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カテゴリー「浅井了意「伽婢子」」の47件の記事

2021/10/17

伽婢子卷之十 了仙貧窮 付天狗道 / 伽婢子卷之十~了

 

了仙貧窮(れうせんひんくう) 《つけたり》天狗道(てんぐだう)

 

Ryosen1

 

[やぶちゃん注:今回は細部の状態がいい「新日本古典文学大系」版の挿絵(三幅)をトリミング補正した。右奥に立つのが、栄俊。因みに、主人公了仙は、輿に載っていて、見えない。]

 

 釋の了仙法師は播州賀古郡(かこのこほり)の人なり。いとけなくして、父母におくれ、郡(こほり)の草堂に籠りて、出家し、十七歲して、關東におもむき、相州足利の學校に三十餘年の功を積(つ)み、内外(《ない》げ)二典(じてん)に渡り、神哥(しんか)兩道にたづさはり、博學多聞(たくがくたもん)の名をほどこし、所々の談林に遊ぶ。論義辯舌ありて、諸人、皆、かたぶき伏(ふ)して、更にこれに敵する事、かなひがたし。然(しか)れば、その天性(むまれつき)、逸哲佯狂(いつてつようきやう)の風あり。命分(めい《ぶん》)、甚だ薄く、一重(《ひと》へ)の紙衣(かみこ)をだに、肩に、まつたからず。墨染の衣は、袖、破れ、その日を暮すべき糧(かて)に乏(ともし)し。

[やぶちゃん注:「釋」は「釋氏」の略で、僧侶のこと。

「了仙」不詳。架空人物であろう。

「播州賀古郡」現存する加古郡は兵庫県中南部にあるが、元は加古川以東を占めており、旧郡域は広大で、西部は現在の加古川市・高砂市に相当する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くは「賀古」「賀胡」とも書き、播磨国十三郡の一つであった。

「相州足利の學校」ママ。「伽婢子卷之八 邪神を責殺」の「相模の國足利の學校」の私の注を参照。

「内外二典」仏教用語で「内典」は広義の仏教典籍・仏典を指し、「外典」仏教以外の書を広く指すが、本邦では主として儒学の教典を指す。

「神哥(しんか)兩道」宗教としての神道と、和歌の道(歌道・歌学)。

「逸哲佯狂(いつてつようきやう)」読みの後半は底本では「しやうきやう」。元禄版に拠って訂した。但し、正しくは「やうきやう」でなくてはならぬ。現代仮名遣は「いってつようきょう」。「逸哲」は「新日本古典文学大系」版脚注の言うように、「一徹」の当て字であろう(江戸時代には「一鐡」の当て字も広く行われた。ただそれで出すとエンディングの如何にもな伏線になるので、了意は敬遠したのかも知れない)。思い込んだり、言い出したりしたら、是が非でも押し通そうとする気の強い性質。一刻者。「佯狂」偽って狂気を装うこと。古く中国の隠者が世俗の人間を遠ざけるために振る舞ったポーズである。

「命分」本来は既に与えられている寿命の意であるが、ここはそれを転じて「運命」「幸不幸を含む生涯の巡り合わせ」の謂い。

「一重の紙衣」単衣の薄い寝具。「紙子」とも書く。和紙を蒟蒻糊で繋ぎ合せて柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解してから縫った和服。防寒衣料や寝具として用いられた。ここはそれさえも擦り切れ、肩をさえ覆うことが出来ぬというありさまを言う。]

 

 此故に、學智の功は、かさなりながら、長老・上人にもならず、綱位(かうゐ)の數にもあづからぬ平僧にて、年月を重ぬるまゝ、名利(みようり)の心、さらに絕えがたし。

[やぶちゃん注:「綱位」僧綱(そうごう)のこと。本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。]

 

 みづから、深く嘆きて曰く、

「了仙よ、了仙よ、汝、學問、よく勉めて、才智あり、心ざし、邪(よこしま)なく、名は世に聞こえながら、いかに、身一つを過《すぎ》わび、一寺の主(あるじ)ともならざるや。」

と。

[やぶちゃん注:「身一つを過わび」「かくも、おのが身一つしかなきに、それをたった一日でさえ、養うに、困りて果て」。]

 又、みづから、解(げ)して曰く、

「安然(《あん》ねん)は堂の軒に飢えて、桓舜(くはんしゆん)は神の社に祈りし。これ、道義の不足ならんや。役(えん)の小角(せうかく)は豆州(づしう)にながされ、覺鑁(かくばん)は根來(ねごろ)に苦しみし。これ、行德のおろそかなるにあらず。敎因(けういん)は僧戶(《そう》こ)・封祿(ほうろく)ありて、安海(《あん》かい)は綱位(かうゐ)にいたらざりし。これ、智と愚との故ならず。沙彌(しやみ)は溫(あたゝ)かに衣(き)て、飽(あく)まで、喰(くら)ひ、主恩(しゆおん)は飢寒(きかん)にせまりぬ。これ、才能の不敏(《ふ》びん)なるによらんや。これ、すでに、過去世の因緣なり。儒には天命といふ。了仙、不幸にして、此《この》そしりを、うく。何ぞ因果の理《ことわり》に迷うて、みだりに名利《みやうり》を求めんや。」

とて、みずから、問答して、心を慰みけり。

[やぶちゃん注:「みづから、解(げ)して曰く」禅の修業によく見られるもので、独り、自ら問いを発して、また、自らそれに解答を与えることを指す。

「安然」平安前期の天台宗の僧安然(承和八(八四一)年?~延喜一五(九一五)年?)。五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛などと称される。近江生まれ。最澄と同族と伝えられている。初め、慈覚大師円仁に就き、円仁の死後は遍昭に師事して、顕密二教の他、戒学・悉曇学をも考究した。元慶元(八七七)年に唐に渡ろうとしたが、断念。元慶四年に「悉曇蔵」を著した。元慶八年に阿闍梨となって元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建し、天台教学・密教教学の研究に専念した。彼は「大日経」を中心とする密教重視を極限まで進めて「台密」(天台宗に於ける密教)を大成した人物として知られる。地方伝承として、山形県米沢市にある塩野毘沙門堂の本尊を開眼し、その後、南陽市時沢にて入滅したといった話があり、南陽市には「安然入定窟」が伝えられてある(当該ウィキに拠る)。「新日本古典文学大系」版脚注では、『その伝記に定まらない部分があって、「堂の軒に飢て」の詳細も不明。「安然和尚、天下ノ智者、猶業貧ニシテ餓死セラレケリト云ヘリ」(雑談集五)が近い』とある。

「桓舜」(かんしゅん 天元元(九七八)年~天喜五(一〇五七)年)は平安中期の天台僧。父は備後守源致遠(文徳源氏)。月蔵房と号する。天台座主慶円に天台教学を学び、貞円・日助・遍救とともに「比叡山の四傑」と称された。一時、世俗を嫌って、伊豆国で修行していた時期もあるが、後に比叡山に戻った。長和五(一〇一六)年、藤原道長の法華三十講の講師となって以来、朝廷の貴族の間で活躍した。長元八(一〇三五)年に権律師、長暦三(一〇三九)年に極楽寺座主、次いで法性寺座主と昇任し、天喜二(一〇五四)年には権大僧都に至った(当該ウィキに拠る)。歴史的仮名遣は「くわんしゆん」が正しい。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「神の社に祈りし」は、『福徳を日吉山王に祈り、さらに稲荷大社に祈って霊験を蒙った』という『古今著聞集一、沙石集一、元亨釈書五など』に記された事績を指すとある。

「役(えん)の小角(せうかく)」修験道の祖とされる「役の行者」のこと。七世紀末に大和の葛木(かつらぎ)山にいたとされる呪術者。「役小角(えんのおづぬ)」とも呼ぶ。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)とあり、讒言により秩序を乱したとして、文武天皇三(六九九)年に伊豆に流されたとする(それでも自在に空を行き来したという)。鬼神「前鬼」・「後鬼」を使役して諸事を手伝わせたとされる。山岳仏教のある各山に伝説が残る。

「覺鎫(かくばん)」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、当該ウィキに拠った)。「根來(ねごろ)に苦しみし」については、「新日本古典文学大系」版脚注に、彼は『高野山伝法院にあったが、山徒の排斥にあい、根来寺に移り、その地で没した(密厳上人行状記・下)』とある。

「敎因(けういん)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『伝未詳』とのみある。

「僧戶(《そう》こ)」公式な僧籍。

「封祿(ほうろく)」俸禄に同じ。公的に授けられた扶持米及びそれに代わる食物や物品の給与。

「安海」生没年未詳の平安中期の天台僧。京の人。比叡山の興良について出家し、長保五(一〇〇三)年、源信が宋の智礼に二十七条の質問状を送る際、安海は「上・中・下」の解答を事前に想定して作り、智・礼の解答は「中」か「下」であろうと予言し、結果は、その通りであったという。参照した講談社「日本人名大辞典」には、当時の二大学匠を評したものに、「源信は、広いが、浅いので、着物を捲くって渡れる。覚運は、深いが、狭いから、跨いで越えられる。」という格言があるそうである。「綱位(かうゐ)にいたらざりし」とあるのは、「新日本古典文学大系」版脚注に『若死にした』とあることと関係があろう。

「沙彌」サンスクリット語の「シュラーマネーラ」の漢音写。「息慈」などと訳す。出家して沙弥十戒を受け、比丘となるまでの修行中の僧。女子は「沙弥尼」と呼ぶ。年齢によって三種に分け、七〜十三歳を「駆烏(くう)沙弥」、十四〜十九歳を「応法沙弥」、二十歳以上を「名字沙弥」と呼んだ。また、「未だ修行が未熟な者」の意から、形は法体(ほったい)でも、妻子を持ち、世俗の生業に従っている者、つまり、「入道」とか「法師」と呼ばれる市井にある仏教者を、日本では広く「沙弥」と称した。中世の沙弥には武士が多い。沙門(=僧)とは明確に区別された呼称であった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を参照した)。

「主恩」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『平安中期の興福寺の学僧』の名とし、『筑前博多に流謫されてことがあり、「飢寒にせまりぬ」はそれを指すか』とある。

「不敏」才知・才能に欠くこと。

「天文の末の年」天文(てんぶん)は天文二四年十月二十三日(ユリウス暦一五五五年十一月七日)に弘治に改元している。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く寺に勤める役僧を指す。

 

 所化(しよけ)の伴頭(ばんとう)榮俊(えいしゆん)といふものは、學問の友として、久しく斷金(だんきん)の契(ちぎり)をいたせしが、ある時、藤澤邊(へん)に出《いで》ける道にして、了仙に行合《ゆきあひ》たり。

[やぶちゃん注:「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く、寺に勤める役僧を指す。

「伴頭」ここは修行僧衆の中でも筆頭に立つ僧の意。

「榮俊」不詳。同じく架空人物であろう。

「斷金の契」固く結ばれた友情の喩え。元は中国の北魏の地誌「水経注」(全四十巻。撰者は酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年の成立と推定される)の巻三十一にある「淯水」の末尾にあるエピソードに基づくとされるが、その濫觴は「易経」の「繫辭(けいじ)伝」で、「二人同心、其利斷金」(二人、心を同じくすれば、其の利(と)きこと、金を斷つ。)である。]

 

 漆塗の手輿(たごし)にのり、白丁(はくてう)八人に、かゝせ、曲彔(きよくろく)・びかう・朱傘(しゆからかさ)、おなじく白丁にもたせ、同宿、七、八人、うるはしく出立《いでたち》、雜色(ざふしき)に先を拂はせ、さゞめき來るよそほひ、往昔(むかし)に替りて巍々堂々(ぎぎだうだう)たる事、ひとへに國師・僧正の儀式に似たり。

[やぶちゃん注:「白丁」元は下級武士の着用する狩衣の一種で、白の布子張りであったので「白張」とも書いた。律令制の諸官司・神社・駅 (うまや) などに配属されて雑務を行う無位無官の者や、諸家の傘持・沓持・口取など仕丁がこれを着たところから、貴人に従う下人を、広く、かく称した。

「曲彔」主として僧侶が法会式などで使う椅子の一種。背凭れの笠木(かさぎ)が曲線を描いているか、または、背凭れと肘掛けとが、曲線を描いた一本の棒で繋がっているのが特徴である。「曲彔」は「曲彔木」の略で、「彔」は「木を削(はつ)る(削ぎ落とす)」の意であるから、「木を削って曲線を造形した椅子」の意となる。鎌倉時代に中国から渡来したもので、最初は、専ら、禅宗で用いられたが、後には他の宗派や、仏教に拘わらず一般でも使うようになった。特に桃山時代には大流行した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。最初の挿絵の左幅の行列の最後で白丁が肩に載せているのがそれ。]

「びかう」「鼻高履」。「鼻廣履」「鼻荒履」(これらは歴史的仮名遣は「くわう」となる)とも書いた。僧侶が法衣に合わせて用いる履(くつ)で、革製で、先端を高く反って作った浅沓(あさぐつ)。鼻高。

「朱傘」地紙を朱色に染めた差し傘。長柄を附け、戸外の法会式などで、導師などに差し翳して日を除ける用とした。公家も盛んに用いた。先の挿絵の「曲彔」の前で白丁が肩にかけて持っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、サイズを『柄八尺、大きさ三尺二寸』とする。

「同宿」同じ僧坊に住む僧。挿絵では二人のみ描かれている。

「雜色」貴顕の家や官司などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者の称。白丁より格下。

「巍々堂々」姿が堂々としていて、厳(いか)めしく立派なさま。

「國師」天皇の導師となる僧位を指す。

「僧正」僧綱の最高ランクである法印大和尚位(だいかしょうい)の大僧正の次席。]

 

 了仙は、九條の袈裟に、座具、取そへて、身に纏ひ、檜扇(ひあふぎ)さし出し、

「和僧は、榮俊ならづや。」

とて、輿より、おり下り、手をとり、淚を流して、昔今《むかしいま》の物語りす。

[やぶちゃん注:「九條の袈裟」尼の着る三種の袈裟「三衣」(「さんえ」或いは「さんね」)の最も正式で豪華な僧伽梨(そうぎやり)。「大衣」「九条衣」とも呼び、布九幅を横に綴って誂えた袈裟。これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着である。後の二種は「鬱多羅僧」(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)と「安陀会」(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。比丘六物(三衣と鉢・尼師壇(にしだん:坐具)・飲み水をこすための漉水嚢(ろくすいのう)の六つ)の一つでもある。

「檜扇」檜(ひのき)の白木のままの細長い薄板を重ね、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。儀礼用の所持具であって、煽る実用のものではない。]

 

 榮俊、いひけるは、

「君と別れ隔たる事、わづかに半年ばかりの間に、よく、みづから、綱位たかく、靑雲の上にのぼり、封祿(ほうろく)あつく、朱門のうちに交はり、衣服・袈裟の花やかなる出《いで》たち、手輿、同宿のさかんなる有樣、まことに、學智、秀(ひい)でたる所、心ざしを遂ぐる時也。僧法師の本意《ほい》は、こゝに極まれり。羨しくこそ。」

といふ。

 了仙、答へて曰く、

「我、今、一職(《いつ》しよく)をうけて勉め行ふ。更に隱すべきにあらず。その形勢(ありさま)、見せ奉らん。こなたへ、おはせよ。」

とて、光明寺の堂に行到《ゆきいた》る。人、さらに、見咎むる事、なし。

[やぶちゃん注:「藤澤邊」(私の住まいはまさにその辺で、寝室の窓の外の裏山は藤沢市であり、そもそもが私のいる辺りは大船でも元は藤沢に属していた)での邂逅から、突然、直線でも七キロメートル以上離れた由比ヶ浜東の光明寺(了仙の墓所がある)が出ること自体が、既にして異界に栄俊は立ち入っていることを意味する。]

 

 夜《よ》、すでに後夜(ご《や》)[やぶちゃん注:夜半から夜明け前の頃。現在の午前四時前後。]に及ぶ。

 了仙、語りけるは、

「我、つねに慢心あり。然れども、更に非道をなさず。平生、貧賤なる事を怨み憤りて、因果の理《ことわり》としりながら、これに惑へるを似て、死して天狗道に落ち、學頭の職に選ばれ、文を綴り、書を考へて、その義理を、あきらめ、傳ゆ。

 わが天狗道は、魔道なりと雖も、鬼神に橫道(わう《だう》)なきが故に、人をえらび、器量によりて、その職をつかさどらしむ。

 人間《じんかん》は、たゞ賄(まひなひ)を以て、ひいきをなし、追從(ついしやう)輕薄の者を『よし』と思ひ、外《そと》の形(かたち)を用ひて、内をしらず。人のほむるを用ひて、其《その》才能を、いはず。是によりて、公家も、武家も、出家も、同じく追從輕薄奸曲(かんきよく)佞邪(ねいじや)をもつて、官位奉祿に飽滿(あきみ)ちて[やぶちゃん注:ここは本来は逆接でブレイクが入るべきところ。]、よき人は、皆、その道の正しきを守る。此故《このゆゑ》に、人をへつらはず、輕薄、なし。こゝをもつて、長く埋(うづも)れて、世に出《いで》ず。麒麟は、いたづらに糞車(ふんしや)をかけられて、草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え、駑馬(ど《ば》)は、時を得て、豆粥(とうじゆく)に飽きたり。鳳皇(ほうかう)は枳(からたち)の中にすみて、鴟・梟(とび・ふくろふ)は蘭菊(らんきく)の間に、さえづる。こゝをもつて、公家も、武家も、出家も、賢者は、頸(くび)、やせて、髮、かれつゝ、溝瀆(かうとく)の『ほそみぞ』にころび、死すれども、知人なく、愚人奸曲の輩《ともがら》は、世にあはれて、時めく也。これより、風俗、惡しくなりて、治れる時は、少なく、亂る日は、多し。

 わが天狗道は、たゞ、よく、その器量をえらび、その職を、あてがふに、誤らず。

 凡そ、世の人、貴賤をいはず、少《すこし》も慢心ある者は、皆、死して、魔道に來る。その中に、君《くん》に不忠あり、親に不孝するものは、必ず、大きなる責めを受け、善を積み、德を施せし者は、皆、その幸ひを、かうぶる。輪𢌞因果のことわり、皆、僞りならず。天子・公卿・武士・出家、世に名を知られたる輩《ともがら》、わが道に入《いり》て、或は大將となり、或は眷屬となり、世の人の心だてによりて、或は障㝵(しやうげ)をなし、或は守護をなす。それ、太上は、德を、たて、その次は、功を、たつ。その次は、言を、たつ。これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。

 我は、德もなく、功もなし。

 こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。

 その、慢心のむくひを、見給へ。」

とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり。

[やぶちゃん注:「天狗道」天狗の住む天界・鬼道。増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道。仏教の六道に倣って後付けで附属された魔界。地獄思想の細分が中国で偽経によって捏造されたものであるから、付けたりは幾らでもバラェティーに富む。

「糞車」肥桶を運ぶ荷車。

「かけられて」「驅(か)けられて」。引き駆けるために使役されて。

「草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え」草や水さえも僅かしか与えられずに、飢え渴つえて。

「駑馬」足ののろい馬。また、才能の劣る人の喩えでもあり、前の対の「麒麟」(ここでは聖獣というよりも、一日に千里を走る名馬を指す)を才人の喩えとして、優れた人物も、年老いては、その働きや能力が普通の人にさえ及ばなくなるの意の「騏驎も老いては駑馬に劣る」をパロったもの。この故事成句は「戦国策」の「斉」に見える。紀元前四世紀、戦国時代、秦以外の国々に遊説して合従策を唱えた弁論家蘇秦の台詞。斉の王に向かって、「騏驎の衰ふるや、駑馬、之れに先だつ」(どんな名馬も年をとると、そのへんのつまらない馬の方が速く走るようになる)と述べて、安易な突出した秦への対外政策を戒めた。

