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カテゴリー「怪奇談集」の1000件の記事

2021/01/21

怪談登志男 八、亡魂の舞踏

 

   八、亡魂の舞踏

 玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」を見るに、鐡砲洲・つく田嶋・八左衞門殿嶋・西本願寺の邊は、江都の東南、海邊の致景、雨の夜は苫(とも)覆ふ舩に湘瀟(しやうせしやう)[やぶちゃん注:底本は「潮滿」であるが、原本で判読したものを採った。]の景を思ひ、なみ靜(しづか)なる遠浦(とほうら)に安房・上總の歸帆を詠[やぶちゃん注:「ながめ」。]、秋の夕は、入日の、浪の底にうつる、洞庭の磯うつ潮に鬱氣(うつき)を洗、俗塵をへだてたる境地なり。

 此邊に、棟(むね)門高き弓馬の家、岩崎氏とて隱なき人、致仕(ちし)して、閑(かん)をたのしみ、齡(よはい)すでに古稀におよべど、甚、堅固の老人にて、常に謠をすき、仕舞(しまい)を好み、坐臥徑行(けいかう)、獨、唱(うた)ひ、夜、高歌して、謠(うたい)罷(やん)で後、睡(ねふり)を甘(あまん)じて、又、夢中にあつても[やぶちゃん注:底本は「向ても」であるが、原本で判読した。]、うたふ。日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり、かゝるすき人も、又、世にたぐひ、すくなかりける。

 すでに、夕陽(せきやう)、西にうつり、鐘の聲、かすかに、物すごきゆうべ、じやくまくたる隱居の柴の戶に音づるゝ聲は、小網町に住居する彥兵衞といふ町人なり。

 是は、岩崎翁の若き頃より、出入して、月にも花にも、友なひ、語らひ、しかも、謠(うたい)・舞(まい)、達者(たつしや)にて、心をへだてず、是も、其年、耳順(じじゆん)[やぶちゃん注:数え六十。]に越へつれど、共に、一曲をかなで、樂みけるが、いかゞしたりけん、此程、久しく打絕て、來らず。

『かねて、京都へあつらへたりし舞扇(まいあふぎ)も、出來つらんか。』

と、ゆかしかりしに、

「よくこそ來りける。」

と、手づから、扉をひらき、まねきいれて、

「いかにや、久しく尋こざりし。一別以來、一日千秋のごとし。」

と、手を取て、安否を問(とい)れければ、彥兵衞も、

「久々、御目見も不ㇾ仕候處、先、以、御堅勝の躰を見奉、恐悅仕候。されば、春の頃、御賴あそばしつる扇の事、心ならず、道中の間違(ちがひ)にて、疾(とく)、出來(でき)ては、さふらひしが、幾(いく)たびか、江戶へ下しては、京へ歸り、今迄、遲參(ちさん)におよび、御用事、疎畧(そりやく)に致したる樣にて、千萬、氣の毒に奉ㇾ存候。若き時より、老の今迄、御憐(あはれみ)下され候御恩(おん)にそぶき、其苦しき病より、猶、切(せつ)なかりし處に、今日、京都の荷物、到着、御あつらへの御扇、是を持參し、長々、積る物がたり、御慰(なぐさみ)に申上、且は、御詫(わび)の爲ながらと、日はくれかゝり候へども、只今、參上仕候。」

と、いと恐れ入たるさま、日ごろの活氣と、打て、かへたり。

「さて、堅(かた)過たり、氣づまりかな。夫程に詫(わぶ)る事にてもなし。此程の噂には、病氣のよし、聞へしが、先(まづ)、無事なるぞ、うれしけれ。久々にての一會、あつらへの扇、好(このみ)より、彌(いや)增(まさ)りて、模樣も一入(ひとしほ)の出來。満足々々。」

と、表より、若侍共、呼あつめ、酒宴、刻をうつし、主(あるじ)、

「いで、一さし。」

と、

〽水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花は木[やぶちゃん注:「花木」は「くはぼく(かぼく)」と読む。]

と、たちまふ袖も、こよひの月も、主(あるじ)の髮(かみ)も、客(きやく)のあたまも、皆、白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま、まだ、あしもとも、よはからず。

 彥兵衞も、

「久々にて、御前(ごぜん)の仕舞(しまい)、拜見いたし候。はゞかりながら、拙者も御扇出來の御祝儀なれば、其曲(くせ)の次(つぎ)、切(きり)へかけて、舞納(をさむ)べし。」

と、是も、

〽ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて

殘るは、主人(あるじ)と、酌(しやく)取(とり)し若侍・小坊主ばかり。

「こは、ふしぎや。」

と障子を明(あけ)、椽側(えんがは)より、庭の隅々(すみずみ)、隈々(くまぐま)をさがせど、彥兵衞の影も形もあらばこそ、表にも、此ふしぎを聞て、上下、ひしめきあひ、

「狐などの入來りしならんか。若もの共、心得よ。」

と、用心きびしく、くまぐま、狩(かり)たつる程に、夜も、あけぬ。

 家中の上下、

「宵の怪しみ、心得がたき。」

と語り居たる折ふし、若き町人、來りて、

「拙者儀は、小網町彥兵衞がせがれ、藤七と申もの。此間、彥兵衞、病氣ゆへ、久々參上不ㇾ仕、兼て被仰付候御扇、漸(やうやう)、出來仕候間、持參いたし候。」

と、扇を、さし出せば、取次の侍も不審ながら、主人に、此よし、披露しけるに、主(あるじ)も大きに驚き給ひ、

「扇は、昨夜、見し所に、たがはず。宵の扇、いづくにかある。」

尋ぬれど、さらに、なし。

 主、

「扨は。」

と、藤七を近くまねき、過し夜、彥兵衞が來りし有增(あらまし)を語り給へば、藤七、泪(なみだ)を、

「はらはら」

と流して、

「今は、つゝむべくもなし。有躰(ありてい)に申上侍らん。父彥兵衞は、久々、病氣にてさふらひしが、次第に重(おも)り、昨日、身まかり侍り。すでに末期(まつご)にいたる時、京都より、荷物、到着、御扇出來の書狀。日ごろ、たゞ、此御用の延引(えんいん)に罷成候を、朝暮、苦勞仕候處、いまはの際(きは)に『御扇出來』と聞(きく)とひとしく、起直(おきなを)り、御扇を拜見し、逐一、吟味をとげ、にこにこと、打ゑみ、『我、死したりとも、まづ、佛事・供養をさし置(おき)、是を持參し、此通り、殿樣へ申上、平生(へいぜい)、等閑(なをざり)に打捨置(うちすておき)はいたさねど、折ふし、間違・延引の段、くれぐれ申て、得さすべし。是、第一の供養にて、我も佛果(ぶつくは)に至るべし。』と申聞て、昨日、暮時、相果(はて)候。親が遺言(ゆいごん)、默(もだ)し難(がた)く候へば、持參は仕ながら、忌(いみ)ある身の憚(はゞか)りもなく、御屋敷へ推參(すいさん)の段、重々(じうじう)、恐れ入候。」

と、平伏(へいふく)したり。

 岩崎殿、これを聞て、落淚(らくるい)、とゞめかねて、

「扨々。不便(びん)の心入。其一念、たちまち、幻に顯(あらは)れ來りしか。昨夜、酒くみかはし、一さしの舞、あはれ、今は、形(かた)見となりけるよな。若きより、今、此老の身にいたりても、「友鶴(ともつる)」、とたのしみてありしを、片翅(かたつばさ)なる老鶴(おいつる)の、何をか、たのしみとせん。」

と、藤七に、金(こがね)・白銀(しろがね)、取出しあたへて、迫善の料(りやう)に得させ、

「藤七も、永く、出入せよ。」

と、あつく憐(あはれ)み、父が在世にかはらず、勤けるよし。

 彥兵衞が實儀、誠に世の人の鑑(かゞみ)なり。

 人は皆、信義あつきこそ、「人の人」といふべし。

 いつはり、かざれるべんぜつもの、りかう・さいかくはありとも、人の道には、あらじかし。

 

[やぶちゃん注:本作中の傑作の一つとして私は推す。江戸の風情をロケーションとして、致仕隠居した老武士岩崎と商人と思われる彦兵衛との分け隔てなき親交を描き、そこに謡曲の複式無限能の世界を以って、亡魂の来たって舞うシークエンスは、まっこと、味わい深い。雰囲気を壊さぬよう、今回は特異的に原本の読みの一部の清音表記に濁点を打ってあり、謡曲の章詞にも「〽」を用いた。また、漢文表記箇所も孰れも平易なものばかりなので、五月蠅い訓読文は附さなかった(原本には返り点さえない)。訓読なお、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もいようが、言っておくが、本作は寛延三(一七五〇)年板行で、二十六年も前の作品である。

『玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」』江戸前期の貞享四(一六八七)年十一月に板行された藤田利兵衛(事績不詳)作の江戸地誌「江戸鹿子」を奥村玉華子なる人物が寛延四(一七五一)年に改訂増補した「再板增補 江戶惣鹿子名所大全」のこと。編者の奥村玉華子の事蹟も不詳であるが、ウィキの「江戸鹿子」によれば、『医術や宗教への深い造詣が伺え、それらの職業に携わっていたとも考えられる』とある。

「鐡砲洲」現在の隅田川右岸の中央区湊附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。鉄砲洲稲荷や「鉄砲洲通り」などの名を確認出来る。「江戸名所図会」の「銕炮洲」の項には、『銕炮洲 南北ヘ凡八町ばかりもあるべし。傳云(つたへいふ)、寛永[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]の頃、井上・稲冨等(ら)大筒(おほづゝ)の町見(ちやうけん)を試し所なりと。或(あるひは)、此出洲(です)の形状、其器(き)に似たる故の号なりともいへり』(以下略)とある。

「つく田嶋」東京都中央区佃(つくだ)。隅田川河口の二つの中州であった石川島と佃島(現在は月島とともに一体化しているが、思うに、推定される隅田川の河口変遷からみて、元はごく小さな石川島が原河口に形成された最初の洲らしく、そこから南西方向に佃島が形成されたようである)とから発展した街。現在は埋立地の拡大により、隅田川河口は約三キロメートル南西に移動している。現在の佃地区の北が旧「石川島」で「森島」「鎧(よろい)島」などとも称された。その南隣りが旧中州としての本来の「佃島」であった。

「八左衞門殿嶋」辞書を見ると、前の石川島の異名とされるが、どうも気になるので別な辞書を見ると、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に、この砂州である原石川島が江戸幕府船手頭石川八左衛門重次の所領となって、「石川島」と呼ばれ、別名「八左衛門(殿)島」とも呼ばれたことが判り、さらに、寛政二(一七九〇)年、老中松平定信が火付盗賊改の、かの長谷川平蔵に命じて、この島を埋め立てさせ、南西方向に拡張し、そこの「人足寄場」を建設させたという記載を見出した。ところが、別に調べると、この人足置場は石川島と佃島の間にある「鉄砲洲向島」(鉄砲洲の向かいにある島の意)に設置したとする記載に出くわす。そこで別な切絵図を見てみると、確かに、石川島はまず、北西方向で切れ込みがあって、そこから南部分が人足置場となっており、しかも、そのまた南西には、細い運河状の切れがあって島としては分れて、二つの島となっており(小橋で繋がれてはいる)、そこには漁師町屋が並んでいるのである。因みに、「人足置場」は、よく時代劇に出るが、「寄場(よせば)」とも呼ばれ、無宿者に手業(てわざ)を習得させる目的で設けられた隔離施設で、後には追放者なども収容されて自由刑の執行場所としての機能も果たしたものである。

「湘瀟(しやうしやう)」中国で、洞庭湖及びそこに流入する瀟水(しょうすい)と湘江の合流する周辺を古くより「瀟湘八景」と呼び、風光絶佳とされ、山水画の伝統的な画題とされた。私はその反転字と採った。底本の「潮滿」(左ページ上段二行目)なら、「潮汐」の意でそれらしく意味もとれなくもないが、原本は御覧の通り(左頁三行目)、「潮」よりは「湘」により近いし、そもそもがルビが「しやう」に踊り字「〱」であることが判然とするのである。だいたいからして、ここに「瀟湘」と出してこそ、直後の「洞庭の磯うつ潮」の比喩が生きてくるのである(ここで「瀟湘」「洞庭」を江戸の海景の比喩に持ち出すのに違和感があるかも知れない。しかし、だったら、「金沢八景」「湘南」などという地名がそれに基づくのはもっと滑稽で場違いな謂いとなる。いや、ここで筆者が敢えて「瀟湘」「洞庭」を出したのは確信犯なのだ。後で注で示すが、本篇で重要な役割を成す謡曲「芭蕉」の舞台はまさに楚の国の「小水」(水の少しあるの意の地名)であり、そこの山中に住む僧こそがワキ僧なのである。さればこそ、この「小水」は「湘水」或いは「瀟水」に直ちに響き合うのだ。則ち、既にしてこの何気ない前振り自体が、綿密な伏線として機能しているということなのである)。写本の誤りかも知れぬが、もし誤判読とすれば、底本「德川文藝類聚」の本作の校訂者は無粋と言わざるを得ぬ。なお、最後に言っておくと、「湘瀟」の文字列の正しい歴史的仮名遣は「しやうせう」である。

「徑行(けいかう)」思うとおりにしたいことをすること。直情径行。

「夢中にあつても」本文で示した通り、底本では「向ても」であるが(左ページ上段九行目)、そもそもが「夢中に向(むかひ)ても」という言い方はこなれていない。原本はここ(右頁一行目)。失礼ながら、同前で不審極まりないのである。

「日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり」日々の如何なる瞬間も、総て、これ、謡曲世界の中に生きている。

「じやくまくたる」「寂寞たる」。

「小網町」現在の日本橋小網町(こあみちょう)。同ウィキによれば、江戸『初期、慶長年間に江戸城が築城された頃には、小網町の付近は』、『日本橋川の河口洲の小さな中島であったとされ』、『八丁堀・霊岸島など、江戸の前島の埋立てが進むにつれて、日本橋川沿いの河岸の街へと姿を変えた。日本橋川に面した土地柄、水上交通の面で重要な場所として発展した町で』、『江戸に入ってくる米を扱う商店・問屋があったほか、行徳で産生する塩の扱いが多かった』とある。

「好(このみ)より」私はこれで一単語として採った。趣向。作りの風雅。

「表より、若侍共、呼あつめ」屋敷表に岩崎に従う家来がいるのである。屋敷内に長屋を作って住んでいるのであろう。されば、この岩崎氏は旗本ではないかと私は推測している。

