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カテゴリー「只野真葛」の67件の記事

2021/09/13

只野真葛 むかしばなし (34)

 

 また、金右衞門といふ者、長崎より來りしが、人の名「のぼり」と、中あしき故、桂川へ世話成(な)て、つかはされし。長崎ことばにて喧嘩するは、一向、わからず、ただ、おかしきものなりし。

 其内、むねのわるいことをいうと、

「公所を、おれが前で食たいの、わることを、きりぬかしをる。」

と、いひしが、おかしくて、おぼへたり。

[やぶちゃん注:二段落目は全く意味が分からない。識者の御教授を乞う。

「32」に出た「樋口司馬」の初名「のぼり」(これは或いは田舎者を軽蔑して言う「おのぼりさん」の「のぼり」という綽名のような気がしてきた)と同じで「人の名」であることを示しためのもので、『人の名。「のぼり」』という注意書きと読んだ。

「桂川」桂川甫周。既出既注。]

 書(かき)おとしたり。元丹は、のぼりよりも、二、三年、早く來りし人なり。松前そだちの大荒男、あと先のわきまへもなく、お名を聞(きき)およびて、一筋に、「つて」も、もとめず、來(こ)しを、

「うけ人なくては、さしおきがたし。」

とて、かへさるゝ所なりしを、ばゞ樣、被ㇾ仰には、

「それは御尤のことながら、遠路わざわざ來りしものを、二、三日もやすませてから、かへされよ。」

と被ㇾ仰し故、御とゞめ被ㇾ成しが、其なりにて、居(をり)し人なり。後々までも、

「御袋樣のおかげで、『こぢき』に成らずに仕舞ました。」

とて、有がたがりて有し。

 元丹十九の年にて有し、となり。鹽引・筋子《すじこ[やぶちゃん注:ママ。]》などつみし舟にのりてこしが、筋子のかげんよかりしを、

「いくらでも食へ。」

と船頭いひし故、廿五本一息に食(くひ)し時、

「くわしやるはよいが、あたりでもしては世話だから、やめよ。」

と、いはれて、やめしとぞ。

 蜜柑などは、

「めづらし。」

とて、二、三年の間は、たね袋は申におよばず、皮まゝ、

「ふつふつ」

と、くひたりしが、四、五年も、居(ゐ)なじみては、扨《さて》、人は「おごり」の付(つく)ものなり、今では

「皮が、くわれぬ。」

といひて、人笑し。

 此折が桑原をぢさまの、大ふさぎの時なり。をぢ樣は父樣に十おとりなれば、母樣婚禮の時分は、十五、六なるべし。

 父樣は世話好故、萬事、へだてなく、療治の仕樣(しざま)も、こゝろざしのたかきことも、うちこんで御せわ被ㇾ成しなり。

 をぢ樣は、殊の外、病身にて、

「長命、こゝろもとなし。」

と、いはれたる御人なりし。

 それを、父樣、たんせいにて、色々、御療治、時疫も御わづらひ、のがれがたかりしをも、晝夜、つきそひ、御世話にて、本復、此十年ばかりの間は、かろからぬ御恩をうけられしに、後にいたり、さ樣の事ははなしにもださず、結句《けく》、人中(ひとなか)にては、弟子をとりあつかう樣に、にくて口被ㇾ成し故、父樣、御立腹被ㇾ成しこと、元をしりては、尤の事なり。それ故、他所(よそ)にて同座を御きらい被ㇾ成しなり。

[やぶちゃん注:「にくて口被ㇾ成し故」「憎手口(に)成られし故」で「生意気な言い方をするようになったので」の意であろう。]

 桑原ぢゞ樣御かくれ後、くらしかたもむつかしくなり、父樣は、だんだんいきおひよかりし故、内證の世話も、かれ是被ㇾ成しを、一向沙汰なしに、棒判をして、借金被ㇾ成てもめたる事、有し。其時も、

「世話がひなく、堪忍なりがたし。」

と、おぼしめされしかども、

「ちかしき御中、金の出入にて義絕被ㇾ成も、いかゞし。」

とて、やうやう御かんにんは被ㇾ成しが、あひそは、つきて仕舞しなり。

[やぶちゃん注:「棒判」「謀判」であろう。他人の書判・印判を偽造・盗用すること。恐らくは保証人に真葛の父工藤周庵の書判を偽造したものであろう。]

その後、少々、はやり出してから、病家々々へ、父樣をざんげん專(もつぱら)に被ㇾ成しこと、あらはれ、

「此度は、かんにんならぬ、弟に付(つく)といはゞ、母樣をも、離緣被ㇾ成(なされ)。」とて、【此さわぎは、そなた樣三ツ四ツの時なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。大きに御腹たゝれしこと有しを、善助樣中へたゝれ、

「かさねがさね、隆朝仕方、あしゝ。立腹、尤のことなり。さりながら、子供もあまた有、夫婦中、あしきこともなきに、里方と、とかくいふは、隆朝を人だとは、おもはぬがよい。大惡黨のわるものだ、とおもつて、緣につながる不肖と、心ひろく、かんにん、せられよ。世間に、いくらも有こと。」

と被ㇾ仰しにつきて、御かんにん被ㇾ成しより、ワなども、

「うまき心は、なき人。」

と覺悟して、うわべばかりの、うやまひにて有しなり。其末代となりては、眞の敵役(かたきやく)に成きわまりしものなり。

2021/08/04

只野真葛 むかしばなし (33) オランダ渡りの調度品てんこ盛り!

 

 父樣、外へ御出被ㇾ成て、珍らしく書のとゞきたることを御はなし被ㇾ成しを、ある紙問屋《といや》居合(ゐあはせ)て、殊の外、感じ聞て、

「鹽入になりし書は、くちて用立(ようだた)ぬものなり。おしき事なり。是は私共かたの極(ごく)祕傳のことに候へども、珍らしき事故、おしへ申べし。其書をときほごして、さ水に入(いれ)て、一ひらづゝ糸に懸(かけ)て、かわかし、又、水をあらたにして、入ては、かけ、かけ、かくする事、三べん、三べんめの水に澁(しぶ)を少々入て、洗(あらひ)かけて、干上(ほしあぐ)れば、用立(ようだつ)物なり。あなかしこ、あなかしこ。」

とて、おしへたりし故、其ごとく被ㇾ成しに、よくなりて有し。さて、とぢる段にいたりて、

「かほど、厚き物をとぢるには、かならず、かやうの金物なくてはならず。」

と、御くふうにて、金物、うたせて、とぢさせしが、其後、ヲランダ人、來りし時、書物のとぢやう、きゝしに、やはり、御くふうのやうな金物にてとぢる、と、いひしとなり。

 其頃は、ヲランダ物、大はやりにて有し。

 桂川甫周樣など、日ごとのやうに御こし、其書をかさねる時など、ヲランダの、一、二を見分など被ㇾ成し。

 扨、幸作かたへ、其書の禮には、何をつかわされしや、しらず。是がヲランダものゝ、來始(きはじめ)にて、追々、珍らしき物、來りし。其次は毛織、國王の官服とて、三尺ばかり橫壱尺五寸ぐらい、高六、七寸の箱に入(いれ)て、上着と袴と、髮ざし・靴など一くだりのもの有し。靴は、上ぐつと、下ぐつも有し。上着、色は、すわう染(ぞめ)のやうなる赤地に、葉、靑く、花金にて、[やぶちゃん注:本文中に以下の挿絵。底本のそれをトリミング補正して使用した。底本では、文は、この絵を挟んで続いている。次も同じ。]

