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カテゴリー「浅井了意「伽婢子」」の7件の記事

2021/04/17

伽婢子卷之三 鬼谷に落て鬼となる

 

    ○鬼谷(きこく)に落(おち)て鬼(をに)となる

 若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)といふ所に、蜂谷(はちや)孫太郞といふ者あり。家、富み榮えて、乏(ともし)き事、なし。この故に、耕作・商賣の事は心にも掛けず、只、儒學を好みて、僅(わづか)に其(その)片端(かたはし)を讀み、

「是に過〔すぎ〕たる事、あるべからず。」

と、一文不通(〔いち〕もんふつう)の人を見ては、物の數ともせず、文字學道(もんじがくだう)ある人を見ても、

「我には優(まさ)らじ。」

と輕慢(けうまん)し、剩(あまつさ)へ、佛法をそしり、善惡因果のことわり、三世流轉の敎(をしへ)を破り、地獄・天堂・裟婆・淨土の說をわらひ、鬼神(きじん)・幽靈の事を聞〔きき〕ては、更に信ぜず、

「人、死すれば、魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる。形〔かたち〕は土となり、何か、殘る物、なし。美食に飽(あき)、小袖着て、妻子ゆたかに、樂(らく)をきはむるは、佛よ。麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず、麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に、妻子を涸却(こきやく)し、辛苦するは、餓鬼道よ。人の門〔かど〕にたち、聲をばかりに、物を乞(こふ)て、わけをくらひて、きたなしとも、思はず、石を枕にし、草に臥(ふし)て、雪、降れども、赤裸(あかはだか)なる者は、畜生よ。科(とが)を犯し、牢獄に入られ、繩をかゝり、頚(くび)をはねられ、身をためされ、骨を碎かれ、或は、水責(〔みづ〕ぜめ)・火刑(ひあぶり)、磔(はりつけ)なんどは、地獄道也。これを取扱ふ者は、獄卒よ。此外には、總て、何も、なし。目にも見えぬ來世の事、まことにもあらぬ幽靈の事、僧・法師・巫(かんなぎ)・神子(みこ)のいふ所を信ずるこそ、おろかなれ。」

と云ひ罵り、たまたま諫むる人あれば、四書六經(りくけい)の文(もん)を引出(ひき〔いだ〕)し、邪(よこしま)に義理をつけて、辨舌にまかせて、いひかすめ、放逸無慚なる事、いふばかりなし。

 時の人、「鬼孫太郞」と名付て、ひとつ者にして、取合(とりあは)ず。

 或時、

「所用の事に付〔つき〕て、敦賀に赴く。」

とて、唯一人、行けるが、日〔ひ〕たけて家を出たりければにや、今津川原(いまづ〔かはら〕)にして、日は暮(くれ)たり。

 江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ、人の往來(ゆきき)も、まれなり。たやすく宿かす家も、なし。

 河原おもてに出〔いで〕て、見渡せば、人の白骨(はくこつ)、ここかしこに亂れ、水の流(ながれ)、ものさびしく、日は暮はてゝ、四方〔よも〕の山々、雲、とぢこめ、立寄るべき宿も、なし。

「いかゞすべき。」

と思侘(おもひわ)びつゝ、北の山ぎはに、少し茂りたる松の林あり。

 こゝに分入〔わけいり〕て、樹の根をたよりとし、すこし、休み居(ゐ)たれば、鵂鶹(ふくろう)の聲、すさまじく、狐火(きつねび)の光り、物凄く、梢に渡る夕嵐〔ゆふらん〕、いとゞ、身にしみて、何となく心細く思ふ所に、左右を見れば、人の死骸、七つ、八つ、西枕・南かしらに、臥(ふし)倒れてあり。

 蕭々(せうせう)たる風のまぎれに、小雨(こさめ)、一とほり、音づれ、電(いなびかり)、ひらめき、雷(いかづち)、なり出〔いで〕たり。

 かゝる所に、臥倒れたる尸(しかばね)、一同に、

「むく」

と起(おき)上り、孫太郞を目掛けて、よろめき、集(あつま)る。

 

Kikoku1

 

 恐ろしさ、限りなく、松の木に登りければ、尸(しかばね)ども、木のもとに立寄り、

「今宵の内には、此者は、取るべき也。」

と、のゝしる間(あひだ)に、雨、ふり止み、空、晴れて、秋の月、さやかに輝き出たり。

 たちまちに、ひとつの夜叉(やしや)、走り來れり。

 身の色、靑く、角(つの)、生(おひ)て、口、廣く、髮、亂れて、兩の手にて、尸をつかみ、首を引拔き、手足をもぎ、是をくらふ事、瓜(うり)をかむが如くにして、飽(あく)までくらひて後(のち)、わが登り隱れたる松の根を枕として臥(ふし)たれば、鼾睡(いびき)の音、地に響く。

 孫太郞、思ふやう、

『此〔この〕夜又、睡り覺めなば、一定〔いちぢやう〕、我を引おろして、殺し、くらはん。たゞ、よく寢入たる間に、逃げばや。』

と思ひ、靜かに樹(き)をくだり、逸足(いちあし)をいだして、走り逃げければ、夜叉は目を覺(さま)し、隙間(すきま)もなく、追(をひ)かくる。

 山の麓に古寺あり。軒、破れ、壇、くづれて、住僧もなし。

 うちに、大體(〔だい〕たい)の古佛(こぶつ)あり。

 こゝに走入(はしり〔いり〕)て、

「助け給へ。」

と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。

 孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり。

 夜叉は、あとより駈(かけ)入て、堂の内を搜しけれども、佛像の腹までは思ひ寄らざりけむ、出て去(さり)ぬ。

 

Kikoku2

 

『今は、心安し。』

と思ふ所に、この佛像、足拍子、ふみ、腹をたゝきて、

「夜叉は、是を求めて、とりにがし、我は、求めずして、おのづから得たり。今夜の點心、まうけたり。」

と、うたふて、

「からから」

と打笑ひ、堂を出て、步みゆく。

 かしこなる石に躓きて、

「はた」

と倒れ、手も足も、うちくだけたり。

 孫太郞、穴より出て、佛像にむかひ、

「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」

と罵りながら、堂より東に行けば、野中に、ともしび、かゞやきて、人、多く、坐〔ざ〕してみゆ。

 是に力を得て、走り赴きければ、首なきもの、手なき者、足なきもの、皆、赤裸にて、並び坐したり。

 孫太郞、きもをけし、走りぬけん、とす。

 ばけもの、おほきに怒りて、

「我等、酒宴する半(なかば)に、座〔ざ〕をさます事こそ、やすからね。とらへて、肴(さかな)にせむ。」

とて、一同に立〔たち〕て、追(をひ)かくる。

 

Kikoku3

Kikou32

[やぶちゃん注:上が岩波文庫版、下が「新日本古典文学大系」版。下は清拭が面倒なので、荒い粒子が見えたままに添えてある。悪しからず。] 

 

 孫太郞、山ぎはにそふて、はしりければ、川、あり。

 ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば、妖(ばけもの)は立〔たち〕もどりぬ。

 孫太郞、足(あし)にまかせて、ゆく。

 耳もとに、猶、どよみのゝしる聲、きこえて、身の毛(け)よだち、人心〔ひとごこ〕ちもなく、半里ばかりゆきければ、月、すでに、西にかたふき、雲、くらく、草しげりたる山間(〔やま〕あい[やぶちゃん注:ママ。])に行〔ゆき〕かゝり、石につまづきて、ひとつの穴に、落入〔おちいり〕たり。

 その深き事、百丈ばかり也。

 やうやう、落〔おち〕つきければ、なまぐさき風、吹〔ふき〕、すさまじき事、骨(ほね)に、とをる[やぶちゃん注:ママ。]。

 光り、あきらかになりて、見めぐらせば、鬼(おに)のあつまりすむところなり。

 あるひは、髮、赤く、兩の角(つの)、火のごとく、あるひは、靑き毛、生(をい)て、つばさあるもの、又は、鳥のくちばしありて、牙(きば)、くひちがひ、又は、牛の頭(かしら)、けだものゝおもてにして、身の色、あかきは、靛(べに)[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火焰を吐く。

 孫太郞が來るを見て、互(たがひ)に曰く、

「これ、此國の障(さは)りとなる者ぞ。取逃(とりにが)すな。唯、つなげよや。」

とて、鐵(くろがね)の杻(くびかせ)[やぶちゃん注:ママ。]をいれ、銅(あかゞね)の手械(てかせ)さして、鬼の大王の庭の前に、引すゆる。

 

Kikoku4

 

 鬼の王、大きに怒りて、曰(いはく)、

「汝、人間にありて、漫りに三寸を動かし、唇を飜(ひるが)へし、『鬼神(おにがみ)・幽靈、なし』といふて、さまさま、我等をないがしろにし、辱(はぢ)をあたふる、いたづら者也。汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす。

 「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛(さかん)なるかな』と。

 「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と。

 「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と。

 「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と。

 その外、「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり。

 唯、「怪力亂神を言はず」と云へる一語を、邪(よこしま)に心得て、みだりに鬼神(きしん)を悔る事は、何のためぞ。」

とて、則ち、下部(しもべ)のおにゝおほせて、散々に打擲〔ちやうちやく〕せしむ。

 鬼の王のいはく、

「その者の長(たけ)、たかく、なせ。」

と。

 鬼ども、あつまりて、くびより手足まで、ひきのばすに、にはかに、身の長(たけ)三丈ばかりになり、竹の竿(さほ)のごとし。

 鬼ども、笑ひ、どよめき、をしたてゝ、あゆまするに、ゆらめきて、打〔うち〕たをれたり。

 鬼の王、又、いひけるは、

「其者を、身の長(たけ)、短かく、せよ。」

と。

 鬼ども、又、とらへて、團子(だんご)のごとく、つくね、ひらめしかば、にはかに、よこはたがりに、みじかくなる。

 突立(つきたて)て、あゆまするに、

「むぐむぐ」

として、蟹(かに)のごとし。

 鬼共、手を打て、大〔おほき〕に、わらふ。

 こゝに、年老たる鬼の云ふやう、

「汝、常に鬼神(きしん)をなきものと、いひやぶる。今、この形〔かたち〕を、長く、みじかく、さまざま、なぶり、もてあそばれ、大なる辱(はぢ)を見たり。まことに不敏(びん)[やぶちゃん注:ママ。「不憫」の当て字。]の事なれば、宥(なだめ)あたへん。」

とて、手にて提(ひつさげ)、なげしかば、孫太郞、もとのすがたに、なる。

「さらば、是より、人間〔にんげん〕に返すべし。」

といふ。

 鬼ども、みな、いはく、

「此者を、只、返しては、詮(せん)なし。餞(はなむけ)すべし。」

とて、ある鬼、

「われは、雲路を分(わく)る角(つの)を、とらせん。」

とて、兩(ふたつ)の角を、孫太郞が額(ひたひ)に、をく。

 ある鬼は、

「われ、風にうそぶく嘴(くちばし)を、あたへん。」

とて、鐡(くろがね)のくちばしを、孫太郞がくちびるに、くはへたり。

 ある鬼、

「我は、朱(あけ)にみだれし髮(かみ)を、ゆづらん。」

とて、紅藍(べに)の水にて、髮を、そめたり。

 ある鬼、

「我は、みどりにひかる晴(まなこ)を、あたへん。」

とて、靑き珠(たま)、ふたつを、目の中に、をし入〔いれ〕たり。

 

Kikoku5

[やぶちゃん注:これは、「新日本古典文学大系」版であるが、これはかなり限界まで拘って、清拭しておいた。] 

 

 すでに送られて、あなを出〔いで〕つゝ、

『家に、かへらん。』

と思ひ、今津川原(いまづかはら)より、道にさしかゝれば、雲路を分る、兩の角、さしむかひ、風にうそぶく、くちばし、とがり、朱(あけ)にみだれし髮、さかしまにたちて、火のごとく、碧(みどり)の光りをふくむ、まなこ、輝き、さしも、おそろしき、鬼のすがたとなり、熊川にかへり、家に入たれば、妻も下人も、おそれ、おどろく。

 孫太郞、なみだを流し、

「かうかうの事ありて、此すがたになりしか共(ども)、心は、ゆめゆめ、かはらず。」

といふに、妻は、

「中々。此有樣、目の前に直(ぢき)に見るも、なさけなく、悲し。」

とて、孫太郞がかしらに、かたびら、打掛(うちか)けて、唯、なき、悲しむより外はなし。

 幼(いとけ)き子供は、怖れ、なきて、逃げ、あたりの人、集りて、手をうちて、恠しみ、見る。

 孫太郞も、物憂く覺え、戶を閉ぢて、人にも逢はず、物をも食(くは)ず、打籠(うちこも)り、思ひに亂れて、煩(わづら)ひ付き、遂に、むなしくなりぬ。

 そののち、時々は、元の孫太郞が姿にて、幻の如く、家のめぐりを步(あり)きけるを、佛事、營みければ、二たび、見えずとぞ。

 

[やぶちゃん注:本篇では挿絵(全四部七幅)の内、幾つかを「新日本古典文学大系」版ではなく、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊。国立国会図書館本底本)のそれを用いてみた。汚損の印象が前者よりも軽く、清拭が遙かに簡単だからである。但し、「新日本古典文学大系」版とは、少し異なっており、そちらでは、三枚目の河原の亡者のそれは、中央奥と手前の灯明台の右横の亡者の首が存在しない。筆のタッチを見るに、これは旧所蔵者のものを、子ども辺りが付け加えてしまったもののように見える。それはそれで、却って透けてみる頭部のようで面白い。しかし、本文と矛盾するので、その一枚のみ前者の版を並置した。また、最終画は後者が蜂谷の子どもと小者の顔が白くとんでしまっていることから、前者を採用した。なお、元禄版では閻魔庁の一枚しか載っていない。

「若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)」現在の福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町(わかさちょう)熊川(くまがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在の三方上中郡若狭町の南端に当たり、山間部であるが、福井県と滋賀県の境にあり、小浜と近江・京都を結ぶ「若狭鯖街道」の宿場熊川宿として栄えた地である。

「蜂谷(はちや)孫太郞」不詳。

「一文不通(〔いち〕もんふつう)」無学文盲。

「文字學道(もんじがくだう)」学識を持ち、学問の道に志していること。「學道」は、特に「仏道を学んで修行すること」を指すことが多い。

「我には優(まさ)らじ。」

「破り」否定し。

「天堂」ここでは前後から、六道の最上位で、人間道(にんげんどう)の上に位置する三善道のトップである天上道(他に天道・天上界・天上・天有(てんぬ)・天界(てんかい/てんがい)・天趣などの異名有り)のことであろうが、あまり聴かない異名ではある。我々のいる人間道の地上から遙か上方にあると考えられており、六道の中では相対的には最も苦悩の少ない世界とされ、輪廻の中にあって最高最勝の果報を受ける有情が住む清浄な世界とされる。そこに住むのは天人であり、長寿にして空を飛ぶなどの神通力も有し、六道の中では、相対上、最も快楽に満ち、苦しみは殆んどないとされる。但し、天道も所詮、輪廻のサイクルとしての六道の一つに過ぎず、天人も衆生であって、悟りを開いているわけではなく、而して当然、煩悩からも解放されてはいない。従って、何時かは死に、また、輪廻転生せねばならぬのである(その天人が死ぬ前に現われる穢れの予兆現象を「天人五衰」と呼ぶのである)。

「裟婆」人間道と同義。

「魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる」古代中国では、人間の霊的存在は「魂」と「魄」の二様があり、死ぬと「魂」は空に消え、「魄」は地深くに去るとされた。

「小袖」大袖(朝廷の即位・朝賀等の最も重要な儀式に用いる礼服(らいふく)の上の衣。小袖の上に着し、袖口が広く、袂が長い)或いは広袖(平袖(ひらそで)。袖口の下を縫い合わせていない袖。長襦袢・丹前・夜着などに用いる。)。の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物を指す。当初は筒袖で、平服或いは大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされるようになり、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の代表的種別となった。縫箔・摺箔・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じ、最も華やかな衣服となった。

「麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず」「粗食をさえも、口にして、腹を満たす暇(いとま)さえ惜しんで」。後半部は原文自体の表現が意味上は上手くない。

「麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に」「麻一重の粗末な着物をさえ、肩を裾と間違えて結んでいるのにも気づかぬほどに、馬車馬のように働き」。同前。

「妻子を涸却(こきやく)し」以上で注したように、生活をぎりぎりまで詰まらせて刻苦勉励して働いても、結果、金に困って、妻や子を女衒(ぜげん)に売り払うこととなり。

「わけ」「分」。これで既に「少しばかりの食い残し。残飯」の意。分け与えた物の意ではないので注意!

「これを取扱ふ者」獄吏だけではなく、刑事事件を扱う奉行などの上下官吏全般を指す。則ち、蜂谷は仏教の地獄思想は現実社会の表象、喩え以外の何物でもないと喝破しているのである。現在の地獄思想は中国で、偽経を元にまさしくそうした現世の辛苦の鏡としての世界として形成され、浄土教がそれを体系化し、本邦でも広く信ぜられるようになったのであって、この蜂谷という男は、如何にもしったかぶった感じで厭な奴であるが、その言っているところはある意味で如何にも腑に落ちると言える。或いは、浄土真宗の僧であった作者浅井了意も、どことなく、そうした考えを持っていはしなかったろうか、と、ふと、思わせる蜂谷の口つきではある。

「六經(りくけい)」儒教の基本的な教学書としては「五経」が知られるが、古くは六つあったとされ、既知のそれに儀礼に関わる音楽について述べたものとされる「楽経」(がっけい)が挙げられていた。しかし、これは命数のみで、当該書は全く伝わっておらず、一説には秦の「焚書」で失われたとも、また、もともと存在しなかったともされる。但し、「楽経」の注釈書とされる「楽記」(がっき)なるものが、前漢の戴聖によって「礼記」(らいき)の中に所収されてはいる。そもそも「六経」は、先秦の儒家系の知識人が必須教養としたジャンルとしての詩・書(君子思想)・礼・楽(がく)という文学・政治及び規範的文化的素養を兼ね備えた四つの科(学問分野)は、戦国時代から漢代にかけて、儒教の正統的文献として次第に経典化されて整備されていったが、その過程で儒家はそれに加えるに、春秋 (歴史学・政治学)と易 (哲学・修身) の二つの教科をつけ加え、この命数としての「六経」を基本経典をシンボライズするものとして絶対定義させたのであった。後、武帝の「経学博士」の設置の際、「楽」を除いた五経、「易」・「書」・「詩」・「礼」・「春秋」がその必須教学の対象となったのである。

「いひかすめ」「言ひ掠め」上手く誤魔化して言いくるめ。

「放逸無慚」我儘で恥知らずなこと。

「ひとつ者」小学館「日本国語大辞典」に『誰も相手にしてくれないもの。仲間はずれ』とある。

「今津川原(いまづ〔かはら〕)」滋賀県高島市今津町。琵琶湖の北西岸。熊川から敦賀に行くのは、若狭湾を北右回りに廻るルートよりも、一度、琵琶湖に出て、塩津を経て、北上するコースの方が、遙かに整備されていたものと思われる。以下、初期設定のロケーションは今津川沿いであるから、こことなる(国土地理院図)。

「江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『天正十一』(一五八三:グレゴリオ暦改暦の年。その実施が最も早かった国々ではユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)とした)『年、秀吉軍により北庄城』が『落城(太閤記六)』しているので、了意は本篇の作品内時制を『この時の兵乱に託すか。柴田勝家も、その豪胆さから「鬼柴田」と称された(同)』とある。越前の北庄城(きたのしょうじょう)は、サイト「城郭放浪記」の「越前 北庄城」を参照されたい(地図有り)。現在の福井駅の南西直近にあった。

「鵂鶹(ふくろう)」これはちょっと問題がある。読みに従うなら、

フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)

或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群

或いは種としては、

フクロウ属フクロウ Strix uralensis

がいるものの、この漢字表記の方は、

フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称である「ミミヅク」を指す

からである。さらに面倒なのは、「ミミヅク」類をフクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称であるからである(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。則ち、「ミミズク」として代表的な種を示すことが難しいのである。人によっては、「『ふくろう』てルビするんだから、フクロウでいいじゃん。」と言う御仁がいるかも知れぬが、それは出来ない相談なのである。まず、フクロウとするならば、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」の私の注を見て戴きたいが、本州中部に分布する

フクロウ属フクロウ亜種モミヤマフクロウ Strix uralensis momiyamae

とすればいいように思われるかも知れぬけれども、そうは問屋は卸さないわけで、今度は「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」の方の、まず、本文をしっかり見て貰いたいわけだ。そこに、江戸時代の本草学のバイブルである明の「本草綱目」の引用の最後の部分で、

   *

鴟鵂の小さき者、「鵂鶹〔いひとよ〕」と爲す。

   *

(「いひとよ」の読みは私が附した和訓。以下を参照)とあるからだ。則ち、時珍は――「鵂鶹」とは現在のミミズクの小型の種を言う――とわざわざ限定して言っているからである。そこで私は以下のように注を附した。

   *

「鵂鶹〔いひとよ〕」(音「キウリユウ(キョウリュウ)」)小学館「日本国語大辞典」に「いいとよ」(歴史的仮名遣「いひとよ」)の項を設け、この「鵂鶹」の漢字を当て、『「いいどよ」とも』(こちらの濁音形が古形)とした上で『「ふくろう(梟)」の古名』とし、「日本書紀」の皇極天皇三(六四四)年三月の条を引き、「岩崎本」訓読で『休留(イヒトヨ)<休留は茅鴟なり>子を豊浦大臣の大津の宅の倉に産めり』と出すのに従ってルビを振った。但し、「本草綱目」はこれを、「ミミズクの小型種」の名としていると読めるが、前注で出した大修館書店「廣漢和辭典」の「鵂」の使用例を見ても、「鶹」の字を単独で調べてみても、孰れもミミズクのことを指すだけで、特別な小型の限定種を指しているようには思われない。

   *

とした。されば、私はどちらとも言い難いのである。ただ「フクロウ」と無批判に注するわけにはいかないのである。これは私の全くのオリジナルな伝統的古典的博物学趣味に基づく注であり、これは私の注の特色としてどうしても省略出来ない部分なのである。

「夜叉(やしや)」サンスクリット語の「ヤクシャ」及びパーリ語の「ヤッカ」の漢音写で、インド古代から知られる半神半鬼。本来は「光のように速い者」、「祀られる者」を意味し、神聖な超自然的存在と捉えられていたらしい。しばしば、悪鬼羅刹(らせつ)とも同一視される。後に仏教では毘沙門天の従者として仏法を守護する八部衆の一神に位置づけられた。人に恩恵を与える寛大さと、殺害する凶暴さとの両極属性を併せ持つところから、その信仰には、強い祈願と慰撫の儀礼を伴う場合が多い。なお、「夜叉女」(やしゃにょ:「ヤクシニー」の漢音写)も、地母神としての優しさと同時に残忍さを持つことで知られる。

「一定〔いちぢやう〕」必ずや。

「逸足(いちあし)をいだして」脱兎の如くに速走(はやばし)りをして。

「隙間(すきま)もなく」間髪を入れず。直ちに。

「大體(〔だい〕たい)」大振りであること。

「『助け給へ。』と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり」羅刹(らせつ)に追われた肥後の書生が、心中観音を祈請し、墓穴(実は遠い有難い上人のそれ)に逃げ込んで、難を逃れるという構成がかなり酷似した話がある。「今昔物語集」巻第十二の「肥後國書生免羅刹難語第廿八」(肥後國に書生、羅刹の難を免れたる語(こと)第二十八)がある。「やたがらすナビ」のこちらで、新字の原テクストが読める。

「夜叉は是を求めてとりにがし、我は求めずして、おのづから、得たり。今夜の點心、まうけたり。」「夜叉は、こ奴を求めつつも、取り逃がし、儂(わし)は、欲しがってもおらぬに、自然と、まあ! ここに〈仏、自分の腹を指さして〉、瓢箪から駒で、貰うたわい! 今宵の非時(ひじ)を、さあぁて! いただくとしよう」。脚本風に訳した。「非時」とは、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないが、それでは身が持たないので、午後に非公式の食事を摂る。それを、かく呼ぶ。

「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」「我を喰らわんとした故、かくなり災いが、その身に降りかかったればこそじゃて。よく言うであろう、『人を助くるが仏の路』と。その伝家の宝刀のお蔭で我は救われたというわけさ。」という皮肉を言っているのである。夜叉の実在を恐れながら、それを棚上げして、あくまで仏法を蔑ろにする立場を崩さない蜂谷は、救いようがない中途半端な毀仏無鬼論者と言える。

「座〔ざ〕をさます」座の興を醒ます。

「やすからね」「とんでもなく面白くない奴じゃ!」。

「ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば」今津川の川波にすっかり流されたというわけでもなく、かといって、しっかり徒渉したという感じでもないままに、向こう岸に駆け上がるところ。しかし、この川は最早「今津川」ではなかった。図らずも「三途の川」を蜂谷は渉ってしまったのであった。

「百丈」三百三メートル。ここでそれを示すのも阿呆臭いほどに地獄にしては、しょぼい距離だ。『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の注を参照されたい。

「とをる」「徹(とほ)る」。

「靛(べに)」読み不審。この「靛」の字は「青色・藍色」を指す。

[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火熖を吐く。

「此國の障(さは)りとなる者ぞ」勘違いしてはいけない。鬼の獄卒が言うのであるから、現世の人間界を「此」の「國」と言っているのではない。「此國」とは取りも直さず、「地獄」である。地獄にとってさえ、「蜂谷は地獄にとって大いなる禍いとなる禍々(まがまが)しき者だ!」と叫んでいるのである。

「杻(くびかせ)」これは「手械(てかせ)」を指す漢語である。「新日本古典文学大系」版脚注でも問題としてあり、了意は本書の中でも頻繁に用い乍ら、統一した訓を附しておらず、ブレが生じていることを指摘されておられる。なお、「かせ」は「枷」(音「カ」)とも書くが、この本来の訓の「かし」が音変化「かせ」である。

「引すゆる」他動詞ヤ行下二段活用「据ゆ」の連体形。既に鎌倉時代に用例がある。ここは余情を込めた連体止めとなっている。

「三寸」舌。「舌先三寸」で承知。

「唇を飜(ひるが)へし」口角、泡を飛ばして、論難することを指す。

「汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす」「お前は、常に書物に眼を通しておるな。」という確認。

『「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛なるかな』と』「中庸」第十六章に、

   *

子曰、鬼神之爲德、其盛矣乎。視之而弗見、聽之而弗聞、體物而不可遺、使天下之人、齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顯、誠之不可掩、如此夫。

   *

既存の訓読は「詩経」の「大雅」の「抑編」の引用部が気に入らないので、我流で示す。

   *

 子曰く、「鬼神の德、其れ、盛んなるかな。之れを視れども、見えず、之れを聽けども、聞えず、物を體(たい)して、遺すべからず、天下の人をして齋明盛服(さいめいせいふく)させ、以つて祭祀を承(う)けしめ、洋々乎(やうやうこ)として、その上に在るがごとく、其の左右に在るがごとし。「詩」に曰く、『神の格思(いたること) その思(こと)度(はか)るべからず 矧(いはん)やその思(こと)射(いと)ふべけんや』と。夫れ、微(び)の顯(けん)にして、誠(せい)の掩(おほ)ふべからざる、此くのごときかな。

   *

「怪力亂神を語らず」と豪語した孔子にして珍しく鬼神を解説した部分、と言ってもそれは、御覧の通りの、「不可視にして、何時もそれを超感覚として天地・周囲に感ずる対象であると」する。「洋洋乎」は広々としたさま・ゆったりしたさま・限りないさま。「詩経」のそれは、「鬼神の至るのは何時のことなのか知ることは出来ない」し、「ましてや、鬼神を「射(いと)ふ」=「厭(いと)う」=嫌がって無視することは、それ、不可能なことだ」という意であろう。以下、『鬼神とは、不可視の「微」なる本体が、たまたま、示現して「顕」かなものになったかのように見えたものに過ぎず、鬼神の真の徳であるところの「誠」(まこと)は人間如きの知によって解明し得るような対象ではない。さても、鬼神とは、そのような対象なのである』と言っているものと私は解する。そもそもが中国の「鬼」は、本源的にフラットな「死者」の意であり、それは概ね「古えの人々或いは自身の先祖の死者の霊」の意であることを押さえておかずに、専らおぞましいモンスターとしての邪鬼としての鬼しかイメージ出来ない日本人には、これらの漢籍を理解することは出来ない。

『「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と』「論語」「雍也(ようや)第六」の一節。

   *

樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。

   *

樊遲(はんち)、「知」を問ふ。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して、之れを遠ざく。これ、『知』と謂ふべし。」と。

   *

孔子の「知」の理解は、「人民が、日常を保つために、やるべきことを総て行い、死者の御霊(みたま)は敬いつつも、それは日常にあっては遠いところに置いておく」というのである。「鬼神」、則ち、超自然的現象や対象はこれを否定せず、謙虚に敬いはするけれども、現実の生活には、これらを拘わらせないことが、人知のあるべき姿である、とするのである。

『「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と』「易經」の「火澤暌」(かたくき)の一節の「上九 暌孤。見豕負塗。載鬼一車。先張之弤。後說之弤。」(上九 睽(そむ)きて孤(ひとり)なり。豕(ゐのこ)の塗(どろ)を負(を)うを見、鬼(き)を一車に載(の)す。先には之れに弤(ゆみ:弓)を張り、後には之れに弤を說(と)く。)。私は四書五経中、最も「易経」に興味がないので(暗示が過剰で、諸解釈が横行しているからである)解説する気にならないが、引用部は、諸解説を見るに、判り易いものによれば、「鬼神が車に乗っているように見えた。まずはそれを弓で射殺そうとしたが、よくよく見れば、それは錯覚であり、それは鬼神ではなかった。されば、疑い晴れ、弓を捨てた」ということか。本邦の「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な感じか。

『「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と』「詩經」の「小雅」の以下。

   *

爲鬼爲蜮、則不可得。有靦面目、視人罔極。作此好歌、以極反側。賦也。蜮、短狐也。江淮水皆有之。能含沙以射水中人影。其人輒病。而不見其形也。靦、面見人之貌也。好、善也。反側、反覆不正直也。○言汝爲鬼爲蜮、則不可得而見矣。女乃人也。靦然有面目與人相視、無窮極之時。豈其情終不可測哉。是以作此好歌、以究極爾反側之心也。

   *

 鬼たり、蜮たらば、則ち、得べからず。靦(てん)たる面目(めんぼく)有りて、人を視ること、極まり、罔(くら)し。此れ、好(よ)き歌を作りて、以つて、反側を極む。賦なり。蜮は「短狐」なり。江淮の水に、皆、之れ、有り。能く沙を含みて、以つて水中の人影を射る。其の人、輒(すなは)ち病む。而して、其の形は、見えざるなり。「靦」は、面(むか)ひて人を見るの貌(かたち)なり。「好」は、善きなり。「反側」は反覆して正直ならざるなり。

   *

私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」が参考になる。私はそこで、この「蜮」を、通常は目に見えない(見えにくい或いは、たまに奇体な虫として見える)種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症、及び、日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものが、この「蜮に射られる」ことの正体なのではないかと確信的に考えた。さすれば、それは事実に於いては真の「鬼神」の範疇からは外れることになる。

『「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり』前者は「病、膏肓(こうこう)に入る」(「肓」は横隔膜の上の部分、「膏」はその上方にある心臓の下の部分。実際の臓器ではない)の原拠。「春秋左氏傳」の「成公十年」(紀元前五八一年。「新日本古典文学大系」版脚注では『成公十三』とするが、誤りであろう。「成公」は春秋時代の「晉」(晋)(しん 紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の)の君主(在位:紀元前六〇〇年~紀元前五八一年)。

   *

晉景公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩爲之。未至、公夢、疾爲二豎子、曰、「彼良醫也。懼傷我。焉逃之。」其一曰、「居肓之上、膏之下、若我何。」醫至曰、「疾不可爲也。在肓之上、膏之下、攻之不可。達之不及、藥不至焉。不可爲也。」公曰、「良醫也。」厚爲之禮而歸之。

   *

 晉の景公[やぶちゃん注:晋の王(在位:紀元前五九九年~紀元前五八一年)。]、疾(やまひ)病(へい)なり。醫を秦に求む。秦伯醫(しんぱくい)緩(かん)をして、之れを爲(をさ)めしむ。未だ至らざるに[やぶちゃん注:その医師緩が来国する前に。]、公の夢に、疾(やまひ)、二豎子(にじゆし)[やぶちゃん注:二人の子ども。]と爲(な)りて、曰はく、

