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カテゴリー「小酒井不木」の20件の記事

2021/09/23

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (17) 古今奇談英草子

 

[やぶちゃん注:標題が「紙」でなく、「子」となっているのはママ。]

 

     古今奇談英草子

 

 英草紙《はなぶさざうし》は前に述べた如く、雨月物語と共に江戶時代怪異小說の双璧である。作者近路行者《きんろぎやうじや》は本名を都賀庭鐘《つがていしよう》といつて大阪の醫者である。水滸傳最初の譯者たる岡島冠山、小說精言、奇言等の著者たる岡白駒《をかはつく》と共に、同時代の支那小說紹介の三大功勞者と稱せられて居る。彼は英草紙の外に、「古今奇談繁野話《しべしげやわ》」と稱する怪異小說を書いているが、讀本としては前者の方が面白いやうである。

 英草紙は五卷九話から成つて居て、各々の物語がその長さに於ても、御伽婢子などより遙かにまさつて居るから頗る讀みごたへがある。歷史を取り扱つたものと世事を取り扱つたものとの二種類にわかれて居るが、いづれも比較的現實味に富んで居るから、これを怪異小說の中へ數えぬ人さへある。ことに歷史物は世事を取り扱つたものよりも現實味に富んでいて、怪異分子に乏しいから、私は世事を取り扱つたものの中から、その一つを選んで述べて見ようと思ふ。

 英草紙の文章は支那小說の影響を受けて居るだけに、漢文口調であつて、多少ごつごつしたところがある。以下私は、『白水翁が賣卜《まいぼく》直言《ちよくげん》奇を示す話』の一篇によつて、その文章と構想とに就て述ベて見よう。

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションの寛延二(一七四九)年初版で、ここから読める。読みはそれ及び所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に載るものを参照した(後者をも使用したのは、初版と表記が異なる箇所があったり、初版に歴史的仮名遣の誤りがあるためである)。不木の引用に句読点があったりなかったりするのはママである。

 以下、底本では最後の不木の言い添えまで、ずっと全体が一字下げ。]

『文明の頃、泉州堺に白水翁といへるものあり。よく人の禍福吉凶を決し、成敗興衰を指すこと差《たが》はず、常に大鳥《おほとり》の社《やしろ》の邊《ほとり》に行きてトを賣る。一日《あるひ》一人の士《さむらひ》こゝに來りて其卦《くわ》を問ふ。白水翁其年月日時《じつじ》を聞いて、卦を舖下《しきくだ》し、考を施して言ふ。『此卦占ひがたし、早く歸られよ』といふ。此士心得ぬ體にて、『我《わが》卦何のゆゑに占ひがたき。察するに、卦のいづる所よろしからず、あらはにしめしがたきことあるか。いむことなく示されよ』といふ。翁もとより言葉を飾らず『拙道《せつだう》が卦による時は、貴君まさに死し給ふべし』此士いふ『人死せざる道理なし。我《われ》幾年の後か死すべき。』翁云ふ『今年死し給はん。』『今年の中、幾の月に死すべき』『今年今月に死にたまふべし』『今月幾日に死するや。』『今年今月今日死にたまふべし。』此人心中怒《いかり》を帶びて再び問ふ『時刻は幾時《いくとき》ぞ』『今夜三更子の時死に給はん。』此人おぼえず言葉を勵《はげし》くしていふ『今夜眞《しん》に死せば萬事皆休す。若し死せずんば明日爾をゆるさじ。』翁いふ『貴君明日《みやうにち》恙なくば、來つて翁が頭《くび》とり給へ。』此人彼が詞の强きを聞いていよいよいかり、翁を床《ゆか》より引きおろし、拳《こぶし》をあげて打たんとす。近邊のものはしり集りてなだめ、此士をこしらへかへし[やぶちゃん注:宥めとりなして落ち着かせ。]、翁にむかひ『爾《なんぢ》しらずや、彼人は此所に執りはやす侍なり彼人の氣色《きしよく》を損じては、爰にあつて卦店《くわてん/うらなひみせ[やぶちゃん注:右/左のルビ。以下同じ。]》をひらき難からん。かへすぐも、爾應變《おうへん》なき人かな、人の貧富壽夭《ひんぷじゆえう/ながいきわかじに》は數《すう》の定《さだま》る所ならんに、卦には如何に出づるともすこしは詞をひかへてこそよからん』といふ。翁一口《いつこう》の氣を歎じて言ふ。『人の心に應ぜんとすれば卦の言《こと》にそむく。卦の實《じつ》を告ぐれば人の怒をおこす。此所にとゞまらずとも己自《おのづから》留《とどま》る所あらん」と、卦舖《くわてん/うらなひみせ》を拾收《とりをさ》めて別所に去りゆきぬ』

といつたような文章であつて、その會話など、近代文學的色彩が頗る濃厚に出て居る。

『さて、この白水翁に卜つてもらつた侍は、當所郡代の別官をつとめて居る茅沼官平というものであつたが、白水翁の言葉がひどく癪にさはつたので、ぷんぷんして家に歸ると女房の小瀨《こせ》は心配して、何か上役の御機嫌でも惡かつたのですかとたずねた。そこで彼が白水翁の話をすると、小瀨は眉をひそめて、『そんないい加減なことを言ふものを、何故追つ拂ひになりませんでしたか」といつた。

『隨分腹は立つたが、人がとめたからゆるしてやつたよ。今日死ななかつたら、明日は彼をたずねていたしめてやろう[やぶちゃん注:「痛いしめてやらう」(痛い目にあわせてやる!)であろう。]。』

『ほんとにさうなさいまし、そんなにぴんぴんしていらつしやるのに、今夜死ぬなどとよくも言へたものです。もうもうそんなけがらはしい言葉は、酒を飮んでお忘れなさいませ。』

 官平は女房のすゝめた晚酌に醉つて、まだ日も暮れきらぬにその場で假寢した。小瀨は女中の安《やす》を呼んで二人で官平を運んで、正しく寢させ、それから女中に、易者の話をして、今夜は針仕事しながら寢ずの番をしようと云ひ出した。さて段々夜が更けて行くと、安がくらりくらりと眠り出したので、小瀨は搖り起しては夜の更けるのを待つと、やがて三更[やぶちゃん注:午前零時頃。]の太皷がなつたので、『もう三更が過ぎたから大丈夫、さあ二人がもた人がもたれ合つて寢よう。』と告げた。

 するとその時、奧の間から、官平が白裝束で寢間から飛び出して來て、あつといふまに、戶外へ走り出して行つた。すはとばかり、小瀨は安と共に手燭をともして良人の跡を追ひかけたが、女の足では追ひつくことが出來ず、あれよあれよという間に官平は、ある大川の橋の上まで走つて、まんなかどころから、どぶんと飛び込んでしまつた。

 二人の女は橋の上で、泣き悲しみ乍ら、聲をかけたが、丁度水の多い時分だつたので忽ち良人の姿は見えなくなつてしまつた。かれこれするうち近邊の人たちは物音を聞いて駈け集つて來たが、最早如何ともすることが出來ず、小瀨をなだめて家に送りかへし、白水翁の言葉のあたつたことに皆々舌を捲いた。

 あくる日近邊のものは死骸をさがしに行つたけれども海へ流されたと見えて行方が知れず、官平は狂氣して死んだと取沙汰されて事件は落着した。小瀨は安と共に亡夫の位牌を設けて追善に日を送つたが、百ケ日も過ぎると、小瀨の親里から再緣のことをすゝめて來た。小瀨はどうしてもそれを受けなかつたが、あまりに勸められるので、『この家へ養子を迎へるならば兎に角、他家へ嫁《よめい》ることは、どうしても厭だ』と、その心底を打明けた。そこで父親も尤もに思つて、然るべき養子を物色すると、丁度同じ國守の郡役を承る岸某の弟に權藤太《ごんとうだ》といふのがあつて、官平夫婦をまんざら知らぬ間でもなかつたから、話をすゝめて見ると双方乘氣になり、こゝに緣談は首尾よくまとまつて、權藤太は名を官平と改めて、茅沼の家を相續したが、夫婦の間は至つて圓滿であつた。

 或る夜夫婦は寢酒を飮まうと思つて、女中の安に酒の𤏐を命じた。安は眠たい眼をこすり乍ら、竃のそばへ寄ると驚いたことにその竃がぐらぐらと搖れて、一尺ほども地を離れた。見ると竃の下には人間らしいものがいて、髮を亂し、舌を吐き、眼に血の淚をうかべて、『安、安』と呼んだ。安はびつくりして悲鳴をあげて氣絕したので、夫婦が水をそゝいで甦らせて事情をたずねると、安は『前の且那樣が竃の下から御呼びになつた』と答へた。これをきいた小瀨は大に怒つて『厭々酒を溫めるものだから、そういう恐ろしい目にあふのだ。』とたしなめ、ぶつぶつ言つて二人は寢室へかへつた。

 そのことがあつてから、小瀨は安をきらい、どこかへ嫁らせようと思つて居ると、幸ひに同じ郡に段介《だんすけ》といふ商人があつたので其處へ仲人して安をかたづけてやつた。ところがこの段介という男は非常な酒好きで博奕を好み、いつも安を官平の家に遣して金を借りさせたが、ある夜、また酒に醉つて、今からすぐ金を借りて來いと言ひ出した。で安は厭々ながら官平の家の門まで來ると、ふと上の方から『お前に金をやらう』といふものがあつた。見ると、屋根の上に一人の男が立つて居て、

『俺は死んだ官平だ。この袋の中に金があるからつかふがよい。それから、この紙に俺の末期の一句が書いてある。』

 といいながら、その袋を投げて、何處ともなく消え去つた。安は恐ろしい思ひをしながらも、取り上げて見ると、先の主人の火打袋であつたので、家に歸つて事の次第を告げたが、段介はその金を消費したので、人には語らずそのまゝ日を送つた。

 話變つて、ある夜、國守は、夢に髮をのばした男が、頭に井戶をいたゞき、眼中血の淚をながして一枚の願狀を奉つたのを見た。その文に、

   要ㇾ知三更事  可ㇾ開火下水

とあつたことを覺めて後も覺えて居たのでそれを紙に書いて市門《しもん》に掛け、懸賞で、この意味を說くものを募集した。これを見た段介は、先夜火打袋にあつた一句がこれと全く同じだつたので、早速訴え出ると、國守はその書附を出させて御覽になつた。ところがその書附は白紙になつて居たので段介は大に恐縮して、事の次第を逐一申述べた。

 國守はそれから安を呼んで一切の事情をきゝとり、官平の家へ數人の人夫を遣して竃を毀《こわ》させると、下には一個の石があり、更にその石を取りのけると井戶があらはれたので、中を探ると官平の絞殺死體が出て來た。そこで國守は官平夫婦を詰問し、その結果夫婦は包み切れずして白狀した。それによると、二人は先の官平の生きて居る頃、不義をして居たが、ある日官平が八卦を見て貰つて歸り、易者の言葉を告げたので、その家にかくれていた權藤太は三更の頃、醉ひふした官平を絞殺して井戶の中へかくし、それから、髮をふりみだし、官平のやうに裝つて、橋まで走り行き、大石を投げて、身を投げたように見せかけ、それから小瀨と計つて、井戶の上に竃をうつし、次で首尾よく養子をして不義の目的を達したのである。』

[やぶちゃん注:「要ㇾ知三更事  可ㇾ開火下水」「三更の事を知らんと要(えう)せば 火下(くわか)の水を開くべし」である。]

 これがこの物語の梗槪であつて、可なりに超自然的な分子が濃厚であるけれども、探偵小說としては上乘のものである。易者の言を巧みに應用して、人々の眼をくらますやうな狂言を書いたところは頗る面白い。現代の探偵小說家ならば後半の超自然的分子を科學的にして相當な探偵小說を作るであろう。

2021/09/12

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (16) ラフカヂオ・ハーンの飜譯

 

      ラフカヂオ・ハーンの飜譯

 德川時代の怪異小說は、前にも述べたごとくそれ自身さほどの文藝價値を持たないのに、一たびラフカヂオ・ハーン(小泉八雲)の手に飜譯されて、英米に紹介されると、世界的の名聲を博することが出來た。それはいふまでもなくハーンの天才によつて、飜譯とはいふものの一種獨得の詩味を持たされ、到底原作からは得られないやうな夢幻的な美感を與へられるからである。私は英米の怪異小說を愛好さるゝ讀者に、是非、ハーンの作物を御勸めしたいと思ふので、特にこゝに紹介して置くのである。

 怪異小說を取り入れたハーンの物語集にはKwaidan, Kotto, A Japanese Misellany,  Shadowing, ln Ghostly Japan などがあるが、この中 Kwaidan が最もポピュラーになつて居る。この中には臥遊奇談から取つた『耳なし保一の話』夜窗鬼談から取つた『お貞の話』『鏡と鐘』怪物輿論から取つた『ろくろ首』百物語から取つた『貉』新選百物語から取つた『極祕』玉すだれから取つた『靑柳の話』の外に、ハーンが直接、地方の農夫などから聞いた話が收められている。中にも『貉』は極めて短いけれども、珠玉のような作品である。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用部は全体が二字下げ。但し、版組みの誤りと思われるが、エンディングに近い、長い一文「かういつたかと思ふと、蕎麥賣りの男は、その手で顏をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。」のみ、二行目が行頭から書かれてある。]

『京橋の某商人が、ある夜遲く紀伊國坂をとほりかゝると御堀のそばに一人の女が、頻りに泣いて居た。彼はそれを哀れに思つて、近づいてよく見ると、立派な服裝をした良家の若い娘であつた。

『お女中、どうしたのですか。』と、彼は聲をかけたが、彼女は袖に顏を埋めて、泣き續けた。

『お女中、どうしましたか。お話なさい。』

 彼女は立ち上つたけれども、相も變らず彼に背を向け、袖に顏を埋めて泣いた。やがて彼は彼女の肩に手をかけて『お女中、お女中』と頻りに呼ぶと、彼女ははじめて振り向いて袖をおとし、手をもつてその顏をつるりと撫でた。見ると眼も鼻も口もないのつぺら棒の顏であつた。

『ヒヤツ!』と言つて彼は夢中になつて駈け出した。紀伊國坂にはそのとき人一人とほつて居なかつたが、彼は驀地《まつしぐら》に走り走つた。と、前方に提燈の灯が見えたので、ほつと思つてかけつけて見ると、それは蕎麥賣りの灯であつた。

『あゝ、あゝ、あゝ』と彼は叫んだ。

『これ、もし、どうしたんです?』と蕎麥賣りの男はたづねた。

『あゝ、あゝ』

『强盜にでも逢つたのですか。』

『いや、いや、お堀のそばで、若い女に、あゝ、その顏が……』

『えゝ? ではその顏は、こんなでしたか?』

 かういつたかと思ふと、蕎麥賣りの男は、その手で顏をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。

 はつと思ふと提燈の燈が消えた。』

 これはもとより逐字譯ではないが、全篇がみな、かうした鹽梅に引きしめて書かれてある上に、ハーン獨特の詩的な而もわかり易い文章を以て物されてあるから、思はず釣りこまれて讀んでしまふのである。

[やぶちゃん注:私はまず、古くに『柴田宵曲 續妖異博物館 ノツペラポウ 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』を電子化注しており、英語原文もそこに載せてある。後に、別底本を用いた電子化「小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」では、小泉八雲が原拠としたものも電子化して示してある。

 というより、私は、

私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」に於いて、小泉八雲が来日して以来、亡くなるまでに書かれた全公刊作品を、「Internet archive」等にある邦版「小泉八雲全集」を元にして、それを総て、電子化注として既に、昨年の二〇二〇年一月十五日に完遂している

