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カテゴリー「只野真葛」の61件の記事

2021/05/28

只野真葛 むかしばなし (29)

 

 工藤のぢゞ樣は、獅山樣、御隱居に付(つき)、めし出(いだ)されし。桑原ぢゞ樣は、○忠山樣御代のかたの御奉藥なり。されどこの殿は、四十そこらの御よはひにて、かくれさせ給ひし故、獅山樣御かくれ後、餘り、ほどもなかりしなり。父樣は徹山樣御代より御つとめ被ㇾ成し。ぢゞ樣、○獅山樣御看病づかれがもとゝ成(なり)て、はてられしに、とゝ樣御つとめがけは、御孫の御代と成しをもて、年數、考らるべし。

○獅山樣は御食味を分(わけ)らるゝこと、妙なる殿にて有しとぞ。御茶さし上るに、一口めし上りて、是はいづかたの井より、くみし水、といふ事を、たしかに、しらせられしとなり。ひぢり坂のもとに燒餠を多年賣るぢゞ有しとぞ。いづちの御通行の時にや、獅山樣、御覽じ付て、歸らせられてより、

「ひぢり坂のもとなるぢゞに、餠、やかせよ。」

とて、御臺所より、餡《あん》を、ねらせ、皮を、とゝのへさせて、役人、あまた見分して、其ぢゞに餠をやかせてさし上しに、

「よくやきし。」

とて、御ほうび、おほく賜りしとぞ。さて後、折々、御好(おこのみ)にて、ぢゞがもとに被ㇾ仰しに、ある時、もて來りし餠を一目見給ひて、

「是は、例のぢゞが燒たるには、あらじ。」

とて、御手、つかざりしとぞ。御側の者、はしり行て、事のよしをたゞすに、「ぢゞがやきしにたがはぬ」よしを申上しかば、

「さあらば、鍋のたがひたるぞ。元の鍋にて、やかせよ。」

と被ㇾ仰し故、ぢゞがもとに行て、そのよしをとふに、

「元の鍋、ちいさくて、餠やくには、ゆかぬ故、『大きなるを、ほしゝ』と、ねがひをりしかども、力およばで有りしを、此ほど、御ほうびにほこりて、大鍋あつらへいでこし故、古鍋は行通(ゆきどほり)の地金買《ぢがねかい[やぶちゃん注:ママ。]》に賣りてありしが、たづぬべきやうも、なし。」

とて、なげきゐたりしとぞ。

 そのよしを申上しかば、殿、

「鍋肌のよさに、申付(まうしつけ)しことぞ。」

と被ㇾ仰て、後、さして、御沙汰なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:この「○」であるが、節約のために擡頭(たいとう:敬意を表わすべき人名や特別な語の直前で改行し、その語をほかの行の先頭より一文字から数文字高いところから書き始めること)の代わりに使っていることが頭の部分で判る。

「獅山樣」複数回既出既注であるが、少し休んだので、再掲しておく。仙台藩第五代藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指す(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。当該ウィキはこちら

「忠山樣」同第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。当該ウィキはこちら

「徹山樣」同第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のそれ。戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら因みに、本書「むかしばなし」は文化八(一八一一)年から翌年春に成稿されたもの。

「たしかに、しらせられし」確実に言い当てられた。

「ひぢり坂」「聖坂」。現在の東京都港区三田四丁目にある聖坂(グーグル・マップ・データ)。

「行通の地金買」たまたま通りがかった金物買い。]

2021/04/21

只野真葛 むかしばなし (28)

 

「母樣の歌は、三島などは、殊に、ほめたりし。」

と、父樣被ㇾ仰し。書とめなども、なし。

○「春月おぼろなり」といふ題にて、

  名殘なく曇なはてそ月影のかすむは春のならへなりとも

といふ歌ばかり、いかがしてか、今も、おぼへたり。

[やぶちゃん注:「三島」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家としても知られた三島自寛(享保一二(一七二七)年~文化九(一八一二)年)。本名は景雄。既出既注。]

2021/04/08

只野真葛 むかしばなし (27)

 

 忠山樣、御國にてよほどの御不例のこと有りしに、ぢゞ樣、

「上(あげ)て見たき、藥法、有(あり)。」

とて、願の上、御下被ㇾ成、藥、上られしに、しるし有て御快氣被ㇾ遊しより、倍の御加增にて、四百石になりし。是は運のむきしなり。

 それより御奉藥にて、年々、御上下(おじやうげ)の御供被ㇾ成しなり。御かくれ後は、御免有て、また、觀信院樣御下りの時分、奧の御奉藥に被仰付し。十年餘り御つとめ被ㇾ成しに、永井養庵といふ山師醫、同役にいでゝより、奧中を自由にかきまわし、ぢゞ樣を、むたいにいぢめしにより、つとめ、なりかね、隱居ねがひいだされしに、ことなくすみて、築地に御普請有て、御《おん》うつり被ㇾ成し。月に兩三度、御機嫌伺にあがらせられし。

