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カテゴリー「和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】」の17件の記事

2019/05/29

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 皮(かは) //十二年半かけた「和漢三才図会」動物パート全十八巻のオリジナル電子化注を完遂した!!!

Kawa

 

かは   皮【和名加波】

     革【豆久利加波】

【音脾】

     韋【奈女之加波】

     靻【同右】

 

釋名云皮被也被覆體也剥取獸皮生曰皮理之曰革【音格】

去其毛革更也柔之曰韋【音爲】韋相背也獸皮之韋可以束

物枉戾相韋背故借以爲皮革【俗作※一字作非也】

[やぶちゃん注:「※1」は「韋」の「口」以下の下部を「吊」とした字。]

鞄人【柔革之工】柔革曰※2【奈女須】用稻藁灰汁和米糠畧煖之革

[やぶちゃん注:「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」。「東洋文庫」訳では(上)「北」+(中){「穴」の第一画の点を除去した字}+(下)「瓦」であるが、私の原典は以上の通り。]

 表裏能揉洗以※3張晒之俟稍乾以竹箆刮去肌肉

[やぶちゃん注:「※3」=「籤」の(たけかんむり)の下部部分に(きへん)「木」を添えたもの。]

凡洗韋垢※4者以糯糠揉洗之不糠去晒乾可揉

[やぶちゃん注:「※4」=「耳」+「黒」。]

凡皮褥夏月不宜藏置可見風日否則毛脫

肉【音辱】

[やぶちゃん注:以下の二行分は、原典では上記「肉」の標題の下に二行で載る。]

 月【同】宍【古文】△按肉肥肉也月字中二畫竝連兩

 傍與日月之月不同俗用完字者宍字謬矣完

 【音桓】全也

 

 

かは   皮【和名「加波」。】

     革【「豆久利加波〔(つくりかは)〕」。】

【音「脾」。】

     韋【「奈女之加波〔(なめしかは)〕」。】

     靻【同右。】

 

「釋名〔しやくみやう)〕」に云はく、『皮は「被」なり。體を被〔(かぶ)〕り覆ふなり』〔と〕[やぶちゃん注:「體を被〔(かぶ)〕り覆ふなり」は和文としてはちょっとおかしい。「體を被覆せるものなり」あたりがよかろう。]。獸の皮を剥(は)ぎ取〔れる〕生を「皮」と曰ひ、之れを理(をさ)むる[やぶちゃん注:皮製品として毛を除去して(後述している)調製加工する。]を「革」【音「格」。】と曰ふ。「其の毛を去りて、革(あらた)め、更〔(か)へ〕る」〔こと〕なり。之れを〔さらに〕柔(やはらかにす)るを「韋」【音「爲」。】と曰ふ。「韋」は「相ひ背〔(そむ)〕く」なり。獸皮の「韋」〔は〕以つて物を束(たば)ねるべし[やぶちゃん注:物を束ねることが出来る。]。枉〔(ま)げ〕戾〔しても〕、相ひ韋-背〔(そりかへ)る〕。故に〔この字を〕借りて以つて「皮革」と爲す【俗に「※」の一字に作〔るは〕非なり。】[やぶちゃん注:「※1」は「韋」の「口」以下の下部を「吊」とした字。]。

鞄人〔(はうじん)〕【革を柔かにするの工〔(たくみ)〕[やぶちゃん注:職人。]。】革を柔かにするを、「※2[やぶちゃん注:音不詳。]」[やぶちゃん注:「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」。]【「奈女須〔(なめす)〕」。】と曰ふ。稻藁の灰汁(あく)を用ひて、米糠に和(ま)ぜて、畧〔(ほぼ)〕、之れを煖〔(あたた)〕め、革の表裏〔を〕、能く揉み洗ひ、※3(たけぐし)[やぶちゃん注:「※3」=「籤」の(たけかんむり)の下部部分に(きへん)「木」を添えたもの。竹串。]を以つて張りて、之れを晒〔(さら)〕し、稍〔(やや)〕乾くを俟〔(ま)〕ちて、竹箆(〔たけ〕へら)を以つて、肌肉を刮(こそ)げ去る。

凡そ、「韋」の垢-※4(よご)[やぶちゃん注:「※4」=「耳」+「黒」。]れたる者を洗ふに、糯糠(もちぬか)を以つて之れを揉(も)み洗ひ、糠を去らずして、晒し乾し、揉むべし。

凡そ、皮の褥〔(しとね)〕、夏月、藏(をさ)め置く〔は〕宜しからず。風・日を見すべし[やぶちゃん注:風通しがよく、一定時間は太陽光線が射す場所に置いておくのがよい。]。〔かく〕否(〔せ〕ざ)れば、則ち、毛、脫(ぬ)ける。

肉【音「辱〔(ニク)〕」。】

「月」【同。】。「宍」【古文。】。[やぶちゃん注:同義字を掲げているので、通常項のように改行した。]

△按ずるに、肉は「肥肉」なり。「月」の字、中の二畫、竝びに〔→びて〕兩傍に連なる。「日月」の「月」と〔は〕同じからず。俗に「完」の字を用ひるには〔→用ひるは〕、「宍」の字の謬〔(あやま)〕り〔なり〕。「完」【音「桓」。】は「全きもの」〔の意〕なり〔→なればなり〕。

[やぶちゃん注:「釋名〔しやくみやう)〕」後漢末の劉熙が著した辞典。全八巻。ウィキの「釈名」によれば、その形式は「爾雅」に似るが、『類語を集めたものではない。声訓を用いた説明を採用しているところに特徴がある』。『著者の劉熙については、北海(今の山東省)出身の学者で』、『後漢の末』頃『に交州にいた』『ということのほかは』、『ほとんど不明である』「隋書」の「経籍志」には、『劉熙の著作として』本書の他に「謚法」(しほう:普通名詞としては「諡(おくりな)をつける法則」のことを指す)及び「孟子」注を『載せている』。『成立年代は不明だが』、二七三年に『韋昭が投獄されたときの上表文に「又見劉熙所作釈名」とある』。清の官僚で歴史家でもあった畢沅(ひつげん 一七三〇年~一七九七年)は、『釈州国篇の地名に建安年間』(後漢の献帝(劉協)の治世に用いられた元号。一九六年から二二〇年まで)『以降のものがあることなどから、後漢末から魏のはじめにかけての著作としている』が、清中期の考証学者銭大昕(せんたいきん 一七二八年~一八〇四年)は『三国時代』(「黄巾の乱」の蜂起(一八四年)による漢朝の動揺期から、西晋による中国再統一(二八〇年)まで。狭義には後漢滅亡(二二〇年)から晋が天下を統一した二八〇年までを、最狭義には三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年までを指す)『の作とする説に反対し』、『後漢末の作とする』。なお、「後漢書」には劉珍の著書にも「釈名」が『あったことを記すが』、『劉熙とは時代が異なり、どういう関係にあるのか不明である』とある。以下は、同書の「釋形體」に、

   *

皮、被也、被覆體也。

   *

とあるものである。

「枉〔(ま)げ〕戾〔しても〕、相ひ韋-背〔(そりかへ)る〕」東洋文庫訳では『反対に巻き戻してもすぐもとに背(そり)かえる』とあり、私の添え文もそれを参考にさせて貰った。

『「※2」(「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」)【「奈女須〔(なめす)〕」。】』現在の「鞣」(なめす)である。動物の皮は柔軟性に富み、非常に丈夫であるが、そのまま使用すると、すぐに腐敗したり、乾燥すると、板のように硬くなって柔軟性がなくなってしまう。この大きなデメリットの属性を、樹液や種々の薬品を使って変化させる方法が「鞣し」である。ここは製革業者団体「日本タンナーズ協会」公式サイト内の『「鞣す(なめす)」とは』に拠った。

「糯糠(もちぬか)」「糯(もち)」とはイネ(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa)やオオムギ(イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare)などの作物の内で、アミロース(amylose:多数のα-グルコースス(α-glucose)分子がグリコシド結合(glycosidic bond:炭水化物(糖)分子と別の有機化合物とが脱水縮合して形成する共有結合)によって重合し、直鎖状になった高分子。デンプン分子であるが、形状の違いにより、異なる性質を持つ)を全く或いは殆んど含まない特定品種を指す。対義語は「粳(うるち)」で、組成としてアミロースを含む通常の米飯に用いるそれを「粳米(うるちまい)」と呼ぶ(以上はウィキの「糯」に拠った)。]

 

*   *   *

 

本項を以って、私の「和漢三才図会」の動物部の総て、全十八巻のオリジナル電子化注を遂に完遂した(別に藻類の一巻がある)。

 

 思えば、私が、その中、最初に電子化注を開始したのは、私が幼少時からフリークであった貝類の「卷第四十七 介貝部」で、それは実に凡そ十二年と半年前の、二〇〇七年四月二十八日のことであった。

 その時の私は、正直、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、自信がなく、まさか、総ての動物パートをやり遂げられるとは、実は夢にも思っていなかった。

 海洋生物パートの貫徹も、幾人かの方のエールゆえ、であったと言ってよい。

 その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方がおられた。

 また、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。「あなたの仕事は実に楽しく、また、有意義です」というメールを頂戴し、また、私の『栗本丹洲「栗氏千蟲譜」卷九』では、この先生の伝手で、無脊椎動物の幾つかの種の同定について、専門家の意見を伺うことも出来たのであった。

 ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 以下、サイト「鬼火」と本ブログ「鬼火~日々の迷走」に分散しているため、全部に就いてリンクを張っておく。

 

ブログ・カテゴリ「卷第三十七 畜類」(各個版)

ブログ・カテゴリ「卷第三十八 獸類」(各個版)

ブログ・カテゴリ「卷第三十九 鼠+「動物之用」(ブログ各個版。「動物之用」は本来は以下の「卷第四十 寓類 恠類」の後に附録するパートであるが、ここに添えた)

卷第四十  寓 恠サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥★各個版で以下の四巻総て★

卷第四十一 禽部 水禽類

卷第四十二 禽部 原禽類

卷第四十三 禽部 林禽類

卷第四十四 禽部 山禽類

卷第四十五 龍蛇部 龍 蛇サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十六 介甲部 龜 鼈 蟹サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十七 介貝部サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十九 魚部 江有鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第五十一 魚部 江無鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」★各個版で以下の三巻総て★

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

 

が動物部の総てであり、それに附録して、私のフリーク対象である海藻類を含む

卷第九十七 水草部 藻 苔サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

が加えてある。

 

 なお、私は植物は苦手で、向後も纏めてそれをやる意志は今のところ、ない。

 

 一つの私の「時代」が終わった――という感を――強く――しみじみと感じている。……では……また……何時か……何処かで…………

2019/02/26

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 駱駝(らくだのむま) (ラクダ)

 

Rakudanomuma

 

らくたのむま

       槖駝

駱駝

[やぶちゃん注:「槖駝」の「槖」の字は原典は字が潰れていて、上部が「士」ではなく「竹」のようにも見えるが、「本草綱目」の記載に従った。]

 

本綱駱駝西北番界有之有野駝家馳【人家畜養者名家駝】其頭似

[やぶちゃん注:「馳」はママ。明らかに「駝」の誤りである(「本草綱目」は『家駝』である)から、訓読では「駝」とした。]

羊長項埀耳脚有三節背有兩肉峯如鞍形有蒼褐黃紫

數色其聲曰𡇼其食亦齝其性耐寒惡熱故夏至退毛至

盡毛可爲其糞烟直上如狼烟其力能負重可至千斤

日行二三百里又能知泉源水脉風候凡伏流人所不知

駝知其泉脉以足跑地掘之必有水

流沙夏多熱風行旅遇之卽死風將至駝必聚鳴埋口鼻

於沙中人以爲驗也其臥而腹不著地屈足露明者名明

駝最能行遠【流沙者天竺地】

大月氏國有一封駝脊上有一峯隆起若封土【又有封牛𤛑牛物牛

牛數名】于闐國有風脚駝其疾如風日行千里

 

 

らくだのむま

       槖駝〔(たくだ)〕

駱駝

 

「本綱」、駱駝は西北番[やぶちゃん注:「番」は「蕃」で、中国の西北方面の「蛮」地という蔑称である。]の界〔(さかひ)〕に、之れ、有り。「野駝」〔と〕「家駝」【人家に畜養せる者を「家駝」と名づく。】有り。其の頭〔(かしら)〕、羊に似て、長き項〔(うなじ)〕、埀れたる耳、脚に〔は〕三つの節〔(ふし)〕有り。背(〔せな〕か)に、兩〔(ふた)つの〕肉〔の〕峯、有りて、鞍の形ごとく、蒼・褐・黃・紫〔など〕數色有り。其の聲、「𡇼〔(あつ/えち)〕」と曰ふ。其の食(ものくら)ふこと、亦、齝(にれか)む[やぶちゃん注:「牛」で出た「反芻する」の意。]。其の性、寒に耐へ、熱を惡〔(にく)〕む。故に、夏至に、毛、退〔(の)〕く[やぶちゃん注:抜けてしまう。]。盡くるに至つて、〔その〕毛〔を以つて〕〔(けおりもの)〕と爲すべし。其の糞〔を燃せば、〕烟、直〔(すぐ)〕に上りて、狼烟(のろし)のごとし。其の力、能く重きを負ひて、千斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、ざっと六百キログラムになる。重過ぎ! ラクダさん、死んでしもうがね!]に至るべし。日に行くこと、二、三百里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、百十二~百六十八キロメートルほどになる。これも中国得意の誇張物。]。又、能く泉源・水脉・風候[やぶちゃん注:風向きの変化。]を知る。凡そ、伏流して人〔の〕知らざる所を、駝、其の泉脉を知りて、足を以つて、地を跑(あしか)きす。之れを掘れば、必ず、水、有り。

流沙(りうさ)には、夏、熱風、多くして、行-旅(たびびと)、之れに遇へば、卽ち、死す。風、將に至らんとす〔れば〕、駝、必ず、聚〔(あつま)〕り、鳴き、口・鼻を沙〔の〕中に埋づむ。人、〔之れを〕以つて驗〔(しるし)〕と爲すなり。其の臥す〔るに〕腹を地に著〔(つ)〕けず、足を屈(かゞ)む〔は〕露明の者〔にして〕、「明駝」と名づく。最も能く遠くに行く〔者なり〕【「流沙」とは「天竺」の地〔なり〕。】。

大月氏國〔(だいげつしこく)〕に「一封駝〔(いつぷうだ〕」有り。脊の上に一峯〔のみ〕有り。隆く起きて、封土[やぶちゃん注:墳墓。]のごとし【又、封牛・𤛑牛〔(とうぎう)〕・物牛・牛〔(はくぎう)など〕、數名〔(すめい)〕、有り。】于闐國〔(うてんこく)〕に「風脚駝」有り。其の疾〔(はや)き〕こと、風のごとく、日に行〔くこと、〕千里〔と〕。

[やぶちゃん注:本項が「巻第三十七 畜類」の最終項である。西アジア原産で背中に一つの瘤(こぶ)を持つ、

ローラシア獣上目鯨偶蹄目ウシ亜目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedaries

と(本文の「一封駝」)、中央アジア原産で二つの瘤を持つ、

フタコブラクダ Camelus ferus

(本文の主文部のそれ)の二種のみが現生種ウィキの「ラクダ」を引く。『砂漠などの乾燥地帯にもっとも適応した家畜であり、古くから乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たしている』。『背中のこぶの中には脂肪が入っており、エネルギーを蓄えるだけでなく、断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって上昇しすぎるのを防ぐ役割もある。いわば、皮下脂肪がほとんど背中に集中したような構造であり、日射による背中からの熱の流入を妨げつつ、背中以外の体表からの放熱を促す。こぶの中に水が入っているというのは、長期間乾燥に耐えることから誤って伝えられた迷信に過ぎない。ただし、水を一度に』八十『リットル程度摂取することが可能である。出生時にこぶは無く、背中の』、『将来』、『こぶになる部分は皮膚がたるんでいる。つまり脂肪を蓄える袋だけがある状態で生まれてくる』。『ラクダは砂漠のような乾燥した環境に適応しており、水を飲まずに数日間は耐えることができる。砂塵を避けるため、鼻の穴を閉じることができ、目は長い睫毛(まつげ)で保護されている。哺乳類には珍しく瞬膜を完全な形で備えている。また、塩性化の進行した地域における河川の水など塩分濃度の非常に高い水でも飲むことができる。さらに胼胝』(べんち/たこ)『と呼ばれる皮膚が分厚く角質化した箇所が左右の前脚の付け根、後脚の膝、胸の』五『か所にある。胼胝は断熱性に優れ、ここを接地して座れば』、『高温に熱された地面の影響を受けることなく』、『休むことが出来る』。『他の偶蹄目の動物と同様、ラクダは側対歩(交互に同じ側面の前後肢を出して歩く)をする。しかし、偶蹄目の特徴が必ずしもすべて当てはまるわけではなく、偶蹄目の他の動物などのように、胴と大腿部の間に皮が張られてはいない。また、同様に反芻を行うウシ亜目』(反芻亜目 Ruminantia)は四『室の胃をもつが、ラクダには第』三『の胃と第』四『の胃の区別がほとんどない。従来』、『ラクダ科』Camelidae『を含むラクダ亜目』Tylopoda『は反芻をしないイノシシ亜目』『と反芻するウシ亜目の中間に置かれていた。しかし遺伝子解析による分析では、ラクダ亜目は偶蹄目の中でもかなり早い時期にイノシシ亜目』Suina『とウシ亜目の共通祖先と分岐しており、同じように反芻をするウシやヒツジ、ヤギなどは、ラクダ科よりもむしろイノシシ科』Suidae『やカバ科』Hippopotamidae、或いは『クジラ目』Cetacea『の方に近縁であることが明らかになっている』。『ラクダの蹄(ひづめ)は小さく、指は』二『本で』、五『本あったうちの』、『中指と薬指が残ったものである。退化した蹄に代わり、脚の裏は皮膚組織が膨らんでクッション状に発達している。これは歩行時に地面に対する圧力を分散させて、脚が砂にめり込まないようにするための構造で、雪上靴や』「かんじき」『と同じ役割を持つ。砂地においては、蹄よりもこちらの構造が適しているのである』。『ラクダの酷暑や乾燥に対する強い耐久力については様々に言われてきた。特に、長期間にわたって水を飲まずに行動できる点については昔から驚異の的であり、背中のこぶに水を蓄えているという話もそこから出たものである。体内に水を貯蔵する特別な袋があるとも、胃に蓄えているのだとも考えられたが、いずれも研究の結果』、『否定された』。『実際には、ラクダは血液中に水分を蓄えていることがわかっている。ラクダは一度に』八十『リットル、最高で』百三十六『リットルもの水を飲むが、その水は血液中に吸収され、大量の水分を含んだ血液が循環する。ラクダ以外の哺乳類では、血液中に水分が多すぎると』、『その水が赤血球中に浸透し、その圧力で赤血球が破裂してしまう(溶血)が、ラクダでは水分を吸収して』二『倍にも膨れ上がっても破裂しない。また、水の摂取しにくい環境では、通常は』摂氏三十四~三十八『度の体温を』四十『度くらいに上げて、極力水分の排泄を防ぐ。もちろん尿の量も最小限にするため、濃度がかなり高い。また、人間の場合は体重の』一『割程度の水が失われると生命に危険が及ぶが、ラクダは』四『割が失われても生命を維持できる。そのかわり、渇いた時には一気に大量の水を飲むので、ラクダの群れに水を与えるには非常に大量の水を必要とすることとなる』。『一方で、ラクダは湿潤環境には弱い。ラクダは湿潤環境に多く発生する疫病に対して抵抗力がない。また、足が湿地帯を移動するようにできておらず、足を傷めることが多い』。『アフリカにおいてはニジェール川がもっとも砂漠に近くなるニジェール川大湾曲部のトンブクトゥあたりが南限であり、これ以南では荷役動物がロバへと変わる』。『ラクダは乾燥地帯において主に飼育される家畜の一つである。もっとも、遊牧においてラクダのみを飼育することは非常に少なく、ヒツジやヤギ、ウシなどといった乾燥地域にやや適応した他の家畜と組み合わせて飼育されることが一般的である。これは、飢饉や疫病などによって所有する家畜が大打撃を受けた時のリスク軽減のためである。また、ラクダは繁殖が遅く増やすのが難しい。 オスは』六『歳にならないと交尾が可能とならず、発情期は年に』一『回しかない』。『メスも他の家畜と比較して成熟に多くの時間が必要であり、妊娠期間は』十二『ヶ月近くに及ぶ』。『反面、寿命は約』三十『年と長く、乾燥に強いため』、『旱魃の際にも他の家畜に比べて打撃を受けにくい。このため、ヒツジやヤギが可処分所得として短期取引用に使用されるのに対し、ラクダは備蓄として、長期の資産形成のため飼養される』。『一方、ラクダとヤギやウシを同じ群れとして放牧すると』、『食物を巡って争いを起こしやすいため、ラクダの群れはほかの動物と分けて放牧するのが通例である』。『ラクダ科の祖先は』、『もともと北アメリカ大陸で進化したものであり』、二百万年から三百万年前に『陸橋化していたベーリング海峡を通ってユーラシア大陸へと移動し、ここで現在のラクダへと進化した。北アメリカ大陸のラクダ科は絶滅したが、パナマ地峡を通って南アメリカ大陸へと移動したグループは生き残り、現在でもリャマ』(ラクダ科ラマ属リャマ Lama glama)・グアナコ(ラマ属グアナコ Lama guanicoe)・アルパカ(ラクダ科ビクーニャ属アルパカ Vicugna pacos)・ビクーニャ(ビクーニャ属ビクーニャ Vicugna vicugna)の近縁四『種が生き残っている』。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの家畜化はおそらくそれぞれ独立に行われたと考えられている。ヒトコブラクダが家畜化された年代については』、紀元前二〇〇〇年以前・紀元前四〇〇〇年・紀元前一三〇〇~一四〇〇年などの『諸説があるが、おそらくはアラビアで行われ、そこから北アフリカ・東アフリカなどへと広がった。フタコブラクダはおそらく紀元前』二五〇〇『年頃、イラン北部からトルキスタン南西部にかけての地域で家畜化され、そこからイラク・インド・中国へと広がったものと推測されている』。以下、野生のヒトコブラクダについての記載。『ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅した。ただ、辛うじてオーストラリアで二次的に野生化した個体群から、野生のヒトコブラクダの生態のありさまを垣間見ることができる。また』、二〇〇一年には、中国の奥地にて一千頭もの『ヒトコブラクダ野生個体群が発見された。塩水とアルカリ土壌に棲息していること以外の詳細は不明で、遺伝子解析などは調査中である』が、『この個体群についても、二次的に野生化したものと推測されている。したがって、純粋な意味での野生のヒトコブラクダは絶滅した、という見解は崩されずにいる』。以下、野生のフタコブラクダの記載。『野生のフタコブラクダの個体数は、世界中で約』一千『頭しかいないとされている』。『このため、野生のフタコブラクダは』二〇〇二『年に、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定され、レッドデータリストに掲載されている』。二〇一〇年現在で、全世界には千四百万頭のラクダが生息しているが、その九十%はヒトコブラクダである。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの生息域は一部では重なり合うものの、基本的には違う地域に生息している。ヒトコブラクダは西アジア原産であり、現在でもインドやインダス川流域から西の中央アジア、イランなどの西アジア全域、アラビア半島、北アフリカ、東アフリカを中心に分布している。なかでも特にアフリカの角地域では現在でも遊牧生活においてラクダが重要な役割を果たしており、世界最大のラクダ飼育地域となっている』。『世界で最大のラクダ飼育頭数を誇るソマリア』『や、エチオピアにおいてラクダは現在でも乳、肉、移動手段を提供し続けている』。『フタコブラクダのほうは中央アジア原産であり、トルコ以東、イランやカスピ海沿岸、中央アジア、新疆ウイグル自治区やモンゴル高原付近にまで生息している。頭数は』百四十『万頭程度で、ラクダのうちの』十%『程度である』。『家畜として飼育する場合は』、『通常』、『どちらかの種しか飼育しないが、両種の雑種は大型となるため』、『荷役用として価値が高く、中央アジアでは両種をともに飼育して常に雑種を生み出し続けるようにしていた』。『また、ヒトコブラクダは砂漠の広がるオーストラリアに人為的に持ち込まれ、現在では野生化して繁殖している』。『この個体群は』十九『世紀から』二十『世紀にかけて』、『オーストラリアに持ち込まれたものが野生化したもので、オーストラリア中央部の砂漠地帯に約』七十『万頭が生息して』おり、しかも『この数字は年間』八%『ずつ増大している』。しかし、『この野生ラクダはオーストラリアで盛んなヒツジの牧畜用の資源を荒らすため、オーストラリア政府は』十『万頭以上を駆除している』。『ヒトコブラクダは歯を見ることで年齢を知ることが出来る。生まれた時は』二十二『本の乳歯があり、加齢と共に歯が生え変わり』、七『歳で』三十四『本の永久歯に生え変わる。このため、古くからラクダを取引するアラブ商人たちはラクダの歯の生え方で値段を決めていた。また、地方によっては歯の生え方で呼び方を変えることもあり』、『販売価格などと密接に関係している。 ラクダの平均寿命は』二十五『歳前後だが、アラブ社会では古くからラクダの寿命は』三十三年三ヶ月と三日と『言われてきた。ヒジュラ暦は』一年が十一日ほど短いため、三十三年三ヶ月と三日で『季節が』三十三回、『変わり、太陽暦の』三十三『年に相当する』のである。但し、現地では『ラクダの年齢は歯が一組変わるごとに』一『歳加齢される独特の年齢加算法を用いる場合があるので、実際の年齢とラクダ商人が数える年齢が一致しないことがある』。『アラブ社会では古くから、上顎両側に』六『本の奥歯があるラクダを』、『砂漠の横断が可能な大人のラクダとしていた』という。『歯の磨り減り方は生活環境によって異なるため、必ずしも実際の年齢とは一致しないが、アラブ社会では古くからラクダの年齢を知る方法として用いられてきた。歯が磨り減ってしまうと』、『通常の餌が食べられなくなるため、近代以前は寿命とされてきた』。以下、「雑種」の項。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの間には雑種ができ、カザフスタンではブフト(bukht)と呼ばれる。雑種の瘤は一つで、どちらの種よりも体格で勝るため』、『役畜として重用される。雌のブフトはフタコブラクダと戻し交配することができ、ヒトコブラクダの血を』二十五%、『フタコブラクダの血を』七十五%『引く乗用のラクダがつくられる』。また、『ヒトコブラクダとリャマとの間に人工的に作られた種間雑種』に『キャマ』がいる。ラクダを最初に家畜化したのは古代のアラム人ではないかと考えられている。アラム人はヒトコブラクダを放牧する遊牧民、あるいはラクダを荷物運搬に使って隊商を組む通商民として歴史に登場した。砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となった。やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていった』。『シルクロードの』三『つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートである。シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていた。サハラ砂漠においては、それまでおもな使役動物であったウマに代わって』三『世紀ごろに東方からラクダがもたらされることで』、『はじめてサハラを縦断する交易ルートの開設が可能となり、サハラ交易がスタートした。また、ラクダは湿潤地帯で荷役を行わせることは困難であるため、砂漠とサヘル地帯の境界に近いニジェール川大湾曲部のトンブクトゥなどはラクダとニジェール川水運やロバとの荷の積み替え地点として栄えた』。『歴史学者のリチャード・ブリエットは別のストーリーとして、紀元前』三〇〇〇『年ごろ、アフリカから中央アジアにかけてラクダを捕食対象としていた狩猟採集民のうち、アラビア海南部沿岸(今日のソマリア周辺)地域のグループが最初にヒトコブラクダを馴化させたと主張している』。『最初の利用目的は乳の採取だったといい、牧草地を求めて遊牧を始めたことから駄獣としての利用に発展したという』。『ブリエットによれば、フタコブラクダの家畜化は紀元前』二五〇〇『年ごろ、イランとトルクメニスタンのあいだの高原地域で生活していた遊牧民によって行われ、その手法が中央アジアを経てメソポタミアに広がったという』。『アッシリア人の戦勝記念に描かれたレリーフに現れるラクダの多くは荷車を牽いている』。『ラクダと人類とのかかわりにおいて、最も重要なものは乗用利用である。ラクダは『砂漠の舟』とも呼ばれ、ほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていた。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり』、二十『世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段であった。前述のように側対歩で歩行するラクダは歩行時に身体が大きく左右に揺れる。このため』、『慣れない者がラクダに乗る場合、船酔いならぬラクダ酔いを起こすことがある』。『初期のラクダの鞍はコブの後部に置かれたマットを前方に伸ばした帯でコブに固定したもので、主に荷役用として使われた。やがて騎乗を目的としたコブの前に乗せる馬蹄形の鞍が現れたが、初期の騎乗用の鞍はぐらつきが大きく戦闘には向かなかった』。『アラビアでは紀元前』五〇〇年頃『以降に、コブではなく』、『肋骨に負荷をかける設計の鞍が現れたことによって騎乗戦闘が可能となり、紀元前』二『世紀ごろには遊牧民と商業国家のパワーバランスを変えるなど、社会に変革をもたらすほどの影響を与えるようになった』。『現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、マリ北部のタウデニから南のトンブクトゥへと塩の板を運ぶキャラバンなどは現在でもラクダが使用され』、二千頭から三千頭もの『ラクダのキャラバンが』十月から五月までの『涼しい時期に』一『か月以上かけて両地を往復する』。『また』、『砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがある。現代ではインドと南アフリカの』二ヶ国が『純軍事的にラクダ部隊を保有して』いる。『ラクダの肉は食用とされ、また』、『乳用としても利用される。血液を禁忌とするムスリムとユダヤ教徒以外は、生き血を飲むこともある。また、ユダヤ教徒はラクダはコーシャー』(ユダヤ教に於ける厳格な「食物清浄規定」のこと。ヘブライ語に近い音写では「カシェル」と私は心得ている。なお、後の方に『これは、ラクダは』カシェルの『食肉の条件のうち』、『一つしか満たしていないとされているためで』、カシェル『の』肉食可能な獣類の『条件は反芻をし』、『蹄が分かれているものに限られるが、ラクダは生物学的には蹄が分かれ、反芻をするものの、外見上』、『蹄が毛に覆われて分かれているように見えない』ことによるとある。私の知り合いのユダヤ教徒はウナギを食わない。鱗のない魚はカシェルで食ってはいけないからだという。私は何度も「ウナギには鱗があるんだ」と言って顕微鏡写真を見せるのだが、食べない。少なくとも、日本の美味しい鰻重が食えない非科学的なユダヤ教徒は可哀想だとは思うのである)『ではないため』、『食べることはできない』。『食用としてのラクダ利用において最も重要なものはラクダ乳の利用である。イスラム圏において古来乳用動物として飼育されてきたものはラクダ、ヒツジ、ヤギであるが、ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約』十三『か月)上に乳生産量も一日』五『リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきた』。『アラブにおいては、ヒツジやヤギの乳搾りが女性の仕事とされたのに対し、ラクダの乳搾りは男性の仕事とされてきた。ラクダ乳は主にそのまま飲用されたが、発酵させて酸乳(ヨーグルト)とすることもおこなわれた。ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難である。さらにヤギやヒツジの乳のほうが脂肪の含有量も多いため、バターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られていた。しかし、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪い上』、『技術も必要』であるが、『可能であり、その希少性ゆえに高級品として高く評価されていた』。『近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されている』。『アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っている』。『アメリカ合衆国でも、アーミッシュを中心にラクダの飼育とラクダミルクの商品化が行われ、カリフォルニアを中心にラクダミルクを取り扱う店があらわれはじめている』という。『皮はなめして用いられ、毛は織物、縄、絵筆などに利用される。古くから利用されており』「マタイによる福音書」によれば、『洗礼者ヨハネはラクダの皮で作った服を着ていたとされる』。『寒冷な中央アジアのフタコブラクダの毛は織物の素材として優秀であ』り、また、『木材が貴重品である乾燥地帯において、かつてはラクダの糞が貴重な燃料でもあった』。『アラブ医学の四体液説では、粘液質の人間の気質は「情緒が弱く鈍感だが、一旦事を始めると粘り強く耐久力がある」と考えられていた。ラクダは胆嚢がない無胆嚢動物であることから、黒胆汁を持たない粘液質の気質を持つ動物である、という民俗概念がある』という。

