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カテゴリー「兎園小説【完】」の307件の記事

2022/12/17

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「夜分(やぶん)、古墓石を磨く怪」「石塔みがき後記」 / 曲亭馬琴「兎園小説」本篇・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」・「兎園小説拾遺」全篇電子化注完遂 兎園小説全集大団円也!

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段五行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。最後なので、読み易く段落を成形した。「□」は原本の脱字を示す。但し、思うに、この場合は、人物(馬琴の姻族)を特定されるのを憚るための意識的欠字と推定される。

 以下、最後の二条は、続き物であるので、ここで一行空けてカップリングして示す。

 さても、昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、これを以って、遂に、以上の「兎園小説」集の全篇(「兎園小説」(本集)・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説拾遺」)を凡そ一年と五ヶ月で終わることが出来た。現行、これらを総て活字化し注を附したものは、出版物でもネットでもないはずである。これに付き合って下さった数少ない私の読者の方々に心より御礼申し上げるものである。

 

   ○夜分磨古墓石

 文政十三年庚寅秋九月下旬より、江戶なる寺院の古き石塔を、一夜のうちに磨《みが》くもの、あり。何の所爲《しよゐ》といふ事をしらず。

「此事、初秋の頃、甲斐の國にて、處々にありしを、やうやく、江戶に移り來つ。」

と、いへり。

 とかくする程に十月に至りて、此事、いよいよ、甚しく風聞せり。

 そが中に、四谷天龍寺に、戶田因幡守家臣何某の墓、有《あり》、是も、みがゝれし由、寺より施主某《なにがし》へ、報(ほう)、來れり。

 只、石塔の正面を磨くのみ。中には、戒名へ、すみをさし、朱をさして、漆《うるし》せしも、あり。

「戶田家が墓石は、只、磨たるのみなれど、文字の内まで、よく、さらひたり。」

と、いふ【同家中、渥見覺□話也。覺□は、わが女婿なり。】。

 又、我《わが》媳婦《せきふ》の祖父の墓は、伊皿子臺の寺に有《あり》、

「是、磨かれたり。」

と、いふ。

 此頃、輪池翁の出《いだ》されしとて、其寫しを見たる一友人より傳聞《つたへきく》に、

「古き繪卷物に『石塔磨《せきたふみがき》』といふ虫、有《あり》。かたち、泥龜に類して、赤み有《あり》。是成《これなる》べし。」

と、いはれし由なれど、蟲などのわざとは、思はれず。

 又、小日向《こびなた》邊なる某の寺の本堂の前の日向《ひなた》に、近所の子守女、兩三人、主《あるじ》の小兒を脊負ひて、あそばせ居《をり》たるに、不ㇾ計《はからずも》、墓所の方を見れば、獨《ひとり》の法師、石塔を磨居《みがきをり》たり。一人の子守、是を見て、

「坊さま、何をし給ふぞ。」

と問ひしに、件《くだん》の法師、物をも、いはず、

「き」

と、にらみたる面つきの、いとおそろしかりければ、子守等、皆、

「ワ。」

と、さけびて、各《おのおの》、主の家に迯《にげ》かへり、

「只今、かゝる事の侍りし。」

とて告《つぐ》るに、なほ、白齒なる[やぶちゃん注:鉄漿(おはぐろ)をしていない女、則ち、未婚の若い女性を指す。]下女共の、

「おはぐろをつけたるごとく、いづれも齒のくろくなりたり。」

と、いふ。

 後に思ふに、是等の怪談は、皆、そらごと也。

 石塔をみがゝれしことは、相違なし。

「其《その》磨《みがき》ざま、石工のなせしとは異にして、スベラカ也。」

とぞ。

 みがきたる墓のほとりに、朱のこぼれてありしも有。

 逆朱をさす時に、こぼせしなるべし。

 是等、傳聞ながら正說也。

 此地、處々の寺々にて、磨れたる石塔、枚擧に遑《いとま》あらず。一夜の中《うち》に、十も、十五も、磨こと、あり。

 然れ共、皆、とびとびにて、並《ならび》よく、みがくことは、なし。

 寺院よりは、施主へ告げ、寺社奉行へ訴へ、町方にては、其施主たる者、町奉行所へ訴る者、日々に絕えず、とぞ。

 依ㇾ之、佐竹候は、其菩提所、橋場なる總泉寺の墓所へ、假番屋を建て、晝夜、番人を付置《つけおく》といふ。

 かゝる諸候、なほ、有べし。

「いぬる日、今戶なる何某《なにがし》、稻荷の社の屋根なる眞鍮の狐二つの内、一つの狐も磨れたり。」

と聞《きき》ぬ。

 又、いぬる夜、淺草なる西福寺の門をたゝく者、有《あり》、門番人、

「誰《たれ》ぞ。」

と問へば、

「云々の處より來れり。本堂へ、とほる。」

と、いふにより、門をひらきて入れたるに、其人、三人也。

 本堂の方へはゆかで、墓所のかたへゆくにより、門番人、あとより追《おひ》かけ出《いで》て、

「本堂は、そなたにあらず、こなたこそ。」

と呼留《よびとむ》るとき、襟元、

「ぞつ」

と、せしに、驚きて、『見かへらん』とせしに、頭髻(たぶさ)を切《きり》おとされけり。

 是にぞ、いよいよ、驚き怕《おそ》れて、

「あ。」

と、叫《さけび》て、倒れしかば、門番の妻、この聲を聞《きき》て走り出《いで》つゝ、良人を、いたはり、寺よりも、法師等《ら》、出て、彼《かの》三人を尋ねしに、ゆくへもしらずなりし、とぞ。

 かゝれば、

「狐の所爲なるべし。」

といふ者、有。

 かゝる事には、虛談も多かれば、一向には信じかたけれど、墓石を磨れし事は、人々、目擊する所也。

 此節に至りて、

「彼《かの》墓を磨れたる者は、子孫、斷絕する。」

などゝ風聞す。

 是《これ》にて、思ひ合《あは》すれば、狐を使ふ者の所行《しよぎやう》にて、墓を磨《みがか》せ、その怪を攘《はら》ふ守札《まもりふだ》なんどを賣らん爲《ため》かも、知るべからず。

 明和中、「髮きり」の流行せしも、「ゑせ山伏」のわざにて、狐に、人々の髮をきらせ、狐よけの守札を出せしより、其事、あらはれて、彼《かの》惡山伏は、捕《とらは》れて、罪、せられにき。

 かゝる事もあれば、こたびの墓みがきも、狐を使ふ者のわざにはあらずやと、己《おのれ》も、おもへり。

 もし、然らんには、遠からずして、その事、あらはるべし。

 庚寅冬十月八日記

[やぶちゃん注:「文政十三年」一八三〇年。

「四谷天龍寺」東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗護本山(ごほんざん)天龍寺(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「渥見覺□」「覺□は、わが女婿なり」馬琴の三女鍬(くわ)は文政一〇(一八二七)年に宇都宮藩藩士で優れた絵師でもあった絵師渥美覚重(赫州)と結婚している。彼は天保五(一八三四)年に完成した馬琴の鳥類図鑑の優れた博物画をものしていることで知られる。

「我媳婦の祖父」「媳婦」は息子の嫁。馬琴の長男興継の妻土岐村路(ときむら みち)の祖父の謂い。路の父は紀州藩家老三浦長門守の医師土岐村元立(げんりゅう)で次女であるから、その父ということであろう。

「伊皿子臺」「伊皿子」は芝伊皿子(現在の港区伊皿子地区。泉岳寺の東北直近)。「寺」と言われても複数あるので特定出来ない。

「輪池翁」親友で「兎園会」・「耽奇会」でお馴染みの幕臣の文人屋代弘賢。

の出《いだ》されしとて、其寫しを見たる一友人より傳聞《つたへきく》に、

「古き繪卷物に『石塔磨』といふ虫」典拠不詳。この名の虫も知らない。「かたち、泥龜に類して、赤み有」という叙述から、ふと、思い出したのは、半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科モンシロサシガメ亜科アカサシガメ属アカサシガメ Cydnocoris russatus であった。刺すし、消毒液を分泌するが、しかし、それで石塔が磨かれるとは、ちょっと思われない。

「小日向」現行の東京都文京区小日向はここ。旧小日向はもっと広域と思われる。この地域だけでも寺は複数あり、同定不能。

「スベラカ」「滑(すべ)らか」。

「佐竹候」佐竹壱岐守家。この当時は第六代当主にして出羽国岩崎藩第六代藩主佐竹義純(よしずみ)。

「橋場なる總泉寺」この寺は江戸三刹の一つとされる曹洞宗妙亀山泉寺。この頃は、現在の台東区橋場にあったが、関東大震災に罹災し、現在は東京都板橋区小豆沢に移っている(ここ)。佐竹家の江戸に於ける菩提寺である。

「今戶」現在の台東区今戸

「稻荷の社」恐らく何某の屋敷内の稲荷社であろう。

「淺草なる西福寺」若干、浅草の南だが、台東区蔵前にある浄土宗江戸四ヶ寺の一つである東光山松平良雲院西福寺のことと思われる。

「頭髻(たぶさ)」「髻(もとどり)」に同じ。所謂、「丁髷(ちょんまげ)」(但し、この俗称は明治初期以降の表現である)。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。

『「髮きり」の流行せし』明和のそれは、ちょっとないが、私の作成すた怪奇談で公開の古い順に示すと、

「耳囊 卷之四 女の髮を喰ふ狐の事」

「諸國里人談卷之二 髮切」(そこでは、冒頭「元祿のはじめ」とする。元禄は一六八八年から一七〇四年まで)

『西原未達「新御伽婢子」 髮切虫』

を参照されたい。]

 

   ○石塔みがき後記

 「此石塔をみがきしは、癩人《らいじん》の所爲也。」

と、いふ。

 その故を尋《たづぬ》るに、本所立川《たてかは》邊に、ひとりの道心者あり。此者、壯年の頃まで、惡黨なりしに、故ありて、發心し、剃髮して、道心者となれり。常に慈善の行ひを旨として、浮尸體《うきしたい》などあるを見れば、竊《ひそか》に引《ひき》あげて葬りし事も、幾度にか及べり。

 又、立川邊に、ひとりの癩病人あり。年來《としごろ》、療治に手をつくせしかども、驗《しるし》なし。

 あるとき、右の道心者、癩病人に敎《をしへ》て、いふやう、

「古き石塔を、人にしらさぬやうに、一千、みがくときは、その功德《くどく》によりて、難症、平癒、うたがひ、なし。しかれども、人にしられては、しるし、なし。」

と、いひけり。

 依ㇾ之、右の癩病人、はじめは、甲州街道に至りて、田舍寺の石塔を磨きしが、田舍のみにてははかどらぬ故、次第に江戶中の墓を、みがきし、とぞ。

 この事、十一月中旬、露顯に及び、右の願人《ぐわんいん》、寺社奉行脇坂候へ召捕《めしとら》れ、その口狀によりて、敎たる道心者も搦捕《からめと》られて、今、牢中にあり、と聞えたり。

「慾心の爲にせし事にもあらねど、御府内《みふない》をさわがせし、罪、あり。獄斷《ごくだん》、いかに定《さだめ》らるゝや、死刑に及ぶ、まじきか。」

と、此頃の世說《せせつ》也。

 この事、實說なるべし。

 十一月下旬より、「石塔磨」の噂、フツと、やみけり。

 庚寅十二月上旬追識。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が一字下げ。]

 再《ふたたび》按ずるに、右後記にしるしたる癩人に、石塔磨の事を誨《をしへ》し道心者は、杉島生の「棹子顱圓記」に見えたる、御馬屋河岸《おんまやがし》の船人《ふなびと》にて、後に祝髮《しゆくはつ》、念佛者となりて、中の鄕なる福巖寺に寓居したる顱圓なるべし。所云《いふところの》「顱圓記」は、文政十三年庚寅仲冬の作、「載《のせ》て聞《きく》まゝの記」に、あり。合せ見るべし【天保三年の秋、追記。著作堂。】。

 

 

兎園小說拾遺第二

[やぶちゃん注:「癩人」ハンセン病患者。この「癩」は歴史的に強い差別の歴史を背負った差別語であるから、現代では使用すべきではない。詳しくは、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』の私の注を参照されたい。

「本所立川」本所堅川が正しい。現在の東京都墨田区及び江東区を流れる人工河川。江戸城に向かって縦に流れることからかく名がついた。

「浮尸體」「うきしたい」の読みは確定ではない。「うきかばね」「うきしかばね」かも知れぬ。水死体。

「寺社奉行脇坂候」播磨国龍野藩八代藩主の脇坂安董(わきさかやすただ)。彼は二度、寺社奉行を任ぜられているが、その二度目の任期中。

「庚寅十二月上旬」文政十三年の最後の十日となる。陰暦十二月十日(グレゴリオ暦では既に一八三一年一月二十三日)に天保に改元されている。

『杉島生の「棹子顱圓記」』不詳。今まで「杉島」という人物は「兎園小説」には出てきていない。「たう(或いは「たく」)しろゑんき」と読んでおく。以下の叙述から、「棹子」は元「棹(さを)さす男(をのこ)」で、「顱圓」は恐らく自前の法号で「顱」は「かしら」或いは「頭の上部」を指すから、「つるんと頭のまあるい坊主」という謂いであろう。

