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カテゴリー「柴田宵曲」の333件の記事

2020/08/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 一笑 二 / 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々~電子化注完遂

 

       

 

 一笑がこの世にとどめたものは『西の雲』所載の百句、これに生前死後の諸集に散見するものを併せると、三百句以上に達する。各句についても特に絶唱と目すべきほどのものは見当らぬようであるが、これは時代を考慮してかからねばならぬ問題であろう。

 芭蕉を中心とするいわゆる正風(しょうふう)の作品は、天和(てんな)から貞享(じょうきょう)、貞享から元禄と進むに従って、著しい進歩の迹を示した。『虚栗(みなしぐり)』『続虚栗』『曠野(あらの)』の内容は明(あきらか)にこれを証している。『西の雲』に収められた一笑の句は、その作句年代を詳(つまびらか)にせぬが――「今宵月狐に昼と鼾(いびく)らん」の一句を除けば『加賀染』に現れたような虚栗調からは、已に脱却し得たものと見て差支ない。同時に『曠野』の諸句ほど雅馴になりきらぬところがある。『続虚栗』は一笑の句を一も採録しておらぬから、彼の句を続虚栗調と見ることは、いささか妥当でないかも知れぬが、『虚栗』の後『曠野』の前の句風に属すと見るべきであろう。『続虚栗』の句が中間的であるように、一笑の句も多くは中間的である。

[やぶちゃん注:「正風」ここでのそれは蕉門による「蕉風」の言い換え。蕉門俳人は自分たちの俳風を「正風」と称したが、これは自己の風を天下の正風と誇示する幾分、厭らしい使い方と心得る。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「蕉風」の語は、堀麦水の「蕉門一夜口授」(安永二(一七七三)年刊)以来、一般的に用いられるようになった(但し、堀自身は蕉門風の句柄ではない)。歴史的にみると、芭蕉の俳風は、延宝以前は貞門・談林と変らず、俳諧七部集の流れを見るなら、貞享元(一六八四)年刊の「冬の日」(荷兮(かけい)編)で確立され、元禄四(一六九一)年刊の「猿蓑」(凡兆・去来編)に於いて「さび」の境地が円熟・深化し、晩年の元禄七年の「炭俵」(志太野坡・小泉孤屋・池田利牛編)で「軽(かる)み」へと変化した。蕉風の理念の中心は「さび」・「しをり」・「ほそみ」である。また、連句については、貞門の物付 (ものづけ) ,談林の心付 (こころづけ) から飛躍的に進歩して「匂ひ」・「響き」・「うつり」という微妙な風韻や気合いの呼応を重んじた。こうした内面的なものを重視する傾向から、発句における切字 (きれじ) 等の形式的制約には比較的、自由寛大である、とある。

「天和」一六八一年~一六八四年。

「貞享」一六八四年~一六八八年。

「元禄」一六八八年から芭蕉が没する元禄七(一六九四)年までとする。既に見てきた通り、芭蕉没後は蕉門内で急速に分解が進んでしまったからである。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「曠野」元禄二年刊。荷兮編。俳諧七部集の第三。

「今宵月狐に昼と鼾(いびく)らん」正直、この句、理解し得るように、解釈は出来ない。識者の御教授を乞うものである。

「加賀染」天和元(一六八一)年刊。杉野長之編。

「虚栗」天和三年刊。其角編。]

 

 唯黒し霞の中の夕煙         一笑

 梅が香にもとゆひ捨るあしたかな   同

[やぶちゃん注:「捨る」は「すつる」であろう。誰ぞの出家を詠んだものか。]

 つむ物にして芹の花珍しき      同

[やぶちゃん注:「芹」は「せり」。]

 花の雨笠あふのけて著て出む     同

[やぶちゃん注:座五「きていでむ」であろう。]

 舞下る時聞あはすひばりかな     同

[やぶちゃん注:上五は「まひおりる」、中七は「ときききあはす」。この二つが混然となって「ひばりかな」に繋がるところが、いかにも雲雀の高々と上がったのが、急転直下、素早く下り翔ぶ動を描いて好ましい。]

 闇の夜に柄杓重たき蛙かな      同

[やぶちゃん注:「柄杓」は「ひしやく」。]

 蚊の声の鼻へ鳴入寝ざめかな     同

 朝日まで露もちとほす薄かな     同

[やぶちゃん注:このスカルプティング・イン・タイムも素敵である。]

 雪の昏たそや蔀にあたる人      同

[やぶちゃん注:「昏」は「くれ」、「蔀」は「しとみ」。この場合は「蔀戸(しとみど)」で、町屋の商家などの前面に嵌め込む店仕舞いする時の横戸。二枚又は三枚からなり、左右の柱の溝に嵌め込む。一笑は茶葉商いの商人であった。]

 これらの句にはどこか醇化(じゅんか)しきれぬものを持っている。これを『続虚栗』の諸句と対比すれば、自ら共通するものを発見し得るであろう。闇の晩に取上げた柄杓が重いので、どうしたのかと思ったら、中に蛙が入っていたというようなことは、必ずしも拵えた趣向ではないかも知れない。しかしこの句を読んで、それだけの解釈を得るまでには、或程度の時間を要する。そこに醇化しきれぬ何者かがあるのである。『曠野』にある

 ゆふやみの唐網にいる蛙かな     一笑

[やぶちゃん注:「唐網」は「たうあみ」。「投網(とあみ)」の別称。円錐形の袋状の網の裾に錘(もり)を付けたものを、魚のいる水面に投げ広げ、被せて引き上げる漁法、或いは、その網。この語が選ばれることによって、ロケーションと動きが出、そのベクトルに引かれて「蛙」(かはづ)の鳴き声さえも響いてくると言える。]

の句になると、その価値如何は第二として、作者の現さむとするところは明に句の上に出ている。寝覚の鼻へ蚊が鳴入るという事実も、決して巧んだものではないかも知れない。しかし単に寝覚の鼻へ蚊が寄るといわずに、「蚊の声の鼻へ鳴入」といったのは、表現の上にいささか自然ならぬものがあるような気がする。

 雨のくれ傘のぐるりに鳴蚊かな    二水

[やぶちゃん注:「鳴」は「なく」。]

という『曠野』の句は、一笑の句より複雑な事柄であるにかかわらず、現し得たものはかえって単純に見える。これらは個人の伎倆よりも、時代の点から考うべき問題であろうと思う。

[やぶちゃん注:「醇化」不純な部分を捨てて純粋にすること。「純化」に同じい。]

 

 やすらかに風のごとくの柳かな    一笑

 さしあたり親の恩みる燕かな     同

[やぶちゃん注:「雀孝行」の説話から餌を欲しがるツバメの子を皮肉ったもの。ウィキの「ツバメ」によれば、『昔、燕と雀は姉妹であった。あるとき親の死に目に際して、雀はなりふり構わず駆けつけたので間に合った。しかし燕は紅をさしたりして着飾っていたので』、『親の死に目に間に合わなかった。以来、神様は親孝行の雀には五穀を食べて暮らせるようにしたが、燕には虫しか食べられないようにした』という話である。餌を咥えてくる親の「恩」をただ「見る」のであって、報いるのではない。餌を求める鳴き声は「ありがたがっている」ように見えなくもない、だから「さしあたり」なのであろう。]

 人の欲はしにも居らぬ涼みかな    同

[やぶちゃん注:ロケーションが判らぬが、いかにも肌が接しそうで、むんむんべたべたする感じが面白く出ている。]

 謳はぬはさすが親子の碪かな     同

[やぶちゃん注:上五は「うたはぬは」、「碪」は「きぬた」。砧叩きを親子でしているのであるが、唄わずして、その音が正確な拍子で続いて聴こえ、「流石!」と思わせる丁々発止なのであろう。]

 すねものよ庵の戸明て冬の月     同

[やぶちゃん注:中七は「いほのとあけて」であろう。]

 これらの句には元禄以後の句と共通するような弛緩的傾向が認められる。一方において『曠野』に到達せぬ一笑が、この種の俗情を詠ずる点において、元禄を飛超えている観があるのはどうしたものか。その点一考を要するものがあるにはあるが、句として多く論ずるに足らぬことはいうまでもない。

 右に挙げた十数句の如きものは、いずれの方角から見ても、俳人としての一笑の価値を重からしむるに足らぬものであろう。けれども一笑は他の一面において、次のような作品を残している。

 なまなまと雪残りけり藪の奥     一笑

[やぶちゃん注:いい句だ。]

 よるの藤手燭に蜘の哀なり      同

[やぶちゃん注:「蜘」は「くも」。これも私好み。]

 栗の木やわか葉ながらの花盛     同

 白雨や屋根の小草の起あがり     同

[やぶちゃん注:「白雨」は「ゆふだち」。これもモーション・フレームがいい。]

   旅行

 白雨に湯漬乞はゞやうつの山     同

[やぶちゃん注:「湯漬」は「ゆづけ」。]

 広庭や踊のあとに蔵立む       同

[やぶちゃん注:座五は「くらたてむ」か。説明的でつまらぬ。]

 渋柿の木の間ながらや玉祭      同

[やぶちゃん注:こうしたナメの構図は個人的に好きだ。]

 蜻蛉の薄に下る夕日かな       同

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼう」。]

 こがらしの里はかさほすしぐれかな  一笑

 門口や夕日さし込(こむ)村しぐれ  同

 これらの句の中には後の元禄作家と角逐し得べきものが多少ある。藪の奥に鮮に白く残っている雪を、「なまなまと」の五文字で現したのは、適切な表現であるのみならず、新な官覚[やぶちゃん注:ママ。]でもある。この場合「なまなまと」という俗語以上に、この雪の感じを現す言葉がありそうにも思われない。

 「よるの藤」の句は表現よりも趣を採るべきものであろう。夜の藤に対して燭を秉(と)る、その手燭にスーッと蜘蛛の下るのを認めた点は、慥に特色ある観察である。「哀なり」の一語は、この特異な光景に対し、全局を結ぶに足らぬ憾(うらみ)はあるが、時代の上から情状酌量しなければならぬ。

 その他「白雨や」の句、「渋柿の木の間ながらや」の句、「こがらしの里はかさほす」の句、 「門口や」の句、いずれも句法緊密であり、自然の趣も得ている。元禄盛時の句中に置いても、遜色あるものではないと思われる。

[やぶちゃん注:「角逐」「かくちく」で「角」は「争そう・競う」、「逐」は「追い払う」の意で、「互いに争うこと・競(せ)り合うこと」を意味する。]

 

 一笑にはまた人事的な軽い興味の句がある。

 春雨や女の鏡かりて見る       一笑

 恥しや今朝わきふさぐ更衣      同

 大つゞみ夢にうちけむ夜の汗     同

 「春雨」の句は即興を詠じたまでのものであろう。「更衣」の句は元服した場合の更衣である。明治の半以後に生れたわれわれはこの経験を持合せておらぬけれども、筒袖(つつそで)をやめて袂(たもと)の著物になった時には、多少「恥しや」に似た気持があった。こういう興味は天明期の作家の好んで覘(ねら)うところであるが、一笑は比較的自然にこの趣を捉えている。

 「大つゞみ」の句は三句の中で最も複雑である。目が覚めると全身に汗をかいている。そういえば自分は夢の中で、大鼓を打っていたような気がする。力をこめて一心に大鼓を打った、その夢がさめてしとどに汗を覚える、というのは如何にもありそうな事実である。恐らく一笑は平生大鼓を嗜(たしな)んだ結果、こういう夢を見たのであろう。能に因縁のないわれわれは、仮に夢で鼓を打つという趣向を案じ得たとしても、それによって汗になるということに想到し得ない。この句の如きは俳句に詠まれた夢の中でも、やや異色あるものに属する。

 笠ぬげて何にてもなきかゝしかな   一笑

 一笑にこの句のあることは『西の雲』によってはじめて知り得たのであるが、どういうものかこれと同調同想の句がいくつもある。

 笠ぬげておもしろもなきかゝしかな  舎羅

   訪河尾主人

 笠ぬいで面目もなきかゝしかな    風草

 笠とれて面目もなき案山子かな    蕪村

 三句の中では舎羅が一番早いが、それも元禄十五年の『初便』に出ているのだから、一笑の句からいえば後塵を拝したことになる。案山子に笠はつきものであるにしても、どうしてこんなに同想同調が繰返されたものか、全くわからない。風草、蕪村の二句に比すると、舎羅の句は擬人的色彩が乏しいように思ったが、一笑の句は更に淡泊である。しかしこの句が出て来た以上、何人も一笑が先鞭を著けた功を認めなければなるまいと思う。

[やぶちゃん注:「舎羅」榎本舎羅(しゃら 生没年不詳)は大坂蕉門重鎮の一人であった槐本之道(えのもとしどう)の紹介で入った蕉門俳人。大坂生まれ。後に剃髪した。撰集「麻の実」や「荒小田」の編でも知られる。ウィキの「舎羅」によれば、『貧困と風雅とに名を得たと言われた』。『芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。去来は、「人々にかかる汚れを耻給へば、座臥のたすけとなるもの呑舟と舎羅也、これは之道が貧しくして有ながら彼が門人ならば他ならずとて、召して介抱の便とし給ふ」(「枯尾華」)と書いている』とある。

「風草」各務支考が率いた庄内美濃派の最初の重鎮新出風草(生没年未詳。読みは「にいでふうそう」か)「河尾主人」は不詳。]

 

 一笑の句には前書附のものが少い。その中に悼句が二句ある。

   楚常追悼

 うそらしやまだ頃のたままつり    一笑

[やぶちゃん注:「頃の」は「このごろの」と読む。]

   追善に

 何茂る屎(しし)の古跡あだし草   同

 楚常は鶴来(つるぎ)の人、元禄元年七月二日、二十六歳を以て歿した。これを悼んだ一笑も、同じ年の十一月にあとを追って逝(ゆ)いたのである。一笑の娘は何時亡くなったのかわからぬが、この句意から推して、幼くして世を去ったものと考えられる。この句によって一笑に娘のあったことを知り、それが親に先(さきだ)って死んでいることを思うと、二百年前の話ながら甚だ寂しい感じがする。

[やぶちゃん注:宵曲も述べている通り、この幼くして亡くなったらしい自身の娘への悼亡の句は曰く言い難い悲しみが伝わってくる。

 

 『西の雲』に収められた一笑の句は、歿後他の撰集に採録されたものが極めて少い。僅に左の数句あるのみである。

 春の雪雨がちに見ゆる哀なり  一笑(いつを昔)

 わりなくも尻を吹する涼かな  同(己が光)

[やぶちゃん注:「吹する」は「ふかする」、「涼」は「すずみ」。]

 曙の薄夕日の野菊かな     同

 花蝶に子ども礫の親なしや   同(吐綬雞)

[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「吐綬雞」「俳諧吐綬雞」(とじゅけい)は秋風編で元禄三年刊。この一句、私には絢爛な総天然色の映像の中に、礫を擲(なげう)つ淋しい少年の姿がはっきりと浮かんで見える。]

 ただ一笑の亡くなる前年(貞享四年)に出た『孤松集』は、一笑の句を採録すること実に二百に近く、空前絶後の盛観を呈している。『西の雲』所収のものも数句算えることが出来るが、句は平板単調に失し、殆ど見るべきものがない。

 夜気清し蚓のもろ音卯木垣      一笑

[やぶちゃん注:「蚓」は「みみづ」、「卯木垣」は「うつぎがき」。「もろ音」は「諸音(もろね)」多くの鳴き声であろう。或いはウツギの垣根の向こう側からもこちら側からもの意でもよい。ミミズの鳴き声はケラのそれの誤認であるが(ケラが地中でも鳴くことによる)、ごく近代まで結構、ミミズが鳴くと信じている人がいたものである。]

 砂園や石竹ふとる猫の糞       同

 夕だちやしらぬ子の泣軒の下     一笑

 夕顔の雨溜ふとき軒端かな      同

[やぶちゃん注:「雨溜」は「あまだれ」。]

 ゆふ顔に馬の顔出す軒端かな     同

 ひとつ屋に諷うたふや秋のくれ    同

[やぶちゃん注:「諷」は「うたひ」。]

 遠かたに鼻かむ秋の寝覚かな     同

 月四更芭蕉うごかぬ寺井かな     同

の如きものが、やや佳なる部に属する程度であるのは人をして失望せしめる。この種の作品が多量に伝わったことは、一笑に取って幸か不幸かわからず、また伝わったにしても永く人に記憶さるべき性質のものでないと思う。

 『孤松集』の撰者は江左尚白(えさしょうはく)である。尚白はこの集に一笑の句を多く取入れたのみならず、後年の『忘梅(わすれうめ)』の中にも

 蕣の種とる時のつぼみかな      一笑

[やぶちゃん注:「蕣」は「あさがほ」。]

 虫啼て御湯殿帰り静なり       同

[やぶちゃん注:「御湯殿」これは近世に大名などの湯あみに奉仕する女を指す。そうした第三者的な詠吟であろうか。]

の如く、他に所見のない一笑の句を採録しているところを見ると、両者の間には何か特別な交渉があったのかも知れぬ。

 歿後の諸集に加えられた句にも、特に佳句を以て目すべきものは少いが、そのうち若干をここに挙げて置こう。

 まだ鳴か暁過の江の蛙       一笑(卯辰集)

 吹たびに蝶の居なほる柳かな    同(雀の森)

 行ぬけて家珍しやさくら麻     同(いつを昔・卯辰集)

[やぶちゃん注:「さくら麻」辞書を見ると、麻の一種で花の色から、或いは種子を蒔く時期からともされるが、いうが実体は不詳。俳諧では夏の季題とされた、とある。句意不明。]

 斎に来て菴一日の清水かな     同(曠野)

[やぶちゃん注:「斎」は「とき」。狭義には僧が午前中にとるただ一度の食事を指すが、実際にはそれは不可能で、「非時(ひじ)」と称して午後以降も食事を摂った。ここは広義の法要・仏事に出す食事のことであろう。「菴」は「いほ」で、その遁世者の細やかな賄いとして清水を貰ったことを言うのであろう。]

 秋の夜やすることなくてねいられず 同(色杉原)

   神無月の比句空庵をとひて

 里道や落葉落葉のたまり水     同(柞原集)

[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「句空」は既出既注。これは佳句である。]

 火とぼして幾日になりぬ冬椿    同(曠野)

 珍しき日よりにとほる枯野かな   同(北の山)

 いそがしや野分の空の夜這星    同(曠野・其袋)

[やぶちゃん注:「野分」は「のわき」、座五は「よばひぼし」で流れ星の異名。「いそがそや」は面白いが、雅趣としては劣る。]

 『曠野』には加賀の一笑と津嶋の一笑とが交錯して出るので煩(わずら)わしいが、肩書のないのはここに省いた。尾張で成った集だけに、肩書のない方は津嶋の一笑と解し得る理由があるからである。

 これらの句がどうして『西の雲』に洩れ、また何によって諸書に採録されたものか、その辺のことはわからぬが、「里道や」の句、「火とぼして」の句、「いそがしや」の句などは、一笑の句として伝うるに足るものと思われる。冬椿の花を「火とぼして幾日になりぬ」といったあたり、技巧的にも侮(あなど)るべからざるものを持っていたことは明(あきらか)である。

 一笑は金沢片町の住、通称茶屋新七といった売茶業者だそうである。彼を天下に有名にしたものが『奥の細道』の一節であることは前にもいった。一笑に籍(か)すに更に数年の寿を以てしたならば、『猿蓑』を中心とする元禄の盛時に際会し、多くの名吟を遺したかも知れぬ。親しく芭蕉の風格に接し、その鉗鎚(けんつい)を受けたとすれば、彼の句も固(もと)より如上(にょじょう)の域にとどまらなかったであろう。彼が待ちこがれた芭蕉を一目見ることも出来ず、『西の雲』の一句を形見として館(かん)を捐(す)てたのは一代の不幸であった。けれども芭蕉が一笑を哭(こく)するの涙は、単に彼の墓碣(ぼけつ)に濺(そそ)がれたのみならず、「塚も動け」の一句となって永く天地の間に存しており、追悼集たる『西の雲』にも多くの人の温い情が感ぜられる。一笑は決して不幸な人ではなかった。その点は彼自身も恐らく異存ないことと信ずる。

[やぶちゃん注:私は一笑が――好きである――。

「鉗鎚」「鉗」は「金鋏(かねばさみ)」、「鎚」は「金槌」の意で、本来は、禅宗で師僧が弟子を厳格に鍛えて教え導くことを喩えて言う語。

「館を捐てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。

「墓碣」「碣」は「円形の石」で、墓の標(しる)しに立てる墓石のこと。

 以上を以って「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々」は終わっている。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 一笑 一

 

[やぶちゃん注:小杉一笑(承応二(一六五三)年~元禄元(一六八八)年十二月六日)は蕉門の俳人で加賀金沢の茶葉商人。通称は茶屋新七(清七とも)。高瀬梅盛(ばいせい)の門人であったが、芭蕉に傾倒し、特に貞享四(一六八七)年に蕉門の江左尚白(こうさしょうはく慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年:姓は「えさ」とも。近江の医師。原不卜(ふぼく)らに学び、貞享二(一六八五)年、三上千那とともに松尾芭蕉に入門。近江蕉門の古老として活躍したが、後には離脱した。本姓は塩川)が撰した「孤松(ひとつまつ)」(近江大津で刊行)には実に百九十余句が収録された。彼は芭蕉が最も注目した若手俳人で、恐らく「孤松」刊行前には蕉門に入門しているものと思われる。享年三十六歳。芭蕉に対面するのを心待ちにしていたが、遂に逢うことなく、亡くなった。芭蕉は彼の死を知らぬままに、元禄二年三月二十七日に「奥の細道」の旅に出、彼もまた、金沢で文の遣り取りのみであった愛弟子一笑に逢うことを最も楽しみにしていたのであったが、金沢に着いて、彼が対面したのは、一笑の墓だったのである。彼の句は他に「俳諧時勢粧」(いまようすがた・松江重頼(維舟)編・寛文一二(一六七二)年成立)・「山下水」(梅盛編・寛文一二(一六七二)年刊)・「大井川集」(重頼編・延宝二(一六七四)年)・「俳枕」(高野幽山編・山口素堂序・延宝八(一六八〇)年刊)・「名取河」(重頼編・延宝八(一六八〇)刊)・「阿羅野」(山本荷兮編・元禄二(一六八九)年刊の芭蕉俳諧七部集の一つ。但し、一笑死後の刊行)などに続々と句が採られている。特に先に挙げた「孤松」によって、上方でもその名が広く知られるようになった。追善集は兄丿松(べっしょう)編の「西の雲」で、芭蕉の本句を始めとして諸家の追悼句及び一笑の作百四句を収めている。墓は石川県金沢市野町にある浄土真宗大谷派願念寺境内に一笑塚(グーグル・マップ・データ)としてある。サイド・パネルの画像も見られたい。]

 

     一  笑

 

       

 

 芭蕉が「奥の細道」旅行の帰途、北陸道を辿って金沢に入ったのは七月十五日、あたかも盂蘭盆(うらぼん)の日であった。ここにおいて一笑が墓を弔(とむら)い、有名な秋風の一句をとどめたことは『奥の細道』の本文に次のように出ている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

一笑と云ものは此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知(しる)人も侍しに去年(こぞ)の冬早世したりとて、其兄追善を催すに

  塚も動け我泣声はあきのかぜ

[やぶちゃん注:芭蕉の金沢到着から七日目の七月二十二日、小杉家菩提寺の金沢市野町(のまち)にある浄土真宗大谷派願念寺に於いて、兄の小杉丿松によって一笑追善供養が催され、本句はその席で詠まれたものである。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』も是非、参照されたい。]

 

 一笑という俳人は元禄に二人ある。加賀金沢の小杉一笑、尾張津嶋の若山一笑である。芭蕉の悼んだ一笑が前者であることはいうまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「若山一笑」(生没年未詳)尾張津島の人。貞門の俳人として寛文時代から活躍。「あら野」に入句している。なお、他に大阪(難波)にいた伊賀時代からの旧友の俳人保川一笑もいるようである(私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――燕子花かたるも旅のひとつかな 芭蕉』を参照されたい)。]

 

 一笑ははじめ高瀬梅盛門で、後に蕉門に入ったのだといわれている。延宝八年の『白根草(そらねぐさ)』には、名前が載っているだけで句は見えぬが、天和元年の『加賀染(かがぞめ)』には

 餝レり蓬萊既伊勢海老の山近ク    一笑

[やぶちゃん注:「餝レり蓬萊」は「かざれりはうらい」、「既伊勢海老の」は「すでにいせえびの」で孰れも確信犯の字余り。「蓬萊」は中国で東方の海上にあって仙人が住む不老不死の地とされる霊山であるが、この蓬萊山を象った飾りを正月の祝儀物として用いた。その飾台を「蓬萊台」。飾りを「蓬萊飾り」と称する。蓬萊飾りは三方の上に一面に白米を敷きつめ、中央に松・竹・梅を立てて、それを中心に橙(だいだい)・蜜柑・橘(たちばな)・勝ち栗・ほんだわら(海藻のホンダワラ)・柿(干し柿)・昆布・海老を盛り、縁起物に広く使われるユズリハの葉やウラジロ(シダ)を飾る。これに鶴亀や尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の造り物を添えることもある。京坂では正月の床の間飾として据え置いたが、江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」とも称し、年始の客には、まず、これを出し、客も少しだけこれを受けて、一礼して、また元の場所に据える習慣があった。ミニチュアをクロース・アップして面白い。]

 引息や霧間の稲妻がん首より     同

[やぶちゃん注:上五は「ひくいきや」。この句、句意が摑めぬ。識者の御教授を乞う。ただ、以下の其角の「重労の床にうち臥シ」「息もさだまらず、この願のみちぬべき程には其身いかゞあらんなど気づかひける」という謂い、三十六の若さで亡くなっていることに「引く息」をゼイゼイとする、病的な吸気の様子ととるならば、彼は或いは重度の喘息か、労咳、結核だったのではあるまいか? そうすると、この一句、凄絶なワン・ショットとして私の胸を撲つのであるが。]

   見かよひし人の追善に

 あのやうにかづきを著たか卒都婆の雪 同

の如きものがある。蕉門に入ったのは何時(いつ)頃かわからぬが、混沌たる過渡期を経た一人であることは、ほぼこの句によって察することが出来る。蕉門に入ったといっても、芭蕉に親炙(しんしゃ)する機会もなく、ただ「此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍し」という程度だったのであろう。

 芭蕉が生前相見るの機を得なかった一笑に対し、「塚も動け」というような強い言葉を以て哀悼の情を表したのは、長途の旅次親しくその墓を掃ったためではあるが、芭蕉をしてかく叫ばしめた所以のものは、おおよそ二つあるように思う。其角が『雑談集』に記すところは左の通りである。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに、年有て重労の床にうち臥シければ、命のきはもおもひとりたるに、父の十三回にあたりて歌仙の俳諧を十三巻、孝養にとて思ひ立けるを、人々とゞめて息もさだまらず、この願のみちぬべき程には其身いかゞあらんなど気づかひけるに、死スとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば早筆とるもかなはず成にけるを、呼(かたいき)に成ても[やぶちゃん注:「なりても」。]猶やまず、八巻ことなく満ン足して、これを我肌にかけてこそ、さらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて

 心から雪うつくしや西の雲      一笑

  臨終正念と聞えけり。翌年の秋翁も越の白根をはるかにへてノ松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし。

 

 芭蕉が「奥の細道」の長途に上ることは、恐らく前々からの計画で、帰りに北陸に遊ぶこともほぼ予定されていたのであろう。金沢の一笑はこの消息を耳にして、胸の躍るを禁じ得なかったに相違ない。「お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに」という一事を以ても、如何にその情の切だったかがわかる。しかるに一笑はその後病牀に呻吟(しんぎん)する身となり、芭蕉が江戸を発足する前年、元禄元年十一月六日に、三十六歳を一期(いちご)としてこの世を去ってしまった。もう一年早かったら、親しく語るべかりし未見の弟子の墓を、芭蕉は来り弔ったのである。一たび芭蕉に見(まみ)えむと欲して、その志を果さなかった諸国の門葉(もんよう)は、固より少からぬことと思うが、一笑の場合は当然相見るべき順序であり、両方そのつもりでいたにかかわらず、師の筇(つえ)を曳くのを待ちかねて、年若な弟子の方が先ず歿したのであるから、芭蕉も塚に対して愴然(そうぜん)たらざるを得なかったであろう。「塚も動け」の一句には慥(たしか)に芭蕉のこういう情が籠っている。

 第二は俳諧に対する執著である。これも単なる数寄でなく、亡父十三回忌の孝養という意味も大に考慮しなければならぬが、重苦の病牀に十三巻の俳諧を成就せんとして、片息になってもなお棄てず、漸く八巻だけ満尾(まんび)し、これを肌に掛けて死ねば何の思い残すところもない、といったあたり、百世の下、人を打たずんば已まぬ槪(がい)がある。芭蕉も難波に客死するに当り、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の一句を得、「はた生死の転変を前におきながら発句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠めて年もやゝ半百に過ぎたれば、いねては朝雲烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へる、たゞちに今の身の上に覚え侍るなり」と語ったと『笈日記』は伝えている。自ら「此一筋に繋る」と称した俳諧をさえ、竟に妄執と観ぜざるを得なかった芭蕉は、俳諧に執する一笑の最期をどう見たか。

[やぶちゃん注:各務支考の「笈日記」のそれは、私の抜萃「前後日記」(PDF縦書版)の十月八日の条を読まれたい。

「満尾」連歌や連句等の一巻を完了すること。

「槪」ここは自分の意志を貫いて困難に負けないことの意。]

 

 「心から雪うつくしや西の雲」という一笑の辞世には勿論西方浄土の意を寓しているが、それは真の安心であったか、あるいは妄執の然らしむるところであったか、芭蕉には自ら一箇の見解がなければならぬ。いずれにしても「塚も動け」の一句は、この俳諧の殉教者にとって、何者にもまさる供養であったことと思われる。

 『奥の細道』の文と句とは一笑を天下に伝えることになった。一笑の名は生前においてさのみ人の知るところとならず、その句も多くは歿後の俳書に散見するものの如くであるが、特に注目すべきものは元禄四年刊の『西の雲』である。この書はその題名によって知らるる通り、一笑追善のために編まれたもので、水傍蓮子の序がその由来を悉(つく)しているから、左にこれを引用して置こう。

[やぶちゃん注:「西の雲」は「石川県立図書館」公式サイト内の、こちらで上巻が、こちらで下巻(写本)が総て画像で読める。

「水傍蓮子」不詳。如何にもなペン・ネームではある。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

なき跡の名残は有か中に[やぶちゃん注:「あるがなかに」。]、書捨し筆のまたなくあはれを、見ぬ遠方の人に伝へもて行、句のよしあしは好々に[やぶちゃん注:「よくよくに」。]うなつきあふて、とるもすつるも此道の情ならすや。されは笑子の風吟、四季哀傷のこまやかなるを、都鄙の撰者の梓に刻み、世にひろめらるゝも多し。尚好士の佳句を求めえては、又みつからの折にふれおかし[やぶちゃん注:ママ。]とおもふ、しけきをはふきて百句、身の後のかた見にもならんかしと念シし時[やぶちゃん注:「ねんじしとき」。]、病にふし志を果さす、余生猶頼みかたくやありけん。

 辞世 心から雪うつくしや西の雲

行年三十六、元禄初辰霜月六日かしけたる沙[やぶちゃん注:「かしげたるすな」。]草の塚に身は先立て消ぬ。聞人あはれかりて泣クめる。明ケの秋風羅の翁行脚の次手(ついで)に訪ひ来ます。ぬしは去(い)にし冬世をはやうすと語る。あはれ年月我を待しとなん。生(いき)て世にいまさは、越の月をも共に見はやとは何おもひけんと、なくなく墓にまふて追善の句をなし、廻向の袖しほり給へり。遠近の人つとひ来り、席をならし、各追悼廿余句終りぬ。且巻くをよりよりに寄す。兄(このかみ)ノ松あなかちになけきて此集をつゝり、なき人の本意に手向るならし。

 

 「風羅の翁」は芭蕉である。この文章で見ると、一笑の訃報は芭蕉の許に到らなかったものらしい。金沢に一笑と相見ることを予期して、遥々北陸の旅を続けて来たとすれば、「あはれ年月我を待しとなん。生て世にいまさば越の月をも共に見ばやとは何おもひけん」という歎きも尤もであり、「塚も動け」という叫びも一層切実になるわけである。

 一笑の墓に詣でた時は、随行の曾良も一緒であった。

   供して詣でけるに、やさしき竹の
   墓のしるしとてなびき添たるも
   あはれまさりぬ

 玉よそふ墓のかざしや竹の露     曾良

 この墓の竹については一笑の兄のノ松にも句がある。

   しるしの竹人の折とり侍りしを
   植添て

 折人は去て泣らん竹のつゆ      ノ松

 しるしに植えた竹を誰かが折ったため、あとからまた植添えたというようなことがあったらしい。一笑墓前の句は芭蕉の「塚も動け」に圧倒されて、他は一向聞えておらぬが、この竹の二句は、墓畔の様子を多少伝えている点で面白いと思う。

 追悼の句は芭蕉、曾良のを併せて三十句近くある。すべて秋の句ばかりなのは、芭蕉の来過を機としたというよりも、たまたま孟蘭盆に当っていたためであろう。

 盆なりとむしりける哉塚の草    桑門句空

 槿やはさみ揃て手向ぐさ      秋之坊

[やぶちゃん注:「槿」は「あさがほ」。「揃て」は「そろへて」。「手向ぐさ」は「たむけぐさ」で一語。]

