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カテゴリー「早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」【完】」の107件の記事

2023/04/08

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「柿をならせる手段」・「花ばかし咲いて實のならぬ梅」・「種々な咒ひの歌」・奥附 / 早川孝太郞「三州橫山話」正規表現オリジナル注附~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。本篇の掉尾のそれも同じく読んでおく。

 これを以って、「三州橫山話」は終わっている。私は、多くの民俗学研究者の著作を読んできたが、早川氏ほど、心の籠った文章に接したことはない。既に、またぞろ、早川孝太郎ロスが始まる危惧がしている。]

 

 ○柿をならせる手段  柿の木に實のならない時は、正月十六日の朝、小豆粥を煮て、木元へ行つて、一人が鉈を振上げて、此柿の木はちつとも實がならないから、伐つてしまふと言つて、根元を鉈で切ると、一人が其を制して、此柿の木はきつと立派に實がなるから今度だけは助けて吳れと侘び、それから柿の木に向つては、私が今度だけは詫びてやつたから、どうか澤山なつて吳れと云つて、持つてゐる小豆粥を切口に與へると、翌年から必ずなると謂ひます。

[やぶちゃん注:「正月十六日」旧正月の翌日。恐らく、嘗つては、旧暦のその日を指して行ったものであろう。旧暦の当日は、「あの世の正月」の相当する。中国・台湾・日本に残る旧正月の行事は、元は、祖霊や精霊を祀り、総ての衆生の霊魂を供養する神聖な日であった。現在の本邦でも地方で各地に残るが、特に沖縄の「ジュールクニチー(後世のお正月)」「後生(グソー)の正月」としてよく知られる。「オリオンビール」の公式サイト内の『ご先祖様の正月「ジュールクニチー(十六日祭)」とは』を参照されたい。]

 

 ○花ばかし咲いて實のならぬ梅  ある婆さんが、其屋敷にある梅の木に花ばかり咲いて、實がならないのに腹をたてゝ、根元へ萱《かや》を積んで、どんどん火を燃して木を苦しめて、思ひ知れと言つた所が、相變らず花ばかり咲いて、實は少しもならないので、このたびは婆さんが後悔して、每朝其梅の根元へ行つて散々詫言《わびごと》を謂ふと翌年から澤山實がなるやうになつたと謂ひました

 梅や柿に限らず、密柑なども澤山なつた時は、家内中の者が、其傍へ行つて、見事見事と譽め言葉をかけてやると、益々なると云ひますが、之に反して、折角なつた物を、不味いと言つたり、玩具にしたりすると、木が悲しがつて、ならなくなると云ひます。

[やぶちゃん注:第二段落の「言葉をかけてやると」は底本では「言葉をかやてやると」となっている。方言かとも思ったが、ここで方言を使うのもおかしいので、誤植と断じ、後の『日本民俗誌大系』版の当該部によって訂した。]

 

 ○種々な咒ひの歌 

 血止めの歌 手近にある木の葉をとつて、嚙んで傷口に押へつけて

  血ノ道ヤ血ノ道ヤ父ト母トノメグリアヒ、血ノ道トマレ血ノ道ノ神と三度唱へる。

 鼬が行く手を橫切つた時は、三步後に戾つて、

  イタチ道チ道チカ道チガヒ道、ワガユク先ハアラヽギノ里、と三度唱へて行く。

 山犬に遇つた時は

  神國ニ人ヲ恐レヌ畜類ハワガ日ノ本ニ居ヌハズノモノと三度唱へる。

 盜賊の用心に唱へる歌は、就寢前に

  ネルゾ寢タタノムゾタル木夢ノ間に、何事アラバ起セ桁梁《けたはり》と三度唱へる。

 火の用心の歌

  霜柱氷ノ梁ニ雪ノ桁、雨ノタル木ニ露ノ葦草 と三度唱へて寢る。

 吾が許《もと》を通り過ぎて行く人を立寄《たちよ》らする歌と謂つて

  アマツ風雲ノ通ヒ路フキトヂヨ 乙女ノ姿シハシトヾメン

 此種の歌は未だ澤山ある事と思ひますが、記憶にあるのはこれだけです。

 蜂にさゝれぬ用心には、

  シシヨゴシヨムニシンシンシンと唱へる

 狐に化かされぬ要心には

  狐ヲ喰ツタラウマカツタ マンダ(未ダ)奧齒ニハサガツテ居ル と言へば狐が恐れて逃げると謂ふ。

 蛇に喰付《くひつ》かれぬ要心には

  蛇モマムシモ喰ツクナ 知立《ちりふ》猿投《さなげ》ノ大明神 と三度唱へると謂ふ。

[やぶちゃん注:「鼬が行く手を橫切つた時」「ノシ餅を運ぶ鼬」で注した通り、ニホンイタチ(イタチ)は、本邦では古くから、キツネやタヌキと同様に化けるとも言われ、妖怪獣の一種に数えられた。

「山犬」今や、野犬(のいぬ/やけん)ということになってしまったが、民俗社会では、ニホンオオカミを指した。「鹽を好む山犬」の私の注を参照されたい。

「アマツ風雲ノ通ヒ路フキトヂヨ 乙女ノ姿シハシトヾメン」言わずもがな、「小倉百人一首」の十二番歌で僧正遍照(俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ))の詠。「古今和歌集」雑歌上の一首(八七二番)が原拠。元のものを示す。

   *

     五節(ごせち)のまひひめを見てよめる

            よしみねのむねさだ

 あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ

    をとめのすがたしばしとどめむ

   *

前書の「五節のまひひめ」は、五節の舞いを舞う舞姫。平年は公卿から二人、殿上人・国司から二人、「御代始(ごだいはじ)め」には、公卿から二人、殿上人・国司からは三人の未婚の少女を召して当たらせた。

「桁梁」の読みは『日本民俗誌大系』版の当該部によって補った。

「記憶にあるのはこれだけです」は、底本では最後が「にれだけです」とあるが、誤植と断じ、『日本民俗誌大系』版の当該部によって訂した。

「知立」愛知県知立市西町(にしまち)神田(じんでん)にある知立(ちりゅう/ちりふ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。三河国二宮で、旧称は「池鯉鮒(ちりふ)大明神」。江戸時代には「東海道三社」の一つに数えられた。当該ウィキには、『近隣』二十『数か村の産土神として、また』、『蝮除け・長虫除け・雨乞・安産の神として信仰された』。『特に神札を身につければ』、『蝮蛇に咬まれないとされ、北関東から山陰地方に至る各地に分社が建てられた』とあり、「東海道名所図会」には、『知立神社について』、『祭神・多宝塔・古額・末社・神籬門・石橋・的場・除蝮蛇神札』()『・御手洗池などが記述されている』とあり、また、サイト「知立(池鯉鮒)市の観光案内」の知立神社のページに、『嘉祥三』(八五〇)『年』、『慈覚大師(円仁)が当地に来た時に、蝮』(まむし)『に咬まれたので、当社に参拝し』、『祈願すると、痛みも腫れもなくなったことから、古来、蝮よけ・長虫よけの信仰があり、当社の神札を携帯して山に入っても、蝮に咬まれないという』とあり、また、『三河の国の一宮は、豊川市の砥鹿』(とが)『神社で、知立神社は二宮となっている。ちなみに三宮は豊田市の猿投神社であり、四宮は豊橋市の石巻神社であるといわれている』とあって、以下の猿投神社とともに、第二・第三の神霊パワーを持った神社であったことが判る。

