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カテゴリー「浅井了意「伽婢子」【完】」の69件の記事

2022/01/06

伽婢子「目録」 / 伽婢子~了

 

[やぶちゃん注:以下、後回しにしていた第一巻の「序」の後にある「目錄」を示す。底本(所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻「怪談名作集」(正字正仮名))では目録は総てが影印である。なるべくその表記字に則したが(歴史的仮名遣の誤りや、誤記と思われるものも、総てそのままである。但し、甚だ不審なものは元禄版で訂した)、草書崩し字なので、判断に迷った箇所は正字を用いた。読みはここでは総てを採用した。各「巻」は一字下げ、各篇の標題は三字下げであるが、総て引き上げた。漢文脈の部分の読みは上付きで示した。リンクは貼らないので、ブログ・カテゴリ『浅井了意「伽婢子」』から、各話に飛ばれたい。]

 

伽婢子惣目錄

㐧一卷

眞上阿祇奈君(まかみああきなぎみ)龍宮上棟の文を書(かく)事

文兵次黃金(わうごん)をかして損却(そんきやく)する事付《つけたり》過去(くわこ)物語

[やぶちゃん注:本文の実際の標題は(読みや訓点なしで示す)「龍宮の上棟」・「黃金百兩」。以下同じなので前後を略す。]

㐧二卷

堺(さかひ)の長次十津川(とづかは)の仙境(せんきやう)に入事

眞紅(しんく)のうち帶檜垣(ひがき)平次二世(せ)を契(ちぎる)事

割竹(わりたけ)小彌太賣(うる)妖女(ようぢよ)を

[やぶちゃん注:「十津川の仙境」・「眞紅擊帶」。]

㐧三卷

濱田與兵衞妻(つま)の夢(ゆめ)を正(まさし)く見る事

蜂谷(はちや)孫太郞鬼(をに)に成事

牡丹燈籠(ぼたんのとうろう)

藤原基賴卿(ふじはらのもとよりきやう)海賊に逢(あふ)事

[やぶちゃん注:「妻の夢を夫面に見る」・「鬼谷に落て鬼となる」・「牡丹燈籠」・「梅花屛風」。]

㐧四卷

淺原新丞(あさはらしんのぜう)閣魔王(えんまわう)と對決(たいけつ)の事

舩田左近(ふなたさこん)夢(ゆめ)のちきりの事

遊佐(ゆさ)七郞一睡(すい)に弐年の榮花(ゑいぐわ)の事

入棺(につくはん)の尸(しかばね)甦(よみがへる)恠

野路(のぢ)忠太が妻(つま)の幽㚑(ゆうれい)物語の事

[やぶちゃん注:「地獄を見て蘇」・「夢のちぎり」・「一睡卅年の夢」・「入棺之尸甦恠」・「幽靈逢夫話」。]

㐧五卷

長柄僧都(ながらそうづ)か錢の精靈(せいれい)に逢事

鶴瀨(つるせ)安左衞門勇士(ようし)の亡魂(ごうこん)に逢(あふ)て諸將(しよしやう)を評する事

冨田(とんだ)久内慈悲深(しひふか)きにより火難(くはなん)を遁(のがる)る事

原隼人佐(はらはやとのすけ)鬼胎(きたい)の事

[やぶちゃん注:「和銅錢」・「幽靈評諸將」・「燒亡有定限」・「原隼人佐鬼胎」。]

㐧六卷

伊勢兵庫(いせひやうご)到(いた)る仙境(せんきやう)に

岩田(いはた)の刀自(とじ)里見義廣(さとみよしひろ)に逢て長生(ちやうせい)物語の事

藤井(ふじゐ)淸六遊女(ゆうぢよ)宮城野を娶(めとる)事

蜘蛛のかゝ見の事 

長間佐太白骨(はつこつ)の妖(ばけ)物に逢事

[やぶちゃん注:「伊勢兵庫仙境に至る」・「長生の道士」・「遊女宮木野」・「蛛の鏡」・「白骨の妖恠」であるが、以上の目録では、本巻最後にある「死難先兆」がない。]

㐧七卷

伏見御香宮(ふしみごかうのみや)繪馬(ゑむま)の事

蘆沼(あしぬま)次郞右衞門善惡(ぜんあく)物語の事

飛加藤(とびかとう)が術(じゆつ)の事

小山田記内(おやまだきない)契(ちぎ)る幽㚑(ゆうれい)に

櫻田(さくらた)源五津田(つだ)彥八と妻(つま)を爭(あらそふ)事

菅谷(すげのや)九右衞門植柘瀧川(つげたきがは)が幽㚑(ゆうれい)に逢事

堅田(かたた)又五郞雪白明神(ゆきしろみやうじん)の加護(かご)を蒙る事

[やぶちゃん注:「繪馬之妬」・「廉直頭人死司官職」・「飛加藤」・「中有魂形化契」・「死亦契」・「菅谷九右衞門」・「雪白明神」。]

㐧八卷

長鬚國(ちやうじゆこく)の事

性海(しやうかい)鹿嶋明神(かしまみやうじん)に詣(まうで)て大(だい)蛇を殺(ころす事

長谷兵部(はせひやうぶ)戀(こひ)物語の事

隅屋(すみや)藤次が事

屛風(べうぶ)の繪人形(ゑにんぎやう)躍(をどる)事

[やぶちゃん注:「長鬚國」・「邪神を責殺」・「歌を媒として契る」・「幽靈出て僧にまみゆ」・「屛風の繪の人形躍歌」。]

㐧九卷

安達(あだち)㐂平次狐(きつね)に誑(たぶら)かさるゝ事

下界(げかい)の仙境(せんきやう)の事

中原主水正(なかはらもんとのかみ)幽㚑(ゆうれい)に契(ちき)る事

人面瘡(じんめんさう)の事

丹波國(たんばのくに)野ヽ口(のゝくち)鬼女(きぢよ)の事

[やぶちゃん注:「狐僞て人に契る」・「下界の仙境」・「金閣寺の幽靈に契る」・「人面瘡」・「人鬼」。]

㐧十卷

守宮(ゐもり)の妖物(ばけもの)の事

岡谷式部(をかのやしきぶ)の妻(つま)水神(すいじん)となる事

上杉憲政(うへすぎのりまさ)息女(むすめ)弥子(いやこ)の事

竊(しのひ)の術(じゆつ)の事

鎌鼬(かまいたち)付《つけたり》提馬風(だいばふう)の事

了仙(りやうせん)貧窮(ひんきう)付《つけたり》天狗道(てんぐだう)の事

[やぶちゃん注:「守宮の妖」・「妬婦水神となる」・「祈て幽靈に契る」・「竊の術」・「鎌鼬提馬風」「了仙貧窮天狗道」。]

㐧十一卷

栗栖㙒(くるすの)隱里(かくれざと)の事

土佐(とさ)の國狗神(いぬかみ)付《つけたり》金蠶(きんさん)の事

豊田(とよだ)孫吉が事

七步蛇(しつふじや)の事

鍛冶友勝(かぢともかつ)魂(たましゐ)遊行(ゆぎやう)の事

大嶋(おほしま)源五郞が魚檜(なます)の怪(ばけ)物之事

[やぶちゃん注:「隱里」・「土佐の國狗神金蠶」・「易生契」・「七步虵の妖」・「魂蛻吟」・「魚膾の恠」。]

㐧十二卷

梅(むめ)の妖精(ようせい)の事

芦崎數馬(あしさきかずま)が事

厚狹(あつさ)が死靈(しれう)の事

白石(しろいし)右衞門尉姧媒(かんぼう)之事

盲女(もうぢよ)を救(すくつ)て幸(さひはひ)をうくる事

石軍(いしいくさ)の事

[やぶちゃん注:「早梅花妖精」・「幽靈書を父母につかはす」・「厚狹應報」・「邪淫の罪立身せず」・「盲女を憐て報を得」・「大石相戰」。]

㐧十三卷

觀世音阿彌(かんぜをんあみ)能(のう)の事

傳尸病(でんしびやう)の事

小虵(こへび)癭(こぶ)の中より出る事

傳尸病(でんしびやう)を攘去(はらひさる)事

隨轉(ずいてん)が力量(りきりやう)の事

蝨瘤(しらみこぶ)の事

山中(さんちう)鬼魅(きみ)の事

義輝公之馬言(よしてるこうのむまものいふ)事

百物語の事

[やぶちゃん注:「天狗塔中に棲」・「幽鬼嬰兒に乳す」・「虵癭の中より出」・「傳尸攘去」・「隨轉力量」・「蝨瘤」・「山中の鬼魅」・「馬人語をなす怪異」・「怪を話ば怪至」。

 以上で浅井了意「伽婢子」の全電子化注を終わる。なお、近日、同書の続編である、了意の遺作となった「狗張子」(死の翌年の元禄五(一六九二)年刊であるが、未完成で全七冊)の全電子化を同じ底本で始動する予定である。

伽婢子卷之十三 恠を話ば恠至・奥附 / 伽婢子(本文)~了

 

   ○恠(くわい)を話(かたれ)ば恠(くわい)(いたる)

 

 昔より、

「人のいひ傅へし怖ろしき事、恠しき事を集めて、百話(《ひやく》ものがたり)すれば、必ず、おそろしき事、恠しき事あり。」

と、いへり。

 百物語には、法式、あり。

 月暗き夜、行灯(あんどう)に、火を點(てん)じ、其の行灯は、靑き紙にて、はりたて、百筋(《ひやく》すぢ)の灯心を點じ、一つの物語に、灯心、一筋づゝ、引きとりぬれば、座中、漸々(ぜんぜん)、暗くなり、靑き紙の色、うつろひて、何となく、物凄くなり行く也。

 それに、話(かたり)つゞくれば、必ず、恠しき事、怖ろしき事、現はるゝとかや。

 下京《しもぎやう》邊《あたり》の人、五人、集り、

「いざや、百話(《ひやく》ものがたり)せん。」

とて、法《はふ》の如く、火をともし、めんめん、皆、靑き小袖着て、なみ居て語るに、六、七十に及ぶ。

 其時分は、臘月(らう《げつ》)の初めつかた、風、烈しく、雪、降り、寒き事、日比(《ひ》ごろ)に替り、髮の根、しむるやうに

「ぞゞ」

として、覺えたり。

 窓の外に、火の光、

「ちらちら」

として、螢(ほたる)の多く飛ぶが如く、幾千萬ともなく、終に、座中に飛び入《いり》て、丸く集りて、鏡(かゞみ)の如く、鞠(まり)の如く、又、別れて、碎け散り、變じて、白くなり、固(かたま)りたる形、わたり、五尺ばかりにて、天井(《てん》じやう)につきて、疊の上に、

