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カテゴリー「只野真葛」の160件の記事

2023/12/29

ブログ・アクセス2,060,000突破記念 只野真葛 むかしばなし (122) 「むかしばなし」後書+工藤氏系譜・桑原氏系譜 / 「むかしばなし」電子化注~完遂!

[やぶちゃん注:本最終電子化は、三日前の十二月二十七日に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,060,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年十二月二十九日 藪野直史】]

 

  書昔話後

昔話六卷、藩醫工藤周庵之女眞葛所筆記也。系譜附于後、以示於此記耳。周庵及眞葛之筆記數部、存于其家云云。

  乙卯春書省齋南窓下    佐々城直知

 

[やぶちゃん注:以上は、底本では全体が三字下げ。最後の署名は、底本では三字上げ下インデント。推定で訓読しておく。

   *

  「昔話」の後(あと)に書す

「昔話」六卷、藩醫工藤周庵の女(むすめ)眞葛、筆記する所なり。系譜、後(あと)に附き、以つて此の記を讀む者に示すのみ。周庵、及び、眞葛の筆記、數部、其の家に存(そん)すと云云(うんぬん)。

  乙卯春書省齋南窓下    佐々城直知

   *

「乙卯」安政二(一八五五)年。因みに、真葛は文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没している。享年六十三であった。

「佐々城直知」佐々城朴安(ささきぼくあん 天明五(一七八五)年~文久元(一八六一)年)は医師。陸奥桃生郡(現宮城県)出身。直知は本名。通称は他に「朴庵」がある。「省齋」は号。京都で婦人科学を学んだ。文化一一(一八一四)年、陸奥仙台藩の医員となり、「医学館」の付属薬園長・婦人科教授に就任した。天保四(一八三三)年には、「救荒略」を著し、飢饉の際に食用となる草木二百三種を紹介している。他の著作に「救民単方」などがある。

 以下の系譜は、例式で罫線でずっと繋がっているが、ブラウザでは加工が困難であるから、略記号に代えた。各人の表記はポイントが大きく、その事績本文は二行割注であるが、【 】で、本文(訓点は下・上附きは再現した)ポイント落ちとし、ブラウザの不具合を考え、長いものは適宜改行した。特に難しくもないので、訓読・注は附さない。底本の『原傍註』とある箇所は[ ]で入れた。割注の最後には句読点がないが、句点を打った。

 

工藤氏系譜略

 

○工藤丈庵【獅山樣御代被召出一袖ケ崎邸御隱居後同邸定詰。】

┗周庵【丈庵養子、實徹山樣御代還俗被仰付、號平助、出入司勤仕。】

 ┃

 ┣女子【藩士只野伊賀爲後妻、號眞葛、無ㇾ子、母桑原隆朝之

 ┃   嫡女、眞葛卒歲。】

 ┣長庵【早世。】

 ┣女子【津輕侯之臣雨森權八郞妻。】

 ┣女子【田安樣奉仕、御姬樣松平越前守樣御入輿付、御附御老女

 ┃   相勤候所、御姬樣御卒去付、其後爲ㇾ尼、號瑞性院

 ┃   天保六年卒。】

 ┃  【右御姬樣、桑名少將定信松平越中守[初居城奧州白川。]、實

 ┃   田安中納言宗武卿御三男、依臺命定邦侯養子、隱居而

 ┃   樂翁

 ┃   桑名少將樂翁侯ノ御姪樣付、樂翁樣時々罷出候付、樂翁樣

 ┃   御書數通持居候付、乞受取而私方ニも數通持居申候。瑞性院手

 ┃   跡もよく、觀音經認候を私も所持仕居申候。】

 ┣源四郞【平助家督、御近習相勤、眞葛只野伊賀方後妻相成、

 ┃    江戶ヨリ罷下候砌、同伴罷下候、文化年中病死。】

 ┣周庵【三代目之桑原隆朝二男、源四郞急病

    養子、今安政二乙卯盲目ニテ年五十餘歲、

    北三番丁木町通ヨリ二軒目。】

 

桑原氏系譜略

 

初代

○桑原隆朝【生國氏系不ㇾ知、忠山樣御代橘家ヲ爲人元

 ┃   召出。】

 ┃

 ┣女子【工藤平助妻。】

 ┃

 ┃二代目

 ┣隆朝【桂山樣御代御藥上相勤、妻谷田太郞左衞門娘也。

 ┃   谷田氏其節公儀使ニテ定詰。】

 ┃

 ┃三代目

 ┣隆朝

 ┃

 ┃四代目

 ┣隆朝【當時御近習相勤、住二同心町玄貞坂行當リヨリ西ノ方南側。】

 ┃

 ┗周庵【工藤氏爲養子。】

 

工藤平助女子七人有ㇾ之、秋の七草たとへ名付候付、只野伊賀妻私繼母眞葛と申候。[外女子四人緣付候所承合候而追々可申上候。]右兩家之系譜御聞被ㇾ成度旨御問合付、大略申上候。委敷義は昔話御參考被ㇾ成候得者、相知可堅甲候。以上