 いたましや木槿あやなす塚の垣   牧 童

[やぶちゃん注:「木槿」は「むくげ」。]

 秋風や掃除御坊を先にたて     遠 里

 夕顔をひとつ残して手向けり    ノ松嫡子松水

等の如く、実際墓参の時の句らしいものも幾つかまじっている。松水の句は肉親の甥の作である点が特に注目に値する。(其角が『雑談集[やぶちゃん注:「ぞうだんしゅう」。]』に引いた一笑追悼の句は、『西の雲』から抜萃したものと思っていたが、必ずしもそうでない。牧童(ぼくどう)、乙州(おとくに)の句は全然異っている上に、「つれ泣に鳴て果すや秋の蟬」という雲口の句も、「つれ啼に我は泣すや蟬のから」となっている。『西の雲』以外に一笑追悼句があったのかも知れぬが、何に拠ったものかわからない)

[やぶちゃん注:「句空」(生没年不詳)は加賀金沢の人。正徳二(一七一二)年刊行の「布ゆかた」の序に、当時六十五、六歳とあるのが、最後でこの年以後、消息は不明。元禄元(一六八八)年(四十一、二歳か)京都の知恩院で剃髪し、金沢卯辰山の麓に隠棲した。同二年、芭蕉が「奥の細道」の旅で金沢を訪れた際に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部もの選集を刊行しているが、俳壇的野心は全くなかった。芭蕉に対する敬愛の念は深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「秋之坊」(生没年未詳)金沢蕉門。やはり「奥の細道」での金沢にて、現地で入門した。加賀藩士であったが、後に武士を捨てて、剃髪、「秋之坊」と称して隠棲した。

「牧童」立花牧童(生没年未詳)も金沢蕉門で入門も前に同じい。研屋彦三郎の名乗りで判る通り、刀研ぎを生業(なりわい)として加賀藩御用を勤めた。蕉門十哲の一人立花北枝は牧童の弟である。

「遠里」不詳。

「雑談集」其角著。元禄五(一九九二)年刊。

「乙州」川井乙州(生没年未詳)。姓は「河合」とも。近江蕉門。姉の智月、妻の荷月も、ともに芭蕉の弟子であった。芭蕉の遺稿「笈の小文」を編集・出版した人物でもある。

「雲口」小野雲口。金沢蕉門。町人。「奥の細道曾良随行日記」に登場しており、案内する場所が商業拠点であるところを見ると、商人の可能性が高い。]

 

 『西の雲』は上下二巻に分れており、下巻は普通の撰集と別に変ったところもないが、上巻には前記の追悼句をはじめ、一笑の遺句百句(実際は百四句ある)その他を収めている。彼が最後まで心血を注いだという俳諧八巻はどうなったか、一笑の加わった俳諧は一つも見えず、またそれについて何も記されていない。以下少しく『西の雲』その他の俳書について、一笑の世に遺した句を点検して見ようかと思う。

 

2020/08/30

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 三 / 木導~了

 

       

 

 木導はまた聴覚に関しても或微妙なものを捉えている。

 入歯して若やぐ声や鉢たゝき     木導

[やぶちゃん注:「鉢たゝき」既出既注であるが、再掲すると、「鉢敲」「鉢叩」「鉢扣」などと表記し、空也念仏(平安中期に空也が始めたと伝えられる念仏で、念仏の功徳により極楽往生が決定(けつじょう)した喜びを表現して瓢簞・鉢・鉦 (かね) などを叩きながら、節をつけて念仏や和讃を唱えて踊り歩くもの。「空也踊り」「踊り念仏」とも称した)を行いながら勧進することであるが、江戸時代には門付芸ともなった。特に京都の空也堂の行者が陰暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間に亙って鉦・瓢簞を叩きながら行うものが有名で、冬の季題として古くからあった。]

 仮寝に声のにごりやおぼろ月     同

[やぶちゃん注:「仮寝」は「うたたね」。]

 歯が抜けて声の洩れがちだった男が、入歯したら今までと違って若い声をするようになった、というのは俗中の俗事である。ただそれが鉢敲であるだけに、何となく侘びた趣がある。うたた寝をした間に風邪でも引いたか、嗄(しゃ)がれたような声をするというのも、あまり大した事柄ではない。この句の妙味はそれを「声のにごり」の一語によって現した点にある。嗄れた声に一種の美を認めたのは、古く『源氏物語』にも「嗄れたる声のをかしきにて」ということがあり、元禄の附合(つけあい)の中にも「風ひきたまふ声のうつくし」というのがあったかと思う。木導の句はその意味において前人を空しゅうするわけではないけれども、「にごり」の語は簡にしてよくこれを現している。

[やぶちゃん注:「源氏物語」のそれはかなり有名なシークエンスで、第二帖「帚木(ははきぎ)」で、光が方違(かたたが)えを口実に伊予介邸に泊まり、その夜、彼の後妻である空蟬(うつせみ)の寝所に忍び込む場面の頭にある。小君は彼女の弟。

   *

 君は、とけても寢られたまはず、いたづら臥しと思(おぼ)さるるに御目(おほんめ)さめて、この北の障子のあなたに、人のけはひするを、

(光)「こなたや、かくいふ人の隱れたる方ならむ、あはれや。」

と御心(みこころ)とどめて、やをら起きて立ち聞き給へば、ありつる子の聲にて、

(小君)「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ。」

と、かれたる聲のをかしきにて言へば、

(空蟬)「ここにぞ臥したる。客人(まらうど)は寢(ね)たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり。」

と言ふ。寢たりける聲のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうと[やぶちゃん注:男性から呼ぶ場合は「姉妹」の意で、ここは姉。]と聞きたまひつ。

   *

宵曲のそれは記憶違いで、「かれたる聲」(かすれた声)であり、ここは弟小君が眠たそうな嗄れ声で空蟬を探して声を掛けたシーンである。もっともそれに応じた空蟬の声もまた、「寢たりける聲のしどけなき」(寝ぼけた声でしまりのない声の感じ)とあるのが、艶っぽい。

「風ひきたまふ声のうつくし」これは越智越人の句。「曠野」に所収されている「雁がねの巻」で、越人との対吟(二人のそれはこれのみしか知られていない)の歌仙中の一句。貞享五(一六八八)年九月(同月三十日に元禄に改元)半ば、深川芭蕉庵でのものである。

 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

  かぜひきたまふ聲のうつくし    越人

である。安東次男氏の「名稱連句評釈(上)」(一九九三年講談社学術文庫刊)によれば、この付合は柳田國男が大変好きだったらしく、折口信夫は『私の師柳田國男叟先生、常に口誦して吝(ヲシ)むが如き様を示される所の物』と伝えていると記されてあった。]

 

 酒桶に声のひゞきや夷講       木導

[やぶちゃん注:「酒桶」は「さかをけ」、座五は「えびすこう」。陰暦十月二十日に商家が商売繁盛を祈って恵比須神を祭り、祝宴を開く行事。冬の季題。]

 馬のかゆ砂かむ音の寒さかな     同

 一は大きな酒桶に反響する声を捉え、一は馬の歯に当る砂の音を描いている。その世界は必ずしも同じではないが、微妙な点に変りはない。

 くれあひに荷ひつれけり稲の音    木導

 音更ル挙樹柱の紙衣かな       同

[やぶちゃん注:「おとふけるくぬぎばしらのかみこかな」。「紙衣」は「紙子」とも書き、和紙を蒟蒻糊(こんにゃくのり)で繋ぎ合せ、柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解(ほぐ)してから縫った和服。防寒衣料又は寝具として用いられた。]

 崩ス碁の音ふけにけり冬の月     同

 小夜更けて椎炒ル音や冬ごもり    同

[やぶちゃん注:「小夜」は「さよ」、中七は「しひいるおとや」。]

 第一句は夕暮の道にゆさゆさと荷い連れる稲穂の音である。第二句以下はいずれも夜更の音を捉えたので、くぬぎ柱にさわる紙衣の音も、一局済んで崩す碁石の音も悪くはないが、「小夜更けて椎炒ル音」に至っては実に三誦して飽かぬ。闃寂(げきせき)たる冬夜の底にあって、ただ椎の実を炒る音だけが耳に入る、寂しいような、ものなつかしいような心持がひしひしと身に迫るような気がする。

[やぶちゃん注:「闃寂」ひっそりと静まり、さびしいさま。「げきじゃく」とも読む。「闃」の字自体が「静まりかえったさま・ひっそりとして人気(ひとけ)のないさま」を指す。]

 

 木導の句の特色の一半は明にこの鋭敏な感覚の上にある。

 尺八に持そへ行やかきつばた     木導

 はだか身に畳のあとや夏座敷     同

 藁筆に手をあらせけり冬籠り     同

[やぶちゃん注:「藁筆」は「わらふで」で狩野永徳が初めて作ったとされ、狩野派が好んだ筆の一種。サイト「筆の里工房」のこちらに復元したそれの写真が載る。『同派の技法書にはその製法が記され』ており、『また、熊野では、藁筆の原料はもち米の藁でなくてはならないとの口伝が存在する。もち米の藁はバサバサしているため、塩水に漬けて柔らかくし、酒と酢等を混ぜて、多少とろ火で煮るという』とある。復元されたそれは、軸部分が竹皮で出来ているが、これは覆いで、藁を束ねた剝き出しのそれを糸で縛ったものは、使えば、いかにも手が荒れそうな感じはする。にしても、これはどう見ても筆記用の筆ではなく、絵を描くためのものだ。木導は絵の嗜みもあったものか。]

 この種の句は必ずしもすぐれた句というわけではない。ただ感覚の上においては一顧の必要があろうと思う。

 蟬の音やするどにはるゝ空の色    木導

 青天に障子も青し軒の梅       同

 「するどにはるゝ」とは晴れきった青天を指すのであろう。「障子も青し」という言葉だけでは、障子に透いて見える青天の感じは悉されて[やぶちゃん注:「つくされて」。]いないかも知れぬ。しかもこの句を読むと、障子越に晴渡る春先の空の明るい感じが眼に浮ぶから妙である。

 ぬり物にうつろふ影や菊の花     木導

 姿見に顔とならぶや菊の影      同

 元日や神の鏡に餅の影        同

 三つとも物にうつる影を捉えたのであるが、神鏡にうつる御供えの餅の白い影が、特にはっきり描かれているように思う。

 よむ文を嚙で捨けり朧月       木導

[やぶちゃん注:「嚙で」は「かんで」。]

 いずれ秘密にせねばならぬ文であろう。読んでしまってから嚙んで捨てた、それが朧月の下だというのである。小説家ならば直にこれによって一条の物語を案出するかも知れぬが、われわれはこの句に示された含蓄だけで満足する。

 虎の皮臘虎(らつこ)の皮や冬ごもり 木導

 俳人によって繰返される冬籠が、とかく侘びた、貧しげな趣になりやすい中にあって、これはまたゆたかな、斬新な趣を発見したものである。芭蕉の「金屛の松の古びや冬籠」もゆたかでないことはないけれども、金屛の光が眼を射らず、それに描かれた松の古びているところは、どこまでも芭蕉らしい世界になっている。虎の皮、臘虎の皮を敷いて端坐する冬籠の主とは同一でない。卒然としてこの句だけ持出したら、近頃の句と誤認する人があるかも知れぬが、俳人は元禄の昔においても、決してこの種の世界を閑却してはいなかったのである。

 木導の句が自然の中に没入する底(てい)のものでなく、むしろ人事的興味を主にしたものであることは、上来引用した諸句によってほぼ明かであろう。これは同藩同門の先輩たる許六の句についても、やはり同様の傾向が認められる。木導には許六の感化が少くなかったであろうが、概括すればそれが彦根風の一特色になるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「臘虎」は「らつこ(らっこ)」。哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutrisウィキの「ラッコ」によれば、『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。『かつて千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームにより、HJ・スノーらの手による乱獲によってほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法』である「臘虎膃肭獣(らっこおっとせい)猟獲取締法」(明治四五(一九一二)年法律第二十一号)が『施行され、今日に至っている』とあるが、寺島良安の「和漢三才圖會」(正徳二(一七一二)年成立)「卷第三十八 獸類」にちゃんと「獵虎(らつこ)」の項立てがあり、この頃、既に蝦夷から毛皮が齎されていたことが書かれている(直江木導は寛文六(一六六六)年生まれで享保八(一七二三)年没)から、少しも奇異でない。

 

 寝静る小鳥の上や後の月       木導

[やぶちゃん注:「後の月」は「のちのつき」で、陰暦八月十五日夜の月を初名月というのに対し、九月十三日の夜の名月を指す。「十三夜(月)」「豆名月「栗名月」などとも呼ぶ。これは日本特有の月見習慣である。]

 夕立に動ぜぬ牛の眼かな       同

[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。]

 こういう人間以外の物を詠じた場合でも、見ようによってはどこか人間に近いものがある。強いて人間の如く見るというよりも、平生の人事的興味がこの種の場合にも姿を現すのであろう。

 「夕立」の句は『水の音』には収録されていない。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏であったか、これが「動かぬ」では面白くないが、「動ぜぬ」の一語によって、牛の鈍重な、悠揚迫らぬ様が眼に浮ぶという意味の説を、かつて読んだことがある。まことに「動ぜぬ」がこの句の字眼(じがん)であろう。木導の句としてはすぐれたものの一と思うが、これを採録せぬところを見ると、自選句集なるものに対して或(ある)疑を懐かざるを得ない。

[やぶちゃん注:「沼波瓊音」(明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人にして強力な日本主義者。名古屋生まれ。本名、武夫。東京帝国大学国文科卒。『俳味』主宰。]

 

 著ては又鉢木うたふかみこかな    木導

[やぶちゃん注:「鉢木」は「はちのき」。謡曲の題(後注参照)。]

 この句を読むと直に几董(きとう)の「おちぶれて関寺うたふ頭巾かな」を思出す。紙衣を著た侘人(わびびと)の境涯と「鉢木」の謡とは即き過ぎる嫌があるかも知れない。しかしそれは几董の関寺も同じことである。われわれはそれよりも木導の集中に、天明調の先駆と見るべき、こういう句のあることを面白いと思う。

[やぶちゃん注:謡曲「鉢木」は鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしたもので、観阿弥・世阿弥作ともいわれるが、不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。ウィキの「鉢木」から引用しておく。『ある大雪のふる夕暮れ、佐野の里』(現在の群馬県高崎市或いは栃木県佐野市に比定される)『の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。住人の武士は、貧しさゆえ接待も致されぬといったん断るが、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門尉常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領ですべて奪われ、このように落ちぶれたと身の上を語る。噺のうちにいろりの薪が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪もろくに無いのであった。常世は松・梅・桜のみごとな三鉢の盆栽を出してきて、栄えた昔に集めた自慢の品だが、今となっては無用のもの、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。そして今はすべてを失った身の上だが、あのように鎧となぎなたと馬だけは残してあり、一旦』、『鎌倉より召集があれば、馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦うと決意を語る』。『年があけて春になり、突然』、『鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、錆び薙刀を背負い、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に』、『時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与える。常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていった』という話で、能も見たことがない者さえよく知っている話であるが、いかにもな出来過ぎた話で、そもそも、この最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、彼は享年三十七歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病いのためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。

「几董」高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。

「おちぶれて関寺うたふ頭巾かな」「関寺」は謡曲「関寺小町」のこと。老女物。世阿弥作かともされる。シテは老後の小野小町で、七月七日、近江国の関寺の僧が寺の稚児(ちご)を連れて近くに住む老女を訪れる。老女が歌道を極めていると聴いていたことから、稚児たちの和歌の稽古に役立つと考えての訪問であったが、話が有名な古歌の由来に及んだ折り、小野小町の作として知られている歌が話題になり、その老女こそ、百歳を越えた小町その人だと知れるという展開である。「頭巾」は落魄(おちぶ)れた行脚僧(乞食僧)をイメージするのが「関寺」とも絡んでよかろうか。]

 

 太祇の句には「うぐひすの声せで来けり苔の上」「田螺(たにし)みえて風腥(なまぐさ)し水の上」「人追うて蜂もどりけり花の上」「うつくしき日和になりぬ雪の上」「陽炎や筏木かわく岸の上」「紙びなや立そふべくは袖の上」「ぼうふりや蓮の浮葉の露の上」「かはほりや絵の間見めぐる人の上」「蝙蝠や傾城いづる傘の上」「白雨のすは来る音よ森の上」「涼風に角力とらうよ草の上」「脱ぎすてゝ角力になりぬ草の上」「かみ置やかゝへ相撲の肩の上」の如く、下五字に同様の句法を用いたものが少くない。木導の句にもまたこの句法が散見する。

[やぶちゃん注:「太祇」炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の俳人。江戸の人か。俳諧は初め沾洲(せんしゆう)門の水国に学び、彼の没(享保一九(一七三四)年)後は、紀逸についた。寛延元(一七四八)年に太祇と改号し、二年後の「時津風」には「三亭太祇」とあって、その頃に宗匠となったものと考えられている。宝暦元(一七五一)年頃、京都に上って、翌年には五雲とともに九州に赴いたが、五月には戻って京都に住んだ。妓楼桔梗屋主人呑獅(どんし)の援助を受け、島原遊廓内に不夜庵を結んでいる。蕪村(ぶそん)と親密な風交を重ねた明和三(一七六六)年以降の六年間は意欲的に俳諧に関わり、多くの佳吟を残す重要な時期となった。人柄は無欲恬淡にして温雅洒脱であった。俳風は人事を得意とし、技巧的な趣向の面白さを持つ。

「陽炎」「かげらふ」。

「筏木」「いかだぎ」。

「ぼうふり」蚊の幼虫のボウフラのこと。

「かはほり」「蝙蝠」コウモリ。

「白雨」は「ゆふだち」と読む。

「かみ置やかゝへ相撲の肩の上」「かみ置」(かみおき)は幼児が頭髪を初めて伸ばす時にする儀式で、現在の七五三に当たる。冬の季題。「かゝへ相撲」「抱へ相撲(すまふ)」で諸大名が召し抱えた抱え力士のこと。この句意味がよく判らなかったが、ネットの本句へのQ&Aの回答によって、大名の若君が髪置きの祝いをし、当時の力士は縁起が良いものとされていたことから、その力士が若君を肩にひょいと乗せたものあろう、とあって氷解した。]

 

 どつと吹ク風や鶉の声の上      木導

[やぶちゃん注:「鶉」は「うづら」。]

 明月や撞ク入あひのかねの上     同

 名月やすらりと高き松の上      同

 ほとゝぎす鳴や蹴あげる鞠の上    同

[やぶちゃん注:「鳴や」は「なくや」、「鞠」は「まり」。]

 陽炎や笠屋が門の笠の上       同

 明月や香炉の獅子の口の上      同

 こういう言葉に現れたところだけを見て、天明調の先蹤(せんしょう)とするのは早計かも知れぬ。また元禄の作家にあっても個々について委しく調べたら、同様の句法はしばしば用いられているかも知れぬ。ここには太祇の集中において著しく眼につくような句法も、存外元禄時代に用いられているという一例として以上の句を列挙するにとどめる。

 遣羽子や吾子女に交る年女房     木導

 この句は『水の音』に洩れているが、人事的興味の上で、やはり天明の句に繋るべき内容を持っている。天明の作家が木導から何かの影響を受けたというわけではない。其角や嵐雪とも違う人事的作家が元禄にあって、その作品に天明の句と相通ずるものがあるというのである。

[やぶちゃん注:「遣羽子」は「やりはご」で羽子板遊び。「吾子女」は「あこめ」で、「衵(袙)姿」の略でであろう。童女が、上着を着けずに衵(女童(めのわらわ)が着た袿(うちき)の小形のもの。汗衫(かざみ)の下に着た中着(なかぎ)であったが、後には表着となった)「年女房」その年の歳女の成人女性であろう。年増女ではちょっと哀れであるから。]

 

 木導にはまた史上の人物を材料に用いた句がいくつもある。

    竹馬に曾我兄弟や門の雪    木導

    梶原も蓑著て聞やほとゝぎす  同

[やぶちゃん注:「聞く(きく)や」。鎌倉幕府の御家人で奸臣の誹謗も大きい梶原景時(保延六(一一四〇)年?~正治二(一二〇〇)年二月六日)。彼が幕府を追われるように出て、京へ上る途中(謀叛というのではなく、単に朝廷方の武家方として雇われることを目的として向かっていたものと思われる)、狐崎(静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。JR清水駅の西南西約三キロメートル)で不審に思った地侍らに襲われ、一族郎党、全滅した経緯は、私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を見られたいが、一説にはその時、鎧を着けて武装しているのを隠すために全員が蓑を着ていたという話もあるようだから、その最期のシークエンスを詠んだ時代詠であろうか。ホトトギスが日付とマッチする。]

    鶯やその時判官んめの花    同

[やぶちゃん注:「判官」は「はうぐわん(ほうがん)」で源義経のこと。「んめの花」は「梅の花」。義経が藤原泰衡に裏切られて高館で死ぬのは、文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日で初夏に当たり、ウグイスの初音と合致する。]

    名月に召や両介はたけ山    同

[やぶちゃん注:「召や」は「めすや」であろう。「両介」は恐らく三浦介三浦義澄と千葉介常胤、「はたけ山」は畠山重忠。孰れも鎌倉幕府創業の功臣である。されば、召すのは源頼朝ということになり、非常に贅沢なオール・スター・キャスト、テンコ盛りの時代詠のワン・ショットとなる。]

    声高に大津次郎や大根引    同

[やぶちゃん注:座五は「だいこびき」。「大津次郎」は「義経記」に出る義経東北行に纏わる義経の逃走を助けた商人。一行を捕らえんと待ち構えていた領主山科左衛門を謀(たばか)って、琶湖北岸の海津まで船で一行を送り届けた。しかし、「大根引」を持ち出した意味が良く判らぬ。大津二郎の妻が性悪女として出るから、それと関係があるかとも思ったが、やはり判らぬ。識者の御教授を乞う。]

    能因は槙の雫のかみこかな   同

[やぶちゃん注:中七は「まきのしづくや」。歌人能因(永延二(九八八)年~?)は藤原長能(ながよし)に学び、陸奥・甲斐・伊予などを旅して歌作した行脚の人。大江嘉言(よしとき)・源道済(みちなり)らと交遊し、「賀陽院(かやのいん)水閣歌合」・「内裏歌合」などにも参加した中古三十六歌仙の一人。「後拾遺和歌集」などに入集。俗名は橘永愷(たちばなのながやす)。通称は古曾部入道。この一句は「新古今和歌集」の能因法師の一首(五七七番)、

    十月ばかり、常磐(ときは)の
    杜(もり)をすぐとて

 時雨(しぐれ)の雨染めかねてけり山城の

    ときはの杜のまきの下葉(したば)は

をインスパイアしたもの。]

 

 已に其角の条において説いた通り、こういう種類の句は必ずしも天明の蕪村を俟ってはじめて生れたものではない。元禄諸家の集にも少くないが、その情景を髣髴する絵画的要素において一籌(いっちゅう)が喩(ゆ)するため、竟(つい)に蕪村ほど顕著な特色を成すに至らなかったのである。木導の句もその意味においては多くいうに足らぬ。ただ彼の如く人事的興味を主とする作家が、時にこの種の題材を取上げるのは、むしろ当然の成行であろうと思う。

[やぶちゃん注:「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する」は「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 絵草紙を橋で買けり春の風      木導

 夏菊や日にむら雲のかゝる影     同

 黒雲にくはつと日のさす紅葉かな   同

 短檠で見送る客や庭の菊       同

[やぶちゃん注:「短檠」は「たんけい」と読み、背の低いしっかりした基台を持つ灯明台で、四畳半以上の広間で用いる。サイト「茶道」のこちらが画像もあり、よい。]

 こほこほと馬も痎行枯野かな     同

[やぶちゃん注:中七は「うまもせきゆく」(馬も咳をしながら辿り行く)と読む。]

 これらの諸句は前に挙げた特色の外に、木導の伎倆を見るに足るものである。「夏菊や」の句、「黒雲に」の句の如き、自然の変化を捉え得た点において、木導としてはやや珍しい方の部に属する。

 木導の句には前書付のものが少く、芭蕉及同門の士との交渉を討(たず)ぬべきものも、あまり見当らない。

[やぶちゃん注:「討(たず)ぬ」検討する。知り得る。]

   翁身まかり給ふ比其角へ遣ス

 身をもだえ獅子のあがきや冬牡丹   木導

   芭蕉翁百ケ日

 なつかしや茶糟の中の蕗の薹     同

[やぶちゃん注:「茶糟」は「ちやかす」。思うに、墓前に供えるために茶を入れ、その滓を地面に捨てておいた。そこを見ると、蕗の薹の頭がのぞいていたという景か。]

   其角あつまへ旅立ける餞別

 氷ふむ音もせはしき別れかな     同

[やぶちゃん注:「あつま」は「あづま」で江戸のことであろう。]

   支考西国へまかりし餞別

 誹諧のうちは射取る八嶋かな     同

[やぶちゃん注:「射取る」は「いてとる」。八島壇の浦の那須与一の扇の的を射たエピソードに擬えたもの。次も同時に作られたものと思われ、同じシークエンスを意識したもので、弓の代わりに扇にと差し替えてと洒落たのであろう。]

   支考餞別

 さしかへて扇持たる別かな      同

   五老井の山桜短冊

 さつと咲さつと散けり山ざくら    同

   五老井の墓に詣て

 一本の棺に添る野菊かな       同

 「五老井」は許六のことである。許六の書いた『歴代滑稽伝』に「芭蕉東武下向の時四梅廬に漂泊し給ふ。木導汶村(ぶんそん)は方違[やぶちゃん注:「かたたがへ」。]してつゐに[やぶちゃん注:ママ。]逢はず、文通に木導はかたの如くの作者なりと度々称美あり」と見えているが、芭蕉をして称美せしめたというのはどんな句であったろうか。木導の句は芭蕉歿後に至って、はじめて諸集の上に現れるのだから、何とも見当がつかない。「かたの如くの作者」といい、「度々称美あり」という以上、「春風や麦の中行く水の音」の一句にとどまるわけではなさそうである。

[やぶちゃん注:森川許六は木導(二人は孰れも彦根藩士)より十歳上で正徳五(一七一五)年に亡くなっている(木導は享保八(一七二三)年没)。

「四梅廬」(しばいろ)近江蕉門で浄土真宗彦根明照寺(光明遍照寺)(グーグル・マップ・データ)の第十四世住職河野李由(こうのりゆう 寛文二(一六六二)年~宝永二(一七〇五)年)が自身の寺に名づけた別称(庭に四本の梅の木があることに因む)。若き日より芭蕉の風雅を慕い、修行中、法用と称して、元禄四(一六九一)年五月、京嵯峨野の落柿舎で「嵯峨日記」執筆中の芭蕉を訪れ、入門した。許六は李由と親しく、度々、明照寺に遊び、芭蕉も李由入門の直後に寺を訪れている(但し、これはその時のことではない。何故なら、木導の蕉門入門は元禄五(一六九二)年から七(一六九四)年)頃とされるからである)。参照したウィキの「河野李由」によれば、『芭蕉と李由の師弟関係は「師弟の契り深きこと三世仏に仕ふるが如し」と伝えられて』おり。『芭蕉死去後、渋笠を形見に貰い受け、明照寺境内に埋め』て『笠塚を築い』ている。元禄一五(一七〇二)年に許六とともに「韻塞」・「篇突」・「宇陀の法師」を編んでいる、とある。

「汶村」松井(松居とも)汶村(?~正徳二(一七一二)年)も同じく彦根藩士で、許六に俳諧・画を学んだ。]

 

 其角や支考のことは姑(しばら)く措(お)くとして、同藩同門たる許六との交渉については、何か他に異るものがありそうに思うが、これというほどの材料もない。許六の句の前書に「木導子が名木は家中一番のはつさくらなり、春毎に花見の席をまうく」ということがあり、また「木導が桜はよしのの口の花と盛をひとしくし、わが五老井の桜は都高台寺(こうだいじ)の桜と時をたがへず、折よせて病床にながむ」ということがある。木導の詠んだ五老井の山桜は、即ち高台寺の桜と同時に咲く花を指すのであろう。年長であり、不治の病者でもあった許六は勿論木導に先立って歿した。

[やぶちゃん注:「不治の病者」許六は晩年の宝永四(一七〇七)年の五十二歳頃からハンセン病を病んだ。]

 

 墓参の句は極めて淡々としているが、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]に添えた野菊に無限の情が籠っているのを見遁(みのが)すことは出来ぬ。

 木導が俳句の外に俳文を草したのは、恐らくは許六の影響であろう。「出女説(でおんなのせつ)」及「天狗弁(てんぐのべん)」の二篇が伝わっている。「天狗弁」はいわゆる俳文らしい、その才を見るべきものであるが、文学的価値からいえば「出女説」を推さなければならぬ。この一篇は許六の「旅賦」と共に、昔の旅宿の模様を知るべき有力な資料であり、許六が旅人の立場を主としているに反し、木導は旅宿の出女の側からこれを描いている。「あるは朝立(あさだち)の旅人を送り、打著姿(うちぎすがた)をぬぎ捨ては[やぶちゃん注:「すてては」。]帚[やぶちゃん注:「はうき」。]を飛し[やぶちゃん注:「とばし」。]、蔀(しとみ)やり戸おしひらきてより、やがて衣(きぬ)引(ひき)かづき、再寝(またね)の夢のさめ時は、腹の減期(へるご)を相図とおもへり。高足打(たかあしうち)の塗膳にすはりながら、通りの馬士(うまかた)に言葉をかはす。やうやう昼の日ざしはれやかにかゞやく比(ころ)、見世(みせ)の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌ぬぎの大げはひ、首筋のあたりより、燕の舞ありく景気こそ、目さむる心地はせらるれ。関札の泊りをうけては、あたらしき竪嶋(たてじま)に、京染の帯むすびさげて、鬢(びん)の雫のまだ露ながら、門の柱にうち添たるは[やぶちゃん注:「そひたるは」]、かれが一世の勢ひなるべし」といい、「冬枯のまばらなる比は、いつとなくよわり果て、鼻の下の煤気[やぶちゃん注:「すすけ」。]も寒く、木棉所の小車の音も、さびしく暮て、水風呂(すいふろ)の火影(ほかげ)に足袋さすわざも侘し。片田舎は法度(はつと)きびしく、表向は勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]もせず、されどあはれなるかたには心ひかるゝならひ、夜更(よふけ)亭主しづまり、ぬけ道よりしのびやかに、書院床の小障子あけて、神の瑞籬(いがき)もはゞかりなくて大股に打こへ」というが如き、出女の風俗を伝えて遺憾なきものである。殊に全体が写生的で面目躍如たる観があるのは、元禄の俳文中にあっても異彩を放つものといって差支ない。木導の句を見来って[やぶちゃん注:「みきたって」。]この一文を読めば、彼の観察の微細にわたるのも偶然でないという感じがする。出女のことはほぼ文中に尽きているが、木導の句には出女を詠じたものが二、三ある。

[やぶちゃん注:この俳文は宵曲が言うように、非常に興味深い。全文は許六編の「風俗文選」に所収(「卷之四」の「說類」)しているので容易に読める。お持ちでない方は、ここで「風俗文選」全篇をPDFで入手出来るので、ダウン・ロードされたい。「天狗辯」(「巻之九」の「辯類」)もある。この「出女說」はいつか電子化注する。

「出女」は私娼の一種。各地の宿場の旅籠におり、客引きの女性であるが、売春もした。「飯盛り女」「留女(とめおんな)」も同じい。]

 

 出女の化粧の中や飛燕       木導

[やぶちゃん注:「でをんなのけはひのなかやとぶつばめ」。]

 出女の羽ありをふるふあはせかな   同

 出女や水かゞみ見るところてん    同

 第一句の趣は文章の中に見えているが、第二及第三はそれぞれ異った場面を捉えているのが面白い。「出女説」を補うような意味で、ここに挙げて置くことにする。

[やぶちゃん注:「第一句の趣は文章の中に見えている」これは先の「出女說」の引用中の、『やうやう昼の日ざしはれやかにかゞやく比(ころ)、見世(みせ)の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌ぬぎの大げはひ、首筋のあたりより、燕の舞』(まひ)『ありく景気こそ、目さむる心地はせらるれ』の部分を指す。]

 

 木導は享保八年六月二十二日、五十八歳で亡くなった。彼が稿本『水の音』を完成したのは同じ年の五月上旬だというから、自家の句の輯録[やぶちゃん注:「しゅうろく」]を了(お)えて後、一ヵ月余で世を去ったのである。木導は元禄期において特に傑出した作家ではないかも知れぬが、一見平凡のようでしかも異色ある一人たるを失わぬ。上来引用した句はよくこれを証する。

[やぶちゃん注:「上来」(じょうらい)は「以上」に同じい。]

2020/08/26

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 二

 

       

 

 子規居士はかつて俳句における人事的美を論じて、「芭蕉去来はむしろ天然に重きを置き、其角嵐雪は人事を写さんとして端なく佶屈聱牙(きっくつごうが)に陥り、あるひは人をしてこれを解するに苦ましむるに至る」といったことがあった。概言すれば天明の俳句は元禄よりも人事的に歩を進めたと見るべきであろう。木導の句は同じ元禄の作者の中にあっても芭蕉、去来よりは人事的興味に富んでおり、しかも其角、嵐雪の如き佶屈聱牙に陥っていない。

