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カテゴリー「只野真葛」の91件の記事

2022/08/08

只野真葛 むかしばなし (56)

 

一、深井半左衞門といふ鑓(やり)つかい、澁川と引(ひき)はりて、代々、浪人にて、師範して世をへし人なり。同じ築地に住居せし故、稽古の音など聞(きき)たりし。ワ、おぼゑし半左衞門が父なるべし。鑓、つかふ事のみ、心入(こころいれ)て、芝居といふもの、見ざりしとぞ。

 さるを、ふと、外にて、昔の名人海老藏と同座せし事、有しとぞ。其時、半左衞門、云(いはく)、

「さて、私事(わたくしこと)は、家業にかまけて、四拾に及ぶまで、芝居、見し事、なし。今夜、幸ひ、音に聞えし其元(そこもと)に逢(あひ)しかば、狂言見しにも增(まさ)りたり。」

と、いひしを、海老藏、深く感じ、

「其業(わざ)を專(もつぱら)につとめて、芝居見られぬは、潔し。いで、左樣ならば、「矢の根」、五郞の『せりだし』、上障子(うへしやうじ)の内の『にらみ』を、見せ申(まをす)べし。」

とて、其形(かた)をして見せしに、半左衞門、橫手を打(うつ)て感じ、

「實(まこと)、名人と呼(よば)るゝも、うべなり。其身内、少しも、すきなし。」

と、ほめしとぞ。

「今一ツ、何ぞ。」

と、このみしかば、

「然(しから)ば、『俱梨伽羅不動(くりからふどう)のにらみ』。」

とて、仕(しまはし)て見せしに、

「是は。すきだらけなり。」

と、いはれ、

「こふか、こふか。」

と、樣々、工夫して身振せしが、其座にては、出來ざりしとぞ。

 それより、每夜、狂言しまひては、半左衞門が方へ來り、『不動のにら見』して、直(なほ)しもらひしとぞ。【おもふに、「くりから不動」は、首ばかりだしてにらむ故、からだは拔(ぬけ)ても、よさそうなものなり。[やぶちゃん注:底本に「原頭註」とある。]】

「一昔の人は、きこん、別なり。」

と、父樣、御はなしなり。

 半左衞門は海老藏と懇意に成(なり)てより、

「外の役者、みるに及ばず。」

とて、一生、芝居は見ざりしとぞ。

[やぶちゃん注:「深井半左衞門」ある古本屋のデータで、文政一一(一八二八)年刊の「初目録業理教口授秘書 寶蔵院流槍術礒野派」という文書に、「深井半左衛門正光」の名を見つけた。

「澁川」渋川伴五郎義方。前回分を参照されたい。

「海老藏」いろいろ調べたが、何代目かは不詳。本時制が、渋川は承応三(一六五四)年生まれで、宝永元(一七〇四)年に没しており、この深井はそれと張り合ったというのだから、時代が相応に絞れるのであるが、「海老藏」を名乗った時期がしっくりくる人物がいない。さらに、次注した「矢の根」は以下の通り、享保一四(一七二九)年よりも前には存在しないわけで、或いは、真葛の記憶の錯誤があるか。

「矢の根」歌舞伎狂言。時代物。一幕。「歌舞伎十八番」の一つ。二世市川団十郎の創演で、享保一四(一七二九)年に「扇恵方曾我 (すえひろえほうそが)」の一番目として上演され、大当りをとった。原拠は、幸若舞曲及び土佐浄瑠璃の「和田酒盛」。その後、中絶したが、九世団十郎によって復活され、今日の形式となった。矢の根を磨いていた曾我五郎が、夢で兄十郎の危難を告げられ、工藤祐経の館へはせ向うという筋で、荒事の様式美と、伴奏の豪快な三味線の「大薩摩(おおざつま)節」が、よく調和し、大らかで夢幻的な一幕となっている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。私は歌舞伎嫌いなので、これ以上のシーンの説明は出来ない。Mimosanoki氏のYouTubeの「矢の根」の冒頭であろう。

「俱梨伽羅不動(くりからふどう)のにらみ」不詳。]

只野真葛 むかしばなし (55)

 

一、四郞左衞門樣師の澁川伴五郞は、男子兩人有しが、微力(びりき)にて、家業にうとく、昨今の弟子にも、自由に取(とり)まわさるゝ樣なりしとぞ。諸門弟も、下々、笑(わらひ)そしりて有(あり)しとぞ。

 其子共、十四、十六ともいふ年の頃、伴五郞に至て懇意の友、來り、つくづくいけんせしは、

「扨、其許(そこもと)、如何思わるゝや。子息達、此如(かくのごと)く、かよわき生(しやう)にては、家業、繼(つぎ)がたかるべし。門弟の内より見ぬきて、業(わざ)をつがせ、子達は餘(ほか)の業を學ばせらるゝぞ、よからめ。」

と云出(いひいで)しに、兩人の子も其座に有しとぞ。

 伴五郞、さしうつむき、

「困り入(いり)たる事。」

とばかり、こたへて、すゝめし事には從ざりしとなり。

 諌めし人、いきどほりて、

「お爲《ため》と存(ぞんず)ればこそ、申出(まをしいで)し事なり。御用(おんもち)ひ、無(なき)に於ては、せんもなし。重(かさね)て御目にかゝり難し。かほど、かよわき子達を、さも有者(あるもの)と思わるゝは、親心とは申(まをし)ながら、氣の毒の事。」

とて、立(たち)たりしとぞ。

 此諫(いさめ)を聞(きき)て、兩人の子供は、胸も摧くるばかりにて、落淚して有しとぞ。

 それより、兩人いひ合せて、門人歸りし跡にて、晝夜、怠らず、やわら取(とり)て有しとぞ。夜も一時づゝ、外(ほか)は寢ざりしに、半年ほど、左樣に精出(せいいだ)して稽古したれば、弟の方は、餘程、上りしが、兄はうごかぬ事なりし、となり。

 それにも屈せず、殊更、骨折(ほねをり)て有(あり)しかば、三年を經て、一度に上達し、兄の方、格別に强く成(あり)しとぞ。

 はじめ、門人ども、壱人(ひとり)も勝(かつ)事、能わぬほどに成たり。

 ワ、おぼへて、伴五郞とて來りし人は、此兄なり。小男にて有し。

 父伴五郞、增上寺山門の明(あき)たる時、見物に登りしが、人込(ひとごみ)の上、女の見物、多く、

「めぐるに、はかどらぬ。」

とて、欄檻(らんくわん)を渡りて有しが、

「それも面倒。」

とて、下に人のすきたるを見て、とび下りしを、

「それ、とんだ人が有(あり)、誰だ、誰だ。」

と、人々、いふ。

「柔(やは)ら取(とり)の伴五郞よ、伴五郞よ。」

と、いひ合(あひ)しを、或禪憎、見て居(ゐ)たりしが、

「我も、とばれそふなもの。」

とて、行(ゆき)てみて、たゞ歸りしが、又の年も來りて見しが、

「未だし。」

とて、歸(かへり)しとなり。

 三年めには、山門にのぼりて、欄檻を渡り、伴五郞がせし如く、人の中へとび下(お)りて有し、とぞ。

 扨(さて)、いふ樣(やう)、

「伴五郞は柔(やはら)の術を極(きはめ)し故、山門より、とび、我は座禪をして、心を納(をさめ)し故、同じく、とぶ事を得たり。三年已前、伴五郞に及ざりしを、くやしく思ひし故、わざわざ年每(としごと)に爰(ここ)にいたりて試(こころみ)しなり。今、飛(とぶ)事を得て、おもゑ、晴(はれ)たり。」

とて、去(さり)しとぞ【此はなしは、今の四郞左衞門樣、よく御存じなりし。ワは、少しうろおぼいなり。[やぶちゃん注:底本に「原頭註」とある。]】。

[やぶちゃん注:いちいち指摘はしないが、この条、歴史的仮名遣の誤りや誤字が特異的に多い。

「四郞左衞門」先に何度も出た柔術に秀でた平助の長兄、真葛の伯父。

「澁川伴五郞」渋川伴五郎義方。「只野真葛 むかしばなし (21)」の私の注の冒頭「澁川流のやはら」参照。

「おもゑ」年来の悔しい「思ひ」。]

2022/05/06

只野真葛 むかしばなし (54) / 毛虫の変化(へんげ)

 

一、おぢ四郞左衞門樣は、毛蟲、殊の外、御きらいなりし。

「此道に拔身(ぬきみ)を持(もち)て待(まつ)てゐるといふ所より、毛むしの巢の有(ある)下と聞(きき)し方、行難(ゆきがた)し。」

と被ㇾ仰し。

「松に付(つき)たる毛蟲も、所によりては、沙噀《なまこ》に、かへるものなり。」

とぞ。

 同じをぢ樣の御はなしなり。僞(いつはり)など、仰られぬ人なり。

 旅行被ㇾ成しに【紀州なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、海邊の松原、けしきよかりし故、御休(おやすみ)有しに【夏秋の間なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、水にのぞめる松の枝より、毛蟲のさがりて、水上(すいじやう)におちつきて、しばし、うごめくと、ちいさく成(なり)て、浪に引れて、ながれ行(ゆく)を、御嫌ひの事故、とく見つけられて、あやしく思召(おぼしめし)、所の者の、行(ゆき)かふに、御とへ被ㇾ成しかば、

