曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「夜分(やぶん)、古墓石を磨く怪」「石塔みがき後記」 / 曲亭馬琴「兎園小説」本篇・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」・「兎園小説拾遺」全篇電子化注完遂 兎園小説全集大団円也!
[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段五行目)から載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。最後なので、読み易く段落を成形した。「□」は原本の脱字を示す。但し、思うに、この場合は、人物(馬琴の姻族)を特定されるのを憚るための意識的欠字と推定される。
以下、最後の二条は、続き物であるので、ここで一行空けてカップリングして示す。
さても、昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、これを以って、遂に、以上の「兎園小説」集の全篇(「兎園小説」(本集)・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説拾遺」)を凡そ一年と五ヶ月で終わることが出来た。現行、これらを総て活字化し注を附したものは、出版物でもネットでもないはずである。これに付き合って下さった数少ない私の読者の方々に心より御礼申し上げるものである。]
○夜分磨二古墓石一怪
文政十三年庚寅秋九月下旬より、江戶なる寺院の古き石塔を、一夜のうちに磨《みが》くもの、あり。何の所爲《しよゐ》といふ事をしらず。
「此事、初秋の頃、甲斐の國にて、處々にありしを、やうやく、江戶に移り來つ。」
と、いへり。
とかくする程に十月に至りて、此事、いよいよ、甚しく風聞せり。
そが中に、四谷天龍寺に、戶田因幡守家臣何某の墓、有《あり》、是も、みがゝれし由、寺より施主某《なにがし》へ、報(ほう)、來れり。
只、石塔の正面を磨くのみ。中には、戒名へ、すみをさし、朱をさして、漆《うるし》せしも、あり。
「戶田家が墓石は、只、磨たるのみなれど、文字の内まで、よく、さらひたり。」
と、いふ【同家中、渥見覺□話也。覺□は、わが女婿なり。】。
又、我《わが》媳婦《せきふ》の祖父の墓は、伊皿子臺の寺に有《あり》、
「是、磨かれたり。」
と、いふ。
此頃、輪池翁の出《いだ》されしとて、其寫しを見たる一友人より傳聞《つたへきく》に、
「古き繪卷物に『石塔磨《せきたふみがき》』といふ虫、有《あり》。かたち、泥龜に類して、赤み有《あり》。是成《これなる》べし。」
と、いはれし由なれど、蟲などのわざとは、思はれず。
又、小日向《こびなた》邊なる某の寺の本堂の前の日向《ひなた》に、近所の子守女、兩三人、主《あるじ》の小兒を脊負ひて、あそばせ居《をり》たるに、不ㇾ計《はからずも》、墓所の方を見れば、獨《ひとり》の法師、石塔を磨居《みがきをり》たり。一人の子守、是を見て、
「坊さま、何をし給ふぞ。」
と問ひしに、件《くだん》の法師、物をも、いはず、
「き」
と、にらみたる面つきの、いとおそろしかりければ、子守等、皆、
「ワ。」
と、さけびて、各《おのおの》、主の家に迯《にげ》かへり、
「只今、かゝる事の侍りし。」
とて告《つぐ》るに、なほ、白齒なる[やぶちゃん注:鉄漿(おはぐろ)をしていない女、則ち、未婚の若い女性を指す。]下女共の、
「おはぐろをつけたるごとく、いづれも齒のくろくなりたり。」
と、いふ。
後に思ふに、是等の怪談は、皆、そらごと也。
石塔をみがゝれしことは、相違なし。
「其《その》磨《みがき》ざま、石工のなせしとは異にして、スベラカ也。」
とぞ。
みがきたる墓のほとりに、朱のこぼれてありしも有。
逆朱をさす時に、こぼせしなるべし。
是等、傳聞ながら正說也。
此地、處々の寺々にて、磨れたる石塔、枚擧に遑《いとま》あらず。一夜の中《うち》に、十も、十五も、磨こと、あり。
然れ共、皆、とびとびにて、並《ならび》よく、みがくことは、なし。
寺院よりは、施主へ告げ、寺社奉行へ訴へ、町方にては、其施主たる者、町奉行所へ訴る者、日々に絕えず、とぞ。