のである。更に言えば、もっと古くには、サイト版で、

OF A PROMISE BROKEN(英文原文)

「破られし約束」 藪野直史現代語訳

及び

JIKININKI(英文原文)

「食人鬼」 藪野直史現代語訳

も公開している。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (15) 主觀的怪異を取扱つた物語

 

      主觀的怪異を取扱つた物語

 順序としては當然、淺井了意の伽婢子を紹介すべきであるが、江戶時代の怪異小說の元祖とその大成者たる上田秋成を對照せしめて述べた方が面白いと思ふから、後に雨月物語を紹介するときに一しよに述べ、こゝでは先づ、櫻陰比事の作者たる西鶴の諸國咄から二三の物語を讀んで見ようと思ふ。

[やぶちゃん注:「諸國咄」「西鶴諸國ばなし」とも。浮世草子で井原西鶴作画。貞享二(一六八五)年に大坂池田屋三郎右衛門刊。大本五巻五冊。各巻七話で全三十五話から成る。上質な創作怪奇談集として私の好きなものである。これについては、読みは、リンク先ではなく、所持する平成四(一九九二)年明治書院刊「決定版 対訳 西鶴全集」第五巻を使用した。]

 諸國咄は一一名大下馬《おふげば》とも呼び、怪異小說と稱することの出來ぬ物語も澤山はひつて居る。又、怪異を取扱つたものでも曩に櫻陰比事を紹介したときに述べたやうな、西鶴一流の冷やかかな筆づかひがしであるので、怪異小說の要素たる凄味があまり出て居ないのである。例へば『鯉にちらし紋』と第する一篇を見ても、よくその全般を知ることが出來よう。

[やぶちゃん注:「鯉にちらし紋」昭和一五(一九四〇)年日本古典全集刊行会刊の「西鶴全集第三」の「諸國咄」の巻四のここから。挿絵もある。

 以下、引用は底本では全体が一字下げ。]

『川魚は淀を名物といへども、河内ノ國の内助《ないすけ》が淵《ぶち》の雜魚までしすぐれて見えける。この池昔よりに今に水かはく事なし。此堤に一つ家をつくりて内助といふ獵師、妻子も持たず只ひとり世を暮しける。つねづね取溜《とりため》めし鯉の中に、女魚《めす》なれども凛々しく、慥に目見じるし[やぶちゃん注:個体識別出来る目印。]あつて、そればかりを賣殘して置くに、いつのまかは鱗《いろこ》に一つ巴《どもへ》出來《でき》て、名をともゑと呼べば、人の如くに聞さわけて、自然となづき後には水を離れて一夜《ひとよ》も家《や》のうちに寢させ、後にはめしをも食ひ習ひ、また手池《ていけ》[やぶちゃん注:自家内に設けた生簀。]に放ち置く。はや年月を重ね、十八年になれば、尾頭《をかしら》[やぶちゃん注:全長。]かけて十四五なる娘のせい程になりぬ。或時、内助にあはせ[やぶちゃん注:縁組み。]の事ありて、同じ里より年がまへなる[やぶちゃん注:年配の。]女房を持ちしに、内助は獵船《りやうせん》に出しに、その夜の留守にうるはしき女の、水色の著物に立浪《たつなみ》のつきしを上に掛け、裏の口よりかけ込み、我は内助殿とは久々の馴染にして、かく腹には子もある中なるに、またぞろや此方を迎へたまふ。この恨やむ事なし、いそいて親里へ歸へりたまへ、さもなくば三日のうちに大浪をうたせ、此家をそのまゝ池に沈めんと申し捨てゝ行方しれず。妻は内助を待ちかね、恐しきはじめを語れば、さらさら身に覺えのない事なり、大かた其方も合點して見よ、この淺ましき内助に、さやうな美人靡き申すべきや、もし在鄕まはりの紅や針賣りかゝには思ひ當る事もあり、それも當座々々に濟ましければ別の事なし、何かまぼろしに見えつらんと、又夕暮より舟さして出るに、俄かにさゞなみ立つてすさまじく、浮藻の中より大鯉舟に飛び乘り、口より子の形なる物を吐き出し失せける。やうやうに遁げに歸りて、生簀を見るに彼の鯉はなし、惣じて生類を深く手馴れる事なかれと、その里人の語りぬ。』

[やぶちゃん注:脅したような大津波によるカタストロフは起らないのは、人の子として生まれた子を託す女型妖怪の不憫というべきか。]

 すなはち、一種の敎訓小說であつて、凄味などは眼中に置かれて居ないかの觀がある。なほ又、この外に、怪異を取扱つた物語でも現實味が頗る多い。『傘の御託宣』では、慶安二年[やぶちゃん注:一六四九年。]の暮、紀州掛作《かけづくり》の觀音の貸傘を、藤代の里人が借りて和歌吹上にかゝると、玉津島の方から、神風がどつと吹いて來て、それがためその傘が吹きとばされ、肥後の國の奥山、穴里《あなざと》といふ所へ落ちた話が書かれてある。さて穴里の人々は、傘を見たことがないので、何だらうかと色々評議をするとその中に小賢しい男があつて、この竹の數は四十本、紙も常のとはちがつて居るから、名に聞いた日の神内宮の御神體だらうというたので、皆々大に怖れ鹽水を打つて、荒笊の上に据ゑ奉り、宮を作つて御まつり申上げた。するとこの傘に性根が入つたと見え、五月雨の頃になつて社壇が頻りに鳴き出したので、御託宣をきいて見ると近頃里人は竃《かまど》の前を汚なくして油蟲をわかしたからいけない、早く一疋も居もいないやうにせよ、なほ、里の美しい娘を二人神宮に奉仕させよ、さもなくば七日が中に車軸を流して人種《ひとだね》のなくなる迄降り殺すぞとの事に、人々は怖氣をふるつて、娘どもを集めて相談すると、誰一人進んで出るものがなかつた。するとその里に一人の美しい後家があつたが、これをきいて、神樣の事だから、私が若い娘の身代りになると申出て、宮所《みやどころ》に夜もすがら待つて居た、ところが一向神樣の御情けがなかつたので、件の後家は大に腹を立て、御殿の中へ驅け入つて、彼の傘を握り上げ、『この身體《からだ》たふし奴《め》が!』と叫んで、引き破つて捨てた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの同前掲書の巻一の「傘(からかさ)の御託宣」でここから。

「紀州掛作の觀音」現在の和歌山県和歌山市嘉家作丁(かけづくりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった真言宗不二山一乗院観音寺であるが、太平洋戦争の戦災で焼け、現在は南直近の和歌山市元寺町東ノ丁に移転している。

「藤代」和歌山県海南市藤白

「和歌吹上」和歌の浦から紀ノ川左岸にあった吹上の浜にかけて。

「玉津島」玉津島神社。古来、玉津島明神と称され、和歌の神として知られる。

「神風」ここは単に玉津島神社への敬意を添えた春一番の風のこと。

「肥後の國の奥山」「穴里」後半の意は所謂「隠れ里」の意か。とすれば、「肥後」からは、隠田集落村で平家落ち武者伝説で知られる五家荘地区が想起される。因みに、ここから和歌山市嘉家作丁までは、直線で四百三十六キロメートル超である。

「日の神内宮」伊勢神宮内宮。原本では「内宮」を「ないく」と読んでいる。

「荒笊」不木の「荒菰(あらこも)」の誤字。初出に従ったとする国書刊行会刊本でも誤ったままであり、ご丁寧に『あらざる』とルビが振られてある。

「この身體たふし奴が!」原本は「おもへば、からだだをし目」で、「お前さんは、よくよく! 見掛け倒しな奴だねえ!!」という罵詈雑言である。これは太くがたいの大きな唐傘をファルスに見立てて、かく痛罵しているのである。明治書院の解説に、『傘を陽物とするのは、広く一般的なもので、道祖神・賽の神などの土俗信仰に関連があり、一部は形の類似から傘地蔵・傘権現などと名付けられている』。『なお、宗政五十緒氏によると、紀州「和歌吹上」付近の雑賀庄は室町時代一向宗門徒の根拠地であり、一方肥後の奥山は相良領で、同領では一向宗門徒が禁教下に』(南九州の薩摩藩や人吉藩では、三百年に亙って浄土真宗が禁教とされた。ウィキの「隠れ念仏」を参照されたいが、それによれば、戦国時代の「加賀一向一揆」や「石山合戦」の実情が伝えられるに従い、一向宗徒が各地の大名によって恐れられたことや、島津忠良などの儒仏に篤い武将にとっては、忠を軽んじ、妻帯肉食する一向宗が嫌悪の対象となっていたことなどが原因と考えられるとある)、『傘仏という、傘の形をした木の内に、名号「南無阿弥陀仏」などを書き、周囲に光背四十八条の線を描いた懸け仏を籠め、この本尊を隠れて信仰していたという。本話の背景として参照すべきあろう』という興味深い附記がある。]

 この短かい物語にも西鶴の人生觀が浮み出て居るやうに思はれる。ちやうど『好色五人女』[やぶちゃん注:貞享三(一六八六)年刊。]の三の卷で、おさんと茂右衞門の駈落ちを叙し、『やうやう日數ふりて丹後路に入て、切戶《きりど》の文殊堂に通夜《つや》してまどろみしに、夜半とおもふ時、あらたに靈夢あり、汝等世になきいたづらして、何國《いづこ》までか其難をのがれ難し、されどもかへらぬ昔なり、向後《きやうこう》浮世の姿をやめて、惜しきと思ふ黑髮を切り、出家となり、二人別々に住みて惡心去つて菩提の道に入らば、人も命を助くべしと、ありがたき心に、すゑずゑは何にならうともかまはしやるな。こちや是れがすきにて身に替へでの脇心《わきごころ》、文殊さまは衆道ばかりの御合點《ごがてん》、女道《によだう》は曾てしろしめさるまじと言ふかと思へばいやな夢覺めて、橋立の松の風ふけば塵の世ぢや物と、なほなほやむ事のなかりし』と同じ筆法である。夢の中で文殊さまにまで盾つかせて居るなどは、隨分徹底して居ると思ふ。

[やぶちゃん注:以上の原文は、巻の三の「小判しらぬ休み茶屋」の掉尾の部分で、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和四(一九二九)年国民図書刊の「近代日本文學大系」第三巻のここの右ページ後ろから三行目から。]

 いや、思はずも話が橫道にそれたが、西鶴の怪異を取り扱ふ態度は、怪異を種に人生を揶揄して居ると認めても差支ないであろう。從つて、怪異小說の本來の目的からは少々遠《よほざ》かつて居ると言つてよい。これに反して御伽婢子の流れを汲んだ『玉箒木』の如きは、少くともそのか體裁に於て、怪異小說の目的にかなつて居る。卽ち、その文章の一例をあげるならば、『果心幻術』と稱する物語に、

[やぶちゃん注:「玉箒木」浮世草子作家で書肆も兼ねていた林義端(はやし ぎたん ?~正徳元(一七一一)年:京都で両替商をしていた貞享二(一六八五)年に伊藤仁斎の古義堂に入門し、元禄二(一六八九)年までには書肆に転業したらしい)が、元禄八(一六九五)年に出した怪談集「玉櫛笥」に続いて翌九年に出した怪談集。

 以下、引用は底本では全体が一字下げ。]

 『居士(果心居士)つと座をたち出、廣緣《ひろえん》をあゆみ、前栽《せんざい》の方へ行くとぞ見へし、俄かに月くらく雨そぼふりて風さらに蕭々たり。蓬《よもぎ》窓の裡にして瀟湘《せうしやう》にたゞよひ、荻花の下にして潯陽《じんやう》に彷徨ふらんも、かくやと思ふばかり、物悲しくあぢきなき事云ふばかりなし。さしも强力武勇の彈正も氣弱く心細うして堪へ難く、如何にしてかくはなりぬるやらんと、遙かに外を見やりたれば。廣緣に佇む人あり、雲透きに誰《たれ》やらんと見出しぬれば、細く瘦せたる女の髮長くゆり下げたるが、よろよろと步み寄り、彈正に向ひ坐しけり。何人《なんぴと》ぞと問へば、女、大息つき、苦しげなる聲して、今夜はいとさびしくやおはすらん、御前に人さえなくてといふを聞けば、疑ふべくもあらぬ、五年以前病死して飽かぬ別れを悲しみぬる妻女なりけり。彈正、餘りに凄まじく堪へ難きに、果心居士、いづくにあるぞや。もはや、止めよ、やめよ、とよばはるに、件の女、たちまち、居士が聲となり、これに侍るなり、といふをみれば、居士なりけり。もとより雨もふらず、月も晴れ渡りて曇らざりけり。』とあつて、きびきびした漢文口調をまじへ、凄味もかなりに出て居ると思ふ。この玉箒木の中には史實を取り入れた物語が甚だ多く、このことは後に說く英草紙にも影響して居るやうである。題材は多く支那小說から取つたものらしく、離魂、幻術、孤妖、因果の理など、別に目新らしいものはないが、中に現實味の豐かなものが數篇加はつて居るので、それを特に紹介して置かうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上は、私は「柴田宵曲 妖異博物館 果心居士」の注で全文を電子化してある。果心居士はこの手の話ではかなりメジャーに有名が幻術師である。

 以下は前と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」の第十三巻の活字本の画像でここから読める。目録では以下の標題だが、本文では「觀音身を現ず」となっている。

 以下、二つの段落の梗概紹介は、底本では全体が一字下げとなっている。]

『東叡山觀音出現利益の事』では、ある老人が孫娘の行末を祈らうとして淸水堂[やぶちゃん注:東叡山寛永寺清水堂。]に參籠すると、ある夜觀音樣から夢の御告げがあつた。それによると、汝の誠心に感じたから來月十七日の拂曉に姿をあらはさう、不忍池のほとりを、靑い衣を着て白い馬に跨つてとほるものがあつたら、わが身だと思へといふことであつた。で、愈よその日になつて近隣の人に語りあひ、百人あまりの者が不忍池に行くと果して、御告げのとほりの若武者が通りかゝつたので、一同はその場に、ひざまづき手を合せて禮拜した。すると伴の武士は大に驚いて、走り過ぎようとすると、一同は彼を幾重にも取り圍んだので、詮方なく刀を拔いて、圍みを切り拔け、一目散に逃げて行つた。群集もびつくりして散々になつて歸つたが實はその武士は比類のない惡人で、その朝偶然そこを通りかゝつたに過ぎないのである[やぶちゃん注:底本は「取りかゝつた」。国書刊行会本で訂した。]。その後彼は不審が晴れずいろいろと聞き探つて見たところ、上記の事情がわかり、扨は觀音さまが自分を救ふための方便にあのやうな方法を御取りになつたにちがひないと、それからは大に改心して別人の如き正直な人間になり、後にはかの老人の孫娘を妻として榮えた。

 次に『山中妖物實驗《ばけものじつけん》の事』では、ある武士が、讃州金比羅山は怖ろしい魔所で登ることが出來ぬときいて、冒險を試みるために、ひとりで出かけてその絕頂に一夜を明さうとした。すると別に、何の怪しいこともなかつたが、明け方になつて歸らうとすると、怪しい物音がして、誰かゞ步み寄つて來るやうであるから、いち早く物蔭にかくれて樣子を覗ふと、何者とも知れず息使ひ荒く登つて來て、不にもつて居たものをポトン[やぶちゃん注:底本「ポント」。国書刊行会本で訂した。]と草蔭に投げすてゝ、また慌しく引き返して行つた。手搜りに拾ひ上げて見ると生々しい人の首だつたので、傍の堂の緣の下に投げこんでそのまゝ山を下つた。それから四十年の歲月が經て、彼は藝州に仕へて居たが、ある日詰所て奇談を話しあふ序に、この話をすると、その座に默つて聞いて居た七十ばかりの侍が、その首を捨てたのは自分だと言ひ出した。事情をきいて見ると、その一時父の仇を打つたのであるが、一旦山に逃れて首を棄て、一里ばかり歸つてから、人に發見されては不利益だと思つて引き返して見ると、首がない。定めし[やぶちゃん注:底本「定めして」。国書刊行会本で訂した。]天狗でもさらつて行つたのだらうと思つたが、今御話で四十年來の疑念が晴れたといふのであつた。

