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カテゴリー「梅崎春生日記【完】」の10件の記事

2021/07/10

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版) 一括縦書ルビ版 公開

梅崎春生の日記の恣意的正字歴史的仮名遣変更一括縦書ルビ版(PDF・藪野直史注附き)を公開した。3メガバイト強。

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)8 昭和二二(一九四七)年(全) / 梅崎春生 日記 電子化注~了

 

   昭和二十二(一九四七)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生、この年で満三十二。全集年譜と中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、一月、山崎恵津と結婚している。恵津は実践女子専門学校国文科卒で雑誌『令女界』や『若草』の編集者であった。新居は豊島区要町であった。三月「崖」(私のブログ版電子化注)を『近代文学』(二・三月合併号)に発表、五月、「茸の独白」(私のブログ版電子化注)を『新小説』に、六月、「英雄」(沖積舎版全集に不載。私の『梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます 《2020年11月3日追記有り・ほぼ解決》』を参照されたい。私は現在に至るまで未読)を『小説と読物』に、「紐」(私のブログ版電子化注)を『新小説』に発表している。八月号『新文芸』に「世代の傷痕」(私のブログ版電子化注)を、「蜩」(私のブログ版電子化注)を九月号『風雪』に、同月、「日の果て」(リンク先は「青空文庫」)を『思索』に発表した。十月、長女史子(ふみこ)が誕生し、世田谷区松原町三丁目に転居した。同月には『文藝』に「ある顚末」(私のブログ版電子化注)を、「行路」を『不同調』に、十一月、『日本小説』に「贋の季節」(私のブログ版電子化注)を、『光』に「亡日」(私のブログ版電子化注)を、『浪漫』に「鏡」(私のブログ版電子化注)を、『新小説』に「ランプの下の感想」(私のブログ版電子化注)を、十二月には『文芸大学』に「鬚」(私のブログ版電子化注)を、『文学会議』に「蜆」(リンク先は「青空文庫」)を、『文芸季刊』に「朽木」(近いうちに電子化する予定である)を、『別冊文藝春秋』に「麵麭の話」(本記事公開から数時間後に電子化公開した)を、それぞれ発表している。また、一月には岡本太郎・花田清輝・埴谷雄高・野間宏・椎名麟三・佐々木基一・福田恆存らと『夜の会』に参加、夏には武田泰淳・高橋義孝・日高六郎らと『近代文学』第二次同人拡大に加わり、また、親友霜多正次の紹介で『新日本文学』に加入、十二月には『序曲』創刊に埴谷雄高・野間宏・三島由紀夫・寺田透らと参加するなど、戦後派作家としての積極的行動が目立ち始めている。

 これを以って底本の「日記」パートは終わっている。]

 

三月十二日

 八時半頃起きて食事。サメの煮こごりなどで腹一ぱい食べ、また寢た。惠津子は私が眠つているうちに寶文館に行つた。そして眠りが覺めたのが午後二時。

 起き上つて頭が重く、ゼドリン服用せしも氣分晴れず、下高井戶まで散步に行く。戾つて來て「サーカス」を少し書いた。どうやら書けさうな氣もするが、今までの中で最も難物であることはたしかだ。漱石の「吾輩は猫である」を拾ひよみした。つまらない小說だと思ふ。

 五時、食堂に行き、飯をとつてくる。その間に、三島由紀夫君より電話かかりたるらし。今夜は「サーカス」の中の「鬼頭の獨白」を書く豫定である。

[やぶちゃん注:「惠津子」奥方の恵津さん。

「寶文館」『令女界』『若草』の出版元。

「ゼドリン」強い中枢興奮作用・精神依存性・薬剤耐性があり、中枢興奮作用を持つ、間接型アドレナリン受容体刺激薬アンフェタミン(amphetamine/alpha-methylphenethylamine)の武田薬品工業の商品名。現行では治療薬としてナルコレプシー及び注意欠陥・多動性障害(ADHD)のみで用いられ、本邦の「覚醒剤取締法」では「フェニルアミノプロパン」の名で覚醒剤に指定されている。思うに、梅崎春生の後年の精神変調の一因にこうした向精神薬の多用があるのではないかと疑われる。

「サーカス」恐らくは昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に初出で、後の第一作品集「櫻島」に所収された「贋(にせ)の季節」(リンク先は私のブログ版電子化注)と思われる。但し、決定稿には「鬼頭」という人物は出ない。ただ、六月発表に「紐」(リンク先は私のブログ版電子化注)の主人公は「鬼頭」である。しかし、サーカスとはストーリー関連はない。サーカスも梅崎春生はしばしば舞台やロケーションに使うので、特定出来ない。]

 

三月十六日 日曜日

 朝食後また寢て、一時頃目覺めた。そしてまだ眠い。昨夜寢たのが午後八時頃だから、十六七時間寢てゐた計算になる。すなはち起きてゼドリンを服み、「ジユニアタイムズ」の「帽子」二枚ほどかく。それから經堂に行かうと思つて出かけたら門前にて兄とあひ經堂に行く。カステラ、チーズなどを馳走になる。それより又戾り、夕食を共にたべ、ざしきにて麻雀一莊。+(プラス)一五〇にて二位。

 どうも書けないのは、くさる。どうしたものであらう。

[やぶちゃん注:「帽子」不詳だが、少年誌(新聞?)からの依頼であったことから、後年の昭和二六(一九五一)年一月号『文学界』に発表されたアンソロジー「破片」(リンク先は私のPDF縦書版電子化注)の冒頭にある「三角帽子」の元原稿ではないかと私は思う。]

 

三月十七日

 また今日も十二時までねてゐた。

 「文學季刊」の小說、筋完成す。

 夕方部屋を整頓。夕食後、ハガキなどをしたためゐるうち九時となり眠氣きざす。

 近頃の日記はまつたく眠り日記なり。

[やぶちゃん注:『「文學季刊」の小說、筋完成す』この年の十二月発行の『文芸季刊』に発表した「朽木」。]

 

三月二十六日

 「高鍋」二十五枚ほど書いた。書いてみて、何か濁つた、スタイルの亂れた書き方を感じ、も一度書きなおさねばならぬと思ふ。私の癖である處の、低徊的な、不明確性だけが目立つてゐて、それが厭だ。

 だから、之は一週間ほど書かずに、おいておこうと思ふ。

 

 今の所、書かうといふ純粹な氣持ではない。書かねばならぬといふ重苦しい義務感。それが作品に打ち込むことから私を隔ててゐる。情熱がないのに、每日、何枚かを書かねばならない――書いてゐるかどうか他から監視されてゐる感じである。私は誰からも氣持の上で强請(ゆすり)を感じたくない。私は今まで、ほしいまま書いて來た。今スランプにある。これは事實だ。それはしかしあくまで私個人の問題で、外から批判されたり非難されたりすることぢやない。所詮文學とは孤獨の道だ。

 

 今、新宿から戾つて來た。新宿の人混みをわけて步いて、イライラした。街にも、何も刺激はありはしない。

 私を救ふものは何もありやしない。それは今に始まつたことではない。もとから判つてゐた。ただ時々の錯覺で救はれるものがあるかと思つたりするだけだ。

[やぶちゃん注:「高鍋」は私は「無名颱風」(リンク先は私のPDF縦書詳注附き電子テクスト)の原型と考えている。「無名颱風」は昭和二五(一九五〇)年八月初出であるから、実に三年半かかって完成させたことになる。梅崎春生には、かなり熟成させた作品が、思いの外、結構あるように感じられる。]

 

四月二十日

 高鍋 六十枚

 馬  六十枚

 英雄 三十五枚

にて皆放棄す。造形と言ふことのむつかしさ。今「外套」の下書き。成功すればいいが。今日は、土居氏等來る筈なり。

[やぶちゃん注:「馬」かなり長い作品だが、不詳。

「外套」既に述べたが、「外套」という小道具は、後の梅崎春生の小説の中で、重要なアイテムとしてしばしば登場するものである。されば、軽々にどの作品の元原稿とは言えないものの、感触としては、この年の十月に発表することになる「ある顚末」(私のブログ版電子化注)が私には浮かぶ。]

 

八月六日

 俺は、

  平和時代には資本の下に服從し

  戰爭時代には權力に屈し

  そして今もなお、生きるスベを知らぬ民衆を書く。

 

九月一日

 女が哀しい、のではない。

 女を眺める己の性欲が哀しいのだ。

   (女はただの個體)

 

九月二日

 絕望ぢやない。絕望への憧憬なのだ。あるいは絕望への鄕愁――。

 

九月二十二日

 人間としての保證のために、感動したふりをする。本當は感動していない。

 

十一月九日

 十八日までに「文藝春秋」

 十五日までに「花」

 今日からかきはじめて、今、三枚目。

 出來るかしら。

[やぶちゃん注:「文藝春秋」『別冊文藝春秋』に発表した「麵麭の話」。

「花」前との関係から雑誌名らしいが、不詳。対象作品も知らない。]

 

十一月十一日

 やつと八枚目まで書く。

 

 月評家とはなにか?

  それは、彼等が攻擊する風俗小說家と同位置だ。

 

 ほづつの響き  とほざかる

 あとにはむしも  こゑたてず。

[やぶちゃん注:「ほづつ」「火筒」で銃砲・火砲の意。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)7 昭和二一(一九四六)年(全)

 

[やぶちゃん注:昭和二〇(一九四五)年分は二〇一六年一月十六日にこの年だけの日記をここと同じ仕儀でブログ公開したものが既にあるので、そちらを見られたい。今回、日記本文は、今一度、見直し、ブラッシュ・アップし、リンク先などの不具合なども補正したので、そちらを見られたい。本カテゴリ「梅崎春生日記」では一番最初(一番下の記事)に現われる。

 梅崎春生は桜島の海軍基地で終戦を迎えた。満三十歳であった。全集年譜と中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、敗戦の翌九月に上京して、出征の際に本を託していた友人波多江が南武線の稲田堤(稲田登戸)にいたのを訪ね、同居した(「波多江」は梅崎春生のエッセイ「日記のこと」に登場する五高以来の旧友。リンク先では新字新仮名でこの年の日記を電子化してある)。稲垣足穂を知り、また、十二月に「櫻島」(単行本短編集初版本(昭和二三(一九四八)年三月大地書房刊)を古本屋で見たが、表紙のそれは正字であった)を執筆、新生活に持ち込んだとある。この昭和二十一年二月には目黒区柿ノ木坂一五七松尾一光方(作家八匠衆一(大正六(一九一七)年~平成一六(二〇〇四)年:小説家。北海道旭川市生まれ。梅崎春生とは終生親しく、小説「風花の道」(昭和五九(一九八四)年は二人の関係を描いたものである)の本名)に鬼頭恭而と転居して三人で同宿生活を始めた。創造社に就職、総合雑誌『創造』の編集を手伝ったが、三月より赤坂書店編集部に勤務した(十二月馘首)。浅見淵から近く創刊する雑誌に三十枚ほどの小説を書いてみないかと慫慂され、急遽、新生社から原稿を取り戻し、九月に発行された『素直』創刊号に掲載されたのであった。

 なお、戦後であるが、歴史的仮名遣や正字を書いて居た人間が、かっきり新時代になって新字新仮名を使うとは私は全く思っていないから、本年と最後の翌昭和二十二年も同仕儀で電子化する。]

 

   昭和二一(一九四六)年

十月十四日

 辰野先生より來信。

 つまらぬ作品を注文者にわたすな。やせても朽(か)れても、片々たる作品を書くな、ということ。グラグラしてゐた氣持が、これでピンとスジガネ入る。

 行く道は一筋の外なし。此の自明のことが此の暫く判らなかつたのだ。

[やぶちゃん注:「辰野先生」不詳。フランス文学者で東京帝国大学教授(フランス文学主任教授)辰野隆(ゆたか 明治二一(一八八八)年~昭和三九(一九六四)年)か?]

 

十月二十九日

 「新生」の原稿「獨樂」三十六枚まで書いた。これで良いような氣もするし、またドダイ惡作で、かえされさうな氣もする。自信はない。

[やぶちゃん注:後の名篇「日の果て」(リンク先は「青空文庫」)の初稿。「私の創作体験」(昭和三〇(一九五五)年二月刊の岩波講座『文学の創造と鑑賞』第四巻初出)に詳しい。リンク先は私のブログ電子化注。]

 

十一月二十三日

 「崖」四十枚まで書く。

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年二・三月合併号『近代文学』に初出、後に単行本「桜島」(昭和二十三年三月大地書房刊)に再録された小説。私のブログのこちらで電子化注してある。]

 

十一月二十七日

 古田君より百圓うけとる。之が全財產。

 石鹸を買ふ。

 左は借金表。

[やぶちゃん注:底本ではここに、『このあとに借金の一覽表があげてある。(編集部)』とあってそれは省略されている。]

   

十二月十二日(木)

 ここには事實だけしかない。善惡はない。

 眞實は一つしかない。それは内奧の聲だ。

 自分のために生きるのが、眞實だ。爾餘(じよ)の行動は感傷にすぎない。

 

 皆が修羅である。

 獨樂(こま)のやうにひとりで𢌞り、そして𢌞りつくして倒れる他ない。

 

 勳章がより所である。

 

 俺は目の覺めるやうなものを見たかつたのだ。ただそれだけだ。

 

 自分が何を考えてゐるか判らなくなつた。

 おれは幽鬼のやうにさまよひ出たのだ。

[やぶちゃん注:「爾餘」それ以外。

「勳章」意味不明。辛酸を舐めた非人間的な海軍勤務体験を指すか。]

2021/07/09

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)6 昭和一四(一九三九)年(全)

 

   昭和一四(一九三九)年

 

[やぶちゃん注:この年で梅崎春生は満二十四歳。前に述べたように、昭和十二年と昭和十三年の日記は底本にはない。底本や中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜にも昭和十二年は記載がない。昭和十三年の条は、後者によれば、『二月、脳溢血で倒れ長らく病床にあった父』梅崎健吉郎(歩兵中佐)『が、床ずれから敗血症を併発して死去。享年五十九歳。十二月、二週間かかって』『「風宴」を書きあげる』とある。この昭和十四年の条には、『霜多正次に「風宴」を見せたが、左翼づいていた彼は問題にしてくれず、井上達(靖の弟)が「改造」に交渉してくれたが、ここでも謝絶された。三月、自分で浅見淵』(ふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年:小説家・評論家。兵庫県生まれ。早稲田大学国文科卒業。大正一五(一九二六)年十月、『新潮』新人号に「アルバム」を発表、昭和三(一九二八)年には丹羽文雄らと『新正統派』を創刊したほか、多くの同人誌に加わった。私小説風の作品や作家論・作品論などを発表した)『のところに持ちこむ。八月「早稲田文学」新人創作特輯号に』『「風宴」が掲載され』たが、『商業誌紙の反響は皆無で、わずかに「早稲田文学」の次号で、匿名氏から、時局柄ふさわしくない神経衰弱的な青春像だとの酷評を受ける』とある。「風宴」は「青空文庫」のこちらで読める。]

 

四月三十一日

 蓬萊莊を出て、東陽館に引き移る。

 階下のうす暗い四疊半である。これがまあ、終(つひ)の栖(すみか)かと私は何とはなしに思つた。一先づ荷物を收めるところに收めつくした。

 今度の部屋は、押入が廣い。貧弱ながらも床の間がある。本棚をそこに入れた。

 窓を開くと、中庭に面してゐる。二坪ほどのへうたん池があつて、汚れた水をたたへてゐる。庭には、白い花片や、葉が落ちてゐる。

 

 夕食後、早稻田に行つた。

 淺見淵氏の家に行つたが、燈が消えて、誰もいなかつた。淸水さんの家に行く。

 淸水さんの弟(光男の兄)が來ている。軍醫となつて訓練されているらしいが、甚だしく知性の缺乏した容貌と語調を持つてゐる。此の前來たときも會つた。

 一郞さんと十錢賭けの碁を打つて、一勝一敗した。その後、淺見氏の家に行き、上つて暫らく話した。「風宴」は編集會議にかけなければ、のせるかのせぬか分らぬといふこと。

 「風宴」は、人事にうすく抒情が勝つてゐるといふこと。

 

 バルザツクを讀む。「グランドブルテーシユ綺譚」「復讐」「フランドルの基督」「海邊の悲劇」。

[やぶちゃん注:最後のフランスの巨匠オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)のそれは、ライン・ナップから、昭和九(一九三四)年岩波文庫刊の水野亮訳と推定される。]

 

五月一日

 九時起床。食欲うすい。

 學校に行つて、學生課に行つた。

 ぼんやりあそこで立つてゐると、家庭敎師が二口きまつた。豐富にあるのが嬉しいやうな、私をのけものにしてゐるのが口暗しいやうな氣分。

 なるだけ早くしてください、せつぱつまつてるんだから、と言つたら、皆が笑ふ。成程樂天的好人物と思つたんだらう。

 天氣が好いせいか、浮きうきして、浮世の苦勞といふことが、身について來ない。歌などうたひながら、東陽館にかへつて來た。そのうちに、「風宴」は發表されるし、家庭敎師はあるし、と言ふやうなことになるだらうと思つた。

 なるだけ外國の作品を讀まうと思つて、この間はジイドの「法王廳の拔穴」をよんだ。面白かつた。洒落ではないけれど、どこかに拔穴を感じる。

 今日はトルストイの「クロイチエルソナタ」を讀んだ。その後五十分ばかり晝寢をした。起きて、トーマス・マンの「ベニスに死す」。

 

五月二日

 學生課に行く。澁谷の方の家で、中學三年生。それはいいけれど、住込だといふ。私は澁つて、ことわつた。一度斷ると、もう世話してくれぬといふ話を私はいつかきいたことがある。悲しい氣持で、大學正門を出て、有斐閣の二階でしばらく音樂をきいた。沈鬱な氣持になつた。

 モーパツサンの「あだ花」「オト父子」をよむ。

 十一谷義三郞の「笑ふ男」「笑ふ女」をねながら讀む。前者は平賀源内のことをかいたもの。氣障(きざ)な小說だ。

[やぶちゃん注:十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう 明治三〇(一八九七)年~昭和一二(一九三七)年:神戸市生まれ。早く父を亡くし、苦学して東京帝国大学英文科卒業。在学中に同人雑誌『行路』を創刊。『文藝時代』の同人であり、このため新感覚派の一人とされるが、虚無的で知的な作風で知られ、新感覚派とは一線を画した。肺結核で没した。国立国会図書館デジタルコレクションの「笑ふ男・笑ふ女」(昭和七(一九三二)年白水社刊)で二篇通して読める。梅崎春生が読んだのも、本書の可能性が高い。異様に凝った装幀・本文組みで、それだけ見ても「氣障」という感じがするものである。]

 

五月三日

「背德者」ジイド 第一部讀み、晝寢。

「背德者」を終りまで讀む。

「橄欖畑」をよむ。モーパツサン。岩波文庫「あだ花」の中。

 ジイドの「狹き門」を讀了。アリサといふ女に濁つた不快を感じた。

 

五月四日

 質屋に羽織をもつて行く。今日の利子一圓五〇錢、十五日迄待つて貰ふ。

 午前十時より、机に倚り、午後三時まで、「赤と黑」を讀む。大へん疲れた。上卷讀み終り、下卷を少し。

 寢る、頭やすめた。オニールを讀まうとしたが頭に入らなかつた。

 夜、「赤と黑」讀了、午前三時頃也。

 

 私は道德家だ。しかし刺激を欲してゐる。だから、反道德的なことに興味をもつのだ。ジユリアン・ソレルは不快な生意氣な小僧だ。

[やぶちゃん注:ジュリアン・ソレル(Julien Sorel)はフランスの巨匠スタンダールの小説「赤と黒」(:一八三〇年) の主人公。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『片田舎の下層階級の出身ながら、才智と美貌に恵まれ、偽善を唯一の武器として立身の道を切りひらいてゆくこの青年は、しばしば野心家の代名詞とされるが、むしろ強調すべきは彼が挫折する野心家だという点であろう。偽善に身をよろいつつも』、『彼の本質は情熱的夢想家であり,明晰冷徹を旨としながら』、『彼は絶えず内面の情熱、自らの感受性に裏切られ続け、ついに破滅へと向かう。〈己の身分の卑しさに反抗した田舎者〉と自らを規定する彼は、時代が生んだ、時代に反抗する人物であり、時代に押しつぶされて死ぬほかない。それがこの作品の』〈一八三〇年年代史〉(=フランス王政復古時代)『という副題の含む告発なのである。モデルは作者の故郷に近い寒村で殺人未遂事件を起こした元神学生アントアーヌ・ベルテ』Antoine Berthet『で、事件の概要は作品中でかなり忠実になぞられている。しかし、いうまでもなく,最大のモデルは作者自身にほかならず、冷徹を希求する男がつねに自らの感性の犠牲になるという意味で、これは作者の自画像であり、最愛の分身なのである』とある。]

 

五月五日

 十時半起床。

 「都新聞」の中野重治の隨筆で、平林彪吾が死んだことを知つた。病名は敗血症。

 尾崎士郞の「夏草」という小說(オール讀物)をよんだ。

 

 尾崎士郞の惡い所が妙に魅力になつてゐるやうに思はれた。

 ツルゲネフの「ルーデイン」といふ小說をよんだ。始めよんでゐるうちに、一種の不快さを强いられたが、後半は、さういふ感じがなくなつた。ツルゲネフがルーデインに對する態度の二重性を感じるのは、私も感じた。

 阿波田正一と一脈通ずる所があるのを私は感じた。四時に讀み終へて、例のやうに、一時間程眠つた。眠る前に、「あひびき」といふのをよんだ。(二葉亭四迷の「片戀」の中より)

 

 今日はSERVANT[やぶちゃん注:縦書(以下も総て同じ)。「使用人」の意。恐らくはここでは新しい学生下宿「東陽館」の若い女中と思われる。後に出るそれは前の「蓬萊莊」のそれか。]が私を怒らせた。マツチのこと。私はあいつの心についていろいろ考へをめぐらした。

 あいつは私を友達と思つてゐる。(らしい) こんなことがある。二日程前、私がひるねしてゐた時、入つて來た。音を立てない。私はいらいらして、終に起き上つた。あいつは疊の上にねてゐた。眠つてすらゐたのだ。

 私は追ひ出すのに苦勞した。

 

 私が去年の十一月、何故此處[やぶちゃん注:これは「彼處」(あそこ)の誤りではないか? 前の「蓬萊莊」である。]を出たか? はつきり理由があつたんだが、時間がそれを妙な樣に變へてしまつた。あのころのうつとうしい沈鬱を憤怒を、今日のマツチの事件で思ひ出した。あいつらは私の爲になるやうなことは何もしない。もちろん進んでしようともしない。個人的に何かたのめば、官僚的と思はれる程の態度で拒絕する。かつと私はなる。あのみにくい顏や手足をばらばらに引きさきたい欲望にかられる。

 あいつが私になれなれしいのは、私を利用するためだ。(はつきり意識はしてゐないだらうけれど) 私の言ふことを眞にうけぬ。冗談を以て報いる。これは私が惡いかも知れぬ。さういふ風になれさしたのは私の罪かも知れぬ。私をさういふ風にとりあつかひなれなれしくすることに、あいつは快感を感じてゐるらしく見える。しかし、あいつは、まだよかつたのだ。(あの頃)も一人のSERVANTを、私は滿身の憎惡と嫌惡を以て今思ひ起す。赤門前の本屋の前で、そいつに私は出會つたのだ。あの、あんぱんのやうな顏をみて、私は憎惡を包みかくしながら、うはべはおだやかに冗談など言つて別れた。私は私の氣持が判らない。なぜあんなことをするのだらう。

 

 「赤と黑」その他、外國の小說を讀んでゐて、女の心について考へる。あんな風に行くものかと考へる。それだから、私は一つの實驗をしてみようと思ふ。

 先づ、もとからいるSERVANTをA、新しいSERVANTをBとする。私はBに近づいてみやうと思ふ。Bに愛想よくしてみようと思ふ。いろいろ話したり、しんみりしたりして。(ジユリアン・ソレルが露西亞の貴族から聞いた方法を、私の現實に變形してみて)Aに對しては、虛心坦懷、風の如くみる。その結果をはつきりしらべる。

 せめて、そんな實驗することによつて、今日のやうな不快から逃れ出たいと思ふ。

 

 私は偉くならねばならぬ。人間的にではなく、社會的に。私がいろいろ感ずる不快感は、自分が社會的に何等のこともなしてゐない、職にもついてゐないし、怠惰な學生で收入はない、さうした卑小感から出發するものである。それをなくす道は、ある種の支柱を必要とするのだ。心理的な支柱を。それには、社會的に、自分の位置がはつきりと自分でみとめられる支柱が、もつとも最初に私の目に映じて來る。

 私が今、最も近く望んでゐることは、「風宴」が「早稻田文學」にのることだ。これによつて、私の心は剌激されるだらう。又、外の小說を書こうといふ氣持にもなれるし、野心といふものが剌激によつて目ざめるだらう。エクスタシーの狀態が少なくとも三日間はつづくだらう。その間に、私は私の心の姿勢をととのへる。何物も恐ろしくないことをはつきり自分に言ひきかす。そして又、仕事!

