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カテゴリー「只野真葛」の116件の記事

2023/10/15

只野真葛 むかしばなし (80)

 

一、同時代なる松平出羽守樣は【此出羽守樣の次の殿、山城樣の御ともだちなりし。是は少し先なり。さりながら御繁昌にていらせられしは、やはり同じ代なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、御幼年にて御代にならせられし故、諸人たゞ御成長をのみいのり奉りて、萬事思召まかせに育上し故、御大名の被ㇾ遊ぬ事までも被ㇾ遊(あさばされ)ぬ事までも被ㇾ遊(あそばされる)殿なり。もろもろの藝人・たいこ持・役者・町藝者など、常に御側に召れて有し。御中奧(おんなかおく)は、「うたぎ」とて、江戶一番の美人、殊の外、けん高なりしとぞ。其頃、吉原一番の美婦と呼れし、「扇屋花扇」と云太夫を御揚被ㇾ成(おあげなさられ)、御自慢にて、「うたぎ」を召連(めしつれ)られ、美人くらべ被ㇾ遊しに、好(このみ)も限り有(ある)物にて、いづれ、おとらぬ事なりしとぞ。此「うたぎ」、みめかたちは、勝(かち)しかども、賤(いやし)き筋より出(いで)し故、心、拙(つた)なく、御家より被ㇾ爲ㇾ入(いりなさられ)し御前樣、

「御仕度(おんしたく)、麁末(そまつ)なり。」

とて、とりどり、惡口せし程に、はじめは、御心勞被ㇾ遊候とぞ。はやう世をさりし故、後(のち)は、ことも無(なか)りし。

[やぶちゃん注:「松平出羽守」出雲松江藩第六代藩主松平宗衍(なりつね 享保一四(一七二九)年~安永六(一七七七)年)は「御幼年にて御代にならせられし」とある通り、数え三歳で家督を継いでいる。しかし、以下の叙述を見るに、松平治郷(不昧)(寛延四(一七五一)年)~文政元(一八一八)年)でないと、話しが合わない。しかし、不昧は十六で家督を継いでおり、「幼年」ではない。不審。真葛は何か錯誤しているような気がする。

「山城樣」前に何度か出ているが、「山城守」で、茶の湯好きの大名か旗本の隠居であろうが、不詳。

「御中奧」江戸では正妻のいる場所を「奥」と言い、妾(めかけ)のいる場所を「中奥」と称した。ここはその「妾」の意。

「けん高」「軒昂」で「意気盛ん」の意。

「御前樣」大名・高家などの正妻を敬っていう語。奥方様。]

 

 「王子稻荷の申子(まうしご)にせし」とて、「王子路考(わうじろかう)」と、あだ名せし瀨川菊之丞、其比(そのころ)、わか手の、日の出役者なりしが、殊に御ひいきにてひしと召されし故、世には、

「出羽樣ろかう。」

とも云(いひ)し。しうじやくの所作せし時、「赤がしら」、此殿より被ㇾ下(くだされ)しが、三拾兩にて御買上なりとぞ。

 此時、大當り、天下をひゞかせたり【「赤がしら」の直段(ねだん)は、世の說にて、誠をしらず。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。其年の夏、屋形船にて、大川筋へ御納涼に被ㇾ爲ㇾ入(おりなさられ)し時、菊の丞も、御ふねに被ㇾ召(めされ)て參りしに、御側のもの、心、しひして、紅白の麻(あさ)にて、牡丹の花を造りて、船の柱に犇(ひし)と付(つえ)しかば、すゞみに出(いで)し諸人は、

「すはや。御船にて、路考が『石橋(しやくけう)』を躍(をどる)ぞ。」

と、我先、我先と、船を取(とり)まきしが、御なぐさみにて、躍(をどり)はなかりしとぞ。

[やぶちゃん注:「瀨川菊之丞」二代目瀬川菊之丞(寛保元(一七四一)年~安永二(一七七三)年)寛延から安政期に活躍した江戸の女形役者。屋号は濱村屋、俳名は路考。通称「王子路考」。ウィキの「瀬川菊之丞(2代目)」によれば、『江戸郊外の武州・王子の富農・清水半六の子で幼名を徳次といった。5歳で初代瀬川菊之丞の養子となって瀬川権次郎を名乗』ったとあり、また、寛延三(一七五〇)年九月、『二代目瀬川吉次を名乗り、中村座で養父一周忌追善として』「石橋」の『所作を演じたのが初舞台』とあることからも、野次馬の台詞の意味が生きる。

「赤がしら」「赤頭」。ヤクなどの毛を赤く染めた鬘(かつら)。能楽や歌舞伎で獅子や猩猩の頭として被る。能では「猩猩」「石橋」など、歌舞伎では「連獅子」などに用いられている。