「彼は良醫なり。我を傷つけんことを懼(おそ)る。焉(いづ)くにか、之れを逃(のが)れん。」

と。

 その一(いつたり)、曰はく、

「肓(こう)の上、膏(こう)の下に居(を)らば、我を若何(いかん)せん。」

と。

 醫、至りて曰はく、

「疾、爲むべからざるなり。肓の上、膏の下に在りて、之れを攻むるは不可なり。之れに達せんとするも、及ばず、藥、至らず。爲むべからざるなり。」

と。

 公曰はく、

「良醫なり。」

と。

 厚く之れが禮を爲(な)して之れを歸(かへ)らしむ。

   *

後者は、同書の「昭公七年」(紀元前五三五年。昭公は魯の第二十五代君主。在位は紀元前五四一年から紀元前五一〇年)の以下。

   *

鄭人相驚以伯有曰、「伯有至矣。」。則皆走。不知所往、鑄刑書之歲二月、或夢伯有介而行曰、「壬子、余將殺帶也。明年壬寅、余又將殺段也。」。及壬子、駟帶卒、國人益懼。齊燕平之月、壬寅、公孫段卒、國人愈懼。其明月、子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故、子產曰、「鬼有所歸、乃不爲厲、吾爲之歸也。」。大叔曰、「公孫洩何爲。」。子產曰、「說也。爲身無義而圖說、從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」。及子產適晉、趙景子問焉曰、「伯有猶能爲鬼乎。」。子產曰、「能。人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂、用物精多、則魂魄强、是以有精爽、至於神明。匹夫匹婦强死、其魂魄猶能馮依於人、以爲淫厲。況良霄。我先君穆公之冑、子良之孫、子耳之子、敝邑之卿、從政三世矣、鄭雖無腆、抑諺曰、『蕞爾國』、而三世執其政柄、其用物也弘矣。其取精也多矣。其族又大、所馮厚矣,而强死、能爲

鬼、不亦宜乎。」。

   *

紀元前五四三年に鄭の貴族伯有が反乱を起こし、国の武器庫を押さえたものの、彼の兄弟によって殺される(襄公三十年)。それから八年後、鄭の国内に伯有の霊の噂が流れ、鄭の人々が恐怖に襲われ、慄いたというのである。長いので訓読しないが、廣野行雄氏の論文「誰が賈探春の母か―「紅楼夢」読解の一前提―」PDF・『駿河台大学論叢』第三十七号・二〇〇八年)の「Ⅲ」に非常に分かり易い全訳が載るので参照されたい。そこでは、恨みを持って死んだ者は貴賤を問わず、祟りを成すことが語られてあり、それを祀って遠ざけるという、本邦の御霊信仰と同義の内容が記されてある。

「つくね」「捏(つく)ねる」。手で捏(こ)ねて丸く団子のように固めること。

「ひらめしかば」平たく潰したところ。

「よこはたがり」「新日本古典文学大系」版脚注では、『足を広げて立つ』とするが、どうもイメージし難い。寧ろ、用法としては、やや難があるが(「がり」は人或いは代名詞について「その人の方」という方向を指す接尾語だからである)、「橫側許(よこはたがり)」か。横側面方向に向かって、ぺったりと平たくなったのである。

「いひやぶる。」「論難しよったな。」。

「宥(なだめ)あたへん。」「ここらで許してやろうぞ。」。

「人間〔にんげん〕に返すべし」老婆心乍ら、これは、「人間の姿に戻してやろう」ではなくて、「人間道に帰してやろう」の意である。

「詮(せん)なし」折角の仕置きも無駄になる。

「餞(はなむけ)」地獄へ来たことを証する餞別。

「うそぶく」ここは「息を吹きかけて大音を発する」の意。

「くはへたり」「加へたり」でもいいが、ここは「啣へ」させ「たり」の方が面白い。

「紅藍(べに)」二字への読み。紅色と青色。又は紫色。植物の「茜(あかね)」の古名や「紅花(べにばな)」の異名でもあるが、ここは地獄の一丁目、相応しくない。亡者の垂らした血のりで出来たどす赤いそれである。

「晴(まなこ)」この漢字は「眼晴」で瞳(虹彩)を限定する。

を、あたへん。」

「かたびら」「帷子」。「袷(あわせ)」の「片枚(かたひら)」だけの意で、裏を附けない衣服の総称。単衣(ひとえ)。

「手をうちて」嘗ては盛んに用いられた、何かを初めて見た時の驚きを表わす動作である。必ずしもポジティヴなものだけでなく、こうしたまがまがしいものに対しても用いた。]

2021/04/15

伽婢子卷之三 妻の夢を夫面に見る

伽婢子卷之三

    ○妻の夢を夫(をつと)面(まのあたり)に見る

 周防山口の城主大内義隆の家人(けにん)、濱田(はまたの)與兵衞が妻は、室(むろ)の泊(とまり)の遊女なりしが、濱田、これを見そめしより、わりなく思ひて、契り深く語らひ、つひに迎へて本妻とす。

 かたち、うつくしく、風流(ふうりう)ありて、心ざま、情(なさけ)深く、歌の道に心ざしあり。

 手も、うつくしう、書きけるが、然るべき前世の契りにや、濱田が妻となり、互に妹脊の語らひ、此世ならずぞ、思ひける。

 主君義隆、京都將軍の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ、久しく都に逗留あり。濱田も、めしつれられ、京にありけり。

 妻、これを戀て、間(ま)なく時なく、待ちわび侍べり。

 比は八月十五夜、空くもりて、月の見えざりければ、

 おもひやる都の空の月かげを

    いくへの雲かたちへだつらむ

と、うちながめ、ねられぬ枕を、ひとり、傾(かたふ)けて、あかしかねたる夜を恨み、臥したり。

 其日、義隆、國にくだり給ひて、濱田も、夜、更(ふく)るまで、城中にありて、漸(ようや)く、家に歸る。

 その家は惣門(そうもん)の外(そと)にあり。

 

Hamada

 

 雲、おほひ、月、くらくして、さだかならざりける道の傍ら、半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ばかりの草むらに、幕、打まはし、燈火(ともしび)あかくかゝげて、男女十人ばかり、今宵の月にあこがれ、酒宴する、と見ゆ。

 濱田、思ふやうは、

「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人〔たれぴと〕か、こよひ、こゝに出〔いで〕て遊ぶらん。」

と恠しみて、ひそかに立寄り、白楊(やなぎ)の一樹(き)繁げりたる間に、隱れてうかゞひ見れば、わが妻の女房も、その座にありて、物いひ、笑ひける。

「是は。そも如何なることぞ。まさなきわざかな。」

と怨み深く、猶、その有樣をつくづくと見入たり。

 座上にありける男、いふやう、

「如何に。こよひの月こそ殘り多けれ、心なの雲や。是に、など、一詞(〔ひと〕ことば)のふしも、おはせぬか。」

といふ。

 濱田が妻、辭しけれども、人々、しひて、

「哥〔うた〕、よめ。」

と、すゝむれば、

 

 きりぎりす聲もかれ野の草むらに

    月さへくらしこと更になけ

 

と、よみければ、柳陰にかくれて聞ける濱田も、あはれに思ひつゝ、淚をながす。

 座中の人は、さしも、興じて、さかづきを、めぐらす。

 かくて、十七、八と見ゆる少年の前に、さかづきあれども、酒を受けざりしを、座中、しひければ、

「此女房の哥あらば、飮(のみ)侍らん。」

といふ。

 女房、

「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」

といふに、きかず。

 さて、かくなむ。

 

 ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞ

    わかきも年はとまらぬものを

 

 さかづき、あるかたにめぐりて、濱田が妻に、

「又、歌うたひ給へ。」

といふに、今樣一ふしを、うたふ。

 

 さびしき閨(ねや)の獨ねは

 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや

 そよぐにつけて音づれの

 絕ても君に恨はなしに

 戀しき空にとぶ雁に

 せめて便りをつけてやらまし

 

その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて、

 

  螢火穿白楊

 悲風入荒草

 疑是夢中遊

 愁斟一盃酒

[やぶちゃん訓読文:底本には結句に返り点がないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本で補った。承句は底本の読みは『うたがふらくはこれむちうのあそび』であるが、気に入らないので、手を加えた。

   *

 螢火(けいくわ)は白楊(はくやう)を穿(うが)ち

 悲風 荒草(くわうさう)に入る

 疑ふらくは 「是れ 夢中の遊びか」 と

 愁へ 一盃の酒を斟(く)む

   *]

 

と吟詠するに、

「いかで今宵ばかり夢なるべき。すべて、人の世は、皆、夢なるものを。」

とて、濱田が妻、そゞろに淚を流す。

 座上の人、大〔おほき〕に怒りて、

「此座にありて、淚を流す、いまいましさよ。」

とて、濱田が妻に、盃を投げかけしかば、額にあたる。

 妻、怒りて、座の下より、石をとりだし、投(なげ)たりければ、座上の人の頭(かしら)にあたり、血、走りて、流るゝ事、瀧のごとし。

 座中、驚き、立騷ぐか、と見えし。

 ともしび、消えて、人もなく、唯、草むらに、蟲のみぞ、殘りたる。

 濱田、大に怪しみ、

「さては、我妻、むなしくなりて、幽靈の顯れ見えけるか。」

と、いとゞ悲しくて、家に歸りければ、妻は臥してあり。

「如何に。」

と驚かせば、妻、起あがり、喜びて語るやう、

「餘りに待わびてまどろみしかば、夢の中に十人ばかり、草むらに酒飮み遊びて、歌を望まれ、其中にも、君のみ戀しさをよそへて、うたひ侍べり。座上の人、みずからが淚を流す事を忌みて、盃を投げかしを、みずから、石を取(とり)て、打ち返すに、座中、さはぎ立〔たつ〕、と覺えて、夢、さめたり。『盃の額に當りし』と覺えしが、夢、さめて、今も頭(かしら)の痛くおぼゆ。」

とて、歌も詩も、

「かうかう。」

と語る。

 白楊(やなぎ)の陰にして見きゝたるに、少しも、違はず。

 濱田、つらつら思ふに、

『白楊陰(やなぎかげ)に隱れてみたりし事は、我妻の夢のうちの事にてありける。』

と、なむ。

[やぶちゃん注:詩歌は総て前後を一行空けた。「今樣」(室町小歌。後注参照)は句分けを並列させた。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。

「濱田與兵衞」不詳。

「室(むろ)の泊(とまり)」旧兵庫県揖保郡室津(むろつ)村、現在の兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。播磨灘に面する港町。湊町として実に約千三百年もの歴史を持ち、奈良時代に行基によって五つの湊が整備され、江戸時代には栄華を極め、宿場町としても栄えた。近代に至るまで多くの文人墨客を魅了した景勝地でもある。

「わりなく」この上もなく。どうしようもないほどに。

「此世ならずぞ、思ひける」の主語は二人である。二世・三世の契りの意を添えて、相思相愛のさまを言う。

「將軍」室町幕府第十二代将軍足利義晴(永正八(一五一一)年~天文一九(一五五〇)年/在職:大永二(一五二二)年~天文一五(一五四七)年)。義澄の子。細川高国に擁立されて将軍となったが、実権がなく、その後、三好氏に圧倒され、しばしば近江国に逃れ、天文十五年に将軍職を長子義輝に譲り、四年後に病死した。

「主君義隆、の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ」「新日本古典文学大系」版脚注に、義隆の『正三位昇位は』「本朝将軍記」では、『天文十六年二月』『とするが』、「公卿補任」『では天文十五年』とあるとする。前者では、義晴が将軍職を退いており、史実に合わない。後者ならば、義晴の譲位は天文十五年十二月(一五四七年一月)であるから、問題ない。

「間(ま)なく時なく」絶える間もないほどに。

「おもひやる都の空の月かげをいくへの雲かたちへだつらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、「新葉和歌集」の『巻三に「菖蒲ひく今宵ばかりや思ひひやる都も草の枕なるらむ」とあり、そのすぐ後に「君があたり幾重の雲か隔つらむ伊駒の山の五月雨の頃」の歌がある』。この『傍線部を合せて、新作した歌であろう。旅の夫を恋』慕う『歌で、歌意は、「都の夫をしのんで月を見ようとしたが、その月さえ、多くの雲がおしつつんで見せてくれないことよ」。』とある。

「比は八月十五夜」仮に天正十五年のこととするならば、ユリウス暦一五四六年の九月九日、グレゴリオ暦換算で九月十九日に当たる。

「城中にありて」大内氏の居館(守護館)であった大内氏館は現在の山口県山口市大殿大路(おおどのおおじ)附近にあった。浜田与兵衛は重臣の一人であるから、その居館の「惣門(そうもん)」(居城外郭の表大門)の外のごく近くに住まいを構えていたのである。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏の惣門は、館跡の南』西『方』の『下堅小路』(しもたてこうじ。ここ)と『久保小路』(下堅小路の南。ここ)『の交わる辺りに位置した。門以南が町地であった』とあるから、浜田の屋敷はこの附近にあったか。

「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人か、こよひ、こゝに出て遊ぶらん。」「国主様がお帰り遊ばされて、民草は家々で心静かにそれを喜んでおる。にも拘わらず、それを『我、関せず』のふうを見せて、浮かれ出ておる! これ、一体、何者が、かくも、御城の近くにて、無礼にも遊びほうけておるのか!?!」と、甚だ「恠」(あや)しみ、憤っているのである。

「白楊(やなぎ)」ここは挿絵からも通常のキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica ととってよい。

「まさなきわざかな」「国主の足下であってはならない濫り事じゃ!」。

「など」「どうして」「何故に」。ここは反語である。

「一詞(〔ひと〕ことば)のふしもおはせぬか。」「この残念なる景色のさまに対し、どうして、誰も、歌の一つなりと、ものさぬとは、これ、いかがなものか?」。

「きりぎりす聲もかれ野の草むらに月さへくらしこと更になけ」「かれ野」は「聲も嗄(か)れ」と「枯れ野」に、また、「かれ」は「枯れ」に「離(か)れ」も掛けられている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これは原拠である「五朝小説」に所収されてある「夢遊録」の中の「張生」の『原話の張生の妻の』詠んだ詞の『翻案歌』であるとされる。』「五朝小説」は明代に編集された伝奇・志怪小説の叢書で、魏・晋・唐・宋・明のそれらが収められているもので、「伽婢子」の原拠としては、最近になって判ったものである(「新日本古典文学大系」の解題に拠る)。私は基本的に本書の原拠考証には手を出さない(手を出すと、注がエンドレスになるからであり、そもそも私は私の奇体な怪奇談集蒐集癖に従って成しているのであって、学術的なものとして本電子化注を目指そうなどとはさらさら思っていないからである。関心のある方は「新日本古典文学大系」版で詳細に考証されてあるので、そちらを参照されたい)つもりだったが、ここはそこを少しだけ覗き見しておく。原拠のそれは、「中國哲學書電子化計劃」のここで電子化されており(但し、本サイトは校訂を経ていない機械判読の電子化がそのまま出されてあり、とんでもない誤判読が頻繁にあるので注意。ここでもそれがシッカリ恐ろしくある)、そこでは影印本も見ることが出来る(これ)。さて、この短歌の原拠となったそれは、

   *

衰草絡緯聲切切

良人一去不復還

今夕坐愁鬢如雪

   *

である。本篇の原拠との精密な対比分析が行われてある花田富二夫氏の論文「近世初期翻案小説『伽婢子』の世界 〈遊女の設定〉」PDF)の冒頭に、本話の全編の訓読文が載るので、それを参考に訓読すると、

   *

衰草(すいさう)に歎ずる絡緯(たくゐ)の聲 切切たり

良人 一(ひと)たび去つて 復た還へらず

今夕(こんせき) 愁ひに坐して 鬢(びん) 雪のごとし

   *

「衰草」は枯れかけた弱った草でいいが、「絡緯」は一筋繩ではいかない。これは、漢籍に出るのであるからして、現代の中国と同じく「広義のキリギリス」を指すが、現行では、

◎直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Tettigoniinae の中国産種

であって、本邦のキリギリス

○キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリスGampsocleis buergeri (近畿地方から九州地方に棲息)

及び、

○ヒガシキリギリスGampsocleis Mikado (青森県から岡山県に棲息。詳しくは「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」私の注を参照)

とは全く異なり、本邦の、キリギリス亜科ヤブキリ族ヤブキリ属ヤブキリTettigonia orientalis と同属の

Tettigonia chinensis などが「中国のキリギリス」

であるようである。

「でも、ここは山口が舞台なんだから、ヒガシリキリギリスでええんでないの?」

という方がいるかも知れないが、それはさても――致命的に二重に――誤っている

一つは、彼女は兵庫の室津の遊女だったからで、仮にここで鳴いているは確かにニシキリギリスであっても、

彼女のイメージの中のそれはヒガシキリギリスのそれである可能性が高い

という仮定に加え、さらに困ったことに、実は、

彼女だけではなく、作者の浅井了意や出版当時の江戸時代の読者全員が、この「きりぎりす」を現在のキリギリスではなく、現在のコオロギだと認識していたというとんでもない大問題

が後に控えているからなのである。先リンク先の私の注の最後を見て戴きたいのだが、

「きりぎりす」は古典文学研究者の間では、まことしやかに、一律に――「きりぎりす」は「キリギリス」ではなく、「こほろぎ」、則ち、現在の蟋蟀(コオロギ)だ――とされている

からなのである。

但し、私は、この、生物学に疎い上に頭の硬い非博物学的な文学者が、明治になって突如、《「鈴虫」相互交換「松虫」説》と一緒に、伝家の宝刀の如く、この《「螽斯」相互交換「蟋蟀」説》をぶち上げたことを致命的な誤りと考える人種である。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」で芥川龍之介の「羅生門」の『唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる』を例に、硬直したアカデミズムが如何なる誤った見解を教育で植え込んでいたかを指弾してあるので、そちらを見て戴くこととし、ここでは繰り返さない。

個人的には、確かに、ある種の和歌の中で「きりぎりす」の鳴き声とあるのは、あの、やや喧(やかま)しく感じるキリギリスのそれよりも、ある種の淋しさをも感じさせる「こおろぎ」の方が相応しいと感覚的に感ずるケースは、ままある。しかし、それも私の個人的な感性上のものに過ぎないであって、近世までの標準的日本人の一般的な秋の虫に対する汎日本的な感じ方が、今の私の感じ方と全く同じであったなどとは、毫も思いはしない。ただ、では、どこぞの学者先生の誰かの意見こそ絶対に正しいというわけにも、これ、ならないのは明白である。則ち、この論争や同定比定に決着をつける者は未来永劫、出てこないということである。さすれば、この本篇の和歌の「きりぎりす」は、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ亜科 Gryllinae に属するコオロギ類

である可能性もまた、どうしても挙げねばならないということなのである。

「さしも」その歌のなんともしみじみとした風情に。

「しひければ」「强ひければ」。

「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」「先ほどは『一首だけ』とのことなればこそ、気ののらぬままに、仕方なく、今の私の憂えた心にことよせて、詠んだまでのことですのに、もう、どうか、まず、ご勘弁下さいまし。」。

「さて、かくなむ」そこで、仕方なく、次のように詠んだ。

「ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞわかきも年はとまらぬものを」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、

   *

落花徒繞枝

流水無返期

莫恃少年時

少年能幾時

   *

落花 徒(いたづ)らに 枝を繞(めぐ)り

流水 返るに 期(とき)無し

恃(たの)む莫(な)かれ 少年の時

少年 能く幾時(いくばく)ぞ

   *

である。

「さかづき、あるかたにめぐりて」盃の酒がその場にある会衆方総てに一巡したところが。

「今樣」ここは平安末のそれではなく、室町時代に上方を中心に流行した「室町小歌」。「小歌」とは本格的で伝統的な歌曲「大歌(おおうた)」に対して、民間で歌われる世俗的な歌謡や「猿楽能」や「田楽能」の「謡(うたい)」及び「狂言小歌」などを指す。永正一五(一五一八)年にはこの「小歌」に関する最も古い文献である「閑吟集」(作者はある「桑門」(遁世者)とあるのみで未詳。三百十一首を収録)が成立している。詩型は「七五七五」形・「七七七七」形・「七五七七」形など、雑多。「狂言小歌」の中には、当時、流行していた歌謡を劇中歌の形でそのまま取り入れたものもある(以上は主文を「文化デジタルライブラリ―」のこちらに拠った)。

「さびしき閨(ねや)の獨ねは 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや そよぐにつけて音づれの 絕ても君に恨はなしに 戀しき空にとぶ雁に せめて便りをつけてやらまし」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、

   *

怨空閨

秋日亦難暮

夫婿斷音書

遭天鴈空度

   *

空閨を怨み

秋日 亦 暮れ難し

夫婿(ふせい) 音書を斷ち

遙天の鴈(がん) 空を度(わた)る

   *

後の二句とインスパイアされた「今樣」も蘇武の「雁書」(がんしょ)の故事を示し、それが「その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて」を引き出すようになっている。

「螢火穿白楊……」の五言絶句は原拠に従うが、結句が改変されてある。原拠のそれは、

   *

螢火穿白楊

悲風入荒草

疑是夢中遊

愁迷故園道

   *

「愁迷故園道」は「愁ひて迷ふ 故園の道」。「故園」は故郷に同じ。しかし、またしても了意の改変は、前例と同様、漢詩を弄ることに於いて初歩的な致命的なミスを犯している。鉄則の押韻が「酒」では「草」と合わないのである。

「そゞろに」感極まって。ひどく。「何とはなしに」の意もあるが、このシークエンスには前の意の方がよい。

「驚かせば」眼を醒まさせたところが。

「みずから」二箇所ともに自称の一人称。]

2021/04/13

伽婢子卷之二 狐の妖怪 / 伽婢子卷之二~了

 

   ○狐の妖怪

 

Youko1

 [やぶちゃん注:右図から左図へと絵巻風に展開する。]

 江州武佐(むさ)の宿(しゆく)に、割竹(わりたけの)小彌太といふものあり。元は甲賀(こうか)に住(すみ)て、相撲(すまふ)を好み、力量ありて、心も不敵なりけるが、中比〔なかごろ〕、こゝに來り、旅人に宿(やど)かし、旅館(はたご)を以つて、營みとす。

 ある時、所用の事ありて、篠原堤(しのはらつゝみ)を行きけるに、日すでに暮かゝり、前後に人跡〔じんせき〕もなし。

 只、我獨り、道をいそぐ其間(そのあひだ)、道の傍らに、一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。

 又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。

 落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。

 小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる。

 その美しさ、國中には並びもなく覺えたり。

 日は暮はてゝ、昏(くら)かりしに、小彌太が前(さき)に立(たち)て、聲、打あげ、物哀れに啼きつゝ、行く。

 元より、小彌太は不敵者なれば、少しも怖れず、女のそばに立寄り、

「如何に。これは誰人(たれ〔びと〕)なれば、何故に、日暮て、たゞひとり、物悲しく啼(なき)叫び、いづくをさして、おはするやらん。」

といふ。

 かの女、なくなく答へけるは、

「みづからは、是より、北の郡(こほり)余五(よご)といふ所の者にて侍べり。このほど、『山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城を責(せめ)とらん』とて、木下藤吉郞とかや聞えし大將、はせむかひ、其引足〔ひきあし〕に、余五・木下(きのもと)のあたり、皆、燒拂ひ給へば、みづからが親兄弟は、山本山にして、打死(うちじに)せられ、母は、おそれて、病出〔やみいで〕たり。かゝる所へ、軍兵〔ぐんびやう〕、打入〔うちいり〕て、家にありける財寳は、一つも殘さず、奪ひ取たり。母、聲をあげて恨みしかば、切殺(〔きり〕ころ)しぬ。みづから、怖ろしさに草むらの中に隱れて、やうやうに命をつぎけれ共、親もなく、兄弟もなし。賴む陰(かげ)なき孤子(みなしご)となり、いづくに身をおくべき便りもなければ、『今は唯、身を投げて死なばや』と思ひ侍べるに、悲しさは堪えがたくて、人目をも知らず、啼侍べるぞや。」

といふ。

 小彌太、聞て、

『まさしく、狐の化けて、我をたぶらかさんとす。我は又、此狐をたぶらかして、德、つかばや。』

と思ひ、

「げにげに、哀れなる御事かな。親兄弟も、皆になりて、立よるかげもおはしまさずは、幸(さいわひ)に、それがしの家、まことに貧しけれ共、一人を養ふほどの事は、ともかうも、し侍べらん。我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば、賴もしく見とゞけ侍べらん。」

といふ。

 女、大〔おほき〕によろこびて、

「あはれみ思召し、やしなうて給らば、みづからがため、父母の生れかはりと思ひ奉らん。」

とて、打連れて、武佐の宿(しゆく)に到り、小彌太が妻に對面して、さきのごとくに、かきくどき、なきければ、妻もあはれに思ひ、ことさら、形の美くしきを見て、いたはり、いつくしむ。

 小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず。

[やぶちゃん注:「江州武佐(むさ)」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中山道の六十六番目の宿で、この後、「守山宿」・「草津宿」・「大津宿」を経て京都(三条大橋)に着く。

「割竹(わりたけの)小彌太」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竹を割るほどの強力の持ち主の意を込めた命名か。あるいは「割竹」は丸竹の先を割った、罪人をたたく刑具』に使用したもの(箒尻(ほうきじり)と称し、江戸時代に敲(たたき)や拷問に用いた棒で、割竹二本を麻糸で包み、その上を観世紙縒(かんぜこより:和紙を細長く裂いて縒(よ)ったもの、或いはその「紙縒り」を縄状に縒り合わせたもの)で巻く)であるから、『情け容赦を知らないの意か』とある。

「中比〔なかごろ〕」「語り物」にあって「執筆時制からあまり遠くない昔」の意を示す語として頻繁に用いられる語であるが、ここは小弥太の生活史を語っている中での用法であるから、『「中年」になってから』の謂いである。

「篠原堤(しのはらつゝみ)」近江八幡市の南西隣りの滋賀県野洲市の大篠原に今もある、中山道沿いの西池の西北の堤。ここがそれであること、この堤が平安末期には築かれてあったことが判る「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖会 第68回 現代に残る「過去」-大篠原の西池と堤」を読まれたい。

「一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる」これは妖狐が人間に化ける呪法の定規法である(なかなか手間がかかることが判る)。江戸前・中期の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:鳥取生まれ。後に岡山から大坂に移り住んだ)の随筆「消閑雑記」に(「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」内の影印本の当該部を視認し、漢文部は訓読(一部推定)した)、

   *

○狐はあやしきけもの也。常に人にばけて、たふらかし、また、人の皮肉(ひにく)に入てなやまし、あらぬ妙をなす事多し。「抱朴子(はうぼくし)」に曰はく、『狐(こ)、壽は八百歳也。三百歳の後(のち)、變化(へんげ)、人の形と為る。夜、尾を撃(うつ)て、火、出だし、髑髏を載(いたゝ)き北斗を拜み、落ちざるときは、則ち、人に變化(へんげ)す』と。これほと、修行(しゆぎやう)なり、功、つみたるものなれども、一旦、やき鼡(ねつみ)の香くはしきを見て、たちまち、わなにかゝり、命をうしなふ。人も、また、おなし。智惠・才覚(かく)、拔群(ばつぐん)のうまれつきにて、かくのことくの人も道にまとひ、利にまとひて、生涯(しやうがい)をうしなふ事、狐に同しきものなり。「人、以つて、狐にしかざるべし」か。

   *

ここの出る「やき鼡」(「燒鼠」)は鼠をあぶって焼いたもの或いは油で揚げたもので、狐の好物とされ、罠の餌に用いた。最近の私のものでは、「奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現」に妖狐が「油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふ」とある。これは道教・神仙道の理論実践書「抱朴子」(東晋の葛洪(かっこう)撰。四世紀初頭の成立)の引用で判る通り、中国伝来で、後の晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:八六〇年頃成立)の「巻十五 諾皋記(たくこうき)下」の一節にも、

   *

舊說野狐名紫狐、夜擊尾火出。將爲怪、必戴髑髏拜北斗、髑髏不墜、則化爲人矣。

(舊說に、『野狐は「紫狐」と名づく。夜、尾を擊ちて、火を出だす。將に怪と爲(な)るに、必ず、髑髏を戴き、北斗を拜し、髑髏、墜ざれば、則ち、爲して人と化す』と。)

   *

ちなみに、「しゃれこうべ」という語は「されかうべ」の転化で、「され」は動詞「曝(さ)れる」の連用形からで「風雨に曝(さら)されて肉が落ちた頭骨」の意。「野曝(晒)(のざら)し」である。なお、当初は「女」を「むすめ」と読もうと思うたが、「十七、八」とする年齢、後の段で男と契ってからも、読みが一斉に振られていないことから、「をんな」とした。「心のまゝにして」は変化叶ったことから、「思う存分」歓喜して例謝(恐らくは北斗七星)しているのである。

「小彌太が前(さき)に立(たち)て」小弥太の行く道の先に立って。騙さんとすること、明白。化けざまを総て見られていて気づかなかったこと、なかなか化けられなかったことからみて、未だ若い狐で、これが人に化けた始めでもあったか。

「余五(よご)」旧伊香郡(いかぐん:古くは「いかご」)の余呉地区は現在は長浜市であるが、かなりの広域である。南部は琵琶湖の最北端で、羽衣伝説で知られる余呉湖付近であるが、北部は岐阜・福井県境まで殆んどは峡谷を伴う険しい山岳地帯である。

「山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城」滋賀県長浜市湖北町山本にあった。サイト「城郭放浪記」の「近江 山本山城」によれば(地図有り)、『築城年代は定かではない。平安時代末期に山下兵衛尉義経が籠った山下城がこの城であったと云われる。その後』、『京極氏の被官阿閉』(あつじ)『氏の居城となったが、永正年間』(一五〇四年〜一五二一年)『頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期』浅井亮政(あざいすけまさ)と『対立したが』、『後にその傘下に組み込まれ』、『再び阿閉氏が城主となった』。『織田信長による』主城『小谷城攻撃では、阿閉』淡路守貞征(さだゆき)の『籠る山本山城が天正元』(一五七三)『年』、『羽柴秀吉』の『謀略によって開城となり、小谷』(おだに)『城は孤立し』、『落城した』とある。この部分、ウィキの「阿閉貞征」を見ると、実は貞征は秘かに『信長に内応し』て『山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し』、『主家滅亡の遠因をつく』り、貞征は八月八日には子とともに『信長に降参し、後』、『すぐに朝倉攻めの先手を務め』ているとある(その後、天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」の後、彼は『明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領し』、「山崎の戦い」に参加して『先鋒部隊を務めるが、敗戦。秀吉方に捕縛され』、『一族全て処刑された』とある)。「新日本古典文学大系」版脚注によると、「木下藤吉郞」は『この合戦の戦功を認められ』、『浅井氏の旧領を得て、木下から羽柴に改姓』したとある。さて、本文では、山本山城へ「木下藤吉郞」が「はせむかひ、其引足〔ひきあし〕」をした(一回、兵を撤退させた)とあるのは、実は、その内応を受けての「やらせ」のポーズであり、さればこそ、貞征は直ぐに投降し、山本山城は落城ではなく、開城となり、信長の配下となったことが判る。

「余五」これは琵琶湖北岸の余呉湖周辺。

「木下(きのもと)」現在の長浜市木之本町(きのもとちょう)

「おそれて、病出〔やみいで〕たり」恐ろしさのあまり、気分が悪くなり、病み臥せってしまった。

「德、つかばや」『一つ、こちらが知らんふりをし、上手く扱って、なんでもいいから、逆にこやつを上手く使って、逆にこっちが何かせしめてやろう!』。

「皆になりて」皆、死んでしまって。

「我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば」「我が家の家政(旅宿経営)に就いて、性根を据えて、なにくれと学び励み、使用人となるということを厭わぬのであれば」。

「賴もしく見とゞけ侍べらん。」ま「ずは、そなたを信頼して、暫くは、これ、様子を見てやろうぞ。」。

「小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず」この措置はなかなか思い切れるものではない。下手をすれば、小弥太の家産そのものを乗っ取られたり、潰されたり、命を失わぬとも限らぬのだから。彼の深謀遠慮は阿閉貞征も舌を巻くとも言えようか。

 

 天正のはじめ、江州、漸(やう)やく靜(しづか)になり、北の郡(こほり)は木下藤吉郞、是を領知し給ふに、石田市令助(いちのすけ)、京より下りける次に、武佐の宿、小彌太が家に留(とゞ)まり、かの女を見て、限りなく愛(めで)まどひ、

「如何にもして、此女を我に與へよ。」

と、いはれしかば、小彌太いふやう、

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず。それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」

といふ。

 石田、聞て、金子百兩を出し與へ、女を買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とり、打ちつれて、岐阜に歸られたり。

