伽婢子卷之十三
○天狗(てんぐ)塔中(たふちう)に棲(すむ)
寬正(かんしやう)五年四月に、都の東北糺(ただす)の川原にして、勸進の猿能樂あり。觀世音阿彌、同じく、其子、又三郞を太夫として、狂言師・役者、多し。
「此比《このごろ》の見物《みもの》なり。」
とて、京中の上下、足を空になし、諸人《しよにん》、蟻の如く集り、星の如くつどひて、是れを見物す。
將軍家も三たびまで、棧敷(さんじき)、構へさせて、御覽あり。
大名・小名、似合《にあひ》々々に、絹・小袖・金銀を出し與へらる。其の積み上ぐる事、日每に山の如し。
或る日、將軍家には出給はず、大名がた、風流を盡す。
若殿原達、棧敷を並べて、其前には、家々の紋、印(しる)したる幕、打たせ、芝居には、上下の諸人、堰(せき)合ひ、揉み合ひて、座を爭ふ。
其間に、樂屋の幕、打ち上げ、「三番叟」の面箱(めんばこ)捧げ、しめやかに階(はし)がゝりをねり出てたり。
諸人、靜まりて見居(《み》ゐ)たる所に、棧敷の東のはしより、火、燃出て、折りふし、風、烈しく吹ければ、百餘間の棧敷、一同に燒上(《もえ》あが)る。
内に持ち運びたる屛風・簾(みす)其外、破子(わりご)・樽・臺(だい)の物、にはかの事なれば、取り退(の)くるに及ばず。
後には、舞臺・樂屋までも同時に燃上りしかば、見物の諸人、あはてふためき、「我先に」と出んとする程に、四方嚴しく結(ゆひ)まはしたる垣なれば、鼠戶(ねづみ《ど》)一つにて、せき合ひ、揉み合ひ、踏み倒し、打轉び、女・わらべは、手足を踏み折られ、蹴りわられ、傍らには、首髮(かしらかみ)・小袖に、火、燃えつき、燒死(やけし)する者も多かりし。
甲斐甲斐しきものありて、四方の垣を切りほどきしにぞ、やうやうに、のがるゝ人、多かりし。
かくて、燒靜《やけしづ》まりしかば、將軍家の仰せによりて、諸大名、承り、一夜のうちに、元のごとく、舞臺・棧敷・外垣までも作り立てらる。
「まことに、大名のしわざは、はからひがたし。」
と感じながら、女・わらべ・地下の町人ばらは、きのふに懲りて、行もの、なし。
されども、諸國の大名小名、御内《みうち》・外樣(と《ざま》)・中間・小者ばらまで、皆、行ければ、棧敷も芝居も、猶、にぎやかに込み合ひたり。
され共、喧嘩・口論もなく、無事に仕舞せし處に、其燒けたりし夜より、都のうちに迷ひ子を尋ぬる事、十四、五人に及べり。
或は、東山・北山・上加茂わたりの子ども、かの騷動に、方角を失ひ、逃げまどふて、足にまかせて行迷ひたる者共なれば、皆、尋ね出して歸りしに、上京今出川邊に、町人の子に次郞といふもの、年十二にして、行方《ゆきがた》なし。
親、悲しがりて、人、多く雇ひ、諸方を尋ね、山々を巡り求むるに、是れ、なし。
廿日ばかりの後に、東山吉田の神樂(かぐら)岡に、忙然として、立て居たるを見付て、連れて歸りしに、四、五日の程は、物をも食はず、只、湯水ばかりを飮みて、うかうかとして、物をもいはず、座し居たり。
[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。勧進能の桟敷の軒から不審な出火が起こる(右幅)シークエンス。左幅には橋懸かりから登場してきた、シテ役の能楽師。その前にいるのは、幕開きの別格に扱われる祝言曲である「翁(おきな)」である。それは奥にいるシテ役の「音阿彌」が面を着けていないこと、その前に三番叟の面を入れた箱を持った「面箱持ち」がいることから判る。それより、左幅下方の桟敷内(ここが大名の桟敷)に着目したい。そこに僧服を着た鼻の長い異形の人物が描かれており、その怪人の左手の伸ばされた指は、はっきりと出火している怪火を指している。そうして、その僧の前には少年次郎が座っているのである(御丁寧に次郎の前には皿状のものに載せられた菓子のようなものまで描かれてある)。則ち、この天狗が呪術で桟敷に火を放ったその瞬間がスカルプティング・イン・タイムされているのである。但し、本文では舞台の家根に天狗が次郎を抱いて飛び上がり、呪文を唱えると、発火するとあるから、ちょっと違う。]
其後、やうやう、人心地つきて、かたりけるやう、
「糺川原(たゞすがはら)に出たれば、五十あまりとみゆる法師の云やう、
『汝、猿樂の能を見たく思はゞ、我袖にとりつけ。』
とて、左の袂に取り付かせ、垣を飛び越えたり。
