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カテゴリー「芥川龍之介 書簡抄」の173件の記事

2023/01/17

芥川龍之介書簡抄158 追加 大正六(一九一七)年十月七日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:現在、進行中の恒藤恭「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介書簡集」のための追加電子化はこれで終わる(残りの六通は既に本カテゴリの本チャンで総て電子化済み)。]

 

大正六(一九一七)年十月七日・消印八日・京都市外下加茂村松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣 十月七日 芥川龍之介

 

拜啓

今日又東京へかへつて來た 態々難有う

あらしはずゐぶん東京がひどかつた 本鄕藪下のよく君と散步した通り(まつすぐゆくと森さんの家の前へ出る細い通り)ではあの大きな欅が三本根元からひつくり返つて向う側の家を二つつぶしちまつた 大學の木も大分やられた 上野もひどい 銀座の柳がならんで何本も仆れたのも奇觀だつたし朝方々の看板が往來へたくさん落ちてゐたのも盛だつた 僕のうちは垣根が仆れた丈だが前の柏倉(屋根に鳩のあるうち)では庇が何間か風にさらはれてうちの中へ雨が土砂降にふりこんださうだ うしろの小山巽道君の庇も風にやられて画を大分痛めたらしい

學校の方は大分忙しくなつた 和文英譯を敎へるんだからやりきれない 近々大阪每日へ半月位の豫定で短篇をかく

雅子さんによろしく頓首

    十月七日                 芥 川 龍 之 介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:「本鄕藪下」「まつすぐゆくと森さんの家の前へ出る細い通り」源氏の東京都文京区千駄木にある「藪下通り」(グーグル・マップ・データ)。北部分に旧森鷗外邸(観潮楼)があった(現在は「文京区立森鷗外記念館」)。

「柏倉」不詳。

「小山巽道君」画家らしいが、不詳。

「學校」横須賀海軍機関学校。

「短篇」「戯作三昧」(リンク先は私の作品集「傀儡子」版)。『大阪毎日新聞』夕刊に大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日(十月二十二日は休載)まで計十五回で連載された。

「雅子」恒藤の妻。]

芥川龍之介書簡抄157 追加 大正六(一九一七)年九月四日 井川恭宛

 

大正六(一九一七)年九月四日・消印五日・京都市下加茂村松原中ノ町八田方裏 井川恭樣 侍史・九月四日 かまくら海岸通野間方 芥川龍之介

 

 君に隱遁を賛成されて大にうれしくなつたから、この手紙を書く。

 隱遁にかけては どうも東洋の方が西洋の方より進步してゐるやうだ 僕は同じ隱遁でも 西洋の坊主のやるやつは余り同情がない。エピクロスが地面を買つて 庭を造つて、お弟子と一しよにぶらついたのなどは 西洋にしては白眉だが 東洋にはざらにある 殊に支那人はその方面では大したものだ 王摩詰君などの高等遊民ぶりは實にうらやましい(陶君は田野にくつつきすぎて 僕には稍緣が遠い)

 林泉の間に徘徊して、暇があれば本でもよんでゐるんだと、僕だつてもう向上するんだが、この頃のやうに鬼窟裡に生計ばかり營んでゐたんぢやとても駄目だ 君は僕があまり書かないと云つたが、浮世の義理で やつぱり殆月々書かされてゐるよ 今月も黑潮と中央公論と二つ書いた それから新潮に日記を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせてよんで貰ふ。

 どうも日本では、隱遁がブルヂヨオアの手に落ちて以來、墮落したね ポピユラライズはヴアルガライズだつた形があるよ 德川時代も元和頃には詩仙堂の大將なんぞがゐたが、追々市井の隱居なるものが勢力を得て來て 大に隱遁道が低級になつて來た。まづ元祿の芭蕉が、最後の偉大なる隱遁家だらうと思ふ まてよ、そのあとにも九霞山樵がゐる 高芙蓉がある。どうも僕の隱遁史は少し怪しいやうだ

 雅子さん御懷胎の由結構な事だ 僕の友人の細君で、今つはりで弱つてゐるのが二人ある。一人はフラウ・アカギだ

 僕も家を持つと どうせ貧乏人だから消極的に細々とやつて行かなけりやならない それでも下宿生活よりましだらう 下宿生活位天下に索漠蕭瑟たるものはないね パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌なものを書かなかつたのは當然すぎる事だよ

 かくと云へば かく事は澤山あるんだが、中々かけるやうに形態を備へて來ない それに時々 腰がふらついていけない ふらつかない氣でも あとで氣がついて見ると ふらついてゐるんだから駄目だ こないだシヤヴアンヌが惡評はよまずに燒いてしまつて どんどん仕事をしたと云ふのをよんで以來 僕もその方法を採用してゐる 印象派全盛の中で、あんな画をかきつづけるには、さうでもしなかつたら 駄目だらう 僕も批評と云ふ方面でだけ現代と沒交涉になつて、益自由を尊重して行かうと思つてゐる

 僕はこの頃大雅の画に推服し盡してゐる あいつ一人 どうしてあんな時代に出たらう 雪舟とくらべたつて、或はだと思ふ 一步すすめて、夏珪や牧溪にくらべても或はだと思ふ それから字もあの男は馬鹿にうまいね[やぶちゃん注:以下の丸括弧二つは底本では繋がった大きな「(」。これはしかし、芥川龍之介自作の漢詩の二句目の「四十九年非」に対する注指示の記号であって、「二十六年非」(この時、芥川龍之介数え「二十六」歳)としたのでは、「平仄が合はない」からこうした、という注記である。]

         (二十六年非ぢや平仄が合はない

   卽今空自覺 (四十九年非

   皓首吟秋宵  蒼天一鶴飛

 隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ

   心情無炎暑

   端居思瀞然

   水雲凉自得

   窓下抱花眠

    九月四日

   井 川 恭 樣                 龍

 

[やぶちゃん注:「かまくら海岸通野間方」既に注した由比ガ浜和田塚近くの下宿であるが、この十日後、横須賀市汐入の下宿に移っている。

「エピクロス」Epikouros(起源前三四一年~紀元前二七〇年)はギリシアの哲学者。紀元前三一一年頃んいミュティレネに学派を創始し、同三〇六年にはアテネ郊外の庭園に移った。それに因んで彼の学派は「庭園学派」と呼ばれる。デモクリトスの原子論を根底とし、霊魂をも、物体とする唯物論者であり、感覚を知識の唯一の源泉、且つ、善悪の標識とした。そこから有名な「快楽主義」が生れたが、その快は、煩いを伴うものであってはならないとして、享楽であるより、苦しみのない心の平静でなくてはならないとした。そこで彼は、来世を否定し、死に対する恐怖を断ち、神々を恐れる迷信を乗越え、自ら神々の平静さに与かろうとした。この努力により、彼は「魂の救済者」という名声を得、その範例的生故に人々の尊敬を集めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「王摩詰君」知られた盛唐の詩人王維の字(あざな)で「わうまきつ」と読む。

「陶君」私が高校時代から偏愛する魏晋南北朝(六朝)時代の東晋末から南朝宋の頃の詩人陶淵明。

「鬼窟裡」「鬼窟」は「知識が開けず、ものの道理に冥いこと。また、そうした場所・仲間」の意で、転じて「くだらないこと・存在」の意に用いるので、ここは「俗世間」の意である。

「今月も黑潮と中央公論と二つ書いた」九月一日発行の『黒潮』に発表した「二つの手紙」と、同日発行の『中央公論』に発表した「或日の大石内藏助」(リンクは前者が「青空文庫」(但し、新字新仮名)、後者は私の古いサイト版で正規表現版でオリジナル注附き)。前者は芥川龍之介の最初のドッペルゲンガー小説である。因みに芥川龍之介は後年、自身のドッペルゲンガーを見たと証言している。私のブログ版『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を参照されたい。一方、後者は、私が中学時代にこのシークエンスを選んで心理分析した龍之介に大いに感心した佳品である)。

「新潮に日記」九月一日発行の『新潮』に発表した「田端日記」。

を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせてよんで貰ふ。

「ポピユラライズ」popularise。フラットな意で、「一般化する」。

「ヴアルガライズ」vulgarize。批判的謂いで、「卑俗化する・俗悪化にする・通俗化する」。

「元和」江戸前期の「慶長」の後で、「寛永」の前。一六一五年から一六二四年まで。徳川秀忠・徳川家光の治世。

「詩仙堂の大將」石川丈山(天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は元武将で文人。三河生まれ。「大坂の陣」の後、浪人となった。一時は浅野家に仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲し、丈山と号した。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「九霞山樵」南画家・書家として知られる池大雅(享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の別号の一つ。

「高芙蓉」(享保七(一七二二)年~天明四(一七八四)年)は甲斐高梨生まれの儒者で篆刻家・画家。出生地に因み、姓を「高」とした。 二十歳の頃に京都へ移住し、儒学・金石学・篆刻・書画・武術を独修した。儒学者として立つのが本意であったが、寧ろ、余技とした篆刻・作画で知られた。篆刻は秦・漢の古印の復古を志し、当時、日本で盛んだった明の刻風を一変させ、「印聖」と称された。絵画は宋元画を臨模し、柔軟な感覚による清楚な作風で知られる。池大雅・円山応挙など、当時の文人と広く交わり、指導的役割を果した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「雅子さん」恒藤の妻。当時は数えで二十歳。

「フラウ・アカギ」「フラウ」はドイツ語の“Frau”で「夫人・妻」の意。「アカギ」は評論家赤木桁平。昨日公開した「芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛」の私の注を参照。

「蕭瑟」(せうひつ(しょうしつ))は、元は「蕭」が風や落葉のものさびしい音の形容で、「瑟」は「大形の琴」であるが、もの淋しい音がすることから、これで「秋風がものさびしく吹きすさぶこと」を言う。組んだ「索漠」と同じ。

「パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌なものを書かなかつた」さんざん注したアイルランドの劇作家で詩人のジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)は一八九四年にパリ大学に留学し、一九〇三年に故国に戻っているが、この間に彼は、事実、碌なものを書いていない。但し、一八九六年にと翌年の二度、アラン諸島を訪づれており、これが後年の名作「アラン諸島」(The Aran Islands :一九〇七年)を生んだ。私は同作の姉崎正見訳を、こちらのサイト版(三部分割)、及び、ブログ版で電子化注を古くに終っている。なお、その一八九七年に彼は宿痾となるホジキン・リンパ腫を発症している。実際、彼の優れた作品は総てアイルランドに戻って以降に書かれたものである。私は特に、戯曲「聖者の泉」(三幕)がすこぶるつきで好きで、芥川龍之介が最後に愛した松村みね子(片山廣子)訳をサイトで公開してある。

「シヤヴアンヌ」フランスの画家ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)。

「夏珪」(生没年不詳)は南宋の画家。杭州銭塘県出身。南宋の都の臨安の画院で、寧宗の時代に活躍し、特に山水画で知られる。当該ウィキによれば、『北宋期の風景画が大観的な視点から描いているのに対し、夏珪の画の多くは、画の一角に風景を描き』、『多くを余白にした(「辺角の景」)』とある。