「どう」

ど、落ちたる。

 其の音、いかづちの如くにして、消え失せたり。

 五人ながら。うつぶして、死に入《いり》けるを、家の内のともがら、さまざま、扶(たす)け起こしければ、甦(よみが)へりて、別(べち)の事もなかりし、と也。

 諺(ことわざ)に曰はく、

「白日に人を談ずる事、なかれ。人を談ずれば、害を生ず。昏夜(こんや)に鬼(き)を話(かた)る事、なかれ。鬼を話れば、恠、いたる。」

とは、此事なるべしと、物語、百條に滿(みた)ずして、筆を、こゝに、とゞむ。

 

 

伽婢子卷之十三終

[やぶちゃん注:「百物語」の法式に就いては、本邦で「百物語」を掲げる怪奇談集の中で、正味百話を唯一有している私の「諸國百物語 附やぶちゃん注」の「序」にも詳しく語られてある。入子形式で「百物語」を行って怪異が起こるという話は、枚挙に遑がない。私の「怪奇談集」でも枚挙に遑がない(但し、作為が見え見えで、却って恐怖を殺ぐものが殆んどである。実録風にすればするほど、噓臭くなるので、処置なしと言った感じだ。一つだけ「怪談老の杖卷之四 厩橋の百物語」を挙げておこうか)。ただ、こうした話を持ってきて、百話の定数を語ると、書いている私や、読んでいる読者諸君にも、とんでもない怪異が起こってしまうから、「お後がよろしいようで」方式の終わり方は、言わずもがなで、甚だ鼻白むものがあると言っておこう。なお、この掉尾もまた、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、六朝小説「龍城錄」の「夜坐談鬼而怪至」という種本があるとある。]

 

 

 寬文六曆三月吉日

     寺町通圓福寺前町

     秋田屋平左衞門板本

[やぶちゃん注:「寛文六」一六六六年。干支は底本では実際には左右に並列している。

 以上で「伽婢子」本文の全電子化注を終るが、「目録」を最後に回すと約束してあるので、これより電子化する。]

伽婢子卷之十三 馬人語をなす恠異

 

[やぶちゃん注:本書最後の挿絵は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。最後の絵でもあり、底本のものと比較しつつ、かなり念入りに清拭した。]

 

   ○馬(むま)、人語(にんご)をなす恠異

 

Umaningowonasu

 

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注によれば、右が河原毛で、左が蘆毛とある。中間らしき二人が同じ方向を振りむいて眉根を同じく顰めており、まさに怪異のその瞬間をスカルプティング・イン・タイムした挿絵となっている。]

 

 延德元年三月、京の公方(くばう)征夷將軍從一位内大臣源義熈(よしてる)公は、佐々木判官《はうぐわん》高賴を、せめられんとて、軍兵《ぐんぴやう》を率(そつ)して、江州に下(くだ)り、栗太郡(くりもとのこほり)鈎(まがり)の里に陣を据ゑられ、爰(こゝ)にして、御病惱(《ごびやうなう》、重くおはしましつつ、同じき廿六日に薨(こう)じ給ふ。

 其《その》前の夜、十五間の馬屋《むまや》に立《たち》並べたる馬《むま》の中に、第二間の厩に繫がれたる蘆毛(あしげ)の馬、怱ちに、人の如く、物、いふて、

「今は、叶(かな)はぬぞや。」

と、いふに、又、隣りの河原毛《かはらげ》の馬、聲を合《あは》せて、

「あら、悲しや。」

とぞ、いひける。

 其《その》前には、馬取《むまと》り共、なみ居て、中間・小者、多く居(ゐ)たりける。

 皆、是を聞くに、正《まさ》しく、馬共《むまども》の、物いひける事、疑ひ、なし。

 身の毛よだちて、怖ろしく覺えしが、次の日、果(はた)して、義熈公、薨じ給ひし。

 誠にふしぎの事也。

[やぶちゃん注:「人語(にんご)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『この振仮名未詳。正しくは「じんご」か』とする。但し、元禄版でも「にんご」と振っている。

「延德元年」以下は実際には改元前の長享三年三月中のことである。長享三年八月二十一日(一四八九年九月十六日)に延徳に改元された。但し、史書では、改元があった場合には、その一月に遡って新元号を用いるのが普通である。

「京の公方征夷將軍從一位内大臣源義熈(よしてる)公」室町幕府第九代征夷大将軍(在職:文明五(一四七三)年~没日)足利義尚(よしひさ 寛正六(一四六五)年~長享三年三月二十六日(一四八九年四月二十六日)のこと。彼は亡くなる前年の長享二年に義尚から義煕(「熈」は同字)に改名しているが、一般的には義尚の名で語られることが多い。ここにある通り、近江の陣中で病死した。享年二十五(満二十三歳)。当該ウィキによれば、『死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある』とある。

「佐々木判官高賴」(寛正三(一四六二)年~永正一七(一五二〇)年)は六角高頼の名の方が知られる。近江守護。大膳大夫。長享元 (一四八七) 年七月、管内の社寺領や幕府近臣の所領を押領したため、同年九月、近江坂本に将軍足利義尚の征伐を受けた。高頼は同月二十日には観音寺城を幕府軍に攻略され、甲賀郡に逃れたが、同年十月、幕府軍が甲賀郡に攻め入ったため、さらに逃亡し、近江の国人に助けられた。延徳三(一五九一)年八月にも、第十代将軍足利義稙 (よしたね) に追伐されたが、後、義稙・義澄らに頼られ、これを援助した。

「栗太郡(くりもとのこほり)鈎(まがり)の里」現在の滋賀県栗東(りっとう)市上鈎(かみまがり)に陣屋跡が残る(グーグル・マップ・データ)。

「十五間の馬屋」「伽婢子卷之六 伊勢兵庫仙境に至る」の私の注の「十五間の厩(むまや)」の「新日本古典文学大系」版脚注からの引用を参照。

「蘆毛」馬の毛色の名。栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の毛色に、年齢につれて白い毛がまじってくるもの。一般に灰色の毛色を呈している馬を指す。肌は黒っぽく、生えている毛は白いことが多い。「蘆」はアシ(=ヨシ)の芽生えの時の青白の色に因んだ呼称である。また、それを白葦毛・黒葦毛・連銭(れんぜん)葦毛などにも分ける。

「河原毛」被毛は淡い黄褐色から、艶のない亜麻色までを含み、長毛と四肢の下部は黒色を呈する馬を指す。

「馬取り」馬の口取り。馬丁。]

伽婢子卷之十三 山中の鬼魅

 

[やぶちゃん注:本書の最後のクライマックスに当たる本格怪談。挿絵は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

   ○山中(さんちう)の鬼魅(きみ)

 

 小石伊兵衞尉は津の國の勇士也。天正五年十月、河内の國片岡の城に籠りしが、城の大將松永、日比の惡行《あくぎやう》、重疊(てうでう)し、寄手(よせ《て》)の大軍(《たい》ぐん)、旗色、いさみて、軍氣、さかん也ければ、

『此城、更に、はかばかしかるべからず。』

と思ひ、夜に紛れて、只一人、城を落ちて、弓削(ゆげ)といふ所に隱し置きたる妻の女房を引《ひき》つれ、夫婦、只二人、夜もすがら、立田越(《たつた》ごえ)にかゝり、大和の國に赴きけり。

[やぶちゃん注:「小石伊兵衞尉」松永久秀の家来という設定だが、不詳。

「松永」松永久秀は、この天正五年十月十日(一五七七年十一月十九日)に信長に攻められ、信貴山城に立て籠もったが、結局、天守に火をかけて自害した。享年六十八(一説に七十)。

「片岡の城」現在の奈良県北葛城郡上牧町にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、この一帯は当時は松永久秀が支配しており、天正五(一五七七)年八月に久秀が『信長に反旗を翻したため、信貴山城の戦いに先立つ同年』十月一日(一五七七年十一月二十日)に『明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝ら約』五『千兵で攻』められ、『これに対して松永軍は海老名友清、森正友らが率いる約』一『千兵で防御したが』、『激戦の末に落城した』とある。されば、この白石もその松永軍の中にあった武士という設定である。

「弓削(ゆげ)」大阪府八尾(やお)市弓削町(ゆげちょう)。片岡城の北北西約九キロメートル地点。

「立田越」「新日本古典文学大系」版脚注に、『大阪と奈良を結ぶ古代以来の街道。奈良街道。大阪府柏原市亀ヶ瀬で竜田山を越え、奈良県生駒郡三郷町竜田を経て奈良に向かう。』とある。「南都銀行」の「ええ古都なら」の「奈良大和路 古街道ウォーキング」の『竜田道「竜田越え」 ~道標にたどる古道の面影~』を参照されたい。]

 其妻、懷妊して、此月、產(さん)すべきに當りければ、身、重く、足、たゆく、甚だ勞れて、峠まで、かかぐり着き、道筋にては、

『もし、軍兵(ぐん《ぴやう》)共《ども》の見咎むる事もや有るべき。』

と思ひ、道筋より半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかり傍らに入《いり》て、息つぎ、休(やすみ)居たりければ、跡より、女の聲にて、なきなき、來《きた》る。

 步むともなく、轉ぶともなく、やうやう、峠まで登りて、呼ばはるを、よくよく聞けば、年ごろ召使ひし女《め》の童《わらは》也。

 女房につけ置きしを、落人(おちうど)の身なれば、人、多くて、かなひ難く、弓削に打捨《うちす》て、召しつれずして來りしを、跡より、追來りたる者也。

 心ざしの痛はしく、可愛(かは)ゆくて、

「如何に。我らは未だ、こゝに在るぞ。」

と、聲を掛けしかば、女の童は、世に嬉しげにて、

「君、情なくも、打ち捨て、落《おち》給ふ。みずから、『たとひ、湯の底、水の底までも、離れ參らせじ。』とこそ思ひ奉りしに、只二人のみ、落させ給へば、みづから、あるにもあられず、跡を慕(したう)て參り侍べり。」

