小酒井不木 紅蜘蛛の怪異 (正規表現版・オリジナル注附)
[やぶちゃん注:本篇は大正一五(一九二六)年九月号『キング』初出である。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「稀有の犯罪」(昭和二(一九二七)年六月十八日初版発行・同年同月二十日再版発行・大日本雄辯會刊)を視認した。但し、所持する『叢書 新靑年』の『小酒井不木』(監修・天瀬裕康・長山靖生・一九九四博文館新社刊)所収のもの(新字旧仮名・パラルビ)をOCRで読み込み、加工データとした。なお、対照した結果、何箇所か、異なる表記部分があったことを言い添えておく。特に指摘する必要性を感じないので、それはしていない。
本篇は、犯罪に遭遇するのが、後に警視庁の刑事となる人物を主人公とするのが、一つ、特異設定であると言えよう。
底本は、漢数字を除いて総ルビであるが、読みが振れる、或いは、若い読者にはあった方がよいと判断したもののみのパラ・ルビとした。踊り字「〱」「〲」は生理的嫌いなので、正字化した。行間空けに打たれたアスタリスクは、ブラウザの不具合を考えて記号の間を縮め、さらに、引き上げてある。傍点「﹅」は太字に代えた。最後に出る見出し附き新聞記事は、底本では、最終行を除いて(これは、原本の植字工のミスではなく、確信犯。一字下げで組むと、当時の版組み上、最後の鈎括弧(『〕』)が次行の頭に出て禁則となってしまうからである。)全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、一行字数を減じて示した。
一部で、オリジナルに注を附した。]
紅蜘蛛の怪異
一
『私(わたし)が警視廳の刑事になつた動機を話せといふのですか。さうですねえ、大して珍らしい動機ではないですが、そこに一寸(ちよつと)したロマンスがあるのですよ。などといふと聊か皆さんの好奇心をそゝるでせうが、話して見れば案外つまらぬかも知れません。然し、私自身にとつては一生涯忘れることの出來ぬ大冒險でした。』
と、森一(もりはじめ)氏は語りはじめた。まだ四十三四の年輩であるのに、可なりに白髮の多いことは、氏の半生の苦勞をあからさまに物語つて居るといつてよい。此度(このたび)氏が、歐米の警察制度視察のため海外へ出張を命ぜられたについて、今宵は氏と懇意にして居(ゐ)るものが十人ほど集つて送別の宴を催ばしたのであるが、平素無口である氏が、非常に愉快に談笑に耽(ふけ)つたから、私は、かねて聞きたいと思つて居た氏の刑事志願の動機をたづねると、ほかの人たちも口を揃へて促(うな)がしたので、氏は遂に、今まで誰(だれ)にも話さなかつた秘密を快く打ちあけるに至つたのである。
* * *
* *
今迄、このことをどなたにもお話しなかつたのは、自分の恥をさらけ出さねばならぬからでした。若氣(わかげ)の至りとはいへ、あまりにも馬鹿々々しい目に出逢ひ、その結果、生命危篤に陷つたといふやうな、變な冒險なのですから、お話する勇氣がなかつたのですが、當分、皆さんに御別れしなければなりませんから、いはば置土產に、私一代の懺悔話(ざんげばなし)を致さうと思ひます。
少し、餘談に亙(わた)るかも知れませんが、私は皆さんに、病氣といふものが、全く本人の心の持ち方一つで治るといふことを特に申し上げたいと思ひます。私も若いときには肺結核で瀕死の狀態に立ち至りましたが、それが一朝(てう)心に變動が起つてこの通りピンピンした身體(からだ)になつてしまつたので御座います。これから申し上げるお話も、實は私が二十年ほど前に、肺結核に罹(かゝ)つた時からはじまるので御座います。
