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カテゴリー「芥川龍之介 書簡抄」の18件の記事

2021/03/05

芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5)十一月一日附原善一郎宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月一日・新宿発信・原善一郞宛

 

        十一月一日午前大學圖書館にて

原君 カナヂアンロツキイの寫眞やバンフからの御手紙は確に落手致しました難有く御禮を申しあげます

もう今頃は紐育[やぶちゃん注:「ニューヨーク」。]で黃色くなつたプランターンの葉の落ちるのを見て御出の事と存じます東京もめつきり寒くなりました並木も秋の早い橡やすずかけは皆黃色く乾いてうすい鳶色の天鷲絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]の樣に枯れた土手の草の上に柔なひわ色の羽をした小鳥が鳴いてゐるのを見ますとワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩を思ひ出します

角帽をかぶつてからもう三月目です講義はあまり面白くありません美文學[やぶちゃん注:堀切透氏の「芥川龍之介書簡集」(新全集底本)では『英文学』となっている。]の主任はローレンスといふおぢいさんで頭のまん中に西洋の紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」。凧。]の樣な形をした桃色の禿があります人の好い親切な人でよく物のわかつた人ですけれども殘念な事に文學はあんまりよくわかつてゐない樣ですいつでも鼠色のモーニングコートを着てズボンの下ヘカーキ色のゲートルをはいてゐます何故ゲートルなんぞを年中ズボンの下へはいてゐるのだかそれは未に判然しません今このおぢいさんの「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」「English Pronounciation」をきいてゐます三番目のは Philological な講義でつまらないものです

文展がはじまりました吉例によつて少し妄評をかきます日本畫の第一科は期待以上に振ひませんでした小坂芝田氏や小室翠雲氏のさへ大した出來とは思はれません望月靑鳳氏の猿の毛描きがうまいと云つてほめる人もゐますさうした事をほめれば成程ほめる事がないでもありませんそれは文展の模倣が巧妙に出來上つてゐる事です文晁の惡い作より遙かにすぐれたものがあると云ふ事ですしかし之を自慢にするほど日本畫家は藝術的良心に訣陷はないでせうし又なからむ事を望みたいと思ひます津端道彥氏の「眞如」と云ふ佛畫の前へは東京觀光の田舍のおばあさんやおぢいさんが立つてをがんでゐますあんな手のゆがんだ片輪の佛さまをおがむ人たちはかあいさうです要するにこゝへ出品する人たちは見るも氣の毒な程貧弱な内生活をしてゐる人とより外は思はれません藝術にどれほどの理解と情熱があるかわかつたものではないと思ひます

第二科では私の興味を引いた作品が二あります一は牛田雞村氏の町三趣で一は土田麥僊氏の海女です町三趣はあまり遠近法を無視し過ぎた嫌がありますが私は之を今度の日本畫の中で最傑出した作だと思つてゐます「三趣」は朝と晝と夜とで朝の靜な町に漸く炊烟[やぶちゃん注:「すゐえん」。]がほのめいて石をのせた屋根には鳥の群がなきかはし人通のない往來を紅い着物をきた小兒が母親らしい女に手をひかれてあるいてゆくのも晝すぎの時雨に並藏[やぶちゃん注:「ならびぐら」。]の水におちる影もみえずぬれにぬれた柳の間うす白い川の面を筏の流れるのもそれぞれ興をひきますけれど宵の町の軒行燈[やぶちゃん注:「のきあんどん」。]のほの赤くともる頃を二人づれの梵論子[やぶちゃん注:「ぼろんじ」。虚無僧(こむそう)のこと。]が坂つゞきの町の軒づたひに尺八をふきながら下りてゆくなつかしさは此作家のゆたかな藝術的氣分を感じさせずにはおきません

海女は此頃またよみかへしたゴーガンの「ノアノア」の爲に一層興味を感じたのかもしれません土田氏は私の嫌な作家の一人です昨年の「島の女」も私の嫌な作品の一でしたしかし海女のすぐれてゐるのはどうしても認めなければならない事實です六曲の屛風一双へ砂山と海とをバックにして今海から出た海女と砂の上に坐つたり寢ころんだりしてゐる海女とを描いたものです泥のやうな灰色の中に黃色い月見艸もさいてゐます赫土の乾いたやうな色の船もひきあげてあります

砂山の向ふにひろがつてゐるウルトラマリンの海は不讚同ですけれどもねころんでゐる海女の肩から腰に及ぶ曲線や後むきになつた海女の背から腕に重みを託してゐる所や海草を運んでくる海女や小供の手足のリズミカルな運動は大へんによくかいてありますデッサンも「島の女」より遙に統一を持つてゐます槪して一双の中で右の半双海の出てゐる方はあまり感心しませんが左の半双は確に成功してゐます

唯誰もこの繪をほめる人のないのが悲觀です私の友だちは皆惡く云ひます先生にはまだ御目にかゝりませんが多分惡く云はれるだらうと思ひます私の知つてる限りではこの繪をほめたのは松本亦太郞氏だけです大觀氏は矢張たしかなものでした(咋年ほど人氣はありませんけれど)廣業氏の「千紫萬紅」はどうも感心しません栖鳳氏の「繪になる最初」は思ひきつて俗なものです山本春擧氏の「春夏秋冬」の四幅も月並です櫻谷氏の「驛路の春」は「勝者敗者」以來の作かもしれませんけれど私は一向心を動かされませんでした

玉堂氏の「夕月夜」と「雜木山」とも太平なものです「汐くみ」では多少なりとも何かつかまうとした努力がみえますけれど今年はまた元の銀灰色の霧と柔婉[やぶちゃん注:「じうゑん」素直で優しいこと。]な細い木立との中にかへつてしまひました何と云ふ安價なあきらめでせう

彫刻にも目ぼしいものは見當りませんでした又私には彫刻はまだよくわかりません世間の人も大抵はよくわかつてゐない樣な氣がします内藤伸氏の氣のきいた木彫が欲しいと思ひました藤井浩祐氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

洋畫では石井柏亭氏が頭角を現はしてゐますこの人の心はとぎすました鏡のやうに冷に[やぶちゃん注:「ひややかに」。]澄んで居るのでせうその心の上に落ちる木の影石の影は寸毫も誤らない訓練を經た手でカンヴァスなりワットマン[やぶちゃん注:Whatman。画用紙。商標名。後注参照。]なりの上にうつされるのでせう此人の作品をみてゐると私はきつと森鷗外先生の短篇を思ひ出します今度の作品の中で船着きと云ふテンペラは其殊にすぐれたものだらうと思ひます「並び藏」と云ふ水彩「N氏の一家」と云ふ油繪もよく出來てゐました 南薰造氏は「瓦燒き」のやうな作品をもう見せてはくれませんけれどそれでも「春さき」はなつかしい作でした 土は皆春を呼吸してゐる丘と丘との間に僅にみえる紫がかつた海も春を呼吸してゐる低い木の芽うす白い桃の花「春」は今 MOTHER EARTH に KISS をしてゐるのです唯私は「瓦燒き」以來の南氏の作品をたどつてひそかに同氏の藝術的氛圍氣[やぶちゃん注:「ふんゐき」。雰囲気。]が比較的薄くなりつゝありはしないかと思はれない事もありません今から切に其杞憂に終らむ事を祈ります

かう上げてくると勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]藤島武二氏の「うつゝ」と齋藤豐作氏の「夕映の流」をも數へなければなりません「うつゝ」は TOUCH は實に達者なものです「夕映の流」は私にこんな氣分になる事の出來る作者を羨しく思はせました

其他不折は例の如く角のはえた「神農」と稱する老人の裸體をかいてゐますし吉田博氏は十年一日の如くあの董色を使つた「play of collars」に餘念のないやうに見うけられます

要するに多くの畫家はのんきですすべての氣分の和をその氣分の數の和で割つた商を描いてゐるんですある特殊の木なる槪念をある時間の槪念のうちに置いてかいてゐるのです彼等には天然色寫眞の發明は恐しい競走者の出現を意味するに違ひありません

Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました兩方行つてみましたがあとの方で TROVATORE PRELUDE MISERERE のマンドリンをきゝましたザルコリがひくギターの太い澁い音が銀のやうなマンドリンの聲を縫つてゆくのがうれしう御座いました

   鳶色のギタラの絹をぬふ針かマンドリーヌのトレモロの銀

同じ日に藝術座が有樂座で音樂會をやりました新興藝術の爲に氣を吐く試みなんださうですがショルツのひいたドビュッシーや何かの外はあんまり感心したものはなかつたさうです前にかき落しましたが帝國ホテルでは RIGOLETTO の QUARTETTO がありました Soprano: Mrs. Dobrovolsky, Mezzo Soprano: Miss Nakajima, Tenor: Mr. Sarcoli, Baritone: Mr. Tham と云ふ順でしたがあの泣き佛と綽名した中島さんには大へん御氣の毒な話しですけれど西洋人が三人で日本人一人をいぢめてるやうできいててあんまりいゝ氣がしませんでした

自由劇場は帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました昨夜行つてみましたが日本で演ぜられた此種類の芝居の中では一番成功したもののやうに見うけます役者の伎倆なり舞臺の裝置なりに始めて割引のない批判的の眼をむける事が出來且その結果それらの寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]成功したのを認める事の出來たのは甚愉快です小山内さんはもつと愉快でせう

サロメはみましたか

鐘がなりました之から SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人の早い書取の授業をうけに行かなければなりません大急ぎで歌を二つ三つかいてやめます

   秋風よゆだやうまれの年老いし寶石商も淚するらむ

   秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

   額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

   鳶色の牝鷄に似るぺッツオルド夫人の帽に秋の風ふく

   『秋』はいますゝりなきつゝほの白き素足に獨り町をあゆむや

               芥 川 生

追伸 これは講義をきゝながらかいてゐるのです今テニソンの「アサーの死」をやつてゐます「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」とか何とか SWIFT さんが云つてゐますこの人は私の見た西洋人の中で一番ジョンブルらしい西洋人ですその癖あめりか人でジョンブルではないのですが

講義をきゝながらかいた歌を御覽に入れます

     CONCERT にて

   ドヴロボルスキイ夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   ポンプの如く立ちてうたふそことなくさびしかりけり SIGNOR THAM

   秋の夜のホテルの廊を畫家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バァナァドリーチとかたる黑服の女は梟によく似たるかな

   シニヨーリナ中嶋のきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

     FREE THEATRE にて GORKY の〝夜の宿〟

   赤シヤツのすりのワシカも夕さればふさぎの虫がつのるなりけり

   のんだくれの役者のうたふ小唄より秋はランプにしのびよりけむ

   わが友のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

   肘つきてもの云ふときは SWIFT も白き牡牛の心ちこそすれ

之から LEADING の稽古がはじまるからやめます さやうなら

 

[やぶちゃん注:一箇所だけ行末改行で続く箇所に字空けを施した。

「原善一郞」「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3)」の四通目の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛」の本文及び私の注を参照されたい。そこで私が指摘したように、この洋行に出ている後輩への返信には、やはり、張り合おうとする負けん気が行間に窺われて仕方がない。

「カナヂアンロツキイ」カナディアン・ロッキー(Canadian Rockies)。アメリカ合衆国からカナダにかけて延びているロッキー山脈の内、カナダ国内のアルバータ州(バンフ・ジャスパー)、ブリティッシュ・コロンビア州、ユーコン準州を通る部分を指す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「バンフ」一八八七年、カナダで最初に設立されたバンフ国立公園(Banff National Park)。私は一度、二十数年前、オーロラを見に訪れたことがある。

「プランターン」既出既注。但し、厳密なことを言うと、カナダのことを想起して言っているので、その場合は、本邦の「プラタナス」(ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 或いはスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia )ではなく、後者の原種で北米原産のスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis となる。

『ワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩』龍之介の好きなオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の詩‘Symphony In Yellow’。個人サイト「詩と音楽」のこちらに対訳が載る。

「ローレンス」ジョン・ローレンス(John Lawrence 一八五〇年~一九一六年)はイギリス人教師。苦学の末、パリ・ベルリン・プラハでの留学・勤務を挟んで、ロンドンとオックスフォード両大学を卒業、前者で数年、教鞭を取った後、明治三九(一九〇六)年東京帝大英吉利文学科で英語・英文学の教師となった。学位論文以外に研究業績はなく、本国では埋もれた存在であったが、ゲルマン語全体とギリシア・ラテンを縦横無尽に知り尽くした碩学であったと伝えられている。かの「お雇い外国人」として知られる同大で哲学・西洋古典学を講じたラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年:ロシア出身のドイツ系ロシア人哲学者・音楽家。ロシア語名はラファエリ・グスタヴォヴィチ・フォン・キョーベル(Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер))は彼を「文科大学の誇りにして、名誉である」と讃えている(サイト「大阪言語研究会」のこちら他を参考にした)。なお、芥川龍之介は自死の五ヶ月前の昭和二(一九二七)年二月二十一日発行の『帝國大學新聞』のシリーズ・コラム「その頃の赤門生活」の第二十七回(『芥川龍之介氏記』とする)の中で、

   *

       二

 僕達のイギリス文學科の先生は故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々々(びび)數千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる啞の如く瞠目して先生の顏を見守り居(ゐ)たり、先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?” 僕、答へて曰く、“No, Sir.” 先生は――先生もまた雷に打たれたる啞の如く瞠目せらるゝこと少時(せうじ)の後(のち)、僕を後(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは實にこの路上の數分間なるのみ。

   *

と回想している。引用は私のサイトの古い電子化から。

「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」この講義、既出既注。龍之介の訳を参考にして現代表記するならば、「ゴールドスミスよりバーナード・ショウに至る英文学上のユーモア」OUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLユーモア

「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」同前で「シェークスピアの後期戯曲に現われたる構想と性格」。

「English Pronounciation」後の部分は「Prononciation」のミス・スペル。「英語の発音」。

「Philological」言語学的。

「文展」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」で既出既注。

「吉例によつて少し妄評をかきます」この目出度い何時もの「仕来たり」であるところの「妄評」という表面的な謙辞の背後に、寧ろ、挑戦的なもの(龍之介の芸術への審美眼や批評力への自信)が表われていると私は感ずる。

「小坂芝田」(こさかしでん 明治五(一八七二)年~大正六(一九一七)年)は長野県生まれの南画家。本名は晴道。中村不折は母方の従兄に当たる。グーグル画像検索「小坂芝田」(私が絵が想起出来ない作家はこれを附す)。

「小室翠雲」(明治七(一八七四)年~昭和二〇(一九四五)年)は栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)生まれ(当時の邑楽郡は栃木県に属した)の南画家。本名は貞次郎。父桂邨も日本画家。翠雲は明治四〇(一九〇七)年の「文展」開設に当たっては、「正派同志会」を組織し、副委員長として「文展」をボイコットし、後も「文展新派」に対抗したことで知られる。グーグル画像検索「小室翠雲」

「望月靑鳳」(明治一九(一八八六)年~?)は神田生まれの日本画家。四条派の望月金鳳に師事、後に養子となった。その後、竹内栖鳳・山元春挙に学んだ。「文展」開設時には「正派同志会」の結成に評議員として参加している。しかし、第二回文展には出品し、「雪中群猿」で初入選、翌年第三回文展で「獅子」が、大正元年の第六回文展でも「群鹿」で褒状、この大正二年第七回文展の「猿」で三等賞を受賞している。当該の「猿」の画像は見当たらない(作品のヒット数が少ない)。

「文晁」江戸後期の画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)江戸下谷根岸生まれ。通称文五郎。父は田安家の家臣で漢詩人としても知られた谷麓谷。十歳頃から狩野派の加藤文麗に絵を学び、十九歳の頃に南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に師事した。天明八(一七八八)年、田安徳川家に出仕して五人扶持となり、同年、長崎に遊学して清人の張秋谷に文人画を学んだ。寛政四(一七九二)年には白河侯松平定信付となり、翌年三月から四月にかけて、定信の江戸湾岸巡視に随従し、「公余探勝図」を制作している。宋・元・明・清の絵画や西洋画の研究の上に、土佐派・琳派・円山四条派などの画法をも摂取し、幅広い画業を示し、当時、江戸第一の大家とされた。私は好きな画家である。恐らくは、龍之介の言っている「惡い作」の方が私の好みであろうと推定される程度に好きである。

「津端道彥」(明治元(一八六九)年~昭和一三(一九三八)年)は越後生まれの日本画家。歴史人物画を得意とし、文展や日本美術協会などで受賞を重ね、大阪天満宮襖絵なども手がけた。「手のゆがんだ」「眞如」は残念ながら、ネット画像には見当たらない。グーグル画像検索「津端道彦」

「牛田雞村」(うしだけいそん 明治二三(一八九〇)年~昭和五一(一九七六)年)は横浜生まれの日本画家。本名は治(はる)。松本楓湖に入門し、巽(たつみ)画会に出品。大正三(一九一四)年の日本美術院の再興に参加し、同年には今村紫紅らと「赤曜会」を結成、大正六年の「鎌倉の一日」で院展樗牛賞を受賞。大和絵の伝統を踏まえた風景画を描いた。「町三趣」は惜しいかな、ネットには見出せない。グーグル画像検索「牛田雞村」

「土田麥僊」(つちだばくせん 明治二〇(一八八七)年~昭和一一(一九三六)年)は佐渡生まれの日本画家。「海女」は「独立行政法人国立美術館」公式サイト内のこちらで、京都国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。

『ゴーガンの「ノアノア」』フランスの画家でゴッホとの交流で知られるウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin  一八四八年~一九〇三年)のタヒチ島滞在の内、第一回目のそれを回想した随筆(Noa Noa:パリ・一八九三年~一八九四年)。大正元(一九一二)年から翌年にかけて『白樺』に小泉鉄による訳が連載され、この大正二年十一月十八日には(本書簡の十七日後)挿絵も添えて洛陽堂から出版された(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本)。後ゴーギャンは私の好きな画家で、「ノア」ノア」は高校以来の私の偏愛書の一つである。

「島の女」同前のサイトのこちらで東京国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。龍之介の見解は正しく、明らかにこれは画題と言い、対象の選び方と言い、ゴーギャンの影響下に描かれたものである。「海女」もそれに続く同工異曲乍ら、優れてよく描かれており、特に龍之介の言うように左半幅が非常に優れている。しかし、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注よれば、『前年出展の「島の女」は「褒状」を得たが、「海女」は』この『文展では評価されなかった』とある。

「ウルトラマリン」ultramarine。群青色。本来は天然の半貴石ラピスラズリ(lapis lazuli:方ソーダ石グループの鉱物である青金石(lazurite:ラズライト)を主成分とする。和名は瑠璃(るり))から作られたが、ヨーロッパの近くではアフガニスタンでしか産出せず、それが地中海を越えて海路で運ばれてきたため、「海を越えて(来る青)」という意で命名されたもので、海の色に基づく由来ではない。恐らく誤解しておられる方が多いと思われるので一言した。

「デッサン」フランス語の‘dessin’で素描。英語はドローイング(drawing)。但し、ここは広義の用法で、実在感を具えた絵画に求められる描画力・観察力の技能及びその処理・手順・技法力の熟知性を指している。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「松本亦太郎」(またたろう 慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は高崎生まれの心理学者。東京帝大卒業後、エール大学・ライプチヒ大学に学び、京都帝大を経て、大正二(一九一三)年に東京帝大教授となった。両帝大に日本最初の心理学実験室を開設して精神動作学を提唱したほか、航空心理・芸術心理などの応用心理学の領域をも開拓、「日本の実験心理学の祖」とされる。また、「日本心理学会」を創設して初代会長となった。

「大觀氏」横山大観(明治元(一八六八)年~昭和三三(一九五八)年)は水戸生れの日本画家。橋本雅邦に師事。明治二九(一八九六)年、東京美術学校助教授となったが、二年後、校長であった岡倉天心らと辞職、「日本美術院」の創設に参加、大正三年に日本美術院再興を主導し、終始、近代日本画の中心作家として活躍した

「廣業」寺崎広業(てらさきこうぎょう 慶応二(一八六六)年~大正八(一九一九)年)は秋田出身の日本画家。狩野派を小室秀俊に、四条派を平福穂庵に師事した。後に南画家菅原白龍にも学び、諸派の画法を取り入れ、「日本青年絵画協会」や「日本絵画協会」などで活躍、後に天心・大観らと「日本美術院」を創立、また「文展」開設に当たっては「国画玉成会」に参加し、審査員として同席に出品を重ねた。清新な山水画を多く描いたことで知られる。「千紫萬紅」はこの第七回文展出品作。秋田市立千秋美術館蔵。

「栖鳳」竹内栖鳳(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は近代日本画の先駆者。戦前の京都画壇を代表する大家で、帝室技芸員・第一回文化勲章受章者。「繪になる最初」はやはりこの時の出品作。これ(当該ウィキの画像)。現在、重要文化財指定。

「山本春擧」(明治四(一八七二)年~昭和八(一九三三)年)は滋賀県生まれの円山四条派の画家。竹内栖鳳とともに近代京都画壇を代表する画家。「春夏秋冬」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「櫻谷」木島桜谷(このしまおうこく 明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)は京都市三条室町生まれの四条派の画家。本名は文治郎。四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」(呉春は江戸中期の絵師で四条派の始祖)・「最後の四条派」などと称された。「驛路の春」は正確には「驛路之春」で「うまやぢのはる」と読むデジタル「朝日新聞」のこちらで画像が見られる(左矢印で部分が二部見られる)。この第七回文展の審査員であった。「勝者敗者」という作品は不詳。

「玉堂」川合玉堂(明治六(一八七三)年~昭和三二(一九五七)年)は愛知生まれの日本画家。初めは四条派を、後に橋本雅邦に師事して狩野派を学び、詩情溢れる穏健な風景画に独自の画風を打ち立てた。「夕月夜」はこの第七回文展で好評を博した一品。「足立美術館」公式サイトのこちらで見られ、同時に出品された「雜木山」も「東京藝術大学大学美術館所蔵作品データベース」のこちらで見られる。「汐くみ」は不詳。岩波文庫注で石割氏が『前年の文展で大胆な画法が注目された「潮」のことか』と述べておられる。出品と題名は確認出来たが、画像は見当たらない。

