ブログ1,990,000アクセス突破記念 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」始動 /扉・「はしがき」・凡例・「会津の老猿」・「青池の竜」・「青木明神奇話」・「青山妖婆」・「赤鼠」・「秋葉の魔火」・「明屋敷神々楽」・「明屋敷の怪」・「明屋の狸」・「悪気人を追う」・「悪路神の火」・「麻布の異石」・「足長」・「小豆洗」・「小豆はかり」・「油揚取の狐」・「油盗みの火」・「雨面」・「海士の炷さし」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物で、近世の随筆書の中から、見るべき記事を抄出して、主題別に辞典型の体裁を以って配列したもので、「衣食住編」(柴田宵曲編)・「雑芸娯楽編」(朝倉治彦編)・「風土民俗編」(鈴木棠三編)・本「奇談異聞編」・「解題編」(森銑三編)の全五巻が同社から刊行されてある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。但し、総て、本登録をしないと見られない)。
作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。漢字は新字である(ただ、時に正字を使用している箇所もある)。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
この手の怪奇談を抄録して注や解説を挿入した書は、現在も何冊も刊行されており、私も、五、六冊許り所持するが、この柴田の著作は群を抜いて優れている。現在、流通しているものは、多数の著者・編者によるものが殆んどで、全体のコンセプトが欠いた人間によってディグの深浅にばらつきが多く、中には、凡そ、その本の抄説をする資格が疑わられるような、いい加減なものも多い(私ならもっと魅力的に書けると思うものが半分以上を占める。怪奇談の裾野が浅過ぎるライターが多過ぎ)。それに対し、本書は柴田自身が、一人で作り上げており、余分な解説を極く短く、ストイックに注している点で、画期的なものである。
踊り字「〱」「〲」は、生理的に受けつけないので、正字化した。但し、読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。但し、各項の読み等で、拗音・促音となっていない(ごく最近まで出版物のルビは読み拗音・促音はそうなっていないのが常識だった。活版印刷の無言の御約束によるもので、写植印刷になって、やっと概ね正しく印字されるようになった。半数近くの人はそれに気づいていなかった。かってに読み替えていたに過ぎない。嘘だと思うなら、十五年以上前のお持ちの本を見て御覧なさい。加工データとした筑摩書房『ちくま文芸文庫』版もそうなってまっせ)ものは、特異的に正しく修正した。また、柴田は( )で原本の割注を入れ、それをややポイント落ちにしているが、これは読み難くなるだけなので、本文と同ポイントとした。
また、以上のような柴田の編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、一回一項或いは数項程度としたい。但し、今回は初回なので、特別に十九項目を纏めて電子化注した。なお、私は既にブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で、「妖異博物館」・「續妖異博物館」・「俳諧博物誌」・「子規居士」(「評伝 正岡子規」原題)・「俳諧随筆 蕉門の人々」の全電子化等を古くに終わっている。特に「妖異博物館」・「續妖異博物館」の二書は、本「随筆辞典 奇談異聞篇」に対し、「ちょっと何か言って欲しいなぁ」と感ずる向きには、それを満足させてくれる恰好のものとなっているので、未読の方は、是非、お薦めである。
なお、扉の後に、以上のシリーズの編者四名の連名に成る「刊行のことば」が掲げられてあるが、必要を認めないので、省略した。
また、ページの上の罫線の端にページ内の当該項標題の頭のひらがなを(但し、項の選び方や表示文字数がまるで共通していない)、たとえば、ここの場合、「あすき」・「あまお」とあるが、流石にこれは、意味ないので電子化しない。
なお、本記事は、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,990,000アクセスを突破した記念として始動公開する。なお、本書を電子化する関係上、ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」の更新はこれが終わるまで、暫く冬眠に入る。悪しからず。【二〇二三年八月十日 藪野直史】]
随 筆 辞 典
④ 奇談・異聞編
柴 田 宵 曲 編
東 京 堂
[やぶちゃん注:以上は扉。「東京堂」は囲みがある。
以下、柴田宵曲の「はしがき」。]
は し が き
束寺の門に雨宿りをした日野資朝が、その辺にいる不具者を見て、いずれも一癖あって面白いと思ったが、暫く見ているうちに厭わしくなり、やはり平常なものの方がよろしいと感ずるに至った。資朝は多年桂木を好み、枝ぶりなどの異様に曲析あるものを珍重していたが、これは畢竟不具者を愛するに外ならぬと、帰来鉢桂の木を悉く掘り棄ててしまった、という話がある。奇なるものが一応目をよろこばし、久しきに及んで厭わしくなるのは、奇である以上、何者にも免れぬところであろうか、あるいは皮相の奇にとゞまって、真の奇でない為であろうか。
[やぶちゃん注:「日野資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)は鎌倉末期の公卿・儒学者・茶人。当該ウィキによれば、『中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った』。正和三(一三一四)年、『従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保』二(一三一八)年の『後醍醐天皇即位後も院司として引き続き』、『花園院に仕えていたが』、元亨元(一三二一)年、『後宇多院に代わり』、『親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという』。『花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている』。元亨四年九月十九日(一三二四年十月七日)、『鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが』、『無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)』。元弘元(一三三一)年、『天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した』「元弘の乱」が『起こると、翌』年、『に佐渡で処刑された』とある。以上の話は、「徒然草」の第百五十四段に載る逸話である。
*
この人[やぶちゃん注:この前の二段が資朝関連の記事となっている。]、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に[やぶちゃん注:「であって」の意。]、異樣(ことやう)なるを見て、『とりどりに、たぐひなき曲者(くせもの)なり。もつとも愛するに足れり。』と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがて、その興(きやう)、つきて、見にくく、いぶせく覺えければ、『ただ、すなほに珍しからぬ物には、しかず。』と思ひて、歸りて後(のち)、「この間(あひだ)、植木を好みて、異樣に曲折(きよくせつ)あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かの、かたはを、愛するなりけり。」と、興なく覺えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆、掘り捨てられにけり。さもありぬべき事なり。