「御馬屋河岸」「御厩河岸」。現在の厩橋の上流に「厩の渡し」があった、その附近

「祝髮」「剃髮」に同じ。

「中の鄕なる福巖寺」墨田区東駒形にある曹洞宗牛嶋山福厳寺。ここは旧中之鄕原庭町に当たる。「今昔マップ」のこちらで戦前の地図を見られたい。

「載て聞まゝの記」不詳。

「天保三年」一八三二年。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「山形番士騷動聞書幷狂詩」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段中央やや左から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 本記事は文政一三(一八三〇)年八月十四日未明に西丸大手門(現在のここ。グーグル・マップ・データ)で発生した刃傷事件(死者三人。手負いの者多数)の記録である。]

 

   ○山形番士騷動聞書幷《ならびに》狂詩

間瀨市右衞門亂心始末聞書。

            西丸大手御門番

             秋元但馬守家來

 物頭《ものがしら》亂心  間 瀨   市右衞門

 同即死          齋 田   源  七  郞

 鍵番卽死         戶 部   彥左衞門

 徒目付《かちめつけ》即死 宇田川   萬  造

    【手負 給人】      長谷川  又 十 郞

    【同  同 】     大瀨源五右衞門

                   外給人二人

    【同 下座見足輕】 本 間 源 次  郞

    手負        中 間 嘉 助

    番頭無疵      大沼 角右衞門

文政十三年庚寅秋八月十三日夜丑中刻[やぶちゃん注:恐らくは翌日陰暦十四日未明であるから、グレゴリオ暦では一八三〇年九月三十日相当の午前二時頃。]、右、間瀨市右衞門、亂心、同役齋田源七郞、幷に、番頭《ばんがしら》大沼角右衞門等に遣恨有候哉《や》、夜中、竊《ひそか》に起出《おきいで》、支度をいたし【上着に黑き小袖を着し、襷をかけ、袴を着し、股立《ももだち》をかけ、馬上挑燈をもちし、といふ。】、御番所勝手の方、間每《まごと》の燈火を打けし、睡り臥たる番士の蚊屋の釣緖《つりを》を切落《きりおと》し、初太刀《しよだち》に齋田源七郞を切殺《きりころ》し、又、宇田川萬造を切殺せり。鍵番戶部彥左衞門は逃《にげ》て、番頭大沼角右衞門の部屋にゆきしに、帶もせず、無刀なりしを、角右衞門、叱りたりければ、脇差を取らんとて、元の處へ立戾りしを、市右衞門、一刀に切殺せしとぞ。番士、蚊屋の釣緖を切落され、且、闇《くら》ければ、狼狽して、手を負《おは》せられし者、四人に及べり。此時、下座見足輕、源次郞、走り來《きたり》て、「何事ぞ。」とて挑燈をさし出《いだ》す處を、手の指を切《きり》おとされし、といふ。依ㇾ之、いたく騷動して、市右衞門を捕へんとする者なく、只、御門の前後を守《まもり》て、「走出させじ。」と、せしのみ也。其時、番頭角右衞門、吳服橋屋敷へ人を走らして、非番なりける小林猪野五郞を招きければ、猪野五郞、來れり。時に天明に及びて、市右衞門は桝形の内なる、水溜桶を盾にして、刄を靑眼に構へて有しを、猪野五郞、もぢりをもつて、ねらひより、市右衞門の胸へ突かけしを、切拂《はらは》んとして、猪野五郞も、右の手を、些《すこ》し傷《き》らる。然共、直《ぢき》に踏込《ふみこみ》て組留《くみとめ》し時、足輕小頭某、六尺棒をもて、市右衞門の足を拂ひ倒し、大勢、打かさなりて、繩をかけしといふ【この時、猪野五郞も、足を拂て、共に倒れし故、足をも痛めしとぞ。】。此間に、天は明《あけ》はなれしかば、暫く御門下の往來、留《とどま》りしとぞ【桝形の内、手負《ておひ》の逃出《にげいで》たるものゝ血を引《ひき》たりしと云ふ。】。事、私《わたくし》に濟《すむ》べくもあらねば、則《すなはち》、御目付へ屆らる。依ㇾ之、檢使、來《きたり》て、諸士の口書《くちがき》をとらる【十四日夜五時《よるいつつどき》[やぶちゃん注:午後九時前後。]に、檢使の儀、やゝ、をはりしと云。】。十四日、相番《あひばん》と交代の定日《ぢやうじつ》なれども、この故に、交代、ならず。是より、なほ數日《すじつ》、秋元、勤《つとめ》らる。市右衞門は、町奉行所へ引渡され、當番の諸士、みな、町奉行所へ呼寄《よびよ》せられて、尋ねの旨あり【淺手の者は駕籠にて奉行所へまゐれり。】。市右衞門は揚《あが》り屋え、遣《つかは》さる。秋元殿は差控《さしびかへ》を伺《うかがは》れしに、「先づ、其儀に不ㇾ及」旨に付、元のごとく勤められしと云。此後の事未ㇾ聞ㇾ之。猶、追々、識《しる》すべし。

[やぶちゃん注:「山形藩」当時の出羽山形藩藩主は秋元久朝。

「下座見」江戸城の諸門・番所の下座台にいて、三家・三卿・老中・側用人・若年寄などの登城・下城・通行の際、下座についての注意を与えた下級職。

「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)。

「股立をかけ」袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を摘まんで腰紐や帯に挾み、袴の裾をたくし上げること。普通は「股立ちとる」と言う。

「鍵番戶部彥左衞門は逃て、番頭大沼角右衞門の部屋にゆきしに、帶もせず、無刀なりしを、角右衞門、叱りたりければ、脇差を取らんとて、元の處へ立戾りしを、市右衞門、一刀に切殺せしとぞ」角右衛門の叱責がなければ、彼が命を落とすことはなかった点に着目せねばならない!

「桝形」城郭の虎口(こぐち)に設けられた施設で方形の空間を石垣で囲み、二つの門をつけたもの。この場合は西大手門の内側のそれ。

「もぢり」「錑(もぢり)」。 罪人を捕える道具で、長柄の先に、多くの鉄叉を上下に向けてつけたもの。「袖搦(そでがらみ)」とも呼ぶ。私の『「和漢三才圖會」卷第二十一「兵器 征伐」の内の「長脚鑚」』に掲げられたの左端のものがそれ。

「揚り屋」江戸小伝馬町の牢屋敷にあった御目見以下の武士及び僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋。]

當時、榊原殿は、御本丸大手の御門番にて、當番なりしに、八月十三日夜の子時計《ねのときばかり》に、西丸の方に當りて、物のさわぐ音せしを、いまだ睡らざりける番士等、あやしみて、「彼《か》は何なるべき。」と、耳を側立《そばだち》つゝ聞《きき》しに、「群烏《むれがらす》の森をはなれて鳴《なく》なりけり。」。「常には、あらず。鳥の何におどろきて、木をはなれて、さはぐや。」など、いひつゝ、皆、ねぶりしに、天明に及びて、件《くだん》の騷動の聞えしかば、「夜中の鳥は、それが表兆《ひやうてう》になりけん。」と、思ひ合せしとぞ【八月十七日に、彼《かの》藩中の士の來訪して、話次《はなしついで》の話なり。】。按ずるに、是は彼切害せらるべき人々の魂《たましひ》の、先だちて出《いで》たるを、烏の見て、驚きさわぎたるなるべし。必《かならず》、死人の生前に、其魂の、ぬけ出《いづ》る事、あり。疑らくは、この故なるべし。

此頃、或人の見せたりし狂詩あり。何人の作なるを知らず。

[やぶちゃん注:この怪奇実談のサイド・ストーリーは馬琴のサーヴィスであろう。

 以下、四段組みで、句の後に句点があるが、除去し、一段とした。]

 西城山形番士中

 亂心遺恨譯朦朧

 堪憐卽死三朋輩

 可恥無疵一老翁

 白刄閃時燈影闇

 金屛倒處血眼紅

 主人外聞妻怨嘆

 迷惑差留手負躬

  右檢使書面、幷に、手負人、口書、寫。

[やぶちゃん注:狂詩の訓読を試みる。

   *

西城せいじやう) 山形 番士の中(うち)

亂心 遺恨 譯(わけ) 朦朧(もうろう)

憐れみ堪へず 卽死の三朋輩(さんはうばい)

恥づべし 無疵の一老翁

白刄(はくじん) 閃時(せんじ) 燈影の闇(やみ)

金屛 倒ふる處 血眼(ちなまこ) 紅(くれなゐ)

主人 外聞 妻 怨嘆(ゑんたん)

迷惑 差し留め 手負ひの躬(からだ)

   *

第二句目でも示されているが、この刃傷事件、一貫して、間瀬市右衛門(数え三十五歳)の乱心扱いとなっている。しかし、彼が襲ったのは同僚及び直接の実務上の上役格である。後の方で、検使による間瀬本人への訊問シーンでは、「犯行の動機その他当時の樣子を訊問したところが、何か言っていることが、前後しており、正直、それを意味ある言説として聴き取ることが出来かねたため、『乱心』(発狂)によるものと判断し、彼の『口上書』は聴取しませんでした。」と記している。また、無能の上司番頭(ばんがしら)大沼の供述では、「間瀬本人の言っていることがよく判らない状態にあったと他の者から訴えがあった」ようなことが述べられてあるが、その謂いには、既に事件が起きてしまった折りにそれが告げられたようになっている。ここは何か不自然で、作為が感じられる。しかも、この一件、その後の処分が伝わっていない(通常ならば、磔、軽くて斬罪だろう)。事実、間瀬の被虐性の強い妄想型の精神疾患による乱心であったのなら、その様子を医師を立ち逢わせ(真の統合失調症等の強い関係妄想の場合は素人でもすぐ判る)、訊問の中で明らかにして報告すべきであるが、そこも丸々抜けてしまっている。少なくとも、評議の中で、何か重大な問題――組織的な間瀬へのイジメ行為――があって、藩がそれを隠すために暗躍したとしか私には思われない。この狂詩のそこここにも、そうした民衆の黒い霧部分への憤懣が隠れているようにも読める。

「恥づべし 無疵の一老翁」は現場の実務総責任者であった番頭で無傷だった大沼角右衛門のこと。「主人 外聞 妻 怨嘆」の一句も、専ら、彼に向けられた批判のように思われる。]

  文政十三寅年八月十四日

  西丸大手御門當番秋元但馬守

  家來亂心一件

西丸大手御門當番、秋元但馬守、家來、齋田源七郞外二人死骸、大瀨源五右衞門外三人え、手疵爲ㇾ負候。間瀨市右衞門、見分書。

   覺

秋元但馬守家來、御番所勝手にて、間瀨市右衞門に被切殺候、物頭齋田源七郞死骸、見分仕候處、年三十一歲に罷成候由。頰より、鼻の下へ掛《かけ》、五寸程、深さ二寸程、切下げ、頭中《かしらなか》切疵、三ケ所、有ㇾ之、耳、切落し、右之肩より、二の腕へかけ、長二尺五寸程、左の足、股の下、五寸程、右之股に、二寸程、左足向脛《むかづね》より、足の甲へ掛け、少々宛《づつ》、疵、三ケ所、都合、疵所二十一ケ所。淺黃小倉帶、仕《しまはし》、懷中物無御座候。

一、同人家來、鍵番、戶部彥左衞門、死體見分仕候處、年四十一歲に罷成候由。左のちゝの上より、脊《せ》迄、突抜疵《つきぬけきず》一ケ所、口、三、四寸程有ㇾ之候。衣類、白がすり單物《ひとへもの》、着《き》、淺黃琥珀帶《あさぎこはくおび》、仕、懷中物無御座候。

一、同人家來、徒目付宇田川萬造、死骸見分仕候處、年五拾八歲に相成候由。左の橫腹、一尺程、深疵、左の肩に八寸程、深さ二寸程、左の肩に四ケ處、切疵、有ㇾ之、木綿紺竪島袷《こんたてじまあはせ》着、同艾嶋《よもぎじま》單物、着、花色太織帶。仕、懷中物無御座候。

一、同人家來、長谷川又十郞、見分仕候處、年二十一歲に相成候由。腰に六寸程。切疵一ケ所。衣類、木綿藍返し小紋單物、着、淺黃琥珀帶、仕、懷中物無御座候。樣子、相尋《あひたづね》、別紙口上書《かうじやうがき》、取ㇾ之、差上申候。