「猿投」愛知県豊田市にある猿投神社当該ウィキによれば、『三河国の三宮とされたという』とあり、『建治元』(一一七五)年には『最高位の正一位に達した』とあった。また、愛知県豊田市の公式観光サイト「ツーリズムとよた」の猿投神社のページに、。猿投神社の主祭神は、大碓命(おおうすのみこと)。大碓命は、古墳時代の皇族の一人で、小碓命(おうすのみこと=日本武尊)の双子の兄にあたります。大碓命はこの地の開拓に尽くしていましたが、猿投山で毒ヘビのために亡くなったとされています』とあったので、蛇除けの神として納得される。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。「三州橫山話」の右から左のそれは最上部に細い罫線で囲われてあり、その左右から波線が伸び、それが全体の奥附を四角に囲っている。なお、その下方には本底本が復刻版(限定五百部で昭和五一(一九七六)年十二月発行・名著出版刊)であることを示す横書が、三行に亙って記載があるが、これは著者没後で、早川氏の預かり知らぬ記載であるからして、電子化しない。]

 

       話 山 橫 州 三

 

 大 正 十 年 十 二 月 二 十 日 印 刷
               
 大 正 十 年 十 二 月 廿 五 日 發 行

     著 作 者   早 川 孝 太 郞

           

     發 行 者   岡  村 千  秋

           

     印 刷 者   佐 々 木 悛 一

           

     印 刷 所     富 士 印 刷 株 式 會 社

        ~~~~~~~~~~~~

         

   發 行 所    鄕 土 研 究 社

               

   發 賣 元 

             東 京 堂 書 店

                京  二   七  〇 

 

2023/04/07

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「座敷小僧」・「屋根裏で聞こえた三味線」・「佛檀に殘る子供の足跡」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。なお、これが本文の最終パートとなる。]

 

 ○座敷小僧  北設樂郡本鄕村の、キンシと云ふ酒釀造家は四五十年前迄は非常に榮えた舊家だつたさうですが、この家の奧座敷には、座敷小僧が住んでゐると云つて、雇人《やとひにん》などが、夕方雨戶を閉めに行く時など、時々姿を見かけたと云ひました。十歲位の子供だつたと云ふ事は聞きましたが、確かな事は聞きません。其家は今は沒落して無いさうです。

[やぶちゃん注:「座敷小僧」ウィキの「座視坊主」を引く。『座敷坊主(ざしきぼうず)または座敷小僧(ざしきこぞう)は、日本に伝わる妖怪で、静岡県周智郡奥山村字門谷(現・静岡県浜松市)などに現れたと言われる』。『村の中のある家の主人がイノシシを落とし穴で捕らえた後、その穴に金を持った人が落ちて死んだ、または』、『盲目の金持ちをその穴に落として殺害したという話や』、『その家に泊まった坊主を殺害した、暗い中』(うち)『に連れ出して殺したなどの話があり』、『その死んだものの霊が現れるのだといい』(これは後でも述べられるが、典型的な異人殺しの「六部殺し」の結合型である)、『その家に泊まった人の床の向きを逆にしたり、枕返しをすると言われる』。『その姿は』五、六『歳ほどの子供のよう』であるとも、『坊主姿の按摩のようともいう』。『大津峠』(静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)奥領家(おくりょうけ)にある大塚峠(グーグル・マップ・データ)か。現行、航空写真で見る限りは人家はなく、道はあるが、ストリートビューもない)『には、その殺された者を供養するためといわれる立て石があるが、その家には今なお祟りによって気のふれる者があるという』。『ほかの村でも坊主頭の按摩のようともいう』。『また』、『三河国北設楽郡本郷村(現・愛知県北設楽郡東栄町)では座敷小僧の名で伝わっており、ある酒屋を営む旧家に』十『歳ほどの子供のような姿で現れたといい、雇用人が奥座敷の雨戸を閉めに行ったときによく姿を見たという』(これ、出典は別だが、明かに本篇が原拠であることが明白である)。『南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市)では、神田という裕福な家に座敷小僧が現れていたが、茶釜にツモノケ(機織りの器具)を当てるという禁忌を犯したため』、『座敷小僧が家を去り、家はそれ以来』、『衰退してしまったという』。『岩手県では旧家に座敷小僧が現れるといい、小児の姿をした家の神とされる』。『下閉伊郡岩泉町のある家では、奥座敷の真中の柱を踏むと枕元に現れたといい』、四、五『歳ほどの赤黒い裸の坊主で、身長は』二『尺ほど、赤い綺麗な顔をしていたという』。『岩手県紫波』(しわ)『郡のある旧家でも』、『赤い顔の座敷小僧がおり、夜』、『炉に現れて』、『火を起こしたりしたという。また』、『この地方では、座敷童子の正体をムジナとする説もある』。『宮城県本吉郡大島村(現・気仙沼市)でも座敷坊主が家に現れて枕返しをした事例がある』。『民俗学者』『佐々木喜善の著書においては』、『座敷坊主は座敷童子の一種として分類されており』、『六部(旅の僧)を殺して金銭を奪った者が祟りに遭うなどの「六部殺し」の話が座敷童子の性格に付加され、座敷坊主の姿となったとする説もある』とある。座敷童子(ざしきわらし)は「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽靈」や、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ザシキワラシ(一)・(二)』を参照されたい。当該ウィキも、まあ、コンパクトによく纏めてはある。

「北設樂郡本鄕村」愛知県北設楽郡東栄町(とうえいちょう)本郷(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 

 ○屋根裏で聞こえた三味線  明治二十四年頃の秋のこと、私の家で、村の女を多勢《おほぜい》雇つて、遠くの山へ草刈に行くとて、朝未だ暗い中《うち》、仕度をして、皆の者が門を出ようとする時、屋根裏で三味線の音が頻りにしたと云ひます。まだ家の中に居た者も、門の外に立つて居たものも明らかに聞いたと云ひました。家に三味線もなく、屋根裏に人間が住んでゐる譯もないので、皆不安に思《おもひ》にかられたと云ひましたが、祖母が、今日は親戚の娘の命日に當るから其娘の思ひが來て、彈いたのだらうと云ふ解決を與へて、濟んだと云ひました。

 其娘は、生まれながらの盲目であつた爲め、村のものが、蚯蚓《みみず》の生れ變りだなどと云つてゐたと謂ひますが、三味線を習つてゐて、十八の年に亡くなつたのださうです。

[やぶちゃん注:しみじみとした哀感に満ちた怪奇実話である。寧ろ、「祖母が、今日は親戚の娘の命日に當るから其娘の思ひが來て、彈いたのだらうと云ふ解決を與へて、濟んだ」古き良き本邦の民俗社会が羨ましい。垂れ流される見るからに人造されたエセ心霊映像やら、「口裂け女」や「ひとりかくれんぼ」なんどの糞都市伝説の蔓延る現代は、心霊的にも極めて貧しく、愚劣極まりない。

「明治二十四年」一八九一年。作者は当時、満二歳未満である。]

 

 ○佛檀に殘る子供の足跡  盆の十四日の夜は、精靈が還つてくるもの故、佛壇の前に、膳に白砂を盛つて供へて置くと、可愛らしい子供の足跡があると謂ひます。

[やぶちゃん注:「檀」と「壇」の混在はママ。なお、底本では、「供へて」は「供つて」であるが、後の『日本民俗誌大系』版の当該部で訂した。

「可愛らしい子供の足跡がある」かなり昔、「座敷わらし」を特集した雑誌で、出現することで有名な東北の旧家で、前夜に米を撒いておいた地面に、極めて小さいが、確かに、人の足型分の米が抜けた足跡がある写真を見たことがある。]

2023/04/06

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「引越しを知つてゐた鼠」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。なお、これが本文の最終パートとなる。]

 

 ○引越しを知つてゐた鼠  村の早川ダイと云ふ女の話でしたが、この女の里の北設樂郡段嶺《だみね》村で、某と云ふ男が、秋田圃《あきたんぼ》に稻叢《いなむら》を作つてゐて、ふと傍らを見ると自分の家から幾疋となく鼠が出て來て、其れがみんな、傍の小川を飛越《とびこ》して、丘の上の日當りのよい家へ向つて驅けて行つたさうです。其男の家は、丘の下の日當りの惡い所にあつて暮しも豐かではなかつたのです。其男は内心つくづく考へて、鼠迄が愛想盡《あいそづく》しをして丘の上の家へ越して行くのかと思つて見てゐたさうです。

