小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) ポオの「マリー・ロオジエー事件」 / 「犯罪文學研究」~了
ポオの「マリー・ロオジエー事件」
一、序 言
ポウの探偵小說『マリー・ロオジェー事件』は、言ふ迄もなく、一八四一年七月、紐育を騷がせたメリー・ロオジヤース殺害事件を、パリーに起つた出來事として物語に綴り、オーギズュスト・デュパンをして、その迷宮入りの事件に、明快なる解決を與へさせたものである。小說は一八四二年十一月に發表されたのであつて、一八五〇年に出た再版の脚註に、ポオは、『マリー・ロオジェ事件は、兇行の現場から餘程はなれた所で書いたもので、硏究資料といつては色冷な新聞が手にはひつたゞけだつた。そのために、作者は、現場の近くにゐて親しく關係のある地點を踏査してゐたなら得られたであらう色々な材料を逸したものが多いとは言ひながら、二人の人物(そのうちの二人は此の物語の中のドリユツク夫人にあたるのだ)が、この物語を發表してからずつと後に、別々の時に私に告白したところによると、この物語の大體お結論ばかりでなく、この結論に到達するに至つた細々しい臆測の主要な部分は、悉く事實そのまゝだつたといふことである。』と書いて居るけれども、ポオが材料とした事實は、眞の事實とは幾分か違つて居るのであつて、從つてポオの與へた解決は實に怪しいものなのである。換言すればポオは自分の物語を讀者に一も二もなく納得させるために、前提として、自分に都合のよい材料をのみ選び出したらしい形跡があるのであるから、ボオの結論は、決してメリー・ロオジヤース事件の眞相を傳へたものとは言ひ難い。
然らば、メリー・ロオジヤース事件の眞相は何であるかといふに、もとより今に至るまで明かにされて居ないのであつて、今後に於て解決されることは猶更あるまじく、所謂永遠の謎に外ならぬ。從つて私がこれから述べようと思ふのは、この謎に對する解決ではなくて、探偵小說家としてポオの名を不朽ならしめたこの物語の題材となつて居る事實を擧げて、讀者の比較硏究に資し、併せてポオの驚くべき推理の力について考察するに過ぎないのである。
[やぶちゃん注:『ポオの「マリー・ロオジエー事件」』アメリカの偉大な幻想作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が雑誌『Snowden's Ladies' Companion』に、一八四二年十一月号・十二月号及び翌年二月号に分載発表した短編推理小説「マリー・ロジェの謎」(The Mystery of Marie Rogêt)。前作でポーの最初の知られた本格推理小説「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue:一八四一年)に引き続いて、オーギュスト・デュパン(Auguste Dupin)が探偵役として登場する。
「メリー・ロオジヤース殺害事件」メアリー・セシリア・ロジャース(Mary Cecilia Rogers 一八二〇年頃 ~一八四一年七月二十八日(遺体発見日)殺害事件。詳しくはウィキの「メアリー・ロジャース」を参照されたい。しかし、まずは、ポーのそれを読むに若くはない。未読の方は、原文が英文「wikisource」のこちらにある。英語の苦手な方には、幸いにして「青空文庫」に佐々木 直次郎氏の訳がある。なまぐさな方にはお薦め出来ないが、当該ウィキもある。]
二、メリー・ロオジヤース事件に關する事實
その當時にすらわからない事實であるから、大部分の記錄が失はれてしまつた今日、もはや如何ともすることは出來ない。私たちはむしろポオの小說によつて、この事件の眞相を敎へられるといふ皮肉な立場に居るのであつて、かの Third Degree と稱する特種の訊問法を發明したバーンス探偵の著書『アメリカの職業的犯罪者』中のこの事件の記述さへ、ポオの物語の影響が見られるといふことである。尤も、ポオの小說がなかつたならば、たとひ、殺されたのがニユーヨークで評判の美人であつても、この事件はこれ程有名にならなかつたであらうから、ポオの物語の内容が重要視せられるのは無理もないことかも知れない。
[やぶちゃん注:「Third Degree」「と稱する特種の訊問法」一般名詞としては「第三度」「第三級」の意であるが、アメリカ英語で「警察が容疑者などに行う厳しい尋問・取り調べ」を指す語で、これは次注のトーマス・バーンズの発案になる肉体的及び精神的拷問を含むそれが起源である。
「バーンス探偵の著書『アメリカの職業的犯罪者』」トーマス・バーンズ(Thomas Byrnes 一八四二年~一九一〇年)はアイルランド生まれのアメリカ人警察官。一八八〇年から一八九五年までニューヨーク市警察の探偵部長を務めた。彼が一八八六年出版した“Professional Criminals of America”。前注とこの注は英文の彼のウィキに拠った。]
