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カテゴリー「兎園小説」の215件の記事

2022/05/14

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 東大寺造立供養記(追記で「瑞稻」と「白烏」が付随する)

 

   ○「東大寺造立供養記」【文治元年。】云。周防國從杣中出大河曰佐波川矣。木津至于海【三十六町爲一里。】。

[やぶちゃん注:底本はここから。「瑞稻」(ずいたう:目出度い稲穂)と「白烏」(しろがらす:カラスのアルビノ)は無関係な記事であるからして、一行空けた。

 訓読を試みる。

   *

「東大寺造立供養記」【文治元年。】に云はく、『周防國、杣中(そまなか)より、出づる大河、「佐波川(さばがは)」と曰(い)ふ。木津にて、海に至る【三十六町、一里と爲(な)す。】。』と。

   *

この「東大寺造立供養記」は治承四(一一八〇)年に平重衡の南都焼き討ちによって焼失した東大寺大仏の再建から起こして、建仁三(一二〇三)年の東大寺総供養に至るまでの、造立及び供養に関する記述をほぼ編年的に記した史料で、短いものながら、そこには東大寺再建に於いて尽力した重源に関する記述が、多数、見られる。「文治元年」は一一八五年。原文は「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「群書類従」のこちら8コマ目を参照されたい。右丁一行目から「周防國」の記載が始まり、左丁七行目からが以上の文となる。「中川木材産業」公式サイトの「第7章 木材供給の歴史」の「6.心血を注いだ鎌倉の復興」に、『文治二年(一一八六年)春に、後白河法皇から周防国(山口県)が寄進されたので、重源は十余人の役人と、宋の鋳物師陳和郷』(「東大寺造立供養記」の誤字。先の6コマ目二行目を参照。陳和卿(ちんなけい)が正しい)『らを従え、瀬戸内海を渡って周防の杣に入った。そのとき内海沿岸の国々は源平の戦の終わった直後で、疲弊困窮はその極みに達していた。重源らは船中の米を施し、農耕の種子を与えたりしながら、深山幽谷をことごとく巡視して良材を探し求めた。また良材を見つけたら米を与えるという奨励の方法を取ったので、杣人たちは大いに発奮し、谷、峰の境なく尋ね回ったために、成績は大いにあがった』と冒頭にあって、以下、当時の復興のための木材の収集の苦労が詳しく述べられてあり、必見である。陳和卿は鎌倉史では、実朝のトンデモ渡宋を決意させる如何にも怪しい渡来人のイメージが濃厚で、「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」や、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」、及び、『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』を見られたのだが、ここでは東大寺再建を支えた人物としていい感じに描かれているのが、興味深い。「佐波川」の位置は当該ウィキの地図を見られたい。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

「栂尾明惠上人渡天行程記」云。從大唐長安京摩阿陀國王舍城五萬里。即當八千三百三十三里十二町一也【大里定也。三十六町一里定。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里定也。】この二書、「群書類從」中に在り。

[やぶちゃん注:訓読してみる。

   *

「栂尾明惠上人渡天行程記」に云はく、『大唐長安京より摩阿陀(まがだ)國王舍城に到るに五萬里、即ち、八千三百三十三里十二町に當たれり【大里の定(ぢやう)なり。三十六町を一里に定(さだ)む。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里の定なり。】。

   *

「摩阿陀國」は当該ウィキを参照されたい。「大里」「小里」は先の「三十六町一里幷一里塚權輿事」を見られたい。なお、「栂尾明惠上人渡天行程記」というのは、かの名僧明恵(みょうえ)が釈迦への強い思慕のあまり、元久元(一二〇五)年、この「大唐天竺里程記」を旅行準備の資料として作成し、『天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ』建仁二(一二〇二)年にも『インドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念して』(当該ウィキに拠る)おり、結局、明恵は大陸に渡ることはなかったので、注意が必要。なお、私はブログで「明恵上人夢記」及び「栂尾明恵上人伝記」【完】を手掛けている。]

右三ケ條、輪池翁の問れしかば、卒爾ながら、しか、答へたりき。そのゝち、翁、追考のよしにて、上層に朱をもて、しるして、見せられたり。さらば問ずもあれかしと思ふのみ。

 

追錄瑞稻、白烏、

天保二年辛卯の秋、越後魚沼郡妻有の庄、十日町の在鄕割、野村久左衞門といふ者の家の裏の軒端に、稻一株自然と生出しを、そがまゝに捨置しに、漸々生立て長さ八九尺に及び、葉の幅、八、九分なり。親穗は一穗に千百十數粒あり、小穗十三本、これぞ、おのおの五、六百粒有り。「未曾有の事也。」とて、遠近の老若、來會して、見る者、堵のごとくなりき。又天保三年壬辰の春、越後魚沼郡鹽澤の里人、鍵屋治左衞門といふものゝ園の樹に、烏、巢を造りて、雛三隻、生出たり。その内に白烏一隻あり。あるじのをとこ、人にぬすまれんことを怕れて、はやうとりおろして養ひたり。その烏、純白にして、初は觜と足と薄紅なりしが、成長に從ひて觜も脚も白くなりにき、といふ。鹽澤の里長、目擊して、圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり。

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げ。]

この二ケ條は、壬辰の夏四月、牧之が書狀もて告られしを、こゝに半張の餘紙ありければ、追錄しつるにこそ。    著作堂主人

[やぶちゃん注:「天保二年」一八三一年。因みに、ウィキの「天保」によれば、この前の元年には、『秋田藩で大冷害。旧暦』六『月の土用の頃でも』、『襦袢を着る必要な涼しさ』で、『秋のコメの収穫は僅かで高騰を招いた』とあり、而して五年後の天保七年には人肉食も行われた「天保の大飢饉」が襲っている。

「越後魚沼郡妻有」(つまあり)「の庄」現代の旧十日町市・旧川西町・旧中里村・津南町の広い地域を指した。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「十日町の在鄕割」現在の十日町市街か。

「自然と」「おのづと」。

「生出しを」「おひいでしを」。

「生立て」「おひたちて」。

「遠近」「をちこち」。

「堵」「かき」。垣根。

「魚沼郡鹽澤」新潟県南魚沼市塩沢

「園」「には」と訓じておく。

「生出たり」「うまれいでたり」。

「怕れて」「おそれて」。

「觜」「くちばし」或いは「はし」。

「鹽澤の里長」「北越雪譜」の作者鈴木牧之その人である。

「圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり」ネットを検索してみたところ、emi氏のブログ「今日も星日和 kyomo hoshi biyori」の「馬琴と画眉鳥シリーズ(その2)馬琴の『禽鏡』に感動!」で、それを、再度、模写した素敵なシロガラスの図が見られる。著作堂名義で馬琴がものした鳥図鑑「禽鏡」の中にあるものである。これは、凄い!

「壬辰」天保三年。

「半張」「はんはり」。]

2022/05/11

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 簞笥のはじまりの事

 

[やぶちゃん注:今までの底本ではここからだが、これも「曲亭雜記」巻第五・上に所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本と、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。]

 

    ○簞笥のはじまりの事

このもの、ふるくは所見なし。按ずるに、三百年あまり以前に、籠笥(ろうす)といひしもの、是、箪笥のはじめなるべし。この籠笥は「下學集」【「器材門」。】に見えて、唐櫃(カラビツ)、懸子(カケコ)、皮籠(カハコ)、葛籠(ツヾラ)、破籠(ヤレカゴ)、頓須籠、髮籠(カミコ)、籠笥(ロウス)、柳筥(ヤナギカゴ)と並べ出したり。この籠笥を後に簞笥と名づけしは、「廣韻」に『竹器ナルヲㇾ「箪」。方ナルヲㇾ「笥」』。とあるに據る。五山法師などの所爲(わざ)にもやありけんかし。元來(もと)、簞笥は籠(かご)をもてせし書箱(ふみばこ)なるべし。「書言字考」に、『本朝、俗、謂書厨簞笥』と註して、和訓をカタミバコとしるせしは、何に據れるにや。疑らくは記者の新製なるべし。もし、よめむかへに、簞笥の名目はなからずやと思へど、「群書類從」は、すべて舊宅の文庫に遺しおきたれば、只今、穿鑿によしなし。異目披閱(いもくひゑつ)してその事あらば、追書すべし。さばれ、大かた、なきなるべし。かゝれば籠笥(ろうす)の轉じて、簞笥となりしより後には、竹を編みて造らず、代りに桐の木をもて、引出しなどいふものすら、造りそえたるは、寬永以來の事にやあらん。譬へば、「柳筥(やなぎばこ)」の轉じて「挾み板」となり、又、轉じて「挾筥(はさみばこ)」となれるが如し。そが中に、「かさねだんす」といふものは、百年來のものと、おもほゆ。小石川の御簞笥町、牛込の簞笥町も、ふるき江戶繪圖、江戶地書等には、見えず。今は御簞笥町に、引出し橫町など唱ふる處もあり。こは、「私(わたくし)の字(あざな)なるべし」とばかりにして、簞笥を造りはじめたる時代は詳ならず。猶、考ふべし【「康煕字典」に、「廣韻」を引て、『箪笥は篋』と見えたり。但し、「簞」は「笥」なり。「小篋なり」と云ふ意にてもあるべけれども、同意の字をかさねて、熟字の如くつかふこと例あれば、既に唐山にて簞笥と云[やぶちゃん注:「いふ」。]名、ありぬらんと、おぼし。猶、考べし。「說文」、『簞は笥也』、「漢律令」、『京は小篋也』。】

 文政八年乙酉秋七月念一日  著作堂解識

再び云ふ、「たんす」は「擔笥」にて、明曆の災後、車長持を停廢せられしより、火事の時、擔ひ出すに便利の爲にとて、造り出せしものかと思へども、古くより「簞笥」とのみ書て、「擔笥」と書たるを見ねば、未、臆說を免れず。もし證文あらば一說とすべし【但、簞笥と云名目は、擔笥と別なるべし。】。

[やぶちゃん注:ウィキの「箪笥」によれば、『箪笥の登場は江戸時代前期、寛文年間』(一六六一年~一六七三年)『の大坂といわれ、正徳年間』(一七一一年~一七一六年)『頃から普及したとされる。それまで』、『衣服は竹製の行李、木製の長持や櫃といった箱状の物に収納されてきた』。『これらと比べた箪笥の特徴は何といっても』、『引き出しを備えたことで、これにより、大量の衣類や持ち物を効率よく収納できるようになった。逆に言えば、元禄時代の経済成長を経て、箪笥を使わなければいけないほど、人々の持ち物は増えてきたということである』。但し、『長持に比べ、多くの材料と高度な技術を必要とする箪笥は、まだまだ高価な品物であった。貧しい庶民にまで箪笥が広まるのは、江戸時代末期からである』。『「たんす」は、古くは「担子」』(本篇に「擔子」に同じ)『と書かれ、持ち運び可能な箱のことを指していた。江戸時代に引き出し式の「たんす」が登場すると、いつの間にか「箪笥」の字が当てられるようになった。中国では「箪」は円形の、「笥」は方形の竹製収納容器をさす言葉である。現在、中国では日本で箪笥と呼ぶものには「櫃」という語を用いる』とあった。

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約 三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該箇所は寛文九(一六六九)年版本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここ

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

「小石川の御簞笥町、……」ウィキの「箪笥町」を参照されたい。

「車長持」「くるまながもち」。移動しやすいように、車輪を下部にとりつけた長持。 明暦三(一六五七)年の「明暦の大火」で、車長持が道を塞ぎ、混雑したため、それ以後、禁止された。]

2022/05/09

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 三十六町一里幷一里塚權輿事

 

[やぶちゃん注:本篇は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第五のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。また、数字が出てだらだらと続けて書かれていて、非常に読み難いので、勝手に改行を入れて、段落を成形し、そこに注を挟んだ。なお、標題の最後の「権輿」は「けんよ」で、「権」は「秤(はかり)の錘(おもり)」、「輿」は「車の底の部分」の意で、孰れも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり・事の起こり・発端」の意。]

 

   ○三十六町を一里とせるはじまり幷一里塚の事

 解、按ずるに、「拾芥抄」【中末。】、「田籍部」に、

卅六町一里。此六里ㇾ條。條ㇾ從ㇾ北行於南【限トス卅六條。】。里ㇾ西於東【限トス卅六里。】。町ㇾ艮(ウシトラ)ニㇾ乾(イヌヰ)ニ【但し、已上可ㇾ隨國例。】

と、しるされたれど、三十六町をもて一里と定められし事は、いづれのおん時に、はじまりしにや、詳(つまびらか)ならず。

[やぶちゃん注:訓読しておく。

   *

三十六町を一里と爲(な)す。此れ、六里を條(じやう)と爲す。條は、北より起ちて、南に行く【三十六條を限りとす。】。里は、西に起きて、東に行く【三十六里限りとす。】。町(ちやう)は艮(うしとら)に始めて、乾(いぬゐ)に終はる【但し、已上は國例に隨ふべし。】

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。

「三十六町」一町は百九メートルで、三・九二七キロメートル。]

 舊き說に、いにしへ、六町を一里とせられしよしは、地六(ちろく)の數(すう)に隨はれしなり。そのゝち、三十六町を一里とせられしは、是と六六三十六、則ち、地の三十六禽(きん)によられるなりともいひ、或は鯉の鱗(うろこ)三十六の義によりて、里數を三十六里に定められしなりなどいへれども、何れも臆說にて、出處、定かならぬことなり。さばれ、その理なきにしもあらねば、姑(しばら)く、一說に備(そな)ふべし。但し、鯉の鱗の如きは鑿說(さくせつ)なり。

[やぶちゃん注:「地六」骰子(さいころ)を「一天地六」(いってんちろく)と呼び、その各面が天・地・東・西・南・北を象徴しているとされることから、天が「一」に対して、「六」が地を代表し、以下、その全方向として、「五」が東、「二」が西、「三」が南、「四」が北とされるところからの地の名数。

「地の三十六禽」一昼夜十二時の各時に一獣を配し、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣がついた計三十六の鳥獣。五行ではそれを卜(ぼく)に用い、仏家では、それぞれの時に現れて坐禅の行者を悩ますとされる。三十六獣。諸家で動物名は異なる。例えば、「画題Wiki」のここや、個人ブログ『「だい将棋」の謎』のここに三十六種のリストが出る。

「鯉の鱗三十六」平凡社「世界大百科事典」のコイ(鯉)の記載に、普通のコイは側線上の有孔鱗数が三十二から三十九枚ほどで、昔は鯉に「ロクロクリン」(六六鱗)という別名があったのは、側線鱗数の中間数の三十六枚の個体が多く見られたことによるとあった。「鑿說」「さくせつ」。内容が乏しく、真実性の薄い説。「鑿空」(さっくう)。]

 東涯先生の「制度通」に云、『公式令、凡、行程馬七十里、步は五十里、車三十里。本朝古へは中國の法にて、一里の中に小名を立て、何里何町と云こと、見えず。「拾芥抄」に、三十六町か二里とすとあるは、田地の積りにて、方一町の田を三十六、並べたるを云へり。今、路程の長さ、三十六町を一里とするものは、此等より轉じたるものなるべし。本朝に「里」と云ふに、三樣あり。戶令に、五十戶二一里一と云は、土地、廣狹によらず、家數を以て、一在所を立るの名なり。雜令に、三百步一里と云は、路程の法なり【三百步は規矩尺六尺を一步として、今の六尺か二間とすると同じく、一步は一間にて、今の五町なり。是、古への一里なり。○解云、上古の尺は、つまりたり。今の五町は、古の六町と同じかるべし。】。又、云、『今いふ三十六町を一里とし、五十町を一里とする事は、何れの頃よりと云ことを詳にせず。』と、いへり【以上、見「制度通」。又可ㇾ參「秉燭譚」。】

