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カテゴリー「芥川龍之介 書簡抄」の162件の記事

2021/10/08

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ものごころ

 

  ものごころ

 

ものごころ覺えそめたるわが性のうすらあかりは

春の夜の雪のごとくにしめやかにして

ふきあげのほとりに咲けるなでしこの花にも似たり

ああこのうるほひをもておん身の髮を濡らすべきか

しからずばその手をこそ。

 

ふくらかなる白きお指にくちをあて

やみがたき情愁の海にひたりつくさむ

おん身よ

なになればかくもわが肩によりすがり

いつもいつもくさばなの吐息もてささやき給ふや

このごろは涙しげく流れ出でて

ひるもゆうべもやむことなし

ああ友よ

かくもいたいけなる我がものごころのもよほしに

秋もまぢかのひとむら時雨

さもさつさつとおとし來れり。

 

[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。萩原朔太郎の書き癖(彼の誤った書き癖は固執的で多数ある)。初出は大正二(一九一三)年十月号『創作』。初出形を示す。

 

  ものごゝろ

 

ものごゝろ覺えそめたる、わが性のうすらあかりは

春の夜の雪のごとくにしめやかにして

ふきあげのほとりに咲けるなでしこの花にも似たり

あゝこのうるほひをもておん身の髮を濡らすべきか

しからずはその手をこそ

 

ふくらかなる白きお指にくちをあて

やみがたき情愁の海にひたりつくさむ、

おん身よ

なになればかもわが肩によりすがり

いつもいつもくさばなの吐息もてささやぎ給ふや

このごろは淚しげく流れ出でゝ

ひるもゆうべもやんごとなし

あゝ友よ

かくもいたいけなる我がものごゝろのもよほしに

秋もまぢかのひとむら時雨

さもさつさつとおとし來れり。

 

「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」のものを以下に示す。

 

  ものごゝろ

 

ものごゝろおぼへそめたる、わが性のうすらあかりは

春の夜の雪のごとくにしめやかにして

ふきあげのほとりに咲けるなでしこの花にも似たり

あゝ このうるほひをもて おん身の髮を濡らすべきか

しからずば その手をこそ

ふくらかなる白きお指にくちをあて

やみがたき情愁の海にひたりつくさむ、

おん身よ

なになれば かもわが肩によりすがり

いつもいつも、くさばなの吐息もてささやぎ給ふや

このごろは淚しげく流れ出でゝ

ひるもゆうべもやむごとなし

あゝ友よ

かくもいたいけなる我がものごゝろのもよほしに

秋もまぢかのひとむら時雨

さも さつさつと おとし來れり。

 

これら、三種の比較によって、初出形の内、少なくとも、底本の第一連の最終行「しからずばその手をこそ。」の最後の句点、「さゝやぎ」の二箇所については、底本編者による恣意的変更である可能性が頗る高いことが推察出来る。なお、言っておくと、戦前までは、ベテランを自負する校正係や植字工が、歴史的仮名遣の誤りや表現がおかしいと感じたものを、作者に無断で変えてしまうことが普通にあった。それは作家デビュー前後の投稿作品のみに限らず、既に知られた流行作家となっていても同じであった。信じられない方のために言っておくと、「校正の神様」の異名で称された神代種亮(こうじろたねすけ 明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)がよく知られる。流行作家として引きも切らぬ状態にあった芥川龍之介は、特に彼に主作品集の校正を依頼していたが、その龍之介でさえ、彼が勝手に書き換えてしまうことを憤慨する書簡を書いている(本日、これから「芥川龍之介書簡抄」に追加で電子化してお示ししよう)。

2021/09/21

芥川龍之介書簡抄148 / 岩波旧全集「年月未詳」分より 四通

 

[やぶちゃん注:或いは、新全集では推定年で参入されてあるものもあるかも知れない。]

 

年不明・執筆地不明・八日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

謹啓 小生はかゝる文を御手許に差上ることと相成りしを悲しむものに御坐侯 又大兄の御痛恨の程を慰めまつるには我交のあまりに淺かりしを悔ゆるものに御坐候 小生は伊藤兄を隔てゝまた知人たる伊藤氏を隔てゝ大兄の御家事を伺ひ居り候 而してそは却つて小生をして大兄の御不幸に泣かしめ候ひき

然れども小生は玆に芝居めきたる悼詞に僞りの淚を流すを得ず候 只小生の苦き經驗に比べて大兄の御愁嘆を察し奉るに止め置くべく候

小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき

大兄も今はかくてあらるゝならむと思へばよしなき松長等のうかれ人が名を追悼にかりて尊宅を驚かしまゐらせし事のなかなかに憎くらしく思はれ候

完りに一言申上候 そは申す迄もなく今後の御勵精に御坐候 悲しみは一種の砥石に御坐匹 硬き金はこれによりて光をこそ增せ、軟き金は忽ちに磨り耗り申し侯 小生は平塚兄の如きはこの硬き金の一人にはおはさずやとそゞろ男らしき(敢てこの語を用ひ候)人格の程をゆかしみ居るものに候

大兄も亦願くはその一人たられむ事を庶幾ひ[やぶちゃん注:「こひねがひ」。]居り候

さまざまの思雲の如く湧きて筆のみ徒に澁り候 亂筆不書

    八日夜 雨聲をきゝつゝ 龍之介

   喜 譽 司 兄 玉案下

 

[やぶちゃん注:府立三中時代からの親友山本の家内の不幸(実母か)に寄せた誠実なものである。「我交のあまりに淺かりし」とあるから、三中在学中(であれば執筆地は本所)か、下限は一高入学後(執筆地の可能性に新宿の実父新原敏三所有の家が加わる)であろう。内容が内容であるだけに、同性愛感情を持っていた山本宛書簡にしては異様にかたぐるしいが、それだけに印象的には早い時期で、前者の可能性の方が高いように私は感じる。この書簡を採り上げた理由は、その親友の不幸への誠実な語りかけに加えて、「小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき」「大兄も今はかくてあらるゝならむと思へば」という一節に惹かれるからである。後に実母の死を文壇には隠し続け、晩年の三十四の大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した「點鬼簿」の「一」で、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。」と、かくもクールに、その事実を告白した彼が、実は、やはり作家としてのポーズに過ぎなったことが、判然とするからである。

「松長」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引にも載らない(落としている)。

「平塚兄」複数回既出既注だが、再掲しておくと、三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。後、岡山の第六高等学校に進学したが、結核のために戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。]

 

 

年月日不明・執筆地不明・宛名不明(書きかけの絵葉書)

海近き靑海苔干場に野萄のむらさきの花をみつゝもの思ふ旅人を思へ あたゝかく光れる海はキヤベツ畠の上に瓏銀をのべ眞珠の如き空よりは雲雀の聲雨よりもしげくふり來らむとすされど旅人の心はたのしまず 海つきて路は山の峽に入り雨後の春泥滑なる處落椿紅くして藪中鶯の聲をきくこと頻なりされど旅人の心はたのしまず

起伏せる靑麥の畑をうがち菜の花の間を南に下れば其處に眠れる如き港町ありて靑き潮のにほひはものさびたる白壁になげきたはれたる唄はとほき三絃と共にかはたれの霜をさらへり海にのぞめる石垣に桃は白く花さき金も褪せたる寺院の軒にはつばくらのかたらひしげけれど家と云ふ家街と云ふ街には云ふ可らざる安息と怠惰と悲哀との影ありて旅人の心はこゝに一味の平安を見出し得たり

とほき世ゆ何をか人にかたるらむ琅玕洞の水の音はも

名越川ほのかに靑き蘆の芽にうす月さすとさみしきものか

 

[やぶちゃん注:短歌(底本では三字下げだが、引き上げた)があり、紀行文としてよく掛けているので採用した。絵葉書のある観光地で、山峡から海浜が近く、港町に「海苔ひび」があり、さらにキャベツ畑というのは、まず東京近辺では三浦半島一円が最もしっくりくるが、ロケーションは不詳である。鎌倉(「名越の切通し」が逗子間にある)・小坪・逗子(「田越川」(手越川とも呼んだ)がある)附近を考えたが、その辺りに、春、龍之介が行った事実は、私の知る限りではない。但し、旅好きの若き日の彼が日帰りで行って帰ってくるに、不自然ではない。私は大学時代、春の一日、廃道の旧原「名越の切通し」を藪漕ぎして踏破し、小坪の「ゲジ穴」も抜け、逗子に下って、中目黒に戻った経験がある。

「瓏銀」鮮やかな銀色。明るい銀色。

「琅玕洞」不詳。「琅玕」は宝石の翡翠のこと。私も入ったことがあるイタリア南部のカプリ島にある海食洞「青の洞窟」(Grotta Azzurra)を、アンデルセンの恋愛小説「即興詩人」では、この洞窟が重要な舞台となっているが、森鷗外の翻訳では「琅玕洞」と訳されているが、短歌との相性はよくない。

「名越川」不詳。但し、冒頭注参照。]

 

 

四月十四日・田端発信(推定)・北原白秋宛(封筒欠)

 冠省

 原稿用紙にて御免蒙り候。咋夜はいろいろ御馳走にあひなり、ありがたく存候。どうか奧樣によろしくおつたヘ下され度候。それから今日室生君參り候所、十五日の俳句の會はパイプの會のよし、パイプをハイクと聞きあやまりし女中、おかしくもかなしく存候 頓首

    四月十四日      芥川龍之介

   北原白秋樣

 

[やぶちゃん注:犀星と龍之介の出会いは大正七(一九一八)年一月十三日であるから、それ以降となる。本書簡は岩波旧全集所収の唯一の白秋宛書簡なので採用した。]

 

 

大正一一(一九二二)年から翌一二(一九二三)年(推定)・田端発信・小杉未醒宛

 

ただに見てすぎむ巖ぞ雲林の弟子とならむは轉生ののち

のみ執るはあなむづかしと麥うるしここだも使ふ指物師われは

ぎらひふるアメリカにわがあらば牛飼ひぬべしジエルシイの牛を

唐くにに生れましかば李義山の家のやつことならんとするらむ

 十六日           龍 之 介

放 庵 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:全文が三字下げであるが、引き上げた。短歌で採用した。推定年は芥川龍之介満三十~三十二歳。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「麥うるし」「麥漆」小麦粉と生漆(きうるし)を混ぜ合わせた接着剤。陶磁器・木地の割れた部分などを接着させるのに用いる。

「天ぎらひふる」「天霧らひ降る」か。上代語の動詞「あまぎる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」は「雲や霧などで空一面が曇る」の意。或いは「ふる」は「振る」で、「あまぎらひ」は枕詞的で「天」から「降る」を引き出して、「偉そうに振る舞う」の意かもしれない。「アメリカ」は「あめ」で「天」「雨」の縁語になるし、偉そうにな態度に相応しい。

「ジエルシイの牛」ジェルシーは乳牛のJersey(ジャージー種)の古い読み方。

「李義山」晩唐の官僚政治家で詩人として知られる李商隠(八一二年或いは翌年~八五八年)の字(あざな)。]

2021/09/20

芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通

 

[やぶちゃん注:書簡数が少ないが、今まで通り、新全集の宮坂覺氏の年譜を用いて、七月一日から自死・死亡確認・通夜・出棺・火葬までと、九月二十四日に行われた追悼会及び末尾に配された遺骨埋葬・墓石関連記事までも引いておく。

七月一日 『午後、道章の体調が優れず、下島勲が来診する。軽い脳卒中の症状があった』。

七月二日土曜日 『午後、下島勲が道章を来診するが、病状は良好』であった。

七月三日日曜日 『川口松太郎(「映画時代」記者)が来訪するか。映画論議を展開し、自作の映画化の話などをしているところに、室生犀星が来訪した』。『夜、小穴隆一、神崎清らと談笑しているところに、下島勲が来訪して加わる。午後』十一『時頃まで雑談を』する。

七月五日 『午前、下島勲が道章を来診する』。この日、『室生犀星が来訪』した『か。翌日、犀星は軽井沢に出発しており、これが最後の面会となった』。]

 

昭和二(一九二七)年七月八日・田端発信・金九經宛

 

前略、原稿用紙にて御免蒙り候。「書物禮讚」ありがたく存候。訣、譯、ともにあて字たる國に生まれたること我ながら笑止千萬に存じ候。所詮わけと假名にするに若かず。唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候。(「慢性出鱈目」の慢性も言海には慢性とあり、新聞雜誌などには蔓性とあれども、しやれて慢性といふさへしやれと聞え難き世の中に候。)高須氏の著書は拜見不仕、高評によりて大體を窺ひ申し候。右とりあへず御禮まで。頓首

    七月八日       曼   靑

   金 九 經 先 生

 

[やぶちゃん注:「金九經」一般的な本邦での読みとして「きむ きゅうけい」と読んでおく。現代韓国語では「キム クーギョン」か。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とするが、『大谷學報』(第九十四巻第二号・二〇一五年三月十八日発行)PDF・但し、標題・目次他のみで当該論文はない)に載る孫 知慧(Son Ji-Hye)氏の論文『忘れられた近代の知識人「金九経」に関する調査」(ネットで『忘れられた近代の知識人「金九経」』で検索を掛けると、恐らく一番上にPDFでダウン・ロード出来るリンクが現われるはずである)によれば、「金九經」(一八九九年~?)は、『近代における新出敦煌文献の校訂、初期禅宗史の研究に貢猷した学者で』あったが、一九五〇年以降に『行方不明になった』(「北朝鮮に拉致されたか」という趣旨の記載が後に載る)とされる学者である。慶州生まれで、京城第一高等普通学校を卒業後、小学校教師を務めたが、一九二一(大正一〇)年に日本の京都の真宗大谷派の大谷大学に留学し、予科から文学部支那文学科に進学、鈴本大拙・倉石武四郎に師事した。一九二三(大正一二)年一月には「在京都苦学生会」を組織して会長となり、この昭和二年三月に同学科を卒業し、同年中には朝鮮(一九一〇年八月二十九日以降は現地は日本統治時代であった)に帰国している。則ち、卒業から三ヵ月ほど後に、恐らくは金の方から何らかのアプローチがあり、本書簡での龍之介の言葉遣いの印象からは、複数回(但し、金宛書簡はこれ以外にはなく、金の書簡も存在しないようだが)の書簡の遣り取りがあったのではないかと私は推定する。帰国後は高等普通学校教師や京城帝国図書館司書官を務めたりし(一九二七年~一九二八年)、一九二八年下半期に家族を連れて北京に赴き、翌年から一九三一年までは北京大学の朝鮮語及び日本語講師となった。その同時期に、かの周作人や兄の魯迅とも交遊している。一九三〇年には敦煌写本校刊本を発行し、師の鈴木大拙や、北京大学教授であった胡適(こせき)と交わり、初期禅宗史研究と敦煌発見の「校刊本楞伽(りょうが)師資記」の刊行(一九三一年)に協力した。 他にも『満洲滞在期に金九経は、満洲の遣跡調査と歴史研究に尽力し』、「重訂満洲祭神祭天典禮」『なども残している』とあり(引用符を使用していない部分は論文内の年表に拠って私が纏めたためである)、『とりわけ、近代禅宗史学において重要な地位を占める『(敦惶本)楞伽師資記』が、千余年の時間を経て世に知られるようになったのは、金九経という若い韓国人学者を媒介とした日中韓三国学者の協力による産物といえる。金九経自ら「私の願いは日中学者の相互交通であった』『」と述懐したように、近代東アジアの学術交渉に貢献した人物という観点からも考察してみる必要がある』べき重要な人物である、と孫氏は述べておられる。是非、同論文全体に目を通されんことを、強くお薦めする。なお、本書簡もそこに引用されているが、孫氏はその書簡内容については一切触れておられない。

「書物禮讚」芥川龍之介の読書書誌を纏めた学術書誌PDF)では、金九経の著作として載せているが、そうではない。調べたら、あった! 中身は見られないが、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌データで判った! これは雑誌名である! リンク先の詳細レコード表示を表示されたい。すると、その雑誌(杉田大学堂書店発行。一号から十一号とあり、発行は大一四(一九二五)年六月から昭和五(一九三〇)年七月までで、以降「廃刊」とある。国立国会図書館にあるのは同雑誌の合冊本らしい)記事細目の中に、金九經が投稿したものと思われる記事★「慢性出鱈目」★があった!!!