*]
奇談の奇ということも、人により書物によって固より一様ではない。余りに奇に偏し径に傾けば、久しきに及んで、厭にならぬまでも、単調に陥る虞れがないとも云えない。色彩や香気の類にしろ、刺激の強い中に暫くおれば、無感覚に近くなるようなものである。
江戸時代には奇談と銘打った書物がいくらも出ており、奇談小説と呼ばれる一群の作品もある。随筆の筆者も亦頻りに奇談を録するに力めた。奇趣を欠いた随筆なるものは、他に多くの利用価値があっても、読む場合には索莫を免れぬ。
本書は主として随筆中の奇談を収めると共に、巷談街説に属する異聞の類をも蒐録した。これは書物の単調化を避けたばかりではない。随筆として闘くべからざる材料だからである。但あまりに話数の多い奇談集――例えば「新著聞集」のような書物は、はじめからこれを採らなかった。これらは仮令「日本随筆大成」に収録されていても、自ら別扱いにすべきものと信ずる。
[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちょもんじゅう)は、寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。]
本書は随筆による奇談異聞集で、話材の範囲が限られているのみならず、辞典の名にそぐわないという人があるかも知れぬ。俳しこの種の奇談異聞は、随筆中の最も有力なる談柄である。その談柄の豊富なもの、狐狸の如き、天狗の如き、河童の如き、亡霊幽魂の如きは、類聚排列することによって、いさゝか研究の領域に近づくことが出来るであろう。「随筆辞典」の奇談異聞編である本書が、奇談異聞集の随筆編として見られる結果になっても、編者に於いて格別の異議はないのである。
奇を好み径を談ずるは趣味の正常なるものでないにせよ、人間生活の続く限り、この趣味の絶滅することは先ずあるまい。現代人も常に談柄の奇を求めつつある。たゞその奇の内容が江戸時代と異るだけで、天狗や河童が跳梁跋扈しなくなれば、他の者がその代役を勤める。行燈、蠟燭の世界と、蛍光燈、ネオン・サインの世界とに、同じ奇談が通用すべくもないが、現代に立って汀戸時代を考える場合、乃至汀戸時代の事柄を現代に推し及ぽす場合、これらの奇談が何等かの役に立つことがないとも云えぬ。
奇談を一歩離れた異聞になると、特にその感が強い。過去と現在とに截然たる区別をつけるのは、現代人の通弊であるが、表面の事柄はともかくも、人間そのものにはそれほどの違いがあるわけではない。今の吾々が経験したり感じたりしているようなことを、存外昔の人も親しく経験したり感じたりしていたのである。それは過去の文芸作品にも現れておるに相違ないが、随筆は筆者の作為の加えられる余地が少ない為に、最も端的に読者に感ぜしむる力を持っているように思う。
奇談異聞の内容は一目瞭然たるように見えて、細説すればなかなか面倒である。出来るだけ広汎に亘り、興味ある談柄を集める必要があるので、最初は共編にするような話であったのが、中途から編者一人の仕事になってしまった。その結果は御覧の通りで、固より不備を免れぬが、一種の奇談集として存在する位の価値は無いこともあるまい。
「衣食住編」には原本から種々の挿画を取り入れた。第二部は殊に材料が多かったが、奇談異聞になると、適当なものが見当らない。たまたま挿画のある書物があっても、多くは読本(よみほん)じみていて、辞典に用いるには工合が悪い。清少納言は「絵にかきておとるもの」の中に「物語にめでたしといひたる男女のかたち」を挙げた。由来奇談の妙味は形似《けいじ》[やぶちゃん注:東洋画で、対象の形態を忠実に写すこと。]に現わしがたい辺に存するのだから、その空気は読者の想像に任せるより仕方がない。僅かに入れた挿画は「衣食住編」に用いたのと大差ない程度のものであった。
[やぶちゃん注:以上の清少納言のそれは、言わずもがな「枕草子」の物尽くしの章段の一つで、
*
繪に描(か)き劣りするもの。なでしこ。菖蒲(さうぶ/しやうぶ)。櫻。物語にめでたしと言ひたる男(をとこ)、女(をんな)の容貌(かたち)。
*]
挿画ばかりではない。引用書目の数も、索引の件数も、「衣食住編」に比してかなり少ないように見える。これは奇談異聞の性質上、どうしても或る随筆に集中され易い傾向のあること、各項が衣食住よりも長いこと、その他の理由に帰すべきであろう。なるべく前巻より見劣りせぬ方がいゝとうが、内容の然らしむるところだから、どうにもならぬのである。
昭和三十五年十二月
柴 田 宵 曲
[やぶちゃん注:以下、「凡例」。底本では二段になっていて、「凡例」の上には「目次」があるが、電子化する必要を感じないものであるので、省略した。]
凡 例
一、見出し語は現代かなづかいによって五十音順に配列し、そのふりがなも現代かなづかいによった。
一、編者が見出し語の下につけた概要、説明文は現代文により小活字で組んだ。[やぶちゃん注:電子化では、同ポイントで【 】で示した。]
一、引用の文章は原文に従った。その用字については、主として当用漢字、新字体を使用したが、内容の性質上、旧字体、異体字を使用した個所が少なくない。
一、出曲の書名は〔 〕で囲み、原文中に使用された注は( )に統一した。
一、編者が加えた説明は六ポ活字を用い、〈 〉で囲んだ。[やぶちゃん注:電子化では、上付きにした。]
一、原文の句読点は、おおむね原本のままを踏襲したが、適当でないものについては、編者において改めたところがある。
一、また、読みやすいように仮名を漢字に、漢字を仮名に改めた個所がある。
一、随筆の記述は時に横道に入りすぎることがあるので、本文に関係のないところは時々省略した。その場合は〈略〉として、その旨を明らかにして置いた。
随 筆 辞 典 奇談異聞編
[やぶちゃん注:以上は本文前標題ページ。]
あ
会津の老猿 【あいづのろうえん】 福島県会津地方の話〔中陵漫録巻五〕余〈佐藤成裕〉先年、奥州会津に在りて、黒沢〈現在の福島県南会津郡朝日村黒沢〉といふ処に至る。其処の山中に至つて大なる猿あり。その猿に従ふ猿二百ばかりありて、皆食を運び与へ、またその猿の居る下の枝に皆在りて、必ずしもその上に登る事なし。これ猿の王たる事しるべし。その猿[やぶちゃん注:「底本「献」。所持する「中陵漫録」(吉川弘文館『随筆大成』版)で訂した。]、常に大なる黒き円き一物を持ちて自ら玩弄す。或人、この山中に来て甚だ怪しみ、鳥銃にてこの猿を打ち落す時は、一の猿来てその一物を持ちて二十間ばかりの処に逃げて行き、その打落されたるを皆驚きて、その弾丸の穴に木の葉を取りてふさぎ、血の出るを恐れて皆驚き見て居るなり。また弾丸をこめてその一物を打殺しければ、この音にて二百余の猿ども、ひらひらと飛びて木に移りて逃げ去る。その一物を取りて来りて見れば、火箸の如く細く曲りて朽ちたる短刀なり。この猿、何(いづれ)よりこれを取り来るや、何の時に持ち居るや。この猿、猿中の王なれば、これを宝物として常に大切にすると見えたり。この猿もこの宝物ある故に、人の怪を容れて命を没す。宝物の身を災する事、多くは是の如し。また賀州〈加賀国の別称〉にて、山中の猿、常に円き一物を持てあるくを見る。或人、鳥銃にて打て見れば、木の葉にて幾重も重ね包みてある。これを破りて見れば、内に鳥銃の弾丸[やぶちゃん注:所持する「中陵漫録」では二字に「タマ」とルビする。]一つありと云ふ。凡そ獣類も人に近き者は、何となく珍しき物なりと思ひて、手に離さずして宝物と思ふなるべし。按ずるに『淵鑑類函』曰く、「瓜哇国[やぶちゃん注:ジャワの漢名。]山多猴。不ㇾ恐ㇾ人。授以二果実一則其二大猴先至。土人謂二之猴王一。夫人食畢群猴食二其余一」。これの猿にも王ある事知るべし。
