早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「柿をならせる手段」・「花ばかし咲いて實のならぬ梅」・「種々な咒ひの歌」・奥附 / 早川孝太郞「三州橫山話」正規表現オリジナル注附~完遂
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。
標題は「いろいろなこと」と訓じておく。本篇の掉尾のそれも同じく読んでおく。
これを以って、「三州橫山話」は終わっている。私は、多くの民俗学研究者の著作を読んできたが、早川氏ほど、心の籠った文章に接したことはない。既に、またぞろ、早川孝太郎ロスが始まる危惧がしている。]
○柿をならせる手段 柿の木に實のならない時は、正月十六日の朝、小豆粥を煮て、木元へ行つて、一人が鉈を振上げて、此柿の木はちつとも實がならないから、伐つてしまふと言つて、根元を鉈で切ると、一人が其を制して、此柿の木はきつと立派に實がなるから今度だけは助けて吳れと侘び、それから柿の木に向つては、私が今度だけは詫びてやつたから、どうか澤山なつて吳れと云つて、持つてゐる小豆粥を切口に與へると、翌年から必ずなると謂ひます。
[やぶちゃん注:「正月十六日」旧正月の翌日。恐らく、嘗つては、旧暦のその日を指して行ったものであろう。旧暦の当日は、「あの世の正月」の相当する。中国・台湾・日本に残る旧正月の行事は、元は、祖霊や精霊を祀り、総ての衆生の霊魂を供養する神聖な日であった。現在の本邦でも地方で各地に残るが、特に沖縄の「ジュールクニチー(後世のお正月)」「後生(グソー)の正月」としてよく知られる。「オリオンビール」の公式サイト内の『ご先祖様の正月「ジュールクニチー(十六日祭)」とは』を参照されたい。]
○花ばかし咲いて實のならぬ梅 ある婆さんが、其屋敷にある梅の木に花ばかり咲いて、實がならないのに腹をたてゝ、根元へ萱《かや》を積んで、どんどん火を燃して木を苦しめて、思ひ知れと言つた所が、相變らず花ばかり咲いて、實は少しもならないので、このたびは婆さんが後悔して、每朝其梅の根元へ行つて散々詫言《わびごと》を謂ふと翌年から澤山實がなるやうになつたと謂ひました
梅や柿に限らず、密柑なども澤山なつた時は、家内中の者が、其傍へ行つて、見事見事と譽め言葉をかけてやると、益々なると云ひますが、之に反して、折角なつた物を、不味いと言つたり、玩具にしたりすると、木が悲しがつて、ならなくなると云ひます。
[やぶちゃん注:第二段落の「言葉をかけてやると」は底本では「言葉をかやてやると」となっている。方言かとも思ったが、ここで方言を使うのもおかしいので、誤植と断じ、後の『日本民俗誌大系』版の当該部によって訂した。]
○種々な咒ひの歌
血止めの歌 手近にある木の葉をとつて、嚙んで傷口に押へつけて
血ノ道ヤ血ノ道ヤ父ト母トノメグリアヒ、血ノ道トマレ血ノ道ノ神と三度唱へる。
鼬が行く手を橫切つた時は、三步後に戾つて、
イタチ道チ道チカ道チガヒ道、ワガユク先ハアラヽギノ里、と三度唱へて行く。
山犬に遇つた時は
神國ニ人ヲ恐レヌ畜類ハワガ日ノ本ニ居ヌハズノモノと三度唱へる。
盜賊の用心に唱へる歌は、就寢前に
ネルゾ寢タタノムゾタル木夢ノ間に、何事アラバ起セ桁梁《けたはり》と三度唱へる。
火の用心の歌
霜柱氷ノ梁ニ雪ノ桁、雨ノタル木ニ露ノ葦草 と三度唱へて寢る。
吾が許《もと》を通り過ぎて行く人を立寄《たちよ》らする歌と謂つて
アマツ風雲ノ通ヒ路フキトヂヨ 乙女ノ姿シハシトヾメン
此種の歌は未だ澤山ある事と思ひますが、記憶にあるのはこれだけです。
蜂にさゝれぬ用心には、
シシヨゴシヨムニシンシンシンと唱へる
狐に化かされぬ要心には
狐ヲ喰ツタラウマカツタ マンダ(未ダ)奧齒ニハサガツテ居ル と言へば狐が恐れて逃げると謂ふ。
蛇に喰付《くひつ》かれぬ要心には
蛇モマムシモ喰ツクナ 知立《ちりふ》猿投《さなげ》ノ大明神 と三度唱へると謂ふ。
[やぶちゃん注:「鼬が行く手を橫切つた時」「ノシ餅を運ぶ鼬」で注した通り、ニホンイタチ(イタチ)は、本邦では古くから、キツネやタヌキと同様に化けるとも言われ、妖怪獣の一種に数えられた。
「山犬」今や、野犬(のいぬ/やけん)ということになってしまったが、民俗社会では、ニホンオオカミを指した。「鹽を好む山犬」の私の注を参照されたい。
「アマツ風雲ノ通ヒ路フキトヂヨ 乙女ノ姿シハシトヾメン」言わずもがな、「小倉百人一首」の十二番歌で僧正遍照(俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ))の詠。「古今和歌集」雑歌上の一首(八七二番)が原拠。元のものを示す。
