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カテゴリー「只野真葛」の22件の記事

2021/01/23

奥州ばなし 影の病

 

     影の病

 

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。

『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』

と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、

『寸分、たがはじ。』

と思はれたり。

 餘り、ふしぎに思はるゝ故、

『おもてを、見ばや。』

と、

「つかつか」

と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。

 家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。

 是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。

 これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。

 祖父、父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。

 勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。

 只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いふ》。離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】

 

[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。

 標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』

をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。

「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。

 さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 lightray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadowshade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shapefigure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影imagephantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visagelooks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。

 さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-+「‎-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――

「北勇治」不詳。

「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……

「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。

「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!

「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!

「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。

「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!

   *

離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]

(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)

   *

「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。

『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。

「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。

「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼のことが記されていない)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の

       身はいたづらに消えんとすらん

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられていた』一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。

 

 なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、

「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)

で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、

「女流文學全集 第三卷」のここから

で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。

 

 にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……

2021/01/22

奥州ばなし 狐火

 

     狐 火

 

 七月半頃、年魚《あゆ》しきりにとらるゝ時、夕方より、雨、いとまなくふりければ、

「こよひは、川主《かはぬし》も魚とりには出《いで》じ。いざ、徒《いたづら》ごとせばや。」

と、小性《こしやう》共兩人、云あはせて、孫澤の方へ、河つかひに行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

『此《これ》、狐共等が、魚を食《くひ》たがりて。』

と、心中に惡《にく》みながら、だんだん、河をのぼるに、魚(うを)とらるゝこと、おびたゞし。

「大ふごにみてなば、やめん。」

と、いひつゝ網うつに、【川主の家の方《かた》なり。】河上にて、大かゞりをたく、影、見えたり。

 兩人、みつけて、立どまり、

「もしや、この雨にもさはらず、川主の出やしつらん。」

と、あやぶむ、あやぶむ、

「今少しにて、ふごにも、みちなん。」

とて、魚をとりつゝ、くらき夜(よ)なれば、

『河中までは、かゞり火には、てらされじ。』

と思ゐしに[やぶちゃん注:ママ。]、かゞり火のもとより、人、獨(ひとり)、たいまつを照して、川におり來りたり。

 「夜ともし」の躰《てい》なり。【「夜ともし」とは、よる、川中へかゞりをふりて、魚をとるなり。】

『すはや。』

と、心、さわぎしかど、

『あなたは一人、こなたは二人なれば、見とがめられても、いかゞしても、のがれん。』

と、心をしづめて、見ゐたりしに、【河右衞門がいふ。】

「あれは、人には、あらじ。持《もち》たる松の火の、上にのみ、あがりて、下におつる物、なし。化物のせうなり。」

と、見あらはしたり。

 いま一人も、此ことに心づきて、よく見しに、實《げ》に、火のさまのあやしかりしかば、兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば、一間ばかりまぢかく來りて、立《たち》ゐしが、

『ばかしそこねし。』

とや思ひつらん、人形《ひとがた》は、

「はた」

と消《きえ》て、あかしばかり、中《ちゆう》をとびて、岡へ、上りたり。

「まさしく狐の化《ばか》したるを、近く見しこと、はじめてなり。」

と語《かたり》き。

 この見あらはせしは、梅津河右衞門と云ものなりし。

 眞夜に、ひとり、川をつかひて、更に、ものにおどろかぬものなりし。

 

[やぶちゃん注:「川主」恐らくは現在のアユの漁業権や漁期規定と同じで、特定の流域・特定の時期は、川漁をする漁師が限定的に決められていたものであろう。

「徒《いたづら》ごと」暇潰しの意で「つれづれごと」とも読めなくもないが、ここは川主の目を盗んでという前振りから、かく読んでおいた。

「孫澤」宮城県加美郡加美町(かみまち)孫沢か(グーグル・マップ・データ)。田川という川の左岸であるが、すぐ下流で鳴瀬川に合流しており、この鳴瀬川ではアユが獲れることが確認出来たし、この孫沢には、北部分に大きな「孫沢溜池」(但し、これは小さな灌漑専用のダムで昭和一二(一九三七)年の竣工である)があり、附近には、ここからも含めて、南に下る小流れが、三本ほど、現認出来る。

「河つかひ」ちょっと聴いたことがないが、プライベートな川漁のことであろう。

に行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

「魚(うを)とらるゝこと」やや使い方がおかしく感ずるが、「らる」は可能で、思いの外、「ふご」「畚」。ここは釣った魚を入れる魚籠(びく)のこと。「大」とあるから、竹で編んだものかも知れない。

「川主の家の方なり」そこの川主の家の近くで、明確にその主人専用の漁場にまで侵入していたのである。

「夜ともし」鵜飼を考えれば、納得が行く。長良川上流の郡上市美並町や中流の美濃市で今も行われている「夜網漁」がある。夜の川に網を張っておいて、舟上の篝火の明るさと、櫂を使って舟縁(ふなべり)や川面を叩く音で、鮎を網へ追い立てる、昔ながらの漁法である。また、海辺・河口附近での漁であるが、千葉の稲毛海岸の干潟での「夜灯(よとぼ)し漁」が知られる。夜の干潟や刈田で、海老・蟹・鯊・鰈・泥鰌などを概ね新月の時に灯りをつけて獲る伝統漁法である。

「化物のせう」「せう」は「性(しやう)」であろう。火の性質が通常の物理的な現象としてはあり得ない様態であることから、魔性の妖火と見切った(最後の「見あらはせし」がそれ)のである。この河右衛門の言葉を魔性の「もの」は聴き、その「言上げ」によって自身の正体がバレた故に、退散せざるを得なかったのである。このセオリーは本邦の民俗社会に於ける古くからの呪的システムなのである。但し、言っておくと、標題や話の中での彼らが見た妖火を「狐火」と呼んでいる結果として、読者は誘導されているのであって、「人」ではないことがバレたのであって、その物の怪が果たして真に狐であったかどうかは、定かではないわけである。

「兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば」ここは特異点の用法で、「驚かなった」のではない(最後の「ものにおどろかぬものなりし」は今の「驚く」と同じでよろしいのだが)。この「おどろく」は「気がつく」の意。闇の中で、しかも安定の悪い川の中に立っていたために、距離感をちゃんと感ずることが出来ず、気づかないうちに、ごく近く(「一間」=一・八一メートル)まで人影が近づいてくるのに気づけなかったというのである。或いは、火と人影は実は別々にあったのかも知れない。大きな松明(たいまつ)のような火を、見た瞬間に人間が手にもって掲げて持っている松明と誤認して刷り込んでしまったとすれば、別にごく近くまできていた人影様(よう)のものに気づかないとしても、さらに不自然ではない。しかもそれは人ではなく化生(けしょう)の「あやかし」であったのだから、なおさらである。

「あかし」「灯(あかし)」。怪火。

「岡」川の岸の意味で「陸(をか)」ともとれるが、ここは川岸近くの有意に高さのある「岡」ととった方が、怪奇のクライマックスとして効果的である。]

2021/01/20

奥州ばなし 四倉龍燈 / 龍燈のこと (二篇)

 

[やぶちゃん注:今回は、同じ怪火「龍燈」(日本各地に広く伝わるかなりメジャーな怪火現象。概ね、海中より出現し、海上に浮かんだ後、幾つもの火が連なったり、海岸の木などにとまるなどとされる。龍神の棲み家とされる海や河川の淵から現れることが多く、「龍神が灯す火」として「龍燈」と呼ばれ、時に神聖視もされていた。枚挙に暇がないが、「諸國里人談卷之三」がよかろうか。「橋立龍」「嗟跎龍燈」「野上龍燈」「光明寺龍燈」がある。また、「三州奇談續編卷之七 朝日の石玉」「三州奇談續編卷之八 唐島の異觀」も見れたい)を扱っているだけでなく、二篇目は一篇目に対する真葛の考証であるから、続けて示すこととする。]

 

     四倉龍燈

 

 橋本正左衞門、りうが崎の役人をつとめしころ、少々、上《かみ》の用金を𢌞《まは》し、旅行のこと有しに、東通りの道中にて四倉《よつくら》と云所に着《つき》、人步《にんぷ》[やぶちゃん注:古くは「にんぶ」。公役に徴用された人民。夫役(ぶやく)を課された人民。]を、つぎかへしに、滯《とどこほり》て、出《いで》ず。

