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カテゴリー「中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】」の59件の記事

2018/05/25

詩集「在りし日の歌」 後記   中原中也 /   中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版) ~了

 

    後  記

 

 茲に收めたのは、「山羊の歌」以後に發表したものの過半數である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序でだから云ふが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを收めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出來れば、私の詩生活も既に二十三年を經た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは少くない。今その槪略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つてをきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、鄕里に引籠るのである。別に新しい計畫があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潛しようと思つてゐる。

 扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。

 さらば東京! おゝわが靑春!

        〔一九三七、九、二三〕

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下二字上げインデントであるが、ブログのブラウザの不都合を考え、ずっと上に引き上げた。

「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊の第一詩集。中原中也は生前、これと本「在りし日の歌」の二詩集しか出していない。

「大正十四年」一九二五年。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「むなしさ」の解説冒頭で「月」「春」夏の夜」などがそれに当たる(但し、創作時期であって発表ではないので注意)と述べておられる。

「昭和十二年」一九三七年。「永訣の朝」の後半の幾つか。これは、概ね、注で述べた。

「私の詩生活も既に二十三年を經た」クレジットの昭和一二(一九三七)年から二十三年前は数えとしてみると、大正四(一九一五)年、中也八歳となるが、これは冬の日の記憶の注で述べた、その年の一月、弟亜郎の死を悼んで歌を作った、という事実と合致する。

「詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である」同じように計算すると、大正一二(一九二三)年、中也十六歳となる。立命館中学へ転校した年である。ゆきてかへらぬ――京 都――の注で引用して述べたように、この年の秋、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」を読んで感激し、ダダ風の詩を作るようになり、有意な詩篇をものしたとする(四十編ほどが現存)という事実と合致する。

「小林秀雄に託し」残念ながら、本詩集「在りし日の歌」は没後半年後の刊行となった。

「東京十三年間」中也の上京は大正一四(一九二五)年三月であるから、数えで一致する。

「鄕里に引籠る」遂にこれは成らなかった。墓は郷里の山口県吉敷(よしき)村長楽寺(現在の山口市吉敷佐畑。浄土宗。(グーグル・マップ・データ)。墓は地図画面の右端の経塚墓地内にある。注で述べたが、メルヘンのロケーションとされる吉敷川畔である)にあるが、葬儀は自宅の表にある鎌倉の寿福寺で行われている。

「それを思へば茫洋とする」小林秀雄の「中原中也の思い出」(昭和二四(一九四九)年『文芸』八月号「特輯中原中也」)でよく知られる。新潮文庫「作家の顔」(昭和四五(一九七〇)年改版)から引用しておく。小林秀雄は「大々」がつくぐらい大嫌いだが、このエピソードには今もしみじみする。ロケーションが私の好きな鎌倉の妙本寺から始まるせいだからであろう。

   *

 晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直(す)ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭(こかげ)の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺(おれ)達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っているときりがなく、私は、急に厭(いや)な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化(どうけ)た様な笑いをしてみせた。

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇(ゆうやみ)の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚(わめ)いた。「ボーヨーって何だ」「前途茫洋(ぼうよう)さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は目を据え、悲し気な節を付けた。私は辛(つら)かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれながらの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰り返し繰り返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事は出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝(いぶか)った。彼は、山盛りの海苔巻(のりまき)を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来(きた)している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何とかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。

   *

因みに、以上は没した年の晩春である。

 以下、奥附となっているが、死後の刊行なので復元しない。因みに、『版元』は創元社、印刷は昭和一三(一九三八)年四月十日、発行は同年四月十五日である。定価は一円五十銭(但し、満州・朝鮮・台湾・樺太等の外地定価は一円六十五銭)とある。
 

 この電子化を
 
 
     亡き娘アリスの靈に捧ぐ


【2018年5月25日 藪野直史】]

蛙聲   中原中也

 

     蛙  聲

 

天は地を蓋ひ、

そして、地には偶々池がある。

その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 

その聲は、空より來り、

空へと去るのであらう?