一、同人家來、大瀨源五右衞門、見分仕候處、年二十九歲に相成候由。百會《ひやくゑ》より襟へ掛、八寸程、深さ一寸程、脊より眉え掛、五寸程、深さ一寸程、肩より脊へ掛、四寸程、深さ□□[やぶちゃん注:底本に『原本脱字』とある。]程、脊より尻へ掛、そぎ疵、長六寸程、右の小指に切疵少々、衣類、木綿中形《ちゆうがた》單物、着、藍島糸織帶、仕、懷中物無御座候。樣子相尋、別紙に口上書、取ㇾ之、差上申候。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「百會」本来は鍼灸の「ツボ」の名。頭頂部のど真ん中。両耳の一番高い場所を結んだ線と、鼻から後頭部中央(正中線)を結んだ線の交差する箇所。「中形」中ぐらいの大きさの型紙を使った染め模様。]

一、同人家來、下座見、足輕本間源次郞、見分仕候處、歲三十一歲に相成候由。右の耳の下より、襟へ掛、六寸程、深さ一寸程、左之二の腕、六寸程、脊より腰へ掛、六寸程、深さ三寸程、右の手指、四本、切落し、大指計殘居《おほゆびばかり のこりをり》、左の指、少々、都合七ケ所、有ㇾ之候。衣類、藍竪島《あひのたてじま》單物、着、黑なゝこ帶、仕、懷中物無御座候。樣子相尋、別紙口上書取ㇾ之、差上申候。

[やぶちゃん注:「黑なゝこ」平織の織り方の一種。経緯(たてよこ)に七本の撚糸を使ったことから出た名で「七子織」とも書く。また、布面が魚卵のように見えるので「魚子織」、糸が並んで組み織られてあるので「並子織」と書いて「ななこおり」と読んだりする。]

一、同人家來、中間、嘉助、見分仕候處、年三十八歲に相成候由。右の脇下、一尺餘、深さ六寸、腰の脇、八寸程、突疵、都合二ケ所有ㇾ之候。衣類、木綿法皮、着、懷中物無御座候。樣子相尋、別紙差出し申候。

[やぶちゃん注:「法皮」不詳。「法被」で「はつぴ(はっぴ)」のことか。]

一、右、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造・大瀨源五右衞門・長谷川又十郞・本間源次郞・嘉助、七人に爲ㇾ負手疵候、物頭、間瀨市右衞門、見分仕候處、年三十五歲に相成候由。頭中《かしらなか》、打疵、少々宛、三ケ所有ㇾ之、衣類、太織黑小袖、木綿藍小紋、單物、花色琥珀帶、仕、懷中物無御座候。及刄傷《にんじやう》候拔身の刀、長さ二尺五寸[やぶちゃん注:七十五・七センチメートル。]程に、無名、血、付、刄《は》こぼれ、有ㇾ之、緣《ふち》・頭《かしら》共、赤銅《しやうくどう》なゝこ梅色繪。目貫、赤銅、尾長鳥。鮫白柄《さめしろづか》、糸、黑。鍔《つば》、鐵丸《てつぐわん》にて、三違菱《みつちがひ》の透《すかし》、切羽《せつぱ》、金着《きんき》せ。鎺《はばき》、二枚重ね金銀着せ。鞘、蠟色、鵐目《しとどめ》、金。下ゲ緖、黑。脇差、身《み》、長一尺七寸程[やぶちゃん注:五十一・五センチメートル。]、銘「金直《かねなほ》」と有ㇾ之、頭角《かしらかど》、卷掛。緣、赤銅、なゝこ「こふもり[やぶちゃん注:ママ。]」彫《ほり》、目貫、赤銅、ゆづの色繪。鮫白柄、糸、黑。鍔、鐵丸。切羽・鎺共、金、着せ。鞘、蠟色、鵐目、金。下げ緖、黑、小柄《こづか》無ㇾ之。樣子相尋候處、言語《げんご》、前後、仕《つかまつり》、相分り兼《かね》、亂心の儀に付、口上書取不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:「二尺五寸」七十五・八センチメートル弱。

「緣・頭」柄(つか)の鍔(つば)と接する側に付けられる金具が「金」(ふちがね)、その反対側の先端部に付ける金具を「柄」(つかがしら)と言い、この二つは刀剣を腰から提げた際に一番目立つ位置に当たることから、刀剣を所有する人物の威厳を示す重要な部分とされる。サイト「刀剣ワールド」の「縁頭(ふちがしら)とは」に拠った。

「切羽」説明するより、サイト「刀剣ワールド」の「切羽とは」の画像を見る方が手っ取り早い。

「鎺」同前で、ここ

「鵐目」前者のここに、『日本刀の「頭」(かしら:柄)『を補強するために、その先端部に装着される金具)や「栗形」(くりがた:下緒『)を通すために、日本刀の差表側の鞘口』(『さやぐち:刀身を入れるための口』)『付近に付けられた穴のある突起物)にある、緒紐を通すための穴。その形状が鳥の「鵐」(しとど:ホオジロやアオジ、ノジコなどの総称の古名)の目に似ていることから、この名称が付けられている』とある。

「金直」不詳。近代の関の刀工だが、石原兼直がいる。

「頭角」柄の先端の角部分を補強するために装着される金具のことか。]

一、出合候、相番人、檜家《ひのきや》作兵衞・田中爲吉・大津小三郞・葉山彌太郞へも相尋、別紙口上書取ㇾ之差上申候。

一、手醫師本道菊崎玄敬、外科安藤文忠に、樣子、相尋候處、今《こん》曉七半時《あかつきななんつはんどき》頃[やぶちゃん注:午前五時頃。]、御番所に手負人有ㇾ之候趣、申來候に付、早速、罷出、樣子見候處、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造、右三人、深手に御座候間、藥用手當仕候内、不相屆相果申候。大瀨源五右衞門・長谷川又十郞・本間源次郞、幷に嘉助儀、疵口、縫《ぬひ》、膏藥、打《うち》、布にて卷《まき》、藥用手當仕候得《つかまつりそうらえ》ば、少々、快方に御座候へ共、變症の儀は難ㇾ計《はかりがたき》旨、申候。右四人、疵口、爲ㇾ解《とかせて》見分《けんぶん》仕候ては、療治に障り候旨、醫師共申聞候間、見分不ㇾ仕候。

[やぶちゃん注:「手醫師」「手」は「手前」で「幕医」のことであろう。

「本道」通常は内科を指す。即死遺体を含めると、切創が内臓まで達しているものがあったからであろう。

「變症」予後、或いは、症状の主に悪い方への急変。]

一、右番頭大沼角右衞門え、樣子承り候處、今晚七ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で六時半頃か]、御番所勝手の方、物騷敷《ものさはがしく》御座候に付、早速、罷出候處、物頭間瀨市右衞門、亂心の樣子にて、物頭齋田源七郞・給人戶部彥左衞門・徒目付宇田川萬造儀は、深手にて、藥用手當仕候得共、今十四日八時《やつごどき》頃[やぶちゃん注:不定時法の暁八つとすれば、午前一時頃。]、相果申候。給人長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・下座見足輕本間源次郞、中間嘉助に爲ㇾ負手疵候に付、詰合《つめあひ》の者、組の者共一同、罷出、捕押《とりおさへ》、念入《ねんいりに》、番人付置《つけおき》、疵人《きずびと》儀は手醫師、呼寄せ、藥用手當仕置《つかまつりおき》、早速、但馬守屋敷へ申遣し、勤番人數の儀は、御定《ごぢやう》の通《とほり》相揃置申候旨、申聞候。

右の外、相替儀《あひかはれるぎ》無御座候。以上。

  寅八月十四日   御徒目付

              黑川伴左衞門

              笠原新左衞門

右齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造、死骸、手負、長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・本間源次郞・嘉助、相手、間瀨市右衞門、幷に及刄傷候大小共、追《おつ》て御差圖有ㇾ之候迄、但馬守屋敷へ、念入《ねんいりに》、番人、附置可ㇾ申旨、但馬守家來、本田惣右衞門へ申渡候。

 一同口上書

      口上覺

今曉《あけ》七ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で午前二時頃。]、私儀、不ㇾ寢仕罷在候處、物騷敷《ものさはがしく》御座候間、早速、罷出候處、物頭間瀨市右衞門、不揃《ふぞろひ》の事申聞候迚《とて》、怪我仕候者共有ㇾ之候間、組の者へ差圖仕《さしづつかまつり》、爲捕押置《とりおさへなしおき》、一間に押込置《おしこめおき》、番人、念入付置申候。右手疵の者共七人え、手醫師、呼寄、療治差加へ候得共、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造儀は、深手にて相果《あひはて》、長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・下座見足輕本間源次郞・中間嘉助儀は、淺疵にて御座候得共、變症の儀は難ㇾ計候旨、今、醫師菊崎玄敬、外科安藤文忠申聞候。最《もつとも》、當番人數《にんず》は但馬守屋敷へ申遣し、御定の通、人數相揃申置申候。

 寅八月十四日   秋元但馬守家來

           番頭  大沼角右衞門

[やぶちゃん注:「不揃の事」わけの分からないことを言うこと。ここが私が先に「間瀬本人の言っていることがよく判らない状態にあったと他の者から訴えがあった」ようなことが述べられてあるが、その謂いには、既に事件が起きてしまった折りにそれが告げられたようになっている。ここは何か不自然で、作為が感じられると指摘した箇所である(以下の取り押さえた連中の供述でも、全く同じ「物頭間瀨市右衞門不揃の事申聞候間」という表現になっているのも、私には甚だ奇妙な感じがする(検使が面倒になって同じ文面にしたと言われれば、そうかも知れぬが)。この供述は、明かに「私はこの事件に何らの関与もしておりません。事件発生直後より、洩れなく、対応を致しました。」とのたもうている臭いが、プンプンするのである。

      口上覺

今曉七半時頃、西丸大手御門、秋元但馬守當番中にて、御番所に不ㇾ寢仕罷在候處、物頭間瀨市右衞門不揃の事申聞候間、一同罷出取押申候處、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造儀は深手、長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・下座見本間源次郞・中間嘉助儀は、淺手に御座候へ共、手疵受申候。常々、實體成《じつていなる》者にて、一同心易《こころやすく》仕候者に御座候處、如何之譯《いかなるのわけ》にて右及始末候哉《や》、全《まつたく》亂心仕候故と奉ㇾ存候。疵人は、銘々、手醫師本道外科、呼寄、療治相加へ申候。當人儀も、番頭指圖にて、一間に押込置き、念入、番人付置申候。此外に申上候儀、無二御座一候。以上。

 寅八月十四日  秋元但馬守家來

          面番給人    若山彌太郞

                 田中 爲吉

    捕押候者         大津小三郞

                 檜家作兵衞

    口上覺

今曉七半時頃、私共、當番にて、西丸大手御番所に不ㇾ寢仕罷在候處、物頭間瀨市右衞門、亂心の樣子にて、及騷動候に付、檜家作兵衞・大津小三郞・田中爲吉・若山彌太郞、幷《ならびに》組の者一同、罷出、捕押可ㇾ申と存罷出候處、私共兩人、數ケ所、手疵負候へ共、漸《やうやう》捕押申候。最《もつとも》、平日、意趣遺恨等、受候覺無御座候。心障《こころざはり》の儀も無ㇾ之、如何の儀にて右及始末候哉、曾て不ㇾ奉ㇾ存候。此外、可申上儀無御座候。

 寅八月十四日 秋元但馬守家來

          面番給人 長谷川 又十郞

                大瀨源五右衞門

    口上覺

今曉七半時頃、西丸大手御門秋元但馬守當番中にて、物騷敷御座候間、早速捕押可ㇾ申と存罷在候處、何人共相分不ㇾ申《なんぴとともあひわかりまをさず》、手疵、請《うけ》、深手にて、前後も相辨《あひわきまへ》不ㇾ申候。最、平日、意趣遺恨等、請候覺無御座候。此外可申上儀無御座候。

 寅八月十四日

           下座見足輕 

                   本間 源 次 郞

            中 間   嘉      助

    口上書、同斷に付略ㇾ之。

           本道外科

            本道   菊 崎 玄 敬

            外科   安 藤 文 忠

    口上書賂ㇾ之。

           秋元但馬守家來

     當人     物頭   間瀨 市右衞門

              

            物頭  ⎧齋田 源  七  郞

     即死     鍵番    戶部 彥左衞門

            徒目付  宇田川 萬 造

[やぶちゃん注:以上三名の姓名の上部は底本では大きな「」記号。]

                 ⎧  大瀨源五右衞門

                   ⎰  坂本 鐵  五  郞

     手負     給人   ⎱   長谷川 又十郞

                  ⎩  安藤 金  之  助

[やぶちゃん注:以上四名の姓名の上部は底本では大きな「」記号。]