「内藤伸」(しん 明治一五(一八八二)年~昭和四二(一九六七)年)は島根県生まれの彫刻家(木彫)。上京して高村光雲に師事、明治三七(一九〇四)年、東京美術学校選科卒。文展出品の後、大正三(一九一四)年に日本美術院同人となり、翌年の再興院展にも出品したが、大正八年に脱退した。後に帝展審査委員・帝国美術院会員となり、昭和四(一九二九)年には「日本木彫会」を設立して主宰した。

「藤井浩祐」(こうゆう 明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの彫刻家。明治四〇(一九〇七)年、東京美術学校彫刻科卒。第一回文展に出品し、以後、出品を続けた。明治四四(一九一一)年の文展出品「鏡の前」から三等賞を連続して四度、受賞している。後に日本美術院同人、以後、院展に出品。文展審査員・帝国美術院会員・帝国芸術院会員。戦後は日展運営会理事。昭和二八(一九五三)年より名を「浩佑」と改称している。日本風の裸女の鋳造物が多い。グーグル画像検索「藤井浩

氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

「石井柏亭」(明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は版画家・洋画家。東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)生まれ。本名は石井満吉。とし、初め、父で日本画家であった石井鼎湖に日本画を学んだが、後、洋画を志し、浅井忠・中村不折に師事し、さらに東京美術学校に学んだ。明治四三(一九一〇)年に渡欧、帰国後、二科会の創立に加わったが、後に退いて一水会を設立した。作品は平明な写実主義で貫かれている。文筆にも優れ、著作も多い。私の電子化では、ブログ・カテゴリ「北原白秋」の「北原白秋 邪宗門 正規表現版」で装幀と多数の主挿画を担当しており、画像で総てを示してある。PDF縦書一括版もあるが、挿絵はブログ・リンクとなっている(但し、直接ブログを探すよりは、結局は後者の方が簡単に見られる。「石井柏亭」で検索すればよい)。以下の龍之介の画題は正確ではない。彼は「船着き」・「並び藏」・「N氏の一家」と記しているが、正確には第七回文展に出品したその三つはそれぞれ、「滯船」(テンペラ)・「N氏と其一家」・「並藏」(素描淡彩)である。なお、この内、龍之介がかっている「滯船」は二等賞を受賞している(以上の最後の部分はサイト「東京文化財研究所」の「石井柏亭」に拠って確認した)。

「ワットマン」Whatman。画用紙。一七四〇年に創業したイギリスの画用紙の製造会社名及び商標名。創業者ジェームズ・ワットマンが考案した「Whatman紙」は現在でも高級水彩画用紙として知られる。

「森鷗外先生の短篇を思ひ出します」具体的にどの、或いは、どれらのそれを指すのか私には判らぬ。

「テンペラ」tempera painting。絵画技法の一つ。水と混和する展色剤の中で練り合せた顔料の絵具。水と油を混和し、浮化性と定着性を持たせるため、レチシンを含む卵黄のほか、アラビアゴム・蜂蜜などが加えられた。エジプト・メソポタミアの古代文明の時代から使われたが、特に初期ルネサンスのイタリアの画家たちが好んで使用した。筆の動きが円滑でないため、色調が固くなる嫌いがあるが、硬化後は変質せず、罅割(ひびわ)れや剥落が生じない利点がある。薄い透明な絵具の層が光沢を帯び、重ねられた刷毛(はけ)の跡が、視覚的に混り合う効果を持ち、後、油絵が生れるまで、色調を混合する技術も開発されて多用された。

「南薰造」(みなみくんぞう 明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)は広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。東京美術学校西洋画科卒。明治四〇(一九〇七)年から明治四十三年にかけてイギリスに遊学した。文展・帝展・新文展・日展で活躍し、昭和七(一九三二)年から昭和八年にかけては東京美術学校教授を務めた。油画家・水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わった。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。岩波文庫の石割氏の注によれば、『「春さき」は三等賞受賞。「瓦焼き」は』二年前の明治四三(一九一一)年の『第五回展の出品作。南は『白樺』』派『と関りが深く、有島壬生馬』(うぶま:洋画家・小説家有島生馬(有島武郎の弟で里見弴の兄)の本名)『との滞欧記念美術展は、『白樺』主宰で一九一〇年に開催』されたとある。「春さき」は絵葉書を「ヤフオク」に出品されているものに同文展の絵葉書の画像を見つけたので、以下に示す。龍之介が気に入っている「瓦燒き」の方が発見出来なかった。

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「MOTHER EARTH」「母なる大地」。

「藤島武二」(慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年)は薩摩藩士の家に生まれた、洋画家。日本の近代洋画壇にあって長く指導的役割を果たしてきた重鎮。ロマン主義的な女性を配した作品を多く残した。「うつゝ」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「齋藤豐作」(とよさく 明治一三(一八八〇)年~昭和二六(一九五一)年)は埼玉県越谷生まれの洋画家。東京美術学校卒。黒田清輝(せいき)に師事し、明治三九(一九〇六)年に渡仏して印象派に傾倒、点描派風の画風を学んだ。帰国後、大正三(一九一四)年の二科会の創立に参加し、大正八年からはフランス人の妻とフランスのサルト県ベネベルにあった古城に住んだ。この「夕映」(ゆふばへ)「の流」(ながれ)は彼の代表作で、「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「TOUCH」タッチ。筆致。

「不折」中村不折(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は江戸京橋八丁堀(現在の中央区湊)生まれの洋画家・書家。太平洋美術学校校長。夏目漱石「吾輩は猫である」の挿絵画家としてとみに知られ、島崎藤村の詩集「若菜集」の装幀も彼である。他にも正岡子規・森鷗外とも親しかった。「神農」という作品はこの文展に「老孔二聖の会見」とともに出品しているが、龍之介の言う「例の如く角のはえた」の「例の如く」という形容は私には意味が判らない。

「吉田博」(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。旧久留米藩士の次男として久留米に生まれ、福岡県立修猷館に入学するも中退したが、明治二四(一八九一)年にその修猷館の図画教師であった洋画家吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となり、近代風景画家の第一人者として活躍した。明治三二(一八九九)年に渡米し、デトロイト美術館展・ボストン美術館展に出品、翌年にはパリで行われた万国博覧会に出品した。明治美術会を経て、太平洋画会の創立に参加した。明治三十六年には義妹のふじをとともに再び外遊し、翌年のセントルイス万博で銅牌を受賞している。明治三十九年に帰国して展覧会を開催、「兄妹画家」として評判を呼び、世相漫画にもなった。これは夏目漱石の「三四郎」や「虞美人草」のヒントになったと言われている。明治四〇(一九〇七)年に、ふじをと結婚した。同年の第一回文展で「新月」が三等賞を受賞し、続く翌年及び翌々年の文展で「雨後の夕」と「千古の雪」が孰れも二等賞を受賞した。大正九(一九二〇)年になって木版画を手がけ始め、昭和二(一九二七)年第八回帝展に「帆船(朝・午前・霧・夜)」を出品。昭和二二(一九四七)年、太平洋画会会長を務めた。欧米・エジプト・インドなどに渡って写生したほか、登山が一般的でなかった大正末期に日本アルプスに登り、二百六十点余りもの版画を連作している。グーグル画像検索「吉田博」

「play of collars」色彩の遊び。

「Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました」「兩方行つてみました」イタリアのロマン派の作曲家で主にオペラを制作して「オペラ王」の異名を持つジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、龍之介はこの前月の下旬に、本邦で行われたヴェルディ百年祭の、東京音楽学校や帝国ホテルなどで行われた演奏会に出かけている(といってもこの書簡がそのソースである)。

「TROVATORE」ヴェルディ作曲になる全四幕のオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore:「吟遊詩人」)。一八五三年にローマで初演。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。

「PRELUDE」プレリュード。前奏曲。

「MISERERE」「ミゼレーレ」(Miserere:ラテン語「哀れみ給え」)或いは「ミゼレーレ・メイ、デウス」(Miserere mei, Deus:同前で「神よ、我を憐れみ給え」)。イタリアの司祭で作曲家・歌手でもあったグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri 一五八二年~一六五二年)が「旧約聖書」の「詩篇」第五十一篇をもとに作曲した合唱曲。

「ザルコリ」アドルフォ・サルコリ(Adolfo Sarcoli 一八六七年~一九三六年)はイタリアの声楽家・作曲家。当該ウィキによれば、シエナ出身で、当初はマンドリン工房で働いていたが、『テノール歌手に転向した。プッチーニと親交があり』、「ラ・ボエーム」の『ロドルフォ役を演じ』、『上海で出演する契約だったが、辛亥革命で契約がふいになった』ため、『仕方なく』明治四四(一九一一)年に『来日し、声楽とギター、マンドリンを教えた』。『報知新聞記者の千葉周甫の協力で、三浦環ら帝国劇場歌劇部と』「胡蝶の夢」(作曲はハインリヒ・ヴェルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年:ドイツ出身で日本で活躍した作曲家・指揮者・チェロ奏者)を『一幕やり、好評を得』たため、『帝劇と契約』した。『その後』、『日本に定住し、声楽教師として日本で初めてイタリアのベルカント唱法を伝え』、『原信子・関屋敏子・喜波貞子らを育てた。また』、『マンドリン・ギター教師としても鈴木静一らを育てた。伊藤信吉の』、「ぎたる弾くひと」に『よれば、萩原朔太郎は慶應義塾大学在学中、サルコリからマンドリンの指導を受けている』という。すこぶる腑に落ちる。

「鳶色」茶褐色。

「ギタラ」ポルトガル・ギター(Guitarra portuguesa:ポルトガル語)。十二弦のポルトガルの民族弦楽器。実際にはギターとの関連性は薄く、恐らくはイングリッシュ・ギターとシターン(Cittern:水滴型の共鳴体を持った撥弦楽器)との融合から生まれたと考えられている。

「トレモロ」tremolo。イタリア語で同音又は異なる二音を急速に反復させる奏法。主に弦楽器で用いる。

「藝術座」この大正二(一九一三)年に島村抱月や松井須磨子を中心に東京で結成した新劇の劇団。先の石割氏の注に、これは、発足当時の『芸術座が、音楽界刷新を目的に開催した音楽会。二〇日有楽座で開催。薄田泣菫、北原白秋などの詩に基づく創作曲をソプラノ歌手の薗部房子が歌った』とある。しかし、後、二人の急死により、大正八(一九一九)年に解散した。

「ショルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「RIGOLETTO」ヴェルディが作曲した全三幕からなるオペラ。一八五一年初演(イタリアのヴェネツィア・フェニーチェ座)。当時のフランス文学界の巨匠ヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)の戯曲「王は愉しむ」(Le Roi s'amuse)が原作。一八五一年にヴェネツィアのフェニーチェ座で初演された。ヴェルディ中期の傑作とされ、彼のオペラの評判を不動のものにした作品とされる。因みに、当該ウィキによれば、『ユーゴーには著作権料に相当する金銭の受取が一切なかったため』、ユーゴ―は『立腹』し、『フランスで訴訟まで提起した(結果は敗訴)。このため』、『同オペラのパリ初演は他の世界諸都市に大きく遅れて』、六年後の一八五七年一月(イタリア座)となった。『しかしヴィクトル・ユーゴー自身、ヴェルディの効果的な重唱の用い方には驚嘆せざるを得なかった。同オペラのパリ初演に観客として』『招かれ』、『不承不承』出向いた『ユーゴーは』第三幕の四重唱を聴いて』、「四人に同時に舞台で台詞を言わせて、個々の台詞の意味を観客に理解させるのは、芝居では不可能だ」と『述べたと伝えられている』とある。私はオペラ嫌いで、幾つかは持っているものの、ちゃんと聴いたためしが殆んどない。そんな中で、これだけは特異点で聴いている。何故か? 私の偏愛するイタリア映画(厳密は公開はテレビ用シネマ)のベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci 一九四一年~二〇一八年)監督作品「暗殺のオペラ」(Strategia del ragno:「蜘蛛の戦略」。一九七〇年公開(本邦公開は一九七九年八月)。原作はアルゼンチンの巨匠ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges  一八九九年~一九八六年)の小説「裏切り者と英雄のテーマ」(Theme of the Traitor and the Hero)で重要なシークエンスに用いられていたからである。

「QUARTETTO」カルテット。イタリア語。四重唱。

「Mrs. Dobrovolsky」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ロシア大使館付武官夫人』。

「Miss Nakajima」中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「Mr. Tham」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とし、石割氏も注せず。

「自由劇場」劇作家・演出家・小説家小山内薫(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年:広島生まれ。龍之介が引き継ぐ雑誌『新思潮』を創刊している)と歌舞伎俳優二代目市川左團次が始めた新劇運動。明治四二(一九〇九)年から大正八(一九一九)年にかけて九回の公演を行った。劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年二回の公演を目標として会員制の組織とした。イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」や、このゴーリキーの「夜の宿」、チェーホフの「犬」などの翻訳劇の他、森鷗外・吉井勇・秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遙の「文芸協会」とともに新劇運動の旗手となり、当時の知識人には好評を以って迎えられた。

「帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました」自由劇場の第七回公演で、知られた社会主義リアリズムの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年)が一九〇一年から一九〇二年にかけて執筆した戯曲「どん底」(На дне)のこと。この年の十月二十九日から三十一日まで帝国劇場で公演された。

「サロメ」「芥川龍之介書簡抄9」参照。

「SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人」ジョン・トランブル・スウィフト(John Trumbull Swift 一八六一年~一九二八年)アメリカのコネチカット州出身の英語教師。当該ウィキによれば、『イェール大学卒業後、コロンビア大学で法律学を学』んだが、明治二一(一八八八)年に『母国の大学卒業生を対象』とした『日本の中学校の英語教師として来日した』。『その後』、『一旦帰国し』たが、翌明治二十二年に『再来日』して、『YMCA』(Young Men's Christian Association:キリスト教青年会)『国際委員を務め、東京の神田美土代町に東京YMCA会館の建設に携わった。日本におけるYMCA運動の活性化に貢献した』。九『年後の』明治三一(一八九八)年に『YMCAを退職』し、『再度の帰国を挟』んで、三『度目の来日で』、『東京高等師範学校や東京帝国大学、東京商科大学で英語や英文学の教鞭を執った』。昭和三年に『東京で死去』した。この龍之介のちゃらかしは、英語の一般形容詞としての‘swift’には「速い・迅速な・つかの間の・即座の」の意があるからである。

『テニソンの「アサーの死」』ヴィクトリア朝イギリスの桂冠詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年:その美しい措辞と韻律から本邦でも愛読者が多い。私もその一人)が「アーサー王伝説」を元に書いたアーサー王や円卓の騎士たちが登場する「国王牧歌」(Idylls of the King)。十二の物語詩からなる。一八五六年から一八八五年の間に分割出版された。英文‘Wikisource’で全文が読める。

「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」「TO TAKE APART」は「離れて・離れること・ばらすこと」の意と思うが、「サッダア」はという単語を捜し得ない。

「ジョンブル」John Bull。「擬人化されたイギリスの国家像」或いは「擬人化された典型的イギリス人像」、「個々の保守的な典型的イギリス人」のこと。日本の「山田太郎」のようなもので、‘John’ はイギリス人に多い一般的な名で、‘Bull’は一般名詞では「去勢していない成長した雄牛・そのように大きくがっしりした男・強気な人物」を意味する。当該ウィキによれば、典型的なジョン・ブル像は、夜会服に半ズボン』に『ユニオンジャック柄のウェストコート(ベスト)の正装をした、中年太りの英国紳士で』『頭に着用している大きなトップ・ハットは』、『しばしば「ジョン・ブル・トッパー」として紹介される』とし(リンク先にカリカチャア有り)、『こうしたジョン・ブルのキャラクターは』一七一二年に『ジョン・アーバスノット』(John Arbuthnot 一六六七年~一七三五年:イギリスの医師で博物学者)『によって創作され、アーバスノットとガリバー旅行記の著者で友人のジョナサン・スウィフト、そして風刺家アレキサンダー・ポープらが手掛けた』パンフレット「Law is a Bottomless Pit」(「法律は底無しの沼」)に『掲載され』、『ついで』、『大西洋を渡ってアメリカの風刺漫画家トーマス・ナスト』(Thomas Nast 一八四〇年~一九〇二年:ドイツ系アメリカ人)『などによって一般に普及したと考えられて』おり、『ジョン・ブルのイメージは新聞の風刺漫画などでも用いられる』とある。見た目には、糞野郎のトランプそっくりだがね。

「ドヴロボルスキイ夫人」本文に出る通り、ソプラノ歌手。詳細不詳。

「SIGNOR」‘signor’はイタリア語で「~殿・~様」或いは「イタリア紳士」の意。

「バァナァドリーチ」イギリス人の画家・陶芸家バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 一八八七年~一九七九年)日本をたびたび訪問し、「白樺派」や「民芸運動」にも関わりが深い。「日本民藝館」の設立にあたり、柳宗悦に協力した。ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に共感と郷愁(幼年期に四年ほど在日していた)を抱くようになり、明治四二(一九〇九)年に来日して東京上野に居を構えた。この当時、彼は日本いたのである。

「シニヨーリナ」‘signorina’はイタリア語で「お嬢さん」。

「FREE THEATRE」先の「自由座」。

「ワシカ」「どん底」の登場人物で若い泥棒のワーシカ・ペーペル(Васька Пепел)。

「牡牛」前に出した‘John Bull’の‘Bull’に引っ掛けたもの。]

2021/02/23

芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十月十七日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・「十月十七日 東京にて 芥川生」

 

エレクトラをみに行つた

第一 マクペスの舞臺稽古 第二 茶をつくる家 第三 エレクトラ 第四 女がたと順で 第一はモオリスベアリングの飜譯 第二は松居松葉氏の新作 第四は鷗外先生の喜劇だ

「マクペスの舞臺稽古」を序幕に据へたのは甚不都合な話で劇場内の氣分を統一するために日本の芝居ではお目見えのだんまりをやるが(モンナヷンナに室内が先立つたのも) マクベスの舞臺稽古は此點から見てどうしても故意に看客の氣分を搔亂する爲に選ばれたものとしか思ふことは出來ない この PLAY DEMUNITIVE DRAMAS(いつか寮へもつて行つてゐた事があるから君はみたらう)からとつたのだがあの中にある PLAY 中でこれが一番騷々しい 何しろ舞臺稽古に役者が皆我儘をならべたり 喧嘩をしたり 沙翁が怒つたり 大夫元[やぶちゃん注:「たいふもと」。]が怒鳴つたりするのをかいたんだから これ以上に騷々しい芝居があまりあるものではない 大詰にでもはねを惜む心をまぎらすにはこんな喜劇もよいかもしれないがエレクトラを演ずるにさきだつてこんな亂雜なものをやるのは言語道斷である

「茶をつくる家」をみたら猶いやになつた

舞臺のデザインは中々うまく行つてゐたが作そのものは〝完く駄目だ〟第一これでみると松居さんの頭も餘程怪しいものぢやあないかと思ふ 筋は宇治の春日井と云ふ茶屋が零落してとうとう老主人が保險金をとる爲に自分で放火をする迄になる そこで一旦東京の新橋で文學藝者と云はれたその家の娘のお花が足を洗つてうちへかへつて來てゐたがまた身をうつて二千圓の金をこしらへ音信不通になつてゐた兄から送つてくれたと云ふ事にして自分は東京へかへる 父や兄は娘の心をしらずに義理しらずと云つてお花を罵ると云ふのだ 第一どこに我々のすんでゐる時代が見えるのだらう 保險金をとらうとして放火する位の事は氣のきいた活動寫眞にでも仕くまれてゐる 且家運の微祿を救ふのに娘が身をうると云ふのは壯士芝居所か古くはお輕勘平の昔からある お輕が文學藝者に變つたからと云つてそれが何で SOCIAL DRAMA と云へやう 何で婦人問題に解決を與へたと云へやう(作者は解決を與へたと自稱してゐるのだからおどろく)

さてエレクトラになつた

灰色の石の壁 石の柱 赤瓦の屋根 同じ灰色の石の井戶 その傍に僅な一叢の綠 SCENE は大へんよかつた

水甕をもつた女が四五人出て來て水をくむのから事件が發展しはじめる 始めは退屈だつた 譯文が恐しくぎごつちないのである 一例を示すと

  おまへはどんなにあれがわれわれを見てゐたか見たか山猫のやうに妻かつた

  そして………

と云つたやうな調子である いくらギリシアだつてあんまりスパルタンすぎる クリテムネストラが出てて話すときも、そんなに面白くなかつた 之も譯文が崇りをなしてゐるのである 唯クリテムネストラは緋の袍に寶石の首かざりをして金の腕環を二つと金の冠とをかゞやかせ BARE ARMS に長い SCEPTRE をとつた姿が如何にも淫婦らしかつた 第一 この役者は顏が大へん淫蕩らしい顏に出來上つてゐるのだから八割方得である 殘念な事に聲は驢馬に似てゐた

オレステスの死んだと云ふ報知がくる クリテムネストラが勝誇つて手にセプタアをあげながら戶の中に走り入るかはいゝクリソテミスがエレクトラにオレステスが馬から落ちて死んだとつげる エレクトラが獨りなつてから[やぶちゃん注:ママ。]右の手をあげて「あゝとうとうひとりになつてしまつた」と叫ぶ 其時沈痛な聲の中に海のやうな悲哀をつたへるエレクトラがはじめて生きた 河合でないエレクトラが自分たちの前に立つてゐる その上に幕が急に下りた

前よりも以上の期待をもつて二幕目をみる 幕があくと下手の石の柱に紫の袍をきた若いオレステスが腕ぐみをしてよりかゝりながら立つてゐる 上手の戶口――靑銅の戶をとざした戸口の前には黑いやぶれた衣に繩の帶をしたエレクトラが後むきにうづくまつてゐる エジステスが父のアガメンノンを弑した斧の地に埋まつてゐるのを堀[やぶちゃん注:ママ。]つてゐるのである 二人の上にはほの靑い月の光がさす 舞臺は繪の樣に美しい

オレステスとエレクトラと姊弟の名のりをする オレステスの養父が來る 事件は息もつけない緊密な PLOT に從つて進んでゆく 靜な部屋のうちから叫聲を起る クリテムネストラが殺されたのである エレトク[やぶちゃん注:ママ。]は「オレステス オレステス うてうて」と叫ぶかと思ふと地に匍伏して獸のやうにうなる