「このあたり、物さわがしきこと有《あり》。」

と聞《きき》て、

「一寸も早く、此宿を行《ゆき》ぬけん。」

と、いらだちて催促せしに、日も暮《くれ》かゝりしを、

「いそぎの用事。」

と、いひたて、夜通しに人步を云《いひ》つけしかば、駕人足《かごにんそく》ばかり出《いで》たりしを、正左衞門、駕にて先へ行、養子八弥に目くばせして、用金入《いり》たる物を、さあらぬていにて殘し置、

「少しも早く、追付來《おひつききた》れ。」

と云付て立《たち》たりしに、八弥、其とし、十八才なりし、大事の荷物、あづかり、心づかひ、いふばかりなし。宿にては、

「物さわがしきをりふし、夜通しに荷𢌞《にまは》しは、しごく、あやうし。ひらに、一宿有《あり》て、明日早く、出立《しゆつたつ》あれかし。おそれて、人步も出がたし。」

といはれて、いよいよ、氣もまどへど、

「よし。途中にて、こと有《ある》とも、おめおめ、おぢ恐れて一宿しては、養父に云譯なし。」

と、心をはりて、荷物に腰をかけて、人步を、ひたすらに、せつきしに[やぶちゃん注:せっついたところが。]、四《よつ》頃[やぶちゃん注:午後十時頃。]に、漸《やうやう》出し馬方《むまかた》は、十二、三の小女《こをんな》兩人なりし。

『まさか。時は、足手まとひぞ。』

と思ふには、有《あり》かひもなく、心ぼそけれど、

「是非にをよばず。」[やぶちゃん注:ママ。]

引立行《ひつたてゆき》しに、

「その『物さわがしき』と云《いふ》は、今、行《ゆき》かゝる海邊。うしろは、黑岩《くろいは》そびへたる大山《おほやま》、前は大海《おほうみ》にて、人家たえたる中程の岩穴に、盜賊、兩三人、かくれゐて、晝だにも、壱人旅《ひとりたび》のものをとらへ、衣類・身の𢌞りをはぎとりて、骸(から)を海になげ入《いれ》しほどに、人通り絕《たえ》しをりにぞ有《あり》し。」

と、馬子《まご》共のかたるを聞《きき》て、いよいよ、心もこゝろならぬに、はるか遠き海中より、さしわたし壱尺餘りなる、火の玉の如き光、あらはれ、くらき夜なるに、足本《あしもと》の小貝《こがひ》まで、あらはに見えたり。

「はつ」

と、おどろき、

「あれは、何《なん》ぞ。」

と、馬子にとへば、

「こゝは龍燈(りゆうとう)のあがる所と申《まうし》ますから、大方、それでござりませう。」

と、こたへて、はじめて見し、ていなり。

 ことわりや、十二、三の小女《こむすめ》、いかで、深夜に、かゝる荒磯《あらいそ》をこすべき。

 八弥も、

『おそろし。』

とは思ひつれど、さらぬだに、三人の小女[やぶちゃん注:底本では「三」の右にママ注記。]、ふるふ、ふるふ、馬、引ゆくを、

『おぢさせじ。』

と、氣丈にかまへて、ひかせ行、

「盜人《ぬすびと》の住《すむ》と云《いふ》、岩穴ちかく成《なり》たらば、聞《きか》せよ。」

と、いひ置しに、小聲にて、

「此あたりぞ。」

と、つげしかば、

「何ものにもあれ、出來《いでき》たらば、たゞ一打《ひとうち》に切《きり》さげん。」

と、鍔(つば)もとを、くつろげて、心をくばり行過《ゆくすぐ》るに、小女、云《いふ》、

「こよひは、留守でござりませう。あかりが見えませぬ。」

と云しかども、

「留守と見せても、ふと、出くるや。」

と、油斷せざりしが、盜人の運や、つよかりけん、かしらも、きられざりき。

 海中の光は、三度《みたび》迄見たりしとぞ。

 八半過《やつはんすぎ》[やぶちゃん注:午前三時過ぎ。]に、先の宿にいたりしに、正左衞門は、用金、殘して、若き者に預置《あづけおき》、

「ものさわがし。」

と聞て、いねもやられず、門に立《たち》てまちゐしが、遠く來りし影を見るより、

「やれ、八弥、不難《ぶなん》にて來りしか。よしなき夜通しして、大苦《だいく》をまうけしぞや。」

とて、悅《よろこび》しとぞ。

 

[やぶちゃん注:この話、仙台での話ではないので注意されたい。

「四倉」旧福島県石城郡四倉町(よつくらまち)。現在は福島県いわき市四倉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は磐城平藩領かと思われる。

「橋本正左衞門」「養子八弥」ともに、最早、本書ではお馴染みの藩士とその養子である。

「りうが崎の役人」常陸国河内郡龍ヶ崎村、現在の茨城県龍ケ崎市にあった仙台藩常陸国龍ケ崎領の仙台藩龍ヶ崎陣屋の代官附きの役人であろう。初代藩主伊達政宗は、慶長一一(一六〇六)年三月に徳川幕府の代官から、常陸国河内郡(現在の龍ケ崎市と茨城県稲敷市の一部)内と信太郡(現在の茨城県稲敷郡)内の二十六ヶ村(一万石余り)を与えられて、仙台藩常陸国龍ケ崎領が生れた。現在の龍ケ崎市の大半が含まれ、龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地として、また、江戸との物流の中継地としたため、龍ケ崎は繁栄した。

「上《かみ》の用金を𢌞《まは》し」藩の御用金の輸送のようである。

「東通り」福島県東部の太平洋側沿岸の南北の広域地域を指す「浜通り」のことであろう。こうした呼び方は今はないと思うが、方位的には腑には落ちる。

「つぎかへしに」「継ぎ變しに」。そこまで雇った馬方人足と駕籠人足を次ぎ替えようとしたところ。

「夜通し」夜間運行。

「荷𢌞し」馬方による荷物運送。

「その『物さわがしき』と云は、今、行かゝる海邊。うしろは、黑岩そびへたる大山、前は大海にて」地図を見るに、四倉から北へ向かう岬を回り込むルート(この道中がその方向であったかどうかは判らぬが)は、このロケーションに「バッチ・グー!」(グーグル・マップ・データ航空写真)で、「蟹洗の磯」から「鷹ノ巣」という地名の岬に次いで「波立(はったち)海岸」ときた日にゃ、ここでなくてどうしますか!?! てぇんだ!

「骸(から)」言わずもがな、殺した旅人の遺骸の意。

「くらき夜なるに、足本《あしもと》の小貝《こがひ》まで、あらはに見えたり」さりげない描写だが、怪談のキモをしっかり押さえた大切なリアリズム・シーンである。

「かしらも、きられざりき」先に八弥は「一刀のもとに斬り下げてやる!」と生きこんでいたから、「かしら」は盗賊らの頭部の意である。

「先の宿」北上が正しいルートなら、時間と距離から見て、福島県双葉郡広野町辺りか。]

 

 

    龍燈のこと

 

 海の漁をするものゝはなしに、世に「龍燈」と云ふらす物、實は、火にあらず、至《いたう》て、こまかなる羽蟲《はむし》の、身に螢の如く光《ひかり》有《ある》ものゝ、多く集《あつま》れば、何となく、ほのほ[やぶちゃん注:「炎」。]の如く見なさるゝものなり。

 夏の末、秋にかゝりて、ことに、おほし。時有《ときあり》て、おほく、まとまりて、高き木のうら[やぶちゃん注:「末(うら)」で「うれ」とも言い、梢(こずえ)のこと。]、又は、堂の軒端などにかゝるを、火の如く見ゆる故、人、「龍燈」と名付しものなり。

 筑紫の「しらぬ火《ひ》」も、是なり。

 水上に生《うまる》る蟲にて、螢の類《たぐひ》なり。沖に舟をかけて、しづまりをれば、まぢかくも、つどひくれど、息、ふきかくれば、たちまち散《ちり》て、見えずなるなり。