 七十餘にて御かくれ被ㇾ成し。ワ、十三の時なりし。源四郞、二(ふたつ)にて有し。御引込ぎわは、おもはしからねど、御一代、仕合(しあはせ)よく、榮花なる御人にて有し。面(おも)やはらかに、笑み、はなさず、人柄よく、少しも、にく氣(げ)なき御人なりし。隱居後は庭の世話をたのしみ、手づから、掃除被ㇾ成て有し。

 御かくれの頃は六月十一日なりし。其頃迄は早咲の朝顏はなく、六月末、七月にかゝりて花のさくものなりしを、手づから、垣を、ゆわせられしに、花のさかぬ間に御過(おすぎ)被ㇾ成しを、七月、初立日(しよたちび)のあたり、御ばゞ樣の、花に付(つけ)て母樣のもとへ、御文、有し。哀なることにて有つらんを、そのほどは、何の心もなくて見もせざりし。

[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。

「御奉藥」「御奉藥方」。御側医師の内で薬の処方使用を許されている者。

「御上下」参勤交代の行き帰り。大名家が二年毎に江戸に参覲し、一年江戸に滞在して自分の領地へ引き上げる交代制度(寛永一二(一六三五)年に第三代徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものであり、則ち、それは軍事演習の行軍なのであった)。しかも、参覲から下がった時点から二年毎であるため、結果として一年おきに江戸と国元を莫大な費用を用いて行き来せねばならなかったのである。

「觀信院」「信」は「觀」の誤字。宗村の次男で第七代藩主の伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)の正室観心院(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。関白近衛内前(うちさき:後陽成天皇の男系六世子孫)の養女で公卿広幡長忠の娘。御存じの通り、大名の正室と世継は江戸に常住しなくてはならなかった。

「永井養庵」不詳。

「山師醫」卑称としての「偽医者」「藪医者」の意。

「没後の最初の月命日。初月忌(しょがっき)。]

2021/03/30

只野真葛 むかしばなし (27)

 

昔ばなし 二

 

 桑原のぢゞ樣は、何人の種(たね)なるや、しれず。

 むかし、壱人の男、木曾路を江戶のかたへおもむけて下りしに、六ツばかりのおのこ壱人つれて有しが、ふと、

「風のこゝち。」

とて、ふしたりしが、次第におもりて、五、六日のうちに、死す。

「懷中などに、もし、所書(ところがき)やある。」

と、求めしかど、いづちの人といふことも、しれず。

 小兒は、何のわきまへもなく、せんかたなくて、骸(から)をば、近きほとりにおさめ、童子をば、寺にあげて有しとぞ。

 さて、二年ばかりへて、橘隆庵(たちばなりゆうあん)樣、何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有しに、寺にやどられしとぞ。

 八(やつ)ばかりの子、茶の給仕に出(いで)たるが、目にとまりて、愛らしくおもわれ候故、

「何人(なんぴと)の子なるや。」

と、たづねられしに、

「是は、ふしぎなることなり。かやうかやうの次第なり。」

と、和尙のかたられしを聞て、

「さあらば、我に、此兒、給り候へ。さるべき緣にや、いとふびんにて、ほしく候。」

と、いわれしを、

「ともかくも。」

と、まかせし故、つれて、くだられしとぞ。

 御子息の相手にしておかれしに、其兒、少々、人と、ことなる生(しやう)にて、さらに、かけはしり、くるひ、ほこること、なく、「大學」、少々をしへられしを、夜晝、書にのみむかひて有しとぞ。

 無理によび出して、相手にせらるゝを、きらいて、物に、かくれかくれしたりしを、いつも尋(たづぬ)ることなりしに、ある日、いかにたづねても、見つけぬこと、有。

「家中におらぬことは、あらじ。」

とて、くまぐま、のこりなく尋(たづね)しかば、風呂桶に入(いり)て、よく蓋《ふた》をして、書を見て有しとぞ。

 其よしを、隆庵樣へ申上(まうしあげ)しかば、

「さほど書物好(しよもつずき)なら、今より、相手をやめて、書を、よませよ。」

と、ゆるされし時のうれしさ、いふばかりなかりしとぞ。

 それより、ひしと、手習・書物にかゝりて有(あり)しほどに、物を引(ひき)のぶる樣に、上達をせしとぞ。

 これ、桑原のぢゞ樣なり。

 さて、後(のち)、忠山樣御世(みよ)に橘家(たちばなけ)へ被ㇾ仰しは、

「其(その)門弟の内、しかるべき人あらば、めしかゝへたし。」

と、有し時、殊に祕藏弟子なりし故、

「此もの、しかるべき人。」

とて、相出(あひいだ)されしとぞ。

 さる故に、橘家よりは、ながく、御親類同前に被ㇾ成しことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣」只野真葛の母方の祖父で仙台藩医であった桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号。読みは推定)。彼は元文五(一七四〇)年、数え四十一の時、二百石で仙台藩に召し抱えられており、当時の仙台藩藩主は第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)である(元禄一六(一七〇三)年に養父綱村が隠居に追い込まれて藩主就任。寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲って隠居)。

