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カテゴリー「石川啄木」の76件の記事

2020/06/05

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) (無題にて『⦅この集のをはりに⦆』という後書めを持つ終詩)・與謝野鐡幹の跋文・奥附 / 石川啄木詩集「あこがれ」(初版準拠版)オリジナル附注~完遂

 

 

    來し方よ、破歌車(やれうたぐるま)

    綱(つな)かけて、息(いき)もたづたづ、

    過ぎにしか、こごしき坂を

    あたらしきいのちの花の

    大苑の春を見むとて。

          ⦅この集のをはりに⦆

 

[やぶちゃん注:本篇は本詩集に添えられたもので、先行する初出はない。]

 

 

あこがれ 

 

 

少年にして早う名を成すは禍なりと云へど、しら髮かきたれて身はさらぼひながら、あるかとも問はれざる生きがひなさにくらぶれば、猶、人と生れて有らまほしくはえばえしきわざなりかし。 それも今樣のはやりをたちが好む、ただかりそめの名聞ならば爪彈(ツマハジ)きしつべけれ、香木のふた葉にこもるかをりおさへあへずおのづから世にちりぼひて、人の捧ぐる譽れを何かは辭むべき。 石川啄木は年頃わが詩社にありて、高村碎雨・平野萬里など云ふ人達と共に、いといと殊に年わかなる詩人なり。 しかもこれらわかきどちの作を讀めば、新たに詩壇の風調を建つるいきざし火の如く、おほかたの年たけし人々が一生にもえなさぬわざを、早う各〻身ひとつには爲遂(シト)げむとすなる。 あはれさきには藤村・泣堇・有明の君達あり今はたこれらのうらわかき人達を加へぬ。 われら如何ばかりの宿善ある身ぞ、かゝる文藝復興の盛期に生れ遭ひて、あまた斯やうにめづらかなる才人のありさまをも觀るものか。 こたび書肆のあるじなにがし、啄木に乞ひて、その處女作『あこがれ』一集を上板せむとす。 啄木、その事の今の賣名の徒と誤り見られむことを恐れて、われに議りぬ。 われ云ふ、毀譽の外に立ちてわが信ずる所にひたゆくは、古の詩人の志にあらずや。 あながちに當世の人のためにのみ詩を作らざるは、またわが詩社のおきてにあらずや。 みづから省みて疚しからずば、もとより詩集を出だすは詩人の事業なり、何のためらふ所ぞと。 啄木わがこの言を聽き、ほほゑみて草本一卷を懷より取うでぬ。こは啄木が十八の秋より二十(ハタチ)の今の春かけて作れるもの凡そ七十餘篇、あなめざまし、あななつかし、あなうるはし、人見て驚かぬかは。

 

  巳の暮春       與 謝 野 鐵 幹

 

[やぶちゃん注:句点の後の字空けは見た目を再現した。原本では全体の活字が無暗に大きいが、一部を除いて再現していない。なお、與謝野鐡幹(明治六(一八七三)年)二月二十六日~昭和一〇(一九三五)年)は当時(「巳の暮春」は明治二十八乙巳年(一九〇五年))満三十二歳。再確認するが、石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日)は当時満十九歳。

「高村碎雨」高村光太郎(明治一六(一八八三)年~昭和三一(一九五六)年)の当時のペン・ネーム。あまり認識されていないが、彼が本名で記すようになるのは明治四二(一九〇九)年二月以降のことである。

「平野萬里」(ばんり 明治一八(一八八五)年~昭和二二(一九四七)年)は技師で歌人・詩人。本名は平野久保。埼玉県生まれ。明治二三(一八九〇)年、一家で上京、本郷森川町に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森鷗外の長男で授乳期にあった森於菟(同年九月に鷗外と最初の妻登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれたが、直後に両親が離婚した)を五歳まで預かっている。本郷区立駒本尋常高等小学校(現在の文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城・共立・日本中学と並んで東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学んだ。同校を明治三四(一九〇一)年に卒業、新詩社に入社して仕事をしながら、翌年の九月に一高入学した。明治三十八年、東京帝国大学工科大学応用化学科に進む一方、『明星』に短歌・詩・翻訳などを多数発表し、明治四十年に歌集『わかき日』を刊行している。翌年、大学を卒業、その翌年には横浜の会社に入り、明治四三(一九一〇)年には満鉄中央試験所の技師として大連に赴任した。その間、『明星』廃刊の後、石川啄木らと『スバル』創刊に尽力し、同誌に小説・戯曲を発表している。大正元(一九一二)年末から三年ほどドイツに留学、帰国後、農商務省技師となり、昭和一三(一九三八)年、商工省退官まで勤めた。大正前期には作歌を一時中断したが、大正一〇(一九二一)年の第二次『明星』の創刊に参画してより、与謝野夫妻が没するまで夫妻と相伴うようにして協力し、同行して作品を発表した。大正一二(一九二三)年には鴎外全集刊行会版「鷗外全集」の編集者も務めた(以上は主文をウィキの「平野万里」に拠った)。

「毀譽」筑摩版全集(昭和五四(一九七九)年刊第一巻)ではここに『きよ』とルビするが、他がカタカナであるので判る通り、原本にはルビはない。これは特異点の全集編者の手入れであって、誤植と確実に判断される以外は初版そのままに起こしたとするにも拘わらず、必要がないにも拘わらず何故か施してあり、不審極まりないルビである。

 以下、奥附。ほぼベタで活字化した。字配その他は現画像を見られたい。この後に同書店の近刊(石川啄木のものを含む)広告がある(ここここ)リンクに留める。]

 

 

明治三十八年五月一日印刷  あこがれ奧附

明治三十八年五月三日發行  定價金五拾錢

 

不許複製

 

 著作者       石 川 啄 木

     東京市京橋區南大工町五番地

 發行者       小田島嘉兵衞

     東京市京橋區南大工町五番地

 發行者       小田島 尙三

     東京市京橋區紺屋町二十六七番地

 印刷者       石 川 金太郞

     東京市京橋區紺屋町二十六七番地

 印刷所   株式會社 秀 英 舍

 