「流沙」『「流沙」とは「天竺」の地〔なり〕』東洋文庫は後の割注を『流沙とは天竺(インド)の地のことである』と訳しているが、これは間違ってるだろ! 「流沙」は中国語「Liū shā」(リォウ・シァー)で、中国の西北地区の砂漠地帯の呼称だろ! 平凡社「世界大百科事典」によれば、「書経」の「禹貢篇」に『弱水を導きて合黎(ごうれい)に至り、余波・流沙に入る』とあるが、この「流沙」は「水経(すいけい)」によれば,張掖(ちようえき)郡の居延県の北東に当たるとし、今日の居延海(現在のガシュン・ノール:漢名「嘎順淖爾」)付近((グーグル・マップ・データ))の砂漠を指した。また、新疆ウイグル自治区のロブ・ノール((グーグル・マップ・データ))以東、甘粛省の玉門関に至る間の砂漠地帯をも指す。タリム盆地の南,崑崙山脈の北麓を通って、パミールを越えて行くシルク・ロードの一つとして、古くより交通の要衝地帯だった場所だ! リンク先の地図をよう見んかい! ここはインドでも天竺でも、ない、ぞ!!!

「露明」東洋文庫注に、『腹を地につけないで屈むからすき間ができ』、『明りが漏れる。それで露明という。また』、『眼の下に毛があり、夜でもよく物を見ることができるので露明というともいう』とある。

「大月氏國〔(だいげつしこく)〕」紀元前三世紀から一世紀頃にかけて、東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前二世紀に匈奴に敗れてからは、中央アジアに移動し、「大月氏」と呼ばれるようになった。大月氏時代は東西交易で栄えた(以上はウィキの「に拠った)。

「封牛・𤛑牛〔(とうぎう)〕・物牛・牛」

「于闐國〔(うてんこく)〕」古代、中国の西域にあったオアシス都市国家。現在の中国新疆ウイグル自治区ホータン(和田)県((グーグル・マップ・データ))。東西貿易路の要衝として起源前二世紀には既に繁栄していた。住民はアーリア系で、仏教文化が栄えた。古来、玉(ぎょく)の産地として有名である(小学館「大辞泉」に拠る)。

「風脚駝」種ではなく、駱駝レース(今も中近東でギャンブルとして行われている。体重の軽い騎手が有利なため、少年を使っていたのを児童虐待とされ、十年程前にはロボット少年騎士を開発したと聴いたが、どうなったことやら?)用に速く走れるように調教した個体を指すのであろう。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)

 

Raba

 

ら    附 駃騠 駝𩢷

 𩦺 

【音羅】

        驘【騾之古文】

ロウ

 

本綱騾狀大于驢健于馬其力在腰其後有鎖骨不能開

故不孳乳其類有五種今俗通呼爲騾矣【三才圖會其後之後字股】

牡驢交馬而生者卽騾也 牡馬交驢而生者爲駃騠【決題】

牡牛交馬而生者爲驢 牡驢交牛而生者爲駝𩢷【它陌】

牡牛交驢而生者𩦺【謫蒙】

五雜組云驘之爲畜不見於三代至漢時始有之然亦非

中國所産也匈奴北地馬與驢交合而生今北方以爲常

畜其價反倍於馬矣

駃騠爲神駿而騾爲賤畜可見人物稟氣於父不稟氣於

母也孟康曰駃騠良馬生七日而超其母

 

 

ら    附〔(つけたり)〕

       駃騠〔(けつてい)〕

       駝𩢷〔(だはく)〕

 𩦺〔(てきまう)〕

 驢〔(きよろ)〕

【音、「羅」。】

        驘〔(ら)〕【「騾」の古文。】

ロウ

[やぶちゃん注:「附〔(つけたり)〕」は「附録」の意。「古文」は「古い字」の意。]

 

「本綱」、騾、狀、驢より大にして、馬より健〔(すこや)か〕なり。其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさか)えること〕せず。其の類ひ、五種有り。今、俗に通〔(とほ)し〕呼んで「騾」と爲す【「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す。】。

牡驢〔(をすのろば)〕、馬に交はりて生〔まれし〕者を、卽ち、「騾」〔とする〕なり。

牡馬、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駃騠」【〔音、〕「決題」。】と爲す。

牡牛、馬と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「驢」と爲す。

牡驢、牛と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駝𩢷」【〔音、〕「它陌」。】と爲す。

牡牛、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「𩦺」【〔音、〕「謫蒙」。】と爲す。

「五雜組」に云はく、『驘の畜たること、三代[やぶちゃん注:夏・殷・周。紀元前一八〇〇年頃から紀元前二五六年まで。]に見えず、漢〔の〕時[やぶちゃん注:前漢の建国は紀元前二〇六年。]に至りて、始めて、之れ、有り。然も亦、中國にして産む所に非ざるなり。匈奴〔(きようど)の〕北地〔にて〕、馬と驢と交-合(つる)びて生〔まる〕。今、北方には、以つて、常に畜と爲す。其の價〔(あたひ)〕、反〔(かへ)り〕て、馬より倍す。』〔と〕。

「駃騠」〔は〕神駿〔(しんしゆん)〕たり、「騾」〔は〕賤畜たり。見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり。孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕。

[やぶちゃん注:主項の「騾」(騾馬)は実在する、

奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus

であり、その反対の交雑種である「駃騠」は、

ウマ属ケッテイEquus caballus × Equus asinus

として実在する。しかし、「本草綱目」がまことしやかに言っているウシとウマの間に出来るとする「驢」、ロバとウシとの「駝𩢷」、ウシとロバとの「𩦺」などという交雑種は昔も今も存在しない(但し、遺伝子技術の過剰な暴走の中で将来そのような呪われたハイブリッド種を、狂った「ドクター・モロー」たちが生み出さないとは言えない)。ウィキの「ラバをまず引く。『雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜で』、『北米』(英語:Mule)、『アジア(特に中国)、メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている』。『逆の組み合わせ(雄のウマと雌のロバの配合)で生まれる家畜をケッテイ(駃騠、英語: Hinny)と呼ぶが、ケッテイと比べると、ラバは育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。『体が丈夫で粗食に耐え、病気や害虫にも強く、足腰が強く脚力もあり、蹄が硬いため』、『山道や悪路にも適す。睡眠も長く必要とせず、親の馬より学習能力が高く調教を行いやすい。とても経済的で頑健で利口な家畜である』。『唯一』、『欠点として、「stubborn as a mule(ラバのように頑固)」という慣用句があるように、怪我させたり』、『荒く扱う等で機嫌が悪くなると、全く動かなくなる頑固で強情な性格がロバから遺伝している。それ以外は、大人しく臆病で』、『基本』、『従順である。あとは、馬よりは駆け足の速さが劣るぐらいである』。『鳴き声は馬ともロバとも異なるが、ややロバに似る』。『ラバとケッテイは』孰れも基本的には『不妊である。不妊の理由として、ウマとロバの染色体数が異なるからだと考えられている。ただ、発情期はあり、理論上は妊娠可能である。胚移植したように自然に妊娠することも稀ではあるが』、『ある』(後述)。『大きさや体の色はさまざまである。耳はロバほど長くない。頸が短く、たてがみは粗い』。『ラバは紀元前』三〇〇〇年から、二一〇〇年と一五〇〇年との間ごろには、『エジプトで知られていたと考えられている。ファラオがシナイに鉱山労働者を送る際、ラクダではなく』、『ラバで送ったという岩の彫刻が残っている。エジプトのモニュメントには、ラバにチャリオットを引かせる絵が残っており、当時から輸送に関わっていた事が分かる』。『黒海沿岸の(現代のトルコの北部と北西部の部分)パフラゴニアとニカイアの住民が、ラバの繁殖を最初に行ったと言われている。 古代における重要性は高く、ヒッタイトが隆盛を誇っていた頃は戦車用の馬の』三『倍の価値があった。紀元前』三『千年紀のシュメールの文書によれば、ロバの』七倍の二十~三十シェケル(西方で古代に長く用いられた通貨単位)、エブラは(シリア北部アレッポの南西五十五キロメートルに位置した古代都市国家。紀元前三千年紀後半及び紀元前二千年紀前半(紀元前一八〇〇年~紀元前一六五〇年)の二つの時期に繁栄を誇った)では平均六十シェケルの『高値で取引されていた。古代のエチオピアでは至上の動物として扱われ、聖書に登場するダビデ王はソロモンら王子の乗る動物に「ロイヤルビースト」としてラバを薦め、自らも愛用した。それらを含め旧約聖書の中でラバの記述は』十七回も『登場する』。『ローマ帝国でも回復力が高いラバは駄獣として駅伝制度クルスス・プブリクスなどで重用された』。『また、力が強く』、『多頭の輓用にも向いたラバは』、『ローマ軍の前線補給など、短距離輸送に活躍し』、『ウマ同様』、『騎乗用として用いられることも多かった』。『中世ヨーロッパ、巨大な馬に重装甲騎士が跨っていた頃、ラバには聖職者と階級の高い紳士が跨っていた』。十八『世紀になると、ラバの繁殖がスペイン、イタリア、フランスで一大産業となり、フランスのポワトゥー州では毎年』五十『万頭』も『生産された。地元の大型ロバ』である『ポワトゥー種が』、『畑作業で重宝する重牽引ラバの片親として適していた』ため『である』。『より大きく、強力なロバの品種改良がカタルーニャとアンダルシアで進められた直後から、スペインはラバ繁殖業界のトップグループに並んだ。スペイン帝国では、雌ラバは乗馬用に、雄ラバは銀山の輸送用として重宝されるだけでなく、国境警備にも用いられ、各前線哨戒基地や農園では独自に繁殖が行えるよう』、『最低』、『一匹』は『種ロバが確保された』という(以下、アメリカでのラバ史が詳細に綴られるが、略す)。『内燃機関の登場で軍を去ったラバは農場に迎えられた。しかし、第二次世界大戦中、信頼性の高い農業用ラバ導入が試みられたが、農村にも内燃機関の波が押し寄せていた』。『山岳が多く道路の整備が進んでない国では、今でも現役で働いている。先進国では農耕はトラクター、輸送はトラックに置き換わったが、趣味の世界である高級な馬のショーでは、どの分野でも活躍している。また、軍事の分野でも活躍している』ラバは『モータリゼーション、電撃戦の普及する以前、戦争で重要な役割である火砲や物資輸送等の兵站に関わっていた。ナポレオン』『世は騎兵の運用について天才的な戦史をいくつも残した人物だが、当人は乗馬が下手なのかラバに乗っていたとされるほか、ラバを砲兵隊で大砲を曳く馬として大量に使っていたという。ナポレオンは、砲兵の出身であるため、ラバを扱い慣れていたと考えられている』。『現在、その役割の多くをヘリや車両などが担っているが、それらが侵入できないアフガニスタンのような山岳地域等への物資輸送として活用されている』とある。

 次にウィキケッティ」を引く。『ケッテイ(駃騠)は、オスのウマとメスのロバの間に生まれるウマ科の雑種動物で』、『外見は』『ラバと似ている』。『ケッテイは、平均的にラバよりわずかに小型である。この』二『種類の雑種の間に見られる体格差に関しては、多くの考察がなされている。一つはこれが単に生理学的なもので、メスのウマに比べてメスのロバの方が小さいことに起因するというものである。一方、これは遺伝的なものであると主張する人もいる。しかし、アメリカロバ・ラバ協会 (ADMS: American Donkey and Mule Society) は「ケッテイが親から受け継ぐ遺伝子はラバと全く同じである」としている』。『ウマ科の子孫の成長度は母親の子宮の大きさに影響されるが、ほとんどの場合ロバはウマより小さく、ケッテイは小さな体格となる。ラバ同様その大きさは様々であるが、これは母親となるロバが、馨甲(withers)』(きこう:ウィザーズ:牛馬などの肩甲骨間の隆起を指す語)『の部分で』約六十一センチメートル『ほどの小さなものから、ボデ・デュ・ポアトゥ (フランス語:Baudet de Poitou)のように一メートル二十六センチメートル『ほどのものまで、様々であるからだ。ケッテイの体格は最も大きな個体でも、おおよそロバの中でも最大の種の大きさまでにしかならない。これに対してラバはウマを母親とするので、ウマの中でも最大の種の大きさ程度まで成長することができる。ラバの中にはかなり巨大な個体も見られるが、それらはベルジアンのような使役馬から生まれたものである』。『体格の大きさ以外にも、ラバとケッテイの間にはしばしば差が見られる。ケッテイの頭は、ラバ以上にウマに似ている。しばしば』、『短い耳のケッテイがいるとはいえ、それでもそれらはウマの耳よりは長く、またラバよりもウマに似た』鬣『や尾を持つ。毛色の決定はオス親に依存しているため、ケッテイの毛は通常』、『ウマと同じとなる。また、逆にラバはロバの毛色と同じになるのが一般的である。一部のウマやロバが持っている、歩法などのある種の形質は、オスの親から遺伝すると考えられている。このため、多くの人が歩法のできるケッテイを作り出そうとして、歩法のできるオスのウマとメスのロバによる交雑を試みている』。『ウマとロバは染色体の数が異なっており(ロバ 』六十二『本、ウマ 』六十四『本)、ケッテイは生まれにくい。両者の雑種として生まれるケッテイの染色体数は』六十三『本となり、不妊である。染色体数が偶数でない場合、生殖機能不全となるのである。ADMSによれば、「ウマ科の雑種は、遺伝子の数が少ない側(ロバ)をオスの親に持つときに生産しやすい。したがってラバに比べてケッテイを生産するのは難しい」という』。『オスのケッテイとラバは通常、繁殖行動を抑えて管理しやすくするために去勢される。オスのケッテイやラバもメスとつがいをなすが、不妊である。オスのケッテイやラバが生殖能を有していたという報告はない』。『メスのケッテイとラバは必ずしも去勢されるわけではなく、発情するか否かはまちまちである。メスのラバは、純血種のウマやロバとつがいになると子を産むことが知られているが、これは極めてまれである』。一五二七年以降、『記録に残っているもので、メスのラバから子が生まれた事例は世界中で』六十『件強しかない。一方』、『ADMSによれば、メスのケッテイが子を産んだ事例は』一『件のみである』。『ラバのメスは母側の遺伝子を』、百%、『子孫に伝える。ラバの母親はウマであるので、一般的にラバのメスは子孫に』百%『のウマの遺伝子を伝える。このため、オスのウマと掛け合わされたメスのラバは』、百%『のウマを生み、ロバの遺伝子を全く伝えない』。一九八一年、『中国で、オスのロバに対して妊娠可能と判明したケッテイのメスが発見された。メスのラバと同様に、メスのケッテイが母側の遺伝子を』百%伝えるならば、百%のロバを生むだろう、『と科学者は予想した。しかし、この中国のケッテイをオスのロバと掛け合わせたところ』「Dragon Foal」『(龍の子)と名づけられた、ラバに似た特徴を備えてロバと似たメスの子を産んだ。生まれた子の染色体およびDNAを調べた結果によれば、これまでに文献で知られていない組み合わせであることが分かった。事前に予想されていた、オスのロバから受け継いだロバロバの遺伝子と、メスのケッテイから受け継いだ(母側のロバの遺伝子を』百%『受け渡すとするならば)ロバロバの遺伝子の組み合わせではないことが分かった。実際の遺伝子はロバロバ/ロバウマであった。つまり、メスのケッテイは父側の遺伝子と母側の遺伝子の混合を子に受け渡した』のである。二〇〇三年には『モロッコで、オスのロバと掛け合わされたメスのラバが』、七十五%がロバで二十五%がウマの『メスの子を産んだ。DNA検査によれば、中国のケッテイの子と同様』、『混合した核型であることが分かった。通常のケッテイが』六十三『本の染色体を持ち』、三十一『対のウマロバの組み合わせと』、一『本のあまりで構成されているのに対して、このモロッコのラバは』二十三『対のロバロバ染色体と』、八『対のウマロバ染色体と』、一『本のあまりを持っていることを意味する』。『モロッコでの混合した遺伝子の組み合わせの事例があることから、中国の事例での子の遺伝子が通常のものではないのは、ラバではなくケッテイが母親であるためなのか、あるいはモロッコでの事例のように何か他の要素が働いているのかは分からない』。『他にもケッテイが希少である理由がある。メスのロバとオスのウマは、メスのウマとオスのロバの組み合わせに比べて相性が合いにくい。このため』、二『頭が引き合わされても』、『つがいとならない場合がある。また、つがいとなった場合であっても、メスのウマがオスのロバと掛け合わされた場合に比べて、メスのロバはオスのウマの種を宿しづらい。さらに、大きなケッテイを生ませるためには、大きなメスのロバを必要とするので、難しい問題が生まれる。大きなロバは次第に貴重なものになってきており、危機に瀕している家畜種であると宣言されている』から『である。ロバの所有者は、純粋な大きなロバの生産に高い需要があるにもかかわらず、不妊であるケッテイの生産に貴重な生殖期間を費やしてしまうのを嫌がる』のである、とある。

 

「其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさえ)ること〕せず」以上の引用で見た通り、こんな物理的理由ではない。

『「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す』良安が「本草綱目」と「三才圖會」を校合するのは珍しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。引用は「巻九 物部一」から。

「匈奴」紀元前三世紀末から紀元後一世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族。秦末の紀元前二〇九年、冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう:君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設。東胡(とうこ)・大月氏を征圧し、全盛となり、漢にも侵入したが、漢の武帝の遠征と内紛により、東西に分裂、紀元後四八年、さらに南北に分裂、南匈奴は漢に服属し、北匈奴は九一年、漢に討たれた。人種的にはトルコ系説が有力で、西方に移動した子孫がフン族であるとされる(小学館「大辞泉」に拠った)。

『「駃騠」〔は〕神駿たり』神霊の気を受けた、馬の中でも特別に選ばれた名馬である。既に見た通り、なかなか出生しない希少種だからである。

「見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり」調べて見たところ、これも「五雑組」から引いている。良安も賛同したからわざわざ掲げたのだろうが、謝肇淛や寺島良安が、我々のあらゆる体細胞中のミトコンドリアDNAはその総てが母由来でしかないということを知ったら、どう思うだろう? と考えると、ちょっとニヤリとしたくなったものである。

「孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕」孟康は生没年未詳の三国時代)の魏(二二〇年~二六五年)の人で以上は彼が成した「漢書」の注の一節と思われる。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)

 

Usagumuma

うさきむま

【音閭】

      【和名宇佐岐牟末】

リユイ

本綱驢臚也馬力在膞驢力在臚【膊肩膊也臚腹前也】驢長頰廣額

磔耳修尾夜鳴應更性善馱負有褐黒白三色入藥以黒

者爲良

野驢出女直遼東似驢而色駁鬃尾長山驢出西土有

角如羚羊詳羚羊下○海驢出東海島中能入水不濡

うさぎむま

【音、「閭〔(ロ)〕」。】

      【和名、「宇佐岐牟末」。】

リユイ

「本綱」、驢は臚なり。馬の力は膞〔(はく)〕に在り、驢の力は臚〔(ろ)〕に在り【「膊」は肩の膊〔(ほね)〕なり。「臚」は腹前〔(はらさき)を云ふ〕なり。】。驢、長き頰、廣き額、磔(さ)けたる耳、修〔(ととの)ふる〕尾〔たり〕。夜、鳴きて、更〔(こう)〕に應ず。性、善く馱負〔(だふ)〕す[やぶちゃん注:荷を背負う。]。褐・黒・白の三色有り。藥に入〔るるには〕黒き者を以つて良と爲す。

「野驢」、女直〔(ぢよちよく)〕・遼東に出づ。驢に似て、色、駁〔(まだら)〕にして、鬃〔(たてがみ)〕・尾、長し。○「山驢」、西土に出づ。角、有〔りて〕、羚羊のごとし。「羚羊」の下に詳らかなり。○「海驢」、東海島中に出づ。能く水に入〔るも〕濡れず。

[やぶちゃん注:奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ亜属 Asinus のロバ類の総称。或いは、その一種であるロバ Equus asinusウィキの「ロバ」によれば、本邦では別名をその耳の特徴から「うさぎうま」(兎馬)と呼び、『漢語では驢(ろ)。古代より家畜として使用される。現生ウマ科の中で一番小型だが、力は強く、記憶力も良い。学名 Equus asinus(エクゥス・アシヌス)は、ラテン語で「馬』の『ロバ」の意』である。『乾燥した環境や山道などの不整地に強い。家畜としては、比較的少ない餌で維持できる。寿命は長く、飼育環境によっては』三十『年以上生きることがある』。『ロバとウマは気質に違いがあると言われ』、『ウマは好奇心が強く、社会性があり、繊細であると言われ』るのに反し、『ロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、図太い性格と言われる』。『実際、ロバのコミュニケーションはウマと比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手とされる』。『野生のウマは、序列のはっきりしたハレム社会を構成し群れを作って生活するが、主に食料の乏しい地域に生息するノロバは恒常的な群れを作らず、雄は縄張りを渡り歩き単独で生活する』。『ロバの気質はこうした環境によって培われたものと考えられる』。『ただし、アメリカのジョージア州にあるオサボー島で再野生化したノロバ』(野驢馬)『のように、豊富な食料がある地域では』、『ハレム社会を構成する場合もある』。『最初に家畜として飼われ始めたのは、約』五千『年前に野生種であるアフリカノロバ』(Equus africanus:家畜ロバの原種)『を飼育したものとされる。古代から乗用、荷物の運搬などの使役に重用されたが、ウマに比べると』、『従順でない性質があり、小型でもある点が家畜として劣る点であった。逆にウマよりも優れていたのが』、『非常に強健で粗食に耐え、管理が楽な点であった』。『野生種の中で現存するのは、ソマリノロバ(Equus africanus somaliensis)のみであり、ソマリアとエジプトの国境地帯に見られたが、ソマリア内戦の影響で激減したため、現在はその大部分がイスラエルの野生保護区で飼育されている。一方、ハワイ島には家畜から野生化したロバが多数生息している』。『荒涼としたステップ地帯、砂漠地帯、あるいは山岳地帯などを放浪していたユダヤ人は、ロバを知る古い民族のひとつであり、そのため彼らの伝承や戒律などにもロバに関わるものが少なからずある』。『古代、ユダヤ人たちの間では、ロバに乗ることを禁じた日があった。イエスがキリスト(ユダヤの王)として、ロバに乗って』、「過ぎ越しの日」(ペサハ:ユダヤ教の宗教的記念日。家族が食卓につき、儀式的なメニューの食事をとって祝う。期間はユダヤ暦ニサン月(政治暦七月・宗教暦正月)十五日から一週間である。ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、初日のニサン月十五日はグレゴリオ暦三月末から四月頃の満月の日に相当する)『エルサレムに入る記述が聖書にある』。『前近代のイスラム社会では時の施政者次第で』、『ユダヤ教徒やキリスト教徒への迫害が行われ、その際にロバ以外への騎乗を禁じられる事もあった』。「食用」の項。『中国の、特に華北においては、ロバは一般的な食材のひとつとなっている。多くの場合、老いて輸送などの労務が難しくなったものが食用にされる。このため、単に炒めるだけの料理では食べづらく、煮込み料理か餃子や肉まんの具や肉団子のようなミンチ肉料理にされることが多い。そのままではある程度の臭みがあるが、下ごしらえをうまくすることで中国で「上有龍肉、下有驢肉」(天には竜の肉があり、地上にはロバの肉がある)と言われるほどの美味に仕上げることができる』。『臘驢肉(ラーリューロウ làlǘròu)』は『中国山西省長治市の名物食材で、ロバ肉の塩漬けを燻製にしたもの』で、『驢肉火燒(リューロウフオシャオ lǘròu huǒshāo)』は『中国河北省保定市の名物料理で、ロバ肉を使ったハンバーガー風の軽食。「火燒」と呼ばれるパンの腹を割って、中に煮込んだロバ肉をはさんで食べる。近年は陝西省の「白吉」(バイジーモー)と呼ばれる白く押しつぶしたように焼いたパンを使う変種も出ている』。『肴驢肉(ヤオリューロウ yáolǘròu)』は『中国山東省広饒県などの名物料理で、ロバ肉を煮込んで、ゼラチン質と共に冷やし固め、スライスしてたべる、アスピック(煮こごり)のような前菜料理』。「薬用」の項。『ロバの皮から毛を取り、煮つめて取る膠(にかわ)は、漢方で「阿膠」(あきょう)といい、主成分はコラーゲンで、血を作り、止血する作用があると考えられている。このため、出血を伴う症状や、貧血、産後の栄養補給、強壮、皮膚の改善などの目的で、服用、配合される。阿膠は薬用以外に、これを加えた柔らかい飴(阿膠飴)なども作られている』先行する「阿膠」を見られたい。但し、「黃明膠(すきにかは)」の方の冒頭注で述べたように、現在の山東省聊城市東阿県内で、定められた手法で、当地の特殊な井戸水を以って製造・精製された膠のみが「阿膠(あきょう)」であり、それ以外を阿膠と呼ぶのは正しくない。なお、本来はウシを用いたが、事実、現行ではロバが当地でも原素材である)。「文化におけるロバの表象」の項。『中国には、全世界で飼育されているロバの』三分の一『に相当する頭数が飼われているにもかかわらず、古代に中国の影響を受けた日本では、時代を問わず、ほとんど飼育されていない。現在の日本のロバは』二百『頭という説もあり、多くとも数百頭であろう。極暑地から冷地の環境にまで適応し、粗食にも耐える便利な家畜であるロバは、日本でも古くから存在が知られていた。馬や牛と異なり、日本では家畜としては全く普及せず、何故普及しなかったのかは原因がわかっていない。日本畜産史の謎とまでいわれることがある』。『日本にロバが移入された最古の記録は』「日本書紀」に五九九年、『百済からラクダ、羊、雉と一緒に贈られたとするものである。この時は、「ウサギウマ」』一『疋が贈られたとされ、これがロバのことを指していると考えられている』(これは推古天皇七年九月癸亥朔の『秋九月癸亥朔。百済貢駱駝一疋。驢一疋。羊二頭。白雉一隻』を指す)。『また、平安時代に入ってからも、幾つか日本に入ったとする記録が見られる。時代が下って江戸時代にも、中国やオランダから移入された記録がある。別称として「ばち馬」という呼び名も記されている』(やはり耳の形が三味線の撥(ばち)に似ているからであろう)。『中国においては身近な家畜や乗り物として物語に登場する。道教の八仙の一人張果老や陳摶、『三国志演義』の黄承彦、ウイグル族の頓智話のナスレディン・エペンディ(阿凡提)などはロバに乗って現れ、世俗的でない風雅な雰囲気を感じさせている』。『成語では』、『無能や見掛け倒しであることを意味する「黔驢技窮」あるいは「黔驢之技(けんろのぎ)」がある。これは黔驢(貴州省のロバ)を初めて見たトラが、当初その大きさに恐れて警戒したが、見慣れると何も攻撃する技を持たないと気づき食べてしまったという故事による』。『西洋においては』、『ロバは愚鈍さの象徴としてしばしば用いられる。キリスト教化された中世以降のヨーロッパでもその傾向は変わらずに残る。現在でも各国語において「ロバ」に相当する言葉は「馬鹿」「愚か者」の換喩として用いられる。西洋でロバが愚鈍とされたのは、ロバには頑固で気分次第で動かなくなる融通の利かない所があり、騎士は馬に騎乗し、富農は牛馬を育て、ロバは貧農が育てていた事が理由として挙げられる(貧農には身近な存在だった)』。『ナポレオン・ボナパルトがアルプス越えに際して乗ったのは愛馬マレンゴであると思われがちだが、これはダヴィッドの絵によって創作されたもので、実際にはロバに乗っていた』。『古代ギリシア神話において最もよく知られるロバに関する逸話はフリュギアのミダス王に関するものである。この逸話は現代では「王様の耳はロバの耳」として親しまれている』とある。