といふに、心ざしの程、憐れに嬉しく覺えて、今は、又、たより求めたる心地しつゝ、三人、一所に休み居たる所に、妻、俄かに產の氣(け)つきて、苦しみ、終に平產したり。

 夜半ばかりの事にて、月は未だ出ず、暗さは暗し、夫(をつと)の小石、とかくすべき樣をも知らざりけるを、女の童、かひがひしく取り扱ひしにぞ、

『此者、來らずは、如何すべき。よくぞ、跡より慕ひ來(き)にける。誠の心ざし有る者なれば、今、此の先途(せんど)をも見屆くる也。あはれ、男をも、女をも、人を召し使ふには、かほどに主君を思ひ奉る者をこそ、あらまほしけれ。』

と、夫婦共に、今更、感じ思ひけり。

 扨、妻は木の本《もと》に、より掛らせ、生れたる子は、女の童、懷(ふところ)に抱(いだ)きて、三人、さし向ひつゝ、

『夜、明けなば、山中の家を尋ね、心靜かに隱れて、保養すべし。』

と思ふ。

 產養(うぶやしなひ)すべき事もかなはねば、腰に付たる燒飯(やきいひ)、取り出し、妻に食はせて、氣を助け居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「產養(うぶやしなひ)」狭義には出産後三日・五日・七日・九日目の夜に親類が産婦や赤子の衣服・飲食物などを贈って祝宴を開くこと。平安時代に貴族の家で盛んに行われた。現在の「お七夜の祝い」はこの名残りであるが、ここは出生の祝いの意。

「燒飯(やきいひ)」表面を焼いた握り飯。焼きむすび。兵粮や携帯食として一般的であった。]

 女房は、木の本に寄かゝりながら、女の童が方(かた)を、つくづく見居(《み》ゐ)たりければ、懷に抱(いだ)きたる赤子を、舌を出して、舐(ねぶり)けり。

 怪しく思ひて、猶、よく、目を澄まして見れば、女の童が口、大きに耳元まで裂けて、赤子の頭(かしら)を口に含み、ねぶるやうにて食(くら)ひける程に、はや、首をば、皆、食ひ盡くし、肩を限り、右の手を食(くら)ひければ、妻、いと騷がず、夫を驚かしけり。

[やぶちゃん注:「肩を限り」「新日本古典文学大系」版脚注に『肩のところまで』とある。]

 

Sanntyu1

 

[やぶちゃん注:第一の惨劇の怪異のシーン。女の童は、既に赤子の胴の上の方まで頬張っており、口の左右から血が迸っている。小石は、ここではまだ眠っている。]

 

 小石は、暫し、睡り侍べりしが、目を覺まし、此有樣を見て、密かに、刀を拔き、

「はた」

と切付(《きり》つ)けたりしかば、女の童、鞠(まり)の如く、はずみて、梢(こずゑ)に飛び上がり、其のまゝ、凄(すさ)まじき鬼(をに)となり、又、地に飛下(くだ)り、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかり向ひなる岩の上に立《たち》て、赤子の足を食(くら)ひけり。

 小石、詮方なく、走り掛(かゝ)つて、切りけれ共(ども)、只、夢の如く、影の如くにて、太刀《たい》も當らず。

 

Sanntyu2

 

 しばし、追ひ廻りければ、鬼、はや、其間(あひだ)に、赤子は、皆、食ひ盡して、蝶・とんぼうの如く飛上がり、行方なく失せにけり。

 力なく、跡に立歸(《たち》かへ)り、元の木の本に來て見れば、又、妻の女房を取られたり。

 よべ共《ども》、よべ共、答ふる聲も、聞えず、いずち取られけむ、行先(《ゆくざき》》も、知らず。

 小石、血の淚を流し、知らぬ山中《さんちゆう》を、あなた、此方(こなた)、尋ねしに、夜、已に明方になりて、道筋より三町[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]ばかり奧の、傍らなる岩角(《いは》かど)に、妻が首(かうべ)を、載せ置きたり。

 如何成(いかな)る者の仕業共《とも》、知がたし。

 小石、是れを見るに、悲しさ限りなく、淚と共に、其處(そこ)に埋(うづ)みて、大和の郡山より、南の方、大谷(《おほ》たに)に所緣(しよえん)有りければ、こゝにたどり行《ゆき》て、暫く隱れ居(ゐ)たりしが、兎に角に、はかなき世を思ひしり、

「後世《ごぜ》を大事《だいじ》。」

と、心づきて、發心しつゝ、高野山の麓、新別所(しんべつしよ)といふ所に籠(こも)り、沙彌戒(しやみかい)を保ち、尊(たふと)き行ひして、年月《としつき》を送りし。

 後に、其《その》行方《ゆくへ》、なし。

[やぶちゃん注:「大谷」現在の奈良県橿原市大谷町(おおたにちょう)。北方に大和郡山がある。

「新別所」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『高野山の霊覚山円通寺。古くは専修往生院と号し、専修念仏の道場であったという。』とあるが、これは高野山にある山円通のことと思われる。サイト「ぐるりん関西」の「真別所 円通律寺」を参照されたい。

「沙彌戒」「沙彌十戒」(しゃみじっかい:現代仮名遣)の略。沙弥・沙弥尼の守らなければならない十の戒め。不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)・不塗飾香鬘(ふとしょくこうまん)・不歌舞観聴・不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう)・不非時食(ふひじじき)・不蓄金銀宝。]

2022/01/05

伽婢子卷之十三 蝨瘤

 

   ○蝨瘤(しつりう)

 

Situryu

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正して用いた。]

 

 日向の國諸縣(もろかた)といふ所に商(あき)人あり。

[やぶちゃん注:「日向の國諸縣」現在の宮崎県及び一部は鹿児島県にあった旧郡。当該ウィキ及び郡域地図を参照。]

 背(せなか)に、手の掌(ひら)ばかり、熱ありて、燃ゆるが如し。

 廿日ばかりの後に、熱、冷めて、又、痒き事、いふ許りなし。漸(やうや)く、腫上(はれあが)り、盆をうつぶせたるが如し。

 大に腫るゝに隨ひて、猶、痛みは少《すこし》もなく、只、痒き事、堪へ難し。

 此故に、食事、日に隨ひて、進まず、瘦せ衰(おとろ)ふるまゝに、骨と皮とに、なれり。

 遍(あまね)く、諸方の醫師(くすし)に見せ、本道《ほんだう》・外科(げくわ)、手を盡くして、内藥を與へ、膏藥を塗れ共、少しも、驗(しる)し、なし。

[やぶちゃん注:「本道」平凡社「世界大百科事典」によれば、『医学用語では漢方の内科系医学を指す。内科系治療法が薬物をおもに内用(内服)させる内治の術であるのに対し』て、『外科系では薬物を外用させたり手術を施して治療する外治の術が行われた。中国でいう外科の呼称は内科との対比で用いられた。日本で室町期の戦乱の世が要求した医術技術の分科として生まれた外科系専門医に中国で用いられている外科の呼称を採用するに当たって』、『その名が初出する』「太平記」『では本道・外科と対比させて用いている』とある。]

 其の比(ころ)、南蠻の商人舟《あきんどぶね》に、名醫の外科章全子(ちやくてるす)といふ者、渡りて、此の病《やまひ》を見て、いふやう、

「是れ、更に、世に希(まれ)なる病也。此故《このゆゑ》に、世に、人、多く、知らず。是れ、『蝨瘤(しつりう)』と名付く。皮肉(ひにく)の間(あひだ)に、蝨(しらみ)、湧き出《いで》て、此《この》患《うれ》へを致す。我、よく、是れを愈すべし。」

とて、腫物(はれもの)のめぐりに、縛(しばり)をかけ、其上に藥を塗りたり。

[やぶちゃん注:「商人舟《あきんどぶね》」この読みは「新日本古典文学大系」版脚注に拠った。但し、それは本書の読みとしてあるのではなく、「吉利切丹御対治物語」の上を引いたそれに拠ったのである。実は本書では、本篇に至るまで、私が視認してきた限りでは、底本にも元禄版にも「商人」にはフルの読みが附されていたことがない。あっても(この場合もそうだが)、「商(あき)人」と「商」にしか振られていないのである。されば、私はここまで、「商人」を了意がどう読んでいるかについては、留保してきた。「あきんど」か「あきびと」か判断がつかなかったからである。しかし、浅井了意は生まれが、摂津国三島江(大阪府高槻市)にあった浄土真宗本照寺住職の子であり(但し、叔父が出奔事件を起こし、父も連座で宗門追放され、浪々の身となった)、江戸にいた時もあるようだが、京都・大坂に住み、延宝(一六七三年~一六八一年)の初年に、京都二条菊本町正願寺の二世住職となっているから、彼のネイティヴな言語は本来的には関西であると考えてよく、されば、今までの「商人」も「あきんど」と読んでよかろうかと思われる。

「章全子(ちやくてるす)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『わざわざ、唐音の発音を振仮名に付けたのは、南蛮外科の効能を装って、ことさら南蛮人めかしたものか』とあり、腑に落ちた。]

 扨、語りけるやう、

「世の人、或は、其の身に蝨(しらみ)の湧き出《いづ》る事、一夜の内に、或は、三升・五升に至り、衣裝に滿ち滿ち、血肉(けつにく)を、吸ひ、食ふ。痛み、痒き事、いふばかりなし。されども、病人の身にのみ有りて、他人には、取りつき移らず。是れは又、間々(まゝ)ある事にて、療治の手だて、世の醫師(くすし)、是れを知《しり》たり。今、此しらみは、肉の間に生じて、皮より下に、あり。人、更に、知り難し。今夕、必ず、驗し、有るべし。」

と、いひける。

 其夜、瘤(こぶ)のいたゞき、破れて、蝨の湧き出る事、一斗ばかり、皆、よく、足、あり。

 大さ、胡麻(ごま)の如く、色、赤くして、よく匍ひ步(あり)く。

 是れより、體(たい)、輕(かろ)く、心地よく覺えしが、蝨の出たる痕(あと)に、細き穴、一つありて、時時(よりより)、其中より、蝨、出たり。

 是も、其數、しり難し。

 章全子(ちやくてるす)が曰はく、

「此病は、世に、藥、なし。百年の梳(すきぐし)を燒いて、灰になし、黃龍水(わいりやうすい)を以つて、塗るべし。是れより外の療治、なし。我、少し、是れ、有り。惜しむに足らず。」

とて、一匕(ひ)[やぶちゃん注:薬用匙一杯。]ばかりを取出《とりいだ》し、痕(きず)の上に塗り侍べりしかば、一七日《ひとなぬか》の内に愈《いえ》たり。

[やぶちゃん注:「一七日」は『いつしちにち』と振る。私は私の自然な読みとして選んだ。

 さても。この「蝨(しらみ)」は、種としては何か?