私は名古屋の舊藩士の一人息子として生れましたが、十八歲の時、父と母が相次いで肺病でなくなりましたから、中學を卒業するなり、私は家(うち)の財產を金に替へ、上京して早稻田大學の文科に入りました。三年級になる迄は無事に暮しましたが、友人たちと、ふしだらな遊びをしたのが祟(たゝ)つたのか、その秋のはじめから、何となく健康がすぐれませんでした。で、醫師に診てもらふと、右肺尖(みぎはいせん)カタルだから、是非今のうちに興津(おきつ)あたりで一年ぐらゐ靜養するがよいとの忠告を受けました。兩親が二人とも肺病で死にましたし、何事も命あつての物種(ものだね)ですから、醫師の言(げん)に從ひ、少くとも一ケ年興津に滯在しようと決心したのであります。中學の時分から髙山樗牛(ちよぎう)が大好きで、興津には可(か)なりのあこがれを持つて居りましたから、いよいよ私は、行李(かうり)をまとめて、鶴卷町(つるまきちやう)の下宿に別れを告げ、新橋停車場(ていしやじやう)に人力車を走らせました。
[やぶちゃん注:「肺尖カタル」肺尖部の結核性病変。肺結核の初期症状であるが、肺結核が治り難かった時代には、ぼかして言うのにも使われた。
「興津」現在の静岡県静岡市清水区の地名(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)として残り、古くからあった地名であり、海辺の宿場町で、漁村であった。この辺りの海辺は、古くから「清見潟」(きよみがた)と呼ばれ、歌枕としても著名で、風光明媚で知られ、明治以降は、皇族や夏目漱石・志賀直哉らの文豪の避寒地や、上流階級に別荘地として全国的にも知られていた。丁度、この主人公の記載の頃に当たるであろう、大正二(一九一三)年の夏、芥川龍之介は、東京帝国大学へ進学する直前の半月程を、この南西直近の現在の清水区北矢部にある新定院(しんじょういん)で避暑している。私の「芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」、及び、「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通」を見られたい。実は、当初は現在の清水区興津清見寺町(せいけんじちょう)にある清見寺(せいけんじ)を希望していたのだが、満室であったため、仕方なく、新定院に代えたのである。
「髙山樗牛」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 文章』の「樗牛」の注を参照されたいが、高山樗牛は明治三三(一九〇〇)年十二月、まさに、その清見寺の門前にあった「三清館」に滞在した。現在、同寺に高山樗牛記念碑(「淸見寺鐘聲」という文章を刻してある)がある。「清見寺」公式サイト内のここを見られたい。
「鶴卷町」早稲田大学の東に接する新宿区早稲田鶴巻町。現在も、学生用の下宿屋が多い。]
午後六時半發の列車に乘るために駈けつけたのですけれど、先方(せんぱう)へ眞夜中に着くのも面白くないから、いつそ、こちらを眞夜中に出發して先方へ朝着くことにしようと、ふと、氣が變つたのであります。その時、すなほに六時半の汽車に乘つて居たならば、これから申しあげるやうな、私の一生涯に於ける最大の冐險はしなかつたのですが、新橋へ着いて、當分大都會の空氣が吸へないかと思ふと、一種の悲哀が胸に迫つて來たので、三四時間付近を散步して見ようと決心し、かたがた出發を遲らせた譯なのです。で、荷物だけを先へ送つて、私は手ぶらになつて、夜の町へ出かけました。
空は美しく晴れて、星が一ぱい輝いて居りました。秋の末のことヽて、妙に寒い風が和
服のすき閒からはいつて、感じ易くなつて居る私の皮膚に栗を生ぜしめましたが、私は中
析帽を眼深にかぶつて、何かに引摺られるやうに、白晝のごとき銀座通りの人ごみの中を、
縫ふやうにして、京橋の方に步いて行きました。その夜に限つて私は、はじめて上京した
時のやうに、見るものゝ 悉くを珍らしく思ひました。
そのうちに私はある街角の洋品店の前に來ました。シヨウ・ウインドウに飾られてある蠟細工(らうざいく)の女人形(をんなにんぎやう)が、妙になつかしいやうに思はれたので、暫らくの間立ちどまつて、じつと眺めて居りました。
