むかしばなし 四
御家にては代がはりには是非一度御國へ下る事なりしを、父樣、始(はじめ)て代々定詰(ぢやうづめ)は被ㇾ成し。其故は、はじめ下りを被二仰付一し頃は、實にひばゞ樣座敷步行もならぬ大病なりし故、申(まうし)たて、此ばゞ樣、繁昌中はことなくて有(あり)しを、不幸後、ぜひ、くだり仰渡(おほせわたさ)れて有(あり)しに、御老中右近樣御家中は、一統、父樣の病家にて有しに、其頃、關口兵太夫といひし人、派(は)きゝにて有しが、每(つね)に懇意なりしを、仙臺へ下るとて、暇乞(いとまごひ)に御出被ㇾ成し時、
「それは。殘念の事なり。少し、工夫もあれば、今しばらく、病氣にても達(たつ)し、此地に留まられよ。」
とすゝめしとぞ。しか有(あり)て、兵太夫、御屋敷の人にいふ、
「扨(さて)、工藤周庵、此度(こたび)御國勝手被二仰付一由承り候が、をしき事なり。江戶に差置(さしおか)れ、權門方(けんもんがた)内御用被二仰付一んに、此人にまさる人、候はじ。」
と、念比(ねんごろ)に語(かたり)、掛合(かけあひ)しに、兵太夫は、萬事、御用御賴(おたより)の人にて有し故、御取上有て、下り相(あひ)扣《ひかへ》られて、すぐに、内々、權門御用被二仰付一て、色々の御用共、御勤被ㇾ成しが、
「誠に、此人の蔭にて、江戶におちつきし。」
と、折々、被し。
[やぶちゃん注:「御老中右近樣」陸奥国棚倉藩主松平武元(正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)か。官位は右近衛将監。宝暦一一(一七六一)年に老中首座。安永五(一七七六)年頃、工藤周庵平助は仙台藩主伊達重村により、還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面に亙って活躍した。前に出た築地の工藤邸の当時としては珍しい二階建ての家の増築は安永六(一七七七)年のことである。
「關口兵太夫」不詳。
「派きゝ」「羽利き」で相応に影響力を持った人物の意。]
父樣、料理しやの名代、廣く、珍しき料理めし上るとて、御大名方も、かれこれ、いらせられし。
中村富十郞は木挽町に久しく居(をり)しが、
「御料理者の名代承り及候間(よびさふらふあひだ)、何卒、一席推參致度(いたしたく)。」
といひ入(いれ)て有し。招かぬに大立者(おほだてもの)の來(きた)るほどの事、其時のいきほひ、察(さつす)べし。
「やすき無心(むしん)なり。いつ幾日。」
と御約束被ㇾ成て、其夜を待(まち)しに、富十郞・のしほ・三津五郞、中(ちゆう)役者にて三國富士五郞といひし、四人なり。富十郞、羽織空色ちりめん紋付、帶付は黑じゆすなりし【すべて此衣類は久しきことにて、よくはおぼえず。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。のしほは、紫縮緬に糸卷を縫(ぬひ)にしたるが、
[やぶちゃん注:底本の行間にあるものをトリミング補正した。]
此やうに、石疊の形、糸卷を付(つけ)て嶋(しま)に仕(したて)たるを、白糸にて縫(ぬひ)、はへばへとせし模樣なり。
「富十郞、工夫なり。」
と語(かたり)し。羽織は白じゆすに、〆飾りの模樣かとおぽえし。袴も嶋じゆすなりし。立役は、二人ながら、黑ぢりめんにて有し。
[やぶちゃん注:「中村富十郞」(享保四(一七一九)年~天明六(一七八六)年)は初代。上方の歌舞伎役者。初代芳澤あやめの三男として大坂に生まれた。幼名は崎彌。当該ウィキによれば、『幼少のころ、立役の中村新五郎の養子とな』り、享保一四(一七二九)年『春に崎彌は中村富十郎と名を改め、京都の佐野川万菊座に加わるが、この時』は『まだ実際には舞台に立たなかったという。同年の暮、富十郎は万菊や新五郎とともに江戸に下り』、享保十六年『正月に市村座で初舞台を踏んだ。時に』十三『歳。同年冬、万菊と新五郎に付いて再び京に戻』った。享保十八年、『若衆形から女形となってからは、富十郎は美貌をもって巷間に知られるようになるが、それは役者ではなく』、『色子』(いろこ:陰間の一種。歌舞伎若衆で、男色を売る者を指す)『としてであった』。元文二(一七三七)年十一月、『大坂道頓堀の岩井半四郎座に出演』、この時、「曽根崎心中」の『天満屋お初を演じて大当りをとり、四ヶ月の続演となった。これが富十郎にとって役者としての道が開けた最初で、その後一年ほど』、『大坂の芝居に出続けるが』、『いずれも大当りをとる。