「牧溪」表記は牧谿(生没年不詳)が正しい。十三世紀後半の南宋末・元初の僧。法諱は法常。当該ウィキによれば、『水墨画家として名高く、日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されてきた画家の一人である』とあり、彼の山水画は、本邦では、古くからもてはやされた。『鎌倉時代末には日本に伝わっ』ており、十四『世紀中頃には贋作が多く作られるほど人気を呼び、当時の文献でただ「和尚」といえば牧谿のことを指すほど親しまれた。記録も数多く残り、牧谿作品の来歴もかなり正確に知ることが出来る』とし、『牧谿のモチーフの中でも猿は非常に人気があり、雪村や式部輝忠といった関東水墨画の絵師たちも多くの作品を残している。最も熱心に牧谿を学んだ絵師は長谷川等伯で』、『「等伯画説」でも多くの項目を牧谿に充て、明らかに牧谿の影響を受けた作品が数多く残る。傑作「松林図屏風」』(私の偏愛の屏風)『もその成果が結実した作品と看做せよう』。『現在、牧谿の優品はほぼすべて日本にあり、国宝、重要文化財に指定された作品も多い。中国・台湾・欧米にも伝称作を含め』、『牧谿の絵はほとんど存在しない』とある。

「卽今空自覺」「四十九年非……」の漢詩は、私のサイト版「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「十四」で教え子も加わって、かなりディグしてあるので、是非、参照されたい。

「心情無炎暑 端居思瀞然……」同前のリンク先の「十三 乙」を参照されたい。これには別稿があり、それがその前の「十三 甲」である。

 なお、言っておくと、この書簡が書かれた同じ日に、芥川龍之介は婚約者塚本文に手紙を書いている。「芥川龍之介書簡抄79 / 大正六(一九一七)年書簡より(十一) 塚本文宛三通」を見られたい。]

2023/01/16

芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:ここで一言言っておくと、私が「芥川龍之介書簡抄」を昨年作った際のコンセプトは「私が気になる書簡」を選ぶことであった。また、それ以前に私はオリジナルに「芥川龍之介俳句全集」(こちらで全五巻)と、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」、及び、芥川龍之介漢詩全集」を作成した際、俳句・短歌・漢詩に関しては、岩波旧全集と岩波新全集(こちらは新字体が気持ちが悪いので買いそびれて数冊しか所持していないが、当時、勤務していた高校の図書館で借りた)の書簡を総て精査し、それらは漏らさず採ったと考えているため、それらは、原則、書簡の俳句・短歌以外の部分に「気になる」箇所がない限り、その書簡は外してあるのである。逆に、詩篇については、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」では、書簡を渉猟対象から外しており、冒頭注でも『「全詩集」では毛頭ないことを断って』あり(但し、私はブロブ・カテゴリ『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』も手掛けており、手を抜いているわけでもないことは言っておく)、詩篇と判断されるものが断片でも含まれるものは概ね採用したのである。「追加」が生じているのは、概ね現在は進行中の恒藤恭「旧友芥川龍之介」に芥川龍之介の恒藤(旧姓井川)宛書簡が多量に出現するために、ちゃんと私の電子化注した原書簡が、別記事と比較並列でき、さらに一括で調べられるようにするための「追加」の仕儀なのであることを御理解戴きたい。見かけや体裁だけを繕うための自慰行為ではないことを明言しておく。]

 

大正六(一九一七)年八月二十九日・消印三十日・京都市外下加茂松原中ノ町 井川恭樣 八月廿九日 芥川龍之介

 

御無沙汰した

雅子さんも相不變御壯健な事と思ふ 僕は暑中休暇を全部東京で費した 赤木の桁平さんと京都へ行くつもりだつたが向うにある事件が始まつたので行けなくなつた 松島見物にゆく計畫もあつたが矢張おじやんになつた

東京では每日本をよんだりものを書いたりして甚[やぶちゃん注:「はなはだ」。]太平に消閑した 消極的に屋内にばかりゐたから芝居とか何とか云ふものには一向足を入れなかつた 人にもうちへ來たお客のお相手をした丈で諸方へ甚御無沙汰をした 每日暑い思をして橫須賀の町をてくてく步いてゐたあとだから東京の暑さも大して苦にならなかつた 胃の具合も大へんに好い 槪して鎌倉住みになつてから体が丈夫になつたやうだ

來年の三月頃鎌倉へうちへ[やぶちゃん注:ママ。]持つ筈だがまだ漫然とした豫想だけで少しも確實にはなつてゐない しかし下宿生活は心そこから嫌になつた

実は學校もやめてしまつて閉靜に暮したいのだがいろんな事情がさう云ふ事を許さない 花に浣いだり[やぶちゃん注:「そそいだり」。]本を讀んだりしてばかりゐられたらさぞ好いだらうと思ふが思ふだけだから悲慘だ 僕は元來東洋的エピキユリアンだからなこの間も支那人の隱居趣味を吹聽した本を讀んで大に同情した

東京でぶらしてゐた[やぶちゃん注:ママ。]間に義理でつくつた俳句を御らんに入れる これを臆面もなく画帖や扇子へ書きちらかしたんだよ

   諭して曰牡丹を以て貢せよ

   あの牡丹の紋つけたのが柏莚ぢや

   牡丹切つて阿嬌の罪をゆるされし

       ×

   魚の目を箸でつつくや冴返る

   後でや高尾太夫も冴返る

   二階より簪落して冴返る

       ×

   春寒やお關所破り女なる

   新道は石ころばかり春寒き

       ×

   人相書に曰蝙蝠の入墨あり

       ×

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

あとは忘れちまつた 頓首

    八月廿九日            芥 川 龍 之 介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:「雅子さん」恒藤恭の妻恒藤雅(まさ 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。日本最初の農学博士の一人であり、本邦の土壌学の創始者にして「ラサ工業」を設立したことで知られる恒藤規隆(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)の長女。著者は彼女の婿養子として大正五(一九一六)年十一月に結婚、井川から恒藤姓となっている。

「赤木の桁平さん」赤木桁平(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年:芥川より四つ年下)は評論家、後に政治家。ウィキの「赤木桁平」によれば、『本名は池崎忠孝。初めて夏目漱石の伝記を書いた人物として知られ、漱石門下で一歳違い(赤木の方がとし上)という近さから、芥川龍之介との交流も頻繁で、書簡のやり取りも甚だ多い。衆議院議員を戦前・戦中に三期務めた。『岡山県阿哲郡万歳村(現・新見市)生まれ。東京帝国大学法科大学卒業、在学中夏目漱石門下に入り、漱石命名による「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも』、大正五(一九一六)年の『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」が有名である。これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後』、家業のメリヤス業を継いだが、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選、第一次『近衛内閣で文部参与官を務めた』。これ以前、昭和四(一九二九)年以降は本名の池崎忠孝で『日米戦争を必然とする立場から盛な著作活動を行な』った。戦後はA級戦犯に指定され、『巣鴨プリズンに収監され』たが、『後に病気のため釈放され』たものの、『公職追放となり』、『そのまま不遇のうちに死去』した、とある。なお、芥川龍之介の書簡では、宛名の関係上、本文内を除くと、本名の池崎忠孝の表記で見かけることの方が遙かに多い。

「向うにある事件が始まつたので行けなくなつた」「松島見物にゆく計畫もあつたが矢張おじやんになつた」とあるのは共通の赤木絡みか。単に「向う」を場所の「京都」に何か「事件が始ま」ったから行けなくなったなら、反対方向の「松島見物」がおじゃんになった理由が説明できないから、違う。ということは、「向う」は「赤木」の方に生じた「事件」ということになろう。当該ウィキによれば、『東京帝大卒業後』のこの大正六年に『『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた』が、『養家の長女との結婚を養父母に反対されるも』、『妊娠がわかり』、翌年に『入籍、長男修吉誕生。帝劇女優とのゴシップを起こしたことをきっかけに退職した』とある。この記載はやや長い期間を圧縮しているのかも知れぬが、赤木側の何らかのトラブル(彼は以上のように文壇でもトラブル・メーカーであった)が原因であった可能性が高いように私には感じられる。

「鎌倉住みになつてから」芥川龍之介は海軍機関学校就任から暫くの間、鎌倉和田塚近くの洗濯屋に下宿していた(但し、通勤に時間がかかるためと思われるが、この書簡の半月後の大正六年九月十四日、職場に近い横須賀市汐入の下宿に移っている。『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その8・その9) /「八 嵐山のはるさめ」「九 帰京後の挨拶の手紙」』の前者の私の注を参照)。

「來年の三月頃鎌倉へうちへ持つ筈だがまだ漫然とした豫想だけで少しも確實にはなつてゐない」翌大正七(一九一八)年の二月二日に文と結婚し、十三日には大阪毎日新聞社社友の件が決まり、月末には名作「地獄變」を起筆、三月には鎌倉大町辻の旧小山別邸内(グーグル・マップ・データ:因みに、私の父方の実家はこの直ぐ近くである)に転居した。

「浣いだり」「そそいだり」は、「水をやる」というのでなく、その美しい花を「眺めては心を浣(あら)う」の意である。

「エピキユリアン」epicurean。狭義には、古代ギリシアの哲学者エピクロスの哲学説を信奉、継承する人をいう。則ち、その原子論的自然観と快楽主義的倫理観を継承する人であり、近代ではガッサンディ、ホッブズ、コンディヤックがその代表者である。広義には、快楽主義、享楽主義的な生き方を信条とする人をいい、粗野な肉体的快を追求する者である場合も、洗練された精神的快を追求する者である場合もある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「支那人の隱居趣味を吹聽した本」不詳。

「諭して」「さとして」。「教え導いて」。なお、以下の句については、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」の「三一四 八月二十九日 井川恭宛」の私の注を参照されたい。]

芥川龍之介書簡抄155 追加 大正六(一九一七)年四月一日 井川恭宛

 

大正六(一九一七)年四月一日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

拜復

ボクの病氣はもう大へんいゝから安心してくれ給へ。一時 三十九度五分も熱が上つて悲觀したが

藤岡君の件について藤岡君にさうする意志さへあれば確にいい緣談だと思ふ いや僕は君の妹さんをよく知らないからその知らないことも勘定に入れての上でだが

但藤岡君には今緣談が一つあつてそれが着々進行中らしい どの程度まで進行してゐるか最近に會はないから知らないがもう見合ひもすみはしないかと思ふ 僕はあした東京を去らなげればならないので會つてゆくひまがないが君の妹さんの事には少しも touch しずに今の緣談がどの位進んでゐるか手紙で聞いて見てもいい

もし或程度まで進んでゐるとすると僕はそいつを打壞すのはとても恐しくて出來ない

ボクはどんな意味でも人の運命に交涉を持つ事にはこの頃益々神經質になりつゝある。

まだ病後の疲勞が囘復しないせゐか、何としても疲れ易い。これでよす。

それから今月の中央公論へ出した僕の小說は大に自信のない事を廣告しておく。

    四月一日夜          龍

 