「石橋」(しゃっきょう)は、元は能楽の曲名。五番目物。作者不詳。寂昭法師が入唐し、清涼山で石橋を渡ろうとすると、一人の童子が現われ、橋の渡り難いことを説き、橋のいわれを語る。やがて、獅子が現われ、咲き乱れる牡丹の花の間を勇壮に舞い、御代の千秋万歳を言祝ぐという筋。後場で、紅白の牡丹の立木のある一畳台(いちじょうだい)を二台又は三台出して勇壮に舞う。歌舞伎に大きな影響を与えている。歌舞伎の所作事の一つ。能の「石橋」の舞踊化で、後ジテの獅子の踊りだけになり、「二人石橋」・「三人石橋」・「五人石橋」・「雪の石橋」等のヴァリエーションが作られた。「外記節(げきぶし)石橋」は能に近く、「大石橋」とも呼ばれる。ここは後者の歌舞伎の演目。

「なぐさみ」気晴らし・楽しみ・もて遊び。]

 

 或年、御國にて、御通行の時、御家中の、二、三男《なん》なるべし、もがさ、重く病(やみ)て、片目つぶれたる上、殘る片目も、引(ひき)つりて、額の方へ、たてに成(なり)たるが、子供と遊びゐしが、御目にとまり、

「おもしろきものぞ。」

とて、直々(ぢきぢき)、召出(めしいだ)され、御側にて、立まわりを習はせ、翌年、御登りの御供にて、江戶へ、召連られし。十一、二、ばかりなれど、八ツ位にみゆる小人(こびと)なりし。又、其時代、釋迦が嶽雲右衞門とて、古今稀なる大男の角力取(すまひとり)、有(あり)しをも、御かゝへと被ㇾ成て、御引立(おひきたて)有(あり)し。身の丈(たけ)九尺有し故、町家にては、立(たち)ながら、背のび、ならねば、御殿に上(あが)りて、心安く、のびし、と云(いふ)評判なりし。

[やぶちゃん注:「釋迦が嶽雲右衞門」(寛延二(一七四九)年~安永四(一七七五)年)は出雲国能義郡(現在の島根県安来市)生まれ。当該ウィキによれば、身長二メートル二十六センチメートル、体重百七十二キログラムで、『江戸相撲では並外れた超大型の力士で』、『実力も高いことで知られている。しかし従来から病人であるためか』、『顔色が悪く、眼の中が澱んでいたという』。現役中の二十七歳で若死にしているが、『釈迦の命日と同じであり、四股名と併せて奇妙な巡り合わせと評判になった』。なお、安永二(一七七三)年には、『後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒』二『本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守(松平治郷)』(松平不昧。第十代松江藩主)『から召されて』、二『本の緒を目にした出羽守は驚きつつ喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。釋迦ヶ嶽が死去した時、神棚が激しい音を立てて揺れたため、出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納したと伝わっている』とある。]

 

 或時、御懇意の大名方を被ㇾ招、御振舞ありしに、初は彼(かの)かたわ小人、一ツ目小僧にて、廣袖付(つき)ひものまゝにて、御茶さし上(あげ)、御本膳は、雲右衞門に、厚わたの童子格子の大どてらを着せ、紫縮緬の大まるぐけを、前帶に〆て、はりこの大あたまをかぶらせ、見こし入道の出立(いでたち)なり。御わきは、次の間、中比(なかごろ)の疊、ふわふわと、くぼむと、下より、菊之丞、惣白無垢(そうはくむく)淺黃ちりめんのしごきを前帶にして、たけに餘る黑髮を亂し、雪女か幽靈かといふ出立。足を、はこばず、すり足にて、身輕の立𢌞り、見事さ、奇麗さ、いふばかりなし。御かよひ、いつも御次の間ヘ行(ゆけ)ば、疊、まく下へ入(いる)仕かけなり。「出羽樣の化物茶の湯」と唱(となへ)しは、是が始まりにて、さまざま、御趣向、有しなり。

 

2023/07/29

只野真葛 むかしばなし (79) 妖猫

 

一、土井山城守樣の御國(おくに)、刈屋の城に、小犬ほどの猫、有(あり)。「大ねこ」と名付(なづけ)て、折々、番人、見る事あれども、あだせし事、なしとぞ。

 いつの比よりすむといふ事も、しらず、といふ事は、折々、山城守樣の御はなしも有(あり)し由(よし)、父樣、猫のはなしなど、いでし時、度々(たびたび)はなしにも聞(きき)しが、數年(すねん)をへて、ある春のことなりしが、花の盛、いつよりも、出來、よく、日も、すぐれて長閑(のどか)のこと有しに、御番の侍、申合(まふしあは)せ、