「更〔(こう)〕に應ず」「五更」で古代中国の時刻制度で一夜の五区分を指す。本邦でも用いた。本来の「更」とは「その一更毎に夜番が交代する」の意であり、午後七時乃至八時から、順次、二時間を単位として、「初更」(甲夜/一鼓)・「二更」(乙夜/二鼓)・三更(丙夜/三鼓)・「四更」(丁夜/四鼓)・「五更」(戊(ぼ)夜/五鼓)と区切り、午前五時乃至六時に至る。「更」は「歴」「経(けい)」とも称し、また、特に「更」だけで最後の「五更」を指したり、また、総称として「一夜」の意を表わす場合もある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「女直」中国東北部を指す。元は満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族女真(じょしん)族に基づく広域地方名。満洲に同じ。

「遼東」現在の遼寧省の一部と朝鮮の一部に相当。以上の分布からは、この「野驢」はアジアノロバ Equus hemionus であるが、その亜種とは思われない。

「西土」中国から見て有意な西方で、中央アジアやインド・ネパールを指す。角があるとし、「山驢」と呼んでいるから、次注に出すヨツヅノレイヨウ(丘陵の水辺にある開けた森林や草原などに棲息し、にのみ、眼の上部と頭頂部に計四本の角を有する)を指しているかとも思われる。

「羚羊」『「羚羊」の下に詳らかなり』「レイヨウ」は分類群ではなく、「レイヨウ」と呼ばれる種群は、獣亜綱ウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae の多くの亜科(ヤギ亜科 Caprinae 以外の全て)に分かれて多く存在し、多くはそれらのレイヨウ同士よりも、それぞれがウシかヤギにより近い関係にある。一部はアンテロープ(Antelope)とも呼び、分類学的には概ね、ウシ科からウシ族 Boviniとヤギ亜科を除いた残りに相当し、ウシ科の約百三十種の内、約九十種が含まれる(ここはウィキの「レイヨウ」を参考にした)。多くはアフリカに分布するが、一部はインド・中央アジアに棲息するので、時珍のそれは、前注で述べた通り、ウシ亜科ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられているが、画像を見る限り、本種は牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画像をリンクさせておく)の誤認かとも思われる。後の方は、時珍が「本草綱目」の「獣之二」の「羊」の項に載る(版本によっては「羖羊」とするので検索では注意が必要)ことを指しているのであって、「和漢三才図会」には「羚羊」の項はないので注意。

「海驢」「東海島の中に出づ。能く水に入〔るも〕濡れず」東洋文庫訳は「東海島」に割注して『広東省遂渓県の東南海中の島』とするんだが((グーグル・マップ・データ))……ここの特産種のロバがいるんかなぁ?(いるとなれば、識者の御教授を是非、乞う)……しかし、水に入っても濡れへんて、おかしくない?……う~ん……これって、ロバじゃなくて、まさに今も本邦では「海驢」とも書く、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科Otariinae のアシカ類の誤認じゃあ、ありせんかねぇ? 時珍先生?

2019/02/25

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま) (ウマ)

 [やぶちゃん注:本「馬」の項は異様に長い(原典でまるまる六頁に亙り、東洋文庫訳もまるまる八ページもかかっている)ので、頭でまず注する。馬の学名は、

哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ノウマ亜種ウマ Equus ferus caballus

(エクゥウス・フェルス・カバッルス)である。ウィキの「ウマ」の梗概部の一部のみを引いておく。『社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパン』(ウマ属ノウマ亜種ターパン Equus ferus ferus:絶滅亜種。最後の一頭は一九〇九年に亡くなった)『が家畜化したという説もある』。『古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を「桜肉(さくらにく)」と称する。軍用もいる』。『速力に優れ、競走用のサラブレッドは最高』時速八十七キロ『を出すことができる。また、競走用クォーターホース』(Quarter horse:正式にはアメリカン・クォーター・ホース American quarter horse。ウマの品種の一つで、体高は百五十センチメートル、体重は四百キログラム程度。アメリカに於いて、主として乗馬・牧畜作業・競馬用として使用され、世界各地で四百万頭余りが登録されており、事実上、世界で最も頭数の多い品種。ここはウィキの「クォーターホース」に拠った)『は、比較的容易に』時速九十キロ『を達成する』。二〇〇五年の『アメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず』、三百二メートル『のレースのラスト』百一メートル『の平均速度が』九十二・六キロ『に達していた』という。学名の属名「Equus」種小名の「caballus」も『ともにラテン語で「馬」の意』である。属名の方は『インド・ヨーロッパ祖語にまで遡ることの出来る古い語彙』で、種小名の方は、「馬」を意味する『イタリア語の』「cavallo」(カヴァッロ)、スペイン語の「caballo」(カバジョ・カバージョ・カバリオ・カバーリョ)、フランス語の「cheval」(シュヴァル)『などに連なる』語である。]

     旋毛吉凶

[やぶちゃん注:以上は以下の図の上に右から左に記されてある。以下の部分の旋毛(渦巻き毛。それぞれの箇所(部位)に名前が付いているのである)が吉凶を占うことが、本文の後に出る。本文によれば、「壽星・帶纓〔(たいえい)〕・乘鐙〔(じやうとう)〕・臁花〔(れんくわ)」以外の旋毛は凶とある。]

 

Muma

[やぶちゃん注:図の中のキャプションを電子化しておく(上下優先で右から左へ)。こんな酔狂なことをやるのは恐らく、後にも先にも、私以外にはあんまり居そうもない。さればこそ特異点也!!!

・壽星

(額の中央か。それは確かに名前も含めて如何にも吉らしい感じがする)

・滴淚

(渦を巻いた毛だから、眼の直下のこの名はしっくりくる)

・帶纓〔(たいえい)〕

(「纓」は「冠が脱げないように顎の下で結ぶ紐」の意)

・鎖唯〔(さゐ)〕

(ヒトで言う鎖骨位置で「鎖」は腑に落ちる)

門〔(さうもん)〕

(「」は「葬」や「喪」と同じ意。これは如何にも凶らしい)

・听哭〔(ぎんこく)〕

(「泣く声を聴く」の意があるから、これも凶に相応しい。耳の尖端の外側か)

・靠槽〔(かうさう)〕

(「靠」は「凭(もた)れる」の意であるから、「槽」=飼葉桶(かいばおけ)に首を垂らしたときにこの部分を以ってもたれるかかるの意で。意味は腑に落ちる)

・騰蛇〔(とうだ)〕

(「騰」は「上がる・昇る」の意。位置的には鬣(たてがみ)の頂点部で腑に落ちる)

・乘鐙〔(じやうとう)〕

(ここは鞍を置いた際に鐙がくる位置であり、騎乗した者が馬に命ずる際の重大な伝達部の一つであるから、ここに旋毛があるのは「吉」というのは頷ける気がする)

・領鬃〔(りやうそう)〕

(「領」には「項(うなじ)」「襟首」の意があり、「鬃」は「鬣」に同じいから、位置的には納得出来る)

・挾屍

(これも如何にも不吉な感じ)

・風淚

・駝屍〔(だし)〕

(位置的には「駝」(荷物を載せるの意がある)は納得出来る背の部分ではあるが、これは別な意味で凶の極みであると思う。何故なら、「駝」の字は真臘(現在のカンボジア)の方言で「父母を呼ぶときに添える敬称」だからである。方言であっても、それに「屍」を添えて孝を尊ぶ中華社会で吉であろうはずは絶対にないと思うからである)

・帶劔

(帯剣して騎乗した場合の、その位置(正確には左側であるが)に当たるので腑に落ちる)

・臁花〔(れんくわ)〕

(「臁」は「穴・脛(すね)・脛の両側」の意であるが、位置から見て意味が判らない。この指定が恐らくは馬の経絡をも兼ねていると考えるなら、「穴」で腑には落ちるが)

?

(前の「?」が音も意味も不詳のため、読めない。下は前に出た「さう(そう)」。これまた、凶っぽい)

・豹尾〔(へうび)〕

(これ一つだけは知っている熟語であった。古暦注や陰陽道で方角を司る凶神の一つで、八将神の一つ。計都(けいと)星(中国の九曜星の一つである昴(ぼう)星宿にある星の名。、日月を両手に捧げ、青龍に乗り、憤怒の形相をした神像で表わされる。この星は実在の天体ではなく、月の軌道面(白道)と太陽の軌道面(黄道)の交点とする見方があり、また時に現われて災害を齎す彗星・流星の類いとする考え方もあった)の精とする。子年には戌の方(北西)、丑年には未の方(南西)、寅年には辰の方(南東)、卯年には丑の方(東北)におり、辰年には再び戌の方というように、四年で一巡する。この方角に向かって畜類を求めたり、また、大小便などすることを忌んだから、凶のチャンピオンぽい気はする)

・後

(これも凶らしい名である)

丸括弧で注したのは、私に判りそうな漢字の附記で、他の注を附さないものは、判っているのではなく、よく判らないものでもある。]

 

むま    阿濕婆【梵書】

      【和名無萬】

      隲【牡】 駔

      【俗云 丸馬】

      【牝】

      【俗云 雜役】

【音麻】

★     騸

マアア

[やぶちゃん注:★の位置に図の下にある馬の篆書体が示されてある。] 

 

本綱馬字象頭髮尾足之形生一曰駒【和名古萬】

曰騑四其名色甚多大抵以西北方者爲良

東南者劣弱不及馬應月故十二月而生其年以齒別之

在畜屬火在辰屬午在卦爲☰乾馬之眼光照人全身者

其齒最少光愈近齒愈大馬食杜衡善走食稻則足重食

鼠屎則腹脹食雞糞則生骨眼以僵蠶烏梅拭牙則不食

得桑葉乃解掛鼠狼皮於槽亦不食遇海馬骨則不行以

豬槽飼馬石灰泥馬槽馬汗着間並令馬落駒繫猿猴於

[やぶちゃん注:東洋文庫訳に従い、訓読では前行の「間」を「門」に、「駒」を「胎」に変える。前者は「本草綱目」でもそうなっている。後者は「本草綱目」も「駒」だが、意味が通らない。]

厩辟馬病皆物理當然耳馬膝上有夜眼有此者馬能夜

行故名【三才圖會云馬八尺以上曰龍七尺以上曰騋六尺以上曰馬五尺以上曰駒】

肉【辛苦冷有毒】 除熱下氣強腰脊輕身強志【以純白牡馬爲良以冷水煑食

不可蓋釜同倉米蒼耳食必得惡病十中有九死自死

馬不可食凡食馬中毒者飮蘆菔汁食杏仁可解】

馬墨 在腎牛黃在膽造物之所鍾也【此亦牛黃狗寳之類】

馬通 馬屎曰通牛屎曰洞豬屎曰零皆諱其名也

[やぶちゃん注:「豬」は「猪」のように見えるが、「本草綱目」ではイノシシやブタを総称する「豬」で、ここは文脈からブタの意であろうと推測し、この字にした。]

馬溺【辛微寒有毒】白馬溺治消渇療積衆癥瘕及反胃

 昔有患心腹痛死者剖之得一白鼈赤眼活者試以諸

 藥納口中終不死有人乘白馬觀之馬尿堕鼈而鼈縮

 遂以灌之卽化成水後以此方治癥瘕

馬肝【有大毒】 馬肝及鞍下肉殺人不可食

 字彙云馬稟火氣而生火不能生木故有肝無膽膽者

 木之精氣也木臟不足故馬肝有大毒食之者死

                  人丸

  拾遺山科の木幡の里に馬はあれとかちよりそ行君を思へは

  古今大あらきの杜の下草生ひぬれは駒もすさめす刈る人もなし

昔有駿馬名驁以壬申日死故乘馬忌此日

△按凡跨馬曰騎走馬謂之馳【古訓波之留今稱加介留蓋馬死曰波之留故忌之】

 凡騁馬曰磬止馬控【今馬奴等毎欲騁則謂止欲止則言動其字義相反矣然馬亦

 隨其聲也用來久故不改】馬怕石不能行曰?【介之止無】馬載重難行曰

 駗驙馬行不前曰馬鳴曰嘶【訓以波由俗云以奈奈久凡馬馳時不嘶如嘶

 者也其馬卒死】馬不施鞍轡而騎曰俗云裸馬

 駿【音俊和名土岐宇萬】馬之美稱取俊傑之義 駑【音奴和名於曾岐宇萬】

 最下也 駻【音早和名波爾無萬】突惡馬也 馱【音駝】負物馬也凡

 以畜載物皆曰馱【俗作或作駄並非】和名謂之小荷馱馬【今米一斛五斗爲一駄約

 凡重六十貫目】

張穆仲安驥集云馬相有三十二相眼爲先

 馬眼如垂鈴 眶凸者佳  腦骨欲員  垂睛欲髙

 耳如削筒  頰骨欲員  項長彎細  鬃欲茸

 
髙   排按肉欲厚 脊梁欲平  腰要短

 鼻要寬大  上唇欲方  口文欲深  下唇欲員

 食槽欲寬  欲闊   膝欲員   脚欲髙

 脚大而實  前蹄欲員 後蹄欲大欲近 掌骨欲髙

 脛※骨細  肚下生節欲近      鹿節欲曲

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]

 曲池欲深  汗溝欲深  尾骨欲短  外腎欲小

 腿似琵琶

――――――――――――――――――――――

馬三十二以齒知
 
駒齒二 二齒四 三齒六 四成齒二

 五成齒四 六肉牙生 角區缺 八

 區如一 九咬下中區二齒臼 十同四齒臼

 十一六齒臼 十二同二齒平 十三四齒平

 十四同六齒臼 十五咬上中區二齒臼 十六

 
同四齒臼 十七同六齒臼 十八二齒平

 十九同四齒平 二十咬上下盡平 自二十一

 
次第齒黃至二十六咬上下盡黃 自二十七

 次第齒白至三十二上下盡白

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馬之毛色

 騂【音征】赤毛馬也 音離】黒毛馬也 音愈。和名栗毛紫毛馬

駮【音愽布知】〕不純白 油馬【和名糟毛】 騮【和名鹿毛】赤馬黒鬣

烏騮【和名黑鹿毛】 黃騮【和名赤栗毛】 紫騮【和名黒栗毛】

連錢【和名連錢葦毛】靑黑斑如魚鱗 【和名葦毛】靑白襍毛

騢【和名鴾毛】赭白雜毛 赤鴾毛【赭黃馬】 和名白鹿毛黃白雜色

駱【和名川原毛】白馬黒髦 沙駱毛【和名黑川原毛】 騵【音[やぶちゃん注:欠字。]】騮馬白腹

騏【音[やぶちゃん注:欠字。]】青黒色  騧【音[やぶちゃん注:欠字。]】黃馬黒喙 駰【音[やぶちゃん注:欠字。]】淺黒而白襍色

音[やぶちゃん注:欠字。]尾白馬 和名阿之布知四骹皆白色【膝以下曰骹】

 以馬旋毛所在知吉【見于前圖如壽星帶纓乘鐙※花則

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廉」。]

 爲吉其他爲

搜神記漢文帝十二年呉地有馬生角在耳前上向右角

長三寸左角長二寸皆大二寸是臣不順之妖也

万寶全書云馬火畜也性惡濕如生疥瘡用生胡麻葉搗

汁灌之脊瘡用黃丹敷之尿血用黃芪烏藥芍藥山茵陳

地黃兜苓枇杷葉爲末灌之

△按馬之療治針灸藥方詳于馬醫書其藥中禁用貝母

 誤用之則害馬而本草載雞屎烏梅爲馬毒不及貝母

 者後人試知之乎

 相傳安閑天皇二年放牛於瀨津大隅等放馬於科野

 國望月牧霧原牧而後世不乏牛馬今則産處處者多

 矣奧州常州之爲良薩州次之信州甲州上下野州

 總州亦次之

小荷駄馬 載負貨物馬也凡以畜載物皆曰佗【今俗作或作

 ?並非也从馬从大】聖武帝【天平十一年】令天下改定馱負之重【先是】馱馬

 一匹所負之重大畧二百斤甚重勞馬蹄於是令諸州

 以百五十斤爲限今制用二十五貫目亦畧合古法

著聞集云有都築平太經家者以善御馬仕于平氏敗北

 之日爲虜於是有献駿馬於鎌倉者而人不克御之使

 囚經家乘之則如相馴者人皆感之頼朝大喜免罪爲

 厩別當嘗養馬異常毎夜半許用白色物自手令之飼

 未知何物也但日中不飼以爲異經家遂入海死惜哉

 不傳其術也

むま    阿濕婆〔(あしつば)〕【梵書】

      【和名、「無萬」。】

      隲(をむま)【牡。】 駔〔(をむま)〕

      【俗に云ふ、「丸馬」。】

       (めむま)【牝。】

      【俗に云ふ、「雜役」。】

【音、「麻」。】

★     騸(へのこなしのむま)

マアア

[やぶちゃん注:★の位置に図の下にある馬の篆書体が示されてある。「騸(へのこなしのむま)」は今まで同様、去勢された雄馬のこと。] 

 

「本綱」、馬の、頭・髮(たてがみ)・尾・足の形に象る。生まれて一を「〔(かん)〕」と曰ひ、二を「駒」と【和名、「古萬」。】曰ひ、三を「騑〔(ひ)〕」と曰ひ、四を「〔(たう)〕」と曰ふ。其の名色〔(ないろ)〕[やぶちゃん注:馬は一般に毛色で呼称分別する。それを言ったもの。]、甚だ、多し。大抵、西北の方の者を以つて良と爲し、東南の者、劣弱にして及ばず。馬、月に應ず。故に、十二〔か〕月にして生ず[やぶちゃん注:正しい。ウマの妊娠期間は十一ヶ月から十二ヶ月である。]。其の年、齒を以つて之れを別〔(わか)〕つ。畜に在りては、火に屬し、辰〔(とき)〕に在りては午〔(うま)〕[やぶちゃん注:正午前後の二時間。]に屬し、卦〔(け)〕に在りては、「☰」、乾〔(けん)〕と爲す。馬の眼光、人の全身を照らす者、其の齒、最も少なり。光、愈々、近くして、齒、愈々、大となる[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、何を言っているのかよく判らない。]。馬、杜衡〔(とこう)〕を食へば、善く走り、稻を食へば、則ち、足、重し。鼠〔の〕屎〔(くそ)〕を食へば、則ち、腹、脹〔(は)〕る。雞〔(にはとり)の〕糞を食へば、則ち、骨眼〔(こつがん)〕を生ず。〔それ、〕僵〔(し)せる〕蠶〔(かひこ)〕を以つて〔治〕す。烏梅〔(うばい)を以つて〕牙(きば)を拭〔(ぬぐ)〕ふときは、則ち、食べず。桑の葉を得ば、乃〔(すなは)〕ち、解す。鼠・狼の皮を槽(むまふね)[やぶちゃん注:「飼い葉桶」に同じ。]に掛けても亦、食はず。海-馬〔(たつのおとしご)〕の骨に遇へば、則ち、行かず。豬〔(ぶた)〕の槽〔(ふね)〕を以つて馬を飼ひ、石灰〔を以つて〕馬〔の〕槽を泥〔(よご)〕し、馬、汗〔する〕を門〔(もん)〕に着〔(つな)ぐ〕ときは、並びに[やぶちゃん注:孰れの場合も。]、馬をして胎〔(こ)〕を落とさしむ。猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く。皆、物〔の〕理〔(ことはり)〕、當に然るべきのみ。馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの。有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく【「三才圖會」に云はく、『馬の八尺以上、「龍」と曰ひ、七尺以上、「騋〔(らい)〕」と曰ひ、六尺以上、「馬」と曰ひ、五尺以上、「駒」と曰ふ』〔と〕。】。

肉【辛苦、冷。毒、有り。】 熱を除き、氣を下〔(くだ)〕し、腰・脊を強くし、身を輕〔くし〕、志〔(こころざし)〕を強くす【純白の牡馬を以つて良と爲す。冷水を以つて煑て食す。釜を蓋〔(ふた)〕すべからず。倉米・蒼耳と同じく〔して〕食〔へば〕、必ず、惡〔しき〕病ひを得。十中、九、死〔する〕有り。自死の馬、食ふべからず。凡そ、馬を食ひ、毒に中〔(あた)〕る者、蘆菔〔(だいこん)の〕汁を飮み、杏仁〔(きやうにん)〕を食へば、解すべし。】。

馬墨(〔むま〕のたま) 腎に在り。牛黃(〔うし〕のたま)は膽〔(きも)〕に在り。造物の鍾〔(あつま)れる〕所なり【此れ亦、牛黃〔(うしのたま)〕・狗寳〔(いぬのたま)〕の類ひ〔なり〕。】。

馬通(〔むま〕のふん) 馬の屎〔(くそ)〕を「通」と曰ひ、牛の屎を「洞」と曰ひ、豬〔(ぶた)〕の屎を「零」と曰ふ。皆、其の名を諱(い)むでなり。

馬溺(〔むま〕のゆばり)【辛、微寒。毒、有り。】白馬の溺り、消渇〔(しやうけち)〕を治し、積衆癥瘕〔(しやくじゆちようか)〕及び反胃〔(ほんい)〕を療す。

昔、心腹〔の〕痛みを患ひて死せる者、有り。之れを剖〔(さ)き〕て一〔つの〕白〔き〕鼈〔(すつぽん)〕の赤〔き〕眼にて活(い)きたる者を得。試みに諸藥を以つて、口〔の〕中に納〔(い)るるも〕、終〔(つひ)〕に死せず。〔この時、〕人、有り、白馬に乘りて、之れを觀る。馬、尿〔(いばり)し〕て、鼈に堕ち、而して、鼈、縮み、遂に以つて、之れを灌ぐ〔に〕、卽ち、化して、水と成る。後、此の方を以つて癥瘕を治す〔るなり〕。

馬肝〔(むまのきも)〕【有大毒】 馬の肝及び鞍〔の〕下の肉、人を殺す。食ふべからず。

「字彙」に云はく、『馬、火〔(くわ)〕の氣〔(き)〕を稟〔(う)け〕て生ず。火、木〔(もく)〕を生ずること、能はず。故に、肝、有りて、膽、無し。膽は木の精氣なり。木臟〔(もくざう)〕足らざる故、馬〔の〕肝、大毒有り、之れを食ふ者、死す』〔と〕。

                  人丸

  「拾遺」

    山科の木幡〔(こはた)〕の里に馬はあれど

       かちよりぞ行く君を思へば

  「古今」

    大あらきの杜〔(もり)〕の下草生ひぬれば

       駒もすさめず刈る人もなし

昔、駿馬〔(しゆんめ)〕有り、驁〔(がう)〕と名づく。壬申〔(みづのえさる)〕の日を以つて死す。故に、馬に乘るに、此の日を忌む。

△按ずるに、凡そ、馬に跨(またが)る「騎」と曰ひ、馬を走らすを、之れを「馳」と謂ふ【古えは「波之留〔(はしる)〕」と訓ず。今、「加介留〔(かける)〕」と稱す。蓋し、馬の死を「波之留」と曰〔へば〕、故に之れを忌む〔なり〕。】。

凡そ、馬を騁〔(は)する〕[やぶちゃん注:「騁」は「馬を走らせる」の意。]を「磬〔(けい)〕」と曰ひ、馬を止〔(とど)〕むるを「控〔(こう)〕」と曰ふ【今、馬奴〔(まご)〕等の毎〔(つね)〕に騁(は)せんと欲するときは、則ち、「止(し)」と謂ひ、止〔(とど)〕めんと欲するときは、則ち、「動〔(どう〕)」と言ふ。其の字義、相ひ反す。然れども、馬も亦、其の聲に隨ふ。用ひ來たること久しき故、改めず。[やぶちゃん注:以上は良安の割注。]】。馬、石を怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れて、行くこと能はざるを「?(けしとむ)」【「介之止無」。】と曰ふ。馬、重きを載せて、難〔(なん)〕を行くを「駗驙〔(しんてん)〕」と曰ひ、馬、行きて、前(すゝ)まざるを、「〔(たく)〕」と曰ふ。馬、鳴くを「嘶〔(いばふ)〕」と曰ふ【訓、「以波由〔(いばゆ)〕」、俗に云ふ、「以奈奈久〔(いななく)〕」。凡そ、馬、馳する時、嘶〔(いなな)〕かず。如〔(も)〕し、嘶く者〔は〕、なり。其の馬、卒死す。】馬、鞍・轡を施さずして騎(の)るを「(はだせ)」と曰ふ【俗に云ふ、裸馬〔(はだかむま)〕。】。

