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カテゴリー「芥川龍之介 書簡抄」の157件の記事

2021/09/19

芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・恒藤恭宛

 

手紙をありがたう。頭の中はまだ片づかない。從つて未だに病氣だ。唯書かざる可らざる必要があつて書いてゐるのだから、憫み給へ。來月も亦谷崎君に答へることにした。僕等の議論は君などには非論理的だらうが、僕の現在の頭の中を整理する爲には必要なのだ。そのうちに京都へ行くかも知れない。右御返事のみ。奧さんによろしく。誰か君が大醉して下立賣を步いてゐるのを見たとか言つた。大いにわが意を得た。時々は大いに飮み給へ。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   恒 藤 恭 樣

二伸 さう云ふ暇もなからうが、若しあつたら、僕の說を批評した手紙をくれ給へ。ちつとは阿呆以外の說も聞きたい。尤も夫子自身阿呆だが。

 

[やぶちゃん注:現在、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」は執筆時期が不明である。しかし、私は、この書簡の「二伸」中に、その痕跡を発見する。また、この前後は、昭和二(一九二七)年六月発行の『新潮』の『ある日の日記』欄に掲載された「晩春賣文日記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」を参照されたい。実際の日記ではなく、日記を装ったものであるが、「五月五日」の掉尾の、『夢に一匹の虎あり、塀の上を通ふを見る。』は鬼気迫るものがある。

「下立賣」下立売通(しもたちうりどおり/しもだちうりどおり)。この東西(グーグル・マップ・データ)。

「夫子」ここは「そういうことを言っている私自身」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・眞野友二郞宛

 

冠省、鯛をありがたう存じます。あなたは悠々自適してゐられる容子、健羨に堪へません。右とりあへず御禮まで。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   眞 野 友 二 郞 樣

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端・発信・里見弴宛

 

冠省大道無門ありがたく存じ候。來月の改造にてお禮かたがた妄評仕らんと存じをり候所、大事をとりすぎ、とうとう今日の〆切りに間に合はず、斷念致し候間、この手紙を差し上げ候。御禮相遲れ候段あしからずおゆるし下され度候。頓首

    五月六日       芥川龍之介

   山 内 英 夫 樣

 

[やぶちゃん注:「大道無門」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『昭和二年三月刊。前年(大正十五年)「婦人公論」に連載したもの』とある。

「來月の改造にて」同前で、『連載中の「文芸的な、余りに文芸的な」を指す』とある。実は、書き始めている内に、力が入り過ぎ、締切に間に合わなくなったというのが事実であると私は考えている。実際、「大道無門」という「文藝的な、餘りに文藝的な」の草稿(と私は考えている)が存在するからである。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介」で電子化してあるので読まれたい。

「山本英夫」里見弴の本名。彼は明治二一(一八八八)年に有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれたが(有島武郎と有島生馬は実兄)、生まれる直前に母方の叔父山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となって「山内英夫」となった。但し、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端発信・宇野浩二宛

 

冠省 君の本の題を知らせてくれぬか。好意に甘えて序文を作ることにする。但しそれは一度「文藝春秋」にのせる事にしたい。さうすると、僕も大いに助かるから。餘は拜眉の上萬々、頓首

    五月六日夜      芥川龍之介

   宇野浩二樣

 

[やぶちゃん注:「君の本」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年八月』(十日)『新潮社刊の「我が日我が夢」』とある。昭和二年六月一日発行の『文藝春秋』に『「我が日我が夢」の序』として掲載され、上記単行本の「序」として収録された。

「僕も大いに助かる」稿料が貰えるからであるが、自分のためといういうよりも、この時期、夫に自殺されて未亡人となった姉ヒサの一家の経済的援助も龍之介は一身に担っていたから、「たかが/されど」であったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十六日・函館発信・芥川宛(絵葉書)

 

一路平穩函館へ參り候 頓首

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この五月十三日の午後十時三十分に『上野駅で青森行の急行に乗車し、里見弴とともに、改造社『現代日本文学全集』の宣伝講演旅行のため、東北・北海道方面に向けて出発』したとあり、十四日土曜日、午前七時二十分、『仙台に到着』、『小宮豊隆とともに、当時』、『東北大学にいた木下杢太郎』(東北帝国大学医学部教授として皮膚病黴毒学講座を担当していた)『を訪ね、昼食を共にする。この時』、龍之介は木下に『九州』帝国『大学から招聘されていることを漏らした』とある。その後、午後四時半、『仙台公会堂で講演を』し、『この日は』仙台の『針久』(はりきゅう)『別館に宿泊』した。十五日、『仙台を発ち、盛岡に到着。午後』四『時、盛岡劇場で「夏目先生の事」と題して講演を』し、『終了後、岩手日報社の招待で金山踊り』(かなやまおどり:嘗て鉱山で選鉱作業をした女の仕事歌と踊り)『を見物し』、『この日は、六日町の高与旅館に宿泊』した。十六日の午前十一時四十二分『発の急行で盛岡を発ち、午後』十『時、函館に到着』、『この日は、函館駅頭の勝田旅館に宿泊』した。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・志賀直哉宛(絵葉書。里見弴と寄書)

 

   双鳬眠圓

   孤雁夢寒

旅情御想察下され度候。

     五月十七日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版書簡本文によれば(同全集は独自に歴史的仮名遣による推定読みが各所で行われている)、

 双鳬(さうふ) 眠り 圓かにして

 孤雁(こがん) 夢 寒し

と訓じており、脚注で、「双鳬」は『ひとつがいの鴨。里見が女づれであることを暗示する』とし、「孤雁」は『一話の雁。。芥川自身の単身旅行の境涯をいう』とある。但し、私はこれ以外に、この時の里見が女性同伴であったという記事を見たことがない。もし、終始、里見が女性を連れていたとなら、書簡のどこかで、その女性への言及があると私は思うのだが、そんなものは欠片もない。この注の根拠となる事実証左をご存知の方は、是非、御教授あられたい。なお、里見は大阪の芸妓山中まさと早くに結婚しているが、妻なら(しかも元芸妓となら)、龍之介が書簡で触れないはずがない。それとも、妻でない愛人だったのか? これはまた、問題であろう。第一、芥川と里見の、この改造社提灯持ち情宣講演部隊(事実、「現代日本文学全集」と書いた提灯を持った二人に繩が附けられて、その二本を後ろで操る「改造社」の社長が背後に小さく描かれた昭和二年五月発行の『北海タイムス』に掲載された「悦郎生」の手になる辛みの強烈な戯画が残されている(底本の岩波旧全集「月報8」の「資料紹介」に載る「昭和二年五月二十二日『東奥日報』」に挿入されたもの。そのカリカチャライズに龍之介の談話として、『この度北海タイムスの漫畫程、われ乍ら感心したのはないね、岡本一平のもの』(太字は底本傍点「ヽ」)『したよりは』(岡本の絵も先の絵の上に掲げられてある)『餘程うまく出てますね。』と書かれてある)この行動・講演日程(『九日間で八カ所講演』という『相当な強行軍』と鷺氏の年譜にある。次の書簡も参照)は特に北海道内でのそれは相当にハードなものであったから、講演中は暇でも、それに合わせて移動するのは(しかも次の書簡で判る通り、飯は不味くて汚いのである)、女性にはかなりきついと思うのだが? 但し、次の書簡も参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・相州鎌倉阪の下 佐々木茂索樣 同房子樣(絵葉書、里見弴と寄書)

 

連日强行軍的に講演させられ神身[やぶちゃん注:ママ。]ともに疲勞而も食物はまづく宿は汚い

一體どうしてくれるつもりだ      弴

汽車にのる、しやべる、ねる、又汽車にのる、のべつ幕なしの精進には少からず弱り居り候但し鴛鴦眠暖 孤鶴夢冷

                   龍

 

[やぶちゃん注:里見弴は著作権存続だが、寄書なので、そのまま引用扱いで載せる。特にこの宣伝講演旅行の凄絶なそれのへ怒りは貴重な資料であるからである。

「鴛鴦眠暖 狐鶴夢冷」

 鴛鴦 眠り暖かにして

 孤鶴 夢 冷やかなり

か。前の「但し」といい、やっぱり里見は女連れということか?]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・東京市外田端四三五芥川氣附 小穴隆一樣・五月十七日 蝦夷の國湯の川 芥川龍之介

 

敬啓 仙臺、岩手と巡業し、やつと津輕海峽を渡りて函館へ參り候函館は殺風景を極めた所なり、匆々湯の川溫泉へ避難、ここらは櫻さき蒲公英さき黃水仙さき櫻すずめと云ふ鳥啼き居り候あひ變らず憂鬱夜々卽時に死ねる支度をして休みをり候これより札幌、旭川、小樽をまはり、新潟を經て二十四五日頃にかへる筈、文中さしつかへなき所だけ宅へもお洩らし下され度候

  盛岡

啄木は今はあらずも目なぐもる岩手の山に鳥は啼きつつ

插し画日々大へんなるべし女の子の鞠をつける画より後は見ず不本意この事也 頓首

    五月十七日          澄

   一 游 先 生

 

[やぶちゃん注:「芥川氣附」葛巻義敏辺りが、小穴に届けることを想定したものであろう。

「湯の川溫泉」この附近(グーグル・マップ・データ)。私も一度、友人らと泊まったことがある。

「櫻すずめ」種としてはスズメ目カエデチョウ科 Neochmia 属サクラスズメ Neochmia modesta がオーストラリア北東部の固有種であるので、違う。単に桜の花を花ごと食い千切って、花の附け根に入っている蜜を吸う普通の雀ではあるまいか?

「目なぐもる」「たなぐもる」の誤記か。

「插し画」芥川龍之介晩年の纏まった中編随筆作品の一つである「本所兩國」の挿絵(リンク先は私のサイト版)。昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(九日と十六日は休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」の「四六――六〇」として連載したものを指す(芥川龍之介は、結局、未だに大阪毎日新聞社の社員であった)。連載時の挿絵は芥川龍之介の友人であり、画家の小穴隆一(作中のO君)であった。これにはエピソードがある(以下は鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の記述に基づく)。当初の新聞社の指示は、挿絵も芥川龍之介自身が描くという条件で、芥川は相当に悩みながらも、小穴の指導を受けて、第一回・第二回分の絵を描くが、社に帰参した記者が芥川が挿絵を描くことを嫌がっている伝えたところ、小穴が描いてもよいということになり、芥川は快哉を叫んだという。より詳しい経緯は私の『小穴隆一「二つの繪」(33) 「影照」(8) 「芥川の畫いたさしゑ」』を読まれたい。ともかくも、そうした経緯からも小穴には借りがあるから、言い添えているのである。なお、この絵は展覧会で、現物全篇を見たことがある。ただ、「女の子の鞠をつける画」というのは、残念なことに、記憶がない。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣(絵葉書)

 

コレハアイヌデス ハコダテニハアイヌハヰマセン シカシアイヌノコシラヘタモノヲウツテヰマス

 

[やぶちゃん注:新全集年譜に、五月十七日の午後四時半、『函館公会堂で「雑感」と題して講演を』し、午後十一時六分『発の急行に乗り、札幌に向かう』とあり、翌十八日の午前七時五十四分、『札幌に到着。札幌では、午後』二『時、北海道大学中央講堂で「ポオの美学について」、午後』四『時、大通小学校で「夏目先生の事ども」と題して、二回』の『講演をする。講演会終了後、北大文芸部と札幌の文学グループによる歓迎会に出席』、『この日は、山形屋に宿泊』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川比呂志 同多加志宛(絵葉書)

 

サツポロヘキマシタココニハキレイナシヨクブツエンガアリマスアシタハアサヒガハトイフ町ヘユキマス

 

[やぶちゃん注:

「シヨクブツエン」北海道帝国大学植物園のことであろう。クラーク博士の学術的要請によって明治一九(一八八六)年に竣工した非常に古いものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川文宛(絵葉書)

 

汽車へ乘つてはしやべりしやべりする爲、すつかりくたびれた。かへりには新潟へまはり、二三日休養するつもり。こんなに烈しい旅とは思はなかつた。北海道では今ボオヂエストをやつてゐる。以上

    札幌

 

[やぶちゃん注:年譜に、この十九日の午前八時『発の急行で札幌を発ち、午前』十一時三十二分、『旭川に到着、午後』四『時半、錦座で「表現」と題して講演を』し、午後六時十五分発の急行で『旭川を発ち』、午後九時四十四分、『再び札幌に到着』、『この日は、札幌に宿泊か』とある。

「二三日休養するつもり」これこそが大切な発言なのである! この時点で、あの《計画》は立てられていたのである! 後述する。

「ボオヂエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste)はイギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)が一九二四年に発表した冒険小説で、本邦では「ボゥ・ジェスト」のタイトルで日本語訳が出版されている。原題は英語で「麗しき行為・上辺だけの雅量」の意。ここはそれを最初に映画化した一九二六年公開のアメリカのモノクロームのサイレント映画(ハーバート・ブレノン(Herbert Brenon 一八八〇年~一九五八年:アイルランド出身)監督/ロナルド・コールマン(Ronald Colman/本名 Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリスの名優でトーキー黎明期を代表する人気スターの一人で、本邦でも人気が高かった)主演)である。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)

 

やつと新潟着、これはプライヴェエトだから氣樂だ。尤も大きな部屋にたつた一人坐つてゐるのははかない。

     憶北海道

   冱え返る身にしみじみとほつき貝

このほつき貝と云ふ貝は恐るべきものだ。どこの宿へとまつても大抵膳の上に出現する。

    五月二十四日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日、『札幌を発ち、小樽に到着。午後』五『時、花園小学校で「描かけてること」(あるいは「描ける物」「描かれたもの」)と題して講演を』した。『聴衆の中には、若き日の伊藤整、小林多喜二がいた』。午前十時四十八分『発の寝台急行に乗り、函館に向かう』とあり、翌二十一日土曜日の午前七時、『函館に到着。午前』八『時、青函連絡船に乗り、午後』零『時半、青森に到着。ここで上京する里見弴と別れ、新潟に向かうべく、休息と時間調整のために旅館塩谷支店に部屋をと取った。そこで青森市公会堂での講演のために訪れていた秋田雨雀、片岡鉄兵に会う。「東奥日報」や秋田などの勧めもあって』、『急遽、午後』四『時半、青森市公会堂で行われた講演会に参加し、「漱石先生の話」と題して講演を』した。『熱心な聴衆の一人には、太宰治(当時弘前高校生徒)がいた。この日は、塩谷支店に宿泊』した。翌二十二日日曜日、『朝、北陸回りで新潟に向かう(秋田雨雀らと同乗』)。『夜、新潟に到着』、『新潟では、三中の校長だった八田三喜(はったみき)が旧制新潟高校校長をつとめて』おり、以前に八田から講演の依頼があったのである(それが「これはプライヴェエトだから氣樂だ」の意である)。『この日は、篠田旅館に宿泊』した。翌二十四日の午後三字半、『新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演をし』た(この時の英文講演メモは現在も残っており、全集に収録されてある)。『夕方、篠田旅館で行われた座談会に、八田三喜、式場隆三郎をはじめ、新潟高校の関係者らと出席する』。この時の座談会は、本年年初に、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』として、ブログで電子化してあるので、是非、読まれたい。

「ほつき貝」」斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense の北海道での異名。現行、異名の方が流通では圧倒的に幅を利かせている。「柳田國男 蝸牛考 初版(15) 語音分化」の私の注の「松毬」を参照されたい。芥川龍之介にも言及してある。また、私の「眼からホッキ!」も見られたいが、芥川龍之介が「恐るべきものだ」と言っているのは、その剥き身が女性生殖器に似ていることを暗に指しているものと私は信じて疑わないのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信(推定)・東京市外田端四三五芥川氣附小穴隆一樣(絵葉書)

 

  北海道二句

ひつじ田の中にしだるる柳かな

  ほつき貝と云ふ貝ありいづこの膳にものぼる

冴え返る身にしみじみとほつき貝

 五月二十四日

二伸 繁昌記十三、十五囘だけ拜見。長明先生云々の字は下島先生乎。

 

[やぶちゃん注:「ひつじ田」「ひつじ」とは、刈り取った後に再び伸びてくる稲のことを言う。「穭」と書く。秋の季語。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『この句は、東京に戻った六月一四日付西村貞吉宛書簡や「講演軍記」(「文芸時報」六月号)などでは、「雪どけの(雪解けの)中にしだるる栁かな」と改められ、旭川で作った句とある。残された最後の句である』とある。改作形は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」及びやぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句 (大正十二年~昭和二年迄)附 辞世を参照されたい。後者で私も、『これが旧全集の中で日附の判明している書簡に所収する龍之介最後の俳句である』と注した。

「長明先生云々の字」「本所・兩國」の最終回は「方丈記」の見出しが付けられているが、この謂いの詳しい意味は不詳。挿絵を再び見る機会があったら、追記する。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・芥川文宛(絵葉書)

 

おととひの夜新潟到着、八田さんにいろいろ御厄介になる。二十五日か六日にはかへるつもり。くたびれ切つてゐる。東北や北海道を𢌞つて來ると食ひもののうまいだけ難有い。

                 龍

どこへ行つても御馳走ぜめに弱つてゐる。就中北海道の「ホツキ」と云ふ貝はやり切れない。

    五月二十四日  志の田にて

 

[やぶちゃん注:ここでは確かに文に「二十五日か六日にはかへるつもり」と言ってはいる。これをまともに信ずれば、宮坂年譜は正しいことになるが、私は信じない。

「志の田」新潟の旅館名だが、前で引用した通り、「篠田」が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣 同多加志樣(絵葉書)

 

コレハニヒガタノマチデス ムカシノ東京ノヤウナキガシマス ソレデモジドウシヤハ トホツテヰマス

   ヒ ロ シ サ マ

   タ カ シ サ マ

    五月二十四日     ヘ チ マ

 

[やぶちゃん注:「ヘチマ」瘦せた芥川龍之介の自身の卑戯称か、或いは、自分の子らがたまたま「御父さんは糸瓜みたい」と言ったことがあるか。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

鍋茶屋はつひに鍔甚に若かず。金澤にありし日の多幸なりしを思ふ事切なり。

     北海道

   ひつじ田の中にしだるる柳かな

          新潟   龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「鍋茶屋」(なべじやや(なべじゃや))は筑摩全集類聚版脚注に、『新潟の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、創業は弘化三(一八四六)年とする。

「鍔甚」(つばじん)は筑摩全集類聚版脚注に、『金沢の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、『加賀百万石の礎を築いた前田利家に、お抱え鍔師として仕えて四〇〇年の鍔家』の『三代目甚兵衛が宝暦二年(一七五二年)に鍔師の傍ら』、『営んだ小亭・塩梅屋「つば屋」が「つば甚」の始まりとされて』いるとある。

「金澤にありし日」芥川龍之介大正一三(一九二四)年五月十四日、金沢・大坂・京都方面の旅に出、十五日に金沢に到着し、媒酌人をつとめることになっていた岡栄一郎の親族に逢って、彼らの結婚の了承を求めることが旅の一つの目的であった。金沢では室生犀星の世話で、兼六園園内にあった茶屋「三芳庵」の別荘にたった一人で二泊し、その豪奢な造りに非常な感銘を受けている。十九日の夜に大阪に発った。金沢滞在は龍之介にとって忘れられぬ至福の時だったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・里見弴宛(絵葉書)

 

靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り、その上例の茶話會と云ふやつにて往生すること一かたならず、新潟にてやつと人並みの食物にありつきほつと致し候。尤も鍋茶屋も鍔甚に及ばず、美人にも生惜邂逅不仕候

遠藤さまによろしく。魚は東京よりも新しいことを御吹聽下さらば幸甚。

     北海道を憶ふ

   冴え返る身にしみじみとほつき貝

 

[やぶちゃん注:『靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り……』先の五月二十四日附佐佐木茂索宛書簡の注を参照。青森で秋田や片岡と逢ったことで、またまた、予期せぬ講演や歓迎会に引き廻されたことを言っているものと推察される。

