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カテゴリー「怪奇談集」の1000件の記事

2021/03/07

怪談老の杖卷之三 小豆ばかりといふ化物

 

   ○小豆ばかりといふ化物

 麻布近所の事なり。貳百俵餘(あまり)程取りて、大番(おほばん)勤むる士あり。

 此宅には、むかしより、化物ありと云ひけり。主人も左(さ)のみ隱されざりしにや、ある友だち、化物の事を尋ねければ、

「さして、あやしきといふ程の事にもあらず。我等、幼少より、折ふし、ある事にて、宿にては馴(なれ)つこに成りて、誰(たれ)もあやしむものなし。」

と、いひけるにぞ、

「咄しの種に見たきもの也。」

と望みければ、

「やすき事也。來りて、一夜(ひとよ)も、とまり給へ。さりながら、何事もなきときもあるなり。四、五日、寐給はゞ、見はづし給ふまじ。」

と、云ひけるにぞ、好事(かうず)の人にてやありけん、

「幾日なりとも、參るべし。」

とて、其夜、行(ゆき)て、寐(い)ぬ。

「此間なり。」

といふ處に、主人とふたり、寐て、はなしけるが、さるにても、『いかなるばけものにや』と、ゆかしき事、かぎりなし。主(あるじ)に尋れば、

「まづ、だまりて、見たまへ。さはがしき夜(よ)には、出(いで)ず。」

と、息をつめて聞居(ききをり)ければ、天井の上、

「どしどし」

と、ふむ樣(やう)なる音、しけり。

「すはや。」

と聞居ければ、

「はらり」

「はらり」

と、小豆(あづき)をまく樣なる音、しけり。

「あの、おとか。」

と、きゝければ、亭主、うなづき、小聲になりて、

「あれなり。まだ、段々、藝あり。だまつて、見給へ。」

と、いひければ、夜着をかぶり、いきをつめて居けるに、かの小豆のおと、段々に、高くなりて、後(のち)は、壹斗(いつと)程の小豆を、天井の上ヘ、はかる樣なる體(てい)にて、間(ま)ありては、また、

「はらはら」

と、なる事、しばらくの間にて、やみぬ。

 また、聞ければ、庭なる路次下駄(ろしげた)、

「からり」

「からり」

と、飛石(とびいし)のなる音して、水手鉢(てうづばち)の水、

「さつさつ」

と、かけるおと、しけり。

「人や、する。」

と、障子をあけて見ければ、人もなきに、龍頭(りゆうづ)のくびひねりて、水、こぼれ、又、水、出(いで)やむにぞ、客人も驚きて、

「扨々、御影(おかげ)にて、はじめて、化ものを見たり。もはや、こはき事は、なしや。」

と、いひければ、

「此通りなり。外に、なにも、こはき事なし。時々、上より、土・紙くづなど、おとす事あり。何も、あしき事はせず。」

と、いはれける。

 其後、かたりつたへて、心やすきものは、皆、聞きたりけれども、習ひきゝては、よその者さへ、こはくも、おもしろくも、なかりけり。

 まして其家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。

 しかれども、かの士、一生、妻女なく、男世帶(をとこじよたい)にて暮されけり。妾(めかけ)ひとり、外(そと)にかこひおき、男女の子、三人ありけり。

 女などのある家ならば、かく、人もしらぬ樣にはあるべからず、いろいろの尾ひれをつけて、いひふらすべし。

 「世の怪談」とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて、猫の尾をさぐりあて、又は、鼠に、ひたひをなでられなどして、云ひふらす咄し、多し。

 この「小豆ばかり」は、何のわざといふ事を、しらず。

[やぶちゃん注:「小豆ばかり」これは「小豆計り」で、あたかも小豆を計量するために升にでも移しているかのような音を立てるこちに因むのであろう。最後のややくだくだしい「当世怪談考」らしきものや、その前の大番の主人の私生活を細かに描写するなど、かなりリアリズムに徹しようとする姿勢が見られ、妖怪「小豆研ぎ」なんどの眉唾ではなく、ポルター・ガイスト(Poltergeist)現象の都市伝説の真実味を、いや増しにさせる手法など、他の江戸怪談にはまず見受けられない、はなはだ上手いと私は思う。

「大番」将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。大番頭の下に与力が配され、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。

「路次下駄」露地下駄(ろじげた)に同じ。本来は雨天や雪の場合に露地を歩く際に履く下駄で。柾目の赤杉材に竹の皮を撚(ひね)った鼻緒を付けた下駄。数寄屋下駄(すきやげた)とも呼ぶ。ここは私邸内の庭下駄。

「龍頭(りゆうづ)のくび」筧などで引き込んだ水か、高い位置に桶を設えて竹などで蛇口・水栓を作ってあるようである。なかなかお洒落だ。今まで、こうした手水鉢の細部描写は私は見たことがない。]

怪談老の杖卷之三 吉原の化物

 

   ○吉原の化物

 和推(わすい)といへる俳諧師ありけり。或とき、人にいざなはれて新吉原へ行(ゆき)しに、夜更(よふけ)て、

「用事を、かなへん。」

とて、厠へ行ぬ。

 いたく醉ければ、足もとも定らず、ふみまたぎて、たれんとしけるが、何やらん、ある樣に覺えければ、よく見るに、女の首なり。

「ぎよつ」

と、せしが、不敵なる法師なりければ、少(すこし)もさわがず、

「そつ」

と、外へ出て、覗きてみて居(をり)ければ、此首、ふりかへり、笑ふ體(てい)、死(しし)たる者に、あらず。

 法師、手をのばして、髮をからまき、引(ひき)ければ、首ばかりにてはなく、紅(べに)がのこの、古き小袖を着たる女なり。

「ぐつ」

と、引(ひき)あげければ、上へ引出(ひきいだ)しぬ。

 裙(すそ)は、不淨にそまりて、くさき事、堪(たへ)がたし。

「何ものぞ。」

と、いへど、笑ふばかりにて、あいさつなし。

 和推、若き者をよびて、

「しかじかの事ありし。」

と云ひければ、はしり來りて見て、

「手前の女郞衆(ぢよらうしゆ)なり。此比(このごろ)、時疫(はやりやまひ)を煩(わづらひ)て、引(ひき)こみ居(をり)しが、いつの間に、はいりぬらん、むさき事かな。」

とて、皆、よりて、裸にして、水をかけ、洗ひけり。

 和推、打(うち)わらひて、

「扨は。ばけものゝ正體見たり。『左あらん』とおもひし事よ。」

とて、事もなげに、二階へ上りて寐(い)ぬ。

 翌朝、若い者方(ものがた)より、いひ出して、みな人、和推が心の剛(かう)なりし事を感じけり。

 うろたへたらん武士は、及ぶまじき、ふるまひなり。

 酒をよく飮みけるが、是等は「上戶(じやうご)の德(とく)」ともいふべし。

 韓退之(かんたいし)が文集の中に、厠の神の崇(たたり)にて、厠へ入りし事ありしと覺へぬ。よからぬ【不祥。】[やぶちゃん注:「よからぬ」の傍注。]事なるべし。

[やぶちゃん注:疑似怪談だが、短篇ながら、映像と臭いがよく伝わってくる。

「和推といへる俳諧師」享保年間の江戸の俳諧師に和推(二世調和)が実在する。松尾真知子氏の論文「享保時代の江戸俳壇 和推(二世調和)の動向」PDF・『国文論叢』一九九四年三月発行所収)参照。

「新吉原」浅草北部にあった遊郭。サイト「錦絵でたのしむ江戸の名所」のこちらによれば、当初は日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東側(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に開設されたが、明暦二(一六五六)年に移転を命ぜられ、翌年の「明暦の大火」の後、浅草千束村(吉原弁財天本宮をポイントした)へ移った。これ以前を「元吉原」、以後を「新吉原」と呼ぶ。最盛期には三千人の遊女を抱えており、『日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために「見返り柳」と呼ばれる。周囲には「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門一か所として、遊女の脱走を防いだ。中央の大通り「仲之町」には、春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出した』とある。このサイトはヴィジュアルが豊富でとても楽しい。お薦めである。

「法師」僧だったわけでは無論、ない。俳諧師は僧形だったから、かく言ったものである。

「紅がのこ」「紅鹿子」。

「むさき事かな」ここはもろに「きたならしい限りじゃ!」。

「韓退之が文集の中に、厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」中唐の詩人・思想家で「唐宋八家文」の一人韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。儒家でも特に孟子を尊び、道教・仏教を排撃したことで知られ、柳宗元とともに「古文復興運動」に努めた。「厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」(便槽に落ちたということであろう)という話は知らない。識者のご教授を乞う。

「よからぬ【不祥。】事なるべし」これは一応、この厠の中に落ちてしまった女郎を限定しているととっておく。]

怪談老の杖卷之三 美濃の國仙境

 

怪談老の杖卷之三

 

   ○美濃の國仙境

 陶淵明が桃源、劉氏が天台を始(はじめ)として、古今、仙家に遊べる說、甚(はなはだ)多し。多くは是、譬喩寓言、茫として影を捕ゆる[やぶちゃん注:ママ。]が如く、實跡を知る事なし。操觚(さうこ)風流の士の前にいふべくして、田夫野翁の疑惑をして、渙然(くわんぜん)たらしむること、あたはず。予、常に是を恨みとす。然るに、一日(ひとひ)、奇異の話を聞(きけ)り。