[やぶちゃん注:「東涯先生」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇~元文元(一七三六)年)は古義学派の儒者。仁斎の長男。父の説を継承・発展させ、また、考証に長じて、現代でも有益な語学や以下のような制度関係の著書を残している。堀川の家塾で門弟を教授した。

「制度通」中国の制度の変遷と、中国と日本の制度の関係について述べた書。全十三巻。享保九(一七二四)年の自序があるが、実際の刊行は没してより七十年も後の寛政九 (一七九七) 年。日本の制度については、王朝以降には論及していないが、記述は実証的で正確(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。馬琴の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの大正元(一九一二)年金港堂書籍刊の「三六、行程里數ノ事」のここで、前後を入れ替えている。

「秉燭譚」同じく東涯の考証随筆。]

 三十町二里の事は、紀原、詳かならず。先哲も、をさをさ「拾芥抄」によれるのみなり。又、今の一里塚のはじまりは、「信長記(しんちやうき)」に、天文九年冬、將軍家にて、諸國へ仰せ有て、四十町を二里とし、里堠(いちりづか)の上に、松と榎(えのき)を植ゑらると、いへり。又「蒼梧隨筆」には、天正年間の頃、織田信長公の下知に依て、一里を三十六町に定めて、其表示に榎を栽させ、旅人休泊の事を易からしめ給ふと、いへり。又、云、一里塚に榎木を栽しは、其頃の奉行のもの、「一里塚には松・杉を栽べきか。」と云ひしに、信長公の命に、「松杉は並木に等し、餘の木を栽よ。」と、の玉ひしを、餘の木を榎の木と聞誤りしといへども、密に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]考るに、榎と槐と、其木、相似て、槐は少にして、榎は多きもの故に、得るに易く、尤、松・杉と異にして、蔭をなして、大木となるを以て、槐に代て、榎を栽しなるべし。「事文類聚」を考るに、韋孝寬、雍州の刺史と爲て、道の側に一里每に一土堠[やぶちゃん注:「いちどこう」。]を築しに、雨にて、其土堆、度々、損順するに因て、又、勘辨して、土堠の處に槐木を植しむ。然して、損頽なきのみに非ず、旅行の人、庇蔭を得て、休息するに便りありとて、韋孝寬が德を仰ぎしとなり。周文、これを可として、「壹、雍州のみならんや。」とて、普く天下に令して、一里に一木、十里に二木、百里に五木を植させしと有り【按ずるに、一里一木とあるは、一里塚の事なり。十里に二木、百里に五木とあるは、是、旅行の人の息む爲の事にして、槐木を栽て、庇蔭を設けしめし、今の世に、茶屋・建場といふ類の如くなるべし。○解云、一里每には一木を栽へ、其より、第十里目には二木、第百里目に五木と、其木を倍して、里數の句ぎり句ぎりを知らせしなり。五里に一舍、十里に一亭の定とは、異なるべし。】。魏の文帝は、一里每に、一銅表を置く。髙さ五尺にして、里數を記せしとあり【已上、摘要。】。解云、魏文の一條は、天朝の多賀城の類(たぐひ)なるべければ、今の一里塚とは、おなじからぬなるべし。【韋孝寬が事は、「北史」に見えたり。】。

[やぶちゃん注:「信長記」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)が、書いた織田信長の一代記。但し、彼の書いた本書や「太閤記」は、また、彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作は複数ある。その中でも小瀬のそれは最も著名なものである。

「天文九年」一五四〇年。

「將軍家」足利義昭。

「蒼梧隨筆」江戸中期の有職故実家。大塚蒼梧の随筆。寛政一二(一八〇〇)年刊。

「天正年間の頃」一五七三年から一五九二年であるが、信長は天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)に自死しているから、その閉区間。

「槐」「えんじゆ」。マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「事文類聚」宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる類書。全一七〇巻。一二四六年成立。「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新追加し、総計二百三十六巻に膨れ上がった。

「韋孝寬」(い こうかん 五〇九年~五八〇年)南北朝の北魏・西魏・北周の軍事の名将で尚書令。彼が雍州刺史となったのは彼の中文ウィキによれば、西魏の五五三年。

「魏の文帝」(一八七年〜二二六年)は三国時代の魏の初代皇帝曹丕(在位二二〇年~二二六年)。曹操の子。父の死後、漢の献帝の禅譲を受けて皇帝となり、漢の制度を改革し、九品官人法を施行した。弟の曹植とともに文学を好み、多くの詩文を残した。

「多賀城の類」「壺の碑」のこと。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の私の注を参照。]

 

 又、按ずるに、「信長記」に四十町を一里とせられしと云ふは、今の世も伊勢路は四十町、四十八町を一里とす。かゝれば、當時(そのかみ)の四十町一里は、伊勢・尾張の里數によられしものか。當時(そのとき)といへども、諸國、大かたは、三十六町一里にして、或は、五十町・六十町・七十町を一里とせし處も、ありけん。今も猶ほ、しかなり【今の世も仙臺は六町一里也。これを「こみち」といふ。又、三十六里もてするを「大みち」といふ。山陽道は、五十町・七十二町を一里とすと云。】。

[やぶちゃん注:「こみち」古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」に同じ。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺(例えば唐代の一里は僅か五百五十九・八メートルである)に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、実は、江戸時代でも、江戸でこの単位をよく用いた。江戸期の諸本で、旅程などが異様に長いと感じたものは、この「坂東道」で換算すると、しっくりくるので、記憶しおかれるとよい。例えば、坂東里の「百里」は六十五・四キロメートルにしかならないのである。]

 この他、「續日本紀」に、限伊勢大神宮之界(タ)ツㇾ標としるされ、又、近世の制度(さだめ)には、一書に「奠陰(てんいん)」・「逸史(いつし)」を引て、慶長九年二月。下シテ東海東山北陸三道。是里置ㇾ堠。既ニ乄而西南亦皆依ルト其法云々と見えたるは、今の並樹の事にして、まさしく一里塚の事とも聞えず。「續紀」に見えたるは、道里遠近の碑を建られしにて、亦、是、多賀城の碑の類なるべし。

[やぶちゃん注:「奠陰」「逸史」孰れも江戸中期の大坂の儒学者中井竹山((一七三〇)年〜(一八〇四)年:朱子学者で荻生徂徠の「論語徴」を批判する「非徴」を書いたが、その朱子学は林家の学風とも闇斎の学風とも異なる、独自の自由なものであった)の著書。

「慶長九年」一六〇四年。開幕の翌年。]

 又、「一休和尙の連歌の發句なり。」とて、

 門松は冥土の旅の一里塚

といふを、人口に膾炙したり。これによれば一里塚は、天文・天正以前、はやく諸國にありしやうに思ふものもあるべけれど、この句、必しも、一休なりとは定めがたく、いと疑しきものながら、「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句を飜案して、「無常迅速」の意を示せしは、おもしろし【一休は、文明十三年十一月に遷化なり。かゝれば、一里塚を置れしといふ、天文九年より遡に數ば、六十年許上に在り。】。

[やぶちゃん注:「一休和尙の連歌の發句なり」これは、

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

として彼の狂歌ともされ、ネット上では、一休宗純の漢詩集「狂雲集」の一句に拠るとか、彼の作と、まことしやかに書いてあるサイトをあったが、これは恐らく、江戸時代に盛んに創作された〈一休話〉の中で形成された偽作である。

『「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句』蘇軾の詞「臨江仙送錢穆父」(臨江仙、錢穆父(せんぼくほ)を送る:一〇九一年作)の一節、

   *

 人生如逆旅

 我亦是行人

 (人生 逆旅のごとし

  我れも亦 是れ 行人)

   *

全篇は壺齋散人氏のサイト「漢詩と中国文化」の「臨江仙‧送錢穆父 :蘇軾を読む」がよい。言わずもがな、芭蕉の「奥の細道」冒頭の原拠である、李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李の園に宴するの序)」の冒頭「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客」(夫(そ)れ、天地は萬物の逆旅にして、光陰は百代の過客(くわかく)なり)のインスパイア。「奥の細道」冒頭原文は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』を参照されたい。]

2022/05/08

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 帶披考【追記・信天緣】

 

[やぶちゃん注:本篇の本説「帶披考(おびかけかう)」は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第一下のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。なお、追記記事の「信天緣(あはうどり)」は後者には載らない。因みに、『アホウドリは「信天翁」だろ?』という御仁のために、ここでは――まあ、お待ちなせえ、そこのおいらの注を読んで下せえ――とのみ言っておこう。]

 

   ○帶披考【佐渡にては「帶平(おびひら)」と云、越後にては「帶挾(おびはさみ)」と云。】」

「佐渡事略」【下卷。】云、『賤女(しづのめ)のさまは、山里にては三十三歲まで眉をそらず。いづれも白粉(おしろい)、紅脂(べに)をほどこさず、髮を、結はず。只、押し上げて、まげ置き、櫛・弄(かうがい)等の具(ぐ)、なし。「帶平」といふ物を、多くは帶にはさむ』云々。この「帶ひら」といふものを、こゝろ得がたく思ひしかば、文化のはじめ、佐渡相川の人石井靜藏(せいざう)、出府の時にたづねしに、曰く、『「帶ひら」は茜染(あかねぞめ)の木綿(もめん)を、二、三尺にきりて、これを竪に三に折り、女の帶へはさみ候。何の故といふことを、しらず。「昔、順德院、當國に遷(うつ)され給ひし頃よりの事。」などゝいふもの、あれども、慥(たしか)ならず。これも、近來(ちかどろ)は至つて稀になり候故、「帶ひら」をかくる女は、相川などにては、見かけ候はず。山里の賤の女の、さきくさのドウネを着て、繩を帶にしたる類ひは、前のあらはれぬ料(れう)までに、ひらきて、はさむものならん。』といへり。

[やぶちゃん注:「帶披(おびかけ)」小学館「日本国語大辞典」では、『近世、大名の奥女中などが使った帯留の一種。帯挟み。帯平。』とある。

「佐渡事略」佐渡奉行石野平蔵廣広通(ひろみち 天明元(一七八一)年~天明六年まで在勤)が、天明二年に著わした佐渡地誌と見聞記。上・下・別録で全三巻。上巻では佐渡の大概を記し、下巻は佐渡に於見聞を記し、別録は金山・銀山のことを記している。当時の佐渡の国勢・気象・物産・風俗・鉱山の様子が知られるもの。「日本古典籍ビューア」の写本のここの左丁七行目以下。

「文化のはじめ」文化元年は一八〇四年で、文化十五年まで。

「石井靜藏」石井夏海(なつみ 天明三(一七八三)年~嘉永元(一八四八)年)は佐渡国雑太(さわた)郡相川生まれ。幼名は秀次郎、後に静蔵。別号、安瀾堂。江戸に出て、画を紀南嶺・谷文晁に、学問を大田南畝に、天文・地理・測量術・西洋画法を司馬江漢に学んだ。文政一二(一八二九)年、地方御役所絵師となった。曲亭馬琴・式亭三馬・酒井抱一らと親交があった。佐渡の歴史や伝承を題材にした戯作「小万畠双生種蒔」の稿本が残り、狂歌も詠んだ(サイト「UAG美術家研究所」の「佐渡奉行所の絵図師をつとめた石井夏海・文海父子」に拠った。彼の絵の画像も有り)。

「順德院」後鳥羽天皇の第三皇子で二代後の順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)。「承久の乱」で佐渡へ配流され、そこで没した(自死とも)。

「さきくさ」「三枝」でミツマタの上代語。

「ドウネ」不詳。「ドウ」は「胴」か。]

 

Zakkiobikake

 

Ensekiobikake

 

[やぶちゃん注:孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。全然違うタッチなので、二本の参考底本の図をともに示した。前の方が「曲亭雜記」のそれで(左下に絵師の署名(二字目は「陵」か)・落款有り)、後が「新燕石十種」のもの。以下も同様である。]

 

越後鹽澤の鈴木牧之(ぼくし)【鹽澤の宿長。】云、『越後にて寺泊など、佐渡の方(かた)によりたる田舍の婦人は、祭見物(まつりけんぶつ)、或は、晴(はれ)なる時に出(で)あるきするには、「帶はさみ」をいたし候。此「帶はさみ」といふものは、紅染(こうぞめ)の布の二尺あまりなるを三に折りて、前にて、少し、脇へせて、はさみ候よし、只今、いかゞ候や、當所にても、關六日町(はさむいかまち)などの、舊家の婦人の晴なるときは、「帶はさみ」をしたるよし、承り及び候ひき。』と、いへり【今は、その事、絕たるなるべし。】。

[やぶちゃん注:「鈴木牧之」(明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)は現在の新潟県魚沼市塩沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の豪商で随筆家。私の偏愛する北国の民俗学的随筆「北越雪譜」の作者としてとみに知られる(天保八(一八三七)年、初版三巻を刊し、天保十二年には四巻を追加)。

「關」塩沢の南方の現在の新潟県南魚沼市関か。

「六日町」塩沢の直近。]

 

Zakkiuhamo

 

Ensekiuhamo

 

[やぶちゃん注:キャプションがある。

   *

「襅(ウハモ)」

小ヒダ有とも云ヘり、未ㇾ詳。紐の左右の玉を、うしろヘめぐらして、帶に、はさむなり。長は、膝を不ㇾ過といへば、布一幅をもて、つくりしならん。

   *

「帶カケ」

佐渡・越後にては、「ひもをつけず」といふ。今はたゝみて、帶に、はさむゆゑなり。

   *

後者の「新燕石十種」の「帶カケ」に相当する「佐渡越後にては……」の「帯かけ」の図の中にサイズが記されてあり、縦が、

五寸斗(ばかり)

横が、

二尺余

とある。]

 

この兩說によりて按ずるに、彼(か)の「帶ひら」「帶はさみ」は、襅(ひつ)の遺製(ゐせい)なるべし。襅は往々國史に見えて、和名ウハモなり【「和名抄」には、なし。】。襅は字書に見えず。按ずるに、「韠」の「韋」を「衣」に易(かへ)たるなり。「韠」は「說文」云「韍」也。「正字通」、「韍」字の註に云、『韍布※芾紱、同トモニ蔽滕ㇾ也。韍又云、韠補密切所(ユヱン)一ㇾ。以ㇾ韋爲ㇾ之。禮玉藻』云々。

天朝の製、これに倣(なら)へり。但し、韋(かは)をもて作らず。代へるに、布をもてせり。是れ、その字、改めて、「衣」に從ふゆゑんなり。[やぶちゃん注:「※」=「㡀」+(「拔」―「扌」)。]

[やぶちゃん注:「襅」男は袴の上、女は下裳(したも)の上に着る裳。男は推古朝まで用いたが、女はさらに続けて用い平安時代に入ると上裳・下裳の別は無くなった。「しびら」「うわみ」とも呼ぶ(「日本国語大辞典」に拠る)。

『「韠」は「說文」云……』訓読を試みる。

   *

「韠(ひつ)」は「說文(せつもん)」に云はく、「韍(ふつ)」なり。「正字通」の、「韍」の字の註に云はく、『「韍」は布(ふ)・※[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。読みは音「へい」か。]・芾(ひ)・紱(ふつ)、同(とも)に、蔽(おほ)ふなるを滕ふ[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。音なら「とう」で、訓なら「湧く」「湧き上がる」だが、意味が通じない。]。「韍」の註に、又、云はく、『韠は「補」と「密」の切(せつ)。「前を蔽ふ」の所以(ゆゑん)たり。「韋」を以つて之れと爲(な)す。禮玉藻(れいぎよくさう)』云々。

