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カテゴリー「只野真葛」の78件の記事

2021/10/16

只野真葛 むかしばなし (43)

 

 父樣、仙臺へ御立とて、荷物をからげて居(をり)し時、

「今、木挽町で、藝者が、きられた、きられた。」

と、人々、いひさわぎし故、からげかけて、男ども、行てみしが、切ころされて、かた息に成、たふれてゐし所を見て來りしが、町人に、其藝者故(ゆゑ)、身を仕廻し人、有。其家の居候に成て、藝者の三味線箱かつぎに成て、下人のごとく、草履直しなどして、つかへしを、母も娘も、うるさがりて、いろいろ、あしくせしを、いきどほりて、湯から出がけを追かけて、ころびし所をきりしよしなり。こんなことはいくらも有ものなれど、いかゞしたることにや、大評判と成て、「はやりうた」にも、洒落本も、うるさきほど、いでゝ有し。「おとよ」といふ女なり。

 仙臺の旅宿には、かの鑄錢(《ゐ》せん)を願(ねがひ)し町人、ねがひのうへ、宿をせしたりしとぞ。

[やぶちゃん注:父工藤平助は藩命によって仙台藩に赴き、貨幣の鋳造や薬草調査等を実施し、一時期は仙台藩の財政をも担当したという(当該ウィキに拠る)。但し、以下に出る還俗は、或いはこれよりも早かったと思われ(さればこそ医師ではない全く異なる財政方面での活動も出来たと考えられる)、真葛の記憶に前後の齟齬がある気もする。]

「料理上手、一たいの服よく、江戶、はづかし。」

と被ㇾ仰し。其内、わけて御感じ被ㇾ成しは、雪ふり、寒夜、御下りのおそかりしこと有しに、亭主、留守にて有しを、歸りて

「御膳の仕度、何々ぞ。」

と聞しに、妻、

「何々。」

と、こたふれば、

「それは。にくさりに成て、いくまじ。いで。」

とて、白かゆに、田樂いだし上(あげ)たりしが、

「扨。腹うけ、よかりし。」

とて、度々、仰出られて御ほめ被ㇾ遊し。其料理は、御下(おした)のもの[やぶちゃん注:下男。供人(ともびと)。]に、くはせたりし、とぞ。

 御供は樋口司馬と、安兵衞といひし新參者なりしが、この安兵衞、

「つとめがら、よろしき。」

とて、御下り早々、大人役に仰付られしが、廿二にて有し。御目がね程有て、よき人なりしが、おしきかな、中年より、らい病やみいでゝ、つかいがたく、髮をそり、「じやうゑん」と名をかへて、草津の湯治場にて、淺間山のやけぬけし頃は、草津に有て、ちかく見物せしよし、委細そのさまを書(かき)て、奧に、

  信濃なる大めしがまのにひこぼれ上州ものはあびて往生

と書付て有し。草津は風上にて有し故、見物に、よかりし、とのことなり。

 ワ十四のとし[やぶちゃん注:安永五(一七七六)年。]、「はしか」はやりて有しが、其年あたりや、東屋を立られしは。

 仙臺より、御下り、間もなく、還俗、仰付られし。

[やぶちゃん注:父平助は安永五(一七七六)年頃に仙台藩主伊達重村により、還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面に亙って自由に活躍するようになった。]

 其頃、又々、地面、御かりたし、御普請被ㇾ遊しが、攝津守樣、御のぼり被ㇾ遊て、普請びらき早々、いらせられし。

[やぶちゃん注:「攝津守樣」不詳。当代の先代藩主伊達重村は陸奥守である。]

 庭の櫻、御覽、御大名方よりも、數々、被ㇾ下て有し。出羽樣よりは、「淺黃ざくら」、是は、めづらしきのみにて、花、よろしからず。周防樣より被ㇾ下し「大ざくら」、勝(すぐれ)てよかりしが、おそく被ㇾ下し故、角(すみ)にうゑしを、「すみの櫻」とて、もてはやしたりし。「ひさるせ」の印にて大きな猿をそへて被ㇾ下し。其外、たかき、いやしきをいはず、櫻をおくられし中に、賀茂季亮、其頃は市右膳とて、

「かすかなりしが、人數(にんず)に、いらん。」

とて、三尺ばかりの山ざくら、花が、所々に、一、二輪、有(ある)に、

  色なしと人なとがめそさくらばな散けふことのゆゝしくてこそ

と斷書(ことわりがき)をして、付たり。三島自寬、吉兵衞といひしが、ことさらに、まねかれぬを、ふくづみて、文(ふみ)、有。詞書は、おほへず[やぶちゃん注:「覺えず」であろう。]。

 「とへとしもいはぬにもへば君がやの櫻は八重に咲にや有るらん

 春もむなしく」[やぶちゃん注:鍵括弧は底本のママ。]などや有けん。父樣、かへしはおぼへねど、趣向ばかりは、人に御はなし被ㇾ遊し故、おぼヘし。今其心をもておぎなはゞ、

  しるしらぬ・おしなべて・花を尋ねてとふやどをよそに見すぐす君よあやしき

【是等の、そのうち、よろしきを、とるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

といふやうなことなりし。今おもひよりて書けば、よくもしらべず。かへしの哥、まさりしと御じまん被ㇾ成しかば、かくにはあらじ。

[やぶちゃん注:「出羽樣」不詳。

「周防樣」以前の「むかしばなし (7)」の考証では、岩見浜田藩藩主で周防守であった松平康定(延享四(一七四八)年~文化四(一八〇七)年)を同定候補とした。

『「ひさるせ」の印にて』「さる」は以下の「猿」に「去る」を掛けているようだが、意味不明。平助は医師だから「やまひさる」(病ひ去る)など考えたが、「せ」が続かぬ。「世」?

「大きな猿をそへて」「日本庶民生活史料集成」では『大きなくゝりさるをそへて』である。本物の大きな日本猿では大迷惑だから、ここは庚申信仰に習合した三猿信仰辺りから生じた紐で吊るした猿の作り物の「くくり猿」(猿ぼぼ・身替わり申(さる))を桜の枝に吊るしてあったとなら、腑に落ちる。ご存知ない方のために、グーグル画像検索「くくり猿」をリンクさせておく。

「賀茂季亮」「市右膳」なんだか妙に似たような名の人物で同時代人に、歌人・国学者・古典学者にして京都賀茂別雷(上賀茂)神社の祠官であった京生れの賀茂季鷹(かものすえたか 宝暦四(一七五四)年~天保一二(一八四一)年)がいる。彼は平助や真葛と昵懇だった村田春海と親しかった。本姓は山本で、「右膳」を名乗った。「亮」・「市」と「鷹」・「本」は妙に崩すと似ている気がする。

「三島自寬」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家。「むかしばなし (6)」や同「(28)」で既出既注。]

只野真葛 むかしばなし (42)

 

 其頃、公儀御内證[やぶちゃん注:側室。]樣の御年寄女中[やぶちゃん注:江戸城大奥女中の役職の一つで、二番目に位置するが、事実上は奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する大役。将軍や御台所(将軍正室)への謁見が許される「御目見以上」の位であった。]に、玉澤といひし人、有し。天下をうごかせし才人なり。此人、もとは山の手の旗本衆の内かたなりしが、夫ばくちの大道樂者にて有しが、提重(さげぢゆう)・たばこ盆・組(くみ)さかづきなど、小道具の仕入、木地より、塗(ぬり)までなり。小細工を渡世にして、代々、小普請にてくらせし人なりしが、玉澤、才人故、其頃はお袖といひしとなり。はじめは、おしへて、させしが、後々は、妻にばかり、こしらへさせて、其身は、ばくち打、いろいろ、放埒して居しに、外の旗本がたの奧樣と不義のこと、あらはれ、かけおちして、家つぶれしに、お袖、不仕合(ふしあはせ)には、里も、先達(さきだち)て、つぶれて、行所(ゆきどころ)なき故に、其やうな所にも居たりしなり【赤坂邊なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 其妹子、赤井藤九郞樣といふ六百石ばかりとる旗本のかたへ緣づかれしに、是も、里なしのうへ、夫、死去、子もなしに若後家なりし。

 其弟、兄の跡をつがれし人が、其(その)藤九郞樣なり。此人、勝(すぐれ)たる人にて、お袖をふびんにおもひ、引とりて、やしないおかれしとぞ。妹子さへも、里があらば、かへるくらいな若後家、まゝ弟子にかゝりて有しうへ、よしみもうすき姊まで、其緣につれて世話になること故、氣の毒の山をつかね、下女同前に、はたらきてゐられし。

 其時より、父樣は御ぞんじなりしとぞ。

「信あれは[やぶちゃん注:ママ。「ば」であろう。]、德、有。」

とかいふことは、此藤九郞樣のことなり。

 少しも、心おきのないやう、居にくゝないやうに、取あつかわれしとぞ。

 藤九郞といふ人は、心だて、よく、器用にて、書もよめ、手も書、繪も、よほどならず、かゝれしを、廿二才にて、中風して、惣身、きかず、飯もやしなはれて食(くふ)やうなことに成、いきたばかりにて、有し。

 お袖は口ぐせのよふに、

「御奉公に出たし、御奉公に出たし。」

と、いひて有しとぞ。

 其頃のていは、隙《ひま》なく、しきし[やぶちゃん注:「色紙」。衣服の弱った部分に裏打ちをする布地。]當(あて)たる布子の、油賣のやうに垢付しを着てゐられしとぞ。

 やうやう、御本丸のおもて使者に、少々、手つぎ有て、其人の世話にて御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」に上(のぼ)られしが、運のひらけはじめなりし。手も、よくかゝれしとぞ。しゆんめう院樣御代のことなりし。

[やぶちゃん注:『御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」』恐らくは、幕府の右筆の間で取り交わされる文書に添える表書きのことであろう。「書札礼」(しょさつれい)という語があり、これは公的な書状の形式・用語などを規定した礼法式を言う。小学館「日本大百科全書」によれば、『手紙を取り交わす両者の身分的相違による礼儀を重視しようという考えから生じたもの』で、『公家様(くげよう)と武家様の二様ある。元来は中国の』「書儀」(しょぎ)『などによっていたが、平安後期には公式様(くしきよう)文書が衰退し、私(し)文書の発達や有職故実』『学の発展に伴って』、「明衡往来」(めいごうおうらい)『などの書状の模範例文集がつくられるように』なった『一方、公家様の書札礼の書も著されてきた。それが確立されたのは』弘安八(一二八五)年に『一条家経(いえつね)らによって編まれた』「弘安礼節」(こうあんれいせつ)『によってである。この書は宮廷関係の礼節を定めたものであったが、書札礼について一項を設け、それが後の書札礼の典拠となった。武家様の書札礼は、公家様から派生したものであり、鎌倉末には』、『すでに』、『できあがっていたらしい。室町時代になると』、三『代将軍足利義満』の頃に『整備され、武家様が書札礼の中心となった。それとともに』、『文章作成を職業とする右筆(ゆうひつ)の力が強くなり、各家がそれぞれの流儀による書札礼を伝授するようになった。初期の』「今川了俊書札礼」や、後期の「細川家書札抄」・「大館常興(おおだてつねおき)書札抄」・「宗五大草紙」(そうごおおぞうし)などが『代表的なものである。以後、武家様の書札礼は地方に波及し、戦国大名諸家もそれを受容し、自らの書札礼を定めていった。織豊』『政権下でも同様で、多少の改変はあったが』、『維持され、江戸幕府も徳川家康が』慶長年間(一五九六年~一六一五年)『に永井直勝(なおかつ)に命じて制定させたものが』、『江戸時代を通じて行われた』とある。

「しゆんめう院樣」「御代」と言っているので、第十代将軍徳川家治(在職:宝暦一〇 (一七六〇)年~天明六 (一七八六)年)のことであろう。彼の諡号は「浚明院」で戒名は「浚明院殿贈正一位大相国公」である。但し、読みは「しゆんめい」である。これは「明」の呉音「みやう(みよう)」を誤ったものであろう。]

 御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ、大納言樣の御腹のお部屋、御臺樣がはりにて、派をふるはれし人の、かたヘぬけたりしが、はじめ、おやとひにて出し時、

「藝百色まで有し。」

と、奧中、となひなり[やぶちゃん注:「唱ひ成り」か。評判になり。]、殊の外、御意に入(いり)て、すらすら、出世し、老女にまで成しなり。「ばくち打の女房ほど拔目なきものはない」といふを、勝(すぐれ)し才人にて、何をみても、目の鞘が、はづれ、心が黑かりし故、ぬけ出(いで)しなるべし。

[やぶちゃん注:「御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ」家治の正室は閑院宮直仁親王第六王女倫子(ともこ 元文三(一七三八)年~明和八(一七七一)年)。寛延二(一七四九)年に江戸城浜御殿へ入り、宝暦三(一七五三)年に縁組披露、翌四年十二月一日(既に一七五四年)に江戸城西の丸へ入り、婚礼の式を挙げた。宝暦六年に家治との間に長女千代姫を産んだが、姫は二歳で夭折、宝暦一〇(一七六〇)年に江戸城本丸へ移り、御台所となり、九月に家治が征夷大将軍を拝命した。翌十一年には次女万寿姫を出産するも、家治が側室出生の子も御台所の御養としたため、側室お知保の方(蓮光院)が生んだ世子徳川家基(幼名竹千代。第十一代将軍として期待されたが、満十六歳で鷹狩の帰りに急死した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながら、将軍の位に就けなかったため、「幻の第十一代将軍」とも呼ばれる)の養母となった。御台所となってから、十一年後に三十四歳で逝去している。その後、家治の側室お品の方(養蓮院)が次男貞次郎を生んだが、生後四ヶ月で早逝してしまい、家治は天明元(一七八一)年、一橋家当主徳川治済(はるさだ)の長男豊千代(後の第十一代将軍徳川家斉)を自分の養子とした。こうした不幸の連続の中で大奥の勢力図が大きく変化したことが素人目にも判り、真葛の言うように、この混乱の中、権謀術数を以って「玉澤」は、大奥に於ける事実上の権力者たる御年寄女中にまでのし上がったのである。

「大納言樣」權大納言であった家治のこと。]

 其お部屋御内證樣とて、上分にならせられし時、年中御規式を玉澤が一了簡にて書出(かきいだ)せしが、いづかたにても[やぶちゃん注:底本は「「いづだにも」。「日本庶民生活史料集成」版で訂した。]、點のうち手なかりしとぞ。是等が、表立て、名の上りし始なり。玉澤といへば、老中も、心をおき、とぶ鳥もおつるほどの派きゝと成し故、藤九郞樣も御下故、めいぼく[やぶちゃん注:「面目」の別読み。]をほどこし、昔の恩は百倍にかへされしなり。一生、夫婦寢もならぬ人の所へ、玉澤に引をもとめたきばかりに、三千石とりの旗本衆より、娘を出(いだ)してこされなどして、すさまじきいきおひにて有しなり。

 ワ十一ばかりの時[やぶちゃん注:安永二(一七七三)年前後。]、御本丸へ御普請出來、御内證樣御うつり前、西の丸にいらせられしに、お狂言拜見に上りしこと有し。玉澤樣はかゝりにて、萬事御世話被ㇾ成て有し。髮の結直しなど、壱人にて被ㇾ成しよし。あくる朝、よべの召物、かさねしまゝにて有しを見しに、上は、紫ちりめん、芭蕉に雪ふゞきのかたぬき模樣、相(あはせ)は、紅の紋ちりめん白無垢に、帶は、黑じゆすの縫有[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]にて有しが、みな、油だらけに成て、袖口などは黑ぬりのやうで有し。

「おすたりなり。」

と部屋の者、いひし。昔の姿にくらべては、けしからぬことなり。

[やぶちゃん注:この最後の部分、よく意味が判らない。なお、ここで言う「御内證樣」は、倫子の死(明和八(一七七一)年)後に御部屋様となったお知保の方のこと。]

 其年より五年ばかり過て、御やど下りの時、藤九郞樣への土產に、なぐさみのため、御殿の藝者どもをつれて御下り、素人狂言してみせられしこと有し。宿下りの入用二百兩ばかりかゝりしよしなり。父樣にも、

「何ぞ、御目にかけん。」

とて、かの女力持[やぶちゃん注:「むかしばなし (41)」参照。]をつれて、いらせられし。一日の賃五兩にてやとわれしを、あのかたにて、金、相わたされし時、

「『殘金五兩、たしかに、うけとりし。』と、文之助、こたへしは、『やとひ賃のたけを、人にしらさじ。』と、心はたらかせしこたへなり。」

と被ㇾ仰し。玉澤にも、殊の外、珍らしがられて、

「見世物にでぬ先にしらば、御覽にもいるべかりしを、おしきこと。」

と、いはれしとぞ。此頃が、この人の榮の極にて有しなり。自由のきくにまかせて、表のことまでも、玉澤、加判せられし故、白河樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世、おもき御とがめをうけて、老女役御免、平人お袖と成て、御内證樣、御大病、是かぎりの時なりし故、御看病を申上て有しと聞し。

[やぶちゃん注:お知保の方は寛政三(一七九一)年三月八日に五十五歳で死去した。なお、蓮光院となった彼女は三十七年後の文政一一(一八二八)年に従三位を追贈されている。御台所及び将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例である(当該ウィキに拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻二上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。とんでもなく長いので、段落を成形した(それだけ、実は彼女のことが馬琴には気に掛かっていたことの証左である)。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点に代えた。書簡の引用部であることが判るように、当該部はダッシュで挟んだ。なお、表記は底本を忠実に再現してあり、歴史的仮名遣の誤りはママである。但し、吉川弘文館随筆大成版と校合し、明らかな底本の誤りと認めたものは、特に注して改めてある。主人公、只野真葛、本名工藤綾子(あや子・あや)については、私のブログ・カテゴリ「只野真葛」の、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を見られたい。本篇に筆者である滝沢馬琴との関係も記してある。馬琴は「老女(おうな)」と呼んでいるが、この「兎園会」発会当時(文政八年十月一日(一八二七年十一月十九日))、真葛は実は既に白玉楼中の人となっていた。馬琴はそれを知らずにこれを書いているのである。但し、終りの方に翌文政九年に書き添えた頭書に、それを知ったことが記されてある(年は誤り)。真葛は宝暦一三(一七六三)年生まれで、この文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に仙台で没した。享年数え六十五(私と同じ)であった。因みに馬琴瀧澤解は明和四(一七六七)年六月九日生まれで真葛より数えで五つ年下であるから、「老女」とするに違和感はない。