 女、いと、才覺あり、よろづにつきて、さかざかしう利根(りこん)にして、人の心にさきだち、物をまかなふ事、石田が思ふ如くなれば、本妻をも、かたはらになし、只、此女を寵愛す。

 されども、女は、少〔すこし〕も、高ぶるけしきもなく、本妻の心をとりて、

「みづからは妾(おもひもの)なり。いかでか、本妻の心をそむき奉らんや。」

とて、夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば、本妻も、さすがに憎からず、ねんごろに、いとほしみけり。

 出入〔いでいる〕ともがらにも、ほどほどにつきて、物なんど、取らせけり。あるひは、絹小袖・ふくさ物・針・白粉(おしろい)やうの類(たぐひ)、いつ、もとめおくとも見えねど、取出(とり〔いだ〕)して、賦(くばり)つかはす。

 しかも、其身、麻績(をうみ)つむぎ・物縫ひ・ゑかき・花結び迄、くらからず、侍べり。

「石田が家にこそ、賢女を求めけれ。」

と取沙汰あり。

 半年ばかりの後、石田、又、京都に上る。

 女、いふやう、

「必ず、忠義をもつぱらとして、私を忘れ、千金より重き御身を、小細(ささい)の事に替(かへ)給ふな。御内(みうち)の事は、みづからに任せ給へ。」

とて出〔いだ〕し立て、京にのぼらせたり。

[やぶちゃん注:「北の郡(こほり)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『近江国琵琶湖北岸』の『諸郡の総称』で、旧『浅井氏の領国にほぼ重なる』とある。

「石田市令助(いちのすけ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『市令は市正(いちのかみ)の唐名。「市令」も漢名のつもりであろうが、市司(いちのつかさ)の次官』は「助」ではなく、『市佑(いちのすけ)』であるとあった。目から鱗。

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず」時間経過から見ても、これは完全な噓としか読めない。「德」「つかばや」の小弥太の意識が敏感に感応して始動したのである。

「それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」「拙者の世過ぎの糧につき、よろしく、何かあてがって差配し下さるとなら、差し上げましょう。」。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「宛(充)て行ふ」は多く』、『役職や知行を下し与える場合に用いる語で、ここは、戯れて主従関係に擬しおもねっている』と注しておられる。

「さかざかしう利根(りこん)にして」非常に賢く、それはまた、生まれつきの利発さであり、口のきき方も上手であったがため。

「百兩」ウィキの「両」によれば、天正年間の「一両」=「米四石」=「永楽銭一貫文」=「鐚銭(びたせん)四貫文」とほぼ等価であったとある。先にある換算サイトでは、戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、これを永楽銭で換算すれば、一千五百万円相当、鐚銭では三百七十五万円相当となる。お好みで解釈されたい。

「岐阜」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『信長は、美濃稲葉城を攻略した翌年の永禄十一(一五六八)年に「井ノ口」を旧名の「岐阜」に復したという』とある。

「人の心にさきだち、物をまかなふ事、」人がどう考え、感じているかを事前に素早く察知して。この場合は、直後に「石田が思ふ如くなれば」とするものの、「本妻の心をとりて」(察して)常に彼女を立てたが故に、「本妻も、さすがに」(夫の言う好評化や想像した以上の仕え方をしたので(「夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば」)、改めて感心し)、この女を「憎からず」思ったというのであればこそ、不特定多数の人間に対してもそうであったと考えてよかろう。妖狐ならではの読心術による、そつのない仕舞わしと言える。

「かたはらになし」そっちのけにして。

「出入〔いでいる〕ともがら」石田市令助の屋敷に出入りする武士の配下の下男・下女及び御用伺いの商人や家作の者たち。

「ほどほどにつきて」その身分や立場に応じた相応な。

「ふくさ物」「袱紗・服紗・帛紗」は、ここは「茶の湯」で、茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いたりする、縦九寸(約二十七センチメートル)・横九寸五分(約二十九センチメートル)の絹布。

「針」身分の低い女性には有難かったであろう。

「いつ、もとめおくとも見えねど」何時、何処で買い求め、何処に蓄えておいたものかもまるで判らぬのだが。

「賦(くばり)つかはす」配り、与えるのである。

「麻績(をうみ)つむぎ」「苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎ」は苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて糸にすること。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。病的に執拗(しゅうね)きものである。

「ゑかき」「繪描き」。「新日本古典文学大系」版脚注に、次の『花結びとともに女性の嗜みとされた手芸』とある。この場合の「手芸」は広義の「手先の技術」としての絵描きであると思われるが、女性のそれは大和絵の一種である葦手絵(あしでえ:樹木・草花・岩などの一部を図案化したものに、さらに文字を装飾的に組み込んだ絵)のように、装飾的な料紙の下絵にしたり、それが発展して次第に装飾的模様へと変化し、工芸品としての蒔絵や服飾などに用いられるようになったのであった。

「花結び」「飾り結び」とも。紐を使って装飾的に結ぶ手法。当該ウィキによれば、『日本では、そのうち特に、中国から伝わった結びをもとに発達したものを指』し、「花結び」とも『呼ばれる。一般に』「組み紐」と『呼ばれることも多いが』、「組み紐」の方は『糸を組んで紐を作る工芸であり、紐を結んで作る』「飾り結び」とは『別である』。『日本の』「飾り結び」は、『仏教とともに伝わったいくつかの結びと、遣隋使が持ち帰った下賜品に結ばれていた紅白の麻紐が起源とされる(水引と同じ)』。『飾り結びは中国のものと共通するものも多いが、日本で独自に考案されたものも数多くある。特に茶道においては、仕服(茶碗・茶入れなどを入れる袋)を封じる紐に飾り結びを施すことで、装飾性を増すとともに、知らぬ者が開封した場合に元通りにしにくくすることで、みだりに開封できないようにする鍵の役目を持つ結びが多数』、『考案された。これらを特に』「花結び」と『呼ぶこともある』とる。

「小細(ささい)な事に替(かへ)給ふな」「小細」は「些細」の当て字。「採るに足らぬことに気をとられてはなりませぬ」。既にして後にくる事態を予知していたのである。

「みづからに」「みづから」には前に出た一人称自称である。]

 

 京にして、高雄の僧、祐覺(ゆうがく)僧都に對面す。

 祐覺、つくづくと見て、

「石田殿は、妖恠に犯されて、精氣を吸れ給ふ。はやく療治し給はずは、命を失ひ給ふべし。此相(さう)、それがし、見損ずまじ。」

といふに、石田、更に信ぜず、

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」

とて、打笑ひしが、程なく、心地、わづらひ付き、面(おもて)の色、黃に瘦(やせ)て、身の肉(しゝむら)、かれて、膏(あぶら)、なし。唯(たゞ)、

「うかうか」

として、物事、正しからず。

 家人等、驚き、さまざま醫療すれども、しるしなし。

 此時に、高雄の僧のいひし事を思ひ出して、祐覺を請じて、見せしむ。

 僧のいはく、

「此事、我、更に見損ずまじ。初め、わがいふ事を信ぜずして、今、この病、現れたり。佛法の道は慈悲をさきとす。祈禱を以て是を治(ぢ)せむ。早く國に歸りて待(まつ)べし。我も下りて、しるしを、あらはさん。」

と、いはれしかば、家人等、驚き、祐覺ともろ友に、夜を日につぎて、岐阜に歸り、壇を飾り、廿四行(がう)の供物、二十四の燈明、十二本の幣をたて、四種の名香(めいかう)をたきて、一紙の祭文(さいもん)をよみて、禳(はらひ)して、いはく、

 

「維年(これとし) 天正歲次(としのやどり)甲戊(きのへいぬ[やぶちゃん注:ママ。])今月今日 石田氏某 妖狐の爲に惱さる

 夫(それ) 二氣 はじめて別れ 三才 巳にきざし 物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて 性分(せいぶん) その形をうけしよりこのかた 品位(しなくらゐ) みな ひとしからず

 こゝに狐魅の妖ありて 恣まゝに恠をなし 木の葉を綴りて衣とし 髑髏(しやれかうべ)をいたゞきて鬘(かつら)とし 貌(かたち)をあらため 媚(こび)を生ず

 渠(かれ) 常に氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事 時として忘れず 尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し 祟(たゝり)を作(なす)こと 更に止(やま)ず

 此故に 大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り 百丈は因果の禪を詰(なじ)る 千年の恠を兩脚の譏(そしり)にあらはし 一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ

 粤(こゝ)に石田氏某(それがし)は軍戶(ぐんこ)の將師 武門の命士也

 何ぞ妄りに汝が腥穢(せいゑ)を施して其精氣を奪ふや

 身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ

 汝が狀(かたち)は綏々(すいすい) 汝が名は紫々(しゝ)

 式(もつ)て 其醜(みにくき)をいひ 唱(となへ)て 其恧(はぢ)を示す者也

 首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふと雖も 虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)ことは 隱すべからず

 汝 今 すみやかに去(され) 速かに去(され)

 汝 知らずや 九尾 誅せられて 千載にも赦(ゆるし)なき事を

 誰か 汝が妖媚(えうび)を いとひにくまざらん

 もし すみやかにしりぞき去(さら)ずば 州郡(しうぐん)大小の神社を驚かし 四殺(せつ)の劔(けん)を以て殺し 六害(りくがい)の水に沈めん」

 

Youko2

 [やぶちゃん注:上の挿絵は、左右はシークエンス上は繋がるように描かれているが、同一場面ではないので注意。]

と、讀(よみ)終りしかば、俄に、黑雲(くろくも)、棚引(たなび)き、大雨、降り、雷電、夥しく鳴渡りければ、女、はなはだ、恐れまどひ、そのまゝ倒れて、死(しゝ)けり。

 家人等〔けにんら〕、驚き、立〔たち〕よりて見れば、大なる古狐(ふるきつね)なり。

 首(かしら)に、人のしやれかうべを戴きて、落〔おち〕ずして、あり。

 此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり。

 石田氏が心地、快然と凉(すゞ)やかになり、忽(たちまち)に平復して、此物どもを見るに、恠しき事、限りなし。

 狐の尸(かばね)をば、遠き山の奧に埋み、符(ふ)を押(をし[やぶちゃん注:ママ。])て、跡を禳(はら)ひ、丹砂(たんしや)・蟹黃(かいわう)なんど、調合の藥を服(ぶく)せしめて、その根本(こんぽん)を補ひ、さて、武佐の小彌太を尋ねさするに、女を賣(うり)て、德つき、家を移して、いづち行けるとも、知らず。

 まさに、狐魅(こみ)、よく人を惑はし、祐覺僧都の法驗(はうけん)を感歎しけるとぞ。

[やぶちゃん注:佑覚僧都の祭文は底本では全体が一字下げ(元禄本は三字下げ)であるが、引き上げて、その代わり、前後を一行空け、句読点をわざと振らずに、読み易く区切れるところで改行を施した。この方が呪文らしい感じが出ると感じたからである

「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑付近を指す地名で、ここはそこにある真言宗高雄山(たかおさん)神護寺。

「祐覺(ゆうがく)僧都」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、源頼朝に決起を促した『神護寺の文覚に重ねるか』とされ、『文覚は法力ある験者で、優れた相人』(そうにん:人相見)『ともされ』、文覚を主人公とした『幸若』舞『の「文学」』(もんがく)『では、壇を築き、一八〇本の幣串(へいかん)』(神に供える幣帛を挟んだ串。祓(はらえ)に用いる。多くは本体に白木の棒を用いる)『を立てて平氏に対する調伏の法を行っている』とある。私もこの意見には賛同する。

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」「儂(わし)を欺(ざむ)く売僧(まいす)の妄言、出鱈目じゃ! んなことは、今に始まったこっちゃ、あ、る、ま、い、よ、ってえんだ!!」。「賣僧」の「まい」は「賣(売)」の慣用音、「す」は「僧(僧)」の唐宋音。特に禅宗に於いて同宗の中の僧形で物品の販売などをした堕落僧のことを指した。転じて、「一般に僧としてあるまじき行為をする僧」、また、僧侶を罵って言う卑語。「糞坊主」に等しい。

「唯(たゞ)うかうかとして、物事、正しからず」常に異様にぼんやりとした感じで、見当識がない、生気がない、正気を失ったような感じで、することなすこと、これ、尋常普通でない。

「思ひ出して、祐覺を請じて見せしむ」市令助の一の家臣が主語であろう。その場にいなかったとしても、直後に市令助が腹を立てて、そうしたことを周囲に語ったことは容易に想像される。

「此事、我、更に見損ずまじ」「この有様(病態)は、どうじゃ! 我ら、やはり、最早、見損じたのではなかったわッツ!」。

「廿四行(がう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、『阿弥陀の二十四本願(等覚経)にもとづく、二十四種の供物』とある。腑に落ちる。一般に阿弥陀は如来となるに当たって四十八誓願を立てて、それが成就されない限り、自分は如来とならないと言っていることは存知であろう(因みに、その第十六誓願では、「たとひ、われ佛を得たらんに、十方の衆生、至心信樂して、わが國に生ぜんと欲(こ)ひて、乃至十念せん。若(も)し、生ぜずは、正覺を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法(しやうほふ)とをば除く。」という核心のそれで、ここでは阿弥陀は生きとし生ける全衆生を救うことが出来ぬとなら、私は如来とならないと言っているのであり、これは絶対の予定調和であって、阿弥陀が既に如来となっているおいうことは、我々衆生(あらゆる時空間に於ける人間)は既に極楽往生が定まっているといことを指しているという真理が示されているわけである。なお、例外の「五逆」は「殺父」・「殺母」・「殺阿羅漢」(聖者を殺すこと)・出仏身血)(仏の身を傷つけ、血を流させること)・「破和合僧」(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、「誹謗正法」は「唯一真実の正法(しょうぼう)である仏法を謗(そし)る者を指す)。ところが、この阿弥陀の誓願の数は初期の漢訳経では「二十四誓願」であるものが、「無量寿経」などでは倍の「四十八誓願」となって、そちらの方が今に説かれる命数として有名になってしまったのである。これは、その二十四誓願に応じた数の種類の供物ということである。それぞれが何か特定のものであった可能性が高いがそれは私には判らない。

「祭文(さいもん)」通常は祭りの際に神に捧げる祝詞(のりと)の意であるが、「新日本古典文学大系」版脚注では、特にここでは、『祝詞に対し、個人的或いは中国伝来の祭などの読まれる』とある。この注は中国由来の漢文訓読型の文体「祭文(さいぶん)」、祭時に於いて神霊に対して誦される文章で、中国では死者葬送・雨乞・除災・求福を目的とするそれが存在し、以下の冒頭の「維年(これとし)」(いねん)は必ずその発語の辞とされるものである。

「天正歲次(としのやどり)」「さいじ」。古くは「さいし」と清音。「歳」は「歳星」、則ち、木星、「次」は「宿り」の意。昔、中国では木星が十二年で天を一周すると考えられていたところから、「としまわり」「とし」「干支」の代語・指示語となったもの。

「二氣 はじめて別れ」混沌(カオス)の原初態から陰陽の気が天地開闢の時に分離し。

「三才 巳にきざし」天・地・人の三つの「働き」(「才」)を現わし、そこから転じて「宇宙の万物」を現わす。ここはその三者それぞれの全時空間の境界的上の差別化が生ずることを謂う。

「物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて」ここではヒトとそれ以外の対象物(人以外の生物を総て含む)を二分化して、差別化することで「人」を上に挙げる。

「性分(せいぶん)」「新日本古典文学大系」版脚注は、『未詳。性質を異にし、それぞれの外形を与えられて、の意か』とされる。腑に落ちる。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」

「渠(かれ)」彼。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」これは直ちに諏訪湖を渡る狐の話を私は想起する。私の『堀内元鎧「信濃奇談」 諏訪湖』「甲子夜話卷之三 23 諏訪湖幷同所七不思議の事」を見られたい。但し、これは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」にも、『「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所なり。其の名を「紫(し)と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合(あ)ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』と。』とあって中国でも古くから観察されている習性で、本邦でも広く各地の伝承に多く残されてもおり、また、「新日本古典文学大系」版脚注でも、『疑い深いことをいう成語の「狐疑」を説明する故事』とし、二例の水音を量って後に氷った川を渡るという習性をそうした広げた属性として理解しているケースを示してある。

「尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し」妖火の狐火は一説に狐同士が尾を打ち合わせて火を起こしたものともされ、尾の先に灯るともされる。私の「想山著聞奇集 卷の壹 狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」等、参照されたい。

 

「大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「大安」は唐代の僧。則天武后の寵用する読心術に長けた女性と対決し、その正体を狐と見破った(太平広記四四七・大安和尚)』とある。「太平広記」(北宋の太宗の勅命により李昉(りぼう)ら十二が九七七年から翌年にかけて編纂した類書。「太平御覧」・「文苑英華」・「冊府元亀」と合わせて「四大書」と称せられる。全五百巻・目録十巻)のそれは巻四百四十七の「狐一」の「大安和尚」で出典は「広異記」(唐代伝奇の一つ。戴孚 (たいふ) 著。八世紀後半(中唐)の成立。諸書に佚文として見られるのみ)で、以下が原文。訓読は自然勝手流。

   *

唐則天在位、有女人自稱聖菩薩。人心所在、女必知之。太后召入宮,前後所言皆驗、宮中敬事之。數月、謂爲眞菩薩。其後大安和尙入宮、太后問見女菩薩未。安曰、「菩薩何在。願一見之。」。敕令與之相見。和尙風神邈然。久之、大安曰、「汝善觀心、試觀我心安在。答曰、「師心在塔頭相輪邊鈴中。」。尋復問之。曰、「在兜率天彌勒宮中聽法。」。第三問之、「在非非想天。」。皆如其言。太后忻悅。大安因且置心于四果阿羅漢地、則不能知。大安呵曰、「我心始置阿羅漢之地、汝已不知。若置于菩薩諸佛之地、何由可料。」。女詞屈、變作牝狐、下階而走、不知所適。

   *

 唐の則天、在位のとき、女人有りて自から「聖菩薩(しやうぼさつ)」を稱す。人の心在り所、女、必ず、之れを知れり。太后、宮に召し入るに、前後に言ふ所、皆、驗(しる)し。宮中、之れを敬事す。數月にして、

「眞の菩薩たり。」と謂へり。

 其の後、大安和尙、入宮し、太后、問ひて、

「女菩薩を見しや未だしや。」

と。安曰はく、

「菩薩、何くにか在る。願はくは之れを一見せん。」

と。敕令して、之れと相ひ見(まみ)ゆ。

 和尙、風神邈然(ばくぜん)として[やぶちゃん注:あたかも風神の気骨をもって悠然と立ち向かふこと。]、之れ、久し。

 大安曰はく、

「汝、善(よ)く心を觀るとなり。試みに我が心の安(いづ)くに在るや、觀よ。」

と。答へて曰はく、

「師が心、塔頭相輪の邊りの鈴の中に在り。」

と。尋ねて、復た、之れを問ふに、曰はく、

「兜率天の彌勒の宮中に法を聽きて在り。」

と。第三に、之れを問ふに、

「非非想天に在り。」[やぶちゃん注:天上界における最高の天である有頂天の異名。非想非非想天とも。]

と。

 皆、其の言のごとし。太后、忻悅(きんえつ)す[やぶちゃん注:甚だ満足して喜んだ。]。

 大安、因りて、且に置心を四果阿羅漢地[やぶちゃん注:修行者の到達出来る最高地。]に置くに、則ち、知る能はず。

 大安、呵して曰はく、

「我、心、始めより阿羅漢の地に置けるに、汝、已だ知らず。若し、菩薩・諸佛の地に置(を)るとせば、何に由(ゆゑ)料(はか)れるべし。」

と。女、詞に屈し、牝狐(ひんこ)に變じ作(な)して、階(きざはし)を下りて走り、適(ゆ)く所を知らず。

   *

「百丈は因果の禪を詰(なじ)る」中唐の禅僧百丈懐海(えかい 七四九年~八一四年)。この話は私のすこぶる好きな話である。私の「無門關 二 百丈野狐」で原文・訓読・藪野狐禪現代語訳もある。そこでこの意味は判る。この場合の「詰(なじ)る」というのは、全問答の一つの手法で、「相手を問い詰めて責める」形を以って「煩悩・迷妄を破り、断ち切らせる」の意である。何なら、その「無門關」(全)サイト版もある。訳の面白さにかけては、ちょっと自信があるぜ!

「千年の恠」千年の寿命を以って妖狐と化したもの。

「兩脚の譏(そしり)」冒頭で女に化ける際にそうした通り、二本足で立った狐のことであろう。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『腹黒い人を罵る語』とする。

「一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」は注せずにスルー、「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』。私も判らない。

「粤(こゝ)に」発語の辞。「ここに」「さて」の意。漢字は音(呉音「エチ」・「オチ」。漢音「エツ」)の仮借に過ぎない。

「軍戶(ぐんこ)」武家。

「命士」名立たる選ばれし精鋭の武士。

「腥穢(せいゑ)」なまぐさくてけがれていること。

「身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ」恐らくはこの妖狐は割竹小弥太が自分が狐であることを知っていることや、小弥太がその上で自分を利用して金儲けを目論んでいることも、実はお見通しだったのだと私は思う。しかも、それらを総て知ったうえで、知らんぷりをして、小弥太の宿屋では、心底、「身」を尽くしたのである。謂わば、自分がステージを上げて、より騙すに足る、恰好な傲慢な相手と接触を持つ機会を伺い、まさにそれに応えるように小弥太は彼女を高直で売り払い、さても彼女は遂に「愛」を口実として惑わし、悠々と精機を吸い取るに(それで妖狐のステージがいやさかに上がるわけだ)申し分のない単細胞男市令助の「愛」(=精気)をうまうまと手に入れた、というわけなのである。この構造は、妖狐譚としては、かなり特異的で非常に面白い

「綏々(すいすい)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『独行して配偶者を求める艶な様子。古来』、『狐についてよく言われる』とある。

「汝が名は紫々(しゝ)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐の別名。中国で、紫という昔の淫婦が化して狐になったという』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」を参照。

「式(もつ)て」(その名は)以って。

「恧(はぢ)」「恥」に同じ。

「首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふ」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐が死ぬ前にその首を元住んでいた丘の方へける意。「狐死、正丘首、仁也」(『礼記』)に拠る』とある。これは本邦の狐狸譚でも、しばしば言われる。彼らの死に当たっての礼節の表現なのである。

「虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)こと」言わずもがな、漢文でよくやった、「戦国策」の「楚策」の「虎の威を借る(狐)」のこと。

「九尾」本邦の妖狐の女王九尾狐。中国の伝説に見える尻尾が九つに分かれた狐。本来は天下が太平になると出現するとされる祥瑞の一つであった。「古本竹書紀年」には、夏(か)の伯杼子(しょし)が東征して「狐の九尾なる」を得たといい、「山海経」の「海外東経」には、「青丘国にいる狐は九尾である」とあるように、東方の霊獣と考えられていたらしい。「白虎通」では、「九尾は子孫が殖えることを象徴する」と説明し、また「呉越春秋」には、「禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘を娶った」とあるように、実は、意外な祥瑞観念の背後には、婚姻と子孫の多産などの生命力に関する狐信仰があったものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注には、妖狐化してからについて、『天竺では斑足(はんそく)太子の塚の神、唐土では』西『周の幽王の后褒姒(ほうじ』:笑わなかったことで知られ、それが国を亡ぼす契機となったことで有名)、『または殷の紂王の妲妃(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姬玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾を持っていたという伝説。那須で射殺されて殺生石となったとする』とある。ウィキの「九尾の狐」も参照されたい。それによれば、朝鮮やベトナムにもいたという。

「千載にも」長い年月を経ても。

「四殺(せつ)」「六害(りくがい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、孰れも『易の算木占いの盤を九つに区切った』中の『四区と六区の名称』とされ、ここでは『算を置きながら九図の名を呪文のように唱えたものか』と記されたあと、『ここでは霊力を備えたものの喩え』とする。

「此物どもを見るに、恠しき事、限りなし」前段の『此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり』という変成実態を見てのことであろう。

「符(ふ)」強い妖物は死滅後もいろいろな災いを起すのでそれを封じるための護符であろう。

「丹砂(たんしや)」辰砂に同じ(中国の辰州で産する砂の意)。水銀の硫化鉱物。六方晶系で結晶片は鮮紅色でダイヤモンド光沢を持つ。多くは塊状又は土状で赤褐色。低温熱水鉱床中に産し、水銀の原料や朱色の顔料として古くから用いられている。有機水銀や水に易溶性の水銀化合物に比べ、水に難溶であることから毒性は低いと考えられており、現在でも鎮静薬・催眠薬として使用されている。

「蟹黃(かいわう)」カニ類の消化線・卵巣を含む、所謂、「味噌」。漢方薬であるが、中文サイトを見てもかかってこない。やっと見つけたのは、「青空文庫」の齋藤茂吉の「念珠集」の「5 漆瘡」で、そこに漆瘡に『生蟹黄調塗』とあったとある。ぴんと来ないが、まあ、卵巣なら、精気の回復には向いてるってか?

「根本」漢方で謂うところの生命力の核心部分。]

2021/04/10

伽婢子卷之二 眞紅擊帶

   ○眞紅擊帶(しんくのうちをび)

 越前敦賀の津〔つ〕に、濱田の長八とて有德(うとく)人ありて、二人の娘を、もちたり。

 その隣(となり)に、若林長門守が一族、檜垣(ひがきの)平太といふもの、武門を離れ、商人(あきびと)となり、金銀ゆたかにもちて、住〔すみ〕侍べり。

 是(これ)に一人の子あり。平次と名づく。長八が娘と、おなじ年頃にて、いとけなき時は、常に出合〔いであ〕ひて、遊びけり。

 平太、すなはち、

「長八が姊娘(あねむすめ)を、我が子の妻とすべき。」

よし、媒(なかだち)を以て、いはせければ、やがて、受けごひけり。

「さらば、其しるしに。」

とて、酒・さかなとゝのへ、眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり。

 天正三年の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て、虎杖(いたどり)・木芽峠(きのめたうげ)・鉢伏(はちふせ)・今條(いまでう)・火燧(ひうち)・吸津(すひづ)・龍門寺(りうもんじ)、諸方の要害に楯(たて)ごもる。

 其中に、若林長門守は、河野の新城に籠りしかば、信長・信忠父子、八萬餘騎を率(そつ)して、敦賀(つるが)に着陣あり、木下藤吉郞におほせて、河野(かうの)の城をとりかこませらる。

 檜垣平太は、若林が一門なれば、敦賀にありて、とがめられむ事をおそれ、一家を開(あけ)のきて、所緣につきて、京都にのぼり、五年までとどまりつゝ、その間に、敦賀のかたへは、風のたよりも、なし。

 長八が娘は、年、すでに十九になり、容顏(ようがん)うつくしかりければ、人皆、これを求むれ共、娘、更に聞入れず、

「みづから、いとけなき時より、一たび、平次に約束して、今、たとひ、捨てられたりとも、又、こと夫(をつと)をまうくべきや。その上、平次、もし、生(いき)てかへり來らば、誠に恥ずかしき事なるべし。」

とて、朝夕は、深く引籠り居たりけるが、平次が行方〔ゆくへ〕の戀しさ、露〔つゆ〕忘るる隙〔ひま〕なく、只、かりそめの手すさみにも、其人の事のみ、あらまされて、人しれぬ物思ひに、淚を流すばかりなり。

 つひに、思ひくづをれて、病(やまひ)のゆかに臥し、半年餘(あまり)の後、つひに、むなしく成ければ、二人の親、大〔おほき〕になげき悲しみつゝ、「小鹽(こしほ)」といふ所のてらに、埋みけり。

 母、その娘の額(ひたひ)をなで、平次がつかはしける眞紅の帶を取出(とり〔いだ〕)し、

「是は、いましの夫の、とらせたる帶ぞや。跡にとどめて、何にかせむ。黃泉(よみぢ)までも、見よかし。」

とて、むなしき娘が腰に結びて、おくり、埋みけり。

[やぶちゃん注:「擊帶」「新日本古典文学大系」版脚注には、『糸組みの帯』で、『組目をへらで打ち固めるところからの名。平打ち・丸打ちの二種があり、挿絵』(最初に掲げたものの駕籠の下方に落ちているそれ)『に見る網状の帯は丸打ちで、近世初期(十六世紀末十七世紀初頭)に流行した。本書巻八ノ三』の「歌を媒(なかだち)として契る」『にも』「花田の打帶一すぢ繩のやうなる」『とある。当時の風俗画によれば、主に少女や若い女性が着用し、体に数回巻いて大きく蝶結びにしたのち、房のついた両端を長く垂らした』と非常に詳しい説明が載る(但し、この注の冒頭で『別名、名古屋帯』とされておられるのだが、現行の和服業界では、「名古屋帯」は、近代(大正期)に考案された、速やかに締めることの出来る帯の名称として現に流通しているので、そこは外したことをお断りしておく)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、ここで結納品としてこれを贈ることは『縁を結ぶしるしとして用いられた』とあることで、縁起物としてのそれが腑に落ちる。

「越前敦賀の津」現在の福井県敦賀市の「湊」の意。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「若林長門守」若林九郎左衛門。「怪奇談集」の「三州奇談」の注で非常にお世話になった昭和一七(一九三二)年金沢文化協会刊の日置謙氏の編になる「加能郷土辞彙」(「金沢市図書館」のこちらの使い勝手が非常によい)の「若林長門」によれば、『ワカバヤシナガト 若林長門 一向一揆の首領で、石川郡劔城』(白山山麓の加賀舟岡城の別名)『に居た。天正二』(一五七四)『年本願寺顯如の命により、長門は越前に入り、七里賴周』(しちりよりちか:本願寺の坊官(寺院の最高指導者(別当・三綱)などの家政を担当した僧。当該組織をも指し、行政機関に於ける「政所」に相当する)『と共に軍事を督した』(彼はこの時、朝倉景鏡(かげあきら)を倒し、越前を加賀と同じく一向宗門徒領国にする功に与(くみ)した)『が、三年八月織田信長は羽柴秀吉を派して一揆を討伐せしめるや、八月十碁五日秀吉は海を渡つて河野浦に上陸し』、『新城を攻め、長門等』が『之を防いだが』、『敗れて遁走し、戰死二』、『三百人に及んだ。總見記にこの時長門も亦歿したと記するのは誤である。長門は八年金澤御坊の陷落後も尙存命してゐたが、柴田勝家は之を討たんと欲し、十月七日自ら粟生に陣し、柴田勝政等をして柏野に進擊せしめた。長門は敵の先鋒と爭ふこと少許』(すこしばかり)『の後』、『松任に退き、若し舊領を安堵するを得ば降を容れんことを申出で、勝政は佯』(いつは)『つて之を許したので、長門は子雅樂助』(「うたのすけ」であろう)『・甚八郞と共に、勝家の恩を謝せんが爲その本營に赴いた。勝家乃』(すなは)ち部下の三人を『一室に伏せしめ、長門の一禮するを待つて之を斬り、二子も亦別室で殺され、勝家は十一月二十日附の注文で、是等の首を安土に送つたといふ。併し關屋政春古兵談には、長門が越前丸岡に至つて柴田勝政に謁した際殺されたのであるとしてゐる』とある人物である。正直、「新日本古典文学大系」版脚注よりも実事績がはっきり判る。

「受けごひけり」「諾(うけご)ひけり」。受諾した。

「さらば、其しるしに」「とて」「眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『婚約成立のしるしとして』、『結納に帯を贈る風習があった』として、「女重宝記」(おんなちょうほうき)の巻之二の「嫁取言入ならびに日取の事」を引用する。所持する一九九三年社会思想社刊本を参考に、国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部の画像を見て示すと(右頁後ろから三行目)、

   *

中(ちう)より下(した)のたのみ[やぶちゃん注:男方から女形への結納を「賴み」と呼ぶことが同条の最初の方に記されてある。]には、帶又は金銀に樽・さかな、そゆるもあり。

   *

とあってここと一致する。「中より下」というのは身分(経済状況の差を含む)の違いを言っているようである。

「天正三年」(一五七五年)「の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て」「新日本古典文学大系」版脚注に、『八月越前国朝倉が余党おこりて下間和泉守』(足羽郡司であった下間(しもつま)頼俊のこと。後に出る下間頼照の長男)『虎杖の城にたてごもる。石田正光寺』(福井県鯖江市杉本町にある旧石田山西光寺、現在の石田殿西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後の幕末の万延元(一八六〇)年に関白九條兼実から直筆の殿号額を下賜されて寺院では全国で唯一の殿号寺院となった)。天正三(一五七五)年西光寺第五世真敬の時、木芽峠に山寨を構え、信長勢と戦ったが、多勢に無勢、真敬は木芽峠で自刃した。以上は竹内敏夫氏のサイト「写真で訪れる蓮如の里 吉崎御坊とその周辺」の「西光寺」に拠った)『は木芽峠に要害をかまへ、阿波賀三郎兄弟』(阿波賀景賢(あばが かげたか)と弟か。朝倉孝景の家臣)『下間筑後守』(下間頼照(らいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は頼俊の父。通称、筑後法橋。顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣されて平定し、実質的な本願寺領としたことから、実際には越前守護又は守護代として在住していたと考えられる。この年の織田の侵攻では、頼照は観音丸城に立て籠もったが、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり(一揆の主力であった地元勢力は大坂から派遣された頼照らによって家臣のように扱われることに激しい不満を抱いていた。実際に天正二(一五七四)年には反乱を起こして頼照ら本願寺勢力によって弾圧された経緯があった)、織田方の猛攻に拠点の城は落城、頼照は海路をのがれようとしたが、同宗内で対立していた真宗高田派の門徒に発見されて首を討たれて死んだ。ここは当該ウィキに拠った)『今条と火燧が城と二箇所をかため、大垣円幸寺』(不詳)『吸津の城にこもり、河野の新城には若林長門守たてごもり、三宅権之丞』(不詳。最初の織田侵攻の際に織田勢を破った人物ではある)『は竜門寺にこもる』とある。

「朝倉が餘黨」前注から判る通り、実は織田に討たれた朝倉義景(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)の残党ではなく、一向一揆勢を指す。ウィキの「石山合戦」によれば、『天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年』一『月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も』、『次々と』、『一揆により』、『織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく』、『一向一揆の』勢力権にある『国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった』。『これを知った顕如は、はじめ』『七里頼周』(しちりよりちか:武将にして本願寺坊官)『を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し』、四月二日、『石山本願寺は織田家に対し』、『再挙兵した』。『本願寺は長島・越前・石山の』三『拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があ』り、『信長はそれを最大限に活用して各個撃破に』出、七月、『信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の』三『個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず』、九月二十九日には『降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず』、『長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の』二『個所』で『は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害し』ているとある。

「虎杖(いたどり)」「新日本古典文学大系」版脚注では地区を示して、『福井県南条郡今庄町板取。北陸道の宿駅であるとともに軍事的な要衝としてしばしば合戦の場となり、虎杖城、西光寺城』(ここ)『などが築かれた』とある。但し、板取は現在は福井県南条郡板取であり、虎杖城自体は現在の行政地名では、その境界域の外に当たる福井県南条郡南越前町八飯(やい)に城跡がある

「木芽峠(きのめたうげ)」同じ板取地区のここにある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『今庄』(旧板取地区を含んだ福井県南条郡南越前町今庄地区)『と敦賀との間にある木ノ目峠』(木ノ芽峠が正しい。国土地理院図)。『敦賀を経由して京都へ向かう北陸街道の枝道、西近江路の要衝。峠道を挟むように城の遺構がある』とある。個人サイト「街道の風景」の「木ノ芽峠」が非常に詳しい。必見!

