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カテゴリー「怪奇談集」の1000件の記事

2021/03/11

怪談老の杖卷之四 (太田蜀山人南畝による跋文) / 怪談老の杖卷~電子化注~完遂

    ○

 東蒙子(とうまうし)の語りけるは、

「予が幼き頃、隣家へ行て遊びし事あり。折ふし、ふみ月の中の五日]にて、家々、燈籠を照らし、大路のさまも賑ひける。予が行し家は、紙など商ふ家なれば、「揚げ椽(えん)」といふものを、かけがねして、夜(よる)はあげ置(おき)けるを、「おしまづき」の樣にて、友達の童(わらは)と、手すさびなどして居(ゐ)けるに、年の頃、十二、三計(ばかり)の女の子、來りて、隣の童をとらへ、頭を手して、もみあつかふ。彼(か)の童は、ものもいはず、ただ、

「くつ、くつ。」

とのみ、いふて居たる程に、

『何ならん。』

とおもひて、面(おもて)をあげて、みれば、見もしらぬ女の子なり。

「なに奴(やつ)ぞ。」

と、とがめければ、つやつや、いらへもせず。

 また、傍(かたはら)をみれば、八ツ計の童、面まで、髮、生(お)ひかゝりたるが、立居(たちをり)たり。

 何とやらん、心地の恐ろしかりければ、友達に、

「逃(にげ)よ。」

と云はれけれど、心うばゝれて、逃んともせず、やがて、帶をとりて、内へ引入れければ、手を放ちて、又、我に、とりつきぬ。

 その手の冷(ひややか)なる事、寒中の氷のごとし。

「何ものぞ。」

と、つよく咎(とが)めければ、

「下屋舖(しもやしき)、々々々。」

と、二聲(ふたこゑ)、いひけり。

 此家の裏は、朝倉仁左衞門殿といふ人の下屋敷なるが、かの屋敷守(やしいもり)の娘に、「おかん」とて、ありけるが、遊びがたきにて、常に行ければ、『それか』と、よくよく見るに、似もつかず。

 色靑く、きはめて、よごれたる貌(かほ)なり。

 さる程に、

「ぞつ」

と、おそろしき氣のいでければ、

「わつ。」

と、いふて、戶を引たて、逃入(にげいり)ぬるに、その家の者ども、おどろきて、

「ばけものよ。」

とて、そこらを尋ね搜しけれど、終(つひ)にみへず。

 又、何者といふ事も、しれざりけり。

 是は、かの別莊の内に、年古き狐ありて、人を化(ばか)すといひけるが、童とおもひ、あなどりて來りしにや。よくぞ、まどはされざりし。」

と、今に、いひ出して、語りける。

[やぶちゃん注:「東蒙子」作者平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)の号。従って、これは跋の内で、冒頭注で書いた通り、本篇を含む「平秩東作全集」を纏めた平秩東作の友人であった、文人で本篇の所有者であった大田(蜀山人)南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が平秩から聴いた直話の怪談を思い出として書き添えたものと推定される。

「ふみ月の中の五日」旧暦七月十五日。

「揚げ椽」「揚げ緣」。商家の店先などに、釣り上げられるように造られた縁。夜には、それを上げて戸の代わりとする。

「おしまづき」漢字を当てると「几・机」で、ここは「揚げ縁」の一部を中に取り込んだものを、遊びの台(机)の代わりにしているのであろう。

「つやつや」少しも。全く。

「朝倉仁左衞門」家光の代の江戸北町奉行に朝倉石見守仁左衛門在重(天正一一(一五八三)年~慶安三(一六五一)年)町奉行在任:寛永一六(一六三九)年~慶安三(一六五〇)年)がいる。但し、平秩東作の生没年から、この朝倉在重の直系の後裔と思われる。井上隆明氏の論文「平秩東作とその周辺」(PDF)によれば、この人物は旗本とされ、平秩の生まれた家は現在の新宿二―一六―六附近(グーグル・マップ・データ)が当該地であるとされておられる。

 以下の跋文は底本では全体がポイント落ち。]

 

 

亡友東蒙子、所ㇾ草「怪談老杖」數卷、僅存四卷、流覽一過、宛如亡友而語三十年前事也。

  文化乙亥孟秋念七淸晨  杏花園叟

 

文政己卯水無月廿日、病餘流覽、時年七十一。 蜀山人

  東蒙生平下ㇾ筆不ㇾ能ㇾ休、是其稿本也。

              蜀 又 誌 ㊞

怪談老の杖卷之四

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

   *

亡き友の東蒙子、草(さう)せる「怪談老(おひの)杖」數卷、僅かに四卷を存す。流覽一過(りうらんいつか)、宛(さなが)ら、亡き友に逢ひ、三十年前に事を語れるがごときなり。

  文化乙亥(いつがい/きのとゐ)孟秋(まうしう)念七(じゆうしち)淸晨(せいしん)

       杏花園叟(きやうくわゑんさう)

 

文政己卯(きぼう/つちのとう)水無月廿日、病(やまひ)の餘(よ)に、流覽す。時に年七十一。 蜀山人

  東蒙は生平(せいへい)、筆を下(おろ)して、休むこと、能はず。是れ、其の稿本なり。

         蜀、又た、誌(しる)す。 ㊞

   *

「流覽一過」縦覧に同じい。全体にざっと目を通すこと。

「文化乙亥」文化十二年。一八一五年。

「孟秋」秋の初めの一ヶ月。初秋。陰暦七月。

「念七」「念」は「廿(じゅう)」(二十)の代字。二十七日。

「淸晨」早朝。

「杏花園叟」大田(蜀山人)南畝の号の一つ。

「文政己卯」文政二年。一八一九年。

「病(やまひ)の餘(よ)に」病気の徒然の間にの意味でとった。「病める餘」で「病中にある私が」の意にもとれるが、その場合、通常は「余」で「餘」とは記さないのが普通。所持する版本は「余」だが、これはその版本が新字採用だからで、底本は「餘」であるから、前者でとったものである。

「生平」平生(へいぜい)。日頃。普段。副詞的に用いている。

 これを以って「怪談老の杖」は終わっている。]

怪談老の杖卷之四 福井氏高名の話

 

   ○福井氏高名の話

 豐後の國に玉木といへる在所あり。

 福井翁、城主に仕へし頃、君命によりて、鳥を討(うち)に出ける。折ふし、雪みぞれ、ふりて、寒氣、いと堪がたき頃なり。暮方に、鐵砲、うちしまひ、名主の宅にて、夕飯などしたゝめ、立歸る。

 御城より、四里ばかりある處なり。

 處の農夫、二、三人、役(えき)にかられて、供をし、御城まで送りける。福井、いはれけるは、

「我を送りて、また、立歸らば、さぞ難義なるべし。歸りて休め。」

とて、暇(いとま)をやりければ、

「難有(ありがたし)。」

と、いく度も、禮、いひて、歸りぬ。

 段々、來りて、御城下近き所に、右の方は寺にて、卒塔婆垣、心よからぬものなり。

 空は、はれて、大きなる梢より、月、あかく、さし入(いり)、みぞれの上にきらめきて、おもしろきけしきなるに、獨りごちして、坂をのぼりゆく時、上の方より、

「おいおい」

と啼(なき)て來(きた)るもの、あり。

 近づくまゝに、これをきけば、女の聲なり。

 其頃、世に沙汰して、此邊に「うぶ女(め)」、出(いで)て、人をおどかすといふ事、專らなり。

 福井翁、おもはれけるは、

『姑獲鳥《うぶめ》といふもの、たやすく出(いづ)べき物にあらず。察するに、盜賊などの、それに託して、人をなやますものなめり。何にもせよ、からめ取りて、御城下の取沙汰を留(と)めん。』

と思案して、傍(かたは)に、人一人かくるべき程の崖のあるに、身をそばめて窺ひ居(を)られけるうち、なく聲、ちか付(づき)て、坂を下(くだ)り、此がけの前を過ぐるをみれば、わかき女の、赤裸にて、兩手にて、顏をおさへて、さも、物あはれになきて來(きた)るなり。

 やがて[やぶちゃん注:即座に。]おどり出て、腕をとりて、ねぢ伏せければ、

「ア。ゆるさせ給へ。」

とて、ふるふ事、限りなし。

「おのれ。何ものなれば、かく深夜に及(およん)で、かく、姿にて、徘徊はするぞ。妖怪にもせよ、何にもせよ、誠の正體を顯はすべし。」

と、いはれけるとき、彼女、答へて、

「全く、あやしきものに侍らず。わたくしは、御城内佐藤主稅(ちから)殿組(くみ)の、足輕なにがしと申ものの妻にて侍(さふら)ふが、此下(このした)なる、豐後しぼりを致して渡世する彌右衞門と申(まうす)者は、私の親にて侍るが、重く煩ひて候程に、看病のため、親共方(おやどもかた)へ參りて居侍(ゐさふら)ふが、明朝(みやうてう)用(もちふ)べき藥を用ひきりて候まゝ、醫師のもとへ藥をとりに參りて、只今、歸る道、上の山にて、大(おほき)なる男、出(いで)て、無二無三に着物をはぎ取り、からき命、助かりて歸るにて候。」