發行所  東京市京橋區南大工町五番地

           小 田 島 書 房

 

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) めしひの少女

 

   めしひの少女

 

『日は照るや。』聲は靑空(あをぞら)

白鶴(しらつる)の遠きかが啼き、──

ひむがしの海をのぞめる

高殿(たかどの)の玉の階(きざはし)

白石(しらいし)の柱に凭(よ)りて、

かく問(と)ひぬ、盲目(めしひ)の少女(をとめ)。

答(こた)ふらく、白銀(しろがね)づくり

うつくしき兜(かぶと)をぬぎて

ひざまづく若(わか)き武夫(もののふ)、

『さなり。日は今浪はなれ、

あざやかの光の蜒(うね)り、

丘を越(こ)え、夏の野をこえ、

今君よ、君が恁(よ)ります

白石(しらいし)の圓(まろ)き柱の

上半(うへなか)ば、なびくみ髮(ぐし)の

あたりまで黃金(こがね)に照りぬ。

やがて、その玉のみ面(おも)に

かゞやきの夏のくちづけ、

又やがて、薔薇(ばら)の苑生(そのふ)の

石彫(いしぼり)の姿に似たる

み腰にか、い照り絡(から)みて、

あまりぬる黃金の波は

我が面(おも)に名殘(なごり)を寄せむ。』

手をあげて、めしひの少女、

圓柱(まろばしら)と撫(さす)りつつ、

さて云ひぬ、『げに、あたたかや。』

また云ひぬ、『海に帆(ほ)ありや。

大空(おほぞら)に雲の浮ぶや。』

武夫(もののふ)はと立ちあがり、

答ふらく、力(ちから)ある聲、

『ああさなり。 海に帆の影、──

いづれそも、遠く隔(へだ)てて、

君と我がなからひの如、

相思ふとつくに人(びと)の

文使(ふみづかひ)乘(の)する船なれ、

紅(くれなゐ)の帆をばあげたり。──

大空(おほぞら)に雲はうかばず、

今日(けふ)もまた、熱き一日(いちにち)。──

君とこそ薔薇(ばら)の下蔭(したかげ)

いと甘き風に醉(ゑ)ふべき

天地(あめつち)のの幸福者(さひはひもの)の

我にかも厚(あつ)き惠(めぐ)みや、

大日影(おほひかげ)かくも照るらし。』

少女(をとめ)云ふ、『ああさはあれど、

君はただ身ゆるこそ見め。

この胸の燃ゆる日輪(にちりん)、

いのちをも燒(や)きほろぼすと

ひた燃えに燃ゆる日輪、

み眼(め)あれば、見ゆるを見れば、

えこそ見め、この日輪(にちりん)を。』

武夫(もののふ)はいらへもせずに、

寄り添ひて强(つよ)き呟(つぶ)やき、

『君もまた、えこそ見め、我が

双眸(さうばう)の中にかくるる

たましひの、君にと燃ゆる

みち足(た)らふ日のかがやきを。』

かく云ひて、少女を抱き、

たましひをそのたましひに、

唇(くちびる)をその唇(くちびる)に、

(生死(いきしに)のこの醉心地(ゑひごゝち))

もえもゆる戀の口吻(くちづけ)。──

口吻(くちづけ)ぞ、ああげに二人(ふたり)、

この地(つち)に戀するものの、

胸ふかき見えぬ日輪(にちりん)

相見ては、心休むる

唯(たゞ)一(いち)の瞳(ひとみ)なりけれ。──

日はすでに高(たか)にのぼりて、

かき抱く二人、かゞやく

白銀(しろがね)の兜(かぶと)、はたまた、

白石(しらいし)の圓(まろ)き柱や、

また、白き玉の階(きざはし)、

おほまかに、なべての上に

黃金なす光さし添へ、

高殿(たかどの)も戀の高殿(たかどの)、

天地(あめつち)も戀の天地(あめつち)、

勝(か)ちほこる胸の歡喜(くわんき)は

光なす凱歌(かちどき)なれば、

丘をこえ、靑野をこえて、

ひむがしの海の上まで

まろらかに溢(あふ)れわたりぬ。

            (乙巳三月十八日)

 

[やぶちゃん注:「圓柱(まろばしら)と撫(さす)りつつ、」及び「武夫(もののふ)はと立ちあがり、」の太字は底本では傍点「ヽ」(初出では「ひた燃えに燃ゆる日輪」の「ひた」にもあるが、こちらにはない)。句点の後の字空けは見た目を再現した。

「かが啼き」「かかなく」の名詞形。「かかなく」(但し、清音)は「鳴(かかな)く」「嚇(かかな)く」で鳥などが荒々しく激しく鳴くの意の万葉以来の古語。

 初出は明治三八(一九〇五)年四月号『明星』。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらからを読むことが出来る。有意な異同は認めない。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 草苺

 

   草  苺

 