 それから二三日經つと、丘の上の一家が、急に土地が嫌やになつて、屋敷を賣拂《うりはら》つて遠くへ越してゆくと云ふので、周旋する男があつて、其男に、是非屋敷を買取《かひと》れと、無理矢理に薦められて、たうたう[やぶちゃん注:ママ。]其屋敷を買ふ事になつて間もなく引越したと云ひましたが、それからは家運も追々榮えて來たさうです。

[やぶちゃん注:「北設樂郡段嶺村」現在の北設楽(きたしたら)郡設楽町(したらちょう)の南の西寄りにあった旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図のこちらで、『段嶺村』(くどいが「だみねむら」と読む)が確認出来る。現在のこの中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。横山からは直線で北北西に十キロメートルほどの位置である。]

2023/04/05

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「空を通つて行つたもの」・「ヒトダマ」・「魔が通る」・「風に乘つた魔」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。なお、これが本文の最終パートとなる。]

 

      種 々 な こ と

 

 ○空を通つて行つたもの  明治十八年頃のある秋の日、私の父が字相知《あひち》の入《いり》と云ふ處の田で仕事をしてゐると、何處とも知れず劇しい唸り聲がして、東の空から西の方へ向けて、中空を赤く燃え盛つた火の塊が、物凄い響きを立てて通り過ぎたと謂ひました。暮れ近い時刻であつたさうですが、あれが火のタマと云ふものだらうと云ひました。

 又某と云ふ女が夜門口へ出ると、飯茶碗程の大きさの火の魂《たま》が、山の頂とすれすれに、北から南の方へ飛んで行つたさうですが、其が通る間は、山の草の色が、靑く明瞭と見られたと云ひました。

[やぶちゃん注:これは孰れも火球(隕石)と思われる。

「明治十八年」一八八五年。

「相知の入」現在の横川相知ノ入(よこがわあいちのいり:グーグル・マップ・データ)。]

 

 ○ヒトダマ  人魂は、人が死ぬ三日の間に、其家の棟から出ると謂ひますが、火の玉のように、勢《いきおひ》はなく、靑い火が、ふらふらと燃えて中空を行くと謂ひます。

 ある男が見た人魂は、何處からともなく靑い火の魂が飛んで來て、其男の頭上を、三囘程囘つたと謂ひました。

 又、鳳來寺村の字椎平《しひだひら》の某と云ふ男が、夜、人魂らしい、靑い火の落下した場所を見定めて置いて、翌朝早く其處へ行つて見ると、一握り程の泡のやうなものがあつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:これは、動きや痕跡からみて、何らかの発光生物、或いは、発光物質が附着した生物のようには見受けられる。

「鳳來寺村の字椎平」こちらの「蕨が結びつけた緣」の私の「椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋」の注を参照されたい。]

 

 ○魔が通る  私が子供の頃、それは秋の頃と思ひますが、其日の午後、西の方の空へ向けて魔が通つたと言つて噂してゐました。何物とも知れぬ者が、空を空車《からぐるま》を挽《ひ》いて走つて行くやうな音をさせて過ぎたと謂ひました。其日は、薄曇りした靜かな日でした。

[やぶちゃん注:これは恐らく、上空に逆転層(ご存知ない方は当該ウィキを見られたい、そこにも書かれている通り、『逆転層により、遠くの音が大きく聞こえることが多く』ある旨の記載がある。車のヘッド・ライトが反射すると、UFOが出現したかのように見えることもある。因みに、私は十代の頃、『未確認飛行物体研究調査会』を作り(会員は私を含めて三人しかいなかったが、中学時代の友人らも、よく協力してくれ、UFOの現認情報を伝えて呉れた)、三島由紀夫も会員だった『日本空飛ぶ円盤研究会』の会長であられた荒井欣一氏と書簡を交わしたこともあったUFOフリークである)が発生し、そこにかなり離れた場所の地上の空車を曳く音が、反射して聞えたものと推定される。]

 

 ○風に乘つた魔  早川文六と云ふ男が、暴風雨の折、緣側に立つて見てゐると、空を大きな材木のやうなものが飛んで來て、家の上を通つたと思ふと、屋根の瓦が、ガラガラと崩れ落ちたさうです。家内の女と二人、はつきり見たと云ひました。

 暴風の折は、風に乘つて魔が通ると云ひます。其がぶつかると、立木が折れたり、家が倒されたりするのだと謂ひます。

[やぶちゃん注:一見、ジョージ・アダムスキイの葉巻型母船を想起させるが(私は邦訳された彼の著作を総て読んでいるが、現在は、彼は妄想家であったと考えている)、これは、物理的には、竜巻が発生し、実際の倒木や木材を巻き上げて落としたものと考える方が現実的である。]

2023/04/02

早川孝太郞「三州橫山話」 天狗の話(全) 「天狗」・「天狗におどされたといふ噺」・「天狗の火だらうと謂ふ話」・「鹿に化けてゐた天狗」・「一度に鼻を高くした獵師」・「火をつける神樣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。]

 

      天 狗 の 話

 

 ○天狗  天狗の事を別に守護神と謂ひます。騷々しい事を好み、金屬製のものを打ち合せるやうな音を特に喜ぶから、深山などで、夜さうした音をさせると、すぐ集まつてくると謂ひます。又、天狗に出會つた時は、何によらず汚い事をして、例へば草鞋《わらぢ》に小便をかけて冠《かぶ》つたりすると効があると謂ひます。獵師は、黃金《わうごん/きん》の丸《たま》で擊てば勝つ事が出來ると言つて、もし黃金の丸の持合《もちあは》せがない時は、黃金の丸で擊たうと、口で言つたゞけでも天狗が怖れて逃げると謂ひます。

[やぶちゃん注:天狗は私の怪奇談系の記事でも枚挙に遑がないほどに登場するのであるが、よく纏まって古文献を蒐集しているのは、柴田宵曲の「妖異博物館」の「秋葉山三尺坊」「天狗と杣」に始まり、「天狗の爪」」 までの十章を読む(ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」からどうぞ)にしくはあるまい。ウィキの「天狗」は、本篇の次話の出沢での怪談を引くが、ウィキの記事全体が、短文で概観を圧縮して詰め込んであるために、どの記載も底が浅く、概説を通しで軽く知るにはよいものの、私はあまり評価しない。

「金屬製のものを打ち合せるやうな音を特に喜ぶ」天狗は山中に棲み、それは山師(ここでは狭義の鉱脈を探す鉱山師)との親和性が強いことも一因としてあろうか。

「天狗に出會つた時は、何によらず汚い事をして、例へば草鞋に小便をかけて冠つたりすると効がある」「日文研」の「怪異・妖怪データベース」のこちらの多摩の採話の要約に、『てんごう』(天狗の訛りと推定される)『やオオカメ』(神使或いは妖獣としての狼の訛り)『はなかなか見えない。猟師がおてんぐもしくはおイヌ様に山であったとき、小便をするまねをすればいいという話を聞いたことがある。きたないことが嫌いなのでかくれるのだという』とあった。本来は天狗は零落した神の一種であり、山は山神を始めとする神聖な霊域でもあるから、神聖性としての潔斎を好むのは当たり前であり、その行為を特に彼らの目に理解不能で異様に見えるようにするためには、突拍子もない組み合わせで、ここにある「草鞋《わらぢ》に小便をかけて冠《かぶ》つたりする」というようなことをすると、禅問答の際の異様な対応行動と同様、天狗を怯ませる効果があるものと思うわれる。