 かいてゐるうちに、だんだん憂欝な氣持になつてくるから、止す。

 

 私の部屋の窓をあけたら、夕暮があつた。貧しい中庭を、私は意識的に觀察した。今日の夕食終へてすぐのことである。煙草一服ふかす時間のあいだ。その印象を記す。

 樹、松、八つ手、椿、紅葉。八つ手だけは四五本。その他いろんな木が生えてゐる。地にも落ちてゐる。白い花片に黑い斑點がある。松の木は眞中に生えてゐて、一番上は見えない。松の木があつたのか、と最初思ひ、不思議な感じがした。その次、外から見えるかな、と思い、ほとんど同時に、小學校讀本の、我が家といふ章を思ひ出した。此の連想は非常に自然である。

 庭の眞中に池がある。汚れた水が半分入つてゐる。木の葉や油がういてゐる。何の形をかたどつたものだらうと思つて、又、修猷館(しゆういうくわん)の九州池を思つた。

 何も象(かたど)つてゐない。出鱈目(でたらめ)な形だと私は思つた。その橫に岩がある。その上に、女がかめをもつた彫像が置いてある。ギリシヤ風の服裝をしてゐる。岩の上でなく、池のふちにおいたらいいだらうと私は思つた。さうすると、私の空想を剌激するだらう。高さ七八寸の彫像を等身大に見なすことによつて。

 庭のすみに女の下駄が二足あつて、兩方とも汚れてゐる。雨どひがある。ブリキで出來てゐる。船の古材のやうな感じのする五尺ほどの材木がそれに立てかけてある。とひには、毛蟲が一匹、くの字形にくつついてゐる。庭のむこうには部屋が□□ある[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]。

 電燈のついている部屋では男の頭が見える。夕食のライスカレーを食べてゐる。一言で言へば、貧弱な光景だ。佗しくて暗い庭だ。

 いまから先、どの位、私は此の庭を、あけくれ見てすごすことだらう。

 

 ゴーリキーの「零落者の群」を讀んだ。胸を打つて來る小說であつた。「死の家の記錄」より、浮浪人に作者の愛情はあたたかい。一時に眠る。

[やぶちゃん注:「平林彪吾」(ひょうご 明治三六(一九〇三)年~昭和一四(一九三九)年)は小説家で、鹿児島県姶良郡(現在の霧島市)生まれ(自作農家の三男)。本名は松元実。大正一〇(一九二一)年七月、日本大学高等工学校建築科卒業。昭和二(一九二七)年四月、詩・評論誌『第一芸術』を創刊・主宰した。同年五月、東京府復興局建築技手となり、関東大震災後の銀座での土地区画整理業務に携わり、現場監督などを務めた。昭和六(一九三一)年、「日本プロレタリア作家同盟」に加盟している。昭和十年に「鷄飼(とりか)ひのコムミュニスト」が『文藝』の懸賞に入選した。『人民文庫』に参加し、翌年「肉体の罪」で人民文庫賞を受賞した。敗血症のため、昭和十四年四月に築地海軍病院に入院したが、同月二十八日に死去した。満三十五歳。翌年三月、遺作集「月のある庭」が『人民文庫』同人と火野葦平の好意で出版された。

『ツルゲネフの「ルーデイン」』‘Рудин ’(ラテン文字転写:Rudin :一八五七年)は現行では一般には「ルーヂン」「ルージン」と表記されることが多い。

「あひびき」『二葉亭四迷の「片戀」の中より』イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Иван Сергеевич Тургенев:ラテン文字転写:Ivan Sergeyevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)は私がロシア文学者の中で最も愛する作家である。二葉亭四迷譯も、初版「あひゞき」、及び、改稿版「あひゞき」をサイト版で古くに公開している。その他の作品は私の「心朽窩 新館」を見られたい。

『ゴーリキーの「零落者の群」』書名はラテン文字転写で‘Bivshiye lyudi ’。私は読んだことがない。

「死の家の記錄」言わずと知れたドストエフスキーのそれ。‘Записки из Мёртвого дома ’(一八六〇年~一八六二年)。思想犯として逮捕され、死刑を宣告されたが、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライⅠ世からの特赦が与えられ(この経緯は総て初めから仕組まれたものであった)、シベリア流刑に処せられた著者の四年間に亙る獄中の体験と見聞の記録(一八四九年逮捕、オムスクで一八五四年まで服役)である。いつか電子化したい凄絶な作品である。]

 

五月六日

 オニールの「地平線の彼方」を讀む。

 

五月八日

 朝、晝、「白痴」を讀む。

 夜、白痴第二卷讀了。

 一時半に眠る。

 

五月九日

 「白痴」第三卷。

 

五月十日

 九時起床。

 朝食後、和泉軒にてミルク。

 下宿に戾つて、「白痴」をよむ。

 午後三時頃、讀み終えた。そして晝寢した。

 五月七日の夜のことであつた。私は早くから寢てゐたら、帳場の方で聲がした。烈しい𠮟咤のこゑがした。ここの主が女中をしかるのである。私は眠れないでいらいらしながらきいていた。だんだん、SERVANTがお客に友達のやうな話し方をするといふのでしかつてゐるといふことがわかつてきた。(三十分以上叱責がつづいた。)五月八日朝私がおきて顏をあらいに洗面所にゆくとSERVANT等は、外ゆきの着物のおびをしめていた。――そして出て行つたらしかつた。ひるはここの娘が客の用をきいてゐたやうである。(私のとこにもきた)

 三時頃SERVANT等はもどつて來た。私は夕飯をもつて來たSERVANT、Bをつかまえて、どこに行つたんだときいたら、奧さんと淺草に行き、「愛染カツラ」をみて來たと答へた。昨日叱り、今日活動か。面白いヤリクチだと私は思つた。――その日はSERVANT、Aは私のところに出入しなかつた。五月九日から出入し始めた。

少しくプンとしている。私がはなしかけても、ろくに返事しない。あの叱責のことを私がきいてゐたんだぞと言つたらSERVANT、Aは心の底までつきさされるにちがひない。SERVANT、Aは私がそれを知つてるのか知らないか、半信半疑であるらしかつた。――その夕方頃、私は何かの用事であの女をよんだ。私はまどにこしかけてゐた。私のちかくに笑はない顏を一尺ほど近くによせて來た。私はこしかけてゐるので、Aの顏は私の眞上に見えた。――Aの氣持を書かう。あたしは不機嫌なんだと、不貞くされた氣持と、(それは私に對するものと、主人に對するものが雜然とまぢり合つてゐる!)だから、なぐさめてもらひたい、(私はさうされるケンリがある!)それと、一種の孤獨感と、私に對するにくしみ、(これは、いろんな複雜な要素からなつてゐるので、いつか私は闡明(せんめい)したいと思ふ)以上の混然なるAの姿體であつた。私は、下から見上げてゐた。その時、私は何か外のことでイライラしてゐたことがあつた。(SERVANTと關係なく。)二重になつたあごと、アンパンのやうな顏と、下目使ひをした目のあり方を見上げながら、私は、どういふ具合かはつきり判らぬが、物すごい生理的嫌惡をAに感じた。その顏は、如何にも醜かつたのだ。

 動物はよし汚なかろうとも、醜くはない。――此の意味で、人間のみがもつ醜さの權化と私は感じた。私はもはやそれが放つネバネバした惡臭を感じた。私は踊り上つてAのほつぺたを毆り飛ばしたい欲望がむらむらと心中に起るのを覺えた。――此の氣持は今日のみでない。五月一日より以來は、初めてである。もう、一年間のここの生活で、私は數知れぬ程經驗した。Aと、も一人いたSERVANTに對して。――それ以來私はAにあまり口をきかぬ。Aは、又もとの狀態になり、無遠慮になつて、私の部屋に出入する。私は、この間の實驗を着々すすめてゐるけれど、まだ反應はないのである。――今日は電話室のところでBが私に、今日あなたに來た葉書よみましたと言つた。どんな葉書かねときいたら、きれいな人がよろしくの葉書だと答へた。上里重夫氏の葉書のことなのである。アホカイナ! と私は思つた。

 私が「寄港地」で「地圖」といふ小說をかいたとき、太田と下平と小松があつまつて、私がのちに堀辰雄のやうになりはせんかと言つた。もちろん、これは彼等の目の至らなさによるものではあるけれど、私はその後、堀辰雄と全然ちがつた、反對の道をあるいてきた。――此の世の中から、光よりも影を、美しさよりも醜さを、純粹よりも汚濁を見ながら生きてきた。此の道を、今更後悔しようとは思はぬが、それがため、私は私のモラルを喪失した。――私は趣味的な生き方をした。今、小說をかこうとするとき、一番困ることは、影だけでは、醜さだけでは、汚濁だけでは、小說が出來ないといふことを私が知つてゐることである。いや、そう信じてゐることである。なぜこんなことを信じてゐるのだらう? 私にははつきりわからない。しかし、こんなことを考へるのは、大して意味がない。さう私は思ふのである。――私は、ただ、目の前をチラチラする個々の人間を、私の小說的位置にまで定着したいのである。そして、それに確信を得たいのである。

[やぶちゃん注:「愛染カツラ」表記は「愛染かつら」(あいぜんかつら)が正しい。川口松太郎が昭和一二(一九三七)年から翌年にかけて『婦人倶楽部』に連載したものが原作の映画。「愛染桂」のモデルは長野県上田市別所温泉の北向観音境内に生育するカツラ(:双子葉植物綱ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum )の巨木(♂株)で川口は、このカツラの木と木に隣接して建っている愛染明王堂に着想を得て本作を書き、大ヒットしたため、この木も「愛染桂」と呼ばれるようになったものである。ウィキの「愛染かつら」(シノプシス有り)によれば、映画は野村浩将(ひろまさ)監督で、人気二大俳優田中絹代・上原謙主演で松竹製作で「愛染かつら 前篇・後篇」(昭和一三(一九三八)年公開)とするが、これは現在、前・後篇ともにフィルムが完全な形で存在しない。その後、翌昭和十四年(この日記の年)に「續愛染かつら」・「愛染かつら 完結篇」(孰れも同監督。同俳優主演)で公開されており、どれを見にいったものか、よく判らない。但し、調べてみると、この昭和十四年の五月五日に「續愛染かつら」が公開されたというデータがウィキの「1939年の日本公開映画」にあったので、その可能性が高い。

「地圖」こちらPDF縦書版で私のオリジナル注附き(但し、新字新仮名)がある。]

 

五月二十四日

 昨日淺見淵氏からはがきが來て、「風宴」は早稻田文學の八月號にのせるといふことであつた。何だか中途半端な氣持になつた。又昨日は、「自然の驚異」と題する映畫のタイトルを和文英譯して、今日、京橋區西八丁堀四丁目六番地日東商事映畫社に持つて行き、三圓もらつて來た。これもやはり中途半端で、片づかない氣持がした。此の金で金子質店よりセルの着物を出した。

[やぶちゃん注:「自然の驚異」調べたが、不詳。]

 

六月一日

 朝七時半に女中が起しに來た。臺灣からのはがきをもつてゐる。現(うつつ)か夢かはつきり判らない狀態でそれを讀み、また昏々と眠つた。――十時半に又、おこしに來た。

 朝食がすんでぼんやりしてゐると、何もすることがない。昨夜から降り出した雨が今は物すごい勢いで降つてゐる。窓や、庭や、池の面にあたる雨の音、雨どひから放出する水の音、太い雨滴が、何か硬質のものにはねかへる音、それらの、ざあざあざあ、といふ音響を聞きながら煙草をすつた。少ししめつて不味(まづ)い。又、眠らうと思つた。床に入つて古雜誌をめくつてゐるうちに眠つた。――夢がいくつも斷(き)れたりつながつたり、時に目がさめそうになるのを押へつけながら、重い苦しさを私は感じて、此の世の汚穢や醜惡や卑劣や怠惰を一身にあつめて、豚のやうに眠つた。昏々と。

 四時頃やつと目がさめて、不味い夕食をたべた。そして島袋のところに行つた。一緖に靴を買ひに行つた。(ゴムの靴)ゴムの靴は統制以後にないのである。それから洋品屋に行つて彼は少し買物をした。――私は入口のところで、べンベルグや絹や、いろんな生地で出來たスリツプを眺めたり、手でさはつたりした。女體といふことが戰慄に似たものを伴つて思ひ出された。私の指の間でスルスルとすべるやうな絹のスリツプ、肩のところにかける細い紐が、何となく剌激的に思はれた。手でそれをさはるのが惡いやうな、さはつてゐるうちに自分が傷ついて行くやうな感じがした。

 田村に入つて珈琲(コーヒー)と洋菓子を食べた。眼鏡をかけた新しい女がいて、顏を近づけながら注文をとる。ここには何故眼鏡をかけた女ばかりゐるのだらう。山田新之輔ににてゐた。會話がはづまない。そこを出て西鄕のうちに行つた。職のことや、學問のこと、論文のことなどはなしてゐるうちに怖れに似たものが湧きおこつた。やり切れないものを感じて、私はうちしをれた。(久松敎授は、一日のうち二時間しか眠らぬ。五時間も眠ると、腋からかびが生えて來る。)島袋から五十錢借りた。足立のことなど。眼ぶたがちらちらする。神經衰弱になつたらしい。だんだん慘めになつて來る。いろいろやることが多いので、いやになつてしまふ。

[やぶちゃん注:「臺灣からのはがき」「昭和七(一九三二)年」の注で記した、五高の学資を援助して貰った台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父からのものかと思われる。

「統制以後」この前年の昭和一三(一九三八)年に第一次近衛内閣によって発議され、同年四月一日に公布・制定された「國家總動員法」によるもの。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定している。

「べンベルグ」Bemberg。ドイツのJ.P.ベンベルク社が一九一八年に製造を開始した銅アンモニアレーヨンの商品名。下着類や安価な和服生地に用いられている。「キュプラ」(cupracuprammonium rayon)とも呼ぶ。

「山田新之輔」不詳。映画俳優かと思ったが、見当たらない。

「久松敎授」国文学者で文学博士の久松潜一(明治二七(一八九四)年~昭和五一(一九七六)年)。愛知県知多郡藤江村(現在の知多郡東浦町)生まれ。大正八(一九一九)年、東京帝国大学文学部国文学科及び同大学院卒業後、一高教授・東京帝国大学国文学科助教授を経て、昭和一一(一九三六)年に同帝大教授となった。戦後の退官後は同名誉教授・慶應義塾大学教授・鶴見女子大学教授・國學院大學教授を歴任し、国文学会に君臨した。

 なお、昭和十五年から昭和十九年までの五年間の日記は底本にはない。★昭和二十年の日記★は同じ仕儀で、ここで電子化注済みである。

2021/07/07

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)5 昭和一一(一九三六)年(全)

 

   昭和一一(一九三六)年

 

[やぶちゃん注:中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、『二月』、詩「斷層」を『龍南會雜誌』に『発表。三月、五高を卒業。試験の成績が悪く、卒業を認めるか認めないかで、教授会が三十分以上も揉めたと後で知った。四月、東京帝国大学文学部国文科に入学。定員四十名のところへ四十一名の受験だった。国文科を選んだ理由は、前年に英文科に入学した』親友『霜多正次から、国文科がいちばんラクだと教わっていたからである。入学早々に「東大新聞」の編集部に応募したが不採用となりクサる。六月』、『霜多正次、土居寛之、太田克已、永井潔ら一高と五高出身の同人十名で雑誌』『寄港地』を『発刊、三百部印刷する。創刊号に二十枚ばかりの習作』「地圖」PDF縦書版で私のオリジナル注附き。但し、新字新仮名)を『発表』している。『文藝』(改造社)の『同人雑誌批評で「ビラビラした擬似のロマンティシズムを捨てよ」と批判されたが、大雑誌に論評されたのをむしろ喜んだ』という。『寄港地』は『二号で廃刊。以後』、『自分で勝手に留年延長した一年をふくめて大学での四年間は、何となく教室に出そびれて、試験日のほかは講義に一日も出席しなかった。例の怠け癖のせいであるが、多少鬱病氣味でもあったらしい』(以下の冒頭の八月八日の日記には明らかに病的な追跡妄想が認められ、それ以降の日記の叙述にも強迫神経症的な対象事象に対する妙な拘りを持った意識推移が記され、創作素材とは言え、明らかに事実に即したと思われる犬の追跡妄想も出現する。この通院(ずっと続いている)の疾患名はちょっとよく判らない。精神科の治療にしては、複数回の「ワクチン」と称する注射や、カルシウム注射がおかしいように感じる。年譜には、この病気及び通院治療については全く出てこない。この不審な病気については本文内の後の方の注で私の推理を示しておいた)『十二年になると、幻聴による被害妄想から、下宿の雇い婆さんを椅子でなぐりつけて負傷させ、留置場に一週間ほどぶちこまれたりもしている』とある。最後の経験は後に小説「その夜のこと」と、その続編「冬の虹」で、本格的に素材としている。私の『「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附) PDF縦書版』を読まれたい。なお、昭和十二年と昭和十三年の日記は底本にはない。]

 

八月八日 晴

 十時、マガジン俱樂部に行き、 ROMAN を借りてくる。

 「音樂」(井上友一郞)、「靑いポアン」(神西淸)を讀む。

 十一時半、病院。亦、違つた注射をする。

 今までの靜脈注射にくらべると、量は極く少ない。副作用があるかと觀念の眼をとじてゐたが、別段さうしたものはなかつたので、ほつとした。水藥の出來る間待合室で新聞を讀む。村社(むらこそ)四等。

 

 病院の方に下りて行く道。あれはどうも妙な道だ。石がずつとしきつめてあつて、いつも勞働者が路ばたにこしを下してゐる。あかるい洋服をきた少女が二三人、私の前を下りて行つたが、勞働者たちはそれを見送りながらささやきかはしていた。卑しい冗談を言つてゐたのかも知れない。しかし彼らは、めうに疲れたやうな眞劍な表情をしてゐた。側を通る私にはほとんど注意をはらはない樣子であつた。しかし私は、彼等を背にしたとき、彼等の視線を背中に感じながら、やつこだこのやうに蹣跚(まんさん)と坂を下りて行つた。少女の群のまん中にゐた子の脚は白くて、素直であつた。少女たちは北の方にまつすぐにあるいて行つた。私は橫町を折れて病院の方にあるいて行つた。

 

 病院の二三軒手前に杵屋勝一穗とかいた長唄の師匠の看板があるが、あの橫町に折れこむ度に、私はすぐそれが目につく。口吟(くちずさ)んでみたり、唄の文句にしてみたり、そこを通りすぎるまで眼をはなさない。

 

 マガジン俱樂部に行つたついでに、日記帳を買はうと思つて本鄕正門前の方にゆるゆる步き出したのだが、今日は「ゆたか」のおばさんに會ふかも知れないと言う豫感がした。町をあゆみながら、むこうからやつてくる人々の顏を丹念にながめながらあるいた。靑い服を着た女が、電車に乘るために走つて行つたが、お尻の二つの半球がくつきりと衣服の外からうかがはれ、私は思はず立ち止つて見送つたほどであつた。女は電車にのつて行つてしまつた。おばさんにはたうとう、會はなかつた。つひぞ見かけないやうな大學生が一人二人あるいてゐた。帽子をみると帝大生のやうであつた。本屋で、日記帳のあたひを聞いたら六十錢だと言ふ。少し負けて吳れと言つたら五錢だけお引きしますと言ふ。四十錢なら買ふと言つたら、元値がきれるとか何とか、ぞんざいな言葉で言つて店の奧に入つて行つた。あきらめて下宿の方に步き出したが、しばらくして段々不快になつて來た。

 

 丸善インキと看板のある店に、病院の歸りに寄り、アテナインキを吳れと言つたら無いと言ふ。しかたなしにメトロインキと言ふのを買つて來た。表に BLUE BLAK [やぶちゃん注:横書き。]とかいてある。いんちきじみて厭である。今、そのインキで日記を書いてゐる。

 

 昨夜、寢ながら、下の應接室から持つて來たフイリツプ短篇集をよんだが、新靑年のコントみたいだ。面白いにはちがいないが、深味が無い。チエホフの方がずつとよい。まだよんだのは四つ五つである。今日も亦寢ながら讀むつもりである。

 

 私は今、一つのロマンの制作を志してゐるが、いはば此の日記をそれのメモにしたいのだ。私自身を主人公としたロマンの。憶ひ出したことなど。

 

 千九百三十五年の秋。去年の十一月、私は高等學校の四年目の秋であつた。土曜であつた。例の如く私は巷でおびただしい酒をのみ、夜の三時頃、よろよろしながら、あの、五高とセイセイコウとの間の、暗いみちを下宿の方ヘ步いてゐた。暗い、木々が頭の上におほひかぶさつたあの道を、十二時過ぎれば、私は醉つてでもゐなければ步くことは出來なかつた。いや醉つてゐても恐(こは)かつたのだ。その夜、うすら寒い夜風を頰に感じながら、ざわめく樹々に、なんでえ、化物めらが! と虛勢をはりつづけながら、ああ、もう恐怖に堪へられなくて唄でもうたひ出さうとしたその時、私は、私の背後四五間[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。]の所を、何ものかがはだしでひたひたと私をつけて來るのをはつきりと感じたのだ。總身の皮膚がきりきりと毛穴を立て、齒の根もあはぬおそろしい想念が私の頭をむしばみはじめた。血が凍るやうであつた。私は意を決して、そつと頭をめぐらすと私の背後にひろがる暗闇をそつとみつめた。その瞬間、黑いものが、そのひたひたと言ふあし音をはやめながら、私に急激に近づくと、私の足をかすめた。犬であつた。(此の邊中略す。面倒也)

 

 私のその聲を不當に思つたのであらう。下宿のおばさんが玄關の戶をあけて私の方をうかがつてゐたが、それが私であるといふことがわかると、びつくりしたやうな聲ではなしかけた。

「まあ、梅崎さんぢやありませんか。どうしたんです。こんなにおそく」

「犬なんです。犬がゐるのです」

 私はその頃、妙に感じやすくなつてゐて、さう言ひながら淚が頰をつたはり始めた。私は、そこで、犬をよぶのを斷念して、顏をおばさんにかくしながら、自分の部屋にもどつた。此の氣持だけは純粹であるなと、私は思つた。翌日、私は此の事件と、私の感情の推移を人々にかたつた。人々はその話をきき終つて、君はなるほど詩人だよと異口同音に答へた。みんな私の話は虛構であると斷じたのだ。そのやうな時代であつた。そのやうにさげすまれながらも私は猶生きてゐたのだ。(午後三時)

 

 今朝九時、八十度位であつたが、今(午後三時)八十六度位に水銀柱があがつた。

 

 夕飯が來るまでのひとときを、フイリツプの「邂逅」と言ふ小說をよんだら、之には胸をうたれた。

[やぶちゃん注:「ROMAN」雑誌名。詳細書誌は不詳。

 『(井上友一郞)』井上友一郎(ともいちろう 明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は大阪府西成郡中津町生まれの小説家。本名は友一。商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退、後、各中学を転々とした。昭和四(一九二九)年に関西大学第二商業学校を卒業し、翌年、早稲田大学専門部法科に入学した(後に仏文科に転部)。昭和六年に「森林公園」を発表して、川端康成に認められ、坂口安吾・田村泰次郎らと、同人誌『桜』で活動、昭和九年、「道化者」を発表している。この昭和一一(一九三六)年に早大仏文科を卒業後、『人民文庫』に加わり、同時に『都新聞』記者となり、昭和一三(一九三八)年には特派員として中国戦線に従軍している。昭和十四年に『文学者』に「残夢」を発表し、翌年「波の上」を刊行し、作家生活に入った。戦後は風俗小説作家として活躍し、雑誌『風雪』に参加した(当該ウィキに拠った)。「音樂」は不詳。

