フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「芥川龍之介 書簡抄」の86件の記事

2021/06/21

芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通

 

大正七(一九一八)年一月一日・田端発信・菅忠雄宛(葉書)

忠雄さんは何時までそちらにお出でですか僕は來週中でも鎌倉へ行つてさがして下すつた家を見たいと思ひます

頓首

 

[やぶちゃん注:この三月一日で、芥川龍之介満二十五歳。先の最後の松岡譲宛書簡の注で既に述べた通り、龍之介が思いの外、人にちゃっかりしっかり頼るタイプであることが判る。但し、この時に紹介された物件は気に入らず、一月三十日にも菅虎雄の紹介で鎌倉の借家を数軒見て回ったが、気に入らない。結婚時点(翌二月二日)でも新居は決まっておらず、二月七日頃にも探しに行き、二月二十六日まで新居が決まった(新全集宮坂覺年譜に拠る)。ここで後に掲げる書簡も参照のこと。]

 

 

大正七(一九一八)年一月十九日・田端発信(推定)・京都市加茂松原中ノ町八田方裏 井川恭樣・一月一九日 芥川龍之介

 

女の名は

   加茂江(カモエ)(下加茂を紀念するならこれにし給へ)

   紫乃(シノ)(子)

   さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)

   茉莉(マリ)(子)

   糸井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)

これで女の名は種ぎれ男の名は

   治安

   樓蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜譯 一寸興味があるから書いた)              

   哲(テツ)。 士朗。(この俳人の名はすきだ)

   俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)

   眞澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)

そんなものだね

書けと云ふから書いたがなる可くはその中にない名をつけて欲しい この中の名をつけられると何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから

僕は來月に結婚する 結婚前とは思へない平靜な氣でゐる 何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない

僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける 僕は伯母に負つてゐる所が多いから女だつたら富貢子 男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ 或は伯母彥もいいと思つてゐる そのあとはいい加減にやつつけて行く 夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる 實は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ

この頃は原稿を皆斷つてのんきに本をよんでゐる 英國の二流所の作者の名を大分覺えた

   爪とらむその鋏かせ宵の春

   ひきとむる素袍の袖や春の夜

   燈台の油ぬるむや夜半の春

   葛を練る箸のあがきや宵の春

   春の夜の人參湯や吹いて飮む

この間運座で作つた句を五つ錄してやめる

   井 川 君           龍

  二伸 奧さんによろしく 產月は何時だい 今月かね

[やぶちゃん注:太字はルビ。本文内の( )表記と区別するために、かくした。宛名は本来は改姓後の恒藤恭であるべきだが、龍之介はこの語も暫くずっと「井川恭」と記し続ける。この辺りに彼の「井川恭」に対する同性愛感情の残痕を私は嗅ぐ。龍之介が「恒藤恭」と記すのは、実にこの翌年の大正八年五月十九日附書簡(葉書・旧全集書簡番号五二七)以降である。発信の一月十九日は日曜日であるので、田端(推定)とした。親友恒藤恭の妻雅が妊娠し、その子の名を彼が龍之介に命名を頼んだ、その返信。翌二月十五日に雅は男児を出産、「信一」と名づけられた。

「僕は來月に結婚する」日付を明らかにしていない理由は次の松岡譲書簡に記されている。

「士朗。(この俳人の名はすきだ)」江戸時代後期の医師で俳人の井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)

生れ、医師として活動する傍ら、加藤暁台(きょうたい)門下の高弟として、暁台没後の尾張俳壇を主導し、「寛政の三大家」の一人に数えられた。私は師の暁台は好きだが、士朗は月並化が激しく、好きな句はない。

「伯母」芥川フキ。彼女への芥川龍之介の尊崇偏愛が見てとれる。

「ビズネス」ビジネス。business

「伸六」夏目漱石の次男でジャーナリスト・随筆家夏目伸六(明治四一(一九〇八)年~昭和五〇(一九七五)年)。当該ウィキによれば、『東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉』四『名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた』六『番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった』とある。

「運座」俳諧の一座で、連衆(れんじゅう)一同が一定の題について句を作り、互選・選評する会。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に始まり、天保年間(一八三〇年~一八四四年)頃から流行したが、その後途絶え、明治になって正岡子規が再興、日本派俳人の定式となった。]

 

 

大正七(一九一八)年一月二十二日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・書留印・消印二十四日・一月廿二日 橫須賀汐入五八〇 芥川龍之介

 

手紙見た 久米はうつちやつて置くがいゝ

僕の結婚はいづれ通知する 公務の關係と家事の關係で日どりはまだはつきりしない 大體きまつてゐるがまぎわへ來て變るかも知れない とにかく來月である事は事實だ 但これも久米始め誰にも公表してない 僕の細君と學校との關係上結婚の完る[やぶちゃん注:「をはる」か。]前に公にしたくないからだ

伺しろくだらない用が多くつてうるさくつて仕方がない その中で小說を書くんだからやり切れないよ こいつ一つ書いちまへばあとは書いても書かなくつてもいゝんだと思つてそれを樂しみに書いてゐる

久米には實際こまつたものだと思ふよ この頃あいつの創作上の問題に關係してしみじみさう思つた 結局匙をなげるのかなとも思ふ とにかく惡い所を愈惡く出して來た事は確だ もう何と云つても仕方がない 以上

   松岡讓樣        芥川龍之介

  二伸 金をうけとつてくれ この中へ封入したから

[やぶちゃん注:芥川龍之介が親しい友人にさえ結婚式の日取りをぎりぎりまではっきりさせなかった大きな理由は、夏目筆子と松岡譲及び久米正雄のぐちゃぐちゃしたゴシップを勘案(というか、嫌気がさして)してのことと思われる。特に親友久米のことを慮っていたようである。実際には二月二日日曜日の結婚式の後に田端の天然自笑軒で開かれた披露宴には菊池寛・江口渙・池崎忠孝に久米正雄が出席している。

「金をうけとつてくれ」前年の十二月十四日の松岡宛書簡に出た謎の「グレエフエ」の代金か。

 

 

大正七(一九一八)年一月二十三日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

だんだん二月二日が近づいて來ます 來方が遲いやうな氣も早いやうな氣もします もう正味二週間だと思ふと驚かずにはゐられません 文ちやんはどんな氣がします

僕は當日の事をいろいろ想像してゐます さうして 少し不安な氣もしてゐます 何だかまだ身仕度も出來ないうちに眞劍勝負の場所へひつぱり出されたやうな氣がしない事もありません しかしそれよりも嬉しい氣がします

文ちやんは御婚禮の荷物と一しよに忘れずに持つて來なければならないものがあります それは僕の手紙です 僕も文ちやんの手紙を一束にして持つてゐます あれを二つ一しよにして 何かに入れて 何時までも二人で大事にして置きませう だから忘れずに持つてゐらつしやい

何だかこれを書いてゐるのが間だるつこいやうな氣がし出しました 早く文ちやんの顏が見たい 早く文ちやんの手をとりたい さう思ふと二週間が眼に見えない岩の壁のやうな氣がします

今これを書きながら 小さな聲で「文ちやん」と云つて見ました 學校の敎官室で大ぜい外の先生がいるのです

ん 小さな聲だからわかりません それから又小さな聲で「文子」と云つて見ました 文ちやんを貰つたら さう云つて呼ばうと思つてゐるのです 今度も誰にも聞えません 隣のワイティングと云ふ米國人なぞは本をよみなが居睡をしてゐます さうしたら急にもつと大きな聲で文ちやんの名を呼んで見たくなりました 尤も見たくなつた丈で實際は呼ばないから大丈夫です 安心してゐらつしやい

唯すにも文ちやんの顏が見たい氣がします ちよいとでいゝから見たい氣がします それでそれが出來ないからいやになつてしまひます

當日品川から田端まで車で來るのは大へんですねずゐぶん長い譯でせう 尤も車の外に仕方がありません 自働車は動阪から先へ來られないから。僕なら途中の車の中で居睡りをしちまひさうです。自笑軒へ行つてからはずゐぶん極(きま)りが惡るさうで これには少し閉口してゐます 文ちやんは平氣ですか しかし一生に一度だから極りの惡い位は我慢したければなりませんね 兎に角それが皆二週間たつと來るのです 當日お天氣がいゝといゝですね 何だかいろんな事が氣になります

暇があつたら返事を書いて下さい 頓首

    一月廿三日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

  二伸 學校へはまだ行つてゐるの?

[やぶちゃん注:婚礼時点では、塚本文はまだ満十七歳であった(誕生日は七月四日)。]

 

 

大正七(一九一八)年二月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・二月一日 龍(葉書)

 

おたづねに從ひ御返事する

僕は明日結婚する 細君は當分うちに置いて僕だけ橫須賀で下宿ずまひをするつもり

鎌倉にはまだ適當な借家が見つからない

とにかく貧乏で悲觀してゐる

これが僕の書いた唯一の結婚通知狀だ この後も書かないだらうと思ふ 頓首

  (二伸 約束上成瀨へもよろしくしらせてくれ給へ)

 

 

大正七(一九一八)年二月十三日・横須賀発信・薄田淳介宛

 

拜復 朶雲奉誦、問題の性質上學校の首席敎官とも一寸相談して見ましたが大體差支へあるまいといふ事ですから條件第一で社友にして下さい齟齬するといけないから念の爲その條件を下へ書きます

一、雜誌に小說を發表する事は自由の事

二、新聞へは大每(東日)外一切執筆しない事

三、右二、を大每(東日)紙上で發表して差女へない事但その文中「公務の餘暇なる」字を入れる事(勿論社友と云ふ事でなく執筆を新聞では大每に限ると云ふ事を發表するのです)

四、報酬月額五十圓

五、小說の原稿料は從前通り

これでよかつたらその旨田端四三五私宛返事して下さいいけない場合も同樣田端宛御一報願ひます 又目下讀賣の依賴で七枚ばかりの小品を一つ同社の爲に書きましたがこれは契約前のものとお見なし下さい多分今度の日曜附錄にのる筈です小說は私の結婚でちよいと中斷されましたもう四五日待つて下さい早速送ります 以上當用のみ末ながら色々御盡力の御禮を申上げます 頓首

    二月十三日      芥川龍之介

   薄田淳介樣

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、カットしたが、一月三十一日附の薄田書簡で、社友への誘い(イコール、専従作家としての出発の可能性を示唆するものである)を受け、許諾しており、『日付は不明だが、この日以前にも、薄田上京の折に』社友扱いについて『依頼していた』とあり、この書簡について、『海軍機関学校から辞任の内諾を受けたため』に書かれたものとする。但し、これは辞任への布石であって、実際の毎日新聞社社員(出勤義務無し)の内定と機関学校辞任は翌大正八年の二月下旬から三月末日(三十一日に正式に退職)であった。

「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。

「七枚ばかりの小品」「南瓜」(リンク先は「青空文庫」(新字旧仮名)。大正七年二月二十四日附『讀賣新聞』発表の一人称(対話者はいるが、出てこない)の語り物。芥川龍之介の作品では珍しいものである。]

 

 

大正七(一九一八)年二月十五日・井川恭宛(封筒欠)

 

御長男の生まれたの祝す 御母子の健康を祈りながら

   春寒く鶴を夢みて產みにけむ

    二月十五日      芥川龍之介

   井 川 恭 樣

   仝 雅 子 樣

 

 

大正七(一九一八)年三月十一日・京都市外下鴨松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・三月十一日 田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

御祝の品難有う 今日東京へ歸つて拜見した

うちはやつと見つかつたが引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ 鎌倉でも亂橋と停車場との中間にある寂しい通りだ 間數(まかづ[やぶちゃん注:ママ。])は八疊二間 六疊一間 四疊二間 湯殿 臺所と云ふのだから少し廣すぎる が蓮池があつて芭蕉があつて一寸周圍は風流だ もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ 番地その他はまだ僕も知らない いづれ引越しの時通知する

例の通り薄給の身だからこれからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる 兎に角人間は二十五を越すと生活を間題にするやうになると云ふよりは物質の力を意識し出すやうになるのだ だから金も欲しいが 欲しがつてもとれさうもないから別に儲ける算段もしないでゐる

