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カテゴリー「日本山海名産図会」の18件の記事

2021/06/20

日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹

 

Tako1


Tako2

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。一枚目のキャプションは「豫刕長濵章魚(よしうなかはまたこ)」。脚が掌の外にはみ出るほどの中型の蟹を蒲鉾板大の木片につけたものを餌としているのが判る。二枚目は「越中滑川之大鮹(えつちうなめりかはのおほたこ)」である。浮き出ている胴頭部だけで三メートルはあり脚を伸ばした長さは九メートルほどはあるか。漁師に非常に長い柄と刃を備えた大鉈で切断されて、舟に載り掛けている脚の先だけでも、向こうの舷側に垂れているようだから、実長は二メートル近そうだ。これは所謂「大蛸」の異名を持つタコ類最大種の頭足綱八腕形目マダコ科ミズダコ属ミズダコ Enteroctopus dofleini と思われ、現在の最大記録は体長九・一メートル、体重二百七十二キログラムであるから、遜色ない。海上の孤独な死闘(といってもミズダコがこのように沖の海面に浮上して舟を襲うことは特撮映画以外ではあり得ない。但し、水中や岩礁帯で身体に絡みつかれることはある)を遠目に、それと対照的な手前の街道筋の穏やかな日常が対位法的に興味深い効果を生んでいる。或いは、家の隙間から覗いている黒牛だけが、それを知って見ているようで、実に面白い。]

 

   ○章魚(たこ)【一名は「梢魚(せうきよ)」、又、「海和尚(かいおしやう)」、俗に「蛸(たこ)」に作るは、「梢(せう)」の音(おん)をもつて二合(にがう)せるに似たり。】

諸州にあり。中にも播州明石に多し。磁(やきもの)の壺(つほ)、二つ、三つを、縄にまとひ、水中に投じて、自(おのづか)ら來たり入(い)るを、常とす。磁器(じき)、是れを「蛸壺」と称して、市中(しちう)に花瓶(くわへい)ともなして用ゆ。蛸は壺中(こちう)に付きて、引き出だすに、やすからず、時に壺の底の裏を、物をもつて搔き撫づれば、おのづから出て、壺を放(はな)ること、速(すみや)かなり。○伊豫長濵には、此の魚(うを)、甚だ多き故に、「張蛸(はりたこ)」として市に出だすなり。是れは「スイチヤウ」と云ふ物を以つて取るに、壹人に、五、六百、壹艘(いつそう)には千、二千に及ふ。「スイチヤウ」とは、四寸に六寸許りの小片板(こいた)の表の端(はし)に、釣を二つ付け 表に「ズ蟹(かに)」の甲をはなし、足許(あしもと)をのこし、石を添へて、二所(ふたところ)、苧(お)にて括(くゝ)りたるを、三つ許り、長さ四、五十尋の苧糸(おいと)に付けて、水中に投ずれば、鮹は蟹の肉を喰はんとて、板の上に乘るを手ごたへとして、ひきあぐるに、岸近く、或(ある)は水際(みつきは)などに至りて、驚き逃げんと欲して、かの釣(つりばり)にかゝるなり。泉刕、亦、此の法を以つて小鮹(こたこ)を採るには、烏賊(いか)の甲・蕎麦(そば)の花などを、餌とす。長刕赤間關(あかまのせき)の邊(へん)には、船の艫先に(へさき)に篝(かゞり)を焚けば、其の下、多く集まりて、頭(かしら)を立てて踊り上るを、手をもつて摑み、手の及ばざる所は、打鎰(うちかき)を用ゆ。手取(てとり)の丹練、尤も妙なり。

○鮹は、普通の物、大ひさ、一、二尺許りにして、又、小蛸(こたこ)なり。京師(けいし)にて、十月のころ、多く市に售(う)るを「十夜蛸(じうやたこ)」と云ふ。漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ。大ひなる物は「セキ鮹(たこ)」と云う。又、北國邊(ほつこくへん)の物、至つて大ひなり。大抵、八、九尺より、一、二丈にして、やゝもすれば、人を卷き取りて食ふ。其の足の疣(いぼ)、ひとの肌膚(きふ)にあたれば、血を吸ふこと、甚はだ、急にして、乍(たちま)ち斃(たを)る。犬・鼡(ねつみ)・猿・馬(むま)を捕るにも、亦、然り。夜(よる)、水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり。「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり。

○越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。漁人(ぎよにん)、是れを捕らふに、術(じゆつ)、なし。故に舩中に空寐(そらね)して待てば、鮹、窺ひ、寄りて、手を延べ、舩のうへに打ちかくるを、目早(めはや)く、鉈(なた)をもつて、其の足を切り落とし、速やかに漕ぎかへる。其の危うきこと、生死(せうし)一瞬の間(あいだ)に関(あづか)る。誠に壯子(さうし)の戰塲に赴き、命を塵埃(ぢない)よりも輕んずるは、忠、又、義によりて人倫を明らかにし、或ひは、天下の暴𢙣(はうあく)を除かんがためなり。されども、鮹の足一本にくらべては、紀信(きしん)・義光(よしみつ)か義死といへども、あわれ、物の數には、あらずかし。

 右、大鮹の足を、市店の簷下(のきした)に懸くれば、長く垂れて、地にあまれり。又、此の疣一つを服して、一日の食(しよく)に抵(あ)つとも足(た)れり、とすなり。この余の種類、人のよく知る處なれば、こゝに畧す。

○「鮹の子」は、岩に產み附けるを、「やり子」といひて、糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す。是れを塩辛として「海藤花(かいとうくわ)」と云ふ。

○「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり。

 

Iidako

 

[やぶちゃん注:同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「高砂望潮魚(たかさこいひたこ)」。巻貝(赤螺)の殻を用いた漁法がよく判る。]

 

   ○飯鮹【○漢名(かんめう)「望潮魚(ほうてうきよ)」。】

攝・泉・紀・播州に多し。中にも播州高砂を名產とす。是れ、鮹の別種にして、大きさ、三、四寸にすぎず。腹内(ふくない)、白米飯(はくまいいひ)の如き物、充滿す。「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ。

○漁捕(ぎよほ)は、長さ、七、八間のふとき縄に、細き縄の一尋許りなるを、いくらもならび付けて、其の端(はし)每に、赤螺(あかにし)の壳(から)を括りつけて、水中に投(たう)す。潮(しほ)のさしひきに、波、動く時は 海底に住みて、穴を求(もと)る[やぶちゃん注:ママ。「もとむ」の脱字であろう。]が故に、かの赤螺に隱る。これを、ひきあぐるに、貝の動けば、尙、底深く入りて、引き取るに用捨なし。

[やぶちゃん注:「スイチヤウ」当初、「垂釣」かと思ったが、その場合の歴史的仮名遣は「すいてう」である。そうなると、仕掛けの板に思い到った。これは丁半博奕の際の、コマ札に似ている。されば、「垂丁」或いは「水丁」ではなかろうか。これならば「すいちやう」で歴史的仮名遣として正しくなる。

「ズ蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica 「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。

「苧(お)」「鰤」の「苧縄(をなわ)」を参照されたい。

「四、五十尋」尋の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。「四十尋」は前者換算で四十七・二四メートル、後者で六十・〇六メートル半となる。「五十尋」前者で九十・九メートル、後者で七十五・七五メートル。

「打鎰(うちかき)」「打ち鉤(かぎ)」。魚介類を引っ掛けて捕ったり、運んだり、ぶら下げたりするための鉄の鉤。

「十夜蛸(じうやたこ)」「(お)十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)が正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸佛の國土において善をなすこと、千歲するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。調べてみると、京都の真如堂のお十夜法要の際、「十夜蛸」の店が出るという複数の記載があった。このタコがマダコであるかどうかは、確認出来ないが、まあ、マダコでよかろうかい。

『漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ』「本草綱目」では「章魚」で「舉魚」「𠑃魚」「石距」を掲げる(但し、「石距」は通常のタコとは異なる種としている)。なお、別に「鮹魚」を立項するが、これはタコではなく、「江湖に出づ。形、馬の鞭に似て、尾、兩岐、有り鞭鞘(べんしやう[やぶちゃん注:鞭の先につける細い革紐。])のごとし。故に名づく。」とあり、淡水産の細長い魚類かと思われる。蒹葭堂は、ここは「大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に拠っている(リンク先で「本草綱目」を電子化してある)。益軒はそこで、『○「小八梢魚(くもだこ)」、「八梢魚(たこ)」に似て、小なり。俗名「絡蹄〔(らくてい)〕」【「東醫寳鑑」。】。「本草」、「章魚」〔の〕「集解」に、時珍曰はく、『石距も亦、其の類〔(るゐ)〕なり。身、小にして、足長』〔と。〕これ、「足ながだこ」なり。』と述べている。私は、そこで、「絡蹄」については、「絡蹄」の「絡」は「まといつく・からむ・からまる」で、「蹄」は「ひづめ」で、タコの吸盤を喩えたかとし、この「足ながだこ」をマダコ科 Callistoctopus 属テナガダコ  Callistoctopus minor に比定している。

「セキ鮹(たこ)」「石鮹」か。一石(=十斗=百升=一千合)の「石」(こく)で「一石もある大田だこ」の意ではあろう。漢語の「石距」由来ではあるまい。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚(たこ)」・「石距(てなかだこ)」・「望潮魚(いひたこ)」でも、かなり詳しい注を附してあるので、是非、そちらも参照されたい。

「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」これはタコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人及び犬・猿、誤りて之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に章魚(たこ)坊主と稱す。最も死し〔→死に〕難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢があるので正しい仕儀である。]を打たむには、則ち、死す。』とあるが、そこで私は次のように注した(古い仕儀なので、一部を修正・省略した)。これを修正する意志は私には全くない

   *

「性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ」は、かなり人口に膾炙した話であるが、残念ながら私は一種の都市伝説であると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では、西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、人魂を捕獲しようとしたり(弁当箱に封じ込んだが、開けて見ると消えていたともあった)、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまう人物である。いや、その方面の世界にいる時の私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田んぼに入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろう。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコ……じゃあない、イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚なく泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていた)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。たとえば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり(これは実際にある)、漁獲された後に逃げ出したタコが、畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは「海の忍者」と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、極めて数十センチメートルの大型の個体が、蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることは頓に知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ、極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(クロダイはサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等々といった辺りこそが、この伝説の正体ではないかと思われるのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、是非、見たい! 信望者の方は、是非、実写フィルムを! 海中からのおどろどろしきタコ上陸! → 農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿! → 腕足を驚天動地の巧みさで操りながら、器用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ! → 「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ! だ!(円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが、突けど、触れど、一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、「生き物はこりごりだ」と言ったと聴く)。

   *

『「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり』前掲大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に、『○但馬にある「大ダコ」は甚大なり。或いは牛馬をとり、又、夜泊の小舟に手をのべ、行人〔(かうじん)〕の有無をさぐると云ふ。又、夜、ひかる。丹後熱(あつ)松の海にて、蟒(うはばみ)と章魚とたゝかひ、ついに[やぶちゃん注:ママ。]蟒を、うみへ引き入る。蟒、傍(かたはら)の木にまきつきたれども、松の枝、さけて、引〔(ひき)〕しづめらる。今に、松、殘れりと云ふ。諸州にて、「大だこ」、人をとる事あり。』とある。

「越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。……」有り得ません。但し、怪奇談としては、汎世界的に人気がある。私の一番のお勧めは、私の「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」である。他に、蛇が蛸に化生する話も(類感呪術的である)枚挙に暇がないほどある。やはり私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」或いは「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」をお読みになられたい。大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」では、「義殘後覺」(ぎざんこうかく:愚軒(事績未詳。豊臣秀次の側近の「お伽の者」の一人かとも推定されている)の作になる雑談集。写本七巻。識語に文禄五(一五九六)年暮春吉辰とある)の巻四の「大蛸の事」を電子化してもある。

「𢙣」「惡」の異体字。

「紀信(きしん)」紀信(?~紀元前二〇六年か紀元前二〇四年か?)は秦末の武将。漢の劉邦に仕えた。紀元前二〇七年の有名な「鴻門の会」で、劉邦が項羽から逃れた際、樊噲・夏侯嬰・靳彊(きんきょう)らとともに参軍として劉邦を護衛した。紀元前二〇四年の夏六月、項羽率いる十万の軍勢が滎陽城(けいようじょう)の漢軍を包囲し(「滎陽の戦い」)。兵粮が尽き、落城寸前に陥った時、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服する振りをして、その隙に劉邦が逃亡する策(「金蟬脱殻(きんせんだっかく)の計」)を進言した。紀信はその献策を受け容れ、間もなく、劉邦は陳平ら数十騎とともに滎陽城を脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された(当該ウィキに拠った)。

「義光(よしみつ)」2021621日改稿】当初、『不詳』としたが、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「太平記」第七巻の「吉野城軍事」(吉野の城(しろ)軍(いくさ)の事)に出る村上彦四郎義光である、という御指摘を受けた。『「尊卑分脈」「梅松論」では村上彦四郎義日、「梅松論」別本は「義暉」』(孰れも「よしてる」と読む)として出、護良親王を祀った『鎌倉宮の摂社「村上社」の祭神』となっている、とお教え下さり、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「太平記」巻第七の村上彦四郎義光が自らを大塔宮を演じて凄絶な自死に至るシーン(ここの右頁左から三行目以降。自害は次のコマの左頁の四行目以下)、及び「村上義日」で出る「国立国会図書館デジタルコレクション」の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」の系図(ここの左頁のほぼ中央)、さらに「村上彦四郎義日」で出る「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の写本「梅松論」(書写年代は文明二(一四二〇)年)の(ここの中央の改頁の前後)、及び「村上彥四郞義暉」で出る「国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「梅松論」(日本歴史文庫)の当該部(左頁後ろから五行目)も紹介して下さった。ウィキの「村上義日」によれば、村上義光=村上義日=義暉(?~元弘三/正慶二年閏二月一日(ユリウス暦一三三三年三月十七日)は、『父は信泰。弟に国信および信濃村上氏棟梁の信貞。子に朝日、義隆。官位は従五位下、左馬権頭。通称は彦四郎。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕え、鎌倉幕府との戦い元弘の乱における吉野城の戦いで、次男の義隆と共に討死した。史料上は数行の記述が残るのみだが』、「太平記」では「村上義光」の『表記で登場し、印象的な活躍が描かれ、護良親王の忠臣として知られるようになった』(以下で「太平記」から別に私が示した)。『明治時代に従三位を追贈され、鎌倉宮村上社の祭神となった』。『村上義日(義光)に関する数少ない史料は、洞院公定編』の「尊卑分脈」であり、また、「梅松論」にも『名が見える』。諱は「尊卑分脈』」「梅松論」ともに、『「義日」の表記で記されるが』「梅松論」の別写本(「群書類従」版底本)では『「義暉」の表記が用いられている』(上記二種のリンク先がそれぞれに相当する)。『通称は彦四郎』(「尊卑分脈」・「梅松論」上巻)。「尊卑分脈」に『よれば、位階は従五位下で、官職は写本の系統によって左馬権頭とするものと右馬権頭とするものがある』。『信濃村上氏は、河内源氏の祖源頼信の次男源頼清を祖とする名門で』、「尊卑分脈」に『よれば義光の父は村上信泰とされる』。『また、国信・信貞(のち信濃村上氏棟梁)という弟と、朝日・義隆という子がいた』。『後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い』である「元弘の乱」(一三三一年~一三三三年)『が始まると、前半戦で敗北し』、『一度は姿をくらました護良親王(後醍醐天皇の皇子)は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した』。『これに対し』。元弘三年/正慶二(一三三三)年の『初頭、鎌倉幕府は大将大仏高直・軍奉行工藤高景・使節二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成』、閏二月一日、『二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した』。「尊卑分脈」に『よれば、この』時、『義日とその次男の義隆が討死した』とし、『義日は』「梅松論」上巻でも、『吉野城で落命した護良親王側の将として名が言及され』ている。『後述する』「太平記」に於ける『忠臣伝説が著名だが、実際には』、「吉野城の戦い」『以前の村上父子の動向ははっきりしない』。『本来、村上氏は信濃国(長野県)の御家人であり、また』、『御内人(北条得宗家の被官)として、幕府の事実上の権力者北条氏とも親しかった有力氏族』であった。にも拘わらず、『父子がいつ』、『いかなる経緯で護良親王の側近となって、吉野城で戦死したのか、歴史的実像は不明である』。『一説によれば、鎌倉時代には義日の系統は村上氏の傍系だったので、勢力拡大を目指して護良親王に接近したのではないかともいう』。明治四一(一九〇八)年、『従三位が追贈された』。『奈良県吉野郡吉野町大字吉野山にある墓所と伝えられる場所は一時』、『荒廃していたが、のち整備された』。『また、鎌倉宮村上社の祭神となった』。「太平記」では「元弘の変」の頃、『笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した』九名の一人として『「村上義光」として登場する』。「太平記』巻第五の「大塔宮熊野落事」(大塔宮(おほたふのみや)熊野落ちの事)で、『道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉し』ていた九名の内の一人、『赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉し』ていた別の一人、『平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。 遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し』、『「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ』、四~五丈(約十二~十五メートル)ほど『かなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし』、『芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸』けて『親王一行を追いかけ』、『無事に追いついた』。『護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。(注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)』。続いて、先にリンクで示した「太平記」巻第七の「吉野城軍事」。遂に『幕府方の二階堂貞藤が』六『万余騎を率いて吉野山に攻め入った。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王は』「最早これまで」と、『最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し』、『落ち延びさせる。義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て』、『自ら』、『身代わりとなって』、「天照太神(てんせいだいじん)の御子孫、神武天王より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇第二の皇子、一品(いつぽん)兵部卿親王尊仁(そんじん)、逆臣の爲に亡ぼされ、恨みを泉下(せんか)に報ぜん爲に、ただ今、自害する有樣を見置いて、汝等(なんぢら)が武運、忽ちに盡きて、腹をきらんずる時の手本にせよ。」『と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり』、『敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに』『なって絶命した』、『という壮絶な逸話が残る』。『なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍とな』って『力尽き、切腹し』、『自害した』。『村上義日(義光)の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約』一・四キロメートルの『場所にある』(奈良県観光公式サイト「あをによし」の「村上義光墓」で画像と国土地理院図での位置が判る)。『案内板によると』、『身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを』、『哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が』天明三(一七八三)年に『建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。なお、子の義隆の墓は蔵王堂より南』一・五キロメートル、『勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道』二百五十七『号線沿いにある』(ここ。グーグル・マップ・データ)とある。最後に、T氏に心から御礼申し上げる。

「やり子」語源不詳。「鎗子」で鎗の穂先をカバーするふさふさの毛物に擬えたか。

「糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す」木村宏氏の「キムヒロのページ」の「幡多の海」に産みつけられたそれの写真が見られる。