それからは京、大坂、江戸の三都を往来し、どの土地でも人気役者として迎えられた』。寛延二(一七四九)年には、三十一『歳の若さで役者としての最高位である「極上上大吉」とされる。その後「古今無類之妙大至極上上吉」、さらに』、天明四(一七八四)年には「三ヶ津巻首歌舞伎一道惣芸頭」(さんがのつかんしゅそうげいがしら)『に置かれた』。『若女形を本領とし』、『時代物と世話物を兼ねたが、後に立役や荒事も勤めた。芸は』、『せりふ回しと身の軽さが評判となった。舞踊においても名人とされ、なかでも』宝暦二(一七五二)年八月、『京都嵐三右衛門座で踊った』「娘道成寺」は『大当りし、翌年の江戸中村座でも』「京鹿子娘道成寺」として『踊り、以後』、『これを当り芸として度々勤めた』。『六十を過ぎても』、『十七、八の娘姿が似合う若々しさだったと伝わる』。天明六年三月、『京で「女鉢の木」を勤めたのが最後の舞台とな』った、とあり、なお、『余技に絵も描いており、扇絵などを残している。東京国立博物館に「驟雨図」(紙本着色)の扇面』一本が所蔵されており、『画名を英(はなぶさ)慶子と称したという。天明』六『年には』「慶子画譜」が『八文字屋自笑の編で版行され』ているとある。私は歌舞伎嫌いの文楽好きで、他の役者は調べる気にならない。悪しからず。
「中役者」歌舞伎役者の階級。名題役者の次で、三階級ある内の中位の者の上方での呼称。役者といった江戸での呼称は「中通(ちゅうどおり)」。二流役者を指す場合もある。「板の間」とも称した。
「黑じゆす」黒い繻子(しゅす)。繻子は、精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。]
其時の狂言は春なりしが、「曾我」をば態《わざ》として、月(つき)さよ・鬼王(おにわう)にて、當る積り。先(まづ)【七年か十三年か。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]追善を取組(とりくみ)、今の助高屋雄次郞とて、女形の時。幕明(まくあけ)は、工藤の舘、少し何か有て、人足共、大勢、竹たばを背おつて出(いで)る、跡に付く坂田半五郞鬼王にて、茶色紋付の布子に小倉ばかま股立取(まただちとつ)て、人足と同じく竹をおつて出(いで)、舞臺にて、人足共、少々、せりふ有。鬼王をみて不審して、
「そなた御侍は、どふして、おらが中間(ちゆうげん)へいらしやつた。」
と聞(きく)時、
鬼「されば。ふと、道にて、此竹をそばに置(おき)て倒(たふれ)て居た人を見かけた故、『どふして爰(ここ)にゐる』と云(いふ)たら、『私は、けふ、工藤樣の御屋舖へ竹をかついでまゐる人足でござりますが、急に、腹が病《や》めて、困《こう》じて居(をり)ます。』と云故、『それなら、おれが、其竹を持(もつ)てゐてやろふか。』と云たら、『うれしい事。どうぞ持てゐて被ㇾ下まし。其かはりには、私が、今日の立(たて)まいのやとい賃(ちん)を上(あげ)ます。』と云た故、其人足に賴まれてきました。」
「ハヽア、申(まうす)。そんなら、人足にやとはれた、お侍か。」
と云。
「左樣(さやう)、左樣。」
といふ内、人足共、より合(あひ)て、買(こう)た酒德利(さかどつくり)を出(いだ)して茶碗へついで吞(のむ)を、鬼王、酒好(さけずき)にて、しきりに羨しがりて、咽(むせ)ずを引(ひき)、をかしみ有【實は、工藤の屋形、見たく、やとはれてこしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。こらい兼(かね)て、
「わしも、ちと被ㇾ下。」
と云ば、
「いや。是は賣物にはならぬ。」
と云を、
「どふぞ。さきにもらふた、やとはれ賃で、かいたい。」
と云ば、
「そんなら。」
とて、高賣(たかうり)するてい。
色々をかしみ有て、人足は引込(ひつこみ)、鬼王は、ゑひて倒れて寢てゐると、三味線にて富十郞、小原女の出たち、頭に黑木をいたゞき、褄《つま》ばざみして、手おほひ・脚絆・小納戶茶木綿(ちやもめん)の惣模樣(そうもやう)にて出(いで)、花道に、少し、所作、有。本舞臺へかゝり、人の寢た上を踏(ふむ)と呻(うめき)、
「アイタ、アイタ、」
とて、鬼王、おきて、
「誰だ。」
と、とがめるを、小原女、恐れてわび事するが、
「ニヤ申、ニヤ申、」
と云ことばにて、ねから、分らぬ所、をかしみ有。
トヾ、
「ふんだが、わるい。」
「寢てゐたが、わるい。」
と云募(いひつのり)て、