[やぶちゃん注:「中陵漫録」佐藤中陵(号。本名が成裕(せいゆう))の随筆。佐藤は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などを経て、弘道館本草教授となった。引用は、少しだけ、カットがある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。
「現在の福島県南会津郡朝日村黒沢」現在は福島県南会津郡只見町(ただみまち)黒沢(グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)。
「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、一七一〇年成立。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちらの[437-2a]及び[437-2b]で電子化されたものと、影印本画像を見ることが出来る。なお、「夫人」は「そのひと」で猿の王を擬人化した表現である。]
青池の竜【あおいけのりゅう】 兵庫県明石市久保田町付近にある青池の竜の話 〔孔雀楼筆記巻一〕享保庚戌ノ秋七月、予<清田儋叟>母氏ニ従テ明石ニユク。城下ノ半里余リ西ニ森田村〈現在の兵庫県明石市大久保町森田〉アリ。西国往還ノ大路ニアリ。右森田村ノ近所ニ、青池トイフ池アリ。道ハタノ右手ニアリ。サノミ大ナル池ニテハナケレドモ、五十余年水涸ルヽコトナシト言ヒ伝フ。ソノ年ノ八月ニ、森田ノ一民、晩ニ畠ヨリ帰リ、カノ池ニテ鍬ヲ洗フ。尺余ノ一蛇アリ。池ヨリ出テ鍬ノ柄ニノボル。払ヒオトスコト二三度、又ノボル。トキニ鍬ヲ取ナホシ、柄ニテ蛇ノ頭ヲウツ。蛇飛テ池ニ入ル。何トヤラン怖(オソロ)シカリケレバ、足ハヤク立帰ル。アヤマタズ疾風黒雲怒雨驚雷コレニ従フ。竜アリ、池中ヨリ起ル。森田ノ農家十三家ヲ、雲中ニ巻上ゲ、二里余西ナル海手ノ、東嶋・西嶋〈現在の兵庫県姫路市内か〉トイフ村ノアタリニテ、空中ヨリ散落ス。コノ夜城下モ雷雨甚シ。予ガ叔父ノ岳翁(シウト)執政間宮氏ト、ソノ隣木崎氏トノ間ニ、一大松樹アリ。雷コノ松ニ震ス。間宮氏ノ長屋ニ使ハル婢女、仆《たふ》レテ気絶ス。翌日カノ池ノアタリニテ、村民竜鱗(タツノウロコ)ヲ拾ヒ得。予モ間宮氏ノ宅ニテコレヲ見ル。六七枚連レリ。一鱗ノ大サ一寸バカリ、八角ニテ色ハ水色ニテ、鱗ハ甚ダ薄シ。表六七枚ニテ、幾クヱモ重ルコト、磨菰蕈(ヒラタケ)・シメジ〈以上担子菌類。食用茸〉ナドノ重リタルガ如シ。竜鱗ナルトナラザルトハ、知ルベカラズ。
[やぶちゃん注:「清田儋叟」(せいたたんそう 享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年)は江戸中期の儒学者。名は絢。儋叟は号で、孔雀楼もその一つ。当該ウィキによれば、『京都の儒学者伊藤竜洲の三男として生まれ、父の本姓清田氏を称した』。『長兄の伊藤錦里、次兄の江村北海とともに秀才の三兄弟として知られた』。『青年期、明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学んだ』。寛延三(一七五〇)年三十一『歳で福井藩に仕えたが、主として京都に住んだ』。始め、『徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じ』、『越前国福井藩儒とな』った。「孔雀楼筆記」は随筆。他に「孔雀楼文集」などがある。「人文学オープンデータ共同利用センター」内の「KuroNetくずし字認識ビューア」のここから原本が視認出来る。
「兵庫県明石市久保田町」「森田」現在の兵庫県明石市大久保町(おおくぼちょう)森田。接して池があり、「雲楽池(くもらいけ)」があるが、それであろう。但し、現行の池は明石市藤江雲楽(ふじえうんらく)に属する。
「二里余西ナル海手ノ、東嶋・西嶋」「〈現在の兵庫県姫路市内か〉」「トイフ村」柴田の推定する「姫路市」では遠過ぎ、「二里余」が全く合わないから違う(最短でも現在の姫路市の海に近い場所の端でも直線で二十キロ以上ある)。それらしい距離の場所を「ひなたGPS」の戦前の地図で探したところ、ここに発見した。地名『島』を中央に配し、東西に『西島』と『東島』の地名を確認出来る。ここは現在の兵庫県高砂市米田町(よねだちょう)島(しま:グーグル・マップ・データ)である。]
青木明神奇話【あおきみょうじんきわ】 〔閑田耕筆巻一〕近江坂田郡番場駅(ばんばのうまや)〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉より八丁[やぶちゃん注:約八百七十三メートル。]北に、能登勢村〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉のとせ川あり。『万葉』第三に「さされ浪磯越道(いそこせぢ)なる能登湍(のとせ)川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」といへる所なり。この歌のごとく、今もあまた所に滝落ちていさぎよしと、百如律師(りっし)の話なり。私《わたくし》に案ず。古く近江と註せるを、『代匠記』〈契沖著『万葉集代匠記』〉に大和の巨勢か、又こせぢは越路にて北陸道にや、能登瀬川は能登国にある歟とみゆ。然るに同『万葉集』第十二に、高湍(こせ)なる能登せの川とあるは、古訓たかせとよめれど、こせと読むべしといふ説は従ふべし。今の歌も近江にしては二の句穏かならねば、大和なるべけれど、地景のあへるもまた一奇なり。またこゝを青木の里ともいふ。あふきと称《とな》ふ。「こがらしの風のふけどもちらずして青木の里や常盤なるらん」といふ歌も有り。こゝに青木明神とまうすは、相殿大梵天王、古は大社にて、今も藪村の産土神(うぶすな)となん。因に奇話あり。一とせ請雨せしに、林頭より水気のぼりて、他よりは失火の烟歟とて、見さわぎしほどなりしが、大雨ふりて其あづかる村々のみ潤ひける。その時拝殿に人々会集せし所へ、一尺ばかりの白蛇出たるも不思議なり。また或時、大風にて数十本の樹、倒れながら五十日ばかりをへしかば、幸ひに売らんとせしに、一夜何ともしらず、物音村中にきこえ、明るあした見れば、もとのごとく起直りて、次第に繁茂せりと。回じく百如律師、其ほとりに庵居して、正しき視聴の旨をかたらる。又男資規、その辺りをよく知りて話す。この社の北の方山崖の巌の中より、三尺ばかりの椿二股なるが生ひ出たり。昔よりこの樹此の如しといふ。その二股片枝は枯れ、片枝は繁茂す。年によりてまた枯枝繁茂しかはるなり。その繁るかたにあたれるさとは田作実のり、枯れたるはよからず。としまざきに替ることもあり。二年も続き片枝のみ繁ることも有り。いとふしぎなり。もしこの木全く枯る時は、神この社にいまさじと神詫有りし由、村老はいへりとなん。
[やぶちゃん注:「青木明神」現在の滋賀県米原市能登瀬にある青木神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。
「近江坂田郡番場駅(ばんばのうまや)〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉」現在の滋賀県米原市番場のこの附近。
「能登勢村〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉のとせ川」現在の米原市能登瀬。「のとせ川」は不詳。中西進編「万葉集事典」(講談社文庫昭和六〇(一九八五)年刊)によれば、『所在未詳。滋賀県坂田郡近江町能登瀬付近を流れる天野川(あまのがわ)か』とある。前のリンク地図を参照されたい。現在の能登瀬の北の境に沿って流れている。