「海藤花」ウィキの「海藤花」によれば、海藤花(かいとうげ)とし、『タコの卵から製される食品。兵庫県明石市の名産』。『ケシ粒大の卵粒がつらなり、たれさがるのがフジの花房に似ることから、江戸時代に明石藩の儒者』梁田蛻巖(やなだぜいがん 寛文一二(一六七二)年~宝暦七(一七五七)年:江戸中期の漢詩人。名は邦美、蛻巖は号。旗本の家臣の家柄に生まれ、江戸で育った。十一歳で幕府の儒官人見竹洞に入門し、新井白石や室鳩巣などと交流した。元禄六(一六九三)年に加賀藩に儒者として仕えたが、間もなく辞し、美濃の加納藩や播磨の明石藩に出仕した。晩年までには漢詩の大家として敬仰されるようになり、明石で没した)『によって「海藤花」と命名された』。『最初は蛸壺の中に産みつけられたのを「すぼし」にした。のちに塩漬けにもされるようになって、胎卵もしぼりとられるようになった。麹塩漬けにもするが、長くもつのは立て塩漬けである。塩出しをして三杯酢にしたのが最も酒にあうという。ざっとゆでて吸い物におとしたり、みりん醤油で甘露煮風に煮詰めたりする』とある。但し、「海藤花」は私の知る限りでは、以下のイイダコの房状卵塊を言うと心得ている(マダコよりも粒が大きい)。

『「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり』サイト「松蔭先生の蛸あらかると―語源と伝説」に、『「タコ」の語源については諸説あるが、江戸末期の「私語私臆鈔」には、「たこは多股からきている」と記されている。また、「和名抄」では、タコを「海蛸子(かいしょうし)」とあらわしている。ちなみに、「蛸」は本来はクモのことで、海に棲むクモという意味から「海蛸子」とあらわされ、それが省略されて蛸一字でタコと呼ぶようになったのだという。別の文献では、タコは手の多いことからテココラ(手許多という漢字をあてた)といわれ、これが転訛したものであるという説、あるいはタコはキンコやマナマコなどと同類の海鼠(なまこ)の類であり、手があることから手海鼠(テナマコ)とされ、それがやはり転訛してタコと呼ばれるようになったという説もある。いずれにせよタコの姿態、すなわち八本の手をもったことが語源に深く関わっているわけである』とある。

「飯鮹」マダコ属Octopus 亜属イイダコ Octopus ocellatus『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 アカダコ(スナツカミ)・イイダコ』の私の注を参照されたい。

「望潮魚(ほうてうきよ)」「ぼうちょうぎょ」は蟹のシオマネキを「望潮蟹」と呼ぶのと同じく、海浜の岩礁の浅瀬などで、イイダコが移動したり、泳ぐさまを潮を招くように見立てたものと思われる。

「播州高砂」現在の兵庫県高砂市の海浜。

『「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ』「本朝食鑑」の「鱗部之三」の「蛸魚」の項に附録する。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここの右頁一行目から。「江東」は関東のこと。但し、イイダコは北海道南部以南の日本沿岸域から、朝鮮半島南部・黄海・中国沿岸域に至る、東アジアの浅海に広く分布しているので、人見の謂いは解せない。最大でも三十センチメートルにしかならないので、こんなチンケなちっこいもの、江戸っ子は食べなかったというだけの話であろう。

「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。

「赤螺(あかにし)」腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa

「壳(から)」「殼」の異体字。]

2021/06/19

日本山海名産図会 第四巻 八目鰻

 

Yatumeunagi

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「諏訪湖八目鰻(すはのうみやつめうなき) 赤魚(あかうを)を採(と)る」であるが、「赤魚」(「石斑魚」=ウグイ)は描き込まれていない。所謂、「手繰り網」である。]

 

   ○八目鰻(やつめうなき)

江海、所々、是れ、有り。就中(なかずく)、信刕諏訪の海(うみ)に採る物を名產とす。上諏訪・下諏訪の間(あいだ)一里許りは、冬月、氷、滿ちて、其の厚さ、大抵、二、三尺に及ぶ。其の寒極まる時は、かの一里ばかりの氷の間に、あやしき足跡つきて、一條の道をなせり。是れを「神のおわたり」と号(なづ)けて徃來の初めとす。此の時に至りて、鰻を採れり。先つ、氷のうへに小家(こや)を營むなり。是れを建つるに、火を焚きて、穴を穿ち、其の穴に柱を立てて、漁子(れうし)の休(いこ)ふ所とす。又、䋄、或は縄を入るべきほどほどをはかり、處々(ところどころ)を穿(うが)つにも、薪(たきゝ)を積み焚き、延繩(はへなは)を入れ、共餌(ともゑ)を以つて釣り採る事、其の數、夥(おひたゝ)し。氷なき時は、「うなぎ搔(かき)」を用ゆ。又、此の海に「石斑魚」多し。一名(めう)「赤魚」又「赤腹」とも云ふ。是れは「手操䋄(てくりあみ)」を竹につけて、氷の穴より、入れ、外の穴へ通して、採る也。

附記

○「本草綱目」に『鱧(れい)』といふは、『眼(め)の傍(かたはら)に七ツの星あり』といふに付きて、今、此の魚に充てたり。或云、「今も漢渡(からわた)りの『鱧』は一名(めう)『黒鯉魚(こくりぎよ)』と云ひて、形、鰡(ほら)に似て小さく、鱗、大きく、眼の傍に七ツの星あり。全身、脂黒色(しこくしよく)にして、深黑色(しんこくしよく)の斑点(まだら)あり。華人、長嵜に來り、是れを『九星魚』といふ。」。然れども、星は七ツなり。和產にあることなし。恕庵先生、八目鰻に充てたるは、誤りなり。

近來(きんらい)、「南部にて、一種、首に七星(しちせい)ある魚を得て、土人、『七星魚(しちせいぎよ)』といふ。是れ、本条の『鱧(れい)』のたぐひにや否や、未だ其の眞(しん)を見ず」と云々。「本朝食鑑」に說くところの「鱧」は、『涎沫(ゑんまつ)多く、狀(かたち)、略(ほゞ)鰻鱺(うなき)或ひは海鰻(うみうなぎ)の類(たぐ)ひにて、大いなるもの、二、三尺餘り、背に白㸃の目の如き物は九子(きうし)あり。故に「八目鰻」と号(なづ)く。其の肉、不脆(もろからず)。細刺(こほね)多くして、味、美ならず。唯(たゞ)藥物の爲に採るなり』と云々。案ずるに、「本草」の「鱧」の条下に疳疾(かんしつ)を療(りやう)ずることを載せざれば、「鱧」は「鱧」にして、此の「八目鰻」と別物なる事、明かなり。又、「食鑑」に云ふところは、疳疾の藥に充てゝ、此の八目鰻なること、疑ひなくいひて、「鱧」の字に充てたるは、誤りなるべし。所詮、今の「八ツ目鰻」、疳疾の藥用にだにあたらは、漢名の論は無用なるへし。

[やぶちゃん注:「生きた化石」である、

脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidae

に属する生物で、北方系種である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくが、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないとする見解さえあるが、では、その習性から魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合、食用有益種としては、同科の、

ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica (変態後の成体の口は吸盤状で顎に骨がなく、大形の魚の外部に吸着、鋭い歯で皮膚を食い破り、口の中にある一対の口腔腺(こうこうせん)からランヘリデン(lanpheridin)という粘液を出し、これで、寄生主の血液の凝固を防ぐとともに、赤血球や筋肉を溶かして摂餌する寄生種である。このため、サケ・マス類などの有用魚に致命的な被害を与えることがある)

スナヤツメ Lethenteron reissneri(幼生のアンモシーテス(Ammocoetes)期は眼がなく、ミミズのように見え、デトリタスや藻類などを食べているが、四年後の秋に成体になり、十四〜十九センチメートルで変態して眼が現れるものの、一方で体内の消化系が消滅してしまい、翌春の産卵期を過ぎて死ぬまで、本種は何も食べない。春に産卵するや、そこで寿命を終えてしまう非寄生種である)

に限られる「大和本草卷之十三 魚之下 八目鰻鱺(やつめうなぎ)」を見られたい。但し、ここでは諏訪湖を名産とするが、長野県水産試験場環境部武居菫氏の論文「諏訪湖魚類目録を検証する」PDF・『陸水学会甲信越支部会報』第三十三号所収(二〇〇七年十二月発行))によれば、カワヤツメ・スナヤツメともに現在は諏訪湖では絶滅している模様である。

「江海、所々、是れ、有り」種によって降海型と陸封型に大別される。カワヤツメは降海型で、変態した若魚は二~三年、海を回遊し、繁殖期になると、再び河川を溯上する。スナヤツメは陸封型で、秋に変態した後、翌年の春から初夏の繁殖期までの、生涯の残りの期間も河川下流の淡水域で過ごす。現在、太古にカワヤツメの一部が何らかの理由で陸封され、分化したものと考えられている。

「上諏訪・下諏訪」諏訪湖の東岸を上諏訪、北岸を下諏訪と呼称する。グーグル・マップ・データを参照されたい。この間の湖岸は実測で四キロメートル(「一里許り」)ほどある。

「神のおわたり」所謂、琵琶湖で知られる「御神渡り」である。ウィキの「諏訪湖」によれば、『冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため「膨張」し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる』。『この自然現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だという。御神渡りが現れた年の冬には、無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が、八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する「拝観式」が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが』、『注進式は行われ、その状態は「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ』。『御神渡りは、できた順に「一之御神渡り」、「二之御神渡り」(古くは「重ねての御渡り」とも呼んだ)、二本の御神渡りが交差するものは「佐久之御神渡り」と呼ぶ。御渡り神事にて確認・検分の拝観がなされる』。『御神渡りは湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分にないと発生しないので、湖上を歩けるか否かの目安の一つとなる』。但し、『氷の厚さは均一でなく、実際に氷の上を歩くのは危険をともなう』。『平安末期に編纂された』西行の歌集「山家集」に『「春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ」と記されていること』、室町時代の応永四(一三九七)年、『諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え』である「御渡注進狀扣」に「當大明神御渡ノ事」と『あることから、古くは平安』『末期頃には呼称があったとされている』とある。

「共餌(ともゑ)」釣糸の上と下に針を結び、そこに同じ餌を付けたものを言う。

「うなぎ搔(かき)」長い柄の先に鉤(かぎ)を付けた道具。泥の中を掻いて、鰻を引っ掛けて捕る。

「石斑魚」「赤魚」「赤腹」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis のこと。「大和本草卷之十三 魚之上 ウグヒ (ウグイ)」を参照されたい。先の武居氏の論文に、湖の深層に生息し、五~八月頃、河川に遡上して石礫に産卵するが、『近年』、『著しく減少』とあり、危ぶまれる。

「手操䋄(てくりあみ)」であるが、図の画面の下方のそれはまさに「竹につけて、氷の穴より、入れ、外の穴へ通して、採る」手法を描いていて面白い。

『「本草綱目」に『鱧(れい)』といふ』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」に(囲み字は太字に代えた)、

   *

鱧魚【「本經上品」。】

釋名 蠡魚【「本經」。】・黑鱧【「圖經」。】玄鱧【「埤雅」】・烏鱧【「綱目」。】鮦魚【音「同」。「本經」。】・文魚【時珍曰はく、『鱧、首、七星、有。夜、北斗に朝(てう)し、自然の禮、有り。故に之れを「鱧」と謂ふ。又、蛇と氣を通じ、色、黑し。北方の魚なり。故に「玄」「黑」の諸名、有り。俗に「火柴頭魚」と呼ぶ。卽ち、此れなり。其の小なる者、「鮦魚」と名づく。蘇頌が「圖經」に「毛詩」の諸註を引きて、『「鱧」は、卽ち、「鯇魚」と謂ふは誤れり。今。直きに削り去りて辯正を煩はさず。』と。】

集解 【「别錄」に曰はく、『九江・池澤に生ず。取るに、時、無し。』と。弘景曰はく、『處處に、之れ、有り。言はく、「是れ、公蠣蛇(こうれいだ)の化する所なり。然れども亦、相生の者も有り。性、至つて死に難し。猶ほ、蛇の性、有るなり。」と。時珍曰はく、『形、長く、體、圓(まど)かにして、頭・尾、相ひ等し。細き鱗、玄色。斑㸃の花文(くわもん)有り。頗る蝮蛇に類す。舌、有り、齒、有り、肚、有り、背・腹に鬛(ひれ)有りて、尾に連(つら)なる。尾、岐、無し。形狀、憎むべく、氣息、鯹(なまぐさ)く惡し。食品として卑(ひ)なる所とす。南人、之れを珍とする者の有り。北人、尤も、之れを絕つ。道家、指して、水厭[やぶちゃん注:水の咒(まじな)いか。]を爲す。齋籙[やぶちゃん注:占術を行うことか。]に忌む所なり。』と。】

肉 氣味 甘、寒。毒、無し。瘡(かさ)有る者は食ふべからず。人をして瘢白(はんぱく)[やぶちゃん注:「はたけ」のような皮膚疾患か。]ならしむ【「别錄」に、源曰はく、『小毒、有り。益、無し。宜しく之れを食ふべからず。』と。宗奭(そうせき)曰はく、『能く痼疾を發す。病ひを療することも亦、其の一端を取るのみ。』と。】

主治 五痔を療し、濕痺・面目浮腫を治す。大水を下す。【「本經」に弘景曰はく、『小豆に合はせ、白く煮て、腫滿を療す。甚だ効あり。』と。】大小便・壅塞氣を下す。鱠に作(な)し、脚氣・風氣の人、食して良し。【孟詵。】妊娠の水氣有るを主(つかさど)る【蘇頌。】

[やぶちゃん注:以下、「附方」が続くが、処方出来る病態・作用のみの見出しを示す。]

 十種水氣死に垂たる

 一切氣を下す

 腸痔の下血

 一切の風瘡

 兒を浴して痘を免(まぬか)る

腸及び肝 主治 冷敗瘡中に蟲を生ずるもの【「别録」】、腸、五味を以つて炙り、香にして痔瘻及び蛀骭瘡(ちゆうかんさう)に貼(てん)ず。蟲を引きて盡くるを度(たびたび)爲せり【「日華」】。

膽 氣味 甘、平。「日華」に曰はく、『諸魚の膽、苦(も)し惟(た)だ、此の膽の甘くせば、食ふべし。異なりと爲すなり。臘月、收め取りて陰乾す。主治 喉痺、將に死えんとする者に、少し許りを㸃じ入るれば、卽ち、差(おさ)ふ。病ひの深き者の水に調(ととの)へて之れを灌(そそ)ぐ。』【「靈苑方」。】と。

   *

興味深いのは、この次の項が「鰻鱺魚」(ウナギ)だということで、以上の記載から見ても、ヤツメウナギ類を書いていることは明白である。なお、言わずもがなであるが、現行では本邦では「鱧」は「はも」で、条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus を指す。同じニョロニョロ系であるのは面白い。「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」の私の注も、この漢字の問題を浮き彫りにしてあるので、参考になろう。

「黒鯉魚(こくりぎよ)」こりゃ、アカンて! ただの黒いコイやないかい!

「鰡(ほら)」ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」を参照されたい。まあねえ、河川の中流域まで遡上はするがねぇ、ヤツメウナギとボラのどこが似とる言うとんのや?

『華人、長嵜に來り、是れを『九星魚』といふ。」。然れども、星は七ツなり。和產にあることなし。恕庵先生、八目鰻に充てたるは、誤りなり』「九子(きうし)」ヤツメウナギ類の鰓孔は、眼の後方やや離れた位置に体幹に平行に七つあるが、鼻が頭の背面に一つだけあり、これを加えると、九つになるのである。ウィキの「ヤツメウナギ」によれば、ドイツ語でも、これに基づき、「ヤツメウナギには九つの眼がある」と考え、「九つの眼」を意味する「ノインアウゲン」(Neunaugen)と彼らを呼んでいる、とある。間違っとるのは、恕庵先生やない! 蒹葭堂! 御前やねん! 「恕庵先生」は江戸中期の本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)。名は玄達。恕庵は通称。怡顔斎(いがんさい)と号した。京都出身。儒学を学び、古典の動植物を理解するため稲生若水(いのうじゃくすい)に師事し、奥義を究めて本草学の大家となり、医学にも精通した。質素な生活とは対照的に、多数の蔵書を国書と漢書に区分し、二棟の大書庫に収め、学者の面目に徹した。享保六(一七二一)年には幕府に招かれ、薬物鑑定に従事した享保一一(一七二六)年には蘊蓄を傾けや「用薬須知」(ようやくすち)五巻を著した。これは動植物の品類・形態・産出状況・方言などを記載し、博物学的本草学の価値を高めた名著とされる。他にも「本草一家言」・「食療正要」・「桜品」・「菌品」など貴重な著書が多数ある。小野蘭山・戸田旭山ら、著名な門人も多い。

『「本朝食鑑」に說くところの「鱧」は、『涎沫(ゑんまつ)多く、狀(かたち)、略(ほゞ)鰻鱺(うなき)或ひは海鰻(うみうなぎ)の類(たぐ)ひにて、大いなるもの、二、三尺餘り、背に白㸃の目の如き物は九子(きうし)あり。故に「八目鰻」と号(なづ)く。其の肉、不脆(もろからず)。細刺(こほね)多くして、味、美ならず。唯(たゞ)藥物の爲に採るなり』と云々』「本朝食鑑」巻之九の「鱗部之三」の「江海無鱗三十七種」の「鱧」。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

『案ずるに、「本草」の「鱧」の条下に疳疾(かんしつ)を療(りやう)ずることを載せざれば、「鱧」は「鱧」にして、此の「八目鰻」と別物なる事、明かなり。又、「食鑑」に云ふところは、疳疾の藥に充てゝ、此の八目鰻なること、疑ひなくいひて、「鱧」の字に充てたるは、誤りなるべし。所詮、今の「八ツ目鰻」、疳疾の藥用にだにあたらは、漢名の論は無用なるへし』ぐちゃぐちゃだね、蒹葭堂! 「疳疾を療ずる」とは出典は何だ?! 何故、出さない?! 多分、高い確率で、君の言っている見解は「誤り」だぜ! 蒹葭堂! 御前の杜撰に俺は、正直、怒りを感ずるね。]

2021/06/18

日本山海名産図会 第四巻 鱒

 

Masu

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「越中神道川之鱒(えつちうしんとうかわのます)」。「道」はママ。岐阜県及び富山県を流れる神通川(じんずうがわ・じんづうがわ・じんつうがわ)を「神道川」と呼んだ事実はないと思われるので、誤字であろう。]

 

   ○鱒(ます)