「けふは天氣が能《よい》から、毛むし共が、ぬけかはります。」

と、こたへしとぞ。

「拔(ぬけ)て、何になる。」

と聞(きか)せられしに、

「なまこに成(なり)ます。」

と、いひしとぞ。

 ふしぎながら、能《よく》水底(みなそこ)を御覽あれば、小さきなまこ、夥しく、ゐたり。水の上にてうごめくは、からを脫(ぬぎ)うちなり[やぶちゃん注:「うつ」の誤記か。]。ぬぎ仕(し)まへば、なまこは、下におち、からは、流(ながれ)て行(ゆき)し、とぞ。

「きたいの事。」と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:私は海鼠フリークなのだが、毛虫が海鼠に化生(けしょう)するというのは、ちょっと聴いたことがない。甚だ面白い。]

只野真葛 むかしばなし (53) / 舟奇談

 

一、濱町にて、御坊主永井久悅の咄しに、

『此頃、懇意のものゝはなしなり。吉原から猪牙(ちよき)にのつて歸りしに、闇の夜なりしが、藏前邊にて、

「ぐらり」

と、かへりしが、仕合(しあはせ)には、水、淺く、膝きりにて有(あり)し故、衣類《きもの》をぬらしたばかりにて、石垣傳ひに、どうかして、岡へ上りかへりしが、舟は、少しも、かまわずに、一さんに、漕(こい)で行(ゆき)し、となり。ぬれながら、内へ歸り、翌日、

「船頭はどうしてゐる。」

と舟宿へ行て見しに、高ぎせるにて、門口に居(ゐ)たり。

「是は。どうだ。」

と聲かけしかば、物いわずに、袖をとり、

「こちらへ、おはいり。」

とて引込(ひつこみ)、二階へ上(あげ)て、

「眞平御めん。」

と、あやまりしとぞ。

「御めん所か。とほうもない。」

と云(いふ)をおさへて、

「先々、高聲(こうせい)被ㇾ成て被ㇾ下ますな。大切な事でござりますが、申分(まうしぶん)の爲(ため)、御咄し申(まうし)ます。お素人がたを相手に、夜、壱人(ひとり)で漕(こぎ)、舟が引(ひつくり)かへつた時、壱人では、中々、助けられません。下手にうろつくと、共に、死にますから、棄切(すてぎり)の「さだめ」でござります。必、他言被ㇾ下まじ。」

とて、酒肴(しゆかう)にてもてなし、惣船宿、連名の「誤り證文」いたし、七重八重に成(なり)て閉口せし故、ふくれながら、其まゝにして置(おき)たり。

「とんだ事が有もの。」』

と、いひし。

 父樣も、

「わかき時分、吉原歸りの船にて、危(あやう)き事、有し。」

と被ㇾ仰し。是も暗夜にて下(さ)汐(しほ)の時、一さんに、くだして、來(きた)る。父樣は、船中にねむりて御いで被ㇾ成しに、

「ザブリ」

と、物の落(おち)たる音せし故、御覽有しに、艪(ろ)づな、切(きれ)て、櫂(かい)を持(もち)ながら、船頭が落(おち)しとぞ。

 舟は、矢を射る如く、走りて下る、中々、およぎて、追つかれねば、跡に成(なり)て、いかゞしたるか知らず、大きに心づかひなりしに、永代橋の外にかゝりたる親船のはらへ、舳先(へさき)が當りし故、船頭共、とがめしを、

「ケ樣、ケ樣。」

の事と被ㇾ仰て、舟をとめてもらひ、手間取(てまどる)内に、落たる船頭、櫂をかついで、岡を走りながら、

「萬幸(ばんこう)さん、萬幸さん。」

と呼(よび)て來りしとぞ。それより又、櫓をしかけて、歸りし、となり。

「親船に當らずば、いづく迄、行くかしれず、危かりし事。」

と、其時、被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「御坊主」数寄屋(すきや)坊主・茶坊主・御奥(おおく)坊主で、江戸幕府の中奥の職名の一つ。若年寄の支配に属し、数寄屋頭の指揮をうけて、将軍を始め、出仕の幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を司った。僧形で、二十俵二人扶持。町屋敷が与えられ、その数は百人から三百人ほどいた。一般には少年・若者が選ばれた。因みに、芥川龍之介の養父で伯父(実母フクの実兄で芥川家嫡流)の芥川道章の家系は彼の祖父の代まで、この職にあった。

「萬幸」そのぶつかった永代橋に係留してあった親船(伊勢船の俗称。伊勢船は船型構造が中世末期の伝統を持つため、近世の進歩した弁才船に対して、古様であるところからの称)の水主(かこ)の姓か。]

只野真葛 むかしばなし (52) / 舟怪談パート2!

 

一、築地毛利樣へふだんござる旗本衆なりしが、吉原へ遊(あそび)に行(ゆき)て有(あり)しが、明朝、當番故、夜中に歸らねばならず、舟にのりて、船頭と、二人、夜更(よふけ)て川筋を下(くだ)るに、霧雨、しきりに下(ふ)りて、物も見へず【築地より、舟の通用には、「浪よけ稻荷」の後(うしろ)を出(で)ると、海にかゝり、天氣のよい時は、はればれとして、よけれど、いつも、浪のあらい所なり。それから、川といへども㚑岸島(れいがんじま)・「浪よけ」の前などは海も目前にて、人氣少(ひとけすくな)く、びやうびやうとしたるところなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。屋根船の中に、うちねぶりて有しに、㚑岸島を通過(とほりすぎ)たる時分、

「もし。且那、旦那。」

と起(おこ)す故、

「何だ。」といひば、

舟頭「舟が。うごきません。」

旦那「どふした。」

舟頭「あれを。ごろふじませ。」

といふ故、へさきの方を見れば、たしかに形は見えねど、眞綿(まわた)をぬり桶(をけ)に掛(かけ)たるやうな形にて、

「ふわふわ」

としたる白きもの、高さは、四、五尺の間(あひだ)とおぼしきもの、立(たち)て有(あり)。

 ねむけもさめしに、船頭、聲、かけ、

「もし。必ず、念佛を唱へ被ㇾ成ますな。お刀でお拂(つぱらい)て被ㇾ下まし。」

といひし故、

「得たり。」

と、刀(かたな)引拔(ひきぬき)ざま、心の内には、

『にくき妖怪め。かたじけなくも、公方(くばう)の御用、明朝勤(つとむ)る當番の、など、さまたぐるぞ。速(すみやか)に立去(たちさ)れ、立去れ。』

と、くりかへし、くりかへし、ねんじて、切拂(きりはら)ひしかば、

「ふわふわ」

とびさりしと思ふと、舟、動き出(だし)たり。

 物もいはず、息をもつかず、一おしに築地の川まで、おし付(つけ)たり。

 おかへ上(あが)りて後、

「あれは、何ぞ。」

と、とへば、

「『舟(ふな)ぼう㚑(れい)』なり。」

と、いひしとぞ。

「念佛をとゞめしは、何の故。」

と、とはれしかば、

「弱味へ付入(つけいり)ては、强く成(なる)ものなり。氣がをくれ、念佛などいふ樣なことでは、いくらも、いくらも、出て來て、舟を、しづめるものなり。兼(かね)て御元氣(おおげんき)をぞんじて居(をり)ますから、お力に存じましたる、お蔭で、命、助(たすかり)ました。」

と禮をいひしとぞ。

「折々、逢(あふ)ものか。」

と聞しに、

「とんだ事をおつしやります。そんなに逢ことでは、いきては居られません。たゞ、『忿佛を、左樣な時、必ずとなへぬもの。』と申事は、なかま中(うち)、いひつたへて置(おく)事なり。必ず、三年の中(うち)は、人にお咄し被ㇾ成ますな。わるいめに、逢(あひ)ます。」

と、口どめせしとぞ。

 それ故、其人も、しばらく、口外にせられざりしが、ほどへて、若い時分の「元氣咄し」などのでし時、語られしを聞(きき)て、人々、おぢたりし。

[やぶちゃん注:会話形式で臨場感たっぷり! 語り出すと、乗るんだよね! 真葛姐さんは!