「訣、譯、ともにあて字たる」以下の龍之介の記載から、「訣」を「譯(訳)」の代用字として国字として「わけ」(「ゆえ」・「いわれ」等の軽い意味)と読む場合を指している。本来の漢字としての「訣」には「解釈する」という正統な意味はあっても、我々が今も使う「そういうわけ」といった「わけ」という軽い意味は全くないからである。

「唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候」金九經が龍之介のどの作品を指摘したのかは、確定は不可能だが、例えば、この直近の異色作で、金のような日本語に自在で、深い学識を持った人物が読んだものとなら、「玄鶴山房」かも知れない。リンク先の私のページで検索をかけて貰うと判るが、本文内で七ヶ所も使用されてある。但し、他にも龍之介は「訣(わけ)」をよく用いており、それ以前の「河童」でも十ヶ所ある(「訣別」は除く)。或いは「文藝的な、餘りに文藝的な」の可能性もある。この評論では、実に二十八ヶ所も使用されているからである。評論は或いは中国語も自在な朝鮮人である彼にとっては、小説よりも読み易かった可能性があるからである。

「慢性出鱈目」国立国会図書館デジタルコレクションの上記が見られないので内容は不明であるが、当時(そうして現代まで)の日本人が、世正規の国字でない漢字を、和語として、本来の漢字としては、あり得ない誤った使い方をしている「慢性」的な「出鱈目」の状況を述べたものであろうか。

「慢性も言海には慢性とあり」芥川龍之介! 嘘、こくな!! 俺の持ってる明治三七(一九〇四)年縮刷版(ちくま学芸文庫の覆[やぶちゃん注:ママ。]製本)にはな!(【 】は底本では長方形の囲み字)

 まん-せい(名)【漫性】醫ノ語、病症ノ永引クモノ。

ってあるぜ!!! 但し、芥川龍之介は蔓(つる)みたいに漫(みだ)りにうじゃうじゃ言ってるけど、ネットを調べるに、現在は中国語も朝鮮語(漢字表記の場合)も日本語の「慢性」を同じく「慢性」と表記していることが確認出来た。

「高須氏」不詳。

 以下、年譜より。

七月九日土曜日 『久保田万太郎を訪ね、『湖南の扇』を進呈し、一時間ほど話』した。

七月十日日曜日 『朝』、養母儔(とも)、『文、也寸志の三人が下島勲の楽天堂医院に行く』(まずは、道章の予後の確認であろう。但し、妻文が、直感で龍之介の精神的な異変に気づき、相談もしたものかも知れない)。『夕方、往診帰りの下島が来訪し、四人の来客と一緒に雑談をする。夜、小穴隆一、堀辰雄、下島らが来訪する。堀が帰った後、午前』二『時頃まで小穴、下島と花札を』した。

  「西方の人」を脱稿。

七月十三日 『夜、小穴隆一と六百間』(花札の競技の一種の名)『をしているところに下島勲が来訪して加わる。下島は午前』零『時頃、帰宅し、小穴は泊まっ』た。

七月十四日頃『室賀文武が来訪する。来客を帰して、深夜までキリスト教について話し合』った。

七月十五日 『午後』四『時頃、下島勲が来訪する。文に動坂まで『湖南の扇』を買いに行かせ、署名して進呈した』。『電報で永見徳太郎を自宅に呼び、「河童」の原稿を与え』ている永見は作家の原稿を蒐集する癖があったので、何んとも思わずに喜んで受け取ったのだろうが、明らかな「形見分け」である)。『夜、永見、小穴隆一、沖本常吉と四人で、亀戸に遊』んだ。

七月十六日土曜日 『夜、室賀文武が来訪するが、フキが理由を付けて断る。これを後で聞いた芥川は、会いたかったと漏らした。下島勲が来訪し、帰りがけの室賀に会っている』。

七月十七日日曜日 『午後』六『時頃、文を連れて観劇に出かけ、午後』十一『時頃、帰宅。途中、文に金時計を買い与え』ている(太字は私が施した)。結婚後は、苦労ばかりかけてきた文への、最後の思いやりであったのだろう。

七月十八日 『小穴隆一の下宿を訪ね、座布団の下に五〇円を置く』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』を参照されたい)。『帰途、道章の診察を終えて小穴宅に向かっていた下島勲と会い、書斎で午前』零『時頃まで談笑』した。

七月十九日 『早朝、多加志が発熱し、下島勲が来診する。この日、鵠沼を訪れる予定だったが、中止した』。『午後、小穴隆一が来訪』した。]

 

 

 

昭和二(一九二七)年七月二十日 コウヂマチクウチサイワイチヨウサイワイピルデイングナイ」カイソウシヤ宛(電報)

 

ユク」アクタガ ハ

 

[やぶちゃん注:電報でドキッとするが、同日の年譜に、この翌八月に『開講予定だった改造社主催の民衆夏期大学の講師を依頼され、電報で「ユク」と返事を』したのがこれである。

 以下、この日の年譜。『フキと諍いを起こし、フキが泣き出したため宥めたが、気持ちはおさまらず』、龍之介は『床の間にあった花瓶を庭石に投げ付け』ている。『内田百間が来訪するが、半醒半睡の状態で、時には』、『来客の前にもかかわらず眠ったり』した。『午後』四『時頃、道章の診察を終えて二階の書斎に顔を出した下島勲を引き留め、内田を送り出した後、二人で六百間をする』。なお、一方で、『この頃、日に一回は卒倒していたのが』、『おさまっている』ともある。

七月二十一日 『睡眠薬を飲んで』、『昼寝をしていたところを』、『雑誌記者の来訪で起こされ、乾嘔して苦しむ』。『午後、内田百間と一緒に自宅を出て、宇野浩二の留守宅に見舞いの品を届ける』。『小穴隆一の下宿に立ち寄り、義足を撫でて帰った』(『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』参照)。『夜、偶然近くに住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を中し入れていた佐多稲子が、窪川鶴次郎とともに来訪し、七年ぶりに再会する。自殺未遂の経験を持つ佐多に、自殺について詳しく尋ねた』(ダブりがあり、詳しくもないが、『小穴隆一 「二つの繪」(20) 「女人たち」』の私の「佐多稻子」の注を参照されたい)。]

 

 

昭和二(一九二七)年七月・田端・自宅にて・葛卷義敏宛(「西方の人」原稿と共に)

 

この原稿の番號を打ち直し、改造社の使に渡して下さい。

               龍 之 介

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:太字「番號を打ち直し」は底本では傍点「◦」。

 年譜より(以下、凡て私が太字とした)。

七月二十二日 『この年の最高気温(華氏九五度、摂氏約三五度)を示す猛暑』となった。『午後』三『時半頃、下島勲が来訪して診察を受け、睡眠薬の飲み過ぎを注意される』。『夕方、小穴隆一も来訪し、午前』零『時頃まで死について話をした』。『葛巻義敏には「今夜死ぬ」と言っていたが、「続西方の人」が完成しないため、取止め』たとされる。

七月二十三日土曜日 『午前』九『時頃、起床』し、『口調もはっきりしており、朝食で半熟卵四つと』、『牛乳二合をとる。書斎に閉じこもって「続西方の人」を書き続けた。文と三人の息子と一緒に、談笑しながら昼食をとる。午後』一『時頃と午後』三『時頃、来客』、『それぞれ』、『一人。午後』五『時半頃、二人。この二人と夕食を共にした。午後』十『時半頃、来客は帰った。この日は、小穴隆一も下島勲も訪れていない』。『深夜、絶筆「続西方の人」を脱稿』した。

七月二四日日曜日 『午前』一『時頃、フキに、下島勲に宛てた短冊「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」を預ける』。『午前』二『時頃、書斎から階下に降り、文と三人の息子が眠る部屋で』、『床に入』った。『この時、すでに致死量のベロナール、ジャールなどを飲んでいたものと思われる』(私藪野は山崎光夫氏の「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)の説に賛同して、自殺に用いたのは劇毒の青酸カリであったと考えている)。『二階から持って来た聖書を読みながら、最後の眠りについた』。『午前』六『時頃、文が異常に気付き、すぐに下島勲、小穴隆一に知らせたが、午前』七『時過ぎ、死亡が』医師下島勲によって『確認され』た。『小穴はデスマスクを描いた』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から同デスマスクを含む「二つの繪」の表紙カバーを以下に再掲しておく)。午後』九『時、親族の反対もあったが、久米正雄の説得により』、貸席「竹むら」で、「或旧友へ送る手記」が『久米から発表され、自殺が公表され』た。『この時、一八枚の原稿のうち二枚が紛失してい』たが、四日後の『二十七日に何者かの手で返送されて』きた、とあるが、これはちょっと端折り過ぎであって、公表された時は、ちゃんと全原稿があった。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の同作の項によれば、『読み上げた後、報道陣の強い要望で写真に撮るために遺書』(本作のこと)『原稿が全文』(二百字詰原稿用紙で九枚)が『貼り出されたが、回収してみると』、『二枚不足していた。公表を主張した手前、久米は大いに慌てたが、各社に回状を出すなどした結果、出棺直前の二十七日に、女文字の封書で紛失分が返送されてきて、かろうじて落着したという』とある。

 

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七月二十五日 『午後』四『時頃、夫人や親族によって納棺され、客間に移される。夜、家族や友人などによる通夜が執り行われた』。『前日は日曜日で夕刊が休みだったため、各紙は一斉に大きく芥川の死を報じた。読者への遺言とも言うべき「或旧友へ送る手記」』『に自殺の動機として書かれた「将来に対するぼんやりした不安」は、当時の時代を言い当てた字句として社会を震憾させ、人々に大きな衝撃を与えた』とある。「或舊友へ送る手記」はこれ

七月二十六日 『文壇関係者による通夜』となった。

七月二十七日 『午後』二『時頃、自宅から出棺。午後』三『時から』四『時少し前まで(三〇分の予定)、谷中斎楊で葬儀が執り行われ』、『導師は慈眼寺住職の篠原智光師』であった。『泉鏡花(先輩総代)、菊池寛(友人総代)、小島政二郎(後輩代表)、里見弾(文芸家協会代表)によって弔辞が読み上げられ』、『文壇関係者百数十名を含め、千五百名余りの弔問客が参集し』、午後』四『時』半『分頃、町井の火葬場の釜に納められ』た。同じく『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から、「当世文壇番附」の如き芥川龍之介葬儀場の配置図を再掲しておく。

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翌二十八日 『午前、日暮里の火葬場で火葬。午後、家族や親戚、さらに恒藤恭ら若干の友人たちによって骨揚げがなされ』ている。

七月三十日土曜日 『初七日』。

   *

九月二十四日土曜日 『午後』三『時』「竹むら」で『追悼会が行われ、久米正雄、菊池寛ら三十数名が列席する。その席で、改造社『現代日本文学全集』の宜伝用に撮影された、在りし日の芥川が映った活動写真が上映され』ている。YouTube のこれである。

   *

『遺骨は染井の慈眼寺境内に埋葬』され、『遺志により、墓石は、寸法も含め』、『愛用の座布団が形どられた』。『墓碑銘「芥川龍之介墓」は、小穴隆一の筆によるもの』であったが、十『月下旬の時点でも、宇体候補は決まっていな』かったとある。私は大学卒業の三月、墓参し、墓を洗った。

 なお、これで「芥川龍之介書簡抄」を終るつもりは――ない――また――必要となら――幾らでも晒す。芥川龍之介よ、勘弁して呉れよ…………]

芥川龍之介書簡抄146 / 昭和二(一九二七)年六月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年六月十日・田端発信・柳田國男宛

 

冠省、先夜は失禮仕り候。「まひまひつぶろ」のぬき刷り、ありがたく拜受致し候。尙又近頃泉先生より河童の話をいろいろ伺ひ候。

     舊句 金澤にて

   簀(す)むし子や雨にもねまる蝸牛

御一笑下され度候。頓首

    六月十日夜      龍 之 介

   柳 田 國 男 樣

 

[やぶちゃん注:以下、例によって前後を新全集の宮坂覺氏の年譜より引く。上記にある通り、この六月(自死前月)初旬、『泉鏡花に会って河童の話を聞』いている。六月二日、前月末に激しい精神異常を発症した宇野浩二を斎藤茂吉に『診察してもら』い、田端の自宅近くの天然『自笑軒で斎藤と夕食をとり』、その『帰途、午後』十『時頃、下島勲を訪ね、宇野の症状を話した』。六月四日土曜日、『「冬と手紙と」の「一 冬」を脱稿』、同七日、『「冬と手紙と」の「二 手紙」を脱稿』した(「冬と手紙」とは昭和二(一九二七)年七月一日発行の『中央公論』に二パートを合わせて掲載されている。リンク先は私のサイトの電子化)。而して、六月九日の『夜、柳田国男と会って「まひまひつぶろ」の抜き刷りをもら』っており、本書簡はそれへの礼である。また、この日に「三つの窓」を脱稿している。「三つの窓」は昭和二(一九二七)年七月一日発行の雑誌『改造』に掲載されたが、雑誌掲載の作品としては、芥川の意識の中では、「西方の人」「或阿呆の一生」へと直連関してゆく、最晩年の重要な作品の一つである(リンク先は総て私のサイト版電子化。前者は正・続を合わせた完全版で、後者は未定稿(草稿)附き)。また、この龍之介は『編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とあり(これは「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)」に拠る記載である)、厭人癖が見られる。他に、この『上旬』、『斎藤茂吉の紹介で、嫌がる宇野浩二を王子の精神科医院小峰病院に入院させ』てもいる。

「まひまひつぶろ」この三年後に刀江(とうこう)書院から昭和五(一九三〇)年七月十日刊の初版を刊行することになる「蝸牛考」の一部(どの部分かは不詳)の抜刷。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同初版を分割でオリジナル注附きで電子化を終わっている。

「簀むし子」(すむしこ)「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照されたいが、前書から、金沢などの旧加賀藩内などの北日本に独特の建築構造物(ここは屋外との仕切りとして装着されたものだが、屋内の部屋と廊下の間に透き障子の代わりとしても使用されることがあるようである)であり、そちらの注で、私は『「簀むし子」については、中田雅敏編著 蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文に拠れば、竹の簀を、道路に面して格子代わりに横に細い桟で打ちつけ、積雪や日差しの直射を避ける日除けとある。一九八六年踏青社刊の諏訪優「芥川龍之介の俳句を歩く」では、『中からは外が見え、外からは中が見えないこの地方独特の仕掛けで、いわゆる格子とは似ているが』、『ちがうものらしい』ともある』とした。茨城県の「益子材木店」公式サイトの富山県『岩瀬大町・新川町通りの「簾虫籠(すむしこ)」』の写真(現地の解説版含む)と解説がある。私はこの写真の通りを、三年前に友人らと歩いた。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月十四日・田端発信・齋藤貞吉宛

 

原稿用紙で失禮。日本では滅多に吸へぬ煙草をありがたう。不相變たつしやかね。この間大東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した。それから北海道へ行つた。

   雪どけの中にしだるゝ柳かな

これは旭川の吟だ。

    六月十四日      龍 之 介

   齋 藤 貞 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、ごく親しかった友人であった。既出既注

「東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した」「本所兩國」(リンク先は私の注附サイト版)の「綠町、龜澤町」に出てくる「Sと云ふ友だち」と思われる。

 年譜には、六月十二日日曜日、『午後、下島勲と宇野浩二の病状などを話していると、林房雄。神崎清が来訪』し、『プロレタリア文学について議論を交わした』とあり、この書簡の翌六月十五日には、『佐佐木茂索を鎌倉に訪ね』、『偶然』、『遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼に一泊』(東屋旅館か)し、翌十六日に『鵠沼から田端の自宅に戻』ったとある。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十一日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省度たび頂戴ものを致しありがたく存候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十一日     龍 之 介

   小手川金次郞樣

     旭川

   雪どけの中にしだるゝ柳哉

御一笑下され度候

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は作家野上弥生子の弟。既出既注

 年譜より。この前日、遺作となる問題作「或阿呆の一生」を脱稿している。冒頭にある久米正雄宛の当該原稿を託す内容のそれ(傍点「ヽ」は太字に代えた)、

   *

 僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き惡夫、惡子、惡親を持つたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。

 ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と云ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

    昭和二年六月二十日  芥川龍之介

   久米正雄君

   *

のクレジットは御覧の通り、その六月二十日である。則ち――芥川龍之介は《作家としての創作としての完成品としての遺書》である「或阿呆の一生」――を三十四日前に――書き終えていた――のである。なお、小穴隆一は「或阿呆の一生」の原稿が最初に託されていた相手は、自分、小穴自身だった、と証言している(『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照)。小穴はエキセントリックなところが多分にあり、その証言は安易に無批判に信用することは危険なのだが(私はブログのこちらで「二つの繪」と「鯨のお詣り」の二作品全文をオリジナル電子化注している)、これは「さもありなん」とは思う。ただ、龍之介が作家としての小説形式の遺書を――芥川龍之介自身が百%公開を確信犯で予知しているそれを――託すに相応しいのは、久米だと――計算して変更した――と私は考えている。そうして、それは正しかったとも考えている。

 なお、この日には、生前最後となる創作集「湖南の扇」が文藝春秋出版部から刊行されてもいる。

 また、翌六月二十一日には、前月分の最後で問題にした「東北・北海道・新潟」(自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載)を脱稿している。]

 

昭和二(一九二七)年六月二十四日・田端発信・大岡龍男宛

 

冠省高著お贈り下されありがたく存候 唯今序文だけ拜見致し候高濱さんの序文は小生などにも藥に相成り候 いづれゆつくり拜見仕る可く候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十四日     芥川龍之介

   大 岡 龍 男 樣

 

[やぶちゃん注:「大岡龍男」(明治二五(一八九二)年~昭和四七(一九七二)年は俳人で小説家。東京市下谷区出身。慶応義塾大学中退。十二歳で童話作家として知られる巌谷小波に師事して俳句を学んだ。後、三省堂・NHK(後に文芸部プロデューサーとして黒柳徹子を見出した人物らしい)に勤務する傍ら、大正初期に高浜虚子の門下となり、後に『ホトトギス』同人となった。この年に小説集「不孝者」(大阪・天青堂刊・序(高濱虛子・德冨蘇峰))を刊行しているから、「高著」はそれである。ネットを見る限り、俳句は殆んど見当たらず、しかもしょぼい(まあ、虚子の門じゃね)が、写生文や小説は、結構、評価している記事が見られる(私は未見)。

