栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)
[やぶちゃん注:底本は国文学研究資料館所蔵「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」の中の「栗氏魚譜 錦■翁蔵巻」(「■」は判読不能字か。「巢」或いは「窻」に近いか。こちらの二コマ目を参照されたい。刊記は文政二(一八一二)年で栗本丹洲は宝暦六(一七五六)年生まれで、天保五(一八三四)年に没しているから、生存中の写本であり、これは「栗本魚譜」の原図の筆致を最もよく伝えている第一級の資料とされるものである)の画像を使用し、視認して文字を起した。以下に示した画像は同館所蔵資料のそれ(当該画像はこれ)であり、オープン・データであるので、使用可能である。まず、「翻刻1」でそのままのものほぼ原型通りに起こし、「翻刻2」では文章として繋げ、概ねカタカナをひらがなとし、句読点・記号・濁点を施し、一部で推定で送り仮名を施し(原本には訓点や読みは一切振られていない)、漢文部は推定訓読した。また、一部の難読と思われる箇所に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。]
[やぶちゃん注:「国文学研究資料館所蔵」のもの。補正・トリミング等は加えていない。言わずもがな、中央下方の左右対称の黒いそれは虫食いの穴である。]
□翻刻1
咽機那
小判鮫
越中ニテ小判イダヽキト云[やぶちゃん注:「イダヽキ」はママ。]
筑前ニテフナシドキト云至
大者ハ二三尺アリ極テ腥気
アリシカモ粘滑甚シ
此魚性喜ンデ頭上ノ印ノ如キ処ニテ
物ニ吸着テハナレズ大者ハヨク舶底
着テ動カサズ舟ニアヤカシノ付キタ
ル云ハ是ナリ因テ此魚をアヤカシ𪜈
云ルヨシ假令死シテモ頭上ノ平ナル
処ヲ盆或板ナトノ平ナルモノヽ上
ニ着ケ尾ヲ引立レハ板スイツキ離レ
ズモチ上ルモノナリ是他魚ト異ナリ水府漁人
草履鮫ト云頭上艸鞋ノ状アル故ニ此名ヲ得又
大魚ヲ獲ル前ニ此魚先得ラルヽヿアリ大魚ノ
先駆ナリトテ神棚ニ上ケ供祭ス是ニ因テ漁人
告ノ神ノ甚四郞ト云大平御覧引臨海異物志有印魚即是也大魚將死印魚先封之ト云
ト符合ス此魚大魚口邉ニアリテ他ノ食ヲ止テ餓サシムル故ニ遂ニ人ノ為ニ得ラル
トナリ利瑪竇坤輿図云咽機那魚生海中好粘着舩底不動ト亦此物ナリ
□翻刻2
咽機那(いんきな)
小判鮫
越中にて「小判イダヽキ」と云ひ、筑前にて「フナシドキ」と云ふ。至つて大なる者は、二、三尺あり。極めて腥(なまぐさ)き気(かざ)あり。しかも、粘滑、甚し。
此の魚、性、喜んで頭上の印のごとき処にて、物に吸ひ着きて、はなれず。大なる者は、よく舶底に着きて、動かさず。「舟に『アヤカシ』の付きたる」と云ふは、是なり。因りて、此の魚を「アヤカシ」とも云へるよし。假令(たとひ)死しても、頭上の平なる処を、盆或いは板などの平なるものゝ上に着け、尾を引き立つれば、板、すいつき、離れず、もち上がるものなり。是れ、他魚と異(い)なり。水府(すいふ)の漁人、「草履鮫(ざうりざめ)」と云ふ。頭上に艸鞋(わらぢ)の状(かたち)ある故に、此の名を得。又、大魚を獲る前に、此魚、先づ、得らるゝこと、あり。「大魚の先駆なり」とて、神棚に上げ、供(そな)てへ祭(まつり)す。是に因りて、漁人、「告(つげ)の神(かみ)の甚四郞(じんしらう)」と云ふ。「大平御覧(たいへいぎよらん)」に「臨海異物志」を引き、『印魚、有り、即ち、是れや、大魚、將に死せんとするに、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず』と云へると符合す。「此の魚、大魚の口の邉(あたり)にありて、他(ほか)の食を止(とど)めて、餓ゑさしむる故に、遂に人の為めに得らる」となり。利瑪竇(りまとう)の「坤輿図(こんよず)」に云はく、『咽機那魚、海中に生(しやう)ず。好んで、舩底に粘着して、動かず』と。亦、此の物なり。