「それならば、其善惡を分るには、おれが謎をかけやふほどに、そなた、解兼(ときかね)たら、そちがまけ、皆解(みなとけ)たら、おれがまけに、せう。」
といふことに成(なり)、女、
「勝(かつ)た時には、どふする心。」
といへば、男、
「おれが爰に持(もつ)てゐる櫛があるから、是を、やろふし、そちが負たら、だいて、ねる。」
と、いはれて、恐れるおもい入(いれ)、有。
「サア、それなら、かけさんせ。」
ウシロ、チンラ、チンラ、の三味線に成、
「洗たく仕ながら、ぬれかゝる。こわひお敵(てき)は。」【少し考身ぶり有。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
「あらいの閻魔と云ことか。」【其頃洗のゑんま開帳なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
又、
「お染久松、くる道は。」【女、とく。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
「油の小路と云事か。」
などと、だんだん、かけて、五ツばかりの謎を女とき、
「是から、わしが懸(かか)る。」
とて、又、五ツばかり懸ると、やうやう、解(とけ)ども、果(はて)に、とき兼(かね)る時、
「サア、わしが、勝じや。其櫛被ㇾ下。」
と、いはれて【小し、愁歎あり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
「約束はしたれども、此櫛には、ふかい分(わけ)が有(あつ)て、どふも、人手に渡されぬ。昔語(むかしがたり)をする程に、聞屆(ききとどけ)て堪忍してくれ。【略。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]若い時分、くらまぎれ、小原の里の女になれ、互に顏も見しらねど、又、逢(あふ)までのかたみぞと、此櫛を、おこした。」
と語るうちに、女、ふるへだし、
「若《もし》、其櫛は紅葉に鹿の蒔繪ではござんせぬか。」
「果《はて》、其蒔繪を知つてゐる女。」
「其時の女は、わしじや、はいな。」
と名乘合(なのりあひ)、【色々、口上あり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
「其時、ひと夜の契(ちぎり)に、女の子を、まうけし。」
と、かたり、悅(よろこぶ)内、又、愁歎して、
「五ツに成(なる)年のやよひ、汐干(しほひ)に出(いで)しに、俄(にはか)の水ましに、うろたへて、つゐ流して、仕舞(しまひ)し。」
と、かたり歎き、兎角して幕なり。【其頃、汐干にて俄の汐みちに逢(あひ)、ながれし事、有しなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]【萩野八重桐と云(いふ)女形、汐干に行(ゆき)て水におぼれ、「しゞみとるとてみじめみた」といふ唄はやりし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
次の幕も、屋敷の内なりし。品々、狂言【略。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、あふむの買鳥(かひどり)有、十五、六の順禮にて出(いで)る。其鳥を見て背をなでなで、
「扨々、奇麗な鳥。そなたの名は何。」
と云(いふ)時、あふむ、
「そなたの名はなんと云。」
と、まねるを、びつくりして、とびのき、わが事をとはれしと心得、
「わしや、順禮じや。」
と云を、又、あふむ、まねて、
「わしや、順禮じや。」
といへば、
「扨も扨も、順禮と云(いふ)鳥は、きれいな鳥じやナア。」
とて、笑はせる事あり【其時、範賴三國富士五郞、始ての範賴なりし。いかなることにや、つくり啞(おし)と成(なり)て有しを、祐經がせし事のやうになりて、此病(やまひ)いえねば、狩場の御供ならず、さあれば、兄弟のかたきうたれぬといふ事にて、鬼王せつかく藥を求むる事なり。】。
順禮、餘念なく鳥を愛してゐると、富十郞、月小夜にて出(いで)、門をたゝき、
「明(あけ)てくれ。」
と云に、外に、人、なし。
順禮の小娘、立出(たちいで)て、門を明(あく)るや否や、富十郞が鼻の先へ、
「順禮に、御ほうしや。」
とひさくを出して、びつくりさせる笑(をか)しみ有。
内に入(いり)て、何か語合(かたりあへ)ば、鹽干(しほひ)に流したる娘なり。