Hana

むかふ菊のごとくなる花なりし。ひしと、織たる物なり。地は、ぬめ[やぶちゃん注:「布目」か。]の樣にて、毛のたゝぬ物なりし。袴は、うこん地、花色と白の二分ぐらいの縱縞なり。ぬめの樣にて、糊なしの、地のよらぬ[やぶちゃん注:「縒らぬ」か。]、結構なる物なりし。後・前とも、さる布着(ぬのぎ)をくゝりしやうに、中に入(いれ)たる紐にて〆るものなり。其紐、きめうの物なりし。引(ひき)こきたる[やぶちゃん注:「扱(こ)く」か。]時は、三、四分ぐらいの巾(はば)にて、ひらきてみれば、五、六寸の巾にも成し。

兩はし赤、次、はな色、中は黃にて有し。

Tojime

ひらきてみれば、たゞ、糸を引(ひき)かけたるばかりにて、つよきこと、毛も、たゝず、切(きれ)そうにも、なき物なりし。髮指は、金の唐はな、靴は、ことに念入(ねんいれ)て組(くみ)たる物なりし。金糸は、糸に、のべがねを卷(まき)たる物にて、手にあたれば、

「ひやひや」

と、したりし。其ほどは何のわきまへもなかりし故、ようもしらねば、今、おもへば、其官服はあきなひに、もて來りしを、

「逗留中に、かた、付(つき)かね候故、いか程、あたひなら、拂被レ下(はらひくださる)。」と、父樣へ、幸作のたのみて、行(ゆき)しものなるべし。小ぎれにして、のぞみ手のあれば、つかわされしが、そのあたへ、思しよりは、よく有(あり)しなるべし。

 其次にはケルトルといふ物、來りし。ヲランダの酒盛道具なりし。是は勝(かつ)て、おもしろき物、前後に、聞しことも、見しことも、なき品なり。

「金百兩に拂たし。」

と、いひて、こしたりとぞ。上の一重は、盃と、肴入(さかないれ)品々、下は、酒、「角(かく)ふらすこ」に、一ぱい入(いれ)て有し。數、二十なり。「ふらすこ」のなかに、内を、「らしや」にてはる、肴入、金を、ほり付(つけ)て、光(ひかり)かがやくものなり。

 酒は、名(な)有(あり)、ぶどう酒は、ことに黑かりし。「金あらき」の「ふらすこ」をふると、金のうごくさま、火の粉のとぶやうにて、見事なりし。盃と肴入をならべてみれば、是ほどのもの、此箱には入(いり)そうはないとおもわるゝやうなり。盃もさかな入(いれ)も、二づゝ、同形のものなりし。

[やぶちゃん注:以下、以上の渡来品の挿絵とキャプション。底本では挿絵の各個の図中にキャプションがあるが、底本ではその各個キャプションが活字にされてしまっているため、日本庶民生活史料集成の当該画像(原本のママ)をトリミング補正して使用し、改めて判読して添えた。]

 

Hako1

 

Hakohurasuko

 

[やぶちゃん注:最初の画像の左のキャプションは、「二重、明(あけ)たるかたち。」。二枚目の画像は左のフラスコ左横の箱の蓋の裏側部分に、「『ふた』と『み』に、噐(うつわ)だけの合口(あひくち)あり」とあり、下方の箱の内側に、「盃と肴入」、左外に、「ふたを取(とり)し所」と状況キャプションがある。中央の閉じた箱の前方の絵には、上蓋(奥)に「弐尺五寸斗(ばかり)」とあり、手前の下方角に「二尺斗」、正面取っ手下方に「前」とある。なお、底本では、この箱の後部の横部分外に箱の幅を『二尺斗』とあるが、この日本庶民生活史料集成にはそれがない。左手のそれは箱の後ろ部分を描いたもの。四箇所の二重蝶番が描かれ、その間の下方に「後」と記してある。]

[やぶちゃん注:以下は挿絵の解説キャプション。]

 此中かくふらすこ廿(にじふ)入(いり)、みな、水晶ふき[やぶちゃん注:「葺き」。]、金物の所ばかり、「すゞ」なりし。金にて、もやう付(つけ)たり。内二(ふたつ)、すりかた[やぶちゃん注:「摺り型」か。]にて、模樣付(つけ)たるには、酒に、金を入れたり、こまかと、あらきと、二通(とおり)有し。

 内は惣(そう)たい、「紺羅しや」にて、はりたり。具合・手ぎわのよき事、いふばかりなし。「びいどろ」、きつと[やぶちゃん注:しっかりと。]、入(いれ)て、少しも、うごくこと、なし。後(うしろ)は蝶番(てふつがひ)なり。前のかなもの、やわらかにして、すき、なし。箱にしたる木は、一枚板なりし。木目は「しゆろ」[やぶちゃん注:「棕櫚」。]に似たり。色はねずみいろなり。

 

 聞(きき)つたいては、傳(つて)をもとめなどして、見に來る人、日ごとに、たへず、賑々(にぎにぎ)しきことなりし。ワ、九ばかりのことなりし。六ツ年、ぬす人とらへしことよりて、尾張町、藥みせ、出(いだ)しことなど、はきとおぼへたり。

 しばらく有て、大名がたより、

「御望(おのぞみ)。」

とて、上りたりし。其かわりに百兩の極札(きはめふだ)付(つき)たる作の、三所(みつどころ)もの、つかはされし。

 次にはびいどろの板にて、四方を張(はり)たる「かけあんどん」、來りし。是は、てもなきものなりし。中へ銀にて、[やぶちゃん注:本文中に以下の挿絵。底本のそれをトリミング補正して使用した。底本では、文は、この絵を挟んで続いている。]

Kakeandon

此やうな形に、火とぽしを二(ふたつ)、俄に御あつらへ被ㇾ遊て、ともしたれば、壱《ひとつ》が十二ばかりに見へたりし。元來、四方共に「びいどろ」の板にて、後は「びいどろかゞみ」なる故、相(あひ)てらしてうつり合(あふ)故、いくらともなく見へしなり。吳服屋のみせのやうなりし。「千疊敷かけあんどん」と名をつけられし。

 

[やぶちゃん注:オランダ製製品の紹介で只野真葛の真骨頂という感じで、非常に興味深い。

「珍らしく書のとゞきたること」前記事に出た「ドニネウスコロイトフウク」のこと。

「鹽入になりし書」海水に浸かってしまった書物。以下、再生処理法が興味深い。

「桂川甫周」既出既注

「其書をかさねる時」前の、再生したものを金物で重ねて綴じる際、の意であろう。

「すわう染(ぞめ)」「蘇芳染め」。

「花金」花模様を金糸で縫い出したものであろう。

「むかふ菊」挿絵から菊のような花(実際に菊かどうかは不明。多分、違う)を双生で縫いとりしてある模様を指している。

「ひしと」しっかりと。

「うこん地」鬱金(うこん)色の地布。

「糊なし」和服のような糊張りがなされていないことを言っていよう。

「髮指」不詳。「怒髮指冠」から、「毛羽立たせた箇所」の謂いか。

「唐はな」西洋花卉。

「金糸は、糸に、のべがねを卷(まき)たる物にて」金染めではなく、糸にごく薄く延ばした金を巻きつけたもので。恐るべし!

