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カテゴリー「浅井了意「伽婢子」」の33件の記事

2021/08/01

伽婢子卷之八 邪神(じやじん)を責殺(せめころす)

 

Jyasin1

 

Jyasin2

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は最も状態が良い、所持する岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング清拭して使用した。]

 

   〇邪神(じやじん)を責殺(せめころす)

 

 常州笠間郡(かさまのこほり)の野中に小社(ほこら)あり。

 後(うしろ)は、筑波山の嶺、しげりて、日影、くらく、前には、澤(さは)、水底(《みな》そこ)、深くして、藻、はびこれり。常に、雲、覆ひ、小雨、ふりて、凄(すさ)まじければ、人皆《ひとみな》、

「此の神の靈(りやう)、はなはだ、猛し。」

とて恐れ仕(つか)へて、此社の前を通る者は、散米(さんまい)・御供(ごくう)・神酒(みき)なんどを、此の村里にして、求め携へて、神前に供へて、打ち通る。

 若(も)し、さもなければ、忽ちに、雨風、荒く、雲霧(きり)、おほひて、神、則ち、崇りをなす。

 明德年中に、濃州(てうしう)谷汲寺(たにぐみ《じ》)の僧、性海(しやうかい)とて、學業を勤るに、心ざし深く、兼ねては、

「北陸を修行し、相模の國足利の學校に行ばや。」

と、思ひ立《たち》て、寺を、出《で》つゝ、越路(こしぢ)に赴き、巳に常州の地に至り、此の社(やしろ)の前に休む。

 本より、諸國行脚の僧なれば、袋に一物(もつ)の貯へも、なし。

 只、禮拜誦經(じゆきやう)して法施(ほつせ)奉り、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ばかり過《すぎ》行きける所に、道に踏み迷ひ、かなたこなたせし間《あひだ》に、俄かに、大風、吹き起こり、砂を揚げ、石を飛ばし、黑雲(くろくも)、覆ひ、霧、立《たち》こめ、うしろより、物の追ひかくる心地しければ、怖ろしく覺えて、見かへりけるに、異類異形の者、二百ばかり、頻りに追《おひ》掛くる。

 此僧、

『扨は、ばけ物のため、只今、死すべし。力及ばぬ事。』

と思ひ、一心に「觀音普門品(ふもんぼん)」を誦(じゆ)し、足に任せて、走り逃げゝれば、風、止み、雲、收まり、空、晴れて、追ひかけし者も、見えず。

 辛うじて、鹿嶋(かしまの)明神の社へ、かゝぐり付《つき》たり。

 神前に跪き、「般若心經」七返、「普門品」三編を誦して、神に祈るやう、

『先の社(やしろ)に法施(ほつせ)奉りしをば、受けずして、却つて、怨(あた)をなさんとせしは邪神(じやじん)の社か、如何なる子細なるべき。又、是れ、我身に誤りありて、神の咎め給ふや。願くは、明神、此の事を示し給へ。』

と念願して、日暮れて、身も勞(つか)れければ、傍らに臥したり。

 その夜の夢に、神殿の内陣、ひらけ、錦の斗帳(ごちやう)をあげ、玉の簾(すだれ)を中(なかば)捲(ま)きて、内に明神、坐(ざ)し給ふ。

 左右には、末社(まつしや)の神、位に隋ひて、その所々に坐(ざ)す。

 大灯明(だいとうみやう)、内外に輝きて、白晝の如し。

 性海、恐れて、庭に下り、頭(かうべ)を地に付けて禮拜す。

 俄かに、一人、朱(あか)き裝束して、鳥帽子、引こみ、きばはしに出《いで》て曰《いはく》、

「汝、神前に法施奉る。神威高く、神慮快く受け給ふ處也。然るに、汝、今、神前に訴へ奉る處、速く裁斷あるべし。」

とて、内に入《いり》たり。

 暫らくありて、數十人、空を翔りて行く、と見えし。

 白髮の翁、一人を、召して來《きた》る。

 黑き帽子、被り、靑き袴、着たるを、庭の面《おもて》に引きすゑたり。

 奧より、仰せありけるやう、

「汝も、一方(はう)の神なり。何ぞ、國家人民を守護せざる。剩(あまつさ)へ敬ひをなす道ゆき人をなやまし、みだりに禍ひを現はし、然(しか)も、此道人、法施を以つて、神に囘向す。是れ又、何の供物といふとも、すぐる物、あらんや。却つて、迫(せめ)おびやかしころさんとす、惡行(あくぎやう)のくはだて、甚だ、法に過《すぎ》たり。其の科(とが)、のがるべからず。」

と、あり。

 官人、出て、斷わり誡(いま)しむるに、老翁、かうべを地に付けて、言上しけるやう、

「それがし、實(まこと)に野社(のやしろ)の神なりと雖も、大蠎虵(《だい》まうじや)の爲に押領(あうりやう)せられ、久しく社檀(しやだん)を奪はれ、わづかに傍らなる樹の根を、すみかとす。我《わが》力(ちから)、いたりて弱く、かの大虵を制する事、かなはず。世を護り、人を護(まも)るべき職を忘れ、只、我身の置き所だに、なし。されば、此年ごろ、雲を起こし、雨を降らし、霧、蔽ひ、風、荒く、災ひをなして、人の供物を求むる事は、皆、大虵のしわざ也。某(それがし)のとがに、あらず。」

といふ。

 官人、責めて日はく、

「さやうの事あらば、何ぞ、速く、此所に訴訟せざるや。」

と。

 翁、答へていふ、

「此大虵、世にある事、年久し。或る時は、妖(ばけ)て、形を現はし、人を惱まし、或る時は、居ながら、災ひをなす。其の通力(つうりき)、自在成(な)る事、いふばかりなし。山中に棲む鬼神(きじん)、野邊に留(とゞ)まる惡靈(あくれう)、みな、是れに力を合はせ、毒虵・魑魅(こだま)、みな、是れに隨ふ。某、こゝに參りて訴へせむとすれば、捕へて、押し入れ、更に、すみかの外に、頭(かしら)をも出させず。只、今、めしければこそ、是れまでは、參り侍べれ。」

と。

 其の時、神殿より、勅、有《あり》、

「官人、はやく、かしこに至りて、其の大虵を召し捕りて來れ。」

と也。

 翁申すやう、

「妖怪、通力、巳に備り、是れに力を合はする者、多し。官人、赴くとも、物の數(かず)と、すべからず。たゞ、神兵(しんへい)大軍を差向けられ、攻め伏せ給はずしては、たやすく從ひ奉(たてまつ)るべからず。」

といふ。

「さらば。」

とて、大將の神に、軍兵五千を差しそへて、野社に向けられたり。

 三時(《さん》とき)ばかりの後、數(す)十の軍鬼(ぐんき)ども、大木を以つて、白虵(はくじや)の首を舁(かき)て、庭に來《きた》る。

 その大《おほい》さ、五石ばかりを入るゝ甕(かめ)の如し。

 兩の角、尖りて、二つの耳は、箕(み)のごとし。

 鬣(たてがみ)、亂れて糸の如く、口は、うしろまで裂けて、怒れる眼(まなこ)は、鏡の面(おもて)に朱を指したるに似て、ふさがずして、死したり。

 官人、すなはち、性海に向ひ、

「忝(かたじけな)くも、當社明神は、當國第一の神司(かみつかさ)として、汝の訴へ、よく、裁許し給へり。とく、とく。」

とて、座を立たしむ。

 性海、禮拜して座を立《たつ》、と、覺えて、夢、さめたり。

 身の毛よだち、汗水になり、奇特(きどく)の事に思へり。

 夜明けて、また、彼(か)の道に赴きて、其の所を見れば、社も、鳥井も、燒き倒(たふ)れて、塵灰(ちりはひ)となり、あたりの木草、皆、碎け折れて、荒れ果《はて》たり。

 あたり近き村に立寄りて問ふに、村人、皆、いふやう、

「今宵、夜半ばかりに、雷電(らいでん)、おびたゞしく、風、ふき迷い、雨、落ちて、其の中に、軍(いく)さする聲、きこゆ。怖ろしさ、限りなし。黑雲(くろくも)の内に、火、もえ出でて、やしろ・鳥井、一同に燒け崩れ、ちり灰となり、一つの白き虵、其の長(たけ)廿丈ばかりなる、死して、かうべ、なし。其外、五丈・三丈の虵共《ども》、數(かず)を知らず、重なり死して、臭き事、限りなし。」

といふ。

 是れを考ふれば、今宵夜半に、夢に見たる時分なり。

 性海、それより、相州足利に行《ゆき》て、物語せしとぞ。

 

[やぶちゃん注:「常州笠間郡(かさまのこほり)」現在の茨城県笠間市及びその北の旧西茨城郡七会村(ななかいむら)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後(うしろ)は、筑波山の嶺、しげりて」前記の地区からは筑波山は南西に当たる。

「散米(さんまい)」神仏や墓所に詣でた際、歩いは祓いを行う際に撒き散らす米。「うちまき」「おひねり」「さんく」などともいう。「おひねり」はその包み紙を拈(ひね)ることからの称であるが、「さんく」は「散供」であって、散らす御供物の意味。但し、御供物はもともと散らすべきものではなく、専ら、奉るべきものであった。それを「散らす」と言ったのは、その対象が、この場合、人よりも下位の精霊(せいれい)に当たると判断した結果であった。則ち、散米は本来、荒ぶる怨霊や疎(うと)む対象のそれらが来たった際に、それ与えて満足させて去らせるという神道儀礼としての「道饗(みちあえ)」、或いは、仏教儀礼としての「施餓鬼(せがき)」と同趣旨のものであった。それが後に混乱し、神霊なるものを対象として与え供える米であれば、すべてこれを「打ちまき」とも「散供」とも称するように変じたものである(以上は小学館「日本大百科全書」を参考にした)。

「御供(ごくう)」御供物(おくもつ)。特に食べ物を指す。

「明德年中」一三九〇年~一三九四年。室町時代。室町幕府将軍は足利義満。初め、天皇は北朝方が後小松天皇、南朝方が後亀山天皇であったが、この元中九/明徳三(一三九二)年に、北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して「南北朝合一」(「明徳の和約」)が遂げられて、元号もこの明徳に統一されている。本書の話柄の中では特異的に古い時制に属する。

「濃州(てうしう)谷汲寺(たにぐみ《じ》)」岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積(たにぐみとくつみ)にある天台宗谷汲山(たにぐみさん)華厳寺(けごんじ)。西国三十三所第三十三番札所にして満願結願の寺院で、西国三十三所の札所寺院では、唯一、近畿地方以外にある寺である。

「性海(しやうかい)」不詳。なお、この語は仏教用語で、真如の世界、仏の悟りの総てである真如の深く広いことを海に喩えた語としてしられる。

「兼ねては」加えて。その上さらに。

「相模の國足利の學校」不審。足利学校ならば、下野国である。相模にあった金澤文庫と混同した誤りか。足利学校を目指していたとすれば、この笠間郡を通ったとすると北陸路を辿ったわけだから、越後から猪苗代を経て、太平洋側を南下したものととれるが、足利学校は御覧通り、現在の笠間市の六十三キロメートルも正しく西方にある。恐怖のあまり、方向を誤って反対の南東方向に逃げたと言えばそれまでであるが、最後でも浅井は「相州足利」を確信犯のように記しているところからは、やはり、金澤文庫と考えた方が分(ぶ)があるようにも思える。ただ、この壊(こぼ)たれた社が、笠間郡のごく東部にあったとなら、最後のシークエンスで、その後を検証し、やおら、西の足利学校に向かったというのも不自然ではない。

「越路(こしぢ)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」の高田衛氏注に『北陸道の古称。若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の七カ国』とする。行脚を兼ねているから、北陸路を辿って遠回りであっても不審はなく、寧ろ、自然とさえ言える。

「鹿嶋(かしまの)明神の社」茨城県鹿嶋市宮中にある常陸国一之宮である鹿島神宮。ここは笠間市中央附近からは、直線で計測しても、五十四キロメートルはある。まあ、知らず知らずのうちに、鹿島の神に呼ばれたといえば、何も言えぬが。鹿島神宮の祭神は、しかし、本話柄にはもってこいで、荒ぶる神である建御雷大神(たけみかづちのおおかみ)である。ウィキの「鹿島神宮」によれば、その出自について、「古事記」では、伊邪那岐命が火之迦具土神の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神の内の一神とし、また、「天孫降臨」に先立つ葦原中国の平定においては、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とともに活躍したとし、その後の「神武東征」に際しても、彼は神武天皇に神剣を授けている。但し、記紀には実は『鹿島神宮に関する言及はないため』、建御雷大神と『鹿島との関係は明らかでない』。一方、「常陸国風土記」では、『鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す』『しかしながら』、同書にも、その神が建御雷大神であるとする『言及はない』。『神宮の祭神が』建御雷大神『であると記した文献の初見は』、大同二(八〇七)年に成立した「古語拾遺」にある、「武甕槌神云々、今常陸國鹿島神是也」という『記述である』。ただ、それより後の延長五(九二七)年成立の「延喜式」の「春日祭祝詞」の中に「鹿島坐健御賀豆智命(かしまにいますたけみかづちのみこと)」と見えるのだが、この「春日祭祝詞」自体は、実は『春日大社の創建といわれる神護景雲』二(七六八)年にまで『さかのぼるという説がある』のである。『以上に基づき』、八『世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に』、『中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか』、『中央の国譲り神話自体も』、『常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある』とある。ともかくも、鹿島『神宮の祭神は』、建御雷大神が『国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという』「風土記」の『説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている』。『特に別称』である「たけふつ」や「とよふつ」に関して、「ふつ」という『呼称は神剣の』「ふつのみたま」(布都御魂/韴霊)の『名に見えるように』、『「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある』。『鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては』、平安末期の「梁塵秘抄』の中に「關より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という『歌が知られる』。また、『一方、船を納めさせたという』「風土記」の『記述から』、『航海神としての一面や』、『祭祀集団の卜氏が井を掘ったという』「風土記」の『記述から』、『農耕神としての一面』を持つという『指摘もある』ことから、『以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある』。『一方で』、建御雷大神と『中臣氏の遠祖である天児屋命』(あめのこやねのみこと)『を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも』、『雷大臣命・雷大臣命』(孰れも「いかつおみのみこと」と読む)『など』の『「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)』『など』、『雷に関わる神名が見られることから、雷神としての』建御雷大神を『中臣氏本来の神と見る説もある』とある。

「かゝぐり付《つき》たり」前掲書の高田氏の注に『やっとの思いで到着する』とある。

「斗帳(ごちやう)」同前で『垂れ幕』とある。

「朱(あか)き裝束して、鳥帽子、引こみ、きばはしに出《いで》て曰《いはく》」は、明神の側近の神。「鳥帽子、引」(ひき)「こみ」とは、烏帽子を目深に被って、の意であろう。

「法施」先の読経を指す。神仏習合であるから、問題ない。

「神威高く、神慮快く受け給ふ處也。然るに、汝、今、神前に訴へ奉る處、速く裁斷あるべし。」「神威高くある、鹿島の我れなる御神は、その御神慮に於いて、快くそれ(読経)を受け取り遊ばされたぞよ。然ればこそ、汝が神前に訴え奉ったるかの一件は、速く、裁断されねばならぬ。」。自敬表現をそのままに訳しておいた。

「數十人」老婆心乍ら、「すじふにん(すじゅうにん)」と読む。

「一方(はう)の神」「新日本古典文学大系」版脚注に、『一地方の地と民とを委ねられた神』。産土神。村落の鎮守の神。

「道ゆき人」「みちゆきびと」と訓読しているようだが、意味は「道行人(だうぎやうにん)」のそれで、仏道修行をする行脚の僧の意である。

「法に過《すぎ》たり」正法(しょうぼう)を根底から破っている。

「官人」ここでは、鹿島明神の下でその命を受けて伝奏をする者の意。二枚目の挿絵の左幅の跪いている性海の前に立っている人物であろう。

「斷わり誡(いま)しむるに」「理(ことわ)り」を以って「誡しむる」で、明神の仰せに従って、道理を以って、誡めたところが。

「野社(のやしろ)」野中の小さな社(やしろ)。

「居ながら」姿を見せずに。

「魑魅(こだま)」木霊(こだま)・魑魅(すだま)。自然界の最小単位の善悪を問わぬ妖怪・精霊の総称古称。

「すみか」悪龍によって押し込められていた大木の根のこと。

「三時(《さん》とき)」約六時間。

「軍鬼(ぐんき)ども」二枚目の挿絵の右幅の上部(下方にあるのは悪龍の首を刎ねられた胴体の骸(むくろ)である)に三人いる蓬髪の鬼面で帯刀している者たちがそれ。

「五石」九百一・八リットル。ドラム缶で凡そ四本半分。

「箕(み)」米などの穀物の選別の際に、殻や塵を取り除くために用いる竹で編んだ容器。これ当該ウィキの写真)。

「神司(かみつかさ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『神司は』『神に仕える者をいうが、ここは邪正曲直の裁きを勤めとする神』自身の意とある。

「とく、とく。」同前で、『満足したであろう、これにて早々』に『立ちませい』とある。

「鳥井」鳥居。

「廿丈」約六十メートル六十センチメートル。ちょっと長過ぎじゃないかい?]

2021/07/31

伽婢子卷之八 長鬚國

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。ネタバレになるので、挿絵についての解説は最後の注の頭に置いた。その観点から、挿絵は本文の途中で見た方がいいので、特異的に話中に配した。くれぐれも挿絵をじっくりとは先に見ない方がよい。謂わずもがなであるが、底本ではそうした配慮はなされてはいない。]

 

   ○長鬚國(ちようしゆこく)

 

 越前の國北の庄に商人あり。每年、松前に渡りて蝦夷(えぞ)と販賣(あきなふ)に、多く木綿・麻布(あさぬの)を遣して、昆布(こんぶ)・干鮑(ほしあわび)に替へて、國に歸り、出《いだ》し賣るを業(わざ)とす。

 或る年、舟に乘りて、松前に渡るに、俄かに、風、變り、浪、高く、檣(ほばしら)、をれ、梶(かぢ)、くだけて、吹《ふき》放されつゝ、漸(やうやう)にして、ひとつの嶋に寄せられたり。

 人心地、少しつきて、舟をあがりければ、五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]ばかりにして、人里あり。

 其所《そのところ》の人は、髮、短かく、鬚(ひげ)、長し。

 物いふ聲は日本の言葉に通ず。

 或る家に立入《たちいり》て、國の名を問へば、

「長鬚扶桑州(ちやうしゆふさうしう)。」

といふ。國主を問へば、

「是より一里ばかりの東に城郭あり。」

と敎ゆ。

 彼(かしこ)に赴き、惣門(そうもん)を過《すぎ》て、見れば、國主の本城とおぼしくて、門の構へ・築地(ついぢ)、高く、石垣は、削り立《たて》たる如し。

 門のほとりに立よりければ、門を守るもの、一同に出《いで》て、大に敬ひ、奧のかたにいひ入《いり》たりしに、衣冠の躰(てい)、世に見なれざる出立(いでたち)したる者、はしり出て、殿中に請じ入りたり。

 

Lbn1

 

 宮殿、はなはだ、花麗(くわれい)にして、きらびやかなる事、いふばかりなし。

 紫檀・くわりん・白檀(びやくだん)なんど、入違《いれちが》へ、沈香(ぢんこう)・金銀をちりばめ交へて、立《たち》たり。

 錦のしとねを敷き、國主、立出て、對面す。

「大日本國の珍客(ちんきやく)、只今、此所に來れり。我等、邊國(へんごく)のえびすとして、まのあたり、請(しやう)じ參らす事、是れ、幸ひにあらずや。」

とて、一族にふれめぐらすに、皆、おのおの、來り集まる。

 いづれも、出たち、花やかなれ共、勢(せい)、短く、髮、かれて、鬚ばかりは、長く生(お)ひのび、腰、少し、かゞまりて見ゆ。

 座、定まりて後に、綠の蔕(ほぞ)ある色よき柹(かき)一つ、はらめる黃なる膚(はだへ)の栗、紫の菱(ひし)、くれなゐの芡(みづふき)、靑乳(せいにう)の梨、赤壺(せきこ)の橘(たちはな)を、瑠璃(るり)の盆・水精(すいしよう)の鉢に、うづたかく積みて、出したり。

 膳には、野邊の初鳫(はつかり)、澤沼(さわぬま)の鳬(かもめ)、鳴鶉(うづら)、雲雀(ひはり)、紫菨(しきやう)、靑蓴(せいじゆん)、溪山(けいざん)の筍(たかんな)、靈澤(れいたく)の芹(せり)、數を盡して、出し、そなふ。

 葡萄(ぶどう)・珠崖(しゆがい)の名酒に、茱萸(しゆゆ)・黃菊(くわうきく)を盃(さかづき)に浮べ、誠に妙(たへ)なる、あるじまうけ、其の味ひ、更に人間の飮食にあらず。

 されども、海川のうろくづ、蛤(はまぐり)のたぐひは、一種の肴(さかな)も、これ、なし。

 商人、いぶかしくぞ、覺えたる。

 國主の曰く、

「我に一人の娘あり。願くは、君、是れに、とゞまり給へ。配偶(はいぐ)の緣を、むすび奉らん。榮耀(えいよう)、いかで極まり有らん。」

といふに、商人、大《おほき》に喜び、

「ともかうも、仰せに隨ひ奉らん。」

とて、數盃(すはい)を傾け侍りしに、

「今宵は、月、巳に滿(みち)て、光り、四方(よも)に輝きて、明らかなる事、白日の如し。これぞ、我等の酒宴遊興を催す時なり。」

とて、滿座のともがら、舞《まひ》、かなで、歌ひ、どよめく。

 かゝる所に、姬君、出給ふ。

 附きしたがふ女房達、廿餘人、何れも、花を飾り、もすそを引て、ねり出たれば、沈麝(じんじや)の薰(かほり)、座中にみちたり。

 商人、これを見るに、かたちは、たをやかに。うるはしけれ共、女にも、鬚、あり。

 商人、甚だ、怪しみて、悅びず、古風の躰(てい)一種を詠みける。

 さくとても蕊(しべ)なき花はあしからめ

    妹(いも)がひげあるかほのうるはし

 國主、聞きて、えつぼに入《いり》て笑ひしかば、滿座、かたぶきて、腹をさゝげたり。

 娘と女房達は、世に耻かしげ也。

 

