「日本山海名産図会」内標題・序(木村蒹葭堂孔恭)・跋(作者事績不詳)・附記(絵師蔀関月の記名)・広告文・奥書/「日本山海名産図会」オリジナル電子化注~完遂!
[やぶちゃん注:「国立国会図書館サーチ」の本書書誌の「注記」によれば、『木村蒹葭堂の漢文序によれば、物産の学については、稲生若水の著書『採薬独断』があったが、秘書としたため』、『人間』(じんかん)『に伝わらなかったことを遺憾とし、同書に擬して『名物独断』数巻を編んだが、家の多難に遭い』(これは蒹葭堂が過醸の罪により寛政二(一七九〇)年から同五年まで、伊勢川尻村に退隠したことを指す旨の補注が入る。同人のウィキによれば、寛政二年五十五歳の時、『密告により』、『酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。酒造の実務を任されていた支配人宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で』、『大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう』とあり、『蒹葭堂は直接の罪は免れたが』、『監督不行き届きであるとされ』、『町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受け』、『伊勢長島城主増山雪斎を頼り、家名再興のため』、『大坂を一旦』、『離れ』、『伊勢長島川尻村に転居』したことを指す。但し、『二年の後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営』み、『その後、稼業は栄え』、『以前にも増して蒹葭堂は隆盛となった』とある)、『公にすることが出来ずにいたところ、書肆某が本書を携えて訪ね』、『序を請うた旨を記す』とある。この内容だと、「日本山海図会」の作者は木村蒹葭堂孔恭であるということになる。
ところが、本書には最終第五巻の末尾に「跋」があり、そこには本文の著者は別人であるという記載があるのである。これについて上記「注記」では、「みち」或いは「ミち」或いは「三古」(?)なる『人物による難読難解の和文跋文には、「こよ、補世ありしほとにおもひはしめにたる木の下露を、みなの川波のかす++[やぶちゃん注:「++」は原文を見るに踊り字「〱」を変えたものと思われる。]になん、かきなかしぬる関月かいさほし也けり」「かくてまなひ子藍江その名残につきて、露けし袖の外に、ほころふるふしををきぬひ侍り、おのれ亦かたはらのことかきをたちいらへつ、つゐによるせありて、いつもの花の五巻とはなりぬ」とあり、補世』、『つまり』、この「日本山海図会」は、『大坂の書肆作家、平瀬輔世(徹斎)こと』、『千種屋新右衛門』『の編著で』あって、『同人の没後、画工の蔀関月(千種屋一統の書肆千種屋柳原源二郎)が業を継ぎ、その没後には』、『関月門人の画工中井藍江が補い、跋者が解説を補』って『完成させたもの』と読める旨の記載があるとある。則ち、「日本山海図会」は大阪の書肆の主人で千種屋新右衛門こと平瀬徹斎輔世(「すけよ」か)が原著者であるというのである。
「朝日日本歴史人物事典」に拠れば、この真の著者とする平瀬徹斎(生没年不詳)は江戸中・後期の大坂の書肆「赤松閣」の主人で、名は「補世」(これだと「ほせ」か)、通称「千草屋新右衛門」、「徹斎」は号。各地名産物の生産・採取の技術を図示解説した「日本山海名物図会」宝暦四(一七五四)年に著した。他に「放下筌」(ほうかせん)などの著作がある(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原刊本らしきものが読める)。徹斎は大坂の金融業者平瀬家の一族ともみられているが、確証はない、とあり、講談社「日本人名大辞典」の「平瀬徹斎」には、やはり生没年未詳とし、江戸中期の版元で、大坂の人。「赤松閣」の主人。自身も「売買出世車」(恐らく国立国会図書館デジタルコレクションの「通俗経済文庫巻一」所収の東白著とある「米穀売買出世車附図式」が同じものである。書肆はここで平瀬の活動期と一致し、大阪での出版である)や「書林栞」(しょりんしおり:明和五(一七五八)年刊。国文学研究資料館のここで原本が視認出来る)などを書いている。編著に日本各地の産物の採取法,製法などを絵図でしめした「日本山海名物図会」(長谷川光信画)がある。宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に活躍した。名は輔世。通称は千種屋(ちぐさや)新左衛門、とある。