ふと、氣が附くと、薄暗い橫町(よこちやう)に一人の若い女が、腰をかゞめて、苦しさうに立ちどまって居りました。私は氣の毒に思つて傍に近寄りますと、女は顏を上げましたが、その美しさは今もなほ目の前にちらつく程でした。女は私の顏を見て、何か怖いものに出逢つたやうな表情をしましたが、私はそれを苦痛のためであると解釋しました。さうして直感とでも言ひますか、女は飢(うゑ)に苦しんで居るやうにも思へました。よく見ると、女はあまりよい階級には屬して居ないらしく、古びた銘仙の羽織に銘仙の袷(あはせ)を着て、垢のついたメリンスの帶をしめて居りました。
私はつとめて叮嚀な言葉づかひをして、
『どうかなさいましたか。苦しさうに見えますが、何でしたら、御宅まで御送りしませうか。』と言つて、右の手を差出(さしだ)しました。
すると、彼女は再びチラと私の顏を見ましたが、さも苦しさうに腰をのばして、左手で私の手にすがり、
『すみません。』と、いひながら、私の身體(からだ)にもたれるやうに寄りそひました。
大通りヘ出るのは何となく氣がひけましたし、それに彼女は、そはそはして、時々あたりを見まはしましたから、私たちは、そのうす暗い橫町をまつすぐに進みました。
『どこまで行きますか。』と私は步きながらたづねました。その時、彼女は突然立ちどまつて顏をしかめ、腰をかゞめました。
『お腹(なか)が痛いのですか。』と私は彼女の身體を抱くやうに手をかけました。ふつくりした肉の感じが、妙にはげしく私の心を剌戟しました。女は恥かしさうな顏をしながら、
『今朝からまだ何もいたゞきせん。』と細い聲で言ひました。
私は直感の當つたことを知つて、
『それはお氣の毒ですねえ。』といひ乍ら、そのあたりを見まはすと、ちやうど五六軒先に蕎麥屋があつたので、私は默つて彼女を促(うな)がして中へはひりますと、彼女はすなほについて來ました。
私たちは二階へ上つて種(たね)ものを注文しました。二階には客は一人も居りませんでしたが、女は恥かしさうにして、運ばれた蕎麥をおいしさうに喰べました。私はうす暗い電燈の下(した)で、つつましやかに箸を運ぶ彼女の姿をつくづく觀察しました。漆黑(しつこく)の髮は銀杏返(いちやうがへ)しに結(ゆ)はれ、色が拔ける程に白く、大つぶな眼を蔽ふ長い睫毛(まつげ)が、顏全體に幾分か悲しさうな表情を帶(お)ばせて居りました。私は生れてから、これ程美しい女に接したことがありませんでしたから、一種の威壓をさへ感じました。さうして、この女は一たい何ものであらうかといふ疑問が雲のやうに湧いて來ました。
やがて女は、箸を置いて、
『どうも、大へん、御厄介(ごやくかい)になりました。』といつて輕く御辭儀をしました。その樣子は良家に育つた者のやうにも思はれました。女は更に言葉を續けました。
『こんなに御厄介になつても御恩報じの出來ないのが殘念で御座います。』
かういつて彼女は顏を紅(あか)らめてうつむきました。
私はこの言葉にどぎまぎして、
『これからどちらへ御行きになりますか。』とたづねました。
すると女は急に悲しさうな顏をして言ひました。
『實は、今朝(けさ)まで番町のある御屋敷に奉公して居たので御座いますが、御ひまを貰つて、沼津の實家へ歸らうとしますと、新橋の停車場(ていしやば)で、男の人になれなれしく話しかけられ、いつの間にか、荷物もお金も盜(と)られてしまつたので御座います。それから途方に暮れて、的(あて)もなく步きまはりましたが、急に腹痛(はらいた)が起つて難儀して居るところを、あなたに救つて頂いたので御座います。』
これをきいて私には同情の念がむらむらと起きました。
『今晚私は興津へ行きますから、よかつたら沼津まで御送りしませうか。』
その時彼女は又もや顏をしかめました。
『有難う御座います。けれど私はかうなつた以上、何だか國元へ歸るのが厭で御座います。それに氣分も惡いですから、今晚は、どこかこの邊(へん)で泊りたいと思ひます。』
かういつてから、彼女は太息(ためいき)をついて暫らく躊躇して居ましたが、やがて、決心したやうに言ひました。