「遠藤さま」不詳だが、一つ、里見は元赤坂芸妓であった菊龍(遠藤喜久・お良)を愛人にしていたと当該ウィキにあるので(時期が合うどうかは判らない)、彼女のことかも知れない。

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十八日・田端発信・福島金次宛

 

御手紙拜見しました。何かとムヤミに書いてゐます。「蜃氣樓」をほめて頂いて恐縮です。しかし或友だちは小生の作品中、あれを一番無感激のものに數へてゐます。小生自身は一番無感激とも思つてゐないのですが。

    五月二十八日     芥川龍之介

   福島金次樣

二伸北海道よりかへり、いろいろ手紙ばかり書いて大分くたびれました。これは四本目です。

 

[やぶちゃん注:宛名の「福島金次」は未詳(新全集「人名解説索引」も同じく『未詳』とする)。この書面の謂いからは、少なくとも、この前日には田端へ帰着しているもののように読み取れる。

……さて、前記の新全集の宮坂覺氏の年譜では、新潟での五月二十四日の座談会記事に続いて、さらりと、

『午後』六『時半、帰京の途につく』

と記されてあり、次に、

翌五月二十五日の条が立項されて、『新潟から帰京し、田端の自宅に戻る。下島勲に土産の梨を進呈した』

とある。しかし、この二十五日の龍之介帰京の情報は昭和一一(一九三六)年に下島が公刊した随筆集だけを元にしたものであるのだが、私は、龍之介自死後九年も経ってから発表された、この随筆中の日付を激しく疑っている。

そもそも宮坂氏の年譜のここの記載が確かなのものであるなら、芥川龍之介は十九日の文宛書簡の「二三日休養するつもり」を実行せずに、即刻帰宅した

ことになる

のである。

更に、先行する一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、

ここに大きな相違が見られる

のである。鷺氏は、芥川龍之介の帰京を、

五月『二十七日、田端の自宅にもどる。』

とされておられるのである。

則ち、鷺氏の見解に従うなら、

新潟を発した五月二十四日(鷺氏は実はこの講演日を五月二十三日で立項し、『(あるいは二十四日)』とされて不確定としておられる)から五月二十七日までの――正味二日から約二日半(約三日)の空白――がここに存在することになる

のである。

この空白期間は、まさに、文への――「二三日休養するつもり」――に合致する

のである。宮坂年譜にある通り、講演の終わった後、座談会の後、夕刻に新潟を発車した列車に芥川龍之介が乗ったのは、事実であろう。

しかし……芥川龍之介はそのまま帰京はしていない――

のである。

……何処へ行ったか?……さても……そこで、誰と逢ったか?……

それを解き明かす鑰(かぎ)となる作品が――ある――

芥川龍之介の「東北・北海道・新潟」

である。これは昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載された。

以上のリンク先は私の電子化であるが、その冒頭注で、私はこの空白への推理を最初に開始しているので、是非、読まれたい。

 

……ズバリ、言おう……

この空白の中で――芥川龍之介は片山廣子と軽井沢で逢っていた――

というのが私の結論である。

 

片山廣子には昭和四(一九二九)年六月号の雑誌『若草』に松村みね子名義(廣子の翻訳作品用のペン・ネーム)で掲載された「五月と六月」があるが、それをまず、読んで貰いたい。そこから、私の本格的な疑問が生じたからである。

次いで、私のブログ記事の『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』へと進まれ、最後に、私のサイト版の、

『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』

を読まれたい。芥川龍之介研究者の中で、この邂逅を仮定している方は今のところ知らないが、しかし、私は絶対に事実としてあったと考えているのである――反論があれば、何時でも受けて立つ。

 なお、宮坂年譜には、この五月の『下旬(あるいは上旬か)』として、『再び帝国ホテルでの自殺を計画したが、未遂に終わる。平松麻素子の知らせで文たちがホテルへに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが、手当てが早かったため、覚醒する。文は「後にも、先にも、私が本当に怒ったのはその時だけ」とし、この時の芥川が珍しく涙を見せて誤ったことを回想している』とあり、また、この『月末』には、盟友『宇野浩二が発狂し』(既注)、『広津和郎とともに世話をする』とある。――風雲急を告げる刻(とき)が――遂にやって来てしまったのである…………

2021/09/17

芥川龍之介書簡抄144 / 昭和二(一九二七)年四月(全) 五通

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・吉田泰司宛

 

冠省、あらゆる「河童」の批評の中にあなたの批評だけ僕を動かしました。あなたは僕を知らないだけにこれは僕には本望です。河童はあらゆるものに對する、――就中僕自身に對するデグウから生まれました。あらゆる「河童」の批評は「明るい機智」を云々してゐます。恰も一層僕自身を不快にさせる爲のやうに。右突然ながら排悶の爲に。(御禮の爲と云ふよりも) 頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   吉田泰司樣

 

[やぶちゃん注:「吉田泰司」(生没年未詳)筑摩全集類聚版脚注に、『白樺系統の批評家。この』「河童」の『批評は倉田百三』が大正一五(一九二六)年に創刊した雑誌『「生活者」に出る』とある(当該雑誌のこの年の四月号所収)。岩波新全集の「人名解説索引」によれば、彼は大正八(一九一九)年に『片山敏彦らと同人誌「青空」を創刊』し、『のち「白樺」「高原」などに寄稿している』とある。

「デグウ」dégout。フランス語で「嫌悪・不快感」。]

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・稻垣足穗宛

 

高著をありがたう、文壇はあなたのやうな fancy の所有主に冷淡です。しかし fancy それ自身に價値のあるのは勿論です。書けるまでどんどんお書きなさい。僕などはもう fancy に見すてられた方です。しかし今牛乳をのんでゐると、第三半球がぼんやり浮かんで來ました。頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   稻垣足穗樣

二伸ゆうべまで鵠沼にゐた爲に御禮が遲れました。

 

[やぶちゃん注:「稻垣足穗」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は小説家。大阪出身で関西学院普通部卒。佐藤春夫の知遇を得て、大正一二(一九二三)年に「一千一秒物語」を発表。器械・天体などを題材に反リアリズムの小宇宙を構成した作品を発表、奇才と称された。戦後、小説「弥勒」やエッセイ「A感覚とV感覚」を発表。昭和四四(一九六九)年に随筆集「少年愛の美学」でタルホ・ブームを起こした。私は「一千一秒物語」・「A感覚とV感覚」・「少年愛の美学」を読んだが、どれも生理的に受けつけられなかった。

「高著」最後の部分から、この年の三月に金星堂から刊行した「第三半球物語」であろう。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月四日・田端発信・芥川文宛(葉書)

 

多加志熱を出したよし、石川さんから聞いた。こちらも義敏熱を出し(インフルエンザ)ねてゐる。

多加志はすつかりなほるまでそちらに置いた方がよいかも知れない。六日或は七日に種やをやる筈。お母さんによろしく。

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜の四月四日の条に、『鵠沼の塚本家に滞在中の文から、多加志が熱を出したことを知らされ、見舞い状を送る』というのがこれ。

「石川さん」一九九四年岩波書店刊の宮坂覺編著「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」を見るに、石川太一・石川暁星なる人物であるが、人物は不詳。

「種やをやる」意味不明。何かの植物の種を自宅の庭に蒔くということか。或いは、文にのみ判る符牒か? しかし、この四月七日には芥川龍之介は大変な事件を起こしている(時日は未確定ともされる)。新全集宮坂年譜から前後を引く。

   *

四月五日 『夜、ウィスキーを手土産に持って久保田万太郎を訪ね、一緒に飲む。この時、傘の絵と句を書き残した』。現在、絵・俳句ともに自筆の傘の絵というのは、私の知る限りでは、三種が存在する。データが不足しているために、ここに出るのがそれらのどれかであるか、或いは別なものかは判らない。但し、それらに共通する添え句は、

 時雨るゝ堀江の茶屋に客ひとり

の龍之介の句であるから、まず、これもそれと同じようなものと考えて差し支えあるまい。

四月六日 午後二時頃、『下島勲が初めて甥の連(むらじ)(のち養子に迎える)を連れて来訪する。下島には、英語の聖書を読むことを勧めた。夕方、下島とともに室生犀星を訪ねる。この時、犀星の机上にあった書簡箋をとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とある。

四月七日 『「歯車」の最終稿「六 飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻簾素子と心中することを計画していたとされる』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照されたい)。『但し、平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられる』。『平松が、小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が駆けつけ、未遂に終わる。この日は、そのまま小穴と二人で帝国ホテルに宿泊』した。

四月八日 『文が、比呂志の小学校の始業式に出席した後、帝国ホテルを訪ねる。この日、柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で平松麻素子、柳原と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが』、彼女は行かなかった。

   *

この柳原白蓮との一件は、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「柳原白蓮の回想」に柳原白蓮「芥川龍之介さんの思ひ出」が引かれてあるので、引用部を転載する。歌人柳原白蓮は延長ギリギリ前でパブリック・ドメインである。最後の句点のみ私が打った。

   *

自殺をなさる一寸前の事、私の可愛がつてゐた人で芥川さんと大変親しくしていた人があつたのだが、その人からの突然の連絡で芥川さんが心中を迫つてゐるとの事、私はとるものもとりあえずその時丁度頂いたばかりの印税があつたので、それをそつくりもつてかけつけた。龍之介さんはどうしても死ぬといふ。私は死ぬ事は悪い事だといふ。たうとう議論になつた。そして私はおしまひには、これ程云つてもやはりわかつてもらヘなければ勝手に死ぬがいい。しかしこの人は私にとつて大事な人だから一緒に死んではいやだ、死ぬなら一人で死んでといつて泣き出してしまつた。するとどうでせう。その時まで大変深刻だつた龍之介さんは突然上機嫌になり、あなたのやうな正直な人はみたことないと云ふ。そして一緒に御飯を食べようと云ひ出した。それから星ケ丘茶寮に三人で出掛けた。興奮からさめた私は御飯を頂きながら、又死ぬ事のいけないことを説いた。そして、たとへどのやうな状態であつても、何処であつても、生きている事は死んでしまつたよりいいから、二人が本当に愛し合つてゐるのなら、一緒に支那へお行きなさい、お金は持つて来たし、あなたはとつても支那が気に人つてゐるやうだからといふやうな事を云つた。するとお金なら自分もあるからいいと云ふ。やがてその人と二人きりで話したいと云ふので私は帰つて来た。おもへばそれが龍之介さんにお目にかかつた最後でもあつたのだ。

   *]

 

 

昭和二(一九二七)年四月十日・田端発信・飯田蛇笏宛

 

冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴說恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―― niru と滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。なほ又「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候。あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。この頃久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ、

   「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」

御一笑下され度候。二月號「山廬近詠」中、

   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」

人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首

    四月十日       芥川龍之介

   散田蛇笏樣

 

[やぶちゃん注:この書簡はサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で既に電子化している。内容は大正十五(一九二六)年十二月二十五日新潮社発行の単行本『梅・馬・鶯』に「發句」の題で収められた芥川龍之介の発句群への、『雲母』誌上での蛇笏評に対する消息文である。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、この蛇笏の批評は、『飯田蛇笏「虚子、竜之介、幹彦、三氏の俳句近業」(『雲母』一九二七年三月号)』で、『蛇笏は、「俳人以外の人々」の中で、芥川の句境は久保田万太郎以上、「まさに群を抜くもの」と評価した』とある。

 なお、前のリンク先で前記の心中未遂の話を引いて注している私の見解は、現在の私は大きな修正をしている。ここでは、それについて書いた私のブログ記事、『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』をリンクさせるに留める。

「蝶の舌の句」同前の石割氏の注に、『『ホトトギス』「雜詠」欄(一九一八年八月号)では「鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」』となっており、『『梅・馬・鶯』では「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」』としたのを、『蛇笏はこの改作は「却つて失敗」とし、感受性に「緊張」が欠けたとみる』と注されておられる。それぞれの句の正規表現(「鉄条」は私には生理的にダメである)は、後者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を、前者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を「蝶」で検索されたい。私は蛇笏の見解に賛同する。龍之介の決定稿は整序され過ぎて、新傾向俳句の底に沈んでもおかしくない技巧に過ぎたものである。

「かげろふや棟も落ちたる」同前の石割氏の注に、『「近詠」(『驢馬』一九二六年六月号)では「陽炎や棟も落ちたる茅の屋根」。『梅・馬・鶯』では「かげろふや」』とある。同前の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」で確認されたい。「鵠沼」の前書を持つ

「久保田君、句集を出す」久保田万太郎の句集「道芝」(昭和二年五月二十日俳書堂號友堂刊)。

「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」同前の句集「道芝」の序の掉尾に置かれた芥川龍之介の発句であるが、この『「道芝」の序』は事前に昭和二年五月一日発行の『文藝春秋』で初出されており、後に同句集に収録されたものである。但し、表記が異なり、

 冴え返る隣の屋根や夜半の雨

が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月二十五日・田端発信・室生犀星宛

 

冠省藏六刻の印二顆、小生よりけん上せしも應の一寸お貸し下され度、なほ又肉池もお借し下され候はゞ幸甚 頓首

    二十五日       龍 之 介

   犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:「藏六」浜村蔵六。江戸中期から明治時代にかけて五代に亙って篆刻家として活躍した浜村家が名乗った名跡。蔵六とは「亀」の異名とされ、初世が亀鈕(きちゅう:亀の形をした印の持ち手)の銅印を所蔵していたことから号としたとされる。当該ウィキにある、四世浜村蔵六(文政九(一八二六)年~明治二八(一八九五)年:備前岡山の人。正本氏、後に塩見氏を名乗った。名は観侯)か、五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四二(一九〇九)年:津軽の人。三谷氏、名は裕)の孰れかであろうか。

 なお、新全集年譜によれば、この前の四月十六日の条に、『菊池寛に宛てて遺書を書く。小穴隆一宛の遺書を書いたのも、この頃と思われる』とある。

2021/09/16

芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・芥川文宛

 

拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首

    三月朔        龍 之 介

   文 子 ど の

二伸 比呂志に西洋象棋を買つてやつた

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜の三月一日の条に、『谷崎潤一郎、佐藤春夫両夫妻とともに弁天座で文楽を観る』。『夜、佐藤夫妻は帰京する』が、『谷崎と二人で南地の茶屋で文学論などをしていると、内儀の紹介で』芥川龍之介のファンであった『根津松子が訪ねてくる。松子は、この時初めて谷崎と会い、二人はのちに結婚することとなった』とある。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム、自死の翌月に出た『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に載った、谷崎潤一郎追悼文「いたましき人」のからの抜粋があるので孫引きさせて貰う(略指示は鷺氏のもの)。『最後に会つたのは此の三月かに改造社の講演で大阪へ来た時であつた。(略)で、講演の夜は久しぶりで佐藤と一緒に私の家へ泊まり、翌々日は君と佐藤夫婦と私たちの夫婦五人で弁天座の人形芝居を見、その夜佐藤が帰つてからも君は大阪の宿に居残つて、『どうです、今夜は僕の宿に泊まつて一と晩話して行かないですか』と、なつかしさうに私を引き止めるのであつた。いつたい此れまで私などに対しては、あたたかい情愛も示さないではなかつたけれど、どちらかと云へば理智的な態度を取つてゐた人で、その晩のやうにひどく感傷的に人なつツこい素振りを見せるのは珍らしいことだつた。然るに君は人生のこと、文学のこと、友達のこと、江戸の下町の昔のこと、果ては家庭の内輪話まで持ち出して、夜の更ける迄それからそれへと語りつづけて、『自分は実に弱い人間に生れたのが不幸だ』と云ひ、『僕は此の頃精神上のマゾヒストになつてゐてね、誰か先輩のやうな人からウンと自分の悪い所をコキ卸してもらひたいんですよ』と云ひながら、その眼底には涙をさへ宿してゐた。 (略)君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちやうど根津さんの奥さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと言ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを簸[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「嵌」(は)の誤字或いは誤植。]めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた』とある。鷺氏の年譜では、この三月二日、三人でダンス・ホールへ行ったが、龍之介は『踊らず、二人の踊るのを見ているだけであった』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・葛卷義敏宛

 

冠省一度やつたものをとり上げ、まことにすまぬが、森さんの卽興詩人二册を小包にし谷崎氏へ送つてくれないか。宿所は文藝日記の末にあるべし。右當用のみ。小穴君によろしく。頓首

    三月朔        芥   川

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:「森さんの卽興詩人」デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)が一八三五年に発表した小説(Improvisatoren )を森鷗外が擬古文訳したもの。「原作以上の翻訳」と評され、鴎外は本作のドイツ語訳を読み、「わが座右を離れざる書」として愛惜しており、ドイツ留学から帰国後、軍務の傍ら、丹精を込めて明治二十五年から三十四年(一八九二年から一九〇一年)の凡そ十年かけてドイツ語版から重訳し、断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ここに出るのは初刊版「即興詩人」で、明治三五(一九〇二)年に春陽堂(上・下二巻)で刊行されたものであろう。筑摩全集類聚版脚注に、『文藝春秋』昭和二年九月号からとして、谷崎潤一郎が『死ぬと覚悟をきめて見ればさすがに友だちがなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを』と述懐している旨の記載がある。後掲の谷崎書簡も参照されたい。

「文藝日記」昭和二年版「文藝自由日記」(文藝春秋社出版部・大正十五年十一月)というのがあり、ここには近年の流行作家の日記や日録が載っていたコラムとしていようである。今では考えられないプライバシー侵害だ。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・齋藤茂吉宛

 

冠省岡さんより御手紙有之小生にも「庭苔」に就いて何か書けと仰せられ候まゝ二三枚相したゝめ御手もとまでさし上げ候なほ又下阪前短尺二三枚お送り申上候も御落手の事と存候右とりあへず當用のみ 頓首

    三月二日       龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「岡さん」「庭苔」前月分で既出既注

「二三枚相したゝめ」『「庭苔」讀後』。昭和二年四月発行の『アララギ』に発表された。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月六日・田端発信・靑野季吉宛

 

原稿用紙で御竟下さい。「新潮」の合評會の記事を讀み、ちよつとこの手紙を書く氣になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦樂」でも善いと言ひました。しかし「苦樂」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ觸れさせたい氣もちを持つてゐました。(最後の一囘以外が悉く山房内に起つてゐるのはその爲です。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り、「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑聲を與へることは出來ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶錄」の中にあるマルクスやエングルスと會つた時の記事の中に多少の嘆聲を洩らしてゐます。わたしはわたしの大學生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企圖は失敗だつたかも知れません。少くとも合評會の諸君には尊臺を除き、何の暗示も與へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊臺にはこれだけのことを申上げたい氣を生じましたから、この手紙を認めることにしました。なほ又わたしはブルヂヨオワたると否とを問はず、人生は多少の歎喜を除けば、多大の苦痛を與へるものと思つてゐます。これは近頃 Nicolas Ségur の書いた「アナトオル・フランスとの對話」を讀み、一層その感を深くしました。ソオシアリスト・フランスさへ彼をソオシアリズムに驅りやつたものは「輕侮に近い憐憫」だと言つてゐます。右突然手紙をさし上げた失禮を赦して頂ければ幸甚です。頓首