取り敢えず、「序」「跋」他を活字に起こすが、蒹葭堂の「序」は漢文であるが、日本漢文としては、やや破格部分が見られ、よく判らない人物になる「跋」に至っては、上記の書誌を書かれた方が述べる通り、判読さえ難しく、しかも文意が極めて採り難いものである。私の翻刻を信用せず、各々、原画像で挑戦されたい。
底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、
内標題と「序」はここから(六丁に及ぶが、一丁目だけを内標題とともに示す)
であるが、一部、私には判読しかねた部分があるので、「序」と「跋」は総てを国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングして掲げた。どうか、御自身で判読された上で、私の誤判読や、判読不能字が読み解けた方は、どうか、御指摘願いたい。心よりお待ち申し上げる。
なお、第一巻の表紙の題箋は、
山海名產圖會 一
で、ここだが、特に画像では示さない。
「序」では字に横に圏点「◦」があるが、通常の句点に代えた。「■」は判読不能字。]
法 橋 關 月 画
日 五
山海名產圖會
本 册
山海名產圖會序
中古人士之於物産也。率本於本草。而山產海錯。認而無遺漏者。自向觀水稲若水松怡顏彭水之徒。才輩實不匱焉。余預其流。于今既費數十年之苦心。見人之所未見。辨人之所未辨。實爲索隱探竒之甚焉。曽聞。稲氏若水著採藥獨斷。示平生所深致意也。然終爲幃中禁秘耶。抑成蔵諸名山奥區耶。竟不傳人間。上可惜也。余不勝慕藺。因竊擬其意。著書數巻。號曰名物獨斷。愈勤愈詳。猶泉源袞々出而不休焉。故其名物品類之無窮。亦隨四序節。蔵蓄之冝。奥造釀之法。然及藁甫脱也。値家多難。災厄兼到。幾流離塗炭。在今固爲一憾事矣。間者書肆某。携一部画册。殷勸徵序文。題曰山海名產圖會。取而繙之。輙擧吾 [やぶちゃん注:字空けはママ。]東方各従其地產。竒種異味。而特名者。一一見之図。乃至其制作之始末事實之證據。則後加附釋。雖婦児輩。使通知之。頗似有酬余之始顚者。畫上成於亡友蔀關月手。於是乎不可以不序。因備逑所牚。論辨之本意。而及此書緣起如此。嗟乎雖芥珀磁䥫。其理皆出于自然。不可得而強也。天地間產類千万以辨博爲要。否則自百藥物。而至瑣瑣食品。不免謬採焉。况於君子藏天地之韞匱。與天下共者乎。
寬政戊戌午臘月旦浣
木邨孔恭識
[落款][落款]
[やぶちゃん注:以下、「序」「跋」等は本文で加工用に使用させて貰った「ARC書籍閲覧システム 検索画面 翻刻テキストビューア」にも電子化されておらず、私は一切の参考に出来る補助資料を持たない。されば、全くの我流のみで訓読する。
*
「山海名產圖會」序
中古の人士の物産に於けるや、本(もと)を本草に率(よ)りて、山產・海錯、認めて、遺漏の無き者なり。自ら向ふは、觀水・稲若水・松怡顏・彭水の徒なり。才輩の實、匱(とも)しからず。余、其流に預り、今に既に數十年の苦心を費す。人の未だ見ざる所を見、人の未だ辨ぜざる所を辨ず。實(まこと)に索隱探竒の甚しきを爲す。曽つて聞く、稲氏若水「採藥獨斷」を著すと。平生、深く意を致す所を示せるなり。然れども、終(つひ)に幃中(ゐちゆう)の禁秘と爲すや、抑(そも)、諸名・山奥の區々(くく)たるを蔵(かく)し成すや、竟(つひ)に人間(じんかん)の上に傳はらざる、惜しむべきなり。余、慕藺(ぼりん)[やぶちゃん注:優れた人を慕い敬うこと。]に勝へず、因りて、竊(ひそ)かに其の意を擬(なずら)へ、書數巻を著はす。號づけて曰はく、「名物獨斷」。愈よ、勤め、愈よ、詳かにす。猶、泉源、袞々とし出でて、休まず。故に、其の名物・品類、窮み無し。亦、四つの序節に隨ひ、蔵蓄の冝(ぎ)、奥(おくぶか)き造釀の法、然も、藁甫脱[やぶちゃん注:意味不明。