○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の短歌
[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]
初春の花見る每に父母の
傾く年を獨り寢に泣く、
[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月十四日の作(國木田獨步満二十一歳)。三月十五日の日記の冒頭に『昨夜歌一首を得。曰く、』として載せ、歌の後に、『アヽ天地悠々、歲月は逝』(ゆ)『いて止まず、明年は如何、明々年は如何、十年の後は如何、將た百年の後は如何、百年回顧しれば一夢の如く、千年回顧すれば一瞬のみ、人間の恩愛は萬古の情。』(太字は底本では傍点「◦」)と記している。彼の逝去はこの十五年後であった。]
今更らに此世の風の身に沁みて、
いとゞ戀しき父母のひざ。
[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十二日の作。三月二十三日の日記の中に、『昨日自由社より歸や、書を裁して國もとに送る、收二』(國木田獨步の実弟)『宿舍入舎の相談也。其の他色々。』/(改行)『中に一首、』としてこの歌を記し、後に『あゝ「五年は經過せり」、』(この五年前、上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。後述は誕生起点の値)『二十年餘は經過せり、父老ひ[やぶちゃん注:以下とともにママ。]母老ひ吾亦た壯年に達して、尚ほ且つ父母を安ずる能はず、理想の責任徒らに重く、燈火の悲慨空しく深し、切に回顧して父母の膝下を懷ふ』と記している。]
弱ければ弱きに付けて猶ほ弱く、
吾は迷へる羊なるかな。
[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十四日の条に出る。日記冒頭、『此の記を書するに先たちて左に一首、』として以上を掲げた上、歌の後に、
*
アヽ昨朝は意志の冷靜健猛たらんことを自誡して、而も今は淚と共に此の歌を歌はざる可からざる吾の如何に弱きぞ。
若し斯くの如くして日一日を送らば、狂死にあらずんば堕落なり。
狂死か堕落か、狂死猶ほ可、堕落して生を放樂に偸むる[やぶちゃん注:ややおかしいが、「ぬすむる」。]に至りては、神明の罰終に如何。
思ふに精神靈性の弱きはたまたま以て身體の衰弱を招き、狂死に非ず、堕落に非ず、元より事業成功に非ず、何事も成し能はず、以て命を消さんとする如きに了らんも計る可からず。
*
と記している。以上で当日の日記全文となる。]
こつこつとつとむる外に味もなく、
望もわざもせんすべもなし。
[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月三十一日の日記の掉尾に、前書で『左の一首を三月に送る』と記して、載せる。]
しねとならば死ぬる此身は惜まねど
生れし心あだに消す可き。
[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年七月六日の日記より。後に大久保余所五郞(よそごろう)宛の手紙に書き添えたものである旨の記載があり、書簡にも見える。]
冬枯れの野邊に主なく燃ゆる火の
燈は月の光ならまし。
[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年十一月二十三日の作。三日後の二十六の日記に載せる。この前月、國木田獨步は先に注した大分県佐伯にあった私立鶴谷学館教頭に就任していた。日記より、歌に関わる箇所を抜き出す。
*
木曜日二十三日の夜は月の光、夕の香をこめて僅に照りそめし頃、たまらず、家を出でぬ。弟を伴ひたり。
船頭河岸(せんどがし)に出でたり。晝間のさわがしきに似ずいと靜かなり。白馬一ツ繫ぎ居るを見たり。忽ち馬子乘りて牽て石階を下り渡船に乘らんとす。馬をそれてのらず、二三の人船と岸とに立ちて危ぶみて眺めぬ。馬よふよふ船に乘りたり。月已に川にみち居たりし也。海岸(かし)[やぶちゃん注:「海」はママ。]の石階の上に理髮所あり燈かゞやき居たり、其の前に四五人の見守り達集りて頻りに小兒を搖りつゝ唄ひ居たり。聲あはれなりき。渡船河の中流に出でし時、斜めに下流の峯より射す月の光を受けて馬白く人黑く舟危く、古色ありて、今眼前に眺め乍らも懷古の情と等しく一種の哀れを感じぬ。かゝる時人々の笑ふ聲、靜けさを破りて聞ゆるなどは却て哀れを增す者なり。
船廻りし時、吾等も乘りて渡りぬ。曩の[やぶちゃん注:「さきの」。]洪水に流されし橋の杭のこり立ちて趣きをそへぬ。