[やぶちゃん注:同前で原拠は第一巻のここから。]

 この後者の物語は現代の探偵小說の構想としても立派に通用するのである。ことに『禪僧船中橫死附(つけたり)白晝幽靈の事』となると、犯罪學の立場から見ても頑る興味がある。

[やぶちゃん注:この原拠は第六巻のここから。本文では「白晝の幽靈」とのみある。

 以下、同前で一段落は底本では全体が一字下げ。]

 篠塚某という武士が、ある禪憎と同道して京に上る途上琵琶湖を渡る船中で、僧の所持金に目がくらみ、闇を利用して金を奪って海に突き落した。その後、彼は仕官して榮えたが殺した僧の怨念に附き纏はれて遂に大病に罹り、露命が旦夕に迫つた。そこで彼の息子は心配して、江州多賀神社[やぶちゃん注:ここ。]に參籠して父の命に代らうと祈つた。するとある日一人の旅僧が瓢然として篠塚の邸をたずねて來たので、取次のものが重病だといつて斷ると、僧は、その病氣のことで逢ひに來たのだと告げて押し通つて病室へはいつた。これを見た篠塚は、あれこそ殺した僧の亡靈だといつていよいよ苦悶し展轉したので、旅僧はにつこり笑つて、實はあの時自分は死ななかつたのだと語り始めた。水練が達者であつたために命が助かり、それから東國を行脚することに決し、貴殿が都に時めいておられることは噂にきいていたけれど何も因緣とあきらめて、少しも怨まず御たずねもしなかつた。ところが先日多賀の神から御告げがあつて委細を知つたので、今日御訪ねした譯であるが、貴殿の病は貴殿の心のために起つたのであるから本心に立ち歸りなさいと忠告するのであつた。それを聞いた篠塚は大に前非を侮い、先年奪つた金に利息をつけて僧に返し、僧は初願のごとくそれで觀音像を作つた。

 この物語の興味は、白晝の幽靈だと思つたものが、實在の人間に過ぎなかつたという點にある。良心の呵責に惱んで居るものが、まのあたりに殺したものを見たときの驚きは如何ばかりであつたであらう。其處がこの物語の中心となつているのである。孝行の志を語り、利慾を誡める敎訓小說である外に探偵小說としても見どころのある作品である。

 御伽婢子の流れを汲むもの、諸國物語の流れを汲むもの、百物語の流れを汲むもののうちこの外には取りたてていうべきものはないやうである。たゞ百物語の形式について一言述べて置くならば、御伽婢子に、『百物語には法式があり、月暗き夜、行燈の火を點じ、その行燈は靑き紙にて張りたて、百筋の燈火を點じ、一つの物語に燈心一筋づつ引取りぬれば、座中、漸々暗くなり、それを語り續くれば、必ず怪しき事、恐ろしき事、現はるゝとかや』とあつて、ビーストンの小說に出て來る『何々クラブ』の談話の模樣と頗る似寄つて居る。探偵小說の形式にも昔も今も變らぬところのあることは頗る興味が深い。

[やぶちゃん注:「ビーストン」イギリスの小説家・放送作家レオナルド・ジョン・ビーストン(Leonard John Beeston 一八七四年~一九六三年)。ロンドン出身。本邦の探偵推理小説雑誌『新靑年』で、創刊された翌年の大正一〇(一九二一)年に発行された増刊号に於いて、邦訳「マイナスの夜光珠」が掲載された(恐らく訳者は西田政治)のを始めとして、『新靑年』に邦訳が多数掲載され、人気を博したという(当該ウィキに拠る)。サイト「翻訳作品集成」(Google提供)の彼のページを見るに、邦訳作品に「決闘家クラブ」「興奮クラブ」というのが見られる。]

2021/09/10

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (14) 犯罪文學と怪異小說 / 江戶時代怪異小說

 

      犯罪文學と怪異小說

 

 所謂探偵小說と稱せらるゝ文學の中で『怪異』を取り扱つたものが『謎の解決』を取扱つたものと並んで、數多くあるのは、更めて言ふ迄もないことである。謎の解決を取扱つたものは主として人の好奇心を滿足せしめ、怪異を取り扱つたものは主として人の恐怖心を滿足せしむるために愛好せられるのであつた。恐怖心を滿足せしむるといふ言葉は少しく妥當でないかも知れぬが、人が平靜なる生活を營みつゝあるときには、恐怖によつて非常なる愉快を覺えるものであるから、强ち意味が通じないでもなからうと思ふ。恐怖を感じて滿足する性質は、原始時代から人間にこびりついて離れないものであつて、例へば嬰兒に向つて、突然『バアー』と叫んで之ををどすと、嬰兒は身體を搖ぶり乍ら嬉しがる。而もこの性質はどんなに世の中が進んでも、人間の存する間は決して消えるものではないらしく、從つて怪異小說はその起原が古いと同樣に、將來益々流行するものと見なして差支ないであらう。

 怪異小說のうち最も重要な部分を占めて居るものは幽靈小說である。强ち怪異小說に限らず一般文學にも幽靈の出て來るものは甚だ多い。中にもシェークスピヤ、ヂッケンスの作物にあらはれる幽靈は世界的に有名である。而してこの幽靈には、特定の人にのみ見える幽靈と、誰にでも見える幽靈との二種類があつて、例へば沙翁の『ハムレット』の中に出るのは、幾人かの眼に觸れるけれども『マクベス』の中に出るのは、マクベスにしか見えないのである。前者は卽ち客觀的[やぶちゃん注:底本は「觀客的」。誤植と断じて訂した。]に存在する幽靈であつて、後者は卽ち主觀的に存在する幽靈であるが、むかしの文學には、多くの場合、客觀的に存在する幽靈が取扱はれ、主觀的な幽靈を取扱ふ場合にも、作者はやはり幽靈なるものが獨立に存するものと信じて居たらしい。

 ところが主觀的に存在する幽靈と客觀的に存在する幽靈とは、心理學的には大きな差異がある。卽ち、主觀的の方は幻覺又は錯覺によつて說明することを得るけれども、客觀的の方は、心靈科學ならば、いざ知らず、心理學的には頗る說明の困難なるものである。卽ち前者は埋知に背かないけれども、後者は理知を超越して居る。理知を超越して居るからといつて、强ちその存在を否定することは出來ず、又文學の内容たり得ないといふ譯はないけれども、理知に背かね幽靈であるならば、その點だけても、それを取扱つた文學に餘計の藝術的價値があるやうに思はれる。

 錯覺又は幻覺による幽靈は、通常良心の苛責、思念の迷執の際に見られるものであつて、人を殺した者が、殺された者の亡靈を見て、それに惱まされる例は、文學の上でも、實際の上でも、夥だしい數である。從つて、かやうな幽靈を取扱つた文學は犯罪文學として論ずる價値がある。で、私はこれから、日本の過去の怪異小說のうち、犯罪と關係あるものについて紹介しようと思ふのである。

 

    江戶時代怪異小說

 

 怪異を扱つたに日本文學として、古くは今昔物諧、宇治拾遺などを擧げることが出來るが、怪異小說の最も流行したのは江戶時代である。曩《さき》に私は、樓陰、鎌倉、藤陰の三比事を紹介したとき、これ等の犯罪文學は、支那の棠陰比事が日本に輸入され、棠陰比事物語として飜譯されて大に世に行はれて後、それにならつて作られたことを述べたが、江戶時代の怪異小說も、支那の『剪燈新話』が天文[やぶちゃん注:一五三二年から一五五五年。]の頃に我國に渡來し、淺井了意によつて飜案され『御伽婢子(おとぎぼうこ)』[やぶちゃん注:現在、ブログでオリジナルな全電子化注を進行中。]の中に取り入れて出版され、大に世に歡迎されたのが、その流行の魁《さきがけ》となつて居る。御伽婢子の出版された寬文六年[やぶちゃん注:一六六六年。]は棠陰比事物語よりも僅かに十五年の後であつて、この點に於て怪異小說は三比事と甚だ緣が深いといつてよい。

 さて御伽婢子が出てから、怪異を取り扱つた物語に、棠陰比事物語が出てから三比事が出たごときではなく、實に、雨後の筍といつてよい程澤山あらはれたのである。實に天和以後享和に至るまで[やぶちゃん注:天和元(一六八一)年から貞享(小酒井は以下で「貞亨」と誤っているが、訂した)・元禄・宝永・正徳・享保・元文・寛保・延享・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和四(一八〇四)年まで。]約百二十年の間に約四十種の怪異小說があらはれて居る。今そのうち數種の名をあげるならば、洛下寓居の新伽婢子(天和二年)井原西鶴の諸國咄(貞享二年[やぶちゃん注:一六八五年。])山岡元隣の古今物語評判(貞享三年)淺井了意(御伽婢子の作者)の狗張子(元祿四年[やぶちゃん注:一六九一年。])林文會堂《はやしぶんくわいだう》[やぶちゃん注:林義端。]の玉箒木《たまははき》(元祿九年)靑木鷺水の御伽百物語(寶永三年[やぶちゃん注:一七〇七年。])北條團水(晝夜用心記の著者)の一夜船《いちやぶね》(正德二年[やぶちゃん注:一七一二年。])近路行者《きんろぎやうじや》[やぶちゃん注:都賀庭鐘。]の古今奇談英草紙《ここんきだんはなぶささうし》(寬延二年[やぶちゃん注:一七四九。])鳥有庵《ういうあん》の當世百物語(寶曆元年[やぶちゃん注:一七五一年。])上田秋成の雨月物語(安永五年[やぶちゃん注:一七七六年。])速水春曉齋の怪談藻鹽草(享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。])などてあつて、御伽婢子の流れを汲むものと百物語の流れを汲むものとの二大系統にわかつことが出來る。このうち最も人口に膾炙して居るものは、御婢伽子と、英草紙と兩月物語の三つであつて、就中、英草祇と兩月物語とは江戶讀本の父として激賞する人さヘある。[やぶちゃん注:私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で以下の怪奇談作品をオリジナル電子化注している(作成順。太字は小酒井が挙げたもの)。「佐渡怪談藻鹽草」・「谷の響」・「想山著聞奇集」・「宿直草」・「北越奇談」・「老媼茶話」・「御伽百物語」・「諸國里人談」・「反古のうらがき」・「古今百物語評判」・「太平百物語」・「諸國因果物語」・「三州奇談」・「萬世百物語」・「金玉ねぢぶくさ」・「席上奇觀 垣根草」・「信濃奇談」・「御伽比丘尼」・「怪談登志男」・「怪談老の杖」である。他に、古い仕儀で、根岸鎮衛の「耳囊」の全電子化注・オリジナル現代語訳附きをものしてあり、別に独立カテゴリでオリジナル注附きの「宗祇諸國物語」も終わっている。また、サイト版では、小幡宗左衞門の「定より出てふたゝび世に交はりし事」オリジナル訳注や、上田秋成の「雨月物語」の青頭巾オリジナル訳オリジナル高等学校古典用授業ノート、さらに春雨物語 二世の縁 オリジナル訳注も公開している。序でに言っておくと、芥川龍之介の怪奇談蒐集稿「椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」の完全版も古くに公開しており、自身が怪奇談蒐集フリークであることから、龍之介のそれに倣って、オリジナル擬古文怪談集「淵藪志異」もある。因みに、その中の第「二」番目の話は、雑誌『ダ・ヴィンチ』の一九九九年十一月号の「怪談之怪」に投稿し、京極夏彦・東雅夫・木原浩勝・中山市朗各氏の好評を頂戴し、自動的に「怪談之怪」の会員となった(現在は発展的に解消されているようである)。それは、メディアファクトリー 二〇〇六年刊の単行本「怪談の学校」にも収録されてある。]

 御伽婢子は剪燈新話全部二十篇の文章中から、十八篇を拔いて、地名人名悉く日本式に改め、わが國風に向くやうに飜案され少しも譯文らしい臭味がない。それは恰も、明治時代に黑岩淚香が西洋の探偵小說をその獨特の名文によつて飜譯したのに比すべきであつて、淺井了意と黑岩淚香とは、日本の探偵小說界に同じ位置を占めて居るといつても差支ないのである。御伽婢子は、前記の十八篇の外になほ四十九篇の物語が收められて、全部で十三卷となつて居り、雨月物語なども、二三題材をこゝに仰いで居る。(序ながら、剪燈新話の部分的な紹介飜案は御伽婢子以前に奇異雜談集のあることを申添へて置く。)

 いづれにしても御伽婢子は江戶時代怪異小說の源泉であつて、その他の小說に收められた物語の題材はこれに似たりよつたりのものである。而してこれ等の怪異小說の描くところの内容は、どれも皆奇怪な、不可思議な幽幻境の中に、空靈[やぶちゃん注:「うつたま」と訓じておく。物質化しない神霊の魂か。]を活躍せしめ、或は因果應報の理を說き、或は訓誡の意を寓せしめて居るから、見やうによつでは一種の宗敎小說であり又敎訓小說であつて、前に紹介した三比事、兩用心記がやはり一種の敎訓小說であると同じやうに、現今私たちの求める探偵小說とは多少その趣を異にして居るのである。然し怪異小說は裁判小說詐欺小說とちがつて、人の恐怖心を刺戟することが主眼となつて居るのであるから、その點に於いて、現今の所謂探偵小說的色彩が、より濃厚であるといふことが出來よう。

 然し乍ら、これ等の怪異小說は、幽靈や化物を取り扱ふについても、殆んど皆客觀的實在を是認して、主觀的の怪異を描いたものは曉天の星の如く寥々《れうれう》たる[やぶちゃん注: 数が非常に少ないさま。]ものである。從つて客觀的の化物を家常《かじやう》[やぶちゃん注:日常に同じ。普段、行われているありふれたこと。]茶飯事と心得て居るやうに思はせ、文學として甚だ價値の少ない、比較的低劣な藝術たらしめて居るのである。時として凄味たつぷりな叙述に身の毛をよだたしめても、やがて却つて滑稽な感を抱かしめ、折角の凄味を打ち壞してしまふ場合が少くない。この點に於て比較的多くの效果を收めて居るのは、古今奇談英草紙と雨月物語であつて、ことに雨月物語のうちには、エドガア・アラン・ポオの作品を思ひ起させるものがある。

 これから私はこれ等の怪異小說から、主觀的怪異を取り扱つた物語、ことに、犯罪と關係ある物語を選んで、その内容を記術し、特に、英草紙と雨月物語とに就ては比較的委しい紹介を試みたいと思ふのである。

2021/09/09

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 二

 

         

『茂曾七殺害事件』とちがつて、これから述べようとする『鍾馗申介《しようきしんすけ》の事件』には、女性の犯罪性が可なり正しく描かれてゐると思ふ。[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションのここから。幾つかの読みはそれに従った。]