 されば、「かならず、此日には、龍燈、あがる」といふ夜も、大風、吹《ふき》、又は、雨ふりなどすれば、「あがらず」と聞《きく》を、此夜、四倉にて見し光は、是とは異なり、いづれ、ふしぎの光にぞ有し。【解云、この說、極めて、よし。ためして見つるにはあらねど、ことわり、さあるべくおぼゆるかし。】

 

[やぶちゃん注:羽虫というのは正体説として全く現実的でないが(蛍以外に、そのような発光生態を持つ「昆虫」は本邦には棲息しない。下界の人工光の反射現象は問題外として、ある種の発光バクテリアを附着させた鳥や昆虫が飛翔して光る可能性は否定は出来ないが、そうした事例を実際に現認したことなければ、そうした科学的事実を立証したデータを見たこともない)、所謂、球電などの物理現象としては、理論上は成立する(実際に私自身は説明不能の火球現象を見たことはない)。ただ、真葛の言い添えている「沖に舟をかけて、しづまりをれば、まぢかくも、つどひくれど、息、ふきかくれば、たちまち散て、見えずなるなり」というのは、実態を正確に述べているとは言えないものの、ホタル類とと同じルシフェリン-ルシフェラーゼ反応(Luciferin-luciferase reaction)で発光するウミホタル(節足動物門甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目 Myodocopa ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii )やヤコウチュウ(アルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans )の発光様態と親和性を持つ内容ではある。最後に辛気臭い因果教訓を垂れたり、糞のような怪奇談種明かしもどきをして天狗になっている凡百の浮世草子怪談作家連なんぞに比べたら、真葛は遙かに優れた立派な民俗学者であるとさえ言える。]

2021/01/19

奥州ばなし 澤口忠大夫

 

     澤口忠大夫

 

 澤口忠大夫と云《いひ》し人も、大力なりし。【覺左衞門が養父なり。】勝《すぐれ》て氣丈もの、なりし。

 かの三十郞がのせられたる、細橫町《ほそよこちやう》の化物[やぶちゃん注:「砂三十郞」参照。]を、ためしたく思ひて有しとぞ。【十八才の時なり。】

 外《ほか》へ夜ばなしに行《ゆき》し歸りがけ、兩三人、つれも有《あり》しが、冬のことにて、八ツ時分なりし[やぶちゃん注:定時法で午前二時頃。]。雪後《せつご》、うす月の影、少し見ゆるに、細橫町を見通す所にいたりて、つれの人々にむかひ、

「我、多日、この橫町の化物を、ためしたしと思ひしが、時といひ、夜といひ、今夜を過《すぐ》すべからずと思はるれば、獨《ひとり》行て、見とゞけたし。失禮ながら、そなた方は、これより、かへり給はるべし。」

と、いとま、こひしかば、のぞみにまかせて、壱人《ひとり》やりつれど、つれの人も、物ゆかしければ、其所をさらで、遠見してゐたりしに、中頃までも、行つらん、とおもふころ、下にゐて、少し、ひまどりて、あゆみ出《いだ》せしが、又、下に、ゐたり。少し、間、有て、又、あゆみ出せしが、また、下に、ゐたり。

 さて、月影に、

「ひらり」

と、刀の光、見えし故、

「こと有つらん。」

と、足をはやめて、つれの人々、來りたり。

「いかにしつるぞ、下にゐがちなりしは。」

と問ヘば、忠大夫、曰《いはく》、

「さて、こよひのごとく、けちな目に逢しこと、なし。けさ、おろしたるがんぢきの緖の、かたしづゝ、一度に切《きれ》て、やうやう、つくろひて、はきしに【がんぢきは雪中はく、くつの名なり。】、爰にて、兩方、一度にきれし故、『つくろはん』と思《おもひ》しうち、肩にかゝりて、おすものゝ有しを、引はづして、なげ切《ぎり》にせしが、たしかに、そこの土橋の下へ入《いり》しと見たり。尋《たづね》くれよ。」

と云し故、人々、行て、みたれば、子犬ほどの大猫の、腹より、のんど迄きられて有しが、息はまだ絕《たえ》ざりしを、引出《ひきいだ》したり。

 忠大夫、頭を、おさへて、

「誰《だれ》ぞ、とゞめをさし給はれ。」

と云しを、つれの人は、うろたへて、忠大夫が手を、したゝかに、さしたりしを、忠大夫、刀を、とりかへして、とゞめさしたりし、とぞ。

 この時、きられし跡は、一生、手に殘りて有しとぞ。

「猫には、けがもせで、人に、あやめられし。」

と語《かたり》しとぞ。

 忠大夫は鐵砲の上手なり。【はき物の緖を切しは、まさしく、猫のせし、わざなるべし。いかにして切しものなるや、ふしぎのことなり。】

 

[やぶちゃん注:今まで言い添えてこなかったが、本篇「奥州ばなし」には、真葛自身の先行作品である「むかしばなし」という作品の巻五・巻六の内容と重複する話柄が多い(私は「奥州ばなし」が怪奇談に特化していて、非常に面白いと判断して先に電子化したのだが、これが終わったら、そちらの電子化注を始動するつもりである。但し、そちらは真葛が実母の思い出を妹のために書き残す目的で書き始めたものが、いろいろな聴き書きが増えて、かなりの分量になった随想であって、怪奇談集というわけではない)。この一篇もその一つで、実は、「むかしばなし」の同じ話(巻五にある)は、「柴田宵曲 妖異博物館 大猫」の注で電子化しており、柴田が平易な現代語に訳してもいるので、参照されたい。

「澤口忠大夫」上記の通りで、以下の養父とする「覺左衞門」もともに、或いは「むかしばなし」の中で人物がはっきりしてくるようになっている。さらに補足しておくと、「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」には、この人物が再登場し、やはり私が「むかしばなし」のそれを注で電子化してあるのである。そこに福原縫殿(ふくはらぬい)という人物を挙げて、この沢口忠太夫の弟子であったとするのである。しかして、この福原縫殿(安永六(一七七七)年~天保一二(一八四一)年)は実在した陸奥仙台藩士であったことが判っている。これを以って改めて、本篇の真葛の怪奇談が総て実録であることを、今一度、再認識して戴きたいのである。

「多日」長いこと。

「ためしたし」相手にしてみたい。

「今夜を過すべからずと思はるれば」今夜のこの時は、時刻といい、天候といい、物怪(あやかし)に逢(お)うて対峙するに絶好の折りであり、この期(ご)を逃してはなるまいぞと思うによって。

「物ゆかしければ」おっかなびっくりもあるが、何となく心惹かれ、ちょいと好奇心を掻き立てられたので。

「中頃までも、行つらんとおもふころ」遠くはないけれども、沢口のいる辺りから有意に距離をおいたところ(但し、夜目には沢口が現認出来る距離である)まで来たかと思って、振り返って見はるかしたところが。

「下にゐて」距離をおいているので、沢口が何をしているかは判然としないものの、明らかに道にしゃがんでおり。

「けさ、おろしたる」今朝、おろしたばかりの新品の。

「がんぢき」「樏」「欙」「橇」などと漢字表記し、一般には「かんじき」と呼ぶ、雪の上で作業したり、歩行する際、めり込みを防いだり、滑り止めのために装着した履物。標準サイズは長さ三十二・五センチメートル、幅二十二センチメートル、重さ七百四十グラム程で、藁靴やゴム長靴の下に履く。二本の木を組合せて輪を形作り、その接合部分に「ツメ」と称するアイゼン状の滑り止めを附す。大正前期まで使用され、冬季の作業には欠かせないものであった。

「かたしづゝ」片足ずつ。

「刀をとり、かへして」私は「自分の刀を、やおら、とって、返り斬りにして」の意でとる。誤って刺した男の刀とすると、勇猛な武士としては、ちょっと不審だからである。]

2021/01/17

奥州ばなし 砂三十郞

 

     砂三十郞

 

 鐵山公と申せし國主の御代には、「ちから持」といはれし人も、かれ是、有《あり》し中に、砂(いさご)三十郞と云《いひ》し士、男ぶりよく、大力にて、知惠うすく、みづから力にほこりて、大酒なりしが、酒に醉《ゑひ》て歸る時には、夜中、通りかゞり次第に、辻番所を引《ひき》かへすが、得手物にて、度々のことなりし。寺にいたりては、つき鐘をはづしてこまらせなど、大の徒人(いたづら《びと》)なり。