 

   ○眞葛(まくづ)の老女(おうな)

 眞葛は才女なり。江戶の人、工藤氏(くどううぢ)、名を綾子(あやこ)といふ。性(せい)、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、瀧本樣の手跡さへ、拙か(つたな)からず。

[やぶちゃん注:「瀧本樣」書道の「瀧本流」。江戸前期の石清水八幡宮別当であった滝本坊昭乗(「寛永の三筆」の一人)が始めた書道の一流派。「松花堂流」「式部卿流」とも呼ぶ。歴史的仮名遣の誤りはママ。]

 父は仙臺の俗醫士工藤【本姓源氏。】平助、諱(いみな)は平(たひら)、母は菅原氏とぞ聞えし。先祖は別所黨(べつしよたう)にて、播磨の野口の城主、長井四郞左衛門より出でたり【長井の族を、加古右京といふ。幷に「太閤傳」天正七・三木合戰の條にみえたり。】。その子孫、零落して、攝津の大坂に、をり、數世の後、長井大庵(たいあん)に至れり。是れ、則ち眞葛の祖(おほぢ)、平助の父なり。大庵は醫をもて、業(わざ)としたりしかば、江戶に到りて、紀州公に仕へまつりぬ。男子(をのこ)三人まで有けるに、只、武藝をのみ、學ばせて、子ありとだにも、聞えあげざりしかば、ある時、公、ちかく侍らして、

「汝が齡(よわい)、既に四十(よそぢ)にあまりたらんに、子ども兩三人ありと聞きぬ。などて、家督を願ひ申さぬぞ。」

と問はせたまひしかば、大庵は、あと、さがり、額つく程に、はふり落ちんとせし涙を、拭ひて答へ申すやう、

「いと有りがたきまで、忝(かたじけな)き御意(ぎよい)を蒙ふり奉りし事、身にあまりて覺え候へども、かねて申しあげし如く、先祖は一城の主(ぬし)で候ひしに、たつきの爲に、かく、長袖(ながそで)になりたるだにも、口をしく候ものを、子どもをすら、親の如くにし候はんは、先祖へ、めいぼく[やぶちゃん注:ママ。]なく思ひ候へば、不肖の某(それがし)一代のみ、めし仕はせ給へかし。子どもは、よしや、浪々の飢えに臨み候ふとも、武士にせまほしくこそ候へ。」

と、まうしゝかば、公、感じ思し召して、

「さらば、方伎(ほうぎ)は大庵一代たるべし。」

と仰せ出だされて、跡をば、武士になされたり。

[やぶちゃん注:「別所黨」別所氏。播磨の戦国大名を輩出した氏族で、播磨の守護大名であった赤松氏の庶流で、播磨国美嚢(みのう)郡三木(現在の兵庫県三木市上の丸町)にあった三木城(グーグル・マップ・データ)を本拠とした。

「公」紀州藩第六代藩主徳川宗直と思われる。]

 これにより、その長男は長井四郞右衛門と名のりたり。澁川流の「柔術(やはら)とり」にて、師の允可(いんか)を得たれども、生涯、事にあはざりければ、名をしらるゝよしも、なかりき。

 次を長井善助といひけり。こは「さし箭(や)」の射手にて、いさゝか、世に知られたり。この同胞は紀州に仕へ奉りぬ。平助は三男なるをもて、

「さのみは。」

とて、仙臺候の醫師工藤某に贅(ぜい)して、そが養嗣(やうし)にぞしたりける。されば亦、平助も實父の志をうけ嗣ぎて、圓頂(ゑんちやう)長袖の身たらん事をば、羞ぢしかば、侯に願ひ奉りて、俗體にて有けれども、衛生の術には、おろかならず。思ひを蘭學にひそめて、發明する所も多かりしにぞ、その名も粗(ほゞ)聞えたりける。

 かくて、平助が子ども、數人(すにん)あり。

 長女は綾子、所謂、眞葛、是れなり。

[やぶちゃん注:工藤家のこの兄弟姉妹には、後に出る通り、真葛が、草花の雅名をつけて呼んだ。綾子自身は「葛」であった。]

 次を工藤太郞といひて、才子なりと聞えしに、父に先だちて、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:長男長庵元保(幼名は安太郎。「藤袴」。綾子の二歳下。二十二で早逝。]

 その次は女子(めのこ)、又、其次も女子也。これらも、よすがもとめて、後(のち)、いく程もなく、世を、はやうしたり、とぞ。

[やぶちゃん注:二女しづ子。「朝顔」。雨森家に嫁した。三女つね子。「女郎花」。加瀬家に嫁した。二人とも婚姻後、二十代半ばで亡くなっている。]

 その次を工藤源四郞元輔(もとすけ)とぞ、いひし。和漢の才子にて、詩をよくし、歌をさへよみけるに、方伎(ほうぎ)も亦、庸(よのつね)ならず。惜しくは、短命にして、子のなかりしかば、はつかに名跡(みやうせき)の遺(のこ)れりといふ。

[やぶちゃん注:工藤源四郎鞏卿(きょうけい)元輔。幼名は四郎。「尾花」。平助が将来を託した子であったが、文化四(一八〇七)年、医業の過労により、病没した。その経緯は「只野真葛 むかしばなし (5)」の私の注で詳しく書いた。綾子より十一年下。「方伎」の陰陽道の占法を以って吉凶災福を察知し、これに処するための呪術作法を行うこと。所謂、本邦で変形して発展した陰陽術(おんみょうじゅつ)である。]

 その次は、女子にて、名を「栲(たへ)」といひけり。こは越前の姬うへに、年來(としごろ)、みやづかへまつりしに、姬上(ひめうへ)、なくなり玉ひしかば、比丘尼になりて、瑞祥院と法號せり。今なほ、鐵砲洲の邸内にあるべし。

[やぶちゃん注:四女拷子(たえこ 生没年未詳)。「萩」。彼女は結婚せず、文化九(一八一二)年に剃髪し、「萩尼」と号した。真葛の頼みで、馬琴へ直接に真葛の諸原稿を齎した人物である。]

 又、その次も女子なりしを、ある醫師に妻(めあは)せられしが、こも亦、はやく身まかりし、とぞ。

[やぶちゃん注:五女照子。「撫子」。仙台の中目家に嫁した。あや子より二十三歳下。現在、電子化注を進行中の「むかしばなし」は、年の離れた末っ子の彼女が、自家の思い出が数少ないことを嘆いたため、真葛がそれらを祖父母の代まで遡って、自身に記憶に基いて語る形で書き始められたものである。]

 この同胞(はらから)、七(なゝ)たり。

 才も貌(かたち)も、とりどりなりけるそが中に、乙(おと)の子[やぶちゃん注:ここは源四郎。]の、みやけの御まへに、給事(みやづかへ)にとて、まゐれるとき[やぶちゃん注:父の伝手で仙台藩御近習となった。後、父と同じく藩医となった。]、兄の元輔が、後(のち)のおこたりをいましめて、

「よく勤めよかし。ふた親のめぐみをおもふに、雨露(うろ)のごとく、ひとしきを、うけたる身の、心々(こころこころ)にたがへるは、かの七くさてふ花のかはれるに似たり。」

とて、

  おのがじゝにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみはかはらざりけり

と、よみて、とらせたりしを、後(のち)に、綾子の、傳へ聞きて、

「よくも、いさめたるものかな。さらば、その七草(なゝくさ)の花にたとへんに、『藤ばかま』は、かぐはしといへば、太郞よ。その次なる女、かほ、よければ、『朝がほ』。その次は『をみなヘし』。『をばな』は、そこにこそ、をはさめ。越の御まへなるは『萩』、乙子(おとこ)は『なでしこ』となるべし。『葛ばな』は、めづるばかりのものならねども、葉のひろければ、はらからを、さしおほふ子の上にしも、似つかはしかるべくや。」

と定めたりしより、物には、綾子を「眞葛」と唱へ、拷は「萩」と唱へ、祝髮(しゆくはつ)の後(のち)は「萩(はぎ)の尼(あま)」ともしるしたり。

 かゝる、めでたき同飽(はらから)なりしに、五人は、命、長からで、文化の末(すゑ)には、眞葛と、萩の尼【瑞祥院。】のみぞ、のこりたりける。

 そが中に、眞葛は、いと、をさなかりしころより、異(こと)なる志(こゝろざし)ありけり。

 明和壬辰の大火の比、

「物のあたひの、にはかに、勝(のぼ)りて、賤しきものは、いよゝ窮する。」

と傳へ聞きて、ひとり、つらくおもふやう、

「いかなれば、商人(あきうど)の心ばかり鬼々(おにおに)しきものにはある。あはれ、民の父母たる身にしあらば、かく淺ましきことはあらせじを、悔しくも、女に生れたることよ。」

とは、歎きたり。

[やぶちゃん注:「明和壬辰の大火」「明暦の大火」・「文化の大火」とともに江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生した大火。目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。当該ウィキによれば、この二十九日午後一時頃に『目黒の大円寺から出火した炎は』、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの』、午後六『時頃に本郷から再出火』し、『駒込、根岸を焼いた』三十日の『昼頃には鎮火したかに見えたが』、三月一日の午前十時頃、『馬喰町付近から』、またしても『再出火』し、『東に燃え広がって』、『日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は』九百三十四町、『大名屋敷は』百六十九邸、『橋は』百七十本、『寺は』三百八十二寺を『数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した』。『死者は』一万四千七百人、『行方不明者は』四千人を『超えた。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼し』ている。なお、大事なことは、この時、真葛は未だ数え九歳だったことである。]

 これよりの後、

『われは、必ず、女の本(ほん)になるべし。』

と、おもひおこしつゝ、とにかくに、身をつゝしみ、己(おのれ)をうやうやしうすることは、さらなり、

「女子(をなご)は、おもてこそ、肝要なれ。」

とて、愛敬づきたらんやうにも、しつ。又、「から文」を讀ままくほりせしに、父、いたく禁(とゞ)めて、

「女子(をなご)の博士(はかせ)ぶりたらんは、わろし。草紙のみ見よ。」

と、いはれしかば、「源氏物語」・「伊勢物語」などを、常に枕の友としつゝ、年十六の時、はじめて、和文(わぶん)といふものを、一(ひと)ひらばかり綴りたりしに、父の平助、これを、村田春海に見せしかば、いたくめで、よろこびて、

「その師、なくて、かくまで綴れるは、才女(さいぢよ)なり。」

と、いひしとぞ。

[やぶちゃん注:「村田春海」(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)は国学者で歌人。本姓は「平」氏。通称は平四郎。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王の一人。真葛の母方の祖母桑原やよ子(くわはらやよこ 生没年不詳:仙台藩医桑原隆朝の妻)が優れた古典研究家で、彼女の書いた「宇津保物語考」を非常に高く評価したのがこの村田であり、真葛の父平助とも親しかった。因みに、「宇津保物語考」に於ける年立ての研究は、同作の本格的・先駆的考証作品であり、それは昭和初期に刊行された「日本古典全集」の「宇津保物語」などに収載されるほどに、現在のレベルでも学術的価値の高い論考であった。また、その中でやよ子が作成した系図は、本邦の国文学研究に於いて複雑な人間関係を見事に図示した最初のものとさえ言われているのである。真葛にはそうした血が流れていたのである。詳しくは、「只野真葛 むかしばなし (6)」の「桑原ばゞ樣」の私の注を参照されたい。]

 みづからは、只、「伊勢物語」を師として綴りてけるに、譽められしことの、けやけきに恥ぢて、このゝちは、親にすら、見せざりしかど、

『猶ほ、よくせん。』

と、おもひたり。

 手跡は、叔父なりける人、瀧本樣(やう)の能書なりければ、その手を學びて、大かたは極めたれども、五十(いそぢ)ちかきころ、右の腕(かひな)の痛む疾(やまひ)おこりしより、物かくことも、わかき時には劣り、目もかすむこと、常になりたれば、細書(さいしよ)の草紙は得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て漢字。以下でも、多数、出現する。]よまずといへり。いづれも、いづれも、「女の本(ほん)にならん」とほりせしに、日々のわざにして、何事にまれ、

『人のうへに就きて、心のゆく所を考へ果さばや。』

と、おもふ心も、つきにけり。

 かくて、弟元輔に、四書の講釋といふことをせさせて、只、一とたび、問くことを得たり。これにより、

『孔子・聖人(ひじり)[やぶちゃん注:この読みは吉川弘文館随筆大成版で補った。]の敎へは、すべて、かゝるすぢにこそ。』

と、聊かたのもしく思ひたり。

 佛のをしへも、よくはしらねど、

『念ずれば、必、利益(りやく)あり。』

と思ひとりて、年來(としごろ)、觀音と不動を信じ奉りけり。

 是より先に、とし十六、七なりし頃、仙臺候の御まへに、みやつかへにのぼせられし折り、

『みやづかへは、「獨り勤めなり。」と思ふこそ、よけれ。いくたりの同役ありとても、「勤むることは、われ、一人なり。」とおもはゞ、うしろ、やすかりけん。』

と覺期(かくご)せしかば、傍輩(はうばい)にも、憎まれず、人のおこたりを咎むる心も、なくして、果して、後(のち)やすかりし、といへり。

 又、をさなかりしころ、奴婢(ぬひ)の秘事(みそかごと)をするが、ものゝいひざまと、けしきとに、しらるゝをうち見て、

『あな、おろかにも、立ちふるまふものかな。「人にしらせじ。」と思ふことを、なかなかに、「人、しれかし。」と、いはぬばかりなるは、いかにぞや。かく淺はかなる心もて、しのびあふものどもの、後々まで、いかでか、遂げん。慾にまよふものゝ心ばかりおろかなるはなかりき。』

と、おもふ程に、果して、その事、顯(あらは)れて、追れしものゝありし、とぞ。

 かくて、給事(みやづかへ)の身のいとまを給はりて、宿所にまかりし比(ころ)、母のなくなりしかば、猶をさなかりし妹(いもと)どもの「うしろ見」をも、しつ、内(うち)治むることをさへ、うち任するものゝなかりしにより、三十(みそぢ)を、なかば過ぐるまで、人妻(ひとつま)とも得(え)ならでありしに、

「同胞(はらから)のうち、いづれまれ、國勝手(くにかつて)なる人の妻とせば、元輔が爲に、よろしかるべし。」

と、父の、年來(としごろ)いひつれども、「われ、仙臺へ赴かん。」といふものは、なかりしを、眞葛は、

「父の仰せには、もれ侍らじ。ともかくも、はからせ玉へ。」

といひしにぞ、父、よろこびて、あちこちと所緣(よすが[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では本文に『よづる』とある。この場合は「世蔓」か。])もとめつゝ、當時、勤番にて、江戶番頭なりし只野伊賀とて、祿千石を領する人の後妻(うはなり)に、えにし、定まりしかば、仙臺河内(かはち)支倉(はせくら)とて、仙城(せんじやう)の二の丸に程ちかき、只野氏(たゞのうぢ)の屋敷へ遣嫁(よめら)せられけり。