「鉢伏(はちふせ)」ここ(国土地理院図)。個人サイト「城郭放浪記」の「越前 鉢伏城」がよい。

「今條(いまでう)」前の注で示した旧今庄地区のこと。「新日本古典文学大系」版脚注には、『北陸街道の宿駅で南に』木ノ芽峠、『西に山中峠、北に湯尾峠を控えた交通の要衝』とある。

「火燧(ひうち)」南今庄協会直近の今庄地区のここに城跡がある。

「吸津(すひづ)」福井県敦賀市杉津(すいづ)。地図を見ても、岡崎山砦・杉津砦・河野丸砦の山寨跡が確認出来る。

「龍門寺(りうもんじ)」福井県武生(たけふ)市本町に現存する曹洞宗の寺院附近にあった城。ここ。「城郭放浪記」の「越前 龍門寺城」によれば、天正元(一五七三)年に『富田長繁によって築かれたと云われる。もともと龍門寺があった所と云われる』。天正元年、『織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁は』、『いち早く信長に降って、府中を領し』、『龍門寺城を居城とした』。翌天正二年に『一向一揆が起こると』、『それに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波』(まえば)『吉継)を敗り、更に魚住景固』(うおずみかげかた)『父子を謀殺して越前一国を支配した。長繁は織田信長に越前守護の朱印状を要求するなど』、『地位を固めようとしたが』『悪政を施』(し)『いたため』、天正三(一五七五)年に『一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中』(さなか)、『家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ』て『討死にした』。同年、『越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、越前府中に前田利家・佐々成政・不破光治を柴田勝家の目付として配置し』、『府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入り』、『合わせて十万石を領した』。天正八年、『不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えた』とあり、『現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡である』とされ、天正一六(一五八八)年になって、『再び龍門寺が再建されて現在まで続いているが、城域はもっと広く本町一帯であったと考えられて』おり、『明瞭な遺構は残っていないが』、『寺の南側にある墓地が堀跡の名残として周囲より一段低い位置になっている』とある。この附近か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「河野の新城」現在の福井県南条郡南越前町河野。「新日本古典文学大系」版脚注には、『府中(武生市)と西街道で結ばれ、敦賀へ船の便があった』とあるだけで「城」については述べていない(私の示した同一の場所を指している)。ただ、調べてみても、この地区に城塞があったことを確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「開(あけ)のきて」住んでいたところを引き払って立ち退いて。

「みづから」「自ら」であるが、ここは「妾(わらは)・私」で自称の人称代名詞。中古からあって、古くは男女ともに用いたが、近世では女性語となった。

「こと夫(をつと)」「異夫」。

「かりそめの手すさみにも」気晴らしのために歌などを詠んで書いてみたり、遊戯をしたり、物見遊山をしたりしてみても。

「あらまされて」自然に胸中に思い巡らされて。

「思ひくづをれて」「思ひ崩折れて」。重い心身症のような状態になったのであろう。

『「小鹽(こしほ)」といふ所のてら』「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。似た地名に越前国南仲条郡王子保(福井県武生市大塩町)があるが、菩提寺としては遠過ぎるか』とあり、調べると、ここで、ちょっと遠過ぎて、あり得ない。後で四十九日の墓参のシーンが出るが、駕籠を使うとは言え、女連れで、朝に出でて、夕暮れに戻ってこれるような距離(往復で六十キロメートルはある)では物理的にないからである。一方、岩波文庫「江戸怪談集(中)」では、『敦賀郊外の地名。「をしほの西光寺にをくりて土葬にいたし」(平仮名・因果物語』巻四の六)』とある。この寺が現在の福井県敦賀市大比田の西光寺であるとすれば、往復で二十六キロ程度で、まあ、一日で行けぬ距離ではない(但し、侍女を歩かせてのそれは、かなりきつい気はするが)。

「むなしき娘が腰に結び」これが執心の契機となっていることに注目しなくてはならない。

「おくり」野辺の送りをし。]

 

 三十日あまりの後、平次、すなはち、來りぬ。

 長八、これをよびいれて、

「如何に。」

と問へば、答へていふやう、

「若林長門守が、河野の新城に楯籠りしかば、信長公、八萬餘騎にて此敦賀に着陣あり。もし、『若林が一族なり』とて、尋ねいましめられん事を恐れて、とる物もとりへず、京都にのぼり、所緣につきて、暫く住居(すまひ)せし所に、打續きて、二人の親、むなしくなりければ、往昔(そのかみ)の契約、わすれがたくて、ここに歸り來れり。」

といふ。

 濱田夫婦、淚を流していふやう、

「姊娘は、そのころより、そこの御事を思ひあこがれ、病を受けて、去〔いん〕ぬるつきの初めつかた、つひに、むなしくなり侍り。久しく便りのなかりつる事を、さこそ恨み思ひけむ。これ、見給へ、硯の蓋に書おきたり。」

とて、なくなく、取り出して、平次に見せたり。

 その歌に、

 せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花

   しらぬ山路のおくにさくとも

平次、是を見るに、我身のつらさ、今更に思ひ知られて、悲しき事、かぎりなし。

 佛持堂にまいり、位牌の前に花香たむけ、念佛となふれば、二人の親、うしろに來りつつ、

「これこそ、汝が戀ける平次の手向〔たむけ〕なれ。よくよく、うけよ。」

とて、ふしまろび、悲しみ歎きければ、平次を初めて、家にある人、皆、一同に聲をそろへてなきけるも、あはれなり。

 濱田夫婦、いふやう、

「今は父母もおはせねば、獨身〔ひとりみ〕となりて、心細かるらむ。今、姊娘の死したればとて、餘所(よそ)にやは見るべき。同じくは、此家におはして、ともかうも、身の業(なりはひ)をいとなみ給へ。」

とて、家の後ろに、住所〔すみどころ〕しつらひて、とゞめおきたり。

[やぶちゃん注:「すなはち」(前触れもなく)急に。

「せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花しらぬ山路のおくにさくとも」岩波文庫「江戸怪談集(中)」によれば、「千載和歌集」の「巻第一 春歌上」一の道因法師の一首(六二番)、

   花の歌とてよめる

 花ゆゑに知らぬ山路はなけれどもまどふは春の心なりけり

に基づくとある。上手くインスパイアしてある。

「佛持堂」持仏堂。持仏や先祖の位牌を安置した室。仏間。言わずもがな、浄土真宗であろう。

「せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花しらぬ山路のおくにさくとも」「香」は「音信」を、「しらぬ山路のおく」に「平次のいる知らぬ異郷」を、平次への変わらぬ思慕の念を梅の花の香りの漂いに掛けたもの。

「我身のつらさ」平次が彼女にかけてしまった辛い思いを知って、己(おのれ)の薄情に思い到ってつらく思うているのである。

「餘所(よそ)にやは見るべき」「どうして赤の他人のように冷たく突き放すことが出来ようか、いや、出来はせぬ」。]

 

Sinkunoutiobi

[やぶちゃん注:武家が用いる高級な駕籠に(二人乗りと思われ、妹娘の奥に長八の妻が乗るか)奥には前に被(かづき)をした侍女二人、杖を突いて両脇差を指し、釘貫(くぎぬき)紋をあしらった裃を着ているのが長八であろう。下人一人(こちらも両脇差)と挟箱を負うた下男もいる。平次は長脇差一本である。これから、我々が想像する以上に浜田長八は分限者であることが判る。但し、彼が武士であるかというと、戦国時代の本百姓の村長(むらおさ:江戸時代の名主・肝煎クラス)では名字帯刀(事実上の安全のためにである)した者が多かったから、そうと早合点することは出来ない。ただ、平次の父檜垣平太は若林九郎左衛門の一族とあり、彼の方から浜田長八に娘を嫁に呉れと「頼み」をしているからには、浜田も事実上の武士格であったと考えて構わない。なお、駕籠舁きが頭部に死者のする三角巾をしていることに気づかれるであろう。これは実は現在でも、地方によって、葬儀の折りに火葬場や墓へ向かう送迎の運転手を親族が行う場合に行われる葬送儀礼として残っている。私が思うには、原初、死者の亡骸は魂のない「骸(から)」であることから、悪霊がそこに入り込み易いと考えられたことから、複数の死者を生者が演じることによってその侵入を阻止する目的があったものと考えている。四十九日の法要にそれをやる習慣が、今、残っているかどうかは定かでないが、少なくとも江戸時代にはそうした習慣(その意味認識はなかっただろうが)が実行されていたことを証明する挿絵として重要である。

 

 かくて、四十九日の中陰、とりおこなひ、家、こぞりて、「小鹽」の墓にまうでつゝ、平次をば、留主(るす)せさす。

 下向のとき、日すでに誰(たそ)がれに及びて、平次は、門に出〔いで〕むかふ。

 みな、をのをの、入〔いり〕たりけるに、いもうと娘、今年、十六歲なるが、乘物の内より、何やらむ、おとしけり。

 平次、ひそかにひろふてみれば、眞紅の帶也。

 ふかくおさめて、内に入つゝ、わが住〔すむ〕かたに歸り、ともしびのもとに、物思ひつゞけて、ひとり、座し居たり。

[やぶちゃん注:「中陰」中有(ちゅうう)に同じ。「四有(しう)」。生有(しょうう:衆生生まれる瞬間)・本有(生まれて後、死ぬまでの身)・死有・中有の一つ。死有から次の生有までの間で、人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までの間を指す。

「平次をば、留主(るす)せさす」彼を連れて行かないのは、彼がつらいと思うことを考えたのではなく、冥界に存在を異にする娘の執心を憚ってのものであろう。しかしそれは帯を結んだ時点で無効となっていたのである。

「誰(たそ)がれ」古くは「たそかれ」と清音。語源は「誰 () そ彼 (かれ) は」で、「暗くなって人(或いは魔物。さればこそ別に「逢魔が時」とも呼ぶ)の見分けがつきにくい時分」の意で、夕方の薄暗い頃、夕暮れを指す。

「ふかくおさめて」懐深く収めて。字背に「秘かに」(誰にも気づかれぬうちにさっと)の意が強く籠められてある。]

 

 夜ふけ、人、しづまりてのち、妻戶を音づるゝもの、あり。

 戶をひらきて見れば、妹娘(いもとむすめ)なり。

 そのまゝ内に入て、囁(さゝや)きいふやう、

「みづから、姊にをくれて、嘆きにしづめり。向(さき)に眞紅の帶を投(なげ)しを、君、ひろひ給ふや。ふかき宿世(すくせ)、わすれがたくして、これまで、しのびてまいり侍べり。契りをむすびて、偕老のかたらひをなさん。」

といふ。

 平次、きゝておどろき、いふやう、

「ゆめゆめ、あるべき事ともおぼえず。御父母(〔おん〕ちゝはゝ)のなさけありて、我をやしなひ給ふだにあるを、ゆるされもなくして、正(まさ)なきことをおこなひ、もし、もれなん後〔のち〕をば、いかゞせむ。とく、とく、歸り給へ。」

といふ。

 妹、大にうらみ、いかりて、云やう、

「わが父、すでにむこの思ひをなし、此家に、やしなへり。みづから、こゝに來れる心ざしをむなしくなし給はゞ、身をなげて死なんに、必ず、後〔のち〕の悔みをなし、生をかへても、怨みまいらせむ。」

といふ。

 平次、力なく、その心に、したがひけり。

 曉になりて、妹は、おきて、いにけり。

[やぶちゃん注:「妻戶」一般には両開きの板戸で、家屋の端(つま:角)に設けた外部に通ずる戸の意。

「姊にをくれて」姉に先立たれて。

「向(さき)に」先ほど。

「ふかき宿世(すくせ)」前世からの非常に親密な因縁。古く中古より、夫婦・親子の縁は二世(或いは前者の相愛するものは三世とも)、主従は三世の縁と言う。

「偕老のかたらひ」偕老同穴の「語らひ」(男女が契りを交わすこと)。夫婦が仲睦まじく添い遂げること。夫婦の契りが堅く仲睦まじい喩え。「夫婦がともに睦まじく年を重ねて、死後は同じ墓に葬られる」の意から。「偕」は「ともに」の、「穴」は「墓の穴」の意。出典は「偕老」の方は「詩経」の「邶風(はいふう)」にある「撃鼓」で、「同穴」は同じ「詩経」の「王風」にある「大車(たいしゃ)」の句に基づく。なお、生物としての海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目 Lyssacinosida カイロウドウケツ科カイロウドウケツ属カイロウドウケツ Euplectella aspergillum と、その網目構造内の胃腔の中に、雌雄で片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta については、私の「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(7) / ドウケツエビの注はちょいと面白いぜ!」を参照されたい。

「正(まさ)なきことをおこなひ」父上の許しを得ずに交わって、道理に外れたことを行い。

「むこの思ひをなし」私(妹娘)の婿としたつもりで。

「いにけり」「去にけり」。]

 

 それよりは、ひたすらに暮に來りて、朝(あした)にかへる。

 よひよひごとの關守をうらむるばかり、うちとけて、わりなく契りけり。

 三十日ばかりの後、ある夜、又、來りて、平次に語るやう、

「今までは、人、更にしらず。されども、ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん。君、我をつれて、垣をこえて、跡をくらまし給へ。心やすく、偕老を契らん。」

といふ。

 平次も、此うへは、わりなき情の捨難くして、うちつれて忍び出つゝ、三國(みくに)の湊に被官のものありける、それがもとに行て、

「かうかう。」

と名のり、

「賴む。」

よし、いひければ、かひがひしくうけいれて、一年ばかり、かくれ住〔すみ〕侍べり。

[やぶちゃん注:「よひよひごとの關守うらむるばかり」「毎夜毎夜の逢瀬を邪魔する者をいつもいつも恨むほどに、一夜として来ぬ日はなく、繁く」の意。「伊勢物語」第五段、

   *

 むかし、男ありけり。東(ひむがし)の五條わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば[やぶちゃん注:人に知られては困る秘かな通い場所であったので。]、門(かど)よりもえ入らで、童(わらは)べの踏みあけたる築地(つひぢ)のくづれより、通ひけり。人しげくもあらねど[やぶちゃん注:その家は人の出入りがたいして多くはなかったのだけれども。]、たび重なりければ、あるじ、聞きつけて、その通ひ路(ぢ)に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、え逢はで歸りけり。さて、よめる、

  人知れぬわが通ひ路の關守は

    宵々ごとにうちも寢ななむ

[やぶちゃん注:「うちも寢ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」の意。「うちも」は「うち」が強調の接頭語で、「も」も係助詞で強意。「なむ」は願望の助詞。]

と、よめりければ、いといたう、心やみけり[やぶちゃん注:主語は女。]。あるじ、許してけり。

 二條の后(きさき)にしのびて參りけるを、世の聞えありければ、兄人(せうと)たちのまもらせ給ひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「許してけり」警護を緩くした。「二條の后」在原業平と悲恋で知られる藤原高子(たかいこ)。後の清和天皇の女御となった。]

   *

に引っ掛けたもの。

「ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『秘密の漏れやすいことをいう諺の「言(こと)ノ洩レ易キハ禍(わざはひ)ヲ召』(まね)『ク之』(の)『媒(なかだち)也」に即した表現。原拠は臣軌・慎密章』とある。「臣軌」(しんき)は、中国唐代の典籍で六七五年に高宗の皇后武則天の命を受けた周思茂(しぼう)・元万頃(ばんけい)・范履冰(りひょう)・苗神客(びょうしんきゃく)・胡楚賓(そひん)により編纂された、儒家の伝統的な道徳概念を基礎として、臣下の心構えや忠君を説いたもの。二巻十編(国体・至忠・守道・公正・匡諌・誠信・慎密・廉潔・良将・利人)より構成されており、当時の官人及び科挙受験者たる挙人らの必読の典籍とされた。中国では早くに原本が失われたが、本邦では後世まで伝わり、江戸末期に林述斎により、編纂された「佚存叢書」などに収録されている(以上は当該ウィキに拠った)。

「垣をこえて」「新日本古典文学大系」版脚注には、『家の垣を踏み破って。「垣を越す」には道理や決まりを破るの意味もある』とあった。目から鱗の優れた注である。

「三國(みくに)の湊」福井県坂井市三国町。敦賀との位置関係が判るようにリンクさせた。

「被官のもの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『本百姓に隷従する水呑百姓や商家の下男下女など』、『身分の低い者』を指すとし、『平次の家で侍の時分に召し使っていた下人か』とある。

「かひがひしく」「甲斐甲斐しく」。即座に、頼もしくも。]

 

 女、ある時、いふやう、

「父母のいましめのおそろしさに、君と、つれて、こゝには迯(にげ)來りけれ。すでに一年の月日を過〔すぐ〕したれば、二人の親、さこそ、みづからを思ひ給ふらめ。今は、いかにも、つみ、ゆるし給はん。いざや、古鄕にかへらん。」

といふ。

 平次、

「此上は。」

とて、つれて、敦賀にかへり、まづ、女をば、舟にをきて、我身ばかり、濱田が家にいたり、案内(あんない)して、對面(たいめん)をとげていふやう、

「さても、我、さしも、いたはりおぼしけるを、御ゆるされもなく、まさなきわざして、不義の名をかうふりし事、そのつみ、かろからずといへども、すでに年を重ねぬれば、今は、いかりもゆるくなり給はん。此故に、これまで、つれて、歸り侍べり。罪、ゆるし給はんや。」

といふ。

[やぶちゃん注:「いましめ」駆落ちに対する勘当などの懲戒。

「さこそみづからを思ひ給ふらめ」「みづから」は先の一人称自称。「さぞかし、私のことを思って心配なさっておられることでしょう」。

「此上は。」「そう言うのであれば、そうしよう。」。

「舟にをきて」浜田の家が敦賀湾に近いか、笙の川或いは井の口川の河口からそう遠くない位置にあったことが窺える。

「案内して」来意を告げて、取り次ぎを頼み。

「さしも、いたはりおぼしけるを」あれほどまでに、私めを労わって下さり、よきように計らって下さったにも拘わらず。

「御ゆるされもなく、まさなきわざして」お許しもないのに、およそ道理から外れた行いをなし。

「不義」不義密通。]

 

 濱田、聞て、

「それは、いかなる御事ぞ。更に、心得がたし。」

といふ。

 平次、ありのまゝにかたりて、眞紅の帶を取出して、みせたり。

 その時、濱田、大〔おほき〕におどろき、

「此帶は、そのかみ、姊に約束せし時に給はりし物也。姊、むなしくなりければ、棺におさめて、うづみ侍べり。又、妹は、やまひおもく、床にふしてあり。君とつれて、他國にゆくべき事、なし。」

とて、

「舟にとゞめをきたり。」

といふをきゝて、人をつかはしてみするに、舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。

[やぶちゃん注:「舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。」「ふなかた」は船頭。私は個人的にはこの部分は甚だ不満である。ここは平次自らが舟に赴いて彼女を連れてくるべきであった。それは私が最後の注で語る、本話の本当の原話に沿うものであり、その原々話の驚愕のシークエンスこそが、本話の幻想性を最も高らかに掲げるものとなったはずだからと考えるからである。さらに言えば、こうした結果、次の頭の『「是は。そもいかなる事ぞ。」とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ』というシーンが、浜田夫婦が驚き、疑う理由が、『平次は気狂いになったのではないか?』という上手くない感じのシーン挿入になってしまうばかりだからでもある。

 

「是は。そもいかなる事ぞ。」

とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ處に、妹の娘、そのまゝ、床より立あがりて、さまざま、口ばしりて、

「我、すでに平次に約束ありながら、世をはやうせしかば、をくり捨られて、塚の主〔あるじ〕となされしかども、平次に、ふかきすぐせの緣、あり。此故に、今、又、こゝに來れり。ねがはくは、我が妹をもつて、平次が妻となしてたべ。然らば、日比〔ひごろ〕の病(やまひ)も、いゆべし。これ、みづからが、心に望むところなり。もし、此事をかなへ給はずは、妹が命をも、おなじ道にひきとりて、我が黃泉(よみぢ)の友とせむ。」

といふ。

 家うちの人、みな、驚きあやしみて、其身をみれば、妹のむすめにして、その身のあつかひ・物いふ聲・こと葉は、皆、姊の娘に、少しも、たがはず。

 父の濱田、いふやう、

「汝は、巳に、死したり。如何でか、其跡までも、執心深くは思ふぞや。」

と。

 物(もの)の氣(け)、答へていふやう、

「自(みづか)ら先世(せんぜ)に深き緣ある故に、命こそ短かけれ共、閻魔大王に、いとまを給はり、此一年餘りの契りを、なし侍べり。今は、迷塗(よみぢ)に歸り侍べる。必ず、みづからがいふ事、たがへ給ふな。」

とて、平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ、さて、いふやうは、

「かまへて、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ。」

とて、

「わなわな」

と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり。

 人々、驚き、容(かほ)に、水、そゝぎければ、妹、よみがへり、病は、忽ちに、いえたり。

 先の事共を問ひけるに、一つも、覺えたる事、なし。

 是によりて、つひに、妹娘を以て、平次と夫婦になしつゝ、さまざま、佛事をいとなみ、姊娘が跡をとぶらひ侍べり。

 これを聞(きく)人、

『きどくのためし。』

に思ひけり。

[やぶちゃん注:「妹」の肉体に姉の亡魂が憑依して口走っているわけだが、そうなると、妹が平次のところに夜這いをかけたのも妹ではなく、妹の化けた姉の化身であったということになる。しかも姉の亡霊は妹を一年余り病臥させていたことになり、妹の実存在のキャラクターが作品としては全く描けていないのである。或いは「この妹は、ある意味、ひどく可哀そうだとは言えないか?」という読者が必ずいた(いる)に違いないという感じを私は持つ。私自身が本話の初読時にその違和感を強く持ったからである。本話の最大の瑕疵はまさにそこにあるとさえ私は思うのである。そうして、後に示す原々話が卓抜であるのは、まさにそうしたものが完全に解消されているからでもあるのである。

「世をはやうせしかば」「世を早うせしかば」。早世(早逝)してしまったので。

「をくり捨られて」「をくり」はママ。野辺の送りも形ばかりに、捨てるように葬られて。夭折・早世した若者の葬儀は、古くは、一般には、半人前の存在、則ち、魂が正常でないものと考えられ、意想外に質素で簡略化された形で行われるのが普通であったと私は認識しており、この謂いは見かけ上は実は私には全く違和感はないのである。

「身のあつかひ」身振り。仕草。

「物(もの)の氣(け)」「物の怪」。則ち、ここまで了意は、姉の亡魂を〈執心に凝り固まった御霊(ごりょう)〉のように捉えて描出していることが判るのであり、ここまでの姉の霊が妹に憑依して喋りまくるシークエンスは、実は我々が思うよりも、もっと陰惨で、かなり気味の悪い怪奇場面として語っているのだということを認識しておく必要があるのである。それがやっと明るく透明な感じになるのは、「平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ」、「かまへて」(副詞。意志・命令の表現を伴って「きっと・必ず・なんとしても」の意)「、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ」と言いおくシーンであるが、その後にも「わなわな」「と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり」(最後は気絶したという意)という怪奇シーンを添えているのからもよく判る。怪奇譚としては〈お約束〉であり、「別にいいじゃん」と言う方もあろうが、私は気に入らない。それほどに原々話が優れているからである。

「迷塗(よみぢ)」は「迷途」の誤字か当て字。「迷途」自体が「冥途」の誤字である。

「きどくのためし」「奇特の例」。「非常に珍しく不思議な出来事の一つ」の意。

 さて。本篇は確かにの明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集「剪燈新話」の巻之一の「金鳳釵記」(きんぽうさいき)が種本ではあるのだが、一読、「金鳳釵記」自体が明らかに唐代伝奇の陳玄祐(げんゆう)撰の名作「離魂記」を焼き直したものに過ぎないことは明白である。しかも、了意なら「離魂記」を読んでいなかったとは思われないのである。「金鳳釵記」を私は高く評価しない。されば、「青空文庫」の田中貢太郎の邦訳版ででも読まれるが、よろしかろう。「離魂記」は少し古い私の電子化物で正字漢字に不全があるが、「無門關 三十五 倩女離魂」で原文・訓読・拙訳が載せてあるので、是非、本篇と対照して読まれたい。私の言ってきた意味が納得されるはずである。そこでは姉妹ではないし、亡霊でもない。女は二人の分身なのだ。それが、互いに寄り合って合体するのだ! 四十年も昔のことだが、初任校で半強制でやらさせられた漢文の補習で、「やるんなら、面白いやつをやってやる!」とこれを採用したのを懐かしく思い出す。考えてみると、あれっきり、不思議なことに、後に一度も授業では採り上げなかったな。私の中では遂に「奇特な例」だったわけだ。

2021/04/08

伽婢子卷之二 十津川の仙境

 

伽婢子卷之二

 

   ○十津川(とつがは)の仙境(せんきやう)

 和泉の堺に藥種をあきなふ者あり。その名を長次〔ちやうじ〕といふ。久しく瘡毒(さうどく)をうれへて、紀州十津川に湯治しけり。病に相當せしにや、十四、五日の間に平復し侍べり。

 長次、或日、思うやう、

『年比、聞傅へし、「十津川の溫泉(いでゆ)の奧には、人參(にんじん)・黃精(わうせい)といふもの、生(おひ)出〔いで〕て、尋ねあたれば、多く有り」といふ。此〔この〕なぐさみに、近き所を搜し見ばや。』

と思ひ、僕をば、宿にとゝめ、唯一人、山深く入〔いり〕しかば、道に、ふみ迷へり。

[やぶちゃん注:「十津川」現在の奈良県の最南端に位置する吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の正式な読みは「とつかわ」である。面積は奈良県で一番大きく、紀伊半島の内陸にある山村で、南東端のごく一部で三重県と、南西で和歌山県と県境を接する。本文で「紀州十津川」と出ることを「新日本古典文学大系」版脚注は殊更に採り上げて、『「和州」が適するか』とするが、確かに大和国の圏内とは言え、南東端には知られた有意に広大な和歌山県飛地(私は地理が大好きで、小学三年の頃、これを地図上に見出して驚いたのを忘れない)と接していることからも判る通り、当時の実生活の経済上の関係を考えても、十津川の水運がその生命線の重要な導線であったのであり、私はここで「紀州」と言っていることには違和感を全く覚えない。

「瘡毒」「新日本古典文学大系」版脚注は単に『かさ。腫れもの』とするが、通常、江戸期にかく言った場合は、ほぼ梅毒(実際には正確に分類されていたわけではないその他の性感染症群をも多量に含む)を指していると考えてよい。無論、湯治ごときで治るものではないが、梅毒の発症機序や進行様態は時間的に数十年に及ぶ場合も珍しくなく、初期症状の発生後に疑似的な緩解期が何度も起るから、何ら不思議ではない。そもそもが、この主人公は薬種屋であるから、相応な治療薬も自ら服用していたものとも思われる。

「十津川の溫泉」この場合は、十津川の温泉で最も古い歴史がある現在の湯泉地温泉(とうせんじおんせん)に限定されるので注意(他の「十津川温泉」と「上湯(かみゆ)温泉」は源泉の発見が本書刊行よりも後であるからである)当該ウィキによれば、単純硫黄泉で、 源泉温度六十度。湯は無色透明。『十津川の湯が文献に現れるのは』、天文二二(一五五二)年の本願寺第八世蓮如の『末子の実従の湯治』が「私心記」に載るのが最初とされ、その後も天正九(一五八一)年に佐久間信盛(?~天正一〇(一五八二)年:元織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧及び松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って落飾した。湯治の記載は「多聞院日記」に拠る)が、天正一四(一五八六)年には顕如上人(「宇野主水記」)が、文禄四(一五九五)年に大和中納言秀保(大名。豊臣秀吉の姉の子で後に豊臣秀長の婿養子となり、彼を嗣いで大和国国主となった人物。湯治は「多聞院日記」に拠る)が『訪れている。信盛、秀保はどちらも療養のため』に『訪れたこの地で亡くなったため』、『十津川の湯が文献に残された』とある。『十津川には泉脈も多く』、『湧出地は変わるため』、『前述の十津川の湯が』現在の湯泉地温泉と『同じ場所とはいいきれないが』、宝徳二(一四五〇)年に『温泉が湧出した』(「東泉寺縁起)『という湯泉地付近と推定され』ており、『当地には佐久間信盛の墓も残る』(ここ)とある。『かつてこの地には薬師如来を本尊とする東泉寺という寺があった。今も残る』「東泉寺縁起」に『よると、役行者が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ』、『湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね』、『薬師如来を造顕した』とされ、宝徳二(一四五〇)年に地震が発生し、『湯脈が変わり』、『武蔵の里』(現在の十津川村武蔵はまさに佐久間信盛の墓のある場所である)『に湧出し、いつしか』、『十津川沿いの現地に移ったとされている』。『なお』、『湯泉地温泉の名は東泉寺に由来する』とある。

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「黃精」漢方生剤「オウセイ」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ(甘野老・萎蕤)連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum或いは同属ナルコユリ(鳴子百合)Polygonatum falcatum の根茎を用いる。降圧・強心・抗血糖作用などがあるとされるが、生で用いると、咽を刺激するため、蒸した「熟黄精」を使用する。漢方では他に補気・潤肺・強壮・胃腸虚弱・慢性肺疾患・糖尿病・病後の食欲不振・咳嗽・栄養障害などに用いられ、砂糖とともに焼酎に漬けた黄精酒は古くから愛飲されている。]

 

Totugawa

 