「細橫町《ほそよこちやう》といふ所に、あやしきものゝ出《いづ》る。」

と聞《きき》て、三十郞、行しが、餘り歸のおそき故、跡より、行《ゆき》てみたれば、塀(へい)かさ[やぶちゃん注:「塀笠」。]の上に、またがりて居たり。

「何故、そこにはのぼりし。」

と、聲かけしかば、

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ。」

と云て有しとぞ。

「とく、ばかされしぞ。」

とわらはれて、心付しとなり。

 其ころ、淸水左覺と云し人も、大男に大力なりしが、おとなしき人にて、さらにいたづらはせざりしが、三十郞と、常に力をあらそひて、たのしみしとぞ。

 左覺、三十郞にむかひ、

「その方、力自慢せらるれど、尻の力は、我にまさらじ。先《まづ》、こゝろみよ。」

とて、尻のわれめに、石をはさみて、三十郞にぬかせしに、拔《ぬき》かねて有しとぞ。

 左覺は、我《わが》おもふ所に、一身のちからを集《あつむ》ることを、得手《えて》たりし。

 三十郞、男だてに、いろいろの惡食《あくじき》をせしとぞ。

「何にても、食《くひ》たるものを、はかん。」

といふに、心にしたがひて、はかれしとぞ。

 是、一藝なり。昨日、食《くひ》たるこんにやくのさしみを、味噌とこんにやくと、別々に、はきてみせなど、したりき。

 さかやきをすらせる時、頭中《あたまじゆう》にちからをあつむれば、髮そり、をどりて、すられざりし。

 ある時、酒の肴《さかな》に、うなぎを、生《いき》ながら、食《くはん》とせしに、早く、手をくゞりて、腹中《はらなか》ヘ一はしりに入《いり》しとぞ。腹中にてうなぎのあばれしこと、やりにて、つかるゝ如く、さすがの三十郞も、大《おほい》によはり、鹽壱升を、なめつくしても死せず、にごり酒二升、たてのみに仕《し》たりしかば、是にて、うなぎ、しづまりしとぞ。

 この惡食にて、四、五日、腹の病《やまひ》にふしたりし。見廻《みまはり》に、左覺、來りて、やうす見合《みあはせ》、

『又々、なぶらん。』

と思ひて、

「いや、そこもとは、いろいろ、惡食せらるれども、犬の糞(くそ)は、くはれまじくや。」

と、とふ。三十郞、

「いや、是は、一向、氣なしなり。」

と、こたふれば、

「われらは、たて引《ひき》なれば、食《くふ》てみせやう。いざ、ゆきて、みられよ。」

と、すゝめて、うす月夜のことなりしが、かねて、麥こがしをねりて、きれいなる石の上に、糞のごとく、つきかけて置しを、

「むさ」

と、つかみて食《くひ》てみせしかば、三十郞、大あやまりなりしとぞ。【昨日當作饗《さくじつまさにつくれるあへ》、食物、既に腹内《はらうち》に入れば、半時にして消化せざること、なし。さるを、昨曰くらひしものを、一夜歷《ひとよへ》て、そがまゝに吐くこと、理《ことわり》のなき所なるべし。解[やぶちゃん注:曲亭馬琴の本名。]、云《いふ》。】

 度々、江戶づめもしたりしが、新橋の居酒屋へ入《いり》て、酒をのみてゐたりし内、はき物を、とられしとぞ。【此頃までは、みだりに履物をとらるゝことも、なかりしなり。この時より、江戶中、客のはき物を、しまつすること成《なり》し、とぞ。大あばれして、町人に仕置せしは、三十郞が手柄なり。】歸らんとおもひて見るに、はきものなければ、亭主をよびて、

「はきものゝしまつせぬこと、あしゝ。」

と、りくつ、云《いひ》かゝる。亭主は、

「しらぬ。」

よし、こたへしかば、大《おほい》にいかりて、

「此みせに有《ある》うちは、且那なり。『だんなの、はき物、しらぬ』といはゞ、よし。その過怠(かたい)に、酒代、はらはじ。」

と云《いふ》を、

「それは、いかにも、御無理なり。」

といふ時、醉《ゑひ》きげんのあばれぐさに、

「さあらば、食《くひ》しものは、吐《はき》て、かへすぞ。」

と、いひながら、かの得手ものゝ分《わけ》ばきに、酒は、ちろりに、肴は、鉢に、味噌は、猪口《ちよく》と、其《その》入《いり》たりし器々《うつはうつは》へ、吐《はき》ちらすを見て、

『あばれもの。』

と思ひ、かやうの時、とりしづむる爲、かねて、たのみおきし若きもの、五、六人、つれ來《きたり》、かゝらせしに、片手につかみて、人つぶてに、打《うち》し故、

「すは、こと有《あり》。」

とて、むらがる人を、なげのけ、なげのけ、屋敷をさしてもどる道筋、

「あばれもの、あばれもの。」

と聲かけしかば、何かはしらず、棒を持《もち》て出《いづ》る人あれば、とりかへして、なぐりのけ、

「はしごをもちて、とゞめん。」

とすれば、又、とり返して、むかふの人を、兩方へ、なぐり、なぐりて、おしとほる故、木戶を打《うち》しも、おしやぶり、むらがる人中《ひとなか》を、平地《ひらち》の如く、大わらはに成《なり》て、かへり、白晝に、はだしにて、御門《ごもん》へ入《いり》しかば、早々、仙臺へ、追《おひ》くだされたりき。

 さりながら、

「氣味よき、あばれやうなりし。」

と、人々、かたりき。

 三十郞、娘兩人、有しが、とりどり、美女、大力《だいりき》なりし。

 姊、七ツなりしころ、大根漬《つく》るに、

「おもはしき、おし石、なし。」

と云しを聞《きき》て、川近き家なりしかば、河原にいたり、

「是や、よからん。」

と思ふ石を、ひとり、とり持て、家に來り、

「此石が、よかろふ。」

と云しを見るに、子共《こども》の持《もつ》べしとも思はれぬ大石《だいせき》なりしかば、見る人、おどろき、

「其やうな大石を、子共はもたぬもの。」

と、しかりしかば、『ほめられん』と思ひし、心、たがひて、いそぎ、手をはなせしに、足の上に當《あたり》て、ゆび、壱本、ひしげし、とぞ。

 其石を、かたづけんとせしに、大男、兩人して、やうやう、うごかしたりき。

 外《ほか》に嫁しては、力は、かくして、さらに出《いだ》さゞりしが、ある年のくれに、年始酒《ねんしざけ》を作りて有しが、置所《おくところ》、あしかりしを、

「置直《おきなほ》すには、皆、とり分《わけ》て、せねばならぬ。」

と云し時、

「このまゝにて、もたるゝや、いなや、心みん。」

とて、手も𢌞《まは》らぬほどの大桶《おほをけ》に、酒の、なみなみと入《いり》たるを、かろがろと、外の所へもち行《ゆき》て、すゑたりし、とぞ。

 次の娘は、八才より、江戸の御殿につとめて有しが、誰《たれ》も力の有《ある》とはしらざりしに、御風入《おんかざいれ》有しころ、俄《にはか》に夕立して、雨の落かゝりたれば、外に出して有し長持を、片手打《かたてうち》に、上へなげ入《いれ》たりしを見て、

「力、有《あり》。」

とは、人、しりたりし。葉賀皆人《はがみなと》といふ人の妻と成《なり》て終りし。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年実業之日本社刊の熊田葦城(くまだいじょう:文筆家で歴史学者。報知社(現在の報知新聞社)の編集局長などを務めた。徳富蘇峰と親交し、彼と同じくジャーナリストとして歴史に関わる著作物を多く出版した)著「少女美談」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に、本篇の後半部がやや表現に手を加えた形で載っている。流石に、この標題の本に「犬の糞云々」の話はカットだろう。なお、「葉賀皆人」の読みは、そのルビに従った。

「鐵山公と申せし國主の御代」「白わし」で既出既注であるが、再掲すると、仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。

「砂三十郞」不詳。

「辻番所を引《ひき》かへす」「引きかへす」というのは、「引っ繰り返す」で、無体な乱暴狼藉を働くということであろう。

「細橫町」現在の仙台市中心部を南北に走る幹線道路の一つである晩翠通(ばんすいどおり)の旧称。同ウィキによれば、『かつてこの通りの大部分は細横丁(ほそよこちょう)と呼ばれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ」塀笠に跨っている訳だから、化かされて、塀を生き馬と錯覚させられている(笠は鬣(たてがみ)で腑に落ちる)為体(ていたらく)なのである。

「淸水左覺」取り敢えず「しみづさかく」と読んでおく。

「心にしたがひて、はかれしとぞ」南方熊楠と同んなじだ!!!