チヤーレス・ピアスの著『未解決殺人事件』によると、この事件の記錄は、前記バーンスの著書と、ニユーヨーク・トリビユーン紙の記事より他にこれといふ目ぼしいものはないさうである。千八百四十一年代の新聞はこのトリビユーン紙を除いては現今見ることが出來ないのださうであつて、而もポオはこのトリビユーン紙の記事を一つもその物語の中に引用して居ないのであるから、ポオが當時の新聞記事として引用したものが、果して本當のものかどうかといふことさへ確かめることが出來ぬのである。が、それは兎に角、先づ、私はピアスの著によつて、この事件に就て知られたる事實を述べようと思ふ。
[やぶちゃん注:「チヤーレス・ピアスの著『未解決殺人事件』」サイト「小酒井不木全集引用文献DB」のこちら他によれば、イギリスの作家チャールス・ピアス(Charles Pearce 一八九四年~一九二四年)の“Unsolved Murder Mysteries”(一九二四年刊)。]
メリー・セシリア・ロオジャースは、その當時ニューヨークの下町に出入する男で知らぬものはないといってよい程であった。彼女は一八四〇年、ブロードウエーはトーマス街ストリート近くのアンダアスン(小說ではル・ブラン君)という人の煙草店に賣子として雇われたのであるが、その美貌のために店は大繁昌を來し、當時二十歲の彼女は、Pretty cigar girl と綽名されて後にはニユーヨーク中の評判となった。彼女の母はナツソー街に下宿屋を營んでオフイス通ひの人たちに賄附ききで間貸しをして居たのである。
一八四一年の夏もまだ淺い頃、ある日彼女は突然店を休んで約一週間ほど姿をあらはさなかつた。この事はたゞちに人々の話題となり、彼女が丈の高い立派な服裝をした色の淺黑い男と一緖に步いて居るのを見たといふものがあつて、眼尻の下つた連中に岡燒半分に噂されたものである。店へ歸つて來ると彼女は、田舍のお友達の家をたづねたのだと語つたが、その眞相は誰も知らなかつた。
然し、そのことがあつて間もなく、彼女は煙草屋の店を退いて家に歸つたので、彼女の店にせつせと通つて不要な煙草を買つた連中は、掌中の珠を奪はれたかのやうに落膽した。しかも彼女は家に歸ると間もなく、下宿人の一人なるダニエル・ペイン(小說ではサン・チユースターシユ)と婚約したといふ噂が傳つて、人々は一層失望した。
七月二十五日(日曜日)の朝、彼女はペインの室の扉をノツクして、今日はこれからブリーカー街の從姉のドーニング夫人をたづねますから、夕方になつたら迎へに來て下さいといつて家を出た。が、それが今生の別れであらうとはペインは夢にも思はなかつたのである。なほ又、彼女がそれから死骸となつて發見されるまで、彼女の生きた姿を見たものは一人もなかつた。
その朝は快く晴れて居たが、正午過から天氣が變つて、夕方にははげしい雷雨となつた。それがため、ペインは彼女との約束を果さなかつたが、從姉の家なら泊めてもくれるであらうと思つて、彼は少しも氣に懸けなかつたのである。あくる日彼は平氣で仕事に出かけ、晝飯を攝りに歸つて來たが、その時まだメリーが歸らぬときいて、始めて心配になり出したので、とりあえず、ドーニング夫人の許を訪ねると、意外にもメリーは昨日來なかつたと聞いて吃驚仰天し、家に駈け戾つて、母親に事情を告げた。それから人々は心配の程度を深めつゝ彼女の歸宅を待つたが、とんと姿を見せなかつたので警察に訴へて搜索して貰つた。しかし一日と過ぎ二日と經つても彼女は歸らないのみか、どこに居るかといふことさへわからなかつた。
ところが八月二日になつて、トリビユーン紙にはじめて次の記事が載つたのである。
『戰慄すべき殺人事件。「美しい煙草屋の娘」として名高いロオジヤース孃は先週日曜日の朝、散步して來ると、ナツソー街の自宅を出たが、劇場橫町の角で待ち合せて居た若い男と共に、ホボーケンにでも遊びに行くとてかバークレー街の方へ步いて行つた。その以後、消息がふつつりと絕えたので、家族朋友は大に心配して、火曜日の新聞には廣告をしてまでその行方をたづねることになつた。けれども、何處からも何の知らせもなかつたが、水曜日に至つてルーサーといふ人と他の二名の紳士が帆船でホボーケンのキヤスル・ポイントに近いシヴィル洞孔を通過しつゝあつた時、水中に若い女の死骸のあることを發見し、大に驚いて、とりあへず河岸に運んで屆け出たところ、直ちに審問が行はれ、その結果、件の死骸はロオジヤース孃のそれとわかつた。彼女はむごたらしい暴行を加へられた後殺されたもので、「未知の人又は人々による他殺」なる宣言が下された。彼女は善良な性質の娘で近くこの市の某靑年と結婚する筈であつた。聞くところによると、殺害が行はれてから行方を晦ましたある靑年に嫌疑がかゝつて居るとの事である。』
この記事の始めにある、彼女が町角である靑年と逢つて共にホボーケンへ行かうとしたといふことは、かゝる殺人事件に伴ひ易い單なる風說に過ぎなかつたのであつて、その後二度と新聞に繰返されなかつた。バーンスの著書は多分警察の記錄に從つて書かれたものらしいのであるが、それによつて發見當時の死骸の狀態を述べると、彼女の顏は甚だしく傷害を受け、腰のまはりに、短い紐によつて重い石が附けられてあつた。彼女は彼女の衣服から引き裂かれた布片で絞殺され、兩腕のまはりに紐の跡がはつきり附いて居た。兩手には薄色のキツドの手袋をはめ、ボンネツトは、リボンによつて頸にひつかゝつて居た。さうして衣服全體が甚だしく亂れ且つ引き裂かれてあつた。