 肥後の菊池家の浪人に庶木《しよき》申介[やぶちゃん注:「鍾馗」に掛けた姓。本話では彼の名も犯罪のトリックに関わってくる。]といふものがあつた。文武の道に通達して居たが、若い時から畫を好み、唐宋諸名家の筆意を寫して、自然にその妙要を會得し、中にも黃筌《くわうせん》[やぶちゃん注:五代十国時代の前蜀・後蜀の画家。生年不詳で 九六五年没。]の鍾旭の圖を珍重して、年來《としごろ》模寫すること、數千幅に及び、遂にその皮骨《ひこつ》[やぶちゃん注:「皮肉骨」。諸文芸道に於いて、それぞれの作品等の構造や表現の仕方を、三種に分けて比喩的にいう語。「皮の体(てい)」・「肉(にく)の体」・「骨の体」。]を得たので、人々は彼を鍾旭申介と呼ぶに至つた。ところが、當代の菊池武房は武道一ペんの人で繪畫の賞翫などをしなかつたゝめ、申介は華洛に赴いて繪を以て一家をなさうと、主君に暇を乞つて、女房の年靑(おもこ)、娘の小匙《こさじ》を連れて上洛した。が、申介の畫のかきざまが、あまりに風韻が高いため、却つて賞翫されず、たうとう仕方なしに心あたりの人をたづねて平城《なら》へ來たが、生憎その人も死んで居ないので、根深由八《ねぶかよりはち》といふ客店《はたごや》の二階をかりて親子三人が一時落つくことになつたのである。

 ところが、惡い事は續くもので、七歲になる娘の小匙は突然、妙な熱病に罹つた。この子は五六歲の頃から、敎へぬのに畫かくほどの怜悧な性質なので、申介夫婦は一生懸命に看護し、少しばかりの所持金も大かたつかひ果して藥を飮ませたが、少しも治らなかつたので、申介は、かねて、鍾旭の繪が鬼邪を治すといふことうぃきいて居たので、精進潔齋して小匙の衣服の裏に、朱を以て鍾旭を書き、それを着せると、不思議にも奇病は日ならずなほつてしまつた。

 娘の病氣は治つても、生活の方法は一かう見つからず、宿錢《やどせん》を拂ふことさへ困難になつて來たので、ある日、夫婦は宿の女房機白(はたしろ)を招いて、何かよい方法はあるまいかと相談した。すると女房は、年靑の容色が美はしいから、いつそ給事でもなさつてはどうだと勸めたが年靑はどうしても氣がすゝまなかつたので、それではといつて、新羅琴を知つて居るのを幸に、琴の師匠を始めることにさせた。で、翌日から、彼女は二階の一室で、宿の女房の借りて來てくれた琴を彈じ、先づ娘小匙に組歌を敎へたが、顏が美しい上に聲も美しいので、聞く人が耳を欹《そばだ》てた。[やぶちゃん注:「新羅琴」(しらぎごと)新羅の音楽の主要楽器として伝来した十二弦の箏(そう)で、長さ約五尺(約一・五メートル)。今日の朝鮮の伽倻琴(かやきん)に相当する。正倉院に奈良時代のものが伝存する。]

 ある日宿の主人由八は外からにつこりして歸つて來た。そして女房に言ふには、むかひの客店に逗留して居る、攝津國天王寺の富豪柴米鬼九郞《しこめきくらう》といふ人が、今日自分を招いて言ふには、お前の家で琴を彈いて居る女は一目見てから忘れられず、何とかして手に入れたいと思ふが盡力をしてくれないか、成功の曉は金を山に積んで御禮をするといつて、紬一疋と碎銀《こまがね》一掬《ひとすくひ》を吳れたから、自分は、あの女は人の妻だけれども日數さへ相當に待つてゝくれゝば、計策がないではありませんと答へて來たと告げると、機白は大に喜んで良人に贊成し、それから二人は、その計略について色々談合するのであった。

 それから幾日かを經て、由八は申介に向つて、近ごろ興福寺の客殿が修覆されたが、襖や天井に繪をかく適當な人がないから困つて居られる樣子だ、あの寺には私の知つた人がないから手引きも出來ぬが、いつそ直接先方へ當つて見られたらどうでせうと告げた。申介は大に喜んで翌日寺へ行つたが、いひよる術《すべ》がなかつたので、その次の日は辨當持ちて出かけ、食堂《じきだう》へ行つて湯飮所《ゆのみどころ》をのぞくと、無地の屛風が一雙あつたので、法師等のとめるをもきかず、懷から筆を出し、傍の硯の墨をつけて畫うとすると、皆々よつてたかつて引き放したので、詮方なく、左の袖をのばして筆の墨を拭つて懷へ收めた。これを見た殿司《でんす》[やぶちゃん注:仏殿の清掃及び荘厳(しょうごん)・香華・供物などのことを受け持つ役僧。但し、普通は禅宗での呼称である。]の老僧は申介を常人ではないと認め、皆、に話して兎に角屛風にかゝせて見ると、果してみごとな春日野の鹿を畫いた。殿司は愈よ感心して申介の身の上をきゝ、それでは明日までに相談して、天井、襖の繪一切を畫いてもらふやうに取計らはうと言つた。

 申介が宿に歸つてこの幸運を物語ると年靑は更なり由八夫婦も別の意味で喜んだ。翌日になつて申介が寺へ出かけようとすると、娘の小匙がついて行き度いと言ひ出したので、まだ平城の名所も見せてないから、序に見せてやらうと思つて興福寺へ行くと、殿司は快く迎へて、相談の結果貴殿に畫いてもらふことになつたから、これからすぐ取りかゝつてくれと言つた。申介は驚いて、まさか今日からとは思はなかつたつて、娘を連れて來ましたといふと、殿司は十歲未滿の女ならば寺に止宿しても差支ない。ことに繪心があるならば、繪具を摺らせなどしではどうだとの事に二人はそのまゝ寺で厄介になることにした。

 申介の妻年靑は、その日から良人の歸らぬのを心もとなく思ひ、由八にそのことを話すと、由八はいまに澤山の御金を持つて歸つて來られるから待つて居なさいと慰めたが二三日の後、年靑に向つて言ふには、今日、興福寺へ立寄りましたら、御二人とも恙なく畫くべきものが澤山あるから、この月中は歸れないとのことでしたと告げた。

 それから二十日ばかり過ぎても、良人は歸つて來なかつたので年靑は由八に向つて、見て來よがしに謎をかけたが、由八はたゞ冷笑するだけで取り合はぬので、これには何か理由があるかも知れぬと、女房の機白にたづねると、機白は嘆息して、

『いふまいと思ひましたけれど、あまりに御氣の毒ですから御話し致しませう。御主人は寺で畫料を澤山御貰ひになつたゝめ、惡友に誘はれて、きつぢの廓《くるわ》へ足をふみ入れ、何とかといふ遊女と深い仲になられたさうてす。そのため寺から貰つた金もすつかりつかひ果し、娘さんまて人買ひの手に渡されたといふ噂さへ立ちました。私たちも宿錢の貸があるので、内々心配して居たところてす。』[やぶちゃん注:「きつぢの廓」原文ではここの左ページの九行目で、「木衚衕(きつじ)の妓院(くるわ)」とある。「木辻遊廓」で奈良県奈良市の東木辻町(ひがしきつじちょう)・鳴川町・瓦堂町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)一帯に存在した。元々は田園や竹林であったが、慶長・寛永の頃に茶店が二、三軒出来て、遊女を置いたのが始まりで、万治・寛文年間の禁止令で、一度、衰退したが、天和以降、再び栄えたと当該ウィキにある。興福寺の南南西一キロ弱で近いロケーションではあるが、だいたいからして作品内時制の鎌倉時代にはあろうはずはない。]

 と、まことしやかに告げるのであつた。これをきいた年靑は、良人に限つて、そんなことをする人ではあるまいと思つても、何となく嫉妬の心も起り、娘の身の上も心配になるので、由八と相談して、あくる日機白と共に興福寺をたづねることにした。

 案内役の機白はもとより興福寺へ行かず、年靑の知らぬを幸に元興寺《げんこうじ》へ行つて、鍾旭申介といふ畫師は見えぬかときくと誰も知らぬと答えへたので、機白は、それでは大方、きつぢの廓へ行つて居られるにちがひないといつて、更に二人で廓の方へさがしに行くのであつた。

 話變つて申介は、好きな仕事に心奪はれ思はずも二十日ばかりも過《すご》し、もはや大方畫き果てたので、もう一二日過ぎたら久し振りに宿に歸らうと樂しんで居ると、由八の許から使が來て、急用があるから歸つてくれとの事に、小匙を殘して宿へ來ると、由八は右の腕を布で包んで柱にもたれて居がが、年靑も機白も出て來ないのに不審をいだきながら、事の次第をたづねると、由八は仔細があつて妻機白を離別した旨を告げ、それもあなたの奥さんから起つたことだと言つた『……實は奧さんがゆうべ宿を出られたまゝ御歸りになりませんので、興福寺へ御行きになつたかと思つたら、さうでもないので、私の女房が密夫の媒約《なかだち》をしたにちがひないと思つて、奴めを鞭ちましたが、その際右の腕をくぢいて、このとほりの始末です。所詮奧さんの行方がわからぬので、女房を追ひ出して、私も淸白を立てることにして、機白を去りましたが、腕をくぢいたので離緣狀が書けませんですから、私に代つて書いて下さいませんか。』と、言ぴも終らず硯筥《すづりばこ》を引き寄せて賴んだので、申介も、妻はそんな人間でないと思ひ乍ら、由八の言葉をいなみ兼ね、離緣狀を書いて渡し、一先づ、興福寺へ引き返した。

 由八は申介が歸るのを見送り乍ら舌を出し、離緣狀を開いて由八の由の一字を申に、八の字を介になほし、宛名を切り取つて、年靑殿と書き、女房たちの歸るのを待つて居ると、二人は廓でも申介を見つけることが出來ず大に落膽して歸つて來た。由八は卽ちかの離緣狀を出して年靑に渡すと、年靑は良人の筆趾を見て、大にうらみ、その場に泣き伏した。

 由八夫婦は傍から年靑をいたはると同時に男心の變り易いことを罵り、なほ由八は申介の言ひ置いて行つたことだと言つて、金のなくなつた苦しまぎれに娘を賣つたが、なほそれでも金が出來ぬので、年靑をある人の側室に賣つたから、竹輿《かご》が來たら渡してやつてくれとの事であると告げた。年靑はこれを聞いて、愈よあきれて歎き悲しみ、いつそ殺してくれと泣きわめいたので、由八夫歸が色々なだめすかして居ると、折しも其處へ紫米鬼九郞が一挺の竹輿をつらねて迎ひに來た。年靑が見ると、年の頃四十あまりで色が黑く丈の低い賤しげな男であつたから、まるで鬼にでもとられるやうな心地がしたが、なまじ反抗しては恥の上塗になるから、暫らく心を許させて、又なすべきこともあらうと覺悟を定め、たうとうその竹輿に打乘つたのである。この鬼九郞といふ男は津國荒墓《あれはか》のほとりに住む惡漢で勾引《かどわかし》しや人買《ひとかひ》を業として居たが、ふと年靑の容色を見て、由八を慾で誘ひ、計策を行はせてまんまと手に入れたのである。然し、天は惡漢に與《くみ》せず、平城を出て暗明嶺《くらがりたうげ》にさしかゝると、暗の中から狼が二疋飛び出して、駕籠舁にかみつき、次で他の一疋が鬼九郞をも殺し、年靑だけが、竹輿の中に殘されて生命拾ひすることが出來た。[やぶちゃん注:「荒墓」「あらばか」と読みたかったが、原本に拠った。「荒墓」は大阪市東区元天王寺附近の古い呼称らしい。「暗明嶺」現在の暗峠(くらがりとうげ)で、ここ。]

 一方、申介は年靑が密夫と駈落したとばかり思ひ込み、大に悲しんで興福寺へ歸り、母を慕ふ小匙をなだめ、その夜殿司に向つて暇を告げると、殿司は、四天王寺の僧もあなたの畫を見て書いて貰ひたいと言つたから、近いうちにたづねておいでなさいと、紹介狀をくれた。翌日、申介は小匙をつれて寺を辭し、一旦由八の許に身を寄せ、次の日四天王寺をたづねることにした。

 由八はその夜、妻に向つて、若し申介が四天王寺へ行つたなら、そのそばの荒墓山に居る年靑に逢ふかもしれない。さうすればこちらの罪がばれるが、どうしたらよからうと相談した。すると女房は、明朝薄ぐらいうちに出立させて、途で殺してしまひなさいと告げた。

 かくて由八は申介父娘を暗いうちに出立させ、自分は先𢌞りをして般若坂に待ち受け、首尾よく申介をだまし打にしたが、小匙を殺さうと思ふと、忽ち小匙の背から、一道の赤氣がたちのぼり、身長一丈餘の鍾旭の像が俄然としてあらはれ、小匙をかゝへて逃げる由八を引つかんで大地へどさりと投げつけた。[やぶちゃん注:「近畿地方の坂 (坂プロフィール)」の地図指定の般若坂はここ。]

 時に建治元年秋八月二十六日、靑砥藤綱は、大和へ巡歷せんために、きのふ六波羅を發足し棹山《さをやま》に一泊して、朝早く般若坂にさしかゝると、小匙が父の屍に取りついて歎き、傍に由八が氣絕して居たので、從者たちに言ひつけて息を吹きかへさせると、由八は逃げようとしたので引き捕へきぴしく問ひつめると、遂に今迄の惡事を殘らず白狀した。よつて、藤綱は人を走らせて機白を逮捕させ、更に紫米鬼九郞を召捕らせにやると、程なく鬼九郞の死骸と年靑を伴つて歸つて來たので、別に面倒な詮議もいらず、由八と機白を般若坂で死刑に處し、鬼九郞の首と共に斬梟《きりか》けさせ、年靑と小匙は首尾よく對面して、この一件はつひに落着したのである。[やぶちゃん注:「棹山」は「佐保山(さほやま)」のこと。奈良市北部の佐保川の北側にある丘陵で、京都府との境をなす。西部の佐紀 山(さきやま) と合わせて古くは奈良山と呼んだ。この附近。]

 さて、この事件に於て、中心となつて居る犯罪は、年靑を鬼九郞に取り持つことである。そしてこの『取り持ち』は性的ではなくて、利慾的である。性的の『取り持ち』はドイツ語で Kuppelei と呼ばれ、中年の女性ことに身體の不具な女性によつて屢ば試みられる所である。本篇に於て、由八の妻機白は、別に醜婦とも不具者とも書かれてはないが、はじめに年靑の美貌を見て、給事を勸めたところなどを見ると、この『取り持ち』には多少性的色彩を認めてもよいであろう。[やぶちゃん注:「Kuppelei」売春斡旋。音写は「クッペライ」。]

 女子と男子が共謀して犯罪を行ふとき、男子が發起人であり、女子がその計畫者であることは、實世界に於ても多數の例證があるが、文學にあらはれた最も著しい例はシエークスピアの『マクベス』である。發起人たる男子は計畫を遂行する途中に於て、屢ばその決心がにぶり、動《やや》もすれば、中止しようとするものであるが、かやうな時、女子は、あく迄男の心を鼓舞して、男子を深みへ引きずり込み、計畫を遂げさせるのである。マクベスが國王殺しを幾度か躊躇すると、その都度’マクベス夫人は或は罵り或はすかして、遂に非望を果させたが、本事件に於ても、機白が計畫者であつて、遂に由八にすゝめて申介を殺させるに至つた。

 女子が犯罪を計畫する場合、その方法は常に小說的であつて、時には奇を極めることがあり、且つ頗る複雜である。本篇に於ても、讀者は、由八夫歸の計畫、否、主として機白によつて企てられた犯罪の一々の階段が甚だ巧妙で全體として極めて複雜して居ることを知られたであろう。この點に於て馬琴は、前の物語よりも、女性犯罪の描寫に成功したといふことが出來るが、機白や由八の性格がはつきり出て居ないことは前の物語と同樣である。