『「靑いポアン」(神西淸)』東京生まれのロシア文学者で小説家神西清(じんざいきよし 明治三六(一九〇三)年~昭和三二(一九五七)年)。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)露語部文科を卒業、ソ連通商部勤務を経て、チェーホフ・ガルシンなどの翻訳に従事する一方で、小説も書いた。「靑いポアン」は昭和五(一九三〇)年十二月発行の『作品』初出。

「村社(むらこそ)四等」村社講平(むらこそこうへい 明治三八(一九〇五)年~平成一〇(一九九八)年)は陸上競技選手で、この年に開催されたベルリン・オリンピック代表。後にマラソン指導者・毎日新聞記者となった。宮崎市出身。中央大学在学中だったこの年、日本代表として満三十歳で五輪に出場し、五千メートル・一万メートルで、四位入賞を果たした。

「蹣跚(まんさん)と」よろめくさま。

「アテナインキ」丸善製インキ。現在も売られている。これ(サイト「ミューゼオ」)。

「メトロインキ」不詳。

BLUE BLAK とかいてある。いんちきじみて厭である」「アテナインキ」もブルー・ブラックであるが、梅崎は色が違って見え(ブルー・ブラックは多種ある)、騙されたように感じている。

「フイリツプ短篇集」フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe  一八七四年~一九〇九年)。この時期では淀野隆三訳・堀口大學訳・白水社編輯部訳などが出ている。私は好きな作家だがね。

「新靑年」大正九(一九二〇)年創刊、昭和二五(一九五〇)年終刊の総合雑誌。博文館発行。一九二〇年代から一九三〇年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つで、都会的雑誌として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。国内外の探偵小説を紹介し、また。江戸川乱歩・横溝正史・牧逸馬・夢野久作・小栗虫太郎・久生十蘭といった多くの探偵小説作家・異端作家を輩出した。参照した当該ウィキによれば、『日本の探偵小説を語る上で欠かすことのできない雑誌であるが、探偵小説専門誌でもなければ小説専門誌でもなく、現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった』とある。

「コント」conte。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」の意。

「セイセイコウ」「濟々黌」で現在の熊本県立済々黌高等学校(グーグル・マップ・データ)。熊本県内で最も古い明治一二(一八七九)年創立の高等学校。旧五高(現在の熊本大学)の西に隣接している。

「今朝九時、八十度位であつたが、今(午後三時)八十六度位に水銀柱があがつた」華氏。

「八十度」は摂氏で約二十六・六六度、「八十六度」は三十度。

『フイリツプの「邂逅」』‘La rencontre ’。この邦訳題から、恐らく、梅崎春生が読んでいるのは、堀口大學訳「フィリップ短篇集」(昭和七(一九三二)年春陽堂刊・『世界名作文庫』百二十二)と推定される。]

 

八月九日

 昨夜のことを書く。

 

 三文オペラに行く。奇怪な圖繪であつた。印象的な場面がいくつもあつた。

 

 シネマパレスを出ると、雨が降つてゐた。松住町に出て、交番に、帝大にはどちらへ行きますかと聞いたら、帝大と言ふのがさだかに聞きとれなかつたと見えて、え? え? と二三度聞きかへした揚句、不愛想に敎へて吳れた。知らない街の舖道を雨にぬれながら步いた。うちわを腰にはさんで、ふところ手で步いて行つた。雨が衣服を通して素肌につめたく感じられた。こんど書く小說の筋など考へながら、めうに感傷的な氣持になつてゐた。まもなくすると、本鄕一丁目の所に出た。「ゆたか」の近くなので三丁目まで手巾で顏をおほつてあるいた。

 赤門前で、三錢で號外一枚かつた。百米自由型の結果であつた。三錢は暴利だなと思つた。何かとんでもないことをしたやうな、奇妙な後悔じみた氣持が、いつまでもはなれなかつた。下宿につくと、手紙さしに、(三十九番樣 岸本樣御來訪、七時)とかいた紙片があつた。私はそれをにぎつて、だまつて二階に上つて行つた。

 

 今日は病院で面白い注射をした。靜脈注射であるが、その注射液が體内に入つて二三秒すると、胸から腹へかけて、じんとするような灼熱感がひろがり、その感じが時間と共に、足の先や肛門の所や、背中などに移行した。丁度熱陽をあちらこちち浴せかけられたやうな感じであつて、汗がびつしより出た。そのあとで、めまひがしたので、ベツドの上で一分間ほどねた。そのあとでワクチン注射をした。

 

 病院を出て、マガジン俱樂部に行き、新しい契約をして來た。

 

 夜、「笑の王國」に行つた。

 

 田原町から上野まで地下鐵で來た。今日は新しい浴衣を着てゐたので、私はいささか得意であつた。電車の中では、切符をうちはの柄にはさんだり、人のかほをじろじろみつめたり、いろんなことをした。地下鐵の中で私は何か考へてゐて、それを日記にかかうと、その時思つてゐたのであるが、今はそれを忘れてしまつた。上野の地下道を出た所で東京每夕を買ひ、ふところの奧におしこんで步いた。

 

 上野の丘から不忍池の方に下りる石段の所で、

「自意識の過剩なんか、われらの恥になりこそすれ、何等のほこりにはなりはしない」

 と、私が皆の前で言ふ所を想像した。さうすると、松井が、

「そりやちがふ」

 とか何とか抗議する樣子が髣髴(ほうふつ)とうかんで來た。私は、あちらをみたり、下をむいたりして、その想像から遠ざからうと努力しながら步いた。

 

 逢初橋の近くで氷やに入り、氷ぶどうを注文した。食べながら「富士」の一月號を見てゐると、渡邊篤と關時男の寫眞が出ていた。俗惡を極めたものであつた。

 私は何かしら辯護してやりたい氣持がした。さう言ふ氣持を、人はどう考へるだらうかなど考へながら、さじを動かしてゐた。私の前にゐた小憎は、アイスクリームを食べてゐた。ああ、俺もアイスクリームを食ふ筈であつたなと、その時始めて氣が付いた。地下鐵に乘る前から考へてゐたのである。

 

 此の間、梅澤と岸本と三人で不忍池でボートにのつたが、あのとき、池からみると、北の方に犬の形をした黑雲が出ていて、そのきばの邊から稻光りがさかんに見えてゐた。遠い夢のやうに夕もやがたてこめはじめる時刻で、サーカスの光がうるんでみえ、ジンタがかきならす古風な曲が池一ぱいにひろがつてゐた。私たちのボートは何故かしら同じ所をぐるぐる𢌞つてゐるやうな氣がした。大正初期の東京圖繪、さうした感じであつた。私は舷によりかかり、何か低い聲で唄をうたつてゐた。むかしの歌なのであつた。富士館で「街の入墨者」を見、安酒場で見知らぬ人から五十錢めぐまれた日のことである。

 

 昨日、雨に濡れながらシネマパレスからのかへりみち、USの前に來ると麥酒(ビール)をのみたいと言ふ激しい欲望にとらはれた。八月一日以來始めてのことであつた。

 表にたつてゐた店の少女が私の顏を直視したので、私は一寸たぢろいだ。浴衣がぬれて肌にくつついてゐたので、隨分みすぼらしい姿だつたらうと思つたのだ。

 

 淺草あたりをあるきながら、自分の善良さうな表情を、人にみられたなと氣のついたとき位、氣のひきしまることはない。いまいましいと言ふ氣持が、私の心をぎりぎりとかきまはす。今日も「笑の王國」の出口の所でさう言ふ氣持であつた。

 

 今、ラジオがかすかに聞えて來るが、日本選手は、百米に二、三、四着をしめて、一着はどこかの、小國の選手がうばつたらしい。かうなることは、はじめから豫想してゐたが、明日の新聞には、殘念! とか何とか大みだしをつけることだらう。

 

 幸子さんが東京にゐると言ふ意識が、私を時々いらだたせる。早く何とかしなければならないと言ふ氣持だが、まづさしあたり、幸子さんに會ひ、づつと東京に止まることを說くのがいちばんのやうだ。幸子さんが東京にづつとゐるとしても、私は氣が弱いから、ずるずると友達じみた關係(あるいは全然沒交涉)をつづけるであらう。それでいいのさと叫ぶものが心の一部にはあるが、あることはあるが、いささか、それでは、淋しいではないか。(午前○時十五分)

[やぶちゃん注:「三文オペラ」ドイツ(第二次世界大戦中はナチスの迫害を逃れて各国で亡命生活を送ったが、戦後は東ドイツに戻った)の劇作家オイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト(Eugen Berthold Friedrich Brecht 一八九八年~一九五六年)作の、クルト・ヴァイル(Kurt Weill 一九〇〇年~一九五〇年)が音楽(主人公のギャング「メッキー・メッサー(匕首)」のテーマ(Die Moritat von Mackie Messer )は英語‘Mack the Knife ’で知られ、ジャズを始めとして世界的なスタンダード・ナンバーとなっている)を担当した音楽劇で、一九二八年八月に初演された(原題:Die Dreigroschenoper )ものの、最初期の映画化。ドイツで一九三一(昭和六)年に製作された。監督はゲオルク・ヴィルヘルム・パブスト(Georg Wilhelm Pabst 一八八五年~一九六七年)。

「シネマパレス」当時の神田区淡路町二丁目、現在の千代田区神田淡路町二丁目(万世橋近く)にあった映画館。

「松住町」淡路町直近北の、万世橋の上流の昌平橋を渡った辺り

「本鄕一丁目」「三丁目」「今昔マップ」を示す。右の現在の地図地名と対応せれたい。

「笑の王國」浅草六区にあった常盤座で、昭和八(一九三三)年四月一日に古川緑波(古川ロッパ)・徳川夢声らが旗揚げ公演を行った軽演劇劇団「笑の王国」。常盤座はその常設劇場として賑わった。詳しくは、「梅崎春生 その夜のこと」の私の割注「常盤(ときわ)座の『笑いの王国』」で視聴覚素材も完備してあるので、是非、読まれたい。

「田原町」ここ。東京地下鉄銀座線は昭和二(一九二七)年に浅草―上野間で営業を開始した、日本で最初の本格的な地下鉄で、当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチ・コピーが使われ、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線であった(ウィキの「東京メトロ銀座線」に拠った)。

「東京每夕」『東京每夕新聞』。戦前に存在した。

「逢初橋」「言問通り」の根津交差点付近にあった地名。暗渠にするのはいいが、こんないい名前ぐらい残しとけや!

「富士」大日本雄弁会講談社発行の国民大衆雑誌。

「渡邊篤」(あつし 明治三一(一八九八)年~昭和四二(一九七七)年)は映画俳優。本名は総一。浅草オペラを経て、映画界入りし、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の代表俳優となった。戦中は古川ロッパと行動をともにし、戦後は黒澤明の作品に常連出演した(当該ウィキに拠る)。

「關時男」(明治四〇(一九〇七)年~昭和二〇(一九四五)年二月病死)は元撮影技師で映画俳優。当該ウィキを参照されたい。

「ジンタ」明治中期に本邦で生まれた民間宣伝の市中音楽隊。その愛称は大正初期につけられた。

「富士館」明治四一(一九〇八)年開業(昭和四八(一九七三)年閉館)の映画館。千八百人を収容する巨大な映画館で、戦後、浅草日活劇場と名称を変更した。

「街の入墨者」昭和一〇(一九三五)年に公開された山中貞雄監督の時代劇映画。長谷川伸原作。前進座と日活の提携作品で日活太秦撮影所製作。当該ウィキを参照されたいが、そこには、『原版フィルムが消失しているため』、『現在では観る事が出来ない』とある。

「US」不詳。「表にたつてゐた店の少女」とあるから、浅草にあった居酒屋の略称か。

「日本選手は、百米に二、三、四着をしめて、一着はどこかの、小國の選手がうばつたらしい」調べてみると、これは競泳男子百メートル自由形のことのようである。]

 

八月十日

 八時半に起きた。近頃は必ず八時半か九時に起きるのがならはしとなつたのは喜ばしい。しかも昨夜寢についたのは二時半なのだ。應接室で新聞をよむと、マラソンで孫が一着になつてゐた。

 

 朝食をすまして部屋を整理し、うちに手紙をかき、いささかすがすがしい氣持になつた。それより病院に行く。昨日二本注射を打つたので、今日はやらない。

 あの道の、杵屋勝一穗の看板が、今日はどうしたものか取り外されてあつた。あの橫町を曲るとき、おや此の風景には、どこか足りない所があるなと、すぐ氣がついた。

 

 病院を出て、マガジン俱樂部に行き、雜誌三册をかへし、新しく一册かりてくる。丹羽文雄の「小鳩」と言ふ小說はいい。

 

 此のやうな平靜な生活をすることが出きようとは、夢にも思へなかつたが、これもやはり、生活の中に核が出きた故であらう。近頃の心境はまこと明鏡止水である。此のやうな病氣をした男の顏とは一體どんなものだらうと鏡をのぞきこんでみたら、さりげなくにこにこと笑つてゐた。これでいい、これでいい、私は滿足する。

 

 今日も淺草に行きたくなつた。小村麗子の顏もみたい。「笑の王國」のあの笑くぼの出る女、あれもいいな。一寸知念のむかしの戀人に似てゐる。(「三Q」にいた)

 誰か來ない限り、私を誰か誘はない限り、今日は淺草には行かない。うちで本でも讀んで居よう。

 

 夜食後、「紫苑」に行つた。紅茶のみながらワルツ合戰のうたを聞いてゐたら、さまざまな思ひが勃然とわきおこつた。一心に聞いてゐると悟られたくなかつたので、新聞を前にして目をそそいでゐた。字がかすんで一字もよめなかつた。お客は私一人であつた。

 以下 私と女との會話。

 

 私― 益山くん來ますか。

 女 ええ。いらつしやいますわ。今日も晝おいでになりましたわ。

   間

 私― 益山くんはここに來ても、やはり默つてるでせうね。

 女― ええ。むつつりして二時間も三時間もすわつてゐらつしやいますわ。

    こつちから話しかけると、ぽつりぽつり話しなさいますわ。

   長い間

 女― 近頃、何かお書きになつていらつしやいますの?

 私― いま、いま三百圓の懸賞をかいてます。三百圓もらつたらおごつてあげませう。

 女― いまからお禮申しておきますわ。おほほ。

 

 愚劣極まる會話である。これ位の會話しか出來ないのである。私が色魔になれないことはこれでよくわかる。此のあと、マダムが出て來て、武田麟太郞と矢田津世子が今日「紫苑」にくるかも知れないこと、二人の性質風貌などを話した。

 

 七時十五分前に「紫苑」を出て下宿に歸り、十時まで本をよんで、それから寢た。十二時半ごろまでねつかれなかつた。

 二囘便所に行つた。

[やぶちゃん注:「孫」日本統治時代の朝鮮の新義(シニジュ)州近郊出身のマラソン選手孫基禎(そんきてい:ソン・ギジョン 一九一二年~二〇〇二年)。家は貧しい雑貨商であった。一九三二(昭和七)年、京城の養正高等普通学校(内地の旧制中学校に相当。現在の養正高等学校)にスカウトされ、十九歳で入学、三年後の一九三五年十一月三日に東京の第八回明治神宮体育大会のマラソンで、当時の世界最高記録二時間二十六分四十二秒を樹立した。この年の三月以来、孫は未公認のマラソン・コースで世界記録を上回る実績を残していたが、この公認コースで世界記録を樹立したことで翌年のこのベルリン・オリンピックの日本代表有力候補として注目されるようになった。ベルリン・オリンピックには日本代表として出場、アジア地域出身で初めて、当時のオリンピック記録となる二時間二十九分十九秒二で金メダルを獲得した。現在のところ、オリンピックの男子マラソンで、世界記録保持者として出場した選手が金メダルを獲得した唯一の例である。大韓民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めた(以上はウィキの「孫基禎」に拠った)。

『丹羽文雄の「小鳩」』丹羽文雄(明治三七(一九〇四)年~平成一七(二〇〇五)年:三重県出身)の「小鳩」は単行本は昭和一一(一九三六)年信正社刊。

「小村麗子」不詳。舞台女優か。

「武田麟太郞」(明治三七(一九〇四)年~昭和二一(一九四六)年)は小説家。大阪市生まれ。旧制三高を経て、東京帝国大学仏文科に進んだ。その間、同人雑誌『真昼』を創刊。藤沢桓夫(たけお)らの『辻馬車』に参加、その頃から帝大セツルメント(労働者街やスラムに定住して住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉を図る社会事業)の仕事をするなど、組合運動にも加わり、その体験を生かして「暴力」(昭和四(一九二九)年)などのプロレタリア文学作品を書いた。しかし、一方その政治主義的偏向から脱出しようとして「日本三文オペラ」(昭和七年)のような庶民的な視点で当時の風俗を描いたいわゆる〈市井事もの〉の筆をとった。昭和八年には、川端康成・小林秀雄らと、『文学界』創刊に参加、「銀座八丁」(昭和九年)・「下界の眺め」(昭和十年から翌年)など、新聞連載という形で当時の風俗を描き出している。昭和十一年には、『人民文庫』を創刊し、「日本浪曼派」の詩精神に対抗して、散文精神を主張、その雑誌に、傾倒する井原西鶴についての小説を連載した。太平洋戦争中には、徴用作家としてジャワへ行ったが、この時期にはめぼしい作品はない。彼の小説は志賀直哉・横光利一及びプロレタリア文学や西鶴などの影響を受けたが、庶民的視点によって庶民を描くという点では終始変わることがなかった。肝硬変で没した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「矢田津世子」(やだ つせこ 明治四〇(一九〇七)年~昭和一九(一九四四)年)は小説家。秋田県出身。本名ツセ。東京の私立麹町高等女学校卒業。左翼思想への目覚めを基底に置いた作品を昭和四(一九二九)年頃から発表するが、昭和七年、芸術派に転身、坂口安吾・田村泰次郎らの同人誌『桜』、さらに『日暦(にちれき)』・『人民文庫』に参加する中で、本領を発揮していった。庶民の風俗と心理を客観的に、また、情緒豊かに捉える作風で、昭和一一(一九三六)年に「神楽坂」で芥川賞候補となり、文壇での地位を確立、以後、「茶粥の記」(昭和六年)などの佳作を残したが、戦時下に肺を病み、満三十六歳で亡くなった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

 

八月十一日 晴

 九時起床。床の中で莨(たばこ)を一服すふ。

 朝食後、しばらくして病院に行く。

 

 夕食後。

 キリストになれなければユダとなろう。さう呟きながら、今頃モラルのことなど騷ぎ立てる人々を、心の底からさげすんでゐた。

 

 今日は、病院の歸りと、夜八時からと、二度「紫苑」に行つた。紅茶を注文して、机上の雜誌を拾ひ讀みしたり音樂に耳傾けたりしながら、二囘とも一時間位づつ居た。あそこの女の、腕のつけ根の所の圓(まる)みが眼について困つた。

 

八月十二日 快晴

 昨夜、始めてオリンピツク放送を聞いた。河西の、女子二百米平泳決勝の放送は實によかつた。

 

 朝、九時半起床。

 病院で、今日は、ワクチンの靜脈注射をした。あの體の熱くなる注射は、カルシウム注射であると言ふことであつた。今日のワクチンも、カルシウムが、小量入つていたので、少しばかり胸とか腕が熱かつた。

 十一時半頃、「紫苑」に行つたが戶がしまつてゐたのでかへつてきた。

 

 あの橫町に、杵屋勝一穗の看板が亦出てゐた。

 

 大勝館の前に來ると、丁度益山君が切符を買つてゐる所であつた。私との間ほどは十間[やぶちゃん注:十八メートル強。]はなれてゐたので、彼は私に氣がつかないやうであつた。その上、彼の髮が顏の所までたれさがつて、私の方からも彼の顏はさだかに見えてゐなかつた。夕闇の中を。何と言はうか、私は、彼のあらゆる祕密を見てしまつたと言ふ氣がした。

 そして、その時、何故だらう、妖怪じみた、と言ふ形容詞が私の頭に浮んで來た。べつだん益山君の姿が古怪なわけではない。淺草はあかるくて、割り切れてゐるではないか。さうした不可解な形容詞が一體どこから、何のために出てきたのであらう。ぼんやり、さうしたことを考へながら富士館の方にひつかへして行つた。

 

 夜、十時半より、「紫苑」に行つた。四百米の決勝を聞きに行つたのである。

 

 マダムが、中井正文のことを話してゐた。私の「地圖」のことも出たやうであつた。また、太田と言ふ男の話も出た。私は莨をのみすぎてゐたので少し舌が𢌞らなくなつてゐた。十一時四十五分頃までゐた。かへりみち、書かなければならない、と思つた。

 床で湯淺克衞の「移民」といふ小說をよんだ。

[やぶちゃん注:「女子二百米平泳決勝の放送」言わずと知れた日本人女性初の金メダリスト(二百メートル平泳ぎ)前畑秀子(大正三(一九一四)年~平成七(一九九五)年:和歌山県伊都郡橋本町(現在の橋本市)生まれ。家は豆腐屋であった。名古屋の私立椙山女学校卒。結婚後の姓は兵藤)。当該ウィキによれば、同五輪のそれで、『地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて』、一『秒差で勝利する。日本人女性として五輪史上初めての金メダルを獲得した。この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは、中継開始予定時刻の午前』零『時を過ぎたために「スイッチを切らないでください」の言葉からアナウンスを始めた』。『河西は興奮して途中から』、「前畑ガンバレ! 前畑ガンバレ!」と、二十『回以上も叫び、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた』とある。『引退後は岐阜市に在住し、椙山女学園職員として後進の育成に努め』た。

「大勝館」当時の東京市浅草区公園六区一号地(現在の東京都台東区浅草二丁目十番一号)にあった映画館。

「中井正文」(まさふみ 大正二(一九一三)年~平成二八(二〇一六)年:梅崎春生より二つ年上)は独文学者・作家。広島県廿日市市生まれ。後に広島大学教授・名誉教授。当該ウィキによれば、『中学校時代の修学旅行で訪れた九州地方に魅せられ、また、南九州出身の北原白秋の詩を熱心に読んでいたこともあり、旧制第五高等学校に進学する。詩作に傾倒し、五高在学中に作詩した「椿花咲く南国の」は同校寮歌となり、のちに加藤登紀子の歌唱でレコード化された』。『五高の同期に、当時作家志望だった土居寛之がおり、終生の友人となる。土居の影響で小説を書き始め、五高校友会誌『龍南』に作品を発表する』。昭和八年(一九三三)年、『東京帝国大学ドイツ文学科へ進み、成子坂のアパートに下宿する。当時まだ無名の石川達三と知り合い、石川の第一回芥川賞受賞作「蒼氓」が掲載された、同人誌『星座』に推薦され』、『参加する。『星座』は』昭和十年四月創刊で、『同人誌ながら、主催の矢崎弾の手腕により』、『順調に盛り上がりを見せたが、矢崎が反戦的人物として政府に監視され』同年七月号で『同誌が早くも発禁処分を受けたため』、『中井は作家志望の仲間と新たな同人誌の立ち上げを模索する』。『本郷に移っていた中井は、下宿先を同じくした五高の後輩梅崎春生、学友でかねてから付き合いのあり、近くに越してきた檀一雄、同じく下宿を近くする織田作之助、ドイツ文学科の佐藤晃一らと交流を持つ。ドイツ文学とトーマス・マンに傾倒していた佐藤に刺激され、佐藤も知らない作家を発掘してやろうと意気込み、発見したのがカフカの作品であったと中井は語っている』。『自身のあこがれていた北原白秋の故郷、柳川の生まれであった檀と交流を深め、檀の敬愛していた太宰治を紹介される。はじめ、太宰は檀を仲介して自身の参加していた同人誌『青い花』に中井の参加を依頼したが、中井は新たな同人誌の立ち上げ計画を理由にそれを断』った。『太宰は檀を伴い』、『中井の下宿を訪れ、『青い花』への再度の参加を促された中井は、それを承諾する。以降、太宰、檀、中井は東大前の落第横丁で酒を飲み交わす仲になる』。『中井はその頃、宮島の対岸を舞台とした恋愛小説「神話」を執筆中であった。中井の下宿を訪れた太宰がそれを目に留め』、『青い花』第二号への『掲載約束を互いに交わすも、太宰はじめ同人が揃って『日本浪漫派』へ活動拠点を移したため、『青い花』は創刊号のみの刊行に終わった』。昭和一三(一九三八)年、『中央公論』主催の『「知識階級総動員・論文小説募集」のスローガンを見た中井は、書き上げたのち』、『温めていた「神話」を中央公論社へ送』った。暫く経った同年中、『中井は中央公論社へ呼び出され、当時の『中央公論』文芸主任、畑中繁雄らに「神話」の一等入選を伝えられ』た。『しかし』、『戦時下の言論弾圧は文学界にも及んでおり、軍部からの恋愛小説掲載自粛の通達を受け、『中央公論』誌への「神話」の掲載は見送られることになる。「神話」は二等入選というかたちで紙面に紹介され、中井とともに入選した大田洋子の『海女』が単独掲載され』た。『二等に繰り下がった賞金の埋め合わせとして、畑中は中井にドイツの女流作家エレン・クラットの従軍記翻訳を依頼、『中央公論』『婦人公論』に掲載され』ている。昭和一六(一九四一)年、『中央公論編集長となった畑中は中井に、恋愛をテーマとしない小説の執筆を持ちかける。中井は五高山岳部を描いた「阿蘇活火山」を執筆し、『中央公論』』の翌年の二月号に『新人小説として掲載される。「阿蘇活火山」はドイツの文化雑誌に』も『中井の写真とともに紹介され』ている。『その後』、『中井はガダルカナル島への補充兵として福山の連隊へ招集され』たが、『除隊』となり、『広島へ引き上げ、女学校の教師として終戦を迎え』た。『広島市への原子爆弾投下時は』、『勤労動員の引率で宮島の工場におり、直接の被曝を逃れ』ている。また、この敗戦の年には、『「寒菊抄」で第』二十『回直木賞最終候補』となっている。昭和二一(一九四六)年、『休刊を余儀なくされていた『中央公論』復刊にあたり、畑中繁雄から「神話」の掲載を持ちかけられるも、中央公論社に原稿が残っておらず、中井の手元にもメモ程度しかなかったため、同作は世に出ぬまま戦乱』の中で、『のちに中井は「神話」の復元、再執筆を試みるも、満足のいくものとはならなかった』。『戦後は』『広島大学に教官として勤務。その傍ら、カフカの翻訳を進め、「変身」が角川書店から、「アメリカ」が三笠書房から』出版されている。一九七〇『年代から』、『自身の作品の発表を再開、最晩年に至るまで『広島文藝派』を主宰し、精力的に執筆、翻訳を続けた』とある。