「ケルトル」不詳。英語の「ケットル」では薬缶だしなぁ。

「角(かく)ふらすこ」三角フラスコのことであろう。

「らしや」「羅紗」。

「金あらき」図のキャプションでは、「粗き」の意で用いているが、ここのそれは「金」粉入りの「アラック」のことではないか。「阿刺吉」「あらき」(オランダ語:Arak:アラック)で、オランダの火酒の一種である。そうなると、「あらき」には強烈なアルコール度の「荒き」の意も被る。私は北原白秋の「邪宗門」の一節から、直ちにそう連想したのである。私の『北原白秋 邪宗門 正規表現版 パート「古酒」』の頭に出て、注した経験からである。

「ワ、九ツ十ヲばかりのことなりし」またしても、珍しく時制が確認出来る。真葛は宝暦十三年(一七六三年)生まれであるから、これは明和八年(一七七一年)か翌明和九年(明和九年は十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元)ということになる。

「六ツ年、ぬす人とらへしことよりて、尾張町、藥みせ、出(いだ)しことなど」既出

「はきとおぼへたり」「はっきりと覚えている」。

 しばらく有て、大名がたより、

「三所(みつどころ)もの」刀装(拵(こしらえ))用の金具で、小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)の三種を指す。小柄は刀の鞘に差し添える小刀(こがたな)の柄で、笄は刀の鞘に挟む箆(へら)状の金具、目貫は柄につける飾り金物である。目貫は太刀(たち)につ附属させ、小柄・笄は太刀を佩用する際に腰に差した腰刀(こしがたな:鞘巻(さやまき))に附属させるが、太刀にかわって打刀(うちがたな)が一般化した室町期には、打刀にも附属させるようになった。江戸初期までは目貫・笄の二所物で、小柄は含まれなかったが、やがて三所同作の揃い物が武家で尊重されるようになった。主に後藤家(後藤祐乗(ゆうじょう))の代々の工人によって造られたものが、将軍や大名家で貴ばれた。

「かけあんどん」「掛け行燈」。家の入り口や店先、又は、柱・廊下などに掛ける行灯。

「てもなきもの」たいして複雑なからくりではないことを言っているようである。

「千疊敷かけあんどん」所謂、三面鏡を閉じぎみにして物を写すと、無限に投影されているように見えるあれである。

 これらの物を、江戸で、見ている、満で八、九歳の少女真葛――何か、羨ましくも微笑ましくもなってくるではないか。

只野真葛 むかしばなし (32)

 

○父樣、御名のひろまりしは、廿四、五よりのことなり。三十にならせらるゝ頃は、はや、長崎・松前など、遠國より、高名をしたひて、「御弟子に」と、心ざして入來りし。

 吉雄幸作といひしヲランダ通詞、父樣、御懇意なりしが、其弟子のうち、三人まで、來りし人、有し。はじめは「幸てき」といひし外家、俗の時は「丹治」といひしが、外療は上手なりし。

 道樂ものにて、身の廻り、埒《らち》もなきてい、供袴などは、膝より下《しも》、なくなりたるなどを着て供(とも)せしに、大名の女隱居【小家なるべし。】[やぶちゃん注:原割註。]、癰《よう》などや、いでしなるべし、父樣、療治、御たのまれ被ㇾ成しが、外療下手と御覽有て、

「私、めしつれし供若黨、實は長崎より、このほど、參りし外家なり。巧者《かうしや》に候間、くるしからずば、御やう子、うかゞわせ、御りやうじ、仰付らるべくや。」

と仰上られしに、

「しからば。」

とて、急に、めされしとぞ。

 人がら・男ぶりなどは、よきものなりしが、袴をおろしてみた所が、貧乏神のごとくなり。

 赤面しながら出(いで)しに、

「兩側に、女中達、ならび居て、大迷惑仕(つかまつり)たり。」

と、かたりしを、おぼへたり。外りやうのこと、御おしみ被ㇾ成しに、不埒にて、身を持(もち)かね、御出入も、せざりし。

 次に來りしは樋口司馬なり。はじめは「のぼり」といひし。此人の事は、博多沖にて古今まれなる難風に逢(あひ)て、外家道具は申(まうす)におよばず、身のまわり、殘らず、海にはめて、命ばかりを、たすかり來りしなり。幸作より、こなたへ送りし『ドニネウスコロイトフウク』といふヲランダ本草、せううつしの繪入、厚四寸ばかりなる書と、「このものたのむ」という、そへ手紙をうけ取(とり)て來りしが、それも海に入(いり)て有しを、公儀御用物も、皆、海に入し故、浪、しづまりて後、さぐりものを、おろして、尋ねられしに、かゝりたる物は、みな、御取揚(おとりあげ)となる格なりとぞ。されど、たまたま、其書かゝりて上りしに、上表紙裏に、「工藤周庵樣吉雄幸作」といふ狀のうわ書、左字に、しみ付(つき)て有しを證據に、「のぼり」が手に入(いれ)しとなり。それを力に、袖ごひ同然のていにて、築地家敷まで、つきたりは、哀(あはれ)に珍らしきことなりし。鬼のやうなる男なれども、其頃は、海のあれしはなしをしては、淚、こぼして有し。

「船頭といふものは、殊の外、おごるものにて、舟のかゝり所へつけば、女郞など揚(あげ)て、金銀、をしまぬも、ことはり、まかりちがへば、命すてる覺悟なればなり。さて、西も東も北も南も、國も山も見へぬ所へ漕出(こぎいだ)しては、ちからのなきもの。」

といひし。

 博多浦(はかたのうら)にかゝりて、

「入日(いりひ)の樣子、あしき。」

とて、少しさわぎたりしが、朝、「にぢ」[やぶちゃん注:虹。]とか何とかを見て、いづれも覺悟したりとぞ。

 扨、だんだん、浪、あれて、船の中にたまられぬほどに成(なり)て、素人は、小舟にてのがれし、とぞ。船頭と名の付(つき)ては、舟を明(あく)ることは、ならぬものなり、とぞ。陸《くが》に上(あが)りて、沖をみやれば、大山のごとくなる浪のうへに、舟、上りて、一寸ばかりの人の、はたらく影、みゆるとおもへば、浪の下に入るさま、おそろしといふばかりもなし。覺悟といへば、皆、髮をみだす、とぞ。髮の結(ゆひ)ふしに物のかゝれば、それにて、命、うしなこと有(ある)故なり。

 荷、うち仕舞(しまひ)てのち、舟は、山の上へ上りたるやうに、たかく浪の成たる時、水に飛入(とびいる)とぞ。引(ひく)なみに入(いり)て、もしや、岡《をか[やぶちゃん注:ママ。]》に打上らるゝかと願(ねがふ)故なり。其(その)山のごとくなる浪、うちあぐる事、つねに水なき所一里ばかりへ、一息にくる時、仕合(しあはせ)よければ、木草のたぐひにとり付(つき)て、岡にとゞまりてたすかるとぞ。