「たてのみ」立て続けに休まず一気に呑むことことであろう。

「いや、是は、一向、氣なしなり。」「さても、いやいや、それは、いくら何でも、全く食う気にはならんよ。」。

「たて引《びき》なれば」「立て引く」は「達て引く」などとも書き、「義理を立て通す・意地を張り合う」の意であるから、ここは「私が、かくも言い出したからには意地がある。食うて見せよう!」と言ったものであろう。

「麥こがし」「麦焦がし」「麦粉菓子」とも書く。大麦や裸麦を炒って、挽き粉末にしたもの。関西では「はったい粉」「炒り粉」とも呼ぶ。砂糖を混ぜて粉末のまま食べたり。熱湯や牛乳を注いで練って食べたりする。和菓子の落雁の材料でもある。安土桃山時代から、湯水に点じて、「こがし」 (今日の香煎(こうせん)に同じ)として好まれた。

「ちろり」酒を燗するための容器で、酒器の一種。注(つ)ぎ口と取っ手の附いた筒形で、下方がやや細くなっている。銀・銅・黄銅・錫などの金属でつくられているが、一般には錫製が多い。容量は一合前後入るものが普通。「ちろり」の語源は不明だが、中国にこれに似た酒器があることから、中国から渡来したものと考えられている。江戸時代によく使用された。

「猪口」「ゐぐち」「ちよこ(ちょこ)」とも読める。日本酒を飲む際に用いる陶製の小さな器。上が開き、下のすぼまった小形の盃(さかづき)。江戸時代以降に用いられた陶製の杯について称する。

「人つぶてに」拳固(げんこ)で。

「平地の如く」何の障害物もないかのように。

「白晝に、はだしにて、御門へ入しかば」この酒を飲んだ果ての大立ち回り、実は真っ昼間だったわけだ! 御門は仙台藩下屋敷であろう。品川区東大井(鮫洲)にあった(グーグル・マップ・データ)。

「ひしげし」潰れた。拉(ひしゃ)げた。

「御風入」夏の土用に、虫害や黴(かび)を防ぐために、屋敷全体に風を入れたり、仕舞ってある物品などを、庭や座敷に出して陰干しすることを指す。

「片手打に」片手だけでヒョイと取り上げて。

、上へなげ入《いれ》たりしを見て、

「葉賀皆人」不詳。]

2021/01/16

奥州ばなし 上遠野伊豆

 

     上遠野伊豆

 

 上遠野伊豆《かどのいづ》と云し人、明和・安永[やぶちゃん注:一七六四年~一七八一年。]の頃、つとめし人なり。【祿八百石。】武藝に達せしうへ、分《わき》て、工夫の手裏劍、妙なりし。針を一本、中指の兩わきにはさみて、なげいだすに、その當《あたり》、心にしたがはずといふこと、なし。元來、この針の工夫は、

「敵(てき)に逢《あひ》し時、兩眼をつぶしてかゝれば、いかなる大敵にても、おそるゝにたらず。」

と、思ひつきしことゝぞ。

 常に針を兩の鬢(びん)に、四本づゝ、八本、かくしさして置《おき》しとぞ。【此世の頃までは、いまだ、こわき敵も有《あり》つらんによりて、かくは思《おもひ》よりつらん。今の世人の弱きこと、たとへに取《とり》がたし。】

 先々《さきざき》國主の御このみにて、うたせられしに、御杉戶の繪に、櫻の下に駒の立《たち》たる形、有《あり》しを、

「四ツ足の爪を、うて。」

と有しかば、二度に打《うち》しが、少しも、たがはざりしとぞ。

 芝御殿類燒の前は、その跡、たしかに有し。

 昔、富士の御狩《おんかり》には、仁田の四郞、猪にのりし、といふより、工夫にて、御山追《おんやまおひ》[やぶちゃん注:藩主による鳥獣の山狩り。]の度每《たびごと》に、いつも、猪に乘し、と云《いひ》傳ふ。

 正左衞門繼母(けいぼ)は、上遠野家より來りし人なり。【この伊豆には[やぶちゃん注:にあっては、の意。]、また、甥なり。】この人のはなしに、

「伊豆は、狐をつかひしならん、あやしきこと、有《あり》。」

と云しとぞ。

 手裏劍と、猪にのるとの工夫など、あやうきことなり。さるを、

「なるや、ならずや。」

といふことを、とひあはするもの有《あり》て、

「思立《おもひたち》しことなり。」

と語《かたり》しとぞ。されば、正左衞門も、飯綱(いづな)の法、習はんとは、せしなるべし。 

 八弥、若年の頃迄は、伊豆も老年にてながらへ有しかば、夜ばなしなどには、猪にのることを、常に語りて有しとぞ。

「逃てゆく猪にはのられず、手追《ておひ》[やぶちゃん注:「手負ひ」。]に成《なり》て、人をすくはん[やぶちゃん注:「掬(すく)はん」であろう。鼻と牙で下から掬うように襲うことであろう。]とむかひ來る時、人の本《もと》[やぶちゃん注:直前。]にいたりては、少し、ためらふものなり。その時、さかさまに、とびのるなり。猪は、肩骨、ひろく、尻のほそきもの故、しり尾にすがりて、下腹にあしをからみてをれば、いかなる藪中《やぶなか》をくゞるとても、さはらぬものなり[やぶちゃん注:背にある自分のことを襲うことは出来ぬものなのである。]。扨(さて)、おもふまゝ、くるはせて、少し弱りめに成たる時、足場よろしき所にて、わきざしをぬきて、しりの穴に、さし通し、下腹の皮をさけば、けして[やぶちゃん注:決して。]、仕とめぬことなし。」

と云しとなり。

「手利劍は[やぶちゃん注:ママ。]、一代切《いちだいぎり》にて、習《ならふ》人、なかりき。尤(もつとも)人のならはんといふこと有ても、元來、人にをしへられしことならねば、何と、つたふべきこともなし。たゞ、氣根(きこん)よく[やぶちゃん注:根気よく。]、二本の針を手につけてうちしに、おのづから得しわざなり。」

と答しとぞ。八弥にも、

「とせよ、かくせよ。」

と、其はじめをつたヘられし故、少しはまねびしが、終《つひ》に、なし得ざりし、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「上遠野伊豆」上遠野広秀(かどのひろひで 生没年不詳)は江戸中期の兵法家で剣客。願立(がんりゅう)流剣術・上遠野(かどの)流手裏剣術の使い手で、特に手裏剣の名人として「手裏剣の上遠野」と称された。伊豆守は通称。参照したウィキの「上遠野広秀」によれば、『上遠野氏は旧姓』は『小野氏』で、応永一一(一四〇四)年に『磐城国菊田庄(菊多郡、現いわき市)上遠野に住んだことから』、『この地名を名乗るようになった。第』十『代上遠野高秀(伊豆守)が伊達政宗に招かれて家臣となり』八百四十三『石を扶持された。広秀は明和、安永』『の頃の人で、仙台藩で』三『千石取りとなっていた。家伝の願立』流剣術(正しくは単に「願立剣術」と呼ぶ)『のほか、独自に手裏剣術を工夫した』。『広秀が手裏剣の技を工夫したのは、相手の眼を潰してしまえば』、『いかなる大敵でも恐るるに足りない、という考えからであったといわれる。広秀はいつも両の鬢に』四『本ずつ、計』八『本の針を差しており、この針を指の脇にはさんで投げると』、『百発百中といわれた。広秀は「手裏剣の技は一代限りのもので、教えてもらって上達するものではない。根気よく自分で工夫して針』二『本打つことを習得すれば、自然に上手になる。」と語ったという』。『あるとき、仙台藩』七『代当主、伊達重村』(在職は宝暦六年(一七五六)年七月から寛政二(一七九〇)年(隠居)まで)『が江戸・芝の上屋敷で、御杉戸の絵に、桜の下に馬が立っている図を見て、この馬の足の爪に針を打ってみよ、と命じたところ』、二『本打って』二『本とも』、『命中した。このときの針の痕は、後に上屋敷が焼失するまで残っていたという』。『また』、『治承・寿永の乱(源平合戦)の昔、仁田四郎が富士の巻狩りで猪の背に乗ったという逸話を聞き、広秀も山狩りのたびに猪を見つけて飛び乗ることを得意とした。広秀は、猪の背に後ろ向きに乗り、尻の穴に脇差を刺し通せば』、『必ず』、『仕留めることができる、といったという』。『また、広秀の打針は、後に仙台侯の息女が水戸藩へ輿入れした際に笄』(こうがい)『として伝わり、これを水戸弘道館の剣術師範をしていた海保帆平(北辰一刀流)が工夫し、安中藩師範の根岸松齢に伝えたのが根岸流手裏剣術の始まりである』とある、大変な達人なのである。真葛の言っていることは、ここに書かれている事実と殆んど違わない。凄いことだ。

