カンパネルラ
大丈夫だよ、ジヨバンニ、僕は君といつも一緖だよ――ううん、あの人たちはね、ちよつとだけ間違つてゐるだけなんだ――ちよつとだけ、ね――
大丈夫だよ、ジヨバンニ、僕は君といつも一緖だよ――ううん、あの人たちはね、ちよつとだけ間違つてゐるだけなんだ――ちよつとだけ、ね――
カンパネルラ……僕の尊敬してゐた人々は……さうか……そんな人たちだつたのかなあ…………
目 次
[やぶちゃん注:目次部分は当初は電子化するつもりであったが、クレジットを挟むリーダの特異性(八点で圧縮されたもの)やクレジットが半角の漢数字であるなど、正確な再現が難しいことから、総て画像で示し、それぞれの画像の後で問題点(既に殆んど各篇の注で述べたが、最後の最後まで誤植があり、さらに不可解な本文標題との違いや、クレジットの不審その他、呆れるばかりに満載である)を注で示すこととした。ヴァーチャルを冠したからには、これもよかろうと存ずる。]
[やぶちゃん注:「丘の幻惑」の標題は本文では「丘の眩惑」である。なお、「目次」全四枚分の原稿のうち、冒頭の一枚が焼失しているため、賢治がここでどちらを書いているかは判らない。取り敢えず、本文注では私は誤植と採っておいた。
「戀と病熱」はクレジットが『一九二、二三、二〇』でおかしい。ところが、校本全集本文下の注によれば、『日付が「……)』(ここに右ママ注記)『一九二二、三、二〇)……」となっている冊もある』とあるのである。既にこの異様な現象、即ち、初版本(推定一千部発行)には再版本も二刷もないにも拘わらず、植字が異なったものがあるというのは、多くの読者にとって不可解なことであろう。これは校本校異の「春と修羅」の冒頭の次の一節がこれを氷解して呉れる。
《引用開始》
製本上特記すべきことに、目次の綴じ込み方の問題がある。初版本は八頁ずつ一折りになって刷られ、全体で四十折りが一冊に製本されているが、実際に調べてみると、目次は八頁分で、それがちょうど一折りをなしており、そのあとにつづく奥付と正誤表との二頁は、目次前の六頁と組になって一折りをなしている。言いかえれば、奥付と正誤表とを含む八頁一折り(第三十九折)の、第六頁と第七頁との間に、別の八頁一折り(=目次)がはさみ込まれて製本されているのである。このことは、「目次は奥付や正誤表(および本文末尾)といっしよ刷られたものではない」ことを示しており、はじめは目次は巻末にでなく、巻頭に置かれることになっていたのではないかとの推測を可能にする。
《引用終了》
即ち、「目次」は挿し込みであり、刷られている最中にこのような誤植を見出し(後で示すが校本全集校異では触れていない「宗教風の戀」のクレジットの、私の所持するものとの違い)、二度以上の刷り直しというか、植字替え・脱植字の補填が行われたのかも知れないとも考えられるのである(最終的な私の推理は後述する)。さらに後に見る通り、存在しない「途上二篇」が「目次」に残っているところからは、実はこの「目次」原稿は本篇最終原稿が決定される以前に書かれて印刷所に送られていた可能性をも示唆するものとも言えるのである。なお、このことは本来なら、私の所持する復刻本の復元過程で正確に明らかにされるべきはずの事実であったと私は思う。セット物で高い金を払って買ったにも拘わらず、今回、それが解説に一言も記されていないことに私は甚だ怒りを感じた。校本全集発刊後のことなのに、である。]
[やぶちゃん注:既にそれぞれの本文注で述べたが、この「目次」のクレジットには特異点がある。この「春と修羅」「眞空溶媒」と、後に掲げる「靑い槍の葉」「原體劔舞連」及び「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」(三篇続き)の七篇のそれが、二重丸括弧(⦅ ⦆)で表記されている点である。「無聲慟哭」の私の考えを再掲すると、これらの詩篇はその最初の原型からは大きく変わった可能性が高い。さればこそ、その⦅起点日⦆として丸括弧が使われていると読めるのである。これらは確かに、そのクレジットの日に起筆し、その日のうちに、一つの心象像として一応の完結したソリッドな詩形を成したものではあるが、その後に複数回、有意な改変が行われて決定稿となったのであり、それをよく理解している賢治は、そうした詩篇の産みの苦しみを自ら記憶するために、或いは、読者のここから後にはこの二重丸括弧の詩篇のグラデーションがずっと残って行くということを伝えたかったからなのではないかと私は思うのである(校本全集にはこの二重丸括弧と丸括弧の意味の違いについては、特に取り立ててては考察されておらず、最初の着手日とするらしい記載は年譜に仄めかされているだけである)。]
[やぶちゃん注:「呌び」(「呌」は「叫」の異体字)は本文では「高原」という標題となっている。ここは「目次」原稿が残存しており、やはり「呌び」である。
「呌び」→「高原」のページ数が「一二七」となっているが、実際には「一二六」ページで、原稿も「一二六」で正しく、誤植である(但し、「一二六」ページには標題「高原」のみが最終行に配され、詩篇本文は「一二七」ページではある。しかし、開始ページは標題のみであっても「一二六」でなくてはならない)。
「印象」は「一二六」ページとなっているが、実際には「一二七」ページで、原稿も「一二七」となっており、誤植である。
「途上二篇」という詩篇は、既に本文注で述べたが、実際には本文には、ない。本書の最終決定稿の前に削除廃棄されてしまったものと推定される(現存しない)。その結果として以下の詩篇のページ数に以下に見るようなとんでもない齟齬が生じてしまっている。
「電車」のページ数は、実際には「一三〇」で誤り。原稿も「一三一」。以下も同じなので原稿の数字は略す。
「天然誘接」のページ数は、実際には「一三一」で誤り。
「原體劔舞連」のページ数は、実際には「一三二」で誤り。
「グランド電柱」のページ数は、実際には「一三七」で誤り。
「山巡査」のページ数は、実際には「一三七」で誤り。
「電線工夫」のページ数は、実際には「一三九」で誤り。]
[やぶちゃん注:「風林」のクレジットは『一九二二、六、三』であるが、原稿は一九二三で誤植。但し、本文注でも示したが、「目次」原稿は最初、『一九二、』と誤って書いたものを『一九二三』に訂している。恐らくはこの校正がごちゃついていて、植字工が見誤ったものかとも思われる。何故、賢治がこんなミスをしてしまったかということへの心理的可能性は「風林」の私の注での考察を見られたい。
「不貧慾戒」は原稿は正しく「不貪慾戒」で誤植。本文内の二箇所でも同じ誤植している。]
[やぶちゃん注:「目次」の、そして「心象スケツチ 春と修羅」本文の最終ページである(見開き左ページの奥附のためにカラーで読み込んだ画像であるため、前の四枚とは画質が異なるのはお許しあれ)。
「宗教風の戀」は全く正しいのだが、校本全集の「目次」原稿の校異を見ると、『初版本では』クレジットの『「一九二三」の「二」欠落』と注がある(ある冊では――とは――ない。校本全集編者は以下の現実に気づいていないのである)。ところが、私のこれは正しいのである。即ち、先の変異と同じく――初版本の中にはここが正しくなっている冊が――ある――ということなのである。そこで一つの推理が可能となるように思われるのである。即ち、「戀と病熱」はクレジットが『一九二、二三、二〇』で誤っているものと、『一九二二』と正しくなっている冊があるというのは、或いは、印刷中、この「宗教風の戀」のクレジットの「二」の活字が、組版から何らかの物理的理由で落ちてしまい、その「二」の小さな活字が床に落ちているのに気づいた印刷工が、既に刷った分を点検してみたところ、真っ先に初めの方の「戀と病熱」の脱字を見出し、「そこから落ちたんだ」と早合点(誤認)し、そちらにその拾った活字を組み入れたのではなかったか? という仮説である。私には見てきたように、その場の映像が見えるような気がするのである。
「火藥と紙幣」本文でも問題にしたが、編年体の本書ではこのクレジットはおかしい。しかし、「目次」原稿を見ると、『九、一〇、』なのである。私は「(一九二三、一〇、一〇)」の賢治の誤記であると考えるのが自然であるとした。詳しくは本文の注を見られたい。
「過去情炎」のページ数は誰もが誤植と思うであろうが(実際は二八八ページ)、実はこれは原稿通りで、賢治の誤記なのである。
「イーハトヴの氷霧」本文標題は「イーハトブの氷霧」である。
「冬と銀河鐡道」本文標題は「冬と銀河ステーシヨン」である。]
[やぶちゃん注:終りに。恐るべき波状的な誤植が「春と修羅」を修羅の如く最後の最後まで襲っていることが判る。何故? と思う読者が多いであろう。私もずっとそれが気になっていた。それについては底本とした昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の、「解説」で中村稔氏が「多すぎる誤植の背景」という一節の中で以下のように述べておられる。やや長いが、当該節全文を引用させて貰う。引用の限界を越えているというのであれば、第一段落は既に本文で私も仔細に検証しているし、最終段落は誤植とは無縁な後日談であるから、著作権侵害と指摘されればカットしてもよいが、誤植だらけの以下の真相と「春と修羅」の受難と復活は、本電子化プロジェクトの最後にどうしても欲しい内容なのである。それは販売を請け負った関根書店(但し、以下で中村氏が述べているように、この書店、かなり汚ない商売をしては、いる)や印刷した花巻の吉田印刷所の吉田忠太郎氏の名誉のためにも、である。
《引用開始》
それにしても大正十三年(一九二四)刊行されたこの『春と修羅』は、心くばりのゆきとどかない、詩人にまことに気の毒な感じのする出版物である。巻末に二十ケ所以上の誤植を示した正誤表が付されているが、じつは誤植はこれだけではない。さきに述べた背表紙の「詩集」の文字もそのひとつだが、これは賢治白身が承知していたことなので別としても、たとえば、表紙をあけて扉をみると、「心象スツケチ」とある。この詩集全体が「心象スケツチ」と名付けられているのは、この誤植された扉の傍題からも示されているわけであるが、この詩集の中三篇には、心象スケッチを英語で表現した mental sketch modified と副題されている。詩集の題をとられた作品「春と修羅」のほか、「青い槍の葉」、「原体剣舞連」の二編がそれであるが、この「青い槍の葉」をみるとmentalsketchmodified [やぶちゃん注:この文字列は中村氏の本文では上下引っ繰り返し(活字の頭が左向き)で印字されてある。表示出来ないので、かく注した。これは私の本文でも注してある。]と上下をさかさまに、語を分けることなしに一連に印刷されている。じつさい、昭和四十八年筑摩書房から刊行された『校本 宮沢賢治全集』をみると分るとおり、正誤表以外にも数十の誤植があり、正誤表自体にも誤植があるようである。一体、出版社はどういう神経でこの詩集を作ったのだろうか、という疑問がわくのが当然といってよい。
奥付にみるように、この本は「東京京橋区南鞘町十七番地 関根書店」の発行とされている。良心的な出版社であれば、これほどに粗雑な本を出版することはおそろしく恥ずかしいことのはずだが、関根書店をこの点で責めることはできない。というのは、じつは『春と修羅』は宮沢賢治の自費出版であって、関根書店はたんに配本だけをひきうけた名義上の発行者にすぎなかったからである。つまり、東京をはじめとする全国的な反響を期待して、東京の出版社に、題字を書いた尾山篤二郎の縁をたよって、配本を依頼した、というのが実状であったようである。だから、関根書店には誤植の責任はないわけだが、一千部発行されたこの詩集のうち関根書店は五百部の委託をうけ、これをほとんど正規の取次を通じて配本はしなかったらしい。右から左へゾッキ本[やぶちゃん注:見切り品と見做し、定価を度外視して安価で取引される本や雑誌を指す書店業界の用語。「ゾッキ」は「一括り」「一纏め」などを意味する語である。]として流してしまった模様で、定価二円四十銭のこの詩集が、昭和初年にはどこの古本屋でも五銭でならんでいたといわれる。この方がもっと罪ふかいともいえそうである。
だから、誤植の責任は、奥付に示された花巻川口町の吉田忠太郎という印刷者にあるのだが、ここでも吉田印刷所を責めるのは無理のようである。何ぶん大正末の花巻の印刷所であるから、おそらくは商店のちらしとか名刺のたぐいしか印刷した経験はなかったろう。たぶん英語も読めなかったろうし、ローマ字の活字ももっていなかったろう。ローマ字に限らず、この詩集で用いられた難しい表現の多くについて活字が揃わなかったはずだし、ましてやここで賢治が何を語ろうとしているのか、まったく不可解だったろう。当時のわが国でおそらくは最も先端をゆく作品でみちあふれたこの詩集の原稿を手にした、東北の片田舎の印刷屋さんの当惑が目に浮かぶようである。それ故、宮沢賢治も印刷所に無理がいえなかったようである。それよりも、およそ人に迷惑をかけ苦労をかけることは、賢治にはたえられることではなかった。「校正などもきびしいことがいえず、まちがいがあってもあとで正誤表をつけるからいいです(事実そうなったが)という、印刷所にはありがたいお客であった」、と堀尾青史は『年譜 宮沢賢治伝』に記している。
だから『春と修羅』がこんなにも誤植の多い本として発行されたのは、結局において宮沢賢治その人の気質と人柄にまでその原因を遡ることができるわけである。そして、一千部発行されたうち百部も売れたか、どうか疑問であるとされているのだが、それでも、草野心平、高村光太郎、谷川徹三、中島健蔵ら少数具眼の人々は、この詩集の真価をはっきりと認めたのである。一見詩風を異にするようにみえる中原中也の如き詩人でさえ、五回にわたって宮沢賢治について書き残していることを、角川書店刊の『中原中也全集』が示している。古本屋で五銭かそこらで買っては友人に贈って、中原が友人たちに『春と修羅』を奨揚していたとは、中原の友人たちの証言である。そうしてみれば、誤植などというものは、真に価値ある本にとっては些細な、とるにたらぬことだ、といえるかもしれない。宮沢賢治自身がそう考えていたのかもしれない。彼にはおよそおごりたかぶったところはなかったが、それでもその作品についての自信は強固なものであったはずである。
《引用終了》
……そうだねえ、ジョバンニ……修羅に精一杯生き急いだ君にしてみれば……この「心象スケツチ 春と修羅」は……芥川龍之介の言葉を剽窃させて貰うなら――人生は誤植の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。(「芥川龍之介の「侏儒の言葉」の「人生」のアフォリズム全三章の最後のものの「落丁」を「誤植」に置き換えたもの)――なのだねえ…………]
冬と銀河ステーシヨン
そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげらふや靑いギリシヤ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが燦々(さんさん)と降り
銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
けさはまつ赤(か)に澱んでゐます
川はどんどん氷(ザエ)を流してゐるのに
みんなは生(なま)ゴムの長靴をはき
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた章魚(たこ)を品さだめしたりする
あのにぎやかな土澤の冬の市日(いちび)です
(はんの木とまばゆい雲のアルコホル
あすこにやどりぎの黃金のゴールが
さめざめとしてひかつてもいい)
あゝ Josef Pasternack の 指揮する
この冬の銀河輕便鐡道は
幾重のあえかな氷をくぐり
(でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく靑らむ天椀の下
うららかな雪の臺地を急ぐもの
(窓のガラスの氷の羊齒は
だんだん白い湯氣にかはる)
パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる靑い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市塲のやうな盛んな取引です
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十二月十日の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵現存本が標題を「イーハトヴオの氷霧」とするのみ。本篇は本書刊行後、昭和二(一九四五)年二月発行の『銅鑼』第十号に殆ど同形で再録されている。
本書用原稿は上縁部の欠損によって字句に欠落があって完全でないので、全体の比較校異は不能であるが、活字化可能な箇所に特に目立った問題はなく(「靑い枝」が「小枝」、「トパース」(「ス」はママ。原稿も「ス」)の後に原稿では読点が打たれているが、それがないのが有意な違いではある)、以下で問題にした標題も原稿は「冬と銀河ステーシヨン」である。
標題「冬と銀河ステーシヨン」は「目次」では「冬と銀河鐡道」となっている。
最初に種明かしをしてしまうと、本篇には一箇所だけ、実在する地名が出る。それが「土澤」で、これは旧岩手県和賀郡土沢町(つちざわまち)、現在の花巻市東和町(とうわちょう)土沢・東和町安俵(あひょう)・東和町北成島(きたなるしま)・東和町東晴山(ひがしはるやま)に当たる(東和町はここ(グーグル・マップ・データ))。当時の旧岩手軽便鉄道(現在のJR東日本釜石線)花巻駅から四つ目に土沢駅があり、現在の東和町の中央に位置する。江戸時代から釜石街道の宿場町として栄え、街道に沿って集落があり、南端をかの佐々木喜善原作の「遠野物語」(私は本書を柳田國男の著と認めない人間である)に河童の棲む川として登場する猿ケ石川(さるがいしがわ)が流れる。好きな「遠野物語」なれば、引用しておく。底本には国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治四三(一九一〇)年刊)の画像を使用した。
*
五五 川には河童(カツパ)多く住めり。猿ケ石川殊に多し。松崎村の川端(カハバタ)の家(ウチ)にて、二代まで續けて川童の子を孕ハラ)みたる者あり。生れし子は斬(キ)り刻(キザ)みて一升樽(イツチヤウダル)に入れ、土中に埋(ウヅ)めたり。其形(カタチ)極めて醜怪なるものなりき。女の聟の里は新張(ニヒバリ)村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人(ヒト)に其始終(シヾウ)を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に歸らんとするに、女川の汀(ミギワ)に踞(ウヅクマ)りてにこにこと笑ひてあり。次の日は晝(ヒル)の休[やぶちゃん注:「やすみ」。]に亦此事あり。斯くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某といふ者夜々(ヨルヨル)通(カヨ)ふと云ふ噂(ウワサ)立ちたり。始には聟が濱の方へ駄賃附(ダチンヅケ)に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には聟(ムコ)と寢(ネ)たる夜(ヨル)さへ來るやうになれり。河童なるべしといふ評判段々高くなりたれば、一族の者集まりて之を守れども何の甲斐も無く、聟の母も行きて娘の側(カタハラ)に寢たりしに、深夜にその娘の笑ふ聲を聞きて、さては來てありと知りながら身動きもかなはず、人々如何にともすべきやうなかりき。其産は極めて難産なりしが、或者のいふには、馬槽(ウマフネ)に水をたゝへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水搔(ミヅカキ)あり。此娘の母も亦曾て河童の子を産みしことありと云ふ。二代や三代の因緣には非ずと言ふ者もあり。此家も如法の豪家にて○○○○○と云ふ士族なり。村會議員をしたることもあり。
*
また、和田博文氏の「風呂で読む宮澤賢治」(一九九五年世界思想社刊)によれば、土沢では当時、冬の市が開かれており、その「冬の市日(いちび)」は二月七日であったとある(クレジットとは合わないから、或いはここでは以前に見たその市日の様子を援用しているのかも知れない)。これらが幻想のイーハトブの国の町のモデル景観となっている。
「かげらふ」「陽炎」。
「靑いギリシヤ文字」古代ギリシア人がフェニキア文字を借用して作った文字。紀元前 一〇〇〇年頃にできあがったものとみられており、初めは東ギリシア文字(イオニア文字)と西ギリシア文字(カルキディア文字)とで多少の差があったが、紀元前四世紀にイオニア文字に統一された。イオニアのアルファベットは二十四の文字から成る。ギリシア文字がフェニキア文字と異なる大きな特徴は、母音を表わす文字があることである。現在は現代ギリシア語を書くのに用いられている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。二十四字は以下。「大文字・小文字・英語表記・日本語の読み」の順で示す。「A・α・alpha・アルファ」/「B・β・beta・ベータ」/「Γ・γ・gamma・ガンマ」/「Δ・δ・delta・デルタ」/「E・ϵ或いはε・epsilon・イプシロン」/「Z・ζ・zeta・ゼータ」/「H・η・eta・イータ」/「Θ・θ或いはϑ・theta・シータ」/「I・ι・iota・イオタ」/「K・κ・kappa・カッパ」/「Λ・λ・lambda・ラムダ」/「M・μ・mu・ミュー」/「N・ν・nu・ニュー」/「Ξ・ξ・xi・クシー」/「O・o・omicron・オミクロン」/「Π・π或いはϖ・pi・パイ」/「P・ρ或いはϱ・rho・ロー」/「Σ・σ或いはς・sigma・シグマ」/「T・τ・tau・タウ」/「Υ・υ・upsilon・ユプシロン」/「Φ・ϕ或いはφ・phi・ファイ」/「X・χ・chi・カイ」/「Ψ・ψ・psi・プサイ」/「Ω・ω・omega・オメガ」。先の「風呂で読む宮澤賢治」で和田氏は、『言葉の「川」を記したときに、それは現実』(猿ケ石川)『から飛翔する。別の川のイメージが紛れ込んで』いいし、『「ギリシヤ文字」を光りの動きと解釈するより、ギリシヤ文字』そのものが『燃えている幻想シーンを思い浮かべる方が、ずっと楽しい』と述べておられる。私もそれに極めて同感する。
「パツセン大街道」釜石街道をアナグラムした(どうアナグラムしたかは不明)幻想のイーハトブ国の街道。
「ひのき」「檜」。ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ
Chamaecyparis obtusa。
「氷(ザエ)」ギトン氏のこちらによれば、『「ザエ」は方言で、川を流れる流氷のこと』を指すとある。
「生(なま)ゴムの長靴」、松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)に、『天然ゴムの樹液中の成分を精製して凝固乾燥させた生ゴム。天然ゴム』百%『で裏地もないのにポッポッと温かい“ボッコ靴”など生ゴムの長靴は、昔から寒さの厳しい東北や北海道でマタギやりんごの剪定、営林業などの雪上作業用靴として重宝され』たとある。
「章魚(たこ)」頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目 Octopoda の蛸(タコ)類。ぶら下げられているから、世界最大種のミズダコ(マダコ科ミズダコ属ミズダコ Enteroctopus dofleini)か、マダコ(マダコ科マダコ亜科マダコ属マダコ亜属マダコ Octopus vulgaris)であろう。当地方は内陸であり、比較的持ちのよい、半生の一個体まるまるのそれが持ち込まれて売られているのである。
「はんの木」榛(はん)の木」。「赤楊(はん)」で既出既注。「ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica。
「まばゆい雲のアルコホル」「アルコホル」はアルコール(alcohol)であるが、英語のそれではなく、ドイツ語の「Alkohol」の音訳であろう。ここは液体のそれの輝きを雲の形容にしたやや変わったものである。
「やどりぎの黃金のゴール」「やどりぎ」は「寄生木・宿り木(やどりぎ)」で、半寄生性の他の樹木の枝の上に生育する灌木であるビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album で、生育が進むと、特異な団塊状の様態を示すことで知られる。さればどうもこの後の「ゴール」(恐らく「gall」で、これは「癭瘤(えいりゅう)」で、昆虫・線虫・ダニ、或いは細菌や菌類が寄生したり、共生したりすることによって植物体の異常発育又は異常形態形成を起こした部分を指す語。虫瘤(むしこぶ)・虫癭(ちゅうえい)或いは根粒の類いを指す)というのは、そのヤドリギの寄生樹体の塊りを指しているようである(ウィキの「ヤドリギ」の岩手県遠野市で撮影されたそれ)。通常は黄色みを帯びた緑色の葉であるが、本種は真冬でも枯れないので、この「黃金」とは、宿主の樹が枯れて、残った丸みを帯びたヤドリギが、冬日に光っているものとして腑に落ちる。
「Josef Pasternack」ポーランド生まれのアメリカの指揮者ジョセフ・パスターナック(一八八一年~一九四〇年)。先の「風呂で読む宮澤賢治」で和田氏は、『賢治の「レコード交換用紙」』(恐らくは「羅須地人協会」の活動の一つであった「レコード交換会」の「レコード交換規定」の「交換用紙」に載る、賢治のレコード・コレクションの一部のデータのことであろう)『ではベートベン「第五交響曲」と、ワグナー「タンホイゼル序曲」の演奏者名に、パスターナックの名前が記されている』と述べておられる。ここはそれが、幻想世界の銀河鉄道の汽車の驀進するBGMとして聴こえてくるのである。You Tube の Themfromspace氏の「Josef
Pasternack conducts Beethoven Symphony 5, movement 4 (1917)」で、まさに賢治が聴いたものと思われるベートベン「第五交響曲」が聴ける。この演奏、時代がかっており、楽器奏者のレベルも全体にレベルがやや低いが、これ、聴いていると、まさにサイレント映画の画面の中を進む幻しの「銀河輕便鐡道」の汽笛や車輪の音とともに見えてくるような感じがしてきて! うひゃあ!! 凄いゾ!!!
「銀河輕便鐡道」岩手軽便鉄道をモデルとしたイーハトブ国の鉄道。ギトン氏のこちらによれば、実際の岩手軽便鉄道は『国鉄よりも狭軌道で、“トロッコに毛が生えた”ような列車だった』、『今にも脱線してしまいそうな田舎のおんぼろ機関車がガタピシ走ってる感じが、この詩の持ち味』であり、『あの童話の大作とは一味違う「銀河鉄道」が、ここにあ』るとされる。ともかくも。最後の最後になって、遂に「銀河鉄道の夜」に繋がるものがはっきりと出現するのであった。
「あえかな」美しくか弱げなさま。儚げな感じ。
「にせものの金のメタルをぶらさげて」/「茶いろの瞳をりんと張り」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)では、『銀河軽便鉄道の機関車の先頭車両についているナンバープレートを、「茶いろの瞳をりんと張り」は茶色っぽいその車体のフロント部分のことを言っているように思われ』るとされ、先の「風呂で読む宮澤賢治」で和田氏は、『機関車を擬人化したキャラクターといえば、トーマスを思い出す人が多いだろう。機関車の全面にまんまるの二つの目と、鼻・口・眉毛が描いてある。それに対して賢治が創作した銀河鉄道では、「にせものの金のメタルをぶらさげて」「茶いろの瞳をりんと張」るなかなかな姿、それが氷をくぐり、森を通り抜け、雪の大地を走っていく』とされる。そう、そしてレールは真っ青な天空へと延び、銀河を目指して翔るのである。
「天椀」賢治の好きな蒼穹の換喩。
「うららかな雪の臺地」雪に覆われた台地であるけれど、そこには麗らかな陽光が射している。これはもう、今までの修羅の血腥く玄(くろ)い台地・大地ではないのである。
「窓のガラスの氷の羊齒は」/「だんだん白い湯氣にかはる」汽車の窓硝子に凍りついて附着していた羊歯(しだ)の葉のような美しい模様を作って結晶していた氷が、車内の暖房のために(まさに内から温まってくる! こんな優しく美しい様子は「春と修羅」では特異点!)、その「氷の羊歯」が「白い湯気」へと昇華(!)される。ああっ! これはもう!! 私がタルコフスキイの中でも最も愛する作品「鏡」(ЗЕРКАЛО:一九七五年)のテーブルの上の消えてゆくティー・カップの曇りの痕のあれではないか!!!
「紅玉」「こうぎよく(こうぎょく)」。赤く透明な宝石のルビー(Ruby)のこと。
「トパース」黄玉(おうぎょく)。宝石のトパーズ(topaz)のこと(「銀河鉄道の夜」にも出る。因みに賢治は一貫して「トパース」と清音で読んでいたようだ)。石英(水晶)より少し硬い珪酸塩鉱物。フッ素やアルミニウムを含み、様々な色を呈するが、宝石としては淡褐色のものが上質とされる。
「またいろいろのスペクトル」先の「風呂で読む宮澤賢治」で和田氏は、『最後の五行』(しづくは燃えていちめんに降り」から)『は、色彩がとても印象に残る。スペクトルは、可視光線がプリズムで分光され、波長順に配列された、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫などの色の帯」。パツセン大街道のひのき」から降るしずくは、冬の自然のなかで、光のドラマを作り出している』とされる。まさにここでは賢治のかつてのような心の中の混迷・混乱・困惑・苦悩・苦渋といった諸々のものが、綺麗にスペクトル分光されているようではないか!