Lbn2

 

 此夜より、商人に一官を進めて、「司風(しふう)の長」とぞ、かしづきける。

 身の榮花に、たのしみを極め、國中、敬ひ、もてはやす故に、鬚ある妻に、なれそめて、三年(みとせ)を過れば、男子一人、女子二人をぞ、まうけたる。

 ある日、家、こぞりて、泣き悲しみ、妻、甚だ、愁へ、歎く。

 城中、打ちひそまりて、色を失へり。

 商人、驚きて、妻に問ければ、泣く泣く、答へけるやう、

「きのふ、海龍王(かいりゆうわう)の召しによりて、我が父、巳に龍宮城に赴き給へり。命、生きて、二たび、歸り給ふべからず。此の故に、歎き悲しむ也。

といふ。

 商人、大に仰天して、

「其は、如何にもはかりごとあらば、逃(のが)るゝ道、侍べらむや。然(しか)らば、我、たとひ、命をすつる共、何か顧(かへりみ)るべき。」

といふ。

 妻のいふやう、

「此事、君にあらずしては、禍ひを逃れて、安穩(あんをん)の地に歸り給ふ事、かなふべからず。願くは、龍宮城に赴き、『東海の第三の迫戶(せと)・第七の嶋・長鬚國、巳に大禍難(《だい》くわなん)に依(よつ)て、今より衰微に及ぶべき也。憐みを以つて首長(しゆうちよう)を放ち返し給はゞ、宜しく太平安穩の政道なるべし。』と、よくよく、の給はゞ、龍神、よこしま、なし。必ず、此歎きを引かへて、喜びの眉(まゆ)を開かん。然らば、一足《いちあし》も早く赴きて給へ。」

とて、聲も、をしまず、泣きければ、商人も、なさけの色に、心、引かれて、急ぎ出立《いでたち》、花やかに裝束(さうぞく)して、十人の侍(さふらひ)・五人の中間(ちうげん)・二人の道びきを招し連れ、龍宮城に赴き、舟に乘りて、しばしの間(あひだ)に着きて、濱おもてを見れば、皆、金銀のいさごにて、國人は、衣冠正しく、かたち、大にして天竺(《てん》ぢく)の人に似たり。

 櫻門にさし入《いり》て見れば、七寶莊嚴(《しつ》ほうしようごん)の宮殿、其のさまは、堂寺(だう《じ》)の如し。玉のきざはしに進めば、

「『司風の長』とは汝の事か。今、何故に來れる。」

と問ふ。

 商人、こまごまと、いひければ、龍神、すなはち、「海府錄事」を召して勘(かん)がへさせけるに、

「龍宮城の境内(けいだい)に、左樣の國は、これ、なし。」

といふ。

 商人、重ねていふやう、

「長鬚國は東海第三の迫戶(せと)・第七の嶋にあたれり。」

と。

 龍神、又勘辨(かんべん)せさするに、暫く有りて、錄事(ろくじ)、すなはち、本帳を考へて曰はく、

「其の嶋は、蝦魚(えび)の住所(じうしよ)也。龍宮大王の此月の食料に當てゝ、昨日、召し捕りたり。」

と申す。

 龍神、笑ひて曰はく、

「『司風の長』は、まことに人間ながら、蝦(ゑび)のために魅(ばか)されたり。我は海中の王なりといへ共、食(しよく)する所の魚(きよ)・鳥(てう)・生類(しやうるい)、皆、天帝より布(しき)さづけられて、日每(《ひ》ごと)に其の數あり。たとひ人といふとも天帝の定め給ふ數の外に、奢りて生類(しようるゐ)を食する時は、必ず、天の責めを受けて、禍ひあり。況や、我等、數の外に、漫(みだ)りに食する事、かなはず。さりながら、今、はるばるこゝに來れる人の心を、破るべからず。數の定めを耗(へら)して參らせむ。」

とて、内に入て、「司膳掌(しぜんしやう)」に仰せて、商人をつれて、料理臺盤所(れうりだいばんところ)を見せしむるに、麞(くじか)の胎(はら)ごもり、熊の掌(たなごゝろ)、猿のことり、兎の水鏡(みづかゝみ)、五種の削物(けづり《もの》)、七種の菓(くだもの)、䡄則(きそく)・花形、かざり立てて、鳳髓(ほうずゐ)、獅子膏(《しし》かう)、靑肪(《せい》はう)、白蜜(はくみつ)、其の外、海陸(かいろく)のうち、あらゆる珍味、心も言葉も及ばれず。

 

Lbn3

 

 黃金(こがね)の釜、白銀(がね)の鍋、あかゞねの鼎(かなへ)を並べ、傍らなる籃(かご)の中に、蝦、五、六頭(づ)あり。

 大《おほい》さ三尺あまり、色は、さながら、濃紫(こむらさき)にして、鬚、甚だ、長し。

 此商人を見て、淚を流す事、雨の如く、頻りに蹕躍(はねおど)りて、其のありさま、

『助け給へ。』

と云はぬばかり也。

 「司膳の司」のいふやう、

「是れこそ、蝦の中の王なれ。」

と。

 商人、きゝて、不覺の淚を落とす。

 龍神、かさねて、使ひを立て、蝦の王を赦(ゆる)し放ち、商人をば、送りて、日本に歸らしむ。

 其の夜の曙に、能登の國「鈴(すゞ)の御崎(みさき)」に付《つき》たり。

 岸にあがりて、うしろを顧れば、送りける使ひは、大龍となり、波を分けて、海底(かいてい)に隱れ、商人は本國に歸りて、筆に記して、人に語り傅へしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の一枚目は長鬚国扶桑州に着き、国主の城を訪れたシーン。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『門は青海波の紋様』で、門の屋根の『棟の両端には海老の形をした飾りがついている。左』幅の迎えている人物は『衣冠の応対人』で、『頭上に海老の冠。左に番の者二人』が描かれているが、右幅の拱手した民草も応対する官人も二人の家来も、皆、長い鬚を持っている。さしてネタバレともなるまいから言っておくが、これが真相の伏線である。二枚目は商人が宮殿内で饗応を受けるシーン。右幅の列の先頭、一番左にいるのが、王の娘。同前で、『床下には、満々とした海水』らしきものが描かれ、左幅の上座にあるのが国主であるが、冠の蝦が一段と大きいのが判る。手前の三人は招かれた長鬚国内の客人。商人以外、女性も例外なく、総てが長い鬚を生やしている。三枚目は龍宮内の台番所(調理室)へ商人が赴くシーン。かすれているが、商人の左手にいるのが、司膳掌(総調理監督官)で、同前で『蓬髪に竜の冠』をつけている『か』とされる。二人の足下に大きな籠に大蝦が三尾おり、商人の方に向いている一尾が長鬚国国主であろう。左幅の手前に食材が吊り下げられてあり、右から二番目に鶴っぽい長い頸を持った鳥、中央に甚だ大きな兎らしきもの、その左手には鴨っぽい鳥二羽が見える。同前解説に、『壺、鼎、鍋、釜、瓶子、盤など多数の器物に珍味が盛られる。当話は挿絵をふんだんに配し、異境のおもむきを充分に醸し出している』とある。本話は他の戦国時代設定の拘りを排して、文字通りの御伽話として楽しめるものに仕上がっている。「越前の國北の庄」現在の福井県福井市大手(グーグル・マップ・データ。以下同じ)は旧越前国足羽(あすわ)郡北ノ庄(後に改めて福居)と呼んだ。現在の福井全体の呼称としても通用した。

「松前」北海道松前郡松前町。中世以降の蝦夷地交易の要地。

「木綿・麻布(あさぬの)」越前は温暖多湿の気候に恵まれ、古代より優れた絹織物など織布の生産が盛んであった。

「昆布(こんぶ)」松前の東方、北海道函館市宇賀浦町附近(正確にはその東の銭亀沢地区の沖合)の昆布は「宇賀の昆布」として古くから知られた。私の「日本山海名産図会 第五巻 昆布」も参照されたい。

「干鮑(ほしあわび)」エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)を用いたもの。大脱線になるが、私の大好きな、アイヌに伝わる「ムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビとの間の戦いと住み分けの物語」を、最近やっと、ちゃんと書けたので、未読の方は是非、どうぞ! 「大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)」の私の「アメ」の長い注の中にある。

「扶桑州(ふさうしう)」「扶桑」国は古代中国で、太陽の出る東海中にあるとされた、葉が桑の木に似た神木。またはその霊木が生えている地の称。後に日本の異名とはなった。

「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

「くわりん」「花梨・花林・花櫚」。マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属カリン Pterocarpus indicus (但し、同じく「花梨」とも書く「榠樝」、カリン酒や砂糖漬けで知られる黄色な大きな丸い実を結ぶところの、バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis とは全く別種であるので注意されたい)。当該ウィキによれば、『タイ、ミャンマーなどの東南アジアからフィリピン、ニューギニアの熱帯雨林に自生する』。『日本では八重山諸島が北限。金木犀に似たオレンジ色の小さな花が密集して咲く。芳香があるが、花期は短く』、一~二日で、『東南アジアの緑化や街路樹や公園に好んで使用される。シンガポールのメインストリートであるオーチャード通りやバンコク、ホーチミン、クアラルンプールなどでも多く見られる』。『フィリピンの国樹』。『古くから唐木細工に使用される銘木。心材は黄色がかった紅褐色から桃色がかった暗褐色。木材にはバラの香りがあり、赤色染料が取れる。木材を削り、試験管に入れて水を注ぎ、これを太陽にかざすと、美しい蛍光を出す』。『家具、仏壇、床柱、床框、装飾、楽器、ブラシの柄などに使われる。シタンに似ており、代用材としても使われる』とある。

「白檀(びやくだん)」ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。

「入違《いれちが》へ」複数の高級木材を巧みに組み合わせて。

「沈香(ぢんこう)」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。

「勢(せい)」背丈。背(せい)。

「蔕(ほぞ)」蒂(へた)のこと。

「菱(ひし)」私の好きな双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芰實(ひし) (ヒシ)」を参照されたい。

「芡(みづふき)」「水蕗」で、双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芡蓮(をにはす) (オニバス)」を参照。

「靑乳(せいにう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『不詳。ただし、乳梨(にゅうり=別名空閑梨(こがなし))や青梨(あおなし)があり、これらを指すか』とある。調べてみると、「こがなし」は「空閑梨・古河梨」などと書き、小学館「日本国語大辞典」には、『ナシの歴史上の品種。現在では、大古河(おおこが)という品種が知られ、九月中旬に熟し、大果で帯緑黄赤色、果肉は色が白く緻密で柔軟』とあり、「大古河」は岐阜県又は新潟県原産とウィキの「月潟の類産ナシ」にあった(「月潟(つきがた)の類産(るいさん)梨」は新潟県新潟市南区大別当(おおべっとう)地区(旧新潟県西蒲原郡月潟村大別当)に生育するナシ(バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ヤマナシ変種(ニホン)ヤマナシ Pyrus pyrifolia var. culta の古木を指す)。また、サイト「旬の果物百科」の「梨」に、『和梨は果皮の色で大きく』二『つのタイプに分類され』、『幸水や新高梨に代表される皮の色が黄褐色の』「赤梨」『系と、二十世紀梨や菊水に代表される色が淡黄緑色の』「青梨」系がそれで、『青梨系は二十世紀が一世を風靡し』『たが、その後数は減り、現在では幸水や豊水など赤梨系が大半を占めるようにな』ったとある。ナシ、少なくとも、本邦産にニホンヤマナシの原種は青ではなく、赤である。

「赤壺(せきこ)の橘(たちはな)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『未詳。橘は食用みかん類総称の古名』とある。種としては、ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナCitrus tachibana であるが、当該種の実は酸味が強く、生食用には向かず、加工品用に用いる。

「水精(すいしよう)」水晶。

「鳫(かり)」広義の「かり」=ガン(「雁」)は以下の広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照。

「鳬(かもめ)」広義の「鴨」(かも)(「新日本古典文学大系」版脚注に『「かもめ」は作者の読み癖か』とある)。カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」を参照。

「鳴鶉(うづら)」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照。

「雲雀(ひはり)」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を参照。

「紫菨(しきやう)」「新日本古典文学大系」版は、本文を『紫姜』とするばかりでなく、注でも『しょうがの異名』としている。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale だが、これは私は納得出来ない。底本も元禄本もここは「紫菨」であって「姜」ではないからである。しかも、電子版「漢字林 艸部」でも「菨」(音「ショウ」)については、『「菨餘(ショウヨ)」、アサザ(莕菜、荇菜)、ミツガシワ科アサザ属の水草』である『アサザ』の類を指すとあるのである。されば、ここは、双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属アサザ Nymphoides peltata 、或いは、アサザ属ヒメシロアサザ Nymphoides coreana 、或いは、アサザ属ガガブタ(鏡蓋) Nymphoides indica とすべきであろう。大和本草卷之八 草之四 水草類 荇 (ヒメシロアザサ・ガガブタ/(参考・アサザ))」を見られたいが、「詩経」の昔から、アサザは「荇菜」(かうさい(こうさい))として出、若葉が食用に供されることから「菜」と言ったのである。

「靑蓴(せいじゆん)」現行では一属一種の、私の好きな(見るのも、食べるのも。採取したことは残念なことにない。いつか採ってみたいな)、スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi である。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 蓴 (ジュンサイ)」を参照されたい。

「溪山(けいざん)の筍(たかんな)」奥深い人跡未踏の幽谷に生える笋(たけのこ)。

「靈澤(れいたく)の芹(せり)」同前の深い沢辺に生えるセリ。日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私の「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)」を参照されたい。

「葡萄(ぶどう)」葡萄酒。

「珠崖(しゆがい)の名酒」「珠崖」は漢の郡名。現在の広東省海南島に置かれた。前漢の武帝は南越国を征服し、そこに郡を配したが、珠崖は、その一つ。設置後五十年ほどで廃止されている。「新日本古典文学大系」版脚注は『酒との関係は未詳』とするが、寺本祐司氏の論文「海南島の酒に関する比較考察」PDF・『日本醸造協会誌』(二〇〇九年五月)発行所収)によれば(コンマを読点に代えた)、冒頭の紹介文章で、『海南島は、中国南部に浮ぶ島であり、大陸やフィリピンなどと深い関係がありながらも異なった伝統酒があることが予想される』。一九九五『年には「いも焼酎の源流を採る」調査部(南日本新聞社主催)が海南島におけるサツマイモ焼酎の製造を確認している。本稿では最近著者が行った調査結果を紹介していただいた』として、本文に、「海南島の伝統酒について」として、『海南島では熱帯・亜熱帯地域で栽培される農産物をもちいて酒がつくられていた。以下黎族』(リー族:海南島に住む少数民族)『に伝わる伝統酒についてまとめた。主な酒の原料は糯米』(もちごめ)、『サツマイモ、バナナであった』として、以下「米を原料とした酒」・「吸酒管で飲む酒」・「サツマイモを原料とした酒」・「バナナを原料とした酒」と標題した解説が続く。地理的にも南海の大きな島嶼である海南島は、如何にも本桃源郷のロケーションとも親和性がよい。

「茱萸(しゆゆ)」バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus (種は多い)以外に、似たような実をつける「山茱萸」(やまぐみ)=ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis がある。

「あるじまうけ」「主設け」。主人(ホスト)による客人(ゲスト)への饗応(オーギー)。

「うろくづ」「鱗屑」。広義の魚類。

「蛤(はまぐり)」広義の魚類を除く貝類を始めとする軟体動物や甲殻類・棘皮動物の水産食用動物の総て。海産動物が全く出てこないという重要な伏線である。

「沈麝(じんじや)」沈香(じんこう)と麝香。「沈香」は狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。「麝香」はヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus のジャコウジカ類)或いはジャコウネコ(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ類)の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分は「ムスコン」と呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。

「甚だ、怪しみて、悅びず」「内心は」ということである。

「古風の躰(てい)」「妹(いも)」という古代歌謡以来の語を用いているからであろう。

「さくとても蕊(しべ)なき花はあしからめ妹(いも)がひげあるかほのうるはし」「新日本古典文学大系」版脚注には、これは、本話がほぼ筋立てをそのまま使った原拠「五朝小説」の「諾皐記」の「大足初有士人云々」の中にでる、『「花ニ蘂無キハ妍(うつく)シカラズ、女ニ鬚無キモ亦醜シ。丈人試ミニ遣(もう)サバ、惣無(すべてなきもの)ハ未ダ必ズシモ惣有(すべてあるもの)ニハ如(し)カズ」という詩の翻案歌。蘂(花蕊)を髭に見立てたもの』とある。原拠本文を確認出来ないので、これ以上は踏み込むことが出来ない。悪しからず。

「えつぼに入《いり》て」「笑壺に入(い)る」は「思い通りになって大いに喜ぶ」ことを言う。

「腹をさゝげたり」腹を抱えて笑った。海老の後方に跳ねるさまをミミクリーしたか。

「司風(しふう)の長」「新日本古典文学大系」版脚注に、『風に関する事を掌握する官職』とする。原話に出ることが示されてある。

「迫戶(せと)」「瀨戶」に同じ。海峡。

「よこしま、なし」横暴なところは、ない。

「道びき」水先案内人。

「海府錄事」「錄事」は実際の記録等を職掌する官職を指す。海を司る龍王の竜宮王府のそれなので「海府」としたものであろう。

「魅(ばか)されたり」「化かされたり」。

「布(しき)さづけられて」「布(し)く」は「遍(あまね)く、勘案して、決め、治める」の意。天帝によって、日々の食料の量まで厳密に決められていて、自分(龍王)の好き勝手にはならない。正確には、過剰に食うことも、恣意的に減らすことも出来ないと言っているのであるが、前者はだめでも、後者は可能ということなのだろう。

「たとひ人といふとも天帝の定め給ふ數の外に、奢りて生類(しようるゐ)を食する時は、必ず、天の責めを受けて、禍ひあり。況や、我等、數の外に、漫(みだ)りに食する事、かなはず」ここは面白い。龍王は、人間よりも、ある種の格(系)の中に於いては低い地位にあるか、或いは束縛が大きいということになる。

「麞(くじか)の胎(はら)ごもり」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis (朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、体高四十五~五十五センチメートル、体重九~十一キログラムの小形のシカ)の胎児。

「猿のことり」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「猿木取(さるのことり)手足の事なり」(新撰庭訓抄・五月返状)』とある。手羽先を好んで食う人間には残酷と批難する資格はない。

「兎の水鏡(みづかゝみ)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。但し、「みずかがみ」には具の少ない汁の意がある』(出典「可笑記」)とある。

「五種の削物(けづり《もの》)」礼式用の料理で、青・黄・赤・白・黒の五色に見立て、乾き物の魚介五種を削って、器に盛ったもの。種類は一定しないが、普通は「鮑・鰹・鯛・蛸・海鼠」を用いる(小学館「大辞泉」に拠る)。

「七種の菓(くだもの)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。通常は「五菓」とも。「五菓 ゴクハ〈李、杏、棗、桃。栗〉(書言字考)』などとある。

「䡄則(きそく)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『亀足(きそく)か。魚鳥を刺した串の手に持つ部分を巻いた飾りのある紙や、折敷』(おしき)『の底のの紙で四隅を折り返したものなど』を言う旨の記載がある。

「花形」同前で、『花形をした亀足か』としつつ、『または銚子の口を蝶形に結んだ紙をも称した』とある。

「鳳髓(ほうずゐ)」同前で、『鳳凰の髄(骨の脂)』とする。

「獅子膏(《しし》かう)」同前で、『獅子肉の脂』とする。

「靑肪(《せい》はう)」同前では『未詳』とある。

「白蜜(はくみつ)」同前で『蜂蜜』とする。

「海陸(かいろく)」「陸」の「リク」は漢音、「ロク」は呉音。

「大《おほい》さ三尺あまり、色は、さながら、濃紫(こむらさき)にして、鬚、甚だ、長し」色と圧倒的大きさから、イセエビ属の最大種である十脚目イセエビ科イセエビ属ニシキエビ Panulirus ornatus であろう。当該ウィキによれば、成体の体長は五十センチメートルほどだが、体長六十センチメートル・体重五キログラムに達する個体も稀れに漁獲される。体つきは同属のイセエビ Panulirus japonicus に『似るが、頭胸甲に棘が少なく、腹節に横溝がない。頭胸甲の地色は暗緑色で、橙色の小突起が並ぶ。腹部背面は黄褐色で、各節に太い黒の横しまがあり、両脇に黄色の斑点が』二『つずつ横に並ぶ。第』一『触角は黒いが』、七『本の白いしま模様があり』、五『対の歩脚も白黒の不規則なまだら模様となる。第』二『触角や腹肢、尾扇などは赤橙色を帯びる。この様々に彩られた体色を「錦」になぞらえてこの和名がある。種小名 ornatus も「武装した」、「飾りたてた」という意味で、やはり体色に因んだ命名である』。『アフリカ東岸からポリネシアまで、インド太平洋の熱帯域に広く分布する。日本でも神奈川県、長崎県以南の各地で記録されているが、九州以北の採集記録は稀で、南西諸島や伊豆諸島、小笠原諸島でも個体数が少ない』。『サンゴ礁の外礁斜面から、礁外側のやや深い砂泥底に生息し、他のイセエビ属より沖合いに生息する。生態はイセエビと同様で、昼は岩陰や洞窟に潜み、夜に海底を徘徊する。食性は肉食性が強く、貝類、ウニ、他の甲殻類など様々な小動物を捕食する』。『分布域沿岸、特に島嶼部では重要な食用種として漁獲されるが、食味はイセエビより大味とされている。大型で鮮やかな体色から、食用以外にも観賞用の剥製にされて珍重され、水族館等でも飼育される』。グーグルの学名の画像検索をリンクさせておく。私は実物の剥製を何度か見たが、暗い紫色という印象が記憶にあって、この本文の叙述と齟齬がない。