『私の「地圖」』昭和一一(一九三六)年六月の創刊号『寄港地』に発表された梅崎春生の最初の本格小説。同誌は霜多正次ら十名で創刊した同人誌であったが、二号で廃刊した。当時、春生は東京帝国大学文学部国文科一年、既に二十一歳であった(既に述べた通り、中学浪人及び熊本第五高等学校二年次落第のため)。私はサイトでPDF縦書版で電子化している(但し、新字新仮名)。

『湯淺克衞の「移民」』小説家湯浅克衛(ゆあさかつえ 明治四三(一九一〇)年~昭和五七(一九八二)年)は香川県生まれ。本名は猛。小・中学校時代を朝鮮で過ごし、第一早稲田高等学院中退。昭和一〇(一九三五)年に『改造』懸賞小説二等となり作家デビュー。翌年、本庄陸男(ほんじょうむつお)・平林彪吾(ひょうご)・田辺耕一郎・伊藤整・井上友一郎らと第二次『現実』を創刊、次いで武田麟太郎・高見順らの『人民文庫』に加わり、プロレタリア文学に傾く。その後、植民地小説を書き、戦後はブラジル移民を主題とした。京城中学校時代の同級生に中島敦がいる(当該ウィキに拠った)。]

 

八月十三日

 病院に行き道、杵屋勝一穗の看板を盜みたい衝動にかられた。歸りみち、指でそつとつついたら、ぐらぐらと搖れた。

 

 マガジン倶樂部に行き、「文藝」の九月號を借りて、「紫苑」に行つた。レコードを聞きながら、岡本かの子の「渾沌未分」といふ小說を讀んだ。讀み終えると、何かしら濁つた、激しい亢奮がぐつと身内からわいて來た。さいごの所、女がひたむきに渾沌未分の世界に拔手をきつて行く所で、不快なたかぶつた感情が私におこつてきた。レコードの所爲かも知れない。じつは、此の小說をよむ前に、此の小說から何かヒントを得て、何か短篇の筋でも考へようかといふ心構へを持つてゐたのである。

 

 夜「紫苑」に行く。

 

 下宿の娘より、林芙美子の「野麥の唄」「旅だより」、大佛次郞の「樹氷」を借りる。「樹水」は一氣によんでしまひ、「旅だより」もほとんどよみ、「野麥の唄」のなかの短篇二つ三つ讀む。

 十二時 就床。

[やぶちゃん注:『岡本かの子の「渾沌未分」』作家岡本かの子(明治三二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年:本名はカノ。旧姓は大貫(おおぬき))が昭和一一(一九三六)年九月に『文芸』に発表した小説。「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名)。]

 

八月十四日

 病院に行き、又、マガジン俱樂部に行き、「文學界」九月號を借り、「紫苑」に行く。

 今日心愉しき音樂。

  ブルー・ダニユーヴ。「アルルの女」のなかの

  メニユエツト。トロヴァトーレ。

  「アルルの女」の最初のフルートはこの間の

  ロシア映畫の笛によく似てたのしい。

[やぶちゃん注:以上の「ブルー・ダニユーヴ」以下は全体が二字下げなので、かく、した。]

 

 自らふるへ上るやうなすさまじい小說を考へる。八九十枚の豫定。題未定。

 

 夜、岸本來訪。

 共に淺草富士館に行く。山中貞雄、大河内傳次郞の「海鳴り街道」。川口松太郞の「風流深川唄」。

 

 二百米平泳準決勝を聞く。

 

 二時半就寢、うつしものに多忙。

 

 創作「祭日」八十枚程度。「展望」百二十枚程。

 この二篇を近日中に着手することになつた。當分倂行法を取る。原稿用紙には書かずに、此の日記帳にかいてゆくことにする。

 

   「展望」

大東京の片すみの奇妙な人々がすむ一劃。文科大學生橫紙象八はトリツペルにおかされ、經濟的事情のために此處に移り住んで來る。隣家の不思議な親子、亦、その親子の所に寄寓する奇妙な性格の旋盤工。橫紙が下宿する家のみにくい少女(世の習俗をてんでうけつけない偏執狂じみた女)、おひとよしだが、淫亂な主人。むかいの家の、かつては支那を放浪し、いまでは徒食してゐるのだが、その生活費が、どこから出るのかわからない愛想よき老人。みんなが夢をみたがつてゐることなど。

[やぶちゃん注:最後の小説「展望」の設定記載は底本では全体が一字下げである。

「ブルー・ダニユーヴ」オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家ヨハン・シュトラウスⅡ世(Johann StraussⅡ 一八二五年~一八九九年)が一八六七年に作曲した知られた合唱用ウィンナ・ワルツ「美しく青きドナウ」(An der schönen, blauen Donau )作品三百十四。

『「アルルの女」のなかのメニユエツト』フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が作曲した全二十七曲から成る、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet 一八四〇年~一八九七年)の同名の短編小説「アルルの女」(L'Arlésienne )及びそれに基づく戯曲の上演のために一八七二年に作曲された付随音楽。編曲された2つの組曲が一般には最も広く知られている。

「トロヴァトーレ」ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全四幕から成るオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore )。一八五三年にローマで初演された。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。原作はアントニオ・ガルシア・グティエレス(Antonio García Gutiérrez 一八一三年~一八八四年)の戯曲「エル・トロバドール」(El Trovador :「吟遊詩人」)を後人が補作台本としたもの。

『「アルルの女」の最初のフルート』知られた第二曲「メヌエット」(フランス語:menuet(ムニュエ))か。YouTube にあるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のそれをリンクさせておく。

「この間のロシア映畫の笛」う~ん、このソヴィエト映画、誰の何んという作品か、同定したい!

『山中貞雄、大河内傳次郞の「海鳴り街道」』山中貞雄(明治四二(一九〇九)年~昭和一三(一九三八)年)監督で、大河内伝次郎(明治三一(一八九八)年~昭和三七(一九六二)年)は主演のトーキー初期の剣戟劇映画。ウィキの「海鳴り街道」によれば、『上映用フィルム全篇は現存して』いない、とある。

『川口松太郞の「風流深川唄」』小説家・劇作家の川口松太郎(明治三二(一八九九)年~昭和六〇(一九八五)年)の老舗の料理屋を巡る人情話「風流深川唄」(昭和一〇(一九三五)年『オール讀物』連載。この作品他で川口は第一回直木賞を受賞)を原作とし、笠原和夫が脚色し、後に俳優としても知られた山村聡(明治四三(一九一〇)年~平成一二(二〇〇〇)年)が監督した、料亭の看板娘と板前との恋愛映画。

「二百米平泳準決勝」競泳男子二百メートル平泳ぎの決勝では葉室鐵夫が金メダル、小池禮三が銅メダルをとっている。

「祭日」不詳。

「展望」不詳。

「トリツペル」Tripper。淋病。実は、私は梅崎春生本人が、この淋病を罹患した経験があるのではないかと、疑っている。それは梅崎春生の自伝的要素が甚だ強い小説「その夜のこと」を電子化した際に感じたことである。そこで主人公の「僕」が、

   *

 その前年の七月の末、当時二十一歳の僕はある種の病気にかかったのだ。ある種の病気というのもへんだから、この病名を仮にXということにしておこう。このXは現今においては、注射の一、二本でカンタンに治癒するらしいけれども、当時は当時、医業医薬の未発達のため、なかなか難治の病気とされていた。その難治なるXに不運にも僕がとりつかれたというわけだ。僕は夏休みの帰郷をも取止めて、大急ぎで医者に飛んで行った。

 こうして僕の憂鬱な口々が始まった。

 Xという病気ははなはだ面白くない病気で、酒はいけない、刺戟物はいけない、あまり動き廻ることもよくない、とにかくあらゆる欲望をつつしまなければならない病気なので、そこで僕は毎日下宿にごろごろして、そして医者に通う。その医者は町医者で、僕が学生だからというので、特に治療費を月極め二十五円にして呉れた。当時にしてもこれは安い方だったと思う。医院は千駄木町にあった。僕が弓町の下宿を引払い、この愛静館に引移ってきたというのも、そんな事情からだった。毎日通うのに遠くでは都合が悪いのだ。

   *

と述懐しているからなのである。而して、ここで梅崎春生自身が受けている奇妙な通院治療も、それなのではないかと、実は、疑っているのである。この昭和十一年、梅崎春生は満で二十一となっている。

 

九月二十五日

 久し振りに書く。一箇月以上日記を怠けた。いささかうちのめされた。今からだ。私にとつて一世一代の芝居が殘つてゐる。今日から何箇月か。今年中、此の芝居はつづく。不幸な悲劇の主人公。

 

 をはると私はひとりで手をたたかう。

 ああ私の中にゐる小さな病菌たちよ。

 

九月三十日

 小酒井博士の「殺人論」を讀む。近來、此の本ほど私を打つた本はない。昨夜の十一時から一時まで。今朝で讀了。色々私を啓發し、示唆して吳れた。

 私はいま「毒物學」の精密な書物がいちばんほしいのである。

 

 トリカブト。ジキタリス

 

 夜、西鄕と原と「南國」に行つた。

 

 「ちんば引いて步けば秋の廢園や」

[やぶちゃん注:「小酒井博士」医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。私の非常に好きな作家である。

「殺人論」大正一三(一九二四)年京文社刊の評論。「犯罪文学研究」(昭和二(一九二七)年春陽堂刊)とともに私が電子化したいものの一つである。没年に刊行された「毒及毒殺の研究」(改造社)も梅崎春生は味読済みというわけか。

「トリカブト」全草(特に根)に毒性の強い、現在も解毒剤のないアコニチン(aconitine)を含む双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の根から製する猛毒。本邦では古くから「附子(ぶす)」として知られた。

「ジキタリス」タイプ種はシソ目オオバコ科ジギタリス属ジキタリス Digitalis purpurea 。ヨーロッパ南部原産で、別名キツネノテブクロ。各地で観賞用や薬用として栽植されているが、全草に猛毒を有する。本種及びケジギタリス Digitalis lanata の葉を乾燥させたものを生薬として「ジギタリス」と称し、強い強心作用を有する。「ジギタリス」には「ジギトキシン」や「ギトキシン」などの強心配糖体が含有されており、心筋に直接作用して、その収縮力を強め、刺激伝導系を遅らせて不応期を延長させ、拍動数を減少させて、心室筋の自動性を亢進させるなどの作用を持つため、鬱血性心不全に対して顕著な効果が認められる一方、消化管に作用して嘔気・嘔吐などの消化器症状、不整脈・動悸などの循環器症状、頭痛・眩暈などの神経症状、視野が黄色くなる視覚異常の他、過量すれば、重篤な心臓障害を起こすことが知られている。現在では生薬としてはほとんど用いられない。

「西鄕」既出既注の西郷信綱。]

 

十月十二日

 何だかもやもやとした不安が私をいらだたせてゐたのだ。原が東京驛に人を送りに行くと言ふので、私もいつしよに連れて行つて吳れとたのんだりした。旅情のあわただしさが私を救ふかも知れない。さう思つてみた。しかし、夜更けて、人に別れて、ひとり歸るあじけなさと苦しさを考へたとき、なにか心のなかで、へたへたとくづれおちるものを感じた。原とバスの停留所で別れて、下宿の方に步きながらも、一體何がくるしいのであらうと考へてみた。何も、はつきりした具休的な苦惱は思ひ出せなかつた。夜ねてからも、私はしばらくふるへてゐた。廊下を通る微かな跫音(あしおと)にも、ぎくりとして汗が出た。カルモチンの箱をしらべたら八粒のこつてゐた。そのうち四粒をてのひらにのせて洗面所に行つた。手がふるへて、水があごから胸へ流れて冷たかつた。私はも少しで泣き出す氣持を押しこらへて部屋にもどつて橫になつた。

[やぶちゃん注:「カルモチン」既出既注。]

 

十月十三日

  夜十二時。

  心ゆたかなり。

 

  カルモチンをのみて、ねむらんとす。

 

  ふみに つかれ むなし ひたひに ひえびえと

  ゆびをあてたり なにか かなしく

 

    永平寺貫首猊下(げいか)よわれがもつ

    虛無のおもひをいかにせましな

 

    君がためしょうそうこなんのをとめらは

    われとあそばずなりにけるかな

[やぶちゃん注:二首目の歌の上句は特異的に底本に近い表記で残した。底本では、

    君がためしょうそうこなんのおとめらは

という表記になっている。第三句は「乙女等は」で「をとめらは」でよかろうが、「しょうそうこなん」が全く判らない。「少壯」なら「せうさう」であるが、「乙女」の形容としては、すこぶるおかしい。「こなん」は単に中国由来の美称のそれで「湖南」でよいか? 「少壯湖南の乙女ら」? 何じゃか判らん。ともかくもしかし、第一首との対句を考えると、「永平寺貫首猊下(げいか)」(この呼び方は実際に普通に永平寺貫首を呼ぶもので、「猊下」は高僧に対する敬称である)に対応するから、「の」以前の「しょうそうこなん」は一続きの漢字文字列でなくてはおかしい。しかし、私には漢字も意味も相応しいものを想起出来ない。識者の御教授を乞うものである。

【二〇二一年七月八日追記】古い教え子のT君が『瀟湘(しょうしょう)を「しょうそう」と誤読していたのではないでしょうか。ただし、永平寺貫主と瀟湘湖南の乙女の対置がよくわかりません。ただただ、私の中では、禅宗のモノトーンの世界と、中国のイメージ上の乙女たちの柔らかな印象が、不思議な和音を奏でるだけですけれども……』と知らせて呉れた。それだ! 間違いない!

    君がため瀟湘湖南の乙女らは

    われとあそばずなりにけるかな

「瀟湘」は湖南省の名勝で、洞庭湖の南の「瀟湘八景」として、詩や絵画の主題に取り上げられて多くの作品が作られた。瀟は瀟水、湘は湘水で、この二つの川が合流して洞庭湖に注ぐ所は古くから絶景の地として知られ、夕照・秋月・夜雨・暮雪など、おもに夕暮れの勝景八つを取り上げて美景の名数となっている。則ち、「山市靑嵐(さんしせいらん)」(山中の町に霞の漂っている美しい風景の意) ・「漁村夕照」・「瀟湘夜雨」・「遠浦歸帆」・「烟寺晩鐘」・「洞庭秋月」・「平沙落雁」・「江天暮雪」の八景である。中国では宋代から絵画の題材として描かれ、本邦にはそれらの作品が鎌倉末から輸入され、玉澗や牧谿(もっけい)の作例が伝来している。また、本邦の初期の水墨山水画に鎌倉末の習作的な「平沙落雁」を描いたものが残っており、以後、狩野派を始め、漢画の主要な主題となった。なお、本邦の「大和八景」・「近江八景」・「金沢八景」など、後世これに倣って選ばれた名勝が各地に生まれて今に伝わっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。湖南はそれに附しても全く違和感がない。但し、「瀟湘」は歴史的仮名遣で「せうしやう」で、現代仮名遣に直しても「しょうしょう」である。しかし「湘」を「そう」と読み間違えることは奇異ではない。さらに私などは、目の覚めるような景観美の「瀟湘」がそのより大きな「湖南」地方を連想させる時、そこには中国の美しい乙女ら、美姫・美妓らが直ちに想起されるのである。それは芥川龍之介の名作「湖南の扇」(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト)によるものである。しかして、この一首も感覚的には私は腑に落ちるものとなる。教え子に心より感謝するものである。

 

十月十九日

 目を覺ますと十一時半であつた。

 こんな夢を見た。

[やぶちゃん注:以下、夢記述は底本では全体が一字下げでポイント落ちである。]

 

 場所は熊本のやうであつた。一時間目の授業(學校は五高らしい)に出はぐれたので、私は下宿に歸つて、映畫でも見に行かうか(新市街に)と考へたが、何か下宿(森さんの家)に歸るのが背德のやうな氣がして、圖書館(これは東大の圖書館らしい)の方に步いて行くと、敎官の森大尉が私のそばにやつて來て、授業に出ないなら、一寸こつちに來いと言つて、小さな喫茶店(此の喫茶店は五高の武器庫の所にあつた)につれて行き、あの女を見張つていて吳れと私に賴み、どこかに行つてしまつた。私が見張りを賴まれたその女は、何か珈琲でも飮んでゐた。(私も何かのんだ)――いつの間にかその喫茶店が敎室に變り、丁度一時間目がすんだ所であつた。私が歸らうかなと思つてゐたら、扉を開いて小さな男が入つてきて敎壇に登り、大きな聲で講義を始めた。私の前には岸本がすわつてゐたので、あの男は誰だいと聞くと、あれが有名な末弘嚴太郞だと敎へてくれた。ぼくらは、あれをノートしなくていいのかと聞くと、(ぼくのまわりのひとびとはみんな熱心にノートをつづけてゐた)ぼくらは文科生だから、唯、聞いてゐさへすればいいんだよと岸本が答へた。しかし、そのとたんに末弘氏が階段を下りてぼくらの方に步いて來たので、ぼくはあわてて、そこらにあつた本をひろげてうつむいてゐた。不思議なことに、その本は、修猷館(しゆうゆうくわん)の同窓會雜誌であつた。となりに坐つてゐた男の所有品であつた。――いつの間にか私はひろびろとした博物館風の家の中をあるいてゐた。天井の高い、白いかべの建築であつた。左にその圖をかく。

 

Umezakinikki1

 

 此の建物には、私は一度來た事があつた。それは、Dと言ふ通路から先の建物の中の陳列品は、私はもう既にみたことがあるのであつた。私は、Eの所の壁にかけられた畫を一枚一枚見て行つた。(私は中島極らしい男と一緖にあるいてゐた。)その壁には、大きな、印象深い畫が二枚あつた。その畫を左に描く。

 

Umezakinikki2

 

 上の方の繪は、化猫が、虎とライオンとに戰を挑んでる畫で、此の日記帳にうつした畫はまずいが、下の方の猫が本當の化猫で、上の方のは、田舍の家にばけた猫なのである。私はその時、虎と猫とは同族であるが、どうして、それらが連合して獅子にあたらないのであらうか、やつぱり化猫である故、孤立してゐるのであらうかなど考へた。その下の小さな繪には、萬曆赤繪と言ふ貼紙がしてあつたけれど、何等變哲もない平凡な山水であつた。私は中島に此の繪の事をしらせようとしたが、もうその時は彼は近くには見當らなかつた。有名な萬曆赤繪とはこれかと思ひながらしばらく見てゐた。それからAに步いて行つた。Aは大きな水槽なので、その中に石で造つた蛙がたくさんゐた。

 しかし、よく見ると、皆生きているのだ。指でつつくと、背中は石だけれど、生々しい腹の肉を見せながら沈んで行つた。それから、ひろい大廣間の方に步いて行つたら、小便がしたくなつた。繪のBにあたる所が人口らしく、大きな戶があつて、机を四つ五つならべて、委員たちがこしかけてゐた。こんなひろい所に便所のない筈はないと思つて、あちこち見まわすと、Cの所が便所らしかつたので、そちらにあるいて行つたが、それは便所ではなかつた。そこの扉には、どういふ意味か知らないが、貼紙がしてあつて、東雲堂とかいてあつた。そこで目がさめた。尿意が激しかつた。

[やぶちゃん注:太字「東雲堂」は底本では傍点「◦」である。図は本カテゴリ始動の際に述べた通り、二図ともに指示キャプションが底本では活字に書き変えられているため、編集権侵害になるのは厭なので、OCRで画像として取り込み、トリミングした上で、それらの活字部分は清拭して削除し、代わりにそこに同じ文字数・文字列でフォト・ソフトを用いて、図の中に改めて活字化し(勿論、歴史的仮名遣を用いた)、注も入れ込んだ。なお、この日の日記は異様に長く、面倒なので、夢記述の注をここで附す。

「修猷館」既に述べた通り、梅崎春生は昭和六(一九三一)年三月に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業している。

「萬曆赤繪」(ばんれきあかゑ(ばんれきあかえ))とは、中国の明の万暦年間(一五七三年~一六一九年)に、江西省にある知られた景徳鎮窯で焼かれた赤絵の磁器の総称。極めて美しかったことから一般化した、本邦での呼称である(中国では「万暦五彩」と呼ぶ)。薄い胎土に、白磁の染付(釉下コバルトによる藍の発色)にかけた釉(うわぐすり:これを「赤絵」と呼んだのである)が重厚な美を示すもので、実際には赤だけでなく、青・黄・緑なども配されてある色絵の白磁のこと。万暦時代のそれは特に華美で、官窯としても多量に製造されたが、輸出品も多く特に日本に多く残っている。日本では古くから「万暦赤絵」と呼ばれて尊重された。

「東雲堂」恐らくは、梅崎春生の故郷福岡で有名な和菓子店「東雲堂(とううんどう)」と同名であるから、彼の夢記憶を呼び出すキーとなったものと思われる。現在も福岡県福岡市博多区に本社を置く、和菓子製造企業である。郷土芸能である「博多仁和加(はかたにわか)」のお面を形どった「二加煎餅」(にわかせんぺい)は地元の福岡で今も非常に知られている。明治三九(一九〇六)年創業。私事であるが、私は、実は、あの「はかたにわか」の面が甚だ嫌いである。あれを見ると、強い嫌悪を感じる。理由は自分でも判らない。いや、実は、私が過去の嫌いな人間を想い出す時には、何故か、そいつは、必ず、あの面をつけているのである。あの面は、邪悪な内面を隠すもの、或いは人間としてのあるべき感情を持たないことを隠ぺいするものにしか、私には映らないように感ずる。]

 

 夢のことを言く事はむつかしい。正確に書くなら、いま書いた紙數の三倍の頁を要するであらう。今日の夢は、夢の中では、連續一貫した夢であつたのだが、書いて見ると、三つに分れた夢になつてしまつた。

 朝、目が覺めたとき、東雲堂のことをふと思ひ出したら、あとは糸をたぐるように次々に思い出した。しかし、一番始めの夢も、前からづつとつづいてゐたのであるが、それから前は思ひ出せない。此のゆめとは孤立してゐるが、友達と四人で家をかりた夢を見た。上二間、下四間の家であるが、岸本が專斷で一番良い部屋を取つて、一悶着起きたゆめであつた。

 

 今日は雨が降つてゐる。私は部屋の中に端坐して日記を書きながら、意識の腐敗して行く音を感じてゐる。

 今日あたり、誰か遊びに來て吳れると大いに助かるのだが、此の雨では誰も出て來ないであらう。

 