「水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花木は」世阿弥の娘婿となった金春善竹作の謡曲「芭蕉」の終わりの方に現われる章詞。同曲のシテは「芭蕉の精」。唐土(もろこし)楚国の水辺に修行のために隠居するワキ僧のもとに、年たけた女性(前ジテ)が来って、仏縁に結ばれんことを願うによって、読経の聴聞を許す。女は、「法華経の経文によれば、草木も成仏できることが頼もしい」と喜び、「実は自分は庭の芭蕉の仮りの姿である」と言って、消え失せる。深夜になると、芭蕉の精(後ジテ)が現われ、「非情の草木も、まことは、無相真如の顕現にして、仏教の哲理を示して世の無常を現しているのだ」と言い(クセ:能の構成単元の一つで、一曲の核となる重要な部分を指す。地謡と大鼓・小鼓とのリズムの微妙さに狙いがある)、しみじみとした舞を舞って見せるが(序ノ舞)、やがて再び姿を消すというストーリーである。小原隆夫のサイト内の『宝生流謡曲「芭蕉」』が詞章が示されてあってよい。岩崎の舞って謡う部分は、そのクセの一節であるが、一気に最後まで示しておく。「新潮日本古典文学集成」の「謡曲集 下」を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

クセ

地〽水に近き樓臺は まづ月を得るなり 陽に向かへる花木はまた 春に逢ふ事易きなる その理(ことわり)もさまざまの 實(げ)に目の前に面白やな 春過ぎ夏闌(た)け 秋來(く)る風の音づれは 庭の荻原(をぎはら)まづそよぎ そよかかる秋と知らすなり 身は古寺(ふるてら)の軒(のき)の草 しのぶとすれど古も(いにしへ)の 花はあらしの音にのみ 芭蕉葉(ばせうば)の 脆(もろ)くも落つる露の身は 置き所なき蟲の音(ね)の 蓬(よもぎ)がもとの心の 秋とてもなどか變らん

シテ〽よしや思へば定めなき

地〽世は芭蕉葉の夢の中(うち)に 牡鹿(をしか)の鳴く音(ね)は聞きながら 驚きあへぬ人心 思ひ入るさの山はあれど ただ月ひとり伴なひ 慣れぬる秋の風の音(おと) 起き臥し茂き小笹原(おざさはら) しのに物思ひ立ち舞ふ 袖(そで)暫(しば)しいざや返(かへ)さん

シテ〽今宵は月も白妙の

地〽氷の衣(ころも)霜の袴(はかま)

《序ノ舞》

ワカ[やぶちゃん注:舞の直後に謡われ、呼称は五七五七七の和歌の形をしているのものを正格とすることに拠る。但し、そうでないものも多い。]

シテ〽霜の經(たち) 露の緯(ぬき)こそ弱からし

地〽草の袂も

ノリ地[やぶちゃん注:拍子をしっかりと意識しなければならない謡部分を指す語。]

シテ〽久方の

地〽久方の 天つ少女(をとめ)の羽衣(はごろも)なれや

シテ〽これも芭蕉の 羽袖をかへし

地〽かへす袂も 芭蕉の扇(おほぎ)の 風(かぜ)茫々(ばうばう)と 物すごき古寺の 庭の淺茅生(あさぢう) 女郞花(をみなへし)刈萓(かるかや) 面影うつろふ 露の間に 山颪(おろし)松の風 吹き拂ひ吹き拂ひ 花も千草(ちぐさ)も 散りぢりになれば 芭蕉は破れて 殘りけり

   *

「白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま」前注で示した詞章を掛けたもので、月の光に冴える白い衣の清冽な表現である。

「ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて」前に示した「序の舞」のものとは、かなり変則的に異なっている。「芭蕉」は五流にあり、或いは詞章に違いがあるのかも知れぬが、亡魂の舞と扇綺譚を考えれば、寧ろ、オリジナルに変えて(特に最後の部分の断ち切り)、効果を狙ったと考えてよい。

「小坊主」小姓。年少の家来。

「こは、ふしぎや。」

「上下」私は読みがないものは「かみしも」と読むことにしている。

「狩(かり)たつる程に」ここそこを厳しく探索し尽くすうちに。]

2021/01/17

怪談登志男 七、老醫妖古狸

 

    七、老醫妖古狸(らうゐこりにはかさる)

 

Hitotume

 

[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像をトリミングした。]

 

 中華の諺に、「良醫は福醫にしかず、明醫は時醫におよばず」といへり。時醫(じゐ)とは、其時にとりて、世に擧用(きよやう)せられ、百發百中の效もあるやうに、もてはやさるゝ流行(はやり)醫者なり。福醫とも、これをいふ。

 今はむかし、江都に、陸野見道(くかのけんどう)とかや云し福醫ありしが、ある時、番町邊(へん)の澤氏とかや、いへる人の許より、使者を以て、

「内室の病氣以の外なり。御見𢌞賴奉る。」

よし、

「心得候。」

とて、疾(とく)、宿を出、序(つゐで)ながらの見𢌞、四、五軒も勤しに、おもはず、日も晚景におよぴけるが、澤氏の宅に尋(たつね)行、玄關へ仕懸(しかけ)、

「斯(かく)。」

と云入ければ、取次、下座むしろに飛下り、

「主人、『今は公用につき、他行致候が、御出候はゞ、此段を申、暫(しばらく)、御通り被ㇾ下、御待下さるべき』よし、申置て罷出候。追付、歸宅可ㇾ致間、先、御通り被ㇾ成べし。」

と、座敷へ案内して、入ぬ。

 見道、初て見𢌞たるに、

「亭主留守にて殘念なれども、病用に來り、待(まち)兼て歸るも、率爾(そつし)ならん。」

と、座敷に至りて、其住居を見などして、待居たるに、多葉粉盆を持て出、茶など運(はこび)ける小僧、其年の程、漸(やうやう)十二、三斗なるが、立振(ふる)𢌞[やぶちゃん注:「たちふるまひ」と読んでおく。]、小ざかしく、眼(まなこ)ざし、凡(たゝ)者ならず。

「其方の名は、何とか申。」

など、手など、取て愛(あい)しけるに、はづかしげに赤面して、次の間に、はしり、ふりかへりたる姿、顏の大さ三尺斗、二つの眼、一つになりて、額にあり。

 鼻、ちいさく、口、大きにして、見道をうち詠(ながめ)て、消(きへ)うせたり。

 見道も、人にかはりし剛氣者にて、怪しくはおもひながら、立さりもせず、

「猶も、あやしき事や、ある。」

と、心を付る折ふし、主(あるじ)の何某(なにがし)、

「歸り來りし。」

とて、座敷へ立出、一禮、事終り、内室の樣躰(やうだい)など物語し、

「嘸(さぞ)、待久しく、おはしけん。無禮の至り、御免あるべし。然ば、貴殿の顏色(がんしよく)、何とやらん、心得がたく相見へ候。いかゞ候やらん。」

と尋られ、見道、しばらく『穩密(おんみつ)せん』と思ひしが、

「以後迚(とて)も、人々の心得にも成なん。」

と小聲(こゝゑ)に成て、

「先刻、かやうかやうの怪(あやし)みありし。」

と語りければ、主、打わらひ、

「扨々。彼(かの)法師めが、出(いで)て候や。例(れい)の顏(かほ)ばせ、御覽じたるか。いつも、いつも、罷出、しらぬ人をおびやかし候が、けふは、いかなるふるまいをか、なしつる。もし、かやうには、なかりしか。」

といふ、其かほ、見るうちに、大さ三尺斗、口は、耳の根まで裂(さけ)、眼、たゞひとつ、額に光り、はじめ見し小僧に十倍して、さしも肝ぶとき見道も、魂(たましい)も身にそはず覺へて、玄關へ、はしり出、睡(ねふ)り居ねる供の者を呼(よび)起せしに、皆々、歸りたると見へて、草履取、只一人、居たるが、

「何事か、おはしつる。騷々敷(そうそうしく)見えさせ給ふ。」

といふを、いらへもせで、はしり行しに、提灯は、なし、闇(くら)さはくらし、

「いかゞせん。」

といふを、草履取、

「いや。くるしからず。ちやうちんは、これに、候。」

といふ言葉の下より、道、はなはだ、あかるくなりて、這(はふ)蟲のすがたも見ゆべく、四方、燦然たり。

「こは、ふしぎや。」

と、下部が姿を見れぱ、面は、長きこと、二尺餘り、まなこは、日月のごとくかゞやき、口より、火炎を吹出しければ、見道、今は、たまりかね、

「はつ」

といゝて、倒れしが、其後は、何とも覺えず、と後に語りし。

 かくて見道が宿にては、

「供の者は、皆、返して、初ての所に、斯(かく)、長座し給ふこそ、心得ね。いざ、さらば、迎(むかい)にゆかん。」

と、提灯とぼし、つれて、晝行し所へいたり、屋敷のさまを見るに、大きに、樣子、かはりて、門、もふけたり[やぶちゃん注:「設けたり」。]といへども、柱、かたぶき倒れ、軒端は荒(あれ)て、月さし入りたる、くまぐまには、蜘(くも)の家居の糸引はへたる、あづま屋の、餘りにあきれ果(はて)、近所の町屋に立寄、

「あれなる屋敷は、いかにや、荒たる住居ぞ。」

と、とへば、

「あの化物やしき、しらざるは、きのふ、けふ、田舍より來りし人々にや。年ふりたる荒地にて、東隣(となり)の石澤氏より預りながら、人の通路も絕(たへ)て、狐狸(きつねたぬき)のみ、住居し侍る、おそろしき所なり。」

といふに、肝、つぶれ、

「晝、供して來りし時は、『いみじ』と見へし屋敷なりしに。扨は。妖怪の所爲(しよい)なりける。さるにても、主人はいかゞし給ひけん。」

と、千駄谷(せんだがや)、大番町の邊、かなた、こなた、さまよひ、漸(やうやう)、「鮫(さめ)が橋」に至りて、物淋しき藪道に、見道は、うつぶしに倒れ居しを、見付出して、大勢にて、取卷、介抱して、宿へつれ歸りけれど、一日、二日は、茫然として、ものも、えいはで、居りし。

 一月餘、惱(なやみ)て、やうやく、元のごとく、なりけるとぞ。

 是を、聞人、おそれて、其邊を通る人も、なかりし。

 後に聞ば、古狸のわざなるよし。

 其以後、古狸を駈(かり)出せしが、今は其跡もなく、人も住居し、いづくとも、さだかに知る人さへなく、繁昌の地となりける。

 

[やぶちゃん注:実は底本では「古狸妖老醫」(「こり、らういをばかす」と読んでおく)である。原本のそれを採った。

『中華の諺に、「良醫は福醫にしかず、明醫は時醫におよばず」といへり。時醫(じゐ)とは、其時にとりて、世に擧用(きよやう)せられ、百發百中の效もあるやうに、もてはやさるゝ流行(はやり)醫者なり。福醫とも、これをいふ』原拠は不明であるが、貝原益軒の「養生訓」の「擇ㇾ醫」(醫を擇(えら)ぶ)に、

   *

文學ありて、醫學にくはしく、醫術に心をふかく用ひ、多く病になれて、其の變(へん)をしれるは、良醫なり。醫となりて、醫學をこのまず、醫道に志なく、又、醫書を多くよまず、多くよみても、精思の工夫(くふう)なくして、理に通ぜず、或は、醫書をよんでも、舊說になづみて、時の變をしらざるは、賤工也。俗醫、利口にして、「醫學と療治とは別の事にて、學問は、病を治するに用なし」と云て、わが無學をかざり、人情になれ、世事に熟し、權貴(けんき)の家に、へつらひ、ちかづき、虛(きよ)名を得て、幸にして世に用ひらるゝ者、多し。是れを名づけて「福醫」と云、又、「時醫」と云。是、醫道には、うとけれど、時の幸ありて、祿位ある人を、一兩人療して、偶(ぐう)中すれば、其の故に名を得て、世に用ひらるゝ事、あり。才德なき人の、時にあひ、富貴になるに同じ。およそ、醫の世に用ひらるゝと、用ひられざるとは、良醫のゑらんで、定むる所爲(しわざ)にはあらず。醫道をしらざる、白徒(しろうと)のする事なれば、幸にして、時にあひて、はやり行はるゝとて、「良醫」と、すべからず。其の術を信じがたし。

   *

とある(「中村学園大学」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」にある九州大学医学部教授貝原守一博士(益軒の子孫)の校訂本PDF版 (昭和一八(一九四三)年福岡市で発行されたもの)の「20」コマ目を参考に視認した)。また、少し後(「21」コマ目)には、

   *

醫師にあらざれども、藥をしれば、身をやしなひ、人をすくふに益あり。されども、医療に妙を得る事は、醫生にあらざれば、道に專一ならずして成がたし。みづから、医薬を用ひんより、良醫をえらんでゆだぬべし。醫生にあらず、術あらくして、みだりに、みづから、藥を用ゆべからず。只、略醫術に通じて、醫の良拙をわきまへ、本草をかんがへ、藥性と食物の良毒をしり、方書をよんで、日用急切の藥を調和し、醫の來らざる時、急病を治し、醫のなき里に居(をり)、或は、旅行して小疾をいやすは、身をやしなひ、人をすくふの益あれば、いとまある人は、すこし心を用ゆべし。醫術をしらずしては、醫の良賤をもわきまへず、只、世に用ひられるを良工とし、用ひられざるを、賤工とする故に、醫說に、明醫は時醫にしかず、といへり。醫の良賤をしらずして、庸醫[やぶちゃん注:凡庸な医師。]に、父母の命をゆだね、わが身をまかせて、醫にあやまられて、死したるためし、世に多し。おそるべし。

   *

ともある。しかし、どうもこれでは、それらの違いは明白ではないように思われるが、益軒は「明医」は過去の実績で評価される者を指し、優秀ではあるものの、定説に捕われて、日々の研鑽や努力を怠るだめな医師だと断じ、一方で、「時医」は時流に即して患者を診る流行(はやり)医者であるが、同時に進歩し続ける医の世界の智を吸収し、最前線で研究と研鑽を積む真の医師であると言っているらしい。「明医」は碩学の理論に拘る旧来然とした時代遅れの医師であり、「時医」は現在と未来を見据えた臨床医とし評価しているようである。則ち、益軒は本当の確かな「時医」を選ぶことが肝要だと言っているようである。なお、この最後の部分では、こちらの記事を参考にさせて貰った。