「さされ浪磯越道(いそこせぢ)なる能登湍(のとせ)川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」波多朝臣小足(はたのあそみをたり)の雑歌(三一四番)。
「百如律師」不詳。
「契沖著『万葉集代匠記』」「まんようだいしょうき」と読む。国学者で「万葉集」の研究で知られる契沖が著した「万葉集」の注釈・研究書。当該ウィキによれば、『「代匠」という語は』「老子」下篇と「文選」第四十六巻の「豪士賦」の『中に出典があり、「本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう」という意味である』ともされる。『当時、水戸徳川家では、主君の光圀の志により』、「万葉集」の諸本を集めて校訂する事業を行っていて、寛文・延宝年間に下河邊長流』(しもこうべ ちょうりゅう/ながる)『が註釈の仕事を託されたが、ほどなくして長流が病』いのため、『この依頼を果たせなくなったので、同好の士である契沖を推挙した』。「代匠記」の着手は天和三(一六八三)年『頃であり、「初稿本」は貞享』四(一六八七)『年頃に、「精選本」は元禄』三(一六九〇)『年に成立した。「初稿本」が完成した後、水戸家によって作られた校本』「詞林采葉抄」が『契沖に貸し与えられ、それらの新しい資料を用いて「初稿本」を改めたのが』、『「精選本」である。「初稿本」は長流の説を引くことが多く、一つの歌に対する契沖の感想や批評がよくあらわれている。純粋に歌の解釈のみを提出し、文献を基礎にして確実であるという点では、「精選本」の方が優れているという』。『「初稿本」は世の中に流布したが、「精選本」は光圀の没後における水戸家の内紛などにより』、『日の目を見ることのないまま水戸家に秘蔵され』、『明治になって刊行された』。「万葉集」『研究としての』本書は、『鎌倉時代の仙覺や』、『元禄期の北村季吟に続いて、画期的な事業と評価されて』おり、『仏典漢籍の莫大な知識を補助に、著者の主観・思想を交えないという註釈と方法が、もっともよく出ている契沖の代表作で、以後の』「万葉集」『研究に大きな影響を与えた』とある。
「こがらしの風のふけどもちらずして青木の里や常盤なるらん」作者不詳で、実に「閑田耕筆」のこの部分に基づいて(推定)、青木神社境内に果歌碑が建てられたが、現在は風化著しく、文字の判読も困難であったため、青木神社を境内地とする後背にある山津照(やまつてる)神社の境内に非常に新しい、この和歌の碑が建っている(サイド・パネル画像)。
「藪村」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、見当たらない。]
青山妖婆【あおやまようば】 〔半日閑話巻十六〕同年〈文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]〉五月青山組屋敷にて、与力滝与一郎と申す者の方にて安産有ㇾ之候処、取揚《とりあげ》ばゞ参り、右赤子を懐(いだ)き明長屋《あきながや》へ走り込み候ゆゑ、直様《ぢきさま》[やぶちゃん注:副詞で「すぐさま・直ちに」の意。]跡追かけ参り候内、また候《ぞろ》取揚ばゞ参り候間、これにて有ㇾ之べくと、縄からげに致し候処、これは実《まこと》の取揚ば’ヽにて、最初のばゞいかなるものや分り兼ね、その内に出火、跡方なしに相成候由。
[やぶちゃん注:「半日閑話」江戸後期の随筆。かの大田蜀山人南畝の著ながら、成立年は未詳。巻冊数も不定である。明和五(一七六八)年から文政五(一八二二)年まで、南畝二十歳から、死の前年の七十四歳に至るまでに見聞した市井の雑事を記したもの。元は二十二冊で「街談録」と称したが、南畝没後、「街談録」以外の南畝の著作や、他家の文を添えた二十五巻本が刊行され、「半日閑話」と改題された。原著「街談録」の部分は江戸の世相風俗資料として高く評価されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。]
赤鼠【あかねずみ】 〔一話一言巻四十八〕延宝七年[やぶちゃん注:一六七九年。]四月ごろ、奥州津軽領<津軽地方>浦人(うらびと)<浦べに住む人>磯山(いそやま)<津軽地方>の頂上に登りて海原(うなばら)を見わたせば、おひたゞしく鰯のより候様に見えければ、猟船をもよほし網を下げ引上げ見れば、下腹白く、頭と脊通りは赤き鼠、億々無量《おくおくみりやう》網にかゝりあがるや、浜地へひきあげ、人々立寄りうちころしたり。その鼠の残りどもことごとく陸へあがり、南部・佐竹領まで逃げちりて、あるひは苗代をあらし、竹の根を喰ひ、あるひは草木の根を掘起し、在家へ入りて一夜のうちに五穀をそこばく費す事、際限なかりし。山中へ入りたる鼠ども、毒草こそありつらめ、一所に五百三百づつ、いやがうへにかさなりて死《しし》てありしとかや。
近頃下総のシンカイといふ処にて、猟師の網に鼠
かゝり網を損ぜしといふ。船子のいふに嶋わたり
の鼠ともいふ。寛政三辛亥年、美濃国大垣〈岐阜県大垣市〉
に鼠つきて五穀を損せしといふ。戸田采女正殿領
分なり。
[やぶちゃん注:「一話一言」(いちわいちげん)は大田南畝著の随筆。全五十六巻であったが、六巻は散佚して、現存しない。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いたもので、歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「奥州赤鼠」である。
「磯山」現在の青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)平舘磯山(たいらだていそやま)であろう。
「億々無量」数えきれないほど異様なほど多いことを言っているのであろう。
「下総のシンカイ」現在の千葉県香取市小見川のこの附近は最近まで香取市新開町であったから、この附近であろう。
「寛政三辛亥年」一七九一年。]
秋葉の魔火【あきはのまび】 静岡県秋葉山(あきはさん)付近におこる話 〔耳囊巻三〕駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊びとて、遠州の山上には、夜に入り候へば、時々火燃えて遊行なす事あり。雨など降りける時は、川へ下りて、水上を遊行なす。これを土地の者は、天狗の川狩に出たるとて、殊の外慎みて、戸などをたてける事なる由。如何なる事なるや、御用にて彼地へ至りし者、その外予〈根岸鎮衛《しづもり》〉が召仕ひし遠州の産など、語りしも同じ事なり。
[やぶちゃん注:標題の読みは底本では「あきはのま」だけである。『ちくま文芸文庫』版で補填した。また「秋葉山」のルビ「あきはさん」は底本では『あきわさん』であるのも同前書で訂した。この引用元である名町奉行根岸鎮衛の随筆「耳囊」は、ずっと以前にこちらで全篇の電子化(全訳注附き)を終わっている。当該話は「耳囊 巻之三 秋葉の魔火の事」である。そちらの注と訳を見られたい。]
明屋敷神々楽【あきやしきかみかぐら】 〔享和雑記巻三〕四ツ谷内藤宿〈現在の東京都新宿区内藤町〉の明屋敷守りに五郎蔵といふ者あり。米屋といふにはあらねど、この辺りの御家人の扶持米を舂(つき)て遣る事をもて世を渡れり。五郎蔵が家居は屋敷の主の住み捨てしに入りたれば、軒朽ち草生ひたれど、八畳二タ間に六畳の勝手ありて、屋敷守りの住居には広し。夫婦者にて一人の倅《せがれ》あり。然るにこの節倅疱瘡を煩ひければ、妻はその子を連れて親の方へ逗留に参り、頃日《けいじつ》は五郎蔵一人暮し居たり。亥二月五日は初午《はつうま》に当れり。夜に入り帰り見れば、我家の内に人多く集りたると見えて、絲竹呂律《りよりつ》の拍子を揃へ、さも面白く囃し立て、舞ひ遊ぶ手拍子足拍子の聞えければ、近所の者どもが何方《いづかた》へか初午のはやしに行きたるが、立寄りし事と思ひつゝ、門の戸明けて入り見るに、その音はすれども姿は見えず。こなたかと思へば先の方に聞え、先かと行けば跡になりて聞き留め難し。五郎蔵元来大胆の者なれば、少しも動ぜず、常のごとく休みけるに、夜も明方に至れば、物音も静まりぬ。夜明けて見れば、少しも常に替りたる事なし、これよりして毎夜かくのごとく、音曲の拍子とりどりはやしけるが、日を経て止みしとなり。田舎にては神かぐらと申しならはして、稀にある事の由、狐狸の仕業なるべし。