「橘隆庵」江戸幕府奥医であった二代目橘隆庵元孝(げんこう)。中村忠行氏の論文「桑原やよ子の『宇津保物語』研究」PDF)の「🉂」で本条にも触れながら、以下のようにある(一部に新字が混じる漢字表記はママで、太字は底本では傍点「ヽ」である)。

   《引用開始》

 やよ子は、長じて隆朝を夫に迎へた。隆朝については、『伊達世臣家譜』巻十七「署師之部」に、次の様な傳を掲げてゐる。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

親斯子隆朝如璋、學醫術於橘宗仙院某、自此世爲師家。宗仙院請令如璋仕于當家。因元文五年四月、獅山公之末、給廩米二百石始以醫擧、是月爲番醫。寛保元年六月進近習、三年六月屬世子【忠山公】。延享三年七月、忠山公之初、進奉藥。是年八月、稱述先是公在病床時、奉悃誠[やぶちゃん注:「こんせい」。真心を込めること。]藥應疾、加賜廩米二百石。於是爲今之禄。隠公亦賞賜銀二十枚、及越後縮二端。寶曆六年、忠山公捐館[やぶちゃん注:「えんくわん」薨去。]後、免奉藥爲番醫、相繼住于江戸。九年九月、今公之初、進于近習醫、屬于今夫人。如璋之子養純・綺明、遊倅命役夫之洽療。

 これは、謂はば、公的な履歴書とでも言ふべきものであるが、『むかしばなし』には、その生ひ立ちについて、又次の様な秘話を傳へてゐる。――すなはち、如璋は、もともと、木曽路で斃死した氏姓不明の旅人の連れてゐた子供で、さる寺に預けられてゐたのを、橘隆庵に拾はれた薄幸兒であつた。しかるに、幼時から讀書好きで、風呂桶に隠れてまでも讀書に耽る有様であつたのを見込まれ、その弟子に加へられ、後遂に伊達家に推擧されるに至つたものであると。眞葛が、『むかしばなし』を草したのは、その實家たる工藤家と桑原家(二代目及び三代目隆朝)との關係が、極めて險悪となつてから後のことである。從つて、其處には、多分に毒を含んだ要素が窺はれるけれども、恐らくは、事實を傳へるものであらう。「ぎやうぎあくまでよく、めぐみふかく、召使はるる人ども、よく御せわ被成しなり」と、眞葛からも評された隆朝如璋の爲人[やぶちゃん注:「ひととなり」。]は、さうした數奇な運兪が、却つて幸ひしたものと想像される。

 この隆朝の資質を、いちはやく見出した橘隆庵とは、二代目の隆庵元孝を指す。元來、この橘家は、藥師寺次郞左衛門公義の末葉であつて、もと本多能登守の家臣であつたが、元常の代に至つて幕醫となり、代々隆庵・宗仙院を號し、法眼・法印等に叙せられる者を輩出した。『寛政重脩諸家譜』によれば、元孝は、元禄五年十月、初めて常憲院(徳川綱吉[やぶちゃん注:二行割注。])に謁し、寶永三年二月出仕してから、漸次累進して奥醫となり、 法眼・法印に叙せられ、寛保元年七月には、城内での乗輿を許され、致仕後も、時々西城に登つて、將軍の起居を伺ふへき沙汰を蒙つた程、信望の厚かつ允た名醫であつた。

 隆朝が、この名醫の「殊更に秘蔵弟子」であつたことは、眞葛の記すところであるが、隆庵も亦この弟子を厚遇した様である。すなはち、隆朝が桑原家の婿養子に迎へられた際か、仕官する際であつたかは詳らかでないが、隆庵は隆朝を養子分とし、その後見をしてやつたらしい形跡がある。眞葛は、ただ「さる故に(筆者註―橘家に養はれた故に[やぶちゃん注:二行割注。])たちばな家よりは、ながく御親類同前に被成しことなり」(『むかしばなし』。巻二[やぶちゃん注:二行割注。])と記してゐるだけであるが、安政二年、眞山杢左衛門が、佐々城朴安に興へた前掲「桑原氏系譜賂略」には、「橘家の爲入夫被召出」とある。「爲入夫」を、文字の儘に解釋すれば、女婿となつたことになるが、それでは眞葛の記述と符合しないから、恐らくは形式的なものであつたらう。蓋し、杢左衛門は、只野伊賀守行義の二男で、眞山家の養子となつた人。眞葛は、行義の後室であるから、杢左衛門にとつては繼母となる訣であり、從つて、系圖に記すところも、亦信憑するに足るものと、考へられるからである。隆朝の名は、恐らくこの時に與へられたものに相違なく、隆庵のそれにあやかるものであらうことは贅するまでもない。

   《引用終了》

「何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有し」幕府奥医であるのに、木曾路となると、私には漢方本草の採取ぐらいしか思い浮かばぬ。

「忠山樣」仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号(戒名「政德院殿忠山淨信大居士」)。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (25)