   *

「芾」は儀式の際の膝掛け。「紱」は紐。その他、全くお手上げ。]

韠は、いにしへ、婢妾賤婦の儔(ともがら)、凡そ、袴を着るに及ばざりし女子(じよし)の、前にかくるものなり。その長さ、膝をすぎず、といふ。これ、いにしへは、婦人の帶、甚だ細し。故に、步行のとき、前のひらくを覆(おほ)ふが爲(ため)なり。

襅(ひつ)ウハモと名づけしは、裳(も)のひらくを、覆ふ具なればなり。後世、戰國爭擾(さうゆう)の世となりし程は、襅(うはも)の名をだに、しらぬもの、多かりけん。さりけれども、京師にては、はかなき遊(あそび)女のたぐひまで、前のひらくを厭(いと)ふが爲に、「帶かけ」といふものをしたらんと思ふよしは、古畫に、その圖の遺(のこ)れるがあれば也【古畫の婦人の「帶かけ」をしたるを、予は享和中、京師にて見たり。かくて、こたび、又、見つるのみ。この前後には絕て見ぬなり。】。

[やぶちゃん注:「享和」文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]

されば流れての世の風俗なれば、襅(うはも)の製の、やうやく、變じて、只、色々の染絹などもて、今の「ゆまき」を、只、一幅(ひとはゞ)にしたるやうなるを、一重(ひとへ)、腰に繞(めぐ)らして、脇にて、結びとめたる也。そは天正前後の古畫に、その圖の遺るもの、則ち、是れ也。當時も、猶、婦人の帶は、究めて細かり。その畫圖(ゑづ)の帶に似たるは、則ち、これ、「帶かけ」にて、まことの帶は、隱(かく)るゝ故に、畫がゝず。こゝをもて、その「帶かけ」は、なかなかに、帶の如くに見ゆれども、その帶の結びめは、さらなり、端(はし)をだにゑがゝぬにて、「帶かけ」なる事、あきらかなり。かくて、百四、五十年以來(このかた)、婦人の帶の幅、年々(としどし)に廣くなりて、近來(ちかごろ)に至りては、昔の「帶かけ」の幅よりも、猶、廣きもの、多かり。この故に、「帶かけ」、變じて、「前垂(まへだれ)」になりたる也。

[やぶちゃん注:「ゆまき」「湯卷」。江戸中期までは、「入浴の際に腰に巻いた布」を本来は指した。宝永(一七〇四年~一七一一年)頃まで、男女ともに裸で入浴することはなく、布を腰に巻いて入った。湯文字 (ゆもじ) 。但し、ここは、所謂、女性の「腰巻き」のことであろう。「蹴出(けだ) し」「二幅(ふたの)」「いまき」などとも言った。

「天正」安土桃山時代の一五七三年から一五九二年まで。]

故老云、『むかし、江戶にては、小袖に、「袖口(そでくち)」といふものをかくることはなかりしに、東福門院樣御下向のとき、供奉の女中方の小袖に、袖口をかけたるを見て、江戶にても、袖口をかくることに、なりたり。又、「前垂」といふものも、江戶にてはせざりしに、是れは、京の茶屋女の風俗を、見および、聞きおよびて、遂に「前垂」をかくるやうになりたり。』と、いへり【今、市店の男女の前垂をかくるは、膝をよごさじ、との爲めなれば、いにしへの襅とは、その用心、異にして、いよいよ鄙俗になりしなり。】。

[やぶちゃん注:「東福門院」(慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年)は江戸幕府二代将軍徳川秀忠と御台所達子(浅井長政三女)の末娘で、後水尾天皇の中宮。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

解、按ずるに、「日本紀略」に、藤原保昌(やすまさ)が弟保輔が事、見えて、渠(かれ)を「袴垂(はかまだれ)」と異名(いみやう)したるは、世の人、しれり。この「袴垂」は襅(うはも)の事なるべし。保輔は無類の癖者(くせもの)にて、遂に盜賊となりたりし。その人となりを推(お)すときは、渠、その禮服、威儀を斁(いと)ふにより、襅を袴に代へたるにやあらん。こゝをもて、「袴垂」と呼ばれしものか。「襅には小積(こひだ)あり」としもいへば、「袴に似て、垂(たれ)たり」といふ義ならんと思ふかし。譬へば、今も襅に似たるものを「前かけ」と唱へ、多くは「前垂(まへだれ)」といふ。「垂(たれ)」の儀、此の如くなるべし。

[やぶちゃん注:「日本紀略」平安末期に成立した歴史書。全三十四巻。成立年・著者不詳。神代は「日本書紀」そのままで,神武から光孝までの各天皇は六国史の抄略、宇多天皇以後、後一条天皇までは「新国史」や「外記日記」などに基づいて編集されている。六国史の欠逸を補う重要史料とされる。

「藤原保昌」(やすまさ 天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)平安中期の貴族。で「道長四天王」の一人。藤原南家巨勢麻呂流。右京大夫藤原致忠の子。当該ウィキによれば、「今昔物語集」から抄訳して、以下の話を示す。十月、『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂』(はかまだれ)『という盗賊の首領が衣装を奪おうと』、『その者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで』、『衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』とあり、さらに、『同様の説話は』「宇治拾遺物語」にもあり、『後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(以下の通りなので、当該ウィキをリンクさせるに留める。因みに彼は傷害事件を起こし、史上最初の切腹で亡くなった人物として知られる)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが』、「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい』ため、『実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。「今昔物語集」のそれは、巻二十五の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(藤原(ふじはらの)保昌の朝臣(あそん)、盜人(ぬすびと)の袴垂に値(あ)へる語(こと)第七)で、「やたがらすナビ」のこちらで、新字体であるが、テクストとして読める。]

かくて、今は、「前垂」にも、花美を盡すことになりたり。しかれども、そは、京の祇園の「赤前垂(あかまへだれ)」を初めとして、江戶にても、遊里の茶屋女、或は、遊民・俠客(けふかく)の妻・むすめならでは、前垂を晴れには、せず。これによりて思ふに、古畫(こぐわ)の美人の「帶かけ」をしたるは、皆、是、當時(そのかみ)の妓女なるべし。そが中に、佐渡・北越の片田舍には、なかなかに、古風、遣(のこ)りて、「前だれ」をかくる婦人はあらで、彼(か)の「帶ひら」・「帶はさみ」をのみせしよしは、猶、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)の如しとも、いはましや。これすらも、近頃は、いと、まれまれになりしと、いへば、後々に至りなば、彼の地にても、「帶ひら」の名をだにしらずなりやせん。そは、なげくべきことになん。

[やぶちゃん注:「告朔の餼羊」古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならないということの喩え。「告朔」は周代に行われた儀式で、毎月一日に羊を廟に供えて祖先を祭ったことを指し、「餼羊」は告朔の際に供える生贄の羊のこと。出典は「論語」の「八佾(はちいつ)」。魯で告朔の儀式が廃れ、羊を供える形式だけが残っていた。「それでは、無意味だから、餼羊をやめるべきです。」と子貢が言うと、孔子は儀式が完全に廃れることを惜しんだとされる。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

「帶ひら」・「帶はさみ」と唱へるよしは、田舍といへども、今の帶は、その幅(はゞ)、廣かり。かゝれば、是を昔の如く、前にかけて、裳のひらくを掩(おほ)ふにしも及ばねば、只、昔より他行(たぎやう)には、しかするものぞ、とのみ、こゝろえて、只、いつとなく、三ツに折りて、おのおの、帶にはさみしより、「帶かけ」とだにいはずして云々と唱へるならん。譬へば、むかしは、駕輿(かき)のものも、多くは烏帽子(えぼし)・白張(しらばり)なりしに、烏帽子を省略する世となりしより、柹染(かきぞめ)、或(ある)は、段々筋(だんだらすぢ)の布をもて、鉢卷のやうにして、前をひらき、後ろをしぼりて、「盆(ぼん)の窪(くぼ)」にて結びしかば、則ち、烏帽子にかたどる也。又、その袖を長くしたるは、白張に擬(ぎ)したる也。しかるを、百年餘りこなたは、それをすら、略して、その布を頭(かうべ)に卷かせず。只、三つ、四つに長く折りて、腰に挾(はさ)ませたりしより、おしなべて、その布を「はさみ」「手ぬぐひ」と呼びなすのみ。それも又、近來(ちかごろ)は、その手拭を糊張(のりはり)にし、或(ある)は、片木(へぎ)の眞(しん)さへ入れて、檜扇(ひあふぎ)の如くしたるを、何等(なんら)の用に立つともしらねど、腰のかざりとこゝろえて、陸尺(ろくしやく)ばらの腰に揷すと、同日の談なるべし。

[やぶちゃん注:「陸尺」駕籠舁きを指す近世語。]

一日、輪池翁(りんちおう)、古畫(こぐわ)の美人三幅(さんぷく)を、予によせて問て云、「この箱書付には、『土佐又平(またへい)畫(ゑ)』とあれども、その時代より、猶、すこしおくれたるものなるべし。しかるに、畫圖(ゑづ)の美婦人の帶の幅(はば)、甚だ、廣し。抑(そもそも)婦人の帶の幅の、かくのごとく廣くなりしは、いつ頃よりの事なるや、聞(きか)まほし。」と、いはれたり。予、この心を得て、その畫(ゑ)を觀るに、げに又平が筆には、あらず。さばれ、畫中の人物は、天正中の妓女なるべく、畫者(ぐわしや)は天正後にやあらん。且つ、その帶と見られしは、眞(まこと)の帶にはあらずして、「帶かけ」ならんと、思ひしかば、則ち、「襅(うはも)」と、佐渡・越後なる「帶はさみ」の事をもて云々と、これをことわり、この畫(ぐわ)の時代に、かくのごとく帶の廣かるべきやうなし。その故は云々と、前條を擧げて答へしかば、輪池翁、うけ歡びて、猶、「帶はさみの證書(あかしふみ)を、見まくほし。」と、いはれたり。「扨も、輪池翁の博覽强記もて、下問(かもん)を耻ぢ給はぬ、めでたさよ。」とばかりにして、うちもおかれず、予が見たるまゝ聞たるまゝを、しどろもどろにしるしつけて、まゐらすること、右の如し。このうち、「襅(うはも)」の一條は、國史中に見えたるを、抄錄して置きたれども、抄錄の多卷(たくわん)なるを、探(さぐ)り出ださんも煩しければ、今、備(つぶさ)にはしるすに及ばず。又、「帶ひら」の一條は、「佐渡風土記」・「佐渡年代記」・「增補越後名寄」などに載せたりけん歟、ありとしも、おぼえず。この書どもは、舊宅なる書齋に殘し置きてしかば、そは、亦、異日、考索(かうさく)せん。正しく物にしるされしは、「佐渡事略」の外(ほか)暗(そら)には、おぼえず。餘は傳聞によるものから、近來(ちかごろ)、記憶を喪ひしに、かく引書(いんしよ)にすら、乏しければ、漏(もら)すも多く、違(たが)へるもあらん。猶、よく、正(たゞ)されん事をねがふのみ。時に文政八年五月四日瀧澤解拜具

[やぶちゃん注:「輪池翁」屋代弘賢。

「土佐又平」絵師土佐光起(元和三(一六一七)年~元禄四(一六九一)年)。父は「源氏物語画帖」などを描いた光則。承応三(一六五四)年三十八歳の時、左近将監に任ぜられ,室町最末期に廃絶した土佐派を再興、宮廷の絵所預(えどころあずかり)となった。また、この年の内裏造営に加わって、障壁画を描き、京都の公家社会と画壇に復帰して多年の宿望を果たした。しかし、この「又平」という呼称は、そもそもが、宝永五(一七〇八)年に大坂・竹本座で人形浄瑠璃として初演された近松門左衛門作の「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」に出る彼の通称としてもっぱら知られから、如何も怪しい。

「文政八年」一八二五年。]

追考(ついかう)

「伊豆國海島風土記(いづのくにかいとうふどき)」下卷に、八丈島なる男女(なんによ)の風俗をしるして云、『女の帶の幅は一尺ばかり、長、四、五尺に、紬(つむぎ)を織り、蘇枋木(すはうぼく)を以て、赤く染(そめ)、その儘、單(ひとへ)にて用ひ、老若(らうじやく)ともに、是を、前にて、結ぶ。男は眞(しん)を入れ、くけたる帶を結ぶもありと、いへり。これ、亦、「帶かけ」の遣風なるべく、今、佐渡にては、女の帶の幅の廣きを結ぶゆゑに、「帶ひら」を三にたゝみて、その帶に挾む也。又八丈島なる女は、いにしへの帶かけを、やがて、帶に用ふるにより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕(たきやう)の人をまじへざるをもて、物每(ものごと)に古風を存する事、多かり。五島・平戶などの島々なる風俗をも、よく訪ひ窮めなば、かゝるたぐひ、なほ、あるべし。文政八年七月朔 瀧澤解再識

[やぶちゃん注:「伊豆國海島風土記」官吏であった佐藤行信著。全六巻。伊豆諸島の地誌。天明元(二四四二)年に吉川義右衛門秀道という人物に調べさせたもの。

 なお、「曲亭雜記」には最後に、近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)の批評が載り、そこで、

   *

『「襅(ひつ)」は、いにしへ婢妾賤婦の儔(たぐひ)、凡そ賤しきもの袴を着(つけ)ざるもの、これに代へたるなるべし。』といふは、如何(いかゞ)あるべき。袴は衣(ころも)の下に着たるものにて、「褌(こん)」といふも同じ。昔は貴賤ともに「褌(こん)」をつけざるもの、なし。これを下衣(したえ)に着(つけ)るによりて、遂にこれを廢するに至れりと見ゆ。男子・婦人ともに上衣下裳(じやういかしやう)の両種にて、その下には袴、即、「褌(こん)」を穿きたり。唐𤲿(からゑ)の婦人に裳(も)の下より少し露はるゝは、卽、袴にて、多くは紅(こう)の色を用ひたり。この袴なくものはなかりしに、中古より袴を美麗にせしより、自(おのづ)から賤しきものは、用ふること、能はずして、これを廢せしかば、その風、今に至りて、我國の婦人、貴賤ともに、單裙(たんくん)をのみ用ひ、袴を衣の下に着(き)ること無き惡風に至れり。されば、『いにしへ、賤婦に、袴、なし。』とは謂ふべからず。

   *

と批判している。

 以下、別な話題になるので、一行空けた。]

 

追記「信天緣」        瀧澤解再選

天保三年壬辰夏六月、牛込御門内なる武家某氏屋敷の樹に、「信天緣」、忽然と來て、集たり。人みな、觀て、捉まくほりせしかども、高樹の事なれば、すべなかりしに、次の日、その鳥、おのづからに落て、庭に、あり。やがて、とらへて、いろいろ飢を養ひけるに、啖はず。後に、泥鰌をあたへければ、いさゝか、くらひしとぞ。「信天緣」、又、「信天翁」と云。この間の俗、「馬鹿鳥」といふもの、是、なり。形狀、鴇[やぶちゃん注:「とき」。]に似て、脚に水かきあり。總身、薄黑色にて、臭氣あり。觀るもの、鼻を掩ふ。高さ一尺五寸、羽をひらけば、左右へ、七尺五寸あり、といふ。高さに合[やぶちゃん注:「あは」]しては、羽は、甚、長かり。短尾、雁の如し。この鳥、物に傷られて[やぶちゃん注:「いためられて」。]、遠く逃れ來つるなるべし。いく程もなく隕たり[やぶちゃん注:「しにたり」。]。上總・伊豆の海濱には、多くあるものながら、江戶にて觀るは、めづらし。芳婿赫洲、その畫圖を懷にし、來て、予に見せたれど、寫生、ならねば、見るに足らず。この鳥の事、「本草綱目」幷に「五雜俎」・「大和本草」等に詳也。こゝに半頁の餘紙あれば、誌して遺忘に備ふ。

