石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) (無題にて『⦅この集のをはりに⦆』という後書めを持つ終詩)・與謝野鐡幹の跋文・奥附 / 石川啄木詩集「あこがれ」(初版準拠版)オリジナル附注~完遂
來し方よ、破歌車(やれうたぐるま)
綱(つな)かけて、息(いき)もたづたづ、
過ぎにしか、こごしき坂を
あたらしきいのちの花の
大苑の春を見むとて。
⦅この集のをはりに⦆
[やぶちゃん注:本篇は本詩集に添えられたもので、先行する初出はない。]
あこがれ 畢
跋
少年にして早う名を成すは禍なりと云へど、しら髮かきたれて身はさらぼひながら、あるかとも問はれざる生きがひなさにくらぶれば、猶、人と生れて有らまほしくはえばえしきわざなりかし。 それも今樣のはやりをたちが好む、ただかりそめの名聞ならば爪彈(ツマハジ)きしつべけれ、香木のふた葉にこもるかをりおさへあへずおのづから世にちりぼひて、人の捧ぐる譽れを何かは辭むべき。 石川啄木は年頃わが詩社にありて、高村碎雨・平野萬里など云ふ人達と共に、いといと殊に年わかなる詩人なり。 しかもこれらわかきどちの作を讀めば、新たに詩壇の風調を建つるいきざし火の如く、おほかたの年たけし人々が一生にもえなさぬわざを、早う各〻身ひとつには爲遂(シト)げむとすなる。 あはれさきには藤村・泣堇・有明の君達あり今はたこれらのうらわかき人達を加へぬ。 われら如何ばかりの宿善ある身ぞ、かゝる文藝復興の盛期に生れ遭ひて、あまた斯やうにめづらかなる才人のありさまをも觀るものか。 こたび書肆のあるじなにがし、啄木に乞ひて、その處女作『あこがれ』一集を上板せむとす。 啄木、その事の今の賣名の徒と誤り見られむことを恐れて、われに議りぬ。 われ云ふ、毀譽の外に立ちてわが信ずる所にひたゆくは、古の詩人の志にあらずや。 あながちに當世の人のためにのみ詩を作らざるは、またわが詩社のおきてにあらずや。 みづから省みて疚しからずば、もとより詩集を出だすは詩人の事業なり、何のためらふ所ぞと。 啄木わがこの言を聽き、ほほゑみて草本一卷を懷より取うでぬ。こは啄木が十八の秋より二十(ハタチ)の今の春かけて作れるもの凡そ七十餘篇、あなめざまし、あななつかし、あなうるはし、人見て驚かぬかは。
巳の暮春 與 謝 野 鐵 幹
[やぶちゃん注:句点の後の字空けは見た目を再現した。原本では全体の活字が無暗に大きいが、一部を除いて再現していない。なお、與謝野鐡幹(明治六(一八七三)年)二月二十六日~昭和一〇(一九三五)年)は当時(「巳の暮春」は明治二十八乙巳年(一九〇五年))満三十二歳。再確認するが、石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日)は当時満十九歳。
「高村碎雨」高村光太郎(明治一六(一八八三)年~昭和三一(一九五六)年)の当時のペン・ネーム。あまり認識されていないが、彼が本名で記すようになるのは明治四二(一九〇九)年二月以降のことである。
「平野萬里」(ばんり 明治一八(一八八五)年~昭和二二(一九四七)年)は技師で歌人・詩人。本名は平野久保。埼玉県生まれ。明治二三(一八九〇)年、一家で上京、本郷森川町に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森鷗外の長男で授乳期にあった森於菟(同年九月に鷗外と最初の妻登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれたが、直後に両親が離婚した)を五歳まで預かっている。本郷区立駒本尋常高等小学校(現在の文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城・共立・日本中学と並んで東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学んだ。同校を明治三四(一九〇一)年に卒業、新詩社に入社して仕事をしながら、翌年の九月に一高入学した。明治三十八年、東京帝国大学工科大学応用化学科に進む一方、『明星』に短歌・詩・翻訳などを多数発表し、明治四十年に歌集『わかき日』を刊行している。翌年、大学を卒業、その翌年には横浜の会社に入り、明治四三(一九一〇)年には満鉄中央試験所の技師として大連に赴任した。その間、『明星』廃刊の後、石川啄木らと『スバル』創刊に尽力し、同誌に小説・戯曲を発表している。大正元(一九一二)年末から三年ほどドイツに留学、帰国後、農商務省技師となり、昭和一三(一九三八)年、商工省退官まで勤めた。大正前期には作歌を一時中断したが、大正一〇(一九二一)年の第二次『明星』の創刊に参画してより、与謝野夫妻が没するまで夫妻と相伴うようにして協力し、同行して作品を発表した。大正一二(一九二三)年には鴎外全集刊行会版「鷗外全集」の編集者も務めた(以上は主文をウィキの「平野万里」に拠った)。
「毀譽」筑摩版全集(昭和五四(一九七九)年刊第一巻)ではここに『きよ』とルビするが、他がカタカナであるので判る通り、原本にはルビはない。これは特異点の全集編者の手入れであって、誤植と確実に判断される以外は初版そのままに起こしたとするにも拘わらず、必要がないにも拘わらず何故か施してあり、不審極まりないルビである。
以下、奥附。ほぼベタで活字化した。字配その他は現画像を見られたい。この後に同書店の近刊(石川啄木のものを含む)広告がある(こことここ)リンクに留める。]
明治三十八年五月一日印刷 あこがれ奧附
明治三十八年五月三日發行 定價金五拾錢
不許複製
著作者 石 川 啄 木
東京市京橋區南大工町五番地
發行者 小田島嘉兵衞
東京市京橋區南大工町五番地
發行者 小田島 尙三
東京市京橋區紺屋町二十六七番地
印刷者 石 川 金太郞
東京市京橋區紺屋町二十六七番地
印刷所 株式會社 秀 英 舍
發行所 東京市京橋區南大工町五番地
小 田 島 書 房