「鈴(すゞ)の御崎(みさき)」珠洲岬(すずみさき)。能登半島の先を占める石川県珠洲市にある岬。その先端部にある金剛崎のこととも、その周辺の岬を含めた総称であるとも言われ、「金剛崎のこと」、「金剛崎・遭崎・宿崎のこと」、「禄剛崎・金剛崎・遭崎・のこと、「禄剛崎・金剛崎・長手崎のこと」とする説があり一致を見ない。国土地理院図では「金剛崎」の位置に「珠洲岬」と併記されており、「日本の地名がわかる事典」によれば、珠洲岬とは、能登半島の東端部を指す総称であるとしながらも、狭義には「金剛崎」をいうとあるとある。参照した当該ウィキに幾つかの岬の配置図がある。]

2021/07/30

伽婢子卷之七 雪白明神 / 卷之七~了

 

Yukisiromiyoujin1

 

Yukisiromiyoujin2

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。一枚目に使者の描いた横筋がないのが、少し残念。標題は「ゆきしろみやうじん」。]

 

○雪白明神

 

 長亨(ちやうかう)元年九月、將軍源義凞(よしてる)公、みづから軍兵を率して江州に發向し、坂本に陣をとりて、佐々木六角判官高賴(たかより)を攻めさせらるゝに、高賴、ふせぎかねて、城を落ちて、甲賀郡(こうかこほり)の山中に隱れ入りたり。

 高賴が郞等、堅田(かたゝ)又五郞といふものは、武勇ありて、力量、人に勝れ、然かも、常に佛神を敬まひ、後世《ごぜ》を願ふ心ざし、淺からず。「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」一返(へん)、「彌陀經(みだきやう)」一卷、念佛百返を以つて、每日の所作(しよさ)とす。

 已に、大將高賴、城を落ちければ、又五郞も、力なく、むかふ寄手(よせて)に切《きり》かゝり、終に大軍の中を切ぬけて、安養寺山の奧に落ち行《ゆき》たり。

 かくて、日、暮れたりければ、いづかたに出《いづ》べき道も、知らず。

 かたはらに、一つの藁屋(わらや)あり。

 谷陰に立《たち》ながら、内には、人、なし。

 まづ、此家に隱れ居(ゐ)たれば、軍兵、廿騎ばかりの音して、

「まさしく後ろ影は見えしぞ。さだめて、伊賀路(いがぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

といふを聞けば、我を討ちとめんとする追手の兵也。

 されども、隱れ居たる家には、目もかけず、やうやう、遠ざかり行く。

『今は、心安し。』

と思ふ所に、又、人の打ち過《すぐ》る音の聞えしかば、ひそかに窓より、覗(のぞ)き見れば、一人の女房、その齡(よはひ)四十ばかりなるが、勢(せい)、細く、高し。

 褐色(かちいろ)の中《なか》なれたる小袖着て、手に、美くしき袋、もちて、

「堅田又五郞殿は、こゝに在(おは)するや。」

といふに、又五郞、物をもいはず、忍び居(ゐ)たり。

 女房、打ち笑ひて、

「何をか、怖れて、忍び給ふぞ。少しも、苦しき事、なし。我はこれ、當國栗太郡(くりもとのこほり)におはします、『雪白(ゆきしろ)の宮《みや》』の御使ひとして、『君が心安くせん』とて、遣はされたり。ゆめゆめ、疑ひ給ふな。君、常に、慈悲深く、神佛を敬ひ、後世を求めて怠りなき故に、其の心ざしを感じて、『雪白の明神』、守り給ふなり。」

とて、すなはち、持ちたる袋の緖(を)をとき、燒餅(やきもちひ)、とり出《いだ》して、食(くは)せ、小き甁(かめ)に、酒を入れて、とり出して、飮ませけるに、又五郞、大《おほき》に飽(あき)みちて、かたじけなく、有難き事、譬(たと)へんかたなし。

 女房いふやう、

「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

とて、歸るか、とみえし、銷(けす)が如くに、失せたり。

 案の如く、夜半ばかりに、怪しき光り、ひらめき、輝きて、來《きた》る者、あり。

 又五郞、

『さればこそ。』

と思ひ、窓より、覗きければ、身のたけ、一丈あまりの鬼、赤き髮、亂れ、白き牙(きば)、くひちがふて、兩の角は、火のごとし。

 口は耳元までさけて、眼(まなこ)の光り、鏡の面(おもて)に朱をさしたるがごとし。

 爪は鷂(くまたか)の如く、豹(へう)の皮を腰當(こしあて)とし、直(ぢき)に内に駈(か)け入らんとするに、かの女房、庭の土に書きたる筋を見て、大《おほき》に怒れる。

 まなこのひかり、いなびかりの如く、ひらめき、口より、火を吐きて、立《たち》やすらひ、力足(ちからあし)踏みて、響(どよ)みける。

 其の有樣、身の毛、よだち、魂(たましゐ)きえて、恐しといふも、愚か也。

 鬼、すでに、筋を越(こゆ)る事、かなはず、怒りを抑へて、かたはらに立寄りし所に、軍兵(ぐんびやう)、又、十騎ばかり、追ひ求りて、

「又五郞は此家に隱れしと聞ゆ。出《いで》よ出よ。」

と、責めけるに、かの鬼、かけ出《いで》て、馬上の兵を摑(つか)み、馬を踏み殺して、食(くら)ふに、其外の郞等(らうどう)共は蛛(くも)の子を散らす如くに、足にまかせて、にげうせたり。

 夜、已に明方になりたれば、鬼も消えうせて、物靜か也。

 立出《たちいで》て見れば、馬のかしら、人の手足、血まじりに、散(ちり)みだれ、よろひ・甲(かぶと)・太刀、皆、ひき散らしてあり。

 又五郞、終に逃るゝ事を得て、それより、伊勢にくだり、白子(しろこ)と云ふ所より、舟に乘り、駿州にゆきて、今川氏親(うぢちか)を賴みて、身を隱し、後に、その終はる所を知らず。

 

伽婢子卷之七終

 

[やぶちゃん注:「長亨(ちやうかう)元年」一四八七年。正しい漢字は「長享」(ちょうきょう)で、歴史的仮名遣は「ちやうきやう」。

「源義凞(よしてる)公」室町幕府第九代将軍足利義尚(寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年:在職:文明五(一四七四)年から没年まで)のこと。この翌年の長享二(一四八八)年)に改名して義煕と称した。当該ウィキによれば、ここに出る長享元年九月十二日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約二万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(「長享・延徳の乱」)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの一年五ヶ月もの間、近江鈎(まがり:現在の滋賀県栗東市(りっとうし)。ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)への長期在陣を余儀なくされた(「鈎の陣」)。そのため、「鈎の陣所」は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど、華やかな儀礼も行われた。彼は長享三年三月二十六日、近江「鈎の陣」中で病死した。享年二十五(満二十四歳)であった。死因は過度の酒色による脳溢血とされるが、荒淫のためという説もある、とある。

「坂本」不詳。琵琶湖南西岸に知られた地名(比叡山の東方の登り口)としてあるが、ここでは位置的におかしい。「新日本古典文学大系」版脚注でも注をしていない。

「佐々木六角判官高賴(たかより)」(?~永正一七(一五二〇)年)は大名。近江国守護佐々木(六角)久頼の嫡子。文明一五(一四八三)年には大膳大夫となり、その時既に高頼を名乗っている。「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)においては、西軍(山名持豊方)に組みし、東軍(細川勝元方)の京極持清と結んだ従兄の六角政尭(まさたか)や、江北の京極氏と敵対した。近江国守護職については、たびたび、解任と補任を繰り返すが、これは「応仁の乱」による影響や、高頼が幕命に従わず、領国経営に傾倒したためであった。戦国大名化する六角氏による所領横領などの行為は、当然、幕府の許すところではなく、幕府はたびたび高頼討伐の軍を近江に出した。この年の将軍足利義尚の出陣は、最大規模のもので、長期に亙った。しかし、高頼は、その都度、巧みに甲賀郡や伊勢国に落ち延び、したたかに勢力を持ち直しては近江に君臨したのであった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の居城であった観音寺城はここにあった。

「甲賀郡(こうかこほり)」現在の滋賀県甲賀市

「堅田(かたゝ)又五郞」近江堅田(現在の琵琶湖南西岸の大津市堅田)に由来する姓であろう。

「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」「法華経」の中野「觀世音菩薩普門品第二十五」。

「彌陀經(みだきやう)」「佛說阿彌陀經」一巻。鳩摩羅什(くらまじゅう)訳。

「安養寺山」現在の滋賀県栗東市安養寺にある。標高二百三十七メートル。ここを山伝いに南西に向かえば、伊賀を経て、主君の落ちのびた甲賀へは行けるが、しかし、この山の北麓にある安養寺は、この時、将軍の本陣が最初に置かれた場所で(「鈎の陣」へは後に移った)、これはもう、幕府軍のテリトリーに入ってしまった形になり、甚だ「危険がアブナいよ」。

「まさしく後ろ影は見えしぞ」「さっき、確かには不審な者の後ろ姿を見かけたぞ!」。

「さだめて、伊賀路(いせぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

「勢(せい)」身の丈(たけ)。背(せい)。

「褐色(かちいろ)」染色の名で、中世以降、紺色乃至は黒みのある藍色を指す。

「中《なか》なれたる」ほどよく着馴れた感じのする。妙に新品だったりして目立たないいのである。寧ろ、その方が自然で、神の使者と聴いて、構えてしまい、警戒しない感じもしないでもない。

「栗太郡(くりもとのこほり)」滋賀県の旧栗太郡(くりたぐん:現在の草津市・栗東市の全域と大津市及び守山市の一部を含む広域郡であった)は古くは「栗太」「栗本」とも記され、「くりもと」と読んでいた。現在は郡そのものは消失している。

「雪白(ゆきしろ)の宮《みや》」現在の滋賀県栗東市高野にある高野神社。安養寺山の東北直近。公式サイトの「御由緒」に、『秀峰三上山を背景に野洲川の辺り、湖南の沃野に鎮座する延喜式神名帳に記された栗太八座に一する位階ある式内社である。社伝によると、天智天皇の御代以降』、『高野造』(「たかののみやつこ」か)『なる人が』、『この地一帯を開墾開発し』、『高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間』(七〇八年~七一四年)『我が国で、最初に鋳造された「和銅開珍」の鋳師(鋳銭師)高野縮禰道経』(「たかのすくねみちつね」か)『一族が住んでいたことは有名であり、それ等の人々の氏神として祖先を祀ったのが、当社である。中世よりは、通称「由岐志呂宮」』(「ゆきしろのみや」と読める)『又「由岐宮」』(「ゆきのみや」と読める)『として尊崇されてきた。これは大同元年』(八〇六年)、『大嘗祭の悠紀方』(ゆきかた:大嘗祭で「悠紀の国」(神饌の新穀を奉るように卜定(ぼくじょう)によって選ばれる国。平安以後は近江国に一定するようになった)の神事の行なわれる東方の祭場。また、そこに関係する人々や事物を指す)『として新稲を進納したことに由来する。南北朝時代』、『戦火により社殿類焼するが、氏子等』が『仮殿を営み』、『祭祀十年余経て』、貞治元(一三六二)年・天文二(一五三三)年・寛永七(一六三〇)年と『改築修造を重ね』、天保三(一八三二)年に『現在の社殿を建立し』たとある。

『女房いふやう、「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」』どうもピンとこない箇所である。ここは錯文が疑われる。則ち、

   *

 女房、此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、いふやう、

「今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

   *

が正しいのではないか?

「鷂(くまたか)」この漢字「鷂」は現在のタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指し、「くまたか」という読みの方は、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis で種が異なる。ここは迫力から圧倒的に後者であり、だとすれば、漢字は「鵰」である。(但し、「鵰」の漢字は広義の大型猛禽類としてのワシをも指す)。

まあ、順番に、私の、

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」

を見て戴くのがよかろう。因みに、先般、電子化注したばかりの、

「日本山海名産図会 第二巻 田獵品(かりのしな) 鷹」

も参考になると思う。お暇な方は見られたい。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でも『鵰の誤り』とする。幾ら国文学的注とはいえ、「鷂」が何を指すかを示さないのはいかにも不親切である。

「豹(へう)」食肉目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus 。丑寅の「トラ」としないところが、ナウい感じがする。

「力足(ちからあし)」「地團駄・地團太」(ぢだんだ:元は「地蹈鞴」(ぢたたら)の音変化への当て字)で、足で地を何回も踏みつけること。

「響(どよ)みける」使者の女の引いた筋の向こう側から、大声を立てて雄叫びを挙げながら、しかし、そこから前に進めずにいるのである。地団駄と絶妙のマッチングである。にしても、女の筋は呪的結界であることは判るが、この鬼は、どのようにして、どこから誰が遣わした者なのか、その辺りは必ずしも、分明ではないのが、ちょっと不満な気もするのである。

「魂(たましゐ)」元禄版の読み。歴史的仮名遣は「たましひ」が正しい。

「白子(しろこ)」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。白子港を持つ水産業の町で。江戸時代には紀州藩が手厚く保護し、伊勢湾内の物流の中核として発達した。

「今川氏親(うぢちか)」(文明三(一四七一)年或いは文明五(一四七三)年~大永六(一五二六)年)。父は駿河守護職今川義忠、母は北条早雲の妹北川殿。文明八年の父の不慮の死により、暫くの間は駿河小川城に避難したが、この長享元(一四八七)年、伯父に当たる北条早雲の援助で当主として国政を執り始めた。この時の発給文書に印文不詳の印判を捺しているのが、戦国期武将印判使用の第一号として知られている。また、検地の施行や分国法「仮名目録」の制定など、守護大名から戦国大名への脱皮を図っている。明応三(一四九四)年から、遠江への侵入を開始し、文亀元(一五〇一)年には、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏の連合軍を撃破し、永正一四(一五一七)年、遠江を平定した(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

伽婢子卷之七 菅谷(すげのや)九右衞門

 

Tugetakikawa

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。]

 

   ○菅谷(すげのや)九右衞門

 

 天正年中に、伊勢の國司具敎(とものり)公をば、「武井(たけゐ)の御所」とぞ云ひける。民部少輔具時(ともとき)は國司の甥(をひ)にて、南伊勢の木作(こづくり)といふ所にすみ侍べり。此の郞等《らうどう》に柘植(つげの)三郞左衞門・瀧河三郞兵衞とて、二人の侍あり。武勇智謀ある者なりければ、時にとりて、名を施しけり。

 然るに、國司具敎、その甥民部少輔、おなじく奢り(おごり)を極め、國民をむさぼり、侫奸(ねいかん)の者に親しみ、國政、正しからざる故に、

『行末、賴もしからず。』

と思ひ、柘植と瀧川、二人、心を合はせ、信長公に屬(しよく)せしめ、國司を亡ぼし、すなはち、勸賞(けんじやう)をかうふり、立身して、權(けん)を取り、威を震ひけり。

 其ころ、伊賀國に一揆起り、近鄕のあぶれもの、武井の城(じやう)の餘黨ども、多く集まり、要害を構へて楯こもり、土民百姓を惱まし、國郡村里を掠(かす)めしかば、信長公、

「早く是れをせめほさずば、大なる難義に及び、諸方の手づかひ、障(さはり)とならん。」

とて、軍兵を差向けられし所に、城中、强くして、人數、多く損じける中に、柘植・瀧川、二人ながら、打たれたり。

 是れによりて、あつかひを入られ、終に、信長公に隨ひけり。[やぶちゃん注:『そこで、信長は「あつかひ」(調停・仲裁)を伊賀との間に入れ、伊賀の衆や「近鄕のあぶれもの」や「武井の餘黨」は、皆、信長に従った』。]

 其後、一年ばかりを經て、信長公の家臣菅谷(すげのや)九右衞門、所用ありて、山田郡(《やまだ》のこほり)に行ける道にて、柘植・瀧川に行合《ゆきあひ》たり。

 菅谷、思ひけるは、

『此の二人は正しく打ち死《じに》したりと聞しに、是れは夢にてやあるらん。』

と怪しみながら、立向ひ、物語するに、柘植、云やう、

「久しくて對面す。いざ、こゝにて、酒ひとつ、のみ給へ。」

とて、召し連れたる中間に仰付けて、小袖ひとつ、持たせ、酒屋に遣はし、質物(しちもつ)として、酒、取りよせ、むしろを借(かり)て、道端の草むらに敷かせ、柘植・瀧川・菅谷三人、打ち向ひて、數盃(すはい)を傾けたり。

 瀧川、云やう、

「昔、もろこしの諸葛長民と云《いふ》人は、劉毅(りうき)が殺されし時、これがために軍兵(ぐんひやう)を催し、亂を作《な》さんとして、未だ、思ひ定めず。かくて曰はく、『貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ。富貴になれば、かならず、危き事に逢ふ。其時、又、「元の貧賤にならばや」と思ふとも、是れも又、かなふべからず。腰に十萬貫の錢を纒(まと)ひて、鶴にのりて楊洲に登る』といふ。思ふ儘なる事は、なし。武士(ものゝふ)と生れ、其名を後代に傅ふる程の手柄なき者は、必ず、耻を萬事に殘す事、いにしへ、今、ためし多し。遠く他家に求むべからず。織田掃部(おだかもん)は、さしも勳功を致せしか共、終に日置(へき)大膳に仰せて誅せられ、佐久間右衞門は、信長公草業の御時より忠節ありけれ共、忽ちに追ひはなたれて、耻に逢ひたり。歷々の功臣、猶、かくの如し。まして、其の外の人、更に行末、知り難し。」

といふ。

 瀧川がいふやう、

「下間(しもづま)筑後守は越前の朝倉に方人(かたうど)して、木目(きのめ)峠の城に籠りしを、朝倉、うたれて後、平泉寺に隱れて跡をくらまし、醒悟發明(せいごはつめい)の道人《だうにん》となりて、

 梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは

   今宵の月をいかでまちみむ

と詠ぜしは、名を埋(うづ)みて道(だう)に替へたり。荒木攝津守が家人《けにん》小寺官兵衞は、主君の逆心を諫めかねて、髻(もとゞり)きりて、僧になりつゝ、

 四十年來謀戰功

 鐵胃着盡折良弓

 緇衣編衫靡人識

 獨誦妙經梵風

[やぶちゃん注:返り点のみで示した。底本の訓点に従った訓読を以下に示す。

   *

 四十年來 戰功を謀(はか)り

 鐵胃(てつちう) 着盡(きつ)くして 良弓を折(くじ)く

 緇衣(しえ)編衫(へんさん) 人の識ること靡(な)し

 獨り妙經(めうきやう)を誦(じゆ)して 梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ

   *]

という詩を題して、世を逃れたるもたふとしや。此の二人は、其の身、逆心の君《くん》に仕へながら、終に、よく、禍ひを免かれたり。是れ、智慮の深きに侍べらずや。」

といふ。

 柘植、うち笑ひて、いふやう、

「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」

といふ。

 瀧川、

「いや、其事は、只今、又、いふべきにあらず。思へば、口惜しきに、たゞ、酒のみ給へ、菅谷殿。」

とて、互ひに、盃(さかづき)の數、かさなりて後(のち)、菅谷、二人に向ひて、

「如何に、かたがた、日來(ひごろ)は、數奇(すき)の道とて、もて遊ばるゝに、今日(けふ)の遊びに、一首、なきか。」

といふ。

「されば。」

とて、打案じつゝ、柘植三郞左衞門、

 露霜ときえての後はそれかとも

   くさ葉より外(ほか)しる人もなし

瀧川三郞兵衞、

 うづもれぬ名は有明の月影に

   身はくちながらとふ人もなし

と、よみて、二人ながら、そゞろに淚を押し拭(ぬく)ひけり。

 菅谷、歌の言葉、いとゞあやしく、又、この有樣、心得がたく驚き思ひて、

「いかに。日ごろは、武勇智謀を心に掛けて、少しも物事によわげなき氣象のともがら、只今の歌のさま、哀傷(あいしやう)ふかく、淚を流しけるこそ、怪しけれ。」

といふに、二人ながら、更に言葉はなく、大息(《おほ》いき)つきて、嘯(うそふ)きつゝ、酒、已になくなれば、

「今は。是までなり。」

とて、座をたち、暇乞(いとまご)ひして半町ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。

 菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。

 日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。

 人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、

「ほろほろ」

と碎けて、土ほこりの如くになれり。

 菅谷、いそぎ、歸りて、密かに僧を請じ、二人の菩提を吊(とふら)ひけると也。

 