「黃金の丸」通常の銃弾は鉛玉であるが、実際、猟師は通常の鉄玉の他に、恐らくは、こうした魔物に対処するためのものと思われるが、銀や金で出来た霊的な力を持つと考えられた弾丸をも所持していた。]

 

 ○天狗におどされたといふ噺  東鄕村出澤《すざは》の關原三作と云ふ木挽《こびき》が、二十五六年前、北設樂郡の川合《かはひ》に近い村で、仲間の者と八人で山小屋に住んで居た時、或夜、酒を二升程買つて來て、其を飮んで、有合《ありあは》せた鋸や石油の罐を敲いて拍子をとり、大亂痴氣《だいらんちき》をやつてゐると、山の上から其小屋へ向けて石を投げつけたのを手初めに、おそろしい音をたてゝ、岩を轉がしかけたり、小屋の周圍の大木を、忽ちの中《うち》に鋸で伐り倒したり、何物か小屋へ手をかけて、今にも倒れるかと思ふ程搖《ゆさ》ぶつたり、さうかと思ふと、大きな火の玉が眼の前へ飛んで來て、一氣に又遠くへ飛んで行つたりしたと謂ひます。八人の者は酒の醉《ゑひ》も醒めてしまつて、まるで生きた心地はなく、一團に抱き合つて居たさうですが、夜の明けた後に見ると、何ら變つた事はなく圍《まは》りの木なども確かに鋸で挽いて倒しかけた音を聞いたのが枝一つ落ちては居なかつたと云ふ事です。

[やぶちゃん注:「東鄕村出澤」横山の寒狹川の対岸の、現在の愛知県新城市出沢(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。

「二十五六年前」本書の刊行は大正一〇(一九二一)年であるから、明治二九(一八九六)年前後。

「北設樂郡の川合」愛知県北設楽郡設楽町大字川合(かわい)。横山の東北の鳳来寺を越えた先の山中で宇連川の上流。現行では地区内には人家は視認出来ない。但し、地区内に半ば倒壊した「神田小学校宇連分校跡」があり(サイド・パネルの写真参照)、嘗つては集落があったことが判る昭和四二(一九六七)年三月に閉校と「廃墟検索地図」のこちらにあった。但し、ここでは話者は「川合に近い村」と言っており、そうなると、川合の周辺となり、西の「海老町」、南西の「鳳来寺村」、南東の「三輪村」、北の「最草村」(読み不詳)等の「川合」に近い山間村町ということになろうか。「ひなたGPS」の戦前の地図をリンクさせておく。

「山の上から其小屋へ向けて石を投げつけた」「天狗の石打ち」と呼ばれる怪奇現象。

「鋸で伐り倒」す音がしながら、「夜の明けた後に見ると、何ら變つた事はなく圍りの木なども確かに鋸で挽いて倒しかけた音を聞いたのが枝一つ落ちては居なかつた」「天狗倒し」と呼ばれる同現象。前の「天狗の石打ち」と合わせて、山中では嘗ては頻繁に起こり、江戸時代の記録文献(公的事実記録を含む)や怪奇談にも頻繁に登場する。]

 

 ○天狗の火だらうと謂ふ話  橫山の早川德平と云ふ家に奉公してゐた村松留吉と云ふ男が、或朝早く起きて、草刈に出かけようとすると、時刻を間違へたのか、星が空一面に輝いてゐて、中々、夜の明ける樣子もないので、しばらく門口に立つてゐると、向ひの出澤村のフジウと云ふ山を、灯が一つグングン動いて行くのが見てゐる内、ふつと二つになつたと思ふと、自分の目を疑ふ程、次から次からと增へて行つて、しまひには、山一面の火になつたと謂ひます。するとそれが又、いつとなしに一ツになつて、今度は段々に燃え出して、盛んに燃え上るので、天狗の仕業ではないかと思つて怖ろしくなり、家へ這入《はい》つて、戶の𨻶間から覗いて居たさうですが、しばらく燃えてゐて、其中《そのうち》に何事もなく消えてしまつたと云ひました。明治が三十年頃のことです。

[やぶちゃん注:「出澤村のフジウと云ふ山」「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『出沢地区に伝わる古地図』と題して、延宝年間(一六七三年~一六八一年:徳川家綱・綱吉の治世。約三百四十五年前)に描かれ、天保 一四(一八四三)年前)に描き直された地図がカラー写真で紹介されてあり、『富住は、今は一面杉林ですが、この頃』『まで)は水田と畑が拡がって、呼び名通り。豊かな土地でした』とあるので、是非、見られたい。現在の富住(ふじう)山の写真もあり、古地図の編者のキャプションとその写真から考えると、この中央附近が「フジウ」「山」ではないか? 「ひなたGPS」で見るなら、この国土地理院図の332.8ピークがそれであろうかと推察する。山の名はネットでは残念ながら掛かってこない。

「明治三十年」一八九七年。]

 

 ○鹿に化けてゐた天狗  某と云ふ獵師が、朝早く本宮山《ほんぐうさん》へ鹿を擊ちに行くと、行手の大きな岩の上に、一頭の大鹿が眠つてゐるので、早速丸込《たまご》めをして狙《ねらひ》を定めて擊つた所が、更に感じないで、鹿は相變らず眠つてゐるので、次から次と、五六發擊つても何の手答《てごたへ》もないので、不審に思つて、黃金の丸を出して擊たうとすると、其時迄眠つてゐた鹿が、ムクムクと起き上がつたと思ふと忽ち鼻の高い老人になつて、さつきからの丸はみんな此所へ置くから、どうか命は助けて吳れと言つて、掌に持つてゐた丸をみんな岩の上に置いて逃げて行つたと云ふ話を、出澤村の鈴木戶作と云ふ男から聞きました。

[やぶちゃん注:「本宮山」愛知県岡崎市・新城市・豊川市に跨る標高七百八十九メートルの山。ここ。別名を「三河富士」と称する。古来より山岳信仰の対象とされてきた山であった。]

 

 ○一度に鼻を高くした獵師  北設樂郡の三輪村三つ瀨の明神山は、非常な深山で、ふだん天狗が住んでゐると言はれてゐる所ださうですが、ある時、其近くの山で小屋を造つて仕事をしてゐた木挽達が、夜の慰みに、これから明神山を越して里へ行つて酒を買つて來るものがあれば、其酒を奢ると云つて賭《かけ》をすると、其中の一人が俺が行つて來ると云つて、仕度をして出かけたさうですが、それから段々明神山の窪《くぼ》深く這入つ行くと、向ふに獵師が七八人道の傍《かたはら》で焚火をしてゐるので、其に力を得て傍へ行くと、其中の一人が此處へ來る道で俺達の仲閒に遇はなかつたかと訊くので、更に見かけなかつたと答へると、こんな人は見なかつたかと言ひながら、其獵師達が一度に鼻を高くして顏を差出《さしだ》したので、驚ろいて其場に氣絕してしまつたのを、翌朝になつて、仲間の者が助け出したと謂ひます。

[やぶちゃん注:「北設樂郡の三輪村三つ瀨の明神山」愛知県北設楽郡東栄町本郷にある明神山

「明神山を越して里へ行つて」地図上から判断すると、明神山を越えて行く里で、酒が買えるとなら、「ひなたGPS」の戦前の地図を見る限り、やはり、東北の東栄町しかないようである。半分以上がかなりの山道で、仮実測で、明神山の近くまである道から測ってみたが、往復で十キロはある。]

 

