津照(やまつてる)神社の境内に非常に新しい、この和歌の碑が建っている(サイド・パネル画像)。

「藪村」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、見当たらない。]

 

 青山妖婆【あおやまようば】 〔半日閑話巻十六〕同年〈文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]〉五月青山組屋敷にて、与力滝与一郎と申す者の方にて安産有ㇾ之候処、取揚《とりあげ》ばゞ参り、右赤子を懐(いだ)き明長屋《あきながや》へ走り込み候ゆゑ、直様《ぢきさま》[やぶちゃん注:副詞で「すぐさま・直ちに」の意。]跡追かけ参り候内、また候《ぞろ》取揚ばゞ参り候間、これにて有ㇾ之べくと、縄からげに致し候処、これは実《まこと》の取揚ば’ヽにて、最初のばゞいかなるものや分り兼ね、その内に出火、跡方なしに相成候由。

[やぶちゃん注:「半日閑話」江戸後期の随筆。かの大田蜀山人南畝の著ながら、成立年は未詳。巻冊数も不定である。明和五(一七六八)年から文政五(一八二二)年まで、南畝二十歳から、死の前年の七十四歳に至るまでに見聞した市井の雑事を記したもの。元は二十二冊で「街談録」と称したが、南畝没後、「街談録」以外の南畝の著作や、他家の文を添えた二十五巻本が刊行され、「半日閑話」と改題された。原著「街談録」の部分は江戸の世相風俗資料として高く評価されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。]

 

 赤鼠【あかねずみ】 〔一話一言巻四十八〕延宝七年[やぶちゃん注:一六七九年。]四月ごろ、奥州津軽領<津軽地方>浦人(うらびと)<浦べに住む人>磯山(いそやま)<津軽地方>の頂上に登りて海原(うなばら)を見わたせば、おひたゞしく鰯のより候様に見えければ、猟船をもよほし網を下げ引上げ見れば、下腹白く、頭と脊通りは赤き鼠、億々無量《おくおくみりやう》網にかゝりあがるや、浜地へひきあげ、人々立寄りうちころしたり。その鼠の残りどもことごとく陸へあがり、南部・佐竹領まで逃げちりて、あるひは苗代をあらし、竹の根を喰ひ、あるひは草木の根を掘起し、在家へ入りて一夜のうちに五穀をそこばく費す事、際限なかりし。山中へ入りたる鼠ども、毒草こそありつらめ、一所に五百三百づつ、いやがうへにかさなりて死《しし》てありしとかや。

 近頃下総のシンカイといふ処にて、猟師の網に鼠
 かゝり網を損ぜしといふ。船子のいふに嶋わたり
 の鼠ともいふ。寛政三辛亥年、美濃国大垣〈岐阜県大垣市〉
 に鼠つきて五穀を損せしといふ。戸田采女正殿領
 分なり。

[やぶちゃん注:「一話一言」(いちわいちげん)は大田南畝著の随筆。全五十六巻であったが、六巻は散佚して、現存しない。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いたもので、歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「奥州赤鼠」である。

「磯山」現在の青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)平舘磯山(たいらだていそやま)であろう。

「億々無量」数えきれないほど異様なほど多いことを言っているのであろう。

「下総のシンカイ」現在の千葉県香取市小見川のこの附近は最近まで香取市新開町であったから、この附近であろう。

「寛政三辛亥年」一七九一年。]

 

 秋葉の魔火【あきはのまび】 静岡県秋葉山(あきはさん)付近におこる話 〔耳囊巻三〕駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊びとて、遠州の山上には、夜に入り候へば、時々火燃えて遊行なす事あり。雨など降りける時は、川へ下りて、水上を遊行なす。これを土地の者は、天狗の川狩に出たるとて、殊の外慎みて、戸などをたてける事なる由。如何なる事なるや、御用にて彼地へ至りし者、その外予〈根岸鎮衛《しづもり》〉が召仕ひし遠州の産など、語りしも同じ事なり。

[やぶちゃん注:標題の読みは底本では「あきはのま」だけである。『ちくま文芸文庫』版で補填した。また「秋葉山」のルビ「あきはさん」は底本では『あきわさん』であるのも同前書で訂した。この引用元である名町奉行根岸鎮衛の随筆「耳囊」は、ずっと以前にこちらで全篇の電子化(全訳注附き)を終わっている。当該話は「耳囊 巻之三 秋葉の魔火の事」である。そちらの注と訳を見られたい。]

 

 明屋敷神々楽【あきやしきかみかぐら】 〔享和雑記巻三〕四ツ谷内藤宿〈現在の東京都新宿区内藤町〉の明屋敷守りに五郎蔵といふ者あり。米屋といふにはあらねど、この辺りの御家人の扶持米を舂(つき)て遣る事をもて世を渡れり。五郎蔵が家居は屋敷の主の住み捨てしに入りたれば、軒朽ち草生ひたれど、八畳二タ間に六畳の勝手ありて、屋敷守りの住居には広し。夫婦者にて一人の倅《せがれ》あり。然るにこの節倅疱瘡を煩ひければ、妻はその子を連れて親の方へ逗留に参り、頃日《けいじつ》は五郎蔵一人暮し居たり。亥二月五日は初午《はつうま》に当れり。夜に入り帰り見れば、我家の内に人多く集りたると見えて、絲竹呂律《りよりつ》の拍子を揃へ、さも面白く囃し立て、舞ひ遊ぶ手拍子足拍子の聞えければ、近所の者どもが何方《いづかた》へか初午のはやしに行きたるが、立寄りし事と思ひつゝ、門の戸明けて入り見るに、その音はすれども姿は見えず。こなたかと思へば先の方に聞え、先かと行けば跡になりて聞き留め難し。五郎蔵元来大胆の者なれば、少しも動ぜず、常のごとく休みけるに、夜も明方に至れば、物音も静まりぬ。夜明けて見れば、少しも常に替りたる事なし、これよりして毎夜かくのごとく、音曲の拍子とりどりはやしけるが、日を経て止みしとなり。田舎にては神かぐらと申しならはして、稀にある事の由、狐狸の仕業なるべし。

[やぶちゃん注:初午当日のそれは、逆転層によって離れた場所で行われた祭りの音が、反響したものと考えてよい。その後日も暫く続いたのは、周囲の土蔵などで、初午の音曲・囃子太鼓に触発されて、練習をしたものが響いてきたと考えてよいと思われる。今、すぐには指し示せないが、私の電子化した江戸時代の擬似怪奇談に、そうした、どこからともなく、一定期間、太鼓や囃子が聴こえてくるので、不審に思って調べると、近隣の町人が土蔵の中でそれらの練習をしていたというオチの話が複数あった。例えば、「反古のうらがき 卷之三 化物太鼓の事」である。

「享和雑記」柳川亭(りゅうせんてい)なる人物(詳細事績不詳)になる世間話集。三田村鳶魚校訂・随筆同好会編になる国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第三巻(昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで正字で視認出来る。末尾に、

  神かぐらきねか鼓もうすめよりひく絲竹にこまい[やぶちゃん注:ママ。]一さし

とある。

「四ツ谷内藤宿」「〈現在の東京都新宿区内藤町〉」サイト「nippon.com」の「『四ツ谷内藤新宿』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第52回」に江戸切絵図と現行の地図が並んでいる。現在の新宿一丁目から三丁目及び内藤町(同町は殆んどが新宿御苑内)に相当する。

「頃日」近頃。

「亥二月五日は初午に当れり」干支から、これは享和三年二月五日庚午で、グレゴリオ暦で三月二十七日に相当する。ズレが大きいのは、この年は一月の後に小の月の閏一月があるためである。「初午」この二月初めの午の日を特に指す祭日。稲荷の祭日とされ、稲荷講の行事が行われるが、その習俗は必ずしも稲荷とは関係なく、土地により様々である。この日。初午団子を作り、子供たちが集まって太鼓をたたくことが広く行われる。全国の農村では種々の農事に係わった色々な祭りが行われることから、初午の日は、その年の豊作を予祝する意味の祭りであったと言える(小学館「日本大百科全書」の記事の、中間部にある多くの具体な各地の祭礼法をカットして載せた)。

「呂律」「律呂」とも言い、日本音楽の「律」と「呂」の音。又は広義に十二律・音律・音階・旋法・調子等を指す。現行の「ろれつが回らない」はこの「呂律」の音変化。]

 

 明屋敷の怪【あきやしきのかい】 〔耳囊巻二〕上杉家の下屋鋪や、又上屋敷や、名前も聞きしが忘れたり。近頃の事なりし由、交替の節にや、交代長屋も多く塞がりしに、相応の役格の者、跡より登りて、その役相応の長屋無ㇾ之、一軒相応の明長屋あれども、右長屋住居の者は、色々異変ありて、或は自滅し、又は身分立ち難き事など出来て、退身などするとて、誰も住居せず。主人にも聞きに入り候程の事なり。然るに右某は至つて丈夫なりけるゆゑ、右長屋に住はん事を乞ひければ、その意に任せけるに、さしてあやしき事もなかりしが、或夜壱人の翁出て、見台にて書を見居たる前へ来りて、著座なしけるを、ちらと見けれども、一向に見向きもせず居たりし。飛びも懸らむ体《てい》をなしけるゆゑ、とつて押へ、汝なに者なれば爰には来りしと申しければ、我は此所に年久しく住めるものなり、御身爰にあらば為《ため》あしかりなんと云ひけるゆゑ、大きにあざ笑ひ、我は此長屋、主人より給はりて住居なす、汝はいづ方よりの免《ゆる》しを請けて、住居なすやと申しければ、その答へに差《さし》つまりしや、真平ゆるし給へといふゆゑ、以来心得違ひ致すべからずとて、膝をゆるめければ、かき消して失せぬ。さて日数《ひかず》二三日過ぎて、屋鋪の目付役なる者、両人連れにて来り、主人の仰せを請けて来れり、面会致すべき旨ゆゑ、著用《ちやくよう》を改めその席へ出でければ、かの目付役申しけるは、御自分事何々の不届の筋御聞きに入り、急度(きつと)も仰せ付けられ候へども、自分存念を以て、覚悟の儀は勝手次第の段、申渡しければ、委細の仰せ渡しの趣《おもむき》、畏《かしこま》り奉り候。用意の内暫時御控へ下さるべき旨申述べ、勝手へ入りて召仕(めしつかひ)へ申付け、近辺住居のものを急に呼び寄せ、密かにかの目付役を覗《のぞ》かせしに、一向見覚えざるものの由ゆゑ、さこそ有るべきと、召仕どもへも申し含め、棒その外を持たせ、立ち忍ばせ、さて座敷へ出て、仰せ渡しの趣畏り奉り候間、切腹も致すべく候へども、得《とく》と相考へ候へば、一向御尋ねの趣、身に覚えなき事なり、委細その筋へ申立て候上、兎も角も致すべく、然る処我等は御在所より出《いで》て、各〻様をも御見知り申さず、御屋鋪内何方《いづかた》に住居有ㇾ之、何年勤められ候やなどと尋ねければ、我等主人の仰せ渡されを以て、申渡しに罷り越し候、余事の答へに及ばざる趣申しける故、さあるべしと思ひて、当屋鋪案内の者も呼び置きたり、全く紛れ者ゆるさじと、刀に手をかけければ、両人ともうろたへて逃出《にげだ》せしを、抜打《ぬきうち》に切りければ、手を負ひながら、形ちを顕はし逃げ去りしが、供のものをも中間など棒を以てたゝき倒しけるが、これもほうほう逃げ去りける。この後はたえて右長屋に怪異絶えけるとなり。

[やぶちゃん注:「耳囊巻二」とあり、『ちくま文芸文庫』版もママだが、私の全篇電子化(訳注附き)では、「巻二」ではなく、「巻九」であり、標題も「上杉家明長屋怪異の事」となっている。但し、「耳囊」には写本の異本(不全本を含む)がかなりあり、その中には、話柄の位置が全く異なっているものがある。そういえば、本文中の表記の中に、極めて若干ながら、相違があり、後の「耳囊」でも巻の違いがあることから、そのせいであろう。

 