「芝御殿類燒」これは、恐らく明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に発生した大「明和の大火」であろう。真葛は当時十歳で、江戸にいた。父平助は仙台藩藩医として、特別に築地に邸宅を構えており、父の付き添いで上屋敷に入ることもあったに違いない。ここは、直接過去の「き」が用いられているからには、これ以前に、彼女自身、その上遠野広秀が杉戸の馬の蹄に放ち打った針の痕を実見したことを意味しているのである。なお、この「明和の大火」の庶民の惨状が僅か十歳の彼女に強く刻印され、彼女をして後に救民思想を持つに至る引き金となった回禄だったのである。

「仁田の四郞」仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年は『仁田伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で』、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵に加わっている。頼朝からの信任は厚く』、文治三(一一八七)年一月、『忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ』、文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に『おいても戦功を挙げ』ている。建久四(一一九三)年五月二十八日に発生した「曾我兄弟の仇討ち」の際には、『兄の曾我祐成を討ち取』っている。『頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父となっている』。ところが、建仁三(一二〇三)年九月二日、頼家が病いのために危篤状態に陥って「比企能員の変」が『起こると、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員を謀殺した』。五日、『頼家が回復すると、逆に頼家から』、『時政討伐の命令を受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく』、『時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に』、逆に『謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中』、『加藤景廉に殺害され』てしまった。享年三十七であった。頼朝の代に『行われた富士の巻狩りにて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされて』おり、頼家の代では、『富士の狩り場へ行った際、頼家の命』を受けて『静岡県富士宮市の人穴を探索し』てもいる(以上は彼のウィキに拠った)。

「橋本正左衞門」「めいしん」「狐つかひ」に登場した、間接的乍ら、真葛の大事な情報元である人物。

「なるや、ならずや。」「修練を積めば、上達するものか? そうでないか?」。

「思立《おもひたち》しことなり」ここは少しウィキで言っていることと相違しているように見える。則ち、「ある時、思い立って始めた」ことである、と言っているのである。しかし、これは必ずしも違っているとは言えない。「ある時、自分には、その特異な能力があると、気が付いたから、鍛錬を始めた」という意味でとれば、納得がゆくのである。しかし、正左衛門はそういう意味ではなく、鍛錬すれば、誰でも、その能力を引き出せる、という意味に勝手に解釈したと理解出来るからである。だから「飯綱の法」を習おうとした。しかしそれは、小姓の軽率な使用によって和尚本人が封印してしまう結果となり、正左衛門は習得出来なかった。しかしそれも考えてみれば、「心定まらぬ人」が使えば、途轍もなく危険なものであったという点で、このケースと親和性があると言える。そうして、上遠野伊豆の手裏剣術に生来の素質無き者には習得不能であることは、最後の八弥の事実が証明しているのである。

「正左衞門も、飯綱(いづな)の法習はんとは、せしなるべし」「狐つかひ」を参照されたい。

「八弥」橋本正左衛門の養子。「めいしん」の本文を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのもそれに準ずる。]

2021/01/15

奥州ばなし 狐つかひ

 

     狐つかひ

 

 淸安寺といふ寺の和尙は、「狐つかひ」にて有しとぞ。

 橋本正左衞門、ふと出會《であひ》てより、懇意と成《なり》て、をりをり、夜ばなしにゆきしに、ある夜(よ)、五、六人より合《あひ》て、はなしゐたりしに、和尙の曰、

「御慰に、芝居を御目にかくベし。」

と云しが、たちまち、芝居座敷の躰《てい》とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝ拍子、色々の高名の役者どものいでゝはたらくてい、正身《しやうしん》のかぶきに、いさゝかたがふこと、なし。

 客は思《おもひ》よらず、おもしろきこと、かぎりなく、居合《ゐあはせ》し人々、大に感じたりき。

 正左衞門は、例のふしぎを好《すく/このむ》心から、分《わき》て悅《よろこび》、それより又、

『習《ならひ》たし。』

と思《おもふ》心おこりて、しきりに行《ゆき》とぶらひしを、和尙、其内心をさとりて、

「そなたには、飯綱(いづな)の法、習たしと思はるゝや。さあらば、先《まづ》試《こころみ》に、三度《みたび》、ためし申べし。明晚より、三夜つゞけて、來られよ。これをこらへつゞくるならば、傳授せん。」

と、ほつ言《げん》[やぶちゃん注:「發言」。]せしを、正左衞門、とび立《たつ》ばかり悅て、一禮のべ、

「いかなることにても、たへしのぎて、その飯綱の法ならはゞや。」

と、いさみくて、翌日、暮るゝをまちて、行ければ、先、一間にこめて、壱人《ひとり》置《おき》、和尙、出むかひて、

「この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても、聲をあげて、ゆるしをこはれよ。」

と云て、入《いり》たり。

 ほどなく、つらつらと、鼠の、いくらともなく出來《いでき》て、ひざに上り、袖に入、襟(ゑり)をわたりなどするは、いと、うるさく、迷惑なれど、

『誠のものにはあらじ。よし、くはれても、疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])はつくまじ。』

と、心をすゑて、こらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく、皆、なくなりたれば、和尙、出《いで》て、

「いや。御氣丈なることなり。」

と挨拶して、

「明晚、來られよ。」

とて、かへしやりしとぞ。

 あくる晚もゆきしに、前夜の如く、壱人、居《をる》と、此度《このたび》は、蛇のせめなり。

 大小の蛇、いくらともなく、はひ出《いで》て、袖に入、襟にまとひ、わるくさきこと[やぶちゃん注:「惡臭きこと」。腥いのである。]、たへがたかりしを、

『是も、にせ物。』

と、おもふばかりに、こらへとほして有しとぞ。

「いざ、明晚をだに過しなば、傳授を得ん。」

と、心悅て、翌晚、行しに、壱人、有て、待ども、待ども、何も出《いで》こず。

 やゝ退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別《わかれ》し實母の、末期《まつご》に着たりし衣類のまゝ、眼、引《ひき》つけ[やぶちゃん注:釣り上がり。]、小鼻、おち、口びる、かわきちゞみ[やぶちゃん注:「乾き縮み」。ミイラ化している雰囲気である。]、齒、出《いで》て、よわりはてたる顏色《がんしよく》、容貌、髮の、みだれ、そゝけたる[やぶちゃん注:解(ほつ)れて乱れている。]まで、落命の時分、身にしみて、今もわすれがたきに、少しも、たがはぬさまして、

「ふはふは」

と、あゆみ出《いで》、たゞ、むかひて座したるは、鼠・蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみ、たとへがたく、すでに詞《ことば》をかけんとするてい、身に、しみじみと、心わるく、こらへかねて、

「眞平御免被ㇾ下べし。」[やぶちゃん注:「まつぴらごめんくださるべし」。]

と、聲を上《あげ》しかば、母と見えしは、和尙にて、笑《ゑみ》、座して有しとぞ。

 正左衞門、面目(めんぼく)なさに、それより後、二度、ゆかざりしとぞ。

 