『それに私、あなたの御親切に向つて御禮(おれい)がしたいと思ひますので……』
彼女は俯向(うつむ)きました。私は彼女の言菓の意味をはつきり理解することが出來ました。さうして急に心臟の鼓動がはげしくなりました。皆さんは定めし私のその時の心持をよく理解して下さるだらうと思ひます。たうとう私たちは無言のうちにある約束をきめてしまひました。
やがて、私たちは蕎麥屋を出ました。凡そ一町ほど步いて行きますと、宿屋が二三軒並んで居(ゐ)ましたので、とりつきの家にはひりますと、亭主は氣をきかせて、女中に命じて私たちを奧の離れ座敷に案内させました。宿(やど)へはひると私よりも彼女の方が度胸がすわつて、女中の持つて來た宿帳に、彼女自身、すらすらと筆を運ばせ、出鱈目(でたらめ)な名を書いて否應(いやおう)なく私たち二人を夫婦にしてしまひました。さうして、まだ九時を打つて間もないのに、女中に命じて床(とこ)をとらせました。
二
思ひがけない幸福に浴して、私は床の中で眼(め)をふさいで、今夜の冒險の顚末(てんまつ)を、まるで夢を見るかのやうに思ひめぐらして居(ゐ)ますと、ふと、女が身を顫(ふる)はせて居るのに氣附きました。見ると彼女は頻りに啜泣(すゝりなき)をして居(を)りました。私はびつくりして事情をたづねましたが、彼女はたゞ泣くばかりでした。私は彼女が私に身を任せたことを後悔しはじめたのであらうと考へて、そのことをたづねますと、彼女は突然むくりと床の上に起き上りました。私も共に起き上つて、何事が起きたのかと、彼女の樣子を見つめて居(ゐ)ますと、彼女は突然、
『わたしはもう生きて居(を)れません。』といひ放ちました。
私はぎよつとしました。
『どうしたのです? 何故(なぜ)です?』と私は聲を顫はせてたづねました。
『私は今朝(けさ)御屋敷の寶石を盜んで逃げて米たのです。それは私の出來心でしたことではありません。御前樣(ごぜんさま)に對する復讐をしたのです。…………』
『え、復讐?』と、私は思はずたづね返しました。
彼女はうなづいて、何思(なにおも)つたか、にはかに寢衣(ねまき)を脫いで、大理石のやうな美しい肌をあらはし、さうして、その背中を私の方に向けました。私は彼女の背中を見た瞬間、私の全身の血液が凍(こゞ)るかと思ひました。といふのは、彼女の背中一ぱいに、巨大な蜘蛛(くも)が六本(ほん)[やぶちゃん注:「六」はママ。]の足を擴(ひろ)げて蟠(わだかま)つて居(ゐ)る文身(いれずみ)が丁度(ちやうど)、握拳(にぎりこぶし)ばどの血を一滴(てき)したじらしたかのやうに、眞紅(まつか)な繪具で施され彼女の呼吸(こきふ)と共に、その蜘蛛が生きて居(ゐ)るやうに見えたからです。
私は小さい時から、非常に蜘蛛が嫌ひでした。それだのに今かうした巨大な紅蜘蛛(べにぐも)を見たのですから、私は卒倒しさうになつて、ぶるぶる身を顫はせました。
『この蜘蛛の文身は、御前樣が私に麻醉をかけ、知らぬ間(ま)に刺靑師(ほりものし)に入れさせになつたものです。御前樣は私の身を汚(けが)した上に、かうした罪の深いことをなさつたのです。私は心の中で何とかして、うらみが晴らしたいと思ひ、たうとう、すきを窺(うかが)つて、御前樣の一ばん大切にして居(を)られる寶石を盜んで逃げたのですが、運惡くそれも、停車場で盜られてしまつたのです。私はもう生きて居(を)れません。』
かういつて彼女はさめざめと泣きました、私は、その巨大な紅蜘蛛を見てから、彼女自身までが、何となく恐ろしく見え、どう答へてよいかわからずに、途方にくれて默つて居(ゐ)ました。
『ね、あなた。』と彼女は淚の顏をあげて私を見つめました。
『ね、お願ひですから私を殺して下さい。私はあなたの手に罹(かゝ)つて死にたいのです。今日(けふ)まで私は男の人を澤山見ましたけれど、あなた程戀しい人に逢つたのは始めてゞす。だから、あなたの手に罹つて死ねば本望(ほんまう)です。』