  十一月廿日        眞山杢左衞門

[やぶちゃん注:以上の署名は、底本では三字上げ下インデント。]

  佐々城朴安樣

 

 尙々私儀は只野伊賀次男ニ而、眞山養子相成候付、繼母之緣ニ而兩家之系統承居候處ヲ、匆々申上候。尙亦委く工藤桑原へ御聞被ㇾ成候方と奉ㇾ存候。以上

 

[やぶちゃん注:この只野真葛の「むかしばなし」の電子化は、二〇二一年二月二日に始動したが、途中、他の電子化注にかまけて、中断多く、結果、三年足らずかかってしまった。当初、底本のルビを( )で、私の推定歴史的仮名遣のルビを《 》にしていたものを、長くペンデイングしている中で、途中から逆転させてしまったミスも起こしてしまった。数少ない読者に御礼とともに、陳謝しておく。]

只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了

 

一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。

 よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。

 其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、

「ふわふわ」

といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。

 何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。

「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」

と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、

「其玉を上(あげ)よ。」

と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。

 ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。

 御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。

[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。

「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。

「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。]

只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了

 

一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。

 よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。

 其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、

「ふわふわ」

といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。

 何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。

「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」

と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、

「其玉を上(あげ)よ。」

と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。

 ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。

 御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。

[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。

「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。

「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。

 なお、参考底本とした一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂・新字表記)の鈴木氏の解説に、本書の『興味深い』点として、三つを挙げておられ、まず、『第一に華やかな天明期前後の江戸の文化を闊達な口語文体で写しとった点』を示され、『第二に、序に明記されてあるように』、『実家の滅びた原因を女の悪念とし、それを全編の主題とした点が挙げられる。都市の共同幻想』(「都市伝説」)『と関連させている』特徴を指摘され、『第三に、女性に拠る家の記が書かれた点でも興味深い。その場合の家の概念も特殊である。あくまで長井家という武士の末裔としての父がいて、それを中心としたものであり。必ずしも医家工藤家の系譜を指していない。文章中には、女でありながら』、『尊敬する父になりかわろうとする気持ちも述べられていて、いわゆるエレクトラ・コンプレックスが指摘される。母に関する記述が少ないことも同様の原因によるものと思われる』と締め括っておられる。この第三の分析は、非常に優れており、真葛の病跡学的な新たな地平が見えてくる気がした。

只野真葛 むかしばなし (120) 折助のこと

 

一、「ぞうり取(とり)」を「折助(をりすけ)」とつけること、昔は世上一面(せじやういちめん)のことにて、ぞうりつかみて、ありくものをば、

「どこの折助ぞ。」

と、いひしなり。ワ、七ばかりのことなりし。ある下女(げぢよ)、他(ほか)の屋敷のぞうり取と、なじみ、戀したひしてい[やぶちゃん注:「體(てい)」。]、おかしかりしかば、

「折助どのは、なぜ、おそひ[やぶちゃん注:ママ。]。わらじができぬか、御門(ごもん)どめか。」

と、うたに作りて、うたひしが、大はやりと成(なり)、それより、いろいろ、下男のあざなを作りだし、「折助」とよばるゝ身には、氣の毒におもふこと、おほかりし故、一とう、其名をはぢることゝなりて、工藤家にても、やはり、ぞうり取は、「折助」といふが、通り名にて有(あり)しを、下男のかたより、

「何卒、折助の外(ほか)の名をつけ被ㇾ下度(たし)。」

と願(ねがひ)し故、やめたりし。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 其ころの「地口(ぢぐち)あんどん」に、中元(ちゆうげん)[やぶちゃん注:「中間」に同じ。]が鍋を背おひし所を書(かき)て、

「折助どのは鍋をしよい」

と書(かき)しことも有し。

 又、「熊坂(くまさか)の長範《てうはん[やぶちゃん注:ママ。]》とおぼしき出(いで)だちの武者(むしや)、西瓜(すいか)みせへ、とび入(いり)、長刀(なぎなた)にて、西瓜を切(きり)し所を書(かき)て、

「うすあかどのとは夢にもしらず」

 また、大荒若衆(おほあらわかしゆ)の兩手に、深編笠をさし上(あげ)て、にらみし形(かたち)、腰より下は、ほそぼそと仕(したて)たる形、かうのづに、しのぶの裾模樣のふり袖にて、黑ぬりの駒下駄をはきし足つき、手とは、かわり[やぶちゃん注:ママ。]て、しなやかなり。上に、「鎌倉の權五郞かげまさ」。是等、なにとなく、をかしみ有(あり)て、其ころのできなりと、おぼへし。