 名なり「のぽり」は、高き所に上りて始終見たりしに、

「常に顏見あわす人々の、浪に打上られ、物に取付(とりつき)かねて、又、引(ひつ)たてられなどして、くるしむていを見れば、心もきえぎえと成て有し。」

と語(かたり)し。

「二度、打上(うちあげ)られて、物に取付かねて引(ひか)れ行(ゆき)し人、是(これ)かぎりならんとおもひしを、三度目に、からく、とゞまりて有し人も有(あり)、一度(ひとたび)打上られて引れ行てより、あがらぬも有(ある)などして、水練上手も下手もいらず、たゞ運次第のこと。」

ゝいひし。

「船中には、諸國の諸神諸佛をいはひ納(をさめ)てあれども、のがれぬ場にいたりては、せんかたなし。」

と、いひし。

 

[やぶちゃん注:この後半の樋口司(初名「のぽり」)の海難譚は、彼の直接話法をふんだんに加えて、実際の海嘯の恐るべき実写映像が髣髴して、すこぶる優れている。真葛の怪奇談好きの真骨頂と言える。

「父樣、御名のひろまりしは、廿四、五よりのことなり」工藤平助は享保一九(一七三四)年であるから、宝暦九、十年(一七五九年~一七六一年)頃。将軍は徳川家重。

「三十にならせらるゝ頃」宝暦一三(一七六三~一六七四)年。将軍は徳川家治。

「吉雄幸作」江戸中期のオランダ語通詞(幕府の公式通訳)で蘭方医であった吉雄耕牛(よしおこうぎゅう 享保九(一七二四)年~寛政一二(一八〇〇)年)。諱は永章、通称は定次郎、後に幸左衛門。幸作とも称した。耕牛は号。他に養浩斎など。吉雄家は、代々、オランダ通詞を務めた。長崎生まれ。幼い頃からオランダ語を学び、元文二(一七三七)年十四で稽古通詞となり、寛保二(一七四二)年に通詞、寛延元(一七四八)年には二十五歳で大通詞となった。年番通詞・江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府に随行)をたびたび務めた。通詞の仕事の傍ら、商館付きの医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学んだ。特に外科医であったバウエル(G.R.Bauer)や、ツンベリー(C.P.Thunberg:スウェーデン人でリンネの高弟)とは親交を結び、当時、日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。オランダ語・医術の他に、天文学・地理学・本草学なども修め、また、蘭学を志す者に、それを教授した。家塾である成秀館には、全国からの入門者が相い次ぎ、彼が創始した「吉雄流紅毛外科」は楢林鎮山の楢林流と双璧をなす「紅毛外科」(西洋医学)として広まった。吉雄邸の二階にはオランダから輸入された家具が配され、「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。庭園にもオランダ渡りの動植物が溢れ、長崎の名所となった。同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。吉雄邸を訪れ、或いは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽・大槻玄沢・三浦梅園・平賀源内・林子平・司馬江漢といった当時の一流の蘭学者は軒並み、耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば、門人は六百余名を数えたという。中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、二人が携わった「解体新書」に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。また、江戸に戻った玄沢は、自らの私塾「芝蘭堂」で江戸オランダ正月を開催した。若くして優れた才覚を発揮していたため、上記に示した人物などには、彼より年上の弟子が何人も存在する。寛政二(一七九〇)年に、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、五年間の蟄居処分を申し渡されたものの、復帰後は同八年には「蛮学指南役」を命ぜられている。享年七十七で、平戸町(現在の長崎市江戸町の一部)の自邸で病没した。訳書に「和蘭(紅毛)流膏藥方」・「正骨要訣」・「布斂吉黴瘡篇」・「因液發備」(耕牛の口述を没後に刊行したもの)など。通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。権之助の門人にはかの高野長英がいる(以上は当該ウィキに拠った)。日本庶民生活史料集成の中山栄子氏の補註によれば、『工藤家と交際があり、弟子達を江戸まで遣わして工藤平助に弟子入りを頼んでいる』とある。綜合蘭学の研究ではなく、外科医としての実務修得を主とする希望で入門する者も多かったであろう吉雄にとっては、こうした関係は膨れ上がる弟子を整理するのには是が非でも必要であったに違いない。さればこそ、必ずしも技量全般に優れ、人品も保証出来るというわけにはゆかないことが、真葛の記載から窺える。

「供袴」不詳。平助の往診の際の付き添い医師としての供の際に穿く袴の意か。

「なくなりたる」擦り切れて、つんつるてんになって、脛が剝き出しになっているのであろう。

「癰《よう》」皮膚にある隣接した多くの毛嚢が化膿したもの。首筋や背部に多く発生し、硬く赤く腫れ上り、痛みが激しい。

「外療下手と御覽有て」入門以後の様子を窺っていると、どうも外科術は下手らしいと推察なされたによって、修業のために敢えて。

「袴をおろしてみた所が」貴人の女隠居の定期往診なれば、新しい袴を拵えて穿かせてみたところが。

「博多沖にて古今まれなる難風に逢(あひ)て……」考えてみれば、長崎から江戸に向かうのには、陸路でしかも煩瑣な関所や改め所を何度も通過せねばならぬのを思うと、公に認められた者であれば、船路で行く方が行程は楽である。無論、ここにあるように、天候さえよければの話である。

「ドニネウスコロイトフウク」オランダ(フランドル)の医師で植物学者のレンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens/ラテン語名:レンベルトゥス・ドドネウス Rembertus Dodonaeus 一五一七年~一五八五年)が一五五四年に刊行した本草譜「クリュード・ベック」(Cruyde-boeck :「植物誌」。綴りを見ると「コロイドブウク」と発音しそうだ)。早稲田文学図書館公式サイト内の「ドドネウス草木譜」によれば(石井当光らになる文政年間の訳書の画像有り)、ドドネウスの原著(オランダ語版)は一六一八年版・一六四四年版が日本に伝わり、長く用いられた。野呂元丈・平賀源内・吉雄耕牛らが翻訳を試みたが、何れも抄訳であった。これに対し、本篇より後になるが、松平定信が石井当光・吉田正恭らに全訳を命じ、文政六(一八二三)年頃、一旦、完成したが、江戸の大火で大部分が失なわれ,現存のものは十分の一の分量に過ぎないとされる。訳者石井当光(寛保三(一七四三)年~?)は長崎通詞出身で、後に松平定信に仕えた、とある。

「せううつし」「正寫し」。

「そへ手紙」底本は「すへ手紙」だが、日本庶民生活史料集成で訂した。

「さぐりもの」潜り者或いは底引き網。

「御取揚(おとりあげ)となる格なり」「福岡藩のお召し上げとなる部類であった。」。南蛮渡来で、一般人には禁書であったり、持っていてはいけない治療具や薬物であったりと、そうした禁制レベルの対象物(「格」)だったからである。 