[やぶちゃん注:最後の署名は下四字上げインデントであるが、引き上げた。この「転載」については、底本の岩波旧全集の後記に、岩波の第三次新書版全集(昭和二九(一九五四)年から翌年にかけて刊行)で、「一時 三十九度五分も熱が上つて悲觀したが」の箇所から「とても恐しくて出來ない」までの部分が『(中略)』となった状態で公開されていたものを、後の角川書店版「芥川龍之介全集別巻」(昭和四四(一九六九)年刊)で、完全版が補塡され、それにに基づいたものである旨の記載がある。

「ボクの病氣」体温から想像出来る通り、前月三月末にインフルエンザに罹患して発熱し、前年十二月に着任した海軍機関学校も一週間ほど休んでいた。

「藤岡君」藤岡蔵六(ぞうろく 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)のことであろう。愛媛県生まれで、一高以来の井川とも共通の友人で哲学者。東京帝大哲学科を卒業後、ドイツに留学し、帰国後、甲南高等学校教授となった。「芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通」の「明治四五(一九一二)年六月二十八日・井川恭宛」の私の彼の注を見られたいが、低人氏のブログ「あほりずむ」の「藤岡蔵六」によれば、芥川・恒藤とともに「一高の三羽烏」と称された才人であったが、『和辻哲郎に学者生命を絶たれた』と穏やかならぬ記載があった。その紹介本である関口安義「悲運の哲学者 評伝 藤岡蔵六」(二〇〇四年イー・ディー・アイ刊)を見れば判りそうだが、藤岡と恒藤の妹の縁談話がどこが発端の起点なのかが判らないが、あったようである。ところが藤岡には同時に別な縁談話があって「それが着々進行中らしい」と釘を刺した上、「どの程度まで進行してゐるか」は「最近」彼とは逢っていないから判らないとしつつも、さらに「もう」そっちの方の「見合ひも」そこそこに済んでおり、そのまま進むように思うと、警告染みたことを記している。それを悪く感じたか、よかったら、「君の妹さんの事には少しも」触れ「ずに今の」そっちの方の「緣談がどの位」まで「進んでゐるか」を藤岡に「手紙で聞いて見てもいい」と思いやりめいた言い添えをしている、一方、しかし、「もし或程度まで進んでゐるとすると」、「僕はそいつを打壞すのは」、「とても恐しくて出來ない」し、僕「はどんな意味でも」、「人の運命に交涉を持つ事には」、「この頃」、「益々」、「神經質になりつゝある」からと多重の忌避感丸出しのダメ押しをしている。これは二年前の春の吉田彌生との忌まわしい破局がフラッシュ・バックしているのは明らかであり、私が彌生との破恋がトラウマとなっていることを如実に示している、龍之介にしては、珍しい妙に捩じくれた雰囲気のある文章となっているところが興味深い。「病後の疲勞が囘復しないせゐか、何としても疲れ易い」から「これでよす」というのも、弁解のために添えた印象で、こうした縁談のゴタゴタには触れたくないという本音が見え見えである。吉田彌生との一件は、それほどの心の疼き続ける傷痕となっていたのである。

「今月の中央公論へ出した僕の小說」この四月一日発行の『中央公論』に発表した「偸盗」の第一回分を指す(「一」~「六」。第二回分は七月一日発行の同誌で「續偸盗」で「一」~「三」)。龍之介は執筆の最中からこの作品に不満を持ち、初回発表前後、ここにある通り、複数の友人に出来に不信を示す言葉を書いている。七月分公開後もこの不満は膨らみ、龍之介は早期から全面的に改作する強い希望を持っていたが、結局、着手することなく、「未完」と称されることと、現在はなっている。但し、私は、若き日に読んだ折り、「偸盗」を断絶した未完とは感じなかったし、寧ろ、精緻に計算された冷徹な「羅生門」や「芋粥」などよりも、遙かに血の匂いのするもの凄い、これはこれで完結された〈王朝物〉の名篇とさえ感じている。]

2023/01/15

芥川龍之介書簡抄154 追加 大正三(一九一四)年六月十五日 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年六月十五日・井川恭宛・封筒欠

 

こつちも試驗で忙しい 心理なんか大抵よまない所が出て悲觀しちやつた 六十点とれたかどうかそれさへわからない 苦しむと云ふ事と覺えると云ふ事とは別々な現象で其間に必然的な關係はない それを必然的な關係があると誤斷してその上にそれをひつくりかへして苦めさへすれば覺えるとしたのが試驗制度だ 此意味で試驗問題をつくる人は中世の INQUISITION の判官にひとしい 事によると更に下等かもしれない 何となれば試驗は陋烈な復讐心が其行爲を規定する主なフアクタアになつてるからだ 自分も試驗で苦しんだから 若い奴もと云ふやつだ――何とか云ふが兎に角理屈はぬきにしていやなものはいやだ

靑木堂で岩本[やぶちゃん注:底本岩波旧全集にママ注記がある。]さんにあつたら「人間の頭ちふものは大がい際限のあるもんで午前中よりきかんものだ それを午すぎに講義をするなんちふ奴はする奴もする奴だがきく奴もきく奴さなあ」と云つた それから「おらあ自分でやる授業でも午すぎのやつはでたらめをしやべつてるんだが そのわりに間違はないものだぜ」と云つた 何だか酒屋の番頭に羊羹の拵へ方をきいてるやうな氣がした

石田君は勉强して特待になる 谷森君は今日の心理で僕位しくぢつたが なるかもしれない 久米はなまけてゐて八單位とるさうだ

みんなよく一朝事あるときに平生の生活狀態の均衡をやぶつて顧ないでゐられる この頃僕は肉体的にも精神的にもそんな勢がなくなつてしまつた

プリフエアのところへ行つたら伊太利亞語をやらなくつちやあだめだと云はれた 西班牙語の詩をよんできかせられた 西班牙語が南の語では一番やさしいさうだ 一つ伊太利亞語西班牙語でもはじめるかなと思つたが今はもうそんな氣はしなくなつた しかし伊太利亞語がよめるとちよいといゝな

新思潮は一册君の國のうちへおくつた 試驗がこつちより早くすんで二十日前にはもう君が宍道湖のある町へかヘつてゐるだらうと思つたからだ 例によつて同人一人につき雜誌一册しかもらへないのだから

あと一册は今手許にないのですぐに送れない あさつて試驗で學校へゆくからその時にする この手紙より二三日遲れるだらう

あさつてコツトの希臘羅馬文學史の試驗がある こいつも大變だ セオクリタス アポロニウス サイロピデア シンサス アプレリウス――人の名だか本の名だか地名だかわすれてしまふ とりあへず

    六月十五日夜

   井 川 恭 樣          龍

 

[やぶちゃん注:「こつちも試驗で忙しい」当時は進級は九月であったから、ここは学年末試験。

「INQUISITION」縦書。「インクィズィション」は西洋中世の「宗教裁判」「異端審問」の意。

「靑木堂」筑摩全集類聚の注に、『震災まで本郷にあった』、『階下が食料品店で』、『階上が喫茶店』とある。

「岩本さん」一高のドイツ語及び哲学担当の教授であった恩師岩元禎(てい 明治二(一八六九)年~昭和一六(一九四一)年)。『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「八」』の「岩元さん」の私の注を参照されたい。

「何だか酒屋の番頭に羊羹の拵へ方をきいてるやうな氣がした」龍ちゃん! 座布団二枚!

「久米はなまけてゐて八單位とるさうだ」今もそうだろうが、今の単位制採用の高校などでも見られる、例えば、二年生までに取れる、或いは、取らねばならない単位の上限・下限が規定されており、その下限が「八単位」或いは七単位なのであろう。

「みんなよく一朝事あるときに平生の生活狀態の均衡をやぶつて顧ないでゐられる」嘗つての学制では、旧制高校も含め大学等は正規学年次をオーバーするのは、それほど劣悪なことではなく、大学では落第だけでなく、自主的に留年する者も多かった。

「プリフエア」アルフレッド・ウィリアム・プレイフェア(Alfred William Playfair 一八六九年(ある資料では一八七〇年)~一九一七年)はカナダの英文学者で

一九〇五年に来日し、慶應義塾大学文学科で教えていたが、ジョン・ローレンス(John Lawrence 一八五〇年~一九一六年・イギリス人教師。帝国大学文科大学での芥川龍之介の最初の教師であった。「芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡」の「ローレンス」の私の注を参照)の急死後、東京帝大にも出講しており、後の大正五(一九一六)年から翌年にかけては正式に東京帝大学文科大学の英語・英文学の教師として在職している。

「南の語」欧州の南の地域の言語の中でという意か。

「コツト」ジョセフ・コット(Joseph Cotte 一八七五年~一九四〇年)はフランス人で、明治四〇(一九〇八)年に来日し、翌年に帝国大学文科大学でフランス語・フランス文学を講義した(在職は大正一一(一九二二)年まで)が、この龍之介の謂いからみて、筑摩類聚版にあるように、英語による『近世ヨーロッパ文学史の講師』もしていたようだ(筑摩版の『明治四十二年来朝』というのは、私の見た二資料から否定される)。

「セオクリタス アポロニウス サイロピデア シンサス アプレリウス――人の名だか本の名だか地名だかわすれてしまふ」と、かの芥川龍之介が言うのだから、これに注を附すのは野暮というものであろう。因みに、私の高校時代の社会科選択は「地理」(地理Bまでしっかり三年間やった)と「政治経済」である。]

芥川龍之介書簡抄153 追加 大正三(一九一四)年四月二十一日 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年四月二十一日(消印)・京都市吉田京都大學寄宿合内 井川恭樣・新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

昨夜ノラとハンネレとをみた

孔雀のノラ一人であとは皆下手だつた ハンネレに至つては舞臺監督の此脚本の解釋が疎漏であるばかりでなく道具も演出法も甚貧弱なものであつた 第一ハンネレのゴツトワルドに對する love を省いたのなどはハウプトマンに對する冒瀆の甚しいものであらう 最後に勸工場の二階のやうな天國で寒冷紗の翼をはやした天使が安息香くさい振香爐をもつて七八人出て來たときにはふき出したかつた位である

 

長田幹彥氏の祇園をよんだ つまらなかつた

 

シングをよろしく願ふ 山宮さんもかへつて來た

 

すゞかけの芽が大きくなつた 今日から天氣が惡くなると新聞に出てゐる 雨がまたつゞくのだらう

 

佐野はほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に退學になつた 何でも哲學科の硏究室の本か何かもち出したのを見つかつて誰かになぐられてそれから退校されたと云ふ事だ 卒業の時のいろんな事に裏書きをするやうな事をしたから上田さんも出したのだろ

其後おとうさんがつれに來たのを途中でまいてしまつて姿かかくしたさうだが又淺草でつかまつて東北のおぢさんの所へおくられたさうだ かはいさうだけど仕方がなかろ あんまり思ひきつた事をしすぎるやうだ

 

二食にしてから弁當が入らないので甚便利だ 之から少しべんきやうする

いつか君がワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」と云ふ句をいゝと云つたろ あれはエンシエント マリナーの中の句だ アアサア ランサムが「ワイルドの竪琴は借物だつた」と云つたのも少しはほんとらしい

 

からだの具合もいゝ 御健康を祈る

   恭   君             龍

 