「もうまるで市塲のやうな盛んな取引です」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の最後)では、『詩の前半が「市場」の賑わいなどの人事が描かれていたのに対し、後半では「はねあがる青い枝」「紅玉」「トパース」「いろいろのスペクトル」と、自然の織りなすさまざまな造形や色彩が、「市場」に盛られた品々のように賑わいを見せて締めくくります』とある。]
イーハトブの氷霧
けさはじつにはじめての凛々しい氷霧(ひやうむ)だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歡迎した
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十一月二十二日の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵現存本が標題を「イーハトヴオの氷霧」とするのみ。本篇は本書刊行後、昭和二(一九四五)年九月発行の『銅鑼』第十二号に殆ど同形で再録されている。
標題「イーハトブの氷霧」であるが、ややこしい。「目次」では「イーハトヴの氷霧」で、以下に見る通り、原稿も「イーハトヴの氷霧」である。校本全集本文は「イーハトブの氷霧」とする。「イーハトブの氷霧」を最終校正で決定したにしては、「手入れ本」で「イーハトヴオの氷霧」とするのが気になる。しかし、どうも賢治はこの架空の国を多様な読み方で示すことを、当初から考えていたような気がし、それらは総てが有効なのだと思うのが無難であろう。
以下に本書用原稿を掲げる。
*
〔イーハトヴの氷霧〕
(廣重たちのふきぼかしは
恐ろしく偶然でなつかしい)
けさはじつにはじめての凛々しい氷霧(ひやうむ)だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歡迎した
*
〔 〕は後から校正記号で挿し入れてあることを示す。以上は、校本全集口絵写真にこの原原稿の写真が収められてある。そうしてそれは当該原稿用紙の最後の部分に書かれてある。それと校異の編者注記を合わせて読んでみると、この詩篇はもとは標題のない長い詩篇の冒頭であった(全集編者は同じ題とするが、「イーハトヴの氷霧」がかく挿入されているという点から見て、同じ題であるとする根拠が私には全く判らない)が、原稿用紙の『次葉以下を差替えた際に』、上記の「廣重」以下の二行が』墨消で『削除され』、その横で新たに『この短い二行詩に置換えられられたものと考えられる』とある。
「イーハトブ」既に注で述べたが、「岩手」をアナグラムにして「イーハトーブ」を生成現出させた、岩手の歴史的仮名遣「いはて」を捩ったとする説が定説化はしている。但し、そもそもが賢治本人がその名について何も語っておらず、異論も多くある。また、こうしたファンタジー系アナグラムが生理的にだめで、賢治の作品を嫌いになったと言った生徒を私は有意に知っている。彼らの気持ちも私は痛く判る。私も嘗てそうだった(チャネリング・ブーム(判らない方は「小岩井農塲 パート九」の「ユリア」の私の注を参照)で私の心霊学への興味が一気に失せたのと、私が賢治を敬して遠ざけるようになったのは軌を一にしているのである)一面があるからである。ただ、ウィキの「イーハトーブ」にも記されてあるが(なお、同ウィキの造語の変遷過程を参考にすると、「イエハトブ」→「イーハトブ」「イーハトヴ」→「イーハトーヴ」→「イーハトヴオ」「イーハトーヴォ」「イーハトーボ」→「イーハトーブ」といった感じになるらしい)、『一貫して見られる語尾 -ov(o) の形は、ロシアの地名によくある語尾をもとにしたと推察される』こと、『語尾が「ブ」「ヴ」から後に「ボ」「ヴォ」に変わったことについては、賢治がエスペラントに親しんだ事実やエスペラントでは名詞は -o で終わる語尾をもつことからエスペラントの影響であると推察される』というのは、論理的に肯んじ得る考察で、「ポラーノの廣場」の「盛岡」モデルの「モーリオ市」や、「仙台」モデルの「センダード市」等はその規則性と合致しており、少なくとも、賢治が地名固有名詞を造語するに際しては、エスペラント語の語法をかなり真面目に念頭に置いて作ったと考えるべきであろうとは思う。
「氷霧」は「ice fog」で「こおりぎり」とも読む。ウィキの「氷霧」によれば、『霧を構成する水滴が凍り、あるいは空気中の水蒸気が直接昇華して、小さな氷の結晶』(氷晶)『となって浮かんでいるために視程が妨げられる気象現象である。気象庁では、視程』一キロメートル『未満となっている状態を氷霧と規定しており、氷霧を予想するとき、予報では霧とする』。なお、よく話題になる『細氷』(Diamond dust:ダイヤモンド・ダスト。大気中の水蒸気が昇華してできた、ごく小さな氷晶が降ることを言う)『は別の現象』である。『空気中に浮かんでいる水滴は過冷却状態となるため』摂氏零度『以下でも容易には凍らない。そのため通常は気温が』摂氏マイナス三十『以下になるような極めて限られた気象条件でしか氷霧は発生しない』。『氷霧が発生しているときに太陽が出ていると、氷の結晶が日光を散乱して輝いて見える』。『氷霧は氷晶が浮遊する状態をさし、霧に分類される。これに対し、細氷(ダイヤモンド』・『ダスト)は氷晶が降る降水現象であり、雪に分類される。氷晶の大きさも、氷霧より細氷のほうが大きい』とある。
「凛々しい」「りりしい」。様態がきりりと引き締まっているさま・勇ましい・雄々しい。「凛」の字自体、もと、「冷たい氷に触れて心身の引き締まる感じ」を指し、そこから「きっぱりとしたさま」を表わすようになったもので、ここでそれを「氷霧」の形容に当てたのは、実に原義の勘所を押さえているのである。
「みんなはまるめろやなにかまで出して歡迎した」「まるめろ」はバラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga。果実はリンゴに柑橘系を合わせたような甘酸っぱいよい匂いがある。賢治は好んだようで、いろいろな共感覚的形容として本書の他の詩篇でも用いている。
さても。今朝は実に初めての「凛々しい氷霧」だったから「みんなは」マルメロやなんやかや「まで出して」盛大に「歡迎した」のである。今朝の氷霧の到来をマルメロやいろんな美味しいネクタルを出して祝うのは、これ最早、現実の世界ではない。ここに既にして、「銀河鉄道の夜」(リンク先は特異的に「青空文庫」の『旧字旧仮名』版))は――始まっているのだねぇ、カンパネルラ!――]
鎔 岩 流
喪神のしろいかがみが
藥師火口のいただきにかかり
日かげになつた火山礫堆(れきたい)の中腹から
畏るべくかなしむべき碎塊熔岩(ブロツクレーパ)の黑
わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原風の情調を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもつてゐた
けれどもここは空氣も深い淵になつてゐて
ごく强力な鬼神たちの棲みかだ
一ぴきの鳥さへも見えない
わたくしがあぶなくその一一の岩塊(ブロツク)をふみ
すこしの小高いところにのぼり
さらにつくづくとこの燒石のひろがりをみわたせば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
雲はあらはれてつぎからつぎと消え
いちいちの火山塊(ブロツク)の黑いかげ
貞亨四年のちいさな噴火から
およそ二百三十五年のあひだに
空氣のなかの酸素や炭酸瓦斯
これら淸洌な試藥(しやく)によつて
どれくらゐの風化(ふうくわ)が行はれ
どんな植物が生えたかを
見やうとして私(わたし)の來たのに對し
それは恐ろしい二種の○で答へた
その白つぽい厚いすぎごけの
表面がかさかさに乾いてゐるので
わたくしはまた麺麭ともかんがへ
ちやうどひるの食事をもたないとこから
ひじやうな饗應(きやうおう)ともかんずるのだが
(なぜならたべものといふものは
それをみてよろこぶもので
それからあとはたべるものだから)
ここらでそんなかんがへは
あんまり潛越かもしれない
とにかくわたくしは荷物をおろし
灰いろの苔に靴やからだを埋め
一つの赤い苹果(りんご)をたべる
うるうるしながら苹果に嚙みつけば
雪を趣えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の靑い縞をつくる
(あれがぼくのしやつだ
靑いリンネルの農民シヤツだ)
[やぶちゃん注:前の「一本木野」とともに大正一二(一九二三)年十月二十八日(日)の作。岩手山東北山麓を跋渉した二篇。こちらは岩手山東北東山腹から山麓にかけて残る「焼走(やけばし)り溶岩流」がロケーションとなる。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は行方不明の方の藤原嘉藤治所蔵本には幾つかの手入れがある。後に示す。なお、「火山塊(ブロツク)」のルビは「火山塊」三字へのもの。
・「それは恐ろしい二種の○で答へた」「○」はママ。原稿は「苔」で、行方不明の藤原嘉藤治所蔵本で訂しているので植字ミス。全集校訂本文は「苔」。
・「あんまり潛越かもしれない」「潛越」はママで、原稿も「潛越」。「僭越」の「僭」は「身分不相応に奢り昂ぶる」の意で、「潛」にその意はない。賢治の誤字。
・「雪を趣えてきたつめたい風はみねから吹き」「趣えて」はママ。原稿は「越えて」で誤植。藤原嘉藤治所蔵現存本では「趣」を「超」と直しており、同所在不明本の方では、その前書の訂した「超」をさらに「越」と訂している。
・「あれがぼくのしやつだ」平仮名「しやつ」は原稿もママ。
行方不明の方の藤原嘉藤治所蔵「手入れ本」の最終形を示す。修正行を太字で示した。
*
鎔 岩 流
喪神のしろいかがみが
藥師火口のいただきにかかり
日かげになつた火山礫堆(れきたい)の中腹から
畏るべくかなしむべき碎塊熔岩(ブロツクレーバ)の黑
わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原風の情調を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもつてゐた
けれどもここは空氣も深い淵になつてゐて
はげしい鬼氣さへながれてゐる
一ぴきの鳥さへも見えない
わたくしがあぶなくその一一の岩塊(ブロツク)をふみ
すこしの小高いところにのぼり
さらにつくづくとこの燒石のひろがりをみわたせば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
雲はあらはれてつぎからつぎと消え
いちいちの火山塊(ブロツク)の黑いかげとわつがにぬるいその副射
貞亨四年のちいさな噴火から
およそ二百三十五年のあひだに
空氣のなかの酸素や炭酸瓦斯
これら淸洌な試藥(しやく)によつて
どれくらゐの風化(ふうくわ)が行はれ
どんな植物が生えたかを
見やうとして私(わたし)の來たのに對し
それは恐ろしい二種の苔で答へた
その白つぽい厚いすぎごけの
表面がかさかさに乾いてゐるので
わたくしはそれを麺麭ともかんがへ
ちやうどひるの食事をもたないとこから
ひじやうな饗應(きやうおう)ともかんずるのだが
(なぜならたべものといふものは
それをみてよろこぶもので
それからあとはたべるものだから)
ここらでそんなかんがへは
あんまり潛越かもしれない
とにかくわたくしは荷物をおろし
灰いろの苔に靴やからだを埋め
一つの赤い苹果(りんご)やうとする
うるうるしながら赤い苹果に嚙みつけば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の靑い縞をつくる
(あれがぼくのしやつだ
靑いリネンの農民シヤツだ)
*
以上の修正の内の「いちいちの火山塊(ブロツク)の黑いかげとわつがにぬるいその副射」の「わつがに」(「わづかに」の誤りであろう)「副射」(「輻射」が正しいか)はママである。
「鎔岩流」(「鎔」は「溶ける」で「熔岩」の「熔」に同じく、「熔」は「鎔」の俗字である)焼走り溶岩流。「瀧澤野」の注で既注であるが、再掲しておく。ウィキの「焼走り溶岩流」によれば、『岩手山の北東斜面山腹から山麓にかけた、標高約』五百五十~千二百『メートルに広がり、天然記念物に指定された面積は』百四十九・六三『ヘクタール、溶岩流の延長は約』四『キロメートル、岩石の種類は「含かんらん石紫蘇輝石普通輝石安山岩」で』、『一般的に輝石安山岩溶岩は粘性が大きいが、焼走り熔岩流の溶岩は粘性が小さく流動性に富んでいると言われている』。『岩手山は山頂部に爆裂カルデラと中央火口丘を持つ円錐形の成層火山であり』、貞享三(一六八六)年から昭和九(一九三四)年の『間に複数回、爆発と熔岩流噴出の火山活動記録が残されているが、焼走り溶岩流はこれら山頂部の噴火活動とは違う、中腹部にできた噴火口、いわゆる寄生火山から流出したものである』。『焼走り溶岩流が形成された火山活動の年代は従来より』、享保四(一七一九)年正月(旧暦)『とされて』きた『が、近年の研究では』、享保一七(一七三二)年』『とする説もある』。『溶岩流を作った噴出口は、岩手山の東側山腹、標高』八百五十メートルから千二百五十メートル付近まで』、『直線状に複数個所残っており、いずれも高さ』四~五メートル、直径四メートル『ほどのものである』。『焼走り熔岩流の名称の由来は、真っ赤な熔岩流が山の斜面を急速な速さで流下するのを見た当時の人々が焼走りと呼んだことによるものであると言われており、地元では古くから「焼走り」と呼ばれていた』。『熔岩流の表面は波紋状の凸凹があり、これがトラの縞模様のように見えることから「虎形」と呼ばれている。また、しわ状模様の存在は、粘性が小さい熔岩であったことを示している』。『焼走り熔岩流は噴出時期が比較的新しいため』、『風化作用が進んでおらず、その表面には未だに土壌が形成されていないことから』、『植生に乏しく』、『噴出当時の地形を留めている。溶岩流そのものは火山国日本では珍しいものではないが、表土や樹木に覆われず、地形的改変もないのは学術的に貴重であり』、現在、『国の特別天然記念物』及び『十和田八幡平国立公園の特別保護地区にも指定されている』。『今日では熔岩流末端に片道約』一『キロメートルの観察路が設けられており、積雪で閉鎖される冬季以外は自由に見学することができる。また散策路の終点には、当地を訪れた宮沢賢治による詩、「鎔岩流」の碑が建てられている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「喪神のしろいかがみ」賢治の好んだ独特の語であり、私は多様な心象をそこに感じ、今までも、いろいろな解釈の注を附してきたが、実景の形容の場合は、本来の力や勢いを失った対象物の様態を示すので、ここは「かがみ」から太陽のそれを指し、傾いて光輝を失った夕陽か、或いはそれが薄い雲か霧に遮られてぼんやりしているさまを言っているようにも思われる。
「藥師」薬師岳。前篇「一本木野」に既出既注。
「火山礫堆(れきたい)」岩石の破片の中でも大きさが二ミリメートル以上の小石ほどのものを「礫」と呼ぶ(それ以上の直径六十四~六十五ミリメートル以上は「火山弾」或いは「火山岩塊」と別称する)。噴火によって放出された熔岩の岩や破片が「堆」積していることをかく言うが、そのもが火山全体の主要部分は表面の殆どがそれによって覆われており、「の中腹から」と続くように、ここも岩手山全体を指していると読んでよい。
「畏るべくかなしむべき」「瀧澤野」では「焼走り溶岩流」とおぼしきものを賢治は「そらの魚の涎(よだれ)」と表現していた。「荘子」ではないが、想像を絶する巨大な空を飛ぶ魚(賢治に言わせれば、第四次元では人も空を飛ぶし、地下も走るのであってみれば、空を飛ぶ巨大魚もよかろう)の垂らした涎と天衣無縫に語られたものが(多分、そう生徒たちにも名指していたはずの彼が)、ここでは妙に神妙に敬虔な自然災害の厳粛な実様態として形容しているのは、関東大震災を過ぎた後の彼の意識の変化のせいかも知れない。
「碎塊熔岩(ブロツクレーバ)」block lava。「lava」は正確な音写なら「ラーヴァ」。塊状溶岩。粘度が相対的に高いグループの溶岩で、流れにくい。流れが遅くなるので、表面の固化と崩落を繰り返しながら、ゆっくり前進するため、岩塊状の溶岩流が残る(ウィキの「溶岩」に拠る)。グーグル・マップ・データの「焼走り溶岩流」部分を航空写真に変えたこちらを参照されたい。
「柏」「かしは」。カシワ。「一本木野」に既出既注。