 ○火をつける神樣  遠州の秋葉山や奧山の半僧坊は、天狗の神樣だなどと謂ひますが、ある男が秋葉山に參詣に行く時、出かけに家内の者に、留守中火の用心をしろと言置《いひお》いて、秋葉山へ登つてお籠もりしてゐると、傍の木の上で人の話し聲がするので、何氣なく聞いてゐると、何々村の何某の家へ行つて火をつけて來いと云つてゐるのが、まさしく自分の家なので、驚いてゐると、間もなく又話し聲がして、只今行つて參りましたが、何分火の上をすつかり瀨戶物で圍んでありますので、火の放《つ》けやうがありませんと言ふので、益《ますます》驚いて、急いで歸つて來て、家へ着いて家内を起して火の用心の事を聞くと、爐《ゐろり》の殘り火の上に、摺鉢《すりばち》を冠《かぶ》せて置いたと答へたと云ふ話があります。

[やぶちゃん注:「遠州の秋葉山」何度も既出既注だが、再掲しておくと、「秋葉山」は現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端にある標高八百六十六メートルの山。ここ。古くより修験道の聖地とされ、山頂近くに、「火防(ひぶせ)の神」として知られる「秋葉大権現」の後身である「秋葉山本宮秋葉神社」と、神仏分離令で分かれた「秋葉山秋葉寺(あきはさんあきはじ)」がある。まさに「火伏の神」であるからして、そこの火はあらたかな神火なのである。

「奧山の半僧坊」静岡県浜松市北区引佐町奥山にある臨済宗方広寺派大本山深奥山(じんのうざん)方広寺(ほうこうじ)。「半僧坊」(はんそうぼう)は天狗の姿をした山の守り神で、この寺の奥山半僧坊大権現が起源とされる。半僧坊は現生の諸願を叶えるとされ、鎌倉建長寺にも祀られている。方広寺・建長寺・平林寺(埼玉県新座市のここにある)は三大半僧坊とされる。]

2023/04/01

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「河童ではないか」・「これも其類か」 / 川に沿つた話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ

 なお、これを以って「川に沿つた話」は終わっている。]

 

 ○河童ではないか  此川が寒狹川へ流れ落ちる所を獅子岩と言つて、其處を一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]程降《くだ》ると、先に謂つた二ノ瀧がありますが、今から約五十七八年前、二の瀧の上の淵の岩に髮を奇麗な禿《かむろ》にした、五六歲とも見える子供が腰かけてゐるのを、私の父が見たと謂ひましたが、其時傍に居た人が、彼所《あそこ》に河小僧《かはこぞう》がゐると言つて騷いだので、忽ち川の中へ飛込んで再び姿は見せなかつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「此川」前の「蜘蛛に化けて來た淵の主」を受けるので、旧「大荷場川」、現在の「七久保川」(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)を指す。

「獅子岩」この附近となるが、どこかは不詳。

「二の瀧の上の淵の岩」この附近と思われる。]

 

 ○これも其類か  八名郡山吉田村の豐田新右衞門と云ふ酒屋の裏の小川に、權現淵と云ふ淵があつて其淵では每日夕方になると、杵《きね》で臼を搗くやうな音がしたと謂ひます。其家や附近の者は、其音で、雨の降る日などは夕飯の時刻を知つた程永い間續いたと謂ひます。すると或時此の後家が、月の物の汚れを洗ひに其淵へ行くと、傍の岩の上に十歲位の美しい童子が腰をかけてゐたさうですが、女の姿を見ると、淵の中へ飛び込んでしまつたので、薄氣味惡く思つて、洗ひ物も勿々[やぶちゃん注:ママ。「匆」の誤植。]にして家へ歸ると、心持が惡いと云つて床について、家の者に其話をすると、家内中が不安に思つて、滿光寺と云ふ寺の住職を招いて、相談すると、何等か不祥の前兆かも知れないとあつて、翌日其淵で施餓鬼を行つて、旗などを淵に流したさうですが、其頃から夕方には必ず聞えた音もしなくなつて、淵もいつとなく淺くなつてしまつたと謂ひます。其頃から其家の家運も次第々々に衰へて不幸のみ續いたと謂ひました。凡《およそ》百年程前の事ださうですが、其淵は現今巾三尺程の水もあるか無いかの流れになつてゐます。

[やぶちゃん注:「八名郡山吉田村」何度も出たが、新城市下吉田五反田附近

「權現淵」山吉田地区は黄柳川(つげがわ)が貫流するが、その「小川」であり、位置は不詳。

「百年程前」本書は大正一〇(一九二一)年刊であるから、文政初期となろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「蜘蛛に化けて來た淵の主」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。]

 

 ○蜘蛛に化けて來た淵の主  瀧川村の奧から流れる大荷場川と云ふ川に、瀨戶ヶ淵と云ふ淵があつて、其處にはブトの類が澤山ゐると謂ひましたが、淵に惡い主《ぬし》がゐて、命を奪《と》られる人が時折あると謂つて、釣に行く者は稀れでした。淵の上から高く水が落ちかゝつてゐて物凄い所でした。

 其處へ附近の出澤《すざは》村の某と云ふ者が、釣に出かけると、其日は又珍しくブトが捕れるので 時の經つのも忘れて捕つてゐて、見るともなく水面を見ると、一匹の赤い蜘蛛が這つて來て、岸に踞んでゐる其男の足を一巡りして[やぶちゃん注:底本は「一巡りて」。少しおかしいので、後の『日本民俗誌大系』版で『し』を補った。脱字であろう。]、還つて行つて淵の眞ん中頃になると見えなくなつて、暫くすると同じ蜘蛛がまたやつてきて、同じやうに足を一巡りして歸つて行つて、それを、同じやうに幾度も繰返して行つたので、不審に思ひながら足を見ると、細い蜘蛛の糸が幾重にも卷き付いてゐるので、そつと其糸をとつて傍の杉の切株に引掛《ひつか》けて、其儘釣をしてゐると、淵の底の方で、やあと大勢の懸聲《かけごゑ》がしたと思ふと、其の切株が、 そつくりもぎ取られて、淵の中へ沈んで行つたと謂ひます。

 この話をした鈴木戶作と云ふ男の弟が、此處で釣をしてゐると、水面から一尺程入つた處に、赤いキラキラと輝くやうな物を見て驚いて歸つて來たと謂ひました。

 其後《そののち》村の男が、淵の上の松を取ると謂つて淵へ鉈《なた》を落したので、淵の主が川下の淵へ越したので現今は主がゐないとも謂ひます。

[やぶちゃん注:ここに語られる蜘蛛の怪は、本邦で広汎に存在する水辺の「化け蜘蛛」譚の典型的なものの一つである。私の住まう鎌倉の源平池にさえある、実はかなりポピュラーな怪奇談なのである。私の「柴田宵曲 妖異博物館 蜘蛛の網」を読まれたい。

「瀧川村の奧から流れる大荷場川」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端の中央やや下の位置に『大ニバ川』とある。この川は、手書き地図の諸ポイントから、現在は「七久保川」と呼ばれているもの(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)がそれと判った。「大荷場」は、この七久保川の右岸に現在の地名として確認出来る。

「瀨戶ヶ淵」ここに「瀬戸淵の滝」がある。サイド・パネルに五十二葉の写真を見ることが出来る。「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)に、この瀬戸淵についての編者注があり、『私が子供の頃は大きな淵で、四、五メートルの深さがあって、ちょっと薄気味の悪い処でした。近年、林道工事の影響で土砂が流れて来て、一時』、『殆んど淵が埋まってしまいましたが、最近、少し回復してきたようです。言い伝えによると、「メクラ(追分)」「カイクラ(一鍬田)」「瀬戸ヶ淵」と言って』、『この三つの淵は底が互いに繋がっていて主が行き来をしていると言われていました』。『川小僧達は、ここも遊び場にしていましたが、大荷場川の水はとても冷たくて、夏でも』十『分と入っていることが出来ませんでした』として瀧の写真も添えておられるので、見られたい。なお、この注の中の、「メクラ(追分)」というのは、横川追分地区(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狹川内のどこかの淵であろう(淵らしき箇所は複数ある。現在の地区割りに従うなら、挟まれてある下流の二箇所が候補となるか)。また、「カイクラ(一鍬田)」(「ひとくわだ」と読む)は、これも既注であるが、再掲しておくと、現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)であり、「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。豊川の相対的にはずっと下流の方である。