「浪よけ稻荷」現在の東京都中央区築地にある波除(なみよけ)稲荷神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)までに江戸の大半を焼いた大火災)の『後、当時はまだ』、『江戸湾が入り込んでいた築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中の』、『ある晩、光を放ち』、『海面を漂う御神体が見つかり』万治二(一六五九)年、『現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり』、『工事が順調に進んだことから、「波除稲荷」と尊称して厄除けなどに信仰を集めることとなった』とある。同神社公式サイトもリンクさせておく。

「㚑岸島」霊岸島。東京都中央区の東部、隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川一・二丁目に相当する。江戸初期には北の箱崎島 (現在の日本橋箱崎町) とともに「江戸中島」と呼ばれたが、新川の開削により、分離した。地名は寛永元 (一六二四) 年に、霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来し (寺は「明暦の大火」後に深川に移転した) 、「霊巌島」とも書いた。以後、町家、門前町として発展した。また、海上交通の拠点でもあり、上方からの酒を扱う問屋が集中していた。現在では当時の面影は残っていないが、商業地区となっている。]

只野真葛 むかしばなし (51) 久々の真葛怪談!

 

一、卯野元的(うのげんてき)といふ人、有(あり)し。中通醫師なり。築地邊、旗本衆などへ出入し、工藤家へも常に出入せしが、ばゞ樣など諸見物に御いでの時、つれに成(なり)てありきし人なり。

 其人の咄しに、向(むかひ)、築地に、二千石ばかりの旗本衆、有し。大ひやう・大力にて、すなどりを好み、遠網打(とほあみうち)の名人、廿間餘に打出(うちだ)されしが、漁師も及ばざりし、となり。一月には、二、三度づゝ、御勤の暇(いとま)には、漁にいでゝ樂(たのし)まれしとぞ。

 あるひ、例の如く、漁に出(いで)られしが、ちと、刻限、早かりしに、奧方も、おいでの後に、又、床に入(いり)て、休まんとせられしに、夜が明(あく)るや否や、

「お歸り。」

と云(いふ)音(こゑ)す。

『誠(まこと)ならじ。』

と、おもはれしに、實(まこと)にかへられたり。

「風もなし、天氣はよし、何故(なにゆゑ)。」

と問(とふ)に、顏色、土の如くにして、無言なり。

 家内、いぶかりて、手をかへ、品をかへて聞(きく)に、さらに其故(そのゆゑ)をかたられざりしとなり【是より、つり道具を、みな、すてゝ、漁をやめられし、となり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 元的も出入(でいり)にて、殊にしたしくせし故、年をかさねて、事にふれつゝ、ゆかしければ、

「もふ、お咄被ㇾ成(はなしなられ)てもよさそうなもの。」

などゝ、まじめにも聞(きき)、をどけにも聞仕(ききしまはし)たりしが、一生、其故を口外(こうがい)へいださで、果(はて)られしとぞ。

 語らではてられしと云(いふ)事は、ワ、築地に居(をり)し内(うち)、聞(きき)しことなりし。

 然るを、數寄屋町へ引(ひつ)こして後、善助樣、

「船頭の隱居ぢゞに聞(きき)し。」

とて、其故を、御はなし被ㇾ成候。珍しきことなりし。

 老人曰(いはく)、

「わたし共も、海の上を渡世にしてゐるものだけれども、氣味の惡ひ事に逢(あひ)しは、久しきあとの事なりしが、築地の殿樣と、二人、舟にのつて出た所が、ちと早くて夜が明(あけ)やしなんだ。舟をかけてゐたら、何だか舟のわきに付(つい)てゐやしたが、死人(しびと)のやうで有(あつ)たから、漕(こぎ)ぬけやふとおもつて、櫂(かい)で、ついてやつて、二十間ばかりわきへ行(ゆき)やした【漁舟《りようせん》にて出懸(でがけ)に死人にあへば、其日の「けち」として、まづまづ、無言にてみぬ顏してつきだしてにげるとなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。所が又、下から「ざぶり」と、ういて出(で)た物が有故(あるゆゑ)、二人ながら、おもはず、見たら、女の死人さ。少し夜が明やした。『いまいましい』と思(おもつ)て、また、つきだそうとしたら、櫂が、つきはづれやした。其時、死人が「にこにこ」と笑(わろう)た顏の、いやな事、「ぞつ」として、そこにゐられぬから、其日は歸りやした。あんな氣味のわるい事は、ござりません。それから殿樣も漁を休(やすみ)さしつたし、私も遠(とほ)あるきを、やめました。」

と語(かたり)し故、其事は知れたり。

「少し、旗本衆の胸に、當りし事、有しならん。」

と被ㇾ仰し。すべて舟の中には、あやしき事、あるものなり。

[やぶちゃん注:久々の怪談実話である。聴き書きで、最後に老漁師の告白形式をとり、非常にリアリズムがあり、非常に優れている。当時の口語体が再現されているのも興味深い。真葛の怪談はまっこと、「キョワい」。似たような話であるが、幸田露伴の「幻談」なんか、足元にも及ばないね。

「中通」福島県「中通り」地方。福島県中部で、西に奥羽山脈、東に阿武隈高地に挟まれた太平洋側内陸の地域。その北部は真葛の父平助の仕えた主家、伊達郡を本貫とした伊達氏の領地であった。]

2022/05/04

只野真葛 むかしばなし (50)

 

むかしばなし 四

 

 御家にては代がはりには是非一度御國へ下る事なりしを、父樣、始(はじめ)て代々定詰(ぢやうづめ)は被ㇾ成し。其故は、はじめ下りを被仰付し頃は、實にひばゞ樣座敷步行もならぬ大病なりし故、申(まうし)たて、此ばゞ樣、繁昌中はことなくて有(あり)しを、不幸後、ぜひ、くだり仰渡(おほせわたさ)れて有(あり)しに、御老中右近樣御家中は、一統、父樣の病家にて有しに、其頃、關口兵太夫といひし人、派(は)きゝにて有しが、每(つね)に懇意なりしを、仙臺へ下るとて、暇乞(いとまごひ)に御出被ㇾ成し時、

「それは。殘念の事なり。少し、工夫もあれば、今しばらく、病氣にても達(たつ)し、此地に留まられよ。」

とすゝめしとぞ。しか有(あり)て、兵太夫、御屋敷の人にいふ、

「扨(さて)、工藤周庵、此度(こたび)御國勝手被仰付由承り候が、をしき事なり。江戶に差置(さしおか)れ、權門方(けんもんがた)内御用被仰付んに、此人にまさる人、候はじ。」

と、念比(ねんごろ)に語(かたり)、掛合(かけあひ)しに、兵太夫は、萬事、御用御賴(おたより)の人にて有し故、御取上有て、下り相(あひ)扣《ひかへ》られて、すぐに、内々、權門御用被仰付て、色々の御用共、御勤被ㇾ成しが、

「誠に、此人の蔭にて、江戶におちつきし。」

と、折々、被し。

[やぶちゃん注:「御老中右近樣」陸奥国棚倉藩主松平武元(正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)か。官位は右近衛将監。宝暦一一(一七六一)年に老中首座。安永五(一七七六)年頃、工藤周庵平助は仙台藩主伊達重村により、還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面に亙って活躍した。前に出た築地の工藤邸の当時としては珍しい二階建ての家の増築は安永六(一七七七)年のことである。

「關口兵太夫」不詳。

「派きゝ」「羽利き」で相応に影響力を持った人物の意。]

 

 父樣、料理しやの名代、廣く、珍しき料理めし上るとて、御大名方も、かれこれ、いらせられし。

 中村富十郞は木挽町に久しく居(をり)しが、

「御料理者の名代承り及候間(よびさふらふあひだ)、何卒、一席推參致度(いたしたく)。」

といひ入(いれ)て有し。招かぬに大立者(おほだてもの)の來(きた)るほどの事、其時のいきほひ、察(さつす)べし。

「やすき無心(むしん)なり。いつ幾日。」

と御約束被ㇾ成て、其夜を待(まち)しに、富十郞・のしほ・三津五郞、中(ちゆう)役者にて三國富士五郞といひし、四人なり。富十郞、羽織空色ちりめん紋付、帶付は黑じゆすなりし【すべて此衣類は久しきことにて、よくはおぼえず。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。のしほは、紫縮緬に糸卷を縫(ぬひ)にしたるが、

 

Tomijyuurou

[やぶちゃん注:底本の行間にあるものをトリミング補正した。]

 