「なにかあかるい曠原風の情調を」「曠原」(くわうげん(こうげん))は遮るもののない広々とした野原。「曠」にはもと、「日の光が普く射し渡って輝く」の意があり、ここは前の「一本木野」の印象からも、それも含めて意味しているとみてよい。
「わたくしがあぶなくその一一の岩塊(ブロツク)をふみ」「一一」は「いちいち」と読みたい。「ひとつひとつ」では「あぶなく」の感じが慎重になってしまって、よくない。
「貞亨四年のちいさな噴火から」/「およそ二百三十五年のあひだに」前の引用注参照。因みに貞享三年は一六八六年、作品内時制は一九二三年で、その間は二百三十七年。
「これら淸洌な試藥(しやく)によつて」科学者らしい言い方が、却って詩語として光っている。
「すぎごけ」スギゴケの代表種はマゴケ植物門スギゴケ綱スギゴケ目スギゴケ科スギゴケ属スギゴケ Polytrichum juniperinum である。高さは三~十センチメートルで、直立した茎をもち、葉は披針(ひしん)形で長さ四~九ミリメートル、乾くと、緩く茎に接着して、全形が細長くみえる。葉の縁(へり)は内側に折れ畳んだようになり、表面にある薄板を覆うようになる。中肋は葉の先端から少し突出して芒(のぎ)のようになる。若い時は毛の多い帽(ぼう:蘚帽(せんぼう))で包まれている。日本では北海道から九州にかけての高所にみられるが、分布域は世界各地と広い。但し、日本で知られているスギゴケ科 Polytrichaceae には六属約三十種があり、「スギゴケ」と称した場合はスギゴケ科の植物を総称して使われるのが一般的で、孰れも広く開出する葉を持ち、茎にはよく発達した中心束がある。総て雌雄異株で、雄株では茎の先端部の葉が短く、幅広くなり、苞葉(包葉)とよばれるものに変化して、多数の造精器を包む(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。しかし、どうも、おかしい。賢治は「表面がかさかさに乾いてゐるので」/「わたくしはまた麺麭」(パン)「ともかんがへ」/「ちやうどひるの食事をもたないとこから」/「ひじやうな饗應(きやうおう)ともかんずるのだが」とあるからである。私はスギゴケ類が非常に好きなのであるが、「表面がかさかさに乾いて」いて、それがあたかも一見して「麺麭」(パン)のような感じに見えるということは、スギゴケでは、まず、ないと思うからである。これは推測するに、マゴケ植物門
Bryophyta(蘚苔類)ではないのではないか? 蘚苔類は湿潤で日射量が少ない方が優勢であるが、覆う物のない、少なくとも溶岩流の剥き出しの表面では彼らは繁殖が難しい。乾燥の程度が高く、日射量が多い時期のこの「焼走り溶岩流」ならば、熔岩の表部では地衣類地衣類(菌類(主に子嚢菌類(菌界子嚢菌門
Ascomycota)の中で藻類(シアノバクテリア(藍色細菌門
Cyanobacteria)或いは緑藻(緑色植物亜界緑藻植物門緑藻綱
Chlorophyceae))を共生させることで自活できるようになった種群。一見すると外見は如何にもコケ類に似て見えるが、形態的構造的に全く違う生物種群である)が有利なように思われる。しかも乾燥して「表面がかさかさに乾いて」おり白い「麺麭」(パン)のように見えるのは、通常は緑色を呈するコケ類ではく、圧倒的に地衣類の形態に一致するからである。しかも、如何にも海藻如何にもキノコといったような感じではなく、白くある程度もっこりして干からびたパンみたようなもの……う~ん、図鑑と睨めっこしてみたが、これはと思うものは分布が合わず、これまで。その方面の専門家なら、一発だとおもうのだが。識者の御教授を乞うものである。
「(なぜならたべものといふものは」/「それをみてよろこぶもので」/「それからあとはたべるものだから)」賢治は「ここらでそんなかんがへは」/「あんまり」僭「越かもしれない」がと謂い添えながら、ここにはまた、非常に興味深い賢治の思惟が現われている。賢治は――「食べ物」というものは、基本、その「食べ物」の外形を見て喜ぶということが真の必要条件の属性なのであって、その喜びを味わった後は、ただ腹を満たすために、即ち、喜びとしてではなく、ただ生体が欲する食欲という中枢神経の欲求を満たすためだけに「ただ食べる」だけのものだ――というのである。これは大いに宮澤賢治の病跡学のし甲斐がありそうな気がする(但し、今はそれをする気はない)。因みに、地衣類の中には食用になるものが実際にあるから、この賢治の謂いはゲテモノでは全くない。
「うるうるしながら苹果に嚙みつけば」林檎の神聖な潤いを楽しみながら噛みつくと。
「野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ」グーグル画像検索「白樺 紅葉」をリンクさせておく。……ああ! 本当に「紅(べに)や金(キン)や」に!……綺麗だなぁ!……
「北上山地はほのかな幾層の靑い縞をつくる」/「(あれがぼくのしやつだ」/「靑いリンネルの農民シヤツだ)」「リンネル」linen。リネンとも呼ぶ。アマ(亜麻:キントラノオ目アマ科アマ属アマ Linum usitatissimum)織物の総称。帆布・カンバスなどにする厚地のものもあるが、一般には比較的細いアマ糸による薄地の織物を指す。平滑で光沢に富み、堅牢で涼感がある。夏の洋服地・テーブル掛け・ナプキンなどとし、ごく薄地のものはハンカチーフ・シャツ・レース地などに用いる。さても、振り返った遠い北上の連山の泰然悠然とした実景を以って、このちっぽけな自分の肉を覆う唯一の肌着にするに相応しいとする、自然との幸福な一体感のコーダであるが、最後に「農民シヤツ」と敢えて添えて言っていることが着目される。ギトン氏はこちらで、『まず、恩田逸夫氏は』、「焼走りや岩手山方面の『「近づきがたい自然の様相と対比して、人間の営みの行われている北上山地に親しみの情を示している。むしろ後者に強い愛着を感じているのである』。『ここでは、もはや『宗教風の恋』の観念性や高踏性は超越されようとしている』。『現実生活への関心が強まっている』『」『と述べていますし、栗原敦氏は』、『「『ぼくの』と捉える自然との合一感が、『北上山地』の『ほのかな幾層の青い縞』という実存をかける場たる地誌的な郷土の発見と重なる形で示され、しかも『青いリンネルの農民シャツ』という社会階層的位置の選択の暗示までも込めて描き出されたのは』、『初めてであった。」』と引いて、『つまり、北上山地を望んで、「あれがぼくの』『青いリンネルの農民シヤツだ」とつぶやく作者は、自分の生存の基盤として、具体的なあれこれの山野市村を抱く「地誌的な郷土」を発見し選択しているのであって、そこにおける自分の投企すべき「社会階層的位置」として「農民」を目指していると言えるわけです』とされる。その通りと思う。最後に。また別に、ギトン氏はこちらで、かくも言い添えておられる。まず、『初版本の装幀を見ていただきたい』とされ(ここでは私の画像を示しておく)、『いかにも藁ででもこさえたような鄙びた田舎風のボロい本です。作者は、あえてこの感じを出すために、帆布(カンバス地)よりも荒いリンネル布を使っているのですが、当初の計画では、「青いリンネル」にする予定だったらしいのです』。『「表紙地は賢治は青黒いザラザラした手ざわりの布地を欲しがっていたのだったが見当らず、関氏が大阪まで来た時に漸く探し求めたものであるという。『ザラザラした手ざわり』だけは賢治の要望に適っていたが色は麻の原色で全く変っている。図案は広川松五郎氏の筆、せめてこの図案に賢治の希望の青黒い色を出そうとしたが、地があらい為に色がのらず薄色になってしまったという。」』(小倉豊文「『春と修羅』初版について」。天沢退二郎・編『「春と修羅」研究Ⅰ』一九七五年学藝書林刊)『つまり、「青いリンネル」の「青い」とは、《初版本》表紙のアザミ草模様のような紺青色と思われるわけです。そして、「青いリンネルの農民シヤツ」が、作者の頭にあった“詩人のスタイル”だとすれば、それは、この詩集の装幀(当初計画されていた「青黒いザラザラした手ざわりの布地」の表紙)そのものではないでしょうか?』。『というのは、編集・印刷過程の“第』二『段階”では、「鎔岩流」が巻末作品になる予定だった』からなのだとされ、当初、想定した『巻末作品の最後に』、
(あれがぼくのしやつだ
靑いリンネルの農民シヤツだ)
『とあるのを、読者は読んで』、『あぁなるほど、それで、著者はこの詩集を出すことにしたのだ』……『と思って納得する──そういう筋書きを、賢治は考えていた』らしいと述べておられるのである。これもちょっと唸った。なるほど!]
一 本 木 野
松がいきなり明るくなつて
のはらがぱつとひらければ
かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
ベーリング市までつづくとおもはれる
すみわたる海蒼(かいさう)の天と
きよめられるひとのねがひ
からまつはふたたびわかやいで萌え
幻聽の透明なひばり
七時雨(ななしぐれ)の靑い起伏は
また心象のなかにも起伏し
ひとむらのやなぎ木立は
ボルガのきしのそのやなぎ
天椀(てんわん)の孔雀石にひそまり
藥師岱赭(やくしたいしや)のきびしくするどいもりあがり
火口の雪は皺ごと刻み
くらかけのびんかんな稜(かど)は
靑ぞらに星雲をあげる
(おい かしは
てめいのあだなを
やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか)
こんなあかるい穹窿(きうりう)と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうではないか
(おい やまのたばこの木
あんまりへんなおどりをやると
未來派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦(よし)のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月(みかづき)がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
[やぶちゃん注:次の「鎔岩流」とともに大正一二(一九二三)年十月二十八日(日)の作。岩手山東北山麓を跋渉した二篇。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は手入れなし。
・「穹窿(きうりう)」ルビはママ。原稿は正しく「りゆう」。
・「芦」底本では下部は「戶」ではなく「戸」の字体であるが、表記出来ないので「芦」で示した。
本篇は「春と修羅」の中では、極めて意味を汲み取り易い一篇であり、私はリアルな映像がすんなり心に投射されて好きな一篇である。中央大学教授渡部芳紀氏は同氏の研究室のサイト内の『評釈「一本木野」』で、本篇が既刊の宮澤賢治の選詩集に殆んど採られていないことを検証され、諸家から『高く』『評価されていないのが伺われ』『わずかに谷川徹三、入沢康夫が積極的に評価している』程度で、『中村稔は、中央口論版では取り上げているが、角川文庫では収録していない』ことから、『それほど高い評価をしているともおもわれない』と総括された上で、しかし『私はこの作品こそ、これから、賢治を代表する一つに入れたいと思う』と述べておられる。異様に難解な賢治の詩篇の関係妄想的解析が持て囃される中、私も渡部氏の主張に強く賛同するものである。
「一本木野」現在の陸上自衛隊岩手山演習場(ここ(グーグル・マップ・データ))や開拓地のある北東附近を国土地理院図で見ると、「一本木原」とある。なお、そこから西北西の位置にある「焼走り溶岩流」が次の詩篇「溶岩流」のロケーションとなる。ギトン氏はこちらで、本篇は『薄暗い林地から、明るい草原に出たところ』で、後に『描かれた薬師岳や鞍掛山の形』『から推定すると、一本木野を焼走りに向かって相当歩いてからのスケッチと思われ』るとされる。
「ベーリング市」賢治が、最北のベーリング海(或いは海峡)(Bering Sea/Strait)から夢想した幻想都市。因みに現在はアラスカ州に実際に「ベーリング市」があり(ギトン氏のこちらとこちらで位置が確認出来る)、この中央辺りであるが(グーグル・マップ・データ)、全く関係はない。この年の半年前の大正一二(一九二三)年四月十五日附『岩手毎日新聞』に発表したイーハトヴ民話「氷河鼠の毛皮」は、
*
このおはなしは、ずいぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて來たのです。氷がひとでや海月(くらげ)やさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて來たのです。
十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乘つてイーハトヴを發つた人たちが、どんな眼にあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。
*
と始まり、そのイーハトヴ発ベーリング行の列車は『汽罐車』に牽かれた『最大急行』(特急のこと)である。話の展開は全く別だが、「銀河鉄道の夜」の萌芽的な部分が見請けられ、このベーリング市最大急行の機関車列車が、トシの死によって白鳥になった彼女を求めて(或いは)樺太の栄浜にある白鳥湖を訪れた(かも知れない措定)体験を挟んで、その「白鳥」(座)の駅を経て、深宇宙の「ケンタウル」の村、天上と称せられる「サウザンクロス(南十字)」へ進む(終着駅は第二次稿の大犬座シリウスであったか。犬嫌いの賢治にして面白い)銀河鉄道の面影が見える。
「きよめられるひとのねがひ」海のように青い蒼穹を背景とした、その原野の、凛とした光景の中にあっては、人々のあらゆる願いは(賢治の内なる秘やかなそれも)清々しく美しいものへと高められると言うのである。
「からまつはふたたびわかやいで萌え」「からまつ」は「落葉松」「唐松」で、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ
Larix kaempferi。賢治の好きな木である。同種の葉は針状を成し、春、白い粉に覆われた薄い緑色を呈しているが、秋にはこれが黄色く色づき、その後、褐色の冬芽を残して落葉する(成木の樹皮は灰黒色から暗い赤褐色となる。ここはウィキの「カラマツ」に拠った)。その春夏と秋の葉の変化を衣替えのように捉え、「ふたたびわかやいで萌え」と表現したもの。
「幻聽の透明なひばり」本邦に留鳥として棲息するスズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ亜種ヒバリ Alauda arvensis japonica は、春告げ鳥として知られ、「告天子」などとも呼ばれるが、北部個体群や積雪地帯に分布するそれは冬季になると南下をするので、今はいない。ここは前のカラマツの再生的表現から春に巻き戻して「幻聴」とした上で「透明な」雲雀と重ねたのであるが、賢治にしては判り易い丁寧な言い換えである。
「七時雨(ななしぐれ)」岩手県の北西部の八幡平市にある七時雨山(ななしぐれやま)。標高千六十メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。推定ロケーションから殆んど北へ二十四キロメートルほどの位置にある。ウィキの「七時雨山」の山容写真をリンクさせておく。
「また心象のなかにも起伏し」七時雨山を眺めながら、自身の心の抑え難い起伏を外化する。原野を彷徨い、溶岩流を登攀せねばならぬ気持に駆られる賢治の、その穏やかならぬ心象のそれである。
「やなぎ」賢治が好んだキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana のことと思われる。
「ボルガ」ヴォルガ川(Волга:ヴォールガ/ラテン文字転写:Volga)。ロシア連邦の西部を流れるヨーロッパ州最長の川。ロシア主要部を水系に含み、古くからロシアの「母なる川」とされる。流総延長は三千六百九十キロメートルに及ぶ。先に「ベーリング」幻想を提示したのに合わせてボルガを連想して、実景をずらさせたもの。
「天椀(てんわん)」蒼穹。賢治が好んで使用する語である。
「孔雀石」(くじゃくいし)は緑青(ろくしょう)と同成分から出来ている緑色の単斜晶系炭酸塩鉱物であるmalachite(マラカイト)の青緑色。この色(リンク先は色見本サイト)。賢治が好んで使う色換喩対象の鉱物である。