靑草(あをぐさ)かほる丘(をか)の下(した)、

小唄(こうた)ながらに君過(す)ぐる。

夏の日ざかり、野良(のら)がよひ、

駒(こま)の背(せ)にして君過ぐる。

君くると見てかくれける

丘の草間(くさま)の夏苺(なついちご)、

日照(ひで)りに蒸(む)れて、靑床(あをどこ)や、

草いきれする下かげに、

天(あめ)の日うけて情(なさけ)ばみ

色ばみ燃えし紅(あけ)の珠(たま)、──

鶉(うづら)の床の丘の邊に

もとより鄙(ひな)の草なれど、

ああ胸の火よ、紅(あけ)の珠(たま)、──

とどろぎ心(ごころ)ひざまづき、

手(て)觸(ふ)れて見れば、うま汁(しる)に

あへなく指(ゆび)の染(そ)みぬるよ。

素足(すあし)草刈(くさか)る身は十五、

夏草しげる中なれば、

心(むね)の苺(いちご)はかくれたれ、

くろ髮捲ける藍染(あゐぞめ)の

白木綿(しらゆふ)君に見えざるや。

過ぎし祭(まつり)の春の夜、

おぼろ夜深み、酒(さか)ほぎの

庭に、手とられ、袖とられ、

君に撰(ゑ)られて、はづかしの

唄(うた)に盃(さかづき)さされける

ああその夜より、姿よき、

駒(こま)もち、田もち、家もちの

君が名になど頰(ほ)の熱(ほて)る。

今君行くよ、丘の下、──

かがやく路を、若駒(わかごま)の

白毛(あしげ)ゆたかの乘樣(のりざま)や、──

聲し立てねば、えも向(む)かで

小唄(こうた)ながらに君行くよ。

ああ草蔭(くさかげ)の夏苺(なついちご)、

天(あめ)の日うけて情ばみ

色ばみ燃えて、日もすがら

くちびる甘(あま)き幸(さち)まてど、

醜草(しこくさ)なれば、君が園

枝(えだ)瑞々(みづみづ)し林檎(りうごう)の

櫑子(らいし)に盛(も)られ、手にとられ、

君がみ唇(くち)に吸(す)はるべき

木(こ)の實(み)の幸(さち)をうらみかねつも。

            (乙巳二月廿一日)

 

[やぶちゃん注:「草苺」「くさいちご」は「早稲苺(わせいちご)」とも呼ぶ、落葉小低木のバラ目バラ科バラ亜科 Rubeae 連キイチゴ属クサイチゴ Rubus hirsutus。昔は裏山の散策でよく食べたものだった。

「林檎(りうごう)」「りんごん」の「ん」を「う」と表記したもの。リンゴ。

「櫑子(らいし)」高坏(たかつき)に似た縁の高い器。酒や菓子などを盛った。

 初出は『時代思潮』明治三八(一九〇五)年四月号。有意な異同は認められない。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 凌霄花

 

   凌 霄 花

 

鐘樓(しゆろう)の柱(はしら)まき上(あ)げて

あまれる蔓(つる)の幻と

流れて石の階(きざはし)の

苔(こけ)に垂れたる夏の花、

凌霄花(のうぜんかつら)かがやかや。

花を被(かづ)きて物思(ものも)へば、

現(うつゝ)ならなく夢ならぬ

ただ影深(かげぶか)の花の路、

君ほほゑめば靄かほり

我もの云へば蕾咲(つぼみ)く

步み音なき遠つ世の

苑生(そのふ)の中の逍遙(さまよひ)の

眩(まば)ゆきいのち近づくよ。

身は村寺(むらでら)の鐘樓守(しゆろうもり)、──

君逝(ゆ)きしより世を忘れ、

孤兒(みなしご)なれば事もなく

御僧(みさう)に願ひゆるされて、

語(ご)もなき三とせ夢心地、

君が墓(はか)あるこの寺に、

時告(つ)げ、法(のり)の聲をつげ、

君に胸なる笑(ゑ)みつげて、

わかきいのちに鐘を撞(つ)く。──

君逝(い)にたりと知るのみに、

かんばせよりも美くしき

み靈(たま)の我にやどれりと

人は知らねば、身を呼びて

うつけ心(こゝろ)の啞(おふし)とぞ

あざける事よ可笑(おか)しけれ。

あやめ鳥鳴く夏の晝

御寺まゐりの徒步の路、

ひと日み供に許されて、

この石階の休らひや、

凌霄花(のうぜんかづら)花(はな)二つ

摘(つ)みて、一つはわが襟(えり)に、

一つは君がみつむりの

かざしに添へてほほゑませ、

み姉(あね)と呼ぶを許(ゆ)りにける

その日、十六かたくなの

わが胸涵(ひた)す匂ひ潮、

おほ葩(はなびら)の、名は知らね、

映(は)ゆき花船うかべしか。

さればこの花、この鐘樓(しゆろう)、

我が魂(たましひ)の城と見て、

夏ひねもすの花まもり、

君が遺品(かたみ)の、香はのこる

上(かみ)つ代(よ)ぶりの小忌衣(をみごろも)、──

昔好(むかしごの)みの君なれば

甞(かつ)ては御簾(みす)のかげ近き

衣桁(いかう)にかけて、空薰(そらだき)の

風流(ふりう)もありし香のあとや、──

靑草摺(あをくさずり)の白絹(しらぎぬ)に

袖にかけたる紅(あけ)の紐(ひも)、

年の經ぬれば裾きれて

鶉衣(うづらごろも)となりにたれ、

君が遺品(かたみ)と思ほえば

猶わが身には玉袍(ぎやくはう)と、

男姿(をとこすがた)にうち襲(かさ)ね、

人の云ふ語(ご)は知らねども、

胸なる君と語らふに、

のうぜんかづら夏の花

かがやかなるを、薰(くん)ずるを、

かの世この世の浮橋(うきはし)の

『影なる園』の玉(たま)の文字(もじ)。

花を被(かづ)きて、石に寢て、

君が身めぐる照る玉の

眩(まば)ゆきいのち招(まね)ぎつつ、

ああ招ぎつつ、迎(むか)へつつ、

夕つけくれば、朝くれば、

ほほゑみて撞(つ)く巨鐘(おほがね)の

高き叫びよ、調和(とゝのひ)よ、──

その聲すでに君や我

ふたりの魂(たま)の船のせて

天(あめ)の門(かど)にし入りぬれば、

人の云ふなる放心者(うつけもの)、

身は村寺の鐘樓守(しゆろうもり)、

君に捧(さゝ)げし吾生命(わぎぬち)の

この喜悅(よろこび)を人は知らずも。

           (乙巳二月二十日夜)

 