 その大きさと、その体制・色(吸血した際)からは、一見、

昆虫綱咀顎目シラミ亜目ヒトジラミ科ヒトジラミ亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporis

としたくなるのだが、人体の皮下に穴を掘って寄生する性質はコロモジラミにはない。他に、同亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus

がいるが、寄生域が頭部(頭髪)であり、背中というのは合わないし、コロモジラミ同様、皮下に穿孔することもないから外れる。また、

シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ Phthirus pubis

も、これは寄生域がほぼ陰部の陰毛中に限定され、発達した爪によって毛に強くしがみついているのであって、やはり皮下穿孔はしないから外れる。

皮下穿孔して、難治性疾患となると、これはもう、

鋏角亜門クモ綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ属ヒゼンダニ Sarcoptes scabie

の寄生による「疥癬」しかあり得ない。特に、本篇に激しい痒みと、腫脹は所謂、疥癬の重症感染症状の典型である「過角化型疥癬」(別名「ノルウェー疥癬」(報告者がノルウェーの学者であったことによる)が、実は真っ先に浮かんではいた。これは、ウィキの「疥癬」によれば、『何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬はせいぜい』一『患者当たりのダニ数が千個体程度であるが、過角化型疥癬は』百万から二百万個体に達する。このため、『感染力はきわめて強く、通常の疥癬患者から他人に対して感染が成立するためには同じ寝具で同衾したりする必要があるが、そこまで濃厚な接触をしなくても容易に感染が成立する。患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、カキの殻のようになった角質が付着する』という見るも無残な悲惨な様態を呈するそれを想起したである。しかし、では、これに断定していいかというと、ヒゼンダニの体長は〇・二~〇・四ミリメートルで、横に平べったい卵型であるが、体色は半透明の褐色であり、彼らは皮膚やリンパを摂食しながら、皮下にトンネルを掘るのであって、赤くて、視認出来る大きさ(挿絵を見よ)というのは、これ、外れてしまうのである。

 されば、これは怪奇談であるからして、かく疾患や寄生虫を限定するまでもないことは判る。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本篇は種本に六朝小説の「異疾志」の「蝨瘤」にほぼ従っているとあるから、問題にすること自体が、無意味とは言われよう。しかし、種本の筆者や了意がイメージしたのは「蝨」(しらみ)のような虫が皮下に穿孔して「瘤」を作って蜂の巣のような腫瘍を作るという猟奇的悪趣味を確信犯で書いているのであり、その際には、大きさを実際のヒトシラミ大とし、患部の状態をヒゼンダニによる重篤な過角化型疥癬を重ねたものと考えると、私は腑に落ちるのである。]

伽婢子卷之十三 隨轉力量

 

[やぶちゃん注:挿絵の別な二幅は底本のものをトリミング補正して、適切と思われる位置に挿入した。]

 

   ○隨轉力量

 

 武州小石川傳通院(でんづうゐん)の所化、釋の隨轉(ずゐてん)は房州の人也。

 幼少の時より出家して、後に小石川に來り、學文を勤むるに、貧賤にして、朝夕に乏しければ、甲信二州の間、野州上下に乞食(こつじき)して步(あり)く程に、勤學論義、更に精ならず、力、甚だ强くして、談林に敵する者、なし。時の所化達、皆、異名(いみやう)を付けて「明上座(みやう《じやうざ》)」といふ。

[やぶちゃん注:「小石川傳通院」浄土宗の知られた無量山伝通院寿経寺の通称。室町時代の応永二二(一四一五)年秋に浄土宗第七祖の聖冏(しょうげい)が江戸小石川極楽水(現在の小石川四丁目)の草庵で開創した。現在はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「こゝろ」の「先生」の下宿のそばである。私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月26日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十四回」の「傳通院」を注を参照されたい。]

 もろこし、神秀禪師(しんしうぜんじ)の座下(ざか)に、「明上座」とて、大力の法師あり。六祖の惠能(ゑのう)大師、大庾嶺(《だい》ゆうれい)に赴き給ひしを、明上座、追《おひ》かけて、傅授の袈裟を取り返さんとせしに、惠能、其袈裟を石の上に打置きたり。明上座、是れを取らんとするに、山の如く重くして、揚(あが)らず。惠能の曰はく、

「此衣は、信を以つて、表(へう)す。力を以つて、爭ふべきや。是れ、明上座、本來の面目(めんもく)を見よ。」

と、いはれしに、言下(ごんか)に得道(とうだう)したり、といふ。

[やぶちゃん注:「神秀禪師」(現行では「じんしゅう」と読む 六〇六年~七〇六年)は隨末に生まれた初唐の僧で、中国の北宗禅(ほくしゅうぜん:唐代に則天武后に迎えられた神秀とその門弟子らの一派)の開祖。諡号は大通禅師。禅宗第五祖弘忍(ぐにん/こうにん)門下の筆頭弟子で、師をして「彼に及ぶ弟子はいない」と言わしめた傑僧。弘忍の法を嗣いだ。弘忍の没後、荊州江陵の当陽山に住して名声を挙げた。七〇〇年、則天武后に召され、宮中で法要を説き、中宗や睿宗(えいそう)にも重用されその門下は華北や江南にまで及び、中唐頃までは隆盛であった。その禅法は段階的漸層的に悟達に至ることを説き、以下に出る禅宗第六祖慧能(えのう)の頓悟(速やかに悟る)ことを説いた南宗禅に対して、「漸悟北宗禅」と呼ばれた。なお、言っておくと、私はどうもこの北宗禅は好きになれない。禅機が階梯的であるとも全く思わない。優れた禅僧は殆んどが瞬時に悟った。唐王朝にとり入った辺りも俗臭プンプンにして甚だ気に入らない。

「六祖の惠能(ゑのう)大師」神秀の弟弟子。新州(広東省)生まれ。三歳で父を失い、市に薪を売って母を養っていたが、ある日、客が「金剛経」を誦すのを聴いて出家の志を抱き、蘄州(きしゅう:湖北省)黄梅(おうばい)の東山に第五祖弘忍を尋ね、「仏性(ぶっしょう)問答」によって入門を許された。八ヶ月の碓房(たいぼう:米挽き小屋)生活の後、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、六七六年、南海法性寺(なんかいほうしょうじ)に於いて印宗(いんしゅう)法師は「涅槃経」を講ずる席に邂逅、そこで「風幡(ふうばん)問答」によって認められ、印宗によって剃髪、受具した。翌年、韶州(しょうしゅう)曹渓の宝林寺に住し、禅法を発揚し、多くの信奉者を得た。七〇五年には中宗の招きを受けるも「病い」と称して行かなかった。門下から優れた禅僧が輩出した。

「明上座」弘忍の門下で軍人上りの僧。俗名陳慧明。「六祖大師の話」の「密は汝にあり」を読まれたい。この話、禅宗ではかなり有名なエピソードである。「無門關 二十三 不思善惡」(ブログ版)を参照。因みにサイト版の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」もある。また、こちらの方の「六祖大師の話」の「密は汝にあり」も読まれたい。

「大庾嶺」「たいゆれい」とも読み、中国語の音写は「ダァーユイーリィン」で、現在の江西省贛州(かんしゅう)市大余県と広東省韶関(しょうかん)市南雄市区梅嶺に跨る山脈。この附近。]

 隨轉が、力の强きばかりにて、論義學文の弱き事を笑ひて、「明上座」とは異名しけり。

 或時、信州の山中を通りしに、盜人(ぬす《びと》)に行《ゆき》逢ひたり。

 足に任せて、逃げけれ共、頻りに追かけしかば、隨轉、手ごろの松の木を引撓(《ひき》たは)めて、尻、掛けて、休み居たり。

 

Zuiten1

 

[やぶちゃん注:本文では複数としないが、盗賊は三人描かれてある。]

 

 盜人、追ひ來りしかば、『逃のびん』とするに、息、きれたり。

「今は。平包(ひらづゝみ)の錢、皆、奉らむ。命は許し給へ。まづ、此木に腰掛けて、息つぎ、休み給へ。」

といふに、盜人、心を許し、同じく、松の木に腰を掛けし所を、隨轉、立退(《たち》の)きたれば、松の木、起きあがるに、盜人、彈(はじ)かれて、遙かの谷底(《たに》ぞこ)に投げ落とされ、石に當り、かうべ、碎けて、死にけり。

 かゝる大力(《たい》りき)の法師也。

[やぶちゃん注:「平包(ひらづゝみ)」風呂敷包み。]

 『越前の朝倉家の旗下(はたした)に、摩伽羅(まから)十郞右衞門は、北國無雙(ぶさう)の大力。』と聞傅(《きき》つた)へて、隨轉、かしこに赴き、力を競べたり。

[やぶちゃん注:「摩伽羅(まから)十郞右衞門」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、朝倉義景(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年:彼は信長包囲網から一転、「一乗谷城の戦い」で敗走し、従兄弟朝倉景鏡(かげあきら)の勧めで逃れていたことろ、天正元(一五七三)年八月二十日早朝、当の景鏡が織田信長と通じて裏切って襲撃、自刃して朝倉家はここに滅亡した)に『仕えた勇士。五尺八寸一丈二尺とも』される異様に長い『太刀を揮っての姉川の合戦』(元亀元(一五七〇)年六月二十八日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で行われた合戦。織田信長・徳川家康と浅井長政・朝倉義景との戦い。信長は足利義昭を奉じて上洛、浅井・朝倉氏はこれを阻止し、近江の東部である浅井氏の居城小谷城東南方で戦った。信長軍は当初は危うかったが、家康軍の奮戦で勝ち、浅井・朝倉両氏は決定的打撃を受けた]『における獅子奮迅の活躍が後世まで喧伝された』人物とある。]

 

Zuiten2

 

 隨轉は緣の上にたち、摩伽羅は鴨居(しきゐ)の際(きは)に立て、手を握り、上に引き揚げんとするに、隨轉、更に、動かず、緣(えん)の板を踏み拔き、鴨居(しきゐ)は、半ばより、折れたり。

 兩方、對々(たいたい)の力、人皆、肝を消して、目を醒ます。

[やぶちゃん注:「鴨居(しきい)」の読みはママ。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「敷居」の当て字。火伏せのため水辺の字を用いたもの』とある。回禄除けの縁起担ぎの語呂合わせである。]