私は愈〻(いよいよ)恐ろしくなりました。すると彼女は突然何處(どこ)からともなく白鞘(しらさや)の短刀を取り出して、ぎらりと拔きました。さうしてそれを私の方へ差出(さしだ)しました。
『ね、早く、これで一思(ひとおも)ひに私を突刺(つきさ)して下さい。紅蜘蛛の眼(め)のところをづぶりと剌して下さい。』
私は恐怖のために舌の根が硬(こは)ばつたやうに感じました。身動きもせず、たゞ眼をぱちくりさせて坐つて居(ゐ)ました。すると彼女は、にやりと笑つて、さげすむやうな態度で言ひました。
『あなたは案外に意氣地(いくぢ)がないですのねえ。いゝわ、それぢやわたし、自分で死ぬから。けれどあなたも、わたしに見込まれたが最後、生命(いのち)がないから、さう思つていらつしやい。私はこの文身をされてから、私の心も蜘蛛のやうに執念深くなつたのよ。あなたは私を弄(もてあそ)んで置いて、今になつて私の願ひをきかぬのだもの、きつと復讐してやるわ。もうあなたには用がないから、さつさと出て行つて下さい。これから、私はこの短刀で自殺して、あなたに殺されたやうに見せかけ、あなたを死刑にさせずに置かぬからさう思つていらつしやい。たとひ、あなたが警察の手をのがれても、蜘蛛の一念で、きつとあなたに祟つてやるわよ。』
かう言つて彼女は短刀を取り上げました。
ふと、氣がついて見ると、私は銀座の裏通りを夢遊病者のやうに步いて居(ゐ)ました。私がどうして、あの離れ座敷から逃げ出したかを私ははつきり思ひ出すことが出米ませんでした。私はあの室(へや)から逃げ出す拍子に一二度蒲團(ふとん)に躓(つまづ)いて轉(ころ)んだやうな氣がしました。然し、彼女は私を追つては來ませんでした。
寒い夜風に觸れて、私の神經はだんだん沈靜して來ました。それと同時に、彼女はあれからどうしたゞらうかといふ疑問が頻りに浮かんで來ました。彼女は果して自殺しただらうか。それとも、何かの目的があつて、あのやうな狂言を行(おこな)つたであらうか。ことによると、彼女は私のあとから、あの宿(やど)を立ち出るかも知れない。彼女は何ものだらう。若(も)し宿から出て來れば、あとをつけて、その行先(ゆくさき)を知ることが出來る。かう思つて私は、一種の好奇心にかられ、停車場(ていしやば)附近まで步いて來たのを再び引き返して、私たちのかりそめの宿の方をさして步いて行きました。
と、宿屋のある△△町(まち)の角までくると、前方に人だかりがして居(ゐ)ました。近よつて見ると、警官が二三人私たちの宿の前に立つて居ました。私は、はつと思つて、群衆の中の一人の男に、何事が起きたのかとたづねました。するとその男は、私の顏をじろじろながめながら答へました。
『いま、あの宿屋で人殺しがあつたのです。殺されたのは若い女で、犯人は女の情夫らしく、早くも逃げてしまつたさうです。…………』
三
それから私がどんな行動をとつたかは、皆さんにも想像がつくだらうと思ひます。私は無我夢中で駈(か)けて來て、新橋停車場から、ちやうど都合よく、まさに發車せんとする十二時三十分の列車に乘りこみました。
汽車が出てから暫らくの間、私はたゞもうぼんやりとして、全身の筋肉がまるで水母(くらげ)のやうにぐつたりして居ましたが、だんだん我(われ)に返るにつれて、はげしい恐怖に驅(か)られました。たとひ自分で手を下さなかつたとはいへ、あゝした事情のもとに於(おい)ては、彼女が自殺したと認定される譯はなく、定(さだ)めし今頃は警察で私をさがして居(ゐ)るだらうと思つて、じつとしては居(を)られぬやうな氣がしました。私は心を沈(しづ)めて[やぶちゃん注:ママ。]考へました。宿帳には彼女が出鱈目(でたらめ)の名と往所とを書いたから、恐らく今頃は、それによつて搜索が行はれて居るにちがひないと思ひ、幾分か心が輕くなりましたが、その時、私はふと、懷(ふところ)に手を入れてぎくりとしました。