[やぶちゃん注:以上は真葛の事蹟を馬琴は極端に圧縮・省略(以下に示す初婚の事実は真葛が馬琴に送った文書類で馬琴は、知ってはいたが、哀れに思って意識的に書かなかった可能性が高い)してしまっている。その間の事蹟を当該ウィキから引く。かなり長くなるが、彼女の半生(本格的な著述に至るプレの部分としてのそれである)を知る上で甚だ重要である(五月蠅いとなら、ここの太字部分を無視すれば、本文の続きに飛べる)。十五『歳ころから縁談の話も出てきたが、祖母、父、母いずれも消極的であった。とくに母は、義母ゑんも実母やよ子も奥づとめの経験があったのに対し、みずからはその経験がなかったことに引け目を感じており、また、当時の結婚生活が女性には負担の大きいものであったことなどから早婚には反対で、あや子には奥女中奉公をすすめた。こうして』安永七(一七七八)年九月、十六歳で仙台藩上屋敷での奉公がはじまり、第七『代藩主伊達重村夫人近衛氏年子に仕えることとなった。彼女のこの時期の記録はほとんどのこっていないが、のちに、自分に朋輩はないものと考えて懸命に勤めたこと』、『また、町家から勤めにあがった者たちの話で、町人がいかに武家を憎んでいるかを知り、封建身分相互の間には埋めがたい対立のあることに気づいて驚愕したこと』『などを記している』。天明三(一七八三)年、『選ばれて重村の息女詮子(あきこ)の嫁ぎ先彦根藩井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、ときの権力者田沼意次であったという。これに前後して、父平助は』天明元(一七八一)年四月に「赤蝦夷風説考」『下巻を、天明』三『年には同上巻を含めてすべて完成させた。密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」を『老中田沼意次に提出した』。『これらの情報は、松前藩藩士前田玄丹』、『松前藩勘定奉行湊源左衛門、長崎通詞吉雄耕牛らより集めたもので』、翌天明四(一七八四)年には、『平助は江戸幕府勘定奉行松本秀持に対し』、「赤蝦夷風説考」の『内容を詳しく説明し、松本はこれをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これにより、父工藤平助は』、『いずれ』、『蝦夷奉行に抜擢され、幕府の直臣になるという噂が流れた』。天明二年或いは三年頃、『平助はあや子に対し、おまえは結婚適齢期』(当時は二十歳頃とされた)『ではあるが、自分はこの先どれだけ出世するかわからず、いま結婚すると』、『妹たちの方が高い家格の人との縁談にめぐまれることも出てくるので、いま少し辛抱して奥づとめを続けるようにと諭されたという』。『平助や松本秀持の努力の甲斐あって天明』五『年には』、『田沼政権のもと』、『蝦夷地調査隊が派遣された』。しかし、翌天明六年は、『工藤家にとって災難の重なった年であった。国元は前年からの凶作(天明の大飢饉)で藩財政は厳しさを増した』。二『月には』、『平助の後継者として育てられてきた上の弟長庵が、火災後の仮住まいにおいて』二十二『歳で没した。幼いころから利発で思慮深く、将来を嘱望されていたが、病弱であった』。八『月には』、十『代将軍徳川家治の逝去がきっかけとなり、平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた田沼意次が失脚し』、十『月、幕府は第』二『次蝦夷地調査の中止を決定した。これにより』、『平助が蝦夷奉行等として出世する見込みはまったくなくなった。田沼のライバル松平定信の政策は、蝦夷地を未開発の状態にとどめておくことがむしろ国防上』、『安全だという考えにもとづいていた』。『築地の工藤邸は天明』四『年に焼失してしまうが、その後、築地川向に借地して家を建てはじめた。しかし、世話する人に預けた金を使い込まれてしまい、普請は途中で頓挫した。そうした』中、天明七(一七八七)年の『倹約令の影響で景気も急速に冷え込んだため、家の新築は見通しが立たなくなった。こののち、日本橋浜町に住む幕府お抱えの医師木村養春が平助に同居を持ちかけたので、工藤一家はここに住むことになった』。二『月、あや子のよき相談相手であった祖母ゑんが浜町宅で死去し』、『同じ年の』七月十一日には、『詮子の夫井伊直冨が病のため』二十八『歳で急死した。最後の手当に呼ばれて調剤した薬を差し上げたのが平助だったため』、『家中での評判がわるくなり、あや子も剃髪した詮子の傍らで仕えるのが心苦しくなった』ことから、天明八(一七八八)年三月、「身を引くべき時来りぬと覚悟して」病気を理由に勤めを辞した。彼女の奉公は、仙台藩上屋敷]五『年、彦根藩上屋敷』五『年の計』十『年におよんだ』。『奥づとめを辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった。この家からは、しず子が津軽藩家臣雨森権市のもとに嫁している』。寛政元(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は平助より、かねて懇意としている磯田藤助が、藤助のいとこにあたる酒井家家臣と彼女との縁談を世話すると言っているので嫁に行けと言われ、あや子は父に従った』。二十七『歳になっていた』。しかし、『この結婚は惨憺たる結果であった。相手はかなりの老人であり、夫としてはじめて口にしたことばが「おれは高々五年ばかりも生きるなるべし。頼むはあとの事なり」だという。これが自分の一生を託す夫であり、自分ののこりの人生かと思うと情けなく、泣いてばかりいたあや子は結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それもあや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の「先は老年と聞が、其方も年取しこと」の言葉も彼女を傷つけた』。『離縁したあや子が数寄屋町に戻ったころより』、『次第に母が病いがちとなり、あや子は母になり代わって弟妹の世話をするようになった』。寛政二(一七九〇)年、三女つね子が加瀬氏に嫁いだ(つね子は』二十『歳代半ばで没している)。同年、雨森家へ嫁いで一子を産んでいた次女のしず子が病んで衰弱したのを知り、工藤家で治療のため』、『引き取ったところ、数日ののち』、『没してしまう出来事があった。あや子は、しず子の苦労続きの結婚生活を知り、雨森家の仕打ちに憤慨している』。寛政四(一七九二)年、三十歳の時、『母が亡くなった。末の照子はこのときまだ』七『歳であった。弟の源四郎は工藤家の家督を継ぐべく修行中の身であったが、あや子とは大人同士の会話を楽しめる』十九『歳の若者に成長していた』。『父からは漢学の学習を禁じられたあや子であったが、源四郎からは四書』『の手ほどきを受けている。年は離れていたが』二人は互いの『学識や向学心に敬意を払い』、ともに『理解しあえる仲のよい姉弟であった』。『また、地主の三島自寛とは、国学や歌文を共通の関心事として個人的な交流があり』、二『人はしばしば手紙をやり取りすることもあった』。寛政五(一七九三)年、『父工藤平助は弟子にあたる松前藩医米田元丹』『を通じて、ロシア使節アダム・ラクスマンの根室来航とともに帰国した大黒屋光太夫から』、『米田が直接聞いた光太夫の体験談やロシア情報などを知る機会を得た。こののち平助は』「工藤万幸聞書」として、『その情報をまとめた。父のかたわらにあった彼女は、これらの情報にふれたと思われる』寛政九年二月、『父工藤平助は医書』「救瘟袖暦」(きゅうおんんそでごよみ)『(のちに大槻玄沢による序が付せられた)を著し』、七『月には斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』十『代藩主伊達斉宗)が熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた』。寛政九年、三十五『歳のあや子は仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の只野行義』(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称が只野伊賀)『と再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村の世子松千代の守り役を』、一旦、『仰せつかったが』、寛政八年八月の『斉村の夭逝により』、『守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や』、『漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより平助は、源四郎元輔の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが』、『仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より』、『平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため』、『只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の身はいたづらに消えんとすらん

[やぶちゃん注:以上は漢字を恣意的に正字化した。]

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられていた』。一旦、『江戸に招き寄せ』ていた『家族も』、『急遽』、『仙台に帰して』おり、この時の『行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた。なお、のちに末妹の照子が仙台の中目家に嫁いでいる』。寛政九(一七九七)年九月十日、『あや子は仙台へ旅立った。このときの心境を、彼女は』二十『年後に振り返って』、

「友を捨て、父兄弟のわかれ、樂(たのしみ)をたちて、みちのくの旅におもむきたりし。かく、おもひたちしはじめより、『父に得し體にしあれば、いさぎよく、又、かえすぞ。』と思ひとりて、『三十五才を一期ぞ。』と、あきらめ、二度(ふたたび)歸らぬ旅立(たびだち)も、死出の道には增(まさ)りけりと、ことならず思ひ、此地にくだりて[やぶちゃん注:以下略。ここは独自に一九九四年国書刊行会刊の鈴木よね子校訂「只野真葛」の「独考(ひとりかんがへ)」の「独考巻の下抄録」を参考に恣意的に正字化して示した。]

『と述べており、悲壮な決意であったことを記している』。『また、結婚直後にあや子が行義にあてた手紙がのこっており、このなかで、くれぐれも工藤家への配慮を願っており、「これよりはいくひさしく御奉公申し上げ候」のことばも綴られている』、八『年後、あや子は父平助への思いを』、

 はしきやし君がみことをかゞふらば火にもを水にも入らんと思ひしを

『の歌で言い表しており、父のことばであれば』、『火中・水中に入ることも辞さなかったと詠っている』。『仙台行きには、夫只野行義は職務の都合により』、『同行できず、弟源四郎が付き添った。仙台只野家に到着したのは』九月二十二日で、『屋敷は仙台城二の丸近くの元支倉扇坂(現在の東北大学構内)にあった』。『只野家では』、『行義の老母、おば、きょうだい、息子たちがそろって待機しており、彼女と』、『にぎにぎしい対面を果たした』、『これ以後、あや子は終生』、『仙台で暮らすこととな』った。『行義には先妻とのあいだの男子』三人がおり、十四『歳の嗣子只野由治(のちの図書由章)、次男由吉(のちの真山杢左衛門)、三男由作(早世)であった。ほかに四男にあたる養子(のちの大條善太夫頼秀。行義の父只野義福の妾腹の子)がいた。行義は翌』寛政一〇(一七九八)年二月に『仙台に帰り』、翌寛政十一年には、『嗣子由治をともなって再び江戸に旅立った。このように、行義はその後も職務の性格上』、一『年おきに江戸と仙台を往復する生活を送った。行義が仙台に戻った際には、あや子に江戸のようすをこまごまと話してきかせた。行義はあや子の影響で和歌を詠むようになり、彼女もしだいに行義に対し』、『深い愛情をいだくようになった。また、仙台の屋敷にのこった子どもたちもよくなついた』寛政十年には、『桑原純と思われる叔父より』、『多数の書籍が贈られており、そのなかの賀茂真淵の著作』「ことばもゝくさ」に非常に『感銘を受けている』。『この頃より』、『あや子はいっそう熱を入れて本格的に国学関係の本を読むようになったと思われる』。同年『冬、あや子は宮城郡の塩竈神社に詣でており、紀行文として』「塩竈まうで」を『著している。これを江戸の父平助に送ったところ、村田春海に見せたという知らせが届き、あや子は』大いに『恥じ入っているが、春海より思いがけない称賛を受け、「そぞろにうれしき事かぎりなかりき」』(「独考」)『との感想をもらしている。また』、寛政十一年には、『結婚からこの年までの日記文』「みちのく日記」が完成を見ている、とある。

 人、或(ある)は、これを諫めしものゝありしに、眞葛、答へていはく、

「遠く仙臺へよめらせんと欲[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版によれば、『ほり』とひらがなで記されてある。]するは、これ、父のこゝろなり。又、遠くゆくことをうれはしく思ふは、子の心なり。なでふ、子の心を、心として、親の情願(じやうぐわん)に背(そむ)くべき。われは、『三十六歲を一期(いちご)として、死したり。』と思へば、うれひもなく、うらみも、あらず。死して、すぐせ、わろくば、必、地獄の呵責を受くべく、且、親同胞(おやはらから)にあふに、よし、なかるべし。仙臺は、もとも厭(いと)はしき所なり。且、聲、だみて、むくつけきをとこに、かしづき、『詞(ことば)がたき』[やぶちゃん注:「和歌や文章について対等に語り合う相手」の意であろう。]もなき宿を、生涯、うちまもりたらんも、地獄の呵責には、ますこと、なからんや。」

と、いひしとぞ。

 さて。年ありて、父平助も身まかり、眞葛の良人(おつと)伊賀も世を去りて、前妻(もとつめ)の嫡子只野圖書(たゞのづしよ)の世となりにたり。

[やぶちゃん注:工藤平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日に享年六十七で病没した。真葛数え三十八の時であった。そして真葛五十歳の時、江戸詰となっていた夫只野行義が江戸で急死した。文化九(一八一二)年四月二十一日のことであった。]

 この家、いとかたくなゝる家則(かそく)多くて、傍らいたき事のみなれども、繼母(けいぼ)の事なれば、何事も得いはず、

『いとおろかなるわざかな。』

と思ひつゝ、そが、まにまにせずといふこと、なし。はじめ、

『女の本(ほん)にならん。』

と思ひしを、得果さず。をのこ・はらからの、世をば、はやくせしことのかなしくて、

『よしや、わが身、女[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では平仮名で『おうな』とある。]なりとも、人に異(こと)なる書(ふみ)を著はして、世にも知られ、乃祖(ないそ)[やぶちゃん注:祖父或いは先祖。]の名をも、顯はさばや。』

と思ふに、今の諸候の多くは、財主の爲に苦しめられながら、嬖妾(へいしやう)[やぶちゃん注:「愛妾」に同じ。]に費えを厭ひ玉はず。或は、職位(しよくゐ)を望みて、そがなかだちするものに、謀(はか)られ、あたら、黃金(こがね)を失ひ玉へることなどをはじめとして、經濟の可否を論ずること、數篇(すへん)、全書三卷を「獨考(ひとりかんがへ)」と名づけたり。時に文化十四年冬十二月朔、眞葛五十五歲の著述とぞ聞えし。此他、「奧州ばなし」一卷、「磯づたひ」一卷あり。予が、こゝにしるしつけたるは、眞葛の、予が爲に書きておこせし「昔がたり」・「とはずがたり」・「秋七くさ」・「筆のはこび」などいふ草紙の意をうけて、畧記しつるものなり。

[やぶちゃん注:「奧州ばなし」「磯づたひ」は既にブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を完遂しており、それらの一括縦書PDF版も私の個人サイト「鬼火」内の電子テクスト・ページ「心朽窩旧館」で、それぞれ、「奧州ばなし」及び「磯づたひ」として公開してある。

 以下は、底本でも改行してある。一つの切れめでもあるので、一行空けた。]

 

 予は、近き頃まで、眞葛をしらず、文政二年己卯[やぶちゃん注:一八一九年。]の春きさらぎ下旬、家の内のものどもの、年の始めのことほぎにとて、親族許(しんぞくがり)ゆきたりし日、齡(よはひ)五十(いそぢ)ばかりなる比丘尼の、從者(ずさ)ひとりいたるが、來て、おとなふ有けり。とりつぐものゝなき折なれど、うちも、おかれず、みづから出でて、

「いづこより來ませしぞ。」

と問ふに、比丘尼のいはく、

「尼は、牛込神樂坂(うしごみかぐらざか)なる田中長益(ちやうゑき)といふ醫師(いし)に由緣(ゆかり)あるものに侍り。主人(あるじ)に見參(けんざん)せまほし。」

と、いひつゝ、にじり上りたり。

 予は、文化のはじめより、客を謝し、帷(ゐ)を垂れて、常に人と交はらず、をちこちの騷客(そうかく)の、多(さは)に來訪せらるゝも、舊識(きうしき)の紹介(ひきつけ)なければ、病ひに托(たく)して、逢はざりしに、

『ついで、わろし。』[やぶちゃん注:「面会の次第が乱暴でよくないな」。]

と、思へども、せんかたのなきまゝに、

「いな、主人は出でゝ、今朝より、あらず。家の内の人ども、いつちヘか、ゆきたりけん、己(おのれ)は、しばし、留守するもの也。何事まれ、仰せおかれよ。歸らば、傳へまゐらせん。」

と、惟光(これみつ)がほに、答へたり。

[やぶちゃん注:面白い表現だ。ただ、考えて見れば、自身を光源氏に譬えているわけで、ちょっと憎い感じはする。]

 その時、比丘尼は、ふところより、一通の封狀と、「さかな代(だい)」と、しるしたる「こがね」一封(いつふう)と、「ふくさ」に包みたる草紙三(み)まきを、とり出でゝ、

「こは、みちのくの親しきものより、『あるじに、とゞけまゐらせよ。』とて、おこしたるなり。草紙は、『をんなの書きたるを、こゝの翁の筆削(ひつさく)をたのみ侍る。』とよ。猶、つぶさには、此消息(せうそこ)にこそ、あらめ。あまは、今宵、田中許(がり)止宿(ししゆく)し侍れば、翌(あす)のかへさに、又、とぶらひ侍りてん。『その折りに、一筆(ひとふで)なりとも、此かへしを賜はれ。』と傳へ給へかし。」

といふ。

 予、答へて、

「そは、こゝろ得て侍れども、主人は、年來(としごろ)、『筆とる技に倦(う)みつかれたれば。』とて、いづ方より、よざし玉ふも、かゝるものは、うけ引き侍らず。殊更、留守の宿(やど)なるに、あづかりおかば、叱られやせん。又、折りもこそあるべきに、こは、もてかヘらせ玉へかし。」[やぶちゃん注:「よざし」「よさす」は元は上代語で後世には「よざす」とも表記する。四段活用動詞「寄(よ)す」の未然形に、上代の尊敬の助動詞「す」の付いたもので、「おまかせになる・ある事柄をある人に委任なさる」の意である。ここは、その「す」が使役の意に転じた用法で、二重敬語ではあるまい。]

と、いなむを、比丘尼は聽かずして、

「そは、宣(のたま)ふことながら、おん身の心ひとつもて、おしかへされんことには、あらじ。とまれ、かくまれ、あづかりて、たべ。翌の朝は、巳(み)の比[やぶちゃん注:午前十時頃。]に、またこそ、來(き)め。」

と、期(ご)をおして[やぶちゃん注:再来の刻限を定めて。]、いとまごひして、まかり出でにけり。

 予も亦、書齋に退(しりぞ)きて、まづ、その狀を、ひらきて見るに、いひおこしたる趣きは、比丘尼のいへるに同じけれども、ふみの書きざま、尊大にて、

――馬琴樣 みちのくの眞葛――

と、のみありて、宿所などは定かにしらせず、いぶかしきこと、限りもなければ、獨り、つらつら思ふやう、

『此(この)年來(としごろ)、貴人(あてびと)より、書を賜はりし事のあれども、かくまでに尊大なるは、いかなる人の妻やらん。仙臺侯の側室(そばめ)にて、「御部屋(おへや)」など、唱ふるもの歟。遙々と、よざしぬる草紙は、何を書きたるやらん。』

と、思へば、やがて繙(ひもと)きて見れば、經濟の可否を論じて「獨考」と名つけたる「ふみまき」の稿本(したがき)なり。

『その說どもの、よき、わろきは、とまれ、かくまれ、婦人には多く得がたき見識あり。只、惜しむべきことは、眞(まこと)の道をしらざりける、不學不問の心を師として、ろ論じつけたるものなれば、傍らいたきこと、多かり。はじめより、玉工の手を經て、飽くまで磨かれなば、かの「連城(れんじやう)の價(あたひ)」におとらぬまでになりぬべき。その玉をしも、玉鉾(たまぼこ)の、みちのくに埋(うづ)みぬることよ。』

と、おもへば、今さらに捨てがたきこゝろあり。

[やぶちゃん注:「連城の價」「連城の璧(たま)」が一般的。秦の昭王が十五の城と交換したいと申し入れたという趙の恵文王の所蔵していた玉璧(ぎょくへき)。転じて「またとない宝物」の比喩。「和氏璧(かしのたま)」或いは単に「連城」とも。]

