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カテゴリー「兎園小説」の137件の記事

2021/10/26

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その3)

[やぶちゃん注:言っとくが、まだ、本文はここまでの三倍以上残っている。もの凄い分量である。

 

 當時、市中を賣りあるきし「大水場所附」といふ地圖二本、予が藏弃(ざうきよ)にあり。草して左りに出だすもの、是たり。

 丙午七月十八、九日の比より、市中を賣りあるきしもの【誤字、幷に、「かなちがひ」等、本のまゝなり。是より下の四頁も、乙酉十月廿二日臨寫す。皆、同時のものなり。】

[やぶちゃん注:「乙酉十月廿二日」本第十一集分の文政八(一八二五)年「兎園会」発会前日。

 以下、底本では全体が最後の「大尾」まで、総て四方が枠に囲まれている。頭の標題は「上野下野」と「秩父領」は実際には「山水荒增記 上」(タイトルは「やまみづあらましのき」と読んでおく)の上に二行のポイント落ちで入る。その後は縦罫で閉鎖されている。そんな感じだけを出すためにダッシュを用いた。底本ではベタで全部繋がっているが、一種の瓦版なら、読み易くしたいと思い、やはり段落を成形した。なお、出る地名はいちいち注していては煩瑣なだけなので、余程、私が判らずに躓いてしまい、話が判らなくなった箇所だけに限定した。]

 

――――――――――――――――――――――

 上野下野

      山 水 荒 增 記   上

  秩 父 領

――――――――――――――――――――――

▲ころは、天明六のとし、七月十二日夜より、大雨、しきりにふりつゞきて、同十四日明方より、江戶、川すぢ、出水(でみづ)して、十五、六日、甚しく、目白下の大どい、ながれ、「せき口のはし」・「中のはし」・「みははし」其外、小ばし、不殘、おちにけり。

 小日向水道丁(こびなたすいだうちやう)、牛天神の下通り、御大・小名樣のまへ、四、五尺づゝも、出水す。

 又、「龍けいばし」・「どんどばし」、小石川御門水戶樣御屋敷の前通り、水道橋、凡、五、六尺づゝも水上り候へば、往來は、ならざりけり。

 御上水(ごじやうすい)の大どいには、鐵をつみ、石を置き、つなを附、水をふせぐ人足、おびたゞし。

 御茶の水通りの土手、二ケ所、くづれ、夫より、「せう平ばし」・「すぢかい御門」のはしぎわより、押上る水、凡、四、五尺づゝも有ければ、一向、往來は、なりがたし。

 「いづみばし」は、十六日、四つ時[やぶちゃん注:夜中では判らぬので、定時法の午前十時であろう。]に、おちけり。

 「新ばし」・淺草御門・「柳ばし」は、人どめ。

 大川の筋、本所へん、少し、水まし候所、ふりつゞく大雨に、上野・下野・秩父領の山水、押出せば、「からす川」・「かんな川」・戶田川・「とね川」、「坂東ばし」、ことごとく、出水す。近江[やぶちゃん注:補注で右に『(郷)』と振る。]・近邊の村々在々、あるいは四、五尺、六、七尺、高水すること、おびたゞし。

 時に、「戶ね川」の堤へは、左りに切(きれ)て、行とくの浦へ、押出す。人々、あはてさわぐ内、はや、水せいは、しほやくはまへ押あげて、しほがま、不殘、こわしけり[やぶちゃん注:江戸時代の行徳地区(現在の行徳地区だけではなく、浦安や船橋の沿岸の塩田も含まれていた)製塩を行う農家が多く、「行徳塩田」と呼ばれていた。]。

 扨、「梅若の土手」[やぶちゃん注:謡曲「隅田川」の「梅若伝説」で知られる梅若塚のある附近(グーグル・マップ・データ)の堤か。荒川の支流ではあり、遡れば、確かに続きは続きだろうが、確実に凡そ七十キロメートル上流なんだが。]つゞき、「くまがやの土手」ときこへしは、日本無双の大づゝみ、こけて、あふれかゝりし萬(滿)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]水に、「あやせのつゝみ」・「戶田づゝみ」、十七日の卯こく[やぶちゃん注:午前六時頃。]すぎ、水せい、つよさに、ぜひもなや、みな、一どう、相切(きれ)れば、近江・近村、人々は、あはてふためき、立さわぐ。

 寺々にては、はやがねつき、宿老[やぶちゃん注:町内の年寄役を指す。]・店屋は「ほらがい」ふき、

「たすけ船、たすけ船。」

と、命をかぎりに、にげうせたり。

 誠に、水せいのはやきこと、「三つばの弓矢」のごとくにて、「さつて」・「くり橋」・「古河なわて」・「とち木」・「藤おか」・「佐の」・行田・「關やど」・「御領」をはじめとして、「かすかべ」・「こしがや」・杉戶邊、うづまく水に、人々は、親の手を引、子どもを、せおい、みな、山林に、かへらせけり。

 いよいよ、水先(みづさき)は、「そうか」より「千住通り」へおし出(いだ)し、「かもんづゝみ」を打こして、「かさいりやう[やぶちゃん注:「領」。]二合半」・今井・「ねこざね」・「一の井」・「二の井」・「さかさい」・「きね川」・本所邊、平(ひら)一めんに、海、となる。先(まづ)、隅田川・「向じま」・秋葉・「三𢌞り」・「牛じま」へん、「小梅」・「竹丁」・「中の江」・「なり平」・「橫ぼり」・「割下水」・古岡町・吉田町・三笠町邊の家居(いへゐ)、屋根迄、水、上れば、人々、あわて立さわぎ、

「とやせん、かくや。」

と、うろたへる、其あり樣のあわれさは、目もあてられぬ、ふぜいなり。

 實(げ)に、龜井戶天神の御やしろは、よほど高き所ゆへ、人々、よふよふ、にげのびて、助船(たすけぶね)をぞ待(まち)にけり。

 又、「立川通り」より「きく川町」・「おなぎ澤」の近へん、橋も、平地も、あらざれば、

「いかゞわせん。」

と、人々、せん方なみだに、くれける時、中にも、心きゝたる人、

「五百らかんの御寺こそ、高き所に候得(さふらえ)ば、此所へにげたまへ。」

[やぶちゃん注:「五百らかんの御寺」現在の目黒の五百羅漢寺の前身である天恩山五百大阿羅漢禅寺(元禄八(一六九五)年創建)。現在の東京都江東区大島のここにあった。寺跡のマーキングがある。前に出た「きく川町」が現在の墨田区菊川で近い。]

と、申(まうす)人の言葉につれ、あるいは、さへつき[やぶちゃん注:右に『マヽ』注記有り。意味不明。]人、いかた[やぶちゃん注:「筏(いかだ)」であろう。]、およぐも あれは、ざい木にとりつき、ながれ渡るもあり。

 よふよふ、「らかん」にたどりつき、「さゝいどう」の家根にのり、

「たすけ給へ。」

と、ねんぶつのこへより、あわれ、もよふせり。

[やぶちゃん注:「さゝいどう」国立国会図書館公式サイト内の「錦絵でたのしむ江戸の名所」の「さざい堂」によれば、先に示した五百羅漢寺の境内に寛保元(一七四一)年に建立された三匝堂(さんそうどう)のこと。三匝堂とは「三回巡る堂」の意味で、内部が三層から成る螺旋状になっており、同じ通路を通らずに、上り下りが出来る構造を持っていた。その形状が「栄螺」(さざえ)のようであったことから「さざえ(さざゐ)堂」として知られた。通路の途中には観音札所があり、堂内を一巡すれば、「観音の霊場巡り」ができるとされて、その造りの珍しさからも、江戸の人々の人気を集めた。弘化年間(一八四四年~一八四八年)の暴風雨や後の「安政の大地震」で荒廃し、寺とともに「さざえ堂」も消え去った。]

 此時、はやくも、御慈悲に、

「なんぎの諸人を助(たすけ)ん。」

と、御用船、數百そう、こぎ來、あり樣みるよりも、水入の人々は、二階・屋根から、ひさしより、飛のり、飛びのり、數萬人、あやうき命を助(たすかり)しも、誠に、きみの惠なり。

 みなみな、うへに[やぶちゃん注:「餓え」。]、かつへし[やぶちゃん注:「渇へし」。]ことなれば、早速、勘三郞、桐座兩芝居の者共に、焚出(たきだ)し、仰付させられ、燒飯として被下しは、猶、ありがたきことゞもなり。

[やぶちゃん注:「勘三郞」歌舞伎の江戸三座の一つ中村座の座元。

「桐座」江戸の歌舞伎劇場の一つで、市村座の控櫓(ひかえやぐら)。女歌舞伎を演じた。中村座は市村座の近くで興行していた。]

 扨、大川の水せい、つよく候へば、新大橋・永代橋、いづれも落て、往來、なし。兩國の御はしは、御用人足、あつまりて、橋をふせぎ候事、すさまじかりける次第なり。

 扨、廣小路中通りに御小家を掛させられ、缺來(かけきた)る水入(みづいり)の者どもを[やぶちゃん注:辛くも走り逃げのびてきた水害被災者たちを。]、御すくいたまわること、誠に仁惠の御ことなり。

 實(げ)に、

伊奈半左衞門樣、御屋敷の前通り、同樣、小家、掛させられ、水入の百姓を、御すくいたまわる事、ひとへに、御じひ、ふかき事どもなり。

 又、千住大橋・「小つが原」・「まろき橋」は「今どの」へん、「さんや」・「とりごへ」・田中なぞ、水、十萬[やぶちゃん注:右に『(充満)』と傍注する。]せしことなれば、中々、往來、也(なり)がたし。

 水せいは、吉原の土手、こし候へば、郭(くるわ)の者ども、

「此つゝみ、切(きれ)ては、ほんに叶まじ。」

と、「日本づゝみ」に土俵を上げ、又、大門のまへ通り、壱丈あまりに、土俵をつき[やぶちゃん注:「堆(つ)き」。]、水ふせぐこと、おびたゞし。

 「みのわ」・金杉・「三河しま」、水入候(みづいりさふらふ)事なれば、みなみな、にげうせ候なり。

 實(げ)に、田町の通りも、水、まし、三、四尺づゝも、是(これ)あるなり。

 又、淺草くわんおん御寺内(うち)は、よほど高き所ゆへ、少々、水、出候へば、此所へ、人々、あまた、あつまり、水、引(ひく)を、

「いや、おそし。」

と待(まち)けり。並木・「こまがた」近へんも、少々、水、附(つき)、御藏米(おくらまい)八町・「天王ばし」迄、水、つよく、往來、舟にて、通用す。

 又、下谷門ぜきまへ、こうとく寺の近へんも、右同斷の大水なり。

 扨、東海道の川々は、「六ごう」・「馬にう」・「さ川」[やぶちゃん注:右に『酒匂』と傍注する。]なぞ、いづれも川留(かはどめ)、「鶴み」のはし、落(おち)候(さふらふ)て、「かな川新町」・「藤澤しゆく」、萬水のことなれば、往來、一面、ならざりけり。

 程なく、雨もやみければ、水も、段々、引にけり。

 とざゝぬ御代のことぶきと、水入(みづいり)、御すくいたまはること、廣代(くわうだい)の御じひなり。

 扨、大雨にて、くづれ候所を、しるす。

 芝「あたご山」・同切通し・「まみ穴」井伊樣御屋敷の土手・山王の御山・春日の山、其外、少々づゝの所は筆につくしがたし。 大 尾

 

[やぶちゃん注:以下、村名表を挟んで、二図ともに底本のものをトリミング補正し、見開きの部分を合成して見かけ上で接合した(実際には原図自体が綺麗に切られていないので、ごく接近させただけである)。]

Mitisujihougakujyunmitige

 

[やぶちゃん注:標題は「道筋方角順道 下」。流石にこのキャプションを示す気はない。現代の地図と合わせて確認するには、まず、この画像をデスクトップに保存して、右に九十度回転して南北を合わせた上で、「古地図 with MapFan」を開き、現在の東京駅を上の現代の地図で示すと、下方の江戶時代の石川島が南東位置に現われる。そこで隅田川を遡れば、永代橋・新大橋・両国橋を辿って、両国橋東詰の少し離れた位置に「回向院」が現われ、本地図の「ゑかうゐん」と一致するので、以下は、この地図と「古地図 with MapFan」を左右に置けば、簡単に現在の地図での確認も出来る。但し、隅田川の右岸の縮尺や位置が左岸とは一致しておらず、戶惑うかも知れない。その時は、現在の秋葉原駅を捜して、その西下方見ると、万世橋があるが、その下方を江戶切絵図で見ると、「筋違橋門」とあって、それが、本図の左下方にある「すしかへ御門」である(その左の「小石川」「本郷」なども圧縮されてしまっている)。]

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が枠に囲まれており、全行が罫線で閉鎖されて書かれてある。頭の「增補」と「新全」の間には橫罫が入る。そんな感じだけを出すためにダッシュや罫線を用いた。地名の注は附さない。]

――――――――――――――――――――――

增補 │

    │ 村 所 附 幷  道 の 記

新全 │

――――――――――――――――――――――

○まん本所に 小むめ村  押あげ村  うけち村

[やぶちゃん注:「まん本所」に馬琴が右傍注して『「まん」は『まづ』の誤なるべし』と振る。]

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柳しま村   うめたむら てらじま村 さなへ村

――――――――――――――――――――――

かめあり村  すさき村  若みや村  千ば村

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四ツ木むら  大どむら  しぶへむら 善右衞門新田

――――――――――――――――――――――

龜いど村   おむらい村 平井むら  小松川

――――――――――――――――――――――

石き村    松もと村  小いわ村  笠つか村

――――――――――――――――――――――

かまたむら  ほり切村  寶木づか  小すげ村

――――――――――――――――――――――

小やの村   柳原村   あやせ村  水どはしおち

――――――――――――――――――――――

ゑのきど   大はら村  すのまた  はな又村

――――――――――――――――――――――

うたゝ村   長田村   川はた村  大はたむら

――――――――――――――――――――――

木下川    木下むら  彌五郞新田 長はつ新田

――――――――――――――――――――――

かまくら新田 嘉兵衞新田 久左衞門新田 八右衞門新田

――――――――――――――――――――――

おゝと新田  荻しん田  深川出村   まよりも

――――――――――――――――――――――

弐合半領   大水にて  船ばし    行とく

――――――――――――――――――――――

市川邊    八わた   くまが谷   木下風

――――――――――――――――――――――

松 戶    小がね   みな利根川  の道すじなり

――――――――――――――――――――――

右水入の者、不殘、伊奈半左衞門樣御屋敷のまへ通りに、御小屋をかけさせられ、御すくい給(たまは)る事、誠に廣代の御慈悲なり。ちう夜御見𢌞りの上、病人ていの者には、御藥を被下置。小どもには「ぜんべい」五枚づゝ、女どもには、髮の油・元結・差紙迄、被下事、ひとへに御慈悲深き事なりけり。

――――――――――――――――――――――

 

[やぶちゃん注:以下の図の標題は「大水ばしよ附※ 全」。この「※」は一見、「咄」に見えるが、寧ろ、「口」+「圡」で、「圖」の異体字で囗(くにがまえ)の中に「土」を入れた字体の異体字ではないかと考えている。則ち、「大水場所附」(おほみずばしよづき)]の「圖 全」の意であると採る。いちいちこのキャプションを示す気は、やはり、ない。また、これは異様な広域を変形圧縮してあるので、地図では示しにくい。ざっと見るに、関東で、その南北では、江戸板橋及び葛西から、上野高崎及び下野宇都宮まで、東西では、同古河及び小貝川を最東に置き、それと並行する鬼怒川(利根川の下流の流れには河口の「銚子」を示す記入はある)から、上野の山中に発する神流川(かんらがわ)までが、概ねの記載範囲かと思われる。気になる地形では右丁下方の利根川の中州のように描かれている「五ケ村」であるが、これは下総国葛飾郡にあった、現在は茨城県西南端に位置する猿島郡五霞町(ごかまち)のことと推定出来る。]