 鬼九郞が狼に嚙み殺されたり、小匙の背より鍾旭があらはれたりするのは、多少不自然な構想といへぱいひ得られるけれど、例の勸善懲惡主義から見れば、讀む人をして痛快がらしめるに十分である。この物語の終りに、作者馬琴は次のやうに書いて居る。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。原文はここから。]

『玄同陳人[やぶちゃん注:曲亭馬琴の号の一つ。]批して道《いへ》らく、人おのおの嗜慾あり、しかしてその嗜慾同じからず、もしそ の嗜むこと酷《はなはだ》しければ、必ず敗れを取るに至る、庶木申介が如き、絕て惡なし、その嗜む所、中庸ならず、祿を辭し漂泊し、身を殺してはじめて休む、況《まし》て由八、鬼九郞等がごとき、利を嗜みて人を虐げ、遂にその身を戮《りく》せらる。善惡邪正その差あり、輪𢌞應報一定《いちぢやう》ならず、しかれども嗜慾の蔽《やぶ》れ、おのおの亦脫《のが》れがたし、且申介が畫に妙ある、鍾旭を圖して子を救ヘど、わが身を救ふことかなはず、譬《たとへ》ば人一藝ある、妻子を養ふに足るといへども、智を肥すに足らざるが如し、彼《かの》由八等《ら》は虛粍《きよまう》[やぶちゃん注:「ごく潰し」の意か。]の鬼歟、人をたふしておのが家を倒す、庶木は終南憤死の人歟、生涯志《こころざし》を得ずして、名を後に聞ゆ、これを愼めよ、これを愼みて、只ねがはくは道により、さて德により、さて藝に遊ばん。』[やぶちゃん注:「終南憤死」当初、「意味不明。地の涯にて憤死する人」の意かとしたが、何時も情報を下さるT氏より、以下の主旨のメールを頂戴した。――これは、鍾馗をさしています。ウィキの「鍾馗」によれば、鍾馗は道教系の神で、『一説に、唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布して』おり、それには、かの玄宗皇帝が絡んでおり、『ある時』、『玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり』、『床に伏せた』が、『玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう』。『玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間』(六一八年~六二六年)『に官吏になるため』、『科挙を受験したが』、『落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが』、『高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は』、『著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』。事実、『玄宗の時代から』、『臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録がある』とあります。則ち、ここは「庶木=鍾馗」を馬琴一流の言い回しで、念押ししている様です。――いつも乍ら、お読み下さり、御教授、有難く、御礼申し上げる次第である。]

 馬琴の物語を作る態度はこの中に十分あらはれて居ると思ふ。『只ねがはくば道により、德により、さて藝に遊ん。』といふ言葉は申介を批評したものであるが、一方から言ヘば、馬琴の藝術觀と見られるでもなく、從つて馬琴は、犯罪を描くに當つても、犯人の罰せらるところに重きを置いたのであるから、馬琴の作物を犯罪學的に論ずるのは或は當を得て居ないかもしれない。とはいへ、馬琴が、可なりに深く人性を硏究して居た人であることは、この『摸稜案』を逍じてもたしかにうかゞふことが出來る。

2021/08/26

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 一

 

      「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理

 

         

 摸稜案の中には、三つの中篇小說があつて、そのうちの一つは、前囘に紹介した『縣井司三郞』の事件であるが、その他の二つは、いづれも女性の犯罪心理をうかゞふに足る物語であるから、左にその梗槪を紹介して、併せて作者馬琴の女性觀に就て述べて見たいと思ふ。[やぶちゃん注:底本では、次の段落は頭が二字下げになっており、以下、長い梗概部分全体が全部一字下げになっている。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本原本はここから。読みはそれに概ね従った。「池子」は現在は「いけご」であるが、原本に従った(現在は池子は逗子市であるが、鎌倉時代は御府内であった)。「しちりのはま」「はまぐりのかひ」等も同じである。]

 先づ『牽牛星(ひこぼし)茂曾七《もそしち》殺害事件』から始める。相模國鎌倉郡池子《いけこ》村に、牽牛星茂曾といふ農夫があつた。牽牛星といふのは綽名であるが、何故さういふ綽名をつけられたかといふに、家に牡と牝の上疋の牛を飼つて居たのと、妻り專女(おさめ)[やぶちゃん注:原本では「をさめ」。歴史的仮名遣では「を」が正しい。]が、年若い美人で機をよく織つたので、里人にねたまれたがためである。さほど富んでは居ないけれど、少しばかりの田畑があつて、近頃までは弟の曾茂八《そもはち》が同居して居たが、嫂のことで、兄と仲が惡くなり、腰越村の式四郞《しきしらう》といふ知己の家に身を寄せることゝなつた。

 妻の專女は、やはり近村の生れてあつたが、僅かの間に四人ほど亭主を持つて死に別れたので、その村では誰も彼女を貰ふものがなかつたのに、茂曾七は色ごのみの男であつたから、一目見て彼女を戀し、十五六も年下の女を妻として呼び迎へたのである。これを見た弟の曾茂八は至つて正直な性質てあつたから、世間で爪はじきされて居る女を貰ふことに極力反對したのであるが、兄は弟の諫言に耳を傾けずして專女を娶り、結婚後間もなく彼は、妻の讒言によつて、弟の曾茂八を體よく追ひ出したのである。

 曾茂八が身を寄せた式四郞は小動《こゆるぎ》[やぶちゃん注:腰越の七里ヶ浜と腰越漁港の間にある岬が「小動の鼻」であるのに掛けた名前。]といふ一人娘と暮して居たが、老年にもなつたことではあるし、曾茂八が實直に働くのを見て、聟にしたいと思ひ、その旨を曾茂八に告げると、喜んて承諾をしたので、一家はその後圓滿な日送りをすることが出來た。

 一方、池子村の茂曾七は前に述べたごとく年來、二疋の牛を持つ居て、そのうちの一つは黃牛(あめうし)で牡、今一つは靑牛(さめうし)[やぶちゃん注:「白毛の牛」或いは「両眼の縁の白い牛」或いは「虹彩の白い牛」を指す。]で牝だつたから、黃牛を弟に牽かせ、自分は靑牛を牽いて、田を耕やし、時には江の島詣での旅客を乘せて、駄賃を取つて居たが、弟曾茂八が居なくなつたので、黃牛を賣るのも惜しく、村はづれに字平《あざへい》といふ二十八歲の獨身の男があつたのを幸ひに、專女と相談して、雇ひ入れることにしたのである。字平は牛を牽くことが極めて上手で、頗る忠實に働いたので、大に主人夫婦の氣に入つた。

 さて、その年も暮れて春も彌生の末となつたある日、曾茂七は、靑牛を牽いて七里濱《しちりのはま》に赴き、江の島詣での客を乘せようと思つて、朝から晚まて海濱を徘徊したが、生憎その日は一人の客をも乘せ得なかつたので、非常に落膽して步いて來ると、忽ちうしろから『その牛に乘らう』と呼ぶ者があつた。茂曾七が振ろ向くと、それは若宮巷路《わかみやこうぢ》の賣卜者《うらやさん》『貝《かひ》の翁《おきな》』と呼ばれる人で、もとは鶴岡若宮の禰宜をして居たが、年老いたので賣卜を事とし、春になると貝を拾つて來ては、都人の土產に資’り、今日も、貝拾ひに來て、あまりに多く取つたので、牛を雇はうとしたのである。

 茂曾七は喜んで翁を乘せ、やがて若宮巷路へ來ると、翁は錢を與へて、ふと茂曾七の顏を眺め、『其許のたすけで、澤山の貝をうちへ持つて來ることが出來たから、その御禮に一寸話して置かう。其許の顏色を見ると、遠からず橫死する相がある。だから今のうちにその禍を除かねばならない』と告げた。茂曾七は大に驚いて、『その禍を除くにはどうしたら宜しいでせうか』といふと、翁は『外に術はない、たゞ、さめを捨てたらよい。』

と答へたまゝ、疲勞のためにその場で寢入つてしまつた。

 茂曾七はなほよく事情をきゝたいと思つたが、翁は熟睡したので、そのまゝ歸路についた。これ迄翁の言ふことはよく適中するといふ評判元なので、『さめを捨よ』といふ言葉をいろいろ考へた結果、さめとはこの靑牛のことであろうと考へ、然し捨てるのも惜しいから、誰かに賣らうと決心して延明寺《えんみやうじ》[やぶちゃん注:こんな寺は昔も今も鎌倉には存在しない。若宮大路下馬四つ角近くの延命寺のズラしであろう。]の辻のところへ來ると、思ひがけなくも、久し振りに、弟の曾茂八に出逢つた。

 兄弟同士のことゝて、二人はたちまち、親密に話し合つたが、やがて弟は、家の牛が病死したので、今日戶塚の牛市へ出かけ力が、思はしいのがなかつたと告げた。これをきいた兄は大に喜んで理由あつてこの靑牛を賣りたいからこれ牽いて行かないかといふと、弟も非常に嬉しく思ひ、その價を問ふと、まあいゝから牽いて行き、序の時に錢を屆けてくれと言つて、その儘靑牛を渡してやつた。

 茂曾七は心にかゝる靑牛を弟に渡して、ホツとしながら家に歸り、事の一次第を專女と字平につげると、二人は口を揃へてあざ笑ひ、ことに、專女は、弟曾茂八に賣つたことを難じて、恐らく、牛の代金は吳れまいから、明日は取りかへしに行つて來なさい、と勸めた。然し茂曾七は易者の言が氣になるので、たとひ弟から代金を屆けなくても[やぶちゃん注:ママ。]、身の禍さへのがれゝばそれでよいと言つて肯《き》かず、黃牛一つになつたから、明日から字平には暇を出さうと言ひ出した。これをきいた專女は大に驚いて、字平を解雇することに極力反對したが、茂曾七は一旦言ひ出したからには後へ引かずニケ月分の給金を與へて、たうとう字平をかへしてしまつた。

 とろこが、專女の豫言が當つたのか、十日あまりを經ても、曾茂八の方から何のたよもなかつたので、ある日茂曾七は牛の代金を受取り、かたがた弟の家をたづねようと思ひ、この旨を妻に話し、酒一瓢《ひとひさご》と、乾魚《ほしうを》一籠とを黃牛の背につけて、午の貝吹く頃、わが家を立ち出でたのである。

 丁度その同じ日、貝の翁は、いつものやうに海濱に赴きあちらこちらを徘徊して居ると、はるか彼方の浪打ち際に溺死人が浮き沈みして居るので、驚いて駈け寄り、渚に引き揚げて、用意の定心丹《ぢやうしんたん》[やぶちゃん注:原本にあるが、不詳の漢方薬。]を口中に塗りつけ、頻りに呼び活《いか》したけれども、多量の水を飮んで居るらしいので、何とかして先づ水を吐かせようと思ふと、突然彼方から一疋の主なき牛が來たので、大に歡び『死骸を牛の背中に、うつむきに橫はらせたなら、水を吐くだらう』と思ひ、牛を巡れて來て死人を抱き上げ、よく見ると、その人もその牛も、先日、自分のところへ來たものたちであつたから、自分の豫言の當つたことを不憫に思ひ、息を吹き返したら手當をしてやらうと覺悟して、再たび貝を拾ぴにかゝつたが程なく頭をあげて見ると、牛の姿が見えなかつたので、はつと思つて由比が濱の方へたづねに走つたけれども、もはや、何處にも見つからりず、そのまゝ、若宮巷路の我家に歸つた。

 話變つて、腰越村の曾茂八は、兄から讓つて貰うた靑牛を牽いて我家にかへり、養父式四郞と妻小動に事情を話すと、二人とも大に喜び、早速明日にても牛の代金を持つて行くがよいとすゝめたので、あくる日は朝から土產物などの用意をしたが、式四郞は曆を見て、來る二十八日は丑の日で『よろづよし』とあるから二十八日にせよといつたので、その言菜に從つたが、二十七日の夜に突然式四郞は卒中で半身不隨となり、そのため、思はず日數を過してしまつた。

 ところが、兄から讓り受けた靑牛は、どうかすると繩を脫け出して、東の演邊へ二三度も行ったが、その都度曾茂八は追ひ留めた。牛でさへ、故主の恩を慕つて歸らうとするに、自介が恩義を忘れては相すまぬと、心ははやつても病人を殘して出ることもならず、又兩三日を送ると、靑牛は再び繩を拔け出し、その一日に限つて病人の容態がわるかつたので、曾茂八夫婦は少しもそれに氣附かなかつたのである。

 夕方になって、雨が降り出したので小動が牛小屋へ見に行くと、牛の居らぬのに大に驚き、良人に事情を告げた。曾茂八は、直ちに簑笠とつて打かつぎ、濱邊を東に追つて行くと、向ふから主なき牛が一疋こちらへ步いて來た。さては靑牛かと喜んで近よつて見ると、意外にも見覺えのある黃牛て、鞍の前輪に、酒と乾魚とを附けて居た。よつて多分兄の茂曾七が後から來るにちがひないと、暫らく待つて居たけれども、その姿が見えぬので、一先づ黃牛を我家に牽いて來てつなぎ、小動に事情を話して、兄の來訪を待つのであつた。

 あくる日になつても何の音沙汰もないので、曾茂八は兄の家を訪ねようと思つたが、養父の病が、急に重つたので出拔け難く、雇ふべき人足もないので心配のうちに夜になつてしまつた。すると五更[やぶちゃん注:午前四時或いは午前五時前後。]のころ、捕手の兵士が五六人、字平を先に立たせて、曾茂八の家に窺ひより、彼の在宅を見つけ、門の戶を破つて亂れ入り『兄を殺して牛を奪つた曾茂八、索《なは》にかゝれ』と呼んで召し捕らうとした。曾茂八は大に驚き、少しも身に覺えのないことだと言ひ譯すると、捕手の兵士はこゝに證人があるといつて字平を指した。

 字平は進み出て、曾茂八に向つて言つた。            

『貴様は嫂に心をかけ、戀のかなはぬ意趣ばらしに、家の物をさらつて逐電し、式四郞の婿となつても、兄が物を返さず、剩へ、先日延明寺の辻で、兄をだまして靑牛を奪ひ、兄がそれを取り返すつもりで黃牛に酒肴を負はせて、この家へ來ると、一層の惡念を起して兄を殺し、死骸を靑牛に負はして、海底に沈めるつもりだつたらうが、天網はのがれ難く、靑牛は主の屍を負つて池子村へ歸つて來たのだ。そこで俺は、貴樣の所爲《しわざ》だらうと思つて、昨夜ひそかにこゝへ來て牛小屋の中をうかゞふと果して黃牛が居るではないか。だから俺は、汝の所爲だと思ひ、雇はれた恩義に報いるために、專女後家を助けて事の趣をおかみに訴へたのだ。』

 曾茂八は兄の橫死をきいて胸が塞がり、その上寃罪に陷れられたので、あまりのことに默つて居ると、兵士どもは程なく彼と黃牛と馳引き立てゝ文注所へ連れて來た。

 時に建治元年[やぶちゃん注:一二七五年。執権は北条時宗。]四月九日、靑砥藤綱は曾茂八を獄舍から引出させ、訴人の專女字平等を呼寄せて吟味を始めた。先づ曾茂八を近く召し寄せてたづねると、彼は、池子村を立ち去つた理由から、黃牛を我が家へ連れて來た顚末まで殘らず物語つた。藤綱はしづかにそれをきいて居たが、やがて曾茂八に向ひ、靑牛を兄から買つたとき何故貝の翁に吉凶を問はなかつたか、又十日あまり何故兄のところへ音づれをしなかつたか。汝の言ふ所には證據が更にないではないかといひ懲《こら》し、次に專女と字平とを近くに召し寄せ、專女に向つて、靑牛が良人の死骸を乘せて歸つたときの爲體《ていたらく》と靑牛を賣つた次第とをたづね、茂曾七の死骸の着て居た衣服をとりよせて檢査し、次に字平に向つて、汝は右の食指《ひとさしゆび》を布の片《きれ》で包んで居るがそれはどうしたのかとたづねた。すると字平は、先日鰹を切るとて刄《やいば》を走らし、傷をしたので御座いますと答へた。