「渡」を渡れは堅田道なり。水田と河の入江とを貫きたる眞すぐの道にて家なし。此處野邊甚だ開けて山々のふもとを去るや、遠く、蒼煙はるかに地上をこめ月光白く空にみち、人なく聲なく、山默々、田の面に、くゞし火燃へ居たり。只だ獨り靜かにもへ[やぶちゃん注:ママ。]居たり煙低[やぶちゃん注:底本にここに編者により「く」の脱字を推定する割注有り。]はひて月の光これにこもりて 蒼く甚だ寂漠をたすけぬ。一首を得たり
[やぶちゃん注:「くゞし」は「くぶし」と言い、農作業で刈った草を燃やすこと及びその焚火を指す語。湿った生草のようなものを山のように積み、見た目では煙だけで燃やしているように見えることが多い。単に不要のそれを燃やすのであるから、炎や火の粉が舞い上がらぬよう、しかもこのシークエンスのように、夜、そばに人がおらずとも安全にごくゆっくりと燃えればよいのである。]
*
として一首を掲げる。因みに歌の後には、時制がずれるから、この一首とは直接の関係はないが、
*
昨夜友にやる書狀認め了はりし時は夜已に甚だ更けぬ、月の光のみ醒めたり。草あり、口笛なり。何處の少年ぞ、可憐なる。
*
と書いて擱筆している。印象的なので言い添えておく。]
吹くからに柳の絲の亂るなれ、
天の戶閉るその人もがな。
[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月十四日の作。十五日の日記に所収。それによれば、
*
德富[やぶちゃん注:蘇峰。]氏一首の和歌、一篇の漢詩を寄せらる。曰く、
吹く風に靡きそめたる靑柳の、
絲の亂れをとく由もがな。
今日の政界を慷慨したるもの也。
吾返歌を作る。曰く、
*
としてこの歌を掲げている。]
散にけり、いざ事問はん村びとよ
花のさかりをいかに眺めし。
[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば(抹消線は底本編者のそれで復元した。太字は底本では傍点「◦」、下線は左傍線)、
*
昨日の黑澤行を誌し置く可し。(二日朝認む)[やぶちゃん注:「黑澤」は現在の大分県佐伯市黒沢(グーグル・マップ・データ)。]
昨日は日曜日。教會の人々と共に黑澤と稱する處に櫻見物に出行きぬ。此黑澤の櫻と稱する云ふは、吾が佐伯に來りし時以茶己にしばく耳にする虛なりし也。佐伯町を去る三里半の山奧に在り。
拜禮終はりし後、同行者八人午前十時半頃出發す。歸宅したるは午後七時半なりし。
櫻花は已に散り居たり、只だ落花紛々の景を賞するを得たりしのみ。吾等それのみにても滿足したり。
櫻樹は二本あるのみ、されど何百年を經たりしとも知れざる老樹なり。なかなか世にめづらしき大木なり。立派なる庵あり、東光庵と稱す。
散にけり、いざ事問はん村びとよ
花のさかりをいかに眺めし。
此邊はまことに遠村なり、されど人は住み花は咲き、其處に人生あり。其處に老若男女あり、其處に吾あるなり。
知りぬ、己れの吾を以て尤も大なる吾と心得、其の吾をのみ中心として齷齪[やぶちゃん注:「あくせく」。]することの極めて愚なることを。見よや、乾坤の間、人類至る處に生滅す。何れか其吾を保たざらん。希くは此の吾をして其等凡ての吾に住まはしめよ。
余は此の凡ての吾に同化するを得て天地悠々の哀感のうちに、神聖者の信仰に生き、以て他の吾達の爲めに美妙を發揮し得る文士となりて一生を幸福に送るが願のみ。
英勵風發、美妙何處にかある。[やぶちゃん注:「英勵」の右に底本では編者のママ注記がある。何の誤字か不明。]
美妙はシエクスピヤーの筆の上ぼりたる處にあり。ユーゴーの筆に上りたる方面に在り。ウオーツウオースの筆に上りたる處に在り。はた老子信仰の人生觀に在り。はたクリスト信仰の人生觀に在り。はた李白が詩の聲のうちに在り。はたシヨウペンハウエルが哲理のうちに在り。美妙は至る處に在り。大我同情の眼を以てすれば至る處に在るなり。人性の暗處も描けば美となる。社會の暗黑も寫せば美となる。自然の美勿論然り。
*
と述べている。]
櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。
[やぶちゃん注:前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収し、
*
昨日、老櫻に別れて歸路につき、來ること一二丁ならずして路傍にいと古びたる墳墓四ツ五ツ並びて草のうちに立ち居たり。吾、人々を顧みて問ふて曰く此の墓と彼の老櫻といづれか老いた年を經たる。人々の曰く勿論老櫻こそと。然り。されど墓も已に其の形と云ひ其の朽碎せる樣と云ひ全然近代のものにあらず。今一首を得。
櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。
*
とある。]
鶯の啼なる方をふれされば