海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり。川の物、味、勝れり。越中・越後・飛驒・奧州・常陸等(とう)諸國に出づれども、越中神道川の物を名品とす。卽ち、「䱒(しほびき)」として納め來たる。形は、鮭に似て、住む處もおなしきなり。鱗、細く、赤脉(せきみやく)、瞳を貫き、肉に、赤刺(こほね)、多し。是れを捕るに、「乘川網(のりかわあみ)」といふて、橫七尺、長さ五尋の袋䋄(ふくろあみ)にて、上にアバを付け、下に岩をつけて、其の間(あひだ)、わづか四寸許りなれども、アバは浮き、イハは沈みて䋄の口を開けり。長き竹を、網の兩端に付けて、竹の端(はし)をあまし、人、二人づゝ乘りたる「スクリ船」と云ふ小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。

○鱒の古名は「腹赤(はらあか)」と云ふ。「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に、

   初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため

毎年(まいねん)正月元日、天子に貢(こう)す。若(も)し、遲參の時は、七日に貢す。是れ、「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし例(れい)を以て、今に不絕(たへず)、貢(みつ)ぎ奉れり。故に是れを「熟(にへ)の魚(うを)」とも云へり。長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ。

○「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし。或云、今、元日に腹赤の奏を、御厨(みくり)に於いて鮭を用ゆることもあれば、若し、鱒・鮭ともに「腹赤」といふも、知るべからず。

○鮭の子を「ハラヽゴ」と云ふは、「腹赤子(はらあかご)」の轉にも有るか、と云へり。 又、稻若水(たうじやくすい)は、『鱒は、卽ち、淵魚(ゑんぎよ)にして、俗にヲヒカハと云ふ物なり』とも、いへり。されば、「和名抄」に二物に分かてる物、其の故、しかるや。かたがた、さだかならず。尙、可ㇾ考(かんがうべし)。「ヲヒカハ」ゝ、腹赤き魚也。

[やぶちゃん注:私は「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」で細かく考証したが、その冒頭注で、

   *

「鱒」の指す「マス」とは、現在でも特定の種群を示す学術的な謂いでは、実はない。広義には、サケ目サケ科Salmonidae に属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、

サクラマス Oncorhynchus masou

サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

ニジマス Oncorhynchus mykiss

の三種を指すことが多い。また、「マルハニチロサーモンミュージアム」のQ&Aでは、英語圏では原則的には『淡水生活をおくるものをトラウトtrout(日本語訳はマス)、海に降るものをサーモンsalmon(日本語訳はサケ)と呼び、サケの仲間を区別して』いるとし、『日本語でも、サケ属の中で降海する種にはサケを、サケ科の中で淡水生活をおくる種にはマスと付けた名称が使われてい』るとするのだが、その言葉の直後で、その区別は洋の東西を問わず、かなり曖昧である、とも言っている。

   *

ここでの記載も、産地が明記されていても、また、「海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり」と断定して言っていても、特定種への同定は軽々には出来ないように思われるが、しかし、現在の富山名産の「鱒寿司」に使用されているのは、サクラマス Oncorhynchus masou とされる。

「䱒(しほびき)」しっかり塩をまぶした正統な塩漬けである。「大和本草卷之十三 魚之下 (しほうを) (塩漬け)」を参照されたい。

「鮭」条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)」を参照。

「赤脉(せきみやく)、瞳を貫き」瞳と言っているのが不審であるが、これは鰓から尾鰭にかけての体側部に、赤から赤紫色の太い縦縞の模様があるニジマスのことを言っているようには読める。

「乘川網(のりかわあみ)」この呼称は現行では残っていないようである。

「アバ」浮き。

「岩」後の「イハ」とともに錘(おもり)のこと。古くは実際の岩を用いた。

「スクリ船」語源不詳。本来は古式の刳り舟で「素刳り舟」だったのではないかと思うのだが、図のように二艘で挟んで鱒を「掬う」様子からは「すくり」は「掬ふ」の転訛のようにも感じられる。

と云ふ。小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。

『「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に』『初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため』出典不詳。当初、平安時代の「年中行事絵巻」かと思ったが、復刻の現存品には詞書がない。「熟(にへ)」は「贄(にへ)」で、元来は神に供える神饌であるが、天皇の食膳に供されるために諸国から調進される食物をさすそれに転じたものであろうが、「熟」は誤字や当て字ではなく、塩にしっかり漬けて「熟(な)らしたもの」の謂いを含んだ換字であろう。

『「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし』景行天皇十八年(西暦機械換算八八年)の六月の条に、

   *

癸亥六月辛酉朔癸亥。自高賴縣渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頰焉。

   *

とある。「玉杵名(たまいな)の邑(いう)」とは現在の熊本県玉名市(たまなし)の菊池川周辺か。玉杵名大橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に名が残る。

「長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ」前の玉名市の西に接する海浜の熊本県玉名郡長洲町(ながすまち)であろう。

『「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし』「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部」第三十の「龍魚類」第二百三十六の三丁目に、

   *

鰚魚(ハラカ) 「辨色立成」に云はく、『鰚魚【「波良可」。音「宣」。今、按ずるに、出づる所、未だ詳らかならず。「本朝式」に「腹赤」の二字を用ゆ】。』と。

   *

とし、後の七丁目に、

   *

鱒(マス) 「七卷食經」に云はく、『鱒【「慈」「損」の反。】一名は「赤魚」【和名「万須」。】』と。「兼名苑」に云はく、一名は「鮅」【音「必」。】。鯶に似て、赤目なる者なり。

とある。「鰚」は一説に鮸(にべ:スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii )、一説に鱒の別名とする。「辨色立成」は奈良時代八世紀の成立とされる字書であるが、散佚して原本はない。「兼名苑」唐の釈遠年撰とされる字書体語彙集だが、散佚。「鮅」鱒或いはカワムツ(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii )を指すとされる。「鯶」クセノキプリス亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指す。中国原産だが、明治時代に人為移入された。

「稻若水(たうじやくすい)」江戸中期の本草学者稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)。名は宣義、若水は号であったが、自ら稲若水(とうじやくすい)と改名した。儒医稲生恒軒を父として江戸に生まれ、元禄六(一六九三)年、加賀藩主前田綱紀に儒者・本草家として召し出された。「庶物類纂」一千巻の編述を志し、綱紀の後援のもとに作業を始めたが、三百六十二巻を完成しただけで惜しくも没した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので、名物学・博物学の傾向が強い本草書である。

「ヲヒカハ」コイ科クセノキプリス亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus 。]

2021/06/16

日本山海名産図会 第四巻 鮴

 

Gori1

Gori2

Gori3

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。最初の図のキャプションは「加茂川鮴捕(かもはごりとり)」(「加茂川」は京の鴨川のこと)、二枚目は「加賀淺野川之鮴捕(かがあさのかはのごりとり)」。「淺野川」は石川県金沢市の富山県(南砺市刀利)との県境に位置する順尾山(ずんおやま:標高八百八十三メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近に源を発し、北流して金沢市街地を貫流して、ニホンかい直近の河北潟南西の金沢市湊で大野川に合流する川である。三枚目は「豫刕大洲石伏(よしうおおづいしふし)」。「豫刕大洲」とは現在の愛媛県大洲市で、図の川は同市を貫流する肱川(ひじかわ)かと思われる。]

 

   ○鮴(こり)【字書に見ることなし。姑(しばら)く俗に從がふ。一名、「鮻」【イシフシ】。】

山城賀茂川の名産なり。「大和本草」に、『二種あり。一種は腹の下に、丸き鰭あり。其の鰭、平(へい)なる所ありて、石に付(つ)けり。是れ、眞物(しんぶつ)とす。膩(あぶ)ら、多し。羹(あつもの)として、味、よし。形は「杜夫魚(とふぎよ)」に似て、小さく、背に黑白(くろしろ)の文(もん)あり。一名(めう)、「石伏」と』云〻。是れ、貝原氏(うぢ)の粗說なり。尤も、「一物なり」とはいへども、形、小異あり。尙、下(しも)の圖に見るべし。

○漁捕(ぎよほ)は、筵(むしろ)二枚を繼(つ)ぎて淺瀨に伏せ、小石を多く置き、一方の兩方の耳を、二人して持ちあげゐれは、又、一人、川下より、長さ三尺余りの撞木(しゆもく)を以つて、川の底を、すりて、追ひ登る。魚、追はれて、筵の上の小石に付き、隱るを、其侭(そのまま)、石ともに、あげ、採るなり。是れを「鮴押(ごりおし)」と云ふ。

○又、加賀淺野川(あさのかは)の物も名産とす。是れを採るに、賀茂川の法に同しく、「フツタイ」・「板おしき」と、其の名を異(こと)にするのみ。「フツタイ」は割りたる竹にて大なる箕(みの)のごとき物を、賀茂川の筵のかわりに用ひ、「板おしき」は竪五尺・橫三尺ばかりの厚き板を、竹にて挾み、下に足がゝりの穴あり。是れに足を入れて、上の竹の余りを手に持ち、石間(いしま)をすりて、追ひ來たる事、前に云ふごとし。

○又、里人などの、納凉に乘じて、河邊に逍遙し、この魚を採るに、人々、香餌(かうゑ)を手の中に握り、水に掬(きく)し、

「ゴリ。」

と呼べば、魚、群れて、掌中に入るなり。又、籃(かご)にて、すくひ採ることも有るなり。是れをしも、未熟の者にては、得やすからず。清流淺水(あさみづ)といへども、見へがたき魚なり。

○「和名抄」に「ゴリ」を出さず。「䱌」を「いしふし」として、『性、石間に伏し沈む』。

[やぶちゃん注:「䱌」の字は底本では(へん)と(つくり)の間に縦に一画が入る。「䱌」は国字で魚の「イシブシ」を指す。]

○「※」は「チヽカフリ」。𩺟に似て、黑點あり[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(「肅」の下部を「用」に代えたもの。「鱐」の略字か。但し、この字は「干し魚・不明の魚の名・魚の脂(あぶら)」と国字で「鯱(しゃちほこ)」の意である。]。○𩸒魚(かうぎよ)「カラカコ」。『𩺟に似て、頰(ほ)に鉤(こう)を著ける物なり』と注せり。案ずるに、文字に於ては適當とも云いがたし。和訓義(わくんぎ)に於ては、「いしふし」、石に伏して、今、「コリ」・「石伏」といふに、あたれり。○「ゴリ」は、鳴く聲の「ゴリゴリ」といふによりて、後世の名なるべし。○「チヽカフリ」は、「チヽ」は「土(つち)」にて、土をかぶり、「蒙(かくる[やぶちゃん注:判読に自信がない。])」との儀なるべし。されは、「杜父魚(とふぎよ)」に、ちかし。人の音(こへ)を聞けば、砂中(さちう)に頭(かしら)をさして、碇(いかり)のごとくす。一名、「砂堀鯋(すなほりはぜ)」とも云ふ。「カラカコ」は「頰(ほう)に鉤(こう)を付けたる」の名なり。鉤の古名「カコ」とも云へり。「カラ」の義、未ㇾ詳(つまびらかならず)。○或ひは云、「聲(こへ)有る魚は、必ず、眼を開閤(かいかう)す。是れまた、一奇なり」とす。されども、其の實(じつ)をしらず。○又、是等、皆、所の方言に「かしか」とも云へり。尙、辨說、有り。下(しも)の「かしか」の條に見るべし。

[やぶちゃん注:蒹葭堂が冒頭で引き、実は本文でもそれを下敷きにして書いたと思われる箇所が有意にある、貝原益軒の「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の本文と私の考証注を参照にされたいが、「ゴリ」という標準和名の種はおらず、ゴリ(鰍・杜父魚・鮖・鮴)は一般的には、典型的なハゼ類の形をした複数の淡水魚群を指す一般名・地方名である。考証迷走はリンク先を見られたいが、最終的に私が有力候補として指名したのは、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius

の仲間である。なお、益軒は別に「大和本草附錄巻之二 魚類 吹 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」を立項しており、これも参考になろう。

「鮴(こり)」国字。但し、海水魚のメバルを指す漢字で、標題に示すものとしては、誤りである。思うに、ゴリ類が川底の砂石の下に隠れ潜むのを「休」んでいる「魚」として使用したものかも知れない。

『「鮻」【イシフシ】』読みは、小文字の割注にさらに小文字で割注として入っている。この「鮻」は漢語で、後に出る「鯋」と同字である。「鯋」は「不名の魚の名・鮫(鱶)・砂吹(すなふき)=鯊(はぜ)」で、最後のそれで一致を見る。国字として淡水魚の「いさざ」=チチブ(ゴビオネルス亜科チチブ属 Tridentiger )を指すのも広義の「ゴリ」類と一致する。

「杜夫魚(とふぎよ)」現行では、日本固有種で北海道南部以南の日本各地に分布し、「ドンコ」の異名でも知られる、条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux の異名とされることが多い。このカジカも広義の「ゴリ」の一種である。

「石伏」現在では、同じく広義の「ゴリ」の一種、ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia の異名とすることが多い。

「粗說」要約。

「形、小異あり。尙、下(しも)の圖に見るべし」第一図の「加茂川鮴捕」のことを指して仰るのですが、そこの魚は、皆、ほぼ同じ大きさなんですけど? しかもこの魚、どれもこれも二本の触角を有して描かれてあって、これじゃ、ナマズにしか見えへんのですけど?! 蒹葭堂先生!?! ここでしか言えないので、附言しておくと、京の鴨川で行われた「ゴリ漁」の対象種は少なくとも近代にあっては、ヨシノボリ属カワヨシノボリ Rhinogobius flumineus に同定されている。しかし、カワヨシノボリにはこんな触角は、ない!

「フツタイ」ブッタイ。漁具の画像と解説が嬉しい、㈶四万十川財団編の「四万十川の漁具 平成14年度」PDF)の「雑漁具」の14ページに写真と解説がある。『竹ひごを簾(す)状に編み、一方を閉じて柄をつけ、一方を広げて入口にした漁具。笹を束ねたホテや足でゴリをおどして、ブッタイに追い込む』とある。この前には「ゴリのウエとタテズ」(「ウエ」は筌(うけ)のことで、「タテズ」は「立(縦)て簾(す)」)の写真と解説がある。必見! 私は確かにこの漁具のことを「ぶったい」と呼称するのを、複数の地域で聴いているのだが、その語源が今以って判らない。御存じの方は切に御教授を乞うものである。

「板おしき」漢字表記不詳。形状からは「おしき」は「折敷」ではないし、歴史的仮名遣なら「をしき」である。恐らくは「板押し木(ぎ)」ではなかろうか。

『香餌(かうゑ)を手の中に握り、水に掬(きく)し、「ゴリ。」と呼べば、魚、群れて、掌中に入るなり』名指すことによる呪的縛りが加えられた面白い漁法である。

『「和名抄」に「ゴリ」を出さず。「䱌」を「いしふし」として、『性、石間に伏し沈む』』(「䱌」の字は底本では(へん)と(つくり)の間に縦に一画が入る。「䱌」は国字で魚の「イシブシ」を指す)「和名類聚抄」には、巻十九「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

䱌(イシフシ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『䱌【音「夷」。和名「伊師布之」。】、性、伏沈して石間に在る者なり。』と。

   *

とある。「䱌」は漢語としてはフグを指す。中国には世界で唯一、淡水産フグがいる。

「𩺟」「康熙字典」に「玉篇」を引き、『鯸、䱌魚。又、河魨、一名鯸鮧』とある。この「河魨」「鯸鮧」は孰れも広義の「フグ」である。

「黑點あり」これはトラフグを想起させる。

「𩸒魚(かうぎよ)」「カラカコ」。カジカ類の異名と思われる。サイト「真名真魚字典」の「を見られたい。但し、蒹葭堂は一歩踏み込んで、最後に『「カラカコ」は「頰(ほう)に鉤(こう)を付けたる」の名なり。鉤の古名「カコ」とも云へり』という名推理を働かしている。これはちょっと脱帽だ。次の注のアユカケと直結するからである。

『頰(ほ)に鉤(こう)を著ける』鰓蓋に棘がついている。これは直ちに、広義の「ゴリ」の一種であるカジカ属アユカケ Cottus kazika を想起させる。日本固有種で、体長は五~三十センチメートル程度で、大型個体が出現する。「カマキリ」という異名を持ち、胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来するものである。

「和訓義」書名ではなく、和訓の意義の意で採った。

『「ゴリ」は、鳴く聲の「ゴリゴリ」といふによりて、後世の名なるべし』益軒も「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」で、『其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ』などと言っている。無論、「ゴリ」類は孰れも鳴かない。これは所謂、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の誤認であろう(江戸時代にはカジカガエルは鳴き声の美しさがもて囃され、贈答なんぞもされていたのだが、知らぬ人は知らぬものなのである。ある動物の鳴き声を全く別の生き物に誤認していた例は、江戸期の随筆にも、多数、登場する。いい例が螻蛄(ケラ)の鳴き声を蚯蚓(ミミズ)とした例で、これは近代に至るまで民間では長く信じられていた。お時間のある方は「北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)」を読まれたい)。いやいや、とすれば、この鳴くと誤認されている「ゴリ」は、それこそ「其の味、極美」の、ほれ! 蛙じゃない「カジカ」、カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux なんじゃぁ、ないのかなぁ?

『「チヽカフリ」は、「チヽ」は「土(つち)」にて、土をかぶり、「蒙(かくる[やぶちゃん注:判読に自信がない。])」との儀なるべし』この考証も素晴らしい。思わず、賛同したくなる。

『下(しも)の「かしか」の條』本巻頭尾の「○河鹿(かじか)」(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部)を指す。実はそこで、蒹葭堂は鳴くのは始めっからカジカガエルだと判っていたのではないかと思わせる。やらかして呉れるじゃん、蒹葭堂!