此やうに、石疊の形、糸卷を付(つけ)て嶋(しま)に仕(したて)たるを、白糸にて縫(ぬひ)、はへばへとせし模樣なり。

「富十郞、工夫なり。」

と語(かたり)し。羽織は白じゆすに、〆飾りの模樣かとおぽえし。袴も嶋じゆすなりし。立役は、二人ながら、黑ぢりめんにて有し。

[やぶちゃん注:「中村富十郞」(享保四(一七一九)年~天明六(一七八六)年)は初代。上方の歌舞伎役者。初代芳澤あやめの三男として大坂に生まれた。幼名は崎彌。当該ウィキによれば、『幼少のころ、立役の中村新五郎の養子とな』り、享保一四(一七二九)年『春に崎彌は中村富十郎と名を改め、京都の佐野川万菊座に加わるが、この時』は『まだ実際には舞台に立たなかったという。同年の暮、富十郎は万菊や新五郎とともに江戸に下り』、享保十六年『正月に市村座で初舞台を踏んだ。時に』十三『歳。同年冬、万菊と新五郎に付いて再び京に戻』った。享保十八年、『若衆形から女形となってからは、富十郎は美貌をもって巷間に知られるようになるが、それは役者ではなく』、『色子』(いろこ:陰間の一種。歌舞伎若衆で、男色を売る者を指す)『としてであった』。元文二(一七三七)年十一月、『大坂道頓堀の岩井半四郎座に出演』、この時、「曽根崎心中」の『天満屋お初を演じて大当りをとり、四ヶ月の続演となった。これが富十郎にとって役者としての道が開けた最初で、その後一年ほど』、『大坂の芝居に出続けるが』、『いずれも大当りをとる。それからは京、大坂、江戸の三都を往来し、どの土地でも人気役者として迎えられた』。寛延二(一七四九)年には、三十一『歳の若さで役者としての最高位である「極上上大吉」とされる。その後「古今無類之妙大至極上上吉」、さらに』、天明四(一七八四)年には「三ヶ津巻首歌舞伎一道惣芸頭」(さんがのつかんしゅそうげいがしら)『に置かれた』。『若女形を本領とし』、『時代物と世話物を兼ねたが、後に立役や荒事も勤めた。芸は』、『せりふ回しと身の軽さが評判となった。舞踊においても名人とされ、なかでも』宝暦二(一七五二)年八月、『京都嵐三右衛門座で踊った』「娘道成寺」は『大当りし、翌年の江戸中村座でも』「京鹿子娘道成寺」として『踊り、以後』、『これを当り芸として度々勤めた』。『六十を過ぎても』、『十七、八の娘姿が似合う若々しさだったと伝わる』。天明六年三月、『京で「女鉢の木」を勤めたのが最後の舞台とな』った、とあり、なお、『余技に絵も描いており、扇絵などを残している。東京国立博物館に「驟雨図」(紙本着色)の扇面』一本が所蔵されており、『画名を英(はなぶさ)慶子と称したという。天明』六『年には』「慶子画譜」が『八文字屋自笑の編で版行され』ているとある。私は歌舞伎嫌いの文楽好きで、他の役者は調べる気にならない。悪しからず。

「中役者」歌舞伎役者の階級。名題役者の次で、三階級ある内の中位の者の上方での呼称。役者といった江戸での呼称は「中通(ちゅうどおり)」。二流役者を指す場合もある。「板の間」とも称した。

「黑じゆす」黒い繻子(しゅす)。繻子は、精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。]

 

 其時の狂言は春なりしが、「曾我」をば態《わざ》として、月(つき)さよ・鬼王(おにわう)にて、當る積り。先(まづ)【七年か十三年か。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]追善を取組(とりくみ)、今の助高屋雄次郞とて、女形の時。幕明(まくあけ)は、工藤の舘、少し何か有て、人足共、大勢、竹たばを背おつて出(いで)る、跡に付く坂田半五郞鬼王にて、茶色紋付の布子に小倉ばかま股立取(まただちとつ)て、人足と同じく竹をおつて出(いで)、舞臺にて、人足共、少々、せりふ有。鬼王をみて不審して、

「そなた御侍は、どふして、おらが中間(ちゆうげん)へいらしやつた。」

と聞(きく)時、

「されば。ふと、道にて、此竹をそばに置(おき)て倒(たふれ)て居た人を見かけた故、『どふして爰(ここ)にゐる』と云(いふ)たら、『私は、けふ、工藤樣の御屋舖へ竹をかついでまゐる人足でござりますが、急に、腹が病《や》めて、困《こう》じて居(をり)ます。』と云故、『それなら、おれが、其竹を持(もつ)てゐてやろふか。』と云たら、『うれしい事。どうぞ持てゐて被ㇾ下まし。其かはりには、私が、今日の立(たて)まいのやとい賃(ちん)を上(あげ)ます。』と云た故、其人足に賴まれてきました。」

「ハヽア、申(まうす)。そんなら、人足にやとはれた、お侍か。」

と云。

「左樣(さやう)、左樣。」

といふ内、人足共、より合(あひ)て、買(こう)た酒德利(さかどつくり)を出(いだ)して茶碗へついで吞(のむ)を、鬼王、酒好(さけずき)にて、しきりに羨しがりて、咽(むせ)ずを引(ひき)、をかしみ有【實は、工藤の屋形、見たく、やとはれてこしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。こらい兼(かね)て、

「わしも、ちと被ㇾ下。」

と云ば、

「いや。是は賣物にはならぬ。」

と云を、

「どふぞ。さきにもらふた、やとはれ賃で、かいたい。」

と云ば、

「そんなら。」

とて、高賣(たかうり)するてい。

 色々をかしみ有て、人足は引込(ひつこみ)、鬼王は、ゑひて倒れて寢てゐると、三味線にて富十郞、小原女の出たち、頭に黑木をいたゞき、褄《つま》ばざみして、手おほひ・脚絆・小納戶茶木綿(ちやもめん)の惣模樣(そうもやう)にて出(いで)、花道に、少し、所作、有。本舞臺へかゝり、人の寢た上を踏(ふむ)と呻(うめき)、

「アイタ、アイタ、」

とて、鬼王、おきて、

「誰だ。」

と、とがめるを、小原女、恐れてわび事するが、

「ニヤ申、ニヤ申、」

と云ことばにて、ねから、分らぬ所、をかしみ有。

 トヾ、

「ふんだが、わるい。」

「寢てゐたが、わるい。」

と云募(いひつのり)て、

「それならば、其善惡を分るには、おれが謎をかけやふほどに、そなた、解兼(ときかね)たら、そちがまけ、皆解(みなとけ)たら、おれがまけに、せう。」

といふことに成(なり)、女、

「勝(かつ)た時には、どふする心。」

といへば、男、

「おれが爰に持(もつ)てゐる櫛があるから、是を、やろふし、そちが負たら、だいて、ねる。」

と、いはれて、恐れるおもい入(いれ)、有。

「サア、それなら、かけさんせ。」

ウシロ、チンラ、チンラ、の三味線に成、

「洗たく仕ながら、ぬれかゝる。こわひお敵(てき)は。」【少し考身ぶり有。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「あらいの閻魔と云ことか。」【其頃洗のゑんま開帳なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

又、

「お染久松、くる道は。」【女、とく。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「油の小路と云事か。」

などと、だんだん、かけて、五ツばかりの謎を女とき、

「是から、わしが懸(かか)る。」

とて、又、五ツばかり懸ると、やうやう、解(とけ)ども、果(はて)に、とき兼(かね)る時、

「サア、わしが、勝じや。其櫛被ㇾ下。」

と、いはれて【小し、愁歎あり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「約束はしたれども、此櫛には、ふかい分(わけ)が有(あつ)て、どふも、人手に渡されぬ。昔語(むかしがたり)をする程に、聞屆(ききとどけ)て堪忍してくれ。【略。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]若い時分、くらまぎれ、小原の里の女になれ、互に顏も見しらねど、又、逢(あふ)までのかたみぞと、此櫛を、おこした。」

と語るうちに、女、ふるへだし、

「若《もし》、其櫛は紅葉に鹿の蒔繪ではござんせぬか。」

「果《はて》、其蒔繪を知つてゐる女。」

「其時の女は、わしじや、はいな。」

と名乘合(なのりあひ)、【色々、口上あり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「其時、ひと夜の契(ちぎり)に、女の子を、まうけし。」

と、かたり、悅(よろこぶ)内、又、愁歎して、

「五ツに成(なる)年のやよひ、汐干(しほひ)に出(いで)しに、俄(にはか)の水ましに、うろたへて、つゐ流して、仕舞(しまひ)し。」

と、かたり歎き、兎角して幕なり。【其頃、汐干にて俄の汐みちに逢(あひ)、ながれし事、有しなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]【萩野八重桐と云(いふ)女形、汐干に行(ゆき)て水におぼれ、「しゞみとるとてみじめみた」といふ唄はやりし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 次の幕も、屋敷の内なりし。品々、狂言【略。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、あふむの買鳥(かひどり)有、十五、六の順禮にて出(いで)る。其鳥を見て背をなでなで、

「扨々、奇麗な鳥。そなたの名は何。」

と云(いふ)時、あふむ、

「そなたの名はなんと云。」

と、まねるを、びつくりして、とびのき、わが事をとはれしと心得、

「わしや、順禮じや。」

と云を、又、あふむ、まねて、

「わしや、順禮じや。」

といへば、

「扨も扨も、順禮と云(いふ)鳥は、きれいな鳥じやナア。」

とて、笑はせる事あり【其時、範賴三國富士五郞、始ての範賴なりし。いかなることにや、つくり啞(おし)と成(なり)て有しを、祐經がせし事のやうになりて、此病(やまひ)いえねば、狩場の御供ならず、さあれば、兄弟のかたきうたれぬといふ事にて、鬼王せつかく藥を求むる事なり。】。