「豆粥」豆の入った粥(かゆ)。

「鳳皇」了意の書き癖で聖鳥「鳳凰」のこと。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を見られたいが、そこに「天下、道有るときは、則ち、見る。其の翼、竽(う)のごとく、其の聲、簫(せう)たり。生ける蟲を啄まず、生ける草を折らず、羣居せず、侶行(りよかう)せず、梧桐に非ずば、棲まず、竹の實に非ざれば、食はず、醴泉(れいせん)に非ざれば、飮まず」とある。それが、棘だらけの「枳(からたち)の中にす」むのは、世が致命的に腐敗していることになる。

「溝瀆(かうとく)」みぞ。どぶ。故事成句「溝瀆(こうとく)に縊(くび)る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)をさらにダメ押しして「『ほそみぞ』にころび、死す」とやらかしたもの。

「障㝵」障碍・障害に同じ。正常な様態を阻害すること。

『「これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。我は、德もなく、功もなし。こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。その、慢心のむくひを、見給へ。」とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり』この大どんでん返しは劇的でよく書かれてある。]

 

Ryosen2

 

[やぶちゃん注:縁側で惨状を見る栄俊。地面に座っているのが、異形に変じた了仙。彼の左手で大きな柄杓(本文の「銚子」)で以って、盃に何やら(ネタバレのため言わない)を注ぐ法師(裾の幅を著しく狭くタイトにした「踏込袴(ふんごみばかま)」を穿いている)。]

 

 鼻高く、まなこより、光り輝き、すさまじき形に變ぜし所に、虛(そら)より、鐵(くろがね)の釜、

「ふらふら」

と、おちて、其中に、熱鐵の湯、わきかえる。

 それにつゞきて、法師、一人、くだり、銚子(てうし)に、熱鐵の湯を、もりいれ、盃にいれて、了仙に渡す。

 了仙、怖れたるけしきにて、これを飮み入るゝに、臟腑、もえ出《いで》て、下に燒けくだり、地にまろびて、うせにければ、堂にありし、白丁も、同宿も、皆、きえうせて、夜はほのぼのと、あけ渡れば、光明寺中の堂には、あらで、「榎(え)の島」の濱おもてに、榮俊、一人、坐したり。

 それより、歸りて、佛事、いとなみ、道心深く、後世《ごぜ》を怖れ、諸國行脚して、菩提心を祈りけり。

 

伽婢子卷之十終

[やぶちゃん注:「熱鐵の湯」高温で溶かされて液体となって煮え滾っている液体の鉄である。似たようなものは「叫喚地獄」で、溶けた銅を飲まされるのが、お約束である。

『「榎(え)の島」の濱おもて』現在の片瀬東浜。またしても光明寺から直線で六キロメートルも跳躍した。リンク地図の中央全体が本篇メインのロケーションを総て含んでいる。]

2021/10/06

伽婢子卷之十 鎌鼬 付 提馬風

 

   ○鎌鼬(かまいたち)提馬風(だいばかぜ)

 關八州の間に、「鎌(かま)いたち」とて、怪しき事、侍り。

 旋風(つじかぜ)、吹きおこりて、道行人《みちゆくひと》の身に、ものあらく、あたれば、股(もゝ)のあたり、竪(たて)さまに、さけて、剃刀(かみそり)にて切《きり》たる如く、口、ひらけ、しかも、痛み、甚だしくも、なし。又、血は、少しも、出ず。

「女蕤草(ぢよすゐさう)を揉みて、つけぬれば、一夜のうちに、いゆ。」

といふ。

 何者の所爲(わざ)とも、知り難し。

 たゞ、旋風(つじかぜ)の。あらく吹《ふき》て、『あたる』と、おぼえて、此《この》うれへ、あり。

 それも、名字(めうじ)正しき侍《さふらひ》には、あたらず。

 たゞ、

「俗姓(ぞくしやう)卑(いや)しき者は、たとひ、富貴(ふうき)なるも、是れに、あてらる。」

と、いへり。

 尾・濃・駿・遠(び・ぢよう・すん・ゑん)三州の間(あひだ)に、「提馬風(だいばふう)」とて、これ、あり。

 里人、あるひは、馬に乘り、あるひは、馬を引《ひき》てゆくに、旋風、起りて、砂を、まきこめ、まろくなりて、馬の前に立ちめぐり、車の輪の轉ずるがごとし。

 漸々(ぜんぜん)に、その旋風(つじかぜ)、おほきになり、馬の上にめぐれば、馬の鬣(たてがみ)、

「すくすく」

と、たつて、そのたてがみの中に、細き絲の如く、色赤き光、さし込み、馬、しきりに、さほだち、いばひ、嘶(いなゝき)て、うち倒れ、死す。

 風、その時、ちりうせて、あと、なし。

 いかなる者の業(わざ)とも、知《しる》人、なし。

 もし、つぢ風、馬の上におほふ時に、刀をぬきて、馬の上を拂ひ、「光明眞言」を誦(じゆ)すれば、其風、ちりうせて、馬も恙なし。

 「『提馬(だいば)風」と號す。』

と、いへり。

[やぶちゃん注:本話は本書の特異点で、怪奇談随筆で、物語となっていないし、挿絵もない。一応、「提馬風」については、種本の一つである「五朝小説」の「工部員外張周封言今年云々」とするが、本朝の民間伝承としての「提馬風」が、総て、漢籍のそれを濫觴とするとは私には実は思えない。私の電子化注記事では、「鎌鼬」と「提馬風」が概ねともに言及されてあるものが、全部で五つある。古い順に示すと、

「柴田宵曲 妖異博物館 提馬風」(最初に真剣に私が注で、この現象の真相を突き止めようとしたもの。実は注で本篇も電子化してある)

「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」(挿絵もあり、これが総合的には超お勧め!)

「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」

「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」

「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鎌鼬」

「鎌鼬」の方は総記事数は十を下らないが、そうさ、お勧めは、私が生涯でたった一度だけ、目の前で見た「鎌鼬」事件を記した、

「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」

であろう。私は擬似科学的な真空云々の「鎌鼬」現象の解説を全く信じていない。それは、実際のその体験に於いて頗る怪しい点が多かったからである。ウィキの「提馬風」は私の以上の注の解説と考証の方が遙かに科学的であり、遙かに細かいと自負する。ウィキの「鎌鼬」は真相の科学的諸説の検証が詳しいので、こちらは一読の価値がある。孰れにせよ、本篇は浅井了意の息抜きだったものか。まあ、「伽婢子」になくてよかった特異点の一篇と私は思っている。

「關八州」は相模 ・武蔵・安房 (あわ) ・上総 (かずさ) ・下総 (しもうさ) ・常陸 (ひたち) ・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) の関東八ヶ国の総称。

「女蕤草(ぢよすゐさう)」「新日本古典文学大系」版脚注はただ『未詳』とするが、私は、いつも植物同定でお世話になるサイト「跡見群芳譜」のこちらの記載を見ていると、この単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum  が確かな候補になりそうに思えてくる。本種の漢語別名は「萎蕤」「葳蕤」(イズイ)・「女萎」(ジョイ)である。ウィキの「アマドコロ」によれば、『薬用部位となる根茎には配糖体のコンバラリン、粘液質のマンノースなどを含んでいる』。『マンノースには、胃や腸の粘膜を保護する作用や消炎作用があるほか、分解して体に吸収されると』、『滋養になるといわれ』、明の李時珍の「本草綱目」(一五七八年)でも『滋養強壮、消炎薬として紹介されている』とあり、『伝統的な漢方方剤ではあまり使われず、日本薬局方にも収録されていないが、かつては民間薬として利用された。地上部の茎葉が黄変して枯れはじめる』十~十一月頃に『掘り、ヒゲ根や茎を取り除いて水洗いし、きざんで』、『天日乾燥させたものを』「萎蕤(いずい)」、漢方では「玉竹(ぎょくちく)」とも呼ぶ『生薬』とし、『かつて滋養強壮に用いられていたが、現在ではあまり使われていない』。『咳や疲労倦怠にも効果があるとされ』『服用される』。『打ち身、捻挫の薬として用いられることもあり、生の根茎をすり下ろしたものや、粉末または絞り汁は』、『食酢と小麦粉を加えて練り合わせてペースト状にしたものを』、『ガーゼや布に伸ばして、湿布として利用した』とある。

「尾・濃・駿・遠・三州」尾張・美濃・駿河・遠江・三河国。]

伽婢子卷之十 竊の術

 

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[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正した。左丁左端に前から声を掛けている男が熊若。前髪を残した元服前の髪型である。普通は十八で元服前というのは遅過ぎるが、彼は後で見る通り、透破(すっぱ)であり、賤民扱いであったから、違和感はない。それよりびっくりするのは早足の彼が裸足であることである。傘を被った中央の男が「古記和歌集」を盗んだ水野の透破。右丁の三人は熊若から犯人発見の報知を受けた飯富(おぶ)が派遣した捕り手の者たち。水野の透破の最後の切り口上から考えて、この捕り手の到着を待って彼の自白は撮り手に再び繰り返され、その上で殺害が執行されたと考えるべきであろう。そうしないと、飯富に真犯人ではないという猜疑を起こさせてしまうからである。そういう意味でも、この本文にはない捕り手の描き込みは必要なのである。]

 

   ○竊(しのび)の術

 甲陽武田信玄、そのかみ、今川義元の聟として、あさからず、親しかりけるに、義元、すでに信長公にうたれて後、その子息氏眞(うぢざね)、少し、心のおくれたりければ、信玄、あなづりて、無禮の事共多かりし中に、今川家重寶と致されし定家卿の「古今和歌集」を、信玄、無理に假(かり)どりにして、返されず、祕藏して寢所(しんじよ)の床に置かれけるを、ある時、夜のまに、失なはれたり。

 寢所に行くものは、譜代忠節の家人の子供、五、六人、其外は女房達、多年召し使はるゝものゝ外は、顏をさし入て覗く人もなきに、たゞ、此「古今集」に限りて失(うせ)たるこそ怪しけれ。又、その他には、名作の刀・脇指・金銀等は、一つも、うせず。

 信玄、大に驚き、甲信兩國を探し、近國に人を遣し、ひそかに聞《きき》もとめさせらる。

「此所、他人、更に來《きた》るべからず。いかさま、近習(きんじう)の中に盜みたるらん。」

とて、大に怒り給ふ。

「「古今」の事は、わづかに惜むにたらず。ただ、以後までも、かゝるものゝ忍び入《いる》を、怠りて知らざりけるは、無用心の故也。」

と、をどり上りて、はげしく穿鑿に及びければ、近習も、外樣(とさま)も、手を握りて、怖れあへり。

 飯富(いひとみ)兵部が下人に、熊若(くまわか)といふもの、生年十九歲、心、利(きき)て、さがさがしく、不敵にして、しぶとき生れつきなり。

 そのころ、信州割峠(わりがたうげ)の軍《いくさ》に、信玄、馬を出《いだ》され、飯富、おなじく赴きしに、旗棹(はたさほ)を忘れたり。

 明日、卯の刻[やぶちゃん注:午前六時頃。]には、

「飯富、二陣。」

と定められしに、日は、早や、暮れたり。

「如何すべき。」

と、案じ煩ひしを、熊若、すゝみ出て、

「それがし、とりてまゐらん。」

とて、其のまゝ走り出たり。

 諸人、さらに實《まこと》と思はず。

 かくて、二時《ふたとき》ばかりの間に、やがて、旗棹、取て歸り來《きた》る。

「さて。いかにして取來れる。」

と問はれしに、熊若、いふやう、

「『早くとりて來らん』と思ふばかりにて、手形をも、印をも、とらずして、甲府に走り行《ゆき》ければ、門をさし固め、中々、人の通路(つうろ)を、かたく、いましむる故に、壁を傅ひ、垣をこえ、ひそかに戶を開くに、更に、しる人、なし。やがて、亭(てい)に忍び入《いり》て、とりて來り侍べり。」

といふ。

 飯富、聞きて、

『これより甲府までは東路(あづまぢ)往來百里に近し。是れを、ゆきて歸るだにあり、まして、用心嚴しき所を、人知れず忍び入ける事よ。定めて、此間の「古今集」もこの者ぞ、盜みぬらん。後に聞えなば、大事成べし。』

と思ひ、熊若を、かたはらに招き、

「汝、かゝるしのびの上手、道早きものとは、今まで、露も知らず。此ほど、信玄の定家の「古今」を盜みたるは、汝か。」

といふ。

 熊若、答へていふやう、

「それがしは、たゞ、道を早く行て、忍びをする事をのみ、得たり。しかれば、我、いとけなき時より、君に召し使はれ、故鄕の父母、いかになりぬらんとも知らず。願はくは、我にいとま給はり、故鄕に返して給はらば、其盜みたる者を、あらはし奉らん。」

といふ。

「それこそ。いと易けれ。いとまは、とらすべし。かの盜人を捕ゆる迄は、沙汰すべからず。」

とて、割が峠歸陣(がいぢん[やぶちゃん注:ママ。])の後(のち)、熊若をもつて、これを覘(うかゞ)はせしに、西郡《にしのこほり》において、たゞ一人、ゆく者、あり。早き事、風の如し。熊若、立ちむかひ、物いふ間(あひだ)に、後ろより、捕へて、押し伏せたり。

「熊若に欺(あざむ)かれて、恥みる事こそ、やすからね。「古今」を盜みける事は、信玄公の寢(ねや)を見んため也。あはれ、今、廿日をのびなば、甲府をば、亡ぼすべきものを。運の强き信玄公かな。我は上州蓑輪の城主、永野が家に仕へし竊(しのび)のもの、もとは小田原の風間(かざま)が弟子也。わが主君の敵なれば、信玄公を殺さんとこそ計りしに、本意《ほい》なき事かな。此上は、とくとく、我を殺し給へ。」

とて、申しうけて、殺されたり。

 「古今集」をば、都に出してうりけると也。

 熊若は、いとま給はりて、西國に下りけり、といふ。

[やぶちゃん注:本話は「伽婢子卷之七 飛加藤」の終りの部分と、連関して読めるようにはなっている(続編というのではない)。そちらの注でも、この冒頭部を示しておき、少し注も附したので見られたい。そこで注した「新日本古典文学大系」版脚注の引用は、ここでは繰り返さない。

「竊(しのび)の術」忍術に同じ。

「今川」「氏眞」「幽靈評諸將」で既出既注

「外樣(とさま)」譜代ではない家臣。

「飯富(いひとみ)兵部」飯富虎昌(おぶ とらまさ 永正元(一五〇四)年~永禄八(一五六五)年)が正しい読み。同じく「幽靈評諸將」で既出既注

「熊若」不詳。サイト「はやぶさ宝石箱」に「戦国時代に実在した忍者 熊若 くまわか」があり、そこに「甲陽軍艦」には天文一一(一五四二)年の「瀬沢(せざわ)の戦い」の直前、信玄が透波』(すっぱ:戦国大名が野武士・強盗などの中から、呼び出して、これを養い、間諜や隠密などの任務に使役した者たちの呼称。一種の賤民として扱われ、一説には「透波」は甲斐以西の称で。関東では「乱波」(らっぱ)と称したという。「忍」「草」とも称した)七十『人を召し抱え、そのうちの優秀な者を板垣信形』・『飯富虎昌』・『甘利虎泰』『に各』十『人ずつ預けたと記されてい』るとした後、結局、本創作を元に記してあって、実在を示す根拠は示されていない。なお、そこには、さらに、「古今和歌集」の写しを『盗み取ったのは加藤段蔵(かとうだんぞう)だったのです。熊若は段蔵を捕らえ、身の潔白を証明したといいます』とあるが、これは、「伽婢子卷之七 飛加藤」の終りの部分を誤読したもので、おかしい。さらに、『なお、段蔵が少女を攫う(さらう)話、熊若が真犯人を探し出して無実を証明する話など、類似した説話が中国の『田彭郎(でんほうろう)』[やぶちゃん注:「彭」ママ。という書物のなかにあるといいます』と述べ、加えて、『さらに阿新丸(くまわかまる・日野邦光・ひのくにみつ)』(元応二(一三二〇)年~正平一八/貞治二(一三六三)年?)『なる者が』、『苦心惨憺の末に父・日野資朝(ひのすけとも)』(鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に信任されて討幕計画に加わったものの、元亨四(一三二四)年九月に謀議が幕府側に洩れて捕らわれ(「正中の変」)、鎌倉に幽閉された後に佐渡に流罪にされ、「元弘の乱」の勃発に伴い、幕府によって配所で斬罪にされた)『の仇を討つという話が南北朝の動乱を描いた『太平記』のなかにあり、全国各地にこの阿新丸にまつわる伝説が残っています。『伽婢子』に記されている透波・熊若の話は、中国の『田͡彭郎』や『太平記』、あるいは阿新丸伝説の翻案である可能性も否定できませんね』と言っているのも、これ、おかしな謂いであって、「伽婢子卷之七 飛加藤」や本篇が、そもそもが、「五朝小説」の「崑崙奴」を「田膨郎」を原拠として借り、確信犯で創り出したものであって、類話なわけではない。また、時代の合わない後者の「太平記」のそれについては「新日本古典文学大系」版脚注で、『太平記二・長崎新左衛門尉意見事阿新殿事には、クマワカ(阿新)殿が十三歲にして、父日野資朝の仇の本間三郎』(資朝の斬罪への変更が下知された佐渡の本間村上入道の子)『を討った話を記載する。その剛胆さに』あやかって、この忍びの者へ『命名』したものか、とある通りである。確かに日野阿新丸熊若邦光は佐渡に密航し、竹一本で濠を飛び越えるなど、如何にも忍者っぽい印象はある。

「信州割峠(わりがたうげ)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『長野上身内』(かみみのち)『郡信濃町にある割ケ岳』(城跡がある。峠は確認出来ない。グーグル・マップ・データ)『にある峠。永禄四年(一五六一)六月、信玄が当山の城を攻略、月末には帰陣。原美濃、辻六郎兵衛等が参戦(甲陽軍鑑十八。山縣同心広瀬みしな辻弥兵衛武辺公事事)』しているが、『飯富の参戦』は『不詳』としつつ、『八月には川中島の戦いに臨む』(最も知られた最大の激戦となった第四次のそれ)とある。

「東路(あづまじ)往來百里」前に注した古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるがこの坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸時代でも江戸でこの単位をよく用いた。坂東里の「百里」は「六十五・四キロメートル」となる。しかし、実際の割ケ岳から甲府間はそんな短い距離ではない。最短と思われる更科山越えで実測路で試みてみても、百八十キロメートルはあり、そこを往復したのだから、三百六十キロメートルで、そこをたった四時間で走破する(単純計算で時速九十キロメートル)というのは、人間技では絶対にあり得ない。

「沙汰すべからず」現況報告をする必要はない。

「西郡《にしのこほり》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『甲斐を三分しにした釜無川』(ここ)『より西の地域』とある。

「歸陣(がいぢん)」は「かへぢん」の音転訛と、恐らくは、縁起よく「凱陣」と言ったものを音転用した読みであろう。

「熊若、立ちむかひ、物いふ間(あひだ)に、後ろより、捕へて、押し伏せたり」これはもう、超スピードで走り抜けてからに! 私の大好きな「X-MEN 」の Quicksilver やん!