[やぶちゃん注:「折助」江戸時代、武家に使われた中間(ちゅうげん)や小者(こもの)の異称・卑称である。「折公」「駄折助」などとも呼んだ。「折助根性」(折助が一般に持つ性質で、人の前では働くが、人の見ていない所では、極力、働かないでいようという、ずるい気持ちを言う卑称)や「折助凧(をりすけだこ)」(武家の下僕などが気どって歩くときにする、袂(たもと)の先を、中から、つかんで、袖を左右に引っぱった形に似せて作った凧。奴凧(やっこだこ))などの卑語が生まれた。また「奴」(やっこ)の語源も、この連中の本来の謂いである「家つ子(やつこ)」(やっこ)だとされている。「折」の語源は、小学館「日本国語大辞典」の「おりすけ」に、『⑴赤坂辺に住んでいたオリスケ(折助)という下男の名前から』、『⑵主人の後先になって立ち働く所作が、折句の題をおもわせるためか』、『⑶尻を端折ったような短いはっぴ姿に対するあだ名からか』とあった。

「地口あんどん」「地口行燈(灯)」。「ぢぐちあんどう」とも。地口を書いた行灯。多く、戯画を添えて描き、祭礼の折りなどに路傍や軒先などに掛けられた。「地口」。

「熊坂の長範」小学館「日本大百科全書」の「熊坂長範」によれば、『生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に』よれば、七『歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った』が、承安四(一一七四)年の『春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚』『は、義経』『モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。謡曲』「烏帽子折(えぼしおり)」や「熊坂」、能狂言「老武者」、歌舞伎狂言「熊坂長範物見松(ものみのまつ)」は『長範を扱って有名』とある。

「大荒若衆」滋賀県高島市新旭町安井川にある大荒比古(おおあらひこ)神社(明治初年までは「河内大明神」と称していた)の例祭「七川祭」(しちかわまつり:現在は五月四日に行われる)の若い衆によって行われる派手な「奴振り」(やっこぶり)を喩えたものだろうか。「うずら」さんのブログ「おかんのネタ帳」の「七川祭 奴振り」を見られたい。写真がある。

「かうのづ」は「香の圖」で、元来の意味である「源氏香の図」(五本の線を基本として、組香(くみこう)の違いを示したものから転じて、それを象った紋所、或いはそれを文様化したものを、ここでは指す。私は前面にそれを散らしたハンカチーフを持っている。知られたものでは、岩波書店版初版の「鏡花全集」の本体のデザインが、真っ先に浮かぶ。

「鎌倉の權五郞かげまさ」私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の注を参照されたい。]

2023/12/28

只野真葛 むかしばなし (119) 力士「谷風」と蕎麦食いを張り合った役者澤村宗十郎のこと

 

一、鐵山樣[やぶちゃん注:これは「徹山樣」の誤記。既に何度も注しているが、仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。]の御代に出(いで)しは「谷風」なり。

 近頃のこと故、人もしれば、かゝず。

 命、ながくて、世人(せじん)にしられたれど、「まる山」は、それにも、まさりしものならんが、其間、みじかゝりし故、江戶人なども、今は、しるもの、すくなかるべし。

 其世に名を得し澤村宗十郞、「まる山」と、そばの食(くひ)くらせしことも、人の、よく、しりし事なりしが、後(のち)は、しる人もなくなりぬべし。

[やぶちゃん注:前の「118」の横綱丸山に触発されて記されたもの。

「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は、「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」の最後にちらっと出るので、見られたい。注もしてある。事実上、史上初の実在した横綱である。

「澤村宗十郞」歌舞伎役者の四代目澤村宗十郎(天明四(一七八四)年~文化九(一八一三)年)。文化八(一八一一)年十一月、市村座において、四代目澤村宗十郎を襲名し、大当りをとったが、翌年十二月、病いにより没した。享年二十九。]

 此宗十郞、そば好(ずき)にて、手打の「そばみせ」を出(だ)し、狂言やすみの折(をり)は、其みせへ、女客、おほく來り、繁昌せし、とのことなりし。

「其頃、『おはなこま』といふ博打、はやりて、役者などの、もはら[やぶちゃん注:「專」。]、せしことなりしが、宗十郞、いつも『おはなこま』にまけると、駕(しのぐ)にも、かけおちして、舞臺を引(ひき)し時、御城女中(ごじやうぢよちゆう)[やぶちゃん注:江戸城大奥勤めの女中。]より合(あはせ)て、「つぐのひ金(きん)」して、舞臺へ、いだせし事、數度(すど)有(あり)し。」

と、ばゞ樣、常のはなしなりし。

[やぶちゃん注:サイト「ゲームの会ボードウォーク・コミュニティー」の「お花こま」に、『お花こま・お花コマ・お花独楽』とあり、『江戸時代に街角で行われた遊戯。六角柱の木材に心棒を付けた独楽で』六『つの側面に絵を描いてある。別にその』六『つの絵を描いた紙を用意し、これに賭け金を出させる。独楽を回し、回り終わって倒れた時に、書けた絵が上面に出ていれば賭け金の』四・五『倍程度の賞金が帰ってくる仕組み。絵柄が、お花半七、お染久松などが描かれていたので、お花独楽と言う』とあって、画像も載る。見られたい。]