 さは、さりながら、人妻か、母か、もしらぬ一老婆(いつらうば)の、その宿所だに定かならねば、需(もとめ)に應ずべくもあらず。

『いでや、わが志を見しらして、その後に、ともかくもせんすべあれ。』

と、おもふになん、その夜、「かへし」をものするに、

――己(おのれ)は、いとはやくより、市(いち)にかくれて、婦幼童(をんなわらんべ)のもてあそびものとなるよしは、刀自(とじ)にもしられたるなるべし。さばれ、こたみ、よせられしおん作の『さうし』は、それらのすぢにはあらぬを、世の人の、われをしれるものと、異(こと)なる見どころあるにあらずば、江戶には、名だゝる儒者も、國學者も多かるに、己には、たのみ玉はじ。さるこゝろもて、せられなば、などて、いと尊大なる。大凡(およそ)、人にもの問ふには禮節あり。いにしへの人は、一字(いちじ)の師をだも、猶、おろかには、せざりき。もし、まことに問はん、とのみ、こゝろあらば、かくはあらじを、馬琴とだに、たゝへられしは、いかにぞや[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では『馬琴とさへものせられしはいかにぞや』で、その方が腑に落ちる。]。曲亭も、馬琴も、予が戲號(げがう)なれど、戲作・狂詩・狂歌などのうへにのみ交はる友ならば、しか唱へられんに、咎むべき事にはあらず。もし、實學正文(じつがくせいぶん)のうへをもて交はる友に、なほ『曲亭』とたゝへられ、『馬琴』といはるゝは、是、われをしらざるものに似たり。いかでか、予がこゝろに耻づること、なからんや。かゝれば、刀自も、よく、予をしり玉へるに、あらざるなめり。近頃、平賀源内が、儒學・蘭學のうへには『鳩溪(きうけい)』と號し、戲作には『風來山人』と稱し、淨瑠璃本の作あるには『福内鬼外(ふくうちきぐわい)』と、しるしけり。又、太田覃(おほたたん)[やぶちゃん注:底本では「覃」に「せん」とルビするが、誤りなので訂した。大田南畝の本名であるこれは訓読みして「ふかし」である。ただ、尊敬を示して音読みすることは普通に行われる。]は、儒學に「南畝」と稱し、狂詩に「寢惚先生(ねぼけせんせい[やぶちゃん注:ルビは「ね」がない。補った。])」と稱し、狂文・狂歌に「四方赤良(よもあから)」「四方山人(よもさんじん)」「巴人亭(はじんてい)」「杏花園(きやうくわゑん)」などもしるし、晚年には「蜀山人」と號したれども、戲作・淨瑠璃のうへならでは、「鳩溪(きうけい)」を「風來」とも「鬼外」とも稱するものなく、狂文・狂詩・狂歌のうへならで、「南畝」を「寐惚(ねぼけ)」とも、「四方」とも、「巴人亭」とも稱するものは、あらざりき。よしやその著(いちじる)きをのみ、呼びなれて、虛實の號を混ずるとも、眞(まこと)によくその人をしれるものは、こゝらに、心を用ふべき事歟。刀自は、よく予をしらず、予は、素より、刀自を知らず。男女(なんぢよ)、みづから、授け、受けざるは、「禮」也。刀自は人の妻歟、母歟。その宿所だも、つゝみ玉ふには、われ、答ふる所をしらず。こゝをもて、只、わが志(こゝろざし)を述べて、おどろかし奉るのみ。――

と、書きしるしつ。

 かくて、妻(め)のをんな[やぶちゃん注:馬琴の妻。]を呼びて、

「翌の朝、しかじかの比丘尼、來つべし。『主人は、けふも、未明(はやき)に出て、あらず。こは、きのふの「おんかへし」なり。』と告げて、わたせよ。」

といふに、こゝろ得て、しか、はからひつ。

 この後(のち)、二十日ばかりを經て、又、かの比丘尼より、御宰(おさい)めきたる使ひをもて[やぶちゃん注:「御宰」江戸時代に奥女中の供や、買い物などの雑用をした下男。但し、通常、その場合は「ごさい」と読む。]、

「みちのくよりの消息を屆け侍る。」

とて、おこしたるに、「栲(たへ)の尼」と、しるしたる添へふみも、ありけり。

 まづ、眞葛の狀をうちひらきて見るに、こたみは、いと、おしくだりて、文(ふみ)の書きざまの、ねもごろなりし。そが中に、

――よろづに、あはあはしき[やぶちゃん注:「淡淡しき」。いかにも軽薄で浮わついた。]をんなの、よそをだに得しらねば、今は『やもめ』にて、いとおよすげたる[やぶちゃん注:たいそう老けた感じの。]身にしあれど、『をとこに物いはんに、ねもごろぶりたらんも[やぶちゃん注:「いかにも心を込めて丁寧に記すのも」の意であろう。]、なかなかに、無禮(なめげ)なるべし。』と思ひとりしより、『禮(ゐや)なし』と見られにけん。露(つゆ)ばかりも、そなた樣をあなどる心あらば、人には見せぬ筆のすさびを、たのみ奉ることやはある。この後(のち)とても、心づきなき事、多からんを、敎へられんとこそ、ねがひ侍れ。『こなたのうへを、しらせよ。』とあるに、いかで、つゝみ侍るべき。眞葛はしかじかなり。又、さきにわらはが消息(せうそこ)を、もてとぶらひ侍りしは、妹(いもと)にて、しかじか。――

と、その身のうへをも、妹『拷(たへ)の尼(あま)』の名どころをも、つぶさに書きしるして、別に「昔かたり」といふ草紙一巻(ひとまき)に、その先祖の事さへ、しるしつけて、みせられたり。

 又、その消息に、

――こゝには、『詞(ことば)がたき』もなく侍れば、只、あけくれに、物を考へ見かへすることの、癖となり、病ひともなり侍りたり。さて、思ふやう、何の爲に生(な)り出でつらん。女一人(をんなひとり)の心として、世界の人の苦(く)を助けまほしく思ふは、なしがたきことゝしりながら、只、この事を思ふが故に、日夜、やすき心もなくて苦しむぞ、無益(むゑき)なる。今は『やもめ』にもなりつるに、なげきをのこさん子とても、なし。息のかよはん限りは、この歎き、やむこと、あたはじ。長く生きてくるしまんより、息をとゞむるぞ、苦をやすむるの、すみやかなるべしと思ひて、ひたすら死なんことを願ひ侍りしに、時は秋のことなりき、曉(あかつき)がたの夢に、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、和歌の上句の後は、そのまま続いてしまっている。]

 秋の夜のながきためしを引く蔦(つた)の

といふ歌の上の、おのづから、ふと、聞えたるは、多年信じ奉る觀音菩薩の、しめさせ給ふと覺えて、夢ごゝろに忝(かたじけな)く、此下のつけやうにて、おのが一世の占(うら)とならん、とまで、しめさせ玉ふ、とおぼえて、いとうれしく、心、いと、あわたゞしきものから、世々に榮えんとこそ、いはめ、と思ふ程に、さめはて侍りき。

『四の句、いと、大事ぞ。』

と思ひつゝ、やゝ程(ほど)ありて、

[やぶちゃん注:ここは底本でも改行(字下げはなし)であるが、同前。]

 たへぬかつらは

と、つけ侍りし。

[やぶちゃん注:「たへぬ」はママ。

 ここは底本でも改行で一字下げであるが、同前。]

 秋の夜のながぎためしにひく蔦のたへぬかつらは世々に榮えん

と、一首のかたちをなしぬれど、いと心もとなくのみ思ひ侍りき。かく、たえず、物をのみ思ひ積みし故によりて、病者(びやうしや)となり侍りて、身もよはく、心もきえきへにのみ、なり增さりしは、不動尊を信じ奉りて後、漸(やうや)く、病も、うすくなり侍りしかども、今に、右の手のいたみて、筆取ること、心のまゝならず、眼(め)、くらくして、細書(さいしよ)をみること、あたはず。是は『老(おひ)の病ひ』とぞ覺え侍る。この近きわたりに、「岩不動」と申し奉るが、たゝせ玉ふ。年每(としごと)の五月廿八日には、このわたりなる幼童(わらんべ)どもの、集合(つど)ひて、御輿(みこし)をかき荷(にな)ひ、御旗(みはた)、あまた持ちて、遊ぶが如く、もて渡り侍り。我も赤色(あかいろ)なる御旗をたてまつりしを、御先(みさき)に持ちてわたりしかば、御心につかせ玉へるならめと、有がたく思ひ侍りしに、宵過ぎて、うすねふたきに[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『うすねむたきに』とあり、「薄眠たきに」(少し眠気がさしてきた頃)の意であることが判る。]、

『いざ、ねばや。』

と思ひて、端居(はしゐ)しながら、籠(かご)にこめたる螢(ほたる)の、やすげなくふるまふをまもりつゝ、何心(なにごゝろ)もなくてありしほどに、

[やぶちゃん注:底本でも改行一字下げ。但し、文は後に続く。]

 ひかりある 身こそくるしき思ひなれ

といふことの、耳にきかれて、めさむるこゝちもしは、

『此(この)御佛(みほとけ)の御しめしぞ。』

と、有りがたくて、

[やぶちゃん注:同前。]

 世にあらはれん時をまつ間(ま)は

と、又、下をつけそへ侍りし。

 此二歌(ふたうた)をちかくに、

『さらば、心にこめしことどもを、書きしるさばや。』

と思ひ立ちて、いと、おほけなき[やぶちゃん注:身のほど知らずな。身分不相応な。]ことどもを、いひ出だせるに侍るなる。書き果てて後に、

『誰(たれ)に「しらげ」をたのまばや。』[やぶちゃん注:「しらげ」「精(しら)げ」で「精(しら)ぐ 」(他動詞ガ行下二活用)で、精米するように、「磨きをかけて仕上げる・鍛えて一層良くする」の名詞形で、「校閲して貰ってブラッシュ・アップすること」を指す。]

と、久しう思ひ煩ひて侍りしに、

「かゝる人に見せよ。」

と、不動尊の御しめしありし故、

そなたに、ことよせ侍りしにこそ。おろそかならず、考を添へ給はらんなんど、ねんじ奉りぬ。今の此身は、譬へば、小蛇の(せうじや)の、物に包まれて、死にもやらず、生きもせず、むなしき思ひ、のこれるに、ひとし。

『君(きみ)、雨となり、風となりて、こゝろざしを、引きたすけ玉はらば、もし、天に顯はるゝことのありもや、せん。』

など、ありて、こたみは、瀧澤解(とく)大人(だいじん)先生樣御もとへ 綾子――

と、書かれたり。

 この長文(ながぶみ)を見る程に、おもはず淚は、はふり落ちて、あはれむこゝろになりにたり。

 名を諱(い)む事は、「からくに」の制度なるを、國學などのうへにては、ふかく、いむよしも、あらず。たとひ、今は、なべて忌むとても、戲號(げがう)を唱へらるゝには、はるかにまして、ほいに稱(かま)へり。但し、「大人先生」などたゝえられしのみ、當(あた)りがたきことなれば、「大人先生」のわけをしるして、かたく、とゞめたりけれども、猶、あやにくに[やぶちゃん注:予想以上に厳格で。馬琴先生、実は、また真葛に使って欲しかったわけね!]、用ひざりけり。こは、羹(あつもの)に懲りしものゝ、韲(あへもの)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『スノモノ』とルビする。「韲」は「膾」「鱠」に同義。]を吹くたぐひならまし。そもそも、この眞葛の刀自は、「おのこだましひ」あるものから、をさなきよりの癇症の凝り固まりしにもや、あらん。さばれ、心ざま、すなほにて、人わろからぬ性ならずば、予がいひつることゞもを、速かに諾(うべな)ひて、遠祖(とほつおや)の事をさヘ、しるして見することやは、せん。かゝる婦人のたのめる事を、猶、いなまんは、さすがにて、しかじかと、ことうけ、しつる。

 そのをりの、予がかへしに、

――「海(うみ)なす御心の廣からずば、木の枝に鼻をすらるゝ。」といひけん如き、予が言(こと)ぐさを、諾(うべな)ひ容(い)れて、しかじかとは聞え玉はじ。およそは、こたみの御消息にて、あし曳(びき)の山の井のかげさへみゆるこゝちし侍れば、淺くは思ひ侍らねど、『不動尊の示現(じげん)によりて』など聞え玉ふばかり、うけられね。そは、とまれ、かくもあれ。たのまれ奉りし一條は、よくも、わろくも、なし果て、おん笑ひにこそ、備(そな)ふべけれ。しかれども、生業(なりはひ)の爲めに、たのまれたる書きものゝ多かれば、今年の暮れまで、待たせたまへ――

など、しるして果て、妹の尼の添ふみを見るに、

――陸奥(みちのく)よりの消息(せうそこ)とゞけ奉る。さても、いぬる日、ふたゝびまで、とぶらひまつりしは、

『人づてに、な、せそ。みづからゆきて、しかじかと傳へよかし。』

と、みちのくより、いひおこせたりしにこそ。さるを、次のあしたにも、あはせ玉はぬにて、しか、侍りぬ。かの留守居(するゐ)の翁(おきな)こそ、こゝろにくけれ。かゝれば、奧のたより每に、尼がその消息をもてゆきて、とゞけまゐらするも要(えう)なし。此のちは、いつも使ひをもて、すべきに、「禮(ゐや)なし」とて、な咎めたまひそ。――

と、ゑんじたるふみの書きざまなれば、予は、何とも、そのことのいらへはせで、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、同じく文は下に続く。]

 ふみわきてとはれし草のいほりにはなほ春ながくかるゝ君かも

と、よみてつかはしゝかば、後のたよりに、かへし、

[やぶちゃん注:同前。なお、「かへし」の行の下方インデントで以下の名前はあるが、改行した。]

                 萩の尼

 やぶしわかぬ君が心しはるならばわりことくさもかれずやあらまし

と、ありしに、又、予がかへし、

 ことくさを花とし見ればとゞめあへずきのふおしみしはるはものかは

と、よみて、つかはしけり。こは、卯月朔日のことにぞ有りける。

 この「萩の尼」瑞祥院も、多く得がたき才女(さいぢよ)にて、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、走り書き、うるはしくて、手すぢは姊(あね)の眞葛に似て、瀧本樣(やう)なるも、めでたし。

 程へて、予が「ことくさ」の歌をたゝヘて、

[やぶちゃん注:同前。]

 ことの葉のしげきいほりの下つまやふるえの萩をはなとなすらん

と、よみておこしたりき。[やぶちゃん注:この一首、吉川弘文館随筆大成版では、三句目が『下つゆや』である。]

 又、このとしの冬、萩の尼より、ものをつゝみておこしし服紗(ふくさ)を、あやまちて、火桶の中へとり落したりけるを、わびつゝ、かヘしつかはす、とて、

[やぶちゃん注:同前で、「解」の名の位置は先と同じ処理をした。以下、五月蠅いばかりなので、歌では、この注をしない。]

                   解

 こがれつゝわたしかねたる川舟(かはふね)のかぜのふくさにいとゞくるしき

と、いひしに、萩の尼のかへし、

  「やけふくさ」といふことを

と、はし書きして、

 よの人のたぐひにあらずまめなりやけふ草の戶にかへすこゝろは

と、ありし。こは予が遣はしたる、かへの服紗をかへせし折の事になん。

 是より先に、彌生のころ、眞葛のせうそこに、

――御生業(おんなりはひ)の爲めに、筆とらせ玉ふにて、いとまなきに、しばしば、わづらはし奉るを、『こゝろなし』とや、おもはれ侍りてん――

などありしに、「かへしす。」とて、よみてつかはしける、

 わが宿のはなさくころもみちのくの風のたよりはいとはざりけり

ほど經て、眞葛の、かへし、

 あやまたず君につげなんかへる雁かすみかくれにことつてしふみ

こは、その家の「おきて」あれば、予に消息(せうそこ)をおくれる事を、誰々(たれたれ)にもしらせずとか。嚮(さき)に聞きたることもあれば、歌の心も、しられたり。是より後、かねて書きつゞりたりし物をば、妹(いもと)の尼に淨書せしめ、又、予が爲に綴れるものをば、眞菖の、みづから淨書して、くさくさ[やぶちゃん注:底本は「くさしく」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]、おくりて見やられたり。

 この餘、その消息のはしにも、眞淵・春海(はるみ)・宣長・大平(おほひら)などを論ぜしあり。いと、けやけくおもほゆるを、「さのみは。」とて、しるしも、つくさず。

[やぶちゃん注:「大平」本居大平(もとおりおおひら 宝暦六(一七五六)年~天保四(一八三三)年)であろう。伊勢松坂生まれの国学者。旧姓は稲懸。十三歳の時に本居宣長の門に入り、「茂穂」と称した。宣長に愛され、四十四歳で、その養子となり、宣長の死後、失明した宣長の子春庭(はるにわ)に代って、家を継ぎ、紀伊藩に仕えて国学を講じた。門人も多く、宣長の思想の普及に力を尽した。著書に「古学要」・「神楽歌新釈」・「万葉集合解」などがある。]

 かゝりし程に、このとしも、はや、霜月になりしかば、

――「獨考」のことは、忘れ玉はずや。かねての約束をたがへたもふな――

など、いひおこせること、しばしばなれども、

『今さらに、そのふみを引きなほさん事、易からず。もし、そのわろきを刈りとらば、殘らんことの葉、すくなかるべし。こは、此まゝにうちおきて、別に、諭(さと)すに、ますこと、あらじ。』

と、思ひにければ、原本は假名づかひのたがへると、眞名(まな)の寫しあやまれるに、いさゞか雌黃(しわう)を施して、別に「獨考論(どくこうろん)」二巻(ふたまき)を綴りたり。

 その言(こと)、露ばかりも謟(へつら)ひかざれる筆を、もてせず。その是非を、あげつらふに、敎訓を旨として、高慢の鼻をひしぎしにぞ。いと、おとなげなきに似たれど、

『かくいはで、かたほめせば、いよいよ、さとるよしなくて、にぶし、といふとも、予が斧(をの)をうけたる甲斐は、あらざるべし。人に信(まこと)をもてするに、怒りを怕(おそ)れて諫めざらんは、交遊の義にあらず。』