エジステスが來る エレクトラに欺かれて部屋のうちへはいる 再「人殺し人殺し」と云ふ叫聲が起る 窓から刺されて仆れるエジステスの姿が見える

靜な舞臺には急に松明の火が幾十となくはせちがふ 劍と劍と相うつ音がする 人々の叫び罵る聲がする オレステスの敵とオレステスの味方と爭ふのである 其叫喚の中にエレクトラは又獸の如く唸つて地に匍伏する

松明の光は多きを加へる 人々は叫びながら部屋のうちに亂れ入る 剣の音 怒號の聲は益高くなる エレクトラは醉つたやうによろめきながら立上る さうして手をあげて足をあげてひた狂ひに狂ふのである

遠い紀元前から今日まで幾十代の人間の心の底を音もなく流れる大潮流のひゞきは此時エレクトラの踊る手足の運動に形をかへた やぶれた黑衣をいやが上にやぶれよと靑白い顏も火のやうに熱してうめきにうめき踊りに踊るエレクトラは日本の俳優が扮した西洋の男女の中で其最も生動したものの一であつた クリソテミスがひとり來て復仇の始末をつげる エレクトラは耳にもかけず踊る つかれては仆れ仆れては又踊る クリソテミスはなくなく靑銅の扉をたゝいて「オレステス オレステス」と叫ぶ 誰も答へない 幕はこの時 泣きくづれるクリソテミスと狂ひ舞ふエレクトラとの上に下りる

自分は何時か淚をながしてゐた

女がたは地方興行へ出てゐる俳優がある溫泉宿で富豪に部屋を占領される業腹さに女がたが女にばけてその富豪の好色なのにつけこんで一ぱいくはせると云ふ下らないものである 唯出る人間が皆普通の人間である 一人も馬鹿々々しい奴はゐない 悉我々と同じ飯をくつて同じ空氣を呼吸してゐる人間である こゝに鷗外先生の面目が見えない事もない

兎に角エレクトラはよかつた エレクトラエレクトラと思ひながら其晚電車にゆられて新宿へかへつた 今でも時々エレクトラの踊を思ひ出す

 

芝居の話はもうきり上げる事にする

牛込の家はあの翌日外から大体[やぶちゃん注:ママ。]みに行つた 場所は非常にいゝんだがうちが古いのとあの途中の急な坂とでおやぢは二の足をふんだ 所へ大塚の方から地所とうちがあるのをしらせてくれた人がある そのうちの方は去年建てたと云ふ新しいので恐しい凝り方をした普請(天井なんぞは神代杉でね)なんだが狹いので落第(割合に價は安いんだが)地所は貸地だが高燥なのと靜[やぶちゃん注:「しづか」。]なのと地代が安いのとで八割方及第した 多分二百坪ばかり借りてうちを建てる事になるだらうと思ふ 大塚の豐島岡御陵墓のうしろにあたる所で狩野[やぶちゃん注:ママ。]治五郞の塾に近い 緩慢な坂が一つあるだけで電車へ五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル強。]と云ふのがとしよりには誘惑なのだらう 本鄕迄電車で二十分だからそんなに便利も惡くない

學校は不相變つまらない

シンヂはよみ完つた DEIDE OF SORROWS と云ふのが大へんよかつた 文はむづかしい 關係代名詞を主格でも目的格でも無暗にぬく 獨乙語流に from the house out とやる 大分面倒だ

Forerunner をよみだした 大へん面白い 長崎君が本をもつてゐたと思ふ あれでよんでみたまへ 割合にやさしくつていゝ

 

大學の橡はすつかり落葉した プランターンも黃色くなつた 朝夕は手足のさきがつめたい 夕方散步に出ると靄の下りた明地に草の枯れてゆくにほひがする

文展があしたから始まる

每日同じやうな講義をきいて每日同じやうな生活をしてゆくのはさびしい

 

   ゆゑしらずたゞにかなしくひとり小笛を

   かはたれのうすらあかりにほうぼうと銀の小笛を

   しみじみとかすかにふけばほの靑きはたおり虫か

   しくしくとすゝなきするわが心[やぶちゃん注:「すゝなき」はママ。]

   ゆえしらずたゞにかなしく

 

京都も秋がふかくなつたらう 寄宿舍の畫はがきにうつゝてゐる木も黃葉したかもしれない

 

   われは織る

   鳶色の絹

   うすれゆくヴィオラのひゞき

   うす黃なる Orange 模樣……

   われは織る われは織る

   十月の、秋の、Lieder.

 

十月幾日だかわすれた

水曜日なのはたしかだ

                   龍

   恭 君

 

[やぶちゃん注:詩篇は前後を一行空けた。

「エレクトラ」これはギリシャ三代悲劇のそれを素材とした、オーストリアのウィーン世紀末文化を代表する〈青年ウィーン〉(Jung-Wien)の一員で印象主義的な新ロマン主義の代表的作家フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)の戯曲「エレクトラ」(Elektra)で一九〇三年作。二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、この複数作の一挙公演は、この年の十月の『帝国劇場での公衆劇団第一回公演』(一日初日)で、この『公演は京都でも』、この後の『一一月一一日から新京極明治座で上演された』とあるので、龍之介が京都の井川に細かく感想を述べているのが首肯出来るものの、これを読んだら、私だったら、こんなとんでもないごった煮のオムニバス、絶対、見には行かないね。なお、「エレクトラ」の元の筋を御存じない方は、ウィキの「エレクトラ(ソポクレス)や、「エレクトラ(エウリピデス)を参照されたい。その梗概まで記すほどに私はお目出度くない。

「マクペスの舞臺稽古」イギリスの作家モーリス・ベアリング(Maurice Baring 一八七四年~一九四五年)作の戯曲。原題は‘The Rehearsal’(一九一一年出版)。後の「DEMUNITIVE DRAMAS」の私の注を必ず参照されたい。

「茶をつくる家」劇作家・演出家・小説家・翻訳家の松居松葉(しょうよう 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年:陸前塩釜生まれ。国民英学会卒。文学を志して坪内逍遙に師事し、明治二四(一八九一)年に創刊された『早稲田文学』の編集に発刊から従事し、『報知新聞』や『万朝報』などの記者も務めた。明治四二(一九〇九)年には三越の嘱託となって『三越タイムス』を編集し、発足した坪内逍遙・島村抱月の「文芸協会演劇研究所」に招かれ、講師を勤めた。明治四四(一九一一)年、新たに開業した帝国劇場の演劇主任を引き受けたものの、三越側の苦情で辞退し、大正二(一九一三)年には抱月脱退後の「文芸協会」を指導したが、間もなく解散となり、次いで、河合武雄とともに、この龍之介が見た公演の劇団「公衆劇団」を組織している。別号に「松翁」「駿河町人」「大久保二八」など)のこの年に書かれた新作翻訳劇。アイルランドの劇作家・演劇家レノックス・ロビンソン(Lennox Robinson  一八八六年~一九五八年)の ‘Harvest’(「収穫」:一九一〇年作)。

「女がた」この「公衆劇団」旗揚公演のために、森鷗外が書き下ろした彼の戯曲中、唯一の現代喜劇。大正二(一九一三)年十月発行の『三越』初出。藤本直実氏の論文『森鷗外「女がた」のセクシュアリティ』(PDF)が読める。私はその「女がた」を読んだことがないが、藤本氏の論文によれば、本作は『従来、演劇史においては全否定を以て遇され、鷗外研究からの論文も存在しなかった』という驚くべき鬼っ子扱いの作品らしい。

「モンナヷンナ」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の戯曲「モンナ・ヴァンナ」(Monna Vanna:一九〇二年初演)。龍之介は既に見た通り「青い鳥」のファンであった。なお、この年、島村抱月が訳(南北社)しており、芥川龍之介は恐らくそれも読んでいるであろうが、その抱月の序文を見ると(幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)、『數年前山岸荷葉氏が川上一座のために翻案して、明治座で演ぜしめたものがある』とあることから、或いは、芝居好きの龍之介だから、その翻案公演を観た可能性もある。なお、翌年には岩野泡鳴と村上静人も訳しているらしい。同作の第一幕は殿中、第二幕は戦場の幕営である。

「DEMUNITIVE DRAMAS」‘DIMINUTIVE DRAMAS’の誤記。先のモーリス・ベアリングの一九一一年作の短篇戯曲集‘Diminutive Dramas’(「小さなドラマ」)。Internet archive’のこちらで原本が読め、The Rehearsal’はここから始まる

「大夫元」「たゆうもと」。演劇の興行責任者。俳優や裏方をやとって一座を組織し、これを金主や座主に売り込んで興行する人。江戸時代には俳優の上に立つ監督者で、江戸では座元がこれを兼ねた。但し、ここは原本を見ると、‘The Stage Manager’のことを指しているから、舞台監督・演出家である。

「松居さん」作者で演出家の松居松葉。

「SOCIAL DRAMA」社会劇。劇中の出来事や登場人物が置かれる状況を、社会的環境や社会問題との関連のなかで描いた演劇。近代以降に登場した形態で、市民劇や写実劇は、しばしば社会劇の形をとる。イプセンやバーナード・ショーの諸作品を正統派の淵源とする。

「婦人問題」筑摩全集類聚版脚注に、『明治四十年頃から盛んになった婦人解放運動』とある。

「譯文」松井のそれ。

「スパルタン」所謂、現在の一般名詞としての「スパルタ」の意。あまりに言辞不全にして無骨に過ぎ、舞台台詞としてこなれていないことを批判しているのである。

「袍」(はう(ほう))は、ここでは、すっぽりとからだを包む上着。古代ギリシャでは亜麻の襞を持った優美なそれを「キトン」と呼んだ。

「BARE ARMS」外に曝し出した両腕。

「SCEPTRE」セプター。君主が持つ象徴的且つ装飾的な杖・笏。

「聲は驢馬に似てゐた」芥川龍之介、結構、辛辣!

「匍伏」匍匐に同じい。

「牛込の家はあの翌日外から大体みに行つた……」この十月上旬、芥川家は、龍之介の実父新原敏三の持ち家である彼の牧場の傍の家を出ることを考えて始めており、どうも龍之介が先頭に立て家探しを始めていたようである。新全集の宮坂年譜によれば、同年十月の条に、『家探しを始める。牛込や大塚に土地や家を見に出かけており、結局、翌年』十『月末』に龍之介の終の棲家となる『田端に家を新築して転居する』こととなることが記されてある。「あの」の指示語がやや不審だが(或いは旧全集には載らないこの前の書簡に家探しのことを書いていたのかも知れない。とすれば、やや腑に落ちる)、「翌日」に、「外(そと)から大体(だいたい)み」(見)「に行つた」で、家屋には入らず、周囲を検分したということであろう。

「神代杉」「じんだいすぎ」と読む。水中或いは土中に埋もれて長い年月を経過した杉材のこと。過去に火山灰の中に埋没したものとされる。青黒く、木目が細かくて美しい。伊豆半島・箱根・京都・福井・屋久島などから掘り出され、工芸品や天井板などの材料として珍重される。

「高燥」(かうさう(こうそう))は、土地が高所にあって乾燥していることを言う。

「靜」「しづか」。

「大塚の豐島岡御陵墓」豊島岡墓地(としまがおかぼち:グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の東京都文京区大塚五丁目にある、皇族(皇后を除く)専用の墓地で護国寺に隣接する。

「狩野治五郞」「嘉納治五郞」(万延元(一八六〇)年~昭和一三(一九三八)年)の誤記。言わずと知れた、兵庫県生まれの柔道家・教育者で「講道館柔道」の創始者にして、日本のオリンピック初参加に尽力した彼である。

「塾」不詳。当初、嘉納が清国からの中国人留学生の受け入れに努め、彼らのために明治三二(一八九九)年に牛込に作った「弘文学院」(校長は松本亀次郎)のことではなかろうかと思ったが、あれは新宿区西五軒町で南東に一・七キロメートルも離れていて遠くはないが、「近い」とは言うまい。彼は別に英語学校「弘文館」を創立しているが、これは南神保町でさらに離れてしまう。

「シンヂ」アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)。前記宮坂年譜の同年十月七日の条に、『John M. Synge “The well of the saints ; a play” “The tinker’s wedding , riders to sea and the shadow of the glen”を読了』とある(後は作品集らしいが、作品名の一部が略されていて不備があるので、以下に正確なものを示した)。前者は三幕物の諧謔的戯曲「聖者の泉」(The Well of the Saints)で一九〇五年の戯曲、後者は最初のそれが同前の二幕物「鋳掛(いか)け屋の婚礼」(The Tinker's Wedding:一九〇八年)、二番目が一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)、最後のそれが民話・民俗素材を取り入れた一幕物「谷間の影」(In the Shadow of the Glen:一九〇三年)。この内、“Riders to the Sea”は、後に芥川からの慫慂を受けて、この井川恭が、第三次『新思潮』に「海への騎者」という邦題で翻訳を載せている。さらに奇しくも「聖者の泉」は芥川龍之介が晩年、人生の最後に真剣な恋をした相手アイルランド文学者片山廣子が松村みね子名義で訳したものをサイトで公開しているし(言っておくと、この「聖者の泉」は芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」の主題のヒントとしたとも考えられている)、また、シング著でウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵という贅沢な作品「アラン島」(The Aran Islands)も挿絵附きで「姉崎正見訳 附やぶちゃん注」をずっと昔に私のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で同じく公開している。

「DEIDE OF SORROWS」シングの一九一〇年の作の三幕物の詩的悲劇「悲運のディアドレ」(Deirdre of the Sollows)。非常に優れた作品であるが(中に出る乳母の長い呪詛シーンなどは「シェイクスピアの再来」という賛辞さえ寄せられた)、残念なことに本篇の完全な推敲を終えぬうちにシングは白玉楼中の人となってしまったのであった。

「from the house out」‘get out of the house’ の意であろう。

「Forerunner」英語で「先駆者」。筑摩全集類聚版脚注及び石割氏に注ともに、ロシア象徴主義草創期の詩人で最も著名な思想家ディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(Дмитрий Сергеевич Мережковский:ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年)の歴史小説三部作「キリストと反キリスト」中の一篇「神々の復活」(Воскресшие боги. Леонардо да Винчи:「神々の復活。レオナルド・ダ・ヴィンチ」。一八九六年)の英訳名とする。芥川龍之介は後の大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で連載されたアフォリズム集「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(リンク先は私のサイトの電子化注)の「妖婆」の標題で、

   *

 英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆と飜譯すれど、年少美貌のウイツチ亦決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覺者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品下れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顏玉の如きウイツチを描きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髮蒼顏のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否み難き事實ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文學中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は隨一とも稱すべき乎。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥〔やまうば〕鬼婆共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚隨録載〔の〕する所の夜星子なるもの、略妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

   *

と触れている。なお、トーマス・ハーディの作品名を芥川は‘Under the Greenwood’と記しているが、正しくは‘Under the Greenwood Tree’である。因みに、私は以上の「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」を、暴虎馮河で現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』として、やはりサイトに公開してある。]

「長崎君」一高時代の同級生。長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や、菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「プランターン」「プランターヌ」(フランス語:Platane)の誤記。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。

「明地」「あきち」。空き地。

「文展があしたから始まる」石割氏注によれば、第七回文部省美術展覧会で、この月の十月十五日から『上野竹の台陳列館』(現存しない。東京帝室博物館が管理する施設で、美術関係団体に貸し出された。この文展を始めとして各種美術展会場として使用されたが、東京府美術館の開館で、その役割を終えた。この陳列館は江戸時代に寛永寺中堂があった場所で、陳列館は現在の東京国立博物館の南側の噴水と奏楽堂の中間附近にあった)『で開催。京都』では十一月二十五日から開催されたとある。

「Lieder」「リーダア」。ドイツ語で‘Lied’の複数形で「歌曲」の意。

「十月幾日だかわすれた」「水曜日なのはたしかだ」当初、電子化しながら腑に落ちなかった。何故なら、底本の標題する大正二(一九一三)年十月十七日は万年カレンダーを調べると金曜日だからだった。しかし、石割氏の注で腑に落ちたのだった。彼は「文展があしたから始まる」と書いているから、書いているのは大正二年十月十四日か、日付が変わった十五日未明なのである(日付を忘れたとして調べようがないのは、深夜で自室で書いていたからであろうから、後者の可能性が高い)。彼は、これを翌日には出さずに(今までの書簡を見ると、しばしば龍之介はそういうことをしている。これは、或いは言い忘れたことを用心してのこと(追伸をするため、或いは、内容が気に入らず書き変えるケースもあろう)であることが多いように私は感じている)、二、三日ばかり経った十七日朝にでも封筒に入れて表裏書きをし、投函したものと考えると、腑に落ちたのであった。

2021/02/18

芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3)四通

 

大正二(一九一三)年八月二十九日・井川恭宛(封筒欠)

 

廿二日に東京へかへつて來た

どこの海水浴場でも八月の廿日になると客がぐつとへる 江尻もさうだつた それから廿日海水浴場で一中にゐる知り人にあつた 其人が明日かへると云ふのをきいたら羨しくなつた

それから丸善から本が來たしらせがうちからあつた

そんなこんなで急にかへる氣になつた 東京へかへつたら大へんうれしかつた 露の多い夕がた新橋の停車場を出て大な CARPET-TRANK をさげたまゝ電燈の赤みがかつた黃色い灯 瓦斯の白けた黃色い灯が錯落とつゞくのをみた時の心もちは未にわすれられない 矢張〝東京の小供〟の一人なんだらう

それから今日迄例の通り漫然とくらしてゐる 本も少しよんだ 午睡は大分した

其後君の方はどうきまつたかね

こつちでは君のまた東京へくると云ふ事が大分評判らしい 昨日谷森君にあつたらさう云つてた へえさうかねと感心してきいて來た 谷森君の話しではもう來るときまつた樣な事だつたが愈さうなつたのだらうか

この間の歌は面白かつた 湖の歌の始の方の五首「DIAN に」の六つが殊によかつた「霧靑む」「もの狂」は少し明星すぎる あの六首の外に「さりとては」「國引きに」「追分の」「とほじろく」がいゝ「あきらめの」の賛成だ

どつちにしても九月の初旬には君にあへる事と思ふ

 

  追憶二章

   I 外

今日もまた黃なる雲ゆく桐の木の葉かげにひとりものを思へる

車前草のうす紫の花ふみてものを思へば雲の影ゆく

小使部屋の外バケツの中に植ゑられしダリアの花の赤きが悲し

   Ⅱ 内

敎科書のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

禿頭のユンケルこそはおかしけれわが歌を見て WAS? ととひける

首まげてもの云ふ時はシーモアもあかき鸚鵡の心ちこそすれ

   秋

埃及の靑き陶器の百合模樣秋はつめたくひかりそめける

秋たてばガラスのひゞきのほの靑く心に來るかなしみのあり

額ぶちのすゝびし金をそことなくほの靑ませて秋は來にけり

銀座通馬車の金具のひゞきより何時しか秋はたちそめにけむ

仲助の撥のひゞきに蠟燭の白き火かげに秋はひろがる

秋風は淸國名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

 廿九日朝              龍

恭 君 案下

 

[やぶちゃん注:既注の清水の新定院(その近くの海水浴場「江尻」も既注)での静養から新宿の自宅へ帰っての一通。短歌は底本では前書を含めて全体が三字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて、総て行頭まで引き上げた(以下の書簡でも同じ)。

「CARPET-TRANK」絨毯地を張ったトランク。龍之介(満二十一)、なかなかお洒落だ。

「谷森」谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。PDFでこちらで読める)が恐らく唯一である。

「もう來るときまつた樣な事だつたが愈さうなつたのだらうか」これを読むに、井川はかなり進学に悩んだことが判り、龍之介は彼が戻ってくることに、内心、喜んでいたことが抑制しながらも、字背に読める。ここで後に掲げる同年九月十三日附の井川宛書簡で、それが空喜びに終ることを知らずに。

「湖」宍道湖であろう。

「DIAN」不詳。

「ユンケル」既出既注。一高のドイツ語のドイツ人講師。

「WAS?」ヴァス。ドイツ語で「何?」。

「シーモア」既出既注。一高の英語のイギリス人講師。

「仲助」不詳。「なかすけ」で歌舞伎役者三代目中村仲助か。]

 

 

大正二(一九一三)年九月五日・新宿発信・藤岡藏六宛

 

君の手紙をもらつたのは四日の夜遲くであつた投函の日附は二日になつてゐるこれから返事を出したのでは間にあはないかなと思つたが兎に角出してみる半切をかひにゆくのもLETTERPAPER[やぶちゃん注:縦書。]をかひにゆくのも兩方共きらした今は億劫だから一帖一錢五厘の紙で間に合はせる

東京へかへつてから何と云ふ事なくくらした罪と罰をよんだ四百五十何頁が悉心理描寫で持きつてゐる一木一草も hero の心理と沒交涉にかゝれてゐるのは一もない從つて plastic な所がない(これが僕には聊物足りなく感ずる所なのだが)其代りラスコルニコフと云ふ hero のカラクタアは凄い程强く出てゐるこのラスコルニコフと云ふ人殺しとソニアと云ふ淫責婦とが黃色くくすぶりながら燃えるランプの下で聖書(ラザロの復活の節―ヨハネ)をよむ scene は中でも殊に touching だと覺えてゐる始めてドストイエフスキーをよんで大へんに感心させられたが英譯が少ないので外のをつゞけてよむ訣には行かないで困る ブランドはよんだかね

僕はブランドにそんなに動かされなかつた今よんだらどうだかしらないが イブセンでは僕は「人形の家」と「ガブリエルボルクマン」が一番すきだ夏休の始にヴイリエ リイル アダンの「反逆」をよんだ「『人形の家』に先つた『人形の家』」と云はれる程この戲曲は人形の家と同じ樣な題材を取扱つてゐるのが面白い一八七〇年に出たのだから「人形の家」より餘程先に(人形の家は一八七九年)性の關係の問題を捉へてゐる事になる この間近郊をあるいたもうどこにも「秋」が來てゐる玉川の河原へ來たら白い磯の間に細い草がひよろひよろとはえて黃色くくれかゝつた空に流れてゐる雲までがしみじみ旅でもしてゐるやうな心もちをよびおこさせる日野 立川 豐田――玉川の沿岸の村々は獨步のむさし野をよんでから以來秋每に何度となく行つた事がある村である柿の肌が白く秋の日に光る頃になると茅葺の庇につもる落葉の數が一日一日と多くなる村の理髮店の鏡の反射にうす赤い窓の空ではけたゝましく百舌がなき跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]の黑犬も氣安くあるいてゆく街道の日なたには紺の手甲をかけた行商人の悠々とした呼聲がきこえる村役場の栅にさく赤いコスモスの花にも小さな墓地にさく枯梗や女郞花にもやさしい「秋」の眼づかひがみえるではないか