 文化年中に「宗十郞」といひしが、「ぢゞ」にて、男ぶりよく、至極の風雅人にて有しとのはなしなり。

「役者の妻など、不義有(ある)事は、いさめがたし。」

とて、「女房」といふ名のつきし女、五人ばかり、常に、もちて、所々に、かこひおき、氣にむきたる所にとまり、其身、かへりて、間男(まをとこ)の氣どりにて、たのしみし、とのことなりし。

 上方へのぼるとて、いとまごひに海老藏方へ行(ゆき)し時、屁(へ)の出(いで)しを、

  ふつと立(たつ)顏にもみぢの置(おき)みやげ

と、いひしかば、

  餘りくさゝにはなむけもせず

と、海老藏つけし故、

「此歌にて、ことすみし。」

とて、其頃の世人、いひはやせしとて、ばゞ樣のはなしなり。

 宗十郞、俳諧上手にて、よき句ども、あまた有しとぞ。

  くどかれて火ばちのはいもうつくしく

などいふ、口つきなり。

只野真葛 むかしばなし (118) 力士「丸山」

 

一、忠山樣御代に、御家老衆の徒步(かち)のものとなりてのぼりし内、權太左衞門といふ男、勝(すぐれ)たる大男にて有(あり)しが、江戶見物を願(ねがひ)て、供人となり、登りしに、大男のくせ、道下手(みちべた)にて、身は、おもし、一日に二足のわらじをふみ切(きり)しに、道中、出來合(できあひ)のわらじ、なく、宿へつきてより、我(わが)足にあふほどに作(つくり)て、はかねばならず、二足のわらじをつくるうちには、いつも御供ぞろひとなり、日中、つかれても、馬にのれば、足が下へ、つきて、ゆかれず、終日(ひねもす)、あゆみては、又、とまりには、わらじつくる故、やうやう、江戶まで來り、あくる年は、

『ぜひ、道中がならぬから、江戶にとゞまりたし。』

と思ひしを、世話やく人、有(あり)て、

「相撲(すまふ)になれ、」

と、すゝめし故、終(つひ)に相撲には成(なり)し、とぞ。

 是は、桑原ぢゞ樣、つとめ中(ちゆう)故、始終のこと、よく御ぞんじなりし、とぞ。

 いまだ、主人は、沙汰なしにて、内々、

「相撲に、ならん。」

といふかけ合(あひ)せし時、しごくの密談なるに、いくら聲をひそめても、喉(のど)、ふとく、大桶の底をたゝくごとくにて、

「權太左衞門、密談の事(こと)有(あり)。」

とは、その長屋中は申(まふす)におよばず、又々、隣(となり)の長屋までも、しれて有し、とぞ。

 手判(てはん)をおすに、半紙一枚ヘ、一ぱいにおされしを、大はやりにて、人々、もとめしほどに、一枚百文にうりし、とぞ。

 仙臺まる山といふ所の生(うまれ)なりし故、「まる山」と名のりしなり。

 一向、相撲の手をしらず、たゞ兩手にて、おしいだすに、こらへしもの、なかりし、とぞ。

 江戶・京・大坂を經て、長崎にいたり、「まる山」といふ所にて、死(しし)たりしは、おしきことなりし。

 仙臺「まる山」に生れて、長崎の「丸山」にて死せしも、不思議のことなり。

 御國(みくに)には、折々、名代の關取、いづる所なり。

[やぶちゃん注:「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」が同一人物の話であるが、こちらの方が、話が、しっかりしており、特に後の半分が、そちらには、ない。

「仙臺まる山」実在した第三代横綱とされる「丸山權太左衞門」は、上記リンク先の私の注を見られたいが、現在、彼の生地は、陸奥国遠田郡中津山村、現在の宮城県登米(とめ)市米山町(よねやままち)中津山(なかつやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の出身とされている。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、「丸山」の地名はない。しかし、ここには旧「米山村」で、字名に「中津山」がある点で、「山」が入る地名ではある。なお、宮城県仙台市泉区野村丸山なら、ここにあり、ここは仙台市街の北直近で、真葛が、誰かに、東北弁で訛った発音で「むらやま」を「まるやま」と聴き違え、城下近くの知られる地名として、こちらに誤認した可能性があるようにも思われる。

「長崎」「まる山」古くから知られた花街であった。現在の長崎県長崎市丸山町(まるやままち)。なお、ウィキの「丸山権太左衛門」では、『死因は赤痢と言われている』とあるのだが、しかし、『日本庶民生活史料集成」版の中山栄子氏の注によれば、丸山は、『長崎で剣客を破り』、『怨みをか』って、『毒殺された』とあった。

只野真葛 むかしばなし (117) 力士「布引」と柔の使い手「佐藤浦之助」の勝負

 

