江戸川乱歩 孤島の鬼(48) 大団円 /江戸川乱歩「孤島の鬼」全電子化注~了
大団円
さて、木崎初代(正しくは樋口初代)をはじめ、深山木幸吉、友之助少年の三重の殺人事件の真犯人は明らかとなり、私たちの復讐を待つまでもなく、彼はすでに狂人になり果ててしまった。また、その殺人事件の動機となった樋口家の財宝の隠し場所もわかった。私の長物語もこの辺で幕をとじるべきであろう。
何か言い残したことはないかしら。そうそう、素人探偵深山木幸吉氏のことである。彼はあの系図帳を見ただけで、どうして岩屋島の巣窟を見抜くことができたのだろう。いくら名探偵といっても、あんまり超自然な明察だ。
私は事件が終ってから、どうもこのことが不思議でたまらぬものだから、深山木氏の友人が保管していた故人の日記帳を見せてもらって、丹念に探してみたところ、あった、あった。大正二年の日記帳に、樋口春代の名が見える。いうまでもなく初代さんの母御だ。
読者も知っている通り、深山木氏は一種の奇人で、妻子がなかった代りに、ずいぶんいろいろな人と親しくなって夫婦みたいに同僚していたことがある。春代さんもそのうちの一人だった。深山木氏は旅先で、因っている春代さんを拾ったのだ。(初代さんを捨て子にしたずっと後の話だ)
同棲二年ほどで、春代さんは深山木氏の家で病死している。定めし死ぬ前に、捨て児のことも、系図帳のことも、岩屋島のことも、すっかり深山木氏に話したことであろう。これで、後年深山木氏が例の樋口家の系図帳を見るや否や、岩屋島へ駈けつけたわけがわかる。
系図帳は樋口春雄(丈五郎の兄)からその妻の梅野に、梅野からその子の春代に、春代から初代にと伝えられたものであろう。むろん彼らはその系図帳の真価については何事も知らなかった。ただ正統の子が持ち伝えよという先祖の遺志を守ったにすぎない。
では、丈五郎はどうして、あの呪文がその中に隠してあることを知ったか。彼の女房の告白によれば、丈五郎がある日、先祖の書き残した日記を読んでいて、ふとその一節を発見したのだ。そこには家に伝わる財宝の秘密が系図帳に封じこめられてあるという意味がしるしてあった。だが、それは春代の家出後だったので、折角の発見がなんにもならなかった。それ以来、丈五郎は佝僂の息子に命じて、春代の行方探しに努めたが、当てのない探し物ゆえ、なかなか目的を達しなかった。やっと大正十三年ごろになって、今では初代がその系図帳を持っていることがわかった。それから丈五郎がその系図帳を手に入れるために、どれほど骨を折ったかは、読者の知っている通りである。
樋口家の先祖は、広く倭寇(わこう)といわれている海賊の一類であった。大陸の海辺を掠(かす)めた財宝をおびただしく所持していた。それを領主に没収されることを恐れて、深く地底に蔵し、代々その際し場所を言い伝えてきたが、春雄の祖父に当たる人がそれを呪文に作って系図帳にとじこめたまま、どういうわけであったか、その子に呪文のことを告げずして死んだ。徳さんの聞き伝えたところによると、その人は、卒中で頓死をしたらしいということである。
それ以来、丈五郎が古い日記帳の一節を発見するまで、樋口の一族はこの財宝について何も知らなかったわけである。
だが、この秘密は、かえって樋口一族以外の人に知られていたと考うべき理由がある。それは十年ほど以前、K港から岩屋島に渡り、諸戸屋敷の客となって、後に魔の淵の藻屑(もくず)と消えたあの妙な男があるからだ。彼は明かに古井戸から地底にはいり込んだ。私たちはその跡を見た。丈五郎の女房は、その男を思い出して、あれは樋口家の先祖に使われていた者の子孫であったと語った。それでは多分、その男の先祖が財宝の隠し場所を感づいていて、書き残しでもしたものであろう。
過去のことはそれだけにして、さて最後に、登場人物のその後を、簡単に書き添えてこの物語を終ることにしよう。