「餘り、すぐれて、よき天氣なり。花見ながら外庭の芝原にて、辨當を、つかわん[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、いで居(をり)しに、いづくよりか來たりけん、えもいはれず、愛らしき小猫の、毛色、みごとにふち[やぶちゃん注:「斑(ぶち)」であろう。]たるが、紅(くれなゐ)の首(くび)たが[やぶちゃん注:「首箍」。首輪。]懸(かけ)て、はしりめぐり、胡蝶に戲れ遊び狂ふさま、あまり美くしかりし故、何(いづ)れも見とれてゐたりしが、

「首たが懸しは、かい猫なるべし。かゝる小猫の、いかにして、城内まで、まどひ來にけん、あやし、あやし。」

と云つゝ、

『手ならさん。』[やぶちゃん注:「手なづけよう」。]

と思ひて、燒飯を一ツ、なげて、あたへしかば、かの小猫、はしり來りて、其やき飯を、くはゆると、ひとしく、古來よりすむ、大猫と成(なり)しとぞ。

「それ、大猫の、ばけしよ。」

と、いはれて、にげさりしが、其後(そののち)、番人、

「たえて、形を見ず。」

とぞ。

「『不思議のこと。』とて、御(おん)じきはなしに、うかゞひし。」

と、父樣、

父樣、被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「土井山城守」恐らくは、三河刈谷藩第二代藩主土井利徳(寛延元(一七四八)年~文化一〇(一八一三)年)であろう。彼は従五位下山城守であった。

「刈屋の城」現在の愛知県刈谷市城町(しろまち)に城跡がある(グーグル・マップ・データ)。]

只野真葛 むかしばなし (78) 二度目の夫只野伊賀の急死を知った折りの記載

 

 こゝまで書(かき)さして、

「藤平(とうへい)、誕生日の祝儀。」

とて、中目家へ、まねかれて行(ゆき)しは、四月廿五日なりし。二夜(ふたよ)とまりて、同じ七日の夕方歸りしに、江戶より、急の便り、有(あり)、同じ月の、

「廿一日朝四ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午前九時半頃。]より病付(やみつき)て、ひる八ツ過(すぎ)[やぶちゃん注:同前で午後二時半を回った頃。]に、伊賀、むなしくなられし。」

とて、つげ來たり。

[やぶちゃん注:「中目家」五女照子(兄弟通り名は「撫子」)は仙台の医家であった中目家に嫁した。真葛(あや子)より二十三歳下。「藤平」というのは、彼女の産んだ男子の名であろう。祖父の工藤平助の姓名から貰ったものであろう。

「伊賀」真葛の当時の二度目の夫。寛政九(一七九七)年、真葛三十五歳の時、仙台藩上級家臣で江戸番頭の只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称、只野伊賀)と再婚していた。以上は文化九(一八一二)年のことである。]

 人の世は常なしとは知りながら、今朝までも、事なかりしを、只三時(さんとき)の程に命たゑん[やぶちゃん注:ママ。]とは、夢、おもひ懸(がけ)ぬことなりし。

 日をかぞふれば、其日は初七日(しよなぬか)なりけり。

 にはかに、かたち、直し、水、そなへ、花、たむけなどするも、何の故とも、わきがたし。

 五日、六日、有(あり)ておもゑ[やぶちゃん注:ママ。]めぐらすに、

「かく聞傳(ききつたへ)しことの『むかしがたり』を、書(かき)とめよ、書とめよ。」

と、つねに、いはれしを、世のわざにかまけて過(すぎ)しきにしを、

『今はなき人の、たむけにも。』

と思ひなりて、かきとゞむるになむ。【此ふしは、うれい[やぶちゃん注:ママ。]にしづみ、哀(あはれ)のはなし、かく事、能わず[やぶちゃん注:ママ。]。よりて、これを、あげたり[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。】

[やぶちゃん注:

只野真葛 むかしばなし (77) 巾着切の陰徳の話

 

一、巾着切(きんちやくきり/きんちやつきり)といふものは、三度、牢入になれば、落首(うちくび)[やぶちゃん注:当て訓した。]の定めなるに、三度目に御免に成(なり)しもの有(あり)し故、其時の町與力に名代の人有しが、

「宅へ參れ。」

と呼(よび)よせて、

「扨(さて)。外の事にて、なし。其方は、死罪の罰を、ふしぎに、命、たすかりしは、陰德にても、ほどこせし事、多く有(ある)や。」

と聞(きき)しに、

「外(ほか)に覺(おぼえ)とてもなけれど、久しき跡に、兩國邊を、かせぎました時、七、八兩に成(なり)ました。暮方(くれがた)、まなべ川岸(かし)[やぶちゃん注:当て訓した。]の方へ參りしに、本柳橋のきわで、身をなげそふ[やぶちゃん注:ママ。]にする、ぢゞが、ござりました。ひよつと、『むごい事だ。』と、胸に、うかびましたから、『若(もし)、ぢゞさん。わたしは巾着切だが、死ほどの事なら、わたしが、今日、仕事にした金が、ちつと有(ある)から、借(かし)やせう。』と申(まうし)たら、きもを潰した顏を仕(し)て居(をり)ましたを、金を、ふところに、入(いれ)て、つきたほして、にげ行(ゆき)、陰(かげ)から見て居(をり)しに、ぢゞは、おきて、其金を、かぞへて、いたゞき、懷中して行(ゆき)ましたから、たすかつたろう[やぶちゃん注:ママ。]と存じます。」