 或時、隨轉、論議の場(には)に出て、只、一問答にて、閉口せしかば、相手の僧、打笑ひ、

「この論議は、學(がく)を以てす。力(ちから)を以て、爭ふべきや。これ、隨轉明上座、本來の面目を、失なふたり。」

と、耻(はぢ)しめたりければ、大きに赤面して、口惜しく思ふ處に、其の次の日、町屋に出て、朝(あした)より夕(ゆふべ)まで、

「所化鉢(しよけはち)。」

と、呼ばゝれ共、更に、與ふる人、なし。

 甚だ、怒りて、

「あぢきなき出家して、耻見んよりは、俗になりて、時を得んには如(し)かじ。」

とて、鉢(はち)を地になげて、打ち破(わ)り、袈裟衣(けさころも)を引き裂きて、川に流し、越前に行《ゆき》て、摩伽羅が手に屬(しよく)し、終《つひ》に姊川(あね《がは》)の軍(いくさ)に、打ち死(じに)しけり。

 還俗の罪は甚だ深しといふ事を恐れて、常は、日每に、念佛、怠らず、最後の時に至りて、口より、白き雲の如くなる物、棚引(たなび)き出《いで》て、西をさして、空に上(あが)りぬ。

 忙(いそがは)しき合戰の最中なりければ、是れを見たりし人、わづかに、二、三人、後に語り傳へしとかや。

伽婢子卷之十三 傳尸𧟄去

 

[やぶちゃん注:標題「傳尸𧟄去」は現代仮名遣で「でんしじょうこ」で、「傳尸」は先の「幽鬼嬰兒に乳す」で注した通り、は「勞瘵」(肺結核或いは重篤な別の肺疾患)の中の一つで、道教絡みのそれで、「三尸虫」(さんしちゅう:これは人体にもともといるとされた想像上の怪寄生虫で、庚申の日になると、寝ている人の口から出てて、天帝に当人の近来の悪事を注進すると考えられた。そこでそれを防ぐために庚申の日には寝ないで語り合う習慣が生まれ、庚申信仰が形成された)という腹の中にいる虫が臓腑を蚕食することで起こり、一家親類中に伝染すると考えられていたものを指し、「𧟄去」は目次(最後に示す)では本篇を「傳尸病(でんしびやう)を攘去(はらひさる)事」とあり、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『悪病を祓い清め、去らせるの意か』とある。挿絵は今回は最も全体にクリアーな岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング補正し、今回は薬師と随身の賑やかな来迎の図なので、離れた二幅を接近させて合成した。十二神将は、一部がちょっと判り難いが、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、右幅が右から寅・牛・鼠・卯で、左幅が辰・亥・戌・巳・午・酉(姫の前に着座)で、左端が申、その上方が未らしい。] 

 

Yakusi

 

   ○傳尸𧟄去(でんしじやうこ)

 

 寳德年中の事にや、中山中將親通(ちかみち)朝臣の娘、尼になりて、西山に住す。

[やぶちゃん注:「寳德」一四四九年から一四五二年まで。室町幕府将軍足利義政の治世。「応仁の乱」以前。

「中山中將親通」藤原親通(本名・教親 応永三三(一四二六)年~寛正三(一四六二)年)は公卿。文安四(一四四七)年、参議。最終官職は正二位・権大納言。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『足利義政が元服した時』(文安六(一四四九)年四月十六日(満十三歳)。同月二十九日に将軍宣下を受け、第八代将軍に就任した)、『勅使伝奏として太刀を授ける』とある。彼は今上天皇の直系先祖の一人である。彼の「娘」については不詳。]

 只、かりそめに虛損勞瘵の病に罹り、潮熱、咳嗽(がいそう)、盜汗して、漸々(ぜんぜん)に瘦せ衰へたり。

[やぶちゃん注:「虛損」気力や体力がだんだんと弱くなっていくこと。また、活力がなくなり、ついには死に至る病いをも指す。

「潮熱、咳嗽、盜汗して」前掲の岩波文庫脚注に、『熱がたえず、咳が激しく、寝汗をかいて』とある。]

 勞瘵の病《やまひ》は腹中《ふくちゆう》に蟲ありて生ず。其の形、或は、定まらず。總て、鍼藥灸治の及びがたく、十人にして、九人は、死す。

 これを「傳尸蟲(でんしちう)と名づく。

 一人、此の病にて死すれば、其の兄弟・一族に移り渡りて、門を滅し、跡を絕(たや)す。

 已に傳りて、三人にうつり渡れば、其蟲、手足・耳・鼻、そなはり、よく立《たち》てゆく。

 形、人の姿、鬼の形(かたち)に類すと、いへり。

 さる程に、かの尼公、頻に、病、重く、今は、人心地もなくなり、已に死せんとす。

 尼公の妹(いもと)あり。行《ゆき》て看病する處に、尼公の身の中《うち》より、白き蠅の如くなる物、飛び出《いで》て、絲を引《ひく》が如くなる、白き氣、あり。

 妹の袖の中に飛入《とびいり》て、見えず。

 立ち上り、拂ひ揮(ふる)へども、更に、なし。

 尼公、終に、其の暮方に死す。

 妹、其日より、心地、煩ひ出て、尼公の病に、少しも違(たが)はず。

「姊の尼公より傳はりたる病。」

とて、家中、上下、愁へ歎き、さまざま養生するに、露ばかり驗(しる)し、なし。

「如何すべき。」

と、愁へなげき、

「藥の力を以ては、癒(いや)す事、かなふまじ。佛神の御計らひを賴むべし。」

として、白檀(びやくだん)を以て、長(たけ)一尺二寸の藥師の尊像を作り、又、殊更に祇園の午頭(ごつ)天王に祈誓して、

「此病、いやしてたべ。」

と、歎き祈り申されしに、或日の夕暮に、病人、少しまどろみける夢に、怪しき人、來りて、「明日、一人の沙門、鈍色(にぶいろ)[やぶちゃん注:濃い灰色。]の衣に、紅(かう)の袈裟かけて、鉢に來《きた》るべし[やぶちゃん注:托鉢に来るであろう。]。是れに賴みて、祈りせさせよ。」

と、いふと見て、夢、醒めたり。

 次の朝(あした)、年の比(ころ)、五十ばかりの出家、誠に戒律正しく保つと覺えて、道行《みち、ゆく》事、いと靜かに、中山殿の門に入來り、錫杖、打揮(《うち》ふ)りて、頭陀(づだ)せらる[やぶちゃん注:托鉢のための読経をなされた。]。

 やがて、内に請じ入れて、

「かうかう、夢想の事、侍り。此病、禳(はら)ひしてたべ。」

と云ひ出しければ、此僧、答へけるは、

「我は、戒律を守り、抖藪(とそう)行脚を縡(こと)とする身也。更に不淨下口(げく)の食(じき)を求めず、只、淸淨(しやうじやう)頭陀を行(ぎやう)じて活命(くわつめい)するのみ。かゝる神子(みこ)々々しき事は、思ひよらず。」

と、いはれたり。

[やぶちゃん注:以上の台詞は、「我れは、戒律を守り、抖藪(衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にすること)行脚(あんぎゃ)を成すべき仕事とする身である。さればこそ、禁制である不浄下口食(ふじょうげくじき:「四不浄食」の一つ。修行者は托鉢による乞食(こつじき)をのみ行い(正命食(しょうめいじき))、それ以外を「邪命食」として禁ずる。この「邪命食」に四種あり、耕作や売薬等によって得る「下口食」、天文や術数等の学問による「仰口食(ぎょうくじき)」、権力や富豪に阿(おもね)って受けるのを「方口食(ほうくじき)」、吉凶を占うことで得るものを「維口食(いくじき)」と称した。ここは「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「四食(しじき)」に拠った)の食(じき)を求めず、ただ、清浄頭陀(しょうじょうずだ)を行(ぎょう)じて命を生かすのみである。そのような安易に神仏をいい加減に信じ、卜占や祈禱を行うような仕儀は、思いもよらぬことじゃ。」という意味。]

 かさねて、申されしやう[やぶちゃん注:以下の台詞は中山家の家人の台詞。]、

「僧は、大慈悲を以て、人を助け、我身を忘れて、他を利益(りやく)するを、本(ほん)とす。今、一人の命を救うて、諸人の喜ぶ處、其功德、すくなからむや。其上、夢想の告げによりて、かく望み侍べり。」

と、再三、しひて、歎きしかば、僧も理(ことわり)に折れて、

「此上は、力、なし[やぶちゃん注:仕方がない。]。然(しか)らば、白絹(しらぎぬ)一端(《いつ》たん)[やぶちゃん注:一反。一巻き。]を遣し給へ。是れを以て、病を禳(はら)はん。」

といふ。

「それこそ、易き事。」

とて、生絹(すゞし)一端を奉りければ、受け取《とり》、僧は、やがて出て歸る。

「さて、御寺は、いづく。」

と問へば、

「祇園のあたり也。」

とて、定かにも、いはず。

 其夜、姬君、夢に見けるやう、佛像一躰、門の内に入來り給へば、十二の善神、隨ひ來り、一つの簡(ふだ)を以て、十二の神、代(かは)る代(がは)る、娘の頭より、手足まで、殘りなく撫で給へば、身の中より、白き糸筋の如くなる物、出て、天をさして昇ると見て、夢、醒めてのち、心地、凉しく、かうべ、輕く、食(しよく)、進みて、爽かなる事、日來(ひごろ)に替れり。

[やぶちゃん注:「十二の神」薬師如来を守護し随身する十二神将。挿絵のそれぞれの兜の上に十二支の表象が載る。]

 次の日、彼の僧、來りて、生絹に、物書きたるを與へて、跡をも見せず、失せにけり。

 奇特の思ひをなし、封を開きて見るに、藥師の尊像を墨繪に書《かき》たり。

 枕元に掛けて、朝夕、香を焚き、禮拜して敬ひしが、姬君の病、程なく癒(いえ)たり。

 生絹の藥師をば、家の寳物とせらる。

 誠に奇特の事也。

 彼僧は、祇園にして、誰《たれ》とも、知らず。

 是れ、定めて午頭(ごづ)天王なるべし。天王はこれ、藥師の垂跡(すゐじやく)、かたがた、以て、佛力のふしぎ、行者の信心によりて、利益、空しからず、とかや。

伽婢子卷之十三 虵癭の中より出

 

   ○虵(へび)、(こぶ)の中より出(いづ)

 

Kobukarahebi

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は最も全体にクリアーな岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング補正した。頭部より一回り大きな腫瘤から最後の一匹が出でつつあって、都合、話柄通り、五匹の蛇が描かれてある。]

 