と、語りけるにぞ、

「扨は。不便なる事なり。扨、其盜人(ぬすびと)は何方(いづかた)へ行たるぞ。程久しき事にては無きか。何とぞ、取もどしやるべし。」

と云はれけるにぞ、女、悅ぶ事、斜(なのめ)ならず、

「右の方(かた)の山のうちへ入りて候。暫しの間(あひだ)の事にて、遠く行(ゆき)候はじ。」

と、いふ。

「先(まづ)寒かるらんに、是を着よ。」

とて、上なる衣(ころも)をぬぎて、彼(かの)女に着せ、かの崖の内へ入れ置(おき)て、

「我が歸るまで、何方ヘも行くべからず。」

と、いひ含めて、坂を左へ尋ね入(いり)ける。

 元來、此左の方は海岸に傍(そ)ひて、逃ぐべき道のなき所なれば、

『必定(ひつぢやう)、尋ね當(あた)るべし。』

と、事もなげに思ひて行に、月影に、ちらり、ちらりと、人かげの見ゆる樣なり。

『あやし。是こそ盜人なめり。』

と、つらつらと寄りければ、大の男なり。

「己(おのれ)は、今の程、往來の女を、はぎとりたるよ。其衣類を返すべし。」

と、聲をかけければ、

『叶はじ。』

と、おもひけん、帶にて、ゆはヘたる衣類を投げ出しけるを、それには目をかけず、引(ひき)ぬいて、打(うち)かけければ、肩先を切られて、とある、いはほの上へ、はひ上りけるを、なほ、追かけて拂ひける刀に、急所にや當りけん、

「うん。」

と、いふて、倒れけるを、うち捨て、衣類を携へ、もとの所へ來りて、女に着せければ、ものをもいはず、手を合せて伏し拜む。

 迚(とて)もの事に、

「その方が宿まで、送り遣すべし。」

とて、つれ行(ゆか)れける。

「爰にて候。」

と、いふて、門の戶を明(あく)るより、

「わつ。」

と、いふて、なきこみぬ。

 近所のものにてや、ありけん、五、六人、集りて、

「何故(なにゆゑ)、戾り、おそかりし。」

など、詮議最中の體(てい)也。

「是は、その方が娘か。」

と問ひけれぱ、

「いかにも。私の娘なり。どなたなるぞ。此方(こなた)へ御入(おはいり)なされよ。」

と云ひけるを、

「慥(たしか)に渡したるぞ。」

と立出られける。

 娘も、あまりにかなしきに、心や、せまりけん、具(つぶさ)にわけをもいはねば、

『たゞ下通(しもどほ)り[やぶちゃん注:帰り道。]、道づれの送りたる。』

と思へるにや、隨分、麁相(そさう)なるあいさつなりける。

 かく、往返の間に、八ツ[やぶちゃん注:午前二時。]の鐘なる頃、御門(ごもん)へ入られける。

 翌日、彼(かの)娘の親類どもより、

「夜前、ケ樣(かやう)々々。」

と訴へ出(いで)、

「慥に御城内の御諸士樣方と存候。取紛(とりまぎ)れ、御名も不ㇾ承(うけたまはらず)、不調法の段。」

言上(ごんじやう)しけるにより、

「八ツ時に門へ入りたる誰ならん。」

と、詮議ありてこそ、福井氏の手柄、かくれなく、殿にも御感淺からざりし、となり。

 かの盜人は、その手にて、死(しし)ければ、死骸、幷に、年頃盜み置きし雜物(ざうもつ)など、皆々、上(かみ)へあがりけり。

「その中に、家中の士、拜領の腰の物を盜まれて、訴へも出ずおきたりしが、その雜物の中にありて、不首尾、甚しかりける。」

と云へり。

 彼盜人は、もと家中の草履取(ざうりとり)なりしが、惡黨に陷りて、かく淺ましき體(てい)になりける。

「是より、此所(このところ)の妖怪の沙汰は、やみし。」

と、いへり。

 福井翁の直(ぢき)の話を聞(きき)て、爰(ここ)に記(しる)す。

[やぶちゃん注:このロケーションの同定が出来ない。豊後国で玉木という地名が藩内にあり、その藩は少なくとも一部が海に面している。しかも、本書は宝暦四(一七五四)年板行くであるから、江戸中期末から後期が時制となろう(今まで見てきた通り、直近の事件であることが多い)。とすれば、天領地と島原藩・延岡藩・肥後藩飛地は除去され(陣屋はあっても城はない)、海に接していない岡藩・森藩及・交代寄合領立石藩(城なし)は外れる。すると残りは、杵築藩・日出(ひじ)藩・府内藩・臼杵藩・佐伯(さいき)藩の五つである。さらに私はこう考える。この事件のロケーションは海に近いが、城は海の近くにあるわけではないのではないか? という推理である。これを適応すると、海のごく直近にある杵築城・日出城・臼杵城は外せる。残るのは府内城(大分城)・佐伯城となる。ところが、ここで窮する。何故なら、玉木という地名が現在の大分県内には見当たらないからである。零に戻して考え直す必要がありそうだ。

「うぶ女」「姑獲鳥《うぶめ》」登場した際には真正の哀れな妖怪姑獲鳥かと見紛うたが、実は本篇は疑似怪談である(しかし、私はこの一篇、好きだ。福田翁が如何にも古武士のようにカッコいいからである)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を参照されたいが、特異的な実録風に書かれた一つを挙げるならば、私は「宿直草卷五 第一 うぶめの事」をお薦めする。]

2021/03/10

怪談老の杖卷之四 [原本失題](銀出し油を呑む娘)

 

   ○[原本失題](銀出し油を呑む娘)

 本鄕二丁目八百屋お七と云ふ事、日本にいひ傳へてしらぬものなし。

 世の中に、戀によりて、身を亡(ほろぼ)したるもの、何萬人とも限るべからず。

 その中に、かく、いひさはがれて、姿・心ざまもなつかしき樣に、末の世まで云ひ傳へられしは、その人の幸(さひはひ)とやいはん、また、不幸とやいふべき。

[やぶちゃん注:本篇は見ての通り、原題が脱落している。題無しでは可哀そうなので「(銀出し油を呑む娘)」は私が仮に附しておいた。

「本鄕二丁目」現在の東京都文京区本郷二丁目と三丁目、ここの交差点(グーグル・マップ・データ)の北西と南東が相当する。「古地図with MapFan」で確認した。

「八百屋お七」詳しくは当該ウィキを読まれたいが、それによれば、『お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる』「天和笑委集」に『よるとお七の家は』本郷にあり、『天和二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)の「天和の大火」で焼け出され、お七は親とともに正仙院[やぶちゃん注:不詳。]に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介』『と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた』とある。因みに、お七の墓は文京区白山一丁目にある天台宗南縁山正徳院円乗寺にある。]

 此類(たぐひ)の事、世に多し。

 是も本鄕の二丁目に、八百屋にはあらぬ質がし・紙・油など賣る家あり、一人の娘をもてり。姿かたち、きよらかに、心ざまも、ゆうに、やさしかりければ、見る人、戀慕(こひした)はぬは、なかりけるが、その隣なる家の手代に、武兵衞とて、よきをとこ、ありけるが、かの娘に執心して、

「何とぞ、折(をり)もがな、心の底を。」

と、求めけれど、折ふしに顏見る計(ばかり)、咄しひとつ、いひよる手だてもなければ、

「何とぞ、彼(かの)家へ入(いり)こむ手だて。」

など、心がけて居(をり)けるに、娘のはゝ、よみ[やぶちゃん注:短歌詠或いは既存の名歌の詠唱か。]好きにて、正月十五日前は、下女・娘などあいてに、よみうちけるを、

「くつきやうの事。」[やぶちゃん注:「究竟」で「非常に好都合なこと・お誂え向きなこと」の意]

と、悅びて、どこともなく近寄(ちかより)、よみの相手に、一夜、二夜、行けれども、先には、少しも、その心なければ、もどかしき事、かぎりなし。

 漸(やうや)く傳(つ)てを求めて、文(ふみ)を送りけれど、手にも取らず、顏を赤め、

「となりの若いものが、ケ樣(かやう)々々。」

と、母へ告(つげ)ける程に、はや、よみの相手にもよばず、それよりは、外へも出(いだ)さねば、

「塀越しに聲をもきくか、ふしあなより貌(すがた)にても見ゆるか。」

と、馬鹿の樣(やう)になりて、

「裏の下水へながるゝ水は、となりの娘御(むすめご)の行水の末なるべし。」

と、指もてなめて見る程のたはけも、戀程、せつなきものは、なし。

 譯(わけ)をしりたる人、あまり不便におもひ、

「何とぞ、取(とり)もちやらん。」

と、いろいろ、娘をだましけれど、よくよく石部金吉(いしべきんきち)にて、後(のち)には惡口(あつかう)などしける程に、かの若い者も、

「口惜しや、人なみなみの身上(しんしやう)ならば、かく。はづかしき目は、見まじき。」

と、あけても暮(くれ)ても、なげきけるが、いつとなく、奉公も身にそまず、おとろへ行(ゆき)ぬ。

 しかるに、その近處(きんじよ)に、伽羅(きやら)の油賣る惣(さう)なにとかやいふ男、又、此娘にほれて、一さほ三十二文の油を廿八文にまけ、おしろいを、はづみ[やぶちゃん注:おまけにただでつけたのであろう。]、花の露[やぶちゃん注:飲めば長生きするとされた「菊の露」、菊の花に溜まった雫(しずく)のことか。]を遣ひものにして、心をくだきけるが、この伽羅の油[やぶちゃん注:「賣り」の略。]、口拍子(くちびやうし)よき[やぶちゃん注:喋る内容や調子が如何にもいい感じを与えることを言う。]男にて、