學校の方はいゝ加減にしてゐるから本をよむ暇は大分ある この頃ハムレツトを讀んで大に感心した その前にはメジユア フオアメジユアを讀んでやつぱり感心した 僕の學校は一體クラシツクスに事を缺かない丈が便利だ バイロンのケインなんぞは初版がある 古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ その代り沙翁のあとで獨譯のハムスンを讀んだから妙な氣がした 新しいものもちよいちよい瞥見してゐる あんまり面白いものも出なさうだね

その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない 谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ さうして平安朝小說を書くさうだ 僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる

あとは後便にゆづる

末ながら雅子樣によろしく

別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ 以上

    三月十一日          龍

   井 川 恭 樣

[やぶちゃん注:「御祝の品」芥川龍之介と文の結婚への贈答品。

「メジュア フオアメジュア」シェークスピアの戯曲「尺には尺を」(Measure for Measure :一六〇四年初演)。シノプシスは当該ウィキを見られたい。前注した「南瓜」にもシェークスピアへの言及が出現する。

「クラシツクス」classics。ここは西洋の古典作品の意。

「バイロンのケイン」イングランドの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 一七八八年~ 一八二四年)の戯曲「カイン」(Cain )は、一八二一年出版された、所謂、レーゼドラマ(Lesedrama:上演を目的とせず、読まれることを目的に書かれた、脚本形式の文学作品)の代表として知られる。旧約聖書のカインとアベルの物語をカインの視点から描いたもの。

「ハムスン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)。一九二〇年に一九一七年作の田園生活を讃美した小説「土の恵み」(Markens Grøde :ドイツ語訳 Segen der Erde :英訳 Growth of the Soil )でノーベル文学賞を受賞して世界的名声を得たが、侵攻してきたナチスを支持し続けたため、戦後、名誉失墜した。この時、龍之介が読んだドイツ語訳の作品は不明だが、「土の恵み」かも知れない。

「後便」少なくとも、底本の岩波旧全集には後便らしきものはない。次の恒藤恭宛は八月六日附まで、ない。]

 

 

大正七(一九一八)年三月十三日・横須賀発信・菅忠雄宛(葉書)

 

うちを御知らせ下さいまして難有うございます が、松岡先生のお出でになつたと云ふ家にもうとりきめてしまひましたから仕方がありませんあすこは井戶水を樋で引き便所も二つ建てましてくれるさうです 來週中にはひきこしますからさうしたらお遊びにお出で下さい先生によろしく 頓首

[やぶちゃん注:恩師とその息子にさんざん探させておいて、これだ。新婚の新居だから拘ったのは判るが、芥川龍之介のこういうさらっと言い過ごすところは、私はちょっと厭な感じだ。菅父子もちょっと可哀そうだ。

「松岡先生」不詳。]

 

 

大正七(一九一八)年三月三十一日・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)

     左記へ移轉致候

    四月一日

神奈川縣鎌倉町大町字辻 小山別邸内

               芥川龍之介

  二伸君の宿所を忘れたまゝだから德田さんの御厄介になります鎌倉へ遊びに來ませんか女房持になつたつてさう見限るものぢやありません

[やぶちゃん注:この数日前の三月二十九日、芥川龍之介は鎌倉に転居した。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べた通り、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。の横須賀線を渡った北直近に「辻の薬師」がある。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために廃寺となっているので、この項立てはおかしい)の項を見られたい。

「岡榮一郞」(明治二三(​一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は劇作家。石川県生まれ。東帝大英文科卒。芥川の一年先輩。大正二(一九一三)年に漱石山房に出入りし、木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、大正五年の漱石の死去に際しては、芥川らとともに葬儀の受付を担当している。大正六年頃から芥川との書簡の往復が増加し、それと共に「我鬼窟」の常連となった。劇作は芥川の勧めによるとされる。後の大正十四年には芥川の紹介で芥川の同級生野口真造の姪綾子と結婚し、芥川は夫婦で初めて媒酌人を務めたが、この結婚は不調で(姑との関係悪化)、翌年十二月に離婚した。芥川はこのことでかなり神経を悩ますこととなった。

「德田さん」作家徳田秋声。彼は岡の叔父(筑摩全集類聚版脚注に拠る。「岡栄一郎」のウィキでは『遠縁』とする。叔父は遠縁ではないから、或いは叔父というのは誤りかも知れぬ)であった。]

2021/06/17

芥川龍之介書簡抄85 / 大正六(一九一七)年書簡より(十七) 七通

 

大正六(一九一七)年十二月一日・東京市下谷區櫻木町一七 池崎忠孝樣・十二月一日 龍(葉書)

 

   Que m’importe que tu sois sage

   Sois belle et sois triste.

           C. Baudelaie

   徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

     その人の舞へるに

   行けや春とうと入れたる足拍子

     その人のわが上を問へるに

   暮るるらむ春はさびしき法師にも

   われとわが睫毛見てあり暮るる春

     一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を錄す

 

[やぶちゃん注:これは既にサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」で電子化しているが、二〇〇六年のユニコードのない時代の初期作成で、HTML横書版・HTML縦書版・PDF縦書版という膨大な量(五種×3)であるため、表記に不満があっても、致命的でない限り、なかなか全体の大修正が出来ないので、困っている(ビルダー上で追加を繰り返したものであって、完本としての文章データの元版は元々存在しない。私は今現在、最も芥川龍之介の俳句を、誰よりも漏らさず――二〇一〇年岩波文庫刊加藤郁乎編「芥川竜之介俳句集」よりも、である――収録しているものと自負している)。今回、少しHTML版の上記書簡は少し補正したが、ここでも改めて載せることにした。

冒頭のフランス語はシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が一八六一年五月に発表した「悲しきマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :一八五七年初版)の続編・補遺に含まれる一篇の一節、第一スタンザの冒頭の二行(二行目には三行目へのジョイントがあるので正確には)である。但し、正確に引くなら、

 Que m'importe que tu sois sage?

 Sois belle! Et sois triste! Les pleurs

である(Les pleurs は全体の韻と意味の流れから、三行目へのジョイントとして前送りされたものである)。意味は、

 どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる?

 ただ美しくあれ! 悲しくあれ! 涙は

といった意味である(「貞淑であろうと」は私の感覚で、他に「大人しくあろうと」「賢かろうと」等の訳が当てられてある)。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。実は、芥川龍之介の自死の後、彼の未定稿の定型詩篇未定稿が夥しく発見され、それが後友人佐藤春夫によって整理され、芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」(初出は昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された雑誌『古東多万』(ことたま:やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号に掲載したものを、佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」として刊行されている。龍之介はこのボードレールの詩が、既にこの頃から大好きで、遂にあの世にまで、それを口ずさみながら、去って行ったのであった。

「徂く春」(ゆくはる)と読み、「往く春」と同義。季節の移ろいとともに、さすがその面影に射している芸妓「ぽん太」(明治二一(一八八〇)年~大正一四(一九二五)年:この当時なら満三十七。但し、これは想像の句であると私は今は踏んでいる)の老いをも示唆する。一九八八年近代文藝社刊の中田雅敏「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」で中田氏は「ぽん太」について『明治二十四年』(一八九一)『新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、早くから嬌名を馳せていたが、一時落籍され』、『座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃』(☜)『という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという』とある。彼女は新橋「玉の家」の名妓初代「ぽん太」のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に「貞女ぽんた」と称されたという。ウィキの「鹿島ゑ津子」に詳しく、彼女の写真もある。森鷗外の「百物語」は、この御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のこの句は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

辺りをインスパイアした仮想句(実際に初代「ぽん太」の舞を見たのではない)と考えられる。私は実はずっと、芥川龍之介が実際に「ぽん太」の舞いを見たものと解釈していたが、中田氏の引用と齟齬すること、そもそもがこの時の芥川龍之介が新橋辺りで芸妓を揚げてというシチュエーションを考えにくいことから仮想とした。容易に仮想出来るほどに、文人連中には、この「ぽん太」は超有名人であったのである。

「行けや春」の句については、田中氏は作家福原麟太郎の次の文を引用されておられる。『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだが』、『ぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない』(出典未詳)。ここに出る「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歲壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲である。「ぽん太」は事実、踊りの名手であったとされる。これもまた、仮想句とせざを得ない。

「暮るるらむ」の句は、上記本で中田氏は、夏目家への出入りも禁じられて、寂しく郷里の福島へ帰った久米正雄(明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年:彼の生国は長野県上田市であったが、父由太郎(江戸出身)は町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、そこで正雄が生まれた。しかし、父は明治三一(一八九八)年(正雄七歳)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。このため、正雄は母幸子の故郷福島県安積郡桑野村に移って育った。因みに母方の祖父立岩一郎は安積原野開拓に尽力した開拓出張所長で、後に桑野村の村長を務めた。以上はウィキの「久米正雄に拠った)を気づかっての句と解しておられる。

「校書」は芸妓に同じ。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月六日・年次推定・久米正雄宛(葉書)

 

拜啓 八目午後二時半と三時との間に銀座カツフェパウリスタにて落合ひたし返事待つ大至急 以上

 

[やぶちゃん注:前の松岡宛が十一月一日附、十一月九日には久米が横須賀を訪れ、泊まっている(思うに、後の十二月十二日の塚本文宛書簡からは、ここで夏目筆子との破談が久米自身から語られたように思われる)。この二日後の十二月八日(土曜)には、神楽坂「末よし」で行われた夏目漱石の一周忌の会があり、龍之介は勿論、松岡や久米を出席しており、翌日の午前十時、漱石の祥月命日に茗荷谷至道庵で行われた一周忌法要(導師釈宗演)に出て、午後には雑司ヶ谷に墓参している。ところが、この日の『東京日日新聞』に、実は既に破局している久米正雄と夏目筆子のことがゴシップとして書かれてしまう。この会合指示だけの書面の字背には、そうした複雑して世間の噂に振り回されている彼ら三人(しかしその原因はその三人の中にこそ責任はそれぞれに気持ち悪い感じで重くある)に対して、自分も半ば巻き込まれた事件でもあり、友達たちを何とかしようとする龍之介の動きが見える。

「岩波版新全集」の「彼 第二」(私の偏愛する作品。リンク先は私の注附きのサイト版)で三島譲氏は明治四四(一九一一『年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目。グーグル・マップ・データ)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone:英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる』とあるが、銀座直営店は大正二(一九一三)年開店らしく、現在、場所を変えて同じ銀座に現存する。同社の公式サイトの「作品の中のパウリスタ」に「彼 第二」が引用され、『カフェーパウリスタの真前が時事新報社でした。時事の主幹は文壇の大御所と言われた菊池寛です。その菊池に原稿をとどけるために芥川龍之介はパウリスタを待ち合せの場として利用しました。龍之介の小説の中によくパウリスタが登場するのはこの理由です』とある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月八日・田端発信・薄田淳介宛

 

拜啓 新年號を二つ書くので大分くたびれますからなる可く〆切るのはおそくして下さい出來るなら來年へ少しはみ出したいのですが、題は「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れませんが、なる可く暇を澤山下さい原稿料よりも書く暇の長い方が難有いのですだから外の人の原稿をとつて私のがおくれてもいいやうにゆとりをつけて置いて下さいその點をよろしく願ひます 以上

    十二月八日      芥川龍之介

   薄 田 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「薄田淳介」(すすきだじゅんすけ 明治一〇(一八七七)年~昭和二〇(一九四五)年十月九日)は詩人・随筆家として知られる薄田泣菫の本名。岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)生まれ。岡山県尋常中学校(現在の県立岡山朝日高校)中退後、明治二七(一八九四)年上京し、上野書籍館(帝国図書館の別称)に通いながら、漢学塾二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ。明治三十年に帰郷し、幾つかの詩を作って、『新著月刊』に泣菫の雅号を用いて投稿、後藤宙外・島村抱月らに絶賛され、掲載された。翌年早くも第一詩集「暮笛集」を刊行、雑誌『小天地』を編集しながら、『明星』などに詩を載せ、その後も詩集「ゆく春」・「白羊宮」など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村・土井晩翠以後の明治後期の詩壇を背負って立った詩人であった。明治の終わり頃から、一時、小説に興味を移したものの、結局、随筆に転じ、詩作を離れた。国民新聞社や帝国新聞社に勤めた後、大阪毎日新聞社に入り、大正四(一九一五)年、『大阪毎日新聞』に「茶話」の連載開始した。参照したウィキの「薄田泣菫」によれば、『これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介して』好評を博した。ここでは芥川龍之介担当の文芸部記者としての原稿催促への返書であるが、この二年後の大正八(一九一九)年には、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任し、龍之介は自分から、特別社員として迎えて欲しい旨を彼に頼み、それを受けて招聘、彼に多くの文章発表の場所を与えた人物でもあった。