[やぶちゃん注:「菅谷(すげのや)九右衞門」菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年:通称に九右衛門)は織田信長の側近。姓は「菅谷」とも書かれる。長頼は織田信房次男。但し、信房は織田氏一族ではなく、別姓を名乗っていた信房が、その功績により織田姓を与えられたと伝わる。長頼が生まれた時期は明確ではないが、史書には一五六〇年代後半に菅屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長に仕えていたと考えられる。長頼、菅屋姓を名乗った時期は、諸史料から、元服前後と考えられる。初見は山科言継「言継卿記」の永禄一二(一五六九)年三月十六日の条が初見で、この時、岐阜を訪れた言継を織田信広・飯尾尚清・大津長昌らとともに接待し、山科家の知行地の目録を委ねられている。同年八月の伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」(さくきわまわりばんしゅう:旗本格)として前田利家らとともに戦っている。元亀元(一五七〇)年六月には「姉川の戦い」の前に近江北部に布陣している様子が確認できる。信長の家臣としては馬廻役であったが、ただの馬廻役よりも高位であったことが諸事実から伺える。同年九月の「志賀の陣」に参陣したが、この時、馬廻ながら、足利義昭への使いを務めたり、陣中を訪れた山科言継を取り次いだりしていることから、前線には出ず、信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる。同年十月二十日、信長の使者として朝倉義景陣中へ赴き、織田軍との決戦に応じるよう、促したが、不調に終わった。初期の頃は馬廻として戦に赴く信長に付き従って行動していた長頼であったが、程なくして各種奉行に用いられるようになった。天正元(一五七三)年九月、鉄砲による狙撃で信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の尋問役と、鋸挽きによる処刑を執行している。天正二(一五七四)年三月の東大寺蘭奢待切り取りの際の奉行の一人を務め、同年七月二十日には羽柴秀吉が長頼と相談の上、朝倉氏旧臣たちの知行の割当てを執行すると通達している。天正三(一五七五)年八月二十日、「越前一向一揆」討伐のため、越前日野山を前田利家とともに攻め、一揆一千名余りを討ち取り、また捕らえた捕虜百名も即刻、首を刎ねている。天正六(一五七八)年十一月の「摂津有岡城の戦い」では鉄砲隊を率いる一人として有岡城を攻撃した。天正八(一五八〇)年からは能登・越中など北陸の政務を担当するようになった。翌年三月には、七尾城代として能登入りし、以後、暫く直接の政務にも当たっている。また、上杉氏に対する外交担当も務めていたらしい(かく鎮撫が済んだ能登は前田利家に与えられた)。かく北陸方面で政務に実績を残した長頼であったが、この間、北陸方面軍を統括する柴田勝家や越中の一職支配権を持っていた佐々成政らに了承などを仰いだことは一度としてなく、信長から遣わされた「上使」として、単独で政務を執行できるだけの強い権限を与えられていたことが窺われる。天正一〇(一五八二)年の「甲州征伐」には信長に近侍して三月中に出馬し、四月に甲斐入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏は駆逐されており、戦闘はなかった。五月二十九日、信長に従って上洛、六月二日に発生した「本能寺の変」においては、市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることが出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条新御所で信忠に殉じた。子として角蔵・勝次郎の二人の息子がいたが、「本能寺の変」において角蔵は本能寺で、勝次郎は長頼とともに二条新御所で討死しており、子孫は伝わっていない(私は名すらも知らない人物なので、以上は当該ウィキに拠った)。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦はカトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。その実施が最も早かった国々では、ユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)としている。

「伊勢の國司具敎(とものり)」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は戦国武将。伊勢国司(南北朝初めの北畠顕能(あきよし)以来、七代に亙って世襲)は、北畠晴具の長男、母は細川高国の娘。天文六(一五三七)年叙爵以降、朝位朝官を歴任し、弘治三(一五五七)年には正三位に叙された。北畠氏は具教の時期に極盛期を迎えるが、永禄一二(一五六九)年八月、織田信長の総攻撃を受けた。一族の精鋭は大河内(現在の三重県松阪市)に籠城して持ちこたえ、信長の次男茶筅丸(ちゃせんまる:後の信雄(のぶかつ/のぶお)を具教の長男具房の養子とすることで和議が成立したが、七年後の天正四(一五七六)年、具教は織田方に籠絡された旧臣に三瀬御所(現在の三重県大台町)で暗殺され、北畠氏は滅んだ(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「武井(たけゐ)の御所」北畠氏が本拠地とした、伊勢国一志(いちし/いし)郡多気(たげ)にあった霧山城の別名多気城のこと(現在の三重県津市美杉町上多気及び美杉町下多気。ここ一帯。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「民部少輔具時(ともとき)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『北畠支流木造家に具時の名は見えない。ここは木造具政が当たるか。北畠晴具の三男。「国司の甥に民部少輔といふ人は南伊勢の木造といふ所に城をかまへてをかれたり(古老軍物語・』『伊勢の国司ほろびし事)』とある。木造具政(こづくりともまさ 享禄三(一五三〇)年~?)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・公家。堂上家・木造家の最後の当主。参議・北畠晴具の三男。左近衛中将木造具康の養子。北畠家第七代当主北畠晴具の三男(次男説もある)として生まれたが、父の命で木造具康の跡を継いで、分家の木造家の当主となった。天文一三(一五四四)年に従五位下に叙爵し、侍従となり、天文二一(一五五二)年には正五位下・左近衛少将に叙任され、翌年、従四位下・左近衛中将に昇った。天文二十三年には戸木城(現在の三重県津市戸木町)を築城している。永禄一二(一五六九)年五月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄具教に背いて、信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男織田信雄の家老となった。信長没後も信雄に仕え、天正一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」では戸木城に籠城して、羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結んだことから、城を退去した。後の行方は不明か(当該ウィキに拠った)。

「南伊勢の木作(こづくり)」三重県津市木造町(こつくりちょう:現在の地名は清音)。

「柘植(つげの)三郞左衞門」柘植保重(つげ やすしげ ?~天正七(一五七九)年)は織田氏家臣。通称は三郎左衛門。柘植氏の出身で、確証は得られていないが、伊賀国の土豪福地宗隆の子で、滝川雄利(かつとし:本「瀧河三郞兵衞」のこと。後注参照)の姉の夫、或いは雄利の実父との説がある。初め、木造具政に仕えたが、織田信長が伊勢攻めを開始した際、具政に対し、北畠家から寝返るよう説得し、滝川雄利らとともに信長に降った。この時、保重が北畠家に人質に出していた妻子は磔(はりつけ)にされている。永禄一二(一五六九)年、信長の軍勢七万(実数は五万とも)が北畠領に侵攻すると、織田軍とともに、国司北畠具房(具教の子)の居城であった大河内城を攻めた。信長の次男茶筅丸(信雄)を北畠家の養子に入れることで、具房は織田家と和睦し、これ以降、保重は茶筅丸付きの家老となった。天正四(一五七六)年、「三瀬の変」(同年十一月二十五日、伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件)では、保重は北畠具教と、未だ三歳の徳松丸、一歳の亀松丸らを討ち取るべく、三瀬御所に向かい、これらを殺害したグループに属している(但し、「勢州軍記」では三瀬御所ではなく、大河内御所である大河内教通の宿泊所を襲ったとある)。天正七(一五七九)年、主君の信雄に従い、伊賀国に攻め込むが、信雄軍は伊賀の諸豪族の抵抗に遭い、戦況が不利となったため、退却した。この撤退時の殿軍(しんがり)を務めた最中、保重は伊賀側の植田光次に討たれた(「第一次天正伊賀の乱」。以上は当該ウィキに拠った)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「木作殿の郎等につげの三郎左衛門といふものは、男がら人にすぐれ兵法に達し智慮さかしき武勇のものなり」(古老軍物語六・伊勢の国司ほろびし事)』とある。

「瀧河三郞兵衞」滝川雄利(天文一二(一五四三)年~慶長一五(一六一〇)年)は伊勢国一志郡木造生まれの大名で、伊勢神戸城主、後の常陸片野藩初代藩主。伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。「寛永諸家系図伝」の「木造氏系図」では具康の娘、「星合(ほしあい)氏系図」では俊茂の娘と北畠氏家臣柘植三郎兵衛の間の子とし、「滝川氏系図」では具康の子とする。また、「寛政重修諸家譜」の編纂時に、滝川家が提出した家譜では、雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた。さらに、「系図纂要」では俊茂の子となっている。初め、出家して源浄院の僧主玄を称したが、後に還俗して、滝川一益(かずます/いちます)から滝川の姓を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。一益との関係は、娘婿に迎えられたとも、養子とされた可能性も指摘されている。一益没落の後も、豊臣政権下で重用され、従五位下下総守に叙任、羽柴氏を賜姓された。江戸幕府に仕えた晩年まで、羽柴下総守と称し、滝川に復姓したのは子息正利の代である。永禄一二(一五六九)年、織田信長の北畠家攻略戦の際、信長の家臣滝川一益の調略を受け、柘植保重とともに当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きして、その勝利に貢献した。この時、一益は源浄院の才能を見出して家中に引き取り、還俗させて滝川姓を与え、自身の甥として織田信長に仕えさせた。初め。通称を兵部少輔、諱は自署によれば友足(ともたり)で、後、別名として伝わる一盛(かずもり)・雅利(まさとし)に改めたと思われる。信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(後、信意(のぶおき)、さらに織田信雄に改名)の家老となり、通称を三郎兵衛に改めた。天正四(一五七六)年、他将とともに軍勢を率い、北畠具教の居城三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした(「三瀬の変」)。「勢州軍記」によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという。天正六(一五七八)年、信意の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修復するが、伊賀の国侍衆(くにざむらいしゅう)の反撃に遭い、伊勢国へ敗走した(「第一次天正伊賀の乱」)。「伊乱記」によると、この時、比自岐(ひじき)附近で合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ、伊賀衆に攻めあぐねさせ、遂に夜間のうちに抜け出し、無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も、戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という。天正九(一五八一)年)の「第二次天正伊賀の乱」の際には、主力とともに近江側から侵攻する信意に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った。雄利は伊賀衆を調略して結束力を弱めて勝利に貢献し、伊賀国中三郡を得た信意によって伊賀国守護に任命されている。雄利は大寺院・丸山城・滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き、伊賀国を支配した。翌天正十年、「本能寺の変」の後、伊勢で蜂起した北畠具親が伊賀に落ちのびて伊賀国一揆の再起をはかった際には、「大剛之者也」と評される活躍ぶりで、これを鎮圧した。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると、重ねて偏諱の授与を受け、雄利(かつとし)と改名した。天正十二年、信雄が羽柴秀吉に通じたとして津川義冬ら三家老を殺し、「小牧・長久手の戦い」を起こすと、雄利も秀吉の誘いを受けたが、拒絶した。雄利は信雄によって津川の居城であった松ヶ島城に日置大膳亮とともに入れられ、徳川家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し、四十日に亙って籠城したが、奮戦及ばず、開城して尾張に退いた後も、北伊勢の浜田城に入って、再び籠城している。信雄が和睦を決意すると、義父(岳父)の一益を通じて秀吉に接近し、単独講和を実現させ、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣されている。豊臣秀吉の下では羽柴姓を賜り、信雄重臣として北伊勢の運営を任された。天正十三年の「織田信雄分限帳」では3万八千三百七十貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている。翌天正十四年には、秀吉の意を受けて、家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した。その後は九州平定に参加し、戦後に石田三成・長束正家・小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している。同年七月十三日、伊勢神戸城二万石を領し、織田信雄改易の後も、そのまま領国を安堵され、秀吉直臣となり、秀吉の御伽衆に加えられた。「文禄の役」では肥前名護屋城に参陣し、文禄三(一五九四)年には伏見城普請に加わって七千石、翌文禄四年には、さらに伊勢員弁(いなべ)郡五千石を加増された。同年の「秀次事件」にも連座したが、叱責されただけで、特に処罰は受けずに済んでいる。慶長三(一五九八)年の秀吉の死に際して遺物金十五両を拝領した。慶長五年の「関ヶ原の戦い」では西軍に与し、軍勢四百名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城神戸城に籠城した。このため、戦後に改易された。後に徳川家康に召し出され、常陸国片野二万石の所領を与えられ、再び出家し、刑部卿法印一路と号し、徳川秀忠の御伽衆となった。慶長十五年に死去し、片野藩二万石は子の滝川正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永二(一六二五)年に所領を幕府に返上し、片野藩は二代で終わった。一方、滝川家の名跡は正利の娘婿滝川利貞が継承し、子孫は四千石の旗本として幕末まで続いた。また、幕末の大目付滝川具挙(ともたか)は、その分家千二百石の当主であり、その次男海軍少将滝川具和を通じて子孫は明治以降も存続している(以上は当該ウィキに拠った)。さても、以上の史実から、本話の三人の登場人物は、

菅屋長頼は信忠に殉じて天正一〇(一五八二)年に自死

柘植保重は「第一次天正伊賀の乱」の伊賀撤退の際に天正七(一五七九)年に討死

滝川雄利は江戸時代初期まで生き延びて慶長一五(一六一〇)年)に数え六十八歳で遷化

しており、事実と「瀧河」に関しては全く齟齬することが判明する。

「勸賞(けんじやう)」「かんじょう」「けじょう」とも読む。主君が、功労を賞して、官位や物品・土地などを授けること。

「山田郡(《やまだ》のこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『三重県阿山郡大山田村および上野市の一部』とあるが、現在は統合により、伊賀市となっている。この附近であろう。

「小袖」大袖或いは広袖の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物のこと。初めは筒袖で、平服として、また大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされ、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の中心となった。縫箔(ぬいはく)・摺箔(すりはく)・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じて最もはなやかな衣服であった。ここではエンディングでの重要なアイテムとなる。

「諸葛長民」(しょかつ ちょうみん ?~四一三年)は東晋末期の武将・政治家。本貫は琅邪郡陽都県。文武に才能があったが、行いが悪く、郷里での評判は挙がらなかった。桓玄によって参平西軍事に取り立てられたが、貪欲で、民衆から厳しい搾取を行ったことにから、免官された。桓玄が安帝を廃して皇帝に即位すると、豫州刺史刁逵(りょうき)の左軍府参軍・揚武将軍となるが、劉裕(後の南朝宋の武帝)らの桓玄打倒の計画に参加し、歴陽で劉裕らと呼応する約束をした。劉裕が挙兵すると、諸葛長民は期日に間に合わず、刁逵に捕らえられたが、護送される途中で救い出され、輔国将軍・宣城郡内史に任じられた。劉敬宣とともに桓歆(かんきん)を討ち破り、新淦(しんかん)県公に封じられた。南燕の慕容超が下邳(かひ)を攻めると、武将の徐琰(じょえん)を派遣し、これを撃退し、使持節・都督青揚二州諸軍事・青州刺史・晋陵郡太守に昇進した。四一〇年、盧循が反乱を起こして首都建康に迫ると、諸葛長民は都を守るため、軍を率いて建康に入り、劉裕の命令で劉毅(?~ 四一二年:東晋の武将。沛国沛県の生まれ。四〇三年の桓玄の帝位簒奪に際して、翌年に劉裕や何無忌らと共に反桓玄の兵を挙げこれを打倒し、また、その後の盧循の乱の平定に貢献、衛将軍・荊州刺史に就任した。しかし以下に見る通り、劉裕への不満を抱いていたことを逆に察知され、攻められて敗死した)と北陵を守備して石頭城を援護し、反乱軍を撃退した。盧循が平定されると、都督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史・淮南郡太守に転任した。四一二年、劉裕は劉毅を討ちに江陵に向かう際、諸葛長民を監太尉留府事に任じて首都の留守を任せた。これより以前、諸葛長民は調子に乗って驕慢になり、政務に励まず、財貨や女性を集め大邸宅を築くなど、乱脈な行いで民衆を苦しめていた。劉裕はこれを大目に見ていたが、諸葛長民は自分の不行跡が法に触れていることに、常々、恐れを抱いていた上、劉毅が誅殺されたことで、次は自分も粛清されるのではないかと疑心暗鬼に陥り、劉裕に対して謀反を考えるようになった。弟の諸葛黎民(れいみん)は、劉裕が都に戻る前に決行を勧めたが、諸葛長民は実行をためらった。劉裕は諸葛長民の動きを察知すると、予め、都に戻る期日を伝えながら、期日通りには戻らず、諸葛長民ら公卿以下を待ちぼうけさせる一方で、密かに軽舟に乗って東府城に戻った。劉裕の帰還を知った諸葛長民が驚いて出向いてみると、劉裕は人払いをして諸葛長民を普段以上に歓待した。諸葛長民が喜んで安心したところ、帳に隠れていた壮士の丁旿(ていご)が、背後からこれを殺害した。諸葛長民の弟の諸葛黎民・諸葛幼民も誅殺された(以上は当該ウィキに拠った)。

「貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『世に諸葛長民の言として膾炙。事文別集二十九(富貴・群書要語・諸葛長民云)などにも同文』で載るとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここ(二行目から三行目)に冒頭部に類似した、

   *

貧賤常富貴富貴必履(フ)ム危機諸葛長民云

   *

がある。但し、調べた限りでは、漢籍にこの全文と全く同じ文字列はないようである。

「織田掃部(おだかもん)」織田忠寛(?~天正四(一五七七)年)は織田信長に仕えた武将。織田一族である織田藤左衛門家の一人。津田一安又は官途名の掃部助から織田掃部と称された(他に丹波守とも)。法号は一安。尾張国日置城主。信長に仕え、永禄年間は織田氏の対武田氏外交を担い、永禄一二(一五六九)年五月には甲府に派遣されている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄八年九月九日に武田信玄の許へ派遣され、信長の養女(龍勝院)と信玄の嗣子勝頼との婚姻を纏めたとされるが、文書上からは確認されない。また、後には、信長の庶子坊丸(勝長、信房)をおつやの方の養子とする縁組を纏めたともいわれている。「甲陽軍鑑」によれば、忠寛は信長に勘当され、十一年間、甲府に滞在していた経歴があったという。永禄一一(一五六八)年二月の北伊勢侵攻後、忠寛は北畠家への押さえとして安濃津城に入れおかれた。翌年の「大河内城の戦い」に参加し、北畠具教・具房が信長の次男茶筅丸(信雄)に家督を譲って退去すると、滝川一益とともに大河内城を接収、茶筅丸の入城に際してはこれに伴っている。天正三(一五七五)年の「長篠の戦い」や「越前一向一揆討伐」にも参加している。しかし、この武田家との繋がりが遠因となったのか、後に信長の不興を買い、誅殺されたという。或いは、追放を受け、信長の死後に出家し、羽柴秀吉に仕えるも、信長の遺児信雄に誅された説もある。また、「勢州軍記」には、天正四(一五七六)年十一月二十五日、北畠具教ら北畠一族が信雄に暗殺された際(「三瀬の変」)に、その親族を養い扶助すると言った(忠寛は北畠家と縁戚関係を結んでいた)ことを柘植保重・滝川雄利に讒言されたために、二十日後の同年十二月十五日、田丸城の普請場にて、日置大膳亮により討たれたと記述されている(当該ウィキに拠った)。この最後の記載が事実とすれば、ここでの「瀧河」の謂いは、「ぬけぬけぬけぬけよくまあ言ってくれるじゃないの!」ということになる。

「日置(へき)大膳」(へきだいぜん 生没年未詳)は北畠具教の家臣で松ヶ島細首城主。サイト「戦国武将列伝Ω 武将辞典」の彼の記載によれば、寺社奉行を務めていたようで、兄高松左兵衛督は大河内城旗頭であった。永禄一二(一五六九)年に織田信長が伊勢を攻めた際、彼は居城である細頸城(松ヶ島細首城)を焼き払って、大河内城で籠城した北畠具教に合流し、家城之清(家城主水)、長野左京亮らと織田勢に対した。籠城戦では池田信輝らの織田勢と戦い、彼は池田恒興・丹羽長秀・稲葉良通らの夜襲を撃退するなど、劣勢な北畠家の中でも奮戦したようである。北畠具教が織田勢に屈したあとは、織田信雄の家臣となって活躍した。元亀三(一五七二)年、北畠家が誅殺された際、田丸城にて、土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らと、北畠一族の長野具藤・北畠親成・坂内具義・坂内千松丸・波瀬具祐・岩内光安などの惨殺に関与した。その後、北畠一族を庇おうとしたことが露見した津田一安の斬首では、織田信長の命を受けた日置大膳亮が首を刎ねたとされる。生き残りの北畠具親が、家城之清(いえしろゆききよ)などの旧臣らと再起を図った際にも、日置大膳亮と日置次太夫の兄弟らは、鳥屋尾(とやお)右近将監の富永城を攻略するなどし、反乱軍を二回も破っている。天正七(一五七九)年の「第一次天正伊賀の乱」では織田信雄の軍勢に柘植保重らとともに加わり、伊賀に侵攻したが、松ヶ島城が陥落し、その後、尾張に落ちると、弓の達人でもあった彼は徳川家康から頼まれて、徳川家に仕えたようであるが、まもなく亡くなったようである、とある。

「佐久間右衞門」佐久間信盛(大永七(一五二七)年~天正九(一五八一)年)は織田家家臣。佐久間信晴の子として尾張に生まれる。初め、牛助、次いで出羽介、右衛門尉を称した。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角義賢(よしかた)の勢力を掃討するに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の「遠江三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫している。「長篠の戦い」、伊勢長島一向一揆との戦い、越前一向一揆との戦いなど、信長の戦闘の殆んどに参陣しているが、中でも、天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、その中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の同八年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、実際、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われているが、真相は不明で。信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になったとされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子正勝は、後に許されて、織田信長に仕え、不干斎と号して豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「下間(しもづま)筑後守」下間頼照(しもつまらいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は下間頼清の子。官位が筑後守であったことから、通称を筑後法橋(ほっきょう)という。下間氏は親鸞の時代から本願寺に仕えた一族で、頼照はやや傍流にあたるが、顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣され、「朝倉始末記」の記述や、その発給文書から、実質的な越前の守護或いは守護代であったと認識されている。名は頼照のほかに頼昭・述頼(じゅつらい)がある。頼照の前半生については詳らかではなく、記録が残るのは天正元(一五七三)年頃からで、同年、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされ、越前国が織田勢力下に置かれたが、翌年一月、越前で守護代桂田長俊(かつらだながとし)に反発する民衆を誘って富田長繁が指導者として土一揆を起こし、長俊を滅ぼした。だが、長繁と一揆衆はまもなく敵対し出し、一揆衆は長繁に代わって、加賀国から一向宗の七里頼周(しちり よりちか:武将で本願寺の坊官)を呼んで自らの指導者とし、長繁を滅ぼした。こうして、越前を平定した後、頼照は顕如によって一向一揆の新たな総大将として派遣され、豊原寺を本陣として越前を平定し、実質的な本願寺領とした。しかし、一揆の主力である地元の勢力は、大坂から派遣された頼照や七里頼周らによって家臣のように扱われることに不満をもち、反乱を企てた。天正二(一五七四)年閏十一月、頼照はじめ、本願寺側勢力はこれを弾圧した。天正三年夏には織田の勢力が越前に進攻、頼照は観音丸城に立て籠り、木芽峠で信長を迎え撃つ準備をする。八月十五日、信長は一万五千の軍をもって越前総攻撃に着手すると、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり、織田方の猛攻に拠点の城は落城し、頼照は海路で逃れようとしたが、真宗高田派の門徒に発見され、首を討たれた(当該ウィキに拠った)。