「陸野見道(くかのけんどう)」原本通り。「くがの」であろう。人物不詳。

「番町」現在の皇居より西に位置する一帯で、南の「新宿通り」、北の「靖国通り」に挟まれ、東端は「半蔵濠」から「牛込見附」、西端は「JR東日本中央線」が走る旧江戸城の外濠跡に当たる。現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「番町」によれば、『江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから』、『番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれている。しかし』、『江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致しない。江戸時代の番町の区画は、通りに面して向かい合う二連一対の旗本屋敷の列を基準に設定されたものだからである』。『概念的に説明すると、江戸城の内堀に面する縦軸の番町として、千鳥ヶ淵に沿った南北に走る道(現青葉通り)を基準に一/二番町(新道一/二番町)が置かれた。次に江戸開府以前からの古道である、東西に走る麹町通り(新宿通り)を横軸にし、それに平行する道路を基準に、麹町通り側から北上して、裏/表二番町、裏/表六番町(表六番町は現在の二七通り沿い)、三番町(現在の靖国通り沿い)、表/裏四番町(靖国神社境内の北半分から富士見町一帯)と配置されていた』。『五番町だけは新道一番町の南側に続く半蔵壕に面した地区(現英国大使館とその裏側)とされ面積も狭い。西に連なる麹町通りの北側は、千鳥ヶ淵に連続する水面を埋め立てた谷間の低地(麹町谷町)を中心にして元園町とされているが、江戸切絵図(尾張屋版「番町大絵図」など)によれば、さらに西側の四谷見附寄り(現在の千代田区二番町と麹町四丁目の境界付近)まで五番町と表示されているところから、本来の五番町は、麹町通りの町人地の北側に沿って細長く設定されていたものと考えられる』。『また』、『直線状の区画から外れた堀端の三角地帯を、土手三番町(現五番町)や土手四番町(現富士見二丁目一帯)、堀端一番町(現千鳥ヶ淵戦没者墓苑一帯)などと呼んで、番町の独立した一街区とした』。『近代以降、番町の区画は何度か改編されて』おり、『全く別の場所に新たに一番町・四番町・五番町が設定されるなど、番町の数字順は大きく入れ替わっている』。『このため』、『近代の文学作品や記録を考証するときには注意が必要である。例えば、現在の四番町は、もと中六番町であり、明治~大正時代の四番町は九段北四丁目・三丁目の一部(三輪田学園中学校・高等学校周辺)であった。また現在の五番町は市ケ谷駅前にあるが、昔の五番町は英国大使館周辺であった』。『塀をめぐらし、樹木が鬱蒼とした中に、人気のない古い旗本屋敷が連なる地域であったことから、「番町皿屋敷」や「吉田御殿」「番町七不思議」などの怪談が生まれた。表札もなく、同じような造りの旗本屋敷ばかりが密集しており、住民でさえ地理を認識することが困難であったため』、『「番町の番町知らず」という諺が流布した』とある。

「澤氏とかや、いへる人」後で「東隣(となり)の石澤氏」の「預り」地とあるので、もしや、モデルがあるかと思い、切絵図を調べてみたが、目が痛くなるばかりで、諦めた。

「御見𢌞」「おんみまはり」。往診。

「率爾(そつし)」「そつじ」。相手に対して無礼であること。

「凡(たゝ)者ならず」「ただものならず」。この時には普通の顔らしく見え、且つ、美童であったのである。

「手など、取て愛(あい)しけるに」ここで、この陸野見道が、救いがたい好色な藪医者なることが、確かに示されるわけである。そもそもが、急病往診に呼ばれたのに、その途次に別な往診を複数こなし、しかも夕方になって、先の屋敷に趣くなど、最早、見下げた医師であることは、判然としていたのである。

「待久しく」「まちびさしく」或いは「まち、ひさしく」。長くお待たせし、の意。

「穩密(おんみつ)せん」怪異のあるは、武家にとって不名誉なれば、内密にして、言わずにおいた方がよかろうと当初は思ったのである。

「以後迚(とて)も」「これ以降、何か御座った場合を、これ、考えましても。」。

「騷々敷(そうそうしく)」歴史的仮名遣は「さうざうしく」が正しい。

「道、はなはだ、あかるくなりて、這(はふ)蟲のすがたも見ゆべく、四方、燦然たり」ちょっとした気遣いだが、ここは、リアリズムの出し方が上手い。

「其後は、何とも覺えず、と後に語りし」この怪異を離した聴き手(時制がかなり昔のことと設定されているからには作者ではあるまい)に、直接、見道が語ったという補足で、怪奇談としては、やはり、リアリズムを出す方途として考えてある部分である。

「長座」「ちやうざ」か。或いは当て訓して「ながゐ」がよいか。

「蜘(くも)の家居の糸引はへたる、あづま屋の」蜘蛛の巣(「家居」)が糸を引いてみっちりと生えたようになっている四阿(あずまや)のさまに。

「千駄谷(せんだがや)」現在の東京都渋谷区千駄ケ谷で代々木駅附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。番町の西方。

「大番町」番町の異名・広域名で、先の千駄ヶ谷や四谷(現在の新宿区大京町(だいきょうちょう)などに、その名が嘗て添えられてもあった。

「鮫(さめ)が橋」鮫河橋(さめがはし)は桜川支流鮫川に架けられていた橋及びその周辺の地名。現在の新宿区若葉二・三丁目及び南元町一帯を指す。この附近。江戸時代は岡場所があった。「今昔マップ」で見ると、「元鮫河橫町」という地名が認められる。迎賓館の北西直近に当たる。]

2021/01/14

怪談登志男 六、怨㚑亡經力

 

怪談登志男卷第二

 

   六、怨㚑(おんりやう)經力(きやうりきにほろぶ)

 藝州嚴島は扶桑第一の勝景、繁榮豐饒(ぶにやう)の所なり。此あたりに大坂町といへる所あり。攝津國難波(なんば)の商人、常に往返(おふへん)して、甚、賑はへり。

 此町に田澤屋とて、大舩(たいせん)、あまた貯置(たくはへおき)、運送自由をなすが故に、家、大に冨(とめ)るものあり。

 永祿年中、當國の座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩、肌に付、此湊にて田澤屋が船に乘り、海上一里も出しとおもふ頃、俄(にはか)に騷(さはぎ)立、聲を上て、

「こは悲しや、某が携へ持たる革財布(かはさいふ)、湊を出し時、首にかけ候ひしが、只今、舳(とも)に立出、小用致し候節、少の間(ま)、側(そは)に置候が、今、能々、尋れども、何方へ參りつらん、これ、なく候。あはれ、御慈悲に、各、御立合、盲人が金子の事、出世のため、幾年か丹誠を盡して用意いたしたるなり。御吟味なされ下さるべし。」

と、歎き悲しむ事、大かたならず。

 乘合(のりあひ)の人々、一同に、

「是は、氣のどく千萬。面面、幾度か此海路(かいろ)を商買(しやうばい)[やぶちゃん注:原本も漢字はママ。]のため、往(ゆき)通ふが、いまだ、かゝる事こそあらね、舩中のもの、獨り獨り、身ばれなれば、裸になり、穿鑿いたし侍らん。」

と、片端より、帶を解(とき)て改けれども、もとより掠(かす)めぬ金なれば、出べき樣もなかりしが、

「舷(ふなばた)に、何やらん、海に下(さが)りし緖(お)の見へしが、若(もし)も、それか。」

と立さはぐ。

 座頭、うれしく、舳(とも)に出、舷を探り見るを、水主(かこ)壱人、聲をはげまし、荒らかに、

「此盲人(めくら)は、危(あやふ)き所をはしり𢌞り、もし、海へ落入て、人を恨みたまふなよ。見へざる金が今と成、此船中に有べきか。もし、舩頭を疑ひての事か。左(さ)もあれば、吟味の上、金の有(あり)か、しれざるにきはまりし時、いかゞすまさるゝや。此舩に惡名(あくみやう)を付らるゝからは、覺悟、あるべし。」

と、したたかに叱(しかり)けれども、元來(もとより)、途方にくれける故、耳にもさらに聞入ず、小緣(こべり)を傳ひ出で、碇綱(いかりづな)の中程より、浪に浸りて垂りしを、

「手繰寄(たぐりよせ)ん。」

と屈(かゞ)む所を、舩頭は、とりとゞめんとせしが、誤りて落入たると見へ、海へ、

「ざんぶ」

と飛(とび)入しに、此音とともに、座頭も、おなじく、海へ落ぬ。

 舩中、周章(あわて)て、聲を上、

「誰(たそ)、助けよ。」

と立騷ぐ。

 船頭は、波にゆられながら、座頭をとらへ、たすくるやうに見ヘしが、浮(うき)ぬ、沈みぬ、見え隱れて、二人ともに、底(そこ)の水屑(みくず)と成にけり。

 船中、一同にさはぎ立、

「財布の見へざるのみならず、座頭も入水(じゆすい)したりける事の便(びん)なさよ。水主もまた、人を助けんとて、思ひよらざるあさましき死を遂(とげ)し。」

と語り合て、心ある人は經をよみ、念佛して、吊(とふら)ひける。

 此後、程經て、件(くだん)の船頭は、室(むろ)津より上りて、辛き命を助かりし、と沙汰するものもありけるが、座頭が噂は絕(たへ)て、なく、金の穿鑿する人もあらず。

 茲に田澤屋が子傳三郞は、生年、廿八歲になりしが、極て好色の者にて、あけくれ、花街柳巷(けいせいまち)にあそび、「御舩(みふね)」といヘる遊女を、そこばくの金にて請出し、蜜[やぶちゃん注:原本のママ。「ひそかに」。]にかくし置て、愛しける。

 傅三郞が親は、洞春(とうしゆん)とて、禪門なりしが、隱居住(すま)ゐの、もの閑(しづか)なるに、四季折々の草花を植(うへ)て、樂しみとし、今朝も、夙(つと)めて、庭に立出、菊の、きせわたする所へ、座頭一人、飛石を傳ひ來るを、洞春、見とがめ、

「いづ方より、まよひ入しぞ。路地を出て、裏道より、小路をつたふて、出られよ。」

と敎へければ、座頭、うちゑみて、

「それがしは、此廣島の迫(せ)戶に沈みて、見るめは得たれど、藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの、我身を碎(くた)き、骨を拉思ひにて貯へたる官金三百兩、革の財布に携へ持、御身の舟に乘し時、嘉兵衞といふ兎唇(とくち)の水主が盜隱(むすみかく)して、我を海中へ落し入、たすくる風情に人には見せ、うづまく淵へ、我を沈め、其身は水底(みなそこ)を潛りて、陸路に上り、室津(むろつ)まで流(ながれ)て、からき命、たすかりしと僞り、此金を傳三郞にあたへ、己(おのれ)も配分せし事、もとより其方が子の、傳三が所爲なり。此恨(うらみ)、いづれの世にか、散ずべき。田澤が家を絕(たや)し盡(つく)し、盡未來際苦(ちんみらいさいく)を見すべし。いかなる佛事供養をも、かならず、かならず、なすべからず。詮なかるベし。」

と、いふかとおもへば、庭の淺茅(あさぢ)の露と消て、跡かたも、なし。

 洞春、茫然として、夢のさめたるごとく、おそろしさ、いはんかたなし。

 いそぎ、傳三を一間に呼寄(よびよ)せ、此事の始終を穿鑿しけれぱ、今は、つゝむ事を得ず、赤面して立去る。

「座頭が恨みはとも斯(かく)もあれ、此惡事、露顯しては、公(おゝやけ)の御咎(いさめ)、まぬがれがたし。」

と、嘉兵衞をともなひ、宮嶋領(りやう)の田舍に行、幽(かすか)に、かくれぬ。

 かくて後、洞春をはじめ、一家九人、七日が間に、死(し)しぬ。

 傳三・御(み)船・嘉兵衞、三人、一時に、兩眼、つぶれて、あまつさへ、狂亂し、

「座頭を殺し、金を盜し者は、我々なり。」

と、口ばしり、觸𢌞り、麻が原といふ所の草むらに、かばねを晒し、うせにけり。

 是より、田澤が家、荒果(あれはて)、「化もの屋敷」と名に立て[やぶちゃん注:「たちて」。]、住(すむ)人、さらになかりしに、豐前の小倉より、日蓮宗の行脚の沙門、來りて、ありし次第を聞、あはれなる事におもひ、座頭が爲、田澤屋一家が爲、此「ばけ物屋敷」に住(しう)して、日夜、法華、讀誦しければ、亡魂、得脫(とくたつ)せしにや、其後、かの荒(あれ)屋を修理(しゆり)して、人も住居しけるに、いさゝかの怪(あやしみ)もなかりし、と、濟家(さいけ)の沙門昂含(かうかん)といへるが、信州佐久郡(さくこおり)觀音寺に來りて、つぶさに語りしを、しるしとゞめしも、今は、むかしと、なりぬ。

 

[やぶちゃん注:座頭の死、及び、洞春をその亡霊が訪ねるシークエンスまでは、まことにリアリズムに富み、よく書けている。しかし、コーダが早回しの急ぎ足で、完全に失敗している。今までの本書の話柄の中では、格段にレベルの落ちるもので、不審極まりない。筆者が投げたとしか思われない。

「大坂町」不詳。

「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。もう、戦国時代初期。

「座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩」「官金」これはもう、江戸時代のことを引き戻した設定で、盲人が検校などの官位を手に入れるため、江戸幕府に納めた金を指す。

「舳(とも)」船尾。船首でも「舳」と書くが、ここは小便をしていることから、それでとるべきである。

「身ばれなれば」「身晴れなれば」で確定条件。「(皆、盗みなどしようがない。されば)身は何方も潔白であるのであるから」の謂いでとる。

「掠(かす)めぬ金なれば」誰も盗んでなどいない金であるから。

「舷(ふなばた)」広義の船の側面。

「小緣(こべり)」船(一般には小舟)の前に注した舷(ふなばた)の上縁に保護材として張った板。

「室(むろ)津」厳島の直線で南西約五十キロメートルにある室津半島(グーグル・マップ・データ)。

「菊の、きせわたする」「きせわた」は「着せ綿」。旧暦九月九日の「重陽の節句」に於いて、古く平安時代には前日の九月八日に菊の花を真綿で覆っておき、それに菊の香を移しえ、その翌日の朝、露に湿ったこの真綿を顔に当て、若さと健康を保とうとする行事があり、それを「菊の着せ綿」と称した。ここは、それを指すので、この部分で時期設定が示されていることになる。

「迫(せ)戶」「瀨戶(せと)」。

「見るめは得たれど」平知盛の壇の浦の台詞「見るべきものほどのことは見つ」を下敷きにしていると思われる。生きてゆく中で体験せねばならぬおぞましきことは総て見た、と、まず、言い、「見る目」の一方の意である「物事の真偽・優劣を見分ける力・眼力」を得て、誰が私の金を奪い、殺したかを私は知っていることを暗示させている。さらに無論、海の藻屑となって緑藻類の海藻「みるめ」「みる」「海松」「水松」(緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile )となる身に堕ちたことを掛けた。

「藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの」「みるめ」から「藻」が縁語となり、そこから「藻に住む蟲」となれば、それから「われから」(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目 Senticaudata 亜目 Caprelidira 小目 Caprelloidea 上科の小型甲殻類のワレカラ類)がやはり縁語で引き出されるという仕儀となっている。だから、この座頭の通称名であるところの「和禮都(われいち)」をここで突然出したのは、「われから」に掛けた名として示された臭い言葉遊びなのである。かのちっぽけなみすぼらしい、海藻についてミイラになって、ぱらぱらと壊れ去る甲殻類の「われから」なればこそ、以下、「我身を碎(くた)き、骨を拉」(「ひしぐ」。「折る」ような)「思ひにて貯へたる官金三百兩……」と繋げて空しく腑には落ちるのである。但し、ちょっと粉飾し過ぎの感があって、私は座頭の怨霊の登場には、やや五月蠅い感じがなくもないように思う。しかも、この辺りから後が、まさに、ワレカラが微塵となるように、作品として、がっくり、だめになるのとまさに呼応しているからでもある。作者は、文章の飾りの調子に乗り過ぎた結果、本来の主題の展開のリアリズムをおそろかにしてしまったのである。