 月水金の芝の創作。駄作に戀幾(こひねが)はし[やぶちゃん注:底本はこのルビ附き漢字二字の右に編者によるママ注記がある。「こひねがふ」は「庶幾ふ」とは書く。]。こんなもの書いてどうする氣か。しかも卒業創作ではないか。

 

 綠川貢の「初戀」

 一讀して、呆然とした。ああ亦私は何をか言おう。これが日本一流の同人誌の誌面を堂々とかざる此の現狀。

 

[やぶちゃん注:以下、実在の人物名を挙げてのカリカチャライズのような、或いは、梅崎春生の想定した登場人物の設定なのかは、よく判らない。但し、底本編者は明らかに実在する人物と判断してフル・ネームを総て□の伏字にしてあり(最初のみ三字分)、その下方に『〈人名〉』という編注記をしている(除去した)。五名の人物まで、全体が名前の頭一字が突き出ている(一字下げ)だけで、全体は二字下げである。ブログのブラウザでは崩れて汚くなるので、適当な部分で改行して、字下げを施した。]

 □□□(ふきの煮付)

  小さな龜の子。秋の晝吹く風。

  村祭の日に、男がみちを步きながら、大學

  の講義の退屈さを思い出して、露店商人か

  ら龜の子一匹を買いました。少しばかり顏

  をあからめて。

 

 □□□□(牛肉寶來煮)

  新しいインクを買つて來て、一寸その色具

  合をみたいと思つたけれど、丁度近くに紙

  がなかつたのでその男は、そのインクを、

  下宿の部屋の白いかべにかけたら、鮮かに

  その色がつくだらうと思ひながら、めう

  にうそ寒く部屋の中にじつとしてゐました。

 

 □□□□(須田町食堂のメンチボール)

  タンクの無限軌道は、物すごい勢で土をは

  ねて進んで行つたが、中に乘つてゐる若い

  兵士は一體此のタンクはどこに行く氣だら

  うと、泣き出しさうな顏をして、機械をガ

  チヤガチヤと動かしました。

 

 □□□□(大根の煮付に、まちがえてソース

  をかけたやつ)

  男がいて、道を步きながら、情欲にかられ、

  ある空屋に入り、壁にむかつて Masturbation

  をしました。でも男は、汚れた壁を拭きもせ

  ず、まあいいや、人も見てないや、誰にも判

  る筈はないや、と呟きながら、その空屋を出

  て、步いてゆきました。奇妙に緊張した顏を

  して。

 

 □□□□(ひじきのこせう煮)

  殘忍な兎の子。チンポコが赤い。

 

 我が悲しみもここにあふれたり。新酒を酌み女を抱けば、幸福なほあらんか。

 現實をのりこしてしぶきをあげる。

 

 もう、今日は十二枚目だ。少し氣違ひ染みて來た。

[やぶちゃん注:以下、底本では、標題「創作の斷片」を除いて「由紀の饒舌はいとはかつた。」までポイント落ちで全体が一字下げ。]

 

 

    創作の斷片     十月十九日夜

 その男に、私はあるとき、外套をもらつたことがある。べつだん、私が、その外套を非常にほしがつたわけでもなかつたし、その男が、私の貧しさをあはれにおもつたわけでもなかつた。ただ、突然、私の下宿にやつてきて、この外套、君にあげる、と、めうに眞面日な顏で言ひ、着てゐた外套をわざわざ脱いで、私の部屋の壁にかけ、そのまま默つて歸つていつた。秋の終りのことなので、その男にしても、その外套は、冬を越すためには、必要なものであることは言ふまでもなかつた。

 

 私が高等學校に入り、寮の生活を始めたとき、橫紙が私の同室者であつた。此の高等學校の寮は、六疊の部屋に二人づつ入るやうになつてゐて、その組合せはどんな法則によつてゐるものかは知らなかつたけれども、橫紙も、私も、どちらも土地のものではなく、となりの縣出身であつたから、きつと、さういふ關係から二人が同室になつたにちがひない。

 

 舞臺には、大きな向日葵(ひまはり)を一本だけ畫いた、汚れた背景の布がさげてあつた。その巨大な植物は、ぎらぎら光る、毒々しい花をつけてゐて、その花は、幹に少しばかり弧を描かせて、たゆげにうなだれてゐた。そして音樂の破れたラツパのよく響く、まづしい旋律と共に、眞紅な、奇妙な形の衣服をまとつた踊子が三人、右の袖の所から、ぴよんぴよんはねるやうにして出て來た。なぜ、あんな衣服を着なければならないのだらう。背景には、なぜ向日葵が一本きりしか描いてないのだらうか。そんな意味のない疑問が、頭の中にぐるぐるとまはり出すと、私は何かしら寒氣立つやうなはげしい恐怖におそはれた。

 

 墓の前にぬかづく由紀のすがたをみながら、私はわざと、その丸い腰のへんから心を外(そ)らしてゐた。由紀のやうに心汚れたをんなの、かうした神妙な姿は、白い光のやうに、妙にあざやかに、私の心を打つものであつた。此のをんなを間において、私と橫紙が、何故爭はねばならないのか。ぼんやりと遠い空を眺めながら、私はそんなことを考へてゐた。私は、いままで此の女に愛情をもつたことがあるのか。

 

 由紀のさうした姿だけが、私を救ふものだ。由紀のさうした神妙さだけが、私を浮び上らせるにちがひない。

 

「ぼくは矢張りあの女が好きだつたのだ。あの日ぼくは言ひそびれたやうだつたけれど、とほいとほいむかしからあのをんなのことばかり思ひつづけてゐたやうな氣がするのです。あのをんなさへ生きてゐて吳れるなら、ぼくはきつと此の生活から浮び上ることが出來る。ね。梅崎さん。あなたはぼくをひどく憎んでゐるやうだけど、此のをんなのことについてだけは、何もしないで下さい。もしあのをんなの心が、あなたに傾いたら、私は――あなたを殺す!」

「忘られないのか。それほど。」

 私は、さう呟いてゐた。何か目に見えないものが、私をぐつと押すのを感じながら、しかし、それは聲にはならなかつた。私はだまつて、橫紙が、卓子に伏して聲をはなつて激しく泣き出すのをみつめてゐた。聲を出すまい。そればかりじつと心に念じてゐたのだ。卓子の上にこぼれた酒が、くらい電燈の光をうけて、きらりと冷たく光つた。

 

「ね。あたし、踊つてるとき、決して見物の方を見ないのよ。あの小屋の、うしろの壁に、ほら、化粧品とか、カルピスとかの、宣傳のポスターが十枚ほど並べて貼つてあるわね。あそこばかり見ながら踊るの。けんぶつの顏みるのこわい。おどれなくなる。ときどき後の方で、あの物賣のばあさんが、知つてるでしよ。幕合にラムネとかピーナツを賣つてあるく、あのばあさんが、じつと立つて見てるのに氣がつくことがあるの。こわいのよ。とても無表情なかほで。」

 ちよつと言葉をとめて、そのまねの表情をした。

「じつとみつめてるのよ。いつもにこにこしたひとなんでしよ。それが白い眼をして、じつとあたしのはうばかり見てるやうな氣がするの。あたしが舞臺をとちるのも、きまつてそんな時なの。でも、もういいわ。あたし修業がつんだから、ポスターばかり目をつけて、そんな外のところに目をそらさない自信ができたのよ。もうせんは、あのポスター、カルピスのばかりだつたけど、今はいろんなものがあるのね。あたし、何と何とがはつてあるか、ちやんと覺えてゐるのよ。いつも見てるせいなのよ。あんた覺えてる?」

「いや」私は、あの小屋の妖しい雰圍氣を思ひ出してゐた。しかし、由紀の饒舌はいとはしかつた。

 

 改造十一月號 佐藤春夫の「芥川賞」をよむ。太宰治のことを書いたるなり。天才。

 吾は頃日、太宰治を否定せんとして果さず。

 彼は天才である。故にこどくであるが。

[やぶちゃん注:ここでやっと「十月十九日」分の長い日記が終わる。

「綠川貢」(みどりかわみつぐ 明治四五(一九一二)年~平成九(一九九七)年)年)は小説家。本姓は内藤。東京生れ。中学中退。『日本浪曼派』や『人民文庫』に所属した。昭和一一(一九三六)年上期の第三回芥川賞候補者で、その対象作が、この「初戀」及び「花園」という小説らしい。詳しい事績は不明。

「寶來煮」こういう料理があると思って調べたが、ない。不詳。

Masturbation」自慰。オナニー。

「ひじきのこせう煮」「鹿尾菜の胡椒煮」だろう。

「創作の斷片」とある以下の話は不詳。但し、ここで出る「外套」という小道具は、後の梅崎春生の小説の中で、重要なアイテムとしてしばしば登場するものである。

「梅崎さん」梅崎春生は自作の小説の中で本名を使うことは、知る限りでは、ない。

『改造十一月號 佐藤春夫の「芥川賞」をよむ』芥川賞が何としても欲しかった太宰が、無茶苦茶な茶番を起こし、その騒動と太宰の虚言に対して、師である佐藤春夫が堪忍袋を切らしてしまって『改造』に書いた「芥川賞――憤怒こそ愛の極点(太宰治)」という記事である。ロンバルジア氏のブログ「文芸的な、あまりに文芸的な」に詳しい経緯が書かれてある。興味のある方は、そちらをどうぞ。私は太宰は小説こそ好きだが、人間的には好きでない。彼の「小動の鼻」での十八歳の女給田部シメ子との心中未遂というのは、心中を装った彼の殺害ではなかったか? とさえ疑っている人間である。]

 

十月二十日

 昨日の新聞では、魯迅が死んだ。秋雨霖々。机冷えたり。莨(たばこ)不味し。本をめくる指、かなしく長し。

[やぶちゃん注:以下、「それが、素晴らしい美少年だつたのだ。」まで、底本ではポイント落ちで、全体が一字下げ。]

 

 何のために、あの男は、いちいち私の眞似をするのであらう。何のために。私は、彼の表情のどこかに隱されてゐる殘酷な美しさを思ひ出すとき、私の憎惡の、はてしれぬ深さとひろがりをまざまざと知るのである。白い道のはてに、追ひつめて、先は絕壁、兩側はきりぎし、にやにやわらひながら、唇歪めてせまつてくるその男の表情の、めうに殘忍な美しさが、私を絕望におもむかせた。

 あいつには反逆できるが、その美しさには、ああ、私にはどうしても反逆できない。

 

「いいな。此の詩は。ちよつと。」

 私は、外の原稿を整理しながら、忙しく番號を打つて行く、同じ文藝部の委員をしてゐる男に話しかけた。

「ちよつとうまいじやないか。誰だい、此の詩人は。」

「橫紙象八つて言ふ男だよ。新入生らしい。まだ逢つたことはないけど。」

 その男は頭も上げずに答へた。

 

「僕、橫紙ですが。」

 それが、素晴らしい美少年だつたのだ。

 

 夜、原とオペラ館に行く。淸水金一、よし。

[やぶちゃん注:「魯迅が死んだ」偉大なる中国の作家魯迅(ルーシュン 一八八一年~一九三六年:本名・周樹人)はこの前日の十月十九日、上海で国防文学論戦の最中、持病の喘息の発作で急逝した。五十五歳であった。

「霖々」(りんりん)は長々が降り続くさま。無論、魯迅への梅崎流の哀悼の辞である。

「同じ文藝部の委員をしてゐる男に話しかけた」このシチュエーションは五高の『龍南会雑誌』の編集作業がモデルである。

「オペラ館」東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草二丁目五番)にあった映画館・劇場である。関東大震災からの再建後はマキノ映画製作所が映画を供給したが、昭和六(一九三一)年十二月に新築オープンし、その「こけら落とし」に榎本健一・二村定一のダブル座長から成る軽演劇劇団「ピエル・ブリヤント」の旗揚げ公演を行って以降、軽演劇やオペラの劇場としても流行った。

「淸水金一」(明治四五(一九一二)年五月五日~昭和四一(一九六六)年:本名は雄三(のちに武雄)はコメディアン・映画俳優。浅草の軽演劇及びトーキー初期を彩るミュージカルや、コメディのスターとして知られる。愛称「シミキン」。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」や「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」の決まり文句で知られた。山梨県甲府市生まれ。上京し、昭和三(一九二八)年十六歳の折り、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、「清水金一」を名乗った。師匠金太郎は榎本健一(エノケン)と「プペ・ダンサント」(Poupée dansante:「踊る人形」の意)を結成したが、昭和九(一九三四)年四月に亡くなったため、金一はエノケンの師匠柳田貞一門下に入り、森川信らが、大阪千日前に結成したレヴュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加した。昭和一〇(一九三五)年夏、浅草に古川ロッパが開いた先に出た劇団「笑の王国」に参加し、また、浅草オペラ館で堺駿二とのコンビで活躍、一躍、軽演劇界のスターとなった(この頃、「シミキン」の愛称がついた)。その後など、詳しくは、参照した当該ウィキを参照されたい。]

 

十月二十二日

 大朝、橫山隆一の養子のフクチヤン、麻生豐の、只野凡兒以來のヒツトである。構想、繪と共に、ほめるに足る。

[やぶちゃん注:「大朝」てっきり、『大阪朝日新聞』のことかと思ったが、考えて見れば、東京の彼がわざわざかく言うのは如何にもおかしいので(次々注参照)、これは素晴らしい漫画を載せてくれた「大」新聞『朝日新聞』という謂いであろうから、「だいあさ」と読んでおく。

「橫山隆一」(明治四二(一九〇九)年~平成一三(二〇〇一)年)は高知県高知市生まれの漫画家・アニメーション作家。

「養子のフクチヤン」ウィキの「フクちゃん」によれば、この昭和一一(一九三六)年一月二十五日に『東京朝日新聞』で始まった連載四コマ漫画「江戸っ子健ちゃん」の脇役として登場したが、『着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて』、『主人公の健ちゃんよりも人気が出た』『ため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた』。その後も「フクちゃん」シリーズは、『連載媒体を幾度か変えながら』、昭和四六(一九七一)年まで、長期に亙って『連載された』とあり、また、『当初は「養子のフクチャン」の題で開始』され、『大阪朝日新聞』にも『数日遅れで掲載された』とある。

「麻生豐」(あそうゆたか 明治三一(一八九八)年~昭和三六(一九六一)年:本名はこれで「あそうみのる」と読む)は漫画家。「只野凡兒」は、彼が昭和七(一九三二)年に朝日新聞社に入社して、その翌年から昭和九(一九三四)年七月まで『朝日新聞』の夕刊で『只野凡兒 人生勉强』=『只野凡兒』を連載したもので、好評を博した。]

 

十月二十三日

 正午に起きいで朝髮をしたため、いま、机のまへにすわり、茫然と窓のそとをみてゐる。風がはげしいのだ。空が、おそろしくなるほど、蒼く、梢をはなれた木の葉が、ひよひよと、ななめに飛んでゆく。視野のどこかで、

Umenikkihibunnsyou

こういう形をしたものが、絕間なくうごいてゐる。また、神經が衰弱したものにちがひない。何かしら、私と、ぜんぜん關係のないものたちばかりが、私を取りまいてゐる。窓の前の木に、つめたい日の光がさしてゐるのだが、それが、映畫のやうに匂ひがないのだ。そして、風にあふられて、わやわや騷ぐのだが、それをみながら、私は、私の感官の、亂視になつてゐるのをかんじる。空のいろが、何かの憶ひ出につながつてゐさうな氣が、先刻からしてゐる。そして――生きてゐたな、ああ、よく生きてゐたな、と、淚ばかり出さうな氣持だ。

 

  日かげらば 土に燈をともせ 苔の秋

 

  秋風や 藥飮む舌も やせほそる

 

  白き小石も 風にふかれて 冷えにけり

 

 心にごり、にがきくすりを、わづかばかり飮む。いのちの痴呆じみた面貌の冷酷さが、どこか、たつといものに思はれる。

 

 なぜ、人間のゆびは、五本あるのか、なぜアルバムが、私のむかしのすがたを、繪卷のやうにならべてつめたいのであるか。なぜ、をんなの肉體が、あんなに汚れてるやうに見えながら、やるせなく慕はしいのであるか。なぜ、なぜ。さうした、いみのないやうに見える疑問が、解明される前に、私はまづ、あのくも一片もない大空の深さにおそれをののかねばならぬ。

 さうしたあらゆる原始的なぎもんは、恐怖を基(もとひ)としてひろがつてゐるやうだ。

 

 自虐の極、人間の風貌は痴呆に似た表情をただよはせてくるものである。そして、その時だけ、ほんとの夢がある。

 此の世で、ほんとの夢をもつものは、そんなひとびとと、ふうてん病院のかんじやたち。のこりのひとが夢といふのは、みんな下らない妄想のこと。

 

 夢をみてゐる人の世界では、「はい」と、「いいえ」が同義語であり、「よろこび」と「かなしみ」の區別がない。友達のまへで、おれは生きてゐるぞ、と昂然と言ひ放つことは、おれは死んでゐるぞ、と悄然と言ひ放つこととまつたくおなじことなのだ。無意味だと言ふことを止し給へ。言ふことだけに、意味がある。

 

 夢を見てゐる人の特徵は、ひそやかにも、心愉しいこと。ときどき、むいみなことをつぶやくこと。

 思い起す千古の傑作、牧野信一「天ぐどう食客記」

 

 小學校のとき、私は、ある同級の子がすきであつた。その子の眼が、たらのやうであるとおもつた。たら?

 私は今にいたるまで、たらと言ふ魚をみたこともないし、食べたこともない。なぜ、その眼が、たらを連想させたか。私の幼い夢がそこにあつた。そこから私の幼いゆめは發足した。去年、故鄕のデパートで、私は、成長した彼に出合つた。彼は中學校をでて、體操學校に行き、いまは、中學の體操の敎師であつた。彼は私に、「出世したね」と言つた。そして、二人で、食堂で、ライスカレーを食べた。話ししながら、彼は上目使いで私をときどき見た。やはりそれが、たらであつたのだ。一匹のたらが、目の中で、はつらつと泳いでゐた。

 

 世の中で一番たつといもの、それが虛無である。文學は社會を指導するものではない。人間性をみちびくものである。どこへ? 茫々たる虛無へ。

 

 虛無は心愉しい世界である。(心愉しい世界が虛無であるのではない)

[やぶちゃん注:この画像で示したそれは(実際には本文に組み込んであるが、改行して中央に配した)、拡大して見た結果(拡大したものを配した)、丸い粒状を繋げていることが判り、これは私には実に親しい馴染みのものであって、間違いなく、見事に病気ではない正常範囲内の物理的現象としての眼の硝子体の中の飛蚊症(ひぶんしょう)のそれである(梅崎春生は「神經が衰弱したものにちがひない」と言っているのは、寧ろ、問題であって、これを精神変調の結果とする全く誤った認識であり、その方が深刻と言えるのである)。私は小学生の低学年の頃から(恐らく二年生七歳の時を記憶している)、朝の朝礼で晴天の空を見上げると、視覚の一部に、これと全く同じ、透明な粒が絡まったようなものを見かけた頃から(それを動かして楽しんだ自分を想い出す)、現在に至るまで、見かける。今は、右眼は殆んどなく、左眼には十年程前から、ごく小さな蝌蚪(おたまじゃくし)が、一尾、泳いでいる。これは青年期に専門書で調べたが、正常範囲内の飛蚊(ひぶん)で、所謂、硝子体周縁を形成する正常な構造物である細胞や線維が遊離して硝子体内に出た物、後部硝子体が人によって剥がれ易いか、或いは経年変化で剥離して硝子体内に出た浮遊物である。これは治療の必要はない。私の現在の左の「蝌蚪ちゃん」も、一応、気になるので眼科医に見て貰ったが、「問題ない」とされ、「うまく硝子体の底に沈んで動かなくなって呉れると邪魔にならないんですがね」と言われた。時々、実際の虫が一匹飛んでいるのと間違えることがあるくらいが、少し面倒なこだけに過ぎない。但し、この飛蚊症が、今まで全く見られなかった人に突然、多量に発生することがあり、これは網膜裂孔や網膜剥離の前兆とされ、他にも、網膜の血管の疾患や、眼球内の感染症、或いはそうした疾患による硝子体内への出血などが疑われるため、直ちに眼科に見て貰う必要がある。以上は、念のため、「三和化学研究所」公式サイト内の「飛蚊症」を参考にした。気になる方は必ず見られたい。

「ふうてん病院」「瘋癲病院」。精神病院の古称。

「牧野信一」(明治二九(一八九六)年~昭和一一(一九三六)年)は小田原生まれの小説家。早稲田大学英文科大正八(一九一九)年卒。同年、「爪」で島崎藤村に認められ、「凸面鏡」 (大正九年) ・「父を売る子」(大正一三(一九二四)年)・「父の百ヶ日前後」(同前)などで作家としての地位を確立、その後、モダニズムの影響を受け、「村のストア派」(昭和三(一九二八)年)・「ゼーロン」(昭和六年) ・「鬼涙村(きなだむら)」(昭和九年) などでは、ギリシア・ローマ神話や中世騎士物語などを下敷きにして、日本では稀な幻想小説を生み出した、しかし「淡雪」・「裸虫抄」(孰れも昭和十年)に至って、再び初期の陰鬱な作風に戻り、小田原町新玉町の実家の納戸で自ら縊死を遂げた。享年三十九歳。

「天ぐどう食客記」「天狗洞食客記」。昭和八(千九百三十三)年作。「青空文庫」のこちらで読める(新字旧仮名)。]

 

十一月一日

 十二時超床。手紙を三本書き、外出。「紫苑」。

 

 白い道を步いてゐた。

 一人の子供が、めうに、眞面目なかほをして、一匹の犬をみつめてゐた。ほほをふくらませて。犬が近づくと、いきなり、ロから、多量の水をはき出して、犬にかけた。犬はおどろいて逃げさつた。子供は滿足げにつぶやいた。

「ああ、犬に水かけてやつた!」

 殘虐におもむく瞬間の表情の美しさ! 私は戰慄しながら、さう思つてゐた。

 

 「紫苑」にて、壇一雄と會ふ。眼鏡をかけた、面長の男である。麥酒(ビール)をのんでゐた。私は、ジヤム付トーストを食べた。外に出たら風がつめたかつた。

 

十一月二日

  舖道(ほだう)にも燈(ひ)はともりたり秋の雨よ

   人繁き巷(ちまた)にぎんぎんと降れ

 

 シネマパレスで「自由を我等に」「或る夜の出來事」をみる。どちらも古い感激を靴の修繕みたいに再生した。

[やぶちゃん注:「自由を我等に」私の好きな作品。ルネ・クレール監督の一九三一年のフランス映画(À nous la liberté )。大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品。映画音楽の大家として知られるジョルジュ・オーリック(Georges Auric 一八九九年~一九八三年)が音楽を担当している。翌年(日本ではこの昭和七(一九三二)年初公開)の「ヴェネツィア国際映画祭作品賞」を受賞し、本邦でも「キネマ旬報外国映画ベストテン」の第一位に挙げられた。

「或る夜の出來事」(It Happened One Night )は一九三四年製作(日本公開も同年)のアメリカのラヴロマンス・コメディ映画。監督はフランク・キャプラ(Frank Russell Capra 一八九七年~一九九一年)。主役はクラーク・ゲーブル(Clark Gable 一九〇一年~一九六〇年)とクローデット・コルベール(Claudette Colbert 一九〇三年~一九九六年)。同年のアカデミー賞の作品賞・監督賞・主演男優賞・主演女優賞・脚本賞と主要五部門を総舐めにしたオスカーの特異点の作品である。]

 

十一月八日

 明日より、小說に取りかかることを誓ふ。

 

十一月九日

 松本と東宝に行く。茫々夢の如し。

 習俗とか、觀念とか、あらゆるものが、頭の中で轟然(ごうぜん)と音立ててなだれ落ちた。もう言葉はない。

 人の世の幸福だけが私と對立してゐるやうに思はれた。こいつだな。こいつだな。と絕えずつぶやいてゐた。私をいままでおびやかしてゐたのは、この氣持なんだな。爆彈投下。虛妄と死と。生きることの苦しさ。どこかで、頭の中のどこかで、巨大な水車が水を切つて、ごつとん、ごつとん、と𢌞つてゐた。

[やぶちゃん注:「東宝」の「宝」は正式会社名では正字「寶」だが、系列映画館の看板や同社の発行する映画雑誌の画像を複数見たところ、総て「宝」であるので、正字化をやめた。ここは旧日比谷映画劇場のことか。]

 

十一月二十八日

 日本文學を滅亡させるものは、「文學界」の連中である。橫光利一を默殺する彼等は、次代の若き作家らに默殺されるであらう。そして、その次代の作家らの特微は、マルキシズムの洗禮をうけなかつたことである。

 文學的精神が、如何に良質のものであらうとも、縛られたものは縛られた範圍に於て良質となるだけだ。總てに於て良質となるのではない。私達の精神は、藝術的であるべきではあるが、文學的であるべきではない。

 その意味において、私は先づ今までの文學を否定し、古典に歸るべきである。何故、今の文學が(所謂(いはゆる))文學的であるのか、私は、その責をマルキシズムに歸したい。偉大なる不具、橫光を默殺し得た「文學界」の連中が、わづかに身を以て逃れようとした「文學界」の六號雜記の卑俗的方向は、もはや、人の笑ひ草になるであらう。民衆が、それらを手を打つて歡迎した瞬間が、おそらく日本文學の滅亡であるにちがひない。物を知らなすぎると言つて、當代の文士ほど、ものしらずはいないであらう。見れば、ひとかどのさむらひたちのやうであるが、生れ落ちて今まで、一體何事をしてゐたのか?