「方人(かたうど)」味方。誤り。上記の史実から、浅井は何か勘違いをしている。

「平泉寺に隱れて跡をくらまし」そういう説があるのか。「平泉寺」は福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある現在の平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社(グーグル・マップ・データ)。廃仏毀釈までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院であった。珍しく私が行ったことがある場所である。ウィキの「平泉寺白山神社」によれば、『江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は』六坊に二ヶ寺で寺領は三百三十石であった。但し、寛保三(一七四三)年、紛争が『絶えなかった越前馬場』の平泉寺と加賀馬場の白山比咩(しらやまひめ)神社との『利権争いが』、漸く『江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した』。『明治時代に入ると』、『神仏分離令により』、『寺号を捨て』、『神社として生きていくこととなり』、『寺院関係の建物は』総て廃棄された。明治五(一八七二)年十一月には『江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道』(ぜんじょうどう:山岳信仰に於いて、禅定(=山頂)に登ぼるまでの山道を指す。禅定道の起点は修行の起点でもあり、起点またはその場所を「馬場(ばんば)」と呼ぶ)は『白山比咩神社の所有となっ』てしまっている。

「醒悟發明(せいごはつめい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『すべてをはっきりと悟ること』とある。

「道人《だうにん》」同前で、「日葡辞書」から、『仏法語。禅宗の観念・瞑想において完全の域に達した人』とある。

「梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは今宵の月をいかでまちみむ」「梓弓」(あづさゆみ)は「引く」の枕詞。原拠ないか。

「荒木攝津守」私の大嫌いな戦国武将荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)。

「小寺官兵衞」ご存知、黒田官兵衛孝高(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。播磨出身。初姓は小寺(こでら)。法号は如水。織田信長に仕え、信長死後、羽柴秀吉の統一事業の参謀として活躍。秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では徳川方についた。キリシタン大名で受洗名は「ドン・シメオン」。

「四十年來謀戰功……」の漢詩は、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠とした「剪燈新話」巻之一の「華亭逢故人記」の「詩を題して云はく、『鐡衣 着け盡して 僧衣を着く』……」に『基づき、特に』同書の『句解注「四十年前馬上ニ飛ブ功名、蔵尽キテ僧衣ヲ擁ス…天津橋上人識ル無シ」の辞句や心情を翻案したもの』とある。私は原拠考証をしないことにしているが、同句解の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該部の画像をリンクさせておく。右頁である。

「良弓を折(くじ)く」「新日本古典文学大系」版脚注に、『立派な弓も折り捨てた』とある。

「緇衣(しえ)」僧侶の着る墨染めのころも。転じて「僧侶」の意でもある。

「編衫(へんさん)」「偏衫」「褊衫」の誤字。僧衣の一種。両袖を備えた上半身を覆う法衣。下半身に裙子 (くんす:黒色で襞の多い下半身用の僧衣) をつける。転じて広義の「僧衣」の意でもある。

「妙經(めうきやう)」ありがたい経典。特に「法華経」を指す。

「梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏の教えを求めること』とある。「詢」音「ジュン・シュン」で、訓は「とう・はかる・まことに」の意がある。

「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」「きゃつらは、あの折りの貴殿や私の正統にして戰さの道理に基づいた奮戦を見て、さて、恥ずかしくはないのだろうか? さても! あの、伊賀の一揆どもの謀略は、全く以って拙(つた)ないものだったに!」。

「露霜ときえての後はそれかともくさ葉より外(ほか)しる人もなし」原拠はないか。

「うづもれぬ名は有明の月影に身はくちながらとふ人もなし」同前。「有明」(ありあけ)の「有り」に「在り」が掛詞。

「氣象」「氣性」に同じ。

「半町」五十四・五四メートル。

ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。

 菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。

 日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。

 人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、

「ほろほろ」底本は「ぼろぼろ」だが、元禄版・「新日本古典文学大系」版に従った。]

2021/07/24

伽婢子卷之七 死亦契

 

Sisitematatigiru

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。標題は「死して、亦、契る」。]

  

 ○死亦契

 

 大和の奈良に櫻田源五といふものあり。年廿五になり、父母を失ひ、いまだ妻も無くて、只獨りすみけり。

 源五が舅(をぢ)津田長兵衞といふもの一人の子あり。年、廿四、五なり。彥八と名づく。源五・彥八は從兄弟なりければ、したしく侍べり。

 或時、源五、

「東大寺にまうでゝ歸る。」

とて、猿澤の邊にて、奇麗なる乘物に、女、のりて、男一人、女二人を召つれ、池のはたに乘物をたてさせ、煎餅を碎きて、池に入れ、魚に食はせて、慰みける。

 其さし出せる手の白く美くしき、指は笋(たかんな)の如く、爪の色は赤銅色(しやくどうしき)にて、肘(かひな)のかゝり、不束(ふつゝか)ならず。

 源五、立ちとまりければ、内より、乘物の戶を開き、暫く、源五が顏をまぼり、已に立《たち》て歸る。

 源五、これに隨うて行《ゆき》ければ、三條通といふすゑに、筒井某(つゝゐなにがし)といふ者の家に入りたり。

 源五、是れを見そめて、心惑ひ、さまざま、たよりを求めて聞《きき》ければ、父は筒井順昭(じゆんせう)に屬(しよく)して、河内の軍(いくさ)に打死す。

 母、やもめにて、只、この娘一人をやしなうて、住《すみ》けり。

 娘の乳母(おち)は、源五、もとより知たる者也ければ、是に近づきて、いろいろ、たのみけり。

 乳母も、源五が美男にして、然も有德(うとく)なるを以つて、

『是に逢せばや。』

と思ふ。

「まづ、一筆のたよりを傅へん。」

とて、紅葉がさねの薄(うす)えふに、中々、言葉はなくて、

 いさり火のほのみてしより衣手に

   磯邊のなみのよせぬ日ぞなき

と、かきて、遣はしたり。

 乳母(おち)、是を姬君に見せしかば、顏、打ちあかめ、袂に入れて、立退(の)きぬ。

 然るに、如何なる者か、知らせけん、源五が舅(おぢ)津田、この娘の事を聞て、

『我子彥八が妻にせむ。』

と思ひ、なかだちを入れて、娘の母に、いはせたり。

 津田も武門の末也。世もよかりければ、うけごひて、賴みをとりたり。

 娘はこゝち煩ひて、つやつや、湯(ゆ)水をだに、聞入れず。

 母、云やう、

「津田彥八と云ふ人に緣を定めたり。心を引立よ。近き比に、かの方に遣しなん。」

といふ。

 娘、更に、恨みたる色、あり。

 乳母(おち)に語りけるやう、

「源五が許にこそ、行かまほしけれ。其の彥八とかや、何せんに、只、死したるこそ、よからめ。」

とて、猶、藥をだに飮まず。

 母悲しさの餘り、乳母に心を合はせ、源五に、

「かく。」

といひて、娘を盜み取らせたり。

 源五、大に喜び、乳母と妻をつれて、奈良をば、立のき、郡山(こほり《やま》)といふ所に隱れ住みけり。

 津田、又、

「ゆきて、娘を迎へ取らん。」

と云ふ。

 母、なくなくいふやう、

「此間、誰人(たれ《ひと》)かかどはしけむ、乳母と共に行方なし。」

といへば、

「わが甥の源五が、心を懸けしと聞たり。盜みて隱れぬらん。」

と、大に怒り、腹立、其の間に、娘の母、死したり。

 跡の事は母の弟(おとゝ)、是れを、まかなふ。

 源五夫婦、餘所(よそ)ながら、野邊の送りに出つゝ、いと忍びたりけるを、津田彥八、見付て跡をしたひ、郡山に行きて、家、よく見屆け、立歸りて、父長兵衞に語る。

 長兵衞、すなはち、奈良の所司代松永に訴へて、對決(たいけつ)に及ぶ。

 源五、いふやう、

「それがし、前に契約して、賴みを遣はせし。」

といふ。

 津田は、なかだちを證據として、

「賴みを遣はせし。」

といふ。

 娘の母は死たり。

 いづれとも知りがたし。

 されども津田が賴みを遣はしける事は、なかだち、たしか也。

 源五にも、理《り》有りといへ共、此娘をとゞむる事、法にそむけり。

 只、

「津田がもとに返し遣はせ。」

とあり。

 力なく女房は彥八に取られぬ。

 娘も乳母も此事を病として、打續き、二人ながら、むなしくなれり。

 源五が事をや、思ひけむ。

 さりともと思ひしまでの命さへ

   今はたのみもなき身とぞなる

 彥八、いと悲しく、妻と乳母が墓所を、ひとつ寺の地に作りて、跡を弔ひけり。

 さるほどに、源五は妻を取られて後は、よろづ、あぢきなく、其面影を忘れ兼つゝ、

「せめては、風のたよりの音づれだに聞えぬは、此女も、彥八にわりなくなりて、我をば、忘れぬらん。」

と、恨めしく思ひて、

 なびくかと見えしもしほの煙だに

   今はあとなき浦かぜふく

と打詠めをる。

 其暮がた、門をたゝく。

 開きて見れば、妻の女房の乳母也。

 櫛・鏡、入《いれ》たる袋(ふくろ)を前に抱へて、

「只今、我君、こゝに走り來り給ふ。」

といふ。

 源五、うれしくて、門を開き、内に呼入《よびいれ》しに、女のかたち、そのかみにも替らず。

 餘りの事に、夫婦、手を取りて、嬉し泣きに、なきけり。

 斯くて其故を語る。

「君の事、つゆ忘るゝ事なく、彥八の家にあるにもあられず、忍び出て、逃げ來れり。日ごろの願ひ、今、已にかなひ侍べり。」

といふに、源五、堪がたく、喜びつゝ、偕老のかたらひ、今更なり。

 彥八が家人、ある時、郡山に行て、源五が門を見いれたりければ、乳母、何心なく立出たるを見つけ、走り歸りて、彥八に告げたり。

 彥八が父は、去ぬる月、死にたり。

 彥八、きゝて怪しみ、

「それは、正しく死して、埋み侍べりし。如何に世に似たる者こそあれ。人違へにてぞあるらん。」

といふに、

「正しく、見損ぜず。」

と、あらがひけり。

 彥八、行きて垣(かき)のひまより、覗きければ、女は鏡をたてゝ、けさうし、乳母は其前にあり。

 彥八、内に突き入《いり》て、源五に對面し、

「女も、乳母も、此春、うちつゞきてむなしくなりしを、寺に送り、同じ所に埋(うづ)みしに、今、こゝに、來り住む事の怪しさよ。」

といふ。

 源五も、奇特(きどく)の事に思ひ、部屋に行きて見れば、女も、乳母も、行がたなくなりて、跡も見えず。

 二人ながら云やう、

「さては。幽靈の來りけるにこそ。此上は互に日比(《ひ》ごろ)の恨みも、なし。」

とて、源五・彥八、打つれて寺にゆき、塚をほりて見れば、女も乳母も、形ち、少しも損ぜず、只、生たる時のごとし。

 やがて、もとの如くに埋みて、源五・彥八、共に高野山に籠り、道心おこして、二たび、山を出ず。

 

[やぶちゃん注:「櫻田源五」不詳。

「舅(おぢ)」伯父・叔父に同じ。

「津田」不詳。

「肘(かひな)のかゝり」裾からのぞく前腕と、手首の様子。

「不束(ふつゝか)ならず」いかにも嫋やかな美しい風情である。

「三條通」奈良市街を東西に貫通する通り。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「筒井某(つゝゐなにがし)」本書内の話柄は戦国時代が殆んどであるが、大和四家と言われる筒井氏、特に筒井順慶が知られるが、ここはその父筒井順昭(じゅんしょう 大永三(一五二三)年~天文一九(一五五〇)年)の同族の一人という設定である。

「河内の軍(いくさ)に打死す」「新日本古典文学大系」版脚注では、まず、天文一一(一五四二)年三月十七日に起こった「太平寺の戦い」(現在の大阪府柏原市太平寺周辺で行われた戦いで、凡そ十年の間、畿内で権勢を揮っていた木沢長政が三好長慶・遊佐長教らに討ち取られた)を指すかとされ、『畠山植長と組んだ順昭が、遊佐・三好連合軍とともに太平寺に木沢長政を討った』としつつも、『また同年九月にには河内飯盛城の戦いもあり、特定できない』とされる。

「乳母(おち)」乳母(うば)に同じ。

「紅葉がさねの」本来は襲(かさね)の色目(いろめ)の名。表は紅、裏は青。一説に、表は赤色、裏は濃い赤色。また、女房の五衣の襲の色目では、上には黄、次に山吹の濃淡、紅の濃淡、これに蘇芳の単(ひとえ)を着る。ここはそのように和紙を重ねて、紅葉のような雰囲気の色の濃淡を作った書信䇳を指す。

「薄(うす)えふ」「薄樣」「薄葉」で和紙の名。雁皮(がんぴ:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana 。奈良時代から製紙原料として用いられた)で薄く漉いた鳥の子紙。楮(こうぞ)でも作った。古く、和歌、文書等を書き写したり、物を包んだり、あるいは子供の髪を結ぶ元結ともした。

「いさり火のほのみてしより衣手に磯邊のなみのよせぬ日ぞなき」「なみ」に「波」と「涙」の「なみ」を掛ける。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の経家卿(「六百番歌合」)の転用とする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「12」コマ目の右頁の最初にある。異同なし。

「なかだち」仲人(なこうど)。

「世もよかりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に『生活も裕福であったので』とある。

うけごひて、賴みをとりたり。

「つやつや」副詞で 否定辞を伴った場合は、「まるっきり・まったく~(ない)」の意。ここはそれを聞き入れないだけでなく、食事はおろか、「湯(ゆ)水」(みづ)をさえ拒んで絶食で「ノー!」の意を示したのである。

「源五が許にこそ、行かまほしけれ。其の彥八とかや、何せんに、只、死したるこそ、よからめ。」「妾(わらわ)は源五さまがもとにこそ行って、結ばれたい!……その彦八とかいうお人は……いったい、どこのどいつです?……こうなっては……いっそのこと、死んだ方がましだわ!」。

「郡山(こほり《やま》)」現在の奈良県大和郡山市

「跡の事」葬儀。

「所司代松永」「新日本古典文学大系」版脚注に、『筒井順慶と対立した松永久秀等を想定するか』とある。

「なかだち、たしか也」仲人に当たった者が証言して、事実と確認されたのであった。

「さりともと思ひしまでの命さへ今はたのみもなき身とぞなる」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋二」の「契絶恋」の為定卿(「元亨三後宇多院十首」)の転用とする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の左頁の七行目にあるが、そこでは、

 さりともと思ひしまでの契にて今はたのみもなき身成けり

である。

「なびくかと見えしもしほの煙だに今はあとなき浦かぜふく」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋二」の「恨絶恋」の法印憲実(「続拾遺集」恋五)の転用とする。前注の指示した歌の後に続いて載り、異同はない。]

2021/07/12

伽婢子卷之七 中有魂形化契

 

Oyamadakinai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。「新日本古典文学大系」版脚注で絵を解説して、『小山内記内のもとを飯尾新七の娘の幽霊が訪れ、物縫いに精出す場面。麻(お)を績(う)む女』(め)『の童』(わらわ)。『膝元にあるの円形の器は麻を入れておく麻笥(おけ)。髷は唐輪風』(唐輪(からわ)は日本髪の一種。男女ともに結んだ。男性の唐輪は、鎌倉時代に武家の若者や寺院の稚児などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷に類似している。その結び方は、髪のもとを取り揃えて百会(ひゃくえ:脳天)に上げ、そこで一結びしてから二分し、額の上に丸く輪とした。一方、女性の唐輪は、下げ髪が仕事の際に不便なので、根で一結びしてから輪に作り、その余りを根に巻き付けたもので、安土桃山時代の天正年間(一五七三年~一五九二年)から行われた)。『中央が飯尾の娘。立膝で糸針を使う』。『家は屋根石を置いた取葺』(とりぶき:屋根に削(そ)ぎ板を並べ、風で飛ばないように石・丸太・竹などで押さえたもの)『の粗末な造り』であるとある。なお、標題は「中有(ちゆうう)の魂(たましひ)、形(かたち)、化(け)して契る」である。]

 

 

 ○中有魂形化契

 

 尾州淸洲(きよす)といふ所に、小山田記内(おやまだきない)といふ者あり。

 或る夕暮に、門に立〔たち〕て外(そと)を見居たりければ、年の程、十七、八と見ゆる女、顏かたち、世の常ならず美しく、なべての人とも覺えざるに、只獨り、西の方(かた)より、東に行く。

 明〔あく〕る日の暮方(くれかた)、門に出〔いで〕しかば、又、かの女、西より東に打ち過〔すぐ〕る。

 記内も又、近きあたりにては、美男の聞えあり。

 女、つらつら、記内を顧みて、心ありげながら、打〔うち〕通る。

 斯くて、四、五度に至りて、又、夕暮に、門に立〔たち〕たりしかば、女、則ち、來〔きた〕る。

 記内、立ちよりて、女の手をとり、戲(たはふ)れて、

「君は、いづくの人なれば、日暮每(ごと)にこゝを打ち通り、いづ方に行給ふ。」

と問へば、女、さしも驚く色なく、打わらひ、

「みづからが家は、是れより、西の方(かた)にあり。所用の事ありて、東の村に行〔ゆく〕なり。」

といふ。

 記内、こゝろみに、手を取り、内に引入れんとすれば、更に否とも云はず。

 やがて、親しみつゝ、その夜〔よ〕は、そこに泊りて、わりなく契りつつ、夜の明方(〔あけ〕かた)に暇乞しつゝ、立〔たち〕歸る。

「又、いつか、來まさん。」

と云へば、女は、

「人目を忍ぶ身の、其び日をさして、必ず、とは、契り難し。」

とて、

 なほざりに契りおきてや中々に

   人の心のまことをも見む

と云ひしかば、記内は、『歌までやは』と思ふに、かく聞ゆるにぞ、いとゞわりなく覺えて、返し、

 いひそめて心かはらば中々に

   契らぬさきぞ戀しかるべき

かくて、きぬぎぬの別れの袖、又、朝露にぬれそめて、なごりぞ、いとゞ殘りける。

 四、五日の後(のち)、夕暮に、又、來りぬ。

 今は互ひに打ちとくる、其の下紐(したひも)のわりなくも、結ぶ契りの色深く、よひよひごとの關守も、恨めしきこゝちして、後には、夜ごとに來りけり。

 記内、いふやう、

「かほどにわりなく契る中〔なか〕に、なにか苦しき事のあらん。君が家、こゝもとに近くば、我、又、君がもとに行通ひ侍らんものを。」

といふ。

 女、答へけるは、

「みづからが家は、甚だ狹(せば)くして、いと見ぐるし。如何にして人を待〔まち〕うけ、一夜〔ひとよ〕を明かすべき用意も、なし。其の上、みづからが兄は、今は、なき人となり、その妻、やもめにて、内にあり。此〔この〕あによめの目を忍べば、中々、心苦しく侍べり。」

といふ。

 記内、きゝて、『げにも』と思ひ、いよいよ、人にも語らず、深くしのびて、契りぬ。

 此女は、又、たぐいなき縫張(ぬいはり)に手きゝなり。

 夕暮ごとに來て、夜もすがら、記内が小袖やうの物、洗ひすゝぎ、縫いたてゝ着せ、或ひは、麻績(をうみ)つむぎて、美しく細き布(ぬの)、おり立〔たて〕て着せければ、見る人、

「是れは。世の常の布にあらず。『筑紫(つくし)の波の花』、『越後の雪曝(〔ゆき〕さらし)』といふとも、是れ程には、よもあらじ。」

と、譽めぬ人は、なし。

 後には、見めよき女(め)の童(わらは)一人を召しつれて、通ひ來り、是れも又、手きゝ也。

 かくて、半年ばかりの後は、晝もとゞまりて、女の童とおなじく、絹を織り、縫い立〔たて〕て、記内に着せ、家の中〔うち〕、よろづ、甲斐々々しく取りまかなひけり。

 記内、云やう、

「夜(よる)さへ忍ぶ身の、晝だに歸り給はずは、もし、嫂(あによめ)の思ひ咎(とが)むる事、有るべし。」

といふ。

 女のいふやう、

「いつまで、强ひて、人の家の事、さのみに、忍び、はたさむ。君の心も又、如何ならん。末賴み難けれ共、ひたすら、我が身を君にすてゝ、かく、爰(こゝ)には通ひ來〔きた〕る也。」

といふに、記内、いとゞ、嬉しさ、限りなく、めで、まどひけるも、ことわり也。

  或る夜、女、來りて、いつに替はり、愁へ歎きたる色みえて、そゞろに淚を流して、泣きけり。

 記内、問ひければ、

「されば、今迄は君に思はれ參らせ、みづからも、わりなく賴みし中〔なか〕なれども、別れ離(はな)るべき事、出來〔いでき〕て、其の悲しさに淚の落つる。」

といふ。

 記内、大〔おほき〕におどろき、

「君とわれ、千とせを過〔すぐ〕るとも、心ざしは、露、替はらじ、とこそ、ちぎりけれ。如何成る故に、別れ離るべき。」

といへば、女は、

「今は、何をか、包み參らすべき。みづからは飯尾(いひを)新七がむすめ也。年十七にて、病〔やまひ〕によりて、むなしくなり、明日は、已に、第三年に、當れり。死して中有〔ちゆうう〕にとゞまる事、三年〔みとせ〕を、限りとす。三年過〔すぎ〕ぬれば、その業因〔ごういん〕に任せて、何(いづ)かたになりとも、生〔しやう〕を引〔ひき〕て、赴く。今宵限りの別れと思へば、悲しくこそ、侍べれ。」