[やぶちゃん注:スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates である。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「コバンザメ」の記載によれば、属名「エケネイス」は、ギリシャ語で「船を引き止めるもの」の意とある。我々の世代では「コバンイタダキ」(小判戴(頂)き)の異名の方が親しいが、あくまで標準和名は「コバンザメ」である。当該ウィキによれば、『コバンザメ属 Echeneis は、全世界の熱帯・亜熱帯域に分布し、最もよく見られるコバンザメ類であるEcheneis naucrates と、メキシコ湾から南米北岸にかけて分布する Echeneis neucratoides (英名:Whitefin sharksucker)の』二種から構成される。英名は「白い鰭を持ったサメの乳飲み子(或いは「鮫に吸い付く者」。‘sucker’にはズバリ「吸盤」の意もある。但し、「白い鰭」というのは実際には、本邦のコバンザメと同じく体側の上下にある目立つ白線模様を指しているものと思われる)」。最大で一メートル強で二・三キログラムになるが、通常は七十センチメートル程度。体長は体高の八~十四倍程あり、背鰭は三二から四十二の軟条で、臀鰭は二十九~四十一の軟条からなる。頭部の背面に背鰭の変化した『小判型の吸盤があり、これで大型のサメ類やカジキ類、ウミガメ、クジラなどに吸い付き、餌のおこぼれや寄生虫、排泄物を食べて暮らす(片利共生)。吸盤には横(背骨と垂直方向)に』十八から二十八枚の明瞭な『隔壁がある』。『この隔壁は』吸着せずに泳いでいる際には、『後ろ向きに倒れており、動いている大きな魚の体表などの面に吸盤が接触すると』、『これら』が『垂直に立ちあがる』ようになっている。この時、『隔壁と隔壁の間の水圧が』、『周囲の海水の圧力より小さくなり、これによって吸盤は』対象物に『吸いつく。吸いついたコバンザメを後ろに引くと』、『隔壁の間の水圧はさらに小さくなるので吸盤はさらに強く吸いつく。反対にコバンザメを前に押すと隔壁がもとの位置に倒れるとともに』、『吸盤内の水圧が上がり、吸盤は』吸着物から『はずれる。このしくみによって、彼らは自分がくっついた大きな魚などが速く泳いでも』、『振り払われずにすみ、また』、『離れたいときは大きな魚などより』も、少しだけ『速く泳ぐ』ことで『簡単に離れることができる。また、隔壁には』〇・一ミリメートル『ほどの細かい骨が付いており、吸盤で吸い付くとともに骨が滑り止めともなっている』。『体側には太い黒線と、その上下を走る細い白線がある』。『生息深度は』二十~五十メートルで、『大型の海洋生物・船などに付着して生活するが、サンゴ礁の沿岸では単独で見られることも多』く、『幼魚はサンゴ礁域で掃除魚』(Cleaner fish:他種の魚の古い傷んだ皮膚組織や外部寄生虫を食べる習性をもつ魚類の総称)『として生活することもある』。『成魚に付着することもある』。『また、付着せずに砂地に集まって近くの生け簀の餌のおこぼれを食べるものが奄美大島で確認されている』。『一般に食用にされることはないが、まれに定置網などに入り、産地や漁業者などは食用にする。白身魚であり』、『美味と言われている』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコバンザメのページでも、食味を非常に高く評価しておられる。一度、食べてみたいものだ。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「舩留魚(ふなとめ)」も参照されたい。なお、変わったところでは、コバンザメを懐にしていると裁判に勝てるという驚きの風習が、「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7」に出る。本文及び私の「印魚(コバンフネ)」(コバンザメのこと)の注を見られたい。
「咽機那(いんきな)」現代中国語では「イェンヂィーナァー」。但し、小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」の巻三十の「無鱗魚」の「鮫魚」の中のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本画像)に(推定(「肉几(まないた)の」以外の読みも)訓読した)に、
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咽機哆魚【「坤輿地圖」。】は「コバンザメ」。一名「コバンウヲ」・「コバンイタダキ」・「フナシトギ」・「アヤカシ」・「ワラジザメ」【水戶。】・「フナシトギ」【丹後。】・「フナスイ」【能州。】 「舟トリ」【薩州】・「舟トメ」・「ヤスタ」【土州。】。長さ、二、三尺、皮に細沙あり、形、圓(まどか)にして、黃・赤・微黑色。頭は微(かすかに)扁(ひらた)く、上、平(たひら)にして、二十三の橫刻、連ること、三寸許り、小判の形のごとし。刻(きざみ)ごとに刺沙(しさ)あり、この處、よく物に粘著(ねんちやく)して、離れず。故に此の魚、數多く船底に粘する時は、舟、動かずして害を爲す。已に死する者も、肉几(まないた)の上に粘著す。肉は食ふべし。