    昭和二年三月六日   芥川龍之介

   靑 野 季 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「靑野季吉」明治二三(一八九〇)年~昭和三六(一九六三)年]は文芸評論家。新潟県佐渡生まれ。佐渡中学時代、幸徳秋水らの著作を通して社会主義思想に傾いた。早稲田大学英文科卒業後、大正一一(一九二二)年に評論「心霊の滅亡」を書き、本格的に評論活動を展開、後、『種蒔く人』・『文芸戦線』の同人となり、プロレタリア文学運動の代表的理論家として活躍した。ことに『「調べた」芸術』(大正一四(一九二五)年)と「自然生長と目的意識」(大正一五(一九二六)年)の二論文は、プロレタリア文学とマルクス主義運動との相関や創作上の問題などに指標を与え、初期プロレタリア文学に多大な影響を与えた。昭和一三(一九三八)年の「人民戦線事件」による検挙を機に転向した。戦後は「日本ペンクラブ」の再建や、「日本文芸家協会」会長に就任するなど、幅広い進歩的良識派として活躍した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「「新潮」の合評會の記事」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年三月号所掲。芥川の「玄鶴山房」が批評された』とある。私は草稿附きの「玄鶴山房」を公開しているが、ここでは、その最終章「六」の末尾に「リイプクネヒト」を出した意図を龍之介自身が語っている重要な書簡である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の橋浦洋志氏の本作の解説によれば、同合評会で、『「六」における「リープクネヒト」の登場の意味が問われ、中村武羅夫は「芥川氏の一種の心境」をそこに認めつつも「作品全体をそのために書いてゐるとはいえない」としたが、青野季吉は「リープクネヒトを持つて来たのは何かある」と述べた』とあり、この好意的な発言に対して以上の書簡が書かれたのである。

「リイプクネヒト」ドイツ社会民主党の指導者ウィルヘルム・リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht 一八二六年~一九〇〇年)ギーセン生まれで、同地やベルリンなどの大学で哲学・言語学を学んだが、社会主義やポーランド独立に関心を持ったために放校された。 一八四八年の「三月革命」に参加し、スイスを経て、一八六二年までロンドンに亡命した。その間、マルクスやエンゲルスと交際し、影響を受けた。帰国後、反ビスマルク運動でプロシアを追放され(一八六五年)、ライプチヒに移り住み、社会主義運動に尽力、一八六七年から一八七〇年までプロシア下院議員、一八六九年にはアイゼナハで「社会民主労働党」を創立した。「普仏戦争」では軍事予算採択に棄権、「アルザス=ロレーヌ併合」に反対し、投獄された (一八七二年~一八七四年)。 一八七五年には、ゴータで、マルクスの批判を無視してラサール派と合同し、「ドイツ社会主義労働党」を結成、一八七四年より没するまでドイツ帝国議会議員を務めた。その間、ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」に対する反対運動を指導し、同法を無効にさせた。同法廃止(一八九〇年)後、合法政党として改名した「ドイツ社会民主党」の中央機関誌『前進』の主筆を務め、修正主義派と対決した。主著に「カール=マルクス追想録」(一八九六年)などがある。後のドイツの左派社会主義運動の指導者で、ポーランド及びドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg 一八七〇年~一九一九年)とともにベルリンで虐殺されたカール・リープクネヒト(Karl Liebknecht 一八七一年~一九一九年)は彼の子である。なお、現在の芥川龍之介研究では、このコーダで重要な登場人物重吉が読んでいるのは、上記「追想録」であるとされている。

「苦樂」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『プラトン社から』大正一三(一九二四)『年一一月に創刊された雑誌。中間小説、随筆を主に掲載した』とあり、龍之介の言う「或人」はプロレタリア文学家・劇作家で、後の日本社会党参議院議員となった金子洋文(ようぶん 明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九八五)年)で、『「「リープクネヒト」でも「苦楽」でも同じ」と評した』(出典不詳。龍之介の言い方からは前記合評会ではなく、別な批評と推定される)とある。

『「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます』アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Анто́н Па́влович Че́хов/ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)晩年の名作戯曲(Вишнёвый сад :一九〇三年秋決定稿・初演一九〇四年一月モスクワ芸術座)の第三幕の中間部で、「永遠の学生」トロフィーモフが無様に階段から転げ落ちるシーンが、舞台外の落ちる音で示される。

『Nicolas Ségurの書いた「アナトオル・フランスとの對話」』ギリシャ生まれでフランスで活動し、アナトール・フランスと親しかった批評家ニコラ・セギュール(一八七四年~一九四四年)の随想録‘Conversations avec Anatole France ou les melancolies de l'intelligence ’(アナトール・フランスとの対話:知性の愁い)前掲書で石割氏は、この前年の『一九二六年、Lewes May による英訳本が刊行され』ていた、とある。ジェームス・ルイス・メイ(James Lewis May  一八七三年~一九六一年)は作家・翻訳者・出版者。

  なお、子の日の翌日三月七日に、秀作「誘惑――或シナリオ――」を脱稿している。リンク先は私の詳細注附きサイト版。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月十一日・田端発信・谷崎潤一郞宛

 

冠省、先日來いろいろ御厄介に相成りありがたく存じます。どうも御迷惑をかけすぎたやうな氣がして恐縮です。本は御氣に入れば幸甚です。實は善いゴヤを見つけ、さし上げようと思つたのですが、金がなくてあきらめました。Los Caprichos の複製です。唯今大いに筋のあるシナリオを製造中 頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   谷 崎 潤 一 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「本」前掲の森鷗外訳の「即興詩人」。

「Los Caprichos」スペインの巨匠フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の版画集で「気まぐれ」。一七九九年に第一版が刊行された。私も非常に好きなダークでグロテスクなブラック・ユーモアの作品群であるが、今でこそゴヤの代表作とされるものの、刊行当時は殆んど注目されなかった。英語版ウィキの「Los caprichos で全八十枚の画像が見られる。

「筋のあるシナリオ」日付から、三月十四日脱稿の私の偏愛する「淺草公園――或シナリオ――」。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に存じ候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故[やぶちゃん注:「餘り」に「傍」(はた)が、「齒痒」(はがゆ)「き故」(ゆゑ)。「余りに先生を取り巻く周囲の人々の反応が鈍くてじれったくてたまらないものですから」の意。何を指して言っているものかは不詳。芥川龍之介が、この直近で直接に茂吉に係わる公開記事を書いた形跡はない。この前に茂吉宛に送られた書簡があったものとすれば、腑には落ちるのだが。]、ペンを及ぼし候次第、高況を得れば[やぶちゃん注:「相応なる御共感をお感じ戴けるものならば」の意。同前。]幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙擊したる和田久太郞君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺つてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢ひにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。

   冱え返る枝もふるへて猿すべり

    三月二十八日     龍 之 介

   齋 藤 樣

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では『鵠沼から』とあるが、「今日は午後より鵠沼へ參る筈」という言い方から、田端で書信は認め、藤沢辺りで投函したものかと思われる。されば、標題は以上のようにした。この前後を新全集年譜を参考にして示しておく。

三月十七日 仕事場にしていた帝国ホテルから帰宅した(何時から滞在していたかは不明)。

三月二十日(日曜日) 外出し、そのままこの日は外泊して翌日田端に帰っている(外泊先不詳。怪しい。小町園の可能性は有るだろう)。

三月二十三日 「齒車」(リンク先は私の草稿附きサイト版)の「一 レエン・コオト」脱稿(これのみが昭和二(一九二七)年六月一日発行の雑誌『大調和』に「齒車」の題で「一 レエン・コオト」として掲載された。全章は、芥川龍之介の死後、同年十月一日発行の雑誌『文藝春秋』にこの「一」も再録して、全六章が改めて「齒車」の題で掲載された)。

三月二十七日(日曜日) 「齒車」の「二 復讐」を脱稿。

三月二十八日(当書簡当日) 借家の整理もあって、鵠沼に出かけ、翌四月二日まで六日まで滞在した。これを以って芥川龍之介は鵠沼を引き上げている。この日、「齒車」の「三 夜」及び「たね子の憂鬱」(こちらは五月一日発行の『新潮』に発表)を脱稿。

三月二十九日 「齒車」の「四 まだ?」を脱稿。

三月三十日 「齒車」の「五 赤光」((しやくくわう(しゃっこう))を脱稿。三月末に宮坂年譜には、『この頃、岡本かの子と』、『偶然』、『列車で同乗になる。近くにいた子供に「オバケ』!」『と言われた』とある。これは、岡本かの子の小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文學界』初出)の最後の方に出現するものだが、私は同小説は相当に創作された部分が多く、一次資料とするには頗る信用性が低いと考えている(青空文庫のこちらで新字新仮名で読める)。但し、確かに、そこに描かれた瘦せ枯れて妖気さえ放っている感じは、この晩年の鵠沼時代の龍之介のそれと酷似しては、いる。

『「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり』芥川龍之介の書簡の中では、「河童」への強い自信(但し、「この程度のものなら、幾らでも製造出来るぜ!」という芥川龍之介自身がずっと以前に自戒したところの悪しき自動作用的な安易さも大いに私は感じるのである)の見える一つとして、しばしば引かれるものである。しかし、それに反した『みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候』という後の一節が、これまた、真逆の病的なまでの自信喪失の表明とも言える、龍之介の心内のアンビバンンツなものを図らずも表出させてもいるのである。

「一休禪師は朦々三十年と申し候へども」は「一休話」の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の一節を指して言っているものと思われる。

   *

 朦々然而三十年

 淡々然而三十年

 朦々淡々六十年

 末後脫糞捧梵天

  朦々然として三十年

  淡々然として三十年

  朦々淡々 六十年

  末期の脫糞 梵天に捧ぐ

   *

「朦々」とは、この場合、「心がぼんやりとすること」で、「迷いに迷って」の意。「淡々」は悟りの境地を指している。但し、あまりに一休然とした破格の詩句は逆に似非物のようにも感じられる。この部分は、「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(6)」でも引いている。

「この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり」「又」とあり、齋藤にこの症状を、一度、話していることが判る。この異様な視覚障害が「齒車」という作品名の由来であり、龍之介自身がこの書簡で述べているように、彼自身、それが重篤な精神疾患(龍之介が最も恐れていた実母から遺伝していると誤認していた「発狂」の素質)の初期症状かと怯え、素人の読者もそこに彼の異常を読む方が甚だ多いのだが、これはとっくの昔に、「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状であることが解明されている。龍之介と同様にこの「齒車を誤解していたのが、宇野浩二で「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」にそれが出てくる。そこでも注したが、より詳しくは、『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』の私の『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあること』の注がよいだろう。にしても、それを、眼科医に相談し、何ら気にすることはないと助言してやるべきであったのは齋藤茂吉であり、精神科医としては当然やるべきことをしていない、という気が私はするのである。脳の中枢神経との関連性や視覚異常の機序は判っていなかったとしても、非常に古くからあったから、知らなかったとは言わせない。寧ろ、重篤な精神疾患の初期症状としてあり得ると思い、茂吉は逆に黙っていたのかも知れない。

「福田大將」福田雅太郎(慶応二(一八六六)年~昭和七(一九三二)年))は日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。大村藩士の二男として現在の長崎県大村市に生まれ、大村中学校・有斐学舎を経て、陸軍士官学校を卒業後、歩兵少尉に任官し、歩兵第三連隊付となり明治三一(一八九三)年陸軍大学校を卒業した。「日清戦争」では第一師団副官として出征し、後にドイツに留学、「日露戦争」には第一軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前より田中義一らとともに対露早期開戦派であった。後、歩兵第五十三連隊長などを歴任し、明治四四(一九一一)年、陸軍少将に進級、大正五(一九一六)年、陸軍中将。欧州出張や第五師団長・参謀本部次長・台湾軍司令官などを歴任して陸軍大将に進級した。軍事参議官となり、大正一二(一九二三)年九月の「関東大震災」には、関東戒厳司令官を兼務したが、在職中の「甘粕事件」で、対処不手際を問われ、司令官を更迭された。大正一二(一九二四)年の第二次山本内閣退陣に伴う清浦内閣組閣に際しては、上原勇作から陸軍大臣に推挙されたが、田中義一らの工作により、就任は叶わなかった。同年九月一日、「甘粕事件」での大杉栄殺害を怨んだ無政府主義者和田久太郎(明治二五(一八九三)年昭和三(一九二八)年二月二十日自死:彼については次に注する)によって『狙撃されたが、無事であった。大正一四(一九二五)年五月にも福岡市』でも『再び狙撃されたが、無傷であった。同月、予備役編入(当該ウィキに拠った)。

「和田久太郞」当該ウィキによれば、『温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称』した。『兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず』、十一『歳から大阪北浜の株屋に丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら』、『実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また』、十五『歳のころから俳句をたしなんだ』。『売文社に入社して、堺利彦や大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスム』(フランス語:Syndicalisme:労働組合主義)『を熱心に研究し、久板卯之助』(ひさいたうのすけ)とともに、「日蔭茶屋事件」(複数の女性達から常に経済的援助を受けていた社会運動家大杉栄が、野枝とその子どもに愛情を移したのを嫉妬した、神近市子によって刺された事件)で『人望を失った大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった』。『社会の底辺の人々を愛し』、「無政府主義伝道」と称して、『全国を流浪して体を壊したため』、大正一二(一九二三)年二月頃から五月まで、『栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階の娼婦堀口直江と恋に落ちて、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた』、大正十二年九月一日に起こった『関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では』、『大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤』し、「彼の仇を討つ」『という名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎の暗殺を、ギロチン社』(大正十一年に結成されたテロリスト組織)『の古田大次郎や村木ら』四『名と計画。和田らは』、『福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた』。『初めは爆弾テロを計画して、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験するも不発』であったため、『ピストルでの襲撃に切り替え』、翌年の『震災の一周年忌に、東京本郷三丁目のフランス料理店』『燕楽軒』『で福田大将を待ち伏せした。しかし』、『初弾は安全のために空砲が装填されていたことを和田』が『知らず、至近距離からの発砲であったが』、『失敗』し、『大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ』、殆んど無傷で『逮捕された』。大正一四(一九二五)年、『上記罪状の併合罪』で『無期懲役判決』を受けた。『余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」』『と憤慨した』。但し、『翌年の大正天皇の崩御により』、『恩赦があり、懲役』二十『年に減刑された』。『最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作』「獄窓から」は昭和二(一九二七)年三月に労働者運動社から『出版され、その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた』とある。芥川龍之介は『獄中の俳人 「獄窓から」を讀んで』を昭和二(一九二七)年四月四日附『東京日日新聞』に掲載しており、これは、それを指す。ちょっとびっくりしたが、幸いにして、サイト「釜ヶ崎資料センター」内の「趣味のA研資料室」の「獄窓から-増補決定版 和田久太郎著 近藤憲二編 黒色戦線社補 197191日 黒色戦線社」とあるページでPDFで当該書籍のほぼ全てが視認出来、しかも、ここの9コマ目に芥川龍之介の当該書評の切抜が全文載るので読まれたい(但し、新字旧仮名である)。ダウン・ロード必須! 『しかし』、『和田は長く肺病を患っており、古田の刑死』(彼は『福田襲撃事件の前年、活動資金調達の目的で十五銀行を襲撃、その際に銀行員一名を刺殺してい』たので量刑が重かった)、『村木の病死を知って悲観し』、昭和三(一九二八)年二月二十日午後七時頃、『看守の目を盗んで自殺した』。

 もろもろの惱みも消ゆる雪の風

が秋田刑務所での『 和田久太郎の辞世の句』とされる。『和田の遺骸は、労働社の近藤憲二』『らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた』とあるものの、注で、『現在、古田の墓はあるが、和田久太郎の墓は在所不明』とある。――草の葉の蔭に消えたり久太郎――

「しんかんとしたりや蚤のはねる音」大正一四(一九二五)年八月の句。前掲のリンク先の句集「鐵窓三昧」PDF)の7コマ目上段「八月」の四句目であるが、

   日影の匂ひ

 しんかんとしたりやな蚤のはねる音

で、前書があり、中七も字余りの破調である。破調の方が俄然いい。暑熱の陽の匂いも、より、むんむんしてくるではないか!

「のどの中に藥塗るなり雲の峯」同年六月の句。6コマ目下段四句目。

「麥飯の虫ふえにけり土用雲」同年八月の句。7コマ目下段冒頭であるが、表記は、

 麥飯の蟲殖えにけり土用雲

で断然、「蟲」「殖」の方がいい。この「蟲」はコクゾウであろう。蒸された中に一緒に彼奴らが死んで入っているのだ! 芥川龍之介は「蟲」の字が生理的に嫌いだった可能性が頗る髙いので、書き換えたのは腑に落ちる。

「あの霜が刺つてゐるか痔の病」同年一月の句。3コマ目下段五句目。

「何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)」前掲書の石割氏の注に、『菊池寛・芥川龍之介編集『小学生全集』全八八巻(一九二七年五月―一九二九年一〇月、興文社刊)』を指すとある。筑摩全集類聚版脚注も同じ、「全集」ではあるが、小学生の広義の「讀本」の形式であるから、おかしくはない。石割氏は、続けて、『同時にアルスから『日本児童文庫』全七六巻も刊行された』と注してあるが、これは研究者自明の端折り過ぎで、所謂、全く同時に(同日に並んで広告が出た)同様の叢書が別々に刊行され、円本ブームに乗った熾烈な販売合戦が展開された、出版界でも知られた騒動を言っているのである。芥川龍之介も見事に巻き込まれることになってしまう。新全集年譜の四月中旬の箇所に、『アルス『日本児童文庫』(七〇巻)と興文社『小学生全集』(八〇巻)の間で誹謗中傷合戦が起こ』り、『芥川は前者からは執筆を、後者からは編集を依頼されており、大いに神経を痛めた』とあり、龍之介にとっては、やっと終息させた「近代日本文藝讀本」の悪夢が再来する思いがあったに違いないこの告訴にまで発展してしまう事件に興味のある方は、中西靖忠氏の論文菊池寛と児童文学」PDF・『高松短期大学研究紀要』第十二号(昭和五七(一九八二)年三月発行所収)のを読まれるとよい。また、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 アリス物語」という驚きの「不思議の国のアリス」の邦訳を電子化(分割・全十二回)しているが、何を隠そう、これはまさに、その「小学生全集」の一冊(第二十八巻・リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本)なのである。発行は芥川龍之介の自死後の昭和二年十一月であるが、研究者によって、前半の一部は間違いなく芥川龍之介が訳しているものと推定されているものなのである。 

「唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。」これも、しばしば引かれる芥川龍之介の書簡の一節である。私はこれを眺めていると、私は「河童」の「六」の冒頭、

   *

 實際又河童の戀愛は我々人間の戀愛とは餘程趣を異(こと)にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は氣違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見(み)じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床(とこ)についてしまふのですから。僕は或時僕の家にトツクの詩集を讀んでゐました。するとそこへ駈けこんで來たのはあのラツプと云ふ學生です。ラツプは僕の家へ轉げこむと、床(ゆか)の上へ倒れたなり、息も切れ切れにかう言ふのです。

 「大變だ! とうとう僕は抱きつかれてしまつた!」

 僕は咄嗟に詩集を投げ出し、戶口の錠(ぢやう)をおろしてしまひました。しかし鍵穴から覗いて見ると、硫黃の粉末を顏に塗つた、背の低い雌の河童が一匹、まだ戶口にうろついてゐるのです。ラツプはその日から何週間か僕の床(とこ)の上に寢てゐました。のみならずいつかラツプの嘴(くちばし)はすつかり腐つて落ちてしまひました。

   *

というシークエンスを思い出すのを常としている。寧ろ――龍之介よ……君はこれ以前に動物的エネルギイを過剰に使い過ぎたのではなかったか?……

2021/09/12

芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通

 

昭和二(一九二七)年二月二日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省。御藥並びに御短尺ありがたく存じ奉り候。唯今夜も仕事を致しをり候爲、朝ねを致し、山口樣にはお目にかかる機會を失ひ、殘念にも恐縮にも存じ居り候。お次手の節よろしく御鳳聲願上げ候。先夜來、一月や二月のおん歌をしみじみ拜見、變化の多きに敬服致し候。成程これでは唯今の歌つくりたちに idea  の數が乏しと仰せらるる筈と存候。(勿論これは小生をも憂ウツならしむるに足るものに候)小生の短尺はどうも氣まり惡き故御免蒙り度候へども、一二枚お送り申上ぐ可く候。(句⅓人前、字⅓人前、短尺⅓人前の割にて御らん下され度候。)唯今「海の秋」と云ふ小品を製造中、同時に又「河童」と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、その間に年三割と云ふ借金(姊の家の)のことも考へなければならず、困憊この事に存じ居り候。餘いづれ拜眉の上。右とりあへず御禮まで。頓首