 明屋の狸【あきやのたぬき】 〔譚海巻十〕寛政六年、寺社御奉行某殿にて儒者を召抱へられけるが、下屋敷に長屋を玉ひありけるに、老人なりければ御講義仕り、深更に御下屋敷まで罷り帰り候事、何とも難儀仕り候間、いかなる御長屋にても、御下屋敷まで罷り帰り候事、何とも難儀仕り候間いかなる御長屋にても御上屋敷に下され、移住仕りたき由願ひければ、長屋穿鑿ありけるが、みなみな住みて一向明長屋なく、只壱軒明長屋あれども、これは怪異ある長屋なれば、これまで住居する人なく、合羽籠など入れ置く所となし有ㇾ之よし、主人もいかゞと申されけれども、この儒者、私事妻子も御座なく候間、いかやうにても苦しからず段、達(たつ)て願ひければ、その長屋を玉ひ、修覆掃除して移りけるに、その夜より老人一人来り、隣舎に住む者のよしにて物語りしけるが、この老人殊の外珍しき事を覚え居て、往々天正頃の事など物がたりなどせしかば、儒者も興ある事に覚えて、怪異なるものをも忘れ、よき友を得たる心地して、親しくかたらふ事半年ばかりありしが、ある夜この老人来りて申しけるは、これまではつつみ居り候へども、我等事まことは人間にはあらず、年久しくこの屋敷に住居致す狸にて、かやうに御心安く罷り成り候が、我等事命数尽きて、近日に相果て候間、もはや参る事もあるまじくと申し候へば、儒者大きに驚き、そのわけを問ひければ、前年までは御台所にも、食物余計落ちすたり候も有ㇾ之て、それをたべ候て存命致し候が、所々近年御倹約つよく相成、左様なる給物も少く相成、食事とぽしきゆゑか、次第に気力も衰へて、病身に罷り成り候と申す。儒者それは気の毒なる事なり、さやうの義ならば、我等一飯をわけて遣はすべし、何とぞ存命いたす事相成申すべくや、或ひは医療等にても生き延び相成る事ならば、又いかやうにも致し遣はし申すべしと云ひければ、老人とかくさやうの事にて助かる事に候はず、全く命数尽る所なれば致方なく、是非なき事に候と申す。儒者聞て、それほどに決定《けつぢやう》したる事ならば、何ともしかたなき事とおもはれたり、然しながらこれまで懇意せし報いに、何ぞ好物のものあらば振舞ひたしといへば、千万かたじけなし、さやうならば餅を何とぞ御振舞ひ下さるべく、明夜《みやうや》参るべし、ただし明夜は有りふれたる形にて参るべし、かやうに人の体《てい》をなしてまゐる事は、われらもはなはだ窮屈なる事なるうへ、もはや気力も尽き候間、人のかたちになる事も大儀に候間、明夜参りたらば、かならずこれ迄の挨拶に仰せられ候ては、甚だめいわく仕り候よしをいひて帰りける。さて翌日の夜餅を才覚して、土間にさし置きければ、その夜九つ<午前〇時>過《すぎ》、はたして縁の下より、痩せ衰ろへ、毛も落ち、とゞろなる狸一疋出て、この餅を喰(くら)ひけるが、度々噎咳《いつがい》して漸くに喰ひをはり、また縁の下ヘ入りける。その後は絶えて見えず。右の趣、儒者主人へも申上ければ、奇怪不便なる事なり、定めてその死骸あるべし、とぶらひ葬りて遣はすべしとて、縁の下をはじめ諸所尋ねさせられけれども、一向その死骸はみえざりしといへり。

[やぶちゃん注:本篇は私のブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で、先般、この注のために、「譚海 卷之十 某御奉行長屋住居の儒者に狸物語の事」(以上が正式標題)として、電子化注してフライング公開しておいたので、そちらを見られたい。]

 

 悪気人を追う【あくきひとをおう】 〔耳囊巻二〕下谷立花〈東京都台東区内〉の屋鋪の最寄りに、少しの町有り。其所の者なる由、目黒の不動を信じ、度々参詣なし、ある時七つ時<午前四時>に出宅をすべきに、刻限早く八つ<二時>に起き出で、参詣せんと日本橋通りをまかりしに、漸く七つなれば、それより段々歩行(あるき)参り、芝口に定式《ぢやうしき》に休みなどなせる、信楽(しがらき)といへる水茶屋有り。しかるに日本橋寄りに候や、跡よりざわざわと音してつき来る者あり。ふり帰り見れば、縄やうのもの附き来り候故、早足に歩行(あるけ)ば早く追ひ、立どまればかの縄様のものも止りし故、我足又裾に糸などありて、右へからまり来るやと改め見れど、更になし。何とやら心持あしき故、急ぎて右の信楽の茶屋に立寄り、いまだ夜深故、町屋もいまだ戸をあけざれど、水茶屋は朝立ちの客を心がけ、燈など見ゆる故、歓びて立寄りければ、今日はさてさて早く出給ふと、家内にても挨拶して、茶など煮て給《たべ》させけるゆゑ、刻限をとり違へし事など咄して暫く休み、いまだ夜も明けざれど、門口の戸を見けるに、やはり附き来りし縄やうのもの、門口にありける故、内へ入り門口を〆めて、いまだ夜も明けず、気分あしき故、暫く廓(みせ)に休みたき由断り、枕など借り請けて、描になり居しが、程なく夜も明け、往来もあるゆゑ、起出て帰りにこそよるべきとて、目黒へ参詣し、身の上をも祈り、それより彼所にも尋ぬる所ありて立寄り、支度などして、夕方になつて帰り懸け、かの信楽が方を見しに、表を立て忌中の札ある故、今朝迄もかゝる事なかりしと、その辺にて聞合せければ、いかなる事にや、右茶屋の亭主首縊り相果てけると云ひしに、我身の災難を明王の加護にて逃れけるや、右縄の追ひ来るを、始めは蛇と思ひしが、縄に悪気の籠りてしたひ来りしやと、我友のもとヘ来りて語りぬ。

[やぶちゃん注:同前で、古くに電子化(訳注附き)してあるので(「耳嚢 巻之九 惡氣人を追ふ事」)、そちらを見られたい。やはり、私の底本では、「巻九」であった。]

 

 悪路神の火【あくろじんのひ】 〔閑窻瑣談巻三〕伊勢国紀州御領の内にて、田丸領間弓村〈現在の三重県度会郡玉城町田丸か〉の唐子谷といふ所に、猪草(いくさ)が淵といふ大難所あり。常の道路巾十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかりの川あり。その河に杉丸太を渡して往来とせり。この丸太橋の高サ水際より十間余有り。これを渡る時は甚だ危く、怖しき事言語に絶えたり。橋の下は青々たる水の面、その底を知らず。この辺山蛭《やまびる》といふ蟲多く、手足に取付きて人を悩ます。寔(まこと)に下品の地にして、男女の形状見分けがたき程の所なり。この地に生れて他へ出ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。またこの辺に悪路神の火と号(なづ)けて、雨夜には殊に多く燃えて、挑灯のごとくに往来す。この火に行合ふ者は、速かに俯(うつむき)に伏して身を縮む。その時火はその人を通路するなり。火の通り過ぐるを待ちて逃げ出す。然《さ》も為《せ》ざる時は、彼《かの》火に近付きて忽ちに病《やまひ》を発し、煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名医、採薬の為に経歴して彼地にいたり、眼前に見聞し、帰府の後、諸国の奇事を上書せし『採薬記』にあり。

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらで挿絵入りで正字で視認出来る。しかし、これ、二〇一七年一月に『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』の本文に訳で紹介されており、その私の注で、各個、注しており、さらに同原文を電子化し、吉川弘文館『随筆大成』版の挿絵も公開しているので、そちらを見るのが、手っ取り早くてよろしいかと存ずる。

 

 麻布の異石【あざぶのいせき】 〔兎園小説第十二集〕『春秋伝』に、石の物いひし事を載せて、神霊の憑りたるよしを論ぜり。古来その例多ければ、今贅するに及ばず。抑〻余〈大郷信斎〉が住める麻布の地に、見聞せし異石五種あり。その一は、秋月家の園中に三尺ばかりなる寒山拾得の石像、いつのころにや、行夜の卒の蹤より慕ひ来けるを、斬り払ひけりとて、その瘢痕(きずあと)を存す。その二は、長谷寺の内に五六尺ばかりなる夜叉神の石像、緇素(しそ)の諸願をかくるに、その験多し。これも件の園中に在りしに、長谷の住持、霊夢によりて爰に移すといふ。その三は、山崎家の邸内の陰陽石、これを結の神に比して、その願を聞くとぞ。その四は、五嶋家の門前大路の中央に、径尺余の頑石凸起してあり。道普請の礙(さは)りなりとて掘りけるに、その根、金輪際までも入りたりとて、元の如く捨て置きぬ。往来の人、塩を手向けて足の願をかくる事、半蔵御門内の石に同じ。その五は、森川家の別㙒《べつしよ》[やぶちゃん注:別荘。]に、二尺余なる鳥帽子形の石に、日月の形顕れ出でたる有り。件の園丁茂左衛門といふ者、霊夢によりて、その郷里越後国頸城郡吉城村の畠より得たりといふ。目出たき石と申すべきか。〈『海録巻十三』に同様の文章がある〉

[やぶちゃん注:私は昨年末、曲亭馬琴の「兎園小説」を巻頭する膨大なそれの、総ての電子化注をブログ・カテゴリ「兎園小説」で完遂している。ここに出るのは、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 麻布の異石』である。そちらを見られたい。

「海録」近世後期の江戸の町人(江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子)で随筆家・雑学者山崎美成が研究・執筆活動の傍ら、文政三(一八二〇)年六月から天保八(一八三七)年二月までの十八年間に亙って書き続けた、考証随筆。難解な語句や俚諺について、古典籍を援用し、解釈を下し、また、当時の街談・巷説・奇聞・異観を書き留め、詳しい考証を加え、その項目は千七百余条に及ぶ。彼は優れた考証家であり、「兎園会」の一人でもあったが、物言いが倨傲で、遂に年上の曲亭馬琴から絶交されたことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正四(一九一五)年刊)のここの「五七麻布の五石」がそれ。]

 

 足長【あしなが】 〔甲子夜話巻廿八〕『三才図会』云ふ。「長脚国在赤水東、其国与長臂国近、其人常負長臂人、入ㇾ海捕ㇾ魚、蓋長臂人身如中人、而臂長二丈」と。これ長脚国の脚長は云はざれども、長臂を負ひ、入ㇾ海て捕ㇾ魚とあれば、長脚の長も二丈ばかりなること、知るべし。平戸城の西北二里ばかりに神崎山《こうざきやま》あり。その海辺に晴夜《せいや》、海、穩《おだやか》なるとき、或人、小舟に乗り、汀《みぎは》より、六、七十間を去《さり》て、釣を垂る。この中一士人あり。ふと海浜を顧れば、何ものか來て炬《たいまつ》をかゝげて、蜘蹰(ちちゆう)する者あり。よく視るに、腰上は常人に異ならざれども、足の長さ九尺許り、士人、その怪状に駭(おどろ)く。従者云ふ、これ、足長と呼ぶものにて、この物出《いづ》れば、必ず天気変るなり。遄(すみやか)にこの処を退かんと云ふゆゑ、そのとき天に一点の雲なし。いかで変ずることあらんやと言ひながら、舟を返して十余丁も漕行《こぎゆき》し頃、黒雲忽ち起り、雨驟《しき》りなれば、城下に歸ることを得ずして、その辺に泊す。然るに、少間にして雨歇《や》み空霽れたりと。この足長も妖怪にこそあれ、天地間の一物なれば、長脚国のあるも、虛語《そらごと》にあらじ。

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「甲子夜話」で事前に「甲子夜話卷之二十六 6 平戶の海邊にて脚長を見る事」をフライング公開(オリジナル注附きで、「三才図会」の「長脚國人」と「長臂人」も添えてある)しておいたので、参照されたい。]

 