 一つの谷に、くだりて見れば、美くしき籠(こ)[やぶちゃん注:人の作った籠(かご)。]の流れ出〔いで〕ければ、

『此水上に、人里あり。』

と思ひ、水にしたがうて、のぼるに、日は、すでに暮かゝり、鳥の音〔こゑ〕、かすかに、ねぐらを爭ふ。

 かくて、十町ばかり[やぶちゃん注:凡そ一キロメートル。]行(ゆく)かと覺えし。

 岩をきりぬきたる門に致り、内に入〔いり〕て見れば、茅葺(かやぶき)の家、五、六十ばかり、軒を並べて立〔たち〕たり。

 家々のありさま、石(の)垣、苔、生(おひ)て、壁、みどりをなし、竹の折戶(おりど[やぶちゃん注:ママ。])、物淋しく、蔦かづら、冠木(かぶき)をかざる。

 犬、ほえて、砌(みぎり)をめぐり、鷄、鳴(なき)て、屋(いへ)にのぼる。桑の枝、茂り、麻の葉、おほひ、誠に住ならしたる村里也。樵(こり)つみける椎柴(しゐしば)、舂(うす)つきてほす粟(あは)・粳(うるしね)、さすがに、わびしからずぞ、見えたる。

 人の形勢(ありさま)、古風ありて、素袍(すはう)・袴に、鳥帽子、着〔き〕て、行還(ゆきゝ)しづかに、威儀、みだりならず。

[やぶちゃん注:「冠木」左右の門柱を横木(冠木)によって支えた門。古くは下層階級の家に用いられた造りであったが、後に諸大名の外門などにも盛んに用いられた。

「砌(みぎり)」ここは「庭」の意。以下、明らかに陶淵明の「桃花源記」の「有良田美池桑竹之屬。阡陌交通、鷄犬相聞。」(良田・美池・桑竹(さうちく)の屬(ぞく)有り。阡陌(せんぱく)交はり通じ、鶏(けい)・犬(けん)相ひ聞ゆ。)を確信犯で意識させる。

「樵つみける椎柴」木を樵(こ)りて積み上げられた椎や柴の薪(たきぎ)。

「粳(うるしね)」通常の主食とする粳米 (うるちまい) がとれる稲。

「素袍」直垂 (ひたたれ) の一種。裏をつけない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸紐に革を用いる。略儀の装束で、室町時代には庶民も日常用として着用した。江戸時代には形式化し、ここに出る通り、長袴 (ながばかま) を穿くのが普通となり、大名の礼服である大紋(だいもん)と同じように定紋(じょうもん)を附け、侍烏帽子 (さむらいえぼし) に熨斗目 (のしめ) 小袖を併用し、平士 (ひらざむらい) や陪臣の礼服とされた。]

 

 長次が、立やすらひたる姿を見て、大〔おほき〕に怪(あやし)み、驚きて、問ひけるやう、

「如何なる人なれば、此里には、さまよひ來〔きた〕れる。世の、常にして知るべき所にあらず。」

といふ。

 長次、ありのまゝに語る。

 こゝに、ひとりの老人、衣冠正しきが、蓬(えもぎ)の沓(くつ)をはき、藜(あかざ)の杖をつきて、みづから、

「三位中尉。」

と名のり、長次に向ひて日(いはく)、

「こゝは、山深く、岩ほ、そばだち、熊・狼、むらがり走り、狐・木玉(こだま)のあそぶ所にして、日は暮たり、此まゝ打捨なば、是ぞ、水に溺れたるを見ながら、拔(すく)はざるに、おなじかるべし。こなたへおはせよ。宿、かし侍らん。」

とて、家に連れて歸りぬ。

 内〔うち〕のてい、きたなからず、召使はるゝ男女〔なんによ〕、更に、みだりならず。

 既に一間の所に呼びすゑ、ともし火をかゝげ、座、定りてのちに、長次、問けるやう、

「此〔この〕所は、ありとも知らぬ村里也。如何に住そめ給ひしやらん。」

といふ。

 あるじ、眉をひそめて、

「是は浮世の難を逃れし人の、隱れて住〔すむ〕ところなり。若〔もし〕、しひて[やぶちゃん注:ママ。「强(しい)て」。]そのかみの事を語らば、徒らに愁(うれへ)を催すなかだちならん。」

といふ。

 長次、あながちに、其(その)住初(すみそめ)し故をとふに、あるじ、語りけるは、

「我は、平家沒落して西海の浪に沈みける比より、此所に住初たり。

 我は是、小松の内府(だいふ)重盛公の嫡子三位中尉維盛と云ひし者也。祖父(おほぢ)大相國淸盛入道は、惡行重疊(ぢうてう)して、人望にそむき、父内府は、世を早うし給ひ、伯父宗盛公、世を取〔とり〕て、非道不義なる事、法に過ぎたり。

 一門のともがら、多くは皆、奢りを極め、榮花にほこり、家運、たちまちに傾き、東國には兵衞の佐(すけ)賴朝、譜代の家人〔けにん〕を催して、義兵をあげ、北國には木曾の冠者義仲、一族郞等〔らうどう〕をすゝめて、謀反(むほん)す。

 其外、諸國の源氏、蜂の如くに起り、蟻の如くに集(あつま)りけるを、玆(こゝ)に、はせむかひ、かしこに、責寄(〔せめ〕よ)するに、更に軍(いくさ)の利なく、味方の軍兵〔ぐんぴやう〕、たびたびに打れて、終に、木曾がために都を追落(をひをと)され、攝津國一の谷に籠り、暫く心も安かりしに、九郞義經が爲に、こゝをも破られ、一門の中に、通盛(みちもり)・敦盛以下、多く亡び給ひ、まの當り、魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])を消し、胸をひやし、うきめを見聞(みきく)かなしさ、生〔しやう〕をかゆるとも、忘るべき事かや。

 とかくする程に、讃岐國八嶋の州崎に城郭を構へ、一門の人々、楯籠(たてこも)りしかば、故鄕は雲井の餘所(よそ)に隔り、思ひは妻子の名殘〔なごり〕に止(とゞ)まり、身は八嶋に在りながら、心は都に通ひければ、萬(よろづ)につけて、あぢきなく、『行末とても賴みなし』と、うかれ果たる心より思ひ立〔たち〕て、譜代の侍〔さぶらひ〕與三兵衞重景(〔よさうびやうゑ〕しげかげ)、石童丸(いしどう〔まる〕)といふわらは、武里(たけさと)といふ舍人(とねり)は、舟に心得たる者なれば、此三人を召具〔めしぐ〕して、忍びて、八嶋の内裏を出〔いで〕て、阿波の由木(ゆうき)の浦につきて、

 をりをりはしらぬうらぢのもしほ草

   かきおく跡をかたみともみよ

 重景、返しとおぼしくて、

  我おもひ空ふく風にたぐふらし

   かたぶく月にうつる夕ぐれ

石童丸、淚をおさへて、

 玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に

   心はいとゞあこがれにけり

 それより、紀伊國、和歌・吹上の浦をうち過〔すぎ〕て、由良(ゆら)の湊より、舟をおりて、戀しき都をながめやり、高野山にまうでて、瀧口時賴入道にあうて、案内せさせ、院々、谷々、をがみめぐり、

「これより、熊野に參詣すべし。」

とて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より、「和歌の浦」、「吹上の濱」、「古木〔ふるき〕の杜」、「蕪坂(かぶらざか)」・「千里(ちさと)の濱」のあたり近く、岩代(いはしろ)の王子〔わうじ〕をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、

 岩田川ちかひの舟にさほさして

   しづむ我身もうかびぬるかな

 それより、本宮(ほんぐう)にまうでつゝ、新宮・那智、のこりなくめぐりて、「濱の宮」より、舟に乘り、磯の松の木をけづりて、

 

  權亮(ごんのすけ)三位中尉平惟盛

  戰場を出(いで)て那智の浦に入水す

  元曆元年三月廿八日 惟盛 廿七歲

  重景 同年  石童丸 十八歲

 生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ

   定なき世にさだめありける

 

と書〔かき〕て、世には「入水〔じゆすい〕」と知らせけれども、今、この山中に隱れしかば、肥後守貞能(さだよし)、跡をもとめて尋ね來れり。

「平氏の一門、沒落して、皆、ことゞく、壇の浦にて、水中に入給ふ。都に隱れし平氏の一類も、根を斷ち、葉を枯らしけり。」

と、貞能、かたり侍べるにぞ、

「よくこそ、のがれけれ。」

と、かなしき中に、心を慰め、田をうゑ、薪(たきゞ)とり、みずから、淸風朗月に心を澄まし、物靜(〔もの〕しづか)にして、たましひを、やしなふ。人里絕〔たえ〕て、音づれも、なし。

 花の咲くを春と思ひ、木の葉のちるを秋と知り、月のいづるを、かぞへ盡して、月なき時を晦(つごもり)と、あかし暮らす身と、なり侍べり。

 貞能・重景・石童丸が子孫、ひろごりて、家居を並べて住〔すみ〕ける也。

 さだめて、賴朝、世をとりぬらん、今はこれ、誰〔たれ〕の世ぞ。願くは、物語せよ。」

とあり。

[やぶちゃん注:贋の遺書は前後を一行空け、句読点を附さなかった。維盛の語りは非常に長いので、シークエンスごとに段落成形した。

「蓬の沓」「えもぎ」はヨモギ(本邦の狭義のそれは中央アジア原産と考えられているキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii )の別称。「新日本古典文学大系」版脚注は『不詳』とするが、ウィキの「靴」によれば、『これまでに発見された世界最古の靴は』一九三八『年に米国オレゴン州のフォートロック洞窟にあったもので、紀元前』七千『年頃に』、『ヨモギの樹皮で作られたサンダルである』とある。参考元の英文記事はこちらであるが、この左の写真キャプションにある‘Sagebrush’というのは、ヨモギ属オオヨモギ(ヤマヨモギ) Artemisia montana で、本邦でも近畿地方以東の本州・北海道・南千島などに分布し、名の通り、草丈が高くなり、時として二メートルを超えるという。されば『樹皮』というのは違和感がない。私は文字通り、「蓬の繊維で編んだ沓」でよいと思う。因みに、七千年前の日本は縄文時代前期で縄文海進の最盛期に相当する。

「藜」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum である。本邦には北海道から沖縄まで全国に分布し、畑地・荒地に最も普通に見られる雑草で、長ずると一メートル以上になる。意外に思われるかも知れないが、本種は秋になって枯れた茎を乾して老人用の杖にした。軽くてしかも強く、使い易い杖になったのである。「笈日記」の芭蕉の句「宿りせん藜の杖になる日まで」の伊藤洋氏の「芭蕉DB」のこちらの解説を参照されたい。

「三位中尉」これは平清盛の嫡孫で平重盛の嫡男であった、名将にして享年二十六で壇の浦に散った平小松三位中尉維盛(これもり 平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年)の別名である。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。なお、私は鎌倉史を趣味で調べている関係上、以下の面子はほぼ顔見知りで、注の必要を感じない者が多い。教科書的に総てを等し並みにいりもせぬ注をすることはしないことをここで断っておく。

「通盛」(仁平三(一一五三)年?~元暦元(一一八四)年)平清盛の異母弟である権中納言平教盛と藤原資憲の娘との嫡男。弟に私の好きな能登守教経がいる。「一の谷の戦い」で討死した。「平家物語」では、「平家都落ち」の直前に宇治橋を固めて応戦し、都落ち以後も西国で戦う様子が記されてある。また、愛人小宰相が後を追って入水する悲話が描かれ、二人の馴れ初めも描かれる。二人の恋は「建礼門院右京大夫集」にも載る。

「生をかゆるとも、忘るべき事かや」「仮に輪廻転生したとしても、いっかな、忘れることなどできようものか!」。

「興三兵衞〔よさうびやうゑ〕重景」彼の父平景康(景泰・景安とも)は平重盛の家人で、「保元の乱」に参戦し、「平治の乱」では主君を守り、二条堀河の辺りで鎌田兵衛と組み合いとなったところを、頼朝の兄悪源太義平に討たれてしまったため、維盛に育てられて、名も彼から与えられた。父子ともに重盛父子の乳母子(めのとご)となったのである。乳母子は当時、主君と命をともにするのが倣いであった。読みは「新潮日本古典集成」版の「平家物語」の「巻第十」の「横笛」のルビに従った。

「石童丸」維盛の臣下の少年であるが、出自不詳。

「武里」不詳。

「舍人」牛車の牛飼や、馬の口取りなどを担当した下人。

「阿波の由木(ゆうき)の浦」阿波国海部(かいふ)郡三岐(みき)村由岐(ゆき)。現在の徳島県海部郡由岐町(ゆきちょう)

「をりをりはしらぬうらぢのもしほ草かきおく跡をかたみともみよ」整序すると、

 折々は知らぬ浦路の藻鹽草かきおく跡を形見とも見よ

で、塩を作るための海藻を「搔き」集めるに、辞世の歌を「書き」置くに掛けたもの。これらの歌のシークエンスは「源平盛衰記」の巻三十九巻の「維盛屋嶋を出でて高野に參詣付けたり粉川寺(こかはじ)法然房に謁する事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 折々はしらぬ浦路のもしほ草(くさ)書置(かきをく)跡を形見共(とも)見よ

とある。

「我おもひ空ふく風にたぐふらしかたぶく月にうつる夕ぐれ」整序する。

 我れ思ふ空吹く風に比(たぐ)ふらし傾(かたぶ)く月に移る夕暮れ

で、「……私の今のこの限りなき切なき思いは、虚空を吹き退(すさ)ってゆく風にでも比える得るものだろうか――傾く月に漆黒の闇へと移ってゆくこの夕暮れの間合いには……」と言った謂いか。「源平盛衰記」では、

 我(わが)戀(こひ)は空吹(ふく)風にさも似たり傾(かたふ)く月に移ると思へは

とある。これは「源平盛衰記」の方が遙かにいい。

「玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に心はいとゞあこがれにけり」同前。

 玉鉾(たまぼこ)の道行き兼ねて乘る舟に心はいとど憧(あこが)れにけり

で、「玉ぼこの」は「道」の枕詞。「……道中、いかにも心から赴こうとする意志もなく、行きかねてかくも乗った舟ではあるけれど――でも――この行く先が西方浄土ならんかと思えば――いよよ、心が憧(あくが)れることです……」の謂いか。「源平盛衰記」では、

 玉鉾(たまぼこ)や旅行(たびゆく)道のゆかれぬはうしろにかみの留(とゞま)ると思へば

とある。こちらは本篇の方がずっと上出来。

「紀伊國、和歌・吹上の浦」「和歌」「の浦」は和歌山市の歌枕である「和歌の浦」。古くはこの中央の海岸一帯を指した。「吹上の浦」は現在の紀ノ川河口の和歌山城附近の当時の海浜の貫入していた部分から(砂丘状になってた。吹上の地名が残る)、南西の雑賀崎附近を指すが、ここは「和歌の浦」の後背部北側に当たる。

「由良(ゆら)の湊」和歌山県日高郡由良町。順序にちょっと違和感がある。但し、これは参考にした「平家物語」の巻十の「横笛」や「源平盛衰記」の先の箇所の叙述に従ったまでのことであり、都の方を遠望するには、まあ、少し戻るものの、違和感はない。でも、私は『僕なら、せめて今の大阪湾口が開ける加太(かだ)を北に回り込んだ和歌山市大川辺りまで出向くけどな』とは思う。

「戀しき都をながめやり」見えるわけでは無論、ない。遠く見やるのである。

「瀧口時賴入道」平重盛に仕え、宮中の「滝口の武士」をも勤めた齋藤時頼。芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の子孫の疋田(ひった)斉藤茂頼(もちより)の子。彼と、建礼門院の雑仕女(ぞうしめ)横笛の悲恋と、まさにここに語られる維盛の入水を描いた歴史小説高山樗牛の「瀧口入道」は私の偏愛する作品である。時頼は横笛の死後、出家して高野山に入っていた。

「三藤(とう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『和歌山市山東中(さんどうなか)近辺。熊野街道が通り、高野山から下る道筋との合流地域』とある。ここ

「藤代(ふぢしろ)」現在の海南市藤白

「古木〔ふるき〕の杜」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、かなり突っ込んで同定比定可能性を探っているが、私には興味がないので引かない。

「蕪坂(かぶらざか)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『海草郡下津町。有田市との境に』ある『蕪坂峠』(現在は「かぶらさかとうげ」と清音)。『峠を越えた所に蕪坂塔下(とうげ)王子がある』とあるが、現在は海南市下津町になった。蕪坂塔下王子はここ

「千里(ちさと)の濱」「新日本古典文学大系」版脚注に、『日高郡南部町。千里王子社がある』とあるが、現在は和歌山県日高郡みなべ町と表記が変わっており、王子社社跡とする。

「岩代(いはしろ)の王子」現在の日高郡みなべ町西岩代。また、今は岩代王子跡とする。「新日本古典文学大系」版脚注には、『この拝殿の板に熊野参詣者名前や和歌を書きつけて奉納した』とある。

「岩田川」「新日本古典文学大系」版脚注に、『西牟婁郡富田川中流、岩田付近の呼称。』水『垢離場として著名』だった場所で、『歌枕』とある。ここ

「岩田川ちかひの舟にさほさしてしづむ我身もうかびぬるかな」整序すると、

 岩田川誓ひの舟に棹さして沈む我が身も浮かびぬるかな

で、やはり「源平盛衰記」の巻四十巻の「維盛入道熊野詣付けたり熊野大峯の事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 岩田川誓(ちかひ)の舩(ふね)にさほさして沈む我(わが)身も浮(うかび)ぬる哉

の表記である。「誓ひの舟」とは、「弘誓(ぐぜい)」(菩薩が自らの悟りと、ありとある衆生の済度を願って立てた広大なる誓願)を煩悩の大海から総ての衆生を救い揚げて西方浄土へ向かう「船」に喩えたもの。

「本宮」熊野本宮大社

「新宮」熊野速玉神社

「那智」熊野那智大社。以上で熊野三山を成す。神道嫌いの私が例外的に敬虔に総て参詣した人生唯一の三社である。私は後、出雲大社だけはちゃんと参拝したいと考えている人種である。

「濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮。「源平盛衰記」の巻四十巻の「中將入道水に入る事」を見よ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。ここはまさに無謀な補陀落(ふだらく)渡海信仰のメッカで(私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」を参照)、天台宗熊野山補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があり、私も参り、裏にある平維盛供養塔も墓参した。

「元曆元年三月廿八日惟盛廿七歲」これが実遺書でないことは、元号でバレバレ。平家政権はは後鳥羽天皇の即位を認めず、「元曆」(げんりゃく)を用いず、「壽永」を引き続いて使用していたからである。則ち、ここは「壽永三年」でなくてはならないのである。この日附や維盛の年齢は「源平盛衰記」のままであるが(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ)、重景と石童丸の年齢は記されていない。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「公卿補任」『記載の維盛』の『年齢に従うと』、『二十五歳に当た』り、合わないことが示されてある。なお、「源平盛衰記」の同前の終わりの方(左ページの五行目から次の頁にかけて、維盛の生存説が複数、附されてある。しかし、こういうところは、私が「源平盛衰記」の致命的な瑕疵部分と考えている、厭なところである。

「生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ定なき世にさだめありける」前のリンクで「源平盛衰記」のそれが見られるが、特段の異同はない。因みに、実際の維盛は、生活史の孤立感からみても、かなり早期に、かなり重い鬱病、或いは強い抑鬱症状をきたす重度に精神疾患に罹患していたのではないかと私は考えている。

「肥後守貞能」伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人であった平貞能(さだよし 生没年不詳)。父は平氏の直参の郎等であった平家貞。当該ウィキによれば、『保元の乱・平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め』、『清盛の「専一腹心の者」』(「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年七月七日の条)『といわれた』。仁安二(一一六七)年五月、『清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど』、『九州方面での活動が顕著である』。治承四(一一八〇)年十月、『平氏の追討軍は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大』し、十二月に『資盛が大将軍として近江攻防に発向すると、貞能も侍大将として付き従った。畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、翌治承五年閏二月に『清盛が死去し』、『後継者となったのは清盛の三男・平宗盛であり、重盛の小松家は一門の傍流に追いやられることになる。同じ頃、九州でも反乱が激化しており』、『肥後の豪族・菊池隆直らは大宰府を襲撃した』。四月十日、『宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され』て、すぐに『菊池隆直追討宣旨が下され』、同年八月に『貞能は反乱鎮圧のため』、『一軍を率いて出発』した。『備中国で兵粮の欠乏に直面し』、『追討は困難を極めたが、翌』養和二(一一八二)年四月、『ようやく菊池隆直を降伏させることに成功した』。寿永二(一一八三)年六月、『貞能は』一千『余騎の軍勢を率いて帰還するが』翌七月には、『木曾義仲軍の大攻勢という局面に遭遇する。貞能は資盛に付き従い』、『軍勢を率いて宇治田原に向かったが、この出動は宗盛の命令ではなく』、『後白河法皇の命令によるものだった。小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず』、『都での決戦を主張した。九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある』。二十五『日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが』、『連絡が取れず、翌』二十六『日の朝には西海行きを余儀なくされる』。「平家物語」の『一門都落の章段によれば、貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし』、『遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという』。『平氏は』八『月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を』傍観するばかりで『動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど』、『現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄』(これよし)『が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから』、『資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。平氏は』十『月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり』、『平氏本隊から離脱した』。『また』、「玉葉」の寿永三(一一八四)年二月十九日の条には、『資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている』。『平氏滅亡後の』元暦二(一一八五)年六月、『貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願し』(「吾妻鏡」七月七日の条)。『この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など』、『貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである』とある。

「淸風朗月」さわやかな涼しい風と、明るく清らかな月。風雅な遊びや、自然をこころゆくまで嘆賞するさま。]

 

 長次、大に驚き恐れ、

「『只、かりそめの山住(やまづみ)、世の常の事』にこそ思ひ奉りしに、かゝる止事(やごと)なき御身とは、露も思ひよらざりけり。」

とて、首を地につけ、禮義をいたす。

 三位中尉、

「いやとよ、今は然〔しか〕るべからず。それそれ。」

と、の給ふに、貞能・重景・石童丸、立出たり。

 いづれも、その歲、六十ばかりに見えたるが、貞能いふやう、

「迚(とても)うちとけ給ひたる御事也。その世の移り替りし事共、語りてきかせ給へ。」

と也。

[やぶちゃん注:この展開は読者にとって、ネガティヴな貴種流離としての維盛の諸々のイメージを破壊し、面白い予感を引き出させる。或いは、他の作家(例えば後のお喋りな曲亭馬琴)なら、ここに出たバイ・プレイヤーらにじゃかじゃか語らせるところだが、そもそもが、貞能を除く、肝心の重景・石童丸の史実的認識が読者には不足している。さればこそ、ここで本当に読者のようにエキサィテイングになれるのは、主人公である長次自身であることに了意は気づくのだ! そこが素晴らしい! もし、読者が「自分がここで長次なら、どう答えて語るだろう?」というミソを、しっかり受けて以下が開陳されるのである。しかもそれは在野の史家でもある了意の独擅場とも言えるのである。

「いやとよ、今は然るべからず。それそれ。」「いや、そんな風にされては困ったことじゃて! 今はもう、そのように畏まられてしまうは、慮外のことじゃによってのぅ。そうじゃ! お~い、皆々、出でて、参れぇ!」。]

 

 長次、居なほりて、

「さらば、あらあら、聞〔きき〕つたへし事、かたり侍べらむ。

 扨も、平氏の一門、西海の波に沈み給ひ、兵衞佐〔ひやうゑのすけ〕賴朝、天下ををさめ、いくばくもなく、病死し給ふ。

 蒲冠者(かばのくわんじや)範賴・九郞判官義經、みな、賴朝にうたれ、賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり。賴朝の二男賴家の舍弟、跡を治め給ふ。

 賴家の妾(おもひもの)の腹に子あるよし、聞つたへ、尋出して鶴岡〔つるがをか〕の別當になさる。禪師公曉(ぜんじくげう)と號す。

 和田・畠山・梶原等が一族、此君の時、うちほろぼさる。

 実朝卿、鶴岡社參の夜〔よ〕、かの禪師の公(きみ)、實朝を殺す。

 北條義時、その跡を奪ひて、天下の權を、とる。

 是より、九代にいたり、相撲守高時入道宗鑑(そうかん)、大に奢りて、國、亂れ、新田義貞、鐮倉をほろぼす。

 足利尊氏と新田と、いくさあり。足利、つひに、義貞をほろぼし、その子息義詮(よしのり)を京の公方と定め、二男左馬頭基氏を鐮倉の公方と定め、天下、暫く、しづかなりしかども、王道は地に落〔おち〕て、あるかなきかの有さま也。

 武家、世をとりて、權威、たかし。

 後に、京都・鎌倉の公方、不會〔ふくわい〕になりて、鐮倉の執權上杉の一族、公方を追おとす。

 此時に當りて、京都の公方も權威を失なひ、諸國の武士、たがひに、そばだち、天下、大〔おほき〕に離れて、合戰、やむ時、なし。

 三好修理(しゆりの)大夫、其家人(けにん)松永彈正は、畿内・南海に逆威(ぎやくゐ)をふるひ、今川義元は駿河・遠州をしたがへ、國司源具敎(とものり)は勢州にあり、武田睛信、甲・信兩國にはびこり、北條氏康は關八州にまたがり、佐竹義重は常陸にあり、蘆名(あしなの)盛高は會津を領じ、長尾景虎は越後より、おし出〔いづ〕る。朝倉義景、越前を守り、畠山が一族は河内にあり、陶(すゑ)尾張守は、周防長門を押領(あふりやう)し、毛利元就、安藝におこり、尼子(あまこ)義久は、出雲・隱岐・石見・伯耆にひろごり、豐後に大友、肥前に龍造寺、その外、江州に淺井〔あざゐ〕・佐々木、尾州に織田、濃州に齋藤、大和に筒井、其外、諸國群邑(ぐんゆう)の間〔かん〕に黨を立て、兵を集め、たがひに、村里をあらそうて、攻戰(せめたゝか)ひ、奪ひ、とる。

 古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年、天子、すでに二十六代、鎌倉は、賴朝より三代、北條家九代、足利家十二代、京都の足利、今すでに十三代、新將軍源義輝公と申す也。」

と、語りしかば、三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ。

 夜、すでに更〔ふけ〕ゆけば、山の中、物しづかに、梢をつたふ風の音、軒近く聞えて、長次が魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])、すみわたり、凉しく覺えたり。

 あるじ、さまざま、酒をすゝめらる。

 夜、すでにあけて、山の端(は)あかく、橫雲、たなびきて、鳥の聲、定かになれば、長次、

「今は。是までなり。」

とて、拜禮、つゝしみて立出〔たちいづ〕れば、あるじ、のたまはく、

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ。」

とて、

 みやまべの月は昔の月ながら

   はるかにかはる人の世の中

と、よみて、わかれをとり、内に入給へば、長次は、切通しの門を出て、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりに一所づゝ、竹の杖をさして、記(しるし)とし、十津川の宿に歸る事を得て、來年の春、酒・さかな、とゝのへつゝ、又、かの山路に分入〔わけいり〕て尋ぬるに、たゞ、古松・老槐(らうくわい)に橫たはり、岩ほ、そばだち、茅(ちがや)・薄(すゝき)しげり、樵(きこり)の通ふところ、鳥の聲、かすかに、草刈りの行〔ゆく〕ところ、谷の水、流れ、しるしの竹も見えねば、たずねわびつゝ立〔たち〕かへる。

 そもそも、これは、仙境の道人(だうにん)なりけん。その類(たぐひ)、しりがたし。

[やぶちゃん注:鎌倉時代の部分は先に述べた如く、注する気はまるでない。不明な委細があれば、私のカテゴリ『「北條九代記」【完】』(同じ浅井了意の作と推定される)を読まれたい。ただ、ここでの鎌倉史概説部に大きな不満が残るとすれば、維盛の子六代(ろくだい 平高清(承安三(一一七三)年?~?)のことが全く語られていないことであろう。「平家物語」の「六代斬られ」で人口に膾炙している彼のことを、了意が忘れていたことなど、到底、考えられず、そもそも維盛が個人的に後のことを知りたいと思うた中に、一番のそれは、六代をおいて他にはないはずだからである(言っておくが、この六代を最後として清盛の嫡流は完全に断絶しているのである)。しかし、それは、語れば、維盛にとって非常に重鬱な思いをさせざるを得ず、これから超時空を経ねばならぬ、縮圧したドライなドライヴの出鼻を、これ、挫くことになることは明白である。さればこそ、了意の判断は正しいと言えるのである。なお、南北朝から戦国に至る部分も一部を除いて多くの読者には不要であろうからして、注は附さない。

「賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり」言わずもがな、事実は初代執権北条時政による凄惨な謀殺である。「北條九代記 賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向」参照。

「義詮(よしのり)」読みはママ。「よしあきら」が正しい。

「不會〔ふくわい〕」仲違(たが)い。不和。

「三好修理大夫、其家人松永彈正は、畿内・南海に逆威をふるひ」前話「黃金百兩」で詳注。

「國司源具敎」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は北畠晴具の長男。伊勢国司。織田信長に攻められ、永禄一二(一五六九)年伊勢大河内(おおこうち)城を捨てて降伏し、信長の次男信雄(のぶお)を長男具房の養嗣子とし、国司を譲った。塚原卜伝に学んだ剣客としても知られる。信長の命をうけた旧家臣に襲われて自刃した。彼を以って北畠家は滅亡している。

「押領(あふりやう)」(現代仮名遣「おうりょう」)元来、律令制下にあっては「兵卒を監督・引率すること」を意味し、令外官(りょうげのかん)の一つである「押領使」の名もこれに由来したが、平安中期頃以降は「他人が正当な権利に基づいて知行している所領・諸職などを強引に侵害して奪うこと」を意味するようになり、中世になると、専ら、この意味で用いられるに至った。

「古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年」「壽永二年」は一一八三年。「弘治二年」は一五五六年。数えで起点の年を入れるので計算に誤りはない。陶淵明の「桃花源記」は作品内時制を晋の太元年中(東晋(三一七年~四二〇年)の孝武帝の時の年号(三七六年~三九六年)の出来事とし、桃花源の人々は秦代(紀元前二二一年~紀元前二〇六年)の乱を避けてここに入ったと述懐するから、彼らの方は、最大六百十九年、最小で五百八十二年の超時空を隔てていることになる。

「天子、すでに二十六代」実際には数えてみると安徳天皇を入れて当代の後奈良天皇までは三十代である。但し、安徳の四代後の仲恭天皇(在位期間は天皇の中で最短の七十八日間)。は江戸以前は九条廃帝として数えないのが普通だったこと、さらに、平家政権が認めなかった後鳥羽天皇の在位の初めは安徳天皇とダブることから、これを憚って後鳥羽を数えないとしても、二十八である。或いは、「承久の乱」でごたついた平家にとって不快な後鳥羽天皇及び、後鳥羽と同様にあろうことか配流されてしまった土御門天皇・順徳天皇と九条廃帝の四人をカットした数字を指すか。よく判らない。なお、この「弘治二年」の翌年、弘治三年十月二十七日に後奈良天皇から正親町(おおぎまち)天皇に譲位されている。

「新將軍源義輝」室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五/在職:天文一五(一五四七)年~永禄八年)。天文二三(一五五四)年二月に従三位に昇叙するとともに名を義藤(よしふじ)から義輝に改めている。永禄八年五月十九日に松永久秀長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。

「三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ」ここで実は維盛はそこに語られなかった実子六代の末路もそこに感じて、涙したのではなかったろうか。

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ」陶淵明の「桃花源記」のコーダ「不足爲外人道也。」(外人の爲めに道(い)ふに足らざるなり。)とあるように、諸話に於いて仙境や桃源郷を去る当たっての戒めの御約束事である。

「みやまべの月は昔の月ながらはるかにかはる人の世の中」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話である「剪灯新話」の巻之二の二話目「天台訪隠録」の中の『詩句「時移リ事変ジテ太ダ怱忙」を和歌にしたもの』とある。「太ダ」は「はなはだ」、「怱忙」は「そうばう(そうぼう)」で「忙しくて落ち着かぬこと」を意味する。

「わかれをとり」別れを交わし。

「古松・老槐(らうくわい)に橫たはり」「老槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。ただ、この助詞「に」は戴けない。これでは文字列上は「枯れた古い松が、年経て倒れた槐の倒れた上に横たわっていて」という意味になるが(「生きている古松が、年経た巨木の槐に倒れ掛かるように生えており」という意には流石に私はとれない)、どうも、いただけない。「の」か、助詞なしで「古松や老いた槐が半ば朽ちて横たわって行く手を塞ぎ」でいいのではないかと思う。

「道人」世俗の事を捨てて、しかも、驚異的寿命が得られる神仙の道を修得した人。]

2021/04/06

伽婢子卷之一 黃金百兩 / 伽婢子卷之一~了

 

  黃金百兩

 河内國平野と云所に、文(あやの)兵次とて、有德(うとく)人あり。しかも、心ざし、情ある者也。

 同じ里に、由利(ゆりの)源内とて、生才覺(なまさいかく)の男、兵次と親しき友だち也。松永長慶(ながよし)に召抅(めしかゝへ)られ、代官になり、老母・妻子共に、大和國に引〔ひき〕こしけり。其(その)まかなひに詰(つま)り、兵次に黃金百兩を借(かる)。元より、親き友なれば、借狀・質(しち)物にも及ばず。

