只野真葛 むかしばなし (80)
一、同時代なる松平出羽守樣は【此出羽守樣の次の殿、山城樣の御ともだちなりし。是は少し先なり。さりながら御繁昌にていらせられしは、やはり同じ代なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、御幼年にて御代にならせられし故、諸人たゞ御成長をのみいのり奉りて、萬事思召まかせに育上し故、御大名の被ㇾ遊ぬ事までも被ㇾ遊(あさばされ)ぬ事までも被ㇾ遊(あそばされる)殿なり。もろもろの藝人・たいこ持・役者・町藝者など、常に御側に召れて有し。御中奧(おんなかおく)は、「うたぎ」とて、江戶一番の美人、殊の外、けん高なりしとぞ。其頃、吉原一番の美婦と呼れし、「扇屋花扇」と云太夫を御揚被ㇾ成(おあげなさられ)、御自慢にて、「うたぎ」を召連(めしつれ)られ、美人くらべ被ㇾ遊しに、好(このみ)も限り有(ある)物にて、いづれ、おとらぬ事なりしとぞ。此「うたぎ」、みめかたちは、勝(かち)しかども、賤(いやし)き筋より出(いで)し故、心、拙(つた)なく、御家より被ㇾ爲ㇾ入(いりなさられ)し御前樣、
「御仕度(おんしたく)、麁末(そまつ)なり。」
とて、とりどり、惡口せし程に、はじめは、御心勞被ㇾ遊候とぞ。はやう世をさりし故、後(のち)は、ことも無(なか)りし。
[やぶちゃん注:「松平出羽守」出雲松江藩第六代藩主松平宗衍(なりつね 享保一四(一七二九)年~安永六(一七七七)年)は「御幼年にて御代にならせられし」とある通り、数え三歳で家督を継いでいる。しかし、以下の叙述を見るに、松平治郷(不昧)(寛延四(一七五一)年)~文政元(一八一八)年)でないと、話しが合わない。しかし、不昧は十六で家督を継いでおり、「幼年」ではない。不審。真葛は何か錯誤しているような気がする。
「山城樣」前に何度か出ているが、「山城守」で、茶の湯好きの大名か旗本の隠居であろうが、不詳。
「御中奧」江戸では正妻のいる場所を「奥」と言い、妾(めかけ)のいる場所を「中奥」と称した。ここはその「妾」の意。
「けん高」「軒昂」で「意気盛ん」の意。
「御前樣」大名・高家などの正妻を敬っていう語。奥方様。]
「王子稻荷の申子(まうしご)にせし」とて、「王子路考(わうじろかう)」と、あだ名せし瀨川菊之丞、其比(そのころ)、わか手の、日の出役者なりしが、殊に御ひいきにてひしと召されし故、世には、
「出羽樣ろかう。」
とも云(いひ)し。しうじやくの所作せし時、「赤がしら」、此殿より被ㇾ下(くだされ)しが、三拾兩にて御買上なりとぞ。
此時、大當り、天下をひゞかせたり【「赤がしら」の直段(ねだん)は、世の說にて、誠をしらず。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。其年の夏、屋形船にて、大川筋へ御納涼に被ㇾ爲ㇾ入(おりなさられ)し時、菊の丞も、御ふねに被ㇾ召(めされ)て參りしに、御側のもの、心、しひして、紅白の麻(あさ)にて、牡丹の花を造りて、船の柱に犇(ひし)と付(つえ)しかば、すゞみに出(いで)し諸人は、
「すはや。御船にて、路考が『石橋(しやくけう)』を躍(をどる)ぞ。」
と、我先、我先と、船を取(とり)まきしが、御なぐさみにて、躍(をどり)はなかりしとぞ。
[やぶちゃん注:「瀨川菊之丞」二代目瀬川菊之丞(寛保元(一七四一)年~安永二(一七七三)年)寛延から安政期に活躍した江戸の女形役者。屋号は濱村屋、俳名は路考。通称「王子路考」。ウィキの「瀬川菊之丞(2代目)」によれば、『江戸郊外の武州・王子の富農・清水半六の子で幼名を徳次といった。5歳で初代瀬川菊之丞の養子となって瀬川権次郎を名乗』ったとあり、また、寛延三(一七五〇)年九月、『二代目瀬川吉次を名乗り、中村座で養父一周忌追善として』「石橋」の『所作を演じたのが初舞台』とあることからも、野次馬の台詞の意味が生きる。
