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カテゴリー「山村暮鳥全詩【完】」の755件の記事

2017/05/06

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅹ」パート / 改版「風は草木にささやいた」異同検証~了

 

   Ⅹ

 

[やぶちゃん注:生みのくるしみの頌榮は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:あかんぼは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:風景は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:疾風の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:友におくる詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:自分はいまこそ言はうは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:家族は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:薄暮の祈りは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:初版でここに配されてある、土田杏村のあの長々とした五月蠅い跋文は改版には存在しない。]

 

 

 

   後より來る者におくる

 

子ども等よ

鐵のやうに頑丈であれ

やがて君達のお父さんがお爺さんのやうになる時

其時、君等はお父さんのやうな大人になるのだ

此の時代と世界とを

そして立派にうけ繼ぐのだ

その君達のことを思へば

此の胸はうれしさで一ぱいになるぞ

おお勇敢な小獅子よ

お爺さんよりお父さんより

君等はもつとどんなに強くなることか

こつちをみろ

 

子ども等よ

いまは頭も白髮となり

骨が皮をかぶつたやうな體軀を

漸く杖でささへて

消えかかつた火のやうに生きてゐるお前達のお爺さんを見な

あれでも昔は若くつて大膽で

君等のお父さん達が

いま鍬鎌を振りまはして田圃や畑でたたかつてゐるやうに

弓矢銃丸(やだま)の間をくぐりむぐつて

いさましいはたらきをしたもんだ

 

[やぶちゃん注:後詩後より來る者におくる驚くべき変更が施されてある。初版の後半部と前半部を完全に入れ替え、しかも一連構成を二連構成へと改稿しているのである。なお、その他、三箇所に施されてあったルビが除去されてもいる。個人的にはしかし、この順序ではコーダを感じさせない。敢えてコーダを外したのは山村暮鳥の確信犯なのだろうが、残念ながら、私は改版の、この改稿は全く支持出来ない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:初版では最後の最後にこの以下に献辞があるが(後より來る者におくるの最後に附加してある)、改版にはない。]





以上を以って私は私の「山村暮鳥全詩」を私なりに納得行く形で完成し得たと考えている。

――この仕儀総てを亡き母聖子テレジアに捧げる――

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅸ」パート

 

   Ⅸ

 

[やぶちゃん注:「そこの梢のてつぺんで一はの鶸がないてゐる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:雨は一粒一粒ものがたる初版の「うすぐらい電燈の下で」が「うすぐらいランプの下で」に変更されてある。]

 

[やぶちゃん注:麥畑は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:人間苦は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:わたしたちの小さな畑のことは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:一日のはじめに於ては異同なし。]

 

[やぶちゃん注:自分達の仕事は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:消息は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:感謝は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「勞働者の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:老漁夫の詩初版第二連(二行構成)の「いまも此の生きてゐる海を‥‥」のリーダが除去されてある。初版の「ああ此の憂鬱な額」の「鬱」は「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:驟雨の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:苦惱者は、初版の第七連第一行の「だがこんなことが一體、世界にあり得るものか」が、「だがこんなことが、一體世界にあり得るものか」と読点が移動している。誤植でないとすれば、これは改悪である。]

 

[やぶちゃん注:あけは、初版にあった二箇所のダッシュ後の空隙は改版では存在しない。]

 

2017/05/04

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅷ」パート

 

   Ⅷ

 

[やぶちゃん注:「世界の黎明をみる者におくる詩」は二行目の「からす」への傍点「ヽ」がない。]

 

[やぶちゃん注:「自分は此の黎明を感じてゐる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「偉大なもの」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:強者の詩は「からすや雀も一しよであるのか」の傍点「ヽ」がない。]

 

 

[やぶちゃん注:病める者へ贈物としての詩は異同なし。]

 

 

[やぶちゃん注:或る日曜日の詩は異同なし。]

 

 

 

 朝の詩

 

しののめのお濠端に立ち

お濠に張りつめた

氷をみつめる此の氣持

此のすがすがしさよ

硝子(がらす)のやうな手でひつつかんだ

石ころ一つ

その石ころに全身の力をこめて

なげつけた氷の上

石ころはきよろきよろと

小鳥のやうにさえずつてすべつた

おお太陽!