「藥師岱赭(やくしたいしや)」「藥師」は既出の、東岩手火山の火口を取り囲む外輪山の、北西にある最高峰(岩手山のそれでもある)薬師岳のこと。標高二千三十八メートル。「岱赭」は酸化鉄を主成分とする赤褐色の土を指す。私が「藥師(やくし)岱赭(たいしや)」とルビを分けたのは、賢治がそのように切って詠じていないと判断したからである。賢治は既存の一般語彙を恣意的に結合させることで、固有の詩語を創出させることが甚だ多いからであり、ここもそれと採り、「きびしくするどいもりあがり」を見せる「藥師岱赭」体(山塊)の謂いと四字一続きの造語単語と採りたいのである。こうした音韻の連続性は賢治の詩の朗読の際に非常に重要な意味を持っており、それだけに彼の詩の朗読は極めて難しい。ネット上には賢治の詩の朗読が有象無象転がっているが、それらが残念ながら一聴、聴くに堪えないものが多いのは、そうした特異な語彙形成や韻律を理解した上で朗読に臨んでいないからである。
「くらかけ」既出既注。岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、賢治がその景観を愛した小岩井農場の北方八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「靑ぞらに星雲をあげる」鞍掛山のピーク附近に雲か霧が掛かっていることの換喩であろう。
「(おい かしは」/「てめいのあだなを」/「やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか)」「かしは」は「柏」「槲」でブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata。火山地帯では群落がしばしば見られる。「たばこ」はナス目ナス科タバコ属タバコ Nicotiana tabacum で、原種は熱帯地方原産であるが、バーレー種が北東北で栽培されているから、当地では見慣れたものである。「やまのたばこの木」というカシワの異名は、葉縁の波打ちはないが、カシワの葉の形状がやや大きなあのタバコの葉に似ているからか。或いは推測だが、カシワの葉を乾かして煙草替わりにする習慣が嘗てあったものか。渡部氏も『評釈「一本木野」』でその可能性を示唆されてはおられる。――おい! 柏の木! 手前(てめえ)の綽名を「山の莨(たばこ)の木」って言うのは本当かい?――
「おんけい」「恩惠」。
「はりつけ」「磔」。磔刑(たっけい)にされてでも取り替えて構わない――僅か半日、ゆっくりとこの蒼天の下の原野を跋渉すること、そこで、私や私に繋がる生きとし生ける「ほと」の願いが清められることと、私の命が罰せられて奪われるとしても構わない――と言うのである。これは直ちに、後の「銀河鉄道の夜」(初期形)のあのジョバンニの言葉、
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「カムパネルラ、また僕たち二人きりになつたねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもう、あのさそりのやうにほんたうにみんなの幸[やぶちゃん注:「さいはひ」。]のためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまはない。」
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を想起させる。
「こひびととひとめみることでさへさうではないか」人生に於いて唯一人の「戀人と」たった一度こっきり「一目」見(ま「み」)ゆる「こと」が「で」きることさえ、まさにそう「ではないか」。渡部氏は『評釈「一本木野」』で、『自然の中を歩くことが出来るなら磔になってもいいという考えは、恋する者が恋人と会えるなら命もいらないと思うのと同じようなものではないかというのである。賢治にとり、野原を歩き』、『自然の懐に抱かれることは、恋愛感情と同じなのである。自然は、野原は、賢治の恋人なのだ』と評しておられれる。後で「わたくしは森やのはらのこひびと」(「私は森や野原の戀人」である)とはっきり宣言している。
「(おい やまのたばこの木」/(あんまりへんなおどりをやると)/「未來派だつていはれるぜ)」既に「高原」で注した通り、賢治の教え子たちによれば、彼はしばしば、突如、「ほ、ほうっ」! 「ほうっ、ほほう」! 「ほほうい、ほほうい」! と奇声を発しては、飛び上がり、大きく手を開いたり、閉じたりして飛び回った、くるくると回りながら、足をバタバタさせて、跳ね回りつつ叫んだ。『喜びが湧き出してくると』、『身体がまるで軽くなって、もうすぐ』、『飛んでいっちまいそうにな』(根子吉盛氏談)って踊り狂った、とある。さればこそ、言わずもがな、この「やまのたばこの木」=カシワの木は、賢治自身を指ししていることが明白となる。「未來派」(Futurismo:フューチュアリスモ)は、一九一〇年代のイタリアで起った文芸革新運動で、一九〇九年二月にパリの『フィガロ』紙に発表されたイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti 一八七六年~一九四四年)による「未来派宣言」(Manifeste du futurisme)及び自由語を提唱した翌年の「未来派文学技術宣言」(Manifeste technique de la littérature futuriste)が口火となり、文学・美術・演劇・映画・建築など各分野を包含する運動として展開した。図書館や美術館を破壊し、一切の過去の清算を主張するとともに、機械文明を謳歌し、新時代に合致した新しい形式を唱え、それぞれの分野についての「技術宣言」を相次いで発表した。美術では速度とダイナミズムの表現を主眼とし、絵画・彫刻に運動の表現を盛込もうとしたことで注目される。未来派の運動はのちに戦争賛美と結びつき、イタリアのファシズムを支持する方向に向ったことで批判もあるが、イタリア芸術を革新した点では、その意義が大きい。また、すぐそれに続く形で出現したキュビスム・ダダ・シュールレアリスムなどのヨーロッパ前衛諸芸術の先駆として、重要な役割を果した(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。さすれば、ここは、賢治が、日蓮宗信者として、また教師として、種々の斬新な、時に奇体な行動や発言をしたそれが、世間一般や教育関係者から批判を受けることとなった事実を指していると読める。
「芦(よし)」「蘆(よし)」「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。
「わたくしは森やのはらのこひびと」/「芦(よし)のあひだをがさがさ行けば」/「つつましく折られたみどりいろの通信は」/「いつかぽけつとにはいつてゐるし」「通信」は彼らからのラヴ・レターである。と同時に、賢治が狂おしく求め続けている、フェアリーとなったトシからの通信として速やかに変容する。
「はやしのくらいとこをあるいてゐると」/「三日月(みかづき)がたのくちびるのあとで」/「肱やずぼんがいつぱいになる」如何にも健全なエロスに満ちたコーダである。渡部氏は『評釈「一本木野」』で、これは、『三日月形のヌスビトハギの実が肱やズボンに付着した様子を表している。それは、私が林の暗い所を歩いていた時、人目を盗んで自然(森やのはら)が恋人の私に接吻くちづけしてくれた証拠なのだ』とされ、最後に『このように「一本木野」は、前半には、秋の岩手山麓の明るく燃えるような美しい情景を描き、後半では明るい自然の森や野原に対する賢治の愛情がユウモアをもって語られている。難しく深刻な人生観や哲学観は盛られていないが、 それだけ賢治の別の一面、洒脱で、明るく健康的な側面が実によく表わされているといえよう。賢治の詩の世界は、様々な魅力を備えているのであるが、このような明るく健康的で ユウモアを交えた作品もその一側面として重視したいものである。今まで、それほど注目されなかった詩であるが、これからは、ぜひ』、『代表作の一つに入れてほしいものである』と擱筆しておられる。全くその通りと私も思う(ヌスビトハギは盗人萩で、マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ヌスビトハギ亜連ヌスビトハギ属ヌスビトハギ亜種ヌスビトハギ変種ヌスビトハギ Desmodium podocarpum のこと。ウィキの「ヌスミトハギ」によれば、『果実は、種子』一『個を含む節に分かれる節果で、この種では普通は』二『節からなる。個々の節は偏平で半円形、両者の間は大きくくびれ、また折れたように曲がるのが普通。上側は真っすぐで、下側に円形の膨らんだ側が位置する形は眼鏡のようである。果実の側面には赤褐色の斑紋があることが多い。また、その表面は触れるとざらつくが、これは細かな鉤が並んでいるためで、これによって衣服などによくくっついてくる。言わばマジックテープ式のひっつき虫である』とある。同画像を参照されずとも、ひっつかれた経験は誰しもあり、その形は「三日月」である)。]
過 去 情 炎
截られた根から靑じろい樹液がにじみ
あたらしい腐植のにほひを嚊ぎながら
きらびやかな雨あがりの中にはたらけば
わたくしは移住の淸教徒(ピユリタン)です
雲はぐらぐらゆれて馳けるし
梨の葉にはいちいち精巧な葉脈があつて
短果枝には雫がレンズになり
そらや木やすべての景象ををさめてゐる
わたくしがここを環に堀つてしまふあひだ
その雫が落ちないことをねがふ
なぜならいまこのちいさなアカシヤをとつたあとで
わたくしは鄭重(ていちよう)にかがんでそれに唇をあてる
えりおりのシヤツやぼろぼろの上着をきて
企むやうに肩をはりながら
そつちをぬすみみてゐれば
ひじやうな惡漢(わるもの)にもみえやうが
わたくしはゆるされるとおもふ
なにもかもみんなたよりなく
なにもかもみんなあてにならない
これらげんしやうのせかいのなかで
そのたよりない性(せい)質が
こんなきれいな露になつたり
いぢけたちいさなまゆみの木を
紅(べに)からやさしい月光いろまで
豪奢な織物に染めたりする
そんならもうアカシヤの木もほりとられたし
いまはまんぞくしてたうぐわをおき
わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに
應揚(おうやう)にわらつてその木のしたへゆくのだけれども
それはひとつの情炎(じやうえん)だ
もう水いろの過去になつてゐる
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十月十五日(月)の作。曜日から見て、花巻農学校の午後の樹種の植付の実習(実際には実習を名目とした新校の校内整備の一貫でもあった)時間中(既に述べた通り。同校の実習は毎日、午後の第六限目(最終時限)に行われた、実習は二時間配当であった)のロケーションであろう。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は手入れなし。本篇は本書出版後、賢治生前の大正一四(一九二五)年八月発行の同人誌『貌』第二号にも掲載されているが、『単なる転載と思われる』と全集校異にある。
・「わたくしがここを環に堀つてしまふあひだ」「堀」はママ。原稿もママ。「掘」を「堀」と表記する詩人や作家は萩原朔太郎を始めとして意想外に多い。校本全集校訂本文も「堀」のママとしている。
・「鄭重(ていちよう)」ルビはママ。原稿は正しく「ていちやう」。
・「「えりおり」ママ。原稿もママ。「襟折」(背広やワイシャツの襟のように、折り返すように仕立てた襟)なので「えりをり」が正しい。
・「應揚(おうやう)」ママ。原稿の同じ。正しくは「鷹揚(おうやう)」(現代仮名遣「おうよう」)。校本全集校訂本文は「鷹揚」。「鷹が悠然と空を飛ぶように、小さなことに拘らずゆったりとしているさま・おっとりとして上品なさま」を言う。
「淸教徒(ピユリタン)」ピューリタン(Puritan)は十六世紀から十七世紀の英国に於ける改革派プロテスタント(Protestant:「反抗する者・抗議者」の意で、十六世紀のルターやカルヴィンの宗教改革後、ローマカトリック教会の信仰理解に反抗して分離形成されたキリスト教各派及びその信徒の総称。北部ヨーロッパ・イギリス・北アメリカにおいて優勢。プロテスタント教会自身は「福音主義教会」と公称する)の総称。「清教徒」と訳されるが、本来はカタリ派(中世キリスト教の異端で「Cathari」は「清浄なる者」の意。十二世紀中頃以降、特に南フランスと北イタリアに盛行し、その殲滅のための十字軍や異端審問を産み出した。二元論・二神論で極端な禁欲と現世否定を特徴とする)を匂わせる旧派からの蔑称であった。国教会からの非分離派カルビニスト(後の「長老派」)・分離派カルビニスト(後の「独立派」)・分離派の非カルビニストを包含する。ピューリタン革命の主体となったのが独立派であった。ピューリタンはクロムウェルのもとに結集して王政を倒し、共和政を樹立した。「失楽園」の詩人ジョン・ミルトンはその秘書であった。王政復古後に解体したが、バプティスト・クエーカーなどに引き継がれ,またピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers:一六二〇年にメイフラワー号(Mayflower)で北アメリカに渡ったピューリタンその他の人々。「巡礼始祖」と訳される)として渡米した人々はアメリカ建国の祖になった。、「契約神学」にもとづく社会観・国家観・労働観などは近代精神のバックボーンともなった。新しい土地で新しい学校の敷地を開拓する、その植付作業からピューリタンに自身らを擬えたのはすこぶる自然である。
「馳けるし」「かけるし」。原稿では「翔けるし」。
「梨」バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ヤマナシ変種ナシ(ワナシ(和梨))Pyrus
pyrifolia
var. culta。
「短果枝」(たんかし)は実成樹種で、実のつく、十センチメートル以下の短い枝を指す。その枝の長さによって「中果枝」・「長果枝」と呼び分ける。短果枝は花芽がつきやすいので、短果枝を増やすことが育成のポイントとされる(Yoko Kodama氏のサイト「ハーブと花の畑から」の用語集に拠った)。
「わたくしがここを環に堀つてしまふあひだ」/「その雫が落ちないことをねがふ」/「なぜならいまこのちいさなアカシヤをとつたあとで」ギトン氏のこちら(頭に男性のヌード写真があるので注意されたい)によれば、『作者は』、『ニセアカシヤ』(=マメ目マメ科マメ亜科ハリエンジュ(針槐)属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia)『の幼木を掘り取る作業をしています』。『そのために、まず、根の周囲を丸く掘ってから、幼木を、根についた土ごと掘り出しました』。『この掘り取り作業は、移植のためではなく、「アカシヤ」を駆除するためです。丁寧に丸く掘ってから掘り取っているのは、「アカシヤ」を傷つけないためではなく、徹底的に根こそぎ除去するためなのです』。『この点が、この詩を理解する上で最重要のポイントです』。『作者は、梨畑に侵入した雑木を駆除して、果樹園を整備しているのだと思います』。『作者が作業をしているすぐ傍には、梨の果樹があり、やや離れて、マユミ』(ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ(檀・真弓)Euonymus
hamiltonianus:果実は枝にぶら下がるようにしてつき、小さく角ばった四裂の形を成す。秋の果実の色は品種により白・薄紅・濃紅と異なるが、どれも熟すと、果皮が四つに割れ、鮮烈な赤い種子が四つ現れる。材質が強い上によくしなることから、古来、弓の材料として知られ、名前の由来にもなった。現在は印鑑や櫛の材料とされる。以上はウィキの「マユミ」に拠った)『の木があります』。『梨は、果樹として剪定されて植栽されているものです。「雨あがり」なので、梨の枝には、まだ水滴が付いています』。『マユミは、おそらく自然木でしょう。一本だけでなく数本あるかもしれません。ちょうどマユミは実をつける季節であり、赤いきれいな実が下がっています』とされる。
「雫がレンズになり」/「そらや木やすべての景象ををさめてゐる」接写映像としてすこぶるいい。「その雫が落ちないことをねがふ」、それは「いまこのちいさなアカシヤをとつたあとで」/「わたくしは鄭重(ていちよう)にかがんでそれに唇をあてる」つもりでいるから。何と! 妖艶なことであろう!