[やぶちゃん注:「陶淵明が桃源」言わずもがな、六朝の東晋末・宋初の名詩人陶潛(三六五年~四二七年)の散文「桃花源之記」。武陵 (湖南省) の漁夫が舟に乗って道に迷い、桃の林の中を行くうち、異境に達したが、そこは秦(統一国家成立は紀元前二二一年で紀元前二〇六年に滅亡)の頃に戦乱の世を逃れて隠れ住み、外界との接触を絶っている人々の村であったという。「桃源境」という語の由来となり、古代ユートピア思想の一典型として後代に大きな影響を与えた。本来は「桃花源詩」という五言詩に附せられた記であるが,陶淵明の著と仮託されている文言志怪小説集「捜神後記」にも収められている。

「劉氏が天台」「劉・阮、天台」。「列仙全傳」(前漢末の官僚劉向(りゅうきょう 紀元前七七年~紀元前六年)作とされるが、仮託で、後漢の桓帝(在位:一四六年~一六八年)以降の成立と推定されている)巻三や、六朝の志怪小説集「幽明錄」載る遊仙譚。「桃花源之記」に似ている。漢の漢の永平五年(西暦六二年)、劉晨(りゅうしん)と阮肇(がんちょう)の二人が薬草採りに天台山に分け入ったが、道に迷って十三日も歩き回ったものの、帰れなかった。飢えて死が迫った。その時、遙かな山巓に一本の桃の木があって、沢山、実がなっているのを見つけ、苦労して攀じ登り、その桃の実を食って元気を取り戻した。かくして山を下り、谷の水を飲んでいると、上流から蕪の葉が流れてき、またその後に胡麻飯を持った杯が流れてくるのを見つけた。これで人家があると知り、更に山を越えて行くと、大きな谷間で、二人の美人と出逢った。二美人が二人を家に導くと、そこは豪華な御殿で、多くの侍女もいた。二人はそれぞれこの二美人の婿となった。しかし十日経って、二人が帰りたいと言い出すと、前世からの福運でここに来たのだ、と説明して帰さず、そのまま半年が過ぎた。再び、帰還を望むと、罪業に引きずられているのだから仕方がない、と帰した。帰ってみると親類縁者や知人は総て死に絶えていて、村も全く変わっていた。訪ね当てたのは自分らの七代後の子孫であった。晋の太康八年(三八四年:行方不明になってから実に三百二十二年後)、二人は姿を消してしまったという。この中の仙境歓楽の様子が「劉阮天台」と称する画題となり多く描かれている。原文は私の「三州奇談卷之一 鶴瀧の記事」に示してあるので参照されたい。

「操觚」「觚」は「四角い木札」で古代中国に於いてこれに文字を書いたことから、詩文を作ること、文筆に従事することの意。

「渙然」疑問・迷いなどがすっかり解けるさま。]

 

 京都西の洞院わたりに、荻沼(をぎぬま)半右衞門[やぶちゃん注:不詳。]といへる書生あり。弱冠[やぶちゃん注:数え二十歳。]の頃、美濃の國へ用事ありて行(ゆき)けるが、日暮(ひぐれ)て、逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:旅宿。]にやどりけるが、いまだ、日、高かりければ、やどの門先(かどさき)にたゝずみて、山川(さんせん)の氣色(けしき)など詠(なが)めたゝずみ居(をり)けるに、越後の大守、通りあひければ、逆旅のあるじ、年頃、七十有餘の老人、はしりいでゝ、いかにも屈敬(くつけい)の色をなし、餘所(よそ)ながら、拜する體(てい)也。何心もなく、見て居るうち、日もくれはてゝ、燈火(ともしび)つくる頃なれば、半右衞門は、傍(かたはら)により臥(ふし)て、まどろみける。

 暫くありて、外より、是も、よはひ高く、よし有りとみゆる老人、來りて、主人と物語りし、酒など出(いだ)して、くみかはす體(てい)、こと外の中(なか)と見えて、たがひに奥底(あうてい)なき[やぶちゃん注:心の隔たりが全くない。]體なりしが、やがて、床(とこ)の上の書物を出し、會讀(くわいどく)[やぶちゃん注:同じ書物を読み合って、その内容や意味を考え、論じ合うこと。]するを、半右衞門、

『何ならん。』

と、耳をそばたて、聞ければ、易の文言をよむなり。たがひに、義理など、解せざる處は問ひあひ、通ぜざる所に至りては、

「扨も。邊鄙(へんぴ)のかなしさ、尋問(たづねと)ふべき師友もなき事よ。」

と、歎息する事、たびだびなり。

 半右衞門も奇特におもひ、聞けるが、技癢(ぎやう)[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくてうずうずすること。「癢」は「かゆい」或いは「はがゆい・もだえる」の意。]に堪(たへ)かね、おきなをりて、圍爐裏(ゐろり)へより、火にあたり、

「是は。御奇特に。御書物のせん義したまふ事よ。」

と、いひければ、主(あるじ)いふ樣は、

「御恥しく候へども、われら、幼少よりのすきにて、か樣に打寄、よみ候へども、あけてもくれても、兩人より外、友もなく、誠に固陋(ころう)[やぶちゃん注:古い習慣や考えに固執して新しいものを好まないこと。]寡聞、京都の御方(おかた)などへは、御耳に入るとも、憚(はばかり)なり。その上、草臥(くたぶれ)給ひて、ねむくおはしまさんに、御耳の端にて不遠慮の段、御免あれ。御酒(ごしゆ)など、召上れよ。」

とて、杯(さかづき)をさしけれぱ、半右衞門、

「われらも、書籍、好み申て、いさゝかの儒者にて候が、かやうに靜(しづか)なる山中にて、御樂しみあるは、羨しき義なり。拙者などは儒業(じゆぎやう)の名のみにて、ケ樣(かやう)に風塵に奔走して、年中、安き事もなく候。」

と、いひければ、兩人、手をうちて、

「何。儒を業となさるゝとは、耳よりなり。我等、師友を求めし誠(まこと)、天に通じ、今宵、君の此處にやどり給ひしものならん。」

と、悅び、なゝめならず、

「平(ひら)に。是へ御出ありて、御苦勞ながら、御講釋、賴む。」

よし、誠におもひ入(いれ)て云ひければ、

「是も、ふしぎの御緣なり。」

とて、絕(たえ)て[やぶちゃん注:全く。]辭する色もなく、紙、四、五枚が程、講釋したり。

 元來、半右衞門、能辨にて、義理明らかに述べければ、みなみな、なみだをながし、悅び、

「ひらに。二、三日も逗留。」

と、留めけれど、

「用事あれば、罷越也(まかしこしなり)。歸りには、また、逗留して御世話になるべし。」

と立別れて、用事、おはりて、歸路に趣きければ、はや、其家の子共など、酒肴(しゆかう)を調へ、道まで迎(むかへ)に出て、

「大方、今日御歸りと被ㇾ仰候間、迎に來りたり。」

とて、殊の外、馳走し、兩人家(りやうにんいへ)より、子供、殘らず、つれ來りて、

「われらは老人にて、もはや、行末、賴みなし。忰どもを弟子に上げ申たし。」

とて、すぐに、師弟子の杯など取かはし、留(とど)めおきて、いろいろ、馳走しける。

 あるじの翁、

「本(もと)は、越後、家(いへ)にて、名ある家なりしが、彼(かの)家の騷動のみぎり、御暇(おいとま)給はりて、もはや、武家の望みもなければ、此所にて、兩人ともに、田宅を買て、世をやすく暮す也。」

と、その外、いろいろ、めづらしき物語をしけるが、

「何も御馳走もなければ、此奧に内津(うつつ)といふ山奧に友達の侍るが、是は此方共(このはうども)と違(ちがひ)て、殊に風流なる老人にて、おもしろき處なれば、同道して御知(おし)り人(びと)に致し申べし。」

とて、いて、二里計りも行けば、内津の山へかゝる。

[やぶちゃん注:越後の御家騒動は江戸前期にもあるが、本書は宝暦四(一七五四)年序であり、今までの話柄も比較的近い時制の設定を行っているから、これは江戸中期の越後高田藩松平家に起った「越後騒動」である。藩主光長は江戸在府が長く、国政の実権は光長の妹婿であった家老小栗美作守正矩や糸魚川城代荻田主馬らにあった。延宝二(一六七四)年、光長の嫡子綱賢(つなかた)が亡くなり、光長の弟永見長頼の遺子万徳丸が一旦は養嗣子となったが、荻田や光長の弟永見長良(ながみながよし:大蔵)ら、「家老小栗が自分の子掃部(かもん:大六(だいろく))を嗣子にしようとしている」と批難して対立、抗争に及んだ。幕府は荻田一派を非として処罰したが,荻田一派は将軍代替に伴い、再審を要求し、天和元 (一六八一) 年、綱吉の親裁により、小栗・荻田両派ともに処断。藩主光長は城地没収の上、伊予松山藩にお預けとなり、万徳丸も備前岡山藩預りとなった事件であろう。

「内津」初めて具体な地名が登場する。旧美濃で、この名で、山深いとなると、現在の愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ内津峠(うつつとうげ:標高三百二十メートル)か(グーグル・マップ・データ航空写真)。当該ウィキによれば、「日本書紀」には、『日本武尊が当地で副将軍の建稲種命』(たけいなだねのみこと:豪族で尾張国造の一人)『が水死したという報を聞いて、「あゝ現(うつつ)かな」と嘆き悲しんだことが地名の由来とされている』とあり、『江戸時代には中山道での輸送に使われて』いたとある。この「うつつ」の意味も逆接的に仙境に利いていて、なかなかいい。]