[やぶちゃん注:実は、本作は既に一度、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で、電子化してある。但し、今回はそれを元とせず、零からやり直した。なお、これは恐らく正左衛門の作話で(実録奇譚である本書の性質から、私は真葛の創作とは全く思わない)、その元は、かの唐代伝奇の名作、中唐の文人李復言の撰になる「杜子春傳」であろう。リンク先は私の作成した原文で、「杜子春傳」やぶちゃん版訓読「杜子春傳」やぶちゃん版語註「杜子春傳」やぶちゃん訳、及び、私の芥川龍之介「杜子春」へのリンクも完備させてある。但し、柴田はそれ以外に、『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる』とも記す。その「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)も「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で電子化しておいたので、比較されたい。実際には、私の電子テクストには、この「飯綱の法」に纏わる怪奇談や民俗学上の言及が十件以上ある。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」や、「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」も読まれたい。

「淸安寺」不詳。この話、ロケーションが記されていないので判らない。本「奥州ばなし」は概ね仙台及び奥州を舞台とするものの、江戸と関わる話柄もあるからである。敢えて、陸奥の比較的、仙台に近いところ(と言っても、仙台からは直線でも九十キロメートル以上ある)を調べると、山形県西置賜郡小国町白子沢にある曹洞宗清安寺(「曹洞禅ナビ」のこちらを参照されたい)はあるが、ここかどうかは不明である。青森県弘前にも曹洞宗の同名の寺がある。私が禅宗に拘ったのは、「和尙」を「おしやう(おしょう)」という呼称とするならば、狭義には臨済宗や曹洞宗などの禅宗系或いは浄土宗系で用いられるからである。

「狐つかひ」後の「飯綱(いづな)」使いに同じい。

「橋本正左衞門」先の秘術をテーマとした「めいしん」にも主人公として登場し、そこで真葛は『正左衞門は、近親の内、伊賀三弟《さんてい》に八弥《はちや》と云《いふ》人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語《かたり》しなり』と割注している通り、この手の妖術が大好きだったこと、真葛の怪奇譚蒐集の有力な間接的情報屋であったことが判然とする。

「飯綱(いづな)の法」先の幾つかの怪奇談のリンク先で注してあるので、そちら参照されたいが、簡単に言っておくと、管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ)と呼ばれる霊的小動物(狐とあるが、狐様の場合もあれば、全く形容し難いニョロニョロ系の身体の場合もある)を使役して、託宣・占い・呪(のろ)いなど、さまざまな法術を行った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術で、「飯綱使い」の多くは修験系の男であるケースが殆んどで、江戸時代の実話で、れっきとした僧侶が駆使するというケースは、比較的、レアと言えよう。]

2021/01/14

奥州ばなし めいしん

 

     めいしん

 

 「めいしん」といふ法《ほふ》、有《あり》とぞ。

 是は、出家の災難に逢し時、身をのがるゝ爲の心がけにして、一生一度とおもふ時、おこなふ法なり。

 ある和尙、「この法をしりたる」といふことを、橋本正左衞門といふ人、聞《きき》つけて、若きほどのことなりしが、奇なることをこのめる本性なりしかば、【正左衞門は、近親の内、伊賀三弟《さんてい》に八弥《はちや》と云《いふ》人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語《かたり》しなり。】一しきりに習得《ならひえ》たく思《おもひ》て、和尙にしたしみて、常に行《ゆき》つゝ、夜ばなしのゝち、とまりなどせしことも多かりき。ことにふれつゝ、

「其法を傳へ給はらん。」

と、こひけり。

 和尙の曰《いはく》、

「やすきことながら、今、少し、心さだまらば、つたへ申べし。」

とて、ゆるさず。

 其寺に、幼年よりつとめし小性《こしやう》の有しが、是も正左衞門に先立《さきだち》て、

「我、ならはゞや。」

と、いどむ心有しが、正左衞門、其執心によりて、和尙にしたしむを、

『もし、先《せん/さき》こされなば、くやしからん。』

と思《おもひ》て、しきりに、

「法を習はん。」

と、ねがひしかば、和尙も、もだしがたくや有けん、

「さほど深切に願《ねがふ》ことならば、つたふべし。さりながら、正左衞門も、あの如く願《ねがひ》をるを、『そこにばかり傳へし』と聞かば、うらむべし。必《かならず》、他言無用なり。」

とて、ひそかに傳へたりしとぞ。

 正左衞門は、例の如く、夜ばなしして、とまりゐしに、十月末のことなりしが、宵はさしもなくて、夜(よ)の間に、雪の降つもりしを、音なければ、誰《たれ》もしらざりしを、丑(うし)みつともおぼゆる頃、

「ばつたり」

と、大きなる音のせしかば、和尙はもちろん、正左衞門も、とびおきて行《ゆき》てみしに、和尙のはだつきゞぬを、晝、洗《あらひ》て、棹に懸て置たりしを、宵には雪のふらざりし故、とりも入《いれ》ざりしに、おほく雪のかゝりしかば、物有《ものあり》げに見えしを、かの小性、目もろくにさめずに小用たしにおきて、ふと、見つけ、

『大入道《おほにふだう》の立《たち》て有《あり》。』

と思ひて、

『是や、一世一度の難ならん。』

と、このほどならひし法をかけしに、あたらしき木綿肌着をかけたるが、棹共《とも》に、切物《きれもの》にて、きりたるごとく、眞二《まつふた》つにさけたる音にて、有《あり》しとぞ。

 小性は、おもてもあげず、ひれふしながら、

「眞平御めん被ㇾ下《まつぴらごめんくだされ》。」

と、わびゐたり。

 和尙、大《おほい》に立腹して、

「それみよ。『心の定まらぬうちは、ゆるしがたし』といひしは、爰《ここ》ぞや。にくきやつかな。多年、目かけて召仕《めしつかひ》しも、是切《これきり》ぞ。明朝、早々、立《たち》され。」

と暇《いとま》申渡し、正左衞門にむかひ、

「そのもとには、たゞ愚僧が法をゝしむとのみ、思はれつらんが、あれぞ、手本《てほん》なる。心定まらぬ人にゆるせば、けが有《ある》のみならず、法もかろく成行《なりゆく》なり。かならず、うらみ給《たまふ》べからず。是は、幼年より召つかひしもの、他事なく願《ねがふ》故、『心もとなし』とは思ひつれど、ゆるしたりき。かくの如くの、けが、有《ある》ことにては、我さへ、こりて、さらに人には、つたへがたし。」

と云《いひ》しとぞ。

 其小性には、二度おこなひても、しるしなき、「けし法《ほふ》」をかけて、早々、追出《おひいだ》されしとぞ。

 正左衞門も、

『實《げ/まこと》に、おそろし。』

と、思《おもひ》て、ならはざりし。

「法といふものは、不思議のものぞ。たゞ、となへごとせしばかりにて、棹と、ひとへぎぬのさけたるは、あやしとも、あやしかりき。」

と、常に語《かたり》し、とぞ。

 

[やぶちゃん注:本篇では「法」は「はふ」ではなく、総てを「ほふ」で読むこととした。通常一般の「法」の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語に於いては有意に「はふ」と読むからである。ここは密法中の秘中の秘術なればこそ、かく読んでおいた。

「めいしん」「めいしんといふ法」中国由来の「禅密気功」なるものが現存し、それを伝えるサークルも実際にあり、そこに「明心法」なるハイ・レベルの気功法があり、ある当該サークルの解説には、遠隔を含む「以心伝心」が可能となるように「三位一体」の精神状態に貫入し、「心」を悟ることが出来る気功法という解説がなされてあったが、それと同じとも思われない。但し、「めいしん」に当てる漢字としては腑には落ちるし、小姓(しばしば「小性」とも書く)の成した、その鎌鼬的斬法にもマッチするようには思われる。