依ㇾ之、佐竹候は、其菩提所、橋場なる總泉寺の墓所へ、假番屋を建て、晝夜、番人を付置《つけおく》といふ。
かゝる諸候、なほ、有べし。
「いぬる日、今戶なる何某《なにがし》、稻荷の社の屋根なる眞鍮の狐二つの内、一つの狐も磨れたり。」
と聞《きき》ぬ。
又、いぬる夜、淺草なる西福寺の門をたゝく者、有《あり》、門番人、
「誰《たれ》ぞ。」
と問へば、
「云々の處より來れり。本堂へ、とほる。」
と、いふにより、門をひらきて入れたるに、其人、三人也。
本堂の方へはゆかで、墓所のかたへゆくにより、門番人、あとより追《おひ》かけ出《いで》て、
「本堂は、そなたにあらず、こなたこそ。」
と呼留《よびとむ》るとき、襟元、
「ぞつ」
と、せしに、驚きて、『見かへらん』とせしに、頭髻(たぶさ)を切《きり》おとされけり。
是にぞ、いよいよ、驚き怕《おそ》れて、
「あ。」
と、叫《さけび》て、倒れしかば、門番の妻、この聲を聞《きき》て走り出《いで》つゝ、良人を、いたはり、寺よりも、法師等《ら》、出て、彼《かの》三人を尋ねしに、ゆくへもしらずなりし、とぞ。
かゝれば、
「狐の所爲なるべし。」
といふ者、有。
かゝる事には、虛談も多かれば、一向には信じかたけれど、墓石を磨れし事は、人々、目擊する所也。
此節に至りて、
「彼《かの》墓を磨れたる者は、子孫、斷絕する。」
などゝ風聞す。
是《これ》にて、思ひ合《あは》すれば、狐を使ふ者の所行《しよぎやう》にて、墓を磨《みがか》せ、その怪を攘《はら》ふ守札《まもりふだ》なんどを賣らん爲《ため》かも、知るべからず。
明和中、「髮きり」の流行せしも、「ゑせ山伏」のわざにて、狐に、人々の髮をきらせ、狐よけの守札を出せしより、其事、あらはれて、彼《かの》惡山伏は、捕《とらは》れて、罪、せられにき。
かゝる事もあれば、こたびの墓みがきも、狐を使ふ者のわざにはあらずやと、己《おのれ》も、おもへり。
もし、然らんには、遠からずして、その事、あらはるべし。
庚寅冬十月八日記
[やぶちゃん注:「文政十三年」一八三〇年。
「四谷天龍寺」東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗護本山(ごほんざん)天龍寺(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。
「渥見覺□」「覺□は、わが女婿なり」馬琴の三女鍬(くわ)は文政一〇(一八二七)年に宇都宮藩藩士で優れた絵師でもあった絵師渥美覚重(赫州)と結婚している。彼は天保五(一八三四)年に完成した馬琴の鳥類図鑑の優れた博物画をものしていることで知られる。
「我媳婦の祖父」「媳婦」は息子の嫁。馬琴の長男興継の妻土岐村路(ときむら みち)の祖父の謂い。路の父は紀州藩家老三浦長門守の医師土岐村元立(げんりゅう)で次女であるから、その父ということであろう。
「伊皿子臺」「伊皿子」は芝伊皿子(現在の港区伊皿子地区。泉岳寺の東北直近)。「寺」と言われても複数あるので特定出来ない。
「輪池翁」親友で「兎園会」・「耽奇会」でお馴染みの幕臣の文人屋代弘賢。
の出《いだ》されしとて、其寫しを見たる一友人より傳聞《つたへきく》に、
「古き繪卷物に『石塔磨』といふ虫」典拠不詳。この名の虫も知らない。「かたち、泥龜に類して、赤み有」という叙述から、ふと、思い出したのは、半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科モンシロサシガメ亜科アカサシガメ属アカサシガメ Cydnocoris russatus であった。刺すし、消毒液を分泌するが、しかし、それで石塔が磨かれるとは、ちょっと思われない。
「小日向」現行の東京都文京区小日向はここ。旧小日向はもっと広域と思われる。この地域だけでも寺は複数あり、同定不能。
「スベラカ」「滑(すべ)らか」。
「佐竹候」佐竹壱岐守家。この当時は第六代当主にして出羽国岩崎藩第六代藩主佐竹義純(よしずみ)。
「橋場なる總泉寺」この寺は江戸三刹の一つとされる曹洞宗妙亀山綜泉寺。この頃は、現在の台東区橋場にあったが、関東大震災に罹災し、現在は東京都板橋区小豆沢に移っている(ここ)。佐竹家の江戸に於ける菩提寺である。
「今戶」現在の台東区今戸。
「稻荷の社」恐らく何某の屋敷内の稲荷社であろう。