[やぶちゃん注:「可笑(おか)しけれ」のルビはママ。最初の「凌霄花(のうぜんかつら)」の清音はママであるが(原本画像)、二回目の「凌霄花(のうぜんかづら)花(はな)二つ」の部分は実はルビが「のうぜんからづ」となっている(原本画像)。これは明白な植字工のミスであるから、特異的に訂した。筑摩版全集は孰れも「のうぜんかづら」と濁音にして統一して校訂してしまっている。

「小忌衣(をみごろも)」ここは物忌みをしているしるしとする清浄なる上着を着ているさま。

「鶉衣(うづらごろも)」ウズラの羽が斑(まだら)を呈するところから、「継ぎ接(は)ぎのしてある襤褸(ぼろ)な着物を指す。

 初出は前に述べた通り、『明星』明治三八(一九〇五)年三月号で、総表題「彌生ごころ」で載る。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。因みに、本篇に選んで添えられたものではないが、当該雑誌の本篇の途中には――何んと、かの青木繁(明治一五(一八八二)年~明治四四(一九一一)年)の「海の幸」(明治三四(一九〇一)年・千葉布良にて制作)が鮮烈な赤い印刷で挿入されてあるのである!――

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 小田屋守

 

   小 田 屋 守

 

身は鄙(ひな)さびの小田屋守(をだやもり)、

苜蓿(まごやし)白き花床(はなどこ)の

日照(ひで)りの小畔(をぐろ)、まろび寢て、

足(た)るべらなりし田子(たご)なれば、

君を戀ふとはえも云へね、

水無月(みなづき)螢とび亂れ、

暖(ぬる)き風吹く宵(よひ)の間を、

ひるがほ草(さう)の蔓(つる)ながき

小田(をだ)の小徑(こみち)を匂はせし

都ぶりなるおん袖に

ゆきずり心(こゝろ)蕩(とろ)かせし

その移り香の胸に泌(し)み、

心の栖家(すみか)君にとて

なさけの小窓(をまど)ひきしより、

ああ吹く笛のみだれ音(ね)や、

みだりごころは、靑波の

稻田(いなた)の畔(あぜ)の堰(せ)きかねて

夏照(なつで)り走るぬるみ水、

世に許(ゆ)りがたき貴人(あでびと)の

御姬(みこ)なる君を追ひぞする。

今は四方田(よもだ)の稻たわわ、

琥珀(こはく)の玉をむすべるに、

ひめてはなたぬ我が思ひ、

ただわびしらの思寢(おもひね)の

淚とこそはむすぼふれ、

ああ玉苑(ぎよくえん)のふかみ草

大(おほ)き葩(はなびら)啄(つ)まむとて

追ひやらはれし野の鳥の

つたなき身樣(みざま)まねけるや。

こよひ刈穗(かりほ)の庵(いほ)の戶に

八束穗(やつかほ)守る身を忘れ、

小田刈月(をだがりづき)の亥中月(ゐなかづき)、

君知りしより百夜(もゝよ)ぞと

さまよひ來ぬるみ舘(やかた)の

木槿(むくげ)花咲く垣(かき)のもと、

灯(ほ)かげ明(あか)るき高窓(たかまど)に

君が彈(ひ)くなる想夫憐(さうふれん)。

ああ鄙(ひな)さびの小田屋守(をだやもり)、

笛なげすてて、花つみて、

花をば千々(ちゞ)にさきすてて、

溝(みぞ)こえ、厚(あつ)き垣(かき)をこえ、

君が庭には忍び入る。

            (乙巳二月二十日)

 

[やぶちゃん注:「小田屋守」は主に鹿や猪などの来襲によって田畑が荒らされるのを守る「田守り」のために田畑の中に作った小屋(「田屋(たや)」とも称する)の番人を言う。

「苜蓿(まごやし)」ここは「白き花床」とあることから、お馴染みの双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens、則ち、「クローバー」(英名:White clover)の和名である。漢字表記は「白詰草」で、これは弘化三(一八四六)年にオランダから日本へ献上されたガラス製品の包装に衝撃緩衝材として詰められていたことに由来する。明治以降、家畜飼料用として導入されたものが野生化した帰化植物で、根粒菌により窒素固定することが知られる。但し、「馬肥(まごや)し」は厳密には別種であるシャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha の異名であるが、こちらは黄色い小さな花で(但し、複数種有り)、ここでは同種ではない。これはヨーロッパで、江戸時代には既に日本に入っていた帰化植物である。なお漢字表記の「苜蓿」は、これまた本来はウマゴヤシに近い品種で紫花をつけ、専ら「もやし」を作るのに用いるウマゴヤシ属ムラサキウマゴヤシ Medicago sativa則ち「アルファルファ」の名で知られる種を指し、牧草として西アジアから輸入されたものである。こちらは中央アジア原産で、やはり明治時代に導入されたが、多湿で酸性土壌の多い日本での生産は定着せず、ごく一部が野生化するに留まっていた。但し、しかし、近年では北海道で耐病性・耐寒性に優れた品種が開発され、栽培が広まっている。

「小畔(をぐろ)」小さな畦(あぜ)。

「べらなりし」過去推量で「そのような生きざまで満足していたように見える塩梅の者であった」の意。「べらなり」は助動詞(形容動詞ナリ活用型)で「~するようだ・~そうに思われる」という推量を示す。助動詞「べし」の語幹「べ」+状態を示す名詞様の語を形成する接尾語「ら」+断定の助動詞「なり」から形成された後発の助動詞。平安時代に漢文訓読に「べし」に当たる語として男性に好んで用いられ、和歌では「古今和歌集」の頃にはかなり用いられたが、実用は間もなく廃れた古語である。

「田子(たご)」農民。

「ひるがほ草(さう)」蔓性植物である「晝顏」、ナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ Calystegia japonica。日本原産の在来種。ウィキの「ヒルガオ」によれば、『日本には古くから自生しており、奈良時代末期に成立したとされる『万葉集』では、美しいという意味を表す「容」の語を当てて、容花(かおばな)として記載が見られる』。『奈良時代に朝廷が派遣した遣唐使が、中国(唐)よりアサガオ(朝顔)が持ち帰られたときに、アサガオに対する呼び名としてヒルガオと呼ばれるようになったといわれている』とある。私は昼顔が好きだが、しかし、眺めているうち、ふと、何か悲しくなってくるのを常としている。