と、かねておもふによりて也。

[やぶちゃん注:「雌黄」元は硫化砒素からなる鉱物(黄色で半透明、樹脂光沢を持つ。鶏冠石に伴って産することが多く、有毒。雄黄(ゆうおう)に同じ)のこと。これを、昔、中国で、文字の抹消に用いたところから、「詩文を改竄・添削すること」を指す。]

 かくて、廿日ばかりにして、その書、やうやく成りしかば、みちのくへ、つかはすとき、

「いついつまでも、まじらひし事、うけたまはり度(たく)思ひ侍れど、をとこ・をみなの交りは、「かしらの雪を冬の花」と見あやまりつゝ、人もや、咎めん。且、わが生業(なりはひ)のいとまなきに、年來(としごろ)思ふよしもあれば、いとふるき友すら、疎(うと)くなり侍りたり。かゝれば、おん交はりも、是を限りとおぼし召されよ。」

など、いひ、つかはしゝに、次のとしの春、みちのくよりのかへしとて、「萩の尼」の屆けられたり。

 くだんの尼は、予が論の書きざまを譏(そし)れりと見て、うらみにけん。

 怒りは、筆に、あらはれにき。

 こは、あねにおとりて、むねせまき婦女子の氣質と、しられたり。

 眞葛は、さもあらずして、いと、いたく、よろこび、うけたる、消息のまめやかにて、――おんいとまなき冬の日に、書肆(ふみや)どものせめ奉る、春のまうけのわざをすら、よそにして、かう、ながながしきことを綴りて、敎へ導きたまはせし、御こゝろの程、あらはれて、限りもなき幸ひにこそ、侍れ。なほ、永き世に、此めぐみをかへし奉るべし――

と、書かれたり。

 このとき、越前の「御くにかみ」[やぶちゃん注:「御國紙」か。特産の特殊な和紙であろう。]とて、賣物には絕えてなき小形(こがた)の美の紙[やぶちゃん注:「みのがみ」。]十五帖と、おなじ國の「はさみ」、陸奥名とり川なる「うもれ木」の栞(しをり)、「もとあらの萩の筆」などを、贈られしにぞ、明けの春、きさらぎの頃、そのよろこびを、一筆(ひとふで)書きてつかはせしに、かしこのかへしは來(き)にたれど、久米路(くめぢ)の橋の、なか、絕えて、ふみ見ることは、なくなりぬ。

「いとかなし。」

とも、かなしかりしが、かく遠ざかりぬる事を「いかにぞや」と思ふ人の爲めには、いふもえうなきわざながら、

『彼(かの)同胞(はらから)は才女(さいぢよ)なり。齡(よはひ)は、かれも小動(こゆるぎ)のいそぢを過ぐる程なりとも、迭(たがひ)におもてをしらずして、親しく年をかさねなば、李(すもゝ)の下に冠(かむり)を正(たゞ)し、瓜の園(その)に履(くつ)をいるゝ人の疑なからずやは。且、彼家のぬしには、しらさで、みそかにす、といはるゝをしりつゝ、交るべくも、あらず。いと捨てがたき思ひありて、捨てずしてかなはぬは、すぐせありての事ならん。』

と、かねてより、おもひしなり。

 これよりの後、まどろまぬ曉(あかつき)每(ごと)に思ひ出で、そのあけの朝、消息(せうそこ)さへ、とり出だしつゝ見る每に、淚は、胸にみちしほの、ふかきなげきとなりにたり。

 この後(のち)、三(み)とせばかりの程は、

「『萩の尼』が御宰(おさい)をもて、予が家の『奇應丸(きわうぐわん)』を求めさせつる事、折々ありし。」[やぶちゃん注:息子の松前藩医員の興継が調合した市販薬であろう。]

と、むすめどもの、いひつるにて、

『扨は。予が安否のほどを、みちのくへ告げんとての、わざか。』

と思ふも、いと、はかなし。

 いかで、われ、眞葛の草子を刻本(ゑりまき)にして、世にあらはさんとは思へども、彼(か)の「獨考」は禁忌に觸るゝこと、多かり。まいて、予が「獨考論」などは、人に見すべきものには、あらず。されば、

「此二書は、そゞろに、な、人に貸(か)しそ。」

と、興繼をすら、いましめたり。

 又、「奧州ばなし」などいふものも、憚るべきこと、まじりたれば、刻本には、なしがたし。只、「磯づたひ」の一書のみ、その文の、特にすぐれて、且、めづらかなる說もあり。禁忌にふるゝことのなければ、

『是をこそ。』

と、おもふ物から、いまだ時の至らぬにや、書肆(ふみや)と謀(はか)るいとまなかりき。

 眞葛の齡(よはひ)を縷(かゞな)ふるに、予に、四つばかり[やぶちゃん注:数えでなければ正しい。]の姊(あね)なりければ、今もなほ、恙なくば、六十(むそぢ)あまり三ッにやならまし【眞葛は文政七年某の月日に、身まかりしとぞ。今玆三月、尾張の友人田鶴丸が、松島、見にゆきしをり、ことつけしに、眞葛と、うとからぬ仙臺の醫師にたつねしよしにて、はつかに、その訃聞えたる也。丙戌四月追記。[やぶちゃん注:冒頭注に記した通り、文政七年は誤り。真葛はこれが発表された十月一日から三ヵ月余り前の文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没していた。享年六十三であった。]】。

[やぶちゃん注:「かがなふ」は漢字は「僂」が正しい(吉川弘文館随筆大成版では正しくそうなっている)。これは、副詞「かがなべて(「日数を重ねて」の意)」を「指を折りかがめて数えて」の意に解したところから、「指折り数える」の意で用いられた。]

 おもふに、いぬる文化のはじめつかた[やぶちゃん注:「文化」は十五年まで。一八〇四年から一八一八年まで。]、尾張の某氏の後室が、「新潟」といふ草紙物語を書きつめて、予が筆削を乞ひけるも、かたく辭(いろ)ひて[やぶちゃん注:「いなびて」の誤り。吉川弘文館随筆大成版では、正しく『辞びて』とある]還(かへ)したり。又、近き頃、本鄕なる田中氏の女(むすめ)の、予が敎へを受けんと願ふこと、既に十年(とゝせ)に餘りぬと聞えしも、いなみて終(つい)にうけ引ざりき。まいて男子(をのこ)の予が、をしへ子たらんと請ひし人々は、かゞなふに遑(いとま)なきを、意見を述べ、推し禁(とゞ)めて、いづれも、需(もとめ)に應ぜざりけり。予が、人の師とならざるは、柳宗元に倣(なら)ふにあらねど、素より思ふよしあれば也。さるを、只、この眞葛の刀自のみ、婦女子には、いとにげなき經濟のうへを論ぜしは、紫女(しじょ)・清氏(せいし)にも立ちまさりて、「男だましひ」あるのみならず、世の人は、えぞしらぬ、予をよくしれるも、あやしからずや。されば、予が、陽に袪(しりぞ)けて、陰に愛(め)づるは、このゆゑのみ。かゝる世に稀なる刀自なるを、兎園社友(じやいう)にしらせんとて、いといひがたきことをすら、おしもつゝまで、しるすになん、秋も、はや、けふのみと、くれゆく窓の片あかり、風さへ、いとゞ身にしみて、火ともす程を、まつまゝに、かくなん、思ひつゝけける。

[やぶちゃん注:中唐の詩人柳宗元のもとに、韋中立という若者が入門を志願してきたのに対し、それを辞退することを述べた書簡「答韋中立論師道書」(韋中立に答へて師道を論ずる書)を指すものであろう。全文が載るわけではないが、松本肇氏の論文「韓柳友情論」PDF・一九八四年十二月発行『文藝言語研究 文藝篇』巻九所収)が非常に判り易い。そもそも柳宗元は当時としては稀れに見る強力な無神論者・唯物論者・合理主義者であり、「論語辯」では、「論語」が孔子の直弟子によって編纂されたものではないことをまことにクールに解析し、その中で「師」なるものは単なる一方的な尊崇のイメージがあるだけの仮想であるというようなことをさえ言っているように私は思う。私は高校一年の時に「江雪」を読んで以来、彼のファンである。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 うらみきと思ふもわびし眞葛葉(まくずは)に今もなごりのあきの夕風

 予は、例の、「ふみ屋」らにせめられて、かゝるもの、かくいとまなきを、そのいとまなき折に、いと長々しう書かんこそ、まことに書くにはあるべけれど、思ふも、老のしはみたるなり。瘤(こぶ)を見するに似て、われながら、いといと、をかし。されば、きのふ巳(み)[やぶちゃん注:午前十時。]のころに、はじめて筆を把(と)りしより、さて書くとかく程に、夜も、はや、二更の鐘[やぶちゃん注:午後十時或いは午後十一時頃。]を聞きつゝ、このはたひら[やぶちゃん注:原稿を指しているが、語源不明。]を綴り果てにき。もちろん[やぶちゃん注:底本「ん」なし。吉川弘文館随筆大成版で補った。]初藁 (しよかう)[やぶちゃん注:「稿」の異体字。]のまゝにしあれば、さすがに心もとなさに、今朝(けさ)、はじめより、讀みかへして、纔(わづ)かに誤脫を補ふものから、拙きうへに、なほ拙きが、巧みにして、けふのまとゐの、間にあはぬには、ますらめと、みづから、ゆるすも嗚呼(おこ)なるべし【文政八年乙酉冬十月朔藁】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では最後に『愚山人解稿』とある。

 にしても、この、馬琴が事実を書いて、その中で馬琴自らが、真葛との文通の絶えた折りに、涙を流したことを、素直に記したこれは、馬琴が自身について書いたものの中でも、恐らくはとんでもない特異点であろう。電子化しながら、私も目頭が熱くなった。

 以下、例の底本編者の依田百川の評言。「兎園小説」には、無論、載らないのだが、真葛評が載るので電子化する。]

百川云、眞葛の父工藤平助といへえるは、世に名高き竒士(きし)林子平(りんしへい)が從弟(いとこ)なりとか聞しことあり[やぶちゃん注:こんな話は聴いたことがない。ガセネタであろう。]。さればこそ、この眞葛の老女も丈夫氣(ますらをぎ)あるならめ。余、「獨考」といふ書を一讀するに、當時、藩主が商人(あきんど)等(ら)の爲に、國財を管理せられて、己が自由に民政を行ふ事を得ざるを痛みたる論あり、又、婦人の爲に政事を紊(みだ)らるゝ事[やぶちゃん注:ママ。何となく言葉遣いと内容がおかしい気がする。]など擧げて、論ぜし處もありき。又、金銀寶貨(はうくわ)などは經濟の才ありといひつべし。曲亭は博學なれども、經濟の才に至りては、眞葛に及ばざる處もあらん。されば、多くの人と交りたれども、實に感服せしもの、少なきに、獨、この老女を推稱(すいしやう)して、口に容(い)れざる[やぶちゃん注:深く入り込んでは語ろうとしない。]如きをもて見れば、世に珍しき婦人なるべし。此傳と先に載せられたる蒲生の傳[やぶちゃん注:「兎園小説」正編の最終第十二集の掉尾に置かれた馬琴の「蒲の花かたみ」を指す。林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられた儒者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年:天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者にして海防論者として知られる)の評伝。フライングされたい方は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」第一上のここから読める。]と、男女一雙の叙事の竒文(きぶん)なるかな。世に傑士・賢婦少なきにあらねども、竒文をもて傳ふるもの、稀れなり。かの二人の竒節(きせつ)をもて、曲𠅘の竒文を得て、これをしるす。實に古今の一大竒觀とすべし。

2021/10/13

只野真葛 むかしばなし (41) / 「三」~始動

 

むかしばなし 三

 

  むかしをおもひいでつゝふるときはわかがへりたるこゝちこそすれ

 

[やぶちゃん注:以下「おもひをのべたり。」までは、底本ではぜんたが二字下げ。]

 此卷は、分て、父樣・おぢ樣の御間のことを、委しくあらわしたり。世のたとへに恥をいはねば利(理)がしれぬと申ごとく、後々にいたりては、おぢ樣は、おとなしい顏を、よくして、他人にみせられし故、すでにそなた樣などさへ、幼年より他所に御出、もとのことを心得られぬは、父樣の和されぬが、氣よわきやうに見へつらん。其むかしより、こまやかにあだを被ㇾ成しをしりては、人に、しか、おもはるゝが、くやしかりしおもひを、のべたり。

 隣、内田の地と成しは、ワ、十二、三の頃なり。三、四月のことなりしが、夜中、奧方の聲とて、庭かよひ路の戶を、たゝきながら、

「周庵さま、一寸おいで被ㇾ下、おいで被ㇾ下、」

と、しきりによぶ聲、仕たり。

 父樣。おきいでゝ、

「何事ぞ。」

と御とひ被ㇾ成しに、

「玄松、急死なり。」

とて、はだしにて、かけ付してい[やぶちゃん注:「體」。]故、早速、御出で、先《まづ》、やう、御覽有しに、おびたゞしき吐血にて、こと切(きれ)なり。

 奧方とは、ひとへ唐紙をへだてゝやすまれしが、うなり聲、つよく聞へし故、おきて見られしに、其通のことにて有し、とぞ。

 此大變にて、目がさめて、俄に、鬼門屋敷も、いやに成、折釘を打てより、家鳴のせしこと、玄松、淫亂になられしことなど、おもひあたり、をちをちも、翌年までは居られしが、大勢の子達、奧醫師の役料、ひけて、とりつゞきかね、ちりぢりばらばらに成て、其あとへ奈須玄信は、ちかしき親類故、家守、心に賴れて、來られし人なり。

 玄松死後、下女に、狐、付て、いろいろ、口ばしりしに、とがもなき宮をこぼち、散錢をおし取て、釘、打しことなど、うらみのゝしりしこと有し、となり。

 是を聞て、俄に宮をたてゝまつり、わびごとしたれば、狐は、おちたりし。

 翌年、「はしか」はやりて、姊むすめ、死(しし)たりしが、其前夜、例の下女の夢に、また、狐きたりて、

「此女、此女。」

と、おこしたりし故、おどろき、枕をあげしに、

「是、あね娘、此度、死(しし)は、天命なり。わがせしことに、あらず。」

と斷るとおもへば、まことに夢さめしとぞ。

 是も狐のせしごとくいはれんことを察し、かく、つげしも、をかし。さすがに狐も「ぬれぎぬ」をば、いとひしなり。

 玄信殿、隣へこされしが、父樣、御運のつき、〆《しめ》がのろひの、しるしなるべし。

 眞のおごり人にて、道樂のずるひのといふことを、はじめしほどのことなりし。

 母樣は、かたいかたい、とても上なし偏屈に御そだちの人、萬事、ふうぎ、あはず。此人のこされぬ前は、世の中には「質(しち)」といふものおくといふ事有と、音に聞て有しを、奈須流[やぶちゃん注:玄信のこと。那須姓。]は、其身も、奧方も、立つたまゝにて、仕立おろしの黑ちりめん、かずくなり。普段着なり。着物をこしらへてゐること、大きらい、

「どこぞへ行時は、其ときのはやりのものをこしらへてきるがいゝ。」

といつて、さらに、たくわへ、なし。

 金𢌞のよき時分、奧方へ其頃のはやり黑手八丈の無垢に、紫金打かたの下着ちりめんの二ッがさね、緋《ひ》ぢりめんついた毛儒絆、その時はやりの帶と、あたらしく、さつぱりこしらへ、きせる。奧方、悅、夜晝かゝつて仕立仕𢌞、火のしをかける時、

「コウ、其着物を質屋へやつて、金をかりてみやれ。いくらかすか。」

奧方も餘りのこと故、『をどけ』と、心得、わらつてござる所が、中々は、てつかず、とうとう、やかましくいつて質屋へ行(ゆく)になり、にがわらひして居るうち、金を持てくると、おもひの外、

「よくかすものだ。これ齋治【そばの使ひの小僧なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、是で『九年ばう』をかつてこい。」

とて、一兩なげだし、「くねんぼ」をかはせて、家中の男女に、

「いくら、くらはれるか、食てみろ。」

とて、其夜のなぐさみなり。

[やぶちゃん注:「九年ばう」「くねんぼ」は「九年母」でムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属マンダリンオレンジ品種クネンボ Citrus reticulata 'Kunenbo'。沖縄ではクニブと呼ばれる。当該ウィキによれば、『東南アジア原産の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされた。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭、テレピン油臭)がある。果実の大きさから、江戸時代にキシュウミカン』(ミカン属キシュウミカンCitrus kinokuni )『が広まるまでには日本の関東地方まで広まっていた。沖縄の主要産品の一つだったが』、一九一九年に『ミカンコミバエの侵入で移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、さらに』、一九八二年に『柑橘類の移出が解禁されてからは、ほとんどウンシュウミカンやタンカン』(桶柑・短柑。ミカン属タンカン Citrus tankan 。ポンカン(椪柑・凸柑。ミカン属マンダリンオレンジ変種ポンカン Citrus reticulata var. poonensis )とネーブルオレンジ(ミカン属 オレンジ Citrus sinensis )の自然交配種のタンゴール (tangor) の一種)『などが栽培されるようになった。現在は沖縄各地に数本ずつ残っており、伝統的な砂糖菓子の桔餅や皮の厚さと香りを利用したマーマレードなどに利用されている』。『クネンボは日本の柑橘類の祖先の一つとなっている。自家不和合性の遺伝子の研究により、ウンシュウミカンとハッサク』(八朔。ミカン属ハッサク Citrus hassaku )『はクネンボの雑種である事が示唆された。この事からクネンボが日本在来品種の成立に大きく関与している事が明らかにな』り、二〇一六年十二月、『農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)果樹茶業研究部門が、DNA型鑑定により、ウンシュウミカンの種子親はキシュウミカン、花粉親はクネンボであることが分かったと発表した』。因みに、『古典落語に九年母という噺がある。九年母をもらった商家でそれを土産として丁稚に持って行かせる。丁稚は九年母を知らず、不思議に思って袋の中を見ると入っているのはミカンにしか見えない。その数がたまたま』九『個であったので勝手に納得し、その』一『つを懐に入れ、「八年母を持ってまいりました」。向こうの旦那が怪しんで袋を覗き「これは九年母ではないか」と問うと、猫ばばがばれたと思い慌てて懐の』一『つを取り出し』、『「残りの一年母はここにございます」と下げる』とある。]