[やぶちゃん注:初午当日のそれは、逆転層によって離れた場所で行われた祭りの音が、反響したものと考えてよい。その後日も暫く続いたのは、周囲の土蔵などで、初午の音曲・囃子太鼓に触発されて、練習をしたものが響いてきたと考えてよいと思われる。今、すぐには指し示せないが、私の電子化した江戸時代の擬似怪奇談に、そうした、どこからともなく、一定期間、太鼓や囃子が聴こえてくるので、不審に思って調べると、近隣の町人が土蔵の中でそれらの練習をしていたというオチの話が複数あった。例えば、「反古のうらがき 卷之三 化物太鼓の事」である。
「享和雑記」柳川亭(りゅうせんてい)なる人物(詳細事績不詳)になる世間話集。三田村鳶魚校訂・随筆同好会編になる国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第三巻(昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで正字で視認出来る。末尾に、
神かぐらきねか鼓もうすめよりひく絲竹にこまい[やぶちゃん注:ママ。]一さし
とある。
「四ツ谷内藤宿」「〈現在の東京都新宿区内藤町〉」サイト「nippon.com」の「『四ツ谷内藤新宿』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第52回」に江戸切絵図と現行の地図が並んでいる。現在の新宿一丁目から三丁目及び内藤町(同町は殆んどが新宿御苑内)に相当する。
「頃日」近頃。
「亥二月五日は初午に当れり」干支から、これは享和三年二月五日庚午で、グレゴリオ暦で三月二十七日に相当する。ズレが大きいのは、この年は一月の後に小の月の閏一月があるためである。「初午」この二月初めの午の日を特に指す祭日。稲荷の祭日とされ、稲荷講の行事が行われるが、その習俗は必ずしも稲荷とは関係なく、土地により様々である。この日。初午団子を作り、子供たちが集まって太鼓をたたくことが広く行われる。全国の農村では種々の農事に係わった色々な祭りが行われることから、初午の日は、その年の豊作を予祝する意味の祭りであったと言える(小学館「日本大百科全書」の記事の、中間部にある多くの具体な各地の祭礼法をカットして載せた)。
「呂律」「律呂」とも言い、日本音楽の「律」と「呂」の音。又は広義に十二律・音律・音階・旋法・調子等を指す。現行の「ろれつが回らない」はこの「呂律」の音変化。]
明屋敷の怪【あきやしきのかい】 〔耳囊巻二〕上杉家の下屋鋪や、又上屋敷や、名前も聞きしが忘れたり。近頃の事なりし由、交替の節にや、交代長屋も多く塞がりしに、相応の役格の者、跡より登りて、その役相応の長屋無ㇾ之、一軒相応の明長屋あれども、右長屋住居の者は、色々異変ありて、或は自滅し、又は身分立ち難き事など出来て、退身などするとて、誰も住居せず。主人にも聞きに入り候程の事なり。然るに右某は至つて丈夫なりけるゆゑ、右長屋に住はん事を乞ひければ、その意に任せけるに、さしてあやしき事もなかりしが、或夜壱人の翁出て、見台にて書を見居たる前へ来りて、著座なしけるを、ちらと見けれども、一向に見向きもせず居たりし。飛びも懸らむ体《てい》をなしけるゆゑ、とつて押へ、汝なに者なれば爰には来りしと申しければ、我は此所に年久しく住めるものなり、御身爰にあらば為《ため》あしかりなんと云ひけるゆゑ、大きにあざ笑ひ、我は此長屋、主人より給はりて住居なす、汝はいづ方よりの免《ゆる》しを請けて、住居なすやと申しければ、その答へに差《さし》つまりしや、真平ゆるし給へといふゆゑ、以来心得違ひ致すべからずとて、膝をゆるめければ、かき消して失せぬ。さて日数《ひかず》二三日過ぎて、屋鋪の目付役なる者、両人連れにて来り、主人の仰せを請けて来れり、面会致すべき旨ゆゑ、著用《ちやくよう》を改めその席へ出でければ、かの目付役申しけるは、御自分事何々の不届の筋御聞きに入り、急度(きつと)も仰せ付けられ候へども、自分存念を以て、覚悟の儀は勝手次第の段、申渡しければ、委細の仰せ渡しの趣《おもむき》、畏《かしこま》り奉り候。用意の内暫時御控へ下さるべき旨申述べ、勝手へ入りて召仕(めしつかひ)へ申付け、近辺住居のものを急に呼び寄せ、密かにかの目付役を覗《のぞ》かせしに、一向見覚えざるものの由ゆゑ、さこそ有るべきと、召仕どもへも申し含め、棒その外を持たせ、立ち忍ばせ、さて座敷へ出て、仰せ渡しの趣畏り奉り候間、切腹も致すべく候へども、得《とく》と相考へ候へば、一向御尋ねの趣、身に覚えなき事なり、委細その筋へ申立て候上、兎も角も致すべく、然る処我等は御在所より出《いで》て、各〻様をも御見知り申さず、御屋鋪内何方《いづかた》に住居有ㇾ之、何年勤められ候やなどと尋ねければ、我等主人の仰せ渡されを以て、申渡しに罷り越し候、余事の答へに及ばざる趣申しける故、さあるべしと思ひて、当屋鋪案内の者も呼び置きたり、全く紛れ者ゆるさじと、刀に手をかけければ、両人ともうろたへて逃出《にげだ》せしを、抜打《ぬきうち》に切りければ、手を負ひながら、形ちを顕はし逃げ去りしが、供のものをも中間など棒を以てたゝき倒しけるが、これもほうほう逃げ去りける。この後はたえて右長屋に怪異絶えけるとなり。
[やぶちゃん注:「耳囊巻二」とあり、『ちくま文芸文庫』版もママだが、私の全篇電子化(訳注附き)では、「巻二」ではなく、「巻九」であり、標題も「上杉家明長屋怪異の事」となっている。但し、「耳囊」には写本の異本(不全本を含む)がかなりあり、その中には、話柄の位置が全く異なっているものがある。そういえば、本文中の表記の中に、極めて若干ながら、相違があり、後の「耳囊」でも巻の違いがあることから、そのせいであろう。]
明屋の狸【あきやのたぬき】 〔譚海巻十〕寛政六年、寺社御奉行某殿にて儒者を召抱へられけるが、下屋敷に長屋を玉ひありけるに、老人なりければ御講義仕り、深更に御下屋敷まで罷り帰り候事、何とも難儀仕り候間、いかなる御長屋にても、御下屋敷まで罷り帰り候事、何とも難儀仕り候間いかなる御長屋にても御上屋敷に下され、移住仕りたき由願ひければ、長屋穿鑿ありけるが、みなみな住みて一向明長屋なく、只壱軒明長屋あれども、これは怪異ある長屋なれば、これまで住居する人なく、合羽籠など入れ置く所となし有ㇾ之よし、主人もいかゞと申されけれども、この儒者、私事妻子も御座なく候間、いかやうにても苦しからず段、達(たつ)て願ひければ、その長屋を玉ひ、修覆掃除して移りけるに、その夜より老人一人来り、隣舎に住む者のよしにて物語りしけるが、この老人殊の外珍しき事を覚え居て、往々天正頃の事など物がたりなどせしかば、儒者も興ある事に覚えて、怪異なるものをも忘れ、よき友を得たる心地して、親しくかたらふ事半年ばかりありしが、ある夜この老人来りて申しけるは、これまではつつみ居り候へども、我等事まことは人間にはあらず、年久しくこの屋敷に住居致す狸にて、かやうに御心安く罷り成り候が、我等事命数尽きて、近日に相果て候間、もはや参る事もあるまじくと申し候へば、儒者大きに驚き、そのわけを問ひければ、前年までは御台所にも、食物余計落ちすたり候も有ㇾ之て、それをたべ候て存命致し候が、所々近年御倹約つよく相成、左様なる給物も少く相成、食事とぽしきゆゑか、次第に気力も衰へて、病身に罷り成り候と申す。