一、靑山樣御代(みよ)に、「布引(ぬのびき)」といひし角力取(すまひとり)有(あり)しが、其由來は、ある時、

『ちからを、ためさん。』

と、おもひて、日本橋ヘ出(いで)て、くるまうしのはしり行(ゆく)を引(ひき)とゞめしに、牛は、はしりかゝるいきほひ、こなたは、大力にて、ひかへしを、引合(ひきあひ)て、くるま、中(なか)より、われて、左右へ、わかれし、とぞ。

[やぶちゃん注:「靑山樣」「伊達騒動」の火中を生きた仙台藩四代藩主伊達綱村。万治三(一六六〇)年七月、父綱宗の叔父に当たる伊達宗勝(陸奥一関藩主)の政治干渉や、家臣団の対立などの様々な要因が重なり、父が強制隠居させられ、僅か二歳(満年齢で一歳四ヶ月)で家督を相続し、元禄一六(一七〇三)年に養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。]

 それより後(のち)は、牛の胸へ布をかけて引(ひき)しに、いつも、とゞまりし故、「布引」とは、つきしぞ。

「天下に、まれなる力士。」

と、いはれしを、茶の湯しゃ[やぶちゃん注:ママ。「ゃ」もママ。「茶の湯者」であろう。]の大名【六萬石ばかり】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、松浦(まつら)ちんさいと申御人(ごじん)かゝへに被ㇾ成て、

「凡(およそ)、天下に、我(わが)かゝへのすまふを、なげる人は、あらじ。」

と、自慢有(あり)しを、かねて靑山樣にも御じゆこん[やぶちゃん注:ママ。「御昵懇(ごぢつこん)」。]なりしうへ、御家中にも、かれ是、茶の弟子、有(あり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「松浦ちんさい」肥前国平戸藩第四代藩主松浦重信(元和八(一六二二)年~元禄一六(一七〇三)年)。隠居後に諱を、曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記の方が知られているが、ここの出る「ちんさい」の号は確認出来ない。彼は「甲子夜話」で知られる松浦(静山)清の事実上の五祖父である。

 以下は底本でも改段落してある。]

 靑山樣、仰出(おほせいだ)さるゝは、

「御家中に『布引』を、なげんとおもふ、おぼえのものあらば、申(まふし)いでよ。」

と、御(おん)ふれ、有(あり)しに、村方の役人とか、つとめし人に、佐藤浦之助といへ[やぶちゃん注:ママ。]しもの、小兵(こ《ひやう》)にて、大力の柔(やはら)とりにて有しが、

「拙者こと、ひしと、かゝり柔《やはら》鍛鍊(たんれん)仕(つかまつ)りなば、なげ申べし。」

と、申上たりしを、

「さあらば。」

とて、けいこ被仰付、其内は、日々、鴨二羽を食(しよく)に給(たまは)りし、とぞ。

 日(ひ)有(あり)て、

『わざも、熟したり。』

と、おもひしかば、そのよしを申上し時、松浦へ仰入(おほせいれ)らるゝは、

「手前家中に『布引』と力をこゝろ見たしと願(ねがふ)ものゝ候。いかゞしきことながら、くるしからずおもはれなば、御なぐさみながら勝負を御覽候わんや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と被仰遣しに、もとより、角力好(すまひずき)の松浦なれば、

「興(けう)有(ある)事。」

と悅(よろこび)て、

「いそぎ、こなたへ被ㇾ遣よ。」

と、挨拶有(あり)しかば、浦之助を被ㇾ遣しに、

『あなたは、名におふ關取なり。こなたは、常より、小ひよう[やぶちゃん注:ママ。]にて、いかでか、是が勝(かつ)べきぞ。』

と、たちおふ事さへ、おかしきほどに、人々、おもひしに、

「ひらりひらり」

と、ぬけくゞりて、中々、布引が手にのらず、いかゞはしけん、大男をかつぎて、

「ひらり」

と、なげり[やぶちゃん注:ママ。]たりけり。

 人々、案に相違して、おどろき、ほめて有し、とぞ【浦之助は、「大ひよう[やぶちゃん注:ママ。]大力の男にとらへられては、必定、まけなり。」とて、工夫して、手にとられぬやうに、立𢌞(たちまは)りし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 松浦殿、興に入(いり)、

「すぐすぐ、是(これ)へ、是へ。」

とて、浦之助を、はだかのまゝ、女中なみ居(をり)し奧坐敷へ、とほされ、側(そば)ちかく、めされて、

「今日のふるまひ、誠におどろき入(いり)たり。是は、いかゞしけれども、つかはす。」

とて、二重切(にぢゆうぎり)の花生(はないけ)【名器なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。「二重切」は竹の花入れの一種で、二つの節の間に、各々、窓をあけ、水溜めも二ヶ所つけたもの。利休の創始による。]を手づから賜り、