 子規居士はまた蕪村の「飛入の力者(りきしや)怪しき角力[やぶちゃん注:「すまひ」。]かな」の句を解した中において、「角力は難題なり、人事なり、この錯雑せる俗人事を表面より直言せば固より俗に堕(お)ちん。裏面より如何なる文学的人事を探り得たりとも千両幟(せんりょうのぼり)は遂に俳句の材料とは為(な)らざるなり」云々と述べたことがある。蕪村が角力の句を作ること十余に及んだのは、その非凡なる力量をここに用いたものであろう。角力の句は其角にも少くないが、数においては誰よりも先ず木導を推さなければならぬ。木導は由来其角や蕪村のような多作家ではない。『水の音』所収の句三百五十九のうち、角力の句十四を算え得るのは、比率においては勿論、量においても蕪村と拮抗するに足るものである。

[やぶちゃん注:蕪村の句は明和七(一七七〇)年七月十一日の作。子規の評は「俳諧大要」の「第六 修學第二期」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションのここからの画像で正字正仮名で読める。かなり長い。当該部はここの最後から次のページにかけてである。

「千両幟」世話物で相撲取を主人公とした人形浄瑠璃「関取千両幟」(全九段。近松半二・三好松洛・竹田文吉・竹田小出雲・八民平七・竹本三郎兵衛合作。明和四(一七六七)年大坂竹本座初演。当時、大坂で人気のあった実際の力士稲川・千田川をモデルにした相撲物。贔屓の若旦那礼三郎が遊女錦木を身請けするための不足金二百両を用立てしなければならなくなった力士岩川が、恋敵側の贔屓力士鉄ヶ嶽との勝負に負けて若旦那の思いを果たさせようとする。土俵上の勝負の最中に「二百両進上、ひいきより。」の声が掛って岩川は気をとり直し、鉄ヶ嶽を倒すという筋。私の好きな外題)に引っ掛けた謂い。]

 

 うつくしき指櫛持やすまふ捕     木導

[やぶちゃん注:「指櫛」は「さしぐし」、座五は「すまふとり」。]

 大坂で元服するやすまひとり     同

 休む間は歯をみがきけり相撲とり   同

 去年から肉かゝりけりすまふとり   同

 引しめる師の下帯や相撲とり     同

 油ぎるせなかやすべるすまふとり   同

 胸の毛に麦の粉白しすまふとり    同

 此咄シ伏見で聞ぞ勝ずまふ      同

 いなづまの拍子になげるすまふかな  同

 馬を売きほひに出るすまふかな    木導

[やぶちゃん注:「売」は「うり」。]

 榎木から下りてとりたる相撲かな   同

[やぶちゃん注:これは子どもの情景か。]

 行騰をぬいて取たる角力かな     同

[やぶちゃん注:「行騰」は「むかばき」。「行縢」とも書く。遠出の外出・旅行・狩猟の際、両足の覆いとした布帛 (ふはく) や毛皮の類を指す。中世の武士は騎馬遠行の際の必需品とし、鹿の皮を正式として腰から足先までを覆う長いそれを着用した。現在も流鏑馬 (やぶさめ) の装束に使用される。]

 組合て馬屋へ落るすまふかな     同

[やぶちゃん注:上五は底本に従えば「くみあつて」。]

 なでしこの内またくゞるすまふかな  同

 以上の句は大体において力士を詠じたものと、現在相撲を取っているところとに分れる。これは木導の句に限らず、古今の角力の句に通ずる二大別であるが、専門的力士を詠ずるのは人事中の人事に属し、変化の余地が少いのに反して、辻角力とか宮角力とかいう素人本位のものは、多少の自然的背景を取入れ得るところから、多くの俳人はここに一条の活路を求めようとする傾がある。木導のはじめの七句はいずれも専門的力士を描いたので、他の景物を配せず「表面より直言」したものである。

 「うつくしき指櫛持や」の句は『笈日記』には「さし櫛の蒔絵うつくし」とある。こういう力士の様子は今の人には異様の感があるかも知れない。三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)氏の説によると、元禄の力士は大概前髪立(まえがみだて)で、身長七尺二寸、体重四十貫目という鬼勝象之助が二枚櫛をさし、白粉[やぶちゃん注:「おしろい」。]をつけて登場したとか、両国梶之助は一枚櫛で土俵へ出たとかいう話が伝わっているそうである。その指櫛が美しい蒔絵であるという。当時の風俗を窺う上からいっても看過すべからざるものであろう。

[やぶちゃん注:「前髪立」花魁のように左右の髪を前方に向かって角髪状に立ち上げた髪形。

「七尺二寸」二メートル十八センチメートル。但し、次々注参照。

「四十貫」百五十キログラム。但し、次注参照。

「鬼勝象之助」(おにかつぞうのすけ 生没年未詳)講談社「日本人名大辞典」によれば(一部を改変した)、近江出身の力士で、元禄から宝永(一六八八年~一七一一年)の頃に大関(当時は横綱はなく大関が最高位)として活躍、身長二メートル二十一センチメートル、体重百五十七キログラムの大型力士で、大関両国梶之助が角前髪に一枚櫛を挿したのに対し、二枚櫛を挿して話題となったとある。

「両国梶之助」(寛文四(一六六四)年~宝暦五(一七〇八)年)は現在の鳥取県気高町宝木に生まれた元禄年間の名力士。大関。「因幡・伯耆の両国に敵(かな)う者なし」と称され、「両国」は鳥取藩初代藩主池田光仲がその意で命名したと伝えられる。身長一メートル九十センチメートル、体重百五十キログラムで、五十貫(百八十七・五キログラム)の錨(いかり)を一度に二つ持ち上げたという伝説もある。]

 

 「いなづまの拍子になげる」の句は、実際稲妻がしている場合かも知れぬが、同時に角力の手の瞬間的動作を現したものと思われる。「行騰をぬいて」の句、「組合て馬屋へ落る」の句が武家らしい様子を現しているのも、この作者だけに興味を牽かれる。

 われわれは木導の角力の句を、句としてすぐれているというわけではない。蕪村が「飛入の力者あやしき角力かな」や「負まじき角力を寝物語りかな」の句に示したような人事的曲折の妙は認められず、「白梅や北野の茶店にすまひ取」とか、「夕露や伏見の角力ちりぢりに」とかいうような詩趣もこれを欠いている。其角の「投げられて坊主なりけり辻角力」「卜石(うらいし)やしとゞにぬれて辻ずまふ」「水汲の暁起やすまふぶれ」等に比しても、あるいは数歩を譲らざるを得ないかも知れぬ。ただわれわれの興味を感ずるのは、かくの如き多数の直叙的角力の句を、自ら『水の音』に採録した点にある。『水の音』に洩れた木導の句はどの位あるかわからぬが、われわれの目に触れただけでも、なお

 月代にいさみ立けり草相撲  木導(篇突)

 相撲取の腹に著けり虻の声  同(韻塞)

 片頰にやき米入れて相撲かな 木 導(正風彦根鉢)

の如きものを算え得るから、かたがた以て彼の角力趣味を察することが出来る。

[やぶちゃん注:「負まじき角力を寝物語りかな」蕪村の句。明和五(一七六八)七月二十日の作。「夕露や」の句から、京の伏見稲荷の奉納角力を見ての句である。

「白梅や北野の茶店にすまひ取」同前。安永七(一七七八)年十月二日の作。北野天満宮がロケーション。

「夕露や伏見の角力ちりぢりに」同前。「負けまじき」と全く同じ日の作。

「投げられて坊主なりけり辻角力」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の注によれば、元禄三(一六九〇)年七月十九日興行の歌仙の発句とある。その注で当時の辻相撲は夜間に町の辻などで行われたとあって、秋の季題とある。さすれば、組み合っているのを眺めている内は判らなかったが、投げられて間近に飛ばされてへたった人物は、何んとまあ、坊主頭の僧侶だったという意外な諧謔である。

「卜石(うらいし)やしとゞにぬれて辻ずまふ」これは恐らく神社の境内での辻相撲であろう。そこには持ち上げられれば祈願が叶うととでも伝える力石(多くの神社で見掛けるものである)の傍で、腕に覚えある連中がおっ始めたそれで、秋雨に石がぐっしょりと濡れても、組み合っているさまであろう。「しとど」は彼らの汗をも響かせると読んだ。

「水汲の暁起やすまふぶれ」「みづくみのあかつきおきや相撲觸(すまふぶれ)」で、未だ真っ暗な暁に起き出して井戸に水汲みに行ったところが、彼方から早くも今日の相撲の興行を触れ回る人の声が響いてきたというのであろう。]

 

 木導にはまた猫を詠じた句が相当ある。

 水鼻に泪も添ふるねこの恋      木導

[やぶちゃん注:「「泪」は「なみだ」。「猫の戀」は初春の季題とされる。]

 吐逆して胸やくるしきねこの恋    同

[やぶちゃん注:「吐逆」は「とぎやく」で吐き戻すこと。]

 ざらざらと舌のさゝけやねこの恋   同

[やぶちゃん注:「ささけ」は「ささくれた状態」の意。この句、私は面白いと思う。]

 鶯やきいたきいたとねこの恋     同

 三味線の皮とも成(なる)かねこの恋 同

 目のひかりあふひのまへか猫の恋   同

[やぶちゃん注:この句もいい。]

 爪の跡車の榻(しじ)やねこの恋   同

 盗み行猫のなきだす袷かな      同

[やぶちゃん注:「行」は「ゆく」で、「袷」は「あはせ」だが、ちょっと意味が判らぬ。或いは、女物の袷を銜えて、後ろ足で立ち上がる、化け猫か?]

 出替りや涙ねぶらすひざの猫     同

[やぶちゃん注:「出替」「でがはり」。ずっと以前に「嵐雪 二」で注したが、再掲しておくと、主家に奉公している者が、一年又は半年の年季を終えて交替するその日のことを指す。春(一年)又は春・秋(半年)が交代期であった。俳諧の季題としては「春」のそれと採っている。ここは年季が明けた若い下男或いは下女が去ってゆくのに際し、馴れ親しんだ主家の飼い猫が膝に上ってくるのである。思わず、愛おしくなってぽとぽとと涙を落とし、それをまた、猫が舐めるのである。これも人事と絡んでいい句ではないか。]

 

 火に酔うてねこも出けり朧月     同

[やぶちゃん注:「朧月」で春であるが、未だ寒かったのか、囲炉裏を強く焚いた故に猫が熱さに家の外へとふらふらと出てきた。時はまさに朧月夜見たさに誘われて出てきたようだと擬人化しているもの。悪くない。]

 

 ねこの子やぎよつと驚く初真桑    同

[やぶちゃん注:座五は「はつまくは」。スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa のこと。座五は夏の季題。]

 

 猫の恋の句は大方面白くない。猫の舌のざらざらしたのに著眼した第三句が、やや特色あるに過ぎぬ。「盗み行猫のなきだす」というのは事実であろうが、いささかきわど過ぎる嫌がある。火の側にいた猫が火気に酔ったような形で、月の朧な戸外に出て来たというのが、この中では先ず可なるものであろうか。これらの句は作者の猫に関する興味を窺い得る点においてはともかく、句としてすぐれたものではない。第三者に委ねたら恐らく採用すまいと思われる句を、自己の興味に従って収録するところに、『水の音』の自選句集たる所以がある。長短ともに自己の特徴を発揮するのが自選句集の本色だとしたら、必ずしも咎むべきでないかも知れぬ。

 けれども『水の音』の面白味は、固より以上に尽きるのではない。木導の句が嗅覚に鋭敏であること、ものの香を雨や雪に配したものが多いことは、已に説いた通りであるが、彼の句は嗅覚を離れても、なお雨に関して微妙なものを捉えている。

 爪とりていと心地よし春の雨     木導

 うつくしう封する文や春の雨     同

 わやわやと人足宿や五月雨      同

の如きは、まだ比較的平凡なものであるが、

 うしほ湯に今日も入ばや春の雨    木導

[やぶちゃん注:「うしほ湯」海水又は塩水を沸かした風呂。古来、病気の治療に利用された。]

 かゆさうに羽せゝる鶏や春の雨    木導

 春雨や菊で詰たる長まくら      同

[やぶちゃん注:菊枕(きくまくら)である。十分に乾燥させた菊の花弁を詰め物に用いた枕で、晩秋の季題。菊は漢方で体の無駄な熱を冷ますとされ、また、中国古来より邪気を払って不老長寿を得ることが出来るものとして珍重され、重陽の節句では、丘に登って菊の花を浮かべた菊酒(きくしゅ)を喫するのが習わしであった。秋に採取して天日で乾燥させた菊の花を詰め物代わりに用いることから、上品な香気もある。]

 しめりたる伊勢の宮笥や春の雨    同

[やぶちゃん注:「宮笥」は「みやげ」。土産(みやげ)の語源は、伊勢参宮に行けた人が郷里の人々へ伊勢神宮のお守りの入った小箱を持ち帰ったのがそれ、という説がある。ここは普通の何かの土産でもあろうか(無論、御札でもよい)、それが今降っている春雨というより、長い伊勢からの帰りの道中の湿り、その人の温もりとなって、貰った作者に感じられたというのであろう。]

 簀巻から塩のしづくや春の雨     同

[やぶちゃん注:「簀巻」は「すまき」。新巻鮭か巻鰤(まきぶり)か。]

 五月雨に𤾣たる状や嶋問屋      同

[やぶちゃん注:「𤾣たる状や」は「ばくたるさまや」。「𤾣」は「黴(かび)」の意。]

 うちあげるぬれたる桑や五月雨    同

などになると、明(あきらか)な特異な世界に入っている。これらの句の基調をなすものは、木導一流の微妙な感覚で、一誦直に身に近く春雨を感じ、五月雨を感ずる思いがある。「かゆさうに羽せゝる鶏」の如きは眼前の一小景に過ぎぬが、春雨の懶(ものう)さ、粘りというようなものを描いた点で、太祇の「春雨やうち身痒(かゆ)がるすまひ取」などと共通する或ものを持っている。

 雨ではないが、

 湯あがりに歩みよりたる柳かな    木導

などという句も、やはり感覚的な中に算えなければならぬ。湯上りの快適な、しかも幾分弛緩した感じと、懶げに垂れた柳の枝との間には、配合以上の調和があるといって差支ない。『鯰橋(なまずばし)』にある「湯あがりの僧行違ふ柳かな」という句は、この句と同案であるかどうか。第三者の立場から見る段になると、この句の趣は大分異って来る。感覚的な味を存するには、どうしても自ら歩み寄るのでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「鯰橋」里仲編。享保三(一七一八)年刊。]

 

 木導の句にはまた色彩の上に対照的な材料を捉えたものがある。

 真黒な蝶も飛けり白牡丹       木導

 青々とうづまく淵や散る紅葉     同

 これらはまだその色彩を対照した差が顕著に過ぎるけれども、

 白き歯に酸漿あかき禿かな      木導

[やぶちゃん注:「酸漿」は「ほほづき」、「禿」は「かむろ」。この句は秀逸である。]

に至ると、単に色彩の上で白と赤とを対照したに止らず、微細な観察においてもまた成功の域に入っている。禿の皓歯(こうし)に浮ぶ酸漿の赤い玉は、画くべくしてかえって画になりにくい一種の趣である。近代俳句の作者は往々にしてこの種の観察を喜ぶが、木導は元禄の昔において早くここに手を著けている。

 瞿麦やちらりと馬の口の中      木導

[やぶちゃん注:「瞿麦」は「なでしこ」。花の撫子特にこの漢名は中国では双子葉植物綱ナデシコ亜綱ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属エゾカワラナデシコDianthus superbus var. superbus に当てられており、同種は北海道及び本州中部以北、ユーラシア中部以北に植生する。]

などという句も、色彩的対照はないが、この句と共に挙ぐべきものであろう。大きく開いた馬の口の中に、ちらりと瞿麦の可憐な色が見えたと思うと、試がもぐもぐ食われてしまう。一茶などの覘い[やぶちゃん注:「ねらい」。]そうなところで、一茶よりは遥に自然な趣がある。「ちらりと」の一語も、草と共に馬の口に消える瞿麦を描き得て妙である。『鯰橋』には「ちらりとみえる馬の口」となっているが、「中」の字があった方が、口の中に消え去る様子を髣髴出来るように思う。

 燕脂の物縫うた目で見る柳かな    木導

[やぶちゃん注:上五はこれで「べにのもの」と読む。]

 『玉まつり』には上五字が「あかい物」となっている。紅い物を縫って疲れた眼を窓外に遣ると、そこには青い柳が春風に枝を垂れている。紅い色を見詰めたあとの眼は、ただ虚空に遊ばせても反対色の緑が浮ぶのであるが、その眼を移す柳の色は特に和やかな感じを与えるに相違ない。

 鉞の白き刃にもみぢかな       木導

[やぶちゃん注:「鉞」は「まさかり」、「刃」は「やいば」。いい句だ。]

 「白刃」という成語はある。「シラハ」と訓じても通用するが、これは抜身を指すので、色彩の白という意味は加わっていない。作者がわざわざ「白き刃」という言葉を用いたのは、研ぎすました刃の感じを「白」の一字によって現そうとしたためである。普通の刀や何かと違って、鉞の刃の広いことも、この場合の感じをよほど助けている。そのぴかぴか光った鉞の刃の上に紅葉が散りかかるという趣である。前の青淵の句のように、文字の上から色彩を対照したものと見るわけには行かないけれども、「白き刃」の一語には特異な力がある。ただ鉞の上に散るといわずに、「白き刃」を強調したのは、作者の表現の凡ならざるところであろうと思う。これも『鯰橋』には「鉞の刃に分のぼる」となっているが、「分のぼる」は繊巧(せんこう)に過ぎて面白くない。木導自身も後にこれを削って「白き刃」に改めたものであろう。

[やぶちゃん注:木導、いやや、好きになってきたぞ!]

2020/08/25

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 一

 

[やぶちゃん注:直江木導(寛文六(一六六六)年~享保八(一七二三)年)は近江彦根藩士。上松氏に生まれたが、直江氏の養子となり、光任と名乗った。別号に阿山人。姓は「奈越江」とも書く。芭蕉晩年(元禄五(一六九二)年から七(一六九四)年)頃)に蕉門に入った最晩年の弟子の一人であるが、森川許六が記した「風俗文選」の「作者列傳」には「木導は、江州龜城の武士なり。直江氏。自ら阿山人と號す。師翁、奇異の逸物(いちもつ)と稱す」(原文は漢文)と記されてある。]

 

     木  導

 

        

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものを見ると、曲翠が「発句を取りあつめ、集作るといへる、此道の執心なるべきや」と尋ねたに対し「これ卑しき心より我上手なるをしられんと我をわすれたる名聞より出る事也。集とは其風体の句々をえらび我風体と云ことをしらするまで也。我俳諧撰集の心なし」と答えている。ここに集というのは必ずしも撰集と家集とを区別していない。いやしくも「我上手なるをしられん」としての仕業である以上、撰集たると家集たるとを問わず、芭蕉はこれを「名聞より出る卑しき心」の産物として斥(しりぞ)けたのである。

 蕉門の諸弟子はこういう芭蕉の垂戒を奉じたためであろう。一人も生前に自家の集を上梓した者はない。蕉門第一の作者として自他共に許し、多くの門葉を擁していた其角ですら、自ら『五元集』の稿本を完成して置いて、遂に出版を見ずして終った。門下乃至(ないし)後人の手に成った遺稿の類も、歿後直に出版されたものは、あまり見当らぬようである。固より今日とは諸種の事情を異にするとはいえ、彼らが軽々しく自家の集を出さなかったという一事は、道に志す者の態度として慥(たしか)に奥ゆかしいところがあるといわなければならぬ。中には自家の作品が徒(いたずら)に鼠家(そか)とならんことを患(うれ)えて、輯録したものに序文まで書きながら、歿後も刊行の運びに至らず、最近に至ってはじめて日の目を見たような作者もある。直江木導の如きはその一人であった。

[やぶちゃん注:「鼠家」ろくでもないことを企み、成すことの元凶の意。]

 

 木導という俳人については、従来とかくの批評に上ったことを聞かない。彦根の藩士で、芭蕉の晩年にその門に入り、同藩の先輩たる許六(きょりく)と共に句作につとめた。直江というのは養家の姓であること、相当な武士であったらしいことなどはわかっているが、その人について特に記すに足るような逸話も伝わっていない。彼にしてもし句を作らなかったならば、疾(はや)くに世の中から忘却されたであろう。仮令(たとい)句を作ったにしても、自選の句稿一巻を遺さなかったならば、今ここに取上げて見るだけの興味は起らなかったかも知れぬ。

 木導が世に遺した句稿というのは、「蕉門珍書百種」の一として刊行された『水の音』のことである。何故この集に『水の音』と題したかということは、その自序がこれを叙しているから、左に全文を引用する。

[やぶちゃん注:「水の音」は木導の発句三百五十九句と独吟歌仙一巻を収め、句集は彼が亡くなる享保八年六月二十二日の一と月前に送稿されたものであった。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全編を読むことが出来る。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

治国に乱をわすれざるは武士の常なり、其常に干里の雲路はるかの国々の風俗を尋ね味ひ  よく知るをさして是を兵法に因間内間といふ、此一すしを兼て求(もとめ)をかはやと風雅を種となしてはせを庵の松の扉をたゝき翁の流を五老井[やぶちゃん注:「ごらうせゐ」。]と共に汲つくす事三十年、かれこれの便をつたひ蕉門の俳友ところところに数をつくせり、其あらましを五老井雨夜物がたりにおよびぬれば、翁しばらく目をふさぎ奥歯をかみしめ皺の手をはたと打、謀略のたくましきを深かんじ玉ふと也、かの折から予が麦の中行(ゆく)水の音をも聞たまひて翁曰、いにしへ伊勢の守武(もりたけ)が小松生ひなでしこ咲(さけ)るいはほ哉(かな)、我が古池やかはず飛込水の音、今木導が麦の中行水の音、此三句はいづれも万代不易第一景曲(けいきよく)玄妙の三句也、誠に脇をなしあたへんと許子にながれに麦をかゝせて、かげろふいさむ花の糸口と筆をとり給ひしを初となしていひ捨し句どもとりあつめ阿山の鎮守に奉納せり。

[やぶちゃん注:【2020年9月14日追記】現在、私は木導の句集「水の音」を作成中であるが、その過程で、ここに出る「小松生ひなでしこ咲るいはほ哉」の句は、野田別天楼氏の指摘によって、荒木田守武の句ではないことが判明した。これは「新撰菟玖波集」に載る蜷川智薀(?~文安五(一四四八)年:室町時代の武士で連歌作者。新右衛門親当(ちかまさ)と称した。室町幕府に政所代として仕えた。和歌を正徹に、連歌を梵灯庵主に学び、一休に参禅した。「竹林抄」の「連歌七賢」の一人。「新撰菟玖波集」に六十六句が入集する。句集に「親当句集」がある)の句であって、「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」「新撰菟玖波集」を最初から何度か全篇を視認する中で「卷第十九」のこちらに(右頁最終行)、「小松おひなてしこさけるいはほかな」と発見出来たので、ここに追記しておく。

「因間」(いんかん)は「孫子」の兵法に出る間諜の一種。「郷間」とも称し、敵国の村里にいる一般人を使って諜報活動をすることを指す。

「内間」は同前で、敵国の官吏などを利用して内通させることを指す。

「五老井」森川許六の別号。

「景曲」和歌・連歌・俳諧などで、景色を写生的に、しかも面白く趣向を凝らして詠むこと。]

 

 許六が芭蕉に逢った時、「春風や麦の中行く水の音」という木導の句の話をしたら、芭蕉がひどくほめて、これは守武の「小松生ひなでしこ咲るいはほ哉」や、自分の「古池や娃飛込む水の音」にも劣らぬ万代不易の名吟であるといった。許六が画をよくするところから、直に句の趣をかかせて、「かげろふいさむ花の糸口」という脇を書いてくれた、というのである。木導は親しくその画を見、許六からその話を聞いて、多大の感激を禁じ得なかったであろう。彼が自らその句を選まむとするに当り、先ずこの事を念頭に浮べ、水の音と名づけて長く記念としようとしたのはさもあるべきことと思われる。

 木導の「春風」の句は芭蕉の脇と共に『笈日記』に出ている。最初は「姉川や」とあったのを、芭蕉が「春風」に改めたのだという説もあるが、本当かどうかはわからない。いずれにしてもこれが木導の出世作――というのが小説家めいておかしければ、芭蕉に認められた第一の作であった。許六、李由の共撰に成る『宇陀法師』にも、景曲の句としてこの句を挙げ、これを賞揚した芭蕉の言葉を録している。子規居士の説に従えば、芭蕉の「景気」といい、「景曲」といい、「見様体」というもの、悉く今日のいわゆる客観趣味であって、守武の撫子、芭蕉の古池も同じ範躊に属するものと見なければならぬ。この句において一歩を蹈出した[やぶちゃん注:「ふみだした」。]木導が、客観的天地に翺翔し、永く客観派の本尊として仰がれるとすれば、便宜この上もない話であるが、世の中の事実は遺憾ながらわれわれの誂(あつら)え通りに出来ていない。但[やぶちゃん注:「ただし」。]木導の句そのものは、「春風」の句に現れた客観趣味以外にもなお多くの語るべき内容を持っている。

[やぶちゃん注:「翺翔」鳥が空高く飛ぶように、思いのままに振る舞うこと。]

 

 『水の音』収むるところすべて三百五十九句のうち、第一に目につくのは嗅覚に属する句である。聴覚や嗅覚は文字に現すことが困難なので、動(やや)もすれば常套に堕し、誇張に傾く嫌がある。子規居士も梅が香を例に取って、歌人の感覚の幼稚なのを揶揄したことがあったが、木導の嗅覚はそんな平凡なものではない。同じ花の香であっても

 にんどうの花のにほひや杜宇     木導

 闇の夜になの花の香や春の風     同

の類になると、よほど常套を脱している。「梅が香」や「菊の香」の句にあっては、必要以上に「香」の字が濫用される結果、「香」はあるもなおなきが如き場合も少くないが、この二句の香は――句の巧拙は別問題として――そういう賛物(ぜいぶつ)ではない。読者は作者と共に、一応忍冬の香を嗅ぎ、菜の花の香を嗅がなければならぬ。平遠な闇夜の中に感ずる菜の花の香は、特異なものでも何でもないが、「暗香浮動月黄昏」を蹈襲する梅香趣味の比でないことは明(あきらか)ある。

[やぶちゃん注:「にんどう」「忍冬」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の別名で、生薬名としても知られる。花期は五~七月で、葉腋(ようえき)から花が二つずつ並んで咲き、夕方から甘い香りを漂わせる。

「杜宇」は「ほととぎす」。]

 

 けれども木導集中の嗅覚の句は、如上の程度を彷徨するのみではない。普通の人ならば厭がりそうな臭気の類までも、進んでこれを句中に取入れている。

 ぬり枕うるしくさゝよ夏座敷     木導

 牛臭き風のあつさや小松原      同

 五位鷺の糞のにほひや夏木立     同

 日覆の魚見せ涼し鮨の薫       同

[やぶちゃん注:上五は「ひおほひの」。座五は「すしのかざ」。]

 出がはりやわきがの薬和中散     同

 あせくさき蓑の雫や五月雨      同

 更ルほど汗くさくなるをどりかな   同

[やぶちゃん注:上五は「ふけるほど」。]

 うつり香の椀にのこるやはるの雨   木導

 あたらしき暦のかざや春の雨     同

 くれ合に硫黄の薫や窓の雪      同

[やぶちゃん注:「薫」は「かざ」。ここは上五から夕餉を用意するために、竈の火を点けるために火を起こすのに用いられた硫黄付け木(ぎ)の微かなそれを嗅ぎ分けたものであろう。]

 麦地ほる田土のかざや神無月     同

 藁くさき村の烟や冬のくれ      同

 「更ルほど」の句は『韻塞(いんふたぎ)』には「傾城(けいせい)の」となっている。粉黛を粧(よそお)った傾城が踊によって汗臭くなるというだけでは、単なる説明的事実に過ぎないが、「更ルほど」となると自ら別様の趣味を生じて来る。夜の更けるに従って踊見の人数も影えるのであろう。踊から発散するのと相俟って、そこに汗の香の漂うのを感ずる。作者は遠くから踊の光景を眺めているのでなしに、親しく踊場の群集の中に眺めているのである。

 小松原に漂う牛の臭、夏木立に感ずる五位鷺の糞の臭、木導の鼻は自然の中にこういうものを嗅出すかと思うと、新しい暦の紙のにおいだの、夕方の雪の窓に流れる硫黄のにおいだの、椀に残る何かの移り香だの、座辺のものにもその嗅覚を働かせている。その嗅覚は鋭敏ではあるが、決して病的ではない。また「小便の香も通ひけり萩の花」という一茶の句のように、殊更に現実暴露を試みた遊も見当らない。頗る自然であるのを多としなければならぬ。

 小路よりもろこ焼かやはるの雨    木導

[やぶちゃん注:「焼かや」は「やくかや」。「もろこ」は彼が彦根藩士であったことから、まず、琵琶湖固有種で「本諸子」或いは単に「諸子」と書く、日本産のコイ科 Cyprinidae の中でも特に美味とされ、炭火焼きが美味い条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科タモロコ属ホンモロコ Gnathopogon caerulescens のことと考えてよい。]

 乗合の舟のいきれや五月雨      同

 すゝ払や囲炉裏にくばる蕃椒     同

[やぶちゃん注:上五は「すすはきや」、座五は「たうがらし」。よく判らぬが、これは煤掃きを終えた後、保存を兼ねて、秋に収穫した唐辛子を火棚(ひだな)に並べるか、吊るすかしたものではないか。その燻ぶりつつ乾燥してゆく匂いが漂っているものか。]

 十種香の客もそろふや春の雨     同

[やぶちゃん注:上五は「じつしゆかう」。香道で、数種の香十包を焚き、その香の名を聴き当てる遊び。]

 これらの句は表面に「香」を現していないけれども、やはり嗅覚の範囲に入るべきものであろう。乗合舟のむっとする人いきれや、囲炉裏に燻(くすぶ)る唐辛子は、必ずしも嗅覚にのみ訴える性質のものではないかも知れぬが、作者の鋭敏な鼻がそれに無感覚でいるはずはないからである。

 同じく元禄期の作者であるが、秀和(しゅうわ)に「鰯やく鄰にくしや窓の梅」という句がある。自分は現在梅が香を愛(め)でているのに、心なき隣人が鰯を焼くので、その臭によって梅が香の没了することを歎じたのである。この主眼が俚耳に入りやすいため、有名な句にはなっているが、鰯焼く臭のみならず、俗臭もまた強いのを遺憾とする。鰯焼く隣人を憎むことによって、逆に梅が香を現そうとしたのも、作為の譏(そしり)を免れぬ。木導の「小路よりもろこ焼かや」の句は、その点になると遥に自然である。小路から流れる香を嗅いで、諸子(もろこ)を焼いているのかなと感ずる。「かや」という言葉に多少の疑問を含めているのも、この場合かえって句中の趣を助けているように思う。『虞美人草』の中に、春雨の京の宿で閑談を逞しゅうしながら、台所から流れるにおいを嗅いで、「また鱧(はも)を食わせるな」というところがある。先ずあれに似た淡い趣であろう。

[やぶちゃん注:「虞美人草」の第三章に出る。但し、淡いというのが、当たるかどうか。そこでは、宗近が『だまつて鼻をぴくつかせて』、『「又鱧を食はせるな。每日鱧ばかり食つて腹の中が小骨だらけだ。京都と云ふ所は實に愚な所だ。もういゝ加減に歸らうぢやないか」』と苛立つと、と甲野欽吾が、『「歸つてもいい。鱧位(ぐらゐ)なら歸らなくつてもいゝ。しかし君の嗅覺は非常に鋭敏だね。鱧の臭(にほひ)がするかい」』と応酬するシーンである。漱石の神経症的な描写の背後の内実それは「淡い」なんてもんじゃなく、病的に深刻である。]

 

 以上嗅覚に属する十数句のうち、大半は撰集などに見えぬ、『水の音』においてはじめて逢著する句である。これを以て直に木導自身の趣味に帰するのは、やや早計の嫌があるかも知れぬが、少くとも考慮に入れる位の価値はありそうである。雨及雪の句が多いのは、空気がこもるとか、香が低く沈むとかいう常識以外に、何らか理由があるのかもわからない。

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 三 / 史邦~了

 

       

 

 動物に関する史邦の句は必ずしも以上に尽きるわけではない。ただその代表的なものは一わたり観察を試みたから、以下少しく他の方面の句に眼を移したいと思う。

 史邦の句作は何時頃からはじまるか、前に引いた「初雪」の句に「猿蓑撰集催しける比(ころ)発句して心見せよと古翁の給ひければ」という前書のついているのを見れば、それ以前已に俳道に志していたものと思われる。『猿蓑』収むるところの句すべて十二、いずれも駈出しの口つきではない。就中(なかんずく)最もすぐれたものは