此の氣持で

人間の街へ飛びこまう

 

[やぶちゃん注:朝の詩初版の三行目の「硝子(ぐらす)」のルビが「硝子(がらす)」に変わっている。また、初版の「小鳥のやうにさへずつてすべつた」が「小鳥のやうにさえずつてすべつた」になっており、歴史的仮名遣は「さへづつて」が正しいから、改版は誤りを増やしてしまっている。更に初版の「(おお太陽!)」の丸括弧は改版では存在しないし、次行の「おお此の氣持で」の頭の「おお」も除去されている。決定打は最終行「あの石ころのやうに」がカットされていることである。歴史的仮名遣の誤りの増加は痛いが、詩篇全体としては整理されて、氷のようにキン引き締まった響きがあり、太陽の温もりを持って「街へ飛びこ」もうとする詩人の魂が直喩の煩わしさから解放されていると私は感じる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:大風の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:農夫の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:人間の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:姙婦を頌する詩は初版の第一連と第二連が連続して一連になっている。個人的には、朗読しても、流れの内在律から言っても、繋げるのはいただけない。初版がよい。]

 

[やぶちゃん注:妹におくるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:十字架は初版の最終行「主よ、人間のこの強さを‥‥」のリーダが除去されている。ここは毅然として終わらねばならぬと私は思うので、リーダがない改版版を支持する。]

 

[やぶちゃん注:鞴祭の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:鴉祭の詩は「ほぢくる」が「ほじくる」に正されてある。]

 

[やぶちゃん注:初版でここにある貧者の詩改版ではカットされている。]

 

[やぶちゃん注:「單純な朝餐」は異同なし。初版の第三連三行目の「みろ」(独立二字一行)が「みよ」に変えられある。また、「ひもじさをじつと耐えて」の「じつと」が「ぢつと」に表記変更されている。なお、歴史的仮名遣をとる過去の有名な作家の中には、しばしば確かに「ぢつと」「凝(ぢ)つと」「(凝(ぢつ)と」表記する者が有意にいるのであるが、ここは「ぢ」ではなく「じ」で正しい。また、初版で独立した連(一行)となっている「此の食卓に祝福あれ!」が第三連の末行になってしまい、全体が三連構成に変更されてしまっている。この最後の変更については、私は断然、初版を支持する。]

 

2017/05/03

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅶ」パート

 

   Ⅶ

 

[やぶちゃん注:「自分はさみしく考へてゐる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「蝗」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「愛の力」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「人間の神」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「秋のよろこびの詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「草の葉つぱの詩」は異同なし。]

 

 

 

 或る風景

 

みろ

大暴風の蹶ちらした世界を

此のさつぱりした慘酷(むごた)らしさを

骸骨のやうになつた木のてつぺんにとまつて

きりきり百舌鳥(もず)がさけんでゐる

けろりとした小春日和

けろりとはれた此の蒼空よ

此のひろびろとした蒼空をあふいで耻ぢろ

大暴風が汝等のあたまの上を過ぐる時

汝等は何をしてゐた

その大暴風が汝等に呼びさまさうとしたのは何か

汝等はしらない

汝等の中にふかく睡つてゐるものを

そして汝等はおそれおののき兩手で耳をおさへてゐた

なんといふみぐるしさだ

人間であることをわすれてあつたか

人間であるからに恥ぢよと

けろりとはれ

あたらしく痛痛しいほどさつぱりとした蒼空

その下で汝等はもうあらしも何も打ちわすれて

ごろごろと地上に落ちて轉つてゐる果實(きのみ)

泥だらけの靑い果實をひろつてゐる

 