「兎唇(とくち)」口蓋裂。通常は鼻の直下で上唇が分離している先天性異常のこと。

「盡未來際苦(ちんみらいさいく)」「盡未來際」は「じんみらいざい(さい)」で、仏教用語。「未来の果てに至るまで」「未来永劫」の意で、普通は誓願を立てる場合などに用いるのだが、それに永遠の「苦」痛を添えて、未来永劫に続く呪詛の証として転じたものである。

「淺茅(あさぢ)」疎(まば)らに生えた丈の低い茅(ちがや)。荒涼とした風景を表わす語であるが、ここは洞春の綺麗な園中なれば、彼の心象風景ととるべきであろう。

「麻が原」不詳。

「濟家(さいけ)」臨済宗。

「昂含(かうかん)」不詳。

「信州佐久郡(さくこおり)觀音寺」不詳。長野県佐久市大沢の曹洞宗龍泉院内に観音寺という寺がある記載があるが、ここで言っているのがその寺かどうかは判らぬ。この近くにはっ独立した「観音堂」があり、佐久郡に拘らなければ、観音寺は外にもある。例えば、旧佐久郡に近い観音寺(グーグル・マップ・データ)は長野県小県(ちいさがた)郡長和町にあるが(真言宗)、ここは佐久郡であったことはない。]

2021/01/12

怪談登志男 五、濡衣の地藏

 

    五、濡衣(ぬれぎぬ)の地藏

 攝州大坂、西の御堂の東に、金銅丈六の地藏ありしが、何の頃、いづくの冶工(いりし)が鑄(い)たるとも、誰(た)が納めしとも、知る人さへなくて、衣體、綠の錆(さひ)、生じて、最(いと)舊(ふり)たる像なりしが、いつの頃よりか、此像、夜な夜な、出て、寺中を𢌞り、或時は庫裏(くり)に來り、食事をなし、樣々、稀有成事あるよし、風聞せり。

 其頃、此寺に、美童、あまた有ける中に、「犬丸(いぬまろ)」と云ける兒(ちご)、すぐれて、僧俗ともに、心を懸(かけ)ざる者も、なし。

 或夜、寺内の人、用事有て、堂の後(うしろ)の小路(こうぢ)を通りけるに、地藏の臺より、一人の僧、立あらはれ、方丈の方に行を、怪しび思ひ、慕ひて見れば、間每(まこと)の戶を明け、奧ふかく、入ぬ。

 此事を人に告(つげ)ければ、起(おき)出て、うかがふに、犬丸が閨(ねや)に入ぬ。

 かくて後、每夜、忍(しのび)入ければ、上人、犬丸を密(ひそか)に呼(よび)て、

「汝が方へ通ふものは、誰(たれ)なるらん。つゝまず、語るべし。」

と、きびしく問(とは)れ、犬丸、せんかたなく、

「いか成人とはしらず、幾夜か通來(かよひき)ぬれど、はじめの程は、堅く防ぎさふらひしかども、さまざま、詫(わび)、いろいろにかこち、『汝が難儀ともなるべくば、是を、人に見せよ、誰(たれ)咎(とが)むる者も、あらじ』と。」

守り本尊の、ちいさきづしに入たるを、蜀錦(しよくきん)の袋に入しを、取出したるを見るに、まさしく一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人、平生(へいぜい)、尊信まします所の本尊なり。

「扨は。まぎるべうもなき、門主にてましましけるぞや。はしたなき御ふるまひかな。」

と、寺中の役者も、夜、いねず、遠見して、犬丸が部やをうかゞひけるに、其夜、また、忍び來りしを、犬丸、つくづくおもひけるは、

『何人にもせよ、我も仇(あた)なる名をたてられ、ゆびざさるゝも恥しく、且、又、忍びし人の名をも漏らしぬれば、其人に對しても、口惜しき次第なり。此人を指殺(さしころ)して、われもともに、死なんものを。』

と、短氣を起し、いつものごとく、しめやかに打かたらひ、僧の、少、ねむれるを、見すまし、短刀を拔(ぬき)て、胸のあたりを、突(つき)通しければ、ふしぎや、此僧、手負(ておひ)ながら、鴨居(かもい)を飛越(とびこへ)、迯(にげ)て行。

「すはや。」

と寺僧、手に手に、棒(ぼう)引提(ひきさけ)、追(おい)かけ見しに、後堂の地藏の、もすそに立隱れて、見へざりける。

 人々、

「さればこそ。」

と、血(のり)をしるしに、さがしみれば、金銅の地藏尊の、御(み)足に踏(ふみ)たまへる邁花座の下、石垣の落入たるより、少しの、穴、あり。

 掘崩(ほりくづ)して、能、見れば、下は、大きなる、穴、なり。

 熊手を入て、さがしたるに、

「何やらん、かゝりたるは。」

と、ひしめき、人々、打寄、引揚(ひきあげ)たるを見るに、古き狐の死したるなりけり。

 犬まろも、其時、

『死すべかりし。』

が、僧の、鴨居を飛こしたるに鷺き、

「扨は。變化(へんけ)なりけり。」

と心づきて、死せざるは、命一つ、ひろひたるなり。

 狐といふもの、人に化(ばく)る事は、むかし、今、人も知りける事にて、其ためしも、數々なれど、女に化(け)して、男をまよはせ侍るは、常のことなり、男の姿にて美童に通ぜし事、いと、珍らしき。

 此後、地藏の、あるきて、わるさし給うという沙汰も、やみぬ。

 彼(かの)「一山の法主なりし」といゝし事、おそろしきたくみなり。

 其「守り本尊」と見へしも、跡にて見つれば、

「古き木の切を、もみぢせし木葉(このは)に、つゝみたるなりけり。」

と。

 其頃の取沙汰を、難波(なには)の人の、かたり侍りし。

 

[やぶちゃん注:「攝州大坂、西の御堂」現在の浄土真宗本願寺派本願寺津村別院、通称「北御堂」のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「金銅丈六の地藏」銅に金の鍍金(めっき)或いは金箔を押した一丈六尺(四メートル八十五センチメートル)の身長の地蔵菩薩像である。古いものであれば、立像で同長であるが、比較的新しい造立では、座像でしかも右足を蓮華座から外して垂らしているタイプもある。ここは「御足に踏たまへる蓮華座の下」とあるので正規の同長の背丈の正立像である。

「蜀錦(しよくきん)」模造した西陣以外では、古いものは二種ある。一つは上代錦の一つで、緯糸(よこいと)に色糸を用いて紋様を表わした錦で、赤地に連珠紋を廻らした円紋の中に花紋・獣紋・鳥紋などを織り出したもの。奈良時代に中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。次いで、下って明代を中心にして織られた錦で、その多くは室町時代に本邦に渡来している。八角形の四方に正方形を連ね、中に花紋・龍紋などを配した文様を織り出したもので、この文様を「蜀江型」と称し、種々の変形紋が存在する。

「いか成人とはしらず、幾夜か通來(かよひき)ぬれど、はじめの程は、堅く防ぎさふらひしかども、さまざま、詫(わび)、いろいろにかこち、『汝が難儀ともなるべくば、是を、人に見せよ、誰(たれ)咎(とが)むる者も、あらじ』と。」という犬丸の台詞の後には、さらに引用の格助詞「と」が欲しい。

「一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人」問い質している「上人」は当北御堂一山棟梁であるところの法主(浄土真宗の管長を指す場合が多い)であるところの上人である。では、この「一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人」とは誰なのか? 理屈から言えば、本山たる西本願寺門主となるが、それでは、物理的な距離や、前振りの部分で寺僧たちがこの僧を見ている(どころか、飯まで食わしている)ところなどから考えても、シークエンスが如何にも現実離れしており、おかしい。しかし、この上人は犬丸の見せた守り本尊を見るや、驚いて、「門主にてましましけるぞや」! 「はしたなき御ふるまひかな」! と激しく嘆いているのだから、やはり、そうらしい。しかし、対して、犬丸の反応はどうか? 「何人にもせよ、我も仇」(あだ)「なる名をたてられ、ゆびざさるゝも恥しく、且、又、忍びし人の名」(!)「をも漏らしぬれば、其人に對しても、口惜しき次第なり。此人を指殺(さしころ)して」(!)「われもともに、死なんものを」と思い、実際の殺害行動に出るというのは、相手が西本願寺門主ではトンデモなことになってしまい、展開自体が如何にも現実離れして、逆に浮(うわ)ついて白けてくる。私には、どうもその辺りの関係設定に、怪談としての最低限の真実らしさが致命的に欠落しているとしか思われず、腑に落ちないのである。設定自体の面白さを現実の高位の人物の擬態に狙い過ぎて、逆に白けさせてしまっていると感じるのである。しかし、まあ、正体は結局は妖狐で、菩薩に化ける話もあればこそ、玉藻の前は帝の命さえ危うくし、だいたいからして白蔵主(はくぞうず)の少林寺(臨済宗)もここからそう遠くないし、門主・門跡に狐が化けても、まんず、よかろうかい。まあしかし、この怪談、「お西さん」の信者は破り捨てるであろうなあ。だって、この上人以下、誰一人として妖狐と見抜けぬ為体(ていたらく)は、当寺にとっても甚だ冒瀆的でマズいでショウ! しかも法主のマジな若衆道でっせ? 編纂に関与していると考えてよい静観房好阿は名前からして真宗の信者らしい感じだから、或いは彼は「お東さん」だったのかも知れぬ、などと妄想してみた。]

2021/01/10

怪談登志男 四、古屋の妖怪

 

    四、古屋の妖怪

 備後の鞆(とも)の浦は、九州・中國にならびなき繁華の津[やぶちゃん注:「みなと」と当て訓しておく。湊。]にして、分(わけ)て時めく有曾町(ありそまち)は、艷冶(ゑんや)の少艾(しやうがい)に船をつながれ、茲を去(さる)順風を恨む、旅客の思ひ、皆、此湊(みなと)に焦(こが)れ來(く)るにぞ、商家、日夜に冨を重(かさね)たり。

 此所に、金屋嘉平治といふ酒屋あり。家、冨榮(さかへ)けるが、このいへのうちの一間に、最(いと)あやしき事あり。

 嘉平治は元來、所久しき者なり。人にも員(かず)まへらるゝものから、

「かゝる事あり。」

と、たまたま、もれ聞(きゝ)たるものも、口を閉(とち)しが、次第に城下に咄傅(はなしつた)へて、怪(あや)敷沙汰、取々なりし。

 其仔細は、かれが座敷三間四方、昔普請(むかしふしん)の物好(ものすき)もよく、奇麗に構へし一間なるが、何(いつ)の頃よりか、目なれぬ調度、取ちらしたる時もあり、十二、三のわらべの、美目・形、淸げなるが、文[やぶちゃん注:「ふみ」。手紙。]など見入て居たるときもあり、又は、座敷に應(おう)ぜざる俵物(たはらもの)、數おゝくつみ重て、半時斗、置時もあり、或は、武具・馬具、きらびやかに飾り並べ、又は、小法師、二、三人、出、戲(たはふ)れあそぶ事もあり。

 先の嘉平治、甚、怪しび、其座敷を打敗(やぶ)らんと、大工をかり催して、已に毀(こぼ)たんとせしに、工匠(こうしやう)、皆、目を開くこと、あたはず、あるひは、足、すくんで、起(たつ)こと、あたはず。

 禰宜(ねぎ)・山伏を招(まね[やぶちゃん注:原本のママ。])て、祈念すれぱ、貴僧・高僧、顯れ出て、其ものどもより、はるかに嚴重に法を修(しゆ)する故、はづかしくなりて、迯(にげ)さる程に、今は術計(しゆつけい)、盡て、其儘に差置たるに、さして家内のものに、さはることもなく、今に至て災(わざはひ)も、なし。家内、見馴て、誰(たれ)も皆、恐ろしとも思はねば、後は、つれすれを慰む種とぞ、なしける。

 當嘉平治も、幼時より見馴たれば、彌、怪ともおもはで過ぬ。

 此事、誰(たれ)申上けん、領主、聞(きこ)し召、

「左樣の事、城下にありと聞ては捨置(すておき)がたし。」

と、俄に此評議、事募(ことつの)りて、侍、大勢、金屋が家に至り、金屋が座敷に詰(つめ)て、樣子を伺ふ所に、今まで見へざる臺子、飾(かざり)て、しほらしき老法師が、手前、見事に、あいしらひたる茶の湯に、上客(しやうきやく)を見れば、領主、御入にて、日頃、御側(そば)をはなれぬ橋本右膳(うぜん)とかや云し出頭、御つめに出たるさま、各、

「はつ。」

と驚、恐れ入て、覺へず、飛退(とびしさり)、頭(かうべ)を地に付たる内に、臺子(だいす)も、老人も、一座の客も、跡かた、なし。

「こは、口をしや、化物めに、たぶらかされし。左もあれ、殿の御姿に、みぢんも違(たが)はず。一盃喰(く)ふまじきものにも、あらず。」

と、はせ歸りて、此だん、つぶさに言上しければ、領主、甚、驚き給ひ、

「其方共、はせむかいし刻限に、我、汝等が見たる所の衣服にて、島倉了閑といふ茶の湯者(しや)を、始(はしめ)てまねき、會席(くわいせき)過るとひとしく、汝等が注進。其見つる老人が形(かたち)も衣服も、了閑が今日の出立(でたち)に少(すこし)も、たがはず。そも、かゝるふしぎなる事こそ、なけれ。」

と、金屋が宅を外へ移し、替地(かへち)を下し給はり、所替せし跡は、「金屋が古屋(ふるや)」と名に立(たち)、間口九間の大肆(みせ)、いつの頃より荒地となりしや。

 此時代、さだかならず、いかさま、文祿・天正のいにしへなるらし。今は其跡を知る人もなし。

 

[やぶちゃん注:「備後の鞆(とも)の浦」現在の広島県福山市鞆町鞆(ともちょうとも)の鞆の浦(グーグル・マップ・データ)。同ウィキによれば、『戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点の一つとなっていた。室町幕府』十五『代将軍足利義昭は』元亀四(一五七三)年に『織田信長により京を追放された後、毛利氏などの支援のもと渡辺氏の援助で』天正四(一五七六)年に『鞆に拠点を移し』、『信長打倒の機会を窺った。伊勢氏や上野氏・大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り』、『鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある』。『また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は“足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた”と喩えた』。『尼子氏滅亡に際しては』、『播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ』、『足利義昭や毛利輝元により』、『実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている』とある。なお、ウィキの「鞆城」によれば、『戦国時代になると』、『備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は』天文一三(一五四四)年に『村上水軍の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され、村上氏の本拠は大可島城に置かれた。このため』、『亮康は「鞆殿」と呼ばれた』。『織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が、毛利氏を頼って』『鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ』、『義昭の居館があったとされている。義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという』。天正六(一五七八)年になると、『毛利氏は、信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には、山中幸盛の首級が鞆に運ばれ、義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は』六『年間』、『鞆に留まり』、天正一〇(一五八二)年に『津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる』とある。筆者自体が時制を朧ろにしてしまっており、創作怪談であるから、あまり意味はないとは思うが、一応、以上の知れる史実だけは示しておく。