秋が來るのが待遠い

   秋の歌

金箔に靑める夕のうすあかりはやくも秋はふるへそめぬる

秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

秋風よユダヤ生れの年老いし寳石商もなみだするらむ

秋風は淸國名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

銀座通馬車の金具ひゞきよりいつしか秋はたちそめにけむ

鳶色の牝鷄に似るペツツオルド夫人の帽を秋の風ふく

仲助の撥のひゞきに蠟燭の白き火かげに秋はひろがる

夕雨は DOME の上の十字架の金にそゝげり秋きたるらし(ニコライ)

すゞかけの鬱金の落葉ちりしける鋪石道の霧のあけ方

やはらかき光の中にゆらめきて金の一葉のおつるひとゝき

わくら葉の黃より焦茶にうつりゆくうらさびしさにたへぬ心か

 九月五日朝             龍

藤岡君 案下

 

[やぶちゃん注:「plastic」この場合は「人工的な・不自然な・創作的な」の意か。

「カラクタア」character。

「touching」感動的。

「ブランド」ヘンリク・イプセンの一八六五年作の詩劇「ブラン」(Brand )。ノルウェーの劇作家イプセンの五幕の詩劇。主人公の牧師ブランは、あらゆる妥協を排し、「一切か無か」を信条として、ノルウェー西海岸のフィヨルドの村で、理想社会の建設に精魂を傾ける。ただ、聖書だけを心の拠り所として、自分の幸福を少しも顧みない。浅薄な村長の人道主義、財産作りに余念のない母親、さては断崖の上で踊り狂っている恋人たち、総てに彼は不満で、次第に、堕落した時代全体に戦いを挑む形となる。それでも、最後に念願の新しい教会が完成するが、その時は、既に最愛の母も妻子も総て失っていた。彼は不思議な寂しさを感じ、教会を去って、雪に覆われた山へ登ってゆくが、雷鳴と雪崩のなかに倒れて死ぬ。この作は、当時の作者の戦闘的理想主義を遺憾なく発揮した奇作として、世界を驚かし、それまで殆んど無名だったイプセンを、一夜にして世界文学の第一線に押し出した作品とされる。「ブランは最上の瞬間の私自身だ」と作者は述べている(梗概その他は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

はよんだかね

「ヴイリエ リイル アダン」サンボリスムを代表するフランスの作家・劇作家ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste Villiers de l'Isle-Adam 一八三八年~一八八九年)。「反逆」は一八七〇年初演の一幕物の戯曲‘La Révolte ’。好利を手に入れた夫に対して妻が去ることを宣言する反ブルジョア劇。

「豐田」現在の東京都日野市豊田附近(グーグル・マップ・データ)。

「ペツツオルド夫人」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ハンカ・ペスツオルド夫人。東京音楽学校教師として声楽の指導をした』とある。ノルウェーのピアニスト・声楽家(ソプラノ)ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold 一八六二年~一九三七年)。当該ウィキによれば、『パリでフランシス・トメ』『とエリ=ミリアム・ドラボルド』『とマリー・ジャエルに、ヴァイマルでフランツ・リストにピアノを学んだ。パリに戻ると』、『同地でマチルデ・マルケージに、さらにドレスデンでアグラヤ・オルゲニ』『に声楽を学んだ。バイロイトではコジマ・ワーグナーにリヒャルト・ワーグナーのオペラについて学』び、『その後、ドイツでオペラ』「タンホイザー」の『エリーザベト役が好評を博』した。明治四二(一九〇九)年に来日、大正一三(一九二四)年まで『東京音楽学校で声楽とピアノの指導に携わった。夫はドイツの仏教研究者ブルーノ・ペツォルト』。多くの日本人声楽家が彼女の薫陶を受けた。昭和一二(一九三七)年に『心臓病のために聖路加国際病院に入院し、同年』八月に亡くなった。『死後、夫と共に比叡山に葬られた』とある。或いは、芥川龍之介は音楽会で彼女を見知っていたのであろう。

「夕雨」私は「ゆふだち」と読みたい。

「DOME」「ニコライ」東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂ニコライ堂(グーグル・マップ・データ)。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライに由来し、正式名称は「東京復活大聖堂」で「イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂」の意である。]

 

 

大正二(一九一三)年九月十三日・京都府京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 至急・十三日 龍之介

 

敬啓

君の所から御禮狀が來たと云つて母が持つてきたからあけてみたら京都大學への轉學願と其理由書がはいつてる

多分間違だらうと思ふから早速送る いくら二度轉學するからと云つてかう迄あはてるには當るまい

序にかくが、僕のおやぢの名は道章で道昭ぢやあない 道昭では道鏡の甥のやうな氣がする

十九日からいろんな講義が始まる 英語を齋藤勇さんに敎はる 獨乙は大津さん 一體にあんまり面白くなささうだ 大學生におぢいさんの多いには驚く

時間の都合(五時迄一週中三日心理槪論がある)で曉星へも外語へも行かれない フランス語は來年迄延期しやうかとも思つてゐる

今日八木君や藤岡君にあつた

 

   そことなくさうびの香こそかよひくれうらわかき日のもののかなしみ

 

    十三日夕           龍

  井川君

 

[やぶちゃん注:「さうび」(薔薇)の〈愛人〉の喪失の苛立ちと哀しみが行間からいよよ燻ってくる。

「齋藤勇」(たけし 明治二〇(一八八七)年~昭和五七(一九八二)年)は英文学者・東京帝国大学名誉教授・国際基督教大学名誉教授・文学博士。日本に於ける英語・英米文学研究の生みの親であり、牧師植村正久に師事した敬虔なクリスチャンで日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。この当時は東京帝国大学文科大学講師嘱託に就任したばかりであった。彼は悲惨な事件で亡くなられたことを記憶している。

「大津」筑摩全集類聚版脚注は大津康とし、新全集「人名解説索引」では同人で『東大のドイツ語講師』とする。この名では大津康(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)しかいない。山梨県中巨摩郡三川村生まれで東京帝大独文科卒。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」では『学習院、第一高等学校で教鞭を執った。大正』八(一九一九)年に『ドイツに留学を命じられるが、病気になり』、『研学の中途で帰国した』とする。ところが、筑摩の脚注では卒業を『明治四十』(一九〇七)『年東大法文科卒』としている。講師であれば、履歴に出ないのは別におかしくはないが、筑摩の「法文科」は不審。当時の東京帝国大学は文科大学と法科大学に別れていたからである。

「曉星」筑摩全集類聚版脚注は、『九段にあるフランス系カトリックの学校』とする。現在の私立暁星小学校の前身であろう。現在の地番は千代田区富士見一丁目であるが、この附近は九段の旧地名との錯雑が激しい。

「外語」旧制の公立専門学校である東京外国語学校(東京外語大学の前身)。明治三二(一八九九)年に高等商業学校(一橋大学の前身)附属外国語学校が東京外国語学校と改称して分離・独立していた。

「八木」一高時代の同級生八木実道(理三)。既出既注

「藤岡」一高以来の友人。藤岡蔵六。既出既注。]

 

 

大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

大學の講義はつまらなけれど名だけきくと面白さうに思はるべく候今きいてゐるのを下にあぐれば 美學槪論、希臘羅馬文藝史、言語學槪論 支那戲曲講義 德川時代小說史 メレヂスのコミカル フイロソフイー、ゴールドスミスよりバアナアド シヨウに至る英文學上の HUMOUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLOT と性格、英文及英詩の FORM& DICTION 等に候堂々たるにあてらるゝ事と存候一笑大學程しかつめらしき顏したる馬鹿者の多き所はなかる可く候退屈なればなる可く出ずにうちでぶらぶらしてゐる事に致候

この頃ゴーチエをよみ候ゴーチエの著作は三十册に餘り候へど

CAPITAIN FRACASSE, M’D’LLE DE MAUPIN, ROMACE OF THE MUMMY の三卷のみ有名にて他は殆忘れられ居候三册共この緋天鴛絨のチヨツキを着た髮の長いロマンチシストの特色を現し居り一讀の値有之候へど殊に木乃伊のロマンスは君にすゝめたく候 三册のうちにて僕の最愛するはこれに候 短かけれどモーゼの埃及を去るに關係ある愛すべき LOVE-STORY に候

西鶴は持つて參つてもとりに御出下さつてもよろしく候

今日 YEATS SECRET ROSE を買つてまゐり一日をCELTIC LEGEND のうす明りに費し候

秋になり候

額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

秋たてば硝子のひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

「秋」はいま泣きじやくりつゝほの白き素足にひとり町をあゆむや

銀座通馬車の金具ひゞきよりいつしか秋はたちそめにけむ

埃及の靑き陶器の百合模樣つめたく秋はひかりそめける

秋風は中華名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

秋風よユダヤうまれの年老いし寶石商もなみだするらむ

鳶色の牝鷄に似るペツツオルド夫人の帽を秋の風ふく

わくら葉の黃より焦茶にうつりゆくうらさびしさに堪へぬ心か

そことなく秋たちしより蓼科の山むらさきにくれむとするらむ

みすゞかる科野(シナヌ)に入りぬつかのまもこのさびしさのわすれましさに (上二首信濃なる人に)

原がまゐり候 明日露西亞女帝號にて渡米 コロンビア大學に三年其後二年を歐大陸に費す由に候 仕立おろしの背廣か何かにて半日繪の話や音樂の話をしてかへり候 紐育でゴーガンのタヒチの女の復製があつたら早速送る由申居り難有お受けを致置候へど餘りあてにはならざる可く候

西洋へゆきたくなり候 誰か金でも出してくれないかなと思ひ候

一高へはいつた人から手紙をもらひ候 三年間の追憶がなつかしくない事もなく候もう一度岩本さんに叱られてみたい樣な氣にもなり候

禿頭のユンケルこそはおかしけれわが歌をみて WAS? ととひける

敎科書のかげにかくれてうたつくるこの天才をさはなとがめそ

首まげてもの云ときはシイモアもあかき鸚鵡のこゝちこそすれ

昔がなつかしいやうにやがて今をなつかしむ時がくるのかと思ふとさびしく候

そことなくさうびの香こそかよひくれうらわかき日のもののかなしみ

 十七日夜           ANTONIO

DON JUAN の息子ヘ

 

[やぶちゃん注:「メレヂス」イギリスの小説家ジョージ・メレディス(George Meredith 一八二八年~一九〇九年)。絢爛たるヴィクトリア朝式の文体を駆使し、ウィット溢れる心理喜劇風の作品を多く残した。代表作は「エゴイスト」(The Egoist :一八七九年)。早くに、坪内逍遙や夏目漱石が本邦に紹介し、特にその思想は「虞美人草」などの初期漱石作品に影響を与えていることが知られている。されば、この「コミカル フイロソフイー」とは、「メレディスの小説に於ける喜劇原理」という講義名であろう。

「ゴールドスミス」アイルランド生まれの詩人・小説家・劇作家オリヴァー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith 一七三〇年?~一七七四年)。主著に小説「ウェイクフィールドの牧師」(The Vicar of Wakefield:一七六六年:ドイツ文豪ゲーテは本作を「小説の鑑」と絶賛した)・喜劇「お人好し」(The Good-Natur'd Man:一七六八年初演)・喜劇「負けるが勝ち」(She Stoops to Conquer:「彼女は屈服して征服する」:一七七三年初演)。

「バアナアド シヨウ」アイルランドの文学者・脚本家・劇作家にして教育家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)。英語圏に於けるマルチプルな業績で知られ、社会主義者・ジャーナリストでもあった。まさにこの龍之介の書簡が書かれた同じ年、彼はイギリス階級社会への辛辣な風刺を込めた芝居「ピグマリオン」(Pygmalion)が初演(ウィーン)されている(完成は前年)。同作は後の舞台ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady:一九五六年ブロードウェイ初演)及びその映画化作品の原作である。

「DICTION」語法。

「ゴーチエ」フランスの詩人・小説家・劇作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)。かのシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal:一八五七年初版)を彼に献辞しており(ボードレールの死後にゴーティエは追悼文と作家論を書き、それは後の新版「悪の華」の序文ともなっている)、若き日のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が愛読して英訳も行っている作家である。以下の彼の著作は、「CAPITAIN FRACASSE」が「キャピテン・フラカス」(Le Capitaine Fracasse:「フランカッセ隊長」:一八六三年)で冒険活劇小説、「M’D’LLE DE MAUPIN」は「モーパン嬢」(Mademoiselle de Maupin:「マドモアゼール・モーパン」:一八三五年)で耽美的な書簡体恋愛小説、「ROMACE OF THE MUMMY」は「木乃伊(ミイラ)の物語」(Le Roman de la momie:一八五八年)で、彼の「死霊の恋」(La Morte amoureuse:一八三六年)ともに私の大好きな幻想小説である。

「緋天鴛絨」「ひビロード」。

「YEATS の SECRET ROSE」アイルランドの詩人・劇作家で民族演劇運動から「アイルランド文芸復興」の担い手となり、モダニズム詩の新境地を拓き、二十世紀英語文学に於ける最も重要な詩人の一人と評されるウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)の幻想作品集「神秘の薔薇」(The Secret Rose:一八九七年)。芥川龍之介は、この翌年の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。これは翻訳であるが、その《老い》というモチーフに於いて、芥川龍之介の処女小説である「老年」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)や、初期習作である「風狂人」(リンク先は私の「《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」で注釈附き)との強い連関が認められる。しかし、龍之介にとっては、《老い》が、常に《死》への願望傾斜と、その反発への振り子の釣り合い点を示すテーマとして、終生、纏わりつき続けたのであり、このテーマは初期の彼の文学のみでなく、芥川龍之介文学という一体全身を精緻に銀のピンセットで解剖する際の重大なマーカーの一つであると私は思っている。

「CELTIC LEGEND」ケルトの伝説。

「うす明り」芥川龍之介は別に、やはりイエーツの「The Celtic Twilight」の抄訳(芥川龍之介によるコメント附き)翻訳『「ケルトの薄明」より』(大正三年四月『新思潮』第三号。署名は「柳川隆之介」)がある(リンク先は新字正仮名の「青空文庫」版)。

秋になり候

「みすゞかる科野(シナヌ)」「水篶〔みすず〕かる信濃」「水篶〔みすず〕かる」は信濃の枕詞(但し、近世以降)。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな」の私の注の冒頭の太字部分を参照されたい。「信濃」の原型「科野」の表記は「古事記」に現われ、その初期の読みも「しなぬ」である。

「信濃なる人」不詳。二人の可能性までは考えたが、特に示す必要はなかろう。

「原」原善一郎(明治二五(一八九二)年~昭和一二(一九三七)年)三中の一年後輩。神奈川県生まれ。横浜の大生糸商・貿易商であった原富太郎(号・三渓)の長男として生まれた。三中から早稲田高等学院に進み、そこを卒業したこの年、アメリカのコロンビア大学に留学した。祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社副社長となり、家業を継ぐ一方、横浜興信銀行・「帝国蚕糸」の重役を務めた。他にも美術・文学の後援者としても知られ、岸田劉生・阿部次郎・和辻哲郎・安倍能成とも親交があった。ここでは龍之介が彼に羨望の眼を向けつつも、かすかにその軽薄な感じを蔑視している雰囲気が感じられる。「西洋へゆきたくなり候 誰か金でも出してくれないかなと思ひ候」とは、龍之介が実は生涯感じ続けたならぬ夢だったのである。せめても彼に舞い込んだのは、「毎日新聞社特派員」としての中国への旅だけであった。

「露西亞女帝號」不詳。エカテリーナが一番しっくりくるが。当時の日米航路の船名には見当たらない。

「岩本」一高のドイツ語及び哲学担当の教授岩本禎。既出既注

「ANTONIO」何となく「AKUTAGAWA」のアナグラムっぽい感じはする。

「DON JUAN の息子」ドン・ファン(スペイン語:Don Juan:十七世紀のスペインの伝説上の人物で、ティルソ・デ・モリーナ(Tirso de Molina 一五七九年~一六四八年)の戯曲「セビリアの色事師と石の客」(El burlador de Sevilla y convidado de piedra:英訳 The Trickster of Seville and the Stone Guest )が最も完成した基原作。美男で好色な放蕩的な人物として多くの文学作品に描かれ、「プレイボーイ」「女たらし」の代名詞としても使われる(「ドン」はスペイン語圏等における男性の尊称))。]

2021/02/16

芥川龍之介書簡抄15 / 大正二(一九一三)年書簡より(2)三通

 

大正二(一九一三)年八月四日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

朝床の中で君の手紙をよんだ

何にしても大した變動もなく事がすんだのなら御目出度いと思ふ 又君自身が正當と考へてした事ならそれは誰の考へるよりも更に正當なものでなければならないと思ふ(秋たつ頃に詳しい話をきかせてもらへるだらうと思ふけれど)ANATOLE FRANCE[やぶちゃん注:縦書。]がこんな事を云つてゐる

  You are not a child: if you love and are loved,

  do what you think right. and don't complicate

  love by material interests which have nothing

  to do with feeling. That is the advice of a friend.

咋日平塚を訪ねた 三中の宿直室も久しぶりで行つてみるとなつかしい まづしく土鉢の中にさく天竺蜀葵の赤もしめつぽいビスケツトをもつた白い皿も 静にあの四疊で獨乙語の独習をしてゐる平塚にはふさはしいやうな氣がする 平塚に依田が鵠沼へ行つた事をきいた それから依田から君が大へんふさいでゐる事をきいたと云ふ事もきいた どうしてふさいでゐるのかなつてきいて見たら平塚は幼稚な論理と單純な推側から君のふさいでゐる理由を体の弱い事と叔父さんに澤山用を云ひつけられる事とその二つから来る大學入學後の心配とに歸着させた それを聞いてる間に僕は平塚がしみじみ氣の毒になつた さうしてこんな事をきかなければよかつたと思つた それのみならず第一僕自身が君の内事をきくだけの資格があるだらうかとそれさへ疑はしくなつて來た そこで僕も其三つの理由に賛成して「さうにちがいない」と斷定に應援を添へてやつた そのあとで Grimm märchen の中のわからない所をきかれたが一寸よんでみても判然しないからいゝ加滅な事を敎へて「さうにちがいない 獨乙語にはこんな使ひ方が澤山ある」と誤譯にまで應援を加へて來た

六日の朝の汽車で僕はたつ事にした 行くさきは静岡縣安倍郡不二見村新定院

一二週間は西川と一緖にゐてあとは獨になるかもしれない 本を少しよむつもりでもつてゆくけれどこれも大部分よまずにもつてかへるやうな事になるかもしれない、

君の方も多分さうだらうが東京はこの二三日大へんすゞしかつた 少し眼がわるくなつた

杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]の銘を刻つて貰はうかとも思つてる 赤百合か何かの中に杖の頭へ女の泣顔を刻んで MISERY OF HUMANITY て云つてる詩人の事を思ひ出す

頭がわるくなつてすゞしくつても勉强が出來ない

 

   つかのまのゆめのなかなるつかのまをめづるあまりに身をおとしける

 

   あゝ遂にみぢかきゆめをつゞけゆく逸樂びととなりにけらしな

 

   によひよき絹の小枕(クツサン)薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓[やぶちゃん注:「によひ」はママ。]

 

   香料をふりそゝぎたるふしどより戀の柩にしくものはなし

 

いやみな歌だつてわらはれるかもしれない 午前十時サルヒアの花が暑い日の光を吸つてゐる

四日             龍

   JOY兄 案下

 

[やぶちゃん注:最初の引用英文は完全に続いて底本では二行であるが、二行目も二字下げであることから、ブラウザでの不具合も考えて、以上のように四行に分割した。短歌の前後は一行空けた。

「何にしても大した變動もなく事がすんだのなら御目出度いと思ふ 又君自身が正當と考へてした事ならそれは誰の考へるよりも更に正當なものでなければならないと思ふ(秋たつ頃に詳しい話をきかせてもらへるだらうと思ふけれど)」芥川龍之介が山本の気持ちの整理に一ヶ月ぐらいは時間がかかるらしいと踏んでいること、また、英文引用で家人の目に触れても意味が判らぬようにしている、その忠告の内容(後で訳す)、失恋の自作短歌を並べた後に「いやみな歌だつてわらはれるかもしれない」と言っていること、そうして何より、次に掲げる八月十一日の同じ山本宛書簡に於いて、俄然、芥川龍之介が自分自身の持つ結婚観をぶち上げ、しかもその中で、『第一に平凡な世間並の忠告――愛さない女はもらふな――を第二に自分を理解する事の出來ない女をもらふなをすゝめたいと思ふ』と記していることからも、ここで起こった山本を廻る家内の騒擾は、親から示された山本の婚約・結婚話を山本が拒否したことに基づくものではないかと想像される。

「ANATOLE FRANCE」芥川龍之介の好きなフランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)。以下のその引用(小説から。後述する)は、

   *

 あなたは子供ではない。あなたが人を愛し、愛されているのなら、あなたが正当であると思うことをするべきであって、感情とは何の関係もない物質的な興味などによって、愛を複雑にしてはならない。それが友人としての忠告である。

   *

か。これは一八九四年に発表された、恋愛長編小説「紅い百合」(Le Lys Rouge:十九世紀末のパリとフィレンツェを舞台として軽薄奢侈な社交界に飽きて真実の愛と自由を求めた貴婦人テレーズの官能的で儚い恋愛模様を描く)の「XVII」(第十七章)の末尾に現われる台詞である。例えば、Internet archive」にある英訳本(発行は原作と同年)のここを見られたい(右の「167」ページ七行目)。今少しボリュームがあるが、ほぼ同一の内容の英訳が読める。