[やぶちゃん注:太字「あらし」は原典では傍点「ヽ」。初版或る風景の注で例外的に述べているが、ご覧の通り、初版の最終行「おお此の蒼空!」がカットされている私はアオリのコーダを欠いたこの改版版をよしとしない気持ちは今も変わらない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:雪ふり蟲は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:冬近くは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:蟋蟀は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:或る日の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「或る日の詩」(前篇とは同名異篇)は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:記憶の樹木は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

 

 

 初冬の詩

 

そろそろ都會がうつくしくなる

人間の目が險しくなる

初冬

お前の手は熱く

やがで火のやうになるのだ

 

[やぶちゃん注:初冬の詩は、初版二行目の冒頭の「そして」がカットされ、四行目の冒頭の「いまに」がカットされ、最終行冒頭の「まるで」が「やがて」に変更されいる。この短い一篇の詩篇中でこれだけ改稿するというのは、山村暮鳥の、かなりの覚悟を持った確信犯と見なければならぬ。これについては私も、改版の方がモンタージュがくっきりとしてよくなっていると感ずる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:路上所見は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:友におくるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:惡い風は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「雪の詩」は十二行目の「子ども等はうれしさに獅子のやうだ」の「獅子」が「けもの」となり、傍点「ヽ」が附されてある。]

 

2017/05/01

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅵ」パート

 

   Ⅵ

 

[やぶちゃん注:「秋ぐち TO K.TŌYAMA.は異同なし。Ō」の長音符はこちらは現行通りの普通のフラットなもの。

 

[やぶちゃん注:「此の世界のはじめもこんなであつたか」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「ひとりごと」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「新聞紙の詩」は「世界のことなどは何も知らず」の部分が、改版では「世界のことなどは何んにも知らず」に書き変えられてある。改版の口語的強調形の方がよい。]

 

[やぶちゃん注:「汽車の詩」は「その中の一本の線をえらんで」の部分が、改版では「その一本の線をえらんで」と変わっている。改版の方がより現前的事実を示すリアルな描写と思う。]

 

[やぶちゃん注:「都會の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「都會の詩」(前と同題の別篇)は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「握手」は「もぢもぢするのは耻づべき行爲だ」の「もぢもぢ」が改版では「もじもじ」と変えられている。但し、歴史的仮名遣は「もぢもぢ」の方が正しい。]

 

[やぶちゃん注:初版でここに配されてあった「故郷にかへつた時」は既に述べた通り、前の「Ⅴ」の終りに配されてある。詩篇内容の異同はない。]

 

[やぶちゃん注:太陽はいま蜀黍畑にはいつたところだ最終行のリフレイン「何もかも明日のことだ」が存在しない。これはある種の悪意めいた邪推であるが、この詩篇の後半は右ページで、最終行が本来リフレインされている最初の「何もかも明日(あした)のことだ」である(初版はルビは一行目にのみ附されてある)。本改版はパート表示の挿絵とローマ数字の打たれたページが総て左ページに統一されており、そのパート表示ページの裏は白紙であるから、この一行があると、一行のみを記した左ページとなり、その裏は特異的に白紙として「Ⅶ」の標題ページを拵えなくてはならなくなる。その一ページ増による白紙ページを山村暮鳥自身が避けたためではあるまいか?

 

2017/04/27

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅴ」パート

 

   Ⅴ

 

[やぶちゃん注:「キリストに與へる詩」は異同なし。]

 

 

 

 或る淫賣婦におくる詩

 