こんなつゐへのことも、おもひきつてならぬものなるべし【おく樣は、仕立たばかりの損となりし。おもひきつて、かくはならぬものと、殊外、感心被ㇾ成しを、女心には、『いやなことをおほめ被ㇾ成』と、おもひし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

「律儀にくらすよりは、このかたは、氣がつまらずに、よい。はて、おもしろい氣風の人。」と、父樣、珍らしく思召たるより、まよひだして、ずるけて、おごる心にならせられしは、惡魔の見入しならん。是より、一きわ、手びろに成て、千兩のうきがねも、たらぬ樣に成しなり。奈須は其通、ぐわらり、ぐわらりと、あと先見ずの人故、其身の地でもなひものを、むせうに、

「かりたくば、いくらでも、かす、かす。」

といはれし故、地面五十つぼ程、かりたして、東屋をたてゝ、櫻を、おほく、うゑられしが、榮のはじまりなり。其よく年、また、地をかりたして、二階作の座敷をたてられしは、おぼしめし、たがひなりし。庭ばかりなら、地を立られし時、心やすかるべきに、家が有故、ことむつかしかりし。

 父樣四十ばかりの時、仙臺より「めし」有て、十月初、御くだり被ㇾ遊し。其二年ばかり前に、仙臺の町人、鑄錢(《ゐ》ぜに)の願、有て、父樣をたのみしが[やぶちゃん注:「むかしばなし (40)」の注の父平助の事蹟の引用を参照。]、ことすみし故、

「御禮。」

とて、金子など、上しこと、有し。其時は、父樣、少々、御不快にて、おしづまりいらせられしに、其町人、來りて、御禮を申上しうへ、金包を床の下へ、さし入て、歸りしとなり。程なく、御こゝろよくならせられしかば、無駄につかいてよい故、心ひきなり。其金を懷中被ㇾ成、

「何ぞ、目につく物も有や。」

と近所、御步行(おあるき)、二町まち邊まで、いらせられしに、きのうから、

「葺屋町河岸へ、女の力持ちがでた。」

とて大評判故、御覽被ㇾ遊しに、目見へには、きれいの女、打掛にて出、口上、終、百目懸のやうそく[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「蠟燭」。]を碁盤にて、あふぎ、けす。片手にてなり。

[やぶちゃん注:「二町まち」「二丁町」。日本橋の堺町・葺屋町の二町の併称。堺町に中村座、葺屋町に市村座があり、ともに芝居町として知られた。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 つぎは、四斗樽へ、人をあげて、さしながら、はしごを上る【終に樽の口を明て、水をだして見するなり。から樽ならぬ證なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]など、いろいろ、藝、有。

 相手は「文之助トサマヨト」[やぶちゃん注:「ト」は「と」で引用の格助詞の誤記か。]いふものなり。元來、文之助、ちから持なり。小男にて、色白く、筋太(すぢぶと)なりし。見世物にいだせしは、此者、おもひ付にて有し、とぞ。

 女の名は「ともよ」と、いひし。元來、氷川とやらの女なりしが、ある日、にわか夕立して有りしが、米揚(こめあげ)、大きにこまりて有しを、見かねて、かけ出し、米の入たる臼を、かるがると、もちて、内へいれてやりしを、文之助、通がけに見て、ふと、おもひ付、女をうけ出して、藝を仕込み、みせ物にせしなり。

 女の力持、たへてなかりし時故、珍らしく、はやりしなり。

 この力持、御氣に入て、度々、手前へも、めして、客のもてなしに被ㇾ遊たりし。

 文之助、腕や股などへ、ぬれ紙をはりて、よくきれる小がたなにて、すんすんに、きれども、身に、疵、つかざりし。ちから强(つよき)故、刄物うけぬ、となり。

只野真葛 むかしばなし (41) / 「二」~了

只野真葛 むかしばなし (41)

 ヲランダより根付の中に入(いれ)て、角《つの》にて引たる蟲のやうなる、蛇の樣なもの、はじめて、わたりし事、有。

 

Baneganngu

 

ちゞみたる所はこの樣にて、引のぶれば、一間餘[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル越え。]に成、なげだせば、

「ぶるぶる」

と、うごきなどして、氣味わるく、又、めづらしき物なりしを、御工夫にて、ろくろ引に被ㇾ成しこと、有し。常八など、日々、來て引たりし。今も、其形の物、折々、見かくることあり。

[やぶちゃん注:思うに、小さな頃に欲しかった(結局、言い出せなかった)バネで出来た階段などを自ずと繰り返し降りて行く玩具の「スリンキー(Slinky)」(リンク先は当該ウィキ)みたようなものの小型のもので、根付に接続して可働するものらしい。底本からトリミングした。]

 龍尾車なども、御くふうにて有しを、常八、覺て、公儀御用に立(たて)しことも有し。

[やぶちゃん注:「龍尾車」水を低い位置から上へ引き揚げるための装置。螺旋形に削った軸を、木製の円筒の中に内側がよく密着するように挿し入れておき、それを上で回転させることで、管に入った水を螺子(ねじ)の回転に沿って引き揚げるもの。サイト「大地への刻印」の「水を汲む、揚水具」を参照されたい。挿絵画像がある。]

 引染のかみ、御くふう被ㇾ遊しはじまりは、ある人、唐紙を、「一まる」、進物にせしが、いくらつかひても、へらざりしより、思召なりしと被ㇾ仰し。「一まる」とは、一本とて、一包ヅヽにしたるを、唐より渡りしまゝの「ひつ」なり。後に、きせるの相御覽被ㇾ成、よく當りしは、御ぞんじなるべし[やぶちゃん注:この一文、意味全く不明。]。

[やぶちゃん注:「引染」染色模様をつけた飾り紙。

「ひつ」不詳。「筆」記用の紙?]

○築地は毛利兵橘と申(まうす)三百石とりの旗本衆の地にて有し。むかふは稻葉樣御やしき、地主は左隣、右隣は外の人の地なりし。此右隣、角屋敷にて、南うけ[やぶちゃん注:南向きか。]、しごくよき所なれども、

「鬼門なり。」

とて、明地にて有し。其故は、きらいて、人のすまぬことなりし。

[やぶちゃん注:「毛利兵橘」同姓同名の人物について、円城寺健悠氏の記事で『「毛利兵橘」について』があるが、この人物の後裔か?]

 百つぼの地一面に御ふしん被ㇾ成し故、庭なけれど、南のかたに、大(おほ)あき地有(ある)故、ひろびろとしてよかりしなり。少しの山などは、奧より、むかふに見へしとぞ。それを内田玄松樣といふ派きゝの[やぶちゃん注:「日本庶民生活史料集成」版では『はばきき』とあり、これと並べると、奥医の中でも相応の力(「派」閥として有意に「利(き)き」=勢力)を持った、という意味でとれそうだ。]奧醫、五百坪の内、二百坪ばかり、かりうけて、普請せられ、すまはれし。其折、餘り庭なし故、隣の地を三尺通(どほり)、かり入被ㇾ成しと聞し。かんじんの見はらしよき奧の垣ぎわ[やぶちゃん注:ママ。]へ、二階づくりの藏をたてられ、富士のかはりに、白壁を見るごとく成し。

[やぶちゃん注:「内田玄松」江戸医学館の幕末の調合藥役に「内田玄勝」の名を見出せはする。

「派きゝ」「日本庶民生活史料集成」版では『はばきき』とあり、これと並べると、奥医の中でも相応の力(「派」閥として有意に「利(き)き」「幅利き」(勢力))を持った、という意味でとれそう無きはする。]

 是は、ワなど、生れぬ先なるべし。

 奧の庭は、むかふへ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかりにて、橫四間[やぶちゃん注:七・二七メートル。]ばかり有し所へ、八重紅梅一本【しごく見事にて、花おほく咲(さき)たり。實は、ひとつも、ならざりし。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]「ずばい桃」と梨一本、有し。此三本の木、いづれも勝(すぐれ)たる物なりし。梅は、花、たぐひなく、春海が、

 春雨にひもとく梅のくれないはふりすてゝこそ色まさりけり

と、よみしを見ても、おもひいでらるゝやうなりし。桃は、味、勝て、よく、夏桃にて、世にめづらしき時、じゆくす故、賞翫せられたり。梨は勝たる水梨、殊の外、あまく、少しも口中に、のこるものなく、雪をくう[やぶちゃん注:ママ。]やうに、齒[やぶちゃん注:「に」の脱字か。]、もろし。後、終に、このごとき梨を食(くは)ず。其三本の木と、こなたの日ざし戶に、物ほし棹を懸たりしをおもひば[やぶちゃん注:ママ。]、庭の間數(けんすう)しらる。

[やぶちゃん注:「ずばい桃」バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina 。皆さんご存知の、ネクタリン(Nectarine)のことである。

「春海」「只野眞葛 いそづたひ」で既注の、国文学者で歌人の村田春海(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)。]

 「さかい垣」は、わり竹にて、それに付(つけ)て、一重《ひとい[やぶちゃん注:ママ。]》の山吹を、

「ひし」

とうへて有し。中は花檀にて、草花、かれこれ、有し。ならびの明地を、少々、御かりㇾ遊て藥園に成て有し[やぶちゃん注:レ点位置はママ。「御かり被ㇾ遊」の脱字(誤植)であろう「日本庶民生活史料集成」では『ㇾ被遊』でまたまたおかしなことになっている。]。後に庭中に大槐《ゑんじゆ》の木有しは、やはりその藥園に有しまゝなり、

 地主の毛利と裏あはせに、龜井樣とて、二、三萬石の小大名有し。其家老の名、嶋田傳八といひし、父樣と同年にて、殊の外、くわうくわうとして[やぶちゃん注:この歴史的仮名遣ではピンとくる形容動詞がない。「かうかう」ならば、「皞皞」で「心が広く、ゆったりとしているさま」でしっくりくる。]、よき人、大御懇意にて有し。其隱居夫婦、かの鬼門やしきの角をかりて、

「どうで隱居の身故、長命のぞみなし。」

とて、普請して引こしたりしが、手ぜまにて勝手よく、さて、きれいの家なりし。小家の家老はくり合よく[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]ものにて、藝者・役者・角力取など、日ごとのやうに出入して、にぎやかにて有し。ばゞ樣につれられて、二、三度も行しをおぼへたり。

 庭は、色々のうつくしき木草をうゑ、よきたのしみの福隱居なりしが、三、四年住て、死去、

「其家を、ほごすも、おしゝ。」

とて、傳八、引うつりて、すみしが、「三日ぼうづ」といふ病はやりて、人、おほく死したりし時、傳八も喉がはれしと聞しが、三日目に、ころりと死去、父樣、大病にて、樣子御覽被ㇾ成かね、大ちからおとしにて有し。

[やぶちゃん注:「三日ぼうづ」これは、成人では、高齢では重症化することがしばしばある風疹(風疹ウイルスによる急性熱性発疹性感染症)、一般に日本では「三日ばしか」と呼ばれるそれではあるまいか。私も教員になった翌年年初に生徒に移されて(当時、多数の生徒が罹患して欠席していた)罹患し、出勤停止となり、当時数万円したγグロブリンを打たれ、採点した学年末テストは焼き捨てるように医師に言われ、終業式の日に間に合い、出勤したところ、生徒たちから「タネ無し」と揶揄された。顔の右頰の上に今も瘢痕が残る。]

 其庭に有ししだれの八重、ひどふ見事なりしを、ばゞ樣、隱居不幸の時分、かたみに御もらひうゑられしが、うゑかひ時、あしくて、つかざりし。

 是に見ごりて、又、すむ人なく、明地にて有しを、玄松樣ばかりは、いよいよ、さかんにつとめられしが、地主のかたへ相談有て、かへ地をいたし、其地を内田の屋敷にせられたりし。其地に地守の家來【追考、此地守のたちしは、内田の地に成しよりは、六七、年前にて有し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、夫婦ものにて、子なきが、年久しくすみて有し。夫婦とも、しごく、りちぎものにて、菜園《さえん[やぶちゃん注:ママ。]》をして野菜をうり、亦《また》、樽拔の柿なども、手前にてして、うりなどして有しが、ワどもあそび所にて、日ごとに行しを、かく成て、家、ほごし、たち行(ゆく)が、かなしくて、なきて有し。八ッばかりの時なりし。明地の時分、紺屋の張場《はりば》などに、かして有し時は、手間取(てまとり)ども、かへると、行て、しゐしをひろひしに、一反張るほどは、たちまち、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]て有し。

[やぶちゃん注:「樽拔の柿」「樽柿(たるがき)」のこと。渋柿の渋抜き法の一つで、また、この方法で渋抜きした柿のこと。本来は、酒の空樽を用い、酒樽に残っているアルコール分を利用して渋を抜いていた。渋の主成分である水溶性のタンニンは、アルコールにより不溶性となり、味覚に渋味を感じなくなる。

「手間取」手間賃で一時的に雇われた者。

「しゐし」「伸子・籡」の音変化(表記に「しいし」もあり、ブレが見られる)で、本来は「しんし」と読む。洗い張りや染色の際に織り幅の狭まるのを防ぎ、一定の幅を保たせるように布を延ばすための道具。両端に針がついた竹製の細い棒で、これを布の両端にかけ渡して用いる。そこに布地の一部が切れて付いていたものであろう。]

 島田の隱居庭の角へ、ちいさき稻荷の宮を作、散錢を揚て、信心せしは、鬼門をいむためなるべし。其宮を、玄松殿、こぼちて、川へながしやり、散錢六百文ほど有りしをとりて、折釘をかはせ、家の内、所々へうたれしとぞ【急死のまぎれ、家ばかり引て、「いなりの宮」迄は片付(かたづけ)ざりしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 それより有しに、玄松殿、殊の外、淫亂と成て、女ども十人餘、めしたきかけて[やぶちゃん注:意味不明。]有しを、のこらず、手を付られしとて、下々、ひやうばんなりし。

[やぶちゃん注:真葛は稲荷の祟りと暗に言いたいようである。]

 奧方の一腹に、十人餘、子達、有しが、惣領は、十八、九にて、外へかた付(づけ)、嫡男十五とおぼへし。次には、「とし子」なるべし。おなじ「よはひ」のやうな子たちなりし。女三人、男七人ばかり、有しやうなり。

 父樣、手習の師にて、淸書、持(もち)てこられしを覺たり。梨の木の下の所に路地有て、兩〆りにして、行かよひて有し。しごく、心やすく成されて有し。

2021/10/12

只野真葛 むかしばなし (40)

 

 父樣は三十代が榮の極めなるべし。日に夜に、賑ひ、そひ、人の用ひも、ましたりし。御名のたかきことは、醫業のみならず、其世には、おしなべて、仁愛をたかきことにせしは、それが、その世の、はやりなり。

 しかるを、人なみならぬ、ひとからき[やぶちゃん注:他人につらく接するタイプであった。]養ぢゞ樣[やぶちゃん注:父平助の養父なので、こう表現したもの。]のおしへにて、只、半年をへずして立はしる書を明らめられしは、天なり、運なり。時に叶ひて、世の人の目をおどろかせしは、からくりのごとき、生立[やぶちゃん注:「きだて」。「気立て」であろう。]にて有し故なり。【「からくり」とは一字文盲の人、半年に書を見習われし敎への仕樣なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。才智くふうのすぐれし人も、仁愛にばかり、おぼれ、十二、三まで、筆もとらせず、書もよませずしておかれし故、

「いで。」

と心をはげましては、こまを廻すごとく、才も、のびしならん。人のからだのつりあい、やはり、からくりのごとくにして、とりあつかふ人の上手・下手、又、うちだしの細工によるものならし。

[やぶちゃん注:「半年をへずして立はしる書を明らめられし」「時に叶ひて、世の人の目をおどろかせし」というのは、知る限りでは、父工藤平助が天明元(一七八一)年四月に書き上げた「赤蝦夷風説考」の下巻であろう(この後の天明三(一七八三)年には同書の上巻を含めて総て完成させている。ウィキの「工藤平助」によれば、『「赤蝦夷」とは当時のロシアを指す呼称であり、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた著作であった。また、天明』三『年には密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」をも書き上げて幕閣に『提出している』。但し、この書き出しの「三十代」というのとは合致しない。彼は享保一九(一七三四)年生まれで、天明元年で彼は満四十七になっているからである。「三十代」云々の部分とは切れていると読むなら、特に違和感はないし、彼がこれらの書によって経世家として広く知られるようになったことも事実である。いや、寧ろ、それらの書物を書くための「知」の蓄積期が三十代終りから四十代初めから始まるので、この謂いに違和感はないと言ってもよい。安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩主『伊達重村により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようにな』ったからである。その後、『藩命により』、『貨幣の鋳造や薬草調査なども』行い、『また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学、西洋医学、本草学、長崎文物商売、海外情報の収集、訴訟の弁護、篆刻など』、『幅広く活躍する才人であった』。かくして『工藤平助の名は、すぐれた医師として、また、その広い視野や高い見識で全国的に知られるようになり、かれの私塾「晩功堂」には遠く長崎や松前からも門人となるため来訪する者も少なくなかった』(☜以上と以下は次の段落の内容とも見事に合致する☞)。十八『世紀後期にはロシア帝国の南下が進み、ロシア軍の捕虜となった経験をもつハンガリーのモーリツ・ベニョヴスキー伯爵が在日オランダ人にあてた書簡のなかで、ロシアには侵略の意図があると記したことをきっかけとして北方問題への関心が高まって』おり、『松前からも』、『裁判のため、知恵者として知られていた平助の力を借りようと頼る者もあらわれ、平助は、彼らから』、『北方事情や蝦夷地での交易の様子、ロシア情勢等について詳細に知ることができた。また、長崎の吉雄耕牛やその縁者からは、オランダの文物が送り届けられることも多く、平助はそれを蘭癖大名や富裕な商人に販売して財をなした一方、ロシアも含めた西洋事情一般にも通じるようになった』とあるのである。]