稲穂の実を採る方法か?]にも及べるなり。家、多難に値(あ)ひ、災厄、兼ねて、到れり。流離塗炭すること、幾(いくば)くぞ。今に在りて、固(もと)より、一つの憾み事と爲れり。間者(このごろ)、書肆某、一部の画册を携へ、懇ろに、序文を徵(しる)さんことを勸む。題して曰はく、「山海名產圖會」、取りて之れを繙(つまびら)けば、輙(すなは)ち、擧げて、吾が東方の、各(おのおの)の其の地の產により、竒種・異味、而して、特に名あるをば、一一(いちいち)、之れを見、図し、乃(すなは)ち、其の制作の始末・事實の證據に至れり。則ち、後(あと)に釋(しやく)を加へ附す。婦児の輩(はい)と雖も、通じて之れを知らしむ。頗る、余の始顚に酬ひる者有るに似たり。畫上(ぐわじやう)[やぶちゃん注:「上」は語素で、漢語名詞に付いて「~に関する」の意を示す。 ]、亡友蔀關月が手に成れり。是れに於いてか、不可以つて序せざるべからず、因つて、逑(あつ)むる所の牚(はしら)を備へ、論辨の本意、而して、此の書の緣起に及ぶこと、此くのごとし。嗟乎(ああ)、芥(あくた)・珀(はく)[やぶちゃん注:宝石。]・磁[やぶちゃん注:磁器。]・䥫(てつ)と雖も、其の理(ことわり)、皆、自然より出づ。得べからずして強なり。天地が間の產類、千万、以つて博(ひろ)く辨じて要と爲せり。否、則ち、百藥物より、瑣瑣たる食品に至れるも、謬りて採ることを免かれず。况んや、君子の天より藏するの地の韞匱(うんい)[やぶちゃん注:「韞」は「藏」に同じで「収蔵する」の意で、「匵」は「箱」の意。]に於いてをや。天下に與(くみ)して、共(きやう)する者なり。
寬政戊午臘月旦浣(たんくわん)[やぶちゃん注:寛政十年戊午十二月一日、或いは、十日、或いは、その間の意。グレゴリオ暦では、この十二月一日は、既に一七九九年一月六日である。]
木邨孔恭(きむらこうきやう)識
[落款][落款]
*
「邨」は「村」の異体字。落款の上のものは「木孔龔」(本名の孔恭の別字であるが、「龔」の歴史的仮名遣は「きよう」となる)、下のものは「木世肅」(蒹葭堂の別号)と思われる。孰れも唐風名である。
【2021年8月26日:本文及び訓読の修正と追記】早速、私の古参の教え子S君がFacebookで、末尾の判読不能の一字と私の誤判読(数字有り)の指摘とともに、末尾部分を現代語訳して呉れた。以下に示す。『天地の千万もの産物を弁別して役に立てる。さもないと、百薬の類から瑣瑣たる食品に至るまで、誤って採取してしまうぞ。ましてや、君子が天地から得た貯蔵品にも(間違いが生じてしまう)。(だからこの著作を)天下に対(与)して、共(供)するものだなあ! 』。心より感謝申し上げるものである。なお、これに伴い、注の一部も修正してある。【2021年9月2日:本文及び訓読の修正と追記 】今朝、同じS君が上記全文について、判読と以上の全訳を試みて呉れた。やはり複数の誤判読があったので、即刻、訂正した(訓読も修正した)。また、S君の現代語訳は非常に判り易いので、少し私が割注を入れたものを以下に示す。
■S君の現代語訳(一部の表現に私が手を加えた。S君の了解を得てある)
一昔前の人が物産に対するに、「本草綱目」に導かれ、山海の夥しい産物を認識して、漏らすところがなかった。向観水(こうかんすい)にはじまり、稲若水(とうじゃくすい)・松怡顔(しょういがん)・島彭水(とうほうすい)などの人々は、まことに秀でたもので、物産を網羅するに欠けるところがなかった。
[やぶちゃん注:「向観水」向井元升(むかいげんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)は江戸前期の医師・儒学者。肥前国神崎(かんざき)生まれ。初名は玄松で、晩年に元升と改めた。号に観水子があり、ここはその唐風名。二十歳で医業を始め、筑前の黒田侯や皇族の病気を治療して、名声を揚げた。私塾「輔仁堂」を開き、堂内に孔子の聖廟を建てて、儒学を教えた。門人に貝原益軒がいる。松尾芭蕉の高弟向井去来は彼の次男である。