「さて、此座にある女のうち、いづれにても、其方が心にかなひしを、妻に、つかはすべし。いざいざ、のぞめ。」

と有(あり)ければ、いなかそだちの無骨もの、女中なみ居しまん中へ、まるはだかにて、引(ひき)いだされ、おもひがけなき御ことばに、當感して有(あり)けるが、

『見めよき女は、我に、一生、つれそうまじ。』

と、おもひて、一番みにくきも[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]顏の女を望みて、かへりし、とぞ。

 さてこそ、浦之助を、「日の下(もと)かいざん」とは、つけられし、とぞ。「布引」は、浦之助に、やわらの手にて、なげられしを、生涯、『むねん。』にて有(あり)し、とぞ。

[やぶちゃん注:この話、「奥州ばなし」にも「佐藤浦之助」として同話が載る。そちらの注を見られたい。]

只野真葛 むかしばなし (116) 仇討ち二話

 

一、長井工藤のぢゞ樣がた、むかしなじみの人に、父のあだを打(うち)、後(のち)に醫となりし人、兩人、有(あり)しが、いづれも、骨、ふとく、大男、力もさぞ有べし。醫は、餘り、上手にては、なかりし、とぞ。

 其内、壱人の、つたひは、あだをねらう身なれば、常にさして、おもし、と、思ふほどの刀をさして居(をり)たりし、とぞ。

 しかるに、大坂の町中にて、あるとき、ふと、敵(かたき)に行合(ゆきあひ)、なのりかけて、立(たち)あひしが、日暮のことなりしに、このていを見るより、兩側(りやうがは)の町屋にては、

「ひし」

と、戶をさして、いづる人、なし。

 雨は、しきりに、ふりまさるに、二うち、三打、うちあふ内に、くらくなりて、たがひにけわひ[やぶちゃん注:ママ。「氣配」。]を、めがけて、うつことなりしに、常に、おもしと、おもふ刀の、かろきこと、手に持(もち)しやうにも、なかりしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、

『あやしや、俺も、死つるか。』

と、つば本(もと)より、先迄、みねを引(ひき)て見し内、切りこまれたる太刀より、うけだちと成(なり)て、はなはだ、あやふく、隅の所へ、おしつけられ、すで一うちとなるべき時、いさゝか、計略をめぐらし、

「着ごみをきてゐるから、脚を、なぐれ。」

と言葉をかけし故、すけだち、有(ある)や【かたきの心なり。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]

と、後(うしろ)を見かへる時、きりつけて、仕(し)とめたり、とぞ。

 誠に、この一言にて勝(かち)とは成(なり)しなり【「かゝる急難に逢(あひ)し内、か樣(やう)の一言(ひとこと)は、中々、今時(いまどき)の人の出(いで)まじきことなり。」と、父樣、常に被ㇾ仰し。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]。

 其時、數(す)ケ所、きずをうけ、右のうでを、きられしが、筋(すぢ)へかゝり、不自由に成(なり)て、刀をふること、あたわねば[やぶちゃん注:ママ。]、醫とは、なりし、とぞ。

 大音にて、玄關より、

「お見舞申(まふす)。」

といふ聲、家内にひゞきし、とぞ。

 今壱人は、六、七萬石の大名の家中なりしが、殿、御年、若く、劍術をこのませられ、新參の劍術者を、御取立(おとりたて)有(あり)て、家老に被ㇾ成(なされ)しより、元來、よろしからぬものにて、譜代の忠臣・老臣を、いみて、過半、是がために讒《ざん》せられし中(なか)に、廿餘(はたちあまり)のせがれに、劍術を、よくして、大力大兵(たい《ひやう》)のもの、有しを、父子共に、いまれて、御いとま出(いで)し、とぞ。

 さて、殿は、大坂御城代を仰蒙(おほせかふむ)らせられて、かの惡家老(わるがらう)も、供にめしつれられて、御立(おたち)有し夜(よ)、浪人せし老臣、せがれを、めしつれ、御門前にいたり、石に腰をかけ、

「さて。汝に、いひおくこと有(あり)。殿、新參佞人(《ねい》じん)にまよわせられ、忠臣を、うしなはるゝこと、なげくに、たえず。あの佞人を打(うつ)て、すてたくおもひ[やぶちゃん注:ママ。]ども、年老たれば、彼に及びがたきを、はかる間に、浪々の身とまでなりしは、無念のいたりなり。汝は、天晴(あつぱれ)、かれを打(うつ)べき力量あれば、是より、すぐに追付(おひつけ)、佞人を、打(うつ)て、我(わが)無念を、はらさせよ。おしからぬ命は、今、汝を、はげますために、絕つぞ。」

とて、もろはだぬぎて、腹、切(きり)ながらも、

「少しも、はやく、佞人を打(うつ)て、我我(われわれ)、まうしう[やぶちゃん注:ママ。「妄執」で「まうしふ」が正しい。]を、はらさせよ。死がいは、此まゝ、すておくべし。