「平塚」既注。「僕は平塚がしみじみ氣の毒になつた」理由もそちらで判るように注してある。

「天竺蜀葵」フウロソウ目フウロソウ科テンジクアオイ属 Pelargonium のことであるが、一般には「ゼラニウム」の名で知られる園芸品種である。当該ウィキによれば、属名は『ギリシャ語の「こうのとり」』(ラテン文字転写:pelargo)」『に由来し、果実に錐状の突起があり、こうのとりのくちばしに似ているためである』。『普通、園芸植物として栽培されるものはゼラニウムと総称されるが、紛らわしいことに、ゼラニウムとは同じ科のゲンノショウコなどが含まれるフウロソウ属(Geranium)のことでもある。この』二『つの属に属する植物は元は Geranium 属にまとめられていたが』、一七八九年に『多肉質の Pelargonium 属を分離した。園芸植物として栽培されていたテンジクアオイ類はこのときに Pelargonium 属に入ったのであるが、古くから Geranium(ゼラニウム、ゲラニウム)の名で親しまれてきたために、園芸名としてはゼラニウムの呼び名が残ったのである。園芸店などでも、本属植物の一部をラテン名でペラルゴニウム(Pelargonium )で呼び、その一方で本属植物の一部を「ゼラニウム」と呼んでいることがあり、これらは全然』、『別の植物のような印象を与えていることがある。ペラルゴニウムとゼラニウムを意識的に区別している場合は、ペラルゴニウム属のうち』、『一季咲きのものをペラルゴニウム、四季咲きのものをゼラニウムとしているようである』。『最初に栽培されたのは南アフリカ原産の Pelargonium triste である』(この元品種、調べてみたが、岩のような塊根で花も地味で、凡そ私の「ゼラニムウム」のイメージではない(愛好家には人気種である)。種小名「トリステ」でこれはラテン語の「つまらない・鈍い・さえない」で、同種の小さい地味な花に由来しているらしい)。『バラを思わせる芳香を持つPelargonium graveolens は』単に「ゼラニウム」、或いは「ローズ・ゼラニウム」、別に「貧乏人の薔薇」『(英語:poor-man's rose)と呼ばれ、和名は「匂い天竺葵」。香水や香料の原料として昔から栽培されていた』とある。

「依田」依田誠。龍之介の三中時代の同級生。三年次、担任で英語教師であった広瀬雄(芥川龍之介書簡既出)と龍之介と三人で明治四一(一九〇八)年七月の夏休みに関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。

「Grimm の märchen」「グリムのメルヒェン」。グリム兄弟の御伽噺。

「六日の朝の汽車で僕はたつ事にした 行くさきは静岡縣安倍郡不二見村新定院」「一二週間は西川と一緖にゐてあとは獨になるかもしれない 本を少しよむつもりでもつてゆくけれどこれも大部分よまずにもつてかへるやうな事になるかもしれない」既注

「杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語の銘を刻つて貰はうかとも思つてる」芥川龍之介は終生、ステッキ好きであった。私の、芥川龍之介を素材とした田中純の実名小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表。佐藤泰治の挿絵)を読まれたい。

「MISERY OF HUMANITY」「人類の悲惨さ」。フランス語なら、‘La misère de la vie’か。私の好きなドリュ・ラ・ロシェル(Drieu La Rochelle)の‘Le Feu Follet’(「消えゆく炎」・「鬼火」。私のサイト・ブログ名の起原)の主人公 Alain Leroy の言いそうな台詞だ。フランス語原本初版の‘Le Lys Rougeも「Internet archive」で縦覧したが、相応するシークエンスには行き当たらなかった。龍之介自身が「赤百合か何かの中に」と言っているので、最低限度以上(フル・テクストの各単語による検索)に穿鑿する気にならなかった。悪しからず。

「小枕(クツサン)」「クツサン」はルビ。フランス語 ‘coussin’。クッサン。「クッション」のこと。

「サルヒア」シソ目シソ科イヌハッカ亜科ハッカ連アキギリ属サルビア Salvia splendens

「JOY」英語で「喜び」の意であるから、山本の名の「喜譽司」に掛けた英語の綽名であろう。この前の八月一日附書簡でも宛名・敬称に『M. JOY 案下』と既に記している。実は「J」は下方が有意に長く伸びている活字なのだが、表示出来ない(以下も同じ)。]

 

 

大正二(一九一三)年八月八日・不二見村新定院発信・淺野三千三宛(絵葉書)

 

僕はこんな寶物をみるのがすきです本物でも贋でもかまはない唯其製作者か所持者が古ければ古い程いゝのです丁度古老の口から中世紀の傳說をきいてゐる樣な気がするからです眞贋とか作の善惡とかを標準にして寶物を拜見するほど人の好いのんきな事はないと思ひます此處には此外に蜷川新左衞門の念持佛と云ふしやれた觀音樣があります顔の長い未來派の作品の樣な觀音さまです

    八日朝  蜜柑の木の下にて 芥川生

 

[やぶちゃん注:既注の臨済宗妙心寺派雲門山新定院の歴史は公式サイトのこちらを参照されたい。

「淺野三千三」(みちぞう 明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は千葉県生まれで、三中の芥川龍之介の後輩。後に東京帝国大学薬学科に入学し、大正八(一九一九)年に卒業後、母校帝大薬科の教授となり、「伝染病研究所」化学部・薬学科植物化学・生薬学講座を担当した。地依成分研究で知られ、脂肪族地依酸を五型に分類し、その体系化を図り、微生物領域の脂肪酸研究を進めるなど、天然物有機化学の分野で大きな業績を残した。昭和一一(一九三六)年の「プルビン酸系地依色素に関する研究」で学士院賞を受賞、没した翌年には「ジフテリア菌脂肪酸の研究」に対して日本薬学会学術賞が贈られている。

「蜷川新左衞門」は室町時代の連歌師で俗名を蜷川新右衛門親当(ちかまさ)と言った智蘊(ちうん ?~文安五(一四四八)年)のことか。宮道(みやじ)氏の出で、足利義教に仕えたが、義教の死後に出家し、智蘊と称した。和歌を清巌正徹に学び、「正徹物語」下巻は彼の聞き書きとされる。連歌では、後に飯尾宗祇が選んだ「連歌七賢」の一人とされ、永享五(一四三三)年の「「北野社一日一万句連歌」に参加するなどして活躍した。高山宗砌とともに連歌中興の祖となった人物で、「一休さん」の相手としてもお馴染みである。但し、現在の新定院の寺宝には記されていない。聖観世音菩薩はあるが、それがこれかどうかは判らぬ。]

 

 

大正二(一九一三)年八月十一日(年月推定)・「相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊にて」・山本喜譽司樣 親披

 

     +

君の手紙をみていろいろな事を考へた 僕は容易に自分を忘れる事の出来ない性分だから何を考へるのでも必自分が中心になる だから僕の考へは僕だけに通用する考へは人には通用しないのにちがひない けれども君の手紙をみたら何か書きたくなつたからとりとめのない考をかいて送らうと思ふ 此 ink の色が僕は大嫌なのだが外に ink がないから仕方がない 紙も Note‐book からさいた罫紙の外に紙がないのだから仕方がない

     +

僕には結婚が〝二個のbeimgの醜い結合〟とも〝corps of love〟とも考へられない かうした語が普遍的な意味を持つてゐるのでなく世間並な結婚に對する嘲罵の語であるなら贊同の意を表さない事もないが結婚と云ふ事が其事の性質上必然的にかうした語のやうな結果に陷らねばならぬと云ふ事はどうしても信ずる事が出來ない(僕は夢想家だからこれも illusion の一つかもしれないが)僕は結婚によつて我々の生活は完成を告げると思ふ しかしこゝに云ふ結婚を世間並に一對の男女を結びつける形式と考へたら大へんな間違になる 結婚と云ふのは宇宙に存在する二の實在が一体になる事を云ふのだ 原始神の炎のやうな熱と愛とを以て二つの星宿を一つの光芒の中に合せしめる事を云ふのだ 二實在が一体[やぶちゃん注:ママ。]をなす爲には先其間に愛がなければならない(僕は性欲と愛とを同一とは考へない)次いでは其間に円満な理解がなければならない この二物を缺いた結婚は葡萄も酵母も持たない酒造りで生活の酒は決して其手から釀される事はないと思ふ かうして自己が他人の中に生き又他人が自己の中に生きる落寞とした〝生〟の路はかくして始めて薔薇と百合とに蔽はれる事が出來るのではないか 人はかう云ふかもしれない〝それなら二人の男女が相愛すればいゝではないか 何に苦んで結婚と云ふ Bond を帶びる必要があらう〟しかし人間はアダムとイブとの樣に生きてゐるのではない 個人は社會と對立してゐる 結婚の Bond なくして同じき結果を得んが爲に他の欲望を犧牲にしなければならぬ(たとへば道義慾)さうすると結婚の Bond を帶びると云ふ事は一所に死して萬所に生きるのである 一所に死するのではない その結婚の完全に行はるゝ限り唯萬所に生きるのである どうして之が love corps であらう

IBSEN は結婚問題に解決を與へて相愛する男女は結婚するなと云つてゐる しかし之は解決ではないと思ふ 何となれば問題は how にあるのに IBSEN は問題そのものを否定する だから之は無解決と同じである

君の場合に於ても僕としてすゝめ得る事があるなら第一に平凡な世間並の忠告――愛さない女はもらふな――を第二に自分を理解する事の出來ない女をもらふなをすゝめたいと思ふ

理解し得る得ないは女の敎育程度の如何にあるのではない 女の頭のいゝ惡いにあるのではない(全然之によらないとも云へない 少くも敎育程度の如何が理解に關係するより頭の善惡が理解に關係する方が遙に多いと思ふ)自分のと同じ心の傾向を持つてゐるかどうか 自分と同じ感情を持つ事が出來るかどうかにあると思ふ

僕のいゝかげんな想像を元にして推想してみるとお鶴さんを貰ふのが一番よささうだ しかしさうなるとおしもさんも少しかはいさうだなと思ふ 一寸二人とも見たいやうな氣もする

さうさうもう一つかく事があつた 一度嫁に行つた女はいけない 別れたのでもつれあひがしんだのでもその男の幽靈がついてゐるからね

よみかへしてみると議論が甚 conventional な上に實際自分はこんなに結婚を高く estimateしてゐるかなと疑はしくもなつた いゝやどうせなまけものがなまけながら考へた事だ そのつもりで君もよんでくれるだらう

何でも人の噂によると僕は influencial で人にbad influenceを及ぼしながら自分はすまして見てゐるのださうだ 僕の云ふ事は皆詭弁で Paradox で論理を無視してゐるのださうだ もしさうなら君もこんな手紙のinfluence なんかうけないやうにしたまヘ

僕はいつかも日記にかいた事がある「我 我と同じくつくられたる人を求む かゝる人ありやなしや われは之をしらずされど何となく世界のいづくかにかゝる人ありてわれをまてるが如き心ちするなり これ亦夢なるやも知らざれどかゝる人なくしては われ 生くるに堪へず」一人でもいゝ 一人でもいゝと思ふ 年上でも年下でもいゝ 男でも女でらいゝと思ふ かぎりなくさびしい 僕は何時でもかぎりなくさびしい

そのうちに君にあひたい 事によつたら東京へかへる時に鵠沼へ二三時間よるか藤澤迄君に出て來てもらふかもしれない

    十一日朝   蜜柑の木の下にて 龍

   MY‘JOY’

 

[やぶちゃん注:「相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊にて」二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」(石割透編)では「にて」が『から』となっているが、孰れも不審である。この住所は当時、山本の居た住所であり、この発信日には龍之介は清水の新定院にいた。従ってこれは芥川龍之介の誤記と考えられる。にしても、底本の旧全集と以上が異なるのは、これまた、おかしな話である。新全集を所持しないので判らぬ。石割氏はこの不審に注してもいない。

「beimg」存在物。人間。

「corps of love」「恋愛感情の群れ」か。

「illusion」幻想・錯覚・迷い・勘違い・誤解。

「Bond」ポジティヴには「絆(きづな)」であるが、龍之介は以下でフラットな「結合・同盟・盟約」、さらにはネガティヴな「束縛・拘束」の意も含ませているように読める。

「IBSEN」既出既注のノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)。

「相愛する男女は結婚するなと云つてゐる」イプセンの「人形の家」を始めとして、彼がそう訴えているのは判る。

「how」どのようにするべきか。

「お鶴さん」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の注で石割氏は、『本所で「藍問屋」を営んでいた娘。「本所両国」(一九二七年)では、山本の姪の芥川夫人が、山本が「好きだつた人」と話している』とある。芥川龍之介の「本所兩國」(リンク先は私の電子化注)は最晩年の昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二回休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記四六――六〇」を附して、連載されたもの。当時は龍之介は大阪毎日新聞社の特別社員であった。その「方丈記」と題した一節で、旧地の本所をその日訪ねて田端の家に帰り、家族らと話をする中で、

   *

 妻「お鶴さんの家はどうなつたでせう?」

 僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋の娘さんか。」

 妻「ええ、兄さんの好きだつた人。」

 僕「あの家どうだつたかな。兄さんのためにも見て來るんだつけ。尤も前は通つたんだけれども。」

   *

と出るのを指す。

「おしもさん」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊・旧全集対象)の「人名索引」でもこの書簡のみを指示する。

「一度嫁に行つた女はいけない 別れたのでもつれあひがしんだのでもその男の幽靈がついてゐるからね」これは実の姉ヒサを念頭に置いていると考えられる。既に注した通り、彼女は葛巻義定(義敏は彼との間の子)と結婚したが、明治四三(一九一〇)年九月に離婚している(後にヒサは西川豊と再婚したが、彼が鉄道自殺し、晩年の芥川龍之介はその後始末に奔走する羽目となり、龍之介は遺書(リンク先は「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)でこの実姉ヒサ及び実弟新原得二と義絶することを妻文に命じていたと推定されている(その部分は死後に遺族によって破棄されている。因みにそこには義敏の扶養の指示もあったと推定される)。なお、ヒサはその後に最初の夫である義定と再々婚している)。

conventional」因習的な・紋切り型の・独創性を欠いた・陳腐な。

estimate」見積もる・評価する・価値判断する。

「influencial」influential であろう。他者に対して有意な影響を及ぼすさまを謂う。

「bad influence」悪い影響。

「Paradox」逆説。

『僕はいつかも日記にかいた事がある「我 我と同じくつくられたる人を求む かゝる人ありやなしや われは之をしらずされど何となく世界のいづくかにかゝる人ありてわれをまてるが如き心ちするなり これ亦夢なるやも知らざれどかゝる人なくしては われ 生くるに堪へず」一人でもいゝ 一人でもいゝと思ふ 年上でも年下でもいゝ 男でも女でらいゝと思ふ かぎりなくさびしい 僕は何時でもかぎりなくさびしい』これは、芥川龍之介の後の、多数の女性との恋愛関係を持つことになることを知っている我々には、何んとも言えぬ、甚だ苦いものを感じさせざるを得ない。しかも、この時、龍之介は、相手の山本の姪である塚本文のことを、未だ、その恋愛対象の範疇に、一抹も全く含んでいなかったであろうことを思うにつけても、である。]

2021/02/11

芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2)三通

 

大正二(一九一三)年六月十五日・牛込區赤城元町廿一番地竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)

 

わざわざうちを御知らせ下すつて難有うございました 休になつたらあがります

試驗がいやで早くすめばいゝと思つてます それはよみ初めたヒユイズマンズが試驗にさまたげられたからでもあるので每日つまらない獨乙語や漢文をよむのがうんざりしてしまひます

英文科へ行かうか外の科へ行かうかそれも今では迷つてゐます(勿論法科なんぞへはかはりませんけれど)昔の樣な HEDONIST でゐられたらこんな心配も起らないのですけれど

蒲田へ行つてカーネーシヨンの切り花をかつてきて机の上へのせて置きました 甘いにほひが部屋中一杯になります

 

   靑簾丹前風呂のよき湯女がひとり文かく石竹の花

 

            さようなら

    十五日朝        龍

 

[やぶちゃん注:短歌の前後は一行空けた。

「ヒユイズマンズ」フランスの幻想作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans 一八四八年~一九〇七年:本名 Georges Charles Huysmans)。著名な画家を輩出したフランドルの家系に生まれ,早く父を失った。法律を学んで、一八六八年以来、三十年間に亙って内務省に勤務した。散文詩「香料箱」(Le Drageoir à épices:一八七四年を発表した後、小説「マルト」(Marthe:一八七六年)でゾラに認められ、自然主義作家グループと交わった。精彩ある生活描写に個性的作風を示し、幾つかの作品を発表したが、病的に鋭い感覚とデカダンスにあふれた傑作「さかしま」(À rebours:一八八四年)を著した後、超自然的世界への関心を深め、悪魔主義に傾斜、中世の幼児殺戮者ジル・ド・レーを探究した「彼方」(Là-bas:一八九一年)を経て、修道院に入り、カトリックに改宗、「路上」(En route:一八九五年)、「伽藍」(La Cathédrale:一八九八年)、「修練者」(L'Oblat:一九〇三年)などを発表した。また、美術批評にも優れ、「近代美術」(L'Art moderne:一八八三年)、「画家論」(Certains:一八八九年)などで「印象派」の紹介にも努めた。その小説はフランス 十九世紀末の美学・知性。精神生活の諸段階を要約したものと言え(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)、イギリスのオスカー・ワイルドとともに代表的な「デカダン派」作家とされる。ここで龍之介が読んでいるのが何かは定かでないが、怪奇趣味へ傾倒していた当時の彼からみて、私も偏愛する幻想小説「さかしま」や「彼方」であるようには感じられる。

「HEDONIST」快楽主義者。]

 

 

大正二(一九一三)年六月二十三日・消印二十四日・東京市牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(繪葉書)

 

水楢落葉松白樺の若葉 山つゝじのにほひ 鶯の聲 その間に燻し銀のやうな湖が鈍く光つてゐます 何處かに人の好い顏の赤いすこつとらんど人がゐて BAG-PIPE を吹てゐるやうな氣がしてしかたがありません

    廿三日  赤城にて   龍

 My heart is in the Highland!

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この前の六月十二日から二十日が一高の卒業試験で、それが終わった二日後の六月二十二日から同級生の井川恭・長崎太郎・藤岡蔵六とともに赤城山方面へ旅行に出立、この二十三日には午前四時に起床し、赤城山に登頂、下山して伊香保に宿泊、翌二十四日には榛名山に登頂、二十五日に伊香保に滞在、二十六日に藤岡とともに帰京している(井川と長崎は、二人と別れ、妙義山から軽井沢に向かっている)。

「落葉松」「からまつ」。

「湖」赤城山南西山麓の大沼であろう。]

 

 

大正二(一九一三)年七月十七日・消印十八日・消印内藤新宿・井川恭宛[やぶちゃん注:本文中で示した通り、二種を合成して原書簡を推定復元した。]

 

 卒業式をすませてから何と云ふ事もなくくらしてしまつた。人が來たり、人を訪ねたりする。ほかの人に遇はない日は一日もない。休みになつた割合に忙しいのでこまる。本も二、三册よんだ。

この休暇にかぎつて、今から休みの日數が非常に少いやうな氣がしてゐる。もうすぐに新學期にはいる。學校がはじまる。それがいやで仕方がない。いやだと云ふ中には、大分新しい大學の生活と云ふ不氣味な感じが含まれてゐるのは云ふまでもないが、同時にまた君がゐなくなつたあとの三年のさびしさを豫感するのも、いやな感じを起させる大きな FACTOR になつてゐる。顧ると自分の生活は何時でも影のうすい生活のやうな氣がする。自已の烙印を刻するものが何もないやうな氣がする。自分のオリギナリテートの弱い、始終他人の思想と感情とからつくられた生活のやうな氣がする。「やうな氣がする」に止めておいてくれるのは、自分の VANITY であらう。實際かうしたみすぼらしい生活だとしか考へられない。

 たとへば、自分が何かしやべつてゐる。しやべつてゐるのは自分の舌だが、舌をうごかしてゐるのは自分ではない。無意識に之をやつてゐる人は幸福だらうが、意識した以上こんな不快な自己屈辱を感ずる事は外にはない。此いやさが高じると、隨分思ひ切つた事までして自已を主張してみたくなる。自分はここで三年間の自分の我儘に對する君の寬大な態度を感謝するのを最適當だと信ずる。自分は一高生活の記億はすべて消滅しても、君と一緖にゐた事を忘却することは決してないだらうと思ふ。こんな事を云ふと、安つぽい感情のエキザジェレーションのやうに聞えるからしれないが、自分が感情を誇張するのを輕蔑してゐる事は君もつてゐるだらう。兎に角自分は始終君の才能の波動を自分の心の上に感じてゐた。此事は君が京都の大學へゆく事になり、自分が獨り東京にのこる事になつた今日、殊に痛切に思返へされる。遠慮なく云はせてくれ給へ。自分と君との間には感情の相違がある。感覺の相違がある。君は君の感情なり感覺なりを justify する爲によく說明をする(自分は之を好かない)。僕も同樣に說明する事が出來る(この相違から君と僕の間の趣味の相違は起るのだが)。かうした相違は橫の相違で、竪の相違ではないからである。對等に權利のある相違で、高低の批判を下す可らざる相違だからである。しかし理智の相違はさうはゆかない。自分が君の透徹した理智の前に立つた時に、自己の姿は如何に曖昧に、如何に貪弱に見えたらう。君の論理の地盤は如何に堅固に、如何に緻密に見えたらう。之は思想上の問題についてばかりではない。實行上の君の ability の前に自分は如何に自分の弱小を感じたらう。こんな事がある。二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何佩なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした。その時に感じた不快な氣はその後數月に亙つて僕を剌戟して、何册かの本をよませたのであつた。[やぶちゃん注:以下、ここまでの底本である岩波旧全集第十巻(一九七八年刊)では『〔この間二十四行ばかり省略〕』とある。以下は、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」で復元されてあるものを参考に、漢字を概ね正字化し(その際は岩波旧全集のここまでの表記に従った)、芥川龍之介の癖を参考に現代仮名遣を歴史的仮名遣にした。以下最後まで改行字下げ等は岩波文庫に概ね従った。こんなに君は自分が自他の優劣を最[やぶちゃん注:「もつとも」。]明白に見る事が出來る鏡であつた。自分は誰よりも君を評價する點に於て誤らないと信じてゐる。君と僕とは友人と友人との時より或は師と弟子との時の方が多かつたかもしれない(唯幸に主と隷とにはならなかつた)。君の才能の波動を自分の心の上に感ずれば感ずるほど、自分の君に對する尊敬と嘆稱との念が增して行つたのは當然であらう。獨[やぶちゃん注:「ひとり」。]之に止らず自分は屢〻自ら顧みて(殊に君以外の人に對してゐる場合に)、「自己の傀儡」が「君の思想」を以て口をきいてゐるのを發見した。オリギナリテートの少ない人間にとつてはこんな事も家常茶飯[やぶちゃん注:「かじやうさはん」。]かもしれない。寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]已むを得ない事なのかもしれない。しかし自分には之が如何にも卑劣に如何にも下等に見えた。目をきくばかりではない。更に進んでは「自己の傀儡」は「君の思想」と「君の感情」とを以て手をうごかし足をうごかした。自分には之が愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]下等に見えた。自分抔の君に對する尊敬は君の他人に對する(この中に勿論自分も含まれる)侮蔑を感じてもこれに反感を起し得ない程强くなつてゐる。けれども自分の行動を定めるものは常に自己でなくてはならない。自分は自分の言動を飽く迄も吟味して模倣と直譯とは必[やぶちゃん注:「かならず」。]避けなければならないが。[やぶちゃん注:以下、岩波旧全集に戻る。]