2021/06/13

日本山海名産図会 第四巻 燒蛤幷ニ時雨蛤

 

  ○燒蛤(やきはまぐり)幷ニ時雨蛤(しぐれはまぐり)

勢刕桑名冨田(とみた)の名物なり。松のちゝりを焚きて、蛤の目番(めそろひ)の方(かた)より燒くに、貝に柱を殘さず、味、美なり。

○時雨蛤の制は、たま味噌を漬けたる桶に溜りたる浮き汁(しる)に、蛤を煮たる汁を合はせ、山椒・木耳(きくらげ)・生姜等(とう)を加えて、むき身を煮詰たるなり。遠國(をんごく)行路の日をふるとも、更に鯘(あざ)れること、なし。○溜味噌(たまみそ)の制は、大豆を、よく煮て、藁に裏(つゝ)みて、𥧄(かまど)の上に懸け 一月許りにして、臼に搗き、塩を和(くわ)して、水を加ゆれば、上、すみて、溜まる汁を、醬油にかへて用ひ、底を味噌とす【是れを以つて、魚を煮るに、若(も)し稍(やゝ)鯘れたる魚も、復して、味、よし。今も官驛(くわんえき)の日用とす。】

[やぶちゃん注:図はない。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 或いは、ハマグリ属チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii(本邦では房総半島以南の太平洋側及び能登半島以南の日本海側に分布する。外来種ではないので注意。「チョウセン」は日本人が真正のものと異なるものに付けたがった悪しき和名に冠する補助語であり(カムルーチの異名のチョウセンドジョウのような正しい棲息地の一つであるケースもあるにはある)、私は差別的なものを感じるので、これこそ改名すべきものであると強く考えている)の調理法二種。

「勢刕桑名冨田(とみた)」「とみだ」と濁るのが正しい。「富田(とみだ)の焼き蛤」として現在の三重県四日市市富田附近(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。周辺に「東富田町」「富田浜町」「南富田町」「富田栄町」「西富田町」「西富田」の町名を確認出来る)の名物郷土料理であった。江戸時代、朝明(あさけ)郡富田(旧東富田村・西富田村)は桑名藩領であったため、同郡は「桑名の焼き蛤」と呼ばれるようになった。旧東富田村から富田一色港(「富田」地区の南東沿岸に「富田一色町」の名が残る)までの塩役運河などの水運業が発達していて(近代初期のそれが「今昔マップ」のここで確認出来る)、桑名藩領富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村)として桑名宿と四日市宿の中間に位置する「間(あい)の宿(しゅく)」、「立場(たてば)」(立場は本来は「駕籠を担ぐ際に杖を立てた所」という意味で、駕籠舁きや荷方人足の休憩所を言った)として、旅籠や茶店が軒を並べ、焼き蛤を「桑名の」として名物としたのであった。ウィキの「富田の焼き蛤」によれば(なかなか私好みの徹底して説明しないと気が済まない筆者らしく、気に入った。その分、「俺ならこう書く」として以下、かなり、手を入れさせて貰った。太字部がやぶちゃんのオリジナルである)、『江戸時代は盛んであったが、現在では焼き蛤料理は富田地区には存在しない』。『東海道五十三次の桑名藩の桑名と天領の四日市にそれぞれあった宿場、桑名宿と四日市宿には』、『本陣』(大名・旗本・幕府役人・勅使・宮門跡らが宿泊に利用したが、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多く、一般人の利用は出来ず、そういう意味では旅宿とは言えない)・『脇本陣』(本陣に次ぐ身分の高い者や大名が宿泊する宿)』・『旅籠』(はたご:『一般の旅人が宿泊する宿)』があったが、桑名宿(本陣跡:三重県桑名市船馬町(せんばちょう)。ここ)と、四日市宿(本陣跡:三重県四日市市北町(きたまち)。ここ)の間(実測で十四キロメートルほど)の中間位置に『小向立場⇒松寺立場⇒富田立場⇒羽津立場⇒三ツ谷立場の』五『つの立場があった。富田の焼き蛤が焼き蛤の中では』、『一番有名で』(本家本元の桑名地区ではなく、である)では、「富田の焼き蛤」を特に桑名藩領であることを誇示して、『富田ではなく』、「桑名の焼き蛤」と呼んだのであった。「富田の焼き蛤」を詠んだ句としては、宝井其角の句(「延命冠者」(元禄一〇(一六九七)年)、

   濱店求有(ひんてんきうゆう)

 蛤のやかれてなくや時鳥(ほととぎす)

が知られ(其角の自選句集「五元集」(延享四(一七四七)年)には、「桑名にて」の前書がある。「蛤」は春の季詞であるが、ここは「時鳥」で夏である)、これは、其角が中町の旅籠尾張屋の店先で詠んだものが知ら(個人ブログ「紗蘭広夢の紗らり筆まかせ」の「明治の標柱と富田の焼き蛤」富田の焼き蛤の看板」の写真を確認した)る。『現在』、『その句碑が富田浜に残されている』(ここ)。「富田の焼き蛤」は『伊勢参りの参拝客と江戸~京都間の東海道の旅人をひきつけた。伊勢神宮に行く伊勢参りの人々は、富田の立場で休憩して焼き蛤を食べるのを一生で一度の旅の楽しみにしていた。揖斐川・木曽川・長良川の木曽三川の河口では豊富な大河の恵みにより』、『良質の蛤が育ち、伊勢湾を漁場とする近隣の富洲原地区の富田一色村の漁師から塩役運河で運搬されて富田に供給されていた。中世の富田城の領主、南部氏は伊勢神宮から、富田御厨(みくりや)と呼ばれていた』。『御厨とは神宮に捧げる食べ物の供給地のことで、富田一色の漁民は蛤などを伊勢神宮に供え物として捧げることにより』、『伊勢湾の漁業権を得ていた。歌川広重は』「東海道五十三次(狂歌入東海道)」に『富田立場を描き、その浮世絵には』、

 乘り合(あひ)のちいか雀のはなしにはやき蛤も舌をかくせり

『と詠まれた舌切り雀と貝の舌を結び付けた狂歌が記されている』(これは、乗り合い舟の婦女子(「ちいか」は京言葉で「お嬢さん」)らが京雀の見本の如くぺちゃくちゃ五月蠅くお喋りするのに「舌切り雀」の話を掛けて、桑名の蛤も思わず驚いて舌(斧足や水管)を引っ込めちまう、と皮肉ったのであろう)。『十返舎一九が執筆した』「東海道中膝栗毛」では、富田で登場人物の喜多八による騒動が起きて』おり、

   *

富田(とみだ)の立場にいたりけるに、爰(こゝ)はことに燒蛤の名物、兩側に、茶屋、軒をならべ、往來を呼び立つる聲にひかれて、茶屋に立寄り、

   *

『とあり、弥次郎兵衛と喜多八の旅人』二『人が富田の焼き蛤でめしの昼食を食べたのはいいが、熱い焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、

   *

  膏藥はまだ入れねども蛤のやけどにつけて詠むたはれ歌

   *

『という狂歌がラストシーンである』(昭二(一九二七)年有朋堂書店刊「東海道中膝栗毛」を本文電子化の参考にした。ここから(右ページ九行目中途から)。挿絵もあってなかなか楽しい。最後の狂歌は膏薬を入れる器が蛤を用いたこと以外に、女性の臍の下の「蛤」(会陰)をも匂わせたバレ句でもあろう)。『江戸時代の東海道五十三次には何か所か松並木があった。富田付近も松並木であり、松毬(まつかさ、松ぼっくり)を燃料にする江戸時代の桑名藩領の富田地域民の知恵も面白い歴史研究となっている。江戸時代の歴史史料である』「本朝食鑑」では、『蛤の食べ方について「焼くが最上である。煮るが次である。辛子酢や生姜酢で生であえるのが良い」とされている。さらに、「焼いて食べるには、松ぼっくりの火が最良であり、蕨火炭火を使用するのがそれに次ぐ第」二『番目の方法である」と記述されているが、その理由については同書中に面白い説明がある。「およそ伊勢国の桑名藩である通称伊勢国桑名の伊勢湾の海の焼き蛤が良いとされているが、中でも最高級品である桑名藩領富田の焼き蛤について、富田の土地の人々の間では松ぼっくりで焼くと味が良くなり、蛤で食中毒する危険性がなくなると言われている。また、松が枯れそうになった時に、富田の焼き蛤数個を砕いて根のまわりの溝に入れて土をかぶせておけばだんだんと蘇る。あるいは、焼き蛤の煮汁を冷まして溝に入れておくのが良い」旨が記述され、富田の焼き蛤と松の木は元々相性が良いか』、『天性を持っているとしている』とある。以上は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本朝食鑑」の原本のここの左頁の行目から、次の頁の右七行目までが相当する。漢文であるが、丁寧な訓点が附されてあるので、容易に読める。

「松のちゝり」松毬(まつかさ)・松ぼっくりのこと。「ちちりん」「ちんちら」とも呼ぶ。

「蛤の目番(めそろひ)の方(かた)」恐らく、竹箸で挟んだ蛤の蝶番の部分火に翳すことを言って居よう。序でに言い添えれば、その前に靭帯部を切り落としておけば、ガバと開かずに、旨味の汁も逃げ出さない。開きかける前に、側面に戻し、開きかけた際に、反対にすることで、上手く焼け、貝柱も残らず離れる。

「時雨蛤」当該ウィキによれば、『時雨蛤(しぐれはまぐり)は、むき身にした蛤の佃煮の一種。蛤の時雨煮。「志ぐれ蛤」と表記されることもある。三重県桑名市の名産とされる』。『時雨蛤はボイルした蛤のむき身を、生引溜(きびきたまり)を沸騰させたハソリ(大鍋)に入れ、「浮かし煮」と呼ばれる独特な方法で煮て作られる』。『その際、風味付けに刻んだ生姜を加える』。『もとは「煮蛤(にはまぐり)」と呼ばれたが、松尾芭蕉の高弟、各務支考が「時雨蛤」と名付けたと言われている』。『蛤業者の初代・貝屋新左衛門が、近くに住む俳人の佐々部岱山(ささべたいざん)に煮蛤の命名を依頼したが、佐々部から相談を受けた師匠の各務支考が』十月の『時雨の降り始める頃から』、『煮蛤が製造されるため、時雨蛤と命名したとされる』。『時雨蛤の発祥は揖斐川河口の赤須賀漁港(桑名市)近辺で』、『江戸時代の元禄年間』(一六九〇年頃)『から製造されるようになった』。『時雨蛤にすることで蛤の風味とともに保存性が高まり、土産物として全国的に高い人気を誇った』。『諸国の名物珍味を紹介した料理書』「料理山海郷」(りょうりせんがいきょう)(寛延二(一七四九)年刊)や、『日本各地の名産の製造方法等を調査した』本書「日本山海名産図会」(寛政一一(一七九九)年刊)や、)に桑名の名産として時雨蛤が紹介されている』とある。「料理山海郷」のそれ(巻之一の巻頭)を「日本古典籍ビューア」で視認して電子化する(但し、これは後の文政二 (一八一九)年の再板本である)。

   *

   桒名時雨蛤

小蛤(はまぐり)むき身(み)を、ざつと、ゆで、笊(いかき)へあけ、なを、よくさらし、赤味噌のたまりをにへゝたし、山升[やぶちゃん注:山椒。]のかわ、短冊(たんざく)に切、麻(あさ)の実(み)を入れ、右のはまぐりを入なり。

   *

「たま味噌」「玉味噌」。一般には、煮た大豆を搗き砕いて、麹と塩を混ぜて丸めた味噌玉を指す。また、大豆や蚕豆(そらまめ)を煮、搗き砕き、麹と塩を混ぜて大きな団子に丸め、藁苞(わらづと)に包み、炉の上などに一~二年置いて熟(ねか)させた味噌を指す。ここは以下に記される通り、後者。

「山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum

「木耳(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae当該ウィキによれば、学名の『属名はラテン語の「耳介」に由来する。種小名は「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコ』(マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属セイヨウニワトコ Sambucus nigra であろう)『の木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない』とある)。

「生姜」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale

「鯘(あざ)れる」魚肉などが腐る。

「官驛(くわんえき)」幕府が公に認めた宿駅。「立場」などは含めない。]

2021/06/10

日本山海名産図会 第四巻 白魚

 

Sirauo

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「西宮白魚(にしのみやしろうを)」。]

 

  ○白魚(しろうを)【「大和本草」に『鱠殘魚(くわいさんぎよ)』といふて前說(ぜんせつ)、『キスコ』といふ說を非(ひ)せり。】

攝州西宮(にしのみや)の入江に、春、二、三月の頃、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]の間に、五所(いつところ)ばかり、藁小屋(わらこや)を作り、両岸(りやうきし)同しく、犬牙(くひちがひ)に列(つら)なり、罶簄(やな)の橛(くひ)[やぶちゃん注:底本では「木」(へん)ではなく、「扌」に見えるが、こちらで採った。]を川岸より、一、二間[やぶちゃん注:約一・八二から三・六四メートル。]許り、打ち出し、是れに水を湛(たゞよ)はせ、潮(しほ)の滿つるに、魚、登り、引潮に下(くだ)るの時、此の橛の間に聚まるを待ちて、かねて、柱の頭に穴して、䋄の綱を通はせ、穴に小車(こくるま)をかけて、引きて、網の上下(あげおろし)をなす。䋄は、蚊屋の布の四手(よつで)にて、橛の傍、魚の聚まる方(かた)におろし置きて、時々、是れをあげて、杓(しやく)の底を、布にて張りたる儻(たま)にて、すくひ採るなり。尙、圖のごとし。○案ずるに、此の法、古(いにし)へ、宇治川の「網代木(あしろき)」に似たり。網代木は、橛を、二行に、末廣く、䋄を打ちたるやうに打ちて、其の間へ、水と共に、氷魚(ひお)も湛(たゞよ)ひ留(たま)るを、網代守(あしろもり)、䋄して採れり。「萬葉集」に、

 武士(ものゝふ)の八十宇治川の網代木にいさよふ波の行衞(ゆくへ)しらずも

是れ、水のたゞよふを、詠めり。案ずるに、白魚(しろうを)・氷魚(ひを)、又、三月比(ころ)、海より多く上(のぼ)る。「麵條魚(とろめさこ)」、又、「シロウヲ」ともいひて、俗に、『「鮎(あゆ)」の苗(こ)なり』と云ふもの、ともに、三種、皆、同物別種の物にて、春は「塩さかひ」に生じ、「氷魚」は冬、湖中、波、あらき、さかひ、宇治川田上(たなかみ)に生する事、其の理(り)、一なり。又、「ドロメ」は「鮎(あゆ)」の苗(こ)なり。鮎は年魚(ねんぎよ)にして、年限(としかぎり)の物なれば、上に子を孕みて、身、重き故に、秋、海をさして落ちて、「塩(しほ)さかひ」に產めり。故に江海(こうかい)より登りて、したひに、生長す。是を、浪花、川口にとること、纔[やぶちゃん注:「わづか」。]十日ほとの間なり。又、「チリメンザコ」、「チリメン小アユ」は、則ち、「麵條(どろめ)」の塩干(しほほし)なり。此の物、東武に、なし。「本朝食鑑」に、『白魚(しろうを)は氷魚(ひを)の大(おほ)いなる物なり。江海の中(うち)に生(せう)し、春に至つて、海に登り、二、三月の際(あいた)、子を水草・沙石(させき)の間(あひだ)に生み、其の子、長じて氷魚(ひを)となり、江海に至つて、又、長(ちやう)して、白魚となる』と云ふは、無覺束(おぼつかなき)説なり。

○備前平江(ひらへ)・勢刕桑名等の白魚(しろうを)は、立䋄(たてあみ)、又、「前がき」をもつて、取り、桑名の立網は、長(たけ)七丈、下垂(たれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]三丈斗(はか)り、䋄の目、一步(ふ)ばかり。「アバ」は桶にて、「イハ」は鈆(なまり)なり。七人宛(づゝ)乘りたる舩五艘、沖より、䋄を入れて、五艘を舫(もや)ひ繋(つな)きて、礒(いそ)へ漕ぎよするなり。䋄の長さ、百尋許りにして、一䋄に獲ること、大凡(およそ)二石許り。魚、澤山なるゆへに、貨(う)るに、升(ます)をもつて、はかる。又、「目差(めさし)」といひて、竹に多く刺し連ねたる物、此の地の產なり。䋄する所は、赤すが・濱地藏・龜津(かめつ)・福嵜(ふくさき)・豊田(とよた)・一色(いつしき)などに採れり。此の間(あひだ)、三里の海路(かいろ)にして、其の中(なか)に橫枕(よこまくら)といふ所は、尾刕・勢刕のさかひなり。尾刕の方(かた)には、白魚(しろうを)なく、桑名の方には蠣(かき)なし。偶(たまたま)得るとも、味、必ず、美(び)ならず。人、是れを一竒(いつき)とす。案ずるに、是れ、前にいへる「潮(しほ)さかひ」なり。元、伊勢の海は、入江にして、桑名福嶌(ふくしま)は、則ち、川口(かはぐち)なり。上は木曾川にて、其の下流、爰(こゝ)に落つる。西宮に生ずる、其の理(り)、同し。

○一種、「鰯(いはし)の苗(こ)」といふ物、「鵞毛※(いささ)」と云ふ[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]。又、潮水(しほみつ)に產するに、同物あり。一名(めう)「サノホリ」と云ふて、冬月(ふゆ)、採る也。若刕にも、似たる魚、有り、「アマサキ」と云ふ。仲冬(ちうとう)より、初春に至る。又、筑前に「シロウヲ」といふ物、小にして、長さ一寸ばかり、腹の下に、小黑(こくろ)き點、七つあり、大小に抱(かゝは)らず。

[やぶちゃん注:これは、基本、

条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii

の記載である。孰れも河口付近の汽水域に棲息し、捕獲漁法も似ているが、現在の流通に於いては、条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ属シラウオ Salangichthys microdon が混同されることはないのだが、古くはそんな和名の区別はなかったし、この蒹葭堂の記載でも後に行くほど、怪しい臭いが充満してくるし、いや、現代でも、一般人だけでなく、地方によっては、シロウオ漁専門の漁業者自身がシロウオを「シラウオ」と呼んでいたり、シロウオ漁を解説するのに「白魚」を「しらうおりょう」としている現実がある。蒹葭堂が引いている貝原益軒の「大和本草」であるが、まず、益軒はシロウオとシラウオの区別をちゃんとしてはいる。

「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」

と、

「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)」

で明らかである。但し、蒹葭堂が引いている方は、実は後者で、既にしてその冒頭から、実は誤っている(益軒に弁別をちゃんと認識していない)ことに注意しなくてはならないし、これとは別に、蒹葭堂の叙述の中にも、両者を混同していると思われる箇所があるので注意が必要である。因みに、俳諧の読み込まれた「白魚」は混淆甚だしく、しかも判別は殆んど不可能に近いと言える(基本、シラウオ漁と食文化が比較的東日本に多く、江戸で詠まれたそれは圧倒的にシラウオを指すことが多いと思われる。)。なお、他に、益軒も、周の武王の船に飛び入ったことで知られる「白い魚」を考証する以下では、とんでもないことになっているのも確認されたい。

「大和本草卷之十三 魚之下 白魚 (混沌にして同定比定不能)」

また、和歌山県有田郡湯浅町町役場の公式サイトのこちらでは、当地のシロウオとシロウオ漁を語りつつ、簡潔に判りやすく両者の違いも画像入りで示してあるので参照されたい。正直、私はシロウオは漢字で「素魚」とし、シラウオは「白魚」とすればよかったのにと考えている。