 

天は地を蓋ひ、

そして蛙聲は水面に走る。

 

よし此の地方(くに)が濕潤に過ぎるとしても、

疲れたる我等が心のためには、

柱は猶、餘りに乾いたものと感(おも)はれ、

 

頭は重く、肩は凝るのだ。

さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、

その聲は水面に走つて暗雲に迫る。

 

[やぶちゃん注:本詩篇が「在りし日の歌」の詩篇の掉尾である。「蛙聲」は「あせい」。本文中のそれも同じ。但し、単独の二箇所の「蛙」は「かへる(かえる)」でよい。諸本もそう読んでいる。発表は昭和一二(一九三七)年七月の『文學界』(角川文庫「中原中也詩集」年譜による)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、創られたのは同年五月十四日とある。また、この日には今一つの生前発表(没月)された今一つの詩「初夏の夜に」も創られているとある。されば、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に所収する「初夏の夜に」を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「生前発表詩篇」の電子データを加工用に使用させて戴いた。また、新潮社版になく、そちらにある最後のクレジットも使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。

   *

 

  初夏の夜に

 

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――

死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かはら)から、此の世の僕等を看(み)守つてるんだ。

彼の世の磧は何時(いつ)でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。

行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。

窓の彼方(かなた)の、笹藪(ささやぶ)の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其處(そこ)に、

死兒等は茫然(ばうぜん)、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。

罪のない奴(やつ)等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛(つら)いこつた。

いつそほんとは、奴等に棒を與へ、なぐつて貰(もら)ひたいくらゐのもんだ。

それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。

奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、

あるとしたらだ、何(いづ)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、

三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。

なにさま暗い、あの世の磧(かはら)の、ことであるから小さい奴等は、

大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、

それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……

――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……

 

          (一九三七・五・一四)

   *]

春日狂想   中原中也

 

    春 日 狂 想

 


        
1

 

愛するものが死んだ時には、

自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、

それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(?)が深くて、

なほもながらふことともなったら、

 

奉仕の氣持に、なることなんです。

奉仕の氣持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、

たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、

そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の氣持に、ならなけあならない。

奉仕の氣持に、ならなけあならない。

 

       2

 

奉仕の氣持になりにはなつたが、

さて格別の、ことも出來ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟讀。

そこで以前(せん)より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散步をなして

麥稈眞田(ばくかんさなだ)を敬虔に編み――

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、

まるでこれでは、每日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる步み、

知人に遇へば、につこり致し、

 

飴賣爺々と、仲よしになり、

鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなったら、日蔭に這入り、

そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、

いはうやうなき、今日の麗日。

 

參詣人等もぞろぞろ步き、

わたしは、なんにも腹が立たない。



       
⦅まことに人生、一瞬の夢、

      
 ゴム風船の、美しさかな。⦆

 

空に昇つて、光つて、消えて――

やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。

そこらの何處かで、お茶でも飮みましよ。

 

勇んで茶店に這入りはすれど、

ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、

名狀しがたい覺悟をなして、――

 

外(そと)はまことに賑かなこと!

――ではまたそのうち、奧さんによろしく、

 

外國(あつち)に行つたら、たよりを下さい。

あんまりお酒は、飮まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。

まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯いて、

話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、

まことに、人生、花嫁御寮。



        
3

 

ではみなさん、

喜び過ぎず悲しみ過ぎず、

テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に缺けてるものは、

實直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緖に――

テムポ正しく、握手をしませう。

 

[やぶちゃん注:「⦅まことに人生、一瞬の夢、/ゴム風船の、美しさかな。⦆」は原典でもややポイント落ち。発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也が死ぬ五ヶ月前、昭和一二(一九三七)年五月号『文學界』である。アイロニカルで投げやりに厭世的なそれは、明らかに文也の死後の作である。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説でも、同年三月の作と推定されており、『この詩を歌って』十『か月も経たない』うちに『詩人は亡くな』ったとある。