     手負市右衞門を 鍵番     小林 亥  五  郞

     捕押候者是也。

           下座見足輕 ⎰本間 源  次  郞

     手負     下番       ⎱   嘉  助

[やぶちゃん注:以上二名の姓名・名の上部は底では大きな「」記号。]

私《わたくし》に云《いふ》、公設御門御番所にて、かゝる騷動は前代未聞也。昔年、何がしの守御門番の時、番士に亂心者ありて、朋輩、三、四人、手疵負《おは》せ候事ありしが、いづれも淺手なりしかば、ふかく祕して、屋敷え、遣し、内分にて事濟しといふ。此度の騷動に、祕すべくもあらずなりし、となん。此後の事、いまだ聞えず、深手の者は存亡、覺束なしとぞ。

[やぶちゃん注:なお、先行する馬琴の別な記事では、江戸城内での刃傷沙汰の記録として「兎園小説余禄」の「西丸御書院番衆騷動略記」がある。西丸御書院番松平外記が同僚のイジメを遺恨として、引き起こした殿中での刃傷事件「松平外記刃傷」で、死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)、外記本人もその場で切腹している。]

2022/12/13

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「麻布大番町奇談」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後ろから四行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は江戸の巷説で頻りに語られた当時のアップ・トゥ・デイトな都市伝説(urban legend)であるので(前回の怪しげな野馬台詩に「雲峰婆々古狸喰」(雲峰の婆々 古狸に喰(く)はる)と出る)、段落を成形した。]

 

   ○麻布大番町奇談

 文政十一年三月中比《なかごろ》、雲峰《うんぱう》の家に、久しく仕《つかへ》し老女、有《あり》。名を「やち」と、いへり。年七十餘りに成《なり》ぬれば、名をよぶ人もなく、只、

「婆々《ばば》。」

とぞ、いひける。

[やぶちゃん注:「文政十一年」一八二八年。「雲峰」旗本で文人画家でもあった大岡雲峰(明和二(一七六五)年~ 嘉永元(一八四八)年)。当該ウィキによれば、『名は成寛、通称次兵衛。字は公栗。雲峰と号す。江戸の生まれで』、『筑後柳河藩士牛田』(「うしだ」か)『忠光の子として生まれる。のちに旗本大岡助誥』(「すけつぐ」か)『の養子となり』、天明八(一七八八)年二十四歳で『家督を継ぐ』。寛政三(一七九一)年には『表右筆に任じられ』た。『絵では鈴木芙蓉の高弟で、のちに』、二つ『年上の谷文晁の門人となった。山水画・花鳥画を得意とし、二宮尊徳とその娘の画の師にもなった。四谷大番町に住み、画風を南蘋派に転じると』、「四谷南蘋」と『加称され』、『文化年間には文晁や酒井抱一などと並称された』。『本草学にも興味を持ち、増田繁亭編』「草木奇品家雅見」(そうもくきひんかがみ 文政七(一八二四)年刊)や、旗本で園芸家でもあった水野忠暁の「草木錦葉集」(文政一二(一八二九)年刊)『などに弟子の関根雲停、石川碩峰とともに挿絵を描いている』。天保七(一八三六)年六月二十一日に『雲峰主催の』「尚歯会」(江戸後期に蘭学者・儒学者などの幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助))が『大窪詩仏の』「詩聖堂」で『開催され、村井東洋』(当時八十二歳。以下同じ)・谷文晁(七十五歳)、春木南湖(七十八歳)・大窪詩仏(七十歳)など十一『人が参加した。雲峰は』この時、七十三歳で、『江戸画檀の長老として敬われた。享年』八十四、とある著名人であった。噂話・都市伝説としては、実在する有名な人物が関わっていることから、怪奇実話として喧伝されていたことが判る。彼の「漢画石譜」(名乗りは『雲峯泰化寉』(うんぱうたいくわかく)『著』とある。出版は後代の明治一三(一八八〇)年東京府の玉林堂刊)が早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで視認出来る。]

 婆々が親族、皆、たえて、引取《ひきとり》養ふ者なく、掛るべき便《たより》なければ、

「千秋を主人の家に過《すぐ》せよ。」

とて、憐《あはれ》み、おきけり。

 かゝりし程に、この年の三月中頃より、何の病《やまひ》もなきに、俄《にはか》に氣絕して、暫く、息、かよはざりしに、一時計《いつときばかり》ありて、やゝ、人心地付《つき》にき。

 さばれ、身體、自由ならずして、只、日にまして、食餌《しよくじ》、すゝみて、常に十倍し、且、其間に餠菓子を求めければ、渠《かれ》がまにまに與へけり。[やぶちゃん注:「渠がまにまに」かの者がかく言うがままに。]

 かゝれば、みたびの食の外、しばしも物たうべぬいとま、なかりき。

 死に近き者の、かく健啖なるを、『あやし。』と、おもはざる者、なし。

 渠、手足こそ自由ならね、夜每に、いとおもしろげに、歌、うたひ、或は、

「友、來れり。」

とて、高らかに獨《ひとり》ごとなど、す。

 或は又、はやしたてゝて、拍子とる音なども。聞えし事、有。

 或は、いたく、酒にゑひたる如くにして、熟睡し、日の登るまで、さめざることも有けり。

 主人、いぶかりて、松本良輔てふ、くすしに、脈、うかゞはせしに、

「脈は、絕《たえ》て、なし。少しはあるが如くなれ共、脈にあらず。奇なる病ひなるかな。藥方、つかず。全く老耄《らうもう》の致《いたる》所、心氣を失ひて、脈絡、通ぜず。只、補ふの外、なし。」

とて、時々、來診してけり。

[やぶちゃん注:「松本良輔」幕府医官。サイト「福岡市薬剤会の歴史」の「夜明け前 西洋医学の導入」にフル・ネームで出る。

「附かず」は薬の附方(=処方)が出来ないの意。「補ふ外、なし」通常の食事を摂らせて補う以外にはない。]

 かくて、月日をふるまゝに、婆々が半身《はんしん》、自然と減じて、後《のち》には、骨、出《いで》て、穴を、なし、

「その穴の内より、毛の生《おひ》たるやうの者、見ゆる。」

とて、看病せし物、おどろき、のゝしりけり。

 兎角する程に、春【文政十二年。】に成ければ、息氣《そくき》あるにより、腰湯を、あみせ、敷物など、日々に敷替《しきかへ》て、いたはらせけるに、婆々、よろこびて、しばらく謝すること、限りなし。

 良餌《りやうじ》など、養ひの爲に、主人、沙汰して、小女《こをんな》を付置《つけおき》つ。

 とかうする程に、又、冬になりければ、きるもの、皆、脫《ぬがせ》、かへさせたるに、脫《ぬが》したるきる物に、狸にや、毛物の毛、多く、つきて、あり。

 又、その臭氣、高く、鼻をうがつ計成《ばかりなる》に、人々、いよいよ、あやしみけり。

 是よりして後、

「をりをり、狸の、婆々が枕邊を徘徊し、或は婆々が裳(もすそ)の間より、尾《を》抔《など》出《いだ》すことあり。」

とて、彼《かの》小女、いたくおそれて、寄も得[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に漢字を当て字したもの。]つかざりしを、主人のねんごろに諭《さと》しなどするに、後には馴《なれ》て、おそれずなりぬ。

 されば、夜每に婆々が唄ふ歌などを聞覺《ききおぼえ》て、

「こよひは、又、何をうたひやする。」

とて、待《まち》がほなるも、いとおかしかりき。

 後々に至りては、婆々のふしどに、狸、多く、つどひたるにや、つづみ笛・太鼓・三味せんにて、はやすが如き音、聞え、婆々は聲、高やかに、歌、うたひけり。

 又、一夜、はやしに合《あは》して、をどる足音の聞えし事も、ありけり。

 又、ある朝、婆々が枕邊に、柿を、多く、つみおきしこと有よしを、婆々に問へば、

「こは、昨夜の客が、『わが身を、よくいたはらせ給はするよろこびに。』とて、まゐらせし也。」

といふ。

 さばれ、皆、いぶかりて、くらふものも、なし。

 こゝろみに、さきて見るに、誠の柿なり。

 看病せる小女に、皆、とらしつ。

 又、一日《いちじつ》、切《きり》もちひを、多く枕邊におかれしこと、あり。是も狸のおくりものなるべし。

「主《あるじ》の、淺からずあはれめるを、友狸《ともだぬき》の感じて、かゝる事をしつるにや。禽獸も亦、感ずるよしありて、仁に報《むくい》る心にや。」

と、人みな、いひけり。

 又、一夕《いつせき》、火の玉、手まりのごとく、婆々の枕邊を飛《とび》めぐりたり。

 彼《かの》小女、おそるおそる、これを見しに、

「赤きまりの、光り有《ある》物にて、手にも、とられず、忽《たちまち》消《きえ》うせて、なかりし。」

といふ。

 つぎの日、婆々に是を問《とひ》しに、

「此夜は女客《をんなきやく》ありて、まりを、つきたり。」

と答ふ。

 又、一夜、火の玉、桔槹《きつかう》せしこと、あり。[やぶちゃん注:「桔槹」(現代仮名遣「きっこう」。「けっこう」とも読む)は「跳ね釣瓶(つるべ)」のこと。ここは跳ね釣瓶が上がったり下がったりするように、火の玉が動いたことを指す。]

 これを婆々に問へば、

「羽子《はご》を、つきたるなり。」

と答ふ。

 又、一日、婆々、

「歌を、よみし。」

とて、紙筆を乞ひつゝ書つくるを見るに、

 朝顏の朝は色よく咲《さき》ぬれど

      夕《ゆふべ》は盡《つく》るものとこそしれ

婆々は、無筆にて、歌など、よむべき者にあらず。

 こも、又、狸のわざなるべし。

 又、一日、婆々が畫《ゑ》をかきて、彼小女に、あたへしを見るに、蝙蝠《かうもり》に旭《あさひ》をゑがきて、賛、あり。その賛に、

 日にも身をひそめつゝしむかはほりの

      よをつゝがなくとびかよふなり

と有。

 婆々、畫を書《かく》者にあらず。是も亦、古狸のわざなり。

 かくて、ますます、ものおほく、たうべること、三たび每に、八、九椀、その間には、芳野團子《よしのだんご》、五、六本、ほどもなく、金鍔・燒餠、二、三十など、かくのごとく、日々、健啖なれども、病ひは聊《いささか》も、おきる氣色、なし。

 かくて、一夕、婆々がふしどに、光明、赫奕《かくやく》として、紫雲、起《おこ》り、三尊の彌陀、あらはれて、婆々の手を引くがごとく、將《ゐ》てゆき給ふと、見えげれば、例の小女、おどろき、おそれ、あはて、まどひ、走り來りて、あるじ夫婦に

「しかじか。」

と告《つげ》しかば、あるじ雲峰、その妻と共に走りて、其《その》ふし戶にゆき見れば、婆々は、うまいして、目に、さえぎる者、なし。

[やぶちゃん注:「うまい」「熟寢」。熟睡していること。]

 さる程に、このとし【文政十二。】、十一月二日の朝、雲峰の妻、良人に告《つぐ》るやう、

「昨夜、ふりたる狸の、婆々のふし戶より出《いで》て、座中をめぐり、戶節の透《すき》より、出でゆきにき。」

といふ。

[やぶちゃん注:「文政十二」年「十一月二日」はグレゴリオ暦で一八二九年十一月二十七日。]

 婆々は、其儘、いき、絕《たえ》けり。

 思ふに、始め、婆々が頓死せし時、其なきがらに、老狸《らうり》のつきて、ありしなり。こは、雲峰の話せられしを、そがまゝに書《かき》しるすになん【「實は、雲峰のしるせしなり。」と、ある人、いひける。さもあらんか。】

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 原本、この下に、『彼小女の夢に、古狸《ふるだぬき》の見えて、金牌《きんぱい》を與へし。』抔といふことあれど、そは、うけられぬ事なれば、こゝには省きたり。こゝにしるすごとくにはあらねど、「此狸の怪、ありし事は、そら言《ごと》ならず。」と、ある人、いひけり。原文の、くだくしきを謄寫《とうしや》の折《をり》、筆に任《まか》して、文を易《かへ》たる所、あり。さばれ、その事は、一つも、もらさで、元のまゝにも、のせしなり。奇を好む者の爲には、是も話柄の一つなるべし。

 庚寅秋九月、燈下、借謄了《かりうつしをはんぬ》。

[やぶちゃん注:「庚寅」文政十三年。この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

 細部の描写が、妖しくも細かく、江戸後期の事実怪談として、よく出来ている。所謂、「憑き物」で、妄想性が強度で、しかもそれ自体が閉じられた大系を持った重い精神疾患の老女であったと思われ、また、悪いことに、細菌感染によって身体に大きな壊疽が生じている辺りの描写は、なかなかにエグいものの、逆にリアルさがある。