 小豆洗【あずきあらい】 〔耳囊巻一〕内藤宿〈現在の東京都新宿区内藤町〉に、小笠原鎌太郎といへる、小身の御旗本あり。かの家の流し元にて、小豆洗ひといへる怪あり。時として小豆をあらふ如き音しきりなれば、立出て見るに、さらにその物なし。常になれば、強てあやしむ事なし。年を経る蟇(ひきがへる)の業《わざ》なりと聞きしと、人の語りしが、その傍に有りし人、外にもその事ありと、親しく聞きしが、是れひきの怪なりといひき。〔江戸塵拾巻五〕 元飯田町もちの木坂の下、間部伊左衛門といふ者宅にて、夜更におよび玄関前にて小豆を洗ふ音する事つねの事、人音《ひとおと》すれば止む。其所に行きて見るに異《こと》なる事なし。その音によつて名づく。

  この事入谷田圃にもむかし有りとぞ。加藤出雲守
  殿下屋敷の前の小橋を小豆橋といふ。

〔譚海巻八〕 むじなはともすれば、小豆洗ひ・絲くりなどする事有り。小豆洗ひは渓谷の間にて音するなり。絲くりは樹のうつぼの中にて音すれど、聞く人十町廿町行きても、其音耳を離れず、同じ事に聞ゆるなり。 〔裏見寒話追加〕古府新紺屋町<山梨県甲府市内にあり>より愛宕町へ掛けたる土橋有り。その下は富士川なり。此処を鶏鳴の頃通るに、橋下にて小豆を洗ふ音聞ゆといへり。また畳町の橋の下も斯の如しと云ふ。

[やぶちゃん注:「耳囊巻一」同前で私の底本では「耳嚢 巻之八 小笠原鎌太郞屋敷蟇の怪の事」である。

「江戸塵拾」(えどちりひろい)は江戸市中で見聞した奇物や怪異を集めた随筆。著者は蘭室主人だが、詳細事績は不明である。所持する『燕石十種』第五巻(昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊)の朝倉治彦氏の同書に就いての「後記」によれば、同書には五巻本が収録されているが、元は二巻本であったらしい。二巻本の成書は明和四(一七六七)年八月と考えられており、それを改稿し、若干の増補をしたものが、五巻本と推測されておられる。そこで朝倉氏は、著者について、『二巻本では「東本願寺におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、有馬家の儒臣山北某なるもの」となっている』ことから、『想像して、著者は、有馬家の、あるいは有馬家と関係のある人ではあるまいか』と添えておられる。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(岩本佐七編・明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで正字で確認出来る。標題は「小豆老女」である。

「元飯田町もちの木坂の下」個人サイトらしい「Discover 江戸旧蹟を歩く」の「○中坂・九段坂・冬青木坂」で確認出来る。最後の「冬青木坂」が「もちのきざか」と読む。坂は、現在の千代田区九段北一丁目・飯田橋一丁目・富士見一丁目で、ここ。「もちの木」は双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra で、「黐の木」で、樹皮から鳥黐(とりもち)を作ることが出来ることから和名の由来となった。

「〔譚海巻八〕 むじなはともすれば、小豆洗ひ……」は、事前に当該部を含む、それなりに長い「譚海 卷之八 諸獸の論幷獵犬の事」を、同前カテゴリでフライング公開しておいた。標題は「諸獸の論幷」(ならびに)「獵犬の事」のごく一節である。

「裏見寒話」(うらみのかんわ)は宝暦二(一七五二)年に甲府勤番士野田成方(しげかた)が書いた甲府地誌。その「追加」の冒頭は「怪談」。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページの「○小豆洗の怪異」がそれ。

「古府新紺屋町」「山梨県甲府市内」山梨県甲府市元紺屋町か。

 なお、妖怪・怪異現象としての「小豆洗い」は『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ』が最もディグされた論考であろう。]

 

 小豆はかり【あずきはかり】 〔怪談老の杖巻三〕麻布近所の事なり。弐百俵余程取りて、大番《おほばん》勤むる士あり。この宅にはむかしより化物ありと云ひけり。主人もさのみ隠されざりしにや、ある友だち化物の事を尋ねければ、さして怪しきといふ程の事にもあらず、我等幼少より折ふしある事にて、宿にては馴れつこになりて、誰もあやしむものなしといひけるにぞ、咄しの種に見たきものなりと望みければ、やすき事なり、来りて一夜も泊り給へ、さりながら何事もなきときもあるなり、四五日寢給はゞ、見はづし給ふまじと云ひけるにぞ、好事《かうず》の人にてやありけん、幾日なりとも参るべしとて、其夜行きて寢《い》ぬ。この間(ま)なりといふ処に、主人とふたり寢《ね》て話しけるが、さるにてもいかなる化物にやと、ゆかしき事かぎりなし。主に尋ぬれば、まづだまりて見たまへ、さはがしき夜には出《いで》ずと、息をつめて聞き居《を》りければ、天井の上どしどしとふむ様なる音しけり。すはやと聞き居《をり》ければ、はらりはらりと、小豆をまく様なる音しけり。あの音かと、聞きければ、亭主うなづき小声になりて、あれなり、まだ段々芸あり、だまつて見給へといひければ、夜著《よぎ》をかぶり息をつめて居けるに、かの小豆の音段々に高くなりて、後は壱斗程の小豆を、天井の上ヘはかる様なる体《てい》にて、間《ま》ありてまたはらはらとなる事、しばらくの間にてやみぬ。また聞きければ庭なる路次下駄《ろしげた》、からりからりと、飛石のなる音して、水手鉢《てうづばち》の水さつさつとかける音しけり。人やすると、障子をあけて見ければ、人もなきに竜頭《りゆうづ》のくびひねりて水こぼれ、また水出《いで》やむにぞ、客人も驚きて、さてさて御影にてはじめて化物を見たり、もはやこはき事はなしやといひければ、この通りなり、外になにもこはき事なし、時々上より土・紙くずなどおとす事あり、何も悪しき事はせずといはれける。其後語り伝へて、心やすきものは皆聞きたりけれども、習ひきゝてはよその者さへこはく[やぶちゃん注:ママ。]もおもしろくもなかりけり。ましてその家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。しかれどもかの士一生妻女なく、男世帯《をとこじよたい》にて暮されけり。妾《めかけ》ひとり、外《そと》にかこひおき、男女の子三人ありけり。女などのある家ならば、かく人もしらぬ様にはあるべからず。いろいろの尾ひれをつけていひふらすべし。世の怪談とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて猫の尾をさぐりあて、または鼠に額(ひたひ)をなでられなどして、云ひふらす咄し多し。この小豆はかりは何のわざといふ事をしらず。

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は既に古いブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注してある。当該話は「卷之三 小豆ばかりといふ化物」で「はかり」は「ばかり」である。恐らくは「計(ばか)り」ではなく、「量(はか)り」であることを、柴田は示したかったのであろう。]

 

 油揚取の狐【あぶらげとり[やぶちゃん注:ママ。]のきつね】 〔裏見寒話追加〕光沢寺境内の藪は、代官町〈現在の山梨県甲府市内〉ヘ抜けて行く横道なり。この道を油揚豆腐を持て通るに忽ち失ふ。商人なども度々取らるゝと。こはこの藪に狐あり。此の如き径をなすといヘり。その後小川某といふ人、鉄砲にて打留めし已来はこの妖なしと。

[やぶちゃん注:既出の国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの右ページの「○油揚取の狐」がそれ。]

 

 油盗みの火【あぶらぬすみのひ】 〔諸国里人談〕河内国平岡〈大阪府枚岡市内〉に雨夜に一尺ばかりの火の王、近郷に飛行す。相伝ふ、昔一人の姥あり。平岡社の神燈の油を夜毎に盗む。死して後燐火となると云々。さいつころ姥火に逢ふ者あり。かの火飛び来て面前に落つる。俯して倒れて潛かに見れば、鶏のごとくの鳥なり。嘴を叩く音あり。忽ちに去る。遠く見れば円なる火なり。これまつたく鵁鶄(ごゐさぎ)なりと云ふ。近江国大津〈滋賀県大津市〉の八町に、玉のごとくの火、竪横に飛行《ひぎやう》す。雨中にはかならずあり。土人の云ふ、むかし志賀の里に油を売るものあり。夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死して魂魄、炎となりて、迷ひの火、今に消えずとなり。また叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因縁右に同じ。七条朱雀の道元が火、皆この類(たぐ)ひなり。これ諸国に多くあり。

[やぶちゃん注:これは別個に立項されてあるものをカップリングしたものであって、連続したものでもなく、やりかたとしては、極めて変則的。二話の因縁から、同義性を私は認めないので、柴田の勝手な合成は恣意的に過ぎ、肯んずることは出来ない。「諸国里人談」は全篇をブログ・カテゴリ「怪奇談集」で電子化注している。以上は、「諸國里人談卷之三 姥火」と、その四項も後の「諸國里人談卷之三 油盗火」を勝手に合体したものであり、怪奇談蒐集家の私としては、許すことの出来ない鷺、基! 詐欺的仕儀である。]

 

 雨面【あまおもて】 〔思出草紙巻二〕御使番丹羽五左衛門、ひととせ御目付代として難波に登り、御役屋敷住居の折、南都順見として彼地に至りつゝ所々順見ありしに、この地はさすが旧跡の地にして、古き寺社名所旧跡多し。これに依て、諸所の霊仏霊宝等残らず開帳なすを、先例にて順見なしけり。東大寺の霊宝など多き中に、楽《がく》の面有りて、何にても出す時は、雨降らずといふ事なし。依て雨面となづけたるなり。案内の翁がいはく、今日は雨面御覧有るべし、極めて雨降るべしとの時に、その日は空はれわたりて、一点の雲もなし。丹羽五左衛門、心の内に不思議の事をいふものかな、何ぞこの日和に雨ふる事あらんと思ひながら、彼方此方順見して、已に昼時すぎ、東大寺に至らんとするに、一天俄かにくもり白日をおほひ、風するどに吹落ちて雨ふり出し、長柄の傘に雨をしのぎ、彼寺に至りてこの面を見るに、凌王《りやうわう》の古きにや。その赤きが所々まだらにはげて、古き事幾年へだたりけん。殊勝の面なり。寺僧も雨の降る事、奇妙なるを物語り、順見すぎて寺を出て、二三町も過ぎたる頃は、元の晴天となれり。奇なる事に覚えしとかや。それ不思議なるを感ずるの余りに、丹羽は何卒彼面の写しをしたゝめ呉れよとて、役僧まで頼み紙面を遺はす所に、程経て写しを差越《さしおこ》したり。よき画師《ゑし》にうつさしめたりと見えて、かの正面《せいめん》に少しも違はず。その彩色、現に見るに等しく、写しと更に思はれず。謝礼の目録なぞ遣はしぬとかや。役果て帰府なしけるに、上野に知行所有りしが、夏の炎天数日つゞき田畑も枯れそんじ、大きに難儀の訴ヘ有りし時、ふと心に思ひ出し、かの面の写しの軸ものとなせしをつかはして、この軸ものに向つてきねんさせよ、雨降るべきぞと云ひ遣はしたりしかば、程なく知行所より、かの雨面の写しを返済する飛脚来りて、注進していはく、御借給はる一軸を本尊として、有験《うげん》の僧を頼み、雨乞の祈念なしたるに、忽ち雨降り出し、田畑も潤沢なして愁ひをのがれたりしが、爰に不思議なる事は、御知行所の村境まで仕切りたる如く雨ふりて、他領は一向雨も降り候はずと訴ヘぬるとかや。奇妙なる事も有りしものなりとて丹羽氏の直談なり。今はなき人の数に入りて、今子孫の代なり。

[やぶちゃん注:「思出草紙」全十巻の奇談随筆。自序に『牛門西偶東隨舍誌』とあるが江戸牛込に住む以外の事績は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字で視認出来る。標題は「○南都の雨面」である。]

 

 海士の炷さし【あまのたきさし】 〔屠竜工随筆〕九鬼殿の家老何某は在所にて大嵐の翌日海士《あま》の集り流木を拾ひて焚火してあたりたるに、その辺りゑもいはれざるかうばしき香の薫り渡りければ、人々その香を尋ねて浜に行きたるに、伽羅《きやら》の大木を火にくべてあたり居たるを、急ぎ海の潮をかけてしめし、領主にも公(おほやけ)にも奉る故に、件《くだん》の伽羅をあまの炷さしといふとなん。然るに『日本紀』にこれに似たる事あり。二事自然と合《あひ》たるにや。