[やぶちゃん注:「キツド」「キッド」(kid)は「キッド・レザー」(kid leather)の略称。仔山羊やそれに類するものの「鞣革(なめしがわ)」。羊皮より繊維の密度が大で丈夫だが、子牛皮よりは粗い。表面(銀面)も子牛皮ほどではないが、耐摩耗性もあり、優雅な感じがし、柔軟でもある。高級靴の甲革・手袋・袋物などに用いられる。原皮の産地は中央ヨーロッパ・中央アジア・インドなどが有名。
「ボンネツト」bonnet。「ボネット」。 女性・子供用の帽子。前額はまる出しにして、頭の頂上から後ろにかけて深く被る型のものを総称する。典型的なものは紐を顎の下で結ぶ。ツバのあるものとないものとがある。]
八月六日、トリビユン紙は二度目の報知を揭げた。『ロオジヤース孃殺害事件は日に日に人々の興味を喚起しつつある。……一週間を經るもなほ犯人は不明であつて、警察は躍起になつて活動して居るけれどっも、もはや遲過ぎる感がないでもない。市長は自ら賞を懸ける前にニユ・ジヤーセー州知事の懸賞を待つて居るとの噂があるが、それは誤聞であるらしい。……失踪當日の日曜日にホボーケンで彼女を見た人はないか? 若し警察へ告げてかゝり合ひになることを恐れて居る人があるならば、新聞社へ手紙を送つて貰ひたい。』
けれども、これに對して何人も返事するものはなかつた。八月十一日、彼女と婚約の間柄なるペインは、判事パーカーに警察へ呼出されて長時間の訊問を受けたが、犯人の手がかりは少しも得られなかつた。トリビユーン紙はこのことを報告すると同時に、ペインが彼女の失踪後二日三日の間、自ら搜索を行ひつゝあつたに拘はらず、水曜日に彼女の死體が發見されたといふ報知を得ながら、それを見に行かなかつたことを不思議な現象だとして特に世人の注意を促した。
その日は警察でペインを中心として午前八時から午後七時まで熱心な硏究が行われたが、死體がロオジヤース孃に間ちがひないといふ程度以上に搜索は進まなかつた。死體鑑別の證人は幾人かあつたが、そのうちには、メリーの以前の求婚者たるクロムリン(小說では、ボオヴェー君)も居た。この男は、心配事があつたら、いつでも呼びに來てくれとでも言つてあつたのか、メリーが殺される前の金曜日にロオジヤース夫人(メリーの手蹟で)から、一寸來てくれといふ手紙を受取つたが、先だつて訪ねたとき、冷淡な待遇を受けたので、行くことをしなかつたのである。が、土曜日に、彼の家の石の名札にメリーの名が書かれ、鍵孔には薔薇の花が插してあつた。水曜日にクロムリンは死體發見の報を得てホボーケンへ行つて夕方まで居たが、天候がいやに蒸暑かつたので、審問が大急ぎで濟まされ、死體は埋葬された。で、彼が歸宅しようと思つてハドスン河を渡らうとしたが渡船が出なかつたので、ジヤーセー市まで步いた。然し、こゝでも船は出なかつたゝめ、やむなく宿泊するに至つた。だからメリーの死體は母親の目にもペインの目にも觸れなかつた譯で、たゞその衣服によつて、メリーだといふことが鑑別された。
死體を最初に發見した紳士たちは、彼女が寶石類を身につけて居なかつたことを誓つた。而も、彼女はたしかに寶石を身につけて、家を出たらしいのである。なほ又紳士たちは、紐も繩も死體には卷かれてなかつたといつたので、この點バーンスの記載と頗すこぶるちがつて居るけれども、どちらが本當であるかは、今になつて知る由もない。
彼此するうちに、ここに新らしいセンセーシヨンが起つた。それは何であるかといふに、以前ナツソー街一二九番地に住んで居たモース(小說ではマンネエ)といふ木彫師が犯人嫌疑者として逮捕されたことである。彼はマツサチユセツト州ウースターから七マイル[やぶちゃん注:十一キロメートル弱。]離れた西ボイルストンで八月九日に逮捕されたのであつて、その前數日間といふもの、彼は假名のもとにその邊をうろついて居た。逮捕される前、ウースターの郵便局でニユーヨーク發の彼宛ての手紙が發見されたが、その中に髭を剃り服裝をかへて探偵の眼をくらませるがよいといふ忠告が書かれてあつた。訊問の際彼は、細君毆打の廉[やぶちゃん注:「かど」。]で逮捕されたときいて『それだけですか』と言ひ、なほ七月二十五日、何處に居たかと問はれて、始めはホボーケンへ行つたといひ、後にはステーツン・アイランドへ行つたと言つた。
このモースといふ男は小柄ながつしりした體格をして黑い頰鬚を生し、さつぱりした服裝をして居たが、性質は善良とはいへない方で、博奕が非常に好きであつた。度々煙草店を訪問してメリーとも知り合の仲であつたし、問題の日にメリーと一しよに步いて居たといふ證據が擧げられたし、その夜家に居なかつたし、翌日トランクを自宅からオフイスへひそかに運んで、假名でニユーヨークを逃げだし、その上に前記の手紙が發見されたといふのであるから、彼が犯人嫌疑者と考へられたのは無理もなかつた。