 かうして尊敬と可及的君の言動と逆に出ようとする謀叛心とが吸心力[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]と遠心力のやうに自分の心の中に共在してゐた。[やぶちゃん注:以下、同様に底本は『〔この間十行ばかり省略〕』とある。同前の仕儀で復元した。]橫道へそれるがこの遠心力を養成したのは一部分石田の功績である。笑つてはいけない。實際少し滑稽だが我々が何か論ずる時になると石田は何時でも曖々然[やぶちゃん注:「あいあいぜん」。如何にも曖昧な感じであることを言う。]とした中間を彷徨しながら旗色のいい方へ不離不卽に賛同する一種の技術を持つてゐる。このアートに対する反感は(このアートを用ゐる結果として石田は論をする際に常に君に賛成するから)自分を石田に反對させる爲に特に君に反對させた事が少くなかつた。[やぶちゃん注:以下、岩波旧全集に戻る。]自分はこの遠心力も全[やぶちゃん注:「まつたく」。]無益だったとは思はない。前にも云つたやうにこれがあつた爲に、君と自分とは主と隷とにならずにすんだ。けれども又之がある爲に自分は如何にも頑迷に如何にも幼稚に君に對して内の EGO を主張した事が度々ある。今から考へると冷汗の出るやうな事がないでもない。よく喧嘩をせずにすんだと思ふ。しかも喧嘩せずにすんだのは全く自分の力ではない。終始君の寬大な爲であつた。自分が没論理に感情上から卑しい己を立て通した時に、自分の醜い姿が如何に明に君の眼に映じたかは自分でも知つてゐる。地を換へたなら自分は必こうした態度に出る男を指彈したに相違ない。いくら寬大でも嘲侮はしたに相違ない。此點で自分は君がよく自分の我儘をゆるしてくれたと思ふ。さうしてさう思つたときに、今まで感じなかつたなつかしさが新しく自分の心にあふれてくる。

 井川君、[やぶちゃん注:以上四字は岩波文庫「芥川龍之介書簡集」で補った。]君は自分が君を尊敬していることはしつてゐるだらうと思ふ。けれども自分が如何に君を愛してゐるかは知らないかもしれないと思ふ。我々の思想は隅の隅迄同じ呼吸をしてゐないかもしれない。我々の神經は端の端までもつれあつてはゐないかもしかし自分は君を理解し得たに近いと信じてゐるし、君も又これを信じて欲しいと思つてゐる。[やぶちゃん注:岩波旧全集ではここで改行が入るが、前記岩波文庫の復元版に従って続けた。]一諸にゐて一緖に話してゐる間は感じなかつたが、愈々君が京都へゆくとなつて見ると、自分は大へんさびしく思ふ。時としては惡み、時としては爭つたが、矢張三年間一高にゐた間に一番愛してゐたのは君だつたと思ふ。[やぶちゃん注:同前で続ける。]センチメンタルな事をかいたが、笑つてはいけない。こんな事を考へるやうでは少し神經衰弱にかかつたのかもしれないと思ふ。しかし今は眞面目で之をかいてゐる。かきつつある間は少くとも僞を交へずにかいてゐると思つてゐる。自分は月並な友情を感激にみちた文句で表白する程閑人ではない。三年の生活をふりかへつて、しみじみと之を感ずるから書いてゐるのである。[やぶちゃん注:同前で続ける。]君のゐなくなつたあとで、自分の生活はどう變るか。遠心力と吸心力とは中心を失つた後にどう働く事が出來るか。それは自分にもわからない。君によつて初めて拍たれた鍵盤は、うつ手がなくなつた後も猶ひびく事が出來るか。出來るとしても、始と[やぶちゃん注:岩波旧全集は『殆ど』であるが、ここは前記岩波文庫のそれを採った。]同じ音色でひびくだらうか。それも自分にはわからない。

 今時計が十二時をうつ。もうペンを擱かなくてはならない。長々とくだらない事をかいたが、まだ書きたい事は澤山あるやうな氣がする。寢ても、こんな調子では寢つかれさうもない。[やぶちゃん注:岩波旧全集はここに『〔この間十二行省略〕』とある。同前の仕儀で復元した。]この手紙の二枚目は書いてゆく紙面の順序が外のとちがつてゐるから赤いんきで12としるしをつけておく。よくこの印をみてよまなくつちやあいけない。

 忙しいので石田にはまだあはない。一、二年の成蹟をみに行つたら小栗栖君にあつた。廿日頃京都へゆくつて云つてた。一高の入學試驗もすんだ。城下良平さんは少しあぶなさうだ。國語に「さすがになめくて」と云ふのが出たのでよわつたと云つてゐた。

 この頃「剪燈新話」だの「金瓶梅」だの古ぼけた本を少しよんだよ。[やぶちゃん注:岩波旧全集に戻る。]村田さんのところへは行つた。君が藪のある所を曲ると云つたから、山伏町で下りて、二番目の橫町をはいつてから藪ばかりさがしたが、藪が出ないうちに先生の門の前へ來てしまつた。村田さんのうちは村田さんのあたまのやうな家ぢやあないか。紅茶を御馳走になつた。女中が小さいくせに大へん丁寧なので感心した。

 よみにくいだらうが我慢してよんでくれ給へ。遲くなつたからもう寢る事にする。

 蚊がくふ。蒸暑い。御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした。さようなら

    十七日夜           龍

   恭君

  追伸 また田中原だか内中原だかわすれたから曖昧に上がきをかく。今度手紙をくれる時かいてくれ給へ。

 

[やぶちゃん注:「卒業式」七月一日。成績は二十六日中、二番で、首席は井川恭であった。

「新しい大學の生活」龍之介はこの年の九月に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進学した。

「君がゐなくなつた」井川は同じく、九月、結局、京都帝国大学法科への進学を決め、東京を去ることになる。新全集の宮坂年譜によれば、井川は、『一時は』東京帝国大学『入学の意志もあったが』、九月十日頃、『芥川に』京都帝国大学『転学願いとその理由書が送られている』(後に電子化する)とある。但し、京都行きはこの時点で以下に現われる。転学というのは、法科へのそれを言っているものととる。井川は龍之介と出逢う以前の松江にあった時から、文芸作品を多くものしており、文科への進学希望があったものと思われ、しかし、芥川龍之介という類稀なる文才に触れて、文科進学から法科へ転ずるという経緯があったものとも私は推察している。

「オリギナリテート」Originalität。これはドイツ語で、「独創性」。

「VANITY」虚栄。自惚れ。

「エキザジェレーション」exaggeration。誇張。

「justify」正当化する。

「ability」能力。

「二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何佩なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした」これには非常に腑に落ちる事実がある。既に示した明治四三(一九一〇)年四月二十三日附の親友山本喜誉司へ宛てた書簡で龍之介が山本にメーテルリンクの「青い鳥」を読むことを強く勧めている事実である。龍之介が井川と親しくなったのは、一高一学年の二学期頃からであった(翰林書房「芥川龍之介新辞典」に拠る)。一年の二学期の終了は明治四十四年三月であった。しかし、ここで龍之介が告白している事実は、龍之介がいやいや寮生活を始めた明治四十四年の九月以降の一高二学年の初めの頃であることが明白である(龍之介が時制上の噓をついている可能性はシークエンスからしてあり得ないと私は思う)。則ち、英文で前年に自分が読んで感銘して親友山本に推薦した「青い鳥」を、この時、井川がフランス語版で読んでいるという事実を知ったことは、正直、当時の文学的語学的才能を自負していた龍之介にとっては、すこぶるショックであったことが想像に難くないからである。「不快な氣はその後數月に亙つて僕を剌戟して、何册かの本をよませた」「こんなに君は自分が自他の優劣を最明白に見る事が出來る鏡であつた」という告白がのっぴきならないものであったことが判るのである。

「可及的」及ぶ限り。出来るだけ。

「石田」既出既注の石田幹之助。

「小栗栖」小栗栖国道(?~昭和二(一九二七)年)。大分生まれ。一高時代の同級生。一高を井川・芥川に次いで三番の成績で卒業し、井川と同じく京都帝国大学法科に進学した。後に母校京都帝大教授となった(新全集「人名解説索引」に拠る)。

「城下良平」不詳。たまんねえな。検索かけたら、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「四」』が掛かってって来やがったぜ。井川・龍之介共通の友人ではある。「さん」付けしているので、龍之介よりも年齢が上かも知れない。井川は内臓疾患と思われる病気で、中学卒業後に三年間の療養生活を送ったため、龍之介よりも四歳年長であり、或いは、井川から紹介された人物かも知れない。判らない。

「さすがになめくて」「さすがに無禮くて」そうは言っても無礼・無作法で。出典は不詳。

「剪燈新話」明の瞿佑(くゆう)の撰になる伝奇小説集。全四巻。一三七八年頃の成立。華麗な文語体で書かれ、唐代伝奇の流れを汲む夢幻的な物語が多い。後代の通俗小説・戯曲及び本邦の江戸文学に与えた影響が大きく、浅井了意の怪奇小説集「御伽婢子(おとぎぼうこ)」や三遊亭円朝の落語「怪談牡丹燈籠」はその一部を翻案したものである。龍之介の怪奇趣味が私とびちっと一致する。

「金瓶梅」明代の長編小説。全百回。作者未詳。「水滸伝」の一挿話に題材を採り、薬商西門慶(せいもんけい)が大富豪に成り上がって、破滅するまでを描く。色欲生活の描写が多く、題名は相手の三人の女性の名に由来する。中国四大奇書の一つ。

「村田」「先生」一高の英語教授祐治(文久四・元治元(一八六四)年~昭和九(一九四四)年)か。現在の千葉県生まれ。

「山伏町」現在の市谷山伏町(いちがややまぶしちょう)附近か(グーグル・マップ・データ)。東京都新宿区の地名で旧牛込区に当たる。当時、芥川家が住んでいた場所から比較的近い。

「御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした」龍之介は同年八月六日から同二十二日まで、静岡県安倍郡不二見(ふじみ)村(現在の静岡県静岡市清水区北矢部町)の臨済宗雲門山定院(しんじょういん:グーグル・マップ・データ)に滞在し、午前中は読書、午後は海水浴、夕方は散歩という生活を半月ばかり送っている。最初の一、二週間は友人の西川英次郎は一緒であったらしい(一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」に拠る)。新全集宮坂年譜では、朝六時『起床、読書(英文原書。英訳本など)をしたり、手紙を書いたり、新聞を読んだりして過ごした。午後には、近所の子供と江尻』(当時、現在の清水駅は「江尻驛」で直近の東が海岸になっていた。「今昔マップ」のこちらを参照されたい)『の海水浴場に出かけたりもしている』とある。

「田中原だか内中原だか」井川実家の松江の地名。後の書簡で「松江市内中原」(グーグル・マップ・データ)と確認出来る。]

2021/02/10

芥川龍之介書簡抄13 / 大正二(一九一三)年書簡より(1)二通

 

大正二(一九一三)年一月五日・消印内藤新宿局・「龍之介」・芝區高輪北町四十八番地中島行蔵樣御内 中島達樣・(自筆絵葉書)

 

Butannoruobitohutari

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集第十巻(一九七八年刊)のものをトリミングした。自筆の絵の上部に、

 

Viel Glück im neuen Jahre.

―1913―

R.  AKUTAGAWA.

 

とある。ドイツ語で「新年の幸運を祈る。」の意。絵は、御伽噺の小人のような二人が、それぞれに四葉のクローバーの葉を右手に持って、豚に跨って花々の咲く野道を走る図柄で、道は奥に繋がり、彼方に二本の樹木も描かれてある。所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の解説には、『龍之介の絵の中で珍しいモチーフを扱ったもの』とある。但し、豚と幸運のアイテムとして知られる四つ葉のクローバーは、現在でもドイツの新年に一般的なもので、「ドイツ大使館」公式サイト内のこちらに、「Glücksschwein」の語を挙げ、「グリュックスシュヴァイン」の「Glück」は「幸運」、「Schwein」は「豚」の意で、「幸福の豚」『という意味で』、『ドイツでは豚は幸運の象徴の一つとされていて、よく新年にデコレーションや、お菓子のモチーフとして使用されてい』るとあり、挿絵も豚の周りに四葉である。実際に「Viel Glück im neuen Jahre.」のフレーズで画像検索(グーグル)を掛けた結果でも、豚と四葉がずらりと並ぶ。トラベル・サイトのブログの「チューリンゲン州旅行記」にある「幸福をもたらすものとは何でしょう? Was ist der Ueberbringer des Gluecks?」に、『古くはゲルマンの時代からドイツでは Schwein シュバイン=豚(あるいは Eber エーベル=イノシシ、雄豚)は豊饒(子宝に恵まれる=つまり財産に恵まれる)と強さの象徴と見なされ、繁栄と富をもたらすものとされてきた』とあり、『Thueringen テューリンゲン州北部の Billeben ビレーベンで、ドイツ最古の13世紀のものと思われる「豚の塑像」・貯金箱が掘り出されている』。『長さ22cmほどで、中が空洞で背中に細い穴(硬貨を入れる)の開いた塑像は赤茶色の粘土で作られていた』。『垂れた耳と巻いた尻尾が見られ、明らかな家畜用豚の特徴があった』。『Das aelteste Sparschwein Deutschlands, 13. Jh., gefunden in Billeben, Thueringen (Keramik, Kopie).』とあり、『ドイツで最も古い豚の貯金箱は13 世紀のもので、テューリンゲン州の Billeben ビレーベンで発掘されたものである』とし、『(ケルンの貨幣歴史博物館のものは陶器の複製、実物がテューリンゲン州立博物館にあるのか不詳)』とあって、その豚の貯金箱の画像も載る。豚と幸運のそれは一説には、かの聖アントニウスのエンブレムであるともされ、個人ブログ「今日のことあれこれと・・・」の「豚の日」に、これは『民間信仰「アントニウスの豚」に由来している。エジプト生まれの聖職者で、家畜及び豚飼育者の守護聖人アントニウスは、常に豚と火炎を従え、ある貴族の「聖なる火」と呼ばれる病を治した。豚』『は、その油が丹毒に効くとされたため聖人の持ち物となった。以後この病は、丹毒「アントニウスの火」と名づけられたという』。『外国では古くは金の卵を生むニワトリ、勤勉な蜜蜂と蜂の巣、幸運を呼ぶてんとう虫、慎重な亀、かしこい象など、多彩』な動物のシンボリック・アイテムがあるが、『とくに、豚はニワトリとともに古くから貯金箱に使われた。これは多産、謙虚さ、有用性などから幸運のシンボルとされたほか、村民がお金を出し合い、貧しい人のために豚を買ったという「アントニウスの豚」のお話しに由来しているという説がある』とある。なお、この絵は完全なオリジナルなのか、或いは、何らかの絵を参照したか、或いはヒントになった物語があったのかは判らない。なお、この年の三月一日で彼は満二十一となる。

「中島達」未詳。]

 

 

大正二(一九一三)年三月二十六日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

敬啓

FAUST[やぶちゃん注:縦書。]御招き下さつて難有う存じます 唯今切符落手致しました

試驗準備のいやなのは誰でも同じです

けれども僕の方は廿七日ぎりなので今日一日かと思ふと大分張合ひになります

法制や經濟は殆復習仕ないでうけるのですからいつもしくじつてばかり居ります 其上一週間程前から胃病になつたので餘計弱つて居ります 醫者は輕い胃擴張だと云つてゐますけれど何だか持病にでもなりさうな氣がして仕方がありません

窓からみる枯草の土手の下に一列の鮮な綠りの若草が春のいきづいてゐるのを感じさせます 春の歌四首――御笑ひまで

 

   片戀の我世さびしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり

 

   晚春の銀器のくもりアマリリスかぎつゝ獨り君をこそ思ヘ

 

   たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイサス)の戀ならなくに

 

   片戀の若き庖丁(コツク)が物思ひ春の厨に靑葱も泣く

 

             匆々

    三月廿六日夕         龍

   きよ樣 御許

 

[やぶちゃん注:短歌の後は一行空けた。

「FAUST御招き下さつて難有う存じます 唯今切符落手致しました」新全集の宮坂年譜によれば、これは森鷗外訳の帝国劇場での近代劇協会による第二回公演(公演劇団データは岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注に拠った)で、この切符は三月二十七日の初演(その後、三十一日まで)とする。但し、二人でこの公演をみたとする記録は当日の年譜にはない。

「黃水仙(ナツシイサス)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科 Amaryllidoideae スイセン連 Narcisseae スイセン属 Narcissus のスイセン類の属名。「黃水仙」は Narcissus jonquilla でヨーロッパ原産。日本には江戸時代に渡来した。ギリシア神話でナルキッソスが変貌した種は何かはよく判らない。私の友人の歴史家はスイセン属ラッパスイセン Narcissus pseudonarcissus とするが、個人サイト「小さな園芸館」の「水仙」ではクチベニスイセン Narcissus poeticus とする説を載せる。因みに、知られたサルバドール・ダリの「ナルシスの変貌」の卵のを割って顔を出しているそれは、同属ナルキッスス・トリアンドルス品種「タリア」(シズクスイセン(雫水仙))Narcissus triandrus 'Thalia' であるという。 ]

2021/02/07

芥川龍之介書簡抄12 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(5)山本喜譽司宛(「僕のELGARのDESIGN」とキャプションとする自筆絵葉書)

 

大正元(一九一二)年十二月六日・牛込區赤城元町廿八竹内樣方 山本喜譽司樣・「龍」(自筆絵葉書)

 

Elgers-design

 

僧房夢[やぶちゃん注:「さうばうむ」。]をみて悲觀しちまいました 葛城文子の拙劣なのは殆御話しにも何もなりません ユンケルの演奏會は面白う御座んした 土耳古の毛氈のやうに美しいガーデや わすれな草の花のやうに幽艷なグリーヒや 靑と銀とのタペストリのやうにしみじみとしたシポーアがユンケル氏のあの指揮杖のさきから寶石のやうに流れ出したときの事を考へると今でもうれしいやうな氣がします

試瞼が始まるので忙いでせう[やぶちゃん注:ママ。]

同じやうな事をしてイラシヨナルな其日其日を送つてゐるのが退屈で仕方がありません さようなら

    十二月一日

  投函遲れて今日に及び候 六日

 

[やぶちゃん注:行末改行の一部に字空けを施した。画像は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のカラー版をトリミングした。キャプションは(示したものは、下部がごく僅かだが、切れている)、

僕のELGARのDESIGN:

となっている。「ELGAR」は以下の「僧房夢」(ドイツの劇作家ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann  一八六二年~一九四六年)が一九〇五年に書いた一幕物(全六場)の夢幻劇「エルガ」(Elga )を森鷗外が明治四二(一九〇九)年の一月~三月の雑誌『歌舞伎』に翻訳連載した際の邦題)の原題の綴りを誤ったものであろう。但し、鷗外は重要なヒロイン役(ネタバレもあり、説明しにくいが、全体は一人の騎士が陰気な僧院に泊まって奇体な夢を見るという入れ子構造になっている)である伯爵夫人の名を「エルガア」と訳しているからして、龍之介のせいとは言い難い。なお、この「僧房夢」という外題は上演記録をネットで探すと、「さうぼうのゆめ」と読んだり、「僧坊の夢」とあったりして一定しない。但し、所持する「鷗外選集」では『そうばうむ』である。以上の自筆画はその「僧房夢」の舞台の最初と最後の僧院のロケーション・イメージ(舞台大道具というよりも、映画的なセットの感じ)をデザインしたものの謂いである。

「葛城文子」(明治一一(一八七八)年~昭和二〇(一九四五)年)は女優。本名は増田ユキ。旧制東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)を卒業し、満二十七歳を迎える明治三八(一九〇五)年から文士劇の舞台に上がった。井上正夫の主宰する東京有楽町の「有楽座」での女優劇や、井上が製作した連鎖劇等に出演した。この後の大正六(一九一七)年に井上が主演・監督する無声映画「毒草」に出演し、映画界にデビューした。これは一般に「日本の映画女優第一号」と呼ばれた花柳はるみよりも二年早く、彼女が最初の映画女優とされるべきである(以上は彼女のウィキに拠った)。彼女が出演した舞台劇「僧房夢」の記録は見出せなかったが、鷗外の発表から二年も経っているから、何ら、不思議はない。新全集の宮坂年譜では、本書簡を根拠としてと思われるが、直前の十一月二十九日或いは三十日に、『有楽座でハウプトマン作・森鷗外訳「僧房夢」を見る』とあるので、新全集では当該公演は検証済みであるようだ。

「ユンケルの演奏會」新全集の宮坂年譜に、この十二月一日に東京音楽学校講師のユンケル演奏会に出かけたとある。彼のウィキによれば、アウグスト・ユンケル(August Junker 一八六八年或いは一八七〇年~昭和一九(一九四四)年東京)はドイツ出身で、アメリカと日本でも活動したヴァイオリニストにして指揮者。東京音楽学校の「お雇い外国人」としての音楽教師であった。『ケルン音楽院でヨーゼフ・ヨアヒムにヴァイオリンを師事』し、一八九〇年に『ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一ヴァイオリン奏者として入団(後にコンサートマスターに昇格)』、一八九一年から一八九七年まで『渡米し、シカゴ交響楽団などでヴァイオリン奏者を務めた』。明治三二(一八九九)年に『来日し、東京音楽学校教師として』大正元(一九一二)年まで『ヴァイオリンと管弦楽の教育にあたり』、『多くの』著名な『音楽家を育てた』。翌年には『勲二等瑞宝章を受章』している。後に『アーヘン音楽大学教授、アーヘン室内交響楽団指揮者として活動の後』、昭和九(一九三四)年に再来日』して、『以後、武蔵野音楽学校教授となり』、『晩年まで指導に当たった』とある。