 なお、私の「Facebook」の友達が運営しておられる素敵なサイト「DEEP AZABU」の、こちらの「麻布大番町奇談」(二〇一五年九月六日公開)に全文の現代語訳が載り、大岡雲峰の旧自邸位置も示されてあるので、是非、読まれたい。私も「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「 千駄ヶ谷 鮫橋 四ッ谷繪圖」(嘉永三(一八五〇)年版)で確認したところ、中央やや下方の「森川紀伊守」屋敷の左下方(この地図は左上方が北)角に食い込むようにある「大岡金之助」がそこであり、グーグル・マップ・データでは、現在のここの中央附近(「文学座」の西方外、慶応大学キャンパス北方外。東京都新宿区大京町(だいきょうちょう))に当たるものと推定される。]

2022/12/12

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年雜說幷狂詩二編」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段二行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 以下は、所謂、「シーボルト事件」ドイツ人医師フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年:標準ドイツ語での発音を転写する「ズィーボルト」「ジーボルト」。彼は自らオランダ人と偽って入国している)の国外追放事件を扱っている。小学館「日本大百科全書」によれば、文政一一(一八二八)年九月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。そのオランダへ持ち帰る荷物のうちに、伊能忠敬作成の日本地図など、多くの禁制品のあることが発覚し、事件が起こった。取調べは江戸と長崎で行われ、長引き、シーボルトは凡そ一年間、出島に拘禁され、翌年九月二十五日(グレゴリオ暦十月二十二日)、「日本御構(おかまへ)」(追放)の判決を受け、同年十二月、日本より追放された。この事件に連座した日本人は、江戸では書物奉行兼天文方高橋作左衛門景保(入牢となって吟味中に病死)、奥医師土生玄碩(はぶげんせき:家禄及び屋敷没収)、長崎屋源右衛門など。長崎では門人の二宮敬作、高良斎(こうりょうさい)、出島絵師川原登与助(とよすけ:川原慶賀(けいが))を始め、通詞(つうじ)の馬場為八郎・吉雄(よしお)忠次郎・稲部市五郎・堀儀左衛門・末永甚左衛門・岩瀬弥右衛門・同弥七郎から、召使いに至るまで、実に五十数人の多数に上った、とある。本書では、サイド・ストーリーとして、先行する京都大地震に関わる記事「風怪狀」で、高橋景保の本件での処罰がちらりと出たところで注している。ウィキの「シーボルト事件」が、より詳しい。また、大船住人(おおふなすみと)氏のサイト「大船庵」の「シーボルト事件関係者判決文(文政13年)」(原文は内閣文庫の「文政雑記」からの翻刻で、右に現代語訳が載る)が載り、読解の大いなる助けになる。]

 

   ○文政十三年雜說、幷《ならびに》、狂詩二編

申渡之覺。

        御書物奉行天文方兼帶

              高橋作左衞門

地誌・蘭書、和解等の御用相勤罷在候に付、御用立候書籍取出差上候はゞ、御爲筋《おんためのすぢ》にも可相成と、兼て心掛の由に申立候得共、去る戌年[やぶちゃん注:二年前の文政十一年。]、江戶參府の阿蘭陀人、外科シーボルト儀、魯西亞人著述の書籍、阿蘭陀屬國の新圖、所持いたし候趣、通詞吉雄忠次郞より承り及、右書類、手に入、和解致、差上度《さしあげたき》一圖に存込《ぞんじこみ》、懇望致し候得ども、容易に不手放候間、忍び候て、度々、旅宿に罷越、懇意を結び候上、右書籍、交易の儀、申談候處、シーボルト儀、「日本、幷、蝦夷地の宜《よろし》き圖、有ㇾ之候はゞ、取替可ㇾ申。」旨、申聞、右地圖、異國へ相渡候儀は、御制禁に可ㇾ有ㇾ之哉《や》とは存候得共、右に拘《かかは》り、珍書、取失ひ候も殘念に存、下河邊林右衞門《しもかはべ りんゑもん》に申付、先年、御用仕立候、測量の日本、幷、蝦夷地圖地名等、差圖いたし、新規に仕立《したて》させ、度々、差送り、右書籍、貰請《もらひうけ》、幷、「東韃紀行」、「北夷紀行」、九州小倉・下の關邊《あたり》の測量切繪圖等、貸遣《かしつかは》し、其後、シーボルトより、「日本圖、蝦夷、幷、カラフト、クナシリより、ヱトロフ、ウルツプ邊迄、引續《ひきつづき》候縮圖、仕立吳《したてくれ》候。」樣、申越候に付、指贈候心得《さしおくりさふらふこころえ》にて、是又、林右衞門に申付、仕立出來《しゆつらい》致し候得ども、『望《のぞみ》の書類、手に入候上は、最早、差遣候に不ㇾ及儀。』と、追《おつ》て心付《こころづき》、右繪圖は不差贈候處、右の次第、及露顯、御詮議の上、シーボルト、歸國不ㇾ致内、地圖其他共、取上候得共、右體《みぎてい》不容易品《やういならざるしな》、阿蘭陀へ相渡、重き御國禁を冒《おかし》候段、不屆の至《いたり》、剩《あまつさへ》、平日、役所御入用筋の儀、假令《たとひ》、私慾は無ㇾ之共《これ、なけれども》、勝手向入用《かつてむき、いりよう》に打込《うちこみ》、遣拂《つかひはらひ》、紛敷取計《まぎらはしきとりはからひ》、其上、身持不愼《みもちふしん》の儀も有ㇾ之、旁以《かたはらもつて》、御旗本の身分に有ㇾ之間敷《これ、あるまじき》儀、重々不屆の至に付、存命に候得ば、死罪被仰付者也。

  三月

[やぶちゃん注:「魯西亞人著述の書籍」冒頭注で紹介した大船氏の注に、『ロシアの提督クルーゼンシュテルンの世界周航地誌』とある。

「吉雄忠次郎」(天明七(一七八七)年~天保四(一八三三)年)は、まめ@よねざわ氏のブログ「米沢の歴史を見える化」の「長崎のオランダ通詞 吉雄忠次郎」の『米沢市史編集資料―米沢人国記』第十号から引用された松野良寅氏の記事によれば、『名は永慮』とある。但し、講談社「デジタル版 日本人名大辞典」では永宣。『高橋景保とシーボルトの仲介役を果たした吉雄忠次郎も捕えられ、天保元年(一八三〇)閏三月二十五日に審判が終るとともに江戸町奉行に引渡され、四月六日長崎をたった。五月二十五日江戸に着いた忠次郎は、永禁を申し渡され、米沢新田上杉佐渡守勝義にお預けとなり、流人の取扱いを受けた』。『米沢に流された忠次郎は、代官小島次左衛門の蔵役人渋谷安太郎(鉄砲屋町)の座敷牢に入れられ、次いで福田町の上村家に、さらに山上通町の石坂家に移され、天保四年二月二十九日、この石坂広次宅で死亡した』とあり、以下には、流人としての扱いの厳しい掟(特に自殺防止のそれが凄い)も記されてある。一読されたい。

「旅宿」同じく大船氏の注に、『江戸の長崎屋』のことで、『オランダ商館長が四年毎に参府した時の定宿』とあり、別な注の『長崎屋源右衛門』には、『高橋景保が内密にシーボルトと会っている事や、シーボルトの治療を受けるため』、『多くの人々が宿に来ることを放置した廉で』、『五十日の手鎖(手を合わせて瓢型の鉄製手錠をかける)を言渡された』とある。

「東韃紀行」(とうだつきかう)は「東韃地方紀行」で間宮林蔵の旅行記。全三巻。文化五(一八〇八)年から翌年に亙る樺太(サハリン)・黒竜江(アムール川)下流デレンに至る踏査を、師の村上島之丞の養子村上貞助に口述を筆記させたもの。文化七(一八一〇)年に完成した。シーボルトは後、その著「日本」(‘Nippon’)にこれを訳述してヨーロッパに紹介している。

「北夷紀行」は「北夷分界餘話」で同じく間宮林蔵が「東韃地方紀行」とともに仕上げた旅行記。樺太探検についてパートを口述したもの。

「下河邊林右衞門」作左衛門の部下であった暦作測量御用手伝出役。大船氏の記事に彼の処分申渡書によれば、『中追放(ちゆうついはう)』の処罰を受けている。江戸時代の追放刑の一つで、重追放と軽追放の中間のもの。罪人の田畑・家屋敷を没収し、犯罪地・住居地及び武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・甲斐・駿河に入ることを禁じ、又は、江戸十里四方外に追放された。

「身持不愼の儀」大船氏の注に、『次の下川辺判決文にあるように部下の娘を妾同様に使った事か?』とある。当該部は(一部の漢字を正字化した)、『殊ニ娘迄作左衞門義妾同樣召仕候義者乍察、彼是申候ハハ勤向差障ニ可相成と存候迚、不存分ニ致置』いたことらしい。

「旁以」如何なる見地からみても。

「存命に候得ば、死罪被仰付者也」この申し渡しは文政十三年三月のものであるが、高橋景保は文政十二年二月十六日(一八二九年三月二〇日)に伝馬町牢屋敷で獄死している。国禁を冒して極秘文書を漏洩したのであるが、高橋が幕閣の中でも実務上、相応の実績を成していた人物であったことと、連座する者が異様に膨れ上がっていたことから、申し渡しが遅れたものかと思われる。高橋の遺体の扱われ方の酸鼻を越えるそれは、後にも出るが、「風怪狀」で既に注した。]

申渡之覺。

              高 橋 小 太 郞

其方儀、父作左衞門、去る戊年、江戶參府の阿蘭陀人、異國の珍書、繪圖等、所持いたし候趣及ㇾ承、右書類、手に入、和解いたし差上候はゞ、御用に可ㇾ立所と存込《ぞんじこみ》、懇望の餘り、彼之者、望に從ひ、御制禁の儀と乍心付、日本、幷、蝦夷地測量の圖、其他、品々、相贈、右書類、貰請候段、重き御國禁を冒し、不屆の至、剩、役所御入用筋の儀、假令、私慾無ㇾ之共、勝手向入用と打込、遣拂候段、紛敷取計、殊に身持不愼の儀ども有ㇾ之、其方儀は「何事も不ㇾ存。」旨申立候得共、作左衞門、右體、不屆之始末にも不心付、殊に身持等の儀は、父の儀に候共、心付、異見をも可ㇾ申處、無其儀、畢竟、等閑《なほざり》の心得方、不埒の至に付、作左衞門、存命に候得ば、死罪被仰付ものに付、其方儀、遠島被仰付もの也。

  三月

[やぶちゃん注:「高橋小太郞」景保の長男。先の引用の松野良寅氏の記事では『景僕』とある(読み不詳)。年齢不詳。父の種々の行為を「全く知らなかった」と述べており、さらに父の不行跡一般に対して異見をしなかったことを咎められているからには、既に成年であったのであろう。]

          高橋作左衞門二男

              高 橋 作 次 郞

父作左衞門、不屆の所行有ㇾ之に付、存命に候得ば、死罪被仰付ものに付、其方儀、遠島被申付者也。

  三月

[やぶちゃん注:同じく先の引用の松野氏の記事では『景福』とある(読み不詳。「かげよし」「かげとみ」か)。年齢不詳。]

私曰《わたくしにいふ》、高橋作左衞門、文政十一年子十月十日に被召出御詮議の上、あがり屋え、被ㇾ遣候處、御詮議中、去丑年、牢死いたし候間、死骸は鹽詰に、いたしおかれ、當寅三月、右一件、落着。文政十三庚寅年三月也。

長崎通辯吉雄忠次郞、何がし爲八、外一人【姓名、忘却。】、右三人は、一人づゝ、大名え、御預け、遠島同樣の心得にて、嚴敷押籠置《きぎしくおしこめおき》候樣被仰付候由。

奧御醫師土生玄碩は、右におなじ筋の御咎ながら、高橋一件には、あらず。是は、以前に落着、改易になりし由也。吉雄忠次郞以下の被仰渡《おほせわたさる》の寫し、未ㇾ見ㇾ之。傳聞のまゝ、識ㇾ之《これをしるす》。阿蘭陀人シーボルト儀は、高橋作左衞門、幷に、土生玄碩より、交易の地圖、幷、御時服等、御取上げ、御詮議中、於長崎入牢、其後、赦免、歸國。

[やぶちゃん注:「何がし爲八、外一人」孰れも不詳。大船氏の下川辺林右衛門の申し渡しの下方の注の『その他の関連処分者』に『馬場為三郎、吉雄忠次郎、堀義左衛門、稲部市五郎はオランダ通詞で高橋―シーボルトの仲介をした旨で年番通詞へ預け』とはあった。