「其書」「ドニネウスコロイトフウク」のこと。

「袖ごひ」乞食。

「舟を明(あく)ること」舟を捨てること。

「結(ゆひ)ふし」「結ひ節」。

『名なり「のぽり」』「のぼり」がひらがなで文を誤読し易いので、「彼の名であるところの」という意味で附したものか。]

2021/08/02

只野真葛 むかしばなし (32)

 

〇父樣御弟子は元長・元察・元丹・元隨・其外御弟子と名の付(つき)し人數(にんず)しらねど、ことごとくは、かゝず。

 其内、元長は、ぢゞ樣のゆづり弟子。

 元察は、まことの御取たての御弟子なりし。一さかりは、新橋の門家敷(かどやしき)にりつぱに普請をして、目だちたる町醫なりしが、妻をなくし、火事に逢、子どもは、なし、老母、長命にて工面あしくや、末、をとろへて有し。

 元隨といひしは、仙臺者にて有しが、大人役(おとなやく)の人、無(なき)時にて、玄關しまりに中間(ちゆうげん)に寢(いね)たりしに、夜中、枕もとを、ひそかに、さがすもの有しを、其頃は、かごのもの、手人(てびと)なりし故、下人多かりしかば、ふと聞付て、

『たしかに。中元どもの、うちかきて、はした錢をさがしとなるべし。とらへて、「泥棒」とよばはりて、たわむれん。』

と、せしを、はづして、机の下へ、かくれたり。

「よし。おもしろし。」

と、

「ひた」

と、おさへて、

「どろぽう、どろぼう。」

と、聲たてしかば、にわかに、ふしたる男ども、五、六人、

「ばらばら」

と、かけおりる。家内、目をさまして、あかしもちいでゝ見たれば、まことの盜人にて有し。一向、平氣にて、かゝりし故、ことなく、組(くみ)とめしなり。脇坂の家中の人足にて、よほど、ことかうじたる盜人(ぬすびと)なりしとぞ。上へ達して、番人など付(つけ)て二夜ばかり有しが、脇坂へわたしたりし。

「是れを組(くみ)とめし弟子は、いかなる人か、見たきもの。」

と、いひしとぞ【長庵二、ワ、六の年なりし。】[やぶちゃん注:底本に以上は『原頭註』とある。]。父樣にも、餘りむかふみずの仕方と御しかり被ㇾ成しに、

「はじめより泥棒と存じて、いたせしことには、あらず。『内のものゝうちならん』と心にきわめし故、たわむれにと、存(ぞんじ)たること。」

とて、みづから、おそれて有りしなり。仕合(しあはせ)に、刄物、持(もた)ざりしことなり。外(ほか)にて、脇差をぬすみ、とぎにやりて、置(おき)し、となり。

「それなどあらば、おめおめと、からめられじ。」

といひしを聞て、猶、おそろしくなりしとぞ。かやうのたぐひ、有ことなり。

 むかふ、築地、桂川の弟子に「甫(ほ)ちん」といひし人は名代(なだい)の「かべゑ」なり【「おどけゑ」を、よく書(かき)て、名を取(とり)し人。】[やぶちゃん注:底本に以上は『原頭註』とある。]。近目(ちかめ)にて有しが、

「桂川の門前通(もんぜんどほり)のまがり角へ、おひおどしが出る、出る。」

と、大評判のこと、有し。甫ちん、夜更(よふけ)て外より歸りしが、折ふし、雨ふり、しづかなる夜、小提燈(こぢやうちん)をさげて、門前ちかくへ來りし時、二人づれの男、ぬき身をさげて居(をり)たりしを、ちか目にて、はやく見付(みつけ)ず、一間ばかり、ちかよりし時、ぬき身を、

「ひらり」

と、鼻の先へだしてみせしを、

『内の者どもが、此頃の評判のまねをして、ちか目を笑(わらは)んと、はかりしこと。』

と心得て、

「おつと、ふるし、ふるし。」

とて、小提燈を、鼻の先へ、さし出(いだ)したれば、二人とも、にげうせたり。

「さてこそ。勝《かち》を、とりし。うれしや。この雨ふりに夜中、とんだあそびをすること。」

と、心おかしくおもひながら、うちに入(いり)て見しに、寢しづまりて、みな、うちの人は、そろひて有し、とぞ。

『さては。今のは誠(まこと)のおひをどしか。』

と思ひしかば、夜着《よぎ》かづくに、膝、ふるひし、といふ、はなしなり。

 

[やぶちゃん注:「新橋の門家敷」江戸切絵図を見ると、仙台藩上屋敷の東北隣りの龍野藩上屋敷の東北の、汐留橋(蓬萊橋)の南詰に「三角屋敷」と呼ぶ町屋地がある。ここであろう。「古地図 with MapFan」で確認されたい(現在の新橋駅の東直近である)。

「大人役(おとなやく)の人」正式に医師助手として認められていた一人前の者のことか。

「玄關しまり」玄関の用心の見張り役のことであろう。

「中間(ちゆうげん)」長屋門の中間部屋か。

「かごのもの、手人(てびと)なりし故」往診などに用いる駕籠舁き人足さえも、専従の手下として雇っていたほどであったから、の意か。

『たしかに。中元どもの、うちかきて、はした錢をさがしとなるべし。とらへて、「泥棒」とよばはりて、たわむれん。』「きっとこうだぞ。――中間どもが、中間部屋の中を手探りして、部屋に落ちている鐚銭(びたせん)なんぞをあら捜ししているのに違いない。とっ捕まえて、『泥棒!』と呼ばわって、戯れてやろうじゃないか!」。

「はづして」その相手の体の一部を元随が摑んだのだが、そやつがそれを外して。

「脇坂」当時の実務担当であった幕府の目付の姓か。決裁は若年寄であるが、若年寄一覧には脇坂姓はない。私邸とは言え、藩医の屋敷に侵入したのであるから、仙台藩が処断していいわけだが、仙台藩の上位の家臣の中に脇坂姓はないようである。

「ワ、六の年なりし」珍しく時制が確認出来る。真葛は宝暦十三年(一七六三年)生まれであるから、これは明和五年(一七六八年)ということになる。

「むかふ、築地、桂川」只野の私邸の向いの築地の桂川(かつらがわ)という医師、の意であろう。この時はまだ、十七歳ほどであるが、後の医師で蘭学者として知られる第四代当主桂川甫周(かつらがわほしゅう 宝暦元(一七五一)年~文化六(一八〇九)年)がいる(彼の弟は蘭学者で戯作者でもあった森島中良である)。彼は第三代当主桂川甫三の長男で、この時制内の当主は甫三である。桂川家は第六代将軍徳川家宣の侍医を務めた桂川甫筑(本名は森島邦教)以来、代々、将軍家に仕えた幕府奥医師であり、特に外科の最高の地位である法眼を務め、そのため、蘭学書を自由に読むことが許されていた。甫筑は大和国山辺郡蟹幡に生まれ、平戸藩医嵐山甫安にオランダ外科を学び、甫安より桂川の姓を受け、甲府藩主徳川綱豊(後の家宣)の侍医を経て、幕府医官から法眼に上り詰めた。ここでの当主桂川甫三は前野良沢・杉田玄白と友人であり、「解体新書」は、実に、この甫三の推挙により、将軍に内献されている。息子の桂川甫周は、二十一歳の時、その「解体新書」の翻訳作業に参加するとともに、後にツンベルクについて外科術を学び、やはり、江戸幕府の医官となった。桂川の屋敷は現在の東京都中央区築地一丁目十番地(グーグル・マップ・データ)内にあったから、まさに只野の屋敷の向いに当たる(位置特定はサイト「Tripadvisor」のこちらの中央区教育委員会の解説版画像に拠った)。