 

Oomizusiyodukkebanasizen

 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その2)

 

 天明六年丙午の春正月元日の巳のときばかりに、日蝕、皆既なり。貴賤となく、貧富となく、立ちかヘる年のはじめをなべてことぶくときなるに、くにのうち《六合》[やぶちゃん注:「くにのうち」への漢字ルビ。]、忽に、とこやみとなりしかば、心あるも、こゝろなきも、驚き怕れずといふもの、なし。

[やぶちゃん注:「天明六年丙午の春正月元日の巳のとき」天明六年丙午元旦午前十時。同日はグレゴリオ暦で一七八六年一月三十日。斎藤月岑(文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年:江戸の町名主で考証家)の編になる「武江年表」を見ると(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、この日は、

   *

午一刻より未一刻迄、日蝕皆既、闇夜の如し【筠庭云、曆面とは違ひて、八分計の日蝕なりしと也。】。

   *

とあって、続けて、『○【筠補。】正月半頃より日每に風あらく、物のかはくこと、火にあぶるが如しといへり。』という異常乾燥状況を記して、読む現在の我々でさえ「ヤバそう」と思うところに、『○正月二十二日、晝九時、湯島天神裏門前牡丹長家より出火、西北風、烈しく、』として、大火事となっていることが記され、翌日二十三日、また、二十四日夜、二十七日午後零時頃にも火事の記載が続く(これは以下で馬琴も綴っている)。この時の部分日食はかなり大きく太陽を遮蔽しており、例えば、嘉永五(一八五二) 年 十一月一日にも日食が起こっているが、同書のその日の記載では、『○十一月朔日、巳刻日より日蝕九分なり【闇夜にはならず、往來の時、行燈を用る程にはあらず。】。』と記されていることから、この天明六年の日食では、行灯(あんどん)を用いなければ、往来を歩けないほどの闇夜のようであったことが判る。何より、ここで馬琴は問題にしていないが、この天明六年の日食は「午」の「一刻」(午前十一時)から「未」の「一刻」(午後一時)まで続いた、とあることである。ここにも「午未」の不吉な符合が出現しているのである(以上は北区立中央図書館の「北区の部屋だより」の二〇一二年七月発行の「第36号 修正版」の「北区こぼれ話  第35回 江戸時代の日食」PDF)の説明を元に以上を私が調べたもの)。なお、「筠庭」(いんてい)「筠」は江戸の国学者・考証家であった喜多村節信(ときのぶ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の号。名は信節(のぶよ)とも称した。江戸町年寄の子で、博覧強記を以って聞こえ、学は和漢に通じ、書画もよくした。著書には民間風俗の宝庫として名高い「嬉遊笑覧」を始めとして「武江年表補正略」・「筠庭雑考」などがある。

「くにのうち(六合)」「六合」は「りくがふ(りくごう)」で、天地と四方とを合わせて言い、「世間・世の中・天下・世界」の意である。]

 この故に、殿中にても、總出の時刻などを、例年にはたがへさせて、蝕し果てゝ後にこそ、年のはじめの御禮を受けさせ給ひし、と聞えたれ。

 かくて、この日、火災あり。これより後、雨は稀にて、風の、しばしば、吹けばにや、江戶の中、日每々々に、こゝかしことなく、兩三ケ所づゝ失火・延燒してければ、人みな、駭(おどろ)き惑ひつゝ、ぬりごめ《土庫》[やぶちゃん注:漢字ルビ。土蔵。]をもてるは、家財・集具を、索(なは)もて、からげ、衣裳・調度を葛籠(つづら)・簞笥におしいれて、所せきまで、積みかさねつゝ、今燒けぬと、待つがごとし。こゝをもて、いまだ類燒せざるものも、「燒きいだされ」に異ならず。客ある家[やぶちゃん注:主人以外の親族の意であろう。]の、ともすれば、茶碗にすら、ことをかきたり。さればとて、おのもおのも、遠謀遠慮あるにはあらで、人、ぞよめきの勢ひなれども、これも時變の一端なるべし。

 かう、罵り、さわぐこと、正月・二月、甚しく、三月に至りても、なほ、人こゝろ、しづかならず。四月なかばになりてこそ、世は、やゝ、のどかになりにたれ。されば、南畝子の「四方のあか集」にあらはれたる「春日泉亭詠雜煮餠狂歌」[やぶちゃん注:「春日、泉亭に、雜煮餠(ざうにもち)を詠ずる狂歌。」]の序にも、

「ことしは、ひのえのわらは竹、うまにのれるとしなめりと、人々、つゝしみ、おそれしが、はたして、春日野(かすがの)のとぶ火にはあらで、もるてふ水の手、あやまちより、市人(いちひと)のかりずまゐも、野守がいほの心地し侍りて、今、いくか、ありて、ざれごといひてん、など、いひしらふも、ほいなし。」

と書かれたり。

[やぶちゃん注:「わらは竹」「童」が竹を折り取って、竹「馬」にする、年になることと、「午」を掛けたもので、「丙午」の世間共通に厄年認識を言っている。

「春日野(かすがの)のとぶ火に……」「古今和歌集」の巻第一の春歌上に「読み人しらず」で載る一首(十八番)、

 春日野の飛ぶ火の野守(のもり)出でて見よ

     今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ

をパロったもの。「春日野の飛ぶ火」は、本来は和銅五(七一二)年に緊急連絡のために設置された軍事用の烽火を上げる狼煙台(のろしだい)を指すが、ここは単に禁園の野守(番人)に、趣のない外敵の番などせずに、七草に若菜の育ち具合を見て、「後、何日経ったら、若菜が摘めるようになるか?」と洒落たものである。しかし、南畝はそれを「春日」(しゅんじつ)の「飛ぶ火」(盛んに起こる火事が突風で延焼するさま)としてブラッキーに変じて言ったものであろう。「もるてふ水の手、あやまちより」は「手に盛る」(掬う)「水」が「漏れ」て火を消すに至らぬ「過ち」によって、燎原の火となった江戸の火災の惨事を言ったものであろう。]

 とにもかくにも、この春は、花見て、くらす人は、稀にて、只、火事の噂をしつゝ、ありくらしゝも、うるさかりき。

 當時(そのとき)、「燒原場所附(やきはらばしよづけ)」とかいふものを賣りあるきしも多かりけれど、見たるも忘れて、思ひいでず。今もなほ、好事の家には、藏弃(ざうきよ)したるも、あらんかし。

[やぶちゃん注:「燒原場所附」とは恐らく、瓦版の一種で、度重なる火災で焼け野原となった町・火事場をリストとして並べた号外のようなものではないかと推測する。後で馬琴が洪水後の報知のそれを載せている。調べたところ、烈しい複数個所への落雷があったりした際にも同じような所附が出ており、その実物画像の確認も出来た。

「藏弃」整理せずに或いは捨てたつもりで所蔵しているもの。]

 かくて、夏にもなりにければ、火災の噂はやみ《寢》[やぶちゃん注:「やみ」への漢字ルビ。]たりしに、この年七月十二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦八月五日。]より、雨のふりそゝぐこと、おびたゞしかりしに、十四日より十六日に至りて、又、洪水のわざはひ、あり。まづ、江戸は本所・深川・木場・洲﨑・竪川筋・牛島・柳島のほとりの洪水、いへば、さらなり。下谷・淺草・外神田、いづこも、水に浸されぬは、なし。

 予が叔父田原米嶽翁は、本所林町なる武家に仕へたりしが、その身は、主(しゆう)の先途(せんど)に立ちて[やぶちゃん注:底本は『その身は立のき先途に立ちて』で判り難い。「馬琴雑記」の本文を用いた。]、家族《ヤカラ》を見かへるに、いとまあらず。家の内のものどもは、長屋の屋根に登りつゝ、そが儘、船に乘りうつりて、からくして、脫れしとぞ。

 又、次の叔父兼子翁は、御船手組(おふなてぐみ)の同心なれば、水のうへに、こゝろを得て、船も亦、自由なれば、これも、やからを、いちはやく、所親(しよしん)[やぶちゃん注:親元。]がり、遣しゝに、危きことはなかりし、といへり。

 又、予がめのをんなは、大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】の母うへに、みやづかヘせしころなりければ、これも又、御徒町なる邸中より、船に乘せられしが、「しのばずの池」のはたなる同家加藤氏の邸中へ、みまへに倶して參りしに、かしこも水の中なりき、といへり。

[やぶちゃん注:「予がめのをんな」馬琴の妻は元飯田町中坂(現在の千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現在の築土神社)下で、履物商「伊勢屋」を営む、会田家の未亡人百(三十歳)の婿となったが、会田姓を名乗らず、滝沢清右衛門を名乗った。

「大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】」この翌年に第十代大洲藩主となった加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年?~文政九(一八二六)年)。九代藩主加藤泰候(やすとき 天明七年没)の長男。幼名は作内で、最終官位は従五位下・遠江守。大洲藩は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)。]

 予もはらからも、當時、みな、山の手にをりしかば、この水難にはあはねども、親戚のうへ、心もとなし。ゆきて訪はばやと、思ふものから、永代橋・大川橋は、往來をとめられて、柳橋も亦、人を、わたさず、この他、大橋の中の間、破損して、和泉橋は落ちたり。只、恙なきものは兩國橋一ケ所なれども、本所・深川の水高ければ、船ならざるもの、ゆくこと、得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞の当て漢字。]ならず。凡(およそ)、下谷は「いづみ橋」筋・「あたらし橋」筋・外神田御成道など、商人の見世さきを、船にて、往還しつる事、しらざるものは、そらごとゝや思はん。只、これのみにあらずして、小石川御門外・牛込揚端・「どんど橋」の邊りまでも、前もて聞かぬ出水(でみづ)、高くて、溺死のものも、少からず。

 かくて、兩三日のゝち、牛込の水の退(ひ)きしを、仲兄鶴忠子が、「見ん。」とて、ゆきし折、

 けさひきしわだちの水のふなかはら泥鰍《ドゼウ》ふみこむ跡もどろ龜

當時、鮒・泥鰌なんどの、泥に塗れてありけるを、まのあたりに見て、よまれしなり。さは、この狂歌は絕筆にて、次の月の初の四日に、ときのけ[やぶちゃん注:「馬琴雑記」に『時疫(ときのげ)』とある。流行り病ひ。]にて、身まかりにき。享年廿二歲なり。いとかなしとも、かなしかりしを、身にしみじみと忘れがたさに、言のこゝに及べるなり。

 只、此わたりの水のみかは。日本堤を、うちこえて、田町へ、水のおしたれば、聖天町・山の宿・淺草反畝[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『淺草田圃』とある。]もひとつになりて、金龍山[やぶちゃん注:浅草寺。]の裙(すそ)を遶(めぐ)れり。まいて、千住・松戶の邊、葛西・行德(ぎやうとく)・千葉のわたり、熊谷・浦和に至るまで、みな、この水を受けぬは、なし。

 されば、十七、八日のころよりして、「水見まひ」の良賤(りやうせん)[やぶちゃん注:身分の高い者と賤しい者。]、奔走しつゝ、辨當・偏提《サヽヱ》[やぶちゃん注:水や湯を入れる金属製の容器。それ自体で温めることも出来る。]・坐具・調度を、おもひおもひに齎(もた)らして、ゆくもの、ちまたに、陸續たり。

 又、關東御郡代伊奈氏のうけ給はりて、馬喰町のあき地に假屋をしつらひ、水厄(すいやく)のものを入れおかせて、日每に粥を下されけり。

[やぶちゃん注:「關東御郡代伊奈氏」関東郡代は正式な徳川幕府の役職としては、江戸時代に一時期、二度だけ設置した臨時役職を指すが、ここは、それ以前にそう名乗って権勢を揮った「関東代官頭」伊奈氏のことで、関八州の幕府直轄領約三十万石を管轄し、行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また、将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っていた。陣屋は、当初は武蔵国小室(現在の埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋で、後、寛永六(一六二九)年に同国赤山(現在の埼玉県川口市)の赤山城へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後、十二代二百年間に渡って伊奈氏が関東代官頭の地位を世襲した。元禄五(一六九二)年に飛騨高山藩領地が天領となった際には第六代忠篤(ただあつ)が飛騨郡代も一時的に兼務した。第七代忠順は富士山の「宝永大噴火」の際に砂除川浚奉行に任じられている。本来、関東代官頭は勘定奉行の支配下にあったが、第八代忠逵(ただみち)の代の享保年間には、鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就き、享保一八(一七三三)年には勘定吟味役を兼任しており、関東代官頭は老中の直属支配下に入ることになった。さらに第十二代忠尊(ただたか)は天明五(一七八五)年に奥向御用兼帯となり、その二年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。ここに出るのはこの忠尊である。伊奈氏の「関東郡代」の自称も、こうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。しかし、この直後、伊奈氏の当主の地位を巡る御家騒動が発生、讒言によって寛政四(一七九二)年三月に忠尊は関東代官頭を罷免された上、改易されてしまった(以上はウィキの「関東郡代」に拠った)。]

2021/10/25

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その1)

 

[やぶちゃん注:発表者は馬琴で、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻第三下編の頭には「天明丙午水同丁未飢饉の記」があるのだが、吉川弘文館随筆大成版と比較してみると、明らかに「兎園小説」版の方が遙かに詳しく、整序されてあり、絵図も二つ附属している(「馬琴雑記」絵図は甚だ粗雑であるので省略した旨の編者の割注がある)ので、ここは吉川弘文館随筆大成版を底本とし、読みに於いて大いに参照させて貰うことにした。非常に長いので、分割し、段落を成形し、今回は「馬琴雑記」で確認出来たものも含め、歴史的仮名遣でオリジナルに難読部に( )で読みを附した。ごく僅かにある底本のルビは《 》で示した。なお、標題の読みであるが、「ひのえうまひのとひつじ」でも構わぬのだが、内容が悲惨を極めた「天明の大飢饉」(広義には天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年を本格的な発生と終息を含む最終期とする)中の天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未の水害と飢饉を綴ったもので、どうも訓では申訳がない気がする。冒頭で漢文を引用して示していることからも、ここは「へいごていび」と読むべきである。なお、董青氏の論文「日中禁忌文化の比較」(「大谷大学学術情報リポジトリ」名義でPDFでダウン・ロード可能)が学術論文として興味がそそられる。因みに、以下の前振りの漢文の電子化と訓読とさわりの注だけで、九時間余りを要した。] 

   ○丙午丁未

 愈文豹[やぶちゃん注:底本は「意文豹」であるが、「馬琴雑記」で訂した。]吹剱錄云、可丙午丁未年。中國遇ㇾ之。必有ㇾ災。謝肇淛五雜俎載是言。曰。亦有盡然。粤攷淸王士禎池北偶談。又有其辯云。丙午丁未。從ㇾ古以爲厄歲陰陽家云。丙丁屬ㇾ火。遇午未而盛。故陰極必戰。亢而有ㇾ悔也。康煕丙午冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海[やぶちゃん注:底本は「藪納海」であるが、「池北偶談」原本陰影と「馬琴雑記」によって訂した。]。督撫尙書王登聯等搆死。丁未春災祲疊見。彗星出。太白晝見。白眚[やぶちゃん注:底本は「白星」だが、同前で訂した。]西北經二月餘。是歲七月。輔臣蘇克薩誅死。吾友程職方謂。予欲輯前史所ㇾ載丙丁災變徵應一書。頃見宋理宗淳祐中。柴望所ㇾ上丙丁龜鑑十卷。自秦莊襄王五十二年丙午[やぶちゃん注:底本では「午」は「丁」であるが、同前で訂した。]。迄五季後漢天福十二年丁未。通一千二百六十載。中爲丙午丁未者二十有一。備摭事實[やぶちゃん注:「摭」は底本では(れっか)部分が「从」になっているのだが、これは「池北偶談」に同文字列を発見し、「馬琴雑記」もこれなので、この字に代えた。]。係以論斷。元至正中。又有續丙丁龜鑑者。補宋元事之闕。前人已有此二書。當考據。故明三百年中事應。以續二書之後