「娘の氣に入(いり)、晝夜(ちうや)、入びたり居(を)る。」

といふ事をいふものあり。

 定めて、世にはやかせて[やぶちゃん注:あることないことを流行らせて。]、慰(なぐさみ)にするといふ樣な、情(なさけ)しらずの破家《ばか》者あれば、その類(たぐひ)なるべきを、かの手代、きうくつ[やぶちゃん注:「窮屈」。歴史的仮名遣は「きゆうくつ」でよい。]なる心より、深く恨みにおもひける。

 いづ方ヘ行しや、ある夜、出(いで)てのち、行衞しれず、なりける。

 その年の末より、かの娘、ぎんだし油を好みて附(つけ)けるが、あまり、大そふ[やぶちゃん注:「大層(たいさう)」。]に、油、いりければ[やぶちゃん注:買い入れるので。]、兩親、ふしんし、せんぎしければ、髮には、わづかの事にて、皆、食物(くひもの)の樣にしてありけるを、深く、いましめけれど、病(やまひ)の業(わざ)なれば、やまず、夫(それ)より逆上して、貌(かほ)へふき出(いで)て、終(つひ)に十五のとし、むなしくなりぬ。

「死して後(のち)、髮の中より、おびたゞしく、むかでの樣(やう)なる蟲、わき出ける。」

とかや。

「人の恨(うらみ)なるべし。」

と、いひあへり。

 となりの手代と傍輩なりしもの、語りけるが、

「かの手代、出奔する前には、夜中などにおきて、物もいはず、『ぶるぶる』と、ふるひし事、度々なり。」

と、いへり。

 予、おもふに、これ、かの恨のむくひにはあらず、病の業なり。

[やぶちゃん注:この手代の症状は統合失調症や重い強迫神経症が疑わられる。]

 或は灰をなめ、土器を喰ふ類ひ、ことごとく、戀幕の執(しふ)によりて、といふ事、あるべからず。

 婦人と生れては、父母の命によりて夫を持つは「禮」なり。『人の恨、恐ろし』とて、たやすく順(したが)ふは「不義」の甚だしきものなり。若(もし)、不幸にして、人におもひかけられたる人あらば、よく人を以て、その道理をさとし、心をなだめて、合點さする時は、人、各(おのおの)、心あり。愛する人のいふ事は、あしき事さへ嬉しきものなれば、恨むる道理は、なき事なり。只、情なく、のゝしり、恥かしむるよりぞ、恨、甚し。是は、女の道とは、云ひがたし。此さかひをよく辨へて、生死存亡(しやうじそんばう)を心とせず、婦の道を守りて、貞一なる婦人こそ、あらまほしき業(わざ)なり。

[やぶちゃん注:「伽羅」は香木の一種。「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。で、別に催淫効果があるともされたから、この話柄の、この辺りには妙な親和性がある。

「ぎんだし油」「銀出し油」で頭髪用の油の一つで、常緑の蔓性木本であるマツブサ科サネカズラ(実葛)属サネカズラ Kadsura japonica:別名ビナンカズラ(美男葛)のつるの皮を水に浸し、粘りをつけたもの。当時は異名からも判る通り、普通は男性の鬢付け油に使用された。この娘の異常行動と死は、食用にはならないもの・消化出来ないもの(実は食べられるし、油自体は有毒ではないようである)を多量に口経摂取していることから、現代なら、重篤な異食症(pica:ラテン語で「カササギ」(スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica )の意。鵲は何でも口に入れる習性があることに由来する病名)とされるであろう。異食症は複数の原因が考えられ、一般女性でも妊娠時にこの症状が出る場合があるが、流石に、この娘が妊娠(この油売りが相手)していたというのは、叙述からは、ちょっと考えにくいように思われる(噂話にはそれが嗅がせてあるようにも読めるが)。他には、先天性の何らかの疾患、或いは、極端な偏食による後天的栄養障害・栄養不良(特に鉄欠乏性貧血・亜鉛欠乏症)、脳への酸素供給量不足による満腹中枢障害・体温調節障害に起因するもの、強い精神的ストレスを原因(ストレスによって、脳内の神経伝達の重要な一つである生理活性物質セロトニン(serotonin)が不足を生じ、感情・欲求が抑制出来なくなるのが一因ともされる)とするもの、精神疾患の合併症状の一つとも、また、脳腫瘍による異常行動の一症状、人体寄生虫の感染(特に鉤虫症。複数の病原虫がいる。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の「伏蟲」の私の注を参照されたい)による場合があると当該ウィキにあった。死に至ったことをことを考えると、以上の中では現実的なものとしては、脳腫瘍が最有力候補となろうか。後で筆者もまさに異食症を挙げ、それを現実的な疾患(外因・内因・心因の区別はつけていない)であると考えていることが明らかにされる。

2021/03/09

怪談老の杖卷之四 厩橋の百物語

 

   ○厩橋の百物語

 延享の始めの頃、厩橋(まやばし)の御城内にて、若き諸士、宿直(とのゐ)して有けるが、雨、いたうふりて、物凄(ものすご)き夜なれば、人々、一ツ處にこぞりよりて、例の怪談になりぬ。

[やぶちゃん注:「百物語」注する気も起らない。当該ウィキでもお読みあれ。

「延享」一七四四年から一七四八年(延享五年七月十二日(一七四八年八月五日)に寛延に改元)。徳川吉宗・家重の治世。延享二年九月二十五日に代替りするが、事実上は後半も大御所吉宗の治世であった。本書は序文が宝暦四(一七五四)年であるから、ごく直近である。

「厩橋(まやばし)の御城内」上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった前橋城は古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、関東七名城の一つに数えられた。前橋藩の藩庁。現在の群馬県庁本庁舎敷地(グーグル・マップ・データ)に本丸があった。なお、この当時は老中首座で第九代藩主酒井忠恭(ただずみ)の治世。]

 その中に、中原忠太夫[やぶちゃん注:不詳。]といふ人、坐中の先輩にて、至極、勇敢の人なりしが、

「世に化物はありと云ひ、無しといふ。此論、一定(いちぢやう)しがたし。今宵は、何となくもの凄(すさま)じきに、世にいふ處の百もの語りといふ事をして、妖怪出(いず)るや出(いで)ざるや、ためし見ん。」

と云ひ出しければ、何れも血氣の若(わか)とのばら、各(おのおの)いさみて、

「さらば始めん。」

とて、まづ、靑き紙を以て、あんどう[やぶちゃん注:「行燈(あんどん)」に同じい。]の口を覆ひ、傍(かたはら)に鏡一面を立(たて)て、五間[やぶちゃん注:約九メートル。]も奧の大書院に、なをし置き、燈心、定(さだま)りのごとく、百すぢ、入(いれ)て、

「一筋づゝ消し、鏡をとりて、我(わが)顏を見て、退(しりぞ)くべし。尤(もつとも)、その間(あひだ)の席々には燈(ともし)をおかず、闇(くら)がりなるべし。」

と、作法・進退、形(かた)のごとく約をなし、

「先づ、忠太夫より云ひ出したる事なれば、咄し出(いだ)さるべし。」

とて、ある事、なき事、短かきを專らに廻(まは)して、八ツの時計のなる頃[やぶちゃん注:丑の刻。午前二時。]、はや、八十二番の咄し、濟(すみ)けれども、何のあやしき事もなし。

 然るに、忠太夫、八十三番目の咄しにて、「ある山寺の小姓と僧と密通して、ふたりながら、鬼になりたり」など、あるべかゝり[やぶちゃん注:「あるべきかかり」の変化した語で、おざなり・紋切り型の意。]の咄にて、

「さらば、燈を消して來られよ。」

といふにつきて、詰所(つめしよ)をたち、靜(しづか)に唐紙をあけ、一間々々を過ぎ行しに、行燈(あんどん)のある座ヘ出(いづ)るとて、ふすまをあけて、ふりかへり、あとを見ければ、右の方の壁に、白きもの、見へたるを、立(たち)よりて見ければ、きぬのすその、手にさはるを、

『あやし。』

と、おもひて、よくよく見れば、女の死骸(しかばね)、首など、くゝりたるやうに、天井より下(さが)りて、あり。

 忠太夫、もとより、勇氣絕倫の人なれば、

『扨も。世にもなき事は云ひあへぬものなり。これや、妖怪といふ者なるべし。』[やぶちゃん注:「世に在り得ぬことは口に出ださぬが肝要である。これが、或いは『妖怪』なんどと呼ぶものなのであろうか?」。]

と、おもひて、さあらぬ體(てい)にて、次[やぶちゃん注:次の間。]へ行(ゆき)、燈を一すぢ消して、立歸るとき、見けるに、やはり、白く、みえたり。

 默して、坐につき、又、跡番の士、代りて行(ゆき)しが、いづれも、いづれも、此妖怪の沙汰を、いふもの、なし。

『扨は。人の目には見へぬにや。また、見へても、我(われ)がごとく、だまりて居(を)るやらん。』

いぶかしくて、

「咄しを、いそぎて、仕舞(しまひ)給へ。」

と、小短(こみじか)き咄し計りにて、百番の數(かず)、終り、はや、終らんとする時、その座中に、筧(かけひ)甚五左衞門[やぶちゃん注:不詳。]といふ人、さながら、色、靑く、心持あしげに見へしが、座につきていふ樣(やう)、