[やぶちゃん注:最後の署名は四字上げ下インデントであるが、引き上げた。

「ノラ」ノルウェーの劇作家で詩人のヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)の名作「人形の家」(Et dukkehjem :一八七九年執筆で、同年デンマーク王立劇場で初演)のこと。この時の上演は上山草人(坪内逍遙の『文芸協会』を経て、妻の山川浦路らと『近代劇協会』を設立して新劇俳優として活動、大正八(一九一九)に渡米して、映画俳優に転じ、戦前のハリウッドで活躍したが、トーキーになって英語が喋れず、仕事が減り、帰国した。晩年の黒澤明の「七人の侍」の琵琶法師役が知られる)夫妻の『近代劇協会』第五回公演として、同年四月十七日から二十六日まで有楽座で以下のハウプトマンのそれとのカップリング上演として行われ、芥川龍之介は二十日に観ている。こちらは森鷗外の大正二(一九一三)年の翻訳になるもので、邦題は「ノラ」であった。

「ハンネレ」「沈鐘」(Die versunkene Glocke :一八九六年初演の童話詩劇で全五幕)で知られるドイツの劇作家・小説家・詩人ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二~一九四六年)の戯曲「ハンネレの昇天」(Hanneles Himmelfahrt:二幕・一八九三年初演)。訳は森鷗外とされるが、ある信頼出来る資料では、実際には小山内薫の代訳か? とあった。私は未読未見。ドイツでハウプトマン生誕七十年記念として一九三四年に製作された映画の梗概が、サイト「映画com.に載るので参照されたい。

「孔雀」女優衣川孔雀(きぬがわ じゃく 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。当該ウィキによれば、『スペイン公使館一等書記官牛円競一の娘で』、『本名を牛円貞子という。横浜市出身。実践女学校卒』。この大正二年に、『カフェで働』いていたのを、『上山草人に見出されて衣川孔雀の芸名を与えられ、草人の「ファウスト」のグレートヒェン役でデビュー。松井須磨子に並ぶ女優との評価を受ける。妻・山川浦路のある草人の公然たる愛人となり、ヘンリック・イプセンの「ノラ」で主演したり』した。翌大正三年には『草人との子である女児を生み、農家に里子に出』したが、『病死』し、『翌年にも女児を生む』も、これも『病死』した。大正四(一九一五)年頃には草人を見限って、『泉鏡花の弟子の歯科医寺木定芳と結婚』した。大正十二年の『年関東大震災の』際、『鎌倉にあって寺木との間に生まれた二児を失』っているが、『草人は』、『この事件を小説』「蛇酒」として書き、『谷崎潤一郎の推薦で刊行された』とある。今回、いろいろ調べるうち、上山草人が甚だ嫌いになった。

「ゴツトワルド」Gottwald。不幸な主人公ハンネレを救わんと気遣う「教師」役の役名。前掲リンクのシノプシスを参照されたい。

「勸工場」(かんこうば)日本特有の百貨商品陳列所。明治一〇(一八七七)年に上野公園で開設した第一回内国勧業博覧会で、閉会後、出品者に売れ残りの品を返したが、出品者の希望により、その一部を残留陳列して販売することになり、翌年、商工業の見本館が開設された。これが勧工場の始まりで、開設場所には、麹町辰ノ口の旧幕府伝奏屋敷の建物が当てられた。 明治一五(一八八二)年頃が最盛期で、東京市内十五区の各中心地を始めとして、大阪・名古屋その他にも設けられた。現在の百貨店の走りとも言えるが、営利を主眼とせず、産業の振興を目的とする極めて独自の形式を持つものであった。ただ、各地に出現するに従って、品質が低下し,明治末には旧来の呉服店から脱皮しつつあった百貨店に取って代られ、関東大震災後に消滅した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「寒冷紗」(かんれいしや(かんれいしゃ))は薄地に織られ、紗によく似た感じに仕上げられた平織の綿織物。元は薄地の麻織物であったが、その風合いに似せて、手ざわりが粗い、強(こわ)めの綿織物が製織されるようになり、寧ろ、木綿のものが一般化するようになった。綿製の寒冷紗は四十番手ほどの単糸で、織る際に経(たて)糸に強糊(こわのり)を附けてあり、漂白した後、さらに強糊仕上げをする。また、色無地・捺染(なっせん)加工したものもある。良質のものはハンカチーフ地に使用され、他にカーテン地・造花用・人形の衣装等にも広く用いられる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

安息香(あんそくこう)はツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキ (Styrax benzoin)、またはその他の同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木に傷をつけ、そこから滲み出て固化した樹脂を採集する。主要な成分は安息香酸(芳香族カルボン酸)。香料とする。

「長田幹彥氏の祇園」小説家長田幹彦(明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)の「祇園」は情話短編集(大正二(一九一三)年・浜口書店刊)。情話作家として吉井勇と併称されたが、大正五年に赤木桁平から『遊蕩文学』と指弾されたことはかなり有名。私は長田の小説は一篇も読んだことがない。戦後に彼は心霊学に凝ったが、数冊を立ち読みしたが、糞物だった。

「シングをよろしく願ふ」先日電子化注した直前の「芥川龍之介書簡抄152 追加 大正三(一九一四)年三月十九日 井川恭宛」の私の「アイアランド文學を硏究してゐる……」の注を参照されたいが、『新思潮』六月号(第五号・大正三(一九一四)年六月一日発行)を「愛蘭文学号」にする計画が山宮らから出ており、龍之介も乗り気であった。結局この特集号化は成らなかったものの、同号には、龍之介が盟友井川恭に慫慂して、アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の戯曲「海への騎者」(Riders to the Sea:一九〇四年)を訳させたものを掲載し(この作品、確かにどこかで読んだのだが、コピーをとれる状況下でなかったため、手元にない。是非、電子化したいのだが)、芥川も柳川隆之介として翻訳の「春の心臟(イエーツ)」を載せている。「山宮さんもかへつて來た」山宮允(さんぐまこと)のことだが、「かへつて來た」の意味は不詳。山宮は故郷が山形で、何かの都合で帰郷していたか。或いは、やはり先立つ「芥川龍之介書簡抄151 追加 大正三(一九一四)年三月二十一日 井川恭宛」に出る山宮が関わっている「發音矯正會」の方にかかり切りで、暫く『新思潮』の会合には御顔を見せなかったというだけのことかも知れない。

「佐野」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年昭和六(一九三一)年)。菊池寛が一高を退学になった「マント事件」の真犯人である。詳しくは、「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」を参照されたい。彼には一種の病的な窃盗癖があるように見受けられる。

「卒業の時のいろんな事」東京帝大附属高校に当る第一高等学校の卒業時のごたごたを指す。前記リンク先で注してあるように、「マント事件」の影響で、関係者からも疑われたことから、一旦、休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送ってから復学し、通常よりも遅れて大正二(一九一三)年九月に第一高等学校を卒業していることを指しているようである。

「上田さん」上田萬年(かずとし 慶応三(一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は国語学者で、当時は東京帝国大学文科大学学長であった。尾張藩士の子として江戸で生まれた。東京帝国大学名誉教授を退官後、國學院大學学長を務めた。

『ワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」』は龍之介の言う通り、記憶違いで、芥川の指示する「エンシエント マリナー」(これ、筑摩全集類聚脚注では『不詳』とするが)は、調べたところ、イギリスのロマン派の詩人サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge  一七七二年~一八三四年)が一七九七 年から翌年にかけて書いた後に初版を発表した、彼の詩の中で最も長い詩篇「老水夫行」(‘The Rime of the Ancient Mariner’:「古い舟人の吟詠」)の一節である。同作を「Project Gutenberg」のこちらの電子化で調べたところ、パート“PART THE THIRD.”の第十一連の三行目に見出せた。以下に示す。

   *

 

     Her lips were red, her looks were free,

     Her locks were yellow as gold:

     Her skin was as white as leprosy,

     The Night-Mare LIFE-IN-DEATH was she,

     Who thicks man's blood with cold.

 

   *

「アアサア ランサム」筑摩全集類聚脚注では、これも『不詳』とするが、解せない。イギリスの児童文学作家アーサー・ランサム(Arthur Ransome 一八八四年~一九六七年)。ヨークシャー生まれ。評論家を経て、後にロシアに渡り、新聞特派員として「第一次世界大戦」や「ロシア革命」・「干渉戦争」を報道する傍ら、昔話の研究・収集を行ない、「ピーターおじさんのロシアの昔話」(Old Peter's Russian Tales :一九一六年)に纏めた。一九二九年には記者生活にピリオドを打ち、心の故郷の湖沼地方を舞台にした物語シリーズ「ツバメ号とアマゾン号」(Swallows and Amazons)を執筆。以来、伝統的冒険精神を現実味のある物語で展開したこの一連のシリーズを全十二巻出版した。六冊目の「ツバメ号と伝書バト」(Pigeon Post :一九三六年)ではイギリスの図書館協会から贈られる児童文学賞として知られるカーネギー賞を受賞している。一九三〇年代のリアリズムを代表する作家として知られる(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。]

2023/01/14

芥川龍之介書簡抄152 追加 大正三(一九一四)年三月十九日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:この書簡は底本の岩波旧全集では、『〔前缺〕』とあるので、私は不完全書簡として電子化をしなかった。しかし、現在進行中の送られた相手である恒藤恭の「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介書簡集」にも、やはり前部分欠損のままに(但し、その注記はない)収録されており、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」にも同じく前欠損で収録されている(同文庫は岩波の忌まわしい新字の新全集が典拠)ことから、この書簡は恒藤自身が、前部分を紛失して完全形は最早、期待出来ないことが判ったので、ここで改めて追加電子化注することとした。

 

大正三(一九一四)年三月十九日(消印)・井川恭宛・三月十九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍井川恭君 直披

 

新思潮の二号を送つた

井出と云ふのは土屋 松井と云ふのは成瀨だ

六号にある記事は皆久米のちやらつぽこだから信用してはいけない 僕一人の考へでは大分下等のやうな氣がして不平がないでもない 三号へは山本勇造氏が大へん長いdramaをかいたので久米が俑[やぶちゃん注:「よう」。人形(ひとがた)。]を造つたのを悔いてゐる、比頃も不相變不愉快だ 新思潮社の同人とも水と油程でなく共[やぶちゃん注:「とも」。逆接の仮定条件の接続助詞。]石油と種油[やぶちゃん注:「たねあぶら」。菜種油。]にはちがつてゐる 併しどう考へてもあるがまゝの己が最尊いやうな氣がする(人のeinflussをうけやすい人間だけに余計こんな氣がするのかもしれないが) ひとりで本をよんだり散步したりするのは少しさびしい

 

胃病が又少し起つた 休みはどうしやうかと思つてゐる

成瀨や佐藤君は一高の應援隊を利用して汽車賃割引で京都へゆくと云つてゐる

 

石田君が大へん勉强してゐる 來年はきつと特待になると云ふ評判である 前より少し靑白くなつたやうな氣もする 僕は顏をみると不愉快になるからなる可くあはないやうにしてゐる 独乙語の時間には仕方がないからあふ