人の見付(みつけ)て、『おもふ心、有(あり)』とは、沙汰すべし。」

とて、息、たえたり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 一子は、此ていを見て、無念のおもひ、もゆるがごとく、少しも早くとはおもへども、一日(いちにち)路(みち)おくれし事故(ゆゑ)、是非なく、旅用意を、とゝのへて、道中を追(おひ)かけしが、便(びん)あしくして、道にては、出(いで)あはず。

 大坂にいたりては、每日、大手をうかゞひしに、かの家老、美々しく出いで)たちて、馬にうちのり、城門を出(いで)しを見かけ、心、悅(よろこび)、太刀をぬいて、おどりいで、先(せん)がち[やぶちゃん注:「先徒歩(せんがち)」。]の中へ、きりいりしに、廿人餘(あまり)の供廻り、壱人も、敵(てき)するもの、なく、皆、ちりぢりに、にげさりて、かたき壱人(ひとり)となりし時、大聲、あげて名のるは、

「我は、是(これ)、其方(そのはう)がために、ざんせられて、浪人せし、何の何がしが悴《せがれ》なり。父は、其方をうらみて、過(すぎ)し御出立(おんしゅつたつ)の夜(よ)、御門前にて、切腹して、相(あひ)はてたり。父のかたき、のがさず。」

と、切(きつ)てかゝりしかば、さすが、劍術者ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、臆する色なく、馬上ながら、わたり合(あひ)しを、馬のもろ膝(ひざ)、なぐつて、引(ひき)おろし、徒步(かち)だちとなりて、しばしは敵《てき》も仕合(しあはせ)しが、孝子は、終(つひ)にうちかちて、首(くび)をかきしぞ、いさましき。

 此勝負は、至(いたつ)て、はれなことにて有(あり)し、とぞ。

 大坂御城前の廣場故(ゆゑ)、近よる人こそ、なけれ、四方は、人ぶすまを作りて、見物せしが、首、引提(ふつさげ)て、立上(たちあが)り、

「ことの由(よし)をうつたへん。」

と、奉行所、さして行(ゆく)あとへ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり、へだちて見物の人、おして來(きた)るどよめきは、芝居の打(うち)だしのごとくなりし、とぞ。

 日も暮(くれ)しかば、手々(てんで)にて、提燈、さげて、したひくるを、

『いかゞするとぞ。』

と、こゝろ見に、ふみとまれば、數人(すにん)も、とどまり、あゆめば、また、追(おひ)くる故、あとへ、少し、もどりしかば、

「ワツ。」

ト、いふて、にげちるてい、おもしろきことゝおもひて、度々(たびたび)、後(うしろ)をふりむき、刀を、ふりなどして、おどしたりし、とぞ。

 さて、奉行所へ、いりて、ことのよしを、つぶさに申上(まふしあげ)しに、隨分、ていねいなるとりあつかひにて、落着(おちつく)までは、「預り」に成(なり)て有(あり)しに、

『人も、いやしめねば、よし。』

と、おもひて有しを、

「明日、落着(らくちやく)。」

と聞(きき)し時より、段(だん)おちして、「斬罪《ざんざい》」のもののあしらひと成(なり)し故、

『命(いのち)おしき事は、なけれど、「しばり首」きられんは、無念、いたり。』

と思へ、其夜、風呂に入(はいり)し時、ゆかた一枚にて、手ぬぐひを、帶となし、風呂屋をぬけて、出(いで)たりしが、やゝありて、追手(おつて)のかゝるていなりし故、藪にかゞみて、やうすを見しに、兩三度、其前を過(すぎ)しが、藪の中まで、さがすていにもなかりしかば、藪ごしに街道へ出(いで)しが、折ふし、極寒の夜なるに、湯上りといひ、ひとへにて、寒氣、絕(たえ)がたくおもひし時、むかふより、侍、壱人、來りしを、とらへて、

「我は、是(これ)、おとにも聞及(ききおよび)つらん、このほど、父のあだをうちし何の何がしなり。明日(あす)、『しばり首』きられんよし、聞(きき)し故、無念におもひてたちのくなり。其方、衣服・大小、申(まふし)うけたし。もし、異議におよばゞ、命迄ももらわねば[やぶちゃん注:ママ。]、ならず。」

と、いひければ、ふるひ、ふるひ、衣類・大小を、わたしたりし故、身の𢌞りを、こしらへ、夜明(よあけ)て見れば、大小、氣にいらぬ故、刀屋(かたなや)の見世(みせ)へ、いりて、始(はじめ)のごとく、なのり、

「此大小、とりかへもらひたし。」

と云(いひ)ければ、亭主は、おずおず、あまたの大小を、いだしたるを、

「するり」

と、ぬいて下に置(おき)、又、ぬいては、おきおきして、刄物(はもの)を、殘らず、ぬきならべ、其内にて、心にかなひしをとりてさし出行(いでゆき)しに、一言も、いふことなかりし、とぞ。

 後(のち)に聞(きけ)ば、ぬきたりし刄物を、四、五日は、おめる[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では、『おさめる』(ママ)である。]人、なくて、大坂中の人、見物に來りし、とぞ。