女よ

おんみは此の世のはてに立つてゐる

おんみの道はつきてゐる

おんみはそれをしつてゐる

いまこそおんみはその美しかつた肉體を大地にかへす時だ

靜かにその目をとぢて一切を忘れねばならぬ

おんみはいま何を考えてゐるか

おんみの無智の尊とさよ

おんみのくるしみ

それが世界(よ)の苦みであると知れ

ああそのくるしみによつて人間は赦される

おんみは人間を救つた

おんみもそれですくはれた

どんなことでもおんみをおもへばなんでもなくなる

おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時

それをみて石を投げつけたものは誰か

あの野獸のやうな人達をなぐさむるために

年頃のその芳醇な肉體を

ああ何の憎しみもなく人人のするがままにまかせた

齒を喰ひしばつた刹那の淫樂

此の忍耐は立派である

何といふきよらかな靈魂(たましひ)をおんみはもつのか

おんみは彼等の罪によつて汚れない

彼等を憐め

その罪によつておんみを苦め

その罪によつておんみを滅ぼす

彼等はそれとも知らないのだ

彼等はおのが手を洗ふことすら知らないのだ

泥濘(どろ)の中にて彼等のためにやさしくひらいた花のおんみ

どんなことでもつぶさに見たおんみ

うつくしいことみにくいこと

おんみはすべてをしりつくした

おんみの仕事はもう何一つ殘つてゐない

晴晴とした心をおもち

自由であれ

寛大であれ

ひとしれずながしながしたなみだによつて

みよ神神(かうかう)しいまで澄んだその瞳

聖母摩利亞のやうな崇高(けだか)さ

おんみは光りかがやいてゐるやうだ

おんみの前では自分の頭はおのづから垂れる

ああ地獄の月よ

おんみの行爲は此の世をきよめた

おんみは人間の重荷をひとりで脊負ひ

人人のかはりをつとめた

それだのに捨てられたのだ

ああ正しい

蒼ざめた地獄の月

病める猫よ

おんみはこれから何處へ行かうとするのか

おんみの道はつきてゐる

おんみの肉體(からだ)は腐りはじめた

大地よ

自分はなんにも言はない

此の接吻(くちつけ)を眞實のためにうけてくれ

ああ何でもしつてゐる大地

そして女よ

曾て彼等の讃美のまつただ中に立ちながら

ひとときのやすらかさもなかつた

おんみを蛆蟲はいま待つてゐるのだ

あらゆるものに永遠の生をあたへ

あらゆるものをきよむる大地

此の大地を信ぜよ

人間の罪の犧牲としておんみは死んでくださるか

自分はおんみを拜んでゐる

彼等はなんにもしらないのだ

わかりましたか

そして吾等の骨肉よ

いま一どこちらを向いて

おんみのあとにのこる世界をよくみておくれ

 

[やぶちゃん注:或る淫賣婦におくる詩には驚くべき異同があるので、長い詩篇であるが、改訂版を以上に掲げた。初版の後半部の初めの方に出る、

 

ああ地獄のゆり

 

(太字は底本では傍点「ヽ」)が、この改版では、

 

ああ地獄の月よ

 

と変えられている。これによって、六行後の

 

いたましい地獄の白百合

 

 

蒼ざめた地獄の月

 

と大きく改変されてある。これはシンボライズの大きな改変である。軽々には私にはどちらがよいとも言えぬ。しかし「ゆり」を「月」と変えた暮鳥には、明らかに死の影の囁きがあったのだと私には直観的に思われる

 また、初版の「いたましい地獄の白百合」の次行の「猫よ」も、改版では「病める猫よ」に変えられてある

 なお、初版で特異的に訂した最後から二行目の「いま一どこちらを向いて」(初版は「いま一どこららを向いて」)は正しく「こちら」となっている。]

 

 

 

[やぶちゃん注:溺死者の妻におくる詩四行目が初版は、

 

おんみの生(ライフ)は新しく今日からはじまる

 

だったものが、「ライフ」のルビがなくなり、

 

おんみの「生」は新しく今日からはじまる

 

に変更されている。私は萩原朔太郎なんかが好んでやらかした「生(らいふ)」というルビが生理的に大嫌いなので、この改変は好ましく感ずる。]

 

[やぶちゃん注:大きな腕の詩は初版十一行目の「見やうとすれば忽ちに力は消へてなくなるのだ」の「消へて」が正しい仮名遣に訂されている。これ以外は歴史的仮名遣の誤り(二箇所の「見やう」という誤り)も含めて異同はない。]