「自殺しなけあなりません」「自殺しなきゃなりません」という口語表現の拗音音写の一法か。以下、すべて「けあ」はそう採る。

「麥稈眞田(ばくかんさなだ)」「ばっかんさなだ」麦藁(むぎわら)を平たく潰して真田紐 のように編んだもの。麦藁帽子や袋物などを作るのに用いる。中原中也に麦藁帽子は、よく似合う、と思った途端、彼の知られた肖像写真には、そんなものはないことに気づいた。「何故、そう思ったんだろう?」――と――気がついた。帝銀事件の冤罪の死刑囚平沢貞通氏が獄中で描いた晩年の「十八歳自画像・想出再描」(26:44で見られる)だ! あの姿が何故か、私の中で中原中也と一緒になっていたのだ!

「いはうやうなき」「祝ふ樣無き」であろう。祝いようがない。

「麗日」ルビをしないのであれば「れいじつ」なのだろうが、どうも硬い。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」ではここに『うららび』とルビする。私はこれを採る。

「這入り」「はいり」。]

正午    丸ビル風景   中原中也

 

     正  午

         丸ビル風景

 

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口

空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる

ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが櫻かな、櫻かな櫻かな

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

[やぶちゃん注:発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也自身の死の、昭和一二(一九三七)年十月号『文學界』である。本詩集中では生前初出発表の最後の詩篇となる。私はこれを中原中也の代表的な詩篇の一つとしてよく記憶している。それは教科書の参考詩や幾つかの現代詩人の抄録集で、中也のこの一篇がよく掲げられていたからであるが、実は私は、この一篇、面白い、と思いながらも、どうも、好きになれないでいる。今も同じである。萩原恭次郎の大正一四(一九二五)年刊の詩集「死刑宣告」のクンズホグレツの「日比谷」の詩を〈見た〉時の、ドっとシラケた感じと、実は同じ部類の感じなのである。私の感じ方に異論はあろう。私も、この私の生理的不快感を冷徹に説明してそうした反論に反駁しようとも思うのだが、本電子化は中原中也詩集「在りし日の歌」の正規表現復元版が目的であって、私の感覚的感想を述べるのが目的ではない(私が偏愛すると言った中原中也の詩篇へのそれも逆にまた浅薄で見当違いのものであるかも知れぬことも重々承知の上である)し、後、二篇で終わるものでもあり、ここでこの注の筆は擱くこととする。すまん、中也。]

米子   中原中也

 

    米  子

 

二十八のその處女(むすめ)は、

肺病やみで、腓(ひ)は細かつた。

ポフラのやうに、人も通らぬ

步道に沿つて、立つてゐた。

 

處女(むすめ)の名前は、米子と云つた。

夏には、顏が、汚れてみえたが、

冬だの秋には、きれいであつた。

――かぼそい聲をしてをつた。

 

二十八のその處女(むすめ)は、

お嫁に行けば、その病氣は、

癒るかに思はれた。と、さう思ひながら

私はたびたび處女(むすめ)をみた……

 

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。

別に、云ひ出しにくいからといふのでもない

云つて却つて、落膽させてはと思つたからでもない、

なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。

 

二十八のその處女(むすめ)は、

步道に沿つて、立つてゐた、

雨あがりの午後、ポプラのやうに。

――かぼそい聲をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

 

[やぶちゃん注:角川文庫「中原中也詩集」年譜によれば、昭和一一(一九三六)年十二月に三笠書房発行の雑誌『ペン』に発表したもの。これも創作から投稿・編集・発行に至る二ヶ月ほどのタイム・ラグから考えて、長男文也の急逝以前に創作されたものであろう。

「米子」「よねこ」。

「腓(ひ)」訓で「こむら」。脹脛(ふくらはぎ)、足の脛(すね)の後ろ側の膨らんだ部分のこと。]

冬の長門峽   中原中也

 

    冬 の 長 門 峽

 

長門峽に、水は流れてありにけり。

寒い寒い日なりき。

 

われは料亭にありぬ。

酒酌みてありぬ。

 

われのほか別に、

客とてもなかりけり。

 

水は、恰も魂あるものの如く、

流れ流れてありにけり。

 