 

 其土地、淸川(せいせん)、ながれ、岩組(いはぐみ)、おもしろく、山々、幾重も入りまじはりて、行(ゆく)に順(したがひ)て、景色、かはり、中々、詞(ことば)に盡しがたし。

 通(とほり)より、左のかたへ、ふみわけたるに、徑(こみち)のあるより、入(いり)て、谷へ下り、また、山へ登りて、木立深き中に、白壁づくりの家、見へたり。

 大きなる門がまへにて、藏も幾むねといふ事なく、人も、おびたゞしく見へて、大きなる伽藍のごとくなる家にて、酒を造り、紙を漉(すき)、いろいろの業(わざ)をなす體(てい)なり。

 あるじは、年ごろ、六十あまりなるが、

「客來(きやくらい)。」

と聞(きき)て、門まで迎ひに出(いで)て、

「京都よりのまれ人とは、貴客の事にて侍(はべら)ふか。よくこそ。」

とて、坐敷へ伴ひ、種々の名酒・佳肴を備へて、饗應する事、かぎりなし。

 半右衞門も、あまりいたみ入りけれど、奧底なきもてなしに、興に乘じ、折からの詩作など、あいさつして居(を)るうち、小さきわらはの、きよげなるが出來りて、

「用意よく候。」

と申ければ、

「いざ。こなたへ。」

と、先へたちて、案内しければ、なほ、奧ふかく入りけるに、其坐敷の結構、言葉に述べがたく、庭には、名もしらぬ名花・名草、區(く)をわけて、樹(たて)ならべ、前には、諸山、開きわかれて、畫圖のごとく、庭におりて、くつをはき、白き石のしきならべたる一筋の道を行(ゆく)こと、百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル。]計り、樹木のうちに入りて、夫より谷を下(くだ)りければ、自然のいはほを畫(ゑがき)たる[やぶちゃん注:比喩で「彫琢した」の意であろう。]流水あり。はしなどの結構なること、言葉、及ばず。

 それより、亭ありて、「彩霞亭」と額をうちたり。

 此内に美女、十六、七より十二、三の女子(をんなご)、十人ばかり居ならびて、珍膳をさゝげ、歌舞をなす事、京都の繁華といへども、いまだ見きかざる樂(たのし)みなり。

 かく、結構なる所、此山中にあるべしとはおもひよらず、

『若(もし)、狐狸などの化(け)するや。』

と、あやしき程なれば、暇乞(いとまごひ)して歸らんとしけるを、せちにとめられて、夜もすがら、諷(うた)ひ、舞ひ、さまざまの風流をつくし、翌日、馬などしたてゝ、送りかへしける。

 跡にて、委しく聞けば、此やどの老人の、おや、世にありしとき、召仕ひたる奴(やつこ)なるに、かく大きなる身上(しんしやう)になりしとかや。

 老人の浪人せしきざみも、早速、來りて、

「かならず、かならず、外(ほか)へゆき給ふ事、なかれ。」

とて、引(ひき)とりて、我が近所におき、

「忠勤、おとろへざりし。」

と、いヘり。

 あるじは、六十計(ばかり)とみえしが、やどの老人のいふは、

「あれにても、九十ばかりなるべし。われら、十ばかりになるとき、美濃へ引こみたりしを覺へおれり[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いへり。

「子孫、みな、長壽にて、家内、弐百人餘(あまり)暮しける。」

となん。

 夫より、半右衞門も、折ふしは行きて、十日程づゝ逗留しけるが、誠に素封の富、南面、王の樂しみを極め、語(ことば)も心もおよばぬ榮華どもなりし。

 今も、榮へおれるや、しらず。

 半右衞門、のち、江戶靑山に來りて、名高き儒者となれり。

[やぶちゃん注:「南面、王の樂しみ」中国では古くより、天子は臣下に対面する際に陽の方位である南に面して座ったことから、天子となって国内を治めることを指し、ここは、それでのみ得られるような至上の歓楽を指す。]

2021/03/05

怪談老の杖卷之二 多欲の人災にあふ / 怪談老の杖卷之二~了

 

   ○多欲の人災にあふ

 元文年中の事なり。

 江戶中橋に上州屋作右衞門とて、質・兩替などする商人の娘に、お吉とてありけり。生れ付も、なみなみなる娘なりしが、殊の外、癪もちにて、折ふし、さし、おこりては、氣絕する事、度々なり。

「やがて、人にも嫁する年ぱいなれば、病身にてはよろしからず。湯治にても、さすべし。」と云けるが、幸(さひはひ)、高崎に父方の伯父ありて、江戶へ見舞に來りけるにたのみ、伊香保の湯へ、下女一人添て、遣はしける。

 伯父方にて、暫く休息し、程近ければ、夜具・衣類は勿論、朝夕の菜の物まで馬一駄(むまいちだ)につけて、お吉をのせ、伯父、付添ひて、湯主(ゆぬし)金太夫といふもの方におちつき、養生しけるに、癪氣、段々に、心よく、中々、うつて、かはりたる樣子なれば、江戶へも書狀、遣はし、伯父も事なき機嫌なり。娘も、

「江戶よりは、氣もはれやかにて、よし。」

とて、三廻(みまは)りの餘(あまり)もありて、中々、江戶へ歸らんとも云はざりければ、伯父も、

「其體(てい)ならば、ゆるりと保養すべし。我も宿へ久しく見舞はねば、二、三日、高崎へ行て、また、來るべし。下女のさよを殘しおくなり。男ぎれなくて[やぶちゃん注:男っ気(け)がなくて。]、心細く思はんが、隣部屋の藤七殿をたのみおく間、萬事、此人をたのむべし。」

とて、爰かしこへ賴みおきて、高崎へ行きぬ。

 お吉も、はや、湯治なれ、友だちも多ければ、

「少しも心細きこともなく、かならず、私(わたくし)事は、あんじずとも、御宿の御用そまつになき樣に御したゝめ被ㇾ成(ならる)べし。江戶へも、文(ふみ)遣はし候まゝ、御たよりに屆け給へかし。おさよばかりにて、少しも、さびしき事なし。」

とて、至極、きげんよく、出(いだ)し立(たて)てやりぬ。

 此藤七と云ひしは、隣の部屋をかりて湯治しけるおとこにて、越谷(こしがや)邊のものなるよし。少し、いなかにて、小淨瑠璃にても語り、十分あぢをやるとおもふて居る男なるが、お吉が江戶風のとり廻はし、小(こ)りゝしきに、腰をぬかし、晝夜、入(いり)びたりて、

「折(をり)もあらば、口說きおとさん。」

と、いろいろ、おかしき身ぶりをし、いやらしき事計(ばかり)しかけける。

 お吉は、江戶のまん中にて、朝夕、當世風の男を見て、心のいたりたる上、みかけと、ちがひ、おとなしく、じみなる生れなれば、此田舍をとこを、うるさがりて、下女のさよを相手に、常に笑ひものにしける間、藤七おもひ入(いれ)、ひとつも、きかず。

 依(より)て、しあん[やぶちゃん注:「思案」。]して、伯父に取入り、尤(もつとも)らしくみせかけけるを、高崎の伯父、まうけにして、さい[やぶちゃん注:「菜」。飯のおかず。]ひとつ、拵へても、藤七方へおくり、手前にも、めづらしき料理出來れば、よびなど、殊の外、心やすくしたり。依ㇾ之(これによりて)、

「此度、高崎へ行(ゆく)あとは、こちへ來て寐てたもれ。お吉がさびしがるもしれぬ程に、そば、はなれぬ樣に、たのみます。」

など、賴み置きける。

 田舍の人の、慮(おもんぱか)りなきこそ、きのどくなれ。

 藤七は心にゑみをふくみ、

「伯父の留主(るす)に本意(ほい)を達せん。」

と、隨ぶん、色目をさとられず、賴もしく出(いだ)しやりて後は、自分の行李など、はこび來りて、偏(ひとへ)に、我がやどの如くしけるを、お吉は、

『うるさき事かな。』

と、おもひけれど、伯父の云ひつけなれば、力およばず、只、

「あい、あい。」

と計り、いふて、よらず障らず、ずいぶん、下女に内せういふて[やぶちゃん注:「内證言ふて」。こっそりと伝えて。]、そば、はなれぬ樣にしけるが、此下女も、守(も)り人の隙(ひま)なく、ふと、近所ヘ行(ゆき)、はなしける内に、かの藤七、小(こ)したゝるく口說(くどき)て、いろいろ、おどしごとなど云ひて、

「よしよし。此願、かなはずば、さしころして、我しなん。」

といふ樣に云ひけるにぞ、娘も恐ろしく、一寸(ちよつと)のがれに、

「いか樣(やう)とも。」

など、だまし、今宵、あふべき筈に云ひおき、

『下女、歸らば、迯やせん。家ぬしへや、斷らん。』

など、おもふうち、持病のしやく、再發して、むな先(さき)、板の如く、齒を喰ひしめ、

「うん。」

と、そりかへりぬ。

 藤七は、

「なむ三寶。」

と、下女をよびて、

「やれ、お吉どのが。」

といふより、やどの亭主もかけつけ、さわぎまはりぬ。

 藤七、生得(しやうとく)、淫欲ふかきものなるが、さき程より[やぶちゃん注:以前から。]、お吉がこと、よくいひなだめしを、僞(いつはり)とはしらず、欲情、火のごとくおこりければ、看病にかこつけ、

「それ、氣付(きづく)。」

と云へば、自(みづか)ら、口うつしにのませ、後(うしろ)よりだきしめなど、せわしき中に、ひとり、樂しみ居ける内、お吉、少し、人心ちつきて、みれば、藤七、我を抱(いだ)きて介抱する體(てい)。いよいよ、うるさくものはいはれず、只、顏をふり、いろいろするを、さよは、さつして、

「わたしが代りましよ。藤七樣、ちと、おやすみ。」

といへど、藤七、はなさず。

 その内、みなみな、歸り、藥などのませて、少しは、しやく、しづまりし樣なれど、舌、すじばりて、呂律(ろれつ)わからず、殊の外になやみけるを、藤七も、誠のなみだをながし、いろいろ看病しけるが、とかく、その夜も、くるしがるものを、とらへ、いろいろ、ばかをつくしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、お吉は、氣をもみて、[やぶちゃん注:ここ、以下のシーンとつながりが上手くない。脱文があるか?]