 そこで藤綱は二人に向ひ、汝等の言ふ所頗る胡亂《うろん》である。茂曾七が貝の翁に諭されて靑牛を賣らうと思つたのならば、曾茂八がかたり取つたのではないぢやないか。又、昨日、汝等が訴へたとき、茂曾七はもはや療治が屆かなかつたかとたづねたら、死んで時がたつて居たので藥はのませなかつたと言つたが、今この衣服を見ると藥の匂がするのはどういふ譯か、なほ又、この衣服は雨に濡れただけならば一晚竿にかけて置けば半ばは乾くのに、今なほ大へん濡れて居るのは潮水につかつた證據である。して見ると、字平の推量とはちがひ、曾茂八は海へ沈めたものを再び引揚げて牛に負せたことになるが、それはどう說明したらよいかと詰問すると專女はもとより、字平も適當な說明を與へることが出來なかつた。

 そこで藤綱は、人を若宮巷路へ走らせて、貝の翁を呼ばしめようとすると、丁度その時貝の翁自身が出頭したので、藤綱が喜んで來意をたづねると、今日文注所で、しかじかの罪人の審問があるときゝ、罪を救ふために來ましたと答へた。

 『先日、あの牛飼の人相を觀ましたところ、女難の相があつたので、女房を捨てたらよいと思ひましたが、あからさまには言ひ難いのでさめを捨てよと申しました。さめの一字は添言葉でたゞ卽ち妻を捨てよといふ意味で御座いました。ところが、その後、海濱で貝を拾つて居ますと溺死體が打ち寄せられましたので、助かるものなら助けようと藥を口の中に塗りますと、舌の上に妙な物がありましたので、殺されものであらうと思ひ、後の證據に取り出して懷へをさめると、主なき靑牛が來たので、始めて先の牛飼であると氣づき、水を吐かせるつもりで牛に負はせましたが、をのうちに牛の行方がわからなくなりました。ところが今日、腰越村の曾茂八といふものが、兄を殺して死骸を牛へ乘せ海に沈ませようとしたことが發覺して吟味されるときゝましたので寃罪にちがひありませんから、曾茂八を救はうと思つて參りました。これが、死骸の口中にあつた物で御座います。』

 かう言つて貝の翁は蛤貝《はまぐりのかひ》の中へ入れたものを差出したので、藤綱が開いて見ると、人の指がはひつて居た。

 藤綱は直ちに左右のものを顧みて、字平と專女とを捕縛せしめると、字平は大に抗辯したが、食指の繃帶を解かしめたところ、果して嚙み切られて居たので、翁の持つて來た指が動かぬ證據となつた。然し中々實《まこと》を吐かぬので、先づ專女に鞭一百を加へると、苦痛に堪へず自白した。それによると彼女は去年から字平と密通して居たが、良人曾茂七を殺したことは字平一人の所爲で、私は知りませんと言つた。それから字平を鞭つて二百に及ぶと、彼もたうとう白狀した。その日彼は由井ケ濱に侍伏して、後から茂曾七の咽喉を絞めにかゝると、誤つて右の食指を彼が口中に突入れ、その際嚙み切られたが、遂に縊め殺して海に投げ入れ、茂曾七の家に行つて專女と樂みを取つて居ると、靑牛が死骸をのせて歸つて來たので、一旦は驚いたけれども、曾茂八に罪をきせるには好都合であると思ひ、曾茂八のところへ來て見ると、黃牛が居たので、專女をすゝめて訴へさせたといふのである。で、藤綱は次の宣告を與へた。

『……宇平はもとより、雇夫にて、主從の義なしと雖も、犯す所の罪、もつとも輕からず、又專女は字平とともに茂曾七を殺さずといふとも、既に字平と密通して、不義の情欲よlり事起りて、茂曾七を殺すに至る、その罪は字平と又何ぞ異ならん、これ亦決して赦し難し、此彼もろ共に、近日、由井濱(ゆゐのはま)に引出して、誅戮(ちうりく)すべきものなり…………』

 かくて、茂曾八の放免されたことはいふ迄もなく、養父の病さへ五六日が程に本復した。[やぶちゃん注:ここで梗概は終わって、行頭からに戻る。]

 以上の筋書を讀まれた諸君は、最後に至り茂曾七殺しに專女が關係して居ないことを知つて、頗る意外に思はれたであろうと思ふ。始めに、彼女の淫奔な性質を述べて、犯罪性に富んで居ることを暗示して置き乍ら、終りに至つて情夫のみの犯罪としたことは、頗る物足らぬ感がある。而も、字平については、實直に働いて主人夫歸の信用を博したと書かれてあるから、兪よ以て奇怪な感じを抱かせられるのである。作者馬琴は『靑砥藤綱摸稜案』に於ても、彼のもちまへなる勸善懲惡主義を鼓吹しようとして居るらしいから、犯罪者の性格などには重きを置かず、只管《ひたすら》事件の推移に心を懸けたのであらうが、若し、正直な字平が專女のために、だんだん深みへ行き入れられ、遂に專女にそゝのかされて、茂曾七を殺すといふ風に書かれてあつたならば、その方が遙かに自然であるやうに思はれる。尤も馬琴の書いたやうな事實が世の中に決して無いといふことは斷言出來ないが、それならば、そのやうに、物語の始めに暗示を與へて置くべきである。例へば宇平が專女との不義の現場を茂曾七に見つけられたならば殺害の動機は成立する。又字平が茂曾七の少しばかかりの財產に目をかけ、それを專女もろ共我がものにしようとするのでも殺害の理由にはなり得るのである。利慾を離れた純然たる性的犯罪ならば、女に敎唆されて大罪を犯すといふ風に書いた方が、どう考へて見てもいゝやうである。ことに、茂曾七が弟のところヘ出立することを知つて居るのは專女ばかりあるから、專女がそれを字平に知らせて、良人を殺させるやうにしたならば筋の通りも遙かに良い。[やぶちゃん注:ここは完全に不木に賛同する。茂曾七が專女と結婚する前、彼女は若いのに「四人(よたり)ばかり夫(をとこ)をかさねたるに、その夫どもみな短命なる」(原文)というのも、如何にも怪しい前提ではないか? それらもたまたまのことであったなどという完全受身形の「ファム・ファータル」(Femme fatale)なんどいいう設定は、これ、話にならぬ。]

 一般に馬琴の作物の中にあらはれる人物の性格は、あまりはつきりして居ない恨みがあつて、女性犯罪者のうちでも、八犬傳の船蟲などは比較的よく書かれては居るが、この物語の專女などは隨分ぼんやりした描き方だと思ふ。犯罪者にも善心があるといふことはこれ迄よく紹介されて居る所であるが、それは多くは男性犯罪者に適用することで、女性犯罪者ことに所謂毒婦と稱せられる女子には、善心は殆んど認められないといつてよいくらゐである。だから毒婦を描く場合には徹底した惡性を帶ばしむるのが適當であろうと思ふ。この一つの物語から馬琴の女性觀を判斷するのはもとより亂暴ではあるが、ことによると、馬琴は女性犯罪者には男性犯罪者と同じ程度の善心は必ず存在するものと考へて居たのかもしれない。[やぶちゃん注:男女の真正シリアル・キラー或いは連続殺人犯の、偶発的な良心の発露を女性には認めないというこの不木の犯罪学説は、現代では認め難い女性差別である。よろしくない。「船蟲」はウィキの「南総里見八犬伝」の「対牛楼(たいぎゅうろう)の仇討ち」以下を読まれたい。]

2021/08/22

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 暗號解讀

 

      暗 號 解 讀

 暗號がしばしば探偵小說の題材となつて居ることは今更言ふ迄もなく、すてに、鎌倉比事の中にも取り扱はれて居ることは前に述べた所である。摸稜案の中にも暗號解讀に似たやうな『遺言判讀事件』があるから、それをこゝに紹介して置かうと思ふ。

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションの「前集 卷之四 藤綱六波羅に三たび獄(うつたへ)を折(さだ)むる事」の冒頭の話がそれである。「折(さだ)む」とは「判決を下す」の意。読みはなるべく原本の読みに従った。]

 これは靑砥藤綱が北條時宗の命を受け、京都に赴いて裁判した三ツの事件の一つであつて、短篇小說の形になつて居る。三條の醫師山道《やまぢ》某が死んで庶子《てかけのこ》の加古飛丸《かこひまる》とその姉聟の鏡岱《きやうたい》との間に遺產相續の爭ひが起つた。加古飛丸は母と共に法廷へ出たが、母の陳述するところによると、山道は年五十に至るも本妻との間に子がなかつたので、彼女を妾《をんなめ》として加古飛丸を擧げた。山道は大に喜んで加古加古と呼んで大に愛したが、本妻の手前さすがに家へ出入はさせなかつた。ところがいつの間にか本妻はこれをきゝ出して、嫉妬のあまり良人にすすめて自分の姪を養女として長ずるに及んで鏡岱を聟に迎ヘたのである。然し五年前本妻が死んでからは本宅に出入りするやうになつたが、どういふ譯か鏡岱夫婦はそれを喜ばず、いつも不快な思をせねばならなかつた。すると去年山道が病氣にかゝつたので、加古飛丸母子は看病したく思つたが鏡岱夫婦が之を許さず、やがて山道が死んでも、遺言狀を楯に葬式にも列することを許さず、況んや一文の財產も分ち與へなかつたが、何分遺言狀があるので度々訴へても御取り上げがなかつたといふのである。

 そこて藤綱は、法廷に呼び出した鏡岱夫婦に向つて、何故に加古飛丸母子を近づけないで、山道の實子であるにも拘はらず財產を別ち與ヘなかつたかと詰《なじ》ると、鏡岱の言ふには、それは、全く父親の意志であつて、彼は臨床の時に鏡岱を呼んで、加古は實を言ふと自分の子ではない。加古の母は淫奔な性質で他に情夫を拵らへて居るらしい。それ故、自分が死んでも決して財產を分與する必要はないと言つてその通り讓り狀を書いたから、たゞ父親の意志に從つたに過ぎないと答へた。

 そこで靑砥藤綱は、然らばその讓り狀なるものを見せよといつたので、鏡岱が恐る恐る差出すと、藤綱は暫らく讀んで居たがやがてにこにこと笑つて、『この讓り狀を見ると、加古飛丸こそ、山道の家を繼ぐべき者である。汝等は實に、思ふに似合はぬしれものである』と叱つた。

 これをきいた鏡岱は、決してそんな筈はありませんと言つたので、藤綱は然らばこゝで讀んで見よといつて讓り狀をさしつけた。その文句は次のやうに書かれてあつたのである。

    可家業相續讓受資財事

  加古非吾兒家財悉與吾女婿外人不可爭奪者也仍如件

   年 月 日       山 道 判

 これを鏡岱は次のやうに頂んだ。『家業相續して資財を讓り受くべき事。加古は吾が兒に非ず、家財悉く吾が女婿に與ふ。外人爭奪すべからざるもの也。仍て件の如し。』

 藤綱はこれをきいて頭を左右に振る、この讀み方はちがつて居る。かう讀むのが正しいといつて、次のやうに讀んだ。

『加古非は吾が兒なり、家財悉く與ふ、吾が女婿は外人、爭奪すべからざるもの也、仍て件の如し。』

 藤綱はなほも言葉を續けた。『思ふに、汝等は父に迫つて、汝等の都合のよいやうに讓り狀を書かせたのであらう。だから父は斷ろ兼ねて、加古飛の飛を非にかへて、汝に讓るやうに見せかけだのだ。さすがに醫師だけあつてその頓才《とんさい》[やぶちゃん注:臨機応変に機転を効かせる才能。]には感心すべきである。どうだそれにちがいなからう。さすれば、財產は加古飛に皆與ふべきである。』

 かういつて藤綱は鏡岱夫婦を追放の刑に處し、加古飛丸に山道家を相續せしめたのである。純然たる暗號ではないけれども、遺言狀の讀み方が主になつて居るだけに頗る興味が多いやうに思はれる。この外、藤綱が六波羅で行つた裁判事件の中に、今一つこれに似たやうな事件があるけれど、あまり長くなるからその紹介を省略する。

[やぶちゃん注:ここで不木が指すのは、続く、「六波羅の中(ちう)」である。禅僧の偈の読み換えである。]

 以上私は、馬琴の、探偵小說材料の取扱ひ方について述べたから、次には、摸稜案にあらはれた犯罪心埋、ことに女性の犯罪心埋について考へ見たいと思ふのである。

2021/08/18

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 「摸稜案」の最初の物語

 

      「摸稜案」の最初の物語

 摸稜案の最初に收められた『縣井司三郞《あがたゐつかさぶらう》』の事件は、棠陰比事の最初の物語がその骨子となつて居るやうである。棠陰比事の物語は極めて短く事件も至つて簡單であるが、それを基として作つた『縣井事件』は極めて複雜で且巧妙に出來て居る。私はそれ故、馬琴が如何に想像力の發達した人であるかを示すために、先づ棠陰比事の物語を左に譯出しようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下、訳文は底本では全体が一字下げ。]

『丞相向敏中が西京《さいけい》といふ所の裁判官をして居た時のことである。一人の行脚僧が、ある村にさしかゝると、日がとつぷり暮れたので、ある家に一夜の宿を求めたところ、主人が許さなかつたので、せめて門外に休ませてくれと賴むと、主人は澁々ながら承諾した。すると夜中に、その家に盜人がはいつて、一人の女に澤山の財寶を持たせ、垣を越えて出て行つたので、行脚僧は自分に盜人の嫌疑がかゝつては困ると思ひ、夜の明けぬ先に出立して、野中をずんずん急ぐうち、誤つて古井戶の中に落ちこんだ。ところが、ふと、氣がついて見ると、先刻盜人と同行した女が、同じ井戶の中に切り殺されて居たので、はつと思つて逃げようとしたけれども、深い井戶のことゝて、どうすることも出來なかつた。そのうちに夜が明けると、件の家の主人は盜難に氣づいて追跡して來たが、やがて古井戶を發見して、中に居た僧を捕へ、役所に訴へ出た。行脚僧の衣の裾には生々しい血がついて居たので、役人たちが、嚴しく責め立てると、行脚僧はとても罪を免れることは出來まいと覺悟して、女と共に彼の家にしのび込んだが、發覺を怖れて女を殺し、井戶の中へ投げ込まうとした拍子に自分も誤つて落ちこんだと自白した。賍品《ぞうひん》[やぶちゃん注:「贓物」(ぞうもつ)におなじ。]と女を殺した刀とは井戶の傍へ置いたけれども、何人が持ち去つたか自分は知らないと說明したので、役人たちはそれを眞實の自白だと思つた。たゞ裁判官の向敏中だけが、賍品と刀の無いのに不審を抱いて、色々に僧を問ひつめると、僧も包み切れずに、何事も囚緣と諦めて無實の罪を背負ひ込んだ旨を告げた。そこて向敏中は部下の役人に意を含めて、眞實の盜賊の行方を搜させたところ、部下のものが、村の茶店に休憩して居ると、老婆が茶を出しながら、この頃捕へられた行脚僧はどうなりましたかと訊ねた。役人が僞つて昨日死刑に處せられたよと答へると老婆は嘆息して、若し本當の賊が出たらどうなりますかときいた。そこで役人は、僧が殺された以上たとひ眞犯人が出てもかまひなしだと告げると、老婆は、それならば申しますが、あの女を殺したのは此村の誰それですよと敎ヘた。役人は忽ちその者を捕へ、行脚僧は放免されたのである。』