駿(はやむま)【音、「俊」。和名、「土岐宇萬(ときうま)」[やぶちゃん注:「疾(と)き馬」。]。】〔は〕馬の美稱〔にして〕「俊傑」の義を取る。 駑(をそむま)【音、「奴〔(ド)〕」。和名、「於曾岐宇萬(おそきうま)」。】〔は〕最も下なり。 駻(はねむま)【音、「早」。和名、「波爾無萬」。】〔は〕突惡の馬なり[やぶちゃん注:すぐに突っかかって来て調教し難い荒馬のことである。]。 馱(につけむま)【音「駝」。】〔は〕物を負ふ馬なり。凡そ、畜を以つて物を載(の)す〔は〕、皆、「馱」と曰ふ【俗、「」に作り、或いは「駄」に作る〔は〕並びに非なり[やぶちゃん注:孰れも誤りである。]。】〔は〕和名、之れを「小荷馱馬(こにだ〔むま〕)」と謂ふ【今、米一斛五斗を、「一駄」と爲す。約するに、凡そ、重さ、六十貫目〔たり〕。】。

張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」に云はく、『馬〔の〕相、三十二、有り、眼を相(み)りを先〔(せん)〕と爲す』〔と〕。〔それに云はく、〕

[やぶちゃん注:以下、ブラウザの不具合を考え、原典を総て続いた文章として繋げて示す。原典の有意な字空けも除去した。]

馬の眼、垂るる鈴のごとし。眶(まぶた)、凸(なかたか)[やぶちゃん注:中央が膨らんでいる。]者、佳し。腦骨、員〔(まろ)き〕を欲するなり[やぶちゃん注:「員」は「圓」の通字で「丸い」の意。「欲するなり」は「良しとするものである」の意。]。垂〔るる〕睛〔(ひとみ)〕は髙きを欲す。耳、削〔れる〕筒〔(つつ)〕のごと〔きが良し〕。頰骨は員〔(まろ)〕きを欲す。項〔(うなじ)〕は長く彎〔(わん)じ〕て[やぶちゃん注:弓を引き絞ったように美しく湾曲していて。]細くす。鬃〔(たてがみ)〕は茸〔(しげ)るる〕を欲す[やぶちゃん注:毛が豊かにあるのがよい。]。〔(うなじのけ)〕は髙きを欲す。排-按(くらをきどころ[やぶちゃん注:ママ。])は、肉、厚きを欲す。脊梁(せぼね)は平〔たき〕を欲す。腰〔は〕短きを要す[やぶちゃん注:「要」は「是非とも~でなくてはならない」の意。]。鼻〔は〕寬大なるを要す。上唇〔(うはくちびる)〕は方〔(はう)〕[やぶちゃん注:がっちりと角ばったもの。]のを欲す。口の文〔(もん)〕は深きを欲す。下唇は員〔(まろ)き〕を欲す。食槽(むまのきほね)[やぶちゃん注:臼歯。]〔は〕寬〔(ひろ)き〕を欲す。〔(むね)〕[やぶちゃん注:「胸」の異体字。]は闊(ひろ)きを欲す。膝〔は〕員〔(まろ)き〕を欲す。脚は髙きを欲す。脚は大にして實〔(じつ)なり〕し〔が良し〕[やぶちゃん注:しっかりしているのがよい。]。前の蹄(ひづめ)は員きを欲す。後(うしろ)の蹄は大を欲し〔て〕近〔きを〕欲す。掌の骨[やぶちゃん注:蹄の上部であろう。]は髙きを欲す。脛※骨〔(けいていこつ)〕[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]は細く、肚〔(はら)〕の下に逆毛を生じ、節は近きを欲す。鹿節は曲れるを欲す。曲池は深きを欲す。汗溝〔(あせみぞ)〕は深きを欲す。尾骨は短きを欲す。外腎[やぶちゃん注:思うに♂の外生殖器のことを指すものと思われる。]〔は〕小さきを欲す。腿〔(もも)〕は琵琶に似る〔を良しとす〕。

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:以下も二行目以降を同前の仕儀で訓読する。なお、東洋文庫版では、以下の部分に対して、『馬の歯は全部で牡は四十本、牝は三十六本ある。ここはそのうちの切歯(門歯、中歯、隅歯)の部分について説明しているのであろう』と注がある。]

馬〔の壽命は〕三十二。齒を以つてを知る。

の駒は齒[やぶちゃん注:乳歯。]二つ。二、齒、四つ。三、齒、六つ。四、齒[やぶちゃん注:これは永久歯を指す。]二つに成る。五、齒、四つに成る。六、肉牙、生ず。七、角區[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、缺く。八、區を盡〔(つ)き〕て一つのごとし。九、下中區を咬〔(か)〕み、二つ〔の〕齒、臼(うす)になる。十にしては同〔じく〕四齒、臼になる。十一、六齒、臼になる。十二、同じく、二齒、平〔らと〕なり、十三、四齒、平〔らかとなる〕。十四、同じく六つの齒、平かなり。十五、上中區を咬み、二齒、臼になる。十六、同じく、四齒、臼になる。十七、同じく六齒、臼になる。十八、二つの齒、平かなり。十九、同じく四齒平かなり。二十、上下を咬み、盡〔(ことごと)〕く平かなり。二十一より、次第に、齒、黃〔となり〕、二十六に至り、上下を咬み、盡く黃〔と〕なり、二十七より、次第に、齒、白くして、三十二に至り、上下、盡く白し。

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:同前の仕儀で訓読する。]

馬の毛色

 「騂(あかむま)」【音、「征」。】、赤毛の馬なり。「(くろむま)」【音、「離」。】、黒毛の馬なり。「(くりげ)」【音、「愈」。和名、「栗毛」。】、紫毛の馬。「駮(ぶちむま)」【音、「愽〔(ハク)〕」。布知〔(ぶち)〕。】〕純白ならざるなり。「油馬(かすげ)」【和名、「糟毛」。】。「騮(かげ)」【和名、「鹿毛〔(かげ)〕」。】、赤馬〔の〕黒〔き〕鬣〔(たてがみ)〕。「烏騮くろかげ)」【和名、「黑鹿毛」。】。「黃騮(あかくりげ)」【和名、「赤栗毛」。】。「紫騮〔(くろくりげ)〕」【和名、「黒栗毛」。】。「連錢〔(れんせんあしげ)」〕」【和名、「連錢葦毛」。】、靑黑〔の〕斑〔(まだら)〕にして魚〔の〕鱗のごとし。「(あしげ)」【和名、「葦毛」。】、靑白〔の〕襍毛〔(ざつもう)〕。「騢(ひばりげ)」【和名、「鴾毛〔(つきげ)〕」。】、赭〔(しや)と〕白〔の〕雜毛。「赤鴾毛(あかひばりげ)」【赭黃〔あかぎ)〕の馬。】。「(しらかげ)」【和名、「白鹿毛」。】、黃〔と〕白〔の〕雜色。「駱〔(かはらげ)〕」【和名、「川原毛」。】、白馬〔の〕黒〔き〕髦〔(たてがみ)〕。「沙駱毛〔くろかはらげ)〕」【和名、「黑川原毛」。】。「騵[やぶちゃん注:音「ゲン・グワン(ガン)」。和訓は不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】、「騮(くろげ)馬」の白腹〔のもの〕。「騏[やぶちゃん注:音「キ・ギ」。和訓不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】、青黒色。「騧」[やぶちゃん注:音「クワ(カ)・ケ・クワイ(カイ)」。和訓は不詳。]【音[やぶちゃん注:欠字。]】。黃〔の〕馬〔にして〕黒〔き〕喙〔(くちさき)〕。「駰(くろあしげ)」【音[やぶちゃん注:欠字。]】淺黒にして白〔の〕襍色〔(ざつしよく)〕。「[やぶちゃん注:音「ラウ(ロウ)・リヤウ(リョウ)」。和訓は不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】。尾白の馬。「(あしぶち)」【和名、「阿之布知」。】四骹〔(しかう)〕、皆、白色【膝以下、「骹」と曰ふ】。

 馬の旋毛の所在を以つて吉を知る【前圖を見よ。】壽星・帶纓〔(たいえい)〕・乘鐙〔(じやうとう)〕・臁花〔(れんくわ)〕、則ち、吉と爲し、其の他、と爲す。

「搜神記」〔に云はく〕、『漢文帝十二年[やぶちゃん注:紀元前一六八年。]、呉の地に、馬、角を生ふること、有り。耳の前の上に在り、右に向ふ角、長さ三寸、左の角、長さ二寸。皆、大いさ、二寸。是れ、臣の不順の妖なり』〔と〕[やぶちゃん注:漢代の一寸は二・二五センチメートルとやや短い。]。

「万寶全書〔(ばんぽうぜんしよ)〕」に云はく、『馬は火〔(くわ)〕の畜なり。性、濕を惡〔(にく)〕み、如〔(も)〕し、疥瘡〔(かいさう)〕[やぶちゃん注:疥癬。]を生ず〔れば〕、生〔(なま)の〕胡麻〔の〕葉〔の〕搗き汁を用ひ、之れを灌〔(そそ)〕ぐ。脊-瘡〔(たこ/くらずれ)〕[やぶちゃん注:牛馬の背に荷擦れなどによって生ずる傷。鞍傷(あんしょう)。]には黃丹〔(わうたん)〕を用ひ、之れを敷〔(ぬ)〕る[やぶちゃん注:塗る。]。尿血は黃芪〔(こうぎ)〕・烏藥〔(うやく)〕・芍藥・山茵陳〔(いんちこう)〕・地黃〔(ぢわう)〕・兜苓〔(とうれい)〕・枇杷〔(びは)の〕葉を用ひて末と爲し、之れに灌ぐ』〔と〕。

△按ずるに、馬の療治・針灸・藥方は馬醫書に詳らかなり。其の藥中に貝母〔(ばいも)〕を用ふるを禁じ、誤〔りて〕之れを用ふれば、馬を害す〔と云ふ〕。而〔れども〕「本草」に雞〔(にはとり)の〕屎〔(くそ)〕・烏梅〔(うばい)〕、馬の毒たること載す〔のみにて〕、貝母に及ばざるは、後人、試みて、之れを知るか。

相ひ傳ふ、安閑天皇二年[やぶちゃん注:五三五年。]、放牛を瀨津[やぶちゃん注:「攝津」の誤り。]〔の〕大隅[やぶちゃん注:現在の大阪市東淀川区大隅か。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]等に放ち、馬を科野(しなの)〔の〕國[やぶちゃん注:信濃国。]に放つ。望月(もちづき)の牧[やぶちゃん注:現在の長野県佐久市望月附近。]・霧原の牧[やぶちゃん注:現在の長野県松本市東部のこの中央附近。]にて、後世、牛馬に乏しからず。今、則ち、産(う)む處處の者、多し。奧州・常州の、良と爲し、薩州、之れに次ぐ。信州・甲州・上下の野州[やぶちゃん注:上野(かみつけの)国と下野(しもつけの)国。]・總州[やぶちゃん注:前の「上下」がここにも掛かるので上総(かずさの)国と下総(しもうさの)国を指す。]も亦、之れに次ぐ。

小荷駄馬(こにだむま) 貨物(にもつ)を載-負(をは)せる馬なり。凡そ畜を以つて物を載す〔は〕皆、「佗〔(だ)〕」【今、俗、「」に作り、或いは「?」に作る〔も〕並びに[やぶちゃん注:孰れも。]非なり。「馬」に从〔(したが)〕ひ、「大」に从ふ〔が正しきなり〕。】曰ふ。聖武帝【天平十一年[やぶちゃん注:七三四年。]。】と曰ふ。天下に令して、馱負〔(だおひ)〕の重さを改定し【先づ、是れ、馱馬一匹、負ふ所の重さ、大-畧〔(ほぼ)〕、二百斤[やぶちゃん注:当時と同じとは思えないが、現行のそれの機械的換算では一斤は六百グラムであるから、百二十キログラムとなる。以下同じ。]、甚だ、馬の蹄を重勞す。是に於いて、諸州に令して、百五十斤[やぶちゃん注:九十キログラム。]を以つて限りと爲す。今の制、二十五貫目[やぶちゃん注:江戸時代の一貫は三・七五キログラムであるから、九十三・七五キログラム。]を用ふも亦、畧〔(ほぼ)〕、古法に合〔ひたり〕。】

「著聞集」に云はく、『都築(つゞきの)平太經家〔(つねいへ)〕といふ者、有り。善く馬を御するを以つて平氏に仕ふ。〔平氏〕敗北の日、虜〔(とりこ)〕と爲る。是に於いて、駿馬を鎌倉に献ずる者有り、而〔れども〕、人、之れを御〔(ぎよ)す〕ること克〔(あた)〕はず。囚(めしうど)經家をして之れに乘らし〔むれば〕、則ち、相ひ馴るる者のごとし。人皆〔(ひとみな)〕、之れに感ず。頼朝、大きに喜び、罪を免じて、厩〔の〕別當と爲す。嘗て、馬を養ひ、常に異なり、毎〔(つね)〕に夜半許り、白色の物を用ひて、自-手(てづか)ら之れをして飼はしむ。〔はの白き物は、これ、〕未だ何物といふこと、知ざるなり。但し、日中には飼はず。以-爲〔(おもへら)く、〕異〔なり〕と。〔後、〕經家、遂に海に入りて死す。惜しきかな、其の術、傳へざるなり』〔と〕。

[やぶちゃん注:「馬の眼光、人の全身を照らす者」この妖しく光る馬の眼、実は事実なのである。それについては、後の『馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの、有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく』の部分の引用まで「おあずけ」としよう。ヒントは……「タペタム」……フフフ

「杜衡〔(とこう)〕」被子植物門双子葉植物綱ウマノスズクサ(馬の鈴草)目ウマノスズクサ科カンアオイ(寒葵)属カンアオイ Asarum nipponicum の異名(旧漢名か)である。ウィキの「カンアオイ」によれば、日本固有種のギフチョウ(岐阜蝶・鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica。懐かしいなあ! 現代文で何度か授業をやった、日高敏隆の「ギフチョウ二十三度の秘密」でも出て来たなぁ!)『幼虫の食草としても知られる』。本種もまた、『日本固有種で、本州の関東地方から近畿地方、四国』の『山地や森林の林床に生育する』。『小型の多年草。茎は短く、地面を匍匐する。葉は互生、卵形~卵状楕円形で、先端は尖り、基部は心脚、長さ』六~十センチメートル、幅四~七センチメートルで、『濃緑色で白い斑紋がある』。『花期は秋季(』十~十一『月)で地面に接して咲く。花のように見えるのは花弁ではなく』、三『枚の萼片である。萼片は基部で癒着し萼筒を形成する。萼筒は先がくびれず、直径』二センチメートル、長さ一センチメートル『程度で、暗紫色、内側に格子状の隆起線がある。萼筒の先端の萼裂片は三角形で萼筒よりも短く、濁った黄色。雄蕊は』十二『本、雌蕊は』六『本。芳香がある』。本邦には二亜種が植生するともある。

「雞〔(にはとり)の〕糞を食へば、則ち、骨眼〔(こつがん)〕を生ず。〔それ、〕僵〔(し)せる〕蠶〔(かひこ)〕を以つて〔治〕す」ここは訓読に非常に苦労した。訓点に従おうとすると、こうしか、私には読めない。ところが、東洋文庫訳はここを『鶏糞を食べれば、死んで白く固まった蚕のような形の骨眼を生じる』というオドロキの超訳をやらかしてあるのである。確かに一つの訳としては、どこか腑に落ちるように思わせるものがあることはあるが、この文字列ではこの読みは無理があると私は思った。そこで、後に治療法を添えた部分があるので、それに合わせてかく訓じてみた。大方の御叱正を俟つものではある。なお、「骨眼」なるものが実はよく判らぬ。東洋文庫の訳者も実はそうだったのではないか? と私は密かに疑ってさえおり、それを一見、辻褄が合うように見せて訳したのがそれなのではないか? と考えているのである。いろいろ考えて調べてみた。まず、「骨眼」の「眼」だ。直前で超能力的に人の全身を照らす眼光が語られているのだから、馬にとっては眼こそが大事な部分であることが判る。さすれば、この「骨眼」とは馬の眼の疾患なのではないか? と考えた。すると、それらしいものがあったのである! 馬の眼の角膜に生じた傷で、黒目の一部が白くなる症状があり、その写真を見るに、黒目の中に白い骨が生じたように見えるのである。「馬の獣医 Kawata Equine Practice」公式サイトのこちらをご覧あれ! ただ、その白っぽいものが死んで丸くなった白い蚕のようだと言われれば、それもそうだ、と肯んじそうにはなるのである。

「烏梅〔(うばい)〕」これは普通のバラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mumeの異名でもある。或いは青酸配糖体のアミグダリンやプルナシンを含んだ青い未成熟の梅の実か。或いは漢方で「烏梅」があり、梅の未熟な実を干して燻したもので、染料や下痢・腫れ物などの薬とする。本邦では「ふすべうめ」とも称する。後者か。よく判らぬ。わざわざそんなもんで歯を拭う方がおかしいやろ!?!

「海-馬〔(たつのおとしご)〕の骨」条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の干物。漢方では大型種である、タカクラタツ Hippocampus trimaculatus(全長二十二センチメートル)・クロウミウマ Hippocampus kuda(全長三十センチメートル)・オオウミウマ Hippocampus kelloggi(同前)が珍重される。これはまさに類感呪術である。

「猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く」「猿猴」は「猿」で、ここは「本草綱目」の記載なので、哺乳綱霊長目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ族マカク属 Macaca としておく。これは「猴」が特に同属を指す語であったと考えられているからである。但し、「猿」の方は「猨」と同字とした場合、中国では古くは霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科Hylobatidae のテナガザル類を特定して指し、「猴」とは厳然たる区別が行われていたらしい。しかし、後代、それらが一緒くたにされて「猿猴」と呼ばれるようになったと思われる経緯や、「猴」(音「コウ・グ」)自体も、「廣漢和辭典」では「猿」・「ましら」・「猿猴」・「獼猴」・「沐猴」と意義を記し、「説文解字」では中の(にんべん)はなく、「侯」の部分は「候」に通じ、単に「気配を覗って騒ぎ立てる」というサル類一般の義とするからには、「猿猴」は広義広汎な「猿」でよいのかも知れない(なお、ニホンザル Macaca fuscata は学名でお判りの通り、前者マカク属である)。興味のある方は、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭に、「獼猴(さる/ましら)」を始めとして、ズラリと猿類(想像上の妖猿や妖獣を含む)が並び、古い仕儀ながら、相応にそれぞれ考証しているので参照されたい。さて、何故、猿を厩に繋ぐと、馬の病いを避けられる、猿が厩の守護神なのか(本邦でも同じ習俗がある)という点であるが、これは時珍が各所で語っているところの、五行説に基づくものなのである。判り易いのは、岩手県奥州市前沢字南陣場にある「牛の博物館」の作成になる、「牛馬の守護神 厩猿信仰 岩手県前沢町から発見された今や猿をきっかけに」の中の、「牛馬と猿」のページがよい。そこに、『十二支に十二獣を配して五行との関係を見ると、木=卯(兎)、火=午(馬)、金=酉(鶏)、水=子(鼠)という関係であることが分かります。陰陽道では、三合といって世の中に存在する物全てに始まりがあり(生)、次に壮』(さか)『んになり(旺)、最後に終わる(墓)という気の循環が考えられています。そこで季節の中心にあたる兎、馬、鶏、鼠をそれぞれ木火金水の旺として順番にあてはめていくと、火の三合は虎(生)・馬(旺)・犬(墓)、水の三合は猿(生)・鼠(旺)・龍(墓)となります。すると、厩猿信仰は、馬の火(旺)を猿の水(生)で制御しようという仕組みであることが分かります。ここで疑問になるのは、なぜ水の旺である鼠ではなく』、『生じ始めの猿なのかといった点です。それは、たっぷりの水をかけて火を消すのではなく、ちょうど良く制御するためだと説明する事が出来ます。厩猿は馬と同様に厩で飼われる牛にも家畜の守り神としての力を発揮したようで、岡山県など西日本の牛の飼育が盛んだった地方では猿の頭蓋骨が牛神様と呼ばれて信仰されています。また、厩猿信仰の「火災が起きない」といった口承は、猿が水気の動物であることから来ていると考えられます。大衆芸能化した猿回しが旧暦の正月にあたる寅(火の生じ始め)に行っていた門付は、水の生じ始めとしての猿が火災防除の役割も果たすよう期待したものでした』という解説で私は納得出来る(太字下線は私が附した。この因果関係には別な説もあるが、中国での考え方はこれに尽きると私は思う)。なお、猿と馬の関係については、柳田國男が「山島民譚集」の「河童駒引」で考証しており、私は今現在、その電子化注をしている真っ最中である。但し、肝心の猿との関係性の部分は今まさに直前ではあるものの、到達していない。暫く、お待ちあれかし。

「皆、物〔の〕理〔(ことはり)〕、當に然るべきのみ」これらは、皆、この世界の物の道理(但し、陰陽五行思想)から見て、至極当然なことなのである。

『馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの、有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく』んなものがあるはずは無論ないわけだが、馬は実際に暗視能力に優れている。サイト「馬を知ろう!」の「馬の特徴:馬の眼について」に、まず、冒頭に、目の位置と馬の瞳孔が横長に開いている特徴から、彼らの視野は三百五十度にも及ぶことが書かれてあり(但し、視野の五分の四以上が片眼だけで見ているため、その部分では対象の距離判別は出来ない欠点がある)、「5」の「暗視能力」で以下のように記されてある。『馬は夜行性の動物とは言えませんが、夜目はよく利くようです』。『馬産地・日高では夜間も放牧されている馬がいますが、月明かりの下でも、彼らは苦もなく放牧地の中を走ることが出来るのです』。『馬が夜目の利く秘密は眼球の構造にあり、瞳孔から入った光は、網膜に像を結び、網膜表面の視細胞を刺激、光の刺激を受けた視細胞はその刺激を電気信号に変え、視神経を通じて脳に送るのです』。『もちろん』、『夜など、光が弱ければ視細胞に対する刺激は弱くなり、結果的には見えにくいということになりますが、馬の目の網膜の後ろ側には「タペタム(輝板)」』tapetum:視神経円板の背側部の血管板と脈絡毛細血管板の間に存在する構造物。「輝膜」とも呼ばれ、食肉類や原猿類が持つそれは細胞性輝板と呼び、輝板細胞が網膜面と平行に層板上に積み重なった構造を成している)『が存在するのです』。『タペタムは、網膜で吸収されずに透過した光を反射する役割を持っており、タペタムからの反射光は再び視細胞を刺激するのです』。『すなわち馬の視細胞はタペタムがあるために』二『回、光の刺激を受けるのです』。『タペタムはいわば』、『光の増幅装置とも言えるでしょう』。『ネコの目が夜中に光っているのを見たことがある人は多いと思います』。『馬の目もネコほどではないにしろ、同じように光ります』。『これはネコにも馬にも、網膜の後ろに光をよく反射するタペタムが存在するからです』。『タペタムがあるのは夜行性の哺乳動物ばかりとは限らず、魚類ではたいていの種類でタペタムが存在します。これは到達する光がどうしても少なくなってしまう水中で活動せざるを得ないからです』とある。これで、先の夜光る馬の眼の話が事実であることが判るのである。

『「三才圖會」に云はく……ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。前頁に図が有る。

「馬八尺以上……」明代の一尺は三十一・一センチメートルと少し長い(一寸は三・一一センチメートル)から、「八尺以上」は二メートル四十八・八センチメートル以上、「七尺以上」は二メートル十七・七センチメートル以上、「六尺以上」は一メートル八十六・六センチメートル以上、「五尺以上」は一メートル五十五・五センチメートルとなる。本邦では通常、馬の丈は脚の下(地面)から前肢の付け根の肩上部の固い骨の上(騎乗する際の前の突出部)までを言うが、これはそれではとんでもなく巨大な馬になってしまうので、これは事実上の頭部の頂きまでの長さであろう。

「肉」「熱を除き」昔は高熱を発した者には生の馬肉を載せて熱を下げた。向田邦子原作で私の忘れ難い名ドラマ「父の詫び状」(ジェームス三木脚本・杉浦直樹主演)のドラマでそのシーンが出てきたのを思い出す。

「倉米」貯蔵した新米でないものの謂いであろう。

「蒼耳」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium知らない? 知ってるさ! とげとげの樽みたような「ひっつき虫」だよ! ほら、君たち(最初の柏陽の担任生徒たち)がグランドの掃除の時に僕の背中にメチャいっぱいつけた、あれだよ! 生薬名を(実及び全草)「蒼耳子(そうじし)」と呼び、中国最古の薬物書「神農本草経」に既に処方が記載されている。主に鎮痛・鎮痙・解熱・発汗作用があり、風邪による頭痛や発熱・神経痛・蓄膿症に効果があり、蚊や蜂に刺された場合には生葉の汁を塗ると良くなるとも言う。但し、「蒼耳子」には僅かながら毒性があり、多量に服用すると、人によっては頭痛や眩暈(めまい)を伴うことがあると、「馬場藥局」公式サイトのこちらの解説にあった。今度、蚊に刺されたら、やってみよう。

「自死の馬」原因不明で急死した馬。

「蘆菔〔(だいこん)〕」アブラナ目アブラナ科ダイコン属ダイコン Raphanus sativus var. longipinnatus。現代中国語でもこう書く。但し、「蘿蔔」の方が一般的のようではある。

「杏仁〔(きやうにん)〕」既出既注

「馬墨(〔むま〕のたま)」結石。ここは「腎に在り」と言っており、漢方の五臓六腑は現在の臓器とは比定出来ないものが多いが、これはまず腎臓結石ともてよかろう。広義の家畜類の結石類は先行する「鮓荅」(さとう)を見られたい。

「牛黃(〔うし〕のたま)」先行する「牛黃(ごわう・うしのたま)(ウシの結石など)」を見られたい。

「造物の鍾〔(あつま)れる〕所なり」人を含む動物の体内に於いていろいろな原因で作り出されて集まって凝り固まった病的なものなのである。時珍は一貫して「鮓荅」を疾患によって形成されたものという立場を採っており、良安もそれに従っていることは今までの叙述で明らかであるので、わざと「病的な」を挿入した。

「狗寳〔(いぬのたま)〕」先行する「狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」を見られたい。

「溺(ゆばり)」尿。

「消渇〔(しやうけち)〕」口が激しく渇いて尿量が異常に少なくなる状態を指す。別に排尿回数が異常に多いとするものもあり、その場合は所謂、「飲水病」、現在の糖尿病の症状とよく一致する。別に「しょうかつ」(現代仮名遣)と読んでも構わぬ。

「積衆癥瘕〔(しやくじゆちようか)〕」広義の腹部腫瘤全般を指す。

「反胃〔(ほんい)〕」食べたものをすぐ吐いてしまうような状態或いはそうした慢性的症状を指す。

「心腹」胸と腹。

「鼈〔(すつぽん)〕」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。本種は「キョクトウスッポン」「シナスッポン」の名で呼ばれることもある。中国産も同じ。

「馬肝〔(むまのきも)〕」「肝、有りて、膽、無し」これも例外的に「肝」は肝臓、「膽」は胆嚢と採ってよい。ここにある通り、馬やラットには存在しない。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「稟〔(う)け〕て」「受けて」。応じて。

「膽は木の精氣なり。木臟〔(もくざう)〕足らざる故、馬〔の〕肝、大毒有り、之れを食ふ者、死す」五行の「木」が欠けた生物であるから、五行の調和が壊れた存在であり、だから有毒・大毒なのだと謂うのであろう。

「人丸」「拾遺」「山科の木幡〔(こはた)〕の里に馬はあれどかちよりぞ行く君を思へば」「拾遺和歌集」の「巻第十九 雑恋」に「題知らず」で、柿本人麿の歌として載せる一首(一二四三番)であるが、「万葉集」の「巻十一」の詠み人知らずの以下の一首(二四二五番)、

 山科の木幡の山は馬はあれど步(かち)ゆわが來(こ)し汝(な)を思ひかねて

の異伝に過ぎない。

「古今」「大あらきの杜〔(もり)〕の下草生ひぬれば駒もすさめず刈る人もなし」「古今和歌集」の「巻第十七 雑歌上」の詠み人知らずの一首(八九二番)であるが、表記に問題がある