 「御才人なり」といふ名の廣まりしは、日本中にこへて、外國迄も聞えし故、國のはてなる長崎・松前よりも、人のしたひ來りしなり。そのもと、物おぼへせられし頃は、さかり過て、消がたの時なり。虹の大空にあらはれしを、人のはじめて見つけてあふぎしごとくにて有し。諸國にてもてあましたる公事沙汰の終をたのみにくることにて有し。服部善藏、隣に住居せしも、

「まさかのとき、知惠をかるに、よき。」

とて其陰にやどりせしなり。高野の北寶院なども、度々、公用の下地を、たのみに來し。

[やぶちゃん注:「そのもと」「そこもと」。「そなたが」の意。直接の聴き手として措定されている末の妹照子(平助五女)のこと。彼女は真葛より二十三年下であるから、天明五(一七八五)年かその前年頃の生まれで、彼女が物心つくのを五歳前後とするなら、寛政二(一七九〇)年前後となるが、この頃は、天明六年の第一〇代将軍徳川家治の逝去により、何かと華々しかった「田沼時代」は終わりを告げており、平助の経世家としての名望も失われ、彼の期待した海防を含む蝦夷地開発計画も頓挫し、平助に話があった「蝦夷奉行」内定の話も、結局、沙汰止みとなっていたのである。かの林子平の「海国兵談」(寛政三(一七九一)年)も版木を没収された上、発禁処分となり、子平自身も、幕府から仙台への蟄居を命ぜられることとなる。但し、それでも、ウィキの「工藤平助」によれば、『平助はその後も江戸で医師としての活動をつづけ』、寛政五(一七九三)年には『弟子の米田玄丹』『からロシア情報を得て』、「工藤万幸聞書」を著し、寛政九年には医書「救瘟袖暦」を『著した。これは、のちに大槻玄沢による序が付せられることとなる。同』『年』七月には第八代藩主『伊達斉村』(なりむら)『の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎』(後の第十代藩主伊達斉宗)『が熱病のため重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜され』ている、とある。

「服部善藏」平助が漢学を学んだ儒者服部栗斎(元文元(一七三六)年~寛政一二(一八〇〇)年)か。名は保命で、通称は善蔵である。平助の師ではあるが、平助より二歳年下である。上総飯野藩の飛地摂津浜村(大阪府豊中市)で藩士服部梅圃の子として生まれた。若くして大坂の五井蘭洲に師事、中小姓として勤仕してからは、主に久米訂斎ら崎門派の儒者に教えを受け、江戸では村士玉水に兄事した主君保科正富と、その子正率に書を講じたが、正率に疎まれて三十八で致仕し、浪人中は築地の家塾信古堂に教えた(ここは平助の家に近い)。寛政三(一七九一)年、幕府は学問所の直轄教授所を深川・麻布・麹町に設置したが、特に才を認められ、栗斎は麹町教授所の長を命ぜられた。崎門派の朱子学者であったが、字義・文義を抜きにして理を説きがちな崎門末流には批判的で、詩文に遊ぶ雅人でもあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」)。

「高野の北寶院」不詳。]

  築地の門跡[やぶちゃん注:築地本願寺のこと。]より、

「宗名、改めたし。」

とて、公儀へ願書いだせしこと有し。其おほむねは、

「當宗名、品々にとなへ來り、亂りがわしく候故、一名に、いたしたし。元來は淨土眞宗なるを、一向宗、又、門徒宗、又、淨土新宗とも、文字に書候ことにて、抑(そもそも)、當宗は淨土眞宗と、となふるぞ、たゞしき名なる。其證は祖師のうたに、『淨土眞宗ひらきつゝ せんじやく本願のべ給ふ』といふこと有(あり)。」

など、品々、おもふほど、書つらねてさし出せしに、世は田沼大しよく[やぶちゃん注:「大職」で「老中」のことであろう。ここは「政策をすっかり田沼に奪われていた御世の」の意。]の人々、無學文盲にて、ことのよしも味はへず、

「寺のことは、寺を、たのめ。」

と、かたむけて、

「此事、いかゞ。」

と增上寺[やぶちゃん注:同寺は浄土宗である。]へ御相談有しとぞ。

 僧法師は、宗のかたへは、俗よりも、いどみ、もじるものと、心つかざりしなり。

 門跡のかたは、其子孫にて、跡をつぎて、他宗を見ぬ故、おのづから世の樣に、うとし。他宗の出家は、諸國雲水して、世上の樣に、立はしりものならでは、上にたたねば、爰に黑人[やぶちゃん注:「くろうと」。玄人。]・素人の、たがひ、有、文言などの器用・不器用、くらべがたし。さらぬだに、門徒宗の格式よきをにくみて有しを、

「こと、かなふ、元。」

と、手づくろひして有(あり)。すこむる手こきの出家たち、

「よきなぐさみよ。物見せん。」

と、御家やうの俗筆にて、いかにも俗の氣のつく樣に、へたと書てさし上しを、公儀にて、

「一々、尤。」

と思召、門跡へ訴狀かへさるゝに、

「是には、今更、相あらためがたきことなり。增上寺より、とひかけたる難事のこたへ、申上べし。」

と有しとぞ。其難事は三ケ條なり。一ッは、

「元來、門徒宗は、當宗より、いでたることなれば、「新宗」と申は、さもあるべし。なぞや、「眞」の字を用べき。それにては乍ㇾ憚御公儀樣、御宗旨よりは、まことなりと申にて、おそれおほき事なり。いくへにも御ゆるし有がたきことなるべし。『宗名、色々にて、みだりがはし。』といふも、願上るにも、たらぬことなり。それをよろしからずおもは、年々、御あらため有(ある)宗旨證文に、宗名、何と書ても、印判いたし來りしは、いかに。」

 今一ッ、

「『淨土眞宗ひらきつゝ せんじやく本願のべ給ふ』といふ和讃を證に取しは、おかしき事なり。此和讃は、親鸞上人の、其(その)師をほめてうたへる歌なり。されば、當家をさして『眞宗』とは申されたり。其家のことならず。其元をもわきまへず、みだりに訴狀奉られしは、いかに。」

 今一ヶ條、有しが、わすれたり。おもひいでば、書て、くはふべし。文言は、其書、見もせねば、たゞ父樣御はなしをもて、つくりしことなり。

 門跡にては、願(ねがひ)かなはぬは、さておき、增上寺への返答に、

「はた」

と、つかへ、あとへも、先へも、ゆかれず、願書の文言せし人を、おしこめなどしてみたれども、つまらず、當惑の時、壱人、おもひよる人、有て、

「それ。むかふ築地の工藤周庵は、天下一の才といふ、きこえ、有。なるか、ならぬか、たのみて見ん。」

と、夜中、ひそかに來りて、委細の事、申(まうし)、談(だんぜ)ぜしに、父樣、一通(ひととほり)、御聞うけ、

「いかやうにか、工夫致見候はん。さりながら、一向しらぬ佛法のこと、少々、佛書をひらきみて、筆、取申べし。」

とて、かへされしとぞ。其時、少々、佛書御覽有しなり。

 御佛學被ㇾ成しは、是が、もとなり。

 それより

「ひし」

と御引こもり、御くふう被ㇾ成しが、一ヶ月七十兩の筆耕料(ひつ《こ》れう)上(あがり)し、と御はなしなり。

 さて、雙方のかけ合の書をてらし御覽ずるに、いかにも門跡は不吟味、增上寺は、しらべ、よし。

 それは、さておき、新御くふうの答に、『年々、改め來りし宗旨證文に、何と書ても、印判仕來りしは、いかゞ。』と有(ある)に、

「當家は、他家とちがひ、子孫にて名をつぎ候間、幼少の主(あるじ)おほく、宗名をも見分ず、印判いたし來り候に付、みだれ候を、一名に、いたしたし。」

と申上しことなり【此こたい[やぶちゃん注:ママ。「答へ」。]、妙なる事と、うかゞひし。實にさぞ有けんを、かへりて、其宗にては、こゝろつかずしならん。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。

 また、和讃をとがめしこたへ、

「實に、是は、しんらん上人の、師をほめてうたへる事は、誰(たれ)もしること故、くわしく書上ざりしなり。されど、『せんじやく本願のべ給ふ』とまで、書ていだせしは、我がことならぬ證なり。わがことを『給ふ』とは、いはず。」

と、いひ分の御くふう被ㇾ成しとぞ。

 「此『給ふ』の一字なくば、誠にいひわけがたかりし。」

と被ㇾ仰し。三ケ條とも、ことなく、すみしかば、門跡にては、大悅にて有しとぞ。

 されど、

「宗名は、あらためられぬに、かたまり切(きれ)し。」

とのことなり。これは、ふと何かの序に、うかゞひしことにて有し。

 病用の外にも、公事沙汰、權門方にて、御いとま、なかりし。

[やぶちゃん注:個人的は親鸞が好きなので、後半の話は非常に面白く読んだ。]

2021/10/09

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 遊女高雄

 

[やぶちゃん注:以下は輪池堂屋代弘賢の発表であるが、実は私はここで彼が「みちのくざうし」と称しているもの、只野真葛の「奥州ばなし」をブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を終えており、明らかに、それは同書の「高尾がこと」であり、しかもそこで、全体に詳細なオリジナル注を附し、さらにこの以下の本文を正字化して注で示してある。今回、今一度、この本文を改めて校閲し(リンク先では、底本のままに正字化しただけ)、さらにそちらと差別化するために、段落を成形し、記号を加えて読み易さを図り、新たに不足していると思われる注を施した(「高尾がこと」で附した注は再掲しないので、まずそちらで読まれたい)。なお、只野真葛の事蹟と、実際には本資料の前半を弘賢に提供した滝沢馬琴と彼女との関係については、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を参照されたい。

 

   ○遊女高雄

 著作堂の珍藏に「みちのくざうし」といふ有り。それは陸奥の太守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して、仙臺に在りしが筆記なり。

 その中に、高雄が事跡をしるしたり。世の妄說を正すに、たれり。曰、

   *

 昔の國主、たか尾といふ遊女を、こがねにかへて、「くるわ」を出だし給ひて、御たち[やぶちゃん注:「御館」。御屋敷。]までも、めし入れられず、「中す川」【「中す」。「中」は「中洲川」にて、則、三派の事なり。後までも「中洲」といふをもて知るべし。】[やぶちゃん注:以上は情報提供者にして「兎園小説」主催の馬琴による頭書。]、にて、切りはふらせ給ふと、世の人、思へるは、あらぬことなり。是は、うた・上るりに、おもしろし事、添へて、作りなどして、やがて、誠のごとく成りしものなり。

[やぶちゃん注:「中す川」現在の東京都中央区日本橋中洲附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の旧名。ウィキの「日本橋中洲」によれば、『中洲は』、『もともと』は『文字通り』、『隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため』、『一帯は』「みつまた」(或いは「三派」(☜)「三ツ俣」「三つ股」『など表記が多数』、『存在する)とも呼ばれたが、具体的に』、『どの流れを指したかについては諸説あ』り、一定しない。『また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目に当たるため』、「別れの淵」とも『呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった』。万治二(一六九五)年に『吉原の遊女』二代『高尾太夫が中洲近くの船上で』第三代陸奥仙台藩主伊達綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)の意に従わなかったため、『吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある』(但し、真葛が否定しているように、真偽不明の怪しげな風聞の一つに過ぎない。「高尾がこと」の「高尾」の注を参照)とある。]

 高雄は、やはり、御たちに、めしつかはれて、のち、老女と成りて、老後、跡をたて終はりしは、番士杉原重太夫、又、新太夫と、代々、かはるがはる、名のりて【祿、玄米六百石。】、今、目付役をつとむる重太夫は、その末なり。

 只野家、近親なる故、ことのよしは、しれり。

 杉原家にても、

『世の人、あらぬことを、まことしやかにとなふるは、をかし。』

と、思ふべけれど、

『「我こそ高尾が末なり」と名のらんにも、おもたゞしからねば、おしたまりて[やぶちゃん注:ママ。「押し默る」。]、聞きながしをる。』

と、なり。

[やぶちゃん注:「おもたゞしからねば」ママ。「面正(おもただ)し」は「面立(おもたた・おもだた)し」の誤用の慣用化したものかと思われる。「面立し」は「身の光栄に思う・面目が立つ・晴れがましい」の意。]

 これを、いと珍らしきことゝおもひて、たづねおきけるに、この比、ある人のもとより、その法號・葬地等の書付を、

「著作堂の主にしめさん。」

とて、こゝに、のす。その記に曰、

『「仙臺の人、なにがし、遊女高雄が墓碑を、すりて、もちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝうつしたり。」とて、島田某の見せたるを、しるす。

   *

 二代目 享保元丙申年

   ○ 淨休院妙讚日晴大姉

  三巴の紋十一月廿五日   杉原常之助

    于時正德五年二月二十九日

     逆修 源範淸義母 行年七十七歲

[やぶちゃん注:「杉原常之助」「逆修」以下は底本では下インデント四字上げであるが、何れも引き上げ、後者は「于時正德五年二月二十九日」の下にあるが、改行した。

「享保元丙申年」「十一月廿五日」一七一七年一月七日。同年は閏二月があるため、グレゴリオ暦では十一月十九日が一九一七年一月一日になる。この年は正徳六年六月二十二日(一七一六年八月九日)に第七代将軍徳川家継の死去のため、享保に改元している。

「淨休院妙讚日晴大姉」戒名から判る通り、後に出る「仙臺荒町、法龍山佛眼寺」(ぶつげんじ)は日蓮正宗である。ここ

「三巴の紋」がここにあるという解説である。

「正德五年二月二十九日」一七一五年。

「逆修」生前に、予(あらかじ)め、死後の菩提を祈願して仏事を修すること。没後に他人により行われる「追善」の対語。逆は「予め」の意。

「源範淸義母 行年七十七歲」この逆修塔を作った際に数え七十七であることから、彼女は延宝七(一六三九)年生まれであることが判る。]

   *

 右の碑、仙臺荒町、法龍山佛眼寺に在り。

 仙臺の人のいふ、

「高尾、實は國侯に従ひて、奥州に、いたる。杉原常之助といふは、義子[やぶちゃん注:養子。]にて、名跡をたて給ひたるに、いひ傳ふ。享保元年七十八歲にて、天壽を終ふ。」

と、いふ。

2021/09/29

只野真葛 むかしばなし (39)

 

〇父樣、おぢ樣[やぶちゃん注:何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が祟りなす女「〆(しめ)」である。]、得手は、御たがひ被ㇾ成とも、『凡人にては、なし。』とぞ、おもふ心のかたち、こゝろみにいはゞ、此(この)やうなるものならん。「何を以てそれをしる」といはゞ、おてる、おぢ樣のそばに付居(つきをり)し時の、はなし聞く度に、心もしめり、引入(ひきいるる)やうにて有しといひし。

[やぶちゃん注:「おぢ樣」何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が真葛が盛んに祟りなす凶なる女として示す「〆(しめ)」である。

「おてる」既出既注であるが、長女であった真葛の末の妹(五女)照子。中目家に嫁した。真葛より二十三も年下であった。]

 

Titiodinozu

 

[やぶちゃん注:以上の図は底本のものではなく、「日本庶民生活史料集成」のものを用いた。底本「江戸文庫」版では、キャプションが活字に直されてしまっているからである。キャプションは、右上に、

「凡をぬけたる

 ところ」

右下方に、

「父樣、足本に、何も、なし。

 たゞ、廣く、高くのみ、御才(ナンサイ[やぶちゃん注:ママ。])

 有り。」

左上に、

「おぢ樣は凡人

 の丈(たけ)に上(のぼ)りて

 橫ひろがり也。」

左中央に、

「凡人の

 たけ。」

とある。これは思うに、左右の父と叔父の二本の系統樹風の、下から見て、最初の、それぞぞれ左右に横に出る枝をかく言っているように私には思われる。

左下右に(右や下方にカタカナと漢字含む不全な読みの添えがある)、

「 カマワヌヤウテシワク

 何もかまわぬ樣にて タメル心

 しわく、物をためる 有リ

 心有り。」

最も左端下に、

「かごの物に、

 つき合(あふ)心。」

である。敢えて人の在り様をこうしたチャートで示す辺り、只野真葛、只者ではないぞ!]