 河内の國錦部(にしごり)の農民が妻、項(うなじ)に、癭、出《いで》たり。

[やぶちゃん注:「錦部」「錦部郡(しにごりのこほり)」のこと。現在の河内長野市の全域及び富田林市の一部。地域は当該ウィキ地図で確認されたい。]

 初めは、蓮肉(れんにく)の大さなるが、漸(やうや)く庭鳥(にはとり)のかひごの如く、後には、終に三、四升ばかりの壺の大さなり。

[やぶちゃん注:「蓮肉」ハスの実。

「庭鳥(にはとり)のかひご」「かひご」は「卵子」。ニワトリの卵。]

 かくて、三升の後に、二升を入る甁(かめ)の如し。

[やぶちゃん注:意味がよく判らぬが、「新日本古典文学大系」版脚注は好意的に「三升」+「二升」と採り、『最後には五升入りの甕の大きさになったの意か。』とする。]

 甚だ重くして、立《たち》てゆく事、かなはず。もし、立《たつ》時には、かの癭を人に抱へさせて行く。

 更に痛む事、なし。

 よりよりは[やぶちゃん注:時々は。]、癭の中に、管絃音樂の聲、聞えて、是れに心を慰むに似たり。

 其後、癭の外に、針の先ばかりなる細く小さき孔、數千、あきて、空、曇り、雨、降らんとする時は、穴の中より、白き煙(けふり)の立《たつ》事、絲筋の如くして、空に昇る。

[やぶちゃん注:蛇は龍の仲間であり、水気と親和性があるから、「雲」「雨」「白き煙」(これも「雲」気である)、そして飛龍への憧れから「空に昇る」も腑に落ちる。]

 家の内の男女《なんによ》、皆、怖れて、

「此まゝ家に留め置かば、禍《わざはひ》とならんも知らず、只、遠く、野山の末(すゑ)にも送り捨てよ。」

といふ。

 此妻、なくなく、男に語るやう、

「わが此病《やまひ》、まことに誰《たれ》か嫌ひ惡(にく)まざらん。されば、遠く捨られたらんには、必ず、死すべし。又、是れを割(さき)ひらきたり共(とも)、死すべし。同じく死すべくは、割き開きて、中に何かある、見給へ。」

といふに、夫、

『げにも。』

と思ひ、大なる剃刀(かみそり)を求め、よく磨(と)ぎて、妻が項の癭のかしらを、竪(たて)さまに割り侍べりしが、血は少しも出《いで》ず、疵の色、白らけて、中より、蹕(は)ねやぶり、飛びて出たる物を見れば、長(たけ)二尺ばかりなる虵(へび)、五つまで、つき出たり。

 其色、或は黑く、或は白く、又は、靑く、又は黃也。

 鱗、立ち、光り有《あり》て、庭の面《おもて》に這ひゆきしかば、家人、皆、驚き、打ち殺さんとす。

 夫、更に制して、許さず。

 時に當りて、庭の面に、一つの穴、出(いで)來て、虵、皆、其中に入《いり》たり。

 其穴、深くして、底を知らず。

 かくて、神子(みこ)を賴み、梓(あづさ)にかけて、此事を尋ねしかば、神子、口走りていふやう、

「其かみ、この妻、妬み深く、内に召し使ひける女のわらはを、夫、寵愛せし事を、腹立《はらだて》、惡(にく)みつゝ、女の童が首本(くびもと)に嚙みつきて、喰(く)ひ切りければ、血の流るゝ事、瀧の如し。鐵漿(かね)黑くつけたる齒にて嚙みければ、疵、深く腐り入て、終に、女の童、空しくなれり。其の恨み、深くして、今、此の虵となり、妻が項に宿りて、怨(あだ)を報(ほう)じ侍べり。たとひ、今、取り出されたり共(とも)、終には、殺して、怨を晴さんもの。」

といふ。

[やぶちゃん注:「梓(あづさ)にかけて」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」脚注に、『巫女が神おろしや口寄せする際』、『梓弓の弦をたたくことをいう。』とある。「国立民族学博物館」公式サイト内の「梓弓とイラタカ数珠」を見られたい。写真有り。なお、「梓」と呼ばれる木は複数あるが、現行、この呪的な弓材として用いられたものは、マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属ミズメ Betula grossa に比定されている(漢字表記は「水目」)。]

 側(そば)に居たる人のいふやう、

「其事は、返らぬ昔になり侍べり。心をなだめて、與(あた)へよ。其の爲には、僧を請じて、跡、よく吊(とふら)ひ侍べらん。」

と云へば、神子、又、口ばしりけるやう、

「其時の恨み、誠に、骨に透(とほ)り、幾たび、生を替(か)ゆるといふとも、忘るべき事には、あらず。され共、『跡吊ひて得さすべし』といふが嬉しきに、是れにぞ、心を慰み、許し侍べらん。とてもの事に[やぶちゃん注:ついでながら。]、望む處、あり。かなへて、得させんや。」

といふ。

 側なる人、

「如何なる事也共(《なり》とも)、かなへて、得さすべし。とく、とく、いへ。」

と云《いふ》に、神子、うちうなづき、淚を流し、

「此世に生きて有りし時より、『尊(たふと)き物は「法花經」なり』と思ひ侍べりし。今猶、尊く覺ゆるに、一日頓寫(《いちにち》とんしゃ)の經、書きて、囘向(ゑかう)して吊ひてたべや。又、其疵には、胡桐淚(ことうるゐ)を、塗り給へ。」

とて、去りにけり。

[やぶちゃん注:「一日頓寫」「牡丹燈籠」で既出既注だが、再掲すると、追善供養のために大勢の者が集まって分担し、一部の経を一日で書写し終えること。多くは「法華経」を写す。「法華経」は二十八品、「一部八巻」と呼ばれ、総字数は六万九千三百八十四文字とされ、四百字詰の原稿用紙に換算すると、百七十三枚余となる。

「胡桐淚」キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ハコヤナギ属コトカケヤナギ Populus euphratica の樹液。当該ウィキによれば、『アフリカ北部から、中東、中央アジア、中国西部にかけての広い地域に分布』し、『中国では本種の』九十%は『新疆ウイグル自治区に集中し、さらにその』九十%は『タリム盆地に集中しており、絶滅危惧種に指定され』、『保護区となっている』とあり、古くから民間薬として樹皮が用いられ、『駆虫薬(虫下し)の作用があると伝えられ』て、『小枝を噛んで歯磨きにも用いられる』とある。日本語のウィキでは「胡楊」とするが、中文ウィキには「漢書」に「胡桐」の異名が載るとある。明の李時珍の「本草綱目」の巻三十四「木之一」の末尾に「胡桐淚」が載り、「釋名」で別名を「胡桐鹼」とし、「胡桐淚、是胡桐樹脂也」と記し、松脂のような樹脂とあり「主治」によれば、適用疾患として、「大毒熱心腹煩滿水」・「主風蟲牙齒痛」・「風疳䘌齒骨瘤風」(☜)・「瘰癧非此不能除」・「咽喉腫痛水」を挙げる(「漢籍リポジトリ」のこちらの最後の「返魂香」の前[083-69a][083-70b]を見られたい(影印本も視認出来る)。ブログ「蘆沓 RESEARCH」のSEIAONVWI氏の「教えて 胡桐涙の実態と歯科利用」の記事も詳しい。]

 言葉の如く、僧を請じて、一日頓寫の經、書きて、深く吊ひしかば、妻が心地も凉(すゞ)くなりぬ。

 さて、胡桐淚を尋ね求めて、塗りければ、癭の疵、終に癒へたり。

 妻、それよりして、物妬みの心を止め侍べりとぞ。

2022/01/04

伽婢子卷之十三 幽鬼嬰兒に乳す

 

   ○幽鬼(いうき)、嬰兒(えいじ)に乳(にう)

 

Akagotiti

 

[やぶちゃん注:挿絵は、所持する三書の内、唯一、兄の顔が鮮明に見える「新日本古典文学大系」版のものをトリミング補正した。]

 

 伊豫の國風早郡(かざはやのこほり)の百姓、ある時、家中、大小の人、打つゞきて、死す。其の外、村中の一族、殘りなく死去(《しに》うせ)て、只、兄弟二人、生き留(とゞ)まりぬ。

「傳尸勞瘵(でんしらうさい)の病は、まことに滅門(めつもん)に至る。」

といふ。定めて、是等、其のためしなるべし。

[やぶちゃん注:「風早郡」現在の愛媛県にあった旧郡。現在は松山市の一部。

「傳尸勞瘵」伝染性疾患や肺結核の総古称。但し、狭義には「傳尸」は「勞瘵」の中の一つで、道教絡みのそれで、「三尸虫」(さんしちゅう:これは人体にもともといるとされた想像上の怪寄生虫で、庚申の日になると、寝ている人の口から出てて、天帝に当人の近来の悪事を注進すると考えられた。そこでそれを防ぐために庚申の日には寝ないで語り合う習慣が生まれ、庚申信仰が形成された)という腹の中にいる虫が臓腑を蚕食することで起こり、一家親類中に伝染すると考えられていた。一方、「勞瘵」疲れ果てて、瘦せ細り、咳が続き、喀血を症状とする肺結核或いは重篤な別の肺疾患を指した。

「滅門」その家系が完全に絶えること。]

 兄弟、愁へに沈みし所に、弟(おとゝ)の妻、又、空しくなる。

 獨りのみ、明し暮すうちに、此春、生れたる子、あり。

[やぶちゃん注:主語は生き残った弟。兄弟は別々に家を持っていた。]

 母に後《おく》れ、乳(ち)に飢つつ、よる晝、なきける悲しさ、見るにつけ、聞《きく》につけて、淚の絕ゆる隙《ひま》なし。

 妻、死して、三十日ばかりの後に、弟の妻、其家に來りぬ。

 初めは恐れしかども、夜每に來りしかば、後には、いとゞ睦じくして、さすがに捨て難く、夜もすがら、物語りする事、常の如し。

 兄、此由を聞《きく》に、誠(まこと)しからず[やぶちゃん注:信用せず。「まことし」で一語の形容詞であるので注意。]、弟を戒めて曰はく、

「汝が妻、死して未だ中陰の日數をだに過《すご》さず、はや、何方《いづかた》よりか、女を呼び入れ、夜每に、語り明かす。是れ、世の人のため、誹(そし)りをうけ、耻(はぢ)を見るのみならず、『兄をだに、是れ程の事、いさめざるか。』と、人のいはんも、恥かし。