「たわわ」形容動詞「撓(たわわ)なり」の語幹の用法。重みで撓んでいるさま。

「わびしら」気を落としているさま。形容動詞「侘しらなり」の語幹の用法。「ら」は先に出た状態を示す名詞様の語を形成する接尾語「ら」。

「ふかみ草」「深見草」。ここはユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa の異名。

「小田刈月」「田の稲を刈りとる月」の意で陰暦九月の異称。

「亥中月」陰暦二十日の夜の月。更け待ち月。はつかづき。いなかづき。亥の中刻(午後十時)頃に東天に月が上ることによる。

「木槿」アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ムクゲ Hibiscus syriacus。中国原産であるが、本邦へはかなり古くに渡来し、平安初期にはすで庭木として植えられていたと考えられている。

「想夫憐(さうふれん)」「相府蓮」「想夫恋」とも書く。雅楽の唐楽で平調 (ひょうじょう) の新楽の中曲。舞は古くに絶えた。古代中国の晋の大臣王倹が官邸の池に蓮を植えて愛したことを叙した曲とされる。本邦では男を恋する女心の曲とされ、小督局(こごうのつぼね)が天皇の愛を偲んで弾箏 (だんそう) した話で知られる。

 初出は前に述べた通り、『明星』明治三八(一九〇五)年三月号で、総表題「彌生ごころ」で載る。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。]

2020/06/04

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 靑鷺

 

   靑  鷺

 

隱沼添(こもりぬぞ)ひの丘(をか)の麓(を)、

漆(うるし)の木立(こだち)時雨(しぐ)れて

秋の行方(ゆくへ)をささ

たづねて過(す)ぎし跡や、

靑鵲色(やまばといろ)の霜(しも)ばみ、

斑(まば)らの濡葉(ぬれば)仄(ほの)に

ゆうべの日射(ひざし)燃(も)えぬ。

 

野こえて彼方(かなた)、杉原(すぎはら)、

わづかに見ゆる御寺(みてら)の

白鳩(しらはと)とべる屋根(やね)や、

さびしき西の明(あか)るみ、

誰(た)が妻(つま)死ねる夕ぞ、

鐃鈸(ねうばち)遠く鳴りて、

淚(なんだ)も落つるしじまり。

ゐ凭(よ)れば、漆若樹(うるしわかぎ)の

黃色朽葉(きくちば)はらら、胸に

拱(こま)ぬぐ腕(うで)をすべりぬ。

ふと見るけはひ、こは何、──

隱沼(こもりぬ)碧(あを)の水嵩(みかさ)の

蘆(あし)の葉ひたすほとりに

靑鷺(あをさぎ)下(お)りぬ、靜かや。

 

立つ身あやしと凝視(まも)るか、

注(そゝ)ぐよ、我に、小瞳(こひとみ)。──

あな有難(ありがた)の姿と

をろがみ心(ごゝろ)、我(われ)今(いま)

鳥(とり)の目(め)底(そこ)に迫(せま)るや、

尾(を)被(かつぎ)ききと啼(な)きて

漆の木立夕つけぬ。

            (乙巳二月二十日)

 

[やぶちゃん注:太字は原本では傍点「ヽ」。

「靑鷺」鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。私の偏愛する鳥。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を読まれたい。

「靑鵲色(やまばといろ)」ルビ通りなら、ハト目ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis であるが、キジバト(異名は「山鳩」)の色はアオサギとは似ていない。民俗社会では「灰色がかった緑色」のことを広汎に「山鳩色」と称し、それどころか、アオサギのことを「靑鵲」とも書くのである。これ以上、調べる気は起らない。

「鐃鈸(ねうばち)」現代仮名遣「にょうばち」。濁音化せずに「にょうはち」とも。禅宗の法会ではお馴染みの仏具である。「曹洞宗近畿管区教化センター」公式サイト内の「鐃鈸」より引く(現物の写真有り)。『鐃鈸は、西洋楽器のシンバルに似ているが、音はそれよりも素朴で太い。紐を指の間に挟んで持ち、上下に擦り合わせるようにして音を出す。力まかせに打ち鳴らしても美しい音は出ない。特に音の余韻を生じさせるために、双方を微妙に触れ合うようにするが、ある程度熟練しないとうまく奏でることができない』。『また、上部の端をカチカチと軽く触れ合わせる鳴らし方もある』。『曹洞宗では、施食会などの特別な法要や葬儀で使用する。手鏧(しゅけい)(引鏧(いんきん))・太鼓とセットで鳴らすことが多く、これを「鼓鈸(鉢)(くはつ)」という。俗に「チン・ポン・ジャラン」などと表現される』。『仏さまの徳を讃えたり、諸仏書菩薩をお迎えするため、また亡き人の成仏のために鳴らされる』。『中央がドーム状に突起した円盤形の法楽器』で、『主に銅製』。『両手に持って打ち合わせて音を出す』もので、『妙鉢(みょうはち)・鈸(はつ)ということもある』。とある。

 初出は前に述べた通り、『明星』明治三八(一九〇五)年三月号で、総表題「彌生ごころ」で載る。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 泉

 

   

 