と語りしを、

「其樣なことの故にも有べし。是より、巾着切を、やめたら、よかろふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と云(いひ)しに、

「私も、やめとふ[やぶちゃん注:ママ。]ござりますが、中々、仲間が、合點、致しません。」

と、いふを、

「それなら、近在に、おれが知つた百姓が有(ある)から、それが所へ賴んでやろう[やぶちゃん注:ママ。]から、田舍でも行(いつ)て素人に成(なれ)。」

と、すゝめしに、悅んで、

「左樣なら、どふぞ被ㇾ遣被ㇾ下(やられくだされ)。」

といふ故、そこへ、やりしとぞ。【此(これ)、よびて聞(きき)しことも、うたがはし。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]】

 至極、正直者と見えて、手がたき家なりしが、あめ商賣をせしとぞ。

 庭の隅に、少し、土を高くして、塚の樣な物あるに、日々に、茶や花を上(あげ)しとぞ。

 或日、

「少し、心ざしの事、有(あり)。」

とて、人を呼び、茶菓子など、いだして、此比(このごろ)來りし人にむかい[やぶちゃん注:ママ。]、

「今日の心ざしは、前かた、不仕合(ふしあはせ)が續きし故、娘を江戶へ連(つれ)て行きうりましたが、十六兩でござりました。『是で、どふしてこふして[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]。』と、胸算用して、かへる時、兩國で、すりに取られましたから、『死ぬより外の事、なし。』と覺悟した時、外(ほか)のすりが來て、金をくれて助けてくれました。半金にも、たらぬほどなれど、どふかこふか、それで、あめ屋も、だしましたが、それから仕合(しあはせ)が直(なほ)り、此通りに、くらして居(をり)ますも、たすけられたすりの蔭(おかげ)。生(いき)てあるか、死(しん)だか、しらねど、七年已前の事、其時、わしが、しねば、今日が七年忌とおもゑ[やぶちゃん注:ママ。]ますから、其人の爲に囘向(ゑかう)仕(つかまつり)ます。」

と語(かたり)しを、巾着切も、

『ふしぎ。』

とは聞しが、其時は、かたらず。

 後に、そのわけを、かたりしかば、限りなく、悅びし、とぞ。

 是は父樣、外より御聞被ㇾ成て御はなしなりしが、あまり、こしらい[やぶちゃん注:ママ。]過(すぎ)たるやうなり。日々、おこたらず人の念ずれば、必ず、思(おもひ)のとゞくものとは聞(きき)しが。

[やぶちゃん注:「巾着切といふものは、三度、牢入になれば、落首の定めなる」ウィキの「スリ」によれば、『元禄・宝永』頃、『名人坊主小兵衛が現われたが、これは同心目付役加賀山(加々山)権兵衛の寵愛を受けた。このころから』、『スリと同心の因縁が生じたという。当時の手口は袂さがし、腰銭はずし、巾着切りが主で、敲きの上』、『門前払いに処罰されたが、巾着切りの横行の流行にかんがみ、延享』四(一七四七)年二月、『御定書に「一、巾着切、一、腰錢袂錢を抜取候者、右何れも可為入墨之刑事。儋()入墨之者惡事不相止召捕候はば死罪」と達せられ、突き当たりの手口で荒稼ぎする者を』、『入れ墨、重敲』(じゅうたたき:江戸時代の刑罰の一種。罪人の肩・背・尻を鞭百回打つこと。江戸では牢屋同心が小伝馬町の牢屋の門前で執行した。八代将軍吉宗時代に始まった)『すべきを見合わせて』、(☞)『死罪にする判例が生じた。その手口はますます巧妙化し、荒稼ぎ、山越し、達磨外し、から、天保ごろから、違(ちがい。すれ違いざまにおこなう)、飛(かっさらい)、どす(おどしとり)へと変わり、白昼の追いはぎも現われ、スリは並抜きをして、同類と共同で稼ぐものもあったので、遂に天保の大検挙が行われ、万吉、虎、勇九郎、遠州屋のような有名なスリの入牢があった。しかし』、『その後もスリの跳梁跋扈はやまず、天保の大検挙で入牢した親分たちが出牢するにおよんで』、『ますます』、『さかんになり』、慶応元(一八六五)年、『浅草年の市には』、『勇九郎の流れをくむ』『手合いが』、『手当たり次第にすりとった紙入れは炭俵』一『杯分あって、石を付けて大川に放り込んだという』また、彼らは『必ず』、『集団で行動し、仲間のスリがしくじった場合は』、『見ず知らずの町人を装った仲間が袋叩きにし、番屋に突き出す振りをして奪還した。組に所属しない流しのスリは十指全てをへし折られる凄惨な制裁を受けた』とある。]