 はてもなく瀬のなる音や秋黴雨    史邦

の一句であろう。「秋黴雨」は何と読むか、俳書大系は「しめり」と読ませてあるが、このルビは編者がさかしらに振ったもので、原本には何もついていない。降雨の工合(ぐあい)よくあった時に「いゝおしめりだ」などというのは、現在でも行われている言葉であるが、この場合「アキシメリ」ではどうも面白くないと思う。ここは「アキツイリ」と読むべきではなかろうか。日本内地の雨季は前後二回あって、六月から七月へかけてと、九月から十月へかげてと、大体似たような空模様を繰返す。前者が梅雨であることはいうまでもないが、後者は秋霖(しゅうりん)の名を以て呼ばれている。幾日も降続く秋雨(あきさめ)の意である。梅雨を「ツイリ」と呼ぶことに対して、秋霖に「アキツイリ」の語を宛てたものではないかと思う。『有磯海』に

 米になる早稲の祝や秋露入      其継

とあるのは、全然文字を異にしているけれども、思うにこれも「アキツイリ」であろう。『有磯海』の出版は『猿蓑』よりも四年おくれているから、史邦に倣ったと見られぬこともない。が、恐らくは史邦の造語でなく、更に捜したら同じ用例が見つかるかも知れぬ。

 毎日毎日陰鬱な秋霖が続いている。著しく水嵩(みずかさ)の増した瀬の音が絶えず轟々と聞える。それを「はてもなく瀬のなる音や」の十二字で現したので、芭蕉の「五月雨の雲吹き落せ大井川」などとはまた違って、内在的な力の強い句である。しかしてその間に自ら五月雨と違うものを持っているから面白い。

[やぶちゃん注:「秋黴雨」「アキツイリ」『秋霖に「アキツイリ」の語を宛てたもの』現在、辞書や歳時記に平然とそう書いてあり、言葉感覚の嗜好で今現在の俳句作でも好まれている様子だが、恐らくはこの史邦のこの句がこの語と読みの震源と考えてよい。個人的には「ついり」という発音には生理的に虫唾が走り、私は知っていても決して口にしない。

「其継」(きけい)元禄期(一六八八年~一七〇四年)の浪化(彼は真宗大谷派の名刹井波瑞泉寺の住職であった)を中心とした最も充実した状況にあった越中井波俳壇の主力俳人の一人で、浪化同宗の妙蓮寺第四代住職。浪化の侍者として、頻繁に京と行き来した彼に度々同行している。]

 

 菜の花や小屋より出る渡し守     史邦

 この句は当時史邦の句として比較的有名なものだったのではないかと想像する。句空撰の『北の山』、車庸(しゃよう)撰の『己(おの)が光』、兀峰(こっぽう)撰の『桃の実』、いずれもこれを録しているからである。前二者は元禄五年[やぶちゃん注:一六九二年。]、『桃の実』は同六年の出版であるから、作句の年代は『猿蓑』と大差ないものと見るべきであろう。流通性が多いだけ、特色に乏しいという難はあるかも知れぬが、如何にも長閑な趣が現れている。菜の花の多い、関西郊野の様子が眼に浮んで来る。

 味噌まめの熟るにほひや朧月     史邦

 「熟る」は「ニユル」と読むのかと思う。嗅覚を主にした句であるが、作者は別に朧月夜につきものの艶な匂などは持って来ない。ただ鼻に感じた味噌豆の煮える、甘い、暖かそうな匂を捉えただけである。朧な月の光の下に一たびこの香を嗅げば、直に身を春夜の大気の中に置くの思がある。場所も作者の位置も、強いて問う必要はない。真実の力といえばそれまでであるが、嗅覚の一点によって朧月の趣を生かしている作者の伎倆も認めなければなるまい。

 岡崎は祭も過ぬ葉雞頭        史邦

 この岡崎は三州岡崎ではない、京都の岡崎であろう。秋の祭が過ぎて、何となく物静になった空気の中に、葉雞頭が何時(いつ)までも衰えぬ色を見せている、というのである。沈静した空気に対して、葉雞頭の色彩が特に目立って感ぜられる。一茶の「一祭りさつと過けり草の花」などという句も、同じようなところを覘(ねら)ったものであるが、史邦の句のように湛然たるものがない。表現の如何よりもむしろ作者の心の問題であろう。

[やぶちゃん注:「京都の岡崎」現在の京都府京都市左京区南部の広域地名。この辺り(グーグル・マップ・データ)。「岡崎」を町名に冠する地区が多い。

「湛然」静かで動かぬさま。]

 

 春雨やおもきが上のふけあたま    史邦

 史邦はこういう感覚をも句中のものにしている。すぐれた句というわけではないが、懶(ものう)い春雨の感じが一句に溢れているように思う。特色の多寡を論ずれば、「小屋より出る渡し守」よりはこの方を推すべきであるかも知れぬ。

 芭蕉と史邦との交渉はどんなであったか、委しいことは伝わっておらぬが、史邦の句が撰集の上に現れる時代から推して、「奥の細道」旅行以後に相見たことは明である。幻住庵時代にも訪問者の一人であったらしく、『猿蓑』の「几右日記(きゆうにっき)」に

 笠あふつ柱すゞしや風の色      史邦

の一句をとどめており、『嵯峨日記』の中にもその名が見える。芭蕉が三年ぶりで江戸に帰って後、史邦も仕を辞して東へ下った。

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『幻住庵在庵中』(元禄三(一六九〇)年四月六日から七月二十三日まで。但し、途中の六月には一時、幻住庵を出て京の凡兆宅にあった時期がある)『の芭蕉を訪ねたときの吟である。清閑な庵居の柱にかけられた桧笠(ひのきがさ)を涼風が吹きあおっているさまである。緑陰を吹きぬけてくる風に涼しさとともに色彩が感じられるというのである』とあり、「笠」について『『幻住庵記』に「木曾の桧笠、越(こし)の菅蓑(すがみの)斗(ばかり)、枕の上に懸(かけ)たり」とある笠』とされ、「すゞしや」に注されて、『夏の季題。『猿蓑さがし』に「涼しや風の色とは翁の清貧、その隠者たる高節の所を形容して作れる也」とある』とあり、さらに宵曲の言っている通り、『『猿蓑』所収「几右日記」に、幻住庵を訪れた客の発句三十五句の中の一として出る』とある。]

 

   東武に志ありて白川の橋はらはら
   難に蹈初与市が蹴上の水にわらぢ
   をしめ直すもあとゆかしく

 鈴かけをかけぬばかりの暑かな    史邦

   東武におもむきし頃木曾塚に各吟
   会して離別の情を吐事あり

 涼風に蓮の飯喰ふ別かな       同

等の句があるから、その発足は夏だったのであろう。洛の史邦は一転して江戸の史邦になった。左の二句は東武における史邦の作品として、注目すべきものたるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「蹈初」「ふみそめ」。

「与市が蹴上の水」「蹴上」は「けあげ」で現在の京都市左京区蹴上。インクラインで知られる、ここ(グーグル・マップ・データ)。旧東海道が京都三条通に通ずる九条山などの谷間(たにあい)の急坂で、嘗ては愛宕郡と宇治郡の境で、古くは「松坂」とも呼んだ。参照したサイト「京都風光」の「蹴上」によれば、『蹴上の語源としては「つま先上がりとなるほどの急坂」を意味するともいう』。ここには『源義経』『についての伝承がある。牛若丸(義経)は、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している』が、『現在の蹴上付近で、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市重治(与一)らの一行とすれ違う。その従者の一人(馬とも)が峠の湧水を撥ね、牛若丸の衣を汚した。牛若丸は怒り』、十人(九人ともされる)の『武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払った。また、与一も斬られたともいう。牛若丸は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。斬られた人々のために、九体の石造地蔵(九体仏)を安置して弔ったともいう。その場所は九体町付近とされる。(『雍州府志』)』とあった。]

 

   芭蕉菴に宿して

 蕣や夜は明きりし空の色       史邦

   深川の庵に宿して

 芭蕉葉や風なきうちの朝涼      同

 「蕣」の句は早暁の気を一句に尽した感がある。夜が漸く明放れてしかも日が出ぬ頃、爽な天地の中に朝顔の花を見る。早暁の大気と、爽な空の色と、はっきりした朝顔の花と、三者が渾然として一になっている。こういう朝顔の趣は今なお新な種類のものであるが、史邦が芭蕉庵に一宿して、早天にこの句を得たのだと思うと、一層感が深い。

 「芭蕉葉」の方は、蕣ほど早い時間ではない。芭蕉庵に一宿した史邦が、縁側か何かに出て涼んでいると、しっとりした朝の空気の中に、芭蕉が大きな葉を伸べている。まだ日も高くは上らず、芭蕉の葉を動かすほどの風もない、という静な世界を描いたのである。『続猿蓑』の編者は惟然の「無花果(いちじく)や広葉にむかふ夕涼」と並べてこれを録しているが、正に趣を同じゅうする朝夕の一対として、併看すべきものであろう。

[やぶちゃん注:「蕣」は「あさがほ」で秋の季題。「明きりし」は「あけきりし」。この言い切った毅然とした語勢が、この句の眼目であろう。

「朝涼」「あさすずみ」。]

 

 芭蕉と史邦との交渉は、京洛から東武にわたって続いている。

   古翁ある時のたまひけるは、
   史子我道は牛房の牛房くさきを
   持てよしとするに比せり、是を
   しれりやと仰られし返しに

 上下や下は紙子のはら背負      史邦

   其後人々此心を尋られしかば、
   師の道は信を以て物にむかふ、
   物また信に応ずるなりと答申
   けるとかや

という問答などは、関西においての事か、江戸に来てからの事か、時代の徴すべきものがないが、両者の関係が浅いものでなかった証左にはなるかと思う。ただ芭蕉が最後の旅に上るに当り、これを送った人々の中にも史邦の名は見えず、『枯尾花』に網羅された追悼句の中にもまた史邦は洩れている。芭蕉と親しかった門弟のうち、何故『枯尾花』に洩れたか不審なのは、西にあっては洒堂、東にあっては史邦である。洒堂については多分旅行にでも出て、大坂にいなかったものだろうといわれている。史邦にも何かそういう事情がなければ、どうしても解釈のつかぬところである。

[やぶちゃん注:「史子」は「しし」。史邦を尊称したもの。「牛房」は「ごばう」で牛蒡(ごぼう)のこと。

「上下や下は紙子のはら背負」「かみしもやしもはかみこのはらせおひ」。この一句、よく判らぬ。]

 

 史邦は芭蕉の門弟として篤実なる一人であった。元禄八年の『後の旅』にある

   芭蕉翁追悼

 河はあせ山は枯木の涙かな      史邦

の句は、如何ともしがたい胸中の悲哀を語るものであるが、「青山を枯山(からやま)なす泣枯(なきから)し、海河を悉(ことごと)に泣乾(なきほ)しき」と『古事記』にもあり、「河はあせ山は枯木」という調子が実朝の「山はさけ海はあせなん」の歌を連想せしむる点において、直に肺腑(はいふ)を衝(つ)かぬ憾があるかと思う。それよりもしみじみと感ぜられるのは

   旧庵師の像に謁

 芭蕉会と申初けり像の前       史邦

の一句である。これは師を喪った者の感情として、古今に通ずるものであろう。碧梧桐氏が「天下の句見まもりおはす忌日(きにち)かな」と詠み、鳴雪翁が「下手な句を作れば叱る声も秋」と詠んだのは、子規居士一周忌の時ではなかったろうか。大正六年最初の漱石忌の時に、東洋城氏は「この忌修す初めての冬となりにけり」と詠んだ。年々忌を修してその人を偲ぶことには変りはなくても、最初の忌日は自ら感懐の異るものがある。巧まざる史邦の句が人を動かすのは、その心持を捉えているがために外ならぬ。ここに「芭蕉会」とあるのは、当時実際にそう唱えたか、史邦だけがそういったのか、その辺はよくわからぬが、碧梧桐氏が「すなはち思ふ十七夜(じゆうひちや)忌と名づくべし」といった子規忌も、東洋城氏が「早稲田の夜急に時雨れぬ九日忌」といった漱石忌も、一般にはその称呼が用いられぬような事実があるから、かたがた以て「芭蕉会」という言葉が面白く感ぜられる。芭蕉会という言葉が芭蕉その人の風格なり、行状なりに適合していることは贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「古事記」のそれは、「上つ巻」の父伊耶那岐命の海原を治めよという命を聴かず、素戔嗚命が母恋しさに涕泣し、世を荒廃させてしまうシークエンスに出る。

   *

故。各隨依賜之命。所知看之中。速須佐之男命。不知所命之國而。八拳須至于心前。啼伊佐知伎也。其泣狀者。靑山如枯山泣枯。河海者悉泣乾。是以惡神之音。如狹蠅皆滿。萬物之妖悉發。

   *

故(かれ)、各(おのおの)依(よ)さし賜ひし命の隨(あにま)に、知ろしめす中(なか)に、御速須佐之男命、命(よ)せし國を治(し)らさずて、八拳須(やつかひげ)心(むね)の前(さき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く狀(さま)は、靑山(あをやま)を枯山(からやま)のごとく泣き枯らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾しき。是(ここ)を以ちて惡しき神の音(こゑ)は、狹蠅(さばへ)如(な)す、皆、滿ち、萬物(よろづ)の物の妖(わざはひ)、悉に發(おこ)りき。

   *

「実朝」のそれは、定家所伝本「金槐和歌集」では掉尾の六百六十三首目に収められたもので、

 山はさけ海はあせなむ世なりとも

     君にふた心わがあらめやも

の著名な一首。宵曲の言うように、原拠が見え見えで、悲哀感情がインク臭くなってよくない。

「芭蕉会と申初けり像の前」「ばしやうゑとまうしそめけりぞうのまへ」。私は宵曲のようには、買えない。]

 

   翁三回忌

 凩や喪を終る日の袖の上       史邦

 芭蕉会に蕎麦切打ん信濃流      同

 これらの句にも皆真実の情が簑っている。ここにもまだ芭蕉会の語が用いてある。

[やぶちゃん注:「芭蕉会に蕎麦切打ん信濃流」「ばしやうゑにそばぎりうたんしなのぶり」。前句はいいが、これはやはり私は買わない。]

 

 史邦は自己唯一の撰集に『芭蕉庵小文庫』と名づけた。先師の遺文、遺句の類を多く収めたからの名であろう。その春の部に見えた左の一句は、前書に多くを語っているからここに全部を引用して置こうと思う。

   ふたみの机硯箱は翁ふかくいとをしみ
   てみづから絵かき讃したまひぬ。また
   一とせ洛のぼりに、いざさらば雪見に
   ころぶ所迄と興じ申されける木曾の檜
   笠越の菅蓑に桑の杖つきたる自画の像、
   此しなじなはさぬる年花洛の我五雨亭
   に幽居し給ふ時、一所不住のかた見と
   て予に下し給りぬ。されば師のなつか
   しき折々あるは月花に情おこる時は是
   をかけこれをすえ、ひたすら生前のあ
   らましして句の味をうかゞふのみ、
   む月七日はことにわか菜のあつものを
   すゝめて例よりもかなしくかしこまる
   袖になみだこぼれて

 折そふる梅のからびや粥はつを    史邦

 史邦の居を五雨亭といったこと、芭蕉がそこに滞在した形見として、以上の品々を史邦に贈ったことはこれで明である。それらの遺物を取出しては先師を偲び、折々のものを捧げてその前に畏るというのは、史邦その人の篤実な様子が思いやられる。師を担いで自ら售(う)ろうとするような、衒示的(げんじてき)態度が認められぬのは特に難有い。

[やぶちゃん注:「いざさらば雪見にころぶ所迄」貞享四年十二月初め、恐らくは三日(グレゴリオ暦では一六八八年一月五日)の名古屋での作と推定される名吟である。

「檜笠」「ひのきがさ」。

「越の菅蓑」「こしのすげみの」。

「はつを」は「初尾」で「初穗(はつほ)」に同じい。ここはその年最初の粥を炊いて仏前に奉ったことを指す。]

 

 芭蕉歿後の史邦について、もう一つ挙げなければならぬものは「芭蕉庵小文庫序」である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

木曾の情雪や生ぬく春の草と申されける言の葉のむなしからずして、かの塚に塚をならベて風雅を比恵比良(ひえひら)の雪にのこしたまひぬ、さるをむさし野のふるき庵ちかき長渓寺の禅師は亡師としごろむつびかたらはれければ、例の杉風(さんぷう)かの寺にひとつの塚をつきてさらに宗祇のやどりかなと書をかれける一帋(し)を壺中に納めて此塚のあるじとなせり、たれたれもかれに志をあはせて情をはこび句をになふ、猶師の恩をしたふにたえず、霜落葉かきのけてかたのごとくなる石碑をたて、霜がれの芭蕉をうへし発句塚と杉子がなげきそめしより愁傷なをあらたまりて

 日の影のかなしく寒し発句塚     史邦

[やぶちゃん注:「木曾の情雪や生ぬく春の草」「情」は「じやう」。「生ぬく」は「はえぬく」。この句は永く作句年次が明らかでなかったが、尾形仂(つとむ)氏が、「日本詩人選 松尾芭蕉」(一九七一年筑摩書房刊)で元禄三(一六九〇)年三月作と推定された。その経緯について山本健吉氏が「芭蕉全句」(私が所持するのは二〇一二年刊講談社学術文庫版)で詳細に纏めておられるので、以下に引く。

   《引用開始》

去来の『旅寝論』に「一とせ人々集りて、木曾塚の句を吟じけるに、先師一句も取給はず。門人に語りて曰(いわく)、都て物の讃、名所等の句は、先(まず)其(その)場をしるを肝要とす。西行の讃を文覚の絵に書、明石の発句を松島にも用ひ侍らんは、浅ましかるべし。句の善悪は第二の事也、となり。我むかし先師の木曾塚の句を拙(つたな)き句なりと思へり。此(この)時はじめて其(その)疑ひを解(とき)ぬ。乙州(おとくにが)木曾塚の句はすぐれたる句にあらずといへ共(ども)、此をゆるして猿蓑集に入べきよしを下知(げじ)し給ふ」とある。尾形氏は、人々が集って木曾塚の句を吟じたのは、元禄四年一月以外に考えられないとし、その時点で去来が「むかし」と言ったのを、前年の三月末と推定し、「先師の木曾塚の句」をこの句とする。また乙州が詠んだという木曾塚の句は、「その春の石ともならず木曾の馬」(猿蓑)の句をさす。従来この句の制作年次は明らかでなく、句の詠まれた事情も前書がないので不明であったが、この尾形氏の隙のない推論で、おおよそそれらの疑問は決着する。

『芭蕉庵小文庫』には編者史邦の序文にこの句を引用し、「と申されける言の葉のむなしからずして、かの塚に塚をならべて、風雅を比恵・日良の雪にのこしたまひぬ」といっている。この句は従来、木曾路での嘱目吟か、江戸で木曾路を思いやった句か、近江膳所(ぜぜ)・義仲寺の木曾塚での吟か、あるいは木曾義仲の画讃か、色々の説があったが、編者の序文に「かの塚に塚をならべて」とあるのが、芭蕉の遺言で遺骸が木曾塚の隣に葬られたことを意味する以上、それは木曾塚を意味するだろう。芭蕉が画讃句や名所の句に「先(まず)其(その)場をしるを肝要とす」と言って乙州の句を採ったのは、その句が義仲の馬に乗ったままの最後の情景をよく踏まえているからである。芭蕉が「木曾の情」といったのも、義仲の人間像をよく見据えているからである。その生涯をみれば、雪深い山国に雪をしのいで生えぬいた春の草のような生命力の逞しさがある、それが木曾義仲の本情である、といったのである。そのような義仲の生き方への共感がこの句には出ている。芭蕉の句としては拙い句ではあっても、「其場」をはずしていないのがとりえである。

   《引用終了》

と山本氏は評しておられるが、私は力強く、リアルに画像も想起出来る佳句と感ずる。

「比恵比良」比叡山と比良山地の高峰群。

「なを」ママ。]

 

 何の奇もない文章であるが、底にしみじみとしたものが流れている。「日の影」の句を誦して、新な石碑にさす冬の日影を、まのあたり見る如く感ずるのも、畢竟真実が籠っているためであろう。

 史邦には、なお

   芭蕉翁七回忌

 こがらしの身は七とせや像の皺    史邦

という句も伝わっている。綿々として思慕の情を絶たぬ史邦のような人が、特別な事情なしに『枯尾花』に洩れるということは、先ず不可解という外はない。

 史邦の句は『芭蕉庵小文庫』に多数収録されているが、それ以上に多いのは種文(しゅぶん)の手に成った『猿舞師』である。これは種文が弟子の立場から、師たる史邦の句を特に多く収めたのかも知れぬ。史邦の句を見るに当って、この二書は閑却すべからざるものであろう。『猿舞師』の中に

 冬枯の磯に今朝見とさか哉      ※羽

 川中の根木に横ろぶ涼かな      同

[やぶちゃん注:「※」は「公」の第二画がない字体。但し、諸本では「公羽」とあるので、「公」に同じい。]

の二句に註して、「右の句翁の句也と誰やらが集に書入たるは翁と※羽(こうう)の文字を読たがへたると史子申されける」とあるのは、『炭俵』の誤を指摘したので、芭蕉研究者に取っては注目すべき資料である。史邦は他人の作が師翁の作として伝えられ、やがて後世を誤るべきを悲しんでこれをいい、種文もその意を体して特に集中に加えたものと思われる。一たび芭蕉の句として有力な集に収められた以上、こういう忠実な人の証言でもないと、これを覆すことは不可能であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:恰も史邦が初めて指摘したように宵曲は書いているが、これは芭蕉自身が遺言状で指摘している。「公羽」は奥羽の岸本八郎兵衛(慶安二 (一六四九) 年~享保四(一七一九)年)で山形鶴岡の庄内藩給人で俳人。サイト「日本掃苔録」のこちらに、『祖は俳人長山重行の祖伝兵衛の配下と伝えられる庄内藩の給人岸本家に生まれる。俳号は公羽。鶴岡島居川原(あるいは長山小路)に住む』。寛文一〇(一六七〇)年、第三代『藩主酒井忠義の代に御徒とな』り、延宝八(一六八〇)年には『上野御仏殿造営の普請方として従事し』、貞享二(一六八五)年、第四代『藩主忠真の時に御徒目付とな』ったとあり、元禄二(一六八九)年、『松尾芭蕉が奥羽行脚の途中、鶴岡に来て長山重行邸に泊った折』り、『その門人となる。その後も、江戸勤番中』、『親しく教えを受けるなど』、『交流を深めた』。元禄七年、父『律右衛門の病死により』、『家督を継ぎ、御徒小頭となる。芭蕉から公羽に宛てた書翰が現存しており、「そのかみは谷地なりけらし小夜砧」の句を芭蕉は秀作と褒めている。志太野坡・池田利牛・小泉孤屋らが江戸蕉門の撰集『炭俵』を編集した際、公羽の句が二句、芭蕉の句として入集した。後に芭蕉がそれに気付いて、遺言状の中で』、『ぜひその誤りを正すように』、『と弟子の杉山杉風に命じている。(庄内人名辞典など)』とある。

「涼」は「すずみ」。]

 

 俳人としての史邦は元禄俳壇に如何なる地歩を占むべきか、それは今俄に論断する必要はあるまい。以上は主として動物に関する興味から史邦を見、次いで篤実なる芭蕉門下として史邦を見た、断片的なおぼえ書に過ぎぬ。史邦の全般にわたるものとしては、なお多くの研究を費さなければならぬからである。

[やぶちゃん注:以下は実際に一行空けで、底本では全体が二字下げ。]

 

   (附 記)

 その後市橋鐸(いちはしたく)氏に『史邦と魯九』なる著書があることを知って一読した。史邦一生の輪郭は大体これに尽されている。丈艸とは犬山以来の関係で、史邦が先ず京に上り、去来と相識るに至ったもののようである。去来の書いた「丈辨誄」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寝し、先師にま見え初られし」とあるのは、この間の消息を指すのであろう。芭蕉歿後の史邦の身辺は存外寂寞であったらしく、其角、嵐雪以下、蕉門の有名な人たちとも殆ど交渉がなかった。『芭蕉小文庫』から『猿舞師』に移るに及んで、集中の顔触が著しく局限されるのは、史邦の周囲の寂しかったためではあろうが、歿年もわからず、固より何処に葬られたかもわからず、一切杳然(ようぜん)として空に帰すというに至っては、あまりに甚しいような気がする。市橋氏が彼の不遇を憐んで、その伝を作るに至ったのも偶然でない。史邦の句として世に伝わる最後のものは、宝永二年の『続山彦』に見えた

 はつ雁やしらけてもどる空のしほ   史邦

の一句である。彼はこの句を詠んで後、果してどの位世にながらえたかわからぬが、他に何も資料が現れぬ限り、姑(しばら)くこれを以て形見とするより外はあるまい。ただこの句もまた動物を詠じたものであることは、文学的価値以外に多大の興味がある。

[やぶちゃん注:「市橋鐸」明治二六(一九八三)年~昭和五八(一八九三)年)は愛知県犬山出身の郷土史家。本名は市橋鐸麿(たくまろ)。犬山藩成瀬氏に仕える御典医をしてきた鈴木家に生まれ、國學院大學卒業後、函館商業学校で教鞭を執り、大正九(一九二〇)年に一宮の市橋家の養子となった。昭和二(一九二七)年、愛知県の小牧中学校に移り、同校では郷土室に勤め、郷土資料写真集を発行するなど、郷土歴史教育に取り組んだ。昭和一六(一九四一)年には名古屋市の委嘱を受け、「名古屋叢書」の編纂主任として、八年かけて全四十七巻を完成、戦後は愛知県立女子専門学校、後、県立女子大教授として昭和三十九年まで務めた。名古屋市・小枚市文化財調査委員。「史邦と魯九」は昭和一二(一九三七)年俳諧史研究社刊。

「杳然」遙かに遠いさま。ここは一向にその先の事蹟が見えぬこと。

「宝永二年」一七〇五年。

「空のしほ」よく判らぬ。ちょうど、そんな雰囲気に合った空の色・具合の謂いか。識者の御教授を乞う。]

2020/08/17

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 二 

 

       

 

 動物に関する史邦の句のうちで、ちょっと変ったものに穴熊がある。

 はち巻や穴熊うちの九寸五分     史邦

 これは穴熊を詠んだというよりも、穴熊を捕る人間の方が主になっている。が、他に季節のものが見えぬから、穴熊もしくは穴熊打を以て冬の季とするのであろう。尤も『小文庫』にはこの句の外に

 あな熊の寝首かいても手柄かな    山店

 丹波路やあなぐまうちも悪右衛門   嵐竹

の如き句を収めているので、さのみ異とするに足らぬようだけれども、その『小文庫』は史邦の編に成るのだから、全然史邦の興味外とするわけには行かない。

[やぶちゃん注:「九寸五分」刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀。「鎧通し」のこと。当時でも銃砲での狩りは武家の特殊グループに限られたから、ここは「穴熊擊ち」と言っても、燻ぶり出してそれでとどめを刺したものであろう。「穴熊」は「史邦 一」で既出既注。

「小文庫」既出既注であるが、再掲しておくと、史邦の編になる芭蕉の追悼集「芭蕉庵小文庫」(元禄九(一六九六)年刊)。

「山店」石川山店(さんてん 生没年未詳)伊勢山本の人。蕉門の石川北鯤(ほっこん)の弟。天和年間(一六八一年~一六八八年)に入門し、「虚栗」に初出。

「悪右衛門」戦国から安土桃山にかけての武将赤井直正(享禄二(一五二九)年~天正六(一五七八)年)の通称。赤井氏の実質的な指導者として氷上(ひかみ)郡を中心に丹波国で勢力を誇った豪族。「甲陽軍鑑」には「名高キ武士」として徳川家康・長宗我部元親・松永久秀らとともに、しかも筆頭として名が挙がっている(ウィキの「赤井直正」に拠る)。

「嵐竹」松倉嵐竹(生年未詳)本名は松倉文左衛門。蕉門最古参の門人松倉嵐蘭の弟。]

 

   此魚此川の名物とや

 涼しさや瀬見の小河の談儀坊     史邦

 「談儀坊」というのは魚の異名らしい。『見た京物語』に「目高(めだか)をだんぎぼうといふ」と書いてあるのは、土地の人のものでないだけに、固より不安を免れぬけれども、『人倫訓蒙図彙』に談儀坊売というものがあって、「こまかなるざこを桶に入れになひあるきだんぎぼうと云なり、これを都の幼少なる子供もとめ水鉢又は泉水に放ちなぐさみとするなり」と註してあるのを見れば、甚しく誤ってはおらぬように思う。もし談儀坊なる名の由来が『嬉遊笑覧』にある如く、「凡僧経論もみずに咄(はな)すを水に放すといふ秀句」であるとするならば、子供が水鉢や泉水に放すのを見て、『見た京物語』の著者が直に目高と心得るのも、一概に無理とはいえないからである。

 『和漢三才図会』などは石斑魚(いしぶし)の条において、「又背腹共黒談儀坊主」と記している。「いしぶし」ならば『源氏物語』その他平安朝のものに見えている魚である。京洛においても後には「いしもち」とのみ称(とな)えて、談儀坊とはいわぬという説もあるが、文献にのみよる考証は隔鞾搔痒(かっかそうよう)の感なきを得ない。『蕉門名家句集』には「談儀坊ハサギシラズト読ム」という註がある。サギシラズならば例の「鉄道唱歌」にも「扇(おうぎ)おしろい京都紅(きょうとべに)、また賀茂川の鷺(さぎ)しらず」とあり、京都名物として御馴染のものである。『俳書大系』なども最初は「談儀坊」に「さぎしらず」とルビを振ってあったが、普及版に至ってこれを削ってしまったので、何だかわけがわからなくなった。しかしこの句の場合はともかく、談儀坊というもの何時(いつ)でもサギシラズと読むとは限らぬのであろう。『猫の耳』にある次の句などは、やはり「ダンギボウ」と読んだ方がよさそうに思う。

   辻談議

 胸の月けもなし魚の談儀坊      問景

 談儀坊を句にしたのは勿論、史邦がはじめではない。古くは『あぶらかす』あたりにもこれを取入れたものがあるけれども、多くは談儀坊という名称から来た擬人的な興味を弄しているに過ぎぬ。史邦の句はその点では全く自然である。談儀坊そのものの姿は頗る漠然としているが、ここは涼しさを主にして味うべきであろう。「瀬見の小河」は有名な石川丈山の詠もあり、賀茂川のことであるのは贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「瀬見の小河」京都市左京区下鴨の東部を流れる川。賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)の「糺の森(ただすのもり)」の南で賀茂川に入る。「蟬の小川」。この中央(グーグル・マップ・データ)。但し、賀茂川の異名ともされ、宵曲も後のそうとっている。「新古今和歌集」の「巻第十九 神祇歌」にある鴨長明の一首に(一八九四番)、

   鴨社歌合とて人〻よみ侍りけるに、月を

 石川の瀨見の小川の淸ければ月も流れをたづねてぞすむ

とある。「月も」は賀茂の明神もそれでここに坐(ま)しますが、されば「月も」の意。

「談儀坊」(だんぎばう(だんぎぼう))は小学館「日本国語大辞典」では、『魚「めだか(目高)」の異名。だんぎぼうず』とする。これは意の②で、①では、「談義僧」のこととして、そちらには、『仏教の教えなどを、わかりやすくおもしろく説き聞かせる僧。また、教典などを講義する僧』とする。

「見た京物語」全一冊の京の見聞記。二鐘亭半山(木室卯雲:きむろぼうううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:戯作者で俳人。幕臣。俳人慶紀逸門。狂歌も嗜み、幕府高官の目にとまった一首が縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良(よものあから)らの天明狂歌に参加、噺本「鹿の子餅」は江戸小咄流行の先駆けとなった)著。天明元(一七八一)年八月序。著者が明和三(一七六六)年三月に小普請方として京都に赴任して、一年半ほど滞在した間に書き留めたものを、帰府後に自家版として知友に贈ったものを改めて公刊したもの。

「人倫訓蒙図彙」風俗事典。著者未詳。画は蒔絵師源三郎。元禄三(一六九〇)年刊。第七巻。各階層に於ける種々の職業・身分に簡潔な説明を加え、合わせて、それらの特徴的所作や使用される器物を描いた図を掲げる。巻一は公家・武家・僧侶に関するものを扱い、巻二以下は能芸部・作業部(主に農工)・商人部・細工人部・職之部という構成で、最終巻は遊郭・演劇・民間芸能などを載せる。京を中心に当時の風俗・生活を知るための貴重な資料である。「談儀坊売」は「商人部」ではなく、「作業部」の最後(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)に挙げられている。拡大すると、天秤棒の向かって右側の荷い桶の中に、小魚(私には金魚か出目金のように見える)が泳いでいるのが判る。

「嬉遊笑覧」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。当該部は、「第十二巻上」の終わりの方にある。所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)を基礎データとし、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字)で校訂し、読点・記号等を変更・追加した。但し、孰れにも疑義のある表記個所があったが、取り敢えず、意味が通ずると考えた方を採った。