今より後は、せめて、妻の一周忌過《すぐ》るまで、こと女《をんな》[やぶちゃん注:他の女。]を召入るゝ事、あるべからず。」

といふ。

[やぶちゃん注:「中陰の日數」四十九日。「伽婢子卷之二 眞紅擊帶」で既出既注。]

 弟、淚を流して曰はく、

「夜每に來る者は、死したる妻の幽靈にて侍る。初め、俄かに、門を扣(たゝ)く。

『我子に乳(ち)なくして、さこそ飢ぬらん。此事の悲しさに歸り來る也。』

といふ。門を開きて、内に入《いれ》たりしかば、赤子を抱きあげ、髮、かき撫でて、乳を含め侍べり。初の程こそ、恐ろしくも覺えけれ、後は睦じくて、夜もすがら、語りあかし、夜明くれば、去失(いにうせ)侍べる。更に日比に違(たが)ふ事は、なし。」

といふ。

 兄、聞て思ふやう、

『一門、悉く死絕《しにたえ》て、只、我等、兄弟二人のみ、殘る。然(しか)れば、此《この》ばけ物、一定(《いち》ぢやう)[やぶちゃん注:必ずや。きっと。]、我が弟(をとゝ)を、誑(たぶ)ろかし、殺すべし。其時に至りては、悔(くや)むとも、甲斐、あるまじ。ばけ物と雖も、妻と化(け)して來(く)る上は、弟、更に思ひ切るべからず。我れ、是れを殺さばや。』

と思ひて、長刀《なぎなた》を橫たへ、弟にも知らせず、忍びて、門の傍らに居たり。

 案の如く、亥の剋[やぶちゃん注:午後十時頃。]ばかりに、門を開きて、立入《たちいる》者あり。

 兄、走りよりて、

「丁《ちやう》」

と、なぎ伏たり。[やぶちゃん注:「ちやうと」は古くは「ちやうど」で副詞で、物が強くぶつかり合うさま。また、その音を表す語。「はっし!」「ばしっ!」に当たるオノマトペイアが元であるので、私は「音」としてかく分離して表記することにしている。]

 彼(か)の者、聲をあげ、

「あな、悲しや。」

とて、逃げ去りぬ。

 夜明けて見れば、血、流れて、地にあり。

 兄弟、其血の跡を認(とめ)て行くに、妻を埋(うづ)みし墓所(はか《しよ》)に至る。

 弟の妻が尸(かばね)、墓の傍らに、倒れて、死す。

 墓を掘りて見れば、棺(くわん)の内には、何も、なし。

 元の如く、妻が尸を納め埋みしが、赤子(あかご)も、死《しに》けり。

 幾程なく、兄弟ながら、打續きて、死失(《しに》うせ)ければ、一門、跡、絕たり。

[やぶちゃん注:怪談として人口に膾炙している「飴買い幽霊」或いは「子育て幽霊」(当該ウィキを参照)などと呼ばれる心霊譚を意識したもので、また、所謂、知られた哀しい霊的妖怪「産女(うぶめ)」をも射程に入れているものと考えてよい。話としては捻りに欠けるが、この類型の近世怪奇談としては、ごく早期に属し、十全に評価されるべきものと考える。実話系の話では「耳囊 卷之九 棺中出生の子の事」(リンク先は私の古い電子化訳注)がよく書けており、「うぶめ」となると、私の「怪奇談集」の「宿直草卷五 第一 うぶめの事」や、ちょっとペダンティクだが、「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」があり、話として私の非常に好きな一篇は、映像的に優れた『小泉八雲 梅津忠兵衛  (田部隆次訳) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上巻「第百八十二 產神の事」』にとどめを刺す。]

2021/12/31

伽婢子卷之十三 天狗塔中に棲

伽婢子卷之十三

 

   ○天狗(てんぐ)塔中(たふちう)に棲(すむ)

 

 寬正(かんしやう)五年四月に、都の東北糺(ただす)の川原にして、勸進の猿能樂あり。觀世音阿彌、同じく、其子、又三郞を太夫として、狂言師・役者、多し。

「此比《このごろ》の見物《みもの》なり。」

とて、京中の上下、足を空になし、諸人《しよにん》、蟻の如く集り、星の如くつどひて、是れを見物す。

 將軍家も三たびまで、棧敷(さんじき)、構へさせて、御覽あり。

 大名・小名、似合《にあひ》々々に、絹・小袖・金銀を出し與へらる。其の積み上ぐる事、日每に山の如し。

 或る日、將軍家には出給はず、大名がた、風流を盡す。

 若殿原達、棧敷を並べて、其前には、家々の紋、印(しる)したる幕、打たせ、芝居には、上下の諸人、堰(せき)合ひ、揉み合ひて、座を爭ふ。

 其間に、樂屋の幕、打ち上げ、「三番叟」の面箱(めんばこ)捧げ、しめやかに階(はし)がゝりをねり出てたり。

 諸人、靜まりて見居(《み》ゐ)たる所に、棧敷の東のはしより、火、燃出て、折りふし、風、烈しく吹ければ、百餘間の棧敷、一同に燒上(《もえ》あが)る。

 内に持ち運びたる屛風・簾(みす)其外、破子(わりご)・樽・臺(だい)の物、にはかの事なれば、取り退(の)くるに及ばず。

 後には、舞臺・樂屋までも同時に燃上りしかば、見物の諸人、あはてふためき、「我先に」と出んとする程に、四方嚴しく結(ゆひ)まはしたる垣なれば、鼠戶(ねづみ《ど》)一つにて、せき合ひ、揉み合ひ、踏み倒し、打轉び、女・わらべは、手足を踏み折られ、蹴りわられ、傍らには、首髮(かしらかみ)・小袖に、火、燃えつき、燒死(やけし)する者も多かりし。

 甲斐甲斐しきものありて、四方の垣を切りほどきしにぞ、やうやうに、のがるゝ人、多かりし。

 かくて、燒靜《やけしづ》まりしかば、將軍家の仰せによりて、諸大名、承り、一夜のうちに、元のごとく、舞臺・棧敷・外垣までも作り立てらる。

「まことに、大名のしわざは、はからひがたし。」

と感じながら、女・わらべ・地下の町人ばらは、きのふに懲りて、行もの、なし。

 されども、諸國の大名小名、御内《みうち》・外樣(と《ざま》)・中間・小者ばらまで、皆、行ければ、棧敷も芝居も、猶、にぎやかに込み合ひたり。

 され共、喧嘩・口論もなく、無事に仕舞せし處に、其燒けたりし夜より、都のうちに迷ひ子を尋ぬる事、十四、五人に及べり。

 或は、東山・北山・上加茂わたりの子ども、かの騷動に、方角を失ひ、逃げまどふて、足にまかせて行迷ひたる者共なれば、皆、尋ね出して歸りしに、上京今出川邊に、町人の子に次郞といふもの、年十二にして、行方《ゆきがた》なし。

 親、悲しがりて、人、多く雇ひ、諸方を尋ね、山々を巡り求むるに、是れ、なし。

 廿日ばかりの後に、東山吉田の神樂(かぐら)岡に、忙然として、立て居たるを見付て、連れて歸りしに、四、五日の程は、物をも食はず、只、湯水ばかりを飮みて、うかうかとして、物をもいはず、座し居たり。

 

Jiroutennguniau

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。勧進能の桟敷の軒から不審な出火が起こる(右幅)シークエンス。左幅には橋懸かりから登場してきた、シテ役の能楽師。その前にいるのは、幕開きの別格に扱われる祝言曲である「翁(おきな)」である。それは奥にいるシテ役の「音阿彌」が面を着けていないこと、その前に三番叟の面を入れた箱を持った「面箱持ち」がいることから判る。それより、左幅下方の桟敷内(ここが大名の桟敷)に着目したい。そこに僧服を着た鼻の長い異形の人物が描かれており、その怪人の左手の伸ばされた指は、はっきりと出火している怪火を指している。そうして、その僧の前には少年次郎が座っているのである(御丁寧に次郎の前には皿状のものに載せられた菓子のようなものまで描かれてある)。則ち、この天狗が呪術で桟敷に火を放ったその瞬間がスカルプティング・イン・タイムされているのである。但し、本文では舞台の家根に天狗が次郎を抱いて飛び上がり、呪文を唱えると、発火するとあるから、ちょっと違う。

 

 其後、やうやう、人心地つきて、かたりけるやう、

「糺川原(たゞすがはら)に出たれば、五十あまりとみゆる法師の云やう、

『汝、猿樂の能を見たく思はゞ、我袖にとりつけ。』

とて、左の袂に取り付かせ、垣を飛び越えたり。

『汝、物いふな。』

とて、或る大名の棧敷に、つれてのぼられしに、大名も御内の侍も、更に見咎めず、物もいはず。かくて、

『何にても食(くふ)べきか。』

と仰られ、酒・肴・菓子まで取りて給はるを、打ち食ひけれども、人々、見もせず、咎めもせざりし處に、棧敷の並びたる家々の、幕、打ち廻し、大きに奢りたる體(てい)なりければ、此法師、

『あな、にくや。あな、見られずや。何の事もなき奴原(やつばら)の、鬚、くひそらし、「我は顏(がほ)」なる風流づくし、鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな。』

と、ひとりごとして、

『汝は、此の者共のうろたゆる躰(てい)を見たく思ふか。いで、さらば、動き亂れて、うろたふる躰、見せん。』

とて、我を、かきいだき、舞臺のやねにあがり、なにやらん、唱へられしかば、東の棧敷より、火、燃え出て、風、吹きまどひ、百餘間の棧敷、一同に燒《やけ》あがり、貴賤男女、上(うへ)を下(した)へ、もて返し、騷ぎ亂れ、うろたへまどうて、あやまちをいたし、疵をかうぶり、死する者、甚だ、おほし。

 舞臺も樂屋も燒ければ、法師、我をつれて、川原おもてに出つゝ、

『扨。見よや。』

とて、手をたゝき、大《おほき》に笑ひて、

『今は、心を慰みたり。是より、我が住(すみ)かに來よ。』

とて、法勝寺の九重《くぢゆう》の塔の上に昇り、内に入りたりければ、何もなし。只、獨古(どつこ)・錫杖・鈴(れい)を、怖ろしき繪像の佛のやうなる、羽ある者の前に置かれたるばかり也。或る日は、我を塔の中に置きながら、我ばかり出て、地にくだり、法師の姿にて、人に行逢ては、或は、腰をかゞめて、禮をなし、或は、頭(かしら)を打はりなどして通り、又は、人の容(かほ)に唾(つばき)を吐きかけ、又は、人の背(せなか)を突て打倒しなどするに、其人共、更に目にも懸けず、咎めもせず。或は、兩方より來(く)る人の、首・髮・もとゞりを摑みて、二人を一所に引寄するに、此二人、俄に、刀を拔て、打合ひ、切り合ひ、手を負ふて、朱(あけ)になるも、あり。日每にかゝる事共、いくらと、いふ數を知らず。其の外、江州勢田の橋に行て、螢を見、加茂の祭り、松尾の祭禮、「此の頃見る」といふ事あれば、つれて行きつつ、見せられたり。我、問ふやう、