けれども、これは、やはりとんでもない誤謬であつた。モースがその日若い女とステーツン・アイランドへ行つたことは事實であるが、その女はメリーではなく、メリーに似た女に他ならなかつたのである。で、トリビユーン紙は、この事を記した後、『これまで、搜索の步は、日曜日の夜に殺害が行はれたものとして進められて來たが、日曜日の午前か、或は又月曜日の日中又は夜分に行はれたものとしては間違であらうか。この點當局者の熟考を煩はしたい。』と書いて居る。さうして、遂に、以前の記事を取消して、メリーは母の家を出てから死體となつて發見される迄何人にも見られなかつたと書かざるを得なくなつた。
日はだんだんと過ぎて行つたが犯人の手がゝりは何一つ發見されなかつた。で、たうとう九月十日になつて、ニユーヨーク州知事は、犯人を告げたものには七百五十弗の賞を與へると廣告したのである。然し、殘念ながら、この方法も不成功に終つた。
さて、前にも述べたごとく、當時の新聞はニユーヨーク・トリビユーン紙の他、一つも見ることが出來ぬのであるから、もとより臆測に止まるけれども、若し官憲が記事差止めを命じたならば他の新聞も同樣の命令を受ける筈であるから、たとひ、他の新聞を見ることが出來ても、恐らくこれ以上のことはわかるまいと思はれる。けれどもバーンスの著書の中には、トリビユーン紙に載つて居ない事實でニユーヨーク・クーリエ紙の九月十四日附の記事として、左の文句が引用されてあるのである。
『ウィーハウケン(小說ではルール關門)附近の堤防に小さな酒屋を開いて居るロツス夫人(小說ではドリユツク夫人)は、市長の前で訊問された結果、メリーが七月二十五日の晚、數人の若い男と共に、彼女の店に來て、そのうちの一人の差出したリモネードを飮んだことを告げた。死體の着物はロツス夫人もメリーのものであることを認めた。』
この記事を敷衍してバーンスはなほ次のような記述を行つて居る。懸賞のことが廣告されたあくる日、無名の手紙が檢屍官の許に屆いた。讀んで見ると、筆者が日曜日にハドソン河畔を散步して居ると、ニユーヨーク側から一艘のボートがこちらの河岸へ漕れて來たが、それには六人の荒くれ男と一人の若い女が乘つて居た。その女は他ならぬメリーであつた。ボートはホボーケンにつき、一同は森の中へはいつたが、彼女はにこにこしながらついて行つた。丁度、一同の姿が見えなくなつた頃、別のボートがニユーヨーク側からやつて來て、その中に居た三人の立派な服裝をした男は、同じくホボーケンで上陸し、筆者に向つて、今こゝを六人の男と一人の娘が通らなかつたかとたづねた。で、筆者が、通つた旨を答へると、更に三人は娘が厭々引張られて行きはしなかつたかとたづねた。そこで、喜んでついて行つた樣子だと答へると、三人はさうかと言つて、再びボートに乘つて引返して行つたといふのである。
この手紙は新聞紙に發表されたといふことであるが、トリビユーン紙には載つて居ない。バーンスによると、更にその後、アダムスといふ男が、メリーを問題の日曜日にホボーケンのある渡し場で見たことを申し出た。彼女はその時、丈の高い色の黑い男と連立つて居て、二人はエリジアン・フィールドの休憩茶屋へ行つたといふのである。このことを既記のロツス夫人にたづねると、その日、その通りの男が店へたづねて來て、一ぱい飮んでから森の方へ行つたのは事實であつて、暫らく經つてから女の悲鳴のやうなものが聞えて來たがそのやうなことはいつもあり勝ちのことであるから別に氣にとめなかつたといふのであつた。
以上の話の中の女が果してメリーであつたかどうかはわからないから、このことが、事件の眞相を形つて[やぶちゃん注:「かたどつて」或いは「かたちづくつて」。]居るものとは無論言はれないのであるけれども、ポオはこれを、有力なる論據として解決しようとしたのである。さうして、バーンスは、更に次のやうに書いて居る。
『犯罪の行われた場所は九月二十五日卽ち殺害の滿二ケ月後にロツス夫人の小さな子供たちによつて發見された。卽ち彼等が森へ遊びに行くと、奧の叢林の中に白の袴と絹のスカーフとM・Rといふイニシアルのついたパラソルと麻の手巾とを發見したのである。その附近の土地は踏み荒され、雜草の幹は折られ、はげしい格鬪の跡が認められた。さうしてその叢林の中から、ちようど死體を引摺つたやうな跡が一本河の方に向つてついて居たが、やがて森の中で消えて居た。さうして、それらの遺留品はすべて、メリーのものであると判別された。』
このことは、トリビユーン紙には一語も記されて居ない。なほ又、メリーの婚約者であるペインが彼女の死に遭遇して悲歎のあまり自殺したといふことも載つては居ない。しかしポオはこれ等のことを彼の物語の中に引用して居るのである。さうして、バーンスのこの記述は、殘念ながら、その出所が明かにされて居ないばかりか、何だかポオの物語が多少影響して居るやうにも思はれる。然しポオの物語が悉く信賴すべき事實に據つて書かれたものだとはバーンスも思はなかつたであらう。して見ると眞實であるかとも思はれる。けれど、もとより絕對に信を措く譯にはいかぬのである。
三、事件の眞相
以上が、メリー・ロオジヤース殺害事件に關する事實の主要なるものであつて、これらの僅少な事實からして、事件の眞相を判斷することは到底不可能のことである。