「上州蓑輪の城主、永野」現在の群馬県高崎市箕郷町(みさとまち)の明屋(あけや)地区にあった箕輪城の城主長野業正(なりまさ 明応八(一四九九)年~永禄四(一五六一)年年六月二十一日)。信濃守。一盛斎と称した。関東管領上杉憲政に仕え、榛名山東南麓の箕輪城を本拠とし、西上野地方最大の武士団である箕輪衆の旗頭となった。業政は十二人の子女を、小幡氏・安中氏などの西上野の領主たちに嫁がせ、武田氏・北条氏の侵攻に備えた。西からの武田信玄の侵攻を前に六十三歳で没したが、その日付を見て貰うと、この時制では、本篇の内容を事実とするなら、「割ケ岳攻略が同じ年の同じ六月で、六月末に帰陣とあったからかなりタイト、というよりも、ムリであることが、これ、判る。

「小田原の風間(かざま)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『古老軍物語四ノ六に出る風間の三郎太郎という忍びの上手は、小田原城主北条氏直に属し、武田方を苦しめた』とある。]

2021/10/03

伽婢子卷之十 祈て幽靈に契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は最も状態がよい「新日本古典文学大系」版のものをトリミングして使用した。]

 

Sinroku1

 

   ○祈(いのり)て幽靈(いうれい)に契(ちぎ)

 上野(かうづけ)の國平井の城は、上杉憲政(のりまさ)のすみ給ひし所なるを、北條氏康これをせめおとし、憲政は越後に落行《おちゆき》て、長尾謙信をたのみ、二たび、家運を開かん事をはかり給ふ。

 平井の城には北條新六郞をいれおかれし處に、城中に一間の所あり。

 金銀をちりばめ、屛風・障子、みな、花鳥草木、いろいろの繪を盡し、奇麗なる事、いふばかりなし。

 庭には、さまざまの石を集め、築山・泉水、その巧みをなし、築山に續きたる花岡[やぶちゃん注:元禄版では「花園(《はな》その)」。「新日本古典文学大系」版でも同じ。]には、春より冬にいたる迄、つゞく草木の花、さらに絕間なし。

 是れは、そのかみ、憲政の息女彌子(いやこ)、生年十五歲、みめかたち、世にたぐひなき美人にて、心のなさけ、色ふかく、優にやさしかりければ、見る人、聞(きく)人、みな、思ひをかけ、心をなやます。

 憲政は、

『いかなる高家權門の輩《ともがら》にも合せて、家門の緣を結ばん。』

とおぼして、寵愛深く、別(べち)に、この一間をしつらひおかれし所に、家人《けにん》白石(しろいし)半内といふ小性、たゞ一目見そめまゐらせ、心地、惑ひて、堪へかね、風のたよりにつけて、文ひとつ、まゐらせしに、此事あらはれ、半内、ひそかに首(くび)をはねられたり。

 その後、百日ばかり過て、むすめ彌子、日暮がた、俄におびえて、絕入《たえいり》給ひ、ついに、空しくなり給へり。

「さだめて。半内が亡魂のしわざならん。」

と聞傳へし。

 新六郞、この物語を聞て、

『たとひ、幽靈なりとも、かゝる美人に逢ふて語らはゞ、さこそ、嬉しからまし。今生の思いで、何事かこれにまさらん。』

と、しきりに思ひそめて、朝夕は、香をたき、花を手向(たむけ)て、人知れず、戀慕の、心、つきて、祈りけり。

 ある日の暮がたに、いづくとも知らず女(め)の童(わらは)、一人來りて、新六郞に向ひていふやう、

「わが君は、そのかみ、此所にすみ給ひしが、君の御心ざしにひかれて、これ迄あらはれ、只今、まゐり給はんに、君、對面し給ふべきや。」

といふて、きえうせしが、暫くありて異香(いきやう)くんじて、先の女の童につれて、一人の美女、築山(つきやま)のかげより、出來れり。

 その美しさ、此世の中にあるべき人ともおぼえず、

『天上より、くだれる歟(か)。神仙のたぐひか。』

と見るに、中々、目も、あやなり。

 新六郞、

『これは聞及びし彌子(いやこ)の幽靈なるべし。日ごろ、我、念願せし所、ひとへに通じけり。「鬼(おに)を一車(《いつ》しや)にのす」と云ふ事はあれど、何か、すさまじとも思はん、契りをかはして、思ひを述べんには、人と幽靈とは同じからずと雖も、なさけの色は、死と生と、はかる事あらじものを。』

と、女の手をとり、引いれて、時うつる迄、かたらひけり。

 女、すでに立歸らんとするとき、

「自ら[やぶちゃん注:自称の一人称代名詞。]、こゝに來る事を、あなかしこ、人に洩し給ふな。又、暮を待給へ。」

と契りて、

 底深き池におふてふみくりなは

   くるとは人に語りばしすな

とうち詠じ、庭に出てゆくかと見れば、そのまゝ、かたちは消え失せたり。

 次の日の暮がたに。又、來れり。

 曉、かへりては、夕ぐれに來る事、六十日に及べり。

 ある日、新六郞、家人を集めて、さまざま、物語のついでに、女のいひし事を打ち忘れ、此事を語り出しけり。

 家人等、奇特(きどく)の事に思ひて、壁をほりて、のぞきけるに、女、來りて物語すれども、その姿は、見えず。女(め)の童(わらは)と見えしは、伽婢子(とぎぼうこ)にて侍べりし。

 女、ある夕暮、來りて、大《おほい》に恨み歎きたる有樣にて云やう、

「何とて、『洩し給ふな』といふ言葉をたがへて、人には語らせ給ひしぞや。此故に契りは絕《たえ》て、かさねて逢ふ事、かなふべからず。これこそ、この世の、名殘りなれ。」

とて、

 しばしこそ人め忍ぶの通ひ路は

   あらはれそめて絕はてにけり

と、なくなく、詠じければ、新六郞、淚の中より、

 さしもわがたえず忍びし中にしも

   わたしてくやしくめの岩はし

女は、なくなく、金の香合(かうばこ)ひとつ、とり出して、

「君が心ざし、變らで思し給はゞ、これを、かたみとも、見給へ。」

とて、渡しけり。

 新六郞も珊瑚・琥珀・金銀をまじへてつなぎたる、數珠(じゆず)一連をとり出し、

「これは、見給ふべき物とはなけれ共、黃泉(よみぢ)のすみかには、身のたよりとも御覽ぜよかし。」

とて、女の手に渡しつゝ、

「さるにても、又、あふべき後の契りを、この世の外には、何時とか定め侍らん。」

と、いへば、

「今より、甲子(きのへね[やぶちゃん注:ママ。])といふ年を待給へ。」

とて、淚とゝもに、雪霜のきゆるが如く、うせにけり。

 新六郞、つきぬなごりの悲しさに、思ひむすぼゝれ、心なやみ、形ち、かじけたり。

 醫師(くすし)、此事を聞て、藥を與へしかば、月をこえて、病ひ、いえたり。

 後に、ある人、語りけるは、

「憲政の愛子(あいし)、こゝにすみて、俄に、おびえ、死せり。これは、此むすめを思ひかけし小姓白石半内が、怨みて殺されし亡魂のしわざなり。憲政、こゝにおはせし間は、空、くもり、雨ふる時は、半内が幽靈、いつも、あらはれ見えし。」

と也。

「此程は、その事、絕て、見し人も、なし。」

といふ。

 新六郞、これを聞に、すさまじく思ふ心、つきけり。

 

Sinroku2

 

 或日、空くもりて、雨雲、うちおほひたる暮がたに、年のほど、廿ばかりの男、やせつかれたるが、髮、うち亂し、白き「ねりぬき」の小袖に、袴、着て、紫竹(しちく)の杖をつきて、泉水の端に、

「すごすご」

と、立《たち》たるを見て、新六郞、太刀を拔きて向ひければ、

「きえぎえ」

となりて、失せにけり。

 これより、僧を請じ、一七日《ひとなぬか》のうち、水陸(すゐろく)の齊曾(さいゑ)をいとなみて、弔ひしかば、これにや、怨みも解けぬらん、重ねてあらはれいづる事、なしとかや。

[やぶちゃん注:「上野(かうづけ)の國平井の城」現在の群馬県藤岡市西平井にあった平井城。当該ウィキによれば、永享一〇(一四三八)年、『鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説では』、『この時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実』と『幕府の連合軍の間で』「永享の乱」『が起きたが、憲実方が勝利した』。文正元(一四六六)年に『関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという』。『古くから、平井城が関東管領であった山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料』『もあるが、実際には』永正九(一五一二)年の「永正の乱」或いは大永年間(一五二一年~一五二八年)『以降の拠点で』、十六『世紀前半の短期間のものであったとみられている』。天文二一(一五五二)年、『北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで』も『北条に寝返っていたためである』永禄三(一五六〇)年に『長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている』。『平地部分に本丸などの本城があり、背後の山には詰城である金山城(平井金山城)があった広大な城である』とある。

「上杉憲政(のりまさ)のすみ給ひし所なるを、北條氏康これをせめおとし……」上杉憲政(大永三(一五二三)年~天正七(一五七九)年)は戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没した際。未だ幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛が管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の時、同職に就任したが、奢侈・放縦な執政を行い、民心を失った。天文一〇(一五四一)年に信州に出兵し、同十二年には河越(現在の川越市)の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦うが、相次いで敗れ、同十四年四月の「河越合戦」でも北条氏康に敗れ、上野平井城に退いた。この戦いでは、倉賀野・赤堀などの有力な家臣を失った上、上野の諸将は出陣命令に応じず、同二十一年一月、平井城を捨てて、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年八月、景虎に擁されて関東に出陣し、翌年三月、小田原を包囲した(ウィキの「北条氏康」によれば、この『以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると』、『関東に侵攻し、氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱』・『従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることな』った。この永禄四年の『謙信帰国の直後には、関東管領就任式時に北条下から離脱していた下総国の千葉氏・高城氏が再帰参したが、氏康は謙信の帰陣前の』六『月から、既に上杉氏に奪われた勢力域の再攻略を試み』、九『月には武蔵国の三田氏を攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた』。次いで、『氏邦が家督を継いでいた藤田氏の領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城、天神城を攻略し』、氏康は『武蔵北部を奪還し』ているとある)。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号したが、天正六(一五七八)年三月に謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、謙信の名を継いだ養子景虎は憲政の館に籠って相争うこととなった。城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して敗北、翌年三月十七日、憲政の館も攻略され、混戦の最中、殺害されている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「北條新六郞」「新日本古典文学大系」版脚注に、『伝不詳。平井城攻めの中心として参軍した北条綱成の陣中に、同族の福島新六郎の名が見える(関八州古戦録三・氏康上州平井城責)』とある。

「障子」「新日本古典文学大系」版脚注に、『明かり障子、つまり襖のこと』とあるので納得。みな、花鳥草木、いろいろの繪を盡し、奇麗なる事、いふばかりなし。

「憲政の息女彌子(いやこ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注を見るに、創作原拠である五朝小説の「才鬼記」に基づく仮想設定と思われる。

「白石(しろいし)半内」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注を見るに、原拠にもないオリジナルな仮想人物と思われる。

「新六郞、この物語を聞て」前注の通り、上杉憲政の配下の者が憲政を裏切っているので、そうした中の一人から、この城中での秘話を聴いたという設定であることが判る。

「そのかみ」先般。

 

「鬼を一車にのす」「鬼を一車に載す」は「大変不安な心境」を指す喩え。おとなしそうな顔をして載っていても、鬼は鬼、何時つかみ掛って来ないとも限らぬという意。『信用出来ない相手と一緒に事業を始めた時など、相手を何処まで信じてよいのか怪しむ心境にもたとえる』と参照したcelica2014276氏の「故事ことわざ辞典blog」のこちらにあった。「新日本古典文学大系」版脚注には、原拠を、『「載鬼一車何足ㇾ恐 棹巫三峡未ㇾ為ㇾ危(和漢朗詠集・下・述懐)』(「鬼を一車(ひとぐるま)に載すとも何ぞ恐るるに足らむ 巫(ぶ)の三峽(さんかふ)に棹(さを)さすとも未だ危ふしと爲(せ)ず」。中書王(醍醐天皇の皇子である兼明(かねあきら)親王の作)、『「載鬼一車 鬼ヲ載ル』(のする)『車ト嶮難ノ路トハ尤ヲソロシキ処ナレドモ、ソレハマダモ也。世上ノ人の心尤ヲソロシキト也(和漢朗詠集鈔六・述懐)、「載鬼一車先張之弧後説之弧」(易経四。兌下離上)』(「鬼一車(いつしや)に載る。先に、之れ、弧(ゆみ)を張り、後に、之れ、弧を說(と)く。」。「說く」は張っていた弓を緩めて射るのを止めるの意)を挙げる。

「あなかしこ」「どうか、お慎みあれかし!」。

「底深き池におふてふみくりなはくるとは人に語りばしすな」「新日本古典文学大系」版脚注には、『底深い池に生じるというミクリナハに因んででも、「来る」ということばを口ばしって私のことを他人に語ってくださるな。』と通釈され、「みくりなは」について、『歌語。水草のミクリ(三稜草)は水面に漂って縄のように見えることがあるという』とある。単子葉植物綱ガマ目ミクリ科ミクリ属ミクリ Sparganium erectumウィキの「ミクリ」によれば、『ヤガラという別名で呼ばれることもある』。『北半球の各地域とオーストラリアの湖沼、河川などに広く分布』する。『日本でも全国に分布するが、数は減少している』。『多年生の』抽水性(ちゅうすいせい)植物(根が水中にあって茎や葉を伸ばして水面上に出る植物を指す)で、『地下茎を伸ばして株を増やし、そこから茎を直立させる。葉は線形で、草高は最大』二メートルにもなる。花期は六~九月で、『棘のある球状の頭状花序を形成する。花には雄性花と雌性花があり、枝分かれした花序にそれぞれ数個ずつ形成する。その花序の様子が栗のイガに似るため、ミクリ(実栗)の名がある。果実を形成する頃には、花序の直径は』二~三センチメートルにもなる、とある。原拠歌はない模様。

「奇特(きどく)」ここは単に不思議なことの意。

「伽婢子(とぎぼうこ)」「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」で既出既注

にて侍べりし。

「しばしこそ人め忍ぶの通ひ路はあらはれそめて絕はてにけり」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、了意御用達の「題林愚抄」の「戀二」の「忍絕戀」(「新後拾遺和歌集」の「戀四」)の後二条院の一首、

 しばしこそ人め思ひしよひよひの忍ぶかたよりたえやはつべき

とあり、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の右丁の終わりから6行目にある。

「さしもわがたえず忍びし中にしもわたしてくやしくめの岩はし」同前で、同じ「題林愚抄」の「戀二」の「絕戀」(「続後撰和歌集」の「戀五」で「絕戀の心を」と前書する)の前僧正慈鎮の一首とあり、同前のここの30コマ目の左丁の8行目にある。但し、

 さしもわかたえすしのびし中にしもわたしてけりなくめの岩はし

と四句目が異なる。「くめの岩はし」は「久米の岩橋」で、役の行者が奈良の葛城山の山神一言主神に命じて、葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)に掛け渡そうとしたという「日本靈異記」上巻二十八話や、「今昔物語集」巻第十一「役優婆塞誦持呪駈鬼神語第三」(「役優婆塞(えんのうばそく)誦(しゆ)を持(ぢ)して呪して鬼神(きじん)を駈(か)る語(こと)第三」)などの説話から出た伝説上の橋。夜が明けてしまって工事が完成しなかったと伝えられるところから、「男女の契りが成就しないことのたとえ」として使われる。

「この世の外には、何時とか定め侍らん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『来世まで持って行く思い出』とされ、「後拾遺和歌集」の「戀二」にある和泉式部の知られた一首(七六三番)、

   心地、例ならず侍りける頃、

   人のもとにつかはしける

 あらざ覽(らむ)この世のほかの思ひ出に

         今ひとたびの逢ふこともがな

『を踏まえた表現』とする。

「甲子」本話柄内の時制は、平井城が北条に奪われた天文二一(一五五二)年壬寅以降のそう遠くない頃の設定であるから、直近の甲子は永禄七(一五六四)年となる。これ自体には史実に合わせてみても、違和感はない。但し、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠に『一甲子ニ非ザレバ相ヒ見(まみ)ヘンノ期(とき)無シ』とあって、そちらの「一甲子」というのは年を示す干支ではなく、還暦の「六十年後」を意味するものである。スケールが全然違う。というより、本話のエンディングには不満がある。この「甲子」はその年に新六郎が死を迎えることの予言として私は読む。さればこそ、その終焉を了意はコーダに持ってくるべきだったと私は思うからである。

「かじけたり」「悴けたり」瘦せ細り、衰え弱ってしまった。

「此むすめを思ひかけし小姓白石半内が、怨みて殺されし亡魂のしわざなり」ちょっと躓く表現である。意味は判るが、ここは「白石半内の、殺されしを怨みたる亡魂のしわざなり」と私はしたくはなる。

「ねりぬき」「練貫」。縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの光沢のある絹織物。

「紫竹(しちく)の杖」黒い竹の杖。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属シチク Phyllostachys nigra var.nigra で出来た杖。シチクは高さ三~八メートルで、茎は二年目から黒紫色に変わる。黒竹 (くろちく)とも呼ぶ。

「水陸(すゐろく)の齊曾(さいゑ)」「水陸會(すいりくゑ)」。施餓鬼会(せがきえ)の一種。水陸の生物や死せるもの(人の死者も含む)に飲食物を与えて諸霊を済度する法要。水陸斎とも言う。夏から秋にかけて行うのが普通。]

2021/09/26

伽婢子卷之十 妬婦水神となる

 

[やぶちゃん注:今回は状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。]

 

Tohu

 

   〇妬婦(とふ)水神(すいじん)となる

 山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり。

 世に傅へていふ、

「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし。この故に、つひに配偶(はいぐ)、なし。橋の南に離宮(りくう)明神あり。昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ。その來り給ふ時は、宇治の川水、白波、たかくあがりて、すさまじき事、いふばかりなし。されば、明神の哥に、

 夜や寒き衣やうすきかたそぎの

   行あひのまに霜やおくらむ

と、よみ給ひし。」

とかや。

 然るに、宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也。

 このゆゑに、今に到りて、兩郡(《りやう》ぐん)、緣を結ぶには、橋より北の方、「槇(まき)の嶋」より、舟にて川を渡る事也。これは、

「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて、ひとり、やもめなる事を怨み、ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり。」

と、いへり。

 それにはあらず。

 昔、宇治郡に、岡谷式部(をかのやしきぶ)とて、富裕の者あり。

 その妻は、小椋(おぐら)の里の領主村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)といふ人のむすめ也。

 物嫉み、極めて深く、召し使ふ女童(《めの》わらは)まで、少し人がましきをば[やぶちゃん注:少しでも女として相応の器量を持っていたりすれば。]、追出《おひいだ》して、たゞ、五體不具の女ばかりを、家の内には集め、使ひけり。

 餘所(よそ)の事をも、男女《なんによ》のわりなき物語を聞《きき》ては、そのまゝ、腹立ち、怒りて、食、更に、口に入れず。

 まして、わが夫(をつと)の事は、悋氣(りんき)ふかく、せめかこちて、門より外に出《いだ》さず。

 岡谷も、もてあつかふて、

「去(さり)もどさん。」

とすれば、

「我に、いとまをくれて、去(さり)たらんには、鬼になりて、とり殺さん。」

など、すさまじく罵しりけり。

 年をかさぬれども、子も、なし。

 岡谷、つねには、双紙をよむ事を好みて、慰(なぐさみ)とす。

 「『源氏物語』の中に、物嫉み深きためしには、六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり、髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり。これ、皆、『物ねたみ、深きためし。』とて、後の世迄も、名を殘せし。是等は、恐ろしながらも、『眉目(みめ)かたち美しかりし』と、いへり。たとひ、悋氣深くとも、和御前(わごぜ)も、みめよくは、ありなむ。さのみに、たけだけしう、嫉み給ふな。」

といふに、女房、大《おほき》に腹立ち、

「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて[やぶちゃん注:死んで転生して。]、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」