『「大和本草」に『鱠殘魚(くわいさんぎよ)』といふて前說(ぜんせつ)、『キスコ』といふ說を非(ひ)せり。「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)」』で詳しく注しておいた。「鱠殘魚」はしかし、古代の黄河中流で「白魚」を本邦の魚種として考証しようとすることが基本・土台どころか、地殻・プレートのレベルで大間違いなのである。「キスゴ」はスズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス(鱚)類、或いは同科キス属シロギス Sillago japonica の別名である。話にならない。「一昨日来いや!」って部類である。

「攝州西宮(にしのみや)」現在の兵庫県西宮市。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシロウオのページに(山口県萩での四手網漁の写真もある)、『『日本山海名産図絵』には〈西宮 白魚〉があって、絵図には間違いなくシロウオ漁である』とある。但し、この書の書誌を引用よりも前の所で、本書が元本とした宝暦四(一七五四)年に板行された物産図会「日本山海名物圖會」(平瀬徹斎編著・長谷川光信画)の書誌データを誤って記載している。「日本山海名物圖會」には「白魚」は載らない(国立国会図書館デジタルコレクションで確認済み)

「犬牙(くひちがひ)」「けんが」。この意味の用法がある。

「罶簄(やな)」「簗(やな)」(川の瀬などで魚をとる仕掛けの一つ。木・竹を並べて水を一か所に流すようにし、そこに来る魚を、斜めに張った簀(す)などに受けて捕らえる装置)に同じだが、所謂、「やな」でも、魚をとらえるための広義の漁具や装置の総称である(本邦では「梁」というと、川の中に足場を組んで、木や竹で簀の子状の台を作った梁(やな:狭義)という構造物を設置し、泳いできた魚がかかるのを待つ漁法を指すことが多い)。「罶」は音「リウ(リュウ)」で、原義は古代の竹籤(たけひご)で編んだ籠のことで、単漢字でも魚を捕らえるための漁具を意味し、「簄」(音「コ・ゴ・コウ」)は本邦では「えり」(「魞」とも書く)で、河川・湖沼・内湾に於いて葦簀(よしず)や竹垣を魚道に迷路のように張り立てることで魚を自然に誘導して捕らえる定置漁具(琵琶湖のものが有名)を指す。

「橛(くひ)」「杭」に同じ。この漢字には「棒杭(ぼうぐい)」の他、「切り株」や馬具の轡(くつわ:馬の口に銜(くわ)えさせるもの)」の意がある。

「湛(たゞよ)はせ」湛えさせておいて、その場に漂わせ、の意であろう。

「蚊屋」「蚊帳」に同じ。

「杓(しやく)」柄杓。

「儻(たま)」攩網(たもあみ)。

「網代木(あしろき)」狭義には網代(川の瀬に設ける魚捕りの設備。数百の杭を、網を引く形に打ち並べ、その杭に経緯(たてぬき:縦網とぬき網(横網))を入れ、その終端に筌(うけ:河川・湖沼・​浅海の水底の魚道の要衝に敷設し、魚類の行動生態を利用してその中に陥穽させて捕獲する漁具)などを備えた簗のようなもの。冬、京都の宇治川で、氷魚(ひお:後述)を捕えるのに用い、それが古来より著名であった)を支えるために、水中に打った杭を指すが、和歌では音節数の関係で単に網代全体の意で用いることが多く、ここでもそれ。網代は参照したネットの「精選版 日本国語大辞典」のそれを参照されたい。

「氷魚(ひお)」読みはママ。「ひを」が正しい。「ひうを」の縮約。鮎の、体に色素細胞がまだ殆んど現われていない稚魚のことを指す。長さは二、三センチメートルに過ぎず、呼称は殆んど無色半透明で、死ぬと白濁することによる。秋から冬にかけて琵琶湖で漁れるものが有名で、古来、詩歌俳諧によく詠まれた。

「網代守(あしろもり)」上のリンク先の図に描かれてある。

『「萬葉集」に……』巻第三の柿本人麻呂の一首(二六四番)、

   柹本朝臣人麿の近江國より上り來し時に、

   宇治河の邊(ほとり)に至りて作れる歌一首

 もののふの

    八十氏河(やそうぢがは)の

   網代木(あじろぎ)に

  いさよう波の

       行く方(へ)知らずも

「もののふの八十」はこの歌などで知られる「氏(うぢ)」を導く序詞で、「氏」に「宇治」を掛けた。後に「もののふの」は枕詞となった。物部麻呂一族の行く末の不安、ひいては人の無常を詠んでいる。

「麵條魚(とろめさこ)」「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」では、正統のシロウオを指しているので問題はないが、「とろめさこ」とは、恐らく、「半透明で細長い「とろん」とした麺のような小さな雑魚(ざこ)」を意味しており、これは、例えば私の好きな「のれそれ」(アナゴ類(新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridaeのレプトセファルス(Leptocephalus)幼生。Leptocephalus はラテン語で「Lepto(小さい)」+「Cephalus(頭)」の意。ウナギ目 Anguilliformesなどを含むカライワシ上目 Elopomorpha に分類される魚類の幼生魚の学術名)などこそ、こう呼ぶに相応しいと思っている。なお、「のれそれ」はその柔軟な魚体から「伸(の)り反(そ)り」の変化した語かともされる。

「塩さかひ」河川河口付近の海水と淡水の交わる「潮境」のこと。

「宇治川田上(たなかみ)」大津市田上地区。或いはそこを貫流する大戸(だいど)川の別称「田上川」。「たがみがわ」とも称し、「谷上川」とも書く。宇治川の上流瀬田川に合流する。

『「ドロメ」は「鮎(あゆ)」の苗(こ)なり』各地で古くから複数の全く異なる魚種の稚魚を「いさざ」や「どろめ」などの呼称で呼ぶ傾向がある。鮎でも稚魚をかく呼ぶ地方があるか。但し、現行では「ドロメ」という標準和名のそれは、スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae アゴハゼ属ドロメ Chaenogobius gulosus であり、高知などではイワシ類の稚魚を指す。

「鮎は年魚(ねんぎよ)にして、年限(としかぎり)の物なれば」ウィキの「アユ」によれば、通常、『産卵を終えたアユは』一『年間の短い一生を終えるが、広島県太田川、静岡県柿田川などの一部の河川やダムの上流部では』、『生き延びて越冬する個体もいる』。『太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌である。また、再成熟しての産卵は行われないと考えられている』とあり、「飼育」項には、『観賞魚として水槽内で飼育した場合は成熟までに至らないケースが多いため』一『年から』三『年は生きる』とある。

「浪花、川口」大阪湾奥の淀川などの河口付近の意。

「チリメンザコ」「縮緬雜魚」。ウィキの「ちりめんじゃこ」によれば、『ちりめんじゃこ(縮緬雑魚)は、イワシ類[やぶちゃん注:条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の中の複数種の流通上の人為分類である。](カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚(シラス)を食塩水で煮た後、天日などで干した食品』。『ごく小さな魚を平らに広げて干した様子が、細かなしわをもつ絹織物のちりめん(縮緬)を広げたように見えることからこの名前がついた』。『魚そのものはシラスといい、固く干さない状態のものはその名で呼ばれることもある』。『収量が多く、油分の少ないカタクチイワシ』(条鰭綱ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus )『の仔魚が用いられることが多い。ちりめんじゃこの体長は一般に』三センチメートルに『満たないものを指し、より大きいものは「カエリ」と呼ばれることがある』とある。「シロウオ」も入っているから、まあ、いいか。

『「本朝食鑑」に……』国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここの「集解」の冒頭部の継ぎ接ぎだが、確かに全体を読むと、「無覺束(おぼつかなき)説なり」とぼやきたくはなる内容である。

「備前平江(ひらへ)」「平井」の誤り。現在の岡山県岡山市中区平井。必死で「平江」で探したが、どこにもなかった。ところが、多数のフレーズで検索するうち、「岡山市電子町内会」のサイトの『「ふるさと平井」シリーズ№5』の「平井の白魚」に、『岡山の白魚が有名なのは随分古くからである。醍醐朝の頃』(九〇〇年前後)『の書物に備前国貢進物として「押(おし)年魚」「煮塩(にしお)年魚」とある。この年魚こそ白魚のことで「押年魚」とは乾かした白魚、「煮塩年魚」は白魚の塩物のことである。白魚はおよそ』千『年も前から備前の名物だったことがわかる。また食鑑(しょくかがみ)という本には「備前の平江(平井のこと)』(☜!)『、伊勢の桑名に多し」と書いてあり、東備郡村誌の平井村の項に「冬に至ればシラウオ多し、味他処の産に勝る」と記されている。寺小屋で使われた教科書備前往来にも「額が瀬の蜆(しじみ)、平井の白魚」とある。白魚は古くから平井の特産物だったようである』とある。しかし、ここに問題が生ずる。後でこの筆者は『なおよく似た発音の魚にしろうおと呼ばれるものがあるが、これはハゼ科の魚で生態などはよく似ているが全く異種のものである』あるとあるからである。則ち、ここ備前平井で獲れたのは、シロウオではなく、シラウオであったのである。而して並置される「勢刕桑名」で獲れるのも、同じくシラウオであって、ここに蒹葭堂は致命的に両種を混同していることが明白となってしまうのである。

「立䋄(たてあみ)」水中に錘(後の「イハ」(岩))で沈めて、桶の「アバ」(浮き)で支え立てる「建て網」。

「前がき」「前搔き」で、攩網様のものか。

「百尋」既に述べたが、「尋」の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。前者換算で約百八十二メートル、後者で約百五十一メートルとなる。規模が大きい。

「二石」米俵五俵分。

「貨(う)る」「賣る」に同じ。

「赤すが」現在、三重県桑名市赤須賀元赤須賀が、揖斐川河口に近い右岸にある。

「濱地藏」赤須賀の南に接する桑名市地蔵

「龜津(かめつ)」不詳。順列から揖斐川右岸の旧地名であろう。

「福嵜(ふくさき)」不詳だか、揖斐川河口右岸のこの附近に福江・福地の地名が見出せる。

「豊田(とよた)」揖斐川河口から四キロメートル弱離れた位置に、三重県三重郡川越町豊田ならあるが、ここだけが離れるのはおかしいので、桑名市内の旧地名の可能性が高い。

「一色(いつしき)」前の赤須賀地区の西に桑名市一色町がある。

「橫枕(よこまくら)」三重県桑名市長島町横満蔵(よこまくら)のことであろう。現在、木曽川・長良川・揖斐川に挟まれた輪中の河口近くにある。この輪中は上流部で愛知県(「尾刕」)と三重県(「勢刕」)の県境となっている。

「桑名福嶌(ふくしま)」三重県桑名市福島。以下は、現在と当時の河川の経路が異なるので、問題ない。

『「鰯(いはし)の苗(こ)」といふ物、「鵞毛※(いささ)」と云ふ』(「※」=「月」+「廷」)「いさざ」は「魦」と書き、シロウオの別名でもあるに、蒹葭堂の混乱は元に戻らないでいる。

「サノホリ」不詳。識者の御教授を乞う。「さのぼり」であるなら、田植えの終わりに田の神を山に送る祭りであるが、時節が合わない。

「アマサキ」不詳。識者の御教授を乞う。

『筑前に「シロウヲ」といふ物、小にして、長さ一寸ばかり、腹の下に、小黑(こくろ)き點、七つあり、大小に抱(かゝは)らず』福岡は現在もシロウオ漁が盛んである。]

2021/06/07

日本山海名産図会 第四巻 海膽

 

Uni

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「越前海膽(ゑちせんうに)」。]

 

  ○海膽(うに) 一名「霊羸子(れひるいし)」

是れ、塩辛中の第一とす。諸島にあれども、越前・薩摩の物、名品とす。殻、円(まろ)うして橘子(たちばな)のごとく、刺(はり)多くして、栗の毬(いか)に似たり。住吉・二見などの濱に、此の刺を削りて、小児(せうに)の弄物(もてあそびもの)とす。形、鐙兜(かぶと)に似て、其の口、殻の正中(まんなか)にあり。まゝ中(うち)に漆(うるし)して器物(きもつ)とす。肉は、殻に滿つることなく、甚た微少(すくな)くして膏(あぶら)あり。海人(かいじん)、塩に和(くわ)して酒殽(さかな)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の上品とす。尤も黄に赤きを帯ぶるを、よしとす。大村・五島・平戸の產を賞す。紫・黃なる物は、薩摩島津の產なり。和潤(やはらか)にして、香芳(にほひ)、甚だ勝れり。越前の物は黏粘(ねばり)ありて、光艷(つや)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]も他(た)に超へたり。又、物に調味(てうみ)しては、味噌にかへて、一格の雅味あり。海膽・燒海膽・田樂なと、好事(こうず)に任せてしかり。

○漁捕(ぎよほ)は、海人(かじん)干泻(ひかた)に出で、岩間にもとめ、即ち、肉を採り、殻を去り、よく洗ひて、桶に収めて、亭長に送る。亭長、塩に和して售(う)る。

○「ウニ」とは「海膽(うに)」の轉じたるなり。又、一種、「兜貝(かぶとかひ)」と云ふ物、此種類にして、別なり。

[やぶちゃん注:棘皮動物門ウニ綱 Echinoidea の中で、本邦で主に食用に供される種は、

真ウニ亜綱ホンウニ上目ホンウニ目ホンウニ亜目オオバフンウニ科バフンウニ属バフンウニ Hemicentrotus pulcherrimus (北海道南端から九州。他に中国中南部沿岸と朝鮮半島南部に分布。本邦のウニの最上級品とされる)

オオバフンウニ属エゾバフンウニ Strongylocentrotus intermedius (北海道沿岸から太平洋側では相模湾、日本海側は山口県まで分布し、中国北部・ロシア沿海州から朝鮮半島に分布。本邦の流通では前のバフンウニと合わせて三分の二以上と圧倒的に占有している)

オオバフンウニ属キタムラサキウニ Strongylocentrotus nudus (太平洋側では襟裳岬から相模湾まで、北海道日本海沿岸から対馬沿岸まで。他にサハリン南部から朝鮮半島に分布)

オオバフンウニ科アカウニ属アカウニ Pseudocentrotus depressus (日本近海の固有種で、日本海側は津軽海峡、太平洋側は銚子を北限とする。他に済州島にも分布する。棘が赤みがかっている。但し、流通で「赤ウニ」と称している剝き物の場合は、上記のバフンウニやエゾバフンウニ(食用とする生殖腺が赤みがかっている)であることが多いので、注意は必要である)

ホンウニ亜目ナガウニ科ムラサキウニ属ムラサキウニ Heliocidaris crassispina (日本海側では青森県以南、太平洋側では茨城県以南。他に中国南東部沿岸や台湾にも分布する。関東で殻売りで出る安いものは概ね本種である)

ホンウニ目サンショウウニ亜目ラッパウニ科シラヒゲウニ属シラヒゲウニ Tripneustes gratilla (インド太平洋の熱帯海域に広く分布し、沖縄では普通、日本では南岸部に見られる。沖縄のウニは本種が一般的。近縁の毒(神経毒)叉棘で知られるラッパウニ Toxopneustes pileolus 同様に叉棘に毒を持つが、当該ウィキによれば、二〇〇八年の沖縄県に於ける海洋動物の被害状況報告では、本種によるものは一例だけとある。味はかなりいい)

である。私が食したものの中では、二〇〇九年八月の礼文島でのそれが最高だった。『漁協ウニ加工場。海洋生物を好む客也と日高女史言へば、漁労長、奥にウニの解剖図を取りに行かれ、厳かにウニを剖検す。綺麗に出だされし Aristotle's lantern を観察、生を食す(是は既に昨夜の夕食にて体験済)。親しく塩雲丹の製造法につきて質問するに、私的に昨日漬けた色悪きものの商品にならざるものの一夜漬けの塩雲丹、再び奥より出だし、下さる。一含み、我、生涯に於いて斯く美味なる雲丹を食ひたるは初めての事なり。又又稀有の体験』(「礼文利尻手帳」より)。

「海膽(うに)『一名「霊羸子(れひるいし)」』後で蒹葭堂は、『「ウニ」とは「海膽(うに)」の轉じたるなり』と言っているが、既注した大島廣先生の「ナマコとウニ――民謡と酒と肴の話――」(昭和五八(一九八三)年第三版)によれば、生体個体のウニは「海胆」「海栗」などと書くが、古くは「宇爾」「宇仁」などと漢字を当て、また、別称として広く使われた「ガゼ」には、古くは「加世」の漢字を当てていた。沖縄では「ガヅツ」と呼ぶ。『昔の本には霊羸子(れいらし[やぶちゃん注:蒹葭堂の「るい」は誤読。])(羸は裸の意。螺にも通じる)、棘羸(きょくら)、甲羅(こうら)、棘甲羸(きょくこうら)などと書かれ、さらに甲螺(『延喜式』)、霊螺子(れいらし)(『和名抄』)、石陰子(『本草和名』)などの字も見えるけれども、これらにはイガイやコヤスガイその他の海産巻貝の類が多く混同されていたようである』とある。既注の新井白石の「東雅」では「靈螺子(ウニ)」に於いて(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)、『ウニといひしは。ウは海也。ニは膽也。井[やぶちゃん注:「ヰ」に同じ。]といひニといふは轉語也。卽今俗にカブトカヒといふ亦類也』とある。しかし、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」の「ウニ」の記載によれば、荻生徂徠の「南留別志」(考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年に「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの)や、江戸末期から明治にかけて編纂された国語辞書「和訓栞」(わくんのしおり:谷川士清(ことすが 安永六(一七七七)年~明治二〇(一八八七)年) 編)では(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ウニは〈海丹(うに)〉の意だとしている。ここでいう丹とは、硫黄と水銀が化合してできた赤い土、つまり捺印する際に用いる朱(しゅ)の原料のこと』で、一部の種の『ウニの』赤みの強い『卵巣の色を朱に見立てた、とする説である』とある。個人的には「海丹」説を支持したくなる気はするが、であれば、昔より「に」には「丹」を当てていて良かったはずで、塩辛としてのそれが「雲丹」と別称されるようになるのは、大分、時代が下ってからのことと思われ、必ずしもそれが真説とは私は言い難いと感ずる。

「越前」福井の加工品としての「雲丹(うに)」はバフンウニを使う。

「薩摩」鹿児島のそれはムラサキウニを用いている。

「亭長」網元。或いは複数の漁船と漁師を管轄する水主(かこ)=船主。

『一種、「兜貝(かぶとかひ)」と云ふ物、此種類にして、別なり』これはカブトガニなんぞを考えては大外れで、ビーチ・コーミングをしたことがある人にはピンとくるはずである。則ち、ウニの死骸の棘が抜け落ちた本体部骨格である。如何にも鉢に星鋲を打った兜(かぶと)然としているではないか。新井白石は前掲の「東雅」「靈螺子(ウニ)」の最後の部分で、『其死して、殻枯れ刺脫けしあと。鍾乳に似て小しきなる者。此に星冑といふものヽ如くなれば、俗にカブトガヒといふ。これ石榼[やぶちゃん注:「セキコウ」。石で出来た酒樽の意。]といふものなるべし』とあるのは、目から鱗ではないか。]