と、いへり。

[やぶちゃん注:訓読を試みる。必ずしも、「馬琴雑記」の訓点には従っていない。

   *

 愈文豹(ゆぶんへう)が「吹剱錄」に云はく、『丙午丁未(へいごていび)の年、中國、之れに遇へば、必ず、災ひ、有り。』と。謝肇淛(しやてうせい)が「五雜俎」に是の言れを載せて曰はく、『亦、盡(ことごと)く然(しか)らざる者、有り。』と。粤(ここ)に淸の王士禎が「池北偶談」を攷(かんが)ふれば、又、其の辯、有り。『丙午丁未は、古へより、以つて厄歲と爲す。陰陽家の云はく、「丙・丁、火(くわ)に屬す。午・未に遇ひて、盛んなり。故に、陰、極まれば、必ず、戰(あらそ)ふ。亢(こう)して悔ひ有るなり。」と。康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海・督撫尙書王登聯等、搆死(こうし)す。丁未の春、災祲(さいしん)、疊(しき)りに見ゆ。彗星、出づ。太白、晝、見ゆ。白眚(はくせい)、西北に出で、月餘を經(ふ)。是の歲七月、輔臣蘇克薩、誅死す。吾が友、程職、方(まさ)に謂ひて、「予、前史に載する所の丙・丁の災變・徵應を裒輯(ほふしふ)し、一書に爲(な)さんと欲す。頃(この)ごろ、宋の理宗淳祐中、柴望、上(あぐ)る所の「丙丁龜鑑」十卷を見るに、秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで、通して、一千二百六十載、中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一。備(つぶさ)に事實を摭(ひろひと)り、係(かか)るに、論斷を以つてす。元の至正中、又、續く「丙丁龜鑑」の者、有るを、宋・元事の闕(けつ)にて補ふ。前人、已に、此の二書、有り。當に考據すべし。故に、三百年中の事應、明かにし、以つて二の後に續く。」と。』と。

   *

『兪文豹「吹剱錄」』撰者は南宋の人であること以外は判らなかった。史料で、「外集」もある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、元末明初の学者陶宗儀の漢籍叢書「説郛」の巻二十七PDF)の40コマ目右丁二行目で引用部が確認出来る。

『謝肇淛「五雜俎」』既出既注であるが、再掲すると、「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻一の「天部一」に、

   *

又「吹劍錄」載、丙午・丁未年、中國遇之必有災、然亦有不盡然者。卽、百六、陽九亦如是耳。

   *

とあるのを指す。これを含む一節全体は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。

『王士禎が「池北偶談」』清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」で影印本が視認出来、これによって、最後までが、本書からの長い引用であることがわかる。則ち、思うに、この冒頭の漢文全体は、馬琴が引用に少し、言葉を添えて繋げたものと推定出来る。

「康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】」康煕五(一六六六)年。

「搆死す」「搆」は「引く・構える・組み立てる・計画する」の意であるが、まあ、死を迎えたの意でよかろう。本字は「構」にも通じ、「構」には「強いる」の意もあるので、帝君から「死を強いられた」と読むことも可能で、「そうであったかどうか、調べても判らんだろう」と思いつつも、試みてみたところが、図に当たった! 「維基文庫」の「清史稿 卷一百二十」の中の「田制」の条に、「戶部尙書蘓納海」と「督撫尙書王登聯」について(漢字表記が不統一なので正字化した)、

   *

戶部尙書蘇納海・總督朱昌祚・巡撫王登聯、咸、以不如指、罪至死。

   *

とあった。「咸」は「皆」の意で、「總督朱昌祚」は「池北偶談」ではカットされているから、「等」が腑に落ちるわけだ! あきらめんでよかった!

「災祲」(さいしん)「祲」の字は原義が「災いを起こす悪い気・不吉な気」で、他に「太陽の周りにかかる暈(かさ)」の意もある。後者は「ハロ」或いは「ヘイロウ現象」(halo)として知られる光学現象だが、中国では古代より、「白虹が太陽を貫く」ことは、恐るべき「兵乱・大乱の兆し」とされた。「白虹」(白い龍)は「干戈」を、「日」は「天子」を表わすとされる。

「疊(しき)りに」「馬琴雑記」の送り仮名と、「疊」の持つ意味から類推して訓じた。

「白眚(はくせい)」「黑眚」は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で述べたが、それ自体が幻獣であり、白黒(びゃくこく)の色とあり、そのアルビノと考えていいだろう。禍いを齎す悪獣である。以下の叙述から、それまでなかった位置に突如、現れ、一ヶ月以上消失しない、白い光を放つ星と読め、巨大なこちらに頭を向けた流星、或いは、超新星か?

「程職」不詳。

「裒輯(ほふしふ)」(ほうしゅう)は「集めること」及び「編集・集録すること」の意。

「宋の理宗淳祐中」「理宋」は南宋の第五代皇帝。「淳祐」は彼の治世の一二四一年~一二五二年の元号。

「柴望」(一二一二年~一二八〇年)は南宋の詩人。彼はこの「丙丁龜鑑」五巻(実に、秦の昭王五十二年丙午(紀元前二五五年)から、五代の後漢の天福十二年丁未(九四七年)までの丙午丁未の厄災・凶兆を拾い出したものらしい。「池北偶談」は十巻とするが、調べる限りでは五巻である)を淳祐六(一二四六)年に上表した結果、世に不安を広げるものとされ、獄に下っている。数年で出獄してようで、後には官職を得て、史料編纂などをやっているか。死の前年に南宋は滅び、元が建国したが、その招きには応じなかった(中文の「百度百科」の彼の記載を判らない乍らも参考にした。一部の不審な箇所は訂した)。

「秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで」「莊襄王五十二年」は秦の第二十八代君主にして第三代の王である「昭襄王」の「池北偶談」の誤りと思われる。それでも「通して、一千二百六十載」というのはおかしく、数えで一千二百三年にしかならないのだが、記載通りの「莊襄王」では、昭襄王の次の次の代の王(紀元前二四九年~紀元前二四七年)で、更に閉区間年が短くなってしまう。前の「百度百科」での西暦記載を信ずることとする。

「中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一」計算すると、紀元前二五五年から紀元後九四七年の間のそれは確かに正確に孰れも二十一回である。

「摭(ひろひと)り」「拾ひ採り」。

「係(かか)るに、論斷を以つてす」それに「關はる」ところの各個的な厄災や凶兆とある事柄を確定し、「丙午丁未」の持つ災厄性に就いての論を展開している。

「元の至正中」元の順帝(恵宗:トゴン・テムル)の治世で用いられた元号。一三四一年 から一三七〇年まで。一三六八年、元が大都(現在の北京)を追われ、明が成立するが、後も、「北元」の元号として使用された。

「宋・元事」柴望以後の宋及び元の厄災などの事実。

「闕にて補ふ」欠けた部分として追加して補っている。

「此の二書」「丙丁龜鑑」及び「續丙丁龜鑑」(こちらは撰した人物は未詳のようである。一巻か。後補された年月では「丙午丁未」七回である)。

「三百年中」「池北偶談」の序は一九〇一年であるから、明の成立する一三六八年からは、五百三十三年も隔たるが、この一三六八年に三百を足すと、一六六八年になる。さて、大清帝国は一六一六年に満洲に最初に清として建国されたが、一六四四年に中国本土とモンゴル高原を支配する統一王朝となった(一九一二年滅亡)。王士禎は一六三四年生まれであるから、「池北偶談」出版の一九〇一年当時は満で五十七ほどである。この彼の友人である程職の言葉には、ある種の気負いがあって、もっと前の若さを感じる。例えば、これを三十年ばかり遡って二十代の王と程(同年代と考えてである)を考えてみる。すると、一八七一年頃となる。さて、そこで、大清帝国になってからの「丙午丁未」を、例えば、この一八七一年ま頃でで見ると、それでも、四度もあるのである。しかし、そうすると、「三百年中」の意味が齟齬する。それに拘って、これを一六四一年までに区切ったのだとすると、「丙午丁未」は、実は、ただ一度の一六六六年と一六六七年だけなのである。さすれば、これは単なる推理となるが、この程職なる人物は、実は、清代になってからの丙午丁未については、「丙丁龜鑑」で柴望が処罰されたことを鑑み、実は扱うのを憚ろうと思ったか、或いは、向後の中・長期的展望を待つとして災厄を特定するのはやめようとしたのではなかったろうか? と私は考えるのである。但し、程職の手になる「續々丙丁龜鑑」は書かれなかった、書けなかった、或いは程職はその後にその幻しの書の執筆を叶えることなく、白玉楼中の人となったのかも知れない。その思い出と彼への哀悼を籠めて、ここに長く彼の生の台詞を記したのではなかったか?……などと勝手な妄想をしてしまったのである。]

 

 解(とく)いはく、「天朝も、いにしへより、丙午丁未の年每に、さる、しるし、のこりけるにや。いまだ、考索にいとまなければ、見ぬ世の事は、姑(しばら)く措(お)きつ。

 只、予が親しく耳に聞き、目に見えしまゝをもてすれば、天明丙午の火災・洪水、丁未の饑饉[やぶちゃん注:底本は『饉饉』。「馬琴雑記」で訂した。]に、ますもの、なし。こは、遠からぬ世の事にて、五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり。まいて、今より後の人は、昔がたりに聞きながして、警(いまし)め愼むこゝろ、薄くば、遂に又、荒年の備へに[やぶちゃん注:底本に「備へに」なし。「馬琴雑記」で補った。]懈(おこた)ることもあるべし。この故に、只、見聞のまゝに記してもて、後生(こうせい)に示すのみ。しかれども、老邁(らうまい)[やぶちゃん注:老化が進んでいる状態を指す。]、よろづに遺忘(ゐばう)多くて、記憶の壯年に及びがたきを、いかゞはせん。かゝれば、漏らすも多かるべく、思ひたがへし事も、あるべし。

[やぶちゃん注:「五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり」天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未は、この「兎園会」発会の文政八(一八二四)年十月二十三日からは、六十八、七年も前のこととなる。]

 抑(そもそも)、この歲の凶荒は、京の人、

「原氏が、「五穀無盡藏」とかいふものに、しるしつけたり。」

とは聞きしかど、予は、いまだ、その書を見ざりき。さばれ、只、その書には、諸國の米の價(あたひ)をのみ、をさをさ、しるしゝものと、なん。しからんには、予が編の、いと淺はかにて、疎鹵(そろ)[やぶちゃん注:おろそか。疎漏。粗略。]なるも、考據(かうきよ)の爲になるよし、あらんか。

 されど、乙巳のみな月には、わが身、失恃(しつじ)[やぶちゃん注:底本は「異特」。「馬琴雑記」を採った。自負心を損じること。]の憂あり。又、丙午の葉月には、仲兄、夭折せられたり。かく、うれはしく物がなしき折なりければ、世上の事を、只、よそにのみ聞き捨てゝ、書きつけおきしことはなきを、こゝに、はつかに思ひ出でゝ、その大かたを、しるすよしは、嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編にちなみて、なん。

[やぶちゃん注:『原氏が「五穀無盡藏」』「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」の書誌データによれば、版本は本篇の八年後の天保四(一八三三)年に京都で上原無休なる人物の著として板行されている。『飢饉に備えて豊作の時にも五穀を疎かにするべきではないと、重農主義の論を説いた書。用意すべき糧物や施行の仕方についても記されている』とある。「日本古典籍ビューア」のこちらで原本が画像で読める。ざっと見る限り、馬琴が貶すような瘦せたキワモノなんぞではない、しっかりしたものである

「乙巳のみな月には、わが身、異特の憂あり」「乙巳」天明五年乙巳。一七八五年。「失恃」の具体な内容は不明。丙午の前年。

「丙午」天明六年丙午。

「仲兄、夭折せられたり」次兄興春。ウィキの「曲亭馬琴」によれば、天明五(一七八五)年の母の臨終後に、『貧困の中で次兄が急死する』とある。天明六年なら、馬琴は数え二十であった。

「嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編」第六集の山崎美成の発表の「奧州南部癸卯の荒饑」(本会の五回前の文政八(一八二四)年六月十三日発会の「兎園会」)を指す。]

2021/10/24

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 天台靈空是湛靈空

 

   ○天台靈空是湛靈空 平安 角鹿桃窻

享保・元文の頃ほひ、沙門光謙、字は靈空といふ天台宗の學匠たり。近年、皆川淇園翁、一たび、其文章を賞せしより、其名、ますます、あらはれぬ。その書もまた、奇逸なるものなり。また寶曆・明和の頃、淨土宗に靈空、字は是湛といふ僧あり。寬政十一年の刻本、平捃印補正に、比叡山光謙、字靈空と載せ、靈空、是湛の二印を出だせるは、頗、杜撰なり。こは、かの是湛、靈空の印にして、天台靈空の印には、あらず。是、湛靈空は、晚年、寺町今出川の邊、西山派の寺に住せり。此二僧、書風、かつて似るべくもあらぬを、など、誤り傳ヘたるにや。

[やぶちゃん注:「享保・元文」一七一六年から一七四一年。

「沙門光謙、字は靈空」(れいくう 承応元(一六五二)年~元文四(一七三九)年)は天台僧。光謙(こうけん)は名。号は幻々庵。筑前国福岡の出身。十七歳で比叡山に登り、その後、比叡山西塔の星光院の院主となった。二十七歳の時、妙立慈山(みょうりゅうじざん)に師事し、元禄三(一六九〇)年に妙立が没した後は、その弟子を率いて、比叡山の僧風復興に努めた。江戸中期には、南北朝時代に始まった本覚思想の口伝法門が広まり、天台教学・僧儀の退廃が目立ってきたことから、定・慧の二学を刷新し、戒律学に於ける四分律兼学による律儀を導入するなど、僧風の是正につとめた。元禄六(一六九三)年、彼に帰依していた輪王寺宮公弁法親王の命により、比叡山横川飯室谷の安楽院を、天台・四分律兼学の安楽律院に改め、安楽院流の祖となった。元禄八年に「法華文句」を講じた際には日に千人の聴講者がいたと伝えられる。

「皆川淇園」(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)は儒学者。ウィキの「皆川淇園」によれば、多くの藩主に賓師として招かれ、京都に家塾を開き、門人は三千人を超えたという。晩年の文化三(一八〇六)年には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。

「寶曆・明和」一七五一年から一七七二年。

「靈空、字は是湛」生没年は判らなかったが、浄土宗西山禅林寺派の僧として確認出来た。伊勢市古市にある同派の「大林寺」の公式サイトの歴代住職のリストで第六世が享保二(一七一七)年とし、第八世が享保一九年とあって、間の第七世が、『霊空』『是湛上人』とあった。しかし、これが当該人物となると、非常に早くに上人となっており、しかもそれなりに長生きしたことになる。