「有曾町(ありそまち)」サイト「鞆物語」のこちらによれば、現在、当地にある「鞆ノ津ギャラリーありそ楼」(グーグル・マップ・データ)のある附近は、『江戸時代の頃は「有磯(ありそ)」と呼ばれる、全国有数の遊郭街だったといいます。この建物自体も』、五十『年ほど前までは、実際に遊郭として営業していたらしく、今日にも、その遊郭建築の妙味が色濃く保存されています』とある。

「艷冶(ゑんや)」艶(なま)めいて美しいこと。

「少艾(しやうがい)」歴史的仮名遣は「せうがい」が正しい。「艾」は「美しい」の意で、若くて美しい女を指す。ここでは風待ちの鞆の浦の遊女である。

「人にも員(かず)まへらるゝものから」鞆の浦の町人の代表者に数えられる大家(たいか)であったから。

「三間」五・四五メートル。

「昔普請(むかしふしん)の物好(ものすき)もよく」古い職人の丁寧な趣向を凝らした優れた普請で。

「應(おう)ぜざる」相応しくない。

「俵物(たはらもの)」江戸時代には狭義には、長崎貿易に於いて、対清貿易向けに輸出された煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の海産物(乾物)のことを指した。俵に詰められて輸出されたことに由る。

「臺子」後で原本に振られてある通り「だいす」と読む。茶道具の棚物の一つで、風炉(ふろ)・釜・水指などの一式を飾るもの。入宋した南浦紹明(なんぽじょうみょう)が帰朝の際、仏具として齎したと伝えられる。

「橋本右膳」不詳。

「出頭」筆頭家老相当か。

「御つめ」「御詰」。茶会に於いて亭主を助けて正客への茶碗などの取次、待合、その他の後始末等に気を配り、茶事を円滑に進める役。末客。

「一盃喰(く)ふまじきものにも、あらず」「いっぱい食わされたのでないとも、言えまい!」。

「島倉了閑」不詳。

「九間」十六・三六メートル。

「文祿・天正」天正が先で、一五七三年から一五九六年まで。]

2021/01/07

怪談登志男 三、屠所の陰鬼

 

   三、屠所(としよ)の陰鬼(いんき)

Tosyo

[やぶちゃん注:ずっと後の離れた位置にある本篇の挿絵を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示した。]

 

 今はむかし、越後の國の名高き城下の侍町(さむらいまち)に、不思議の屋敷有りける。門戶、かたぶき壞(やぶ)れ、蓬生(よもぎふ)の露、打はらひて、誰(たれ)尋入る人もなければ、蜘蛛の網に日の光さへ照(てら)さず。

 ある時、其頃の城主、追烏狩(おいとりがり)の歸るさに、此躰(てい)を見咎め給ひ、

「何とてか樣に荒たるや。うち見たる所、能(よき)屋敷なり。修理して何者にても相應の輩(ともから)にあたへよ。」

と仰ければ、近習(きんじふ)の人々も、委しき事をしらず、早速、返答申あぐる人もなかりける。

 さすが、大家(たいけ)の大樣(おうやう)、漸(やうやく)、當所町改(まちあらため)岩本某(それがし)を召出して、樣子を尋られけるに、

「此屋敷、いか成怪(あやしみ)や、さふらふらん、むかしより、二日と住居いたすものなく、立退(たちのき)候ゆへ、古城主、幾人か、御代々、『化もの屋敷』と名附、其儘に差(さし)置給ひ候。當御領に罷成、いまだ、幾(いく)程も無御座候間、御存なき[やぶちゃん注:「ごぞんじなき」。]段、御尤に候。」

と申あげければ、近習の人、此由を言上(ごんじやう)せらる。

 城主、聞給ひて、屋形(やかた)へ歸らせ給ひ、其後、程經て、霖雨(りんう)[やぶちゃん注:幾日も降り続く長雨。]打續たる徒然(つれつれ)に、近習(じゆ)・外(と)樣のへだてなく、みなみな、御前に出て、酒を給り、城主、手づから肴を給はり、其樣子、何とやらん、常にかはりぬ。

『いかなる御意にや。』

と、いぶかしけれども、各、數盃(すはい)をかたぶけたるに、御小姓・諸士の姓名を𤲿て[やぶちゃん注:「かきて」。]、玉としたる鬮(くじ)を持出て、座中に轉(ころば)し出し、

「誰も皆、其玉を一つ宛(づゝ)取りて、披(ひら)き見給へ。もし、我名を、我と、とりあたりたる者あらば、申上らるべし[やぶちゃん注:謙譲の自敬表現。]。其段、是にて着到(ちやうくとう)すべし。御用の儀、あり。」

と云(いゝ)わたせば、

『さればこそ。』

と、おもひながら、手に手にとりて、披き見るに、大かた、他人の名ぞ、取あたるに、御前伺公(しこう)[やぶちゃん注:「伺候」。]の數、四十三人、各、歷々の侍の中にて、わけて武勇すぐれたる者、九人まで、我名に取りたるぞ、ふしぎなる。

 此由、披露しければ、一々、御前の帳にしるされ、又、前のごとく、玉を投(なげ)て取せ給ふに、此度は、四人あり。三度めの鬮に、七人、何れも、すぐれし勇士なり。

 城主、甚、喜悅あり、

「いつぞや見たる化物屋敷へ、まづ、一番手の人數九人、今宵、彼地に罷[やぶちゃん注:「まかり」。]むかひ、夜中の樣子、つぶさに申上ベし。二番は明夜、三番は明後日の夜、發向(はつかう)すべし。」

と仰出され、警固のため、足輕・中間、高提灯・突棒(つくぼう)・鋏子俣(さすまた)を備へ、立走り向ひ、荒(あれ)屋敷の門内へ亂れ入り、暮六ツ[やぶちゃん注:不定時法。先の「霖雨」を梅雨とするならば、初夏ともとれ、だとすると、午後八時前ぐらいとなる。]過る比より、夜の明るを待居たるに、初夜[やぶちゃん注:夜の初め。戌の刻。午後八時時から二時間相当。]過、後夜(ごや)[やぶちゃん注:これは通常は寅の刻で、夜半から夜明け前の午前四時頃を指すが、以下の「丑みつ」(午前二時から四時)と合わないので、ややおかしな用法であるが、午前零時を過ぎたことを言っているものととる。]も告(つげ)、丑みつばかりの頃より、並居たる者共、何とやらん、しきりに心凄く、闇(くら)き後(うしろ)の覺束なく、淋(さみ)しさ限りなきに、

「すは。怪物(ばけもの)の出るならん。」[やぶちゃん注:「出る」は「いづる」と読みたい。]

と、各、互(たがい)にこぶしを握り、勇氣をはげまし、居たる所に、床(ゆか)の下にて、數十人、泣聲高く、太刀音(おと)、響(ひゞき)きこへけるが、其後は音もなし。

 わづかに、板敷一重(ひとへ)なれば、

「いかなる仔細のあらん。」

と、刀の柄(つか)に手を懸(かけ)、白眼(まなこ)あいて居たるに、此度は、梁(うつばり)のうヘに、瘦たる男の首、百ばかり、並(ならび)出て、上になり、下になり、互に打當(うちあて)、

「どう」

と、座中へ、落たりし。

 おそろしさ、たとヘがたし。

 然ども、名ある侍共なれば、落たる首ども、かき集(あつめ)て、一所に積(つみ)置、夜あけ迄、守(まもり)居たるに、すでに、しのゝめの、ひたと、しらめる頃、一度に消(きへ)、あとかたも、なかりける。

 皆々、立歸りて、此ありさま、つぶさに言上におよびければ、

「怪(あやし)き事かな。今宵も左あるか、急ぎ、支度(したく)して、むかふべし。」

との、仰にまかせ、二番手の四人の勇士、はせむかふ。

 其夜、また八ツ過におよび、年の頃、三歲斗(ばかり)の小兒(しやうに)、奧より出て、臺所へ逃まよひ、泣叫(なきさけぶ)。

 跡より、數十の瘦(やせ)首ども、轉(ころび)出て、小兒(ちご)を追行しが、頓(やが)て、小兒に、

「ひし」

と取付、喰盡(くいつく)して、消(きへ)うせたり。

 又、跡より十歲ばかりの男子(のこ)[やぶちゃん注:「をのこ」。「を」は振られていない。]、小脇指(きわきざし)を橫たへ、振(ふり)かへり、振かへり、是も、さきのごとく、臺所へ逃出たるを、首ども、あまた取付て、わらべを喰ひ盡して、首ども、皆、庭へ轉行(こけゆき)しが、

「ぱつ」

と消(きへ)て、夜は、ほのぼのと明にけり。

 此旨、つぶさに訴ヘければ、人々、皆、奇異のおもひをなす。

 次に、三番の七人組(ぐみ)のむかいし第三の夜にあたりて、れいの頃、小兒(ちご)を抱(いだ)きたる女一人、泣悲(なきかな)しみて、逃まよふ。

 數百の首、顯はれ出、喰ひ盡して消(きへ)る事、先の人々の注進のおもむきに違(たが)ふ事、なし。

 此後、しばらく、何事もなく、最(いと)しんしんと更闌(こうふけ)て、鷄(とり)のこゑ、遠里(ゑんり)に聞ゆる頃、大の男が、髮をし、みだし、血刀(ちがたな)提(さげ)て、板敷を荒らかに踏鳴(ふみなら)して、人々並居たる中を、ちと、會釋して通りけるを、各、一同に、言葉をかけて、拔打(ぬきうち)に切懸(きりかけ)しが、手ごたへもなく、消うせて、薄(うす)紙を切ごとくなりしに、又、大の男、顯れ出て、刀を捨(すて)、近く居寄(いより)、むね、苦げに、坐したるさま、おそろしなんども、おろかなり。

 各、詞(ことば)をそろへ、

「汝、何者ぞ。我君の下に住(すみ)ながら、狐狸(きつね・たぬき)にもせよ、かゝる妖怪(ようくわい)をなして、人をおどし、あたら、屋敷を、かく、荒地となすを、其儘にすておかんや。疾(とく)、去べしや。左なくば、此土を掘(ほり)かへしても、狩出す[やぶちゃん注:「かりいだす」。]。」

と、あらゝかに罵りければ、大男、泪(なみだ)を流し、

「此間よりのありさまを御覽じ、狐狸の妖怪と思召も、尤ながら、某(それがし)、まつたく、左樣の類(るい)にあらず。我は、往古(わうご[やぶちゃん注:原本のママ。])、此城の舊主に仕へし藥師寺外記(やくしゞげき)と申者、他國迄、沙汰におよびし、多年の惡行(あくぎやう)、超過(てうくは)し、人を伐(きる)事、甚、面白く覺え、役儀にあらぬ斬罪の事を業(わざ)とし、五日とも人を殺伐(さつばつ)せざれば、心うき事におもひ、男女の罪人、手にかけし所、千人に餘る。此惡因、積(つもり)、死せる時、種々の惡想(あくさう)を現じ、幾年(いくとし)か、此屋敷に住人に、此ありさまを見せて、追善をも請度(うけたく)、人さへ入來れば、まみゆれど、まづ、我苦痛の想(さう)を顯はし後ならでは、我、至る事を得ざれば、是まで、終に、我姿を見たる人なく、初のあやしみを、人々、見はてもやらず、逃出る故、年月を、ふる。我苦(くるし)みを『あはれ』と思召て、此事、上に申て給べ[やぶちゃん注:「たべ」。]。」

と、言下(ごんか)に、消(きへ)うせて、跡かた、なし。

 人々、つぶさに此事を注進しけれぱ、急、其屋敷を打崩(うちくづ)し、臺所の庭一ケ所、中の間一ケ所、奧の座敷とおぼしき所、板敷の下、掘穿(ほりうがち)、各、四、五尺づつ、掘て見るに、枯骨(ここつ)、山のごとく重り、年久しき血に染替(そみかへ)て、濃紫(こきむらさき)の岩となり、淺ましげなる髑髏(どくろ)の、累々たるを、一つ所につみ重ね、寺院に仰(おゝせ)て、追善の法事、一七日[やぶちゃん注:「ひとなぬか」と読んでおく。]が程、修行(しゆぎやう)し、骸骨を厚く葬(ほうむり)給へば、其後、其屋敷、普請ありて、名ある侍に下し置れしに、いさゝかの妖怪もなく、靜(しづま)りける。

 これも、ひとへに、國の守(かみ)の惠(めぐみ)ならずや。恩澤、枯骨におよぶ、民、いづくんぞ、歸服(きぶく)せざらむ。

[やぶちゃん注:この手の、亡者が怪異の正体で供養を求める展開の怪談は、枚挙に暇がないが、本篇は怪異出来のシークエンスがこれでもかという感じに波状的で、なかなかヴィジュアルとしても迫ってきて、非常に優れていると思う。

「屠所」本来は食肉用の家畜を殺して処理する所を指すが、ここはシリアル・キラーとなった薬師寺外記が正規の咎人の斬首とは別に、秘かに私的に、無理矢理、無垢の民草を罪人扱いにしては捕縛し、その人々を屋敷内で斬り殺しており、その血塗られた外記の元屋敷こそが「屠所」なのである。しかも、彼はその惨殺した遺体を、ばれぬように自身の屋敷内に埋めていたということが最後に明かされる点でも真正の「屠所」というわけなのである。

「追鳥狩(おいとりがり)」歴史的仮名遣は「おひとりがり」が正しい。山野で雉子(きじ)などを勢子(せこ)に追い立てさせて狩ることを言う。

「大樣(おうやう)」歴史的仮名遣は「おほやう」が正しい。落ち着きがあって、小さなことにこせこせしないさま。ここは、事態が一向に明らかにならず、重臣らもまるで情報を持たないにも拘らず、城主がそれに苛立たなかったことを指す。

「町改(まちあらため)」江戸時代の町奉行相当か。この話柄、場所も時制も特定出来ない。

「無御座候間」「御座無く候ふ間(あひだ)」。

「鬮(くじ)を持出て」実は底本では以下、「出て」とした部分は、総て「出で」となっている。しかし、原本は皆、「出て」である。私はこれは「出(い)で」ではなく、「出(いで)て」と読むべきと考える。されば、総てを清音にした。