『汝、物いふな。』
とて、或る大名の棧敷に、つれてのぼられしに、大名も御内の侍も、更に見咎めず、物もいはず。かくて、
『何にても食(くふ)べきか。』
と仰られ、酒・肴・菓子まで取りて給はるを、打ち食ひけれども、人々、見もせず、咎めもせざりし處に、棧敷の並びたる家々の、幕、打ち廻し、大きに奢りたる體(てい)なりければ、此法師、
『あな、にくや。あな、見られずや。何の事もなき奴原(やつばら)の、鬚、くひそらし、「我は顏(がほ)」なる風流づくし、鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな。』
と、ひとりごとして、
『汝は、此の者共のうろたゆる躰(てい)を見たく思ふか。いで、さらば、動き亂れて、うろたふる躰、見せん。』
とて、我を、かきいだき、舞臺のやねにあがり、なにやらん、唱へられしかば、東の棧敷より、火、燃え出て、風、吹きまどひ、百餘間の棧敷、一同に燒《やけ》あがり、貴賤男女、上(うへ)を下(した)へ、もて返し、騷ぎ亂れ、うろたへまどうて、あやまちをいたし、疵をかうぶり、死する者、甚だ、おほし。
舞臺も樂屋も燒ければ、法師、我をつれて、川原おもてに出つゝ、
『扨。見よや。』
とて、手をたゝき、大《おほき》に笑ひて、
『今は、心を慰みたり。是より、我が住(すみ)かに來よ。』
とて、法勝寺の九重《くぢゆう》の塔の上に昇り、内に入りたりければ、何もなし。只、獨古(どつこ)・錫杖・鈴(れい)を、怖ろしき繪像の佛のやうなる、羽ある者の前に置かれたるばかり也。或る日は、我を塔の中に置きながら、我ばかり出て、地にくだり、法師の姿にて、人に行逢ては、或は、腰をかゞめて、禮をなし、或は、頭(かしら)を打はりなどして通り、又は、人の容(かほ)に唾(つばき)を吐きかけ、又は、人の背(せなか)を突て打倒しなどするに、其人共、更に目にも懸けず、咎めもせず。或は、兩方より來(く)る人の、首・髮・もとゞりを摑みて、二人を一所に引寄するに、此二人、俄に、刀を拔て、打合ひ、切り合ひ、手を負ふて、朱(あけ)になるも、あり。日每にかゝる事共、いくらと、いふ數を知らず。其の外、江州勢田の橋に行て、螢を見、加茂の祭り、松尾の祭禮、「此の頃見る」といふ事あれば、つれて行きつつ、見せられたり。我、問ふやう、
『出て行給ふ道に、人に逢ふて禮をなし給ふは、誰《た》ぞ。』
といへば、
『それは、道心高く、慈悲、正直に、信心あつき人也。此人、邪慾・名利の思ひ、なし。善神、身を離れず、諸天、從ふて、守り給へれば、恐れて、禮をいたせし也。又、頭(かしら)をはりて通りしは、或は、金銀財寳、多く持ちて、貧しき人を侮(あなづ)り、生才覺(なまさいかく)ありて、愚かなる者を下(くだ)し見る、少しの藝能あれば、「是れに過《すぎ》じ」と自慢する奴原は、面(つら)の惡(にく)さに、かうべを、はりて、通る。又、脊中を突き倒しけるは、小學文(こがくもん)ある出家の、内には、道心もなく、慈悲もなく、重邪慾(ぢう《じやよく》)に餘り、外には、學文だてして、人を侮(あなづ)り、徒(いたづら)に信施(しんせ)を食ひ、旦那を貪り、非道濫行なるが憎さに、突き倒したり。又、兩方を引合せて喧嘩せさせし人は、すこしの武勇(ぶよう)を自慢して、人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば、惡(にく)さに、喧嘩させたり。又、つらおもてに、「かはすき」を吐かけしは、是れ、牛を食(くら)ひ、馬を食ひ、或は、家に飼《かひ》置ながら、其の犬・庭鳥《にはとり》を殺し、食(くら)ふ者、己(をのれ)は是れを『榮燿』と思へ共、餘りのきたなさに、唾(つばき)、吐きかけたり。「牛を食ひ、飼鳥《かひどり》を食ふものは、疫神(やくじん)、たよりを得て、疫癘(えきれい)、起こり易し。」と、いへり。總べて、何(なに)の人といふ共、正直・慈悲にして、信ある人は、恐ろしきぞ。たとひ、高位高官の人も、邪慾・非道・慢心あるは、皆、我等が一族となし、便(たよ)りを求めて、心を奪ふなり。』
とて、今より、後々の事まで、語られし。」
とて、つぶさに物語りせしか共、
『其外の事は、世を憚りて、沙汰する事、なし。かくて、今は暇(いとま)とらする。』