「寬政十一年」一七九九年。

「平捃印補正」【2021年10月25日改稿】いつも御助力をいただくT氏より、『「平」は分かりませんが』、以下は『石隠編の「捃印補正」』(くんいんほせい)のことで、『国会図書館の「捃印補正」(二巻)上の73コマ目』(左丁左端に「比叡山光謙字」(「あざな」?)「靈空」とあり、上の篆書陰刻が「靈空」、下方の陽刻が「是湛」)にかくあり、『書誌に享和二(一八〇二)年刊』とし、『又、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「捃印補正」巻之一・二の、こちら「上」の72コマ目』に同一のものを確認出来、『早稲田の書誌には「序」が細合方明(寛政十一年(一七九九年)、「跋」が木村孔恭(寛政十二年)とあり、前掲の享和二年刊の再刻』で、『共同刊行』は『柏原屋清右衛門(浪華心斎橋筋順慶町)と書いてあります』とメールを戴いた(木村孔恭は、先般、電子化注を終えた「日本山海名産図会」の木村蒹葭堂である)。印譜が見られるとは、思わなかった。T氏に感謝申し上げる。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 品革の巨女(オホヲンナ)

 

[やぶちゃん注:目次は「品河の巨女」。画像は底本のものをトリミング補正して用いた。私は筆者と同じくこの「おつたさん」がしみじみ哀れに感じたれば、懇ろに清拭し、画像サイズも実物大に限りなく合わせておいた。段落を成形した。]

  ○品革の巨女(オホヲンナ)

 文化四年丁卯の夏四月のころより、世の風聞にきこえたる、品川驛の橋の南なる【こゝを「橋むかふ」と唱ふるなり。】鶴屋がかゝえの飯盛女に、名を「つた」といへるは、その年廿歲にて、衣類は、長さ六尺七寸にして、据をひくこと、一、二寸に、すぎず。膂力ありといへども、そのちからを、あらはさゞりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「文化四年丁卯」一八〇四年。

「品川の橋の南」「こゝを「橋むかふ」と唱ふるなり」これは品川宿の南の目黒川に架かる現在の品川橋(グーグル・マップ・データ)で、その南に渡った地域を「川向かふ」「橋向かふ」と呼称した。これは、「あっちは江戸ではない」という江戸庶民の差別的呼称であることは言うまでもない。目黒川河口右岸である。正規の品川宿は左岸であるが、右岸にも非正規の旅籠屋や客相手の曖昧宿(飯盛旅籠)があった。

「飯盛女」(めしもりをんな)は、本来は旅籠屋での接客をする女性のことを指すが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道に早く、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)である。飯盛女を抱える旅籠屋を「飯盛旅籠屋」といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき、二人までを許可しており、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、次第に宿内や近在、特に助郷(すけごう:宿駅常備の人馬の不足を補充するために宿駅近傍の村々が伝馬人夫を提供させられたこと、また、それを課された郷村を指す。最初は臨時で宿の周囲二、三里までの村に課されただけであったが、参勤交代などで交通量が増大し、恒常的となり、十里以上まで課され、金銭代納が多くなり、一種の租税ともなった。これは農村疲弊の一因となり、百姓一揆が頻発することとなった。ここは「旺文社日本史事典」に拠った)の村々の農民を対象とするようになり、宿と助郷間の紛争の種となった。明治五(一八七二)年、人身売買や年季奉公が禁止されたことにより、形式上は解放された(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「六尺七寸」二メートル三センチメートル。]

 世に稀なる巨女なれども、全體、よく、なれあふて、しな・かたち、見ぐるしからず、顏ばせも、人なみなれば、

「この巨女に、あはん。」

とて、夜每にかよふ嫖客、多かり。

[やぶちゃん注:「嫖客」(へうかく(ひょうかく))は「飄客」とも書き、花柳界に遊ぶ男の客や芸者買いをする男を指す。]

 當時、その手形を家巖におくりしもの、あり。すなはち、草して左に載せたり。

 その手は中指の頭(サキ)より、掌の下まで、曲尺六寸九分、橫幅、巨指(おほゆび)を加へて、四寸弱なり。その圖、左のごとし。

[やぶちゃん注:「曲尺六寸九分」二十・九センチメートル。

「四寸弱」十二センチメートル弱。]

 

Otuta

 

 件の「つた」は、出處、駿河のものなり、とぞ。『ひが事をす』とよまれたる、「いせ人」にあらねども、阿漕の浦に引く網のたびかさなれる客ならねば、手を袖にして、あらはさず、足さへ、見するを、恥ぢし、とぞ。

[やぶちゃん注:「『ひが事をす』とよまれたる、「いせ人」」「ひが事」(ひがごと)は「道理に合わないこと・事実に合わないこと・不都合なこと」の意。直接は、鴨長明作とされる紀行「伊勢記」にある、

いづみ野とは、尾張の津島より京へのぼる道を、舟に乘りてゆく。甲斐川を越えて、弓削原村にいづる。

 伊勢人はひがごとしけり津島より

      かひ川行けばいづみのの原

に基づくか。但し、この書は、「方丈記」執筆以前の若き日に、長明が伊勢へ旅した際の和歌と紀行文とされるものの、本文は散逸しており、抜粋などで残存するものを集めたものに過ぎず、一部では偽作ともされる。但し、平安末から鎌倉初期にかけて、かの「伊勢物語」の「伊勢」の名の語源説として、藤原清輔や、彼の養子であった顕昭によって、『伊勢人は僻事(ひがごと)す』という風説に基づく書名とする説が、元にあるようである。

「阿漕が浦に引く網」「人知れず行う隠し事も、たびたび行えば、広く人に知れてしまうこと」の喩え。「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所であり、古くから神聖な漁業域として、一般人の漁は許されていなかったが、「阿漕の平治」という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をし、遂には見つかって簀巻きにされて海に投げ込まれたという伝説に拠る。因みに、「強欲であくどいさま」を指す「あこぎ」も同根。詳しくは、私の「諸國里人談卷之三 阿漕塚」の私の注を参照されたい。]

 これらは、をなごの情なるべし。

 あまりに、いたく、はやりにければ、瘡毒を傳染して、あらぬさまなりしかば、千鳥なくのみ、客は、かよはず。

「いく程もなく、その病にて、身まかりにき。」

と、いふものありしが、さなりや、よくは、しらず。

[やぶちゃん注:「瘡毒」(さうどく(そうどく))は梅毒のこと。]

 又、その翌年【文化五年。】の冬のころ、湯島なる天滿宮の社地にて、「おほをんなのちからもち」といふものを見せしこと、あり。

 予は、なほ、總角にて、淺草の「としの市」のかへるさに、立ちよりて、それをば、見けるに、よのつねのをんなより、一岌、大きなるは、偉きかりしが、品川の「つた」が手形にくらぶれば、いたく見劣りて、さのみ、多力なるものとは、見えざりき。

[やぶちゃん注:「總角」(あげまき)は、元は古代の少年の髪の結い方の一つで、髪を左右に分け、両耳の上に巻いて輪を作る、角髪(つのがみ)とも呼ばれたそれを指すが、ここはそれから転じた「少年」の意。馬琴の長男であった滝沢宗伯(そうはく)興継は寛政九(一七九八)年十二月二十七日生まれであるから、当時は恐らく未だ満六歳であったと思われる。

「一岌」(いつきふ(いっきゅう))は、ここでは、一際、背が高いことの意。

「偉き」「えらき」或いは「おととけき」と読めるが、前者でよかろう。「勇ましい」とか、「猛く勇ましい」の意だが、ここは、単に「一般的な成人女性の標準体躯の程度を遙かに超えている」の意。]

 『彼「品川のおほをんな」は、是なるべし。』と、おもはする、「紛らしもの」としられたり。

 かばかり、はかなきうへにだも、贋物、いで來たる、油斷のならぬ世にこそありけれ。

 こゝに、すぎこしかたを思へば、十八、九年のむかしになりぬ。

 時に、筆硏の間、亦、戲れにしるすといふ。

  文政八年乙酉小春念三     琴 嶺

乙酉霜月兎園會

[やぶちゃん注:「文政八年乙酉小春念三」この発会日。文政八年十月二十三日(グレゴリオ暦一八二五年十二月七日)。]

2021/10/23

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女

 

[やぶちゃん注:目次では「虛舟の蠻女」。「うつろぶねのばんぢよ」。琴嶺舍滝沢興継の発表であるが、例によって、馬琴の代筆である可能性が高い。私は既にサイト「鬼火」のホーム・ページ上に「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーンの『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』として私の高校教師時代のオリジナル授業案の冒頭に電子化しているが(二〇〇五年)、今回は画像も注も改めてブラッシュ・アップした。実際に横浜緑ケ丘・横浜翠嵐・藤沢総合高等学校で古文の授業として実践したもので、最初の授業は二〇〇四年以前に行ったものと記憶している。この話は、小学校高学年頃に、子供向けに書き直したものを読んで、高校時代に元の本篇を読み、それ以降、ずっと気に入っていた作品である。二〇〇四年当時は、一部の出版物で民俗学的史料としてあった以外は、概ね江戸時代のUFOの漂着事件として「キワモノ」的に扱われていたに過ぎなかったが、教員になった一九七九年以来、ずっと関心を持ち続けていたものであった。現在は、種々の民俗学的考証が行われるようになった。古いものでは、柳田國男の「うつぼ舟の話」(大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された)が良く知られ、それは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で全七回で電子化注してある(関連した柳田國男の「うつぼ舟の王女 (全) 附やぶちゃん注」(昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された)も電子化してある)。「キワモノ」性が好まれ、ネット時代に入ってからは、多くの記事が散見されるようになり(一部は後注で示した)、学術的には、岐阜大学名誉教授田中嘉津夫(かずお)氏(但し、専門は光情報工学)「うつろ舟」伝説研究の第一人者として知られ、二〇〇九年に加門正一のペン・ネームで『江戸「うつろ舟」ミステリー』(楽工社刊)を出版されているものが、刊行物として第一次史料となろうか(田中氏の研究紹介は当該書の刊行直後にテレビで見たが、手頃なものでは、サイト「ニッポンドットコム」の『UFOと日本人:江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って』(二回連載)がよい。但し、私は未見である。ただ、買いそびれているだけである)。正直、二〇〇〇年以降(私が自身のサイトを作ったのは二〇〇五年六月である)の本件のネット上での氾濫を見るに至って、その瞬間、「人が盛んに云々し出したものをことさらにディグするのは、ちょっと厭だな」と感じた。しかし「これではいかん」と思い立って作ったのが、上記の授業案であった。今回はその授業案をベースにしつつ、当該事件の別記事なども注で電子化して添えおくこととした。今回は底本に従い、段落は成形しなかった。但し、句読点は今まで通り、適宜、追加・変更してある。太字は底本では傍点「ヽ」。最後に言っておくと、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って、漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人で、UFO研究もどきを、やらかしていた人間である。三島由紀夫も入会していた日本最初のUFOの研究団体であった旧「日本空飛ぶ円盤研究会」の主宰者であった荒井欣一氏に友人の目撃報告書を提出し、お礼の手紙を頂戴したこともある。]

 

   ○うつろ舟の蠻女

享和三年癸亥の春二月廿二日の時ばかりに、當時、寄合席小笠原越中守【高四千石。】知行所常盤國「はらやどり」といふ濱にて、沖のかたに、舟の如きもの、遙に見えしかば、浦人等、小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけて、よく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)[やぶちゃん注:「盒」のみのルビ。「かうばこ」。]のごとくにして、まろく、長さ三間あまり[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]をもて、塗りつめ、底は鐵の板がねを、段々(ダンダン)、筋のごとくに張りたり。海巖[やぶちゃん注:「かいがん」で岩礁・暗礁のこと。]にあたるとも、打ち碎かれざる爲なるべし。上より内の透き徹りて隱れなきを、みな、立ちよりて見てけるに、そのかたち、異樣なる、ひとりの婦人ぞ、ゐたりける。

  その圖、左の如し。[やぶちゃん注:二字下げはママ。]

 

Uturobune

 

Bajyo

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。今回は大きなサイズで取り込み、清拭も周到に行った。実際には右下方に「うつろ舟」、その左上に「蠻女」の絵が配されてあるが、分離して見易いようにした。キャプションは、「うつろ舟」の方が、右下方から時計回りで(カタカナをひらがなにした)、

「鉄にて張りたり。」

これは、本文によって、円盤状ヴィークルの外側の底が鉄板を何枚も段々になるように張り合わせた構造であることを指す。図を見ると、黒い部分に大形の釘、或いは、ボルト状の打ち込みのようなものが確認出来る。因みに、ボルト・ナットは西洋では一七〇〇年代半ば以降の産業革命によって既に普及していた。

「長さ三間餘。」

これは直径。

「硝子障子。外は『チヤン』にて塗りたり。」

とあるが、この「外」とは本体上部のガラス障子の組み込まれた、その辺縁部の接合箇所(図の二重線になっている箇所)を指しているものと私は採る。

最後に、右上方に驚くべき奇体な四種の記号のような文字を、四つ、縦に別に添え描きして、指示線を添え、

「如此、蠻字、舩中に多く有之。」

(此(か)くのごとき、蠻字(ばんじ)、舩中(せんちゆう)に、多く、之れ、有り。)とある。次に「蠻女」の方は、右側腰の辺りに指示線をして、

「『ねり玉』、青し。」

とある。「ねり玉」とは、練り物で作られた飾り玉で、薬物や卵白(但し、それを用いた「明石玉」の発明は本篇時制より後の天保年間(一八三一年~一八四五年)以降とされる)のを練って固め、或いはそれらを繊維に染み込ませて丸め、珊瑚や宝石に似せた飾り玉、或いは、そのように見える立体的な玉状の浮き模様の服装飾である。

左上方に、髪の様子を、

「假髻、白し。何とも辨しかたきものなり。」

とする。これは「假髻(すゑ)、白し。何とも、辨じがたきものなり。」で、「假髻」(すえ)とは元は奈良・平安時代に女性の髪を豊かに見せるために添えた他者の髪で作った添え髪のこと。「髻」 は単独では「たぶさ」で、「頭髻(たきふさ)」の変化したものかとされ、髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。「もとどり」とも称する。後半は、白髪のそれは(白髪の入れ髪自体が特殊であったろう)特異なもので、何で出来ているのか、判別出来なかった、則ち、人毛製ではない、ということを意味している、と私は読む。

左に指示線を添え、

「此箱、二尺許四方。」

(此の箱、二尺許(ばか)り四方)で、約六・〇六センチメートル四方の四角い正方形の箱としかとれないが、図のそれは御覧の通り、長方形の箱であって不審。寧ろ、後で掲げる後代の随筆「梅の塵」の図の箱の方が、このキャプションに相応しい。]

 

そが眉と髮の毛の赤かるに、その顏も桃色にて、頭髮は假髮(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり【解、按ずるに、「二魯西亞一見錄」「人物」の條下に云、『女の衣服が筒袖にて、腰より上を、細く仕立云々』。『また、髮の毛は、白き粉をぬりかけ、結び申候云々』。これによりて見るときは、この蠻女の頭髮の白きも、白き粉を塗りたるならん。魯西亞屬國の婦人にやありけんか。なほ、考ふべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。そは、獸の毛か、より糸か、これをしるもの、あることなし。迭に[やぶちゃん注:「たがひに」。音「テツ」。]言語(コトバ)の通ぜねば、「いづこのものぞ」と問ふよしも、あらず。この蠻女、二尺四方の筥[やぶちゃん注:「はこ」。]を、もてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくも、はなさずして、人をしも、ちかづけず。その船中にあるものを、これかれと檢[やぶちゃん注:「けみ」。]せしに、

[やぶちゃん注:以下、「食物あり。」までは、底本では全体が二字下げ。]

水二升許、小甁に入れてあり【一本に、二升を二斗に作り、小甁を小船に作れり。いまだ、孰か[やぶちゃん注:「いづれが」。]、是[やぶちゃん注:「ぜ」。正しいこと。]を知らず。[やぶちゃん注:この割注は「一本」から、本話のソースが、少なくとも二つはあったことを明らかにしている。]】。敷物、二枚あり。菓子やうのもの、あり。又、肉を煉りたる如き食物、あり。