とて、髮は、さかさまに立ち、口、廣く、色、あかうなり、まなこ、大《だい》に、血、さし入《いり》たるが、淚を、

「はらはら」

と流し、座を立《たち》て、走り出つゝ、宇治川に飛び入《いり》たり。

 水練を入《いれ》て求むれ共、死骸も、見えず。

 岡谷、驚き、平等院にして、さまざま、佛事、とり行ひけり。

 七日《なぬか》といふ夜《よ》の夢に、妻の女房、來りて、岡谷にいふやう、

「我、死して、此《この》川の神と、なれり。橋を渡りて緣を結ぶものあらば、行末、必ず、遂(とげ)さすまじ。」

とて、夢は、さめたり。

 これより、

「橋を渡りて、緣を結べば、必ず、別離する。」

と、いへり。

「船にて川を渡すにも、眉目(みめ)わろき女には、仔細なし。顏かたち、美しき女の渡れば、必ず、風、あらく、波、たちて、舟、危し。」

といふ。

 此故に、新婦(よめ)を迎へて、川を渡すに、波風なきときは、

「新婦(よめ)のみめ、惡(わろ)からん。」

と、諸人、これを知るとかや。

[やぶちゃん注:全国に見られる橋姫伝説は数多注してきたので、ここで改めて語る気にならない。手っ取り早く、梗概を知りたければ、ウィキの「橋姫」を見られたいし、民俗学的なそれは、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫』(十分割)を読まれたい。なお、これも時制を特定していない。しかし、個人的にはここまでの「伽婢子」の中では珍しく読後がいかにも後味悪い作品である。妬心をいやさかに燃え上がらす妻を病的に描くことに執着した了意に、妙なもやもやしたダークな一面(彼の人生の中の女の影)を見るからであろうか。

「山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり」宇治橋周辺は宇治川右岸が旧宇治郡、左岸が旧久世郡宇治郷に当たる。橋姫神社をポイントした(グーグル・マップ・データ)。

「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし」不審。「新日本古典文学大系」版脚注でも、直後の『文にも』「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて」『とするが、宇治の橋姫を醜女』(しこめ)『とする伝承は見当たらない。美女を妬むとする原話』(本篇は五朝小説「諾皐記」の「臨清有妬婦津云々」を原話とすると前注にある)『に即した付加か』とある。

「離宮(りくう)明神」先の地図で宇治川の対岸にある末多武利神社(またふりじんじゃ)。祭神は藤原忠文(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)は天慶二(九四〇)年、「平将門の乱」鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ、東国に向かったが、到着前に平将門は討たれていた。忠文は大納言藤原実頼の反対により、恩賞の対象から外されたことから、忠文は実頼を深く恨み、死後も実頼の子孫に祟ったとされ、この神社は、その忠文の御霊を慰めるために創建されたもの。

「昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ」前掲の岩波文庫の高田氏の注に、『「宇治の橋姫とは姫大明神とて、宇治の橋本に座す神也。其の神の許へ、宇治橋の北に座す離宮の神、夜毎に通ひ給ふとて、暁毎に川波大きに声あり」(『顕注密勘』)』とあり、以下の歌について、『「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行合のまより霜や置くらむ」(『新古今集』巻十九、神祇歌)。「かたそぎ」は、「片削ぎ」で片方を削ぎ落したもの』とある。「片削ぎ」とは神社の神明造りに於いて、破風板の両端が棟でX字型に交差するが(これを「千木(ちぎ)」と呼ぶ)、それが更に上に突き出た部分を指す。その先端部は孰れも片側が削がれてあることに由来する呼称である。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『出来斎京土産七。橋姫宮に「離宮神夜る』夜る『橋姫に通ふあかつきごとに川波大きに声ありといへり。又ある説に住吉明神宇治の橋守の神に通ひ給ふといへり。明神の歌に』として次の「夜や寒き」の歌を引く」とある。

「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行あひのまに霜やおくらむ」「新古今和歌集」(一八五五番)のそれは、「住吉御歌となん」という後書を持ち、

 夜や寒き衣やうすきかたそぎのゆきあひのまより霜やおくらむ

である。確認した「新日本古典文学大系」(同集・一九九二年刊)で、その赤瀬信吾氏の訳に、『夜が寒いのか、わたしの着ている衣が薄いのか、それとも片そぎの千木のまじわっている隙間から、霜がもれて置いている』からな『のであろうか』とある。

「宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「むかしより橋姫の前を新婦(よめ)入する時通らず。久世と宇治との縁を結ぶには橋の下より舟にて渡る事なり。橋姫のまへを通りぬれば神ねたみ給ひて夫婦の中すゑとをらずとかや」(出来斎京土産七・橋姫宮)』とある。花嫁御寮の行列が特定の橋を禁忌とする習俗は各地に見られ(鎌倉の深沢にもある)、これは霊魂がそこを伝って海へ下る霊的なシステムとしての川、及び、それを自然ではなく橋(同時にそれは「端」であり、非日常に繋がる「辺縁」である)というジョイントで繫いでいる場所は、日常と異界との通路に相当するため、川や橋自体が「晴れ」の儀式の禁忌対象となることは極めて腑に落ちるものである。

「槇(まき)の嶋」現在の宇治川左岸の京都府宇治市槇島町(まきしまちょう)。

「ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり」「緣邊」は縁が結ばれて両者が結びつくこと。特に婚姻による縁続きの間柄を指す語。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(10) /橋姫~了』に、『傳說の解釋は面白いものだが同時に中々むづかしく、一寸自分等の手の屆かぬ色々の學問が入用である。此場合に先づ考へて見ねばならぬのはネタミと云ふ日木語の古い意味である。中世以後の學者には一箇の日本語に一箇の漢語を堅く結び附けて、漢字で日本文を書く便宜を圖つたが、其宛字の不當であつた例は此ばかりでは無い。ネタミも嫉又は妬の字に定めてしまつてから後は、終に男女の情のみを意味するやうに變化したが、最初は憤り嫌ひ又は不承知などをも意味して居たらしいことは、倭訓栞などを見ても凡そ疑が無い。而して何故に此類の氣質ある神を橋の邊に祭つたかと言ふと、敵であれ鬼であれ外から遣つて來る有害な者に對して、十分に其特色を發揮して貰ひたい爲であつた。街道の中でも坂とか橋とかは殊に避けて外を通ることの出來ぬ地點である故に、人間の武士が切處として爰で防戰をしたと同じく、境を守るべき神をも坂又は橋の一端に奉安したのである。しかも一方に於ては境の内に住む人民が出て行く時には何等の障碍の無いやうに、土地の者は平生の崇敬を怠らたかつたので、そこで橋姬と云ふ神が怒れば人の命を取り、悅べば世に稀なる財寶を與へると云ふやうな、兩面所極端の性質を具へて居るやうに考へられるに至つたのである。又二つの山の高さを爭ふと云ふ類の話は、別に相應の原因があるので逢橋と猿橋と互に競ふと云ふなども、男と女と二人列んで居る處は、最も他人を近寄せたくない處である故に、卽ち古い意味に於ける「人ねたき」境である故に、若し其男女が神靈であつたならぱ、必ず偉い力を以て侵入者を突き飛ばすであらうと信じたからである。東山往來と云ふ古い本を見るに、足利時代に於ても此信仰の痕跡が尙存し、夫婦又は親族の者二人竝び立つ中間を通るのは最も忌むべきことで、人が通るを人別れ、犬が通るを犬別れと謂つて共に凶事とするとある。つまり此思想に基づいて、橋にも男女の二神を祭つたのが橋姬の最初で、男女であるが故に同時に安產と小兒の健康とを禱ることにもなつたのである。ゴンムの『英國土俗起原』やフレヱザーの『黃金の枝』などを見ると、外國には近い頃まで、此神靈を製造する爲に橋や境で若い男女を殺戮した例が少なくない。日本では僅かに古い古い世の風俗の名殘を、かの長柄の橋柱系統の傳說の中に留めて居るが、其は此序を以て話し得るほど手輕な問題では無いから略して置く。近世の風習としては、新たに架けた橋の渡初めに、美しい女を盛裝させて、其夫が是に附添ひ橋姬の社に參詣することが、伊勢の宇治橋などにあつたと、皇大神宮參詣順路圖會には見えて居る。橋姬姫の根源を解說するには、尙進んでこの渡初めの問題に立入つて見ねばならぬのである』とある。さすればこそ、ここで妬心深き妻は自ら命を絶つのであるが、それが他ならぬ橋であってみれば、この話柄の淵源は人身御供にまで遡ることが可能である。美麗な婦人でありながら、病的に妬心の炎(ほむら)を立てる彼女は日常的存在でないことによって、宿命的に既にして神に選ばれし者であったのである。

「それにはあらず」否定表現ではなく、「それは、まず、さておいて」という枕の発語。

「岡谷式部(をかのやしきぶ)」不詳。

「小椋(おぐら)の里」既出既注の豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。

「村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)」不詳。

「六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり」不審。葵の上に憑依して、結局、彼女をとり殺すのは、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の生霊であり、それも六条御息所自身が殆んど意識していない潜在意識内に於ける憑依である。

「髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり」岩文庫の高田氏の注に、『紫の上の姉』(異母姉)『にあたる。夫が玉鬘に夢中なので物の怪の発作を起こして』、雪の日の朝、性懲りもなく玉鬘のもとに向かおうとする夫に『火取の灰をあびせかける』とある。

「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」この言い方を見るに、彼女は妬心が病的に亢進し、自分の美貌に対しても、自信と絶望のアンビバレントな感覚を抱いていることが判る。強い関係妄想を伴う重い統合失調症の様相を呈していることが判る。

「水練」泳ぎの達者な者。

「平等院」ここ。]

2021/09/25

伽婢子卷之十 守宮の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」のものを用いた。「守宮」に「ゐもり」とあるのはママ。近代まで、しばしば誤って用いられ、今でも混同している人もいる。本文内での対象生物はイモリである。種や博物誌は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍盤魚(イモリ)」がダイレクトでよかろう。]

 

Imori1

 

   〇守宮(ゐもり)の妖(ばけもの)

 越前の國湯尾(ゆのを)といふ所のおくに、城郭の跡あり。荊棘(けいきよく)のいばら、生ひ茂り、古松(こまつ)の根、よこたはり、鳥の聲、かすかに、谷の水音、物すごきに、曹洞家(そうとうか)褊衫(へんさん)の僧、塵外首座(じんぐわいしゆそ)とかや、この所に草庵を結びて、座禪學解(がくげ)の風儀を味ひ、春は萠え出る蕨(わらび)を、をりて、飢《うゑ》をたすけ、秋は、嵐に、木の葉をまちて、薪(たきゞ)とす。近きあたりの村里より、檀越(だんをつ)まうで來ては、その日を送る程の糧(かて)をつゝみて惠む事、折々は、これありと雖も、多くは、人影も、まれまれ也。

 されども書典(しよてん)を開きて向ふ時は、古人に對して語るが如く、座禪の床(ゆか)にのぼれば、空裡三昧(くうり《さん》まい)に入て、おのづから、さびしくも、なし。

 ある夜、ともし火をかゝげ、机によりかゝり、「傳灯錄(でんどうのろく)」を讀み居たりければ、身のたけ、僅に、四、五寸ばかりなる人、黑き帽子をかぶり、細き杖をつき、蚋(あぶ)のなくが如く、小さき聲にて、

「我、今、ここに來れども、あるじなきやらん、物いふ人もなく、靜かに、淋しきことかな。」といふに、塵首座(じんしゆそ)、もとより、心法(しんほう)をさまりて、物のために動ぜざるが故に、これを見聞くに、おどろき恐れず。

 かの化物、怒りて、

「我、今、客人(きやくじん)として來りたるを、無禮にして、物だにいはぬ事こそ、やすからね。」

とて、机の上に飛び上がる。

 塵首座、扇をとりて、打ければ、下に落ちて、

「狼籍の所爲(しわざ)、よく心得よ。」

とて、大《おほき》に叫びつゝ、門に出《いで》て、跡かた、なし。

 暫くありて、女房五人、出來たれり。

 その中に、若きもあり、姥(うば)もあり。

 何れも身のたけ、四、五寸許也。

 姥(うば)がいふやう、

「わが君の仰せに、『沙門、たゞ一人、淋しきともし火の下に學行(がくぎやう)をつとめらる。早く行き向かふて、物がたりをも致し、又、佛法の深きことわりをも、問答して、慰めよ。』とあり。此故に、智辯(ちべん)兼備(かねそな)へたる學士(がくじ)、こゝに來りければ、何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、我君、たゞ今、こゝに來りて、子細を尋ね給ふべき也。」

といふに、其長(たけ)、五、六寸ばかりなる人、腕をまくり、臂(ひぢ)を張(はり)、手ごとに杖をもちて、一萬あまり、馳せ來り、蟻の如くに集りて、塵首座を打《うつ》に、首座は、夢の如くに覺えて、痛むこと、いふばかりなし。

 その中に、また一人、あかき裝束(しやうぞく)して烏帽子(ゑぼし)着(き)たるもの、大將かと見えて、うしろに控えて、下知して、

「沙門、はやく、こゝを出て、去(さる)べし。出去らずば、汝が目・鼻・耳を損ずべし。」

といふに、七、八人、首座が肩に飛びのぼり、耳・鼻に、くひつきければ、塵首座、これを拂ひ落として、門の外に逃げ出つゝ、南の方の岡に登りて見れば、一つの門あり。

「これは。そも、見馴れざる所かな。まづ、こゝにたちよりて、今夜をあかさん。」

と思ひ、門外近くさしよりければ、うしろより一萬あまりの人、立かへり、塵首座、捕へて、

「咄(どつ)」

と、つき倒し、門の内に引入たり。

 門の内にも七、八千ばかりの人數、身のたけ、五、六寸ばかりなるが、すきまもなく、立並びたり。

 大將、又、かへりていふやう、

「我、汝を憐みて、伽(とぎ)をつかはし慰めんとすれば、かへつて、損害をなす。その罪、まさに、手足をきりて、償ふべし。」

といふ。

 數(す)百人、手ごとに刀をぬきもちて、立かゝる。

 首座、大に怖れ惑ふて、

「それがし、おろかなるまなこをもつて、その惠みを知らざる事、その誤り、まことに、少なからず、後悔するに、かへらず。たゞ、願はくは、罪を赦したまへ。」

といふに、

「さては。悔む心あり。さのみに、せむべからず。なだめて、追返せ。」

といふ聲、聞えて、門の外へ突き出さるゝと思ふに、寺の小門の前なり。

 堂に立かへりたりければ、灯火(ともしび)は消え殘り、東の山の端(は)、しらみて、あけわたる。

 餘りの不思議さに、門のあたりを尋るに、更に、跡、なし。

 

Imori2

 

 東の方に、少し高き郊(をか)のもとに、穴、有《あり》て、守宮(ゐもり)、多く出入するを怪しみ思ひて、人多く雇ひて、こゝを掘らするに、漸々(ぜんぜん)に、底、廣し。

 一丈ばかり、掘ければ、守宮(ゐもり)、集りて、二萬ばかり、あり。

 中にも大なるもの、その長(たけ)、一尺ばかりにして、色、赤し。これ、すなはち、守宮(ゐもり)の王なるべし。

 村人の中に、一人の翁(おきな)、すゝみ出て、語りけるやう、

「古しへ、瓜生判官(うりふはんぐはん)とて武勇(ぶよう)の人、あり。この所に城を構へて、しばらく、近邊を從へ、新田義治(につたよしはる)に心を傾(かたふ)けたり。その根源は、判官の舍弟に義鑑房(ぎかんばう)とて、出家あり。新田義治を見まゐらせ、極めてたぐひなき美童なりければ、これに愛念を越こし、兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げしかども、遂に本意を遂げずして、討死(うちじに)したり。義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

 

『云越(こゝに)、蟲あり。蛤蚧(かうかい)と名づく。かしらは蝦(ひき)に似て、四つの足あり。鱗、こまかにして、背(そびら)にかさなり、色黑くして、尾、長し。石龍子(とかげ)をもつて部類とし、蝘蜓(やもり)をもつて支族とせり。あるひは泥土水(どろみず)の底にかくれ、あるひは頽井(くづれゐ)の中にむらがる。然るに、今、この土窟(どくつ)に蟄(ちつ)して、ほしいまゝに子孫を育長(いくちやう)し、その巨多(おほき)こと、何ぞ數ふるに百千をもつて盡さむや。月をわたり、年をつみて、たちまちに變化妖邪(へんげえうじや)のわざはひをなし、漫(みだり)に人の神魂(たましひ)を銷(けさ)しむ。これ、何のことぞや。爾而(なんぢ)、生(しやう)を蟲豸(むしち)の間《かん》に托(たく)し、質(かたち)を虵(へび)虬(みつち)の屬(たぐひ)によせて、暫く十二時蟲(《じふに》じちう)の名ありといへども、亦、三十六禽(きん)の員(かず)に外(はづ)れたり。よく蝎蠅(かつよう)を捕(とり)て蝎虎(かつこ)の美名あり。よく一日のうちに身の色變りて折易(せきえき)の佳號ありといへども、守宮(ゐもり)のしるしを張華が筆に貽(のこ)し、戀情(れんじやう)のなかだちを王濟(わうせい)が書にしるす。これ、皆、嫉妬愛執をもつて爾(なんぢ)が性(せい)とす。諒聞(まことにきく)、爾は、そのかみ、釋門(しやく《もん》)の緇徒(しと)、一朝、卒然として男色(なんしよく)に眩(めぐる)めき、つひに行業(ぎやうごふ)をすてゝ武勇をはげまし、欝悶(うつもん)して死して這(この)蟲(むし)となれりといふ。鳴呼(あゝ)、酥(そ)を執(しつ)せし沙彌(しやみ)は酥上(そじやう)の蟲となり、橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる。これ、上古の聆(きく)に傳ふ。爾、色に淫して、また、この蟲となれり。其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり。人の惡(にく)む所、世の戒むる所、何ぞ慚愧(ざんぎ)の心なく、剩(あまつさ)へ、かくの如くの恠異(くわいゐ)をなすや。早く心を改めて正道《しやうだう》に赴き、生《しやう》を轉じて、眞元《しんぐわん》に歸れ。』

 

と、よみければ、是にや、感じけん、數萬の守宮、皆、一同に死(しゝ)たふれたり。

 人皆、不思議の思ひをなし、

「たゞ、此まゝ、捨つべき事、ならず。」

とて、柴を積みて、燒きたて、灰になし、一丘(《いつ》きう)を築きて、しるしとす。

 それより後、二たび、恠異、なし。

[やぶちゃん注:これもまた、作品内時制の規定がない。私は南北朝以降の中世、特に戦国時代は守備範囲外の、さらにその場外で、今までの「伽婢子」の話の大部分がそこに集中しているのが、実は厭だったから(注を記すのにいちいち調べなくてはいけないからである)、これは誠にいい傾向である。

「越前の國湯尾(ゆのを)」福井県南条郡南越前町(みなみえちぜんちょう)湯尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「おくに、城郭の跡あり」杣山城址。湯尾とは日野川を挟んだ対岸の南条郡南越前町阿久和(あくわ)の山上にある山寨。「南越前町」公式サイト内のこちらに解説がある。『杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城が存在し、標高』四百九十二『メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています』。『山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します』。『杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部』が『国史跡の指定を受けています』。『杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞』二(一二二八)年八月、『上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました』。『山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父』衡(はかる)『が越後の三島郡瓜生村から』、『この地に移り』、『築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました』。延元元(一三三六)年、『新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました』が、「太平記」によれば、延元二(一三三七)年正月十一日、『金ヶ崎城を救うため』に『出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています』。「得江頼員軍忠状」によれば、暦応元(一三四一)年六月二十五日『夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治』六(一三六七)年七月、『高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明』六(一四七四)年正月、『日野川の合戦に敗れ』、『落城しました。朝倉氏の時代には、その家臣』『河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元』(一五七三)年、『織田信長の北陸攻めにより』、『廃城となり』、その後の天正二年には、『一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です』とあった。なお、グーグル・マップ・データ航空写真で、ストリービューを起動すると、かなりの箇所の杣山城址周辺ポイント画像が見られる。まあ、確かに好んで人が来そうなところでは、ない。「ブリタニカ国際大百科事典」他によれば、後で本文にも出る瓜生保(?~延元二/建武四(一三三七)年)は南北朝時代の武将。越前南条の住人。建武二年に、建武政権に背いた名越時兼を加賀大聖寺に攻め、自殺させ、同年、新田義貞の挙兵に応じたが,翌年には足利尊氏方につき、越前金崎城に義貞を攻めた。しかし、弟の義鑑坊(ぎかんぼう:本話のイモリに転生したのが、この人物の亡霊)・照(てらす)・重(しげし)ら三人が、義貞の甥脇屋義治に従って、杣山城で挙兵したことから、保も足利の陣を逃れ、義治の陣営に参じ,足利方の高師泰・斯波高経らを破った。翌年、金崎城の義貞救援に向ったが、途中、高師泰・今川頼貞と戦って戦死した、とある。