「赤がしら」「赤頭」。ヤクなどの毛を赤く染めた鬘(かつら)。能楽や歌舞伎で獅子や猩猩の頭として被る。能では「猩猩」「石橋」など、歌舞伎では「連獅子」などに用いられている。
「石橋」(しゃっきょう)は、元は能楽の曲名。五番目物。作者不詳。寂昭法師が入唐し、清涼山で石橋を渡ろうとすると、一人の童子が現われ、橋の渡り難いことを説き、橋のいわれを語る。やがて、獅子が現われ、咲き乱れる牡丹の花の間を勇壮に舞い、御代の千秋万歳を言祝ぐという筋。後場で、紅白の牡丹の立木のある一畳台(いちじょうだい)を二台又は三台出して勇壮に舞う。歌舞伎に大きな影響を与えている。歌舞伎の所作事の一つ。能の「石橋」の舞踊化で、後ジテの獅子の踊りだけになり、「二人石橋」・「三人石橋」・「五人石橋」・「雪の石橋」等のヴァリエーションが作られた。「外記節(げきぶし)石橋」は能に近く、「大石橋」とも呼ばれる。ここは後者の歌舞伎の演目。
「なぐさみ」気晴らし・楽しみ・もて遊び。]
或年、御國にて、御通行の時、御家中の、二、三男《なん》なるべし、もがさ、重く病(やみ)て、片目つぶれたる上、殘る片目も、引(ひき)つりて、額の方へ、たてに成(なり)たるが、子供と遊びゐしが、御目にとまり、
「おもしろきものぞ。」
とて、直々(ぢきぢき)、召出(めしいだ)され、御側にて、立まわりを習はせ、翌年、御登りの御供にて、江戶へ、召連られし。十一、二、ばかりなれど、八ツ位にみゆる小人(こびと)なりし。又、其時代、釋迦が嶽雲右衞門とて、古今稀なる大男の角力取(すまひとり)、有(あり)しをも、御かゝへと被ㇾ成て、御引立(おひきたて)有(あり)し。身の丈(たけ)九尺有し故、町家にては、立(たち)ながら、背のび、ならねば、御殿に上(あが)りて、心安く、のびし、と云(いふ)評判なりし。
[やぶちゃん注:「釋迦が嶽雲右衞門」(寛延二(一七四九)年~安永四(一七七五)年)は出雲国能義郡(現在の島根県安来市)生まれ。当該ウィキによれば、身長二メートル二十六センチメートル、体重百七十二キログラムで、『江戸相撲では並外れた超大型の力士で』、『実力も高いことで知られている。しかし従来から病人であるためか』、『顔色が悪く、眼の中が澱んでいたという』。現役中の二十七歳で若死にしているが、『釈迦の命日と同じであり、四股名と併せて奇妙な巡り合わせと評判になった』。なお、安永二(一七七三)年には、『後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒』二『本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守(松平治郷)』(松平不昧。第十代松江藩主)『から召されて』、二『本の緒を目にした出羽守は驚きつつ喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。釋迦ヶ嶽が死去した時、神棚が激しい音を立てて揺れたため、出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納したと伝わっている』とある。]
或時、御懇意の大名方を被ㇾ招、御振舞ありしに、初は彼(かの)かたわ小人、一ツ目小僧にて、廣袖付(つき)ひものまゝにて、御茶さし上(あげ)、御本膳は、雲右衞門に、厚わたの童子格子の大どてらを着せ、紫縮緬の大まるぐけを、前帶に〆て、はりこの大あたまをかぶらせ、見こし入道の出立(いでたち)なり。御わきは、次の間、中比(なかごろ)の疊、ふわふわと、くぼむと、下より、菊之丞、惣白無垢(そうはくむく)淺黃ちりめんのしごきを前帶にして、たけに餘る黑髮を亂し、雪女か幽靈かといふ出立。足を、はこばず、すり足にて、身輕の立𢌞り、見事さ、奇麗さ、いふばかりなし。御かよひ、いつも御次の間ヘ行(ゆけ)ば、疊、まく下へ入(いる)仕かけなり。「出羽樣の化物茶の湯」と唱(となへ)しは、是が始まりにて、さまざま、御趣向、有しなり。