 

○父樣には權門方(けんもんがた)の御用は數年御勤被ㇾ成しが、「病用は御家中ばかりにて、上の御用にたゝぬ」ことゝて、折々、なげかせられしを、德三郞樣御二歲の秋、御大病の節、御奉藥被ㇾ仰付しを、殊の外、御悅(およろこび)にて有し。誠に御大病にて、人もなきものとし奉るほどのことなりしを、おもひの外に御本復被ㇾ遊しかば、其御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀子五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ、御次男樣とて、をとしめ奉れども、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同前とぞんじ上(あげ)し故、

「逢(あふ)人ごとに、『此ほどは大御手(おほおて)がらなり。さて、御ほうびはいか樣のしな被ㇾ下しや。』と、たづねらるゝ挨拶にこまりし。」

と被ㇾ仰し。

「其節《ふし》は、あかぬことのやうにおもはれしが、今となりて考れば、いさゝかにても御加恩がましきこと有(あり)て、人のたからと成(なり)はてなば、いかばかり心にかゝらん、何事なきぞ心やすき。」

と、かへすがへす、おもはれたり。

[やぶちゃん注:「德三郞樣」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年~文政二(一八一九)年)の幼名である。寛政八年九月十五日(一七九六年十月十五日)に第八代藩主伊達斉村の次男として江戸袖ヶ崎の下屋敷にて誕生(母は喜多山美昭(藤蔵)の娘)したが、父斉村は既に同年七月二十七日に死去しており(仙台城で病没。享年二十三)、父の死去後の出生である。工藤丈庵平助は宝暦四(一七五四)年に二十一歳で工藤家三百石の家督を継ぎ、仙台藩江戸詰藩医を継いでいるから問題ない。寛政九(一七九七)年当時の平助は六十四歳(平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日)没)であった。斉宗は文化元(一八〇四)年に上屋敷に引越しており、同年に水痘を患ったが、後に全快している。逆に、文化六(一八〇九)年に兄で第九代藩主を形式上(後注参照)継いでいた周宗(生後一年足らずで仙台藩主を相続した。本来なら将軍の御目見を得た後継者でないため、相続出来ないはずであるが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上、親族の若年寄堀田正敦(近江国堅田藩主。後に下野国佐野藩主)や土井利謙(三河国刈谷藩主)、重村の正室で養祖母であった観心院とが協議し、幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で襲封、同時に当代の第十一代将軍徳川家斉の三女綾姫と婚約した)が、文化六(一八〇九)年一月四日に十四歳で疱瘡に罹り、その後遺症のため、三年間、表に出られず、代わりに徳三郎(後の斉宗)が儀式や接客を担当した――というのは表向きで実際には疱瘡のために周宗は十四歳で没していた可能性が高い。文化八(一八一一)年に周宗の偏諱を受け、文化九(一八一二)年に兄周宗が〈初御目見なしの隠居〉という特例下の藩主就任に続く隠居を受けて家督相続した(以上は両兄弟の当該ウィキに拠った)。この事実はウィキの「工藤平助」にも載せられており、寛政九年七月には『第八代藩主伊達斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』第十代藩主『伊達斉宗)が』、『熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜された』とある。

「嶋ちゞみ」山繭糸を入れて織り出した縮緬。山繭糸は染色によって染まらないので自然と縞が出る。ちまちり。]

2021/03/29

只野真葛 むかしばなし (24)

 

○工藤のばゞ樣は、愛宕下(あたごのした)か、西のくぼか、たしかにはおぼへねど、五六萬石くらいの大名の家中に、筋、ことに、おりおり、御取あつかひ有し、一家老の初子(うひまご)にて、御兩親の祕藏なりしが、十六に成(なり)ても、幼な子のごとく、なでいつくしみてのみ、そだてられて、筆とることをさへ、ならはせられざりしとなり。

「人中(じんちゆう)見ならいのため。」

とて、十六の春、おなじ奧へ上られしに、かたへの人々、目引袖引(めひきそでひき)、

「十六になるものに、『いろは』をだに、をしへず、育てしことよ。」

と、わらひしを、御殘念におぼしめされ、

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」

と、おぽし立(たち)て、文(ふみ)がらをひろひて、人の寢しづまりたるあとにて、手ならいを被ㇾ成しに、夏は蚊のくるしさに手ぬぐひを頰かぶりにしてならわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしとなり。

 利發のうへ、氣根もよかりしかば、半年にて、文を書(かき)ならい[やぶちゃん注:ママ。]、一年といへば、始(はじめ)わらひし人には、まして、とりまわし、文を書(かか)れし故、二年めには御代書(おだいしよ)まで仰付られしとなり【是は小家(せうか)のこと故、御引立の故に被仰付しことなり。大家とは、ことなり。】[やぶちゃん注:原割注。]。此事は、ワ、をさなきより、