    二月二日夜      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

二伸唯今でも時々錯覺(?)あり。今夜はヌマアルを用ふべく候。

 

[やぶちゃん注:分数は、例えば「⅓」としたものは、縦に「1」(上)+(横線の分数記号)+「3」(下)である。ユニコードでは表記不能なので、かく、した。本書簡は前月の昭和二(一九二七)年一月二十八日附齋藤茂吉宛書簡を参照のこと。

「山口樣」歌人山口茂吉(明治二九(一九〇二)年~昭和三三(一九五八)年)。兵庫県多可郡杉原谷村清水(現在の同郡多可町)に生まれる。大正一三(一九二四)年に中央大学商学部を卒業、明治生命東京本社に入社した。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったといい、同年に『アララギ』に入会し、島木赤彦に学び、赤彦の没後は斎藤茂吉に師事した。斎藤茂吉・土屋文明の助手として『アララギ』の編輯・校正に携わった。昭和一九(一九四四)年には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社した。昭和二一(一九四六)年には東京歌話会を結成し、昭和二十三年には『アザミ』を創刊して主宰した。師の斎藤茂吉と同名であることから「小茂吉」と呼ばれることがあり、茂吉が没した四年後の昭和三十二年以降は岩波書店の「斎藤茂吉全集」の編集校訂に携わった。歌人では岡麓や中村憲吉と親しかった(以上は当該ウィキに拠る)。この日の午前中に龍之介を訪ねたものらしい。後に当人宛の書簡が出る。

「海の秋」決定稿の標題は「蜃氣樓」(正確には『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』。リンク先は私の古い電子化)。脱稿は二月四日。三月一日『婦人公論』発表。

「河童」三月一日『改造』発表。当方には、

河童(旧全集正字正仮名版)

芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈(同前に基づく)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 ・同縦書版同ブログ版(国立国会図書館デジタルコレクションの画像による)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)同縦書版(同前)

おまけで、

マツグ著「阿呆の言葉」(抄)(最上部の電子化からの抽出版)

等、多く品揃えしてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月三日・田端発信・河西信三宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。あの詩は唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓と申す仙人の作に有之候。年少の生徒には字義などを御說明に及ばざる乎。なほ又拙作「杜子春」は唐の小說杜子春傳の主人公を用ひをり候へども、話は⅔以上創作に有之候。なほなほ又あの中の鐵冠子と申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號に有之候。三國時代には候へども、何しろ長生不死の仙人故、唐代に出沒致すも差支へなかるべく候。呂洞賓や左玆の事はいろいろの本に有之候へども、現代の本にては東海林辰三郞氏著の支那仙人列傳を御らんになればよろしく候。右御返事まで 頓首

    二月三日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:分数表記は前と同じ。

「河西信三」未詳。芥川龍之介の愛読者で、小学校の教員か。

「あの詩」芥川龍之介が「杜子春」(大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『赤い鳥』初出)の「三」の末尾に仙人「鐵冠子」(後注参照)の詠む詩として出した、

 朝(あした)に北海に遊び、暮には蒼梧。

 袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ)、膽氣(たんき)粗なり。

 三たび嶽陽に入れども、人識らず。

 朗吟して、飛過(ひくわ)す洞庭湖。

を指す。

「唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓」代表的な仙人である八仙の一人呂洞賓(りょどうひん 七九六年~?)名は嵒であるが、巖。岩とも書き、本来のの名は煜(いく)で、洞賓は字(あざな)。詳しくは当該ウィキを参照されたい。元曲の馬致遠の「呂洞賓三醉岳陽樓」(呂洞賓、三たび、岳陽樓に醉ふ)に出るもので、原詩は、

 朝游北海暮蒼梧

 袖裏靑蛇膽氣粗

 三醉岳陽人不識

 朗吟飛過洞庭湖

  朝(あした)に北海に遊び 暮れには蒼梧

  袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ) 膽氣(たんき) 粗なり

  三たび嶽陽に入れども 人 識らず

  朗吟して 飛過(ひくわ)す 洞庭湖

であるが、一書では起句は「朝遊蓬島暮蒼梧」(朝に蓬島(ほうたう)に遊び 暮れには蒼梧)ともある。因みに、原拠の杜子春 李復言(原典)訓読語註現代語訳)には、当然のこと乍ら、存在しない。龍之介が挿入したもの。以上のリンク先は総て私の電子化物である。

「鐵冠子申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號」「左玆」(さじ)は「左慈」(さじ)が正しい。左慈は後漢(紀元後二五年 ~二二〇年)は、末期の知られた方士で仙人。字は元放で、揚州廬江郡の人。正史では「後漢書」の第八十二巻の「方術列傳下」に伝記が載り、他にも「搜神記」(四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集)や「神仙傳」(東晋の葛洪の著したとされる神仙伝記。但し、相応の原著作を後代に追記増加したものである可能性が高い)にも詳しく出る仙人である。詳しくは当該ウィキを見られたい。龍之介の言う「三國時代」(蜀・魏・呉の三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年まで)は微妙に外れており、誤りである。

「東海林辰三郞」ジャーナリストで東洋学者で衆議院議員(立憲国民党)となった白河鯉洋(しらかわりよう 明治七(一八七四)年~大正八(一九一九)年:本名は次郎)のペン・ネームの一つ。彼は福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身。明治三〇(一八九七)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業後、神戸新聞・九州日報の主筆を務めた。明治三六(一九〇三)年に、清に渡って、南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は早稲田大学講師・『関西日報』客員を務め、大正六(一九一七)年の第十三回衆議院議員総選挙に出馬、当選している。大正デモクラシーを牽引した人物であるが、「孔子」・「支那學術史綱」(共著)・「支那文明史」(共著)・「王陽明」・「諸葛孔明」等の中国文化関連の著作も多い。

「支那仙人列傳」国立国会図書館デジタルコレクションにある、これ著者名義「東海林辰三郞」(奥付)。明四四(一九一一)年聚精堂刊。「新體詩抄」で知られる哲学者井上哲次郎が「序を書いている。「呂嚴」がここで、「左慈」はここ。二百十五名を挙げているが、読み易く且つ面白い(私は全コマをダウン・ロードした)。有名どころは網羅しつつ、私の知らぬ仙人もちらほら見える中に、詩仙「李白」や道教所縁の書を多く残している「顏眞卿」、白玉楼中の人となった鬼才「李賀」といった人物も配されてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月四日・田端発信・山口茂吉宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。先達はわざわざお使ひにお出で候にも關らず、朝寢坊にてお目にかかる機を失し、申訣無之候。右お禮かたがたおわびまで 頓首

    二月四日       芥川龍之介

   山 口 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭の二月二日附齋藤茂吉宛書簡参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・小松芳喬宛

 

冠省お手紙ならびに六神丸ありがたく存じます。いろいろお心にかけられ、恐縮に存じます。多用中親戚に不幸有之、御禮が遲れ申訣ありません。北京はよかつたでせう。僕は東京以外の都會では一番北京へ住みたいと思つてゐるものです。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   小 松 芳 喬 樣

 

[やぶちゃん注:「小松芳喬」(よしたか 明治三九(一九〇六)年~平成一二(二〇〇〇)年)は経済学者・社会経済史学者。東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、昭和三(一九二八)年、早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学院に進学した。昭和八(一九三三)年に早稲田大学助手となり、後に講師。その後、東京外国語学校での語学習得やロンドン大学留学を経て、昭和一四(一九三九)年、早稲田大学助教授、後に同大学教授となった。昭和三五(一九六〇)年、経済学博士となり、同年に「社会経済史学会」代表理事となっている。当時はまだ早稲田大学学生であった。愛読者で、誰かの伝手で知り合ったか。当時、学生で北京に行っているというのは、裕福な家庭であったか。

「六神丸」ここは北京で手に入れた中国の漢方薬のそれと思われる。本邦でよく知られるそれとは処方生剤も対応疾患も異なり、これは腹痛に効能があるとされるものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・渡邊庫輔宛

 

お父さんの長逝を悼み奉る。今春匆々親戚に不幸あり。多病又多憂、この手紙おくれて何ともすまぬ。蒲原君によろしく。まだ多忙で弱つてゐる。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

  二伸けふは手紙を七本書いた。これは八本目。

 

 

昭和二(一九二七)年二月七日・田端発信・蒲原春夫宛

 

支那餅をありがたう。比呂志からも禮狀を出す筈。小說は捗どれりや。僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる。庫公によろしく。

     卽興

   春返る支那餅食へやいざ子ども

    御大喪の夜      芥川龍之介

   蒲 原 君

 

[やぶちゃん注:「婦人公論十二枚」既注の「蜃氣樓」。三月号。

「改造六十枚」既注の「河童」。三月号。

「文藝春秋三枚」三月号所収の『軽井澤で――「追憶」の代はりに――』。芥川龍之介の片山廣子への文芸上の秘かな傷心の追想アフォリズムである。リンク先は無論、私のもの。

「演劇新潮五」三月号所収の「芝居漫談」。

「庫公」渡邊庫輔。

「御大喪の夜」前年末の十二月二十五日、肺炎の悪化から心臓麻痺により崩御した天皇嘉仁は、この年の一月二十九日に大正天皇を追号され、御大喪(ごたいそう)の儀は二月七日からこの八日にかけて、新宿御苑を中心に行われた。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計六千人、その列の全長は六キロメートルにも及んだ。沿道には百五十万乃至三百万人の市民が集まったとされ、葬列はラジオで実況放送された。葬場殿の儀は午後九時から午後十一時までで行われ、内外の高官約七千人が参列、その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時に設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、同じく臨時駅の東浅川仮駅まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた(以上はウィキの「大正天皇」に拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十一日・田端発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二十 佐佐木茂索樣・東京田端 芥川龍之介

 

常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ[やぶちゃん注:ママ。]。「河童」は僕のライネッケフックスだ。しかし婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品、或は御一讀に堪ふるならん。内田百間曰芥川は病的のある氣違ひ、自分は病的のない氣違ひだから自分が芥川を訪問してわざと氣違ひじみた行動をして歸る。芥川は自分を氣違だと思ふ。自分は得意になつて歸つて來るうちにいつか氣違ひになつてゐる。同時に又芥川も氣違ひになつてゐる。――と云ふ話を書く爲に近々芥川を訪問するつもりだ。しかしどうも自分ながらコハイ」コハイのは寧ろこつちぢやないか。僕は姊の亭主の債務などの事を小說を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出來ないものだよ。十五日頃にはそちらへかへれるつもり。夫人によろしく。以上

    二月十一日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 東京に用向きなきや。今度こちらから栗位送る堀の小說は一度僕や室生が讀んで二度目にフラグマンにしたもの。よろしくお引立てを乞ふ。

 

[やぶちゃん注:「六十枚位」現行の完成稿(国立国会図書館藏。私はそれをサイトで『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』として一括してある)は半ペラ百十枚=五十五枚である。則ち、この日までに、結果としては、最終稿の三十枚(約八十%強)まで書いていたということになる。

「ライネッケフックス」“Reineke Fuchs ”。かの巨匠ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九~一八三二)の書いた一七九三年に刊行された叙事詩(小説)の題名で、「ライネケ狐」などと邦訳されている。奸謀術数の悪玉狐ライネケに、封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは』十三『世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』とある。ともかくも、この正に「河童」擱筆(脱稿は二月十三日)直前の佐佐木茂索宛書簡のこの強力な自信に満ちた言葉は只物ではないという気が私はしている。この現実社会や「生」そのものへの渾身の気迫は、しかし、遂に続かなかった。なお、この辺りのことは、場違いに見えるかも知れぬが、私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の注を参照されたい。芥川龍之介の小澤碧童の彫琢になる「河郞之舍」の印影も掲げてある。

「婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品」既注の「蜃氣樓」。

「堀の小說」『山繭』三月号に発表された堀辰雄の小説「ルウベンスの僞畫」の初稿の断片。新全集年譜によれば、龍之介が『堀の作品に目を通すのは』、結局、『これが最後となった』とある。

「フラグマン」fragment。フランス語で「破片・断章・断片・一節」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十二日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの四号 小穴隆一樣

 

長く留守にして實にすまない。その後姊の家の生計のことや原稿の爲にごたごたしてゐる。年三割の金を借りてゐる上、家は燒けてゐるし、主人はない爲、どうにも始末がつかないのだ。(僕でももつとしつかりしてゐれば善いのだが)「河童」はだんだん長くなる。しかし明日中には脫稿のつもり。その校正を見次第、東京を脫出する。君が近所へ來てくれれば三月後[やぶちゃん注:「以後」の意。]は東京にゐても差支へない。今日は「サンデイ每日」と「婦人公論」と「改造」とへ書いた。婦人公論のはしみじみとして書いた。大兄や女房も登場させてゐる 以上

    二月十二日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸 兎屋さんにも逢ふ間がない。佐藤(春)にはちよつと會つた。齋藤さんにも。僕はヴェロナアル〇・四だが齋藤さんは〇・七乃至八のよし 上には上のあるものだ。

 

 

昭和二(一九二七)年二月十五日・消印十六日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。やつとけふ校了。これから親族會議をすまさなければならん。君には氣の毒で弱る。しかし二十日にはかへる。僕だけでも。河童を106[やぶちゃん注:横書。]枚書いた。それから「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた。每日多忙。ます子女史健在。頓首

    二月十五日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:「二十日にはかへる」結局、龍之介は、この月末、鵠沼へ戻るのを断念する。前書簡で「君が近所へ來てくれれば三月」以「後は東京にゐても差支へない」とおいうのは、自分が小穴を鵠沼に誘っておいて、ここにきて、小穴を一人残し、彼が半ば、留守番のようになっていることを気に掛けたものを、龍之介流のプライドで述べたもの。結局、小穴は三月月初めには東京へ転居する。

「僕だけでも」妻子を連れずに龍之介一人でも鵠沼へ戻るの意。

『「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた』昭和二(一九二七)年四月一日及び五月一日及び六月一日、離れて八月一日発行の雑誌『改造』第四・五・六・八号に連載された「文藝的な、餘りに文藝的な」の前半部であろう。私は続編もカップリングした「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」をサイトで一括電子化している。

「ます子女史」平松麻素子。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日(消印)・田端発信(推定)・相州鎌倉坂の下二〇 佐佐木茂索樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。河童百六枚脫稿。聊か鬱懷を消した。改造牡の招待の芝居へ來ないか。君の顏が見たい。火災保險、生命保險 親族會議、――何や彼やゴチヤゴチヤで弱つてゐる。が、それだけに何か書いてゐるのは愉快だ。ヴェロナアル〇・七常用。アロナアルよりもヌマアルの方が眠るのに善い。やはりロツシュ會社製。

               芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛

 

原稿用紙にて失禮。

Legenda Aureaは黃金傳說の意、Jocobus de voragineは十三世紀の初期の人だ。(檢べるのは面倒故これでまけてくれ給へ)本の内容は僕の「きりしとほろ上人傳」の如き話ばかり。但しもつと簡古素朴だよ。英吉利では William Caxton の譯が有名だ。今度獨逸で出た本は近代語に譯されてゐるかどうか。Caxton は十五世紀頃の人だから、この英語は大分古い。のみならず原本にない話――たとへばヨブの話などを加へてゐる。僕は黃金傅說を全部讀んでゐない。(第一全部は浩翰だらう)が、Caxton のセレクションは一册持つてゐる筈だ。御入用の節は探がすべし。しかし黃金傅說は兎に角名高いものだから、ゲスタ・ロマノルムと一しよに買つて置いても善い本だよ。右當用のみ。

    二月十六日      芥川龍之介

   秦 豐 吉 樣

二伸日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑

 

[やぶちゃん注:「Legenda Aureaは黃金傳說の意」ラテン語の「レゲンダ・オウレア」は、当初は同じくラテン語で「レゲンダ・サンクトルム」(Legenda sanctorum :「聖者の物語」の意)とも称し、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第八代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年?~一二九八年)が著したキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成した。但し、タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによって名づつけられたもの。中世ヨーロッパに於いて、聖書に次いで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。イエス・マリア・天使ミカエルのほか、百名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読むことも可能である。各章の冒頭では、聖人の名前の語義を解釈し、それをその聖人の徳や行いと結びつけることがよく行われている。十五世紀頃から「黄金の」(aurea)の美称をつけて呼ばれるようになった。本来は、この「レゲンダ」は「伝説」の意ではなく、ミサの際に「朗読されるべきもの」の意である。従って Legenda aurea を日本語で「黄金伝説」と訳すのは誤訳となるが、前田敬作らによる完訳本(一九七九年から一九八七年人文書院初刊)などでも、この題名が用いられている。他に「黄金聖人伝」と呼ばれることもある(以上は当該ウィキに拠った)。芥川龍之介は同書所収の第七十九章「聖女マリナの物語」の、近代のフランスの神父で来日して布教したミッシェル・A・シュタイシェン(Michael A. Steichen 一八五七年~一九二九年:「パリ外国宣教会」所属。姓は「スタイシエン」「ステシエン」とも書かれる。盛岡・築地・静岡・麻布・横浜で布教活動を行う傍ら、雑誌編集長をも務め、さらにキリシタン研究者として著作を発表した。邦訳文は私の『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」を参照)をもとに「奉教人の死」を書いた。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。

「簡古」簡素で古めかしいこと。

「William Caxton」ウィリアム・キャクストン(William Caxton 一四一五年から一四二二年頃~一四九二年三月頃)はイングランドの商人・外交官・著作家・翻訳家・印刷業者。「カクストン」とも表記する。イングランドで初めて印刷機を導入して印刷業を始めた人物とされ、イングランド人として初めて本を出版して小売りした人物でもある。一四七六年にウェストミンスターで印刷会社を設立し、最初に印刷した本はイングランドの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer 一三四三年頃~一四〇〇年:当時の教会用語であったラテン語や、当時、イングランドの支配者であったノルマン人貴族の公用語であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中世英語を使って物語を執筆した最初の作家として知られる)の代表作「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales  :一三八七年~一四〇〇年:未完。であるが、一万七千行以上に及ぶ韻文と散文から成る大作)であった(当該ウィキ他に拠る)。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、彼自身の訳になる『「黄金伝説」は、ウィリアム・モリス』(芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった)『が印刷工房ケルムスコット・ブレスで企画した最初の書物で、一八九二年に刊行された』とある。

 「今度獨逸で出た本」不詳。

「ヨブ」「旧約聖書」の私の偏愛する「ヨブ記」の主人公。

「ゲスタ・ロマノルム」前掲書の石割氏の注に、『Gesta Romanorum 一四世紀前半にラテン語で書かれた物語集』とある。作者不詳。

『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑』大正七(一九一八)年九月一日発行の雑誌『三田文学』初出の、芥川龍之介の「奉教人の死」の最後に作者が挙げた架空の切支丹本のそれ。この龍之介の「騙し」については、さんざん注した。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十七日・田端発信・大熊信行宛

 

原稿用紙で御免下さい。御手紙並びに高著、鵠沼へ參りし爲、遲れて落手、高著は唯今拜讀致し了り候。小生はラスキンには全然手をつけし事無之候へども、モリスに關するものは少々ばかり讀みをり候爲、高著に對し、多少の感慨を催し候。(モリスに關する在來の日本人の著書は出たらめ少からず、それも聊か讀みをり候へば、愈感慨多き次第に有之候)ラスキンよりモリスヘ傳へたる法燈はモリスより更にシヨウに傳はりたる觀あり、その中間に詩人、兼小說家兼畫家兼工藝美衞家兼社會主義者として立てるモリスは前世紀後半の一大橋梁と存候。但し老年のモリスの社會主義運動に加はり、いろいろ不快な目に遇ひし事は如何にも人生落莫の感有之候。(そは勿論高著の問題外に屬し候へども。)小生は詩人モリス、――殊に Love is Enough の詩人モリスの心事を忖度し、同情する所少からず、モリスは便宜上の國家社會主義者たるのみならず、便宜上の共產主義者たりしを思ふこと屢てに御座候。以上