[やぶちゃん注:「信天緣」鳥綱ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus 。本邦には渡り鳥として、これを含めて三種が確認されている。現在の中文ウィキの「アホウドリ」でも、中文名を「短尾信天翁」とする。しかし、実は、現在の日本語に於ける標準和名アホウドリに、この漢字を当てたのは、中国人ではなく、貝原益軒の「大和本草」であるというのだ。これは一九八七年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑  4 鳥類」の「アホウドリ」の項に記されあり、現代中国の、その「信天翁」については、荒俣氏は日本からの逆輸入を疑っておられる。「大和本草」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの原本の「信天翁(ライ)」なのであるが、そこで益軒は、『「本草綱目」、鵜鶘ノ集解ニ信天翁ト云者即是也』と記しているのであるが(右丁五~六行目)、いざ、「本草綱目」を調べると「鵜鶘」(荒俣氏はこれはペリカンを指すとされる)の「集解」には、「信天翁」ではなく、「信天緣」と書いてあるのである(「漢籍リポジトリ」が動作していないので、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版本で示す。右丁の後ろから五行目末からで、二ヶ所出る)。即ち、少なくとも、現在のアホウドリに「信天翁」の漢字で誤って宛ててしまったのは、どうも、益軒の「犯行」であったらしいのである。益軒に批判的であった小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」では、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の「鵜鶘」の項の左丁六行目に、

   *

「信天縁」は、「ライ」【筑前。】、一名、「アホウドリ」【丹後。】、「ヲキノタイフ」【長州。】、「ヲキノゼウ」【豫州。】、「トウクロウ」【圡州。】。一名「信天翁」【「事物紺珠」。】。「大和本草」に、『「かもめ」に似て、淡青白にして、觜(はし)、長く、少し、それり。脚、赤。海邉にあり。雁より大なり。』と云ふ。

   *

とあって、蘭山は正しく「信天縁」を代表表記として用いている。中に「信天翁」もあるが、この「事物紺珠」は明の一六〇四年黄一正が編纂した動植物等について類書であるが、荒俣氏はこの名は『天翁(太陽)に信(まか)せる』の意で、『本来どの鳥を指したものかは不明である』とされ、さらに、『信天縁なる語自体もほんとうにアホウドリを指したかどうか定かではない』。『一説によれば信天縁はペリカンだといわれる』とされ、『明治以降』、『アホウドリは天縁とは〈縁〉がなくなった!』と結ばれているのである。というか、ここで馬琴の記した江戸に飛来した奇体な黒い臭い鳥というのは、私は、アホウドリではないのではないか? と思っている。一つの候補としては、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus はどうかなとは思う。]

2022/04/06

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その5) / 元吉原の記~了

 

   △再考原三郞左衞門事

 「寫本洞房語園」に云、『及ㇾ承候者、京都六條の三筋町と申は、天正年中に浪人原三郞左衞門と申者、取立候よし。此三郞左衞門儀は、元は大坂太閤樣御方に、御厩付の御奉公仕たる者にて、御出馬之節は、御馬の口取仕候處、病氣に付、致浪人、彼遊女町を取立申候。』。

[やぶちゃん注:以下、「證とす。」まで、底本では「あらずかし。」まで全体が一字下げ。]

 北峯、案るに、原三郞左衞門、この後、江戶に來り、柳町の遊女やをとり立しにや。同じ時代なるを思ヘば、何れか謬り傳へなるべし。

 𪈐齋、案るに、「吉原由緖書」に記せし趣と、心牛子の書れし原三郞左衞門が事は、同じからず。卽、「由緖書」の本文を引て、證とす。

 「吉原由緖書」云、『大橋之内柳町に、傾城や貳拾軒程、有ㇾ之。右大橋と申候は、今の常磐橋御門之通、柳町と申候は、道三河岸之邊に御座候。其頃、京都萬里小路と申所に、傾城屋、有ㇾ之候。是は原三郞左衞門と申者、天正年中に取立、柳町と申候。然ば、京都之遊女町之地を借り、用候樣に相聞候得共、大橋之内柳町と申は、其町之入口に、大木之柳二本、有ㇾ之候故、直に其町之名に致し、柳町と申候。右柳町之傾城屋共は、皆々、御當地素生之者共に御座候。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 かゝれば、「寫本語園」と「吉原由緖書」と、その記ところ、相同じ。「由緖書」にいふよしは、京都萬里小路なる傾城やは、天正年中に、原三郞左衞門といふ者が取立たる也。その傾城屋は、京の柳の馬場の邊にあるをもて、柳町と呼なしたり。江戶の柳町にも傾城屋あれば、京の柳町の名をかり用て、しか、呼なしたるやうに聞ゆれども、さにあらず。江戶の柳町には、元來、大木の柳二本あるによりて、やがて柳町とよびて候と云也。且、江戶の柳町なる傾城や等は、江戶素生のよしなるにても、他鄕の人のとり立たるに、あらざること明けし。心牛子は、「由緖」に載たる此くだりを見あやまりて、『江戶の柳町の傾城屋を原三郞左衞門が取立し』と書れしが、その謬也。原三郞左衞門は、天正年中に、京の六條柳町なる傾城やを取立しのみ。江戶の柳町なるけいせい屋を、取立しものにはあらずかし。

   △明和以前吉原失火類燒過半の事

 北峯云、『「洞房語園」卷中、「きてう物語」の條に、『頃は延寶六年吉原類燒の砌にて、家作も、いまだ出來揃はず、桐屋が家も、ひら家にて、客あれば、局にてもてなしたり』云々とあるを見れば、五、六軒の火事とも思はれず。又、「南北燒亡記」【吉原と芝居の火災を記たる册子なり。】」に、『延寶四丙辰年十二月七日、夜、戌の刻、新吉原傾城町西側、湯屋市兵衞宅より出火、類燒之輩、京町壹丁目・新町・角町・江戶町貳丁目・揚屋町、何れも、兩がは、不ㇾ殘外へ燒出』云々。『傾城燒死十三人、逐電十六人也。』とあるを倂考るに、こゝに『延寶四』といヘるは、「六年」の謬にやあらん。「語園」の此の段の物語に、延寶七年の事をいへるなれば、しか、おもふ也。』といヘり。

[やぶちゃん注:以下の最終段落は底本では全体が一字下げ。]

 此說によれば、延寶の火災を逃れしは、江戶町壹丁目と伏見町・堺町のみなるべし。心牛子の筆記に、『明曆後、出火も有ㇾ之由』とのみいへるは、かやうの事は、吉原にても、くはしくは傳はらぬにや。但し、『五町、不ㇾ殘類燒せし。』は、明和五年を始とすること、勿論也。延寶も大火ならぬにあらざれども、猶、兩三巷路、殘りし歟。且、このころは假宅など唱て、廓外に出て商賣することはなかりしによりて、世の人も明和以前の火災は、多く、しらぬなるべし。

 

 

元 吉 原 の 記 終

 

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その4)

 

[やぶちゃん注:底本のここから。以下の引用の内容を示す「その3」の馬琴の附言の末尾を以下に引用しておく。

   *

 附て云、心牛子の記されし、吉原起立の條々は、「吉原由緖書」の趣を抄錄せし也。又大橋の内柳町の遊女屋は、原三郞右衞門と云ものゝ、取立しといふこと、「吉原由緖書」にも見へたり。

 「御高札の事」、「鎭守の札の事」、「惣人別」、「藝者人別」、「『水吐尾』なる火之見やぐらの興廢」、「秋葉の常夜燈」、「吉原數度の火災の年月日時」等は、後の考にもなるべければ、珍とすべきものになん。よりて錄する事、左の如し。

   *

以下を書いた山口心牛なる人物は既に出た馬琴の年上の友人で「吉原図屛風」を所持していた書家中村仏庵の知人で、最後に「新吉原角町名主」であった「山口庄兵衞」なるものであることが記されてある。]

 

   △山口心牛筆記の内

 『大橋之内柳町と申侯者、道三河岸之通之由。是は原三郞右衞門と申者、天正年中に取立、柳町と申候由。其頃、庄司甚右衞門と申者』云々【原三郞右衞門が事は、「吉原由緖書」にあり。「由緖書」のまゝを書れし也。」】『御高札は、奧御祐筆御認之由、御高札は御番所にて、惣代之者並に名主へ御渡し、笠木並に建串は、御作事方より、五十軒道御高札場へ御持參、大工並に人足も御同道にて、笠木・建串・□繼等、補理[やぶちゃん注:「ほりし」。補い修理すること。設け整える。建て増す。]、御建替相濟、以前之御高札は、御作事方被ㇾ成御持參候事、鎭守之儀は、元吉原町之古例にて、神田明神より、年々、守札、神主より差越候事。

 惣人別は、年々增減有ㇾ之、凡、惣人數八千人程、右之内、遊女・禿とも三千六百人程、其外、遊女や・茶屋・商人屋等、月々にも增減有ㇾ之に付、巨細に記不ㇾ申候。

 名主は、江戶町壹丁目竹島仁左衞門、同町貳丁目西村佐兵衞、角町京町貳丁目兩町山口庄兵衞、京町壹丁目駒宮六左衞門、揚や町之儀は、年番名主、順番に支配致候故、名主無ㇾ之。

 醫師は、揚屋町に金山運庵、角町金山永示、其外、町每に醫師有ㇾ之候へども、久住之者無ㇾ之に付、記不ㇾ申候。

 大門預り會所守四郞兵衞儀は、從前々之通構にて、番人之支配を爲ㇾ致置候。

 秋葉常燈、「水吐尻」へ安置之儀は、寬政十二申年二月廿二日、下谷龍泉寺より出火、吉原町、類燒後、初て安置致候事、同所に十四年已前類燒後、補理不ㇾ申候事。

[やぶちゃん注:「秋葉常燈」「秋葉燈」は「秋葉常夜燈」の略。吉原にあった常明灯で、吉原仲の町の突き当たりの「水吐尻」(次注参照)に火除けの神として知られる秋葉山権現を祀る小社があり、その社前にあった高い銅製の灯籠を指す。

「水吐尻」は「すいどじり・すいだうじり」。元は「水道尻」で、「水戶尻」とも書いた。江戸の元吉原及び新吉原遊郭内にあった郭内の上水道の終点周辺の場所の名。]

男女藝者引請人、角町家持庄六儀は、安永八亥年中、五町之惣町人へ及對談一己に引受候事。

   男藝者 貳拾人程

 凡

   女藝者 百六拾人程

時々、增減有ㇾ之候得共、當時人數、右之通。

 大門、高さ棟迄、貳丈[やぶちゃん注:六メートル六センチ。]、冠木より地幅迄、八尺八寸[やぶちゃん注:二メートル六十六センチ。]、門之明、壹丈貳尺[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ弱。]、門柱、壹尺六寸[やぶちゃん注:約四十八センチ半。]に壹尺貳寸に御座候。

右は先日被仰下以に付、取調差上申候。色々取込罷在、心外延引御用捨可ㇾ披ㇾ下候。

    文政八酉年二月廿日   心  牛

      佛  庵  樣

 尙々、御座見御無用奉願上候、以上。

[やぶちゃん注:以下、標題前までは底本では全体が二字下げ。馬琴の補足。]

 右、山口心牛、應仲村佛庵之囑て所ㇾ識也。此記文之中、新吉原御高札御文言、並、元吉原起立之略文等、與「吉原由緖」所一ㇾ載同。因略省之畢。

   △新吉原火災之事

 明曆二申年十月九日、當所へ替地被仰付候處、翌三酉正月十八日、本鄕本妙寺より出火にて、御府内、大槪類燒、吉原町も不ㇾ殘類燒に付、所替之儀、追て可ㇾ被仰付、當時、小屋懸を致し、渡世可レ致旨、町奉行所にて被仰渡候處、同年六月、被召出、代地へ引移候樣被仰渡、節其、近邊、今戶村・山谷村・新鳥越邊へ、假に引移、新吉原町惣普請に取懸り、同八月中、當所へ引移り渡世致し候由。其後、吉原町も出火有ㇾ之候得共、二、三軒、或は、五、六軒之類燒にて、一圓之燒失は無ㇾ之候。然處、明和五子年四月五日、江戶町貳丁目四つ目屋喜三郞申遊女屋より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 明和以前、吉原町出火之事、下に錄す。倂考べし。

 明和八卯年四月廿二日、揚屋町河岸角梅屋と申遊女屋より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 明和九辰年二月廿九日、目黑行人坂より出火、五町、不ㇾ殘類燒致候。

 天明元丑年九月晦日、伏見町淸七店[やぶちゃん注:「だな」。]宗田屋と申茶屋より出火、江戶町貳丁目計[やぶちゃん注:「ばかり」。]、類燒。[やぶちゃん注:最後のものは改行がないが、改行した。

 以下、「いひしことあり。」まで、底本では全体が一字下げ。]

 按ずるに、これを「小夜ぎぬ火事」と云。伏見町河岸家田屋のあそび、「さよぎぬ」といふものゝ、つけ火せしよし、その頃、忽に、ことあらはれて、火刑に行れし也。「その怨靈のわざ頃[やぶちゃん注:不審。「歟」か。]、この後、しばしば、吉原町、失火す。」とて、世の風聞あり。文化の中ごろにや。「德本行者の念佛の功力によりて、『さよぎぬ』は成佛せし。」など、世俗のいひしことあり。

[やぶちゃん注:「德本行者」(とくほん 宝暦八(一七五八)年?~文政元(一八一八)年?)は浄土宗の僧。当該ウィキによれば、文化一一(一八一四)年、『江戸増上寺典海の要請により』、『江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた』とある。]

 天明四辰年四月十六日、京町壹丁目分水吐尻明家[やぶちゃん注:「あきや」。空家。]より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

[やぶちゃん注:以下の段落も同前。]

 按ずるに、この年のかり宅は、淺草並木町、兩國尾上町邊、中洲等也ければ、ことの外、繁昌しけり。「凡、假宅の盛なりしこと、これに增ことなし。」といへり。

 天明七未年十一月九日、角町分仲の町彥五郞店菊屋五郞兵衞より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 寬政六寅年四月二日、江戶町貳丁目丁字屋長兵衞・津の國屋重藏居宅地、境より、出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 寬政十二申年二月廿三日、下谷龍泉寺町より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 文化九申年十一月廿一日、淺草田圃非人頭善七小屋内より、出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 文化十三子年五月九日、京町壹丁目藤八店明店より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 文政七中年四月三日、京町貳丁目助右衞門店遊女屋金兵衞より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 右之通に御座候。但し、大門、燒殘、柱、取寄置申候。記事御認に御座候はゞ、兩面にて字數何程と申事、兩面御認之寸法等、御仰下候樣奉願上候。

  正月廿日       心   牛

    佛庵樣

    文政七甲申年四月三日、京町失火後、

    吉原大門左之方燒殘柱圖【圖、省略。】

 「此燒殘大門柱、みがきて、如ㇾ此、兩面、窪め、此度、吉原町起立より、廓内、數度、燒等まで、惣記を作り刻候て、小梅精舍前庭へ建候積り。後々、此記文、吉原内へも、建碑可ㇾ致。」との心牛子、相談なり。