「稲若水」初名は稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は江戸中期の本草学者。名は稲生正治或いは宣義で、号を若水としたが、後に唐風に稲若水を名乗りとした。父は淀藩の御典医稲生恒軒で、江戸の淀藩の屋敷で生まれた。医学を父に学び、本草を福山徳順に学んだ。元禄六(一六九三)年に金沢藩に儒者役として召し出され、壮大な本草書「庶物類纂」の編纂を命ぜられた。同書は三百六十二巻で未刊に終ったが、後に丹羽正伯が引き継ぎ、一千巻とした。著書はほかに「食物伝信纂」・「炮灸全書」・「詩経小識」・「本草綱目新校正」などがあるが、ここで蒹葭堂の言及する「採薬独断」という書は、調べても、見当たらない。現存しないものと思われる。
「松怡顔」松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)は江戸中期の本草家で京都出身。名は玄達。別号の怡顔斎(いがんさい)で知られ、ここはそれと姓と結合した唐風名。儒学を山崎闇斎・伊藤仁斎に、本草を前に注した稲若水に学んだ。享保六(一七二一)年、幕府に招かれ、薬物鑑定に従事した。門弟に、かの小野蘭山がいる。
「島彭水」津島恒之進(つねのしん 元禄一四(一七〇一)年~宝暦四(一七五五)年)は江戸中期の本草家。越中国高岡の酒屋照成の三男として生まれた。名は久成で、後に恒之進と変えた。彭水は号の一つで、ここは姓との結合縮約した唐風名。京都に出て、先に注した松岡恕庵に入門し、その塾頭となった。宝暦元(一七五一)年頃から、毎年、大坂に下り、本草会を開催している。この会は数年しか続かなかったが、後に本草家によって、江戸や関西各地で開かれる「薬品会」(物産会)の先駆けとなり、「薬品会」は自然物の展示のみに留まらず、広い意味での知識の交流、啓蒙の場となり、明治中期まで続いた。門下から、この木村蒹葭堂や「雲根志」で知られる石フリークの木内石亭らが出た。以上の注は総て信頼出来る辞書や資料を、複数、見て、合成した。]
私は、その伝統を預かり、今まで、数十年の苦心を費やし、人がまだ見たことのない物を見、人が判断したことのない物を判断し、まこと、隠れた道理と、世の不思議の探求を極めたのであったよ。
聞くところによると、稲氏若水(とうしじゃくすい)は「採薬独断」を著したという。平生から深く思いを致し、最終的に帳の内深くに隠され、秘書とされたのだった。
そもそも、あらゆる物が山奥に秘匿され、人の世に伝わらないというのは、実に惜しいことだ。
私は先人たちを慕う心に堪え切れず、彼らのやり方を密かに真似て、数巻の書を著し、「名物独断」と名付けたものの、勉めれば勉めるほど、事実は複雑で、泉のように滾々と湧き出でて、これ、尽きることがないがゆえに、産物の名を挙げきることは、できなかった。
また、四つの序節に於いて、保存の方法、発酵させる方法、さらには脱穀の方法にまで記述が及んだ。
しかし、まさに家が多難を受け、災厄が立て続けに襲い来たって、幾度、塗炭の境遇に落ちたことか! 今、その一事を、甚だ、遺憾に思うのである。
そうしている頃に、書肆某が、画帖一部を携えて現われ、
「序文を、ものしてくれ。」
と求めてきた。
その題は「山海名産図会」というものだった。
これを繙いてみれば、吾が東方の産物や、奇種や、特産品などを挙げ、新たに名付けたりしている。
一つ一つの図を見てみれば、その制作の成り行きの実際の証左となっており、注釈までつけて、相手が婦女子や子供であっても、これを知らしめるようにしてある。
ここには、すこぶる、私自身の取り組みに報いてくれるものがあるようだし、さらに言えば、絵は、今は亡き友の蔀關月の手になるものなのだ。そうであってみれば、序文を書いてやらぬ手はない。
冊子に添えて支えとするものとして、思うところを論じてやった。この書の縁起は斯様なものである。
ああ! 塵芥(ごみ)も宝石も磁器も金属も、みな、自然から来たったものであり、それだけで永遠に存在する強い物では、ないのだ!
天地の千万もの、産物を弁別して、役に立てるべきだ!
さもないと、百薬の類から、瑣瑣たる食品に至るまで、誤って採取してしまうぞ!
ましてや、君子が天地から得た貯蔵品にも間違いが生じてしまう!