 年譜より。この翌日、六月二十五日土曜日、『小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。浅草の』待合『「春日」に行き、馴染みの芸者小亀と会う。この日は、小穴が』芥川家に『泊まってい』ったとある。これは、『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』に基づく。無論、この「小かめ」とのそれは、鷺氏が年譜で仰るように、秘めて別れを告げるためであったに相違ない。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・遠田信太郞宛(封筒に「遠田一路風樣」とあり)

 

冠省さくらんぼありがたく存候まい度御配慮にあづかり忝く右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   遠 田 信 太 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「遠田信太郞」「遠田一路風」岩波新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、ネット検索で判明した。山形県遊佐町(ゆざまち)の『広報ゆざ』第六百二十八号(平成二五(二〇一三)年六月一日発行)PDF)の「輝ける遊佐(まち)つくりびと㊳」として「遠田信太郎」として最終ページ(裏表紙)に記事が書かれ、それによれば、薬剤師で俳人の遠田信太郎(のぶたろう 明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)である。山形県酒田生まれで、大正二(一九一三)年に『鶴岡の荘内中学を卒業後、金沢医学専門学校に進学して薬学を学び、父の後をついで酒田で薬局を始めます。昭和』二十『年代には遊佐町に薬局が』一『店もなかったことから遊佐町十日町に居を移し、現在の「ユザ薬局」を開業。それまで遊佐町には薬店しかなかったため、調剤は酒田まで求めに行かなければならない状況を改善し、地域医療の発展に貢献しました』。『一方で』、『若い頃から俳句をたしなみ伊藤万寿に入門』し、『俳号を一路風』『とし、庄内で著名だった俳人の竹内唯一郎、伊藤酉水子(ゆうすいし)とともに三羽烏と称されるなど』、『文化人としても名高かった信太郎は』、『俳句仲間とともに町内への俳句の浸透に努めました。また、芥川龍之介と文通する』(☜)『など著名人との幅広い交友関係を持ちました。釣にも没頭し、店を家族にまかせて』、『吹浦や象潟まで出かけることも多く、家には庄内竿が何本もあったといいます』。『明治気質で』、『家庭でも冗談を言うことはほとんどなかったといいますが、孫を叱ることは一度もないなど』、『「やさしいおじいちゃん」であった』とあり、『感性豊かな文化人が築いた健康の一拠点は、今も多くの人の生活を支えています』とあるから、間違いない。岩波新全集の次回の新版では明記されることを望むものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・東宮エルザ宛

 

敬啓 東宮樣御長逝のよし承り候謹みて御悼み申上候 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   東 宮 エ ル ザ 樣

 

[やぶちゃん注:「東宮エルザ」既出既注のエスペランティスト東宮豐達の長女。]

2021/09/19

芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・恒藤恭宛

 

手紙をありがたう。頭の中はまだ片づかない。從つて未だに病氣だ。唯書かざる可らざる必要があつて書いてゐるのだから、憫み給へ。來月も亦谷崎君に答へることにした。僕等の議論は君などには非論理的だらうが、僕の現在の頭の中を整理する爲には必要なのだ。そのうちに京都へ行くかも知れない。右御返事のみ。奧さんによろしく。誰か君が大醉して下立賣を步いてゐるのを見たとか言つた。大いにわが意を得た。時々は大いに飮み給へ。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   恒 藤 恭 樣

二伸 さう云ふ暇もなからうが、若しあつたら、僕の說を批評した手紙をくれ給へ。ちつとは阿呆以外の說も聞きたい。尤も夫子自身阿呆だが。

 

[やぶちゃん注:現在、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」は執筆時期が不明である。しかし、私は、この書簡の「二伸」中に、その痕跡を発見する。また、この前後は、昭和二(一九二七)年六月発行の『新潮』の『ある日の日記』欄に掲載された「晩春賣文日記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」を参照されたい。実際の日記ではなく、日記を装ったものであるが、「五月五日」の掉尾の、『夢に一匹の虎あり、塀の上を通ふを見る。』は鬼気迫るものがある。

「下立賣」下立売通(しもたちうりどおり/しもだちうりどおり)。この東西(グーグル・マップ・データ)。

「夫子」ここは「そういうことを言っている私自身」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・眞野友二郞宛

 

冠省、鯛をありがたう存じます。あなたは悠々自適してゐられる容子、健羨に堪へません。右とりあへず御禮まで。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   眞 野 友 二 郞 樣

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端・発信・里見弴宛

 

冠省大道無門ありがたく存じ候。來月の改造にてお禮かたがた妄評仕らんと存じをり候所、大事をとりすぎ、とうとう今日の〆切りに間に合はず、斷念致し候間、この手紙を差し上げ候。御禮相遲れ候段あしからずおゆるし下され度候。頓首

    五月六日       芥川龍之介

   山 内 英 夫 樣

 

[やぶちゃん注:「大道無門」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『昭和二年三月刊。前年(大正十五年)「婦人公論」に連載したもの』とある。

「來月の改造にて」同前で、『連載中の「文芸的な、余りに文芸的な」を指す』とある。実は、書き始めている内に、力が入り過ぎ、締切に間に合わなくなったというのが事実であると私は考えている。実際、「大道無門」という「文藝的な、餘りに文藝的な」の草稿(と私は考えている)が存在するからである。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介」で電子化してあるので読まれたい。

「山本英夫」里見弴の本名。彼は明治二一(一八八八)年に有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれたが(有島武郎と有島生馬は実兄)、生まれる直前に母方の叔父山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となって「山内英夫」となった。但し、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端発信・宇野浩二宛

 

冠省 君の本の題を知らせてくれぬか。好意に甘えて序文を作ることにする。但しそれは一度「文藝春秋」にのせる事にしたい。さうすると、僕も大いに助かるから。餘は拜眉の上萬々、頓首

    五月六日夜      芥川龍之介

   宇野浩二樣

 

[やぶちゃん注:「君の本」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年八月』(十日)『新潮社刊の「我が日我が夢」』とある。昭和二年六月一日発行の『文藝春秋』に『「我が日我が夢」の序』として掲載され、上記単行本の「序」として収録された。

「僕も大いに助かる」稿料が貰えるからであるが、自分のためといういうよりも、この時期、夫に自殺されて未亡人となった姉ヒサの一家の経済的援助も龍之介は一身に担っていたから、「たかが/されど」であったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十六日・函館発信・芥川宛(絵葉書)

 

一路平穩函館へ參り候 頓首

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この五月十三日の午後十時三十分に『上野駅で青森行の急行に乗車し、里見弴とともに、改造社『現代日本文学全集』の宣伝講演旅行のため、東北・北海道方面に向けて出発』したとあり、十四日土曜日、午前七時二十分、『仙台に到着』、『小宮豊隆とともに、当時』、『東北大学にいた木下杢太郎』(東北帝国大学医学部教授として皮膚病黴毒学講座を担当していた)『を訪ね、昼食を共にする。この時』、龍之介は木下に『九州』帝国『大学から招聘されていることを漏らした』とある。その後、午後四時半、『仙台公会堂で講演を』し、『この日は』仙台の『針久』(はりきゅう)『別館に宿泊』した。十五日、『仙台を発ち、盛岡に到着。午後』四『時、盛岡劇場で「夏目先生の事」と題して講演を』し、『終了後、岩手日報社の招待で金山踊り』(かなやまおどり:嘗て鉱山で選鉱作業をした女の仕事歌と踊り)『を見物し』、『この日は、六日町の高与旅館に宿泊』した。十六日の午前十一時四十二分『発の急行で盛岡を発ち、午後』十『時、函館に到着』、『この日は、函館駅頭の勝田旅館に宿泊』した。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・志賀直哉宛(絵葉書。里見弴と寄書)

 

   双鳬眠圓

   孤雁夢寒

旅情御想察下され度候。

     五月十七日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版書簡本文によれば(同全集は独自に歴史的仮名遣による推定読みが各所で行われている)、

 双鳬(さうふ) 眠り 圓かにして

 孤雁(こがん) 夢 寒し

と訓じており、脚注で、「双鳬」は『ひとつがいの鴨。里見が女づれであることを暗示する』とし、「孤雁」は『一話の雁。。芥川自身の単身旅行の境涯をいう』とある。但し、私はこれ以外に、この時の里見が女性同伴であったという記事を見たことがない。もし、終始、里見が女性を連れていたとなら、書簡のどこかで、その女性への言及があると私は思うのだが、そんなものは欠片もない。この注の根拠となる事実証左をご存知の方は、是非、御教授あられたい。なお、里見は大阪の芸妓山中まさと早くに結婚しているが、妻なら(しかも元芸妓となら)、龍之介が書簡で触れないはずがない。それとも、妻でない愛人だったのか? これはまた、問題であろう。第一、芥川と里見の、この改造社提灯持ち情宣講演部隊(事実、「現代日本文学全集」と書いた提灯を持った二人に繩が附けられて、その二本を後ろで操る「改造社」の社長が背後に小さく描かれた昭和二年五月発行の『北海タイムス』に掲載された「悦郎生」の手になる辛みの強烈な戯画が残されている(底本の岩波旧全集「月報8」の「資料紹介」に載る「昭和二年五月二十二日『東奥日報』」に挿入されたもの。そのカリカチャライズに龍之介の談話として、『この度北海タイムスの漫畫程、われ乍ら感心したのはないね、岡本一平のもの』(太字は底本傍点「ヽ」)『したよりは』(岡本の絵も先の絵の上に掲げられてある)『餘程うまく出てますね。』と書かれてある)この行動・講演日程(『九日間で八カ所講演』という『相当な強行軍』と鷺氏の年譜にある。次の書簡も参照)は特に北海道内でのそれは相当にハードなものであったから、講演中は暇でも、それに合わせて移動するのは(しかも次の書簡で判る通り、飯は不味くて汚いのである)、女性にはかなりきついと思うのだが? 但し、次の書簡も参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・相州鎌倉阪の下 佐々木茂索樣 同房子樣(絵葉書、里見弴と寄書)

 

連日强行軍的に講演させられ神身[やぶちゃん注:ママ。]ともに疲勞而も食物はまづく宿は汚い

一體どうしてくれるつもりだ      弴

汽車にのる、しやべる、ねる、又汽車にのる、のべつ幕なしの精進には少からず弱り居り候但し鴛鴦眠暖 孤鶴夢冷

                   龍

 

[やぶちゃん注:里見弴は著作権存続だが、寄書なので、そのまま引用扱いで載せる。特にこの宣伝講演旅行の凄絶なそれのへ怒りは貴重な資料であるからである。

「鴛鴦眠暖 狐鶴夢冷」

 鴛鴦 眠り暖かにして

 孤鶴 夢 冷やかなり

か。前の「但し」といい、やっぱり里見は女連れということか?]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・東京市外田端四三五芥川氣附 小穴隆一樣・五月十七日 蝦夷の國湯の川 芥川龍之介

 

敬啓 仙臺、岩手と巡業し、やつと津輕海峽を渡りて函館へ參り候函館は殺風景を極めた所なり、匆々湯の川溫泉へ避難、ここらは櫻さき蒲公英さき黃水仙さき櫻すずめと云ふ鳥啼き居り候あひ變らず憂鬱夜々卽時に死ねる支度をして休みをり候これより札幌、旭川、小樽をまはり、新潟を經て二十四五日頃にかへる筈、文中さしつかへなき所だけ宅へもお洩らし下され度候

  盛岡

啄木は今はあらずも目なぐもる岩手の山に鳥は啼きつつ

插し画日々大へんなるべし女の子の鞠をつける画より後は見ず不本意この事也 頓首

    五月十七日          澄

   一 游 先 生

 

[やぶちゃん注:「芥川氣附」葛巻義敏辺りが、小穴に届けることを想定したものであろう。

「湯の川溫泉」この附近(グーグル・マップ・データ)。私も一度、友人らと泊まったことがある。

「櫻すずめ」種としてはスズメ目カエデチョウ科 Neochmia 属サクラスズメ Neochmia modesta がオーストラリア北東部の固有種であるので、違う。単に桜の花を花ごと食い千切って、花の附け根に入っている蜜を吸う普通の雀ではあるまいか?

「目なぐもる」「たなぐもる」の誤記か。

「插し画」芥川龍之介晩年の纏まった中編随筆作品の一つである「本所兩國」の挿絵(リンク先は私のサイト版)。昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(九日と十六日は休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」の「四六――六〇」として連載したものを指す(芥川龍之介は、結局、未だに大阪毎日新聞社の社員であった)。連載時の挿絵は芥川龍之介の友人であり、画家の小穴隆一(作中のO君)であった。これにはエピソードがある(以下は鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の記述に基づく)。当初の新聞社の指示は、挿絵も芥川龍之介自身が描くという条件で、芥川は相当に悩みながらも、小穴の指導を受けて、第一回・第二回分の絵を描くが、社に帰参した記者が芥川が挿絵を描くことを嫌がっている伝えたところ、小穴が描いてもよいということになり、芥川は快哉を叫んだという。より詳しい経緯は私の『小穴隆一「二つの繪」(33) 「影照」(8) 「芥川の畫いたさしゑ」』を読まれたい。ともかくも、そうした経緯からも小穴には借りがあるから、言い添えているのである。なお、この絵は展覧会で、現物全篇を見たことがある。ただ、「女の子の鞠をつける画」というのは、残念なことに、記憶がない。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣(絵葉書)

 

コレハアイヌデス ハコダテニハアイヌハヰマセン シカシアイヌノコシラヘタモノヲウツテヰマス

 

[やぶちゃん注:新全集年譜に、五月十七日の午後四時半、『函館公会堂で「雑感」と題して講演を』し、午後十一時六分『発の急行に乗り、札幌に向かう』とあり、翌十八日の午前七時五十四分、『札幌に到着。札幌では、午後』二『時、北海道大学中央講堂で「ポオの美学について」、午後』四『時、大通小学校で「夏目先生の事ども」と題して、二回』の『講演をする。講演会終了後、北大文芸部と札幌の文学グループによる歓迎会に出席』、『この日は、山形屋に宿泊』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川比呂志 同多加志宛(絵葉書)

 

サツポロヘキマシタココニハキレイナシヨクブツエンガアリマスアシタハアサヒガハトイフ町ヘユキマス

 

[やぶちゃん注:

「シヨクブツエン」北海道帝国大学植物園のことであろう。クラーク博士の学術的要請によって明治一九(一八八六)年に竣工した非常に古いものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川文宛(絵葉書)

 

汽車へ乘つてはしやべりしやべりする爲、すつかりくたびれた。かへりには新潟へまはり、二三日休養するつもり。こんなに烈しい旅とは思はなかつた。北海道では今ボオヂエストをやつてゐる。以上

    札幌

 

[やぶちゃん注:年譜に、この十九日の午前八時『発の急行で札幌を発ち、午前』十一時三十二分、『旭川に到着、午後』四『時半、錦座で「表現」と題して講演を』し、午後六時十五分発の急行で『旭川を発ち』、午後九時四十四分、『再び札幌に到着』、『この日は、札幌に宿泊か』とある。

「二三日休養するつもり」これこそが大切な発言なのである! この時点で、あの《計画》は立てられていたのである! 後述する。

「ボオヂエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste)はイギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)が一九二四年に発表した冒険小説で、本邦では「ボゥ・ジェスト」のタイトルで日本語訳が出版されている。原題は英語で「麗しき行為・上辺だけの雅量」の意。ここはそれを最初に映画化した一九二六年公開のアメリカのモノクロームのサイレント映画(ハーバート・ブレノン(Herbert Brenon 一八八〇年~一九五八年:アイルランド出身)監督/ロナルド・コールマン(Ronald Colman/本名 Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリスの名優でトーキー黎明期を代表する人気スターの一人で、本邦でも人気が高かった)主演)である。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)

 

やつと新潟着、これはプライヴェエトだから氣樂だ。尤も大きな部屋にたつた一人坐つてゐるのははかない。

     憶北海道

   冱え返る身にしみじみとほつき貝

このほつき貝と云ふ貝は恐るべきものだ。どこの宿へとまつても大抵膳の上に出現する。

    五月二十四日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日、『札幌を発ち、小樽に到着。午後』五『時、花園小学校で「描かけてること」(あるいは「描ける物」「描かれたもの」)と題して講演を』した。『聴衆の中には、若き日の伊藤整、小林多喜二がいた』。午前十時四十八分『発の寝台急行に乗り、函館に向かう』とあり、翌二十一日土曜日の午前七時、『函館に到着。午前』八『時、青函連絡船に乗り、午後』零『時半、青森に到着。ここで上京する里見弴と別れ、新潟に向かうべく、休息と時間調整のために旅館塩谷支店に部屋をと取った。そこで青森市公会堂での講演のために訪れていた秋田雨雀、片岡鉄兵に会う。「東奥日報」や秋田などの勧めもあって』、『急遽、午後』四『時半、青森市公会堂で行われた講演会に参加し、「漱石先生の話」と題して講演を』した。『熱心な聴衆の一人には、太宰治(当時弘前高校生徒)がいた。この日は、塩谷支店に宿泊』した。翌二十二日日曜日、『朝、北陸回りで新潟に向かう(秋田雨雀らと同乗』)。『夜、新潟に到着』、『新潟では、三中の校長だった八田三喜(はったみき)が旧制新潟高校校長をつとめて』おり、以前に八田から講演の依頼があったのである(それが「これはプライヴェエトだから氣樂だ」の意である)。『この日は、篠田旅館に宿泊』した。翌二十四日の午後三字半、『新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演をし』た(この時の英文講演メモは現在も残っており、全集に収録されてある)。『夕方、篠田旅館で行われた座談会に、八田三喜、式場隆三郎をはじめ、新潟高校の関係者らと出席する』。この時の座談会は、本年年初に、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』として、ブログで電子化してあるので、是非、読まれたい。