浦人等、うちつどひて評議するを、のどかに見つゝ、ゑめるのみ。故老の云、「是は、蠻國の王の女の、他へ嫁したるが、密夫ありて、その事、あらはれ、その密夫は刑せらしを、さすがに、王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虛舟(ウツロブネ)に乘せて流しつゝ、生死を、天に任せしものか。しからば、其箱の中なるは、密夫の首にや、あらんずらん。むかしも、かゝる蠻女の、うつろ船に乘せられたるが、近き濱邊に漂着せしこと、ありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる、人の首の、なまなましきが、ありけるよし、口碑に傳ふるを、合せ考ふれば、件[やぶちゃん注:「くだん」。]の箱の中なるも、さる類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]のものなるべし。されば、蠻女が、いとをしみて、身をはなさゞるなめり。」と、いひしとぞ。「この事、官府へ聞えあげ奉りては、雜費も大かたならぬに、かゝるものをば、突き流したる先例もあれば。」とて、又、もとのごとく、船に乘せて、沖へ引き出だしつゝ、推し流したり、となん。もし、仁人の心をもてせば、かくまでには、あるまじきを、そは、その蠻女の不幸なるべし。又、「その舟の中に、□□□□[注:先に出した「うつろ舟」の図の右上方に書かれた四文字が入る。但し、底本では上から二文字目の文字が異なり、「王」のような字の「王」で言うと、三画目の右手から四画目の右端に繋がる線で描かれている。底本の単なる誤りに過ぎないと思われる。後に述べる「弘賢随筆」の同一内容の本文では、このような異同はないからである。等の蠻字の多くありし。」といふによりて、後におもふに、ちかきころ、浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蠻字、ありけり。かゝれば、件の蠻女は、イギリスか、もしくは、ベンガラ、もしくは、アメリカなどの、蠻王の女なりけんか。これも亦、知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖說共に、疎鹵[やぶちゃん注:「そろ」。おろそか。疎漏。粗略。]にして、具(ツブサ)ならぬを憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。

 

[やぶちゃん注:「享和三年癸亥」(みづのとゐ/きがい)「二月二十二日」この年は閏一月があったため、一八〇三年四月十三日に相当する。この頃は、幕藩体制の解体が進み、対外情勢の緊迫に伴い、国是の鎖国政策そのものが動揺をきたし始めた頃に相当する。この七年前の寛政八(一七九六)年九月二十八日には、英国船プロビデンス号が松前藩領下の絵鞆(えもと:現在の室蘭)に来航し(ロバート・ブロートン船長は松前藩医加藤肩吾と地図を交換し、十月一日に出港、千島列島のシムシル島に到達したが、厳冬のため、マカオに向かい、冬を越すことにした。翌年五月十七日に沖縄の宮古島沖で座礁沈没するが、マカオで体制を整え、八月十二日に、再び、室蘭を訪れ、港内の測量を行っている。ブロートンは帰国後、「北太平洋探検の航海」を出版し、有珠山や駒ケ岳の様子から「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、蝦夷地に良港があることを世界に広めた。また、絵鞆アイヌとも交流し、その風貌・生活習慣・和人との関係などを随所に書き残している。さらに、ブロートンはヨーロッパ人で初めて津軽海峡を横断、蝦夷地が日本の島であることを実証している。以上は「まちぶらNAVI 室蘭市」のこちらのページの「鎖国時代に英国船が入港していた」を参照した)、翌年の文化元(一八〇四)年九月には、ロシアからの使者ニコライ。レザロフが長崎に入港、通商を要求してくるのである。異人の女の漂着奇談が、まさに開国の機運がここに切って落とされた頃のことであるのは、甚だ興味深いと言えよう。なお、本発表は文政八(一八二五)年十月二十三日であるから、二十二年前と、かなり古い。

「寄合席」「旗本寄合席」(はたもとよりあいせき)。旗本の内で番方・役方に就かない者の呼称。禄高三千石以上が基本であるが、例外もある。「席」は「地位」の意。

「小笠原越中守」ちょっと内容が、新事実の登場のフライングになるので、迷ったが、示すこととする。優れた本事件の研究サイトの一つとして、昔からよく読ませて貰ったサイトに「やじきたcom.」の「江戸時代の浮世絵にUFO? うつろ舟の謎」がある。admin氏の著になる全九回で、私の所持しない資料も細かに考証してあって、頭の下がる数少ない本事件サイトである(本事件サイトの多くは、オカルト系の記者が多く、古文献の判読が出来ないのに、史料だけをバンバン貼り付けて、面白く感じながらも、誤りが致命的にひどいものが、これ、甚だ多く、この事件から、一時、距離を置いたのは、そうしたいい加減さが目に余ったからでもあった。しかし、そういう点では、このadmin氏の考証はディグの仕方が正鵠を得ており、殆んど、文句の言いようがないほど優れているので、早晩、紹介しない訳には行かないので、ここでリンクした。そのシリーズの第五回「■事件は常陸の国ではなかった?」で、admin氏がこの人物を突きとめておられるのである。小笠原越中守宗昌(むねのり)で、四千五百石、知行地は伊勢と常陸とある。しかし、admin氏は、そこで、『常陸の国での小笠原越中守の知行地は、実は内陸部であって、沿岸部ではない』とするのである。しかして、房州(安房)を知行した小笠原安房守正恒という人物が示されてくるのである。……しかし……ここは常陸であって、安房ではない……ここに新発見の候補地がクロース・アップされて、admin氏の怒涛の「蛮女」の追跡が始まるのである……或いは、そのままadmin氏のシリーズを読まれた方が面白いかとも思うが……まあ、どちらを選ばれるかは、読者にお任せしよう。

「知行所」旗本が支配地として給付された土地。但し、支配地とは言っても、実際に赴くことは稀れであった。但し、知行地内での事件(本件も、当然、含まれる)・不始末については、定期的に人を遣わして調べておかないと、由々しき事態では管理不届きとして罰せられることもあった。

「常陸國」現在の茨城県。

「はらやどり」後掲する酷似した話を載せるずっと後の随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序)では「原舍濱(はらとのはま)」と記載する。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名としては孰れも存在しない。但し、先の二〇〇五年の授業案では、『最近、大洗と鹿島の中間地点のある大竹海岸に、この話をもとに遊具を兼ねた円盤形のモニュメントが作られた』(後に撤去されたようである)。また、『インターネット情報では、子生(こなぢ)海岸という』『かなり』『を発見した。この』場所は、『そのモニュメントが』あった『海岸から北へ五、六キロ行った場所であ』り、『海岸線を辿っていくと、そこが』その『子生海岸』で、『ここには子生弁天があって、ここにお参りすれば子供を授けてくれると、古くから信じられているという』(当時の内田一成氏のサイト内に拠った)『とあって、伝承といい、名称といい、これは同定としては極めて信憑性が高いと思われる』と記した。そのライター内田一成氏の姓名から、現在の内田氏のブログ「レイラインハンター日記」の「はらやどり浜と子生(こなぢ)弁天」を見つけた。それによれば、

   《引用開始》

 この虚舟が漂着したとされる「はらやどり浜」は、ぼくの故郷である茨城県鉾田市の大竹海岸のことだ。千葉県の銚子にある犬吠埼から茨城県の大洗の岬まで、ゆるく弧を描く砂浜の海岸線が80km続く鹿島灘の一角に当たる。古代には、この海岸線から神が上陸したという言い伝えがあり、それに基づいて鹿島神宮や大洗磯前神社・酒列磯前神社が創建された。[やぶちゃん注:中略。]

 かつては、虚舟を記念したオブジェが海岸に設置されていたが、それも、3.11の津波で破壊され、今は残っていない。[やぶちゃん注:中略。]

 はらやどり浜から北へ少し行くと、「子生(こなぢ)海岸」がある。「こなぢ」は「子を生す=こなし」の訛化だろう。子が腹に宿り、そして生まれる。もしかすると、はらやどり浜で潮垢離をして、子生弁天にお参りするような子授けの信仰があったのかもしれない。

 子生弁天は地元の通称で、正式には「厳島神社」だ。祭神は宗像三女神の一柱である市寸島比売命[やぶちゃん注:「いちき(いつき)しまひめのみこと」。]で、これは習合して弁天になるから、どちらでも正しい呼び方と言える。周辺の地域では、子授けと子育てに霊験あらたかと信じられていて、やはり、かつてははらやどり浜と一対の聖域とされていたように思われる。

 国道51号線に面した一ノ鳥居を潜り、しばらく行くと杉の巨木の木立の先、見下ろす谷の中に社が散見される。二ノ鳥居を潜って、急な階段を降りていくと、池の中に優美な姿で浮かぶ社と対面する。[やぶちゃん注:中略。]

 周囲を丘に囲まれて、丸く窪んだこうした地形の場所にある池は、風水では「龍穴」とされることが多い。それは、こうした地形のところに龍脈から気が流れ込んで集中すると考えたからだ。また、女陰に見立て、生命力が迸るという[やぶちゃん注:脱字があったので補正した。]考え方も風水の発想と同じだ。

 はらやどり浜と子生弁天は、伊勢系の神社である鹿島神宮と出雲系である大洗磯前神社の間に位置する。かつては出雲系と習合した蝦夷の聖地だったから、その信仰は、さらに縄文時代にまで遡れるだろう。それは、夏至の日の出を背にし、冬至の日の入りを正面にする社殿の配置からも想像できる。

   《引用終了》

なんとなく懐かしい旧友に逢えたような感じがした(但し、私はレイ・ラインについては強く懐疑的である。メルカトル図法を始めとして我々の使用している普通の地図上の直線は実際には厳密には直線ではないし、任意の地点から無作為に地図上に直線を引けば、特定の擬似共時対象の施設・地形・伝承を、その線上や周辺に「ある」とすることは実は誰にでも可能で、ごく簡単に出来てしまうことだからである。私の知人にもそうしたレイ・ライン信望者が複数いるが、黙って笑って聞き流すことにしていることは言っておく)。内田氏の記載に従って調べて見ると、茨城県鉾田市の大竹海岸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、ここから海岸線を六キロ半ほど北へ行ったところが、子生(こなじ)(子生郵便局が確認出来る)の海岸域で、地図上では内陸の子生地区の南の端の東方の海岸が野田海岸、同地区の北の、内田氏の指摘される厳島神社の真東の海岸が玉田海岸である。同社地図のサイド・パネルのこちらの写真の說明板によれば、『承暦弐年』(一〇七八年)『安藝の宮島より勧請せしと言われて』おり、『享保弐年』(一七一七年)『領守岩田廣道奉る神鏡の刻文に世々相伝されて』あり、『「安産をこの神に祈らば則ち安泰なり」故に子生村と号すと言い伝えられており、領守崇敬の神社である』とある。

 さて、以下、私は授業案では、《地名の表記に隠されたもの》と題して、

――実はさりげないこの表記にこそ、この話の内包する民俗学的或いは諧謔的な意味が隠れていはしないだろうか。まず、「常陸」は「常盤」「常磐」「ときは」で、本来、実在の地名ではなく、中世の草子や説経節等の語り物などに出現する、この世ならぬ国を示すことに注意しなくてはならない。それは、戌亥(北西)の方角に存在し、そこには祖先の霊がおり、富や豊饒をもたらしてくれるユートピアと考えられた。「常陸」=「ときは」とは「常にその性質を変えずに存続し続ける岩石」の意味であるが、「常」の字の共有から「常世」と混同され、ほぼ常世と同意に用いられたと考えられているのである。すなわち、この伝承自体は、この世の事ではない「常世」の国の出来事として、本来、作話された可能性があるということである。そう読んだ時、「はらやどり」という名称も、妙に気にかかるのである。「はら」は「やどり」との関係から考えて「腹」であり、これはまさに「うつろ舟の腹(内部)に宿っていた(乗っていた)」女が』(誕生する=)『上陸するに格好な名称ではないか。先に紹介したインターネット情報で子生海岸を同定した内田氏は、そこで、『子生の弁天様にお参りして、子供が腹に宿る。まさに「はらやどり」そのままではないか。兎園小説がまとめられてから二〇〇年あまり、「はらやどり浜」は鹿島灘のどの海岸を指すのか謎だったわけだが、それが、いともあっさり解明されてしまった。もっとも、それをまた検証してみなければ、はっきりと解明されたとはいえないわけだが、謎解きは、得てして、そんな風に気抜けするほど、悩みに悩んだ答えがあっさり見つかったりするものだ。それに、「はらやどり浜」=「子生浜」という図式は、自分の中で正解だという手ごたえが感じられる』と述べておられたのであるが、逆に、そのような子宝伝説のもとに、この「うつろ舟の蛮女」の伝説が作話されたと考えることも出来よう(これは勿論、子生の弁天の由来の考証をする必要がある)。――馬琴は稀代の戯作作家である(本作を私はまさに馬琴の代作と考えている。その根拠は頭書と地の文の相補性と文体の連続性である)。恐らくこのような民俗学的な言語パロディを面白く思っていたに違いない。しかし、考証オタクでもあった彼は、書くうちに現実的解釈を続々と追加してゆく。その中で、彼はこれを事実の物語と変成させてゆくのである(明らかに後代の作品である「梅の塵」が完全な事実談として記載しているのは、まさに、この江戸の都市伝説が信じられる噂話として変化していったであろう証である)。――誤解してもらっては困るのだが、私はこの話をフィクションだと言っているのではない。まさにこのエピソードは、虚実皮膜の面白さと、その後の典型的な流言の変遷過程を示す格好の資料という側面を、まずは持っていると言える、ということを確認したかったのである。民俗学的考察や心理学的分析とは、そのようなパラレルなものであることを知ってもらいたいのである。――(一部を改変した)

と教え子の高校生に向けて述べたが、その気持ちは今も変わらない。

 しかし、その後、別に新たな有力な新候補地が出現した。

 二〇一四年五月二十六日附『茨城新聞』の『UFO「うつろ舟」漂着地名浮上 「伝説」から「歴史」へ一歩』という記事(鹿嶋支社・三次豪記者)に(私の蒐集したネット・アーカイブから)、『江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、漂着地の実在地名が記されていた。地名は「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)。これまで特定されずにいた漂着地が浮かび上がったことで具体性が増し、「伝説」は「歴史」に一歩近づいたと言えよう。事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まることは間違いない』。『「今までの研究の中でもハイライト。まさか実在の地名が出てくるとは」と驚くのは、「うつろ舟奇談」研究で第一線を走る岐阜大の田中嘉津夫名誉教授。三重大特任教授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の古文書とともに保管していた文書について、「うつろ舟奇談」に関わる史料であることを田中氏が発見した』(中略)。『それでは、今回漂着地として浮かび上がった舎利浜とは、当時どういった地だったのだろうか。「波崎町史」(1991年)によると「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字』(じあざ)『としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう」とある』。『現在の舎利浜も砂浜続きで人気は少ないが、風力発電の巨大風車が並ぶ風景を望むことができる。近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(ともに同市日川)もある』。『田中氏が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の中の女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、2つの伝説の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつきの意味で興味深い』(以下略)とあって、別な候補地が出現しているからである。この記事には別な同じ『茨城新聞』の先行記事(同じ三好記者)があって、当該新発見の記録には、『漂着地は「常陸原舎(ひたちはらしゃ)り濱(はま)」と記されている。江戸時代の常陸国鹿嶋郡に実在し、伊能忠敬が作製した地図「伊能図」(1801年調査)にある地名で、現在の神栖市波崎舎利浜(しゃりはま)に当たる』。所持しておられる『川上さんは「先祖は参勤交代の警備などにも当たっていた。江戸時代の外国船が入ってきたころに、各地の情報や風聞などを集めた文書の一つではないか」と話』し、田中氏によれば、『紙や筆跡から』、『江戸末期から明治時代に書かれた文書で、最後に』「亥(い)の年」(享和三(一八〇三)年)『二月二十六日」と書かれ、これまでの史料の中で最も古い文書か、またはその写しとみられる。過去に見つかった史料でも、漂着したのは同年222日とある』。『新史料の漂着地は「如斯(かくのごとき)の船常陸原舎り濱と申す處(ところ)」と実在地名が記されているが、過去の史料には地図などで一致する地名はなく、ばらつきもあった』。『日立市内で2012年、江戸時代の海岸防御に携わった郷士(ごうし)の子孫の家で見つかった史料は「常陸原舎濱」、兎園小説は「はらやどり濱(原舎濱)」となっていた』。『田中名誉教授は「実在の地名『常陸原舎り濱』が、伝言ゲームのように間違って伝わったのではないか」と分析する。新史料について「これまでの色々な文書、伝説の元になった文書の可能性が高い」とみている』。『新史料のそのほかの内容は過去の資料とほぼ同じ。奇妙な円盤型の物体の絵や記号のような奇妙な文字、変わった衣装を着た女性の絵など描かれ、不思議な物体が流れ着いたという事件について記されている』とある。

 その新候補地である神栖(かみす)市波崎舎利浜(はさきしゃりはま)は、ここである。御覧の通り、犬吠埼に近い場所である。サイド・パネルには二〇一八年に投稿されたナマ臍出しの妖艶な女性とカップ・ラーメンみたような奇体な漂着再現写真があるぞ!