2021/06/06

日本山海名産図会 第四巻 生海鼠(𤎅海鼠・海鼠膓)

 

 ○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)

是れ、殽品(かうひん)中の珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尙、北國(ほつこく)の所々(しよしよ)にも採れり。中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物(にせもの)とするが故に、彼(か)の國の聘使(へいし)、商客(あきひと)の、此(こゝ)に求め歸ること、夥(おびたゝ)し。是れは、小兒虛羸(せうにきよるい)の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号(なづ)く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。

 

Namako1

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこの画像をトリミングした。後も同じ。キャプションは「讃刕海鼠捕(さんしうなまことり)」。浮いている海鳥が可愛い。]

 

○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。

 

Namako2

 

[やぶちゃん注:キャプションは「𤎅海鼠(いりこ)に制(せい)す」。絵師は海鼠一匹の細かい部分まで手を抜いていない。]

 

○𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

○「和名抄」、『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、則ち、「𤎅海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

○海鼡膓(このわた) 【「本朝食鑑」に、『或は俵子と称する』といふは誤まるに似たり。「俵子」は「虎子(とらこ)」の轉したるにて、たゞ、「生海鼡(なまこ)」の義なるべし。】

海鼡膓(このわた)を取り、清き潮水(しほみづ)に洗ふ事、數十遍(すじつへん)、塩に和して、是れを収むなり。黄色に光り有りて、琥珀のごとき物を、上品とす。黒み、交(まし)る物、下品なり。又、此の三色(みいろ)相ひ交(まじ)る物を、日影に向かふて、頻りに攪(か)きまはせば、盡(ことこと)く、変じて、黄色となる。或ひは、膓(わた)一升に鷄子(たまご)の黄(きみ)を、一つ、入れ、かきまはせば、味、最も美なり、ともいへり。徃古(むかし)は、此膓(わた)を以つて、貢(みつぎ)ともせしかども、能登・尾刕・參河のみにて、他國に、なし。是れ、まつたく黄色なるもの、稀なればなり【一種、膓の中に、色、赤黄(あかき)にて、のりのごときものあり。号(なづ)けて「海鼡子(このこ)」といふ。味、よからず。】

[やぶちゃん注:言っておくが、私はナマコとホヤ(蒹葭堂は誤って「老海鼡」の名を出してるに過ぎず、ここにはホヤ類の記載はない)についてはファナティクなフリークである。それを鼻でせせら嗤う御仁は、まず、ブログ開設の年に投稿した私の、

帰ってきた臨海博士 ナマコ・クイズ」

に挑戦されたい。必ず、全問答えた上で「解答篇」を見られたい。二問以上間違った場合は、私が天鈿女(あめのうずめ)のように、その嗤った君の口を裂く。次に、あなたの知っているナマコの種名を挙げてみて貰いたい。どれぐらい言えるだろう? マナマコ・アカナマコ(現在はマナマコの個体変異ではなく別種として分けるようになっている)・キンコ・シロナマコ・クロナマコ・ニセクロナマコあたりで止まる人が圧倒的に多いだろう。フジナマコ・バイカナマコや、前のクイズに出した種の近縁である長大種のオオイカリナマコも言えれば、これはもう、あなたもナマコ・フリークの仲間ではある。本邦産(深海産を除く)のナマコ種の総浚えした、

オリジナルな「ナマコ分類表」

もある。さて、私の博物誌ものでは、まず、大掛かりなものでは、サイト版の、

栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」

仙臺 きんこの記   芝蘭堂大槻玄澤(磐水)

がお薦めである。後者は古い電子化(二〇〇七年)であるが、特に遺愛のテクストである。他にナマコは、

「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」

に、ホヤは形態上から分離されて、

「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠(ほや)」

に収録されている。この本文や私の注も私のネット時間の中では初期の仕儀である。博物画で楽しみたい向きには、

毛利梅園「梅園介譜」 海鼠

毛利梅園「梅園介譜」 海鼠(前掲分とは別図三種)

海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

神田玄泉「日東魚譜」 老金鼠(ホヤ)

毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠

武蔵石寿「目八譜」 東開婦人ホヤ粘着ノモノ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――

がよく賞翫できるものであるはずである。ブログ版の博物学的記録では(ナマコ・ホヤの順に示す)、

海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載

海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠(遂に最終パートに入った、記念すべき『「大和本草」水族の部』の最初)

博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載(これは「このわた」に特化していて、なかなか興味深い)

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載(その追加分「華和異同」も別立てで電子化してある)

畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ

海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

がある。以上で、私は、繰り返し、生物学上のナマコの記載をやってきた。されば、ここでまた、それを繰り返す愚はしないこととする。

「殽品(かうひん)」「殽」(音「コウ」)は「混じる・入り乱れる」、「倣う・模(かたど)る・真似をする」の意以外に、「骨付きの肉・料理・酒の肴(さかな)」の意がある。決して「肴」の異体字ではないので注意。

「尾張和田」「これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ:グーグル・マップ・データ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも次に出る名産地「三河柵の島」=佐久島(愛知県西尾市)は、ここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載を参照。

「武藏金澤」現在の神奈川県横浜市金沢区。

「中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物(にせもの)とする」おそらく、眉唾する人が多いであろうが、事実である。私はこの驚くべき中国で作られた偽物の話を古くから知っている。二十四の時、入手して貪るように読んだ動物学者(専門は棘皮動物)で博物史の研究でも知られる大島廣先生の「ナマコとウニ――民謡と酒と肴の話――」(初版昭和三七(一九六二)年。所持するのは昭和五八(一九八三)年第三版)で知って驚いたのである。それは実は、先に示した栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の次の一節の一部引用(下線部分)の、それへの僅かな一文の解説だった。博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載に引用してある。嘘じゃねえよ、「本朝食鑑」の「海鼠」の「華和異同」を御覧な。私は何に驚いたかと言って、ナマコの偽物のために牛を殺し、その革どころか、陰茎まで使う中国人の気が知れなかったからである。「食のために、そこまでやるか!」と義憤を感じたからである。私の訓読文も添えた。

   *

注云閩中海参色獨白類撑以竹簽大如堂味亦淡劣海上人復有以牛革譌作之ノ語アリ此卽八重山串子ト俗称スルモノニシテ※甚薄劣下品ノモノナリ

[やぶちゃん字注:「※」=「口」の下に「未」。「味」。]

   *。

注に云ふ、『閩中、海参、色、獨り、白き類は、竹簽(ちくせん)を以つて撑(つ)けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌(いつは)り、之れを作る有り。』の語あり。此れ、即ち、『八重山串子』と俗称するものにして、味、甚だ薄劣にして、下品のものなり。

   *

言っとくが、「八重山串子」で検索するのは、やめとき。俺のサイトしか引っ掛からんけの。

「小兒虛羸(せうにきよるい)」小児性の痩せ症。

「人參として用る」『「人参」と称して、このナマコを用いる』ということか。

『時珍、「食物本草」には『海參』と号(なづ)く』蒹葭堂さん、遂にやらかしちゃいましたね! 掟破りの孫引きですよ! これ、大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠

から無批判に引っ張ったんですよね? だって、間違ってるんだもん! そこで益軒は『李時珍「食物本草」の註に曰く、『海參は東南海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとく大なり。色黑く、瘣㿔(くわいらい)多し。一つ、種、長さ五、六寸なる者、表裏倶(とも)に潔く、味、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしいまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍貴なる者なり。今、北人、又、驢皮及び驢馬の陰莖を以つて贋(いつは)りたること有り。狀味、略(ほ)ぼ相ひ同じと雖も、形、微(すこ)し扁を帶ぶる者は是なり。固(もと)より惡しき物なり。博識の者、知らざるべからず。味、甘鹹、平。毒、無し。元氣を補ひ、五臟六腑を滋益することを主(つかさど)る。三焦(さんせう)の比熱を去る。鴨肉に同じ。烹治(にをさ)めて之れを食へば、勞怯・虛損・諸疾を主る、猪肉に同じ。煮食(にく)へば、肺虛・欬嗽(がいそう)を治す。』と』あってね、どうです? あんたの書いた文章とそっくりじゃああ~りませんか! でね、李時珍の作品に「食物本草」なんてないんですよ! そこで私は以下のように注した。

   *

『李時珍「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。本草書のチャンピオン、明の李時珍は、「本草綱目」(五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九枚、処方一万千九十六種に及ぶ)の作者としてとみに知られるが。不可解なことに、「本草綱目」には「海參」はおろか、ナマコと同定出来るものが載らない。というか、海産魚類の記載は誤りが多いのである。これは彼が中国内陸の湖北省出身で、そこから殆んど出ていないという事情によるものだが、とすれば、時珍が「食物本草」にこんな「海鼠」についての細かな注を附すことは出来なかったに違いないので、これは、筆者や書名を含めて、何か、激しい錯誤があるのではなかろうか?

   *

蒹葭堂さん、恥ずかしいですよ。

『奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ』先の仙臺 きんこの記   芝蘭堂大槻玄澤(磐水)を参照。

「攩䋄(たまあみ)」「攩網(たもあみ)」に同じ。

『「和名抄」、『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、則ち、「𤎅海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり』どうも蒹葭堂は引用の際の注意が非常に足りない。これは「和名類聚抄」をちゃんと確認していない、誤った又聴きを記したに相違ない。同書の巻第十九の「鱗介部第三十亀貝類第二百三十八」に「老海鼠」は「海鼠」の後に並ぶが、それを混同したトンデモ記事だからである。

   *

海鼠(コ) 崔禹錫の「食經」に云はく、『海鼠【和名「古」。本朝式に「𤎅」の字を加へて「伊里古」と云ふ。】は蛭に似て大なる者なり。』と。

老海鼠(ホヤ) 「漢語抄」に云はく、『老海鼠』【「保夜」。俗に此の「保夜」の二字を用ふ。】と。

   *

「東雅」既出既注国立国会図書館デジタルコレクションのこの「海鼠(こ)」

「適齋(てきさい)訓蒙圖會」「適齋」は不審。江戸前期の儒学者で本草学者の中村惕斎(てきさい 寛永六(一六二九)年~元禄一五(一七〇二)年:名は之欽(しきん))が撰した寛文六(一六六六)年書かれた図入り百科事典(類書)。全二十巻。これ以降の「訓蒙図彙」を称した書の嚆矢。国立国会図書館デジタルコレクションの「土肉」だが、「沙噀(しやそん)」ではなく、「さそん」で、「海參(かいじん)」とはあるが、「イリコ」とはしていない。「なまこ」とし、『乾(ほせ)る者に對して之を称す』となっており、不審。

「若水」江戸中期の医師・本草学者で儒学者であった稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)。出典未詳。

『「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり』巻九の「物部一」に、

   *

海參、遼東海濱有之、一名海男子。其狀、如男子勢然、淡菜之對也。其性溫補、足敵人參、故名海參。

   *

とある。「淡菜」はイガイの仲間。女性生殖器のミミクリー。

『「本朝食鑑」に、『或は俵子と称する』といふは誤まるに似たり』博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載を参照。

『一種、膓の中に、色、赤黄(あかき)にて、のりのごときものあり。号(なづ)けて「海鼡子(このこ)」といふ。味、よからず』私の大好物のバチコ(撥子)=クチコ(口子)、ナマコの生殖巣のみを抽出して、軽く塩をし、干して乾物にした「干しクチコ」のこと。形が三味線の撥に似るのが由来で、別に「コノコ」(海鼠子)とも呼ばれる。鮮烈な紅色の魅惑あるものである。小さい割に、目ん玉が飛び出るほど、高い。生を塩辛にした「生クチコ」もある。私に言わせれば、この蒹葭堂の嗜好、かなり、鼻白む。]

2021/06/05

日本山海名産図会 第四巻 堅魚(かつを)

 ○堅魚(かつを)

 

Katuo1

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした(以下同じ)。キャプションは「土刕鰹釣(としうかつをつり)」。餌の鰯の桶が見える。波除けの竹の簀(す)が舷側に着けられている。]

 

 

土佐・阿波・紀州・伊豫・駿河・伊豆・相摸・安房・上総・陸奧・薩摩、此の外、諸刕に採るなり。四、五月のころは、陽に向ひて、東南の海に群集(くんしゆ)して、浮泳(ふゑい)す。故に相摸・土佐・紀州にあり。殊に鎌倉・熊野に多く、就中(なかんづく)、土佐・薩州を名產として、味、厚く、肉、肥へ、乾魚(かつを)の上品とす。生食(なましよく)しては美癖(むまみさかる[やぶちゃん注:左ルビ。意味訓であるが、後半の判読は自信がない。])なり。阿波・伊勢、これに亞(つ)く。駿河・伊豆・相摸・武藏は、味、淺く、肉、脆(かろ)く、生食(せいしよく)には上とし、乾魚(かつを)にして、味、薄し。安房・上総・奧州は、是れに亞ぐ。

○魚品(きよひん)は、縷鰹(すぢかつを)・横輪鰹(よこかつを)・餅鰹(もちかつを)・宇津和鰹(うつわかつを)・ヒラ鰹(かつを)等(とう)にて、中にも縷鰹を真物(しんもつ)として、次に橫輪なり。此の二種を以つて、乾魚(ふし)に製す。東國(とうこく)にて小なるを「メジカ」といふ。

○漁捕(ぎよほ)は、網は稀にして、釣、多し。尤も、其の時節を撰(えら)はずして、つねに沖に出つれども、三月の初めより、中旬まてを初鰹(はつかつを)として、專ら、生食(せいしよく)す。五月までを「春節(はるふし)」として上品の乾魚(かつを)とす。八月までを「秋節(あきふし)」といふ。飼(ゑ)は鰯の生餌(いきゑ)を用ゆる。故に、先つ、鰯網を引く事も、常也。鰯、二坪ばかりの餌籠に入れて、汐潮水(しほみづ)に浸し、是れを、又、三石ばかりの桶に、潮水をたゝへて、移し入れ、十四、五石ばかりの釣舟に乘せて、一人、長柄の扚(しやく)[やぶちゃん注:漢字はママ。]を以つて、其の汐を汲み出たせは、一人は、傍(かたはら)より、又、汐を汲み入れて、いれかへ、いれかへて、魚の生(せい)を保(たも)たしむ。釣人(つりて)は一艘に十二人、釣さほ、長一間半、糸の長さ、一間ばかり。ともに常の物よりは太し。針の尖(とがり)に「かゑり」なし。舟に竹簀(たけす)・筵(むしろ)等の「波除け」あり。さて、釣をはじむるに、先つ、生きたる鰯を、多く、水上に放てば、鰹、これに附きて、踊り集まる。其の中へ、針に、鰯を、尾より、さし、群集(ぐんじゆ)の中へ投ぐれば、乍(たちまち)、喰ひ附きて、暫くも、猶豫(ゆうよ)のひまなく、ひきあげ、ひきあげ、一顧(いつこ)に數十尾(すしつび)を獲ること、堂に數矢(かすや)を發(はな)つがごとし。○又、一法に、水、淺きところに、自然(しせん)、魚の集まるをみれは、鯨(くじら)の牙(きば)、或ひは、犢牛(めうし)[やぶちゃん注:ママ。挿絵の附図では「雄牛(おうし)」とする。]の角(つの)の空(うつほ)の中へ、針を通し、餌(ゑ)なくしても、釣るなり。是れを「かける」と云ふ。【牛角(うしつの)を用ることは、水に入て、おのづから、光りありて、いわしの群(むれ)にも、まがへり。】○又、魚を集めんと欲する時は、おなじく、牛角(きうかく)に鷄(にはとり)の羽(は)を加へ、水上に振り動かせば、光耀(くわうよう)、尙を、鰯の大群に似たり。此の余(よ)、「天秤釣」などの法なとあれども、皆、是れ、里人(さとひと)の手すさひにして、漁人(あま)の所業(しわさ)にはあらす。

○又、釣に乘(じやう)ずる時、若(も)し、遠く餌を遂(おほ)ふて、鰹の群(むれ)、來(く)る時にあへは、自(おのづから)、船中に飛び入りて、其勢、なかなか、人力(しんりき)の防ぐ所にあらず。至つて多き時は、殆ど、舟を壓沈(しつま)す。故に、遥かに是れを窺ひて、急(いそ)き、船を漕(こ)き退(の)けて、其の過ぐるを待つなり。

 

Katuo2

 

[やぶちゃん注:キャプションは「海人釣舟迎て鰹魚を汀に屠る(かいしん、つりふねをむかへて、かつをを、みきはに、ほふる)」。風俗画としても優れている。左上に「鰹魚釣圖(かつをつりのづ)」とあって、釣針三種が附図(一番左のそれは、下部の鶏の細い羽毛の中に針が見える)。されてあり、そこに「此外(このほか)、釣針、多くあれども、たいてい、かくのごとし。雄牛(おうし)の角を用ゆ。」/「角の中へ鷄(にはとり)」の首毛(くびげ)を遏(と)め、針を付(つけ)、用ゆ。外に『てんひん針』も在(あ)り)」とある。]

 

Katuo3

 

Katuo4

 

[やぶちゃん注:上のキャプションは「蒸(む)して乾魚(かつを)に制(せい)す」、下は「乾魚(かつを)を(磨(みがき)て納(おさ)む」。]

 

○行厨蒸乾制鰹鮑(りやうりして、むしほし、かつおにつくる)  釣舟を渚によせて、魚を砂上に拗(ほ)り上ぐれば、水郷(すいきやう)の男女(なんによ)、老少を分かたず、皆、桶、又、板一枚、庖丁を持ちて、呼(よは)ひ集まり、桶の上に板を渡して俎(まないた)とし、先つ、魚の頭(かしら)を切り、腹を拔き、骨を除き、二枚におろしたるを、又、二ツに切りて、一尾(び)を四片となすなり。骨・膓(はらのこ)は、桶の中へ落し入れて、是れを、雇人(やとひど)、各々(それそれ)の得ものとして、別に賃(ちん)を請(うけ)ず。其膓(わた)を塩に漬け、「酒盗(しゆとう)」として售(う)るを、德用とするなり。○又、所によりて、行厨(りやうりば)を、一里ばかり、他所(たしよ)に構へ、大俎板(おほまないた)を置きて、兩人、向ひあわせ、頭(かしら)を切り、尾を攜(たつさ)へて、下げ切りとす。手練(しゆれん)、甚だ、早し。熊野辺(へん)、皆、然り。