「ほつき貝」」斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense の北海道での異名。現行、異名の方が流通では圧倒的に幅を利かせている。「柳田國男 蝸牛考 初版(15) 語音分化」の私の注の「松毬」を参照されたい。芥川龍之介にも言及してある。また、私の「眼からホッキ!」も見られたいが、芥川龍之介が「恐るべきものだ」と言っているのは、その剥き身が女性生殖器に似ていることを暗に指しているものと私は信じて疑わないのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信(推定)・東京市外田端四三五芥川氣附小穴隆一樣(絵葉書)

 

  北海道二句

ひつじ田の中にしだるる柳かな

  ほつき貝と云ふ貝ありいづこの膳にものぼる

冴え返る身にしみじみとほつき貝

 五月二十四日

二伸 繁昌記十三、十五囘だけ拜見。長明先生云々の字は下島先生乎。

 

[やぶちゃん注:「ひつじ田」「ひつじ」とは、刈り取った後に再び伸びてくる稲のことを言う。「穭」と書く。秋の季語。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『この句は、東京に戻った六月一四日付西村貞吉宛書簡や「講演軍記」(「文芸時報」六月号)などでは、「雪どけの(雪解けの)中にしだるる栁かな」と改められ、旭川で作った句とある。残された最後の句である』とある。改作形は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」及びやぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句 (大正十二年~昭和二年迄)附 辞世を参照されたい。後者で私も、『これが旧全集の中で日附の判明している書簡に所収する龍之介最後の俳句である』と注した。

「長明先生云々の字」「本所・兩國」の最終回は「方丈記」の見出しが付けられているが、この謂いの詳しい意味は不詳。挿絵を再び見る機会があったら、追記する。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・芥川文宛(絵葉書)

 

おととひの夜新潟到着、八田さんにいろいろ御厄介になる。二十五日か六日にはかへるつもり。くたびれ切つてゐる。東北や北海道を𢌞つて來ると食ひもののうまいだけ難有い。

                 龍

どこへ行つても御馳走ぜめに弱つてゐる。就中北海道の「ホツキ」と云ふ貝はやり切れない。

    五月二十四日  志の田にて

 

[やぶちゃん注:ここでは確かに文に「二十五日か六日にはかへるつもり」と言ってはいる。これをまともに信ずれば、宮坂年譜は正しいことになるが、私は信じない。

「志の田」新潟の旅館名だが、前で引用した通り、「篠田」が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣 同多加志樣(絵葉書)

 

コレハニヒガタノマチデス ムカシノ東京ノヤウナキガシマス ソレデモジドウシヤハ トホツテヰマス

   ヒ ロ シ サ マ

   タ カ シ サ マ

    五月二十四日     ヘ チ マ

 

[やぶちゃん注:「ヘチマ」瘦せた芥川龍之介の自身の卑戯称か、或いは、自分の子らがたまたま「御父さんは糸瓜みたい」と言ったことがあるか。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

鍋茶屋はつひに鍔甚に若かず。金澤にありし日の多幸なりしを思ふ事切なり。

     北海道

   ひつじ田の中にしだるる柳かな

          新潟   龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「鍋茶屋」(なべじやや(なべじゃや))は筑摩全集類聚版脚注に、『新潟の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、創業は弘化三(一八四六)年とする。

「鍔甚」(つばじん)は筑摩全集類聚版脚注に、『金沢の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、『加賀百万石の礎を築いた前田利家に、お抱え鍔師として仕えて四〇〇年の鍔家』の『三代目甚兵衛が宝暦二年(一七五二年)に鍔師の傍ら』、『営んだ小亭・塩梅屋「つば屋」が「つば甚」の始まりとされて』いるとある。

「金澤にありし日」芥川龍之介大正一三(一九二四)年五月十四日、金沢・大坂・京都方面の旅に出、十五日に金沢に到着し、媒酌人をつとめることになっていた岡栄一郎の親族に逢って、彼らの結婚の了承を求めることが旅の一つの目的であった。金沢では室生犀星の世話で、兼六園園内にあった茶屋「三芳庵」の別荘にたった一人で二泊し、その豪奢な造りに非常な感銘を受けている。十九日の夜に大阪に発った。金沢滞在は龍之介にとって忘れられぬ至福の時だったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・里見弴宛(絵葉書)

 

靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り、その上例の茶話會と云ふやつにて往生すること一かたならず、新潟にてやつと人並みの食物にありつきほつと致し候。尤も鍋茶屋も鍔甚に及ばず、美人にも生惜邂逅不仕候

遠藤さまによろしく。魚は東京よりも新しいことを御吹聽下さらば幸甚。

     北海道を憶ふ

   冴え返る身にしみじみとほつき貝

 

[やぶちゃん注:『靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り……』先の五月二十四日附佐佐木茂索宛書簡の注を参照。青森で秋田や片岡と逢ったことで、またまた、予期せぬ講演や歓迎会に引き廻されたことを言っているものと推察される。

「遠藤さま」不詳だが、一つ、里見は元赤坂芸妓であった菊龍(遠藤喜久・お良)を愛人にしていたと当該ウィキにあるので(時期が合うどうかは判らない)、彼女のことかも知れない。

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十八日・田端発信・福島金次宛

 

御手紙拜見しました。何かとムヤミに書いてゐます。「蜃氣樓」をほめて頂いて恐縮です。しかし或友だちは小生の作品中、あれを一番無感激のものに數へてゐます。小生自身は一番無感激とも思つてゐないのですが。

    五月二十八日     芥川龍之介

   福島金次樣

二伸北海道よりかへり、いろいろ手紙ばかり書いて大分くたびれました。これは四本目です。

 

[やぶちゃん注:宛名の「福島金次」は未詳(新全集「人名解説索引」も同じく『未詳』とする)。この書面の謂いからは、少なくとも、この前日には田端へ帰着しているもののように読み取れる。

……さて、前記の新全集の宮坂覺氏の年譜では、新潟での五月二十四日の座談会記事に続いて、さらりと、

『午後』六『時半、帰京の途につく』

と記されてあり、次に、

翌五月二十五日の条が立項されて、『新潟から帰京し、田端の自宅に戻る。下島勲に土産の梨を進呈した』

とある。しかし、この二十五日の龍之介帰京の情報は昭和一一(一九三六)年に下島が公刊した随筆集だけを元にしたものであるのだが、私は、龍之介自死後九年も経ってから発表された、この随筆中の日付を激しく疑っている。

そもそも宮坂氏の年譜のここの記載が確かなのものであるなら、芥川龍之介は十九日の文宛書簡の「二三日休養するつもり」を実行せずに、即刻帰宅した

ことになる

のである。

更に、先行する一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、

ここに大きな相違が見られる

のである。鷺氏は、芥川龍之介の帰京を、

五月『二十七日、田端の自宅にもどる。』

とされておられるのである。

則ち、鷺氏の見解に従うなら、

新潟を発した五月二十四日(鷺氏は実はこの講演日を五月二十三日で立項し、『(あるいは二十四日)』とされて不確定としておられる)から五月二十七日までの――正味二日から約二日半(約三日)の空白――がここに存在することになる

のである。

この空白期間は、まさに、文への――「二三日休養するつもり」――に合致する

のである。宮坂年譜にある通り、講演の終わった後、座談会の後、夕刻に新潟を発車した列車に芥川龍之介が乗ったのは、事実であろう。

しかし……芥川龍之介はそのまま帰京はしていない――

のである。

……何処へ行ったか?……さても……そこで、誰と逢ったか?……

それを解き明かす鑰(かぎ)となる作品が――ある――

芥川龍之介の「東北・北海道・新潟」

である。これは昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載された。

以上のリンク先は私の電子化であるが、その冒頭注で、私はこの空白への推理を最初に開始しているので、是非、読まれたい。

 

……ズバリ、言おう……

この空白の中で――芥川龍之介は片山廣子と軽井沢で逢っていた――

というのが私の結論である。

 

片山廣子には昭和四(一九二九)年六月号の雑誌『若草』に松村みね子名義(廣子の翻訳作品用のペン・ネーム)で掲載された「五月と六月」があるが、それをまず、読んで貰いたい。そこから、私の本格的な疑問が生じたからである。

次いで、私のブログ記事の『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』へと進まれ、最後に、私のサイト版の、

『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』

を読まれたい。芥川龍之介研究者の中で、この邂逅を仮定している方は今のところ知らないが、しかし、私は絶対に事実としてあったと考えているのである――反論があれば、何時でも受けて立つ。

 なお、宮坂年譜には、この五月の『下旬(あるいは上旬か)』として、『再び帝国ホテルでの自殺を計画したが、未遂に終わる。平松麻素子の知らせで文たちがホテルへに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが、手当てが早かったため、覚醒する。文は「後にも、先にも、私が本当に怒ったのはその時だけ」とし、この時の芥川が珍しく涙を見せて誤ったことを回想している』とあり、また、この『月末』には、盟友『宇野浩二が発狂し』(既注)、『広津和郎とともに世話をする』とある。――風雲急を告げる刻(とき)が――遂にやって来てしまったのである…………

2021/09/17

芥川龍之介書簡抄144 / 昭和二(一九二七)年四月(全) 五通

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・吉田泰司宛

 

冠省、あらゆる「河童」の批評の中にあなたの批評だけ僕を動かしました。あなたは僕を知らないだけにこれは僕には本望です。河童はあらゆるものに對する、――就中僕自身に對するデグウから生まれました。あらゆる「河童」の批評は「明るい機智」を云々してゐます。恰も一層僕自身を不快にさせる爲のやうに。右突然ながら排悶の爲に。(御禮の爲と云ふよりも) 頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   吉田泰司樣

 

[やぶちゃん注:「吉田泰司」(生没年未詳)筑摩全集類聚版脚注に、『白樺系統の批評家。この』「河童」の『批評は倉田百三』が大正一五(一九二六)年に創刊した雑誌『「生活者」に出る』とある(当該雑誌のこの年の四月号所収)。岩波新全集の「人名解説索引」によれば、彼は大正八(一九一九)年に『片山敏彦らと同人誌「青空」を創刊』し、『のち「白樺」「高原」などに寄稿している』とある。

「デグウ」dégout。フランス語で「嫌悪・不快感」。]

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・稻垣足穗宛

 

高著をありがたう、文壇はあなたのやうな fancy の所有主に冷淡です。しかし fancy それ自身に價値のあるのは勿論です。書けるまでどんどんお書きなさい。僕などはもう fancy に見すてられた方です。しかし今牛乳をのんでゐると、第三半球がぼんやり浮かんで來ました。頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   稻垣足穗樣

二伸ゆうべまで鵠沼にゐた爲に御禮が遲れました。

 

[やぶちゃん注:「稻垣足穗」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は小説家。大阪出身で関西学院普通部卒。佐藤春夫の知遇を得て、大正一二(一九二三)年に「一千一秒物語」を発表。器械・天体などを題材に反リアリズムの小宇宙を構成した作品を発表、奇才と称された。戦後、小説「弥勒」やエッセイ「A感覚とV感覚」を発表。昭和四四(一九六九)年に随筆集「少年愛の美学」でタルホ・ブームを起こした。私は「一千一秒物語」・「A感覚とV感覚」・「少年愛の美学」を読んだが、どれも生理的に受けつけられなかった。

「高著」最後の部分から、この年の三月に金星堂から刊行した「第三半球物語」であろう。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月四日・田端発信・芥川文宛(葉書)

 

多加志熱を出したよし、石川さんから聞いた。こちらも義敏熱を出し(インフルエンザ)ねてゐる。

多加志はすつかりなほるまでそちらに置いた方がよいかも知れない。六日或は七日に種やをやる筈。お母さんによろしく。

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜の四月四日の条に、『鵠沼の塚本家に滞在中の文から、多加志が熱を出したことを知らされ、見舞い状を送る』というのがこれ。

「石川さん」一九九四年岩波書店刊の宮坂覺編著「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」を見るに、石川太一・石川暁星なる人物であるが、人物は不詳。

「種やをやる」意味不明。何かの植物の種を自宅の庭に蒔くということか。或いは、文にのみ判る符牒か? しかし、この四月七日には芥川龍之介は大変な事件を起こしている(時日は未確定ともされる)。新全集宮坂年譜から前後を引く。

   *

四月五日 『夜、ウィスキーを手土産に持って久保田万太郎を訪ね、一緒に飲む。この時、傘の絵と句を書き残した』。現在、絵・俳句ともに自筆の傘の絵というのは、私の知る限りでは、三種が存在する。データが不足しているために、ここに出るのがそれらのどれかであるか、或いは別なものかは判らない。但し、それらに共通する添え句は、

 時雨るゝ堀江の茶屋に客ひとり

の龍之介の句であるから、まず、これもそれと同じようなものと考えて差し支えあるまい。

四月六日 午後二時頃、『下島勲が初めて甥の連(むらじ)(のち養子に迎える)を連れて来訪する。下島には、英語の聖書を読むことを勧めた。夕方、下島とともに室生犀星を訪ねる。この時、犀星の机上にあった書簡箋をとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とある。

四月七日 『「歯車」の最終稿「六 飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻簾素子と心中することを計画していたとされる』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照されたい)。『但し、平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられる』。『平松が、小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が駆けつけ、未遂に終わる。この日は、そのまま小穴と二人で帝国ホテルに宿泊』した。

四月八日 『文が、比呂志の小学校の始業式に出席した後、帝国ホテルを訪ねる。この日、柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で平松麻素子、柳原と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが』、彼女は行かなかった。

   *

この柳原白蓮との一件は、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「柳原白蓮の回想」に柳原白蓮「芥川龍之介さんの思ひ出」が引かれてあるので、引用部を転載する。歌人柳原白蓮は延長ギリギリ前でパブリック・ドメインである。最後の句点のみ私が打った。

   *

自殺をなさる一寸前の事、私の可愛がつてゐた人で芥川さんと大変親しくしていた人があつたのだが、その人からの突然の連絡で芥川さんが心中を迫つてゐるとの事、私はとるものもとりあえずその時丁度頂いたばかりの印税があつたので、それをそつくりもつてかけつけた。龍之介さんはどうしても死ぬといふ。私は死ぬ事は悪い事だといふ。たうとう議論になつた。そして私はおしまひには、これ程云つてもやはりわかつてもらヘなければ勝手に死ぬがいい。しかしこの人は私にとつて大事な人だから一緒に死んではいやだ、死ぬなら一人で死んでといつて泣き出してしまつた。するとどうでせう。その時まで大変深刻だつた龍之介さんは突然上機嫌になり、あなたのやうな正直な人はみたことないと云ふ。そして一緒に御飯を食べようと云ひ出した。それから星ケ丘茶寮に三人で出掛けた。興奮からさめた私は御飯を頂きながら、又死ぬ事のいけないことを説いた。そして、たとへどのやうな状態であつても、何処であつても、生きている事は死んでしまつたよりいいから、二人が本当に愛し合つてゐるのなら、一緒に支那へお行きなさい、お金は持つて来たし、あなたはとつても支那が気に人つてゐるやうだからといふやうな事を云つた。するとお金なら自分もあるからいいと云ふ。やがてその人と二人きりで話したいと云ふので私は帰つて来た。おもへばそれが龍之介さんにお目にかかつた最後でもあつたのだ。

   *]

 

 

昭和二(一九二七)年四月十日・田端発信・飯田蛇笏宛

 

冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴說恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―― niru と滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。なほ又「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候。あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。この頃久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ、

   「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」

御一笑下され度候。二月號「山廬近詠」中、

   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」

人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首

    四月十日       芥川龍之介

   散田蛇笏樣

 

[やぶちゃん注:この書簡はサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で既に電子化している。内容は大正十五(一九二六)年十二月二十五日新潮社発行の単行本『梅・馬・鶯』に「發句」の題で収められた芥川龍之介の発句群への、『雲母』誌上での蛇笏評に対する消息文である。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、この蛇笏の批評は、『飯田蛇笏「虚子、竜之介、幹彦、三氏の俳句近業」(『雲母』一九二七年三月号)』で、『蛇笏は、「俳人以外の人々」の中で、芥川の句境は久保田万太郎以上、「まさに群を抜くもの」と評価した』とある。

 なお、前のリンク先で前記の心中未遂の話を引いて注している私の見解は、現在の私は大きな修正をしている。ここでは、それについて書いた私のブログ記事、『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』をリンクさせるに留める。

「蝶の舌の句」同前の石割氏の注に、『『ホトトギス』「雜詠」欄(一九一八年八月号)では「鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」』となっており、『『梅・馬・鶯』では「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」』としたのを、『蛇笏はこの改作は「却つて失敗」とし、感受性に「緊張」が欠けたとみる』と注されておられる。それぞれの句の正規表現(「鉄条」は私には生理的にダメである)は、後者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を、前者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を「蝶」で検索されたい。私は蛇笏の見解に賛同する。龍之介の決定稿は整序され過ぎて、新傾向俳句の底に沈んでもおかしくない技巧に過ぎたものである。

「かげろふや棟も落ちたる」同前の石割氏の注に、『「近詠」(『驢馬』一九二六年六月号)では「陽炎や棟も落ちたる茅の屋根」。『梅・馬・鶯』では「かげろふや」』とある。同前の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」で確認されたい。「鵠沼」の前書を持つ