「新年號を二つ書く」「首が落ちた話」(同日『新潮』。脱稿は大正六年十二月四日)と「西鄕隆盛――赤木桁平に與ふ――」(一月一日『新小説』発表。大正六年十二月十五日に既に脱稿している)。嘘とは言わないが、「二つ」というのは弁解ためにする語として使っているわけである。

『「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れません』「開化の殺人」は十一月下旬に書き始めているが、結局、『大阪毎日新聞』には五月一日から二十二日まで(同社の系列誌『東京日日新聞』には五月二日から二十二日まで)で、かの名作「地獄變」が連載された。「開化の殺人」は大正七年七月の『中央公論』臨時増刊「秘密と開放号」に発表された。「踏繪」は題名と「開化の殺人」の内容からみて、「開化の殺人」の別題とは思われない。また、現在、同名の作品や未定稿も存在しない。事実、篠崎美生子氏の論文『「芥川」をつくったメディア―『大阪毎日新聞』の小説戦略―』PDF・『恵泉女学園大学紀要』第二十六号所収・二〇一四年二月発行)の中に、この大正六年末に『大阪毎日新聞』に掲載された広告記事「新春の本紙を飾る文藝的作品」(十二月二十九日夕刊と翌三十日夕刊の分割記事)では、芥川の「踏繪」が『その筆頭に』「『踏絵(長篇)芥川龍之介』」として『掲げられている』とあり(引用元にあるものを参考に、恣意的に漢字を正字化し、記号も変えた)、

   *

芥川氏の「踏繪」は囊日[やぶちゃん注:「なうじつ(のうじつ)」。先日。]本紙に掲載したる「戲作三昧」と同じく、題材を斯の作家が最も得意とせる旧幕時代に選びて精彩ある描寫の筆を揮ひたるもの、人物生動して肌斷たば血も迸るべし。

   *

とあって、所謂、芥川龍之介の切支丹物となるべき作品であったようである。惜しくも、書かれることなく、構想のみに終わったものと思われる。後は書簡の翌大正七年五月十五日の薄田宛の中で、『「踏繪」は中々出來ません元来春の季題だから初夏になつては駄目らしい』とちゃらかして、『傾城の蹠』(あなうら)『白き繪踏かな』の自作句を添えている。寛永五(一六二八)年から安政四(一八五七)年まで長崎奉行所では毎年正月、「踏み絵」を行うことが正月行事の一つであったことから、「絵踏」は春の季語とされている。

 

 

大正六(一九一七)年十二月十日・田端発信・久米正雄宛

 

君のことが日々に出てゐるのを見た(ボクの事も出てゐるが)あんまりいい氣なもんぢやない菅さんに敎へられて往來で新聞を買つてよんだんだが實際妙な氣がした××さんもあゝなると少し氣の毒だね

ボクは心臟の調子が惡いので一枚もかかずにしまつた肺の方は少しも掛念ない由大に安心した但喉は大分こはしてゐる煙草は當分のめない

何しろ世の中はでたらめなものだな

   木枯らしやどちへ吹かうと御意次第

    十二月十日          龍

   久 米 正 雄 樣

 

[やぶちゃん注:「君のことが日々に出てゐる」前の前の書簡の私の注参照。

「菅さん」菅虎雄。

「××さん」「筆子」であろう。この伏字は岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十一日・発信元不明・空谷先生 侍史・十二月一日 芥川龍之介

 

拜啓

漱石先生遺墨出來候間御眼にかけ候 ゆるゆる御覽下さる可く候 小生未風流地獄の業を脫せず廿日頃までは呻吟致す可くよろしく御同情願上候 頓首

    十二月十一日     我 鬼 生

   空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:発信元不明としたが、この日は水曜であるから、恐らくは横須賀発信である。海軍機関学校の年末休業は十二月二十日からで、年表上では二十日に田端に帰っている。

「空谷」芥川家と龍之介の主治医下島勲(龍之介検死担当者)。田端の芥川家の近くに住んでいた。

「我鬼生」の署名は、現存する資料の中で最も古い「我鬼」と記したものである。もともと俳号として考え、その後、盛んに署名したお気に入りの号で、実際、この十二月の上旬から使用し始めていたようである。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十二日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした 貧弱なまづい朝飯です 飯を一時見合せて手紙をよみました

ごぶさをしたのはボクの方です この前の手紙に返事を書きませんでしたから。しかしそれは例の通り目のまはる程忙しかつたのですから かんにんして下さい

久米は可哀さうです 門下生が反對したばかりでなく××さんも久米がきらひになつてしまつたのですからね その位なら始から好意を持たなかつた方がいいのです 久米は今飯も食へない程悲觀してゐます 破談になつた時は橫須賀のボクの所まで來て、いろいろ泣き言を云ひました 實際あんな目にあつたらたまらないだらうと思ひます

早くいいお嫁さんを見つけてやりたいと思ひますが 中々でさ云ふ人がありません この間フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました

シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つたのは有名です 坪内さんはこれを「脆きものよ汝の名は女なり」と譯しました 女と云ふものの當てにならない事を云つたのです

××さんでも守備兵の許嫁でもオフェリアでも皆さうです だから文ちやんもお氣をつけなさい 明日にもボクがいやになる事だつてないとは云へません さうしたらどうでせう やつぱりボクも久米のやうに悲觀するでせうか

兄さん御夫婦はさぞ仲がいいでせう。一體兄さんのやうに生まれついた人が一番いい良人になれるのです しかし今に逆襲してやりませう(五十江さんの顏はもうすつかり覺えました)見せつける方法をいろいろ今から考へてお置きなさい

事によると久米が東京にゐなくなるので ボクもこれから寂しくなるやうな氣がします こないだ久米の所へ行つたら 机の上に××さんの寫顏がのつてゐました まだ忘れられないのでせう あとで聞いたら何でも手紙を一本に寫眞を二枚に瀨戶物の小さな人形を一つだけ××さんに貰つたのださうです さうしてそれを見せてくれました

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集編者により、ここに『[削除]』とある。]

試驗がすんだら暮のうちに遊びに來ませんか 一人でも來られるでせう かへりには送つてあげます

文ちやんの事を考るとうれしいやうなかなしいやうな氣がします さやうなら

    十二月十二日  龍 之 介

   文 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:「あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした」文が送った書簡に、この手紙を読むのはきっと機関学校からお帰りになってからのことでしょう、みたようなことを書いたのであろう。

「××さん」夏目筆子。この伏字も岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。私は一緒に並べられたオフェリアが可哀そうだと思うね。

「フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました」ウィキの「ピエール・ロティ」にある、ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)が一八八一年に書いた、セネガルでの一兵士の物悲しい冒険の記録「アフリカ騎兵」(Le Roman d'un spahi :「スパイ(アルジェのフランス人騎兵隊の呼称)の物語」)と思われる。仏文の当該ウィキを参照されたい。

「シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つた」Hamlet)一六〇一年頃に書かれたと推測されるシェイクスピア作の五幕の悲劇「ハムレット」の第一幕第二場の知られた台詞。当該ウィキによれば、『これは、ハムレットが』、『夫の死後』、『すぐに義理の弟であるクローディアスと再婚した母・ガートルードに対』して言い放った『批難の台詞である。日本語では』坪内逍遙などが『「弱き者よ、汝の名は女」と訳したものがよく知られている』が、『この訳文では弱き者とは』、『即ち』、『保護すべき対象を指し、レディーファーストの意と誤解をしばしば招くことがあり、坪内も後に「弱き者」を「脆(もろ)き者」と再翻訳している。なお、この台詞は当時の男性中心社会の中で、女性の貞操観念のなさ、社会通念への不明(当時のキリスト教社会では、義理の血縁との結婚は近親相姦となりタブーであった)などがどのように捉えられていたかを端的に表す言葉としても有名である』とある。

「兄さん」山本喜誉司。

「五十江さん」以前にも注したが、山本の妻の名であるが、「五十枝」の誤りか。どっちが正しいのか、迷ってくる。芥川龍之介は名前の記憶の思い込みが激しく、誤ったものを何度も後で繰り返す癖がある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十四日・横須賀発信・松岡讓宛(葉書)

 

手紙みた十二月號にろくなものはないらしいボクの名を騙つて雄辯で金をとつた奴がゐる黑潮でかたらうとしたやつと同一人だ物騷で仕方がない戲作三昧は土曜にかへつたら送る休みは二十日からだ奧さんが菅さんへ來られると云つたが二十日か二十一日に來られると一しよに東京へかへれて甚都合がいいんだがなその旨奥さんに言上してくれボクは九日以來ノドをひどくこはして悲觀してゐる夜は完く出られない煙草も當分のめない新年の新小說へは西鄕隆盛と云ふへんてこなものを書いたから出たらよんでくれ新潮は「首を落す話」で失敬したどうもウハキをしてゐるやうな氣がしてくだらなくつていやだ來年はベンキヨウしたい僕は最近橫須賀の藝者に惚れられたよそれを小說に書かうかと思つたが天下に紅淚を流す人が多いからやめにした愈來年から鎌倉へ定住する東京へ來いとすすめてくれた先輩もあるが(グレエフエはいくらだつたいこんど拂ふ)

   湘南の梅花我詩を待つを如何せむ

 

[やぶちゃん注:「雄辯」雑誌名。講談社が大日本図書を発行元として明治四三(一九一〇)年二月創刊(昭和一六(一九四一)年終刊)した、現在の講談社の元となった雑誌である。

「黑潮」雑誌名。太陽通信社発行で大正五(一九一六)年十一月創刊。大正六年三月にはこの雑誌に「忠義」を、九月一日には「二つの手紙」を発表している。この偽物、たいしたタマだ。

「奥さん」夏目鏡子。

「紅淚」ここは「美しい女性の流す涙」の意の美称。

「愈來年から鎌倉へ定住する」この四日後の十二月十八日の同じ松岡宛書簡(推定横須賀発信)で、『十九日に東京へ歸らうと思ふ 鎌倉へは借家を見にゆくからその後出直してももいい』とある。これは塚本文との結婚の日程が固まったことを受けての愛の巢探しで、鎌倉に決定しており、実は菅虎雄とその長男忠雄にもまたしても(最初の鎌倉の下宿は菅虎雄の紹介)家探しを依頼しており、実際には彼らのおんぶにだっこだったようで、大正七年一月初旬には菅親子が探した借家候補が見つかっている(新全集宮坂年譜。以下も同じ)。二月二日土曜に塚本文と結婚後、二月二十六日までに鎌倉の新居が決まり、三月二十九日に転居している。

「グレエフエ」ドイツ人名で“Gräfe”か。但し、誰なのか、はたまた小説名なのか、不詳。識者の御教授を乞うものである。]

2021/06/15

芥川龍之介書簡抄84 / 大正六(一九一七)年書簡より(十六) 塚本文宛二通

 

大正六(一九一七)年・十一月六日・横須賀発信・塚本文宛

 

拜啓

今夜は色々御馳走になりました おかあさまによろしく 御禮を申上げて下さい

汽車に乘りながら ちよいちよい文ちやんの事を思ひ出して、橫須賀へ着くまで、非常に幸福でした 僕が文ちやんに「僕の手紙はよみにくいでしよ」と云つたら 文ちやんが「えゝ」と云つたでせう。その時僕には 素直なうれしい心もちがしました 今でも思ひ出すと してゐます。

こんど五十枝さんに會つたら 何が大に羨しいんだか よく聞きただして置いて下さい

この手紙はうまく、文ちやんの旅行にゆく前に屆けばいいがと思ひながら、書きました 頓首

    十一月五日夜     芥 川 生

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:この日(金曜日)、芥川龍之介は塚本文を高輪の自宅に訪ね、夕食をともにした後、横須賀へ戻った。「文ちやんの旅行」とあるが、不詳。跡見女学校の修学旅行か?]