「何と、旁(かたがた)、咄も已におはるなり。何ぞ、あやしき事を見しものは、なきや。」

と、いふとき、皆人(みなひと)、

「そこには、見給ひたりや。」

といふ。

「成程。我らは先程より見たりしが、だまつて居(ゐ)たり。各(おのおの)は。」

と問ふ。

 忠太夫、

「我は八十三番目の時、見たり。」

といふ。

 それより、皆々、口をそろへて、

「女の首くゝりか。」

といふ。

「いかにも、はや、妖怪見へし上は、咄をやめて、一同に行(ゆき)て見るが、よろしからん。」と。

「尤(もつとも)。」

とて、皆々、行燈を下げて行て見れば、年比(としごろ)、十八、九の女、白むくを着て、白ちりめんのしごきを〆(しめ)、散(ちら)し髮にて、首を縊(くく)りて居(をり)たり。

 何にてくゝりしや、天井より下(さが)りしたれば、しかとは見へず。

「抱(いだ)きおろさん。」

と、いひけるを、

「まづ、無用なり。跡先(あとさき)のふすまをしめ、此ばけもの、いかに、仕舞(しまひ)を附(つけ)るぞ、見よ。」[やぶちゃん注:「いや、それはまず、無用なことじゃ。前後左右の襖を締め切って、この化け物が如何にして正体を現わしてけりをつけるか、これ、見届けるべし!」。]

とて、皆々、化物の脇に座を構へて見物する内、はや、東もしらみ、夜は、ほのぼのとあけけれども、化物、きえんともぜず、やはり始(はじめ)のごとし。

「是は。すまぬ物也。」

と、各(おのおの)驚きて、先づ、役人の内、奧がゝりの人をまねき、見せければ、島川(しまかは)殿といふ中老の女なり。[やぶちゃん注:「中老」武家の奥女中で、老女の次位に当たる職。若くても主君の覚えがめでたければ(以下がそれを匂わせている)、なれる。]

 殿の、をりふし、つかはるゝなど、取沙汰ある程の人なれば、段々、驚きて、

「是は。けしからぬ大變なり。」

と、いひけるが、皆々、打(うち)よりて、

「まづ、沙汰すべからず。此所(ここ)ヘ、女中の來(きた)る所に、あらず。決して、妖怪に違ひなし。廣く沙汰して、麁忽(そさう)の名をとりては、いかゞ。」[やぶちゃん注:語の使い方が不全であるが、かくい言っている本人が、内心、慌てふためいている感じを出していて、寧ろ、リアリティがあると言える。]

とて、奧家老下田某[やぶちゃん注:不詳。]、

「まづ、奧へ行(ゆき)て、島川どのに、逢はん。」

と、いひけるに、夕べより、不快のよしにて不ㇾ逢(あはず)。

「さては。あやしや。」

と、

「ちと、御目にかゝらねばならぬ急用事あり。」

と、せめけるにぞ、やむことを得ず、出(いで)て逢ひぬ。

 實(げ)にも、不快の體(てい)なれども、命に別條なければ、先づ、安堵して、兎角の用事にかこつけ、表へ出(いで)て、最前の場處へ行て見るに、かの首くゝり、段々と消えて、跡もなし。

 つきて居(をり)たる人々も、

「いつ、消(きえ)しとも、見へぬ。」

と、いふにぞ、

「扨は。妖怪に相違なし。但し、堅く沙汰するべからず。」

と、右[やぶちゃん注:「左右」の脱字か。]、口をかためて、別れぬ。

 そののち、此島川は、人を恨むる事ありて、自分の部屋にて首を縊り失(うせ)にき。

 此(これ)、前表(ぜんぴやう)[やぶちゃん注:悪しき予兆。]を示したるものなり。

 されば、人の云ひ傳ゆる事[やぶちゃん注:ママ。]、「妖氣の集(あつま)る處、怪をあらはしける」なるべし。

 彼(かの)忠太夫、後、藩中を出(いで)て、劍術の師をし居(をり)たりしが、語りけるなり。

 

怪談老の杖卷之四 藝術に至るの話 

怪談老の杖卷之四

 

    ○藝術に至るの話 

 上州烏川(からすがは)[やぶちゃん注:烏川は利根川右岸の支流(グーグル・マップ・データ)。上流は高崎を流れ、最上流は浅間山の東北の浅間隠山の北に当たる。]の邊に、□□□[やぶちゃん注:原本欠字とする。]といへる法師ありけり。

 本(もと)は大坂にて勝手よき町人なりしが、おかしき業(わざ)を好みて、終(つひ)に生產を破り、落魄無聊(らくはくぶりやう)の身となりぬ。

 まづ、鷄の玉子を投げあげて、箸を以て、挾みとる事を學びけるが、中々に玉子いくつといふ事もなく、破れける程に、家人、是を制して、

「無益なり。」

と諫めけれど、中々、承引せず、

「然らば、下に蒲團(ふとん)なりとも敷(しき)て、卵の破れぬ樣にして、習ひ給へ。」

と、いへば、答へていふ樣(やう)、

「たまごの破るゝにてこそ、『爰(ここ)にて、はさみ留(とめ)ん』とおもふ心、つよければ、自(おのづか)ら、手ごゝろに、味ひ、いできて、其道、成就こそするなれ、たまごをやぶらざらんまうけをせば、其道なるべからず。」

とて、人の嘲りをかへりみず、習ひける程に、年へて後は、十は十、百は百ながら、一ツもおとさず、はさみとりけり。

 かくして業は習ひけれども、產、漸く、是が爲に盡(つき)て、家を亡(なく)して、只、人の爲めに、たまごをはさみて、一座の興(きやう)を助け、それを家業の樣(やう)にて身を過(すぐし)たり。

 一年(ひととせ)、江戶へも來りけるが、傳馬町の桑名屋彌兵衞といふ者のがり[やぶちゃん注:「の方へ」。]、尋ね行て、主(あるじ)に逢ひて、いひけるは、

「此家に祕藏せらるゝ南京の皿、拾枚、有ㇾ之よし聞(きき)及びたり。願はくは、見たき。」と望みければ、彌兵衞、

「やすき事なり。」

迚、出(いだ)して見せけり。

 彼(かの)法師、皿を手に持(もち)て居(ゐ)けるが、

「某(それがし)に一ツのいやしき技藝あり。必(かならず)、驚き給ふな。」

と、いふを、あいづに、彼皿を向ひの床の上へ投げやりけるに、音もせず、手にて直(なほ)すよりも、靜(しづか)に居(ゐす)はりける。

 又、一ツを、投やりければ、ならびて、たがはず、其次へ直りぬ。

 十枚の皿、一ツも、あやまちなく居(ゐ)ならびたるに、あたかも、寸尺をはかりて、ならびたてたるがごとく、其間(ま)の長短、毫(がう)も、たがふ事なし。

 見る人、賞歎して、其妙に伏せずといふ事なし。

 此人、玉子をはさみ習ひてのちは、何にても、物のめあて・かね合(あひ)の事に、ならぬといふ事はなかりけり。

 常にきせるなど、いろいろ、手まさぐりにして、遊びなどしけるが、あるとき、傍に豆のありけるを、吸口の方へのせ、爪にてはじきやりければ、らう竹(ちく)のうヘを傳ひて、雁首(がんくび)にて、とまりけり。[やぶちゃん注:「らう竹」は「羅宇竹」で煙管(きせる)の火皿と吸い口とを繋ぐ竹の管を言う。「らう」は地名のラオスで、「羅宇」は当て字。ラオス産の竹を使ったことからという。]

 又、はじきやりて、豆、四粒を、皆、とめたり。

 末の豆、ひとつは、はぢく拍子に、さきなる豆にあたりて、飛びけるが、あやまたず、雁首の中へ入りける。其妙術、誠に神妙ふしぎ也。

 されば、物をふかくおもひ入れて、不ㇾ怠、習ひぬれば、妙處に至ること、皆々、此道理なり。芥子之助が豆と德利、みなみな、人の見る處なり。是、怪談にはあらねど、奇妙の話なれば、此にしるす。

 此法師、明和元年[やぶちゃん注:宝暦十四年六月二日(一七六四年六月三十日)改元。]、上州にて終れり。

 是も怪異の事にはあらぬが、珍らしき物語のあるなり。

 四ツ谷鹽町(しほちやう)といふ所に、近江屋新右衞門といふ人、有。[やぶちゃん注:「四ツ谷鹽町」現在の新宿区本塩町及び四谷三・四丁目相当(グーグル・マップ・データ)。町名は塩問屋の町であると同時に、当時の輸送機関である牛車の牛に塩を供給するための町でもあった(よくお世話になるサイト「江戸町巡り」のこちらを参照した)。]

 此小者に、名は何とかやいへる、十六、七の奴(やつこ)あり。

 此者の親は、彌兵衞とて、至極の不埓(ふらち)ものにて、酒を好み、夫(それ)ゆへ、身上(しんしやう)も潰(つぶ)して、中間奉公をして居(をり)けるが、男子、二、三人ありけるを、皆々、奉公させ、常に、子供の方(かた)を廻(まは)りては、わづかの給金の内を、せぶり[やぶちゃん注:「せびる」に同じい。]取りける程に、子供も、是を難儀して、

「此程(このほど)かしたる金は、主人に、割なく願ひ、かしたり。かへしたまへ。」

とて催促するをいとひて、[やぶちゃん注:ここからは「十六、七の奴」の「小者」が主語。]我が勤むる屋敷の名もいはず、元より一ツ家(いへ)に重年(ぢゆうねん)する事なく[やぶちゃん注:一年年季を次の年も継続して勤めることをしないこと。]、けふは、番丁に居れば、はや、牛込と、世上の臺所をかぞへて廻りける、しれものなりけり。