「久保田君、句集を出す」久保田万太郎の句集「道芝」(昭和二年五月二十日俳書堂號友堂刊)。

「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」同前の句集「道芝」の序の掉尾に置かれた芥川龍之介の発句であるが、この『「道芝」の序』は事前に昭和二年五月一日発行の『文藝春秋』で初出されており、後に同句集に収録されたものである。但し、表記が異なり、

 冴え返る隣の屋根や夜半の雨

が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月二十五日・田端発信・室生犀星宛

 

冠省藏六刻の印二顆、小生よりけん上せしも應の一寸お貸し下され度、なほ又肉池もお借し下され候はゞ幸甚 頓首

    二十五日       龍 之 介

   犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:「藏六」浜村蔵六。江戸中期から明治時代にかけて五代に亙って篆刻家として活躍した浜村家が名乗った名跡。蔵六とは「亀」の異名とされ、初世が亀鈕(きちゅう:亀の形をした印の持ち手)の銅印を所蔵していたことから号としたとされる。当該ウィキにある、四世浜村蔵六(文政九(一八二六)年~明治二八(一八九五)年:備前岡山の人。正本氏、後に塩見氏を名乗った。名は観侯)か、五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四二(一九〇九)年:津軽の人。三谷氏、名は裕)の孰れかであろうか。

 なお、新全集年譜によれば、この前の四月十六日の条に、『菊池寛に宛てて遺書を書く。小穴隆一宛の遺書を書いたのも、この頃と思われる』とある。

2021/09/16

芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・芥川文宛

 

拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首

    三月朔        龍 之 介

   文 子 ど の

二伸 比呂志に西洋象棋を買つてやつた

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜の三月一日の条に、『谷崎潤一郎、佐藤春夫両夫妻とともに弁天座で文楽を観る』。『夜、佐藤夫妻は帰京する』が、『谷崎と二人で南地の茶屋で文学論などをしていると、内儀の紹介で』芥川龍之介のファンであった『根津松子が訪ねてくる。松子は、この時初めて谷崎と会い、二人はのちに結婚することとなった』とある。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム、自死の翌月に出た『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に載った、谷崎潤一郎追悼文「いたましき人」のからの抜粋があるので孫引きさせて貰う(略指示は鷺氏のもの)。『最後に会つたのは此の三月かに改造社の講演で大阪へ来た時であつた。(略)で、講演の夜は久しぶりで佐藤と一緒に私の家へ泊まり、翌々日は君と佐藤夫婦と私たちの夫婦五人で弁天座の人形芝居を見、その夜佐藤が帰つてからも君は大阪の宿に居残つて、『どうです、今夜は僕の宿に泊まつて一と晩話して行かないですか』と、なつかしさうに私を引き止めるのであつた。いつたい此れまで私などに対しては、あたたかい情愛も示さないではなかつたけれど、どちらかと云へば理智的な態度を取つてゐた人で、その晩のやうにひどく感傷的に人なつツこい素振りを見せるのは珍らしいことだつた。然るに君は人生のこと、文学のこと、友達のこと、江戸の下町の昔のこと、果ては家庭の内輪話まで持ち出して、夜の更ける迄それからそれへと語りつづけて、『自分は実に弱い人間に生れたのが不幸だ』と云ひ、『僕は此の頃精神上のマゾヒストになつてゐてね、誰か先輩のやうな人からウンと自分の悪い所をコキ卸してもらひたいんですよ』と云ひながら、その眼底には涙をさへ宿してゐた。 (略)君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちやうど根津さんの奥さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと言ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを簸[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「嵌」(は)の誤字或いは誤植。]めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた』とある。鷺氏の年譜では、この三月二日、三人でダンス・ホールへ行ったが、龍之介は『踊らず、二人の踊るのを見ているだけであった』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・葛卷義敏宛

 

冠省一度やつたものをとり上げ、まことにすまぬが、森さんの卽興詩人二册を小包にし谷崎氏へ送つてくれないか。宿所は文藝日記の末にあるべし。右當用のみ。小穴君によろしく。頓首

    三月朔        芥   川

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:「森さんの卽興詩人」デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)が一八三五年に発表した小説(Improvisatoren )を森鷗外が擬古文訳したもの。「原作以上の翻訳」と評され、鴎外は本作のドイツ語訳を読み、「わが座右を離れざる書」として愛惜しており、ドイツ留学から帰国後、軍務の傍ら、丹精を込めて明治二十五年から三十四年(一八九二年から一九〇一年)の凡そ十年かけてドイツ語版から重訳し、断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ここに出るのは初刊版「即興詩人」で、明治三五(一九〇二)年に春陽堂(上・下二巻)で刊行されたものであろう。筑摩全集類聚版脚注に、『文藝春秋』昭和二年九月号からとして、谷崎潤一郎が『死ぬと覚悟をきめて見ればさすがに友だちがなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを』と述懐している旨の記載がある。後掲の谷崎書簡も参照されたい。

「文藝日記」昭和二年版「文藝自由日記」(文藝春秋社出版部・大正十五年十一月)というのがあり、ここには近年の流行作家の日記や日録が載っていたコラムとしていようである。今では考えられないプライバシー侵害だ。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・齋藤茂吉宛

 

冠省岡さんより御手紙有之小生にも「庭苔」に就いて何か書けと仰せられ候まゝ二三枚相したゝめ御手もとまでさし上げ候なほ又下阪前短尺二三枚お送り申上候も御落手の事と存候右とりあへず當用のみ 頓首

    三月二日       龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「岡さん」「庭苔」前月分で既出既注

「二三枚相したゝめ」『「庭苔」讀後』。昭和二年四月発行の『アララギ』に発表された。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月六日・田端発信・靑野季吉宛

 

原稿用紙で御竟下さい。「新潮」の合評會の記事を讀み、ちよつとこの手紙を書く氣になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦樂」でも善いと言ひました。しかし「苦樂」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ觸れさせたい氣もちを持つてゐました。(最後の一囘以外が悉く山房内に起つてゐるのはその爲です。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り、「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑聲を與へることは出來ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶錄」の中にあるマルクスやエングルスと會つた時の記事の中に多少の嘆聲を洩らしてゐます。わたしはわたしの大學生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企圖は失敗だつたかも知れません。少くとも合評會の諸君には尊臺を除き、何の暗示も與へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊臺にはこれだけのことを申上げたい氣を生じましたから、この手紙を認めることにしました。なほ又わたしはブルヂヨオワたると否とを問はず、人生は多少の歎喜を除けば、多大の苦痛を與へるものと思つてゐます。これは近頃 Nicolas Ségur の書いた「アナトオル・フランスとの對話」を讀み、一層その感を深くしました。ソオシアリスト・フランスさへ彼をソオシアリズムに驅りやつたものは「輕侮に近い憐憫」だと言つてゐます。右突然手紙をさし上げた失禮を赦して頂ければ幸甚です。頓首

    昭和二年三月六日   芥川龍之介

   靑 野 季 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「靑野季吉」明治二三(一八九〇)年~昭和三六(一九六三)年]は文芸評論家。新潟県佐渡生まれ。佐渡中学時代、幸徳秋水らの著作を通して社会主義思想に傾いた。早稲田大学英文科卒業後、大正一一(一九二二)年に評論「心霊の滅亡」を書き、本格的に評論活動を展開、後、『種蒔く人』・『文芸戦線』の同人となり、プロレタリア文学運動の代表的理論家として活躍した。ことに『「調べた」芸術』(大正一四(一九二五)年)と「自然生長と目的意識」(大正一五(一九二六)年)の二論文は、プロレタリア文学とマルクス主義運動との相関や創作上の問題などに指標を与え、初期プロレタリア文学に多大な影響を与えた。昭和一三(一九三八)年の「人民戦線事件」による検挙を機に転向した。戦後は「日本ペンクラブ」の再建や、「日本文芸家協会」会長に就任するなど、幅広い進歩的良識派として活躍した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「「新潮」の合評會の記事」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年三月号所掲。芥川の「玄鶴山房」が批評された』とある。私は草稿附きの「玄鶴山房」を公開しているが、ここでは、その最終章「六」の末尾に「リイプクネヒト」を出した意図を龍之介自身が語っている重要な書簡である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の橋浦洋志氏の本作の解説によれば、同合評会で、『「六」における「リープクネヒト」の登場の意味が問われ、中村武羅夫は「芥川氏の一種の心境」をそこに認めつつも「作品全体をそのために書いてゐるとはいえない」としたが、青野季吉は「リープクネヒトを持つて来たのは何かある」と述べた』とあり、この好意的な発言に対して以上の書簡が書かれたのである。

「リイプクネヒト」ドイツ社会民主党の指導者ウィルヘルム・リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht 一八二六年~一九〇〇年)ギーセン生まれで、同地やベルリンなどの大学で哲学・言語学を学んだが、社会主義やポーランド独立に関心を持ったために放校された。 一八四八年の「三月革命」に参加し、スイスを経て、一八六二年までロンドンに亡命した。その間、マルクスやエンゲルスと交際し、影響を受けた。帰国後、反ビスマルク運動でプロシアを追放され(一八六五年)、ライプチヒに移り住み、社会主義運動に尽力、一八六七年から一八七〇年までプロシア下院議員、一八六九年にはアイゼナハで「社会民主労働党」を創立した。「普仏戦争」では軍事予算採択に棄権、「アルザス=ロレーヌ併合」に反対し、投獄された (一八七二年~一八七四年)。 一八七五年には、ゴータで、マルクスの批判を無視してラサール派と合同し、「ドイツ社会主義労働党」を結成、一八七四年より没するまでドイツ帝国議会議員を務めた。その間、ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」に対する反対運動を指導し、同法を無効にさせた。同法廃止(一八九〇年)後、合法政党として改名した「ドイツ社会民主党」の中央機関誌『前進』の主筆を務め、修正主義派と対決した。主著に「カール=マルクス追想録」(一八九六年)などがある。後のドイツの左派社会主義運動の指導者で、ポーランド及びドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg 一八七〇年~一九一九年)とともにベルリンで虐殺されたカール・リープクネヒト(Karl Liebknecht 一八七一年~一九一九年)は彼の子である。なお、現在の芥川龍之介研究では、このコーダで重要な登場人物重吉が読んでいるのは、上記「追想録」であるとされている。

「苦樂」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『プラトン社から』大正一三(一九二四)『年一一月に創刊された雑誌。中間小説、随筆を主に掲載した』とあり、龍之介の言う「或人」はプロレタリア文学家・劇作家で、後の日本社会党参議院議員となった金子洋文(ようぶん 明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九八五)年)で、『「「リープクネヒト」でも「苦楽」でも同じ」と評した』(出典不詳。龍之介の言い方からは前記合評会ではなく、別な批評と推定される)とある。

『「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます』アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Анто́н Па́влович Че́хов/ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)晩年の名作戯曲(Вишнёвый сад :一九〇三年秋決定稿・初演一九〇四年一月モスクワ芸術座)の第三幕の中間部で、「永遠の学生」トロフィーモフが無様に階段から転げ落ちるシーンが、舞台外の落ちる音で示される。

『Nicolas Ségurの書いた「アナトオル・フランスとの對話」』ギリシャ生まれでフランスで活動し、アナトール・フランスと親しかった批評家ニコラ・セギュール(一八七四年~一九四四年)の随想録‘Conversations avec Anatole France ou les melancolies de l'intelligence ’(アナトール・フランスとの対話:知性の愁い)前掲書で石割氏は、この前年の『一九二六年、Lewes May による英訳本が刊行され』ていた、とある。ジェームス・ルイス・メイ(James Lewis May  一八七三年~一九六一年)は作家・翻訳者・出版者。

  なお、子の日の翌日三月七日に、秀作「誘惑――或シナリオ――」を脱稿している。リンク先は私の詳細注附きサイト版。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月十一日・田端発信・谷崎潤一郞宛

 

冠省、先日來いろいろ御厄介に相成りありがたく存じます。どうも御迷惑をかけすぎたやうな氣がして恐縮です。本は御氣に入れば幸甚です。實は善いゴヤを見つけ、さし上げようと思つたのですが、金がなくてあきらめました。Los Caprichos の複製です。唯今大いに筋のあるシナリオを製造中 頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   谷 崎 潤 一 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「本」前掲の森鷗外訳の「即興詩人」。

「Los Caprichos」スペインの巨匠フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の版画集で「気まぐれ」。一七九九年に第一版が刊行された。私も非常に好きなダークでグロテスクなブラック・ユーモアの作品群であるが、今でこそゴヤの代表作とされるものの、刊行当時は殆んど注目されなかった。英語版ウィキの「Los caprichos で全八十枚の画像が見られる。

「筋のあるシナリオ」日付から、三月十四日脱稿の私の偏愛する「淺草公園――或シナリオ――」。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に存じ候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故[やぶちゃん注:「餘り」に「傍」(はた)が、「齒痒」(はがゆ)「き故」(ゆゑ)。「余りに先生を取り巻く周囲の人々の反応が鈍くてじれったくてたまらないものですから」の意。何を指して言っているものかは不詳。芥川龍之介が、この直近で直接に茂吉に係わる公開記事を書いた形跡はない。この前に茂吉宛に送られた書簡があったものとすれば、腑には落ちるのだが。]、ペンを及ぼし候次第、高況を得れば[やぶちゃん注:「相応なる御共感をお感じ戴けるものならば」の意。同前。]幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙擊したる和田久太郞君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺つてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢ひにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。

   冱え返る枝もふるへて猿すべり

    三月二十八日     龍 之 介

   齋 藤 樣

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では『鵠沼から』とあるが、「今日は午後より鵠沼へ參る筈」という言い方から、田端で書信は認め、藤沢辺りで投函したものかと思われる。されば、標題は以上のようにした。この前後を新全集年譜を参考にして示しておく。

三月十七日 仕事場にしていた帝国ホテルから帰宅した(何時から滞在していたかは不明)。

三月二十日(日曜日) 外出し、そのままこの日は外泊して翌日田端に帰っている(外泊先不詳。怪しい。小町園の可能性は有るだろう)。

三月二十三日 「齒車」(リンク先は私の草稿附きサイト版)の「一 レエン・コオト」脱稿(これのみが昭和二(一九二七)年六月一日発行の雑誌『大調和』に「齒車」の題で「一 レエン・コオト」として掲載された。全章は、芥川龍之介の死後、同年十月一日発行の雑誌『文藝春秋』にこの「一」も再録して、全六章が改めて「齒車」の題で掲載された)。

三月二十七日(日曜日) 「齒車」の「二 復讐」を脱稿。

三月二十八日(当書簡当日) 借家の整理もあって、鵠沼に出かけ、翌四月二日まで六日まで滞在した。これを以って芥川龍之介は鵠沼を引き上げている。この日、「齒車」の「三 夜」及び「たね子の憂鬱」(こちらは五月一日発行の『新潮』に発表)を脱稿。

三月二十九日 「齒車」の「四 まだ?」を脱稿。

三月三十日 「齒車」の「五 赤光」((しやくくわう(しゃっこう))を脱稿。三月末に宮坂年譜には、『この頃、岡本かの子と』、『偶然』、『列車で同乗になる。近くにいた子供に「オバケ』!」『と言われた』とある。これは、岡本かの子の小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文學界』初出)の最後の方に出現するものだが、私は同小説は相当に創作された部分が多く、一次資料とするには頗る信用性が低いと考えている(青空文庫のこちらで新字新仮名で読める)。但し、確かに、そこに描かれた瘦せ枯れて妖気さえ放っている感じは、この晩年の鵠沼時代の龍之介のそれと酷似しては、いる。

『「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり』芥川龍之介の書簡の中では、「河童」への強い自信(但し、「この程度のものなら、幾らでも製造出来るぜ!」という芥川龍之介自身がずっと以前に自戒したところの悪しき自動作用的な安易さも大いに私は感じるのである)の見える一つとして、しばしば引かれるものである。しかし、それに反した『みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候』という後の一節が、これまた、真逆の病的なまでの自信喪失の表明とも言える、龍之介の心内のアンビバンンツなものを図らずも表出させてもいるのである。

「一休禪師は朦々三十年と申し候へども」は「一休話」の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の一節を指して言っているものと思われる。

   *

 朦々然而三十年

 淡々然而三十年

 朦々淡々六十年

 末後脫糞捧梵天

  朦々然として三十年

  淡々然として三十年

  朦々淡々 六十年

  末期の脫糞 梵天に捧ぐ

   *

「朦々」とは、この場合、「心がぼんやりとすること」で、「迷いに迷って」の意。「淡々」は悟りの境地を指している。但し、あまりに一休然とした破格の詩句は逆に似非物のようにも感じられる。この部分は、「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(6)」でも引いている。

「この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり」「又」とあり、齋藤にこの症状を、一度、話していることが判る。この異様な視覚障害が「齒車」という作品名の由来であり、龍之介自身がこの書簡で述べているように、彼自身、それが重篤な精神疾患(龍之介が最も恐れていた実母から遺伝していると誤認していた「発狂」の素質)の初期症状かと怯え、素人の読者もそこに彼の異常を読む方が甚だ多いのだが、これはとっくの昔に、「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状であることが解明されている。龍之介と同様にこの「齒車を誤解していたのが、宇野浩二で「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」にそれが出てくる。そこでも注したが、より詳しくは、『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』の私の『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあること』の注がよいだろう。にしても、それを、眼科医に相談し、何ら気にすることはないと助言してやるべきであったのは齋藤茂吉であり、精神科医としては当然やるべきことをしていない、という気が私はするのである。脳の中枢神経との関連性や視覚異常の機序は判っていなかったとしても、非常に古くからあったから、知らなかったとは言わせない。寧ろ、重篤な精神疾患の初期症状としてあり得ると思い、茂吉は逆に黙っていたのかも知れない。