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と三字目が違う。「哆」は音「シ・シャ」で中国の文語で「ドゥオ」。調べたところ、勝負は蘭山にあった。田中茂穂著の「日本產魚類圖說」第二十一巻(大正五(一九一六)年刊)の「137.コバンザメ 咽機哆魚」の標題(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)がそうなっているからである(同書には同種の図版も載る。時計回り回転ボタンを押されたい)。なお、ここでは蘭山も食用を推奨していることが判る。
『越中にて「小判イダヽキ」と云ひ』写本時の誤りと思われる。同じ栗本の「異魚図纂」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。なお、その書誌データから、絵師(本図の上の一尾を除いたもので、それ以外のタッチは酷似する)は奥倉辰行(おくくらたつゆき)とある。これは江戸神田多町で青物商(八百屋)を営んでいた甲賀屋長右衛門と通称した人物で、安政六(一八五九)年に没しているが、優れた魚類図譜を残している)では、正しく「小判イタゞキ」となっている。他に富山では「コバンカジキ」(「小判舵木」であろう)「フナドメ」とも呼ぶ。
『筑前にて「フナシドキ」と云ふ』意味不明。一つ考えたのは「船足(ふなあし)を退(ど)く」或いは「船足を研(磨)ぐ」で、船足を削(そ)ぐの謂いか。後者の方が無理がない気はする。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコバンザメのページには他に別名として、丹洲と蘭山が挙げた以外には、「コバニオ」「コバンウオ」「コバスイツキ」「スナチドリ」「スナジドリ」「ゾオリツベタ」「ソロバンウオ」「ツチウオ」「ハダシタビ」「ピンピ」「フナイタ」「フナイトル」「フナエトリ」「フナスイツキ」「フナスリ」「フナツキ」「フナドメ」「フナヒッツイ」「フナヤトリ」「ヤイチャ」「ヤスダ」「ヤスダイ」「ヤスダノコバン」「ヤスナ」「ヤスラ」がある。しきりに出る「ヤス」は思うに、魚体と、吸着したそれが突き刺さったように見えることから、漁具の一種である長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄鎗をつけた魚介を突いて捕らえる「簎・矠」(やす)由来のように感じられた。なお、先の荒俣宏氏のそれによれば、「コバンウオ」は和歌山・広島の地方名とし(コンマを読点に代えた)、『茨城でワラジザメ、福島でゾウリベッタ、富山でハダシタビ』、『新潟のフナスイ、フナスツキや』、『出雲のフナツキ』、『高知のスイツキ』を挙げられ、『この魚が船を止めると言う俗信から、富山でフナドメ、高知でフナトメ、鹿児島でフナトリなど』と呼ぶとある。
「極めて腥(なまぐさ)き気(かざ)あり」釣り人のブログ記事で内臓が非常に臭いとあったが、これは必ずしも全体言える属性ではないようである。雑食性であるから、摂餌物によっては強い磯臭さを放つことは、コバンザメに限らず、内湾系の魚類ではまま見られる現象である。
「粘滑、甚し」不審。コバンザメが粘液を多量に出すとする記載は見当たらない。
「アヤカシ」現行では不思議な対象や「妖怪」の意で広く用いられることが多くなったが、第一義としては、本来は「狭義に海の怪異や海の妖怪の名」として用いるのが正しく、「船が難破する際に海上に現れるという化け物」で、「舟幽霊」や「海坊主」に強い親和性を持った海産妖怪を指す。私の「怪談登志男卷第四 二十、舩中の怪異」などを参照されたい。
「他魚と異(い)なり」異様な吸着器を持っているから、他に見られない異魚だというのである。
「水府」水戸の唐風の呼び方。
「艸鞋(わらぢ)」「草鞋」に同じ。
「大平御覧」「太平御覽」が正しい。宋初期の第二代皇帝太宗の命により李昉(りぼう)・徐鉉(じょげん)ら十四名による奉勅撰になる全一千巻に及ぶ膨大な類書(百科事典)。九七七年から九八三年頃の成立。同時期に編纂された「太平広記」・「冊府元亀」・「文苑英華」と合わせて「四大書(宋四大書)」と称される。引用は「鱗介部十二」の「印魚」で、
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臨海異物志曰、印魚、無鱗、形似䱜【音錯】。形、額上四方如印、有文章。諸大魚應死者、印魚先封之。