 爰に、天龍寺門前に八左衞門といへる、奉公人の肝煎(きもいり)を渡世とする男、あるとき、千駄ケ谷の何がしと云ふ、同じ仲間の家へ用事ありて行けるが、傍に、いと、やみほうけたる病人あり。八左衞門、つくづくと見ければ、我(われ)のしりたる者なれぱ、亭主にいふ樣は、

「是は彌兵衞にては無きか。」

といふ。

「いかにも。彌兵衞也。此者、此間より傷寒を煩ひて、ケ樣(かやう)にくるしみ居(を)れど、いづ方に、身寄(みより)の者有ㇾ之や、しらねば、我等、迷惑、言語同斷なり。わぬし、近付(ちかづき)ならば、身寄の者の有無は知りたらん。」

と問ひければ、八左衞門、

「此者には、れつきとしたる、をとこの子、二、三人もあり。其方(そのかた)へ渡してやられよ。」

といふ程に、亭主、よろこびて、子供の名・勤むる主人など聞きて、早速、新右衞門方へ人を遣はし、

「彌兵衞と申者、大病にて、存命、はかり難し。此子共、そこ元に相勤る由、相談致し度(たく)、尋來り候樣に。」

と云ひ遣しける。

 むすこは、是をきゝて、久しく逢はざる事なれば、驚きて、

『一兩日中に隙を貰ひ、見舞に行かん。』

と思ひけるうち、翌日、彌兵衞、死したり。

「只、今。」

と告來(つげきた)るに、主人も、ともに、驚き、先(まづ)、早速、千駄が谷へ行て、死人をみれば、やみほうけて、姿はかはりたれども、親に相違なし。

「扨も。かく早く死(しに)給ふをしらば、仕方もあるべきを、身持あしき人故、常にうらめしきとおもふばかりにて、逢ふたびに、しかりつけおく計(ばかり)にて、一日の孝行もせざりし事よ。」

と、口(く)どき、口どき、なげきけれども、甲斐なし。

 府中領[やぶちゃん注:武蔵国多磨郡府中(現在の東京都府中市内)にあった幕府領。]に惣領の子ありけるを、呼(よび)よせて、死骸をも、在所の旦那寺へ遣はし、形(かた)の如くのいとなみをして、跡を弔ひ、千駄谷の亭主へも、寸志の禮などおくりて、

「『親はなき、寄(より)』といへる世のことわざに違(たが)はず。なくてぞ、人は戀しかりけり。」[やぶちゃん注:「親はなき寄」「親は泣き寄り、他人は食い寄り」から)、「親子や親族など血縁の者は、何事につけても、真心から相談にのって呉れるということ。「親戚の泣き寄り」などとも言った。]

と、不孝にて過(すぎ)し事を、くやみ居(をり)ける。

 然るに、此新右衞門家に、十二、三の小ものあり。主人の使(つかひ)に市ヶ谷邊へ行きて、道くさをくひ、遊び居(をり)ける所へ、かの彌兵衞、此世にありし時の姿にて來り、後(うしろ)より、手を出して、目をふたぎけり。

「誰じや、誰じや。」

と云ひけれど、だまりて、ふたぎ居けるを、引放(ひきはな)し、顏を見ければ、彌兵衞也。「やれ、彌兵衞どのゝゆうれいが出たは。助け給へ。」

と、よばゝりて、色、眞靑になりて、逃けるが、うちに歸りて、

「やれ、恐ろしや、彌兵衞殿の幽靈につかまれまして。」

と、尾ひれをつけて、はなしけるを、

「何をかな、みて。」[やぶちゃん注:「どうせ、誰かを、見間違えたんじゃろ。」の意か。]

とて、とりあげざりしに、二、三日過(すぎ)て、今度は、近江屋へ來りぬ。

「それ、幽靈よ。」

と云程こそあれ、みせのもの共、皆、逃(にげ)て、内へ、はいる。

 彌兵衞は、心得ぬ顏色にて、上へあがり、此中(このうち)、これの小者に逢ひて、なぶりたれば、

「ゆうれいよ。」

とて、逃たりしが、

『氣違(きちがひ)の下地ならん。』[やぶちゃん注:「生まれつきの気狂い持ちなんじゃろう。」の意か。]

と案じ居りければ、

「けふは、皆々、ゆうれいといはるゝこそ、わけあるべし。」

と、いふ。

 その内、彌兵衞が子も歸りて、肝をつぶし、

「いかゞして來り給ふ。」

と云(いふ)に、彌兵衞、いよいよ、合點せず、

「われ、煩ひし事なく、そく才[やぶちゃん注:「息災」に同じい。]なり。千駄谷にて、はうぶりしは、人違(ひとちがひ)ならん。」

といふになりて、

「それ。」

と、いひ出して、俄に千駄谷の亭主・在所の兄へも、人、遣はし、よび集めて、詮議す。

 千駄谷にては、天龍寺前の八左衞門が口にて、人をやりて、その方(かた)たちへ知らせたり。

「元は、誰が親とも、誰が子ともしらぬ風來者なり。」

と、いふにぞ、いよいよ、人違ひにきはまりけれど、とかく、いひつのりて、すまず。

 終に、公裁(こうさい)に及びけるが、栗原何某殿[やぶちゃん注:不詳。]、町奉行の時の事なり。

 世忰共(よせがれども)[やぶちゃん注:弥兵衛の子供ども。]は干駄ケ谷を訴へ、千駄ケ谷は八左衞門を訴ふ。

 八左衞門、申けるは、

「わたくし千駄谷へ參り、病人を見候へば、彌兵衞によく似たれば、彌兵衞と申(まうし)、いかにも『彌兵衞』と申(まうす)に付(つき)、身よりの者の詮議になりて、子供の方(かた)を告知(つげし)らせ申(まうし)たる所、人違・不調法の段、恐れ入り奉りぬ。しかし、似たと申せば、是れほど、似たる者もなき事にて候。」

と、申ければ、町奉行、笑はせ給ひて、

「夫(それ)は、その方が見違(みちがひ)候段、相違あるまじ。そこに居る兄(あに)いどのが、似たればこそ、親とおもひて葬りたれ。いづ方のものといふ事はしれねど、因緣ありて弔ひ遣はしたるものとあきらむべし。たて。」

と宣(のたま)ふ。

 葬(はふり)の入用(いりよう)など、不身上(ふしんじやう)のもの[やぶちゃん注:経済的に困っている者。]、迷惑に及ぶ段、願ひければ、大(おほき)に呵(しか)り給ひて、

「其方共、現在の親を粗末に致せし段、申付(まうしつく)る筋(すぢ)あれども、寬大の御沙汰にて、さしゆるす處に、惡(に)くき奴(やつばら)なり。」[やぶちゃん注:対象が複数と思われるので「ばら」をつけた。]

と、呵られて、恐れ入りて、さがりけると、いへり。

 前代未聞、珍らしき物語なり。

[やぶちゃん注:標題は「藝、術(じゆつ)に至る」であるが、後者の話柄とは関係しないのが、まず、不満。内容も、前者はあってもちっともおかしくない奇談で怪談ではないし、後者は確信犯の疑似怪談で、明らかに落とし咄として作られてあって、息抜きのつもりかも知れぬが、リアリズムはあるものの、僅かな期待をも足元から掬われて読者も一緒に奉行から笑われた感じがして、私としては、何だか面白くも糞くもない。孝を諭すものとしても、親が親らしい存在でなく、子も最後のお裁きで豹変してしまい、全く機能していないから出来が悪いと言わざるを得ず、「名裁き」物としてなら、寧ろ、陳腐で、私は全く買わない。]

怪談老の杖卷之三 狸寶劍をあたふ / 怪談老の杖卷之三~了

 

   ○狸寶劍をあたふ

 豐後の國の家中に、名字は忘れたり、賴母といふ人あり、武勇のほまれありて、名高き人なり。

 その城下に化ものやしきあり、十四、五年もあきやしきにてありしを、

「拜領して住居仕度(すまゐしたき)。」

段、領主へ願はれければ、早速、給はりけり。

 後に山をおひ、南の方、ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理(しゆり)おもふ儘に調ひて、引うつりけるが、まづその身ばかり引(ひき)こして、樣子を伺がひける。

 勝手に、大いろり、切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家來にも、くはせ、我も喰ひ居たり。

 未だ、建具などは、なかりければ、座敷も取はらひて、一目に見渡さるゝ樣なりしに、雨戶をあけて、背の高さ、八尺ばかりなる法師、出來れり。

 賴母は、少もさわがず、

『いかゞするぞ。』

と、おもひ、主從、聲もせず、さあらぬ體(てい)にて見て居ければ、いろりへ來りて、

「むず」

と座しけり。

 賴母は、

『いかなるものゝ、人にばけて來りしや。』

とおもひければ、

「ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。]は、いづ方の物なるや。此やしきは、我れ、此度(このたび)拜領して、うつり住むなり。さだめて其方は此地にすむものなるべし。領主の命なれば、はや、某(それがし)が家舗に相違なし。其方さへ、申分(まうしぶん)なくば、我等に於てはかまひなし。徒然(つれづれ)なる時は、いつにても、來りて話せ。相手になりてやらん。」