 

 恐るべきは意識の卑俗であり警(いや)しむべきは精神の偏狹である。前者に傾けば市井の車夫ともえらぶ所なく、後者に陷らば文學靑年と嘲けられよう。

 

 理性は科學であり、感性は詩である故、感性は常に理性に先行すべきであるが、理性の橫暴が、ときとして、感性をとらへてはなさないことがある。謂(い)はば觸角を奪はれたかたつむりのやうなものであるが、人間の不幸、これに勝るものはない。島袋正次の悲劇もじつにここに淵源するものであらう。私の興味をそそるのは、壓迫に堪へかねた感性が弱々しく觸角をのばした方向が、實に浪漫であつたといふことである。

 これを私は、フロイド的な原因であると思ふのであるが、その相剋が、おそらく、彼の今度の題目であらう。柿は落ちないのが當然だ。柿をつつき落す鳥のことを考へるのは噴飯である。

 

 ××××[やぶちゃん注:底本に人名とあり、編者による伏字であることが判る。]の精神が、どうして、あのやうな偉大なる常識と合流するに到つたか、私は思ひをここに致さねばならんと思ふのだ。理性の脆弱性であるか、それとも、虛無への盲目性であらうか。

 

 航海において、羅針盤があり、羅針盤には度盛りがあり、また修正器もある。さうした分化した機能があつまつて一つの船を正しい方向に動かすのを考へたとき、私は人生に對して悲しい疲れを感じる。人間に對して美しい諦めを感じる。何故さう分化されたのか。

 もうそれは人間の業でない。背後に立つ神々の殘忍な微笑を、私は、精一杯な努力で、憎惡するのみだ。

 

 ちかごろ、人間でなくてはならんことをしみじみ感じる。ふしあはせな事には、私の「新風流」精神は他人の理解する所でない。俗惡なフオルマリズムをして此の精神を嘲笑せしめたのが、私の「過去」であつたと言ふことは、私がもつとも恥ぢなければならないことである。此の羞恥感を私は利用しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「文學界」当該ウィキによれば、『文藝春秋が発行する月刊誌で、文學界新人賞を主催する。文藝春秋の純文学部門を担う位置付けとされており、同社の『オール讀物』が大衆小説部門を担っているのと対をなす。この『文學界』と、『新潮』(新潮社発行)、『群像』(講談社発行)、『すばる』(集英社発行)、『文藝』(河出書房新社発行、季刊誌)は「五大文芸誌」と呼ばれ、これらに掲載された短編・中編が芥川賞の候補になることが多い』。『当初』は昭和八(一九三三)年十月に『文化公論社より創刊される。当初』の『編輯同人は、豐島與志雄、宇野浩二、廣津和郎、川端康成、林房雄、武田麟太郎、小林秀雄の』八『名』であったが、『のちには、深田久弥らが編輯同人に加わった。同社では』翌年二月の第二巻二号まで刊行した。『この文芸誌の主な出版方針は、芸術至上主義であった。この年に六月に『文圃堂書店から復活』第一巻一号が刊行され、昭和十一年三月まで』続き、同年四月から同年六月までは『文學界社が刊行』したものの、『ここで経営不振により、小林が菊池寛に相談』し、『菊池の決定』により、『文藝春秋旧社が雑誌に庇を貸すことに決まり』、同年七月]『から文藝春秋社により刊行された。この時点では同人が編輯権を持ち、月』一『回編輯会議を開き』、三『ケ月交代で編輯当番を置いた。やがて』、昭和十二年三月からは『小林と河上徹太郎が常任編輯者となった』。『しかし』昭和十三年に、石川淳の「マルスの歌」を掲載したところ』、『反戦意識を高めるという理由で発禁にされ、作者と該当号の編輯主任河上徹太郎も罰金を払うことになった。このとき、菊池寛が罰金を肩代わりした』ことから、『その後』、本『雑誌は発行全体を文藝春秋が担うようになった』。昭和十五年四月には』、『小林が編輯委員を辞任』、昭和十七年九月号・十月号に『「近代の超克」座談会記事を掲載』、翌年八月には、遂に『経営編輯上の一切の責任が同人の手を離れ』、『文藝春秋社に委ねられ』た。しかし、昭和十九年四月、『雑誌統合を命じられ、廃刊』となった。戦後の昭和二二(一九四七)年六月』、『文學界社から再刊』、これは翌年十二月まで継続したが、昭和二四(一九四九)年三月より、再び『文藝春秋新社の刊行』、後、『現在に至るまで「文藝春秋」が発行している』とある。

「橫光利一」(明治三一(一八九八)年~昭和二二(一九四七)年)は福島県北会津郡東山温泉生まれだが、三重県東柘植村や伊賀の上野及び近江大津などで少年時代を過ごした。大正五(一九一六)年、早稲田大学高等予科文科に入ったが、学校には通わず、習作に努め、中退、菊池寛を知り、大正一二(一九二三)年創刊の『文芸春秋』の編集同人となり、同年発表の「日輪」「蠅」で新進作家としてデビュー、翌年の『文藝時代』創刊号の「頭ならびに腹」で〈新感覚派〉の呼称が与えられた。小説以外に評論・戯曲も執筆、私小説・プロレタリア文学に対抗し、昭和三(一九二八)から昭和六年にかけて「上海」を発表。昭和五年の「機械」から〈新心理主義〉の作品「寝園」「紋章」などを発表した。昭和一一(一九三六)年に渡仏し、帰国後、大作「旅愁」を書き始めたが、未完のまま病没(死因は胃潰瘍が腹膜腔に穿孔して急性腹膜炎を併発したものとされる)。因みに、彼は昭和一一(一九三六)年の第三回『文學界』賞を受賞している。因みに、彼は芥川龍之介から強い影響を受けていた。

「六號雜記」各種雑誌などで、六号活字で組まれた短いコラム記事。雑報や埋め草などが多かった。

「島袋正次」梅崎春生の親友で小説家の霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:梅崎春生より二歳年上)の旧姓。ウィキの「霜多正次」によれば、元日本共産党員。『沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後』、昭和一五(一九四〇)年に『応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった』昭和二〇(一九四五)年五月、『オーストラリア軍に投降し、捕虜となる』。『復員後、故郷には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら』、『小説を書』き、昭和二五(一九五〇)年に雑誌『新日本文学』に『「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようにな』った。『このころから、西野辰吉・窪田精・金達寿たちと交流を深めてい』き、昭和二八(一九五三)年、『初めて沖縄本島に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄本島を直接の題材にした作品を発表し始める』。昭和三一(一九五六)年に『新日本文学』に連載を開始した長編「沖縄島」で『毎日出版文化賞を受賞』、翌年には、『西野・窪田・金たちとリアリズム研究会を結成し、「現実変革の立場にたつリアリズム」を追求した。また、新日本文学会のなかでも幹事を歴任していたが、当時の会をリードしていた武井昭夫たちの文学方法との対立が激しくなり』、昭和三九(一九六四)年の第十一回大会に於いて、『幹事会の報告草案が部分的核実験禁止条約の支持を一方的に表明したり、アヴァンギャルドとリアリズムの統一という特定の創作方法を押しつけるようなものになろうとしたことに反対を表明し、同じく幹事であった江口渙と西野辰吉と共同して、相違点を保留して全体が合意できる一致点にしぼった対案を大会の場で提案しようとした。しかし、大会では対案の提出は認められず、大会の秩序を乱したという理由で、その後新日本文学会を除籍された。これは、新日本文学会と日本共産党との核兵器対策での路線対立も関係しており、日本共産党の意見に沿った霜多等は排除された』。昭和四〇(一九六五)年の『日本民主主義文学同盟創立の際には副議長に選出され、新日本文学会に代わる民主主義文学運動の団体として、運動の発展に貢献した』。昭和四六(一九七一)年には、一九六〇年代の『沖縄の現実を描いた長編』「明けもどろ」で日本共産党が設けていた『多喜二・百合子賞を受賞した。この時期を中心にして、多くの長編小説を書き、沖縄県や日本の現実の矛盾を深く追及する作品を書いた』。昭和五〇(一九七五)年には文学同盟議長に就任(昭和五八(一九八三)年まで)、それを『退任したあとは、主として同人誌『葦牙』に拠って活動し』、昭和六二(一九八七)年には『文学同盟も退会した。その後、日本共産党を除籍され、当時の自らの文学活動を省みる回想記』「ちゅらかさ」を発表している。

「フロイド的な原因」超自我による意識の検閲・抑圧のことか。

「××××」この人物、誰か知りたい。

「フオルマリズム」formalizm。元は一九一〇年代から二〇年代末にかけて、ロシアの文学研究者や言語研究者によって推進された文学・芸術運動。文学作品の自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明を目指した。構造主義や文化記号論の先駆と目される。「ロシア・フォルマリズム」とも呼ぶが、ここは広義の「内容よりも形式を重んじる形式主義」を指していよう。]

 

十二月一日

 小說八枚を書く。目鼻がつく。よみかへすと、どこか、すみわたらないものがある。具象性がないのだ。もともと、架空の物語ゆゑ、仕方もない話である。七八枚にいたり、やつとスタイルをとりもどす。

 

十二月十五日

 憂鬱な日なりし。

 

十二月二十八日

 劫初より末世に吹きとほるかぜのなかに、此のやうな憂鬱にひかるこの不幸。

 

 ひる、本鄕座で、「モンパルナスの夜」を見る。不吉の豫感あり。

 世界の終り、近づきたりし。悔い改めよ!

[やぶちゃん注:「本鄕座」現在の東京都文京区本郷三丁目にあった、元は明治初期から戦前まであった舞台劇場であったが、昭和五(一九三〇)年から松竹の映画館となり、第二次世界大戦の東京大空襲で焼失した。

「モンパルナスの夜」フランスの映画監督の名匠(脚本家・俳優でもあった)ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier 一八九六年~一九六七年)の一九三三年の映画‘La tête d'un homme ’(「男の首」:ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon 一九〇三年~一九八九年:ベルギー出身のフランス語で書いた小説家・推理作家)のメグレ警部物の推理小説(一九三〇年)が原作)の邦訳題。]

 

十二月二十九日

 原と本鄕座で「會議は踊る」を見る。

[やぶちゃん注:「會議は踊る」(Der Kongreß tanzt )は、ドイツ映画で、ナポレオン・ボナパルト失脚後のヨーロッパを議した一八一四年のウィーン会議を時代背景にした一九三一年製作のオペレッタ映画。本邦ではこの昭和十九年に公開された。監督はエリック・シャレル(Erik Charell:Erich Karl Löwenberg:一八九四年~一九七四年)。音楽(ウェルナー・リヒャルト・ハイマン(Werner Richard Heymann 一八九六 年~一九六一年)がよく知られる。私は好きな作品である。]

 

 ワーテルロー。

 お正月が早く來るか、お金が早く着くか。

[やぶちゃん注:「ワーテルロー」不詳。映画かと思ったが、この時期の製作には見当たらない。「お正月が早く來るか、お金が早く着くか」というジリ貧の極限を迎えたことを、ナポレオン最後の戦いにして彼の運命を決した宿命的な「ワーテルローの戦い」にカリカチャライズしたものか。]

2021/07/05

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)4 昭和一〇(一九三五)年(全)

 

   昭和一〇(一九三五)年

 

十二月十六日

 高木淸子は結婚し、德永靜香は、思ふだけでも蟲酸(むしず)が走るし、まつのやのマリ子は一介の賣春婦であるし、立川は乳臭い、生意氣な不良少女だし、「オリンピツク」のマダムはもう人のもの、雨森幸子さんは數十里はなれたところで今日もハンガリア・ラプソデイを彈じて居ようし、その他、數多のおんなの子たちは緣なき衆生(しゆじやう)とかたづけて、俺は此處に一個の現實的浪漫主義者だ。純情の港へ、再び出帆する日も近いだらう。今の中さ。あらゆる女をけがし、辱しめ、かくし所を白日の下にさらけだし、羞恥に身悶へする彼女たちを自然科學者の如く冷やかな目でみてやるのさ。

[やぶちゃん注:「ハンガリア・ラプソデイ」Hungarian Rhapsodies。フランツ・リストがピアノ独奏のために書いた作品集「ハンガリー狂詩曲」。全十九曲。特に第二番が知られ、ここで春生が想起しているのもそれであろう。]

 

十二月十七日

 明日より試驗。到頭二學期も駄目らしい。

 八十五番程度かなと思う。

[やぶちゃん注:この年で満二十歳。『龍南會雜誌』に詩篇「春」「空虛なる展望」の二篇を発表している。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)3 昭和九(一九三四)年(全)

 

   昭和九(一九三四)年

 

一月十日

 下宿を移つて來てから四日目。まだなれない、いらだたしい生活である。暗たんたる將來を見つめながら、私は今、數々の思い出を拾い上げる。美しい夢は破れた。それはそれは冷たい現實だ。唯生きて居るだけの生活だ。頽廢そのものだ。今日はゴタゴタした机をかきわけて、靑柳から借りて來た谷崎の「滴」を讀む。美代子と言ふ女性に對する主人公の感情が、丁度幸子さんに對する私の感情とよく似て居る事を發見する。やるせない惱みにおそはれて勉强が出來ない。足立に、西鄕を來らせるなと言つておく。

[やぶちゃん注:この年、梅崎春生満十九歳。

「西鄕」同級の西郷信綱であろう。]

 

一月二十九日

 創作「明日」に書き記した頽廢の生活は、もう河原の雲影のやうに去つて行かうとする。今日は足立と玉突に出て行く。奧平の家に岡本をもどしに行く。もうこの生活ともお別れだ。明後日からは新しい勉强の生活だ。二月よ。それは勉强の月である。たのしい一日がくれて昏々と眠る時、それは何と樂しい心象であらうか。落第の夢がしきりと見られて、かなしいのです。苦しいのです。

[やぶちゃん注:「明日」昭和九(一九三四)年二月発行『ロベリスク』第一号に発表された。現在知られている小説としては、最も古い作品(習作)。先般、ブログで電子化した。]

 

二月五日

 ああ傷ついた心。此の心臟の割目には常に幸子の白い顏が笑ひかけて居るのだ。多量の思慕が私を眠らせない。此の甘い苦しさの中に私は考へる事をしない。學ぶ事をしない。唯あの夏休みの甘い時間の流れを想ふだけだ。白い想い。白い顏。理智的な媚笑。媚笑。そつとゆれる春のやうな心持だ。

 

 長い長い時間が、そつとそつと幸子の顏を心の中に刺靑してしまつた。もう消さうとしたつて、消す事の出來ない思慕の火だ。手を伸ばせば屆きさうだつたあの女の心が、意外にも遠く感ぜられたあの日だつた。それは遠い遠い存在のやうにも思はれたが、――ああ雙手をあげて私の心は追つかけるのだ。走つても走つても屆かない心地。そつと見つめながら居る想念だ。

 

二月二十二日

 戶島が死んでから十日餘り。せぐり來るような淋しさを私はどうする事も出來ない。あの世をあげて祝酒に醉つた紀元節の日、一人淋しく散つて行く一つの生命を前にして、私は思はず泫然(げんぜん)として泣いた。尾池莊時代、共に苦しみ、共に樂しんだあの僚友が今は冷たい土塊(つちくれ)となつて、土の底で點々としみ落つる露を、音を聞いて居る――おかしな現實、奇妙な現實、悲しい現實、ああそれは生き長らへて居る私にとつて、何と錯雜した人生の象(かたち)であつたか。

[やぶちゃん注:「せぐり來る」底本では「せぐり」にママ注記があるが、不審。「せぐりくる」は「涙や吐き気などが込み上げる・堰きを切って上がってくる」で、多く、「せぐりあげる」「せぐりくる」などと複合語の形で用いる。

「紀元節」明治五(一八七二)年十二月に明治政府によって定められた神武天皇即位日とする祝日。現在の二月十一日の「建国記念の日」。大正一五(一九二六)年から敗戦までは、在郷軍人会・青年団・学校生徒を中心とする建国祭行事が各地で行われるなど、この日は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした。「太平洋戦争」に際し、この日が「シンガポールの戦い」(昭和一七(一九四二)年二月八日から二月十五日。この実際の陥落日は奇しくも梅崎春生満二十七の誕生日であった)では、シンガポール陥落の目標日として設定されたことでも知られる。

「泫然」涙がはらはらと零れるさま。さめざめと泣くさま。

「尾池莊」学生下宿であろう。]

 

六月十二日

 (ふと思ひ付いたまま)

「俺はもう止めるよ」

 と彼は牌(パイ)から手を離すと椅子から立ち上つた。桂子は、ああ、もうついに行く所まで行きついてしまつたのだと今更のやうに慄然たる氣持に、背筋が冷たくなるほどの絕望感の中に、顏も上げ得なかつた。水谷が桂子のうつむいたひたいに一寸目を走らせながら、

「そうまでしなくても……」

 と言いかけた時、彼は、

「いや、とにかく俺は止める、止めるんだ」

 と牌をからからと卓子の眞中に投げだすと、こうふんにこめかみをびくびくさせながら荒々しく窓の方に步みよると、ポケツトをさぐつてホープの箱を出して一本取り出さうとした。もう三人は顏を見合はせては居たものの何とも言はなかつた。

[やぶちゃん注:創作の断片と思われる。この年で満十九歳。なお、日記がないが、この前の四月(恐らくは三月以前に通達されたものと思われるが)、梅崎春生は三年生への進級に落第して原級留置となっている(その結果として後の劇作家木下順二と同級になった)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、『平均点不足』が理由とされており、『伯父からの学資供給が停止するかもしれぬ危惧感に悩んだが』(春生は昭和六(一九三一)年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となったが、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしい。ところが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』したのであった)、『病気だったということにして母が体面をつくろってくれた。作品活動のほうは、前年に引きつづいて』『龍南會雜誌』に「追憶」「創痍」「時雨」の『三篇の詩を発表。また同人誌「ロベリスク」に参加し』、既に掲げた習作「明日」及び「喪失」を『発表しており、そのほかにもエッセイ』「追悼の辭にかへて」(沖積舎版全集に不載で私は未見)と詩「海」を『寄稿している』とある(リンク先は総て既公開の私の正字正仮名版電子化注)。]

 

九月九日

 若子がカルモチンをのみ自殺を企てた事を谷から聞いた。私が愕然としたのは、その事實じやなくて、死と言ふものが如何に手輕に目前に橫たはつて居るかを感じたからである。

[やぶちゃん注:「カルモチン」鎮静催眠作用のある化合物ブロムワレリル尿素(bromovalerylurea)の商品名。本邦では大正四(千九百十五)年に発売された不眠症治療薬の商品名「ブロバリン」にも含まれていた。過去に自殺に盛んに用いられた。現在でも銅化合物を含む睡眠剤は市販(原則一人一包装に制限)されている。]

 

十二月二十三日

 「三Q」にて一坪に喧嘩を賣られ、しろみに遁逃し、便所に行くと、臺所には四本の庖丁が水のやうにとぎすまされて居た。人氣の無いのを幸ひ、私はその一本をとり、指でためし、腰間にさしはさみ、一坪を殺さんと道を戾つたが、事終(つひ)にならず、終に卑屈な一夜であつた。

[やぶちゃん注:底本では「しろみ」にママ注記がある。或いは「しろみ」は一膳飯屋か何かか? 熊本城由来の「城見」か? 冒頭の「三Q」はさすれば、「サンキュー」で、飲み屋の名か。しかし「一坪」が判らない。隠語でも見当たらない。珍しいが、「一坪」という姓は実在する。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)2 昭和八(一九三三)年(全)

 

   昭和八(一九三三)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生満十八歳(二月十五日)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、五高『二年に進級すると同時に雑誌部委員となり、校友会誌「竜南」』(正式には『龍南會雜誌』)『に詩がのりはじめる。「自分の詩を自分で審査したのだから、お手盛りだ」と梅崎は晩年になってテレていたが、今日読みかえしてみても、青年らしい潔癖な抒情が、無為の日常の底でいらだたしく傷つき喘いでいるさまが繊細ににじみでていて、蹌踉として暗い青春の姿がかなり的確にとらえられており、後年の梅崎の才気の片鱗がうかがえる佳作である。この年に発表した詩には「死床」「カラタチ」』『「嵐」』『がある』とある(三篇の書誌情報が書かれてあるが、以下の私の電子化でそれぞれ同情報を明記してあるので略した)。前年の電子化注で既に述べた通り私は熊本大学附属図書館の「龍南会雑誌目次」からリンクされた「熊本大学リポジトリ」にある原雑誌画像から、梅崎が同誌に発表した詩篇を総て(全部が初出復元版である)、ブログで電子化注し終わっている。その一括版である『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』も「心朽窩旧館」でダウン・ロード出来るようにしてある。以下、中井氏の挙げた詩篇を以下にリンクしておく。「死床」「カラタチ」「嵐」である。]

 

二月七日

 去年の十一月八日は私にとつて一生忘るる能はざるの日であつた。私はその頃待望した嵐のやうな幸福の眞只中にまきこまれて、かへつてその絕大の幸福を悟り得ず、惱みに惱みぬいたやうに覺えて居る。私は人道的立場からとかからそれを見て、その事件の道德性を疑い――ああ私も平凡な人道主義者であつた――あのように惱んだのだ。しかし、今にして思えば、その惱みは何と言ふ幸福に滿ち充ちた惱みであつたらう。私達は人道的立場などを考へずに、唯感情のおもむくままを享樂すればよかつたんだ。いくら樂しんでも樂しみ切れない尊い三箇月ではなかつたか。私は今、ここに雙曲線をなして別れ去つた魂のかけらを胸にいだいて、暗黑の前途に慟哭する。私は、もうすべてを諦めよう、すべてを捨てよう。私の行くべき道には、暗黑なニヒルの世界が冷たくひろがつて居る。冬休みにあのやうに高調した熱情を、おお私は今どうしたらいいのだろらう。

[やぶちゃん注:「去年の十一月八日」既に電子化した通り、前年の「十一月七日」と「十一月九日」の日記はあるが、この「十一月八日」のそれはない。その前後の日記はかなり意味深長ではあるが、具体的な出来事を推理出来るだけのものはない。そこにこの日記を投げ込んでみても、やはりそれは何も返ってはこない。ただ、後の一周年の同月同日の日記をみても、何らかの女性との濃厚な関係を強く感じさせるものではある。]

 

二月七日[やぶちゃん注:ママ。]

試驗が終つてから新しい生活方針を立てやうと思ふ。

一、外出をしない事。外出する時は自分一人で行く

  か、又は自分のすきな者と二人で、三人以上は

  もういけない。

二、書物を讀む事。卽ち文藝に力をそそぐ事。

三、每日每日、少しづつの遊ぶ時間をのぞいてしま

  ふこと。

四、勉强すること。

五、食後は一人の散步により瞑想にふけること。

試みに一日の時間割を作つてみる。

 七時半 起床

 三時―三時半 風呂

 三時半―四時 掃除、手紙、其他

 四時―五時 豫習

 六時半―八時 豫習復習

 八時―十時 試驗勉强

 十時―十一時 讀書

 