ことに最も殘念に思はれることは、死體を檢査した醫師の言葉が、信賴すべきところに記されてないことである。審問の行はれるときに醫師が立合はぬ筈はないのに、そのことがトリビユーン紙にも書いてなければ、バーンスの著書にも書いてない。たゞポオのみが醫師の屍體檢案書のことを書いて居る。ところがポオはクロムリン(小說ではボオヴェー君)がウイーハウケン(小說ではルール關門)の附近を搜索して居る際に、ちようど漁夫等が、河の中に一つの死體を發見してたつた今網で岸へ曳き上げたところだといふ知らせを受け、駈けつけて死體の鑑別を行つたやうに書いて居るけれども、實際は前に記したやうに、クロムリンは、死體發見の報知を自宅で受けてからホボーケンへ行つたのであつて、彼が到着した時分にはすでに審問が始まつて居たにちがひない。而もこのことはトリビユーン紙に出て居るけれどもバーンスの記述の中にはクロムリンのことは一語も書かれていないのである。いづれにしてもクロムリンがゆつくり死體を見ることが出來なかつたのは想像するに難くない。
ところがポオは、クロムリンの鑑別に携つたことを書いて後、死體の狀態を記述して精細を極めて居る。『顏には黑血がにじんで居た。その血の中には、口から出た血も混つて居た。たゞの溺死者の場合に見られるやうな泡は見えず、細胞組織には變色はなかつた。咽喉のまはりには擦過傷がついて居り、指の痕がのこつて居た。兩方の腕は胸の上に曲げられて剛直して居り、右手はかたく握りしめ、左手は半ば開いてゐる。左の手頸には、皮膚の擦りむけたあとが二すぢ環狀になつて殘つて居た。それは、二本の繩でゞきたものか、或は一本の繩を二重に卷いて縛つたゝめにできたものかであることは明瞭だつた。右の手頸の一部分もよほど皮膚が擦りむけてをり、それからひきつゞいて右腕の背部一面に皮膚が擦りむけて居たが、とりわけ、最もひどかつたのは、肩胛骨の部分だつた。漁夫等は、この屍體を岸へ曳きあげるときに、屍體に繩をむすびつけたといふことであるが、どの擦れ傷もそのためにできたものではなかつた。頸部の肉は膨れ上がつて居た。切傷のあとや、打撲傷らしいものは一つも見られなかつた。頸部のまはりをレース紐でかたく縛つてあるのが發見された。あまりかたく縛つてあるので、紐がすつかり肉の中に食ひ入つてゐて外からは見えなかつた。その紐はちようど左の耳の下のところで結んであつた。これだけでも優に致命傷となつたであらうと思はれる。醫師の死體檢案書には死人の貞潔問題が自信をもつて記してあり、死者は野獸的な暴行を加へられたのであると述べてあつた。』
この詳細な記述が醫師の死體檢案書に書かれてあつたものでないことは決して想像するに難くはない。何となればポオが醫師の檢案書を取り寄せたとは考へられぬし、このやうな委しい記述が當時普通の新聞に發表されることはなからうと思はれるからである。卽ち以上の記述及びそれに續く衣服の狀態の記述は、全く彼の想像力の所產と見るべきである。
ポオは小說を作るのが目的で、事實を紹介するのが目的でなかつたから、それでよいとしても、バーンスとなるとさうはいかない。ところがバーンスの記述を讀むと幾分かポオの記述と似て居て、しかも前に述べたやうに、腰のまはりに短い紐で重い石が附けられてあつたと書かれて居るのである。然るに死體を最初に發見した人たちは、身體には紐や繩らしいものは一本も附いて居なかつたと證言して居るのであつて、かうなると一たいどう信じてよいか判斷がつきかねるのである。
若し醫師の檢案書が果して他の新聞に發表されたとしたならば、ポオは死體が幾日間水中にあつたといふことについて、ヂユパンに長い議論をさせる必要はない筈である。なほ又、死體がメリーであるか無いかの疑問も起らない譯であつて、あの長々しいアイデンチフイケーシヨンに關する說明もしなくつてすんだ譯である。しかし、探偵小說を書くためには、溺死體が水に浮ぶか否かの議論もしなければならぬし、又、個體鑑別論も書かなければならない。實際あの小說の三分の一を占める明快な個體鑑別論によつて、讀者はヂュパンの驚くべき推理に敬服し、次で行はれる事件の解決を一も二もなく受け容れねばならなくなるからである。だから、私たちは、ポオの引用したエトワール紙(事實ではニユヨーク・ブラザー・ジヨネーザン紙)の『死體はマリーに非あらず』といふ議論は、恐らく、ポオが議論するために假に設けたのではあるまいかと疑つて見たくなる譯である。
發見された死體の狀態の記述がこのやうに區々[やぶちゃん注:「まちまち」。]である以上、たとひ死體がマリーであることに疑ないとしても、彼女がどんな風な殺され方をしたかといふことを、死體の狀態から判斷することは不可能である。從つて私たちは、死體を離れて、注意をホボーケンに向け、もつて彼女の死の眞相を推察しなければならぬのである。
ところが、前に記したやうに、ホボーケンで、彼女を見たといふロツス夫人やアダムスの證言は決して斷定的のものではない。又森の中で發見されたといふマリーの所有品の記述も、どこまでが本當であるかを知るに由ないのである。從つてポオの、犯人は一人であつて、惡漢たちの仕業でないといふ結論も容易に贊成することが出來ないのである。ポオはメリーの第一囘の失踪が海軍士官と一しよであつたことから、海軍士官が犯人だろうと推定し、メリーの心を想像して次のやうに書いて居る。