「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ:グーグル・マップ・データ航空写真)。横山の中央部の寒狹川を隔てた右岸で、殆どの部分は山間である。]

2023/03/30

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「飛んで登らぬ鯉」・「ハヤのこと」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。]

 

 飛んで登らぬ鯉  鮎に限らず、ハヤでも、鯇《あめのうを》でも鱒でも何魚《なにうを》でも、夏は川上に登るので、其等が瀧にさしかゝると、一旦飛上つて、其餘勢で泳ぎ上りましたが、鯉のみは、決して飛ばないで、初めから泳いで登りました。眞つ蒼に水の垂下《すいか》した中を、潜航艇のやうに、すうつと見事に泳いで登りました。

[やぶちゃん注:「ハヤ」既注であるが、再掲しておくと、そもそも「ハヤ」という種は存在しない「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称であるから、その中の幼魚と断定してよいと私は考えている。

「鯇」これは、かなり、メンドクサい。この名自体は、琵琶湖固有種である条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus の異名である(産卵期の特に大雨の日に群れを成して河川を遡上することに由来する「雨の魚」は異名としてかなり知られている)。当該種は、現在、栃木県中禅寺湖・神奈川県芦ノ湖・長野県木崎湖などに移殖されているが、当時、横山の寒狹川にいた可能性は、まずあり得ないから、ビワマスではない。とすれば、本種は何か? 私は思うに、

アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の河川残留型(陸封型)を指す異名。人によっては見た目がかなり異なることから、アマゴとサツキマスは別種と頑強に主張する人(西日本に多い)が有意にいるが、魚類学では同一種と決定されている)

を指しているいるのではないかと考える。如何にこの「鯇」「アメノウオ」が痙攣的にメンドクサいかは、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鯇(ミゴイ/ニゴイ)」の本文及び私の痙攣的注を参照されたいが、ともかくも、この異名は驚くべき多数の種の異名として、中国や本邦で使用されているのである。但し、魚体の特徴が記されていないから、全く別の魚を横山では「鯇」と呼んでいた、或いは、呼んでいる可能性もあるから、当地の方の御教授を乞うものではある。

「鱒」これも一種と考えている方が多いが、前注のリンク先で注してあるが、「マス」という種はいない。「マス」とは、本邦の場合は、

条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する魚類の内で和名・和名異名に「マス」が附く多くの魚

或いは、本邦で一般に、「サケ」(サケ/鮭/シロザケ:サケ科サケ属サケ Oncorhynchus keta)・ベニザケ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ[本邦ではベニザケの陸封型の「ヒメマス」が択捉島・阿寒湖及びチミケップ湖《網走管内網走郡津別町字沼沢》)に自然分布する]Oncorhynchus nerka)・マスノスケ(=キング・サーモン:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)など)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚(但し、この場合、前者の定義とは「ヒメマス」「マスノスケ」などは矛盾することになる)を纏めた総称である。「マス」・「トラウト」ともにサケ類の陸封型の魚類及び降海する前の型の魚を指すことが多く、主に

イワナ(サケ科イワナ属 Salvelinus。現在、日本のイワナは二種であるという見解が一般的であるが、亜種を含め、分類は未だに決定されていない。詳しくは当該ウィキを参照されたい)

ヤマメ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou

アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss

などが「マス」類と呼ばれるのである。これも同前で、現地の方からの御教授を得ないと、完全な特定は不可能である。

「鯉」コイ目コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio 。まるで、東洋の川魚のチャンピオンのように誤解されているが、本種の元はヨーロッパ原産であって、凡そ本邦の象徴的淡水魚でも何でもない。

 

 ○ハヤのこと  山溪の水の尠《すく》ない流れには、ブトと呼んでゐるハヤの一種がいました。水が淀んで淵をなした所には、必ず一群のブトがゐて、其處には、赤ブトと云ふ頭や尾の赤くなつた大きなブトが雌雄居て、他のブトの群《むれ》は、それに隨つて行動してゐるやうで、餌が流れて行つてもこの赤ブトが動かない中《うち》は、小ブトはぢつとしてゐました。この赤ブトを捕つても、其處には、いつか又同じやうな赤ブトがゐるものでした。

[やぶちゃん注:早川氏は正しく前注で述べたように、「ハヤ」が複数の川魚を指すことの認識されていて、頼もしい。

「ブトと呼んでゐるハヤの一種」これは以下の婚姻色の叙述から、私は、「桜うぐい」の名をし負う、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis の♂

を真っ先に想起した。釣ったことはないが、若い頃、富山県高岡の庄川べりの川魚料理店で食べた美しいそれが、川魚の最上の味だったことを忘れない。【二〇二三年四月一日改稿・追記】しかし、「早川孝太郎研究会」の、この次の本文(「蜘蛛に化けて來た淵の主」相当・PDF)に編者注があり、『カワムツ(ブト)』と題して魚体の写真も添えられ、『膨大な数の方言があるが、これらのすべてが石川県と愛知県を東限としている。とりもなおさず東日本には分布していなかった証だが、最近は稚アユの放流に混じって関東地方などへも移入され、定着している(この辺りでは「ハヨ」と言います。)』とあった。 カワムツの♂も強い赤い婚姻色を呈するので、ここは、

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii の♂

であることが判ったので、修正した。]

2023/03/29

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「鮎の登れぬ瀧」・「龍宮へ行つて來た男」・「人と鮎の智惠競べ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

      川 に 沿 つ た 話

 

 ○鮎の登れぬ瀧  前を流れる寒峽川[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]に二ノ瀧と云ふ瀧があつて、川の中央にある二ツの岩のから水が溢れ落ちてゐて、絕えず物凄い響をたてゝゐましたが、此處から二町程下つた所に、鵜の頸と云ふ淵があつて、大淵とも呼んでゐますが、此處は龍宮へ通じてゐるなどゝ謂ひました。此淵と二ノ瀧との間は、奇岩が重疊して、物凄い所でした。

 夏鮎が川下から登つて來て、此瀧を登る事が出來ない爲め、これより上流には鮎は居ませんが、昔上流の段嶺に城のあつた時、城主が瀧を破壞して鮎を誘はうと計ると、夢に龍神が現はれて、段嶺に城のある限り鮎を登らする約束をして、瀧の破壞を思留《おもひとど》まらせたと謂つて、段嶺に城のあつた閒は、上流にも鮎が居たなどゝ謂ひました。

 明治の初め頃、附近の村の材木商が申合せて此瀧の破壞を計畫すると、閒もなくその人たちが病氣になつたり、死んだりしたので、龍神の祟りだと怖れて、瀧の傍に、南無阿彌陀佛の文字を刻んで中止したと謂ひましたが、明治四十二年に、水力電氣の工事の爲めに破壞されて、昔の形はなくなりました。

[やぶちゃん注:「寒峽川」現行では「寒狹川」が正しいが、早川氏は「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図でも、『寒峽川』と記しておられるので、嘗てはこうも書いたものらしい。後の『日本民俗誌大系』版(一九七四年角川書店刊)でも、やはり『寒峡川』となっている。

「二ノ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川(表記は既に述べた通り、『寒峽川』)の『ウノクビ及大渕』のすぐ上流、右岸から『大バニ川』が合流する、すぐ下流に『二ノ滝』とある。「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『二の滝は、長篠発電所の取水堰(花の木ダム)の本堤付近にあつたと思われます。子供の頃(昭和』三〇(一九五五)『年ごろ)父親が「オイ!、二の滝に行くぞ」といつて、大きなタモを持つて、鱒をすきに来たのを覚えています』。『岩の上からそつと覗くと』、四十・五十センチメートル『の鱒が川隅の浅瀬に出ているので、逃げ道に網を当てておいて、石を投げたり』、『中に入つて嚇したりして網に追い込んだものでした』と注を附しておられてある(写真有り)ことから、現在の「長篠堰堤」附近にあったことが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のここで、サイド・パネルには九百七十六葉もの写真があるので、見られたい。また、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、この中央に「小さな滝」を示す記号らしきものが認められる(横棒線の下方に左右●二つ)ので、見られたい。