未來の山田アーベントで久保正にあつた 久米がゐたもんだから傍へやつて來ていろんな話しをしてよはつた

あいつの笑ひ方は含蜜の笑だと思ふ やに甘つたるくつて胸の惡くなる所は甘草の笑の方がいゝかもしれない

 

佐藤君はフロオべールとドストエフスキーをよんでゐる

谷森君とは每日大抵一緖にかへる 相不變堅實に勉强してゐる 谷森君のおとうさんは貴族院の海軍豫算修正案賛成派の一人ださうだ 尤も内閣の形勢が惡くなる前は權兵エをほめてゐたが風向がかはると急に薩閥攻擊にかはつたんだから少しあてにならない賛成家らしい

 

時々山宮さんと話しをする アイアランド[やぶちゃん注:ママ。]文學を硏究してゐる ひとりで僕をシング(小山内さんにきいたらシングがほんとだと云つた)の硏究家にきめていろんな事をきくのでこまる アイアランド文學号を出すについてもグレゴリーの事をかく人がなくつてこまつてゐる 著書が多いから仕末が惡いのだらう

 

畔柳さんの會は相變らずやつてゐる 今度はダンヌンチヨださうだ

前には遠慮をしてしやべらなかつたが僕も此頃は大分しやべる 鈴木君と石田君とが一番退屈な事を長くしやべる

其度に畔柳さんにコーヒーと菓子の御馳走になる

何でもその外に畔柳さんは三並さんや速水さんや三浦さんと一緖に觀潮何とかと云ふ會をつくつて一高の生徒を聽衆に月に一囘づゝ講演をしてゐるさうだ

 

芝の僕のうちの井戶の水が赤つちやけてゐて妙にべとべとする 昔から何かある井戶だと云つてゐたが此頃衞生試驗所へ試驗を願つたら わざわざ出張してしらべてくれた 試驗の結果によるとラヂウム エマナチオンがあつて麻布にあるラヂウム泉と同じ位の强さだと云ふ 芝のうちのものは皆每日湯をわかしてははいつてゐる 今にこの井戶が十萬圓位にうれたら僕を洋行させてくれるさうだ

 

うちの二階からみると、枯草の土手の下にもう靑い草が一列につづいてゐる欅[やぶちゃん注:「けやき」。]の枝のさきにもうす赤い芽が小さくふいて來た 春の呼吸がすべての上をおほひ出したのだと思ふ 雨にぬれた土壤からめぐむ艸のやうに 心の底の暖みから生まれるともなく生まれる「煙」のやうなものに出來るなら形を與へたい 僕は此頃になつてよんでゐるツアラトストラのアレゴリーに限りない興味を感ぜずにはゐられない

 

時々自分のすべての思想すべての感情は悉とうの昔に他人が云ひつくしてしまつたやうな氣がする 云ひつくしてしまつたと云ふよりその他人の思想感情をしらずしらず自分のもののやうに思つてゐるのだらう ほんとうに自分のものと稱しうる思想感情はどの位あるだらうと思ふと心細い オリギナリテートのある人ならこんな心細さはしらずにすむかもしれない

 

時々又自分は一つも思つた事が出來た事のないやうな氣もする いくら何をしやうと思つても「偶然」の方が遙に大きな力でぐいぐい外の方へつれ行つてしまふ 全体自分の意志にどれだけ力があるものか疑はしい 成程手や足をうごかすのは意志だがその意志の上の意志が 自分の意志に働きかけてゐる以上 自分の意志は殆意志の名のつけられない程貧弱なものになる 其上己の意志以上の意志が國家の意志とか社會の意志とか云ふものより更に大きな意志らしい氣がする 何故ならば國家の意志なり社會の意志なりを屈竟の意志とすればその上に與らるゝ制限の理由を見出す事が出來ない(それがベシユチムメンせらるゝ理由を見出す事が出來ない)からだ 事によると自由と云ふものは絕對の「他力」によらないと得られないものかもしれない

 

此頃別樣の興味を以てメーテルリンクの戲曲がよめるやうになつた 空氣のやうに透明な戲曲だ 全体の統一を破らない爲には注意と云ふ注意を悉拂つてある戲曲だ 美と云ふものに對して最注意ぶかい最敏感な作者のかいた戲曲だ それでゐておそろしい程EFFECT[やぶちゃん注:ここのみ縦書。]がある僕は其上にあの「ランプのそばの老人」の比喩を哂つた[やぶちゃん注:「わらつた」。]アーチヤーを哂ひたいとさへ思ふ事がある

 

独乙語の試驗の準備をするからやめる あさつて試驗

                  龍

 

[やぶちゃん注:最後の署名は四字上げ下インデントであるが、引き上げた。

「新思潮の二号」刊号で翻訳「バルタサアル(アナトオル・フランス)」を「柳川隆之介」のペン・ネームで発表した(ジョン・レイン夫人の英訳からの重訳)芥川龍之介はこの第二号には作品を発表しておらず、次の第三号(大正三年四月一日発行)で、やはり柳川名義で翻訳『「ケルトの薄明」より(イエーツ)』を発表している。

「井出と云ふのは土屋」「井出」は「井出說太郞」で、歌人土屋文明(明治二三(一八九〇)年~平成二(一九九〇)年)の当時のペン・ネーム。土屋はこの頃は同誌で戯曲や小説を発表していた。同誌創刊号に戯曲「雪來る前」を発表している。

「松井と云ふのは成瀨」「松井」は「松井春二」で、後にフランス文学者となる成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年:脳溢血で満四十三で亡くなった)の当時のペン・ネーム。同誌二号(大正三(一九一四)年三月一日発行)には「未來のために」という小説を発表している。

「六号にある記事」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、同誌の『後記「TZSCHALLAPPOKO」。婿になる同人の資格くらべなどが記されている』とある。調子に乗ってあることないことを書くのが好きな久米正雄らしい、おふざけの後記記事らしい(私は未見)。「ちやらつぽこ」(ちゃらっぽこ・ちゃらぽこ)自体が「口から出まかせの噓」或いは「そうした嘘を平気で言う人」の意で江戸後期にはあった語である。

「三号へは山本勇造氏が大へん長いdramaをかいた」同誌第三号(発行前であるが、既に編集印刷作業入っていたから過去形)には山本有三(「勇造」は彼の本名)三幕の戯曲「女親」を発表している。

「久米が俑を造つた」先立つこの第二号で久米正雄は、三幕の戯曲「牛乳屋の兄弟」を発表していた。それが、あたかも「女親」の先払いのようになったことを指している。

「einfluss」「アィンフルス」。ドイツ語で「感化・影響・勢力」の意。

「佐藤君」不詳。新全集の「人名解説索引」に、芥川龍之介の一高時代の同級生で、岩手生まれの佐藤庄兵衛なる人物が載るが、彼か。

「一高の應援隊」筑摩全集類聚版第七巻「書簡一」(昭和四六(一九七一)年刊)の本書簡の注に、『対三高(京都)定期戦の応援』とある。

「石田君」石田幹之助。

「特待」学費が免除される特待生(正式名称は「特選給費学生」)。

「未來」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」の注に、『詩の同人誌『未来』』とし、この『一九一四年二月創刊。同人は山宮允』(さんぐうまこと)、『西条八十、三木露風、川路柳虹、新城和一』(しんじょうわいち)、『山田耕作、灰野庄平ら』が『詩と音楽との融合を試みた。山宮と親しかった芥川は、(第二次)『未来に短歌「砂上遅日」を一九一五年二月に発表』しているとある。その芥川龍之介の短歌「砂上遲日」(全十二首)はサイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で全歌が読める。

「山田アーベント」この大正四年二月十三日、山田耕作のドイツ遊学からの帰朝を祝って、築地精養軒で開催された、『未来』同人の主催になる音楽会。石割氏の前掲書によれば、『三木露風らの詩も十数編歌われた』とある。

「久保正」不詳。

「あいつの笑ひ方は含蜜の笑」(ゑみ)「だと思ふ やに甘つたるくつて胸の惡くなる所は甘草」(かんざう)「の笑の方がいゝかもしれない」「含蜜」は「がんみつ」で「含蜜糖」のこと。砂糖の製造過程で糖蜜を分けずに、砂糖結晶と一緒に固めて製品にしたもの。黒砂糖・赤砂糖などがそれ。腐れ縁親友久米への歯にもの着せぬ謂いが面白い。そうか? そこから久米の「微苦笑」も生まれたわけだね!

「谷森君」谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。新全集の「人名解説索引」によれば、『東京生まれ』で、明治四二(一九〇九)年入学であったが、『翌年入学の芥川と同期にな』ったとある。また、『勉強家で卒業成績は』、『「官報」によると井川恭・芥川に次いで』三番であったとある。東京『帝大では国史学を専攻』したとあって、『父は貴族院議員の谷森真男』(まさお 弘化四(一八四七)年~大正一三(一九二四)年:当該ウィキのリンクを張っておく)とある。「芥川龍之介書簡抄《追加》(63―2) / 大正五(一九一六)年八月二十八日谷森饒男宛(自筆絵葉書)」も見られたい。

「海軍豫算修正案」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」の注に、『一九一四年三月、海軍拡張予算をめぐり、衆議院』(与党が多い)『が大幅な削減を上程したが』、意見が対立した貴族院が『否決』し、不成立に終わった(筑摩全集類聚の注を一部で入れ込んだ)。

「權兵エ」内閣総理大臣(第十六代及び第二十二代:ここは前者)山本権兵衛(嘉永五(一八五二)年~昭和八(一九三三)年)。薩摩藩士の息子。海軍軍人(階級は海軍大将)で政治家。当該ウィキによれば、大正二(一九一三)年、『同じ薩摩閥の元老』『大山巌の支持で山本に組閣の大命が下』った。『松方正義が』明治三一(一八九八)年一月に『辞任して以来』、十五『年振りの薩摩出身者であり』、二月二十日に『政友会を与党として内閣総理大臣に就任したが、『ドイツの国内事件からシーメンス事件が検察によって調査され、海軍高官への贈賄疑惑をめぐり』、『内閣は瓦解』大正三(一九一四)年四月十六日に『総辞職した』とある。

「薩閥攻擊」筑摩全集類聚版の注に、『第三次桂』(長州閥)『内閣と山本内閣の政変により、藩閥出身の政治家や陸海軍が大きな打撃を受け、藩閥攻撃の声が高まった』とある。

「アイアランド文學を硏究してゐる……」前掲の石割氏の同書注に、『『新思潮』六月号を「愛蘭文学号」にする計画が山宮らから出ていたが、実現しなかった』とある。この六月号は第五号で大正三(一九一四)年六月一日発行。特集はならなかったものの、芥川は強く希望していた。その証拠に、盟友井川恭に慫慂して、アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の戯曲「海への騎者」(‘Riders to the Sea’ :一九〇四年)を訳させたものを掲載し、芥川も柳川隆之介として翻訳の「春の心臟(イエーツ)」を載せている。