 順禮、餘念なく鳥を愛してゐると、富十郞、月小夜にて出(いで)、門をたゝき、

「明(あけ)てくれ。」

と云に、外に、人、なし。

 順禮の小娘、立出(たちいで)て、門を明(あく)るや否や、富十郞が鼻の先へ、

「順禮に、御ほうしや。」

とひさくを出して、びつくりさせる笑(をか)しみ有。

 内に入(いり)て、何か語合(かたりあへ)ば、鹽干(しほひ)に流したる娘なり。

 ひろい上げて育てし親が、先の宗十郞にして、

「いつ幾日に、なくなりし。」

とて、雄次郞【雄次郞は宗十郞の子なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、歎く時、富十郞、廣め追善、口上、有。

 至極、あわれなる狂言なりし。

 口上終(をはり)て、

「それも、なげくな。今に本《もと》のとゝさんを呼(よん)で來て、あわそふ。」

とて、林町(はやしちやう)の方(かた)に入(いる)と【なのり合(あひ)の時分、守袋(まもりぶくろ)を落(おと)せしを、拾(ひろひ)て、それより、親子なる事を、しる。何の年、何の日、何の刻に生れし女の生膽《いきぎも》とやらが、範賴公の啞の藥に成(なる)とて、求むるなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、二重舞臺にて、始終の樣子、立聞(たちぎき)て、鬼王、ずつと、いで、物もいはずに、娘をとらへ、心もとをさしとほさんとする時、母月小夜、奧より走りいで、泣(なき)ながら、とゞめ、

「何の事かはしらねども、始て逢(おふ)たとゝさんの御腹立(おはらだち)、『あやまりました』と、手をついて、わびごと、しや。」

と敎(をしふ)ると、半五郞、刀を、なげ出し、

「なんの。腹のたつ事があろ。うれしいやら、悲しいやら、云にいわれぬ心の中。最前から立聞せしに、親子の名乘せし時の守袋の中なる書付、生(うまれ)し年と、月と日が、今、尋(たづぬ)る範賴樣へ上(あげ)る啞の藥になる娘。お主の爲に『天の與(あた)へ。』と思ふより、『なまなか、名のりせんよりは、一トおもひに。』と、覺悟、極めし、今のしだら。そなたも武士の妻、娘にもいひきかせ、得心させて、潔く、命をすてよ。」

と云(いふ)愁歎。【此半五郞、愁歎の上手なりしとなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

 是をきゝ、月小夜は、

「いつそ、昔、死(しん)だなら、それと思(おもふ)てゐるものを、今、なのりあふ、うれしさの、息もやすめず、此なげき。」。【などゝ、いろいろ、ならべて、かなしみの場はあり。はじめ小原女の仕うちよりか卵して、此狂言かなしみにて此所分て當なりし。見物をもなかせる狂言に、範賴公もあまりふびんと心を改め、つくり啞をやめて、二重舞臺の障子のうちから、】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「おしの良藥、調合せり。しばし、しばし。」

と、聲、かけ、障子を明(あけ)て立(たち)いづる所、見物が愁歎、哀(あはれ)とおもふさなかにて、殊の外、はゑ有し故、中役者の聲色(こはいろ)にても、皆々、まねをしたりしなり。

 其頃、おもふに、藥調合をせし弟子に、元通(げんつう)といひしは、

「通(つう)が好(すき)故、『通』の字、つける。」

と被ㇾ仰し。當世人、芝居大好にて、目がさめると寢る迄、芝居のまねばかりしてゐし人なりしが、

「今宵、役者が來る。」

と聞(きき)、大(おほ)うかれにて待(まち)ゐしに、其時のうち出しは、暮過(くれすぎ)なり。

「五ツ前には、よも來らじ。」

と、皆、いひて有しに、くるゝと間もなく、門をたゝく音したり。

 元通、口(くち)こゞとに、

「今時、分くる藥取(くすりとり)は、大かた、大島樣だろう。氣のきかね、時もしらぬ、いそがしいに。」

と、立(たち)て玄關の障子、明(あく)るまへ、富士五郞が身ぶりにて、

「おしの良藥、調合せり。しばし、しばし。」

と高聲(たかごゑ)にいひ、

「さらり」

と、あけると、こはいかに。正身の富士五郞が先に立(たち)、

「中村富十郞、只今、參上。」

といはれて、

「二の口(く)もいでざりし。」

と其比(そのころ)の笑ひ咄(ばな)しなりし。【大だてもの故、其日は朝の手廻(てまはし)して、あかるいうちに仕舞(しまひ)しなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

[やぶちゃん注:以上の曾我狂言は、歌舞伎に冥いので、誰のどの外題の、どの場面かは判らない。ど素人乍ら、色々調べたが、下手に注してはいかんので、悪しからず。一つだけ注が出来る。「あらいの閻魔」「洗のゑんま」は鎌倉の新井閻魔堂のことだな。由比ヶ浜の海辺に近い位置にあった。江戸後期に津波で壊された。現在の建長寺傍の円応寺の前身である。]

2022/05/01

只野真葛 むかしばなし (49) / 「むかしばなし 三」~了

 

○「龜さ」と「萬作」は御ぞんじにや。此人は相見(さうみ)の上手といはれし人の子なり。父はいづくの生(うまれ)かしらねど、大坂にて、はてし人なり。むかし、母樣と桑原おぢ樣、大坂まで墨色を見てもらひにつかわされしに、母樣をば、大にほめて、

「一生、無事無難なり。」

と、いひて、こしたりし。おぢ樣は、いろいろ、むつかしきこと、有し故、すぐに火中(くわちゆう)被ㇾ成、人に見せられざりしとなり。母樣被ㇾ仰しが、おば樣御末、後のていなど、さも有しことなるべし【母樣、をば樣に、「いかゞ申(まうし)きたりし。」と、とはれし時、をば樣、答へに、「餘りあしきことばかり故、火中せしが、をぢ樣へは、うしないし。」と申ておきしと被ㇾ仰しとぞ。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「相見」占い師。

「墨色」墨で文字を書かせて、その文字の墨の色で吉凶を判断する占いの方法。「墨色の考へ」とも言う。

「火中」ここは来たった書状を焼き捨てること。]

 齋藤忠兵衞といひし、御家中にて名代の才人、出入司(しゆつにふのつかさ)にて大坂へのぼりし時に、萬作をつれて下りしなり。何でも忠兵衞方に若黨のやうにして居(をり)たりし。仙臺などへも下りし人なり。しかるを、御長屋は氣がつまる、とおもひしや、築地工藤家へ居候のやうにしてきてゐたりしが、ワ、御殿へ上(あが)りし後(あと)なり、外へ身をかたづけるつもりにて有しが、書をよむ心もなし、醫をまねぶ心もなし、ただ出(いで)あるきなどしてばかり有し故、父樣、御しかり、

「徒(いたづら)に年をおくるべからず。早く、身を、かたづけよ。」

と被ㇾ仰しに、おどろきて、御屋敷ちかくの旗本衆の用人の所へ、急養子に行(ゆき)て有しが、十九、廿ばかりのころなるべし。

[やぶちゃん注:「出入司」仙台藩の職名で、領内の財政・民政を司った。]

 忠兵衞かたに、おなじやうにして居たりし若黨も、いとまとりて、三百兩の持參金にて公儀衆へ養子に行しなり。ひとつに有しほどは、たがいに出世をいどみしに、壱人は旗本に成(なり)、我は其下人になること故、ふすゝみなりしを、父樣、いけん被ㇾ成て、

「身に應ぜぬことは、心がけぬものなり。かれが、仕合よきよふなれども、今、見よ、かならず、わざはひに、あふべし。其方【三か五か】[やぶちゃん注:同前で『原割註』とある。「三千石」或いは「五千石」の意。]千石の家來になることを不足とおもふべからず。ことに富家なれば、よろしきことなり。」

とて、やうやう、すゝめて、つかはされしとぞ。

[やぶちゃん注:「ふすゝみなりし」面白くなくて陰気な感じになったということか。]