やがても密柑の如き夕陽、

欄干にこぼれたり。

 

あゝ! ――そのやうな時もありき、

寒い寒い 日なりき。

 

[やぶちゃん注:回想詩(長門峡を訪れたのが何時かは不詳)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、長男文也が死んだ日(昭和一一(一九三六)年十一月十日)から四十四日後の同年十二月二十四日(クリスマス・イブ)に書かれたもので、角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜によれば、翌昭和十二年四月発行の『文學界』に発表している。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、昭和十二年九月の条に、中也はこの頃、『再び身心の疲労甚しく、しばらく郷里に帰ろうと考え』たが、『しかしこのころ郷里の家は、長年にわたる中也の東京生活への仕送りのため、経済的に余裕のない状態にあった』とあり、『詩集『在りし日の歌』の編集を終え、原稿を小林秀雄に託』したのもこの月であった。翌十月五日に発病(結核性脳膜炎とされる)、六日に鎌倉養生院(現在の清川病院)に入院するも、十六日後の十月二十二日午前〇時十分に亡くなっている。

「長門峽」「ちやうもんけふ(ちょうもんきょう)」と読む。阿武川上流の、山口県山口市阿東及び萩市川上に位置する峡谷で、全長約十二キロメートル。ウィキの「長門によれば、『奇岩や滝、深淵など、変化を織りなす奇勝として知られ、国の名勝や長門峡県立自然公園にも指定されている』。『中生代白亜紀の流紋岩質凝灰岩やデイサイト溶岩から形成されており、断崖を形成する』。『命名者は郷土の画家、高島北海であり、また詩人中原中也もこの地を絶賛した。景勝地は個性的な名前で、洗心橋や龍宮淵、獺淵、暗がり淵などの名所がある。洗心橋には中原中也の詩碑が立つ』とある。(グーグル・マップ・データ)。]

或る男の肖像   中原中也   附初出形「或る夜の幻想」推定復元

 

    或る男の肖像



         
1

 

洋行歸りのその洒落者は、

齡(とし)をとつても髮に綠の油をつけてた。

 

夜每喫茶店にあらはれて、

其處の主人と話してゐる樣(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。


        
 2

 

              ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髮毛の艷(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ

庭に向つて、開け放たれた口から、

彼は外に出て行つた。

 

剃りたての、頸條(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそはそはと、

寒かつた。

 

開け放たれた口から

悔恨は、風と一緖に容赦なく

吹込んでゐた。

 

讀書も、しむみりした戀も、

あたたかいお茶も黃昏(たそがれ)の空とともに

風とともにもう其處にはなかつた。


        
3

 

彼女は

壁の中へ這入つてしまつた。

それで彼は獨り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

[やぶちゃん注:「――幻滅は鋼(はがね)のいろ。」は原典では、ややポイントが落ちてるだけで、こんなに小さくはないが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて有意に小さくした。開始位置は再現してある。前の私の「村の時計」の注で述べたが、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説、及び同サイトの前の「村の時計」、及び、同サイトの上にあるコンテンツの中の「生前発表詩篇」の中に配されてある「或る夜の幻想(1・3)」の合地舜介氏の解説によって、

本詩篇と前の「村の時計」の初出は『四季』の昭和一二(一九三七)年三月号(同年二月二十日附発行)

であるが、そこでは

「或る夜の幻想」という長い詩の一部

であった。ところが、本詩集「在りし日の歌」では、中原中也自身によって、それが

分割・取捨されて「村の時計」と本「或る男の肖像」となった

とある。因みに、この原型である

「或る夜の幻想」の創作自体は昭和八(一九三三)年十月十日

と記されてある。そして、合地氏によると、

元の「或る夜の幻想」は全六節

から成るもので、

第一節が「彼女の部屋」、第二節が先の「村の時計」、第三節が「彼女」、第四・五・六節が本篇「或る男の肖像」

という構成であったとある。そこで、以下にその初出原型を推定で再現してみたい。但し、原発表形を私は現在、視認することが出来ないので、合地氏の解説に従い、また、新潮社版に所収する「或る夜の幻想」(初出後にカットした二パートが載る。読みはそれに従った)を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「或る夜の幻想(1・3)」の電子データを加工用に使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。パート数字の位置は本詩集の位置を使用した。但し、現在の「彼女の部屋」「村の時計」「彼女」「或る男の肖像」という標題は恐らくは初出ではなかったのではないかと思われるので、除去しておいた。万一、あるとならば、お教えれば追加補正する(その場合、「或る男の肖像」がどこにどう表記されているかを正確にお教え戴きたい)。