○かくて、形樣(かたち)を、能き程に造り、籠にならべ、幾重(いくゑ)にもかさねて、大釜(おほかま)の沸湯(にへゆ)に蒸して、下の籠より、次第に取り出だし、水に冷し、又、小骨を去り、よく洗浄(あら)ひ、又、長五尺許りの底は、竹簀(たけす)の蒸籠(むしかご)にならべ、大抵、三十日許り、乾し暴(さら)し、鮫をもつて、又、削り作り、繩にて磨くを、成就(じやうしゆ)とす。「背節(せふし)」を上とし、「腹節」を次(つぎ)とす。背は上へ反り、腹は直(すく)也。贋(にせ)ものは、鮪(しび)を用ひて、甚だ腥(なまぐさ)し【乾かすに、あめふれば、藁火(わらひ)をもつて、籠の下より、水氣(すいき)を去るなり。冷やすに、水を撰(えら)めり。故に土佐には「淸水」といふ所の名水を用ゆる。故に名產の第一とす。】。

[やぶちゃん注:以下、底本では前の割注と同じポイントで全体が二字下げ(頭の「○」のみ上に突出。]

○或ひは云う、「『腹節』の味、劣るにはあらざれども、武家の音物(ゐんもつ)とするに、『腹節』の名をいみて、用ひられざるゆへなり。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。]

○「鰹」の字、日本の俗字なり。是れは「延喜式」・「和名抄」等(とう)に『堅魚(かつを)』とあるを、二合して制(つく)りたるなり。又、「カツヲ」の訓義は、「東雅」に『「䰴魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』といへども、是れ、信じがたし。或云、「カツヲは『堅き魚』の轉にして、即ち、『乾魚』の事なるを、それに通じて、生物の名にも呼びならひたるなり」。○又、『「東醫寶鑑」に『松魚(せうぎよ)』を此魚に充てたり。此書は、朝鮮の醫宦(いかん)許俊(きよしゆん)の撰なるに、近來(きんらい)、又、朝鮮の聘使(へいし)に尋ぬれば、「『松魚』は此(こゝ)に云ふ『鮭』のこと」と、いへり。尤も、肉、赤くして、松の節のごとし。又、後に來(きた)る聘使に尋ぬるに、「古固魚(ここきよ)」の文字を此の堅魚(かつを)に充てたり。されど、是れも、近俗(きんぞく)の呼ぶ所とは見へたり。前に云う、『䰴魚』は、此(こゝ)に云う、『マナカツヲ』にして、一名『鯧(しやう)』、又、『魚游(きよいう)』と云ふ」と』。『是れ、舜水(しゆんすい)のいへるに、おなしくして、「マナカツヲ」を「魴」とかくは誤りなるべし』

○乾魚(かつを)は、本邦日用の物にして、五味の偏(へん)を調和し、物を塩梅(ゑんばい)するの主(しゆ)なり。元より、「カツヲ」の名もふるし。「萬葉集」長哥 水の江の浦島の子が堅魚(かつを)つり鯛つりかねて下畧  「萬葉」は聖武の御宇(みよ)の歌集なり。又、「延喜式」、民部寮に堅魚(かつを)・煎汁(いかり)を貢(こう)すること、見へて、「イカリ」は、今、「ニトリ」といふ物なるべし。尙、主計寮にも、志摩・相摸・安房・紀刕・土佐・日向・駿河・豊後より貢献の事も見へたり。○又、兼好「徒然草」に、

[やぶちゃん注:以下は底本では前に続いて始まりながら、次の行以下は二字下げにされてある。]

鎌倉の海にかつをと云う魚は、彼(かの)さかひには、さうなき物にて、このころ、もてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申傳へしは、「此魚、をのれら、若かりし世までは、はかばか敷(しく)人の前に出(いだ)すこと、侍らざりき。頭(かしら)は下部(しもべ)も食(くら)はず、きりて、捨(すて)侍りし物なり」と申き。かやうの物も、世の末になれば、上(うへ)さままでも、入たつわざにこそ侍れと」

[やぶちゃん注:以下の一文は底本では本文で三字下げで、頭の「○」のみが突出している。]

○是れは、兼好の時代には、貴人(きにん)などの、生(なま)にて喰ひし事を、あやしみいふこゝろと見えたり。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。]

○「鰹魚のタヽキ」といふ物あり。即ち、醢(ひしほ)なり。勢刕・紀刕・遠江の物を上品として、相州小田原、これに亞(つ)く。又、奧刕棚倉(たなくら)の物は、色、白くして、味、他(た)に越へたり。即ち、國主の貢献とする所なりとぞ。

[やぶちゃん注:「節」(「節」は殆んどない)の字は「竹」(たけかんむり)が「艹」(くさかんむり)なっているものが混在するが、「節」で統一した。私の大好物であるカツオの種としてのそれは、

スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis

の一属一種であるが、本文では解説中にそうでない種も出る。なお、一般人がカツオと呼んで区別して認識していないものとしては、

サバ科ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis

サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis

サバ科イソマグロ属イソマグロ Gymnosarda unicolor(本種にはマグロの名がかつくが、分類学上ハガツオに近縁で、魚体もカツオからそう離れていないので挙げておきたい)

サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard

サバ科ソウダガツオ属マルソウダガツオ Auxis rochei

の五種辺りを挙げておけばよかろう。カツオについては、私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰹(かつを)」の渾身注にとどめを刺す。種々の点で、有益な補塡になるので(というより、一読されれば、蒹葭堂がこれを参考にしていることは明らかである)、訓読文を引いておく。リンク先は古い仕儀なので、原本に再度当たって訂した。

   *

かつを

[やぶちゃん注:以下、標題下の釈名相当部。]

鰹【俗に「堅」「魚」の二字を以つて「鰹」と爲す。蓋し、「鰹」は、乃(すなは)ち「鮦(とう)」の大なる者にして、是れに非ざるなり。此の魚の脯(ほじし)、極めて堅硬、削用すべし。故に俗に呼びて「堅魚」と曰ふ。】

【和名、「加豆乎(かつを)」。】

[やぶちゃん注:以下、本文。]

△按ずるに、「鮪(しび)」[やぶちゃん注:マグロ。]の屬なり。狀(かたち)、「目黑(まぐろ)」に似て、圓く、肥え、頭、大、嘴(はし)、尖りて、鱗、無し。蒼黑色。光る膩(あぶら)有り。腹、白く、雲母泥(きらゝでい)のごとく、背に、硬き鰭、有り。尾の端に到るまで、兩片、鋸齒に似たり。尾に、岐、有り。其の肉、深紅、味、甘く温。背の上、兩邊、肉中、黑血肉、一條有り【之れを「血合(ちあひ)」と謂ひ、其の味、正肉にしかず。】。之れを釣るに、餌を用ひずして、牛角、或いは、鯨の牙を以つて、一瞬に數百を釣る。關東、殊に多く有り。

縷(すぢ)鰹 皮の上に縱(たつ)に、白き縷、三、四條有り。胾(さしみ)と爲し、芥醋(からしず)・未醬(みそ)に和して食ふ、甚だ佳し。之れを「真鰹(まがつを)」と名づく。節(ふし)に作りて、極上と爲す。

橫輪(よこわ) 皮の上、橫に、白斑四、五條有り。大いさ、一尺五、七寸、尾、極めて細き故、又、「尾纎(をほぞ)」と名づく。節に作り、縷鰹に亞(つ)ぐ。𩸆(ひしほ)に作り、味、甚だ佳し。俗に呼んで「須宇麻」と曰ふ。]

餅(もち)鰹 形・色、鰹に同じくして、肉、粘(ねば)る。頗(すこぶ)る飴のごとし。生・𩸆とも、味、佳ならず。

鰹節(ぶし) 鰹の肉を乾脯(ほし)たる者なり。漁人、之れを造るに、鮮(あたら)しき魚、頭尾を去り、膓(わた)を出だし、兩片と爲し、中骨を去り、復た、兩片の肉を割(さ)き、兩三條と作(な)し、以て煮熟し、取り出だし、曝し乾せば、則ち、堅硬(かた)くして、色、赤きこと、松の節のごとし。【故に「鰹節」と名づく。】本邦日用の佳肴(かかう)、五味の偏(かたより)を調和す。一日も欠(か)くべからざる者なり。土佐の產を上と爲す【俗に呼びて「投出節」と稱す。】。紀州熊野、之れに次ぐ。阿州・勢州、又、之れに次ぐ【「鮪脯(まぐろのほじし)」を以つて之れを偽る、肥大と雖も、味、杳(はるか)に劣れり。】。

煮取(にとり) 鰹節を造る時、其の液(しる)、滯(とどこほ)る者を取りて、之れを収む。黑紫色、味、甘美。

鰹醢(たゝき)【俗に「太太木」と云ふ。】 肉の耑(はし)及び小骨、敲(たた)き和して、醢(しほから)と爲し、紀州【熊野。】・勢州【桑名。】・遠州【荒井。】の者、上と爲し、相州【小田原。】、之れに次ぐ。奥州【棚倉。】の醢(しほから)、色、白くして、味、佳し。

酒盗(しゆとう) 鰹の膓(わた)を醢(しほから)と爲す。阿波より出づる者、名を得。肴と爲し、則ち、酒、益々、勸む。故に名づく。

「山家」いらこ崎に鰹釣舟ならび浮きて

      はがちの濱にうかびてぞ寄る

                 西行

   *

「乾魚(かつを)」鰹節。

「縷鰹(すぢかつを)」標準和名の真正の一属一種のカツオ Katsuwonus pelamis を指す。現在、魚類にあっては、体軸に沿って横に走る縞を「縱縞」と呼ぶが、それが本件でも通用するかどうかが問題となる。しかし、次の小項目の呼称が「横輪」(「輪」である以上、これは「魚体を一周する」の意である)であることに着目すれば、これはクリアされていると判断される。なお、この縦縞は生時には、殆ど見られないもので、死後に現れるとよく言われるが、実際には次項で述べる横縞同様、生時にあっても、興奮すると、出現する斑紋であるようだ。なお、この縦縞がカツオ Katsuwonus pelamis では腹部に現れ、ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis では背部に現れるので、容易に区別が出来る。

「横輪鰹(よこかつを)」恐らくはカツオ Katsuwonus pelamis の中型の大きさのものを言っているか。この横縞は、実はカツオに一般的に見られるもので、通常は目立たないが、興奮すると、浮き出してくるという(四条から十条程度)。この横縞は死ぬと消え、代わりに前項で示した縦縞がはっきり現れるという。

「餅鰹(もちかつを)」これもカツオ Katsuwonus pelamis 、死後硬直するまでの新鮮なカツオ(従って、身が柔らかく、餅のような食感がある)のことを指すか、もしくは、「味、佳ならず」という叙述からは、身がカツオより柔らかく、時間が経つと独特の薬品のような臭いを発するハガツオ Sarda orientalis を指している可能性もある。前者は、静岡県西部で現在も「モチガツオ」と呼称し、殆どが地元で消費されると聞く。

「宇津和鰹(うつわかつを)」「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの)の「鱗介部之三」の「鰹」の「集解」の末尾に、『海俗、所謂、鰹の小さき者を『渦輪』と曰ひ、最も小さきなる者を『橫輪』と曰ふ』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの板本のこちらの左頁終行から次の頁にかけてを参照されたい(訓読附漢文)。ここからやはり、これもカツオ Katsuwonus pelamis の大きさによる異称で、「横輪鰹」よりは大きなものを指すということになる。

「ヒラ鰹(かつを)」サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis の異名。サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard の可能性もあるかも知れない。

「メジカ」二種のソウダガツオの別名で、特に関西での呼称。但し、マグロの幼魚もこう呼ぶ。所謂、「めじまぐろ」である。

「鰯」本邦で鰯と呼んだ場合は複数種を指す。標準和名のイワシという種は存在しない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」の私の注を見られたい。

「三石」五百四十リットル。ドラム缶二本半強。

「十四、五石」近世初期以来、一般に知られた「三十石船」は長さ十五メートル、幅二メートル、深さ五十五センチメートルであったから、その凡そ半分弱と見ればよかろう。

「かゑり」「返し」のこと。

「一顧(いつこ)に」僅かの間に。

「數十尾(すしつび)」「すじっび」。

「堂に數矢(かすや)を發(はな)つがごとし」通し矢をどんどん射るみたような感じだというのである。

「かける」「引っ掛ける」の意。

「天秤釣」「天秤」は釣りに使う仕掛けの部品の一つで、「道糸」と」「鉤素(はりす)」と「錘(おもり)」を接続し、糸の絡みを防ぐようにしたもの。主に投げ釣りで使われ、錘によって遠くに投げることが出来る。

「德用」美味い上に、非常に長く保存できることから、かく呼んだのである。

『土佐には「淸水」といふ所の名水を用ゆる』足摺岬のある足摺半島の根元の西の、高知県土佐清水市の「清水の名水」

「音物(ゐんもつ)」歴史的仮名遣は「いんもつ」でよい。贈答品。

「延喜式」古くからお世話になっているサイト「真名真魚字典」の「鰹」によれば、献上国などとしてだけでも、伊豆・壱岐・志摩・駿河・伊豆・相摸・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向などが堅魚を貢いでいる。

「和名抄」「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

鰹魚(カツヲ) 「唐韻」に云はく、『鰹【音「堅」。「漢語抄」に云はく、『加豆乎』。「式」の文(ぶん)に「堅魚」の二字を用ゆ。】は大鮦なり。大を「鮦」と曰ひ、小を「鮵【音「奪」。】」と曰ふ。』と。野王[やぶちゃん注:顧野王撰の「玉篇」か。]、『按ずるに、「鮦」【音「同」。】。蠡魚(れいぎよ)なり』と【「蠡魚」、下の文に見えたり。今、案ずるに、「堅魚」と爲すの義、未だ詳かならず。】。

   *

残念ながら、「蠡魚」はカツオではない。現在は、所謂、いろいろな意味で悪名高い(獰猛にして同種に寄生する有棘顎口虫類もヒトに感染すると最悪)淡水産の「雷魚」、スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus に比定されているようである

「東雅」既出既注ここが「堅魚(カツヲ)」の当該部だが、かなり長く、以下の部分は次のページの八行目以下。但し、また、前回と同じく、引用が違う。蒹葭堂は『「䰴魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』とするが、『亦、漢語抄を引て、䰴魚をコツヲといふ。本朝式用乞魚二字と註せり。コツとは乞の字の音を以て呼ぶなり。ヲは魚也。卽今マナカツヲといふもの是也』である。さらに新井白石は考証を続け、古えの「䰴魚」は『マナカツヲなる事、疑ふべからず』とする。ただ、彼は「マナ」を「真正」の意で採っており、所謂、現在のカツオとは縁も所縁もなく、全く似てもいないスズキ目イボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属マナガツオ Pampus punctatissimus を指しているわけではなく、モノホンのカツオだと言っているのである。そして最後に『カツヲとは。コツヲといふ語の轉ぜしなり。或は後俗この音の骨に同じきを避けし事。猶笏をよびてサクといふ如くなりけんも。知るべからず』と結んでいる。海産生物に弱点の多い漢籍に堂々巡りさせられていることに気づかない白石は、ちょっと可哀そうになってくる。さらにいえば、蒹葭堂は、『「東雅」に『「魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』といへども、是れ、信じがたし』と言い放っておきながら、その実、ここから後の部分は「『乾魚』の事なるを、それに通じて、生物の名にも呼びならひたるなり」辺りを除いて、実は白石の考証をそのまま引用していることが判り、かなり――相当に――イヤな感じ――なのである。

「東醫寶鑑」(とういほうかん/トンイボガム)は李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻から成る。御医(王の主治医)であった許浚(きょしゅん)著。ウィキの「東医宝鑑」によれば、一六一三年に『刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した』とある。

「鯧(しやう)」現行では日本では先のマナガツオ Pampus punctatissimus に当てている。但し、中文で見ると、マナガツオは「銀鯧」である。

「魚游(きよいう)」この熟語が一種の魚類名であるという感じはしない。

「舜水(しゆんすい)」「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「魴」これは漢籍では淡水魚で、その料理を毛沢東が愛したとされる「武昌魚」、コイ科魴(中文名)属トガリヒラウオ Megalobrama amblycephala であろう。

「偏(へん)」偏(かたよ)り。

『「萬葉集」長哥 水の江の浦島の子が堅魚(かつを)つり鯛つりかねて下畧「第三巻 若狹小鯛・他州鯛網」の注で既に電子化した。

「煎汁(いかり)を貢(こう)すること、見へて」先の「真名真魚字典」の「鰹」に「延喜式」の引用部(総てではないので注意)に三ヶ所、「堅魚煎汁」の貢献が出る。そこでは献納元は駿河と伊豆である。「堅魚煎汁」は現在は通常は「かつおいろり」(現代仮名遣)と読むようである。平凡社「世界大百科事典」の「鰹節」最後の「利用」の項に(コンマを読点に代えた)、『カツオの煮干しをつくる』際の茹で汁は、『古くから堅魚匙汁(かつおいろり)とよばれて調味料とされていた。鰹節の名は室町時代から散見し、だし汁をとるのに用いられたことは明らかであり、「本朝食鑑」』『には土佐節、熊野節の名が見られる。ただし、この時期の文献の記載は、煮熟したのち』に、『曝乾(ばつかん)してつくるとだけになっており、いまのようなカビつけ法が延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『に発見されたとする説は信用できそうである。鰹節は』「勝男武士」『などと書いてめでたいものとされ、祝儀のさいの引物(ひきもの)や結納品に使われる』とある。

『兼好「徒然草」に、鎌倉の海にかつをと云う魚は……』これも「第三巻 鮪(しび)」の注で既に電子化した。

『「鰹魚のタヽキ」といふ物あり。即ち、醢(ひしほ)なり』これは先のカツオの内臓の塩辛である「酒盗」と混同してしまっている。上手い「鰹のたたき」の作り方は、私のブログ最初期の投稿「鰹のたたきという幸福」をご覧あれ。騙されたと思ってやって御覧な、絶対、美味いで!