 大荒木(おほあらき)の森の下草(したくさ)老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

が正しい。「大荒木」は地名らしいが不明。これを「殯(もがり)の宮」(本葬の前に蘇生を祈って仮安置する場所)とする説がある(岩波の「新日本古典文学大系」の注に拠る。以下も同じ)。「すさめず」「心を寄せない・好まない」の意。草が年長けてしまって硬くなってしまったから、馬も喰(は)もうとせぬ、というのである。なお、この一首には後書きの異伝の上句が示されてあり、それで復元すると、

 さくら麻(あさ)麻生(をふ)の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

となる。「さくら(櫻)麻」は実体不詳の万葉以来の枕詞。「をふ(苧生・麻生)」にかかる。「麻」と「苧(お)」は同義であるところから、「おふ(苧生:麻の生えている場所。麻畑)に掛かるのだと説明される。

『昔、駿馬〔(しゆんめ)〕有り、驁〔(がう)〕と名づく。壬申〔(みづのえさる)〕の日を以つて死す。故に、馬に乘るに、此の日を忌む』この出所は「説文解字」(最古の部首別漢字字典。後漢の許慎撰。西暦一〇〇年成立)であるようだ。『駿馬。以壬申日死、乘馬忌之。从馬敖聲』とある。

『古えは「波之留〔(はしる)〕」と訓ず。今、「加介留〔(かける)〕」と稱す。蓋し、馬の死を「波之留」と曰〔へば〕、故に之れを忌む〔なり〕』不審。小学館「日本国語大辞典」の「はしる」を引くと、本文意義には馬の死を指すと出ない。確かに、方言の項には人が『死ぬ・他界する』(壱岐の採取)及び『牛馬が死ぬ』として和歌山県西牟婁郡田並・山口県豊浦郡の採取例が載るが、寺島良安は生粋の大坂人である。このような汎用例があるとされる方は御教授願いたい。

「磬〔(けい)〕」本字は原義は「打ち石」で、中国古代の「へ」の字形をした打楽器で、後に仏教で「きん」と読み、礼拝や読経の際に打ち鳴らす仏具の意となり、また、体を楽器の磬の形のように折り曲げて礼をするの意が生じ、最後に「はせる・馬を走らせる」の意があることはある。これはやはり、疾走する際の馬の体型を楽器の「磬」に譬えたものか。

「馬、石を怕(をそ)れて、行くこと能はざる」「石」を鉱石と言い換え、五行の「金」と採るならば相剋で「金剋木(ごんこくもく)」(金属は木を傷つけて切り倒す)であるから、腑に落ちる。

?(けしとむ)」「消(け)し飛(と)む」で「消し飛ぶ」と同義。「勢いよく飛んで見えなくなる・ふっ飛ぶ」以外に「蹴躓(けつまず)く」の意があり、古語用例では馬のそれに使われているので腑に落ちる。

駗驙〔(しんてん)〕」中国語の辞書に「馬載重難行」(馬、重きを載せて難行す)とある。

〔(たく)〕」「康熙字典」に「䮓騺」として、「馬行不前貌」(馬の行くに、貌〔(かほ)〕を前せず)とあるので、馬が行き悩む、前進することを嫌がるの意と採れる。

「嘶〔(いばふ)〕」」「以波由〔(いばゆ)〕」小学館「大辞泉では」後者が原形で、「いばふ」はその転訛とする。

「以奈奈久〔(いななく)〕」「い」は馬の鳴き声のオノマトペイアで、馬が声高く鳴くことを指す。

(はだせ)」原典は「はたせ」で(但し、良安は濁点を除去することが多い)、東洋文庫訳も『はたせ』とするが、これは「裸(肌)背馬(はだせうま)」の略と考えられ、小学館「日本国語大辞典」も「はだせ」で見出しを作るので、濁音で示した。

『凡そ、畜を以つて物を載(の)す〔は〕、皆、「馱」と曰ふ【俗、「」に作り、或いは「駄」に作る〔は〕並びに非なり[やぶちゃん注:孰れも誤りである。]。】〔は〕和名、之れを「小荷馱馬(こにだ〔むま〕)」と謂ふ』しばしば認められる良安の漢字や訓へのマニアックな拘りがバクハツしているが、これは正しい。この「馱」は「駄」の正字なのである。

「一斛五斗」「斛」は「石」に同じで、単純換算では約二百七十・五リットルとなり、米一石だと、百五十キログラムであるから、四百五十キログラムになってしまうが、流石に重過ぎる。実際には俵換算で減衰する。後に「六十貫目」とあり、これだと、二百二十五キログラムで、振り分け荷としては、馬が何とか運べそうな重量ではある。

『張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」』東洋文庫書名注に、「安驥集」は『中国古代の黄帝の時の馬師皇の言辞を編したものという。馬の疾病・治療法などを説く』としつつ、但し、『本書にいう張穆仲の『安驥集』は不明』とする。しかし、検索すると、山形県米沢市の市立米沢図書館の「デジタルライブラリ」のこちらで、「司牧療馬安驥集(しぼくりょうばあんきしゅう)」(全七巻・附一巻・六冊)『金張穆仲輯』として、一五〇四年(明の弘治十七年)序の刊本が示され、『中国で唐時代に作られた馬医書で、日本にも伝わり』、『仮名で再編集された「仮名安驥集」が広く用いられた。本書は』『世界的にも古い刊本と評価されている』とあり、当該刊本をこちらで視認することが出来る。その九コマ以降に各相の詳細にして膨大な解説が載り、それを縦覧するに、冒頭(八~九コマ目)にある多量のキャプション附きの馬の図及び後に続く詳細解説と、十コマ目にある「相良馬宝金篇」を良安がここで参考にしたことは最早、間違いなく、それどころか、冒頭の図の旋毛の吉凶についても、十三~十四コマの図に「良馬旋」の図があって、続く馬の年齢等も、良安は大々的にこの本に基づいて記載していることが判る。是非、原書の記載や画像を見られたい

「食槽(むまのきほね)[やぶちゃん注:臼歯。]」意味は東洋文庫の割注に拠った。通常は馬用の飼葉桶や水桶を指す語であるが、前後から、ここに突然、入るのはおかしいし、上記の「相良馬宝金篇」にも、

   *

食槽寛浄顋無肉

   *

とあるので、しっかりと噛むための臼歯と採るのが腑に落ちる。

「脛骨〔(けいていこつ)〕」(「」=「月」+「廷」)上記原本の八コマ目の図で、向う脛の部分を指示してある。

「鹿節」上記原本の八コマ目の図で、後ろ足の脛(骨)の部分を指示してある。

「曲池は深きを欲す」同じく八コマ目の図にあるが、指示線がない。但し、人の経絡の経穴に「曲池穴(きょくちけつ)」があり、それは上肢(腕)の左右の肘の部分の外側の窪んだ部分に当たるが、図を見ると、後ろ足の右のまさにそれらしい位置に丸い窪みのようなもの(記号?)があるから、それを指しているのではないかと私は思う。

「汗溝〔(あせみぞ)〕」馬の腰の上部か下へ向かって窪んでいる部分。上記原本の八コマ目の図で示されてある。

「外腎」既に「思うにの外生殖器のことを指すものと思われる」と注したが、まさに上記原本の八コマ目の図で陰茎らしき部分を指示してある。

「馬〔の壽命は〕三十二。齒を以つてを知る」以下も総て、上記「司牧療馬安驥集」の十七と十八コマ目の引き写しである。

「馬の毛色」ウィキの「馬の毛色」に詳しく、各毛色の独立ページもリンクされているので、そちらを参照されたい。言葉よりそれらの画像で一目瞭然なれば、私は一部を除き、個々には注さない。

『「油馬(かすげ)」【和名、「糟毛」。】』粕毛(かすげ)。ウィキの「粕毛」に、『原毛色に白色毛が混毛し、体が灰色っぽく見える馬のこと、またはその状態そのものを指す。芦毛や薄墨毛と非常に混同されやすい毛色であるが、別の毛色である』。『原毛色により、栗粕毛(原毛色が栗毛系)、鹿粕毛(原毛色が鹿毛系)、青粕毛(原毛色が青毛系)と区別する』とある。リンク先に画像有り。

『「連錢〔(れんせんあしげ)」〕」【和名、「連錢葦毛」。】、靑黑〔の〕斑〔(まだら)〕にして魚〔の〕鱗のごとし』藤木ゆりこ氏のサイト「花遊戯~はなあそび~」内のこちらの一番上の写真の馬がそれ。藤木氏の同サイト内の「馬の毛色いろいろ」からも各種のそれらを見られる。必見!

「襍毛〔(ざつもう)〕」「襍」は「雜」に同じい。

『「騢(ひばりげ)」【和名、「鴾毛〔(つきげ)〕」。】、赭〔(しや)と〕白〔の〕雜毛』月毛に同じい。葦毛(白を基調に黒・茶・赤の混じったもの)の全体に赤ばんだ毛色を指す。ウィキの「月毛」を参照されたい。ほら、芥川龍之介の「藪の中」で真砂が乗っていた馬だよ。

『「搜神記」〔に云はく〕……』以下は、第六巻の以下。

   *

漢文帝十二年、地有馬生角、在耳前、上向、右角長三寸、左角長二寸、皆大二寸。劉向以爲馬不當生角、猶不當舉兵向上也、將反之變云。京房易傳曰、「臣易上、政不順、厥妖馬生角。茲謂賢士不足。」。又曰、「天子親伐,馬生角。」。

   *

自然流で訓読しておく。

   *

 漢の文帝十二年、の地に、馬、有り、角を生ず。耳の前に在りて、上向(うはむ)きて、右の角、長さ三寸、左の角、長さ二寸、皆、大(ふと)さ、二寸。劉向、以爲(おもへ)らく、「馬、當に角を生ずべからず。猶ほ、、當に舉兵し、上(かみ)に向(はむか)ふべからざるがごとし。、將に反するの變たり。」と云ふ。「京房易傳」に曰はく、「臣、上を易(あなど)り、政(まつりごと)、順ならざれば、厥(それ)、馬、角を生ずるの妖あり。茲(これ)、『賢士の足らざる』の謂ひなり。」と。又、曰はく、「天子、親伐(しんばつ)せば、馬、角を生ず。」と。

   *

「万寶全書」東洋文庫書名注に、『無名氏撰。清の毛煥文』(もうかんぶん)『増補の『増補万宝全書』がある。三十巻。百科事典のたぐい』とある。

「黃丹〔(わうたん)〕」漢方で「鉛丹(エンタン)」の別名。鉛を熱して赤褐色に酸化させた生薬。成分は四酸化三鉛(しさんかさんなまり:Pb3O4)効能は明らかでないが、外用薬(塗り薬)で、皮膚の化膿症・湿疹・潰瘍・外傷・蛇による咬傷などに用いると漢方サイトにはあった。

「黃芪〔(くわうぎ)〕」マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ(黄花黄耆)Astragalus membranaceus 或いは同属のナイモウオウギ Astragalus mongholicus の根から作られた生薬。現行では「黄耆(オウギ)」と称する。止汗・強壮・利尿・血圧降下等の作用があるとする(ウィキの「キバナオウギ」に拠る)。

「烏藥〔(うやく)〕」既出既注

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 或いは近縁種の根から製した生薬。消炎・鎮痛・抗菌・止血・抗痙攣作用を有する。

「山茵陳〔(いんちこう)〕」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ Artemisia capillaris の頭状花部分から製した生薬。消炎・利胆・解熱・利尿効果があり、黄疸・肝炎・胆嚢炎などに用いられる。

「地黃〔(ぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根から製した生薬。内服薬としての利用では補血・強壮・止血作用が、外用では腫れ物の熱を取り、肉芽の形成作用を有する。

「兜苓〔(とうれい)〕」「馬兜鈴(バトウレイ))」等異名が多い、ウマノスズクサ(馬の鈴草)科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ草 Aristolochia debilis 及びマルバノウマノスズクサ Aristolochia contorta などの成熟果実を原料とする生薬で、鎮咳・去痰・止血・消腫・鎮痛・呼吸改善・痔疾改善・整腸及び創傷回復などに用いると漢方サイトには確かにあったが、しかし、この如何にもな和漢名の草を馬の血尿に用いるというのは、どうも、もともとは類感呪術っぽい感じがする。

「枇杷」ナシ亜科ビワ属ビワ Eriobotrya japonica の葉は「琵琶葉(ビワヨウ)」、種子は「琵琶核(ビワカク)」と呼ばれる生薬とする。ウィキの「ビワ」によれば、ビワは「大薬王樹」とも呼ばれ、民間療薬としても『親しまれてもいる。なお、以下の利用方法・治療方法は特記しない場合、過去の歴史的な治療法であり、科学的に効果が証明されたものであることを示すものではない』。『葉には収斂(しゅうれん)作用があるタンニン』(tannin:「タンニン」という名称は「革を鞣す」という意味の英語である「tan」に由来し、本来の意味としては、製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であった)『のほか、鎮咳(ちんがい)作用があるアミグダリン』(amygdalin:青酸配糖体の一種)『などを多く含み』、『乾燥させてビワ茶とされる他、直接患部に貼るなど』、『生薬として用いられる。 琵琶葉は』、九『月上旬ごろに採取して葉の裏側の毛をブラシで取り除き、日干しにしたものである』。『この琵琶葉』を『水で煎じて』『服用すると、咳、胃炎、悪心、嘔吐のほか、下痢止めに効果があるとされる』。『また、あせもや湿疹には、煎じ汁の冷めたもので患部を洗うか、浴湯料として用いられる』。『江戸時代には、夏の暑気あたりを防止する琵琶葉湯に人気があったといわれており、葉に含まれるアミグダリンが分解して生じたベンズアルデヒドによって、清涼飲料的効果が生み出されるといわれている』。『種子』も『水で煎じて服用すると、咳、吐血、鼻血に効果があるとされる』。『葉の上にお灸を乗せる(温圧療法)とアミグダリンの鎮痛作用により』、『神経痛に効果があるとされる。 ただし、アミグダリンは胃腸で分解されると猛毒である青酸を発生する。そのため、葉などアミグダリンが多く含まれる部位を経口摂取する際は、取り扱いを間違えると健康を害し、最悪の場合は命を落とす危険性がある』ともあるので、要注意

「貝母〔(ばいも)〕」単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ Fritillaria verticillata var. thunbergiiの乾燥させた鱗茎の生薬名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに用いられるが、鱗茎を始め、全草に多種のアルカロイドを含み、これは心筋を侵す作用があることから、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺を引き起こす事があり、呼吸数・心拍数低下を惹起する場合もあることから、使用時は量に注意しなくてはならない(以上はウィキの「アミガサユリ」に拠った)。

『「著聞集」に云はく……」以下は、「古今著聞集」の「巻第十 馬芸」に載る、以下の「都筑經家、惡馬を御する事」。

   *

 武藏國の住人、つづきの平太經家は、高名の馬乘り・馬飼ひなりけり。平家の郎等(らうどう)なりければ、鎌倉右大將、めしとりて、景時にあづけられにけり。其時、陸奧(みちのく)より、勢、大きにして、たけき惡馬をたてまつりたりけるを、いかにも乘るもの、なかりけり。きこえある馬乘りどもに、面々にのせられけれども、一人も、たまるものなかりけり[やぶちゃん注:乗りこなすことが出来る者はなかった。]。幕下[やぶちゃん注:源頼朝。]、思ひわづらはれて、
「さるにても、此の馬に乘るものなくてやまむ事、口惜しき事なり。いかがすべき。」
と、景時にいひあはせ給ければ、
「東八ケ國に、いまは心にくきもの[やぶちゃん注:頼みとし得る者。]、候はず。但し、召人(めしうど)經家ぞ候。」
と申しければ、
「さらば、めせ。」
とて、則ち、召しいだされぬ。
 白水干(しろすいかん)に葛(くず)の袴をぞきたりける。
 幕下、
「かかる惡馬あり。つかうまつりてんや。」
とのたまはせければ、經家、かしこまりて、
「馬は、かならず人に乘らるべき器(うつは)にて候へば、いかにたけきも、人にしたがはぬ事や候べき。」
と申ければ、幕下、入興(じゆきよう)せられけり。
「さらば、つかうまつれ。」
とて、則ち、馬を引き出だされぬ。
 まことに大きにたかくして、あたりをはらひて[やぶちゃん注:周囲に人を寄せ付けず。]、はねまはりけり。經家、水干の袖、くくりて、袴のそばたかくはさみて[やぶちゃん注:袴の腿立ちの部分を上に高く挟んで。]、烏帽子(ゑぼうし)かけして[やぶちゃん注:烏帽子の紐を顎の下で強く結んで、落ちぬようにし。]、庭におり立ちたるけしき、まづ、ゆゆしくぞ見えける。かねて存知(ぞんち)したりけるにや、轡(くつわ)をぞ、もたせたりける。その轡をはげて[やぶちゃん注:馬の口に噛ませて。]、さし繩(なは)[やぶちゃん注:手綱に添えて用いる引き綱。]とらせたりけるを、すこしも事ともせず、はねはしりけるを、さし繩にすがりてたぐりよりて乘りてけり。やがてまりあがりて出けるを[やぶちゃん注:すぐに躍り上がって庭の外へと出て行ったが。]、すこし走らせて、うちとどめて、
「のどのど。」[やぶちゃん注:馬の足音のオノマトペイア。「ぽくぽく」。]
とあゆませて、幕下の前にむけて、たてたりけり。見る物、目をおどろかさずといふ事なし。よくのらせて[やぶちゃん注:十二分に乗りこなしたので。]、
「いまは、さやうにてこそあらめ。」[やぶちゃん注:頼朝の台詞。「もう、それくらいよかろうぞ。」。]
とのたまはせける時、おりぬ。
 大きに感じ給ひて、勘當(かんだう)ゆるされて、厩(うまや)の別當になされにけり。
 かの經家が馬飼けるは、夜半ばかりにおきて、なににかあるらん、白き物を一かはらけばかり[やぶちゃん注:素焼きの鉢にすればその一盛り分ほど。]、手づからもて來りて、かならず飼ひけり。すべて、夜々(よよ)ばかり、物をくはせて、夜、あくれば、はだけ髮(がみ)[やぶちゃん注:乱れた鬣。]ゆはせて、馬の前には草一把(いつぱ)も、おかず。さわさわとはかせてぞ、ありける[やぶちゃん注:後は塵一つなく、綺麗に掃いてあったという。]。
 幕下、富士川あゐさはの狩りに出られける時は、經家は、馬、七、八疋に鞍置きて、手繩(てなは)[やぶちゃん注:下級の馬の口取りが馬を牽くために結んで使う繩。]むすびて、人も付けずうち放ちて侍りければ、經家が馬のしりにしたがひて行きけり。さて、狩庭(かりば)にて、馬のつかれたるをりには、めしにしたがひてぞ、まいらせける[やぶちゃん注:お召しがあった際には、即座に別の馬を差し上げ申し上げたという。]。
 今の代には、かくほどの馬飼ひもきこえず。その飼ひけるやうに傳へたるものなし。經家、いふかひなく入海(じゆかい)して死にければ、知る者なし。口惜しき事なり。

 

   *

「都築(つゞきの)平太經家〔(つねいへ)〕」以上の本文の参考にした新潮日本古典集成の「古今著聞集」(西尾光一・小林保治校注)の注によれば、『都筑(都築・綴喜)氏は、武蔵国都筑郡一帯を根拠とした氏族。藤原利仁の末裔で、斎藤氏の系族』で、『都筑党は武蔵七党に数えられることもあった』とある。「吾妻鏡」には三箇所で彼『都筑平太』の名を三箇所で認めることが出来るので、確かに実在した人物である。最初が、文治元(一一八五)年十月二十四日の長勝壽院の落慶供養に頼朝が出向いた際の随兵六十人(頼朝が弓馬の達者を精選したと前書する)の西方の七人目で、次が建久元(一一九〇)年十一月七日の栄えある頼朝入洛の際の、水干姿に野箭を背負った随兵二十一番(全部で四十六番まである)の三名の一人(三列一組騎馬縦隊であろう)して載り、建久六(一一九五)年三月十日の、頼朝の東大寺供養のための再上洛の際の、やはり随兵として名が出る。異様な「入海(じゆかい)して死にければ」というその理由は不明であるが、その死はこれ以降のこととなる。何か、私にはひどく気になる人物なのである。

2019/02/23

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 酪(にうのかゆ)・酥(そ)・醍醐(だいご)・乳腐 (ヨーグルト/バター・精乳・乳清(私の独断)・チーズ)

 

[やぶちゃん注:以下は、「黃明膠」の後にすぐ罫線を以って続いている。しかし、これは要は「牛」の項の附録に相当するもので、図はない。各冒頭の標題項目部分は実は四つ総てが罫線の直後に縦に一列に記されているが、ここでは今までのように、それぞれを解説部の前に分けて示した。最後の「乳腐」には和訓も中国音も附されていない。]

 ――――――――――――――――――――――

 にうのかゆ

【音洛】

ロツ

 

酪【和名迩宇能可遊】本綱水牛𤚩牛犛牛羊馬駝之乳皆可酪作之

 入藥以牛酪爲勝造之法用乳半杓鍋内炒過入餘乳

 熬數十沸常以杓縱橫攪之乃傾出鑵盛待冷掠取浮

 皮以爲酥入舊酪少許紙封收之卽成矣

 乾酪法以酪晒結掠去浮皮再晒至皮盡却入釜中妙

 少時器盛曝令可作塊收用

 

 

にうのかゆ

【音、「洛」。】

ロツ

 

酪【和名、「迩宇能可遊」。】「本綱」、水牛・𤚩牛〔(しんぎう)〕[やぶちゃん注:「康熙字典」は北方の小型の水牛とする。]・犛牛〔(りぎう/からうし)〕[やぶちゃん注:ヤク。]・羊・馬・駝〔らくだ)〕の乳、皆、之れを酪に作〔(な)〕すべし。藥に入〔るるは〕、牛〔の〕酪を以って勝〔(すぐ)〕れりと爲す。之れを造る法、乳、半杓〔(しやく)〕を用ひて、鍋の内に炒り過ぐし[やぶちゃん注:十二分に炒り。]、餘乳を入れ、熬〔(がう)〕する[やぶちゃん注:「炒る・煮る」に同じ。]こと、數十沸〔(すじゆうふつ)〕[やぶちゃん注:数十回、焦げぬように沸騰を繰りかえさせることであろう。]、常に杓を以つて縱橫に之れを攪(かきまは)し、乃〔(すなは)ち〕、傾け出だし、鑵〔(かん)〕に盛り、冷ゆるを待ちて、浮きたる皮を掠〔(かす)め〕取り、以つて酥〔(そ)〕[やぶちゃん注:乳を煮詰めて濃くしたものを指す語。]と爲す。舊〔(ふる)き〕酪を少し許り入れ、紙にて封し、之れを收めて[やぶちゃん注:暫く寝かせれば。]、卽ち、成る。

 乾酪法〔は〕、酪を以つて晒〔(さら)〕し、〔凝〕結させ、浮きたる皮を掠〔め〕去〔り〕、再たび、晒し、〔表の〕皮、盡くるに至り、却〔(かへ)〕りて釜〔の〕中に入れ、妙る。少時〔(しばらく)して〕器に盛り、曝〔(さら)し〕、令可塊〔(かたまり)〕と作〔(な)〕して收〔め〕用〔ふ〕べからしむ。

[やぶちゃん注:「酪」は和訓「ちちしる」(乳汁)で、本標題の「にうのかゆ」(乳(にゅう)の粥)の読みからも判る通り、牛・水牛・ヤク・羊・馬・駱駝などの乳から作った、広義の飲料や食品である、ミルク・ヨーグルト・バター・チーズなどを広汎に指す語である。前段がヨーグルト様の飲料、後段がバターやチーズ様の固形物であるが、後に出る「醍醐」が叙述からは、私には液体の乳清(乳から乳脂肪分やカゼイン(casein:乳含まれる燐蛋白の一種。牛乳の乳蛋白質では約八十%を占める)などを除いた黄緑色をした水溶液)を、「乳腐」がチーズを想起させるので、後者はバターと採るのがよいかと私は考える。]

 

【音蘇】

ソウ

 

酥乃酪之浮靣所成令人多以白羊脂雜之不可不辨之

 造法以乳入鍋煎二三沸頒入盆内冷定待靣結皮取

 皮再煎油出去渣入在鍋内卽成酥油一法以桶盛乳

 以木安板搗半日焦沫出撤取煎去焦皮卽成也凡入

 藥以微火溶化濾浮用之

 

 

【音、「蘇」。】

ソウ

 

酥、乃ち、酪の浮〔きたる〕靣〔(おもて)〕に成る所〔のものなり〕。人、多く、白羊脂を以つて之れに雜〔(まぢ)〕へ〔たれば〕、辨んぜざるべからず[やぶちゃん注:白羊脂を混入させたものかそうでないかを見分けことが非常に大切である。]。之の造法〔は〕、乳を以つて鍋に入れ、煎りして、二、三沸、盆〔の〕内に頒け入れ、冷〔し〕定〔め〕、靣(おもて)に皮を結ぶを待ちて、皮を取り、再たび、煎り、油出〔(あぶらだし)〕し、渣〔(かす)〕を去り、鍋内に入れ在〔(お)かば〕、卽ち、酥油〔(そゆ)〕と成る。一法〔に〕、桶を以つて乳を盛り、木を以つて板に安〔(やすん)〕じて[やぶちゃん注:平たい板に円柱状の木を取り付けた簡易の杵状のものであろう。]、半日、搗く。焦〔(こげ)れる〕沫〔(あは)の如きもの〕、出づ。〔之れを〕撤〔(のぞ)き〕[やぶちゃん注:除き。]取〔(と)り〕、煎りして、焦〔れる〕皮を去り、卽ち、成るなり。凡そ、藥に入〔るるには〕、微〔かなる〕火を以つて溶-化(わか)し[やぶちゃん注:湧かし。]、濾(こ)し、浮きて〔きたるもの〕、之れに用ふ。[やぶちゃん注:原本は一部の返り点に不審があり、従っていない箇所がある。]

[やぶちゃん注:「酥」は牛や羊の乳を精錬(一般には煮詰める)し、濃くした飲料、通常のミルクの類を指す。また、「蘇(そ)」と書いて同じものだと多くの辞書類はするが、ウィキの「蘇」によれば、こちらは『古代の日本で作られていた乳製品の一種で』、『文献には見えるが』、『製法の失われた食品となっている』。『平安貴族階級の間で乳製品が広まったが、武士が台頭して来るにしたがって廃れ、江戸時代中期まで日本の酪農は廃れる』。『文武天皇が(』七〇〇『年)に蘇を税として全国で作るように使いが派遣された』。『典薬寮の乳牛院という機関が生産を担っており、薬や神饌としても使われていた。仏教祭事には蜜と混ぜられて原料として使用された様子である』。『現代では、文献を元に様々な人が蘇を復元しようとしている』『が、原料乳の生産牛種も不明でそれが本当に当時の蘇と同じものか現存しないので確認は困難である』。『このように不明な部分の多い食品ではあるが、諸説に共通しているのは「蘇は乳を煮詰めた乳製品で美味しいもの」である』とし、相当に乾燥し長期保管に耐える加熱濃縮系列の乳加工食品』『と考えられている』。『現在に残る当時の文献が少ないが、製造方法は』「延喜式」や『「政治要略」に記され、「蘇を作る方法は、乳を一斗煎じて、一升の蘇が得られる」程度の記載であり、このまま濃縮牛乳を作っただけでは、日本の気候風土から腐敗してしまうので、なんらかの処理がなされていたとも言われている』。『また、生乳の固形分は』十二%『であるため』、『厳密に原料乳比』十%『に濃縮することは不可能である』。一方、『蘇が乳を煮詰めただけの物だと腐敗してしまうので、なんらかの処理がなされたと考えるのが妥当である』からそれはチーズだとする説があり、また、「大般涅槃経」の中に『五味として順に』生酥熟酥醍醐『へとある』(次項「醍醐」を参照のこと)。『酥は醍醐の原料という説があるのはここからであるが、蘇と酥は別のものとする説がある』。『主な生産地として、摂津国・味原(あじふ)の乳牛牧(ちちうしまき、ちちゅうしまき。現在の大阪市東淀川区の一部にあたる)などが知られている。古代には東国においても多くの牛が飼育されており、『延喜式』によれば東国すべての国で蘇を貢納している』。以下、「蘇と酥が別のものとする説」の条。『蘇は牛乳を煮詰めたものであり、酥は牛乳を煮詰めるときに出る被膜(乳皮)を集めたものであるから、蘇と酥は明確に違うものを指す。蘇と酥が混同されるのは、発音が同じであり、更に乳製品が「涅槃経」の中で書かれており、後世になってから文献を本に復元された為、という説もある』(この製法部は良安の叙述(実際には前の「酪」からの続きなので、「本草綱目」の叙述である)と一致する)。以下、「その他」の条。『蘇酥同一と解釈して、様々な研究が行われて』おり、『蘇酥同一説の醍醐』として、『蘇をさらに熟成・加工して醍醐(チーズ様の乳製品)も作られたという説もあ』り、『蘇酥同一説の製法方』として、『ラムスデン現象』(Ramsden phenomenon:牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により、表面に膜が張る現象を指す。これは成分中のタンパク質(β-ラクトグロブリン)と脂肪が、表面近くの水分の蒸発により熱変性することによって生ずるもので、牛乳ではなく豆乳でできる膜は「湯葉」と呼ぶ。 なお、β-ラクトグロブリンはホエータンパク質(乳清タンパク質)の一種であり、カゼインとは異なる)『によって牛乳に形成される膜を、箸や竹串などを使ってすくい取り、集めた物が蘇である(なお、同じ工程を豆乳で行った場合にできるのは湯葉[ゆば]である)。加熱するだけで、熟成を行わないため、フレッシュチーズに分類される』とあるのであるが、のウィキは冒頭で、「蘇」はこの「酥」とは同一の物ではないとガツンと一発、断言してしまっている(注記によれば、斎藤瑠美子・勝田啓子共著論文『「延喜式」に基づく古代乳製品蘇の再現実験とその保存性』(『日本家政学会誌』Vol.40 (1989) No.3 P.201-))に拠るとする)とある。但し、それは日本の食品としての「酥」と「蘇」が別物なのであって、漢語の「蘇」には、調べた限りでは、「酥」と同じ「かき集める」の意がある以外に、特殊な乳製品を指す意味は見当たらないことは言い添えておく