[やぶちゃん注:「黃金百兩」の標題は目録の読みに従うと(言い忘れたが、目録は本文のそれとは孰れも一致せず、説明的な長いもので、例えば、本篇の場合は「文兵次黃金をかして損却する事過去物語」である。いちいち頭で出してもいいが、これで内容が判ってしまうのはちょっと私には面白くないので、敢えて添えない)、「わうごんひやくりやう」である。

「河内國平野」大阪府柏原市(かしわらし)平野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)かと思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注では、その北に接する『山ノ井町』とする。

「有德」ここは裕福なこと。

「生才覺」中途半端な才能。生半可な知恵。猿知恵。

「松永長慶」戦国から安土桃山時代の武将松永弾正(だんじょう)久秀(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)を、当初に仕えた主君三好長慶(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)と混同した誤りであろう。堺代官となり、永禄二(一五五九)年に奈良に入部して多聞城,・信貴山城などを築き、山城の国人を追い出した。三好家家老となるに及び、勢力を伸張して三好義継に足利義輝を殺害させ、畿内に実権を揮った。同十年、三好三人衆と戦い、東大寺大仏殿を焼き、翌年に織田信長が入京するや、これに従って大和信貴山を安堵された。しかし、その後の信長の天下統一の政策に対し、足利義昭を挟んで、表裏のある行動を重ねたために信長の攻撃にあって信貴山城で自害した。

「まなかひ」「賄料(まかなひれう)」の略。「ある事柄にかかる経費」。ここはその引っ越しに掛かった総額費用。

「借狀」借用証文。

「質物」(しちもつ)は担保物件のこと。]

 

 こゝに、此ころ、細川・三好の兩家、不和にして、河内・津の國わたり、騷動す。兵次は一跡(せき)殘らず、亂妨(らんばう)せられ、一日を送る力も、なし。

[やぶちゃん注:「細川」戦国大名で室町幕府第三十四代管領にして山城国・摂津国・丹波国守護であった細川晴元(永正一一(一五一四)年~永禄六(一五六三)年)。彼の武将となっていた三好長慶が将軍を巻き込んで反逆に及び、天文一六(一五四七)年以降、摂津・河内で断続的に戦さを交え、永禄四(一五六一)年に当主に代えていた次男細川晴之が三好軍に敗退して戦死し、三好長慶と和睦したものの、摂津の普門寺城に幽閉された。

「津の國」「攝津」。

「一跡」後継者に譲るべき跡目一式で全財産の意。

「亂妨」暴力を揮って物を奪い取ること。]

 

 弘治年中、暫らく、物靜(しづか)に成ければ、三好は京都にあり、其〔その〕家老松永は和州に城を構へ、大〔おほき〕に、民百姓を貪る。

 去〔さる〕ほどに、兵次は妻子をつれて、和州に行き、源内を尋ぬるに、松永が家にして、權威高く、家の内、賑々(にぎにぎ)し。兵次、おとろへて、形、かじけ、おもがはりしたり。その近きあたりに宿かりて、妻子を置き、我身ばかり、源内に逢て、

「かうかう。」

といふ。

 源内、初めは忘れたりけるが、故鄕・名字、こまごまと聞て、

「誠に。」

と驚き、酒、進めて、飮ませながら、借金の事は、一言も、いはず。

 兵次も、いふべき序(つゐで)なく、立歸る。

[やぶちゃん注:「弘治」一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。天文二二(一五五三)年三月に義輝と三好長慶が決別し、七月に細川晴元が義輝から赦免されると再び義輝とともに長慶と交戦した。しかし、翌月、義輝方の霊山城が三好軍に落とされると、晴元は義輝と一緒に近江国朽木へ逃亡した。播磨国では香西元成が明石氏と結んだが、弘治元(一五五五)年に明石氏が三好軍に攻撃されて降伏、丹波国でも元成や三好政勝らが波多野元秀と手を結び、長慶派の内藤国貞を討ち取ったものの、国貞の養子で長慶の武将であった松永長頼に反撃され、弘治三(一五五七)年頃には丹波は総てが三好の領国となってしまい、晴元は勢力拡大した長慶の前に手も足も出せない状態になっていたのであった(ウィキの「細川晴元」に拠った)。

「松永は和州に城を構へ」ウィキの「松永久秀」によれば、天文二四(一五五五)年に『久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾して』おり、『また』、『長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている』。久秀は弘治二(一五五六)年には『奉行衆に任』ぜられ、同年六月には長慶とともに『堺で三好元長の二十五回忌に参加して』おり、翌月には、『久秀の居城滝山城へ』『長慶が御成し』、『歓待され』、『久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした』とある。

「かじけ」「悴け」痩せ細って衰え弱る。

「おもがはり」「面變り」。

「序」機会。きっかけ。]

 

 妻、いふやう、

「是まで流浪して來〔きた〕るも、『源内が惠(めぐみ)あるべきか』と思ふに、僅(わづか)の酒、飮(のみ)たるとて、百兩の金に替て、一言をもいはずして歸る事や、ある。斯くの如くならば、我らは頓(やが)て、道の傍(かたはら)に飢(うへ)て死すべし。」

といふ。

 兵次、これを聞〔きく〕に、理(ことわり)に過〔すぎ〕て覺えしかば、夜明(あく)るを待かね、又、源内がもとに行たれば、源内、出〔いで〕て、對面して、

「誠に、其かみ、金子を借(かり)たる事、今も忘れず。その恩を、おろそかに思はんや。其時の手形あらば、持來り給へ。數の限り、返し參らせむ。」

といふ。

 兵次、答(こたへ)ていふやうは、

「同じ里に親しき友と、互に住たる契り、淺からねば、手形・質物にも及ばず、借(かし)奉りし金子なり。今、我、刧盜(ごふたう)の爲に一跡を、うばひとられ、身のたゝずみなき故に、如何にも此金子を給はらば、然るべき商買(しやうばい)をもいたして、妻子を養ひ侍べらばやと思ふなり。只今、我を『とり立るよ』とおぼして、右の金子を惠み返し給へ。」

といふ。

 源内、打笑ひ、

「手形なくしては、算用、なり難し。されども、思ひ出さば、數の如く、返し侍らん。」

とて、兵次を歸らせたり。

[やぶちゃん注:「數の限り」その手形・証文に記されただけの金子をきちっと耳を揃えて。

「刧盜」元禄版もこれで、読みは「こうだう」。「强盜」の当て字であろう(「新日本古典文学大系」版脚注もそう注する)。

「身のたゝずみなき」「身の佇(たたず)み無き」衣食住の立てようが全くなく。

「商買」「買」は「賣」と通義。

「とり立るよ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『面倒をみて立ち直らせ』やろうぞ! との意とある。

「算用」借金の返済決算。

「思ひ出さば、數の如く、返し侍らん」「いや、拙者は借りたことは覚えて御座るが、それが幾らだったかを覚えておらぬのじゃ。まずまず、思い出したならば、しっかとお返し申すほどに。」とうそぶいているのである。]

 

 かくて、半年ばかりを經て、極月[やぶちゃん注:「ごくげつ」。十二月。]になりぬ。古年をば、送りけれ共、新しき春を迎ゆ[やぶちゃん注:ママ。]べき手だて、なし。

 食、ともしく、衣、うすければ、妻子は飢凍(うゑこゞえ)て、只、泣〔なく〕より外の事なし。

 兵次、これを見るに、堪がたくて、源内が許に行〔ゆき〕いたり、淚を流していふやう、

「年、すでに推(おし)つまり、新春は近きにあれ共、妻子は飢凍えて、又、一錢の貯へなく、炊(かしぎ)て食すべき米(よね)もなし。假令、借(かし)奉りし金子、皆、返し給はらずとも、年を迎ゆるほどの妻子のたすけをなし給はゞ、是に過(すぎ)たるめぐみはあらじ。」

といふ。

 源内、うち聞て、

「誠に痛はしく思ふといへども、我さへ、僅(わづか)の知行なれば、今、皆、返し參らせむ事は、叶ふべからず。明日、まづ、米二石・錢二貫文を奉らん。是(これ)にて、兎も角(かう)も、年、とり給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「米二石」一石は一合の一千倍で、約三百キログラム相当。

「錢二貫文」一文銭を紐に一千枚通したものが一貫文で千文が一貫。換算サイトで戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、三十万円相当。]

Oh1

 兵次、大に悅び、我家に歸り、

「明日、かならず、惠、つかはされん。侍まうけて、此程のわびしさを慰まん。」

といふに、妻子、限りなく『嬉し』と思ひ、夜の明(あく)るを遲しと、其子を門に出して、

「錢・米をもちて來る人あらば、『こゝぞ』と敎(をしへ)よ。」

とて、待せておく。

 須臾(しばらく)ありて、内に走り入て、いふやう、

「米を負(をひ)たる人こそ來れ。」

と。

 急ぎ出〔いで〕て見れば、其家の門は、見向きもせずして、打過〔うちすぐ〕る。

『もし、家を忘れて打通るか。』

と思ひ、

「其米は文(あやの)兵次が家に給はるにてはなきか。」

と問へば、

「いや。是は城の内より、肴(さかな)の代(かはり)に遣はさるゝ米也。」

といふ。

 又、しばしありて、其子、走り入て、

「只今、錢をかたげたる人こそ來れ。」

と。

 兵次、かけ出て見るに、その門口をば、空知らずして、打通る。

 是も『家を知らざるか』とて、引き留めて、

「此錢は由利源内殿より兵次が許へ遣はさるゝにや。」

と問(とへ)ば、

「是は弓削(ゆげ)三郞殿より、矢括(やはぎ)の代物〔だいもつ〕に送らるゝ。」

とて過行けば、兵次、耻しき事、いふばかりなし。

 正月まかなひの用意とて、錢・米持運ぶ事、急がはしきを、引とめ、引きとめ、尋問〔たづねとふ〕に、いづれも、源内がもとより出る錢・米ならで、一日のうち、待暮し、漸(やうやう)人影も見えざりければ、内に入ぬ。

 油もなければ、燈火(ともしび)たつべき樣もなく、いとゞ闇き一間の内に、妻子、打向ひ、今は賴もしき事もなし。

 米・薪〔たきぎ〕」を求むべきたよりもなければ、夜もすがら、寢もせず[やぶちゃん注:「いねもせず」。]、泣(なき)あかす。

[やぶちゃん注:「代」代金の代わりとすること。

「空知らずして」全く気にかける様子もなくして。

「弓削三郞」これは皮肉にも松永久秀を裏切って自害に追い込むことになった人物である。彼は久秀の若党として仕えていたが、実は久秀の宿敵筒井順慶が放った忍びの者であったとされる。久秀が和泉の堺の人脈を介して石山本願寺に加勢を頼むのにこの男を選んだが、三郎はここぞと、順慶と図って順慶の手下を加勢の軍勢に加えて、信貴山城内に紛れ込ませ、各所に放火して回り、落城する、文字通りの、導火線となったというのである。個人ブログ「fumi1202のブログ」の「久秀の言い分」を読まれたい。

「矢括」「括」は「やはず」で「矢の上端の弦を受ける所」を言う漢字であるから誤字。「矢作・矢矧」が正しく、これで「やはぎ」と読み、「矢を矧 () ぐこと」、矢竹に矢羽根を装着する職人、矢師のことを指す。

「正月まかなひ」正月用の祝い品や料理のこと。]

 

 兵次、いよいよ、堪かね、

『口惜しき事かな。さしも、堅く契約しながら、我を欺(あざむき)けることよ。唯、源内を指殺(さしころ)して、此欝忿(うつぷん)をはらさん。』

と思ひ、夜もすがら、刀を硏ぎ、源内が門に忍び居(ゐ)たりしが、又、思ひ返すやう、

『源内こそ、我に不義を致しけれ、また、源内が老母・妻子は何の咎(とが)もなし。今、源内を殺さば、家、忽ちに滅して、科(とが)もなき老母・妻子は路頭に立〔たつ〕べし。人こそ我に不義ありとも、我は人をば倒さじものを。天道、まこと有らば、我には惠もあるべきものを。』

と、思ひ直して、家に立ち歸り、兎角して小袖・刀、賣しろなして、正月元三〔がんざん〕のいとなみは、いたしぬ。

[やぶちゃん注:「我に不義を致しけれ、また……」ここは『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。本篇のコペルニクス的展開点として、非常に重要な箇所である。

「賣しろなして」売り払う品物にし成して。売って金に代えて。

「元三」一月一日元日、或いは、元日からの三日間の「三が日」。

「いとなみ」「營み」。仕度。]

 

 かくて、兵次、或(ある)朝(あした)、家を出て、泊瀨(はつせ)の觀音にまうで、行末ふかく祈り申〔まうし〕て、山の奧にわけ入しが、覺えず、ひとつの池の邊(ほとり)に到り、誤ちて、池の中に落ちたりしに、其水、兩方に別れて、道、あり。

[やぶちゃん注:「泊瀨(はつせ)の觀音」奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺。本尊は十一面観世音菩薩。創建は奈良時代の八世紀前半と推定されるが、詳しい時期や経緯は不明。寺伝では天武天皇の朱鳥元(六八六)年に僧道明(どうみょう)が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、神亀四(七二七)年に僧徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂位置)に本尊十一面観音像を祀ったとするが、これらは正史に見えない。八百年代中頃には官寺と認められて別当が置かれたものと推定される。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、先に示された弘治の次の『永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『には戦乱のため衰微していた』とある。]

 

 道をつたうて、二町ばかり行ければ、城(じやう)の惣門にいたる。

 樓門の上に「淸性舘(せいせいくはん)」と云ふ額をかけたり。

 内に入て見れば、人氣もなく、物しづかにて、幾年(いくとせ)經たりとも知られぬ、古木の松、枝をかはして、生並〔おひなら〕べり。

 廊下めぐりて、奧の方にいたり、御殿の階(きざはし)にのぞめども、人も見えず、とがむる者、なし。

 只、鐘の聲、遙に、振鈴(しんれい)の響(ひゞき)に加(くは)して聞えたるばかり也。

 兵次、餘りに、飢つかれて、石礎(いしづゑ)を枕として、臥(ふし)て休み居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「二町」二百十八メートル。

「惣門」外構えの大きな正門。

「振鈴」密教の修法で諸尊を勧請する際などに仏呪具の金剛鈴(こんごうれい)を振り鳴らすこと。]

Oh2

 かゝる所に、眉・髯(ひげ)、長く生(はひ)のび、頭(かしら)には、帽子、かづき、足には、靴をはき、手に白木(しらき)の杖をつきたる老翁、來りて、兵次を見て、打笑ひ、

「如何に久しく對面せざりしや。昔の事ども、覺えたるか。」

といふ。

 兵次、おきあがり、跪(ひざまづい)て、

「我、更に、此所に來れる事は、今ぞ、初なる。如何でか、昔の事とて、知べき道、侍らん。」といふ。

 老翁、聞て、

「げにも。汝は飢渴の火にやかれて、昔を忘れたるも理り也。」

とて、懷より梨と棗(なつめ)とを取出して、食はしめたるに、兵次、胸、凉しく、心さわやかに、雲霧(くもきり)のはれ行(ゆく)空に、月の出るがごとく、まよひの暗(やみ)、みな、除(のぞこ)りて、過去の事共、猶、きのふの如くに覺えたり。

 老翁の曰、

「汝、昔、過去の時、初瀨(はつせ)の近鄕を領ぜし人なり。觀音を信じて花香(けかう)・灯明(とうみやう)をそなへ、常に步みをはこびしか共、只、百姓を貪り、賦斂(ふれん)をおもく、課役を茂くして、人の愁(うれへ)を知らず。此故に、死して、惡趣に落つべかりし處に、觀音の大悲をもつて、惡を轉じて、二たび、この人間に返し給へり。しばらく富貴(ふうき)を極めしかども、昔の業感(ごうかん)に困りて、今かく貧(まずしく)なれり。然るを、汝、源内が不義を怒(いかり)て、一念の惡心を起せしかば、惡鬼、たちまちに、汝が後にしたがひ、妻子一家(け)、跡なくほろぶべかりしを、又、忽ちに、心を改めしかば、神明(しんめい)、已に、是をしろしめし、福神(ふくじん)、これに立添ひて、惡鬼は遠く逃去ぬ。すべて、惡業(あくごふ)・善事、其むくひある事は、形に影のしたがひ、聲の響きに應ずるが如し。今より後も、苟且(かりそめ)の事といふとも、惡を愼しみ、善を求むべし。然らば、かならず、安樂の地に一生を送らん。」

と敎へられたり。

[やぶちゃん注:「賦斂」税を割り当てて取り立てること。

「惡趣」「三惡趣」。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として死後余儀なく赴かなければならない地獄・餓鬼・畜生という三悪道の世界。連声(れんじょう)して「さんなくしゅ」「さんまくしゅ」「三悪道 (さんまくどう)」とも読む。

「人間」「人間道(にんげだう)」。六道の内のこの世。]

 

 兵次、

『さては。此所〔このところ〕は人界(にんかい)にあらず、神聖の住所(ぢうしよ)なり。』

と思ひつけて、事のちなみに、當世の事をさして、問けるやう、

「今、世の中、絲の亂れのごとくにして、諸方に側起(そばだち)る者、蜂の如し。いづれか、榮え、いづれか、衰へん。願くは、その行先を示し給へ。」

といふ。

 老翁、答へられけるは、

「人の心、更に豺狼(さいらう)の如く、彼を殺して、我、立ち、餘所(よそ)を打て、おのれに合(あは)せんとす。此故に、王法、ひすろぎ、朝威、衰へ、三綱五常の道、斷えて、五畿七道、互に爭ひ、國々、亂れざる所、なし。臣としては、君を謀(はか)り、君としては、臣をそむけ、或は、父子の間と雖も、快からず、兄弟、忽ちに敵〔かたき〕となり、運つよく、利に乘る時は、いやしきが、高くあがり、小身なるが、大に、はびこり、運、衰へ、勢、つきては、大家・高位も、おし倒され、聟(むこ)を殺し、子を殺せば、一家一族のわりなきも、只、危きにのみ、心を碎きて、安き暇(いとま)、更になし。」

とて、當時諸國の名ある輩、

「それ、かれ。」

と指を折り、其身の善惡と行末の盛衰を、鏡に懸(かけ)て語られたり。

 兵次、重ねていふやう、

「由利源内、今、すでに、人の債(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢(いきほひ)に誇る。此者とても、行末、久しかるべしや。」

と。

 老翁の曰、

「源内が主君、まづ、大なる不義を行ひ、權威、よこしまに振うて、民を虐(しへたげ)、世を貪る。冥衆(みやうしゆ)、是を疎み、神靈これを惡(にく)み、福壽の籍(ふだ)を削られて、其身、杻(てかせ)・械(くびかせ)にかゝり、其首に累紲(るゐせつ)の繩をかけて、肉(しゝむら)を腐(くたし)、骨を散されん事、何ぞ遠からん。源内、又、是に隨ひ、惡逆無道(ぶたう)なる事、譬ふるに、言葉なし。人の債(おひもの)を返さゞる、かれが財物(ざいもつ)は、皆、これ他(た)の寳也。己(をのれ)、いたづらに、守護するのみ。今、見よ。三年を出ずして、家運つきて、災(わざはひ)、來るべし。汝、必ず、その災を恐るべし。源内が家近く住〔ぢゆう〕せば、惡〔あし〕かりなむ。京都も靜(しづか)なるべからず。早く歸りて、山科の奧、笠取(かさとり)の谷に移り行け。」

とて、黃金十兩を與へ、道筋を敎へて、出し返す。

[やぶちゃん注:「豺狼」「犲」はこれで「やまいぬ」と訓ずる。山犬と狼(おおかみ)であるが、ここは転じて「残酷で欲深い人。惨(むご)いことを平気でする悪者」を言う。前二者の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」と、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を読まれたい。

「王法」国主の政治。

「ひすろぎ」「磷(ひすろ)ぎ」。「ひすらぐ」とも読む。薄れて弱まる。

「三綱五常」儒教に於いて人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義。

「五畿七道」古代日本の律令制での広域地方行政区画名。「五畿」は「畿内」と同じで、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。「七道」は東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道(現在の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道(現在の本土九州七県)。

「君を謀り」主君を騙し。

「臣をそむけ」忠誠な家臣を蔑(ないがし)ろにし。

「わりなき」「理無(わりな)き」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。

「危きにのみ」個人に関わる災難にのみ限って。

「安き暇」心落ち着けていられる時空間。

「輩」連中。

「鏡に懸て語られたり」あたかも鏡に映し出すかの如くにはっきり判るように語って下さ「人の債」人に掛けた負債。

(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢に誇る。此者とても、行末、久しかる「よこしま」「邪」。

「虐(しへたげ)」現在の「虐(しいた)げる」の古語「しひたぐ」の古い原発音。惨い扱いをして苦しめる。虐待する。虐(いじ)める。

「冥衆」閻魔王・鬼神・梵天・帝釈天などの人の目には見えない鬼神や諸天。

「福壽の籍(ふだ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『冥府で衆生の行いを考課して福分と寿命を定め、それぞれを』予め『記しとどめおくという札』とある。

「杻(てかせ)・械(くびかせ)」手の自由や人体の動きを奪う首に打った木や金属で出来た監禁具。

「累紲(るゐせつ)の繩」「縲絏」とも。歴史的仮名遣は「るいせつ」でよい。「縲」は「罪人を縛る「黒い繩」。「絏・紲」はやはり「繩」又は「繋ぐ」の意で、これで「罪人として捕らわれること」をも意味する。

「笠取の谷」現在の京都府宇治市の西笠取川の流域であろう。山科の南東域。]

 

 『一里餘りをゆくか』とおぼえて、山の後(うしろ)なる岩穴より出づることを得たれば、家を出てより、三十日に及ぶ、といふ。

 妻子、待受けて、喜ぶ事、かぎりなし。

 やがて緣(たより)を求め、山科の奧、笠取の谷に引こもり、商人となり、薪を出〔いだ〕し、賣(うり)て、世を渡る業(わざ)とす。

 家、やうやう、心安く、妻子も緩(ゆる)やかなる心地す。

 その後、永祿庚午の年、松永、反逆(ほんぎやく)の事ありて、織田家のために、家門、滅却せらる。

 由利源内、此時に生捕(いけど)られて、殺され、日比(ひごろ)、非道に貪り貯へし財寳、みな、敵軍(てきぐん)の得物となれり。

 是を聞傳へて、年月を數ふれば、僅に三年に及べり。

 兵次は、今も其末、殘りて、住(すみ)けりといふ。

[やぶちゃん注:「緣」当地を知れる人のあるのに頼ること。

「商人」「あきんど」と読みたい。

「永祿庚午」(かのえうま)「の年」永禄十三年。一五七〇年。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「弾正は永禄十三年に腹かき切て死けり」(古老軍物語六・三好修理大夫松永弾正が事)。「永禄十三年庚午年、松永弾正切腹す」(甲陽軍鑑二・信玄公御時代諸大将之事)。ただし甲陽軍鑑の写本に当該箇所を「天正七年己卯』(つちのとう)『に、筒井むほんにて松永せつぷく』とるす』と注し、更に「松永、反逆の事ありて」のところに注して、『永禄十一年に織田信長に服従して領国を安堵されたが』、『元亀三年(一五七三)に離反、この時は許されたが、天正五年(一五七七)に再度謀反を企てて自滅した』とする。松永弾正久秀は天正五年十月十日(ユリウス暦一五七七年十一月十九日)に自死している。因みに、この五年後の天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。機械換算で上記の没日を換算すると、グレゴリオ暦では一五七七年十一月二十九日となる。久秀の焚死は既に寒い中であったと思われる。]

2021/04/05

浅井了意「伽婢子」電子化注始動 / 序・(二種)巻之一「竜宮の上棟」

 

[やぶちゃん注:満を持してカテゴリ「伽婢子」を始動する。カテゴリ「怪奇談集」は一千記事を超えてしまい(現在、千百八十五件)、過去記事の全表示が出来なくなっていることと、本篇が有意に長いことから、独立させた。

 「伽婢子」(とぎはうこ・おとぎはうこ)は御伽婢子とも表記する、寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子の怪奇談集で、全十三巻。作者である仮名草子作家浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)は元武士で、後に浄土真宗の僧。号は瓢水子松雲(ひょうすいししょううん:現代仮名遣)・本性寺昭儀坊了意など。初め、浪人であったが、後に出家し、京都二条本性寺の住職となった。仮名草子期における質量ともに最大の作家であるが、その生涯は不明な点が多い。「堪忍記」・「可笑記評判」・「東海道名所記」・「浮世物語」・「狗張子(いぬはりこ)」(本篇の続編。本電子化の後に電子化注を行う予定)などの他に、古典注釈書である「伊勢物語抒海」・「源氏雲隱抄」や、地誌「江戶名所記」・「京雀」、仏教注釈書「三部經鼓吹」・「勸信義談鈔」など、その著述範囲は多岐に亙る。本書は江戸前期に数多く編まれた同種の怪奇談集の先駆けとなった著名なものである。なお、私は既に、限りなく彼の著作と考えられている壮大な鎌倉通史史話「北條九代記」の全電子化注を二〇一八年に終わっている。

 底本は所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に拠ったが、不審な箇所は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄一二(一六九九)年の版本画像と校合した。注は私の躓いた部分を中心にストイックに附すこととし、判り切った箇所には附さない(つもりだが、若い読者を考えて老婆心から添えてしまうことは今まで同様に多いであろう。元高校国語教師時代のくどさが抜け切らぬのである)。また注によっては、所持する岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)及び岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」(「おとぎぼうこ」と訓読している。二〇〇一年刊)他を一部で参考にした(抄訳を含め、訳本は数十冊所持する。引用する場合はそれぞれ示した)が、安易な引用は厳に押さえ、私自身の探索と理解と納得によってオリジナルな言葉で記すことを心掛ける。なお、底本では目次で『とぎはふこ』と訓じているものの、序では原本を見るに『とぎぼうこ』と振ってある。なお、「上智大学木越研究室」の新字の全データ(但し、序の漢文部は訓読されてしまっている)を本文の加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、底本の質が悪いのか、誤字或いは判読・翻字の誤りと思われるものが、相当数、ある。しかし、最後の奥付を見るに、底本は私のものと全く同じ版本である。頗る不審である)。

 読み易さを考えて、シークエンスごとの改行や、句読点・記号等をオリジナルに追加した。振り仮名は一種目の「序」などでは、かなり多く附されてあるが、( )表記では五月蠅くなるので、読みが振れると私が判断したものや、難読と思われるもの、特異な読みを施してあるものに限って〔 〕で私が推定で読みを歴史的仮名遣で附した。本文でもそうすることとする(但し、底本本文はあまり振られていない)。逆に底本に振られていなくても、若い読者が読み誤りそうな単純な読みについては、本文の平仮名書きの箇所が遙かに多い早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版で補った(その違いは表示していない)。ママ注記はこれも五月蠅くなるばかりなので、原則、しないこととした。また、序の後に配されてある「目錄」は本文電子化注を完了した後に配することとする。正字か略字か迷ったものは正字を採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は最も質のよい「新日本古典文学大系」版のものをトリミングして使用させて戴く。なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版は絵が綺麗だが、明らかに書き変えられているので、比較して見られんことをお薦めする。

 長年、偏愛してきた作品であるが、あまりに著名であることと、分量が多いことから、躊躇してきたが、ここで一念発起し、オリジナルな注を心掛けて始動することとした。注は短くて済むものは文中に、纏めて附したものは、ソリッドなシークエンスと判断した後に附して、その後を一行空け、本文だけを読みたい方の便宜を図ったつもりである。【二〇二一年四月四日 藪野直史】]

 

  伽婢子

 

伽婢子序

 夫、聖人は、常(つね)を說(とい)て、道ををしへ、德をほどこして、身をとゝのへ、理(り)をあきらかにして、心をおさむ。天下國家、その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし、總て、「怪力亂神をかたらず」といへ共、若(もし)止(やむ)ことを得ざるときは、亦、述著(のべあらは)して、則(のり)をなせり。

 こゝをもつて、「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ、「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし、「春秋」には亂賊の事をしめし、「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)て、後世につたへて、明らけき鑑とし給へり。

 況や、佛經には、三世(ぜ)因果の理ををしへて、四生流轉(ししやうるてん)の業(たね)をいましめ、或は神通(じんづう)、或は變化(へんげ)の品(しな)品を說(とき)給へり。

 又、神道の幽微なる、草木土石にいたるまで、みな、その神靈ある事をしるして、不測(しき)の妙理をあらはせり。

 三敎(げう)、をのをの、靈理(れいり)・奇特(きどく)・怪異・感應(かんをう)の、むなしからざることを、をしへて、其道にいらしむる媒(なかだち)とす。

 聖經(せいけい)・賢傳、諸史百家の書、すでに牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)といふ。

 是、本朝記述の編、古今筆作(ここんひつさく)の文(ふみ)、何ぞ、只、五車(しや)に積(つむ)のみならんや。

 中にも花山法皇の「大和物語」、宇治大納言の「拾遺物語」、其外、「竹取」、「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷をはじめて、怪(あやし)く奇特(きどく)の事共をしるせるところ、手を折て數(かぞふ)るに遑(いとま)あらず。

 然るに、此「伽婢子(とぎぼうこ)」は、遠く古へをとるにあらず、近く聞つたへしことを載(のせ)あつめて、しるしあらはすもの也。

 學智ある人の、目をよろこばしめ、耳をすゝぐためにせず。只、兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也。

 その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也。

 陰陽五行(いんやうぎやう)、天地の造化は廣大にして測(はかり)がたく、幽遠にして知がたし。

 時(とき)、面(まのあたり)見ざるをもつて、今、聞所を疑(うたがふ)ことなかれと、云尒(しかいふ)。

 干時寬文六年正月日

         瓢水子松雲處士自序

 

[やぶちゃん注:底本には原本の影印があるので、それを判読した(上部に活字に起こしてあるが、それは敢えて参考にしなかった)。

「夫」「それ」。発語の辞。

「聖人」以下の筆者の解説で判る通り、儒教のそれを限定する。

「その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし」この「風」は人々に影響を与えてなびかせるところの感化力で、転じて永くその地で行われ、守られている規範的「風」習・様式を指し、「俗」(音「ショク」は漢音。我々が普通に使っている「ゾク」は呉音)その影響を受けて正しく変化するところの下位の民間習「俗」を指す。

「怪力亂神をかたらず」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)を指す。「怪」は「尋常でない事例」を、「力」は「粗野な力の強さを専ら問題とする話」を、「亂」は「道理に背いて社会を乱すような言動」を、「神」は「神妙不可思議・超自然的な人知では解明出来ない、理性を以ってしても、説明不能の現象や事物」を指す。孔子は「仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない」と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に、古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

「則(のり)をなせり」これは反面教師としての手本とした、という謂いであろう。以下に出る四書のそれがまさにそうした例となっているのである。

『「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ』「易経」に、『龍戰于野。其血玄黃』、『龍戰于野、其道窮也』(龍、野に戰ふ。其の血は玄黃(げんわう)なり。「龍、野に戰ふ」とは、其れ、道、窮まればなり)とある。不測の悪しき事態の出現のシンボライズ

『「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし』「書經」第十五の「高宗肜日」(こうそうゆうじつ)の冒頭の一節。殷の高宗が先祖を祀る祭りを行ったところ(「肜」は「本祭の翌日に行う祭り」の意)、「有飛雉升鼎耳而雊。」(飛べる雉、有りて、鼎(かなへ)の耳に升(のぼ)りて雊(な)けり。)という不吉が予兆される出来事が起こった。「高宗」は殷朝の第二十二代の王であった武丁(ぶてい)のこと。当該ウィキによれば、『殷墟(大邑商)の地に都を置いた』とし、『また』、『甲骨文はこの武丁の時代から見られる』とあり、『鬼方という異民族を』三『年かけて討ったと』「易経」に『あり、軍事的にも』、『殷の勢力を四方に拡大した。夫人の婦好も自ら軍を率いて敵国を征伐したという』とある。

『「春秋」には亂賊の事をしめし』「春秋」の三伝を調べたが、こ「亂賊」という文字列は見当たらない。「新日本古典文学大系」版脚注では「春秋」の教科書的な判り切ったそれだけで、出典や意味をスルーしてしまっている。これは恐らく、後代の「孟子」などが頻りに示すところの「春秋」が本来謂わんとするところの義理とする「周室を尊び、乱賊を誅伐する」という解説に基づいた謂いであろう。「亂賊」は万民の生活基盤である自然及び日常生活を乱す悪者・反逆者のことであろう。