「はたして、旗本に成(なり)たる方は、上へ願(ねがひ)も上(あげ)ずに、内證にて引(ひき)とり、また持金(もちがね)の有(ある)ことをしりて、それを、とりしまはゞ、いぢめだす心にて有(あり)しとぞ。三百兩だして、行(ゆき)てみた所が、養父は、わかし、家内、人氣のすばらしきこと、申(まうす)ばかりなく、のこりの金二百兩有しは、少しもはだ身をはなしかね、湯に入(いる)にまでも持(もち)て有しとなり。半年よ、壱年ちかくも辛抱せしに、いかゞせしことにや、誰人(たれびと)の仕わざといふこともしれず、居宅(きよたく)よりはるか遠くなる、人も、ろくにかよわぬ細道とやらに、金をば、取(とり)て、うづくるまりたる兩の肩より、土までとほる程に、其身のさしたる大小をぬきて、つきとほして、すてゝ有(あり)しとなり。ふびんなることの、さて、いかやうにして、つきとほりたるものにや、ふしん千萬なることなりし。」

と被ㇾ仰し。男ぶりよく、力量も人並にはすぐれ、少々は武藝もたしなみし人なりしを、かやうに他人の中に入(いり)て、たのみなきものなり。其あと、大きにもめたりしとぞ。

 是を見聞(みきき)て、やうやう、萬作、心おちつき、よくつとめしほどに、是も、金持といはれし、是も、りつぱの男にて有し。「大しわんぽう」といはれしが、金のまはるにまかせて、身の廻(まはり)をこしらへ、だんだん、おごりだして、遊び所にては、名をしられるやうに成(なり)しが、もちがねは、なくなりしくらいの時、時疫(はやりやまひ)にて病死せし。妻子なし。誰(たれ)も、

「よき死時(しにどき)。」

と、いひたりし。

 築地に有し時は、まだ、年若にて、とりつまらぬことなりし。

 ある夕方、ばゞ樣、庭へ御出被ㇾ成しに、火の見に何か白きもの見へし故、其時の大人役(おとなやく)安兵衞をよばせられて、

「火の見に、何か見ゆるから、見てこい。」

と被ㇾ仰しゆへ、行(ゆき)て見て、わらひながら歸り入(いり)て、

「晝ほど、萬作が外へ出(いで)るに、『下帶(したおび)よごれし』とて、俄(にはか)にあらひまして、『はやく干すにはどこがよかろふ』とて、もつてあるきました。一番はやくほす心で、火の見へゆひ付(つけ)て、出る時にはしめるをわすれて、參りました。」

と、いひしこと、有しとぞ。

[やぶちゃん注:「大しわんぽう」大吝嗇。

「大人役」若い半人前の従者に対して、一人前の書生・弟子を指す。]

 後(のち)に數寄屋町のとき、やかた船にて、すゞみのふるまひせしこと有し。むかしの御恩がへし、また我はなやぐをも見せたく、兩やうにて有(あり)つらん【此時、ふか川の名取の藝者三人、小船にて、あとより來りしが、素顏なりし。女の素顏といふもの、色が白くなくては、遠見のあしきものなりし。】[やぶちゃん注:同前で『原割註』とある。]、其折(そのをり)、妹もきたりしが、相應の女にて有し。弟は「新山けん藏」とふ「書物よみ」なりしが、兄には少しも似ず、不人柄(ふひとがら)のものなりし。萬作、兄の病氣の時も、此者、かんがくせしといふことなりしが、よかれとおもはゞ、病中、父樣、御藥でも戴(いただき)にきそふなものを、一向、病氣のこと、しらせもなく、

「相(あひ)はてし。」

と、しらせたりし。船ふるまひし、よく年のことなりし。其外、「けん藏」、評判あしきこと、かずかず、有し。

只野真葛 むかしばなし (48)

 

○蟲のまねをよくして枝豆をうる人、有し。度々、御よび、客の有(ある)時など、なぐさみに被ㇾ遊し。是も律義ものにて、いそがしき時は、手つだへに來りしが、數寄屋町に引(ひつ)こして後、一度、たづねて來りしこと、有し。

「ぢゞに成(なり)、齒がかけて、昔のやうにはできませぬ。」

と、いひしが、少しはまねたりし。

 其頃、出入の豆腐屋、律義ものにて、日々に上(あげ)しとふふ、二季拂(ばらひ)かよひ帳なりしが、盆暮には十兩前後のはらひなりし。是にて、暮しの手、はりたること、おもふべし。五、六丁入(いり)のとうふ入岡持(いれおかもち)、臺所に有て、二丁づゝ入(いる)るは定(きま)りなり。入用の時は、いく丁とても、このむことなり。朝、二丁入(いれ)て行(ゆき)、夕方來る時、ふたを明(あけ)て見て、なければ、又一丁入(いれ)、有時は、晝こしらへのとうふと取(とり)かへて、二丁おきて行(ゆく)ことなり。そのおくことは、豆腐屋まかせ、又、上(うへ)の用になき時、下々(しもじも)は、いくらくひても、かまわず、といふやうな、大まかなことにて有し。豆腐屋も「一且那(いちだんな)」とて主人のごとく有(あり)がたがりて、

「壱年に廿兩、豆腐をうる所は、築地にて、門跡樣と工藤樣。」

とて、ほめしとぞ。

○ワ、七(ななつ)ばかりのことなりし。「お品」といふ御奉公人、父樣、病家なりしが、もとは御本丸を見た人ならん、其頃は愛宕下、九鬼樣なるべし、部屋かたより、むかふに、愛宕の見へる所なりし。病氣にて下(さが)り居(をり)候時、父樣は駕(かご)の中にのせて御つれ被ㇾ成しが、子ども好きにて、錦手の雛《ひな》の膳わん壱人前と、けし人形、香箱入、又、拜領のよしにて、あらゝ木にて仕(したて)たる菓子だんすの、おほは、まるくぬきて【絹花なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、切《きれ》にてしたる作花(つくりばな)を色々付(つけ)たる物、もらひて有し。何にもならねど、見事のものなりし。

 

Kasidansu

 

[やぶちゃん注:以上に「菓子だんす」の絵が入っている。底本からトリミングした。

「菓子だんす」思うに、雛飾りの小型のミニチュアの菓子入箱であろう。

「あらゝ木」「蘭」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata の異名。「櫟」。年輪の幅が狭く、緻密で狂いが生じにくく、加工し易く、光沢があって美しいという特徴を持つ。紅褐色をした美しい心材が多く、彫刻品などの工芸品・器具材・箱材・机の天板・天井板。鉛筆材等に用いられる。

「おほは」キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連オオバギ属オオバギ Macaranga tanarius であろう。大葉木。材は淡褐色で軽く柔らかく、下駄材・箱材に好適とされる。ここはそれを薄く剝いだものを花型に切り抜いたものを貼付した細工と思われる。

「お品樣」お雛さまの調度品の謂いであろう。]

 それより、

「お品樣、お品樣。」

とて、うれしがりて有しこと、おぼへたり。

 快氣後、へやへ上りしこと、有し。其時は九(ここのつ)なりし。白練(しろねり)に吹繪(ふきゑ)と縫(ぬひ)にて、すそ模樣付(つえ)たるひとへものを、もらひたりし。「おしづ」・「おつね」と、だんだん、ゆづりに成(なり)しが、そなたにも着られしなり。部屋かたにて、三味線などなりて、にぎやかの御殿なりし。

[やぶちゃん注:「吹繪」地紙の上に種々の形に切り抜いた型紙を置き、その上方から絵の具や墨などを含ませた筆に、強く息を吹きかけて飛沫を散らし、型紙を取り去って、絵や模様を表わしもの。]

 橘りう庵樣よりは、桑原家内、年々、年始(ねんし)ふるまへによばれしが、其時、いつも、母樣も御よばれ被ㇾ成るれど、御斷(おことわり)のこと、おほかりし。ワなども、兩度、行(ゆき)しことおぼへたり【乳のみ子の時分は年々かけずにいらせられしとなり。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「橘りう庵」複数回既出既注だが、再掲しておくと、幕医橘隆庵元常(もとつね)。真葛の母遊の父である仙台藩医桑原隆朝(りゅうちょう)の師。]

 明和九年辰のとし、二月廿九日、橘家、ふるまひなりしが、

「餘り、年々、斷もならず。」

とて、母樣ばかり御出被ㇾ成し留守のうち、名大の火事、出(いで)たりし。風つよく、物さわがしきに、父樣も留守なり、小倉樣【門ならびの旗本衆勝之進といひし。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]の角に立(たつ)て、やけだされのくるを見てゐたりしに、稻葉橋を三丁つゞきの女駕(をんなかご)とほる。『やけだされか。』とおもひて有しに、桑原のばゞ樣、をぢ樣と、母樣にて有し。

「見物どころで、なし。」

とて、内へつれて御歸り、かた付物など被ㇾ成たりし。いまだ御膳上らぬうち、大火にて御かへり被ㇾ成しと被ㇾ仰し。道すがら、風つよく、駕も吹たほすやうなりしとぞ。其日は、築地は風わきにて、心づかひなかりし故、七頃よりやけだされ、おびたゞしく來たりし。其時分、派きゝ男(をとこ)老中右近樣御家中、難波(なんば)・牧多(まきた)家内(いへうち)【是は内緣有(あり)。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、熊谷與左衞門家内【ばゞ樣お妹の所。】[やぶちゃん注:同前。]、片岡平十郞といひしも、右近樣御家中、與右衞門妹の行(ゆき)し所にて【名お淸といひし。】[やぶちゃん注:同前。]、前々より出入(でいり)せし程に、