「白羊脂」当初、「白羊〔(しろひつじ)の〕脂〔(あぶら)〕」と訓じたが、その正体も判らぬし、白羊である必然性もピンとこないのでやめた(東洋文庫は『白羊脂』そのままで割注も何もない。東洋文庫の訳者は「白羊脂」をよくご存じのようだ。是非とも教えて戴きたいものだ)。ネットで検索しても牛乳の偽物として飲用出来る「白羊脂」は見出せなかった(白い石なら見出せる)。識者の御教授を乞う。

「焦〔(こげ)れる〕沫〔(あは)の如きもの〕」東洋文庫はやはり『焦沫』のままで読みも振らない。私は六十二年の人生の中で「焦沫」という熟語は見たことがないから、そんな訳文は訳だとは思わない。敢えて迂遠にかく語を添えて訓読しておいた。大方の御叱正を待つ。]

 

だいご

醍醐【體乎】

テイ フウ

 

醍醐是出於酥中乃酥之精液也好酥一石有醍醐三四

 升熱枰煉貯器中待凝穿中至底便津出取之極甘美

[やぶちゃん注:「枰」(棋等の遊戯盤)では意味が通らない。「本草綱目」を見ると「拌」で腑に落ちた。訓読ではこれに変えた。]

 盛冬不凝盛夏不融此物性滑物盛皆透惟雞子殼及

 壺蘆盛之乃不出

 右三物大抵性皆潤滑宜於血熱枯燥人【其功亦不甚相遠也】

 

 

だいご

醍醐【〔音、〕「體乎〔(タイコ)〕」。】

テイ フウ

 

醍醐は、是れ、酥の中〔(うち)〕より出づ。乃ち、酥の精〔なる〕液なり。好き酥、一石〔に〕醍醐〔は〕三、四升有り。熱し、拌〔(かきま)ぜ〕煉〔(ね)〕り、器の中に貯へ、凝れるを待ち、中を穿ち、底に至〔れば〕、便〔(すなは)〕ち、〔液、〕津〔(し)み〕出〔づ〕。之れを取る。極めて甘美〔なり〕。盛冬〔にも〕凝らず、盛夏に〔も〕融(とろ)けず。此の物の性〔(しやう)〕、滑かにして、物に盛るに、皆、透(す)く。惟だ、雞子(たまご)の殼(から)及び壺蘆(ひやうたん)に之れを盛れば、乃ち、出でず。

 右、三〔つの〕物[やぶちゃん注:酪・酥・醍醐。]、大抵、性、皆、潤滑〔たり〕。宜し血熱・枯燥の人に宜〔(よろ)〕し【其の功も亦、甚だ相ひ遠からざるなり。[やぶちゃん注:その効果もまた、それほど遅行性ではなく、まずまずというところである。]】。

[やぶちゃん注:まず、ウィキの「醍醐」を引く。『醍醐(だいご)とは、五味の一つ。牛乳を加工した、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁とされ』。『最も美味しい味の代名詞として使われた。すでに製法は失われており、後述のような諸説(バターのようなもの』、『又は現代で言うカルピスや飲むヨーグルトのようなもの、または蘇(レアチーズ)を熟成させたものなど』『)入り乱れ』、『実態は不明である』。一部の研究者が行った『再現実験』で『は、バターオイルのような物質であるとしている』。先にも示した通り、大乗経典「大般涅槃経」の中では五味として、順に、『乳生酥熟酥醍醐と精製され』、『一番美味しいものとして』、「涅槃経」も『同じく最後で』、『最上の教えであること』の譬えとして『書かれている。これを』「五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)」という。「大般涅槃経」のそれは以下(リンク先の原文に一部手を加えた)

   *

譬如從牛出乳 從乳出酪 從酪出生蘇 從生蘇出熟蘇 從熟蘇出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸藥 悉入其中 善男子 佛亦如是 從佛出生十二部經 從十二部經出修多羅 從修多羅出方等經 從方等經出般若波羅蜜 從般若波羅蜜出大涅槃 猶如醍醐 言醍醐者 喩于佛性

   *

以下の訓読は私が勝手に改変(リンク先の訓読は甚だ杜撰で読むに堪えない)したもの。

   *

牛より乳を出だし、乳より酪(らく)を出だし、酪より生酥(せいそ)を出だし、生酥より熟酥(じゆくそ)を出だし、熟酥より醍醐を出だす。醍醐は最上たり。若(も)服する者有れば 衆(しゆ)の病い、皆、除く。諸藥の有する所、悉く其の中(うち)に入れり。善男子(ぜんなんし)[やぶちゃん注:あまり理解されているとは思われないので言っておくと、仏教では変生男子(へんじょうなんし)で、男でないと成仏は出来ず、女は男に生まれ変わらないと、通常は極楽往生は出来ないのが、原始仏教以来の決まりである。]、佛も亦、是(か)くのごとし。佛より「十二部經」を出だし、「十二部經」より「修多羅(しゆたら)」を出だし、「修多羅」より「方等經」を出だし、「方等經より「般若波羅蜜」を出だし、「般若波羅蜜」より「大涅槃經」を出だす。猶ほ、醍醐のごとし。醍醐と言ふは、佛性の喩へなり。

   *

『とある。これが醍醐味の語源として仏教以外でも広く一般に知られるようになった』。『延喜式では、納税に用いる蘇の製造が規定されている。蘇は醍醐を製造する前段階の乳製品であることから、蘇の製造方法を参考にしてさまざまな手法で濃縮、熟成させ、醍醐を作り出す試みが食品研究家らの手でなされている』。『ラクトー株式会社(現:カルピス株式会社)は』大正八(一九一九)年七月七日に『誕生した「カルピス」を命名する際に、カルシウムの「カル」と醍醐(サルピルマンダ)』(「醍醐味」の原語であるサンスクリット語のカタカナ音写)『の「ピル」を合わせた「カルピル」が考えられたが語感がよくないとされた。そのため五味の次位である熟酥(サルピス)の「ピス」と合わせ』「熟酥味(じゅくそみ)のサンスクリット語カタカナ音写)、『「カルピス」と命名した』ともある。因みに、「めいらくグループ」の販売している、コーヒー・フレッシュ・ミルクの「スジャータ」は釈迦が悟りを開く少し前、断食に力尽きて倒れた折り、乳粥(ちちがゆ)を差し上げて命を救ったという少女スジャーター(この出来事は釈迦が苦行放棄を旨とする契機となった)の名に基づき、ブッダガヤには「スジャータ村」が今も残ることも言い添えておこう。しかし、私は既に述べたように、以上の製法や叙述様態から見て、ここで時珍の言っている「醍醐」は乳清ではないかと考えている。ウィキの「乳清」を引いておく。「乳漿(にゅうしょう)」とも呼び、『乳(牛乳)から乳脂肪分やカゼインなどを除いた水溶液である。日本では英語風にホエイまたはホエー(英: whey』【hweɪ】『)とも呼ばれるが、英語圏では一般的に H は発音されないので』、『ウェイまたはウエイ』が正しい。『乳清は、チーズを作る際に固形物と分離された副産物として大量に作られる。また、ヨーグルトを静かに放置しておくと上部に液体が溜まることがあるが、これも乳清である。なお、固形物成分はカード(curd)と呼ばれる』。『なお、大豆由来のものは「大豆ホエイ」と呼称され、水溶性のタンパク質に富む』。『チーズ生産過程で作られた乳清の大半は廃棄されているが、高蛋白・低脂肪で乳成分由来カルシウムなどの無機栄養分やビタミンB群をはじめ各ビタミン類など栄養価が高い点、消化が速くタンパク質合成・インスリン分泌を促進する点などから、優れた食品であるとの認識が高まってきている。従来』、『大量に廃棄されていたものであり、流通さえ整えば』、『安価に提供できる点も注目されている』。『独特の甘酸っぱい味があり、乳清を加工した飲料も多く発売されている』。『粉状(ホエイパウダー)に加工しプロテインサプリメント等の原材料として用いられるほか、生クリームなどの代替として料理に用い、カロリーを大幅に抑えるなどの用途がある』。『イタリアなどでは乳清からさらにチーズを作る事もある。乳清から作られたチーズはホエーチーズと呼ばれ、リコッタ』(イタリア語(以下同じ):Ricotta)『などがその種類に属する』。『パルミジャーノ・レッジャーノ』(parmigiano reggiano:イタリア・チーズの王様と呼ばれる))『の産地であるイタリアのパルマ』(Parma)『県では同じく名産品のクラテッロ・ディ・ジベッロ』(culatello di Zibello:パルマ県特産の豚肉を用いた塩蔵食品で、私が最も愛する肉食品の一つである。ウィキの「クラテッロ・ディ・ジベッロ」を引く。特に厳しく認定された『豚の』、『尻の部分のみを使用し、ポー』(Po)『川西岸の』ジベッロ(Zibello)周辺の八『村のみで作られ』、本邦では一部のレストランのみが提供し、なかなか容易には食することが出来ない)『を生産するにあたり、原材料の豚の飼料の一つとして乳清を与えることが義務付けられている。 同様に、北海道の十勝地方などでは、食用の豚に乳清を与えて飼育することが行われている。このように飼育された豚は地域ブランドとして』「ホエー豚」『と呼ばれる。豚が健康になり、肉の旨味も増すと宣伝されており、北海道根室振興局管内に属する中標津町では「ミルキーポーク」という名前でブランド化されている』。『なお、ラットを使った実験では、大豆ホエイたん白質に血圧降下作用が認められた』『が、高齢女性に対する乳清タンパク質を長期』二『年間』に亙って『摂取させた試験では、血圧に影響は認められなかったという報告がある』。「醍醐」を「乳清」としたことについては、大方の御叱正を待つものではある。]

 

 

 

乳腐〔(にゆうふ)〕【一名乳餅】

 

乳腐【俗云乳脯】造法以牛乳一斗網濾入釜煎五沸水解之用

 醋入如豆腐法漸漸結成漉出以帛裹之用石壓成

 入鹽甕底收之【甘微寒】潤五臟利大小便益十二經脉微

 動氣治赤白痢小兒服之彌良

 

 

乳腐【俗に云ふ、「乳脯(にゆうほ)」。】造る法〔は〕、牛乳(バウトル)一斗を以つて網〔にて〕濾〔(こ)〕して釜に入れ、煎〔ること〕五沸、水にて之れを解き、醋〔(す)〕を用ひ、〔じ〕入る。豆腐〔を製する〕の法のごとし。漸漸(ぜんぜん)に、結〔び〕成〔し〕[やぶちゃん注:凝固し。]、漉〔(こ)し〕出〔(い)づるを〕[やぶちゃん注:浸潤液が十分に出たら。]、帛(きぬ)を以つて之れを裹(つゝ)み、石を用ひ、壓〔(あつ)を〕成し、鹽を入れ、甕の底に之れを收む【甘、微寒。】。五臟を潤ほし、大小便を利し、十二經脉[やぶちゃん注:「脉」は「脈」に同じ。]〔の〕微動氣に益し、赤〔(せき)〕・白痢〔(びやくり)〕を治す。小兒、之れを服せば、彌〔(いよいよ)〕良し。

[やぶちゃん注:まず、時珍の言っている「乳腐」は、現行の漢字をひっくり返した「腐乳(ふにゅう/中国語拼音:fǔ rǔ(フウー・ルウー)」とは違うので、要注意である。ウィキの「腐乳」によれば、「腐乳」は豆腐に麹を附けて塩水中で発酵させた食品であって乳製品ではない(但し、「腐乳」は『千年以上の歴史を持つ食べ物であり、中国全土で広く食べられ』、「豆腐乳」「乳腐」「南乳」『とも呼ばれる』。『醗酵臭と塩味があ』り、『炒め物、煮込み料理などに調味料として用いられる以外に、粥に入れて食べる食卓調味料として用いる。紅麹を用いた腐乳は塩辛くなく甘みがあり、そのまま爪楊枝で削って食べる方法も台湾では一般的である。一般的に腐乳は瓶詰めで流通しており、保存と調味を目的とした漬け汁に浸かっている』。『少なくとも、豆腐の発明より後の時代に生まれて』おり、『魏の時代に生まれたとする説もあるが、定かではない』。『宋の時代の文献』「清異録」には、『既に普通の食品として記載されている』とある)。しかして、謂わずもがなであるが、この「乳腐」は無論、チーズ(cheese)である。現代中国語では「奶酪(nǎi lào:ナァィ・ラァォ)」「乳酪(rǔ lào:ルゥー・ラァォ)」「干酪(gàn lào:ガァン・ラァォ)」等と表記する(「奶」(音「ノ・ナイ/ダイ」は「乳」の意)。ウィキの「チーズ」の冒頭概略のみを引く。『牛・水牛・羊・山羊・ヤクなど鯨偶蹄目の反芻をする家畜から得られる乳を原料とし、乳酸発酵や柑橘果汁の添加で酸乳化した後に加熱や酵素(レンネット)添加によりカゼインを主成分とする固形成分(カード)と液体成分(ホエー)に分離して脱水した食品(乳製品)の一種。伝統的に乳脂肪を分離したバターと並んで家畜の乳の保存食として牧畜文化圏で重要な位置を占めてきた。日本語や中国語での漢語表記は、北魏時代に編纂された斉民要術に記されているモンゴル高原型の乳製品加工の記述を出典とする乾酪(かんらく)である』。以下、非常に詳細な記載があるので参照されたい。ウィキには他に独立した「チーズの歴史」のページもあり、こちらも読み応えがある。

「乳脯(にゆうほ)」「脯」は「ほじし」等と訓じ、通常は干した鳥獣などの肉を指すが、腑には落ちる。

「牛乳(バウトル)」「バ」はママ。既に「牛」の項に出た「ボウトル」と同じである。英語の「butter」のカタカナ音写に酷似することがお判り戴けよう。実際、後のことであるが、開国後の横浜では、「バター」は「ボウトル」と呼ばれた。「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが、まあ、許せる錯誤の範囲とは言えよう。「第三十七 畜類 総論部・目録」でも述べたが、「チーズ」(cheese)は、ポルトガル語では「ケイジョ」(Queijo)と呼んだ。良安はその「目録」で「羊乳」に「ケイジ」というルビを振っている(この振り仮名は本文には出ない)。半可通な部分はあるが、良安は「羊の乳で作ったチーズ」と伝えきったその語を、「羊の乳」の意と誤認したのではあるまいか?

「一斗」明代の十七リットル。

「十二經脈〔の〕微動氣に益し」東洋文庫注に『人体内を縦横に走っている経脈。手の少陽(三焦)、手の少陰(心)、足の少陽(胆)、足の少陰(腎)、手の太陽(小腸)、手の太陰(肺)、足の太陽(膀胱)、足の太陰(脾)、手の陽明(大腸)、足の陽明(胃)、手の厥陰(心包絡)、足の厥陰(肝)、以上を十二経脈という』とあり、この部分は『十二経脈の運動をよくするということ』とする。「微動氣」とはその十二経脈の運動の中でも、非常に微妙にして繊細な気の動きにまで良い効果を齎し、という意味なのであろう。

「赤・白痢」赤痢と白痢で採った。「赤痢」(せきり)は下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症である。古くは「血屎(ちくそ)」と呼んだ。なお、従来「赤痢」と呼ばれていた疾患は現代では「細菌性赤痢」と「アメーバ性赤痢」に分けられるが、一般的に「赤痢」と呼ばれているものは赤痢菌(真正細菌ドメイン(domain)プロテオバクテリア門 Proteobacteria γプロテオバクテリア綱 Gamma proteobacteria エンテロバクター目 Enterobacteriales 腸内細菌科赤痢菌属 Shigella。懐かしい響きだ! トルコに旅行して帰国後、妻がこのD亜群に属するShigella sonnei(ソンネ赤痢菌)一相(いっそう:血清型により二つに識別される)に罹患して鎌倉の清川病院に隔離されたのだった!)による細菌性赤痢のことを指す。「白痢」は「和名類聚鈔」に既に「なめ」として出、無色の粘液様の大便で、激しい下痢症状の中の一症状を指す。]

2019/02/22

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 黃明膠(すきにかは) (製品としての透(す)き膠(にかわ))

 

Sukinikawa

 

すきにかは 牛皮膠 水膠

      海犀膏

黃明膠

      【俗云須木尒加波】

 

本綱黃明膠牛皮膠也其色黃明但非阿井水所作耳

制作不精故不入藥用止以膠物耳而功用亦與阿膠彷

彿苟阿膠難得則眞牛皮膠亦可權用

△按膠所以連綴物令相黏著者也自中華來者色黃赤

 透明形如筭木者俗稱算木手卽黃明膠也爲上濁黒

 色而濕軟者爲下品如今日本多作之其黃明膠畫家

 墨匠用之濁黒膠木匠以粘物或賤墨中入用凡物膠

 繼者得水則堅近火則解

 

 

すきにかは 牛皮膠〔(ぎうひこう)〕

      水膠〔(すいこう)〕

      海犀膏〔(かいさいかう)〕

黃明膠

      【俗に云ふ、「須木尒加波」。】

 

「本綱」、黃明膠は、乃〔(すなは)〕ち、牛の皮の膠〔(にかは)〕なり。其の色、黃に〔して〕明〔か〕なり。但だ、阿井の水にて作る所に非ざるのみ。制作、精(くは)しからざる故[やぶちゃん注:製造法が粗雑であるので。]、藥用に〔は〕入れず、止(た)ゞ、物を膠(つ)く〔るに用ふ〕のみ[やぶちゃん注:接着するために使用するだけである。]。而〔れども〕、功用、亦、阿膠〔(あきやう)〕と彷彿〔(はうふつ)〕たり[やぶちゃん注:極めて酷似しており、殆んど変わらない。]。苟〔(いや)しくも〕、阿膠、得難きときは、則ち、眞〔(まこと)の〕牛皮の膠〔(にはか)〕も亦、權〔(か)〕り〔に〕用ふべし[やぶちゃん注:仮に使用してもよい(問題ない)。]。

△按ずるに、膠は、物を連〔ぎ〕綴り、相ひ黏〔(ねば)〕り著〔(つ)〕けしむる所以(ゆゑん)にして〔→の〕者なり。中華より來たる者、色、黃赤〔にして〕透-明(すきとほ)り、形、筭木〔(さんぎ)〕[やぶちゃん注:「筭」は「算」の異体字。]のごとき者〔にして〕、俗〔も〕「算木手」と稱す。卽ち、「黃明膠」〔にて〕、上と爲す。濁〔れる〕黒色にして濕めり〔て〕軟かなる者、下品と爲す。如-今(いま)は日本にて多く、之れを作る。其の「黃明膠」は、畫家・墨匠、之れを用ふ。「濁黒膠〔(くろにかは)〕」[やぶちゃん注:私の勝手な当て訓なので注意。]は、木匠、以つて物を粘(つ)く〔に用ひ〕、或いは、賤墨(やすずみ)の中に入れ用ゆ。凡そ、物、膠にて繼〔(つ)〕ぐ者、水を得れば、則ち、堅く、火に近〔づくる〕ときは、則ち、解〔(と)〕く。

[やぶちゃん注:冒頭の「本草綱目」が言っているように、謂わば、これは、「シャンペン」(フランス語「Champagne」の英語読み。正しくは地名と同じで、そのまま「シャンパーニュ」が正しい)と「スパークリング・ワイン」(Sparkling wine/フランス語:Vin effervescent/カタカナ音写:ヴァン・エッフェルヴェソン))の違いみたようなもので、阿膠(あきやう・にかは)(製品としての膠(にかわ))が、現在の山東省聊城市東阿県内で、定められた手法で、当地の特殊な井戸水を以って製造・精製された膠のみが「阿膠(あきょう)」であり、それ以外の場所で、以下に優れた技術で製造・精製しても、それはあくまで「黃明膠(コウメイキョウ/すきにかわ)」と呼んで、厳然と区別し、常に「阿膠」こそが最上の膠であるというのである。

「筭木〔(さんぎ)〕」「算木」は本来は「卦 () 木」とも称した、中国や日本で易によって占いをする際に用いた道具を指す。筮(ぜい)によって占い出された陰・陽の爻(こう)を筆録する代りに用いられる、長さ九~十センチメートルほどの細い木製の角柱で、角の一面の中央部に溝を附けておき、溝のない二面が陽、溝のある二面が陰を表わし、六本で一卦を成すようになっている。但し、本邦では近世、別に、実際の和算で使う計算用具もかく呼んだ。その場合は、長さ約四センチメートル、約五ミリメートル角の木製の棒で、赤と黒に塗り分けられ、赤は正数、黒は負数を表わした。ここは寺島の評言部分であり、良安は本来の正式なそれをイメージして言ったとしても、後者で解釈する読者が後代には多かったと考えられる。]

2019/02/21

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 阿膠(あきやう・にかは) (製品としての膠(にかわ))

 

Akyou

 

[やぶちゃん注:図の阿膠(あきょう)の表書きは(これは思うに固めた膠に模様(本文にある「雲龍」の紋である)を泊で型押ししたものの上に紙で良安も述べている製造元・製作者及び作製年月日のデータを書いて張ったものかとも見える。但し、製品名が凹押印される意匠印型を用いたものが現在の中国製の販売用の固形膠では一般的のようだし、薬に使うには紙は却って邪魔で不純物にもなるから、これもそうなっているのを、良安は読み易く白地にしただけなのかも知れない)、一部に判読が出来ない部分があるが(■で示した)、

東平刕東阿知縣呉波宗督造

 張秋鎭工■兪洪泰煎煉

  崇禎拾五年仲冬月壹

か(「呉」「壹」は別字かも知れない)「呉波」(或いは「宗」まで)「兪洪」(或いは「泰」まで。「兪」(音「ユ」)は中国では普通に見られる姓である)は製造管理監督者と製造実務責任者の姓名と推定される。「東平刕東阿知縣」(「刕」は「州」の異体字)は現在の山東省東阿県の旧名かと思われる。ここは古くから膠の名産として知られ、特に地名をとって「阿膠」と呼ばれる。「崇禎拾五年」は明代最後の皇帝第十七代毅宗(きそう)の治世中で使用された元号で、崇禎(すうてい)十五年は一六四二年。因みに、この二年後の三月に李自成により明は滅亡した。「仲冬」は旧暦十一月の異名。「月壹」は判らぬが、月の朔日で、その十一月の一日の製造年月日であることを指すものか? 判読不能字を含め、何かお判りになる方はお教え願いたい。

 

あきやう   傳致膠

にかわ

阿膠

       【和名尒加波】

アキヤ◦ウ

 

本綱東阿縣【今山東兗州府陽穀縣也】有井有官舎以其井水常煑膠

以貢之故名阿膠造法自十月至二三月閒用沙牛水牛

驢皮者爲上豬馬騾駝皮者次之其舊皮鞋履等物爲下

俱取生皮水浸四五日洗刮極淨熬煑時時攪之恒添水

至爛濾汁再熬成膠傾盆内待凝近盆底者名坌膠煎膠

水以鹹苦者爲妙大抵是牛皮後世乃貴驢皮若僞者皆

襍以馬皮舊革鞍靴之類其氣濁臭不堪入藥當以黃透

如琥珀色或光黒如漆者爲眞眞者不作皮臭夏月亦

不濕軟

味【甘微溫】肺大膓之要藥入手足少陰足厥隂經【畏大黃

衂下血血淋止痢療崩漏胎前後諸疾

△按眞阿膠色光黑形如硯大抵長六寸二分橫二寸八

 分有雲龍文書年號月日及作者名謂之硯手今多作

 此形僞賣不論牛馬鹿煑一切敗故皮作之

 

 

あきやう   傳致膠〔(でんちこう)〕

にかわ

阿膠

       【和名、「尒加波」。】

アキヤ

[やぶちゃん注:「あきやう」の読みは最後の中国音(但し、現代中国音では「阿膠」は「ā jiāo」(アー・ヂィアォ)である)を転写したもの。「にかわ」はママ。]

 

「本綱」、東阿縣【今の山東兗〔(えん)〕州府陽穀縣なり。】に、井、有り、官舎、有り、其の井の水を以つて、常に膠〔(にかは)〕を煑〔(に)〕、以つて之れを貢ず。故に「阿膠」と名づく。造る法〔は〕、十月より二、三月の閒に至り、沙-牛〔(うし)〕・水牛・驢(うさぎむま)の皮の者を用〔ふを〕上と爲し、豬(ぶた)・馬・騾〔(らば)〕・駝〔(らくだ)〕の皮は之れに次ぐ。其の舊(ふる)皮、鞋〔(けい)〕・履〔(り)〕[やぶちゃん注:この場合は孰れも皮革製の靴。]等の物、下と爲す。俱に生皮を取り、水に浸すこと、四、五日、洗ひ刮(こそ)げ、極めて淨〔(じやう)〕にして[やぶちゃん注:綺麗にして。]、熬〔(い)〕り煑〔(に)〕、時時、之れを攪〔(かきま)ぜ〕、恒に水を添へ、爛〔(ただ)〕るに至らば[やぶちゃん注:すっかり柔らかくなったら。]、汁を濾(こ)し、再たび、熬り〔て〕膠と成し、盆の内に傾け[やぶちゃん注:流し込み。]、凝〔(かたま)〕るを待つ。盆の底に近き者を「坌膠〔(ふんこう)〕」と名づく。膠を煎る水〔は〕鹹〔(しほから)く〕苦〔(にが)き〕者を以つて妙と爲す。〔用ふ皮は、〕大抵、是れ、牛皮なり。後世、乃〔(すなは)ち〕、驢〔の〕皮を貴ぶ。僞はる者のごときは、皆、襍〔(まづ)〕るに馬の皮・舊き革・鞍・靴の類ひを以つてす。其の氣〔(かざ)〕、濁-臭(わるくさ)く[やぶちゃん注:「惡る臭く」で、ひどい臭いがし、の意。]、藥に入るるに堪へず。當に黃〔に〕透〔く〕こと、琥珀の色のごとく、或いは光り、黒く漆〔(くろうるし)〕のごとき者を以つて眞と爲すべし。眞なる者は、皮の臭ひを作〔(な)〕さず、夏月も亦、濕(しめ)り〔て〕軟(やわら[やぶちゃん注:ママ。])か〔には〕ならず。