『「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)』「詩経」(三百余篇)(重複がある)は風・雅・頌(しょう)の三つのジャンルから成り、「風」とは「民謡」の意(因みに「雅」は「天子諸侯が賓客をもてなす際の楽歌」を、「頌」は「祭儀の折りの楽歌」を指す)。「詩経国風」は各地に発生したそれぞれの国或いはある地方の民謡を集めたもの。「鄭風」は「国風」の中の一つである。従って四字でセットとした。並列ではおかしく(「新日本古典文学大系」は中黒で『国風・鄭風』としてしまっている)、敢えて言うなら、「國風に鄭風などあり」であるべきところであろう。優れた中国詩詞サイト「詩詞世界 二千六百首詳註 碇豊長の漢詩」の鄭風の一詩「狡童」の語釈によれば、『東周のころの鄭の國の歌。男女の情愛を歌ったものが多い。鄭は、現・河南省黄河南岸の鄭州市あたりになる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三世(ぜ)因果」過去・現在・未来の三世(但し、この場合は、前世・現世・後世(ごぜ)と同義。本来のそれはこの「因果」律による個的な衆生の「輪廻」の閉鎖的循環系ではなく、三世は全時間軸に於けるそれである)に亙って、善悪の報いを受けるということ。過去の「因」により、現在の「果」を生じ、現在の「因」によって未来の「果」が生ずることを説いたものである。

「四生(ししやう)」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「業(たね)」所謂「業(ごふ)」に当て訓したもの。

「神通(じんづう)」如何なることも自由自在になし得る、人智を超えた計り知れない不思議な能力。

「變化(へんげ)」ここは仏教でのそれで、人間以外の、より高位の霊的存在が、本来の形を変えて、種々の姿や人間の形をとって現われることを指す。但し、ここでは本書の内容に関わって、それらが神から零落した際の謂い方、則ち、動物などが姿を変えて異形の「物の怪(け)」や人の姿に変じて現れる「化け物」「妖怪変化」の意味も字背に嗅がせていると読んでよい。

「品(しな)品」「しなじな」。

「三敎(げう)」以上の儒教・仏教・神道。

「感應(かんをう)」(現代仮名遣:かんのう)は「人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心」が原義で、そこから「信心が神仏に通じること」及びそれによって生じる「超自然的な奇蹟や怪奇な事件が発生すること」を指す。これも本書用の嗅がせ薬。

「聖經(せいけい)・賢傳」聖人の述作した書物と、それに基づいて賢人の書き伝えた書物。

「牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)」「汗牛充棟」(かんぎうじゆうとう(かんぎゅうじゅう)。「引っ張れば、牛馬が大汗をかき、積み上げれば、家の棟木(むなぎ)にまで届くほどに多い量」の意で、蔵書が非常に多いことの喩え。柳宗元の銘文「唐故給事中陸文通墓表」の「其爲ㇾ書、處則充棟宇、出則汗牛馬。」(其れ、書を爲すこと、處(お)けば、則ち、棟宇に充ち、出ださば、則ち、牛馬、汗す。)が典拠。

「編」編著書。書物の意。

「五車」五台の荷車。

『花山法皇の「大和物語」』平安中期の和歌説話集である「大和物語」(全二巻。約百七十三段。天暦五(九五一)年か翌年頃には現存本に近い形態が成立していたと推定されている。全体は大きく二部に分かれ、主として宇多上皇を中心とする廷臣や女性たちに関する和歌説話を集めた部分と。「葦刈り説話」・「菟原処女 (うないおとめ)」 説話などの伝承的な和歌説話を集めた部分から成る)の一伝本である狩谷本系統の「静嘉堂文庫所蔵狩谷棭斎旧蔵本」の奥書に「花山の院の御つくりものがたりなりとある本にあり」とあり、予想外に近代まで、かの花山院が書いたとする説が信じられていた。

『宇治大納言の「拾遺物語」』鎌倉前期の建暦二(一二一二)年から承久三(一二二一)年頃の成立と推定される説話物語集「宇治拾遺物語」であるが、これは、同書が平安後期の公卿であった『「宇治大納言」源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)が編纂したとされる説話集「宇治大納言物語」(現存せず)から漏れた話題を拾い集めたもの』という意味であるとする説に拠った謂いで、誤りに近い。しかも、他に全く異なる「拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名」ともされ、編著者も未詳である。

『「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷』「俊景」は「俊蔭」の誤り。「うつほ物語」(「宇津保物語」とも書く)は平安中期に成立した長編物語。全二十巻。著者不詳だが、「和名類聚抄」の作者として知られる源順(したごう)とする説などがある。「竹取物語」の伝奇的性格を受け継いだ、日本文学史上、最古の長編物語で、「枕草子」に優劣論争が記され、「源氏物語」の「絵合」の帖にも「竹取物語」と「宇津保物語」の比較論が展開されている当該ウィキによれば、最初の第一パートである「俊蔭」のシノプシスは、『遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため』、『波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は』、二十三『年を経て』、『日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞』(うつほ)で『子(藤原仲忠)を育てながら』、『秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った』とあるのを指す。異国での長年の遍歴と在野の死、秘められた琴の奥義の奏法伝授、木の洞(うろ)で育てられる稚児と、奇譚的内容が色濃いことで、本書の内容と親和性を嗅がせてある。

「奇特(きどく)」ここは仏教のそれではなく、フラットな「非常に珍しく不思議なさま」の意。

「耳をすゝぐ」「耳を漱ぐ」。「耳を洗い清める」の謂いだが、これは「潁川(えいせん)に耳を洗ふ」に基づく。聖王の堯が、潁川の畔(ほとり)に隠れ住んでいた賢人許由に「天下を譲ってやろう」と言ったを聴くや、「汚ない話を聞いて耳が穢れた」と潁川で耳を洗ったとする故事によるものである(これには、後段があって、牛に水を飲ませようとしてたまたまそこに来ていて、その許由の言葉を聴いた高潔の士巣父(そうほ)は、「そんな汚れた話で穢れた川の水は牛に飲ませられぬ」といって牛を牽いて帰った)。ここには、了意が怪力乱神を聴ことしない、インキ臭い学智ある人は、恐らく本書のてんこ盛りの怪力乱神話に「目」は「よろこばしめ」ても、必ずや、「耳を洗う」だろうと言い放っているのである。しかも、それでこそ、後の対句である「兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也」との謂いを、正当なる見解として胸を張って述べている矜持が逆に感じられるように書かれてもあるのである。

「その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也」「新日本古典文学大系」版脚注では、『元来は、「耳を信じて目を疑ふは、俗の常のへい(弊)也」(平家物語・法印問答)と言われ、人の言うことは信ずるが、自分が実際に見た者は信じないという態度が批判された。出典「耳ヲ貴ビテ目ヲ賤ム者ナリ」[やぶちゃん注:「者」はママ。](文選。東京賦、顔氏家訓。慕賢)。ここでは、その逆を言い、自著等』、『書きものの有用性を説こうとしたもの』とある。

「云尒(しかいふ)」。「尒」は「爾」の異体字。

「干時」訓じて「ときに」。

「寬文六年」「丙午」(ひのえうま)は影印では横に一列に小文字で表記されているが、ブログでは表記不能なので、一般に普通に見られ、また、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本でもそうなっているところの形に従って示した。一六六六年。

「瓢水子松雲處士自序」の署名位置も元禄本に従った。底本ではクレジットの真下にダラダラ続いている。

 以下は二種目の擬古漢文の真名序。同じく底本の影印のみを判読した(句読点のみ仮りに附した)。訓点附きであるが、白文で示し、後に訓点に従った訓読文を附した。]

 

 

伽婢子序

伽婢子、松雲處士之所監者也。凡若干卷、槩言神怪奇異之事。言辭之藻麗也、吟咏之繁華也、也、膾炙人口者不可勝言焉。論語說曰子不語怪神矣。玆書之作不免懷詐欺人之謗乎。云不然。厥士之志于道者搜載籍之崇阿、涵禮法之淵源、擇云擇行、積善累德而施不滅之名。若夫庸人孺子之不知讀詩書、耳無博聞之明、身無貞直之厚。虛浮之俗、日々以長。偶聞精微之言疾首蹙顙啾〻焉退。經典沉源、載籍浩瀚、譬如會聾鼓。之何益之有。伽婢子爲書、言、摝新奇、義、極淺近。怪異之驚耳、滑𥡞之說人寐得之醒焉、倦得之舒。是庸人孺子之所好讀易解也。男女淫奔、則念深誡。幽明神恠、欲則覈理。雖非君子達道之事、願欲便庸孺之監戒而已。

寬文六年龍集丙午正月下澣

      雲樵 

○やぶちゃんの書き下し文(〔 〕は冒頭注で述べた通り、私が推定で補った読み)

「伽婢子」序

 「伽婢子」は松雲處士の著はす所ろなり。凡て、若干卷、槪むね、神怪奇異の事を言ふ。言辭の藻麗なるや、吟咏の繁華なるや、人口に膾炙する者の、勝〔あげ〕て言ふべからず。

 「論語說」に曰く、『子、怪神を語らず』と。茲〔こ〕の書の作、詐〔うそ〕を懷〔いだき〕て人を欺くの謗〔そしり〕を免れざらんか。

 云く、然らず。

 厥〔そ〕れ、士の、道を志す者の、載籍〔さいせき〕の崇阿〔すうあ〕を搜り、禮法の淵源に涵〔かむ〕し、言を擇び、行を擇び、善を積み、德を累〔かさね〕て、不滅の名を施す。若〔も〕し、夫れ、庸人・孺子〔じゆし〕の詩書を讀むことを知らざる、耳、博聞の明〔めい〕無く、身、貞直の厚〔こう〕無し。虛浮〔こふ〕の俗、日々に以〔もつて〕長ず。偶〔たまたま〕、精微の言〔げん〕を聞〔きき〕て、首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め、啾々焉〔しうしうえん〕として退〔しりぞ〕く。經典の沈深なる、載籍の浩瀚なる、譬へば、聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし。之〔これ〕、何の益か、之、有〔あら〕ん。

「伽婢子」の書たる、言〔げん〕、新奇を摝〔ふるひ〕、義、淺近を極む。怪異の、耳を驚〔おどろか〕し、滑稽の、人を說〔よろこば〕しむること、寐〔いね〕て、之を得れば、醒め、倦〔うみ〕て之を得れば、舒〔よろこ〕ぶ。是れ、庸人・孺子の、好みて讀み易く解する所なり。男女の淫奔を言ふがごときは、則ち、深く誡〔いまし〕めんことを念ず。幽明神恠は、則ち、理を覈〔あきら〕めんと欲す。君子達道〔くんしたつだう〕の事に非ずと雖も、願くは、庸・孺の監戒に便〔びん〕せんと欲するのみ。

  寬文六年龍集〔りゆうしふ〕丙午正月下澣〔げかん〕

                                  雲樵

 

[やぶちゃん注:「藻麗」「麗藻」に同じ。詩や文章などが麗しくて見事なこと。

「吟咏」「吟詠」に同じ。

「論語說」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「論語説」は同名の書が多く、誰の編著のものか明らかにし難いが、論語本体を引かなかったの了意』の『自序との重複を避けたもの』とある。

「茲〔こ〕の書」本「伽婢子」全体を指す。

「士の、道を志す者」日本文学が江戸以前に手本とした中国文学は基本的に〈士官の文学〉であり、人格と地位ともに一致した「仁者」としての「君子」へと一途に向かうことが理想とされた。

「載籍〔さいせき〕」多様な事柄を記載した多量の書物。

「崇阿〔すうあ〕」「隅から隅まで」の意。

「禮法の淵源に涵〔かむ〕し」儒教の基本規定であるところの礼法の根源まで遡って、十分にそれに浸って。

「庸人」一般普通の凡庸なる常人。

「孺子〔じゆし〕」小僧っこ。子ども。

「貞直」正しく真っ直ぐな人柄。

「虛浮〔こふ〕の俗」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行動や態度がおろそかない下俗の風体』(ふうてい)とある。

「精微の言」詳しく、且つ、緻密な言説(ディスクール:フランス語:discours)。

「首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め」「新日本古典文学大系」版脚注に、『頭痛のために顔をしかめ、額に皺をよせる』とある。

「啾々焉〔しうしうえん〕」小声でしくしくと泣き続けるさま。

「聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし」耳が聴こえない人々を集めて、そこで如何に大太鼓をどろどろと鳴らしても、何の意味も効果もないこと。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「聾」はここは無知者の喩え』とある。

「摝〔ふるひ〕」音「ロク」。「振る・揺らす・ゆり動かす」(他に「水中のものを取る・掬い取る」の意がある)で、「揮ふ」に同じ。発揮する。

「龍集」「りようしふ」とも読む。「龍」は星の名で、「集」は「宿る」の意。この星は一年に一回周行するところから、「一年」の意。多くの場合、年号の下に記す語して「歳次」を示す語である。

「下澣〔げかん〕」「下浣」とも書く。月末の十日間。下旬。

「雲樵」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『未詳』とするのみ。仮名序を意識した内容といい、どうも怪しい。これは号(「雲」が同じで何となく似ている感じを与える)を変えて、実は了意が他人を装って書いたものではなかろうか?]

 

伽婢子卷之一

 

    ○龍宮の上棟(むねあげ)

 江州勢多の橋は、東國第一の大橋(けう)にして、西東にかゝれり。橋より西の方、北には滋賀辛崎もまのあたりにて、山田・矢橋(やはせ)の渡し舟、鹽津・海津(かいづ)の、上り舟に帆かけて走るも、得ならず、見ゆ。南の方は石山寺、夕暮つぐる鐘の音に、山づたひ行く岩間寺(いはまでら)も程近く續きたり。橋より東のかた、北には「任那(しな)の里」、ここは名におふ蓮の名所にて、六月(みなつき)の中比より、咲きみだるゝ、蓮花(はちす)匂ひは四方に薰じて、見に來る人の心さへ、自ら濁りにしまぬ、たのしみあり。橋の南には田上(たなかみ)山の夕日影、鳴送る蟬の聲に、夏は凉しさ、勝りけり。うしろは伊勢路に續き、前には湖水の流れながく、「鹿飛(しゝとび)の瀧」より宇治の川瀨に出るといふ。その北には「螢谷(ほたるだに)」とて洞(ほら)あり。四月(うづき)の初かたより、五月(さつき)の半ばに至るまで、數(す)百萬斛(ごく)の、螢、湧出て、湖水の面に集り、或は鞠の大さ、或は車の輪のごとく、かたまり、圓(まる)がりて、雲路遙かにまひあがり、俄に水の上に、「はた」と、おち、「はらはら」と碎けて水に流るゝ有さま、點々たる柘榴花(せきりうくは)の五月雨(さみだれ)にさくが如くにて、光りさやかにみだれたるは、又、すてがたき眺めなり。されば、世の好事(かうじ)の輩(ともがら)、僧俗ともに遊び來(き)て、歌、よみ、詩、つくる、其言葉、多く、口につたへ、書に記(しる)せり。

[やぶちゃん注:長いので注を挟み、その後は一行空けた。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本篇は『俵藤太の龍宮伝説を背景として、若干を剪灯新話』(明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集。一三七八年頃の成立。三遊亭円朝「牡丹灯籠」の原話としてよく知られる。本「御伽婢子」は同書を原拠としたものが多い)『一ノ一「水宮慶会録」に負いながら、その殆んどの構想を』、別に同書に依って書かれたかと思われる『金鰲新話』(きんごうしんわ:朝鮮李朝前期の漢文伝奇小説集。金時習撰。執筆年代は一四六六年から一四七一年頃と推定される。完本は失われ、「万福寺樗蒲記」・「李生窺牆伝」・「酔遊浮碧亭記」・「南炎浮洲志」と、この「竜宮赴宴録〉の五編のみが伝わる)『「竜宮赴宴録」に基づき、上棟の慶事を明るくにぎやかに述べて』本「御伽婢子」の『冒頭を飾る一話』とある。私は原拠考証には踏み込むつもりはまるでないので、比較考証に興味のある方は、同書を購入し、その注及び附録の影印「剪燈新話句解」を参照されたい

「江州勢多の橋」瀬田唐橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東國」ちょっと戸惑うが、「新日本古典文学大系」版脚注に、『近江国逢坂の関』(ここ)『以東』を言ったとある。

「滋賀辛崎」現在の大津市唐崎の唐崎神社のある琵琶湖西岸。

「山田」現在の滋賀県草津市北山田町。以下、多くは琵琶湖水上交通の要所や景勝地の命数で疑似的な道行文となっている。

「矢橋(やはせ)」「近江八景」の一つとして知られる琵琶湖の名勝「矢橋帰帆」の地。旧栗太郡老上(おいかみ)村で現在の草津市八橋町(やばせちょう)

「鹽津」滋賀県長浜市西浅井町塩津浜。琵琶湖の北端奥。

「海津(かいづ)」滋賀県高島市マキノ町海津。琵琶湖の北端の西部にある。

「得ならず」連語で「何とも言えないほど、すばらしい」の意。中世以降の用法。

「石山寺」滋賀県大津市の唐橋の下流一キロメートル半ほどの瀬田川右岸にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(いしやまでら)。標高二百三十六メートルの伽藍山南東山麓の瀬田川直近にある。聖武天皇の発願(ほつがん)により天平一九(七四七)年に東大寺開山で別当であった良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされる。

「岩間寺(いはまでら)」滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗岩間山(いわまさん)正法寺(しょうほうじ)の別称。開山は加賀国白山を開いた泰澄。岩間寺(いわまでら)。西国三十三所第十二番札所。十三番の石山寺の南西約四キロメートルの、滋賀県と京都府との府県境の一部をなす岩間山(標高四百四十三メートル)南腹の標高三百九十メートル付近にある。

「任那(しな)の里」滋賀県草津市志那町(しなちょう)。ここ志那浜のハスは既に室町時代には景勝地として知られていた。

「田上(たなかみ)山」滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区から大石地区に連なる標高四百から六百メートルの山塊の総称。主峰は不動寺のある太神山(たなかみやま)

「鹿飛(しゝとび)の瀧」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「瀧」は滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。

「螢谷(ほたるだに)」石山寺の北北西五百メートルほどの位置(瀬田川右岸)に現在、滋賀県大津市螢谷という地名及び同名の公園がある。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」にも記載があるので、参照されたい。

「數百萬斛(ごく)」一石(斛は平安末頃までの古い表記)は十斗で百升。誇張表現。

「柘榴花(せきりうくは)」ザクロの花。]

 

 橋の東南のかた、湖水の渚(みぎは)にそふて、子社(こやしろ)あり。

 むかし、俵藤太秀鄕(たはらとうだひでさと)、此あたりより龍宮に行て、三上の嶽の「むかで」を退治し、絹と俵と鍋と鐘(つりかね)とを得て歸る。中にも、鐘は三井寺に寄付して、今も其名、高く、世にのこれり。

[やぶちゃん注:「子社」現在の瀬田唐橋の東詰を少し下ったところに勢多橋龍宮秀郷社と、その東北直近に秀郷を祀る雲住寺がある。

「俵藤太秀鄕」藤原秀郷(生没年未詳)は平安中期の貴族で武将。下野大掾藤原村雄の子とされる。平将門追討で知られるが、室町時代になって「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山(みかみやま:現在の滋賀県野洲市三上にある標高四百三十二メートルの山。「近江富士」と称される)での百足退治の伝説の方でも知られるようになった。「柴田宵曲 妖異博物館 百足と蛇」の最初の私の注辺りを参照されたい。個人的には、そのパロディであるが、私の『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝 (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』がすこぶる面白いと思う。

「鐘(つりかね)」は何故か人気の部分で、怪奇談にこれだけが独立して後日談形式で語られることが甚だ多い。例えば私の「諸國里人談卷之五 三井鐘」を参照されたい。]

 

 後柏原院の朝(てう)、永正年中に、滋賀郡(しがのこほり)松本といふ所に、眞上阿祇奈君(まがみ あきな きみ)といふ人、あり。

 もとは禁中に伺公して、文章生(もんしやうがく)の官職にあづかりし人なれども、世の怱劇をいとひて、冠(かふり)をかけて、引きこもり、此所に跡をとゞめ、心しづかに月日をぞ過されける。

[やぶちゃん注:「後柏原院の朝」後柏原天皇の在位は戦国時代の明応九(一五〇〇)年から大永六(一五二六)年。

「永正」一五〇四年から一五二一年まで。

「滋賀郡松本」滋賀県大津市松本。琵琶湖南西岸で瀬田唐橋の北西四キロメートル強。

「眞上阿祇奈君」「新日本古典文学大系」版脚注に、「阿祇奈」について、『古事記・孝元天皇の条に見える阿芸奈(あぎな)臣』(のおみ)『に発する姓(かばね)』。但し、『拾芥抄・中にこれに属する氏として二百氏弱を記すが、真上氏は見えない』とする。「君」尊称の接尾辞。

「伺公」「伺候」に同じ。

「文章生」古代から中世にかけて、律令制の大学寮で紀伝道(大学寮内の学科四道(他に「論語」・「孝経」などの経書(けいしょ)を講究した明経(みょうぎょう)道・古代の律・令・格(きゃく)・式など法律を講究した明法(みょうぼう)道・算道)の一つ)の学生。中国の史書・詩文を講究した。当初は「文章道 (もんじょうどう)」と呼ばれたが、平安時代に入って、「紀伝道」が公称となり、四科の中で最も重んぜられるようになった。天平二(七三〇)年に設置された。明経生が貴族の子弟に限られていたのに対し、庶人にまで門戸を開いたものであったが、紀伝道の地位上昇に伴って結局は貴族化してしまい、また、当該道(課程)の下位に学生(がくしょう)・擬文章生などの予科課程を持つに至り、寮試・省試などの科挙試のまがいものの試験を通過して、初めて与えられるという閉鎖的な地位となってしまった。文章得業生となって対策に及第して晴れて任官するのが本来であるが、文章生から直ちに対策となったり、或いは文章生を経ただけで任官するケースもあった。読みは「もんぞうしょう」「もんじょうのしょう」もある。ここでは底本にある音をとった。

「怱劇」「そうげき・そうけき」は「忩劇」とも書く。孰れの字も「慌ただしく急ぎ、忙しいこと」を指す字)で「忙しく落ち着かぬこと」・「混乱すること」・「いざこざなどによって発生する世の中の種々の厭な騒ぎ」の意。

「冠(かふり)をかけて」漢語「掛(挂)冠」を訓読した慣用句である「冠を掛く」(かうぶりをかく)は中古からあった連語で、官人の正装の象徴である冠を脱いで掛けてしまう、「官職を辞する」の意。

「過されける」私は「すぐされける」と読みたい人種である。]

 

 或日の夕暮に、布衣(ほい)に烏帽子着たる者、二人、來り、庭の前に跪きて、

「これは、水海底(すいかいてい)の龍宮城より、迎え奉るべき事ありてまゐり侍べり。」

といふ。

 眞上、おどろき、色を替(かへ)て、

「龍宮と、人間と、道へだたり、異なり、如何でか行〔ゆき〕いたるべき。『いにしへは、其道ありし』と聞つたへしかども、今は絕へて、其跡を知らず。」

といふ。

 使者のいふよう、

「よき馬に、鞍おきて、門外に繫ぎおきたり。これにめして赴き給はんには、水漫々として波高くとも、少しも苦しき事あらじ。」

といふ。

 眞上、怪しみながら、座を立〔たち〕て、門に出たれば、その長(たけ)七寸(なゝき)ばかり、太逞(ふとくたくま)しき驪(くろ)の馬に、金幅輪の鞍おき、螺鈿(らでん)の鐙(あぶみ)をかけ、白銀〔しろがね〕の轡(くつわ)をつかませて、引〔ひつ〕たて、白丁(はくてう)、十餘人、

「はらはら」

と立て、眞上を馬にかきのせ、二人の使者は、前にはしり、馬は、虛空にあがりとぶがごとし。

[やぶちゃん注:「布衣(ほい)」六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣。

「長(たけ)七寸(なゝき)」「寸(き)」馬の大きさを示す数詞。跨ぐ背までの高さが四尺七寸(一・四二メートル)の馬。四尺を標準としてそれよりも高いものを寸単位で示し、読む場合には「寸(き)」と読んで弁別したもの。これは作品内時制では、かなり大きい馬である。

「驪(くろ)の馬」黒毛の馬。

「白丁(はくてう)」底本にはルビがなく、元禄版で添えた。しかし、「新日本古典文学大系」は『はくちやう』と振り、歴史的仮名遣はこれが正しい。小学館「日本国語大辞典」の「はくちょう」「白張・白丁」の二番目の意で、『白布の狩衣を着た下男。かさ・くつなどを持ったり、馬の口取などをするもの』とある。]

 

Rm1

[やぶちゃん注:画像元の「新日本古典文学大系」版脚注の挿絵解説には、『宮殿は極彩色の壁画』で、『中に象の画も見えるか』とある。]

 

 眞上、

「眞下。」

と見おろせば、足の下は、たゞ雲の波、煙(けふり)の苒々(ぜんぜん)として、其外には何も見えず、しばしの間に宮門に至り、馬より下りて立てり。

 門まもる者共は、蝦魚(えび)のかしら、螃蟹(かに)の甲(から)、辛螺(さゞい)、貝蛤(はまぐり)の殼に似たる、甲(かぶと)の緖をしめ、鎗・長刀(なぎなた)を立ならべ、きびしく、番をつとむる。眞上を見て、皆、ひざまづき、頭(かうべ)を地につけて、敬ひつゝしめり。

 二人の使者内に入て後、しばらくありて、綠衣の官人とおぼしきもの、二人、出(いで)て、門より内に、引て、あゆむ。

 門の上には、「含仁(がんじん)門」といふ額をかけたり。門に入りて、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかり行ければ、水精(すゐしやう)の宮殿あり。

 階(みはし)を登りて入りければ、龍王、すなはち、彩雲(さいうん)の冠(かぶり)をいたゞき、飛雪(ひせつ)の劍(けん)を帶(をび)、笏を正しくして、立出つゝ、眞上を延(ひき)て白玉(はくぎよく)の床〔ゆか〕に座をしめたり。

 眞上、大に敬ひ、禮拜して、

「我は、これ、大日本國の小臣なり。草木と共に腐(くち)はつべき身なり。いかでか、神王の威を冐(をか)して、上客(しやうかく)の禮をうけ奉らんや。」

といふ。

 龍王のいはく、

「久しく名を聞〔きき〕て、今、尊顏をむかへ侍り、辭退し給ふにおよばず。」

とて、强て、床の上にのぼせ、自ら、又、七賓の床にのぼり、南に差し向うて、座したり。

 かゝる所に、

「賓客、入來り給ふ。」

といふ。

 龍王、又、座をくだり、階に出てむかえ入れたりければ、三人の客、あり。

 いづれも、氣高(けたか)きよそほひ、此世の人とも、覺えず。

 玉の冠をいたゞき、錦の袂をかひつくろうて、威儀正しく、七寶の手ぐるまより下りて、靜(しづか)に殿上(てんしやう)にのぼり、床に坐したり。

 眞上は床を退〔しりぞ〕きて、金障(きんしやう)のもとに隱れうづくまる。

 巳に、座、定まりて、龍王語りけるは、

「人間世界の文章生をむかへ奉れり。君たち、これを疑ひ給ふな。」

とて、眞上をよびて、すゝめしかば、眞上、出て、禮拜するに、三人の客、また、禮をいたす。

「前の玉座に上り給へ。」

と云(いふ)に、眞上、辭して曰く、

「我は、これ、一个〔いつこ〕の小臣也。いやしきが、貴族に對して、床にのぼらん事、おそれあり。」

と。

 三人の客(かく)、おなじく曰く、

「誠に人界(にんがい)と龍城と、其境、隔ちて、通路、絕えたれども、神王、已に人間をかんが見る事、明らけし。君、これ、たゞ人ならんや。こゝに請じ奉れり。何ぞ辭するに及ばん。早く床に坐し給へ。」

と。

 眞上、すなはち、床に座す。

 龍王かたりけるは、

「朕(われ)、此程、新たに一つの宮殿をかまへ造る。木工頭(もくのかみ)・番匠(たくみ)の司(つかさ)あつまり、玉のいしずゑをすゑ、虹(にじ)のうつばり・雲のむなぎ・文(あや)の柱、皆、具(そな)はり、もとめしかども、只、ともしきものは、上梁(むねあげ)の文(ぶん)・祝拜(しゆくはい)のことば也。ほのかに聞つたふ、眞上の阿紙奈(あきな)君は、學智道德の名、かくれなし。此故に、遠く招きて、請じ奉る。幸(さいわい[やぶちゃん注:元禄版のママ。])に、朕、爲に、一篇をかきて給(たべ)。」

といふに、二人の童子、十二、三ばかりなるが、髮、からわにあげて、一人は碧玉の硯に、湘竹(しやうちく)の管(ぢく)に文犀(ぶんさい)の毛さしたる筆、とりそへ、神苓(しんれい)の灰に、紅藍(こうらん)・麝臍(じやさい)を和(くは)したる墨、すり湛えてさゝげ、一人は鮫人(かうじん)の絹一丈をもちて、眞上にすゝむ。

 阿祇奈君、辭するに言葉なく、筆をそめて、書きたり。

[やぶちゃん注:「苒々(ぜんぜん)」巡り進み、次第にのびやかになるさま。

「螃蟹(かに)」「螃」もカニの意。

「辛螺(さゞい)」現行では、狭義には腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa 等を指し、広義には外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称である。詳しくは「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蓼蠃」の私の注を見られたいが、さらにここは「大型の巻貝」の意で用い、それに「さざい」、則ち、腹足綱古腹足目リュウテン(龍天)科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo sazae (タイプ種)を当て訓したもの。

「貝蛤(はまぐり)」ここは取り敢えず、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria としておく。

「含仁(がんじん)門」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竜王の仁徳に満ちている』という意を持つ『命名か』とある。

「水精(すゐしやう)」水晶に同じ。

「飛雪(ひせつ)の劍(けん)」剣の刃紋からの呼称であろう。

「延(ひき)て」連れ導いて。

「手ぐるま」貴人用の乗り物。屋形に車輪を附けた車で、前後に突き出ている轅 (ながえ) を人の手で引く輦(てぐるま)。輦車 (れんしゃ) 。

「金障(きんしやう)」金箔を張った衝立。

「木工頭(もくのかみ)」律令制で宮内省に属し、宮中の殿舎の造営や木材の伐採などを司った木工寮(もくりょう)の長官。龍宮が現実の禁中と相同に構成されているのである。

「番匠(たくみ)」ここは木工寮に所属する龍宮禁中の大工・工匠。

「虹(にじ)のうつばり」「虹の梁(うつばり)」。虹の如く、天井を上方に向かって、なだらかに湾曲した反りを与えてある梁(はり)のこと。或いは実際に虹色に七色に輝いていたものとイメージすると、龍宮が総天然色となって、よりよい。

「雲のむなぎ」雲形の棟木。ここも同前で、実際、雲で出来ていると思うのも一興。

「文(あや)の柱」精緻で美しい模様を彫り出した柱。

「ともしきもの」足りない物。

「髮、からわにあげて」「からわ」は「唐輪」。髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作ったもの。鎌倉時代の武家の若党や、元服前の近侍の童児の髪形である。唐輪髷(からわまげ・からわわげ)。

「湘竹(しやうちく)」伝説の聖王舜の妃であった湘夫人が舜の死を悲しんで泣いた涙が竹に滴ったところ、その竹が斑(まだら)になったという「博物志」の「史補」に見える伝説からの命名。特に中国産の斑竹(はんちく)。斑紋のある竹。

「管(ぢく)」筆の筆先を除く本体部。

「文犀(ぶんさい)」「新日本古典文学大系」版脚注に引かれた「天中記」の引用を見るに、サイの体毛らしいが、実際にサイであったかどうかは怪しい。

「神苓(しんれい)の灰」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『藜(あかざ)』(ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum )『の灰は古く染料に用いた(本草綱目七・冬灰)。「神藜」は神聖な藜の意か』とある。

「紅藍(こうらん)」紅花(キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius )の異名。「新日本古典文学大系」版脚注には、『墨にいれると強い光を出すという(万金産業袋一)』とある。

「麝臍(じやさい)」麝香。ヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ (或いはジャコウネコ) の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分はムスコンと呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。「新日本古典文学大系」版脚注に、『韋仲将』(三国時代の魏(二二〇年~二六五年)の書家)『合墨法の中に、真朱一両麝香一両を鉄臼の中で合わせる法が見えている』とある。魏の一両は十三・九二グラム。

「鮫人(かうじん)」中国で南海に棲むとされた人魚に似た想像上の生き物。常に機 (はた)を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉となるとされた。]

 