「小山内さんにきいたらシングがほんとだと云つた」「小山内さん」は劇作家・演出家で批評家でもあった小山内薫(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年)。彼は近現代演劇の革新に携わった以外にも、多くの小説やロシア作家の小説の翻訳なども手掛けている。ウィキの「小山内薫」を参照されたい。芥川龍之介にとっては、第一次『新思潮』の先輩であったことと、龍之介がかなりの芝居好きでもあったこと、さらに互いの主なテリトリーが、小説と演劇で異なっていた点で、却って常に意識していても平気な芸術家であったことは疑いあるまい。ややおかしいと思われるかも知れないが、芥川龍之介の「小説家嫌い」は、仲間や友人であっても、実は、かなり強いのである。

芥川龍之介のこれ以前の書簡で「シンヂ」という表記で見える。なお、私はサイトのこちらで姉崎正見訳「アラン島」や、芥川龍之介が最後に愛した松村みね子(片山廣子)訳になる戯曲「聖者の泉(三幕)」の全電子化(前者はオリジナル注附き)を終えている。

「グレゴリー」アイルランドの劇作家イザベラ・オーガスタ・グレゴリー(Isabella Augusta Gregory 一八五二年~一九三二年)。民話研究家にして劇場経営者でもあった。当該ウィキを見られたい。

「畔柳さん」畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形生まれ。東大英文科卒。在学中から積極的に雑誌『帝国文学』に論文を発表し、文芸批評家として注目された。後に「大英和辞典」などの編纂した。既に述べたが、芥川龍之介が横須賀機関学校に就職出来たのも、彼の口利きのお蔭であった。

「ダンヌンチヨ」伊太利リアの詩人・作家でファシスト運動の先駆とされる政治的活動を行ったことで知られるガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。彼の「會」とは、石割氏の注によれば、彼を先生として『七、八人許りの内輪の会で、近代文学の作家毎月一人ずつ読んでいた』とある。

ださうだ

「鈴木君」不詳。

「三並さん」三並良(慶応元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)は一高のドイツ語の嘱託講師。新全集の「人名解説索引」によれば、『愛媛県の生まれ』で、『独逸学協会・新教神学校卒』。『ドイツ人シュレーダーと小石川上冨坂に日独学館を建設』し、『若い学生のために尽くした』とある。

「速水さん」速水滉(明治九(一八七六)年~昭和一八(一九四三)年)は心理学者で一高教授(ドイツ語を教えたものと思われる)。後に京城帝大教授・総長を務めた。

「三浦さん」三浦吉兵衛。筑摩全集類聚版注に、明治三六(一九〇三)年『東大独文科卒。一高教授』とある。前掲の新全集「人名解説索引」によれば大正元(一九一二)年『就任』とする。

「觀潮何とかと云ふ會」不詳だが、森鷗外の終の棲家であった観潮楼に引っ掛けたものであろう。

「エマナチオン」“Emanation”。放射性希ガス元素の総称。ラドン(Rn)はその代表。

「アレゴリー」 “Allegory”。寓話。

「オリギナリテート」“Originalität”。ドイツ語で「独創性」。

「ベシユチムメン」“bestimmen”。ドイツ語で「指定・規定する」。

「EFFECT」効果。

『あの「ランプのそばの老人」の比喩を哂つたアーチヤー』不詳。]

芥川龍之介書簡抄151 追加 大正三(一九一四)年三月二十一日 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年三月二十一日・井川恭宛・封筒欠

 

どうしてかう君の手紙と僕の手紙とは行きちがひになるのだらう 今日かへつたら君のが來てゐた 僕のは昨日出したんだから今頃やつと君がよんでゐる時分だらう

君の手紙をみて大へんうれしかつた 前の手紙にかいたやうに皆京都へゆく 僕はその人たちとはなれて行かうかと思つてゐた 君の手紙をよんだ時にはすぐにも行くと云ふ手紙を出さうかと思つた位だ けれども手紙のおしまい[やぶちゃん注:ママ。]へ來たら君が東京へ來るとかいてある けれども東京で君とあふのはあまり平凡で、あまりPROSAICなやうな氣がする、君さへ都合がよければ藤澤あたりで落ちあつて一緖に鎌倉へ行つて菅先生をお訪ねしやうかと思つてゐるがどうだらうか

僕の方は二十五六日頃迄授業がありさうだが少しはすつぽかしてもいゝ なる可く早く君にあいたい[やぶちゃん注:ママ。]と思ふ 人間はあはないでゐると外部の膜が固くなるものだ 誰にでもとは云はない 少くも君に對して膜が固くなるのは嫌だ

 

發音矯正會は山宮さんがやつたのだ 僕があとから訂正を申込んだが間に合はなかつた シンヂはまだいゝにしろ山宮さん自身のかいた論文の中の片かなにも誤謬はありさうだ

 

僕の生活は不相變單調に不景氣にすゝんでゆくばかりだ すゝんでゆくのだか止つてゐるのだかわからない程緩漫だが蝸牛の殼は中々はなれない はなれたらスケツチブツクの始の QUOTATION にあるやうな醜いものになるだらう

新思潮へかく事は僕は全く遊戲のやうに思つてゐる(作をする事ではない 出すと云ふ事だ) 從つて同人の一人となつたと云ふ事についてもSERIOUSな事として考へてやつたのでも何でもない が今になつてみるとたとヘ一號の卷頭に同人を結びつけるものが唯〝使宜〟にある事を聲明したにせよ 全く傾向の異つた人間と同じ名の下に立つ事は誤解を招きやすいのみならず 僕自身にとつても不便があるかもしれないと思つてゐる 僕自身の不便が單に不便に止らず種々事情から不便のまゝで押通す事になるかもしれないと思つてゐる しかしこれは僕は自由にやぶれる障害だと信じる

その外に勿論多少VANITYも働いてゐたにちがひないけれども最力づよかつたのは靜平な生活が靜平すぎるまゝに化石しやしないかと云ふ惧だつた

 

云ひ訣けのやうなものにならないやうに氣をつけてかいたが結局云ひ訣けに完つたかもしれない 唯體裁のいゝうそはついてないつもりだ それから序に二つかきそへる事がある 一は幸にして僕がまだ何にもかぶれない事 一は接觸する機會が前より多くなつた爲に同人の多くに對する僕の見方が(僕から云つて)正確になつた事 正確になつた結果は不幸にして前よりも以上の尊敬と同情とを失ふに止つた事とである

 

此頃は大へんDISILLUSIONがつゞいてこまる 紀念祭の事で矢内原君と二三度あつたらすつかり矢内原君が嫌になつてしまつた 其他なまじい口をきかなければよかつたと思ふ人が澤山ある 前にはそんなに思はなかつた人でも大分大ぜいいやになつた

三四郞とはまだ一人も口をきいた事がない

劍道部の水野と云ふあばれものの兄さんが僕の級にゐる 英語は英文三年を通じて一番出來るかもしれない クリスチヤンで西洋人のうちにゐる 靑山學院の英文科の卒業生だ 語學者のやうな人で今の英文科の模範的秀才のやうな氣がする 人はいゝ人だ その人だけにはあふとおぢぎをする

 

氣がつかずにゐるうちに 自分自身に對して寬大になつてこまる 君はそんな事がなささうでうらやましい

 

東京へくる迄にもう一ぺん返事をくれ給ヘ 一には鎌倉へゆく都合がいゝかわるいかしらせる爲に さやうなら

    廿一日朝            龍

   井 川 君

 

[やぶちゃん注:文中の欧文は総て縦書である。当時は東京帝国大学英吉利文学科一年で満二十二歳。本文にも出る通り、この前月の二月十二日、第三次『新思潮』が創刊されている。当初の同人は一高出身の東京帝大文科大学の学生が中心で、豊島与志雄・山本有三・山宮允(さんぐうまこと)(以上は大正元(一九一一)年入学組)、芥川龍之介・久米正雄・佐野文夫・成瀬正一・土屋文明(大正二年入学組)、松岡譲(発刊の翌大正三年九月入学)の十名であった。

「PROSAIC」 「散文の・散文的な」、「(文章・話などが)詩趣に乏しい」、「平凡な・退屈な・面白くない」の意の英語。筑摩全集類聚版では『写』しで、この書簡が載るが(恐らく恒藤恭の「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)の書簡集からの転載)、そちらでは、この部分は『PROSAIK』となっており、注にドイツ語とし、『散文的、無趣味』とある。

「菅先生」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことでも知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」を参照。

「二十五六日頃迄授業がありさうだが少しはすつぽかしてもいゝ なる可く早く君にあいたいと思ふ」この時、井川(恒藤)恭が上京したかどうかは、年譜では不明である。

 人間はあはないでゐると外部の膜が固くなるものだ 誰にでもとは云はない 少くも君に對して膜が固くなるのは嫌だ

「發音矯正會は山宮さんがやつたのだ 僕があとから訂正を申込んだが間に合はなかつた シンヂはまだいゝにしろ山宮さん自身のかいた論文の中の片かなにも誤謬はありさうだ」よく判らないが、「發音矯正會」というのは、不全な英語の発音を正すという山宮が指導したグループのリーフレットか何かか? 「山宮」は一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)で、後に詩人・英文学者。山形県生まれ。県立荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)から一高に進んだ。一高時代から『アララギ』の歌会に参加している。大正三(一九一四)年、帝大在学中に、中心となって第三次『新思潮』を創刊、大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、大正六年に川路柳虹らと『詩話会』を結成、大正七年には評論集「詩文研究」を上梓した。後、第六高等学校教授・東京府立高等学校教授・法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツやウィリアム・ブレイクの翻訳紹介で知られ、昭和二四(一九四九)年に日夏耿之介・西條八十・柳沢健らとともに『日本詩人クラブ』の発起人の一人として創立、常務理事長を務めた。「シンヂ」“shindig”(賑やかなパーティー)の略か?

「蝸牛の殼は中々はなれない はなれたらスケツチブツクの始の QUOTATION にあるやうな醜いものになるだらう」筑摩全集類聚版第七巻「書簡一」(昭和四六(一九七一)の本書簡の注に、アメリカの作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~ 一八五九年)が「ジェフリー・クレヨン」(Geoffrey Crayon)というペン・ネームで発表した書いたスケッチ風の物語集(イギリスの見聞記を中心として短編小説・随筆を含む三十四篇から成る)「スケッチ・ブック」(The Sketch Book of Geoffrey Crayon, Gent.:「紳士ジェフリー・クレヨンのスケッチ・ブック」)アメリカでは一八一九年から一八二〇年に亙って分冊で出版されたものの中の一篇、『「自己を語る」に引用されている。ジョン・リリーの「ユーフユーズ」の中の文章。かたつむりは殻を離れるとひきがえるになり、やむなく住み家を自分で見つけなければならなくなる。人も旅に出るとすっかり変わって、どんな所にでも住めるようになるものだというのが大意』とある。「プロジェクト・グーテンベルク」で原文を確認、タイトルは、‘THE AUTHOR’S ACCOUNT OF HIMSELF’で、その冒頭に以下のようにある。

   *

   I am of this mind with Homer, that as the snaile that crept out of her shel was turned eftsoones into a toad I and thereby was forced to make a stoole to sit on; so the traveller that stragleth from his owne country is in a short time transformed into so monstrous a shape, that he is faine to alter his mansion with his manners, and to live where he can, not where he would.—LYLY’S EUPHUES.