儒者それは気の毒なる事なり、さやうの義ならば、我等一飯をわけて遣はすべし、何とぞ存命いたす事相成申すべくや、或ひは医療等にても生き延び相成る事ならば、又いかやうにも致し遣はし申すべしと云ひければ、老人とかくさやうの事にて助かる事に候はず、全く命数尽る所なれば致方なく、是非なき事に候と申す。儒者聞て、それほどに決定《けつぢやう》したる事ならば、何ともしかたなき事とおもはれたり、然しながらこれまで懇意せし報いに、何ぞ好物のものあらば振舞ひたしといへば、千万かたじけなし、さやうならば餅を何とぞ御振舞ひ下さるべく、明夜《みやうや》参るべし、ただし明夜は有りふれたる形にて参るべし、かやうに人の体《てい》をなしてまゐる事は、われらもはなはだ窮屈なる事なるうへ、もはや気力も尽き候間、人のかたちになる事も大儀に候間、明夜参りたらば、かならずこれ迄の挨拶に仰せられ候ては、甚だめいわく仕り候よしをいひて帰りける。さて翌日の夜餅を才覚して、土間にさし置きければ、その夜九つ<午前〇時>過《すぎ》、はたして縁の下より、痩せ衰ろへ、毛も落ち、とゞろなる狸一疋出て、この餅を喰(くら)ひけるが、度々噎咳《いつがい》して漸くに喰ひをはり、また縁の下ヘ入りける。その後は絶えて見えず。右の趣、儒者主人へも申上ければ、奇怪不便なる事なり、定めてその死骸あるべし、とぶらひ葬りて遣はすべしとて、縁の下をはじめ諸所尋ねさせられけれども、一向その死骸はみえざりしといへり。
[やぶちゃん注:本篇は私のブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で、先般、この注のために、「譚海 卷之十 某御奉行長屋住居の儒者に狸物語の事」(以上が正式標題)として、電子化注してフライング公開しておいたので、そちらを見られたい。]
悪気人を追う【あくきひとをおう】 〔耳囊巻二〕下谷立花〈東京都台東区内〉の屋鋪の最寄りに、少しの町有り。其所の者なる由、目黒の不動を信じ、度々参詣なし、ある時七つ時<午前四時>に出宅をすべきに、刻限早く八つ<二時>に起き出で、参詣せんと日本橋通りをまかりしに、漸く七つなれば、それより段々歩行(あるき)参り、芝口に定式《ぢやうしき》に休みなどなせる、信楽(しがらき)といへる水茶屋有り。しかるに日本橋寄りに候や、跡よりざわざわと音してつき来る者あり。ふり帰り見れば、縄やうのもの附き来り候故、早足に歩行(あるけ)ば早く追ひ、立どまればかの縄様のものも止りし故、我足又裾に糸などありて、右へからまり来るやと改め見れど、更になし。何とやら心持あしき故、急ぎて右の信楽の茶屋に立寄り、いまだ夜深故、町屋もいまだ戸をあけざれど、水茶屋は朝立ちの客を心がけ、燈など見ゆる故、歓びて立寄りければ、今日はさてさて早く出給ふと、家内にても挨拶して、茶など煮て給《たべ》させけるゆゑ、刻限をとり違へし事など咄して暫く休み、いまだ夜も明けざれど、門口の戸を見けるに、やはり附き来りし縄やうのもの、門口にありける故、内へ入り門口を〆めて、いまだ夜も明けず、気分あしき故、暫く廓(みせ)に休みたき由断り、枕など借り請けて、描になり居しが、程なく夜も明け、往来もあるゆゑ、起出て帰りにこそよるべきとて、目黒へ参詣し、身の上をも祈り、それより彼所にも尋ぬる所ありて立寄り、支度などして、夕方になつて帰り懸け、かの信楽が方を見しに、表を立て忌中の札ある故、今朝迄もかゝる事なかりしと、その辺にて聞合せければ、いかなる事にや、右茶屋の亭主首縊り相果てけると云ひしに、我身の災難を明王の加護にて逃れけるや、右縄の追ひ来るを、始めは蛇と思ひしが、縄に悪気の籠りてしたひ来りしやと、我友のもとヘ来りて語りぬ。
[やぶちゃん注:同前で、古くに電子化(訳注附き)してあるので(「耳嚢 巻之九 惡氣人を追ふ事」)、そちらを見られたい。やはり、私の底本では、「巻九」であった。]
悪路神の火【あくろじんのひ】 〔閑窻瑣談巻三〕伊勢国紀州御領の内にて、田丸領間弓村〈現在の三重県度会郡玉城町田丸か〉の唐子谷といふ所に、猪草(いくさ)が淵といふ大難所あり。常の道路巾十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかりの川あり。その河に杉丸太を渡して往来とせり。この丸太橋の高サ水際より十間余有り。これを渡る時は甚だ危く、怖しき事言語に絶えたり。橋の下は青々たる水の面、その底を知らず。この辺山蛭《やまびる》といふ蟲多く、手足に取付きて人を悩ます。寔(まこと)に下品の地にして、男女の形状見分けがたき程の所なり。この地に生れて他へ出ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。またこの辺に悪路神の火と号(なづ)けて、雨夜には殊に多く燃えて、挑灯のごとくに往来す。この火に行合ふ者は、速かに俯(うつむき)に伏して身を縮む。その時火はその人を通路するなり。火の通り過ぐるを待ちて逃げ出す。然《さ》も為《せ》ざる時は、彼《かの》火に近付きて忽ちに病《やまひ》を発し、煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名医、採薬の為に経歴して彼地にいたり、眼前に見聞し、帰府の後、諸国の奇事を上書せし『採薬記』にあり。
[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらで挿絵入りで正字で視認出来る。しかし、これ、二〇一七年一月に『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』の本文に訳で紹介されており、その私の注で、各個、注しており、さらに同原文を電子化し、吉川弘文館『随筆大成』版の挿絵も公開しているので、そちらを見るのが、手っ取り早くてよろしいかと存ずる。]
麻布の異石【あざぶのいせき】 〔兎園小説第十二集〕『春秋伝』に、石の物いひし事を載せて、神霊の憑りたるよしを論ぜり。古来その例多ければ、今贅するに及ばず。抑〻余〈大郷信斎〉が住める麻布の地に、見聞せし異石五種あり。その一は、秋月家の園中に三尺ばかりなる寒山拾得の石像、いつのころにや、行夜の卒の蹤より慕ひ来けるを、斬り払ひけりとて、その瘢痕(きずあと)を存す。その二は、長谷寺の内に五六尺ばかりなる夜叉神の石像、緇素(しそ)の諸願をかくるに、その験多し。これも件の園中に在りしに、長谷の住持、霊夢によりて爰に移すといふ。その三は、山崎家の邸内の陰陽石、これを結の神に比して、その願を聞くとぞ。その四は、五嶋家の門前大路の中央に、径尺余の頑石凸起してあり。道普請の礙(さは)りなりとて掘りけるに、その根、金輪際までも入りたりとて、元の如く捨て置きぬ。往来の人、塩を手向けて足の願をかくる事、半蔵御門内の石に同じ。その五は、森川家の別㙒《べつしよ》[やぶちゃん注:別荘。]に、二尺余なる鳥帽子形の石に、日月の形顕れ出でたる有り。件の園丁茂左衛門といふ者、霊夢によりて、その郷里越後国頸城郡吉城村の畠より得たりといふ。目出たき石と申すべきか。〈『海録巻十三』に同様の文章がある〉
[やぶちゃん注:私は昨年末、曲亭馬琴の「兎園小説」を巻頭する膨大なそれの、総ての電子化注をブログ・カテゴリ「兎園小説」で完遂している。ここに出るのは、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 麻布の異石』である。そちらを見られたい。
「海録」近世後期の江戸の町人(江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子)で随筆家・雑学者山崎美成が研究・執筆活動の傍ら、文政三(一八二〇)年六月から天保八(一八三七)年二月までの十八年間に亙って書き続けた、考証随筆。難解な語句や俚諺について、古典籍を援用し、解釈を下し、また、当時の街談・巷説・奇聞・異観を書き留め、詳しい考証を加え、その項目は千七百余条に及ぶ。彼は優れた考証家であり、「兎園会」の一人でもあったが、物言いが倨傲で、遂に年上の曲亭馬琴から絶交されたことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正四(一九一五)年刊)のここの「五七麻布の五石」がそれ。]