 

 

大正六(一九一七)年十一月十七日・橫須賀発信(推定)・塚本文宛

 

拜啓

旅行中度々手紙を難有う十日の朝は五時や五時半ではまだ寐むくつて大船を通つたのも知らずに寐てゐはしませんでしたか ボクはちやんと眼をさまして文ちやんの事を考へましたさうして「くれびれたでせう」と云ひました

それでも文ちやんは返事をしないで ボクのゐる所を通りこしてしまつたやうな氣がします 丁度久米が來てとまつてゐたので、ボクは彼を起さないやうに そうつと起きて 顏を洗ひに行きました 黃いろくなりかかつた山の上にうすい靑空が見えて 少しさびしい氣がしました さうしでもう文ちやんは橫濱位へ行つてゐるだらうと思ひましたその時分はもう文ちやんも眼がさめてゐたのにちがひありません ボクが「お早う」と云つてからかつたらボクをにらめたやうな氣がしましたから

こんどお母さんがお出での時ぜひ一しょにいらつしやい その時ゆつくり話しませう 二人きりでいつまでもいつまでも話してゐたい氣がします さうして kiss してもいいでせう いやならばよします この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい氣がします 噓ぢやありません 文ちやんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛してゐるやうな氣がします

何よりも早く一しよになつて仲よく暮しませう さうしてそれを樂しみに力强く生きませう これでやめます 以上

    十一月十七日         龍

   文 子 樣

 

[やぶちゃん注:ごちそうさま! 龍之介!]

芥川龍之介書簡抄83 / 大正六(一九一七)年書簡より(十五) 松岡譲宛

 

大正六(一九一七)年・消印十一月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・AKUTAGAWA

 

ここに二人の許嫁の男女がある さうしてそれが如何なる點でも幸福だとする その時その許嫁の男がこんど久米の書いたやうな小說を書いたとする――としてもその間には何の波瀾も起らなくはないだらうか だから久米のあれを發表したと云ふ事は周圍とかフイアンセとかに對する眼があいてゐないと云ふ愚によるのだ が、周圍は存外わかつてゐたかも知れない 同時にそれ丈フイアンセに對しては盲目同樣ぢやなかつたらうか こんな考へ方をするとあいつが氣の毒にもなつて來る

それから又あいつがあんなものを書くのは實際以上に幸福な自分を書いて慰めてゐると云ふ事もありさうな氣がする これはフイアンセに對して盲目なのと矛盾するかも知れない しかし盲目ならんとする努力と見れば矛盾ではなくなるだらう 强いて自分を幸福に書いて自ら慰めると云ふ事には多少の同情がない事はない 僕は君にわかれてからこんな二つの考へ方であいつをよりよく見る事が出來さうな氣がして來た さうしてさう見る事が義務のやうな氣もして來た それは愚だし愚だけに腹が立つがさう見ればあいつに對する好意だけは失はれずにすみさうに思ふよ 愚の方ぢや我々もいつどんな愚をやるか知れないからね

しかし愚は愚だね 歸つてあの小說を見たら又しみじみさう思つたよ 僕は君に話した通り純粹にはあの件の成立を喜んでゐないからそれだけあの小說を發表した結果にしても冷淡になり得られるのだがそれにしても愚なのでがつかりする

何か變動が起るかも知れないし又起りさうだがその原因はやつぱり自然に背いた罰だと思ふ どうもあの事を考ヘるとへんに不安になつていけない

十一月になつたら三土會前に來ないか 一日ゆつくり遊びたいから

   讓   君           龍

 

[やぶちゃん注:「フイアンセ」夏目漱石の長女筆子。ウィキの「松岡譲」によれば、『漱石の長女筆子の愛を巡って、親友の久米正雄と離反』し、『久米の求婚を内諾した筆子が松岡に変心したのを知り、久米に黙ったまま付き合』っていた。『大学卒業』『の翌年』の大正七(一九一八)年四月二十五日に『筆子と日比谷大神宮で結婚、精養軒で披露宴を行なう。その結婚式当日』、『朝日新聞』の『一面に久米を中傷するかのような記事が掲載される。これは松岡が書かせたものだとされている。この記事が逆効果を』生んで、『世間は久米に同情、相対的に松岡が悪者になる。義母である鏡子に執筆を禁じられていた松岡は反論の機会を失う。また』、『この件に関して沈黙する必要』の『なくなった久米も』、『この件で負った苦悩を吐露した作品を執筆』し、『特に』大正一一(一九二二)年の「破船」は『注目された。この作品発表後』、『松岡の長女が「あんな悪い人の子供と遊んではいけない」と目の前で連れ去られ、松岡はそれを久米のせいだと復讐心を燃や』した。『長女の件を新聞で語った上で、自身からの視点で筆子との恋愛を描いた』「憂鬱な愛人」を執筆したが、『大々的な宣伝にも関わらず』、『同作品は話題にならなかった。松岡は更に知人に長女だけを預けて』、『久米に会わせるなどをしたという』。『なお』、「憂鬱な愛人」では、『筆子への恋心を描きながらも、後に筆子が愛したのは自分であると知らされたと語るなど』、『この件に関しての松岡の発言には一貫性がない』。『なお』、『久米は早い段階で松岡に話し合いを求める手紙を書いたり』、『電話を掛けたりしたが、松岡が応じることなく』、『そのまま関係は断絶していた』。『戦時中は生まれ故郷の新潟に一家で疎開。住宅難の戦後は一家で雨漏りのするお堂に転がり込む日々であった。そこすら追い出された時は』、『妻の筆子が住む場所を求めて奔走』した。なお、『この時期、生活苦から』、『学生時代の友人である芥川龍之介からの手紙を売却』している。『久米正雄とは断絶状態であったが』、『戦後の』昭和二一(一九四六)年に和解した]。『この和解は戦後新潟に来た久米を松岡が訪ねたこと』がきっかけであった。『しかし自身の評伝を書いた関口には』、『和解後の久米を揶揄するような手紙を書いており、松岡が久米を心から許したわけでは無かった事が伺える。松岡は漱石山房の再建を熱望したが、他の門下生の協力が得られなかった。久米と再会したときに真っ先にこの件への協力を呼び掛け』ている。『なお』、『久米と筆子の件は、筆子の母である鏡子が漱石亡きあと家に男手が欲しいために結婚を強制させたと筆子の娘である半藤茉莉子が著書で語っている』。『また、久米と筆子の婚約期間中』、『久米を中傷する怪文書が夏目家に届く事件が起こった。久米にこの手紙について問い質しにきた鏡子に付き添った松岡が』、『その手紙を預かる。松岡は後にその手紙を書かされたという女性が反省して訪ねてきたので』、『目の前で焼いたと記する』。『しかし松岡の評伝を書いた関口は保管されていたというこの手紙を読んだと記しており、真相が分からない状態にある』とある。ぐちゃぐちゃで、気持ち悪(わり)イ……。

「三土會」広津和郎・谷崎潤一郎・芥川龍之介・江口渙・赤木桁平・松岡譲・久米正雄・山本有三・佐藤春夫・加能作次郎ら当時の新進作家たちが親睦会として、この大正六年の九月十五日に上野の森の五條天神社脇にある「韻松亭」(現存する。ここ。グーグル・マップ・データ)で第一回が催された。他に本郷の燕楽軒や万世橋駅の上にあったミカドを会場とした。名称は第三土曜日を定時開催としたことによる。筑摩全集類聚版脚注では、『岩野泡鳴が主導した文学グループ』とするが、これは「十日会」の誤りである(「十日会」には後に芥川龍之介も参加している。そうして、そこで、ファム・ファータル秀しげ子と出逢うことになるのである)。]

芥川龍之介書簡抄82 / 大正六(一九一七)年書簡より(十四) 塚本文宛

 

大正六(一九一七)年十月三十日・横須賀発信・塚本文宛

 

手紙を難有う 返事を書かなかつたのは この土日月の三日のうちに高輪へ上るつもりでゐたからです それが又行かれなくなつてしまひました そこで早速これを書きます

土曜の午後東京へかへるとまづ時事新報の友だちをたづねて用をすませそれから神田へ行つて賴んで置いた本を本屋で買つて夜七時頃うちへ歸りました すると客が殆同時に來て 俳句の話を遲くまで邦聽させられました 日曜日は朝まだ飯を食つてゐるうちに 上野山淸貢君(素木しづと云ふ女の小說家がゐます その人の御亭主です)が久米の紹介狀を持つてやつて來て 油繪を買つてくれと云ふのです 上野山君は肺病だしその繪にもバクテリアがくつついてゐさうで 難有くはないのですが 事情が如何にも悲慘なので とうとう一枚買ふ約束をしました(上野山君の事はあとで書きます)それが歸ると一時間たたない中に谷崎潤一郞君が赤いチョッキに黑の背廣を着てやつて來ました さうしてゆつくり尻を据ゑて盛に繪の話や小說の話をしました 一しよに飯を食つて それからお八つを食べて歸つたのですからちよいと六時間ばかりゐた譯です それから今度は僕の方が外へ出る支度をして本鄕の畔柳さんの所へ學校の用と私用とを兼ねて行きました そこに六時位までゐてすぐに芝へ行きました 丁度弟が旅行から歸つた所なので色々話をしてゐる中に十時頃になりましたから 泊る事にしました 月曜の朝は午前十時頃から本鄕の後藤末雄君のうちで帝國文學會の會合があるので 僕も委員とか何とかになつてゐますから 朝早く芝を出て後藤君の所へ行きました そこで晝飯を御馳走になつてゐると 遲れて來た江口渙君が僕と話をしたいと云ふのですが 僕には江口君の所へ行つてゐる時間も僕の所へ來て貰ふ時間もないので「ぢや步きながら話しませう」と云つて本鄕から田端まで步きながら いろんな事を聞いたり話したりしました それからうちへ歸つて一時間ばかり晝寐をして湯にはいるともう彼是五時です だから又橫須賀へ歸らなければなりません そこで飯を食つて洋服に着換へて大急ぎで新橋へかけつけました

 僕の三日間はこんな風にして慌しく立つてしまひました 又何時もこんな風に慌しく立つてしまふのです が、來週の三日のうちには上るつもりです(多分月曜日の午後から)さうしないと僕もさびしいから

寫眞ありがたう 圓い方がよくとれたと思ひましたから あれを貰ひました ああ云ふ形をしてああ云ふ顏をした西洋の畫があります 誰の何と云ふ畫だか覺えてゐないが 伊太利か何かのルネッサンス頃の畫です 男でも何でもよろしい 私はあれで結構です 五十江さんもあの圓い方のがよくとれてゐますね あの人の顏は昔のお雛樣に似てゐます

兄さんがこの間滿州から匪賊の首を斬る所の畫はがきをくれました 斬つてしまつた所です 滿州は野蠻ですね。あんな野蠻な所を旅行してかへつて來て文ちやんに叱られては可哀さうです 寫眞をとつてかくしてゐる方が惡いのだから 叱るのはおよしなさい 僕もそのうちにうつすつもりです が、無精だから何時になるかわかりません

さうさう上野山君の事を書くのでしたね 上野山君と素木さんとは兩方とも肺が惡くつて結婚したので猶惡くなつたのださうです 子供が二人ばかりあつて二人共やつぱり同じ病氣です 素木さんは結核性の何かで足を一本切りましたから 一本足です それで細君の小說も 御亭主の畫もうれないものですから暮しはひどく苦しいらしいのです 何でも茅ケ崎に家を持つてゐた時には家賃が滯つて 二人別々に遊びに出るやうなふりをして逃げて來たさうです ですから勿論夜具ふとんから家財は一切向うへとられてしまつたのです 上野山君は畫かきをやめて印刷所の職工になつて 月々二十圓づつとらうとしたさうですが それも口がなくてなれないらしいのです ああなるとたまりませんね それでも上野山君は非常に素木さんを愛してゐるやうです 或は寧 崇拜してゐるやうです 大分同情しました

それにしても僕たちの生活は幸福にしたいと思ひます うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます どうせ小鳥の巢みたいなものだから小さな家でよろしい 日あたりがよくつて 風さへ通ればそれで結構です さうしたらほんとうに落着けるでせう それが樂しみです