[やぶちゃん注:「屠竜工随筆」江戸後期の随筆。作者は江戸中期の俳人小栗旨原(おぎりしげん 享保一〇(一七二五)年~安永七(一七七八)年)。江戸生まれ。清水超波に学び。服部嵐雪の句を纏めた「玄峰集」、榎本其角の付句を集大成した「続五元集」などを編集した。別号に其川・伽羅庵・百万(坊)・天府庵・元斎など。句集に「風月集」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「日本古典籍ビューア」の「日本古典籍データセット(国文研所蔵)」のここで、写本の当該部が視認出来る。

「『日本紀』にこれに似たる事あり」「大阪市立科学館」の雑誌『月刊うちゅう』のこちらに(二〇一二年六月号第二十九巻・PDF)の科学館学芸員小野昌弘氏の記事に、『日本書紀二十二巻には、推古天皇3年(西暦595年)に淡路島に沈香が流れ着いたという記載があり、島民たちは、それをただの流木と思い、薪として火にくべたが、とても良い香りがしたので朝廷に届けたとのことです。このとき流れ着いたのが約1mもある沈香だそうで、とても大きい物です』とあった。]

 

2022/03/21

カテゴリ「続・怪奇談集」始動

このカテゴリ「怪奇談集」はずっと以前に最大総リスト表示1000件を遙かに越えて1185件(本記事を除く)になってしまっているので、新たに別カテゴリ「続・怪奇談集」を創始したので、ブックマークなど、よろしくお願い申し上げる。

なお、ここで見えなくなっている古層のものは、既に下方にある

『★カテゴリー「怪奇談集」初期の「佐渡怪談藻鹽草」・「谷の響」・「想山著聞奇集」の電子化注リンク一覧★《追加リロード》』

に纏めてリンク・リストを張ってあるので、そちらを参照されたい。

2021/03/11

怪談老の杖卷之四 (太田蜀山人南畝による跋文) / 怪談老の杖卷~電子化注~完遂

    ○

 東蒙子(とうまうし)の語りけるは、

「予が幼き頃、隣家へ行て遊びし事あり。折ふし、ふみ月の中の五日]にて、家々、燈籠を照らし、大路のさまも賑ひける。予が行し家は、紙など商ふ家なれば、「揚げ椽(えん)」といふものを、かけがねして、夜(よる)はあげ置(おき)けるを、「おしまづき」の樣にて、友達の童(わらは)と、手すさびなどして居(ゐ)けるに、年の頃、十二、三計(ばかり)の女の子、來りて、隣の童をとらへ、頭を手して、もみあつかふ。彼(か)の童は、ものもいはず、ただ、

「くつ、くつ。」

とのみ、いふて居たる程に、

『何ならん。』

とおもひて、面(おもて)をあげて、みれば、見もしらぬ女の子なり。

「なに奴(やつ)ぞ。」

と、とがめければ、つやつや、いらへもせず。

 また、傍(かたはら)をみれば、八ツ計の童、面まで、髮、生(お)ひかゝりたるが、立居(たちをり)たり。

 何とやらん、心地の恐ろしかりければ、友達に、

「逃(にげ)よ。」

と云はれけれど、心うばゝれて、逃んともせず、やがて、帶をとりて、内へ引入れければ、手を放ちて、又、我に、とりつきぬ。

 その手の冷(ひややか)なる事、寒中の氷のごとし。

「何ものぞ。」

と、つよく咎(とが)めければ、

「下屋舖(しもやしき)、々々々。」

と、二聲(ふたこゑ)、いひけり。

 此家の裏は、朝倉仁左衞門殿といふ人の下屋敷なるが、かの屋敷守(やしいもり)の娘に、「おかん」とて、ありけるが、遊びがたきにて、常に行ければ、『それか』と、よくよく見るに、似もつかず。

 色靑く、きはめて、よごれたる貌(かほ)なり。

 さる程に、

「ぞつ」

と、おそろしき氣のいでければ、

「わつ。」

と、いふて、戶を引たて、逃入(にげいり)ぬるに、その家の者ども、おどろきて、

「ばけものよ。」

とて、そこらを尋ね搜しけれど、終(つひ)にみへず。

 又、何者といふ事も、しれざりけり。

 是は、かの別莊の内に、年古き狐ありて、人を化(ばか)すといひけるが、童とおもひ、あなどりて來りしにや。よくぞ、まどはされざりし。」

と、今に、いひ出して、語りける。

[やぶちゃん注:「東蒙子」作者平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)の号。従って、これは跋の内で、冒頭注で書いた通り、本篇を含む「平秩東作全集」を纏めた平秩東作の友人であった、文人で本篇の所有者であった大田(蜀山人)南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が平秩から聴いた直話の怪談を思い出として書き添えたものと推定される。

「ふみ月の中の五日」旧暦七月十五日。

「揚げ椽」「揚げ緣」。商家の店先などに、釣り上げられるように造られた縁。夜には、それを上げて戸の代わりとする。

「おしまづき」漢字を当てると「几・机」で、ここは「揚げ縁」の一部を中に取り込んだものを、遊びの台(机)の代わりにしているのであろう。

「つやつや」少しも。全く。

「朝倉仁左衞門」家光の代の江戸北町奉行に朝倉石見守仁左衛門在重(天正一一(一五八三)年~慶安三(一六五一)年)町奉行在任:寛永一六(一六三九)年~慶安三(一六五〇)年)がいる。但し、平秩東作の生没年から、この朝倉在重の直系の後裔と思われる。井上隆明氏の論文「平秩東作とその周辺」(PDF)によれば、この人物は旗本とされ、平秩の生まれた家は現在の新宿二―一六―六附近(グーグル・マップ・データ)が当該地であるとされておられる。

 以下の跋文は底本では全体がポイント落ち。]

 

 

亡友東蒙子、所ㇾ草「怪談老杖」數卷、僅存四卷、流覽一過、宛如亡友而語三十年前事也。

  文化乙亥孟秋念七淸晨  杏花園叟

 

文政己卯水無月廿日、病餘流覽、時年七十一。 蜀山人

  東蒙生平下ㇾ筆不ㇾ能ㇾ休、是其稿本也。

              蜀 又 誌 ㊞

怪談老の杖卷之四

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

   *

亡き友の東蒙子、草(さう)せる「怪談老(おひの)杖」數卷、僅かに四卷を存す。流覽一過(りうらんいつか)、宛(さなが)ら、亡き友に逢ひ、三十年前に事を語れるがごときなり。

  文化乙亥(いつがい/きのとゐ)孟秋(まうしう)念七(じゆうしち)淸晨(せいしん)

       杏花園叟(きやうくわゑんさう)

 

文政己卯(きぼう/つちのとう)水無月廿日、病(やまひ)の餘(よ)に、流覽す。時に年七十一。 蜀山人

  東蒙は生平(せいへい)、筆を下(おろ)して、休むこと、能はず。是れ、其の稿本なり。

         蜀、又た、誌(しる)す。 ㊞

   *

「流覽一過」縦覧に同じい。全体にざっと目を通すこと。

「文化乙亥」文化十二年。一八一五年。

「孟秋」秋の初めの一ヶ月。初秋。陰暦七月。

「念七」「念」は「廿(じゅう)」(二十)の代字。二十七日。

「淸晨」早朝。

「杏花園叟」大田(蜀山人)南畝の号の一つ。

「文政己卯」文政二年。一八一九年。

「病(やまひ)の餘(よ)に」病気の徒然の間にの意味でとった。「病める餘」で「病中にある私が」の意にもとれるが、その場合、通常は「余」で「餘」とは記さないのが普通。所持する版本は「余」だが、これはその版本が新字採用だからで、底本は「餘」であるから、前者でとったものである。

「生平」平生(へいぜい)。日頃。普段。副詞的に用いている。

 これを以って「怪談老の杖」は終わっている。]

怪談老の杖卷之四 福井氏高名の話

 

   ○福井氏高名の話

 豐後の國に玉木といへる在所あり。

 福井翁、城主に仕へし頃、君命によりて、鳥を討(うち)に出ける。折ふし、雪みぞれ、ふりて、寒氣、いと堪がたき頃なり。暮方に、鐵砲、うちしまひ、名主の宅にて、夕飯などしたゝめ、立歸る。

 御城より、四里ばかりある處なり。

 處の農夫、二、三人、役(えき)にかられて、供をし、御城まで送りける。福井、いはれけるは、

「我を送りて、また、立歸らば、さぞ難義なるべし。歸りて休め。」

とて、暇(いとま)をやりければ、

「難有(ありがたし)。」

と、いく度も、禮、いひて、歸りぬ。

 段々、來りて、御城下近き所に、右の方は寺にて、卒塔婆垣、心よからぬものなり。

 空は、はれて、大きなる梢より、月、あかく、さし入(いり)、みぞれの上にきらめきて、おもしろきけしきなるに、獨りごちして、坂をのぼりゆく時、上の方より、

「おいおい」

と啼(なき)て來(きた)るもの、あり。

 近づくまゝに、これをきけば、女の聲なり。

 其頃、世に沙汰して、此邊に「うぶ女(め)」、出(いで)て、人をおどかすといふ事、專らなり。

 福井翁、おもはれけるは、

『姑獲鳥《うぶめ》といふもの、たやすく出(いづ)べき物にあらず。察するに、盜賊などの、それに託して、人をなやますものなめり。何にもせよ、からめ取りて、御城下の取沙汰を留(と)めん。』

と思案して、傍(かたは)に、人一人かくるべき程の崖のあるに、身をそばめて窺ひ居(を)られけるうち、なく聲、ちか付(づき)て、坂を下(くだ)り、此がけの前を過ぐるをみれば、わかき女の、赤裸にて、兩手にて、顏をおさへて、さも、物あはれになきて來(きた)るなり。

 やがて[やぶちゃん注:即座に。]おどり出て、腕をとりて、ねぢ伏せければ、

「ア。ゆるさせ給へ。」

とて、ふるふ事、限りなし。

「おのれ。何ものなれば、かく深夜に及(およん)で、かく、姿にて、徘徊はするぞ。妖怪にもせよ、何にもせよ、誠の正體を顯はすべし。」

と、いはれけるとき、彼女、答へて、

「全く、あやしきものに侍らず。わたくしは、御城内佐藤主稅(ちから)殿組(くみ)の、足輕なにがしと申ものの妻にて侍(さふら)ふが、此下(このした)なる、豐後しぼりを致して渡世する彌右衞門と申(まうす)者は、私の親にて侍るが、重く煩ひて候程に、看病のため、親共方(おやどもかた)へ參りて居侍(ゐさふら)ふが、明朝(みやうてう)用(もちふ)べき藥を用ひきりて候まゝ、醫師のもとへ藥をとりに參りて、只今、歸る道、上の山にて、大(おほき)なる男、出(いで)て、無二無三に着物をはぎ取り、からき命、助かりて歸るにて候。」

と、語りけるにぞ、

「扨は。不便なる事なり。扨、其盜人(ぬすびと)は何方(いづかた)へ行たるぞ。程久しき事にては無きか。何とぞ、取もどしやるべし。」

と云はれけるにぞ、女、悅ぶ事、斜(なのめ)ならず、

「右の方(かた)の山のうちへ入りて候。暫しの間(あひだ)の事にて、遠く行(ゆき)候はじ。」

と、いふ。

「先(まづ)寒かるらんに、是を着よ。」

とて、上なる衣(ころも)をぬぎて、彼(かの)女に着せ、かの崖の内へ入れ置(おき)て、

「我が歸るまで、何方ヘも行くべからず。」

と、いひ含めて、坂を左へ尋ね入(いり)ける。

 元來、此左の方は海岸に傍(そ)ひて、逃ぐべき道のなき所なれば、

『必定(ひつぢやう)、尋ね當(あた)るべし。』

と、事もなげに思ひて行に、月影に、ちらり、ちらりと、人かげの見ゆる樣なり。

『あやし。是こそ盜人なめり。』

と、つらつらと寄りければ、大の男なり。

「己(おのれ)は、今の程、往來の女を、はぎとりたるよ。其衣類を返すべし。」

と、聲をかけければ、

『叶はじ。』

と、おもひけん、帶にて、ゆはヘたる衣類を投げ出しけるを、それには目をかけず、引(ひき)ぬいて、打(うち)かけければ、肩先を切られて、とある、いはほの上へ、はひ上りけるを、なほ、追かけて拂ひける刀に、急所にや當りけん、