 縣井事件では、この物語の趣向は、後の部分に出て來るだけであつて、中心となる事件は全く別の趣向である。

[やぶちゃん注:「棠陰比事」の原文は標題「向相訪賊錢推求奴」(目録は頭の「向相訪賊」)で「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちらから次のページにかけてで、本文は僅か二百十二字である。因みに、岩波文庫の本訳版では、後に宋代の鄭克(ていこく)という法学者の評言が附帯しており、そこでは、裁判官はあくまでも「推定無罪」の立場で裁きに向かわねばならないという旨を記している。素晴らしい! また、以下の示される「靑砥藤綱摸稜案」の巻頭を飾る「前集 卷之一」の「縣井司三郞禍(わざはひ)を轉じて福(さひはひ)を得たる事」は国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系第十六卷」(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。但し、これ、第二巻を丸々「縣井の中」「縣井の下」として続けて終わる、これまた、非常に長い作品である。以下の読みはそれを見て附してある。]

 伊勢國鳥羽の湊に、縣井魚太郞《あがたゐなたらう》といふ商人があつて、毎年鰹節や茶や山田の塗折敷《ぬりをしき》などを持つて船で鎌倉に行商し、大小の武家を得意先として𢌞り乍ら、凡そ半年ほど逗留するのが例であつた。彼はその性質が至つて實直で商人に似合はず和漢の學に通じて居たが、少しもその才を誇ることがなかつた。

 ところが魚太郞と同鄕の商人に金剌利平二《かなざし りへいじ》といふ男があつた。この男もやはり、魚太郞と同じく鎌倉の行商に出たが、うはべは濶達に見せて居ても、心の中は非常に吝嗇で、魚太郞の商品よりも高かつたけれども、口先がうまいために商賣は繁昌した。そして魚太郞と同じく和漢の學に通じて居たので、人々は彼の話に釣り込まれ、いつとなく丸めこまれる程であつた。

 あるとき縣井魚太郞と金剌利平二とが同船して鎌倉に行く途中、魚太郞は何となく塞ぎ込んで居たので、利平二がその理由をたづねると、魚太郞の言ふには、實は自分には小太郞といふ男の兒があつたが、先年母の大病の時、佛菩薩に祈願して、母が平癒しますれば、小太郞を出家させますと誓つたところ、幸に母が平癒したので、小太郞が八才のとき寺に遣したが、程なく住持と共に筑紫へ行つてしまつて、今年で三年になるが何の音沙汰もなく、母は先年死んえ、女房は去年女の子を設けたが生れて間もなく死に、その後また女房は姙娠して、今八ケ月であるから、女房のことを思つて氣が勝れないといふのであつた。これを聞いた金剌は大に同情し、實は自分の女房も今八ケ月の身重であるから、思ひは同じである。かうして同じ商賣をして居る以上、いつそ生れる兒同志を許嫁にして親戚の緣を結ばうではないかといひ出したので魚太郞は大に喜んで、その場で親戚となることに決した。

 かくて二人が前後して鎌倉から歸ると、縣井の女房は男の兒を生み、金利の女房は女の兒を生んだので、男の兒を司三郞《つかさぶらう》、女の兒を十六夜《いざよひ》ともけて許嫁とならしめ、兩家はめでたく親威となつた。ところが司三郞、十六夜が七歲のとき、縣井魚太郞は重病にかゝつて、とても恢復の見込が立たなかつたので、金刺利平[やぶちゃん注:ママ。]を枕元に呼んで、鎌倉の得意先を讓り、司三郞のことをくれぐれも賴んで、程なく死亡した。利平二は約束を守つて魚太郞の遺族を親切に待遇し、司三郞に學問を授けたので、十一二歲の頃には司三郞は大ていの書物を讀むほどになつた。

 その頃鎌倉では北條顯時が、金澤なる稱名寺のほとりに文庫を建て、各方面の圖書を蒐集して學問所を開いたので、全國の各地から、多くの學徒が集つて來たが、適當な學頭がなくて困つて居たところ、金刺利平二は商人に似ず學問が勝れて居たので、顯時は利平二を召して、學頭になる氣はないかと話した。利平二は大に喜んでその場で御受けを致し、すぐさま鳥羽へ歸つて事情を話し、女房と十六夜と、老僕の繁市《しげいち》と、その娘の弱竹《わかたけ》とを連れて鎌倉へ參り、金澤文庫のほとりに大きな邸宅をかまへ、若黨十人あまりを召使つて金刺圖書の名を貰ひ學顛としての威嚴を示した。はじめ人々は、彼が商人であることを知つてあまり寄りつかなかつたが、上流の人々にぼつぼつ金を貸したりしたので、後には執權時宗にも見參し得る程の勢力となつた。

 これに引きかへ、縣井司三郞とその母は、金刺に去られてから、何の音沙汰もなかつたので、二人は苧《そ》を績《つむ》いだり、磯網を編んだりしてその日その日を貧しく生活せねばならなかつた。司三郞は母に孝行する傍、學問に餘念なかつたので、年を經るに從つて、金刺圖書などよりも遙かに上達することが出來たのである。かくて、司三郞が十八歲の時、母は我が子り將來を憂ひ、ある日司三郞に向つて、貯へた十貫文の金を渡し、鎌倉へ行つて金刺に身を任すやう勸めたので、司三郞は母と共に、鎌倉へ參り、一先づ旅宿に落ついて、翌日司三郞一人で、金刺圖書を訪問した。

 ところが圖書は司三郞の姿を見てあまり喜ぶ樣子もなく、今日は忙しいから、追て沁汰する迄宿に居るがよからうと告げて、すげなく歸してしまつた。圖書の妻はその時屛風の蔭から司三郞の姿を見ると、男振りもよく、動作も立派なので、司三郞が歸つてから、何故もつと親切にしてやらなかつたかと詰《なじ》ると、圖書は、娘十六夜を北條殿の一族のものへ與へたい願であるとて、却つて妻を叱るのであつた。

 一方司三郞は旅宿へ歸つて、圖書の不機嫌てあつたことを母に告げたが、母は圖書の内儀の心を信じて、まだ四五貫文の金が殘つて居るから、金刺圖書から呼出しのある迄待つやうにすゝめた。ところが三十日經つても圖書からは使ひが來ないので、司三郞は不安に感じ、每日、金澤文庫のほとりを徘徊して、學徒たちの講書の聲をきいて心を慰めて居た。

 ある日の夕方、彼が金刺の第宅《やしき》[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ九行目)に従った。国書刊行会版では『ていたく』とする。]の後ろを通ると、丁度、その時、十六夜は腰元の弱竹と二人で庭に出て居たが、弱竹に敎へられて、司三郞の姿を見て、大いに顏をあからめ、司三郞もその時十六夜の姿に心を奪はれてしまつた。で、その後司三郞は毎日金剌の第宅の裏をとほつて居たが、そのうちに弱竹の媒介で、ある夜人目をしのんで、十六夜の許に一夜を明し、あくる朝、別れ際に十六夜は、玳瑁《たいまい》の笄《かうがい》と、白銀《しろがね》の指環[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ後ろから二行目)は「ゆびのわ」だが、梗概だから「ゆびわ」でいいだろう。]を、生活の助けにもといつて司三郞に與へた。司三郞は、今後、每晚訪ねて來ることを約東して歸つたが、どうした譯か、十日ばかり姿を見せなかつた。

 話變つて、金剌圖書の第宅から百歩ぱかり東の坊に、一軒の質店があつた。主人は子母家利三郞《しぼやりくらう》と呼れて、裕福に暮して居たが、司三郞と十六夜とが會合してから丁度十日過ぎた夜、件の質店へ一人の行脚僧がたづねて來て、一夜の宿を求めた。小僧たちは夜も大分更けたことであるから、宿を斷ると、僧はせめて軒下でも貸して頂きたいと言つて其處にしやがんで朝を待つた。するとその夜二人の大男が質店に盜みにはひつたので、これを見た僧は大に驚いて、自分に嫌疑のかゝることを怖れ、あたふた軒端を逃げ出したが、あまり急いで野中の古井戶に落ちこんでしまつた。(この邊、棠陰比事の趣向である。)

 一方、金刺の裏庭では腰元の弱竹が、今夜こそは司三郞が來るかと、夜更まで待つて居たところ、垣の外に跫音がしたので、さては司三郞であろうと思つて呼びかけると、意外にも一人の大男がぬつとはひつて來た。弱竹は大に驚いて『盜賊《ぬすびと》、盜賊』[やぶちゃん注:原文では「賊あり、賊あり」(右ページ一行目)と叫んでいるが、その後(二行目以下に複数あり)で「盜賊」が出、それにかく読みが振られているので、それを採用した。]と叫ぶと、賊は刀を拔いて弱竹を切り殺し、次で十六夜の室にはひつて、衣栢調度を手當り次第に奪つて立ち去つた。

 やがて金刺圖書の家では大騷動となり、老僕の繁市は娘弱竹の死骸を抱いて歎き悲しみ、人々は盜賊の行方を搜したが、もとより知れる筈はなかつた。あくる日弱竹の葬式をすましてから、圖書は繁市に向ひ、自分はどうも司三郞が怪しいと思ふから、娘の菩提のためにも、司三郞の樣子をさぐつて見よと告げるのであつた。翌日繁市が司三郞の旅宿を窺はうと思つて出かけると、道て與野四郞《よのしらう》といふ小間物賣に出逢つたが、與野四郞が、頭に玳瑁の笄をさし、左手に銀の指輪をさして居たのに不審を抱き、かねて十六夜のものだと知つて居たので、繁市は與野四郞に向つて、それをどうして手に入れたかと訊ねた。すると與野四郞は、昨日ある旅宿の前をとほると、中から若者が出て來て之を買つてくれといつたから買つたのだと告げた。それを聞いた繁市はその若者が司三郞であることを知り、與野四郞を巡れて來て、圖書にその委細を告げた。

 金刺圖書目の前に十六夜の所持品を見て、弱竹を殺したのは司三郞にちがひないと思ひ、妻が諫めるのをもきかずに、鎌倉へ行つて、主の顯時に事の次第を告げ、文注所へ訴ヘたのである。

 靑砥藤綱は訴への文書を讀んで、圖書と與野四郞とに事情をたづね、彼等を退《のか》せてから、直ちに人を遣して司三郞の逮捕に向はしめた。かやうなこととは夢にも知らず、司三郞は十日前から母親が急病に罹つたので、晝夜その枕元に附きつて居たが、そのうちに旅費が盡たので、昨日、通りかゝつた小間物屋に、十六夜から貰つた笄と指環を賣り、今日その金で藥を買ひに出かけると、途中で捕手のために縛《から》められてしまつた。

 司三郞が文注所へ引張られて來ると同時に質屋利九郞が先頭になつて、一人の法師に繩をかけ、この法師は先夜私の家に泊めてくれと申して來ましたが、斷つたところ、その夜家内へしのび入つて、多數の品を持ち去り、行方不明になつて居ましたが、天罰を免れることが出來ず、三四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]彼方の古井戶の中に落ちて居ましたから、引き連れて參りましたと訴へ出た。

 藤綱は先づ司三郞を召し寄せて訊問し、この僧は多分汝の同類であろうときめつけた。そこで司三郞は自分の生立《おひたち》を始め、金刺圖書との關係や、笄と指環は十六夜から貰つたことなどを述べた。藤綱は之をきいて打ち笑ひ、然らばどうして十六夜に面會したかとつき込むと、司三郞ははたと返答に行き詰つた。

 そこて藤綱は一方の法師に向ひ、その身許をたづねると、法師がいふには、自分は筑前のもので景空《けいくう》と申しますが、此度《このたび》師父に別れて東國に行脚しましたところ、路銀がなくなつたため惡心を起し、質屋をはじめ、金剌の家にしのび入りましたが、その時女に見つけられましたので一刀のもとに切い殺しました。ところが逃げのびる途中で誤りて井戶に落ち、かうして捕へられましたが、すべて私一人の仕事で、こゝに居る若人とは關係のないことですから、どうかこの若人をゆるしてやつてくれと、意外な自白をした。

 これをきいた藤綱はにこにこと笑つて、然らばその賍品[やぶちゃん注:原本では「ぬすめるもの」と読んでいるが、ここは梗概だから、前の「ぞうひん」でよかろう。]と刀とは何處にあるかとたづねた。この質問に僧ははたと行詰つたらしかつたが、暫くしてから言ふには逃げ出して井戶へ落ちたときに落してしまつたと答へた。藤綱は利九郞たちに向つて、井戶の近所に何か落ちては居なかつたかときくと、この頭陀袋と菅笠一枚きりでしたと答へた。藤綱はその二つの品を手に取つて暫らく檢べて居たが、やがて打ちうなづいて利九郞等を一先づ退かせた。

 あくる日藤綱は司三郞を召し出して、十六夜との關係について詰問したので、司三郞も今は包み切れずに密通の次第を物語つた。そこで藤綱は金刺圖書を呼ぴ出して十六夜と司三郞との關係を告げたが、圖書は大に怒つて娘は決してそんな淫奔《いんぽん》なものではないと言ひ張つた。そこで藤綱はたうとう十六夜を呼び出して訊問したところ、十六夜は非常に恥かしい思ひをしながらも、事實のまゝを申述ベた。圖書はこれを聞いて、事の意外に驚いたが、如何ともする術なくたゞ、畏《かしこま》つて居るより外はなかつた。

 これで司三郞に罪のないことはわかつたが、法師の景空の自白が信じ難かつたので、藤綱は圖書父娘を鎌倉にとゞめ、司三郞と景空を文注所に居らしめ、その間に、雜色《ざふしき》二人に計略を授けて金澤へ遣して眞犯人を捜させた。二人の雜色がある茶屋に憩ふと、茶屋の老婆は、先日捕へられた二人の犯人はどうしましたかとたづねた。(この邊棠陰比事の趣向である。)二人はこゝぞと思つて、二人とも由井濱《ゆゐのはま》[やぶちゃん注:原文(右ページ六行目)に従った。]で首を刎ねられ左と告げると、老婆はしきりに念佛を唱へたので、二人がその理由をたづねると老婆は眞犯人が外にある旨を告げた。そこで二人が僞つて、もはや眞犯人の名を告げても罪にはならぬと語ると、老婆は、我來八《がらはち》と與東太《よとうだ》といふ無賴漢の仕業だらうと言つた。そこで、忽ちその二人を捕へて吟味したところ、彼等は包み切れずに何もかも白狀して、賍品を提供したのである。

 これでもう殘る疑問は景空の虛僞の自白であるが、それは藤綱が景空の頭陀袋の中にあつた度帖《どてふ》[やぶちゃん注:「度牒」が正しい。「度」は「得度」の意。寺や師僧が得度した僧に書き与える身分証明書。]を見るに及んではつきり解決された。卽ちこの僧こそは、司三郞の實兄で、祖母の病氣平癒と共に出家し、後筑紫へ行つた小太郞てあつた。近ごろ夢見が惡かつたので師僧に乞うて郡里へ歸つて見ると、母と弟とは鎌倉へ移つたとの事で、又もや遙々たづねて來ると、圖らずも文注所で弟の司三郞に逢つたので、それといはずに弟を助けるため、無實の罪を自白したのである。