「見へそうなもの。」

と思召れしが、工藤家、風わきの所、心付(こころづか)ず、外(ほか)へ行(ゆき)しとなり。

[やぶちゃん注:「明和九年辰のとし、二月廿九日」ここ以降の大火は、江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」である。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生し、目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。これは、私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』でも、瀧澤馬琴が彼女をせつせつと語る中に出ており、そこに「明和の大火」も注してあるので、未読の方は、是非、読まれたい。

「稻葉橋」不詳。表記が誤っているか。

「老中右近樣」この時、「右近」と称するのは、陸奥国棚倉藩主で老中首座であった松平武元であろう。]

 此牧多、見もん第一の人にて有し。明日、客、有はづにて、料理の仕度とゝのひて有しを、その夜先、やけだされに御ふるまひ被ㇾ成しゆへ、

「此騷動の中、よく丁寧の御料理被ㇾ成、御手のまわること。」

と、感心して有しとなり。是等も幸(さひはひ)のことなりし。一夜の逗留なり。

[やぶちゃん注:「見もん」権門の意であろう。]

 追々、中元ども、毛氈(まうせん)に、荒繩かけて、包(つつみ)たるもの、持て來りしが、雛をかざりしまゝにて、立のきし故、やたらに引つつみて持て來りしなり。

「手や足、かけて、何にもならねど、お子さまがたのお持(もて)あそびに被ㇾ成。」

とて置(おい)て行たり。手前女ども、

「さてさて。おしきこと。」

といへば、難波の女、口々に、

「それより、おしきは、雛のかざりて有(あり)しうしろの押入に、色々の反物が二長持(ふたながもち)有しが、をしかりし。」

と、いひしとぞ。

 富士南の風、一晝夜吹(ふき)しが、一日に、目黑より千手まで、やけはらひ、翌日、風かわりて、又、吹もどせし程に、大火事、道をかえて、かへりこし間、

「築地も、あぶなし。」

とてさわぐに付(つき)、やけだされの人たちも、又、立のきて有し。

 黑けむり、天にみちて、

「三月朔日(ついたち)日中に、提燈つけて、通行仕(し)たりしは、珍らしきこと。」

後には、父樣御はなし被ㇾ成し。與左衞門御家内は、しばらく逗留なりし。翌年の春、父樣、右近樣御家中へ御いで御覽被ㇾ成しに、

「雛をもらひしこと、おびたゞしく、段にあまりて、たゞ、おくほどなりし。」

と被ㇾ仰し。誠に「やけほこり」とは、此ことなり。

 其火事に光明寺の山へのぼりて、やけ死(じに)たる人、數をしらず。其故は明曆中の大火に、此山にて、ふしぎに人の命たすかりしとぞ、それをいひつたへ聞(きき)つたへて、火事とさへいへば、此山にのぽることゝ近邊の人々おもひてゐし故、大火といふいなや、一さんに此山へ諸道具をはこびしほどに、道もなきよふにて有しに、火かゝりしかば、たき付(つけ)に成(なり)て、のこらず、燒死す。其當座、少しづゝ假屋さしかけなどして、人、すまひしに、光明寺の山にて亡㚑《もう》(れい)の音(こゑ)するといふこと、聞えしとぞ。女子ども、おぢをそれて、夜は外へ出(いで)ざりし。夜更(よふけ)、物しづかになれば、何となく、なげくやうな音(こゑ)のせしを、おそれて衾《ふすま》かぶり、又は、物の陰などに、よりかくれなどせしに、次第に聲もたしかに聞(きこ)へ、九に成(なり)四(よつ)に成、五(いつつ)頃からも、少々、きこゆるほどになりしに、

「誰がきゝても、人聲(ひとごゑ)に、たがわず。」

といふ沙汰有しを、公儀より、ひそかに捕手(とりて)をつかはされて四方よりかこみよせて見たれば、五十人ばかり、ぬす人、つどひて居(をり)しとぞ。聲を聞て、おそるゝ所をみすまし、やけのこりの品を、とりしとぞ。其夏は、殊の外、ひかり物、おほく、とびたり。駕のものなどは、

「夜ごとに見し。」

とて、かたりしを、おさな心に、おそろしくおもひて有し。

[やぶちゃん注:「光明寺の山」東京都港区虎ノ門にある光明寺か(グーグル・マップ・データ)。「明和の大火」の死者の供養塔が現存する。]

 日ごとに火事見舞をつかわさるに御いとまなかりし。重の内に、酒、そへて、二所へ被ㇾ遣を、二升入の德利に酒つめたるを、ふたつ口など結(むすび)て、

「夫(それ)、いだせ。」

と被ㇾ仰しを、十六、七の小女、力もないくせに兩手に持(もち)て立(たち)しが、おもはず、とくりを打(うち)つけて、兩方ともに打わり、酒四升を坐中へこぽして、なきて居(をり)しが、急にとくりとゝのへることならず、まことに仕方なきことにて有し。ばヾ樣、被ㇾ仰しは、

「すべて、德利といふもの、力、有ても、ふたつは提(さげ)ぬもの。」

と、おしへ被ㇾ成しを、『げに』とおもひて、今も、わすれず。

[やぶちゃん注:]「夫(それ)、いだせ。」底本は『がいだせ』だが、意味が通じないので、「日本庶民生活史料集成」を参考にして訂した。]

 火事後、疫(えやみ)はやりて、人、多く死(しに)、父樣、病家に御懇意に被ㇾ成(なり)し町人、廿五、六より仕合(しあはせ)よく、だんだん、仕出(しいだ)し、りつぱに普請せしが、新宅びらきなどは、きらきらしきことなりしとぞ。

 しかるに、其男、大病にて有しを、父樣、つきそひ、看病被ㇾ成しが、

「大時疫なりし。」

とぞ。

「今宵かぎりならん。」

と思(おぼし)めされしに、

「熊の胆(ゐ)をのませて見たし」

と思しめされし。かしらへ、病人、うわ言に、

「熊の胆、熊の胆、」

と、いひしゆへ、

「病人もいふことなり。」

と、おぼしめし、のませられしに、それにて、ひらけて、命、とりとめ、快氣するといなや、大火にて、皆、燒失なり。

 しづまりて後、病人見舞・火事見廻かねて御いで被ㇾ成しに、やけのこりし藏にさし懸(かけ)して住居(すみゐ)しに、きらきらしき佛壇有(あり)て、花をおほく上(あげ)て有しを、

「常は、佛など信ぜぬ人の、何事ぞ。」

と、とわせられしに、

「此尊像は『作(さく)の御佛(みほとけ)』とて、むかしより、持(もち)つたへたる御像(おんぞう)なり。私(わたくし)ぢゞの代より三十三にて、死去致候間、私も當年三十三なり。今年かぎりの命ならんと、力をつくして、家もつくりし所、『大病、はたして、たすかるまじ。』と覺悟いたして有しに、いたつて、むつかしく、夢中(むちゆう)にて有し内、此尊像の、我につげ給ふは、

『其元(そこもと)こと、只今、死べきを、少しさゝはること有(あり)て、命、かゝりて有しことなり。いま、熊の胆をのたまはずば、たすかりまじ。』と仰せらるゝと、たしかにおぼへし時、あなた樣のくまのゐを被ㇾ下し故、たすかりたり。其有がたさ、身にしみしゆへ、とりおかず、佛壇を、しつらへし。」

と語(かたり)しとぞ。

「佛の御(おん)しめし、かならず、なきことには、あらず。」

と被ㇾ仰し。

 其ふし、今一言、御しめし有りしは、

「『さりながら、生たるといふ、名のみぞ。』と、佛の被ㇾ仰しとぞ。

「是、いかなることならん、をかしきこと。」

と其時は、かたりしが、後、一向、引(ひき)たゝず、何をしても左前に成(なり)て、だんだんに下(さが)りしが、裏屋ずみして終(をはり)しならん。」

と被ㇾ仰し。おちぶれては、恥(はぢ)て、人交(ひと)《まぢわ》りもせざりし、とぞ【うら店《だな》に有(あり)といふことまではきかせられしが、死生(ししゃう)のこと、御存なしと被ㇾ仰し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 數寄屋町にて、折々ごとの御はなしに、

「此佛の御しめしをもて考えれば、命はおもきものと見へたり。花々しく普請仕(しまはし)て後、急死し、さて、『いかほどか、仕だすべき人の、おしきこと。』と、人にいはれて、死後に、家、やけなば、よそ目には、やすらかにおもわるゝを、せつかく仕たりし家は燒(やけ)、あるかなきかに裏屋ずみして、世をうらやみ、身をかなしみて生(いき)たるが、命みじかき若死(わかじに)には、まさることゝ見ゆるは、合點ゆかぬこと。」