「御前伺公(しこう)の數、四十三人、各、歷々の侍の中にて、わけて武勇すぐれたる者、九人まで、我名に取りたるぞ、ふしぎなる」筆者は、この籖(くじ)の仕儀が、既にして神霊の力の領域に入っていることを示している。妖怪か悪霊か判らぬ対象を退治するために必要な人物を託宣に任せることで、本篇のゴースト・バスターの選択が神意に適(かな)ったものであることを示し、以下の展開に於いても、彼らが恐懼するシークエンスはあっても、読者の期待通り、大団円に進むことが、この呪的システムの発動によって伏線化されているわけである。

「突棒(つくぼう)」江戸時代に使用された捕物道具の一つ。頭部は鉄製で、形はT字型を成し、撞木(しゅもく)に酷似する。この鉄製部分には多くの歯(棘)がついており、長柄(ながえ)は凡そ二~三メートルほどである。

「鋏子俣(さすまた)」同前。「刺股」「指叉」「刺又」とも表記する。頭部は同じく鉄製であるが、こちらはU字形の金具がつけられているが、狭義のU字部分には齒はなく、平たくなっており、長柄に差し込む部分には歯を持つものが多い(長柄の長さは前と同じ)。先端部分で相手の首や腕などを壁や地面に押しつけて動きを封ずる。また、先端金具の両端には外側に反った返しがあり、これを対象者の衣服の袖などに絡め、引き倒す際にも利用される。

「わづかに、板敷一重(ひとへ)なれば」荒れ屋敷であるから、薄い床板だけで畳や上にさらに打った敷板なども既にないのである。

「三歲斗(ばかり)の小兒」「小兒(ちご)を抱(いだ)きたる女一人」この子供は私は再登場ではないと考える。後の子は女に抱かれているところから、三歲より小さい。それと筆者は語っていないが、まず、これは明らかに亡き薬師寺外記の亡き妻と亡き二人の子なのではなかろうか。則ち、この二つのシークエンスは、実は外記の長子と次子と妻が外記への怨念を持った亡者によって食い尽くされるという、亡者たる外記の心内に繰り返し展開される地獄絵としての悪業の生み出す恐るべき凄惨な幻想(外記本人の言う「惡想」である)なのだろうと思うのである。そう読み込んでみて、初めて、これらのキャラクターの登場の意味が私には腑に落ちるからである。但し、幻想であるからして、輪廻の中で反復されるのあってみれば、別に、この小児は同一人の外記の子であっても構わない(それは寧ろ残酷な印象となるが、筆者はそこをも狙っているのかも知れない)。

「藥師寺外記(やくしゞげき)」不詳。ネット検索を掛けると、伊豆国の薬師寺外記と掛かってくるが、これは後の怪談絵巻「模文畫今怪談」(ももんぐわこんくわいだん:唐来参和作・細田栄之(鳥文斎栄之)画。板行は天明八(一七八八)年)での設定変更で、本書の載る怪談本集成も持っているものの、電子化する気も起らないもので、本篇を恐ろしく短縮した(キャプションの話はたった十七行である)話にならない剽窃物である。国立国会図書館デジタルコレクションの合本の当該画像(左頁)を見られたい(見て失望されても私の責任ではない)。まあ、詞書だけ、翻刻しておこう(斜線は改行部。「起」は本篇で判る通り、「超」の誤字)

   *

伊豆のくにゝ/たくし寺外記と/いへるもの多ねん/あく行起過して/人をきる事を/このみやくぎに/あらぬさんざいの/事をわざとし/てにかけしざい人/千人にあまれり/此あくいんつもり/しせるときかづの/くび家ぢうに/むらかり出て/くるしめし/となり

   *

「まづ、我苦痛の想(さう)を顯はし後ならでは、我、至る事を得ざれば」やや表現に不足がある気がする。ここは、

「まづ、我が苦痛の想を顯はして後(のち)ならでは、我、至る事を得ざれば」

とあって落ち着くように思われる。

2021/01/05

怪談登志男 二、天狗の參禪

 

   二、天狗の參禪

 

 木賊刈(とくさかる)そのはら山を尋て、月見にまかりし比、彼地の人の咄けるは、

「當國橫湯山に、溫泉寺といふ一刹あり。越後の雲洞庵の末寺にて、曹洞宗なり、此あたりの田舍人の、『七不思議』と稱するも、此寺の奇怪を語り傳ふるなり。

 抑[やぶちゃん注:「そもそも」。]、開山禺巴和尙の時、一人の山伏來りて、和尙に參じ、朝夕、傍をはなれず、給仕しける。和尙、熟視(つくつくみ)て、

「凡者ならず。」

と、心を付られしが、ある時、山臥[やぶちゃん注:ママ。こうも書く。]を呼寄せ、問て言、

「汝、個翅を以て海砂の雲を凌ぎ、天に颺(あがり)て、鱗を生じ、闇に空破(は)するや無や[やぶちゃん注:「いなや」。]。」

と。

 山臥、起て、忽、つばさを生じ、鼻、高く、おそろしき姿ながら、和尙を禮拜し、

「我に一則をあたへ給へ。報恩に御寺を後世迄、護り奉らん。」

と、身を大地に投じ、頭をたゝいて乞(こひ)ければ、和尙、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、一語を、さづく。

 天狗、再拜して去る。

 是より、このかた、今に至て、住職、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]、廿代の餘におよぶ。

 然るに、代々の和尙、遷化の時、未、近寺の僧も知らぬうちに、門前の橋の下、谷川の流に、歷代の石碑、かならず來る。其石の形、石工の上手の、日夜、巧に彫(ほり)たるより、猶、勝れて、見事なる自然石にて、世に云所の無縫塔なり。歷代の住寺の石塔、皆、是、流れ來る自然石(ぢねんせき)を用ゆ。[やぶちゃん注:七不思議第一。「七不思議」と呼ぶ以上、命数を私なりに以下で数える。]

 又、此寺にて、門戶をとざすこと、なし。盜人(ぬすびと)、來つても、出る所の道にまよひ、盜得(ゑ)たる寺の財寶、皆、歸しぬれば、去る。さもなければ、いつまでも、のがれ出る道を得ず、今に至ても、あやまつても、忍向(うかゞ)ふもの、なし。此故に寺中迄も、門戶を固(かたむ)る事、なし。[やぶちゃん注:七不思議第二。]

 又、寺中に、ちり・芥(あくた)あること、なし。今、捨(すつ)る塵芥(ぢんかい)、暫(しはし)有て見るに、奇麗に掃除する者ありて、其人を見ず。今に及で[やぶちゃん注:「およんで」。]、かはらず。[やぶちゃん注:七不思議第三。]

 又、書院のむかふに、築山(つきやま)・泉水(せんすい)の風景、甚(はなはだ)よし。自然の木石(ぼくせき)、人意(じんゐ)を假(か)らず、己(おの)が儘(まゝ)に聳(そびへ)、本來の面目、誠に禪刹相應なり。[やぶちゃん注:七不思議第四。]

 後[やぶちゃん注:「うしろ」。]の山の根に、方三尺の丸(まる)き穴、あり。此中より、風雲を吐き出す。穴の淺深、誰(たれ)試みたるもの、なし。奧ふかく、蟲(むし)・獸(けもの)のすむ事もなく、風の出る斗(はかり)なり。年中、晝夜、かくのごとし。夏は、食物(しよくもつ)を此穴のそばに置ば[やぶちゃん注:「おかば」。]、日を經ても、味を損ぜず。冬は、かへつて、熅(あたゝか)にして、爐火(ろくは)のごとし。[やぶちゃん注:七不思議第五。]

 門外に小橋あり。此橋の邊[やぶちゃん注:「あたり」。]まで來る者、寺門内外を不ㇾ論(ろんぜず)、遍參(へんさん)の僧、客、來までも[やぶちゃん注:「くるまでも」。]、住持の、耳に足音を聞(きゝ)知る事、側(そば)に在(あり)て見るがごとし。夜中、猶、かくのごとし。[やぶちゃん注:七不思議第六。]

 かゝる事ある寺院なれば、通途(つうつ)[やぶちゃん注:どこにでもいるような平凡な僧侶。]の沙門、住持すること、一日片時(いちじつへんじ)も、ならず。まして、今時(こんじ)の貪慾邪智(とんよくぢやち)の鉦法師(どうほうし)は、山内(さんない)に入ことも、あたはず。[やぶちゃん注:七不思議第七。売僧に至っては、広義の寺の山域に入ること自体が出来ないというのは、不思議に数えてよい。]

 然ども、此異靈(いれい)ありとて、あへて、ほこらず。

 祖翁一片の閑田地(かんでんち)、獨(ひとり)、兒孫(ぢそん)に囑(ぞく)して、種(たね)を植(うへ)しむ。いと、殊勝なる禪林なり。

[やぶちゃん注:「木賊刈(とくさかる)そのはら山を尋て」謡曲「木賊」(別名「木賊刈」)に基づく謂い。謡曲の内容その他は、高橋春雄氏のサイト「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」のこちらがよい。「そのはら山」は「園原山」で、現在の長野県下伊那郡阿智村(あちむら)智里園原(ちさとそのはら)周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「當國橫湯山に、溫泉寺といふ一刹あり」長野県下高井郡山ノ内町平穏にある曹洞宗横湯山温泉寺サイト「長野県:歴史・観光・見所温泉寺」の「渋温泉:温泉寺」によれば、『創建は』嘉元三(一三〇五)年、名僧『虎関師練国師(京都の東福寺・南禅寺住持、南北朝時代の僧)が巡錫で渋温泉に訪れた際、草庵を設けたのが始まりとされ、渋温泉の効能を広めると共に臨済宗の寺院として寺観を整えたと伝えられ』る。『その後、一時荒廃し』『たが』、弘治二(一五五六)年に『渋温泉在住の大檀那が貞祥寺(長野県佐久市)の円明国師を招いて再興し』、『曹洞宗に改宗し』た。『戦国時代には武田信玄が帰依し』、永禄四(一五六一)年の「川中島の戦い」の『後には』この『渋温泉で疲れを癒したと伝えられて』おり、『その感謝もあってか』、永禄七(一五六四)年には寺領七十貫文を寄進し、現在でも寺紋には武田菱を掲げてい』る。『江戸時代に入ると』、『松代藩(長野県長野市松代町・藩庁:松代城)の歴代藩主である真田氏が庇護し』、『寺運も隆盛し』た。『寺宝には信玄直筆の寄進状や軍配などが残され、開基も武田信玄となって』おり、『境内は広く』、『山門、楼門(入母屋、桟瓦葺、一間一戸)、鐘楼、本堂』、『経堂』『などが建ち並んでい』るとある。

「越後の雲洞庵の末寺にて」JR東日本の観光案内には、『渋温泉の一角にある曹洞宗貞祥寺の末寺』とする。雲洞庵(うんとうあん)は新潟県南魚沼市雲洞にある曹洞宗金城山雲洞院雲洞庵。末寺制度は江戸幕府が寺院を管理支配するために行ったものであるから、特に詮索しない。

「禺巴和尙」不詳。虎関師練はこう名乗ったことはない。曹洞宗改宗時の新たな開山の意か。にしてもこの号は検索に掛かってこない。

「熟視(つくつくみ)て」原本のそれは「つくづくみて」の意。

「個翅」「こし」と音読みしておく。一箇の翼。この和尚の台詞は、これ全体が見事に禅の公案の形を成していて小気味よい。

を以て海砂の雲を凌ぎ、天に颺(あがり)て、鱗を生じ、闇に空破(は)するや無や。」

と。

 山臥、起て、忽、つばさを生じ、鼻、高く、おそろしき姿ながら、和尙を禮拜し、

「我に一則をあたへ給へ。報恩に御寺を後世迄、護り奉らん。」

「和尙、則、一語を、さづく」これは先の公案に対する一つの答えを与えたということになるのだが、本来は、天狗自身が、先の公案に対して、ある答え(それは言葉でなく、ある行為の場合もある)を成し、それを師僧が「諾(だく)」とすることでのみ、禅問答の公案と答えは完成するものであるからして、ここはそうした問答部と禺巴が「諾」した最終場面を示さずに語っていることを意味している。普通、それはただ一度のものであり、その師とその弟子の間で、ただ一回性の遣り取りとして生ずるものであって、普遍的模範解答などというものはない。さればこそ、そこを隠しているのは、却って私には至って腑に落ちるものなのである。

「代々の和尙、遷化の時、未、近寺の僧も知らぬうちに、門前の橋の下、谷川の流に、歷代の石碑、かならず來る。其石の形、石工の上手の、日夜、巧に彫(ほり)たるより、猶、勝れて、見事なる自然石にて、世に云所の無縫塔なり。歷代の住寺の石塔、皆、是、流れ來る自然石(ぢねんせき)を用ゆ」「北越奇談 巻之二 古の七奇」(私の電子化注)に酷似した現象が現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある同じく曹洞宗の雲栄山永谷寺(ようこくじ)で起こっていることが記されている。しかも、筆者橘崑崙(たちばな こんろん)は、この温泉寺の怪現象を挙げて、そっくりだ、と言っているのである。

「忍向(うゝが)ふ」「しのびうかがふ」。こっそりと寺内を覗(うかが)って忍び込もうとする。

「鉦法師(どうほうし)」「どう」は「銅」で「かね」、真鍮製の鉦を打ち鳴らしては、人に代わって寺社を参詣したり、祈願・修行・水垢離 (みずごり) などを代行したり、或いはさらに堕ちて、門付け代わりの怪しい経や呪文を唱えたり、妙な大道芸能を演じたり、した僧形の乞食。「願人坊主(がんにんぼうず)」の類いのことであろう。

「祖翁一片の閑田地(かんでんち)、獨(ひとり)、兒孫(ぢそん)に囑(ぞく)して、種(たね)を植(うへ)しむ」永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山である總持寺の開山である鎌倉時代の僧瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の遺偈(ゆいげ)である「自耕自作閑田地 幾度賣來買去新 無限靈苗種熟脫 法堂上見插鍬人」(自ら耕し 自ら作る 閑田地 幾度か 賣り來り 買ひ去つて新たなり 限り無き靈苗の種 熟脫す 法堂(ほふだう)の上 鍬を插(さしはさ)む人を見る)に基づく。超個人主義の禅宗にあっては、閉鎖された系の中で自己完結しているシステムを、まず、第一に尊ぶのである。]

2021/01/04

怪談登志男 始動 序・目録・卷之一 一 蝦蟇の怨敵

 

[やぶちゃん注:「怪談登志男」(くわいだんとしをとこ(かいだんとしおとこ))は寛延三(一七五〇)年に江戸で板行された前期読本奇談集。慙雪舎素及子(ざんせつしゃそきゅう)著になる「怪談實妖錄」なる著作を、談義本(宝暦年間(一七五一年~一七六四年)から安永年間(一七七二年~一七八一年)頃にかけて多く刊行された滑稽本の濫觴となった読本)の創始者として知られ、本篇の「序」もものしている静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)の弟子である静観房静話が編集したものとされる。なお、書名は生まれの十二支に合った「年男」のことで、序にある通り、節分に厄払いの豆撒きをする役を担う追儺の「おにやらい」役のそれを、新生の怪談話を撒く役と反転させて洒落て喩えたものと思われる。