「福田大將」福田雅太郎(慶応二(一八六六)年~昭和七(一九三二)年))は日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。大村藩士の二男として現在の長崎県大村市に生まれ、大村中学校・有斐学舎を経て、陸軍士官学校を卒業後、歩兵少尉に任官し、歩兵第三連隊付となり明治三一(一八九三)年陸軍大学校を卒業した。「日清戦争」では第一師団副官として出征し、後にドイツに留学、「日露戦争」には第一軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前より田中義一らとともに対露早期開戦派であった。後、歩兵第五十三連隊長などを歴任し、明治四四(一九一一)年、陸軍少将に進級、大正五(一九一六)年、陸軍中将。欧州出張や第五師団長・参謀本部次長・台湾軍司令官などを歴任して陸軍大将に進級した。軍事参議官となり、大正一二(一九二三)年九月の「関東大震災」には、関東戒厳司令官を兼務したが、在職中の「甘粕事件」で、対処不手際を問われ、司令官を更迭された。大正一二(一九二四)年の第二次山本内閣退陣に伴う清浦内閣組閣に際しては、上原勇作から陸軍大臣に推挙されたが、田中義一らの工作により、就任は叶わなかった。同年九月一日、「甘粕事件」での大杉栄殺害を怨んだ無政府主義者和田久太郎(明治二五(一八九三)年昭和三(一九二八)年二月二十日自死:彼については次に注する)によって『狙撃されたが、無事であった。大正一四(一九二五)年五月にも福岡市』でも『再び狙撃されたが、無傷であった。同月、予備役編入(当該ウィキに拠った)。

「和田久太郞」当該ウィキによれば、『温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称』した。『兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず』、十一『歳から大阪北浜の株屋に丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら』、『実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また』、十五『歳のころから俳句をたしなんだ』。『売文社に入社して、堺利彦や大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスム』(フランス語:Syndicalisme:労働組合主義)『を熱心に研究し、久板卯之助』(ひさいたうのすけ)とともに、「日蔭茶屋事件」(複数の女性達から常に経済的援助を受けていた社会運動家大杉栄が、野枝とその子どもに愛情を移したのを嫉妬した、神近市子によって刺された事件)で『人望を失った大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった』。『社会の底辺の人々を愛し』、「無政府主義伝道」と称して、『全国を流浪して体を壊したため』、大正一二(一九二三)年二月頃から五月まで、『栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階の娼婦堀口直江と恋に落ちて、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた』、大正十二年九月一日に起こった『関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では』、『大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤』し、「彼の仇を討つ」『という名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎の暗殺を、ギロチン社』(大正十一年に結成されたテロリスト組織)『の古田大次郎や村木ら』四『名と計画。和田らは』、『福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた』。『初めは爆弾テロを計画して、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験するも不発』であったため、『ピストルでの襲撃に切り替え』、翌年の『震災の一周年忌に、東京本郷三丁目のフランス料理店』『燕楽軒』『で福田大将を待ち伏せした。しかし』、『初弾は安全のために空砲が装填されていたことを和田』が『知らず、至近距離からの発砲であったが』、『失敗』し、『大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ』、殆んど無傷で『逮捕された』。大正一四(一九二五)年、『上記罪状の併合罪』で『無期懲役判決』を受けた。『余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」』『と憤慨した』。但し、『翌年の大正天皇の崩御により』、『恩赦があり、懲役』二十『年に減刑された』。『最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作』「獄窓から」は昭和二(一九二七)年三月に労働者運動社から『出版され、その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた』とある。芥川龍之介は『獄中の俳人 「獄窓から」を讀んで』を昭和二(一九二七)年四月四日附『東京日日新聞』に掲載しており、これは、それを指す。ちょっとびっくりしたが、幸いにして、サイト「釜ヶ崎資料センター」内の「趣味のA研資料室」の「獄窓から-増補決定版 和田久太郎著 近藤憲二編 黒色戦線社補 197191日 黒色戦線社」とあるページでPDFで当該書籍のほぼ全てが視認出来、しかも、ここの9コマ目に芥川龍之介の当該書評の切抜が全文載るので読まれたい(但し、新字旧仮名である)。ダウン・ロード必須! 『しかし』、『和田は長く肺病を患っており、古田の刑死』(彼は『福田襲撃事件の前年、活動資金調達の目的で十五銀行を襲撃、その際に銀行員一名を刺殺してい』たので量刑が重かった)、『村木の病死を知って悲観し』、昭和三(一九二八)年二月二十日午後七時頃、『看守の目を盗んで自殺した』。

 もろもろの惱みも消ゆる雪の風

が秋田刑務所での『 和田久太郎の辞世の句』とされる。『和田の遺骸は、労働社の近藤憲二』『らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた』とあるものの、注で、『現在、古田の墓はあるが、和田久太郎の墓は在所不明』とある。――草の葉の蔭に消えたり久太郎――

「しんかんとしたりや蚤のはねる音」大正一四(一九二五)年八月の句。前掲のリンク先の句集「鐵窓三昧」PDF)の7コマ目上段「八月」の四句目であるが、

   日影の匂ひ

 しんかんとしたりやな蚤のはねる音

で、前書があり、中七も字余りの破調である。破調の方が俄然いい。暑熱の陽の匂いも、より、むんむんしてくるではないか!

「のどの中に藥塗るなり雲の峯」同年六月の句。6コマ目下段四句目。

「麥飯の虫ふえにけり土用雲」同年八月の句。7コマ目下段冒頭であるが、表記は、

 麥飯の蟲殖えにけり土用雲

で断然、「蟲」「殖」の方がいい。この「蟲」はコクゾウであろう。蒸された中に一緒に彼奴らが死んで入っているのだ! 芥川龍之介は「蟲」の字が生理的に嫌いだった可能性が頗る髙いので、書き換えたのは腑に落ちる。

「あの霜が刺つてゐるか痔の病」同年一月の句。3コマ目下段五句目。

「何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)」前掲書の石割氏の注に、『菊池寛・芥川龍之介編集『小学生全集』全八八巻(一九二七年五月―一九二九年一〇月、興文社刊)』を指すとある。筑摩全集類聚版脚注も同じ、「全集」ではあるが、小学生の広義の「讀本」の形式であるから、おかしくはない。石割氏は、続けて、『同時にアルスから『日本児童文庫』全七六巻も刊行された』と注してあるが、これは研究者自明の端折り過ぎで、所謂、全く同時に(同日に並んで広告が出た)同様の叢書が別々に刊行され、円本ブームに乗った熾烈な販売合戦が展開された、出版界でも知られた騒動を言っているのである。芥川龍之介も見事に巻き込まれることになってしまう。新全集年譜の四月中旬の箇所に、『アルス『日本児童文庫』(七〇巻)と興文社『小学生全集』(八〇巻)の間で誹謗中傷合戦が起こ』り、『芥川は前者からは執筆を、後者からは編集を依頼されており、大いに神経を痛めた』とあり、龍之介にとっては、やっと終息させた「近代日本文藝讀本」の悪夢が再来する思いがあったに違いないこの告訴にまで発展してしまう事件に興味のある方は、中西靖忠氏の論文菊池寛と児童文学」PDF・『高松短期大学研究紀要』第十二号(昭和五七(一九八二)年三月発行所収)のを読まれるとよい。また、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 アリス物語」という驚きの「不思議の国のアリス」の邦訳を電子化(分割・全十二回)しているが、何を隠そう、これはまさに、その「小学生全集」の一冊(第二十八巻・リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本)なのである。発行は芥川龍之介の自死後の昭和二年十一月であるが、研究者によって、前半の一部は間違いなく芥川龍之介が訳しているものと推定されているものなのである。 

「唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。」これも、しばしば引かれる芥川龍之介の書簡の一節である。私はこれを眺めていると、私は「河童」の「六」の冒頭、

   *

 實際又河童の戀愛は我々人間の戀愛とは餘程趣を異(こと)にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は氣違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見(み)じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床(とこ)についてしまふのですから。僕は或時僕の家にトツクの詩集を讀んでゐました。するとそこへ駈けこんで來たのはあのラツプと云ふ學生です。ラツプは僕の家へ轉げこむと、床(ゆか)の上へ倒れたなり、息も切れ切れにかう言ふのです。

 「大變だ! とうとう僕は抱きつかれてしまつた!」

 僕は咄嗟に詩集を投げ出し、戶口の錠(ぢやう)をおろしてしまひました。しかし鍵穴から覗いて見ると、硫黃の粉末を顏に塗つた、背の低い雌の河童が一匹、まだ戶口にうろついてゐるのです。ラツプはその日から何週間か僕の床(とこ)の上に寢てゐました。のみならずいつかラツプの嘴(くちばし)はすつかり腐つて落ちてしまひました。

   *

というシークエンスを思い出すのを常としている。寧ろ――龍之介よ……君はこれ以前に動物的エネルギイを過剰に使い過ぎたのではなかったか?……

2021/09/12

芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通

 

昭和二(一九二七)年二月二日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省。御藥並びに御短尺ありがたく存じ奉り候。唯今夜も仕事を致しをり候爲、朝ねを致し、山口樣にはお目にかかる機會を失ひ、殘念にも恐縮にも存じ居り候。お次手の節よろしく御鳳聲願上げ候。先夜來、一月や二月のおん歌をしみじみ拜見、變化の多きに敬服致し候。成程これでは唯今の歌つくりたちに idea  の數が乏しと仰せらるる筈と存候。(勿論これは小生をも憂ウツならしむるに足るものに候)小生の短尺はどうも氣まり惡き故御免蒙り度候へども、一二枚お送り申上ぐ可く候。(句⅓人前、字⅓人前、短尺⅓人前の割にて御らん下され度候。)唯今「海の秋」と云ふ小品を製造中、同時に又「河童」と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、その間に年三割と云ふ借金(姊の家の)のことも考へなければならず、困憊この事に存じ居り候。餘いづれ拜眉の上。右とりあへず御禮まで。頓首

    二月二日夜      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

二伸唯今でも時々錯覺(?)あり。今夜はヌマアルを用ふべく候。

 

[やぶちゃん注:分数は、例えば「⅓」としたものは、縦に「1」(上)+(横線の分数記号)+「3」(下)である。ユニコードでは表記不能なので、かく、した。本書簡は前月の昭和二(一九二七)年一月二十八日附齋藤茂吉宛書簡を参照のこと。

「山口樣」歌人山口茂吉(明治二九(一九〇二)年~昭和三三(一九五八)年)。兵庫県多可郡杉原谷村清水(現在の同郡多可町)に生まれる。大正一三(一九二四)年に中央大学商学部を卒業、明治生命東京本社に入社した。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったといい、同年に『アララギ』に入会し、島木赤彦に学び、赤彦の没後は斎藤茂吉に師事した。斎藤茂吉・土屋文明の助手として『アララギ』の編輯・校正に携わった。昭和一九(一九四四)年には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社した。昭和二一(一九四六)年には東京歌話会を結成し、昭和二十三年には『アザミ』を創刊して主宰した。師の斎藤茂吉と同名であることから「小茂吉」と呼ばれることがあり、茂吉が没した四年後の昭和三十二年以降は岩波書店の「斎藤茂吉全集」の編集校訂に携わった。歌人では岡麓や中村憲吉と親しかった(以上は当該ウィキに拠る)。この日の午前中に龍之介を訪ねたものらしい。後に当人宛の書簡が出る。

「海の秋」決定稿の標題は「蜃氣樓」(正確には『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』。リンク先は私の古い電子化)。脱稿は二月四日。三月一日『婦人公論』発表。

「河童」三月一日『改造』発表。当方には、

河童(旧全集正字正仮名版)

芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈(同前に基づく)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 ・同縦書版同ブログ版(国立国会図書館デジタルコレクションの画像による)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)同縦書版(同前)

おまけで、

マツグ著「阿呆の言葉」(抄)(最上部の電子化からの抽出版)

等、多く品揃えしてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月三日・田端発信・河西信三宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。あの詩は唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓と申す仙人の作に有之候。年少の生徒には字義などを御說明に及ばざる乎。なほ又拙作「杜子春」は唐の小說杜子春傳の主人公を用ひをり候へども、話は⅔以上創作に有之候。なほなほ又あの中の鐵冠子と申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號に有之候。三國時代には候へども、何しろ長生不死の仙人故、唐代に出沒致すも差支へなかるべく候。呂洞賓や左玆の事はいろいろの本に有之候へども、現代の本にては東海林辰三郞氏著の支那仙人列傳を御らんになればよろしく候。右御返事まで 頓首

    二月三日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:分数表記は前と同じ。

「河西信三」未詳。芥川龍之介の愛読者で、小学校の教員か。

「あの詩」芥川龍之介が「杜子春」(大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『赤い鳥』初出)の「三」の末尾に仙人「鐵冠子」(後注参照)の詠む詩として出した、

 朝(あした)に北海に遊び、暮には蒼梧。

 袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ)、膽氣(たんき)粗なり。

 三たび嶽陽に入れども、人識らず。

 朗吟して、飛過(ひくわ)す洞庭湖。

を指す。

「唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓」代表的な仙人である八仙の一人呂洞賓(りょどうひん 七九六年~?)名は嵒であるが、巖。岩とも書き、本来のの名は煜(いく)で、洞賓は字(あざな)。詳しくは当該ウィキを参照されたい。元曲の馬致遠の「呂洞賓三醉岳陽樓」(呂洞賓、三たび、岳陽樓に醉ふ)に出るもので、原詩は、

 朝游北海暮蒼梧

 袖裏靑蛇膽氣粗

 三醉岳陽人不識

 朗吟飛過洞庭湖

  朝(あした)に北海に遊び 暮れには蒼梧

  袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ) 膽氣(たんき) 粗なり

  三たび嶽陽に入れども 人 識らず

  朗吟して 飛過(ひくわ)す 洞庭湖

であるが、一書では起句は「朝遊蓬島暮蒼梧」(朝に蓬島(ほうたう)に遊び 暮れには蒼梧)ともある。因みに、原拠の杜子春 李復言(原典)訓読語註現代語訳)には、当然のこと乍ら、存在しない。龍之介が挿入したもの。以上のリンク先は総て私の電子化物である。

「鐵冠子申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號」「左玆」(さじ)は「左慈」(さじ)が正しい。左慈は後漢(紀元後二五年 ~二二〇年)は、末期の知られた方士で仙人。字は元放で、揚州廬江郡の人。正史では「後漢書」の第八十二巻の「方術列傳下」に伝記が載り、他にも「搜神記」(四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集)や「神仙傳」(東晋の葛洪の著したとされる神仙伝記。但し、相応の原著作を後代に追記増加したものである可能性が高い)にも詳しく出る仙人である。詳しくは当該ウィキを見られたい。龍之介の言う「三國時代」(蜀・魏・呉の三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年まで)は微妙に外れており、誤りである。

「東海林辰三郞」ジャーナリストで東洋学者で衆議院議員(立憲国民党)となった白河鯉洋(しらかわりよう 明治七(一八七四)年~大正八(一九一九)年:本名は次郎)のペン・ネームの一つ。彼は福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身。明治三〇(一八九七)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業後、神戸新聞・九州日報の主筆を務めた。明治三六(一九〇三)年に、清に渡って、南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は早稲田大学講師・『関西日報』客員を務め、大正六(一九一七)年の第十三回衆議院議員総選挙に出馬、当選している。大正デモクラシーを牽引した人物であるが、「孔子」・「支那學術史綱」(共著)・「支那文明史」(共著)・「王陽明」・「諸葛孔明」等の中国文化関連の著作も多い。

「支那仙人列傳」国立国会図書館デジタルコレクションにある、これ著者名義「東海林辰三郞」(奥付)。明四四(一九一一)年聚精堂刊。「新體詩抄」で知られる哲学者井上哲次郎が「序を書いている。「呂嚴」がここで、「左慈」はここ。二百十五名を挙げているが、読み易く且つ面白い(私は全コマをダウン・ロードした)。有名どころは網羅しつつ、私の知らぬ仙人もちらほら見える中に、詩仙「李白」や道教所縁の書を多く残している「顏眞卿」、白玉楼中の人となった鬼才「李賀」といった人物も配されてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月四日・田端発信・山口茂吉宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。先達はわざわざお使ひにお出で候にも關らず、朝寢坊にてお目にかかる機を失し、申訣無之候。右お禮かたがたおわびまで 頓首

    二月四日       芥川龍之介

   山 口 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭の二月二日附齋藤茂吉宛書簡参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・小松芳喬宛

 

冠省お手紙ならびに六神丸ありがたく存じます。いろいろお心にかけられ、恐縮に存じます。多用中親戚に不幸有之、御禮が遲れ申訣ありません。北京はよかつたでせう。僕は東京以外の都會では一番北京へ住みたいと思つてゐるものです。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   小 松 芳 喬 樣

 

[やぶちゃん注:「小松芳喬」(よしたか 明治三九(一九〇六)年~平成一二(二〇〇〇)年)は経済学者・社会経済史学者。東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、昭和三(一九二八)年、早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学院に進学した。昭和八(一九三三)年に早稲田大学助手となり、後に講師。その後、東京外国語学校での語学習得やロンドン大学留学を経て、昭和一四(一九三九)年、早稲田大学助教授、後に同大学教授となった。昭和三五(一九六〇)年、経済学博士となり、同年に「社会経済史学会」代表理事となっている。当時はまだ早稲田大学学生であった。愛読者で、誰かの伝手で知り合ったか。当時、学生で北京に行っているというのは、裕福な家庭であったか。