とて、頻りに泣き悲しみければ、記内は幽靈と聞〔きき〕ながらも、此の程の情〔なさけ〕を思ふに、怖ろしげはなく、只、悲しき事、限りなし。

 夜もすがら、寢(いね)もせず、女房は白銀〔しろがね〕の盃(さかづき)ひとつ、玉をちりばめたる花瓶(〔はな〕かめ)の小さきにとりそへて、

「君、もし、忘れ給はずは、是れを形見に見給へ。」

とて、

 面影のかはらぬ月に思ひいでよ

   契りは雲のよそになるとも

とて、なくなく渡しければ、記内も、色よき小袖に、白き帶、取り添へて、女に與へつゝ、

 待いづる月の夜な夜な其のまゝに

   ちぎり絕すなわがのちの世に

と、かきくどき、泣きあかし、鐘の聲、遠く響き、鳥の音(ね)、はや、打ちしきれば、起き別れゆく袂をひかへて、

「さるにても、無き影の、埋(うづ)もれ給ひし所は、いづく。」

と、たづねしかば、

「甚目寺(じんもくじ)のわたり也。」

と、答へて、立出〔たちいづ〕ると見えし、跡方なく、うせにけり。

 記内、あまりに堪へかね、甚目寺のほとりにいたりけれども、そこと、知るべき塚も、なし。

『今すこし、その所、よく、とふべきものを。』

と、思へど、悔むに甲斐なくて、

 たのめこしその塚野邊は夏ふかし

   いづこなるらむもずのくさぐき

と、うち詠じ、なくなく、日暮がた、家に立歸り、其の面影を思ふに、悲しさ、限りなく、終〔つひ〕に病〔やまひ〕となり、日をかさねて、藥をも、のまず、

「只、とく、死して、此〔この〕人に、めぐりあはん。」

と、のみいひて、程なく、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:「中有」は仏教用語で、衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じい)がその「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。

「尾州淸洲(きよす)」現在の愛知県清須市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最後に「甚目寺」が出、これは愛知県あま市甚目寺東門前にある真言宗鳳凰山甚目寺(じもくじ)で清須市の南西直近である。

「小山田記内(おやまだきない)」特にモデルがあるとは思われない。

「なほざりに契りおきてや中々に人の心のまことをも見む」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)の「戀一」の「契戀」にある十楽院宮の一首とする(「永徳百首」所収)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の影印本のこちらPDF)の16コマ目の左頁四行目で確認、異同なし。

「いひそめて心かはらば中々に契らぬさきぞ戀しかるべき」同前で、「和歌題林愚抄」の「戀一」の「初契戀」の前大納言為世の一首で、前の十楽院宮の二首後にある。確認、異同なし。なお、この一首は「新千載和歌集」の「戀一」に『初契戀とへる事を』という前書で所収する。

「下紐(したひも)の」枕詞として知られるが、ものとは古代からの恋愛風俗。男女が逢瀬の後に別れる際、互いに下紐を結び合い、再会して解き合うまで、その紐を解かないという習俗に基づくもの。

「わりなくも」前の相思相愛の状態が一通りでないことを言う。

 

「よひよひごとの關守も、恨めしきこゝちして」二人の逢瀬を妨げんとする者でさえ、逆に恨めしく思うほどに、女は何度もやってくるし、記内もそれを心待ちにしていることの仲睦まじい様子の表現。

「縫張(ぬいはり)」裁縫と洗い張り。

「手きゝ」名人。

「麻績(をうみ)つむぎて」苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )の繊維を撚り合わせて糸にすることを言う。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。最後のそれはもう、病的に執拗(しゅうね)きものである。

「筑紫(つくし)の波の花」「新日本古典文学大系」版脚注に、『塩のように真っ白な布の意か。「波の花」は塩の女房詞』とある。

「越後の雪曝(〔ゆき〕さらし)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『雪で漂白した越後特産の麻織物』とある。私の「日本山海名産図会 第五巻 織布」も是非、見られたい。

「いつまで、强ひて、人の家の事、さのみに、忍び、はたさむ。君の心も又、如何ならん。末賴み難けれ共、ひたすら、我が身を君にすてゝ、かく、爰(こゝ)には通ひ來〔きた〕る也。」「何時までも、こうした外(そと)に逢瀬をするお相手がいることは、これ、強いて隠し通すことなど、到底、出来はしません。今の今まで、あなたさまは、そうした妾(わらわ)の思いを、どうお考えになっておられたのかしら? これから後のこと……それはもう……頼みにすることなど……出来はしない……ですけれど……妾は、身をあなたさまのために捨てて、こうして、ここに通って来ているのです。」。

「飯尾(いひを)新七」「新日本古典文学大系」版脚注に、『飯尾氏は、織田信長・信雄』(のぶかつ/のぶお:信長の次男)『に仕えた家臣。本話の年代は未詳であるが、永禄三年(一五六〇)に戦死した近江守定宗(信長公記・首巻)や、その子息で、後、信雄に仕えた隠岐守尚清』『ら存する』ものの、『新七は未詳』とある。

「死して中有〔ちゆうう〕にとゞまる事、三年〔みとせ〕を、限りとす」「新日本古典文学大系」版脚注に、既に冒頭で述べた通り、『仏教に中有を四十九日とするが、ここは儒教に』、『いわゆる』、『服喪三年に依るものか』とある。そうであろう。

「面影のかはらぬ月に思ひいでよ契りは雲のよそになるとも」「新日本古典文学大系」版脚注に、同じく「和歌題林愚抄」の「戀一」の「月前契戀」にある権大納言三位の一首とする(「永徳二十五夜内裏五首」所収)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の影印本のこちらPDF)の17コマ目の右頁の後ろから四行目で確認、異同なし。

「待いづる月の夜な夜な其のまゝにちぎり絕すなわがのちの世に」同前で、「和歌題林愚抄」の「戀一」の「月前契戀」に、隆朝卿の一首として、

 待いつる月のゆふへのそのまゝにちきりたかふな人のことのは

と、前と同じ17コマ目の左頁の五行目に出る。整序すると、

 待ち出づる月の夕べのそのままに契り違ふな人の言の葉

であろう。この歌は記内の焦がれ死にを伏線する不吉な伏線と言える。

「鳥」鷄(にわとり)。

「無き影」亡骸(なきがら)。

「甚目寺(じんもくじ)」ここでこの寺或いはこの一帯の地名を出したことには、何か意味があるように思われるのだが、不明。「新日本古典文学大系」版脚注も特に触れていない。

「たのめこしその塚野邊は夏ふかしいづこなるらむもずのくさぐき」同前で、「和歌題林愚抄」の「戀一」の「契後隱戀」に、俊成の一首として、

 たのめこしのへの道しは夏ふかしいつこなるらむもすのくさくき

と、前と同じ17コマ目の右頁の十行目に出る。整序すると、

 賴め來し野邊の道柴夏深しいづなるらむ百舌の草潛(くさぐき)

である。「百舌の草潛」とは、モズ(私の好きな鳥。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)」を参照されたい)が、春になると、人里近くに姿を見せなくなることを、「草の中に潜り込む」と言ったもの。既に「万葉集」に使用が認められる。]

2021/07/05

伽婢子卷之七 飛加藤

 

Tobikatou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。飛加藤が直江山城守邸に侵入し、衆目監視の中、まんまと長刀(なぎなた)と直江の妻に仕える女(め)の童(わらわ)を奪って逃げるシークエンスである。門口で、哀れ、名犬「村雨」が息絶えている。門に設けられた屋根の内側の軒の反りが全く見えず、少し描き忘れているように感じられはする。この時の直江家の家紋として「三葉柏紋」が左の幕に見える。実際の三葉柏そのまんまでちょっと奇異。この直江は後に養子となる知られた直江兼続の義父であるが、その家紋はもっと紋様化がされたもののようである。サイト「戦国ヒストリー」のこちらを参照されたい。]

 

   ○飛加藤(とびかとう)

 越後の國長尾謙信(ながをのけんしん)は、春日山の城にありて、武威を遠近〔をちこち〕に輝かし給ひける所に、常陸國秋津郡(あきつのこほり)より、名譽の竊盜(しのび)の者、來れり。しかも術(じゆつ)、「品玉(しなだま)」に妙を得て、人の目を驚かす。

 或る時、さまざまの幻術を致しける中に、ひとつの牛を、場中(ばなか)に曳き出〔いだ〕し、かの術師、是れを呑み侍べり。

 一座の見物、きもをけし、

「奇特の事。」

に、いひけるを、其の場の、かたはらなる松の木に登りて見たる者ありて、

「只今、牛を吞みたりと見えしは、牛の背中に乘り侍べり。」

と、よばゝるに、術師、腹をたて、其場にて夕顏(ゆふがほ)を作る。

 二葉より、漸々(ぜんぜん)に、蔓(つる)、はびこり、扇にてあふぎければ、花、咲き出つゝ、忽ちに、實(み)、なりけり。

 諸人、かさなり集まり、足をつまだてゝ見るうちに、かの夕顏、二尺許りになりけるを、術師、小刀を以つて、夕顏の帶(ほぞ)を切りければ、松の木に登りて見たる者の首、切り落とされて、死〔しに〕けり。

 諸人、奇特(きどく)の中〔うち〕に、怪みをなし、眉を顰(ひそ)めたり。

 謙信、聞き給ひ、御前に召して、子細をたづねられしに、

「幻術の事は、底をきはめて、得たり。手に、一尺餘りの刀を持ちては、いかなる堀・塀をも飛び越し、城中にしのび入〔いる〕に、人、更に知らず。此の故に『飛加藤』と、名を呼び侍べり。」

といふ。

「さらば、試しに、奇特をあらはし見せよ。」

と、の給ふ。

「今夜、直江(なをえ)山城守が家に行〔ゆき〕て、帳臺(ちやうだい)に立〔たて〕置きたる長刀〔なぎなた〕、取りて來れ。」

とて、山城守が家の四方に、隙間もなく、番をおき、蠟燭を間ごとに、ともし、番の者、男女〔なんによ〕ともに、おく・はし、皆、まだゝきもせずして居(ゐ)たりけるに、内には「村雨(むらさめ)」とて、逸物(いちもつ)の名犬あり。怪しき者を見ては、頻りに吠え怒り、然も、賢(かしこ)き狗(いぬ)にて、夜(よる)は少しも寢(ね)ず、屋敷のめぐりを、打ちまはり、打ちまはり、猪(ゐ)のしゝといへ共〔ども〕、物のかずとも思はぬ程の犬也。

 これを、放ちて、門中の番に添へたり。

 飛加藤、已に夜半ばかりに、かしこに赴き、燒飯(やきいひ)、一つ、二つ、持ちて行〔ゆく〕かと見えし。

 犬、俄かに、斃(たふ)れ、死す。

 かくて、壁をのり、垣を越えて、入〔いり〕けるに、番の者、半(なかば)、ねふりて、知らず。

 曉(あかつき)がたに、立〔たち〕歸る。

 帳臺に有りし長刀、並ひに、直江が妻の召し使ふ女(め)の童(わらは)の、十一になりけるを、うしろに、かき負ひて、本城に歸り來〔きた〕るに、女の童、深くねふりて、これを覺えず。

 番の輩(ともから)、ねふるとはなしに、少しも、知らず。

 謙信、これを見給ひ、

「敵を亡(ほろぼ)すには、重寶(ちようほう)の者ながら、もし、敵に内通せば、ゆゝしき大事也。この者には、心許して召し抱へ置く者に、あらず。たゞ、『狼(おほかみ)を飼(か)ふて、わざはひを、たくはふる』といふものなり。いそぎ、うちころせ。」

と、のたまふ。

 直江(なをえ)、すなはち、わがもとによびて、めしとりて、ころさんと、はかりけるを、加藤、これを、さとりて、出〔いで〕て、いなんとするに、諸人、これを、まぼり居たれば、かなはず。

 加藤いふやう、

「なぐさみのため、面白き事して、見せたてまつらん。」

とて、錫子(すゞ)一對(つい)をとりよせ、前に、をきければ、錫子の口より、三寸ばかりの人形、廿ばかり、出〔いで〕てならびつゝ、おもしろくをどりけるを、座にありける人々、目をすまし、見けるほどに、いつのまにやらむ、加藤、行〔ゆき〕がた、しらず、うせにけり。

 後に聞えしは、甲府の武田信玄の家にゆきて、跡部大炊助(あとべおほいの〔すけ〕)につきて、奉公を望みしに、「古今集」をぬすみたる竊盜(しのび)に手ごりして、ひそかに、うちころされし、といへり。

[やぶちゃん注:「飛加藤」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「飛」は空中に跳躍する徑瓶な人物の意。甲陽軍鑑末書結要本』(まっしょけつようぼん)『九ノ十三・まいす者嫌ふ三ケ条に武田信玄への仕官を望んだ忍びの者として登場する』とある。「朝日日本歴史人物事典」には「加藤段蔵」の名で載り、『生没年不詳。戦国時代の忍者。常陸国(茨城県)秋津郡または甲賀か伊賀の生まれという。一匹狼の忍びの者で』、『跳躍の達人だったことから』、『「飛び加藤」と呼ばれた。越後国春日山城下で呑牛術や生花術などの幻術を演じて噂を広め』、『上杉謙信に謁見する機会を得た。謙信から試しに重臣の直江実綱邸にある秘蔵の薙刀を盗むことを命じられると』、『それを果たして』、『仕官を望んだとされる。しかし逆に忍技の見事さを危険視され』、『刺客を向けられたことから』、『甲斐国に逃れ』、『跡部大炊守勝資を頼って武田信玄に引見された。信玄はその忍技を恐れたのか』、『密偵と疑ったのか』、『召し抱えるとして』、『段蔵を油断させたのち』、『剣の達人土屋平八郎に命じて暗殺させたという』と載る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書写本のここの三行目に、『㐧意一 武田信玄』の条に、『とび加藤』として出、抱えた『隱蜜』とあり、確かに『成敗』されたように書かれてあり、最後にこの事件を『永祿元年午ノ年也』とある。永禄元年戊午(つちのえうま)は一五五八年である。この年の一月、武田信玄は信濃守護となっている。

「春日山の城」現在の新潟県上越市にあった長尾氏の居城春日山城(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。主に越後守護代長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。

「常陸國秋津郡(あきつのこほり)」この名の郡は常陸国には存在しない(「新日本古典文学大系」版脚注でも『所在不明』とする)。ただ、茨城県行方(なめがた)郡に秋津村は存在した。現在の鉾田市の旧鉾田町の西部に位置する。この附近か。

「品玉(しなだま)」小学館「日本大百科全書」によれば、『曲芸の一種で、いろいろの品物をいくつも投げ上げては受け取るもの。弄玉(ろうぎょく)ともいう』「信西古楽図(しんぜいこがくず)」(平安時代の舞楽・雑楽・散楽などの様子が描かれた巻物。作者不明。平安初期の成立か)にも『みえる散楽雑伎(さんがくざつぎ)の一種』で、石や茶碗、『小さいものでは豆の類まで、多くの品物を投げ上げて手玉にとるもの。本来は』一『人で行うものであったが、のちには』二『人あるいはそれ以上でも演ずるようになり、刀をやりとりするのは「刀玉(かたなだま)」とも称された』。猿楽・田楽を経て、『江戸期には大道芸から見せ物に入り、太神楽(だいかぐら)の演芸に含まれて今日寄席』『芸としてみることができる。子供のお手玉遊びもここから発している』とある。

「ひとつの牛を、場中(ばなか)に曳き出〔いだ〕し、かの術師、是れを呑み侍べり」先に示した早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本の、『とび加藤』の次ぎに、『㐧二 長尾謙信』の条に、『牛を吞術を仕來て』とあり、本篇の内容と同じ形で、木の上から見た者が、牛を呑んだのではなく、牛に載っているだけだ、と見破ったのを、遺恨に思い、『其塲にて則夕㒵を作り扇にてあふき花をさかせ實をならせ』、かの見破った者の『くびを切』とあり、謙信はこの者を『隱蜜にて成敗也永祿二年末ノ年之事也』とある。

「帶(ほぞ)」「蔕(へた)」のこと。

「直江(なをえ)山城守」直江景綱(永正六(一五〇九)年?~天正五(一五七七)年)は越後国の守護代で戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣。山東郡(三島郡)与板城城主。長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の三代に亙って仕えた宿老で、奉行職を務め、主に内政・外交面で活躍した。また「七手組大将」の一人として軍事面で活躍することもあった。直江親綱の子として生まれた。直江氏は、元は越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の被官であったが、永正一一(一五一四)年、守護代長尾為景によって飯沼氏が滅ぼされると、その居城本与板城(もとよいたじょう:後に与板城)の城主となっていた。天文八(一五三九)年からの守護上杉定実の養子問題を巡る「天文の乱」では、中条藤資(なかじょうふじすけ)や平子氏らとともに、入嗣推進派を形成した。養子問題に関しては、直江氏と長尾氏の立場は相反し、直江氏は長尾氏とは一線を画していたものと思われる。天文一一(一五四二)年には、伊達家へ時宗丸(伊達実元)の迎えの使者にあたっている。天文一二(一五四三)年、長尾景虎は病弱な兄晴景の名代として栃尾城(現在の長岡市・旧栃尾市域)に入った。天文十五年、景虎は兄晴景に反抗していた黒田氏一族を黒滝城(弥彦村)に攻めた。この事件を契機として、病弱の晴景に代わり、景虎を守護代に擁立しようとする動きが出てきた。この動きを進めた一人が、与板の直江景綱であった。景綱と景虎との関係は、景虎が栃尾周辺で活躍していた頃に築かれたものと思われる。天文十六年に長尾氏家中で兄晴景と弟景虎との間に抗争が起こった際には、藤資や本庄実乃(ほんじょうさねより)らとともに景虎を支援した。弘治二(一五五六)年、景虎の出家騒動中に、藤資らが、守護譜代の大熊朝秀を追放したのを機に、実乃らとともに奉行職として政務の多くを任されるようになる。永禄二(一五五九)年の景虎二度目の上洛の際には、神余親綱(かなまりちかつな)とともに朝廷及び幕府との折衝にあたり、翌三年、前関白の近衛前久(さきひさ:但し当時は前嗣(さきつぐ))が越後に来訪した際には、その饗応役を務めた。また、同年からの相模国の北条氏康討伐のために景虎が関東に出陣している間、春日山城の留守居を吉江景資と共に任されている。永禄四年の「川中島の戦い」(第四次合戦)では、小荷駄奉行として出陣し、武田義信の軍を敗走させるなどの功を立てたという。永禄五年、大和守に任官し、「政綱」と改名し、永禄七年には、謙信の嘗ての諱(いみな)である「景虎」から、一字を拝領し、「景綱」と名乗ることになった。天正三(一五七五)年の「上杉家軍役帳」によると、三百五名の軍役を課せられていたとあり、旗本衆の中でも、とりわけ、重きを成していたことがわかる。以後も、天正四年からの能登遠征に従い、石動山城を守るなど、謙信に従って各地に従軍したが、翌年、病没した。景綱には男子がなく、婿養子となっていた直江信綱(長尾氏出身)が後を継いだが、後に信綱が毛利秀広に殺害されると、大身の直江家を押さえようとした上杉景勝の命で、景勝側近の樋口兼続(直江兼続)が信綱未亡人を娶り、直江家を相続した(以上は当該ウィキに拠った)。

「帳臺(ちやうだい)」屋敷の主人が居間や寝間に当てる室。

「おく・はし」「奥・端」。場所ではなく、以下に続く形で屋敷の奥向きに当たる者や、端(はした)の下役の者の意。

「まだゝき」瞬(まばた)き。

「内」「うち」で屋敷内。屋敷の屋形の外周内。

「門中」前注の意で「かどうち」と読んでいよう。

「燒飯(やきいひ)」握り飯を火に炙って焦げ目をつけたもの。

「犬、俄かに、斃(たふ)れ、死す」「燒飯」に毒を仕込んだか。図の死んだ村雨の遺骸を見てみると、口を開いて、舌を垂らしているから、それが強く疑わられるように思う。

「女の童、深くねふりて、これを覺えず」暗示的な催眠術を用いたのであろう。

「番の輩(ともから)、ねふるとはなしに、少しも、知らず」直江の家内の警備の兵らも眠ったつもりは全くなかったのに、少しもそれに気付かなかった。実際には幻術で起きながらにして検討識を失わされていたということか。

「狼(おほかみ)を飼(か)ふて、わざはひを、たくはふる』知られた諺では、「虎を養ひて患(うれ)ひを遺す」であろう。「史記」の「項羽本紀」の一節。紀元前二〇三年、項羽と劉邦は四年に亙る闘争を続けてきたが、結着がつかず、和議を結ぶこととなった。その直後、劉邦の近臣張良や陳平は、疲弊しきって引き揚げてゆく項羽の軍勢を、後ろから不意打ちにすることを提言する。こちらもいい加減疲れ切って西へ帰ると決めていた劉邦は躊躇ったが、二人は、「今釋弗擊、此所謂養虎自遺患也。」(「今、釋(す)てて擊(う)たずんば、此れ、所謂(いわゆる)、『虎を養ひて患(うれ)ひを遺(のこ)す』なり。」)と応じた。取り除いておくべきものを取り除かないと、後日、災いを引き起こすということの喩えである。

「まぼり居たれば、かなはず」直江の屋敷に呼ばれて、仕官を匂わされたものの、加藤は、それを逸早く罠と察して、屋敷を逃げ出そうと考えたが、見れば、大勢の家子(いえのこ)連中が、そこここにいて守りを固めていたため、それが叶わなかったのである。

「なぐさみ」ちょっとした気晴らし。

「錫子(すゞ)」錫製の銚子・徳利。

「目を、見けるほどに」奇体なことなので、思わず、そちらを見つめてしまったところが。「跡部大炊助(あとべおほいの〔すけ〕)」武田信玄の侍大将で信濃出身の跡部勝資(あとべかつすけ ?~天正一〇(一五八二)年:大炊助・尾張守(受領名))。信玄の死後はその子勝頼に仕えた。武田氏滅亡の時、諏訪で討死にした。

『「古今集」をぬすみたる竊盜(しのび)』後の巻之十の「竊(しのび)の術」の一節に、

   *

……今川家重寶と致されし定家卿の「古今和歌集」を、信玄、無理に假(かり)どりにして返されず、祕藏して寢所(しんじよ)の床に置かれけるを、ある時、夜のまに失なはれたり。