森の葉を蒸(む)す夏照(なつで)りの

かがやく路のさまよひや、

つかれて入りし楡(にれ)の木の

下蔭に、ああ瑞々(みづみづ)し、

百葉(もゝは)を靑(あを)の御統(みすまる)と

垂(た)れて、浮けたる夢の波、

眞淸水透(とほ)る小泉よ。

いのちの水の一掬(ひとむすび)、

いざやと下(お)りて、深山(ふかやま)の

小獐(こじか)の如く、勇みつつ、

もろ手をのべてうかがへば、

しら藻(も)は髮にかざさねど

水神(みづち)か、いかに、笑(ゑま)はしの

ゆたにたゆたにものの影、

紫三稜草(むらさきみくり)花(はな)ちさき

水面(みのも)に匂ふ若眉(わかまゆ)や、

玉頰(たもほ)や、瑠璃(るり)のまなざしや。

ああ一雫(ひとしづく)掬(すく)はねど、

口(くち)は無花果(いちじく)香もあまき

露にうるほひ、凉しさは

胸の奧まで吹きみちぬ。

夢と思ふに、夢ならぬ

と云ふ音におどろきて

眼(まなこ)あぐれば、夢か、また、

(こ)木の間(ま)まぼろし鮮(あざ)やかに

垂葉(たりは)わけつつ駈(か)けて行く。──

さは黑髮のさゆらぎに

小肩(をがた)なよびの小女子(をとめご)よ。──

ああ常夏(とこなつ)のまぼろしよ、

など足早(あしばや)に過ぎ玉ふ。

ねがふは君よ、夢の森

にほふ綠の凉影(すゞかげ)に

暫しの安寢(やすい)守らせて、

(しばしか、夢の永劫(えいごふ)よ。)

われ夢守(ゆめもり)とゆるせかし。

目さめて仄(ほの)に笑(ゑ)ます時、

もろ手は玉の泔坏(ゆするつき)、

この眞淸水を御泔水(みゆする)に

手(て)づから君にまゐらせむ。

ああをとめごよ、幻よ、

はららの袖や愛の旗(はた)、

などさは疾(はや)き足(あし)どりに、

天(あめ)の鳥船(とぶね)のかくろひに、

綠(みどり)の中に消えたまふ。

           (乙巳二月十九日夜)

 

[やぶちゃん注:「と云ふ音におどろきて」「はららの袖や愛の旗、」の太字部分は底本では傍点「ヽ」。

「御統(みすまる)」上代に於いて、多くの玉を緒に貫いて輪としたものを首に掛けたり、腕に巻いたりして飾りとしたもの。

「小獐(こじか)」この「獐」はノロ(鯨偶蹄目シカ科ノロ亜科ノロ属ノロ Capreolus capreolus)というヨーロッパや東欧・ロシア西部に棲息する種を指すが、本種は本邦にいないので、ここはルビ通り、「小鹿」の意でとってよい。

「水神(みづち)」蛟(みづち)。龍の一種。

「紫三稜草(むらさきみくり)」単子葉植物綱ガマ目ミクリ科ミクリ属ミクリ Sparganium erectumウィキの「ミクリ」によれば、『ヤガラという別名で呼ばれることもある』。『北半球の各地域とオーストラリアの湖沼、河川などに広く分布』する。『日本でも全国に分布するが、数は減少している』。『多年生の』抽水性(ちゅうすいせい)植物(根が水中にあって茎や葉を伸ばして水面上に出る植物を指す)で、『地下茎を伸ばして株を増やし、そこから茎を直立させる。葉は線形で、草高は最大』二メートルにもなる。花期は六~九月で、『棘のある球状の頭状花序を形成する。花には雄性花と雌性花があり、枝分かれした花序にそれぞれ数個ずつ形成する。その花序の様子が栗のイガに似るため、ミクリ(実栗)の名がある。果実を形成する頃には、花序の直径は』二~三センチメートルにもなる。

「泔坏(ゆするつき)」頭髪を洗って梳(くしけず)る水を入れる器。古くは陶製で、後には木製漆塗りや銀製のものが作られたが、平安時代には銀製の椀に蓋を附け、茶托(ちゃたく)状の台を添え、梨地蒔絵(なしじまきえ)で装飾した上、上敷きに紐を垂らしている形にしてあった。坏(つき)に入れる洗髪用の水(ここで言う「御泔水(みゆする)」)に実際にはは米の研ぎ汁が使用されていたという(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

この眞淸水をに

はららの袖」散り散りばらばらになって飛ぶ袖の意か。しかし、対語が「愛の旗」だとするとおかしい。しかし、初出もこれである。不審としておく。

「天(あめ)の鳥船(とぶね)」ウィキの「鳥之石楠船神」(とりのいわくすふねのかみ)によれば、これは『日本神話に登場する神であり、また、神が乗る船の名前である。別名を天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、天鳥船(あめのとりふね)という』。『神産みの段でイザナギとイザナミの間に産まれた神である。『古事記』の葦原中国平定の段では、天鳥船神が建御雷神の副使として葦原中国に派遣され』、『事代主神の意見をきくために使者として遣わされた。しかし『日本書紀』の同段では天鳥船神は登場せず、事代主神に派遣されたのも稲背脛という別の者になっている。稲背脛は「熊野諸手船、またの名を天[合+鳥]船」という船に乗っていったというが、『古事記』では天鳥船神が使者となっている。また熊野諸手船は美保神社の諸手船神事の元である』。『これとは別に、『日本書紀』の神産みの段本文で、イザナギ・イザナミが産んだ蛭児を鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)に乗せて流したとの記述があるが、『古事記』では蛭子が乗って行ったのは鳥之石楠船神ではなく葦船(あしぶね)である』。『国譲りの使者は各史料によって建御雷神、経津主神、鳥之石楠船神、稲背脛、天夷鳥命のいずれかから二柱が伴って派遣されるが、建御雷神を除くこれらは皆同一神の別名を伝えたものと考えられる。経津主神、鳥之石楠船神、稲背脛、天夷鳥命は祭祀氏族が共通し、その神名、事績からも製鉄・鳥トーテムに縁のある天孫族系の神であったと考えられ、『神道大辞典』においても出雲国造の祖と鳥之石楠船神を同一視する説を唱えている。また、これに従えば『古事記』、『日本書紀』における記述の違いは、使者の主・従関係の違いだけにとどまり、ほとんど同じ内容を伝えていたこととなる』とある。まあ、啄木が深い意味で使ってはいないことは明らかで、神々の乗る舟でよかろうかい。