    二月十七日      芥川龍之介

   大 熊 信 行 樣

 

[やぶちゃん注:「大熊信行」(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)は経済学者・評論家・歌人。山形県米沢市生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を経て、大正五(一九一六)年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒。中学時代、浜田広介らと同人誌を作っていた。同年、日清製粉に入社。後、米沢商業学校で教鞭をとり、大正八年、東京高等商業学校専攻部に進学し、大正十年に卒業後、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)講師、翌年、同校教授となるが、大正一二(一九二三)年、病気で退職し、南湖院で闘病した(結核か)。昭和六(一九四一)年、東京商科大学にて経済学博士を取得し、当該論文は「經濟理論における配分原理の所在並に適用に關する基礎的研究」であった。この書簡の年の昭和二(一九二七)年には、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)教授となっている。昭和四(一九二九)年から昭和六年まで文部省在外研究員として、イギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、昭和七年、高岡高商を退職し、海軍省大臣官房調査課嘱託となり、昭和十八年には「大日本言論報国会」理事となた。小樽高商では、小林多喜二・伊藤整を教えている。戦後の昭和二一(一九四六)年には山形県地方労働委員会初代会長となったが、戦中の履歴が災いしたのであろう、翌年、公職追放を受けている。公職追放解除後は神奈川大学教授・富山大学経済学部長・神奈川大第二経済学部長・創価大学教授を歴任し、論壇でも活躍した(以上は当該ウィキに拠った)。

「ラスキン」ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)はイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家。同時に芸術家のパトロンでもあり、自らも設計製図や水彩画をよくし、社会思想家にして篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、名著「近代画家論」(Modern painters :一八四三年~一八六〇年 )を著している。

「Love is Enough」「愛は十全にある」か。ウィリアム・モリスの詩。月子綴主氏のブログ「月子綴の一日一言」の「時を語る建築3 モリスの詩Love Is Enoughより」に原詩とブログ主による和訳が載る。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十八日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣(書留印)

 

この間は手紙が行きちがひになつた。僕は二十日前後にかへる事前記の通り。その後寄り合ひばかりしてゐる。君もいろいろ入用と思ひ、同封のものを送る。雜用に供してくれ給へ。以上

    二月十八日      芥川龍之介

   小 穴 隆 一 樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月二十三日・田端発信・赤井三郞宛

 

原稿用紙で失禮します。玉稿は拜見しました。ああ云ふ有り合せの文句で書いては駄目です。もつとぶつ切ら棒でも善いから、ヂカに迫るやうに書かなければ。玉稿は佐佐木君に讀んで貰つた方が善いと存じます。右當用のみ。

    二月二十三日     芥川龍之介

   赤 井 三 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「赤井三郞」不詳。作家志望の人物らしい。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月二六日・田端発信・赤井三郞宛(葉書)

 

南京新唱をありがたう右お禮まで 頓首

   二月二十六日夜     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「南京新唱」歌人会津八一の第一歌集。大正一三(一九二四)年刊行。「南京」は奈良の別称。]

 

 

昭和二(一九二七)年・二月二十七日消印・奈良市上高畑 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。「玄鶴山房」は力作なれども自ら脚力盡くる所廬山を見るの感あり。河童は近年にない速力で書いた。蜃氣樓は一番自信を持つてゐる。僕は來月の改造に谷崎君に答へ、幷せて志賀さんを四五枚論じた。これから大阪へ立つ所。頓首

 

[やぶちゃん注:「志賀さんを四五枚論じた」「文藝的な、餘りに文藝的な」の「五 志賀直哉氏」をメインとした前後。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」の冒頭には、草稿「志賀直哉氏に就いて(覺え書)」も配してある。

「これから大阪へ立つ所」新全集年譜に、この二月二十七日、『改造社の円本全集宣伝講演会のため、佐藤春夫らと大阪に向けて出発』。『義兄一家の経済的窮地を救うため、身体の無理をおして参加したものと思われる』とあり、翌二十八日の条には、午後一時、『大阪中之島公会堂で「舌頭小説」と題して講演をする。約六千人の聴衆が詰めかけ』、他に『佐藤春夫、久米正雄、里見弴らが講演をした』。『夜、谷崎潤一郎、佐藤春夫と遊』び、『深夜、富田砕花と偶然会い、芦屋まで同行』し、『芦屋から車で岡本』(武庫郡本山村岡本好文園(現在の神戸市東灘区岡本))にあった『谷崎宅を訪れ、夜を徹して文学論を戦わせた』とある。なお、この日に、探していた小穴隆一の田端近くの転居先として、『田端の下宿(新昌閣)が見付かり、数日後、小穴は鵠沼を引き上げて転居』したとある。因みに同年の二月は、この二十八日が月末日である。]

2021/09/11

芥川龍之介書簡抄141 / 昭和二(一九二七)年一月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年一月八日・田端発信・野間義雄宛(葉書)

 

冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の發音を御注意下され愈ありがたく存じます。本にでも入れる時は改めさせたいと存じます。右とりあへず御禮迄

二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候

    一月八日

 

[やぶちゃん注:「野間義雄」未詳(以下、宛名人の「未詳」は新全集の「人名解説索引」で確認したもの。以下では略す)。新全集の宮坂年譜より、この前後を引く。同年一月三日、『嘔吐してところに下島勲が来訪し、診察を受ける』、翌四日、『西川豊(義兄。弁護士)』(実姉ヒサの再婚相手)『宅が全焼する。直前に多額の保険がかけられていたため、西川には放火の嫌疑がかかった』。『午後、前月』昭和元年十二月三十日『に死去した小穴隆一の妹の告別式に参列する。午後』八『時頃、小穴、下島が来訪する。居合わせた平松麻素子と文を交え、午後』十『時半頃までカルタなどをして過ごした。この時、初めて小穴に平松を紹介する』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』を参照)。一月五日、教えていた『何条勝代が来訪し』、この十一『日に再び洋行することを告げてゆく』。同月六日の午後六時五十分頃、『西川豊が千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル付近』(この中央附近にあった。グーグル・マップ・データ。外房線は路線変更されているため、旧土気トンネルは現存しない)『で飛び込み自殺する。以後』、三『月頃まで、義兄の家族や、遺された高利(年三割)の借金』、『生命保険や火災保険などの問題で、東奔西走を余儀なくされた』とあり、書簡中の「親戚にとりこみ有之」はそれを指す。以下、『この頃、編集者や来客から避難するため、平松麻素子の世話で帝国ホテルに部屋をとり』(平松麻素子の『父の福三が支配人の犬丸徹三と懇意だった)、原稿執筆をすることもあ』った。『帝国ホテルからは、しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた』、小さな頃から世話になった『室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論をした』とある。一月八日、『「新潮合評会」に、徳田秋声、近松秋江、久保田万太郎、広津和郎、宇野浩二、堀木克三、藤森淳三、中村武羅夫らと出席する』。この書簡の翌九日、『夜、漱石忌』(月命日)『に出席するため、夏目家を訪れ』ている。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月九日・田端発信・宇野浩二宛(葉書)

 

冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、每日忙殺されてゐる。はがきで失禮 頓首

    一月九日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十日・田端発信・藤澤淸造宛(葉書)

 

冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は燒けて主人はゐないと來てゐるから弱る。右御禮まで。

 

    一月十日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「藤澤淸造」(明治二二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は小説家・劇作家・演劇評論家。石川県鹿島郡藤橋村(現在の石川県七尾市)生まれ。明治三三(一九〇〇)年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第四学年を卒業後、七尾町内の活版印刷所で働いた。仕事は、印刷所が新聞取次を兼業していたため、新聞配達であったが、右足が骨髄炎に罹り、手術を受け、自宅療養した(生涯、この骨髄炎の後遺症に苦しめられた)。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで鋲屋や代書屋に勤めた。明治三九(一九〇六)年、十八歳の時に上京、中里介山らの面識を得る。弁護士野村此平の玄関番や、製綿所・沖仲仕といった職に就いた後、明治四十三年には、当時、弁護士だった斎藤隆夫(後にリベラル派の政治家となった)の書生となる。この頃、同郷の文学青年安野助多郎らと親しく交友、その安野に紹介された徳田秋声の縁で、三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤めることとなった。明治四五・大正元(一九一二)年、斎藤茂吉の青山脳病院に入院していた安野が縊死した。安野は清造の代表作となった長篇小説「根津現裏」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年聚芳閣文芸部刊版)に登場する岡田のモデルであるとされる。なお、茂吉の歌集「赤光」収録の連作「狂人守」(きょうじんもり)(大正元年の作)に登場する患者も、安野がモデルとみられている。大正九(一九二〇)年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌年、経費削減を理由に馘首された。後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、「根津権現裏」を執筆した。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、大正一一(一九二二)年には、やはり小山内の世話で、プラトン社の非常勤編集者の職を得た。同年四月、友人の三上於菟吉の世話で「根津権現裏」を日本図書出版株式会社から刊行した。しかし、後に精神に異常をきたし、失踪を繰り返した末、昭和七(一九三二)年一月二十九日早朝、芝区芝公園内の六角堂内で凍死体となって発見され、身元不明の行旅死亡人として火葬されたが、その後、履いていた靴に打たれた本郷警察署の焼印から、久保田万太郎によって、清造の遺体と確認された(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・佐藤春夫宛(葉書)

 

冠省君の所へ裝幀の禮に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出來、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。錄近作一首

   ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

 

[やぶちゃん注:「裝幀」前年十二月二十五日に新潮社から刊行した随筆集「梅・馬・鶯」の装幀は佐藤春夫に依頼した。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『これは別れの記念のつもりだったといわれている』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

はがきにて失禮。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。髪經衰弱癒るの時なし。每日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首

    一月十二日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛

 

冠省御手紙ありがたく存じます。大騷ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神經衰弱なほるの時なし。とりあへず御禮まで。頓首

    一月十五日       芥川龍之介

   伊 藤 貴 麿 樣

 

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和三二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。兵庫県神戸市生まれ。大正九(一九二〇)年、早稲田大学英文科卒。大正十三年、新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、後、文芸春秋系の作家となり、その後、児童文学界の重鎮となって、「西遊記」の再話などで知られた。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・橫尾捷三宛

 

冠省、創作月刊の件は菊池へでも直接おかけあひ下さい。原稿は同封御返送します。この頃親戚に不幸有之、多用の爲これにて御免下さい。頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   橫 尾 捷 三 樣

 

[やぶちゃん注:「橫尾捷三」未詳。

「創作月刊」文芸春秋社が、この翌年の昭和三年に創刊することとなる雑誌。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・福島金次宛

 

拜復、度々御手紙ありがたう。拙作を讀んでゐて頂いて恐縮です。「鴉片」や何かは「梅・馬・鶯」を本にまとめた後に書いたのです。茂吉さんの事はあの文章にては不十分にてすまぬ故、削ることにしました。舊臘來多病の上多忙の爲、手紙も書けず、今夜あなたへもやつと義務をはたす事が出來ました。唯今犬養、瀧井兩君と夕飯を食つて歸つて來た所です 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   福 島 金 次 樣

 

[やぶちゃん注:「福島金次」不詳。

「鴉片」は岩波書店の新書版全集には大正一五(一九二六)年十一月発行の『世界』初出とするが、確認はなされていない。同元版全集では本文文末に『(大正十五年十一月)』の、普及版全集では『(大正十五年十月)』のクレジットがそれぞれ打たれてある(以上の書誌は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」に拠った)。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。

「茂吉さん」斎藤茂吉。現在の「鴉片」には茂吉は登場しない。この「福島金次」なる人物はその初出(削除されて全集収録される前のもの)を読んだ感想を送ってきたものか。「犬養、瀧井兩君」犬養健と瀧井孝作。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・海老原義三郞宛

 

朶雲奉誦、夏目先生の書は小生の鑑定にては目がとどかず、何とぞ小宮豐隆氏か野上豐一郞氏にお願ひ下され度、右とりあへず當用のみ。

    一月十五日      芥川龍之介

   海老原義三郞樣

二伸御封入の爲替及切手は同封御返送申上候間左様御承知下され度候。

 

[やぶちゃん注:何やらん、ゴタゴタ続きの中に、龍之介を苛立たせる問い合わせが殺到していることが判る。

「海老原義三郞」不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十六日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

御手紙ありがたく存じます。それから「文藝春秋」のお歌も。尊堂へは是非上らねばならぬ所、又親戚中に不幸起り、東奔西走致しをる次第、惡しからず御無沙汰をおゆるし下さい。唯今新年號の小說の續きを書きをり候へども心落着かず、難澁この事に存じてゐます。來世には小生も砂に生まれたし。然らずば、

   來ム世ニハ水ニアレ來ン軒ノヘノ垂氷トナルモココロ足ラフラン

    一月十六日夜     龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「新年號の小說の續き」既に述べた「玄鶴山房」のこと。

「來世には小生も砂に生まれたし」「も」という添加の係助詞から、茂吉の「文藝春秋」に載せた(推定)歌と関係するように思われるが、不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

頭くたびれをり、如何にしてもこれより出來ず。なほ又前の最後の半ピラ中、「お鈴は夫が銀行へ行き」云々の一節はとりすて、今度のをお用ひ下され度候

               芥川龍之介

   高 野 敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」の二月号の原稿についての内容。次の同人宛書簡から、一部を先に送ってお茶を濁していたように見える。

「半ピラ」二百字詰原稿用紙のこと。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十九日(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

これでおしまひです。「五」は出來損ひかもしれません。しかしもう時間がありませんから、あきらめることにしました。又實感の乏しい爲、手を入れてもだめかと思ひます。

    十九日午前五時    龍   之

   敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」は私は好きな作品である。芥川龍之介最晩年の小説らしい小説として、である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・野村治輔宛

 

原稿用紙で御免下さい。飜譯の件は勿論よろしい。序文も同封してお送りします。どうかよろしく。「じゆりあの吉助」は御らんになるほどのものではありません。僕もモスクワ大學の日本文學科の先生か何かになりたい。原稿に追はれて暮らしてゐるよりもその方が遙かによささうです。右當用のみ。頓首

    一月二十一日     芥川龍之介

   野 村 治 輔 樣

 

[やぶちゃん注:「野村治輔」新全集の「人名解説索引」には、『大阪毎日新聞社社員』としつつ、『詳細未詳』とある。ネット・データでは、芥川龍之介もよく発表の場としている雑誌『新小説』の大正時代の編集者の名前に出る。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・岩野英枝宛

 

原稿用紙にて御免下さい。雲林、藍瑛どちらも持ち合せません。のみならず畫帖を見た位では中々御鑑定の出來るものではありません。小生は唯今親戚に不幸有之、その上その方の衣食の計立たざる爲、東奔西走中。どうかこれにて御勘辨下さい。いつか越後へでも遊んだ折はあなたの御紹介を得、御藏幅を拜見したいと存じてゐます。以上。

    一月廿一日夜     芥川龍之介

   岩 野 英 枝 樣

 

[やぶちゃん注:「岩野英枝」(ふさえ)は新全集の「人名解説索引」によれば、作家岩野泡鳴の三番目の妻とし、最初、『泡鳴の口述記者として雇われ』、『のち同居』、大正七(一九一八)年五月に『入籍』したとあり、『泡鳴の主宰した十日会』(かの秀しげ子も会員で、龍之介もそこでしげ子に出逢った)『の女性側の主要メンバーの一人』で、『芥川は英枝に久米正雄の結婚相手を捜してくれるよう依頼する一方で』、『英枝の原稿を新聞に載るよう』、『骨』を『折ったこともある』とあった。この時は既に未亡人(泡鳴は大正九年没)であった。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「藍瑛」(らんえい 一五八五年~一六六四年(生没年は異説あり))は明の後期を代表する画家。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓今夜は失禮仕り候うつかり「月の光は八谷を照らす」を書いて頂く事を忘れ殘念なり二三日中に使のものをさし上げ短尺をおとどけ申上げ候間、おひまの節お書き下さらば幸甚に存候ソレカラ Velonal Neuronal ともおとり置き下さるまじく候やこちらのお醫者に賴む事は阿片丸を頂きをり候ことも申居らず候爲ちと具合惡く候へばよろしくお取り計らひ下さらば幸甚に存候 頓首

    昭和改元一月廿八日   龍 之 介

   齋 藤 樣

二伸 なほ又お藥は使のものにお渡し下さらば幸甚に存候唯今この手紙に似合ふ封筒なしこれも御免蒙り度候

     卽興

   尿する茶壺も寒し枕上(ガミ)

 

[やぶちゃん注:「月の光は八谷を照らす」筑摩全集類聚版脚注に、『茂吉の作』とあり、

 しづかな峠をのぼり來(こ)しときに月の光は八谷(やたに)をてらす

と載せ、二年前の『大正十四年夏、箱根にての吟』とある。歌集「ともしび」の「箱根漫吟の中」の一首である。

「Neuronal」筑摩全集類聚版脚注は『神経安定剤』とするが、この綴りは一般名詞で「神経細胞の・ニューロンの・神経型の」の意味であり、市販薬物名として「ヌロナール」というのは、英名でもネット検索に全く掛かってこない。Numal」の誤りである。小泉博明氏の論文「斎藤茂吉と青山脳病院院長(1)昭和 2 年から昭和 3 年まで(PDF・『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第十一号(二〇一〇年)所収)の、「5.芥川龍之介と茂吉」に、この書簡への往信と思われる二 月一日附芥川宛書簡を引き(引用文を恣意的に正字化した)

   *

拜啓先日は御馳走に相成り何とも感謝奉り候。今日獨逸バイエル會社の「ウエロナール」屆き候ゆゑ一オンス(廿五グラム)使もて御とヾけ申候。舶載品は邦製のものと成分全く等しと申し候ひども舶載のものヽ[やぶちゃん注:ママ。]方がやはり品よき心地いたし申候。御比較願上候。次にヌマール(Numal)といふロッシュ(Roche)會社の錠劑をも御屆け申し候。これは一錠頓服にて十分と存候が、これも御試めし願上げ候。ウエロナールとヌマールと相互に御使用の方が、慣習にならずによろしく御座候(略)

追伸。藥價の事御氣にかけられ候事かと存じ候ゆゑ内實を申上候邦製ウエロナールは一オンス八十五錢に有之、舶載のバイエル會社のものは二圓五十錢、ヌマールは一圓六十錢にて、先夜の自働車[やぶちゃん注:引用元にママ注記有り。]にも相成り不申候ゆゑ、進上仕りたく右惡しからず御承引願上候。但し、藥は高きものと思召にならざれば利かぬものに候ゆゑ、その御つもりにて御服用願上候 敬具

   *

小泉氏はこれについて、『茂吉は、馳走になった御礼として芥川に「ウエロナール」だけではなく、「ヌマール」という薬剤と短冊を送った。2 種類の薬剤を相互に服用し、慣習化しないように指示している』とされ、但し、『茂吉の 1 月 30 日付、日記には「芥川氏に、Verona l25 gr. ヲトドケル」』『とあり、日記と書簡の日付に異同がある』とある。この茂吉書簡への返礼が、二月二日夜とする二月分で掲げる書簡である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・西川英次郞宛

 

冠省久しぶりに君の手紙を貰ひ愉快だつた短尺は小包みにするのが厄介故詩箋で御免蒙る元來君のやうに字のうまい兄貴を持ちながら俺の書いたものなど欲しがる必要はないのだだから發句三分の一人前字三分の一人前、紙三分の一人前と思つて貰つてくれ給へこの頃多事多難多憂弱つてゐる

 

    昭和改元一月廿八日  龍 之 介

   英 次 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「西川英次郞」龍之介の親友。「芥川龍之介 書簡抄1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より」で既注。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・田端発信・宇野浩二宛

 