只野真葛 むかしばなし (76) 命を救って命助かる奇譚

 

一、鈴木常八は、「うべがたり好(ずき)」[やぶちゃん注:意味不詳。識者の御教授を乞う。「うべ」は「宜」・「諾」か。「如何にも聴く者が『もっともらしい話じゃ』と感嘆する話の意か。]にて、度々(たびたび)語りしは、本庄の道具屋、川むかふの道具屋の會(くわい)に行(ゆく)事のよし。

 渡しを渡りて、例のごとく行(ゆき)しに、おもはしき品も無(なかり)しかば、金を懷に入(いれ)て歸りし事有(あり)しに、暮がたなり。

 今、船を漕出(こぎいだ)したるあとへ來て、行(ゆき)かへる迄、待(まち)てゐしに、そこら、見𢌞せば、石垣を傳へて[やぶちゃん注:ママ。]、若き夫婦と見ゆる人、ひそひそ咄(ばな)してゐるを見つけ、

『たしかに。義理に、つまりて、身を、なげる人。』

と心付(こころづき)、其そばへ行(ゆき)て云(いふ)は、

「一寸(ちよつと)見受(みうけ)た所が、たしかに、金につまりて、死心(しぬこころ)と見えるが、どこの人かは、しらねど、いとほしき事なり。私が懷に、十兩、かねが有(ある)から、是を、かしませうから、どふぞ、死なぬ工面、せられよ。」

と、いひしを、餘り、おもひかけぬ事にて、合點ゆかぬ顏して居(をり)し内、舟がつきし故、なげだして、船に、のりしとぞ。

 家に、かへりて、きげんよく、

「よいもの、買(かひ)し。」

と云(いひ)て有しとぞ。

 其後(そののち)、二年ばかり過(すぎ)て、例の如く、會に出て、歸りがけ、少し用事有(あり)て、外(ほか)へまはり、常に通る道より、外の所へ、かゝるに、ある家の内に、女房らしきもの、髮をとかしてゐしが、散(ちら)し髮にて、かけ出(いで)て、

「あなたは、たしかに、先年、お目にかゝつた、お人。」

とて、取付(とりつき)しとぞ。

 顏をみれば、金をくれし女なり。

 夫も、きゝつけて、かけいでゝ、

「先(まづ)、一寸、内へお上り被ㇾ下。」

とて、無理に引入(ひきいれ)、だんだんの禮を述べ、御蔭により、命(いのち)、たすかりし悅(よろこび)を、いひ、

「其時は、途方にくれ、御名(おんな)や、所を、もうけ給わら[やぶちゃん注:ママ。]ざりしを、くやみし事、又、『渡し場を通られし故、此邊にすまはゞ、御目にかゝる事もや。』と、家、借りし事、又、か樣(やう)に、ふしぎな、命、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]しも、淺草の觀音樣の御蔭と、日參して、

「一度は行逢樣(ゆきあふやう)に。」

と、いのりし事、色々、くだくだしく、ならべていふを、

「いや、おそく成(なる)から、重(かさね)てきませう。」[やぶちゃん注:「重て」は、折りを見て、今一度、来ることを言っていよう。]

と斷(ことわり)ても、中々、聞かず、わざと、

「お盃(さかづき)。」

とて、酒など出(いだ)し、時刻、おくれたり。

 いそぎ、行(ゆき)てみしに、

「渡し船、かへりて[やぶちゃん注:「反りて」。転覆して。]、夥しく、人、死(しぬ)なり。」

とて、大さわぎなりしとぞ。

「折もあらんに、此日に行逢(ゆきあひ)、手間取(てまどり)て、其沈みし船に乘(のら)ざりしは、誠(まこと)に、命、救ひしかはりに、我(わが)命、たすかりしなり。」

とて、殊の外、好(よき)なるはなしなりし。

 其道具屋の、じき咄し、とぞ。

[やぶちゃん注:「本庄」当初、底本も『日本庶民生活史料集成』も注記等がないので、「川むかふ」とあることから、現在の埼玉県本庄市か(グーグル・マップ・データ)。北の端は利根川で、川向うは群馬県伊勢崎市である。しかし、後の方で浅草の観音に日参するという語りがあり、『これは、思うに「本所」の誤りではないか?』と判断するに至った。]

只野真葛 むかしばなし (75) 妖狐譚(三話)

 

一、疱瘡やみのかさぶたを喰(くふ)は、まさしく、狐のわざなり。人の目には、病人の喰(くふ)と見えて、實は、狐のくふなり、とぞ。是は人に付(つき)たる狐の、じき咄(ばなし)しなり。實(まこと)に、さること、有(ある)なり。