「うん。」

と、のつけに、そりけるが、ふびんや、こと切(きれ)て、むなしくなり、宿のさわぎ、さよがなげき、よりくる人々、

「いとしや、いとしや。」

と計りにて、もはや、灸も通ぜず、次第に冷かへりてければ、此よし、又々、高崎へも追飛脚(おひびきやく)を出(いだ)し、死骸へは、屛風、引廻し、次の間に伽(とぎ)の人もあつまりけるが、皆、他人の水くさゝは、誰(たれ)なげくものもなく、藤七が、噂まじりに高笑(たかわらひ)して居(ゐ)けるうち、高崎の伯父、眞靑になりて、

「隨分、いそぎしが、間にあはざりし無念さよ。皆さまにも、さぞ、御世話。」

と、一禮、云(いひ)て、屛風の中(うち)へはいり、

「やれ、お吉か。かはいや。」

と、かけたるふすまを、まくりければ、こは、けしからず、藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。

 伯父も、

「ぎよつ。」

とせしが、

『他國の人の中、なまじいなる事をいひ出しては、外聞あしゝ。』

と、にくさまぎれに、したゝか、つらを、くはせければ、目をまはして、赤面して、迯(にげ)て出けり。

 扨、お吉なきがらをば、高崎の寺へ葬り、さよを付(つけ)て、始末をきゝ、後悔すれども、甲斐なき事なり。

 此事、湯入(ゆいり)どもより、宿へ吹(ふき)こみ、

「藤七は、ばか者なり。久しく、さしおくは、よろしかるまじ。」

と、宿の亭主、片わきヘよびて、

「そこ元、高崎の客衆の事、以の外の事也。江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり。お爲(ため)を存じて申間(まうすあひだ)[やぶちゃん注:意味不明。「どうしようもないお前さんのことを、まんず、考えて、好意で申すのだが。]、今日中に、在所へ歸り給へ。」

と、おどしければ、

「よくこそ、しらせ下されたり。」

とて、こそこそと、荷物を拵(こしらへ)、出(で)て行(ゆき)けり。

 扨、二、三日すぎて、處の子供、見付出して、

「おくの谷かげに、かの藤七、亂心して、いろいろに狂ひ居(を)る。」

と云ひければ、げん氣なる湯入(ゆいり)ども、

「それ、ぶちころせ。」

とて、二、三十人、

「我(われ)おとらじ。」

と、山へ行けるが、はるかの谷底に、藤七、さばき髮になり、帶も、ときひろげ、下帶もいづ方へおとせしや、所々、血だらけなるなりにて、ばうぜんと居たり。

 そばに、大(おほい)なる木の、たをれて朽(くち)たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會[やぶちゃん注:「まぐはひ」と当て訓しておく。]する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしけるにぞ、みる人、面(おもて)を掩(おほ)ひて、二目と見る人は、なかりけり。

 すべて、溫泉ある地は、中にも、山神(やまのかみ)の靈(れい)、いちじるく、婦女など、おかし、あなどるときは、罰を蒙ることあり。ことに、人、死して神靈なり。きたなき身を以て、神靈をけがし、山神を、あなどりし冥罰(みやうばつ)、立どころにむくひて、途中より亂心し、此山中へ入りしものならん。

「さるにても、心がらとはいひながら、むごき事なり。」

とて、だましすかして、山へともなひ來り、山の神へ御わびを申し、又々、入湯させければ、快氣したりけれど、右の恥辱、人の口に留(とどま)りて、在處(ざいしよ)へも、もどりがたく、乞食の樣(やう)になりて、いづちともなく、うせぬ。

 若き娘持(もち)たる人、又、わかきものなど、あとさきの勘(かんが)へなく、色に耽(ふけ)るものには、よき禁(いまし)めなれば、怪談といふにはあらねども、記しおき侍りぬ。

[やぶちゃん注:最後に遠慮して但し書きするが、何の! 見事な怪談である!!! 標題は「多欲の人、災(わざはひ)にあふ」である。

「元文年中」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。

「江戶中橋」中橋は複数地名に含まれるが、一番知られているのは、中橋広小路か。現在の中央区日本橋三丁目及び八重洲一丁目に相当する。中橋という橋があった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「上州屋作右衞門」不詳。

「癪」近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ぬまま、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていた俗称の一つ。単に「積(せき・しゃく)」とも「積聚(しゃくじゅ)」とも呼ばれ、また、疝気(せんき)と結んで「疝癪」などとも称した。平安時代の「医心方」には、陰陽の気が内臓の一部に集積して腫塊を形成し、種々の症状を発する、と説かれ、内臓に悪しき気が過剰に溜まって腫瘤のようなものができ、発症すると考えられていた。癪には日本人に多い胃癌なども含まれたと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「湯主(ゆぬし)金太夫」伊香保温泉には同名の温泉ホテルが現存する。私も、昔、泊まったことがある。

「三廻(みまは)り」この「まはり」は助数詞で、この場合は祈願・服薬などで、七日を一期として数えるのに用いる。三週間。

「越谷」埼玉県越谷市

「あぢをやる」気のきいた、味なことが出来る。

「とり廻はし」全体の風体(ふうてい)や物腰。

「小(こ)りゝしき」ちょいと凛々(りり)しい感じで。「小」はいい意味で、「わざとらしくない」ことを添える接頭辞であろう。

「まうけにして」渡りに舟として。ちょうど、いい男手と心得て。

「守(も)り人の隙(ひま)なく」ちょっと意味がとりにくいが、「守り人」は「お吉を守る人」の意で、それが「隙なく」=「ひっきりなしであり」、それで、時に気が緩んで、ちょっと近所に行って世間話がしたくなって、と続くのであろう。本篇、やや表現にこなれない部分が散見されるのが、玉に疵である。

「小したゝるく」「小舌怠く」。物の言い方が何となく(「小」)甘えたような調子であるさま。

「板の如く」非常に気になる発作症状である。この形容は見た目が、硬い板のようなかっちかちになっているか、身体が板状にピンと張ってしまったことを意味するとしか私には思われないからで、通常の「癪」というのは腹部や胸部激しい「差し込み」が発生して、しゃがみこんだり、中腰になって動けなくなることが私の知る限りでは、殆んどだからである。しかし、この表現は寧ろ、重い癲癇やヒステリー患者に見られる、頭と足先だけが床についてそのまま体が弓なりになって硬直する「ヒステリー弓(きゅう)」発作を想起させるからである。私は一つ、彼女の疾患はそうした重度の精神病であった可能性がある。内因・外因・心因かは判らないが、伊香保に来てすっかり平静になったこと、藤七の横暴によって再発したことから、これ自体は心因性のそれであるように思われる。但し、最後の死因は心不全であろうから、もともと(恐らくは先天的に)心臓に重い奇形或いは疾患があったものかとも思われる。

「口うつしにのませ」気付け薬を。

「せわしき」「忙(せわ)しき」。

「いろいろ、ばかをつくしける」所持する活字本は「ばか」は「破家」とある。意味不明。「いろいろ」とあるから、「はか」は「計・量・果・捗」で、「てごめ」にするための「種々の目論見」の意かと考えたが、一方で、これは「破瓜」で、処女を犯して交接することを暗示させているのではないか? とも疑った。この疑いは、最後の藤七の狂態をよく合うからでもある。

「のつけに」このままだと「最初に」だが、一度、発作で昏倒しているのだから、ピンとこない。「乘りつけに」で「上方へ向かって」で、伸び上がるように、急に、また、卒倒したのではないか?

「追飛脚を出し」追加の飛脚。書かれていないが、「さよ」は最初の発作の直後にその知らせを早飛脚で出しているのである。だから、伯父がこの直後にすぐに来たのである。

「かはいや」「可哀そうに」。

「ふすま」「衾」。今の掛布団相当。

「けしからず」「あるまじきことに」・「常識外れにも」・「異様にも」。ハイブリッドでいい。

藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。

「なまじいなる事」異様なことは誰にでもわかることだから、敢えて口にすることは、事態を悪化させると考えたのである。

「くはせければ」殴ったところ。

「湯入ども」藤七のことを前から知っていた常連の湯治客。

「宿へ吹(ふき)こみ」宿の者に聞えよがしに批判を吹聴したのである。

「江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり」これは金太夫の懲らしめのための作り話である。すんなり出払ってもらうための嚇しである。さればこそ、敬語がふんだんに使われていても、所謂、「慇懃無礼」そのものなのである。

「下帶」褌(ふんどし)。

「なり」「形(なり)。

「ばうぜん」「呆然」。

「そばに、大なる木の、たをれて朽たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしける」ここが本篇の肝(キモ)の部分である。いいね!