 私が以前から電子化したいと狙っていた作品であったものの、活字本を所持しないため、躊躇していたが、ここで意を決して電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの二種を用いた。一つは活字本である「德川文藝類聚第四 怪談小說」(大正三(一九一四)年国書刊行会編刊)のそれを基礎データとし、今一つ、正しい原版本版のそれで校合した(以下を参照)。

 前者は読点のみのベタ本文であるので、読み易さを考え、句読点や記号を追加し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。前者にはルビがないが、後者の版本が豊富に振られてあるので、難読と思われる箇所はそちらから読みを添えた。注は、今回は原則、校合して不審な箇所や、私の知見の守備外のものや意味不明の部分、及び、難読・難解、補説が必要と判断した語句に限ってストイックに附した。]

 

怪談登志男

 

 

 彥作が言葉の花も嵐にさそはれ、曾呂理が紙帳も短夜の夢、武右衞門が鹿五郞兵衞が露、ともに見ぬ世の秋となりて、腹をかゝゆる輕口もなく、御伽ぽうこの了意法師も、功德、池の遠見に往(ゆ)れて、脊中のみらるゝ怪談もなし、冬籠(ふゆごもり)のつれづれ、なぐさむ咄の本のすくなきを恨むと、歎息する書林をいさめて、方八百里の廣い都に、怪談風情に事缺(ことかく)べきや、いで、もの見せんと腕まくりして、素及子(そぎうし)の撰置(えらひをか)れし實妖錄の其所此所を拾ひ、さらさらと五册につゞりし靜話房が例の筆まめ、誰(た)が口まめに告(つげ)やしつらん、予が隱家(かくれが)に尋來りて、序を乞事もいと眞實(まめけ)に、しかも今宵は大豆撒(まめまく)夜(よ)なれば、柊(ひらぎ)刺(さす)片手わざに、登志男と名付てやりしも、赤鰯(あかいわし)のあたまがちならんか。

  寬延二年節分の日       靜觀堂書

[やぶちゃん注:冒頭の「彥作」が誰れを指すのか私には判らない。識者の御教授を乞うものである。

 以下、目録。版本との異動が激しい。原版本には各話の頭の通し番号(読点附)はない。本文中でもないが、使い勝手はいいと思われるので、附した。]

 

 

怪談登志男卷一

  目錄

一、蝦蟇(がま)の怨敵(おんでき)

二、天狗の參禪

三、屠所の陰鬼

四、古屋の妖怪

五、濡衣(ぬれぎぬ)の地藏

 

怪談登志男卷二

  目錄

六、怨㚑亡經力

[やぶちゃん注:「怨㚑(をんりやう)、經力(きやうりき)に亡ぶ」。原版本には返り点はない(以下同じ)。]

七、古狸妖老醫

[やぶちゃん注:原版本は「老醫妖狸(らうのたぬきにはかさるゝ)」とある。]

八、亡䰟(ばうごん)の舞曲(ぶぎおく)

九、古井(こせい)殺人(ひとをころす)

十、千住の淫蛇

十一、現在墮獄

 

怪談登志男卷三

  目錄

十二、干鮭(からざけ)の靈社

十三、望見(もちみ)の妖怪

十四、江州の孝子

十五、信田の白狐

十六、本所の孝婦

 

怪談登志男卷四

  目錄

十七、科澤(しなさは)の强盜(かうとう)

十八、古城の蟒蛇(まうじや)

十九、白晝(ひるなか)の幽㚑

二十、舩中の怪異

廿一、沓懸(くつがけ)の大蛇(をろち)

 

怪談登志男卷五

  目錄

廿二、妖怪浴溫泉

[やぶちゃん注:「妖怪、溫泉に浴す」。]

廿三、吉六虫妖怪

[やぶちゃん注:「吉六虫(きちろくむし)の妖怪」。]

廿四、亡魂通閨中

[やぶちゃん注:「亡魂(ほうこん)、閨中(ねや)に通(かよ)ふ」。]

廿五、天狗攫ㇾ人

[やぶちゃん注:「天狗、人を攫(つか)む」。]

廿六、天狗誘童子

廿七、庸醫得ㇾ冨

[やぶちゃん注:「庸醫(へたいしや)、冨(とみ)を得(う)」。]

 

 

 怪談登志男卷第一 

              慙雲舍素及子著

   一、蝦蟇の怨敵

Gamanoonteki

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 過し寶永の頃にや、信浪國川中嶋より半路斗(はかり)、戌亥(いぬゐ)の方、善導寺とかやいへる淨刹に、空恩(くうおん)といふ沙門ありける。初、東武に來り、緣山(ゑん)に修學(しゆがく)し、年經て舊里に歸しが、行脚の志、しきりに起り、寺を出て、破笠爛筇(はりつらんきやう)、西にはしり、ひがしにおもむき、南去北來、しばらくも一所に足をとゞめず、一年(とし)、甲斐國身延山に至りて、つらつら其境(きやう)を見るに、聞しは物の數ならず、梅香(ばいかう)、梢にかほりて、栴檀(せんだん)、沈水(じんすずい)の芬(ふん)をほどこし、鶯鳥(かくてう)、軒に囀(さへつり)て、梵音、和雅(わげ)のひゞをたすく。

「無雙の靈場、實(げに)も一宗の本山とあほぐに足れり。」

と、こゝかしこ見𢌞るほどに、おもはず、日も西にかたぶきぬ。

[やぶちゃん注:「破笠爛筇」旅笠も破れて、竹の杖もぼろぼろになること。概ね、僧の行脚の凄絶なるを謂う。]

 一宿(しゆく)をもとむれども、此所の習ひ、他宗の沙門に一夜の宿(やと)をもゆるさず、漸々(やうやう)として畝尾坂(うねおさか)と云、細道をつたひ、木の根につまづき、ころびたほれて、からふじて、二里餘も分過る比、夜も、はや、子の刻に過ぬ。行べき方も知れず、もとより、人家もなければ、

「いかゞせん。」

と、おもひわづらひしが、かしこを見れば、ふりたる宮居の、鳥居、たほれ、瑞籬(みづがき)、破(やふれ)れたるさま、

「あら、ぶさたの宮守(みやもり)や。」

と歎息しながら、

「究竟(くつきやう)の宿りにてあれ。今宵は此所に一宿せん。」

と、階(かい)をのぼりて、拜殿にひざまづき、掌(たなこゝろ)を合せ、いづれの神ともしらねど、かしはで打ならして、法施(ほつせ)の經など讀誦しける所に、轡(くつは)の音、

「りんりん」

として、衣冠正しき老人來り、社にむかひ、何事にや、云(いゝ)入給へるを、

『あやし。』

と、おもひ、耳をかたぶけ、聞居たるに、社の内より、又、異相の人、出むかひて、しぱし、物語し給ふ樣なり。

 漸(やゝ)ありて、來臨(らいりん)の異人の曰(いはく)、

「今宵、竹無村(たけなしむら)の與左衞門が女房、子を產(うめ)り。夫は當社の氏子なり、女は此叟(おきな)が氏子なり、足下(そこ)にも、出生の男子、守護に御出あらば、我も同道仕らん。」

と、のたまふ、

 明神、答(こたへ)て、

「甚(はなはだ)よし。足下には、はやくいたり給へ。我は、今宵、客人(まろうと)あり。此所、無人(むにん)の境(きやう)なり。我、茲にあらざりせば、客僧、もし、怪我あらんか、此ゆへに往(ゆき)がたし。」

と答たまへば、

「然ば、我等ばかり參り侍らん。」

と、駒(こま)牽(ひき)かへし、急(いそき)給ふ。

 空恩、感淚、肝に銘じ、五體投地(ごたいとふち)して、神恩のかたじけなきを拜謝す。

 先の老人、亦、はせ來り、

「與左衞門が子の棟札(むねふだ)は、いかゞ侍らん。」

と問給へば、内陣より、

「此男子、蝦蟇(がま)の怨敵(おんてき)なり。十二枚の札を打給へ。」

と、のたまふ。

 異人、諾(だく)して去(さる)とおもヘば、鷄(とり)の聲、かすかに聞ゆ。

「人家も遠からず、夜もあけぬ。」

と、よろこび、立出れば、はたして、人里あり。朝、草刈に出る童(わらへ)に、

「此山上の祠は何の神ぞ。」

と、とへば、

「道祖神なり。」

と、こたへぬ。

 斯(かく)て人里に至り、此あたりの樣子を見るに、何れも、木、舞搔(まいかき)たる下地窻(したちまと)に、麻穀(あさから)をもちひたる、

「これなん、神勅の竹無村なるべし。」

と、

「此村の名は、いかに。」

と、とへぱ、

「竹無村。」

と、こたふ。

 不思議の事におもひ、

「與左衞門といふ人や、ある。」

と尋ぬれば、

「當村の庄屋なり。」

と、こたふ。

「扨は。うたがひなし。」

と、與左衞門が家に立寄、火をもらひて、たぱこなど吞(のみ)ながら、

「御亭主は道祖神を信じ給ふか。」

と問ふ。

「中々の事、道祖神は當所の鎭守にておはしませば、我のみならず、一村、悉く、信ず。」

と答ふ。

 空恩、過し夜の靈異、神勅の事、つぶさに語りければ、與左衞門は少し文才もありて、所の口利(くちきゝ)といはるゝ者なりしが、空恩が側へ、

「つ」

と、より、

「此賣(まい)僧、ぬくぬくと、我をたぶらかすおかしさよ。それは、道公(どうこう)とやらんいへる僧の、古き宮居に宿して、繪馬の足、つゞくりし舊(ふる)事。猿樂の能にも仕組(しくみ)て、皆人、知たる、かびのういたる昔語で、此與左衞門、いかぬ奴、はやふ出て、ゆかれよ。」

と、わるごふ[やぶちゃん注:「惡口」の訛か。]のありだけ、空は寬廣(くわんかう)の量ある長者の氣象、さらにあらそふ事なく、

「うたがひ給ふは理(ことは)なり。我、さらに物を貪る心なければ、何しに僞を說べき。足下の子息、十二歲を越給はゞ、其時、われを、賣僧とも、願人(くわんにん)とも、罵(のゝしり)給へ。」

と、袂をふるひ立さりしを、與左衞門、いかゞおもひけん、衣の袖をひかへ、

「和僧、此所に足をとゞめ、我子の老さきを見はやしたびてんや。もし、しからば、庵室(あんしつ)をしつらひ、薪水(しんすい)の勞を、たすけまいらせん。」

と、手のうら、返したる挨拶、元來(もとより)、喜怒をはなれたる沙門なれば、

「とも斯(かく)も。」

といらへて、終(つゐ)に後園(こうゑん)[やぶちゃん注:与左衛門の家の裏庭。]に庵を營み、十二年の星霜を此所に經たり。

 村里(そんり)の人、空恩が人となり、寬大にして、曾て、いからざるを愛し、物よみ・手習の師匠にかしづき、たふとみける。

 與左衞門が子は、智惠、さとく、愛らしく生立(おいたち)ぬるに付ても、父母、只、空恩が物語を心にかけて、今は僧にも馴染ぬれば、

『僞なりとも、にくみはせじ、あはれ、彼(かの)物語の誠ならざる樣にせまほし。』

と、朝夕おもひ出ぬ日も、なかりける。

 光陰の矢の留る事なく、空法師が手づから植し松も、ことし、すでに棟梁の材とも成べく、秋風高く軒に闇[やぶちゃん注:「止(や)み」の当て字。]、山田の稻の、例より能(よく)實(み)のりて、民生(たみくさ)の悅べるさま、いはんかたなし。

 與左衞門は庄屋といひ、數代(すだい)の百姓にて、家、甚(はなはだ)冨(とめ)るゆへ、田地餘多(あまた)[やぶちゃん注:「數多」に同じ。]あれば、猶(なを)しも、賑はしく、大勢の下部をひきぐし、刈取(とる)稻の、山をなして、手に手に、鎌を田の畔(くろ)に置(おき)、晝の餉(かれゐ)喰(く)ふもあり、煙草くゆらし、物語するもある中に、與左衞門が愛子(あいし)も、父と、ともなひ來り、爰(こゝ)かしこ、はせめぐりて遊び居たるが、深田(ふけた)の面(おも)の、涸わたり、璺(ひゞれ)たる[やぶちゃん注:罅割(ひびわ)れた。底本ではひらがな。]中に、大なるかへるの、眼(なまこ)をいらゝげ、腹をはりて、此愛子を目懸(かけ)、にらみたるさま、いとおそろしきに、何のわきまヘもなく、下男の刈捨置(かりすておき)たる尖(すると)なる鎌を取直(とりなを)し、田の畔(くろ)にひざまづき、鎌の柄にて、ねらひ、突(つき)に突たるが、鎌の刃(は)の、己が首筋にかゝるとも、露、しらず、力にまかせて突たる程に、我(われ)と、わが首を搔落(かきおとし)て、あへなく、田の面(も)の露と、きへぬ。

 與左衞門、はじめ、上を下へと、さはぎけれど、せんかたなし。

 與左衞門、

「きつ」

と、心を取直(なを)し、

「おもひ出たり、『蝦蟇の怨敵なり』との神勅、十二歲迄の定業(ちやうこう)、悔(くやみ)ても、甲斐なし。」

と、其鎌にて、卽座に髻(もとどり)[やぶちゃん注:原本の漢字表記は「元取」。]を拂ひ、去(きよ)々年出生の男子に跡を讓り、弟に後見(うしろみ)させて、空恩と連(つれ)て、廻國行脚しけるが、後(のち)に空恩と、東西へわかれ、空恩は今に存命にや、其所在[やぶちゃん注:原本は「在所(さいしよ)」。]、しれがたし。

 與左衞門は覺念法師と號す。

 享保四年の秋、信州善光寺に尋來りて、此事を語り置ぬ。

 則、善光寺三十一世の住、淳遇法師の直談なり。

 

2020/12/26

「御伽比丘尼」目録

 

[やぶちゃん注:第一巻の「序」の後にある。本篇標題と異なるものはママ(全てに添え題の頭の「付」がない)。やはり読みは一部に留めた。]

 

御 伽比丘尼巻之一目錄

 ㊀志賀の隱家(かくれが) 尺八の叟(おきな)

 ㊁夢のかよひ路 寢屋の恠

 ㊂あけて悔(くやし)き文箱 義に軽命

 ㊃女 さくらがり あやなし男

  巻之二

 ㊀輕口も理(り)は重し 好物問答

 ㊁祈(いのる)に誠(まこと)有(あり)福の神 心の白鼠

 ㊂恨に消(きえ)し露の命 葎(むぐら)がのべの女鬼(おに)