先ず第一にしるすべきは、私の恋人秀ちゃんのことである。彼女は初代の実妹の緑にちがいなく、樋口家の唯一の正統であることがわかったので、地底の財宝はことごとく彼女の所有に帰した。時価に見積って、百万円〔註、今の四億円ほど〕に近い財産である。
[やぶちゃん注:「孤島の鬼(5) 入口のない部屋」の割注と同じく、これは換算から見て、話者である蓑浦のそれというよりも、作者乱歩が蓑浦仮託して註したものと判断される。詳しくはそちらの私の注を再見されたい。]
秀ちゃんは百万長者だ。しかも、現在ではもう醜い癒合双体ではない。野蛮人の吉ちゃんは、道雄のメスで切断されてしまった。元々ほんとうの癒合双体ではなかったのだから、むろん両人ともなんの故障もない、一人前の男女である。秀ちゃんの傷口が癒えて、ちゃんと髪を結い、お化粧をし、美しい縮緬(ちりめん)の着物を着て、私の前に現われたとき、そして、私に東京弁で話しかけたとき、私の喜びがどれほどであったか、ここにくだくだしく述べるまでもなかろう。
いうまでもなく、私と秀ちゃんとは結婚した。百万円は今では、私と秀ちゃんの共有財産である。
私たちは相談をして、湘南片瀬(しょうなんかたせ)の海岸に、立派な不具者の家を建てた。樋口一家に丈五郎のような悪魔が生れた罪亡ぼしの意味で、そこには自活力のない不具者を広く収容して、楽しい余生を送らせるつもりだ。第一番のお客様は、諸戸屋敷から連れてきた人造かたわ者の一団であった。丈五郎の女房や啞のおとしさんもその仲間だ。不具者の家に接して、整形外科の病院を建てた。医術の限りをつくしてかたわ者を正常な人間に造り替えるのが目的だ。
丈五郎、彼の佝僂息子、諸戸屋敷に使われていた一味の者どもは、すべて、それぞれの処刑を受けた。初代さんの養母木崎未亡人は、私たちの家に引き取った。秀ちゃんは彼女をお母さんお母さんといって大切にしている。
道雄は丈五郎の女房の告白によって、実家がわかった。紀州の新宮(しんぐう)に近いある村の豪農で、父も母も兄弟も健在であった。彼は見知らぬ故郷へ、見知らぬ父母のもとへ、三十年ぶりの帰省をした。
私は彼の上京を待って、私の外科病院の院長になってもらうつもりで、楽しんでいたところ、彼は故郷へ帰って一と月もたたぬうちに、病を発してあの世の客となった。すべて、すべて、好都合に運んだ中で、ただ一事、これだけが残念である。彼の父からの死亡通知状に左の一節があった。
「道雄は最後の息を引き取るまぎわまで、父の名も、母の名も呼ばず、ただあなた様のお手紙を抱きしめ、あなた様のお名前のみ呼び続け申候(もうしそうろう)」
[やぶちゃん注:以上を以って――江戸川乱歩「孤島の鬼」全篇の終り!――
以下、底本に続く江戸川乱歩の「自註自解」。]
自註自解
昭和四年、森下雨村さんが博文館の総編集長となり、講談社の「キング」に対抗して出した大部数の大衆雑誌「朝日」の同年一月創刊号から一年余り連載したもの。この小説は鷗外全集の随筆の中に、シナで見世物用に不具者を製造する話が書いてあったのにヒントを得て、筋を立てた。その後、私は通俗娯楽雑誌に多くの連載小説を書いたが、「孤島の鬼」はそういう種類の第一作といってもよいものであった。或る人は、私の長篇のうちでは、これが一番まとまっていると言った。この小説に同性愛が取り入れてあるのは、そのころ、岩田準一君という友人と、熱心に同性愛の文献あさりをやっていたので、ついそれが小説に投影したのであろう。この作は昭和十三、四年に出した新潮社の「江戸川乱歩選集」にも入れたのだが、そのころはもうシナ事変にはいっていて、小説の検閲もきびしく、何カ所も削除を命ぜられ、それが戦後の版にもまぎれこんで、削除のままになっている部分があったので、大正六、七年の平凡社の私の全集と照らし合わせて、すべて元の姿に直した。また、終りの方の樋口家の年表に間違いがあることを気づいたので、それも訂正しておいた。