「土耳古」トルコ。

「毛氈」「まうせん(もうせん)」。

「ガーデ」デンマークの作曲家ニルス・ウィルヘルム・ゲーゼ(Niels Wilhelm Gade 一八一七年~一八九〇年:音写では「ガーゼ」或いは「ガーデ」ともなる)であろう。北欧諸国の音楽界の近代化に貢献した人物として知られる。

「グリーヒ」ノルウェーの作曲家エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg 一八四三年~一九〇七年)のことではないか? 語末の「g」が無声化して発音されるドイツ語読みの影響では「グリーク」と表記されることがあり、この表記に近似するからである。前のニルス・ゲーゼ(ガーデ)の影響を受けており、グリーグのピアノ作品集「抒情小曲集」の中には「ゲーゼ」(Gade ) という題する小品があるが、これは一八九三年に発表されたもので、作曲の三年前に没したゲーゼへの回想のために書かれた曲である(ウィキの「エドヴァルド・グリーグに拠った)。

「シポーア」ドイツの作曲家ルイ・シュポーア(Louis Spohr 一七八四年~一八五九年)か。ウィキの「ルイ・シュポーアによれば、『シュポーアは著名なヴァイオリニストで』も『あり、顎あての発明者であった。名指揮者として、最初に指揮棒を使い始め、アルファベットの大文字による練習番号を使い始めた最初の作曲家でもある』とある。以上は総て、私の推理に過ぎない。誤りとあれば、御教授あれかし。

「イラシヨナル」irrational。非合理的。

 なお、底本の岩波旧全集では十二月三十日附の小野八重三郎宛の自作漢詩を記した書簡が載るが、これは既に、私は「芥川龍之介漢詩全集 二」で書簡も電子化して注してあるので、ここでは省く。]

芥川龍之介書簡抄11 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(4)四通

 

大正元(一九一二)年八月十六日・新宿発信・小野八重三郞宛(転載)

 

   旅といふこの一語に心うるほひぬろまんちつくの少年の眼は

 

   旅人よいづくに行くやかぎりなく路はつゞけり大空の下

 

  ――一、八、一六、朝 新宿にて――

                  龍生

 

[やぶちゃん注:短歌は前後を一行空けた(以下の書簡も同じ)。前回分で注した通り、この八月十六日から友人(新全集宮坂年譜によれば、『中塚癸巳男か』とする)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出かけている。十七日には御嶽山に登り、十八日には名古屋に到着、二十日名古屋を立って帰宅している。因みに、前に述べた通り、この間は学年末休暇である。

「小野八重三郞」(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は既注の東京生まれの、府立三中時代の一つ下の後輩。]

 

 

大正元(一九一二)年八月十六日・消印十七日・出雲國松江市田中原町 井川恭樣(葉書)

 

   酒ずきの豚のやうなる藥賣り醉ひて眠りて汽車に日くれぬ

 

   何思ひ夕日に黃なる窓による首をたれし月琴彈きは(車中)

 

   まひる日の靑草原にかなしきはつりがね草の夢の銀色(沿道)

 

     一、八、一六、木曾に向ふ 芥川生

 

 

大正元(一九一二)年八月十七日・消印長野御嶽山十八日・神田猿樂町永井方 小野八重三郞樣(絵葉書・転載)

 

   薄黃なる石楠花にほふ八月の谷間の霧に山の鳥なく

 

   皮肉なるあげあしとりの借らしき汝(ナ)を忘れえず山に來れども

 

   汝(ナ)は今日も BAR の夕に曹達水の盃あげてものを思ふや

 

    十七日    御嶽山頂にて   龍

 

 

大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」

 

もう二週間で學校がはじまると思ふとうんざりする ほんとうにうんざりする 埃で白くなつた敎室の机さ 落書きだらけの寮の硝子窓さ 一つだつていゝ心もちを起させるものはありはしない VULGAR な SLANG や VULGAR な SCANDAL だけでもぞつとするのに STORM のすぎた後にはいつも酒のにほひがするんだらう 正直な所僕はもう二週間と思つたら八木君の ETERNAL な昔の調子が耳にうかばずにはゐられなかつた ETERNAL と云ふのは全く善意で音讀から他に及ぼす迷惑なぞは毛頭考へてゐない 唯あの調子は ETERNAL と形容すると一番いゝやうな氣がするからつけた迄だ ETERNAL だらう さうぢやあないか 更に正直な所このうんざりした心もちはみんなに逢ふ事が出來ると云ふたのしみよりも遙に力强い うんざりせずにすむのならば皆と一つ處に集らなくたつていゝ 第一僕は君と寐ころんで話しでもする外にそんなに逢ふのを樂しみにする程の人を知らないの(尤も誰でもさうかもしれないけれど)だから何も二ケ月間の洗練を經た顏を合せて「やあ」とか何とか云ふ必要はないんだ 逢つて見たくなれば訪ねてゆく 實際木曾へゆく前に君の國へ行かうと思つてゐた さうして「こいつは少し汽車へのりすぎるな」と思つて煑切らないでゐるところへ KANIPAN が一高へはいつた勢で木曾へゆく PLAN を立てたので とうとう一緖に蓙[やぶちゃん注:「ござ」。]をきて金剛杖をつくやうな事になつてしまつた 未に出雲の湖と出雲の山とを見る機會を失したのが一寸殘念に思はれる KANIPAN で思ひ出したが 僕の知つてるものがうまく三人共 pass した 工科の1│20は僕の友だちなんだからえらい 三人ともはいつたときはほんとにうれしかつたぜ

KANIPAN は今 abc を學つてるさうだ abcと云ふとゆんけるの細い褐色の頭の毛を思ひ出す ゆんけるを思ひ出すとしいもあ先生の桃色の禿も思出される しいもあ先生の娘は死んだかしら

木曾は大へん蚤の澤山ゐる所だつた 福島へ泊つた晚なんぞは體中がまつ赤にふくれ上つてまんじりとも出來なかつた、これから木曾へゆく旅客は是非蚤よけを持つてゆく必要がある 矢張福島で橫濱商業の生徒と相宿になつた 休格のいゝ立派な靑年だつたが驚くべく寐言を云ふ 夜中にいきなり「冗談云つてら そんなことがあるもんか」とか何とか云はれた時には思はずふき出しちまつたものだ

御嶽の頂上の小屋で福島中學の生徒二人と一緖になつた 二人とも寮歌をよく知つてゐる 僕なんぞよりよく知つてゐたかもしれない、きいて見るとすべての寄宿舍の制度は一高に模倣してやつてるんださうだ「鐡拳制裁も STORM もあります」と云ふ 一高なんてえらいもんだと思つた そんなに影響の範圍が廣いだけでも御互に隨分つゝしまなくちやあならないと思つた 尤も其時は僕は決してつゝしんだ方ぢやあなかつたけれど

「先輩には今どんな人がゐます」つてきいてみたら隣室の金井君がさうださうだ 一寸奇遇のやうな氣がしたが直又奇遇でも何でもないやうな氣がした 二人とも氣壓の少いので半熟な飯を何盃も食つた、一盃も食へないで持つて來た SALTMEAT の罐詰ばかりつつついてゐた僕には金井君は好箇の後輩を得たとしか思はれなかつた かけはしだの寐覺の床だのに低徊してからやつと名古屋へ行つた、僅少な日子を費しただけだから精細な事はわからないが何しろ名古屋はべらぼうな町のやうだ、均一制のない電車は市の一端から他端迄ゆくのに六十枚ばかりの切符を買ふ事を要求する それも一枚一錢の切符なんだから呆れる外はない、僕たちは伊東屋吳服店の木賊色と褐紅色と NUANCE を持つた食堂でけばけばしいなりをした女どもを大勢見た 偕樂亭の草花の鉢をならべた VERANDAH であいすくりいむの匙をとりながら目の下の灯の海をあるく名古屋人を大勢見た さうしてその中のどいつをとつてみても皆いやな奴であつた 僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工塲を訪問した 埃くさい應接室で黃色い西日に照りつけられながら某々の會社からの紹介狀や名刺を出して參觀を賴んだ、帳簿や書類の間から黃疸やみのやうな顏を出す書記や給仕や職工に大勢遇つた さうしてそのどいつをとつてみてもみないやな奴ばかりだつた。

至るところで旅烏の身に與へた不快な印象を負つていたるところの工塲で參觀を拒絕されて僕たちは三日目にとうとう[やぶちゃん注:ママ。底本は後半は踊り字「〱」。]中京と誇稱する尊敬すべき名古屋を御免蒙つた、僕は名古屋と甲府ほど嫌な都會を見た事がない 尤も名古屋も蚤のゐないだけは木曾より難有つたけれど、

秩序もなくいろんな事を書いた、もうぢき君にもあへる 寮に又半年をくらして瘦せるべく 君は肥つて東京へ來ることだらうと思ふ 匆々

    卅日夕  新宿にて   芥川生

   井川君 案下

 

[やぶちゃん注:英単語は総て縦書である。内容から判断して行末改行部の一部に字空けを施した。

「もう二週間で學校がはじまると思ふとうんざりする」この翌日九月一日(日曜日)で一高三年に進級しているが、学年末休暇はさらに二週間ほどあったものらしい。主たる憤懣の要因は偏に寮生活の粗暴野蛮性にあることが判る。

「VULGAR」「俗悪な・野卑な・低級な・下品な・卑猥な」の他に、「一般大衆の・庶民染みた・俗間の」の意もある。

「SLANG」ここは寮内で用いられる特別な隠語であろう。

「STORM」ストーム。日本の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校、また、新制大学などの学生寮などに於いて学生が行う「蛮行」。「バンカラ」の一種のこと。ウィキの「ストーム(学生生活)によれば、『「storm」(嵐)を語源とする』。『「バカ騒ぎ」を基本とし、窓ガラスを叩き割るなどの破壊行為にまで至ることも少なくなかった。歓迎ストーム・返礼ストーム、街に出て気勢を上げる街頭ストーム、巨大な火を焚きそれを囲んで行うファイヤーストーム、夜中に入学の抱負などを言わせ』、『説教のようなものを続ける説教ストームなどもあった。現在でも』、『学生らによって「ストーム」と称する行事が行われる学校がある。無理やり饗宴に他者を巻き込んでいくストームという行事には、「俺たちはこんなに楽しいんだから、お前たちも一緒に楽しもう」といった類の連帯意識が底流にある』。大抵の『旧制高校ではストームが行われていた。公式の行事ではないため、また、形が多岐にわたるため、起源の特定は難しい』が、十九『世紀終わりから』二十『世紀初頭頃までには、よく知られている形のストームはすでに存在していたとされ、また』、一八八〇『年代前半頃には、寮』二『階の住人が床を踏み鳴らし』、一『階の住人は天井をほうきで突くといった行為がよく行われていたという』。『旧制高校の学生生活を描いた作品には、夜、学生寮で睡眠中に叩き起こされ』、『ストームが始まるという場面が描かれていることも少なくない。説教ストームを除き、デカンショ節や寮歌などの歌と踊りが伴うやり方が多く見られる』。『真夜中に突如、鍋や太鼓を打ち鳴らし』、『寮歌やデカンショ節などを蛮声で歌いながら、数人から数十人が互いに肩を組んだりして寮の廊下を踏み鳴らし、棒で壁や床を叩き、各部屋で寝ている者を叩き起して回った。ストームの被害にあった者には、布団越しに叩かれた者あり(布団蒸し)、服を剥ぎ取られた者あり、酒を飲まされた者あったと言う。それをはやし立てる者、迎え撃つ者は水を浴びせる場合もある』。『学校当局や寮の規則によって、時間帯や、試験期間中、対抗戦前などの期間によってストームを禁止していたり、あるいはストームそのものを禁止する場合もあった。しかしそれらは守られないことが多かったという』とある(以下、新制学校のそれが続くが略す)。

「八木君」一高時代の同級生八木実道(理三)。生没年未詳。愛知県生まれ。後、東京帝大哲学科を卒業し、宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校生徒主事兼教授となった(以上は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」を参照した)。

「ETERNAL」ここで龍之介は、哲学的な永遠性・不滅性ではなく、口語英語の意のネガティヴな「果てしなくだらだらと続く、絶え間なき単調さ」を指している。

「KANIPAN」既に推定した通り、中塚癸巳男(なかつかきしお)と考える。綽名の意味は不明。ただ「塚」の「」、「癸」の字が「發」(つ)に似ていること、「巳」の字が崩すと「ん」に見えることなどが私には想起される。

「1│20」縦書。二十分の一。

「ゆんける」筑摩全集類聚版脚注に、『一高のドイツ語の講師。ドイツ人』とある。上村直己氏の論文「一高及び四高教師エミール・ユンケル(日本独学史学会発行『日独文化交流史研究』二〇〇五年号所収・PDFでダウン・ロード可能)の摘録によれば、『日本では独語教師は亡くなると、たとえ生前の功績が大きくても、そのまま忘れられるのが普通である。そして外国人教師の場合はよりその傾向が一層強い。しかし、ドイツ語教育に占める外国人教師の役割は明治・大正期においては現在より大きかったことを考えれば、彼らの生涯と業績はもっとしられよいはずである。今回取り上げるエルンスト・エミール・ユンケル(Ernst Emil Junker,1864-1927)はそうした外国人教師の中でも独語教育の面で特に功績の大きかった一人である。彼は一八八五年(明治十八)に来日以来』、『一九二七年(昭和二)に東京で亡くなるまで約四十年間日本に滞在し、その間第四高等学校、第一高等学校、独逸学協会学校等でドイツ語教師として熱心にその職に当たった人であり、また当時の有力な独語雑誌、即ち東京外語系並びに独協系の『独逸語学雑誌』や東大独文系の『独逸語』などに度々寄稿するなど』、『広く日本の独語教育学界のために献身的に尽力した人であった。さらにドイツ東アジア協会』(通称 OAG)『の維持発展のために尽くした功績も大きい。だが』、『これまでユンケルについて断片的に語られるだけで纏まった研究は全くされていない。以下、新資料も取り入れながら』、『ユンケルの生涯と独語教師としての活動を中心に述べることにしたい』とある人物である。

「しいもあ先生」筑摩全集類聚版脚注に、『一高の英語の講師。イギリス人』とある。綴りは Seymour か。

「福島」長野県木曽郡木曽町(きそまち)福島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

 

へ泊つた晚なんぞは體中がまつ赤にふくれ上つてまんじりとも出來なかつた、これから木曾へゆく旅客は是非蚤よけを持つてゆく必要がある 矢張福島で橫濱商業の生徒と相宿になつた 休格のいゝ立派な靑年だつたが驚くべく寐言を云ふ 夜中にいきなり「冗談云つてら そんなことがあるもんか」とか何とか云はれた時には思はずふき出しちまつたものだ

「福島中學」正確な記載なら現在の福島県立安積(あさか)高等学校。

「隣室の金井君」寮の隣室にいる同級生で福島中学卒の可能性を考えると、新全集の「人名解説索引」を見るに、龍之介の一高の同級生で金井階造なる人物がいる。彼は長野県生まれである。

「氣壓の少いので」御嶽山は標高三千六十七メートルある。私も一度登ったが、登りの最後には少し往生した。

「SALTMEAT」塩漬け肉。

「かけはし」「木曾の棧(かけはし)」。断崖の難路としても、また、歌枕としても知られる。長野県木曽郡上松町(あげまつまち)の旧国道十九号(現上松町道)の下にある「桟道(さんどう)」を指す。

「寐覺の床」同じ長野県木曽郡上松町にある渓谷美で知られる古くからの景勝地。木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形。上の地図の南に入るようにセットしてある。

「日子」「につし(にっし)」。日数に同じい。

「伊東屋吳服店」百貨店「松坂屋」の前身。正確には当時の表記は「いとう吳服店」。創業は慶長一六(一六一一)年。織田家小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道(すけみち)が名古屋本町で呉服小間物商「いとう呉服店」を開いたのに始まる。龍之介らが訪れる二年前の明治四三(一九一〇)年二月一日 に、伊藤次郎左衞門十五代に当たる伊藤祐民(すけたみ)が「株式会社いとう呉服店」を設立して初代社長に就任すると同時に、名古屋栄町に百貨店を開業している。

「木賊色」「とくさいろ」。くすんだ青みを帯びた緑色。

「NUANCE」ニュアンス。「何とも言えない微妙な変奇を持った」という謂いであろう。

「偕樂亭」西洋料理店。梅沢角造が名古屋錦で明治五(一八七五)年に開業した。

「VERANDAH」ヴェランダ。ベランダ。

「僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工塲を訪問した」二人が物見遊山ばかりでなく、しっかりエリート候補生として社会見学をしている点を見逃してはいけない。]

芥川龍之介書簡抄10 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(3)藤岡藏六宛(明治天皇崩御直後の一通)

 

大正元(一九一二)年八月二日・新宿発信・藤岡藏六宛

 

御不例中に手紙をかいて君の所へ出すばかりにして置いたが號外の連發される騷ぎについわすれてしまつたので書棚の上へのせたまゝ封筒の上に埃がたまるやうになつたその中に君のところから桃色の狀袋にはいつた君の手紙が來たので前の手紙を裂いて新に之をかく

御不例中に夜二重橋へ遙拜しに行つた姊が小學生が三人顏を土につけて二十分も三十分もおじぎをしてゐたと淚ぐんで話したときには僕でも動かされたが其内に御命に代り奉ると云つて二重橋の傍で劇藥をのんだ學生が出たら急にいやな氣になつてしまつた、電車へのつて遙拜にゆくつもりでゐたのがそんな奴ばかりの所へゆく位なら家にゐて御平癒を祈つた方が遙にいゝと考へるやうになつたさうすると直[やぶちゃん注:「ぢき」。]崩御の號外が出た、あけがたの暗い中に來た黑枠の號外を手にとつた時矢遙拜に行つた方がよかつたとしみじみさう思つた

昨日(一日)は學校で御哀悼の式があつた在京の生徒が可成あつまつた講堂であの緋と金との校旗の下に菊池さんが哀悼の辭よんだそのあとで可成長い菊池さんの話しがあつたさうしてそれが非常に暑かつた其前寮の委員が菊池さんの所へ寮生の御見舞狀を捧呈する爲に行つた所が夜の十一時すぎになつても歸つて來ない仕方がなく歸らうとすると路で先生にあつた所が先生は醉顏を風にふかせながら「陛下の御病氣はまことに痛心にたへない」とのべたそれがあの廿八日の夜だときいてゐるまた委員が谷山さんの所へ行つた時舍監は「こんな騷ぎなのに堀さんは淺草へ行つて遊んでるんだから仕方がない」と云ひ云ひ自分は酒をのんでやめなかつたときいたそんな scandal を聞いてゐるだけにあんな哀悼の辭より何の學問もない僕の母や伯母の方がはるかに尊いと云ふ反感が起つた實際崩御の號外が出た時には僕のうちのものは皆泣いたんだあんな調子ですべてをやつて行くんだから學校だつて駄目なんだと思ふ

もし旅が娛樂に關する催しの中に算入されないとしたならば僕は御停止がやんだら旅に出ようかとも思つてゐるまだ何ともきまらない時々僕のあたまの中には猪苗代の湖の靑い平面がきらりとうつる事があるあの近所へでも行かうかと思ふ

東京は暑いうんざりするほど暑いさうして場末だから僕の方は蚊が澤山くる灯をとりに黃金蟲やうんかや羽蟻のやうなやつが澤山はいつてくる夏はほんとうにいやだ

ヒヤワタは一寸面白い。プリミチブなアメリカインヂアンの獸皮に描く畫のやうな圓葉柳のかげにふく蘆笛の聲のやうな感じがする、僕はPeace-Pipe. Hiwatha and Mudjekeewis. The Son of Eveing Star. Hiawatha’s Departure がいゝと思ふあの中に出てくる幽靈はあんまり感心しない何と云つても Longfellow では Evangeline がすぐれてゐるのだらうと思ふ

鈴木は大連から手紙をくれた支那料理の饗應をうけて支那の芝居をみにゆくのださうだうまくやつてるなと思ふ灰色の平原と靑い海の鋼鐡のやうな面とが眼にうかぶ紅い灯の光になげく鳳管や月琴の聲が耳にひゞく此頃南淸へ行けと人に誘はれたが金がないので斷つた滿洲は黍が疎にはえた中で黑い豚が鼻をならしてゐるやうな氣がするけれど楊子江の柳に光る日の光は是非一度あびたいと思ふ

Mysterious な話しを何でもいゝから書いてくれ給へ、文に短きなんて謙遜するのはよし給ヘ

如例靜平な生活をしてゐる時に圖書館へ行つて怪異と云ふ標題の目錄をさがしてくる此間稻生物怪錄をよんだら一寸面白かつた其外比叡山天狗の沙汰だの本朝妖魅考だの甚現代に緣の遠いものをよんでゐる何でも天狗はよく「くそとび」と云ふ鳶の形をして現はれるさうだ「くそとび」は奇拔だと思ふ

健康を新る

                   龍

 

[やぶちゃん注:明治天皇は持病の糖尿病が悪化、それに尿毒症を併発し(直接の死因は心臓麻痺とされる)、明治四五(一九一二)年七月三十日午前零時四十三分に崩御した。本書簡は天皇崩御への彼の感懐と人々(一般人もさることながら、誰もが酒をくらっている一高教員への痛烈な非難は鋭い)それへのさまざまな批判的視線が知られて、非常に興味深い。それはしかし、本邦の総帥の死を悼みながらも、ある程度まで冷静であり、また、夏目漱石が二年後『朝日新聞』に大正三(一九一四)年四月二十日から連載した、かの「こゝろ」の「先生」のような一つの時代が終わる新たな区切りといった認識がある訳では全くなく、かと言って、学生の「私」のクールな捉え方とも、また、異なる点も見逃してはならない(リンク先は私の詳細注附きの新聞初出のサイト版三分割(前者が後の単行本の「先生と遺書」パート、後者が「兩親と私」パート))。