   *

だんぎぼう、「安布良加須」に、『水の中にも智者は有けり よの魚に敎化をやするや談義坊』。「洛陽集」に、『談義房氷の天井張られけり 春澄』。「人倫訓蒙圖彙」に、『談義坊賣あり。注云、こまかなるざこを桶に入て、になひあるき、「だんぎ坊」と賣也。此を都の幼少なる子供、もとめて、水鉢又は泉水にはなち、なぐさみとする也』。「大倭本草」に、杜父魚の條、『京師の方言に、「だんぎ坊主」といふ魚あり。杜父魚に似て、其形、背高し。是亦、杜父魚の類也』。「本草啓蒙」、『杜父魚、京にて「いしもち」、彥根にて「どぼ」、仙臺にて「かじか」、勢州にて「だんぎぼう」』(「物類稱呼」に諸方言を多く載たれども、「だんぎぼう」は他物をいへり)などあり。江戶にて「土※魚(ダボハゼ)」といふ物也[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(「艹」+「甫」)。]。談義坊とは、凡僧、經論も見ずに咄すを、水に放すと云秀句にて、談義坊といふとぞ。小野蘭山晚年の說に、『この「石もち」といふ魚は、尾、圓し。杜父魚は「本草」に、「其尾岐」とあるにかなはず。「寧波府志」に出たる泥魚、是也』といへり。今按るに、處によりて異同有。其名も杜父魚・土※魚・泥魚、みな一名の轉じたると聞ゆ。こゝの名も亦然なり。トウマン(江州)、トチンコ(石州)、チンコ(同)、ドボ(彥根)、トウボウ(備前)、ドンホ(筑前)、トホウズ(作州)など一名の轉じたる也。さればダボハゼ・ダンギボウもおなじ名と聞ゆ。カシイ(駿州)、カコブツ(越前)、トングウ(筑後)、トンコツ(伊勢龜山)などいふも、又、おなじ。但し、カクブツはカハカジカ(仙臺)、カハヲコゼ(伏見)、ゴツポ(防州)などの名を略し、それに物といふことを添しにもあるべし。ダンギボウもタボトボといふを、やがて、談義坊主と拵へたる謔名也。「啓蒙」に此名を勢州方言としたるは、今は京師には「石もち」とのみいふにこそ。「芭蕉七部集」、『かくぶつや腹をならべて降霰 拙侯 杜父魚は河豚のやうなる魚にて、水上に浮ぶ。越の川にのみある魚也』と云り。

   *

少しだけ注しておく。総てやり出すと、博物学的に大脱線になるので、一部に留める。

・「安布良加須」は「油糟(あぶらかす)」で、松永貞徳著になる俳諧論書。寛永二〇(一六四三)年刊。「新増犬筑波集」の上巻に相当し、下巻の「淀川」とあわせて一巻とする。山崎宗鑑の「犬筑波集」所収の付合(つけあい)の前句に、新しく付句を試みて手本を示したものである。多様な方言を例示していて水産動物の博物誌に強い興味がある私には非常に面白い(面白いが、これは同定をさらに混同させはする)。後で宵曲が言っている「あぶらかす」は本書のこと。

・「洛陽集」は江戸前期の俳諧選撰集で自悦編。

・「大倭本草」(貝原益軒の「大和本草」)の「杜父魚」は私が「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」で電子化注してあるが、最後に確かにそう出てくるものの、そこに至る益軒の叙述からは「だんぎ坊主」をメダカに当てることは逆立ちしても、到底、不可能である。

・「かくぶつや腹をならべて降霰」座五は「ふるあられ」。この句は「続猿蓑」の「冬之部」に載るが、後書もあって、そこには、「杜夫魚(かくぶつ)は河豚(ふぐ)の大さにて水上に浮ぶ、越の川にのみあるうをなり」とある。しかして、これはスズキ目カジカ科 Rheopresbe属アユカケ Rheopresbe kazika のことを指す。本種は降河回遊型のライフ・サイクルを持つことで知られる(「カマキリ」という異名もよく知られる)。ウィキの「アユカケ」によれば、伝承として、『「冬に腹をみせて浮かび下る」とも言われる。霰(あられ)の降る晩に大きな腹を上にして浮かびながら川を下るため霰が腹を叩くという。地方名「あられがこ」の由来である。実際に冬に降河するアユカケは産卵を控え大きな腹をしている』ものの、『腹を見せて流下する様子は今のところ観察されていない』とある。また同種は、本州の太平洋側では茨城県久慈川以南に、日本海側では青森県深浦町津梅川以南、及び四国・九州に棲息するので、後書の限定とは矛盾する。これは思うに、淡水産カジカ類全般を「ゴリ」と呼ぶが、特に石川県金沢市周辺では、これらの魚(アユカケもその一種に含まれる)を用いた佃煮・唐揚げ・照り焼き・白味噌仕立ての「ゴリ汁」などの「ゴリ料理」が名物となっていることに関係する誤認であろうと思われれる。御当地料理の食材は他の国に同じものがあっても「違う」と喧伝したがるもので、作者も恐らく加越能出身の誰彼からか、或いは現地でそう聴かされて信じていたものであろう。私自身、実は若い頃、金沢のゴリ料理のゴリというのは金沢周辺にのみ棲息する淡水固有種のカジカ類だと勝手に思い込んでいたことを自白しておく。

・「拙侯」は大坂の人。詳細不詳。

   *

「『和漢三才図会』などは石斑魚(いしぶし)の条において、「又背腹共黒談儀坊主」と記している」私の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「いしぶし 石斑魚」を見られたい。さすれば、「いしぶし」の登場する「源氏物語」の「常夏」冒頭のシークエンスの引用や拙訳も読める。因みにそこでは、喧々諤々の同定論争に嫌気がさして、「いしぶし」同定の一番人気は幼魚期を海で過ごす「通し回遊」をするハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ウキゴリ属ウキゴリChaenogobius urotaenia、二番手は淡水産のカジカ亜目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux であろうかとかわして逃げている。まんず、騙されたと思って上記リンク先のそれを読まれたい。損は、させない自信はある。

「隔鞾搔痒」「鞾」は「靴」に同じい。

「蕉門名家句集」俳人で、蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主安井小洒(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年:本名、知之)が昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。

「サギシラズ」「鷺不知」小学館「日本国語大辞典」に、『(あまりにも小さいので鷺の目にもとまらないという意)京都の鴨川でとれる雑魚(ざこ)のごくこまかいもの。また、それをつくだ煮にした食品。生きたまま沸騰した湯にとおし、薄口醤油と砂糖とを加えて長時間たきつめたもの。におい消しに生薑(しょうが)を入れることもある。京都の名物であるが、今日ではほとんど産しない』とあり、ネット上には琵琶湖産の「いさざ」(ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属イサザ Gymnogobius isaza を指すともあった。イサザは同属種の上記のウキゴリに似るが、小型であること、体側の斑点が不明瞭なこと、尾柄が長いことなどで区別され、琵琶湖固有種で、北湖に産する。琵琶湖にはウキゴリも棲息しており、イサザはウキゴリから琵琶湖の閉鎖空間で種分化が進んで生まれたものと考えられている。

「鉄道唱歌」「扇(おうぎ)おしろい京都紅(きょうとべに)、また賀茂川の鷺(さぎ)しらず」ウィキソースの「鉄道唱歌/東海道篇」から、五十三番を節で改行して示す(都は正字化した)。

   *

扇おしろい京都紅

また加茂川の鷺しらず

みやげを提げていざ立たん

あとに名殘は殘れども

   *

「俳書大系」昭和初期に刊行された勝峰晋風編のシリーズ「日本俳書大系」(日本俳書大系刊行会刊)。

「猫の耳」越智越人編の享保一四(一七二九)年十一月の俳諧撰集。

「胸の月けもなし魚の談儀坊」「胸の月」は悟りを開いた心を清く澄む月に喩えて、心が清いさまにも使う。秋の季題。「けもなし」はそんな禅機の「氣も無し」(かけらもない)と「毛も無し」で「坊」主の頭に掛けて「談儀坊」を引き出したのであろう。駄句だが、この場合の「談儀坊」が頭でっかちのゴリ類がイメージとしてはよかろうかい。

「問景」不詳。事蹟がネットでも掛かってこない。

『「瀬見の小河」は有名な石川丈山の詠もあり』「石川丈山」は「丈艸 六」に既出既注。この詠とは、

   鴨河をかぎり、都のかたへいつましきとて
   よみ侍りける

 わたらじな瀨見の小河の淺くとも

    老いの波そふ影もはづかし

である。ウィキの「石川丈山」などには、丈山は老いて後、洛北の一乗寺に詩仙堂を構えて隠棲していたが、ある時、『後水尾上皇からお召しがあった』。しかし、丈山は『「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った。上皇はその意を了として丈山の歌を「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波そふ影は恥かし」と手直しして返したという』などという清貧のエピソードとして記しているが、事実はこんな風流な話とは全く違う事実に基づく作歌理由がある。丈山は実は晩年、「出身地の三河に帰りたい」という願いを徳川幕府に願い出たが、京都所司代板倉重宗が許さず、これに憤慨して詠んだのが本歌であるというのである。その詳しい背景や経緯は、伊藤勉氏の論文「鴨河倭歌考」に非常に詳しい。事実を知るほどに、板倉への怒りがいやさかとなる。御一読あれ。]

 

 数珠掛はどの木に啼や栗の花     史邦

 「数珠掛」は「数珠掛鳩」の略である。鷺に「五位」といい、鴨に「羽白(はじろ)」という。俳句にはよくある略語である。どういう場所であるか、はっきりわからないけれども、相当木の茂っているところらしく、栗の花の連想があるせいか、どんより曇っている日のような感じがする。数珠掛鳩がしきりに鳴くが、声ばかりで姿は見えぬのである。子規居士の『病牀六尺』に、松山ではこの鳥が「トシヨリコイ」と鳴く旨が記されてあったと思う。

[やぶちゃん注:「数珠掛」は「じゆずかけ(じゅずかけ)」。ハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria。和名は後頸部に半月状の黒輪があることによる。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 斑鳩(はと)(シラコバト・ジュズカケバト)」の私の注を参照されたい。鳴き声と動画はManyamou氏の「ジュズカケバト(大宮公園小動物園)」がお薦め。]

 

 広沢やひとり時雨るゝ沼太郎     史邦

 広沢は池の名で、古来月の名所になっている。「沼太郎」の語には二説あって、鴻(おおとり)のことだともいい、沼の大きなことだともいう。柳亭種彦(りゅうていたねひこ)がどは「山の太郎は富士なり、川の太郎は利根なり、それ等に対して、こゝは沼太郎なりといひたて、余所には知らぬ時雨に孤(ひとり)ぬるゝと、広沢の広き光景をいひたるなり。池太郎といふべきを沼太郎と転じたるは、俳諧のはたらきなるべし」と断じているが、この説には俄(にわか)に従いにくい。広沢という語が直に池を現しているにかかわらず、下に沼太郎の語を添えるのは、俳句として働きのあるものでないし、かつ池を沼にいい換えるなどは、働きかも知れぬがむしろ窮した方である。これを鴻のこととすれば、蕭条たる広沢の時雨の中に唯一羽鴻が浮んでいる光景になって、画面に中心を生ずると共に、自ら魂が入って来る。「ひとり時雨るゝ」という言葉も、鳥の形が大きいだけに、この場合適切なように思う。これが唐崎の松とか、何もない枯野の中の一つ松とかいうものならば、種彦のいわゆる「時雨に孤ぬるゝ」という感じも受取れるであろうが、広沢の池の広い感じを現すものとしてはどうも工合が悪い。種彦はまた雁を沼太郎というのは近江の方言だから、京師の句に用いるべきいわれはないとか、この「や」は「は」に通う「や」で、もし雁の事とすれば「広沢に」といわなければならぬとかいう説をも述べている。しかしそれらはやや理窟にわたる弁で、太郎という語の考証などに力を入れず、直にこの句の趣を味えば、鴻の句として十分その妙を感じ得べきはずである。同じ元禄時代の「かれ枝やひとり時雨るゝてりましこ 彫棠」などという句を併せ考えても、ひとり時雨るるものが何であるかは、自ら明でなければならぬ。それでもまだ足りなければ、史邦の動物に対する興味ということを持出しても構わない。要するにこの句を以て「広沢はひとり時雨ると沼太郎」の意と解する種彦説では、大した趣を感ずることは出来ないが、鴻を登場させるに及んで、はじめて生趣躍動するのみならず、史邦の面目を発揮し得たものとなる。その意味においてこの句もまた動物を詠じた一に算えたいのである。

[やぶちゃん注:「沼太郎」カモ目カモ亜目カモ科マガン属オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii ととってよかろう。全長九〇センチメートルから一メートルと大型で、体型や頸部が長く、嘴は細長い。夏季にシベリア東部で繁殖し、冬季になると、中国や日本へ南下する。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」でも「ひしくい」に同定されておられ、語注に、『和名、ひしくい。『俚言集覽』に「近江・美濃のあたり、雁の大いなるを沼太郎と言ふといへり」とある。全体は暗褐色で腹と尾羽の先が白い。本来は秋の季語』とされる(本句は「時雨」で冬)。そうとうれば、既にして発句を好んで諧謔化する種彦のような説明にならぬ逆立ちした語釈は不要である。そもそも史邦は尾張犬山の出である。地理情報と用語をリンクさせねばならない縛りなど俳諧にはない。だったら、芭蕉は「奥の細道」で東北弁で句を創らなくてはなるまいよ、柳亭はん。

「柳亭種彦」(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)は江戸の合巻作家。名は左門、主税。旗本高屋甚三郎知義の長男として江戸に生まれ、下谷御徒町の御先手組屋敷で育った。寛政八(一七九六)年に家督を相続、若い頃唐衣橘洲に狂歌を学び、文化初年頃(一八〇四年頃)から戯作活動に入った。「源氏物語」に材をとった「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)が大好評を得て、合巻界の第一人者となった(歌川国貞画)。同作は文政一二(一八二九)年から始まり、死去により未完で終わった(本作で彼は幕府の咎めを受けて絶版となり、その直後に病没しているが、自殺であったとも言われる)。一方で考証家としても優れた考証随筆を残している。

「てりましこ」「照猿子」で、スズメ目アトリ科ヒワ亜科ベニマシコ属ベニマシコ Uragus sibiricus の異名。日本では夏鳥として北海道、青森県下北半島で繁殖し、冬鳥として本州以南へ渡り、越冬する。ほぼスズメと同じ大きさで、嘴は丸みを帯びて短く、肌色をしている。♂は全体的に紅赤色を帯び、目先の色は濃い。夏羽は赤みが強くなる。頰から喉、額の上から後頭部にかけては白い。背羽に黒褐色の斑があり、縦縞のように見える。♀は全体的に明るい胡桃色で、頭部・背・喉から胸・脇腹の羽毛に黒褐色の斑があり、全体に縞模様があるように見える。この「照猿子」とその映えから考えて、♂の映像であろう。

「彫棠」青地彫棠(ちょうとう ?~正徳三(一七一三)年)は松山藩の江戸詰めの藩医青地伊織。其角門の代表的俳人として江戸で活躍した。晩年は周東と号した。]

 

 泥亀や苗代水の畦づたひ       史邦

 『猿蓑』にはこうなっているが、これは去来の書誤りで、「畦づたひとうつりとは形容風流格別なり。殊に畦うつりして蛙啼くなりともよめり。肝要のけしきをあやまること筆の罪のみにあらず、句を聞くことのおろそかに侍る故なり」といって、芭蕉が不機嫌だったという話の残っている句である。其角の「此木戸や鎖(じょう)のさゝれて冬の月」と共に、「猿蓑誤字物語」の一に算うべきものであろう。

 「畦づたひ」と「畦うつり」では、芭蕉のいう通り大分感じが違う。この句を冷かしたわけでもあるまいが、其角に「苗代や座頭は得たる畝(あぜ)伝ひ」という句があったはずである。単にのろのろした泥亀が畦づたいに歩いているというよりは、畦から畦へ移るという方が趣としても面白い。

[やぶちゃん注:以上の話は「去来抄」に載るもの。しかし、宵曲のこういう仕儀は戴けない。ちゃんと正しい句を示すべきである。

 泥龜(どろがめ)や苗代水(なはしろみづ)の畦(あぜ)づたひ

である。「去来抄」のそれは、「同門評」の以下。

   *

  泥がめや苗代水の畦うつり    史邦

さるミの撰に、予誤て畦つたひと書。先師曰、畦うつりと傳ひと、形容風流各別也。殊に畦うつりして蛙なく也ともよめり。肝要の氣色をあやまる事、筆の罪のみにあらず。句を聞事のおろそかに侍るゆへ也と*、機嫌あしかりけり。

   *

『其角の「此木戸や鎖(じょう)のさゝれて冬の月」と共に、「猿蓑誤字物語」の一に算うべきもの』同じく「去来抄」に載るトンデモ誤読事件。しかも、読み違えたのは、芭蕉自身であったと考えてよい。投句された際、草書でさらに字が詰まっていたために「此木戶」を「柴ノ戶」と読み違えてしまったのである。「去来抄」の「同門評」の以下。

   *

  此木戶や錠のさゝれて冬の月    其角

猿みの撰の時此句を書おくり、下を冬の月・霜の月置煩ひ侍るよしきこゆ。然るに初は文字つまりて、柴(シバ)ノ戶と讀たり。先師曰、角が冬・霜に煩ふべき句にもあらずとて、冬月ト入集せり。其後大津より先師の文に、柴戶にあらず、此木戶也。かゝる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出板に及とも、いそぎ改むべしと也。凡兆曰、柴戶・此木戶させる勝劣なし。去來曰、此月を柴の戶に寄て見侍れば、尋常の氣色也。是を城門にうつして見侍バ、其風情あはれに物すごくいふばかりなし。角が冬・霜に煩ひけるもことはり也。

   *]

 

 史邦の動物に関する句が往々微細な観察にわたっていることは、前にも一、二の例を挙げたが、なお少しくこれを説かなければなるまい。

 由来なき絵や書壁の蝸牛       史邦

[やぶちゃん注:「書」は「かく」。]

の如きは、いずれかといえば特色の乏しいもので、所詮蕪村の「蝸牛や其角文字のにじり書」[やぶちゃん注:「ででむしやそのつのもじのにじりがき」。]に如(し)かぬであろう。が、

 蟷螂のほむらに胸のあかみかな    史邦

の句になると、大分史邦らしい特色がある。『小文庫』には「小見」といふ前書があって、

   大見

 稲妻やうみの面をひらめかす 史邦

[やぶちゃん注:「面」は「おもて」。]

の句に対している。大見、小見の語は別に説明がないけれども、その句から考えると、先ず大見は壮大なる観察、小見は繊細なる観察というようなことになるのではないかと思う。但この時代の観察は後ほど客観に徹せぬため、この「ほむら」と「胸のあかみ」なども、いささか即き[やぶちゃん注:「つき」。]過ぎる憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]がないでもない。ここでは蟷螂の胸に眼を著けた史邦の「小見」に或価値を認めるまでである。

 

 あたままで目でかためたる蜻蛉かな  史邦

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼ」。]

 これなども、蟷螂の句と同じく、「小見」に属すべきものであろう。蜻蛉の眼玉を材料にしたものは、近頃の童謡にもある。ルナアルの『博物誌』などは存外この眼玉を閑却しているようだけれども、あの眼玉は慥(やしか)に特異なものである。俳人の観察は疾(はや)くからここに注がれており、史邦の句の外にも次のような句が残っている。

 蜻蛉のつらうちはみな目玉かな    才角

 蜻蛉の顔は大かた眼玉かな      知足

 句集刊行の順序からいうと、史邦の句の出ている『猿舞師(さるまわし)』が元禄十一年、才角の『俳諧曾我』が十二年、知足の『東華集』が十三年で、殆ど先後を論ずるほどの差は認められない。これらは同工異曲と称すべきもので、蜻蛉の眼玉の感じから期せずして一致したものであろう。それだけに史邦の独擅場というわけには行かないが、「つらうちはみな目玉」とか、「顔は大かた眼玉」とかいうよりも「あたままで目でかためたる」という方が何分か積極的なところがある。やはり動物に関する興味の一片と見るべきものである。

[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』などは存外この眼玉を閑却しているようだ」私の『ジュール・ルナール「博物誌」ピエール・ボナール挿絵付 附 Jules Renard “Histoires Naturelles” 原文+やぶちゃん補注』から、訳のみ引く。

   *

 

   蜻蛉(とんぼ)   La Demoiselle

 

 彼女は眼病の養生をしている。

 川べりを、あっちの岸へ行ったり、こっちの岸へ来たり、そして腫(は)れ上がった眼を水で冷やしてばかりいる。

 じいじい音を立てて、まるで電気仕掛けで飛んでいるようだ。

 

   *

「才角」不詳。

「知足」下里知足(寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)。本名は吉親。尾張国鳴海村(現在の名古屋市緑区鳴海町)の千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪。庄屋を勤める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した「鳴海六俳仙」の一人。

「猿舞師」種文編。

「俳諧曾我」白雪編。

「東華集」支考編。]

 

 史邦の馬糞の句のことは前に一言した。あれも前書附であったが、もう一つある馬糞の句にもまた前書が附いている。

   牢人して住所を去る比
   親疎の面々に対して

 似た物や馬糞つかみにあかさしば   史邦

 前書附の場合に二度まで馬糞を用いたのは、果して史邦の興味であるかどうかわからぬが、この「似た物」の句は十分にわからない。

[やぶちゃん注:「史邦の馬糞の句のことは前に一言した」「史邦 一」を見よ。「似た物や」の句意や感懐は私にはよく判らぬ。

「あかさしば」鳥綱タカ目タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus の、背の部分の羽の色が褐色を呈している個体を指すようである(但し、この呼称は江戸以降)。「さしば」は「立ち上がる」・「一定方向に直線的に運動する」の意の「さし」に、「鳥」を意味する「羽」がついたものであるらしい。サイト「鳥小屋」のこちらを参照した。私の好きな鷹である。]

 

 霞野や明立春の虎の糞        史邦

[やぶちゃん注:「明立」は「あけたつ」。]

 寒菊や赤土壁の鷹の糞        同

   幻住庵にて

 枯柴やたぬきの糞も庵の門      同

 史邦の句にはなおかくの如き動物の糞の句がある。第一の句は当時としては空想の句に外ならぬが第二、第三の句はいずれも写生句であろう。幻住庵の門前に狸の糞があるなどは、場所が場所だけにスケッチとしても面白い。昔子規居士(しきこじ)が「糞の句」の題下に鳥獣の糞の句を列挙したことがあるが、あの中にも狸の糞は見当らぬようであった。居士は美醜の標準から糞の句を見、俳人の観察区域が遂にこの辺にまで及ぶものとした。それはその通りであるが、われわれは史邦の句に関する限り、これも動物に附随する意味のものとして見たいと思っている。

 史邦の動物に関する句の中には、以上のようなものの外に、

   題鷹山別

 正行がおもひを鷹の山わかれ     史邦

[やぶちゃん注:「正行」は「まさつら」で、楠木正成の嫡男で「小楠公」と呼ばれた正行(?~正平三/貞和四(一三四八)年)のこと。父の戦死の後、南朝軍として活躍、河内守・摂津守となったが。河内の「四条畷(しじょうなわて)の戦い」で高師直・師泰の軍に敗れて自害した。前書は「鷹の山別れに題す」で、父正成との今生の別れは「桜井の別れ」として知られるが、それを「親子鷹の別れ」と捉え、鷹の巣立ちを意味する「山別れ」としたのであろうとは思う。]

の如く、何者かを仮託せんとしたものがあり、

 どかぶりの跡はれ切るや鵙の声    史邦

 帷子は日々にすさまじ鵙の声     同

などの如く、動物そのものの観察よりも季節の感じを主にしたものもある。「どかぶり」の句は今日どしゃ降などいうのと同じく、豪雨のあと一天拭うが如く晴れ渡った中に、鵙の高音を耳にするの意であろう。一読爽(さわやか)な秋晴の空を仰ぐが如き思がある。「帷子」の句は秋に入ってなお帷子を著ている場合、日ごとに凄涼の感を深うするというので、前とは全然異った背景の下に鵙の声を点じ、自ら別様の趣を捉えている。共に好句たるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「鵙」私の好きなスズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。本邦ではほかに、アカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus が見られる。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず)(モズ)」を参照されたい。

「帷子」は「かたびら」。夏の麻の着物。古くは「片枚 (かたひら)」と記し、裏のない衣服を総てこう呼んだが、江戸時代には「単 (ひとえ) 仕立ての絹物」に対し、麻で仕立てられたものを「帷子」と称した。武家のしきたりを書いた故実書によれば、帷子は麻に限らず、生絹 (すずし) ・紋紗 (もんしゃ) が用いられ、江戸時代の七夕や八朔 (はっさく:陰暦八月一日) に着用する白帷子は七夕には糊をつけ、八朔それには糊をつけないのを慣わしとしていた。浴衣も湯帷子が本来の名称であった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2020/08/16

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 一

 

[やぶちゃん注:中村史邦(ふみくに 生没年不詳)は大久保荒右衛門・根津宿之助の名も伝わる。尾張犬山の人で。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に活躍した蕉門俳人。尾張国犬山藩主の養子(旧姓は成瀬)寺尾土佐守直龍(なおたつ)の侍医で、医名は春庵と名乗った。後に京に出て、上洛して仙洞御所に出仕し、また、京都所司代の与力も勤めた。元禄五(一六九二)年に致仕し、翌年の秋には江戸に移住した。芭蕉からは二見形文台や自画像を贈られ、師没後は、逸早く遺句・遺文(特に「嵯峨日記」の伝来は有名)を集めて追悼集「芭蕉庵小文庫」(元禄九(一六九六)年刊)を刊行しているが、俳人としての全盛期は「猿蓑」の頃で、後は飛躍し得なかった。]

 

     史  邦

 

       

 

 史邦という俳人は従来どの程度に見られているか、委(くわ)しいことは知らぬが、あまり評判になっていないことだけは慥(たしか)である。史邦は「シホウ」と読まず、「フミクニ」と読むのだという。しかし「史邦吟士」と称し、「史子」と呼ぶような場合にも、一々音読を避けていたかどうか。明治の阪本四方太氏は本名をそのまま雅号に用いたので、元来は「ヨモタ」であるのを、雅号の場合は「シホウダ」と発音した。長塚節氏も本名は「タカシ」と読むのだけれども、普通には皆「セツ」と称している。史邦の読み方にもあるいはこれに似た消息がありはせぬかと思う。

[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は俳人。鳥取県出身。正岡子規門下。俳誌『ホトトギス』で活躍した。

「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は歌人で小説家。子規門。]

 

 史邦の句に多少注意し出したのは、彼の句に動物を扱ったものが多いように感ぜられたからであった。尤もこういう興味は大分筆者の主観が手伝うので、冷静に勘定して見たら、それほど多いわけではないのかも知れない。史邦の句というものも、全部でどの位あるのかわからず、比例を取って見たわけでもないのだから、動物の句が多いということもどの程度までに立証されるか疑問である。ただ漠然たる考を幾分慥めたいため、この文章を草するに当り、蝶夢(ちょうむ)の編んだ去来、丈艸二家の集についていささか調べて見た。急場仕事で不安心ではあるが、去来の句に取入れた動物の種類約三十一、この外に魚とか虫とかいうだけのものが少しある。丈艸は虫及(および)鳥とだけあるものを除いて三十九。史邦の五十種に比べていずれも多少の遜色があるけれども去来、丈艸の句集は比較的句数が少いので、もっと句数の多い芭蕉とか、其角とかいう人たちの集について見たら、動物の種類もあるいは史邦のそれを超えているかも知れない。そういう比較を多くの句集について試みるのも、別個の問題として面白いかと思うが、筆者が史邦についていおうとするところは、必ずしも多数決にのみよろうとするわけでないから姑(しばら)く他に及ばぬことにする。

 去来、丈艸二家の集に現れた動物の句と、史邦の動物の句とを比べて見ると、種類以外によほど異った点がある。例えば去来集においては時鳥の句十一、鶯の句八、鹿の句七、丈艸集においては時鳥の句十五、きりぎりすの句九、というが如く、種類によって非常に句数の多いものが見えるけれども、史邦の句にはそれがない。去来にしろ、丈艸にしろ、句数の多いものは必ず季節によって観賞に値する種類の動物であるが、史邦の句はこれに反し、季題的動物の上に偏愛の迹(あと)が見えず、馬の句八が最も多く、猫の句六がこれに次ぐ位のもので、他はいずれも目につくほどの数ではない。しかも去来集には馬の句六、猫の句四を算え得るのであるから、馬や猫においては敢て異とするに足らぬのである。

 去来は「鴨啼くや弓矢をすてゝ十余年」と詠(よ)んだ人である。従ってこの人の馬を詠じたものには「うちたゝく駒のかしらや天の河」の如き、「乗りながら馬草はませて月見かな」の如き、その面目を想いやるべきものがある。史邦の句にはこれほど気稟(きひん)の高いものは見当らぬけれども、

 どくだみや繁みが上の馬ほこり    史邦

 板壁や馬の寐かぬる小夜しぐれ    同

   旅行

 瘦馬の鞍つぼあつし藁一把      同

[やぶちゃん注:座五は「わらいちは」。]

 煎りつけて砂路あつし原の馬     同

の如く、妙に実感に富んでいる。路傍に繁った十薬(どくだみ)の葉の上に、馬の埃が白くかかっているということも、板壁を隔ててまだ眠らぬ馬が、しきりにコトコト音させているということも、頗るわれわれの身に近く感ぜられる。去来の句にあるような画趣の美しさは認められぬ代りに、今少し違った味がある。「瘦馬」及「煎りつけて」の二句は、炎天下の馬を描いたもので、句は必ずしも妙ではないかも知れぬが、喘(あえ)ぐが如き大暑の実感を伴っていることは、何人も認めざるを得ぬであろう。

 この種の傾向を示す句の中に次のようなものがある。

   猿蓑撰集催しける比発句して
   心見せよと古翁の給ひければ

 はつ雪を誰見に行し馬の糞     史邦

 「古翁」は芭蕉である。史邦は何時頃から蕉門に入ったものか、委しいことはわからぬが、その句の撰集に見えるのは、大体『猿蓑』あたりからかと思われる。この句はいわゆる写生の句ではない。芭蕉の慫慂(しょうよう)に対して、一応の謙辞を述べたものらしくも解せられるが、姑く句の表だげについていえば、正に雪上に馬糞を点じたもので、伝統的な歌よみや詩人などは頭から眉を顰(しか)めそうな材料である。「初雪にこの小便は何奴(なにやつ)ぞ」という其角の句のように、磊落とか奇抜とかいうわけでもない。初雪の上に誰か馬で通ったと見えて、新なる馬糞が落ちているという事実を、そのまま句中のものとしたのである。句の佳否はともかく、史邦の態度が徒(いたずら)に奇を好むものでないことだけは認めてやらなければなるまい。

 毛頭巾をかぶれば貒の冬籠     史邦

 貒は「マミ」と読むのであろう。他に「猫」となっている書もあるが、いずれにしてもこれはその動物の姿ではない。自ら毛頭巾を被(かぶ)っている様を、マミもしくは猫に擬したものらしい。貒の如しとも、貒に似たともいわず「貒の」といい切ったところに特色がある。貒、猫、字形の相類するところから混雑したのかと思うが、句としてはマミの方がよさそうである。

[やぶちゃん注:「貒」食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma の異名。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及びその前項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」の私の注も参考になると思う。実は良安は今一種(流石に本邦にいるとは記さないが)、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん)(同じくアナグマ)」をも挙げている。]

 身の龝や月にも舞はぬ蚊のちから   史邦

 この句には「高光のさいしやうかく斗(ばかり)がたくみゆるとよみたまひけむは九月十三日の夜とかやうけたまはりて」という前書がついている。「かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな」というのは、『拾遺和歌集』にある藤原高光の歌で、「法師にならむと思ひ立ちける頃月を見侍りて」という前書がある。月に対して人世(じんせい)の憂苦多きを歎ずるのは、古今一貫した人間の常情であろう。史邦も月に対してこの歌を思い、我身の秋をしみじみと感じたのである。秋もうら寒くなるにつれて、次第に飛ぶ力を失いつつある蚊にさえ、落莫(らくばく)たる我身の影を認めたに相違ない。

[やぶちゃん注:「龝」は「あき」(秋)。]

 

 油なき雁の羽並や旅支度 史邦

 雁といわず、鴨といわず、あまりに栄養がよ過ぎて脂肪過多に陥った水鳥は、身体が重くなって長途の飛行に適せぬと聞いている。油なき羽並の雁は即ちその北地へ帰る旅支度の已に調ったことを語るものであろう。こういう句を見ると、史邦の動物に臨む態度の如何にも親しいものであることがわかる。それも後に一茶が振廻したような、殊更な人間的俗情でなしに、もっと自然な親しみである。

[やぶちゃん注:「羽並」は「はなみ」。羽振り。鳥の羽が揃って並んでいる状態や有様。また、多くの鳥が羽翼を連ねて並んでいること様子も言う。地や湖水などにいる情景よりも、試し飛びをしている複数の雁の姿を映像する方が良かろうから、後者で私は採る。]

 

 石竹に雀すゞしや砂むぐり      史邦

 初雪に鷹部屋のぞく朝朗       同

 野畠や雁追のけて摘若菜       同

 こういう句に現れた動物との親しみは、「初蛍なぜ引返すおれだぞよ」とか、「やよしらみ這へ這へ春の行く方へ」とかいう句に喝采する人たちの、よく解するところではないのかも知れない。

[やぶちゃん注:「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。

「砂むぐり」「砂潛(すなむぐ)り」。砂浴び。砂に窪みを作って羽を逆立せるように砂を浴びる行動はスズメに頻繁にみられる。主に皮膚や羽についているダニなどの寄生虫を落とす目的であろうが、羽を逆立せるように動く彼らを見ていると、それ自体を遊びとしても好んでいるかのようにも見える。