『出て行給ふ道に、人に逢ふて禮をなし給ふは、誰《た》ぞ。』

といへば、

『それは、道心高く、慈悲、正直に、信心あつき人也。此人、邪慾・名利の思ひ、なし。善神、身を離れず、諸天、從ふて、守り給へれば、恐れて、禮をいたせし也。又、頭(かしら)をはりて通りしは、或は、金銀財寳、多く持ちて、貧しき人を侮(あなづ)り、生才覺(なまさいかく)ありて、愚かなる者を下(くだ)し見る、少しの藝能あれば、「是れに過《すぎ》じ」と自慢する奴原は、面(つら)の惡(にく)さに、かうべを、はりて、通る。又、脊中を突き倒しけるは、小學文(こがくもん)ある出家の、内には、道心もなく、慈悲もなく、重邪慾(ぢう《じやよく》)に餘り、外には、學文だてして、人を侮(あなづ)り、徒(いたづら)に信施(しんせ)を食ひ、旦那を貪り、非道濫行なるが憎さに、突き倒したり。又、兩方を引合せて喧嘩せさせし人は、すこしの武勇(ぶよう)を自慢して、人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば、惡(にく)さに、喧嘩させたり。又、つらおもてに、「かはすき」を吐かけしは、是れ、牛を食(くら)ひ、馬を食ひ、或は、家に飼《かひ》置ながら、其の犬・庭鳥《にはとり》を殺し、食(くら)ふ者、己(をのれ)は是れを『榮燿』と思へ共、餘りのきたなさに、唾(つばき)、吐きかけたり。「牛を食ひ、飼鳥《かひどり》を食ふものは、疫神(やくじん)、たよりを得て、疫癘(えきれい)、起こり易し。」と、いへり。總べて、何(なに)の人といふ共、正直・慈悲にして、信ある人は、恐ろしきぞ。たとひ、高位高官の人も、邪慾・非道・慢心あるは、皆、我等が一族となし、便(たよ)りを求めて、心を奪ふなり。』

とて、今より、後々の事まで、語られし。」

とて、つぶさに物語りせしか共、

『其外の事は、世を憚りて、沙汰する事、なし。かくて、今は暇(いとま)とらする。』

とて、塔の上より、つれて下り給ふ、と覺えて、其後は覺えず。」

とぞ、かたりける。

「世の中の事共、後々の有樣、物語せしに違(たが)はず。」

と、いへり。

 それより、法勝寺の塔には、「天狗のすむ」といふ事を、いひはやらかしけるに、「應仁の亂」に燒くづれたり。

[やぶちゃん注:「寬正五年四月」一四六四年。室町幕府将軍は足利義政。

「糺(ただす)の川原」下鴨神社の「糺の森」の南外れにあたる、賀茂川の分岐する辺りを「糺の河原」と呼び、古くは刑場としても利用されていたが、同時に芝居興行もここで行われ、中世には勧進猿楽その他の芸能が盛んに興行された。この辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「勸進の猿能樂あり」事実、この時に勧進猿楽能がここで行われている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『寛正五年の勧進猿楽は四月』の『五・七・十日の三日』に、『鞍馬寺修復を目的に行われ、糺河原勧進猿楽日記と異本糺河原勧進申楽記に詳しい「同五年四月五日糺川原にして勧進の猿楽あり」(本朝将軍記九・源義政・寛正五年)。』とある。二度目があるから、火災に見舞われるそれは、寬正五年四月五日か七日に限定出来る。本書の作品中、正確な日がここまで限定出来るのは特異点である。

「觀世音阿彌」猿楽能役者で三世観世大夫となった観世三郎元重音阿弥(おんあみ/おんなみ 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)。観阿弥の孫で世阿弥の甥。足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を圧倒して、猿楽能が芸界の主流となる道を作り、祖父観阿弥・伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した著名な人物である。当該ウィキによれば、『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」』『と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』とある。詳しい事績はリンク先を見られたい。

「其子、又三郞」音阿弥の嫡子で、四世大夫を継いでいる。正盛・政盛・松盛の諱を伝えるが、上記ウィキによれば、「観世流史参究」によると、『何れの諱も後世の創作とされる』とある。

「棧敷(さんじき)」「さじき」は、古くは「さずき」で、「假庪」「假床」などと書き、「仮の棚又は床(ゆか)」の意であった。それに「棧敷」を当て、訛って「さじき」となったものらしい。その古い「さずき」は記紀に既に見られるが、当時のそれは観覧席ではなく、神事の際の、一段高く床を張った仮設の台、つまり祭祀を行う舞台的な意味を持つものであった。観覧席としての桟敷は平安中期以降に多く造られるようになり、後、劇場・演能場・相撲小屋などに於いて、大衆席である「土間」に対して、一段高く床を張って造られた、上級の観客席を指す語に転じた。

「似合《にあひ》々々に」それぞれの分(ぶん)に相応したものとして。

「百餘間」百八十二メートル超。「新日本古典文学大系」版脚注では、『糺河原勧進猿楽日記では六十三間』(百十四・五三メートル)としつつ、『「サレバ百余間ノ桟敷」』と「太平記」巻第二十七の「田樂長講見物事」を参考引用している。

「簾(みす)」挿絵の右端に貴人の透き見用のそれが描かれてある。

「破子(わりご)」「破籠」とも書く。弁当箱の一種。檜などの白木を折り箱のように造り、中に仕切りを設けて、飯と料理を盛って、ほぼ同じ形の蓋をして携行したもの。

「樽」酒樽。

「臺(だい)の物」大きな台に載せて他者に贈る料理や進物の品。祝儀などの料理には、松竹梅などの目出度い飾り物にして盛りつけられる。

「鼠戶(ねづみ《ど》)」鼠木戸(ねづみきど)。江戸時代の芝居小屋・見世物小屋などの木戸に設けた、無料入場を防ぐための狭い戸。時代が合わないのはご愛敬。

「首髮(かしらかみ)」頭髪に同じ。

「甲斐甲斐しきもの」動作が機敏で手際がよく、自身の危険を顧みずに対処する、頼もしい者。

「御内《みうち》」「新日本古典文学大系」版脚注に『譜代の家臣』とする。

「外樣(と《ざま》)」同前で『「御内」でない家臣』とある。

「東山吉田の神樂(かぐら)岡」現在の京都市左京区南部にある吉田山の別称。標高百三メートル。

「何にても食(くふ)べきか。」「何か食いたいか?」。

「鬚、くひそらし」「髭食ひ反らす」という語がある。「髭を口に銜えたように生やし、その先の方を反らす。」の意で、威張ったさまをいう。威厳と威嚇のために鬚の両端を上にそらしている馬鹿面を軽蔑した謂い。

「我は顏(がほ)」いかにも「我こそは」と虚勢を張った面構えのこと。

「鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな」底本も元禄本もいずれも「うそやく」と清音だが、「新日本古典文学大系」版では『うそやぐ』とある。「うぞやく」とも言い、「鼻がくすぐったくなる・おかしくて笑いたくなる」の意で、鎌倉中期には既にあった語である。

「法勝寺」(ほつ(ほふ)しようじ(ほっしょうじ))は平安から室町まで平安京の東郊、白河にあった寺院。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つの内で最初にして最大の寺であった。朝廷から厚く保護されたが、「応仁の乱」の最中の応仁二(一四六八)年八月の山名宗全らの西軍による岡崎攻撃によって青蓮院などとともに焼失し、更に、その再建がままならないまま、享禄四(一五三一)年二月、今度は管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて、再度、焼失、再建されなかった。ここが跡地当該ウィキに拠った。

「九重《くぢゆう》の塔」八角九重塔。同寺の境内にあった八角形の九重の塔で、暦応三(一三四〇)年の記録では高さは二十七丈(約八十一メートル)あったとされる高層堂塔である。屋根は十重あるが、初重は裳階なので数えない。上記ウィキによれば、現在の『京都市動物園内の観覧車がある所に建立されていた』とあるから、ここである。同ウィキの『法勝寺九重塔模型(京都市平安京創生館)』の画像をリンクさせておく。これだけの高さがあれば、次郎が塔に残されたにも拘わらず、そこから出かけていった天狗が、市中を闊歩するさまがつぶさに見えたというのが、腑に落ちる。

「鈴(れい)」密教の法具である金剛杵(こんごうしょ:元は古代インドの投擲武器)である独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と並ぶ金剛鈴(こんごうれい)のこと。諸尊を驚覚し、歓喜させるために鳴らすもので、その柄が五鈷・三鈷・独鈷・宝珠・塔の形をした五種がある。大壇の中央及びその四方に置く。ネットの「精選版日本国語大辞典」の「金剛鈴」の挿絵画像を参照されたい。これは三鈷鈴である。私はタイで求めた五鈷杵が、今、目の前にある。

「松尾の祭禮」京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社の例祭神幸祭及び還幸祭は、現在、四月下旬から五月中旬に行われる。

「善神」「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏法擁護の諸神、特に四天王と十二神将』とする。

「諸天」同前で『天部の仏たち』とする。前の四天王と十二神将も護法神のグループである天部に属するが、他に、梵天・帝釈天・吉祥天・弁才天・伎芸天・鬼子母神・大黒天、さらに竜王・夜叉・聖天・金剛力士・韋駄天・天龍八部衆などが含まれる。仏教のピラミッドでは如来・菩薩・明王・天の四番目のセクトとなる。

『人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば』「新日本古典文学大系」版脚注の『他の者を認めようとしない憎たらしい顔つきを見るに見かねて』は適確な訳である。

「かはすき」は「滓吐」で、名詞。「痰や唾を吐くこと・その吐かれた痰や唾」の意。

「榮燿」ここは「身分相応の当然の褒賞・贅沢」の意。

「其外の事は」「新日本古典文学大系」版脚注には、『その他政治向きにかかわる話は』とある。大天狗でさえ、高度な政治的判断で、邪まなどこぞの政府をも、忖度するたぁ、情けなや!!!――]

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