 寢所に行くものは、譜代忠節の家人の子供、五、六人、其外は女房達、多年召し使はるゝものゝ外は、顏をさし入て覗く人もなきに、たゞ此「古今集」に限りて失(うせ)たるこそ、怪しけれ。又、その他には、名作の刀・脇指・金銀等は、一つも、うせず。

 信玄、大に驚き、申信兩國を探し、近國に人を遣し、ひそかに聞もとめさせらる。

「此所、他人、更に來るべからず。いかさま、近習(きんじう)の中に盜みたるらん。」

とて、大に怒り給ふ。

「『古今』の事は、わづかに惜むにたらず。ただ、以後までも、かゝるものゝ忍び入を、怠りて知らざりけるは、無用心の故也。」

と、をどり上りて、はげしく穿鑿に及びければ、近習も、外樣も、手を握りて、怖れあへり。[やぶちゃん注:まだ続くが、ここで先まで出しては、面白くなくなるので下略する。]

    *

とあるのに対して、「新日本古典文学大系」版で脚注を附し、『「今川家の秘蔵に仕る定家の伊勢物語を酒に酔たるふりをなされ、信玄御取候とて」(甲陽軍鑑十一上。氏真降参船にて小田原へ退事)』とある。私なら、定家筆写の「古今和歌集」よりは、定家筆写の「伊勢物語」の方がいいがな。

「手ごり」「手懲り」。すっかり懲りてしまうこと。]

2021/06/24

伽婢子卷之七 廉直頭人死司官職

 

Rentyokuasinuma

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。左幅の、衾から半身を出して横たわって、頭を蓬髪姿の兵卒に剃られつつあるのが、庄八。左幅に立ちはだかっているのが、大将。その前で頭に三角巾をつけているのが、冥官(みょうかん)となった蘆沼である。]

 

 ○廉直頭人死司官職 (廉直の頭人(とうにん)、死して官職を司(つかさ)どる)

 蘆沼(あしぬま)次郞右衞門重辰(しげとき)は、鎌倉の管領(くわんれい)上杉憲政公の時に、相州藤澤の代官として、病によりて、死す。

 蘆沼が甥三保(みほの)庄八と云者、其跡に替りぬ。

 蘆沼は一生の中、妻を持たず、妾(おもひもの)[やぶちゃん注:元禄版は「てかけ」とルビする。]もなく、只、其の身を潔白に無欲をおもてとし、さして學問せるにもあらず、又、後世〔ごせ〕を願ふにもあらず、天性(むまれつき)、正直(〔しやう〕ぢき)・正道〔しやうだう〕にして、百姓を憐み、少しも物を貪る思ひ、なし。

 それに引替へ、庄八、大に百姓を虐(しいたげ)げ、欲深く貧りければ、

「此の人、久しく續くべからず。」

と、爪彈(つまはじ)きして、惡(にく)み、嫌ひけり。

 庄八、或る夜の夢に、怪しき人、來りて、其の面(おもて)に怒れる色あり。

 付〔つき〕從ふ者、十餘人、手每(ごと)に弓・鑓・長刀〔なぎなた〕、もちたり。

 大將、顧みていふよう、

「三保庄八が惡行、つもれり。高手小手〔たかてこて〕に縛(いまし)めて、首(かうべ)を刎ねよ。」

といふ。

 其時に伯父、蘆沼、來りて、

「庄八が所行、まことに人望(にんばう)に背けり。其の科(とが)かろからずと雖も、まげて、許し給はらん。然(しか)らば、髮を剃り侍べらん。」

と云ふ。

 大將、少し打ち笑ひ、

「汝が甥なれば、憐み思ふところ、理〔ことわ〕りなきにあらず。但し、今よりのち、日比〔ひごろ〕〕の惡行を改めて、善道に赴くべき歟(か)。」

とありしに、庄八、恐れて、怠狀(たいじやう)しければ、大將、すなはち、

「我が見る前にして、髮を、それ。」

とて、剃刀(かみそり)を取ち出〔いだ〕し、押へて、剃り落としぬ。

 かくて、夢、さめしかば、かしらを探りて見るに、髮は、みな、落ちて、枕もとにあり。

 是非なき法師になされたり。

 妻子、これを見て、泣き悲みけれ共、甲斐なし。

 庄八は、暇(いとま)乞ふて、心(しん)も起らぬ道心者(だうしんじや)となり、光明寺に籠りて、念佛、唱へ居たり。

 或夜、蘆沼、入來〔いりきた〕れり。

 庄八入道、夢の如くに覺えて、

「扨(さて)、如何にして來り給ふよ。」

と云へば、蘆沼、云やう、

「汝、入道して、佛法に歸依しながら、ついに我が墓所(はかしよ)に、まうでたる事、なし。明日、かならず、參りて、卒塔婆(そとば)を立てよ。」

といふ。

「さて、いかに書〔かき〕て立〔たつ〕べき。」

と問(とふ)に、硯(すゞり)を請ふて、書たり。

 其の文字、皆、梵形(ぼんぎやう)にして、よむ事、かなはず。

「されば、人間と迷途(めいど)[やぶちゃん注:既に何度も出た通り、「冥途」と同じ。]と、文字、同じからず。是れは『光明眞言』也。後(うしろ)に書くべきは我が戒名也。我、死して、地府(ぢふ)の官人となれり。汝、日比、惡行を以て私(わたくし)を構へ、百姓をせめはたり、定(さだめ)の外に、賦斂(ふれん)を重くし、糠(ぬか)藁木〔ぼく〕竹〔ちく〕に至るまで、貪り取〔とり〕て、おのれが所分となし、恣(ほしいまゝ)に非道を行ふ。此故〔このゆゑ〕に、疎(うと)まれ、人望(にんばう)に背き、天帝、是れを惡(にく)みて、福分の符(ふ)を破り、地府、是れを怒りて、命〔いのち〕の籍(ふだ)を削り、惡鬼(あつき)、たよりを得て、禍(わざはひ)をなす。汝、かならず、縲紲(るいせつ)の繩(なは)に縛(しば)られ、白刄(はくじん)の鋒(きつさき)に掛かり、身を失ひ、命(いのち)を亡ぼし、其のあまり、猶、妻子に及ばんとす。我、是を憐み、出家になして、禍(わざはひ)に替へたり。然るを、我が恩を、思ひ知らず、終(つゐ)に墓所(むしよ)にもまうでず。」

と、責(せめ)ければ、庄八、一言(ごん)の陳(ちん)ずべき道、なし。

 酒を出〔いだ〕して勸めければ、飮〔のみ〕たり、と見えて、却(かへつ)て故(もと)の如し。

 庄八、とひけるやう、

「君、已に地府の官人となり、又、何事をか、職とし給ふ。」

 蘆沼、答へけるは、

「此〔この〕人間〔にんげん〕にして、一德一藝ある者、心だて、正直、慈悲深く、私〔わたくし〕の邪(よこしま)なきは、皆、死して、地府の官職に、あづかる。たとひ、勝(すぐ)れて藝能あるも、邪欲奸曲(じやよくかんきよく)にして私あり、君に忠なく、親に孝なく、誠(まこと)を行はざる者は、死して、地獄に落つ。後世〔ごぜ〕を願ふといへども、我が宗(しう)に着(ちやく)して、他〔た〕の法〔ほふ〕をおとしむる者は、是れ、やがて『謗法罪(ばうほふざい)』なれば、たとひ强く修行すれども、死して、地獄に落つる也。然れば、われ、常に、慈悲深く、百姓を憐れみ、君に忠を思ひ、邪欲奸曲を忘れ、私をかえりみず、正直・正道を行ひし故に、今、地府の修文郞(しゆぶんらう)といふ官にあづかり、天地四海八極(きよく)の人間の善惡を、しるし侍べり。靑砥(あをと)左衞門藤孝(ふじたか)・長尾左衞門昌賢(まさかた)以下、我、その數に加へられ、修文郞の官、八人あり。楠正成・細川賴之は、武官の司(つかさ)となり、相摸守泰時・最明寺時賴入道は、文官の司なり。其の以前、文武の官職のともがらは、皆、辭退して、佛になり侍べり。今は文武の兩職になるべき人、なし。されば、每日、地府の廳に來〔きた〕る者、日本の諸國より、市の如く見ゆれ共、皆、不忠・不義・不孝・奸曲なるともがら、我が知れる人ながら、私には贔負(ひいき)もかなはず、地獄に送り遣(つか)はす。其のふだを出〔いだ〕すも、痛(いた)はしながら、是非なきなり。」

といふ。

 庄八、とひけるは、

「生きたる時と、死して後とは、如何ならん。」

と。

 答へて曰はく、

「別に替る事なし。され共、死する者は、虛(きよ)にして、生きたる時は、實(じつ)するのみ也。」

 又、問けるやう、

「然らば、魂(たましゐ)、二たび、かばねの中に心の儘(まま)に還り入(い)らざるは、如何なる故ぞや。」

 答へて曰はく、

「例へば、人の肘(かいな)、切落〔きりお〕とすに、落〔おち〕たるかいなに、痛みなきが如し。死して、かたちを離(はな)るれば、其の體(たい)は、土の如く、覺え知る所、なし。」

 又、問けるやう、

「此春、世間に、疫癘(えきれい)はやり、人、多く死す。是れ、如何なる故ぞ。」

といふ。

 蘆沼が曰はく、

「三浦道寸、その子荒次郞(あら〔じらう〕)は、正直・武勇の者とて、暫し、地府に留め、武官の職に補せらるべき所に、謀叛(むほん)を企(くはだ)て、人をとりて、我が軍兵(ぐん〔ひやう〕)にせん爲(ため)に、恣(ほしいまま)に厄神(やくじん)を語らひ、疫癘(えきれい)を行ひし所に、其の事、顯(あらは)れて、北帝(ほくてい)、これを捕へて、地獄に送り遣はし給へり。」

といふ。

 又、問けるは、

「生きたる時、にくき怨(あだ)を、死して後に、害すべきや。」

 答へて曰はく、

「迷途の廳には、生けるを守り、死するを憐み、殺す事を嫌ふ故に、此世にして敵(てき)なれども、死して後には、心の儘(まま)に殺す事、かなはず。其の中に、もしは、わが敵の亡靈(まうれい)を見て、是れにおびえて死する者は、元、これ、惡人也。地府より、是れを戒(いまし)められ、其の敵を、遣はして、命を奪ひ給ふもの也。今は、夜も明けなむ。かまへて道心堅固なるべし。邪(よこしま)なる道に入〔いり〕て、地獄に落つる事、なかれ。」

とて、立出〔たちいづ〕る、とぞ、見えし、姿は、消え失せぬ。

 庄八、今は、浮き世を思ひ離れ、念佛、怠たらず、來迎(らいがう)往生を遂げにける、とぞ。

[やぶちゃん注:「廉直」心が清らかで、私欲がなく、正直なこと。

「蘆沼(あしぬま)次郞右衞門重辰(しげとき)」ロケーションは如何にも私の現在の居所に近く、相応の時代資料もあるが、全く不詳。

「上杉憲政」(大永三(一五二三)年~天正七(一五七九)年)は戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没したが、未だ数え三歳と幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛(のりひろ)が繋ぎで管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の年に同職に就任したが、奢侈・放縦な政治で民心を失った。天文一〇(一五四一)年に信州に出兵、同十二年には河越(現在の川越市)の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦うも、相い次いで敗れ、同十四年四月の「河越合戦」でも、北条氏康に敗れ、上野平井城に退いた。この戦いでは、倉賀野・赤堀などの有力な家臣を失い、上野の諸将は出陣命令に応じず、結局、同二十一年一月に平井城を捨て、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年八月、景虎に擁されて関東に出陣、翌年三月には小田原を囲んだ。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号した。天正六(一五七八)年三月、謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、同景虎は憲政の館に籠って相い争うこととなり、城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して、敗北、翌年三月十七日、憲政の館も攻略され、混戦の最中、殺害された。

「三保(みほの)庄八」不詳。

と云者、其跡に替りぬ。

「正直(〔しやう〕ぢき)・正道〔しやうだう〕にして」「新日本古典文学大系」版脚注に、「正直」に『類語の「正道」を添えて「正直」を強調した語』とある。

「爪彈(つまはじ)き」「指彈」に同じ。

「高手小手〔たかてこて〕」重罪人を逃亡出来ないように、両手を後ろに回し、首から肘、手首に縄をかけて厳重に縛り上げること。

「人望(にんばう)」民草の当たり前の生活への期待。

「然(しか)らば、髮を剃り侍べらん。」「そのように罪一等減じてやれば、自身で、髪を剃りましょうぞ。」。

「怠狀(たいじやう)」元は、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。後に広く、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡した詫び状・謝り証文を指し、さらに、過ちを詫び謝ること、謝罪の意となった。ここは最後。

「剃刀(かみそり)を取ち出〔いだ〕し、押へて、剃り落としぬ」大将(地獄の軍団のそれ)の命を受けた地獄の軍兵の従卒が主語。その瞬間をスカルプティング・イン・タイムしたの「是非なき法師になされたり」最早、しっかり剃られてしまい、最早、どうしようもないつるんつるんの坊主頭にされていた、の意。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺(グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「梵形(ごんぎやう)」梵字。古代サンスクリット語の文字。

「光明眞言」正確には「不空大灌頂光眞言」(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という真言密教でとなえる呪文(じゅもん)の一つ。密教経典「不空羂索神變眞言經」(菩提流志訳)や「不空羂索毘盧遮那佛大灌頂光眞言」(不空訳)に説かれる。「大日如来」の真言で、また、一切仏菩薩の総呪ともされる。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきや)・尾盧左曩(べいろしやのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」で、これをとなえると、一切の罪業が除かれるとされ、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。平安以来、「光明真言法」でとなえられたが、殊に中世の鎌倉新仏教の「念仏」や「唱題」の「易行道」に対抗して、平安旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化し、逆にまた、浄土教系にも吸収されてしまう結果となった(ここは「日本国語大辞典」を主文に用いた)。

「地府(ぢふ)」冥府。判り易いのは閻魔庁と言い換えること。

「私(わたくし)」自分の利益を計って不法を行なうこと。自己の利益のために不法に本来は公共のものである対象を自分のものとすること。

「定(さだめ)の外に、賦斂(ふれん)を重くし」公に決められた年貢賦役以外に、勝手に自分の領地の民草に私的なそれを重く課役し。

「糠(ぬか)藁木〔ぼく〕竹〔ちく〕に至るまで、貪り取〔とり〕て、おのれが所分となし」塵芥(ちりあくた)ほどの僅かな対象に至るまで、自身のものとして搾取し尽くしたことを指弾する。

「福分の符(ふ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『衆生に善悪を考課して福分を定め、記しとどめておくという札』とある。

「命〔いのち〕の籍(ふだ)」同前で『寿命を定めて記しておく札』とある。何度も注したが、中国で形成された地獄思想では、一般には「倶生神(ぐしょうじん)」(個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告することが業務で、有名どころでは司命神(しみょうじん)や司録神(しろくじん)などがいる)と呼ばれる地獄の書記官が管理しているとされる。

「惡鬼(あつき)、たよりを得て、禍(わざはひ)をなす」地獄の実行担当である悪鬼の武官が、その執行命令を受けて、かくもお前に禍いを齎したというわけだ。

「縲紲(るいせつ)の繩(なは)」罪人を捕え縛る縄。「縲」は「罪人をつなぐ黒い縄」、「紲」は「繋ぐ」の意) 。罪人として縄目にかかって捕えられること。

「其のあまり」その余波は。

「陳(ちん)ず」釈明する。

「酒を出〔いだ〕して勸めければ、飮〔のみ〕たり、と見えて、却(かへつ)て故(もと)の如し」庄八は酒を出して蘆沼に勧めたが、飲んだか、と見えて、戻した盃(さかづき)を見ると、全く酒は減っていない。

「此〔この〕人間〔にんげん〕にして」この人間道(六道に於けるそれ)にあって。

「邪欲奸曲(じやよくかんきよく)」人倫の道から外れた邪(よこし)まな欲心や、他人を陥れては、それを喜ぶような、歪んだ心の持ち主。

「我が宗(しう)に着(ちやく)して」自分の信ずる神仏なんどに執着(しゅうじゃく)して。「ちやく」は元禄版であるが、「ぢやく」と濁りたいところである。

「他〔た〕の法〔ほふ〕をおとしむる者」他の者の信ずるところのものを誹謗する輩(やから)は。

「謗法罪(ばうほふざい)」本来、仏教では正法(しょうぼう)を誹謗する行為を指したが(最も重い罪とされる)、ここは当時の読者が読めば、他の宗教者のそれではなく、宗派の違う仏教徒が、互いの宗旨を誹謗することとして読んだことは間違いない。これは浄土宗や、作者で僧であった了意の属した浄土真宗に於いて、教義上は自明のことであったのである。でなければ、悪人正機説など、根底から無効化されてしまう。

「修文郞(しゆぶんらう)といふ官」「新日本古典文学大系」版脚注には、『文章を扱う冥府の官人、文官』とする。

「四海八極(きよく)」「四海」は須弥山(しゅみせん)を中心に、それをとりまく、四方の外海。仏教に於ける人間界を含む小宇宙ととらえてよい。四洲の一つで須彌山南方海上にある大陸(元はインドが措定されたもの)南瞻部洲(なんせんぶしゅう)が人間の住む世界とされる。「八極」は四方と四隅の全部。東・西・南・北・乾(けん:西北)・坤(こん:南西)・艮(ごん:北東)・巽(そん:東南)をいう。八方の遠い地域総てで、全世界・天下に同じ。「八紘一宇」の「八紘」も同じ。

「靑砥(あをと)左衞門藤孝(ふじたか)」「靑砥藤綱」の誤り。鎌倉の青砥橋のエピソード(「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」の私の注の引用参照)で著名な鎌倉時代は北条時頼の執権時代の理想的武士。私の「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」を読まれたい。まことしやかな系譜も示されているが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても、実在はしなかったとされる。

「長尾左衞門昌賢(まさかた)」長尾景仲(元中五/嘉慶二(一三八八)年~寛正四(一四六三)年)の戒名。室町中期の武将で山内上杉家家宰。上野国・武蔵国守護代にして上野群馬郡白井城主。同時代の相模守護代にして扇谷上杉家家宰であった太田資清(おおたすけきよ)とともに「関東不双の案者(「知恵者」の意)」と称された。孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる。

「細川賴之」(元徳元(一三二九)年~元中九/明徳三(一三九二)年)は守護大名・室町幕府管領。「観応の擾乱」で将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、第二代将軍義詮(よしあきら)の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の第三代将軍義満の管領として幕政を主導し、南朝との和睦なども図った。義満が長じた後、天授五/康暦(こうりゃく)元(一三七九)年の「康暦の政変」で、一度、失脚したが、その後に赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元と、その子孫が、斯波氏・畠山氏とともに「三管領」として幕政を担った(ウィキの「細川頼之」に拠る)。

「今は文武の兩職になるべき人、なし。されば、每日、地府の廳に來〔きた〕る者、日本の諸國より、市の如く見ゆれ共、皆、不忠・不義・不孝・奸曲なるともがら、我が知れる人ながら、私には贔負(ひいき)もかなはず、地獄に送り遣(つか)はす。其のふだを出〔いだ〕すも、痛(いた)はしながら、是非なきなり」何と! 閻魔庁も深刻な人材不足というわけだ!