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五節(ごせち)のまひひめを見てよめる
よしみねのむねさだ
あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ
をとめのすがたしばしとどめむ
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前書の「五節のまひひめ」は、五節の舞いを舞う舞姫。平年は公卿から二人、殿上人・国司から二人、「御代始(ごだいはじ)め」には、公卿から二人、殿上人・国司からは三人の未婚の少女を召して当たらせた。
「桁梁」の読みは『日本民俗誌大系』版の当該部によって補った。
「記憶にあるのはこれだけです」は、底本では最後が「にれだけです」とあるが、誤植と断じ、『日本民俗誌大系』版の当該部によって訂した。
「知立」愛知県知立市西町(にしまち)神田(じんでん)にある知立(ちりゅう/ちりふ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。三河国二宮で、旧称は「池鯉鮒(ちりふ)大明神」。江戸時代には「東海道三社」の一つに数えられた。当該ウィキには、『近隣』二十『数か村の産土神として、また』、『蝮除け・長虫除け・雨乞・安産の神として信仰された』。『特に神札を身につければ』、『蝮蛇に咬まれないとされ、北関東から山陰地方に至る各地に分社が建てられた』とあり、「東海道名所図会」には、『知立神社について』、『祭神・多宝塔・古額・末社・神籬門・石橋・的場・除蝮蛇神札』(☜)『・御手洗池などが記述されている』とあり、また、サイト「知立(池鯉鮒)市の観光案内」の知立神社のページに、『嘉祥三』(八五〇)『年』、『慈覚大師(円仁)が当地に来た時に、蝮』(まむし)『に咬まれたので、当社に参拝し』、『祈願すると、痛みも腫れもなくなったことから、古来、蝮よけ・長虫よけの信仰があり、当社の神札を携帯して山に入っても、蝮に咬まれないという』とあり、また、『三河の国の一宮は、豊川市の砥鹿』(とが)『神社で、知立神社は二宮となっている。ちなみに三宮は豊田市の猿投神社であり、四宮は豊橋市の石巻神社であるといわれている』とあって、以下の猿投神社とともに、第二・第三の神霊パワーを持った神社であったことが判る。
「猿投」愛知県豊田市にある猿投神社。当該ウィキによれば、『三河国の三宮とされたという』とあり、『建治元』(一一七五)年には『最高位の正一位に達した』とあった。また、愛知県豊田市の公式観光サイト「ツーリズムとよた」の猿投神社のページに、。猿投神社の主祭神は、大碓命(おおうすのみこと)。大碓命は、古墳時代の皇族の一人で、小碓命(おうすのみこと=日本武尊)の双子の兄にあたります。大碓命はこの地の開拓に尽くしていましたが、猿投山で毒ヘビのために亡くなったとされています』とあったので、蛇除けの神として納得される。]
[やぶちゃん注:以下、奥附。「三州橫山話」の右から左のそれは最上部に細い罫線で囲われてあり、その左右から波線が伸び、それが全体の奥附を四角に囲っている。なお、その下方には本底本が復刻版(限定五百部で昭和五一(一九七六)年十二月発行・名著出版刊)であることを示す横書が、三行に亙って記載があるが、これは著者没後で、早川氏の預かり知らぬ記載であるからして、電子化しない。]
話 山 橫 州 三
大 正 十 年 十 二 月 二 十 日 印 刷
定 價 金 七 拾 錢
大 正 十 年 十 二 月 廿 五 日 發 行
著 作 者 早 川 孝 太 郞
東 京 市 小 石 川 區 荷 谷 町 五 十 二 番 地
發 行 者 岡 村 千 秋
東 京 市 小 石 川 區 江 戶 川 町 二 十 一 番 地
印 刷 者 佐 々 木 悛 一
東 京 市 小 石 川 區 江 戶 川 町 二 十 一 番 地
印 刷 所 富 士 印 刷 株 式 會 社
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東 京 市 小 石 川 區 荷 谷 町 五 十 二 番 地
發 行 所 鄕 土 研 究 社
振 替 口 座 東 京 二 三 九 一 七 番
發 賣 元 東 京 市 鎌 田 川 表 神 保 町 三 番 地
東 京 堂 書 店
振 替 口 座 東 京 二 七 〇 番