「橋本正左衞門」不詳。

「正左衞門は、近親の内、伊賀三弟に八弥と云人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語しなり」この真葛の割注は、「私の近親のうちに伊賀三兄弟[やぶちゃん注:不詳。]がおり、その内の八弥[やぶちゃん注:不詳。]と通称する人が正左衛門を養子に迎えたので、この正左衛門直話のこの話は、私は、その八弥から直接に又聴きして書き取ったものである」の意であると採る(「弥」の通称漢字は、当時の通行作品や地下文書などでも、「彌」ではなく「弥」と表記されることが多いので、敢えて正字にはしなかった)。真葛の怪奇談集が非常に優れている点は、徹頭徹尾、実話譚であることを、本篇内の表現でも、また、こうしたわざわざ添えた割注でも、注意深く、しかもわざとらしくなく、ごく自然に配慮されて叙述してある点にある。これは、糞のように見え見えな、確信犯の創作怪奇談が蔓延していた(現代のそれも九十九%がそうだ。だから、少しも怖くない)当時にあっても、特異的に真実味を細かな部分にまで施してあることにある。これは、近世怪奇談集の中でも飛び抜けていると言ってよく、しかもそれが数少ない女性作家によって成されている点でも、もっと広く知られてよいと私は思っている。

「切物」名物の太刀・刀。

「となへごとせしばかりにて、棹と、ひとへぎぬのさけたるは、あやしとも、あやしかりき」竿と下着は雪の中で氷に近い温度まで下がっているとはいえ、有意に降り積もって大入道の影に見えるほどになった柔らかな雪の被ったそれを、例えば大太刀であっても、一太刀で、ばらりずん、と成すことは、当時の人を斬ったこともない多くの武士にも到底、出来まいという気がする。「めいしんの法」、恐るべし!]

2021/01/12

奥州ばなし 猫にとられし盜人

 

     猫にとられし盜人

 

 奧の正ほう寺、消失のこと有《あり》しのち、諸國の末寺へ、納物《をさめもの》の事、沙汰有しに、江戶なる德安寺は末寺につきて、半鐘と雙盤(そうばん)をわりつけられしに、其品、出來《しゆつたい》せしかば、和尙、

「持參して、奧へ旅立《たびだつ》。」

とて、曉天に立《たち》て、千手《せんじゆ》[やぶちゃん注:千住のことであろう。]に小休《しやうきふ》して有し時、

「希代の珍事、出來《しゆつたい》せし。」

とて、寺より、飛脚、追付《おひつき》たり。

 その故は、

「和尙、立後《たちしのち》、人、少《すくな》なるを見込《みこみ》て、盜人《ぬすびと》の、『内をうかゞふ』とて、障子の紙を、舌にてぬらし、穴を明《あけ》んとせしを、かねがね、和尙のひぞうせし猫の、其所《そのところ》にふしゐたりしが、舌の先へ、とび付《つき》て、かたくゝはへて、はなさず。盜人は、思ひよらぬこと故、もだへ、くるしみ、障子ごしに、猫をつよくひきしかば、いよいよ、猫も强く食《くひ》たりしほどに、人々、音を聞《きき》つけて、見しに、猫もころされしが、盜人も死《しし》たりき。」

と告《つげ》たりける。

 和尙、つぶさに、ことのよしを聞て、猫を哀《あはれ》とかんじ、又々、もとの寺に歸りて、猫と盜人のあとをとぶらひ、しるしの石をたてゝのち、奧には下りしとぞ。

 此僧、最上《もがみ》、出生《しゆつしやう》なり。幼年より、出家のこゝろざし、深切なりしが、勝《すぐれ》たる美僧にて有しかば、十八、九のころ、娘子共(むすめごども)のしたふこと、さわがし[やぶちゃん注:ママ。]かりしを、自《おのづと》うれひて、廿一、二の頃なりしに、寺に、談義有て、人、多くつどひし時、諸人のみる前にて、羅切《らせつ》したりき。

 生國《しやうごく》のもの共《ども》は、感じ、たふとみし、とぞ。

 最上より來りし、はしたばゝの、ことのよしをよくしりて、語《かたり》し、まにまに、しるす。

 出家の道に忠《ちゆう》有し故、手ならせし猫も、信《しん》有て、主《しゆ》の爲に命をすてしなるべし。

 

[やぶちゃん注:「正ほう寺」奥州にこの名の寺は幾つかあるが、恐らくは最も知られた、東北地方で最初に開創された曹洞宗古刹で仙台藩主伊達氏の帰依を受けていた、岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺にある大梅拈華山圓通正法寺(しょうぼうじ)のことではないかと思われる。南北朝時代の貞和四(一三四八)年に無底良韶禪師によって開山された寺である。

「消失」回禄による焼失。

「德安寺」不詳。この名の寺は現存せず、「江戸名所図会」にも載らない。名前が違う可能性が高いが、所在地の片鱗も真葛は記していないのを恨みとする。なお、先の正法寺の公式サイトによれば、現在も七十三ヶ寺の末寺を有するとし、宗門において特別の格式を保持する古刹として広く知られているとある。正法寺に直接聞けば、答えは出るかも知れぬが、そこまでやる気はない。悪しからず。

「雙盤(そうばん)」底本表記は『双盤』。仏具としての金属製の打楽器。台に伏せ置きに据えるか、木製の吊り台に吊って槌状の木製の桴(ばち)で打ち鳴らすもの。「鉦」「鉦鼓」とも呼ぶ。「双盤」の名称は、本来、二つ一組で用いたことに由来するものの、現在は一つだけで用いられることが多いようである(参考にしたサイト「浅野太鼓楽器店」のこちらで画像が見られる)。

「最上」山形県最上郡附近(グーグル・マップ・データ)。

「羅切《らせつ》」男根(陰茎)を切除すること(睾丸も含めて切除する場合もかく呼ぶ)。本邦の仏教では修行の妨げになるという意味で、インドの悪魔「マーラ」に由来する「魔羅」という隠語で男性器を呼んだことから、その「魔羅」を「切断」するという意で「羅切」と呼ばれるようになった、とウィキの「羅切」にある。]

奥州ばなし てんま町

 

     てんま町

 

 仙臺新てんま町といふ所に、小鳥をかひ、鉢植《はちうゑ》のつぎ木などして、世をわたる人、有し。文化十年[やぶちゃん注:一八一三年。]の頃、四十ばかりと見えたり。何方《いづかた》の生《うまれ》といふことを、しらず。武藝は何にてもたづさはらぬこと、なし。分《わけ》て、

「馬をよくせし。」

とて、

「のりて見たし。」と、常に云しとぞ。【武藝にたづさはりしをもて思へば、武士の末なるべし。】

 はじめは、妻をも具したりしが、久々《ひさびさ》、病氣にて、終に、むなしくなりしを、

「人の生死《しやうじ》は天より給はるもの。」

とて、さらに、藥用も、くはへず、貧、極りて、食事さへ、心にまかせずして終《をは》らせしが、いづくよりとり出《いだし》けん、金三兩を布施にして、院號をこひうけしを、近邊の人、とがめていはく、

「三兩の金、たくはへあらば、妻女、存世中、藥用をもくはへ、食事をもこゝろよくさせて、看病せよかし。死《しし》て後、名のみ高くつきたりとて、何の益かあらん。」

と、もどき云《いふ》[やぶちゃん注:逆らって非難して言う。]を、此人、かしらをふりて、

「いや、さにあらず。虎は死て皮をのこし、人は死て名を殘《のこす》。藥用・食事についえをかけしとて、死《しす》べき命の、とゞまること、なし。是は、上なき、あつかひなり。」

と、そこ淸く思ひとりしていにて、いさゝかも悔《くい》の色なかりしとぞ。

 獨身《ひとりみ》となりては、一衣《いちえ》の外、たくはへなく、冬になれば、家の内、一面に土穴《つちのあな》をふかくほり、あたりに段をつけて、鉢植をならべ、其中に琴をひきてたのしみ、寒をしのぎゐしとぞ。

 詩歌俳諧などのたぐひ、遊藝、すベて、勝《すぐれ》たり。「いやしからぬ人の、なり下りたるならん」と察しられたり。【記者の思へらく、かゝる人には、添《そひ》たくなし。】

 

[やぶちゃん注:「仙臺新てんま町」現在の宮城県仙台市青葉区中央(仙台駅及びその西方)附近(グーグル・マップ・データ)の旧町名。公園(ドットした)名やビル名に今も残る。

「そこ淸く思ひとりしていにて」「底淸く思ひ取りし體(てい)にて」。心中深く清貧の思いを強く守っている様子で。

「記者の思へらく、かゝる人には、添たくなし」真葛の半生の経験や個人の女としての痛烈な述懐が、ガツンとくる。]

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