 但し、心牛とあるは、新吉原角町名主山口庄兵衞也。

  五月十三日    南  無  佛

[やぶちゃん注:大門を大事にしたのは、先に見た通り、この特別な限定遊廓施設としての新吉原の、特別な幕府の定めた結界門たる大門の建造費用を幕府が負担したものだからと考えてよい。]

2022/04/05

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その3)

 

[やぶちゃん注:「曲亭雜記」の「元吉原の記」は前回の「(その2)」までで、以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここからだけが底本となる。以下の判読不能の多いそれは、吉原遊廓の創建者庄司甚右衞門が北角九郎兵衛なる人物に送った文書である。底本で見ると判るのだが、この□は判読不能字も含まれているのだが、後の解説によれば、書かれたものを、後から接ぎ合わせた結果、一行の文句が上下合わなくなった結果であると述べていることから、実は、原記載は、もっと遙かに読み難いものであったらしい。底本では、その上下の空隙を総て一行の末に寄せたものででもあるらしい。但し、実際、読んでみても、すんなり文が繋がっていないから、恐らくはそこに判読不能字も含まれてしまっているのであろう。かといって、吉川弘文館随筆大成版では、完全ベタで、ページの一行字数に合わせてしまった結果、異様な感じに□の列がランダムにガタガタと並んでしまい、さらに読む意欲を失わさせる結果となってしまっているのである。底本のママに電子化した。これを判読してそこに書かれた事態を推理・分析した馬琴には、正直、舌を巻いた。

 

 △庄司甚右衞門與北角九郞兵衞一書【南無佛庵所藏。】

前文闕

與左衞門ヲはい名をつくり候、ちそう被ㇾ成お□□□

候事、其かくれも御座なく候。それがし□□□□□□

其方とゑんぺんをも相むすび候へば□□□□□□□

[やぶちゃん注:「ゑんぺん」「緣邊」。「えんぺん」で、「婚姻による縁続きの間柄」の意。]

おやこ三人之御のぼり候時分は、三人之丘□□□□

方之人に御座候も不ㇾ存して、我ら□□□□□□□□

罷なりやり申候。其しさい之事は、七十五□□□□□

方へくうぢをかけ申ゟゝと申候。□を九□□□□

[やぶちゃん注:「ゟゝ」は「よりより」と読んでおく。]

にはいちけんも申分有間敷候間、申分□□□□□□

付は九郞兵衞方へかけ申まじく候と申間□□□□□

そのさた其方へも我ら方へもくうぢ□□□□□□□

申はけすらそれは吉原之内にも二人も□□□□□□

かやう成者御座候て、もし九郞兵衞事□□□□□□

くらし□あけ可ㇾ申候と申に付ては、右之□□□□□

二三□□の者共さきだて候て、御公儀にて□□□□

せんさく可ㇾ申候と相ことわられ、七十五人□□□□

者□共さたもいたし不ㇾ申候。我々の事□□□□□□

ひとたび申合候に付、かやう成むづかしき□□□□

それがしが身上に請候。右に貴殿樣□□□□□□□

むごきにんしゆに御なり候事か。いか樣我、□□□□

御こうみ可レ有候間、其方樣とめんだん□□□□□□

申たがいのぞんぶんしさい申可レ承候。右□□□□□

しさいみゝきゝの御まいにて、京にて□□□□□□

たしか□□□□□□□成候。此かへし□□□□□□□

右に申通萬事之しさい共、たがいにそ□□□□□□

ぶんはれ不ㇾ申候内は、互のとりひき仕□□□□□□

申まじく候間、其分御心得可ㇾ被ㇾ成候。□□□□□□

四年以前より之公事之内より、申ぶん御さ□□□□

いか樣其方より御ふんべつも可ㇾ有候ところ□□□

先日之御狀に、我々身上をおかしく□□□□□□□

候との御狀はいけん申候。又われわれの□□□□□

その方をおかしく存候。江戶之けいせいとし□□□

いゑやしき迄も我々に其方御申候事、□□□□□□

何かの事も吉兵衞は不ㇾ存候間、あとあとの事□□□

其方賴合と御申候所に、吉兵衞は七十五人より□□

之目つけに罷成、我々所へ參は□□□□□□□□□

あさ夕之くらしの事委承候ては、庄助□□□□□□

市左衞門、十左衞門よびよせ、日に日に我等にたへ□

かゝりを承申候事、四年以前之極月十八日□□□□

十九日之ぢぶんに吉兵衞よこめいたし□□□□□□

目つけをいたし候事、あらわれ申候に付て□□□□

吉兵衞をよびよせ、我々の壹がせう□□□□□□□

せんさくいたし候。さてもさてもむごき人に□□□□

候、さだめて是は、九郞兵衞殿よりさしひか□□□□

御座候と、吉兵衞に相ことわり候へば、そ□□□□□

我等所へはふつうに參不ㇾ申候。其上京に□れ□□□

七十五人之者共を御よせ彼ㇾ成、あさ夕て□□□□□

御ちそう被ㇾ成、我々のしさいを御きゝ□る□□□□

候事共かくれなく候。七十五人之者共□□□□□□

かみがたへ女かいに參候者共、又は我々の方之□□

者共女かいに參候所に、一たん申合候へば、七十□

五人之者共にはめんだん不ㇾ申ば、是はたん□□□□

\/に候へ共、ぎりをわけかやうに□□□□□□□

[やぶちゃん注:「\/」は踊り字「く」である。不明の字の踊り字であるので、特異的にこう示すしかない。]

かくに仕候、其方と我々の事は、ちいさき□□□□□

子共ゑんぺん申合候事、京都にても□□□□□□□

江戶にても人之存候所に、我々のく□□□□□□□

らい申者共、朝夕之御ふるまい被ㇾ成、御ち□□□□

そう被成候事は、但七十五人之内にては□□□□□

其方は御座なく候が、七十五人之内□□□□□□□

江戶□なり其たがいにぞんぶんのしさい□□□□□

その方樣も我々もたがいのぞんぶ□□□□□□□□

罷なり候はゞ、たがいのとりひきの□□□□□□□

仕候。そのうちはたがいにとりひき□□□□□□□

うけたまはるまじく候。右にゑんぺん□□□□□□

候事も、たがい之ちからになり候。た□□□□□□□

ゑんぺんには、御さゝ此度の我々の身□□□□□□

つぶし可ㇾ申候者共と一とうに御座□□□□□□□

我々いかんともめいわくに存候間、御ふんべ□□□

被成、□□かこらかたにてなり共、江戶にても貴□□

ぞんぶん之通可申分候。申分あまた□□□□□□

御座候へ共、あまりくどくど御座候、□□□□□□□□

早々申入候。謹言。

 十二月四日   庄司甚右衞門 花押

  北角九郞兵衞樣

  同 御 か も じ樣

 右の料紙は「西の内」にて、竪匠尺一尺一分餘、橫五尺五寸三分、四枚繼也。つぎめより、段々、字のあがりしは、書て後につぎ合せし故に、上下の揃はぬなるべし。上におしたる印はつぎ印なり。惡筆不文を、そのまゝ縮字して、摹し[やぶちゃん注:「うつし」。]とゞめつ。書中に『くうぢ』とあるは「公事」にて、猶、「訴訟」といふがごとし。

[やぶちゃん注:「西の内」「西ノ内紙(にしのうちし)」。茨城県常陸大宮市の旧山方町域で生産された和紙で、コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられていないことを特徴とする。江戸時代には水戸藩第一の特産品となり、各方面で幅広く使われた。強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた(当該ウィキに拠った)。

「匠尺」曲尺(かねじゃく)と同義であろう。]

 按に、庄司甚右衞門は、初の名を甚内といへり。慶長十一年の頃、橫山町に向坂甚内といふ惡黨ありて、甚右衞門に、出入をしかけ、遂に公裁に及びしとき、『相手、同名にて紛しく、御裁許、面倒。』の由に付、甚右衞門と改名せしよし、「吉原由緖書」に見へたり。庄司甚右衞門が子も、亦、甚右衞門と云。二代め甚右衞門が子を甚之丞といふ。三代め甚之丞が子を又左衞門といふ。是より代々、又左衞門と名のりたり。享保十年に、吉原起立の事を書つめて奉りし名主又左衞門は、元祖甚右衞門より六世の孫也。かゝれば、右なる書簡を、初代の甚右衞門が筆也とは定めがたし。予をもて、これを見れば、二代めの甚右衞門なるべし。無益のわざながら、その考評を左にしるす。

 甚右衞門が書中に、『吉原の内』云々とあるは、元吉原にあらず、新吉原になりてのことなるべし【これらのわけは、末に記すべし。】。又同書に、『先日之御狀に、我々身上をおかしく』存ぜられ『候との御狀はいけん申候』とあるによりておもふに、甚右衞門が遊女見世の西田屋も、やゝおとろへたる頃のことゝ聞ゆるなり。

[やぶちゃん注:太字は、底本ではここの右ページ下段一行目から二行目で、罫線の囲み字。]

 さて又、元吉原の一廓を立下され、遊女屋渡世御免の後も、猶、甚右衞門が手につかずして、江戶のはしばしなる、あちこちにて、妓女をもて世をわたりし茶屋【世に、これを『浮世風爐』といへり。「吉原由緖書」に、『茶やの遊女持』といへるは、これなり。】、凡、七十五軒ありしなり。甚右衞門が書中に、『七十五人』といひしは、このものどものことにぞ有ける。されば、「明曆の火災」已前より、吉原町にて、件の賣女屋[やぶちゃん注:「ばいたや」・「ばいぢよや」。]等を相手どりて、しばしば訴訟したれども、この頃までは賣女を御制禁のことも、今の如く嚴重なる御條目もなく、且、彼等も亦、申立る趣あるをもて、年をかさぬるのみにて、裁許なかりしとぞ。こは予が臆說にあらず。故老の口碑にも傳へ、「吉原由緖書」にも、粗、その事、見へたり。又、甚右衞門が書を贈りし北角九郞兵衞が事は、考るよしなけれ共、文面につきておもふに、甚右衞門に舊緣ある京の遊女屋歟。さらずは、遊女の賣買をもて、世わたりとするにてもあるべし。

「此ものは、もし、寫本「洞房語園」に見へたる、岡田九郞右衞門が子にはあらずや。」

と、北峯子、いへり。これにより、予も考合することなきにあらねど、そは又、すゑに記すべし。

[やぶちゃん注:「北峯子」「けんどん爭ひ」で絶交した山崎美成の号。]

 しかるに、九郞兵衞が、彼七十五人のものどもに荷擔せしを、何の故とはしるよしなけれど、當時、吉原よりも、又は、しばしなる賣女やも、京へ賣女を買出しに行によりて、九郞兵衞に、したしく交れるやうなれば、『九郞兵衞は遊女の賣買をもて、世わたりとするものにや。』と思ふなり。又、甚右衞門が子どもと、九郞兵衞が子ども、矧を結ぶ[やぶちゃん注:「やはぎを結ぶ」。喧嘩をするということか。]といへども、七十五人の賣女屋ども一隊となりて、甚右衞門が身上の衰へたることなどをもて、あしざまにいひしにより、遂に九郞兵衞も、七十五人に荷擔せしことは聞ゆれども、詳には考るよしもなし。又、吉兵衞がことの考は、末の條にていはん。又庄助、市左衞門、十左衞門などいへるは、吉原の者のやうに聞ゆれば、甚右衞門が訴訟の相談相手になりしものなるべき歟。又吉兵衞が方人のやうにも聞ゆれば、詳に評しがたし。當時、元古原に引はなれたる賣女屋の、江戶の中あちこちに猶有といへども、はじめの程、吉原より、いたくさはりを申出ざりしは、新に一廓を立下されし御めぐみに憚り奉り、且、世の人の吉原をめづらしがりて、繁昌したるによりてなるべし。かくて、三、四十年を經るまゝに、世のみやびをらの、吉原をめづらしと思ふものなく、彼はしばしなる賣女屋には、かへりて艷麗なる娼婦どものあるをもて、端々なる妓樓のかたに、けおさるゝやうになりにければ、ついに吉原より、さはりを申立て、訴訟し奉りしなるべし。然れども、その公事、久しく相持して、はかばかしき裁許なかりしに、明曆三年正月の大災後、元吉原の替地を、日本堤のほとり、今の地所にて下されしとき、江戶中なる茶屋の賣女を、嚴重に制禁あらせられて、「隱賣女御制禁」等の御條目を定められ、新吉原の御高札にも、猶、又、嚴重の御文言を示させ給ヘり【「吉原由緖書」に、『元吉原大門口にも、端々、遊女の御制禁の御高札を、立下されし。』よしなれども、明曆火災後、□嚴重になりし也。】。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 「『吉原遊女町御高札は、葺屋町へ初て廓御免の節、相渡りたる、それより今に同樣也。』と、「語園」に見へたり。」と、北峯子、いへり。しかれども、御文言の事、明曆以前も今の如くなるや、詳ならず。いづれにまれ、はしばしなる賣女や、嚴しく禁ぜられしは、明曆よりのことゝおぼゆかし。

 これにより、はしばしなる賣女屋等は、難儀至極して、しばしば、あちこちにて、忍び忍びに渡世したるもありしかど、それも長久のわざならねば、七十五人のはしばしなる賣女屋ども、新吉原へ手を入れて、さまざにわびしかば、遂に和熟して、件の賣女屋を新吉原へ移し住するに及びて、その家作すべき地所なかりしかば、江戶町なる遊女屋等屋敷に、この地尻を切ちゞめ、新に一巷路を開きて、堺町と名づけ、こゝへ、件の賣女屋等に、家作をさして、住つかせし也。されば、「吉原由緖書」に云、『堺町之儀は、新吉原へ引越申、寬文八年戊申の三月中、江戶町貳丁目名主町人共、御訴訟申上候て、面々之居屋敷之内を切り、新造に堺町と名付申候。此時分、端々に罷在候、茶屋の遊女持ども、吉原町へ佗言侘候間、其段、御訴訟申上候得ば、御慈悲を以被ㇾ遊御免候に付、每度、御訴訟申上候茶屋・遊女持ども、惣て七十餘人、從方々吉原へ入込申候。依レ之、右之道をつくり、此者どもに借地いたさせ候事。』といへるは、これなり。かゝれば、端々の賣女屋の吉原へ歸參して、廓中へ移り住しは、新吉原にせし明曆三年より、十二ケ年後の事なり。「由緖」の中、右の條に、『每度、御訴訟申上候茶や・遊女持ども』云々とあるにて、吉原より、かの七十五人を相手どりて、訴訟せしことの久しきをしるに足れり。『元祖庄司甚右衞門は、正保元年十一月十八日、享年六十九歲にて身まかりし。』よし、「寫本洞房語園」に載たるを、北峯子、はやく見出て、忠告せられたりければ、元祖甚右衞門が歿せし正保元甲申年より、彼端々なる遊女屋七十五人、吉原へ移り住し、寬文八戊申年まで、二十五ケ年をへたれば、右の書翰は、二代めの甚右衞門なること、推て知るべし。又、新吉原になりし明曆三丁酉の年は、元祖甚右衞門が死せし年より、十四ケ年後也。「語園」に載たること、左之如し。「寫本洞房語園」【享保五年、庄司又左衞門草記。】云、『甚右衞門、出處は、相州小田原のもの、父は北條家の御内に、僅なる御扶持を蒙り、輕き奉公相勤候よし。父、果て後、天正十一年、小田原落去之節、甚右衞門年十五歲、家來の介抱になり、御當地へ罷越、柳町に所緣ありて、この所に住居しけるが、□正保元年甲申霜月十八日、甚右衞門、年六十九歲にて終る。