「うん。」

と、いふて、倒れけるを、うち捨て、衣類を携へ、もとの所へ來りて、女に着せければ、ものをもいはず、手を合せて伏し拜む。

 迚(とて)もの事に、

「その方が宿まで、送り遣すべし。」

とて、つれ行(ゆか)れける。

「爰にて候。」

と、いふて、門の戶を明(あく)るより、

「わつ。」

と、いふて、なきこみぬ。

 近所のものにてや、ありけん、五、六人、集りて、

「何故(なにゆゑ)、戾り、おそかりし。」

など、詮議最中の體(てい)也。

「是は、その方が娘か。」

と問ひけれぱ、

「いかにも。私の娘なり。どなたなるぞ。此方(こなた)へ御入(おはいり)なされよ。」

と云ひけるを、

「慥(たしか)に渡したるぞ。」

と立出られける。

 娘も、あまりにかなしきに、心や、せまりけん、具(つぶさ)にわけをもいはねば、

『たゞ下通(しもどほ)り[やぶちゃん注:帰り道。]、道づれの送りたる。』

と思へるにや、隨分、麁相(そさう)なるあいさつなりける。

 かく、往返の間に、八ツ[やぶちゃん注:午前二時。]の鐘なる頃、御門(ごもん)へ入られける。

 翌日、彼(かの)娘の親類どもより、

「夜前、ケ樣(かやう)々々。」

と訴へ出(いで)、

「慥に御城内の御諸士樣方と存候。取紛(とりまぎ)れ、御名も不ㇾ承(うけたまはらず)、不調法の段。」

言上(ごんじやう)しけるにより、

「八ツ時に門へ入りたる誰ならん。」

と、詮議ありてこそ、福井氏の手柄、かくれなく、殿にも御感淺からざりし、となり。

 かの盜人は、その手にて、死(しし)ければ、死骸、幷に、年頃盜み置きし雜物(ざうもつ)など、皆々、上(かみ)へあがりけり。

「その中に、家中の士、拜領の腰の物を盜まれて、訴へも出ずおきたりしが、その雜物の中にありて、不首尾、甚しかりける。」

と云へり。

 彼盜人は、もと家中の草履取(ざうりとり)なりしが、惡黨に陷りて、かく淺ましき體(てい)になりける。

「是より、此所(このところ)の妖怪の沙汰は、やみし。」

と、いへり。

 福井翁の直(ぢき)の話を聞(きき)て、爰(ここ)に記(しる)す。

[やぶちゃん注:このロケーションの同定が出来ない。豊後国で玉木という地名が藩内にあり、その藩は少なくとも一部が海に面している。しかも、本書は宝暦四(一七五四)年板行くであるから、江戸中期末から後期が時制となろう(今まで見てきた通り、直近の事件であることが多い)。とすれば、天領地と島原藩・延岡藩・肥後藩飛地は除去され(陣屋はあっても城はない)、海に接していない岡藩・森藩及・交代寄合領立石藩(城なし)は外れる。すると残りは、杵築藩・日出(ひじ)藩・府内藩・臼杵藩・佐伯(さいき)藩の五つである。さらに私はこう考える。この事件のロケーションは海に近いが、城は海の近くにあるわけではないのではないか? という推理である。これを適応すると、海のごく直近にある杵築城・日出城・臼杵城は外せる。残るのは府内城(大分城)・佐伯城となる。ところが、ここで窮する。何故なら、玉木という地名が現在の大分県内には見当たらないからである。零に戻して考え直す必要がありそうだ。

「うぶ女」「姑獲鳥《うぶめ》」登場した際には真正の哀れな妖怪姑獲鳥かと見紛うたが、実は本篇は疑似怪談である(しかし、私はこの一篇、好きだ。福田翁が如何にも古武士のようにカッコいいからである)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を参照されたいが、特異的な実録風に書かれた一つを挙げるならば、私は「宿直草卷五 第一 うぶめの事」をお薦めする。]

2021/03/10

怪談老の杖卷之四 [原本失題](銀出し油を呑む娘)

 

   ○[原本失題](銀出し油を呑む娘)

 本鄕二丁目八百屋お七と云ふ事、日本にいひ傳へてしらぬものなし。

 世の中に、戀によりて、身を亡(ほろぼ)したるもの、何萬人とも限るべからず。

 その中に、かく、いひさはがれて、姿・心ざまもなつかしき樣に、末の世まで云ひ傳へられしは、その人の幸(さいはひ)とやいはん、また、不幸とやいふべき。

[やぶちゃん注:本篇は見ての通り、原題が脱落している。題無しでは可哀そうなので「(銀出し油を呑む娘)」は私が仮に附しておいた。

「本鄕二丁目」現在の東京都文京区本郷二丁目と三丁目、ここの交差点(グーグル・マップ・データ)の北西と南東が相当する。「古地図with MapFan」で確認した。

「八百屋お七」詳しくは当該ウィキを読まれたいが、それによれば、『お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる』「天和笑委集」に『よるとお七の家は』本郷にあり、『天和二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)の「天和の大火」で焼け出され、お七は親とともに正仙院[やぶちゃん注:不詳。]に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介』『と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた』とある。因みに、お七の墓は文京区白山一丁目にある天台宗南縁山正徳院円乗寺にある。]

 此類(たぐひ)の事、世に多し。

 是も本鄕の二丁目に、八百屋にはあらぬ質がし・紙・油など賣る家あり、一人の娘をもてり。姿かたち、きよらかに、心ざまも、ゆうに、やさしかりければ、見る人、戀慕(こひした)はぬは、なかりけるが、その隣なる家の手代に、武兵衞とて、よきをとこ、ありけるが、かの娘に執心して、

「何とぞ、折(をり)もがな、心の底を。」

と、求めけれど、折ふしに顏見る計(ばかり)、咄しひとつ、いひよる手だてもなければ、

「何とぞ、彼(かの)家へ入(いり)こむ手だて。」

など、心がけて居(をり)けるに、娘のはゝ、よみ[やぶちゃん注:短歌詠或いは既存の名歌の詠唱か。]好きにて、正月十五日前は、下女・娘などあいてに、よみうちけるを、

「くつきやうの事。」[やぶちゃん注:「究竟」で「非常に好都合なこと・お誂え向きなこと」の意]

と、悅びて、どこともなく近寄(ちかより)、よみの相手に、一夜、二夜、行けれども、先には、少しも、その心なければ、もどかしき事、かぎりなし。

 漸(やうや)く傳(つ)てを求めて、文(ふみ)を送りけれど、手にも取らず、顏を赤め、

「となりの若いものが、ケ樣(かやう)々々。」

と、母へ告(つげ)ける程に、はや、よみの相手にもよばず、それよりは、外へも出(いだ)さねば、

「塀越しに聲をもきくか、ふしあなより貌(すがた)にても見ゆるか。」

と、馬鹿の樣(やう)になりて、

「裏の下水へながるゝ水は、となりの娘御(むすめご)の行水の末なるべし。」

と、指もてなめて見る程のたはけも、戀程、せつなきものは、なし。

 譯(わけ)をしりたる人、あまり不便におもひ、

「何とぞ、取(とり)もちやらん。」

と、いろいろ、娘をだましけれど、よくよく石部金吉(いしべきんきち)にて、後(のち)には惡口(あつかう)などしける程に、かの若い者も、

「口惜しや、人なみなみの身上(しんしやう)ならば、かく。はづかしき目は、見まじき。」

と、あけても暮(くれ)ても、なげきけるが、いつとなく、奉公も身にそまず、おとろへ行(ゆき)ぬ。

 しかるに、その近處(きんじよ)に、伽羅(きやら)の油賣る惣(さう)なにとかやいふ男、又、此娘にほれて、一さほ三十二文の油を廿八文にまけ、おしろいを、はづみ[やぶちゃん注:おまけにただでつけたのであろう。]、花の露[やぶちゃん注:飲めば長生きするとされた「菊の露」、菊の花に溜まった雫(しずく)のことか。]を遣ひものにして、心をくだきけるが、この伽羅の油[やぶちゃん注:「賣り」の略。]、口拍子(くちびやうし)よき[やぶちゃん注:喋る内容や調子が如何にもいい感じを与えることを言う。]男にて、

「娘の氣に入(いり)、晝夜(ちうや)、入びたり居(を)る。」

といふ事をいふものあり。

 定めて、世にはやかせて[やぶちゃん注:あることないことを流行らせて。]、慰(なぐさみ)にするといふ樣な、情(なさけ)しらずの破家《ばか》者あれば、その類(たぐひ)なるべきを、かの手代、きうくつ[やぶちゃん注:「窮屈」。歴史的仮名遣は「きゆうくつ」でよい。]なる心より、深く恨みにおもひける。

 いづ方ヘ行しや、ある夜、出(いで)てのち、行衞しれず、なりける。

 その年の末より、かの娘、ぎんだし油を好みて附(つけ)けるが、あまり、大そふ[やぶちゃん注:「大層(たいさう)」。]に、油、いりければ[やぶちゃん注:買い入れるので。]、兩親、ふしんし、せんぎしければ、髮には、わづかの事にて、皆、食物(くひもの)の樣にしてありけるを、深く、いましめけれど、病(やまひ)の業(わざ)なれば、やまず、夫(それ)より逆上して、貌(かほ)へふき出(いで)て、終(つひ)に十五のとし、むなしくなりぬ。

「死して後(のち)、髮の中より、おびたゞしく、むかでの樣(やう)なる蟲、わき出ける。」

とかや。

「人の恨(うらみ)なるべし。」

と、いひあへり。

 となりの手代と傍輩なりしもの、語りけるが、

「かの手代、出奔する前には、夜中などにおきて、物もいはず、『ぶるぶる』と、ふるひし事、度々なり。」

と、いへり。

 予、おもふに、これ、かの恨のむくひにはあらず、病の業なり。

[やぶちゃん注:この手代の症状は統合失調症や重い強迫神経症が疑わられる。]

 或は灰をなめ、土器を喰ふ類ひ、ことごとく、戀幕の執(しふ)によりて、といふ事、あるべからず。

 婦人と生れては、父母の命によりて夫を持つは「禮」なり。『人の恨、恐ろし』とて、たやすく順(したが)ふは「不義」の甚だしきものなり。若(もし)、不幸にして、人におもひかけられたる人あらば、よく人を以て、その道理をさとし、心をなだめて、合點さする時は、人、各(おのおの)、心あり。愛する人のいふ事は、あしき事さへ嬉しきものなれば、恨むる道理は、なき事なり。只、情なく、のゝしり、恥かしむるよりぞ、恨、甚し。是は、女の道とは、云ひがたし。此さかひをよく辨へて、生死存亡(しやうじそんばう)を心とせず、婦の道を守りて、貞一なる婦人こそ、あらまほしき業(わざ)なり。

[やぶちゃん注:「伽羅の油」鬢付油の一種で、胡麻油に生蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の「髭の久吉」が販売を始めたという(なお、本来の「伽羅」は香木の一種で、「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた)。

「ぎんだし油」「銀出し油」で頭髪用の油の一つで、常緑の蔓性木本であるマツブサ科サネカズラ(実葛)属サネカズラ Kadsura japonica:別名ビナンカズラ(美男葛)のつるの皮を水に浸し、粘りをつけたもの。当時は異名からも判る通り、普通は男性の鬢付け油に使用された。この娘の異常行動と死は、食用にはならないもの・消化出来ないもの(実は食べられるし、油自体は有毒ではないようである)を多量に口経摂取していることから、現代なら、重篤な異食症(pica:ラテン語で「カササギ」(スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica )の意。鵲は何でも口に入れる習性があることに由来する病名)とされるであろう。異食症は複数の原因が考えられ、一般女性でも妊娠時にこの症状が出る場合があるが、流石に、この娘が妊娠(この油売りが相手)していたというのは、叙述からは、ちょっと考えにくいように思われる(噂話にはそれが嗅がせてあるようにも読めるが)。他には、先天性の何らかの疾患、或いは、極端な偏食による後天的栄養障害・栄養不良(特に鉄欠乏性貧血・亜鉛欠乏症)、脳への酸素供給量不足による満腹中枢障害・体温調節障害に起因するもの、強い精神的ストレスを原因(ストレスによって、脳内の神経伝達の重要な一つである生理活性物質セロトニン(serotonin)が不足を生じ、感情・欲求が抑制出来なくなるのが一因ともされる)とするもの、精神疾患の合併症状の一つとも、また、脳腫瘍による異常行動の一症状、人体寄生虫の感染(特に鉤虫症。複数の病原虫がいる。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の「伏蟲」の私の注を参照されたい)による場合があると当該ウィキにあった。死に至ったことをことを考えると、以上の中では現実的なものとしては、脳腫瘍が最有力候補となろうか。後で筆者もまさに異食症を挙げ、それを現実的な疾患(外因・内因・心因の区別はつけていない)であると考えていることが明らかにされる。