   *

ジョン・リリー(John Lyly 一五五四年~一六〇六年)はエリザベス朝イングランドの作家・戯曲家で、この教訓物語「ユーフュイーズ」(Euphues:正編一五七八年・続編一五八〇年刊)で知られる。

「SERIOUS」「真面目な・厳粛な ・言辞が本気である」の意。

「VANITY」「自分に対する過度の自信・賛美または人にほめられたいという過度の欲望・虚飾」の意。

「完つた」「をはつた」。

「DISILLUSION」「幻滅」の意。

「紀念祭」二十日前、卒業した第一高等学校の三月一日の創立記念日の記念祭のこと。芥川龍之介も出席している。

「矢内原君」矢内原忠雄(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年:芥川龍之介の一つ年下)は一高の同期生。後に経済学者・植民政策学者となり、敗戦後、東京大学総長を務めた。無教会主義キリスト教の指導者としても知られる。

「三四郞」夏目漱石の「三四郎」の主人公のように、地方の高等学校を卒業して東京帝大に入学した人物の意。

「水野」新全集「人名解説索引」に、水野秀とあり、ここに出る東京帝大時代の英文科の同級生豊田実(明治一八(一八八五)年~昭和四七(一九七二)年:福岡生まれ。龍之介より七つ年上。青山学院高等科を経て、大正元(一九一二)年、青山学院神学科卒業後に、東京帝大英文科に進んだ。後に英語英文学者となった。年青山学院大学初代学長でキリスト教徒)の弟。『久留米の水野家に養子として入』り、『一高を経て』、帝大の法科を『卒業後間もなく病没』とある。]

2023/01/04

芥川龍之介書簡抄150 追加 明治四五(一九一二)年七月二十日 井川恭宛(全文英文)・オリジナル邦訳附き

 

明治四五(一九一二)年七月二十日・出雲國松江市田中原町 「井川恭君」・「親披」

 

July, 20, 1912.  

              My dear friend

   I thank you for a letter so warm and kind.

   At 7 o’clock, this evening, I imagine I see you with your mother sister and brothers, talking and laughing. Certainly you talk most delightfully, floating hearty smile on your brown cheeks, sunburned like a olive-nut, while at times your little brothers throw a jest at which nobody (even your mother and sister) can help laughing. The laughter ring like a silver-bell,  in the yellowish lamplight, the sweet smell of flowers and the chirping of crickets,-at this time l was writing this letter in my sultry library, sweating and being bitter by mosquitoes. Have pity on me!

 The summer in Tokio is awfully detestable. The red sun, shining like a white heated iron, pours its light and heat over the thirsty earth, which stares the cloudless sky with the bloodshot eyes. Chimney, walls, houses, rails and pavements, everything on the ground grins and groans from its hellish anguish. (Perhaps you can hardly understand how disgustful the summer in Tokio is, and you feel rather ridiculous my extreme hatred of summer). To think of poetry or life or eternity in this horrid heat and tumult, is quite impossible. I feel like a flying-fish, fallen unluckily on the deck of a ship and dying there.  Besides, I am greatly annoyed by dust, smell of stated fishes, hums of insects, hateful feature of Yamori and Tokage, and the most dreadful Ka.  ln short, The Queen of Summer who is favourable to you, treats rne very cruelly.

   I read Yussenkutu, dreaming of a fairyland of sunshine and peach-blossoms, where reality turns into a delicious dream and suffering into a life of luxurious pleasure. I wish to forget everything, vulgar and common, in this charming magic land and to live a life, not of men and women, but of gods and goddesses, under the sapphirine sky of this fairyland, enveloped with the perfume of snowwhite pear-blossoms, with the poet of this fantasia, Chobunsei.

   Don’t laugh at my childish fantasy!  This is my little kingdom where the mysterious moon shines above the mysterious land. I dream a dream day and night, a dream of primrose-colour, and in this dream, (this is my ivory tower)I find my happy sadness,  lonely but sweet,  forlorn but agreeable.  “The blue lotus of mystery” said one of the Old-Indian poets, “blossoms only in the milky evening mist of fantasy.” There are only sciences and arts ; and there is no science without the sciences of “Müssen”.  You may as well call history, logic, ethic, philosophy and etc. “arts” as call music and painting “arts”. Fauns and nymphs, dancing in the bright moonlight of the glen in which, red roses and yellow narcisusses blossom, sing cheerful songs and blow silver flutes, while historians and philosophers, with grey heads and wrinkled faces, engage in their so called scientific research. The fauns’ song and the historians’ study are quite same, without the only slightest difference between them: that the former is charming but the latter awfully tedious.

    A pale green moth came and sat on my shoulder. Outside the window, the oaktrees are rustling very quietly in the evening twilight of July. The smell of hay ―― the dull moo of the cows ―― the yellow new moon-Night is coming on with it’s thoughts and dreams.

   Now I must light the lamp and sup with my old father and mother.

                                          Yours truly

                                                   R. Akutagawa    

   P.S. Beardsley's Salome is extraordinarily dear. I found it yesterday in the shop of a second-hand book-seller; it was 7 yen.

 

[やぶちゃん注:機械翻訳と筑摩版全集類聚の脚注の全訳(これはちょっと見た目をよくするために難しいところを意訳にし過ぎている感じがしたので実際には殆んど参考にしなかった)を参考に芥川龍之介の書簡らしくするために歴史的仮名遣と正字表現で訳しておく。一部の丸括弧は本文に入れ込んだ。【2023年1月23日追記】恒藤恭「旧友芥川龍之介」全文一括電子化注(PDF縦書ルビ版)を作成中、不具合があるため、以上の英文書簡を別にPDF化する必要が生じたので、サイト内に『●恒藤恭「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介のことなど」の一括 PDF 版内の「十三 英 文 書 簡 一 通」の章のための芥川龍之介英文書簡(PDF による補完分)』という横書PDFファイルを作成した。以上のブログの欧文活字は気に喰わないので、それを追加リンクしておく。

   *

 

一九一二年七月二十日。

     僕の親愛なる友へ

 とても溫もりのある優しい手紙をありがたう。

 今宵、七時、君が、君の御母樣と妹や弟たちと一緖になつて、話したり、笑つたりしてゐるのを想起してゐるところだ。確かに君はとても樂しそうに話し、橄欖(オリーブ)の實のやうに日燒けした褐色の頰に、心の籠つた笑顔を浮かべてゐる。銀色の鐘のやうな笑ひ聲、黃色味がかつたランプの明かり、花々の甘い香り、蟋蟀(こほろぎ)たちの鳴き音(ね)――この時、僕はこの手紙を、蒸し暑い図書館で、汗をかきつつ、蚊どもに刺されながら、書いてゐるのだ。そんな僕に、どうか、同情されんことを!

 東京の夏は途轍もなく忌まはしいものだ。眞白(まつしろ)に溶けた鐵のように輝く赤い太陽は、血走つた目で、雲一つない空を凝視しつつ、その光と熱を、渇いた大地に注ぎ込んでゐる。煙突・壁・家屋・レール・舗道、地面にある總ての物は、地獄の如き苦惱から、おぞましい哄笑と呻(うめ)き聲を擧げてゐる(君には東京の夏がどれほど嫌なものか、殆んど理解出來ないだらうし、又、僕が極度に夏を憎んでゐることを、馬鹿げてゐると感じてゐるかも知れないが)。この恐ろしい暑さと騷擾の中で、詩や人生・永遠について考察することは、全く以つて不可能な事だ。運惡く船の甲板に落ちて死んでしまつた飛魚(とびうを)のやうな氣分だ。其上、僕は、塵埃、御定まりの饐(す)えた魚の臭(にほひ)、蟲どもの唸(うな)り聲、守宮(やもり)と蜥蜴(とかげ)の嫌惡を感じさせるあの形相(ぎやうさう)、そして、最も恐ろしい蚊に、大いに惱まされてゐる。つまりは、君に好意を持つてゐるあの夏の女王は、僕を酷(ひど)く殘酷に扱ふのだ。

 斯くして僕は、其現實が、極上の美味(うま)さを持つた夢に變じ、世上の齎(もたら)す苦しみが、贅澤な喜びの人生に變容する、太陽と桃の花の御伽の國を夢見んが爲、「遊仙窟」を讀んだ。此魅力的な魔法の土地で、僕は、この下品で陳腐極まりない対象を總て忘れて、人生を生きたいと思つた。この幻想曲(フアンタジア)の詩人張文成と一緖に、男と女ではなく、神と女神が、此妖精國(フエアリイランド)の蒼玉(サフアイア)色をした空の下、白雪(しらゆき)色の桃の花の香りに包んで吳れた。

 僕の稚拙な幻想(フアンタジイ)を笑つて吳れるな! 此處は不思議な大地の上に不思議な月が輝く僕の小さな王國なのだ。僕は晝も夜も夢を見てゐる、櫻草の色をした夢(之は僕が幸せな悲しみだと判る「象牙の塔」なのだ)の中で、僕は孤獨であるが、甘美な、そして、侘しくはあるが、心地よい悲しみを見出したのだ。古代印度の詩群の中にある「神祕の靑い蓮の花」は、「幻想の乳白色の夕方の霧の中にだけ咲く花だ」と言つてゐる。其處には眞の科學と藝術だけが在る。Müssen(ミユツセン)無しに科學は在り得ない。歷史・論理・倫理・哲學等の「藝術」は、音樂や繪畫をのみを名指して「藝術」と呼ぶ。赤い薔薇や黃水仙(きずいせん)の花が咲き誇る峽谷の、明るい月明かりの中で踊るフアウヌスと妖精(ニンフ)は、陽氣な歌を唄ひ、銀のフルートを吹くのに、それを、くすんだ灰色の白髮頭と皺の寄つた顔の歷史家や哲學者は、謂ふ所の科學的探究なるものをやらかしてゐる。フアウヌスらの歌と歷史家の硏究は、これ、全く同じものであり、それらの間には纔かな相違さへない。にも拘はらず前者は魅力的であるが、後者は恐ろしく退屈である。

 淡い綠色の蛾が一匹やって來て、僕の肩にとまつた。 窓の外では、樫の木が七月の夕暮れに靜かにざわめいてゐる。乾し草の匂ひ――牝牛(めうし)のものうい啼き聲――黃色い新月――想(おも)ひと夢を乘せて、夜がやつて來る。

    扨これから僕はランプを灯して年老いた父と母と一緖に食事を攝らなければならぬ。

                   頓首

 追伸 ビアズリーの「サロメ」は法外な高價(たかね)だ。 僕は昨日、古本屋で見つけたのだが、實に七円もした。

 

   *

「一九一二年七月二十日」この十日後、明治天皇が崩御し、明治四十五年は大正元年となった。龍之介は一高二年次二学期終了時で、満二十歳であった。新全集の宮坂年譜を見ると、この年の五月二十二日の条に井川(=恒藤)と深夜まで話し込んだとあり、翌二十三日(火曜日)の朝には『井川と上野に出かけ、音楽学校や博物館の近辺を散策する。夕方、再び井川と神田に出かけ、ニコライ堂を訪れる。駿河台の交差点で井川別れた後、広瀬雄』(たけし:三中時代の恩師。英語学者)『宅を訪ねる。午後』八『時頃、井川が迎えに来たので、二人で帰り、前日同様、床の中で深夜まで話し込んだ』とあり、井川との親近性が如実に見てとれる。なお、この七月下旬に龍之介は夏季休暇で退寮しており、この七日前には自宅でオスカー・ワイルドの中短編小説集「アーサー・サビル卿の犯罪その他」(‘Lord Arthur Savile's Crime and Other Stories’:一八九一年)を読了している。