ひろい上げて育てし親が、先の宗十郞にして、
「いつ幾日に、なくなりし。」
とて、雄次郞【雄次郞は宗十郞の子なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、歎く時、富十郞、廣め追善、口上、有。
至極、あわれなる狂言なりし。
口上終(をはり)て、
「それも、なげくな。今に本《もと》のとゝさんを呼(よん)で來て、あわそふ。」
とて、林町(はやしちやう)の方(かた)に入(いる)と【なのり合(あひ)の時分、守袋(まもりぶくろ)を落(おと)せしを、拾(ひろひ)て、それより、親子なる事を、しる。何の年、何の日、何の刻に生れし女の生膽《いきぎも》とやらが、範賴公の啞の藥に成(なる)とて、求むるなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、二重舞臺にて、始終の樣子、立聞(たちぎき)て、鬼王、ずつと、いで、物もいはずに、娘をとらへ、心もとをさしとほさんとする時、母月小夜、奧より走りいで、泣(なき)ながら、とゞめ、
「何の事かはしらねども、始て逢(おふ)たとゝさんの御腹立(おはらだち)、『あやまりました』と、手をついて、わびごと、しや。」
と敎(をしふ)ると、半五郞、刀を、なげ出し、
「なんの。腹のたつ事があろ。うれしいやら、悲しいやら、云にいわれぬ心の中。最前から立聞せしに、親子の名乘せし時の守袋の中なる書付、生(うまれ)し年と、月と日が、今、尋(たづぬ)る範賴樣へ上(あげ)る啞の藥になる娘。お主の爲に『天の與(あた)へ。』と思ふより、『なまなか、名のりせんよりは、一トおもひに。』と、覺悟、極めし、今のしだら。そなたも武士の妻、娘にもいひきかせ、得心させて、潔く、命をすてよ。」
と云(いふ)愁歎。【此半五郞、愁歎の上手なりしとなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
是をきゝ、月小夜は、
「いつそ、昔、死(しん)だなら、それと思(おもふ)てゐるものを、今、なのりあふ、うれしさの、息もやすめず、此なげき。」。【などゝ、いろいろ、ならべて、かなしみの場はあり。はじめ小原女の仕うちよりか卵して、此狂言かなしみにて此所分て當なりし。見物をもなかせる狂言に、範賴公もあまりふびんと心を改め、つくり啞をやめて、二重舞臺の障子のうちから、】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
「おしの良藥、調合せり。しばし、しばし。」
と、聲、かけ、障子を明(あけ)て立(たち)いづる所、見物が愁歎、哀(あはれ)とおもふさなかにて、殊の外、はゑ有し故、中役者の聲色(こはいろ)にても、皆々、まねをしたりしなり。
其頃、おもふに、藥調合をせし弟子に、元通(げんつう)といひしは、
「通(つう)が好(すき)故、『通』の字、つける。」
と被ㇾ仰し。當世人、芝居大好にて、目がさめると寢る迄、芝居のまねばかりしてゐし人なりしが、
「今宵、役者が來る。」
と聞(きき)、大(おほ)うかれにて待(まち)ゐしに、其時のうち出しは、暮過(くれすぎ)なり。
「五ツ前には、よも來らじ。」
と、皆、いひて有しに、くるゝと間もなく、門をたゝく音したり。
元通、口(くち)こゞとに、
「今時、分くる藥取(くすりとり)は、大かた、大島樣だろう。氣のきかねヱ、時もしらぬ、いそがしいに。」
と、立(たち)て玄關の障子、明(あく)るまへ、富士五郞が身ぶりにて、
「おしの良藥、調合せり。しばし、しばし。」
と高聲(たかごゑ)にいひ、
「さらり」
と、あけると、こはいかに。正身の富士五郞が先に立(たち)、
「中村富十郞、只今、參上。」
といはれて、
「二の口(く)もいでざりし。」
と其比(そのころ)の笑ひ咄(ばな)しなりし。【大だてもの故、其日は朝の手廻(てまはし)して、あかるいうちに仕舞(しまひ)しなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]
[やぶちゃん注:以上の曾我狂言は、歌舞伎に冥いので、誰のどの外題の、どの場面かは判らない。ど素人乍ら、色々調べたが、下手に注してはいかんので、悪しからず。一つだけ注が出来る。「あらいの閻魔」「洗のゑんま」は鎌倉の新井閻魔堂のことだな。由比ヶ浜の海辺に近い位置にあった。江戸後期に津波で壊された。現在の建長寺傍の円応寺の前身である。]