「藤岡藏六」既出既注

「號外」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の「御不例中に」への注に、『七月二〇日、宮内庁は明治天皇が重態であることを発表。以後、号外が飛び交い、皇居前に天皇の無事を祈願する人が集まった』とある。

「姊」既に何度も述べた実姉ヒサ。

「菊池さん」一高の教授であった菊池寿一(ひさと 元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)。岩手県出身。明治二六(一八九三)年に東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。明治二九(一八九六)年、陸軍教授となり、二年後の明治三十一年に第一高等学校教授に転じた。後の大正八(一九一九)年に第一高等学校校長に就任し、大正十三年に退官した。退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、昭和六(一九三一)年には第一高等学校名誉教授の称号を受けている。

「谷山」筑摩全集類聚版脚注によれば、『谷山孫七郎。一高の教授で舎監』とある。

「堀さん」堀鉞之丞(えつのじょう 生没年未詳)は、愛知英語学校出身の理学士で、儒学者堀杏庵の子孫。明治二四(一八九一)年に衛生試験所技師。その後か、第一高等学校教授となっている。一九〇八年から一九一四年まで尾張徳川家の相談役となり、一九一四年九月からは同家の家令を務め、一九一七年には明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた人物である。尾張徳川家整理については、彼のウィキに詳しいが、にも拘らず、生没年が未詳というのはちょっと解せないが。

「娛樂に關する催し」「御停止」前記の同書の石割氏の注に、『天皇の病状悪化により、七月三〇日、歌舞音曲などの娯楽の興行を三十一日から八月四日まで控えるべく通告され、その後も自粛ムードは続いた』とある。なお、夏目漱石がこれに大いに違和感を覚えたことはよく知られている。彼の同年七月二十日土曜日の日記に以下のようにある(所持する岩波旧「漱石全集」より)。

   *

晩天子重患の號外を手にす。尿毒症の由にて昏睡狀態の旨報ぜらるる。川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民是が爲に困るもの多からん。當局者の沒常識驚ろくべし。演劇其他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騷ぐ有樣也。天子の病は萬臣の同情に價す。然れども萬民の營業直接天子の病氣に害を與へざる限りは進行して然るべし。當局之に對して干涉がましき事をなすべきにあらず。もし夫臣民中心[やぶちゃん注:ママ。「夫(それ)臣民衷心」。]より遠慮の意あらば營業を勝手に停止するも隨意たるは論を待たず。然らずして當局の權を恐れ、野次馬の高聲を恐れて、當然の營業を休むとせば表向は如何にも皇室に對して禮篤く情深きに似たれども其實は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀すと一般也。(突飛なる騷ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を爲すべし、當局も平然として之を捨置くべし)新聞紙を見れば彼ら異口同音に曰く都下闃寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聽す。天子の德を頌する所以にあらず。却つて其德を傷くる仕業也。

   *

「闃寂」は「げきせき・げきじやく」でひっそりと静まりかえって寂しいさまを謂う。

「旅に出ようかとも思つてゐる」実際に、猪苗代ではないが、この八月十六日から友人(新全集宮坂年譜によれば、『中塚癸巳男か』とする)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出かけている。十七日には御嶽山に登り、十八日には名古屋に到着、二十日名古屋を立って帰宅している。因みに、前に述べた通り、この間は学年末休暇である。

「ヒヤワタ」アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の代表作の一つである全十二章からなる長編叙事詩「ハイアワサの歌」(The Song of Hiawatha)。ハイアワサは十六世紀のアメリカ・インディアンのモホーク族の英雄である男性戦士・部族間調停者の名。モホーク族・カユーガ族・オナイダ族・オノンダーガ族・セネカ族の五部族を纏め上げて「イロコイ連邦」を成立させた。ウィキの「ハイアワサの歌」によれば、『インディアンの英雄を謳った英雄譚で』、『主人公の「ハイアワサ」は、イロコイ連邦をまとめ上げた、実在のモホーク族インディアンの戦士、酋長である。しかし、実際のストーリーはハイアワサの部族とは関係のない、オジブワ族のトリックスターである「ナナボーゾ」の神話をベースにしている。これは』、十九『世紀中頃にこの詩を編纂したヘンリー・スクールクラフトによる混同がもととなっている。つまり、ロングフェローは「ナナボーゾの歌」のつもりであったが、いつの間にか「ハイアワサの歌」にすり替わってしまい、現在も誤解されたままになっているのである』。『北欧神話の』「カレワラ」と『イメージが共通しているが、これは』、『インディアン神話も北欧神話も』、『そのモチーフを「水の中から大地が生まれ世界が形成された」と伝えている』点に由来する。『結局、何の関係もないハイアワサは、この詩による誤解によってステレオタイプなインディアンのイメージを植え付けられることとなった』。『イロコイ連邦国のひとつ、タスカローラ族のエリアス・ジョンソン酋長はこの「ハイアワサの歌」が植え付けるインディアンへの「悪いイメージ」についてこう抗議している』。『「ありとあらゆるインディアンの肖像が、手に頭皮剥ぎのナイフとトマホークを持った姿で描かれて、まるで野生の蛮人の象徴扱いにされている。それはキリスト教徒たちの国が、彼らの仕事、正義の象徴として、常に大砲や弾丸、剣、およびピストルを伴っているのと同じような具合で行き渡らされているように思える」』とある。フル・テクストが英文「Wikisource」のこちらで読める。芥川龍之介が勧めている「Peace-Pipe」は第一の歌I. The Peace-Pipe(「平和の煙管(パイプ)」)、「Hiwatha and Mudjekeewis」はIV. Hiawatha and Mudjekeewis(「ハイアワサとマジェキーイス」)、「The Son of Eveing Star」はXII. The Son of the Evening Star(「宵の明星の息子」)、「Hiawatha’s Departure」は終曲のXXII. Hiawatha's Departure(「ハイアワサの旅立ち」)である。

「圓葉柳」落葉高木キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides 。本邦では本州東北以南から九州に自生し、他に朝鮮半島・中国中部以南の湿地に分布する(従って、細かいことを言えば、アメリカには植生しないから、アメリカ・インディアンが本種を描くことはない。但し、同属のカナダ・アメリカ原産のアメリカマルバヤナギ Salix amygdaloides がアメリカ北部に自生する)。雌雄異株。一本立ちで、高さは十~二十メートル。花期は四~五月頃と、日本に自生するヤナギ属の中では最も花期が遅い。葉身は長さ五~十五センチメートル、幅二~六センチメートルの楕円形を成し、葉の先端は尖り、基部は広い楔形で、葉の縁には先端が腺になっている細かい鋸歯が全縁に分布する。新葉は赤味を帯びる。ヤナギ類は細長い葉の種が多いため、標準和名をかく呼ぶ。また、新芽が赤いことからアカメヤナギの別名もある。サイト「葉と枝による樹木検索図鑑」の「マルバヤナギサイコクキツネヤナギバッコヤナギヤマヤナギ」のページがよい。

「あの中に出てくる幽靈はあんまり感心しない」「ハイアワサの歌」(The Song of Hiawatha)のXIX. The Ghostsであろう。龍之介が「あんまり感心しない」と言っているのは、それが現実感を持った恐怖を惹起させないからであろう。

「Evangeline」「エヴァンジェリン」(Evangeline)はロングフェローが一八四七年に発表した長編詩。彼の代表作の一つ。岩波文庫の解説によれば、『十八世紀半ばの北米。英仏の植民地争奪戦により引き裂かれた恋人たちが、互いを探し求め、すれ違う悲しい運命を描いた物語詩』とし、『美しくてやさしい娘エヴァンジェリンは村の若者と婚約するが、軍の移住命令でふたりはひきさかれてしまう。恋人の行方をたずねて放浪した末にめぐり会ったとき、男は死の床にあった――この悲しい物語の中に歌われた熱烈な愛、貞節、豊かな情趣と敬虔な信仰とは、人の心を清め、人間の尊さに対する人の信念を高めずにはいない』とある。ロングフェローの友人でアメリカの小説家ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)が作品のアイディアを提供した。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。The Project Gutenberg」のこちらで全詩の電子データが複数用意されてある

「鈴木」不詳。諸本注せず。

「鳳管」「ほうくわん(ほうかん)」。吹奏楽器の笙(しょう) の異称。

「月琴」「北原白秋 邪宗門 正規表現版 狂人の音樂」の私の「月琴(げつきん)」の注を参照されたい。

「南淸」「なんしん」。清国の南部の意。

「Mysterious な話しを何でもいゝから書いてくれ給へ」先の「ハイアワサの歌」の幽霊への批判と言い、直後の「圖書館へ行つて怪異と云ふ標題の目錄をさがしてくる」と言っていること、以下の濫読書名からも、例の芥川龍之介の怪談蒐集癖がまさに病膏肓に入る域に入っていることが判る。

「稻生物怪錄」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく:現代仮名遣)は江戸中期の寛延二(一七四九)年に、備後三次(現在の広島県三次市)に実在した武士(後に安芸国広島藩藩士)稲生正令(まさよし 享保二〇(一七三五)年~享和三(一八〇三)年)、通称「稲生武太夫(幼名は平太郎)が十六歳の折りに実際に体験したとする、波状的に彼を襲う妖怪に纏わる怪異を取り纏めた物語及び絵巻。私は古くからのフリークで、絵巻・図鑑・諸評論を含め、十数冊を所持する。実録怪談としては、展開の連続性が一ヶ月余り全く途絶えずに続く点を含め(小説や芝居のような大きなあざとい場面転換やインターミッションが殆んどない)、非常なオリジナリティを持ち、他の凡百の怪談集の追従を許さぬ。ウィキの本人「稲生正令」から引いておくと、『稲生平太郎』十六『歳の』『寛延』二(一七四九)年五月『末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山で肝試しの百物語をしたことがきっかけで』、七月一日から三十日間の『うちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した』彼は、自身でこの時の体験を「三次實錄物語」という書として記され、『原本は広島市在住の稲生武太夫の子孫に』現在も『伝えられてきている。妖怪の親玉、山本』(さんもと:異界の親玉であるから、読み方が通常の人名の読み方からわざとズラされてあるのである)『太郎左衛門から貰った木槌は享和』二(一八〇二)年に『平太郎の』自身の『手により』、『國前寺に納められ、現存している』。『また、柏正甫』(かつらせいほ)『という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出し』、天明三(一七八三)年に「稻生物怪錄」として『書き留めた』ところ、これを神変超常現象フリークでもあった国学者『平田篤胤が』寛政一一(一七九九)年に『筆写して秘蔵し』、文化八(一八一一)年に『門下生に校訂させた』が、この『校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治時代以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫の俄狂言の題材とな』り、現在もそのブームは続いていると言える。

「比叡山天狗の沙汰」芥川龍之介の怪奇蒐集ノートである、私のサイトの最旧下層に属する電子化である「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」の、冒頭「魔魅及天狗」の「22」の「此叡山天狗の沙汰」を参照されたい(長いので引かない)。

「本朝妖魅考」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」はスルーして注していないが、これは平田篤胤の「古今妖魅考」(全七巻・文政四(一八二一)年刊)と、林羅山の書いた「本朝神社考」(中世以来、仏教者のために王道が衰えて神道が廃れたことを憤って筆を執ったもので、神仏混淆を斥け、国家を上古の淳直の世に立ち返らせんことを闡明し、口碑縁起を訪ね歩いて、これを記紀・「延喜式」・「風土記」その他を照覧して本邦の主な神社の伝記その他を記したもの)を混同した誤記である。但し、この誤りは同情出来るレベルで、実は「古今妖魅考」は、神道家としても知られた篤胤が「本朝神社考」を親しく読み、その中の天狗に関する考察に共鳴して執筆したものだからである。さらに、同前の「椒圖志異」を見ると、先の「22」の前の「21」の天狗話(「天狗」の文字はないが)が、まさに羅山「本朝神社考」からの引用になっているのも考慮してやってよいだろう。

『天狗はよく「くそとび」と云ふ鳶の形をして現はれるさうだ「くそとび」は奇拔だと思ふ』同前の「椒圖志異」の「魔魅及天狗」の「24」が親和性のある話である。

   *

下總國香取郡萬歲村の若者ども五人連立ちて、後の山へ木こりにゆきけるが、少し傍なる山の端に、常よりは汚なげに見る鳶一つ羽をやすめ居たり、それをみて中なる一人が恐しげなる山伏の立居たると云ふ 然るに四人の者の目には唯鳶とのみ見ゆれば云ひ諍ふに 彼者正しく山伏なるものをと云てきゝ入れず、山より歸りて忽熱發して死にける、殘の四人は何事もなかりき 文化頃の事なり、

   *

天狗の眷族である鴉鳶(からすとんび)で知られる天狗と「糞鵄(くそとび)」の連関性は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その1)』及び『(その2)』が参考になる。私の「怪奇談集」でも枚挙に暇がないほどに出る。この如何にも不名誉な名の鳥は、現行では、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus に取り敢えず同定し得る。「糞鳶」という蔑称は、思うに、恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかと思われる。但し、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus も含んでいるか、或いは「くそとび」はノスリでなく、チョウゲンボウである可能性も充分にある。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)」を見られたい。]

2021/02/05

芥川龍之介書簡抄9 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(2)山本喜譽司宛(ビアズリーのワイルド「サロメ」の挿絵の「舞姫の褒美」の部分模写添え)

 

明治四五(一九一二)年七月二十一日・相模國高座郡鵠沼村加賀本樣方 山本喜譽司宛(自筆絵葉書)

 

The-dancers-reward

 

ひどい暑さです あまり暑いのでどこへもゆく氣にならない位です 昨日平塚がきました あんでるせんの御伽噺をよんでゐると云ふのが大へんかあゆさうでした、僕はひるねばかりしてゐます 目のさめてる時はくれおぱとらとあんとにいをよんでます 暑いのを我慢をして芝居をみに行つたら長距離競爭をした時ほど汗をかいたのでそれからやめにしちまいました 朝早く海へはいつて人魚に kuß でもして貰ひ給へ さようなら

                  龍

 

[やぶちゃん注:挿絵は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の原葉書のカラー画像をトリミングした。本芥川龍之介の模写(原画とは細部に有意な違いが認められる)スケッチのカラー版はそうそう見ることがない。私は上記の展覧会で現物を見た時、「彩色なんだ!?!」と思わず声を挙げたのを思い出す。というより、モノクロ版でさえ、ネット上では見かけないので、以前から甚だ残念に思っていた。ここに首尾よく私の憂鬱は完成した。

 絵の皿の脚の左右に芥川龍之介によって組み込まれた英文は、

 

THE

    MYSTERY OF LOVE

       is greater

than that OF LIFE.

           WILDE.

 

である(後述)。訳そうなら、「愛の謎は人生の謎よりも大きい」か。

 これは言わずもがな、アイルランドの詩人・作家・劇作家オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde 一八五四年~一九〇〇年)が一八九一年にフランス語(これはフランス語の発音の持つ独特の音楽性に惹かれたことによるとワイルドは言っている)で書き、一八九三年にパリで出版された戯曲「サロメ」(Salomé)の英訳版(フランス語版の翌年に刊行)に入った、知られたヴィクトリア朝の世紀末美術を代表するイギリスのイラストレーター(詩人・小説家でもあった)オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)の有名な挿画群の中の、恐らく最も知られた一枚で、近親凌辱の血にまみれたユダヤ王エロドから、舞いの褒美として彼女の恋を拒絶した預言者ヨカナーン(フランス語:Iokanaan(Jean le Baptiste:バプテスマ(洗礼者)のヨハネ))の首を断固要求し、銀の皿に載せられて運ばれてきたそのシーン(本文挿絵の終わりから三枚目)を元にしたものである(但し、本作のビアズリーの挿絵は作品に忠実な挿絵ではなく、中には明らかに無関係な、ワイルドを嘲笑してカリカチャライズしたものさえ含まれている。それでも私は甚だ偏愛しているが)。同挿絵の全体は以下である。同作邦文ウィキの中型の画像をダウン・ロードした。

 

751pxaubrey_beardsley__the_dancers_rewar

 

 因みに、同作の英訳出版は当時のワイルドの同性の恋人であったイギリスの作家ロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas 一八七〇年~一九四五年)が担当したものの、訳の出来が甚だ劣悪であったためにワイルド自身が「失望した」と言って翻訳を修正している。また、「サロメ」は、そのテーマの「聖書」を穢す激しい背徳性という理由から、公演の禁止令が出され(フランスの名女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年がロンドンのパレス・シアターで公演に向けて稽古を始めた直後であった)、イギリスでは一九三一年まで、実に四十年間、上演が出来なかったいわくつきの作品でもある。初演はパリで一八九六年二月であったが(主演不詳)、ワイルドは既に獄中にあった。ワイルドはこの前年四十一歳の時、ダグラスの父第九代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスに告訴の応酬の果てに敗れ、猥褻罪で投獄され、破産宣告も受けていた。一八九七年に出獄したが、晩年は獄中詩篇を刊行した程度で、既に「過去の人」となっていた。

 このスケッチに添えられた英文は、「サロメ」の終局で、サロメがヨカナーンの首に延々と語りかけ、接吻をする直前の最後の台詞の終わりの(太字は私が附した)

   *

I was a princess, and thou didst scorn me. I was a virgin, and thou didst take my virginity from me. I was chaste, and thou didst fill my veins with fire.... Ah! ah! wherefore didst thou not look at me, Jokanaan? If thou hadst looked at me thou hadst loved me. Well I know that thou wouldst have loved me, and the mystery of love is greater than the mystery of death. Love only should one consider.

   *

death」を「life」に変えたものである。一九五九年岩波文庫刊の福田恆存訳「サロメ」から部分引用しておく。太字は私が附した。

   《引用開始》

あたしは王女だつた、それをお前はさげすんだ。あたしは生娘だつた、その花をお前は穢してしまったのだ。あたしは無垢(むく)だつた、その血をお前は燃ゆる焰で濁らせた……あゝ! あゝ! どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカーナン? 一目でいゝ、あたしを見てくれさへしたら、きつととしう思うてくれたらうに。さうとも、さうに決まつてゐる。戀の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのこともあるまいに。戀だけを、日とは一途に想うてをればいいものを。

   《引用終了》

 さて。新全集宮坂年譜を見ると、この書簡の日附から八日前の七月十三日に、龍之介はオスカー・ワイルドの『Lord Arthur Savile's Crime, the Portrait of Mr. W. H. and other Stories』を読了した、とある。これは「アーサー・サヴィル卿の犯罪」という一八九一年にワイルドが刊行した中短編小説集の改版で、「W. H. 氏の肖像」という一篇が追加挿入された版である。かくも、龍之介がワイルドの熱烈なファンだったことが判る。

 さらにダブルで、まだ、大事なことがあるのである。それは、まさにこの年、この書簡から四ヶ月後の、改元して大正元年十一月十一日に、龍之介は級友の井川恭・久米正雄・石田幹之助とともに、横浜にあった横浜ゲィティ座へ赴き、イギリス人一座の演じた、まさにワイルドの、この「サロメ」を観劇しているのである。しかも、その思い出を、芥川龍之介は十三年も経った最晩年、大正一四(一九二五)年八月発行の雑誌『女性』に『「サロメ」その他』の標題で、『一「サロメ」』「二 變遷」「三 或抗議」「四 艶福」として掲載しているのである(これは後に最初の『一「サロメ」』の項だけを独立させて、『Gaity座の「サロメ」』という標題で、翌大正十五・昭和元(一九二六)年十二月に発行された生前最後の作品集(実際にそのような意識で編されたものと言われる)随筆集「梅・馬・鶯」に所収された)。無論、ぬかりはない――Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に―― 附やぶちゃん注」を参照されたい。また、新全集の宮坂年譜によれば、相当に、この「サロメ」には入れ込んでいたらしく、この日横浜に宿泊し、翌十一月十二日には、『横浜沖大演習観艦式を新子安の丘に登って見』た後、その『夜、イギリス海軍ミノトール艦のオーケストラが加わった「サロメ」を再び観る』とある(前日のメンバーと一緒であったかどうかは不明)。なお、今回、上記電子化注に記した英文学者佐々木隆氏のページに「書誌から見た日本ワイルド受容研究(補遺)」として、新たに「大正時代のワイルド劇」(平成27年3月)という資料(PDF)が追加されているのを発見、それを読むと――芥川龍之介がゲイティ座で行われたアラン・ウィルキィ一座の「サロメ」を観劇したのは十一月九日一回きりしかあり得な――という驚くべき結論が示されてある。

「平塚」既出既注であるが、「大へんかあゆさうでした」の意味が判るように再掲しておく。府立三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。この後、岡山の第六高等学校に進学したが、ここで「肋骨はぬかずにすンだ」(気胸術式を指す)で判る通り、結核で出戻ってきて、後に千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。或いは、龍之介が「death」を「life」に変えたのも、彼への龍之介流の優しさ故かも知れぬ。

「くれおぱとらとあんとにい」かく記しているが、シェイクスピアの戯曲「アントニーとクレオパトラ」(Antony and Cleopatra)であろう。確信犯で、「サロメ」に合わせて、わざとクレオパトラを前に出したものと思われる。

「芝居」時期が半月以上前になるが、先に示した明治四五(一九一二)年六月二十八日附井川恭宛に出た通り、六月二十六日にバンドマン喜歌劇団のオペレッタ「The Quaker Girl」を帝国劇場で観覧している。この日が暑かったとは書いていないが、この劇団の公演は毎日出し物が変わると書簡に龍之介は書いており、また、英語が予想以上に聴き取れなかったことに若干の不満を抱いている感じがある。されば、年譜にはないが、或いは、その後に同じ劇団の別な芝居を見に行った可能性は十分にあるのではないか? 先の和歌山県立図書館刊『南葵音楽文庫紀要』第二号PDF)の「資料紹介」によれば、バンドマン喜歌劇団は同じく帝国劇場で、六月三十日に「ダラー・プリンセス」(The Dollar Princess)という日本初演のそれを上演している。例えば、この日が甚だ蒸し暑い日であったとして、それから七月上旬が暑さが続いたとすれば、私は腑に落ちるのである。

「それからやめにしちまいました」「外出するのは」の意であろう。

「kuß」「クス」。ドイツ語で「接吻」の意。最後に「サロメ」に引っ掛けたのである。]

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