木の間がくれに花の散るなり。
[やぶちゃん注:「ふれされば」はママ。「振りされば」(振り返ってみると)の意か。前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば、
*
黒澤にゆく路は常に溪流に伴ふて進むなり。此流れ曲折するにつれて路は或は時に其の岸に沿ひ或は之を橫る[やぶちゃん注:「よこぎる」。]、南側の山脈より分派せる山の尾にたちきられ村落各所に散在す。山櫻いたる處の谷に在り。鶯も亦た處々に啼く。農夫野に在り。のどかなる景色なり。若葉萌へ出ずる樣陽氣空にみつ。
鶯の啼なる方をふれさけば
木の間がくれに花の散るなり。
櫻花なもなき山に咲き出でゝ
ゆかしさまさる鶯の聲。
茅の屋をみごしの山の花さきて
春日のどかに翁眠れり。
俗調一ツ。
春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
野邊の花まで迎へ顏。
*
と四首を並べる。後の三首は改めて以下に掲げる。]
櫻花なもなき山に咲き出でゝ
ゆかしさまさる鶯の聲
[やぶちゃん注:前歌注参照。]
茅の屋をみごしの山の花さきて
春日のどかに翁眠れり。
[やぶちゃん注:前々歌注参照。なお、これは実景と見てよいが、実はこの前年の十一月に獨步は「竹取物語」を読んおり、この直近の四月三十日には詩「竹取」の改作第一章を書いているから、この一首はそれと強い親和性があると見てよいように思われる。無論、これは詩篇「かぐや姫」(明治三一(一八九八)年六月一日『反省雜誌』発表)のプロトタイプと考えられるものである。]
俗調一ツ。
春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
野邊の花まで迎へ顏。
[やぶちゃん注:三首前の短歌注を参照されたい。そこに電子化したように所収する日記では前書風にある辞を添えて出した。]
世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
寂びしく暮す、一家なり。
[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてあるが、これは短歌ではなく、既に『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』で示した通り、纏まったソリッドな五七調の一詩篇の部分と読む方が正しいと私は考えている。]
伊豆相模、峰の白雪ふかけれど
わがすむ庵は春雨の音
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年二月二十七日の条に載る。歌の後に『春雨蕭々、閑居の思ひ長し。』と記している。短かった佐々城信子との結婚生活中の一首(結婚は前年明治二十八年十一月十一日)。この翌々月の四月十二日、教会礼拝からの帰途、信子は失踪し、同月二十四日に離婚を決した。]
わが戀の深き心は戀すてふ
浮名も消えし苔の下かな。
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月二十三日の条に載る。歌の後に『信子、信子、われは此の歌を愛吟して滿足するのみ』と記し、前文でも信子への未練を強く滲ませている。]
戀すてふ浮名や消えし後もなほ
戀しきものは戀にぞありける
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月十九日の条に以下の三首とともに列載する。歌の前に(但し、歌群との間には罫線がある)『余が感情は再び荒れんとせり。再び昨年信子を知らざりし以前の余の感情に立ちかへらんとせり』と記している。]
朝な夕な身に沁みまさる秋風に
さびしく獨り戀ひまさるかな
[やぶちゃん注:同前。]
花に狂ふ蝶の羽風のたよりだに
君がことづて聞くよしもがな
[やぶちゃん注:同前。]
わぎもこの北にいませば北風の
身に沁めかしと野邊路さまよふ
[やぶちゃん注:同前。]
○國木田獨步書簡所収の短歌(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)
[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]
波風の荒き時のみ尊きかは
まことの友は又たの吾が身ぞ
[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年七月二十三日附大久保余所五郞宛(底本全集書簡番号四)より。大久保余所五郞については、『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』の注で既注。]