 或庄屋、法事ふる舞(まひ)に行(ゆき)しに、手前、油物の、しごく、かげんよかりしを、もらいて、十枚ばかり、もちて還りしが、

『爰(ここ)らには、わるい狐がゐる所。』

と思ふと、晴たる月夜なりしが、眞黑に成(なり)たり。

 よくみれば、下壱尺ばかりは、月のひかり、見えて、其上は、くらし。

 是、狐の、此油物を、ほしがるなり。

『終(つひ)にばかしとらるゝよりは。』

と思(おもひ)て、木の根に、腰かけて、はしより、だんだん、くひしが、くひしまへば、空、晴(はれ)て、元の如く成(なり)しとぞ。

 十枚の油物、法事ふる舞の跡にて喰(くは)るゝものならず。後(のち)、食當りもせねば、是もやはり喰れしなり。

 日向桃庵(ひうがたうあん)、

「品川へ遊び、御殿山の夜の花、みん。」

と、大一座、たいこ持・藝者まで、かけて、三拾人近(ちかく)の人數(にんず)、いろいろの肴(さかな)もの、とりよせ、とりよせ、酒のみ、物くひして、遊ぶに、九ッ時分[やぶちゃん注:正午頃。]になり、

「サア、家の内へ、はいつても、よかろふ。」

と、誰か、いひだし、いづれも、

「それが、よかろふ、よかろふ。」

とて、立(たち)し時、みしに、取寄たる肴共(さかなども)、

「からり」

と、骨まで、なし。

「座中の人、殘らず、空腹なりし故、夜食を、いひ付て、食(たべ)し事、有(あり)しが、たしかに、狐に、くわれしならん。」

と語られし。

[やぶちゃん注:最初の、疱瘡病みの痂(かさぶた)食い(かなりエグい話である。しかし、私が高校時代、友人に「痂を食うのが好きだ」と公言していた奇体な男が確かにいた)を一話と数えた。

「日向桃庵」不詳。名乗りからみて、父の医者仲間か。

「御殿山」江戸時代から桜の名所として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキも参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (74) 井伊玄番守逝去直前の怪事

 

一、井伊玄蕃守(げんばのかみ)[やぶちゃん注:底本は「玄番」であるが、『日本庶民生活史料集成』版の表記を採用した。]樣御かくれ被ㇾ遊しは、七月十一日なり。

 六月あたり、廊下のともし火は猶の事、諸方へ出すあんどんの火、つけるやいなや、引(ひき)いる樣に、くらく成し事、有(あり)し。

「油に、まぜ物ある[やぶちゃん注:底本は『あり』でママ注記があるが、『日本庶民生活史料集成』版で訂した。]故にや。」

とて、油屋を取替などしたりしが、かわる[やぶちゃん注:ママ]。ことなく、其内、いたつて消やすき時は、仕かたなくて、蠟燭をつけて置(おき)し事、ありし。

 御大變あらんとての、しらせなるべし。

[やぶちゃん注:「井伊玄番守」まず、「玄蕃」頭(かみ)を名乗っていそうで、七月十一日が命日で、井伊姓の人物となると、江戸初期のえらく昔の話だが、近江彦根藩二代藩主で後に上野安中藩初代藩主となった井伊直勝(天正一八(一五九〇) 年二月~寛文二年七月十一日(一六六二年八月二十四日):井伊直政の長男)しかいないと思う。近江彦根藩藩主の井伊家は、後の何人もが「玄蕃頭」を名乗っている(サイト「世界帝王事典」の「井伊氏(近江彦根藩)」を参照。そこに出る以外にも「玄蕃頭」を名乗っていたらしい藩主がいることも、あるネット記事から確認出来た)。昔話として仙台藩邸の女中奉公をしている折りにでも、耳にしたものであろう。真葛は怪奇談好きだから、少しもおかしくはない。]

只野真葛 むかしばなし (73) 村上平兵衛の妄想と失踪

 

一、村上平兵衞といひし人、近比まで御目付など勤めたりしが、其ぢゞは、御身近き役【何役にや。[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]】を勤めしに、其子、嫁もとり、孫も【孫は平兵衞なり。[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]】有(あり)などせしが、廿人餘なるべし。