「ひじやうな惡漢(わるもの)にもみえやうが」ニセアカシアを完膚無きまでに徹底的に掘り起し、除去する賢治らを擬えて指す。
「わたくしはゆるされるとおもふ」どうも今までのような、自然対人間の強烈な二項対立的雰囲気がここには、ない。それは、何故、それが許されると思うのかというと、「これら」の我々を取り巻いている、単なる仮の「げんしやうのせかい」(現象の世界)は、実は「なにもかもみんなたよりなく」て、「なにもかも」が「みんなあてにならない」ということが判ってしまったからだと言うからである。これをギトン氏はこちらで、前月に『起きた関東大震災に触発されたもので』あると断定されておられる。それはそれで解の一つとして認められ得るが、であるとすれば、賢治が関東大震災からカタストロフを感ずるのが、私にはえらく遅い、遅過ぎる、と思うのである。無論、現在のようなヴァーチャルに津波や水素爆発のそれが、ほぼリアル・タイムで強烈に見せられてしまうのとはわけが違うというのは判る。しかし、賢治ような鋭い感覚を持った人物として、しかも科学者としてどのような現実の災害が関東一円に発生しているかを想起出来た知性も有していたのであるなら、そうした総合的なカタストロフ感は早くに感じていたはずだと思うのである。しかし、ここまでの「宗教風の戀」・「風景とオルゴール」・「風の偏倚」・「昴」・「第四梯形」・「火藥と紙幣」の中にそうした、不可知論的終末意識のようなものは、私には微塵も感じられない。「宗教風の戀」では震災に言及しなから、どうもそれに起因するような激しい虚無感を感じているようには逆立ちしても思われない(寧ろ、そこに現れるのは賢治のごくごく内的な葛藤の焦燥感である)し、「火藥と紙幣」の最終行をそうしたニヒリズムで読み解くことは私には全く以って出来ないのである。ここでも農学校のルーティンな実習作業は普通に楽しくも正確に落ち度なく行われているのであり、そこで賢治は生徒と作業をしながらも、心象をスケッチする〈余裕〉をも持っている。空ろな巨人の翳が賢治の心に掛かっていたとするのなら、私は本篇の心象スケッチ自身が成立しないとさえ思うのである。そうした心の〈余裕〉や〈静謐〉という観点に立ってこそ、以下の、「そのたよりない性(せい)質が」/「こんなきれいな露になつたり」/「いぢけたちいさなまゆみの木を」/「紅(べに)」色「から」、「やさしい月光いろ」に「まで」/「豪奢な織物に染めたりする」のだ、という部分を、語注や解釈なしにごこごく素直に読めるのではなかろうか。寧ろ、ここで賢治は――「現象」としての見かけの社会・世界なんてものは、絶対的真理たる自然の摂理や信仰や愛の力の前では、全く以って「なにもかもみんなたよりなく」て、「なにもかもみんなあてにならない」ものだと、改めて感じたし、判ったよ! そうして、今、私は一箇の生命としてのニセアカシアのそれを絶ちはしたけれど、その命はまた霊となって、別な世界に甦る、或いは今の世界に転生し、その宇宙的なエネルギとして循環しているに違いないんだ! だから「わたくし」のニセアカシアを殺したその罪も、大局的な霊的な力の円環という中に於いては、永遠に「ゆるされるとおもふ」のだ――と笑みさえ浮かべて述懐しているのではないかと私は思うのである。でなくてどうして、最後に彼が「いまはまんぞくしてたうぐわをお」くことができようか!(「たうぐわ」は「唐鍬」(とうぐわ)で、長方形の鉄板の一端に刃をつけ、他の端に木の柄を嵌めた鍬の一種。開墾や根切りに使用する)
「わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに」/「應揚(おうやう)にわらってその木のしたへゆくのだけれども」/「それはひとつの情炎(じやうえん)だ」/「もう水いろの過去になつてゐる」「わたくしは待つてゐた」恋人に「逢いに「行く「やうに、如何にも余裕綽々と笑みを含んでゆったりと、さっきの梨の「短果枝」の「雫」に「唇をあてる」つもりで向かったが、もうそれは散ってなかった――その私の雫への情念の炎が幻の梨の雫のレンズに映っている――もうそれは儚い雫の儚い水色の儚い「過去にな」ってしまっている……やはり「生」(雫への恋)と「死」(雫の消滅)の問題では、やはり賢治にはトシ喪失のトラウマが未だ襲ってくるのだと言える。……いや……この通りのことを、私(藪野)は、毎夜、夢現(うつつ)の内に、繰り返し体験しているいるのだから本当だ…………]
火 藥 と 紙 幣
萓の穗は赤くならび
雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ
古枕木を灼いてこさえた
黑い保線小屋の秋の中では
四面體聚形(しゆうけい)の一人の工夫が
米國風のブリキの罐で
たしかメリケン粉を𣵀(こ)ねてゐる
鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる
赤い碍子のうへにゐる
そのきのどくなすゞめども
口笛を吹きまた新らしい濃い空氣を吸へば
たれでもみんなきのどくになる
森はどれも群靑に泣いてゐるし
松林なら地被もところどころ剝げて
酸性土壤ももう十月になつたのだ
私の着物もすつかりthread-bare
その陰影のなかから
逞しい向ふの土方がくしやみをする
氷河が海にはいるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
だからわたくしのふだん決して見ない
小さな三角の前山なども
はつきり白く浮いてでる
栗の梢のモザイツクと
鐡葉細工(ぶりきざいく)のやなぎの葉
水のそばでは堅い黃いろなまるめろが
枝も裂けるまで實つてゐる
(こんどばら撒いてしまつたら……
ふん、ちやうど四十雀のやうに)
雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火藥も燐も大きな紙幣もほしくない
[やぶちゃん注:本篇は「目次」クレジットには、
(一九二三、九、一〇)
(原本では総て半角表記。以下、同じ)とあり、「目次」用原稿も同じではある。しかし、本書の詩篇本文(「序」は含めない。目次にも「序」はない)はここを除いては完全な整然とした編年体で構成されていることから見ると、前の「第四梯形」のそれが、
(一九二三、九、三〇)
で、本詩篇の後の「過去情炎」のそれが、
(一九二三、一〇、一五)
となっていること、さらに詩篇本文内に『酸性土壤ももう十月になつたのだ』と表現されていることからも、この日付は
(一九二三、一〇、一〇)
の賢治の誤記であると考えるのが自然である。非常な注意力を持っている賢治が、クレジットを書き誤ったのは稀なケースであると言えるが、或いは賢治の特異な天才的な記憶方法は詩篇題名によるもので、そのクレジット(創作(開始)日)は半ば自動的に詩篇名に従属付属する形で記憶されており、詩篇を並べてしまえば、それが当然に如く時系列になって、そこで安心してしまい、この普通ならあり得ない誤記を見落としたものではないかと私は考えている。絶対主導の優先記憶がある場合、それが正しく全体の系を支配した場合、それに従属する部分は誤りが誤りでないように錯覚されてしまうのである。或いは、本詩篇が関東大震災の際に起こった混乱に対する非常な批判を底に秘めて本篇を創ったとするなら(後注の標題の注の引用を参照されたい)、そのカタストロフの日付に引かれて、「九月」としてしまった可能性もあるか。なお、校本全集も校異や年譜でこの問題を挙げており、以上と同じ結論を述べているが、しかし、そこでは孰れも『誤植』という語を用いている。しかし、「誤植」とは印刷物に於ける文字・記号などの植字ミスを指す語であって、通常は原著者の与り知らぬところで校正者・植字工のミスによって生じたものしか指さない。これは作者宮澤賢治の誤記載であるのだから、「誤字」と言うべきである。
・「火藥も燐も大きな紙幣もほしくない」この最終行は本書用原稿では、その後に、
ピアノの レコードだつてあきらめてあきらめられ〔なく→ないものでは〕ない。
という一行があり、最終的にはそれが総て削除線で消されてある。
以上から、大正一二(一九二三)年十月十日の作と読み換える。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は宮澤家版が「だからわたくしのふだん決して見ない」を「だからふだんは決して見ない」とするのみ。
・「たしかメリケン粉を𣵀(こ)ねてゐる」「𣵀」はママ。原稿も「𣵀」。「涅槃」の「涅」の異体字ではあるが、ここは無論、「揑」の賢治の誤字である。校本全集校訂本文も「捏」とする。
・「たれでもみんなきのどくになる」原稿は「たれでもみんなきのどくになる」。最終校正で改めたようである。
・「森はどれも群靑に泣いてゐるし」原稿は「森はみんな群靑に泣いてゐし」。同前。擬人法であるから、ここはもとの方がよい。
・「thread-bare」原稿は「threadbare」。最終校正で改めたようであるが、音節としてはそこにブレイクがあるものの、「threadbare」でハイフンはいらない。音写は「スレッド・ベア」で、「布や衣類などが摺(す)れて糸の見える・擦(す)り切れた」・「人などが襤褸(ぼろ)を着た・みすぼらしい」・「議論や冗談などが古くさい・陳腐だ」の意。秋の景物の凋落の擬人法。
「火藥と紙幣」私にはよく判らない標題である。松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本作の解説(分割)で、この年の前月の朔日、九月一日に『発生した関東大震災の後、混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪や暴動を起こすというデマが広まり、民衆や軍、警察によって朝鮮人、それと間違われた中国人や日本人が殺傷される事件が相次』ぎ、『さらに、軍や警察の主導で関東地方には』四千をも数える『自警団が組織されて、それらによる集団暴行事件も発生し』た。『この詩が作られたと考えられる』十『月には、暴走した自警団を、逆に警察が取り締まらなければならない事態にな』っていたとされ、『「火薬と紙幣」という不思議な取り合わせは、武力や物騒な社会を「火薬」、災害によって疲弊した経済状況や財力のことを「紙幣」という言葉で象徴的に示し、当時の混乱ぶりが反映されて生まれでたのかもしれ』ないとされる。これは一つの解としてはあり得るものであるが、詩篇そのものの強力な寂寥感から見ると、私は「火藥」からは軍事力(具体的にはロシア革命や富国強兵向かう日本のそれ)から「修羅」の世界を、「紙幣」からは現世利益としての儚い相対的価値認識を想起しているように思われる。即ち、無常の世にあって、現世的闘争の修羅に生きることや、権力者を頂点とした階層社会の中にあって、その富裕に一喜一憂するが如き志向は、結局、限りなく悲しいことであると賢治は言いたいのではあるまいか?
「萓」「萱(かや)」の異体字。茅(かや)。複数回既出既注。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。
「カシユガル」現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区のカシュガル地区(ウイグル語ラテン文字転写:Qeşqer:漢名:喀什)。ウィキの「カシュガル市」によれば、県級市カシュガル市に同地区の首府が置かれる。人口の八十%は土着のウイグル族などの少数民族が占め、現在のカシュガル都市圏人口は百二十万人に達する。『古くからシルクロードの要衝として、またイスラームの拠点都市としても発展し』たとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「苹果」林檎。賢治は概ね音の「ひやうくわ(ひょうか)」ではなく「りんご」と読んでいる。リンゴの果実。先に示した松井氏の解説に、『カシュガルは特別にリンゴの山地として有名というわけではなさそうですが、リンゴを含め、ブドウ、メロン、ナシ、アンズ、スモモ、ザクロ、イチヂク、サクランボなど「果物が水のようにわきだす」と言われるほどの果物の宝庫。あちこちに果樹園もあるようです』。『賢治に、特に「カシユガル産の苹果」についての知識があったというわけではなく、天才詩人ならではの独創的な発想で、つめたいリンゴの果肉の印象を、古い歴史を持つ中国の西の果てにあるシルクロードのオアシス都市と結びつけたのでしょう』と評釈されておられる。
「ラツグ」ラグタイム(ragtime)。「日本ラグタイムクラブ」公式サイト内の、ラグタイム・ギタリスト浜田隆史氏の「ラグタイムの解説」によれば、十九世紀末から二十『世紀初頭に掛けてアメリカで流行した音楽』に附されたジャンル名で、『黒人のダンスの伴奏音楽や、酒場で黒人が演奏したピアノ音楽が起源であり、白人の客に受けのいいマーチなどの西洋音楽に黒人独特のノリが加わり、シンコペーションを強調した初の軽音楽になった。演奏楽器は主にピアノで、その他にバンジョー、マンドリンや管楽器などの小編成バンドがラグタイムを奏でた』とある。所謂、ジャズ(Jazz)の先駆的形態の重要な一つである。呼称は一説では、従来のクラシック音楽のリズムとは異なる、「遅い・ずれた・耳障りな」リズムと感じられたことから(こうした卑称的命名は芸術史では当たり前であることは言うまでもない)、「ragged-time」を略して「ragtime」と呼ばれるようになった、ともされる。賢治がジャズにも関心を寄せていたことは、後の生前発表の詩篇の一つ、『「ジャズ」夏のはなしです』(『銅鑼』大正一五(一九二六)年八月発行に所収)などでも判る。何? お前にジャズが判るのかだって?! おう! 中学三年生からハマったよ。まあ、俺のジャズ・コレクションをごろうじろ! 特に
Bud Powell と Eric Dolphy についてなら、そんじょそこらのジャズ・ファンのレベルは遙かに越えてると思うぜ!
「四面體聚形(しゆうけい)」ギトン氏のこちらによれば、『幾何学の古い用語で』、『現在は“四面体の複合体”または“四面体の複合多面体”と呼ばれている立体図形』で、『「四面体」は、三角錐のこと』とあり、別ページで図形を示された上で、『でこぼこしたカドのたくさんある立体ばかりですが、筋肉質の体つきを描いているのだと思います。これも、キュビスム』(Cubisme:「立体派」。一九〇七年から一九一四年にかけてパリで起った美術の革新運動。先行する原色主体の激動的な色彩を好んだ「フォービスム」(Fauvisme)の主情的な表現を廃し、視点の複数化と色彩の限定によって、自然の諸形態を基本的幾何学的形象に還元し、物の存在性を二次元のタブロー(tableau:額画)に再構築しようとした)『にヒントを得た描写の試みでしょう』とされる。続く「米國風のブリキの罐」も、「工夫」(こうふ)の『体格のよいがっちりした感じを補っています』とされ、『「メリケン粉を捏ねてゐる」のは、食事の支度でしょうか、あるいは、』保線管理の『作業に使う糊を造っているのでしょうか』とされる。
「遠いギリヤーク」「ギリヤーク」(giljak)はサハリン北部とアムール川河口地帯に住む旧シベリア諸族の一つの名。漁労と狩猟を営み、農耕は行わない(こうした原始的な狩猟民の骨格がここから連想され、それが保線工夫の前のイメージと縁語になっているように思われる)。自称はサハリンでは「ニクブン」、大陸では「ニブフ」である。「遠い」は物理的に「電線」を形容しながら、先に出した中央アジアの「カシユガル」との感覚的距離をも示していよう。因みに、脱線ついでに、私はギリヤーク尼ヶ崎が大好きだ! 私の「旅芸人のスケッチ――29年前:舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎」を!
「赤い碍子」碍子は白いものと思いがちであるが、ギトン氏が先のページで、「杵島炭鉱発電所跡」(現在の佐賀県杵島郡大町町福母の「大町煉瓦館」。ここ(グーグル・マップ・データ))にある赤い碍子の写真を示しておられる。また、松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本作の解説(分割)では、『当初は「赤碍子」と呼ばれるとび色の輸入品が用いられていたそうですから、「赤い碍子」とはそのことを言っているのかもしれません』。『ところが、輸入品は不良率が高くて高価だったので、この詩が作られたころには、碍子の国産化が行われるようになっていたようです』ともあった。
「そのきのどくなすゞめども」/「口笛を吹きまた新らしい濃い空氣を吸へば」/「たれでもみんなきのどくになる」/「森はどれも群靑に泣いているし」/「松林なら地被もところどころ剝げて」気の毒な雀が、囀って再び新しい濃い冷たい空気を吸ったなら、雀もさらにまた「新しい」気の毒な気持ちになり、雀ばかりでなく誰(たれ)でもみんなまたまた「新しい」気の毒な状況になる。人間ばかりでない、そのように自然も例外ではないだ。森だって、どこの森も秋になって色を変じ、絶望的に気の毒になって「泣いているし」、「松林」にしてみたって、よく見ればその「地被」(ちひ:地面の土石の表面を覆っている植物や苔類・地衣類(菌類(主に子嚢菌類(菌界子嚢菌門 Ascomycota)の中で藻類(シアノバクテリア(藍色細菌門 Cyanobacteria)或いは緑藻(緑色植物亜界緑藻植物門緑藻綱 Chlorophyceae))を共生させることで自活できるようになった種群)を広範に指す。既出既注。)だって、ずる禿げに禿げてしまっているから気の毒だ――総て――この世界は自然も人間も無常であり――須らく――気の毒で、悲しい――と賢治は嘆息しているのではあるまいか?