「曹洞家(そうとうか)」曹洞宗。

「褊衫(へんさん)」短い衣の上着。これに「裙子(くんす)」という下裳を着ける、僧の服の様式は仏教伝来以来あったが、特に鎌倉時代に主として禅家の間で、この上下を縫い合わせた「直綴(じきとつ)」が着用されるようになった。

「塵外首座(じんぐわいしゆそ)」不詳。了意が創出した架空の人物。「塵外」は一般名詞で「俗世間の煩わしさを離れた所或いはその境地。「浮き世の外・塵界の外・世外」の意。「首座」(しゅそ:現代仮名遣)の「そ」は「座」の唐宋音。仏語で、禅寺に於ける修行僧中で首席にあるものを指し、修行僧中の第一座にして長老(住持)の次位に当たる。僧堂内の一切の事を司る実務トップである。「上座」とも呼ぶ。

「學解(がくげ)」学問上の深い知識や見識。

「空裡三昧(くうり《さん》まい)に入」(いり)「て」「新日本古典文学大系」版脚注に『無念夢想の境地にひたることができて』とある。

「傳灯錄(でんどうのろく)」通常は「でんとうろく」と読む。中国の禅宗史書の一つ。全三十巻。蘇州承天寺の道原の作。宋の景徳元(一〇〇四)年、時の皇帝真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから「景德傳燈錄」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序がある。過去七仏に始まり、インドの二十八代、中国の六代を経て、北宋初期に至るまでの千七百一名の祖師の名と伝灯相承(でんとうそうじよう)の次第を述べたもの。北宋期に於いて禅が隆盛となるとともに、広く士大夫の教養書の一つとなり、禅の本の権威となった。仏祖の機縁問答を一千七百則の公案と呼ぶ名数は、本書に収める仏祖の人数に基づいている。

「蚋(あぶ)」読みはママ。これは、ブヨ・ブユ・ブトと読むのが普通で、一般的にはアブよりも遙かに小型である(但し、吸血されると、痒みが長く続き、しかも痕がなかなか消えない)。種や博物誌は「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)」を、アブは「虻」で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䖟(あぶ)」を見られたい。

「心法(しんほう)」読みは元禄版のものである。「新日本古典文学大系」版(国立国会図書館本底本)では『しんぼう』と振るが、この場合は厳密には、「しんぼふ」と読むのが歴史的仮名遣としては正しい。仏教用語としての「法」は「ぼふ」と読むのが決まりだからである。作者浅井了意は浄土宗の僧侶でもあるから、こういうところは、正しく守って貰いたかった気がする。

「よく心得よ。」「覚えておれよ!」という罵言。

「何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、」最後を読点にしたのは、憤怒と逆接の雰囲気を出すために私が確信犯で振った。

「咄(どつ)」大勢が殺到してくるオノマトペイア(擬態語)。

「汝が目・鼻・耳を損ずべし」「手足をきりて、償ふべし」本邦らしからぬ、いかにも原拠が漢籍(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、五朝小説の「諾皐記」の「太和末荊南云々」を元とするとある)であることを示す、中国人の大好きな人体部分切断処刑である。最悪無惨なのは、近代まで行われた凌遲(りょうち)刑であろう。

「新田義治(につたよしはる)」新田義貞の弟新田(脇屋)義助(よしすけ)の子で新田義貞の甥であった脇屋義治(元亨三(一三二三)年~?)。当該ウィキによれば、元弘三(一三三三)年、『父義助は義貞の挙兵に参加して活躍した。義治はまだ幼く、父の所領である新田荘脇屋郷に残留したと見られる。その後、上洛したと見られ、建武』二(一三三五)年、『伯父の義貞が建武政権に反旗を翻した足利尊氏への追討令を下されると、父義助と共にその軍に加わった。箱根・竹ノ下の戦いでは父義助の大手軍に属し、足柄峠を目指した。戦闘では大友貞載、塩冶高貞らの寝返りにより、宮方が敗北し、京へ敗退した。その後、父や伯父と共に京をめぐる戦闘や、播磨の赤松円心攻め、湊川の戦いに参加』した。翌建武三年、『後醍醐天皇が足利尊氏と和議を結び、義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下ると、父義助と共に越前金ヶ崎城に入る。義治は瓜生氏の杣山城に入り、諸氏への働きかけを行った』。『まもなく金ヶ崎城は高師泰・斯波高経に包囲される。瓜生保と義治は援軍を組織し救援に向かうが』、『失敗する。義貞、義助兄弟は援軍を組織するために金ヶ崎城から抜け出し、瓜生氏の下に身を寄せる。義貞は援軍を組織し』、『包囲軍に攻撃をかけるが、救援に失敗し、金ヶ崎城は建武』四年三月六日に『落城した。同年夏頃に義貞は勢いを盛り返し、斯波高経を越前北部に追い詰めた。翌建武』五年閏七月二日、『義貞が不慮の戦死を遂げると、北陸の宮方の総指揮を義助が執ることとなる。義治は義助と共に北陸経営を行うが、徐々に斯波高経が勢いを盛り返し』、興国二(一三四一)年『夏には杣山城が陥落し、越前の宮方は駆逐された。脇屋父子は美濃、尾張と落延び、吉野に入』った。翌興国三年には『義助と共に中国、四国の宮方の指揮を取るために伊予に下向』したが、『下向直後の』五月十一日、『義助は突然の発病により没した』。『義治は里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようにな』った。正平七(一三五二)年、『観応の擾乱と正平の一統で混乱する室町幕府に対し、南朝が一斉に蜂起した。畿内では北畠顕信、千種顕経、楠木正儀が直義派残党も糾合し、足利義詮を破り、京を奪還した。それに呼応して義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。同時に信濃では征夷大将軍宗良親王も挙兵し、一斉に鎌倉目指して進撃する。宮方には北条時行の他、直義派残党の上杉憲顕も加わり、鎌倉を一時的に占拠するが、結局』、『敗れ、宗良親王は信濃に、義宗、義興、義治らは越後へそれぞれ逃れたが、北条時行は捕縛されて処刑された(武蔵野合戦)』。正平二三(一三六八)年、『足利義詮、基氏が相次いで没すると、義宗と義治は再度』、上野・『越後国境周辺で挙兵するが、上野沼田荘で敗れ、義宗は戦死し、義治は出羽に逃走した』。『その後の消息については不明であるが、伊予国温泉郡に逃れたとの伝承や、明徳年間』(一三九〇年~一三九四年)に『丹波に逃れたとの伝承、陸奥の伊達持宗が』応永二一(一四一三)年に『挙兵した際、義治を押し立てて稲村・篠川両御所を襲撃したとの説もある。しかし』、一三七〇年代から『義治の子義則が単独で活動を』していることから、『出羽逃走直後に没したと見られ』ている、とある。

「義鑑房(ぎかんばう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『俗名瓜生儁興』(読み不明。音で「しゅんこう」と仮に読んでおく)『僧籍にあったが、実兄瓜生判官』保『の挙兵を助け、義に殉じた勇者として太平記に描かれる』とある。

「美童」同前で、『「脇や右衛門佐殿ノ子息ニ式部大夫義治トテ、今年十三ニ成給ヒケルヲ、義鑑坊ニゾ預ケラル(太平記十七・瓜生判官心替事義鑑房蔵義治事』とある。

「これに愛念を越こし」同前で、『太平記では、瓜生保の一時の心変りにより、父から義鑑坊に預けられ、杣山城で反撃の機会を待った』とある。

「兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げし」既に注したが、同前で、『足利尊氏に従って城を攻撃する側にいた兄の瓜生判官を説得しての挙兵であった』とある。「義兵」についても、同前で、『後醍醐天皇の皇太子恒良親王と尊良親王を奉じた新田方に呼応したもの』とある。

「討死(うちじに)したり」同前で、『金崎の戦いに兄の瓜生判官とともに討死、その地を敦賀市樫曲(かしまがり)と伝える』とある。ここ。杣山城とは直線で十三キロメートル南西であるが、イモリは種によっては、かなりの距離を移動出来るし、地下水脈で移動することも可能であり、距離感は矛盾しない。言っておくが、私自身、イモリから祟られても仕方がない人間である。高校時代、生物部(演劇部と掛け持ち)でイモリの四肢の一部を切断して再生させるという、今、考えれば、ひどい実験をしていたからである(完全再生は達成できなかった。「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生」の私の注を参照されたい)。なお、イモリの再生能力の高さは脊椎動物の中では群を抜いて優れていることはよく知られている。

義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

「云越(こゝに)」思うに、中国語のサンスクリット語の漢音写等に基づく当て字であろう。

「蛤蚧(かうかい)」寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」で「蛤蚧(あをとかげ)」を立項している。そこで私は、『「蛤蚧」は音で「コウカイ」である』。良安は別に『「ヤマイモリ」とルビを振るが、そのような和名を持つイモリはいない。該当熟語に「オオイモリ」と振る記載を見かけたが、そのような和名のイモリもいない。「大漢和辭典」の「蛤」の項の意味に『⑤蛤蚧(コウカイ)・蛤解はとかげの一種。首は蝦蟇(ガマ)に似、背に細かいうろこがあり、広西に産する。』とある。さても良安先生、「蛤蚧」はイモリではなく、ヤモリですよ! 現在種では中国南部に棲息する(本邦には棲息しないから良安先生も間違えたのかもしれない)ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属トッケイヤモリGekko geckoである。以前は「オオヤモリ」と称せられた。但し、一般にイモリの黒焼きが古くから強壮剤とされることは周知の事実であり、この漢字とルビを用いなければ、私もオオヤモリのようには嚙み付かなかったと思う。どうも、これは日本に伝承する際に、ヤモリからイモリに誤認されたものであるらしい。イモリは皮膚からの分泌物質にフグ毒で知られる猛毒のテトロドトキシンtetrodotoxinTTX)に極めて近似した成分を持っていることは、近年ではよく知られるようになった。とは言え、イモリの黒焼きを食って死んだ人は聞かない。一個体の持つ毒成分の分量が少ないことや、そんなに多量に食えるもんじゃあない(真っ黒に炭化するまでかりかりに焼いているので苦い)からであろう。ちなみに平凡社一九九六年刊の千石正一他編集になる「日本動物大百科5 両生類・爬虫類・軟骨魚類」の「イモリ類」の項にの総排泄腔からの内側の毛様突起から放出されるを誘惑するフェロモンについて記載し、『最近このフェロモンは、腹部肛門腺から分泌されるアミノ酸』十『個からなるイモリ独特のタンパク質であることがわかり、万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「茜さす紫野行き標野行き野守は見づや君が袖振る」にちなんで、ソデフリンと名づけられた。』(記号の一部を私のページに合わせて換えた)とある。やっちゃったな~あって感じの「総排泄腔」「腹部肛門腺」からの分泌物の主成分は、額田王が如何にも顔を顰めそうな命名、ソデフリン sodefrin だ。でもこれは何でも脊椎動物で初めて単離されたペプチド・フェロモンなんだそうだ』と注した。

「蝦(ひき)」蝦蟇(ひきがえる)。

「蟲豸(むしち)」「爾雅」の「釋蟲」によれば、所謂、広義の「むし」の内で、脚があるものを「蟲」(チュウ)とし、蠕虫や針金状に線虫などのような脚のないものを「豸」(チ)である、と説明している。このため、広義の「むし」を「蟲豸」で総称したのである。

「虬(みつち)」「みづち」。「蛟」。水中に住み、蛇に似ており、角と四足を有し、毒気を吐いて人を害すると言い伝えられる想像上の龍の一種。

「十二時蟲(《じふに》じちう)」「太平廣記」の「昆蟲六」に「南海毒蟲」を載せ、

   *

南海有毒蟲者、若大蜥蜴、眸子尤精朗、土人呼爲十二時蟲。一日一夜、隨十二時變其色、乍赤乍黃。亦呼爲籬頭蟲。傳云、傷人立死、既潛噬人、急走於藩籬之上、望其死者親族之哭。新州西南諸郡。絕不產虵及蚊蠅。余竄南方十年。竟不覩虵。盛夏露臥。無䁮膚之苦。此人謂南方少虵。以爲夷獠所食。別有水虵。形狀稍短、不居陸地、非噴毒齧人者。出「投荒雜錄」。

(南海に毒蟲有り。大なる蜥蜴(とかげ)のごとく、眸子、尤、精朗たり。土人、呼びて「十二時蟲(じふにじちゆう)」と爲す。一日一夜(いちじついちや)、十二時に隨ひて、其の色を變ず。乍(たちま)ち、赤く、乍ち黄たり。亦、呼びて、「籬頭蟲(りとうちゆう)」[やぶちゃん注:「籬(まがき)の上にいる虫」の意。]と爲す。潛(ひそ)かに、人を噬(か)み、急ぎ、藩[やぶちゃん注:土塀。]・籬の上を走りて、その死者の親族の哭するを望むなり。新州の西南の諸郡には、絕えて不產虵(へび)及び蚊・蠅を產せず。余、南方に十年、竄(はなた)らるも、竟(つひ)に虵を覩(み)ず。盛夏、露はに臥すも、膚の苦しみのために䁮(のが)るること、無し。此れ、人の謂ふ、「南方、虵、少なし。以つてて夷獠(いれう)[やぶちゃん注:異民族の名。]の食らふ所と爲ればなり。」と。別に、「水虵(すいじや)」有り。形狀、稍や短く、陸地に居らず、毒を噴き、人を齧む者には、非ず【「投荒雜錄」に出づ。】。)

   *

と、十二刻(二十四時間の二時間刻み)の間、十二の色に体色を変えるために、かく別名がついた、とある。ヤモリかトカゲの一種だな。因みにカメレオンはアジアにはいない。なお、「投荒雜錄」というのは唐の房千里という人物の書いたものであるが、散佚して原本はなく、筆者どんな人物かは判らない。南方の地に流謫されたというから、官人ではあろう。

「三十六禽(きん)」一昼夜十二刻の各時に一獣を配して、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣を附けた計三十六の鳥獣。五行ではそれを占卜に用い、仏家では、それぞれの時刻に、出現しては、坐禅の行者を悩ますとされる。WEB画題百科事典「画題Wiki」の「三十六禽」に全名数が載る。

「蝎蠅(かつよう)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『キクイムシ(カミキリムシの幼虫)とハエ』とする。何故、サソリとしないのかは、判らない。中国にはサソリいるけど?

「蝎虎(かつこ)」ヤモリの異称。「新日本古典文学大系」版脚注は『イモリの別称』としている。だから、それは、そちらの注が頭で注意している現代の誤りの一つを、当人が、やらかしちゃったんだなあ!

「折易(せきえき)」「新日本古典文学大系」版では『析易』とする。確かにそれが正しいだろう。「蜥蜴」の(つくり)だもの。ただ、底本も元禄版も孰れも「折易」なので、修正しなかった。

「守宮(ゐもり)のしるし」意味のしっかり分かっている私は改めて説明する気にならない。私の南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」を読まれたい。オリジナル注も附してある。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「貽(のこ)し」「殘し」「遺し」に同じ。

「戀情(れんじやう)のなかだち」前の前の前の注のリンク先を参照。

「王濟(わうせい)が書」「王濟」は明の政治家。「新日本古典文学大系」版脚注に、彼『の著、君子堂日詢手鏡に、蜥蜴・守宮の事を、「其物二者上下相ヒ呼ビ、牝声ハ蛤、牡声ハ蚧、日ヲ累(かさ)ネテ情洽甚シク乃(いま)交(こもごも)両(ふたつながら)相ヒ抱ヘ負ヒ、日(あるひ)地ニ堕ツ」とあり、この虫を捕え、粉にして「房中之薬」にする。「情洽」は愛情が和合すること』とある。

「緇徒(しと)」「緇」は「墨染めの衣」の意で、「僧」の意。

「眩(めぐる)めき」「めくるめき」に同じ。眼が眩(くら)んで。

「酥(そ)」チーズに似た牛乳を発酵・固形化したもの。仏教では、「大般涅槃経」の中で牛の乳から生み出される貴重な宝である「五味」として、順に「乳」→「酪」→「生酥」→「熟酥」→「醍醐」の順に熟成精製されるとある。但し、それぞれの完成物は、現在のチーズと同じであるかどうかは判らない。

「橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる」「新日本古典文学大系」版脚注に『未詳。発心集八ノ八、三国伝記三ノ二十一に類話があるが、両例とも尼僧』であるとある。

「聆(きく)に傳ふ」「きく」は「聽く」。聴き伝えている。

「其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり」イモリに転生する以前から、一度は僧籍にあり乍ら、瞬く間に美少年に懸想して若衆道の深みにはまるという、七変化を成すアプリオリな性的変色変態素質があったことを色を変えるイモリに掛けて言う。

「慚愧(ざんぎ)」今は「ざんき」だが、「ざんぎ」は古い読みとしてあった。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。

「生《しやう》を轉じて」輪廻転生して。

「眞元《しんぐわん》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「真元(しんぐわん)か。「真元」は「真如」に同じ』とある。「真如」サンスクリット語「タタター」の漢訳語で、「ありのままの姿・万物の本体としての永久不変の絶対真理・宇宙万有に遍く存在する根元的実体・法性(ほっしょう)・実相」のこと。]

伽婢子卷之九 人鬼 / 卷之九~了

 

Hitooni

 

[やぶちゃん注:今回も状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。今回は衝撃的雰囲気を出すためにダッシュを用いた。]

 

   〇人鬼(《ひと》をに)

 丹波の國野々口(のゝぐち)といふ所に、與次といふ者の祖母(うば)百六十餘歲になり、髮、甚だ白かりければ、僧を賴みて、尼になしけり。若き時より、放逸無慚なる事、ならびなし。

 與次、已に八十あまりにして、子、あまた有り。孫も多かりしを、かの祖母(うば)は、與次を、

「我が孫なり。」

とて、常に心にかなはむ事あれば、責《せめ》いましむる事、小兒(せうに)ををどし、叱るが如くす。

 され共、與次がため[やぶちゃん注:「与次にとっては」の意。]、祖母(うば)の事なれば、孝行に養ひけり。

 此うば、年、已に極まりながら、目も明きらかにして、針の孔(みゝ)をとほし、耳、さやかにして、私語(さゝやく)事をも、聞付け侍べり。

 年九十ばかりの時、齒は、皆、ぬけ落ちたりしに、百歲の上になりて、元の如く、生(おひ)出たり。

 世の人、ふしぎの事に思ひ、いとけなき子、持(もち)ては[やぶちゃん注:連れてきては。]、

「此祖母にあやかれ。」

とて、名をつけさせ、もてなし、かしづき侍べり。

 畫の内は、家に在りて、麻(を)をうみ紡(つむ)ぎ、夜に入りぬれば、行く先、知れず、家を出る。

 初の程こそ有けれ、後(のち)には、孫も子も怪しみて、出て行く跡をしたへば、此祖母、立ち歸り、大《おほき》に叱りどよみ、杖は突きながら、足、はやく、飛ぶが如くに步む。