[やぶちゃん注:「昭和四年」一九二九年。
「森下雨村」(うそん 明治二三(一八九〇)年~昭和四〇(一九六五)年)は編集者で翻訳家・小説家。ウィキの「森下雨村」より引く。『高知県佐川町出身。本名・岩太郎。別名・佐川春風。早稲田大学英文科卒』。『博文館に勤め』大正九(一九二〇)年に『探偵小説雑誌『新青年』編集長となり、内外の探偵小説の紹介に努め、自らも創作をおこなった』。『土佐の生まれで、酒豪だった。横溝正史によると、「親分肌で、常に周囲に若いものを集め、ちっくと一杯と人に奨め、相手を盛りつぶしては悦に入っていた」という。横溝も「たびたび森下に盛りつぶされているうちに、おいおい上達して、ついに出藍の誉れを高くしたものである」と語っている』。『『新青年』編集長として江戸川乱歩を世に送り、多くのすぐれた探偵作家を誕生させた雨村を、横溝は「森下こそ日本の探偵小説の生みの親といっても過言ではないだろう」と評し、「義理がたい乱歩は終生雨村に恩誼を感じていたようである」、「松本清張は雨村を、推理小説界における大正期の中央公論の滝田樗陰であると言っている」と述べている。クロフツの『樽』を最初に本邦に紹介したのも雨村である』。『晩年の雨村は故郷の土佐・佐川町に隠棲し、悠々として晴釣雨読の境地を楽しんでいた』。『横溝によると「ちっくと一杯やりすぎたのが』死の『原因である」とのことである』とある。
『講談社の「キング」』戦前の日本において大日本雄辯會講談社(現在の講談社)が発行した大衆娯楽雑誌。大正一三(一九二四)年十一月創刊(昭和三二(一九五七)年廃刊)。ウィキの「キング(雑誌)」によれば、『戦前の講談社の看板雑誌であるとともに、日本出版史上初めて発行部数』一〇〇『万部を突破した国民的雑誌』。
『大衆雑誌「朝日」』個人サイト「江戸川乱歩データベース」の「江戸川乱歩拾遺」の「孤島の鬼」の「初出誌」に初出時のエピソードが詳しく載るので、必見!
「この小説は鷗外全集の随筆の中に、シナで見世物用に不具者を製造する話が書いてあったのにヒントを得て、筋を立てた」既注。「随筆」とあるが、既に述べた通り、小説(鷗外が当時の流行りの私小説を皮肉って、俺ならこう書けるとして書いたもの)「ヰタ・セクスアリス」のことである。
「岩田準一」(明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年)は画家で風俗研究家。中学時代から竹久夢二と親交を持ち、江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」「鏡地獄」などに挿絵を描いている。本篇のロケーションに近い、郷里三重県志摩地方の民俗伝承の研究や、男色の研究でも知られ、南方熊楠との往復書簡もある。ウィキの「岩田準一」では彼の主著として「本朝男色考」「男色文献書志」(没後五十七年経った二〇〇二年に原書房から合本として刊行)を挙げてあるが、「本朝男色考」の方は、本「孤島の鬼」発表の翌昭和五(一九三〇)年から『翌年にかけて『犯罪科学』に連載されたもので』、戦後の一九七三年に『岩田の遺族によって私家版が出版されている。英語・仏語にも翻訳出版され、南方熊楠も絶賛した』。一方の「男色文献書志」は、『岩田が収集した古今東西の膨大な男色文献の中から』千二百『点ほどをリストアップしたもので、戦前、出版化が試みられた』ものの、『実現しなかった。戦後、古典文庫の吉田幸一が江戸川乱歩から委嘱を受け』て、昭和三一(一九五六)年に「近世文藝資料」の一冊として刊行、また、「本朝男色考」と同じく、一九七三年に『岩田の遺族によって私家版が発行されている』とある。
「昭和十三」年は一九三八年。
「大正六」年は一九一七年。]