「大坂人は、ものおぢする。」

と、いへば、さぞ、あらんかし。

只野真葛 むかしばなし (116) 深川の異次元

 

一、築地の時分、「せうか」といふ野太鼓と、町の名主と、二人づれにて來り、夕方より、はなしごと有(あり)し時、父樣、手本(てもと)に、むだづかひにして、よき、かね、有しを、兩人に、つかはされ、

「いづかたへぞ、遊びに、ゆけ。」

と被ㇾ仰しかば、大きに悅(よろこび)、すぐに、深川へ行(ゆき)し、とぞ。

 いづくよりも繁華にて、しごく、兩人とも、もてたることにて、大うかれにて、翌晚、來りて、はなしに、

「いや、近頃におぼへぬことなりし。料理の結構さ、中々、つとめなしに、あればかりでも、やすき事。」[やぶちゃん注:「つとめなし」「自分の仕(し)まわしたのではない金ではなしに」の意か。]

とて、一晚、その夜の、おもしろかりし、はなしゝて、歸りしが、名主のかいたる女、「お長」とやらいひしを、其夜のもてなし、わすれかねて、二、三日、立(たつ)て、

「深川へ行(ゆく)。」

とて、舟をかりしに、舟宿のもの、あやしみて、

「あの燒原《やけわら[やぶちゃん注:ママ。]》へ、何しにお出被ㇾ成まし[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では「まし」は『ます』である。]。『ばけ物が、でる。』とて、日がくれてからは、誰(たれ)も、參りません。」

と、いはれて、おもへば、廿日ばかり先に、地步(じほ)、はらつて、やけし、あとなり。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]

 其火事は、江戶中の人、しらぬ事、なし。

 さりながら、まさしく、このほど見しけしき故、餘り合點ゆかず、無理に行(ゆき)て、みた所が、有(あり)しにかはる、燒原(やけはら)なり。

「そこよ、爰(ここ)よ、」

と、少し、人のゐる所へ行(ゆき)て聞(きく)に、

「『お長』といふ女は、なし。」

と、ばかり、こたへしが、小屋がけの髮結床(かみゆひどこ)に、七十ばかりのぢゞの居(ゐ)たりしが、聞(きき)て、

「はて、かはつた名を聞(きく)人だ。むかし、『お長』といふ女が、深川一番のもので有(あつ)たが、賊に逢(あひ)て、ころされてから、誰(たれ)も其名はつぎませんが、火事について、もし、其(その)ゆふれい[やぶちゃん注:ママ。]でも、出たか。」

と、いはれし。

「うすきみわるく、すごすご、歸りし。」

と、其後(そののち)、來りての、はなしなりし。

 父樣にも、はじめに御聞被ㇾ成し時、

「大火の事を、おもひいでざりしは、ばけ物の、とばしり、かゝりしや。何を食(くふ)て、『うまし。』と、おもひしや。ふしぎこと。」

と、仰(おほせ)し。

[やぶちゃん注:「とばしり、かゝりしや」「かの二人だけでなく、私(父平助)も、その化け物に、とばっちりを掛けられた、食らったものか。」という意味であろう。]

只野真葛 むかしばなし (115) 腑分け後の怪異

 

一、父さま、いまだ、獨身にて有(あり)し時、解體(かいたい)の師に付(つき)て、とが人の、どうを、かついで、俯分(ふわけ)をしに、先生と、同門弟、四、五人づれにて、鈴が森に御出(おいで)有しに、十月末にて、から風、吹(ふき)、さむき夜中、死人をいろいろに、とき、さばき、見おわりて[やぶちゃん注:ママ。]、

「家へ、かへるよりは。」

とて、いづれも、品川に行(ゆき)、あそびしに、女郞共、何か、そはそはとして、おちつかぬていなりしが、寢(いね)さまに、茶わんにて、酒、二、三盃のみて、ふしたりし、とぞ。

『酒の好(すき)な女か。』

と、おもひて、御出(おいで)有しが、一寢(ひとね)ねて、目のさめし時、枕の上にて、ほととぎすの聲せしが、

『軒(のき)ぎわ[やぶちゃん注:ママ。]か、もしは、廊下内(うち)か。』

と、おもふほど、ちかゝりしを、聞(きく)とひとしく、女郞は、

「ひつ。」

と、いふて、すがりつきし、とぞ。

「夜のあくるやいな、いづれもかへりしが、家に來りてよく考(かんがふ)るに、時鳥(ほととぎす)の鳴(なく)時節ならず、女郞ども、はじめのそぶりも、たゞならず、何か、變のある家にて、有(あり)しならんに、其一座の客、いづれも、死人くさかりしなども、女郞共の方にては、『いや』に、おもひしならん。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:小さな異変は、それ自体はたいした怪異ではないが、全体がブラック・ボックスとなっている不思議な怪奇実談となっていて、なかなかに興味をそそる。]

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