 更に其ゆく所、定かならず。

 身の肉(しゝ)は、消え落ちて、骨、太く、あらはれ、兩の目は、白き所、色、變じて、碧(あを)し。

 朝夕の食事は、至りて少なけれ共、氣象(きじやう)は、若き者も、及ばれず。

 或る時より、畫も出《いで》て行くに、孫・曾孫(ひこ)・新婦(よめ)なんどに向ひて、

「我が留守に、部屋の戶、開くな。必ず、窓の内を、さし覗くな。もし、戶を開かば、大に怨むべし。」

といふに、家にある者共、怪しみ、おもふ。

 又、ある日、晝、出て、夜、更くるまで、歸らざりけるに、與次が末子(ばつし)、酒に醉《ゑひ》て、

『何條(なでう)、祖母の『部屋の戶ひらくな』と云はれしこそ、怪しけれ。留主(るす)の紛れに、見ばや。』

と思ひ、密(ひそ)かに戶を明けて見ければ――

――狗(いぬ)のかしら

――庭鳥(にはとり)の羽(はね)

――をさなき子の手首

又は――

――人の髑髏(しやれかうべ)――手足の骨

――數も知らず、簀(すがき)の下に積み重ねて――あり。

 是れを見て、大に驚き、走しり出て、父に、

「かく。」

と、告げたり。

 一族、集りて、

「いかゞすべき。」

と評議する所へ、祖母(うば)、立ち歸り、部屋の戶の明きたるを見て、大に恨み、怒り、兩眼(りやうがん)、まろく、見開き、光り輝き、口、廣く、聲、わなゝき、走り出て、行かたなく失(うせ)にけり。

 恐ろしさ、いふばかりなし。

 後に、近江山のあたりに薪(たきゞ)こる者、行あひたり。

「其さま、地白《ぢしろ》のかたびらを、つぼをり、杖をつきて、山の頂きに登る。其の速き事、飛ぶがごとく、猪(ゐ)のしゝを捕へて、押し伏せたるを見て、おそろしく、身の毛よだちて、逃げかへりぬ。」

と、語りし。

 かの姥なるべし。

 生(いき)ながら鬼になりける事、疑ひなし。

[やぶちゃん注:本篇も前話と同じく、珍しく時制設定がない。

「丹波の國野々口(のゝぐち)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『京都府船井郡園部町埴生近辺』とする。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「氣象(きじやう)」「氣性」に同じ。

「窓の内を、さし覗くな」窓も内側から見えないように板などで塞いであったものであろう。その隙間からも覗くな、という謂いであろう。所詮、暗いから見えはしないのだが。

「髑髏(しやれかうべ)」底本はひらがなであるが、元禄本で漢字にし、おどろおどろしさを出した。

「簀(すがき)の下に積み重ねて――あり」「簀」は「簀の子」のことであろう。あらゆる貪り食った人や鳥獣の遺骸の上に簀の子を敷いて、寝起きしていたものと思われる。シリアル・キラーの典型的猟奇性が窺われる。

「近江山」「新日本古典文学大系」版脚注には、『京都府加佐郡大江町』(おおえまち)『と与謝郡加悦町』(かやちょう:但し、二〇〇六年に隣接する与謝郡岩滝町・野田川町と新設合併して与謝郡与謝野町となっている。引用書は二〇〇一年刊である)『との境にある山。千丈ケ岳とも。「丹波国 大江山」(歌枕名寄三十)。源頼光の鬼神退治で知られる(酒呑童子)。また、大江山の伝承は西京区大枝沓掛町』(おおえくつかけちょう)『老ノ坂付近の大枝山もあるが、ここは、野々口よりさらに奥まった前者が適しよう』と考証されてある。前者は「千丈ヶ嶽」と地図にあり、ここで、大枝山の方はこちらである。注釈者の見解を支持する。

「地白《ぢしろ》」織物の地の白いこと。また、白地の織物。

「かたびら」「帷子」。裏をつけない布製の衣類の総称で、夏は直衣(のうし)の下に着るものの他に、夏に着る麻・木綿・絹などで作った単衣(ひとえ)ものの着物を指すが、当然ここは、仏式で葬る際に名号・経文・題目などを書いて死者に着せる白麻などで作った経帷子(きょうかたびら)を嗅がせてある。鬼(中国語ではもとはフラットな「死者」の意である)となった表象である。

「つぼをり」「壺折る・窄折る」で、手で着物の裾を折って絡み取る、また、着物の褄(つま)の部分を折って前の帯に挟む、の意。丈を短くして山野を走るのに邪魔にならないようにしているのである。「かいどる」とも言う。普通は女のすることではない。挿絵でも確かに膝から下が丸出しで走り抜けている。なお、挿絵では鬼となった老婆は「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『綿帽子を被』っていると解説する。]

伽婢子卷之九 人面瘡

 

Otojinmensou

 

[やぶちゃん注:最も左膝膝蓋骨付近に生じた(但し、本文では「腿の上」とする)人面瘡が最もよく視認出来る岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。人面が判るように、大サイズで示した。]

 

   〇人面瘡(じんめんさう)

 山城の國小椋(をぐら)といふ所の農人(のうにん)、久しく、心地、惱みけり。

 或る時は、惡寒(をかん)・發熱(ほつねつ)して、瘧(おこり)の如く、或る時は、遍身(そうみ)、痛み、疼(ひらゝ)きて、通風(つうふう)[やぶちゃん注:「痛風」。]の如く、さまざま、療治すれ共、しるしなく、半年ばかりの後に、左の股の上に瘡(かさ)出來て、其形、人の貌(かほ)の如く、目・口ありて、鼻・耳は、なし。

 是れより餘(よ)の惱みはなくなりて、只、其の瘡の痛む事、いふばかりなし。

 まづ、試みに、瘡の口に酒を入るれば、其のまま、瘡のおもて、赤くなれり。

 餅(もちひ)・飯(はん)を口に入るれば、人の食ふ如く、口を動かし、呑み、をさむる。

 食をあたふれば、其の間(あひだ)は、痛み、とゞまりて、心安く、食(しよく)せさせざれば、又、はなはだ、痛む。

 病人、此故に瘦せ勞(つか)れて、しゝむら、いたみ、力、落ちて、骨と皮とになり、死すべき事、近きにあり。

 諸方の醫師、聞き傳へ、集まりて、療治を加へ、本道[やぶちゃん注:広義の内科。]・外科、皆、その術を盡くせども、驗(げん)なし。

 こゝに、諸國行脚の道人(だうにん)、此所に來りていふやう、

「此瘡、まことに、世に稀れなり。是れを、うれふる人は、必ず、死せずといふ事、なし。され共、一つの手だてを以て、いゆる事、あるべし。」

といふ。

 農夫、いふやう、

「此の病《やまひ》だに愈(い)えば、たとひ田地を沽却(こきやく)すとも、何か惜しかるべき。」

とて、すなはち、田地をば賣(うり)しろなし、其の價ひを道人に渡す。

 道人、もろもろの藥種を買ひ集め、金(かね)・石(いし)・土(つち)を初めて、草・木に至りて、一種づゝ、瘡の口に入るれば、皆、受けて、是れを呑みにけり。

 「貝母(ばいも)」といふものを、さしよせしに、その瘡、すなはち、眉を、しゞめ、口を、ふさぎて、食(くら)はず。

 やがて、貝母を粉にして、瘡の口を押し開き、葦(あし)の筒(つゝ)を以つて、吹き入るゝに、一七日《ひとなぬか》の内に、其の瘡、すなはち、痂(ふた)、づくりて、愈《いえ》たり。

 世にいふ「人面瘡」とは、此事なり。

[やぶちゃん注:本篇は珍しく時制設定を行っていない。

「人面瘡」妖怪的奇病の一種。体の一部に生じた傷が化膿し、人の顔のようなものが出現し、話をしたり、物を食べたりするとされる架空の病気。江戸の怪奇談や随筆に見られ(私の電子化注では「諸國百物語卷之四 十四 下總の國平六左衞門が親の腫物の事」がある。殺された下女の因果が病根とするものである。また、「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」にも出(十二歳の少年の腹に開口し、人語を話すもの)、私の注で、原拠である「新著聞集」の「雜事篇第十」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」や、「酉陽雜俎」(唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の貝母が特効薬とする原拠らしきものも電子化してあるので見られたい)、三流の近代以降の怪奇小説にもしばしば登場する(私は近代物は概ね濫読したが、谷崎潤一郎の「人面疽」は最も面白くなく、成功しているのは手塚治虫先生の「ブラックジャック」の「人面瘡」ぐらいなものである)。そんな中でも、医師が治療したとする驚くべき詳細な信頼出来る事例記載として、江戸後期の儒者で漢詩人としても知られる菅茶山(かん さざん 延享五(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年):諱は晋帥(ときのり)。備後国安那郡川北村(現在の広島県福山市神辺町)の農家の生まれ。当該ウィキによれば、彼が『生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した』。『故郷に帰り』天明元(一七八一)年頃、郷里神辺に『私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした』。『塾は』寛政八(一七九六)年には『福山藩の郷学として認可され』、『廉塾と名が改められた。茶山は』享和元(一八〇一)年から『福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという』詩集「黄葉夕陽村舎詩」が残る。『廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など』の著名人もいる)が晩年に書いた随筆「筆のすさび」の巻之四の「人面瘡の話」に以下のようにある(ともかく臨床例記載として頗る興味深いものである!)ので、挙げておくことにする(「日本古典籍ビューア」のこちらにある原本の当該話を視認して起こした。挿絵は当該画像をトリミング補正した)。頭の「一」は原本では上に飛び抜けているが、代わりに下を一字分空けた。

   *

一 人面瘡の話   仙臺の人、怪病の圖、並に記事、左に載す【本文、漢語を以てすといへども、今、兒童の見やすからんために和解す。覽者、これを察せよ。】

 

 

王父月池先生[やぶちゃん注:蘭学者で幕府奥医師でもあった桂川甫賢(かつらがわほけん 寛政九(一七九七)年~天保一五(一八四四)年)の号。医家桂川家六代目で甫周の孫。名は国寧(くにやす)。オランダ名 Johannes Botanicus。大槻玄沢らに学び、オランダ語に堪能でシーボルトらとも交友があった。絵も上手く、「和漢蘭三州必真像自画小幅」がある。主著「酷烈竦弁」。]嘗て余に語(かたり)て曰、「祖考華君[やぶちゃん注:甫賢の五代前の桂川国華(甫筑)。]の曰く、城東材木町に一商あり、年二十五、六、膝下に一腫を生ず、逐(ひをおふて)漸(やうやく)にして、大に、瘡(かさ)、口、泛(ひろ)く開き、膿口(うみくち)三両處、其の位置、略(ほゞ)、人面に像(かたど)る。瘡口(きづくち)、時ありて、澁痛(いまみ)し、滿(みつ)るに、紫糖(したう)[やぶちゃん注:紫蘇糖(しそとう)か。青紫蘇の精油主成分を原料とした甘味料。近代に精製された製品は蔗糖の約二千倍の甘味がある。]を以てすれば、其痛み、暫く退(しりぞ)く。少選(しばらく)あつて、再び痛むこと、初のごとし。夫、「人面(にんめん)の瘡(さう)」は、固(もと)より妄誕に渉る。然るに、かくのごときの症(せう)、「人面瘡」と做(な)すも、亦、可ならん乎。蓋(けだし)、瘍科(やうか)諸編を歴諬(れきけい)するに、瘡名、極めて、繁(しげ)し。究竟(くつきやう)するに、其の症、一因に係(かゝり)て發する所の部分及び瘡の形状(かたち)を以て、其名を別(わか)つに過ぎざるのみ。「人面瘡」のごときも、亦、是なり。今、茲(こゝ)に己卯[やぶちゃん注:これがずっと国華甫筑の台詞であるなら、彼の存命期から推定して宝暦九(一七五九)年である。もし、話者国寧賢の謂いなら、文政二(一八一九)年となる。どこまでが引用なのか判らないのを恨みとする。]中元[やぶちゃん注:陰暦七月十五日。]仙臺の一商客、門人に介(なかだち)して曰、「或人、遠くより來て、治を請く。年三十五を加ふ。始、十四歳のときにありて、左の脛(はぎ)上に腫(はれ)を生ず、潰(つぶれ)て後、膿をながして、不竭(つきず)、終に朽骨(きうこつ)二、三枚を出す。四年を經て、瘡口、漸く収る。只、全腫(ぜんしゆ)不消(しやうせず)、步(ほ)、頗る難(かた)し。故に、温泉に浴し、或は、委中(いちゆう)[やぶちゃん注:膝の後ろの中央にある経絡のツボの名。]の絡を刺(さし)、血を泻(なが)す、咸(みな)、應、せず。醫者を轉換するも、亦、数人、荏苒(じんぜん)として[やぶちゃん注:治療が滞って、そのままで、病態が好転する兆しがないということ。]、幾歲月、其腫(はれ)、却(かへつ)て、自ら増し、膝を圍み、腿(もゝ)を襲せ[やぶちゃん注:読み不詳。「覆(おほ)ふ」の意味ならある。]、然[やぶちゃん注:「しかして」か。]、再び、膿管(のうかん)、數處(すうしよ)を生じ、彼(かれ)[やぶちゃん注:指示語。それが、]、収まれば、此(こゝ)に發(はつし)、前に比するに、甚(はなはだ)同じからず。只。絶えて疼苦(いたみ)なく、今年に至て、瘡口(きつくち)、一處に止(とま)る。即、先に骨を出すの孔旁(こうぼう)なり。瘡口(さうこう)、脹起哆開(ちやうきたかい)し、あたかも口を開くの状(かたち)のごとし。周圍(めぐり)、淡紅(うすあか)く、唇のごとく、微(すこ)しく其口に觸(ふる)れば、則、血を噴(ほとはし)る。亦、疼痛、なし。口上に、二凹(くぼ)あり、瘡痕(かさのあと)相對し、凹内(くぼきうち)に、各(おのおの)、皺(しはん)紋あり、あたかも目を閉ぢ、笑ひを含むの状(かたち)のごとし。眼の下に、二の小孔あり、鼻の穴の、下に向ふが如し。兩旁に、又、各、痕(あと)あり、痕の辺に、各、堆起(つゐき)し、耳朶(みゝたぶ)のごとく、其面(をもて)、楕圓(だゑん)、根(ね)、膝蓋(ひざふた)に基(もとゐ)して、頭顱(づろ/カシラ[やぶちゃん注:右/左の読み。以下同じ。]の状をなす。且、患(うれ)ふる處、惻々として、動(うごき)あり、呼吸のごとし。衣を掲(かゝげ)て、一たび、見れば、則、言を欲する者に似たり。復(また)、約略(おほやう)、人面を具するにあらず。強ひて、人面をもつてこれを名づくるの類なり。而(しかして)、脛(はぎ)の内、㢛(けん/ハヾキ)[やぶちゃん注:所持する吉川弘文館随筆大成版では『廉』と翻字するが、採らない。この漢字の意味は判らないが、読みの「はばき」は脛(すね)の意と思うし、以下の文字列からも腑に落ちる。]・腿(たい/モヽ)・股(こ/マタ)に連(つらな)り、腫(はれ)、大にして、斗(と)のごとく、靑筋、縦橫(ちゆうわう)遮絡(さらく)[やぶちゃん注:塞ぎ繋がること。]、これを按ずるに、緊(きん)ならず、寛(くわん)ならず、其の脈(みやく)、数(さゝ)にして、力あり、飮食、減ぜず、二便、自可[やぶちゃん注:「おのづからかなり」と訓じておく。]。斯(この)症、固(もと)より、これを「多骨疽(たこつそ)」[やぶちゃん注:私が幼少時に罹患したカリエス。結核性骨髄炎。]に得たり。「多骨疽」の症、多くは遺毒(いどく)[やぶちゃん注:先天性梅毒。]に出づ。而(して)其(その)瘡勢(さうぜい)、斯のごとくに至るものあり。只、口内、汚腐(をふ)、充塡(ぢゆうてん)、縁なく、餌糖(したう)、即(すなはち)、貝母(ばひも)も、眉(まゆ)をあつめ、口をひらくの功を奏すること、あたはず。文政己卯(きぼう)[やぶちゃん注:文政二(一八一九)年。]中元、桂川甫賢國寧(かつらがはほけんこくねい)、記(きす)。

   *

「山城の國小椋(をぐら)」豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。

「瘧(おこり)」長期に間歇的に発熱・振戦を伴う病気。熱性マラリア。

「貝母(ばいも)」中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方され、用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要である(ここはウィキの「アミガサユリ」に拠った)。]

2021/09/24

伽婢子卷之九 金閣寺の幽靈に契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」のものをトリミング補正して、適切な位置に配した。]

 

    ○金閣寺の幽靈に契る

 中原主水正(なかはらもんどのかみ)は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。

 大永乙酉(きのととり)[やぶちゃん注:一五二五年。将軍は足利義晴であるが、最早、戦国時代前期。]彌生ばかりに、思ひ立《たち》て、霞を分つゝ、北東の山路(《やま》ぢ)にさすらひ、暮ゆく春の名殘を慕ふ。

 北白川檜垣(ひがき)の森、櫻井の里氷室(ひむろ)山、岩倉谷(いはくらたに)きつね坂、八鹽岡(やしほのをか)、比叡橫川(よかは)、片岡の森、鬼が城、大原、音無(をとなし)の瀧、志津原、朧淸水(おぼろのしみづ)、市原野邊(《いちはら》のべ)、暗部(くらぶ)山を、打めぐり、鹿苑院(ろくをんいん)に行き至る。

 世に金閣寺と號す。征夷大將軍源義滿公、この地に家づくりして移り住み給ひしも、薨去の後、直(すぐ)に寺となし給へり。

 庭の築山(つきやま)、泉水の立石《たていし》、まことに、古今絕景の勝地として、たぐひなき所なり。

 中原、こゝまで浮かれ來て、日、巳に暮らして、朧月、東のかたに出れば、「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」と、花に移ろふ月の光に、木の本も立ち去りがたくぞ、覺えし。

 里の家に宿は借りけれ共、いも寢られず、砌(みぎり)をめぐり、苔路(こけぢ)を踏んで、金閣のもとに至りぬ。

 去ぬる應永十五年[やぶちゃん注:一四〇八年。]、義滿公の薨じ給ひしより、既に百十八年、そのかみ、さしも、にぎにぎしかりけるも、君おはしまさずなりけるより、すむ人も、やうやう、稀になり、礎(いしずゑ)、傾(かたふ)き、柱、朽ちて、僅かに、金閣のみ、昔の色を殘したり。

 主水は軒に立ち寄り、欄干によりかかりて、昔を思ひ、今を感じて、ふけゆく月に、打うそぶきつゝ、古木(こぼく)の櫻花、少し咲たるを見やりて、

 櫻花いざ言問はん春の夜の

   月はむかしも朧なりきや

 

Kinakau1

 

[やぶちゃん注:中原主水正の向こうに既にして、二人の女の墓が描かれてある。]

 

 かゝる所に、ひとりの女、其の齡(よはひ)、十七、八と見ゆるが、半者(はしたもの)一人召し具して、閣のもとに來れり。

 桂の眉墨、雲《くも》のびんづら、たをやかなる姿かたち、美しさ心も、詞も及ばれず、いふばかりなくあてやかなるが、

「如何なる事ぞ。」

と、忍びて見ければ、此の女房、いふやう、

「金閣ばかりは故(もと)のごとくにして、庭のおもては、風景、變らず。但、時移り、世變はり、そゞろに昔の戀しきのみ、おもひつゞくるこそ悲しけれ。」

とて、泉水のほとりに休らひて、津守國基(つもりのくにもと)、花山(くわさん)に行きて、僧正遍昭が古跡のさくら、散りけるを見て詠みける古歌を吟詠す。

 あるじなき住みかに殘る櫻ばな

   あはれむかしの春や戀しき

主水正、此の吟聲を聞くに、胸とゞろき、魂(たましひ)きえて、心も、そぞろにまどひつゝ、うつゝなき中より、

 さく花にむかしを思ふ君はたぞ

   今宵は我ぞあるじなるもの

と、よみて、立ち向へば、女房、さらに驚く氣色なく、いとさゝやかななる聲にて、

「初より、和君、此所《ここ》に在(おは)する事を知り侍べりて、みづから、こゝに來りて見え參らする也。」

といふ。

 大にあやしみて、其名を問へば、女、こたへていふやう、

「みづから、人間(にんげん)に捨てられて、已(すで)に年久し。此の事を語り侍べらば、和君、さだめて驚き怖れ給はん。」

といふに、主水正、此言葉を聞きて、

『扨は。是れ、人間にあらず。山近く木玉(こたま)の現れしか、狐のなれる姿か、然らずば、幽靈ならん。』

と思ふに、形の美くしさに、心、解けて、露、おそろしき事、なし。

「如何でか、驚き怖れ侍べらむ、只、有の儘に語り給へ。」

といふ。

 女房いふやう、

「みづから、畠山氏(はたけやまうぢ)の家に生まれ、いにしへ、義滿公、この所に引籠り給ひし時、宮仕へせし者なり。年二十にして、むなしくなり、君の御憐れみ、深くて、この院の傍らに埋(うづ)み給ふ。今宵は追福の御事《おんこと》によりて、從一位(じゆ《いち》ゐ)良子禪尼(よしこぜんに)の御許に參りぬ。是は、義滿公の御母にておはします。その座、久しくて、今、漸く、ここに出來り侍り。」