時々不良の女みたいな女流作家や作家志望者に遇ふとしみじみ文ちやんがあんなでなくつてよかつたと思ひます 作家にはああ云ふ種類の女と結婚してゐる人が大ぜいあります 僕には氣が知れません 文ちやんは何時までも今のやうでゐて下さい さうすると そのおかげで僕も餘程高等になれます

これでやめます 僕を思ひ出して下さい

    十月三十日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「この土日月の三日」カレンダーを見ると、大正六年十月三十日は火曜日で、その直前の二十七・二十八・二十九日を指していることが判る。

「時事新報の友だち」菊池寛。彼は大正五(一九一六)年七月に京都帝大文科大学文学部を卒業(在学中は同大教授となっていた上田敏に師事した。卒業論文は「英國及愛蘭土の近代劇」)後、上京、成瀬正一の父(「十五銀行」頭取)の縁故で『時事新報』社会部記者となっていた。既に見た通り、この大正六年に高松藩旧藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚していた。この二年後の大正八年、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表し、好評を得、執筆活動に専念するために『時事新報』を退社している。

「上野山淸貢」(きよつぐ 明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年:芥川龍之介より三歳年上)は洋画家。北海道札幌郡江別村(現在の江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科(現在の国立北海道教育大学)修了。龍之介は今にも喀血して倒れそうな悲惨な様子に描いているが、彼は七十で老衰で亡くなっている。

「素木しづ」(しらきしづ 明治二八(一八九五)年~大正七(一九一八)年一月二十九日)は小説家。札幌生まれ。昆虫学者素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し、右足を切断。大正二(一九一三)年、小学校から同窓生だった森田たま(後に作家・随筆家・政治家となった)に数日遅れて森田草平門下に入り、同年、処女作「松葉杖をつく女」を、翌年「三十三の死」を発表して、新進女流作家としての地位を築く。この二年前の大正四年に上野山清貢と結婚し(婚姻届を出したのは二年後のこの大正六年であった)、年末に子供をもうけた。しかし、この手紙の書かれた僅か三ヶ月後、肺結核のために伝染病研究所で亡くなっている。満二十二の夭折であった。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟。既出既注

「弟」新原得二。当時、満十八。

「後藤末雄」既出既注

「帝國文學會」筑摩全集類聚版脚注に、『雑誌「帝国文学」』(大正四年十一月に芥川龍之介の「羅生門」が発表された雑誌)『の編集会議。帝国文学は文科学術雑誌で明治二十八』(一八九五)『年一月創刊、大正九年一月終刊。大日本図書発行。東大出身者および学生の研究発表機関』とある。

「男でも何でもよろしい」その写真の文を誰かが見て、「男みようだ」と言ったのを、龍之介への手紙に文が書いたのであろう。

「五十江さん」山本喜誉司の妻と思わる五十枝の誤記であろう。

「兄さん」文の叔父で龍之介の幼馴染みの親友山本喜誉司。既出既注。

「匪賊」(ひぞく)は本来は「集団を作って掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す語であるが、日本では特に近代中国に於ける非正規の武装集団(ゲリラ)を卑称する言葉として用いられた。現代の中国人はこの語を日本人が使用する際には、一種の嫌悪的なアレルギを持っているので、注意されたい。

「うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます」龍之介と文の新婚生活が、一時期、鎌倉でなされたことは既に書いた。龍之介は晩年、その鎌倉での蜜月を、最も幸せだった、と述懐している。]

2021/06/10

芥川龍之介書簡抄81 / 大正六(一九一七)年書簡より(十三) 松岡譲宛

 

大正六(一九一七)年十月二十五日(消印)・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・ヨコスカ市汐入五百八十尾鷲梅吉方 龍(葉書)

 

Houjyouwomamoruhitobito

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介画。底本の岩波旧全集よりトリミングした。]

 

「每日」に馬琴が出だした 插畫でボクの書いた人間が出てくるのはへんな氣のするもんだ出來は或部分は甚惡い しかしちよいちよい傑作な所もある もう一つ書けと云ふから書かうかと思つてゐるがそれにしてもそれは新年ヘだ

早く法城を守る人々の顏が見たいな ボクにあの小說を書かせればこんな插畫をかくよ[やぶちゃん注:以下、底本の岩波旧全集では二行でポイント落ち。](西田さんの本をよんだか フヂヲカ曰二千五百年の名著だとよみたいがムヅカシさうでいかん)

円光のある中外を送つたよ

奧さんはまだかへらないかい かへつたら菅さん行をすすめて一しよに來ないか 湘南の秋光は中々いいよ 僕は小閑を得ると汽車でわざわざ逗子鎌倉へゆくが一人ではつまらない

   雁は見ず墮落(オロ)せと聲を聞く夜にて

 

[やぶちゃん注:『「每日」に馬琴が出だした』この十月二十日から『大阪毎日新聞』に「戲作三昧」の連載が開始されていた(十一月四日まで)。

「插畫でボクの書いた人間が出てくるのはへんな氣のするもんだ出來は或部分は甚惡い しかしちよいちよい傑作な所もある」この後半部は自作の小説への自己批評ではなく、筆心のある龍之介の挿絵に対する批評であろう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の石割透氏の本作の解説によれば、挿絵は一回(=一章)ごとに描かれており、『作者は名越国三郎と推測される』とある。名越国三郎(生没年未詳)は大正・昭和前期の挿絵画家で、アール・ヌーボーや世紀末美術の影響をうけた独自な作風で、探偵小説やユーモア小説の挿絵に活躍、代表作に大正一五(一九二六)年『サンデー毎日』連載の江戸川乱歩作「湖畔亭事件」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「法城を守る人々」松岡譲作の長編小説。『文章世界』十一月号で連載を開始した。国立国会図書館デジタルコレクションで三巻に分かれた初刊行本が読める。

「西田さん」哲学者西田幾多郎(明治三(一八七〇)年~昭和二〇(一九四五)年)。筑摩全集類聚版脚注によれば、『ここでは、「自覚に於ける正観と反省」(大正六年十月刊)をさす』とあるが、これは「自覺に於ける直觀と反省」(大正六年十月六日岩波書店刊)の誤りである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。

「フヂヲカ」一高以来の友人で哲学者となった藤岡蔵六。複数回既出既注。

「円光のある中外」筑摩全集類聚版脚注に、『生田長江の戯曲「円光」の掲載された総合雑誌「中外」。この中外は創刊号(大正六年十月)である。同誌は大正八年四月頃終刊』したとある。三幕物で大正六年九月作。国立国会図書館デジタルコレクションの「生田長江脚本集」(大正年緑葉社刊)のここから読める。

「奧さん」夏目漱石の長女筆子。

「菅さん」菅虎雄。

「雁は見ず墮落(オロ)せと聲を聞く夜にて」この句、以前から今一つ句意が腑に落ちない。識者の御教授を乞うものである。]

2021/06/08

芥川龍之介書簡抄80 / 大正六(一九一七)年書簡より(十二) 六通

 

大正六(一九一七)年九月十三日・田端発信・菅忠雄宛

 

あなたは私にあやまる必要も何もありません弟は小町園が宿屋だと云ふ事を知らなかつたのですさうして私が小町園の女中と關係でもあるやうに思つたのです(あなたもさう思つてゐたかも知れませんさう思ふと苦笑が出ます)しかし私がその誤解を解きました。だからもう心配する事も何もないのです

私は來年結婚します勿論さう云ふ前に、外の處女と關係する程墮落してはゐませんその邊も御安心なさい。機關學校の敎官と作家とを區別しなくともいいのです。

あなたがゐなくなつて淋しくなつたしするから[やぶちゃん注:ママ。]、私は橫須賀へ轉居します先は橫須賀市汐入尾鷲梅吉方です明日移ります 日曜にでもひまがあつたら、遊びにいらつしやい。

    十三日夜       芥川龍之介

   菅   樣

  二伸ツルゲネフだけは私の持つてゐる全集の一册ですからなくならないやうに氣をつけて下さいこれはよく御願ひします

 

[やぶちゃん注:大正六年九月十三日は木曜日で、平日である。前回の最後の注でも書いたが、この書簡にもある通り、この翌日の九月十四日に芥川龍之介は鎌倉からの十月十四日に横須賀市汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の二階(八畳)に転居している(現在の横須賀市汐入町三丁目一附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ということは、この転居前日には、夜、田端へ帰ったか、転居を名目に海軍機関学校を休んだ(無論、金曜も)ものと察られる。

「菅忠雄」(明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)は既出既注。芥川龍之介の一高時代の恩師で、鎌倉に移った際にも世話になったドイツ語学者で書家の菅虎雄の長男で、鎌倉滞在中、英語の家庭教師をして貰った芥川を慕っていた。この当時、満十八歳。

「弟」先のリンク先の大正六(一九一七)年二月九日・消印十六日・鎌倉発信・京都市外下鴨村八田方裏 井川恭宛書簡に『菅さんと時々書談をやる 菅さんの子供とは親友になつた 皆お母さんのないせいか人懷しい』とあり、「皆」とあるので、忠雄には弟がいたことが判る。因みに、芥川龍之介はこの時、満二十五歳である。

「小町園」鎌倉にあった料亭兼旅館。この附近(同名のフランス料理店は旧「小町園」(昭和七(一九三二)年頃には廃業)から譲り受けたもの)に庭園付きの広大な敷地であった。鎌倉滞在中も、ここで複数回、小宴を催しているようである(先立つ五月二十四日附の東京本郷の池崎忠孝(作家赤木桁平の本名)宛葉書では、池崎に語り合おうと鎌倉に誘っているが、その場所として『小町園にしよう』と最後に名前だけを記している。これは龍之介が何度もここを使っている証左である)。そもそも、夏目漱石が死去した大正五年十二月九日の土曜には芥川龍之介主催の宴会が、この小町園で催される予定だったのである(角川書店「夏目漱石文学全集」別巻の年譜に拠る)。さらに、芥川龍之介が文との新婚時代を過ごした場所は、この附近でごく近く、さらに言っておくと、私はこの旧小町園辺りには非常に詳しい。何たる因縁か、私の父方の実家は、この旧小町園と新婚の芥川龍之介邸との中間点に当たるところにあるからなのである。ここでの菅忠雄の弟の猜疑は誤解であったことは確かかとも思われる(断言は出来ない。例えば、前回の最後の注でも述べたように、文と婚約後でも、私は人妻佐野花子に龍之介は恋情を抱いていたと確信しているからである。当時に限らず、今現在であっても芥川龍之介に惚れる女性は多い。しかし、それ以上に、芥川龍之介の方にこそ、女たちに直ぐに惚れやすい致命的な悪癖(私は自分自身のことを考えると、『こんなことは言えない』という忸怩たる思いはするのであるが)があったのである)。しかし……最後に言っておこう――この小町園の亭主のところに、翌大正七年、新妻が来る。婚姻後――「野々口豊(ののぐちとよ)」――と名乗った。この女性こそ――晩年の芥川龍之介と非常に深い関りを持つこととなる――龍之介が晩年に愛した女の一人――なのである。自死の昭和元(一九二六)年十二月三十一日から昭和二(一九二七)年一月二日まで、芥川龍之介は「小さな家出」(彼の中では野々口豊を道連れにした心中が想起されていた可能性が頗る高い)をしているが、その先は――この小町園だったのである――。私の片山廣子や佐野花子の追跡と同様、アカデミックな芥川龍之介研究者は品行方正で、まず、この手のゴシップ系研究には手を出さない(まことにインキ臭い厭な感じである)。さても、興味のある方は、歯科医の高宮檀氏の書かれた「芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る」(彩流社二〇〇六年刊)を強くお薦めする。そこでは、「藪の中」の「眞砂」のモデルとも言える龍之介にとっての忌まわしい方の「ファム・ファータル」たる秀しげ子との不倫(後に芥川龍之介は激しく倦厭するようになった、自死するまで彼女は龍之介をしばしば平然と訪ねている)とともに、この野々口豊が、驚くべき緻密さで追跡されている。

 

 

大正六(一九一七)年九月十九日・橫須賀発信・塚本文宛

 

拜啓

手紙を難有う 一咋日東京でよみました 何だか催促をしたのが 少しすまないやうな氣がしてゐます

學校と小說と兩方一しよぢや 實際少し仕事が多すぎます だから將來は 一つにする氣もあります もありますぢやない 氣が大にあるのです 勿論一つにすれば 小說ですね 敎へると云ふ事は 一體あまり私の性分には合つてゐないのです 希望を云へば 若隱居をして、本をよんだり小說を書いたりばかりしてゐたいんですが、さうも行きません が、いつか行かさうと思つてゐます