「御小性(こしやう)[やぶちゃん注:「小姓」は、江戸時代の書籍では、しばしば、かく、書かれる。]に被仰付し。」

と吹聽(ふいちやう)し、

「直々(ぢきぢき)、御入(おいり)[やぶちゃん注:江戸城へ呼ばれること。]へ相(あひ)とほさるゝ。」

と、いひ、又、

「急(いそぎ)、登り被仰付し。」

とて、已にも、あい金[やぶちゃん注:途上のための支度金か。]まで受取、たゝむとせし事有しに、

「合點、ゆかず。左樣の被仰付なし。」

といふ人、有(あり)し故、能(よく)たゞしてみしに、空事(そらごと)なり。

 其身は、信じて、きかざりしが、狐にばかされしといふ事、あらはれし、とぞ。

 父は江戶づめ、女ばかりの時にて、さやうには、せしなり。

「御城にて、被仰付。」

とて、供人つれて出(いで)し事も度々(たびたび)なり。

 いかにも、御城へ出入《でいり》せし事は、御門(ごもん)にて見しかども、何しにせし、とまでは、誰(たれ)も心つかず。

 それより、家内、心付(こころづき)、あたら、わかき人を、外出をとめて有しが、何も、少しも、心の違ひし樣にも見えねば、隱居ぢゞの、つれて、三年目の春、花見に行(ゆき)しに、人ごみにまぎれて、行衞(ゆくへ)知れず成(なり)しとぞ。

 誠に、せんかたなきなり。

[やぶちゃん注:一種の妄想性精神疾患で、見かけは正常に見えただけであろう。]

2023/07/25

只野真葛 むかしばなし (72) 眞珠尼のこと

 

一、忠山樣御代に、十一にてめしかゝへられし人、後に「眞珠」とて、尼に成(なり)し。ワ、つとめし比は、七拾餘(あまり)なりし。

[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。]

 十一にて、四書五經をそらにし、大字(だいじ)を書(かか)れ、狩野家の繪を書(かき)し。藝にて、召し出されしなり。

「哥(うた)は、十八の年より、よみ習(ならひ)し。」

と、いひしが、後は、專ら、御姬樣方の御師範、申上たりし。

 繪は、御家(おんけ)へ上(あが)りて後も、御世話被ㇾ遊しや。彩色、殊に上手なりし。十一にては、あれほどには、覺ゑ[やぶちゃん注:ママ。]まじ。

 此人、むかし、宿下(やどざが)りして有(あり)し人の元へ、用、有(あり)て、文(ふみ)をやりしを、其内へ來(き)かよう人の、

「此文がら、見ても、よきや。」

と、いひしとぞ。

 させる用にてもなかりし程に、

「よし。」

とて見せしに、その人は、

「墨色を見る人なりし故、見しことにて、此人、眞珠が氣性・諸藝・顏色・かたちまで、よく、あてたりし。」

とぞ。

 其人、上りて、そのよしを語しかば、なにかは、うわきの若人(わかうど)たち、

「われも。われも。」

と、墨色を見てもらひに、やりし、とぞ。

 其中に、表封じをして、印おして、こしたるが、一ツ有(あり)しを、人の中にて、あらそひ、見ず、懷中して行(ゆき)しを、後に、

「何事、書(かき)し。」

と、きけども、語らず。

 殊の外、ゆかしがりて、人々、

「どこに有(ある)か、見たしく[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ事なりしに、眞珠は、

「相部屋故(ゆゑ)、人が、せめる。其身も、見たし。どふせふ。」

と、當番、留守中に、小だんすの上の引出しを、少(すこし)明(あけ)て、みたれば、くるくると卷(まき)て入れ有(あり)しを、開き見しに、

「其方樣(そのはうさま)のを、かよふ[やぶちゃん注:ママ。]に封じたるは、外の事ならず。至(いたつ)て、好色、深し。誰(たれ)とても、このまぬ人は、なけれど、つゝしまずば、身を、あやまつ事、あらん。」

と書(かき)て有(あり)しを、眞珠、

「心、『パツと、評判しては、あしからん。』と思(おもひ)て、人には、見つけず。」

と、いひて有しが、忠山樣は、勝(すぐれ)たる御美男にて入(いら)せられしを[やぶちゃん注:表現上、文法的に問題があるが、「おられましたが」の意であろう。]、其人、つけ文(ぶみ)を上(あげ)しにより、御暇(おんいとま)出(いで)たりし、とぞ。

「其後、見し事は、語りし。」

となり。

「左樣の氣ざし有(あり)し故、人も、いさめしならん。」

と、いはれし。

 其(その)相(あひ)見し人は、上總の大百姓なりしが、道樂者にて、若き妻を、一人おきて、江戶にばかりゐて、遊びしほどに、其妻、身重(みおも)に成(なり)しとぞ。

 其あいては、手代の〆(しま)り人なりしを、人々に、くみて、つげしかば、

「幸(さひはひ)、子共なければ、養子するには、ましなり。すぐに、うませて、子にする。」

とて、かまはざりしとぞ。

[やぶちゃん注:「手代の〆り人」手代を凡て監督指導する番頭格ということであろう。]