とて、半者に仰せて、筵(むしろ)・しとねを取り敷かせ、酒・菓(くだもの)をめし寄せ、閣の庇に向ひ坐して、

「今夜の花に今夜の月、如何で空しく送り明さむ。」

とて、酒、のみ、語り、遊ぶ。

 半者、哥、うたひ、盃(さかづき)の數(かず)、重なれり。

 女房、打ちかたぶきて、

 明行かば戀しかるべき名殘りかな

   花のかげもるあたら夜の月

と、詠みて、打ち淚ぐみけるを、主水正、心ありげに思ひて、

 いづれをか花は嬉しと思ふらむ

   さそうあらしとをしむ心と

女房、袖かきをさめて、

「君は、みづからが心を引み給ふと覺ゆる歌ぞかし。世をさり、え久しく埋もれし身の、又、立返り、君に契らば、死すとても、朽果てはせじ。」

と睦まじく語らひける程に、月は、西の嶺にかくれ、星は、北の空に集まる頃、西の庇(ひさし)に移りて、女房、わりなく思ふ色あらはれ、暫し、もろ友に枕を傾けしに、春の夜の習ひ、程なく時の移りて、鳥の聲三たび鳴きつゝ、花より白む橫雲の、嶺に棚びくころになれば、互に淚を拭ひて、起き別れたり。

 晝になりて、そこら、見めぐらせば、院の傍に古(ふり)たる卒都婆(そとば)ありて、苔むしたる塚に、朽ち殘り、塚の左に、小さき塚、並べり。

 是れ、はしたもの、其ころ、悲しみて、打續き焦がれ死せしを、人々、憐れがりて、同じ所の塚の主(ぬし)になしたる、となり。

 主水正、憐れにも悲しくて、家に歸らん事を忘れ、又、其の夕暮れに、閣のほとりに立ちめぐれば、女房も、あらはれ出《いで》て、手を取り組み、淚を流して、語るやう、

「みづから、君が心の情を感じて、只、其夜の契をなし、かづらきの神かけて、晝を厭ふぞ心憂き。」

など言ひければ、男も、

「何かをば厭ふ。」

とて、

「只、うば玉の夜ならで、契をかはす道なしとや。よひよひごとを待《まつ》も苦しきに、誰《たれ》を人目の關守になし、忍ぶなげきを、こりつむべき。」

など、語らひ、是より、夜每に、こゝに出逢ふ。

 二十日ばかりの後は、晝も出て、語り遊ぶ。

 主水も官に仕ふる身なれば、都に歸りて、日每に行きかよふ。

 終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り。

 

Kinakau2

 

[やぶちゃん注:縁にいる下女は主水主の使い女。]

 

 其身持ち、よろづ愼みて、物言ひ・言葉のしな、才知有り、主水が一族に、まじはりを親しく、内外に召使ふ女童(《めの》わらは)まで、恩を與へ、惠みを厚くし、隣家(りんか)の嫗(うば)までも、隨ひ、いつくしみ、此女房に心をとけずと言ふ事、なし。

 衣(きぬ)縫うふわざ・物かき、うとからず、かろがろしく他人にまみえず。

「まことに。主水は淑女のよきたぐひを求めたり。」

と、人皆、羨みけり。

 かくて、三とせの後、七月十五日、女房、いふやう、

「半者(はしたもの)は、我が住みける方(かた)の宿守(やどもり)せさせて、殘しおきぬ。さこそ、待ちわぶらめ。今日は、金閣に行きて、こととひ侍らん。」

とて、酒とゝのへて、主水、女房を打ちつれて行く。

 

Kinakau3

 

 日、已に暮れて、月さやかにして、東の山に出れば、池の蓮(はちす)は南の池に開け、柳は枝垂れて露を含み、竹は風にそよぎけるに、半者(はした)出むかうて、いふやう、

「君、已に人間に返り遊ぶ事、已に三とせにして、たのしみを極めながら、御住みかをば、忘れ給ふか。」

と恨めしげに言ひければ、三人つれて、閣の西の庇に行きて、女房、なくなく、主水に語るやう、

「君が情《なさけ》の深きに引れて、三とせの月日は、隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て、猶、飽くことなき契りの中(なか)らひ、今宵を限りに、永く別れ參らせむ。みづから黃泉(よみぢ)の者ながら、此の世の人に馴るゝ事、宿世(すぐせ)の緣淺からぬ故ぞかし。今は、緣、つき侍べれば、別れをとり參らする也。若《も》し又、是れを悲しみて、强ひてこゝに留まりなば、冥府(みやうふ)の咎めも如何ならん、君をさへ、惱まし侍べらん禍(わざはひ)、必ず、遠かるまじ。」

とて、互いに淚を流しつゝ袂も袖も絞りけり。

 巳に曉の八聲《やこゑ》の鳥も打ち頻り、鐘の音、響き渡りしかば、女房、立ち上がり、蒔晝の箱に、香爐をいれて、

「これは、此程の形見とも、見給へ。」

とて、なくなく別れて、古塚(ふるつか)の方(かた)に行く。

 猶も、名ごり惜しみて、立ち戾り、見かへりて、煙(けふり)の如く、消失せたり。

 主水、胸焦がれ、身悶えて、悲しき事、限りなく、血の淚を流して、慕へ共、かなはず。

 家に歸りて、僧を請じ、「法華經」よみて、吊(とふら)ひ、一紙(《いつ》し)の願文(ぐわん《もん》)を書《かき》て、供養を遂げ侍べり。其詞に、

[やぶちゃん注:以下の詞章部引用は、底本では全体が一字下げ。「*」で挟んでおいた。]

   *

維(これ)、靈(みたま)は、生まれて、よきたぐひ、郡(ともがら)にこえ、妍(かほよき)すがた、仙(やまひと)に似(にれ)り。花の鮮(あざやか)なる玉のうるはしき、みな、この靈(みたま)の形(さま)に、うつせり。住昔(そのかみ)、金(こがね)の扉(とぼそ)に宮仕へ、如今(いま)は荒れたる墳(つか)に埋(うづ)もれり。篠(しの)薄(すゝき)のもとに住み、狐(きつね)兎(うさぎ)のゆくに忍ぶ。花、落ちて、枝に返らず、水、流れて、源に來らず。日かげ傾き、月めぐれ共、精靈(くはしきみたま)は泯(ひた)けず。性(たましひ)、もの識ること、長(とこしなへ)にいます。魂《たましひ》を返す術(たむけ)はなしに、姿をあらはす功(いさをし)あり。玉のさし櫛(くし)、くれなゐの襜(うちぎ)は、色うるはしく、にほひ、殘れり。松の千歲(ちとせ)、常盤(ときは)、かはらず、喜びを、同じく偕(とも)に老なんことを思ひしに、如何に逢(あふ)て、又、別れたる。雲となり雨となりし朝なゆうなのうらみ歎くに、その跡を失へり。しるしの塚(つか)に向へども、聲をだに、まだ、聞かず。後の逢瀨、いつか、繼(つが)ん。雁の聲、わづかに悲しみを助け、螢の光、只、愁へを弔(とふら)ふ。姿、隱れ、なさけ、絕《たえ》て、むなしき空に、霧、ふさがり、星、くらし。心の底は糸のみだれ、淚の色、くれなゐを染めて、悲しみの中に、經、讀み、花を手向く。靈(みたま)、よく、うけ給へ。鳴呼、悲しきかな、痛ましき哉、こひねがはくは、よく、うけ給へ。

 ともす火やたむくる水や香花を

   魂(たま)のありかにうけて知れ君

 主水正、是より、官職を辭退して、獨り淋しき床に起き臥し、只、此人の面影のみ立離れず、歎きに沈み侍べりしが、二たび、妻をも求めず、小原《こはら》[やぶちゃん注:京の「大原」の別称。]の奧に引籠り、終に其終る所をしらず。

[やぶちゃん注:「中原主水正(なかはらもんどのかみ)」不詳。「主水」はウィキの「主水司」によれば、『主水司(しゅすいし/もいとりのつかさ)は、律令制において宮内省に属する機関の一つで』、『主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司(もひとりのつかさ)は水・氷の調達および粥の調理をつかさどった。やがてこれを扱う役人への敬称(殿=おとど)が接尾して転訛し「もんどのつかさ」とも呼ばれる』。『調達のために伴部として水部(もいとりべ)品部として水戸(もいとりこ)が置かれた。また』、『運搬等のために駆使丁が配属された。駆使丁は重労働の現業部門に置かれ、とくに氷は夏場は珍品として貴重だったため』、『運搬に非常に苦労したとみられる。中世以降は明経道清原氏が長官職を世襲し』、『付属の主水司領を相続した』。『氷は冬場に製造するため』、『夏までの間』、『保管しておく場所として氷室が設置された。氷室は畿内周辺に点在し』、『それぞれ預が置かれた』とある。「正」はその長官。

は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。

「北白川檜垣(ひがき)の森」「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区。筑紫国白川の遊女檜垣の嫗』(おうな)『の伝承を京都の白川にとりなした地名という』とある。銀閣寺の北の北白川地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のどこか(現在のどこかは特定出来なかった)。「檜垣の嫗」は平安朝の筑前の遊女(あそびめ)で歌人。生没年不詳。「後撰和歌集」に,延喜一一(九一一)年に大宰大弐となった藤原興範(おきのり)が筑前の白川で水を乞うたとき、老いを嘆く「年ふればわが黑髪も白川のみづはぐむまで老いにけるかな」の歌を詠みかけたと見えるが。「大和物語」では、興範ではなく、それより三十年後の小野好古(よしふる)とし、家集「檜垣嫗集」では、清原元輔が肥後守となった七十余年後の歌人とする。機智的な即詠を得意とする遊女として伝承され、後人によって家集も編纂されているが、その生涯は明らかではない。

「櫻井の里氷室(ひむろ)山」「桜井の里」は「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区松ケ崎。山州名跡志六・桜井里では古老の言として、岩倉に至る坂の前、山神と号する杜の西にある浅井をその跡と伝える』とし、「氷室山」は『左京区上高野氷室町』(かみたかのひむろちょう)とし、『山腹に禁裏への供御の氷を蓄えた。小野氏の在地で「小野の氷室」とも称される』とある。ここ。主人公の職責と連関する。

「岩倉谷(いはくらたに)同前で、『左京区岩倉。岩倉・長代川』(ちょうだいがわ)『の渓流近辺か』とする。この附近か(特定不能)。

「きつね坂」同前で、『左京区松ケ崎。桜井の西北の坂で岩倉や深泥池』(みどろがいけ)『に至る。木列坂(キツレザカ)、木摺坂とも(山州名跡志六・木列坂)』とある。この中央附近か。ここに出る旧地名が現在の地名と合致しないため、以上と同じく、同定が難しい。

「八鹽岡(やしほのをか)」同前で、『左京区長谷町。岩倉の北、瓢箪崩山』(ここ。西に岩倉長谷町がある)『の西南にある丘で八入(やしお)とも。紅葉の名所』とある。

「比叡橫川(よかは)」滋賀県大津市坂本本町。比叡山横川中堂がある一帯。

「片岡の森」同前で、『京都市北区上賀茂。上賀茂神社本殿東の片岡山(古称賀茂山地)の麓。歌枕』とある。ここ

「鬼が城」同前で、『左京区。八瀬の西北にある石窟。「むかし酒呑童子ひえの山より追出されて此いはやにこもり、此石のうへに起ふしけりといふ。後に丹後大江山にして源の頼光にころされしとかや」(出来斎京土産五・鬼城)』とある。この辺りか。

「大原」「おはら」とも呼ぶ。京都市左京区の一地区。旧村名。市街地の北東方にあり、鴨川支流の高野川に沿う独立した小盆地を形成している。若狭街道が南北に貫く。かつては静かな農山村で、京都へ薪などを売りに行く大原女で知られた。三千院や寂光院がある。この附近

「音無(をとなし)の瀧」左京区大原勝林院町にある。歌枕。

「志津原」左京区静市静原町

「朧淸水(おぼろのしみづ)」京都市左京区大原草生町(くさおちょう)の寂光院の東南にある名泉。歌枕。

「市原野邊(《いちはら》のべ)」左京区静市市原町の野辺。

「暗部(くらぶ)山」「新日本古典文学大系」版脚注に、『歌枕。場所に諸説あるが、洛陽名所集八では鞍馬の山続きとし、了意もそれを踏襲』しているとある。この附近ということになる。

「鹿苑院(ろくをんいん)」「いん」はママ。正しくは北山(ほくざん)鹿苑禅寺で、金閣寺の正式名。この地には、鎌倉時代の元仁元(1224)年に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた場所であり、以後も、公経の子孫である西園寺家が、代々、領有を続けていた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとした謀反が発覚したため、逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず、荒れていったが、応永四(一三九七)年)に室町幕府第三代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の総てが集約された。応永元(一三九四)年に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、この「北山第」にあって政務を執り続けた(以上は当該ウィキに拠った)。

「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」蘇軾の七言絶句、

   *

   春夜

 春宵一刻値千金

 花有淸香月有陰

 歌管樓臺聲細細

 鞦韆院落夜沈沈

    春夜

  春宵一刻 値(あたひ)千金

  花に淸香有り 月に陰有り

  歌管 樓臺 聲 細細

  鞦韆(しうせん) 院落 夜 沈沈(しんしん)

   *

起句に基づく。「院落」は「屋敷内の中庭」のこと。

「櫻花いざ言問はん春の夜の月はむかしも朧なりきや」特に原拠歌はないようである。

「津守國基(つもりのくにもと)」(治安三(一〇二三)年~康和四(一一〇二)年)は神職にして歌人。摂津住吉神社神主。「後拾遺和歌集」にとられている名歌「薄墨にかく玉章と見ゆるかな霞める空に歸る雁がね」に因んで「薄墨の神主」の異名がある。

「花山(くわさん)」京都市山科区北花山河原町にある天台宗華頂山元慶寺(がんけいじ/古くは「がんぎょうじ」)。貞観一〇(八六八)年に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により定額寺という寺名で建立され、開山は六歌仙の一人僧正遍昭。元慶元(八七七)年に勅願寺となり、元慶寺と改めたとされる。花山法皇の宸影を安置する寺で「花山寺(かさんじ)」とも呼ばれ、大鏡では「花山寺」と記されてある。但し、「応仁の乱」の戦火によって伽藍が消失し、以来、境内が小さくなってしまったと参照した当該ウィキにあるので、この話柄内時制であれば、荒廃していたか。「新日本古典文学大系」版脚注には『あった』と過去形にもなっている。

「あるじなき住みかに殘る櫻ばなあはれむかしの春や戀しき」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原拠は続古今集・哀傷。出来斎京土産三・花山に同歌を引いて、「津守国基花山にまかりたりけるに僧正遍昭が室の跡の桜ちりけるを見て」とある』とある。

「さく花にむかしを思ふ君はたぞ今宵は我ぞあるじなるもの」どうもぎくしゃくした言葉遣いで気に入らない一首である。「新日本古典文学大系」版脚注では、『類歌』として「平家物語」巻九の平忠度の、

 行きくれて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし

を挙げる。

「みづから」一人称自称代名詞。

「人間(にんげん)に捨てられて」人間道から捨てられて。死者であることをダイレクトに述べた。本邦の怪談では比較的珍しいが、本話の原拠は「剪灯新話」であるが、中国の伝奇・志怪小説では狐であるとか、死者であるとか、初っ端から明かす話は多い。

「畠山氏」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室町幕府で斯波・細川と共に三管領職を勤めた重臣。畠山英国』(正平七/文和元(一三五二)年~応永一三(一四〇六)年)『は、義満が北山第に移住した応永五年(一三九八)』に『管領となり、以後』、『義満を補佐した』とある。

「良子禪尼(よしこぜんに)」足利義満の生母紀良子(建武三/延文元(一三三六)年~応永二〇(一四一三)年)。室町幕府第二代将軍足利義詮の側室。石清水八幡宮検校善法寺通清(みちきよ)の娘。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。義詮の正室渋川幸子所生の千寿王丸は五歳で早世していたため、義満は嫡子となり、幸子を准母として養育され、母としては生母である良子よりも、幸子の方を重んじていた。幸子が従一位を授けられた永徳元(一三八一)年には、良子は従二位とされており、後に従一位に叙された。春屋妙葩に帰依した。法号は「洪恩院殿月海如光禅定尼」(以上は主文を当該ウィキに拠った)。

「明行かば戀しかるべき名殘りかな花のかげもるあたら夜の月」「夫木和歌抄」の巻四の「春四」にある後京極摂政九条良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)の一首、

 明けはてば戀しかるべき名殘かな花のかげもるあたら夜の月

の細工品。

「いづれをか花は嬉しと思ふらむさそうあらしとをしむ心と」同じく「夫木和歌抄」同じ「春四」にある法橋顕昭の一首のそのままの転用。

「心を引み給ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『思惑があるのかと考えてなぞをかける』とある。

「わりなく」この上もないまでに。

「かづらきの神」「葛城の神」。「かつらぎ」が一般的。奈良県葛城山の山神。特に「一言主神(ひとことぬしのかみ)」を指す。また、昔、役行者の命によって、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けようとした一言主神が、自身の容貌の醜いのを恥じて、夜間にだけ、仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、「恋愛や物事が成就しないこと」の喩えや、「醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりする」喩えなどにも用いられ、ここは夜ばかりにしか逢わないのを、主水正に済まなく思う気持ちをちゃんと持っていることを、かのいわく因縁のある神に誓ったのである。後日、その制約も投げ捨てて、主水正とともに普通に住むようになることの伏線である。

「忍ぶなげきを、こりつむべき」「なげき」を「嘆き」と薪として火に投げ込んで積む「投げ木」を掛けたもの。「新日本古典文学大系」版脚注に、『嘆きという名の木を伐って積み上げるの意』とされる。

「終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り」この雨のシークエンスには、何らかの民俗学的な意味が隠されているようだが、今のところ、思いつかない。

「人間」個人的には「じんかん」と読みたい。

「隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て」白い馬が走り過ぎるのを、壁の隙間からちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早いことを言う喩え。「白駒(はっく)の隙(げき)を過るがごとし」。「荘子」の「知北遊篇」が原拠。

「篠(しの)」稈(かん)が細く、群がって生える竹類。篠の小笹(おざさ)。

「泯(ひた)けず」読みは不詳(「新日本古典文学大系」版脚注でも『読み未詳』とする)。但し、「泯」は「尽きる」の意があるから、意味としては判る。

「魂《たましひ》を返す術(たむけ)」反魂術。死者の姿を見せる魔術。洋の東西なく、存在する。ここはその術「なしに」彼女が私のために「姿をあらは」した既成事実としての「功(いさをし)」=優れた超自然の力を示したことを指す。

「襜(うちぎ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「襜(せん)」は。膝掛け、まえだれ』で、これが「袿(うちき)」を指すのならば、『上流婦人の装束で襲(かさね)の上着』とする。