「酸性土壤ももう十月になつたのだ」「酸性土壤」は雨の多い地方に多く、土壌中の塩基が流出したり、酸性物質が集積したりして生じる。強い酸性土は耕作には適さない。「もう」冬に向けて、すっかり、植物に活力を与えない、貧しいそれになってしまっ「たのだ」と賢治は言うのだろう。だからこそ「私の着物もすつかりthread-bare」と呟くのだ。
「その陰影のなかから」/「逞しい向ふの土方がくしやみをする」鬱々とした詩人のブルージーな心象に、現実の土方(保線工夫の仲間か)のクシャミがジャズのブレイクとして挿入されて、意識がそちらの実景へ向かう。
「小さな三角の前山」ロケーション自体が不定なので不詳。ギトン氏も同定比定は不能とされておられる。
「栗の梢のモザイツク」十月頭ならば、「栗」(ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata)は梢で裂開する。そのた複雑な見た目の梢をモザイク(フランス語:mosaïque:モザイッキ/英語:mosaic:モザヤィッキ:小片を寄せ合わせて埋め込み、絵・図像や模様を表す装飾美術の手法)と形容した。
「鐡葉細工(ぶりきざいく)」「鐡葉」は鋼板に錫(スズ)を鍍金(メッキ)した「ブリキ」のこと。漢字でこのように「鉄葉」とも「錻力」などとも書くが、当て字で、もとはオランダ語「blik」(板金・鈑金。英語の「sheet metal」)ではないかともされる。ブリキは白色をはね返して白銀に見え、それを「やなぎの葉」が風に白い裏を見せるのを言ったもの。ここはその効果印象から見ると、キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ
Salix babylonica でよかろう。
「水のそばでは堅い黃いろなまるめろが」/「枝も裂けるまで實つてゐる」「まるめろ」はバラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ(榲桲)属マルメロ Cydonia oblonga。果実はリンゴに柑橘系を合わせたような甘酸っぱいよい匂いがある。マルメロの実の収穫期は十~十一月であるから、やはりこれは十月十日の方がしっくりくる。私はマルメロやカリンの実の大ぶりなそれがたわわに実(な)っているのを見るのが好きだが、ここにはある種の妖艶さを実は感じている。
「(こんどばら撒いてしまつたら……」/「ふん、ちやうど四十雀のやうに)」「四十雀」はスズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor であるが、「ふん」からも「不貪慾戒」に出たのと同じ「一般大衆」への軽蔑的比喩と読める。ただ、これだけでは今一つ、その憤懣の感じはよく判らぬ。今度、もし、ばら撒いてしまった場合は、致命的な何かが起こる、と言う。それは、丁度、四十雀が、仲間へ警戒を知らせる時に出す「ピーッピ」や集合の合図とされる「ヂヂヂヂヂヂ」のように、喧しく賢治の噂を取り沙汰することを意味しているようだ。そこで一つ思ったのは、この「四十雀」どもとは、教育現場に於ける賢治の教育法を好まず、それを管理しようとした上層に連中を指すのではないか? という仮説である。例えば、宮澤賢治の極めてユニークな教育方法である。かの「植物医師」や「飢餓陣営」の演劇は確かに生徒たちには馬鹿受けしたが、当時、既に文部省は演劇的教育が左翼的な自由・共産主義等と繋がる危惧を抱いていたと思われ、畑山博著「教師 宮沢賢治のしごと」(一九九二年小学館ライブラリー刊)によれば、この翌大正一三(一九二四)年『九月、ついに学校演劇禁止令なる奇っ怪なおふれが出されることにな』ったとある。農学校の農学の教師が、演劇を指導し、『手持ちのレコードを学校に持ってきてきてては、よく音楽会をや』ったりした場合、保護者や同僚や県の視学レベルの連中はどう思ったであろうか? ということを考えると、私は何となく、この部分の憤懣が私には判る気がするのである。畑山氏のそれには別に、この後のことと思われるが、『国民高等学校の主事として、県からお目付役にきた』『高野一司』という『俗物教師』がおり、『賢治の自由な教育がことごとく気に入らず邪魔をした』(畑山氏の謂い)教員まで着任していたことが記されてある。そうして、そうした賢治の焦燥と憤懣が、結局は、大正一五(一九二六)年三月三十一日の依願退職に繋がってゆくように思われるのである。私は思い出す。私が教員になったその翌々年の春のことであった。その学校の「学校要覧」には、公務員や医師や自営業・無職等に細かく判れた「保護者の職業」という驚愕の人数表示欄があった。教頭は、朝の打ち合わせで、担任が手を挙げさせて数えるようにと言った。私はそれに対して、「職業を調べることに何の意味があるのでしょうか? また、中には無職であることは勿論、父が特定の職種であることをクラスの皆には知られたくない生徒もいると思います。私は生徒指導部ですが、県からも保護者の職業については必要がない限りは問い質したりしないようにという通達を見ておりますが?」と至って冷静に質問した。その場では社会の古株の先輩が職業差別の観点から私を応援する発言をして下さり、保留となった。ところが、一時間目の授業を終えて職員室に戻るや、教務主任から個室に呼びこまれ、「ああいう発言を君がすると、君が思想的に問題のある、所謂、特定の思想に傾いているのではないかと他の先生方に思われるよ。注意しなくてはいけない」と言われたのである。私は開いた口が塞がらず、私の発言のどこが間違っているのか、どこが危険な思想に基づくのかを逆に質そうとしたが、笑ってその場をかわされてしまったのであった。その人は後に教育委員会のお偉いさんになったのであるが、今でも彼を思い出すと、私の口元には意地悪い憐れみの笑みが浮かぶのを常としている。その「職業欄」が消えるのには数年を要したように思う。いや、今となっては遠い昔の話ではある……
「火藥も燐も大きな紙幣もほしくない」「燐」はリン(P)で、殆んどの生命体の重要な構成要素元素であり、カリウム・窒素とともに農作物の三大肥料の一つである。先のような私の置換に従うなら、あらゆる生きとし生けるものを形作り、生かすところの「糧」で、それをも賢治は要らないと、現実界と決別して、無限の荒野を「大きな帽子をかぶつて」「野原をおほびらにある」き行く、荒行に就いた孤高の詩人としての聖人を宣言をしているのである。]
第 四 梯 形
靑い抱擁衝動や
明るい雨の中のみたされない唇が
きれいにそらに溶けてゆく
日本の九月の氣圈てす
そらは霜の織物をつくり
萓(かや)の穗の滿潮(まんてふ)
(三角山(さんかくやま)はひかりにかすれ)
あやしいそらのバリカンは
白い雲からおりて來て
早くも七つ森第一梯形(ていけい)の
松と雜木(ざふぎ)を刈(か)りおとし
野原がうめばちさうや山羊の乳や
沃度の匂で荒れて大へんかなしいとき
汽車の進行ははやくなり
ぬれた赤い崖や何かといつしよに
七つ森第二梯形の
新鮮な地被(ちひ)が刈り拂はれ
手帳のやうに靑い卓狀臺地(テーブルランド)は
まひるの夢をくすぼらし
ラテライトのひどい崖から
梯形第三のすさまじい羊齒や
こならやさるとりいばらが滑り
(おお第一の紺靑の寂寥)
縮れて雲はぎらぎら光り
とんぼは萓の花のやうに飛んでゐる
(萓の穗は滿潮
萓の穗は滿潮)
一本さびしく赤く燃える栗の木から
七つ森の第四伯林靑(べるりんせい)スロープは
やまなしの匂の雲に起伏し
すこし日射しのくらむひまに
そらのバリカンがそれを刈る
(腐植土のみちと天の石墨)
夜風太郞の配下と子孫とは
大きな帽子を風にうねらせ
落葉松のせわしい足なみを
しきりに馬を急がせるうちに
早くも第六梯形の暗いリパライトは
ハツクニーのやうに刈られてしまひ
ななめに琥珀の陽(ひ)も射して
⦅たうたうぼくは一つ勘定をまちがへた
第四か第五かをうまくそらからごまかされた⦆
どうして決して、そんなことはない
いまきらめきだすその眞鍮の畑の一片から
明暗交錯のむかふにひそむものは
まさしく第七梯形の
雲に浮んだその最後のものだ
綠靑を吐く松のむさくるしさと
ちぢれて悼む 雲の羊毛
(三角(さんかく)やまはひかりにかすれ)
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年九月三十日の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は以下の「です」の誤植訂正のみ。
・「日本の九月の氣圈てす」「てす」はママ。原稿は「です」で誤植。「手入れ本」で訂正。
・「野原がうめばちさうや山羊の乳や」字下げがないが、原稿は三字字下げ。意味をとると、字下げが正しいように私には読めるのだが。校本全集校訂本文は上げたママである。ただ、この最終行「 ぬれた赤い崖や何かといつしよに」は、上っている「七つ森第二梯形の」と詩句の意味としては繋がっているにも拘わらず、かく処理されており、この部分には何か〈秘密が隠されている〉とは読める。
・「どうして決して、そんなことはない」原稿は「どうして、決してそんなことはない」。「手入れ本」に修正はない。が、意味や音読した際のリズムでは「どうして、決してそんなことはない」が圧倒的によい。校本全集校訂本文は読点が他に見られないことから統一を図ったものか、「どうして決して そんなことはない」となっている。何でこんなことをするのか? 私には全くわけがわからない。
「第四梯形」「梯形」は台形のこと。ここは後に出る「七つ森」(「屈折率」で既出)、岩手県岩手郡雫石町の岩手山南麓に広がる里山の森の、七箇所の起伏(丘陵)を賢治が数字を附して呼称しているのである。まず、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の「七つ森」のページを最初にリンクさせておく。そこには原子朗「新宮澤賢治語彙事典」(一九九九年東京書籍刊)や奥田博著「宮沢賢治の山旅」(一九九六年東京新聞出版局刊)から引用した、現行のアカデミックな定番記載の引用が載る。しかしどうも私にはこれらが、本篇作者である賢治の眼に、そこにある通りのパノラマ写真の如く映っていたなどとは、流石に思われない。そもそも賢治は山の固有名を殆んど上げずに、このナンバー附き台形の山として詠んでおり、しかも全部の名数をさえ挙げきっていない。さらに、詩篇を読むに、ロケーションは列車の車窓からの風景なのである。「雫石町」公式サイト内の「七ツ森森林公園」を見ると、判る通り(下部に広域地図も有る)、列車から見えるのは、現在のJR田沢湖線線の小岩井駅から出て暫くした南から南東方向に雫石駅のずっと手前の辺りでしか見られないし、その区間で「七つ森」の一部が見えている時間は、たいして長くないことが想定出来るのである。そもそも、国土地理院図によってこの附近を見るに(拡大は左下のボタンで!)、走っている車窓からは手前のピークや高みに遮られて、「七つ森」(はっきり視認出来るのはせいぜい四つか?)総ては到底見られないであろうことも判った。これはどうも、権威的な上記のそれを無批判に鵜呑みには出来ない気が強くしてきた。そこで、いつもオリジナルな解釈を提示して呉れる彼のサイトを訪れた。「七つ森」についてギトン氏はこちらで以下のように記しておられる。「七つ森」は『秋田新幹線・田沢湖線(当時は橋場線)の小岩井駅と雫石駅の間にある標高』二百五十~三百五十メートル『程度の丘の集まりです』(ギトン氏の単独別画像(名前のキャプション附)はこちら)。なお、『「もり」は、方言(ないし方言古語)で、“やま”のことです。“もり・おか”という地名も、同じ。関東の“大室山”の“むろ”も同じ語源から来ています。もともとは、古代朝鮮語の mori』(「山」の意)『(現代韓国方言で moi)だと言われています』。『じつは、《七ツ森》のあたりには、似たような、おわんをかぶせた形の低い山がたくさんあるのですが、地元では、どの』七『つを《七ツ森》と言うか、昔から決まっていたようです』。『橋場線の線路と、秋田街道(国道』四十六『号線)の間にある丘のうちの』七『個で、それぞれ名前がついています。東から西へ順に』、『①三手森(見立森)』(みてのもり:三百四メートル)・『②三角森』(みかどもり:約二百九十メートル)・『③勘十郎森(小鉢森)』(三百十六メートル)・『④稗糠森』(ひえぬかもり:約二百五十メートル)・『⑤鉢森』(三百四十三メートル)・『⑥石倉森』(約二百九十メートル』・『⑦生森(おおもり)』(三百四十八・四メートル)とされつつ、最後に『しかし、宮沢賢治は、これを知っていたかというと』、実は『よく知らなかったのではないかと思います。賢治作品には、短歌でも詩でも、「七つ森」という呼び名はよく出てきますが、個々の山の名前で呼んでいる作品はありません』とある。ギトン氏の以上の終りの部分から、やはり、賢治の「七つ森」が現在の「七つ森」と一致するのかは、甚だ疑問であることが判るが、流石はギトン氏、ちゃんとそれを調べるために現地を踏破され――一致しない――ことが明らかになったとされるのである。検証のコンセプトは賢治が、『少なくとも《七ツ森》のおおよその範囲(橋場線の南側だということ)は知っていて、列車から南側を見てスケッチしたことを前提』としたもので、私が思った通り、実際には列車からは「七ツ森」の総てが見えるわけではなく、「勘十郎森」や「稗糠森」などは隠れて見えないそうである。結論をこちらで示しておられるので確認されたい。大雑把に纏めると、
「第一梯形」と「第二梯形」は「三手森」の一部のピーク(三手森は名前が示すように頂上部が三つに分かれていて、麓から眺めると三つの独立した山のように見えるそうである)
であり、
「第三梯形」も、その「三手森」の一部か或いは全く無名のピークか
で、
「第四梯形」は無名の馬形をした丘陵(第五梯形というのは詩篇中にない)
「第六梯形」は先の⑤の「鉢森」
「第七梯形」は⑦の「生森(おおもり)」
とされておられる(上記リンク先にはその踏破の際の関連画像もある)。私はこの見解に従う。
「靑い抱擁衝動や」/「明るい雨の中のみたされない唇が」/「きれいにそらに溶けてゆく」最初の二行は賢治にしては特異的に性的な雰囲気を顕在化させている。しかし、賢治にしては、であって、特にエロティクだとは言えない。「抱擁衝動」という硬質の四字熟語を使用しないではいられない賢治の超自我や、「みたされ」てい「ない」はずの「唇」が「明るい雨」の中にイメージとして「きれいに」「そらに」「溶けて」実体を消してしまう詩想辺りは、かえって性未満的であるかのような、一見、微笑ましくさえあるように見える。がしかし、目を転ずれば、「靑」生臭「い抱擁衝動や」「明るい雨の中の」じくじくとした饐えた満「されない唇が」何と! 綺麗に空に「溶けて」昇って「ゆく」というのは性衝動の「昇華」の教科書的解説のようでさえあるではないか。
「そらは霜の織物をつくり」秋の高い空にかかっている、霜のように薄く平たく動かぬように見える薄雲。巻雲(絹雲)であろう。
「萓」「萱(かや)」の異体字。茅(かや)。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。