2021/03/09

怪談老の杖卷之四 厩橋の百物語

 

   ○厩橋の百物語

 延享の始めの頃、厩橋(まやばし)の御城内にて、若き諸士、宿直(とのゐ)して有けるが、雨、いたうふりて、物凄(ものすご)き夜なれば、人々、一ツ處にこぞりよりて、例の怪談になりぬ。

[やぶちゃん注:「百物語」注する気も起らない。当該ウィキでもお読みあれ。

「延享」一七四四年から一七四八年(延享五年七月十二日(一七四八年八月五日)に寛延に改元)。徳川吉宗・家重の治世。延享二年九月二十五日に代替りするが、事実上は後半も大御所吉宗の治世であった。本書は序文が宝暦四(一七五四)年であるから、ごく直近である。

「厩橋(まやばし)の御城内」上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった前橋城は古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、関東七名城の一つに数えられた。前橋藩の藩庁。現在の群馬県庁本庁舎敷地(グーグル・マップ・データ)に本丸があった。なお、この当時は老中首座で第九代藩主酒井忠恭(ただずみ)の治世。]

 その中に、中原忠太夫[やぶちゃん注:不詳。]といふ人、坐中の先輩にて、至極、勇敢の人なりしが、

「世に化物はありと云ひ、無しといふ。此論、一定(いちぢやう)しがたし。今宵は、何となくもの凄(すさま)じきに、世にいふ處の百もの語りといふ事をして、妖怪出(いず)るや出(いで)ざるや、ためし見ん。」

と云ひ出しければ、何れも血氣の若(わか)とのばら、各(おのおの)いさみて、

「さらば始めん。」

とて、まづ、靑き紙を以て、あんどう[やぶちゃん注:「行燈(あんどん)」に同じい。]の口を覆ひ、傍(かたはら)に鏡一面を立(たて)て、五間[やぶちゃん注:約九メートル。]も奧の大書院に、なをし置き、燈心、定(さだま)りのごとく、百すぢ、入(いれ)て、

「一筋づゝ消し、鏡をとりて、我(わが)顏を見て、退(しりぞ)くべし。尤(もつとも)、その間(あひだ)の席々には燈(ともし)をおかず、闇(くら)がりなるべし。」

と、作法・進退、形(かた)のごとく約をなし、

「先づ、忠太夫より云ひ出したる事なれば、咄し出(いだ)さるべし。」

とて、ある事、なき事、短かきを專らに廻(まは)して、八ツの時計のなる頃[やぶちゃん注:丑の刻。午前二時。]、はや、八十二番の咄し、濟(すみ)けれども、何のあやしき事もなし。

 然るに、忠太夫、八十三番目の咄しにて、「ある山寺の小姓と僧と密通して、ふたりながら、鬼になりたり」など、あるべかゝり[やぶちゃん注:「あるべきかかり」の変化した語で、おざなり・紋切り型の意。]の咄にて、

「さらば、燈を消して來られよ。」

といふにつきて、詰所(つめしよ)をたち、靜(しづか)に唐紙をあけ、一間々々を過ぎ行しに、行燈(あんどん)のある座ヘ出(いづ)るとて、ふすまをあけて、ふりかへり、あとを見ければ、右の方の壁に、白きもの、見へたるを、立(たち)よりて見ければ、きぬのすその、手にさはるを、

『あやし。』

と、おもひて、よくよく見れば、女の死骸(しかばね)、首など、くゝりたるやうに、天井より下(さが)りて、あり。

 忠太夫、もとより、勇氣絕倫の人なれば、

『扨も。世にもなき事は云ひあへぬものなり。これや、妖怪といふ者なるべし。』[やぶちゃん注:「世に在り得ぬことは口に出ださぬが肝要である。これが、或いは『妖怪』なんどと呼ぶものなのであろうか?」。]

と、おもひて、さあらぬ體(てい)にて、次[やぶちゃん注:次の間。]へ行(ゆき)、燈を一すぢ消して、立歸るとき、見けるに、やはり、白く、みえたり。

 默して、坐につき、又、跡番の士、代りて行(ゆき)しが、いづれも、いづれも、此妖怪の沙汰を、いふもの、なし。

『扨は。人の目には見へぬにや。また、見へても、我(われ)がごとく、だまりて居(を)るやらん。』

いぶかしくて、

「咄しを、いそぎて、仕舞(しまひ)給へ。」

と、小短(こみじか)き咄し計りにて、百番の數(かず)、終り、はや、終らんとする時、その座中に、筧(かけひ)甚五左衞門[やぶちゃん注:不詳。]といふ人、さながら、色、靑く、心持あしげに見へしが、座につきていふ樣(やう)、

「何と、旁(かたがた)、咄も已におはるなり。何ぞ、あやしき事を見しものは、なきや。」

と、いふとき、皆人(みなひと)、

「そこには、見給ひたりや。」

といふ。

「成程。我らは先程より見たりしが、だまつて居(ゐ)たり。各(おのおの)は。」

と問ふ。

 忠太夫、

「我は八十三番目の時、見たり。」

といふ。

 それより、皆々、口をそろへて、

「女の首くゝりか。」

といふ。

「いかにも、はや、妖怪見へし上は、咄をやめて、一同に行(ゆき)て見るが、よろしからん。」と。

「尤(もつとも)。」

とて、皆々、行燈を下げて行て見れば、年比(としごろ)、十八、九の女、白むくを着て、白ちりめんのしごきを〆(しめ)、散(ちら)し髮にて、首を縊(くく)りて居(をり)たり。

 何にてくゝりしや、天井より下(さが)りしたれば、しかとは見へず。

「抱(いだ)きおろさん。」

と、いひけるを、

「まづ、無用なり。跡先(あとさき)のふすまをしめ、此ばけもの、いかに、仕舞(しまひ)を附(つけ)るぞ、見よ。」[やぶちゃん注:「いや、それはまず、無用なことじゃ。前後左右の襖を締め切って、この化け物が如何にして正体を現わしてけりをつけるか、これ、見届けるべし!」。]

とて、皆々、化物の脇に座を構へて見物する内、はや、東もしらみ、夜は、ほのぼのとあけけれども、化物、きえんともぜず、やはり始(はじめ)のごとし。

「是は。すまぬ物也。」

と、各(おのおの)驚きて、先づ、役人の内、奧がゝりの人をまねき、見せければ、島川(しまかは)殿といふ中老の女なり。[やぶちゃん注:「中老」武家の奥女中で、老女の次位に当たる職。若くても主君の覚えがめでたければ(以下がそれを匂わせている)、なれる。]

 殿の、をりふし、つかはるゝなど、取沙汰ある程の人なれば、段々、驚きて、

「是は。けしからぬ大變なり。」

と、いひけるが、皆々、打(うち)よりて、

「まづ、沙汰すべからず。此所(ここ)ヘ、女中の來(きた)る所に、あらず。決して、妖怪に違ひなし。廣く沙汰して、麁忽(そさう)の名をとりては、いかゞ。」[やぶちゃん注:語の使い方が不全であるが、かくい言っている本人が、内心、慌てふためいている感じを出していて、寧ろ、リアリティがあると言える。]

とて、奧家老下田某[やぶちゃん注:不詳。]、

「まづ、奧へ行(ゆき)て、島川どのに、逢はん。」

と、いひけるに、夕べより、不快のよしにて不ㇾ逢(あはず)。

「さては。あやしや。」

と、

「ちと、御目にかゝらねばならぬ急用事あり。」

と、せめけるにぞ、やむことを得ず、出(いで)て逢ひぬ。

 實(げ)にも、不快の體(てい)なれども、命に別條なければ、先づ、安堵して、兎角の用事にかこつけ、表へ出(いで)て、最前の場處へ行て見るに、かの首くゝり、段々と消えて、跡もなし。

 つきて居(をり)たる人々も、

「いつ、消(きえ)しとも、見へぬ。」

と、いふにぞ、

「扨は。妖怪に相違なし。但し、堅く沙汰するべからず。」

と、右[やぶちゃん注:「左右」の脱字か。]、口をかためて、別れぬ。

 そののち、此島川は、人を恨むる事ありて、自分の部屋にて首を縊り失(うせ)にき。

 此(これ)、前表(ぜんぴやう)[やぶちゃん注:悪しき予兆。]を示したるものなり。

 されば、人の云ひ傳ゆる事[やぶちゃん注:ママ。]、「妖氣の集(あつま)る處、怪をあらはしける」なるべし。

 彼(かの)忠太夫、後、藩中を出(いで)て、劍術の師をし居(をり)たりしが、語りけるなり。

 

怪談老の杖卷之四 藝術に至るの話 

怪談老の杖卷之四

 

    ○藝術に至るの話 

 上州烏川(からすがは)[やぶちゃん注:烏川は利根川右岸の支流(グーグル・マップ・データ)。上流は高崎を流れ、最上流は浅間山の東北の浅間隠山の北に当たる。]の邊に、□□□[やぶちゃん注:原本欠字とする。]といへる法師ありけり。

 本(もと)は大坂にて勝手よき町人なりしが、おかしき業(わざ)を好みて、終(つひ)に生產を破り、落魄無聊(らくはくぶりやう)の身となりぬ。

 まづ、鷄の玉子を投げあげて、箸を以て、挾みとる事を學びけるが、中々に玉子いくつといふ事もなく、破れける程に、家人、是を制して、

「無益なり。」

と諫めけれど、中々、承引せず、

「然らば、下に蒲團(ふとん)なりとも敷(しき)て、卵の破れぬ樣にして、習ひ給へ。」

と、いへば、答へていふ樣(やう)、

「たまごの破るゝにてこそ、『爰(ここ)にて、はさみ留(とめ)ん』とおもふ心、つよければ、自(おのづか)ら、手ごゝろに、味ひ、いできて、其道、成就こそするなれ、たまごをやぶらざらんまうけをせば、其道なるべからず。」

とて、人の嘲りをかへりみず、習ひける程に、年へて後は、十は十、百は百ながら、一ツもおとさず、はさみとりけり。

 かくして業は習ひけれども、產、漸く、是が爲に盡(つき)て、家を亡(なく)して、只、人の爲めに、たまごをはさみて、一座の興(きやう)を助け、それを家業の樣(やう)にて身を過(すぐし)たり。

 一年(ひととせ)、江戶へも來りけるが、傳馬町の桑名屋彌兵衞といふ者のがり[やぶちゃん注:「の方へ」。]、尋ね行て、主(あるじ)に逢ひて、いひけるは、

「此家に祕藏せらるゝ南京の皿、拾枚、有ㇾ之よし聞(きき)及びたり。願はくは、見たき。」と望みければ、彌兵衞、

「やすき事なり。」

迚、出(いだ)して見せけり。

 彼(かの)法師、皿を手に持(もち)て居(ゐ)けるが、

「某(それがし)に一ツのいやしき技藝あり。必(かならず)、驚き給ふな。」

と、いふを、あいづに、彼皿を向ひの床の上へ投げやりけるに、音もせず、手にて直(なほ)すよりも、靜(しづか)に居(ゐす)はりける。

 又、一ツを、投やりければ、ならびて、たがはず、其次へ直りぬ。

 十枚の皿、一ツも、あやまちなく居(ゐ)ならびたるに、あたかも、寸尺をはかりて、ならびたてたるがごとく、其間(ま)の長短、毫(がう)も、たがふ事なし。

 見る人、賞歎して、其妙に伏せずといふ事なし。

 此人、玉子をはさみ習ひてのちは、何にても、物のめあて・かね合(あひ)の事に、ならぬといふ事はなかりけり。

 常にきせるなど、いろいろ、手まさぐりにして、遊びなどしけるが、あるとき、傍に豆のありけるを、吸口の方へのせ、爪にてはじきやりければ、らう竹(ちく)のうヘを傳ひて、雁首(がんくび)にて、とまりけり。[やぶちゃん注:「らう竹」は「羅宇竹」で煙管(きせる)の火皿と吸い口とを繋ぐ竹の管を言う。「らう」は地名のラオスで、「羅宇」は当て字。ラオス産の竹を使ったことからという。]