「かべゑ」「壁繪」で寺社などの壁画を描くことか。

「おどけゑ」「戯(おど)け繪」か。滑稽な絵か。

「近目(ちかめ)」近視。

「おひおどし」「追ひ脅し」で「追ひ剝ぎ」に同じ。通行人を脅し、金品や衣類を奪い取ること。

「一間」約一・八二メートル。

「ふるし。」「ちゃらかしてやることにしちゃあ、いかにも旧式だぜ。」。

「二人とも、にげうせたり」お「追ひ脅し」の二人は、とんだ手練れの者と勘違いして、恐れて、逸足出して、逆に逃げてしまったのである。この話、実に面白い!]

只野真葛 むかしばなし (31)

 

 色々もの入(いり)して、御世話被ㇾ成しが、主なしにて藥もうれず、その店はつぶして、かすかに九尺口にしつらひて、繪草紙・たばこ入(いれ)など、うりて、お秀は、ゑびすやの仕立物などして、すごしてありし。

 娘子はよき養子の口有てつかわすといふことなりしを、誠かと思ひしに、實は深川のむすめにうりしとなり。其時にげてお秀が所に來りしが、いかにかくれて有りしか、段々とわりもつきて後、切どほしの右近樣の奧へ御奉公に上(あが)りてより、今もおなじ所につとめて有。

 順治は、どうしても、惡黨にて、筋あしきことばかりして、終に、こむそう寺へ入しと聞しが、後、しらず。半右衞門も前髮有時、養子にもらひたしといひし人有しが、侍をきらいて、ならず、町人にて有りしなり。

 末子とら次郞は、門ならびのほてい屋といふ糸屋、其頃は、しごく富家にて有し故、たのもしくおもわれしを、不仕合のむかひしことは是非もなし、「鍋島樣」と、だまされて、用金を出し、返濟なき故、つぶれて、みせも人手に渡し、むすこ夫婦は、かすかの糸屋となり、親は鍋島より、扶持《ふち》給金を被ㇾ下、一生は、樂隱居のごとく、御長屋内にひとりずみして有りしが、とら次郞、幼年より、おもき恩をうけし人故、はなれかね、其隱居につきて、かんがくし、廿五、六まで居たりしが、隱居死後、かへつて見た所が、世わたりのわざ、何もしらず、大ぶら付(つき)ものなりしが、いかゞなりしや。

 

[やぶちゃん注:真葛のそれは、話が突然飛んで、よく意味が判らないところが多い。これも「お秀」という名からは、先の石井家に嫁いだ「お秀」としか読めない。とすると、お秀の夫石井宇右衛門の親は薬種屋を営んでいたものが、親が亡くなって、こうした顚末になったということになるのか。

「深川のむすめにうりし」深川芸者として売ったということであろう。

「わりもつきて」深川芸者置屋からの逃げた結果のごたごたに仲裁が入ったものか。

「切どほしの右近樣」不詳。「奥」への「御奉公」とあるから、大身の旗本か大名家か。

「順治」石井宇右衛門の先妻の長子。

『「鍋島樣」と、だまされて』「大身の鍋島藩だから、返済は安心してよい」と「だまされて」、金を都合したが、結局、返済されず、ということであろう。それを懐柔するために、親だけは、何がしかの扶持を与え、鍋島藩邸の使用人の長屋で楽隠居をさせたということか。

「かんがく」「勸學」。

「何もしらず、大ぶら付(つき)もの」世間知らずの、度を越した遊び人或いは不良か。]

2021/06/27

只野真葛 むかしばなし (30)

 

○鈴木常八、工藤家へ出入しそめしは、尾張町藥屋みせの、見付(みつけ)の二枚ふすま、金地に綠靑《ろくせう》にて、松を下にベたと書(かき)、上に浪の繪、父樣、御このみ被ㇾ成しに、いづくのか町繪師にあつらへてかゝせしに、下手繪(へたゑ)にて、心いき、あしく、御氣にいらず、其時、藤九郞世話にて、近所に狩野家《かのけ》の繪を書(かく)大家《や》有(あり)とて、つれて來りしは、廿二にて有し。色白きこと、雪のごとくなる男にて有しが、後(のち)は、あの通(とほり)、黑ぼうに、なりたりし。見る前にて、金ふすまを引(ひき)やぶりて、別にかゝせしを、書(かき)しまいて、則(すなはち)、

「さむけ、する。」

とて、臥したりし。藥など、給(たまひ)させしを、おぼしたり。

「人の惡口に臆して、さむけせしならん。」

と、いひしが、風(かぜ)引(ひき)たるを、急の事故(ゆゑ)、おして、來たりしなり。

 常八が書(かき)しは、御氣に入(いり)て有し。

 「五人組」とやら、

「ふるまふ。」

とて、まち人どもを、客座敷へよびしも、おぼしたりし。

[やぶちゃん注:「見付(みつけ)」「みつき」でもよい。丁度、正面に見えるところ。

「心いき、あしく」「心意氣、惡しく」。筆勢が極めて悪く。

「藤九郞」工藤家の料理人森井藤九郎。既出。

「狩野家《かのけ》の繪を書(かく)大家《や》」狩野(かのう)派の絵を学んで描くと言う大家(たいか)。しかし、「たいか」を「おほや」とは読まないから、この「や」のルビは不審である。

「黑ぼう」「黑坊(くろ(ん)ばう)」。

「見る前にて、金ふすまを引(ひき)やぶりて」工藤の爺さまが主語。

「おぼしたり」ように覚えている。主語は筆者真葛。

「人の惡口に臆して」このシチュエーションで台詞の意味不明。或いは、次の「五人組」とかいう知人の絵師仲間が、屋敷外で、四人、待っていて、そいつらが、「きっと私の絵の悪口を言っているだろう。それに臆して武者震いしたんだろう。」といったニュアンスか?

『「五人組」とやら、』「ふるまふ。」「とて、まち人どもを、客座敷へよびしも、おぼしたりし」ここも何か前振りが欠損しているのか、意味がうまくとれない。前の設定の常八の親友のその「五人組」の仲間らを、工藤の爺様が、「絵が上手く描けた褒美に、その連中にも振舞いをしてやろう。」と客座敷に上げたのを、覚えている、と真葛が言ったものか?]