『……自分は或る人と駈落ちの相談をするために會ふことになつて居るのだ。駈落ちでないとしても、それは自分だけしか知らない或る目的のためだ。そのためには、どうしても、はたから邪魔されたくない――あとから追つかけて來ても、それまでに行方をくらましておけるだけの時間の餘裕をこさへておかなくちゃやならない――だから自分はドローム街の伯母さん(ブリーカー街の從姉)のとこへ行つて一日ぢゆう遊んで來るつてみんなのものに告げておくことにする――サン・チユスターシユ(ペイン)には、暗くなるまで迎へに來ちやいけないつて言つとく――さうすれば、できるだけ長い間、誰にも疑はれず、誰にも心配かけずに家を留守に出來るといふものだ。時間の餘裕をこしらへるにはそれが一番いゝ方法だ。サン・チユスターシユに暗くなつてから迎ひに來て下さいつて言つておけば、あの人はきつとそれまでに來る氣遣ひはない。だけど、迎ひに來てくれとも何とも言はずにおけば、自分の逃げる時間の餘裕が減つて來る勘定だ。何故かつていふと、皆んなの者は自分がもつと早く歸ると思つて、自分の歸りが少しでもおくれると心配するからだ。……』
マリーの精神分析はこのやうに精細を極めて居るけれども、これによつて、殺害の祕密は少しも明かにされては居ないのである。ことに、『だけど、自分はもう二度と家へは歸らないつもりだから――或はこゝ何週間かは家へ歸らないつもりだから――或はまた人に言へない或る用事をすます迄は歸らないつもりだから、自分にとつては、たつぷり時間の餘裕をこさへることが何より肝腎なんだ。』といふ、言葉に至つては、彼女が死體となつてあらはれるに至る事情を說明するといふよりも、むしろ、まだ何處かに生きて居つて、死體は彼女でないと說明するのに都合がいゝくらゐである。尤もこれは犯人が一人だとの推定を裏書きするための議論であるから已むを得ないことでもあらう。
第一囘の失踪を第二囘の失踪卽ち殺害と關係あるものと考へたポオの推定は、犯罪學的に見て頗る當を得て居るのである。ところがポオは第一囘の失踪と第二囘の失踪との間の時日を夕刊新聞六月二十三日の記事によつて、約三年半として推定を行つて居る。ポオは物語の始めに約五ヶ月と書いて、後に三年半として推定を行つて居るのは變である。マリーは煙草店に一年半ばかりしか居なかつたので、三ケ月半の書き違いかとも思へるけれど、「第一のたしかにわかつて居る駈落ちと、第二囘目の假定の駈落ちとの間に經過した時間は、アメリカの艦隊の一般の巡航期間よりも數ケ月多いだけだといふことだ。」と書いて居るところを見ると、やはり三年半と見てのことであるらしい。して見ると海軍士官をマリーの戀人と見るのは頗るおかしく、從つて色の淺黑いことや、帽子のリボンの『水兵結び』なども、事件の眞相から眺めて見れば一種のこじつけになつて來るのである。尤も海軍士官云々の說は六月二十四日のメルキユール紙の『昨夕發行の一夕刊新聞は、マリー孃が、以前に合點のゆかぬ失踪をしたことがある事件に言及して居るが、彼女が、ル・ブラン氏の香料店にゐなくなつた一週間、彼女が若い海軍士官と一しよにゐたのであるといふことは周知の事實である。この海軍士官は有名な放蕩者であつた。幸にして、二人の間に仲たがひが起つたために、マリーは歸るやうになつたのだと想像されて居る。』といふ記事を根據としたものであらうけれど、夕刊新聞には、第一囘の失踪の原因について、マリーも母親も、田舍の友達のところへ遊びに行つたのだといつて居るに反し、メルキユール紙が、『海軍士官と一しよに居たことは周知の事實である』と書いて居るのも少々をかしいやうに思はれる。海軍士官のことがもし周知であるならば、メリーの母親の知らぬ譯はなく、從つて母親を訊問した警察の記錄には載つて居る筈で、それを調べた筈のバーンスの著書には當然書かれて居なければならぬのに、その記述はないのである。
最後に、メリーが何處で殺されたかの問題も、知れて居る事實だけから推定してこれを解決することは頗る困難である。しかし、メリーの死體がハドソン河から發見されたことは、ハドソン河の近くで殺害の行はれたことを想像するに難くはない。現今ならばメリーの衣服に着いて居る塵埃や草の葉の破片などから、それを顯微鏡的に檢査することによつて兇行の場所を推定することが出來るであらうけれども、當時は常識的に判斷するより他はなかつた。若しウィーハウケン(小說ではルール關門)の近くで認められたといふ女がメリーであつたならば、兇行はやはりその附近で行われたものとするのが、常識的に見て當然のことである。