「六神丸」ここは北京で手に入れた中国の漢方薬のそれと思われる。本邦でよく知られるそれとは処方生剤も対応疾患も異なり、これは腹痛に効能があるとされるものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・渡邊庫輔宛

 

お父さんの長逝を悼み奉る。今春匆々親戚に不幸あり。多病又多憂、この手紙おくれて何ともすまぬ。蒲原君によろしく。まだ多忙で弱つてゐる。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

  二伸けふは手紙を七本書いた。これは八本目。

 

 

昭和二(一九二七)年二月七日・田端発信・蒲原春夫宛

 

支那餅をありがたう。比呂志からも禮狀を出す筈。小說は捗どれりや。僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる。庫公によろしく。

     卽興

   春返る支那餅食へやいざ子ども

    御大喪の夜      芥川龍之介

   蒲 原 君

 

[やぶちゃん注:「婦人公論十二枚」既注の「蜃氣樓」。三月号。

「改造六十枚」既注の「河童」。三月号。

「文藝春秋三枚」三月号所収の『軽井澤で――「追憶」の代はりに――』。芥川龍之介の片山廣子への文芸上の秘かな傷心の追想アフォリズムである。リンク先は無論、私のもの。

「演劇新潮五」三月号所収の「芝居漫談」。

「庫公」渡邊庫輔。

「御大喪の夜」前年末の十二月二十五日、肺炎の悪化から心臓麻痺により崩御した天皇嘉仁は、この年の一月二十九日に大正天皇を追号され、御大喪(ごたいそう)の儀は二月七日からこの八日にかけて、新宿御苑を中心に行われた。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計六千人、その列の全長は六キロメートルにも及んだ。沿道には百五十万乃至三百万人の市民が集まったとされ、葬列はラジオで実況放送された。葬場殿の儀は午後九時から午後十一時までで行われ、内外の高官約七千人が参列、その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時に設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、同じく臨時駅の東浅川仮駅まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた(以上はウィキの「大正天皇」に拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十一日・田端発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二十 佐佐木茂索樣・東京田端 芥川龍之介

 

常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ[やぶちゃん注:ママ。]。「河童」は僕のライネッケフックスだ。しかし婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品、或は御一讀に堪ふるならん。内田百間曰芥川は病的のある氣違ひ、自分は病的のない氣違ひだから自分が芥川を訪問してわざと氣違ひじみた行動をして歸る。芥川は自分を氣違だと思ふ。自分は得意になつて歸つて來るうちにいつか氣違ひになつてゐる。同時に又芥川も氣違ひになつてゐる。――と云ふ話を書く爲に近々芥川を訪問するつもりだ。しかしどうも自分ながらコハイ」コハイのは寧ろこつちぢやないか。僕は姊の亭主の債務などの事を小說を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出來ないものだよ。十五日頃にはそちらへかへれるつもり。夫人によろしく。以上

    二月十一日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 東京に用向きなきや。今度こちらから栗位送る堀の小說は一度僕や室生が讀んで二度目にフラグマンにしたもの。よろしくお引立てを乞ふ。

 

[やぶちゃん注:「六十枚位」現行の完成稿(国立国会図書館藏。私はそれをサイトで『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』として一括してある)は半ペラ百十枚=五十五枚である。則ち、この日までに、結果としては、最終稿の三十枚(約八十%強)まで書いていたということになる。

「ライネッケフックス」“Reineke Fuchs ”。かの巨匠ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九~一八三二)の書いた一七九三年に刊行された叙事詩(小説)の題名で、「ライネケ狐」などと邦訳されている。奸謀術数の悪玉狐ライネケに、封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは』十三『世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』とある。ともかくも、この正に「河童」擱筆(脱稿は二月十三日)直前の佐佐木茂索宛書簡のこの強力な自信に満ちた言葉は只物ではないという気が私はしている。この現実社会や「生」そのものへの渾身の気迫は、しかし、遂に続かなかった。なお、この辺りのことは、場違いに見えるかも知れぬが、私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の注を参照されたい。芥川龍之介の小澤碧童の彫琢になる「河郞之舍」の印影も掲げてある。

「婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品」既注の「蜃氣樓」。

「堀の小說」『山繭』三月号に発表された堀辰雄の小説「ルウベンスの僞畫」の初稿の断片。新全集年譜によれば、龍之介が『堀の作品に目を通すのは』、結局、『これが最後となった』とある。

「フラグマン」fragment。フランス語で「破片・断章・断片・一節」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十二日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの四号 小穴隆一樣

 

長く留守にして實にすまない。その後姊の家の生計のことや原稿の爲にごたごたしてゐる。年三割の金を借りてゐる上、家は燒けてゐるし、主人はない爲、どうにも始末がつかないのだ。(僕でももつとしつかりしてゐれば善いのだが)「河童」はだんだん長くなる。しかし明日中には脫稿のつもり。その校正を見次第、東京を脫出する。君が近所へ來てくれれば三月後[やぶちゃん注:「以後」の意。]は東京にゐても差支へない。今日は「サンデイ每日」と「婦人公論」と「改造」とへ書いた。婦人公論のはしみじみとして書いた。大兄や女房も登場させてゐる 以上

    二月十二日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸 兎屋さんにも逢ふ間がない。佐藤(春)にはちよつと會つた。齋藤さんにも。僕はヴェロナアル〇・四だが齋藤さんは〇・七乃至八のよし 上には上のあるものだ。

 

 

昭和二(一九二七)年二月十五日・消印十六日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。やつとけふ校了。これから親族會議をすまさなければならん。君には氣の毒で弱る。しかし二十日にはかへる。僕だけでも。河童を106[やぶちゃん注:横書。]枚書いた。それから「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた。每日多忙。ます子女史健在。頓首

    二月十五日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:「二十日にはかへる」結局、龍之介は、この月末、鵠沼へ戻るのを断念する。前書簡で「君が近所へ來てくれれば三月」以「後は東京にゐても差支へない」とおいうのは、自分が小穴を鵠沼に誘っておいて、ここにきて、小穴を一人残し、彼が半ば、留守番のようになっていることを気に掛けたものを、龍之介流のプライドで述べたもの。結局、小穴は三月月初めには東京へ転居する。

「僕だけでも」妻子を連れずに龍之介一人でも鵠沼へ戻るの意。

『「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた』昭和二(一九二七)年四月一日及び五月一日及び六月一日、離れて八月一日発行の雑誌『改造』第四・五・六・八号に連載された「文藝的な、餘りに文藝的な」の前半部であろう。私は続編もカップリングした「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」をサイトで一括電子化している。

「ます子女史」平松麻素子。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日(消印)・田端発信(推定)・相州鎌倉坂の下二〇 佐佐木茂索樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。河童百六枚脫稿。聊か鬱懷を消した。改造牡の招待の芝居へ來ないか。君の顏が見たい。火災保險、生命保險 親族會議、――何や彼やゴチヤゴチヤで弱つてゐる。が、それだけに何か書いてゐるのは愉快だ。ヴェロナアル〇・七常用。アロナアルよりもヌマアルの方が眠るのに善い。やはりロツシュ會社製。

               芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛

 

原稿用紙にて失禮。

Legenda Aureaは黃金傳說の意、Jocobus de voragineは十三世紀の初期の人だ。(檢べるのは面倒故これでまけてくれ給へ)本の内容は僕の「きりしとほろ上人傳」の如き話ばかり。但しもつと簡古素朴だよ。英吉利では William Caxton の譯が有名だ。今度獨逸で出た本は近代語に譯されてゐるかどうか。Caxton は十五世紀頃の人だから、この英語は大分古い。のみならず原本にない話――たとへばヨブの話などを加へてゐる。僕は黃金傅說を全部讀んでゐない。(第一全部は浩翰だらう)が、Caxton のセレクションは一册持つてゐる筈だ。御入用の節は探がすべし。しかし黃金傅說は兎に角名高いものだから、ゲスタ・ロマノルムと一しよに買つて置いても善い本だよ。右當用のみ。

    二月十六日      芥川龍之介

   秦 豐 吉 樣

二伸日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑

 

[やぶちゃん注:「Legenda Aureaは黃金傳說の意」ラテン語の「レゲンダ・オウレア」は、当初は同じくラテン語で「レゲンダ・サンクトルム」(Legenda sanctorum :「聖者の物語」の意)とも称し、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第八代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年?~一二九八年)が著したキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成した。但し、タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによって名づつけられたもの。中世ヨーロッパに於いて、聖書に次いで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。イエス・マリア・天使ミカエルのほか、百名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読むことも可能である。各章の冒頭では、聖人の名前の語義を解釈し、それをその聖人の徳や行いと結びつけることがよく行われている。十五世紀頃から「黄金の」(aurea)の美称をつけて呼ばれるようになった。本来は、この「レゲンダ」は「伝説」の意ではなく、ミサの際に「朗読されるべきもの」の意である。従って Legenda aurea を日本語で「黄金伝説」と訳すのは誤訳となるが、前田敬作らによる完訳本(一九七九年から一九八七年人文書院初刊)などでも、この題名が用いられている。他に「黄金聖人伝」と呼ばれることもある(以上は当該ウィキに拠った)。芥川龍之介は同書所収の第七十九章「聖女マリナの物語」の、近代のフランスの神父で来日して布教したミッシェル・A・シュタイシェン(Michael A. Steichen 一八五七年~一九二九年:「パリ外国宣教会」所属。姓は「スタイシエン」「ステシエン」とも書かれる。盛岡・築地・静岡・麻布・横浜で布教活動を行う傍ら、雑誌編集長をも務め、さらにキリシタン研究者として著作を発表した。邦訳文は私の『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」を参照)をもとに「奉教人の死」を書いた。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。

「簡古」簡素で古めかしいこと。

「William Caxton」ウィリアム・キャクストン(William Caxton 一四一五年から一四二二年頃~一四九二年三月頃)はイングランドの商人・外交官・著作家・翻訳家・印刷業者。「カクストン」とも表記する。イングランドで初めて印刷機を導入して印刷業を始めた人物とされ、イングランド人として初めて本を出版して小売りした人物でもある。一四七六年にウェストミンスターで印刷会社を設立し、最初に印刷した本はイングランドの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer 一三四三年頃~一四〇〇年:当時の教会用語であったラテン語や、当時、イングランドの支配者であったノルマン人貴族の公用語であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中世英語を使って物語を執筆した最初の作家として知られる)の代表作「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales  :一三八七年~一四〇〇年:未完。であるが、一万七千行以上に及ぶ韻文と散文から成る大作)であった(当該ウィキ他に拠る)。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、彼自身の訳になる『「黄金伝説」は、ウィリアム・モリス』(芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった)『が印刷工房ケルムスコット・ブレスで企画した最初の書物で、一八九二年に刊行された』とある。

 「今度獨逸で出た本」不詳。

「ヨブ」「旧約聖書」の私の偏愛する「ヨブ記」の主人公。

「ゲスタ・ロマノルム」前掲書の石割氏の注に、『Gesta Romanorum 一四世紀前半にラテン語で書かれた物語集』とある。作者不詳。

『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑』大正七(一九一八)年九月一日発行の雑誌『三田文学』初出の、芥川龍之介の「奉教人の死」の最後に作者が挙げた架空の切支丹本のそれ。この龍之介の「騙し」については、さんざん注した。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十七日・田端発信・大熊信行宛

 

原稿用紙で御免下さい。御手紙並びに高著、鵠沼へ參りし爲、遲れて落手、高著は唯今拜讀致し了り候。小生はラスキンには全然手をつけし事無之候へども、モリスに關するものは少々ばかり讀みをり候爲、高著に對し、多少の感慨を催し候。(モリスに關する在來の日本人の著書は出たらめ少からず、それも聊か讀みをり候へば、愈感慨多き次第に有之候)ラスキンよりモリスヘ傳へたる法燈はモリスより更にシヨウに傳はりたる觀あり、その中間に詩人、兼小說家兼畫家兼工藝美衞家兼社會主義者として立てるモリスは前世紀後半の一大橋梁と存候。但し老年のモリスの社會主義運動に加はり、いろいろ不快な目に遇ひし事は如何にも人生落莫の感有之候。(そは勿論高著の問題外に屬し候へども。)小生は詩人モリス、――殊に Love is Enough の詩人モリスの心事を忖度し、同情する所少からず、モリスは便宜上の國家社會主義者たるのみならず、便宜上の共產主義者たりしを思ふこと屢てに御座候。以上

    二月十七日      芥川龍之介

   大 熊 信 行 樣

 

[やぶちゃん注:「大熊信行」(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)は経済学者・評論家・歌人。山形県米沢市生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を経て、大正五(一九一六)年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒。中学時代、浜田広介らと同人誌を作っていた。同年、日清製粉に入社。後、米沢商業学校で教鞭をとり、大正八年、東京高等商業学校専攻部に進学し、大正十年に卒業後、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)講師、翌年、同校教授となるが、大正一二(一九二三)年、病気で退職し、南湖院で闘病した(結核か)。昭和六(一九四一)年、東京商科大学にて経済学博士を取得し、当該論文は「經濟理論における配分原理の所在並に適用に關する基礎的研究」であった。この書簡の年の昭和二(一九二七)年には、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)教授となっている。昭和四(一九二九)年から昭和六年まで文部省在外研究員として、イギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、昭和七年、高岡高商を退職し、海軍省大臣官房調査課嘱託となり、昭和十八年には「大日本言論報国会」理事となた。小樽高商では、小林多喜二・伊藤整を教えている。戦後の昭和二一(一九四六)年には山形県地方労働委員会初代会長となったが、戦中の履歴が災いしたのであろう、翌年、公職追放を受けている。公職追放解除後は神奈川大学教授・富山大学経済学部長・神奈川大第二経済学部長・創価大学教授を歴任し、論壇でも活躍した(以上は当該ウィキに拠った)。

「ラスキン」ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)はイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家。同時に芸術家のパトロンでもあり、自らも設計製図や水彩画をよくし、社会思想家にして篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、名著「近代画家論」(Modern painters :一八四三年~一八六〇年 )を著している。

「Love is Enough」「愛は十全にある」か。ウィリアム・モリスの詩。月子綴主氏のブログ「月子綴の一日一言」の「時を語る建築3 モリスの詩Love Is Enoughより」に原詩とブログ主による和訳が載る。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十八日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣(書留印)

 

この間は手紙が行きちがひになつた。僕は二十日前後にかへる事前記の通り。その後寄り合ひばかりしてゐる。君もいろいろ入用と思ひ、同封のものを送る。雜用に供してくれ給へ。以上

    二月十八日      芥川龍之介

   小 穴 隆 一 樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月二十三日・田端発信・赤井三郞宛

 

原稿用紙で失禮します。玉稿は拜見しました。ああ云ふ有り合せの文句で書いては駄目です。もつとぶつ切ら棒でも善いから、ヂカに迫るやうに書かなければ。玉稿は佐佐木君に讀んで貰つた方が善いと存じます。右當用のみ。

    二月二十三日     芥川龍之介

   赤 井 三 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「赤井三郞」不詳。作家志望の人物らしい。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月二六日・田端発信・赤井三郞宛(葉書)

 

南京新唱をありがたう右お禮まで 頓首

   二月二十六日夜     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「南京新唱」歌人会津八一の第一歌集。大正一三(一九二四)年刊行。「南京」は奈良の別称。]

 

 

昭和二(一九二七)年・二月二十七日消印・奈良市上高畑 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。「玄鶴山房」は力作なれども自ら脚力盡くる所廬山を見るの感あり。河童は近年にない速力で書いた。蜃氣樓は一番自信を持つてゐる。僕は來月の改造に谷崎君に答へ、幷せて志賀さんを四五枚論じた。これから大阪へ立つ所。頓首

 

[やぶちゃん注:「志賀さんを四五枚論じた」「文藝的な、餘りに文藝的な」の「五 志賀直哉氏」をメインとした前後。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」の冒頭には、草稿「志賀直哉氏に就いて(覺え書)」も配してある。

「これから大阪へ立つ所」新全集年譜に、この二月二十七日、『改造社の円本全集宣伝講演会のため、佐藤春夫らと大阪に向けて出発』。『義兄一家の経済的窮地を救うため、身体の無理をおして参加したものと思われる』とあり、翌二十八日の条には、午後一時、『大阪中之島公会堂で「舌頭小説」と題して講演をする。約六千人の聴衆が詰めかけ』、他に『佐藤春夫、久米正雄、里見弴らが講演をした』。『夜、谷崎潤一郎、佐藤春夫と遊』び、『深夜、富田砕花と偶然会い、芦屋まで同行』し、『芦屋から車で岡本』(武庫郡本山村岡本好文園(現在の神戸市東灘区岡本))にあった『谷崎宅を訪れ、夜を徹して文学論を戦わせた』とある。なお、この日に、探していた小穴隆一の田端近くの転居先として、『田端の下宿(新昌閣)が見付かり、数日後、小穴は鵠沼を引き上げて転居』したとある。因みに同年の二月は、この二十八日が月末日である。]

2021/09/11

芥川龍之介書簡抄141 / 昭和二(一九二七)年一月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年一月八日・田端発信・野間義雄宛(葉書)