「奧刕棚倉(たなくら)」現在の福島県東白川郡棚倉町。内陸に位置するが、ここを支配していた棚倉藩は、飛び地として港湾地である平潟(茨城県北茨城市平潟町)を領地とし、そこが言わば、藩の表玄関の役割を持っていた。更に、仙台・三陸・松前の物産がこの平潟に集積した。平潟港の棚倉藩運上規定の「荷物出投」(物品税)が課せられた海産物の筆頭に鰹が挙げられている。さればこその、棚倉の鰹の塩辛なのであろう。]

日本山海名産図会 第三巻 牡蠣 / 第三巻~了

 

Kaki

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「廣島牡蠣畜養之法(ひろしまかきちくようのはう)」。当時の牡蠣養殖の様態がよく判る、優れた一枚である。]

 

○牡蠣(かき)一名 石花

畿内に食する物、皆、藝刕廣島の產なり。尤も名品とす。播刕・紀刕・泉刕等に出だすものは、大にして、自然生(しぜんせい)なり。味、佳ならず。又、武刕・參刕・尾刕にも出だせり 廣島に畜養(やしな)ひて大坂に售(う)る物、皆、三年物なり。故に、其の味、過不及(くわふきう)の論、なし。畜(やしな)ふ所は草津・尓保浦(にほうら)・たんな・ゑは・ひうな・おふこ等の、五、六ヶ所なり。積みて、大坂濱々(はまはま)に繋(つな)ぐ。數艘(すさう)の中に、草津・尓浦より出づる者、十か、七、八にして、其の畜養(ちくやう)する事、至つて多し。大坂に泊ること、例歲(れいさい)、十月より正月の末に至りて、歸帆す。

○畜養 畜(やしな)ふ所、各(おのおの)城下より一里、或いは三里にも沖に及べり。干潮(ひしほ)の時、泻(かた)の砂上に、大竹を以つて垣(かき)を結ひ列ぬること、凡そ一里ばかり、号(なづ)けて「ひび」と云ふ。高さ一丈餘(よ)、長一丁許りを「一口(くち)」と定め、分限に任せて、其の數(かず)、幾口(いくくち)も畜(やしな)へり。垣の形は、「へ」の字の如く作り、三尺余(よ)の隙(ひま)を、所々に明けて、魚、其間に聚まるを、捕る也。「ひゞ」は潮の來(きた)る每に、小き牡蠣、又、海苔(のり)の付きて殘るを、二月より十月までの間は、時々、是れを、備中鍬(ひつちうくわ)にて搔き落とし、又、五間、或いは十間四方許り、高さ一丈許りの、同しく竹垣(たけかき)にて、結(ゆ)ひ𢌞したる籞(いけす)の如き物の内の、砂中、一尺ばかり、堀[やぶちゃん注:ママ。]り埋(うづ)み、畜(やしな)ふこと、三年にして、成熟とす。海苔は「廣島海苔」とて賞し、色々の貝もとりて、中(なか)にも「あさり貝」、多し。

○蚌蛤(ばうがう)の類(るい[やぶちゃん注:ママ。])、皆、胎生・卵生なり。此の物にして、惟(ひとり)、化生(くはせい)の自然物(しぜんぶつ)なり。石に付きて、動くことなければ、「雌雄の道(みち)、なし。皆、牡(を)なり。」とするが故に、「牡蠣(ぼれい)」と云ふ。「蠣(れい)」とは其の貝の粗大なるを云う。石に付きて、磈礧(かさなり)、つらなりて、房のごときを、呼んで、「蠣房(れいばう)」といふ。初め、生ずるときは、唯(たゞ)一擧石(こぶしのいし)のごときが、四面、漸(やうや)く長じて、一、二丈に至る物も有るなり。一房(いちばう)每(ごと)に、内に、肉、一塊(いつかい)あり。大房(たいばう)の肉は、馬蹄(ばてい)のごとし。小さきは、人の指面(ゆび)のごとし。潮(うしほ)來れば、諸房、皆、口を開き、小蟲(こむし)の入るあれば、合せて、腹に充(み)つる、と云へり。又、曰、礒(いそ)にありて、石に付きて、多く重なり、山のごとくなるを「蠔山(がうさん)」と云ふ。離れて小なるを「梅花蠣(ばいくわれい)」と云ふ。廣島の物、是れなり。筑前にて、是れを「ウチ貝」といふは内海の礒(いそ)に在るによりてなり。又、「オキ貝」・「コロビ貝」と云ふは、石に付かず、離れて大(おほ)いなるを云へり。○又、「ナミマカシハ」と云ふあり。海濱に多し。形、円(ゑん)にして、薄く、小(せう)なり。外(そと)は赤(あか)ふして、小刺(はり)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]あり。尤も美なり。好事の者は、多く貯へて、玩覽(くわんらん)に備ふ。是れ、韓保昇が說く所、「※蠣(ふれい)」、是れなり[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「膚」(但し、変体異体字と推定)。底本のここの右頁七行目冒頭]。歌書に「スマカシハ」といふは、「蠣壳(かきがら)」の事なり。又、「仙人(せんにん)」と云ふあり。其の殼に付く刺(はり)、幅(はば)廣きを云ふ。又、刺(はり)の長く一寸ばかりに、多く附く物を「海菊」と云ふ。又、むら雲(くも)のごとく、刺なきものも、あり。その色、數種(すしゆ)なり。右本草 諸房の說を採る。

○「カキ」といふ訓は、「カケ」の轉じたるなるべし。古歌に、

みよしのゝ岩のかけ道ふみならし とよめるは、いま、俗に「岳(がけ)」と云ふに同して云(いゝ)初めしにや。「物の闕(かけ)たる」と云ふも、其の意にて、ともに方圓(ほうゑん)の全(まつた)からざる義なり。

○此の殼を、やきて、灰となし、壁をぬること、「本草」に見へたり。

○「大和本草」に高山(かうさん)の大石(たいせき)に蠣殼の付きたるを論(ろん)して、擧げたり。これ又、「本草」に云ふ所にして、午山老人(こさんらうじん)の討論あり。いずれを是なりとも知らざれば、此(こゝ)に畧す。されども、「天地一元の壽數(しゆすう)改変の時に、付たる殼なり。」と云ふも、あまり、迂遠なる說也。

 

 

日本山海名產圖會巻之三終

[やぶちゃん注:メインは斧足綱翼形亜綱カキ(或いはウグイスガイ)目カキ上科イタボガキ科マガキ属マガキCrassostrea gigas であるが、本文中では他の貝類への言及もある。まずは、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の三項目の「牡蠣(かき)」を見られたい。他にブログの「大和本草附錄巻之二 介類 蠣 (大型のマカキ・イワガキ)」「大和本草附錄巻之二 介類 「蠣粉」・「蚌粉」の用途 (カキ類及びハマグリ(限定は甚だ疑問)類の殻の粉末の用途)」も読解の助けになるはずである。因みに、私は強力なカキ・フリークで多くの外国でも食したが、最も美味しかったのは、アイルランドの田舎で自転車で売りに来ていた老婦人にその場で剝いて貰って食べた小さくて丸い幻しのヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis であった。

「かき」和名のそれは、一説には「岩から搔き落とす」からとは言われる。

「石花」「牡蠣」とともに中文名。されば、本文で語られる♂しかいないという誤認も中国由来。合字の「硴」もある。

「草津」現在の広島県広島市西区の草津港を含む草津地区(グーグル・マップ・データ)。

「尓保浦(にほうら)」現在の草津の東方の広島県広島市南区の宇品海岸の、その東に仁保沖町(にほおきまち)があるが、ここは埋立地と思われ、その北の直近の、猿猴川右岸に仁保の地名があるので、この南の浦の旧称と考えられる。

「たんな」前の仁保の西側に広島県広島市南区丹那町(たんなちょう)及び丹那新町がある。

「ゑは」「草津」と「尓保浦」の中間点で、広島湾に臨む巨大な中州の先端部に広島県広島市中区江波(えば)本町がある。ここであろう。

「ひうな」広島市南区日宇那町(ひうなちょう)。先の仁保沖町に接した後背部で仁保の南。

「おふこ」これも前の日宇那町の西から奥へ広がる仁保島城跡を擁する広島市南区黄金山町(おうごんざんちょう)のことではあるまいか?

「城下」広島城下。

「ひび」漢字では「篊」と書く。「海苔ひび」でお馴染みであるが、小学館「日本大百科全書」に以下のようにある。『沿岸でノリを養殖する施設で、胞子を付着させて生育させるものをいう。古く、魚を捕獲するために海中に立てたひびにノリが着生したことから始まった。ナラやカシなどの樹枝、マダケやモウソウチクなどの竹類を用いた粗朶(そだ)ひび、網地を用いた網ひび、割り竹を簀子(すのこ)状に編んだ簾(すだれ)ひびがある。設置方法により、立体式、水平固定式、水平浮動式がある。現在はおもに網ひびが用いられ、これには水平固定式および水平浮動式がある。なお、粗朶ひびは、かつてはカキの採苗(種(たね)ガキ)に用いられていたが、現在ではホタテガイのひびなどが用いられており、これはひびとはいわず』、『付着器とよばれる』とあった。そうだ! 挿絵の牡蠣養殖の「粗朶ひび」こそが「ひび」のルーツだったのだ!

「一丈餘(よ)」三メートル超え。

「一丁」百九メートル。

「備中鍬(ひつちうくわ)」「びっちゅうぐわ」。当該ウィキによれば、『深耕や水田荒起に用いる鍬を改良した農具で』、『材料に』二股に分かれた『股木を利用した「股鍬」の一種』。『弥生時代から存在していた股鍬が改良されたもの。弥生時代のものは木製だったが、古墳時代になると鉄製のものも生まれた』。『刃の先が』二『本から』六『本に分かれているものを「備中鍬」と呼称した』。『「備中鍬」の名前で呼ばれるようになったのは江戸時代からで、別名に「万能」、「マンガ」などがある』。『歯が三本の備中鍬は三つ子、三本鍬、三本万能、三本マンガと呼び、歯が四本の備中鍬を四つ子、四本鍬、四本万能、四本マンガと呼んだ』。『刃の形状には、尖ったもの、角形、撥形がある』。『備中鍬は文化文政時代に普及』し、『平鍬と違い、湿り気のある土壌を掘削しても、金串状になっている歯の関係で歯の先に土がつきづらいのが利点』で、『粘土質の土壌や、棚田を耕すために使われた』。『また、馬や牛を所有することが出来ない小作農にもよく使われた』とある。辞書によれば、最も利用されたのは三本鍬であったとあるが、挿絵を見ると、刃が一般的な備中鍬より遙かに短く、概ね六本である。持ち上げて使用するためには、軽量であることが絶対条件であるから、甚だ腑に落ちる。

「五間」九・〇九メートル。

「籞(いけす)」「生簀」に同じ。

「廣島海苔」広島の海苔業者「丸徳海苔」公式サイトの「広島のりの歴史|多彩なくらしとともに」が詳しくて写真もあり、まことに素晴らしい! 私は、即座に保存した。

「蚌蛤(ばうがう)」ここは斧足(二枚貝)類の総称。

「此の物にして、惟(ひとり)、化生(くはせい)の自然物(しぜんぶつ)なり」無論、誤り。カキの仲間には雌雄同体の種と雌雄異体の種があり、マガキでは雌雄異体であるが、生殖時期が終了すると、一度、中性になり、その後の栄養状態が良いと♀になり、悪いと♂なるとされている(ウィキの「カキ(貝)」に拠った)。「本草綱目」でも、「本草綱目」の巻四十六の「介之二」「蛤蚌類」の冒頭に立項された「牡蠣」で(囲み字は太字に代えた)、

   *

景曰はく、「道家の方に、以(おも)へらく、左顧は是れ、雄。故に牡蠣(ぼれい)名づけ、右顧は則ち牝蠣(ひんれい)なり。或いは、突頭を以、左顧と爲す。」と。藏器曰はく、「天、萬物を生ずるに、皆、牝牡、有り。惟だ、蠣、是れ、鹹水に結成し、塊然として動かず。隂陽の道、何にか從ひて生ぜんや。」と。宗奭(そうせき)曰はく、「『本經』に左顧を言はず。止(た)だ、陶が說に從ひて、段成式も亦、云はく、『牡蠣は牡』と言ふ。雄を謂ふに非ざるなり。且つ牡丹のごとき、豈に牝丹有らんや。此の物、目、無く、更に何ぞ、顧盻(こべん)せんや。」と。時珍曰はく、蛤蚌の屬、皆、胎生・卵生有り。獨り、此れ、化生して、純雄にして、雌、無し。故に「牡」の名を得たり。「蠣」と曰(い)ひ、「蠔」と曰ふは、其の粗大なるを言ふなり。」と。

   *

最後に小文字で記している通り、蒹葭堂はこれをもとに書いている。

「小蟲(こむし)の入るあれば、合せて、腹に充(み)つる」当時、既に正しくイメージとしてプランクトン摂餌を理解していたことが判る。

「蠔山(がうさん)」海中に形成された牡蠣群の死骸の殻で出来た驚くべき大きさ(数十メートルでもあり得る)の山を「蠔山」(ごうざん:蠔は牡蠣(カキ)に同じ)と呼ぶ。

「梅花蠣(ばいくわれい)」「ウチ貝」「オキ貝」「コロビ貝」これらはマガキの異名である他に、他の種を含んでいる可能性もかなりある。例えば、「石に付かず、離れて大(おほ)いなる」というのは、イワガキ Crassostrea nippona を指している可能性が頗る高いように思われる。

「ナミマカシハ」カキ目 Ostreoida ではあるが、誰もカキの仲間とは認識していない、綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目ナミマガシワ上科ナミマガシワ科ナミマガシワ属ナミマガシワ Anomia chinensis である。岩や小石の他、他の中・大型の貝に附着して見かけることが多い。本種は左殻を表として、右殻を内側にして付着する。右殻には殻頂部に孔があり、石灰化した足糸が出る。因みに、マガキは左側の殻で付着する。但し、「形、円(ゑん)にして、薄く、小(せう)なり。外(そと)は赤(あか)」いというのはまさに本種を指して見事なのだが、「小刺(はり)あり」というのは解せない。附着上面の辺縁部に凹凸が生じる個体は多いが、針とは言い難く、左殻は薄く、その表面は寧ろ、滑らかであることが多い。「尤も美なり」かどうかは個人によるが、不味くはないらしい。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のナミマガシワのページに「ナミマガシワの塩ゆで」として『熱を通しても硬く締まらず、ふんわりとゆで上がる。身に甘みがあり、苦みはほとんどなく、甘味が強くとてもおいしい』とされつつ、『食用としていた地域はあるが』、『貝毒など危険性は皆無ではない。食べるときには自己責任で』と赤字表記がある。また、和名は「波間柏」で、「カシワ」(ブナ目ブナ科などの、外で器の代わりにする木の葉)を伏せたような形の貝殻という意とある。しかし、この貝、四~五センチメートルほどの小型の貝であり、食うほどに集めるのも厄介なもので、この蒹葭堂の味の評価は不審である。但し、「好事の者は、多く貯へて、玩覽(くわんらん)に備ふ」とあるのは、腑に落ちる。貝類蒐集家の中には、この貝殻の美しいものを集めるのが好きな者が多いからである。

「韓保昇」五代の後蜀の本草学者で翰林学士であった韓保昇(九三四年~九六五年)。これは「本草綱目」の「牡蠣」の「集解」の以下の記載に基づく。

   *

保昇曰はく、「又、※蠣、有り。形、短くして、藥用に入れず。」と。

(「※」=「虫」+「膚」(但し、変体異体字と推定))

   *

『歌書に「スマカシハ」といふは、「蠣壳(かきがら)」の事なり』不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。なお、「壳」は「殼」の異体字。但し、実は底本では中央の「几」の上の「一」が存在しない。

『「仙人(せんにん)」と云ふあり。其の殼に付く刺(はり)、幅(はば)廣きを云ふ』聴いたことがないが、腑には落ちる。有意に出た湾曲した殻の突起を、鶴に乗って空を飛ぶ仙人の翻る袂に喩えたものであろう。

『刺(はり)の長く一寸ばかりに、多く附く物を「海菊」と云ふ』同じくカキ目だが、カキとは認識しないイタヤガイ亜目イタヤガイ上科ウミギク(ガイ)科ウミギク(ガイ)属  Spondylus barbatus 。房総半島以南の水深二十メートルより浅い岩礁にセメント質で固着している。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの写真で判る通り、殻表面の葉条片が菊の花弁のように有意に突出する。殻色がオレンジや黄色に変異する個体(或いは近縁種か)が多く、やはり、貝類蒐集家の人気の貝である。私はあざとい自然の造形で好きではない。

「むら雲(くも)のごとく、刺なきもの」とだけ言われても、種同定は私にはできません。

「みよしのゝ岩のかけ道ふみならし」「古今和歌集」の巻第十八「雜歌下」にある「よみ人しらず」の一首(九五一番)、

 世にふれば

   憂(う)さこそまされ

  み吉野の

   岩のかけ道

      ふみならしてむ

「岩のかけ道」は蒹葭堂が『俗に「岳(がけ)」と云ふに同して』(最後は「同(おなじく)して」で「同じうして」に同じ)が言うように、削り取ったように直立する切り立った岩場に打ち込んで作った桟道のこと。まあ、この歌では「険しい山道」ほどの意であるが。「ふにならしてむ」は隠棲のポーズ。「踏み平(な)らそう」で山中に生きんとする宣言である。

『此の殼を、やきて、灰となし、壁をぬること、「本草」に見へたり』「大和本草附錄巻之二 介類 「蠣粉」・「蚌粉」の用途 (カキ類及びハマグリ(限定は甚だ疑問)類の殻の粉末の用途)」及び「大和本草附錄巻之二 介類 海粉 (貝灰粉)」の私の注を参照。前者で「本草綱目」の当該部も電子化してある。

『「大和本草」に高山(かうさん)の大石(たいせき)に蠣殼の付きたるを論(ろん)して、擧げたり』「大和本草卷之十四 水蟲 介類 牡蠣」に、

   *

蠣殼〔(かきがら)〕の高山の上の大石に、つきて、ある事、中華の書に見へたり。日本諸州にも往々、之れ有り。邵子〔(せうし)〕の説に、『天地一元の壽數〔(じゆすう)〕を十二會(ゑ)に分けて凡そ十二萬九千六百を以つて天地の壽數とす。其の數、をはれば、天地萬物、滅びて、又、改まり、生ず。一會を一萬八百年とす。今は子の會より六萬年餘に、あたれり。』とす。天地の改まる時、土地・萬物は皆、變滅すといへども、只だ、石は亡びず。然らば、高山の蠣殻は前の天地の時の大石に付きたるか。今の天地となりて高山の上のぼるなるべし。此の説によれば疑ひ無し。

   *

とあるのを指す。

『これ又、「本草」に云ふ所にして、午山老人(こさんらうじん)の討論あり』不詳。前の牡蠣殻の化石が山か高い岩から出土することに関わる話であろうが、どうも「本草綱目」には見当たらない。一つきになったのは、現在の山東省青島市に午山があり、その南麓の海辺に海中に奇岩がそそり立つ石老人村があることぐらいである。中文の「百度百科」の「石老人村写真がある。識者の御教授を乞うものである。

『されども、「天地一元の壽數(しゆすう)改変の時に、付たる殼なり。」と云ふも、あまり、迂遠なる說也』否定的だが、益軒の言っていることが正当であることは言うまでもない。]

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