「いちじるく」(その山の神の霊力は)想像を絶して激しく猛く。

「ことに、人、死して神靈なり」殊に、人であっても、亡くなれば、それは神霊となるのである。

「山へともなひ來り」彼が狂乱していたのは谷陰であった。]

2021/03/03

怪談老の杖卷之二 貉童に化る

 

   ○貉童に化る

 是も上總への田舍にて、秋の頃、「すぐりわら」をするとて、そのくずわら、百姓の門口(かどぐち)にしきて、和(やは)らかなれば、童(わらは)どもの、あつまりて、「かへりごくら」をする事あり。

 あるとき、長太郞といへる童、弐、三人の友だちと、れいの「とんぼがへり」をして、餘念なく遊び居(をり)けるに、ひとりの童、きるものを、あたまよりかぶりて、貌(かほ)をかくし、ひたもの、

「くるり くるり」

中返りを、しけり。

 かの童ども、始(はじめ)は、

『友のうちなるべし。』

と何心なく居けるに、ものもいはず、貌もみえねば、

「誰(たれ)じや、誰じや。」

ととがめても、ものも、いはず。

『じやれてかゝる。』

と、おもひて、かぷりたるあはせを取らんとすれば、

「きゝ」

と、いひて、はなさず、皆、よりて、手をさしいれ、うでをとらへんとしければ、毛の、

「むくむく」

生ひたるに驚きて、

「ばけ物よ。」

と、さわぎければ、おとなしきもの共(ども)、立出(たちいで)て、棒など、持出(もちいだし)けるを見て、かの、あはせをかぶりしまゝにて、林の中へはい[やぶちゃん注:ママ。]入りけるを、

「それよ、それよ。」

と追かけければ、のちは、あはせをうちすてゝ、大(おほい)なるむじなの姿を、あらはして、ましぐらに、かけ行(ゆき)ける。

 かの長太郞、のちに、をとこになりて、堀留(ほりどめ)邊に奉公して居(をり)たるが、直(ぢき)にかたりぬ。

 かの男は、僞(いつはり)などいふものにあらねば、實事なるべし。

[やぶちゃん注:「貉」(むじな)は「狸」の意でとる。

「すぐりわら」農具に使う藁を選別すること。

「かへりごくら」不詳。しかし「こぐら」には「腓(こむら)」「ふくらはぎ」の意があり、直後に『れいの「とんぼがへり」』という表現が出るから、「蜻蛉返り」、宙返り前屈反転の遊びを言っているものと思われる。

「ひたもの」副詞。ひたすら。矢鱈と。

「じやれてかゝる」「戲(じゃ)れてかかりよって!」「悪(わる)ふざけして、戯(たわむ)れやがってからに! 堪忍なんらん!」といった苛立ちの表現。

「きゝ」既にして人ではない「もの」、獸(けもの)の声として発声している感じである。

「おとなしきもの共」大人の連中。

「堀留」現在の中央区日本橋堀留町一丁目付近か(グーグル・マップ・データ)。]

怪談老の杖卷之二 化物水を汲

 

   ○化物水を汲

 上總の浦方に、「大唐が鼻」とて、海の中へ、なり出(いで)し處あり。

 あるとき、房州鉢田といふ所より、出(いで)しふね、此處につけて、水をくみけるが、上の草野に井戶ありて、いとうつくしき女、水を汲み居(をり)けれぱ、そばへよりて、待居けるを、彼(かの)女、

「わたし、汲(くみ)て進ぜ申べし。」

とて、になひ桶に一荷(ひとに)、汲みいれけり。

 扨、荷ひて、船へ持行(もてゆき)ぬ。

「何方(いづかた)にて汲し。」

と問ひければ、

「此上の野中にて汲たり。よき井戶あり。よき娘もありて、くみてくれたり。女郞町にてもあるか。よき娘の、よき、きる物、きて、ものいひ・けはひ、常の娘にはあらず。」

と、いひけるを、船頭、きゝて、

「此上に、井戶も、なき筈(はず)なり。前方(さきがた)[やぶちゃん注:以前。]、此(この)はなにて、水くみにあがりし者、行方(ゆきがた)なくなりし事あり。はやく、船を出(いだ)せ。『あやかし』なり。」

と、さはぎければ、

「としや、おそし。」

と、船を漕出しけるに、はや、かの娘、來りて、海の中へ、飛こみ、およぎ來(きた)るを、櫓にて、なぐりければ、櫓へ、かぢりつきしを、たゝきはなして、

「ゑい。」

聲を出(いだ)し、こぎのけて、にげけり。

「かしこくも、船頭、心づきて、はやく船を出しける程に、皆々、いのちを助かりけり。左なくば、あやふかるべき事なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:標題は「化物(ばけもの)、水を汲(くむ)」。

「大唐が鼻」現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)と考えられる(グーグル・マップ・データ)。

「鉢田」不詳。太東岬の北方に「八田」や「八日市」の地名があるが、現在のこれらは海浜部の地名ではない。候補地があれば、御教授願いたい。

「ゑい」感動詞で、力を込めたり、勇気を奮い起こしたり、決断したりしたときに発する語であるが、歴史的仮名遣は「えい」でよい。底本は無論、「ゑい聲」であるが、臨場感を出すために、かくした。

「あやかし」は現行では一般に「不思議なこと・妖怪」の意で汎用されるが、本来は「船が難破する際に海上に現れるという化け物」を指し、ここでは正統な使用法である。

「としや」不詳。「疾(と)しや」で、「早く! 早く!」の意か。

「こぎのけて」「漕ぎ退(の)けて」。辛くも漕ぎ退(しりぞ)けての意であろう。]

怪談老の杖卷之二 くらやみ坂の怪

 

   ○くらやみ坂の怪

 くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土、二、三間(げん)[やぶちゃん注:四メートル弱から五メートル半。]が間(あひだ)、くづれて、下のがけへ落たり。

 そのあおより、石の唐櫃(からびつ)、出(いで)たり。

 人を葬(はふり)し石槨(せきかく)なるべし。

 中に矢の根[やぶちゃん注:鏃(やじり)。]などの、くさりつきたるもの[やぶちゃん注:「腐り盡きたる物」。]、されたる[やぶちゃん注:「曝れたる」。長い間、風雨や太陽に曝されて、色褪せて朽ちたことを言う。「されこうべ」「しゃれこうべ」のそれである。]骨などありしを、また脇へ埋(うづみ)ける。

 そののち、その傍(かたはら)に井戶のありけるそばにて、下女二人、行水をしたりしに、何の事もなく、ふたりともに氣を失ひ、倒れ居(をり)たるを、皆々、參りて、介抱して、心つきたり。

「兩人(りやうにん)ながら、氣を失ひしは、いかなる事ぞ。」

と、いひければ、

「わたくしども兩人にて、湯をあみおり候へば、柳の木の影より、色白く、きれいなる男、裝束(しやうぞく)して、あゆみ來り候。恐しく存候(ぞんじさふらふ)て、人をよび申(まう)さんと存候計(ばかり)にて、あとは覺へ[やぶちゃん注:ママ。]申さず。」

と、口をそろへて、いひけり。

 其後(そののち)、主人の祖母、七十有餘の老女ありけるが、屋敷のすみにて、

「草を摘まん。」

とて、出行て、みへず。

「御ば樣の、みへ[やぶちゃん注:ママ。]給はぬ。」

と、さはぎて、尋ねければ、藏のうしろに、倒れて、死(し)し居(をり)ける。

 其外、あやしき事ありしかば、祈禱など、いろいろして、近頃は、さる事もなきやらん、沙汰なし。

 たしかなる物語なり。

[やぶちゃん注:「くらやみ坂」このなの坂は江戸市中には、複数、存在する(ウィキの「暗闇坂」を参照)が、ここはまず、最も知られた東京都港区麻布十番二丁目から元麻布三丁目方面に上る「暗闇坂(くらやみざか)」であろう。別名「くらがり坂」。また、元の地名(麻布宮村町)から「宮村坂」とも称され、嘗ては「暗坂」とも表記された。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

怪談老の杖卷之二 狐鬼女に化し話

 

   ○狐鬼女に化し話

 麹町十二丁目、大黑屋長助といふ者の下人に、權助とて、十七、八の小僕あり。

 或時、大窪百人町の御組(おんくみ)まで、手紙をもちて行(ゆき)、返事を取りて歸りけり。

 はや、暮に及び、しかも、雨、つよくふりければ、傘をさし來りけるに、先へ立(たち)て、女のづぶぬれにて行(ゆく)ありければ、

「傘へ、はいりて御出被ㇾ成(おいでなされ)よ。」

と、聲をかけて、立より、其女の顏をみれば、口、耳のきわ[やぶちゃん注:ママ。]までさけて、髮かつさばきたるばけ物なり。

「あつ。」

と、いふて、卽座にたふれ、絕入(たえいり)けり。

 その内に、人、見つけて、

「たをれものあり。」[やぶちゃん注:ママ。]

とて、所のものなど、立合ひ、吟味しければ、手紙あり。

 まづ、百人町のあて名の處へ、人を遣はしければ、さきの人、近所など、出合(いであ)ひて、氣つけを用ひ、

「なにゆへ氣を失ひし。」

と尋ねければ、右のあらましを語りしを、駕(かご)にのせ、麹町へおくり返しぬ。

 よくよく恐ろしかりしとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、上下の齒、ことごとく、かけけり。