 かくて事件はめてたく落着し、景空は法華堂[やぶちゃん注:現在の源頼朝の墓と称するものの階段下、左手にあった頼朝の本当の廟所のこと。]の別當に補せられ、司三郞は金刺圖書に代つて金澤文庫の學頭に任ぜられ、十六夜と結婚することになり、司三郞の母はうれしさのあまり、日ならずして、大病も癒えた。

 縣井事件の紹介が意外に長くなつたけれど、讀者はこれによつて、棠陰比事の短い物語を骨子として曲亭馬琴が如何に巧妙に、その筋を立てたかを知られたであろうと思ふ。摸稜案は、數多い彼の作物中で、さほど有名なものではないが、物語作者としての馬琴の腕は、こゝにも十分に認め得られると思ふ。

 

2021/08/02

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (11) 靑砥藤綱の「裁判」に對する態度

 

      靑砥藤綱の「裁判」に對する態度

 

 摸稜案の卷頭に『靑砥左衞門尉藤綱傳』が物されてあることは既に述べたが、この中に作者馬琴は、藤綱の性格を述べると同時に、藤綱の裁判時に於ける態度を記して居る。その態度は裁判心理學の立場から見て、極めて合理的であるから左に原文の儘引用しようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では、全体が一字下げ。前に示した国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここから(厳密にはこの前のページの末尾から)。読みはそれを参考に補った。]

『……されば藤綱は、訴陣《うつたへのには》に臨みて、理非を沙汰する每に、始終眼《まなこ》を閉《とぢ》て、訴人の面《おもて》を觀ることなし、人みなその意をしらず、ある人言《こと》の序に、その故を問しかば、藤綱答ヘて、さればとよ、人の容止《かほかたち》と心とは似ざるものにて、はじめ、うち見るより、いと憎さげなるあり、又あはれらしきあり、信《まこと》らしきあり、頑《かたま》しきあり、その品《しな》多くして、いくばくといふ數《かず》を知らず見るところの眞《まこと》らしきと思ふ人のいふことは何事も實《まこと》と聞え、頑しと見ゆる人のいふ事は、何事も僞りと見ゆ、又哀らしき人の訴は誣《しひ》られたる事ある如く思はれ、憎さげなる人の爭ふは、巧《たくみ》ていひなすならんと見ゆ、これらの類《たぐひ》は、わが見る所に心も移されて、彼此《かれこれ》いまだ言葉を出さゞる先に、はやわが心のうちに、彼は邪《よこしま》ならん、此は正しからん、是《よか》らん、非《わる》からんと、わが心を師として思ひ定むる程に、訟《うつたへ》の言藥を聽くに至りてはわが思ふ方に引れて、聞誤つこと多かり、訴陣に臨みては、哀らしきに憎むべきものもあり、憎さげなるに憐むべきことあり、眞らしきに僞りあり、頑しきに直《すなほ》なるあり、此さかひ特に多し、人の心の知り難き、形貌《かたち》をもて定むこと稱《かな》ふべからず、古の訴《うつたへ》を聽ものは、氣色《けしき》によりて聽ことあるよし、物には見えたれど、それは聊も覆《おほは》るゝなき賢人のうへにこそ、藤綱が如きは、常に覆るとこと多し、この故に、始終眼を閉て、訴人の面を見ず、只そのいふ所を聞わかちて、埋非を定むるのみ、むかし、八幡殿(義家)を評して至極の惡人なりといひしとぞ、げに義家朝臣は、弦《ゆづる》を鳴らして、物の怪を消伏《せうぶく》したる勇將にをはせしかば、武備面に見《あらは》れつゝ、いと逞しくこそありつらめ、婦幼《をんなわらべ》の目をもてこれを見ば、惡人とも見えたるなるべし、色好みなる心より、惡人ならんと見られたる、義家の氣性、媚《こび》ず、へつらはず、武をもて朝廷のおん衞《まもり》となり給へる、その人となり、思ひやらるゝかし、又、訴陣に出るもの、誰《たれ》かおそろしと思はざらん、しかるを、まうす事の理《り》にたがへりとて、頭人《とうにん》[やぶちゃん注:鎌倉幕府にあって所領関係の訟訴を管轄した「引付(ひきつけ)衆」の長官。]いたく、彼を罵り懲《こら》すときは、そのものますます戰慄《ふるひをののき》て、逡に情を得《え》述《のべ》ず、その情を得述べざるときは、理にして非とせらるゝもあるべし、又、心しぶとく、言を巧《たくみ》て、まうし掠《かす》めんとするものをば、いかばかり罵懲《ののしりこら》すとも、姑《しばら》くは口をもつぐめ、眞實に歸伏《きふく》するは稀なり、こゝをもて、藤綱訴陣に理非をわかつ每に、威をもて懲すことをせず、只理を推《おし》て彼にその非を知《しら》せんと思ふのみ、辭《ことば》を安寧《やすらか》にして、民を安《やすん》ぜよと、曲禮《きよくらい》にも本文《ほんもん》あるにあらずや、といひしかば、問者《とふもの》坐《すずろ》に感淚を流して退《しりぞ》きけり。』[やぶちゃん注:「曲禮」「礼記」(らいき)の冒頭にある編名で、その巻頭「曲禮上」の最初に『「曲禮」曰、「毋不敬、儼若思、安定辭。」。安民哉。』とある。]

 更に藤綱は、最明寺時賴の諾國行脚を難じて[やぶちゃん注:前文にほぼ続いて出る。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ一行目から)。]『むかし最明寺段の諸國を行脚したまひしは、只その目を賴み耳を憑《たの》み給ふ、おん誤《あやまち》とこそ思ひ候へ、凡そ人の目は物として見えざることなけれども、紙一重隔つれば絕て見えず、耳は聲として聞ざることなけれども、數町の外は聞えず、よしや國々を遍歷し給ふとも、見る所と聞く所に限りあり』と斷言し、なほ『只目に見、耳に聞く所をもて、政《まつりごと》を天下に有んと思召すは、管《くだ》もて蒼天《あをぞら》を窺ふより猶疎(おろそか)なるべし』と建言して居る。

 これ等の言葉は今の裁判官にとつても甚だ尊い敎訓である。『人相によつてある程度までその人の心を窺ひ知ることは出來るが、それは賢人のことで、自分ごときものは、却つて人相のために誤解を生じやすいから、法廷では眼をふさぐ』とは、實に心得たものである。グロースの『犯罪心理學』の中にも誤斷に陷り易い條件として五つをあげ、そのうちの第一にこの自然的先入見 Natural prejudice を數へて居る。而もかやうな先入見は極めて去りにくいものであつて、ハルトマンも『感覺から生ずる偏見といふものは、之を消すことが至難であつて、例へば地上に出かけた月も中天にある月も同じ大《おほき》さであると、何百遍注意をして見ても、依然として、地上に出かけた月は中天にある月よりも遙かに大きく見える。』と言つて居る。そしてかやうな偏見は裁判の際、裁判官に甚だ起り易いのである。前揭の文の中には、ある女が八幡太郞義家の顏を見て極惡人だと言つた話があげられてあるが、西洋でも誤認の例として、ある女が馬を見た話がよく引用されて居る。それは卽ち、ある百姓の女が長さ五六間[やぶちゃん注:約九メートル強から十一メートル弱。]ほどの厩の前の入口から一疋の馬が頭を出し、後ろの入口から他の馬が尻毛を出して居るのを見て、毛色が同じてあつたため、同一のもの頭と尻尾だと見誤り『なんて胴の長い馬だらう!』と叫んだといふ話である。これに類した誤認は百姓女ばかりでなく誰にもあり得る話である。だから、裁判官は偏入見に左右されないで、只管に理に從つて裁判を行はねばならないのである。[やぶちゃん注:「グロースの『犯罪心理學』」オーストリアの刑事法学者・犯罪学者で、現在の「犯罪プロファイリング」の創設者とされるハンス・グロース(Hanns Gross 一八四七年~一九一五年)が一八九八年に刊行した‘Criminalpsychologie ’。 因みに、彼はプラハ大学で教鞭を執ったが(法学部長となった)、その学生の一人にフランツ・カフカがいた。彼の「城」や「流刑地にて」に見られる法律的部分はその影響下にあるとされる(ドイツ語の彼のウィキに拠った)。「ハルトマン」ドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン(Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)か。最も知られた著作は一八六九年出版の「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewußten )である。]

 摸稜案に書かれた藤綱はこの先入見を恐れると同時に、人間の威疊の賴みにならぬことをよく知つて、理智によつて、獄を斷じようとした人である。彼が如何に『道理』を愛したかは、嘗て夜分、川の中へ十文の錢を落したとき、五十文の松明を費して搜し出させたことでもわかる。ある人が彼のこの行爲をあざ笑ふと、藤綱は、川へ落ちた十文は捨てゝ置けば永久失はれてしまふが、自分の費した五十文の錢は商人の手に渡つて、永く使用されるから、つまりは天下の利益ではないかと反駁した。よく考へて見ると、少し變であるけれども、理窟はとほつて居る。又彼は極めて淸廉潔白な性質であつて、ある時最勝園寺殿貞時が鶴岡八幡宮へ通夜した曉の夢に、一人の老翁があらはれて、靑砥左衞門を重用せよと告げたので、近國の莊園八箇所を藤綱に與へようとすると、藤綱はそのいはれを聞いてそれでは夢に、藤綱の首を切れといふ御告げがあつたならば、罪のない私の首を御きりになりますか?』と詰《なぢ》つて、それを受けなかつた。

 かういふ調子で彼は數々の事件を取り扱つたのである。以下、私は摸稜案に收められた二三の物語の内容を紹介しようと思ふ。

 

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (10) 曲亭馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』

 

      曲亭馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』

 

『靑砥藤綱摸稜案』は文化八年の冬から翌年にかけて出版されたものであるから、三比事の出版後凡そ百年を經過して居る。その間に文學の中心地は上方から江戶に移り、小說の形式も大《おほい》に變化した。從つて、同じく棠陰比事から材料を供給されたとはいへ、三比事と摸稜案とは、敍述の形式に於ても、材料の取扱ひ方に於ても全くその趣を異《こと》にして居るのである。三比事の物語が、殆んど皆、事件の簡單な說明であるに反して、摸稜案の物語は所謂『照應あり、波瀾あり』で、讀んで非常に面白く、こゝにも、物語作者としての馬琴の非凡な技倆を十分覗ふことが出來ると思ふ。

 摸稜案も三比事と同じく一種の裁判物語である。犯罪の顚末が先に述べられて、然る後事件の解決が裁判官によって行はれるといふ書き方は、三比事とその軌を一にして居るけれども、筋の立て方が極めて巧妙であるために、現今のこの種の歐米探偵小說に、頗る似通つた面白味がある。この書は前集と後集とに分たれ、前集には靑砥藤綱本傳の外に三つの中篇小說と三つの短篇小說とを收め、後集は一つの長篇小說から成つて居る。各篇を通じて、名判官靑砥藤綱の明快なる裁判振りが猫かれであるけれども、所所謂『事件探偵』の經路は比較的簡單に述べてあるばかりで、且つ又、『探偵』の要素として『偶然』がだいぷはひつて來て居る。

 この小說中の事件は、靑砥藤綱を出す關係上、鎌倉時代の出來事として描かれてあるけれども、その實、靑砥藤綱は江戶時代の名判官大岡越前守をモデルとしたものであつて從つて摸稜案の中には越前守の取り扱つた事件がかなり多く織り込まれてあるらしい。現に、後半に收められた長篇『蠶屋善吉の事件』は、大岡政談の中で、人口に膾炙されて居る『越後傳吉の事件』を書いたものである。靑砥藤綱はもとより實在の人物であつたけれども、その政談はあまり多く傳はつて居ない。だから、作者自身も、藤綱傳の終りに、

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では、全体が一字下げ。]

『……藤綱が潔白淸廉なること、すべてかくの如し、されば時宗、貞時二代に仕へて、久しく評定衆の上坐にありといへども、理世安民の政道正しく、後には主君を稱し、惡をば身に負ひて、民をして北條ぬしの、仁惠をしらしめつゝ、努々《ゆめゆめ》主の非をあらはして、わが名を取らんとすることなければ、萬民ますますその德を慕うて、これを思ふこと赤子の母を慕ふがごとし、夫《それ》必ず人にすぐれたる所あらん、惜哉《おしいかな》談記者筆を絕《たつ》て、その全行を見るに足らず、今僅に、太平記、北條九代記、鎌倉志、この餘軍記雜籍に藏する所を抄錄し、更に街談巷說を編纂して、これを摸稜案と命《なづ》けたり、蓋し摸稜は、蘇味道が故事を取るにあらず、作者摸稜の手に成すのみ、姑《しばら》く虛實を問はざれ。』

 と書き加へて居る。摸稜とは事を明白にしないで曖昧にしえおくことであつて、馬琴もなかなかうまい題名を見つけたものである。然し、題名は摸稜であつても、靑砥藤綱(卽ち大岡越前守)の裁判は決して摸稜ではなかつた。大岡越前守は常識を巧みに應用して裁判を行つたといはれて居るが、摸稜案に描かれた藤綱の裁判にも、常識と理知とが鋭く働いて居る。私は最初に、馬琴の描いや藤綱の『裁判』に對する態度について述べて見よう。

[やぶちゃん注:不木は「靑砥藤綱はもとより實在の人物であつた」と言っているが、現在、彼は架空の人物とされている。実際に史料に彼の実在を示すものは、全くない。モデルとなった人物はいたであろうが、鎌倉時代中期の理想的な気骨ある廉直なる武士像を造形した架空の人物である。

「靑砥藤綱摸稜案」国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」(国民図書株式会社編昭和四(一九二九)年刊)の第十六巻でここから全篇が活字で読める。私は、いつか、これを電子化したく思っている。

「北條九代記」「牡丹燈籠」の最初期の傑作を含む怪談集「伽婢子」(現在、ブログで全電子化注の最中)で知られる浅井了意が作者と考えられている、執権北条時政から貞時に至る北条氏得宗全九代の間の事件を物語風に記した史書。延宝三(一六七五)年刊。全十二巻。私はブログで全電子化注をとうの昔に完遂している(一部はサイト版もある。私の「心朽窩旧館」を参照されたい)。「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」及び「北條九代記 卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談」で藤綱への言及がある。

「鎌倉志」「新編鎌倉志」。徳川光圀が編纂させた鎌倉地誌。全八巻。延宝二 (一六七四) 年に光圀が鎌倉を旅行した際(水戸黄門の行脚物語は全くの噓で、光圀の長旅は金沢八景及び鎌倉に旅した一度きりである)、名所・旧跡などの記録を取らせ、これを水戸藩彰考館の史臣河井恒久に命じて編修させ、松村清之・力石忠一らの補筆・校訂を経て貞享二(一六八五)年に出版したもの。鎌倉の概説・地名・旧跡・寺社などについて詳述したもので、概ね一巻分が約一日の行程にとってある。後に江戸幕府が「新編相模国風土記稿」を編纂した際、すでに本書があるという理由から、鎌倉郡の部分が簡略化されることとなった。私は既に遙か昔に全篇の電子化注をサイト版で完遂している。私の「心朽窩旧館」を参照されたい。また、そこにリンクさせてあるが、その原拠となった光圀の鎌倉への旅の記録である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」(サイト一括版。ブログ分割版もある)もある。藤綱への言及は、「新編鎌倉志卷之二」の「滑川」の条に、知られたエピソードで不木も後で記す、十文の銭を川に落として、五十銭で松明(タイマツ)を買って探し出したという話が載る。

「蘇味道が故事」既注。]

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