君を待つほの夕なぎに
やくやもしほの身をこがしつゝ
[やぶちゃん注:明治二四(一八九一)年五月二十八日附水谷眞熊宛より(底本全集書簡番号補一一)。書簡では歌は丸括弧で括られてあるが、除去した。水谷眞熊(明治三(一八七〇)年~大正一四(一九二五)年)は熊本出身の友人。東京専門学校邦語政治科卒で、在学中、国木田独歩らと親交を結び、『靑年文學』同人となる。一時は雑誌編集の中心であった。後、郷里にて農政・社会事業に尽くした(ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]
大言を吐て今年も過ぎたれど
心細きは年の暮かな
[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年『正月元日』附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号一五)。歌の前に一字下げで、『僕歲暮の感てふ一狂歌あり大兄の下に年玉として進呈致す事也曰く』と記す。]
○君に告ぐ
死して後やまん心のますらほのちかひしことの末を見よ君
[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年六月二十五日附河手忠宛より(底本全集書簡番号一九)。以下の三首と列挙する。歌にはそれぞれ前後に鍵括弧が附されてあるが、除去した。河手は山口での旧友と思われる。]
○獨り昂然として
うてばちる葉末の露の玉となるも瓦となりて何にながらへん君
[やぶちゃん注:同前。]
○出立の際
立てば行く行けば倒れんそれ迄ではいくるも死ぬも神のまにまに
[やぶちゃん注:同前。これより前の書簡内容からは、若き日、山口から上京した折りを追懐しての吟と推定される。]
○客舍の暮雨旅魂將に寂漠たるの際忽ち亡友古川兄を思ふて
友は逝きのこりし吾の此の命せめては國のためにさゝげん
[やぶちゃん注:同前。]
富士の山、いつの世にか崩れなん、
雲の峰たへはせじ、
[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月六日附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号三二)。前で『君が夏雲、富岳に秀づるを見ての秀咏に對へて』として、次の一首と併置する。]
雲の峰いつの世にかたへはてん
美の心つきはせじ
[やぶちゃん注:同前。二首の後に『以上は歌なり之れにつぎて以下は文章なり。』/『かるが故につきせぬ心は美の心、吾が心は則ち美の心、之れを以て富岳大と雖も雲峰偉なりと雖も吾が方寸の中に在り』と記している。]
關留る柵ぞなき泪川
いかにながるゝ浮身
なるらん
[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日附大久保余所五郞宛書簡(底本全集書簡番号三二)の末尾クレジット・署名前に配す。本書簡には既に出した「わが宿は星滿つ夜(よる)の琵琶湖かな」の俳句も前の方に記している。老婆心乍ら、上句は「せきとむるしがらみぞなきなみだがは」と読む。]
大神の御心われは知らねども
日の本の民救はざらめや
[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年二月二十四日附田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六二)。書簡末尾(追伸位置)にあり、前には、
*
人眠之時吾醒ル時ナリ
夢漠々時、淚潛々
*
という和漢文が記されて一行空けて短歌を記している。「潛々」は音で「センセン」か。訓じるなら「さめざめ」である。田村三治は「頭巾二つ 於千代田艦 國木田獨步」で既注。]
春くれバ草木をのづと萌へいづるに
何とて民の枯れまさるらん
[やぶちゃん注:「をのづと」はママ。明治二七(一八九四)年三月十日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号六四)。後に『此失望的の口調あれども慷慨の餘りのみ 草々』と擱筆している。]
木の葉ちり秋も暮にしかた岡の
さびしき杜に冬は來にけり
[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年九月二十七日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号七九)。末尾追伸位置に次の歌と併置してある。次注も参照のこと。]
昔思ふ秋のねさめの床の上に
ほのかにかよふ峯の秋風
[やぶちゃん注:同前。前の歌との間に『の時節には少しく間もある事ながら』と挟む。]