とて、塔の上より、つれて下り給ふ、と覺えて、其後は覺えず。」
とぞ、かたりける。
「世の中の事共、後々の有樣、物語せしに違(たが)はず。」
と、いへり。
それより、法勝寺の塔には、「天狗のすむ」といふ事を、いひはやらかしけるに、「應仁の亂」に燒くづれたり。
[やぶちゃん注:「寬正五年四月」一四六四年。室町幕府将軍は足利義政。
「糺(ただす)の川原」下鴨神社の「糺の森」の南外れにあたる、賀茂川の分岐する辺りを「糺の河原」と呼び、古くは刑場としても利用されていたが、同時に芝居興行もここで行われ、中世には勧進猿楽その他の芸能が盛んに興行された。この辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「勸進の猿能樂あり」事実、この時に勧進猿楽能がここで行われている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『寛正五年の勧進猿楽は四月』の『五・七・十日の三日』に、『鞍馬寺修復を目的に行われ、糺河原勧進猿楽日記と異本糺河原勧進申楽記に詳しい「同五年四月五日糺川原にして勧進の猿楽あり」(本朝将軍記九・源義政・寛正五年)。』とある。二度目があるから、火災に見舞われるそれは、寬正五年四月五日か七日に限定出来る。本書の作品中、正確な日がここまで限定出来るのは特異点である。
「觀世音阿彌」猿楽能役者で三世観世大夫となった観世三郎元重音阿弥(おんあみ/おんなみ 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)。観阿弥の孫で世阿弥の甥。足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を圧倒して、猿楽能が芸界の主流となる道を作り、祖父観阿弥・伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した著名な人物である。当該ウィキによれば、『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」』『と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』とある。詳しい事績はリンク先を見られたい。
「其子、又三郞」音阿弥の嫡子で、四世大夫を継いでいる。正盛・政盛・松盛の諱を伝えるが、上記ウィキによれば、「観世流史参究」によると、『何れの諱も後世の創作とされる』とある。
「棧敷(さんじき)」「さじき」は、古くは「さずき」で、「假庪」「假床」などと書き、「仮の棚又は床(ゆか)」の意であった。それに「棧敷」を当て、訛って「さじき」となったものらしい。その古い「さずき」は記紀に既に見られるが、当時のそれは観覧席ではなく、神事の際の、一段高く床を張った仮設の台、つまり祭祀を行う舞台的な意味を持つものであった。観覧席としての桟敷は平安中期以降に多く造られるようになり、後、劇場・演能場・相撲小屋などに於いて、大衆席である「土間」に対して、一段高く床を張って造られた、上級の観客席を指す語に転じた。
「似合《にあひ》々々に」それぞれの分(ぶん)に相応したものとして。
「百餘間」百八十二メートル超。「新日本古典文学大系」版脚注では、『糺河原勧進猿楽日記では六十三間』(百十四・五三メートル)としつつ、『「サレバ百余間ノ桟敷」』と「太平記」巻第二十七の「田樂付長講見物事」を参考引用している。
「簾(みす)」挿絵の右端に貴人の透き見用のそれが描かれてある。
「破子(わりご)」「破籠」とも書く。弁当箱の一種。檜などの白木を折り箱のように造り、中に仕切りを設けて、飯と料理を盛って、ほぼ同じ形の蓋をして携行したもの。
「樽」酒樽。
「臺(だい)の物」大きな台に載せて他者に贈る料理や進物の品。祝儀などの料理には、松竹梅などの目出度い飾り物にして盛りつけられる。
「鼠戶(ねづみ《ど》)」鼠木戸(ねづみきど)。江戸時代の芝居小屋・見世物小屋などの木戸に設けた、無料入場を防ぐための狭い戸。時代が合わないのはご愛敬。
「首髮(かしらかみ)」頭髪に同じ。
「甲斐甲斐しきもの」動作が機敏で手際がよく、自身の危険を顧みずに対処する、頼もしい者。
「御内《みうち》」「新日本古典文学大系」版脚注に『譜代の家臣』とする。