だからこそ、この著作を天下に対して、供するものである!
以下、「跋」と附記(絵師蔀関月の記名)及び広告文と奥書。「跋」は私には判読できない部分が多いが、力技でやっつけた(唯一、先の書誌情報のみが前半の判読の頼みの綱である)。画像と比較して読まれる読者のために、「□翻刻1」では底本通りに読点を打ち、改行も同じにした。意味は無論、ところどころしか判らないが、「□翻刻2」では、牽強付会の謗りを気にせず、ゴリ押しで意味の通りそうな部分を試みに読み換えてみた。
【2021年9月1日追記:今朝方、判読不能字を再度、検証し直してみた(現在まで援助者は上に示した教え子の一つきりである)。崩し字の判読によく使う「人文学オープンデータ共同利用センター」の「くずし字データベース検索」を利用し、判読不能字(私の勝手な判読でである)を一字だけにすることが出来た。】
以下、「跋」。画像は後の絵師蔀についての補記と広告文を一緒に載せた。]
□翻刻1
跋
こよ、補世ありしほとにおもひはしめにたる木の
下露を、みなの川波のかすかすになん、かきなかしぬる
関月かいさほし也けり、そも、遠つ國のことうかまは、
かこのよすかもとむなとしつゝとしこすのへおく
をめさるものにて、なとなとまうさんきはになん、あから
さまにあつめぬるか、ゝつ、おもはすかし云とそ聞ゝぬ、
かくて、まなひ子藍江その名殘につきて、露けし
袖の外に、ほころふるふしをきぬひ侍り、おのれ
亦かたはらのことかきをたちいらへつ、つひによるせありて、
いつもの花の五卷とはなりぬ抑むかし、高く好すに
しられ、をさして、寶のくにと聞ゝしはそかことや、あかれ
りしよの心のヿしらねと、そのかみ、とうへて、はちめし
らぬ、稲田のひえにて、もし、■にあらはし字は、なく、
人わろけにもやあらんかし、ましてかしこくも、なよたけ
恋よしになんふりにたる、みをくのあまりて、四民のとれる
なるわさにまれ、おのれまちにさらんと、みをつくし
ふかふかたとり、山の井とあさはかなる事たにつゆたらさる
時なし、さるは、人のくにの方物をは、ゝかにひえ田のあ
れのみなかかす事をへす、されはあめの下にして、
寶のくにといはんまて、こゝをおきて、いつれか、後つかふ、
蓬萊の玉の枝、つはめの巣の子やす貝なともいてき、
なを、此編のゝちのことことさふのて、あしふきのもく
さたるらん、
寛政十嵗、むまのとし 勢都都、那尓波江
迺、みち、しるす
□翻刻2(無理矢理に段落を成形し、推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。思うに、この筆者は原著者と言っている人物の妻かと思われる。但し、仮託の可能性を否定出来ない。)
跋
こよ[やぶちゃん注:「此世」或いは「今宵」か?]、補世[やぶちゃん注:「朝日日本歴史人物事典」では平瀬徹斎の名を「補世」とする。輔世と同じで、「すけよ」と読むか。]、ありしほどに、憶ひは、しめに[やぶちゃん注:「濕に」。]、たる木[やぶちゃん注:「垂木」「椽」。]の下露を、みなの川波の[やぶちゃん注:「みなの川」は「男女川」で現在の茨城県つくば市を流れる利根川水系の河川。筑波山から南流して、つくば市で桜川に注ぐ。「水無川」とも称し、歌枕として知られる。ここは「數々」を引き出すための枕詞。]、かずかずになん、かきながしぬる関月[やぶちゃん注:本書の絵師。]がいさほし[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「勳(いさを)し」。功績。この文は歴史的仮名遣の誤りもあって、何重にも読み難い。]也けり。そも、
「遠つ國のこと、うかまば[やぶちゃん注:「浮かまば」。]、かこ[やぶちゃん注:「浮く」に掛けた「水主」(船頭)であろう。]のよすがもとむ[やぶちゃん注:「縁(よすが)求む」か。]などしつゝ、としこすのへ[やぶちゃん注:「年越すの端」か。]、おくを、めざるものにて[やぶちゃん注:意味不明。]などなど、まうさんきはになん、あからさまに、あつめぬるが、かつ、おもはずかし。」