「此處は龍宮へ通じてゐる」完全な内陸で海から遠く離れていても、例えば、琵琶湖や、中部地方の山間でも、池や川の淵などが龍宮に通じているという伝承は枚挙に遑がない。例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を挙げておく。

「昔」、「上流の段嶺に城のあつた時」グーグル・マップ・データでこの附近を調べると、直近では、「塩瀬古城址」と「大和田城跡」が、また、その北西の山中に「城ヶ根城跡」がある。

「明治四十二年」一九〇九年。]

 

 ○龍宮へ行つて來た男  昔瀧川村の瀧川宋兵衞と云ふ男が、材木を川上から流して二ノ瀧にさしかゝると、其材木が全部瀧壺に落ち込んだまゝ、何時迄待つても浮んで來ないので、腹を立てゝ、刀を持つて瀧壺に飛込んで行つたと謂ひます。そしてだんだん奧深く潜つて行くと、遙か向ふに龍宮が見えたので、急いでゆくと、龍宮では、其男の材木をみんな薪にして、ちようど[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]其時、籠に入れて燃さうとしてゐる處なので、早速王樣に面會して段々事情を話して、其非を責めると、それでは一鍬田《ひとくはだ》のカイクラへ浮かべてやるから、歸つて待つてゐろと云はれて、急いで歸つて來たさうですが、自分には其間が僅か三時《さんとき》ばかりと思つたのが、家へ歸つて見ると、ちようど三年忌の最中であつたと謂ひました。そして材木は無事五里ばかり下流のカイクラへ浮んだと謂ひます。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。なお、「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『大淵⇒鵜の首』と題されて、『二の滝から』二『百メートル位下つたところが大淵で、その淵に流れ込むところを鵜の首といいます。大淵がちょうど鵜が羽を広げたような形をしているので、この様な名が付いたと思われます。大水の時は、川が上の岩盤と同じ高さで平らになつて、一気に二十メートルほど流れ落ち壮大な滝になります。そのため鵜の首から大淵にかけて、深くえぐられていつまでたつても埋まつて浅くなることはありません。竜宮に通じていると言い伝えられているのは、この鵜の首のところです』。『川小僧だつた私達も、二の滝は鰻を捕りに潜りましたが、鵜の首だけは潜つた者はありません。淵を泳いで渡るときに、淵が大きすぎて水が替わらないのか、水面から五十センチぐらい下は、異常に冷たかつたのを覚えています。竜宮まで通じているか定かではありませんが、二十メートルは優に超える深さがあると思われます』と注を附しておられてある(写真有り)。「大淵」前に述べた通り。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の『寒峽川』の『ウノクビ及大渕』とあるのが、それ(グーグル・マップ・データ航空写真)。名真もにし負う巨大な円形の淵であり、龍宮へ通じているという感じは満点である。

「瀧川村」前の「二ノ瀧」のあった上流直ぐの横山の対岸(右岸)(「ひなたGPS」)。

「一鍬田《ひとくはだ》のカイクラ」現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。「萩さんのホームページ」の中の「牟呂松原頭首工」(むろまつばらとうしゅこう:「頭首工」とは農業用水を河川から取水するために、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門・堰堤・土砂吐(どしゃばき)等)を指す。用水路の頭の部分に当たることから、かく呼ぶ。 稲作は多くの水を必要とするため、古来から多くの先人達が苦労を重ね、頭首工の建設を行ってきたと「大分県」公式サイト内の「農村基盤整備課」の「頭首工とは?」にあった)のページには、『頭首工の横を通る橋は』、『海倉(かいくら)橋です』。『海倉橋のたもとには,以下の説明がありました』。『一鍬田の海倉淵は龍宮につづいているといわれます』。『昔から村に人が集まることがあって』、『お膳やお椀がほしい時』、『必要なだけ紙にかいてこの淵に流すと』、『やがて』、『お膳とお椀が紙にかいた数だけ浮いてきたということです』とあって、ここもまた、龍宮に通ずる聖なる場所であり、また、柳田國男の好きな「椀貸伝承」の一つにして、「龍宮伝説」とカップリングされたものであって、各地にある伝承である。因みに「大淵」から、この海倉橋までは、実測で十四・五キロメートルはある。

「三時」六時間ほど。まさに「浦島伝説」同様、異界での時間経過は恐ろしく異なるのである。]

 

 ○人と鮎の智惠競べ  こゝ(大淵)から川を四五丁[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五メートル]降つた處に鮎瀧と云ふ瀧があつて、其から一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]川下に矢筈と云ふ瀧があります。夏この瀧を飛上がる鮎を捕るのに、古老の話によると、四五十年前迄は、捕る術を知らなかつたさうですが、餘り鮎が飛ぶと謂つて、農事に使ふ箕《み》で受けて捕つたのが最初と謂ひます。私の記憶にある頃は、笠網と云ふ菅笠の形した網に竹の柄をつけたもので捕りました。六月一日から瀧番を決めて、一日四戶宛《づつ》番に當りました。雨上りの水量の增した時は、四斗樽に幾杯捕れたなどゝ謂つて、夕方暗くなつてから、岩の上で鮎の分前《わけまへ》を籤引《くじびき》にしたりしました。それから鮎がだんだん網を嫌つて、網を出すと飛ばなくなるなどゝ謂ふやうになつて、それ迄の手製の太い糸の網を改めて、細い透明な糸で造つた網を使ふやうになりましたが、それも僅かの間で、瀧の下に眞つ黑に押合つて、我がちに飛でゐた鮎が、網を出すと、ばつたり飛ばなくなると謂ひました。そんな風で、瀧番で行つてゐる者が、網を岩の上へ投げ出しては、ぢつと瀧を見詰めては考へてゐましたが、鮎が瀧に向つて飛上がつても水勢がはげしいので、水が岸の岩へ當つて卷返つてゐる所へ一度休んで、其處から泳ぎ上るのを發見したものがあつて、其處へ休みに來た鮎を待つて杓《すく》ひ取るやうにしますと、そこ迄は鮎も氣がつかないと見えて、其方法で非常に澤山捕れました。其の水が卷き返る處を、ザワザワと謂ひましたが、對岸の出澤《すざは》村には、このやうな天惠がないので橫山方《がた》を妬んで、種々な邪魔をしたものでした。しかし此方法も二三年で鮎が覺えてしまつて、其後はザワザワへ休まなくなつてしまつたので最早瀧を利用する途《みち》も絕へ[やぶちゃん注:ママ。]て、近年は、瀧の下へ集まつてゐる鮎を碇《いか》り針と云ふので、引かけて捕るやうになつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、当該地の写真(場所の詳細なキャプションも附されてある)とともに、『現在、私達がヤハズといつているのは、出沢』(すざわ)『側のピンコ釣の穴場です。ピンコ釣は、出水の時、鮎が遡上するのでよく釣れるのですが、水位が下がるにつれて、猿橋から上流に、順次、釣れる場所が移動していきます。その中でも「馬の背」と対岸の「ヤハズ」は最も釣果が多い処です。孝太郎がザワザワと言つているのは、馬の背岩の上流側のところだと思われます。今でも水がいい日にこの場所が取れれば、クーラーに何杯も鮎を釣る人がいます』。『滝番についての記述は、出沢区の鮎滝番のことと思われます。出沢区の鮎滝番は、正保三年』(一六四六年)『に、領主、設楽市左衛門貞信が瀧川家に「永代瀧本支配」のお墨付(すみつき)を与えたことにより始まり、大正』一五(一九二六)年には、『漁業組合との間で、笠網漁についての覚書を交わしています』と詳細な注記もなされてある。最後に『詳しくは、鮎滝のホームページを参照して下さい』とあつて、URLを記しておられるのだが、このURLは現在、機能していないので、取り敢えず、サイト「鮎滝笠網漁」の「笠網漁のご案内」のページをリンクさせておくこととする。ここに出る「ピンコ釣」とは、yamame_ayu氏のブログ「愛知三河の鮎・アマゴ・レインボー・うなぎ・スッポン他」の「鮎のピンコ釣り」によれば、『仕掛けはオモリを一番下につけ』、『その上に複数の針を結んで』、『深い場所に沈め縦の岩盤に付く鮎や』、『泳いでいる鮎を竿をしゃくって』、『引っ掛ける釣り方』とあり、その前で、『私がホームグラウンドにしている愛知県内の豊川水系や矢作川水系のポイントでは』、『針を沢山結んで、流れに入れて』、『鮎の掛かるのを待つナガシガリ(待ちガリ)で鮎釣りをする人はよく見かけますが』、『ピンコ釣りといわれる釣り方で鮎を釣っている人は』、『私が知る限り』、『一人だけです』とされ、『そのポイントも』、『深さのある岩盤の』一『か所だけです』とあって、現地では、殆んど廃れてしまった漁法らしい。因みに、私の父は鮎の毛針り釣りを、永年、趣味としていて、協議会の機関誌まで発行していた。