「淺草なる西福寺」若干、浅草の南だが、台東区蔵前にある浄土宗江戸四ヶ寺の一つである東光山松平良雲院西福寺のことと思われる。
「頭髻(たぶさ)」「髻(もとどり)」に同じ。所謂、「丁髷(ちょんまげ)」(但し、この俗称は明治初期以降の表現である)。
「明和」一七六四年から一七七二年まで。
『「髮きり」の流行せし』明和のそれは、ちょっとないが、私の作成すた怪奇談で公開の古い順に示すと、
「諸國里人談卷之二 髮切」(そこでは、冒頭「元祿のはじめ」とする。元禄は一六八八年から一七〇四年まで)
を参照されたい。]
○石塔みがき後記
「此石塔をみがきしは、癩人《らいじん》の所爲也。」
と、いふ。
その故を尋《たづぬ》るに、本所立川《たてかは》邊に、ひとりの道心者あり。此者、壯年の頃まで、惡黨なりしに、故ありて、發心し、剃髮して、道心者となれり。常に慈善の行ひを旨として、浮尸體《うきしたい》などあるを見れば、竊《ひそか》に引《ひき》あげて葬りし事も、幾度にか及べり。
又、立川邊に、ひとりの癩病人あり。年來《としごろ》、療治に手をつくせしかども、驗《しるし》なし。
あるとき、右の道心者、癩病人に敎《をしへ》て、いふやう、
「古き石塔を、人にしらさぬやうに、一千、みがくときは、その功德《くどく》によりて、難症、平癒、うたがひ、なし。しかれども、人にしられては、しるし、なし。」
と、いひけり。
依ㇾ之、右の癩病人、はじめは、甲州街道に至りて、田舍寺の石塔を磨きしが、田舍のみにてははかどらぬ故、次第に江戶中の墓を、みがきし、とぞ。
この事、十一月中旬、露顯に及び、右の願人《ぐわんいん》、寺社奉行脇坂候へ召捕《めしとら》れ、その口狀によりて、敎たる道心者も搦捕《からめと》られて、今、牢中にあり、と聞えたり。
「慾心の爲にせし事にもあらねど、御府内《みふない》をさわがせし、罪、あり。獄斷《ごくだん》、いかに定《さだめ》らるゝや、死刑に及ぶ、まじきか。」
と、此頃の世說《せせつ》也。
この事、實說なるべし。
十一月下旬より、「石塔磨」の噂、フツと、やみけり。
庚寅十二月上旬追識。
[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が一字下げ。]
再《ふたたび》按ずるに、右後記にしるしたる癩人に、石塔磨の事を誨《をしへ》し道心者は、杉島生の「棹子顱圓記」に見えたる、御馬屋河岸《おんまやがし》の船人《ふなびと》にて、後に祝髮《しゆくはつ》、念佛者となりて、中の鄕なる福巖寺に寓居したる顱圓なるべし。所云《いふところの》「顱圓記」は、文政十三年庚寅仲冬の作、「載《のせ》て聞《きく》まゝの記」に、あり。合せ見るべし【天保三年の秋、追記。著作堂。】。
兎園小說拾遺第二終
[やぶちゃん注:「癩人」ハンセン病患者。この「癩」は歴史的に強い差別の歴史を背負った差別語であるから、現代では使用すべきではない。詳しくは、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』の私の注を参照されたい。
「本所立川」本所堅川が正しい。現在の東京都墨田区及び江東区を流れる人工河川。江戸城に向かって縦に流れることからかく名がついた。
「浮尸體」「うきしたい」の読みは確定ではない。「うきかばね」「うきしかばね」かも知れぬ。水死体。
「寺社奉行脇坂候」播磨国龍野藩八代藩主の脇坂安董(わきさかやすただ)。彼は二度、寺社奉行を任ぜられているが、その二度目の任期中。
「庚寅十二月上旬」文政十三年の最後の十日となる。陰暦十二月十日(グレゴリオ暦では既に一八三一年一月二十三日)に天保に改元されている。
『杉島生の「棹子顱圓記」』不詳。今まで「杉島」という人物は「兎園小説」には出てきていない。「たう(或いは「たく」)しろゑんき」と読んでおく。以下の叙述から、「棹子」は元「棹(さを)さす男(をのこ)」で、「顱圓」は恐らく自前の法号で「顱」は「かしら」或いは「頭の上部」を指すから、「つるんと頭のまあるい坊主」という謂いであろう。
「御馬屋河岸」「御厩河岸」。現在の厩橋の上流に「厩の渡し」があった、その附近。
「祝髮」「剃髮」に同じ。
「中の鄕なる福巖寺」墨田区東駒形にある曹洞宗牛嶋山福厳寺。ここは旧中之鄕原庭町に当たる。「今昔マップ」のこちらで戦前の地図を見られたい。
「載て聞まゝの記」不詳。
「天保三年」一八三二年。]