   *

 

    或る夜の幻想

  1

 

彼女には

美しい洋服簞笥(だんす)があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其の他色々のものもあった

が、どれもその簞笥に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には簞笥だけがあった

 

  それで洋服簞笥の中は

  本でいつぱいだつた


     
2

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは、

もう艷が消えてゐた

 

近寄つてみると、

小さなひびが澤山にあるのだつた

 

それで夕陽が當つてさへが、

おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかつた


     
3

 

野原の一隅(ぐう)には杉林があつた。

なかの一本がわけても聳(そび)えてゐた。

 

或る日彼女はそれにのぼつた。

下りて來るのは大変なことだつた。

 

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかつた。

一つ一つの舉動は、まことみごとなうねりであつた。

 

夢の中で、彼女の臍(へそ)は、

背中にあつた。


     
4

 

洋行歸りのその洒落者は、

齡(とし)をとつても髮に綠の油をつけてた。

 

夜每喫茶店にあらはれて、

其處の主人と話してゐる樣(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。



        
5

              ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髮毛の艷(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ

庭に向つて、開け放たれた口から、

彼は外に出て行つた。

 

剃りたての、頸條(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそはそはと、

寒かつた。

 

開け放たれた口から

悔恨は、風と一緖に容赦なく

吹込んでゐた。

 

讀書も、しむみりした戀も、

あたたかいお茶も黃昏(たそがれ)の空とともに

風とともにもう其處にはなかつた。


     
 6

 

彼女は

壁の中へ這入つてしまつた。

それで彼は獨り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

   *]

村の時計   中原中也

 

    村 の 時 計

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは、

もう艷が消えてゐた

 

近寄つてみると、

小さなひびが澤山にあるのだつた

 

それで夕陽が當つてさへが、

おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかつた

 

[やぶちゃん注:なにがなし、私はこの小品が、好きだ。あたかもタルコフスキの映像を見るかのようなのだ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説、及び同サイトの複数の他のページを見ると、初出(「或る夜の幻想」という長い詩の一部)は『四季』の昭和一二(一九三七)年三月号(同年二月二十日附発行)であるが、創作自体は古く(昭和八(一九三三)年十月十日)、しかも初出以後、非常に複雑な経緯を辿って作者自身によって分割されてここに所収されていることが判る。それについては次の「或る男の肖像」で、初出形を再現することで注したいと思うので、ここはこれだけにしておく。]

月の光 その一・その二   中原中也

 

     月  の  光 その一

 

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に

  隱れてゐるのは死んだ兒だ

 

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て來てる

 

ギタアを持つては來てゐるが

おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた

  月の光が照つてゐた

 

 

 

    月  の  光 その二

 

おゝチルシスとアマントが

庭に出て來て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵

なまあつたかい靄もある

 

月の光に照らされて

庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど

いつこう彈き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして

とても黑々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが

こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が

螢のやうに蹲んでる

 

 

[やぶちゃん注:二篇を纏めて示す中也の文也追悼詩の白眉――戦慄の幻覚――である「また來ん春……」の注で示した通り、「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表された。