「かくろひ」「隱ろふ」の名詞形。「隠れていること・物陰に潜むこと。人目を避けること」。これも、語彙を深くディグする価値を認めない。

 初出は前に述べた通り、『明星』明治三八(一九〇五)年三月号で、総表題「彌生ごころ」で載る。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 落櫛

 

   落  櫛

 

磯回(いそは)の夕(ゆふ)のさまよひに

砂に落ちたる牡蠣(かき)の殼(から)

拾(ひろ)うて聞けば、紅(くれなゐ)の

帆かけていにし曾保船(そぼふね)の

ふるき便(たより)もこもるとふ

靑潮(あをうみ)遠きみむなみの

海の鳴る音もひびくとか。

古城(ふるき)の庭に松笠(まつかさ)の

土をはらふて耳にせば、

もも年(とせ)過ぎしその昔(かみ)の

朱(あけ)の欄(おばしま)めぐらせる

殿の夜深き御簾(みす)の中、

千鳥(ちどり)縫(ぬ)ひたる匂ひ衣(ぎぬ)

行燈(あんどう)の灯(ひ)にうちかけて、

胸の秘戀(ひめごひ)泣く姬が

七尺(しちしやく)落つる秋髮(あきがみ)の

慄(ふる)ひを吹きし松の風

かすけき聲にわたるとか。

ああさは君が玉の胸、

靑潮(あをじほ)遠き南(みむなみ)の

海にもあらず、ももとせの

古き夢にもあらなくに、

などかは、高き彼岸(かのきし)の

うかがひ難き園の如、

消息(せうそこ)もなきふた年(とせ)を

靄のかなたに秘めたるや。

君夕每にさまよへる

ここの櫻の下蔭に、

今宵おぼろ夜十六夜(いざよひ)の

月にひかれて來て見れば、

なよびやかなる弱肩(よわがた)に

こぼれて匂ひ添へにけむ

落葩(おちはなびら)よ、地に布(し)きて、

夢の如くもほの白き

中にかがやく波の形(かた)、──

黃金の蒔繪(まきゑ)あざやかに

ああこれ君が落櫛(おちぐし)よ。

わななきごころ目を瞑(と)ぢて、

ひろうて耳にあてぬれど、

君が海なる花潮(はなじほ)の

響きもきかず、黑髮の

見せぬゆらぎに秘め玉ふ

み心さへもえも知れね。

まどひて胸にかき抱き

泣けば、百(もゝ)の齒(は)皆生(い)きて、

何をうらみの蛇(くちなは)や、

ああふたとせのわびしらに

なさけの火盞(ほざら)もえもえて

瘦(や)せにし胸を捲(ま)きしむる、

           (乙巳二月十八日夜)

 

[やぶちゃん注:最終行の読点による終了はママ。後掲する通り、初出はちゃんと句点で終わっている。

「磯回(いそは)」はママ。この「回」は「曲」との書き、海岸の曲がりくねった場所を指す。しかし、その場合は「いそわ」で歴史的仮名遣でも「わ」でなくてはおかしい。初出では正しくルビで「いそは」となっている。

「拾(ひろ)う」はママ。

「曾保船(そぼふね)」一般には赭船(そほぶね(そおぶね))と前は清音で読む。丹(に:赭(あかつち)・赤土)で赤く塗ってある船を指す万葉以来の古語である。初出では正しくルビで「そほぶね」となっている。

「こもるとふ」はママ。初出は「こもるてふ」で躓かない。ここにきて、前の「傘のぬし」といい、どうした? 啄木!?!

「靑潮(あをうみ)遠きみむなみの」の「靑潮(あをうみ)」の読みはママ。初出では「靑潮(あをじほ)」となっている。ここは確信犯の変更の可能性もあるが、後で「靑潮(あをじほ)遠き南(みむなみ)の」というほぼリフレインを用いる以上、この改変はやはり不審である。

「殿の夜深き御簾(みす)の中、」の「殿」は初出では「との」と訓じてある。

「百(もゝ)の齒(は)皆生(い)きて」「まどひて胸にかき抱」いているのは「櫛」であるから、その「齒」が柔肌に噛みつくのである。「皆生きて」というところが、この一篇の眼目であって、まことに鮮烈極まりない。

 初出は『明星』明治三八(一九〇五)年三月号で総表題「彌生ごころ」で、本詩篇「おち櫛」(表記はママ)と以下に続く「泉」・「靑鷺」・「小田屋守(をだやもり)」・「凌霄花(のうぜんかづら)」の四篇の計五篇を載せる。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来るが、以上の通り、表記ミスが余りにむご過ぎるので初出を示しておく。読みは一部に留めた。

   *

 

   おち櫛

 

磯回(いそわ)の夕のさまよひに、

砂に落ちたる牡蠣の殼

拾ふて聞けば、くれなゐの

帆かけて徃(い)にし曾保船(そほぶね)の

ふるき便りもこもるてふ

靑潮(あをじほ)遠きみんなみの

海の鳴る音(ね)もひびくとか。

古城(ふるき)の庭に松笠の

土をはらふて耳にせば、

もも年過ぎしその昔(かみ)の

朱(あけ)の欄(おばしま)めぐらせる

殿(との)の夜ふかき簾(みす)の中、

千鳥縫ひたる匂ひ衣(ぎぬ)