[やぶちゃん注:ここで初めにあった「相摸(さがみ)の小田原浪人」という素性説が合致することとなる。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 又、右の甚右衞門が書翰に、『我々事は、ちひさき子共、えんぺん申合候』云々、とあるをもて思んに、この甚右衞門は、齡四十前後之時の筆跡なるべし、これも亦、二代めの甚右衞門ならんと云考の一つ也。また、甚右衞門が書をおくりし、北角九郞兵衞が事は、北峯子の考有。よりてこゝに錄す。

「寫本洞房語園」云、『甚右衞門が遊女町の事、御訴訟の相談云を指加[やぶちゃん注:「いふを、さしくはへ」か。]、岡田九郞右衞門と云し人』云々、『開基の砌、一應、江戶へ引越し、寬永五年の比、抱の傾城廿餘人、並に家屋敷に家財を添、久しく召仕たる半三郞といふ手代にゆづり、その身は京都長者町へ引込、世間にて云、「仕𢌞ふた屋」[やぶちゃん注:「しまふたや」。しもた屋。]と云ものにて、有福にくらしけると也』云々。美成、案に、北角九郞兵衞といふものは、これなどの子にてもあらんか。苗字に相違あれども、岡田は遊女屋の名まへも、しるべからず。その家財とゝもに、手代にあたへ、自分は本姓をもて稱しけるにや。「語園」に之所を推考るに、やゝ似たるやうにおぼゆ。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では一字下げ。]

 𪈐齋[やぶちゃん注:「らいさい」。馬琴の号の一つ。]云、右の說、おもしろし。もて、よりどころとすべし。よりて、又、思ふに、甚右衞門が書中に見へたる吉兵衞といふものは、九郞兵衞が徒也。若、此吉兵衞は、出所、京の者にて、右之、半三郞が養子名跡などに也し者歟。さらずは、岡田屋の吉原にありし家は、手代もちにて、半三郞が歿後、吉兵衞が支配せしにやと推計らる。岡田九郞右衞門といふもの、當時、京都へ退隱すといふとも、生涯ゆたかにておくらんには、さばかりの活業[やぶちゃん注:「なりはひ」と訓じておく。]はあるべきことなければ、江戶吉原なる家をば、半三郞に支配させ、その身は京にて遊女を多く抱設て、日每に他へ出し、又、かたはら、遊女の賣買をもて、世わたりの資とせしなるべし。かく思ふよしは、甚右衞門が書中に、『江戶之けいせいどもにいゑ屋敷迄も、我々に其方御申候事は、何かの事も吉兵衞は不ㇾ存候間、あとあとの事、其方賴入候と御申候所に、吉兵衞は七十五人之目つけに罷成』云々とあり。『江戶のけいせい共家屋敷』といへるは、九郞兵衞所持の江戶吉原なる傾城共、並に九郞兵衞が相傳所持の家屋敷のことなるべし。それを吉兵衞に支配させし時に、吉兵衞は不案内にて、何もしらず候間、前手代の半三郞が跡々のことを、甚右衞門に賴むと、九郞兵衞が云しことあるを云なるべし。然に九郞兵衞は、竊に甚右衞門をあしく思ふよしありて、彼七十五人に荷擔するに及びて、吉兵衞をもて間者として、甚右衞門が訴訟の内談を聞せしに、其事、終に顯れしかば、甚右衞門が九郞兵衞を怨み憤り、郵書[やぶちゃん注:「かきおくり」と訓じておく。]、年を重て後、右の手切の書翰を贈しことゝ聞ゆる也。されば、北角九郞兵衞は、岡田九郞右衞門が子にてあるべき歟といはれし、北峯子の考、尤、據あり。又、按に、當時、甚右衞門、憤りは、七十五人を相手どりて、訴訟せしのみのことには、あるべからず。端々なる賣女屋のさはりを申立るねぎこと[やぶちゃん注:願い事。]は、吉原町一圓之事なり。當時、甚右衞門は吉原の惣名主なりければ、これらの事を己が任とするものなるべけれども、右の書中に、『我々のくび切はからひ申者どもを、朝夕御ふるまひ披ㇾ成、御ちそう被ㇾ成候事は、但、七十五人之内にては、其方は御座なく候か』云々とあるをもて思ふに、甚右衞門が身ひとつに、かゝれるわけの、あるなるべし。しかれども、深き意味は、はかり知るべくもあらず。そは、とまれ、かくもあれ、此程、文によるときは、思ひ半に過ること、あらん。こゝをもて、予がこの無益の筆跡□も、翁の爲には、雪中の二老馬□といふべきのみ。

 友人佛庵老翁は、好古をもて世にしられたり。されば、その所藏に、庄司甚右衞門が簡牘[やぶちゃん注:「かんとく」。書簡。]あり。一日、これを予に示して、云々の□めありても、亦、素より雅俗となく、古書畫の時代緣故抔の定かならぬを見る每に、考たゞさんと、ほつする癖あれば、えうなきわざと知ながら、愚按を記しつけたり。かくて、その書を返す日に、亦、これをしも贈れるは、同好の義をおもふが爲なり。

 文政八年暑月廿一日     𪈐齋陳人藏

 附て云、心牛子の記されし、吉原起立の條々は、「吉原由緖書」の趣を抄錄せし也。又大橋の内柳町の遊女屋は、原三郞右衞門と云ものゝ、取立しといふこと、「吉原由緖書」にも見へたり。

 「御高札の事」、「鎭守の札の事」、「惣人別」、「藝者人別」、「『水吐尾』なる火之見やぐらの興廢」、「秋葉の常夜燈」、「吉原數度の火災の年月日時」等は、後の考にもなるべければ、珍とすべきものになん。よりて錄する事、左の如し。

[やぶちゃん注:長くなったので、末尾に記された、以下の「山口心牛筆記の内」という文章は次回に送ることとする。なお、町名や年号などは労多くして私に益が全くない故に(吉原は極めて限定された地域であり、時制も上限・下限が限られた中での叙述であるからである)カットしてある。以下でも同様の仕儀とする。悪しからず。]

2022/04/04

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その2)

 

 元吉原の事を書きたるもの、是より外にまさしく據(よりどころ)とすべきは、なし。おもふに、當時坊間の繪草紙などもありつらんを、みな、明曆の火にうせて、今は一枚(ひとひら)も傳はらぬなるべし。しかれども、萬治・寬文よりこなた、貞享・元祿中、刊行の草紙によりて考ふるに、最初、妓院(ぎゐん)の光景をも、想像するよし、なきにあらず。就ㇾ中(なかんづく)、「江戶名所記」は、寬文二年の印本なれば、その書の刊行、元吉原の、新吉原へ移されしより、纔かに六箇年の程也ければ、「名所記」に寫し出せし吉原の圖說を見て、元吉原に在りし程の形勢(ありさま)も、かくこそありつらめと、思ひ合はするに足れり。又、寬永・明曆の「江戶繪圖」は、なほ、彼(か)の妓院どもの元吉原に在りし時也。廓中(くわくちう)のありさまを、しるにしも足るよしなけれど、その地と巷路(こふぢ)の方位においては、明證とすべきもの也。この他、吉原の草紙【予が見つるは缺本の多ければ、書名も卷數も定かならず。友人松蘿館の藏書なりき。】天和三年の印本にて、明曆三年、新吉原へうつされしより、纔かに十七年後の物なり。此書には、直之(なほゆき)といふ幇間(たいこ)の事を㫖(むね)と綴りなしたり。そのさし繪を見るに、かの直之がありさま、鬢(びん)薄くして、卷立(まきたて)の茶筅髮(ちやせんかみ)也。[やぶちゃん注:以下の図は参考にしている一冊である国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」巻第二の下のここの本文中にある挿絵を、トリミング補正した。この図は底本や吉川弘文館随筆大成版には載っていない。]

Tyasenngami

【かくの如し。】黑羽二重(くろはぶたえ)とおぼしき小袖を着て羽折(はをり)を着ず。其の紋(もん)は、丸の中に、四ツ目結(むすび)をつけたり。[やぶちゃん注:以下の図は所持する吉川弘文館随筆大成版の本文に挿入された図をトリミング補正した。底本ではここの右ページ上段にある。これは逆に「曲亭雜記」には載らない。]

Yotumemusubi

【かくの如し。】此の直之が揚屋與五兵衞へ遣はす狀、同書にあり。こは揚屋さし紙の格(かく)にて書たり。この直之は、なきぶしやうの小歌(こうた)に、妙(めう)なるものにやありけん。むかしある人の藏書に、直之直傳(ぢきでん)としるせし、「土手節(どてぶし)」の本を見たり。この二書は、只今、唯一本なるべきものにして、尤、珍書とするに足れり。おもふに、直之は、元吉原より、新吉原へ、移り來(き)にたる、全盛の幇間(たいこ)にて有けんかし。これらを見ても、吉原の體(てい)たらくをおもひ合はすること、多かり。又、由之軒政房(ゆうしけんまさふさ)といふものゝ著はせし、「誰(た)が袖の海」【全本五卷歟。是も予が見たりしは缺本也き。】は、元祿十七年甲申春正月の印本也【この年、寶永と改元。】。明曆三年より既に四十七年後の物なれば、元吉原を距(さ)ること、いよいよ遠けれ共、猶、をかしき事あり。此二書【卷二。】に、「吉原詞」といふものを載せたるを、今、略抄すること、如ㇾ左。

[やぶちゃん注:「由之軒政房」「誰が袖の海」全六巻合綴二冊。元禄一七(一七〇四)年板行。長編の好色物。作者の事績は私にはよく判らない。「霞亭文庫」のこちらで原本をダウン・ロード出来る

「直之」こてちゃい氏のブログ『「幇間、ほうかん、たいこもち、たいこ持ち、太鼓持ち」関連資料』のこちらで、山根秋伴著「日本花柳史」(大正二(一九一三)年山陽堂刊)の一部電子化がなされており、そこに「幇間」の条を引き(一部の正字不全・仮名遣の誤りを訂した)、『藝者の出現と同じ理由で男藝人卽ち男藝者なるものが出來た、幇間の始祖は織田信長の臣似家興左衞門、太鼓持伊太夫の二人と云ふ說もあるが、元より取るに足らぬ訛傳(くわでん)で、何時(いつ)の程にか大盡の相伴(しやうばん)を事とする遊郞(いうやらう)が轉じて之を常業とするやうに成つたので江戶も上方(かみがた)も其起源は殆ど同時代である、卽ち吉原では元吉原時代直之(なほゆき)と云ふ男黑羽織に立四つ目の紋羽織を着、土手節を唄つて座興を添へたのが始まりで、萬治年間には沓(くつは)の二郎左衞門と云ふ者出で更らに元祿に入つて一時に多數の取卷きを生じた、卽ち當時の畫家英(はなぶさ)一蝶、俳人寶井其角(たからゐきかく)、稻津敬雨(いなづまけいう)、畫家佐文山、髪結長七なんどがそれで髭の意休(いきう)も又仲間であった』。『此頃は太鼓持とも太夫衆とも男藝者とも云つてゐたが純然(じゆんぜん)たる常業の純幇間は前に云つた、役者の二朱判吉兵衞、坊主小兵衞などで、お座敷では口拍子(くちびやうし)で間の拔けた音頭を取り、藝渡しと云つて勝手な藝をして次から次へと渡して興を助け、或は踊り或は跳ねて大盡の旨のまゝに働いたものである』。『此初期の幇間中最も傑出したのは二朱判吉兵衛で、大盡舞と稱する座興唄を作つて吉原全般の騷ぎ唄とした』。『明和安永期に一瓢と云ふのが現はれ、從來廓外に居住してゐた幇間が此時から廓内に入つて名主の支配に屬して鑑札を受けるやうに成つた』。『安永七年吉原の幇間二十人、玉代は暮六ツより引け四つまで一兩であつた』とある。引用の元は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらである。]

 「吉原言ば」は、

「呼でこい」といふことを「よんできろ」

「急げ」を「はやくうつぱしろ」

「いでくる」を「いつこよ」

「ありく」を「あよびやれ」

「こぼす」を「ぶつこぼす」

「わるい」と云ふことを「けちなこと」

「そうせよ」を「こうしろ」

「あそばるゝ」を「うなさるゝ」

「腹の痛む」を「むしがいたい」

「しやんな」を「よしやれ」【これは「よしにしろ」の言也。】

「こそばい」を「こそつぱい」

「女郞のよこぎる」を「てれんつかふ」[やぶちゃん注:「てれんつかふ」は底本の表記。「曲亭雜記」では「てれんいかふ」。]と云ふ【是は唐音也。】。

 「盆の踊歌(をどりうた)」をきくに、

〽ことしの盆はぼんとも思はない

〽かう屋がやけて

〽もかりがぶつこけて

〽ぼん帷子(かたびら)を白で着た[やぶちゃん注:「白で着た」「曲亭雜記」の表記。底本では「付て着た」。なお、庵点は私が附した。]

ひとゝせ、「吉原詞」を、うたに作りて見しに、

 おさらばへのしけをさゝりこはしやうしたふさかふさはおつかない哉

[やぶちゃん注:底本の表記。「曲亭雜記」では(左頁中央下方から)、

 おさらばへのしけおさたりとはしやうしさふさかふさはおつかないかな

であり、「雜記」には今一首、以下が載る。

 さふすべいかうすべい又さつしやれいはてふていことやつちやなりけり

後者は何んとなく判るが、前者は、全然、判らない。識者の御教授を乞う。]

 是は明曆・寬文の比より、貞享・元祿に至れる「吉原詞」なるべし。その詞のゐなかびたること、あまりに甚だしければ、わるくちにて作り設(まふけ)けたるにやと思へど、さすがに板(はん)せしものなれば、なきことを書きあらはすべくも、あらず。これを見ても、元吉原に在し程の里詞(さとことば)は、いよいよ、ひなびて、絕倒[やぶちゃん注:「曲亭雜記」に拠った。底本は「强□」だからである。]することの多かりけんとおもふ也。又、「大全」などは、いと後にいで來たるものなれば、疑しきことなきにあらぬを、なかなかに證とは、しがたし。又は、菱川師宣・鳥居淸信、及、予が舊族羽川珍重(はかはちんちやう)等(ら)が畫(ゑが)きしは、みな、今の吉原になりての畫圖なれば、元吉原の考へには、えう、なし。ふるき繪卷の殘缺などにも、元吉原の圖の傳らざりしは、元和・寬永のころまで、江戶は、なほ、しかるべき浮世畫師の、なかりし故也。

 予、一日(あるひ)、小梅村なる南無佛菴(なむぶつあん)を訪ひたるに、座邊にふりたる二枚折りの屛風ありけり。そのおしたる畫(ゑ)を見れば、元吉原の圖に似たり。卒爾(あからさま)[やぶちゃん注:「曲亭雜記」に拠った。底本ではカタカナのみで漢字を示さず、「アカラサマ」である。]にして、