 

[やぶちゃん注:先驅者の詩は異同なし。

 初版はこれで「Ⅴ」が終わっているが、改版では初版の次の「Ⅵ」にある故郷にかへつた時が、この「Ⅴ」の掉尾に配されてある。詩篇内容の異同はない。]

 

2017/04/25

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅳ」パート

 

   Ⅳ

 

[やぶちゃん注:人間の午後は「憂鬱」の「鬱」が「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:雨の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:荷車の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:歡樂の詩は初版の奇体な「自分の目はまつたく葷み」が、「自分の目はまつたく暈み」と「暈」の字で正しく記されてある。]

 

[やぶちゃん注:海の詩は初版の衍字としか思われない「この憂鬱な波のうねりりは」が正しく「うねりは」となっている。但し、「憂鬱」の「鬱」は「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:ザボンの詩初版の四行目「あひよりそうてゐるそのむつまじさ」が「あひよりそふてゐるそのむつまじさ」となっている。]

 

[やぶちゃん注:此處で人間は大きくなるのだは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:郊外にて初版詩篇中の三箇所(一箇所はもともと「麥穗」)の「麥ぼ」が「麥穗」に総て書き変えられてある。]

 

[やぶちゃん注:波だてる麥畑の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:刈りとられる麥麥の詩四行目「麥畑はすつかりいろづき」の「麥畑」が「麥畠」となっている。]

 

[やぶちゃん注:都會にての詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:大鉞は異同なし。]

 

 

 

 一本のゴールデン・バツト

 

一本の煙草はわたしをなぐさめる

一本のゴールデン・バツトはわたしを都會の街路につれだす

煙草は指のさきから

ほそぼそとひとすぢ靑空色のけむりを立てる

それがわたしを幸福にする

そしてわたしをうれしく

光澤(つや)やかな日光にあててくれる

けふもけふとて火をつけた一本のゴールデン・バツトは

騷がしいいろいろのことから遠のいて

そのいろいろのことのなかにゐながら

それをはるかにながめさせる

ああ此の足の輕さよ

 

[やぶちゃん注:初版一本のゴールデン・バツトでは六行目が「そしてわたしをあたらしく」となっている。この改版のそれは黙読しても朗読してみても、「そしてわたしをうれしく」「光澤(つや)やかな日光にあててくれる」とあるのは、表現上、どうみてもおかしい確信犯の改作とすれば、甚だしい改悪と言わざるを得ない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:初版ではここには詩篇記憶についてが挟まっているが、改版ではカットされている。]

 

[やぶちゃん注:收穫の時は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここ(「Ⅳ」のコーダ)に初版では詩篇が配されてあるが、改版ではカットされている。]

 

2017/04/24

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅲ」パート

 

   Ⅲ

 

[やぶちゃん注:「其處に何がある」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「憂鬱な大起重機の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「耳をもつ者に聞かせる詩」は七行目「そこに此の世界を破壞する憂鬱な力がこもつてゐるのだ」の「憂鬱」の「鬱」が改版では「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:人間に與へる詩は異同なし。初版で注したように、ここでも「ひつ裂き」はママである。これによって、彌生書房版全詩集や加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)の「ひき裂き」は私は正しくないと断ずるものである。]

 

[やぶちゃん注:わすれられてゐるものについては異同なし。]

 

[やぶちゃん注:寢てゐる人間については異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「子どもは泣く」は異同なし。]

 

 

 

 或る朝

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから………

 

 

[やぶちゃん注:初版の「Ⅲ」は「子供は泣く」で終わっているが、改版ではここに、初版の「Ⅱ」パートのコーダの或るが、上記のように改変されて(題名が「或る時」から「或る朝」に変えられた上、リーダ数が七点から九点に変更)ここにかく配されてある。]

 

2017/04/23

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅱ」パート

 