「初雪に鷹部屋のぞく朝朗」座五は「あさぼらけ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈を引く。『初雪が清らかに降り積もった早暁、身の引き締まるような気持で、そうした朝にふさわしい鷹部屋をのぞいてみた、というのである。「初雪」「鷹部屋」「朝朗」と脱俗的な雰囲気のものが並び、長(たけ)高い句風になっている。舞台は大名屋敷か武家屋敷ででもあろう。「鷹部屋のぞく」は、朝狩の心用意があってのことかもしれない』とされ、「初雪に」に注されて『ここは初雪が降り敷いていて、空は晴れ上がっているさまとみる』とある。

「野畠や雁追のけて摘若菜」「のばたけやかりおひのけてつむわかな」。堀切氏は前掲書で、『広い野の畠に出て、畦の若菜を摘もうとすると、辺りにいる雁が、人の気配に驚いて飛び立ってゆく――まるで雁を追いのけて若菜を摘むような気がする、というのである。春の若菜摘みの光景の一点描』(いちてんびょう)『であるが、「雁追のけて」という見方がおもしろい』と評されておられる。「若菜摘み」は正月七日の七草を摘む行事。新年の季題である。

「初蛍なぜ引返すおれだぞよ」小林一茶の句。「八番日記」所収の文政三(一八二〇)年の作。

「やよしらみ這へ這へ春の行く方へ」同じく一茶で「七番日記」所収の文化一一(一八一四)年五十二歳の時の句。]

 

   世上をつくぐおもふに

 蚊の声をはたけば痛し耳のたぶ    史邦

   石火の気と云事を

 追立てすねとらへけり蠅の声     同

   間不ㇾ容ㇾ髪といふ事を

 草むらや蠅取蜘の身づくろひ     同

 これらはいずれも小動物を仮りて何者かを現そうとしたものである。耳辺に唸る蚊の声がうるさいから、殺すつもりで打つと、蚊は打てずに耳朶(みみたぶ)の痛みだけが残る、というような事実は世間にいくらもある。史邦もこの意味において「世上」云々の前書を置いたのであろうが、これはいささか理に堕した嫌(きらい)がある。長塚節氏の歌に「ひそやかに螫(さ)さむと止る蚊を打てば手の痺れ居る暫くは安し」「声掛けて耳のあたりにとまる蚊を血を吸ふ故に打ち殺しけり」などとあるが如く、単にそれだけのことを詠んだ方が、句としてはかえってよかったろうと思う。しかし史邦の主眼が最初から寓意にあるのだとすれば、如何とも仕方がない。

 蠅及(および)蠅取蜘蛛の句は、それとは少し趣が違う。石火の気と間不ㇾ容ㇾ髪とかいうことを如実に現さんがために、蠅なり蠅取蜘蛛なりを用いたのであるが、単に思量の上に成ったというよりも、かつて見たところをこの意に当嵌(あては)めたという方が当っているようである。平生からこういう小動物に興味を持っている者でなければ、直にこの趣を捉えるわけには行かない。蠅取蜘蛛が蠅を捕る状(さま)はしばしば目撃したことがあるが、あの呼吸はなるほど間髪を容れずともいうべきものかと思う。

[やぶちゃん注:「石火」(せつくわ(せっか))で電光石火(稲妻の光や燧石(ひうちいし)を打った際に出る火の意から、動きが非常に素早いことや非常に短い時間の喩え)のそれ。「気」はその瞬時の気迫の意。「機」にも通ずる。ここの「すね」(脛)は蠅のそれである。

「追立て」は「おひたてて」。

「間不ㇾ容ㇾ髪」「間(かん)、髪(はつ)を容(い)れず」或いは「間に髪を容れず」元は「間に髪の毛一本さえも入れる余地がない・物事に少しの隙間もないさま」から転じて、ある一つの事態が起きた際、すかさず、それに応じた行動に出るさまを指す。

「蠅取蜘」「はへとりぐも」。節足動物門蛛形(クモ)綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidae に属するハエトリグモ類。ハエトリグモ科は世界的にクモ類中で最大の種数を抱え、かつては五百属五千種が知られ、現在は命名されている種だけで六千種に及ぶが、主に熱帯棲息域を持つ種が多く、実際の種数はおそらくもっと多い。ここで史邦の観察しているそれは、屋外であるから、ハエトリグモ科マミジロハエトリグモ属マミジロハエトリ Evarcha albaria あたりか。しかも、これは蠅を捕らえるためのプレの準備運動という映像である。私が例外的に好きな昆虫である。私は家内に棲む彼らを絶対に殺さない。]

 

 けれども同じ蠅を詠んだ句でも、更に趣の深いのは。

      病中の吟

 蠅打や暮がたき日も打暮し      史邦

である。暮れがたい夏の永い日も、僅に蠅を打つ一事によって暮す、という病牀の徒然(とぜん)な有様で、長病の牀(とこ)の哀れさは「暮がたき日も」の中七字に集っている。「打暮し」の「うち」は、「うち渡り」とか「うち眺め」とかいう接頭語でなしに、蠅打の「打」であるこというまでもない。「たれこめて蠅うつのみぞ五月雨(さつきあめ)」という渭橋の句、「蠅打てあとにはながめられにけり」という千那(せんな)の句、いずれも哀れでないことはないが、暮れがたき日も蠅を打暮す病牀の哀れは遥にこれにまさっている。前の蠅の句、蠅取蜘珠の句の如きは、まだなるほどと合点する分子を含んでいる。この蠅打の句に至って、はじめて作者その人の姿を感ぜしむるものがある。渾然たる出来栄というべきであろう。

[やぶちゃん注:「渭橋」検校(けんぎょう)であった数藤祢一(すどうねいち 生没年不詳)。妙観派の僧で奥村勾当。元禄一三(一七〇〇)年に検校に任官した。俳人としても著名で、渭橋と号し、宝井其角らと連句を作った「たれが家」があり、其角門であった。

「千那」三上千那(慶安四(一六五一)年~享保八(一七二三)年)は近江堅田の本福寺の住職で俳人。江左尚白(こうさしょうはく)とともに近江蕉門の古参であった。田中千梅編の追善集「鎌倉海道」がある。]

2020/08/13

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 六 / 丈艸~了

 

       

 

 丈艸の句には前書附のものが相当ある。しかし前に挙げた芭蕉関係の諸句の如く、前書によって丈艸その人の面目を窺い得るようなものはあまり多くない。

   閑居

 朝暮にせゝる火燵や春のたし    丈艸

[やぶちゃん注:上五「あさくれに」、「せゝる」は掻き立てるの意で、「火燵」は「こたつ」、「たし」は「足し」でこの春の日々の暮らし中で、それぐらいのことしか補えることはない、の意。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、掲句は「小柑子」(しょうこうじ:野紅編・元禄一六(一七〇三)年自跋)のもので、翌年の「土大根」(つちおおね:季水編・宝永元(一七〇四)年序)では、「風士季水病僧がほ句をなど申こされしに」と前書し(この年の改元前の元禄十七年二月二十四日に丈草は没した)、没後の宝永三年の「丈草発句集」では、上五を「朝夕に」とする、とある。]

 

   三月尽

 明ぬ間は星もあらしも春の持    同

[やぶちゃん注:「三月尽」は「さんぐわつじん」で三月の終わること。三月の晦日。上五「あけぬまは」、「持」は「もち」で「未だ受け持ちの分(ぶん)」の意。松尾氏前掲書によれば「喪の名殘」(ものなごり:北枝編・元禄十年刊)の句形で、『今日はもう三月尽。でも、』明日の『朝が来るまでは星もまだ春の星。強く吹く風もまた春の風。夜明けまで、春の名残を惜しむべし』と評釈され、また、「泊船集」(はくせんしゅう:風国編・元禄十一年刊)では上五を「行春や」とするとある。前書とともに「明けぬ間は」がいい。]

 

   年内立春

 十五日春ものし込年わすれ     同

[やぶちゃん注:「年内立春」いつもお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「暦のページ」の「暦と天文の雑学」の「年内立春と新年立春」に、以下のようにある。

   《引用開始》

.立春正月の意味

旧暦は立春正月の暦であるというのは、年の初め(歳首または年首)が立春前後に来るように調整された暦と言うことで、ぴったり同じになるという意味ではありません。

どれくらい前後するかというと、「最大±半月」です。

このようなずれが起こってしまうのは、旧暦が日次(ひなみ)を月の満ち欠けという太陰暦の要素から決定し、月次(つきなみ)を太陽の動きを示す二十四節気という太陽暦の要素から決定する太陰太陽暦であるための宿命のようなものです。

月の満ち欠けの周期と太陽の一年の動きの周期が割り切れないものであるため、月次を二十四節気にあわせて配置しても、日次の始まりである朔(新月)の日はぴったり二十四節気には合わせられないのです。

仕方がないので折衷案として、「最大±半月」の範囲内で一致すれば良いことにしたのが旧暦です。

2.年内立春と新年立春の意味

旧暦のシステムでは元日と立春の日付が最大±半月ずれることがあると言うことはおわかりになったと思います。

この「±」のうちの「-」、つまり旧暦の元日より早く立春を迎えてしまうことを年内立春と呼びます。

これに対して「+」、つまり旧暦の元日以降に立春が訪れる場合を新年立春と呼びます。

2007/2/4は立春ですが、この日は旧暦ではまだ12月ですから[やぶちゃん注:陰暦では1217日。]、元日より早くに立春を迎えた(つまり「-」側)例で、「年内立春」の例と言えます。

3.「年内立春」は珍しい?

こよみのページへ寄せられる質問や、掲示板への書き込みなどを読んでいると、旧暦の元日を迎えるより前に立春を迎えてしまうという年内立春は珍しい現象だと思っている方が多いようです。実を言いますと昔私も、「珍しい」と思いこんでおりました。

でもこれは(も)誤り。年内立春はほぼ2年に一度は起こるありふれた現象なのです。

[やぶちゃん注:中略。]

4.年内立春が「珍しい」と誤解される理由は?

年内立春がありふれた現象だと解って頂けたと思います。

ではなぜ、珍しい現象と誤解する人が多いのでしょうか。

ここからは、私の勝手な推理ですので、お暇な方だけおつきあいください。

  ふるとしに春たちける日よめる  在原元方

 『年の内に 春は来にけり ひととせを 

       こぞとや言はむ 今年とや言はむ』

古今集の冒頭を飾る歌で、年内立春といえば必ずこの歌が引用されるほど有名な歌でもあります(現に私も引用しています)。

意味はといえば、

 「年が変わらないうちに立春が来てしまったこの年を、

    去年と言うべきか、今年と言うべきか」

と言ったところでしょうか。

年内立春に戸惑っているといった印象を受ける歌です。

歌の善し悪しは私にはわかりませんが、何とも軽妙な感じで覚えやすい上、古今集の冒頭を飾る歌であるということで、よく知られた歌であることだけは間違いありません。

そしてそんな誰もが一度は聴いたことのある歌が、年内立春に戸惑っているような印象の歌ですから、

 旧暦時代の人も年内立春に戸惑っている

   → 戸惑うということは、珍しい経験に違いない

     → 年内立春は珍しい経験なのだ

と連想が進み、「年内立春は珍しいこと」という誤った結論に結びついてしまっているように思えます。

歌を作った在原元方が本当に、年内立春に戸惑っているのかどうかは何とも言えないところです。昔の人だってみんながみんな、暦に詳しいわけでは無かったでしょうから、本当に戸惑っているのかもしれませんが、2年に一度はあることなら、素人でもそんなに不思議な現象とは思わなかったと私は思います。

件の歌は、「年内立春」というちょっと変わった歌の題をもらって、さてどうしようかと考え、年内立春という言葉に潜む解っているけどどこか釈然としない感覚をウィットを効かせて軽妙な歌に仕立てたものではないかと想像します。

その時代の人たちにとっては、元方が歌に込めた「なんだか釈然としない思い」が良く了解できるので、おもしろい歌と受け取れたのでしょうが、今となっては、年内立春という余りなじみの無い言葉を歌った、特別な意味を持った歌と映るようになったのではないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

因みに、例えば、来年二〇二一年の立春を調べてみると、二月三日であるが、この日は陰暦では十二月二十三日となり、年内立春なのである。因みに、芭蕉にも、

   廿九日立春ナレバ

 春や來(こ)し年や行きけん小晦日(こつごもり)

という年内立春を詠んだ句がある(「千宜理記」)。

旧暦で大晦日(おおみそか)は「大晦日(おほつごもり)」で、その前日を「小晦日」と呼ぶ。この句は寛文二年(一六六二)年年末の詠とされるが、この年の十二月は小の月で十二月二十九日が大晦日に当たり、しかも立春だった。「小晦日」は不審を感じさせる言い方であるが(諸注釈は誰もそれを問題にしていないのだが)、これは一般に大の十二月三十日の場合のそれを大晦日と呼んでいたことに対して、音数律から判り易く句に用いたに過ぎないように思われる。因みに、この句は制作年代が判明している芭蕉の作では最古のものとされる。芭蕉十九歳の春のことである。先の在原元方の一首をもじると同時に、「伊勢物語」六十九段や「古今和歌集」(よみ人知らず・「卷第十三 戀歌三」・六四四番)に出る「君や來し我や行きけむ思ほえず夢か現(うつつ)か寢てか覺めてか」の措辞を裁ち入れた、如何にも貞門の優等生の諧謔である。]

 

というような句は、いわゆる題詠の類ではないにせよ、丈艸に対して何らかの鍵になる性質のものではない。「十五日」の句は「寒は既望の日より明て風景ことさらに悠然たり」という前書になっているのもある。この句を解する上に多少の便宜はあるが、格別注意を払わなければならぬ前書でもなさそうである。

[やぶちゃん注:「既望」陰暦十六日の夜を指す。]

 

 丈艸にはまた餞別、離別等の前書を置いたものがいくつもある。

   餞別

 見送りの先に立けりつくづくし    丈艸

[やぶちゃん注:「つくづくし」は実景の中に見える土筆のことではあるが、副詞の「つくづく」(熟(つくづく))の「凝っとよくよく(相手の去って行く)姿を見つめるさま」や、「(別れを)痛切にしみじみ感じ入るさま」、或いは「もの寂しく、ぼんやりしているさま。つくねん」の意を重ねているものと思う。松尾氏前掲書では、『土筆は旅立つあなたの道しるべのようであり、そして、しだいにあなたは土筆のように小さくなって、遠ざかる、元禄十四年春、仏幻庵を離れる支考に贈った餞別吟』とある。]

 

   餞別

 瓢簞の水の粉ちらす別かな      同

[やぶちゃん注:「水の粉」は「みづのこ」で、米や麦を炒り焦がし、粉に挽いたもの。冷水で溶かし、砂糖を加えなどして食する。「こがし」「いりこ」「水の実」等とも呼び、夏の季題である。瓢簞(ひょうたん)の水で以って「水の粉」を溶かしては二人で分け合って飲み、それをお別れとしよう、というのである。]

 

   餞別

 さしむかふ別やともに渋団      同

[やぶちゃん注:座五は「しぶうちは」。柿渋を塗って破れにくくした大きな団扇。本来は夏の季題。風を送ると同時に蚊を払うのに用いられた。松尾氏前掲書に、『元禄六年三月下旬、江戸に旅立つ史邦(ふみくに)からの〈慇懃(いんぎん)に成しわかれや藤の花〉のと留別吟に対する餞別吟』とある。三月と「藤の花」は無論、晩春であるが、少しばかり、早い日が別れのそれであったものか。季語無用論者の私には特に違和感はない。]

 

   やよひの廿日あまり関に
   蘆文に別るゝとて

 落著のしれぬ別れやいかのぼり    丈艸

[やぶちゃん注:「蘆文」は美濃関(現在の岐阜県関市(グーグル・マップ・データ))の佐野氏。蕉門の故老。上五は「おちつきの」。「いかのぼり」で春。松尾氏前掲書に、『これからさきの旅路はどこにどう落ち着くことやら。中空にゆらゆら漂うあの凧のように。元禄六年』(一六九三年)『三月二十日、美濃の関で芦文に残した句』とある。この翌年に師芭蕉が亡くなることを考えると、丈草の個人的な内心に既にして孤独な漂泊の翳が強く落ちていることが窺える。丈艸三十の春の一句である。]

 

   惟然行脚におくる

 炎天にあるき神つくうねり笠     同

[やぶちゃん注:「あるき神」(がみ)は、芭蕉が「奥の細道」の冒頭で「そゝろかみの物につきてこゝろをくるはせ」と挙げた「そゞろ神」のことであろう。私は『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉』で、『不思議な神名だ。諸注、何となく何心なく人の心を旅へと誘う神として芭蕉の造語とする。そうであろう。しかし如何にも美事な神名ではないか! ウィトゲンシュタインも言っている。――「神は名指すことは出来るが、示すことは出来ない。」――「そぞろ神」とはまさに、そうした神の名としてコズミックでエターナルな魅力に満ちている!』と注をやらかした。相手がかの惟然なればこそこの一句素晴らしい餞別句と言える。]

 

   離別

 別るゝと鉢ひらきなり草の露     同

[やぶちゃん注:「鉢ひらき」から見て、相手は行脚僧ではなかろうか。]

 

   つくし人を送りて

 大仏を彫る別れやあきの風      同

[やぶちゃん注:判るる「筑紫」のお方、知りたや。]

 

これらの句の相手は何人であるか、蘆文、惟然の外は明でない。

 

   獅子庵の主人東西両華の廻国
   終りて此春又うき世の北の山
   桜見ばやと思ひ立申されしが
   一日湖山の草廬を敲て離別の
   吟を催せり、折節山野が屛居
   の砌なれば麓迄送り行に班荊
   の志にもまかせず、むなしく
   栗津の烟嵐に向ひて遊鳥一声
   の響に慣ふのみ

 松風の空や雲雀の舞わかれ      丈艸

「獅子庵の主人」は支考である。『東華集』『西華集』の両書を上梓して後、更に北越に遊ばむとして丈艸の庵を訪うたものと見える。「うらやましうき世の北の山桜」は芭蕉の句、句空がこれによって『北の山』なる書を撰していることは、人の知るところであろう。

[やぶちゃん注:「東西両華」これより前、京・近江・伊賀・伊勢・中国・四国・九州及び江戸と、東西広域に俳諧行脚し、元禄一一(一六九一)年の西日本の旅の集成「西華集」(同十二年刊)、翌元禄十二年には「東華集」(同十三年刊)をものしていることを指す。

「此春」は元禄十四年春のこと。但し、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の注によると、「東西夜話」(支考編・元禄十五年刊)に『よれば、支考の京出立は四月一日で』『初夏』『であったか』とある。

「うき世の北の山桜見ばや」堀切氏の注に、『芭蕉が加州白山へ奉納した「うらやましうき世の北の山ざくら」(『北の山』)の句によるもので、ここは北陸への旅をさす』とある。

「草廬」(さうろ(そうろ))は丈草の仏幻庵を指す。

「敲て」は「たたきて」。

「屛居」は「へいきよ(へいきょ)」。堀切氏曰く、『丈草が元禄十四年の春、「今年草庵を出でじとおもひ定むる事あり」と前書した「手の下の山を立きれ初がすみ」(『蝶すがた』)の句を詠んで、三年閉関禁足の生活に入ったことをいう』と注されておられる。

「砌」は「みぎり」。

「班荊の志」は「かんけいのこころざし」で堀切氏の注に、『春秋時代の「班荆道故」の故事(『春秋左氏伝』巻二十六)に囚むもので、朋友と道に遇って故郷を語り合うことを意味する。「班刑」とは荊を地に布いて坐る意である』とある。「班荊道故(はんけいどうこ)」は、暫く会っていない昔の友人と偶々出会って語り合うことで、「班荊」は草を敷くことを謂い、「道故」は「話をすること」の意。春秋時代、伍挙が楚から亡命して晋に赴く途中、古い友人の公孫帰生とたまたま出会って語り合ったという故事に由る。「荊を班きて故を道う」とも読む。「荊」は茨(いばら)だから、地に敷こうとして手近にあったのはそれしかなく、それを敷いてでも親しく話をするというニュアンスがあるのだろう。

「烟」「けぶり」。

「嵐」「あらし」。強い風。

「慣ふ」「ならふ」。真似する。

「松風」堀切氏はこの句の「松風」と「舞(まひ)わかれ」について、『謡曲『松風』で、「中の舞」にかかるとき、シテの松風が涙をおさえながら、小走りに橋掛りへ行き、ツレの村雨も泣きながら戻ってくる場面での地謡「立ち別れ」になぞらえたものか』とされる。「松風」については、小原隆夫氏のサイト内のこちらが詞章もあってよい。その「あらすじ」によれば、『ある秋の夕暮れのことです。諸国を旅する僧が須磨の浦(今の神戸市須磨区付近)を訪れます。僧は、磯辺にいわくありげな松があるのに気づき、土地の者にその謂れを尋ねたところ、その松は松風、村雨という名をもつふたりの若い海人の姉妹の旧跡で、彼女らの墓標であると教えられます。僧は、経を上げてふたりの霊を弔った後、一軒の塩屋に宿を取ろうと主を待ちます。そこに、月下の汐汲みを終えた若く美しい女がふたり、汐汲車を引いて帰ってきました。僧はふたりに一夜の宿を乞い、中に入ってから、この地にゆかりのある在原行平(ありわらのゆきひら)の詠んだ和歌を引き、さらに松風、村雨の旧跡の松を弔ったと語りました。すると女たちは急に泣き出してしまいます。僧がそのわけを聞くと、ふたりは行平から寵愛を受けた松風、村雨の亡霊だと明かし、行平の思い出と彼の死で終わった恋を語るのでした。姉の松風は、行平の形見の狩衣と烏帽子を身に着けて、恋の思い出に浸るのですが、やがて半狂乱となり、松を行平だと思い込んで、すがり付こうとします。村雨はそれをなだめるのですが、恋に焦がれた松風は、その恋情を託すかのように、狂おしく舞い進みます。やがて夜が明けるころ、松風は妄執に悩む身の供養を僧に頼み、ふたりの海人は夢の中へと姿を消します。そのあとには村雨の音にも聞こえた、松を渡る風ばかりが残るのでした』とある。

 本句について、堀切氏は以下のように評釈されておられる。『元禄十四年の春、北陸の旅に向かう支考を送ったときの餞別吟である。湖畔の松並木を吹く風が音を立て、その上には青空がひろがっている。その青空にもつれ合うように囀っていた二羽の雲雀が、風の強さのためか、つっと左右に舞い別れていったというのである。舞い別れるのは雲雀ばかりでなく、支考と丈草であり、どことなく離別の哀愁の漂ってくる句である。この句、近江八景の一 「栗津の晴嵐」にちなむとともに、謡曲『松風』で、シテの松風とツレの村雨(ともに霊)が別れる場面の地謡にある「立ち別れ」のことばになぞらえ、また「ツレたとひ暫しは別るるとも、待たば来んとの旨の葉を、シテこなたは忘れず松風の、立ち帰(かえ)り来(こ)んおん音(ノと)づれ(下略)」の詞章をふまえての着想であろう』とある。]

 

   身を風雲にまろめあらゆる乏
   しさを物とせず、唯一つの頭
   の病もてる故に枕のかたきを
   嫌ふのみ惟然子が不自由なり、
   蕉翁も折々之を戯れ興ぜられ
   しにも此人はつぶりにのみ奢
   を持てる人なりとぞ、此春故
   郷へとて湖上の草庵を覗かれ
   ける幸に引駐て二夜三夜の鼾
   息を贐とす、猶末遠き山村野
   亭の枕にいかなる木のふしを
   か侘て残る寒さも一入にこそ
   と後見送る岐にのぞみて

 木枕の垢や伊吹に残る雪       丈艸

 惟然が芭蕉と一緒にどこかへ泊った時、丸太を切っただけの枕を出された。頭が痛くて眠れず、帯を枕に巻きつけて寝たら、芭蕉が笑って、惟然は頭の奢に家を失ったか、といったという話がある。芥川氏がこの「木枕」の句を挙げて「この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであう?」と評したことは本文の初に引用した。残雪の美しさは固よりであるが、「木枕の垢」の一語は惟然の風丰(ふうぼう)を躍動せしめるものでなければならぬ。丈艸がこれらの俳友に対する態度は、あるいは雲の来去に任すが如きものであったかも知れぬが、そのいずれにもしみじみとした情の滲み出ているのは、丈艸の人物を考える上に、看過すべからざるところであろう。

[やぶちゃん注:「頭」後に合わせて「つぶり」と読んでおく。「かしら」「あたま」でも別段、構わぬ。

「奢」「おごり」。贅沢。このエピソードは以前に「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」の「広瀬惟然」の注で私が引いた伴蒿蹊著「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」にも出ていたので、参照されたい(ネタ元は以下で堀切氏の示される支考の俳文であろう)。

「幸に」「さひはひに」。

「引駐て」「ひきとどめて」。

「鼾息」「いびき」。

「贐」「はなむけ」。「餞」に同じい。

「野亭」野中の小屋。

「侘て」「わびて」。

「一入」「ひとしほ」。

「後」「うしろ」。

「岐」「わかれみち」。

 堀切氏前掲書の評釈を引く。『元禄八年春、木曾塚の無名庵に丈草を訪ねた惟然が、二、三日滞在したのち、故郷美濃へ向けて出立するときに、はなむけた句である。折しも伊吹山には残雪が白く残っているのが遠望されるが、これから旅立つあなたは、この草庵でそうであったように、旅先の宿でも、さぞ、苦手な固い木枕に寝て、その木枕についた垢に辟易することだろう――だが、どうか身体には十分気をつけて旅を続けてほしいと祈るばかりだ、というのである。一句、木枕の垢のイメージと伊吹山の残雪のイメージとが、どことなく照応し、それぞれのイメージがダブって映ってくるところが絶妙である。伊吹山は近江・美濃国境にそびえ、山の向こう側に郷国をもつ惟然・丈草のふたりにとって、共通のなつかしい山でもあった。また、長い前書からうかがえるように、平生枕の硬いのを嫌った惟然坊に対する丈草一流のユーモアも託されているのである。支考の「貧讃ノ賛」(『本朝文鑑』巻八)なる一文に、ある夜、木曾寺で雑魚寝した際、惟然が枕を帯でくるくる巻きにしているのを見た芭蕉が「さなん鉢びらきの境界ながら、天窓に栄耀の残りたれば、さてはかの千両の金は、あたまにこそつゐ(ひ)えけめ」と戯れたことが伝えられているが、そうしたエピソードをもふまえての送別吟であったわけである』。なお、「伊吹」に注され、『近江国(滋賀県)と美濃国(岐阜県)の国境にそびえる山。その残雪は山麓一帯の厳しい余寒の象微である』とされる。

『芥川氏がこの「木枕」の句を挙げて「この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであう?」と評した』「丈艸 一」で示した通り、芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(リンク先は本「丈艸」のために急遽、私が電子化したものである)中の一節である。]

 

 丈艸には行脚旅行の産物と見るべきものが乏しい。以下少しく丈艸自身動いている句を列挙する。

   美濃の関にて

 町中の山や五月ののぼり雲      丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『元禄十三年夏、美濃の関の箕十』(きじゅう)『亭(円慶寺)に遊んだときの吟である。町の真ん中に山がそびえている、この関の里の眺めであるが、五月空には、いつのまにか北へ流れる上り雲が出て、いつ雨模様になるかわからない気配だというのである。梅雨空の心もとなさと明日の行脚の旅への気がかりとがにじみ出ている』とされ、まず「美濃の関」に注されて、『美濃国(岐阜県)の関をさす。美濃蕉門俳人箕十』(万々堂箕十)『が往持であった円慶寺での吟である』とされ、続いて「町中」には、『北美濃の山並が起伏して関まで入ってきているので、町は山の裾をめぐってうずくまるように形成されている』とされる。「のぼり雲」には、『方言。北方へ流れる雲。雨気をもたらす雲である。地方によっては、西方へ行く雲をいう』とされる。さても、ロケーションに惹かれて、この「円慶寺」という寺を探してみたのだが、いっかな容易に見つからぬ。廃寺になったかと諦めかけた最後のフレーズ検索で、名前が変わっており、しかも、どうも堀切実氏の寺名の記載に誤りがあるらしいことが判った。個人ブログ「フクロウ日誌」の「丈艸と惟然 ③」に、『現在の光圓寺』とあった。本句を挙げられて、『丈艸が惟然の郷里である関で詠んだ句』。『丈艸は1700(元禄13)年夏に生母の年忌法要のため、仏幻庵から郷里の犬山に帰省し、ついでに美濃の各地に立ち寄り、関へも足をはこんでいる。彼にとってはかつてない長旅であった。関の「慶圓寺」(現在の光圓寺)には、知り合いで住職だった正圓(万々堂箕十)がおり、この句は寺内にあった箕十亭で詠んだものといわれている(ただしこのとき惟然は関にいない)。正圓の箕十亭はこの地の俳諧仲間が集う大切な場であったが、昭和初期に老朽化のため取り壊されたとのこと』(後掲するリンク先の画像を参照)と語られ、この句について、『座五「のぼり雲」は雨を予感させる雲であり、旅の途上にある丈艸の「雨来たらんとする五月空のこころもとなさと、行脚僧の明日の旅を気にしている気もちとがにじみ出ている」(『丈草発句漫談』)と市橋さんは述べ、「町中の山」が関の里の地形をうまくよみこんだものだ、ともいっているが、この「山」が具体的には関のどの山なのかは言及していない』とある(ここに出る方は愛知県犬山出身の郷土史家で丈草の研究家でもあった市橋鐸(いちはしたく 明治二六(一八九三)年~昭和五八(一九八三)年のこと)。『沢木美子さんは惟然の評伝『風羅念仏にさすらう』(1999年)のなかで、「町中の山」が光圓寺の南にある梅龍寺山であろうと指摘し、丈艸の故郷犬山』(愛知県)『はこの山の南にあり、その方角からわきたつ「のぼり雲」に彼の望郷の念も託されている、と述べている。これを読んだその日、すぐ思い立って光圓寺へ向かった』。『この場所の吟ならば、北西に流れる「のぼり雲」は、やはり目の前の梅龍寺山の背後から立ち上る雲でなければならず、沢木さんの見立てどおりだろうと思ったのである』とあって、境内に建つ関市教育委員会の説明板が写真で読めるのだが、そこでは『光圓寺(旧 慶圓寺)』とあるのである。岐阜県関市朝倉町にある浄土真宗光円寺(グーグル・マップ・データ航空写真)である。この寺が、関の盆地部分の中央にあって、その南北及び西に平地に盛り上がった転々とする丘陵(梅竜寺山・一ツ山・十六所・力山・安桜山など)に囲まれているのが航空写真でよく判る。]

 

   洛東の花

 落込や花見の中のとまり鳥      同

[やぶちゃん注:上五は「おちこむや」。松尾氏前掲書に、『いまを盛りのみごとな桜。あふれるばかりの花見客。枝に止まる鳥など、誰も目にとめてくれない。花に目を奪われて、人目を惹かない鳥を、「落込や」と擬人法で表現したところに、滑稽味がある。元禄十五年春の作』とされる。]

 

   尾張の国に春を探て

 梅の花ちりはじめけり追儺風     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書を見ると、「梅櫻」(朱拙編・元禄十年刊)のもので、座五の「追儺」には「ナライ」の読みが振られてあるようである。「ならいかぜ」は『いまの愛知県稲沢市、大国霊(おおくにたま)神社の儺追(なおい)祭に吹く風。祭りは正月十三日、人の邪鬼を払い、国土安穏、五穀豊穣を祈る。儺追祭に来合せたところ、折からの追儺風に、梅の花が散りはじめた。眼前の実景の句』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。この祭りは今も毎年旧暦一月十三日に「儺追(なおい)神事」として行われるが、現在は奇祭「はだか祭り」(公式サイト内の解説ページ。但し、男たちの壮絶な「はだか祭り」部分は江戸末期に始まったとある)と「神男(しんおとこ)」(籖で選ばれた「儺負人(なおいにん)」の通称で、彼に触れると厄が落とされるとされる)の名で、よく知られる。]

 

   丈山之像謁

 さかさまに扇をかけてまた涼し    同

[やぶちゃん注:前書は「丈山の像に謁す」。「丈山」安土桃山から江戸初期にかけての武将で文人の石川丈山(じょうざん 天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)。もとは武士で「大坂の陣」の後に浪人となり。一時、浅野家に、さらに広島へ仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲して丈山と号した。江戸初期における漢詩人として代表的な人物であり、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。これは松尾氏前掲書によれば、『元禄四年六月一日、芭蕉・去来らと』、丈山が寛永一八(一六四一)年五十九歳の時に造営し、九十歳で没するまでの約三十年間、悠々自適の生活を送った『白河一条寺詩仙堂』(京都市左京区一乗寺のここにある詩仙堂丈山寺。グーグル・マップ・データ。公式サイトはこちら。京に冥い私であるが、ここは大変好きな場所である。現在は曹洞宗寺院)『の旧跡を尋ね』て頂相(ちんそう)像を拝した『折の作』とある。この丈草に一句は、閑適の詩が多い中で丈山の漢詩の中でも、詩吟を学ぶ初心者の練習によく用いられる以下の七絶「富士山」(寛文一二(一六七一)年「覆醬集」所収)を想起したものである。