そこで今度はメリーが一人の男に殺されたのか又は一團の惡漢たちに殺されたかといふ問題が起つて來る。何となればメリーは六人のものと一しよだつたといふ見證と、色の淺黑い男と一しよだつたといふ見證とがあつたからである。無論前にも述べたごとく、これらの見證は頗る怪しいものであるが、假りにそれを是認するならば、ポオの推定したやうに一人に殺されたとした方が理窟に合ふやうである。然し當時の人達は格鬪した形跡の發見を基として一團の人達に殺されたと信ずるものが多かつたのである。ポオの文章の中に『まづ手初めに檢屍に立ちあつた外科醫の檢案なるものが出鱈目なものだといふことをちよつと言つておかう。それにはたゞこれだけのことを言つておけばよいのだ。あの外科醫が下手人の數について發表して居る推定なるものが、パリーの第一流の解剖學者たちによつて、不當な、全然根據のないものだとして一笑に附せられて居るといふことをね。』
とあるところを見ると、檢屍に立ちあつた醫師までが犯人の多數說を建てたと見える。然し、このことも、恐らく前に述べたやうにポオの空想から生れた『事實』であらうと思はれる。
そこで次に、ポオはこの世間の說を反駁するために、
『まあ、格鬪の形跡なるものをよく考えて見よう。一體この形跡は何を證明するといふんだと僕は訊ねるね。それは一團の惡漢のしわざであるといふことを證明して居るのだが、むしろ、これは、一團の惡漢のしわざでないといふことを證明してるぢやないか。いゝかね、相手はか弱い、全く抵抗力のない小娘だぜ。こんな小娘と、想像されてゐるような惡漢の一團との間にどんな挌鬪[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。以下も同じ。]が行はれ得るかね。……二三の荒くれ男がだまつて鷲づかみにしてしまやあ、それつきりだらうぢやないか。……これに反して、兇行者がたゞ一人であると想像すれば、その場合にのみはじめて明白な形跡をのこすやうな、はげしい挌鬪の行はれたことが理解できるのだよ。次に、僕は例の遺留品が、抑も[やぶちゃん注:「そもそも」。]發見された場所におき忘れてあつたと言ふ事實そのことに疑ひがあるといふことを言つといたが、こんな犯罪の證據が、偶然にある場所に遺棄してあるといふことは、殆んど有り得ないことのやうに思はれるね。……僕の今言つてるのは殺された娘の名前入りのハンカチのことなんだ。たとひ、これが偶然の手落ちであるとしても、それは徒黨を組んだ惡漢の手落ちぢやないね。一人の人間の偶然の手落ちだとしか想像できないね、いゝかね、或る一人の兇漢が殺害を犯したとする。彼はたつた一人で死人の亡靈と向ひあつてるのだ。……彼はぞつとする。……けれども死體をどうにか始末する必要があるのだ。彼は他の證據物はうつちやつておいて死體を河ぶちまで運んで行く。――ところが一生懸命に骨を折つて死體を河まで運んで行く間に、心の中で恐怖は益々募つて來る。……どんな結果にならうとも、彼は斷じて引き返せないのだ。彼のたゞ一つの考はすぐに逃げ出すことだ。……』
と書いて犯人の一人說を主張し、併せてその犯人の行動をも推定して居るのである。さうしてなほ、死體の上衣から、幅一呎[やぶちゃん注:一フィート。三十・五センチメートル弱。]ばかりの布片が裾から腰の邊まで裂いて、腰のまわりにぐるぐると三重に卷きつけて、背部でちょつと結んでとめてあつたことを、犯人が一人であつたために死體を運ぶための把持とされた證據だと述べて居るのである。
然し、玆に[やぶちゃん注:「ここに」。]於て、ポオは、實は一つの論理的矛盾に陷つて居るのである。何となれば彼は、叢林の中に殘された品物が三四週間も發見されずにあるといふことは考へられないから、それらの品物は、兇行の現場からわきへ注意をそらさうといふ目的で、わざと叢林の中へ置かれたものだらうと推定して置きながら、前記の文中には、その場所を兇行の現場と認め、なお、品物は犯人が偶然殘して置いたのであるやうに推定して居るからである。このことは昨年の三月二十七日發行の『ゼ・デテクチヴ・マガジン』にボドキン判事によつて指摘され、同氏は、この自家撞着があるために、この作品に對する期待を打ち壞されてしまつたと言つて居る。
なほ又、ウエルス女史が指摘したやうに、裾から腰の邊まで裂かれた布片きれが、マリーの腰のまはりを三重に卷くといふことも彼の論理的の矛盾といふことが出來るのであつて、實際に死體を發見した人たちが、死體には紐も繩も見られなかつたと證言したところを見ると、このこともポオの空想から生み出された『事實』といつてよいかも知れない。
[やぶちゃん注:「ウエルス女史が指摘した」不詳。]
いづれにしても、かような論理的の矛盾――ボドキン判事やウエルス女史の指摘した點及び、第一囘失踪と第二囘失踪との間の時日に關する點などが――この小說に發見されるといふことは、『マリー・ロオジェー事件』が、必ずしもメリー・ロオジヤース事件を說明するもので無いと斷言し得るのであつて、ポオが推理の材料とした『事實』がまた必ずしも眞實でないことを想像し得るのである。
して見ると、ポオがこの物語の一八五〇年版に附加した脚註(この文の最初に揭げた)はデフオーがしばしば用いた手段と同じやうに、讀者の感興を深からしめるための方策に過ぎないといつても差支ないと思はれる。
以上のやうな譯で、メリー・ロオジヤース殺害事件なるものは、嚴密に言へば犯人が如何なる種類の人間であつたかといふことのみならず、何處で殺害が行はれたかといふことさへわからぬ謎の事件なのである。
四、探偵小說としての「マリー・ロオジェ事件」