と被ㇾ仰し。實(まこと)に誰(たれ)も、さこそ、おもわるゝやうなり。

只野真葛 むかしばなし (47)

 

○例の敵役(かたきやく)の桑原おぢ樣は、おなじ築地にすみながら、庭も家もせまくわびわびとしてござるが、底心《そこしん》くやしく、いつもいつもふさいでばかり。内心には、『一生の内には、はやりだして、ふんでみせやう。』と、ふくんでござりしなり。行(ゆき)てみるに、言(いふ)にいできも、其やうに被ㇾ仰て有し。奈須の惡心に引込(ひっこま)れてわるいことや貧乏に成(なり)そふなことばかり、だんだん被ㇾ成(なされし)を、そこ、おかしく見てござりながら、顏にもださず、内田をつゝいて、地たてのもくろみし、工藤で、こまれば、壁とむかつて、笑みをふくむ、といふ、かたちなり。父樣は、たゞ樂しみにばかりおぼれていらせられし内、月日は立(たち)て、昔の隣、内田一郞殿は、玄松(げんしよう)となられ、かの懇意の母樣も、なくなり、つらくおもふに、『我(わが)地面を人の自由にばかりせらるゝは、馬鹿らし。』とや、心づかれけん、腰、おしつゝく人や有けん、手習弟子なりし昔のよしみは、ときにて、一向、こちへは、沙汰なしに、地面を、其頃、派(は)きゝの若年寄つとめらるゝ御大名女隱居へうりわたし、半金、うけ取てのうへ、

「かやうかやうの次第故、其地を明(あけ)て被ㇾ下べし。」

といひ入(いれ)たり【今、玄松とても、昔は父樣にしたがひて有し人なり。一向しらぬ人を、あしらふ樣に、さたなしにするは、さりての有し故なり。年も廿少餘(すこしあまり)のことなるを、ぜひ、たゝねば、ならぬやうなことを、こしらへて、しらぬ顏でゐる心意氣、にくいけれども、仕方なし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。是をのがるゝ御くふうは、さすがの智者の父樣も、一寸でず、大きに御難儀被ㇾ成しなり。

 さりながら、「公儀御用の外は相(あひ)たてまじ」と云(いふ)證文とりてのうへ、地をかりること故、それを仰(おほせ)たてられし。

「公用ならねば、立(たち)がたし。」

と被ㇾ仰しを、あのかたにては、手付をわたし候故、やかましく、其金は、とくに内田は、つかいつぶし、

「さよふなら、手付金かへし、上(あが)る分、おぎなわれよ。」

と、のいひ分、大にもめて、ひまとる内、先かたより、御屋敷へ使者をたてられ、

「其御家中工藤平肋と申(まうす)者、手前にてかいとりし地に住居(すみゐ)候所、何卒早速明渡(あけわた)し候やう仰付被ㇾ下度。」

と、いはれしとぞ。

 此口上、以の外、徹山樣、御意にさわり、

「なぞや、小家の分として、わづか若(わか)老中の役を鼻にかけて、大家の家中を、かろがろしくとりあつかふや。にくきことなり。」

とて、

「公用ならねば、いつまでも家中のもの立のき候事、なりがたし。」

と、ぴんと御挨拶被ㇾ遊て、父樣をめして、

「かやうかやうのこと有。かろがろしく立(たつ)べからず。」

と仰付られしとぞ。先かたにては、使者の御返答、あしければ、

「一番、是はしくじつたり、やはらかにかゝれ。」

と聲をひそめ、進物をもたせて、

「何とも無心しごくながら、引料(ひきれう)を進じ申べし。地面あけて被ㇾ下。」

と下手(したて)でかゝられ、りきまれもせず、とてもこう成(なり)かゝりし上は、我(が)をはつてゐて見た所が、おもしろからずと思召、

「さやうならば、此家御とゝのへ被ㇾ下たし。」

と被ㇾ仰しに、

「はや、材木、切組(きりくみ)候間、入用に、なし。」

といはれゐるに、はした立(だて)もはしたにて、しづ心なく、壱兩年は、つゝかせられしとぞ。

 時に、西をの、火事、おこりて、一時の煙と成しかば、地主は鬼にこぶをとられしおもひ、

「早々、立(たつ)たら、私(わたくし)宅、早々、此火事に逢(あふ)べきものを。是も御運のよきなり。」

と、いはひ、ことほぎて、普請、有しならん。

[やぶちゃん注:「西をの」「西の方の小野」か。西側の野原。]

 服部にては、此さたあるやいなや、家を引(ひき)て、愛宕下に引こせし故、火難のがれたり。服部、もとより、妾(めかけ)すまゐなりしが、はじめのは、船頭の娘にて有しが、兄おやの船頭ども來(くる)時は、座敷へとほし、高膳にて、物くわせしとぞ。難產にて死し、其あとへ、「おりつ」を御せわ被ㇾ遊、つかはされしなり。「おりつ」は、そなたの乳母なりしが、五ツまでは年季の内なるを、母樣に手を習(ならひ)、縫物をならひして、一通(ひととほり)どこへ行(ゆき)ても、よきほどにおぼひると、四の年、むりいとまとりて下(さが)り、旗本衆へ物縫に上りしといふとぞ。なりよき仕方にもなかりしを、隣の妾、たづぬる故、

「もとのしれぬものよりは、よからん。」

と思(おぼし)めし、母樣より御文被ㇾ遣しかば、また、先よりも、無理いとまとりて下り、萬(よろづ)の上のせわにて被ㇾ遣し時、ばゞ樣の、

「こちを、里とおもへ。」

と被ㇾ仰し御一言を證(しやう)にとりて、後、外々(ほかほか)へ、

「里。」

と披露せしは、こゝろよからぬしかたなりし。さやうのこと故、火事の節も、御立のき被ㇾ遊しなり。二、三日、いらせられて、近所の小家をかりてうつらせられし。常は少々の火事にも、出入のもの、よく來りしが、此時にかぎりては、常(つね)かけ付(つく)ものゝ所、先(さき)に、火、かゝりし故、壱人もきたらず、父樣は御屋敷へ御つとめ被ㇾ成、元丹と喜兵衞ばかりにて、道具もかたづけかねて有しとぞ。【御ふしん被ㇾ成てより、火事迄の間、七年なり。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]

 百味たんすは父樣御くふうにて、

「出火持(もち)のきのため。」

とて、よくさゝせておかれしを、藏入(くらいり)にして、燒(やき)たるぞ、おしき。常はひらきて、壁に付(つけ)、引出しの方を内にして、たゝめば、かやうに成り、かな物もあつらへにて、かたかたうつぼ、かたかたは、ほそくて、させば、そのまゝ棒をとをすよふに仕(し)たる物なりし。折々此ことを被ㇾ仰て有し。御一生、不自由被ㇾ遊し。

 

Hyakumidansu

 

[やぶちゃん注:ここに「百味たんす」(簞笥)の真葛のスケッチが入る。底本よりトリミングして入れた。言わずもがなだが、漢方医が薬品を入れておく小さな引き出しが沢山ついている箪笥。「薬味箪笥」とも呼ぶ。右上のでっぱりが「うつぼ」であろう。

「うつぼ」「空穗・靫」で、本来は実戦用の矢を指す容器であるが、近世は大名行列の威儀となり、紙の張抜(はりぬき)製のものに黒漆塗りにして金紋を据え、飾り調度とした。ここは、後者。]

 幕も、あたらしく、二はり、こしらへられしを、火事のせつ、野宿しても、幕、あれば、よきものなるを、是も藏入にしてやくし、小袖だんすが、ばゞ樣、壱(ひとつ)、母樣、壱のうへ、御普請前、思召付(おぼしめしつき)にて、上桐にて、白木にさゝせ、黑ぬりの金物(かなもの)打(うち)たるが、小袖入、羽織入と、かたちを別にして、二ツ被仰付てしを、寸法、内のり・外のりの、たがひにて、巾、せまく、用たゝず、

「子どもの着物、入(いれ)よ。」

とて、又、あらたに二(ふたつ)、出來たりし。都合、七ツ有しを、壱も出(いださ)ず。衣類を包にばかりしてもちのきし故、早速、入物(いれもの)に、こまる。朱ぬりの刀懸(かたながけ)、大きからずして、下に懷中物・さげ物など入(い)るよふにしたる有しが、なくて、不自由なり。此品々は母樣にも、

「どうぞ、出(いだ)せば、よかりし。」

と被ㇾ仰し。外は是非もなきことゝ思召れしなり。

 其時代は下人まで律義なりしなり。又、築地邊(あたり)の人は、心が、よかりしなり。出入のあき人も、たゞものを預(あづかり)ておいて、心づかひのなき人、多かりし。

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