 

 「此世の中のはてはどうなるものだか。何でもおれが出入せぬ大名もないが、どこの若殿を見ても、是が成人したらよい馬鹿だろうと思(おもふ)樣な兒ばかり有(ある)。大納言樣はどんな人かと、旗本衆の所へ行て聞てみれば、御幼少の時は豆蟹をつぶすが御すきで、每日每日、『大納言樣御用』とて、おびたゞしくとりにでるを、おそばにまきちらして、御相手の子と、ひとつにおしつぶす事。それが過て、九ツ十(と)ヲくらいのときから、鷄が御好で、いくらも上る。それも棒を持(もつ)ておひ𢌞して、追つめて、ぶちころすが、おすき。おなぐさみにて、お緣の下には、いくらも腰拔に成(なつ)た鳥が、『ひこひこ』して、かゞんでゐるといふことだ。そんな不仁の人が公方樣になられたら、どんな代になるかしれぬ。」

といふやうなおはなしにて有しとぞ。

 父樣は、のめり死するとても、そんな氣のつまる、ふさいだはなしなどは不ㇾ被ㇾ成、おはなしをきけば、心も、のびくのびとなりて有し。

「ゑぞ地【夷地。】[やぶちゃん注:『原頭註』]、ひらけば、おのづから、仙臺は中國となる故、末々、めでたき國とならん。我日本國の都は、暑き所より、寒きところへ、うつるかたち、なり。はじめ、筑紫より、大和、山城と、うつり、後、鎌倉、江戶に、榮(さかえ)、うつり、此後は、さしづめ、仙臺なるべし、是、うたがへなし[やぶちゃん注:ママ。]。」

「世の中といふものは、つまりたりとても、もの極れば、又、どうか、工夫がつくものなり。世の滅するといふ事、有べからず。代の、末に成(なる)といふことも、有(ある)べからず。爰につきれば、かしこにあらはれ、かしこにたゆれば、こゝにあらはれ、天地の間に、わく、人なれば、智者のたへても、亦、わくなり。世の中をなげくは、たわけなり。」

と被ㇾ仰し。

 何をうかゞひても、行つまらず、のびのびとしたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]なりと、御こたひ[やぶちゃん注:ママ。]被ㇾ遊し。夫故《それゆゑ》に、御心のかたち、空のかたへ、はればれと、ぬけいでしとは申なり。

 おぢ樣は、そしらぬ顏にて、人にほめられたい心が一ぱい故、凡人をぬけても、下の方をのぞいてゐる樣な御心ならんと、おもふなり。

 父樣、おぢ樣、得手のちがひしといふは、おぢ樣、ある病家へ、はじめて御見舞被ㇾ成しに、座付といなや、障子の外の緣側にて、鳥の、少し音(ね)をいだせしを聞(きき)て、

「こなたにては、かい鳥を被ㇾ成るや」

「さよふ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、こたふれば、

「それならば、たしかに、今の鳴聲は、餌にしたき物を見て、くわれぬ故、出せし聲なり。明(あけ)て御覽ぜよ。みゝずか、けらの類(たぐゐ)、いでゝ、あらん。」

と被ㇾ仰し故、あけてみしに、みゝずいでゝ、有(あり)しとぞ。

「常に飼いてならせし人だに其心をさとらぬに、はじめて其聲をきゝて、其心をしられしは、神妙なり。」

とて、感じ、信仰せしとぞ。

 是、一向、得手、被ㇾ成(なされ)ぬ所なり。

 父樣、中年のころ、本田樣[やぶちゃん注:不詳。家内に女ばかりというのは、大々名の家老ではあるまい。]御家老、時疫[やぶちゃん注:流行り病い。]にて、御りやうじ被ㇾ成しが、家内は女ばかりにて、たわひなくまどひて有しに、附子(ブシ)を御付被ㇾ成(なされる)やいなや、

「外(ほか)へ轉藥いたす。」

と斷申來(ことわりまうしきた)りしを、其つかひに、御むかい[やぶちゃん注:ママ。]、被ㇾ仰しは、

「素人は何も御ぞんじなきこと故、尤のことながら、醫をかへるは、時の有(ある)ものなり。たゞ今、轉藥せられては、此病人、必死なり。今、少し、またれよ。只今、周庵、御見舞申。」と被ㇾ仰て、すぐに、御出手づから、藥をせんじて御のませ被ㇾ成しに、病人、かくべつ、ひらけて、正氣付し、となり。

「さらば。轉藥、御勝手次第。」

と被ㇾ仰しが、家内も親類も、いきほひにおそれて、轉藥は、せざりし。大病も、本復せしとぞ。

 それより、御一生、本田樣の御出入と成し。

 かやうないきほひよきことは、おぢ樣は、なし。此ことは御じきのはなしにはなく、本田樣の家中小林村仙といふ醫、

「其時、見聞せし。」

とて、折々ごとに、

「手づから藥をせんじられし御いきほひのよさ。」

とて、かたり出(いで)、かたり出せし故、しりたり。村仙は殊の外、父樣をしたひて、師のごとくせし人なり。此一事を、天のごとくおもひ、たうとみて有し愚醫なり。

[やぶちゃん注:「附子(ブシ)」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。ここは「ぶす」と聴いて狂言辺りの知識のみで、猛毒の毒薬とのみ合点して、ビビッてしまい、「轉藥」=医師変えを通知したのである。]

只野真葛 むかしばなし (38)

 

〇津輕藩は小家故、おしづなどに、御家中の人、むかへては、

「こちの旦那のくらいな、たかの朋輩、其御家には、いくらも有らん。」

といはれて、挨拶にこまりし、といひし。しかし、それは居(をる)にも、よきことなり。

 ワなど、酒井家中へ行しに、おもひよらぬこと有しは、そのむかし、御家騷動の時分、酒井家にて、むつかしきこと有しを、今の世までも、家中一統、仙臺にまけぬ氣が有て、茶のみ、酒のみ、寄合(よりあへ)ば、其代の手がらばなしをして、りきむことなり。仙臺家をわるくいひたがる心いき故、一生、此ような聞たくない事[やぶちゃん注:ママ。]を聞(きく)は、くるしきことゝおもひて有し。

 父樣御懇意にて、ワを酒井家へ世話したる磯田藤助といふ人の家のおこりは、そのかみ、騷動の時分、仙臺の家中「またもの」[やぶちゃん注:「又者」陪臣のこと。上級領主の直臣の臣下のこと。]にても有し。三人にて切こみ來りしを、其頃、藤助は次男にて、むそくもの、若黨と壱つに成(なり)居(ゐ)たりしが、かくと見るより、ぬき合、切むすびしに、數ケ所、きずは、おひしかども、死(しに)きらず、相手をば、切とめし、とぞ。

[やぶちゃん注:以上の酒井家での話は、真葛の最初の結婚に係わる。ウィキの「只野真葛」によれば、仙台藩上屋敷五年、彦根藩上屋敷五年の計十年にも及んだ奥勤めを『辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった』が、『寛政元』(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は』、父平助より、「かねて自分が懇意にしている磯田藤助が、藤助の従兄弟に当たる酒井家家臣と、そなたの縁談を世話する、と言っているので、嫁に行け。」と『言われ、あや子は父に従った』。既にこの時、真葛は二十七の大年増になっていたのだが、『この結婚は惨憺たる結果』となった。逢った『相手は』、『かなりの老人であり、夫としてはじめて口にした』言葉が、「俺は高々、五年ばかりも生きるなるべし。頼むは、あとの事なり」だった『という。これが自分の一生を託す夫であり、自分の』残りの『人生かと思うと』、『情けなく、泣いてばかりいたあや子は』、『結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それも』、『あや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の』「先は老年と聞くが、其方も、年取りしこと」という『言葉も彼女を傷つけた』とある。「伊達騒動」は万治三(一六六〇)年、第三代藩主伊達綱宗が不行跡で幕府から隠居を命ぜられ、二歳の亀千代 (後の綱村) が家督を相続、伊達兵部宗勝が後見役となり、藩内の進歩派であった原田甲斐と結んで、実権を掌握したが、それに対し不満をもっていた保守派の有力者伊達安芸と伊達式部宗倫(むねのり)の所領争いが発生、安芸は藩内の実情を幕府に注進した。寛文一一(一六七一)年、上野厩橋藩第四代藩主にして幕府大老であった酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷で裁決が行われたが、安芸は甲斐に殺害され、甲斐は酒井家の家臣に斬られ、宗勝は処罰されて、伊達家は安泰となった。]

 殿m此よしを聞せられ、殊の外、御悅氣(およろこびげ)にて、

「人の肩にかゝてなりとも、御前へ、參れ。」

と被ㇾ仰て、めしよせられ、二百石の墨付を手づから被ㇾ下しより、いでたる家なり。あちらこちらをきられて、埒(らち)もなき「かたわ」にて有しが、命は、またくして、ながらへし、とぞ。

 子、なし。養子せしが、それも、何か「かたわ」にて有し、となり。其養子、代々、「かたわ」、代々、養子の家なりとぞ。

 ワ、おぽぼへし藤助も、六ッになる時、養子にきわまるといなや、普請假小屋へ上りしに、落(おち)て背の骨、折(おり)しを、療治して、やうやう、たすかりしに、若殿、明地(あきち)に、ほうづき、多(おく[やぶちゃん注:ママ。])有(ある)を、花ばさみにて、きらせられ、子どもにとらせられし時、餘りはやまりて、手をいだし、小ゆび一本、切(きり)おとされし、となり。是も、子もなくて、養子とおぼへし。わるい[やぶちゃん注:ママ。]家なり。

 何かわ[やぶちゃん注:ママ。]しらず、こち[やぶちゃん注:「こちらの」。仙台藩の。]御家中の人を切(きつ)たが手柄とて、新地被ㇾ下しといふを聞て、うれしくもなきものなり。

 世の中のさたには、

「酒井家、あしゝ。」

といふを、むりに、よいに仕つけるとて、今も、りきむことなり。此はなしがでると、みな、肩をはり、肘を、りきませて、ほこるが、家中のふうなり。

只野真葛 むかしばなし (37)

 

 玄良、妹[やぶちゃん注:三女の「つね子」であろう。加瀬家に嫁していた。]をめとりて、十年、子、なし。ある人、すゝめて曰、

「人の子をもらへば、子のできるものなり。其ためし、有事(あること)あり。女子にてももらわれよ。」

とすゝめしを、

「いや、とても。もらはゞ、女は、めんどうなり。男を、もらはん。」

とて、牧野樣御家中より、男子をもらいしに、いまだ引とらざる内、妻、懷姙、男子出生なり、名、庄之助。

「それ。まじないが、きいた。」

と、すゝめし人は、いふべし。

 養子の里方にては、

「男子、出生。」

と聞て、

「此うへは、御入用に有まじ。取もどさん。」

といひしを、きかず、

「一旦、約せしこと故、ぜひ、家督、つがせる。」

と、いひて、もらひ受し人、權市なり。

 是、わるひおもひ付の一番なるべし。

 又、男子出生、友八といひし。庄之助をば、手前より、よほど、高(たか)よろしきかたへ養子にやりしが、心だて、いかつにして、あたり、かたく、おしづ、大きに苦勞せしなり。

「來ては、家の中を、かきまわし、自由自在を、はたらきし。」

となり。湯に行度に、「あかすり切(きれ)」[やぶちゃん注:「垢磨り布」。]をもちひ、一度、つかひて、すてゝくる。

「手ぬぐひを、かせ。」

といふも、夫切《それきり》などゝいふことにて有しとぞ。

「それも、中やすみの不自由の中から、とられる故、めいわくなり。小袖一おもてにては、一年のあかすりきれに、たらぬ。」

とて、なげきたりし。

 弟友八は、おしづが行し頃は、十六にて、源四郞に、一ッ、ましなり。是は世に珍らしき善人なり。

「此人の、陰にたすけられし。」

とのことなり。おしづ、守のさきばゞは、度々、出入して、やうすも見しが、

「誠に感じ入(いり)しこゝろざし。」

とて語りし。

 さきばゞが逗留の内、權市かたへ、客、有て、ながばなし、夕めし時分に成て、

「膳をいだせ。」

といひしに、權八、外より到來の鮒(ふな)有しを、菜にして出したること有しに、權八は留守なりし。夜《よ》に入りて、權八、かへり、

「酒の看に昨日もらつた鮒が有はづだから、持てこい。」

といひしに、

「ござりません。」

といふ。

「どうした。」

「ひる、お客樣へ上(あげ)ました。」

「誰がきた。」

「だれだれ。」

とか、こたへれば、

「それは權市が所へきた客だ。おれがもらつておいた物を、自由に、わが客へだすはづがない。」

とて、とんだむつかしく成そうな時、友八、とんでいで、

「いや、おとゝ樣、兄樣をおしかり被ㇾ成るな。晝膳をだすに、『何で、上(あげ)やう。』と、女どもが申たから、『是が、よからろふ。』と申て、私が、だしてやりました。兄樣の御存知のことは、ござりません。私が、わるふござります。どこから來たか、存じましなんだ。わるいことをいたしました。どうぞ、御めん被ㇾ成て被ㇾ下まし。」

と、袂にすがり、ひたすら、わびて、小言をやめさせし、となり。

 さきは、晝より見て有しが、またく、友八がせしことにては、なかりしを、たゞ其間(あひだ)をとりむすぶためなりし故、感心せしなり。

 おしづ、來りし時、其はなしをしたれば、

「そのやうなことは、日に、二、三度、有ことにて、めづらしからず、父親も友八がわびごとゝしりながら、年もゆかぬものゝ、なかぬばかりにわびごとする故、それにめでゝ小言をこらへていはずに仕舞ことなり、といひし。

 一躰、小男にて、歲よりはちいさきに、色黑く、しなびだらけな若衆、小家の家中故、人がらも、よろしからず。おさなきより、茶の湯好(ずき)にて有しとぞ。濱町居宅の近所に、其師、有しが、千家なり。けいこ日には、かけず、いでたりし。

 又、近所の「野だいこ」に「さりやう」といふ坊主、有し。三十近(ちかく)にて、きいたふうをする人、

「少々、茶をやつて見たし。」

とて、弟子入せしが、末熟なり。けいこ日に、廻座なるべし、だんだん、いでたてるとき、友八出しを、

「この若衆が、何。」

と、見をとしてゐると、手前の見事さ、いひ分、なし。その次が大坊主の番なり。大きに臆して、ふるひふるひ、出てたてると、いかゞしたりけん、茶杓を、

「ぴん」

と、はねかせしが、頭から、茶をかぶり、折ふし、夏にて、汗、たる、故、おもわず[やぶちゃん注:ママ。]、袂から手ぬぐひを出して、一寸、ふいたれば、靑ぼうづに成し。おかしさ、座中一同、ふきいだせし、とて評判なりし。

 庄之助には、世の中を、ざと、心得し人にて、養家親は隱居して、其身のうへ、妻子も有しに、前町[やぶちゃん注:不詳。]の「うり女」に入上(いれあげ)、當番下りに相番の人の刀をぬすみ、緣の下にかくしたりしぞ、淺はかなる心なりし。手ぜまき家中のこと故、ほどなく露顯《ろけん》せしかば、仕方なく、身をかくし、日陰ものと成しを、父樣、世話にて、「曾(そう)松けい」に御賴み、一生、かくまひ、もらひたり。

 此「松けい」という人[やぶちゃん注:ママ。]、壱ッの、「きりやう人」なりし。父は町醫にて、はやり、よほど大株なものなりしが、十ばかりにては、父に、おくれ、とかくする内、母も死、壱人身(ひとりみ)となり、十三の年、ばくちを打(うち)ならひ、家諸道具を打こんで、かけおちせし人なり。あしきことながらも、十三ぐらいで、そふ[やぶちゃん注:「さう」か。]、物がとりまわされるは[やぶちゃん注:ママ。]、器量のうちなり。

 それより、所々をありきて、後、奈須玄□[やぶちゃん注:底本に『(一字欠)』とある。]

樣の弟子と成て有し。其妹子を、つれのきして[やぶちゃん注:意味不明。「連れ合いにして」か。]、かすかに暮して有し時、ばくち、殊の外、御法度きびしく成し。はじめ、公儀衆のうち、ばくち沙汰にてむつかしき事出來し時、一座したる故、牢入(ろういり)となりて有しを、父樣、きやう[やぶちゃん注:「器用」。]をば、おしみ被ㇾ成、其内は、家内を扶持して、いろいろ御手入被ㇾ成、出牢させて被ㇾ遣し。御おん有(ある)故、いのちをすてゝ、庄之肋を、かくまひしなり。其頃は、薩摩へめしかゝへに成て、御國產方(かた)を、もはら、つとめて有し本草家なり。ちいさな、やせ坊主にて有しが、氣のつよきことは、萬人に勝たり。

[やぶちゃん注:「奈須玄□」延宝七(一六七九)年没の医師に「医方聚要」を書いた奈須玄竹がおり、彼か或いはその後裔か。他に幕府医官奈須恒隆の養子で多くの医書を書いた奈須恒徳(通称は玄盅(げんちゅう))がいるが、彼は安永三(一七七四)年生まれで若過ぎるから違う。

「御國產方」以下を見る通り、薩摩藩及び琉球を主特産・主産地とする漢方生剤を扱う江戸での役方の意であろう。]

 薩摩の國產を[やぶちゃん注:底本は「を」にママ注記。「日本庶民生活史料集成」版では、ここの「を」を『の』とする。]藥種、江戶へ船𢌞しなれば、利、有ことなれども、いつも、破船して、とゞかぬ故、役人を、「うわのり」に付られしも、水に入(いり)て死(しぬ)ことにて、誰も「うはのり」仕(つままつる)人なくて、船𢌞しのこと、やみて有しをしらず、「松けい」、ぞんじよりを申上しに、

「船𢌞し、尤、利、有ども、かくかくの次第にて、『うわのり』する人、なし。」

と、いはれし時、

「私、船『うわのり』、いたさん。」

と、いひしこと[やぶちゃん注:感触であるが、この「こと」は以下の続きから「こそ」ではあるまいか?]、破船、名付、いたづらする時、役人ぐるみに、海にいれたものとは、誰も察せらるゝを、やせ坊主の望(のぞみ)し氣のつよさ、たゞ人ならず。舟頭もおそれて、かゞまりて、何事なく、江戶、着せし時、すぐに、數寄屋町へきて、

「きのふ、薩摩から、かへりました。」

「それは。早く御ざつた。」

と被ㇾ仰しに、

「いや。とんだことで。早く參りました。かやうかやう。」

とて、はなしたりし。

 歸りしあとで、

「たぐひなく、氣のつよひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、御ほめ被ㇾ遊し。其時、御はなしに、

「ばくち打といふものは、すてられぬものなり。此うわのりせしは、ばくちにて、下衆をとりひしぐこと、手のうちに有故、のぞみて、せしなり。覺なくては、のぞまれぬわざ。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「うわのり」ママ。「上乘(うはの)り」で、近世に於いて、貨物輸送船に乗り込んで荷主に代わって積み荷の管理・監督を司った役を指す。]

 

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