マリー・ロオジェ事件は、もとより探偵小說であつて事件の記錄ではないが、その中に前節に述べたような論理的矛盾のあるといふことは、探偵小說としても幾分の感興が薄らぐ譯である。然るに、この小說を讀んで居ると、ヂュパンの明快な議論と、その齒切れのよい言葉に魅せられて、どうかすると、これらの論理的矛盾に氣がつかないのは、偏にポオの筆の偉大なことを裏書きするものであるといつてよい。實際、探偵小說を愛好される讀者は、恐らくこの小說を讀んで、多大の興味を覺えられるにちがひないと思ふ。
ポオがこの物語を綴るに至つた動機が何であるかはもとより知る由もないが、警察の無能に憤慨して筆を取つたといふよりも、この事件を種として、ヂュパンの性格を一層はつきりせしめ、ポオ自身の推理力を遺憾なく發揮して見ようと企てたのであらうと思はれる。さればこそ、既に述べたやうに死體の個體鑑別に殆んど物語の三分の一を費して居るのである。さうしてその個體鑑別の精細な點は實に驚嘆に値する。『まあもう一度、ボオヴエー君の死體鑑別に關する部分の議論をよく讀んで見給へ……」から以下の文章は、個體鑑別に就て書かれた從來のどの文章にも劣らぬ名文であると思ふ。
この文章に魅せられた讀者は更に進んで、犯人及び殺害の場所に關する推理に導かれる。『今さしあたつての問題としては、吾々はこの悲劇の内部の問題には觸れぬことにして、事件の外廓に專ら注意を集中しよう。こんな問題の場合には傍系的といはうか、附隨的といはうか、直接事件に關係のない事柄を全く無視するために、取調べに間違ひが起ることがざらにあるもんだ。裁判所が、證據や議論を、外見上關係のある範圍に限定するのは惡い習慣だよ。だが、眞理といふものは、多く、いや大部分、ちょつと見たところでは無關係に見えるものゝ中にひそんで居るつてことは、經驗も證明してゐるし、ほんたうの哲學もきつとこれを證明するだらう。近代の科學が未知のものを計算しようとするのは、この原則の精神を奉じてゐるからだ。』と書いて大部分の眞理が傍系的なものから出ることを說明し、當時の周圍の事情を調べるのが當然の順序であることを述べ各新聞紙から議論を組み立てるに必要な記事を拔萃して、然る後、それを基として更に明快な推理に移つて行く手際は、實に巧妙を極めて居る。
このやうな書き方こそ、本格探偵小說の原型をなすものであつて、この型が如何に屢ばドイルその他の探偵小說家によつて採用されて居るかは、讀者のよく知つて居られるところである。列擧せられた新聞紙の記事は所謂この物語の第二の伏線とも見るべきものであつて、第一の伏線たるマリー失踪前後の記述と相まちて、この長い物語の美しい『あや』を形つて居るのである。何氣なしに讀んで居ると、『マリー・ロオジェー事件』はまるで一篇の論文のやうに思へるが、その實あく迄用意周到に一篇の物語を編まうとしたポオの努力がありありとあらはれて居る。
もとよりこの物語には、何等はらはらさせられるところがない[やぶちゃん注:句点なし。誤植か。]これは題材の性質上やむを得ないことであるが、それにも拘はらず讀者がしまひまでずんずん引つ張られてしまふのは、その敍述の仕方が寸分のスキもないやうに順序立てられてあるからである。さうして、讀者を引つ張つて行かうとした努力のために却つて論理の矛盾を來す[やぶちゃん注:「きたす」。]やうな破目に陷つてしまつたのである。
ポオ自身が、この論理の矛盾に氣附いたかどうかは、もとより知るに由もないが、たとひ氣附いてももはやどうにもすることが出來なかつたのであらう。これは本格探偵小說を書くものゝ常に出逢ふ難點であつて、本格小說に手をつける人の少ないのはこれがためであるとも言へる。
警察の記錄ならば事實を羅列しさへすればよいのであるけれども、物語である以上は、讀者を滿足させるやうに何等かの解決をつけねばならぬため、其處に多少の破綻が起つて來るわけである。又、本格探偵小說を書くときは、動もすると[やぶちゃん注:「ややもすると」。]、些細な點の說明を逸し易いものである。『マリー・ロオジェ事件』の中にも、例へば、ヂュパンは叢林の木の枝に引つかかつて居た衣服の破片が、格鬪の際偶然に引きさかれたものでないことを主張しながら、何のために犯人がわざわざ衣服を引き裂いて其處に引つかけたかといふことについては說明して居ないのである。
けれども、『マリー・ロオジェー事件』を讀まれた讀者は、以上の點を除いては、文中に擧げられた大小すべての事項が遲かれ早かれ洩なく、分析解剖されて居ることに氣附かれるであらう。實際一面からいへば、痒いところへ手の屆くやうに書きこなされてあるのであつて、これは到底凡手の企て及ばざるところである。
(附記) 本文中に引用した原文の譯語は、平林初之輔氏譯「マリー・ロオジェー事件」に依つたものである。
〔正 誤〕 本文中「靑砥藤綱摸稜案」の「摸」の字が「模」となつて居るのは誤であるから訂正する。
[やぶちゃん注:以上を以って本書本文は終わっている。最後の「正誤」訂正注記は既に述べた通り、当該本文では特異的に総てに修正を加えてある。
以下、奥附であるが、冒頭で私が大騒ぎした手書き書き替えがあるので、再リンクさせておく。]