拜復。まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預つて難有い。あの話は「春の夜」と一しよに或看護婦に聞いた話だ。まだ姊の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の爲に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは氣の毒だね。餘は拜眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

    一月三十日      芥川龍之介

   宇 野 浩 二 樣

 

[やぶちゃん注:「あの話」「玄鶴山房」。

「春の夜」大正一五(一九二六)年九月『文藝春秋』発表。「青空文庫」のそれをリンクさせておくが、新字新仮名である。

「高野さんがやめたのは氣の毒だね」前にも書いたが、『中央公論』編集長であったが、先の高野宛書簡から、この一月十九日以降に、恐らくは解任されたものと推察する。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・消印三十一日・田端発信・相州鎌倉坂の下二十一 佐佐木茂索樣・一月三十日 武州田端 芥川龍之介

 

朶雲奉誦、唯今姊の家の後始末の爲、多用で弱つてゐる。しかも何か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保險、生命保險、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神經衰弱癒るの時なし。六七日頃までは東京を離れられまい。拜眉の上萬々。姊の夫の死んだ話は殆どストリントベルグ的だ。匆々。

    一月三十日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「ストリントベルク」ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。私は恐らく海外の劇作家で最も多く戯曲を読んだ作家の一人である。]

2021/09/10

最近とても嬉しかったことどもについて


つい先日、私が十年前に暴虎馮河で拙訳した小泉八雲の“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の「破られし約束」を、YouTube で朗読したいという若い方からの懇請を受けた。彼女は田部隆次氏の訳(リンク先は私の電子化注)と私の訳を比較され、朗読するに際し、私の訳を選ばれたのであった。

無論、ユビキタスをモットーとする私は、許諾した。

これは、私には、とても嬉しいことだった。

    ♡

そうして、今日は、私が、ネット上に電子化物がないことから、「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、先だって電子化した、放浪の俳人「乞食」井上井月の句集に添えた、

(正確には「井月の句集」で、芥川龍之介及び芥川家の主治医であり、芥川龍之介の検死の当事者でもあった下島勲の編になるものへの芥川龍之介の跋文である)に対して、井月の研究家の方から、私が上の電子化をしたことへの感謝のメールを頂戴した。

これもまた、偏愛する芥川龍之介に絡んで、私には、とても嬉しいことであった。

   ♡

私の自慰と思われるかも知れない、他者から見れば、たいしたことのないものと失笑を買っているかも知れない数多の私の電子化物が、僅か乍らも、ある人の琴線に、確かに触れていることを感じ、内心――「少しばかりは、生きていてよかったな」――と思うたのであった。

2021/09/09

芥川龍之介書簡抄140 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十二月(全) 十五通+年次推定日付不明二通

 

大正一五(一九二六)年十二月二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛(葉書)

 

拜啓又君の手紙と入ちがひになつた。どうもへんだよ。小穴君曰、「それは呼吸困難などにさせるからさ。」鴉片エキス、ホミカ、下劑、ヴエロナアル、――藥を食つて生きてゐるやうだ。頓首

    十二月二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:この書簡、「藥を食つて生きてゐるやうだ」という龍之介の晩年の言葉としてよく引かれる。

「それは呼吸困難などにさせるからさ」薬物の多用によるそれを指すか。

「ホミカ」興奮剤ストリキニーネ(strychnine:植物のマチン属 Strychnos の中に含まれる中枢神経興奮作用持つアルカロイド。有毒)を含む睡眠剤。

「ヴエロナアル」「バルビタール」(Barbital)又は「バルビトン」(barbitone)は明治三六(一九〇三)年から一九三〇年代中頃まで使われていた睡眠薬で、最初のバルビツール酸系(Barbiturate:バルビツレート)薬剤の商品名「ベロナール」(Veronal)のこと。化合物としての名称は「ジエチルマロニル尿素」或いは「ジエチル・バルビツール酸」。副作用はほとんどなかった。当該ウィキによれば、『治療用量は中毒量よりも低かったが、長期にわたる使用によって耐性がつき、薬効を得るために必要な量が増加した。遅効性であるため致命的となる過剰摂取が珍しくなかった』。『各種医薬品が劇的に進歩した現在では、治療に用いられることはない』とあり、そこでも書かれているが、芥川龍之介が既出既注の「ジャール」とともに自殺に用いたとされているもの。但し、既に述べた通り、私はそれを信じていない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月二日・鵠沼・柳田國男宛(葉書)

 

君ガ文ヲ鐡箒ニ見テ思ヘラクアモマタ「ケチナ惡人」ナルラシ

シカハアレ「山ノ人生」ハモトメ來ツイマモヨミ居リ電燈ノモトニ

足ビキノ山ヲ愛シト世ノ中ヲ憂シト住ミケン山男アハレ

    十二月二日夜半    龍 之 介

  歌トハオ思ヒ下サルマジク候

 

[やぶちゃん注:短歌様のそれは、三字下げであるが、引き上げた。

「鐵箒」(てつさう(てっそう))は『朝日新聞』の投書欄。現在の「声」の前身。

「「山ノ人生」「山の人生」は、大正十四年一月から八月にかけて『アサヒグラフ』に連載され、この大正十五年十一月に大幅な増補を加えて郷土研究社から『第二叢書』の一冊として刊行されたもの。柳田國男の「山人」研究の集大成であり、「山の怪異」を民俗学的に考察した柳田民俗学の『方法的転回の過渡期的』(「ちくま文庫」版「柳田國男全集」解説より引用)な作品として優れたものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で全篇が読める。私がいつか正字正仮名で電子化注したい一冊である。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月三日・鵠沼発信・眞野友二郞宛(葉書)

 

冠省なるとづけありがたう存じます。唯今新年號と云ふものを控へ居り、多忙の爲これで失禮します。右御禮まで

    十二月三日 鵠沼海岸 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「なるとづけ」「鳴門漬」。「米原市商工会」公式サイト内の創業六十余年の老舗「醒井楼(さめがいろう)」のそれによれば、「虹鱒の南蛮漬け」で、炭火で『焼いた虹鱒を油で揚げ、独自の配合で調合した秘伝のレモン酢に』一『週間から』十『日ほど、じっくり漬け込』んだものとある。非常に特殊なものであるからして、或いは、この芥川龍之介の読者で多数の書簡のやり取りがある人物(私は医師ではないかとも思っている)は、宛先も底本旧全集には載らないが、或いは滋賀県に住んでいたのかも知れない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月三日・消印五日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目里九九〇佐佐木茂索樣(葉書)

 

又々手紙が入れちがひになつた。これはテレパシイだよ。僕は暗タンたる小說を書いてゐる。中々出來ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。冬眠、冬眠、その外のことは殆ど考へない。花札をいぢるのにもあきた。

    十二月三日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「テレパシイ」telepathy。超能力を意味する「超感覚的知覚」(ESP:Extra Sensory Perception) の一種。「精神感応」と訳される。

「暗タン」(澹)「たる小說」「玄鶴山房」。昭和二(一九二七)年新年号『中央公論』に「一」と「二」が、翌二月一日号で、それらも再掲して、全篇が発表された(同作は全六章から成る)。龍之介晩年の陰鬱にして絶望的な臭気に満ちた力作である。私はサイトの古い電子化で草稿附きのものを公開している。但し、ここで同作の執筆は停滞してしまうことになる。後掲の複数の書簡を参照。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月四日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

冠省 原稿用紙にて御免下さい。每度御配慮を賜り、ありがたく存じます。オピアム每日服用致し居り、更に便祕すれば下劑をも用ひ居り、なほ又その爲に痔が起れば座藥を用ひ居ります。中々樂ではありません。しかし每日何か書いて居ります。小穴君曰この頃神經衰弱が傅染して仕事が出來ない。僕曰僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは碌なものは出來さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事實であります。おん歌每度ありがたく存じます。僕の仕事は殘らずとも、その歌だけ殘ればとも思ふことあり。かかる事はお世辭にも云へぬ僕なりしを思へば、自ら心弱れるを憐まざる能はず。どうかこの參りさ加減を御笑ひ下さい。

文書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ

小夜フカク厠ノウチニ樟腦ノ油タラシテカガミヲル我ハ

夜ゴモリニ白湯(サユ)ヲヌルシト思ヒツツ眠リ藥ヲノマントス我ハ

タマユラニ消ユル煙草ノ煙ニモ vita brevis ヲ思(モ)ヒヲル我ハ

枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀨戶ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ

これは近狀御報告まで。勿論この紙に臨んでこしらへたものです。歌と思つて讀んではいけません。なほ又岡さんに庭苔を頂き、あらまし邦讀。あの歌集は東京人の所產と云ふ氣がします。どうかお次手の節によろしく。土屋君にもよろしく。頓首

    十二月四日      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

二伸なほ又重々失禮は承知しながら、お藥のお金だけはとつて頂けますまいか。氣が痛んで弱りますゆゑ。

三伸點鬼簿評には風馬牛です。他人評よりも當人評が一番大敵です。或は當人評が怪しいかも知れぬと云ふ第二の當人評が一番大敵です。

 

[やぶちゃん注:短歌は三字下げであるが、引き上げた。確信犯であるが、歌全体にやはり神経症的なものを感じさせる。

「おん歌每度ありがたく存じます」筑摩全集類聚版脚注に、異様に細かな注が附されてあるので、全文を引用する。俳句・短歌は改行し、短歌末にある字空けや句点は除去した。

   《引用開始》

茂吉の歌。五月五日、澄江堂のあるじより、

「かげろふや棟も落ちたる茅の屋根」

といふ消息をたまはりたれば、

湯の中に青く浮かししあやめぐさ身に沁むときに春くれむとす

ふけわたる夜といへども目をあきて瘦せ居る君し我は会ひたし

九月二十五日土屋文明ぬしと鵠沼に澄江堂主人を訪ふ。(略)

相見つつうれしけれどもこの浜に心ほそりて君はありとふ

こもごもにものいひながら松原の空家のなかにわれら入りゆく

ひんがしの相模の海に流れ入る小さき川を渡りけるかも

煉乳の鑵のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる

うつそみの世はさびしけれ心足りて浜に遊ばむ我ならなくに

   《引用終了》

この茂吉の歌には、龍之介を労わる優しい視線に満ちているが、最後から二つ目の句などには、精神科医として患者として龍之介を見ている視線(神経症の関連妄想の診断)も感じられて、非常に興味深い。

「夜ゴモリ」深夜。

「vita brevis」「ウィータ・ブレウィス」。「人生は短し」。一般に、‘Ars longa vita brevis.’(アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス)で知られるフレーズ。元はヒポクラテスの言ったギリシア語表現で、「アルス」(ギリシア語で「テクネー」)は「医術」のことであり、全体は、「医術を習得するには、人生はあまりに短か過ぎる」という趣旨の言葉であった。私の『「こゝろ」初版 見開き 「あの」ラテン語』を見られたい。

「岡さん」岡麓(おか ふもと 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)は歌人・書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名は三郎。書号は三谷(さんこく)、俳号は傘谷(さんこく)。当該ウィキによれば、『徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで』、『宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく』、十七『歳のとき』、芥川龍之介の田端の隣人で、彫金師として知られた『香取秀真に』、『一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのは』、『これまで』、『自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。また、津田青楓には「岡さんは財産を蕩尽して成った芸」と評されている』。『伊藤左千夫と知り合ったことを』契機として、明治三二(一八九九)年に『正岡子規に入門し、根岸短歌会の創設に参加』し、明治三十六年には『馬酔木』の『編集同人となる。長塚節、斎藤茂吉、島木赤彦らと知り合い』、大正五(一九一六)年から『アララギ』に歌を発表し、この大正十五年十月に古今書院から処女歌集「庭苔」を刊行しており、ここで龍之介の言っているのは、その歌集である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本が読める。昭和二〇(一九四五)年に『『アララギ』の歌友を頼って長野県安曇野に疎開』した。戦後の昭和二三(一九四八)年には『日本芸術院会員となるが、故郷に帰ることなく死去した。

「土屋君」土屋文明。

「點鬼簿評には風馬牛です」逆に徳田秋声の痛罵を引きずっていることが見てとれる。

「當人評」芥川龍之介の自己評価。

「當人評が怪しいかも知れぬと云ふ第二の當人評が一番大敵」強迫神経症に加えて、離人症的な症状も感じられる謂いである。芥川龍之介が自身のドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を見たことは、死の年の談話で龍之介自身が述べている。私の今年一月に公開した『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を参照されたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月五日消印・鵠沼発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣

 

御手紙ありがたう存じます。こちらは新年號と云ふものにて弱つてをります。小穴君からもよろしく。

   かひもなき眠り藥や夜半の冬

  二伸 每度お藥をありがたう存じます

 

 

大正一五(一九二六)年十二月五日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

用箋を咎むる勿れ。梅馬鶯未だ出來ず。出來次第送らせる。山茶花の句前の句に感心。僕今新年號に煩はさる。「近代風景」君よりも賴むと云ふ事故、萩原朔太郞論を五六枚書いた。日々怏々

文書カン心モ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テ居ル我ハ

小夜フケテ厠ノウチニ樟腦ノ油タラシテカガミ居ル我ハ

門ノベノウス暗ガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

僕ハ陰鬱極マル力作ヲ書イテヰル。出來上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ讀ンダ、實ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小說ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ拔ク事數等ナラン。

    十二月五日      芥川龍之介

   室 生 犀 星 樣

二伸この間のよせ書は「行秋やくらやみになる庭の内」碧童、魚を描いたのは隆一、梅花を描いたのは龍之介

 

[やぶちゃん注:短歌には同前の仕儀をとった。

「梅馬鶯」新潮社から十二月刊行予定の随筆集「梅・馬・鶯」。実際の発行日は十二月二十五日であった。

「近代風景」雑誌名。以下の萩原朔太郞論を書き、昭和二年新年号に「萩原朔太郞君」として発表された。

「怏々」(あうあう(おうおう))は「心が満ち足りないさま・晴れ晴れしないさま」を言う。

「美小童」室生犀星の小説。『近代風景』大正十五年十二月号に発表。

「中野君」小説家・詩人・評論家にして政治家でもあった中野重治(明治三五(一九〇二)年~昭和五四(一九七九)年)。福井県坂井市生まれ。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになり、東大入学後、窪川・堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成、この間に多くの作品を発表した。昭和六(一九三一)年に日本共産党に入ったが、検挙され、昭和九年に転向、戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わった。平野謙・荒正人らと「政治と文学論争」を起こし、戦後文学の確立に寄与した。後に参議院議員を務めたが、昭和三九(一九六四)年、日本共産党と政治理論で対立をし、除名され、神山茂夫とともに「日本共産党批判」を出版している。芥川龍之介とは室生犀星・堀辰雄らとの関係で晩年に知り合っている。文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正に、この前後に鹿地亘らとともに「社会文芸研究会」(一九二五年)や「マルクス主義芸術研究会」(一九二六年)を結成、この年に「日本プロレタリア芸術連盟」へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月九日・消印十日・鵠沼発信・東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣・十二月九日 鵠沼 芥川龍之介

 

 原稿用紙で失禮します。

 お手紙拜見。こちらは唯新年号に追はれてゐるだけ。家へは新年は勿論、新年号の一部を書く爲にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリイをお鎭め下さい。今度は力作を一つ書くつもりです。右當用のみ。

    十二月九日      龍 之 介

   下 島 先 生

二伸 この手紙は小穴君にたのみ、東京から投函して貰ひます。小穴君は妹さんが危篤の爲にかへるのです。

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十二日・消印十三日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十二日 くげぬま 龍之介(葉書)

 

小說かけたりや、僕は今二つ片づけ三つめを書いてゐる。捗どらず。痔猛烈に再發、咋夜呻吟して眠られず。小穴の妹危篤。多事、々々、々々。

 

[やぶちゃん注:「二つ片づけ三つめを書いてゐる」片づけた二篇とは、恐らく、私の偏愛する「彼 第二」(九日脱稿。この日は夏目漱石の祥月命日であり、小穴には、この日を自殺決行日として告白していたとされる。『小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」』を参照されたい)と、「或社會主義者」(十日脱稿)であろう。自ら「力作」と言っていた「玄鶴山房」は少し停滞気味であったようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十三日・鵠沼発信(推定)・齋藤茂吉宛

 

冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸乏しくなり心細く候間、もう二週間分ほど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大體片づき、あと少々殘り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる爲、痔痛みてたまらず、眠り藥を三包のみたれど、眠る事も出來かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上。

    十二月十三日     芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、龍之介はこの日の夕刻に田端へ帰っている。或いは、本書簡の投函はその帰宅途中であったのかも知れない。

「鴉片丸」既出既注のアヘンチンキ(エキス)。

「中央公論のは大體片づき、あと少々殘り居り候」「玄鶴山房」の執筆状況だが、実際には停滞していた。後の高野敬録宛書簡及び注を参照。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十三日消印・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣(葉書)

 

あの手紙を書き了るや君の手紙來る、いつも斯くの如し

ヨロシ一五〇 四光六〇〇 一シマ五〇 大三光一〇〇 犬鹿蝶三〇〇 二杯三〇〇 一杯一〇〇 二ゾロ○○ 七短六〇〇 松桐坊主一〇〇 草(萩藤菖蒲の短)一〇〇 也、但しこれは僕の敎はつたもの、他にも數へ方あるべし

 

[やぶちゃん注:同前の可能性あり。

以上の呼称と数字は、筑摩全集類聚版脚注に、『花札遊びの役』と、『その出来役に対してあたえられる得点』とある。私は興味がないので、ウィキの「花札を見られたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十六日・田端発信・高野敬錄宛

 

拜啓昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候次第、何とも申訣無之候へども二月號におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月號ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。齋藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候。頓首

    十六日         芥川龍之介

   高野敬錄樣

 

[やぶちゃん注:「高野敬錄」『中央公論』編集長。

「齋藤さんにも相すまざる事になり」「齋藤」は齋藤茂吉。次の書簡も参照。或いは、この時は茂吉から高野に龍之介の新年号への執筆仲介があったのかも知れない。

「二月號におまはし下さるまじくや」恐らくは、高野からは、それでも良いが、中途までで、分割でもよいからと、新年号への掲載で頑張れないだろうか言われたものと思われ、既に述べた通り、実際に新年号『中央公論』には「一」と「二」が載り、翌二月一日号で、改めて全篇の発表となっている。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十九日・田端発信・齋藤茂吉宛(葉書)

 

お藥お送り下され、ありがたく存候。中央公論は前後だけ出來て中間出來ず、とうとう二月に出すことに相成り、尊臺にも申訣無之心地あり、怏々として暮らし居候

    十二月十九日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:ここでは「玄鶴山房」の二月号送りが決まっているように書かれてある。高野から、改めて、出来上がっている分だけでよいから、新年号に載せたい、という申し出がこの月のぎりぎり後に改めてあったものかも知れない。尻切れトンボでも流行作家の書き下ろしなら、続きも買うはずで、会社や編集者としても、その方が、寧ろ、いい、と考える気もするからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十九日・田端発信・東京市外下目黑九九〇 佐佐木茂索樣 (葉書)

 

君はもう逗子へ移つたか、僕は原稿の爲こちらへ歸り、いろいろ書いた。が、中央公論はとうとう出來上らなかつた。二十日は明日也。赤倉行は如何なりしか。僕は到底だめならん。

    十二月十九日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「凍死の計画」では、『小穴隆一によれば』、『芥川から自殺の決意を告げられたのは大正一五年四月一五日というが』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』参照)、『彼の自殺は一時的・衝動的な発作によるものではなく、入念な準備とさまざまな計画ののちに選びとられたものであることが判明する』として、この「赤倉行」の話が挙げられており、龍之介はそうした自殺方法の『一つに凍死も考えられていたことを次の佐佐木茂索の「心覚えなど」は伝えてくれる』とあり、以下の引用がなされてある。