 背かれた者は再び劍を磨(と)ぎ始めた。

 私は十一月八日以前の私にたちかへらう。

 もつと深刻な憂鬱な男にならう。

 もつと口數の少ない無表情の男にならう。

 ニヒリストにならう。

[やぶちゃん注:太字「憂鬱」は底本では傍点「◦」である。箇条書き部分は二行目になると一字下げとなっているので、ブログで字を大きく表示した際の不具合を考慮して、一行字数を勘案してある。他の字配は底本通りである。]

 

三月一日

 憂鬱のみが人生であらうか。悲觀的な言葉のみを日記帳に連ねて、悲哀の快感にふけらうとする私は、今までの態度に今しみじみと誤りを認識して居る。「淋しさ」「諦め」が人生の總てではないのだ。

 

六月四日

 後藤農相の話を聞く。私も何時かはあの樣なおじいさんになつて、燃え切つた靑春の餘燼に手をかざして見ることもあるかも知れない。なつかしい高校生活よ、なつかしい友達よ、永久に私の事を忘れて吳れるな、いつまでも、いつまでも。

 

 近頃友達の範圍がやつと限定されて來たと思ふ。私は私の友達を四層に分けて見て、

 一、眞實の友、心の友

 二、好意を感じて居る友 12

 三、全然路ぼうの人 3467811

 四、嫌な友(これでも友と言えるかしらん) 5

 此の外に友達になりたいと思ふ人の數人がある。私はしかし彼等に對する情熱が一年生時代と比較して、ぐつと衰へて來た事を悲しく思ふ。かつて原勇策が、水前寺の行き道に言つた言葉――戀愛しようと思ふなら苦しむ事は無論覺悟して置くべきだ、樂しみを求めるための戀愛なら止めたがいい――と。私は、原君から言はれないでもその言葉のリアリテイは心の底から感じて居る事なんだ。

 

 江波惠子と言ふ名前は私の一生の記億に殘るであろう、たとえ私が大臣になつても……

[やぶちゃん注:数字は総て縦書で、底本ではポイント落ち半角である。

「後藤農相」後藤文夫(明治一七(一八八四)年~昭和五五(一九八〇)年)は貴族院議員で齋藤内閣に於いて昭和七(一九三二)年五月に農林大臣に就任していた昭和九(一九三四)年七月、次の岡田内閣で内務大臣に再任されている。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後は、昭和二七(一九五二)年に財団法人電力経済研究所を組織し、原子力発電を含む電源設置を進めた(当該ウィキに拠る)。五高で遊説でもしたものか。

「江波惠子」石坂洋次郎(明治三三(一九〇〇)年~昭和六一(一九八六)年:青森県弘前市生まれ。県立弘前中学校(現在の弘前高等学校)から慶應義塾大学文学部卒。大正一四(一九二五)年以降、県立弘前高等女学校(現在の弘前中央高等学校)・秋田県立横手高等女学校(現在の横手城南高等学校)・秋田県立横手中学校(現在の横手高等学校)に国語教師として勤務し、昭和十三年に教員生活を終えて専従作家となった)の小説「若い人」(昭和八(一九三三)年八月から昭和一二(一九三七)年十二月まで『三田文学』に断続的に連載され、石坂の出世作となった)の登場人物。当該ウィキによれば、『北国の港町のミッションスクール』『に勤める』二十八『歳の教師・間崎慎太郎は、江波恵子という女生徒の作文を読んで、その激しい情熱に打たれる。一方、同僚教師の橋本スミは、間崎が女生徒にひかれていくのを戒め、間崎は恵子とスミの双方にひかれる。恵子は料亭を営む母と二人暮らしの私生児である。間崎は江波の母の料亭での喧嘩を仲裁して大けがを負うが、その晩』、『恵子と結ばれる。このことを知ったスミは、自宅で左翼非合法活動の集会を開いて検挙される』と梗概してある。本作は『好評を得て』、『石坂は』一躍、『人気作家となるが、一右翼団体が、その一部をとらえて、不敬の文言があるとして出版法違反で告訴した』(不起訴処分)騒動でも知られる。]

 

六月四日[やぶちゃん注:ママ。]

 私は彼女の肩を抱いた。彼女の顏は私の面前にあつた。なめらかな皮膚、休臭、形のいい唇が私の官能を剌激した。彼女は瞳を閉じて私の胸に彼女の全重量をもたせかけて居た。私達の唇がこのままぴつたりと合ふのは偶然ではなかつた。自然な――私は唇をそつと彼女の唇に押しあてた。始めて知る唇の味。何と言ふ甘美な味であらう。私は彼女の唇を通して、躍動する、彼女の肢體を躍動するつつましやかな情欲を感じた。胸のふくらみが私の心臟と心に波うつて、完全に二體が一つになつた一時であつた。

 

 私はも少し自分の本質に徹底した生活をして見たい。かつてあの事のあつた間は私も樂しかつた樣に、私は燃え上る炎の如く女を求める。私が今求めて居る女は。

 一、女學生で

 二、理智的で

 三、情熱的で

 四、美貌で

 五、健康的な朗らかな女である。

 そのやうな女が熊本に居るだらうか。

 私は今、江波惠子の樣な女がほしい。

 私の欲する江波惠子は、無論私の頭腦に描かれた友で、逢初夢子を髣髴(はうふつ)させる友である。

[やぶちゃん注:「逢初夢子」(あいぞめゆめこ 大正四(一九一五)年~?)は女優。本名は遊佐八千代(旧姓は横山)。『福島県耶麻郡猪苗代町』『生まれ』。『逢初が生後半年の時に公務員で』あった『父の横山次郎を亡くし』、十『歳の時には母のひで子も死去した』。『逢初は両親を失い、家財もすべて伯父に委ねて』、『兄と共に上京し、浅草区栄久町精華尋常小学校に入学』、『精美高等女学校を中退』した後、昭和五(一九三〇)年七月、十四歳で『東京松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団』、『「メリー・ゴーランド」で初舞台を踏み、この舞台で演じた海賊役で絶賛を浴びた』。昭和七(一九三二)年二月に『当時の所長である城戸四郎に、新時代の女性映画のホープとして松竹蒲田に迎えられ、菊池寛原作、成瀬巳喜男監督の』「蝕める春」で『同じ松竹歌劇団で活躍していた後輩の水久保澄子と共に銀幕デビューを果たした』。『デビュー』二『年後の島津保次郎監督作品の』「隣の八重ちゃん」に『主演し、一躍』、『人気女優とな』り、『逢初はモダン派のホープとして多くの作品に主演し、モダン派のなかでは他を断然』、『引き放すほどの存在であった』。この昭和九年九月には『協同映画社に移籍』している。昭和一七(一九四二)年、『ベルリンオリンピック金メダリストの遊佐正憲と入籍した』。『戦後も活躍し』、昭和二二(一九四七)年には、『没落していく華族の一家の姿を描いた傑作』「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督・新藤兼人脚本・原節子主演)で、『原節子、森雅之の姉役でも』、『気の強い女性を好演している』。昭和三〇(一九五五)年に『映画界を引退したが』、昭和四〇(一九六五)年の松竹映画「霧の旗」山田洋次監督・松本清張原作・橋本忍脚本]に出演している。詳しくは参照した当該ウィキを見られたいが(写真有り)、現在は『消息不明』とある。]

 

十一月七日

 再び年が𢌞つて十一月七日が訪れて來た。私は經て來た苦難の一年を囘顧し、めぐり來る一年の將來を幻想する。二月五日の苦盃の思ひ出はつつましく一枚の畫となつて、私の心の隈にかけられてあり、うすれかけた事象の面影はなほ淋しく心の傷に剌激を與へる。淋しい夜だ。私はもうたぎり來る情熱を知らない。もう老い去つた人のやうに、空しい一年を反芻して見るばかりだ。近頃は口もきかないある友との交情は、永遠に思ひ出の中にこそ生きるだらう。しかし、何て樂しかつた寮の日日である事か。去年の今夜。私が官能のうずきにもだえた夜。私の心情は遠く靑い月夜の空氣に乘つて、遠く月の世界に旅行した。もう際限ない墮落だ。救はれないのだ。

            (八時過、淚もて)

[やぶちゃん注:最終行は底本では下二字上げインデント。]

 

十二月八日

 今日は原がやつて來たので、試驗前だと言うのにオリンピツクヘ電車に乘つて出かける。霧雨の降る夜であつた。あの少し苦(にが)みを帶びた香高いコーヒーの味も堪えがたく快いものであつたが、それより、高木淸子の淸麗な微笑を心から、何とかつ□た人のやうに嚙みしめた事だらう。知らず知らずの中に私の心の中に忍び込み、影のようにひろがつて私の心を占領してしまつた魔物――可愛らしい魔物。あの唇が、あの腕が外の男の唇に接し、他の男の手にからむ情痴の風景を心ならずも畫いて見ては、たまらない憤激におそはれる私なのだ。

[やぶちゃん注:「オリンピツク」カフェの店名か。]

 

十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]

 一休此の不安は何處に胚胎するのだらう。あの樂しかつた夏休みの事柄をひたすらに慕ひながら、その日その日を嫌惡に溺らして行く。誰か鋭い劍をふりかざして、ざくりと私の心臟に突き剌して吳れないものかしら。苦痛もない心持の中に死んで行き、此の嫌な事象から緣を切りたい。風になつて、長崎あたりまで、――幸子さんの居る部屋の窓にそつとおとづれて見たい。今ごろ幸子さんは何をしてるだらう。ピアノかしら、アロハ・オエの旋律をつつましやかにたどつて居るかしらん。亦はつつましやかな一日を日記帳に寫し取つて居るかしら。あの日幸子さんが立ち上つた時裾からこぼれたあの脛の白さ――思はずくらくらとする心を引きしめながら、私は何とあの純潔な處女の肉體を戀した事だらう。信仰と藝術の中に汚れない肉體の哀愁を祕めて、あのひとは今日もアロハ・オエの悲しい旋律を思い出してはいないか。理智に勝つた瞳や容貌を思ひ出す每に、私は心からあの長崎の日日を慕ひ續けるのだ。長崎。詩の都長崎の一喫茶店。クリームの甘い舌ざはりを樂しみながら、今思ひ出すのは一枚の塵紙の中に祕められた彼女の純情さなのだ。何物にもまどはされない處女の純眞な心象なのだ。あの白紙の心を愛そうとする――白紙の心を汚してしまおうとする私の心ではあるのだが。

 

十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]

 時には血管の中にうごめく血球の一つ一つがどつと聲をあげて、――ユキコ、ゆき子、幸子と叫びながら沸騰して來るかと思はれる。そんな時は、私は居たたまれない氣持にどうする事も出來ないで、あの慕はしい思ひ出の塵紙に頰をすりよせたりする。このようなひたむきな戀心をあのひとは一體どう考へて居るのであらうか。悲しい心持で長崎を離れようとする朝、玄關まで送つて來て吳れたのは良子さんと梅子さんだけで、幸子さんは結局姿も見せなかつた――そんな事や、ことさらに雜談を避けて行つた事なんか、あの人の性質としては、うけ取ることも出來ようけれども、私は矢張り物悲しい不幸な結末を考へて、思はず淚ぐましくなつて來るのだ。私達は――私はあの人と戀と名付けるべき感情を弄んではならない地位にありながら――心の琴線にふれて來たすばらしいピアニストの手をどうしてはばむ事が出來よう。あの長身のすらりとした姿や、理智に勝つた瞳、端麗な唇、ノーブルな鼻、柔らかな、なめらかな肌、乳房のふくらみを暗示する地味な落着いた着物と――いつもやんちやな心が彼女の中にひそんででも居るのか、私はいつも彼女と口爭ひした事を思ひ出す。そんな事も思ひ出となつて風の樣にうしろへうしろへと流れて行こうとして居るのだ。

 

十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]

 水脈(みを)を引いて出帆する帆船。やがて古びた長崎の港に、うちふるふ神經のどらを打ち鳴らしながら、私の心は霧雨に濡れて居た。嵐の町。舖道を吹き拂ふ風の樣に、夜、激情をおさへかねて、私は幸子の白い顏を慕ふのであつた。垣根に咲く、白い木蓮の花、その香りに何時しか醉ひ、離れ得ぬ愛着の詩を心の石板に彫りつけながらも、――悲しく醉ひたい氣持を抱いて、長崎を去つて行つた私。さやうなら長崎よと、停車場より Farewell の言葉は、知らぬ間に心臟の裏側に刻まれてあつたと見えて、私の心は、常に忍びやかに、風に乘つて、潮に乘つて、月の夜に、雨の夜に、長崎を訪れるのだ。再び水脈を帆船のあとに眺めながら、私は埠頭に立つて、おお空ろなる物象よ、おお虛ろなる心情よと幾度も幾度も呟く――その聲は今、悲しくも下宿の部屋に陰々とこもつて。窓の外を彷徨する目に見えない魔物の吐く白い息に私は意外にも冷たい夜を自覺する。しかし、四肢は冷えても、私の心は、幸子の唇の樣に、幸子の乳房のやうに火の如く燃え上つて居る。たまらない欲情のふくらみをそつと着物で抑へつけたあの女の姿體。そして、夜、私の心は古典的な革表紙をなげすてて、新しい純情の港へと出帆する。うちふるふ神經のどら、運命的な戀慕のどらよ。さうして、長い長い、哀愁の水脈をはかない一すぢに引き連ねながら。

 

十二月十二日

 晝寢。今日は西洋史が無かつたので早く歸る。試驗前、倦怠の一日である。戶島へ打つた電報が夕方返事が來て小康を傳へ、明日歸る由を告げる。風呂に入つて、足立と金子が來て、碁を打つ。

 

 試驗前には、感情を喪失した機械になるべき運命を、義務を持つた私ではあつたけれども、絕えまなく昇華して來る情熱を、私は今どうしたら良いだらうか。高木淸子の淸麗な微笑をふと思ひ出してみる私なのだ。さうなると、河瀨も岡本も手につかない。幸子と淸子の顏がいりみだれて頁の上で私に笑ひかける。思わず抱きしめたいやうな衝動にかられて、思はず「ユキコさん!!」と叫んでみたりする。そんな事で混亂した頭はもはや勉强に堪へないで、終(つひ)には冷たい足を冷たいふとんに忍びこませて、昏々と眠らうとする私になつて行くのであつたが、眠れない感情、うつつ。ゆめの間にもやはり彼女たちは待ちかまへて居る。もう駄目だ。去年の今日も、やはり惱んだ。妖(あや)しい情熱は再びここに對象を改めて出現した。へうへうとなるのは冬の風であつたが、やはり、その風と共に一つの鳴きむせぶ物象が私の胸の中にはひそんで居た。ああ今年もこんな風に暮れて行くのだ。

 

十二月十二日[やぶちゃん注:ママ。]

 歸る日、階下からアロハ・オエの旋律が流れて來て、離愁は私を淚ぐました。「エクラン」では小林十九二と田中絹代の戀物語であつたが、私は端麗なユキ子のプロフイルをぬすみ見て居た。………

 あらゆる事物が日が經つに從つてだんだんと薄れて行く。私はそのイメージを取り逃すまいと一生懸命になる。ある日私はユキ子の面影を忘れて愕然とした。心の片隅につつましくもかざられてあつたユキ子の寫眞が、丁度ころがり落ちて、心の盲點の所に引つかかつて居たのかも知れない。私はすぐ探し出すと再び心のかたすみにかけておいた。もう外れ(はづ)れない樣にしつかりと釘で止めて。

 

  ひたむきの心抱きて今日も亦

    幸子の顏を 一目戀ひにき

 

  情熱をおさへかねつつただひとり

    小さき聲して 名をよびてみる

 

十二月十四日

 獨りで碁を並べて見る。

 奇怪な構圖であつた。白と黑とが互ひに組み合つて、四角な盤面に次第に奇妙な模樣を作つて行く。窓から入る光が白石に當る時、それは再び白色にこされて白い光の領域を盤面の上にただよはせる。黑色の石は色を吸ひとてしまふので亦そこに光の妖しい戲れがあつた。私は此の遊びを好んだ。自分で獨り奇怪な模樣を書いて行く時、築城師にでもなつたやうなメカニカルな快感を感ずるのであつた。時には私は白石となつて、壓迫して來る黑石を必死の力で擊退しようと試みたり――そんな時は私の意地惡の方の心が黑石をにぎつて、素直な方の心が白石をにぎつて無意識的な爭鬪を續けて居るのかも知れなかつた――常に此んな妖しい遊戲は私の感覺をたかぶらせて終るのであつた。

[やぶちゃん注:「こされて」には右手に底本編者によるママ注記が打たれているが、これは陽光によってハレーションが生じ、碁盤の全体が白く「漉されて」ゆくような感じを言っていると私は読んだので躓かなかった。]

 

十二月十六日

 鏡を見る。今蒼茫と暮れて行く陰慘な物象があつた。まだ若かつた頃、戀慕の心情に若さを時雨したあの時の容貌は何處に行つたのだらう。私は暮れて行く曇り空の下に息づく華かな街の哀愁を感じ、照明華かな理髮店の雰圍氣を憧憬した。

[やぶちゃん注:「時雨した」には右手に底本編者によるママ注記が打たれている。確かに「しぐらした」という読みは今一つ意味がピンとはこない。「湿っぽく翳らせた」という意か。]

 

十二月十七日

 試驗直前の日曜、金子と戶島の三人でつまらぬ漢詩を作る。

 

  寥寥秋日前机苦

  碧眼童子何憂々

  抱獨逸書白日暮

  忽然秀才訪我庵

 

   註  一、二句 金子

      三句 梅崎

      四句 兩人デ

    秀才とは畏友原勇策君を指す也

    獨逸書とは渡邊さんの敎科書也

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

 

  寥寥たる秋日 机を前にして苦しむ

  碧眼の童子 何ぞ 憂々たる

  獨逸(ドイツ)の書を抱きて 白日 暮れ

  忽然として 秀才 我が庵(あん)を訪(おとな)ふ

 

七絶のつもりにしては、全く韻を踏んでいないし、「々」を使用するのは鼻白む。]

ブログ開設十六周年記念 梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版) 始動 / 昭和七(一九三二)年(全)

 

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「梅崎春生 日記」を起動する。但し、昭和二〇(一九四五)年の「日記」は、以下に示した仕儀と同じ処理を施して、二〇一六年一月十一日のブログに「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)」として既に公開してある(当該年に至ったら、再度、点検はする)ので、省略する。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第七巻」用いた。この全集所収の「日記」は抄録であるが、古林尚氏の解題によれば、『紙幅の都合から日記全体を収録することはできなかった。しかし、昭和八年(一行だけ割愛)、九年、十年度の分について言えば、ほぼ完全にその全体を収容した。たったあれだけで――と意外な顔をされる向きもあるかと思うが、もともと分量がきわめて少ないのである。これだけでの紙面からでも、日記の全貌はどうにか摑みとっていただけるものと思う』とある。

 而して、この日記は、その殆んどが、戦前・戦中のものであり、敗戦後は直後の昭和二一(一九四六)年と昭和二十二年の底本で、それらは三ページ分しかない。そこで、私はオリジナルに表記の推定復元をすることに決した。則ち、恣意的に漢字を概ね正字化し、仮名遣を歴史的仮名遣に変更、促音・拗音を通用字に変えたのである。恣意的であっても、その方が日記原本にはより近いはずだと私は考えたからである。

 なお、ルビは編者が添えた可能性が高いが(私は日記にはルビは振らない人間であった)、底本のまま後に添えた。「□」が何箇所かに見られるが、これは底本編者の判読不能字と思われるので、そのまま示した。

 さらに、二枚の図が昭和十一年十月十九日の日記に出現するが(夢記述の挿絵)、指示キャプションが底本では活字に書き変えられているため、編集権侵害になるのは厭なので、OCRで画像として取り込み、トリミングした上で、それらの活字部分は清拭して削除し、代わりにそこに同じ文字数・文字列でフォト・ソフトを用いて、図の中に改めて活字化し(勿論、歴史的仮名遣を用いた)、注も入れ込んだ。

 注は、極力、押さえることにした。これは、だらだらとやるのが、厭だからである。短期決戦としたからである。それでも、私が注したいと思ったところでは、よく考えてストイックに附すこととする。全く不詳の人物などは注に出していない。年譜的事実は概ね、同全集別巻(昭和六三(一九八八)年)と、中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜に拠った。

 なお、これは2005年7月5日に私のブログ「鬼火~日々の迷走」を開設して以来、十六年周年を迎えた記念として始動する。而して――気がついて見れば――私のブログの第二回目の記事は――何んと! 『「桜島」から「幻化」へ』であった! すっかり忘れていたよ! 春生! そのカテゴリ「梅崎春生」に追加しておくね。【202175日 藪野直史】]

 

   昭和七(一九三二)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生満十七歳。前年昭和六年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となった。中井正義氏の前掲書によれば、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしいが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』した、とある。]

 

十月二十日

  廢船の秋(津屋崎の秋を思ふ)

 

 マストの上には澄み渡る秋

   冷たい風に追はれた小波の慟哭

 

 廢船の底に充たされた水溜り

   白晝の鋭さを藏して狂女の淸澄

 白い甲羅の小さな蟹が

   のろのろと底をあるいて居る

 

 津屋崎でのあの感情を再生する事は俺にはどうしても出來ない。

 空しく机にもたれて津屋崎の秋を思ふ時、情趣は湧いて來るけれども、しかし、俺は言葉を持たない。

 炎天下、歡樂を求めて津屋崎に赴き、遊樂に徹した。あの二日が、ここに感傷の種を卜(ぼく)して、――

 つんでもつんでも芽ぐんで來る感傷。

[やぶちゃん注:「津屋崎」(つやざき)は現在の福岡県福津市のこの辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地区の西部から北部にかけて玄界灘に面している。ウィキの「津屋崎町」(旧福岡県宗像郡時代以来の町名)によれば、現在でも『自然豊かで海や空気がとてもきれいな土地である。町の海岸にはアカウミガメが生息しており』、『平野部には田畑の広がるのどかな町である。海岸は玄海国定公園に指定されている』とある。後のことだが、昭和十七年一月に東京市教育局教育研究所所員であった梅崎春生は陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんだが、その当初はこの津屋崎療養所で過ごしている(後には自宅でのんびりした)。]

 

十月二十一日

 試驗前になると必ず湧然と起つて來るたまらない不安。おさへる事の出來ない、いらいらした氣分。勉强は何もしないのに勉强するより苦しい此の頃。常に首席を夢みながらも(かつてはそれを輕蔑した俺ではなかつたか?)悲しい諦めに墮(だ)そうとする此の心。

 諦めに徹した心は水の如く冷たいであらう。より一步聖人のそれに近づいたものであろう。しかし俺には、おさえ得ない野心と慾望とがある。俺の心の中には常にジキルとハイドが爭つて居る。しかし俺はどちらがジキルでありどちらがハイドであるかを知らない。(何と言ふ悲み!)

 

 櫻の木が枝ばかりになつて、枝ごしに赤煉瓦の巨大な建物が見える。

 彼女の姿は秋そのものである。秋のにぶい日ざしをうつしたやうな赤煉瓦、やがては來るべき冬を思はせる冷たい瓦の色、黝(くろ)い雲を背景として、彼女は靜かに秋を息づいて居る。

 

十月二十二日

 町に出る、東京庵の茶の爲に三時まで眠られず。

 

十月二十三日

 試驗が刻々と迫つて來る苦しさ。晝から龍田山に登つたけれども少しも面白くない。東光原でラグビー見物、放送局城戶氏を見る。

 夜もすがらようなき思ひに身もやせし咋夜の苦しさよ。

 夜、歷史をする。

 

 富とは何であらうか? 人生の目的が果して今まで思つて居たやうに富にあるであらうか?

 宏壯な屋敷も、美々しい庭園も、畢竟(ひつきやう)それが何になると言うのだ。大堀公園をすら心から樂しいと思ひ得ない私にとつて、富に對する憧憬は單に幻にすぎなかつた。今日の細川邸を見て、あまりにも現實らしい姿にその幻をやぶられた私ではなかつたか?

(滿足な生活を人生の目標としなければならないのですか。飽きるだらう事は分つて居る、私は!)

[やぶちゃん注:「龍田山」熊本市のほぼ中央に位置する標高百五十一・七メートルの立田山(たつだやま・たつたやま)のこと。五高(現在の熊本大学)の北の後背地に当たる。]

 

十月二十五日

 此の荒んだ生活から逃げ出したい。此の苦しい現實を逃避するのに私は何によるべきであらうか?