「ともす火やたむくる水や香花を魂(たま)のありかにうけて知れ君」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「夫木和歌抄」の巻十九の「火」にある、

 ともす火も手向る水もまことあらば魂のありかを聞よしもがな

をインスパイアしたものとされておられるようである。]

2021/09/10

伽婢子卷之九 下界の仙境

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング補正(一部で雲形の汚損の激しい部分を恣意的に有意に白く抜いた)して、適切な位置に配した。本文では、「物尽くし」のシークエンスで特異的に「――」を用いた。]

 

   〇下界の仙境

 昔、太田道灌、武州江戶の城を築きて、居住せらる。

 此地に、水、乏しき事を、苦しみけり。

 其比、舟木甚七とて富裕の町人あり。

「掘拔(ほりぬき)の井戶を作らん。」

とて、金掘(かねほり)を雇ひ、人步(にんふ)を入れて掘らするに、凡そ、半町四方[やぶちゃん注:五十四・五五メートル四方。]、深さ百丈[やぶちゃん注:三百三メートル。]ばかりに及べども、水、なし。

 金掘、底に坐(ざ)し、休みつゝ、靜かに聞けば、地の中に、犬のほゆる聲、庭鳥《にはとり》のなく音《ね》、かすかに、響きて、聞ゆ。

 怪しく思ひて、又、四、五尺、掘りければ、傍らに、切通しの石の門、あり。

 門の内に入て見れば、兩方、壁の如く、甚だ、くらくして、見え分かず。

 猶、道を、認(とめ)さぐりて、一町ばかり行ければ、俄に、明かになり、切とほしの奧の出口より、空を見上ぐれば、靑天、白日、輝き、下を見おろせば、大なる山の峯に續きたり。

 金掘、其の峯におり立《たち》て、四方を見めぐらせば、別(べち)に、天地・日月、明らけき一世界可(《いち》せかい)なり。

 其山に續きて、谷に下り、峯に登り、一里ばかりゆきて見れば、石の色は、皆、瑠璃の如く、山間(《やま》あひ)には宮殿樓閣(くうでんろうかく)あり。

 玉を飾り、金を鏤(ちりは)め、瑠璃の瓦(かはら)、瑪瑙(めなう)の柱、心も言葉も、及ばれず。

 大木、多く生(おひ)ならびて、木の形は竹の如く、色靑くして、節(ふし)あり、葉は芭蕉に似て、紫の花あり、大《おほい》さ、車の輪の如し。

 五色の蝶、その翼、大さ、團扇(だんせん)の如くなるが、花に戲れ、又、五色の鳥、その大さ、鴈(かり)[やぶちゃん注:底本は「がん」であるが、私の趣味で元禄本のルビを採った。]の如く、梢に飛び翔けり、その外、もろもろの草木《くさき》、何れも、見なれぬ花、咲き、實(み)のり、岩のはざまより、二道(ふたすぢ)の瀧、ながれ出《いづ》る。

 一つの水は、色淸き事、磨(と)ぎ立《たて》たる鏡の如く、一つの水は、色白き事、乳(ち)の如し。

 

Ssenkai1

 

 金掘、やうやう、山を下り、麓より、一町ばかりにして、一つの樓門に至る。

 上に、

「天桂山宮(てんけいさんきう)」

と云ふ額を懸けたり。

 門の兩脇に、番の者、二人あり。

 金掘を見て、驚き出たり。

 身の長(たけ)、五尺餘り、容(かほ)の美はしき事、玉の如く、唇、赤く、齒、白く、髮は紺靑(こんじやう)の絲の如し。みどりの色なる布衣(ほい)、黑き鳥帽子、着たるが、走り出て、咎めけるは、

「汝、何者なれば、こゝに來れる。」

と。

 金掘、ありの儘に語る。

 その間に、門の内より、裝束きらびやかに、容(かほ)うつしく、艷(つや)やかなる事、酸漿子(ほゝづき)のやうなる者、二十人ばかり出て、

「けしからず、臭く、穢(けが)らはしき匂いあり。如何なる事ぞ。」

とて、番の者をせむるに、番の者、恐れたる氣色(けしき)にて、

「人間世界の金掘、思ひの外なる事によりて、迷ひ來れり。」

と、いうて、子細を、つぶさに語る。

 其時、奧より照り輝くばかり、緋(あか)き裝束に、金(こがね)の冠(かふり)を着たる人、出て、いふやう、

「大仙玉眞君の敕定(ちよくぢやう)には、『其の金掘をつれて遊覽せしめよ』とあり。」

 先の廿人の輩(ともがら)、うやまうて、うけ給はり、番の者に仰付たり。

 まづ、金掘をつれて、淸き水の瀧に行きて、身を洗はせ、色白き水の瀧に行て、口を嗽(すゝ)がせたるに、其の水、甘き事、蜜の如し。思ふさまに飮みければ、酒に醉(ゑ)ひたるが如くにして、暫くありて、心、すゞやかに覺ゆ。

 番の者、引きつれて、山間(あひ)をめぐるに、宮殿樓閣、皆、谷ごとに、立つらなれり。

 只、門外より見いれて、内に入《いる》事、かなはず。

 斯(か)くて、半日ばかりにして、山の麓に、又、一つの城に至る。

 

Senkai2

 

 樓門の上には、黃金(わうごん)を以て、

「梯仙皇眞宮(ていせんくわうしんきう)」

といふ額を懸けたり。

――水精輪(すゐしやうりん)の所成(しよじやう)[やぶちゃん注:城の主要部が美しい水晶を構成素材として出来上がっていること。]

――金銀の壁

――玳瑁(たいまい)の垣

――琥珀(こはく)の欄干

――白玉(はくぎよく)の鐺(こじり)[やぶちゃん注:思うに、欄干の上部を保護して飾るそれであろう。]

――𤥭璖(しやこ)の簾(すだれ)[やぶちゃん注:シャコガイの殻を磨き上げて玉とした簾。]

――眞珠の瓔珞(やうらく)

五色の玉を、庭の「いさご」とし、いろいろの草木、名も知らぬ鳥、まことに、奇麗嚴淨(ごんじやう)なること、いふばかりなし。

 され共、門の内には入られず。

『さこそ、内には、善(ぜん)、つくし、美(び)、つくして、言語(ごんご)たえたる[やぶちゃん注:ママ。]事の有らん。』

と思ひ、

「扨。こゝは、何處ぞ。」

と問ふ。

 番の者の、いふやう、

「是れ、皆、もろもろの仙人、初めて仙術を得ては、まづ、此所に來りて、七十萬日の間、修行を勤め、其後、天上にのぼり、或は蓬萊宮(ほうらいきう)、或は藐姑射(はこやの)山、或は玉景(ぎよくけい)・崑閬(こんらう)なんどに行て、仙人の職にあづかり、官位を進み、符籙《ふろく》・印咒(いんじゆ)・藥術を究め、飛行自在の通力(つうりき)を悟り侍べる事也。」

といふ。

 金掘、問ふやう、

「已に、是れ、仙人の國ならば、人間世界の上にはなくて、下にあるは、如何なる故ぞや。」

 番の者、答へけるは、

「こゝは、下界仙人《げかいせんにん》の國也。人間世界の上には、猶、上界仙人の國あり。」

とて。見めぐらせ、

「汝、早く、人間世界に歸れ。」

とて、白き水の瀧につれて來り、又、其の水を飽くまで飮ませ、元の山の頂きに登りて、初めの大門の前にして、奧に奏(さう)し入りければ、玉《ぎよく》の簡(ふだ)・金(きん)の印(いん)を、出されたり。

 是を取りて、金掘を打つれ、もとの岩穴の口に出るに、門々、皆、開けたり。

 送りける番の者、いふやう、

「汝、こゝに來りては、暫し半日の程と覺ゆるとも、人間《じんかん》にては、數(す)十年を經たり。」

とて、元の穴に入りければ、又、闇(くら)くして、道も見えず、只、風の音のみ聞えて、駿河(するが)の國、富士の麓の洞(ほら)より出て、大に驚き怪しみ、江戶に歸りて、太田道灌の事を尋ぬれば、

「それは。はや、百年以前也。井を掘らせられし事は、聞傳へたる人もなく、又、其跡も、なし。」

 人、改まり、家、立かはりて、本城には、大に榮えたり。

 我が家を尋るに、いづくとも知れず、一族の末も聞えず。

 つらつら思ふに、長祿元年、江戶の城、始りて、今、弘治二年丙辰《ひのえたつ/ヘイシン》まで、一百年に及べり。

 金掘、更に人間《じんかん》を願はず、五穀を斷ちて、食せず、木の實をくらひ、水を飮み、足に任せて、修行す。

 數年の後《のち》、富士の嶽(だけ)にて、ある人、行逢(《ゆき》あ)ひたり。

 後に、其の住所を、知らず。

[やぶちゃん注:「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)は武蔵守護代で扇谷上杉家家宰。江戸城を築城したことで知られる。彼の事蹟は「三州奇談卷之五 北條の舊地」の私の注を参照されたいが、「享徳の乱」(室町幕府第八代将軍足利義政の時に起こり、二十八年間に亙って関東を中心に断続的に続いた内乱。第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に騒乱が拡大した。現代の歴史研究では、この乱が関東地方に於ける戦国時代の始まりに位置付けられている)に際して、道灌が指揮して康正三(一四五七)年に江戸城を築城し、江戸幕府の公文書「德川實紀」でも、これが江戸城の始めとされている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、築城は前年の更正二年から長禄元(一四五七)年四月八日にかけて行われているとある。最後に金掘りが「長祿元年、江戶の城、始りて」と思うシーンは、齟齬しない。康正三年九月二十八日(ユリウス暦一四五七年十月十六日)に長禄に改元されているからである。従って、この最初のシークエンスは改元以後の九月二十八日から年末までの九十二日間の閉区間設定ということになる。因みに同年の大晦日十二月三十日は既にユリウス暦では一四五八年一月十五日である。

 先にラスト・シークエンスの時制を説明しておくと、「弘治二年丙辰」はユリウス暦一五五六年で、室町幕府将軍は足利義輝。前年の弘治元年十月には、毛利元就が陶晴賢を安芸厳島で破っている(「厳島の戦い」。但し、この時点では改元前で、元号は天文二十四年である)。この弘治二年四月には、美濃国の大名斎藤義龍が「長良川の戦い」で父斎藤道三を討ち取っており、翌弘治三年には、信濃国川中島に於いて、かの甲斐国の武田晴信(信玄)と越後国の長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が衝突している(「上野原の戦い」=「第三次川中島の戦い」知られた二人の対面対決は第四次)。九十九年後であるが、数えで数えるから、「一百年」は正しい。

「舟木甚七」不詳。

「掘拔(ほりぬき)の井戶」鑽井 (さんせい) とも呼び、被圧地下水を地表に汲上げるために掘られた深井戸。不透水層の間にある透水層が傾斜していると、地下水は地質構造に従って傾斜の方向に流れ、水圧のために水頭が高く上昇するので、組み上げ機(ポンプ)を使用せずに、有意に水が湧出する井戸のこと。地層が盆地構造を成す場合でよく見られる。

「金掘(かねほり)」山師。広義の鉱山師。

「人步(にんふ)」「人夫」に同じ。

「庭鳥《にはとり》」「鷄」。前掲書の高田氏の注に、『犬の声、鶏』『鳴、石』の『門は、中国のいわゆる「桃源境」の入口の象徴』とされる。

「認(とめ)さぐりて」「新日本古典文学大系」版脚注に、『探し求め』て、とある。

「瑠璃」仏教でインド古代の七宝の一つ。サンスクリット語の「バイドゥールヤ」(或いはその派生語)の漢音写である「毘瑠璃」(びるり)・「吠瑠璃」(べいるり)の略語で、青や青紫色の美しい宝石を指す。実在する金緑石(chrysoberyl:クリソベリル)或いはラピス・ラズリ(lapis lazuli)であるともされる。

「天桂山宮(てんけいさんきう)」「桂」は実際のカツラやゲッケイジュ(月桂樹:ローリエ/フランス語:Laurier)ではなく、中国の伝説に於いて、月世界にあるとされる想像上の神木のことを匂わせていよう。

「布衣(ほい)」本邦では、六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣を指す。

「けしからず」「常識を外れていて」或いは「普通でなく、ひどく」、また、「異様で怪しいまでに」の意で、これは「けし」自体が持っている意味で、それを副詞的に甚だよくない状態を形容するのに用いていると見てもよい。

「大仙玉眞君」前掲の高田氏の注に、『道教風の呼称で仙界の主宰者を暗示する名』とある。後に出る「梯仙皇眞宮(ていせんくわうしんきう)」も如何にもそれらしい。

「水精輪(すゐしやうりん)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『水晶でできた輪。転じて美しい城の意か。また、大地を支える地底の金輪際から姿を現わした、天女の住む水晶の山を「水精輪の山」とも称する(平家物語七・竹生島詣)』とする。私は単なる美称としたのでは、仙界の宮殿の荘厳さが出ないと思うので、実際に城の見た目が壮麗な水晶を素材としているという途方もない意味でダイレクトに採った。

「所成(しよじやう)」高田氏は前掲書の脚注で、『ここでは、宮殿の敷地』とのみされて、「水精輪」に注されていない。しかし、漠然とした敷地では、どうもしょっぱなのガツンとくる映像が浮かばないし、後の細かな「壁」・「垣」・「欄干」・「鐺」・簾・「瓔珞」に加えられる『五色の玉を、庭の「いさご」』(撒き敷いた砂の代わり)『とし』という決定打を読んでしまうと、画像の中にゴタゴタと邪魔なモザイクが挟まってきて、矛盾を感じる。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏教語。或るものより成る、の意』とある。これは、ごく腑に落ちる。但し、この漢語では、小学館「日本国語大辞典」には出ない。ほぼ同様の意味として「所生」(しよしやう)があり、「日蓮遺文」などを使用例に出す。これを「しじやう」と濁ったとしても違和感は全くない。調べたところ、「WEB版新纂浄土宗大辞典」に「願力所成」(がんりきしょじょう)という語が見出しとしてあり、これは『本願の成就によって正報(しょうぼう)(仏身)と依報(えほう)(浄土)とが実現されたことをいう。法然が』「逆修說法」に『おいて』「かくの如きの依報、皆、彼の佛の願力所成の功德なり」(引用元はここに省略を示す三点リーダがある)「國の中にあらゆる依・正二報は、倂せて法藏菩薩の願力に答へて成就し給へるなり。これはこれ阿彌陀佛の功德と粗意得べきや」』『(昭法全二六二~三)と説かれているのに依る』とあった。この場合、その弥陀の本願の――『実現された』ところのもの――の意が「所成」とすれば、「新日本古典文学大系」の注はしっくりくる。されば、私は本文注で、前の注の太字下線と以上を結合して「城の主要部が美しい水晶を構成素材として出来上がっていること。」と注したのである。

「玳瑁(たいまい)」タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata(玳瑁・瑇瑁。鼈甲細工の原料とされる。因みに「鼈甲」という語については、一説に、寛文八(一六六八)年に幕府が出した、奢侈を禁ずる倹約令で、輸入物の玳瑁の甲羅が禁制となり、しかし、密輸入が行われ、糺された際に、玳瑁のそれではなく、「鼈」(スッポン)の「甲」羅と誤魔化したことに由来するという話もある)。

「瓔珞(やうらく)」(現代仮名遣「ようらく」)仏具の一種で、「纓珞」「纓絡」とも書く。サンスクリット語の「ムクタハーラ」「ハーラ」「ケユーラ」漢音訳。元は古代インドの貴族の装身具として用いられ、特に首や胸を中心として真珠・玉・金属などを紐に通したり、繋いだりして飾ったもの。仏教では仏像、特に菩薩像など荘厳具(しょうごんぐ)として用いられ、また、浄土では、木の上からこれらが垂れ下がっているとされたため、本邦の寺院では、宝華形を繋いで垂下させたそれを本堂の内陣の装飾に用い、これも瓔珞と呼ぶ(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「嚴淨(ごんじやう)」厳(おごそ)かで汚れのない状態であること。また、荘厳(そうごん)で清浄なさま。

「蓬萊宮(ほうらいきう)」「蓬萊山」に同じ。中国で東海の海上の空中に浮かんだ、不老不死の神仙や仙女が住むとされた想像上の島の一つ。

「藐姑射(はこやの)山」本来は、「藐(はるか=「遙」)なる『姑射(こや)の山』」の意であったが、「荘子」の「逍遙遊篇」の用例により、一つの山名のように用いられるようになった。中国で、仙人が住んでいるとされた想像上の山。姑射山(こやさん)。

「玉景(ぎよくけい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『道家で天帝の居所』とする。

「崑閬(こんらう)」同前で、『中国の西方に存すると考えられた崑崙山の広々とした』場所の地名で、『仙人が住むとされ』たとある。

「符籙《ふろく》」道教の修行者が身につけていた秘密の文書・咒文・咒言を記した咒符の総称。「符」は、元来は身分を証明する「割り札」を指すが、道教ではそれに呪文を記して霊的な「守り札」とした。「籙」は、本来は天官・冥官・神仙らの名簿であり、それは総て白絹に書かれてあったとする。古くは「隋書」の「經籍志」に「符」・「籙」の重要性が説かれており、天子が即位する度にこれらを授かることを秘儀とした王朝もあった。現在でも「符」や「籙」を身につけていれば、邪気を払って治病の効験があるとされる。

「印咒(いんじゆ)」道家の仙術を施す際の手の印と、口で唱える咒文のこと。

「藥術」「金丹」「金丹術」のこと。金石を砕き、練って調製したものに、咒法によって種々の効果を付与することで完成するとされた仙人になる、則ち、不老不死の薬及びその製法過程を指す。晋の葛洪の「抱朴子」の「金丹篇」、不老長生を得るには金丹を服用することが最も肝要であるとする。金丹の金は、火で焼いても土に埋めても不朽である点が重んじられ、丹の最高のものは「九転の丹」で、略して「九丹」と呼び、焼けば焼くほど、霊妙に変化するとされ、この九丹を服用すると、三日で仙人になれる、とされる。この大薬である金丹をつくる際には、人里離れた名山で斎戒沐浴し、身辺を清潔にしなければならないとされ、丹砂・水銀などを原料にした多くの錬丹法が説かれた。後世では、この金丹を服用する「外丹」法とは別に、「内丹」説も説かれた。その代表的なものが、北宋の張伯端の「悟真眞篇(ごしんへん)で、そこでは、「人間には生来的に丹砂・水銀に代わるものが体内に備わっており、それが『竜虎真陰陽(りゅうこしんいんよう)』という気であって、これを適切に用いることで、体内に『金丹』を作り上げることが出来、そうすれば、危険で高価な『外丹』を用いずに仙人になれる。」と説かれてある。この「内丹」説は南宋の白玉蟾などに継承された(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「玉《ぎよく》の簡(ふだ)・金(きん)の印(いん)」「大仙玉眞君」は、金堀りが、地上の人間世界に戻っても、今浦島となることが判っていたから、仙道へのガイドとしての、玉製の守り札としての「簡」=「符籙」及び、真正の地下仙界を訪問した証たる金印(或いは最終的な仙道への通行証ともなるのかも知れない)を与えたと考えるべきであろう。

「駿河(するが)の國、富士の麓の洞(ほら)」知られた「富士の人穴」である。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」の本文と私の注を参照されたい。

「人間《じんかん》」どうも「人間界」を言うのに、私は「にんげん」では尻の座りが悪いので、確信犯で「じんかん」と読んでいる。

「五穀を斷ちて、食せず、木の實をくらひ、水を飮み」伯夷・叔斉を想起するも、金掘りは餓えて死んでなんかいない。いや、それどころか、「數年の後《のち》、富士の嶽(だけ)にて、ある人」が、元気に登山し、修行している彼に「行逢(《ゆき》あ)」うたが、それを最後として、「其の住」む「所を、知らず」なのだ。――私は、永遠に、めでたく、この無常な人間世界におさらばして――羽化登仙したのだ――と確信するのである。

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