 

冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の發音を御注意下され愈ありがたく存じます。本にでも入れる時は改めさせたいと存じます。右とりあへず御禮迄

二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候

    一月八日

 

[やぶちゃん注:「野間義雄」未詳(以下、宛名人の「未詳」は新全集の「人名解説索引」で確認したもの。以下では略す)。新全集の宮坂年譜より、この前後を引く。同年一月三日、『嘔吐してところに下島勲が来訪し、診察を受ける』、翌四日、『西川豊(義兄。弁護士)』(実姉ヒサの再婚相手)『宅が全焼する。直前に多額の保険がかけられていたため、西川には放火の嫌疑がかかった』。『午後、前月』昭和元年十二月三十日『に死去した小穴隆一の妹の告別式に参列する。午後』八『時頃、小穴、下島が来訪する。居合わせた平松麻素子と文を交え、午後』十『時半頃までカルタなどをして過ごした。この時、初めて小穴に平松を紹介する』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』を参照)。一月五日、教えていた『何条勝代が来訪し』、この十一『日に再び洋行することを告げてゆく』。同月六日の午後六時五十分頃、『西川豊が千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル付近』(この中央附近にあった。グーグル・マップ・データ。外房線は路線変更されているため、旧土気トンネルは現存しない)『で飛び込み自殺する。以後』、三『月頃まで、義兄の家族や、遺された高利(年三割)の借金』、『生命保険や火災保険などの問題で、東奔西走を余儀なくされた』とあり、書簡中の「親戚にとりこみ有之」はそれを指す。以下、『この頃、編集者や来客から避難するため、平松麻素子の世話で帝国ホテルに部屋をとり』(平松麻素子の『父の福三が支配人の犬丸徹三と懇意だった)、原稿執筆をすることもあ』った。『帝国ホテルからは、しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた』、小さな頃から世話になった『室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論をした』とある。一月八日、『「新潮合評会」に、徳田秋声、近松秋江、久保田万太郎、広津和郎、宇野浩二、堀木克三、藤森淳三、中村武羅夫らと出席する』。この書簡の翌九日、『夜、漱石忌』(月命日)『に出席するため、夏目家を訪れ』ている。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月九日・田端発信・宇野浩二宛(葉書)

 

冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、每日忙殺されてゐる。はがきで失禮 頓首

    一月九日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十日・田端発信・藤澤淸造宛(葉書)

 

冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は燒けて主人はゐないと來てゐるから弱る。右御禮まで。

 

    一月十日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「藤澤淸造」(明治二二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は小説家・劇作家・演劇評論家。石川県鹿島郡藤橋村(現在の石川県七尾市)生まれ。明治三三(一九〇〇)年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第四学年を卒業後、七尾町内の活版印刷所で働いた。仕事は、印刷所が新聞取次を兼業していたため、新聞配達であったが、右足が骨髄炎に罹り、手術を受け、自宅療養した(生涯、この骨髄炎の後遺症に苦しめられた)。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで鋲屋や代書屋に勤めた。明治三九(一九〇六)年、十八歳の時に上京、中里介山らの面識を得る。弁護士野村此平の玄関番や、製綿所・沖仲仕といった職に就いた後、明治四十三年には、当時、弁護士だった斎藤隆夫(後にリベラル派の政治家となった)の書生となる。この頃、同郷の文学青年安野助多郎らと親しく交友、その安野に紹介された徳田秋声の縁で、三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤めることとなった。明治四五・大正元(一九一二)年、斎藤茂吉の青山脳病院に入院していた安野が縊死した。安野は清造の代表作となった長篇小説「根津現裏」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年聚芳閣文芸部刊版)に登場する岡田のモデルであるとされる。なお、茂吉の歌集「赤光」収録の連作「狂人守」(きょうじんもり)(大正元年の作)に登場する患者も、安野がモデルとみられている。大正九(一九二〇)年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌年、経費削減を理由に馘首された。後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、「根津権現裏」を執筆した。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、大正一一(一九二二)年には、やはり小山内の世話で、プラトン社の非常勤編集者の職を得た。同年四月、友人の三上於菟吉の世話で「根津権現裏」を日本図書出版株式会社から刊行した。しかし、後に精神に異常をきたし、失踪を繰り返した末、昭和七(一九三二)年一月二十九日早朝、芝区芝公園内の六角堂内で凍死体となって発見され、身元不明の行旅死亡人として火葬されたが、その後、履いていた靴に打たれた本郷警察署の焼印から、久保田万太郎によって、清造の遺体と確認された(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・佐藤春夫宛(葉書)

 

冠省君の所へ裝幀の禮に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出來、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。錄近作一首

   ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

 

[やぶちゃん注:「裝幀」前年十二月二十五日に新潮社から刊行した随筆集「梅・馬・鶯」の装幀は佐藤春夫に依頼した。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『これは別れの記念のつもりだったといわれている』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

はがきにて失禮。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。髪經衰弱癒るの時なし。每日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首

    一月十二日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛

 

冠省御手紙ありがたく存じます。大騷ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神經衰弱なほるの時なし。とりあへず御禮まで。頓首

    一月十五日       芥川龍之介

   伊 藤 貴 麿 樣

 

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和三二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。兵庫県神戸市生まれ。大正九(一九二〇)年、早稲田大学英文科卒。大正十三年、新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、後、文芸春秋系の作家となり、その後、児童文学界の重鎮となって、「西遊記」の再話などで知られた。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・橫尾捷三宛

 

冠省、創作月刊の件は菊池へでも直接おかけあひ下さい。原稿は同封御返送します。この頃親戚に不幸有之、多用の爲これにて御免下さい。頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   橫 尾 捷 三 樣

 

[やぶちゃん注:「橫尾捷三」未詳。

「創作月刊」文芸春秋社が、この翌年の昭和三年に創刊することとなる雑誌。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・福島金次宛

 

拜復、度々御手紙ありがたう。拙作を讀んでゐて頂いて恐縮です。「鴉片」や何かは「梅・馬・鶯」を本にまとめた後に書いたのです。茂吉さんの事はあの文章にては不十分にてすまぬ故、削ることにしました。舊臘來多病の上多忙の爲、手紙も書けず、今夜あなたへもやつと義務をはたす事が出來ました。唯今犬養、瀧井兩君と夕飯を食つて歸つて來た所です 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   福 島 金 次 樣

 

[やぶちゃん注:「福島金次」不詳。

「鴉片」は岩波書店の新書版全集には大正一五(一九二六)年十一月発行の『世界』初出とするが、確認はなされていない。同元版全集では本文文末に『(大正十五年十一月)』の、普及版全集では『(大正十五年十月)』のクレジットがそれぞれ打たれてある(以上の書誌は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」に拠った)。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。

「茂吉さん」斎藤茂吉。現在の「鴉片」には茂吉は登場しない。この「福島金次」なる人物はその初出(削除されて全集収録される前のもの)を読んだ感想を送ってきたものか。「犬養、瀧井兩君」犬養健と瀧井孝作。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・海老原義三郞宛

 

朶雲奉誦、夏目先生の書は小生の鑑定にては目がとどかず、何とぞ小宮豐隆氏か野上豐一郞氏にお願ひ下され度、右とりあへず當用のみ。

    一月十五日      芥川龍之介

   海老原義三郞樣

二伸御封入の爲替及切手は同封御返送申上候間左様御承知下され度候。

 

[やぶちゃん注:何やらん、ゴタゴタ続きの中に、龍之介を苛立たせる問い合わせが殺到していることが判る。

「海老原義三郞」不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十六日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

御手紙ありがたく存じます。それから「文藝春秋」のお歌も。尊堂へは是非上らねばならぬ所、又親戚中に不幸起り、東奔西走致しをる次第、惡しからず御無沙汰をおゆるし下さい。唯今新年號の小說の續きを書きをり候へども心落着かず、難澁この事に存じてゐます。來世には小生も砂に生まれたし。然らずば、

   來ム世ニハ水ニアレ來ン軒ノヘノ垂氷トナルモココロ足ラフラン

    一月十六日夜     龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「新年號の小說の續き」既に述べた「玄鶴山房」のこと。

「來世には小生も砂に生まれたし」「も」という添加の係助詞から、茂吉の「文藝春秋」に載せた(推定)歌と関係するように思われるが、不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

頭くたびれをり、如何にしてもこれより出來ず。なほ又前の最後の半ピラ中、「お鈴は夫が銀行へ行き」云々の一節はとりすて、今度のをお用ひ下され度候

               芥川龍之介

   高 野 敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」の二月号の原稿についての内容。次の同人宛書簡から、一部を先に送ってお茶を濁していたように見える。

「半ピラ」二百字詰原稿用紙のこと。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十九日(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

これでおしまひです。「五」は出來損ひかもしれません。しかしもう時間がありませんから、あきらめることにしました。又實感の乏しい爲、手を入れてもだめかと思ひます。

    十九日午前五時    龍   之

   敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」は私は好きな作品である。芥川龍之介最晩年の小説らしい小説として、である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・野村治輔宛

 

原稿用紙で御免下さい。飜譯の件は勿論よろしい。序文も同封してお送りします。どうかよろしく。「じゆりあの吉助」は御らんになるほどのものではありません。僕もモスクワ大學の日本文學科の先生か何かになりたい。原稿に追はれて暮らしてゐるよりもその方が遙かによささうです。右當用のみ。頓首

    一月二十一日     芥川龍之介

   野 村 治 輔 樣

 

[やぶちゃん注:「野村治輔」新全集の「人名解説索引」には、『大阪毎日新聞社社員』としつつ、『詳細未詳』とある。ネット・データでは、芥川龍之介もよく発表の場としている雑誌『新小説』の大正時代の編集者の名前に出る。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・岩野英枝宛

 

原稿用紙にて御免下さい。雲林、藍瑛どちらも持ち合せません。のみならず畫帖を見た位では中々御鑑定の出來るものではありません。小生は唯今親戚に不幸有之、その上その方の衣食の計立たざる爲、東奔西走中。どうかこれにて御勘辨下さい。いつか越後へでも遊んだ折はあなたの御紹介を得、御藏幅を拜見したいと存じてゐます。以上。

    一月廿一日夜     芥川龍之介

   岩 野 英 枝 樣

 

[やぶちゃん注:「岩野英枝」(ふさえ)は新全集の「人名解説索引」によれば、作家岩野泡鳴の三番目の妻とし、最初、『泡鳴の口述記者として雇われ』、『のち同居』、大正七(一九一八)年五月に『入籍』したとあり、『泡鳴の主宰した十日会』(かの秀しげ子も会員で、龍之介もそこでしげ子に出逢った)『の女性側の主要メンバーの一人』で、『芥川は英枝に久米正雄の結婚相手を捜してくれるよう依頼する一方で』、『英枝の原稿を新聞に載るよう』、『骨』を『折ったこともある』とあった。この時は既に未亡人(泡鳴は大正九年没)であった。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「藍瑛」(らんえい 一五八五年~一六六四年(生没年は異説あり))は明の後期を代表する画家。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓今夜は失禮仕り候うつかり「月の光は八谷を照らす」を書いて頂く事を忘れ殘念なり二三日中に使のものをさし上げ短尺をおとどけ申上げ候間、おひまの節お書き下さらば幸甚に存候ソレカラ Velonal Neuronal ともおとり置き下さるまじく候やこちらのお醫者に賴む事は阿片丸を頂きをり候ことも申居らず候爲ちと具合惡く候へばよろしくお取り計らひ下さらば幸甚に存候 頓首

    昭和改元一月廿八日   龍 之 介

   齋 藤 樣

二伸 なほ又お藥は使のものにお渡し下さらば幸甚に存候唯今この手紙に似合ふ封筒なしこれも御免蒙り度候

     卽興

   尿する茶壺も寒し枕上(ガミ)

 

[やぶちゃん注:「月の光は八谷を照らす」筑摩全集類聚版脚注に、『茂吉の作』とあり、

 しづかな峠をのぼり來(こ)しときに月の光は八谷(やたに)をてらす

と載せ、二年前の『大正十四年夏、箱根にての吟』とある。歌集「ともしび」の「箱根漫吟の中」の一首である。

「Neuronal」筑摩全集類聚版脚注は『神経安定剤』とするが、この綴りは一般名詞で「神経細胞の・ニューロンの・神経型の」の意味であり、市販薬物名として「ヌロナール」というのは、英名でもネット検索に全く掛かってこない。Numal」の誤りである。小泉博明氏の論文「斎藤茂吉と青山脳病院院長(1)昭和 2 年から昭和 3 年まで(PDF・『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第十一号(二〇一〇年)所収)の、「5.芥川龍之介と茂吉」に、この書簡への往信と思われる二 月一日附芥川宛書簡を引き(引用文を恣意的に正字化した)

   *

拜啓先日は御馳走に相成り何とも感謝奉り候。今日獨逸バイエル會社の「ウエロナール」屆き候ゆゑ一オンス(廿五グラム)使もて御とヾけ申候。舶載品は邦製のものと成分全く等しと申し候ひども舶載のものヽ[やぶちゃん注:ママ。]方がやはり品よき心地いたし申候。御比較願上候。次にヌマール(Numal)といふロッシュ(Roche)會社の錠劑をも御屆け申し候。これは一錠頓服にて十分と存候が、これも御試めし願上げ候。ウエロナールとヌマールと相互に御使用の方が、慣習にならずによろしく御座候(略)

追伸。藥價の事御氣にかけられ候事かと存じ候ゆゑ内實を申上候邦製ウエロナールは一オンス八十五錢に有之、舶載のバイエル會社のものは二圓五十錢、ヌマールは一圓六十錢にて、先夜の自働車[やぶちゃん注:引用元にママ注記有り。]にも相成り不申候ゆゑ、進上仕りたく右惡しからず御承引願上候。但し、藥は高きものと思召にならざれば利かぬものに候ゆゑ、その御つもりにて御服用願上候 敬具

   *

小泉氏はこれについて、『茂吉は、馳走になった御礼として芥川に「ウエロナール」だけではなく、「ヌマール」という薬剤と短冊を送った。2 種類の薬剤を相互に服用し、慣習化しないように指示している』とされ、但し、『茂吉の 1 月 30 日付、日記には「芥川氏に、Verona l25 gr. ヲトドケル」』『とあり、日記と書簡の日付に異同がある』とある。この茂吉書簡への返礼が、二月二日夜とする二月分で掲げる書簡である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・西川英次郞宛

 

冠省久しぶりに君の手紙を貰ひ愉快だつた短尺は小包みにするのが厄介故詩箋で御免蒙る元來君のやうに字のうまい兄貴を持ちながら俺の書いたものなど欲しがる必要はないのだだから發句三分の一人前字三分の一人前、紙三分の一人前と思つて貰つてくれ給へこの頃多事多難多憂弱つてゐる

 

    昭和改元一月廿八日  龍 之 介

   英 次 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「西川英次郞」龍之介の親友。「芥川龍之介 書簡抄1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より」で既注。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・田端発信・宇野浩二宛

 

拜復。まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預つて難有い。あの話は「春の夜」と一しよに或看護婦に聞いた話だ。まだ姊の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の爲に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは氣の毒だね。餘は拜眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

    一月三十日      芥川龍之介

   宇 野 浩 二 樣

 

[やぶちゃん注:「あの話」「玄鶴山房」。

「春の夜」大正一五(一九二六)年九月『文藝春秋』発表。「青空文庫」のそれをリンクさせておくが、新字新仮名である。

「高野さんがやめたのは氣の毒だね」前にも書いたが、『中央公論』編集長であったが、先の高野宛書簡から、この一月十九日以降に、恐らくは解任されたものと推察する。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・消印三十一日・田端発信・相州鎌倉坂の下二十一 佐佐木茂索樣・一月三十日 武州田端 芥川龍之介

 

朶雲奉誦、唯今姊の家の後始末の爲、多用で弱つてゐる。しかも何か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保險、生命保險、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神經衰弱癒るの時なし。六七日頃までは東京を離れられまい。拜眉の上萬々。姊の夫の死んだ話は殆どストリントベルグ的だ。匆々。

    一月三十日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「ストリントベルク」ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。私は恐らく海外の劇作家で最も多く戯曲を読んだ作家の一人である。]

2021/09/10

最近とても嬉しかったことどもについて


つい先日、私が十年前に暴虎馮河で拙訳した小泉八雲の“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の「破られし約束」を、YouTube で朗読したいという若い方からの懇請を受けた。彼女は田部隆次氏の訳(リンク先は私の電子化注)と私の訳を比較され、朗読するに際し、私の訳を選ばれたのであった。

無論、ユビキタスをモットーとする私は、許諾した。

これは、私には、とても嬉しいことだった。

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そうして、今日は、私が、ネット上に電子化物がないことから、「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、先だって電子化した、放浪の俳人「乞食」井上井月の句集に添えた、

(正確には「井月の句集」で、芥川龍之介及び芥川家の主治医であり、芥川龍之介の検死の当事者でもあった下島勲の編になるものへの芥川龍之介の跋文である)に対して、井月の研究家の方から、私が上の電子化をしたことへの感謝のメールを頂戴した。

これもまた、偏愛する芥川龍之介に絡んで、私には、とても嬉しいことであった。

   ♡

私の自慰と思われるかも知れない、他者から見れば、たいしたことのないものと失笑を買っているかも知れない数多の私の電子化物が、僅か乍らも、ある人の琴線に、確かに触れていることを感じ、内心――「少しばかりは、生きていてよかったな」――と思うたのであった。

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