文ちやんは何にも出來なくつていいのですよ 今のまんまでいいのですよ そんなに何でも出來るえらいお孃さんになつてしまつてはいけません そんな人は世間に多すぎる位ゐます

赤ん坊のやうでお出でなさい それが何よりいいのです 僕も赤ん坊のやうにならうと思ふのですが 中々なれません もし文ちやんのおかげでさうなれたら、二人の赤ん坊のやうに生きて行きませう

こんどの家は お婆さんと女中と二人しかゐない家です 橫須賀では可成な財產家ださうです 僕の借りてゐるのは 二階の八疊で家は古くてら、落着いた感じのする所です お婆さんは大分年が遠いので 話をすると必とんちんかんになります 今朝も僕が「もう七時でせう」と云つたら「ええ ぢきこの先にございます」と云ひました

七時を何と間違へたんだか いくら考へて見てもわかりません

横須賀の方が 學校には便利ですが、どうも所があまりよくありません だから家は鎌倉にある方がいいだらうと思ふのですが どうでせう 横須賀にゐると、いろんなおつきあひや何かがうるさいですよ どうもおつきあひと赤ん坊生活とは兩立しさうもありません 僕はつきあひ下手ですからね

今日朝の十時に 僕の學校の本間と云ふ武官敎官がなくなりました 四日ばかり寢て死んでしまつたのです それが體のいい 丈夫な人なので 餘計驚きました 病氣は敗血症ださうです 僕はこれから その御葬式の時に校長がよむ弔辭を作らなければなりません 大分厄介です 以上

               芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣 粧次

  二伸 返事は書かなくつてもいいんです

  三伸 轉居先 橫須賀市汐入五百八十尾鴛梅吉方

 

[やぶちゃん注:「敗血症」sepsis(セプシス)。種々の細菌の感染症に於いて、先ず、病巣が形成され、そこから病原菌が多量に血液の中に侵入して起る全身感染症を指すが、原発巣がどこにあるか明らかでないことが多い。類似の経過を辿って血中に細菌が侵入しても、全身症状を伴わない場合は区別して「菌血症」と呼ぶこともあるが、同義語と考えてよい。

「御葬式の時に校長がよむ弔辭を作らなければなりません 大分厄介です」後の私小説風の保吉(やすきち)物の一つである「文章」(初出『女性』(大正一三(一九二四)年四月発行))はこれを素材の一つとしている(「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名である)。主人公「堀川保吉」は「海軍××學校」で「英吉利語の譯讀を敎へて」おり、その亡くなった人物は「本多少佐」で「科長と呼ばれる副校長」の「藤田大佐」から弔辞の代筆を頼まれている。但し、小説の中に出る「何とかほろ上人」は「きりしとほろ上人」のことであるが、これは大正八年の作品で、痛烈に書かれた「N氏」の時評『「海軍××學校敎官の餘技は全然文壇には不必要である」』というのは、この書簡より前の大正六年五月十三日附『読売新聞』に載った中村孤月の時評の言葉であるように、素材は継ぎ接ぎで、正統な私小説ではない。というか、芥川龍之介は恐らく生涯、あくまでストーリー・テラーを自負しており、一見、私小説に見えるものであっても、その殆どは緻密に計算し尽くされた創作であったと私は断ずるものである。]

 

 

大正六(一九一七)年・消印九月二十日・横須賀発信・東京市下谷區上野櫻木町十六 池崎忠孝樣(葉書・底本の岩波旧全集の葉書裏面の画像(活字化されていない)を添付)

 

19170921akutagawatenkyotuuti

 

  轉居

橫須賀市汐入五百八拾

尾鷲梅𠮷芥川龍之介

   傚魏華岳太華夫人廟碑體

 

[やぶちゃん注:「傚」呉音「ゲウ(ギョウ)」・漢音「カウ(コウ)」。「コウ」と読んでいよう。訓は「ならう」でここでは「字を真似る」の意。

「魏華岳太華夫人廟碑」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

大正六(一九一七)年九月二十三日(「午」とある)・田端発信・江口渙宛(葉書)

 

今日二科會及院展を見たり惡歌三首を以て恭しく江口大人の粲正に供す

  梅原君の椿

まつぴるま椿一本光りたれ赤はぽたぽた靑はぬるぬる(倣北原白秋調)

  安井君の女

ふくだめる脾腹の肉のうごかずば命生けりと誰か見るべき(倣齋藤茂吉調)

  山村君の八朔

夕月はほのかに白し八朔の遊女がふめる外八文字(倣吉井勇調)

 

[やぶちゃん注:この日は日曜日で、第四回二科展(九月九日より同三十日まで開催)及び第四回院展(九月十日から同三十日)に出かけた。

「粲正」「さんせい」と読む。筑摩全集類聚版脚注によれば、『詩を示してお笑いぐさとし、正していただくの意』とある。「粲」には「笑うこと」の意がある。

「梅原」梅原龍三郎。既出既注

「安井」安井曾太郎。既出既注

「山村」山村耕花(明治一九(一八八六)年~昭和一七(一九四二)年)は東京生まれ。本名は山村豊成。東京美術学校日本画選科明治四〇(一九〇七)年卒。尾形月耕に師事。初期文展に出品して名を認められ、この前年の大正五年の第三回院展に「業火と寂光の都」を出品、同人に推された。第八回文展に「お杉お玉」、第四回院展にここに出る「八朔」、第八回院展に「江南七趣」、改組第一回文展に「大威徳明王」などを、次々と出品し、また「烏合会」・「珊瑚会」にも作品を発表した。版画や風俗人物画を得意とし、大正中期から錦絵版画の制作も始め、また、谷崎潤一郎の「お艶殺し」、邦枝完二「歌麿」装幀・挿絵も手がけた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「八朔」筑摩全集類聚版脚注に、『八月一日。この日吉原の遊女』らは『白』無垢『を着る』とある。モノクロームであるが、「東文研アーカイブデータベース」のこちらで当該作が見られる(サイズ大)。]

 

 

大正六(一九一七)年九月二十八日・横須賀発信・塚本文宛

 

文ちやん

もう十一時すぎだが 奮發してこの手紙を書きます

第一にクリスマス・カロルの作者ですね あれは Charles Dickens と云ふ人です、チヤアレス・ディツケンスですね 近代の英國で一番えらい小說家です クリスマス・カロルの外にもあゝ云ふクリスマスを題材にした話を二つ三つ書いてゐますが あれが一番傑作だつたのです 原文は中々むづかしいから 文ちやんの英語ぢや少しよみかねるでせう 八洲さんにもどうかと思ひます 中學の五年の讀本よりはむづかしい位ですから。ディツケンスはこれでおしまひ。

七時は成程質屋ですね 僕も質をおきさうに見られたと思ふと、心細い。一體無精なので、身なりがへんだから時々いろんなものに間違へられます こないだ學校の敎官をたづねたら、女中に市役所の收稅吏だと思はれました

學校ばかりやつて、小說をやめたら、三年たたない中に死んでしまひますね 敎へる事は大きらひです 生徒の顏を見ると うんざりするんだから仕方がありません その代り原稿用紙と本とペンとインクといい煙草とあれば それで僕は成佛します 勿論その外に文ちやんがゐなくつちや駄目ですよ

この頃僕の所へいろんな人が訪問します。それも初對面の人がですね。殊に昨日は、工廠の活版工をして小說を書いてゐる人と 小說家志望のへんな女學生とがやつて來ました。それから僕は意見をしてやりましたね「小說なんぞ書くもんぢやない 況やそれを職業にするもんぢやない」と云ふやうな事を云つて。

彼等は唯世間で騷がれたさに 小說を書くんです そんな量見で書いて 何がかけるものですか 量見そのものが駄目なんですからね あんな連中に僕の小說がよまれるんだと思ふと實際悲觀してしまひます 僕はもう少し高等な人間の高等な精神的要求を充す爲に書いてゐるんですがね

もう十年か二十年したら さうしてこの調子でずつと進んで行けたら 最後にさうなる事を神がゆるしたら僕にも不朽の大作の一つ位は書けるかも知れません(が、又書けないかも知れません。何事もなるやうにしかならないのですから。)さう思ふと、體の隅々までに、恍惚たる悲壯の感激を感じます。世界を相手にして、一人で戰はうとするやうな勇氣を感じます 況やさう云ふ時には、天下の成金なんぞ何百人一しよになつて來たつて びくともしやしません さう云ふ時が僕にとつて一番幸福な時ですね

僕が高輪へ行くよりも文ちやんの方で田端へいらつしやい 月曜日の午後學校のかへりに來るんですね さうすると僕が橫須賀へ歸りかたがた ちやんと高輪まで送つてあげます これは僕が發明したのだが、中々うまい計畫でせう

それから僕の所へ來たからつて、むづかしい事も何もありやしませんよ あたりまへの事をあたりまへにしてゐさへすればいいんです だから文ちやんなら、大丈夫ですよ 安心なさい

いや寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]文ちやんでなければうまく行かない事が澤山あるのです 大抵の事は文ちやんのすなほさと正直さで立派に治ります それは僕が保證します 世の中の事が萬事利巧だけでうまく行くと思ふと大まちがひですよ、それより人間です ほんとうに人間らしい正直な人間です それが一番强いのです

この簡單な事實が、今の女の人には通じないのです 殊に金のある女と利巧な女とには通じないのです だから彼等には 幸福な生活が營めません。そんな連中にかぶれない事が何よりも必要です

僕もほしいものが澤山あるのでこまります とれる金を皆本にしても まだよみたい本や買ひたい本があるのですからめ。が、これは何時まで行つても際限がなささうです 一しよになつたらお互に欲しいものを我慢し合つて、兩方少しづつ使ふのですね 競爭で買つちやすぐ身代限りをしてしまひます

時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります 頓首

    九月廿八日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「クリスマス・カロル」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの文豪で、特に下層階級を主人公として弱者の視点から社会諷刺したものを多く発表したチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)を、世界的に有名にした、主人公の守銭奴エベネーザ・スクルージ(Ebenezer Scrooge)がクリスマス・イヴに体験する霊現象によって人間性を復帰する風刺小説「クリスマス・キャロル」(A Christmas Carol )。一八四三年刊。]

 

 

大正六(一九一七)年十月九日・橫須賀発信・塚本文宛

 

文ちやん

先達は田端の方へ御手紙を難有う 皆よろこんでゐました

僕は風見舞に上りたいと思つてゐたのですが、やつぱり多忙に妨げられて この前の日曜もこんどの日曜も 外ヘ出ずにしまひました 學校の用とボクの用とが澤山たまつてゐるのです

ヨコスカは割に平氣でした 山に圍まれてゐるせいでせう 被害も鎌倉や逗子ほどではありません ボクのうちも瓦が二三枚落ちただけです いや五六枚かな どつちにしても大した事はありません

今日兄さんから手紙が來てその中に兄さんが立つ時に 文ちやんと五十枝さんとでうつした寫眞があるから 一枚强奪し給へと書いてあります 兄さんの勸告通り 强奪しますから さう思ひなさい が 强奪は野蠻だからなる可く穩和な手段をとりたいと思ひます どうです 一枚くれませんか こつちへ送つて。文ちやんが田端へ持つて來て下されば、猶難有いけれど、どうです。ほんとうは寫眞も欲しいけれど、それより文ちやんに會ひたくなりました。これは小さな聲でそうつと云ふのです。外の人に聞えるといけません。會つて、話をする事もないけれど、唯まあ會つて、一しよにゐたいのです。へんですかね。どうもへんだけれど、そんな氣がするのです。笑つちやいけません。それからまだ妙なのは、文ちやんの顏を想像する時、いつも想像に浮ぶ顏が一つきまつてゐる事です。どんな顏と云つて 云ひやうがありませんが、まあ微笑してゐる顏ですね。その顏を僕はいつか高輪の玄關で見たのです。さうしてそれ以來その顏にとつつかれてしまつたのです。文ちやんの顏の澤山ある表情の中で、その一つが頭へこびりついちまふと云ふのはへんでせう。へんだけれど事實です。僕は時々その顏を想像にうかべます。さうして文ちやんの事を苦しい程强く思ひ出します。そんな時は、苦しくつても幸福です