   《引用開始》

「昨年の冬、気を変へて貰はうと僕が赤倉のスキーに誘つたら、非常に乗気になつた。そのあげく、こんなことを云つた。

『凍死のことも調べてみたがね、赤倉あたりででも凍死出来るかね、凍死はうまく行けば非常に楽な死に様だよ。それに、過失だか自殺だか分らん得があるからね。――夕方、君が練習を終つて宿に帰つたあとに残るんだね、さうしてどんどん遠くへ独りで走るんだ』

『そんなつもりなら一緒に宿に帰るから駄目だ』

『そんなら晩、一服眠り薬りを君にもつておいてから出るよ。月の晩なんか、月の下で走つてみたいのだと云つて出たら宿でも怪むまい』

『そんなら宿屋の亭主に、この人は少し気が変だから、僕と一緒のほか外へ出してくれるなと頼んでおくからいいや』

『莫迦にしてやがら』

   《引用終了》

鷺氏の年譜でも、『一九日、佐佐木茂索から赤倉ヘスキーに誘われるが、原稿がはかどらず参加をことわる(佐佐木も結局は行かなかった)。』とある。]

 

 

昭和元(一九二六)年十二月二十五日・鵠沼発信・奈良市上高畑町 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。新年號の君の力作をたのしみにしてゐる。頓首

 

 十二月二十五日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:この手紙の「僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。」という一節は、芥川龍之介書簡の中でもかなり知られた一節である。なお、この年は十二月二十五日に大正天皇が崩御し、それに伴って皇太子裕仁親王が践祚、同日、昭和に改元された。則ち、厳密には、この年の昭和元年は七日間しかなく、旧全集の昭和元年の書簡は厳密には、この瀧井孝作宛の一通のみである。

   *

 さて。この大晦日から新年の一月二日までは、ちょっとした事件を龍之介が起こしている。新全集の宮坂年譜から少し前の日常記事から引く。十二月二十二日、『東京駅で夕食をとった後、午後』八『時頃、下島勲を伴って鵠沼に帰る。近所に住む小穴隆一を交え、深夜、午前』〇『時頃までカルタに興じた』。翌二十三日は午前十一時頃に起床し、『食事を済ませた後、塚本八洲の診察に行く下島勲とともに塚本家を訪ねる』。『帰途、也寸志を連れた文と小穴隆一に会い、皆で散歩をする。芥川、小穴と三人で夕食をとった後、下島は帰京した』。二十五日に、田端で、滝井孝作宛の以上の書簡を書き送っている。因みに、この同日に芥川龍之介の随筆集「梅・馬・鶯」(初刊本・新潮社)が刊行されている。二十七日、『正月の準備のため、文が』鵠沼から『田端の自宅に戻』り、『代わりに』龍之介の身の回りの世話のために、『葛巻義敏が鵠沼に訪れる』。三十一日、小穴隆一の妹尚子(十三歳)が逝去したため、小穴が上京し、龍之介の監視役が葛巻だけになった。すると、大晦日であるにも拘わらず、龍之介は、『「体の具合が悪くなって」』(文夫人の回想より)鵠沼を発って、『鎌倉の小町園へ静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』(同前)。『田端の自宅から』、『早く帰るよう』、『電話で催促を受けたが、結局、翌年正月の二日まで滞在し』(葛巻義敏の話)一月二日日曜日に『小町園から鵠沼に立ち寄った後、田端の自宅に戻』った(文夫人の回想及び下島勲の随筆に拠る)。なお、『鵠沼の借家は、翌年』三『月まで借りていたものの、以後、ほとんど滞在することはな』かった、とある。ところが、以前に何度か言及した高宮檀『芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る』(彩流社二〇〇六年刊)には、義敏の妹葛巻左登子(さとこ)氏の未発表原稿「M子さんへの手紙」によれば(仮名遣いの不統一はママ)、『例年、元旦は必ず自宅で迎える習慣になっていた叔父』(芥川龍之介のこと)『がこの年は滞在していた鵠沼の借家』『から二十八日に、口実をもうけて妻文と也寸志を田端に帰しました。そして代りに東京から留守番に来た義敏に向って、自分の心情をいろいろと話し「僕は小町園の御内儀さんと逃避行をする。居所がきまったらお前には知らせるから薬(睡眠薬)だけは送って呉れ」と云残して三十一日に自動車で出掛けたそうです。』とあり、この後の展開がかなり異なり、『叔父は元日の深夜』、鵠沼に『悄然として帰宅しました。義敏は』『大分責めたそうですが、小町園の御内儀さんに〝若しかすると私は殺されるかも知れないけれど、貴方についてゆきます〟と云はれた叔父は、急に「この人をそんな目に会わせ資格があるだろうか?」と思ったようです。(中略)』。『そして、叔父は翌二日の早朝田端に帰宅しました。妻文さんから叔父宛に「此度は御奥様からお優しき御手紙を頂き云々」と達筆の御礼状が届きました。』とあるのである。この葛巻左登子氏のそれは義敏からの聞き書きであるから、やや信憑性に疑問な部分はあるものの、年譜の小町園行の仕儀の不透明さに比べて、そこは、よりクリアーで、さらに、野々口豊の慄っとする台詞は、この時、芥川龍之介が豊に心中を持ち掛けたとする説に符合する内容とも言える。

   *

 以下、大正一五(一九二六)年(推定を含む)の月不明の二通。最後の葛巻への置手紙が昭和元年である可能性は、私は頗る低いと考えている。]

 

大正一五(一九二六)年(年次推定)・月不明(四月二十二日以降)・鵠沼発信・葛卷義敏宛

 

バスケツトの中の原稿、

風呂敷に包んだ原稿、

鼠色の舊小說、金元明の部(コレハ義チヤンニ見テ貰ヒタシ)

 

[やぶちゃん注:「金元明」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とする。ただ、これは「金・元・明」代の中国の古い小説集のことを指しているとは読める。]

 

 

大正一五(一九二六)年(年次推定)・田端・自宅にて・葛卷義敏宛

 

封筒を一束買はせにやつてくれ。

 

  註 五十束でもいいよ

             龍 殿 さ ま

   義 べ い 殿

 

2021/09/08

芥川龍之介書簡抄139 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十一月(全) 五通

 

大正一五(一九二六)年十一月一日・鵠沼発信・小澤忠兵衞宛(小穴隆一と寄書。「十一月一日鵠沼隆龍」と署名有り)

 

先達は失禮致しましたその節尊臺の下駄を間違へてかへりました早速小包みにてお送り致します右どうかおゆるし下さい

     戲れに

   ふりわけて片荷は酒の小春かな

[やぶちゃん注:底本では、ここに『小穴隆一の繪あり』と編者注する。但し、絵はない。]

               龍 之 介

   忠じるし樣[やぶちゃん注:底本では、ここに以上の宛名は『小穴隆一の筆』と編者注する。]

 

[やぶちゃん注:俳句の最年長の友で小穴とも親しい小澤碧童が前月末の二十六日に来訪し、三十日頃まで滞在していたが、小澤が帰った後、芥川龍之介は、自分が小澤の下駄を自分の物と間違えて履いてしまっていたことに漸く気づき、この詫び状とともに下谷の小澤邸に小包で送ったのであった。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月十日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣

 

 原稿用紙で失禮。御手紙拜見。僕も新年號で手こずつてゐる。實に海邊の憂ウツだ。秋聲は岡の叔父だけある。O君は餘り幸福ぢやないよ。この頃の寒氣に痔が再發。催眠藥の量は增すばかり。ちと東家へでもやつて來ないか? 僕の家でもお宿位はする。兎に角君の顏が見たい。この頃君のことを考へてゐると、必ず君から手紙が來る。この前の手紙などは行き違ひだつた。それも少からず氣味が惡い。

    十一月十日      龍 之 介

   佐 茂 樣

 

[やぶちゃん注:「僕も新年號で手こずつてゐる」翌年の元旦発行の新年号のライン・ナップは「悠々莊」(『サンデー毎日』)・「彼」(『女性』)・「彼・第二」(『新潮』)・「玄鶴山房」の「一・二」のみ(『中央公論』。全篇は二月一日号)・「貝殼」(『文藝春秋』)・「文藝雜談」(『文藝春秋』)「萩原朔太郞君」(『近代風景』)である(リンク先は私の電子テクスト。特に「彼」と「彼 第二」(後に中黒は削除された)は私の偏愛する作品である。

「秋聲は岡の叔父だけある」岡栄一郎は金沢市上新町に生まれで明治四五(一九一二)年に第三高等学校を卒業し、東京帝国大学英文科に入学したが、徳田秋声と遠縁に当たり、上京後は秩声の家の裏の下宿に住んで、徳田家に親しく出入りしていた。但し、「徳田秋聲全集」に載る岡栄一郎の家系略図を見ると(私のツイッターをフォローして下さっている徳田秋声研究者であられる亀井麻美氏のツイッターに載せられた当該画像を視認した)、叔父ではない。栄一郎の母ヒデの兄弟がヤヘという女性と結婚しているが、そのヤヘの再婚相手の徳田直松の父徳田雲平の三度目の結婚相手タケとの間に出来た末雄(雲平の三男)が徳田秋声であり、血縁関係は全くなく、文字通りの遠縁である。この龍之介の謂いは、既に注で述べた通り、岡が、龍之介が媒酌をした女性と一年ほどで姑の岡の母と不仲になって離婚した結果、その鬱憤を見当違いの龍之介にぶつけたことと、『近代日本文芸読本』事件で秋声が執拗に抗議し、さらに龍之介の「點鬼簿」を痛罵したことを、重ねて、かく恨みごとの皮肉として述べたものである。

「O君は餘り幸福ぢやない」「O君」は小穴隆一。例の縁談相手の、哲学者西田幾多郎の姪の同じく哲学者であった高橋文子との関係が全く進展していないことによるもの。結局、この結婚は成立しなかった。

「東家」鵠沼の龍之介の借家の直近にある東屋旅館。既に述べた通り、佐佐木の御用達の旅館だった。

「この頃君のことを考へてゐると、必ず君から手紙が來る。この前の手紙などは行き違ひだつた。それも少からず氣味が惡い」事実なのかも知れぬが、強迫神経症の典型的関係妄想のように私は読む。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月二十一日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

敬啓 原稿用紙にて御免下され度候。唯今新年號の仕事中、相かはらず頭が變にて弱り居り候間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。御多用中お手數を相かけ申訣無之候へども、右當用のみ願上げ候。なほ又失禮ながらアヘンエキスのお代金はその節お敎へ下され候はば、幸甚に御座候。頓首。

    十一月二十一日    芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:「アヘンエキス」アヘンチンキ(laudanum/opium tincture/阿片丁幾)のこと。麻薬アヘン(キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum の種子の未熟果に傷をつけ浸出する乳液から採る。それから劇薬の鎮痛剤モルヒネ(morphine)や、化学的に変化させた麻薬ヘロイン(Heroin)が知られる)末を、エタノールに浸出させたもの。アヘンのアルカロイドのほぼ総てが含まれている。特にモルヒネが高い濃度で含まれているため、アヘンチンキは歴史的に様々な病気の治療に使われてきたが、主な用法は鎮痛と咳止めであった。二十世紀初頭までは、アヘンチンキは処方箋なしで買える場合もあり、多くの売薬の構成物質であったが、常習性が強いため、現在では世界の多くの地域で厳しく制限され、管理されている。現在では、一般的に、下痢の治療やヘロイン等の常習癖がある母親から生まれた子供の「新生児薬物離脱症候群」(neonatal abstinence syndrome)を和らげるために用いられる。嘗て一部のヨーロッパの文化人もこれを愛用したが、中国を始めとするアジアでの喫煙によるアヘン摂取とは異なり、アヘンチンキは腸を経由するため、常習性はあったものの、廃人となるようなことは、そう多くはなかった(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月二十八日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

御手紙ならびにオピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は略舊に復し候へども神經は中々さうは參らず先夜も往來にて死にし母に出合ひ、(實は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見ると未だに行手を塞がれしやうな氣のすること少からず、世にかかる苦しみ有之べきやなど思ひをり候。小說はやつと一つ書き上げ唯今もう一つにとりかかり居り、それを終らばもう一つと存じ候へども如何なる事やらこの不安も亦少からず候。なほ又お金の儀お知らせ下され候やう無躾ながら願上げ候。數日前小澤碧童、遠藤古原艸など參り候その節碧童老人の句にかう云ふ作有之候。頓首

   行秋やくらやみになる庭の内

    十一月二十八日    芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:明白な病的な関係妄想が記されてある。

「オピアム」アヘンのこと。前注英文表記参照。カタカナ音写は「オピエム」に近い。

「つれ」小穴隆一と思われる。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月二十九日・消印三十日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十一月二十九日 くげぬま 芥川龍之介

 

羊羹をありがたう(羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生へてゐる氣がしてならぬ)お手紙もありがたう。君が餘り氣を使つてくれると、それが反射して苦しくなる事もある。(手紙ばかりならば助かるだけだが)何しろふと出合つた婆さんの顏が死んだお袋の顏に見えたりするので困る。今はどんな苦痛でも神經的苦痛ほど苦しいものは一つもあるまいと云ふ氣もちだ。敷日前に伯母が來てヒステリイを起した時に君に敎へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位では參るものではない。しかし過去無數の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神經衰弱だと云へばそれまでだが)實にやり切れない氣のするものだよ。その中で兎に角小說を書いてゐる。我ながら妙なものだと思ふ。昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上

    十一月二十八日    芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

  二伸 小穴曰「よろしく」と

 

[やぶちゃん注:「羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生へてゐる氣がしてならぬ」これはお道化ているのではないと思う。漢字に対するゲシュタルト崩壊で、夏目漱石にも認められれ、確かそれを漱石自身が話した相手は、まさに芥川龍之介だっとように記憶する。所謂、強迫神経症の一症状とも言えると、私は考えている。これらの愁訴は、まさに運命的に師漱石から彼に伝染(うつ)っていると言ってよいとさえ私は思っているのである。

「宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた」盟友宇野浩二は、一般には、この翌年の五月末に発狂したとされるが、既にこの頃から、変調をきたしていたものと思われる。なお、発症後は龍之介が親身になって世話をし、齋藤茂吉のところに連れて行き、診察して貰ったり、嫌がる宇野を精神病院に入院させたりしている。病因は諸説あるが、私は脳梅毒による脳障害説を支持する。数年で作家としてカン・バックしたが、明らかに文体が変質していた。私はブログ分割版とサイト版(上巻下巻)で彼の「芥川龍之介」(昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月まで『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された)を電子化注しているが、表現や拘りに異様な偏執性が見てとれるものである。]

2021/09/06

芥川龍之介書簡抄138 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十月(全) 七通

 

大正一五(一九二六)年十月三日・鵠沼発信・東宮豐達宛(葉書)

 

冠省御申し越しの件、開化の殺人にてよろしく候なほ寫眞は現代小說全集のをお用ひ下され度候。それから集末の年譜中、處女作「芋粥」は「鼻」の誤りにつき左樣御承知下され度候 頓首

   十月三日        芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:例によってエスペラント語訳の話。

「開化の殺人」初出は大正七年七月発行の『中央公論』(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の解説では、表紙(か?)では「臨時增刊」とするが、目次は「定期增刊」とあるそうである)。後の新潮社大正八年一月刊の作品集「傀儡師」に収録されたが、その際、冒頭に主人公「予」の記した前書きが新たに添えられた。私の「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」「開化の殺人」を見られたい。別ページ立てで私の注もある。なお、この前書きが、所謂、芥川龍之介の開化物の一部を、確信犯で一種の開化シリーズ物の小説の皮切りとさせる目的が仕込まれていると言える。前掲書の篠崎美生子氏の解説に、『数ある「開化期物」の中で、この「開化の殺人」と「開化の良人」』(大正八年二月『中外』初出)『と「舞踏会」』(大正九年一月『新潮』初出)『には共通して本多子爵夫妻(「舞踏会」では「H老夫人」とある)が登場し、夫妻から某青年が開化期の話を聞くというパターンが一致していることから、中村光夫は「連環小説としての開化物」』(太字は底本では傍点「ヽ」)『(『名著復刻芥川龍之介文学館』日本文学館一九七七・七・一)で、これを一つの「連環小説」として読む可能性を論じている』とあり、この中村氏の見解には、嘗て私が大学時代に底本の旧「芥川龍之介全集」を全通読した際の感じと一致し、非常に賛同出来るものである。

「現代小說全集」この前年の大正十四年四月に新潮社から刊行された当該全集の「芥川龍之介集」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全部見られる。芥川龍之介の写真はここ(劣化もあろうが、補正をかけても非常に暗く、不吉な感じがする肖像である)。誤りを指摘している同年譜は、ここだが、龍之介の指摘するような間違いはない。『處女作の短篇「老年」を發表す』は正しく、そもそもが「鼻」は華々しい文壇デビュー作ではあるが、処女作ではない。旧「芥川龍之介全集」第十二巻にこの年譜が載るが、その「後記」によって、芥川龍之介の言っている意味が分かった。右「二」ページの九行目を見ると、『九月當時「新小說」主観鈴木三重吉の好意により、短篇「鼻」を同誌上に發表す」というのが「芋粥」の誤りなのである。龍之介の『處女作「芋粥」は「鼻」の誤り』自体が誤りで、当該部の――「鼻」は「芋粥」の誤り――と書かねばならなかったのである。東宮も意味が解らず、きっと、困っただろうな。

 なお、この月の朔日には、名品「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行『改造』)が発表されており、その「一」で「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。」という書き出しで、母フクの精神疾患や養子となったことを含め、自らの出生の秘密を公にしている。

 

 

大正一五(一九二六)年十月六日・田端発信・大木雄三宛

 

冠省 藤澤衞彥氏の使に立ちしは尊臺なりしよし蒲原君より聞きて大に恐縮致し候失禮の段まつぴら御免下さる可く候 頓首

               芥川龍之介

   大 木 雄 三 樣

 

[やぶちゃん注:「大木雄三」(明治二八(一八九五)年~昭和三八(一九六三)年)は雑誌記者で歌人・児童文学者。これより後のペン・ネームは雄二。群馬県出身。昭和七(一九三二)年から雄二を名乗った。小学校教員を経て、上京し、大正八(一九一九)年に『こども雑誌』の編集者となった。同時に童話を書き始め、『金の星』などに作品を発表した。昭和三(一九二八)年、「新興童話作家連盟」の結成に参加し、「可愛い敵め」を発表、昭和七年には、右翼的な「日本文化連盟」を結成し、戦時中はファシズム作家であった。戦後も童話作家として活動した。筑摩全集類聚版脚注では、数雑誌の編集者をしたが、雑誌『国粋』を最後として、そちらは辞めている旨の記載がある。

「藤澤衞彥」(もりひこ 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は小説家・民俗学者・児童文学研究者。福島県生まれ。当該ウィキによれば、東京・埼玉生まれともする旨の記載がある。明治四〇(一九〇七)年、明治大学卒業。「藤沢紫浪」の名で通俗小説などを刊行した。大正三(一九一四)年に「日本伝説学会」を設立し、大正六年から『日本伝説叢書』(全十三巻)を、大正十年から『日本歌謡叢書』を編纂、十一年には「日本童話学会」を、この大正十五年には「童話作家協会」と「日本風俗史研究会」を設立している。また、この大正一五(一九二六)年から翌昭和二(一九二七)年まで雑誌『伝説』も発行している。昭和七(一九三二)年からは、明治大学に新設された専門部文科で教授に就き、風俗史・伝説学などを講じた。戦後の昭和二一(一九四六)年には社会科・新聞科の専任となり、昭和三三(一九五八)年に定年退職した。また、昭和二十一年の「日本児童文学者協会」の創立にも参画し、五年ほど会長を務めた。著書・編纂書は多く、江戸時代の絵入り童話本や風俗資料の蒐集家としても著名である。彼の名代として大木雄三が芥川龍之介の家を訪問したが、生憎、彼は留守であったらしい。原稿或いは講演依頼か。よく判らない。以降の芥川龍之介の発表作を見ても、特にそれらしいもの(藤澤と大木に共通する童話や少年少女向けのものを調べてみたが)は見当たらない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月八日(年次推定)・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)