「こは、云々(しかじか)ならずや。」

といふに、あるじの翁(おきな)、驚きて、

「われ、未だ、さるよしを、しらず。その說あらば、聞まほし。いかにぞや。」

と問るゝに、已(やむ)ことを得ず、答へて云、

「今、この畫中(ぐわちう)の人物を見るに、遊女と客の風俗と、彼寬文の「江戶名所記」及(また)、天和中の印本なる吉原の草紙に圖したる、妓院の風俗と、よく相ひ似て、それより少々ふるく思わるゝ。むかしの遊女は結髮せず。慶長の頃までも、髮のうらを少しむすびて、うしろざまにこれをさげたり。寬永・明曆に至りても、只、その髮を推(お)し紈(わが)ねて、頂におけるのみ。寬文・延寶の頃と云とも、猶、今の遊女のごとくに、髮に飾りを盡(つく)せしもの、なし。當初は市中に伽羅(きやら)の油(あぶら)なければなり。「吉原大全」に、大橋柳町兵庫屋の家風をまなびて、今も「兵庫屋風(ふう)」といふ髷(わげ)をなすといへるは、疑ふべし。抑(そもそも)、慶長・元和の頃の遊女どもが、何風(なにふう)といはるべき髷をすべきよしは、なし。凡そ遊女の髮の風は、新町(しんちやう)なる山本屋の勝山(かつやま)などよりや始りけん。今も女の髷に「勝山」といふは是也【「兵庫髷」といへるも、これと同時代前後のことなるべし。】。又、當時、遊女の衣裳に、摺箔(すりはく)・縫箔(ぬひはく)をゆるされず【その事、「吉原由緖がき」に見へたり。】。多くは無地の絹紬(きぬつむぎ)、又は縞類(しまるゐ)をのみ着たり。「昔昔物語」に、『むかしは、縞類、はやる。遊女のまね也。昔は、常(つね)の女、縫箔光る小袖を着る故、遊女共は無地物、縞の類を着たり。常の女とかはるべき爲なり、といへるは、是なり。かの物語に、『むかし』といひしは、寬永中のこと也。寬永中は女の帶の幅、凡、一寸五分より二寸までなりし由、「春臺獨語(しゆんだいどくご)」にも、いへり。この時も、遊女の帶は、その幅、ひろかりしよしなれど、猶、三、四寸の上を、出づべからず。この屛風に圖したる遊女も、其全體にくらぶれば、その帶の幅、三、四寸なるべく見ゆ。しかれども、これらは、未だ元吉原の考證とするに足らず。大約(おほよそ)、萬治・寬文以來、元祿に至るまで、かの日本堤の體たらく、及(また)、大門口の光景をゑがきたるには、嫖客(ひようかく)、必ず、馬に乘りて行きかへりする處なきは、なし。當時、「土手馬(どてむま)」といふものゝ流行せしによりてなり【そのゝち、土手馬を禁止せられし後は、二挺立の小船はやりしを、享保の末に至りて、又、これをも禁止せられたり。】。しかるに、この屛風の圖は、いとふるき圖に見へながら、大門口とおぼしき處に、かの土手馬を畫(ゑが)かざりしは、明曆以前の風俗にて、元吉原の圖にやあらん。只、是のみならず、この圖中なる大門口には、外の方に松を畫きたり。予が總角(あげまき)なりし頃、一老人の言(こと)を聞きしに、元吉原の大門口と、南の方なる塹際(ほりきは)に、大きなる松、兩三株(りやうさんかぶ)ありけり。かくて、その松は、明曆の火に、皆、燒けしを、新吉原へ移されては、さるものをも栽(うゑ)ずなりしよし、故老のいわれしこともぞある。彼(か)の舊地のほとりには、松島町(まつしまちやう)といへるあり。思ふに、かの松のなごりにて、さる名も負(おは)したるにや、といへり。予は、尙、總角(あげまき)なるをもて、そのよしをしるしたる書もやあると問ふベかりしを、得(え)敲(たゝ)かざりければ、今に至りて、憾(うらみ)とす。かくて、今、ゆくりなく、この屛風なる畫を見れば、大門口に松をゑがけり。是は昔、予が聞たる老人の言(こと)と吻合(ふがふ)せり。こゝをもて、予は、この畫圖を元吉原にやあらんと思へり。しかはあれども、寬永中の古筆とは、見へず。もし、後に好事(こうず)のもの、元吉原の趣を傳へ聞くよしあるをもて、しかじかとあつらへて、畫工にゑがゝせたるもの歟。さらば、當時(そのかみ)、古圖のありしを、摹(も)[やぶちゃん注:「模」の異体字。]せしものにやあらんずらん。とにもかくにも、此畫をもて、元吉原の圖とするとも、よりどころなきにあらずや。」

と、まめだちて、そゝのかせば、翁、そゞろに頷(うなづ)きて、歡ぶこと、大かたならず。

「さらば、只今、筆を染めて、この屛風の上のかたに、「元吉原圖」と書きてよ。」

とて、みづから祕藏の硯を出だしつ。墨、すりながして、譴(せ)められけり。いとおぼつかなきわざながら、吾には、齡ひ十あまり、五つ、六つ、兄なる人の、かくねもごろに求らるゝを、猶、いなまんは、さすがにて、あたら屛風を汚(けが)せしに、翁は、かくても、あかずや、ありけん、この後、又、をちこちに、友人つどへるむしろにて、予と、亦、相ひ見つるごとに、

「元吉原の考へを、つまびらかに、書きてたべ。さきの屛風もろともに、後に遣(のこ)さんず。」

と、いはれたり。

 予は、この二十年(はたとせ)あまり、こなた、よしや、むかしのことなりとも、遊女・冶郞(やらう)のうへなどは、あなぐり糺(ただ)す事を、たしまず、えうなきわざとは思ふものから、是すら、いなむにいなみかねたる、口(くち)から高野(かうや)の諺(ことわざ)に得(え)もれず。暇(いとま)なき身の、いとまを費し、曲りなりなる墨さへ減らして、さらでも、ちびたる筆を走らし、硯の海の底(そこ)はかとなく、よに淺(あさ)はかなる考へを、綴りて贈りまゐらするになん。

  よし原の世をのがれてもいける身のしにかへらねば人につかはる

 文政八年正月中澣   著作堂瀧澤解拜具

     進 上     神田川信天翁拜具

   無佛庵大兄老翁梧下

[やぶちゃん注:「南無佛菴」幕府畳方の棟梁を務める一方で、書家でもあった中村仏庵 (宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)。江戸の人。梵字に優れた。名は蓮・連。通称は弥太夫・吉寛。別号に至観。彼は「耽奇会」の会員で七回参加しており、馬琴とは仲が良かったらしい。葬儀の折りの記録が馬琴の日記にある。]

 附て云ふ。予が藏弆(ぞうきよ)に、寬永・明曆の「江戶圖」、二本あり。今、畧抄して、元吉原の舊趾(きうし)を考ふる一端とす。前件の愚說と合はし見給へかし。

 「吉原由緖書」に、『元和三年の春、葺屋町の下の方(かた)にて、方(はう)二町の地を下し給はりし。』と見へたれど、當時は、なほ、葺屋町と云ふ町名、なし。抑(そもそも)、彼(か)の「由緖書」は、享保十年の秋七月、庄司甚右衞門が六世の孫、名主又左衞門が家の舊記と、口碑に傳ふる趣きを書きつめて、奉りしものなれば、後世の町名によりて、『云々(しかじか)』としるせしのみ。その書に、いはゆる葺屋町は、禰宜町なること、疑ひなし。

 寬文の「江戶圖」には、禰宜町・尾張町ありて、堺町、なし。明曆板の「江戶圖」には、禰宜町・堺町ありて、尾張町、なし。且、寬永板に比すれば、その圖、稍(やや)精細なり。按ずるに、寬永板に、いはゆる、禰宜町は、葺屋町・堺町の舊名なるべし。寬永之後、明曆の前に至て、吉原の西の方を開發せられて、堺町と名づけしころ、勘三郞が芝居は、禰宜町より堺町に移り、又、禰宜町には、市村竹之丞が芝居その他、人形座などの、猶、ありけんかし。かくて明曆大火の後、吉原はさら也、こゝらの寺院を、みな、御曲輪外(おくるわそと)へ移させ給ひて、扨(さて)、寬文中に至り、町割、ことごとく改(あらたま)りし時、中村・市村の兩歌舞伎は、元の禰宜町のあたり、二町の間に推(お)しならびて、勾欄(やぐら)を建てしころ、市村がをれるかたの、禰宜町を改て、葺屋町とし、中村勘三郞がをれるかたをば、元の町名によりて、堺町と唱へしならん。それは今の堺町も、明曆板に見えたる堺町の地所に、あらず。又、今の葺屋町も、昔の禰宜町の地にあらざること、猶、今の大門通りは昔の大門通りと、その道筋、異(こと)なるがごとくなるべし【寬永版、及、明曆版の地圖、省略。】

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その1)

 

[やぶちゃん注:本篇も「兎園小説」の中では非常に知られた一篇である。前回の「けんどん争ひ」と同じく冒頭注で述べたが、中巻は底本が変わって、

国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここから

となるので、注意されたい。さらに、本篇の初めの部分は、

国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第二の下のここから

にも所収し(但し、標題は「佛庵所藏元吉原𤲿屛風圖」)、やや表現が異なる箇所があるが、同書は読みが豊富に附されてあるので、こちらも参考にして、( )で一部の読みを挿入することとする。さらに読み易さを考えて段落も成形した。時に後者の方が表記が判り易いと考えた場合は、そちらを採用した(特に断っていない)。その方が読者にはよろしいかろうと考えたからである。なお、やや長いので分割した。]

 

   ○元吉原の記

 元吉原(もとよしはら)は、元和三年の春より始まりて、明曆三年の春、今の地にうつされにき。はじめの地にありけるは、四十年の程になん、よりて「吉原由緖書(よしはらゆいしよがき)」とか云ものを按ずるに、慶長七年の頃、相摸(さがみ)の小田原浪人、庄司甚右衞門【一本、作勘右衞門。】といふもの、當時江戶の町々に【麹町八丁目・鎌倉河岸・大橋の内柳町・京橋角町等なり。】わかれをる遊女屋どもを、ひとつ處につどふべき、地所(ちしよ)を給はらんよしを願ひまうして、箇條(かぜう)の目安(めやす)を奉りしかば、元和三午丁巳の春、傾城町(けいせいまち)を御免ありけり【此時の町奉行は米津勘兵衞ぬし也。本多佐渡守着座にて、仰わたされしと云。】則、葺屋町(ふきやちやう)の下のかたにて、二町四方之地所を給はり、やがて甚右衞門をもて、惣名主(さうなぬし)になされしと云ふ。

[やぶちゃん注:「元和三年」一六一七年。ウィキの「吉原遊廓」によれば、『江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などは』、『たびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後』、慶長一七(一六一二)年、『元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)』(本篇の「相摸の小田原浪人」とは全く異なる当該ウィキによれば、天正三(一五七五)年生まれで、寛永二一(一六四四)年没とし、『吉原遊郭の創設者として知られる。幼名は甚内』。『相模小田原北条家の家臣』の子『として生まれる。その後、『江戸に出て』、慶長一七(一六一二)年に『道三河岸の傾城町で遊郭の創設の出願のために遊女屋を営んだと言われるが、諸説がある』。五年後の元和三(一六一七)年に『吉原町に遊郭が創設する事が許可されると、惣名主となり』、『以後』、『甚右衛門の子孫が代々惣名主を継いだ』とある)『を代表として、陳情した際に』、○『客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。』

○『偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。』

○『犯罪者などは届け出る。』

『という』三『つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から』五『年後の元和』三年『に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、

○『江戸市中には一切遊女屋を置かないこと』。

○『遊女の市中への派遣もしないこと』。

○『遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること』。

『を申し渡した。しかし、寛永』(一六二四年~一六四四年)『の頃までは、遊女が評定所に出向いて』、『お茶を出す係を務めていた。結局、遊廓を公許にすることで』、『そこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある』。さて、この時、『幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの』二町(約二百二十メートル)『四方の区画で、海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば』、『僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。現在の日本橋人形町』二・三『丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである』とある。グーグル・マップ・データ(以下同じ)のこの中央附近に相当する。

「明曆三年」一六五六年。同前のウィキによれば、『江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で』明暦二年十月、『幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願した』ものの、『聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている』。

○吉原の営業可能な土地を五割り増し(三丁四方)とする。

○夜の営業を許可する。

○風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(これ以前から流行った風俗営業をする銭湯で、遊郭と競合した)二百軒を取り潰す。

○周辺の火事・祭への対応を免除する。

○一万五千両を賦与する。

『この内容から』、『風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年』九『月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺』の『火事への対応免除は、逆に』、『吉原で火事が発生した場合に』は、『周りから』の『応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦』三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日相当)まで、江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」が『起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のため』、『移転は予定よりも少し遅れたが、同年』六『月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋は』、『すべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町』一・二『丁目、江戸町』一・二『丁目、仲之町、揚屋町、角町があった』(京町以外は全て「ちょう」と読む)。寛文八(一六六八)年、『江戸市中の私娼窟取り締まりにより』、娼家主』五十一『人、遊女』五百十二『人が検挙され』、『新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や』、『堺の乳守』(ちもり)『遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。また』、『この時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた』。『新吉原を開設したのは尾張国知多郡の須佐村の人だったという論文が『知多半島郷土史往来』第四号『(はんだ郷土史研究会刊)で発表されている。著者は作家の西まさる』で、『西論文によると、吉原遊郭の揚屋は総数約』二十『軒で、そのうち』十三『軒以上が知多郡須佐村の出身であることが、地元寺院の過去帳や寄進物記録で明白になったという。その背後に千賀志摩守』(尾張藩船奉行であった千賀(せんが)志摩守重親(しげちか))『がいたはず』である『と発表している』。同じ西氏の「吉原はこうしてつくられた」(新葉館出版)に『よれば、明暦大火後の』八『月に浅草田圃に出来上がった三町四方の新吉原遊郭であるが、その埋め立て、造成、建設の指揮をしたのは知多の陰陽師で、実際に作業にあたったのは非人頭の車善七が率いる』三『千人の非人とされた人たちという。また、完成した新吉原の町を俯瞰すると』、五『つの稲荷神社に囲まれた陰陽道の陰陽の法則に基づいていることが解るという。また、遊郭街へ入る五十間道の曲がり方、見返りの柳、さらには花魁道中の花魁の独特の歩行方も陰陽道に沿ったものという』とある。新吉原の位置はこの中央附近

 以下、割注まで底本では全体が一字下げ。]

 寬永の「江戶圖」、幷に、明曆三午正月開板の「江戶圖」によりて考(かんがふ)るに、元吉原の一廓(いつかく)は、今の「曲突河岸(へつゝひがし)」のほとりにて、「禰宜町(ねぎちやう)」と「尾張町」【この尾張町は間なる「をはり町」にはあらず。】、「京橋」と「新橋」の艮(うしとら)にあり。こゝに云ふ「禰宜町」は、「堺町(さかいちやう)」の舊名也。寬文二年「江戶名所記」刊行の頃までも、その書【四卷。】に、「禰宜町」としるしたるは、これ、則、「堺町」・「葺屋町」のこと也。しかれども、此の禰宜町は、今の堺町より北の方に、相距(あいさ)ること、凡一町ばかりにして、今の和泉町(いづみちやう)・高砂町(たかさごちやう)のほとりなるべし。かくて、明曆丁酉の大火後に、こゝらわたりの町わりを、すべて改められしかば、今はいづれを何れの町とも、定かに考がたかり【「江戶名所記」に、中村・市村の兩歌舞伎を禰宜町としるせしは、舊名によれるなり。寬文中に堺町にいで來たり。下の圖說を考ふべし。】。

 しかるに、當時、その處、あちこちに沼にてありければ、俄に葭蒹(よし)[やぶちゃん注:二字への読み。]を刈り拂ひて、平坦(たひらか)に築(きづ)きならせし。この義によりて、里の名を「葭原(よしはら)」と呼び出せしを、後にめでたき文字にかへて、「吉」に作るといへり。