「壱人(ひとり)置(おい)たから、其はずなり。」

と道理をつけしは、今の世にては、珍らしからぬやうなれど、昔は、珍らしき事に、人、いひしとぞ。

 お末の者に、何の故もなく、頰のはれし事、有(あり)しを、

「それ、はやりの、うらかた。」

とて、聞(きき)にやりしに、

「『是は、此人のばゞなどの、しきりに逢たくおもゑて[やぶちゃん注:ママ。]、死せしならん。にくし、と思ふにはあらねど、おのづから、つめて、思(おもひ)し念の、來たるならん。』と、いひて、こしたりしに、やどよりも、在所のばゞ、少しばかり、わづらひて、死(しし)たるよし、知(しら)せ來りしが、『殊の外、逢(あひ)たがりし。』と、いひし故、ふしぎの如く、云(いひ)あへりし。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「はやりの、うらかた」「流行(はやり)の、占方(うらかた)」で、所謂、当時、よく当たると評判だった易者・占い師に、この異変を内々に占わせてみた、ということであろう。]

2023/07/23

只野真葛 むかしばなし (71) 久々の実話怪談!

 

一、「おてる」が乳母の「げん」が咄(はな)しに、玉川の百姓に、河獵(かはれふ)を主《おも》にして、くらすものありしが、弟は、外へ養子に行(ゆき)、兄は、妻をなくし、子共二人有(あり)しが、病氣なりしを、

「其病(やまひ)には、土鼠(もぐら)を食へば、よい。」

と人の敎(をしへ)し故、弟に、

「取(とり)て吳(くれ)よ。」

と、賴(たのみ)しに、受合(うけあひ)て、出がけに門口(かどぐち)にて、大(おほ)いたちが、土鼠を取《とり》て走るに逢ふ故、

「願所(ねがふところ)。」

と、おさへ、とりて、兄に、くわせしとぞ。

 其翌日、弟、葬禮の供(とも)にたのまれて行(ゆき)しに、晝中(ひるなか)、其いたちの、來て、かゝとを、喰ひ付(つき)、喰ひ付、したりしを、けやり[やぶちゃん注:「蹴やり」(蹴飛ばし)であろう。]、けやりして、こゝともせず[やぶちゃん注:底本は「こゝともせず」。『日本庶民生活史料集成』版を採用した。]ゐたりしに、何(いづ)くへか、行(ゆき)たりし。

 其夜より、兄の家の上(あが)り口(ぐち)に、いたちの、うづくまりゐて、人の居(を)るかたを、睨(にらみ)をる、眼の光の、いやなること、たとへんかた、なし。

 寢靜まると、來て、元結(もとゆひ)をくわへて、引(ひき)しを、手にて拂(はらひ)しに、子共の寢たる方(かた)へ拂やりしに、其儘、くひ付(つき)たり。

 あくるひ、行(ゆき)てみしに、子共、二人とも、喰(くは)れて、泣叫(なきさけ)ぶてい、みじめなりしとぞ。

 又、夜に、入(いれ)ば、上り口に居(ゐ)て、寢れば、きて、あだを、したり。

 とらへんとせし手に喰付(くひつき)しが、已(すで)に、くひとらるゝなりしとぞ。

 子は、先立(さきだつ)て死す。

 父も、半月ばかり、苦(くるし)みて、死(しし)たり。

 病(やまひ)、癒さんとて、三人、死せしとぞ。

 「げん」が近(ちかく)の家にて有(あり)し故、いたちの、ゐしを、見たり。

「おそろしきこと。」

と[やぶちゃん注:底本では「ゝ」。]、常々、はなしせし故、「おてる」、いたちを、おそれたりし。

[やぶちゃん注:「川獺」は本邦の民俗社会では、古くから狐・狸と同じく「人を化かす」とされてきた経緯がある妖獣であった。ウィキの「カワウソ」の「伝承の中のカワウソ」によれば、『石川県能都地方では』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰何されると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』、『加賀(現在の石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』。『江戸時代には』「裏見寒話」(私の「柴田宵曲 續妖異博物館 獺」を参照されたい)・「太平百物語」(私の「太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」や同「卷五 四十六 獺人とすまふを取し事」を参照されたい)・「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述した加賀のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『安芸国安佐郡沼田町(現在の広島県広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり』、『上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡では』、「かぶそ」又は「かわそ」の『名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、九歳の『美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川県や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。『室町時代の国語辞典『下学集』には、河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌ語ではエサマンと呼び、人を騙したり』、『食料を盗むなどの伝承があるため』、『悪い印象で語られるが、水中での動きの良さにあやかろうと子供の手首にカワウソの皮を巻く風習があり、泳ぎの上手い者を「エサマンのようだ」と賞賛することもある』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(現在の網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『またアイヌ語ではラッコを本来は「アトゥイエサマン(海のカワウソ)」と呼んでいたが、夜にこの言葉を使うとカワウソが化けて出るため』、『昼間は「ラッコ」と呼ぶようになったという伝承がある』とある。重複する箇所があるが、博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」も見られたい。]

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