云ふとぞ、聞きぬ。
かくて、まなひ子[やぶちゃん注:愛弟子。蔀関月の、である。]藍江、その名殘(なごり)につきて、露けし袖の外に、ほころぶるふしを、きぬひ侍り[やぶちゃん注:「絹地で補綴致しました」の意か。]、おのれ、亦、かたはらの、ことがきを、たちいらへつ[やぶちゃん注:この筆者が補注を「截(た)ち入れた」というのである。]。
つひに、よるせ[やぶちゃん注:「寄る瀨」。「援助して呉れる人物があって」か。]ありて、いつもの[やぶちゃん注:書肆としての常の仕事として。]、花の五卷とは、なりぬ。
抑(そも)、むかし、高く好ず[やぶちゃん注:「好事」。]にしられ、をさして[やぶちゃん注:「長」であろう。代表の先導者となって。]、
「寶のくにと聞ゝしは、そがことや。」
あかれりしよ[やぶちゃん注:意味不明。「上がれり書」で板行した本の意か。]の心のこと、しらねど、そのかみ、とう、へて[やぶちゃん注:「薹、經て」か。]、はぢめしらぬ[やぶちゃん注:「始め知らぬ」か。]、稲田のひえ[やぶちゃん注:「稗(ひえ)」か、]にて、
「もし、■[やぶちゃん注:「猥」(みだり)を想定してみたが、(つくり)の部分がしっくりこない。]にあらはし字[やぶちゃん注:「事」の可能性もあるが、崩しとしては「字」に分がいい。]は、なく、人わろげにもや、あらんかし[やぶちゃん注:転じて、謙遜で、『人によっては、「たいした作品でもなく、体裁や外聞が悪いね」とも感ぜらるるかも知れぬ。』という意か。]。まして、かしこくも、『なよたけ』、恋し。」[やぶちゃん注:全体に意味不明。「なよたけ」(細くしなやかな竹)が如何なる対象を指すか不詳。この筆記者を指す愛称ととると、腑には落ちる。]
よしになん、ふりにたる。
みをく[やぶちゃん注:「身奥」で「内心の深い執着の思い」か。]のあまりて、四民のとれるなるわざにまれ、おのれ[やぶちゃん注:自然に。]、『まちにさらん』[やぶちゃん注:意味不明。]と、みをつくし、ふかぶか、たどり、山の井ど、あさはかなる事だに、つゆ、たらざる時、なし[やぶちゃん注:「みをつくし」は「身を盡し」に「澪標」を掛けて「山海」の「海」を匂わせ、「深々」とそこを辿って行くと、陸の水脈から「山の井戶」へと導かれて、「山海」の「山」に通ずるという趣向となっている。]。
さるは、人のくにの方物[やぶちゃん注:その地「方」で知られる「物」産の意か。]をば、はかに、ひえ田のあれの[やぶちゃん注:「稗田阿禮」。「禮」の崩し字を縦覧したところ、悪筆の場合、「豐」だけの崩しとしたものに酷似したものがあり、更に「れ」の「連」の崩しの中にも酷似したものがあったので確定した。]、みな[やぶちゃん注:「皆」或いは「御名」か。孰れでも意味は通るから、掛詞かも知れない。]、かかす事を、へず[やぶちゃん注:「得(え)ず」の意であろう。かの「古事記」の筆録者とされる稗田阿礼に譬えた謂いである。]。
されば、あめの下にして、「寶のくに」といはんまで、こゝを、おきて、いづれか、後(のち)、つかふ、「蓬萊の玉の枝」・「つばめの巣の子やす貝」なども、いでき。
なを[やぶちゃん注:「猶」(なほ)。]、此編のゝちのことごと、さふのて[やぶちゃん注:意味不明。「双(さう)の手」か?]、あしふきのもくさ[やぶちゃん注:「足吹きの艾(もぐさ)」か? 枕詞「あしびきの」のパロディであろうが、何を言いたいのか判らぬ。「両の手足に灸を据えては、頻りに頑張ってはみるけれども。」の意か。]、たるらん[やぶちゃん注:「足るらん」。「効果があるかどうか?」の意か。全体に朦朧な表現だが、この掉尾の部分は本書の続編(後注参照)を出版する予定があったことを示唆しているようには読める。]。