2021/05/28

只野真葛 むかしばなし (29)

 

 工藤のぢゞ樣は、獅山樣、御隱居に付(つき)、めし出(いだ)されし。桑原ぢゞ樣は、○忠山樣御代のかたの御奉藥なり。されどこの殿は、四十そこらの御よはひにて、かくれさせ給ひし故、獅山樣御かくれ後、餘り、ほどもなかりしなり。父樣は徹山樣御代より御つとめ被ㇾ成し。ぢゞ樣、○獅山樣御看病づかれがもとゝ成(なり)て、はてられしに、とゝ樣御つとめがけは、御孫の御代と成しをもて、年數、考らるべし。

○獅山樣は御食味を分(わけ)らるゝこと、妙なる殿にて有しとぞ。御茶さし上るに、一口めし上りて、是はいづかたの井より、くみし水、といふ事を、たしかに、しらせられしとなり。ひぢり坂のもとに燒餠を多年賣るぢゞ有しとぞ。いづちの御通行の時にや、獅山樣、御覽じ付て、歸らせられてより、

「ひぢり坂のもとなるぢゞに、餠、やかせよ。」

とて、御臺所より、餡《あん》を、ねらせ、皮を、とゝのへさせて、役人、あまた見分して、其ぢゞに餠をやかせてさし上しに、

「よくやきし。」

とて、御ほうび、おほく賜りしとぞ。さて後、折々、御好(おこのみ)にて、ぢゞがもとに被ㇾ仰しに、ある時、もて來りし餠を一目見給ひて、

「是は、例のぢゞが燒たるには、あらじ。」

とて、御手、つかざりしとぞ。御側の者、はしり行て、事のよしをたゞすに、「ぢゞがやきしにたがはぬ」よしを申上しかば、

「さあらば、鍋のたがひたるぞ。元の鍋にて、やかせよ。」

と被ㇾ仰し故、ぢゞがもとに行て、そのよしをとふに、

「元の鍋、ちいさくて、餠やくには、ゆかぬ故、『大きなるを、ほしゝ』と、ねがひをりしかども、力およばで有りしを、此ほど、御ほうびにほこりて、大鍋あつらへいでこし故、古鍋は行通(ゆきどほり)の地金買《ぢがねかい[やぶちゃん注:ママ。]》に賣りてありしが、たづぬべきやうも、なし。」

とて、なげきゐたりしとぞ。

 そのよしを申上しかば、殿、

「鍋肌のよさに、申付(まうしつけ)しことぞ。」

と被ㇾ仰て、後、さして、御沙汰なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:この「○」であるが、節約のために擡頭(たいとう:敬意を表わすべき人名や特別な語の直前で改行し、その語をほかの行の先頭より一文字から数文字高いところから書き始めること)の代わりに使っていることが頭の部分で判る。

「獅山樣」複数回既出既注であるが、少し休んだので、再掲しておく。仙台藩第五代藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指す(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。当該ウィキはこちら

「忠山樣」同第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。当該ウィキはこちら

「徹山樣」同第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のそれ。戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら因みに、本書「むかしばなし」は文化八(一八一一)年から翌年春に成稿されたもの。

「たしかに、しらせられし」確実に言い当てられた。

「ひぢり坂」「聖坂」。現在の東京都港区三田四丁目にある聖坂(グーグル・マップ・データ)。

「行通の地金買」たまたま通りがかった金物買い。]

2021/04/21

只野真葛 むかしばなし (28)

 

「母樣の歌は、三島などは、殊に、ほめたりし。」

と、父樣被ㇾ仰し。書とめなども、なし。

○「春月おぼろなり」といふ題にて、

  名殘なく曇なはてそ月影のかすむは春のならへなりとも

といふ歌ばかり、いかがしてか、今も、おぼへたり。

[やぶちゃん注:「三島」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家としても知られた三島自寛(享保一二(一七二七)年~文化九(一八一二)年)。本名は景雄。既出既注。]

2021/04/08

只野真葛 むかしばなし (27)

 

 忠山樣、御國にてよほどの御不例のこと有りしに、ぢゞ樣、

「上(あげ)て見たき、藥法、有(あり)。」

とて、願の上、御下被ㇾ成、藥、上られしに、しるし有て御快氣被ㇾ遊しより、倍の御加增にて、四百石になりし。是は運のむきしなり。

 それより御奉藥にて、年々、御上下(おじやうげ)の御供被ㇾ成しなり。御かくれ後は、御免有て、また、觀信院樣御下りの時分、奧の御奉藥に被仰付し。十年餘り御つとめ被ㇾ成しに、永井養庵といふ山師醫、同役にいでゝより、奧中を自由にかきまわし、ぢゞ樣を、むたいにいぢめしにより、つとめ、なりかね、隱居ねがひいだされしに、ことなくすみて、築地に御普請有て、御《おん》うつり被ㇾ成し。月に兩三度、御機嫌伺にあがらせられし。

 七十餘にて御かくれ被ㇾ成し。ワ、十三の時なりし。源四郞、二(ふたつ)にて有し。御引込ぎわは、おもはしからねど、御一代、仕合(しあはせ)よく、榮花なる御人にて有し。面(おも)やはらかに、笑み、はなさず、人柄よく、少しも、にく氣(げ)なき御人なりし。隱居後は庭の世話をたのしみ、手づから、掃除被ㇾ成て有し。

 御かくれの頃は六月十一日なりし。其頃迄は早咲の朝顏はなく、六月末、七月にかゝりて花のさくものなりしを、手づから、垣を、ゆわせられしに、花のさかぬ間に御過(おすぎ)被ㇾ成しを、七月、初立日(しよたちび)のあたり、御ばゞ樣の、花に付(つけ)て母樣のもとへ、御文、有し。哀なることにて有つらんを、そのほどは、何の心もなくて見もせざりし。

[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。

「御奉藥」「御奉藥方」。御側医師の内で薬の処方使用を許されている者。

「御上下」参勤交代の行き帰り。大名家が二年毎に江戸に参覲し、一年江戸に滞在して自分の領地へ引き上げる交代制度(寛永一二(一六三五)年に第三代徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものであり、則ち、それは軍事演習の行軍なのであった)。しかも、参覲から下がった時点から二年毎であるため、結果として一年おきに江戸と国元を莫大な費用を用いて行き来せねばならなかったのである。

「觀信院」「信」は「觀」の誤字。宗村の次男で第七代藩主の伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)の正室観心院(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。関白近衛内前(うちさき:後陽成天皇の男系六世子孫)の養女で公卿広幡長忠の娘。御存じの通り、大名の正室と世継は江戸に常住しなくてはならなかった。

「永井養庵」不詳。

「山師醫」卑称としての「偽医者」「藪医者」の意。

「没後の最初の月命日。初月忌(しょがっき)。]

2021/03/30

只野真葛 むかしばなし (27)

 

昔ばなし 二

 

 桑原のぢゞ樣は、何人の種(たね)なるや、しれず。

 むかし、壱人の男、木曾路を江戶のかたへおもむけて下りしに、六ツばかりのおのこ壱人つれて有しが、ふと、

「風のこゝち。」

とて、ふしたりしが、次第におもりて、五、六日のうちに、死す。

「懷中などに、もし、所書(ところがき)やある。」

と、求めしかど、いづちの人といふことも、しれず。

 小兒は、何のわきまへもなく、せんかたなくて、骸(から)をば、近きほとりにおさめ、童子をば、寺にあげて有しとぞ。

 さて、二年ばかりへて、橘隆庵(たちばなりゆうあん)樣、何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有しに、寺にやどられしとぞ。