 

 明日頑張らぬと又一學期の二の舞をやるかもしれない。今日は何故八時までも遊んだんだらう。點檢後何故集會所になんか行つたんだろう。又何故波多江となんかピンポンをやつたんだらう。

[やぶちゃん注:以下は底本では下インデント。]

  (後悔の淚を目がしらに感じつつ十一時半)

 

 私の心はなつかしい受驗時代に飛んで。思い出はすべてを美しくする。懷しいあの頃は再び歸つて來ないと思ふと、何となく淋しい。

 忠生は實に良い奴だつた、片意地な所はあつたけれども。彼と分れる二日前、千眼寺に行つた事を思い出す。

 明日は久し振りに家と忠生とに手紙を書こう。[やぶちゃん注:以下は底本では下インデント。]

  (今日は何となく淋しい、泣きたいやうな氣がする)

[やぶちゃん注:「波多江」梅崎春生のエッセイ「日記のこと」に登場する「波多江」と同一人物であろう。この五高以来の古くからの友人であったことが判る。

「忠生」春生の弟。「狂い凧」(昭和三八(一九六三)年発表。リンク先は「青空文庫」)のモデルとされ、後、応召されて駐屯していた蒙古で終戦直前に自殺した。]

 

十月二十六日

 夕飯後一人で龍田山に登る。これから夕方は必ず一人で散步しようと思つた位、一人の散步はいいものだ。

 

 中村先生神經衰弱。今目の時間はお話。苦しい身の事を話されたにも拘らず皆の同情は一時的のものであつた。

 一頁半位しかすすまなかつたのを喜ぶ程俺は利己主義な男にはなり得ない。キ印とまで冷評した人間。あいつはきつと感情を惡魔に賣り拂つたに違いない。冷笑、默殺を以て冷靜な批判と妄想する小才子奴!

 

 日を繰つて勘定して見ると二學期の學期試驗は十一月二日より始めなければならないと言う結論に述した。

 十二月の始め俺はきつと遊び暮すに違いない。忘れるな 今日の此の□言を!

[やぶちゃん注:底本は「忘れるな」で改行で続いているので、一字空けた。]

 

 中村先生は御自分のレーゾンデートルを無視しておいでにはなりませんか。私のやうな弱氣の男でさへ過して行ける此の人生ですから。

 

 明後日からの試驗を控へてお前は完全にやつたか。

   否!

 

 もし此の世で、中村先生の如くなる一番可能性の多い男は俺ぢやないかと思ふ。

 

十月二十七日

 平田、奧村と龍田山に登る。

 

  三千の俳句閱して柹三つ(子規)

 たしかかうだつたかと思ふが、之を思ひ出してそぞろなる感慨に打たれる。

 

十月三十一目

 今までの試驗は皆順調にやつて來た。何だか、此の大切な獨逸語を前に控へて少し氣持がゆるんだかと思ふ。

 

 試驗を終へたら、本格的に詩の方面の勉强を始めようと思ふ。生れてから今までに集め得た俺の知識の少なさよ。詩の道に徽底しようと思ふ。

 

 點檢後集會所に行く。

 

十一月七日

 惱ましい。何故かう惱ましいのだらう。勉强をして居ると、すぐあれの事が心に浮んで來て、俺は一體龍南に何をしに來たのだらう。勉强しに來たんぢやないか。だのにあんな事に心を惑亂されてしまふなんて何と言ふ弱い心だらう。

 しかし俺は遊戲的高校生活をその瞬間超越し得たんだ。冗談なんかとても言へない程の眞劍な□きつけた氣持なんだ。

 堪まらなく惱ましい。昨日あんな事さえ起らなかつたならば、俺はまだ平平凡凡な生活を過し得たんだつたらう。しかし一番の生活は、かくの如き惱みもないしまた一層勉强に徹した生活だつたかもしれない。

 刺激をかつては求めてやまなかつた俺ではなかつたか。

 そしてあの事は、俺が妄想し待望した所のものではなかつたか。

 俺は此の今、どうしたら良いのだらう。

 そして此の結末はどうなるのだらう。

 長い間長い間待設けて居た事が遂に……

[やぶちゃん注:「龍南」ここでは熊本第五高等学校の異名として使用している。第五高等学校の校友会の名称が「龍南會」であり、「熊本大学五高記念館」公式サイトの「五高の歴史〜生活/五高生と熊本の街〜」に、『「龍南」は龍田山の南という意味で、生徒の相談を受けた秋月胤永教授が名付けた』とある。この公友会の発行した雑誌『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(正式名称は『龍南會雜誌』)で、五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九年度には編集委員に名を連ねて多くの詩篇を発表している。私は熊本大学附属図書館の「龍南会雑誌目次」からリンクされた「熊本大学リポジトリ」にある原雑誌画像から、梅崎が同誌に発表した詩篇を『梅崎春生 詩 「死床」  (初出形復元版)』から、総て、ブログで電子化注し終わっている。『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』も「心朽窩旧館」でダウン・ロード出来るようにしてある。]

 

十一月九日

 惱み多き日。

 夕飯もうまくなかつた。

 龍田山に登る、スツカリ憂鬱になる。

 

十一月十五日

  ああ日は落ちぬ有明の  綠をひたす波の果

  不知火遠く夜は更けて  星光西にうつろへば

  寄せてはかへす鄕愁の  胸にあふるる愁ひかな

 

  神の怒りか大阿蘇の   煙はたぎる狂亂に

  千里連なる山脈は    虛空に遠く影を引き

  蒼茫はるか有明の    彼方に支那は遠ざかる

 

  ほのかにゆるぐ哀愁の  淡き翅のうすみどり

  ああ易水を忍ばする   悲愁の風にたたずめば

  武夫原遠き草笛に    そぞろにしめる心かな

 

  むせぶが如き曠原の   草をば渡る秋風に

  空行く雲の肅々と    遠鳴り低き足音や

  落陽まさに色褪せて   煙は重う地に迷ふ

 

  あふげば逢か聳え立つ  道き銀杏の追憶よ

  閉せし過去の篝火に   劍も映えし壯麗も

  やがては醒めん荒城の  盛枯のあとを問はんかな

 

  さわれ果敢なき人の世の 長き旅路を龍南に

  三年の翼今止めて    理想の鳥の影を追ひ

  溢るる力止み難き    飛躍の力養わん

 

 浦野氏の室を訪ねて之を呈す。

[やぶちゃん注:詩篇にはルビがあるが、がたがたして汚くなるので、ここで歴史的仮名遣に変換したものを纏めて以下に示すことにした。

・第一連二行目「不知火」に「しらぬひ」。

・第二連二行目「山脈」に「やまなみ」。

・第四連三行目「褪せて」の「褪」に「あ」。

・第五連一行目「聳え」の「聳」に「そび」。

・第五連一行目下段「追憶」に「おもひで」。

・第六連一行目「果敢なき」の「果敢」に「はか」。

「武夫原」は「ぶふげん」と読み、五高から現在の熊本大学に至る現在まで、同校グラウンドの呼称である。]

 

十一月二十三日

 新嘗祭。

 大友、奧村、奧平、平田、西鄕と熊本城に登る。三四郞に行く、ムゴウ疲れたり。晚憂鬱のとりことなる。

[やぶちゃん注:「西鄕」は恐らく同級生であった後の国文学者西郷信綱(大正五(一九一六)年~平成二〇(二〇〇八)年)であろう。

 以上で底本の「昭和七年」パートは終わっている。]

2016/01/11

昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)

 

   昭和二〇(一九四五)年

 

[やぶちゃん注:昭和二〇(一九四五)年の敗戦の年の日記は七月二十三日・八月二日・八月九日・八月十六日の四日分しか掲載されていない(全公開が待たれる)。私は既に、梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注の注で、これらをばらばらに電子化した。そこで閲覧の便宜のために、それらを纏めておくことにした。簡単な注はそれらに附したものに一部書き換えや追加をしたものであるが、一部、新たに書き下ろした重大な私の見解をも含む。なお、これに限っては、昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を底本しながらも、敢えて恣意的に漢字を正字化し、歴史的仮名遣に改めてあるので注意されたい。各日記間に「*」を附した。]

   *

七月二十三日

 朝六度六分 夕七度一分

 白い粉藥を貰ふ。原因は不判[やぶちゃん注:「わからず」。]。(昨夜は八度五分)

 看護科に蟋蟀(こほろぎ)兵曹といふ人がゐる。

 來てから、病氣つづきで、當直に立たないから、谷山に歸さうかと司令部の掌暗號長が言つた由。

 芳賀檀のかいたもの、ドイツは古代人のやうな、單純な、偉大な文化を志してゐた由。そのやうなものが一朝にして滅びたことは、まことに悲愴である。

 都市は燒かれ、その廢墟の中から、日本が新しい文化を產み出せるかと言ふと、それは判らない。

 しかし、たとへば東京、江戶からのこる狹苦しい低徊的な習俗が亡びただけでもさばさばする。

 平和が來て、先づ外國映畫が來れば、又、日本人は劇場を幾重にも取圍むだらうとふと考へた。

 何か、明治以來の宿命のやうなものが日本人の胸に巢くつてゐる。戰爭に勝つても、此の影は歷然としてつきまとふだらう。それは、つきつめれば東西文化の本質といふ點まで行つてしまふ。

 極言すれば日本には文化といふものはなかつたのだ。

(奈良時代や平安時代、そのやうな古代をのぞいて)あるのは、習俗と風習にすぎない。新しい文化を產み出さねばならぬ。 

[やぶちゃん注:大日本帝国海軍二等兵曹であった梅崎春生が桜島の海軍秘密基地で敗戦の二十四日前にこんな感懐を日記に記していることに、私は驚嘆せざるを得ない。

蟋蟀(こほろぎ)兵曹」この姓の漢字表記が本当に「蟋蟀」であったのかどうかは、やや疑問ではある。「幻化」(リンク先は私のPDF縦書版詳注附きテクスト)に久住五郎の同僚の「興梠(こうろぎ)」という二等兵曹が出るから、「こうろぎ」(或いは「おおろぎ」とも読む)を「こほろぎ」と誤認した可能性を捨てきれない。但し、ネットを調べると、サイト「エンタメハウス」の『日本に現在5世帯以下しかいない絶滅寸前の「珍しい名字」20選』という記事中に現在、一世帯しかない「蟋蟀」という姓が存在するともある。孰れにせよ、「幻化」の「興梠二曹」のモデルはこの人物と考えてよいであろう。

「谷山」海軍谷山基地。薩摩半島東側の旧谷山市内。現在は新制鹿児島市谷山地区で市南部に位置する。底本全集第一巻の本多秋五氏の「解題」には梅崎春生の軍歴が以下のように記されてある。昭和一九(一九四四)年六月に『召集されて佐世保海兵団に入り、そこから防府の海軍通信学校に派遣され、ふたたび佐世保へよび返されて、こんどは佐世保通信隊に配置』となった後、翌昭和二十年の初め頃には『最初の実施部隊として指宿(いぶすき)の航空隊の通信科に転勤』、同二十年『五月に海軍二等兵曹に任官』、『その後、谷山基地からK基地へ、K基地』(この部分は梅崎春生の「眼鏡の話」(昭和三〇十二月号『文藝春秋』初出)に出る記載からの推定である)『から坊津へ派遣され、そこから谷山へ帰還を命ぜられ』て『桜島へ赴任したらしい』とある。何故、「らしい」なのかと言えば、実は春生は、この時の体験を後の小説「桜島」や「幻化」に反映させているにも拘わらず、配属された坊津の海軍特別攻撃隊などについては生涯一切語ることがなかったからである(この部分はウィキの「梅崎春生」に拠る)。本多氏は、この謎の『K基地』については『どこかは不明だが、『眼鏡の話』に、そこが吹上浜の真正面にあたるとあるのが、『幻化』のなかで、主人公は「坊津に行く前に、吹上浜の基地を転々とした」とあるのに符合する』と述べておられる。今回、この注で初めて述べることであるが、この辺りで、春生は生涯のトラウマとなるような、ある忌まわしい経験をしたものと考えられ(それは何人かの春生周辺の親しい仲間も推測している)、それは後の春生の精神変調の実は大きな病根となったのだと考えている。私は幾つかの小説内での描出、特に「桜島」(リンク先は私のPDF縦書版詳注附きテクスト)の吉良兵曹長との絡みの中の、異様な超現実的空気感覚の描写から、一つの〈ある絶対に思い出したくないが忘れられないおぞましい可能性〉を想定してはいる。しかし、軽々には言えないとだけ述べておく。ただ、その私が「異様な超現実的空気感覚」と評する箇所は引いておく。吉良が主人公村上二曹と本土決戦の議論を戦わせているところに、昼の玉音が終戦に詔勅であったことが報知された直後の、驚愕が二人を襲う沈黙のシークエンスである。――二人きりの――暗い壕の中の描写である――

   《引用開始》

 私は卓をはなれた。興奮のため、足がよろめくようであった。解明出来ぬほどの複雑な思念が、胸一ぱいに拡がっては消えた。上衣を掛けた寝台の方に歩きかけながら、私は影のようなものを背後に感じて振り返った。

 乏しい電灯の光の下、木目の荒れた卓を前にし、吉良兵曹長は軍刀を支えたまま、虚ろな眼を凝然と壁にそそいでいた。卓の上には湯呑みが空(から)のまま、しんと静まりかえっていた。奥の送信機室は、そのまま薄暗がりに消えていた。

 私はむきなおり、寝台の所に来た。上衣を着ようと、取りおろした。何か得体(えたい)の知れぬ、不思議なものが、再び私の背に迫るような気がした。思わず振り返った。

 先刻の姿勢のまま、吉良兵曹長は動かなかった。天井を走る電線、卓上の湯呑み、うす汚れた壁。何もかも先刻の風景と変らなかった。私は上衣を肩にかけ、出口の方に歩き出そうとした。手を通し、ぼたんを一つ一つかけながら、異常な気配が突然私の胸をおびやかすのを感じた。私は寝台のへりをつかんだまま三度ふり返った。

 卓の前で、腰掛けたまま、吉良兵曹長は軍刀を抜き放っていた。刀身を顔に近づけた。乏しい光を集めて、分厚な刀身は、ぎらり、と光った。憑(つ)かれた者のように、吉良兵曹長は、刀身に見入っていた。不思議な殺気が彼の全身を包んでいた。彼の、少し曲げた背に、飢えた野獣のような眼に、此の世のものでない兇暴な意志を私は見た。寝台に身体をもたせたまま、私は目を据えていた。不思議な感動が、私の全身をふるわせていた。膝頭が互いにふれ合って、微かな音を立てるのがはっきり判った。眼を大きく見開いたまま、血も凍るような不気味な時間が過ぎた。

 吉良兵曹長の姿勢が動いた。刀身は妖(あや)しく光を放ちながら、彼の手にしたがって、さやに収められた。軍刀のつばがさやに当って、かたいはっきりした音を立てたのを私は聞いた。その音は、私の心の奥底まで沁みわたった。吉良兵曹長は軍刀を持ちなおし、立ち上りながら、私の方を見た。そして沈痛な声で低く私に言った。そのままの姿勢で、私はその言葉を聞いた。

「村上兵曹。俺も暗号室に行こう」

   《引用終了》

恐らくは何人かの方は私の想定の具体が既にお分かり戴けたものとは思う。

「掌暗號長」通信科内の暗号管理の実務エキスパートで、恐らくは兵曹長である。この上にさらに全体を統括する原則、海軍将校が就いた(前にも述べたが、狭義の「海軍将校」とは原則、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを指す。但し、この兵学校選修学生出身の特務士官〔海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても将校とはなれず将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった〕も特例として就けた)、暗号科内の最高責任者である「暗号長」の職務を補佐して全体を指揮監督する「暗号士」がいたものと想定される。ここは個人サイト「兵隊さん昔話」内の「海軍にのみ存在した特務士官を考える」などを参考にさせて戴いた。

「芳賀檀」(明治三六(一九〇三)年~平成三(一九九一)年)は「はがまゆみ」と読む、ドイツ文学者(文学博士)で評論家である。京都生まれ。かの国文学者芳賀矢一の子で、東京帝大文学部独文科昭和三(一九二八)年卒。ドイツに留学した後、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)教授に就任、昭和一七(一九四二)年退官後、関西学院大学、東洋大学、創価大学教授。『コギト』『日本浪曼派』『四季』同人としてドイツ文学に関する評論を発表、昭和一二(一九三七)年の「古典の親衛隊」が代表作。以後、「民族と友情」「祝祭と法則」などを刊行し、次第にナチス礼賛に傾斜した。他の著書に「リルケ」「芳賀檀戯曲集 レオナルド・ダ・ヴィンチ」「千利休と秀吉」、詩集「背徳の花束」、訳書にヘッセ「帰郷」「青春時代」、フルトヴェングラー「音と言葉」など(ここまでは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」を概ね参照した)。ウィキの「芳賀檀」には、戦後は『父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、日本ペンクラブの仕事に精を出していたが』、昭和三二(一九五七)年、『国際ペンクラブ大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけ』、『その道化じみた様子は、高田里惠子の『文学部をめぐる病い』で揶揄され』たとある。因みに、詩人立原道造の晩年の詩に影響を与えた一人とされる。梅崎春生より十二年上。

「ドイツ」「が一朝にして滅びたこと」これはナチス・ドイツが、この日記に先立つ二ヶ月前の一九四五年五月、連合国軍によって敗北して消滅したことを指している。]

   *

八月二日

 此の間から敵機が何度も來て、鹿兒島は連日連夜炎を上げて燃えてゐる。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る。

 身體の具合は相變らず惡い。何となく惡い。

 昨夜は、大島見張所が夜光蟲を敵輸送船三千隻と認めて電を打つた。

 東京からも便りがない。うちからも。

 (胃が極度に弱つてゐるらしい)

[やぶちゃん注:「昨夜は、大島見張所が夜光蟲を敵輸送船三千隻と認めて電を打つた」の「大島見張所」は当時、既に東京都(昭和一八(一九四三)年七月一日に東京府と東京市が統合)大島町であった大島南部の波浮港近辺にあった海軍のそれと思われる。ウィキの「伊豆大島」によれば、戦時体制下の昭和一九(一九四四)年に『小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、海軍第二魚雷艇特攻隊の中間基地として波浮港が接収され』(ここに「海軍第二魚雷艇特攻隊」とあるのであるが、ウィキの「乙型魚雷艇」(戦時中に海軍が大量建造を計画した多くの型が存在する魚雷艇の一つの大きなタイプ・グループ)の記載の中に、『日本海軍が建造した魚雷艇は(隼艇を含め)全部で約』五百隻、『船体のみ完成して放置されたものや雷艇として竣工したものを含めると』約八百隻となったが、『その後の戦局の悪化により魚雷艇の生産は』昭和二〇(一九四五)年三月に『中止、震洋などの特攻兵器の生産に重点を移していった』とあるから、これは実質上は「魚雷艇」の「特攻隊」ではなくて「震洋特攻隊」のことと思われる。なお、「震洋」の試作艇の船体は魚雷艇の船型を基礎としている)、翌年六月には本土決戦に備えて第三二一師団が編成されていたとある。この驚愕の誤認事件については「桜島」の中にも語られている。以下、そこにつけた私の注を引く。田中誠氏のブログ「So what?」の「梅崎春生」には「桜島」の読後記載が記されてあるが、そこには、昭和二〇(一九四五)年八月一日の夜十時に『大島の見張所が夜光虫を見間違えて「敵大船団、大島東方を北上中」と発信して、間もなく』(翌二日午前二時頃)、『「先の大船団は夜光虫の誤り」と訂正された(割と有名な)エピソードも載っていて、その辺が軍オタには、興味深いかも』とある。また、サイト「メロウ伝承館」の『水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記』のスレッドの「水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)3」には、 kousei3 氏の投稿として、以前に注したモーター・ボート特攻兵器である、「震洋」の『爆装作業が終わった日の夜中』(昭和二十年八月一日)に、『「敵船団接近中」との報で「震洋艇出撃」の命令が届いた。出撃準備が出来ているのは僅か』五隻だけで、搭乗員五十名の中から五名を『指名しなければなら』ず、『部隊長は横須賀に出張中、高橋先任艇隊長に指名の苦悩がのしかかった。暫くして幸い敵船団来襲は誤報で(編注=伊豆大島見晴所が多量の夜光虫を船団と見聞違えて報告)、「震洋艇出撃用意」が取り消され、高橋艇隊長は安堵の胸を撫で下ろした』とある。また、個人サイト内の「我々が生きた時代と海龍の年表」(【二〇二〇年七月九日附記】現存しない模様)の昭和二十年八月一日の条には、『「敵大船団、大島東方を北上中」の情報により』、第十一突撃隊では『全艇出撃。集合地点は九十九里浜沖。沈座して敵を待つ予定であったが、城ヶ島を回ったところで「先の報告は夜光虫の誤り。全艇直ちに帰投せよ」と無線で命令を受ける』とある。この「海龍(かいりゅう)」とは大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りによって攻撃を行う、二人乗り有翼特殊潜航艇で水中特攻兵器の名である。従ってこれは、先の「震洋」とともに出撃した「海龍」の記載事実であることが判る。]

   *

八月九日

 松本文雄が召集されて來てゐるのに會ひ、一しよに酒を飮みに行つた夢を見る。大濱氏も出て來る。

 昨夜は夕食にジヤガ芋つぶしたのを少量、燒酎小量のみ、十二時より直に立つとやはり胃の調子惡し。

[やぶちゃん注:この日記は、広島と同じ恐るべき新型爆弾が、この日の朝に同じ九州の長崎に落されたことを知っている日記ではない。

「松本文雄」は熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」の「かざしの園」という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。

「大濱氏」不詳。

「十二時」とは昼の十二時であろう。前の二日の日記に『胃が極度に弱つてゐるらしい』とあり、後の敗戦翌日の十六日では消化器の激しい衰弱が読み取れる。]

   *

八月十六日

 十二月八日が突然來たやうに、八月十五日も突然やつて來た。

 ソ聯の參戰。そして日ならずして昨日、英米ソ支四國宣言を受諾する旨の御宣言を受諾する旨の御宣詔。

 原子爆彈。

 昨日は、朝五時に起きて、下の濱邊で檢便があつた。

 朝食後受診。依然としてカユ食。

 夜九時から當直に行つた折、着信控をひらいて見て、停戰のことを知り、目をうたがふ。これから先どうなるのか。

 領土のこと。軍隊のこと。賠償のこと。

 又、ひいて、國民生活のことなど。いろいろ考へ、眠れず。

[やぶちゃん注:文面から察するに、この時はかなり重い消化器不調を訴えていたことが判る。

「十二月八日」謂わずもがな、真珠湾攻撃(日本時間昭和一六(一九四一)年十二月八日未明/ハワイ時間十二月七日)と、開戦の詔勅「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」を指す。

「ソ聯」の「聯」の表記は原文のママ。

「英米ソ支四國宣言」通常は「米英支ソ四国共同宣言」で、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)のことである。昭和二〇(一九四五)年七月二十六日にアメリカ合衆国大統領トルーマン・イギリス首相チャール・中華民国国民政府主席蒋介石の名に於いて大日本帝国に対して発された「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全十三ヶ条から成る宣言。正式には「日本への降伏要求の最終宣言」(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)という。「支」は未だ中華民国で、中華人民共和国建国はこの四年後の一九四九年十月一日である。但し、実は先立つポツダム会談(同年七月十七日~八月二日)に蒋介石は出席しておらず、実質的には「米英共同宣言」であったが、日本からの侵略を受けていた中国を配慮し、宣言のそれは蒋介石に無線で了承を得た上で署名されて「米英中共同宣言」の体裁を採った。一方、ソ連はポツダム会談には出、対日降伏勧告についても介入しなかったが、日ソ中立条約(昭和一六(一九四一)年締結)があったために署名はしていない。ソ連のポツダム宣言参加は日本時間八月九日未明にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州国・朝鮮半島北部及び南樺太へ侵攻を開始したソ連対日参戦を以って宣言に後から参加したものであるから、「米英支ソ四國共同宣言」が正確と言えば、正確ではある。

「原子爆彈」この時は流石に長崎に二つ目が投下されたことを知っていたであろう。所謂「玉音」、「大東亜戰争終結ノ詔書」にも「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル」とも既にあった以上、敗戦の翌日とはいえ、春生が長崎原爆投下を、この時点で知らなかったとは考えられない。

「檢便」これは彼個人の、ではなく、隊内での感染症予防検査のためのそれであろう。

「夜九時」当初、『日記の書き振りから見て、これは前日十五日の九時ではなく、この十六日のことであろう』と注していたが、後の梅崎春生の桜島の八月十五日によって、これは敗戦当日十五日のことであることが判明した。

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