寛政十嵗 むまのとし 勢都都(せつつ)[やぶちゃん注:「攝津」。最初の字は「勢」の、最後の字は「都」の、それぞれの甚だしい崩し字に似ており、以下の「浪華江」の前にあるべきものでもある。] 那尓波江(なにはえ)[やぶちゃん注:「浪華江」。]迺(の)「みち」 しるす。[やぶちゃん注:当初、「しはす」で「師走」と判読していたが、どうもここで頭の年から離れて末尾に月を出すのはおかしいこと思い、よく見ると、この二つ目の字は「波」の崩しであることに気づいた。されば、「記す」で擱筆に相応しくなる。]
[やぶちゃん注:癖の激しい崩し字で、地下文書として見てもかなり難物である。筆者は総合的に見て、女性で、相応の和歌の知識なども持ち合わせている。素直に読むなら、千種屋新右衛門こと平瀬徹斎輔世にごく親密であった妻かとも思われてくるのだが、 女性とするのは、仮託の可能性もある。そもそも木村蒹葭堂が「序」の中で、この跋文に全く触れていない(それが唯一の本跋文筆者を明らかにする唯一の場所であるのに、である)ことが、大きな不審であり、蒹葭堂が販売促進のために(「不思議な一文が載ってるぜ」と噂が立てば、当然、売れ行きは上がる)知られた書肆主人の平瀬を想起させるようにでっち上げた文章である可能性も否定出来ないように思われる。]
――――――――――――――――――――――――
𤲿圖 法 橋 關 月 [落款]
――――――――――――――――――――――――
[やぶちゃん注:落款は蔀関月の名の「德基」である。
以下、広告。解説部は字下げが行われてあるが、無視した。]
日本山海名物圖會 長谷川光信画全五冊
金銀銅鉄の仕製(しせい)、漁人の鯨をとるの擡功(だいこう)なる、有馬細工の竒巧なる、凡そ山川(さんせん)毎陸(まいりく)の產物を画圖にし、これに注釋を加ふ名產圖會となし、はせ見るへき、ひとへに世の宝とすべきの業(しよ)也。
[やぶちゃん注:酷似した書名であるが、全くの別物で、本書「日本山海名産図会」の真の作者ともされる平瀬徹斎著で長谷川光信画。「文化遺産オンライン」の当該書の解説に、『日本各地の産物の生産や捕採の技術を図示し』、『解説を加えた本。全』五『巻からなり』、一『巻に鉱山』、二『巻に農林系加工品』、三・四『巻に物産』、五『巻に水産に関することが記されており、その中には豊後の物産として「河太郎」(=河童)のことも紹介されている。所収された画図は全部で』九十三『図におよび、採鉱用の諸道具、製鉄用のたたら、樟脳製法の図などは技術史上貴重なものとされている。なお本書は』、宝暦四(一七五四)年の『初版から』、実に四十三年も経った、本書刊行の前年の寛政九(一七九七)年に『再版された』とある。その寛政九年版は国立国会図書館デジタルコレクションで全巻を視認出来る。
なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政一三(一八三〇)年版では、版組みが異なっていて、こうなっているが、そこには、この広告ではなく、「山海名産圖會 續編 近刊」とあり、本書の再版と思われる寛政十一年版の時点では、続編が予定されていた(これは「跋」の終りの部分にも仄めかされている)ことが判る。但し、実際には続編は刊行されなったものと思われる。
「擡功」高々と掲げるに足る鯨捕りの勇猛果敢さの謂いであろう。
「はせ見るへき」「馳せ見るべき」の意でとった。書肆に駆け込んで見るに値する本というキャッチ・コピーと読んだ。
「業(しよ)」読みは書(しょ)の当て訓。
以下、奥書。画像はリンクのみとした。字の大きさは再現していない。]
寬政十一己未年正月發行
吉 田 松林堂
梶木町渡邊筋
播磨屋 幸兵衛
浪華書林 心齋橋南久太郎町
鹽 屋 長兵衛
同
鹽 屋 卯兵衛
[やぶちゃん注:改丁。]
和漢
書籍賣捌所
西洋
――――――――――――――――――――――――
大阪心齋橋通北久太良町
積 玉 圃 栁 原 喜 兵 衛
[やぶちゃん注:町名表記の違いはママ。おや? この「南久太郎町」は知ってるぞ! 芭蕉が最期を迎えた花屋仁左衞門の家のあったところじゃないか。偽書であるが、長く一級資料とされてきた私のPDF縦書版電子化注である文曉「芭蕉臨終記 花屋日記」を見られたい。4コマ目中央より少し前に出る。]