 八(やつ)ばかりの子、茶の給仕に出(いで)たるが、目にとまりて、愛らしくおもわれ候故、

「何人(なんぴと)の子なるや。」

と、たづねられしに、

「是は、ふしぎなることなり。かやうかやうの次第なり。」

と、和尙のかたられしを聞て、

「さあらば、我に、此兒、給り候へ。さるべき緣にや、いとふびんにて、ほしく候。」

と、いわれしを、

「ともかくも。」

と、まかせし故、つれて、くだられしとぞ。

 御子息の相手にしておかれしに、其兒、少々、人と、ことなる生(しやう)にて、さらに、かけはしり、くるひ、ほこること、なく、「大學」、少々をしへられしを、夜晝、書にのみむかひて有しとぞ。

 無理によび出して、相手にせらるゝを、きらいて、物に、かくれかくれしたりしを、いつも尋(たづぬ)ることなりしに、ある日、いかにたづねても、見つけぬこと、有。

「家中におらぬことは、あらじ。」

とて、くまぐま、のこりなく尋(たづね)しかば、風呂桶に入(いり)て、よく蓋《ふた》をして、書を見て有しとぞ。

 其よしを、隆庵樣へ申上(まうしあげ)しかば、

「さほど書物好(しよもつずき)なら、今より、相手をやめて、書を、よませよ。」

と、ゆるされし時のうれしさ、いふばかりなかりしとぞ。

 それより、ひしと、手習・書物にかゝりて有(あり)しほどに、物を引(ひき)のぶる樣に、上達をせしとぞ。

 これ、桑原のぢゞ樣なり。

 さて、後(のち)、忠山樣御世(みよ)に橘家(たちばなけ)へ被ㇾ仰しは、

「其(その)門弟の内、しかるべき人あらば、めしかゝへたし。」

と、有し時、殊に祕藏弟子なりし故、

「此もの、しかるべき人。」

とて、相出(あひいだ)されしとぞ。

 さる故に、橘家よりは、ながく、御親類同前に被ㇾ成しことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣」只野真葛の母方の祖父で仙台藩医であった桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号。読みは推定)。彼は元文五(一七四〇)年、数え四十一の時、二百石で仙台藩に召し抱えられており、当時の仙台藩藩主は第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)である(元禄一六(一七〇三)年に養父綱村が隠居に追い込まれて藩主就任。寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲って隠居)。

「橘隆庵」江戸幕府奥医であった二代目橘隆庵元孝(げんこう)。中村忠行氏の論文「桑原やよ子の『宇津保物語』研究」PDF)の「🉂」で本条にも触れながら、以下のようにある(一部に新字が混じる漢字表記はママで、太字は底本では傍点「ヽ」である)。

   《引用開始》

 やよ子は、長じて隆朝を夫に迎へた。隆朝については、『伊達世臣家譜』巻十七「署師之部」に、次の様な傳を掲げてゐる。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

親斯子隆朝如璋、學醫術於橘宗仙院某、自此世爲師家。宗仙院請令如璋仕于當家。因元文五年四月、獅山公之末、給廩米二百石始以醫擧、是月爲番醫。寛保元年六月進近習、三年六月屬世子【忠山公】。延享三年七月、忠山公之初、進奉藥。是年八月、稱述先是公在病床時、奉悃誠[やぶちゃん注:「こんせい」。真心を込めること。]藥應疾、加賜廩米二百石。於是爲今之禄。隠公亦賞賜銀二十枚、及越後縮二端。寶曆六年、忠山公捐館[やぶちゃん注:「えんくわん」薨去。]後、免奉藥爲番醫、相繼住于江戸。九年九月、今公之初、進于近習醫、屬于今夫人。如璋之子養純・綺明、遊倅命役夫之洽療。

 これは、謂はば、公的な履歴書とでも言ふべきものであるが、『むかしばなし』には、その生ひ立ちについて、又次の様な秘話を傳へてゐる。――すなはち、如璋は、もともと、木曽路で斃死した氏姓不明の旅人の連れてゐた子供で、さる寺に預けられてゐたのを、橘隆庵に拾はれた薄幸兒であつた。しかるに、幼時から讀書好きで、風呂桶に隠れてまでも讀書に耽る有様であつたのを見込まれ、その弟子に加へられ、後遂に伊達家に推擧されるに至つたものであると。眞葛が、『むかしばなし』を草したのは、その實家たる工藤家と桑原家(二代目及び三代目隆朝)との關係が、極めて險悪となつてから後のことである。從つて、其處には、多分に毒を含んだ要素が窺はれるけれども、恐らくは、事實を傳へるものであらう。「ぎやうぎあくまでよく、めぐみふかく、召使はるる人ども、よく御せわ被成しなり」と、眞葛からも評された隆朝如璋の爲人[やぶちゃん注:「ひととなり」。]は、さうした數奇な運兪が、却つて幸ひしたものと想像される。

 この隆朝の資質を、いちはやく見出した橘隆庵とは、二代目の隆庵元孝を指す。元來、この橘家は、藥師寺次郞左衛門公義の末葉であつて、もと本多能登守の家臣であつたが、元常の代に至つて幕醫となり、代々隆庵・宗仙院を號し、法眼・法印等に叙せられる者を輩出した。『寛政重脩諸家譜』によれば、元孝は、元禄五年十月、初めて常憲院(徳川綱吉[やぶちゃん注:二行割注。])に謁し、寶永三年二月出仕してから、漸次累進して奥醫となり、 法眼・法印に叙せられ、寛保元年七月には、城内での乗輿を許され、致仕後も、時々西城に登つて、將軍の起居を伺ふへき沙汰を蒙つた程、信望の厚かつ允た名醫であつた。

 隆朝が、この名醫の「殊更に秘蔵弟子」であつたことは、眞葛の記すところであるが、隆庵も亦この弟子を厚遇した様である。すなはち、隆朝が桑原家の婿養子に迎へられた際か、仕官する際であつたかは詳らかでないが、隆庵は隆朝を養子分とし、その後見をしてやつたらしい形跡がある。眞葛は、ただ「さる故に(筆者註―橘家に養はれた故に[やぶちゃん注:二行割注。])たちばな家よりは、ながく御親類同前に被成しことなり」(『むかしばなし』。巻二[やぶちゃん注:二行割注。])と記してゐるだけであるが、安政二年、眞山杢左衛門が、佐々城朴安に興へた前掲「桑原氏系譜賂略」には、「橘家の爲入夫被召出」とある。「爲入夫」を、文字の儘に解釋すれば、女婿となつたことになるが、それでは眞葛の記述と符合しないから、恐らくは形式的なものであつたらう。蓋し、杢左衛門は、只野伊賀守行義の二男で、眞山家の養子となつた人。眞葛は、行義の後室であるから、杢左衛門にとつては繼母となる訣であり、從つて、系圖に記すところも、亦信憑するに足るものと、考へられるからである。隆朝の名は、恐らくこの時に與へられたものに相違なく、隆庵のそれにあやかるものであらうことは贅するまでもない。

   《引用終了》

「何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有し」幕府奥医であるのに、木曾路となると、私には漢方本草の採取ぐらいしか思い浮かばぬ。

「忠山樣」仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号(戒名「政德院殿忠山淨信大居士」)。]

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