「人といふものは、ならぬとて、すてぬものぞ。我などは、かやうにて有し。」

と、度々御敎訓に御はなし被ㇾ遊しことなり。

 ばゞ樣、里の名、しかとおぽえねど、名なくてはまぎらはしき故、おしあてに、つけたり。石井氏、大右衞門とか、其ぢゞ樣の名は、いひし。

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[やぶちゃん注:以下の紋所の真葛の自筆画。底本よりトリミングした。]

 細輪に石疊の紋なりし。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

 お秀は、旗本衆の家中の娘、おなじ奧につとめて、ばゞ樣と朋輩なりしが、髮結(かみゆひ)、もの縫(ぬひ)、細工に達し、作花(つくりばな)上手、人ざはりよく、殊の外、首尾よく、奧樣御ひいきの餘り、家中一番の家柄へ御世話にて被ㇾ成し人なり。

 あしかれとは、かられしことには、あらざりしを、不仕合(ふしあはせ)は、其身に付(つき)たるものなれば、のがれがたし。

 先(まづ)、まゝ子の惣領順治といひしが、十一くらい[やぶちゃん注:ママ。]にも有しが、大惡黨、其くせ、見目すがたのよきことは天晴(あつぱれ)美男にて、ぢゞばゞの大祕藏、まゝ母をいぢめて、

「髮をそろへてやらん。」

と、すれば、

「いたひ。いたひ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、顏、しかめて、ぢゞばゞに、母の手あたり、あらきていに見せ、萬事、そのふりに、こまらせる、くめんばかり。妹(いもと)は、七、八に成し、是、今の「はつえ」なり。とがもなきものを、むたいにいぢめまわす故、とりさゆれば、

「まゝ母は、妹のひいきばかりして、兄をあしくあたる。」

と、兩親の手まへ、あしく成(なり)、などゝいふ樣なことにて、日夜あけしき間(ま)もなく、其内懷姙の男子、「半くろ」なり。二、三の時、兩親、死去。やうやう、其身の世となり、「うれしや」と、おもひもあへず、宇右衞門といふ人は、一向、とりつまらぬ生(しやう)、

「若且那、若且那。」

と、いはれし内は人並らしかりしが、兩親無(なく)なりては、大べらぼうにて、御用もわからず、やたら、無性(むしやう)に借金ふへ[やぶちゃん注:ママ。]、公訴(こうそ)うつたへに成(なり)しが、身分不相應のことなりしを、かくべつの家がら故、一度は、すくひ被ㇾ下(くださる)といふことにて、

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」

とて、父樣よりも三十兩御みつぎ被ㇾ成しとなり。柳原の熊谷與左衞門も、ばゞ樣御妹の子なれば、おなじつゞきにて、つぐのひ金、被ㇾ成しなり。それですんだことかとおもへば、

『餘り、借金おほくて、氣の毒。』

とて、座頭金(ざとう《かね》)三口有しを、かくして置しとなり。

「身代をつぶす人の了簡は別なものなり。」

と被ㇾ仰し。

「ねだれば、でる。」

と見て、一年過(すぎ)て、又、公訴に成し故、

「この度(たび)は、かんにん成がたき。」

とて、御いとま出(いだ)し、となり。

 浪人被ㇾ成てより、工藤家より世話被ㇾ成しことは、おびだゝしきことなりし。尾張町ゑびす屋の隣に、間口三間の明棚(あきだな)有しを借りて、普請被ㇾ成、皆、此かたより、持出(もちだ)しにて、藥みせをひらき被ㇾ遣(つかはせられ)しなり。

 みせびらきには、「三ますや三十郞」といふ獨樂(こま)まわしを賴(たのみ)、三日のうちは、獨樂、まはして、人に見せしなり。

 諸(もろもろ)入用(いりよう)二百兩ばかりもつゐへしなり。

 かへ名は安田與市として、のふれんは、紺に菊壽。其頃、きくじゆ、大はやりなりし。「藥、きゝて、壽、ながゝれ」とや、おぼしよりけん、花《くわ》らしきことにて有し。

 されど、ほどもなく、與市、亂心して、仕方なく築地の弟子部屋の角(すみ)に、二疊敷の所(ところ)有しを、かりの牢にしつらひて、入(いれ)おきしが、夜の間に、ぬけいで、行(ゆき)がたしれず、色々たづねしかども、終(つひ)にみかけざりし。

 其頃、半右衞門が弟の「とら次郞」、二(ふたつ)ばかりにて、乳のみ子なりし。

 石井家へ來りて、お秀の心勞、誠に、あけしき間(ま)は、なかりしなり。

 

[やぶちゃん注:「工藤のばゞ樣」真葛の父方の(養)祖父に当たる工藤安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)の二十三歳年下の上津浦ゑん。

「愛宕下」愛宕ノ下は現在の港区新橋・西新橋附近。

「西のくぼ」西窪で東京都港区虎ノ門にあった旧地名か。

「筋、ことに」家柄、これ、特別で。

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」「何の! そのようなことならば、人には笑われまいぞ!」。