 

寫樂論わざわざお送りに預り御禮申上げます

おひまの節に御遠慮なくお出で下さい私もその内上ります

御禮かたがた御返事まで

 

[やぶちゃん注:「寫樂論」不詳。岡が書いた東洲斎写楽論か。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月十七日・田端発信・廣津和郞宛

 

冠省。けふ或男が報知新聞を持つて來て君の月評を見せてくれた。近來意氣が振はないだけに感謝した。僕自身もあの作品はそんなに惡くはないと思つてゐる。明日又鵠沼へかへる筈。この手紙は簡單だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが)書かずにゐられぬ氣で書いたものだ。頓首

    十月十七日      芥川龍之介

   廣津和郞樣

 

[やぶちゃん注:「あの作品」この一日発表の「點鬼簿」。前掲の「芥川龍之介全作品事典」の解説によれば、『徳田秋声は読後の感想を「作者が果してどれほどの芸術的興味をもつて筆を執つたものであるか疑はざるを得ない」「大いに飽き足りない作品である」』(『時事新報』[やぶちゃん注:引用本にはそのクレジットを『一九二六・一・九』とするが、この「一」は「一〇」の誤りであろう。])という悪罵に近い酷評を吐いているが(「近代日本文藝讀本」のトラブルの鬱憤が醒めない彼にして当然か)、『それに対して広瀬和郎』は『「文芸雑感」(『報知新聞』一九二六・一〇・一八~二〇)』で、『「小品の底に流れてゐる陰うつさは、芥川君のものとして珍しいもの」とし、「自分はその陰うつさに、ある感動を受けずにゐなかつた」と述べた』とある。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注では、『広津は「点鬼簿」について、「底にひそんでいる作者のさびしさはには、十分な真実が感ぜられ」、「それはわれわれと全然関係のないものではない」と好意的な批評を寄せた』とある(因みに石割氏は記事名を『文芸雑観』とされている。現物が見れないので何とも言えないが、「雑感」の方が正しいのではなかろうか?)。この手紙はその共感的好評への謝辞である。因みに、宇野浩二は「芥川龍之介」の一節(リンク先は私のブログ分割版の当該部分)で、『一と口に云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。』という龍之介が生きていたら、涙を流すであろう最高の讃辞をしている。無論、私も宇野の言う通りだと感ずる。私が大学時代、この旧「芥川龍之介全集」を全巻読破した際、深夜、人知れず、涙を流したのは、何を隠そう、この「點鬼簿」だったのだ! 因みに、私が落涙したのは、「三」の龍之介の姉で夭折した「初ちやん」の話と、擱筆の「四」の二箇所であった。

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十日・田端発信・阿部章藏宛

 

冠省高著を頂き難有く存じます。大抵女性にて拜見してをりますが、小閑を得次第改めて拜見したいと思ひます。頓首

    十月二十日      芥川龍之介

   水上瀧太郞樣

 

[やぶちゃん注:「阿部章藏」は作家「水上瀧太郞」(明治二〇(一八八七)年~昭和一五(一九四〇)年)の本名。彼は評論家・劇作家であると同時に、実業家でもあった。慶應義塾大学卒。在学中の明治四四(一九一一)年に永井荷風が主宰していた『三田文学』に発表した短編「山の手の子」で小説家としてスタートした。明治生命保険会社専務や大阪毎日新聞社取締役として、永く実業と文学を両立させた人物である。強い道義性と文明批評に特色がある。この大正十五年に、休刊が続いていた第二次『三田文学』復刊後は、同誌の精神的主幹とも呼ばれた。

「高著」この年に出た水上の単行本を調べてみたが、見当たらない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十二日・鵠沼発信・中根駒十郞宛

 

拜啓 校正遲れて申訣がありません 再校は見ても見なくつてもよろしいもう小說を書き上げたから見るなら今度は早く見ます都合でよろしく取計つて下さい 日記の件勿論承知それもよろしく願ひます

    十月廿二日      芥川龍之介

   中根駒十郞樣

 

[やぶちゃん注:「校正」新潮社から十二月刊行予定の随筆集「梅・馬・鶯」(実際の発行日は十二月二十五日)の初校と思われる。この日に社へ送付したものであろう。

「小說」直近のものでは、O君の新秋」(十月十一日脱稿。リンク先は私の古い電子化)である。「梅・馬・鶯」の「小序」は十月十五日に脱稿しているので、十七日以降のそう遠くない時期に初刷のゲラが届いているはずである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十九日・消印三十日・鵠沼・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十月二十九日 鵠沼海岸 芥川龍之介

 

冠省、きのふはじめて中央公論の散步を拜見、何かと君の心づかひを感じ、ありがたく思つてゐる。僕の頭はどうも變だ。朝起きて十分か十五分は當り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が氣がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂欝になつてしまふ。新年號をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない氣がする。ちよつと上京した次手に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の崇りもあるのだらう。この三四日碧童老人が泊りがけに來てゐる。小穴君もあひかはらず。僕は小穴君のフィアンセ(になるかどうかゴタゴタしてゐるが)に讀ませるつもりで「O君の新秋」を書いた。しかし原稿料も必要だつたから、小穴君の俳句を貰つて六枚合計三十圓にした。當分はこちらにゐるつもり。お次手の節はお立ち寄りを乞ふ。德田秋聲がまだ僕に崇つてゐるのには閉口した。以上

    十一月二十九日    芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:末尾のクレジットの「十一月」はママ。「散步」筑摩全集類聚版脚注に、佐佐木茂索の小説で『中央公論』十一月号に発表した旨の記載がある。

「精神鑑定」 俗に「精神の状態を検査すること」の意で用いられることがあるが、これは全くの誤用で、この語は元来、裁判の審理過程に於いて被告の責任能力・行為能力などの有無を判断するために、法廷から依嘱をうけた精神科医が行なう精神状態の診察・検査をのみ指すものである。

「小穴君のフィアンセ」さんざん注してきた哲学者西田幾多郎の姪の同じく哲学者であった高橋文子のこと。

「小穴君の俳句を貰つて六枚」O君の新秋」の末尾には、「O君」=小穴一游亭隆一の俳句七句が載る。この作品、最後のアスタリクスの後の部分は丁度、四百字詰原稿用紙で半枚分程となる。しばしば知られる通り、流行作家は字数ではなく、原稿用紙単位で稿料が決まった。最終原稿が有意に白紙が多いと、稿料に加算されなかったろうから、枚数を稼ぐために手抜きの裏技で原稿を増やしたというわけであった。

「德田秋聲がまだ僕に崇つてゐるのには閉口した」自身作であった「點鬼簿」への九日の徳田の痛罵が、龍之介に精神的にかなり深刻なダメージを与えていることが窺われる(このぼやきは翌月の書簡でも続いている)。但し、この「まだ僕に崇つてゐる」というのは、先に述べた「近代日本文藝讀本」の最強トラブルを受けて「まだ」と言っているのである。考えてみると、具体的に注していなかったので、ここで記しておくと、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「『近代日本文芸読本』事件」の項(関口安義氏執筆)によれば、同読本刊行後、穏やかならぬ風評が龍之介を悩ますこととなった。それは例えば、『「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」という妄説』であったり、『「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん」と不平をこぼす作家まで』生んだというのである。そして、『芥川攻撃の急先鋒は、徳田秋声であった。秋声は自然主義系の地味な作家であり、人気作家ではなかった。たまたまどういうわけか、秋声には』同読本の第五集に収録された「感傷的な事」の収録『許諾を求める手紙が届いていなかった。それ』に加えて、『同じ作家でも、日頃』、『陽の当たらない地位に甘んじなければならない不満もあって、発行所の興文社に強く抗議したのである。後年秋声はこの事件を振り返り、「あれは私にわたりがつてゐなかつたので私は抗議を申込んだ」』(『時事新報』昭和二(一九二七)年七月二十七日)『と書いている。芥川は秋声を自分の側にいる文壇人として認めていた。それだけに受けた打撃は大きかった』。龍之介の『人を見る目がやや甘かったと言われても仕方あるまい』とある。なお、金銭に細かく、しかも、潔癖であった龍之介は、最終的に、この秋声を始めとしたトラブルに対し、『興文社に借金までして』、同「讀本」に収録した百十九人の作家或いは著作権継承をした遺族全員に『〈薄謝〉を呈するという形で』、事後『処理』を施したのであった。その最たるボヤキが、先に出した大正一五(一九二六)年五月九日附の鵠沼発信の山本有三宛書簡であったのである。『あのお禮は口數が多いので弱つた。興文牡から少し借金した。編サンものなどやるものぢやない。唯今當地に義弟のゐる爲、しばらく女房と滯在してゐる。催眠藥の量はふえるばかり』。睡眠薬が日増しに増えるその一因としては、この「讀本」事件を除外することは出来ないのである。

2021/09/04

芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年九月二日・田端発信・室生犀星宛

 

冠省ちよつと東京にかへつたがまだ中々暑い今明日中に鵠沼へかへるつもり やつと小說らしいものを一つ書いた 今日は植木屋がはひつて刈りこみをしてゐる 體力稍恢復したれども腎氣乏し 奧さんお大事に

   秋の日や疊干したる町のうら

    九月二日           龍

   犀   君

二伸 唯今也寸志鵠沼にて寢冷發熱中、田端にては多加志腹をこわし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし。

 

[やぶちゃん注:「やつと小說らしいものを一つ書いた」果してこの表現がしっくりくるかどうかは別として、最も可能性があるのは、新全集の宮坂年譜でこの七日後の九日に『一応脱稿』とし、しかし、後の十五日頃に『再び推敲』したとある、翌十月一日発行の『改造』に載った私の偏愛する自伝的小品「點鬼簿」である(リンク先は私の古層の電子化)。彼が、この作品には推敲に推敲を重ねたことは、その出来上がりの素晴らしさからも確かなことで、日を挟みつつ、半月以上を要したことは腑に落ちるのである(後の書簡を参照)。筑摩全集類聚版脚注も、同作としている。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二日・田端発信・中根駒十郞宛

 

冠省。まだ佐藤君の所へ行かないならば、裝幀をたのむことは見合せて頂きます。どうも餘り勝手がましいし、もう一つは小穴君も今は多少の金でも必要ではないかと思ひますから。どうか佐藤君には西洋封筒の手紙だけ渡して下さい。それから又お次手によろしく言つて下さい。

    九月二日        芥川龍之介

   中根駒十郞樣

二伸 隨筆集の題は「梅・馬・鶯」とすることにしました。

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、「佐藤」は佐藤春夫で、当初、次回発刊予定の随筆集(ここで書名を「梅・馬・鶯」に決めたことを新潮社の支配人である中根に知らせた。発行はこの年の十二月二十五日)の装幀は当初、作家仲間の佐藤春夫に依頼して呉れるように中根に頼んでいたものらしい。しかし、この頃、『生活費に窮していた小穴隆一に』援助のため、ここで佐藤のところに依頼に行っていないのであれば、『変更してもらえるよう依頼した』ものである。

「西洋封筒の手紙」内容不詳。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月十日・鵠沼発信・土屋文明宛

 

朶雲奉誦。あの大家の婆さんは僕の所へ來て三十分も辯じて行つたよし、君もなやまされたらうと思つて大いに同情した。近々にぜひ來ないか。君が來ると、近々隨筆集を出すにつき、その中に入れる歌の甄別をして貰ふ。僕はあひかはらず元氣なく不愉快に暮らしてゐる。頓首

    九月十日       芥川龍之介

   土 屋 文 明 樣

 

[やぶちゃん注:「大家の婆さん」不詳なので、この一文は意味がよく判らない。

「甄別」「けんべつ」と読む。「甄」は「見分けたり、明らかにしたりすること」の意で、「明確に見分けること・よく調べて区別すること」を指す。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月十日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

冠省、東京へちよつとかへつてゐた爲、返事が遲れて相すまない。桂井さんに御願ひしたのは七もと櫻にあらず、黑猫と云ふのだつた。こちらはまだ中々暑し。この頃は弟の一家も來てゐる。小穴君も來てゐる。避暑客はもう大がい引き上げた。この間の句は二句とも捨てた(松風に、花はちす) 頓首

    九月十日       芥川龍之介

   室 生 照 道 樣

 

[やぶちゃん注:「桂井さん」桂井未翁(慶応四・明治元(一八六八)年~昭和二〇(一九四五)年)は俳人。これは俳号で、本名は健之助。金沢生まれ。芥川龍之介が大正一三(一九二四)年五月に金沢に室生犀星を訪ねた際に兼六園に滞在したが、それは桂井の世話によるものであった、と新全集の「人名解説索引」にある。

「七もと櫻」筑摩全集類聚版脚注に、『泉鏡花の小説。明治三十』(一八九七)『年新著月刊所収』とある。怪奇趣向を入れ込んだ変わった世話物である。

「黑猫」筑摩全集類聚版脚注に、『明治二十八年』の七月から八月の『北国新聞』に連載した『鏡花の小説、何れも「鏡花全集」編纂の用事』とある。怪談物歌舞伎のような作品であるが、現在の「鏡花全集」(私は所持している)でも、一部に欠落があり、完本は存在しない。大正十四年から、鏡花存命中の全集となる春陽堂版「鏡花全集」の刊行が始まっており、鏡花を敬愛した芥川龍之介は、その編集委員を務めた。その「鏡花全集」の最終配本は、まさに昭和二年七月で、それを見届けるように、龍之介は自らの命を絶ったのであった。

「弟」異母弟新原得二。母フユとともにこの月の上旬に移住してきた。それでなくても周囲が物理的に騒々しいところに、我儘な得二(この頃は日蓮宗に入れ込んでいた)が来て、またしても龍之介は煩わされることとがさらに加わることとなってしまったのである。

「室生照道」(てるみち)は犀星の本名。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月十六日・消印十七日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・九月十六日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

尊翰度々ありがたう。その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。點鬼簿に數枚つけ加へて改造に出したれど、その數枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり。目下小穴君例の件もあり、ヴアイオリンの家へ住んでゐる。これは感謝すれど、弟も亦あとから一家をあげて鵠沼へ來た。そこで鎌倉か逗子かへ移らんと思へど、家内ここを離れたがらず、移つては小穴君も困るだらうと思ひ逡巡決せず。多事、多難、多憂、蛇のやうに冬眠したい。御閑暇の節御光來を待つ。さもないと小生も東家へ義理が惡い。

     この頃一句

   据ゑ風呂に頸(くび)骨さする夜寒かな

    九月十六日          澄

   芸 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「小穴君例の件もあり」縁談話が進展しないために、ちょっとよく判らないが、東京にいて、龍之介とも逢えず、悶々とするのがいやだから、ということか。

「ヴアイオリンの家」芥川龍之介が借りている貸別荘の前の家。先行する書簡でその家から聴こえるヴァイオリンに閉口しているとあった。その借主が帰って、代わりに、小穴が入ったのである。『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』に、小穴の描いた面白い周辺図が載るので、是非、見られたい。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「鵠沼の芥川」に、『佐佐木茂索は芥川の死後「僕の澄江堂」の中で』、『このころのことを次のように記している』として、『「湯河原から一且帰京して又鵠沼へ赴いた。此時はまだ家を借りず、東家旅館に滞在してゐた。僕は東家[やぶちゃん注:引用原本にママ注記がある。「東屋旅館」が正しい。以下同じ。]へは以前から時々行つたので気易く、滞在中にはよく仕事かた』がた『訪ねて行つた。朝起きるのは別々だが、昼と夜とはどちらかの部屋で一緒に食事をし、病気の話と仕事の話を半分半分にして暮した。この頃『点鬼簿』の原稿を見せて『どうだらう、これを発表してもいいかしら』といふ風な事を訊ねた。身近かの者が取扱つてあるので、さういふ事が酷く気に病める様であつた。ずつと以前構想して其儘になつてゐる黒ん坊と織田信長が出て来る戯曲に再び手をつけたのも此処でである。少し書けると僕の部屋へ見せに来て、どうだいと訊いた。どの一枚を見ても、恐ろしく簡潔を極めたものだつたから、僕はもつと贅肉を入れた方がよくはないかと云ふ様な事を答へた。すると次には必ず書き直して来てこれでどうだと云つた。これは到頭仕上がらなかつた。未完成のまゝ『全集別巻』に収まることになつてゐるが」』とある。当時の芥川龍之介、及び名篇「點鬼簿」の逸話として、ここに引用させて貰った。「東家へ義理が惡い」というのも、本館から出て、しかも、普段は、本館へは出向かないから、佐佐木に来てもらって、せいぜい東屋旅館の方に泊まってもらえれば、旅館にとっても好都合ということであろう。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十二日・鵠沼発信・東宮豐達宛(葉書)

 

冠省御申越しの旨承知しました但「きりしとほろ」上人傳などはエスペラントになつてもなさり榮えがあるまいと存じますが 頓首

  九月二十二日 鵠沼にて 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「東宮豐達」既出既注

『「きりしとほろ」上人傳』既出既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十二日・鵠沼発信・土屋文明宛(葉書)

 

拜復、當日お待ち仕る故遊びに來てくれ給へ。この頃大正十年頃の「アララギ」を見たら、「傾ける麓の原」の歌の原作が出てゐた。大分手を入れたね。匆々。

    九月二十二日夜    芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:『「傾ける麓の原」の歌』私は土屋文明の歌集を所持しないので不詳。私は、基本、短歌嫌いである。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十二日・消印二十三日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・九月二十二日夜 くげぬま 芥川龍之介

 

冠省、二三日前堀の辰ちやんが來て一晚とまつて行つた。その時君の御光來あるよし承つたが、僕は二十六日か七日かにちよつと上京するつもり。行きちがひになるといけない故、この手紙を差し上げることにした。けふも亦屁をしたら、便が出てしまつて、氣を腐らせてゐる。屁の話のあとにて失禮だが

讀脣難は「亡びる」よりも感服。「女性」中の傑作かも知れない。頓首

 

    九月二十二日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「讀脣難」「どくしんなん」か。筑摩全集類聚版脚注に、『佐佐木茂索の小説。「女性」十月号に発表』とある。国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。

「亡びる」筑摩全集類聚版脚注に、『同右。「中央公論」九月号に発表』とある。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十三日・鵠沼発信・麻生恒太郞宛(葉書)

 

冠省、高著頂戴いたしたよし、まだ東京から送つて來ませんが、落手し次第拜見したいと存じます、右とりあへず御禮まで 頓首

        鵠沼イの四號  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「麻生恒太郞」(明治三六(一九〇三)年~?)は詩人・小説家。詩集「風の中」( 昭和六(一九三一)年七月十日詩と人生社発行)や(ネット情報)、新全集の「人名解説索引」には、昭和二九(一九五四)年に、『麻生鋭の名前で』、『「世界メシヤ教」の物語である小説「光は大地に」を刊行している』とある。

 また、この下旬頃には、「イの四号」から、裏手にある二階家の貸家に転居している。

 なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、この九月下旬に鵠沼の芥川龍之介を訪ねた折りの「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)で、龍之介は「肉体の衰へは正視するのもいたはしい」ようだったとし、以下の引用を載せる(恒藤はパブリック・ドメイン)。『芥川の自殺した時から数へて十一ケ月ばかり前の大正十五年九月二十六日に私はサン・フランシスコで乗り組んだ郵船大洋丸から下船して、横浜に上陸した。それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川をたづねたが、三年振りに会つた彼の容貌は、三年まへの其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月がそのあひだに経過したやうな気がした(略)』(「略」は鷺氏によるもの)『元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのもいたはしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向おとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつたやうな調子で文壇のありさまなどを話して呉れた。しかしまた、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた』。『ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣をただよはしてゐて、昼食を共にしたりしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁(とど)め得なかつた』。『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』とある。鷺氏は最後に、『これが恒藤の芥川に会った最後であるが、のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという』と添えられてある。

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