 かくて、その一廓に、巷路をひらくもの、すべて五町、その第一を「江戶町一丁目」と云ふ。こは、開基の地なる故に、江戶繁昌の御餘澤(ごよたく)を蒙り奉らん爲に、祝して、云々(しかじか)と名づけたり。こゝには「柳町」なる遊女屋どものうち、つどひて、家作り、しける。且、名主甚右衞門も此處にをりしと云ふ。

[やぶちゃん注:「寬文二年」一六六二年。

「江戶名所記」私の偏愛する、真宗僧で作家としても知られた浅井了意によって著された江戸の名所記。寛文二年五月に京の五条寺町河野道清を版元とする。当該ウィキによれば、『江戸全体を概括した純粋な地誌としては最初のものである』。『著者浅井了意は京都出身で』、『江戸の滞在歴がある仮名草子作家で、先に東海道を題材とした』「東海道名所記」を『著しているが、本書は中川喜雲著の京都初の名所記』「京童」(きょうわらべ)に『影響を受け、江戸内外の人々に対し』、『江戸の名所を紹介するものである。江戸の繁栄ぶりを強調する記述が目立ち、先に明暦の大火の見聞を』「むさしあぶみ」に『著した著者が、その後の復興を他国に知らしめようとする意図も窺える』とある。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 「吉原大全」に、庄司甚右衞門が家名を西田屋と云ふ。これが抱(かゝえ)の遊女「たそや」が事より、「たそや行燈(あんどう)をともす」といへり。しからば、甚右衞門は名主にて、遊女屋をも兼(かね)たる者也。

[やぶちゃん注:「吉原大全」著者は醉郷散人(事績不詳)で、鈴木春信が絵を担当している。明和五(一七六八)年板行か。

「たそや行燈」ここに書かれている源氏名の話は載らないが、飯田孝氏の「今昔あつぎの花街」に「たそやあんどん」の記載がある。『「たそやあんどん」は、「たそやあんどう」ともいわれ、「誰哉行燈」「誰也行燈」の漢字があてられている。たそやあんどんは、江戸新吉原の遊廓で、各妓楼の前に立ち並べた屋根形をのせた辻行燈であるが、これとは別に歌舞伎舞台に出す木製の灯籠の意味もある(『日本国語大辞典』)』。『また、江戸時代末期頃の見聞をまとめた『守貞漫稿』には、次のように記されている』。『たそや行燈或人曰「たそやあんどう」は、「たそがれあんどう」の訛言也元吉原町にありし時より、毎院の戸前に之を建、今の新吉原町に遷りて、また之は廃れず。今に至りて江戸町及び以下、妓舘毎に戸前往来の正中に此行燈一基と、天水桶上に手桶十ばかり積たるとを必ず之を置く行燈には終夜燈を挑て、往来を照す、けだし此行燈の形、他所にも之を用ゆれども、「たそや」の名は当郭に唱ふのみ』。『『守貞漫稿』の記述に』『よれば、江戸時代、たそやあんどんは、新吉原の各妓楼が、その前の道に立てて灯をともし、夜の道を照らすあかりとしたものであるが、新吉原以外でも用いられていたことがわかる』。『これがいつしか料亭などの目印や看板となって、電灯がともるようになった後も、たそやあんどんは、花柳界でその姿が生き続けることになる』とあり、近現代の話が続く。]

 第二を江戶町二丁目といふ。こは、鎌倉河岸にありし遊女屋が、皆、移徙(わたまし)してこゝに住ひき。

 第三を京町一丁目と云ふ。こは麹町なる遊女や等が、この處にうつり住ぬ。故鄕は京のもの共なれば、云々(しかじか)と名づけしと云。

 第四を京町二丁目と云ふ。吉原開基のよしを聞て、こたび京より來つるものさへ、かれこれ、多くなりにければ、この處に集めをきつ。この故に町づくりの、一兩年おくれしかば、「新町(しんちやう)」ともいふといへり。

 第五を角町(すみちやう)といふ。こは京橋角町なる遊女屋のもの、いたくおくれて移り住みぬ。これによりて、此處は、寬永三年冬十月十九日に、町づくり成就せしと云。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 寬永の「江戶圖」によりて考るに、當時、吉原なる五丁町は、江戶町・京町・新町・角町・賢藏寺町、則、是也。この「けんざう寺町」を改めて、江戶町二丁目と唱へしは、寬永の末なる歟、正保・慶安の頃にても有ベし。

[やぶちゃん注:「寬永の末」寛永は二一(一六四四)年まで。

「正保・慶安の頃」寛永の後が「正保」(一六四四年~一六四八年)で、その次が「慶安」(一六四八年~一六五二年)。]

 さりし程に、明曆二年丙中の冬十月、吉原の地所、御用地になるに及びて、同じ月の九日に、云々(しかじか)と仰せわたされ、「外(ほか)にて代地(かへち)をくださるべし」と、仰せ渡されたりけるに【このときの町奉行は石谷將監ぬし、神尾備前守なりといふ。】、その明年丁酉の春正月十八日、本鄕なる本妙寺より失火して、江戶中、殘りなく燒けにければ、更に所替(ところかへ)の義を急がせ給ふ程に、山谷(さんや)・鳥越(とりこえ)のほとりなる百姓家を借りて、しばらく渡世したりける。これ、吉原假宅(かりたく)の始め也。この後、いく程もなく、淺草寺のうしろなる、日本堤(につほんつゝみ)のほとりにて、二町に三町のかえ地をくだされ【大門口より水道尻まで、京間百三十五間、橫幅百八十間、内の坪數二萬七百六十七坪、「吉原大全」に記せしもかくの如し。舊地よりは五わり增の替地なり。】、晝夜ともに渡世を致すべき旨を仰わたされ【是までは晝ばかり也。】、引料(ひきれう)として御金壹萬五千兩下され【但、小間一間に、金十五兩づゝの積り也。】、同年八月上旬に、家作、落成してければ、みな、新吉原へ移徙(わたまし)して、生業をせしといへり【江戶中なる風爐屋の髮結女と唱へる、隱賣女を嚴禁にせられしも、このときのこと也。かくて、そのものどもの、うちわびて、みな、吉原へうつり住ひし程に、茶屋・遊女持ともに、すベて七十餘人ましたりと云ふ。】

 右、「元吉原由緖書」の趣を略抄して、愚按を加へたり。

2022/03/12

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ (その4) 瀧澤氏勸解回語・寫本「洞房語園」卷三 / 「けんどん」爭ひ~了

 

   ○瀧澤氏勸解回語

『「けんどん」考勸解』の一通、遯辭謙退、なかなかに當り難くこそ侍れ、足下、亦復、論辨の趣意なければ、予も亦、この勸解にかきて、いさゝかも、いふべきにあらず。そが中に、『「けんどん」を「慳貪」也』とせし事は、寫本「洞房語園」・「北女閭紀原」・「人倫訓蒙圖彙」・「世事談綺」等により給ひしよしなれど、寫本「洞房語圖」は享保五年[やぶちゃん注:一七二〇年。]の撰にて、「大名けんどん」の廢せし後より、いへる事なれば、既に、あやまり傳へし也。况、「語園」より後のものをや。但、「人倫訓蒙圖彙」は、元祿中の風俗諸商賈の畫圖を書集めたるものなれども、こは京師にて撰述せし俗書にて、蒔繪師源三郞とかいふものゝ筆に成れるものなれば、江戶の事は謬傳る[やぶちゃん注:「あやまりつたふる」。]事、多かり。當時、京・攝の册子に、江戶の事をかけるには、あやまりも粗[やぶちゃん注:「ほぼ」。]あるよしは、曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]いへるが如し。かゝれば、只、顯にこれらを信用し給ひしは、千慮の一失なるべし。又、「子」といふことは、尊稱のよしにて、「論語義疏」幷に「二程全書」[やぶちゃん注:北宋の程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟の文集・語録・著述などを集大成したもの。宋学の先駆となる著作集で全六十八巻。明の徐必達の校訂に成り、一六〇六年に刊行された。]なる、程子の言を引て敎訓せらる。予は淺學なれども、かばかりの事は、知れり。いにしへ、唐山姬周[やぶちゃん注:「唐山」は「唐土」に同じ。「姬」(き)は周王朝の王の姓。]の時、「子」は五等の爵也。又、「子」は男子の惣稱ともいへり。當時は弟子、その師を尊稱して「子」とする、勿論也。しかれども、當時、「師」も亦、弟子を「子」と稱する事あり。孔子の「吾」にあらず、『彼二、三子也。』[やぶちゃん注:「彼(か)の二、三子(し)なり。」。]などいふ「子」は、孔子の爲には「孫弟子」なる、顏淵が弟子をさしていふにあらずや。此他、『小子、識ㇾ之。』などもいへり。此故に墨氏[やぶちゃん注:底吉川弘文館随筆大成版には『(マヽ)』注が有る。]・列子の徒に至ては、其師を推尊て[やぶちゃん注:「おしたつとびて」。]「子墨子」・「子列子」など、上下に「子」を置て稱したり。これ、孔子、世を去し後には、「子」とのみ稱することの、輕きかたになる故と、しられたり。孔子の時といへ共、師弟の問對[やぶちゃん注:「もんつい」。応答。]には「夫子」と稱せり。「夫子」の辨は「朱子」の語中にあり。足下のしれる所なれば、いはず。そは、とまれかくまれ、予が曩編[やぶちゃん注:嘗ての文書。]に足下を「先生」と稱せしに、足下は予をさして、「子」といはれしことをいふくだりに、『今の禮節をもて見れば、さながら、師弟の如し』云々と、いへり。此、「今の禮節」といふ「今」の字、則、字眼なるを、よくも見られずや。「今」の字に、こゝろありと、見られなば、遠き姬周の時、孔子の「子」を引くも、要、なし。譬へば、「殿」と云事は、「關白殿下」をまうしゝ尊稱なれども、後世に「樣」と云稱呼の行れしによりて、「殿」といへば、「樣」と云より、いたく貶したる事のやうに聞ゆるがごとし。「子」を稱する事は、古へは、尊稱なれ共、今は尊稱にあらず。同輩朋友の間に相對せずして、物にかくには「某子」と稱すれども、往來の尺牘[やぶちゃん注:「せきとく」。書簡。]も「子」と稱せば、誰かは貶せりと思はざるべき。よりて、予は足下を「先生」と稱せしに、足下は予を「子」と稱したり。今の禮節をもて見れば、『師弟の如し』と、いへる也。さればとて、これを非禮として足下を咎るにあらず。かばかりの用心だに足下に知られざるは、吾、菲薄[やぶちゃん注:「ひはく」。才能の乏しいこと。]の故なり。身を責て、歎息せしまで也。又、我に、『足下、予を稱して「老兄」といはれしを』云々といひしにより、忌嫌ふやうに思はれしは、愚意と、たがへり。古人も「十年肩すぐれは、兄とし、從ふ。」といへり。大抵、弟をもて稱する事は、同年輩のうへにあるべし。又、壯弱の人を「老」と稱するは、其才德の老人のごとく也とたゝゆるの意なれば、論、なし。又、われより年は弟なれども、書を見ること、われより博く、其才の、わが下にあらぬを稱して、「兄」といふ事は、論、なし。しかるを、五十、六十の老人は、みづからも「愚老」と稱すれば、「老」は、俗に云「あたりまへ」也。己より、年齡の二十餘も、三十も、劣りたるものゝ爲には、「兄」といはるゝも「あたりまへ」にて、たうとまるゝことゝは覺えず。さればこそ、禮にも、『長者前、不ㇾ稱ㇾ老。』といへるにあらずや。されば、これらの意味にも、唐山の古しへには、さまざまのわけあるべけれども、只今、俗文の手簡には、却て馬鹿にされるやうにおもふもの、あらん。「『足下の博識高才もて、かばかりの事に心づき給はぬにや』とおもひしかば、いひにくきことなるを」云々といひし事、萬、みな、朋友の信より出たる諷諫の徵言也けり。いと憚あることなれども、足下の癖として、動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば、席上にて、人をやりこむる事、しばしば也。足下は、心づかずや、いふらん、予も兩三度、やりこめられしことあり。しかれども、予は、爭ひを好まず。いふべきこと辨ずべきことありても、さやうの時には、閉口してをりし故、足下は、心づき給はぬならん。もし、足下の博識もて、謙退を旨とし給はゞ、才德兼備の君子ならんと思ひつゝ、足下を愛する心から、人は得いはぬことまでを、いひし也。かくて、今、「勸解」の篇のみならず、近頃、足下の動靜、云爲[やぶちゃん注:「いひなす」。]に心をつけて見れば、去冬より當春の北峰子[やぶちゃん注:美成の号。]にあらず、一段の光耀をまし給ひしを竊に歡び思ふのみ。愚者にも、一得、有り。賢者も、一失、なからんや。過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を改る事は、君子のおそるゝ所なり。足下、元より、あやまちあるにはあるべからざれど、予がひが目には、しか、おもひしなり。すべて、足下の、說を辨ぜしことは、諷諫の微意のみ。さらばとて、よき說をも、わろしといふ事は、絕て、なし。予は人の說のよきを聞けば、よろこびて、いねられず、人にも告しらせ、物にもしるす事、むかしより、今、猶、しかり。一言一句たりとも、人の說を、わが說のやうに書あらはすことは、予がふかく耻る所なり。又、過あれば、怠狀を出すも耻とは思はず。孔聖すら、其過あるを、人の告るものあれば、『丘也、幸』云々と宣へり。俗客の「あやまり證文」と學者の怠狀とは、その差、徑庭あり。わがあやまりあらんには、足下に諫められんことを、ねがふのみ。斯のごとくならば、實に「忘形の友」といふべし。あなかしこ。[やぶちゃん注:「忘形の友」「地位や能力などを問題にしない隔てなき盟友」の意。]

    ○

寫本「洞房語園」卷三[やぶちゃん注:前回、私が注で電子化したものと、必ず、対照されたい。]

 媗鈍[やぶちゃん注:「媗」はママ。吉川弘文館随筆大成版も同じ。]、寬文二年寅秋中より、吉原に始て出來たる名也。往來の人をよぶ聲、媗しく、局女郞[やぶちゃん注:「つぼねぢよらう」。]より、遙におとりて、鈍く見ゆるとて、「媗鈍」と云せたり[やぶちゃん注:「いはせたり」。]。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が]二字下げ。]

按るに、「北女閭紀原」云、其頃、江戶町二丁目に仁右衞門と云ふ者云々、一人前の辨當をこしらへ、そば切を仕込て、銀目五分づゝにうり、端[やぶちゃん注:「はした」。]けいせいの下直[やぶちゃん注:「げぢき」。]なるになぞらへ、「けんどんそば」と名付しより、世間にひろまる。又、云[やぶちゃん注:「いはく」。]、「媗鈍」、本說のごとくなるべし。しかし、昔より、世に「けんどんなる人」などゝいふは、慳貪とつゞけ書たる文字にて、愛・仁なき人の上を、いふ。さあらば、端女郞の呼聲、とかく、愛なきさまゆへに云出たることもあるべし、と、いへり。今に、これによりて、おもへば、「けんどん」の名の起りは「語園」をもて、證すべし。その名義は「北女閭紀原」の愛なきといふ說、是なり。此二書をもて、先に、餘が、いひし言の、妄ならざるを、證するに足れり、とや、いわん。

[やぶちゃん注:結局のところ、馬琴は「けんどん」の名義で争うことに学術的風俗史的意義を見出したのでは、さらさらなく、単に山崎美成の、目上の識者をこき下ろす許し難い増長慢に、遂に、堪忍袋が切れた、というだけのことであることが判る。要は、傍観者として冷静に見れば、馬琴も美成も文字通り「慳貪」の極みであることも判るのである。

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