「文(ふみ)がら」「文殻」。同役の女中らに送られてきて、読み終って不要になって捨てられた手紙。文反故 (ふみほうご) 。

「とりまわし」仕事の処理上の書類を順に取って回すために。

「御代書」奥方さまの右筆役。

「細輪に石疊の紋」正確には画像のそれに細輪はその外周に白い細輪があるものを指す。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

「作花」造花。

「あしかれとは、かられし」よく意味が分からぬが、「あしかれ」は「良かれ悪しかれ」で、「かられしことには、あらざりしを」は「専ら、自身の強い意志や感情が原因となって生ずるものではないのだけれども」の謂いであろう。女として不平等な宿命的なものを感じやすい真葛の謂いとして、私には判る気がする。

「あらきてい」「荒き體」。

「そのふりに」「其の振りに」。そうした似非(えせ)の芝居をして。

「くめん」「工面」。せこく狡猾な工夫。

「とりさゆれば」「とり」は動詞の強調の接頭語で、「さゆ」は「障(さ)ふ」の訛りであろう。無体に妹をいじめるのを、やめるように仲に入ると、の意であろう。

「兩親の手まへ、あしく成(なり)」順治のことがお気に入りである、夫の父母の手前、彼の噓によって、気まずいこととなり。

「日夜あけしき間(ま)もなく」そんなこんなで、一時として気がさわやかに晴れる間もなく。

「半くろ」半九郎という名か。

「其身の世となり」父の両親へ気遣いをせずにすむ身となり。

「大べらぼう」話にならないほどの大馬鹿者・社会的失格者であること。

「公訴(こうそ)うつたへ」借金不返済で公事方に訴えられてしまうこと。

「身分不相應のことなりしを」現在の実質的な実態からは凡そ情状酌量などありえないはずのところだったのだけれども。

「かくべつの家がら故」父祖が格別の家柄であったことから。

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」「最も近親である親類や親しい者たちも、この者のために、借金を肩代わりして補填してやれ。」という温情のとりなしが、お上からあったということを指す。

「父樣」真葛の父。実際には血も縁も繋がっておらず、親しくもなかったであろうに。

「柳原」現在の足立区南部の千住地域東部に位置する柳原か。

「熊谷與左衞門」不詳。

「座頭金」(ざとうがね)は「盲金 (めくらがね)」 とも呼んだ。江戸時代、盲人の行なった高利貸しの貸し金を指す。盲人は当道座(とうどうざ)という視覚障碍者仲間の組織を作っており、幕府は盲人保護という立場から当道座が所有する金を官金扱いにし、貸付け・利子を収める特典を許していた。「官金貸付け」とは「幕府の貸付金」を意味することから、貸倒れの危険も少なく、安全有利であったことから、町人たちは利殖のために資金を提供したし、盲人たちも幕府の庇護のもとに高利を得ることが出来たのである。

「御いとま出(いだ)し、となり」かくなっては、当時の彼を雇っていた主家の武家が暇を出したということである。

「尾張町」中央区銀座五・六丁目。

「ゑびす屋」「江戸名所図会」にも絵が載る有名な呉服店。現在の松坂屋の前身の一つ。松坂屋大阪店の前身であった「ゑびす屋呉服店」の創業者は、第八代将軍吉宗とは紀州での幼馴染みで、その屋号も吉宗から贈られた蛭子(ゑびす)の神像に由来すると伝えられている。吉宗が将軍になると、このゑびす屋も江戸に進出し、尾張町に店を構えたのであった。

「三間」五・四五メートル。

「此かた」工藤安世の家。だから、「藥みせ」なのである。

をひらき、被ㇾ遣しなり。

「三ますや三十郞といふ獨樂(こま)まわし」不詳。

「のふれん」「暖簾」元の発音の「のんれん」「のうれん」(「のん」「のう」は暖」の唐音)の音変化の訛り。元は禅家で簾(す)の隙間を覆って風除けとした布の帳(とば)りを指して言ったもの。ここは、今の「のれん」で、商家で屋号・店名などを記して軒先や店の出入り口に懸けておく布のこと。

「菊壽」「きくじゆ」歌舞伎俳優二代目瀬川菊之丞が使用し、安永・天明(一七七二年~一七八九年)頃に流行した染模様で、菊の花と寿の字を交互に染め出したもの。

「花《くわ》らしきことにて有し」意味不明。「日本庶民生活史料集成」では『花々しきことににて有し』で、躓かずに読める。

「弟子」工藤安世の弟子。

『半右衞門が弟の「とら次郞」』石井宇右衛門と「お秀」の間にできた子が先の「半ろく」でこの半右衛門であり、その下が「とら次郞」なのであろう。]

2021/03/24

只野真葛 むかしばなし (23)

 