 夫より、あほうの樣になりて、間もなく、死にたり。

「大久保新田近所には、きつねありて、夜に入れば、人をあやなす。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:標題は「狐(きつね)、鬼女(きぢよ)に化(ばけ)し話」。都市伝説「口裂け女」の江戸版。

本篇は既に「柴田宵曲 續妖異博物館 雨夜の怪」の注で電子化しているが、今回は零からやり直した。

「麹町十二丁目」現在の千代田区麹町・平河町附近(グーグル・マップ・データ)。

「大黑屋長助」不詳。

「大窪百人町」後にある通り、「大窪」は「大久保」に同じい。現在の新宿区百人町一丁目から三丁目及び大久保三丁目相当(グーグル・マップ・データ)。よくお世話になる「江戸町巡り」の「百人町」によれば、『西大久保村の西に位置』し、『町名は近世、徳川氏の家臣・内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷地で、「大久保百人組大縄屋敷」、「大久保百人大縄屋敷」、「百人組大縄給地」、「百人組同心大縄地」等と俗称された場所であったことに由来する。はじめは陣屋形式の屋敷であったが』、寛永一二(一六三五)年から万治三(一六六〇)年『頃までに間口が狭く、奥行きの深い武家屋敷となった。俗に「南町(南百人町)」、「仲町(中百人町)」、「北町(北百人町)」と称する』三『本の通りがあった』。『江戸時代、幕府の下級武士たちは同じ職務で集団を作っており、これを「組」と呼んだ。当時、鉄砲を持って戦いに出た集団・鉄砲組の中で「同心」と呼ばれる武士たちが百人ずついた組を「百人組」といい、大久保の鉄砲百人組もこれにあたる。同じ組に属する者は纏まって屋敷を与えられたが、大久保の鉄砲百人組の屋敷のあったところが、ほぼ現在の百人町一丁目から三丁目にあたる』。『百人組は江戸の街の警護を担当した。その鉄砲術が江戸でも』、一、二『を争うほどの腕前であったという。JR新大久保駅前にある皆中稲荷』(かいちゅういなり:「総て中(あた)る」の意である)『はそれに因んでいる。嘗ては同じ由来を持つ青山百人町、市谷の根来百人町も存在したが、町名の統廃合で姿を消し、当地に大久保百人町に相当する地名が残るのみである』。『平和な江戸時代、警護以外に仕事は殆どなく、鉄砲隊は部下を食べさせていくために副業を行う必要があり、躑躅の栽培に手を出したところ、それが人気を得て、当町は躑躅の名所となった』とある(歴史の解説はもっと詳しく、戦国から近代にまで及んでいる。必見。

「大久保新田」不詳。そもそも大久保地区の北(百人町の北)は江戸時代には狭義の江戸御府内の外縁に当たり、意想外の田舎であった。「今昔マップ」を見ても、明治時代には原野である。]

2021/03/02

怪談老の杖卷之二 生靈の心得違

 

   ○生靈の心得違

 世に死靈の生(いき)たる人に取(とり)つきしはあれど、爰に、めづらしき物語あり。

 生たる人、死人にとりつきたりといふは、此物語なるべし。

 戶田家の家中なりしと聞り。

 ある侍、妻におくれて、又、後妻を迎へけるが、隨分、挨拶柄もよく、波風なく暮しける。

 ある夏、土用ぼしをしたりしに、歌書などの寫したる、又、かきすてし反古(ほうご)、詠み歌などの詠草の、よくつゝみたるなど、出けり。

 女筆(をんなふで)にて、ことにうつくしく、かきなせり。

 後妻、夫に尋けるは、

「是は、何人(なんぴと)の書(かき)給ひしにや。扨も、扨も、かはゆらしき筆のすさみかな。」

と、目がれもせず、ながめけるを、

「それは。十二日の佛の手なり。よからぬものを出(いだ)し給へり。」

とて、取あげける。

 十二日は、先妻の銘日[やぶちゃん注:「命日」の誤記。]也。

 つま、いふ樣(やう)は、

「扨も、かく手跡といひ、志しといひ、こゝろある御方(おかた)なりとは、今まで、終に御物語もなし。御心(みこころ)、ふかき御事かな。さだめて、わらはが心、よかるまじきと思召(おぼしめし)て、御物語なきものならん。扨も、扨も、世には、かやうなるはつめいなる女中もあるに、わたくしなど、かやうにかたくなものは、御心にもいらぬはづなり。」

など、たはぶれのやうにいひけるが、そのけしき、露(つゆ)もねためる樣子なく、誠に亡妻の手跡を、おもひ入(いり)たるさまなり。

 その夜、閨(ねや)に入りても、妻の方より、晝の事、いひ出して、

「さても、前の御新造(ごしんぞ)さまは、賢女なるべし。さぞ、何か、御(おん)しほらしかりし御(お)はなしもあるべし。きかさせ給へ。」

など、うらなく云ひかけられて、日頃、心には絕(たえ)ざれども、後妻にむかひ云ひ出(いだ)すべき筋にもあらねば、心ひとつ、むかしを忍び過(すぐ)し來りしを、かく、後のつまの心ありていふ一言(ひとこと)に、おもはず、口をむしられて、

「かくいへば、いかゞなれど、ことの外、おとなしき生れにて、何事も立ちいらぬさまに、ものはぢして、うち見には、いとおろかなる樣にて、手かき・歌よみ・茶の湯などいふ事まで、心えぬ事なく、しかも、いさゝか、そのけはひ、みせし事なく、歌など書たる時、行(ゆき)かゝりても、ふかく、かくして、顏、うちあかめ、ありけるまゝに、

『さぞかし、手前細工にて、よみ習ひたらん歌、さぞあるべし。なまじゐに見あらはして、はぢがはしくおもはせんも、せんなき事。』

と、おもひて、見ずにやみし事、度々なるが、死してののちは、この、そこにかきおける詠草などをみれば、いにしへの作者にも、おとらず。世にありし時、是をしらば、よき友ひとりまうけし心地すべきを、殘りおほき事なり。さて、かく、よき事に才覺なる計(ばかり)にあらず。朝夕の家のをさめ方、つづまやかにて、三味せん・淨瑠璃の『ばさら事』などは、夢にもしらず、只、けんやく・しつそを本(もと)として、召仕ふものにも、なさけふかく、細工は何にてもしたり。[庖丁もきゝて]、料理も、同役などの夜ばなしなどに、ちょとした吸物などにても、手をうたせる程の事にてありし。しかし、色めきしかたはなくて、平生、我ら、きのつまる樣なる生れなりしが、いかなる事にや、かりふしにいひけるやうは、

『わたくし、此世になくなり候とも、もはや、こと人をむかへ給ふ事は、かならず、かならず、被ㇾ成(なされ)まじ。もし左樣なる事、なされ候はゞ、御恨(おうらみ)申べし。』

など、いひしが、是ばかりは、氣質とは相違して、

『みれんなる事を、いひし。』

と、いまにおもへり。その外は、夫婦の中にても、禮義、たゞしく、われら、酒などのめば、度々、いけんしたり。そなたと同じ事にて、下戶(げこ)にてありしが、芝居は嫌ひなるは、また、そなたとは違(たが)ひし所もあり。」

など、いひ出(いあだ)しては、とめどもなく、我を忘れて、もの語りせしをきゝ居たりしが、女房、ためいきを、

「ほつ。」

と、つきて、何とやら、風(かぜ)なみ、あしくなりけれぱ、『それよ』と、心づきて、外(ほか)のはなしに、まぎらしぬ。

 そののち、ふと、

「風(かぜ)の心ち。」

とて、打ふしてより、次第におもり、食事、すゝまず、只、やせに、やせける。

 醫師も、

「氣の方(かた)なり。」

と、いひ、見分(みわけ)も氣病(きびやう)と、みへければ、さとは濱町なれば、時分柄、屋形舟(やかたぶね)などもおほく行(ゆき)かふに、

「補養の爲。」

とて、舅(しうと)の方(かた)へ出しけるが、次第に、病氣、おもりければ、心ならず、あんじありける折ふし、旦那寺深川の淨滿寺といふ禪寺より使僧あり。

「和尙の手紙。」

とて、さし出すをみれぱ、自筆にて、

「ちと、密々に御目にかゝり度(たき)事候間、今日中、御出。」

との文言なり。

 幸(さひはひ)、非番なれば出行(いでゆき)しに、和尙、下間(したのま)へ、まねき、いはれけるは、

「今日(けふ)申入れし事は別儀にてもなし。此間、每夜、卵塔へ『光り物』、とび來(き)候(さふらふ)て、墓處のうちへ落ち候由、寺僧共(ども)申(まうす)に付(つき)、昨夜、卵塔に相(あひ)まち、拙僧、直(ぢき)にためしみ候へば、成程、人魂ともいふべき光りもの、とび來りて、そこ元(もと)御亡妻(おんばうさい)の墓所の上にて、消へ候と[やぶちゃん注:「さふらへど」か。]、はか内(うち)、『どろどろ』と、なり[やぶちゃん注:「鳴り」]候事、しばしの間にて、また、かの光り、とび出て、歸り候。尤(もつとも)、一夜の内、二度程もまいるとき、あり。まづ、一度は、かけ不ㇾ申(まうさず)[やぶちゃん注:一夜に一度は必ず来て、来ないときはないということ。]。あまり、ふしぎに存候間(ぞんじさふらふあひだ)、そと、貴樣へ御咄(おはなし)申(まうす)なり。何ぞ、思召(おぼしめす)あたりは、なく候や。」