 又、はじきやりて、豆、四粒を、皆、とめたり。

 末の豆、ひとつは、はぢく拍子に、さきなる豆にあたりて、飛びけるが、あやまたず、雁首の中へ入りける。其妙術、誠に神妙ふしぎ也。

 されば、物をふかくおもひ入れて、不ㇾ怠、習ひぬれば、妙處に至ること、皆々、此道理なり。芥子之助が豆と德利、みなみな、人の見る處なり。是、怪談にはあらねど、奇妙の話なれば、此にしるす。

 此法師、明和元年[やぶちゃん注:宝暦十四年六月二日(一七六四年六月三十日)改元。]、上州にて終れり。

 是も怪異の事にはあらぬが、珍らしき物語のあるなり。

 四ツ谷鹽町(しほちやう)といふ所に、近江屋新右衞門といふ人、有。[やぶちゃん注:「四ツ谷鹽町」現在の新宿区本塩町及び四谷三・四丁目相当(グーグル・マップ・データ)。町名は塩問屋の町であると同時に、当時の輸送機関である牛車の牛に塩を供給するための町でもあった(よくお世話になるサイト「江戸町巡り」のこちらを参照した)。]

 此小者に、名は何とかやいへる、十六、七の奴(やつこ)あり。

 此者の親は、彌兵衞とて、至極の不埓(ふらち)ものにて、酒を好み、夫(それ)ゆへ、身上(しんしやう)も潰(つぶ)して、中間奉公をして居(をり)けるが、男子、二、三人ありけるを、皆々、奉公させ、常に、子供の方(かた)を廻(まは)りては、わづかの給金の内を、せぶり[やぶちゃん注:「せびる」に同じい。]取りける程に、子供も、是を難儀して、

「此程(このほど)かしたる金は、主人に、割なく願ひ、かしたり。かへしたまへ。」

とて催促するをいとひて、[やぶちゃん注:ここからは「十六、七の奴」の「小者」が主語。]我が勤むる屋敷の名もいはず、元より一ツ家(いへ)に重年(ぢゆうねん)する事なく[やぶちゃん注:一年年季を次の年も継続して勤めることをしないこと。]、けふは、番丁に居れば、はや、牛込と、世上の臺所をかぞへて廻りける、しれものなりけり。

 爰に、天龍寺門前に八左衞門といへる、奉公人の肝煎(きもいり)を渡世とする男、あるとき、千駄ケ谷の何がしと云ふ、同じ仲間の家へ用事ありて行けるが、傍に、いと、やみほうけたる病人あり。八左衞門、つくづくと見ければ、我(われ)のしりたる者なれぱ、亭主にいふ樣は、

「是は彌兵衞にては無きか。」

といふ。

「いかにも。彌兵衞也。此者、此間より傷寒を煩ひて、ケ樣(かやう)にくるしみ居(を)れど、いづ方に、身寄(みより)の者有ㇾ之や、しらねば、我等、迷惑、言語同斷なり。わぬし、近付(ちかづき)ならば、身寄の者の有無は知りたらん。」

と問ひければ、八左衞門、

「此者には、れつきとしたる、をとこの子、二、三人もあり。其方(そのかた)へ渡してやられよ。」

といふ程に、亭主、よろこびて、子供の名・勤むる主人など聞きて、早速、新右衞門方へ人を遣はし、

「彌兵衞と申者、大病にて、存命、はかり難し。此子共、そこ元に相勤る由、相談致し度(たく)、尋來り候樣に。」

と云ひ遣しける。

 むすこは、是をきゝて、久しく逢はざる事なれば、驚きて、

『一兩日中に隙を貰ひ、見舞に行かん。』

と思ひけるうち、翌日、彌兵衞、死したり。

「只、今。」

と告來(つげきた)るに、主人も、ともに、驚き、先(まづ)、早速、千駄が谷へ行て、死人をみれば、やみほうけて、姿はかはりたれども、親に相違なし。

「扨も。かく早く死(しに)給ふをしらば、仕方もあるべきを、身持あしき人故、常にうらめしきとおもふばかりにて、逢ふたびに、しかりつけおく計(ばかり)にて、一日の孝行もせざりし事よ。」

と、口(く)どき、口どき、なげきけれども、甲斐なし。

 府中領[やぶちゃん注:武蔵国多磨郡府中(現在の東京都府中市内)にあった幕府領。]に惣領の子ありけるを、呼(よび)よせて、死骸をも、在所の旦那寺へ遣はし、形(かた)の如くのいとなみをして、跡を弔ひ、千駄谷の亭主へも、寸志の禮などおくりて、

「『親はなき、寄(より)』といへる世のことわざに違(たが)はず。なくてぞ、人は戀しかりけり。」[やぶちゃん注:「親はなき寄」「親は泣き寄り、他人は食い寄り」から)、「親子や親族など血縁の者は、何事につけても、真心から相談にのって呉れるということ。「親戚の泣き寄り」などとも言った。]

と、不孝にて過(すぎ)し事を、くやみ居(をり)ける。

 然るに、此新右衞門家に、十二、三の小ものあり。主人の使(つかひ)に市ヶ谷邊へ行きて、道くさをくひ、遊び居(をり)ける所へ、かの彌兵衞、此世にありし時の姿にて來り、後(うしろ)より、手を出して、目をふたぎけり。

「誰じや、誰じや。」

と云ひけれど、だまりて、ふたぎ居けるを、引放(ひきはな)し、顏を見ければ、彌兵衞也。「やれ、彌兵衞どのゝゆうれいが出たは。助け給へ。」

と、よばゝりて、色、眞靑になりて、逃けるが、うちに歸りて、

「やれ、恐ろしや、彌兵衞殿の幽靈につかまれまして。」

と、尾ひれをつけて、はなしけるを、

「何をかな、みて。」[やぶちゃん注:「どうせ、誰かを、見間違えたんじゃろ。」の意か。]

とて、とりあげざりしに、二、三日過(すぎ)て、今度は、近江屋へ來りぬ。

「それ、幽靈よ。」

と云程こそあれ、みせのもの共、皆、逃(にげ)て、内へ、はいる。

 彌兵衞は、心得ぬ顏色にて、上へあがり、此中(このうち)、これの小者に逢ひて、なぶりたれば、

「ゆうれいよ。」

とて、逃たりしが、

『氣違(きちがひ)の下地ならん。』[やぶちゃん注:「生まれつきの気狂い持ちなんじゃろう。」の意か。]

と案じ居りければ、

「けふは、皆々、ゆうれいといはるゝこそ、わけあるべし。」

と、いふ。

 その内、彌兵衞が子も歸りて、肝をつぶし、

「いかゞして來り給ふ。」

と云(いふ)に、彌兵衞、いよいよ、合點せず、

「われ、煩ひし事なく、そく才[やぶちゃん注:「息災」に同じい。]なり。千駄谷にて、はうぶりしは、人違(ひとちがひ)ならん。」

といふになりて、

「それ。」

と、いひ出して、俄に千駄谷の亭主・在所の兄へも、人、遣はし、よび集めて、詮議す。

 千駄谷にては、天龍寺前の八左衞門が口にて、人をやりて、その方(かた)たちへ知らせたり。

「元は、誰が親とも、誰が子ともしらぬ風來者なり。」

と、いふにぞ、いよいよ、人違ひにきはまりけれど、とかく、いひつのりて、すまず。

 終に、公裁(こうさい)に及びけるが、栗原何某殿[やぶちゃん注:不詳。]、町奉行の時の事なり。

 世忰共(よせがれども)[やぶちゃん注:弥兵衛の子供ども。]は干駄ケ谷を訴へ、千駄ケ谷は八左衞門を訴ふ。

 八左衞門、申けるは、

「わたくし千駄谷へ參り、病人を見候へば、彌兵衞によく似たれば、彌兵衞と申(まうし)、いかにも『彌兵衞』と申(まうす)に付(つき)、身よりの者の詮議になりて、子供の方(かた)を告知(つげし)らせ申(まうし)たる所、人違・不調法の段、恐れ入り奉りぬ。しかし、似たと申せば、是れほど、似たる者もなき事にて候。」

と、申ければ、町奉行、笑はせ給ひて、

「夫(それ)は、その方が見違(みちがひ)候段、相違あるまじ。そこに居る兄(あに)いどのが、似たればこそ、親とおもひて葬りたれ。いづ方のものといふ事はしれねど、因緣ありて弔ひ遣はしたるものとあきらむべし。たて。」

と宣(のたま)ふ。

 葬(はふり)の入用(いりよう)など、不身上(ふしんじやう)のもの[やぶちゃん注:経済的に困っている者。]、迷惑に及ぶ段、願ひければ、大(おほき)に呵(しか)り給ひて、

「其方共、現在の親を粗末に致せし段、申付(まうしつく)る筋(すぢ)あれども、寬大の御沙汰にて、さしゆるす處に、惡(に)くき奴(やつばら)なり。」[やぶちゃん注:対象が複数と思われるので「ばら」をつけた。]

と、呵られて、恐れ入りて、さがりけると、いへり。

 前代未聞、珍らしき物語なり。

[やぶちゃん注:標題は「藝、術(じゆつ)に至る」であるが、後者の話柄とは関係しないのが、まず、不満。内容も、前者はあってもちっともおかしくない奇談で怪談ではないし、後者は確信犯の疑似怪談で、明らかに落とし咄として作られてあって、息抜きのつもりかも知れぬが、リアリズムはあるものの、僅かな期待をも足元から掬われて読者も一緒に奉行から笑われた感じがして、私としては、何だか面白くも糞くもない。孝を諭すものとしても、親が親らしい存在でなく、子も最後のお裁きで豹変してしまい、全く機能していないから出来が悪いと言わざるを得ず、「名裁き」物としてなら、寧ろ、陳腐で、私は全く買わない。]

怪談老の杖卷之三 狸寶劍をあたふ / 怪談老の杖卷之三~了

 

   ○狸寶劍をあたふ

 豐後の國の家中に、名字は忘れたり、賴母といふ人あり、武勇のほまれありて、名高き人なり。

 その城下に化ものやしきあり、十四、五年もあきやしきにてありしを、

「拜領して住居仕度(すまゐしたき)。」

段、領主へ願はれければ、早速、給はりけり。

 後に山をおひ、南の方、ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理(しゆり)おもふ儘に調ひて、引うつりけるが、まづその身ばかり引(ひき)こして、樣子を伺がひける。

 勝手に、大いろり、切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家來にも、くはせ、我も喰ひ居たり。

 未だ、建具などは、なかりければ、座敷も取はらひて、一目に見渡さるゝ樣なりしに、雨戶をあけて、背の高さ、八尺ばかりなる法師、出來れり。

 賴母は、少もさわがず、

『いかゞするぞ。』

と、おもひ、主從、聲もせず、さあらぬ體(てい)にて見て居ければ、いろりへ來りて、

「むず」

と座しけり。

 賴母は、

『いかなるものゝ、人にばけて來りしや。』

とおもひければ、

「ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。]は、いづ方の物なるや。此やしきは、我れ、此度(このたび)拜領して、うつり住むなり。さだめて其方は此地にすむものなるべし。領主の命なれば、はや、某(それがし)が家舗に相違なし。其方さへ、申分(まうしぶん)なくば、我等に於てはかまひなし。徒然(つれづれ)なる時は、いつにても、來りて話せ。相手になりてやらん。」