足長【あしなが】 〔甲子夜話巻廿八〕『三才図会』ニ云ふ。「長脚国在二赤水東一、其国与二長臂国一近、其人常負二長臂人一、入ㇾ海捕ㇾ魚、蓋長臂人身如二中人一、而臂長二丈」と。これ長脚国の脚長は云はざれども、長臂を負ひ、入ㇾ海て捕ㇾ魚とあれば、長脚の長も二丈ばかりなること、知るべし。平戸城の西北二里ばかりに神崎山《こうざきやま》あり。その海辺に晴夜《せいや》、海、穩《おだやか》なるとき、或人、小舟に乗り、汀《みぎは》より、六、七十間を去《さり》て、釣を垂る。この中一士人あり。ふと海浜を顧れば、何ものか來て炬《たいまつ》をかゝげて、蜘蹰(ちちゆう)する者あり。よく視るに、腰上は常人に異ならざれども、足の長さ九尺許り、士人、その怪状に駭(おどろ)く。従者云ふ、これ、足長と呼ぶものにて、この物出《いづ》れば、必ず天気変るなり。遄(すみやか)にこの処を退かんと云ふゆゑ、そのとき天に一点の雲なし。いかで変ずることあらんやと言ひながら、舟を返して十余丁も漕行《こぎゆき》し頃、黒雲忽ち起り、雨驟《しき》りなれば、城下に歸ることを得ずして、その辺に泊す。然るに、少間にして雨歇《や》み空霽れたりと。この足長も妖怪にこそあれ、天地間の一物なれば、長脚国のあるも、虛語《そらごと》にあらじ。
[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「甲子夜話」で事前に「甲子夜話卷之二十六 6 平戶の海邊にて脚長を見る事」をフライング公開(オリジナル注附きで、「三才図会」の「長脚國人」と「長臂人」も添えてある)しておいたので、参照されたい。]
小豆洗【あずきあらい】 〔耳囊巻一〕内藤宿〈現在の東京都新宿区内藤町〉に、小笠原鎌太郎といへる、小身の御旗本あり。かの家の流し元にて、小豆洗ひといへる怪あり。時として小豆をあらふ如き音しきりなれば、立出て見るに、さらにその物なし。常になれば、強てあやしむ事なし。年を経る蟇(ひきがへる)の業《わざ》なりと聞きしと、人の語りしが、その傍に有りし人、外にもその事ありと、親しく聞きしが、是れひきの怪なりといひき。〔江戸塵拾巻五〕 元飯田町もちの木坂の下、間部伊左衛門といふ者宅にて、夜更におよび玄関前にて小豆を洗ふ音する事つねの事、人音《ひとおと》すれば止む。其所に行きて見るに異《こと》なる事なし。その音によつて名づく。
この事入谷田圃にもむかし有りとぞ。加藤出雲守
殿下屋敷の前の小橋を小豆橋といふ。
〔譚海巻八〕 むじなはともすれば、小豆洗ひ・絲くりなどする事有り。小豆洗ひは渓谷の間にて音するなり。絲くりは樹のうつぼの中にて音すれど、聞く人十町廿町行きても、其音耳を離れず、同じ事に聞ゆるなり。 〔裏見寒話追加〕古府新紺屋町<山梨県甲府市内にあり>より愛宕町へ掛けたる土橋有り。その下は富士川なり。此処を鶏鳴の頃通るに、橋下にて小豆を洗ふ音聞ゆといへり。また畳町の橋の下も斯の如しと云ふ。
[やぶちゃん注:「耳囊巻一」同前で私の底本では「耳嚢 巻之八 小笠原鎌太郞屋敷蟇の怪の事」である。
「江戸塵拾」(えどちりひろい)は江戸市中で見聞した奇物や怪異を集めた随筆。著者は蘭室主人だが、詳細事績は不明である。所持する『燕石十種』第五巻(昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊)の朝倉治彦氏の同書に就いての「後記」によれば、同書には五巻本が収録されているが、元は二巻本であったらしい。二巻本の成書は明和四(一七六七)年八月と考えられており、それを改稿し、若干の増補をしたものが、五巻本と推測されておられる。そこで朝倉氏は、著者について、『二巻本では「東本願寺におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、有馬家の儒臣山北某なるもの」となっている』ことから、『想像して、著者は、有馬家の、あるいは有馬家と関係のある人ではあるまいか』と添えておられる。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(岩本佐七編・明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで正字で確認出来る。標題は「小豆老女」である。
「元飯田町もちの木坂の下」個人サイトらしい「Discover 江戸旧蹟を歩く」の「○中坂・九段坂・冬青木坂」で確認出来る。最後の「冬青木坂」が「もちのきざか」と読む。坂は、現在の千代田区九段北一丁目・飯田橋一丁目・富士見一丁目で、ここ。「もちの木」は双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra で、「黐の木」で、樹皮から鳥黐(とりもち)を作ることが出来ることから和名の由来となった。
「〔譚海巻八〕 むじなはともすれば、小豆洗ひ……」は、事前に当該部を含む、それなりに長い「譚海 卷之八 諸獸の論幷獵犬の事」を、同前カテゴリでフライング公開しておいた。標題は「諸獸の論幷」(ならびに)「獵犬の事」のごく一節である。
「裏見寒話」(うらみのかんわ)は宝暦二(一七五二)年に甲府勤番士野田成方(しげかた)が書いた甲府地誌。その「追加」の冒頭は「怪談」。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページの「○小豆洗の怪異」がそれ。
「古府新紺屋町」「山梨県甲府市内」山梨県甲府市元紺屋町か。
なお、妖怪・怪異現象としての「小豆洗い」は『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ』が最もディグされた論考であろう。]
小豆はかり【あずきはかり】 〔怪談老の杖巻三〕麻布近所の事なり。弐百俵余程取りて、大番《おほばん》勤むる士あり。この宅にはむかしより化物ありと云ひけり。主人もさのみ隠されざりしにや、ある友だち化物の事を尋ねければ、さして怪しきといふ程の事にもあらず、我等幼少より折ふしある事にて、宿にては馴れつこになりて、誰もあやしむものなしといひけるにぞ、咄しの種に見たきものなりと望みければ、やすき事なり、来りて一夜も泊り給へ、さりながら何事もなきときもあるなり、四五日寢給はゞ、見はづし給ふまじと云ひけるにぞ、好事《かうず》の人にてやありけん、幾日なりとも参るべしとて、其夜行きて寢《い》ぬ。この間(ま)なりといふ処に、主人とふたり寢《ね》て話しけるが、さるにてもいかなる化物にやと、ゆかしき事かぎりなし。主に尋ぬれば、まづだまりて見たまへ、さはがしき夜には出《いで》ずと、息をつめて聞き居《を》りければ、天井の上どしどしとふむ様なる音しけり。すはやと聞き居《をり》ければ、はらりはらりと、小豆をまく様なる音しけり。あの音かと、聞きければ、亭主うなづき小声になりて、あれなり、まだ段々芸あり、だまつて見給へといひければ、夜著《よぎ》をかぶり息をつめて居けるに、かの小豆の音段々に高くなりて、後は壱斗程の小豆を、天井の上ヘはかる様なる体《てい》にて、間《ま》ありてまたはらはらとなる事、しばらくの間にてやみぬ。また聞きければ庭なる路次下駄《ろしげた》、からりからりと、飛石のなる音して、水手鉢《てうづばち》の水さつさつとかける音しけり。人やすると、障子をあけて見ければ、人もなきに竜頭《りゆうづ》のくびひねりて水こぼれ、また水出《いで》やむにぞ、客人も驚きて、さてさて御影にてはじめて化物を見たり、もはやこはき事はなしやといひければ、この通りなり、外になにもこはき事なし、時々上より土・紙くずなどおとす事あり、何も悪しき事はせずといはれける。其後語り伝へて、心やすきものは皆聞きたりけれども、習ひきゝてはよその者さへこはく[やぶちゃん注:ママ。]もおもしろくもなかりけり。ましてその家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。しかれどもかの士一生妻女なく、男世帯《をとこじよたい》にて暮されけり。妾《めかけ》ひとり、外《そと》にかこひおき、男女の子三人ありけり。女などのある家ならば、かく人もしらぬ様にはあるべからず。いろいろの尾ひれをつけていひふらすべし。世の怪談とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて猫の尾をさぐりあて、または鼠に額(ひたひ)をなでられなどして、云ひふらす咄し多し。この小豆はかりは何のわざといふ事をしらず。