「別に替る事なし。され共、死する者は、虛(きよ)にして、生きたる時は、實(じつ)するのみ也」と、「例へば、人の肘(かいな)、切落〔きりお〕とすに、落〔おち〕たるかいなに、痛みなきが如し。死して、かたちを離(はな)るれば、其の體(たい)は、土の如く、覺え知る所、なし」というのは面白い。人間という「生」としての生物としての存在は、人体という殻に充満する、傷つきやすく、腐りやすい物が詰まっただけの存在(「實」)でしかなく、人体の「死」はそれが全くの空(「虛」)になるというだけのことだ、という仮定された無常な現存在を示しているように思われるからである。死は虛であり、永遠無限の無であるということである。輪廻から解脱するということは、量子レベルにまでなって見なければ存在しないという説明と同じである。

「疫癘(えきれい)」死に至るような悪性の流行り病い。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年或いは長禄元(一四五七)年~永正一三(一五一六)年)は戦国初期の武将で東相模の大名。一般には出家後の「道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主。鎌倉前期の名門三浦氏の主家は、宝治元(一二四七)年に北条義時の策謀による「宝治合戦」で滅亡したが、その後三浦氏の傍流であった佐原氏出身の三浦盛時によって三浦家が再興され、執権北条氏の御内人として活動し、「建武の新政」以後は足利尊氏に従い、室町時代には浮き沈みはあったが、三浦郡・鎌倉郡などを支配し、相模国国内に大きく勢力を拡げた。道寸は扇谷上杉家から新井城(三崎城とも)主三浦時高の養子に入る(先に義同の実父上杉高救(たかひら)が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に高教(たかのり)が生まれたために不和となり、明応三(一四九四)年に義同は上杉時高及び高教を滅ぼし、三浦家当主の座と、相模守護代職(後に守護。時期不明)を手に入れた。その後、北条早雲と敵対するようになり、道寸父子は新井城(グーグル・マップ・データ)に籠城すること三年、家臣ともども凄絶な討ち死をした。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって城の傍の湾が一面に血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が「油壺」と名付けられたと伝わる(以上は所持する諸歴史事典とウィキの「相模三浦氏」及び「三浦義同」を主に参考にした)。

「その子荒次郞」道寸の嫡男三浦義意(よしおき 明応五(一四九六)年~永正一三(一五一六)年)「荒次郞」は通称。当該ウィキによれば、『父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ』、永正七(一五一〇)年頃、『家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが』、永正一〇(一五一三)年『頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われ』、『三浦半島に押し込められた』。『父と共に三崎城に籠って』三『年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父・義同の切腹を見届けた後』、『敵中に突撃して討ち取られたと』される。『これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了』することとなった。三浦浄心の「北条五代記」によれば、背丈は七尺五寸(二メートル二十七センチメートル)と『伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが』二分(六センチメートル)、『白樫の丸太を』一丈二寸(三メートル六十四センチメートル)に『筒切りにしたものを八角に削り、それに節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰めて兜の頭上を打つと』、『みぢんに砕けて胴に達し、横に払うと一振りで』、五人十人が『押し潰され、棒に当たって死んだものは』五百『余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている』。しかし、同書よりも前に『成立したと推測されている』「北条記」には『そのような記述はなく』、永正一五(一五一八)年七月十一日に父『義同や家臣たちと共に討死した、と記されている』とある。

「北帝(ほくてい)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠の五朝小説の「靈鬼志」の「蘇韶」(そしょう)の原話に基づくとしつつ、『未詳』とあり、まあ、如何にもっ道教的な名前であることだけは判る。

「生きたる時、にくき怨(あだ)を、死して後に、害すべきや。」「生きていた時に、深い恨みを抱いた奴を、自分が死んだ後、その憎っくき相手に恨みを晴らすために亡霊となって戻って殺害するということは出来ますか?」。

「迷途の廳には、生けるを守り、死するを憐み、殺す事を嫌ふ故に、此世にして敵(てき)なれども、死して後には、心の儘(まま)に殺す事、かなはず。其の中に、もしは、わが敵の亡靈(まうれい)を見て、是れにおびえて死する者は、元、これ、惡人也。地府より、是れを戒(いまし)められ、其の敵を、遣はして、命を奪ひ給ふもの也。」「冥途の閻魔庁にあっては、やはり当然の如く、仏法の正法に従うのである。「生」とは儚い仮のものには過ぎぬものではあるのだが、やはり「生」を守り、「死」を憐れみ、「殺す」ということは、これ、嫌うものであるからして、現世に於いて仇敵であっても、死んで後に「恨み晴らさでおくべきか」と思う通りに、その相手を殺すことなどは、到底、許されることでは、ない。ただ、次のようなケースはある。則ち、もし、自分の現世に生きている仇敵が、死んだ、彼に恨みを持った者の亡霊を見、これに怯えて死んだ場合は、これ、元々、その者が、そうなって死なねばならない『悪人』だったのである。これは、冥府の王が、その者の許し難い悪を戒め遊ばされるために、その敵(恨みを持って死んだ方の人物)の亡霊を遣わして、命を奪い遊ばされたという、至極、正当な事例なのである。」。

「來迎(らいがう)往生」浄土に往生したいと願う人の臨終に阿弥陀仏が菩薩・聖衆(しょうじゅ:浄土の聖者)を率いて、その人を迎えに来るという最上級の極楽往生を指す。但し、参照した「WikiArc」の「浄土真宗聖典」のこちらによれば、『浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(平生業成(へいぜいごうじょう))』という考え方をするので、『臨終来迎を期することはないと説き、臨終来迎を期するのは諸行往生、自力の行者であるとし、臨終の来迎をたのみにすることを否定する(不来迎)』とある。]

2021/06/16

伽婢子卷之七 繪馬之妬

 

伽婢子卷之七

 

   ○繪馬之妬(ゑむまのねたみ)

 

Emasito

 

[やぶちゃん注:底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれをトリミング補正して用いた。かなり清拭に時間をかけた。女主人は立膝をして、その上に左腕を載せて顎を支えており、今の感覚からは、あまり行儀はよく見えない(但し、戦国以前の女性の立膝はごく当たり前である)。拝殿の画面の右端の下にあるのが商人の旅の荷と笠である。拝殿の下に最初に登場する直衣(のうし)の男(被っているのは戦国期には武家に普通であった折烏帽子である)が地面に坐っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、これは本篇の「主君」であり、拝殿にいる左の女性が、その「主君の女房」と記すのだが、この見解、私にはどうも解せない。主君が折り烏帽子で、地べたに座って、拝殿に女房を上がらせておいて、黙って待っているというのは、設定として頗るおかしいと思うからである(以下、続きは本文での注に譲る)。左上方が本殿で、その右端の軒に懸かっている白い長方形の板(右上方が斜めにカットされている)のようなものが絵馬であろう。「絵が描いてないじゃん?!」という不服は当たらぬ。普通、絵馬は神に捧げるものであるから、本殿を向いていて、こちらが裏で白いのは不審ではないからである。しかし、それでも、「今はこっちに向いて軒下に掛けてるのを見たぞ!」と文句を言おうなら、私は、こう、応じてやろう。「その絵の中の総ては、今まさに、そっくり、この挿絵の現実として飛び出しているのだよ。だから、真っ白でいいのさ。絵師の洒落た粋な計らいとこそ言うべきものなのではないかね?」と。なお、同解説には、『御香の宮の絵馬堂は近世期、拝殿の右側、本地堂との並びにあった(都名所図会五・御香宮)』とある(所持する同書で確認した。確かにその通りではある。但し、これは室町後期の設定である)。]

 

 伏見の里「御香(ごかう)の宮」は、神功皇后の御廟(みべう)也。もとより、大社(〔たい〕しや)の御神なれば、諸人、あゆみを運び、あがめまつる。常に宿願あるともがらは、繪馬を掛け、湯を參らせて、祈り奉るに、願ふ事、むなしからず。この故に、神前にかけ奉る繪の、かず多く、繋馬(つなぎむま)・挽馬(ひきむま)・帆かけ舟・花鳥草木、又、其中に美女の遊ぶ所なんど、樣々の繪あり。

 文龜年中に、都七條邊の商(あき)人、奈良に行〔ゆき〕かようて、商賣する者あり。九月の末つかた、奈良を出〔いで〕て、京に歸りける。

 秋の日のならひ、程なくひくれて、小椋堤(をぐらつゝみ)を打ちこえて、伏見の里に付きたれば、はや、人影もまれになり、狐火(きつね〔び〕)は、山際(やまぎは)に輝き、狼の聲、くさむらに聞こえしかば、商人、物すごく覺えて、「御香の宮」に立入り、夜を明かさむとす。

 拜殿に臥(ふし)て、肱(ひぢ)を枕とし、冷(さやか)なる松風の音を今夜(こよひ)の友と定め、幽かなる御灯(ごとう)の光をたよりとして、暫く、まどろみければ、人、あり、枕元に立寄りて、驚ろかす。

 商人、起き上がりて、見れば、靑き直衣(なほし)に、烏帽子着(き)たる男、ありて、いふやう、

「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」

といふ。

 商人、

『心得ぬ事。』

と思ひながら、傍にのきて見居たれば、美女一人、女(め)の童(わらは)を召しつれ、拜殿に昇る。

 むしろの上に、錦のしとねを敷き、灯火(ともしび)かゝげ、酒・さかな、取り出し、かの女、かたはらを見めぐらし、商人、うづくまり居たるを見て、少し打ち笑ひ、

「如何に、そこにおはするは、旅人なりや。道に行暮れて、それならぬ所に夜を明かすは、侘しきものとこそ聞くに、何か苦しかるべき、こゝに出て、遊び給へ。」

といふに、商人、嬉しくて、恐れながら、這出つゝかしこまる。

「只、近く寄て、打解け、酒飮み給へ。」

とて、しとねの上に呼びて、打向ひたる氣はひ、誠に太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり、といひけむ楊貴妃は、昔語りに聞き傳ふ。一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人は、目に見ねば、そも、知らず。

『これは。如何なる人のこゝにおはしけむ。如何なる緣ありて、此座には、つらなるらん。夢か、夢にあらざるか、知らず。』

我ながら、魂(たましゐ)浮かれて、更にうつゝとも、思はれず。

 女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし、白き齒は、雪にもたとふべし。腰は絲を束(たば)ねたるが如く、指は筍(たかんな)の生出〔おひいで〕たるに似たり。物いふ聲、いさぎよく、言葉、さすがに、ふつゝかならず。

 主君の女房、盃、とりて、商人にさしければ、覺えず、三獻(こん)を受けてのみければ、女の童、箜篌(くこう/コキウ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を取出して、彈く。

 女房は、東琴(あずまごと)、取出〔とりいだ〕させ、柱(ことぢ)たてならべ、調子、とりて、さゝやかに歌うて彈(ひき)けるに、商人、魂、飛び、心、消えて、數盃(すはい)を傾け、其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌をうたふ。

 聲、よく調(とゝの)ほり、曲節(ふし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]おもしろきに、琴(きん)・箜篌(くこう)のしらべを合はせければ、雲井に響き、社頭にみちて、梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也。

 商人、大〔おほき〕に醉(えひ)て、ふところをさぐるに、白銀花形(びやぎんくわがた)く)の手箱あり。

 之れを、女房に奉る。

 又、玳瑁(たいまい)の琴爪一具を包みて、女の童に與へ、手をとりて、握りければ、女の童、

「爾(にこ)」

と、笑ひて、手をしめ返しけるを、主君の女房、見つけて、妬(ねた)む色、外に現れつゝ、

 あやにくにさのみなふきそ松の風

   我(わか)しめゆひし菊のまがきを

とて、そばにありける盃の臺(だい)をとりて、女の童が容(かほ)に投げつけしかば、破れて、血、流れ、袂(たもと)も衣裏(えり)も、くれなゐになりければ、商人、驚きて、立上がると覺えし、夢は覺めたり。

 夜あけて後(のち)、懸け並べたる神前の繪を見るに、錦のしとねの上に、美しき女房、琴を彈き、其の前に、女の童、箜篌(くこう)を彈きける。

 其のかたわらに、靑き直衣(なおし)に、烏帽子、着たる男、坐して有り。

 女の童のかほ、大に破れたる痕(あと)あり。

 夢のうちに見たりける容(かほ)かたちに、少しも違(たが)はず。

 疑ひもなく、この繪に書きたる女の、夢に戯ふれ遊びけるが、繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり。

 そもそも、この繪は、誰人〔たれひと〕の筆といふ事を、知らず。

[やぶちゃん注:「御香の宮」京都府京都市伏見区御香宮門前町(ごこうぐうもんぜんちょう)にある御香宮神社(ごこうのみや(ごこうぐう)じんじゃ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『伏見地区の産土神で』、『神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇』の他、『六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める』。『初めは「御諸神社」』(みもろじんじゃ)『と称した。創建の由緒は不詳であるが』。貞観四(八六二)年に『社殿を修造した記録がある。伝承によると』、『この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として』現在も湧いている。『全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く』、『神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である』とある。「新日本古典文学大系」版脚注には、『秋の祭礼は十月九日。境内では諸芸能の興行も行われた』とある。

「湯を參らせて」所謂、「湯立神事(ゆだてしんじ)」「湯立神楽(ゆだてかぐら)」のことであろう。大釜に湯を沸かし、笹を熱湯に浸して、それを身に振りかけて、その年の吉凶を占ったり、無病息災・五穀豊穣を願うもので、今も全国各地の神社で行われいる。

「文龜年中」一五〇一年から一五〇四年まで。室町幕府将軍第十一代足利義澄。

「都七條」現在の七条通り。「平安条坊図」で確認されたい。

「小椋堤(をぐらつゝみ)」現在の京都府宇治市小倉町(おぐらちょう)附近にあった巨椋池の堰堤。「今昔マップ」を見るのが一番。彼はここから北へ伏見の里を縦断し、宇治川を渡り。「御香の宮」の近くまで来たが、完全に日暮れて、人気なく、妖しい狐火や、ごく近くの叢から狼の声も聴こえてきたので、急遽、宮に仮泊まりすることとしたのであった。「御香の宮」から「七条通り」中央位置までは、実測で九キロメートル弱はある。

「驚ろかす」商人を目覚めさせた。

「靑き直衣(なほし)」一般には公卿の平常服。令制の朝服付属としては正式には冠を被るが、略式では烏帽子でよかった。また、位階によって色が決められた位袍(いほう)ではない雑袍(ざっぽう)であったから、特に色は自由であった。室町期には将軍もこの格好を日常服とした。

「心得ぬ事」このような夜更けに、かくも人離れした場所であるから、不審に思ったのである。

「太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり」中唐の詩人白居易の著名な「長恨歌」の貴妃亡き後の一節。「太液芙蓉未央柳 芙蓉如面柳如眉」(太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳 芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし)。全篇は私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を見られたい。「太液」太液池。中国の歴代王朝の宮殿にあった池の名。漢代には長安城外の未央宮(漢の長安城内南西隅にあった宮城。前漢の高祖の時、紀元前二〇〇年から丞相の蕭何(しようか)が中心となって築き、恵帝から平帝までの皇帝が皇居とした。東闕・北闕・前殿を始め、宣室殿・温室殿・清涼殿などの多数の殿閣・武庫・太倉等があったと伝える。王莽(おうもう)の時に廃され、後漢末に修復され、その後の前趙・西魏・唐代にも修復された。遺跡は陝西省西安市北西郊にあり、宮牆はおよそ東西二・三キロメートル、南北二キロメートルもあった)内に、唐代には大明宮内に、明・清代には北京の西苑内にあった。「長恨歌」は当代朝の皇帝玄宗を憚って、主人公を「漢皇」としてある。

「一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人」「李夫人」(生没年不詳)は前漢の武帝の夫人(側室)。楽人李延年・将軍李広利(司馬遷は彼の嘘が大きな理由となって宮刑に処せられた)らは彼女のお蔭で出世した兄である。兄延年は歌舞を得意とし、既に武帝に侍していたが、そこで「北方有佳人 絕世而獨立 一顧傾人城 再顧傾人國 寧不知傾城與傾國 佳人難再得」(北方に佳人有り 絕世にして獨立す 一顧(いつこ)すれば 人の城を傾け 再顧すれば 人の國を傾く 寧(いづく)んぞ傾城(けいせい)と傾國(けいこく)とを知らざらんや 佳人は 再び得難し)という歌曲を歌い舞った。これが実は延年の実の妹のことであることを聴いた武帝が宮室へ迎え入れて寵愛したのであった。しかし、病いのために若くして亡くなった。武帝は彼女を失った悲しさのあまり、夫人の面影を求め、方術士に命じ、西海聚窟(しゅうくつ)州にある香木反魂樹(はんごんじゅ)から名香「反魂香」を製造させ、この香を薫じた煙の中に夫人の姿が現われたという話でも有名である。

「女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし……」言わずもがなであるが、以下はこの「女童(めのわらわ)」を描写したもので、さればこその桃源郷が破られる嫉妬の伏線というわけである。ここでは読者自身が、好色な商人の目線と一体化し、彼女のあらゆる部分を拡大して見ることになる、すこぶる映像的に優れた伏線パートと言える。

「腰は絲を束(たば)ねたるが如く」所謂、柳腰でしなやかな肢体を形容したもの。

「筍(たかんな)」タケノコ。

「いさぎよく」清らかに澄み渡って、けがれがなく。

「三獻(こん)」「さんごん」とも。中世以降の酒宴の礼法で、一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変え、その度に大・中・小の杯で一杯ずつ繰り返し、併せて九杯の酒を勧めるもの。

「箜篌(くこう/コキウ)」現在は「くご」と読むことが多い。東洋の弦楽器の一つで、琴(きん:現在の琴とは全くの別物)に似た「臥(ふせ)箜篌」、ハープによく似た「竪(たて)箜篌」、先端に鳳首の装飾を施した「鳳首箜篌」があったが、早くに滅びた。

を取出して、彈く。

「東琴(あずまごと)」これは本邦の和琴(わごん)。

『其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌』不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である五朝小説「靈鬼志」の「勝兒」の中の『「浪蹙波、翻倒溟渤」の句に拠ったか』とある。

「梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也」歌が上手いことの喩え。本書の巻頭の「竜宮の上棟」で既出既注

「醉(えひ)て」読みは元禄版。ママ。

「白銀花形(びやぎんくわがた)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『しろがね(銀)の花形』(はながた)『細工を施した手箱(小物入れ)』おある。

「玳瑁(たいまい)」一属一種のカメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を用いた、本邦が最も品位の技術を持つ鼈甲細工の原料とされた。私の妻の三味線の撥も合成樹脂の本体に先の部分を鼈甲を張り付けたものである。無論、象牙製が一番いいのだが、現在、象牙の撥は数百万円するだろう。

「主君の女房」挿絵の注でも疑義を呈したが、私はこれはここでは「女の童」の仕える「主君」である「女房」の意であると採る。拝殿の下に控えているのは、その女主人の公家に仕える公家侍である。例えば、事実、公家方でも、夫が早く病死して、未亡人が男児が元服するまで女主人としてあった場合は幾らもあったし、名門の場合には、娘或いは養子を得るまで、女主人が長く仕切ったケースもある。だから――「主君」である「女房」――に私は何らの違和感も感じないのである。ダメ押しで言っておくと、そもそもが最初に直衣の男は商人に、「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」って実に丁寧に言いかけている。そこで彼は女だけでなく、この商人にさえも尊敬語を使っている。だいたいからして、妻のことを「止事(やごと)なき御方」って主君が言うかね?

「あやにくにさのみなふきそ松の風我しめゆひし菊のまがきを」整序すると、

 生憎(あやにく)にさのみな吹きそ松の風

      我が締め結ひし菊の籬(まがき)を

「生憎(あやにく)」は感動詞「あや」+形容詞「にくし」の語幹から生じた副詞で、意に反して不都合なことが起こるさま。現在の「あいにく」と同じ。「締め」には美しく紐で「〆め」って造った菊の籬のそれに、女童が商人が握った手を秘かにぎゅっと「締め」返して恋慕に応じたことを掛けている。「吹き」には「拭き」を掛けて、濃厚に手と手を拭き合わせるさまに掛けてあるようにも、また、私が「占め」るべきはずだった男という含みもあれば、嫉妬の炎はいやさかで、よりインパクトが強くなるように私は詠んだ。言うまでもなく、「籬」は古代の恋愛の際の「歌垣(うたがき)」を意識したものである。

「衣裏(えり)」「襟」に同じ。

「繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり」「さても、これを以って、たとえ、たかが絵であっても、そこに描かれたのが、情欲にかられること多き、罪深き「女」であればこそ、もの妬(ねた)みをすることがある、ということがはっきりしたのである」。作者の浅井了意は浄土真宗の僧であるから、こうした謂いをしても何らの疑問は感じない。そもそも、色情を最初に持ったのは、えげつない商人の男の方である。彼がそうしたものを自ら戒めていなかったことこそが、この桃源郷の崩壊の元凶なのである。]

2021/06/10

伽婢子卷之六 死難先兆 / 伽婢子卷之六~了

 

   ○死ㇾ難先兆(なんにしすのせんてう)

 

Sisurunanizentyou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)のものを用いた。]

 

 享德(かうとく)年中に、細川右京大夫勝元が家人〔けにん〕、磯谷(いそのや)甚七といふもの、晝寢を致しけり。

 其の妻、面(おもて)に出〔いで〕たれば、誰とも知れざる人、右の手に、太刀を引きそばめ、左の手に、磯谷が首を、ひつさげて、走り出て、去りけり。

 妻、大〔おほき〕に驚き恐れて、内に入〔いり〕て見れば、磯谷は、前後も知らず、臥(ふ)して、あり。

 妻は、胸、つぶれ、手足、なえて、只、夢の如くに覺えたり。

 かくて、驚かしければ、磯谷、ねふりを覺まし、起きあがり、

「我れ、夢に、或る人、それがしの首、うちきりて、もち去る、と、みたり。怪しくも、心にかゝる也。」

とて、やがて、山臥(〔やま〕ぶし)を雇ひ、「夢ちがへの法」を、おこなはしむ。

 其月の末に、主君勝元が、將軍家に御いきどをりをかうぶる事ありて、是れを陳(ちん)じ申さんが爲に、とがを家人におふせて、是非なく磯谷が首を切らせ、これをもつて我身の科(とが)をのがれたり。

 

 

伽婢子卷之六終

[やぶちゃん注:「享德(かうとく)年中」歴史的仮名遣は「きやうとく」が正しい。一四五二年から一四五五年まで。室町幕府将軍は足利義政。

「細川右京大夫勝元」(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)室町中期の武将。室町幕府管領。右京大夫(うきょうのだいぶ)。一時、武蔵守を兼ねた。細川持之(もちゆき)の子。嘉吉二(一四四二)年に十三歳で細川宗家を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐守護を兼任。文安二(一四四五)年、僅か十六歳で管領となり、幼少の将軍義政を助けた。前後三回延べ二十年あまりに亙って管領に在任した。山名宗全(持豊(もちとよ))の娘を妻とし、宗全と結んで、畠山氏の内争に干渉したが、次いで、政所執事伊勢貞親と結んで、赤松氏の再興を助け、斯波義敏・畠山政長を援助して、斯波義廉(よしかど)、畠山義就(よしなり)を援助する宗全と対立することとなり、遂に味方の諸大名を京都に結集させ、応仁元(一四六七)年、約十一年に及ぶ「応仁の乱」の口火を切ってしまった。勝元は将軍義政を擁し、東軍の総大将として宗全の率いる西軍と戦ったが、勝敗が決しないうち宗全が没し、勝元もその約二ヶ月後のに病没してしまった。生活は華美であったが、和歌・絵画・犬追物を嗜み、医術を研究し、また、妙心寺の義天玄承・雪江宗深に参禅、京に龍安寺、丹波に龍興寺を創建してもいる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「磯谷(いそのや)甚七」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「廿八日、徳本すでに建仁寺の西来院に居て政長に家督を継しむ。勝元これをめしつれて将軍家の御前にまかり出る。しかるに今度の事いきどをりふかくおはしましければ、勝元その家人磯谷(いそやの)某が所ㇾ為なりとて、これが首を切て陳じ申す(本朝将軍記・義政・享徳三年八月)』とある。この「本朝將軍記」は本書の筆者浅井了意の作であるが、史実としてあったらしい事件があるようである。

「驚かしければ」寝ている磯谷を起こしたところ。

磯谷、ねふりを覺まし、起きあがり、

「我れ、夢に、或る人、それがしの首、うちきりて、もち去る、と、みたり。怪しくも、心にかゝる也。」

「夢ちがへの法」悪夢を見た際、それが正夢とならぬように咒(まじな)いをすること。

「其月の末」先の注記載が事実なら、享徳三(一五四五)年八月の末ということになる。]

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