と問ければ、しばらく思案して、

「それは、何方(いづかた)より。」

と問へば、

「まづ、河より、西の方と存候。」

と、いふ。

「扨々、驚入(おどりいり)候。尤、貴僧樣の御ことばを疑ひ申にてはなく候へども、今晚にも、私(わたくし)、今一應、相糺(あひただ)し度(たし)。」

と、いひければ、

「御尤なる事なり。宵より、御こしありて、御談(おはなし)あるべし。出申(いでまう)さぬとても、愚僧、いつはりを申べき道理なし。かならず御越あるべし。」

と約して歸り、とかくはからひて、暮六ツ過[やぶちゃん注:土用干しから夏・秋として、不定時法で午後六時半から午後八時前と思われる。]より宿を出、深川の旦那寺へ行ぬ。

 和尙よりも、

「同宿にても差(さし)おくべし。」

と、いはれけれど、

「存(ぞんじ)よりあれば。」

とて、只、壹人(ひとり)、しきものをしきて、夜の更(ふけ)るをまちけるに、九ツ[やぶちゃん注:定時法で午前零時。]の鐘、なるより、

「すは。時刻ぞ。」

と、片づをのみ[やぶちゃん注:「固唾を吞み」。]、守り居(をり)けるに、光り、

「はつ」

と飛來りて、墓の上にて、きゆるとひとしく、墓のうち、土中、なりさはぎて、

「ごとごと」

「どろどろ」

と、人などの、くみあふ樣(やう)なる音するに、

「そこは。あやしや。」

と、身がまへして、待ちけるに、一とき[やぶちゃん注:二時間。]計(ばかり)すぎて、

「まつぷたつに。」

と、切付(きりつ)ければ、手ごたへして、火は、消へうせぬ。

「妖怪の所爲(しよゐ)なるべし。」

と、月影に、そこらあたりを尋ねけれど、何もなし。

 刀をみれば、のり[やぶちゃん注:血糊。]、つきたり。【蜀山、按(あんずるに)、田にし金魚所ㇾ著(あらはすところの)、「妓者呼子島(げいしやよぶこじま)」の趣向は、是に本づきて差出(さしいだ)しもなるべし。乙亥七月廿七、記(しるす)。】旁(かたはら)、ふしんはれねど、寺僧へ斷り、

「成程、椙違なき段、見屆(みとどけ)申(まうし)たり。拙者は屋敷へ罷歸(まかりかへり)候間、またまた、かはる事あらば、御人(おひと)、被ㇾ下べし。」

とて、いそぎ、やどへ歸られ、とくと、思案して見けれども、合點ゆかず、心をいため居(を)る處へ、

「はま町より、使、來りたり。」

といふ間、心ならず立出、

「病人は、いかゞあるぞ。」

と尋ねければ、

「御かはりもなし。」

と、いふ。

 まづ、安堵して、書狀をみれば、

「密(ひそかに)申送り候 吟(ぎん)[やぶちゃん注:後妻の名。]事(こと) 殊の外 とりつめ候間 いそぎ御越」

との文體(ぶんてい)。

 驚き、早速、頭(かしら)へ屆けて、見舞(みまは)れければ、はや、しうとめなどは、なき、たをれ、召仕ひの女なども、みな、なみだを目にもちて居るにぞ、

『はや、埒は明(あけ)たり。』

とおもひ、奥へ通りければ、あるじ、一間へよびて、

「扨、吟、事も、養生、相(あひ)かなはず、相はてたり。夫(それ)につき、何とも、合點ゆかざる臨終ゆへ、早速、貴殿を呼よせたり。昨日は、いついつよりも、少(すこし)快よく候ひしが、例のごとく、四ツ過[やぶちゃん注:定時法(以下同じ)で午後十時過ぎ。]より、正體なく寐入り、我々も、少々、まどろみしに、八ツ時分[やぶちゃん注:午前二時。]とおもふ頃、

『あつ。』

と、おそはるゝ樣にてありし間、さつそく、立よりてみれば、あへなく、事きれたり。その體(てい)、甚(はなはだ)以(もつて)あやし。先(まづ)、是を見給へ。」

とて、夜着をとり、みせられければ、後(うしろ)のかたさきより、胸板へかけて、切(きり)つけたる、刀きづなり。

 夫も、默然と、さしうつむき、しばし、思案しけるが、

「なる程。けうなる義なり。夫(それ)には、夜前、ケ樣(かやう)々々の次第あり。定(さだめ)て、妻が嫉妬の心より、たましゐ[やぶちゃん注:ママ。]、身をさりて、妖怪をなせしなるべし。以(もつて)の外の義なり。扨々、不便(ふびん)の次第なり。後悔、くやみて、歸らず。」

と語られけるにぞ、舅も、我ををりて、菩提所へも其趣(おもむき)、相(あひ)たのみ、はふむりもらひ、跡をば、念比(ねんごろ)にとぶらひける、といへり。

 享保七年の事なり。

[やぶちゃん注:オリジナリティのある怪談であるが、何か、曰く言い難い切なくなる、誰(たれ)も実は悪くない、故にこそ、哀しい話ではないか。

「戶田家」江戸時代の戸田家は大名・旗本及びそれらに仕えた家士に多い。ウィキの「戸田氏」に詳しい。

「筆のすさみ」「筆の遊び」。気持ちよく肩肘張らぬ慰みのための詠歌の遊び。

「目がれ」見飽きること。

「十二日」旧暦の夏の土用は立秋の前の約十八日間に相当する。

「かやうなるはつめいなる女中」「斯樣なる發明なる女中」。女中は女性。

「御新造」他人の妻の敬称。古くは、武家の妻、後には富裕な町家の妻の敬称となった。特に新妻や若女房に用いた。

「しほらしかり」「慎み深く、いじらしい」・「かわいらしく、可憐な」・「けなげで殊勝な」・「上品にして優美な」。ハイブリッドの意でよい。

「うらなく」真心から。妙なかんぐりどは一切なく。

「心には絕ざれども」心の中では亡き妻への思いは決して忘れることがなかったのだけれども。

「心ひとつ」ただ独り、己れが心の内に秘めて。

「口をむしられて」そうした、言わんかたない秘めた思いを掻きたてられて。

「ばさら事」「婆娑羅」元は「放逸・放恣」であるが、ここは広義の「見るからに派手なこと」の意。

「庖丁もきゝて」庖丁の扱いも上手く。

「風(かぜ)なみ、あしくなりけれぱ」聴いている後妻の気持ちの風向きが怪しくなったように感ぜられたによって。

「見分(みわけ)も氣病(きびやう)と、みへければ」はたから素人目で見ても、身体の病いではなく、心の不調(心気症)に見えたによって。

「濱町」現在の東京都中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川右岸で両国・深川の対岸。

「深川の淨滿寺」不詳。近似した名の寺も見当たらない。これは痛く残念である。

「河より、西の方」まさに浜町は深川の西北に当たる。

「出申(いでまう)さぬとても」万一、今宵に限って、光り物が現われなかったとしても。

「同宿にても差(さし)おくべし」屋敷内の御家来衆のをも、さし添えて連れ来らるるが宜しいでしょう。

「存(ぞんじ)よりあれば」「思うところの御座ればこそ。」。

「しきもの」座るための敷物。

「そこは。あやしや。」「そこ」は「其處」ではなく、「それこそ」で一種の感動詞的用法であろう。「何んということかッツ!?! 怪しきことぞッツ!!!」。

「【蜀山、按(あんずるに)、田にし金魚所ㇾ著、妓者呼子島の趣向は、是に本づきて差出(さしいだ)しもなるべし。乙亥七月廿七、記(しるす)。】」本書最初の注で述べた通り、本書の元は御家人で勘定所支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚にして文人であった大田(蜀山人)南畝の旧蔵書「平秩東作全集」の下巻の一部と考えられ、彼自身が書き添えた割注である。「田にし金魚」田螺金魚(たにしきんぎょ 生没年不詳)は江戸中期に活躍した戯作者。江戸神田白壁町居住の医者鈴木位庵のペン・ネームともされるが、不明。別号に「田水金魚」「茶にし金魚」。「妓者呼子鳥」は彼の処女作で、安永六(一七七七)年板行。ウィキの「田螺金魚」によれば、『町芸者の生活に取材し、実在のお豊・お富の名前を借りて、芸者』二人と客一人の『三角関係を描いた作品。誤解によって女性を殺した男性が自害したり、女の生霊が女の死霊を苦しめたりと、伝奇的要素が強い』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらと、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに当寺の版本原本があるが、なかなか読み取る気には私はなれない。「乙亥」(きのとゐ/いつがい)は宝暦五(一七七五)年。

「頭(かしら)」彼の勤仕する上役である役頭。

「けうなる」「稀有なる」。

「享保七年」一七七二年。]

2021/02/28

怪談老の杖卷之二 半婢の亡靈

 

怪談老の杖卷之二

 

   ○半婢《はしたもの》の亡靈

 官醫佐田玉川といふ人、駿河臺に居られける。其草履取(ざうりとり)に關助(くわんすけ)といふ中間(ちゆうげん)ありしが、身持惡しき好色者にて、茶の間・はしたなど、たぶらかしける。

 柳(りう)といひける半婢、生れつきも奇麗にて、心だても、よきものなり。しかも、親元も相應なる百姓のむすめなりしが、田舍は自陀落なるものなれば、盛りの娘をやどに置(おき)ては、萬一、不行義なる事ありては、あしく、