行燈(あんどう)の灯(ひ)にうちかけて、

胸の秘戀(ひめごひ)泣く姬が

七尺(しちしやく)落つる秋髮(あきがみ)の

慄(ふる)ひを吹きし松の風

幽(かす)けき聲にわたるとか。

ああさは君が玉の胸、

靑潮遠きみんなみの

海にもあらず、ももとせの

古き夢にもあらなくに、

などかは、高き彼岸(かのきし)の

うかがひ難き園(その)の如、

消息(せうそこ)もなきふた年を

靄のかなたに秘めたるや。

君夕每(ゆふごと)にさまよへる

ここの櫻の下かげに、

今宵朧夜十六夜(いざよひ)の

月にひかれて來て見れば、

なよびやかなる弱肩(よわがた)に

こぼれて匂ひ添へにけむ

落葩(おちはなびら)よ、地に布(し)きて、

夢の如くも仄白(ほのじろ)き

中にかがやく波の形(かた)、──

黃金(こがね)の蒔繪あざやかに

ああこれ君が落櫛(おちぐし)よ。

わななきごころ目(め)を瞑(と)ぢて、

ひろうて耳にあてぬれど、

君が海なる花潮(はなじほ)の

響きも聞かず、黑髮の

見せぬゆらぎに秘め給ふ

み心さへもえも知れね。

まどひて胸にかき抱き

泣けば、百(もゝ)の齒皆生きて、

何をうらみの蛇(くちなは)や、

ああ二とせのわびしらに

なさけの火盞(ほざら)燃え燃えて

瘦せにし胸を捲きしむる。

 

   *]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 傘のぬし

 

   傘 の ぬ し

 

柳(やなぎ)の門(かど)にただずめば、

胸の奧より擣(つ)くに似る

鐘がさそひし細雨(ほそあめ)に

ぬれて、淋(さび)しき秋の暮、

絹(きぬ)むらさきの深張(ふかばり)の

小傘(をがさ)を斜(はす)に、君は來ぬ。

もとより夢のさまよひの

心やさしき君なれば、

あゆみはゆるき駒下駄(こまげた)の、

その音に胸はきざまれて、

うつむきとづる眼には

仄(ほの)むらさきの靄(もや)わせぬ。

 

袖やふるると、をののぎの

もろ手を置ける胸の上、

言葉も落ちず、手もふれず、

步みはゆるき駒下駄の

その音に知れば、君過ぎぬ。

ああ人もなき村路(むらみち)に

かへり見もせぬ傘(かさ)の主(ぬし)、

心いためて見送れば、

むらさきの靄やうやうに

あせて、新月(にひづき)野にいづる

空のうるみも目に添ひつ、

柳の雫(しづく)ひややかに

冷えし我が頰に落ちにける。

            (乙巳一月十八日)

 

[やぶちゃん注:「ただずめば」はママ。「彳めば」であるから「たたずめば」が正しい。初出はちゃんとそうなっている(後掲)。

「わせぬ」は仮名遣の誤りがないとすれば、「和せぬ」であろうと考えたが、初出を見て、びっくりだ。「靄(もや)走せぬ」となっている。ここからフィード・バックすると、ここは「靄(もや)走(は)せぬ」で、「馳(は)せぬ」に同じく、それを「わせぬ」と誤って表記したものとしか思えない。非常に痛い致命的ミスである。

「をののぎ」は「慄(をのの)く・戰く」の連用形の名詞化であるが、最後の濁音は一般的とは言えない。ここも初出はちゃんとそうなっている。

 初出は『はがき新誌』明治三八(一九〇五)年三月号。以上の通り、表記ミスが余りにひど過ぎるので初出を示しておく。総ルビだが、読みは一部に留めた。

   *

 

   傘のぬし

 

柳の門にたたずめば、

胸の奧より擣くに似る

鐘がさそひし細雨に

ぬれて淋しき秋のくれ、

絹むらさきの深張(ふかばり)の

小傘(をがさ)を斜(はす)に、君は來ぬ。

もとより夢のさまよひの

心やさしき君なれば、

あゆみはゆるき駒下駄の、

その音(ね)に胸は刻まれて、

うつむきとづる眼(まなこ)には

仄むらさきの靄走(は)せぬ。

 

袖やふるると、をののきの

もろ手を置ける胸の上、

言葉も落ちず、手もふれず、

步みはゆるき駒下駄の

その音に知れば、君過ぎぬ。

ああ人もなき村路に

かへり見もせぬ傘のぬし。

心いためて見送れば、

むらさきの靄やうやうに

あせて、新月(にひづき)野(の)にいづる

空のうるみも目に添ひつ、

柳のしづく冷やかに

冷えし我が頰(ほ)に落ちにける。

 

   *]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 白鵠

 

   白  鵠

 

愁ひある日を、うら悲し

鵠(かう)の啼く音の堪へがたく、

水際(みぎは)の鳥屋(とや)の戶をあけて

放(はな)てば、あはれ、白妙(しろたへ)の

蓮(はす)の花船(はなぶね)行くさまや、

羽搏(はう)ち靜かに、秋の香の

澄(す)みて雲なき靑空を、

見よや、光のしただりと、

眞白き影ぞさまよへる。

 

ああ地(ち)の悲歌(ひか)をいのちとは

をさなき我の夢なりし。

ひたりも深き天(あめ)の海(うみ)

一味(いちみ)のむねに放(はな)ちしを

白鵠(びやくかう)に何うらむべき。

落とす天路(てんろ)の歌をきき、

ましろき影をあふぎては、

寧ろ自由(まゝ)なる逍遙(さまよひ)の

遮(さへぎ)りなきを羨(うらや)まむ。

            (乙巳一月十八日)

 

[やぶちゃん注:クレジットの干支が変わった。「きのとみ」で明治三八(一九〇五)年である。

「白鵠」は「くくひ/くぐひ(くくい・くぐい)」で、白鳥の古名である。カモ目カモ科 Anserinae 亜科 Cygnus 属の七種の内、「白」をわざわざ冠しているから、コクチョウ(黒鳥)Cygnus atratus(オーストラリア固有種であるが、日本(茨城県・宮崎県)に移入されている)や本邦に棲息しないクロエリハクチョウ Cygnus melancoryphus などを除いた以下三種の孰れかとなる。コブハクチョウ Cygnus olor・オオハクチョウ Cygnus cygnus・コハクチョウ Cygnus columbianus

 初出は『はがき新誌』明治三八(一九〇五)年三月号。有意な異同を認めない。]

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