「三角山(さんかくやま)」諸家では岩手山を指すとする主張が強いらしいが、「宮澤賢治語彙辞典」はそれを採らず、「三角森のことではなく』、『七つ森の位置からは南東の方角に当たる』、『乳頭山の南東にそびえる三角山(標高』一四一九メートル『)のことであろう」とされて』あるとある(松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)から孫引き)。ギトン氏はこちらで岩手山を支持された上で、『ほかの候補としては、《七ツ森》の三角森(みかどもり)、秋田駒ケ岳の前衛にある三角山』『などがあります。しかし、三角森は、橋場線の線路からはほとんど見えません。三角山は、小岩井や雫石から見ると、三角ではなく平べったい山です』と一蹴されておられる。先の加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の「七つ森」のページの写真を見るに、これは当初、視線を真北に向けていた賢治の目に入った遠い岩手山以外にはないと私も思う。
「あやしいそらのバリカンは」/「白い雲からおりて來て」/「早くも七つ森第一梯形(ていけい)の」/「松と雜木(ざふぎ)を刈(か)りおとし」「バリカン」は山形の二枚の刃を左右に往復させて毛髪を切る理容器具で、英語では「Hair clipper」、フランス語では「Tondeuse」(トンドゥーズ)。ウィキの「バリカン」によれば、『バリカン本体の普及とともにその名称も広まったが、その語源は長らく不明だった。しかし、金田一京助が三省堂書店で『日本外来語辞典』作成時の調査で、東京帝国大学(東京大学)正門前の理髪店「喜多床」の二代目店主舩越景輝が刃の刻印からフランスのバリカン・エ・マール製作所(仏語:Bariquand et Marre)の名を発見、社名が名称として広まったものと確認した』とある。なお、この人名は音写すると「バリクォン」である。さても、一叢(ひとむら)の厚みを持った雲が急速に降りてきて、影が地表への太陽光を翳ったのを、かく言ったものであろうか。しかし、ギトン氏はこちらとこちらで秋枝美保氏の「宮沢賢治 北方への志向」(一九九六年朝文社刊)の分析をまず、以下のように引用(引用符の混同を避けるために引用文内の二十鍵括弧を普通の鍵括弧に変えた)される。ここまでの詩篇で『繰り返される「木をきる」という表現』は『詩人の内的生命の伸長を断つということを示していると考えられる』『「木」のモチーフは』「春と修羅」『第一集の象徴体系の中で、詩人の内的生命のシンボルとしての意味を持つことは間違いない』。花巻農学校での同人誌『アザリア』の『時代の連作短歌』「ひのきの歌」(これ。引用元は「ひのきのうた」と平仮名であるが、全集で訂した。リンク先は渡辺宏氏のもの)『によって、「木」は、賢治の心象中に生命の形そのものとして定着していくことになったと考えられる』。『「詩「原体剣舞連」では、「原体村の舞手たち」の体内には「鴾いろのはるの樹液」が流れ、彼らは』「楢と椈(ぶな)とのうれひ」『をあつめ、「ひのきの髪をうちゆす」って激しく踊り狂うのである。詩集の象徴体系の中にこの詩が組み込まれたとき、その生命の形は、「木」で表現されることになったと言ってよい』。『「木を切る」ことが、はじめて積極的に、壮大に行われはじめる』『詩「第四梯形」では』『「七つ森」の「第一梯形」から「第七梯形」までの木が「あやしいそらのバリカン」で、次々に刈り落とされるという凄まじいイメージが描かれる』。『詩「原体剣舞連」の「舞手たち」は、「ひのきの髪をうちゆす」って、内的生命を発散させた。その髪がバリカンで刈り落とされるというのは、やはり「剃髪」のイメージを想起させるものであり、内的生命を断つことを示していよう』。而してギトン氏も、『ここは山に影が落ちているのだ』など『という“合理的解釈”』などせずに、『書かれたままの異常な風景を、すなおに想像すればよいのではない』かと述べておられる。私は秋枝氏の当該書を読んでいないのでよく判らない箇所があるが、以上を読まさせて戴いた限りでは、寧ろ、「バリカンで」「髪」を「刈り落とされる」というイメージは、私に言わせれば、「剃髪」よりも、寧ろ、フロイト的な父権による少年の男根の鋏による切断の恐怖の「イメージを想起させるもの」のように思われる。「バリカン」はあんな形をしていても「鋏」である。さすれば、冒頭の性的欲求が「昇華」したはずのものが、イカルスのように失敗して堕天し、逆に罰としての去勢恐怖のシンボルとして出現したのだとした方が、私の今までの賢治の中の自然対人間(科学技術としての農地・農業)の構図にも無理なくフィットするように思われるのである(いや、言おうなら、賢治の精神分析、無意識下の父政次郎に対する「父親殺し」の願望と超自我によるその罪障感(これはあったと私は考えている。さすればこそここでの私のエディプス・コンプレクスによる解釈は私には極めてリアルなものとしてあるのである)や、同じく妹トシに対する無意識の近親相姦的願望の有無(こちらは私はその可能性は殆んどゼロに等しいと考えている。しかし、純粋に精神的な近親愛であっても賢治の禁欲主義はそれ罪とした可能性は極めて高い)等にまで広げて見ても、何らの無理が生じないのである。さればこそ、そうした狂騒的バリカンが異常な幻想として現実の車窓からの景色に侵犯してくるというのは、フロイトに熱狂し、フロイトが陰で精神的に異常であると述べて警告を発したサルヴァドール・ダリの、あの緻密な線と錯視的「だまし絵」風の自然で描いて貰ったら、これ、さぞ、面白いものが描かれたであろうと思うのだ。題名は差し詰め、〈狂騒的巨大バリクォンが宙天より下って刈り穫(と)られる車窓の彼方の「七つ森」の秋〉がよい。言っておくが、これは何も皮肉やちゃらかしを言っているのでも何でもない。私は大真面目に言っているのである。私は小学生高学年の時にフロイトの「夢判断」をドキドキしながら読破した嘗ては熱心なフロイディストであったし、父はシュールレアリスムの画家であって超現実主義には常人よりは遙かに一家言ある人間でもあるのである。
「うめばちさう」ニシキギ目ニシキギ科ウメバチソウ(梅鉢草)属ウメバチソウ Parnassia palustris。ウィキの「ウメバチソウ」によれば、和名は『花が梅の花を思わせる』ことに由る。『根出葉は柄があってハート形。高さは』十~四十センチメートル『で、花茎には葉が』一『枚と花を』一『個つける。葉は、茎を抱いている。花期は』八~十月で二センチメートル『ほどの白色の花を咲かせる』。『北半球に広く見られ』、『日本では北海道から九州に分布する。山地帯から亜高山帯下部の日の当たりの良い湿った草地に生え、地域によっては水田のあぜにも見られる』とある。可憐な花で私は好きである。
「山羊」「やぎ」。哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族ヤギ属(家畜種)ヤギCapra
hircus。
「沃度」は「ヨード」で「沃素」「ヨウ素」のこと(常温・常圧では固体であるが、昇華性がある。体内で甲状腺ホルモンを合成するのに必要なため、ヨウ素は人にとって必須元素であり、ヨード欠乏症は甲状腺腫や甲状腺機能低下症などが発症し、過剰摂取(医療用造影剤やポビドンヨード(外用消毒薬)の使用等による)では甲状腺機能の亢進症や低下症を発症する)であるが、賢治は自然界の揮発的な鼻に少しツンとくる匂いの比喩として用いる傾向があるようである。
*
あやしいそらのバリカンは
白い雲からおりて來て
早くも七つ森第一梯形(ていけい)の
松と雜木(ざふぎ)を刈(か)りおとし
野原がうめばちさうや山羊の乳や
沃度の匂で荒れて大へんかなしいとき
汽車の進行ははやくなり
ぬれた赤い崖や何かといつしよに
七つ森第二梯形の
新鮮な地被(ちひ)が刈り拂はれ
さても、ここで映像画面に有意な変容が起こっている。私は「汽車の進行ははやくなり」とは――実際の汽車がスピードを上げたのでは――ない――と採るのである。ここで取り敢えず、先の秋枝氏の「木をきる」「バリカン」の幻視説を採るとするならば、私はここで映像的には「早回し」か、微速度撮影が採られていると見るのである。そうしてこそ、短い時間で通過してしまう「七つ森」附近で巨大な「木をきる」「バリカン」を降下させて、同じく速いスピードで剪り取らせることが出来、唯一、それによってのみ、詩篇のその異様な幻想イメージを保持出来ると考えるからである。
「地被(ちひ)」地面の土石の表面を覆っている植物や苔類・地衣類(菌類(主に子嚢菌類(菌界子嚢菌門 Ascomycota)の中で藻類(シアノバクテリア(藍色細菌門 Cyanobacteria)或いは緑藻(緑色植物亜界緑藻植物門緑藻綱 Chlorophyceae))を共生させることで自活できるようになった種群)を広範に指す。
「卓狀臺地(テーブルランド)」tableland。地理用語としては「メサ」(mesa)で、上位方に硬い水平な地層が積み重なってあり、下位方には浸食され易い柔らかい地層がそれぞれに有意に固まってある場合に、下方の地層が浸食されて急な崖を形成し、上部は浸食されず、テーブル状の台地となったものを言うが、大規模なものでないと、かくは呼ばない。こういった誇大・肥大手法も賢治得意な部分である。或いは、こうした嗜好傾向が逆に賢治の精神にも影響を与えていたとも言えるかも知れぬ。
「まひるの夢をくすぼらし」/「ラテライトのひどい崖から」/「梯形第三のすさまじい羊齒や」/「こならやさるとりいばらが滑り」「ラテライト」(laterite)は「成帯土壌」と呼ばれるもののうち、湿潤土壌に分類される土壌の一つで、語源はラテン語の「Later」(「煉瓦」の意)。ウィキの「ラテライト」によれば、『サバナや熱帯雨林に分布する。地表の風化物として生成された膠結物質(粒子間に鉱物が入り込み、それが接着作用をしたもの)である。雨季に有機質が微生物により分解することに加えて珪酸分や塩基類が溶脱したことにより残った鉄やアルミニウムなど金属元素の水酸化物が表面に集積して形成される』(懐かしいな! 地理で好んだカタカナ名だ!)。これが「バリカン幻想」なのだろう。それに従うなら、「まひるの」静かな「夢を」「くすぼらし」て「バリカン」が剪る! 敢然と剪る! 剪って伐って伐りまくる! 「ラテライト」(ここは単に赤土を言っている)のガレ場から「梯形第三の」上を覆っていた「すさまじい羊齒」(しだ:維管束持った非種子植物で胞子によって増殖するシダ植物類。旧来の分類が大きく変わったので、詳しくはウィキの「シダ植物」を見られたい)や「こなら」(ブナ目ブナ科コナラ(小楢)属コナラ Quercus serrata)や「さるとりいばら」単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ(猿捕茨)科シオデ属サルトリイバラ Smilax china)「が滑り」落ちる!……いやいや、ちょっと待ってくれやい! マツやコナラならまあいいが、それでもコナラの平均樹高は十五メートル前後しかないぞ? すっかり「剃髪」丸禿げ丸裸にするのなら判るが、何だか、シダや半低木のサルトリバラじゃあ、ショボいじゃないか? これが異常な「バリカン幻想」?……いやいや、そうじゃないのかも知れない! 現実は既にして侵犯されているのだから、今現代じゃないかも知れない、ラテライトも本物のそれなんだろう……凄まじい「羊齒」なんだから古生代の石炭紀(三億三千六百万年前から二億九千万年前)のシダ植物の大森林なのか?……しかし、だったら、「こなら」や「さるとりいばら」はないだろ? 「七つ森」の植生上から、これらを賢治が現実的にこれらを選んだと言うのは私には承服出来ないね。幻想なんだからしてヒノキでもシラカバでも巨木を持ち出していいはずじゃないか?! ――と――どうもその辺り、私にはこの「巨大バリカン幻想」というアクロバティクなそれのパワーが、今一つ、詩篇から感じとれないのである。言っておくと、「まひるの夢をくすぼらし」というのが少なくとも私の幻想を邪魔しているように思う。先には「まひるの」静かな「夢を」と好意的に解したのだが(それはそれで解釈としては成り立つ)、実際には私はここで躓いた。「まひるの夢」はどう見ても「白晝(まひる)の夢」で「白昼夢」、それこそ「異常な巨大バリカンの夢」ではないのかという別解が頭を擡げてくる。しかし、それを落下する小者の羊歯や「さるとりいばら」の滑落する際に生じた土煙りで「燻ぼらし」てしまったのでは、巨大バリカンの異様な光景がよく見えなくなるように思うのである。
「(おお第一の紺靑の寂寥)」「第一」は過ぎた「第一梯形」。「紺靑の寂寥」と後の「萓の穗は滿潮」から、このロケーションの時刻は夕刻であることが判る。
「第四伯林靑(べるりんせい)スロープ」「第四」梯形。「伯林靑(べるりんせい)」は「Berlin blue」所謂、「プルシアン・ブルー」(Prussian blue)。「スロープ」は「slope」で傾斜面。
「やまなし」はこの場合、バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属ホクシヤマナシ 変種チュウゴクナシ Pyrus ussuriensis var. culta と同種ともされる和種の梨の自生種ミチノクナシ(イワテヤマナシ)Pyrus
ussuriensis
var. aromatica であろうか。ナシ亜科リンゴ属オオウラジロノキ Malus tschonoskii とする説もあるようである。
「天の石墨」「石墨」炭素成分を持つ鉱物で、「黒鉛」「グラファイト」(graphite)とも称する。黒色で金属光沢があり、軟らかく、鉛筆の芯などに使用される。夕暮れの空の暗い深みの形容。
「夜風太郞」「風の又三郎」を想起させるが、松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本作の解説(分割)では、『東北や新潟で広まっている風の神(妖精)「風の三郎」伝説に基づいています。新潟では、農家が台風などの災害に備える「二百十日」そのものを「風の三郎」と呼んで風神祭をしたそうです』。『風は自然現象の代表的なもので、伝承や信仰で神格化されることがしばしばあります。この詩では、三郎ではなくて「太郎」。「夜風太郎」とは、夜を司る風の神か妖精、ないしは首領、大元締めといったあたりを想定しているのでしょうか』と注しておられる。以下、「大きな帽子を風にうねらせ」/「落葉松のせわしい足なみを」/「しきりに馬を急がせるうちに」全体はそうした自然神風神の擬人化された幻像が騎馬で駆け抜けるのである。
「落葉松」「からまつ」。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi。漢字表記は「落葉松」「唐松」。
「リパライト」流紋岩(rhyolite)。花崗岩質のマグマが地上に噴出して形成された、白っぽい火山岩の一種。
「ハツクニー」ハクニー (Hackney)。乗系種に分類される馬の品種の一つ。ウィキの「ハクニー」によれば、『ハクネーとも。ハクニー歩様という脚を高く上げて馬車を引く優雅な仕草で知られ、馬車用としては最上級の品種。馬車競技に用いられるため輓系とされることもある』。『現在では実用というよりは競技用に生産されており、力強さよりは美しさを重視して改良が進んでいる』とあることから、「刈られてしまひ」は、そうした美形の目的で体型が鍛えられ、しかも短く毛が刈り揃えられているように、リバライトの「第六梯形」の山が「ハツクニー」の背のような形に見え、しかも光線で美しく磨かれたように光っているさまを言っているのであろう。
「ちぢれて悼む 雲の羊毛」神々の黄昏(たそがれ)である。]
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