(「臨海異物志」に曰はく、『印魚、無鱗にして、形、䱜(さく)に似る【音、「錯」。】。形、額の上の四方に印のごとくなる文章(もんしやう)有り。諸々の大魚、應に死せんとすべき者は、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず。』と。)
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「臨海異物志」は正確には「臨海水土異物志」で、三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の撰になる博物学的地誌。「䱜」は鮫(サメ。或いはその中の一種)を指す。なお、現代中国語では「コバンザメ」は「鮣」「長印魚」「吸盤魚」と呼ばれている。
「印魚、有り、即ち、是れや、大魚、將に死せんとするに、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず」まあ、丹洲の解釈するように、「この小判鮫は、大きな魚の口辺部に強力に附着し、その大魚の摂ろうとする餌を、皆、食ってしまって、大魚を餓えさせてしまうがために、吸着している大魚が弱ってしまい、同時に小判鮫自身も弱ることとなり、ために、人に捕獲されてしまう」という意味でよかろう。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、コバンザメは大型のサメ類の外部体表のみでなく、口腔内にも吸着する内部寄生もする。私は実際に映像で見たが、多数のコバンザメが口腔内壁に附着しているのを見た。あれは、相応に寄生されたサメにとってはかなりの負担であろうと思われるほどにいたのである。されば、彼らが寄生した大魚を弱らせるというのは必ずしも誤りとは言えないと思われる。ただ、大きなサメの胃から明らかに捕食されたコバンザメが見つかっており、一方的にコバンザメの一人勝ちというわけではないらしい。但し、吸着寄生は幼魚・若魚の時とし、成魚は自由生活する個体も多いともあり、必ずしも何時も人の褌というわけでもないようである。
「利瑪竇」イタリア人イエズス会司祭で宣教師であったマテオ・リッチ(Matteo Ricci:中国名「利瑪竇」(Lì Mǎdòu) 一五五二年~一六一〇年)。ゴア・マカオを経て、一六〇一年に北京に入り、漢文教書「天主實義」や世界地図「坤輿萬國全圖」などの出版を通じて布教を図った人物として知られる。
『「坤輿図」に云はく、『咽機那魚、海中に生(しやう)ず。好んで舩底に粘着して、動かず』』かの「坤輿万国全図」のどこにそれが書いてあるのか、私は探し得ていないが、平野満氏の論文「『芝陽漫録』とその著者松平芝陽」(PDF・一九九八年三月発行『明治大学図書館紀要』所収)の「『芝陽漫録』にみえる本草記事と芝陽の本草学」の中に『⑴』として、
《引用開始》
大槻玄沢は『蘭婉摘芳』(第三編巻八)「○印魚集説」として印魚(コバンザメ・アヤカシ)についての栗本丹洲の論稿「アヤカシノ図説並二其考証」(文政四歳次辛巳七月念八日誌)を収めている。その中で丹洲は、「アヤカシ」について西洋の説や谷川淡斎(士清)の『和訓栞』の説などの諸説とともに「源芝陽紀聞ノ随筆アリ」といい、「松平芝陽貞幹随筆曰」として芝陽の説にふれている。また「芝陽氏紀聞中ノマンボウニ附ク云々」として、印魚がマンボウに付いた例を「芝陽氏紀聞」から引用する。「冬月ニハ偶東都魚肆ヘモ持来ルコトアリ。去年庚辰ノ冬、飯田町中坂ノ魚店ニ釣リテアリ。長二尺許、人々奇観トスト、芝陽語リキ」あるいは「予懇友芝陽去年飯田町中坂魚店ニテ親ク賭ラレ、珍奇ナリトシテ予ニ語リシ時又右ノ奇話ヲ以テ演説シタリキ。速ニ随筆ニ収入スヘシト悦ハレシ」という。
『芝陽漫録』には「咽機那魚 和名コバン魚、又アヤカシ」[春―十九オ]の記事はあるが、ここにいわれるような魚店での見聞ではなく利瑪竇(マテオリッチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]の『坤輿万国図』中の「咽機那魚」を引用したごく短い記事である。丹洲に語ったとおり芝陽が随筆に収めたとすれば、それは未発見の巻ということになる。あるいは、宍戸が編集の際に捨て去った可能性も皆無ではないが、宍戸の関心が本草学にあった
ことを考慮すればあり得ないだろう。宍戸の入手した『芝陽漫録』の中には上記の逸話がなかったと考える。やはり『芝陽漫録』には「アヤカシ」説を含む未発見の巻があると思う。
《引用終了》
と述べておられる。]