私は卽ち紙入(かみいれ)の紛失して居(ゐ)ることに氣付いたのです。私はその日、下宿を出るとき、腹卷(はらまき)に私の全財產を入れ、紙入に五十圓ばかり、錢入(ぜにいれ)に銀貨を十圓ばかり入れて出ましたが、切符と荷物の預り證(しよう)とは錢入に入れてあつたので、それまで紙入の紛失したことに氣付かなかつたのです。紙入の中には、住所の書いてない私の名刺があリましたので、若(も)し私が宿屋で落したものとすれば、警察にはすぐ私の本名が知れる譯(わけ)です。若し幸に新橋まで夢中で驅けつけたときに落したものとすればよいけれども、兎(と)に角(かく)私の本名を名乘るのは危險だと思ひましたので、以後は僞名を使ふことに決心しました。
私はことによると興津へつく前に逮捕されるかも知れぬと思ひました。一晚中まんじりともせずに、今後どうしたならば、身を晦(くら)ますことが出來るかといふことを一生懸命に考へました。その結果私は僞名で興津の療養所(れうやうじよ)にはひつたならば、きつと巧(たく)みに身をかくすことが出來るにちがひないと思ひました。まさか病人が殺人を行(おこな)はうとは警察でも考へないであらうから、それが一番安全な方法だらうと考へたのです。
興津へ着いたのは朝でした。今にも警官が近寄つて來はしないかとびくびくしましたが、幸(さいはひ)にも何ごともありませんでした。私は人力車に乘つて結核療養所をたづね、所長の診察を受けて、日本式の病室を與へられました。
翌日、私が、東京の新聞を見ると、果して殺人の記事が出て居(ゐ)ました。京橋區△△町(まち)御納屋(おなや)といふ宿(やど)で一人の若い女が殺され、犯人が行衞不明(ゆくゑふめい)だから警察では嚴探中(げんたんちう)だと書かれてあるのみで、私の名も彼女の名も書かれてはあリませんでした。多分警察では、何もかも秘密にして活動しつゝあるのだらうと思ひました。たゞ私はその時、始めて私たちの入つた宿が御納屋といふ名であることを知りました。
一週間は不安と焦燥(せうさう)との間(あひだ)に暮れました。然(しか)し何事も起りませんでした。前に見渡す美しい興津の海も、綠(みどり)ゆかしい背後の山々も、私には何の慰安(ゐあん)も與(あた)へませんでした。どうやら私は警察の手から逃(のが)れたやうに思ひましたが、それと同時に、彼女の恐ろしい言葉が耳の底に浮び上りました。
『たとひ、あなたが警察の手を逃れても、蜘蛛の一念で、きつと祟つてやるわよ。』といつた言葉が、ひしひしと私の胸に迫つて來ました。さうして、病室に居ても、あの巨大の紅蜘蛛(べにぐも)が、どこかの隅(すみ)から私を睨(にら)んで居(ゐ)るやうな氣がしたのです。
皆さんは私のその時の迷信的な氣持を御笑ひになりませう。然し肺病になると、誰(だれ)でも迷信家になります。ことに、その夜(よ)のことを思ふと、たとひ、自分で手を下さなかつたにしても、彼女の死にはまんざら責任のないことはないやうな氣がして、いはゞ良心の苛責(かしやく)が手傳つて、愈〻(いよいよ)私は迷信家となつたのであります。さうして、自分は早晚(さうばん)、紅蜘蛛の祟りによつて生命(いのち)を取られるにちがひないと信じてしまひました。
二週間經(た)ち、三週間經つても、別に警察の人はたづねて來ませんでした。新聞を見ましても、もはや何も書かれて居(ゐ)なくなりました。つまり御納屋(おなや)の殺人事件は迷宮にはいつたらしいのでした。私は多少安心しましたけれど、紅蜘蛛の幻想は日每(ひごと)に强く、私を惱ませました。