 父樣は申すにおよばず、ぢゞ樣・ばゞ樣・をぢ樣がたにいたる迄、壱人、をろかなる人、なし。その御末とおもはんに、などや、心をはげまざらめや。

 三人兄弟の中、四郞左衞門[やぶちゃん注:先に出た柔術に秀でた長男。]樣ばかり、酒、御好なりし。

 此人は、しごく、仁心、ふかく、誠に兄の兄たる心ばせなりし。

 唐(もろこし)の聖(ひじり)の道によりて、よきかたへに、よからん、と、まねくは、萬(よろづ)、ゑんりよがちに、奧まりたるかたにつきて、

「物は知りても、なるだけ、しらぬ顏するが、よし。『いで』といふ時、をくれ[やぶちゃん注:ママ。]をとらぬが、たしなみ。」

と、おぼしめし、一度(ひとたび)けいやく被ㇾ成しことは、いく年へても、其心にて、いらせられし人なり。

 さる故に、御名(おんな)の發したること、なかりし。

 いはゞ、守(まもる)こと、かたくて、境(さかひ)をいでぬ御心(みこころ)なり。

 父樣も、兄とは、いへど、親のごとく、御ちからに被ㇾ成しが、御(お)かくれの時分は、殊に、なげかせられて有し。

 

2021/03/22

只野真葛 むかしばなし (22)

 

○善助樣は、弓にて、淸水(しみず)へ、めしかゝへられし人なり。弓稽古のはじめは、米田新八(よねだしんぱち)といふ弓の師、有しが、其父米田何がしは、眞實に弓好(ゆみずき)にて、ふかく執心こめて有しが、其頃、さし矢、大(おほ)ばやりにて有しを、

「何卒、通し矢の射越《いこし》せん。」

と願へども、其身の骨組(ほねぐみ)、弓術にそなはらぬを、遺恨におもひ、

「男子をまうけて、射させばや。」

と、おもひたち、所々を、ありきて、丈夫の女を見るに、上總の國にて、米俵を兩手に持(もち)、かろがろと、さし上(あげ)し女、有。

 すぐに、こひうけて、妾(めかけ)とし、ほどなく、はらみしかば、

「さてこそ。男子出生(しゆつしやう)うたがひなし。弓は、かれたるが、よき。」

とて、あらきの弓三十丁、あつらへたり。

 ある懇意の人、いふ。

「いかに願(ねがは)れしことなりとて、まづ、出生の男・女をみてこそ、あつらへられめ、餘りはしり過(すぎ)たる仕(し)かたなり。」

と、いさめしに、米田、かしらをふりて、

「いや。是は、たがふまじ。多年の執心、いかでか、むなしかるべきや。今、見られよ。」

と、いひしにたがはず、大の男子、出生なり。

 悅(よろこぶ)こと、かぎりなく、そだて上(あげ)て後(のち)、弓をひかするに、身のたけ六尺にこして、角力《すまふ》とりのごとくなる大兵(たい《ひやう》)にて、十分に引けば、矢づか、伸び過(すぎ)、是も、おもひのまゝならず。

「汝、我(わが)こゝろざしをつぎて、生付(うまれつき)、弓によろしきものを、見たてゝ、弟子となし、とほし矢いさせて、亡㚑(《まふ》れい)に手向(たむけ)よ。」

と、いひて、身まかりし、となり。

 新八は、父が遺言、身にしみて、道行人(みちゆくひと)も、あだに見ず、其(その)うみ付(つき)を、心中にたづねて有しが、ふと、ぢゞ樣と懇意になりて、來(き)かよひしが、善助樣、十か、十一、二の頃とや、遊びて有しを見て、橫手を打(うつ)てよろこび、有しことゞもを語(かたり)つゝ、

「何卒、此御次男、私が弓の弟子に致したし。」

と深切に申せしかば、ぢゞ樣も御悅(およろび)有(あり)て、それより、弓術、まねばせられし人なり。

 さほど、心にかけて尋ねしにて、生(しやう)、弓射(ゆみ《い》)に筋(すぢ)・骨《ほね》そなはりしと見立(みたて)、

「父のこゝろざしをとげん。」

と、おしへたてしこと故、かくべつ、上達のことに有しとぞ。

 父樣幼年の時分、善助樣、高田馬場にて、さし矢けいこ有しを、いつも御覽被ㇾ成しが、

「四、五人ならびて、おなじくいだす矢の、善助樣のは、二、三間、はやく行(ゆき)し。」

と被ㇾ仰し。十八、九、廿ばかりのころ京都へ御のぽり、こゝろ見に千射(せん《い》)を被ㇾ成しが、暫時に御仕舞被ㇾ成しとなり。

 とほらぬ矢は、少々ばかりにて有しが、誠の通し矢は、おびたゞしき物入(ものいり)にて、中々、自力におよばず、千射(せん《い》)ばかりにて、やみしぞ、口惜しき。

 是より、引つゞき、行(ぎやう)なさらんには、天下に名をもふるわる[やぶちゃん注:ママ。]べきに、御運、つたなかりしことは、世上に武藝をはげみしは、ゆうとく院樣御代の故なりしを、京に出入(でいり)三年御いでのうちに、御他界にて、順信院樣御代となり、江戶へ御下り御覽あれば、武藝の「ぶ」の字も、いふ人、なく、亂舞(らんぶ)一めんの代となり、とかくする内、新八も死去、弓いることは、もとより、心におこらぬ心なり。