味【甘、微溫。】 肺・大膓の要藥にして、手足の少隂〔(しやういん)〕・足の厥隂經〔(けついんけい)〕に入る【大黃を畏る[やぶちゃん注:甚だ合わない。]。】吐-衂〔(はなぢ)〕・下血・血淋〔血尿を伴う淋病。〕を治し、痢を止め、崩漏〔(ぼうろう)〕[やぶちゃん注:子宮の内部が激しい炎症で糜爛し、出血すること。]・胎前後の諸疾を療す。

△按ずるに、眞の阿膠は、色、光〔り〕、黑〔く〕、形、硯のごとし。大抵、長さ六寸二分[やぶちゃん注:約十八センチ九ミリメートル。]、橫二寸八分[やぶちゃん注:約八センチ四ミリメートル。]雲龍の文〔(もん)〕有り、年號月日及び作れる者の名を書く。之れを「硯手〔(すずりで)〕」と謂ふ。今、多く、此の形に作りて、僞〔れるものを〕賣る。〔それ、〕牛・馬・鹿を論ぜず、一切の敗〔(くさ)れる〕故皮〔(ふるがは)〕を煑て、之れを作る。

[やぶちゃん注:各種の動物の骨・皮・腱などから抽出したゼラチン(gelatin:動物の前記組織の結合組織の主成分であるコラーゲンに熱を加えて抽出したもの)を主成分とする物質。木竹工芸の接着剤或いは東洋画の顔料の溶剤など用途が広い。通常は板状か棒状に乾燥させて保存し、湯煎によって適当な濃度に溶かして用いる。ウィキの「ゼラチン」の「膠(ニカワ)」の項によれば、『日本では、主に食品や医薬品などに使われる純度の高いものをゼラチン、日本画の画材』及び『工芸品などの接着剤として利用する精製度の低いものを膠(ニカワ)』、『蹄を原料とするものは hoof glue』(フーヴ・グルー:「蹄」の「膠・接着剤」の意)『と称している』。『膠には和膠と洋膠(ゼラチン)があり、和膠のほうが純度が低い分』、『吸湿性や保水性に富み、舌先で筆を湿らすだけで』、『微妙な濃度の調整ができることから、手仕事に携わる職人や美術家など、和膠を支持する層も根強くあり、保湿性をあえて加えた洋膠も出回っている』。『和膠では鹿膠が最高級品とされる』とあり、現在は『主にウシやブタの皮や骨などを利用して生産されているが、宗教上の理由などからタブーの対象となる動物を避けて素材を選定し、作られる場合もある。魚の鱗や皮の他、中国ではロバの皮から作る阿膠がある』とする。接着剤として膠は、実に五千年以上も『前の古代から利用されていたと考えられている。シュメール時代にも使用されていたとも言われており、古代エジプトの壁画には膠の製造過程が描かれ、ツタンカーメンの墓からは膠を使った家具や宝石箱も出土している。中国では、西暦』三〇〇『年頃の魏の時代にススと膠液を練った「膠墨」が作られたとされ、また』、六『世紀頃には現代とほとんど変わらない膠製造の記録も見られる。紀元前』二『世紀に書かれたとされる中国の古書『周禮・考工記』には、のちの和膠とほぼ同じ作り方』さえ『掲載されている』。『中国から日本に膠が伝わったのは『日本書紀』などの記述から推古天皇の時代、「膠墨」としてもたらされたものと考えられている。奈良時代以降、製墨原料、建築・指物用接着剤、織布の仕上げ剤、医薬品(造血剤)などの材料として普及した』。『世界的に膠の原料は畜獣が多く用いられるが、獣肉の食習慣が薄かったため』、『原料が乏しく、遊牧民などからの輸入ルートもなかった日本では魚も膠の原料とされた。「にべもない」のニベとはかつて浮き袋が膠原料として重視された魚のことである』(条鰭綱スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii)。『世紀に入り、フィルムや印画紙に吸湿性の低い高純度のゼラチンが必要になったことから、洋膠の技術導入が始まった』。『食材としての伝来は遅く、明治時代以降、欧米の食文化の到来とともにゼラチンとして知られることになったが、食用のゲル化剤としては和菓子などに用いる寒天や葛粉など多糖類系統のものが既に広く用いられていたこともあり』、昭和一〇(一九三五)年『頃、国内で』、『食品にできるだけの純度に精製する技術が確立して後、ようやく食品用ゼラチンが普及することとなった』。『現代の日本では兵庫県姫路市に製造企業が集中している』。『ただし、ゼラチンは食物アレルギーを引き起こすことがあるので、市販されているゼラチンを含む食品は、原則としてゼラチンを含む旨を表示することになっている』とある。さて、実はウィキには、ズバリ、「阿膠」があるので、ここで引いておく。読みは何故か、今も生薬名は「アキョウ」で、ラテン名「Asini Corii Collas」を学名のように持つ(邦文ウィキでは『学名』と冠し、英文ウィキではなんとまあ斜体になっている。英名は「Donkey-hide gelatin」(hide は「獣皮」の意)。『ロバの皮を水で加熱抽出して作られるにかわ(ゼラチン)のこと』。『血液機能を高める効果があり、主に貧血や婦人病への処方や、美容のために用いられている』。『中国で古くから使われている生薬の一種で、約』二千五百『年前に書かれた中国最古の医学書『五十二病方』に記載がある』。『阿膠は、作った地域によって名称が変わり、中国山東省東阿県産のものが「阿膠」と呼ばれ、中国湖南省産のものは「驢皮膠」と呼ばれる。他にも、その作り方から傅致膠、盆覆膠などと呼ばれる場合もある』。『ロバの皮膚に含まれるコラーゲンが加水分解されたタンパク質や各種アミノ酸の混合物である。他にもカルシウム、マグネシウム、鉄など』二十七『種類のミネラルやコンドロイチンを含んでいる。 豚皮ゼラチンと比べると、リジンに富み、シスチンを含むがトリプトファンを欠く点で異なる』。『阿膠の生産にはロバの皮を使用するが、古来から非常に高価であったため、一般の女性が手にすることは不可能に近かった。現在も高価な代物であり、阿膠の産地である中国では原料であるロバが年々減少していることも関係して、阿膠の市場価格が日々上昇している。しかし価格が上がる一方で、廃棄原材料を使用した安物製品も出回っている。原材料にロバの皮を使用したものに比べ、安価ではあるが』、『皮製品の切れ端や牛の皮などを使用した製品もあり、消費者を悩ませている』。『中国山東省東阿県が主な産地で名前の由来にもなっている』。『中国では、東阿阿膠社の阿膠が有名で、東阿阿膠社の製造技術は中国の無形文化財として登録されている』。『古くは『五十二病方』に記載がある他、中国最古の薬物学書である『神農本草経』には、「上品」(養命薬(生命を養う目的の薬)で、無毒で長期服用可能なもののこと』『)として記載されている。『全唐詩』には、楊貴妃が美容のために隠れて服用していたという記述もあり、身分の高い女性の間で人気があったものといえる(当時、阿膠は非常に高価であったため、一般の女性が手にすることは不可能に近い)。清代では、習慣性流産に悩んでいた西太后が阿膠を飲んで不妊治療に成功し、同治帝を産んだことでも知られる』。『また、江戸時代に書かれた『薬徴続編』(著者:村井琴山)の中で阿膠の記載があることから、日本でも使われていた可能性がある』。『効能』は『補血・滋陰・潤燥・止血・安胎』で、良安の記載と変わらない。『中医学の考えでは、血は様々な症状と密接に関わりを持っているため、効能は幅広い。具体的には、生理痛の緩和、月経不順、子宮の不正大量出血や、出産後の滋養や抜け毛の改善、便通の改善、骨粗しょう症予防などの治療効果の他、肌荒れ・乾燥の防止、新陳代謝の促進などの美容効果がある』。『また』、十六『世紀に書かれた薬学書『本草綱目』において阿膠は「聖薬」(非常に優れていて、効能のある薬)として称賛されている』。『阿膠は様々な研究がされているが、近年では美白作用についての研究もあ』り、『また、美肌の効果解明のための共同研究も始められている』。『中国では、阿膠を主原料にクルミやゴマ、干し竜眼、糖類を用いたゼリーの一種「阿膠糕」も作られており、こちらは純粋な菓子や土産物、一種の健康食品として市販されている』とある。上記出た「東阿阿膠」公式サイトでは、生薬としての史がこちらにあり、「アキョウと有名人」のページがこちらにあって、そこでは先の引用に出た楊貴妃・西太后以外に、朱熹・曹植(詩篇に阿膠を仙薬とオードしている。彼は実はまさにこの地で東阿王であったことがあり、彼の墓も彼が好んだこの東阿県近くに残されているそうである)が載る。因みに、この現在の山東省東阿県は正確には、山東省聊城(りょうじょう)市東阿県で、無論、本文の「東阿縣」「今の山東兗〔(えん)〕州府陽穀縣なり」と同一で、ここ(グーグル・マップ・データ)である。

 

「官舎、有り」と言っているから、少なくとも明代には官営或いは国が保護・管理を行っていたことが判る。

「其の井の水を以つて」後に出るように「膠を煎る水」が「鹹〔(しほから)く〕苦〔(にが)き〕者を以つて」最上とするので、この井戸水(飲用は不可)が選ばれているのである。完全な内陸なので、地下水が岩塩層等を通底して湧いているのであろう。

「驢(うさぎむま)」「兎馬」で、お判りと思うが、「驢馬」、奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinusのことである。後で独立項「驢(うさぎむま)」(「馬」の後)が出る

「騾〔(らば)〕」騾馬で、奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus ferus caballus である。英語は「Mule」(ミュール。但し、私にはネイティヴのそれは寧ろ「ミューロ」と聴こえる)、ラテン語ではMulus」(ムールス)と呼ぶ(斜体にしたのは種として正式に認められず、不憫に私が思うからである)のロバ(学名は前者)とのウマの交雑種の家畜で不妊である。ウィキの「ラバによれば、逆の組み合わせ(のウマとのロバの交配)で生まれた家畜種を「ケッテイ」(駃騠/英語:Hinny)と呼ぶが、「ケッテイ」と比べると、「ラバ」は『育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。後に独立項で「騾(ら)」として出るので、ここまでとしておく。

「駝〔(らくだ)〕」「駱駝」。ウシ目ラクダ科ラクダ属で、現生は西アジア原産のヒトコブラクダ Camelus dromedarius と、中央アジア原産のフタコブラクダ Camelus ferus の二種のみ。この畜類のしんがりに「駱駝(らくだのむま)」で独立項として出る

「盆」型であるが(東洋文庫はわざわざ「盆」に『はち』とルビを振っているが意味が判らない)私はある程度の大きさお深さを持った方形の型容器を想起する。

『盆の底に近き者を「坌膠〔(ふんこう)〕」と名づく』「坌」は「集まる」の意があり、想像しても、容器の底の方がより濃厚な膠が出来ると思うから、それを格別品としてかく呼ぶのは腑に落ちる。

「襍〔(まづ)〕る」この漢字は「交える」「混じる」の意である。

漆〔(くろうるし)〕」「」は音「イ」で、「黒い美しい石」の意。読みは東洋文庫訳のそれを採用した。

「手足の少隂〔(しやういん)〕・足の厥隂經〔(けついんけい)〕」手足の少陰心経と、足の少陰腎経の経絡。

「大黃」タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum に属する一部の種(或いは雑種)群からの根茎から作られた生薬「大黄(だいおう)」。ウィキの「ダイオウによれば、『消炎・止血・緩下作用があり、瀉下剤として便秘薬に配合されるほか、漢方医学ではそれを利用した大黄甘草湯に配合されるだけでなく、活血化瘀』(かっけつかお)『作用(停滞した血液の流れを改善する作用と解釈される)を期待して桃核承気湯などに配合される』。『日本薬局方では、基原植物を』ショウヨウダイオウ Rheum palmatumRheum tanguticumRheum officanaleRheum coreanum『又はそれらの種間雑種としている』とある。

「吐-衂〔(はなぢ)〕」「衂」の単漢字で「鼻血」を意味する。

・下血・血淋〔血尿を伴う淋病。〕を治し、痢を止め、崩漏〔(ぼうろう)〕[やぶちゃん注:子宮の内部が激しい炎症で糜爛し、出血すること。]

2019/02/19

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)

 Usinotama

ごわう    丑寳

うしのたま  瞿盧折娜【釋典】(『金光明經』)〕

牛黃

      【俗云宇之乃太末】

ニウ パアン

本綱牛黃【苦平有小毒】入肝經治筋骨小兒驚癇及百病之藥

凡牛有黃者身上夜有光眼如血色時復鳴吼恐懼人又

好照水人以盆水承之伺其吐出乃喝迫卽墮下水中取

得隂乾百日一子如雞子黄大重疉可揭折輕虛而氣香

者佳【有黃堅而不香有駱駝黃極易得也】有能相亂者不可不審之試法

但揩摩手甲上透甲黃者爲眞葢牛黃牛之病也故有黃

之牛多病而易死諸獸皆有黃人之病黃者亦然因其病

在心及肝膽之間凝結成黃故還能治心及肝膽之病正

如人之淋石復能治淋也牛黃有四種【生黃角中黃心黃肝黃】

 吼喚喝迫而得者名生黃 殺死在角中得名角中黃

 牛病死后心中剥得名肝黃【大抵皆不及生黃之爲勝】

△按俗間有牛寳形如玉石外靣有毛蓋此如狗寳而鮓

 荅之類牛之病塊與牛黃一類二種也傭愚賣僧之輩

 爲靈物或以重價索之其惑甚哉

ごわう    丑寳〔(ちゆうはう)〕

うしのたま  捏盧折娜〔(くろせつな)〕【釋典。】

牛黃

      【俗に云ふ、「宇之乃太末」。】

ニウ パアン

「本綱」、牛黃【苦、平。小毒有り。】肝經〔(かんけい)〕に入りて、筋骨を治す。小兒〔の〕驚癇[やぶちゃん注:漢方で言う癲癇症状のこと。]及び百病の藥たり。凡そ、牛に黃(たま)有る者は、身上〔しんじやう)〕[やぶちゃん注:その外見は。]、夜(〔よ〕る)、光り有りて、眼、血の色ごとし。時に、復た、鳴〔き〕吼えて、人を恐懼〔さ〕す。又、好んで水を照らす。人、盆水を以つて、之れを承〔(う)〕け、其の吐き出だすを伺ひて、乃〔(すなは)〕ち、喝迫[やぶちゃん注:脅し迫って。]して、卽ち、水中に墮〔(お)とし〕下〔さ〕す。取り得て、隂乾しにすること、百日、一子、雞〔(にはとり)の〕子〔(たまご)〕の黄の大いさのごとし。重疉〔(ちようでふ)〕して、揭折〔(かつせつ)〕すべし[やぶちゃん注:「こそぎ削ることが出来る」の意か。]。輕く、虛にして、氣〔(かざ)〕、香〔(かほりよ)〕き者、佳なり【〔(からうし)〕の黃(たま)有り、堅くして香〔(かほりよ)〕からず。駱駝の黃、有り、極めて得易し。】能く相ひ亂〔(まが)へ〕る者[やぶちゃん注:偽物。]有り、之れを審らかにせずんばあるべからず[やぶちゃん注:これは慎重に判別しなくてはいけない。]。試みる法〔は〕、但だ、手の甲(つめ)[やぶちゃん注:爪。]の上に揩-摩〔(かいま)〕して[やぶちゃん注:擦(こす)ってみて。]、甲〔(つめ)〕に透〔(すきとほ)〕り、黃なる者、眞と爲す。葢し、牛黃は牛の病ひなり。故に、黃(たま)有る牛は多病にして、死に易し。諸獸、皆、黃(たま)有り。人の黃を病む者、亦、然り。因其の病ひ、心及び肝膽の間に在り、凝結して黃を成すに因〔(よ)〕る。故に、還りて、能く心及び肝膽の病ひを治す。正〔(まさ)〕に人の淋石の、復た、能く淋を治するがごとくなり。牛黃、四種有り【「生黃〔(せいのたま)〕」・「角中〔の〕黃」・「心〔の〕黃」・「肝〔の〕黃」。】。

 吼え喚〔くを〕喝迫して得る者を「生黃」と名づく。 殺死〔して〕角の中に在りて得るを「角中黃」と名づく。牛、病死して后〔(のち)〕、心〔の〕中〔を〕剥(は)ぎて得るを「肝黃」と名づく【大抵、皆、「生黃」の勝〔(すぐる)〕と爲すに及ばず。】。

△按ずるに、俗間、牛寳〔(うしのたま)〕有り、形、玉石のごとく、外靣に毛あり。蓋し、此れ、狗寳〔(いぬのたま)〕のごとくにして、「鮓荅〔(さとう)〕」の類ひ〔なり〕。牛の病塊〔(びやうかい)たる〕牛黃と〔は〕一類〔にして〕二種なり[やぶちゃん注:「別種のものである」の意。「牛黃」を特別視する習慣によるもの。]。傭愚〔(おろかもの)〕・賣僧(まいす)[やぶちゃん注:「まい」「す」ともに唐音。仏法を種に金品を不当に得る僧。禅宗から起こった語で、後に単に人を騙す者の意にも転じた。]の輩〔(やから)〕、靈物〔(れいもつ)〕と爲〔(な)〕し、或いは重〔き〕價〔(あたひ)〕を以つて之れを索(もと)む。其れ、惑〔(まどひ)〕の甚しきかな。

[やぶちゃん注:牛の体内結石及び悪性・良性の腫瘍や変性物質等である。既に「狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」及び鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)に十全に注したので、ここでは繰り返さない。そちらの注を見られれば、この冒頭注に代えられる。悪しからず。

「瞿盧折娜〔(くろせつな)〕【釋典。】」「本草綱目」には『金光明經』と出典を明記する。ウィキの「金光明経」によれば、「金光明経(こんこうみょうきょう:サンスクリット語カタカナ音写:スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)は四『世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ。大乗経典に属し』、本邦では「法華経」・「仁王経(にんのうきょう)」と『ともに護国三部経のひとつに数えられる』。『原題は、「スヴァルナ」』『が「黄金」、「プラバーサ」』『が「輝き」、「スートラ」』『が「経」』で、『総じて「黄金に輝く教え」の意』。『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる』。『この経典の漢訳については、曇無讖』(どんむせん/どんむしん:サンスクリット語カタカナ音写:ダルマクシェーマ:漢名:法楽 三八五年~四三三年:中インド出身の訳僧)が四一二年から四二一年『頃にかけて漢訳した』「金光明経」全四巻、宝貴などが五九七年に編纂した「合部金光明経」全八巻、『唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに漢訳した』「金光明最勝王経」『などがあり、「大正新脩大蔵経」経集部に所収されている』。『日本へは、古くから』曇無讖訳の「金光明経」が『伝わっていたようであるが、その後』、八『世紀頃』、義浄訳の「金光明最勝王経」が『伝わり、聖武天皇は』これを『写経して全国に配布し、また』、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された』とある。

〔(からうし)〕」読みは東洋文庫訳に従った。「唐牛」か。中文サイトでは黒牛のこととする。

『「生黃〔(せいのたま)〕」・「角中〔の〕黃」・「心〔の〕黃」・「肝〔の〕黃」』以下は前後から私が勝手に和訓した。音読みした方がよいかも知れぬ。

「鮓荅〔さとう)〕」前掲項鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)を見られたい。

「傭愚〔(おろかもの)〕」東洋文庫訳の読みを採用した。「傭」は真理を知らない雇われ者の謂いか。よく判らぬ。]

2019/02/18

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛(うし) (ウシ或いはウシ亜科の種を含む)

Usi

△按牛子出生於

人家者必先行竃

前亦一異也徐長

突通鼻孔隔嵌𣳾

其桊用檉木可也

[やぶちゃん注:以上は底本では挿絵の上に配されてある。]

 

うし  瞿摩帝【梵書】

    牯【牡】 特【同】

 【同】 【牝】

 【同】 犍【去勢】

     【和名宇之】

 

本綱牛字象角頭三封及尾之形有數品南牛曰※1北牛

[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+「」。

※2純色曰犧黒曰𤚎和名麻伊白曰𤛍赤曰𤙡俗阿女宇之】駁曰

[やぶちゃん注:「※2」=「牜」+「秦」。]

犁牛子無角曰犢【和名古宇之】生二

𤘦牛齒有下無上察其齒而知其

[やぶちゃん注:底本では「」は(つくり)が「構」の(つくり)であるが、現行の流布本の「本草綱目」に記載に従った。但し、古い「本草綱目」では良安が書いた通りの字である。]

年三二齒四四齒五六齒六以後毎年接脊骨

一節也牛耳聾其聽以鼻牛瞳竪而不橫其聲曰牟項

曰胡蹄肉曰𤜂百葉曰角胎曰䚡鼻木曰和名牛乃波奈岐

嚼草復出曰齝【和訓仁介加無】腹草未化曰聖虀牛在畜属土在

卦屬坤土而和其性乾陽爲馬坤陰爲牛故馬蹄

圓牛蹄坼馬病則臥陰勝也牛病則立陽勝也馬起先前

足臥先後足從陽也牛起先後足臥先前足從陰也牛者

之資不可多殺【今天下日用之食物雖嚴法不能禁】

肉【甘溫】 益氣養脾胃補腰脚【煑之入杏仁盧葉易爛相宜】其補氣與

 黃茋同功【黑牛白頭者及自死牛有大毒不可食】惡馬食牛肉卽馴亦物

 性也【合韮薤食令人熱病合生薑食損齒】

牛乳【甘微寒番語名保宇止留】 反胃噎膈大便燥結宜牛羊乳時時

 嚥之並服四物湯爲上策

牛涎 治反胃嘔吐水服二匙終身不噎或用糯米末以

 牛涎拌作小丸煑熟食【取涎法以水洗老牛口用鹽塗之少頃卽出】

牛膽 塗熱釜卽鳴【見淮南子】蛙得牛膽則不鳴此皆有所

 制也

                   信實

  新六ことことしことひの牛の角さきにきらある見るも恐しのよや

三才圖會云牛病則耳燥安則潤澤善角虎環其首外觸

虎雖猛不能制

△按牛馬見風則走牛喜順風馬喜逆風牛常食草葉就

 中喜鳥蘞草葉蒭人誤苅入毒草則一一擇之不食毒

 草其齝也凡四十八而止如病牛則齝數少若不齝者

 必死寗戚相牛經甚詳其畧云

○頭欲瘦小○靣欲得長如短則命促○眼圓大而去角近

 有白脉貫瞳吉○眼赤者觸人○眼下有旋毛名淚滴

 主喪服○鼻欲軟而大易牽鼻如鎊鼻難牽○口欲方

 大易餵齒欲白○角短方大紋浪角形如仰弓吉

 向前吉向後兩角間有亂毛起名頭陀坊主○耳去

 角要近可容指方好○耳後有旋毛名刺環招盜賊

 頸骨欲長大○毛短密硬而黒者奈寒踈長如鼠毛者

 怕寒○前脚欲直而闊後脚若曲而開○股瘦小則捷

 快○蹄欲得大靑黒紫色吉○乳紅者多子乳踈黒者

 無子○尿射前胯者快直下者鈍○尿欲蹲放如繩旋

 有力臀欲厚重○尾稍長大吉

黃額牛有額上一花黃者○白牛黃牛有前一荅白

 如手掌大者○牛中王白牛頭黃者○龍門牛角濶相

 去一尺是亦牛中王也○蒿脊牛黃黒色當脊背上一

 條白者以上五品養之皆大吉利也

鹿斑牛有班如鹿紋者○孝頭牛頭上白者○喪門牛黒

 牛頭與尾白者○黃旛牛青牛頭脚俱黃角白者以上

 四品養之並

△大抵關東馬多牛少關西牛多馬少京師牽天子皇后

 三公御車市中車牛運送米穀薪木等皆用特牛農牛

 耕田助人力關東則以馬代之

 牧童使牛則左謂左世伊右謂比夜宇世牛隨其詞行

 欲進則謂志伊欲止則謂堂宇【馬之進止與此同】

 凡牛角漁人以鈎鰹東海多用之牛皮可爲大皷或旋

 於履裏呼曰雪踏民間毎用之其他爲噐者多古皮以

 可作阿膠又用角煑軟竪破擴徐踏押窄則再煑擴如

 板挽櫛煑染黒文琢僞玳瑇油作蠟燭骨作厘等之衡

 

 

△按ずるに、牛の子、人家に出生する者、必ず、先づ、竃〔(かまど)〕の前に行くも亦、一異なり。徐〔(おもむろ)に〕長じて鼻の孔の隔〔(へだて)〕を突き通して、桊(はなぎ)を嵌(は)める。其れに〔→の〕𣳾、檉(むろ)の木を用ふるべし。

 

うし  瞿摩帝〔(くまてい)〕【梵書。】

    牯(ことひ)【牡。】 特(ことひ)【同。】

 (ことひ)【同。】 (めうし)【牝。】

 (めうし)【同。】

    犍(へのこなしのうし)【去勢。】

     【和名、「宇之」。】

[やぶちゃん注:「特(ことひ)」の読みは底本では『同』であるが、かく、した。]

 

「本綱」、牛の字、角頭三[やぶちゃん注:両角と頭の三つ。]〔と〕封[やぶちゃん注:肩甲骨の隆起。]及び尾の形に象る。數品〔(すひん)〕有り。南〔の〕牛を「※1〔(ご)〕」[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+「」。]と曰ひ、北〔の〕牛を「※2〔(しん)〕」[やぶちゃん注:「※2」=「牜」+「秦」。]と曰ふ。純色[やぶちゃん注:以下の黒・白以外の明度の高い明るい単一色の牛のことと思われる。]を「犧〔ぎ)〕」と曰ひ、黒を「𤚎〔(ゆ)〕」【和名、「麻伊〔(まい)〕」。】と曰ひ、白を「𤛍〔(さい)〕」と曰ひ、赤を「𤙡【俗、「阿女宇之〔(あめうし)〕」。】と曰ひ、駁(ぶち)を「犁〔(り)〕」と曰ふ。牛の子〔の〕角無きを「犢(こうし)」【和名、古宇之」。】と曰ふ。生れて二なるを「〔(ばい)〕」と曰ひ、三なるを「〔(さん)〕」と曰ひ、四なるを「〔(し)〕」と曰ひ、五歳なるを「𤘦〔(かい)〕」と曰ひ、六歳なるを「〔(ひ)〕」と曰ふ[やぶちゃん注:底本では「」は(つくり)が「構」の(つくり)であるが、現行の流布本の「本草綱目」に記載に従った。但し、古い「本草綱目」では良安が書いた通りの字である。]。凡そ、牛の齒は、下に有りて上に無し。其の齒を察〔(しら)べ〕て其の年を知る。三なれば二齒、四なれば四齒、五なれば六齒、六以後、毎年、接脊骨、一節なり[やぶちゃん注:背骨を繋ぐ節骨が一つずつ増える。]。牛は、耳、聾にして、其れ、聽くこと、鼻を以つてす。牛の瞳(ひとみ)は竪(たて)にして橫ならず。其の聲、「牟(もう)」と曰ふ、項〔(うなじ)の〕垂(た)る〔るところ〕を「胡」と曰ひ、蹄〔(ひづめ)〕の肉を「𤜂〔(えい)〕」と曰ひ、百葉〔(いぶくろ)〕を「〔(ひ)〕」と曰ひ、角〔の〕胎〔(うちこ)〕を「䚡〔(さい)〕」と曰ふ。鼻の木を「(はなぎ)」【和名、「牛乃波奈岐」。】と曰ふ。草を嚼〔(は)み〕て復た出だすを「齝〔(にれかむ)〕【和訓「仁介加無」。】[やぶちゃん注:反芻することを指す動詞。]と曰ひ、腹の草、未だ化せざるを[やぶちゃん注:消化されていないものを。]「聖虀〔(せいせい)〕」と曰ふ。牛、畜[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「土」に属し、卦に在りては「坤土」に屬す。緩にして和、其の性、順なり。乾陽を馬と爲し、坤陰を牛と爲す。故に馬の蹄は圓く、牛の蹄は坼〔(さ)け〕たり。馬、病むときは、則ち、臥す。陰、勝てばなり。牛、病めば、則ち、立つ。陽、勝てばなり。馬、起つときは、前足を先〔(さき)〕にし、臥すときは後足を先す。陽に從ふなり。牛、起つときは、後足を先にし、臥すときは、前足を先す。陰に從ふなり。牛は稼穡〔(のらしごと)〕の資、多殺すべからず【今、天下の、日用の食物〔たり〕。嚴法〔あり〕と雖も、禁ずる能はず。】。