「江戶の屋敷方にては、『女部屋に錠(じやうぐち)口』とて、金箱(かねばこ)同前に油斷なく、男たるものは出入する事もならぬよし。左こそ有(あり)たきものなれ。」

と、田舍の律義なる心より、少(すこし)の緣をたよりに、何の辨(わきま)へもなく、ある御旗元衆の家へ奉公させけるが、まづ、山出(やまだ)しなれば、縫針(ぬひばり)はならず、食(めし)たきはしたに住みけるが、ふと、此中間が口に乘せられて、念頃(ねんごろ)にものし、

「末は夫婦(めをと)になるべし。」

と、衣類なども、親里より、數多く持來(もちきた)りしを、一つ、二つづゝ、だましとられけるが、法度(はつと)つよき家にては、思ふ樣(やう)に出會(であ)ふ事もならねば、夫(それ)のみなげき暮しけるが、かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)けるが、不作法のかず、かさなりて、懷姙(くわいにん)しけるを、

「柳(やなぎ)はら邊(あたり)の『おろし藥』にて埓明(らちあけ)ん。」

と、關助、調へ來りて、むりにすゝめ、あたへけるが、「運のきはめ」とて、事をあやまちて、くるしみ、殊の外の大病となりける。

 主人も、

「心だて、よきものなれば。」

と憐みて、養生も致吳(いたしくれ)られけれど、

「十(とを)が九つ、助かるべき樣子ならねば。」

迚、やどへ下げられ、十日計(ばかり)も、晝夜、くるしみて、相はてぬ、屋敷のうちのものは、その始末を知りけれど、田舍の親は夢にもしらず、たゞ一通りの病氣とおもひ、むすめも深くかくして、命をはりけんさま、いたましき事なり。

 夫(それ)より、關助が部屋へ、每夜、每夜、かの女の亡靈、來りて、

「關助殿、々々々。」

と、枕元によりて、おどろかし、

「こなたゆゑに、非業の死をとげたり。そのときの苦しみを知らせば、いか計(ばかり)の苦痛とか思ふ。」

など、かきくどきける事、每夜なり。

 のちには、關助、うるさくなりて、草鞋(わらぢ)をつくるよこ槌(づち)などにて打たゝきなどしければ、傍輩の中間ども、あやしみて、いろいろ尋ける程に、有のまゝに語りければ、後には、ほうばひも、きみをわるがり、一ツ部屋にもおかず、關助ひとりさし置ければ、夜一夜(よひとよ)、よこ槌にて、部屋の内を、たゝき廻りけるが、すこやかものにて、奉公をも引かず、勤めけれど、次第に疲(つかれ)おとろへける。

 用人(ようにん)何某といふ人、不便(ふびん)におもひて、關助を招き、

「その方、每夜、死靈のために苦(くるし)むと聞けり。是、決して死靈にあらず。その方が心の内に、『彼が事を、むごき目をみせたり。もし、死靈にも成(なり)やせん』と、疑ひ思ふ念慮、凝(こ)りて、形の目に見ゆるなり。」

とて、その頃、駒込に禪僧の悟りたる人、幸ひ、主人、歸依にて、折ふし、やしきへ來られけるをたのみて、さまざま、云ひきかせ、碁石など、つゝみて、かの亡靈に、

「是は、何ぞ。」

など、尋させければ、

「碁石なり。」

といふを、また、此度(このたび)は、かずをあてさせ、終りには、白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故、

「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈は、あり。外よりは、來らず。」

など、いろいろ、さとされけれど、もとより、文盲なる中間風情(ふぜい)、さる理(ことわ)り、合點(がてん)すべき樣(やう)なく、每夜、來る事、始(はじめ)のごとくなり。

 用人、ある時、關助をよびて、

「亡靈、今に來るよし、いか樣(やう)なる樣子ぞ。」

と問はれければ、

「とかく、外よりはいりて、枕元に立(たつ)より、つめたき顏にて、私のかほを、こすり、手など、とらへ、いろいろに、恨みを申す。」

と、いひければ、

「扨は。狐狸などの業(しわざ)なるべし、今宵、もし、來らば、つれ來れ。」

と、いはれければ、

「ずいぶん、つれて參るべし。」

と約束しけり、

 扨、其夜、九ツ時[やぶちゃん注:午前零時。]に來りて、部屋の戶をたゝきける。

「誰(た)ぞ。」

と問へば、

「關助にて候。幽靈を、つれだち、參りたり。御出合下されよ。」

といふ。

 用人の妻女などは、こはがりて、

「かならず、そとへは御無用なり。」

と、とゞめけれど、用人のいはく、

「よもや、つれ來るべしとは、思ひよらず。『來(きた)れ』と、いひしが、今、出(いで)あはぬは、いかにしても。かれがおもはん所も、よろしからず。」

と、帶、しめなをし[やぶちゃん注:ママ。]、腰の物をさして、

「かならず。はなすな。しつかりと、とらへておるべし。」

と、内より、聲、かけければ、

「御氣づかひ被ㇾ成(なされ)まじ。ずいぶん、しつかりと、とらへ居(をり)候。」

と、いふゆゑ、戶をあけて、出(いで)、見(み)けるに、たゞ、關助、壱人(ひとり)、門に立てり。

「どれ。幽靈は、いづ方にいるぞ。」

と、いひければ、

「今まで、しつかりと、とらへおり候が、いづ方へまいりしや、おり申さず。」[やぶちゃん注:仮名遣い誤り三ヶ所は総てママ。]

と、いふにぞ、大(おほい)に呵(しか)りて、歸しぬ。

 そののち、いろいろ、したりけれど、來(きた)る事、やまず。

 次第に、やせ衰へければ、暇を出されたり。

 其のちは、餘りに苦しがりて、

「江戶に居ては、いつ迄も來(きた)るべし。」

とて、大坂の御番衆に、つきて、のぼりけるが、幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり、と聞けり。

 かの用人、直(ぢき)のもの語り也。

[やぶちゃん注:「官醫佐田玉川」実在する。香取俊光氏の論文「江戸幕府の医療制度に関する史料(八) ―鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』など―」PDF・『日本医史学雑誌』一九九六年十二月発行)の冒頭に、江戸幕府の鍼医の家系として「佐田分家」を挙げられ、その系図の初代『(某)』に『(新助 玉緑 佐田玉川貞重が長男)』(下線太字は私が附した)として、『(針術をもって尾張大納言光友卿に仕ふ)』とし(出自も伊勢国司教具の子定具の四代の孫と示す)、初代を佐田定之(さだゆき)とし、この『定之が終わり光友の侍医から幕府の鍼医という経緯で登用され、子孫は明治まで鍼科医員を勤めた』とある。定之が徳川家綱に初見は延宝七(一六七九)年で、幕府医官となったのは元禄五(一六九二)年である。本書は宝暦四(一七五四)年作であるから、この定之(元禄十年没)の少し古い話か、或いはそれを嗣いだ養子佐田道故(みちふる 宝暦六年没)と考えられる。リアリズム怪談として初めから堅固に作ってある。すこぶる頼もしい。

「駿河臺」現在の東京都千代田区神田駿河台(グーグル・マップ・データ)。江戸城の東北で「お茶の水」駅周辺。

「茶の間」「茶の間女」。武家で、主に家族が食事や団欒などをする茶の間の雑用を担当した下女。

「はした」「端女」。広く召使いの女。

「自陀落」「自堕落」。

「かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)ける」折角のリアリズムだったが、医官の家では屋敷内の風紀が厳しく、話が展開し難いと考えたものか、勤め先を小身の武家の家に二人とも転出させている。やや唐突であり、かえって不自然な感じは拭えず、現実感が殺がれるのは瑕疵と言わざるを得ない。

「柳はら」柳原土手。現在の東京都千代田区北東部の神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域。江戸時代は古着屋が並んでいた。この中央東西(グーグル・マップ・データ)。現在、右岸に「柳原通り」の名が残る。

「おろし藥」怪しげな違法な堕胎薬。

「やどへ下げられ」この場合は、勤め替えに関わった斡旋業者が「蛸部屋」として借りている長屋であろう。最初に佐田玉川の家へ彼女を斡旋した人物のところも考えたが、それでは、親元に知らせが行かないのがおかしくなる。

「命をはりけんさま」「命を張りけん樣」。これ、哀れさ、いや、増す言辞である。

「用人」その小身の武家の用人。用人とは、家臣中の有能者を選び、これに任じて、財政・庶務万端を取り扱わせた職。

「駒込」嘗ての豊島郡駒込村は文京区本駒込・千駄木などを含んだ広域であった。「今昔マップ」のこの辺り

「白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故」ここではその禅僧があらかじめ白黒の碁石の数を変えたものを紙に包み、緘封して、関助には開き見ることを禁じさせたのである。

「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈はあり。外よりは、來らず」お見事! 座布団二枚!

「ずいぶん」「隨分」。出来る限りのことをして。

「いかにしても。」「如何にしても出でざるべからず」の略として、句点を打った。

「大坂の御番衆」各藩や旗本に割り当てられた大坂城の交替警備勤番衆のこと。

「幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり」これ、惜しい! 道中逐一、最後の大坂城内までを一大ロケーションを敢行して、「怪談東海道中膝栗毛」式にすれば、もっと面白くなったろうに!

「かの用人、直(ぢき)のもの語り也」又聞きの噂話ではないというダメ押しのリアリズムである。しかし、やはり、奉公替えをしていて、無名化してしまっているのが残念である。]

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