「遊仙窟」初唐の小説。一巻。作者張鷟(ちょうさく 生没年不詳)は七世紀末から八世紀初めの流行詩人で、字(あざな)は文成。寧州襄楽県尉・鴻臚寺丞・司門員外郎などに任ぜられた官人であった。物語は、主人公の「張生」(作者)が黄河上流の河源に使者となって行ったとき、神仙の岩窟に迷い込み、仙女の崔十娘(さいじゅうじょう)とその兄嫁の王五嫂(おうごそう)の二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝名残を惜しんで別れるという筋。文体は華麗な駢文で、その間に八十四首もの贈答を主とする詩を挿入し、恋の手管(てくだ)を語らせてある。また、会話文には当時の口語が混じっている。本書は中国では早くに散逸したが、本邦には奈良時代に伝来して、「万葉集」に、天平年間(七二九年~七四九年)の大伴家持が坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌のなかに、既にその影響があり、天平五(七三三)年の山上憶良の「沈痾自哀文」(ちんあじあいのぶん)などにも引用されてある。その他にも「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」・「唐物語」・「宝物集」などにも引用され続け、江戸時代の滑稽本や洒落本にも影響を与えた極めて古くからの人気作品であった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『古代印度の詩群の中にある「神祕の靑い蓮の花」は、「幻想の乳白色の夕方の霧の中にだけ咲く花だ」』原拠不詳。見つかったら、追記する。

「Müssen(ミユツセン)」筑摩版脚注では『「当為」』としている。「当為」は所謂、哲学用語で、ドイツ語の“Sollen”(ゾルレン)の訳語である。「現に確かに存在すること」・「必然的であること」であるが、概ね、「ありうることに対して、かくあるべし、かくすべしとしてその実現が要求されること」を指すとされる。一般に「存在すること」を意味する“Sein”(ザイン)の対語とされる。しかし、調べてみると(私はドイツ語は判らないので、ネットの複数の記載や論文を見た)、この“Müssen”は“Sollen”と同義ではなく、寧ろ、時に対語とされることが判った。則ち、ドイツ語としての本語は“Sollen”と同系統の「必要性」の意味であるものの、サイト「RIKA MUSEUM」の「ドイツ語学習」のこちらによれば、『müssen は sollen よりも強制力が強い』とあり、哲学論文の中では“Müssen”を「当為」と訳すのは誤りであるといった記述もあった。ただ、古く明治初期のドイツ哲学の訳書でそれらが、この「当為」に一緒くたにされて訳された経緯はあるらしいから、「当為」の訳は誤りとは言えないようではあるものの、本来は、「ミュッセン」は「ザイン」よりも遙かに「かくあるべきでなければならない」度が強い語である以上、「当為(當爲)」の和訳は敢えて避けた。

「フアウヌス」ローマ神話の家畜と田野や森を守る男神ファウヌス。中世以降にはギリシャ神話の官能的な半人半獣の自然の男性の精霊サテュロス(satyr)と混同された。

『ビアズリーの「サロメ」』ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表するイギリスの画家オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley  一八七二年~一八九八年:結核により二十五歲で早逝した)が挿絵を描いたオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」(Salomé)の一八九四年に出版された英訳版(初版は一八九一年にフランス語で書かれ、一八九三年にパリで出版されている)。ウィキの「オーブリー・ビアズリー」によれば、一八九三年に六月に『パリから帰国後、オスカー・ワイルド作』の「サロメ」の『挿絵を描く契約を結ぶ(本来』、『ビアズリーはこの作品の英訳者になることを望んでいたが』、『叶わなかった)。この作品の挿絵を描くように慫慂したのは作者ワイルド自身だったが、ビアズリーの絵は「僕の劇はビザンチン的なのに、ビアズリーの挿絵はあまりに日本的だ」との理由により、ワイルドには気に入らなかった。作者を揶揄する内容の数枚の挿絵もワイルドを怒らせた』とあるのは、かなり有名なエピソードである。]

2022/12/30

芥川龍之介書簡抄149 追加 大正四(一九一五)年六月十二日 井川恭宛書簡

 

[やぶちゃん注:必要があって以下に電子化する。底本は岩波書店旧全集の「一六二」番書簡。年末に至って右糸切り歯の根本が痛むので(先週、歯科医が見落として、一月十三日に治療をすることになっているが、どうなるか、判らんね。チステかも知れん。もし、おかしくなったら、ブログも更新しないかも知れない)、注は、漢詩その他以外は、筑摩書房の全集類聚版及び岩波新全集人名解説索引等に主に拠った。]

 

大正四(一九一五)年六月十二日・京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣」・「十二夕 田端 芥川龍之介」

 

試驗は十日に始まつて十五日にすむ 日數は短いが一日に二つある日がある位で中々充實してゐるから厄介だ 殊にこの一年來興味のないものには努力する事が益出來なくなつて來たので余計厄介だ そして專問の英文學の講義が僕には一番興味がないんだから愈厄介だ 最後にまだ一週二囘づゝ品川の醫者へ通つてゐるんだからその上に厄介至極だと云つていゝ

今日沙翁の試驗があつた プリントを送るから見てくれ給ヘ シエクスピアのソネツトはW・H・にさゝげてあるがそのW・H・は誰だと云ふ推側を十ばかり書いてそれを一々誰の說にして誰の反對說ありと云ふやうな調子で批評すると一題でも隨分長くなる おかげで一生役に立たないに相違ないとしか思はれない名前や事賞實をむやみに覺えさせられた 沙翁のソンネツトの初版は四つ切版で行數二千五百五十一行 その中誤植三十六 ヴイナス アンド アドニイスは同版で行數三千四十七行その中誤三十六と云ふのはその一つにすぎない

体はいゝとも惡いとも自分にはわからないがそんなに惡くはなささうだ

差當り僕の頭は數字で一杯になつてゐる デイツケンスの著作年表 ペトーラルカのソンネツトの數 十六世紀のソンネツト作家の作品總數 沙翁のソンネツトの番号 及シムベラインの幕數景數――實際災だ 早く自分の事がしたくつてたまらないが仕方がない ノートのよみきれない科目は半創作的な答案を書いて間に合せてゐる

田端は若葉――あらゆる種類の若葉で埋つてゐる その上に每日靜な雨がさあつとふつてゐる 僕が雨期を愛するのは君もしつてゐるだらう 僕は少しでもテテイツシユ[やぶちゃん注:底本では右にママ注記がある。]な心のある人なら誰で黴のはへる事位は度外視して雨期を愛すべきものだと思ふ この頃の雨に飽きた木の枝ほどうつくしくしだれてゐるものは外にない 江城五月黃梅雨と云ふが黃梅、黃麥、新綠及び灰色の空の美しい諧調は西洋の詩に見られない美しさであらう 雨のはれまを散步すると家々門巷掃桐花と云ふ句を思出す 槐影沈々雨勢來と云ふ句を思出す 一川薰徹野薔薇と云ふ句を思出す 僕は試驗後少くも半月は雨がふつてゐる事を祈つてゐる

蚊は存外ゐない

增野氏は氣の毒だ 同情した 心もちが可成よくわかつたから

しかしギタンヂヤリの譯はいけない 隨分大きな誤譯がある それも急ぐからかもしれない

帝劇で武者の「わしも知らない」をやる やるのは猿之助

早く自由にいろんな事がしたい 僕にはする事しなくてはならない事が澤山ある 僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐるが病氣が病氣なので誰も見舞ひにゆかない 姊さんと妹と三人ぐらしで姊さんもまだ片づいてゐないのだから大へんだ 病院へ入れておくのも苦しいらしい あゝなつちやたまらないと思つた しみじみさう思つた その人が野心家でないのはまだしもの幸かもしれない

どこへゆくともまだきまつてゐないがどこかへゆく

    十二日夕           龍

   井 川 君

[やぶちゃん注:「W・H・」筑摩全集類聚の脚注に、『シェイクスピアのソネットSonnet(十四行詩)一五四篇中の一二〇数篇に歌われている美少年』とある。

「四つ切版」同前で、『quarto 本の大きさ。7✕8』½『または10✕13 インチ大』とある。

「ヴイナス アンド アドニイス」同前で、『一五九三年の作。Henry Wriothesley(ソネットの相手とも言われる)に捧げられている』とある。

「シムベライン」同前で、『Cymbeline(「シンベリン」(1609~10)。シェイクスピアの晩年の作』。古いケルト人ブリテン王に纏わる戯曲。

「テテイツシユ」筑摩版全集類聚本文では、『エステテイツシユ』と修正されてある。脚注に、『ästhetisch(独)。美的』とある。

「江城五月黃梅雨」これは李白の七絶「與史郞中欽聽黃鶴樓上吹笛」(史郞中欽と黃鶴樓上に吹笛(すいてき)を聽く)の結句「江城五月落梅花」の記憶の誤りと思われる。また、この詩句の「落梅花」は眼前の風景から連想した楽曲の名称であるので注意されたい。

「家々門巷掃桐花」宋の張澮川の七絶「寒食」の結句。「家家 門巷 桐の花を掃(は)き」。

「槐影沈々雨勢來」宋の司馬光の七絶「夏日西齋卽事」の承句。「槐(えんじゆ)の影は沈沈(しんしん)として 雨勢(うせい) 來たる」。

「一川薰徹野薔薇」出典不詳。「一川(いつせん) 薰徹(くんてつ)す 野薔薇(のばら)」と訓じておく。 

「增野氏」筑摩版は不詳とするが、岩波新全集人名解説索引(私は解説索引の部分のみをコピーで持っている)に、『増野三良(1889-1916)詩人。翻訳家。島根県生まれ. 早大英文科卒. 1914年詩誌「未来」を三木露風・服部嘉香・柳沢健らと創刊. 一方、タゴールに傾倒し, 『ギタンヂヤリ』『新月』『園丁』などの訳書を刊行. 肺を患い, 故郷の浜田で夭折した. 』とある。

『武者の「わしも知らない」』これは本書簡抄で二度既注している。武者小路実篤による戯曲「わしも知らない」のこと。釈迦と釈迦族滅亡を描いたもので、大正三(一九一四)年一月に『中央公論』に掲載され、翌年のこの年に帝国劇場で文芸座によって上演された。実篤の戯曲作品で初めての上演で、十三代目守田勘弥が釈迦、二代目市川猿之助が流離王を演じた。私は読んだことがない。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐる」筑摩版脚注に「三期」を注して、『現在の安静度一度に当る。結核で空洞ができた重い症状。中学の友人平塚のこと。』とある。府立第三中学校時代の芥川の同級生で友人であった平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。読むたびに涙がこみあげて来る芥川龍之介の「彼」(私の詳細注附きサイト版)の主人公である。]

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