「土生玄碩」(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は眼科医。安芸国高田郡吉田(現在の広島県吉田町)の医家土生義辰の長男。土生家は、代々、この地で眼科を開業していた。名は義寿。初めは医名を玄道と称し、後に玄碩と改名した。安永七(一七七八)年、大坂の「楢林塾」に入り、さらに京都の和田東郭に学んで、帰郷。家伝の漢方眼科に飽き足らず、再び大坂に出て、三井元孺・高充国などに就いて、新知識を受け、特に眼科手術を修得し、帰郷・開業した。享和三(一八〇三)年には広島藩藩医となり、江戸にあった藩主の六女教姫の眼病を治療して名声を挙げ、そのまま江戸にとどまり、眼科の名医を以って世に知られた。文化七(一八一〇)年、江戸幕府奥医師、同十三年、法眼(ほうげん)に叙せられる。光学的虹彩切除術の前駆とみられる仮瞳孔術を考案し、蘭館医シーボルトから散瞳薬の伝授を受けてもいるが、その謝礼として、当時、国禁の品であった将軍家紋服を贈与したことが発覚(シーボルト事件連座)、改易・財産没収、終身禁固刑となったが、天保八(一八三七)年には禁固を解かれて、江戸深川に隠居した。遺著に門弟が師説を集録した「迎翠堂漫録」・「師談録」などがある(以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

一、己丑[やぶちゃん注:文政十二年。]の春、新板、十遍舍一九作の草雙紙、「神風和國の功し《じんぷうやまとのいさをし》」、二册物、蒙古入寇の事を作るといへども、高橋作左衞門を諷《ふう》して、素襖《すあを》着たる武者の畫に、劍かたばみを七曜の劍にしたれば、「いかゞ敷《しき》」由にて、同年の春二月中、草紙類、改《あらためて》、名主より、相達《あひたつ》して、絕板せられ畢《をはんぬ》。此板元は、地本問屋岩戶屋喜三郞也。但し、板元作者等、御咎、なし。

[やぶちゃん注:加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「筆禍『神風倭国功』(ひっか じんぷうやまとのいさおし)」に、以上の記載が引かれ、本合巻物は『それを踏まえたものとされたのであろう。剣片喰(ケンカタバミ)は高橋景時の家紋、七曜は北斗七星だから、これで天文方の高橋景時を擬えたものと、改名主たちは判断したのであろうか』とあった。元合巻が読めないので、これ以上は注のしようがない。

 以上の戯詩は、底本では、ベタで各句末に読点を打って続いているが、一段で、かく示した。]

   一、今般一件無題    疎 漏 仙

萬蕪繫獄鳴牙齕(はかみ)

家探尋出隱密文

出役殺置掠手當

女房辭退陷瑕瑾

妻妾同伴鯨音閣

時賄珊瑚本國裙

誘引歷々不知數

就中軍扇與輿紋

此事無是非只矣

大金齎取酒日醮

全盛奢侈人犢鼻

貞女蕩馴奇茱薰

吉利志丹婆天連

欝々朦々意遂曛

可有宗門嚴法度

茫然次第成暗雲

紀行爲囮占逸物

萬里歸帆驕功勳

飛脚書狀次第走

縮圖風說隔年間

元是淺心楚忽至

不思罪科謀反筋

縱使當人醢骨肉

先刻銅鏤奈配分

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

右戊子[やぶちゃん注:文政十一年。]冬日、或人に借抄す。萬蕪は高作の別號。鯨音閣は本町長崎屋の堂號也といふ。按ずるに、右の長篇脫句あり。別に寫し置たるを失ひたれば、異日、尋出たらんとき、補ふべし。 

[やぶちゃん注: 「牙齕」へのルビ「はかみ」以外の読みはない。訓読を自然流で試みるが、これ、意味の分からないところは多過ぎる。読みは胡麻化しているので、判って読んでいるわけではなく、スーダラ無責任似非訓読と心得られたい。どなたか、適切な訓読を御教授あれかし。因みに、馬琴オ附記の「高作」は高橋作左衛門の号というのだが、辞書では彼の号は「蛮蕪(ばんぶ)」または「観巣(かんそう)」とある。或いは原本活字本の「蠻」の字の誤読かも知れぬし、巧妙にズラシを入れたものか。

「疎漏仙」不詳。

   *

萬蕪(ばんぶ) 獄に繫がれ 牙齕(はがみ)を鳴らす

家 探尋(たんじん)すれば 隱密(おんみつ)の文(ふみ) 出づ

出役(しゆつやく) 殺し置かれ 手當を掠(うば)はる

女房 辭退して 瑕瑾(かきん)に陷(おちい)り

妻妾(さいしやう) 同伴して 鯨音閣(げいおんかく)

時に 珊瑚を賄ふ 本國の裙(もすそ:をんな)に

誘引 歷々として 數知れず

就中(なかんづく) 軍扇 輿(こし)の紋を與へり

此の事 是非無きのみ

大金 齎されて 酒を取る日は 醮(しやう)たり

全盛の奢侈(しやし)は 人の犢鼻(とくび:ふんどし)

貞女 蕩馴(たうじゆん)して 奇(く)しき茱(ぐみ) 薰る

吉利志丹(きりしたん) 婆天連(ばてれん)

欝々 朦々 意 遂に曛(たそがれ)

宗門に有るべきは 嚴しき法度(はつと)なるも

茫然とっして 次第に暗雲と成れり

紀行 囮(おとり)と爲(な)して 逸物(いつぶつ)を占(しめ)んとし

萬里 歸帆 功勳に驕り

飛脚 書狀 次第に走る

縮圖 風說 年を隔つる間(あひだ)

元 是れ 淺心にして 楚(すはえ) 忽ちに至る

思はざる罪科 謀反(ばうはん)の筋(すぢ)

縱(たと)ひ 當人をして 醢(ひしほ)の骨肉(こつにく)とせしむも

先刻の銅鏤(どうる) 奈(なん)ぞ配分せんや

   *

「醮」中国古代の天神に対する祭祀や饗食のことか。ウィキの「醮」によれば、それらの神は多く星辰を、その居所とすると考えられたため、醮は必然的に星辰を祀り、これに酒肴を供えた。本来の醮は、婚儀や加冠に際して行われた儀礼で、祖廟に於いて、酒と脯・を用いて行われたとあるから、塩漬にされた高橋のそれに引っ掛けたものかと私は思った。よう判りません。

 以下の判じ物式の戯詩の図示は、当初、底本(改頁で分離してしまっている)を参考に、全くの活字のタイピングで、そのまま電子化しようとしたのだが、横軸罫線や「初」「終」の縮小文字を入れると、どうしてもブラウザ上のズレが生じてしまい、到底、綺麗に全体を示すことが不可能であるあることが判った。しかし、本画像は、『インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』となっており、その部分をトリミングして合成し、字や罫線の一部のスレやズレをソフトで加工して、一応、作成しては見たものの、調べてみると、文化庁裁定の活字化された一部の場合は、著作権法上の抵触する可能性があるため、それはやめて(著作権の問題とは別に、原本がやや古いため、総てのスレやズレの補正が完全には出来なかったことが最大の不満であった)、仕切り直し、★底本の文字と罫線を、ワードで適切な大きさの罫線も特に選び、タイピングして電子化し、それを縦書に変更したものを、スクリー・ショットで画像として取り入れ、さらにそれを画像ソフトで細かく加工処理するという、かなり迂遠な作業を行って、以下に掲げた。個人的には、著作権に全く触れることなく、しかも見栄えも原画像より遙かによく、正直、『かなり左右に長めかな? って思いはするが(Wordでいろいろ試みたが、行間を見かけ上で狭めることが何故か出来なかった)、かなり、いい線、いってるぜ!』と自負している。にしても、こうした言葉遊びの場合、指示線を無視して普通に右から読んでも、意味がとれてこそ、真の戯詩と言えるのだが、どうもそこまで凝って作ってはいないらしい。

 


Kaibousitategaki

 

 右、流行野馬臺詩。

 小川町評判、土浦侯、馬に蹴られし事也。雲峰婆婆、古狸に喰る、右記事一篇有錄下

右庚寅秋八月、ある人に借抄す。

右、讀則《どくそくす》。

[やぶちゃん注:「野馬臺詩」(やばたいし/やまたいし)は平安から室町に掛けて流行した予言めいた怪しげな詩の総称。梁の予言者宝誌和尚の作とされるが、偽書の可能性が高い。日本で作られたものとされるが、中国が元とする説もある(当該ウィキを参照した)。これはそれを真似たパロディ漢詩。

 以下は三段組みで、各句に読点が打たれてあるが、読点を除去し、一段で示した。この「讀則」とは、その記号の規「則」に従って「讀」み直した、という意であろう。以下、漢詩の前後を一行空けた。]

 

通人小紋薄羽織

薩布太布藤組笠

貂皮再來亦責寺

此節和尙必至愼

當年御祭存外好

牧狩水滸松木踊

四人生捕大力士

馬蹄小川町評判

逃出被叱寄合咄

本所狼煙々裏苦

高松六尺成三尺

亡目高利爲闇打

惡口別當殺玄關

小婦悞倉千兩箱

雲峰婆々古狸喰

雨止殘暑世上穩

日日日暮御咄之聲

 

[やぶちゃん注:同前の仕儀で訓読を試みる。やはり、全くヒントがないので訳和布(わけわかめ)である。「雲峰婆婆、古狸に喰る、右記事一篇有錄下」のみは、次の条「麻布大番町奇談」で語られるので、そちらを電子化するまでお待ちあれ。

   *

通人の小紋 薄羽織(うすばおり)

薩布(さつふ) 太布(たふ) 藤組笠(ふぢくみがさ)

貂(てん)の皮 再び來つて 亦 寺を責む

此の節 和尙 必ず 至つて愼み

當年 御祭 存外 好(よろ)し

牧狩り 水滸 松木踊り

四人 生け捕り 大力士

馬蹄 小川町 評判たり

逃げ出でて 叱られ 寄合咄(よりあひばなし)

本所の狼煙(のろし)の煙の裏 苦しく

高松 六尺 三尺と成る

亡目(めくら)の高利 闇打(やみうち)に爲(な)し

惡口(あつこう) 別當 玄關に殺さる

小婦 倉(くら)を悞(たが)へて 千兩箱

雲峰の婆々 古狸に喰(く)はる

雨 止みて 殘暑 世上 穩かなり

日日(ひび) 日暮(ひぐれ) 御咄(おはなし)の聲

   *

「薩布」「宮古上布」や「八重山上布」を江戸以前は、かく呼称した。薩政時代まで、宮古諸島と八重山諸島は実際には薩摩の支配下にあり、琉球の織物は、総て、薩摩を経由したことによる。苧麻(ちょま:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ(苧)Boehmeria nivea var. nipononivea のこと。しつこい雑草として嫌われるが、茎の皮からは衣類・紙・漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れることから、古くから利用されてきた身近な植物であった。「紵(お)」「苧(ちょ)」「青苧(あおそ)」「山紵(やまお)」「真麻(まお)」など、異名が多い。ここはウィキの「カラムシ」に拠った)。)を手紡ぎにして、細密に織り上げた上質の麻布である(以上は「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」の「薩摩上布」に拠った)。

「太布」徳島県南西部の山間部に位置する那賀町(旧木頭村(きとうそん)。現在の徳島県那賀郡那賀町木頭。グーグル・マップ・データ)に伝承されてきた、コウゾ(楮:クワ科コウゾ属コウゾ雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。ヒメコウゾ(学名前者)とカジノキ(同後者)の雑種)の樹皮から繊維を採って製した目の粗い布で、「阿波の太布」と呼ばれたそれであろう。太布は古代から織られた堅牢な布で、徳島県では、剱山麓の祖谷地方や旧木頭村が主な産地で、以上の名で古くから知られてきた。その用途は、仕事着を始め、穀物や弁当などを入れる袋・畳の縁などで、丈夫で長期の使用に耐え得る実用衣料として使用されてきた(以上の本文部はサイト「文化遺産オンライン」の「阿波の太布製造技術」に拠った)。

「藤組笠」藤(フジ)のつるを編んで作った笠。単に「藤笠」とも呼ぶ。元文(一七三六年~一七四一年)頃に流行し、若年の武士・医師・僧侶などが多く用いられたという。

「貂の皮 再び來つて 亦 寺を責む」意味不明。

「牧狩り」「水滸」源頼朝の富士の牧狩(曾我兄弟仇討ち)や「水滸伝」を入れ込んだ祭りの出し物か。

「松木踊り」大館市松木(グーグル・マップ・データ)に伝わる享保二〇(一七三五)年に始まったされる「大関東流唐獅子踊(だいかんとうりゅうからじしおど)り」の流れを組む獅子舞いのそれか。「秋田民俗芸能アーカイブズ」こちらで動画も見られる。解説に『この獅子踊りは佐竹藩主の前でも披露できる格式の高いものであったともいわれた』とある。