私の食慾はだんだん減(げん)じて行きました。咳嗽(がいそう)と咯痰(かくたん)が日ごとに殖(ふ)えて行(ゆ)きました[やぶちゃん注:「咳嗽」は広義の「咳(せき)」のこと。「咯痰」は広義の「痰(たん)」のこと。]。醫師は興津へ來てから病勢がにはかに進行したことに頭を傾(かし)げました。今でこそ、かうして、平氣で御話(おはなし)が出來ますけれど、その當時の私の氣持(きもち)は何にたとへんやうもない遺瀨(やるせ)ないものでした。いはば死刑の日を待つ囚人(しうじん)の心持(こゝろもち)にもたとふべきものでした。紅蜘蛛の姿がたえず眼(め)の前にちらつきました。私は彼女の恐ろしい執念が目に見えぬ絆(きづな)をもつて十重(へ)二十重(へ)[やぶちゃん注:「とへはたへ」。]に私をしばりつけて居るやうに思ひました。しまひには每朝暗く痰のねばねばした形が、巨大な蜘蛛の絲(いと)のやうに思はれました。滋養分を無理に攝取しても、藥劑を浴びるやうに呑(の)んでも、私の身體(からだ)は瘦せて行くばかりでした。熱は每日三十八度五分に上(のぼ)りました。たうとう、私は、寢床から起き上ることを禁ぜられてしまひました。さうして每晚(まいばん)私は、巨大な蜘蛛のために、その絲(いと)で締めつけられる夢を見て眼をさますと、油のやうな盜汗(ねあせ)をびつしよりかいて居るのでした。こんなに蜘蛛の幻想のために責められる位(くらゐ)ならば、いつそ、警察へ自首した方が、遙かに樂だらうと思ひましたが、もはや如何(いかん)ともすることが出來ませんでした。
二ケ月過ぎた頃には、私は衰弱の極(きよく)に達しました。醫師は私に新聞を見ることをさへ禁じました。たまたま空を見ましても、雲の形が蜘蛛のうづくまつて居るやうに見えたり、看護婦の使用して居る楕圓形の懷鏡(ふところかがみ)が、巨大な蜘蛛の眼球(がんきう)に見えたり、眼を開いても、眼を閉ぢても、蜘蛛は一刻(こく)の休みもなく私をせめるのでありました。[やぶちゃん注:「看護婦の使用して居る楕圓形の懷鏡」言わずもがなであるが、診察用のものではなく、看護婦が自身の身だしなみを見るための小型の手鏡である。]
ある朝、――それは何となく陰欝な曇り日(び)でした。看護婦に食事を與(あた)へてもらつて居ると、突然私は、これまで經驗したことのない、はげしい咳嗽(がいそう)に襲はれ、次の瞬間思はずも、あたり一面に眞紅な血の飛沫(ひまつ)をとばせました。看護婦は驚いて醫師を呼びに行きました。けたゝましい咳嗽は續けざまに起つて、白い蒲團の上や疊の上は、點々たる血痕(けつこん)で一ぱいに染められました。はじめは、精神が比較的はつきりして居(ゐ)ましたが、後(のち)に、ぼーつとした氣持になりました。と、その時です。疊の上や敷布の上に飛び散つた一滴一滴の血痕が、そのまゝ小さいのは小さいなりに、大きいのは大きいなりにそれぞれ無數の紅蜘蛛(べにぐも)となつて、一齊(せい)に私の口元(くちもと)めがけてさらさらと動いて來ました。はつと思ふ拍子に私は人事不省に陷(おちい)つて居ました。
四
幾分かの後(のち)、氣がついて見ますと、私は醫師と看護婦とに介抱されて居ました。
『氣がつきましたか、よかつた、よかつた。靜かになさい。』と醫師はやさしく言ひました。私が何か言はうとすると醫師は手を振つて制しました。人事不省(じんじふせい)の間(あひだ)に注射が行はれたと見え、左の腕がしくしく痛みました。
醫師は看護婦に向つて、私の胸に氷囊(ひやうなう)を當てるやうに命じ、私に向つて、もう大丈夫だから、絕對安靜にして居(ゐ)なさいと言つて病室を去りました。私ははじめ、ぼんやりして居ましたが、だんだん意識が明瞭になるに連(つ)れ、愈〻紅蜘蛛の祟りで死なねばならぬことを悟りました。
死ぬと定(き)まつた以上私は醫師に向つて懺悔(ざんげ)して置きたいと思ひました。で、私は、看護婦に醫師を呼ばせました。醫師はすぐ樣(さま)やつて來て、私の意志をきいて、はじめは話しをすることに猛烈に反對しましたが、私の態度が眞劍であつたので、遂に内證聲(なんしよごゑ)で話すことを許しました。
私は私の冒險の一伍一什(いちぶしじふ)を話し、紅蜘蛛の幻想に惱まされた顚末を告げ、さうして最後に、
『かういふ譯ですから、私が死んだら、どうかあなたから、警察の人に委細を告げて下さ
い。』と申しました。
語り終ると、私は何となく胸がすがくしくなるのを覺えました。醫師ははじめ好奇心をもつて聞いて居ましたが、後(のち)には意外であるといふやうな顏附(かほつき)をしました。さうして私が語り終るや否や、