「鮎瀧」既出既注

「矢筈と云ふ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央下の『寒峽川』の『矢筈滝』とあるのが、それであるが、ここは位置的には、現在の寒狭峡大橋の直下やや下流にある瀧が、それらしくは見える(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ)。「ひなたGPS」でここ

「碇り針」調べてみると、鮎の友釣りの仕掛けらしい(私の父は友釣りが嫌いなため、私もやったことがなく、知識もない)。サイト「#gunma上毛新聞」の「【アウトドア】㊸釣り場の癖に応じた道具をアドバイス ワカサギやアユ釣り助言 つりピット!プロショップマツダ(高崎市江木町)」に、友釣りの仕掛けは、三、四『本の針を』、『船のいかり状に束ねた「いかり針」を』一『カ所に付けるのが一般的』とあったからである。グーグル画像検索「アユ イカリ針」をリンクさせておく。]

2023/03/28

早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「ジネン殼(自然殼)」・「ツンバラ(茅花)」・「二股のオンバコ(車前草)」・「蕨の綿で織つた着物」 / 草に絡んだこと~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げるが、何故か、以下の四条は同ページには存在しない

 なお、これを以って「草に絡んだこと」は終わっている。]

 

 ○ジネン殼(自然殼) 笹の實を自然殼《じねんから》と謂つてこれがなると、飢饉の前兆であると謂ひます。凡そ五十年程前、これが到る處の根笹は勿論、どんな竹にもなつた事があつたさうですが、貧困者などは每日山へ行つて、此實を採つたといひます。よく臼で搗いて精製すれぱ、麥《むぎ》より味がいゝとも謂ひます。

[やぶちゃん注:「ジネン殼(自然殼)」以下に記されている通り、所謂、「竹の実」「笹の実」である。サイト「笹JAPON」の「竹の実と笹の実・竹の花と笹の花」に詳しいので見られたいが、そこには、『タケ類の開花は珍しく、俗説では』六十『年に一度と言われています』。『そのため、開花は不吉の前兆と考えられることもあります』が、『あくまで俗説であって科学的根拠はありません』とあり、「日本気象協会」のこちらでは、『笹ではおよそ』五十『年』、『マダケの開花は』百二十年とある。私は、小学校を卒業した昭和四五(一九六八)年の三月、今いる鎌倉から富山へ引っ越す直前、家の近くの崖に笹の実が成っているのを見た。母が「不吉だわ。」と言ったのを覚えている。実見はその一度きりで、五十年周期が納得された。

「笹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideaeのうち、その茎にあたる稈(かん)を包んでいる葉鞘が枯れる時まで残るものだけを総称して「笹」と呼んで区別している。但し、ウィキの「ササ」によれば、『タケとササの分類は必ずしも標準和名と一致しない。分類上、ヤダケ』(矢竹:タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica)『は稈に皮がついたままなのでササ、オカメザサ』(阿亀笹:タケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasaca 。本種の自然個体は稀少)『は皮が脱落するのでタケに分類される』とある。則ち、『植物学上』で『はイネ科タケ亜科のうち、タケ』(竹)『は稈が成長するとともに』、『それを包む葉鞘が早く脱落してしまうものを』指すということである。]

 

 ○ツンバラ(茅花)  子供の頃は茅花《ちばな》を喜んで喰べたものでした。茅花の未だ穗に出ない前、葉に包まれてゐる時、引拔いて喰べるのでした。ツンバラ餅はうまいな、などとは拍子をとつて、澤山掌に丸めて、片々《かたがた》の肘《ひぢ》で搗いて喰べたものでした。茅萱《ちがや》の根は、甘い味がして、虎杖《いたどり》や、スイ葉(酸模)の出來ない前、春先きよく喰べたものでした。

[やぶちゃん注:「茅花」三重県四日市市羽津(グーグル・マップ・データ)地区の「羽津地区公式WEBページ」の『羽津の昔「子どもの遊び」』にある「シバの根」の項に、『「つばな」の出る茅』(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )『のことを「チワラ」といい、これの根を「シバの根」とか「甘根」とか称して、噛むと甘い味がした。土の中から、白く細い根を掘りだすと、洗いもせず』、『手で土をしごき落としたままで、口に入れて噛み』、『残りの繊維は吐き出した』とあり、ウィキの「チガヤ」にも、『この植物は分類学的にサトウキビ』(イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum )『とも近縁で、根茎や茎などの植物体に糖分を蓄える性質がある』。『外に顔を出す前の若い穂はツバナといって』、『噛むとかすかな甘みがあって、昔は野で遊ぶ子供たちがおやつ代わりに噛んでいた』。『地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述がある』。『晩秋』の十一月から十二月頃に『地上部が枯れてから、細根と節についていた鱗片葉を除いた根茎を掘り起こして、日干しまたは陰干したものは』「茅根(ぼうこん)」『と呼ばれる生薬で、利尿、消炎、浄血、止血に効用がある薬草として使われる』とあった。

「虎杖」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica既出既注

「スイ葉(酸模)」これは前記のイタドリの別名としても用いられるが、標準和名では、ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa を指す。実は、私は昔から「すっかんぽ」と呼び、畦道で見つけては、好んでしゃぶったのは、イタドリであるよりも、このスイバであった。スイバという標準和名でも呼んだ。もう、四十年以上、噛んでいないな。]

 

 ○二股のオンバコ(車前草) 二股になつて咲いたオンバコ草の油を採つて、其れで火を點《とも》して肺病忠者の枕邊へ行くと、同じ人が二人、枕を並べて寢て居るのが、見えると謂ひます。其内の一人は病氣の精だから、其を刺し殺せぱ、必す病鼠が治るなどゝ謂ひます。

[やぶちゃん注:「オンバコ草」「車前草」(しやぜんさう(しゃぜんそう):漢名)はお馴染みの「大葉子相撲」でよく知られる、スモトリグサ(相撲取り草)、シソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica である。しかし、ここで早川氏の記された呪的用法は初めて聞いた。]

 

 ○蕨の綿で織つた着物  蕨の綿で織つた着物や羽織があつたと謂ひます。これを着てゐれば、雨の中を步いても、雫が下へ通らぬと謂ひます。

[やぶちゃん注:「蕨」既出既注。これ、なんとなく納得してしまうから不思議。]

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