「四人 生け捕り 大力士」これが「シーボルト事件」のチャチャか? 大船氏の記事の下川辺林右衛門の判決に注があり、『川口源次外四人:吉川克蔵、門谷清次郎、永井甚左衛門、岡田東輔。何れも景保配下地図作成チームで同心クラス。シーボルトに渡すべき地図を製作した廉で川口、吉川、門谷の三人は江戸十里四方追放(日本橋から四方五里以内の居住を禁じられる)、永井は江戸払(品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸以内の居住を禁じられる)、岡田は自殺』とあることからの思いつきに過ぎない。

「馬蹄 小川町 評判たり」馬琴が「小川町評判、土浦侯、馬に蹴られし事也」と書いている一件だが、不詳。文政十三年当時の藩主は土屋彦直である。

「逃げ出でて 叱られ 寄合咄」これは、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「筆禍『神風倭国功』」の方の話のチャチャか。

「本所の狼煙の煙の裏 苦しく」「高松 六尺 三尺と成る」「亡目(めくら)の高利 闇打(やみうち)に爲(な)し」「惡口(あつこう) 別當 玄關に殺さる」「小婦 倉(くら)を悞(たが)へて 千兩箱」総て不詳。何かの奇聞・巷説・事件をもとにしたものとは思われるが、私には判らない。というより、この詩全体が、古今東西の似非占い師の朧な意味深にして阿呆臭いそれと酷似しており、コジツケれば、何でも関係があるかのように読めるだけの話かも知れぬ。何かピッタリくるものがあるとなら、識者の御教授を乞うものである。]

2022/12/07

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「宿河原村靈松道しるべ」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段二行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 特に最後の筆者(馬琴ではない)の現地での体験が、いかにも、のどかで、失われた多摩川の往時の景色が目に見るようなので、そこの部分のみ、改行を行った。まるで芭蕉の「奥の細道」の黒羽(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅5 黒羽 秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 / 「奥の細道」黒羽の少女「かさね」について』を参照されたい)の武蔵国版を読むようで、思わず、うるうるしてしまったことを告白しておく。失われた美しき日本の原風景が髣髴した。

 なお、標題の割注は前に「宿河原村靈松」の記事があって、その追録という意味ではなく、前の文政十三年庚寅春閏三月廿日、伊勢内宮御山荒祭宮以下炎上の節、傳奏方雜掌達書」の記事に余白があったので追錄した、という意味。

 

   ○宿河原村靈松道しるべ【この一條は追錄也。】

武藏州《むさしのくに》橘樹郡《たちなばのこほり》宿河原村【字《あざ》綱下ケ《つなさげ》と云。】の山の上に古松あり。三年以前、庚申の秋の頃より、枝葉、衰へて、自然《おのづ》と枯るゝ色、見えて、去《いんぬる》冬の頃は、葉をふるひ、千とせといへる限りにや。終《つひ》に、はかなく枯《かれ》たりけるを、惜み居《をり》たりけるが、當年春の頃、二月に至りて、近傍の若もの、「かの松の枝をとりて、薪《たきぎ》にせん。」とて、手々《てんで》に伐《きり》とりて、家々に攜《たづさへ》たれば、各《おのおの》、發熱、頻《しきり》にして、惱亂《なうらん》、甚しかりければ、皆、恐怖して、其枝を、とり集め、枯樹の所へ揃置《そろへおき》、拜謝して收めければ、追々、快く成《なり》て、何《いづ》れも恙なかりけり。この事を聞傳て、壬辰三月のはじめより、近村近鄕の人々、老若男女に限らず、來り拜する事、神の如し。又、靈ある事も、神のごとしとて、四月なかばより、遠方の人まで參詣群集すること、日々に市《いち》をなせり。是が爲に、新亭を造り、酒・肴・茶菓等を設《まうけ》なして、客を待《まつ》事、夥《おびただ》し。松の南の方に、鳥居をたて、小宮《こみや》を置、餅【おそなへ五文どりを、十二文にひさぐ。】をそなへ、或は、鳥居の小なるものを備《そなふ》るも、ありけり。

一、松は赤松にて、蟠幹《ばんかん》、屈曲、高さ丈餘、圍み、二人合抱《あひだき》ともいふべし。遠望すれば、盆玩《ぼんぐわん》[やぶちゃん注:盆栽。]の者に髣髴たり。北方に、穴、ありて、其中に、白蛇、住《すめ》りといふ。時ありて、形を顯せり。「押揚の松」に、ひとし。又、傳へ云、萬壽年間のもの、とぞ。いづくの記錄に見ゆるにや、詳《つまびらか》ならず。萬壽は今を距《へだつ》ること、八百有餘年也。八百年を經たらんとも思はれず。予が園中の松は、予が少年の比、實生《じつせい》を植《うゑ》たるが、今は、はや、根元にては、二尺餘り周《めぐ》るベし。併《しかし》、土地にもより、松の性《しやう》にも、よるべし。

一、見にゆく人あらば、太子堂より世田谷かたにゆかずして、「二子《ふたご》の渡《わたし》」に出で、二子の驛に不ㇾ出して、堤の上を右にゆき、田ばたの道をゆけば、十七、八町にして、松の側に到る。驛に出ると、十町餘りも遠かるべし。

 

Komatudouhyou1

 

Komatudouhyou2

 

[やぶちゃん注:ここに底本では道標の図が縦に二図ある。しかし底本は印刷文字である上に、画像がボケているので、不満足であったため、私の画像アプリではちょっと面倒だったが(正字体の「戶」が当該アプリのテキスト挿入システムでは使用できなかったため、画像で「グリフウィキ」のものを入れ込んだ)、だいたい印象が同じようになるように、独自に作成したものを掲げた。枠内の文字は、上が、

 

宿 河 原 古 松

二 子 へ 二 里

二子より一町

 

で、その下方に、以下の、

太子堂標

キャプションが、右から左に書かれてある。「たいしだうしるべ」であろう。一方、下が、

 

圓座松へ十二

町、北北澤、

牡丹江戶道

 

だが、読点を右下に打つことが出来なかったので、空欄とした。実際の道標でも、私は「、」はなかったものと思ったからでもある。その下図の下方に、キャプションが、

 

宇那根の標

 

とある。「宇那根」は「うなね」と読む。現在の東京都世田谷区西南部、及び、多摩川を挟んだ対岸の神奈川県川崎市高津区西北部にある地名であり、ここには嘗つて「宇奈根の渡し」があった。グーグル・マップ・データでここ(以下、無指示は同じ)である。さて、さらに二図の下方に以下の総合キャプションがある。

 

宇那根村の標を見

れば、常に圓座松

と稱せしならん。

荏原郡世田ケ谷へ

出てはよほど遠し。

 

とある。]

 

一、牛門より太子堂へ、二里にして、近し。太子堂より一里半、都《すべ》て、三里半もあるべし。宿河原村の邊は、都て、御代官中村八太夫が支配なり。

一、宇那根村は、柿樹《かきのき》、多し。北見の伊右衞門が家に到りて、蛇の守を受く。

一、「地理をわきまへたる者、河原村の大吉といふものあり。」と聞《きき》て、その家に不在なれば、空しく去りぬ。

○近きみちを傳へたるは、漁童にぞ、有ける。

 三軒屋、南方《みなみかた》、新町といふ所にて、十二、三才の童、竹の棒を肩にして、ゆく、あり。

 これに余は、

「いづこへ、ゆくにや。」

と問ふに、

「白金臺まで、鮎を送りて、はや、歸路也。」

と答ふ。

「扨、鮎は、いかにして、とるぞ。」

と問へば、

「蚊針《かばり》にて、釣《つり》得《え》、籠に三十尾《び》を收め、六つ、かさねて、棒にくゝり付《つけ》、二子の近村より、目黑の白金臺まで、二里半餘りの路程を、日々、通ふ。」

といふ。

「とるには、朝と夕也。風あるときは、晝も釣るべし。」

とぞ。

「家業なれば。」

とて、つとめたるもの也。

「予と一所に、あゆみ給《たまは》ゞ、尺近き路を傳へ申べし。」

とて、先に立《たち》て行《ゆく》。

 「ふたご」を渡りて、堤をゆきて、一村に出《いで》たり。

 農業を兼《かね》たる漁人の家也。

「是《ここ》こそ、予が家也。こゝより、この幅のひろき路をさへゆけば、違《たが》ふことなし。」

と云捨《いひすて》て、漁童は、家に入にけり。

 をしへのごとく、ゆきしに、少しも、たがはず、松に到りぬ。

 「三つ子に聞《きき》て淺瀨をわたる」たぐひならずや。

  天保三年辰四月盡    牛門の茜坡居士識

 是書、借謄輪池翁藏弆、原本畢有地圖一焉。以是卷餘紙無一レ之。故臨寫別本雜記中、時、壬辰夏六月上浣。  著作堂主人追錄

[やぶちゃん注:「武藏州橘樹郡宿河原村【字《あざ》綱下ケと云。】」現在の神奈川県川崎市多摩区宿河原はここ。図の解説で示した「宇奈根」の上流に接する。而して、その南東の端に「下綱の地蔵菩薩像」があり、「下綱(さげつな)」バス停もある。而して、その南東の丘陵の麓に「松壽弁財天」(今も宿川原地区)を発見、グーグル・マップ・データ航空写真を見るに、この弁財天社は明らかな丘陵地内にあることも判る。そのサイド・パネルの解説碑(視認可能)で、ここが本文に書かれる社で間違いないことが判った。但し、「今昔マップ」の戦前の地図をみても「下綱」ではあるが、読みが「ゲツナ」とある。

「三年以前、庚申」最後のクレジットが「天保三年」壬「辰」(一八三二年)であるから、「三年」「前」は、文政一三・天保元(一八三〇)年であるが、この年は庚寅であるから、これは誤りかと思われる。

「おそなへ五文どりを、十二文にひさぐ」「お供え物」と称して「五文」相当のものを、ぼって「十二文」で売っている。縁起物だから、皆、文句を言わないのである。

「蟠幹」激しく幹が曲がりくねった樹形で、根元付近では、太く複雑に蜷局(とぐろ)を巻いたような幹を指す。

「押揚の松」不詳。

「萬壽年間」平安後期の一〇二四年から一〇二八年まで。

「丈餘」三メートル超。

「圍み、二人合抱《あひだき》ともいふべし」木の幹の円周が大人二人が両手を広げたほどの意であろう。所謂、「尋」(ひろ)であるが、明治になって一尋は六尺で約一・八一八メートルと規定されたが、私は江戸時代の成人男子の平均身長から見ると、別説である一尋を五尺(約一・五一五メートル)とするのを支持するので、三・〇三メートルとなる。

『太子堂より世田谷かたにゆかずして、「二子《ふたご》の渡《わたし》」に出で、二子の驛に不ㇾ出して、堤の上を右にゆき、田ばたの道をゆけば』「太子堂」は東京都世田谷区太子堂。西に進むと、世田谷だが、そちらに向かわずに、南西方向に多摩川へ向かい、 「二子の渡し」に出て、その渡しを渡る。但し、対岸(多摩川右岸)直近の「二子宿」のあった現在の神奈川県川崎市高津区二子の方には行かずに、「右手」(西南西)に多摩川を右岸に添って堤の上を遡上すると。

「十七、八町」一・八五五~一・九六三メートル。ちょっとドンブリに過ぎる。最短で実測しても、「二子の渡し」の右岸からは、三キロ強は確実にある。

「驛」二子宿。

「十町」一キロ強。確かに一キロ以上は迂回する形になる。

「宿河原古松 二子へ二里 二子より一町」という「太子堂標」のそれはちょっと意味が判らない。「太子堂」から「二子へ二里」は概ねいい(実測で七キロ弱は確かにある)が、「宿河原古松」というのは、下方の図を見るに、弁天社の松のことではないようだ。「二子より一町」(約一・〇一一メートル)は短過ぎるからで、或いは、多摩川の宿河原方向にあった古い松か。にしても、古い地図を見ても、たった一町では絶対に宿河原の東端には到達は出来ない。不審。

「圓座松へ十二町」この数字は起点が上流に移るから、正しい。一・三〇九メートルで、現行で実測しても、一・五キロメートルほどだからである。

「北北澤」この「宇奈根の渡し」から北東に向かうと、世田谷区北沢があるが、そこか。

「牡丹江戶道」不詳。このルートの江戸への街道のお洒落なネーミングということか。或いは、街道脇に牡丹を栽培する農家が多くあったものか。ただ、「荏原郡世田ケ谷へ出てはよほど遠し」は納得。適当に人道実測をしても、宇奈根の対岸からでも、十キロは超える。

「宇那根村の標を見れば、常に圓座松と稱せしならん」腑に落ちる。

「牛門」江戸城牛込見附門のことであろう。「太子堂へ、二里にして、近し」と言えるかどうかは、ちょっと疑問。太子堂からそこは直線でも九キロほどあるからである。

「北見の伊右衞門が家に到りて、蛇の守を受く」古くから知られた蛇除けのお守り札を出す家であったらしい。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(7:野猪)」に出、そこで私は「北澤村」に注して、『以下で「多摩郡喜多見村」とあるから、これは東京都世田谷区北沢と南西に五キロメートル弱離れた世田谷区砧(域内の一部の旧村名は喜多見である)(或いはこの二つを含む広域)が候補地と考えてよかろう。されば、「北見」は地名に基づく呼称で、古い氏姓ではないようである。』とした。