『一寸(ちよつと)、御待ちなさい。』といつて、急いで病室を出て行(ゆ)きましたが、暫らくすると、手に一枚の新聞を携(たづさ)へて歸つてきました。さうして醫師は三面を開き、ある寫眞を指(さ)して、
『これに見覺えがありますか。』とたづねました。
私はその寫眞を見て血を咯(は)きさうになる位(くらゐ)びつくりしました。その寫眞こそ、私が夢寐(むび)にも忘れぬ彼女――卽ち紅蜘蛛の女であつたからです。[やぶちゃん注:「夢寐」「眠って夢を見ること」、また、「その間」の意。]
『あなたの先刻(せんこく)御話しになつたのはこの女(をんな)でせう。これを讀んで御覽なさい。』と、醫師はそのそばの新聞記事を指(さ)しました。
………紅蜘蛛(べにぐも)お辰(たつ)
補縛(ほばく)さる………
かねて、淺草、京橋方面に出沒して、幾多の男を
餌食(ゑじき)にして居た女賊(ぢよぞく)紅蜘蛛
お辰は、一昨夜、京橋署の手に逮捕された。彼女は
病人を裝(よそほ)つて男を釣り、附近の宿屋に連
れこんで、脊中(せなか)の紅蜘蛛の文身(いれず
み)を示して、男の度膽(どぎも)を拔き、後(あ
と)に短刀を出して殺してくれと迫(せま)り、男
が狼狽(らうばい)して逃げ出す𨻶(すき)に、男
の懷中物(くわいちうもの)を拔き取つて居たので
あるが、一昨夜、同樣の手段で××町(まち)の宿
屋に男を連れ込んだところを、張込中の警官に逮捕
されたものである。彼女の毒牙にかゝつた男は數へ
きれぬ程で、目下關係者を引致(いんち)して取調中
である。〔寫眞は紅蜘蛛お辰〕
あまりのことに私は私の眼を疑ひました。氣が遠くなるやうに覺えました。その時醫師は微笑(にせう)をうかべて言ひました。
『これは一昨日の新聞ですよ。どうやらあなたも被害者の一人のやうですねえ。紅蜘蛛は死んだどころかぴんぴんして居たのですよ。さあ、しつかりして下さい。もう紅蜘蛛の幻想は起りませんよ…………』
こゝまで語つて森氏はほつと一息した。私たち一同はこの不思議な話に息をこらして聞き入つた。
『すると、その殺された女は誰でしたか。』と、私は待ち切れないでたづねた。
『實は、私もそれが不審でならなかつたのですよ。で、その時から、私は刑事にならうと決心したのです。一つにはその殺された女が誰だつたかをたしかめる爲、今一つには、私のやうな世間知らずの男をだます女賊(ぢよぞく)をなくしたいと思つたからです。
さう決心すると、不思議にもその目から私の病氣は恢復(くわいふく)に向ひ、食慾(しよくよく)も盛んになる、熱も下(さが)る、盜汗(ねあせ)も出なくなる、體重も殖(ふ)えるといふ工合(ぎあひ)に、いはゞ薄紙(うすがみ)をはぐやうによくなつて、約四ケ月の後には以前にまさる健康狀態になつてしまひました。
そこで私は上京して、早稻田大學を退(しりぞ)き、警視廳の刑事を志願して、首尾よく採用されました。さうして、その夜の事件を探索して見ると、御納屋(おなや)で一人の女が殺されたのは事實でしたが、私たちがはひつた宿屋は御納屋ではなく、實はその隣りの錢屋(ぜにや)といふので、全く偶然に、御納屋の殺人の時間と、錢屋で私が紅蜘蛛の女を殘して去つた時間とが一致したのです。御納屋で殺された女は、たうとう身許(みもと)もわからず、又、その犯人も知れませんでした。いや、私は、偶然の事件のために、思はぬ災難を蒙(かうむ)りましたが、かうして健康を恢復した今日(こんにち)から見れば、まことに尊(たふと)い經驗をしたと思ふのであります。………………』
[やぶちゃん注:最後に。医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎(実際の死因は結核である)で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。彼は、この主人公とは逆に、医学者として嘱望されながら、遂には「紅蜘蛛の血の網に絡み捕られた」生涯だったのである。]