と云ひければ、かの法師、おもひの外に居なほりて、手をつき、

「奉畏(かしこみたてまつり)し。」

と、いひて、大に敬(うやま)ふ體(てい)なり。

 賴母は、

『さもあらん。』

と、おもひて、

「近々、女房どもをも、引つれてうつるなり。かならず、さまたげをなすべからず。」

と、いひければ、

「少しも不調法は致し申まじ。なにとぞ、御憐愍(ごれんびん)にあづかり、生涯を、おくり申度(まうしたし)。」

と、いひければ、

「心得たり。氣遣ひなせそ。」

といふに、いかにも、うれしげなる體(てい)なり。

「每晚、はなしに來(きた)れよ。」

と、いひければ、

「難ㇾ有存候。」

とて、その夜は歸りにけり。

 あけの日、人の尋ねければ、

「何もかはりたる事なし。」

と答へ、家來へも、口留したりける。

「もはや氣遣なし。」

とて、妻子をもむかへける。

 かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛(かう)なりけり。

 あすの夜も、また、來りて、いろいろ、ふる事など、語りきかせけるに、古戰場の物語などは、誠にその時に臨みて、まのあたり、見聞するが如く、後は座頭などの、夜伽するが如く、來らぬ夜は、よびにもやらまほしき程なり[やぶちゃん注:「程なり」は底本では「樣なり」であるが、所持する版本の表記のこちらの方が文意には相応しいので、そちらを採った。]。

 然れども、いづ方より來(きた)るとも、問はず、語らず、すましける、あるじの心こそ不敵なりける。

 のちには、夏冬の衣類は、みな、妻女かたより、おくりけり。

 かくして、三とせばかりも過ぎけるが、ある夜、いつよりはうちしめりて、折ふし、なみだぐみけるけしきなりければ、賴母、あやしみて、

「御坊は、何ゆへ、今宵は物おもはしげなるや。」

と問はれければ、

「ふと、まいり奉しより、是まで、御慈悲をくはへ下(くださ)れつるありがたさ、中々、言葉には、つき申さず。しかるに、わたくし事、はや、命數つきて、一兩日の内には、命、終り申なり。夫につき、わたくし子孫、おほく、此山のうちにをり候が、私(わたくし)死後も、相かはらず、御(ご)れんみんを願ひ奉るなり。誠に、かく、あやしき姿にも、おぢさせ給はで、御ふたりともに、めぐみおはします御こゝろこそ、報じても、報じがたく、恐ながら、御なごりをしくこそ存候。」

とて、なきけり。

 夫婦も、なみだにくれてありけるが、彼(かの)法師、立(たち)あがりて、

「子ども、御目見えいたさせ度(た)しと、庭へ、よびよせおき申候。」

とて、障子を開きければ、月影に數十疋のたぬきども、あつまり、首をうなだれて敬ふ體也。

 かの法師、

「かれらが事、ひとへに賴みあぐる。」

と、いひければ、賴母、高聲(かうせい)に、

「きづかひするな。我等、めをかけてやらん。」

と云ひければ、うれしげにて、皆々、山の方へ行ぬ。

 法師も歸らんとしけるが、

「一大事を忘れたり。わたくし、持傳へし刀あり。何とぞ、さし上げ申たし。」

と、いひて、歸りけり。

 一兩日過(すぎ)て、賴母、上の山へ行(ゆき)てみければ、いくとせ、ふりしともしらぬたぬきの、毛などは、みな、ぬけたるが、死(しし)いたり。

 傍(かたはら)に、竹の皮にてつゝみたる長きものあり。

 是、則(すなはち)、「おくらん」と云へる刀なり。

 ぬき見るに、その光(ひかり)、爛々として、新(あらた)に砥(とぎ)より出(いだした)るがごとし。

 誠に無類の寶劍なり。

 依ㇾ之、賴母、つぶさに、その趣きを書(かき)つけて、領主へ獻上せられければ、殊に以(もつて)御感(ぎよかん)ありけり。

 今、その刀は中川家の重寶となれり。

[やぶちゃん注:「中川家」江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった岡藩(藩庁は岡城(現在の大分県竹田竹田。グーグル・マップ・データ)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で播磨国三木城主であった中川秀成が、文禄三(一五九四)年に岡城に入封し、彼は「関ヶ原の戦い」で東軍に属したため、徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく、廃藩置県まで中川氏が藩主として存続した。本書では、有意に古い時代の設定をしたものがないから、この頼母なる人物も岡藩藩士と読んで、特段、問題はあるまい。]

2021/03/08

怪談老の杖卷之三 狐のよめ入

 

   ○狐のよめ入

 上州のたばこ商人(あきんど)に、高田彥右衞門と云ふ者あり。神田村[やぶちゃん注:群馬県藤岡市神田じんだ:グーグル・マップ・データ)か。]といふ處に住みけり。

 或時、同村の商人仲間とつれ立て、□□□[やぶちゃん注:底本では枠囲みで『原文脫字』とある。所持する版本も、ほぼ三字分である。]村と云ふ所へ行(ゆき)、日くれて歸るとて、はるかむかふに、三百張(ぱり)ばかり、提燈の來る體(てい)なり。

 三人ながら、

『あやしき事かな。海道にてもなければ、大名衆の通り給ふべき樣もなし、樣(やう)あらん。』[やぶちゃん注:「樣あらん」は、「具体には判らぬけれど、何か特別な訳があるのだろう」の意。]

と、おもひて、高き處へあがりて、見て居(をり)ければ、通りより少し下に、田のありける中を、かの、てうちん、とをりけるが[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かちのもの[やぶちゃん注:「徒(かち)の者」。徒侍(かちざむらい)。徒歩で供奉する武士、或いは、行列の先導を務める侍。]・駕わき[やぶちゃん注:駕籠の脇に付く番士。]・中間(ちゆうげん)・おさへ[やぶちゃん注:行列の最後にあって、前の散乱を指摘して整える者。殿(しんがり)。]、六しやく[やぶちゃん注:「六尺」前後で駕籠を担ぐ役を言う。「怪談登志男 廿七、麤工醫冨貴」の私の注を参照。]、なに一(ひとつ)でもかけたる事、なし。

 てうちんには、紋所なく、明りも、常のてうちんとは、かはりて、たゞあかくみゆるばかりなり。

 田の中を、ま一文字に、とをりて、むかふの林の中へ入(いり)ぬ。

「扨こそ。『狐のよめ入(いり)』といふもの、なるべし。」

と、いひあへり。此村の近處には、「きつねのよめ入」といふ事、度々、見たる人あり、といへり。

[やぶちゃん注:ちょっと、ぞくっとした。私の父は若き日、敗戦の後、考古学者酒詰仲男先生とともに群馬県多野郡神流(かんな)町の神流川(グーグル・マップ・データ)上流で縄文・弥生の遺跡発掘をしたが、その時、泊まった農家の向かいの山に幾つもの灯が列を成して登ってゆくの見、主人に尋ねると、「狐の嫁入りじゃ」とこともなげに答えたというのだ。この「神田村」は――その神流川の下流に――ある――のである!

怪談老の杖卷之三 慢心怪を生ず

 

   ○慢心怪を生ず

 藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり。

 力つよく、武藝に達し、容貌も魁偉なる士なり。

 常に、自ら、材にほこりて、

『世にこはきものは、なき。』

と、思へる慢心ありしに、江戶屋敷にて、座敷に、ひとり、書物など讀(よみ)て居(ゐ)ければ、なげしの上に、女の首計(ばかり)ありて、

「からから」

と笑ひ居(ゐ)けり。

 作兵衞、不敵の人なれば、白眼(にらみ)つけて、

「何の妖怪ぞ。」

と、

「はた」

と、ねめければ、きへうせけり。

 とかくして、厠(かはや)へ行たくなりければ、ともしびを持行けるに、雪隱(せつちん)の窓より、外に、今の女の首ありて、

「けらけら」

と、笑ひけり。

 その時は、少し、こはき心おこりしかど、目をふさぎて、靜(しづか)に用事を達し、立出(たちいで)て手を洗ひ、座敷になをり[やぶちゃん注:ママ。]しは、覺えけれども、昏沈(こんぢん)して、其後(そののち)の事を、覺えず。

 傍(そば)につかふ者共、見付て、いろいろ、介抱して、正氣づきぬ。

 夫より、慢氣する心をば、持(もた)ざりけり。

「そののちは、なにも、あやしき事はなかりし。」

と、いへり。

 作兵衞、直(ぢき)の物語りなり。

[やぶちゃん注:短篇ながら、実話怪談としての殆んどの必要条件の実証要素を含んだ優れものである。実在する藤堂家で、しかも藤堂を名乗る主家筋に家臣の、直接の聴き取りである。彼のいる屋敷(次注参照)が孰れかがしっかりと示されていれば、完璧だった。

「藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり」「藤堂家」と言えば、伊勢安濃(あの)郡安濃津(あのつ:現在の三重県津市)にあった津(つ)藩の当主が有名。​そうして、ズバリ、その重臣の家系に藤堂作兵衛家があるのである。初代藩主藤堂高虎(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)の母方の従兄弟(高虎の叔母が忠光の父箕浦忠秀の妻)であった藤堂作兵衛忠光を初代とする。サイト「藤堂高虎 ​藤堂高虎とその家臣」のこちらによれば、『箕浦氏は、近江国箕浦庄に拠った国人で、高虎の出身地とは近いため』、『縁戚関係を結んだものと思われます』。『忠光は当初、織田信忠や寺西筑後守に仕えましたが、高虎が紀伊国粉河城主となったときにその家臣となります。以後、忠光は朝鮮役や関が原戦で戦功を挙げ、高虎から侍組を預けられて士大将となります。大坂の陣にも高虎の信頼する重臣として出陣の命を受け取りますが、惜しい哉、病に倒れ、慶長十九年十月死去しました』。『忠光には兄と弟がいました。兄の箕浦大内蔵忠重は早くから明智光秀に仕え、本能寺の変に際しては寺内に突入して勇戦しますが、明智家の滅亡により流浪。後に豊臣秀長、秀保に仕え、大和中納言家断絶後は浅野長政に仕えています。末弟の箕浦少内家次は忠光と同じく高虎に仕えました』。『忠光の死去後、嫡子・忠久が家督を継ぎ、大坂冬の陣に叔父・家次の補佐を受けて父の侍組を率いて従軍、翌年は新七郎良勝の相備として出陣しています。但し忠久は病弱であった模様で士大将の職を自ら辞しています。高虎は信頼する忠光の長男でもあり、何処にでも療養に行く』よう、『懇ろの扱いとしましたが、寛永六年』、『若くして病死しました』。『忠久の嫡子・忠季は未だ幼少で勤務には早かったため禄高は半減し五百石とされましたが、高虎はこの幼い後継者が心配だった様で、自らの娘と婚約させています』とあり、下方の系図では、第四代藤堂作兵衛光狎(読み不詳)まで記されてある。この直系と見て間違いあるまい。なお、私などは「藤堂家」というと、直ちに津藩重臣藤堂修理家(初代藤堂長則)を思い出す。長則は上野城内の二の丸に屋敷を与えられて藩主家に仕えたが、この藤堂修理家こそが松尾芭蕉の実家(少なくとも芭蕉出生当時は大分以前から農民であった)が仕えた主家であったからである。なお、津藩上屋敷は東京都千代田区神田和泉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。地図上の「神田和泉町」のほぼ西三分の二近くがそこであった。下屋敷ならば現在の駒込四~五丁目でかなり広大であった(北西では現在の染霊園を殆んど呑み込んでいる。ロケーションとして後者の方がいいな。私は特異的にこの附近に詳しいのである。私の古いフェイク小説「こゝろ佚文」の写真は染井霊園である。因みに、その奥の東京都豊島区巣鴨五丁目に慈眼寺という寺があろう。芥川龍之介の墓がある(サイド・パネルの写真)。私はこの座布団一枚分の大きさ(龍之介が生前に盟友で画家の小穴隆一に託したもので、小穴がデザインした)の墓を、私は大学を卒業した直後に、お参りし、墓もごしごしと洗ったのだった。

「昏沈」(こんじん)は実は仏教用語でサンスクリット語に由来する仏教で説く煩悩の一つを指し、「心の沈鬱」・「心が上手く機能していないこと」・「心身が物憂いこと」・「塞ぎ込むこと」で、心を沈鬱で不活発な状態にさせる心理作用やそうした状態を指す。ここは、しかし、記憶を失って失神しているのだから、昏倒の意でよい。]

怪談老の杖卷之三 德島の心中

 

   ○德島の心中

 阿波の德島に筏屋(いかだや)といへる材木問屋ありしが、此店(たな)は大坂店(だん)にて、此先祖より世帶は大坂にたてゝ、阿波は手代持(てだいもち)の樣にし、主人も半年程づゝ、阿波に下りて世話しける。

 忠兵衞といへる主人の時、阿波の在邊に、宮部周庵とて、醫師をして、大百姓のありし。

 娘に「ちさ」とてありし。當年十五にて、其容儀、一國にもならびなき程なりしを、ふと、見そめて、人をたのみ、貰ひけるに[やぶちゃん注:仲人を立てて、嫁に貰うことを交渉して貰ったところが。]、周庵も、あらまし、合點しけれど、

「大坂へ遣はす事、船の上、氣遣ひなれば、德島の店におくならば、相談すべし。」

と、いひけるが、忠兵衞、身も世もあらぬ程に執心なれば、

「やすき事なり。」

とて、

「阿波の店へ迎へ取りて、婚禮、取結ばん。」

と、いひける。

 重手代共は、

「阿波の娘ばかり、女にてもあるべからず、先祖より、『世帶は大坂に定(さだま)りたる家法にて、決して阿波に妻子おくべからず。家の爲、あしき事、あるべし』と、遺言同然なれば、無用。」

と、いひけれど、忠兵衞、少しも用ひず、

「大坂にては、妻女ども、奢(おご)りて、家の爲にならず。結句、阿波へ世帶を引移(ひきうつ)したるがよし。そちたちが了簡は、杓子定規なり。むかしの法は、今のやくには立ぬ。」

とて、終(つひ)に阿波へ妻を引取り、大坂の店を手代にまかせおき、しばしの間をも、別れを悲(かなし)び、德島にのみ居(をり)けるが、命數限りありけるか、又、晝夜をわかぬ水遊び[やぶちゃん注:遊女を揚げて遊ぶこと。]の不養生にや、二月程、煩ひて、身まかりぬ。

 未だ、子なし。手代どものなげき、「ちさ」はかなしび、偏(ひとへ)に闇夜に燈(ともしび)の消(きえ)たる心なりしかど、阿波にも、手代ども、しつかりとありて、商賣のかけ引、油斷なければ、主人息才[やぶちゃん注:「息災」に同じ。]なりしときのごとく、繁昌しける。

 後家も、いまだ、十七になりければ、娘同然と、あどなき[やぶちゃん注:「あどけなし」に同じ。]程なるを、忌服(もふく)[やぶちゃん注:「服喪」のこと。通常は一年。]も過(すぎ)なば、

「外(ほか)より、入緣なりとも、取結びて、筏屋の、あと式を、かためん。」

と、年久しき久右衞門といへる老人の手代、阿波へ下りて居(ゐ)ける。

 爰に、此家に松之助とて前髮[やぶちゃん注:月代を施していない前髪姿の元服していない少年。]の小者あり。津の國長柄(ながら)[やぶちゃん注:現在の大阪府大阪市北区の長柄地区(グーグル・マップ・データ)。]の者にて、親元も賤しからざる者なるが、親、きびしき生れにて、

「人につかはれて見ねば、人はつかはれぬものなり。若きときは、何をしてもよし。」

とて、此家ヘ小僕《でつち》奉公に出し、阿波の店へ、下しおきける。

 生れつき、みやびやかにて、しかも發明なる生たちなりければ、忠兵衞、世にありしとき、殊の外、あいして、我(わが)そばをはなさず遣ひける。

 忠兵衞、楊弓[やぶちゃん注:「やうきゆう」。矢場で楊 (やなぎ) 製の小弓で的を射る遊戯。]・茶の湯・俳諧など好きければ、「ちさ」と、松之助、いつも相手にてありけるに、何事も器用にて、俳諧は忠兵衞よりも、よき程なりし。

 忠兵衞、おはりても、ちさが相手にて、楊弓など、ゐたり、茶、俳諧などもしける程に、「ちさ」が傍(かたはら)をはなれず、主從の樣にもなく、「遊びがたき」[やぶちゃん注:遊び相手。]にてありけるが、たがひに愛する心より、戀慕のやみに、禮義をわすれ、また「ちさ」も淋しきねやの内に、先夫のありしよの事など、おもひ出(いだ)せし雨の夜(よ)などは、松之助を、ねやへよび置(おき)て、

「そちは、且那の、殊の外、不便(ふびん)下されしものなり。そち計(ばかり)が且那の形見なり。」

など、たはぶれしより、いつとなく、偕老のちぎり、あさからず、

「外(ほか)に女の手をもとるまじき」

といふ起請まで書せて、「ちさ」が方へとり置けるを、家内のものは、夢にもしらず。

 はや、忌服もたちし事なれば、伴頭久右衞門、思ひけるは、

「若き後家御(ごけご)を、ひとり置かんも、いかゞなれば、大坂北濱[やぶちゃん注:大阪府大阪市中央区北浜。]に、先(さきの)忠兵衞從弟(いとこ)ありしを入緣(いりえん)に取りて、筏屋の跡を相續せん。」

と、まづ、周庵へ相談しけるは、

「後室さま事、未(いまだ)御若き事なれば、北濱の善右衞門、弐番目のむすこ、當(たう)三十餘(あまり)にて實體(じつてい)なる人なれば、入緣に取らんと存(ぞんず)るなり。貴公さへ御得心(ごとくしん)ならば、且那一家衆[やぶちゃん注:亡き旦那(忠兵衞)の親族一同。]は不ㇾ殘合點なり。おちささまへも申上候へども、とかく壱人おきてくれ候やうにと仰候が、是は御前さへ御のみ込なされば濟む事。」

と談じける。

 周庵も久右衞門が忠勤に感じて、悅(よろこび)に堪へず、

「娘事(むすめこと)は少しも氣遣ひ給ふな。我等、請(うけ)あふなり。善は急げなり、はやく、しるし[やぶちゃん注:婚約状。]を取給へ。」

とて、急ぎて相談しける。

 神ならぬ身こそ、かなしけれ、「ちさ」は、はや、忍び忍びのかたらひ、滯りて、五月になりければ[やぶちゃん注:妊娠していたのである。]、

「いかゞはせん。」

とかなしく、

『所せん、自害。』

と、おもひけれど、故鄕のおやにも、なごり、をしまれて、

「一度(ひとたび)、御目にかゝりし上、ともかくも。」

と、久右衞門に願ひて、

「親里へ見舞度(たき)。」

よし、云ひけるを、久右衞門は、

『周庵方より、此間(このあひだ)の相談に、呼びよせしなるべし。』

と推(お)しければ、悅びて、

「いか樣(さま)、御不幸よりのちは、ひさぐ氣も御つめ被ㇾ成候へば、御出被ㇾ成、ゆるゆる、御保養なさるべし。御前(ごぜん)の御氣に入りの松之助をつれて御出被ㇾ成よ。女共も、誰(たれ)かれ。」