 確かに「原舍濱」(はらしゃりはま)の文字列は「はらやどり」(「腹舍(はらやどり)」)と読んだとしても突飛とは言えない。寧ろ、私は後者で訓読してしまうかもしれない。但し、かといって、私は、以下の理由から、これが決定的なロケーションだと安易に賛同することはとても出来ない。田中氏はそこで『江戸末期から明治時代に書かれた文書』と鑑定しており、後者であれば、逆にこれが氏の言う『伝言ゲーム』によって、後に派生した、作り替えられた後代の代物の一つの写しに過ぎない可能性を排除出来ないからである。しかも、『舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう』となると、この漁師らによる発見・引き揚げ・当地の漁民らによる集団議論・突き放しという、本話のモブな騒擾的シチュエーション自体が非現実的なものとして、逆に信じられなくなるからである。

「香盒(ハコ)」正しくは、これで「かうがふ」(こうごう)と読み、香料を入れる容器を指す。漆塗・蒔絵・陶器などがある。但し、「香合」「香箱」とも言うので問題はない。円盤状を成す。

「チヤン(松脂)」通常は瀝青炭を指すが、この頃は同様な充填・塗装材として用いる松脂もこのように言ったのであろう。瀝青は「chian turpentine」の略とされ、タールを蒸留して得る残滓、又は、油田地帯などに天然に流出固化する黒色、乃至、濃褐色の粘質物質、又は、固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いる「ピッチ」を指す(「広辞苑」に拠った)。

「假髪」図の私の注を参照。髪を結う時に添え入れる髪。いれげ。鬘(かつら)の一種である。

「解」「とく」で滝沢馬琴の本名。もとは「興邦」(おきくに)と言い、後に「解」と改めた。

「二魯西亞一見錄」作品を同定出来なかった。但し、思うに最初の「二」は「按ずるに」の「に」の衍字ではないかと私は思う。しかし、この文字列の「魯西亞一見錄」というのは見当たらず、「魯西亞見聞錄」という書名をネットでは見出せるが、これもまた、今回も、この正確な書誌情報を見出すことは出来なかった。

「筥」「はこ」と読めるが。本来、この字は、四角い箱の意味の「筐」の対語であって、「筒状の丸い箱」を指し、図のそれとは異なる。

「菓子やうのもの」パンかクッキー様のものであろう。

「肉を煉りたる如き食物」腸詰(ソーセージ)の類か、もしくは、レバー・ペーストであろうか。保存食ならば、燻製肉か干肉であろうが、「煉」は「ねる」であって、そのような意味はない。

「虛舟(ウツロブネ)」は「うつほぶね」「うつおぶね」等とも表記する。漢字は「空舟(船)」とも。本来は、「大木の中を刳り抜いて造った丸木舟」を指す。但し、ここでは、中が中空になった海上に浮かぶ舟様の建造物を言っている。

「雜費も大かたならぬ」このような事件の場合、幕府からやって来る官憲の出張や、その接待の費用は、総て現地の人々の負担となった。寒漁村にとっては、大いに迷惑であったのである。

「ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船」「兎園小説」成立の一八二五年より以前で、このような事実を調べると、文政元(一八一八)年五月(文化十五年は四月二十二日に改元)のイギリス人ゴルドンの浦賀来航を指していると思われる。「打払令」によって撃退(イギリス船と誤認)された著名なアメリカの商船モリソン号の来航は天保八(一八三七)年六月二日のことであって、違う。

「歇(カヽ)りたる」この字は「やむ」「つく」としか訓じないが、この字の「やすむ」「とどまる」の意味で、「繋留」の「繋」の訓を借りたものと思われる。

「ベンガラ」縦糸が絹糸、横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。

 

 ここで、話をスムースに続ける関係上、何度か言及した、同じ事件を記した随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序。「兎園小説」の本篇の発表の文政八(一八二五)年十月二十三日から十九年後)を吉川弘文館随筆大成版(第二期第二巻所収)のそれから、例の通り、漢字を恣意的に正字化して示す。図も新たにトリミング補正し、清拭した。句読点は私が追加・変更し、一部に私の推定読みを《 》で歴史的仮名遣で補った。丸括弧のものは原本のルビである。なお、著者は長く本名不詳・事績不詳であったが、ネット上の信頼出来る書誌データには上記の名前だけはやたらに確認出来る。同書は無窮会専門図書館蔵ともある。しかし、それ以外の長橋亦次郎なる人物は未だにやはり不明である。

   *

    ○空船の事

 

Umenotri

 

享和三年三月二十四日、常陸の國原舍濱(はらとのはま)と云《いふ》處へ、異船、漂着せり。其船の形ち、空(うつろ)にして、釜の如く、又、半《なかば》に釜の刄《は》[やぶちゃん注:見ての通り、羽釜の袴のこと。]の如きもの、有、是よりうへは、黑塗にして、四方に窓あり。障子は、ことごとく、チヤンにて、かたむ。下の方に筋鐵(すじかね)をうち、何《いづれ》も、南蠻鐵の最上なるもの也。總船《さうせん》の高さ、一尺貳寸[やぶちゃん注:三・六四メートル弱]、橫(よこ)、徑(さしわたし)一丈八尺[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]なり。此中に、婦人、壱人ありけるが、凡《およそ》、年齡二十歲許《ばかり》に見えて、身の丈、五尺[やぶちゃん注:約一・五一メートル。]、色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後《うしろ》にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計《いふばか》りなし。身に着《つけ》たるは異(こと)やうなる織物にて、名は知れず。言語は、一向に、通ぜず。また、小《ちひ》さ成《なる》箱を持《もち》て、如何なるものか、人を寄せ付《つけ》ずとぞ。船中、鋪物(しきもの)と見ゆるもの、二枚あり。和らかにして、何と云《いふ》もの乎《か》しれず。食物は、菓子と思鋪(おぼしき)もの、幷《ならび》に煉《ねり》たるもの、其外、肉類あり。また、茶碗一つ、模樣は見事成る物なれども、分明(わか)らず。「原舍(はらとの)の濱」は、小笠原和泉公の領地なり。

 

■やぶちゃん注

 この「梅の塵」の方は、記載量が少なく、事後のことも記載しない不完全なものであるが、幾つかの必要条件としての基本情報に決定的違いが見られ、また、微妙に「兎園小説」の不明部分を補完しているとも言える。その点で、これは「兎園小説」とは別ソースの同話の情報・記録・風聞から得たものとも思われる。

・「三月二十四日」:「兎園小説」の二月二十二日より三十二日後で、グレゴリオ暦では五月十五日である。

・「舟の高さ一尺弐寸」:「兎園小説」にはない貴重なデータである。

・「橫徑一丈八尺」:単位が異なるだけで、「兎園小説」と一致する。

・「凡、二十歲許」:新情報。

・「身の丈、五尺」これも「兎園小説」にはないデータ。

・「色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計りなし」「兎園小説」とは髪の描写が全く異なる。言語を絶する美人であったことを記している点にも、着目すべきである。但し、決定的相違点に見える髪の描写も、私は、当時、ヨーロッパで男女に普通に流行していたシルバーの鬘(かつら)に着目した「兎園小説」と、その下に流れ垂れている実際の長い髪に着目したのが本編と考えるならば、必ずしも違和感はないように思う。

・「鋪物」敷物。これに限らず、総じて「兎園小説」よりもヴィークルと謎の女の観察が行き届いていて、こちらの方がリアリスティクに記されてある。恐らくは高級なベルベットかタペストリー状の厚い織物であったのであろう。この女性の高貴な出自を感じさせる重要なファクターでもある。

 

 さて。ここで、以下に私の授業案の考証部を一部改変して記す。

   *

《海上に不時着した「空飛ぶ円盤」?――「うつろ舟」の形状》

 超常現象を否定する識者も、やや、この「うつろ舟」の形状には頭を悩ますに違いない。以上「梅の塵」と合わせて見ても、これがまさにUFOの定番の如き「空飛ぶ円盤」状を成し、その直径五メートル四、五十センチメートル内外、それに比例させて、人が入れることを考慮すると、「梅の塵」の方に高さ約三メートルとあるのは物理的に腑に落ちる数値で、実際に作図して見ると分かるが、「梅の塵」が載せている円球状ではなく、実は「兎園小説」の図以上に、お約束的な横にスリムな円盤状となるのである。更にご丁寧にも「梅の塵」の図ではフライング・ソーサー染みた周辺翼(はかま)も付属した、かなり巨大なものなのである。

 かくの如き船型は、それこそ現代のエアー・バルブの大型救命ゴム・ボートにならあるが、古来の伝統的な通常の洋船・和船には見られないものである(樽船や「たらい船」があるが、このように上面を完全に覆った円盤状のものは、少なくとも私は寡聞にして知らない)。

 但し、これが「兎園小説」の古老の言うように、刑罰を目的とした特殊なものであって、そのようなものが他国にあった可能性は否定出来ない気はする。

《白人美形の宇宙人は宇宙人とのコンタクティを称したジョージ・アダムスキーの逢った金星人? 「うつろ舟の女」は何者か?》

 しかし更に言えば、これは刑罰ではなく、ある種の宗教的儀礼に用いられる神聖な(従って実用的形状ではないと言える。当時の操船技術から考えても、この形状が航行可能な船舶の形状とは思われない)船、死者を異界へ流し送る精霊船(しょうりょうぶね)、或いは補陀落(ふだらく)渡海(以下で説明する)の僧を流したそれと同じようなものであった可能性もあると私は考えている。

 本邦でも、一時期、補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの漢音写)に向かって決死の船出をする、熊野以南の補陀落渡海信仰があった。屋形船の木製コンテナの中に幾ばくかの食物を入れて渡海の上人を釘で逃げられぬように密閉し、沖へと送り出したのである。実際に琉球に生きて漂着し、仏法を普及させた渡海上人もいる、実際に行われた無謀な信仰仕儀である。

 そしてそもそも、「古事記」の倭健命(やまとたけるのみこと)の神話中で、走水の海渡りの際、神を鎮めるために、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が彼に代わって入水した例に示されるように、古今東西、海洋系の神は、女の生贄を好むものなのである(船乗りが女性の乗船を嫌うのは、一見、逆に見えるが、これは後代、海神が弁財天のように女神化されたために、嫉妬すると考えられたからではないかと思われる。何より実際には、和船においては、古くから、航海の無事を祈って、船底に密かに祭られる呪物が、女性の髪の毛や陰毛であったりする事実は余り知られていない)。

 まさに女神の性質を感じさせる地名である「はらやどり」の村人たちが、自分達の村の平穏のために「推し流し」たように、この女性もそのような神への供儀として「推し流」されてきた者、一種の生贄の巫女(シャーマン)であったとさえ言い得るのではなかろうか? 今後は、このような民俗習慣がロシア辺り(後述する文字検証を参照)にあったかどうかを考証する面白さが残ると言えよう。

 私には、村人の談合を、黙って、ちょっと微笑みつつも見つめている寂しげな彼女の姿は、ある種の宗教的諦観に裏打ちされた、崇高とも言える美しくも哀しいシーンであるようにさえ、思われるのである。

《鉄人二十八号の金田正太郎少年の無線操縦機? タブーの箱は何?》

 彼女の所持する箱は、これ、最大の謎だ。しかし、二尺四方というのは、抱えるだけでもちょっと難儀な大きさではないか? 「梅の塵」では《小さな箱》と表現しており、もう少しコンパクトであったのかもしれない。私は前記のように彼女が巫女であったという推測から、これはある種の神文、或いは、呪具や、神への祝詞に類するものが封印されたものと考えるのだが、「兎園小説」の古老の《処刑された愛人の首》が入っているという考察は、なかなかに文学的浪漫的な味わいがあり、このエピソードを魅力的にしている最大の山場であろうと思う。しかし、同時に、それだけ、曲亭馬琴の創作部分の臭いが、プンプンしてくるところでもあるのである。この謎は、この「作品」の「文学的眼目」とも言えよう。この謎あってこそ、この話は永遠にエンターテインメントとして我々を楽しませてくれるのである。

E.T.の宇宙文字? 奇体な電子的記号にしか見えない蛮字の検討》

 次に、この図に見える奇態な文字について考察してみよう。

 そもそもこの絵自体の資料性は、「兎園小説」の図の婦人図のキャプションで「四方」と言いながら、指示線の先にある箱はトンデモ長方形をしている点や、ヴィークルの、かなり細部まで描き込まれてある船底の細部(ボルト状の構造物や鉄板の白黒の有意な描き変え等)についての説明が全くない点など、検討に値するものとは言えない面があるのであるが、作者滝沢興継自身(実は父馬琴)が、この字体に対して、後日、この字から強い現実的な考証の意欲を示しているわけで、作者のそのような興味を喚起するだけの、ある種の強い実際の西洋言語表記文字との「類似性」を、この図の文字は持っていたのだと考えざるを得ない。即ち、この字形は、いい加減に創作されたものではないと考えてよいと思われるのである。

 まず考えられるのは、これらが実見されて書かれたものであるとすると、当時の日本人の習慣から、船中に書かれた文字を、日本風に縦に見たに違いないと推理されるということである。とすれば、これは連続した意味ある単語ではなく(「等の蛮字の多くあり」という記述がそれを物語っている)、横書された各文字列の内、記憶に残り易かった特徴的な字(大文字或いは装飾性の高い字等)を選び出して、それを、知らずに☆横転☆させて写したものと考えるのが自然であろう。

 そうだとするなら、これらの文字は、横にして検証すべきなのある。

 「梅の塵」の記載では、船底にはベルベットかタペストリー状の敷物があったとあり、文字は船の下半分の内部側面に記載されていたと考える時、一層その妥当性が示唆される)。

 それでは、まずは次の二種類の文字を見ていただこう。

 

  Ж ж   Ф ф

 

如何であろう、記載された文字の中央の二字と極めてよく似ていると感じられるであろう。これは、それぞれ、ロシア語のキリル文字

  Ж ж

  ジェ(英語にはない。「ジェット機」の「ジェ」の音に相当する文字)

  Ф ф

  エフ(英語の「F」相当で、ギリシャ語のファイ(φ)由来の文字)

である。現代の日本人でも、英語にない、これらの英語にない字形は、初めて見ても、印象に残り易い。さらにその上下(両脇)の字も、同じくロシア文字の、

  Д д

  デ (英語の「D」相当。現代の若者はこれを絵文字に使っている)

  Я я

  ヤ (英語にはない。日本語の「や」、別発音では「い」に似た発音)

を、ゴシックのような装飾体や装飾された筆記体で記したものに似ているように思えるのである(このデルタ形の上下の○は装飾字体や草書のカーブ部分を感じさせる)。

 馬琴は文中、「イギリス船にも、これらの蛮字、ありけり」と英語の文字と同じものだと言っているのだが、装飾されたり、ゴシック体で書かれた英語のアルファベットは(それが全く異なった言語体系のロシア文字であったとしても)、それは日本人にとって恐らく全く同じ印象を与えたに違いないのである。ここに於いて、俄然、この女性の故郷がロシア又はその属国という馬琴の考証の確かさが伝わってくるではないか。

 ちなみに、面白いことにヨーロッパ・ロシア地域で、嘗つて頻繁に目撃されたとされるUFO(未確認飛行物体)の特徴の一つが、船底に「王」「Ж」の字を刻んだ円盤であったことを思い出すのである。ご丁寧に「ウンモ星人」という宇宙人の名前(?)も分かっている!? 例えば、サイト「ミステリーニュースステーションATLAS」の『イベントでUFO召喚にも成功!?様々なUFO事件に関わる「ウンモ星人マーク」とは』を参照されたい。そこでは本篇にも言及しているのである。但し、この写真は複数の学術的なUFO研究者によって、既に偽物と断定されている。しかし、心理学的・民俗学的には、「王」の字のようなこの奇体なマークをフェイクのUFOに仕込んだという点では、「空飛ぶ円盤」という大真面目な精神分析学書を書いている、かのユングの言う集団的無意識説から、別な興味が湧いてくる。

 ともかくも、二百年を隔てて、我々の前に同じ「王」のマークが出現した(偏愛する「ウルトラQ」の、「鳥を見た」で一の谷博士が言う台詞だ!)ことが、何だか、それだけで、ゾクゾクするキッチュな面白さを感じるではないか!