   *

仙客來遊雲外巓

神龍棲老洞中淵

雪如紈素煙如柄

白扇倒懸東海天

 仙客(せんかく) 來たり遊ぶ 雲外の巓(いただき)

 神龍 棲み老ゆ 洞中の緣

 雪は紈素(ぐわんそ)のごとく 煙(けむり)は柄(え)のごとし

 白扇 倒(さか)しまに懸る 東海の天

   *

「紈素」は白い練り絹のこと。「柄」はここでは扇で取る箇所で扇骨の集中した要(かなめ)のこと。「肝心要」の「かなめ」は、元々ここのことである。しゃっちょこばらず、自然体で、頂相の丈山も微笑んだに違いない。]

 

   梅本寺より帰るとて

 蟬なくやわかれてのぼる軒の山    同

[やぶちゃん注:「梅本寺」は「ばいほんじ」と読む。「日文研」の画像データベースの「拾遺都名所図会」のこちらに曹洞宗の寺として載り所在した場所もリンクで特定出来るが、現在は全く存在しないようである(「拾遺都名所図会」天明七(一七八七)年)。ところが、鏡山次郎氏のサイト内の『山科「花山」地域・2000年の歩み』の比留田家文書(寛文一一(一六七一)年九月二十二日の条)に、『一、観音堂(梅本寺)』『これは浄土宗無本寺道心者寺にて、山号、院号、寺号はない』とあるので、困ってしまった。これはもう、識者の御教授を乞うしかない。序でに、実は句意の映像も理解しかねている。

 

   遊長命寺

 笋の鮓を啼出せほとゝぎす      同

[やぶちゃん注:「長命寺」近江八幡市長命寺町の北西端の琵琶湖西岸近くに聳える長命寺山(三百三十三メートル)の標高約二百五十メートルの山腹にある天台宗姨綺耶山(いきやさん)長命寺(ちょうめいじ:グーグル・マップ・データ)。句は「たけのこのすしをなきだせほととぎす」だが、どうも意味がよく判らない。ここで「鮓」とくれば、鮒鮓だが、丈草は出家だから、腥さものはだめである。そこで「さあ、竹の子の熟(な)れずしを早う出しておくれ!」という内心の気持ちを不如帰の鳴き声に掛けたものか。]

 

   須磨の浦眺望

 ながめ合秋のあてどや寺と舟     同

[やぶちゃん注:上五は「ながめあふ」。]

 

   旧里(ふるさと)に帰りて

 聖霊にもどり合せつ十とせぶり    同

[やぶちゃん注:「旧里」彼の故郷は尾張犬山。思うに、決して良い思い出はない場所である。さればこそ、凡に帰るのも十年ぶるなのである。]

 

   残暑のたへがたき比夜船より
   あがりて洒堂亭にねぶる

 稲妻や夜あけて後も船ごゝろ     同

[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「ねぶる」は「眠(ねぶ)る」。松尾氏前掲書によれば、『元禄六年の初秋、難波に洒堂を訪れた折の作』とされ、出典は「市の庵」(洒堂編・元禄七年自序)で、『明け方空に稲光』り『が閃めく。夜船を降りた後も、まだ船に揺られているような気分』と訳される。「洒堂」は浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)は医師で蕉門の俳人。近江出身で名は道夕。別号に珍碩・珍夕(ちんせき)。元禄三(一六九〇)年に俳諧七部集の一つ「ひさご」の編者となり、同六年には江戸深川の芭蕉庵滞在を記念して「深川」を板行、同年夏、大坂に移って点者となり、同七年に「市の庵」を出したが、俳壇経営には失敗した。晩年の芭蕉からは遠ざかった。]

 

   淀川のほとりに日をくらして

 舟引の道かたよけて月見かな     同

[やぶちゃん注:何故か私は実際にこの景色を見たような既視感(デジャ・ヴ)があって、これは映像が非常によく判る。やや広角気味だ。「舟引」は重い荷物を積んだ船を特に川上に遡上させる時や、下流に向かう場合でも、流れと漕ぎでは遅くて困る危急の場合、通常は川の片岸(狭い川なら両岸も可能)に縄を渡し、そこを仲間の船乗りや、雇われ者らが直に人力で船を引っ張って助勢を加えて行くことを指す。だから、淀川の堤の上で作者が、そうした生業(なりわい)をなす人々を、ちょいと避(よ)けて月見と洒落たというのである。珍しく、複数の人の動きが詠まれた動と静(月)の佳品である。]

 

   伊賀へ越時おときの峠にて

 いひおとす峠の外もあきの雲     同

[やぶちゃん注:「おときの峠」現在の滋賀県甲賀市信楽町多羅尾と三重県伊賀市西山町を結ぶ御斎峠(おとぎとうげ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「御斎峠」によれば、『於土岐、於登岐、御伽とも表記する。昔から近江では伊賀・伊勢道、伊賀では京道(京街道)と呼ばれていた。標高は』五百七十メートル。『峠の名前の由来は、「三国地志」によると、鎌倉・南北朝時代の禅僧、夢窓国師が訪れた際、この峠で村人のお斎(接待)を受けたことによるという』。天正一〇(一五八二)年、「本能寺の変」の『後、摂津国にいた徳川家康が三河国岡崎城へ帰還するため、宇治田原から滋賀へ抜ける経路としてこの峠を使ったといわれる。案内した多羅尾光俊は、この功によって明治まで長い間、多羅尾領を押えていた』。『峠に妖怪が出るという昔話がある。早朝に腹の膨らんだ餓鬼が現れ、旅人に「茶漬けを食べたか」と尋ねる。「食べなかった」と答えると通してくれるが、「食べた」と答えると襲いかかり、腹を裂いて茶漬けを取り出し、貪り食ったという』とある。それをおさえた句で、「御齋」(おとぎ)は「飯」の縁語であるから、「いひおとす」は「飯落とす」で、おにぎりを落してしまったの意。松尾氏前掲書によれば、『元禄八年初秋、芭蕉の故地』(芭蕉逝去の翌年である)『伊賀上野訪問の折の作』とある。]

 

   嵯峨にて

 竹伐の外には見えず菊の主      同

[やぶちゃん注:「たけきりのほかにはみえずきくのぬし」。松尾氏前掲書によれば、「菊の道」(紫白女編・元禄十三年刊)所収で、『秋の日の日差しを浴びて、みごとに咲き揃った大輪の菊。菊の主はどこかとあたりを見廻すが、竹』を『伐る人がいるばかり。菊の香の漂う閑寂な嵯峨野の風情。元禄十二年ごろの作』とある。]

 

   野明別墅にて

 柴の戸や夜の間に我を雪の客     同

[やぶちゃん注:「野明」坂井野明(?~正徳三(一七一三)年)。博多黒田家の浪人。姓は奥西とも。去来とは親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えたもので、「鳳仭(ほうじん)」とも称した。「別墅」は「べつしよ(べっしょ)」で別荘。松尾氏前掲書に、『「柴の戸」は柴で作った粗末な門』(隠棲者のポーズ)で、『柴の戸の客となり、一夜を明かした。翌朝起きてみるとこはいかに、あたりはすっかり雪景色』で、思わずも『雪見の客人となった』自分に『興じた句。元禄十一年の冬、嵯峨の野明の別荘での吟』とある。]

 

   旅中

 蜻蛉の来ては蠅とる笠の中      丈艸

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんばう」。元禄十年刊の元梅編の「鳥の道」所収。]

 

   旅行

 かたびらにあたゝまりまつ日の出かな 同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書に、『「かたびら」は麻、からむし』(イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea:茎の皮から採れる非常に強靭な繊維が麻などと同じく古代から永く使用されてきた)『で織った布で仕立てたひとえ物。夏の衣服。夏とはいえ』、『冷気の沁む山間の明け方、かたびらで身を暖め、朝日のあたるのを待つ。「まつ」は「あたゝまり」と「日の出」に掛かる。早朝の旅立のさま』とある。孤高の行脚をここまでリアルにさりげなく〈直(なほ)きもの〉として詠める者は丈草をおいて他にはいないと私はおもう。]

 

   東湖あたりの冬空にさまよひて

 むきたらで又やしぐれの借り著物   同

[やぶちゃん注:「東湖」琵琶湖東岸。松尾氏前掲書に、『「むきたらで」は、こぼし足りないでとの意の方言』で、この『旅先で、まだ降り足りないのか、またしもしぐれに濡れてしまった。またまた借着をする始末』となったの意とされる。]

 句の上に現れた丈艸の足跡は極めて範囲が狭い。生国の尾張より東には及ばず、西も須磨から先へは行っておらぬようである。其角の如き都会人ですら、東海道を何度か往復しているのに、丈艸の世界は余りに局限された傾がある。

   人の行脚のうらやましくて

 下京をめぐりて火燵行脚かな     丈艸

の句は、たまたま斯人の世界を語るものであろう。しかして丈艸の句の天地が毫も狭隘に失せぬのを見れば、旅行が吟懐を鼓する唯一の途でないことは自ら明(あきらか)である。

[やぶちゃん注:「下京」(しもぎやう(しもぎょう))は堀切氏前掲書注に、『京都の三条通り以南の地。商人・工人・職人が住む庶民的な町であった』とし、「火燵行脚」(こたつあんぎや(こたつあんぎゃ)は『丈草の造語か』とされ、『元禄十年冬、洛の吾仲亭に遊んだ折の句か』とある。「吾仲」は京六条の仏画師で俳人渡辺吾仲(ごちゅう 延宝元(一六七三)年~享保一八(一七三三)年)。初め五雨亭史邦に学び、落柿舎で芭蕉に謁して後、李由・支考の門に入った。]

 

 尤も丈艸は病身でもあった。長途の行脚を企て得なかった理由はここにも存するかと思う。四十三歳を以て歿したのも、決してその健康を示すものではない。

   病中の吟

 山がらは花見もどりかまくらもと   丈艸

[やぶちゃん注:「山がら」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius varius。全長十三~十五センチメートル。頭部は黒い羽毛で被われ、額から頰、後頸部にかけて明色の斑が、下嘴基部から胸部にかけて、黒い帯模様が入り、尾羽は黒褐色。初列風切や次列風切は黒褐色で、羽毛の外縁は青みがかった灰色。雨覆や三列風切の色彩は青みがかった灰色。嘴は黒く、後肢は青みがかった灰色を呈する。]

 

   衰病倚ㇾ人

 行先にのがれ入けり蚊帳の内     同

[やぶちゃん注:「衰病(すいびやう)にて人に倚(よ)る」或いは「倚(たの)む」か。]

 

   病床

 虫のねの中に咳出す寝覚かな     同

[やぶちゃん注:堀切氏・松尾氏ともに元禄十五年秋頃(没するのは元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日))の作とする。]

 

 直接病を詠じたこれらの句は勿論

 守りゐる火燵を庵の本尊かな     丈艸

[やぶちゃん注:「庵」は「いほ」、「本尊」は底本では「ほぞん」と読んでいる。火燵にかじりついている自身を、火燵とそれに入って凝っとしている自身の姿を、火燵を仏として守る、引いてはその僧体の己れ自身が本尊のようだとカリカチャライズしたものである。]

 

 小畳の火燵ぬけてや花の下      同

[やぶちゃん注:「小畳」(こだたみ)は普通の畳より小さく作った畳で、田舎間に用いた畳のこと。]

 

 ほこほこと朝日さしこむ火燵かな   同

[やぶちゃん注:堀切氏・松尾氏ともに「ほこほこと」は尾張方言で暖かなさまとし、松尾氏は元禄十三年頃の作とされる。]

 

 影法師の横になりたる火燧かな    同

等、火燵を詠んだものに特色が多いのも、病弱の結果だろうといわれている。

[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書では「影法師」は「かげぼし」と読んでおられ、『自堕落にごろりと火燵で寝ころぶと、影法師も一緒。火燵に横になったまま、おのが影法師を懐かしいもののように眺めやる。丈草の日常の一端を物語るかのような一句』と評釈しておられる。]

 

 元禄十六年十月、浪化上人遷化(せんげ)の報の伝えられた時、丈艸は病牀にあった。

   御あとしたひ侍るべき程に
   やみふしたれば小詞の片は
   しにもかよはず

 悲しみの根や三越路に残る雪     丈艸

 この時の病は遂に癒えなかったのであろう。浪化に後(おく)るること四カ月にして丈艸も世を去った。「御あとしたひ侍るべき程にやみふしたれば」というのは、必ずしも誇張の言ではなかったのである。

[やぶちゃん注:「浪化」は越中国井波瑞泉寺の住職であったが、元禄十六年十月九日(グレゴリオ暦一七〇三年十一月十七日)に三十二の若さで亡くなり、丈草は翌元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)に逝去した。因みに同年は三月十三日に宝永に改元し、去来はその宝永元年九月十日(一七〇四年十月八日)に亡くなった。

「御あと」は「みあと」と読んでおく。

「小詞の片はし」は「しやうしのかたはし」と読んでおく。「つまらぬ一言の片端をさえもお送りすること、これ、出来申さず」の意でとっておく。

「三越路」「みこしぢ」。越前・越中・越後の称。松尾氏は前掲書で、本句を端的に『越の地の残雪はあなたを失った悲しみの印』と道破されておられる。]

 

 浪化と丈艸とは『有磯海』以来の交渉であり、芭蕉歿後浪化が無名庵に丈艸を訪ねたこともあったらしい。なお『そこの花』に左のような句が見えるから、ついでにここに挙げて置く。

   黒海苔は雪のりとも俗にいふ、
   一種両名にして能州福浦より出る
   とかや、岩間に降積れる雪の日に
   照されて潮に潟されて此ものとは
   なり侍るとぞ、此回浪化よりの恵
   賜に瓊章を添られたるにて初て其
   来由を知ぬ、取あへず拙き言の葉
   の藻屑をつらねて其浦波の辺をお
   もふのみ

 海苔の名やたゞ打見には雪と墨    丈艸

 句は頗る妙でないが、雪海苔と称して黒いのを興じたのであろう。横井千秋(よこいちあき)の歌にも「越の海の浜のいくりの白雪の凝りてなるとふくろのりぞこれ」というのがあったと記憶する。

[やぶちゃん注:どうも前書の句読点が不全で気にいらぬ。正字化して読みを附し、再掲する。

   *

   黑海苔は、雪のりとも俗にいふ。一種
   兩名にして、能州福浦より出(いづ)
   るとかや、岩間に降積(ふりつも)れ
   る雪の、日に照されて、潮(うしほ)
   に潟されて、此ものとはなり侍るとぞ、
   此囘(このくわい)浪化よりの惠賜
   (けいし)に瓊章(たまづさ)を添ら
   れたるにて、初(はじめ)て其(その)
   來由(らいゆ)を知(しり)ぬ。取あ
   へず、拙(つたな)き言の葉の藻屑
   (もくづ)をつらねて、其(その)浦
   波の邊(あたり)をおもふのみ

 海苔の名やたゞ打見には雪と墨    丈艸

   *

「黑海苔」所謂、「岩海苔(いわのり)」は多種を含む。大まかには植物界紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属 Porphyra に属する種群で、主に板海苔に加工されるものであるが、知られた種ではアサクサノリPorphyra tenera、スサビノリPorphyra yezoensis が挙げられるものの、この能登産のそれはウップルイノリ Porphyra pseudolinearis である。潮間帯上部に生育し、幅が狭く長い。成長したものは長さが約三十センチメートル・幅五センチメートルまで伸長するが、長さ二十センチメートル・幅一~二センチメートルが通常個体である。雌雄異株で、秋から一月ぐらいまで岩礁に見られる北方系の種である。一風変わった標準和名は海域名由来で、「十六島」と書いて「うっぷるい」と読む。現在の島根県出雲市(以前は平田市であったが、二〇〇五年三月に旧出雲市・平田市・簸川郡佐田町・多伎町・湖陵町・大社町の二市四町が新設合併して新しい「出雲市」となった)の十六島町(うっぷるいちょう)にある十六島湾(うっぷるいわん)と北部岩礁海岸の広域(グーグル・マップ・データ)がそこであるが、「十六島」という単独の島の名ではない。航空写真(グーグル・マップ・データ)で見ると、十六以上の大小様々な島が見える。如何にもアイヌ語の語源を感じさせる地名であるが、これに関しては、「日本古代史とアイヌ語」というサイトの「十六島」に実に緻密で詳細な考察がある。それによれば、アイヌ語で「松の木が多いところ」若しくは「穴や坂や崖の多いところ」という意味である可能性が高いとある(このサイト、震えるほど素晴らしい! 是非、ご覧あれ)。但し、他にも朝鮮語であるとする説もあり、古くは「於豆振(おつふるひ)」と称し、これは、「海藻を採って打ち振るって日に乾す」ことを意味する『打ち振り』が訛ったとする説もあり、「出雲国風土記」の「楯縫郡(たてぬひのこほり)」の条には、この地名に該当すると考えられる「彌豆島(みづしま)」の地名について、諸校訂や注釈では「於豆椎(おつふるひ)」「振畏濱(ふるひはま)」「於豆振畏(おつふるひ)」「許豆埼(こづのさき)」等の字や読みが与えられてある。

「雪のりとも俗にいふ」「雪海苔」で、雪の降る頃、多く岩に附着した岩海苔を採取するところから、日本海沿岸で採取される海苔の一種を別称する。甘海苔などとも呼ぶ。ここでは前記のウルップイノリと同義である。

「能州福浦」現在の石川県羽咋郡志賀町福浦港。ここは元禄から幕末にかけて諸国の北前船が出入りする「風待ち港」として繁栄した町である。能登の外浦海岸の岩場では広く岩海苔の採取が行われ、特に福浦産のそれは、良質な岩海苔として、毎年、京の本願寺や加賀藩への献上品であったという。

「岩間に降積(ふりつも)れる雪の」雪に引き締められ、鍛えられ、といったニュアンスが省略されている。

「潮(うしほ)に潟されて」「潟されて」は「かたされて」と読むしかない。所謂、引き潮の時には岩礁表面や潮溜まりの中に海から少しばかり隔たされて、生育環境に変化が与えられて(生態系に圧が加えられて、或いは逆に、強い潮力から守られて)のニュアンスである。

「此囘」此の度(たび)。

「瓊章(たまづさ)」「玉章」。手紙のこと。

「藻屑(もくづ)」と確信犯で読んおいた。岩海苔だから藻屑(もくず)である。これは所謂、「文藻」(ぶんさう(ぶんそう))、「文章のいろどり・文の彩(あや)・文飾」或いは「詩歌・文章を作る才能」「文才」の意を諧謔して謙遜したものと思う。「文藻(ブンサウ)」ならざる「藻屑」(「サウセツ」)の謂いである。

「打見には」「うちみには」。ちょっと見たところでは。

 一句について堀切氏は前掲書で、『越中井波の浪化上人から、能登福浦の名産である黒海苔、一名雪海苔を戴いたことに謝意を表した挨拶句である。この海苔が何故「黒海苔」と呼ばれたり「雪海苔」と呼ばれたりするのかわからなかったが、岩間に降り積もった雪が日に照らされているうちに、また潮の満ち干にさらされているうちに、こんな色の海苔になったものだと知り、その名の由来も明らかになった――だが、それにしても、ちょっと見ただけでは「黒海苔」と「雪海苔」の名称は、いかにも「雪」と「墨」のように対照的で奇妙な気がすることだ、といった意であろう』とされ、座五は『物事の正反対であることをいう諺。『毛吹草』に「かきぐれてふりくる空や雪と墨 正式」とある』とされる。]

 

 丈艸の前書附の句の中には、なお次のような種類のものがある。

   さらに劉伶が鍤もたのまじなど興
   じて

 酔死ぬ先から花の埋みけり      丈艸

[やぶちゃん注:「劉伶」(りゅうれい 二二一年?~三〇〇年?)は大の酒飲みとして知られた竹林の七賢の一人。ウィキの「劉伶」によれば、三国時代の魏および西晋の文人で沛(はい)の生まれ。「世説新語」によれば、身長が約一四〇センチと低く、『手押し車に乗り、鍤(シャベル)を携えた下僕を連れて、「自分が死んだらそこに埋めろ」と言っていた。酒浸りで、素っ裸でいることもあった。ある人がそれを』咎めたのに答えて言うに、『「私は、天地を家、部屋をふんどしと思っている。君らはどうして私のふんどしの中に入り込むのだ。」』とやり返した。『また』、『酒浸りなので、妻が心配して意見したところ、「自分では断酒できないので、神様にお願いする」と言って、酒と肉を用意させた。そして祝詞をあげ、「女の言うことなど聞かない」と言って肉を食い、酒を飲んで酔っぱらったと伝わる』。『著書に『酒徳頌』がある』とある。「鍤」は「すき」と読んでいる。「鋤」に同じい。一句は「ゑひしぬさきからはなのうづみけり」と読む。堀切氏前掲書に、『落花紛々たる下に盃を手にして陣取った丈草が、散る花びらの中に埋められてゆくような感興を覚え、その感興のままに吟じたものである。竹林の七賢人のひとり晋の劉伶は、いつも一壺の酒を携え、供の者に鋤を担わせて、酔死したらそのまま埋めてもらう用意をしていたということだが、自分にはそんな鋤など無用である――花をこよなく愛して、今まさに花に埋められるように死んでゆけるのだから、これ以上のしあわせはない。また、昔、玄石という人は酔死んだと思われて葬られ、埋められてしまったということだが、自分も酔死なぬ先から花に埋められてしまうのだから、ありがたいことだ、どうかこのままにしてもらいたいといった句意であろう。花好き、酒好きの丈草がすでに死を平常心でみつめ、悠々自適の境地にあったことをよく示している。もちろん西行の「ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」(『山家集』上・春)の一首が念頭にあったことであろう』と評釈され、劉伶については、『中国西晋の思想家で、字は伯倫、竹林の七賢人のひとり。『荘子』の思想を実践し、酒をこよなく好んだ人。『蒙求』中巻所載の「劉伶解酲(かいてい)」の章に「常に鹿車(ろくしゃ)に乗り、一壺酒(こしゅ)を携(たずさ)へ、人をして鋤(すき)を荷ひ、之を随はしめ、謂つて曰く、『死せば便(すなわ)ち我を理(う)めよ』と。その形骸を遺(わす)るゝこと、かくの如し」云々とある』とされ、上五に注されて、『『蒙求』の同じ章に並んで出る「玄石沈酒」の故事をふまえる。一度飲むと不日間醒めない酒を飲んで、家人から死んだものと思われて葬られていた玄石が、棺を開けると、ちょうど千日の眠りから醒めたところであったという話』とある。因みに最後の「千日酒」は、「蒙求」より前の「搜神記」の「卷十九」にある著名な一話が種本である。原話は漢文の授業でも私がよくやったように個人的に好きな笑話で、ダメ押しのオチがすこぶるいい。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 地中の別境」(2)]の注で原文を示したので参照されたい。]

 

   魯九といふをのこの法師になり
   たるを示して

 蚊屋を出て又障子あり夏の月     同

   吹あらしあらしと今は山やおもふ
   行あかつきのねざめなりしをとい
   ふを誦して

 山やおもふ紙帳の中の置火燵     同

 これらの句の中には観念的なものもあるが、丈艸の句としては閑却すべからざるものであろう。「蚊屋を出て」の句は「贈新道心辞」という文章の末に記されている。文中に「世をのがれて道を求るほどの人は、皆一かどの志を発して、まことしきつとめともしあへれど、年を重ねぬれば又かれこれにひかる縁おほく、事繁くなりて更にはじめの人ともおもほへぬふるまひのみぞおほかる。古人も此事をいましめて、出家は出家以後の出家を遂べきよし、勤めはげましぬ」とあるのが、この句意に当るのであろうが、丈艸の生涯はこの点において恐らく遺憾なきものであったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「蚊屋を出て又障子あり夏の月」の「出て」は「でて」でよかろう。堀切氏前掲書では、『元禄十四年夏、門人魯九が出家した折に与えた句である。蚊帳を出て月を眺めようとしたら、まだもう一つ障子があり、これをあけなければ夏の月を仰ぐことができないことがわかったという意である。すなわち出家をしても幾つかの障害を一つ一つ越えてゆかなければ、真如の月を仰ぐことはできないのだということを寓意した句であり、師として出家の心がけを諭しているのである。かなり教訓的な理の勝った句であるが、それも丈草の深い体験から得た信念なのであろう』と評釈され、『魯九は丈草唯一の門人で、美濃蜂屋の産、師に忠実な人であった』とある。「蜂屋」は現在の岐阜県美濃加茂市蜂屋町(はちやまち)(グーグル・マップ・データ)。

「吹」(ふく)「あらしあらしと今は山やおもふ行」(ゆく)「あかつきのねざめなりしを」は藤原定家の一首と松尾氏前掲書にあり、風国編で元禄九年刊のそれを見ると、前書に確かに『定家の卿の哥(うた)に『吹あらしあらしと今はおもふ行あかつきの寢覺なりしを』といふを誦して』とある。しかし、幾つかのデータを調べて見ても、この形の定家の歌は見つからなかった。識者の御教授を乞う。

「紙帳」「しちやう」は和紙で作った寝帳で蚊帳・防寒に用いられた。]

 丈艸の句が人事趣味に乏しく、自然趣味に富んでいることは最初にこれを述べた。動物の句の多いのは、丈帥の性格から来たものかどうか。時鳥(ほととぎす)の句が十五句もあるのは、必ずしも異とするに足らぬけれども、啄木鳥(きつつき)、田螺(たにし)なども数句ある。きりぎりすは殊に多い。

[やぶちゃん注:「時鳥」言わずもがな、本書では盛んに詠まれた句が出るが、ここで以下の注とのバランス上、一応、注しておくこととする。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。

「啄木鳥」キツツキ目キツツキ亜目キツツキ科 Picidae のキツツキ類の総称(キツツキという種は存在しない)。世界的にはヒメキツツキ類・シルスイキツツキ類・キツツキ類など約二百三十種からなる。本邦に棲息する「きつつき」と呼ばれる仲間は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 啄木鳥(てらつつき・きつつき)(キツツキ)」の注で詳細を記してあるので参照されたい。

「田螺」「丈草 四」で以下の句が出ており、既注。]

 

 木啄や枯木をさがす花の中      丈艸

[やぶちゃん注:「木啄」は「きつつき」。餌(え)を求めて枯れ木ばかりを探して花には目もくれない、探賞せぬさまを擬人化して興がったもの。]

 

 木つゝきの夜遊びがてら渡りけり   同

[やぶちゃん注:夜行性のキツツキ類を探してみたが、見当たらない。但し、深夜から早暁の暗い内に木を叩く音を聴いたという個人の記載があるから、いるようだ。それをここも「夜遊びがてら」と擬人化して興がっている。]

 

 木啄のたちばに近き梢かな      同

[やぶちゃん注:「たちば」「立場」で「たてば」と呼び、江戸時代、街道の宿駅の出入口に設けられた休息するための掛け茶屋のこと。旅人・人足などが休憩したが、宿泊は禁じられていた。]

 

 木つゝきの入まはりけり藪の松    同

[やぶちゃん注:中七は「入(いり)𢌞りけり」。]

 

 背戸中は冴返りけり田螺殼      同

[やぶちゃん注:「せどなかはさえかえりたにしがら」。この句、「丈草 四」で既出既注。]

 

   里の男の田螺殼を水底に沈め待ち
   居たれば腥を貪る鯲のいくらとも
   なく入り籠りて

 入替る鯲も死ぬに田螺がら      同

[やぶちゃん注:「いれかはるどぢやうもしぬにたにし殼(がら)」。「腥」は「なまぐさき」、「鯲」は「どぢやう(どじょう)」で泥鰌のこと。本邦にはドジョウ科Cobitidae は約十種が棲息するが、我々が本邦に於いて一般に知るのはコイ目ドジョウ科シマドジョウ亜科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatusであるか、又は特徴的な斑紋を持つシマドジョウ亜科シマドジョウ属シマドジョウCobitis biwaeである。なお、「どぜう」という表記は歴史的仮名遣いとしては明白な誤りである。由来としては「どじやう」が四文字で縁起を気にした江戸商人が同音の三文字に変えたものとも言うが、不詳である。この句も「丈草 四」の注で既注。]

 

 花曇田螺のあとや水の底       同

[やぶちゃん注:丈艸はよほど田螺が好きらしい。生きているその微細な動きを捉えた一句で、花曇りに対した視線のずらしが上手い。]

 

 悔みいふ人の途切やきりぎりす    同

[やぶちゃん注:「途切」は「とぎれ」。「きりぎりす」は流石に現在のコオロギのその鳴き音(ね)でなくてはならない。但し、一般にコオロギ類を直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属するものの総称とするが、私は現代のコオロギ類は主にコオロギ亜科 Gryllinae に属する種群を狭義に指すとする方が、より正しいと考えている。実際、コオロギ亜科に属する種には、フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma・オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ Loxoblemmus campestris・オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitzi・ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado といった本邦の「コオロギ」の呼称で知られるオール・スター・キャストが含まれているからである。松尾氏前掲書では、「流川集」(ながれがわしゅう:露川編・元禄六年刊)からとして、

 悔(クヤミ)いふ人のとぎれやきりぎりす

の形で出し、『前書「追悼」。「きりぎりす」はいまのこおろぎ。弔問客の途絶えた通夜の家。静けさのなかで聞こえてくるこおろぎの声が、新たな悲しみを誘う。元禄四年七月十二日』(グレゴリオ暦一六九一年八月五日)『に没した猶子(ゆうし)を悼んでの吟という』とある。]

 

 行燈に飛ぶや袂のきりぎりす     同

[やぶちゃん注:諸注は、やはり、この「きりぎりす」をこおろぎとするのだが、袂に飛び込むのは私はコオロギよりも、幼体のキリギリス(現行では直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis で、青森県から岡山県に棲息するとするニシキリギリスGampsocleis buergeri 及び、近畿地方から九州地方を棲息域とするヒガシリキリギリスGampsocleis mikado の二種に分ける考え方が一般的である)の方が自然に思われる。私はインキ臭い国文学者らが、「昔のきりぎりすはいまのコオロギ、今のコオロギは昔のきりぎりす」というバカの一つ覚えの一括絶対交換を唱えるのは甚だしい誤謬であると考えている。ここではそれを主張する場ではないからして、私の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の迂遠な注を見て戴きたい。なんなら、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」の方もご覧あれ。絵を見れば一目瞭然、江戸中期(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立)には、既に、入れ替えではなく、ちゃんとそれぞれの種に本草学的には正しく同定されているのである。要するに私が言いたいのは、詩語としてのそれらは、その後も韻律や詩想に合わせて自在に相互交換されてはいたと私は思うのである。

 

 宵までや戸にうたれたる蟋蟀     同

[やぶちゃん注:「蟋蟀」は「きりぎりす」。どうです? 戸にとまっているんですよ? コロギが戸に張り付いて動かずに凝っと鳴き続けるさまを、あなた! 想像できますか? これは、真正のキリギリスにして初めて出来ることでしょう?! あなたは、高校一年の時に、かの芥川龍之介の「羅生門」を読まされていますよね? あの有名な作品の冒頭の第四文(第二段落内)は、

   *

唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。

   *

とあり、羅生門下の第一シークエンスの終り(第八段落末尾。次の段落で楼上へと通ずる梯子を見出す)では、

   *

丹塗の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。

   *

と描写されるんですよ。円柱に貼りついたコオロギなんて、これ、ゴキブリのように大きくて、頽廃的どころじゃあなくて、生理的にキビが悪いでしょうが?! あれはね、どう考えて見たって、コオロギじゃなくて、キリギリス、な、ん、で、す、って!……さても……以下、詳しくはどうあっても「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の迂遠な注を読んで戴きたいのである。なお、以下では読者の想像に任せるが、概ね、コオロギと変換して採って問題はない。

 

 踊子のかへり来ぬ夜や蛬       同

[やぶちゃん注:「をどりこのかへりきぬよやきりぎりす」。盆踊りの帰りであろう。]

 

 寒けれど穴にも啼かずきりぎりす   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈。『秋も深まり、寒さがしだいにつのってくる時節を迎えたが、こおろぎは穴ごもりもしないで、じっと寒さに耐えるかのように弱々しく嗚いている、というのである。こおろぎのかすかな声に、ひっそりと耳を傾けているのであろう』とされ、「きりぎりす」を「こおろぎ」として、そこに『西行の歌に「きりぎりす夜寒に秋のなるまゝによわるか声の遠ざかりゆく」(『新古今集』巻五・秋下)がある』と引く。この西行の一首に遠く応じている一句と私は思う。また、『丈草の短冊(『俳人の書画美術3 蕉門請家』所出)には「夜寒にも穴には鳴ずきりぎりす」とある』と注されておられる。「寒けれど」の方が丈草の哀しい共感がよく出てくると私は思う。]

 

 きりぎりす啼くや出立の膳の下    同

[やぶちゃん注:「出立」は「でだち」で、下五は「ぜんのした」であるが、これは「出立ちの膳」で、則ち、葬儀の出棺の際に会葬者に出される「一膳飯」、「出立ちの飯」のことである。特に尾張地方の習慣で、元来は続く長い「野辺送り」へ向けての腹ごしらえの意味があった。「食い別れ」「立ちめし」とも呼び、故人と交わす最後の餐(さん)なのであった。]

 

 物かけて寝よとや裾のきりぎりす   同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、「俳諧曾我」(白雪編。元禄十二年自序)のそれは、

   旅行

 物かけて寐よとや裾のきりぎりす

とあり、元禄十二年頃の作とする。]

 