ボクはすべて幸福な時に、一番不幸な事を考へます さうして萬一不幸になつた時の心の訓練をやつて見ます その一つは文ちやんがボクの所へ來なくなる事ですよ。(そんな事があつたらと思ふだけです。理由も何もなく。)それから 伯母が死ぬ事です。この二つに出會つても ボクは取亂したくないと思ふのですね。が、これが一番むづかしさうです。もし兩方一しよに來たら、やり切れさうもありません。

もう遲いから(午前一時)、やめます。文ちやんはもうねてゐるでせう。ねてゐるのが見えるやうな氣がします.もしそこにボクがゐたら、いい夢を見るおまじなひに そうつと眶(まぶた)の上を撫でてあげます 以上

    十月八日夜

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「兄さん」既に述べた通り、塚本文の叔父で、龍之介の幼馴染みにして親友の山本喜誉司。

「五十枝さん」読みは「いそえ」か。筑摩全集類聚版脚注に『山本喜誉司の妻か』とある。

「伯母」芥川フキ。この謂いから、芥川龍之介が如何にこの伯母を愛していたかが、窺われる。]

2021/06/07

芥川龍之介書簡抄79 / 大正六(一九一七)年書簡より(十一) 塚本文宛三通

 

大正六(一九一七)年九月四日・鎌倉発信・塚本文宛

 

文ちやん     九月四日鎌倉海岸通にて

この二三日伯母が鎌倉にゐて、今東京へかへりました、それを送つて歸つて來たさびしい心もちで、この手紙を書きます 何だかこの手紙を書かなければ、このさびしさがなくならないやうな氣がするから、書くのです

先日は失禮しました

あの時、文ちやんが倫理の先生に叱られた話をしたでせう あれが大へん嬉しかつたのです 何時でもあゝ云ふやうな心もちでゐなければいけません 叱るのは叱る先生の方が間違つてゐるのです あれで一生通せれば立派なものです どんな人の前へ出ても 恥しい事はありません 何時までも ああ云ふやうに正直でお出でなさい 知らないものは知らないでお通しなさい それがほんとうの人間のする事です イカモノの令夫人や令孃には、いくらめかし立てても、ほんとうの人間のする事は出來ません あの話を聞いた時に、僕は嬉しいと同時に敬服しました

但しほめても、自慢をしちやいけません

それからもう一つうれしかつたのは、伯母が文ちやんの正直なのに大へん感心してゐた事です、あとで文ちやんから手紙が來た時などには、淚をこぼしてうれしがつてゐました 正直な人間には 正直な人間の心がすぐに通じるのです 不正直な世間がどうする事も出來ないやうな心が、動かされるのです 僕も伯母と一しよに 僕たちの幸福をうれしく思ひました。文ちやんも一しよに、うれしく思つて下さい

最後に 八洲さんと三人で停車場へ行く途中で、女の人がすれちがふ時に 相手を偸むやうにして見る話をしたでせう あの時文ちやんがさうしないと云つたのが又 うれしかつたのです

これは皆世間の人から見たら、つまらない事をうれしがつてゐると思ふやうな事かも知れません しかし さう思ふだけ、世間の方が墮落してゐるのです 人間の價(ね)うちはつまらない事で一番よくわかります 大きな事になると、誰でも考へてやりますから、さう露骨に下等さが見えすきません しかしつまらない事になると、別に考へを使はずにやります 云ひかへると、自然にやります そこでいくら隱さうとしても その人の價うちが知らず知らず外へ出てしまふのです。だからその人の價うちがわかると云ふ點から云へばつまらない事は、反つてつまらない事ではありません 僕は今までに さう云ふつまらない事から曝露される男の人や女の人の下等さを、いやになる程見て來ました さうしてさう云ふ人間が、鼻につく程しみじみいやになつてしまひました。世間には實際そんな人間がうぢやうぢや集つてゐるのです。

お互に利巧ぶらず えらがらず 靜に幸福にくらして行きませう さうする事が出來たら、人間としてどの位高等だかわかりません

この頃はいろいろ 持つべき家の事を考へてゐます どうせ貧乏人だから 碌な暮しは出來ませんよ よござんすか

風が吹いて 海が鳴つてゐます 松も鳴つてゐます 月夜ですが、雲があるので、光がさしません 電燈には絕えず 蟲がとんで來ます ここまで書いたら、やつと少しさびしくなくなりました、

お母樣によろしく 先日の御手紙のお禮をよく申上げて下さい それから休み中に一度上りたかつたのですが、忙しかつて[やぶちゃん注:ママ。]それも出來なかつた御詫も 序に御傳へ下さい

こないだ八洲さんから 繪はがきを頂きました。その字が去年一の宮で頂いた繪はがきの字にくらべると 非常にうまくなつてゐたのに大に感心しました、これは實際大に感心したんですから、文ちやんからよくさう云つて下さい

この一日に入校式で、僕はフロツクでシルクハツトをかぶりました さうしたらフロツクは消毒法を施さなかつたせいか、チョツキのボタンが黴びてゐました

これでやめます 龍

 

[やぶちゃん注:「伯母」フキ。

「八洲」塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年三月八日~昭和一九(一九四四)年)。塚本文の弟。長崎県生まれ。書簡当時は満十四歳。父善五郎が戦死したため、母鈴の実家であった本所の山本家(龍之介の親友山本喜誉司の父母)に家族と身を寄せていた。一高に入学し、将来を期待されたが、結核に罹患、大正一三(一九二四)年頃に喀血し、翌年の三度目の喀血の際には、芥川は、芥川家主治医下島勲(龍之介検死担当者)と塚本家に駆けつけて見舞っている。結局、快方に向かわず、没年まで闘病生活を送った。大正一五(一九二六)年には療養のために鵠沼に移住したが、この転地が芥川最晩年の鵠沼滞在のきっかけとなっている。]

 

 

大正六(一九一七)年九月五日・鎌倉発信・塚本文宛

 

手紙が行きちがひになりました

今文ちやんの手紙を見ましたから、又之を書きます

夏目さんの話は誤解の起り易い話だから 僕は誰にも話した事がありません 唯兄さんにだけは 前から何も彼も話し合つてゐる仲なので、その話をしました さうしてその話は誰にも(勿論お母さんや文ちやんにも)默つてゐろと云ひました そんな事を僕が得意になつてゐるやうに思はれるが嫌だつたからですそれを話してしまつたのは、兄さんが惡いのです 今度あつたら小言を云つてやります 約束を守らないのは 甚いけません

夏目さんの方は向うでこつちを何とも思つてゐない如く こつちも向うを何とも思つてゐません[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集にはこの後に編者傍注『〔削除〕』があり、及び岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)でも『〔以下削除〕』となっており、岩波新全集でも復元されていないようである。或いは既に原書簡は行方不明となっているものか。]

僕は文ちやんと約束があつたから 夏目さんのを斷るとか何とか云ふのではありません 約束がなくつても、斷るのです

文ちやん以外の人と幸福に暮す事が出來ようなぞとは、元より夢にも思つてはゐません、僕に力を與へ 僕の生活を愉快にする人があるとすれば、それは唯文ちやんだけです だから僕には文ちやんが大事です 昔の妻爭ひのやうに、文ちやんを得る爲に戰はなければならないとしら[やぶちゃん注:ママ。]、僕は誰とでも戰ふでせう さうして勝つまではやめないでせう それ程に僕は文ちやんを思つてゐます 僕はこの事だけなら神樣の前へ出ても恥しくはありません 僕は文ちやんを愛してゐます 文ちやんも僕を愛して下さい

愛するものは何事をも征服します 死さへも愛の前にはかなひません

僕が文ちやんを何よりも愛してゐると云ふ事を忘れないで下さい さうして時々は僕の事を思ひ出して下さい 僕は今みぢめな下宿生活をしてゐます しかし文ちやんと一しよになれたら 僕は僕に新しい力の生まれる事を信じてゐます さうすれば 僕は何も怖いものがありません

唯 僕は文ちやんが僕の所へ來たら、文ちやんのお母樣が嘸さびしくおなりだらうと思ひます さうしてそれがお氣の毒です 文ちやんもさう思ふでせう 僕はそれがほんとうにお氣の毒です

それから安井夫人が文ちやんに幾分でも面白かつたのは 何よりです 且那樣の安井仲平と云ふのは 德川時代の末にゐた大學者の安井息軒先生です 息軒先生のお子さんは今一高の漢文の先生をしてゐられます(四十五六でせう)安井夫人はえらいですね 僕はああ云ふ人の方が、今の女學者よりどの位えらいか知れないと思ひます

又長くなつたから これでやめます

ひまがあつたら 手紙を書いて下さい

    九月五日午後     芥川龍之介

   塚本文子樣

 

[やぶちゃん注:「夏目さんの話は誤解の起り易い話」新全集宮坂年譜に、この手紙について、『夏目筆子(漱石の長女)の婿侯補として芥川が話題に上ったことについて、塚本文に釈明の手紙を書く』として、以上の書簡の一部を示し、その後に参考資料として、同年十二月九日附『東京日日新聞』の記事(恐らく文芸欄)が示されてある。漢字を恣意的に正字化して示す。『漱石氏の後嗣に就ては其死の前後から久米正雄君が長女筆子さんの女婿として夏目家を嗣ぐべく門生間に噂され之を慶賀したのは若い漱石門下の連中で森田草平、安倍能成、小宮豐隆君等の第一級門生は「久米の樣な後輩が夏目家の株を奪ふのは不快だ」と非常な反對で之に対抗する(中略)芥川龍之助氏も一時矚目の的となつたが氏には既に妻たるべき人がある』と書かれてある。また、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「漱石の娘筆子と久米・松岡」には、

   《引用開始》

 漱石が死んだ時長女の筆子は満一七歳の女学生、長男の純一は一〇歳(他に子供は四人)といずれも幼く、鏡子夫人としては何かにつけて家政の相談役、援肋者が必要で、それが漱石の命日にちなんだ九日会の集まりであり、さらに死後も続けられた本曜会であった。

 初めはともかく、定期的に集まることのできる者は限られ、必然的に定職のない久米や松岡が顔を出すことが多く、子供達との接触も深くなっていった。

 久米は惚れっぽい男で、いつでも誰かに恋をしないではいられない〈恋愛病患者〉だった。

 これに配するに長女の筆子はコケティッシュなところのある娘で、たちまち二人の間は燃え上がり、久米は求婚を鏡子夫人に申出る。それを聞いた古い門下生達からは芥川ならよいが、久米ではという反対もあったが、夫人から猶予つきながら内諾を与えられた。

 ところが大正六年の夏から家庭教師ということで旧友の松岡譲が夏目家に同居するに及んで筆子の気持は松岡に移ってしまい、久米には冷たくなる。挽回をはかって久米は自らを婚約者にしたてた小説「一挿話」を発表すると、夫人の激怒を買い、六年一〇月内諾は解消され、翌七年四月松岡と筆子は婚約し、結婚した。当時ジャーナリズムの話題となった[やぶちゃん注:以下略。引用が全文にならないようにするために残り僅かであるが、カットした。]

   《引用終了》

とある。筑摩全集類聚版脚注では、『芥川が夏目家の令嬢の第一候補に擬せられた。文子は自分が龍之介の将来を妨げるのではないかと考え、身を引こうとしたことを指す』と突っ込んで注してある。因みに、夏目筆子は明治三二(一八九九)年五月三十一日生まれで、当時満十九歳、塚本文は明治三三(一九〇〇)年七月四日生まれで一年一ヶ月ほど年下であった。

「兄さん」塚本文の叔父で龍之介の幼馴染みで親友の山本喜誉司(明治二五(一八九二)九月十七日生まれ)。龍之介の方が六ヶ月早く生まれているものの、少年期より山本を慕い、同性愛感情も濃厚で、非常に親密であったから、姪である文に対して、自身の強い親愛を込めて、「兄さん」と呼称しているものと考えられる。

「安井夫人」森鷗外の小説。大正三(一九一四)年四月『太陽』に発表。後、作品集「堺事件」に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここから視認出来る。トビウオ氏のブログ「空も飛べる魚になりたい」の「【精読】森鴎外『安井夫人』自立する女性を描いた文学 -平塚雷鳥との親交を通して-」が、判り易く纏まっている。