   Ⅱ

 

[やぶちゃん注:「萬物節」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「種子はさへづる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「或る雨後のあしたの詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「十字街の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ポプラの詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:風の方向がかわつたは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:はリンク先の私の注で示した通り、初版の最終行「見えない翼はその踵にもひらひらしてゐる」の「踵」は実際には《「路」-「各」+「童」》という異様な漢字活字になっている(底本二本とも確認)。しかし、この漢字は私は知らないし、大修館書店の「廣漢和辭典」にも収録せず、ネットの「Wiktionary」でも、この字を見出すことが出来なかったことから、この漢字をここに入れ込んでも、まず、殆んどの日本人は意味は勿論、それを読む(発音する)ことすら出来ないであろうと考えた。されば、初版ではここのみ、特異的に彌生書房版全詩集及び加工用データとして使った「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)に従い、本文自体を「踵」の字として示したのであるが、案の定、この改版では「踵」になっている

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:としよつた農夫は斯う言つたは、後半の初版の一行「われあ大(でけ)え男になつた」の「大」が改版では「太」になっている(ルビはママ)。孰れが正しいとも判じ得ない。私は普通に「大」でよいと思う。]

 

[やぶちゃん注:よい日の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「朝朝のスープ」は初版の四行目の「家の内の日日に重苦しい空氣は子どもの顏色をまで憂鬱にしてきた」「鬱」の字が「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:初版ではこの後に(則ち、「Ⅱ」パートのコーダに)、

 

  或る時

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから‥…‥

 

があるが、この一篇は改版では標題が「或る朝」に変えられ上、リーダ数にも変更が加えられて、Ⅲの最後に配されてある。]

 

2017/04/21

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅰ」パート

 

   Ⅰ

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の上部にデッサン風の挿絵があるが、この絵(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)、誰の描いたものか判らぬので、画像表示は控える。以後のパートでも挿絵が入るが、その指示は略す。]

 

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の冒頭の詩「穀物の種子」(本文から「種子」は「たね」と読むべきである)に異同はない。]

 

 

[やぶちゃん注:「彼等は善い友達である」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「父上のおん手の詩」は最終行「此處ではるかにその手に熱い接吻(くちつけ)をしてゐる」が「くちづけ」と濁音表記となっている以外は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここにあるはずの初版の二行の短詩篇或る朝の詩

 

  或る朝の詩

 

冬も十二月となれば

都會の街角は鋭くなる……

 

は改版では、何故か除去されている。]

 

[やぶちゃん注:曲つた木は、改版では四行目「ねぢれくるはせたのは風のしわざだ」の「しわざ」に傍点「ヽ」が附されており、「小鳥をさえずらせる」が「小鳥をさえづらせる」と中途半端に訂されてある正しくは「さへづらせる」でなくてはならない。因みに彌生書房版全詩集版ではそう訂されてある。]

 

[やぶちゃん注:ランプは異同なし。]

 

 

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも

火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

[やぶちゃん注:初版の「詩」とは八行構成は同じであるものの、改行位置が二ヶ所で異なる。以下に初版を示す。

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける

子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

これは朗読時の印象が著しく異なる特異点の改変と言える。彌生書房版全詩集版は初版を採用している。朗読の印象からは私も初版を支持する。]

 

 

 

[やぶちゃん注:遙にこの大都會を感ずるは、初版の十四行目の「その街街の大建築の屋根から屋根をわたつて行く」の頭の指示語「その」が除去されており、また、最後から三行目「此の大都會をしみじみと」及び次行の「此の大沙漠中につつ立つ林のやうな大煙筒を」のそれぞれの冒頭の「此の」が孰れも「その」に変更されてある。有意な変更であるが、詩想自身には微塵の変化もないので特異点ではない。]

 

[やぶちゃん注:何處へ行くのかは異同なし。]

  

[やぶちゃん注:梢には小鳥の巣があるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「春」は異同なし。]

 

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