 それにしても我々は、常世から漂着する賜物を受け取りながら、その実、厄介になりそうなものを必ず海に「推し流し」て生きて来た。海洋汚染をし続ける現在も構造は同じである。そうして海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれるはずのニライカナイは、我々に望まざる返礼をしてくるとも言えるのではあるまいか?

   *

この最後の二十一年前の自分の考えは、全く変らない。それどころか、より激しく次のように言い換えたい。

 それにしても、我々は、常世から漂着する物・者を賜物(たまもの)として都合よく受け取りながら、その実、厄介になりそうなものは、必ず、海に「推し流し」て、生きて来たではないか! 海洋汚染をし続ける現在も構造は全く同じであり、もっと深刻である! 福島原発事故で生じた多量の高エネルギー核廃棄物である汚染水を、平然と、押し流そうしている日本人は、「はらやどりの浜」の漁民たちと、立ち位置に於いて、全く同じ、全く進歩していないどころか、遙かにタチが悪いではないか! そうして、かく海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれたはずの海の彼方のニライカナイは――我々に望まざる返礼――究極のカタストロフ――を齎す――とも言えるのではあるまいか?!

と。

 

 さて。これで終わっては、私の古い授業案の単なる焼き直しに終わってしまうことになる。そこで、以下、幾つかの本篇と同じ事件を扱ったものを画像で示し、且つ、電子化注して示し、比較したいと思う。

 まず、一つは、本篇が転載されてある、別な書物で、「兎園会」会員の江戸幕府御家人(右筆)で故実家であった輪池堂屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)が、後年、手元にあった雑稿を取り纏め、全六十冊に綴った随筆「弘賢随筆」のそれから始めよう。現在、その中の当該部である「うつろ舟の蛮女」は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」こちらで写本を見ることが出来、画像もパブリック・ドメインで使用許可が出ている。これは「兎園小説」の本篇を、ほぼそのまま、写した内容で、多少の表記の違いはあるものの、本文はほぼ同じであるから、電子化はしない(写しで崩し字だが、かなり読み易いのでご自身で読まれたい)。しかし、これが素敵なのは、図が彩色で描き直されてある点である。なお、本文の異同の内、注記すべき箇所は、

○「段々(ダンダン)」→「段〻(ダンダラ)」

○「頭髮は假髮(イレガミ)なるが」→「頭髻(タフサ)は假髮(イレガミ)なるが」

○馬琴によるものと思われる頭書はない。

○「檢せしに」→「檢(ケミ)せしに」

○「孰か是を知らず」→「孰か是(ヨキ)をしらす」

○「敷物二枚あり」で改行している。

○「蠻國の王の女」→「蠻國の王のむすめ」

○「虛舟(ウツロブネ)」→「虚(ウツロ)舟」

○「合せ考ふれば」→「合し考ふれば」

○私の推定した通り、本文に示された奇体な「王」の字みたような二番目のそれは、図と同じであることが判った(吉川弘文館随筆大成版の本文の画像組み込み時の誤りということになろう)。

○「アメリカ」「ベンガラ」「アメリカ」には傍点等はない。

○「蠻王の女」→「蛮王の女(ムスメ)」

○「憾」→「憾

である。以下に図を示す。トリミングをしてもいいようだが、所有者である「国立公文書館」の文字の入った全画面で示した。かなりサイズが大きいが、これでもダウン・ロードしたサイズを五十%に減量したものである。

 

Koukenzuhituuturobune

 

キャプションは表記上の若干の違いがあるが、注記すべきものではない。但し、婦人の絵は大いに異なる。まず、地毛は赤毛であり、垂れた鬘は真っ白である(「梅の塵」の著者が本書に本図を全く見ていないことが判る)。さらに、服の模様が全く描かれておらず、「ねり玉、青シ」の指示線は、上着の前の合わせ部分に複数認められる鈕(ボタン)の一つを明確に指していることが判る。「兎園小説」の図では、その指示線は上着のところで切れており、あたかも、その服の全体の模様の解説のように見えてしまう(私は前の図注では、そうした上下衣服全体にそれが及んでものとして注したのだが、これは「ねり玉」として鈕を指していることが判明する)。さらに、スカート様のものの裏地が赤いことと、靴の底の周囲がやはり赤いこと、箱は黄色或いは黄金色であることも判る。

 

 続いて、久松松平家の家臣で、幕閣老中筆頭を勤めた松平定信に三十年の永きに亙って仕えた駒井鶯宿(おうしゅく 明和三(一七六六)年~弘化三(一八四六)年:名は乗邨(のりむら)。彼は定信の先代の養父であった定綱系久松松平家松平定邦から定信・定永・定和・定猷(さだみち)に至る五代に仕え、それは延べ実に六十八年に及んだという)が広く書籍を渉猟して書写した膨大な叢書「鶯宿雑記」(文化一二(一八一五)年、鴬宿五十一歳の時の起筆で、その後三十年間で全六百巻を書き続けた)に載る本事件である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(自筆本)の左丁の後ろから三行目から始まる。以下に電子化する。発生日時と場所が異なる。句読点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で振った。かなり判読しづらい部分があった。

   *

   うつろ舟の蛮女

享和三年八月二日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦、小笠原越中守、知行所より、訴出候に付、早速、見屆に參候処、右、漂流舩其外、行へ、一向に相分り不申候付、幸大夫之(の)遣(つかひ)候由(よし)也(なる)「紅毛通し」[やぶちゃん注:紅毛通詞。]も參り候へ共、相分り不申候由也。ウツロ舩の内、年の[やぶちゃん注:ここで改丁。]比(ころ)、廿一、二才相見候女、一人、乘玉(たまひ)て、美女也。舩の内に、菓子・淸水も沢山に有之。喰物、肉漬の樣成(やうなる)品、是、又、澤山に有之候由。白き箱、一つ、持(もち)、是は、一向に見せ不申。右の箱、身を放さす、無理に、「見可申(みまうすべし)。」と申候ヘは、甚、怒候由。

[やぶちゃん注:以上の前丁には画像を見て戴くと判る通り、頭書(最後は最終行の左手を侵して下方まで続く)がある。本文に出る幸大夫についてのそれである。以下に電子化する。■は判読不能字。最初の「■■■」は書名であろうが、判らぬ。「舩頭」の後も判らなかったが、約物「乄」であろうと、一応、踏んだ。最後の「經世(よをふること)、久し」は無理矢理、捻じ込んで読んだ。大黒屋光太夫(こうだゆう 宝暦元(一七五一)年-文政一一(一八二八)年)は「幸太夫」とも書く。伊勢白子の神昌丸(しんしょうまる)の船頭として、天明二(一七八二)年、江戸に向う途中、遭難、アムチトカ島に漂着した。ロシアの首都ペテルブルグでエカテリーナⅡ世に謁見し、寛政四(一七九二)年にラクスマンに伴われて、根室に帰着、江戸で第十一代将軍徳川家斉の面前で取り調べを受けた後、番町の薬園に、生涯、留め置かれた(と言っても、比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われた後半生であったわけではなかった。詳しくは当該ウィキを読まれたい)。桂川甫周(ほしゅう)の「北槎聞略」ほくさぶんりゃく)は光太夫の見聞録として有名。]

【「■■■」に、『幸大夫は勢州白子(しろこ)の舩頭乄(して)、オロシヤへ漂流しゝ幸大夫なるへし。今、小石川御菜園御差置(おさしおき)。予もオロシヤ文字を手習有て、經世(よをふること)、久し。】

 

Ousyuzakkiuturobune

 

[やぶちゃん注:挿入図。当該丁と次の二行の本文までトリミング補正して示した。キャプションは、上のヴィークルの右上に、

「ウツロ舩図」

円盤の頭頂頂点に丸印を打ち、そこから指示線を左に出して、

ラムスリヲトル穴

これが読めない。思うに、水がなければ、外洋に出た際に、瞬く間に死んでしまう。とすれば、ここに真水を採るための穴(及びその装置)があったと考えるが、妥当であろう。そうするち「ラム」は「ラムビキ」で「ランビキ」に親和性があることが判る。ランビキはポルトガル語の「alambique」が語源で当て漢字で「蘭引」とも書く。江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具。陶器製の深鍋に溶液を入れ、蓋に水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気が蓋の裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るものであるが、漁師などは、漂流した際に海水から水を得るためにも用いたからである。しかし、「スリ」が判らん。『「ラム」ビキで「スイ」(水)を採る穴』だったら、解決なんだが。判らん! 識者の御教授を乞う。

左下方に奇体な文字四つ。本篇に奇体な字とは明らかに違うが、しかし、また、明らかに同系統の文字であることは判るように思われる。

下方に箱を持つ蛮女の絵。右手で左の前の袷を上に掲げて、箱を隠そうとしている。その動作の瞬間を描いているため、箱の形状が判然としない。体の状態からは、四角な箱、しかも木箱であると私は見た。]

 

舩、惣(そう)朱塗。窓は「ひいとろ」也。大(おほい)さ【建(たて)八間餘[やぶちゃん注:十四・五四メートル超。]。橫十間餘[やぶちゃん注:十八メートル超。本篇のそれより、遙かにバカでっかい円盤だ!]。】

右は、予、御徒頭にて、江戶在勤のせつの事也。江戶にて、分かり兼(かね)、長崎へ被遣(つかはされ)しと聞しか、其の後、いつれの国の人か、分かりしや、聞かさりし。

   *

さても! この記事の素晴らしい部分は、「蛮女」に最初に会話を試みるために、ロシアに漂流して生還した大黒屋光太夫の派遣した通詞を最初に行かせていることである。本篇には一言もない、ロシアとの接点が、通訳不調に終わっているものの、確かに出現していること、則ち、私が二〇〇五年に、本篇に奇体な四つの文字をロシア語であると断じたことと、遂にリンクしている点にあるのである! また、ここでの「蛮女」は人間的で、怒りを露わにしている点でも、かえってそこにリアルなものを感じさせるのである。また、リアリズムは、この図にのみ示されるランビキらしき装置の記載にも、しっかりとあると言えるのである。

 

 さて。お次は、西尾市岩瀬文庫蔵になる万寿堂(詳細事績不詳)編「漂流記集」(天保六(一八三五)年以降の成立とされる漂流・漂着譚十四篇から成る)にあるやはり本事件を記した、またしても彩色図附きの「小笠原越中守知行所着舟」である。残念ながら、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像は、正確に判読出来る大きさとは言えないのだが、しかし、そこで新字体で本文主文部分の翻刻が成されてあった(但し、脱落があった)。さらに、実はウィキの「虚舟」には、この部分の不完全な後半の部分画像がかなりの高画像で、パブリック・ドメインとして出ているのも発見したので、以下に掲げて、その部分の底本とし、加えて、「岩瀬文庫」の「Iwase Bunko Library」(公式サイトではなく、要は同文庫のDVDの販売促進のサイトであるが、同文庫から公認されたサイトではあるのである)の「漂流記集 近世後期写 万寿堂/編」の動画も部分であるが、精密に写し出しているので、それも参考にした。而して、それらを武器として冒頭部分から小さな画像を見ながら、確認して電子化を試みる。読みは推定で私が附し、句読点も添えた。

 

Hyouryukisyu

 

   *

    小笠原越中守知行所着舟

常陸國舍濱と申所へ、圖之(の)如くの異舟、漂着致候。年頃(としのころ)、十八、九か、二十才くらいに相(あひ)見へ、少し靑白き顏色にて、眉毛、赤黑く、髮も同斷、齒は至(いたつ)て白く、唇、紅、手は、少しぶとうなれと[やぶちゃん注:「太(ぶと)うなれど」。]、つま、はつれ[やぶちゃん注:「褄(つま)、解(は)つれ」で、褄(長着の裾の左右両端の部分の端が解けていたが、それがまた、みすぼらしくなくて、の意であろう。]、きれい。風俗、至て宜しく、髮、乱(みだれ)て、長し。圖のことくの箱に、いか成(なる)大切の物や入(いり)たりけん、知す[やぶちゃん注:「しらず」。]。大切の品の由候て、人寄申(まうさ)じ。音聲、殊の外、かんばしり[やぶちゃん注:ママ。「かんばしき」で「立派な感じの語り方で」の意であろう。「癇走」ったは考え過ぎか。]ものいゝ、不通(つうぜず)。姿は、じんぜう[やぶちゃん注:「尋常」。]して、器量、至て、よろしく、日本にても、容顏、美麗といふ方(かた)にて、彼(かの)国の生れともいふべきなり。

 

一 鋪物、貳枚。至て和らかな物。

一 喰物。菓子とも見へ、亦、肉ニテ煉りたる物、有之。喰物(くひもの)、何といふ事を不知(しらず)。

一 茶碗樣のもの、一ツ。美敷(うつくしき)もよふ、有之。石とも、見へ[やぶちゃん注:ママ。]。

一 火鉢らしき物、壹ツ。■[やぶちゃん注:虫食いで判読不能。「小」にも見えるが、下に熟語として続かぬ。]明ほり、有、鉄とも見。亦、ヤキモノ共(ども)、見。

 

一 舩中、改候所、如斯の文字、有之。

[やぶちゃん注:ここに本篇と酷似する文字が出るが、御覧の通り、本篇の三字目が、分離して五文字になっている。ここのみ、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像ページにある部分画像を使用させて貰った。]

 