「チルシスとアマント」Tircis」と「Aminte」。恐らく中原中也は、ヴェルレーヌ二十五歳の一八六九年に刊行した詩集“Fêtes galantes”(「優雅な宴(雅宴画)」)の中の“Mandoline”(「マンドリン」)を元にしている(原詩はこれ。英訳附きのページを選んだ二人とも第二連に出る)。ネットのQ&Aサイトで、まさに本篇のこの二つの名を訊ねたのに対する、その回答が素晴らしく、『チルシスは、ヴェルギリウスの「田園詩」に出てくる、下働きの女性の名前。アマントは、やはり「田園詩」中の美少年「アミンタス」を、フランス語読みした名前で』、『いずれも、欧州各国で、類型化されて「牧歌劇」に用いられている名前で』あり、『ヴェルレーヌの詩においては、夜、ひとびとが集まり、セレナーデ(小夜曲)が奏でられるひと時、音楽のもたらす幻想に重なって彼らの姿が現れ』る設定となっている。『つまり、彼の詩においては、牧歌的な雰囲気の中、賑やかで楽しげな場面に出てくる妖精のように考えてよいと思』われるとし、『同じフランスの作曲家、ガブリエル・フォーレによってメロディを付けられている詩でもあり』、『中原の詩でもまた、チルシスやアマントはまるで「音楽の精」のように、夜、月の光の下に表れる』も、『楽器は放り出して』しまう。『賑やかで楽しげであるはずの夜のひと時は、中原の詩においては沈黙が支配し、チルシスやアマントも、まるで「音楽の幽霊」のような存在になっている』。『中原は、悲しいという言葉をただの一度も使わずに、逝った息子、文也の姿を月の光の下に追い求め続け』るのであり、『個人的には、彼の詩における「チルシスとアマント」とは、かつて文也と共にあり、幸福であった中原の夢の残骸の姿と感じ』る、と記しておられる(この記載が正しいことは、個人ブログ「コイケランド」月とその光に関するメモ その3ブログ記載で、同様の内容が岩波文庫版「中原中也詩集」の注釈にあると記しておられる(引用有り)ことで保証される)。プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年~紀元前一九年)はウィキの「ウェルギリウスによれば、『ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごし』、『ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である』とある。「アミンタス」は“Amyntas”だろう。チルシスの元とするのは“Tityrusで「ティテュルス」か?
 

また來ん春……   中原中也

 

     春……

 

また來ん春と人は云ふ

しかし私は辛いのだ

春が來たつて何になろ

あの子が返つて來るぢやない

 

おもへば今年の五月には

おまへを抱いて動物園

象を見せても猫(にやあ)といひ

鳥を見せても猫(にやあ)だつた

 

最後に見せた鹿だけは

角によつぽど惹かれてか

何とも云はず 眺めてた

 

ほんにおまへもあの時は

此の世の光のたゞ中に

立つて眺めてゐたつけが……

 

[やぶちゃん注:二箇所の「猫(にやあ)」の「にやあ」は「猫」に対するルビである。本詩集の詩集本文詩篇の中で、長男文也の死後に詠まれた詩篇は、これが最初であり、文也の死が直截に詠み込まれたものは、これ、一篇のみである。昭和一一(一九三六)年十一月十日、長男文也が二歳余り(昭和九年十月十八日生まれ)で小児結核のために急逝、中也は直後から激しい悲哀悲嘆に陥った。ウィキの「中原中也等によれば、『中也は』三『日間』、『一睡もせず看病した』。『葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フク』(中也の母)『がなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日』、『僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった』。翌十二月十五日『に次男の愛雅(よしまさ)が生まれたが』、『悲しみは癒え』ず、『幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡』、『フクと思郎』(中也の弟。柏村(中原)家四男)『が上京した』。翌年、昭和一二(一九三七)年一月九日、『フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある中村古峡療養所に入院させ』、『ここで森田療法や作業療法を受け』て二月十五日に帰宅したが、『騙されて入院させられたと』妻『孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ』、二月二十七日に鎌倉町扇ヶ谷一八一(寿福寺の裏手)へ転居している。本詩篇はそんな中で書かれたもので、以下に続く「月の光 その一」「月の光 その二」とともに「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表されたものである。

「動物園」サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の草稿詩篇夏の夜の博覧会はかなしからずや文也死後一ヶ月後昭和十二十二十二日記文也の一生出現の解説で、「文也の一生」の終りの部分が引用されており、そこに『同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる』とあるから、これは恩賜上野動物園かと思われる。]

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