 廿二、三の若ざかり、あそぶかたが、おもしろく、三味線けいこと變じて、はたと、弓を御すて被ㇾ成しは惜しむべきことなり。

[やぶちゃん注:「善助」真葛の父工藤平助の実父長井基孝の次男。平助は三男。

「淸水」清水徳川家。江戸幕府第九代代将軍家重の次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とする。時制的に初代の彼である。

「米田新八」弓道研究室の松尾牧則氏のサイト「弓道人名一覧」にある読みに従った。そこには「米田新八」の他に、米田新八良(よねだしんぱちろう)・米田新八郎知益(よねだしんぱちろうともえき)・米田新八郎正長(よねだしんぱちろうまさなが)といった面々が載る。柳沢吉保が抱えた弓の名手に『米田新八(後伴内)』がいたらしい。こちらで発見したので言い添えておく。

「通し矢の射越《いこし》」「通し矢」は弓術の一種目。「堂射」(どうしゃ)・「堂前」(どうまえ)などとも称した。京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約百二十一メートル)を、南から北に矢を射通す競技。幾つかの種目があったが、一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う「大矢数」が有名。江戸前期に最盛期となり、有力藩の後ろ盾のもと、多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。しかし中期以降は大規模な「通し矢」競技は行われなくなった。京都三十三間堂の他、「通し矢」用に作られた江戸三十三間堂や東大寺大仏殿回廊でも行われた。通し矢用に工夫された技術・用具は現代の弓道にも影響を与えている、とウィキの「通し矢」にあった。

「かれたるが、よき」エイジングを経たものがいいということであろう。

「あらきの弓」「荒木の弓」。荒木(切り出したままで皮を剝していない材木)で作った弓。丸木弓。また、強弓をも言う。

「六尺にこして」一メートル八十二センチメートルを有に越して。

「矢づか」「矢束」。矢の長さ。ここは、彼の腕の長さの方が長く、矢の長さが足りなくなってしまうことを言っているようである。

「亡㚑(《まふ》れい)」「㚑」は「靈」の略字。

「道行人も、あだに見ず」普通に外を歩いている折りにも、通り過ぎる人々の骨柄(こつがら)を品定めし。

「うみ付」生まれつきの弓道家となれる体軀。

「高田馬場」現在のこの「茶屋町通り」と「早稲田通り」に挟まれた細長い一帯(グーグル・マップ・データ。「古地図 with MapFan」で正確に確認出来る)には、寛永一三(一六三六)年に第三代将軍徳川家光により、旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された。なお、先般、必要があって調べてみたが、ここは明治を向えるまでは、一応、馬場としてあったが、江戸中期以降は、動物の死骸や埋葬あてのない人骨を捨てる場所として知られていたということを知った。

「さし矢」「差し矢」。近距離間での弓射法で、直線的に矢数を射ること。

「二、三間」三・六四~五・四五メートル。

「ゆうとく院樣御代」徳川吉宗(貞享元(一六八四)年~寛延四年六月二十日(一七五一年七月十二日))の諡号「有德院」。戒名は「有德殿贈正一位大相國」。江戸幕府第八代将軍(在職は享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年九月二十五日:引退。但し、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けたから、ここはそこまでと考えてよい。死因は再発性脳卒中と推定されている)。

「京に出入三年御いでのうちに」善助は吉宗逝去の前後三年ほど、江戸の清水家と京都を頻繁に行き来していたらしい。

「順信院樣御代」「惇信院」の誤字。吉宗長男で第九代徳川家重(正徳元(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年七月十三日:在任:延享二(一七四五)年~宝暦一〇(一七六〇)年:彼は死去する前年の五月十三日に長男家治に将軍職を譲って大御所を称した)の諡号。戒名は「惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士」。死因は尿毒症と推定されている。

「亂舞」原義は「入り乱れて踊りまわること・酒宴の席などで楽器にあわせて歌い踊ることで「らっぷ」とも読む。狭義には特に「『五節(ごせち)の帳台の試(こころ)み』(五節第一日の丑の日に天皇が直衣(のうし)・指貫(さしぬき)を着て、常寧殿又は官庁の大師の局(つぼね)に出で、舞姫の下稽古を観覧した儀式)や『寅の日の淵酔(えんずい)』(後に「えんすい」とも読んだ。平安以降、宮中の清涼殿「殿上の間」に殿上人を召して催した酒宴。参会者は朗詠・今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日の中の吉日又は新嘗祭などの後に行われた。「宴水」)に参加した殿上人などが「びんたたら」などという歌を歌って舞ったこと」を指すが、ここは、そのような乱れたどんちゃん騒ぎを呈することから転じて、天下泰平の御世が続き、将軍も一向に尚武の思い入れがなくなって、江戸八百八町がすっかりたるみ切って、「人が、何かにつけて、すぐに過度に喜んだり、興奮したりして跳ね踊ること」に喩えたものであろう。]

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