「三軒屋、南方、新町」これは、東京都世田谷区新町ではなかろうか? 南西に多摩川、東北に三軒茶屋がある。また、多摩川の宇奈根の玉川左岸だが、「今昔マップ」で「五軒屋」という村落名は見つけた。

「白金臺」東京都港区白金台

「蚊針」羽毛などで、蚊の形に作られた、釣りに用いる擬餌針。毛針。水面に飛んでくる虫類を捕える習性のあるアユ及びハヤ類の仕掛けに用いる。

「尺近き路」距離の最も短い近道。

「天保三年辰四月盡」天保三年壬辰の「四月盡」(しぎわつじん)=陰暦三月の最終日が終わること。この年の三月は大の月で三月三十日。グレゴリオ暦では一八三二年四月三十日。

「茜坡居士」「せんはこじ」と読んでおく。人物不詳。

「是書」「このしよ」。

「借謄」「しやうとう」「借りて写す」の意。

「輪池翁」親友で「兎園会」・「耽奇会」でお馴染みの幕臣の文人屋代弘賢。

「藏弆」「ざうきよ」。整理せずに投げ捨てたように蔵書する。これは自己の蔵書の謙遜語ではなく、一種、蔵書家のそれを言う語のようである。馬琴は好んで使う語である。

「原本畢有地圖一焉」「原本が畢(をはり)に地圖有り。」。但し、本篇では地図はない。それを転写するまでの紙数はなかったというのである。

「故臨寫別本雜記中」「ゆゑにべつに本(ほん)雜記中に臨寫(りんしや)せり。」。

「上浣」(じやうくわん(じょうかん)は月の初めの十日間。上旬。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅春閏三月廿日、伊勢内宮御山荒祭宮以下炎上の節、傳奏方雜掌達書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段五行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。

 ひとつ前の「文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火」の追記記事。]

 

   ○文政十三年庚寅春閏三月廿日、

    伊勢内宮御山荒祭宮以下、

    炎上の節、傳奏方雜掌達書

去る廿日、内宮別宮荒祭宮以下、炎上の由、依ㇾ之、從今廿六日來《きたる》朔日、五日の間、廢朝、被ㇾ止。

帝奏、警蹕、候。仙洞樣、五ケ日、被ㇾ止物音候。此段、爲御心得申入日、兩傳奏え、申付候。以上。

 閏三月廿六日       兩 傳 奏 雜 掌

按ずるに、内宮炎上、萬治元年十二月廿九日、末社、囘祿、畢《をはんぬ》。明年、遷宮。天和元年十二月十三日、自内宮寶殿出火炎上。文政十三年閏三月十九日、内宮御山、炎上。荒祭宮・古宮、及、八十末社、囘祿、畢。新御宮、無異。

              著 作 堂 追 記

 是より下《くだり》、集《あつめ》る所、世に

 はゞかるべき事も、まじれり。みだりに人に

 貸《かし》て見することを、ゆるさず。予が

 いとまなき身の、かく迄にあつめたる者なれ

 ば、折々、枕の友となすのみ。子供・初孫等、

 此心もて、帳中の祕となすべきもの也。

[やぶちゃん注:「文政十三年」一八三〇年。

「萬治元年十二月廿九日」既に一六五九年一月。

「天和元年十二月十三日」既に一六八二年一月。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「大阪寺院御咎聞書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段最終部)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。]

 

   ○大坂寺院御咎聞書

文政十三庚寅年四月聞書、大坂にて、

          上寺町

                蓮 生 寺

                宗 心 寺

          淨土宗  竹 林 寺

                一 心 寺

          下寺町

                金 臺 寺

                心 光 寺

          日蓮宗千日

                自 安 寺

          北の村

                圓 頓 寺

          眞言生玉社僧

                曼 荼 羅 院

右之寺々、身持、不如法に付、被召捕候由。

 大黑と云人は、一に檀家をふみ付《つけ》て、

 二に肉食ならぬ身で、三に肴のかくしぐひ、

 四つ、よそから見る時は、五つ、いつでもお

 針にて、六つ、むしように酒をのみ、七つ、

 何から何迄も、八つ、やたらに世話をやき、

 九つ、公儀の御厄介、十で、とうとう、しば

 ら れた、よいきみの大黑舞。

 禪宗も法華もまじるその中に

      何とて淨土すくなかるらん

 女房、悅べ、門徒は、おやくに、たゝぬは、

 やい。

[やぶちゃん注:落首から、破戒僧の集団摘発処分らしい。寺の現存検証は、今に現存すれば、覚えのないことと、反論されそうだから、注はやめとくわ。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段最終行)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。]

 

   ○文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火

一、當十九日、夜丑二刻[やぶちゃん注:午前二時頃。]、宇治畑町、岩崎太夫より出火、折節、西北風、强、今在家町《いまざいけちやう》へ飛火、夫より、館町《たてちやう》へ飛火、暫時の間に、火、一面に相成、畑町・中の切町・今在家町・館町通り筋《すぢ》、裏町共、不ㇾ殘、燒失仕候。夫より、御馬屋、御燒失、最《もつとも》、御神馬無別條、新御殿、少々も、別條、無ㇾ之。

一、八十末社、不ㇾ殘、燒申候。

一、宮中の大木、凡、廿本計《ばかり》燒申候。其外、燒木、數、不ㇾ知。

一、御借殿、酒垣殿、御押供料御殿、御子良殿、風呂、此邊、末社、別條無ㇾ之候。

一、宇治大橋、前後、鳥居共、燒落申候。

一、卯刻、漸々《やうやう》、下火に相成候得共、矢張、風、强、山々に、火、移り、廿一日午刻迄、火、見え申候。

一、東は杉坂と申所迄、燒申候。内宮より、凡、一里半計、有。最、瀧ケ峠近邊迄、燒申候。凡、貳里計、有。

一、廿一日、晝後より、大雨、降出し、不ㇾ殘、火鎭り申候。

右の通、伊勢より申來候。

 寅閏三月

禁裏、三日、廢朝《はいてう》、帝奏、警蹕《けいひつ》、止《やむ》。

[やぶちゃん注:先に複数の記事で知られる通り、この「文政十三」(一八三〇年)「寅の閏三月」は、所謂、「お蔭参り」の本格的流行の月始めであった。まだ、とば口であったから、よかった。爆発的なその最中にあったら、参詣人が大混乱を起こし、有意な騒擾が発生したことであろう。幸いであった。前の「お蔭参り」記事で注した通り、私は伊勢神宮内には冥いし、興味が全くないので、以上の施設には注をしない。宇治山田を中心とする町名も同断。悪しからず。

「瀧ケ峠」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「廢朝」天皇が服喪・病気・天変・回禄(火災)などのために政務に臨まないこと。諸官司の政務は平常、通り行なわれた。「輟朝」(てっちょう)とも言う。

「帝奏」勅使、或いは、それに代わる朝廷から伊勢神宮常置の礼拝担当官僚。

「警蹕」神殿の扉を開ける際に神職が出す「おお」という神霊への礼の声。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「一月寺開帳御咎遠慮聞書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段半ば)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。]

 

   ○一月寺開帳御咎遠慮聞書

文政十三庚寅年春、淺草觀音境内にて、下總國小金村一月寺、本尊開帳の節、

 似《え》せ虛無僧にて、被召捕候人々の由、

 衣服・改名・住所等、尋《たづね》、差返置候者。

               筧 傳五郞 靜山

               日野古十郞 秋山

           新見十兵衞二男之由

               名不ㇾ知     貞學

          小普請組

           小笠原勝三郞支配

              中田鍬五郞  晉隣

 召連候者、

           民部卿殿徒士頭

            小島藤右衞門組

              三浦雄五郞  陰樹

           淺草新堀東町組屋敷

            大御番與力當時浪人

              渡邊勝之助  巳道

           從弟

            佐野半十郞住所長冨町

             兄加藤常五郞

              上野御殿勤厄介人

              加藤半五郞  晉風

           下谷坂本入谷村

            御掃除頭柳田求右衞門組

             西丸表御膳所出役

              福原小三郞  貞友

           本所御掃除町組屋敷

            聖天下舟宿竹屋養子

              磯部勝次郞  竹壽

一月寺は、遠慮・逼塞、開帳場淺草念佛堂、戶、しめ、御目見以下のものは、右、つれられて、それぞれへ、あづけらるゝ。九月中旬にいたりても、なほ、落着の事、聞えず、と云。當時の落首、「小金より大金まうけに來たれども一日ぎりであとは御無用」。

似せ虛無僧の錦繪、三番、出る。馬喰町森屋治兵衞板元也。草紙、改《あらためて》、名主より、賣留《うりどめ》申付、絕板。

[やぶちゃん注:「遠慮」処罰の一種。形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑で、例えば、夜間に潜り戸からの目立たない出入りは黙認された。

「文政十三庚寅」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

「下總國小金村一月寺」(いちげつでら)は現在の千葉県松戸市小金にあった虚無僧寺として有名な普化宗(ふけしゅう)の関東総本山であった。普化宗が江戸幕府との繋がり強かったことから、明治政府により解体されたが、寺院としては後に日蓮正宗に宗旨替えをし、寺名も「いちがつじ」に改め、金龍山一月寺と再興されてある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小金より大金まうけに來たれども一日ぎりであとは御無用」普化宗の用いる「普化尺八」とは、異なるが、尺八の一種を「一節切(ひとよぎり)」と呼ぶ。これは、古く室町時代に伝えられたとされ、竹の節を一つ含むように作られていることから「一節切尺八」と呼ばれる。この落首は尺八全般を「一節切」とみなし、それに洒落めかしたものである。

「九月中旬にいたりても、なほ、落着の事、聞えず」贋普化僧の中に複数の幕府の現役番士らは含まれていたからであろう。現在の閣僚ドミノ解任と同じだ。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「豆腐屋一五郞孤女たか奇談」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段九行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○豆腐屋一五郞孤女《こぢよ》たか奇談

文政十三寅年四月、

          芝土器町瑠璃光寺檀家

            元京橋善助子分

              豆腐屋

 先年死去、          市 五 郞

 文政九戊六月六日死

 去、法名「味艷禪門」。           同 人 妻

             同人娘 た   か【寅十三歲】

兩親、引續《ひきづつき》、右之不仕合《ふしあはせ》故、無餘儀、何者の世話にや、深川、賣女屋《ばいたや》え、九才より、廿七才迄の約束にて、金四兩二分に賣遣《うりつかはし》候處、當春より、座敷へも差出候。其頃より、右亡母、每夜、娘を撫《なで》さすり、頻りに不便《ふびん》に存《ぞんず》る體《てい》、其主人を始《はじめ》、見受候て、當人は勿論、主人も甚《はなはだ》不審に存《ぞんじ》、氣味わるく相成《あひなり》、證文を相渡《あひわたし》、暇《いとま》遣候由にて、右、瑠璃光寺へ參り、最《もつとも》、男二人、女二人、附添《つきそへ》、段々之次第《だんだんのしだい》、申述《まをしのべ》、囘向《ゑかう》相賴《あひたのみ》候に付、不便に存、折節《をりふし》、江湖《がうこ》にて、出家、多く集り居候故、格別の經文、讀誦、四月四日、法事、執行致し、右の證文は、亡母《なきはは》墓所へ納め候。其後は出現不ㇾ致由、和尙、直話《ぢきわ》也。

 但《ただし》、賣女屋の家名、隱し吳《くれ》候樣

 賴候由にて、和尙、咄し不ㇾ申由、實說に御座候。

[やぶちゃん注:「文政十三寅年」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

「芝土器町」「しばかはらけまち」。現在の港区麻布台二丁目の一部、及び、東麻布一丁目・二丁目の北部辺り。現在の東京タワーのやや東の一帯(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「瑠璃光寺」「るりかうじ(るりこうじ)」。曹洞宗金龍山瑠璃光寺。現在の港区東麻布のここに現存。

「先年」文政十二年。父の逝去年。

「文政九……」母の逝去を指す。

「當春より、座敷へも差出候」既に十三だと、遊女としては見習いに当たる「新造」であるが、年齢的にみて、幸いにして、まだ客はとっていなかったのではないかと思われる。

「最」これは「ちゃんと」の意。遊女屋の主人の心遣いが感じられ、それ故に、私はまだ客をとってはいなかったと思うのである。

「江湖」「江湖會」(がうこゑ(ごうこえ))。禅宗、特に曹洞宗に於いて、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご)を指す。「夏安居」仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼び、解夏の日は多くの供養行事があるため、僧侶は満腹するまで食べるのが許された。]

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