肉【甘、溫。】 氣を益し、脾胃を養ひ、腰脚[やぶちゃん注:足腰の健康。]を補ふ【之れを煑るに、杏仁・盧葉を入〔すれば〕爛〔(やはらか)〕に〔なり〕易く、相ひ宜ろし。】其〔の〕氣を補〔ふこと〕、黃茋〔(わうぎ)〕と功を同じうす。【黑牛の白頭の者及び自死せる牛、大毒有り。食ふべからず。】惡馬、牛肉を食〔はせば〕、卽ち、〔人に〕馴る〔も〕亦、物〔の〕性〔なれば〕なり。【韮薤〔(にら)〕と合はせ食へば、人をして熱病せしむ。生薑〔(しやうが)〕と合はせ食へば、齒を損ず。】。

牛乳【甘、微寒。番語、「保宇止留〔(ボウトル)〕」と名づく。】 反胃〔(ほんい)〕・噎膈〔(いつかく)〕・大便燥結[やぶちゃん注:便秘。]、牛・羊の乳、宜(よろ)し。時時、之れを嚥〔(の)〕む〔→みて、〕並びに、四物湯〔(しもつたう)〕を服さば、上策たり。

牛の涎〔(よだれ)〕 反胃・嘔吐を治す。水にて二匙(〔ふた〕さじ)を服すれば、身を終るまで、噎〔(いつ)〕せず。或いは糯米〔(もちごめ)〕の末を用ひ、牛の涎を以つて拌(かきま)ぜ、小〔さき〕丸〔(ぐわん)〕と作〔(な)〕し[やぶちゃん注:丸薬と成し。]、煑熟〔(しやじゆく)〕[やぶちゃん注:煮詰めること。]して食す【涎を取る法は、水を以つて老牛の口を洗ひ、鹽を用ひて之れに塗り、少-頃〔(しばらく)せば〕、卽ち、出づ。】。

牛膽〔(うしのきも)〕 熱〔せる〕釜に塗れば、卽ち、鳴る【「淮南子」を見よ。】。蛙、牛の膽を得ば、則ち、鳴かず。此れ、皆、制する所、有ればなり。

                  信實

  「新六」

    ことごとしことひの牛の角さきに

       きらある見るも恐ろしのよや

「三才圖會」に云はく、『牛、病むときは、則ち、耳、燥〔(かは)〕く。安〔んずれば〕、則ち潤澤。善く、虎を角(つ)く。其の首を外に環〔(めぐ)ら〕して虎を觸(つ)く。猛(たけ)んと雖も、制すること、能はず』〔と〕。

△按ずるに、牛・馬、風(〔かぜ〕ふ)くを見ては、則ち、走る。牛は順風を喜び、馬は逆風を喜ぶ。牛、常に草葉を食し、中就〔(なかんづく)〕、鳥-蘞(つた)〔の〕草葉を喜ぶ。蒭〔(くさかる)〕人、誤りて毒草に〔→を〕苅り入る〔とも〕、則ち、一つ、一つ、之れを擇びて、毒草を食はず。其れ、齝(にれか)むや、凡そ四十八にして止む。病牛のごときは、則ち、齝むこと、數、少し。若〔(も)し〕、齝まざる者は、必ず死す。寗戚〔(ねいせき)〕が「相牛經〔(さうぎうけい)〕」に甚だ詳かなり。其の畧に云はく、

○頭、瘦せ小さきを欲(ほつ)す[やぶちゃん注:よしとする。]。○靣(おもて)、長〔きを〕得を欲す。如〔(も)〕し短きときは、則ち、命、促〔(はや)し〕。○眼は圓〔く〕大にして角を去ること、近く、白き脉(すぢ)有りて瞳を貫くは吉(よ)し。○眼の赤き者は人を觸(つ)く。○眼の下に旋-毛(つむじ)有るを「淚滴」と名して、喪服[やぶちゃん注:人の死の凶兆。]を主〔(つかさど)〕る。○鼻は軟くして大なるを欲す。牽き易し。鼻、鎊鼻〔(はうび)〕のごときは牽き難し。○口は方大[やぶちゃん注:角ばって大きいこと。]なるを欲す。餵〔(えさや)〕り易し。○齒は白きを欲す。○角は短く、方大にして、、紋に浪(みだり)に〔→(みだれ)ありて〕、角の形(なり)、仰〔げる〕弓のごとくなるは、吉し。 前に向くは吉し。後ろに向くは[やぶちゃん注:「凶」の異体字]にして、兩角の間、亂毛有りて起くるを「頭陀坊主〔(づたばうず)〕」と名づく。○耳は角を去る〔こと〕、近きを要す。指を容〔(い)〕るゝばかりなるは、方〔(まさ)〕に好し。○耳の後に旋-毛〔(つむじ)〕有るを「刺環」と名づく。盜賊を招く。 頸の骨は長大を欲す。○毛は短く密硬にして[やぶちゃん注:密生していて、しかも硬く。]黒き者、寒に奈(た)ふ[やぶちゃん注:耐寒力がある。]。踈長〔(そちやう)〕にして[やぶちゃん注:疎らで長く。]鼠の毛のごとき者、寒を怕〔(おそ)〕る。○前脚は直にして闊〔(ひろ)〕く、後(うしろ)脚、曲るごとくにして開くを欲す。○股は瘦せて小さきは、則ち、捷快〔(せふくわい)なり〕[やぶちゃん注:すばしっこい。]。○蹄は、大を得〔て〕、靑・黒・紫色、吉し。○乳の紅なる者は多〔く〕子を乳〔(う)む〕。踈〔(まばら)に〕黒き者は、子、無し。○尿〔(いばりする)〕は、前の胯(またぐら)を射〔(い)〕る者、快く、直下なるは、鈍(にぶ)し。○尿〔(いばりする)〕は蹲〔(うづくま)り〕放〔つを〕欲し、繩の旋〔(めぐ)〕るがごとくなるは、力、有り。臀〔(しり)〕は厚重〔なる〕を欲す。○尾は、稍〔(やや)〕長大なるを吉とす。

黃額牛〔(わうがくぎう)〕は額の上に、一花、黃なる者有り。○白牛〔はくきようぎう〕[やぶちゃん注:「」は「胸」の異体字。]黃牛(あめうし)にして〔(むね)〕の前〔に〕一〔つの〕荅〔(あづき)のやうなる〕白き、手掌〔(てのひら)〕の大いさのごとくなる〔もの〕有る者〔なり〕。○牛〔の〕中〔の〕王は白牛にして、頭、黃なり。○龍門牛は角の濶〔(ひろ)く〕、相ひ去〔ること〕一尺。是〔れも〕亦、牛〔の〕中の王なり。○蒿脊牛〔(こうはいぎう)〕は、黃黒色、脊背〔(せきはい)〕の上に當〔(あた)り〕て一條、白き者〔なり〕。以上の五品は、之れを養ひて、皆、大〔いに〕吉〔(よ)く〕利〔あるもの〕なり。

鹿斑牛〔(ろくはんぎう)〕[やぶちゃん注:「班」は以下ともに「斑」の誤字であろう。]班〔(まだら)〕有り、鹿〔の〕紋のごとくなる者〔なり〕。○孝頭牛は、頭の上、白き者〔なり。〕○喪門牛は、黒牛にて、頭と尾と、白き者〔なり〕。○黃旛牛〔(わうばんぎう)〕は、青牛にして、頭・脚俱に黃にして、角、白き者〔なり〕。以上四品〔は〕之れを養ふこと、並びに[やぶちゃん注:総て。]なり。

△大抵、關東には、馬、多く、牛、少なし。關西には、牛、多く、馬、少なし。京師には、天子・皇后・三公の御車を牽き、市中の車は、牛、米穀・薪木等を運送す。皆、特牛(ことひ)を用ひ、農牛は田を耕して人力を助く〔も〕、關東、則ち、馬を以つて之れに代〔(か)〕ふ。

牧童、牛を使ふに、則ち、左〔(ひだりす)る〕を「左世伊〔(させい)〕」と謂ひ、右〔(みぎす)る〕を「比夜宇世〔(ひやうせ)〕」と謂ふ。牛、其の詞に隨ひて行く。進(すゝ)めんと欲すれば、則ち、「志伊〔(しい)〕」と謂ひ、止(とゞ)めんと欲せば、則ち、「堂宇〔(どう)〕」と謂ふ【馬の進止、此れと同じ。】。

 凡そ、牛の角、漁人、以つて鰹〔(かつを)〕を鈎〔(つ)〕るに、東海、多く、之れを用ふ。牛の皮、大皷〔(たいこ)〕に爲すべく、或いは履(くつ)の裏に旋らせ、呼んで「雪踏(せつた)」と曰ふ。民間、毎〔(つね)〕に之れを用ふ。其の他、噐〔(うつわ)〕と爲す者、多し。古〔き〕皮〔は〕以つて阿-膠(にかは)に作る。又、角を用ひて、煑〔(に)〕、軟(やはら)げ竪(た)つに、破〔り〕擴(ひろ)げ、徐(そろそろ)〔と〕踏み押(をさ)へ、窄(すぼ)まれば、則ち、再たび、煑、擴げ、板のごとくにし、櫛を挽き、黒き文〔(もん)〕を煑染(にそ)めて、琢(みが)きて、玳瑇(たいまい)に僞〔(いつは)〕る。油は蠟燭に作る。骨は厘等(れてぐ)の衡(さほ)に作る[やぶちゃん注:「厘等(れてぐ)」は「釐等具」で「れいてんぐ」とも読み(「等」の「テン」は唐音)、金銀などの重さを釐(り=厘(りん))などのわずかな量まで精密に量る竿秤(さおばかり)のことを指す。明治初年まで用いられ、竿は高級品では変質変形の少ない象牙・黒檀・紫檀などを用いた。「りんばかり」「りんだめ」とも呼ぶ。]。

[やぶちゃん注:その記載主体は、

鯨偶蹄目反芻(ウシ)亜目ウシ科ウシ亜科ウシ族ウシ属オーロックス Bos primigenius亜種ウシ Bos primigenius taurus

であるが、ウシ属には、

ガウル(GaurBos gaurusインド・カンボジア・タイ・中国雲南省ネパールミャンマーに自然分布。以下同じ)

バンテン(BantengBos javanicus(インドネシア(ジャワ島・ボルネオ島)・カンボジア・タイ・マレーシア・ミャンマーラオス

ヤク(YakBos mutusインド北西部中国甘粛省及びチベット自治区パキスタン北東部

コープレイ(KoupreyBos sauveli(嘗てはカンボジア北部・ラオス南部・ベトナム西部・タイ東部に分布していたが、現在はカンボジアに約二百五十頭が棲息するのみとされる)

がおり、分布域から考えて、以上の四種総て、或いは少なくともガウルとヤクは「本草綱目」の記載の範疇に含まれる可能性を考えるべきであろう。但し、前掲の種群の他にも、ウシ亜科 Bovinae に属する種群が別におり、「水牛」類は言うまでもなく、これら他の種群も記載可能性の射程に入れておく必要があると私は思う。同亜科には、

ニルガイ族ニルガイ属ニルガイ Boselaphus tragocamelusインド:(グーグル画像検索「Boselaphus tragocamelusを見ると、胴体はウシであるが、首から上はやや馬に似ており、巨大な鹿のようにも見える。実際、「ウマシカ」「ウマカモシカ」などの異名がある)

ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられており、これに限っては画像を見る限り、牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画をリンクさせておく)

ウシ族アフリカスイギュウ属 Syncerus(タイプ種はアフリカスイギュウ Syncerus caffer

ウシ族アジアスイギュウ属 Bubalus(アジアスイギュウ Bubalus arnee

ウシ族バイソン属 Bison

などが含まれる。ウィキの「ウシ」によれば、上記の広義のウシ属の種群は、『一般の人々も牛と認めるような共通の体形と特徴を持っている。大きな胴体、短い首と一対の角、胴体と比べて短めの脚、軽快さがなく鈍重な動きである』。『ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)にキリン類やシカ類、また、同じウシ科の仲間としてヤギ、ヒツジ、レイヨウなどがあるが、これらが牛と混同されることはまずない』とする。今までも「豚」「狗」「羊」で去勢されたそれらを指す漢字が示されてきたが、既に述べてきた通り、家畜として食用に供される群がいる種であることから考えても、その第一の目的は『食肉を目的として肥育される場合』で、牛の場合は、『雌雄とも去勢されることが多い』とし、ウシ肉の別記載では、『雄牛を去勢しないで肥育した場合、キメが粗くて硬い、消費者に好まれない牛肉に』なってしまう。『また』、『去勢しない雄牛を群』れで飼育『すると、牛同士の闘争が激しくなり、ケガが発生しやすく肉質の低下にもつながる。このため、日本の肉牛の雄は』、実に七十七%が去勢されている。去勢は三ヶ月齢『以上で行われることが多く、基本的に麻酔なしで実施される。去勢手術の失敗による傷口の化膿と肉芽腫の形成等が見られることがある』とある。話を去勢目的に戻すと、『飼育荷車牽引などの用務牛用途を目的として』『牛を用いる場合にも、精神的な荒さや発情を削ぐために去勢されるケースがよく見られる』とある。「生態・形態上の特徴」の項。『ウシは』四『つの胃をもち、一度飲み込んだ食べ物を』、『胃から口中に戻して再び噛む「反芻(はんすう)」をする反芻動物の』一『つである。実際には第』四『胃のみが本来の胃で胃液が分泌される。第』一『胃から第』三『胃までは食道が変化したものであるが、草の繊維を分解する細菌類、原虫類が常在し、繊維の消化を助ける。動物性タンパク質として細菌類、原虫類も消化される。ウシの歯は、雄牛の場合は上顎に』十二『本、下顎に』二十『本で、上顎の切歯(前歯)は無い』(「本草綱目」の謂いは切歯の観察しかしていないトンデモ誤認である)。『そのため、草を食べる時には長い舌で巻き取って口に運ぶ。鼻には、個体ごとに異なる鼻紋があり、個体の識別に利用される』。『農耕を助ける貴重な労働力であるウシを殺して神への犠牲とし、そこから転じてウシそのものを神聖な生き物として崇敬することは、古代より非常に広い地域と時代にわたって行われた信仰である。現在の例として、インドの特にヒンドゥー教徒の間で、ウシが神聖な生き物として敬われ、食のタブーとして肉食されることがないことは、よく知られている』。『牛が釘などを食べた場合に胃を保護するため、磁石を飲み込ませておく事もあるという』。「除角」の項。『牛は、飼料の確保や社会的順位の確立等のため、他の牛に対し、角突きを行うことがある。そのため』、『牛舎内での高密度の群飼い(狭い時で』一『頭当たり』五平方メートル前後)『ではケガが発生しやすく、肉質の低下に繋がることもある。また』、『管理者が死傷することを防止するためにも有効な手段と考えられており、日本の農家の約半数が除角を実施している。除角は』三ヶ月齢『以上でおこなう農家が多く(日本の農家の約』八十八%『)、断角器や焼きごてで実施され、そのうち』八十三%『は麻酔なしで除角される』。『除角は激痛を伴い』、『腐食性軟膏や焼きごて、のこぎり、頭蓋骨から角をえぐり取る除角スプーンを使う』とある。但し、『国産畜産物安心確保等支援事業「アニマルウェルフェア(動物福祉)の考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」では「除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な生後』二『か月以内に実施すること」が推奨されている』とある』。「鼻環」(はなかん:「はなわ」とも読み、「はなぐり」とも呼ぶ)の項。本文の「桊(はなぎ)」のこと。読むと、可哀相なんだな、これって、痛いんだよな)。『鼻環による痛みを利用することで、牛の移動をスムーズにするなど、牛を調教しやすくすることができる。日本の農家では約』八十四%『で鼻環の装着が行われている。鼻環通しは麻酔なしで行われる』とある。「ウシの病気」の項。「舌遊び」の条。『舌を口の外へ長く出したり左右に動かしたり、丸めたり、さらには柵や空の飼槽などを舐める動作を持続的に行うこと。舌遊び行動中は心拍数が低下することが認められている。粗飼料の不足、繋留、単飼(』一『頭のみで飼育する)などの行動抑制、また生まれてすぐに母牛から離されることが舌遊びの原因となっている。「子牛は自然哺乳の場合』一『時間に』六千『回母牛の乳頭を吸うといわれている。その半分は単なるおしゃぶりにすぎないが、子牛の精神の安定に大きな意味をもつ。子牛は母牛の乳頭に吸い付きたいという強い欲求を持っているが、それが満たされないため、子牛は乳頭に似たものに向かっていく。成牛になっても満たされなかった欲求が葛藤行動として「舌遊び」にあらわれる」』。『実態調査では、種付け用黒毛和牛の雄牛の』百%、『同ホルスタイン種の雄牛の』六%、『食肉用に肥育されている去勢黒毛和牛の雄牛の』七十六%、『黒毛和牛の雌牛の』八十九%、『ホルスタイン種の』十七%『で舌遊び行動が認められた』(この病気、何か非常な哀感を覚えた)。「失明」の条。『霜降り肉を作るためには、筋肉繊維の中へ脂肪を交雑させる、という通常ではない状態を作り出さなければならない。そのため、肥育中期から高カロリーの濃厚飼料が与えられる一方で、脂肪細胞の増殖を抑える働きのあるビタミンAの給与制限が行われる。ビタミンAが欠乏すると、牛に様々な病気を引き起こす。 肥育農家がこのビタミンAコントロールに失敗し、ビタミンA欠乏が慢性的に続くと、光の情報を視神経に伝えるロドプシンという物質が機能しなくなり、重度になると、瞳孔が開いていき、失明に至る』。他に、『稀なケースであるが、牧場内に広葉樹があり』、『ドングリ』(ブナ目ブナ科 Fagaceae に属する種群、特に小楢(ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata)や水楢(コナラ属ミズナラ Quercus crispula)などの果実の一般通称総称でドングリという種は存在しない)『が採餌できる環境にあると、ドングリの成分であるポリフェノール』(polyphenol:分子内に複数のフェノール性ヒドロキシ基(hydroxyl group:ベンゼン環・ナフタレン環などの芳香環に結合したヒドロキシ基)を持つ植物成分の総称。その数は五千種以上に及び、植物細胞の生成・活性化などを助ける働きを持つ。赤ワインのそれが健康によいなどと言われるが、科学的な肯定的データは実は殆んどない。ポリフェノールの過剰摂取については、ヒトでも便秘や女性ホルモンの乱れを生じさせる恐れがあるとウィキの「ポリフェノールにはある)『を過剰摂取してしまい』、『中毒死することがある』。最後に。二〇一三年の「国際連合食糧農業機関」の『統計によると、世界全体では』現在、約十四億七千万頭の『ウシが飼育されていると見積もられている』とある。因みに「米国勢調査局」と国連のデータからの推計で現在の地球上のヒトの個体数は七十五億である。

 

「桊(はなぎ)」前記注を参照。東洋文庫は誤って全くの別字の「𣳾」と誤判読してしまっている

「檉(むろ)の木」漢名「杜松」で生薬として知られる、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida の木の古名。他に別名を「ネズミサシ」「モロノキ」とも呼ぶ。ウィキの「ネズ」によれば、『和名はネズの硬い針葉をネズミ除けに使っていたこと』『から、ネズミを刺すという意でネズミサシとなり、それが縮まったことに由来する』。『日本では東北以南の日当たりの良い丘陵地帯や花崗岩地に自生している』。『ネズなどビャクシン属の雌の花序は、受粉後に多くの針葉樹と同様に球果となるが、通常の針葉樹のように乾燥した松ぼっくり状に熟すのではなく、受粉の』一~二『年後の』十『月頃に』なって、『黒紫色漿果状の肉質に熟し、果実食の鳥に食われて内部の種子が散布される』。『庭木、生垣として利用され、盆栽では音読みのトショウの名で親しまれている』。『球果は杜松子(トショウシ)と呼ばれ、中国では古くから』、『漢方の生薬として利用されている』とあり、効能は発汗促剤や利尿薬の他、膀胱炎・尿道炎・浮腫・痛風・風邪などに用いるという。

「ことひ」は「特牛」で「ことひうし」(古くは「ことひうじ」とも)で、頭が大きく、強健で、重荷を負うことの出来る特に(だから「特」という訳ではないようであるが)優れた牡牛を指す古語で、現代仮名遣では「ことい」。「こってい」とも。平安以降に出現している。

『牛の字、角頭三[やぶちゃん注:両角と頭の三つ。]〔と〕封[やぶちゃん注:肩甲骨の隆起。]及び尾の形に象る』正しい。因みに、音(「ギウ(ギュウ)」)形上は、「丘(キュウ)」に通じ、牛の背中が丘のように盛り上がっていることに拠るという。

「黒を「𤚎〔(ゆ)〕」【和名、「麻伊〔(まい)〕」。】」小学館「日本国語大辞典」によれば、漢字表記は「烏牛」で「まい」と読み、『黒い毛の牛』とする。例は十巻本「倭名類聚鈔」の巻七で、『烏牛 弁色立成云売牛<漢語抄云麻伊>黒牛也』をまず引き、後に観智院本「名義抄」から『烏牛 マイ クルマヒ』とする。

『赤を「𤙡」【俗、「阿女宇之〔(あめうし)〕」。】』「あめうじ」とも。飴色、黄色の毛色の牛で、古くは神聖にして立派な牛として貴ばれたというのが辞書的解説であるが、飴色の「あめ」とは「雨」で、大陸では雨乞の際に天空の神に神聖な黄色の牛を生贄として捧げたことに由来するようである。

「聖虀〔(せいせい)〕」「虀」はニラ・ショウガ・ニンニク等を細かく刻んだもの・それを使った料理・漬物・膾(なます)で、細切りにした和え物や「細かく刻む」の意である。

「杏仁」「狗」で既出既注

「盧葉」単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis の葉。漢方の生薬でもあるようだ。

「黃茋〔(わうぎ)〕」は「黄耆」「黄蓍」とも書く、双子葉植物綱マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギAstragalus membranaceusの根から精製される漢方薬。同種は本邦の本州中部以北・北海道・中国・朝鮮半島の亜高山帯から高山帯にかけての草地・砂礫地に分布する。花期は七~八月頃に淡黄色の蝶形花を咲かせ、その根茎から製剤され、「日本薬局方」にも載る。有効成分はフラボノイド・サポニン・γ-アミノ酪酸(ギャバ・GABA)などで、利尿・血圧下降・血管拡張・発汗抑制作用を示し、強壮剤とされる。

「自死せる牛」原因不明で頓死した牛のことであろう。

「惡馬、牛肉を食〔はせば〕、卽ち、〔人に〕馴る〔も〕亦、物〔の〕性〔なれば〕なり」これは科学的観察などではない。「馬」は五行では「乾」で、牛の「坤」に対するものだからである。

「韮薤〔(にら)〕」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum

「生薑」と合はせ食へば、齒を損ず。】。

「保宇止留〔(ボウトル)〕」本「蓄類」の冒頭の注で述べた通り、この「ボウトル」とは英語の乳製品の「butter」のカタカナ音写に酷似することが判然とする(後の開国後の横浜で「バター」は「ボウトル」と呼ばれた)。「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが、誤認としては判らんではない。「日本乳業協会」公式サイト内の八十四回「牛乳・乳製品から食と健康を考える会によれば、享保九(一七二四)年に、『当時の通訳であり蘭学者であった今村市兵衛英生が「和蘭問答(わらんもんどう)」を著しております。その中に西洋人の食事マナーについて説明した部分があり、「西洋人は食べながら手を洗います。そしてただひたすら食べるのではなく、同席者の顔を見たり』、『話をしながら食べるのです。出された物を全部食べてしまうのではなく』、『一盛り残すことがマナーです。パン(原文では「ハム」と表記)を食べます。これにバター(原文ではボウトル)を塗って食べます。」と記しています』とあり、また、小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)には『「酪」の作り方や形状・食べ方が書かれていますが、江戸時代も後期になると「酪」は発酵乳のことではなく、バターとして使われています。この時代の「酪」は発酵乳なのかバターなのか牛乳なのか文献をしっかり読まなければ判別がつきにくくなっています』。『「「酪」は馬・羊及び馬の乳で作られて、その味は甘い。バター(原文ボウトル)と言う。その形は蝋のようで柔らかい。西洋人は蒸し餅に付けて食べる。悪臭がある。蒸餅は蒸饅頭の餡を抜いたものと言える。長崎ではパンと言っている。」と記しています』とある。良安の記述は正徳二(一七一二)年であるから、まんず、許し得る原料と加工品の名称の誤認と採ってよかろう。

「反胃〔(ほんい)〕」食べたものをすぐ吐いてしまうような状態或いはそうした慢性的症状を指す。

「噎膈〔(いつかく)〕」「膈噎」(かくいつ)が普通。「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。しかし、ここは進行したそれではあり得ないから、広義の咽喉や気道附近での「痞(つか)え」でよい。

「四物湯〔(しもつたう)〕」東洋文庫訳注では『当帰(とうき)(薬草の名)三、芍薬(しゃくやく)三、川芎(せんきゅう)(薬草の名)三、熱地黃(じおう)(多年生薬草)三、の割合で入れ、これを煎じてつくった薬湯』とする。「武田薬品」公式サイト内の「京都薬用植物園」の「四物湯(しもつとう)」に、『体力虚弱で、冷え症で皮膚が乾燥、色つやの悪い体質で胃腸障害のないものの、月経不順、更年期障害、貧血などに適用されます。本処方は顔色や皮膚につやがないなどの「血虚」という症状に用いる基本的な処方と言われています。血を補う作用は主に地黄と芍薬が担い、川芎や当帰には血のめぐりを良くする作用があります』とある。薬草の原材料はご自分でお調べあれ。ちょっと疲れました。

「牛の涎〔(よだれ)〕」考えてみると、何らかの消化酵素が期待出来るから、確かに薬効ありそうだなぁ。

「身を終るまで」生涯。そりゃ、言い過ぎでショウ!?!

「噎〔(いつ)〕」前で既注。

「牛膽〔(うしのきも)〕」「熱〔せる〕釜に塗れば、卽ち、鳴る【「淮南子」を見よ。】」釜鳴り成りの占術に用いるということか。しかし、「淮南子」にこの記載を見出せなかった。

「信實」「新六」「ことごとしことひの牛の角さきにきらある見るも恐ろしのよや」藤原信実(安元二(一一七六)年?~文永三(一二六六)年以降)の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし。新三十六歌仙の一人)・為家(定家の子)・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第二 人」の載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

『「三才圖會」に云はく、『牛、病むときは、則ち、耳、燥〔(かは)〕く。安〔んずれば〕、則ち潤澤。善く、虎を角(つ)く。其の首を外に環〔(めぐ)ら〕して虎を觸(つ)く。猛(たけ)んと雖も、制すること、能はず』〔と〕』(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。図は前のコマ)。

『寗戚〔(ねいせき)〕が「相牛經〔(さうぎうけい)〕」』春秋時期の衛の出身で、後に斉の桓公に迎えられて宰相となった人物が書いたもので、以下を見るに、牛の良否や病気等について詳述した牛の古えのフリーキーな専門書であることが判る。こういうの、好き!

「鎊鼻〔(はうび)〕」「鎊」は「削る」の意であるから、尖った細い鼻の意であろう。

「一尺」春秋時代の一尺は二十二・五とちょっと短い。

「又、角を用ひて、煑〔(に)〕、軟(やはら)げ竪(た)つに、破〔り〕擴(ひろ)げ、徐(そろそろ)〔と〕踏み押(をさ)へ、窄(すぼ)まれば、則ち、再たび、煑、擴げ、板のごとくにし、櫛を挽き、黒き文〔(もん)〕を煑染(にそ)めて、琢(みが)きて、玳瑇(たいまい)に僞〔(いつは)〕る。油は蠟燭に作る。骨は厘等(れてぐ)の衡(さほ)に作る」この箇所、東洋文庫版訳には全くない。同訳書は凡例で、『異同のあるものでは、その都度』、『注記して異同を示した』とあるが、それも、ない。杜撰の極みである。なお、「玳瑇」は爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata から加工した鼈甲のことである。これは嘗て、妻のために三味線の撥をを買う時、業者から聴いたことがある。]

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