「安井息軒」(そっけん 寛政一一(一七九九)年~明治九(​一八七六)年)は日向国宮崎郡清武郷(現在の宮崎県宮崎市)生まれの儒学者。名は衡、息軒は号、仲平は字(あざな)である。日向飫肥(おび)藩儒安井滄洲(そうしゅう)の子。二十六歳で昌平黌に入り,松崎慊堂(こうどう)に学んだ。一時、飫肥藩校助教などを務めたが,後、昌平黌教授となった。漢・唐の古注を尊び、清の考証学を好んだ。嘉永六(一八五三)年のペリー続くプチャーチンの来航に際し、「海防私議」を著わし、時事を説いた。注釈書に「左伝輯釈」・「管子纂詁」があり、文集「息軒文鈔」「息軒遺稿」など著作も多い。

「息軒先生のお子さん」石割氏の注に、『実際には孫に当たる、漢学者の安井小太郎』とある。安井小太郎(安政五(一八五八)年~昭和一三(一九三八)年)は江戸生まれで、父中村貞太郎が尊皇攘夷運動で捕縛され、江戸伝馬町にて獄死し、母方の祖父であった安井息軒に引きとられた。島田篁村・草場船山に学んだ後、明治一五(一八八二)年に東京大学に入学、卒業後、学習院・一高・大東文化学院などの教授を歴任した。

「四十五六でせう」実際には数えで六十である。]

 

 

大正六(一九一七)年九月十三日・鎌倉発信・塚本文宛

 

この前の私の二通の手紙はとどかなかつたのではないでせうか

實は文ちやんの手紙が來るかと思つて、心まちに待つてゐました。私の手紙がとどかなかつたか、文ちやんのがとどかなかつたかと思つて 少し心配してゐます

私は近い中に 橫須賀の方へ轉居するつもりです、(今週中に)ですから、轉居先がわかるまでは、田端の方へ誰の手紙でも貰ふ事にしてゐます もし書けたら書いて下さい さうしないと さびしい

   星月夜鎌倉山の山すすき穗に出(で)て人を思ふころかも

    九月十三日夜     芥川龍之介

   塚本文子樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は、この翌日の十月十四日に横須賀市汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の二階(八畳)に転居している。通勤時間を減らすことが目的とは思われる(私は他にも動機があったと考えている。それは、前に述べた同僚教官佐野慶造の新妻佐野花子の近くに住むという秘かなそれである)。現在の横須賀市汐入町丁目一附近である(グーグル・マップ・データ)。]

2021/06/02

芥川龍之介書簡抄78 / 大正六(一九一七)年書簡より(十) 佐野慶造・佐野花子宛

 

大正六(一九一七)年八月二十九日・田端発信・佐野慶造 佐野花子宛

 

休みがなくなるので大に心細くなつてゐます

航海記これへ封入します甚恐縮ですが私のスクラツプブツクヘ貼る分ですから御よみずみの後は私迄御返し下さい

さて私はこの手紙を書きながら大に良心の呵責を惑じてゐますこれは特に奧さんへ申上げますもつと早く書くべき手紙でもあればもつと早く送るべき航海記だつたんです誠に申譯がありません

しかし私が用で忙しくないときは遊びまはるので忙しい事は御察し下さい橫須賀に善友がゐる程それ程左樣に東京には惡友がゐます私は彼等に誘惑されて無暗に芝居を見たり音曲を聞いたりしてゐましたそこで性來の筆不精が益[やぶちゃん注:「ますます」。]不精になつてしまつたのです

今惡友の遊びに來てゐた連中が歸つた所ですさうしてそのあとが甚靜な夜になりました私は小さな机と椅子とを椽側へ持ち出してこれを書いてゐるのです

     卽興

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

これでやめます 頓首

    八月二十九日     芥川龍之介

   佐野慶造樣

   仝 花子樣

 

[やぶちゃん注:遂にここに辿り着いたという感慨がある。「佐藤慶造」(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年)は東京生まれで、東京帝大物理学科卒。当時の横須賀海軍機関学校での龍之介の同僚の物理教官である。その妻花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)は旧姓山田で、長野県諏訪郡下諏訪町東山田生まれ。諏訪高等女学校を首席卒業(現在の県立長野県諏訪二葉高等学校)し、東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)に進んだ。歌人でもあった。女子師範を卒業して一年で慶造と結婚した。龍之介は花子より三つ年上であった。龍之介は同校着任以降、妻花子とともに親しく交流した。龍之介は既に塚本文と正式な婚約を終えていたが、私は、この同僚で友人でもあった佐野慶造の妻花子を芥川龍之介は恋していたと考えている。佐野花子は、芥川龍之介研究者の間では、触れることが頗る附きでタブーな(という謂いがおかしいとなら、はっきり言えば――「芥川龍之介に愛された」と妄想し、そう主張した危ない女性であって、触れる価値がない無視すべき)在である。しかし、私は彼女の綴った、「芥川龍之介の思い出(原文のみ)」(私のサイト版)を虚心に読み、それをさらに、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、十二回に分けてテクスト附注した(別に佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(ワード縦書版・上記ブログ版原稿)も公開してある)結果として、ある種のかなり病的な錯誤・思い込みと、記憶の強い変形が認められるものの――龍之介が彼女に思いを寄せた事実はあった――と大真面目に考えている人間である。その中で、佐野花子が、芥川龍之介が機関学校をやた後、雑誌『新潮』誌上に「佐野さん」という作品を発表し、夫慶造の『悪口を書い』た、慶造自身が『学校当局も問題にしている』と言うシーンが出てくる。しかし、『新潮』誌上に発表された「佐野さん」という芥川龍之介の作品はどこにも存在しないのである。ここで、研究者は精神のおかしくなった人物の完全妄想としてそれを退けてしまうのである。しかし、彼女の叙述は、それ以外の部分ではすこぶる正常であり、決して、病的な妄想体系の中のものとして全排除・全否定することは、私には到底、出来ないのである。そうして、私はこの妄想の端緒となった作品を探り当てたと考えてもいる。それは、大正一三(一九二三)年四月発行の雑誌『改造』に掲載され、後に作品集『黄雀風』などに収録された小説「寒さ」である(リンク先は私の古いサイト版)。それは、ブログの『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で細かく示してあるが、花子の記憶の中で病的な変成が生じ、「寒さ」→「さむさ」→「さのさ」→「さのさん」と音変化したものと私は考えているのである。うん? 笑うかね? 因みに「寒さ」の冒頭は明らかに海軍機関学校が舞台である。しかもそこは「物理の教官室」である。そこで恋愛を冷徹な物理現象として比喩する厭味な「宮本と云ふ理學士」は明らかに佐野慶造をモデルとしていると読めるのである(但し、実際の佐野慶造はそのような人物ではないので、キャラクター設定としは全くの架空である)。私は、この佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の叙述をもとに、田中純が芥川龍之介を実名で用いた小説「二本のステッキ」(挿絵は佐藤泰治。昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表)も挿絵も含めて電子化してある。未読の方は、お読みあれかし。なお、佐野慶造宛書簡はこの前に一通、大正六年四月十三日が先行してあり、

   *

   春寒や竹の中なる銀閣寺

    十三日

 奥樣によろしく先日は失禮しましたから

   *

とある。この添え書きはそれが本来は花子に送った気分のものであることを示す。花子は俳句創作を龍之介に勧められて、龍之介が添削などもしていたのである。

「休みがなくなるので大に心細くなつてゐます」海軍機関学校の夏季休業は二日後の八月三十一日までであった。

「航海記」先の書簡の私の注を参照。『時事新報』に連載された「軍艦金剛航海記」のそれを芥川龍之介自身が切り抜いたものを貸与したである。]

芥川龍之介書簡抄77 / 大正六(一九一七)年書簡より(九) 片山廣子宛

 

大正六(一九一七)年七月二十四日・片山廣子宛

 

拜啓

原稿用紙でごめんを蒙ります

False honests は誇張だから、惡くとつちやいけません あなたの事だから true modesty だと確信してゐます

心の花では、あなたの方が先輩です ですからお話しを伺ひに出るのなら、私の方から出ます あなたにあまり謙遜な手紙を頂くと私のやうな野人は 狼狽していけません 將來何等かの意味で、私の手紙が尊大に見えても 氣にかけないで下さい 私はこれを書きながら 田端へ來て頂きたいなどと云つたのが、惡かつたやうな氣がして 少し後悔してゐます

夏疫流行の爲 私も今日東京へかへります

   七月廿四日       芥川龍之介

  片山廣子樣 粧次

 

[やぶちゃん注:サイトの「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」で、電子化注済みである。基本的にそこでの注を変更する気はないので、以下、概ねそのまま転写する。さて、これは底本の旧全集一六二五書簡で、旧全集では書簡集最後の「年月未詳」パートに配されているが、新全集では、これを上記の年に同定している。その同定の根拠は恐らく新全集後記にある、本書簡の封筒による確認と思われる(田端文士村記念館蔵。但し、これは封筒のみの所蔵である)。但し、この年推定は既に旧全集後記でも示されていた。そんなことよりも、問題は本書簡の出所である。その旧全集後記によれば、本書簡は前の廣子宛書簡と同じく、昭和四〇(一九六五)年六月の『文學』に吉田精一氏によって発表されたものを転載した旨の注記がある。従って、現物からの活字起こしではない点に注意せねばならぬ。少なくとも――ここに吉田氏の操作が加わっていないとするならば――この文面からは、前の書簡でも述べたように、龍之介と廣子が、この時点では未だ実際に対面した印象はないと私は感触している。

・「False honests」“false”には、①正しくない、誤った、正確でない、狂っている。②いわれのない、見当違いな、適切でない、軽率な。③本物でない、偽の、誤魔化しの。④人工の。⑤人が虚偽を述べる、嘘を言う、虚偽の。⑥不実な、裏切りの。⑦代用の、仮の、一時の。⑧似非の、仮性。といった意味がある。しかし、問題は寧ろ、“honests”という複数形にありはしないか? これは“honest”が名詞であることを意味する。その場合、これは我々の知っている「誠実な、正直な、頼もしい」といった意味ではなく、「信用出来る人物」を意味する口語である。ここでは廣子の来信を読めぬ以上、如何なる意味であるか、同定を避けるが、芥川龍之介は廣子への先の手紙で“False honests”=「信用出来ない人々」という言葉を用いたのだが、その中に廣子が含まれないことを暗に弁解した言葉ではなかったか? と私は考えている。

・「true modesty」“modesty”は謙遜、控えめ、上品、素朴さ、節度といった意味がある。言うなら、「真実(まこと)の慎ましさ」ということになる。廣子への賛辞として、至当と理解出来る。

・「心の花」短歌雑誌。明治三一(一八九八)年に佐佐木信綱の主宰する短歌同人竹柏会機関誌として創刊された、現在も続く日本近現代歌壇中、最古の歴史を持つ短歌雑誌である。信綱の「広く深くおのがじしに」を理念とする。廣子は東洋英和女学校の学生であった十八歳の明治二九(一八九六)年に同級生新見かよ子とともに信綱の門を敲き、『心の花』に先行する信綱主宰の短歌雑誌『いささ川』(明治三一(一八九八)年二月に『心の花』に改題)の第三号(明治三〇(一八九七)年刊)に既に歌を発表しており、非常に早い時期に会員となっている。

・「私も今日東京へかへります」既に述べた通り、龍之介はこの時、鎌倉に下宿しており、大学時代の寮生活と同様、週末には実家に戻っていたが、この時は、海軍機関学校の夏季休暇(八月三十一日まで)が始まったための田端引き上げであって、「夏疫流行の爲」などとあるが、特に体調不良のためなどではない。]

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Memorandum Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐藤春夫 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 只野真葛 和漢三才図会巻第三十九 鼠類【完】 和漢三才図会巻第三十八 獣類【完】 和漢三才図会抄 和漢三才圖會 禽類【完】 和漢三才圖會 蟲類【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 日本山海名産図会 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 津村淙庵「譚海」 浅井了意「伽婢子」 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介 書簡抄 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔 芸術・文学 萩原朔太郎 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