 月夜ぞや霜にこりたる蛬       同

[やぶちゃん注:この「蛬」はコオロギでもキリギリスでもあり得るであろう。これは画像の個人の嗜好の問題であるが、寧ろ、部分着色した緑色の後者の方が遙かに凄絶な絵となるように思う。そこにシンボライズされるのは孤高な丈草その人である。]

 

 寝がへりの方になじむや蟋蟀     同

[やぶちゃん注:コオロギであろう。それへの親愛の視線に逆に孤独な作者のペーソスが滲む。]

 

 つれのある所へ掃くぞきりぎりす   同

[やぶちゃん注:訳すまでもない。堀切氏は評釈に、『部屋の掃除をしているうちに、隅の方にこおろぎが一匹みつかった。だが、一匹だけ放り出すのはかわいそうだ――ひとつ、仲間のいそうなところへ掃き出してやろう、と呼びかけたのである。生き物へのあわれみの情が働いているのであるが、裏返してみれば、草庵に孤住』(こじゅう)『する丈草自身のさびしさの反映であろう。それでいて、どことなく瓢逸な味わいもある』とされ、『元禄十三年十二月五日付無名宛書簡』や、『元禄十三年執筆の「旅の記」の末尾にも出る句であり、『誹諧耳底記』によれば、この句によって丈草は「きりぎりすの法師」と呼ばれたという』とある。「誹諧耳底記(はいかいじていき)」は九十九菴(つくもあん)風之の俳論。]

 

 このきりぎりすが極めて人に親しく感ぜられるのは、丈艸閉居の句が多いためであろう。「寝がへりの方になじむや」「つれのある所へ掃くぞ」などというのは、後世の一茶の句と相通ずる点もあるが、「寝返りをするぞ脇よれきりぎりす」という一茶の句と併誦して見ると、気品の差は如何ともすることが出来ない。

 丈艸については以上かなり冗長の弁を費した。最後になお十数句を挙げて、説明の足らぬところを補って置きたい。

 春雨やぬけ出たまゝの夜著の穴    丈艸

[やぶちゃん注:丈草の名吟。堀切氏は前掲書では「春雨」注され、『陰暦二月末から三月に降る雨。しとしとと小止みなく降る雨。春の季題』とし、「夜着」は『大型で厚く綿を入れた襟・袖のある掛け蒲団。搔巻』とある。評釈は、『朝遅く目覚めると、今日も春雨が小止みなく降っている。草庵にひとり閑居していると、起き出してはみたものの、急いで夜着をたたむことも物憂いことだ。ふと見ると、すっぽりと抜け出した夜着は、自分の体の分だけ、そのまま穴のようになってあいているというのである。懶窩(らんか)(ものうい穴)と号した丈草の日常をありのままに客観視して微苦笑のうちに詠んだ句であるが、隠閑の境涯にある者の怠惰な性情と、物憂くやるせない春雨の本情とが、どことなく照応しているのである。ここでも師芭蕉亡きあとの虚脱感があとを引いているといえよう』とされる。この句は『元禄八年四月八日付卓袋宛書簡に、「何にかに古翁の事申出られ、愚句少々書付申候。(中略)」として、「花曇田螺のあとや水の底」の句とともに報じられている』とある。]

 

 うぐひすや次第上りの茶木原     同

[やぶちゃん注:「上りの」は「のぼりの」、座五は「ちやのきはら」。茶が次第次第に段々になって上へ上へと植えられているそこを、鶯が、これまた、その段々畑を次第次第に鳴きながら上へ上へと登ってゆくのである。]

 

 さしのぞく窓につゝじの日あしかな  同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書には「白陀羅尼(はくだらに)」(支考編・元禄十七自序)から、

 さしのぞく窗(まど)につゝじの日あし哉

で載り、『「日あし」は時刻によって変わる太陽の位置。日足。朝寝した目に、もう高くなった日の光がまぶしい。のぞきこむ窓辺のつつじも紅みを増したよう。「つゝじの日あし哉」は、日足の強さと花のあざやかさへの詠嘆。『句集』は「窓へ」』とある。「窓へ」の方が動画的効果が生まれていいか。]

 

 郭公鳴や湖水のさゝにごり      丈艸

[やぶちゃん注:「郭公」は「ほととぎす」。「鳴や」は「なくや」。堀切氏は前掲書で、『早暁、湖辺から眺望した琵琶湖の大景であろう。曇天下、降り続く五月雨のために、水かさを増した湖面はいつものように青くなく、鈍色』(にびいろ)『に薄く濁っている。と、あたりの静寂を破って、ほととぎすが一声鳴き声を残して湖上を飛び去っていったのである。視覚・聴覚のイメージが取り合わされており、琵琶湖の茫洋とした眺めに対して、作者の繊細な感覚が鋭く働きかけているような感じがある。「郭公鳴や」は「ほとゝぎすなくやさ月のあやめ草あやめもしらぬこひもする哉」(『古今集』巻十一・恋、読み人知らず)など、和歌によくある詠法を生かした表現である』と評釈しておられる。]

 

 葬の火の渚につゞく鵜舟かな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書に、「西の雲」(かの遂に芭蕉に逢えずに亡くなった金沢の俳人小杉一笑の兄ノ松(べっしょう)の編に成る一笑追善集。元禄四年跋)所収とし、『「葬の火」は葬列の松明(たいまつ)の火。月のない暗闇の夜。川辺の葬列の松明の火が水辺にゆらめく。その川面を、篝火を焚いた鵜飼舟が過ぎてゆく。死者をとぶらう火と、殺生をするための火との対比。謡曲「鵜飼」を背景とするか』とある。能の「鵜飼」は小原隆夫のサイト内のこちらが詞章もあってよい。但し、追善句の性質上、私はそのような穿鑿を持ち出すよりも、相対する灯明と業火が全く同じ世に同じように点ぜられてある映像をこそしみじみと味わうべきであると思う。]

 

 行秋や梢に掛るかんな屑       同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈。『農家では秋の収穫作業の終わったあと、屋根替えやら家の手入れやらを含めて、秋普請にかかる。そうした晩秋の季節、ふと見ると庭の木の梢に鉋屑がふりかかっていたのである。秋の過ぎ去ろうとするころの、なんとなくうら淋しい光景であるが、「かんな屑」のようなとるに足らぬものを目にとめたところが俳諧らしい』とある。]

 

   訪郷里旧友

 病人と鉦木に寐たる夜寒かな     同

[やぶちゃん注:前書は「鄕里(ふるさと)の舊友(きういう)を訪(と)ふ」。「鉦木」は「しゆもく(しゅもく)」。仏具で鉦(かね)を打ち鳴らすためのT字形の棒。鉦叩き。堀切前掲書に、『郷里を訪ねると旧友は病臥の身となっていた。つもる話もあり、その家に泊まることになったが、何かの都合で、二人枕を並べて寝るのでなく、撞木(しゅもく)のかたちに床をとって寝ることになり、秋の夜寒のわびしさがひとしむ感じられてならなかったというのである。筋交いのようになって離ればなれなかたちで寝るのは、なんとなくちぐはぐでおかしみさえ感じられるが、久しぶりに会って友と一夜を過ごすにしては、もの足りない気分であったのだろう』とある。或いは既に病態が進んでいて、彼を動かすことが躊躇われた故に(それほど狭い一間であった故に。妻子が隣りの一間に寝ていたのかも知れぬ。貧しい町屋の長屋ならば、二間のみはあり得る)、このような形で寝ることとなったのかも知れぬ。私は軽々にこの句を『おかしみさえ感じられる』とか、『わびしい情趣であるが、「鉦木に寐たる」にユーモラスな気分がある』(松尾勝郎氏の前掲書の評)とは言えない。鉦叩きには抹香の匂いもする。この旧友の病人は、実は幾許も無かったのかも知れぬ。]

 

 玉棚や藪木をもるゝ月の影      同

[やぶちゃん注:「玉棚」盂蘭盆会に祖先の位牌を安置して供え物を載せる棚。そこに先祖の霊を迎える。精霊棚(しょうりょうだな)。静謐にして寂寥を含んだ、しかし確かな実景のスカルプティング・イン・タイムである。]

 

 雲冷る三更にひくし雁の声      同

[やぶちゃん注:上五「くもひゆる」であろう。「三更」は底本に「よなか」とルビされてある。夜間の時間区分の一つである五更の第三で、凡そ現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。「雁」は「かり」。]

 

 雞頭の昼をうつすやぬり枕      同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書の評釈。『「ぬり枕」は箱枕の木の台が漆塗の枕。秋日の下、くつろいで頭をのせている塗枕に、庭に群生する真赤な鶏頭の花が映し出されている。元禄十年の秋、名古屋に素覧を訪ねた折の吟。素覧は「鶏頭野客」と号したほど、鶏頭花を愛好した』とある。「素覧」は三輪素覧(生没年未詳)中期の俳人。尾張名古屋の人で、尾張蕉門の一人。藤屋露川と交わり、露川門と蕉門諸家の句集「幾人水主(いくたりかこ)」を元禄一六(一七〇三)年に刊行している。別号に鶏頭山もある。芭蕉宛書簡が残る。]

 

 月代や時雨のあとのむしの声     同

[やぶちゃん注:「後れ馳(おくればせ)」(朱拙編・元禄十一年刊)所収の句形。「月代(つきしろ)や時雨(しぐれ)のあとのむしの聲(こゑ)」。「月代」とは、月が出ようとする間際に東の空が白んで明るく見えることをいう。月の光りの回折の視覚、晩秋の時雨がさっと降って、さっと上がったその湿りけも持った嗅覚と触覚、そして叢ですだき始める虫の声の聴覚、総て文句なしの完全な自然景のマルチな再現である。]

 

 淋しさの底ぬけてふるしぐれかな   同

[やぶちゃん注:これは「けふの昔」(朱拙編で元禄十二年刊)の句形。堀切氏の前掲書の評釈がよい。但し、氏は「篇突」(へんつき:許六・李由篇で元禄一一(一六九八)年刊)所収の句形、

 淋しさの底ぬけてふるみぞれかな

で示され、『元禄十年冬、粟津仏幻庵での吟であろう。寒夜、草庵に独居していると、冷たい霙(みぞれ)が闇の空から底のぬけたように果てしなく降ってくるのが、ひしひしと感じられる。その果てしなく降る霙の中で、わが心の淋しさも、淋しさというもののぎりぎりの限界をさらにつき抜けるかのように、底知れぬ淋しさとなって迫ってくる、というのである。丈草の孤絶の声が、腸(はらわた)からうめき出るように聞こえてくる句である。なにがしかの甘い感傷を伴いやすい尋常の淋しさをつき抜けたところの、禅機に根ざす実存的な寂寥感なのである。上五「淋しさの」の「の」が微妙に働いている。「底ぬけて」はもちろん上にも下にもかかっているのである』とある。ここは彼の絶対の孤独の核心に至るためには、より冷感の強い「みぞれ」であってこそよいと私は思う。]

 

 引起す霜のすゝきや朝の内      同

[やぶちゃん注:諸史料によれば、元禄三年冬に京で巻かれた丈草・支考・芭蕉・史邦・去来・野童による六吟歌仙の発句であるが、

 引起す霜のすゝきや朝の月

 引起す霜のすゝきや朝の門(かど)

の異形がある。]

 

 鷹の目の枯野にすわるあらしかな   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈では、『鷹狩の情景であろう。蕭条とした枯野に、鷹匠の小手に据えられた一羽の鷹が、吹きすさぶ嵐に羽毛を逆立てながら、獲物をねらって鋭く精悍な目を光らせているさまである。炯々(けいけい)として物を射るような鷹の眼光を直叙した句法であるが、冬枯れの野と強い嵐を背景にして、見事な構図をなしている。鷹が獲物の鳥に飛びかかる直前の最も緊迫した一瞬なのである』とされ、注で、『鷹狩の鷹であろう。一解に野性の鷹とみるものもある』とあり、私は断然、これは野生のそれを望遠で狙った優れた描写だと感じている。]

 

 雞の片足づゝや冬ごもり       同

[やぶちゃん注:鶏小屋の景。実際には多くの種に鳥が片足で寝ることがある。体温損失を防ぐためとも言われているが、実際の理由は判っていないようではあるが。]

 

 著てたてば夜るのふすまもなかりけり 同

[やぶちゃん注:まず、堀切氏前掲書の評釈を引く。『寝るときも起きているときも、たった一枚の布子だけの生活なので、寝ているときは夜着であるが、朝それを着たまま起き出せば、もうとり立てて夜着というべきものはなくなってしまう――そんな簡素な草庵の毎日だというのである。元禄八年、三十四歳当時に詠んだ「春雨やぬけ出たまゝの夜着の穴」』(既出既注)『の句より、いっそう徹底した一切放下の清高な境地というべきであろう』。以下、注で、『『幻の庵』には正秀の丈草追悼詞中に出る句であり、この句を受けて「境界の哀を病中の吟に熟し給ふも周く世のかた見とはなりぬ」と記されている』とある。「幻の庵(まぼろしのいほ)」はただ一人の丈草の弟子魯九の編になる追善句集。宝永元(一七〇四)年自跋。次に、松尾氏前掲書の評釈を引く。『「ふすま」は裳、夜具。寝るも起きるもたった一枚の布子だけ。魯九は同書にこの句を引き、「境界の哀れを病中の吟に熟し給ふも、周く世のかた見とはなりぬ」と記す。病床にあって、一切を放下した悟道の境地。元禄十六年十月ごろの吟』とある。]

 

 雷おつる松はかれ野の初しぐれ    同

[やぶちゃん注:「雷」は無論、「らい」。堀切氏の評釈に、『冬枯れの野に折しも初時雨が降っている。野中に立つ一本の松――かつて落雷にあって見るかげもなく枯れ果ててしまった松であるが、これにも初時雨がわびしく降りそそいでいるという情景である。中七「松はかれ野」の「かれ」は上下に掛けられた叙法である』とある。]

 

 水底の岩に落つく木の葉かな     同

[やぶちゃん注:最後も堀切氏の評釈で終わらさせてもらう。『冷たく澄んだ水底の方に、それまで水面に浮かんでいた落葉が、ゆっくりと沈んでいって岩に落ち着いたという光景である。ほとんど悟入の境地にあるともいえるような丈草の透徹した自然凝視の眼があり、造化の実相――その輪廻転生のすがたを心安らかに肯定しているのである。とりすました大徳のような風格さえ感じられる句である』とされる。確かに公案への巧まざる非の打ちどころのない答えとなっている。]

 

 新(あらたに)に説明を加えなければならぬものもあるが、今はこれで筆を擱(お)くことにする。

[やぶちゃん注:最後に。宵曲は内藤丈草を高く評価した人物として芥川龍之介を挙げたが、ここで今一人、丈草を愛した、忘れて貰いたくない人物を、一人、挙げておく。数少ない日本の真のシュールレアリストであった瀧口修造その人である。

 

2020/08/10

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 五

 

       

 

 丈艸が『渡鳥集』に書いた賀詞は『有磯海』のほど重要なものではないが、その面目を窺うに足るものがあるから、やはり全文を引用して置きたい。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。]

 

   賀渡鳥集句幷序

崎陽の風士卯七(うしち)は蕉門の誹路[やぶちゃん注:「はいろ」。「俳路」に同じ。俳諧の世界。]ふかく盤桓て[やぶちゃん注:「たちもとほりて」。徘徊すること。盛んに歩き回ること。]高吟酔[やぶちゃん注:「ゑひ」。]をすゝめ酣酔[やぶちゃん注:「かんすい」。十分に酔うこと。]今に耽る。一句人を躍せずば[やぶちゃん注:「をどらせずば」。]死(しす)ともやまじといへる勇有けり。此頃撰集の催しありて野僧が本(もと)へも句なんど求らる。松の嵐の響をだに耳の外になしぬれば、かの詩は多く人の吟ずるを聞て自[やぶちゃん注:「みづから」。]一字を題せずとかや。古人も草臥[やぶちゃん注:「くたぶれ」。]たりけり。弥(いよいよ)其(その)くさの方人(かたうど)とうち眠[やぶちゃん注:「ねふり」。]ながら、つくづく其酔詠[やぶちゃん注:「すいえい」。]の序(ついで)にさぞさこそおかしく興ぜられんとおもひやる心に引立られて、聊(いささか)拙き[やぶちゃん注:「つたなき」。]詞(ことば)をまうけて集のことぶきを申おくる[やぶちゃん注:「まうしおくる」。]物しかり。

  句撰やみぞれ降よのみぞれ酒

   壬午仲冬日

            粟津野々僧丈艸塗稿

[やぶちゃん注:「渡鳥集」は去来・卯七編になるもの。丈草の跋文は元禄一五(一七〇二)年(壬午(みづのえむま/じんご))十一月(「仲冬」)であるが、刊行は遅れて宝永元(一七〇四)年であった。共同編者であった箕田卯七(みのだうしち ?~享保一二(一七二七)年)は肥前長崎の人で、去来の義理の従兄弟に当たる。江戸幕府の唐人屋敷頭(とうじんやしきがしら)を勤めた。

「句撰やみぞれ降よのみぞれ酒」は「くえらみやみぞれふるよのみぞれざけ」。「味醂(みりん)に餅霰(もちあられ)を加えたもので、奈良の名物。冬の季題でもある。実際の霙と霙酒の二重ねは響きも美しいが、寧ろ、卯七と二人共同で当たった楽しかった日々の思い出の重なりのイメージを狙ったものであろう。

「塗稿」「とかう(とこう)」であろうが、余り聞かぬ単語である。生地がひどいので誤魔化して「塗」り上げた原「稿」という謙遜の辞ではあろう。]

 

 壬午とあるから、元禄十五年の冬にこの序を草したのである。「一句人を躍せずば死ともやまじ」というのは、杜甫の「語不ㇾ驚カセㇾ人ストモ不ㇾ休」をもじったのであろう。「松の嵐の響をだに耳の外になしぬれば……」のあたり、丈艸の超然的態度を道破して遺憾なきものである。「性くるしみて学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸から見れば、「一句人を躍せずば死ともやまじ」ということも無用であったかも知れない。こういう態度の保持者たる丈艸が、その作品においては前に挙げたような、すぐれたものを示しているのだから、孤高自ら誇るの徒と同一視することは出来ぬのである。

[やぶちゃん注:「語不ㇾ驚カセㇾ人ストモ不ㇾ休」訓読すると、

 語(ご) 驚かせずんば 死すとも休(や)まず

で(「語」は無論、「詩句」の意)、これは杜甫の七六〇年の春四十九歳の折り、成都の錦江のほとりで詠じた七律「江上値水如海勢聊短述」(江上(こうじやう)、水(みづ)の海勢(かいせい)のごとくなるに値(あ)ひ、聊(いささ)か短述す)の第二句である。「海勢」は水の流れの盛んなことを指す。

   *

爲人性僻耽佳句

語不驚人死不休

老去詩篇渾漫與

春來花鳥莫深愁

新添水檻供垂釣

故著浮槎替入舟

焉得思如陶謝手

令梁述作與同遊

 

人と爲(な)り 性 僻(へき)にして佳句に耽り

()  人を驚かせずんば  死すとも休まず

老い去つて 詩篇  渾(すべ)て漫與(まんよ)なり

春來 花鳥  深く愁ふること莫(な)かれ

新たに水檻(すいかん)を添へて 垂釣(すいちよう)に供し

故(もと)より浮槎(ふさ)を著(つ)けて 入舟(にふしう)に替(か)ふ

焉(いづく)んぞ  思ひは 陶謝(とうしや)のごとくなる手を得て

梁(かれ)をして述作して  與(とも)に同遊せんこと

   *

「僻」は偏頗なこと。「漫與」は漫然に同じい。とりとめもなく、ふとした何気ない感懐の表現となったことを言う。第四句「春來花鳥莫深愁」は明らかに、十三年前、「安禄山の乱」に遭遇して長安に軟禁されていた若き日に詠じた絶唱「春望」の「感時花濺淚 恨別鳥驚心」の悲傷の対句を軽くいなしたものである。「水檻」岸辺の木の板で作った手すり。「浮槎」は浮かべた筏のこと。「著」繋留し。「替入舟」「替」は「代」に同じで筏をもやってそこに行くことで、舟を漕ぎ出でるのに代えたの意。「陶謝」六朝期の大詩人陶淵明と謝霊運(しゃれいうん)。最後の二句は、「こんな折りには望んだことは、陶淵明や謝霊運のような文藻豊かな人物の手を得て、ともに詩を詠じながら遊んだならば、どんなにか面白かろうに、という思いなのであった」の意である。]

 

 『渡鳥集』に「一処不住」の作者として挙げたものが芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴の五人であることは、前に惟然の条に記した。丈艸の晩年はその句によってもわかるように、大体草庵生活の継続であって、支考や惟然の如く、諸国漂浪の旅に上ったわけではない。しかし一処不住の沙門らしい風骨を具えた点からいえば、どうしても丈艸を首(かしら)に推さなければならぬ。元禄十五年刊の『はつたより』に

 月雪や列は知識に成果ぬ      丈艸

[やぶちゃん注:「つきゆきやツレはちしきになりはてぬ」で「ツレ」はカタカナで同撰集に振っている。上五は後で宵曲も言っているように実景ではなく、俳諧の風雅の詩境を言う。「列」は嘗てともに修業した僧らを指す。「知識」は「善知識」で、元は「人々を仏の道へ誘い導く人」の意であるが、特に「高徳の僧」を指す。竹艸の親しんだ禅宗では参学の者が師家(しけ:師僧・先生)を指して言う。座五には地位・名誉を得た成功者と自認している(それは真の仏道を求めることとには明らかに反する利欲と名聞の世界である)そうした連中への批判的な物言いの雰囲気が濃厚に漂っている。]

という句がある。かつて修行を共にした同列の僧の中に、已に智識になりすました者があるという意であろうか。この「月雪」は眼前の光景ではない。丈艸自ら風雅に隠れたことを指すものと思われる。『丈艸発句集』には洩れているが、丈艸の境涯を按ずる上において、この句は看過すべきであるまい。

[やぶちゃん注:「はつたより」「初便(はつだより)」。知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

 

 丈艸は宝永元年二月二十四日、四十三歳を一期(いちご)として世を去った。浪化に後(おく)るること四カ月、去来に先立つこと七カ月である。その訃(ふ)が湖南の正秀から伝えらるるに及び、去来は「丈艸誄(るい)」一篇を草して深くその死を悼んだが、自分もまた久しからずして黄土(こうど)に帰したのであった。丈艸は一たび『猿蓑』に跋を草し、二たび『有磯海』に序を草し、三たび『渡鳥集』に賀詞を寄せている。この三書はいずれも去来の与(あずか)るところ少からぬものである。去来と丈艸とは同じような性格の人とも思われぬが、一点深く冥合するところがあり、心交の度も他に異るものがあったに相違ない。

[やぶちゃん注:「宝永元年二月二十四日」グレゴリオ暦一七〇四年三月二十九日。彼は寛文二(一六六二)年(月日は不詳)生まれであった。

「黄土」黄泉(よみ)の国。

「冥合」「みょうごう」で、知らず知らずのうちに一つになっていく、なっていることを言う。]

 

 山に龍った当初の丈艸と去来との間には、互に往来することがあったらしい。「丈艸誄」の中に「……義仲寺の山の上に、草庵をむすびげれば、時々門自啓、曲々水相逢などと打吟じ、あるは杖を横たへ、落柿舎を扣(たたい)て、飛込だまゝか都の子規(ほととぎす)とも驚かされ、予も彼(かの)山に這のぼりて[やぶちゃん注:「はひのぼりて」。]、脚下琶湖水、指頭花洛山と、眺望を共にし侍りしを」とあるのが、自らその間の消息を明(あきらか)にしている。

[やぶちゃん注:「時々門自啓、曲々水相逢」これは丈草の漢詩と読む。「時々 門 自(おのづか)ら啓(ひら)く」「曲々 水 相逢(あひあ)ふ」であるが、私は「啓」は「ひらき」と連用形で対句となると思う。但し、諸本は「ク」を送ってはいる。「時には人が訪ねて来れば、粗末な柴の門は自ずと開き、彼方には蛇行した複数の川が、一つになって見える」の意であろう。

「脚下琶湖水、指頭花洛山」同前。「脚下 琶湖(はこ)の水 指頭(しとう) 花洛の山」で、「足の下には琵琶湖の満々たる湖水が、そして指指すその頭の先には。花の都の京の山々が見渡せる」の意であろう。]

 

 飛込だまゝか都のほとゝぎす    丈艸

[やぶちゃん注:「とびこんだままかみやこのほととぎす」。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「篇突」(へんつき:許六・李由篇で元禄一一(一六九八)年刊)所収の句で、『ほととぎすよ、都の空を鳴き渡るべきなのに、落柿舎に飛込んだままなのかい』の意で、『去来を「都の時鳥」に見立てた、諧謔味をこめた即興の挨拶吟』とし、『元禄十一年の初夏、洛星落柿舎に去来を訪ねた折の作』とされる。]

という句は元禄十一年の『貳妬』に出ているから、それ以前の話であろう。去来の句にも

   僧丈艸をとぶらふ

 馬道や菴をはなれて霜の屋根    去来

[やぶちゃん注:「菴」は暫く「いほ」と訓じておく。]

   丈艸の住まれける湖南の山家を
   訪ひて申侍る

 夕照にひらつく磯のかれ葉かな   同

[やぶちゃん注:「夕照」は「ゆふやけ」。「ひらつく」は「薄いものがゆれ動く。ひらひらする。ひらめく」或いは「落ち着きなくしきりに動く」のハイブリッドの意であろう。]

の如きものがある。

 丈艸が山を出なくなったのは何時(いつ)頃からか。

   今年艸庵を出でじとおもひ
   定むる事あり

 手の下の山を立きれ初がすみ    丈艸

[やぶちゃん注:「立きれ」は「たちきれ」という命令形。松尾氏前掲書によれば、『初霞よ、手をかざす下に見える山里を書きしておくれ。俗世への未練を絶ちたいから。閉』門『禁足三年の誓いを立てた元禄十四年の年頭吟』とある。俳諧ならではの静かな、言上げでない呟きである。]

という句が元禄十四年の『蝶すがた』に出ているから、先ずその辺からと見るべきであろう。

その翌年の『柿表紙(かきびょうし)』に

   閉関立春

 白粥の茶碗くまなし初日影     丈艸

などとあるのも、山を出なくなってからの片鱗を伝えているものと思われる。世間の外に逸脱した丈艸と、世間の中に生活する去来とは、これがために相見る機会が少くなった。「丈艸誄」の中に「人は山を下らざる誓ひあり」とあるのは、如何にも丈艸らしい面目を発揮したもので、一たびこの誓を立てて後、遂に山を下らなかったのである。

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『元禄十五年の歳旦吟である。元朝、用意された一杯の白粥を盛った茶碗のすみずみにまで初日の光がさしわたっているさまである。閉関中に迎えた新春であり、簡素な白粥の膳に、丈草の清浄な境地が象徴的に映し出されている。ゆったりと落ち着きはらった気分が、句の調べによく表われている』とされ、『丈草は元禄十四年、四十歳を迎えた年の年頭に、閉関禁足三年の誓いを立て、故翁追悼に千部の華経読経と経塚建立をめざした。この句はその翌年の閉関中の歳旦吟か(石川真弘『蕉門俳人年譜集』)』とある。]

 

 丈艸の庵の様子は何も書いたものがないからわからぬが、丈艸を悼んだ

   去年の夏仏幻庵を尋侍るに
   調度は弦鍋(つるなべ)壱
   つに釜のみ有、今は其主も
   又まぼろし

 争ひもなき死跡やげんげ畠     素覧

という句の前書によって、極めて簡素なものであったことは想像出来る。

[やぶちゃん注:作者もよく知らぬが、前書も句もまことにしみじみとした、いい句である。

「素覧」三輪素覧(みわそらん 生年未詳)。名古屋蕉門の一人で、通称、四郎兵衛。「笈日記」に出、芭蕉宛書簡も残る。]

 

   贈丈艸上人之坊

 夜寒さの水鼻落ん本の上      朱拙

[やぶちゃん注:「朱拙」(承応二(一六五三)年~享保一八(一七三三)年)は豊後日田(ひた)の医師。日田俳諧の開祖であった中村西国(さいこく)に談林風を学んだが、元禄八年に来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者であり、編著に「梅桜」「けふの昔」などがある。]

の句に対して、

   答見寄山菴

 焼栗も客も飛行夜寒かな      丈艸

[やぶちゃん注:前書は「山菴に寄するものを見て答ふ」か。よく判らぬ。句は「やきぐりもきやくもとびゆくよさむかな」。朱拙編で元禄十一年刊の「後れ馳」(おくればせ)所収で、前にある朱拙の「夜寒さの」の句に対する返句である。参照した松尾氏前掲書によれば、『この夜寒、囲炉裏に埋めた焼栗もはじけるが、来客もまた寒さにこらえきれず、飛ぶように帰っていった』と訳しておられる。]

と答えたのは、山を下らざることを誓う以前のようであるが、それ以後といえども、人の来り訪うのを拒んだわけではない。

   草庵せまけれど秋ごとに
   今宵の月をとはれて

 窓本をちれば野原や月の客     丈艸

[やぶちゃん注:「ちれば」は「散れば」で窓の外に出て貰って、歩かれれば、そこはもう、見渡す限りの野原で御座る、心行くまで独り、月を愛でて下されよ、の意。見事なワイド画面で、しかも孤高を保つ丈草の秘かな思いも伝わってくるる佳句である。]

 丈艸は沙婆気(しゃばけ)の取れきらぬえせ隠者のように、強いて訪客を回避しようとすることはなかったのである。

[やぶちゃん注:正直、宵曲、言わんでもいいこと(無論、宵曲は「似非隠者」とはとってないことは明白であるが、「娑婆気」が残存する似非隠者は卜部兼好のように恋文の代筆なんどして俗人とひっきりなしに触れ合っていたことを考えるとやはり言わずもがなの謂いとしかとれぬ)を言って却ってシラけさせている。不要。]

   山菴の歳暮老鼠ひとつ
   廿日ねずみ二疋ありて
   所を得がほ也

 行灯をけせば鼠のとしわすれ    丈艸

に至っては、世外に超然たる仏幻庵の歳暮風景であろう。灯を消せば直に跳梁を極めるその鼠どもに対しても、丈艸は格別な親しみを持っていたような気がする。

[やぶちゃん注:「山菴」は「さんあん」、「歳暮」は「せいぼ」と音で読んでおく。「老鼠」は「らうそ」。「行灯」は「あんどん」。堀切氏は『元禄十四年の歳末吟か』とされ、無論、『「老鼠ひとつ」は丈草自身を見立てたもの』で、『大晦日の夜』、『ひとり静かに行灯の火を消して寝ようとすると、わが草庵に居ついた』二匹の『鼠どもが賑やかに鳴き立てながら』、『年忘れの会をやっているらしい、と軽く打ち興じた』句とされる。その諧謔にまた仄かなペーソスが漂う。前書とセットになって佳句となっている。]

 

 元禄十五年十月、去来が最後に丈艸を訪ねた時の模様は、「丈艸誄」の末段がこれを尽している。

   宿丈艸草庵

 さむきよやおもひつくれば山の上  去来

 久しぶりに相見た二人は、夜の更けるのも知らず、閑談に耽ったものであろう。時ならぬ雷鳴と共に、烈しい山風が庵の扉を吹放つのを見て、丈艸は「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」という即興の句を示した。一夜は閑寂な談笑に明けて、

  去来が庵を訪ひ来れるに別るゝとて

 雪曇身の上を啼く烏かな      丈艸

ということになったのであるが、常と同じ烏の啼声でも、この朝は何となく心に沁むものがあったのであろう。かくして相別れたなり、二人は遂に相見る機がなかった。「なき名きく春や三とせの生別れ」という去来の悼句は、最後に丈艸を訪うてから足掛三年になることを詠んだものと思われる。去来に比すれば十歳も年少であり、蕉門の骨髄を摑み得た丈艸が、自分に先立って歿したことは、去来に取って大なる痛恨事であった。

[やぶちゃん注:「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」「虛室(きよしつ) 閑(しづか)に夸(ほこ)らんと欲す 是れ寶/滿山の雷雨 寒更(かんかう)に震(ふる)ふ」。「無一物即無尽蔵の部屋にあること、それが、これ、私の宝。山全体に激しい雷雨がやって来ては、寒い夜更けを震わせる」。禪の公案のようで、句もいいが、彼の漢文の詩句群も、はなはだ実に魅力に満ちている。]

 

 丈艸の一生を煎じつめれば、「丈艸誄」の外に出ぬといって差支ない。両刀を棄てて仏門に入ったことが、その生涯における第一の山であり、次いで芭蕉の門に入ったことが第二の山である。その後における丈艸の生活は、この二つの世界より得来ったものによって、過誤なしに歩を続けたと見るべきであろう。他は丈艸自身も多く伝うることを好まず、また伝わってもいない。世を謝して自然に任せた晩年の境涯は、容易に他の窺うを許さぬ底のものであるが、芥川氏のいわゆる「最も的々と芭蕉の衣鉢を伝えた」ものが斯人(しじん)であることは、疑問の余地はあるまいと思う。

 以上丈艸の生涯に沿うて彼の句を見来った。なお遺された句について、他の方面から少しく観察を試みたい。

[やぶちゃん注:芥川龍之介のそれは、前に示した「澄江堂雜記」の「丈艸の事」の冒頭。]

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