と、如才なく世話しける。

 「ちさ」は、松之助が事、心の鬼[やぶちゃん注:ふと心に思い当たる「良心の呵責」の意。]に、はづかしく、

『若(もし)や、此事、さとりしにや。』

と、おもふ。

 とかくいふも[やぶちゃん注:そうは言っても。久右衛門が松之助を連れて行かれませと言ってくれたので。]、嬉しければ、松之助、其外、若き女共、引つれ、駕にのりて里へ行ぬ。

 道すがらは、我(われ)はおりて、松之助をのせなど、いたはりけれど、松之助は、おとなしく發明なるに、家内みなみな、かはゆがりて、贔屓(ひいき)しければ、氣を廻(まわ)すもの壱人(ひとり)もなかりけり。

『よくよく、松之助、愛ある生れなりし。』

と覺ヘぬ。

 扨、親周庵夫婦、悅びて、早速、久右衞門が入緣の相談せし物語をし、

「とかく、久右衞門殿、次第になりて居(を)るべし。」

と、いひけるを、

「その義は、いく重(ゑ)にも、御ゆるし。」

と、いひければ、後には、周庵、いかりて、殊の外、おどし、呵(しか)りける。

 かねては、

『松之助わけ[やぶちゃん注:松之助とわけありの関係になったことを。]うちあけて、母へなりといはん。』

と、おもひ、行しが、中々、云ひ出(いだ)すべきたよりもなければ、また、松之助をつれ、德しまへ歸りて後、弐人ながら、心中して死ぬるにきはまりて、あけの日、松之助に手箱の金(かね)もたせ、吳服物商(あきな)ふ家へ遣(つかは)し、死裝束(しにしやうぞく)を拵(こしら)へける。

 心のうちぞ、むざんなり。

 頃は十一月末の事なれば、我は白むく計(ばかり)拵へて、五つ、きたり。

 松之助にも、下へ淺黃(あさぎ)むく・黃むく、上に黑羽二重を着しける。

 いつも藏へ「ちさ」衣類など出(いだ)しに行(ゆく)ときは、松之助が、手燭を持行(もちゆ)ける間(あひだ)、今宵も、ふたりにて行しが、待(まち)ても、下(した)へおりず。

 召仕ひの女御《をなご》ども、あやしみて、二人づれにて、行て見れば、いつの間に、はこびおきけん、提子[やぶちゃん注:「ひさげ」。銀・錫製で鉉 (つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 (ちょうし) 。]・さかづきなどあり。蒲團(ふとん)の上へ氈[やぶちゃん注:「かも」。獣毛で織った敷物。]を敷(しき)、松之助、さきへ死したりと見へて、ふえを、かき、うつぶしに、ふしたる上へ、「ちさ」も、打かゝりて死し居たり。

 いづれも、きれいに[やぶちゃん注:ママ。]死(しし)たり。

 下女は、是をみて、きもをつぶし、下ヘおりて、久右衞門にしらせけり。

 久右衞門、おちつきたるものなれば、下女の口をとめ、壱人、上(あが)りて、それより、、周庵、よびに遣はし、奉行所へ訴へ、檢死を乞ひて、別事なく、取おきぬ。

 久右衞門、こぶしを握り、

「かくと、夢にもしり候はゞ、若き夫婦ふたり、ころしは致申(いたしまうす)まじ、松之助も、此家のあとめに立(たち)ても恥かしからぬものなり、さても、殘念さよ。」

と、甚(はなはだ)くやみし、と云へり。

 夫より、筏屋の家、おとろへ、此家も人の手へ渡りぬ。

 此家藏(いへくら)を買(かひ)て來りし人、ある時、藏へ用事ありて、五ツ時分[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、手燭をともし、上りければ、人影のみゆる樣(やう)なるを、

『盜人にや。』

と、怪しくて、伺ひみければ、松之助、「ちさ」が、ありし姿、あらはれて、ふたり、手をとりくみ、なきみ、笑ひみ、しける。

 かの者、不敵の者にて、事ともせず、上りて見ければ、はや、消えうせて、みへずなりける。

 夫(それ)より、藏をば、こぼちて、賣り、佛僧を請じて、經、よみ、いろいろの作善(さぜん)して、ふたりの菩提を懇(ねんごろ)に弔ひしと、いへり。

 

2021/03/07

怪談老の杖卷之三 小豆ばかりといふ化物

 

   ○小豆ばかりといふ化物

 麻布近所の事なり。貳百俵餘(あまり)程取りて、大番(おほばん)勤むる士あり。

 此宅には、むかしより、化物ありと云ひけり。主人も左(さ)のみ隱されざりしにや、ある友だち、化物の事を尋ねければ、

「さして、あやしきといふ程の事にもあらず。我等、幼少より、折ふし、ある事にて、宿にては馴(なれ)つこに成りて、誰(たれ)もあやしむものなし。」

と、いひけるにぞ、

「咄しの種に見たきもの也。」

と望みければ、

「やすき事也。來りて、一夜(ひとよ)も、とまり給へ。さりながら、何事もなきときもあるなり。四、五日、寐給はゞ、見はづし給ふまじ。」

と、云ひけるにぞ、好事(かうず)の人にてやありけん、

「幾日なりとも、參るべし。」

とて、其夜、行(ゆき)て、寐(い)ぬ。

「此間なり。」

といふ處に、主人とふたり、寐て、はなしけるが、さるにても、『いかなるばけものにや』と、ゆかしき事、かぎりなし。主(あるじ)に尋れば、

「まづ、だまりて、見たまへ。さはがしき夜(よ)には、出(いで)ず。」

と、息をつめて聞居(ききをり)ければ、天井の上、

「どしどし」

と、ふむ樣(やう)なる音、しけり。

「すはや。」

と聞居ければ、

「はらり」

「はらり」

と、小豆(あづき)をまく樣なる音、しけり。

「あの、おとか。」

と、きゝければ、亭主、うなづき、小聲になりて、

「あれなり。まだ、段々、藝あり。だまつて、見給へ。」

と、いひければ、夜着をかぶり、いきをつめて居けるに、かの小豆のおと、段々に、高くなりて、後(のち)は、壹斗(いつと)程の小豆を、天井の上ヘ、はかる樣なる體(てい)にて、間(ま)ありては、また、

「はらはら」

と、なる事、しばらくの間にて、やみぬ。

 また、聞ければ、庭なる路次下駄(ろしげた)、

「からり」

「からり」

と、飛石(とびいし)のなる音して、水手鉢(てうづばち)の水、

「さつさつ」

と、かけるおと、しけり。

「人や、する。」

と、障子をあけて見ければ、人もなきに、龍頭(りゆうづ)のくびひねりて、水、こぼれ、又、水、出(いで)やむにぞ、客人も驚きて、

「扨々、御影(おかげ)にて、はじめて、化ものを見たり。もはや、こはき事は、なしや。」

と、いひければ、

「此通りなり。外に、なにも、こはき事なし。時々、上より、土・紙くづなど、おとす事あり。何も、あしき事はせず。」

と、いはれける。

 其後、かたりつたへて、心やすきものは、皆、聞きたりけれども、習ひきゝては、よその者さへ、こはくも、おもしろくも、なかりけり。

 まして其家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。

 しかれども、かの士、一生、妻女なく、男世帶(をとこじよたい)にて暮されけり。妾(めかけ)ひとり、外(そと)にかこひおき、男女の子、三人ありけり。

 女などのある家ならば、かく、人もしらぬ樣にはあるべからず、いろいろの尾ひれをつけて、いひふらすべし。

 「世の怪談」とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて、猫の尾をさぐりあて、又は、鼠に、ひたひをなでられなどして、云ひふらす咄し、多し。

 この「小豆ばかり」は、何のわざといふ事を、しらず。

[やぶちゃん注:「小豆ばかり」これは「小豆計り」で、あたかも小豆を計量するために升にでも移しているかのような音を立てるこちに因むのであろう。最後のややくだくだしい「当世怪談考」らしきものや、その前の大番の主人の私生活を細かに描写するなど、かなりリアリズムに徹しようとする姿勢が見られ、妖怪「小豆研ぎ」なんどの眉唾ではなく、ポルター・ガイスト(Poltergeist)現象の都市伝説の真実味を、いや増しにさせる手法など、他の江戸怪談にはまず見受けられない、はなはだ上手いと私は思う。

「大番」将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。大番頭の下に与力が配され、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。

「路次下駄」露地下駄(ろじげた)に同じ。本来は雨天や雪の場合に露地を歩く際に履く下駄で。柾目の赤杉材に竹の皮を撚(ひね)った鼻緒を付けた下駄。数寄屋下駄(すきやげた)とも呼ぶ。ここは私邸内の庭下駄。

「龍頭(りゆうづ)のくび」筧などで引き込んだ水か、高い位置に桶を設えて竹などで蛇口・水栓を作ってあるようである。なかなかお洒落だ。今まで、こうした手水鉢の細部描写は私は見たことがない。]

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