「天地(あめつち)の間(あひだ)には蒼海(あをうなはら)を最(いと)大(おほい)なりとし、生物(いけるたぐひ)のなかには、龍神(わたつみ)を殊に靈(くしみ)とす。已に世を潤すの功(いさをし)あり。いかでか、福(さいはひ)をのぶるの惠(めぐみ)なからんや。この故に、香をたき、燈をかゝげて、依(より)、いのる。飛(とぶ)龍(たつ)は、大〔おほい〕なる人をみるに利(とき)こと、あり。又、もちひて不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり。維(これ)、歲次(としのやどり)今月今日(このつきこのひ)、新(あらた)に玉の殿(みあや)をかまへ、昭(あきら)けく精(くはし)き華(かざり)を營めり。水晶・珊瑚のはしらをたて、琥珀・琅玕(らうかん)の染(うつはり)を掛(かく)。珠(たま)の簾(すだれ)をまきぬれば、山の雲、靑くうつり、玉の戶を開けば、洞(ほら)の霞、白く、めぐる。天(あめ)、高く、地(つち)、厚(あつう)して、南溟(みなみのうみ)八千里(やちさと)をしづめ、雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり[やぶちゃん注:ママ。])て、北の渚、五百淵(いほふち)を、をさむ。空にあがり、泉に下りては、蒼生(かんたがら)の望みをかなへ、形を現はし、身を隱しては、上帝(かんすべらぎ)の仁(あはれみ)を祐(たす)く。その威(いきほ)ひ、古(いにしへ)・今(いま)にわたり、その德(さいはひ)、磧礫(せゝなぎ)に曁(およ)ぼす。玄龜(くろきかめ)・赤鯉(あかきこひ)をどりて祝ひ、木魅(こだま)・山魅(びこ)、あつまりて、賀(よろこ)ぶ。こゝに歌一曲(ふし)を作りて、雕(ちり)ばめたる梁(うつばり)のうへに揭(あらは)す。

 

 扶桑海淵落瑤宮

 水族駢蹎承德化

 萬籟唱和慶賛歌

 若神河伯朝宗駕

 

をさまれるみちぞしるけき龍の宮の

  世はひさかたのつきじとをしる

 

伏てねがはくは、上棟(むねあげ)の後、百(もゝ)の福(さひはひ)、共に臻(いた)り、千(ちゞ)の喜(よころび)、偏(あまね)く來り、瑤(たま)の宮、安くおだやかにして、溟海(わだつうみ)平(たいら)けく治〔をさま〕り、天つ空の月日に齋(ひと)しく、その限(かぎり)、有べからず。

 

と書て奉る。

[やぶちゃん注:阿祇奈のものした「上梁文」は前後を一行空け、さらに漢詩と和歌も同様の処置を施した。なお、これらは底本では全体が一字下げである。漢詩は訓点附きであるが、きなたくなるだけなので、本文では白文で示し、以下の注で訓読することとした。

「龍神(わたつみ)」「海神」と同義。

「靈(くしみ)」「奇し御魂(くしみたま)」の略。万葉時代に既にある語。「神秘な力をもつ霊魂」或いは「そのような霊魂の宿るもの」を指す。江戸後期の即席の神道概説などに引っ張られる定義的なそれではない。但し、この文章は原話の漢文に基づきながらも、徹底した和文和訓文脈で読まれてあり、神道の祝詞や祭文のそれに似せた形に成形されてはある。

「依(より)、いのる」この「依り」はただ一つ信じ得る依り所としての謂いであり、祀り祈るに際して、神霊が確かに依り憑いて下さることを念じた祈りの含みもあろう。

「不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり」飛龍のそうした類まれな鑑識眼の超能力を、「飛ぶ龍」の造形を想起することによって、それを霊験あらたかな奇瑞の、そして永遠に龍宮宮殿の不滅のシンボルとするといった意味か。

「歲次(としのやどり)」ここには人間世界では本来は元号や干支が前に付随するものであるが、ここは異界の龍宮であるから、「この年」の意で添えたものである。

「殿(みあや)」この訓は不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。「御阿屋」(「阿」には「軒・廂」の意がある)か。

「昭(あきら)けく」見た目もはっきりくっきりと。

「琅玕(らうかん)」現行の博物学的見解では、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。しかし、この場合は龍宮の宮殿の装飾物であるから、嬉しくないが、青系の珊瑚の可能性を排除は出来ない。私の微妙な不満は『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』を参照されれば、判って戴ける。だが、正直言えば、前で並列されている「琥珀」は陸産の宝石であるからして、珊瑚の可能性に拘る必要は実は、ないのである。

「南溟(みなみのうみ)」この場合の「溟」は大海原の意。

「八千里(やちさと)」後の「五百淵(いほふち)」ともに大数表示に過ぎない。

「雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり)」元禄版と「新日本古典文学大系」版では「調」の読みは「とゝのをり」である。

「蒼生(かんたがら)」人民。蒼氓。訓は「神寶」(かんだから)としての神・天子(=「上帝(かんすべらぎ)」)の赤子のこと。

「磧礫(せゝなぎ)に」河原の小石にまでも。

「曁(およ)ぼす」「及ぼす」に同じ。

「玄龜(くろきかめ)」はここでは明らかに四神の一つである玄武の属性を示唆していよう。

「山魅(びこ)」言わずもがなであるが、「やまびこ」(「木霊」)である。龍宮は海底でも異界という点で人間界とは違って通底連絡性が極めて近いのである。本邦の龍宮説話は山中の渓流や池沼にも通じているのである。

 

●漢詩訓読と語釈:先に述べてしまうと、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、この『漢詩は、「剪灯新話の上梁の文より語句を抜き出して、新御殿の落成と竜宮の繁栄を祝う』ものに作り成したものである。

扶桑海淵落瑤宮

水族駢蹎承德化

萬籟唱和慶賛歌

若神河伯朝宗駕

 扶桑(ふさう)の海淵 瑤宮(ようきう)を落(はじ)む

 水族(すいじよく) 駢蹎(べんてん)として 德化(とくくわ)に承(したが)ふ

 萬籟(ばんらい) 唱和す 慶賛(けいさん)の歌

 若神(じやくしん) 河伯(かはく) 朝宗(てうそう)の駕(が)

・「扶桑」中国神話に現われる「太陽の昇る木」。幻想地誌「山海経」の「海外東経」には、「東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから、太陽が昇る」とする。当該ウィキによれば、『古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬莱山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという』。後に「梁書」が書かれて『以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されており、この場合の「扶桑」とは実在のどの植物のことかを』巡る論争が、これまた、比定地の一つの論点ともなっている(引用元に詳しい)。ともかくも、『扶桑は東海の海上にあるとされ』たことから、後に『日本の異名となった』。

・「瑤宮」「瑤」は「美しい珠玉」で、美麗な宮殿のこと。

・「落む」落成する。

・「水族(すいじよく)」この読みは不審。「族」に「ジヨク(ジョク)」の音はない。「屬」と勘違いしたものか?

・「駢蹎」「新日本古典文学大系」版脚注には『連なり、並ぶこと』とあるのだが、不審。「駢」の意はそれでいいが、「蹎」は「躓(つまず)く」の意しかないからである。

・「萬籟」風が物にあたって発するあらゆる音。ここは海中なれば、「風波」の意か。

・「若神」海神の異名。「楚辞」の「遠遊」に「東海若」は「東海の神」とし、「海若」とも記すとある。

・「河伯」中国神話に現われる黄河の神。しばしば、日本の在来妖怪である「河童」を同一とする説を見るが、私は断固、反対する。その主張は、最近、「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」で注したので繰り返さない。

・「朝宗」「朝」は「春に天子に謁見する」、「宗」は夏のそれの意で、古代中国に於いて「諸侯が天子に拝謁すること」を指す。

 切り張り細工の漢詩というのが気になった。そこで一応、平仄と韻を調べてみた。

○○●○●○○
●●○○○●◎
●●●●●●○
●○○●○○◎

であった。これが七律であるとするなら、起句末の「宮」と承句末の「化」及び結句末の「駕」が押韻していなくてはならないが、「化」と「駕」は同韻であるが、「宮」は韻を踏んでいない。それだけでも致命的だが、さらに、これは起句の二字目が平声の正格である平起式となるが、起・承句はいいものの、転句は二・五・六字目が、結句は二・四・六字目がアウトで、拗体もいいところで、話にならない。「韻ぐらい合わせろよ!」と了意に突っ込みたくなった。

「をさまれるみちぞしるけき龍の宮の世はひさかたのつきじとをしる」整序すると、

 治まれる道ぞ著(しる)けき龍の宮の世は久方のつきじとを知る

で、「久方の月路」と「盡じ」が掛詞となっている。こちらも、いやさかに龍宮の繁栄を永久(とわ)に言祝ぐ歌である。]

 

Rm2

 

 龍王、大〔おほきに〕に悅び、三人の客に見せしむるに、皆、感じて、ほめたり。

 則ち上梁(むねあげ)の宴を開きて曰(いはく)、

「阿祇奈君は人間にありて、末だ終に知り給はじ。一人(ひとり)は『江(え)の神』、一人は『河の神』、一人は『淵の神』なり。君と友となり、今日のあそびには、更に心を、とけ給へ。何か憚ることあらん。」

とて、盃をめぐらし、酒(しゆ)を勸む。

 廿〔はたち〕ばかりの女房、十餘人を出〔いだ〕し、雪の袖を飜(かへ)し、歌ひ、舞(まふ)。

 その面(かほ)かたち、世に未だ見ず、うるはしく、たをやかにして、玉の釵(かんざし)に花を飾り、白き羅(うすもの)に、袖つけて、歌ふ聲、雲に響きつゝ、少時(しばし)、舞て、退きければ、又、びんづら、結(ゆう)たる童子、十餘人、其うつくしさ、雛(ひいな)の如くなるが、繡(からぬひ)のひたゝれに、錦の袂を翻(ひるがへ)す。哥(うた)の聲、すみのぼり、梁(うつばり)の塵や、飛ぬらん。糸竹(いとたけ)の音に和(くわ)して、面白さ、限りなし。

 舞、巳にをはりければ、主(あるじ)の龍王、よろこびに餘り、盃(さかづき)を洗ひ、銚子を更(あらた)め、阿祇奈君が前に置(をき)、みづから、玉の笛を吹鳴らし、「嶰谷吟(かいこくぎん)」を歌ひいて後、

「其座に有ける者共、まかり出て、客(かく)の爲に戯(たはふれ)の藝を盡せ。」

とあり。

 畏(かしこま)りて出たる人、みづから、

「郭介子(くわくかいし)。」

と名のる。

 これ、蟹の精也。

 其うたひける詞に、

「我は谷かげ・岩まに隱れ、桂(かつら)の實のる秋になれば、月淸く、風凉しきに催され、河にまろび、海に泳ぐ。腹には、黃(き)を含み、外は、まどかに、いと堅く、二(ふたつ)の眼(まなこ)、空に望み、八(やつ)の足、またがり、其形は、乙女の笑(わらひ)を求め、其味(あじはひ)は、兵(つはもの)のかほばせを喜ばし、甲(よろひ)をまとひ、戈(ほこ)を取り、沫(あは)を噴(ふき)、瞳(ひとみ)を廻らし、『無腸公子(ぶちやうこうし)』の名を施し、つな手の舞けらし。」

とて、前に進み、後に退(しりぞ)き、右に駈(かけ)り、左に走りければ、其類(るい[やぶちゃん注:ママ。])の者、拍子をとる。

 座中、笑壺(ゑつぼ)に入〔いり〕て、笑ひ、にぎはふ。

[やぶちゃん注:底本では「郭介子」の歌は全体が一字下げである。

「びんづら」「みづら(みずら)」の音変化。「角髪」「角子」「鬟」「髻」などと書く。上代の成人男子の髪の結い方で、髪を頭の中央から左右に分け、両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだもの。平安以後は主として少年の髪形となった。

「雛(ひいな)」雛人形。

「繡(からぬひ)」縒(よ)り糸で紋様を刺繡したもの。

「ひたゝれ」「直垂」。男性用和服の一種。平安末期に庶民の労働着として発達し、筒袖の垂領(たりくび)の上衣に、丈の短い四幅袴(よのばかま)姿であった。これを武士が鎧の下に着用するようになり、鎌倉時代には武士の日常着となり,袖も広袖となった。袴と合せて用いる二幅の身に一幅半の袖を附け、衽(おくみ)がなく、闕腋(わきあけ)を特色とした。武士の台頭につれ、公家にも私服として着用されるようになり、武士の場合は袷(あわせ)であったが、公家の場合は単(ひとえ)で、袖に袖くくりの紐を通し、先が露として垂れていた。従来の直垂は「鎧直垂」と称されて、専ら軍陣用のものとなった。室町時代には上級武士の礼服となり、袴も長袴となって、地質も綾などの絹が使用された。江戸時代になると、直垂は将軍以下諸大名、三位以下侍従以上の大礼服となり、白小袖に直垂・風折烏帽子(かざおりえぼし)というのが武家の最上の礼装となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。各語の意味が判らない方は、幾つかはリンク先にリンクがある)。

「梁の塵や、飛ぬらん」中歌が上手いことの喩え。漢の虞公という歌の名手が歌うと、その声が響き渡って、梁の上の塵まで動いた、という故事(「劉向(りゅうきょう)別録」)に由来する。

「糸竹」管弦楽器。

「嶰谷吟(かいこくぎん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「嶰谷」は崑崙の北谷の名。黄帝の時、伶倫』(「伶」自体が「楽人」を指す漢字)『がここの竹を取って吹き』、中国音楽の最初の十二律の『音律を定めたという』とある。ここはそれに擬えて了意が勝手に創作した管楽曲名であろう。

「郭介子」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話「金鰲新話」に『郭介士』の名で出るとし、『蟹が』ガサゴソと『動くことを』漢語で『「郭索」と言い、蟹の異名でもあることによる命名か。「介子」は介士、甲冑を着た武人』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「かに 蟹」にも、異名として「郭索」「橫行介士」「無腸公子」が載り、「本綱綱目」から引いて、『蟹は池澤諸水の中に生ず。此の物、亦、蟬のごとく、秋の初め、殻(から)を脫(ぬ)ぐ。蟹と名づくの意、此の義を取る。其の橫に行くを以て螃䲒と曰ふ。其の行く聲を以て郭索と曰ふ。其の外骨を以て介士と曰ふ。其の内の空なるを以て無腸公子と曰ふ』とあるので、是非、参照されたい。

「桂(かつら)の實のる秋」これは実際のユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum ではなく(同種の花期は三月から五月で、秋に合わない。因みに同種は雌雄異株である)、月世界に植わっているとされた理想を体現した「月の桂」のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「他の事はともあれ、月の桂ばかりは、花をば貫之の歌を証歌にし春とし、桂は実る三五の秋と詩にも侍れば、実をば秋に定度(さだめたき)もの也」(俳諧御傘四・月の桂の花)』とある。ただ、この「月の桂」の伝承元は中国で、中国の「桂」はカツラではなく、秋に結実して冬を越し、春に熟すシソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans である辺りに、この「ややこしや」はあるんではなかろうか?

「腹には、黃(き)を含み」卵巣の肥大を指す。

「無腸公子(ぶちやうこうし)」底本は「ぶ」は清音。元禄版も同じ。ここは躓くので、「新日本古典文学大系」版で訂した。摂餌不足や産卵直後のカニ類の内臓は空っぽに見えることに由る。

「つな手の舞」何時もは天敵である漁師が舟を引く「綱手」の姿を「舞」いとして、カリカチャライズしたものか。

「笑壺(ゑつぼ)に入て」上機嫌になって笑い転げ。鎌倉時代以降の連語。]

 

 其次に、

「玄先生(げんせんじやう)。」

と名のりて駈(かけ)出つゝ、袖を飜(かへ)し、拍子をとり、尾をのべ、頚(くび)を動かす。

 是、龜の精也。

 其歌ひける詞に、

「我は、これ、蓍(めどき)の草むらに隱れ、蓮(はちす)の葉に遊び、書(ふみ)を負(おう)て、水に浮び、網をかぶりて、夢をしめす。殼(から)は人の兆(うらかた)を現はし、胸に士(つはもの)の氣を含む。世の寳(たから)となり、道の敎(をしへ)をなす。六の藏(かく)して伏し、千年(ちとせ)の壽(ことぶき)を保つ。氣を吐けば、糸筋のごとく、尾を曳(ひき)て、樂(たのしみ)を極む。靑海(あおうみ)の舞を舞(まふ)べし。」

と、頭(かしら)を動かし頚(くび)をしゞめ、目をまじろき、足をあげ、しばし、かなでゝ引入〔ひきいり〕ければ、滿座の輩〔ともがら〕、聲をあげ、腹をさゝげ、おきふして、笑ひどよどみ、興を催す。

[やぶちゃん注:「玄先生」の歌は底本では全体が一字下げである。

「蓍」これは本邦では、バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属メドハギ亜種メドハギ Lespedeza juncea var. subsessilis である。ここで、この植物を出したのには大きな意味がある。何故なら、このメドハギという和名は「目処萩」であり、これは元は「筮萩(めどぎはぎ)」と言ったのが訛ったものとされるからである。則ち、本家中国以来、このメドハギの茎を乾燥させたものを、占いをするための筮竹(ぜいちく)の替わりに用いたことによるからである。但し、これは了意のオリジナルではなく、「爾雅」の「六曰筮龜」の注で「常在蓍叢下潛伏。見龜策傳。」(常に蓍(し)の叢下に在りて潛伏す。「龜策傳」を見よ。)とある。この「龜策傳」とは、「史記」の列伝中にある、前の「日者列傳」とともに占卜者群の包括的解説が成されてある「龜策列傳」である。但し、「常在蓍叢下潛伏」の文字列は「史記」の「龜策列傳」にはなく、「爾雅」の注に拠るものの、それと同内容の「能得百莖蓍、幷得其下龜以卜者。百言百當、足以決吉凶。」(能く百莖の蓍を得ば、幷びに其の下に以つて卜者とする龜を得。百言百當して、以つて吉凶を決するに足る。)がある(以上の訓読は私の自然流で、原文は「中國哲學書電子化計劃」の同列伝を参考にした)。意外に思われるのは、ここには「龜卜」の語は出現せず、その代わりとなっているのが「蓍龜」(しき)、蓍(し)の茎と亀甲なのであった。ただ、ここでどうしても追加を必要とする記載を見出した。それはウィキの「蓍亀」で、そこには『ノコギリソウと亀甲を指し、昔は占いに用いていた』とあるからである。則ち、中国で「蓍」が指すのはメドハギではなく、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属ノコギリソウ Achillea alpina であるということである。則ち、中国ではメドハギとは全くの別種であるノコギリソウの茎を、同様に乾燥させて筮竹の代わりにしていたという事実を確認しておく必要があるのである。この決定的違いは「新日本古典文学大系」版脚注にも記されていないので、注意を要する。

「蓮の葉に遊び」同じく、「龜策列傳」に「余至江南、觀其行事、問其長老、云龜千歲乃遊蓮葉之上、蓍百莖共一根。又其所生、獸無虎狼、草無毒螫」(余、江南に至り、其の行事(亀の甲羅を用いた卜占)を觀て、其の長老に問ふに、云はく、「龜の千歲にして、乃(すなは)ち蓮の葉の上に遊び、蓍(し)百莖と共に一根たり。又、其の生ずる所、獸、虎・狼無く、草、毒・螫(どくむし)無し」と。)とある。蓮の葉の上にいるカメは既にして、霊亀なのである。「本草綱目」の「介之一」冒頭の「水龜」にも「在山、曰靈龜」、「『抱朴子』云。『千歲靈龜、五色具焉。』。」とある。

「書を負て」「尙書中候」(「後漢書」の注)に、「堯率羣臣東沈璧于洛。退候至于下稷。赤光起。元龜負書出。背甲赤文成字止壇。」(堯、羣臣を率いて東し、璧を洛に沈む。退きて下稷に至りて候すに、赤光、起り、元龜、書を負ひて出で、背甲に赤文あり、字して「止壇」と成す。)。因みに、仏教では有難い書物どころか、須弥山や我々の住む世界全体を背中に支えているではないか。

「網をかぶりて、夢をしめす」「新日本古典文学大系」版脚注に、『漁師の網にかかった神亀が夢枕に立ったので都に召し寄せ、国の繁栄を計ったという宗の元王の故事』が「史記」の同じく「龜策列傳」に載るとあるが、この「宗」は「宋」の誤りである。この「元王」とは春秋時代の宋(紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年)の第二十七代君主。当該部は「中國哲學書電子化計劃」の「龜策列傳」(全文)のタイトル「11」から「27」と長い。

「殼は人の兆を現はし」言わずもがな、亀卜のそれを指す。

「胸に士の氣を含む」亀甲を甲冑に擬えてその属性を述べたもの。

「六の藏(かく)して伏し」カメは一般に頭・尾及び前足・後足二対の六つの体躯の肢を総て亀甲に内蔵させる(それが出来ない種もいる)ことから、別名を「六藏」と称した。ただ、この部分、歌詞として表現が不全である。「六藏(ろくざう)して伏し」の方がいい。

「尾を曳て、樂を極む」知られた私の好きな「壯子」の「秋水」の一節。

   *

莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉。曰「願以境内累矣。」。莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。」。二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」。莊子曰。「往矣。吾將曳尾於塗中。」。』

   *

 莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫二人をして往かせ先(みちび)かしむ。曰はく、

「願はくは境内(けいだい)[やぶちゃん注:楚の国内。]を以つて累(わづら)はさん。」

と。莊子、竿を持ちて顧みずして曰はく、

「吾れ、聞く、『楚に神龜有り、死して已に三千歲。王、巾笥(きんし)して[やぶちゃん注:絹の袱紗にうやうやしく包んで。]之れを廟堂の上に藏す』と。此の龜は、寧ろ、其れ、死して、骨を留(とど)めて貴(たふと)ばるるを爲さんか。寧ろ、其れ、生きて、尾を塗中(とちゆう)[やぶちゃん注:泥の中。]に曳(ひ)かんか。」

と。二大夫曰はく、

「寧ろ、生きて尾を塗中に曳かん。」と。

莊子曰はく、

「往け。吾れ、將に尾を塗中に曳かんとす。」

と。)

「靑海の舞」「源氏物語」の「紅葉賀」のシークエンスで知られる雅楽の「青海波」の舞い。本来は二人舞いで、最も優美なものとされる。特別な装束を用い、青海波と霞の模様が刺繍された下襲に、牡丹などが織られた半臂を纏い、千鳥が刺繍された袍の右肩を袒(はだぬ)ぎ、太刀を佩き、別甲を被る。龍宮での披露は如何にもしっくりくる選曲ではあるが、ずんぐりむっくりのカメが六肢を出したり、引っ込ませたりするそれは、確かに一座の大爆笑を受けたに相違ない。

「腹をさゝげ、おきふして」腹を抱えて、文字通り、腹の底から波状的に笑わさせられるために、尺取り虫のように起き伏しを繰り返すことになるのである。何気ない描写だが、シークエンスが髣髴とされる優れた描写である。] 

 

Rm3

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注の絵の解説によれば、『竜宮城内を巡覧の場面。室内にあるのが、右より雷公の鼓、電母の鏡、哨風の革袋、洪雨の箒』(上に載っているもの。取っ手ではない)、『先導するのが吹雲の官人。蜃の精として頭部の甲は水管など貝の内臓の一部を模したものか。真上は狩衣、指貫』とある。]

 

 其外、蝦・蜊(はまぐり)・木玉(こだま)・山びこ、よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

 眞上(まがみ)、袖、かきをさめて、たのしみは、こゝに極めぬ。

「願はくは、龍宮城の有樣、あまねく見せたまへ。」

と望みしに、

「いと易き事。」

とて、階を下り、庭に出て步(あゆま)せらるゝに、雲とぢて、何も見えず。

 龍王、則ち、吹雲(すいうん)の官人(くはんにん)を召されたり。

 其姿、首(かしら)に七曲(なゝわた)の甲(かぶと)を着し、鼻高く、口大なるもの、これ蜃(おほはまぐり)の精なるべし。

 口をしゞめて、天に向ひ、吹〔ふき〕ければ、世界、ひろく、平かに、山もなく、岩(いはほ)もなし。

 霧雲(きりくも)、數(す)十里、はれひらけ、玉の樹(うゑき)、庭に、列(つらね)うえ、金のいさごを敷渡し、梢に五色の花開け、池には四色の蓮(はちす)さきて、匂ひ、又、こまやかなり。

 廻(めぐ)れば、金(こがね)の廊(わたどの)あり。庭には、瑠璃の塼(かはら)をしきたり。

 官人を差副(さしそ)へ見せしめらる。

 一つの樓閣あり。坡梨(はり)・水晶にて造りたて、珠(たま)をちりばめて飾りたり。是に登れば、虛空を凌ぐ心地して、一の重(ぢう)には、あがり得ず。

「こゝは、下輩凡人(げはいぼんにん)の登る事、協(かな)はず。神通(じんつう)のものこそ、行至〔ゆきいた〕れ。」

と。

 それより又、ひとつの樓臺(たかどの)に登れば、側(かたはら)に圓〔まろ〕き鏡の如くなるものあり。

「きらきら」

と、光かゝやき、睛(ひとみ)を、くるめかして、立向ひ難し。

 官人いふやう、

「これは『電母(でんぼ)の鏡』とて、少し動せば大なる電(いなびかり)出て、世の人の目を奪ふ。」

といふ。

 又、かたはらに太鼓あり。大小、その數、多し。

 眞上、『これをうちてみん』とす。

 官人、とゞめていふやう、

「若〔もし〕、强く打ならせば、人間界の山川・谷・平地(ひらち)、震鳴(ふるひなり)はためき、人みな、膽(きも)を失ひ、命を亡(ほろぼ)し、死なずとも、耳を失はん。これは『雷公のつづみ』也。」

といふ。

 又、かたはらに橐籥(ふいご)の如くなるものあり。

 眞上、『これを動かさん』とす。

 官人、又、とゞめていふやう、

「是は『哨風(さうふう)の革嚢(かはぶくろ)』なり。これを强くうごかさば、山、くづれ、岩石、飛(とび)て空にあがり、人の家は皆、吹破〔ふきやぶ〕れて、四方に散亂(ちりみだ)れん。」

といふ。

 その傍(そば)に水瓶(みづがめ)あり。箒(はゝき)のごとくなる物を上にのせたり。

 眞上、『是をとり、水に差し入れて打ふらん』とす。

 官人、おし留(とゞ)めて、

「是は、『洪雨の瓶(みずがめ)』なり。此箒に浸(ひた)して、强く打(うち)ふらば、人間世界は、大雨洪水、押流(をしなが[やぶちゃん注:ママ。])され、山もひたり、陸(くが)は海にぞ、なりなん。」

といふ。

 阿祇奈君、とひけるやう、

「扨、これらを司る官人は、いづくにありや。」

と。

 答(こたへ)て云(いふ)やう、

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩〔ともがら〕なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ[やぶちゃん注:ママ。])められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず。若し、出〔いだ〕して、其役を勤むる時は、比所に集(あつま)り、雨風[やぶちゃん注:「あめかぜ」。]・いかずち・電(いなびかり)、みな、分量ある事にて、それより過(すぎ)ぬれば、科(とが)に行はれ、侍べる。」

 凡そ、あらゆる宮殿樓閣は、見盡す事、かなはず。

 それより立歸れば、龍王、さまざま、もてなし、瑠璃の盆に眞珠二顆(くは)、氷の絹二疋を、歸るさの餞(はなむけ)とし、禮儀あつく、龍王、階(みはし)に送り出て、官人に仰せて、送り返さる。

 阿祇奈君、目をふさげば、空をかける心地して、勢多の橋の東なる龍王の社の前に出(いで)たり。

 珠と絹をもちて歸り、寳とす。

 其後〔そののち〕、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず。

[やぶちゃん注:「蜊(はまぐり)」当て訓はママ。龍宮到来の折りに「貝蛤」で「はまぐり」と振っている(そこでは私は「取り敢えず」と添えて斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria とした)から、ここは或いは、漢字の方の「蜊」を意識するなら、マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)、さらには全くの別種であるが、アサリに似るも、それより少し大きくて厚いマルスダレガイ科フキアゲアサリ属オキアサリ Gomphina semicancellata 或いは遺伝的に近似しているために自然環境化では雑種化することがあるとされる同フキアゲアサリ属コタマガイGomphira melanegis 及びその雑種を同定候補と出来る。それに真正のハマグリの小型個体も含めねばならない。そもそもが、こんなおかしな表記をするということは、当時の庶民レベルではハマグリの小型個体やアサリの大型個体は区分認識などされていなかったと考えた方がいいからである。

「木玉(こだま)」「木靈」。

「山びこ」「山彥」。木霊に同じ。前に述べた通り、龍宮でも異界性で地下で山の異界とは通底している。いや、寧ろこの木霊類は海底の岩の洞の中や、嵐の海潚(かいしょう)の齎す反響や轟音を齎す妖怪を想起して構わぬように私には思われる。

よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

「七曲(なゝわた)の甲(かぶと)」幾重にも曲がりくねった奇妙な兜。これは正体から蜃気楼の幻の天をつんざく妖しい幻しの楼閣のシンボライズである(次注のリンク先及び次々注を参照)。

「蜃(おほはまぐり)」私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」の私の考察をお読み戴きたい。中日孰れも貝類の二枚貝の分類と、妖怪としての蜃気楼の発生源生物に関しては、博物学的知識のレベルが頗る低いのである。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「わたりかひ 車螯」=「蜃」も併せて見られたい。

「口をしゞめて、天に向ひ、吹ければ」蜃気楼とは蜃(おおはまぐり:正式和名にこの種はない。一部でウチムラサキ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科マツヤマワスレ亜科ウチムラサキ属ウチムラサキ Saxidomus purpurata :本種はオオアサリの異名も持つ)・コタマガイ(マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科Macridiscus属コタマガイ Macridiscus melanaegis )や外来移入種であるホンビノスガイ(マルスダレガイ科ビノスガイ属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria )の異名で今も使われることがある。但し、貝殻を見た瞬間に素人でもハマグリとは全く異なることが判る)が吐き出す気によって海上に現われる幻しの楼閣である。

「いさご」「砂・沙」。

「匂ひ」古語では視覚的な、美しい色合い・色艶や、輝くような艶やかな美しさ、及びそうした視覚的綜合的に完成された魅力・気品が嗅覚よりも優先する。ここもそれ。

「塼(かはら)」瓦。塼(音「セン」)は本来は焼成した煉瓦のことを広く指す語。中国では塼の出現以前に日乾煉瓦が用いられていたことは殷・周の建築址で確認されている。恐らくは屋根瓦の出現が契機となって塼が焼かれ始めたと推定されるが、確実な実例が確認出来るのは春秋時代からとされる。

「坡梨(はり)」玻璃。現行はガラスを指すが、ここは後の水晶と同義。質や色や採取地或いは加工した厚さや大きさで水晶と区別したものであろう。

「一の重(ぢう)には、あがり得ず」もう一階上の階があったが、どうしても、体が動かず、そこに上がることは出来なかった。

「光かゝやき」底本は「かゞやき」であるが、私はこの「かがやく」という濁音が生理的に嫌いなので、元禄版を採った。「新日本古典文学大系」版も清音である。

「睛(ひとみ)を、くるめかして」前に立った阿祇奈の瞳を勝手にぐるぐると回して。

「電母(でんぼ)」道教の雷神の名にある。「閃光娘娘(にゃんにゃん)」とも称す若い女性神。雷帝の命を受けて雷公とともに雲を起こし、雨を降らせるとする。

「橐籥(ふいご)」「鞴(ふいご)」に同じ。

「哨風(さうふう)」「哨」(ショウ)は「見張る」の意。

「箒(はゝき)」挿絵では板切れのようにしか見えないが、瓶の中の水に浸けて振るわけだから、実際には先は非常に細かなブラシ上になっているものであろう。それが細かいから遠目にはただの板にしか見えぬということで私は納得した。

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ)められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず」激烈な気象現象を支配する彼らが龍王の支配下にあるというのは少しも違和感がない。何故なら風水を支配するのは龍だからである。

「分量ある事にて」人間を含む生物界全体にとっての適切な分量・程度・限度があるのであって。

「眞珠二顆(くは)」非常に巨大なものであろう。

「氷の絹」「氷綃」(ひようせう(ひょうしょう)で「薄い白絹」。「氷綃」という漢語が見慣れないものであるから、かく書き変えたもの。

「二疋」布地でも特に絹織物を「二反(たん)」を「一疋」として数える数詞が「疋」。一疋は古くは四丈(約十二メートル)、後に鯨尺で五丈六尺(約二十一メートル)である。ここは読者の日常から後者。

「其後、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず」中国でも古来より、桃源郷や仙界・異界を知ったものは現世の穢れを嫌って行方不明となるのはお約束である。]

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