と云ひければ、かの法師、おもひの外に居なほりて、手をつき、

「奉畏(かしこみたてまつり)し。」

と、いひて、大に敬(うやま)ふ體(てい)なり。

 賴母は、

『さもあらん。』

と、おもひて、

「近々、女房どもをも、引つれてうつるなり。かならず、さまたげをなすべからず。」

と、いひければ、

「少しも不調法は致し申まじ。なにとぞ、御憐愍(ごれんびん)にあづかり、生涯を、おくり申度(まうしたし)。」

と、いひければ、

「心得たり。氣遣ひなせそ。」

といふに、いかにも、うれしげなる體(てい)なり。

「每晚、はなしに來(きた)れよ。」

と、いひければ、

「難ㇾ有存候。」

とて、その夜は歸りにけり。

 あけの日、人の尋ねければ、

「何もかはりたる事なし。」

と答へ、家來へも、口留したりける。

「もはや氣遣なし。」

とて、妻子をもむかへける。

 かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛(かう)なりけり。

 あすの夜も、また、來りて、いろいろ、ふる事など、語りきかせけるに、古戰場の物語などは、誠にその時に臨みて、まのあたり、見聞するが如く、後は座頭などの、夜伽するが如く、來らぬ夜は、よびにもやらまほしき程なり[やぶちゃん注:「程なり」は底本では「樣なり」であるが、所持する版本の表記のこちらの方が文意には相応しいので、そちらを採った。]。

 然れども、いづ方より來(きた)るとも、問はず、語らず、すましける、あるじの心こそ不敵なりける。

 のちには、夏冬の衣類は、みな、妻女かたより、おくりけり。

 かくして、三とせばかりも過ぎけるが、ある夜、いつよりはうちしめりて、折ふし、なみだぐみけるけしきなりければ、賴母、あやしみて、

「御坊は、何ゆへ、今宵は物おもはしげなるや。」

と問はれければ、

「ふと、まいり奉しより、是まで、御慈悲をくはへ下(くださ)れつるありがたさ、中々、言葉には、つき申さず。しかるに、わたくし事、はや、命數つきて、一兩日の内には、命、終り申なり。夫につき、わたくし子孫、おほく、此山のうちにをり候が、私(わたくし)死後も、相かはらず、御(ご)れんみんを願ひ奉るなり。誠に、かく、あやしき姿にも、おぢさせ給はで、御ふたりともに、めぐみおはします御こゝろこそ、報じても、報じがたく、恐ながら、御なごりをしくこそ存候。」

とて、なきけり。

 夫婦も、なみだにくれてありけるが、彼(かの)法師、立(たち)あがりて、

「子ども、御目見えいたさせ度(た)しと、庭へ、よびよせおき申候。」

とて、障子を開きければ、月影に數十疋のたぬきども、あつまり、首をうなだれて敬ふ體也。

 かの法師、

「かれらが事、ひとへに賴みあぐる。」

と、いひければ、賴母、高聲(かうせい)に、

「きづかひするな。我等、めをかけてやらん。」

と云ひければ、うれしげにて、皆々、山の方へ行ぬ。

 法師も歸らんとしけるが、

「一大事を忘れたり。わたくし、持傳へし刀あり。何とぞ、さし上げ申たし。」

と、いひて、歸りけり。

 一兩日過(すぎ)て、賴母、上の山へ行(ゆき)てみければ、いくとせ、ふりしともしらぬたぬきの、毛などは、みな、ぬけたるが、死(しし)いたり。

 傍(かたはら)に、竹の皮にてつゝみたる長きものあり。

 是、則(すなはち)、「おくらん」と云へる刀なり。

 ぬき見るに、その光(ひかり)、爛々として、新(あらた)に砥(とぎ)より出(いだした)るがごとし。

 誠に無類の寶劍なり。

 依ㇾ之、賴母、つぶさに、その趣きを書(かき)つけて、領主へ獻上せられければ、殊に以(もつて)御感(ぎよかん)ありけり。

 今、その刀は中川家の重寶となれり。

[やぶちゃん注:「中川家」江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった岡藩(藩庁は岡城(現在の大分県竹田竹田。グーグル・マップ・データ)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で播磨国三木城主であった中川秀成が、文禄三(一五九四)年に岡城に入封し、彼は「関ヶ原の戦い」で東軍に属したため、徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく、廃藩置県まで中川氏が藩主として存続した。本書では、有意に古い時代の設定をしたものがないから、この頼母なる人物も岡藩藩士と読んで、特段、問題はあるまい。]

2021/03/08

怪談老の杖卷之三 狐のよめ入

 

   ○狐のよめ入

 上州のたばこ商人(あきんど)に、高田彥右衞門と云ふ者あり。神田村[やぶちゃん注:群馬県藤岡市神田じんだ:グーグル・マップ・データ)か。]といふ處に住みけり。

 或時、同村の商人仲間とつれ立て、□□□[やぶちゃん注:底本では枠囲みで『原文脫字』とある。所持する版本も、ほぼ三字分である。]村と云ふ所へ行(ゆき)、日くれて歸るとて、はるかむかふに、三百張(ぱり)ばかり、提燈の來る體(てい)なり。

 三人ながら、

『あやしき事かな。海道にてもなければ、大名衆の通り給ふべき樣もなし、樣(やう)あらん。』[やぶちゃん注:「樣あらん」は、「具体には判らぬけれど、何か特別な訳があるのだろう」の意。]

と、おもひて、高き處へあがりて、見て居(をり)ければ、通りより少し下に、田のありける中を、かの、てうちん、とをりけるが[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かちのもの[やぶちゃん注:「徒(かち)の者」。徒侍(かちざむらい)。徒歩で供奉する武士、或いは、行列の先導を務める侍。]・駕わき[やぶちゃん注:駕籠の脇に付く番士。]・中間(ちゆうげん)・おさへ[やぶちゃん注:行列の最後にあって、前の散乱を指摘して整える者。殿(しんがり)。]、六しやく[やぶちゃん注:「六尺」前後で駕籠を担ぐ役を言う。「怪談登志男 廿七、麤工醫冨貴」の私の注を参照。]、なに一(ひとつ)でもかけたる事、なし。

 てうちんには、紋所なく、明りも、常のてうちんとは、かはりて、たゞあかくみゆるばかりなり。

 田の中を、ま一文字に、とをりて、むかふの林の中へ入(いり)ぬ。

「扨こそ。『狐のよめ入(いり)』といふもの、なるべし。」

と、いひあへり。此村の近處には、「きつねのよめ入」といふ事、度々、見たる人あり、といへり。

[やぶちゃん注:ちょっと、ぞくっとした。私の父は若き日、敗戦の後、考古学者酒詰仲男先生とともに群馬県多野郡神流(かんな)町の神流川(グーグル・マップ・データ)上流で縄文・弥生の遺跡発掘をしたが、その時、泊まった農家の向かいの山に幾つもの灯が列を成して登ってゆくの見、主人に尋ねると、「狐の嫁入りじゃ」とこともなげに答えたというのだ。この「神田村」は――その神流川の下流に――ある――のである!

怪談老の杖卷之三 慢心怪を生ず

 

   ○慢心怪を生ず

 藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり。

 力つよく、武藝に達し、容貌も魁偉なる士なり。

 常に、自ら、材にほこりて、

『世にこはきものは、なき。』

と、思へる慢心ありしに、江戶屋敷にて、座敷に、ひとり、書物など讀(よみ)て居(ゐ)ければ、なげしの上に、女の首計(ばかり)ありて、

「からから」

と笑ひ居(ゐ)けり。

 作兵衞、不敵の人なれば、白眼(にらみ)つけて、

「何の妖怪ぞ。」

と、

「はた」

と、ねめければ、きへうせけり。

 とかくして、厠(かはや)へ行たくなりければ、ともしびを持行けるに、雪隱(せつちん)の窓より、外に、今の女の首ありて、

「けらけら」

と、笑ひけり。

 その時は、少し、こはき心おこりしかど、目をふさぎて、靜(しづか)に用事を達し、立出(たちいで)て手を洗ひ、座敷になをり[やぶちゃん注:ママ。]しは、覺えけれども、昏沈(こんぢん)して、其後(そののち)の事を、覺えず。

 傍(そば)につかふ者共、見付て、いろいろ、介抱して、正氣づきぬ。

 夫より、慢氣する心をば、持(もた)ざりけり。

「そののちは、なにも、あやしき事はなかりし。」

と、いへり。

 作兵衞、直(ぢき)の物語りなり。

[やぶちゃん注:短篇ながら、実話怪談としての殆んどの必要条件の実証要素を含んだ優れものである。実在する藤堂家で、しかも藤堂を名乗る主家筋に家臣の、直接の聴き取りである。彼のいる屋敷(次注参照)が孰れかがしっかりと示されていれば、完璧だった。

「藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり」「藤堂家」と言えば、伊勢安濃(あの)郡安濃津(あのつ:現在の三重県津市)にあった津(つ)藩の当主が有名。​そうして、ズバリ、その重臣の家系に藤堂作兵衛家があるのである。初代藩主藤堂高虎(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)の母方の従兄弟(高虎の叔母が忠光の父箕浦忠秀の妻)であった藤堂作兵衛忠光を初代とする。サイト「藤堂高虎 ​藤堂高虎とその家臣」のこちらによれば、『箕浦氏は、近江国箕浦庄に拠った国人で、高虎の出身地とは近いため』、『縁戚関係を結んだものと思われます』。『忠光は当初、織田信忠や寺西筑後守に仕えましたが、高虎が紀伊国粉河城主となったときにその家臣となります。以後、忠光は朝鮮役や関が原戦で戦功を挙げ、高虎から侍組を預けられて士大将となります。大坂の陣にも高虎の信頼する重臣として出陣の命を受け取りますが、惜しい哉、病に倒れ、慶長十九年十月死去しました』。『忠光には兄と弟がいました。兄の箕浦大内蔵忠重は早くから明智光秀に仕え、本能寺の変に際しては寺内に突入して勇戦しますが、明智家の滅亡により流浪。後に豊臣秀長、秀保に仕え、大和中納言家断絶後は浅野長政に仕えています。末弟の箕浦少内家次は忠光と同じく高虎に仕えました』。『忠光の死去後、嫡子・忠久が家督を継ぎ、大坂冬の陣に叔父・家次の補佐を受けて父の侍組を率いて従軍、翌年は新七郎良勝の相備として出陣しています。但し忠久は病弱であった模様で士大将の職を自ら辞しています。高虎は信頼する忠光の長男でもあり、何処にでも療養に行く』よう、『懇ろの扱いとしましたが、寛永六年』、『若くして病死しました』。『忠久の嫡子・忠季は未だ幼少で勤務には早かったため禄高は半減し五百石とされましたが、高虎はこの幼い後継者が心配だった様で、自らの娘と婚約させています』とあり、下方の系図では、第四代藤堂作兵衛光狎(読み不詳)まで記されてある。この直系と見て間違いあるまい。なお、私などは「藤堂家」というと、直ちに津藩重臣藤堂修理家(初代藤堂長則)を思い出す。長則は上野城内の二の丸に屋敷を与えられて藩主家に仕えたが、この藤堂修理家こそが松尾芭蕉の実家(少なくとも芭蕉出生当時は大分以前から農民であった)が仕えた主家であったからである。なお、津藩上屋敷は東京都千代田区神田和泉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。地図上の「神田和泉町」のほぼ西三分の二近くがそこであった。下屋敷ならば現在の駒込四~五丁目でかなり広大であった(北西では現在の染井霊園を殆んど呑み込んでいる。ロケーションとして後者の方がいいな。私は特異的にこの附近に詳しいのである。私の古いフェイク小説「こゝろ佚文」の写真は染井霊園である。因みに、その奥の東京都豊島区巣鴨五丁目に慈眼寺という寺があろう。芥川龍之介の墓がある(サイド・パネルの写真)。私はこの座布団一枚分の大きさ(龍之介が生前に盟友で画家の小穴隆一に託したもので、小穴がデザインした)の墓を、私は大学を卒業した直後に、お参りし、墓もごしごしと洗ったのだった。

「昏沈」(こんじん)は実は仏教用語でサンスクリット語に由来する仏教で説く煩悩の一つを指し、「心の沈鬱」・「心が上手く機能していないこと」・「心身が物憂いこと」・「塞ぎ込むこと」で、心を沈鬱で不活発な状態にさせる心理作用やそうした状態を指す。ここは、しかし、記憶を失って失神しているのだから、昏倒の意でよい。]

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