 ㊃問(とい)おとしたる瀧詣 戀の濡(ぬれ)ゆかた

 ㊄初聲(うぶこゑ)は家のさかへ 夜啼(よなき)の評

  巻之三

 ㊀菩提は糸による縫(ぬひ)の仏 遊女のさんげ咄(ばなし)

 ㊁昔ながらの今井物語 繼母の邪見觀音の慈

 ㊂執心の深き桑名の海 惡を捨たる善七

 ㊃恥を雪(すゝぎ)し御身拭(おみのごひ) ふり袖が喧嘩の種

  巻之四

 ㊀水で洗(あらふ)ぼんのふの垢 されかうべ消(きへ)し雪の夜(よ)

 ㊁なにはの医師は東後家(づまごけ) 誰(たれ)にか見せん梅の花

 ㊂命は入あひのかねの奴(やつこ) 一代せちべんおとこ

 ㊃虛(うそ)の皮かぶる姿の僧 越中白山のさた

  巻之五

 ㊀名は顯れし血文(ちぶみ)有 めぐりあふゐんぐわのかたき

 ㊁かねをかけたる鳶の秤(はかり) 天狗ものかたり

 ㊂思ひは色に出る酒屋 惜(をし)かな命ふたつ

 ㊃行暮(ゆきくれ)て此辻堂をやど 菊水の翁

              目錄終

 

御伽比丘尼卷五 ㊃行暮て此辻堂をやど付菊水の叟

 

    ㊃行暮て此辻堂をやど付〔つけたり〕菊水の叟(をきな)

Kikusuinookina

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 中比、近州(ごうしう)[やぶちゃん注:「江州」の当て読み。]の草津より、鎌倉へ、かよふ、あき人あり。天性(〔てん〕しやう)、心すなをにして、慈悲ふかく、しかも親に孝あること、いたれり。いとゞだに、旅は物うき習ひなるに、いづこも、世わたらひほど、いとかなしき物はあらじ。是は、老たる親を置〔おき〕て、としどしに、すみなれし宿を出〔いで〕て、はるばると、東(あづま)のかたへおもむき、「今ぎれのわたし」越(こえ)て、あつたのふりし宮井を拜み、

「古鄕(こきやう)に殘し置〔おく〕父母〔ちちはは〕を守らせ給へ。」

と祈念し過行〔すぎゆく〕。比しも、霜(しも)み月、空、さだめなき時雨(しぐれ)して、行〔ゆく〕べき先もわかねば、とある辻堂にやすらひ、はれ間を待〔まつ〕に、ふしぎや、暮かゝるとは覺へざりし空、俄(にわか)に東西くらくなりて、遠寺(ゑんじ)のかね、幽(かすか)に、行〔ゆき〕かふ人もみえず。

[やぶちゃん注:「草津」滋賀県草津市。

「近州(ごうしう)」「江州」の当て読みであるが、歴史的仮名遣は「がうしう」が正しい。

「今ぎれのわたし」浜名湖の開口部にあった「今切(いまぎれ)の渡し」。

「あつたのふりし宮井」熱田神宮。ロケーションはここを退出して程ない場所という設定である。しかし、この順序はちょっと理解出来ない。これでは、鎌倉から草津へ戻る途中としか読めぬが、後で本人が「草津より鎌倉へまかる」と述べているからである。しかし、父母の無事を祈念するのであってみれば、鎌倉へ向かう途中と考えるのが自然である。しかし、後の本話柄の結末から、この順序の不審は、無化されるのである。ネタバレになるから、朦朧に言うなら――そこから異界に繋がり――時空間自体が捩じれて行く――のである。

 

 はるかなる山もとに、狐火(きつねび)、靑くともし、けつ、など、物すごく、

「此所〔ここ〕に、一夜をあかしなん。」

とて、ゆたんかたしき、なれこしふるさとの事など思ひつゞくる比、翁(おきな)壱人〔ひとり〕、まみえ來〔きた〕れり。

[やぶちゃん注:「ともし、けつ」「灯(とも)し、消(け)つ」。

「ゆたん」「油單」或いは「油簞」で、単衣(ひとえ)の布や紙に油をしみ込ませたもので、湿気や汚れを防ぐ敷物・風呂敷などに用いた。

「かたしく」「片敷き」。(油単を敷いた上に)自分の衣の袖を敷いて独り寝し。

「まみえ來〔きた〕れり」謙譲語の「まみゆ」ではおかしいので(厳密には後の方では彼のことを翁は高く評価し、確信犯の敬語を使用して彼に語っているので、実はそこまで読むと、ここが敬語であって、実はおかしくはない)、この場合は、あたかも彼に対面するためにやって来たかのように見えたというのであろう。]

 

 見れば草の葉をかさね衣となし、ふぢかづらをもて、帶とせり。眼(まなこ)、世のつねにかはり光あつて、いと愧(おそろし)きが、此男にむかひ、

「是は、いづかたへわたり給ふ人ぞ。」

と。

「草津より鎌倉へまかるものに侍り。」

と、いへば。

「痛はしや。冬の夜の寒けさ思ひやられ侍〔はべら〕ふ。いで、火を求(もとめ)、つかれをはらさせ申さん。」

と、火打〔ひうち〕とり出〔いで〕、うち散(ちら)せば、あたりの小石、忽(たちまち)に火となって、あたかも、いろりのごとく、皆、一所(〔いつ〕しよ)にかきあつめて、互(たがひ)に手をさし、足をあたゝめて、うさを忘る。

 時に、翁、こくう[やぶちゃん注:「虛空」。]にむかひ、打招〔うちまねけ〕ば、一人の童子、銚子(てうし)に盃(さかづき)そへて、持來〔もちきた〕るを、旅人にもすゝめ、我も打〔うち〕のみて、心ちよげ也。

 其酒味(しゆみ/さけのあぢ)、今もつて、たぐふべき物、なし。

 翁、又、傍(そば)なる木(こ)ず衞(ゑ)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。「梢」。]にうそぶけば、時ならぬ、桃・生栗(せいくり)、なれり。取〔とり〕て、旅人にあたふ。是(これを)なむるに[やぶちゃん注:「舐むるに」。]、餘事を忘れて、更に、愁(うれひ)、なし。

[やぶちゃん注:「うそぶけば」「嘯けば」。「嘯く」は口を尖らして詩を吟ずることを指すが、ここは何か仙術の呪文のようなものを唱えたのであろう。]

 

 此時、翁、身の上をかたりて云(いはく)、

「我は、是より東、菊川といふ所の者に侍り。此川上には菊園(きくぞの)あり、此露(つゆ)の滴(したゝり)、こつて[やぶちゃん注:「凝つて」。]、河しもへながるゝ事、一とせに一度、我〔わが〕親に孝なる事、いたれり。故(かるがゆへ)に、天の惠(めぐみ)によつて、ふしぎに、此露をなめて、顏色(がんしよく)、不老(おいず)、雲を招(まねき)て、是に乘るに防(さまたげ)、なし。一日〔いちじつ〕に千里を遊行(ゆぎやう)し、終夜(しうや/よすがら)に數百里(す〔ひやく〕り)、歸る。今、とし隔(へだゝ)りて、五百餘歲、かんばせ、猶、むかしに、かはらず。唐(もろこし)にも南陽縣の菊水、下流を汲(くみ)て、仙道を得し爲(ため)し、世(よ)、擧(こぞつ)て知(しる)ところ也。されば、わ君、親に誠の道あること、我に勝れり。此故に、今、爰に出〔いで〕て、まみゆ。我、おもんばかるに[やぶちゃん注:「ば」はママ。]、君、來(きた)る月、ふりよの病(やまい)に死するの災(わざはひ)あり。さるによつて、此所にとゞめ參らす事、一年(〔ひと〕とせ)、災難をのがれ給ひぬ。今より更(さらに)患(うれへ)なく、長生(〔ちやう〕せい)なるべし。」

と、まめやかに語り、かきけちて、失(うせ)ぬ。

 角〔かく〕て、夜もしらじらとあくれば、此ふしぎさに、男、東(あづま)へも行かず、引かへし、國もとに歸る。

 父母(ちゝはゝ)、御覽ありて、

「いかなれば、此一とせが内、文の便(たより)もせざりける事よ。」

と、打恨(〔うち〕うらみ)給へば、其時、男、手を打(うち)、始終をかたり、

「わづか、半日(はんじつ)一夜(〔いち〕や)と覺へしに、扨は、一とせになり侍るにや。」と、今更に、驚(おどろき)ぬ。

 是より、東(あづま)へのかよひをとゞめ、ますます、孝をつくしけるが、いつとなく、冨(とみ)、榮(さかへ)の家となり、めでたき世わたらひ、しけるとぞ。

 金銀珠玉は世の器(うつはもの)にして、集(あつま)れる時、あるべければ、うらやむにたらず。たゞ珍寶にかへても、孝の道こそ、あらまほしけれ。

 

御伽比丘尼卷五全尾

 

[やぶちゃん注:「菊川」静岡県菊川市があり、ここを貫流する菊川もある。さらに、この内陸の端は、かの東海道の難所として知られる「小夜の中山」の直近であり、北の東部で接する静岡県島田市菊川もある(孰れもグーグル・マップ・データ)。

「菊園」これは地名ではなく、神仙の菊の花の咲いた園の謂いと読む。しかし、ここには隠しアイテムがあって、この静岡県島田市菊川には、「承久の乱」(承久三(一二二一)年で、討幕計画に加わった中納言藤原宗行が捕縛され、鎌倉へ送られる途中、七月十日、ここにあった菊川宿に泊まり折り、死期を覚って、宿の柱に以下の五絶を書き残した。

   *

 昔南陽縣菊水

 汲下流而延齢

 今東海道菊河

 宿西岸而失命

  昔 南陽縣が菊水

  下流を汲みて 齢(よはひ)を延ぶ

  今 東海道が菊川

  西岸に宿して 命を失ふ

   *

なお、「承久の乱」から約百年後に討幕未遂事件とされる「正中の変」で捕えられた日野俊基も、鎌倉への護送の途次、同じ菊川宿で宗行の往時を追懐して一首の歌を詠んでいる。

 古(いにしへ)もかかるためしを菊川の

       おなじ流れに身をやしづめん

現在、島田市菊川にある「菊川の里会館」(グーグル・マップ・データ)の前に、この「中納言宗行卿詩碑」と「日野俊基歌碑」が並んで建っている(ストリート・ビュー)。さても、「唐(もろこし)にも南陽縣の菊水、下流を汲(くみ)て、仙道を得し」という謂いのネタ元は、地名と相俟って、この藤原宗行の詩が元と考えられるのである。小学館「日本国語大辞典」の「菊水」に、『中国、河南省内郷県にある白河の支流。この川の崖上にある菊の露が滴り落ち、これを飲んだ者は長生きしたと伝えられる。また、この水でつくった酒。菊の水。鞠水(きくすい)』とあり、「海道記」(「東関紀行」・「十六夜日記」と並べて中世三大紀行文と称されるもの。貞応二(一二二三)年成立と考えられており、同年四月四日に白河の侘士(わびびと)と称する者が、京から鎌倉に下り、十七日に鎌倉に着き、善光寺参りの予定をやめて、帰京するまでを描く)から引用して、『池田より菊川「彼南陽県菊水、汲二下流一延レ齢」〔水経注湍水〕』とするところから、恐らく、この伝承が載る、現存する漢籍の最古のものは魏晉南北朝時代に書かれた地誌「水經注」(すいけいちゅう:撰(注)者は酈道元(れき どういげん:四六九年?~五二七年)で五一五年の成立と推定される)の巻二十九「湍水」の、

   *

湍水出酈縣北芬山、南流過其縣東、又南過冠軍縣東、【湍水出弘農界翼望山、水甚淸徹、東南流逕南陽酈縣故城東、「史記」所謂下酈析也。漢武帝元朔元年、封左將黃同爲侯國。湍水又南、菊水注之、水出西北石澗山芳菊溪、亦言出析谷、蓋溪澗之異名也。源旁悉生菊草、潭澗滋液、極成甘美。云此谷之水土、餐挹長年。司空王暢、太傅袁隗、太尉胡廣、竝汲飮此水、以自綏養。是以君子留心、甘其臭尙矣。菊水東南流入于湍。湍水又逕其縣東南、歷冠軍縣西、北有楚堨、高下相承八重、周十里、方塘蓄水、澤潤不窮。湍水又逕冠軍縣故城東、縣、本穰縣之盧陽鄕、宛之臨駣聚、漢武帝以霍去病功冠諸軍、故立冠軍縣以封之。水西有「漢太尉長史邑人張敏碑」、碑之西有魏征南軍司張詹墓、墓有碑、碑背刊云、白楸之棺、易朽之裳、銅鐵不入、瓦器不藏、嗟矣後人、幸勿我傷。自後古墳舊冢、莫不夷毀、而是墓至元嘉初尚不見發。六年大水、蠻饑、始被發掘。說者言、初開、金銀銅錫之器、朱漆雕刻之飾爛然、有二朱漆棺、棺前垂竹簾、隱以金釘。墓不甚高、而內極寬大。虛設白楸之言、空負黃金之實、雖意錮南山、寧同壽乎。湍水又逕穰縣爲六門陂。漢孝元之世、南陽太守邵信臣以建昭五年斷湍水、立穰西石堨。至元始五年、更開三門爲六石門、故號六門堨也。溉穰、新野、昆陽三縣五千餘頃、漢末毀廢、遂不脩理。晉太康三年、鎮南將軍杜預復更開廣、利加于民、今廢不脩矣。六門側又有「六門碑」、是部曲主安陽亭侯鄧達等以太康五年立。湍水又逕穰縣故城北、又東南逕魏武故城之西南、是建安三年、曹公攻張繡之所築也。】

   *

が震源地らしい。孰れにせよ、「世(よ)、擧(こぞつ)て知(しる)ところ」となったのは、専ら宗行の詩ゆえである。

「君、來(きた)る月、ふりよの病(やまい)に死するの災(わざはひ)あり。さるによつて、此所にとゞめ參らす事、一年(〔ひと〕とせ)、災難をのがれ給ひぬ」「貴君は、現実世界の今日現在の、来月に当たる月の内に、不慮の病(「やまひ」)によって、死する、という災難を受けることに、なっておる。そこで、貴君の孝なるを以って、今、この場にかく、半日一夜ばかり、お留め申し上げることと致した。さても。これは、現実世界にあっては、既に一年を経過していることに、なっておる。さすれば、最早、災難をお避けになったので御座るのじゃ。」。

 以下、奥書を示す。ご覧の通り、底本は字が大きく、それぞれに違ったサイズであるが、無視した。貞享四年は一六八七年。「龍集」の「龍」は星の名で、「集」は「宿る」意。この星は一年に一回周行するところから「一年」の意となり、単に「年」の代字となって、多く年号の下に記す語となった。]

 

   貞享第四龍集

    春孟陽吉辰日

      江戸神田新葦屋町

            西村 半兵衛

        書林

       京三條通 西村 市郞右衞門

                新版

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