[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は既に古いブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注してある。当該話は「卷之三 小豆ばかりといふ化物」で「はかり」は「ばかり」である。恐らくは「計(ばか)り」ではなく、「量(はか)り」であることを、柴田は示したかったのであろう。]
油揚取の狐【あぶらげとり[やぶちゃん注:ママ。]のきつね】 〔裏見寒話追加〕光沢寺境内の藪は、代官町〈現在の山梨県甲府市内〉ヘ抜けて行く横道なり。この道を油揚豆腐を持て通るに忽ち失ふ。商人なども度々取らるゝと。こはこの藪に狐あり。此の如き径をなすといヘり。その後小川某といふ人、鉄砲にて打留めし已来はこの妖なしと。
[やぶちゃん注:既出の国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの右ページの「○油揚取の狐」がそれ。]
油盗みの火【あぶらぬすみのひ】 〔諸国里人談三〕河内国平岡〈大阪府枚岡市内〉に雨夜に一尺ばかりの火の王、近郷に飛行す。相伝ふ、昔一人の姥あり。平岡社の神燈の油を夜毎に盗む。死して後燐火となると云々。さいつころ姥火に逢ふ者あり。かの火飛び来て面前に落つる。俯して倒れて潛かに見れば、鶏のごとくの鳥なり。嘴を叩く音あり。忽ちに去る。遠く見れば円なる火なり。これまつたく鵁鶄(ごゐさぎ)なりと云ふ。近江国大津〈滋賀県大津市〉の八町に、玉のごとくの火、竪横に飛行《ひぎやう》す。雨中にはかならずあり。土人の云ふ、むかし志賀の里に油を売るものあり。夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死して魂魄、炎となりて、迷ひの火、今に消えずとなり。また叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因縁右に同じ。七条朱雀の道元が火、皆この類(たぐ)ひなり。これ諸国に多くあり。
[やぶちゃん注:これは別個に立項されてあるものをカップリングしたものであって、連続したものでもなく、やりかたとしては、極めて変則的。二話の因縁から、同義性を私は認めないので、柴田の勝手な合成は恣意的に過ぎ、肯んずることは出来ない。「諸国里人談」は全篇をブログ・カテゴリ「怪奇談集」で電子化注している。以上は、「諸國里人談卷之三 姥火」と、その四項も後の「諸國里人談卷之三 油盗火」を勝手に合体したものであり、怪奇談蒐集家の私としては、許すことの出来ない鷺、基! 詐欺的仕儀である。]
雨面【あまおもて】 〔思出草紙巻二〕御使番丹羽五左衛門、ひととせ御目付代として難波に登り、御役屋敷住居の折、南都順見として彼地に至りつゝ所々順見ありしに、この地はさすが旧跡の地にして、古き寺社名所旧跡多し。これに依て、諸所の霊仏霊宝等残らず開帳なすを、先例にて順見なしけり。東大寺の霊宝など多き中に、楽《がく》の面有りて、何にても出す時は、雨降らずといふ事なし。依て雨面となづけたるなり。案内の翁がいはく、今日は雨面御覧有るべし、極めて雨降るべしとの時に、その日は空はれわたりて、一点の雲もなし。丹羽五左衛門、心の内に不思議の事をいふものかな、何ぞこの日和に雨ふる事あらんと思ひながら、彼方此方順見して、已に昼時すぎ、東大寺に至らんとするに、一天俄かにくもり白日をおほひ、風するどに吹落ちて雨ふり出し、長柄の傘に雨をしのぎ、彼寺に至りてこの面を見るに、凌王《りやうわう》の古きにや。その赤きが所々まだらにはげて、古き事幾年へだたりけん。殊勝の面なり。寺僧も雨の降る事、奇妙なるを物語り、順見すぎて寺を出て、二三町も過ぎたる頃は、元の晴天となれり。奇なる事に覚えしとかや。それ不思議なるを感ずるの余りに、丹羽は何卒彼面の写しをしたゝめ呉れよとて、役僧まで頼み紙面を遺はす所に、程経て写しを差越《さしおこ》したり。よき画師《ゑし》にうつさしめたりと見えて、かの正面《せいめん》に少しも違はず。その彩色、現に見るに等しく、写しと更に思はれず。謝礼の目録なぞ遣はしぬとかや。役果て帰府なしけるに、上野に知行所有りしが、夏の炎天数日つゞき田畑も枯れそんじ、大きに難儀の訴ヘ有りし時、ふと心に思ひ出し、かの面の写しの軸ものとなせしをつかはして、この軸ものに向つてきねんさせよ、雨降るべきぞと云ひ遣はしたりしかば、程なく知行所より、かの雨面の写しを返済する飛脚来りて、注進していはく、御借給はる一軸を本尊として、有験《うげん》の僧を頼み、雨乞の祈念なしたるに、忽ち雨降り出し、田畑も潤沢なして愁ひをのがれたりしが、爰に不思議なる事は、御知行所の村境まで仕切りたる如く雨ふりて、他領は一向雨も降り候はずと訴ヘぬるとかや。奇妙なる事も有りしものなりとて丹羽氏の直談なり。今はなき人の数に入りて、今子孫の代なり。
[やぶちゃん注:「思出草紙」全十巻の奇談随筆。自序に『牛門西偶東隨舍誌』とあるが江戸牛込に住む以外の事績は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字で視認出来る。標題は「○南都の雨面」である。]
海士の炷さし【あまのたきさし】 〔屠竜工随筆〕九鬼殿の家老何某は在所にて大嵐の翌日海士《あま》の集り流木を拾ひて焚火してあたりたるに、その辺りゑもいはれざるかうばしき香の薫り渡りければ、人々その香を尋ねて浜に行きたるに、伽羅《きやら》の大木を火にくべてあたり居たるを、急ぎ海の潮をかけてしめし、領主にも公(おほやけ)にも奉る故に、件《くだん》の伽羅をあまの炷さしといふとなん。然るに『日本紀』にこれに似たる事あり。二事自然と合《あひ》たるにや。
[やぶちゃん注:「屠竜工随筆」江戸後期の随筆。作者は江戸中期の俳人小栗旨原(おぎりしげん 享保一〇(一七二五)年~安永七(一七七八)年)。江戸生まれ。清水超波に学び。服部嵐雪の句を纏めた「玄峰集」、榎本其角の付句を集大成した「続五元集」などを編集した。別号に其川・伽羅庵・百万(坊)・天府庵・元斎など。句集に「風月集」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「日本古典籍ビューア」の「日本古典籍データセット(国文研所蔵)」のここで、写本の当該部が視認出来る。
「『日本紀』にこれに似たる事あり」「大阪市立科学館」の雑誌『月刊うちゅう』のこちらに(二〇一二年六月号第二十九巻・PDF)の科学館学芸員小野昌弘氏の記事に、『日本書紀二十二巻には、推古天皇3年(西暦595年)に淡路島に沈香が流れ着いたという記載があり、島民たちは、それをただの流木と思い、薪として火にくべたが、とても良い香りがしたので朝廷に届けたとのことです。このとき流れ着いたのが約1mもある沈香だそうで、とても大きい物です』とあった。]