「外樣(と《ざま》)」同前で『「御内」でない家臣』とある。
「東山吉田の神樂(かぐら)岡」現在の京都市左京区南部にある吉田山の別称。標高百三メートル。
「何にても食(くふ)べきか。」「何か食いたいか?」。
「鬚、くひそらし」「髭食ひ反らす」という語がある。「髭を口に銜えたように生やし、その先の方を反らす。」の意で、威張ったさまをいう。威厳と威嚇のために鬚の両端を上にそらしている馬鹿面を軽蔑した謂い。
「我は顏(がほ)」いかにも「我こそは」と虚勢を張った面構えのこと。
「鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな」底本も元禄本もいずれも「うそやく」と清音だが、「新日本古典文学大系」版では『うそやぐ』とある。「うぞやく」とも言い、「鼻がくすぐったくなる・おかしくて笑いたくなる」の意で、鎌倉中期には既にあった語である。
「法勝寺」(ほつ(ほふ)しようじ(ほっしょうじ))は平安から室町まで平安京の東郊、白河にあった寺院。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つの内で最初にして最大の寺であった。朝廷から厚く保護されたが、「応仁の乱」の最中の応仁二(一四六八)年八月の山名宗全らの西軍による岡崎攻撃によって青蓮院などとともに焼失し、更に、その再建がままならないまま、享禄四(一五三一)年二月、今度は管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて、再度、焼失、再建されなかった。ここが跡地。当該ウィキに拠った。
「九重《くぢゆう》の塔」八角九重塔。同寺の境内にあった八角形の九重の塔で、暦応三(一三四〇)年の記録では高さは二十七丈(約八十一メートル)あったとされる高層堂塔である。屋根は十重あるが、初重は裳階なので数えない。上記ウィキによれば、現在の『京都市動物園内の観覧車がある所に建立されていた』とあるから、ここである。同ウィキの『法勝寺九重塔模型(京都市平安京創生館)』の画像をリンクさせておく。これだけの高さがあれば、次郎が塔に残されたにも拘わらず、そこから出かけていった天狗が、市中を闊歩するさまがつぶさに見えたというのが、腑に落ちる。
「鈴(れい)」密教の法具である金剛杵(こんごうしょ:元は古代インドの投擲武器)である独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と並ぶ金剛鈴(こんごうれい)のこと。諸尊を驚覚し、歓喜させるために鳴らすもので、その柄が五鈷・三鈷・独鈷・宝珠・塔の形をした五種がある。大壇の中央及びその四方に置く。ネットの「精選版日本国語大辞典」の「金剛鈴」の挿絵画像を参照されたい。これは三鈷鈴である。私はタイで求めた五鈷杵が、今、目の前にある。
「松尾の祭禮」京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社の例祭神幸祭及び還幸祭は、現在、四月下旬から五月中旬に行われる。
「善神」「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏法擁護の諸神、特に四天王と十二神将』とする。
「諸天」同前で『天部の仏たち』とする。前の四天王と十二神将も護法神のグループである天部に属するが、他に、梵天・帝釈天・吉祥天・弁才天・伎芸天・鬼子母神・大黒天、さらに竜王・夜叉・聖天・金剛力士・韋駄天・天龍八部衆などが含まれる。仏教のピラミッドでは如来・菩薩・明王・天の四番目のセクトとなる。
『人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば』「新日本古典文学大系」版脚注の『他の者を認めようとしない憎たらしい顔つきを見るに見かねて』は適確な訳である。
「かはすき」は「滓吐」で、名詞。「痰や唾を吐くこと・その吐かれた痰や唾」の意。
「榮燿」ここは「身分相応の当然の褒賞・贅沢」の意。
「其外の事は」「新日本古典文学大系」版脚注には、『その他政治向きにかかわる話は』とある。大天狗でさえ、高度な政治的判断で、邪まなどこぞの政府をも、忖度するたぁ、情けなや!!!――]