Hyouryukisyumoji

     右之通訴出申候

[やぶちゃん注:この左下に朱の落款があるが、これはとても見えない。

 以下、図のキャプションを示すと、ヴィークルの最右に指示線を出して、

「下地、鉄朱ヌリ。」

その左下方に、

「竪壱丈壱尺。

 橫差渡三間。」

とある。ヴィークルの最長高は約三・三三メートル。直径は約五・四五メートルである。

ヴィークルの右下方に指示線をして、

「惣、鉄。」

「惣」は「すべて」(総て)。その左にやはり指示線をして、

「筋合ナシ。」

とある。これは「すぢあはせ、無し」で、ヴィークルの下方は鉄板を組み合わせてあるのであるが、その繋ぎ目の隙間や弛んで溝筋となっている箇所が全くなく、ぴったりと接合されていることを意味している。

次にヴィークルの上方を見ると、本体の右上端に沿って文字があるが、画像が粗く、下方に汚損があり、判読が出来ない。最後の判読不能字数も推測に過ぎない。

「檀樹・『シタン』ノ樣子見へ候■■■■■■。」

「檀樹」は「白檀」(びゃくだん:現代仮名遣)でビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。「シタン」は紫檀。マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

上部右手で、円形の網格子の窓に指示線して、

「フチ、黒ヌリ。明タテ、自由。」

とある。「フチ」は窓の「縁」、「明(あけ)閉(た)て」の意。

上部中央頭頂部に指示線して、

「此所、水晶。」

とあり、左側の格子型の四角い窓のところに、

『窓、「ビイドロ」ニテ、格子、「スイセウ」。』

水晶の格子にガラスが嵌め込まれているというのは、とんでもない精巧な造りである。

次に、「蛮女」の図。彼女の右方で指示線をして、

「此箱、弐尺四方、白木ニテ、至テ木目ヨシ。」

と言いながら、本篇同様、箱は長方形である。白木で木目がとてもいいというのは、細かな描写として着目出来る。左方では同じく指示線で、上着の鈕を確かに指して(先が鈕の半分を丁寧に半弧で指示してある)、

「此小ハゼ、スイセウ。」

とあって、本篇の「ネリ玉」とは異なっている。

右方下方には、下半身に穿いている着衣について、指示線をして、

「『ビロウド』ニテ、金ニテ、『マダラ』ニ、筋、有之。」

とあり、左下方に、大きな字で、

「惣躰、綿の樣子成る織物にて、シカト、不分明。

     色ハ『モヘギ』。」

と記してある。この「蛮女」の服装は、どれよりも異国風で、下に履いている独特の網目模様が強烈で、一目見ると、忘れられない。上着にか星形や円形の刺繡のような模様が散らばっており、襟には、カフスの風の止め金具のようなものさえも見える。頭髪は長いが、白い鬘は認められない。但し、頭頂は有意に丸く髻状に突き出ており、入れ髪をしている感じはする。因みに、その髻の下方を白い紐のようなもので括ってはある。

 

 本篇の電子化注を初めて既に二日目の夜になった。いい加減、疲れてきた。他にも紹介したい資料はあるが、原画像を入手出来るものが限られているから、前記の「漂流記集」のものを、木版摺物にした瓦版(作者不明・船橋市西図書館蔵)が、ウィキの「虚舟」にパブリック・ドメインとして載っている(但し、そのキャプションの「長橋亦次郎の描いた虚舟」というのは、大間違いである。「長橋亦次郎」は「梅の塵」の作者だから、先に出した方をここに入れねばおかしいのだ!)ので、それを掲げて、電子化して終りとする。句読点を独自に打った。なお、この瓦版の画像は「ADEAC」のここで精密画像として見られる。

 

Utsurobune

 

[やぶちゃん注:冒頭に例の奇体な文字列。但し、三字目が、ここでは「○」と「(┓)と(━)を重ねた記号」と「○」に致命的に分離されてしまっている。なお、次の一文は一字下げとなっているのはママ。]

如此の文字舩の中にあり。

[やぶちゃん注:以下、書き出しの「一」は頭出しで、後は元画像では、字下げである。「一」の後は一字空けた。]

一 去亥二月中、かくのことくの舟、沖に相見へ申候所、又、しばらく見不申候。然此度 小笠原越中守樣御知行所常陸國かしま郡原舍濱へ、同八月のあらしにて、吹つけ申候。「うつろふね」、其内に、女、壱人、年の頃、十九、廿才程にて、身のたけ、六尺余り、かほの色、靑白く、まゆ毛・髮、赤黑く、ふうぞく、頗るうつくしく、きりやうは、悉、美女也。おんせい[やぶちゃん注:「御聲」。]は、かんばしりて、大おん也。又、しら木の弐尺ばかりの箱、はなさす、かゝい[やぶちゃん注:「抱え」。]、大切なるものや、あたりへ决而[やぶちゃん注:「して」、]、人を、よせつけぬなり。

一 敷物、一枚、至て、やはらかな物。

一 食物、肉(にく)るいて、ねりたる物。

一 茶わんのやう成もの、一ツ。うつくしき、もやう、あり。石とも見へす。

一 火鉢らしき物、一ツ。鉄とも、見へず。

 

[やぶちゃん注:右の「蛮女」の右方に、指示線を添え、

「錦なるやうのおりもの、色、『もえき』也。」

「もえき」は「萌黃」。

その左方に、

「こはぜ、すいせう。」

とある。「こはぜ」は「鞐」(こはぜ)で、「布に縫い付けられた爪型の小さな留め具」のこと。

その下方に指示線を添えて、彼女の下穿きに対して、

「きんのすじ。びろうどなり。」

とある。

次に、ヴィークルのキャプションで、上部の円形窓の右に、

「ふち、黑ぬり。」

とあり、上部中央には、

「いづれ、木は、『したん』・『びやくたん』。」

とする。その左の四角い窓の脇に、

「まど、『びいどろ』。すいしやう也。」

とある。

 ヴィーグル上部下方の縁の有意な出っ張り部分に、右から左に、

「鉄にて、『朱ぬり』。橫、三間なり。」

とあり、ヴィーグル下方右手に指示線を出して、

「すじかね、『なんばんてつ』也。」

とし(「すじかね」の「じ」はママ)、反対の左手に、

「ふねの高サ、壱丈壱尺。」

とある。]

 

 以上、私は視認でき、読者が確認出来るものだけを、電子化注した。ネットにはもっといろいろなものが氾濫していることは既に述べた。田中氏が示された最新のそれも小さな画像で示してあるページも見つけたが、記載が見えず、鼻白むだけであったので、紹介しない。

 私は、私の出来得る限りに於いて、読者も、同時に、判読出来るものだけを、ここでは選んだのである。

2021/10/21

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門

 

   ○梅が香や隣は荻生惣右衞門

といふは、其角が句のよし、世人の口碑に傳ふれども、近頃、京傳が書けるといふ「奇跡考」に、「其角がいづれの集にも見えず。」と出だせり【解云、「この發句、口碑に傳ふとのみ云へれども、其角が口調に疑なし。且、「梅がかや」云々といひし梅が香は、御能役者梅若氏をいふよしにて、當時、茅場町に、これかれ、相隣てをりし時の事とも、いへり。其角と徂徠と近隣なり、といふ作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。其角は寶永四年に沒せしとかや。然るに、徂徠は、六年までは吾藩の内に住居せしかば。其角と近隣なるべきやうや、あるベき。

今玆乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の二月二日のころ、野州那須郡大田原に囘祿ありて、城のこりなく、災にかゝりしに、城下の民家にて、三日、鳴物を、みづからつゝしみて、籠居せしとかや。四日めに及びて、有司のものより、命じて、常に復せしめて、各々、稼業を行ひしは、古國とて、いと、たうとき事なりき、災、しづまりし後、民家より。造營の費を、おのおの、所望して、調進せんことを爭うて請ひしかば、有司にて造營の失脚の勞、聊、なかりしは、文王の靈臺にも齊しき、めでたかりしためしなり。これによりて、速に造營をうながすに、「國主、ゐまさざれば、あしゝ。」とて、六月中に歸國すべきを、囘祿によりて、二月中に歸國を請はれしかば、縣官にて、「在所の囘祿にて、歸國を、はやく請ひしためし、なし。」とて、其沙汰に、閣老方、困り給ひし、とかや。さりながら、二月末には、請の如く、ゆるしありて、歸國ありしとかや。事新しきためしなりき。

  乙酉冬十一月朔       荻生蘐園記

[やぶちゃん注:発表者は会員荻生蘐園(けんゑん)。本名荻生維則、本姓は浅井。拘っている理由は、彼が荻生徂徠の孫鳳鳴の養子であるからである。二十余歲で、郡山藩儒官を継ぎ、家の通称で荻生惣右衞門を称していたのだから、なおさらであった。馬琴は詠みぶりから其角の句に間違いないとブイブイ言わせているが、サイト「インターネット俳句 末成歳時記」の本句のページによれば、『宝井其角による句とされ、当時は大変に有名となり、多くの人が口遊んだという。また、時代は下って夏目漱石は、この句をもとに「徂徠其角並んで住めり梅の花」と詠んでいる。ただ、「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり』(以下も引用)、

『茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。』

『とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後』二『年が経過した』明和六(一七〇九)『年である。其角と荻生徂徠に面識はないという』。『今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう』。『其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」がある。現在になってこの』二『句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる』とある。

『京傳が書けるといふ「奇跡考」』浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の「奇蹟考」は享和四・文化元(一八〇四)年刊の考証随筆(自序は文化元年三月。享和四年二月十一日改元)「近世奇跡考」(「跡」は吉川弘文館随筆大成版の版本刷の字を用いた)。なお、ウィキの「山東京伝」によれば、『この頃から曲亭馬琴の読本と大きな影響を与え合うようにな』ったとあり。この「京傳が書けるといふ」と書く辺りに、既にしてライバル意識が臭ってくる。吉川弘文館版で確認した。巻之三の「榎本其角の傳」にあった。

「御能役者梅若氏」観世流シテ方の五十一世梅若六郎氏暘(うじあき)か、その先代辺りか。

「茅場町」其角の旧居跡がドットされてあった(グーグル・マップ・データ)。

作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。

「其角は寶永四年に沒せしとかや」其角は宝永四(一七〇七)年二月或いは四月没とされる。享年四十七。

「失脚」これは「脚」を「金銭」の意の「あし」に通わせたもので、「かかった費用・失費」の意。

「有司」仙台藩の役人。

「文王の靈臺」周の文王が建てた物見台。遺跡は陝西省西安市にある。

「縣官」幕府の役人のことのようである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 明善堂討論記

 

   ○明善堂討論記

[やぶちゃん注:以下「乃記其言諸篋笥云。」までは底本では全体が二字下げ。]

文政七禩六月朔日。予與門人敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋。約爲會讀。預期自曉七鼓而始。至黃昏而終也。適予友櫟葉散人。携其徒十數人來共討論。乃記其言諸篋笥云。

[やぶちゃん注:訓読と注を試みる。段落を成形した。

   *

 文政七禩(のとし)六月朔日、予、門人の敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋と與(とも)にし、約して會讀を爲す。預(あらかじ)め期を曉七鼓(あけななつ)よりして始め、黃昏に至りて終るなり。

 適(たまた)ま、予が友、櫟葉散人(れきえふさんじん)、其の徒、十數人を携へて、來たり、共に討論す。乃(すなは)ち、

「其の言を記して、諸(もろもろ)、篋笥(けふし)に藏む。」

と云ふ。

   *

「禩」は音「シ」。殷代に於いて「年」を意味した漢字。

「曉七鼓」不定時法で午前三時頃。

「篋笥」(きょうし)は長方形の箱。文書を入れる箱。

 以下の漢文には句点以外の訓点は存在しない。]

六月一日。晨各蓐食。巢於明善堂。天將曉。月未落。焚篝燈倚九案[やぶちゃん注:右に『几カ』と傍注。]。櫟葉散人忽到。散人者武州金杉根岸人。常好讀日本記事。其於正史稗說。無所不硏究。能辯我邦治亂。論其興廢。言辭滔滔。若决江河。若驟雨暴至。沛然無禦之者。以予酷好西土書策。每往來會讀難問。此日方讀史記伯夷傳。櫟葉曰。嗚乎。夷齊。不食周粟而餓則可也。何輙食其土薇。詩曰。普天之下。莫非王土。薇亦非周土之生乎。夷齊之義。不食周粟。則薇亦不可食焉。孔子方稱夷齊賢。吾甚感焉。且孟子論武王曰。聞誅一夫紂。未聞弑君。孟子何出此言也。夫紂雖無道而親戚背之。猶爲天子也。安得等之匹夫乎。敬齋揖櫟葉而進曰。甚哉。子言之過高也。夷齊不食周粟。乃是夷齊之僻。孟子所以爲隘之也。足下不知其爲僻。而貴食其薇。足下亦是僻之又僻耳。必如足下言。則雖巢文許由卞隋務光。未以嗛於足下心也。若其充足下之心者。其於陵陳仲子乎。所謂蚓而充橾者。我孟子之所不取也。足下坐未嘗讀聖經。是故出此言。退讀聖人之書。而後會我輩。强齋在側。抗然大言曰。二子之言皆失矣。二子愕然曰。何。强齋曰。夫道一而已。分爲二爲三以往。復散爲千爲萬。故有陰則有陽。有剛則有柔。有君必有臣。有仁必有義。其所遇或異。則其所行亦殊。是以事雖萬殊。於其歸道一也。譬之忠質文。三代所向不同。其及合於禮。未嘗同也。武王之伐紂。夷齊之諫武王。其迹雖異。各盡其道。始非有二致也。武王見天下之溺。不極之。不免楊朱爲我之謗。夷齊扣馬諫。不免賊其君之誚。聖賢之心。無所偏倚。隨物而應者。孰不規矩。何不準繩。以夷齊之準繩論武王。而曰不平。曰不直。亦其宜也。以武王之規矩。議夷齊。而曰出方圓之外復亦其宜也。又譬之。武王之德。大陽之輝也。夷齊之行。大陰之光也。微武王不能爲夷齊之光。武王亦不得夷齊。則不得著。其德輝也。二聖之在天下。猶日月之互行。而不相戾也。孔子盛稱之。不亦宜乎。盖孔孟之所毀譽。必有所試。又何疑其言。然足下疑孟子命紂爲一夫。是何其意也。紂雖稱天子。親戚衆臣。及四海内。無一人助之者。則非一夫何。著者宋高宗。亦與足下同癖。問時碩儒尹焞曰。孟子何以謂之一夫紂。尹焞對曰。此非孟子之言。武王牧師之辭也。曰。獨夫受。洪惟作威。由是觀之。孟子非敢新言之。假令孟子言之。孟子聖人也。如何廢其言乎。足下實有蓬心乎。吾丁寧反覆雖頻提子耳。而大聲告之。子固褒如充耳。豈有益其是非乎。如子之人。謂之兼襲與瞽宜哉。不得其觀日月之光。聞大雅之音。於是三人相爭相怒。或瞋目或握拳喧豗良久。謙齋猶然笑。徐々前席曰。三子之言。倶有理。雖然未得其所處也。夫聖之道。區以別之。則有時者。有仕者。有和者。如淸者。如伯夷者。所謂聖之淸者耳。伯夷之好淸潔。猶顏子之好學。伯倫之嗜酒也。天地開闢一人也。於是櫟葉又怒曰。子嘗孟子之餘唾。將折我言。雖孟子再生來。我猶將說却之。亦况於足下輩乎。退哉退哉。謙齋亦怒。四人猶戰場爭死生。市中貪羸利也。乾齋曰。予有一說。足下輩安意聽之。四人同曰。如何。乾齋曰。盡信書如不無書。書且尙疑之。則史記不能無疑焉。吾聞之。史記者大史公之未定之書。而且多攙入。今取一二證之。其攙入者。司馬相如傳贊曰。揚雄以爲靡麗之賦。勸百諷一。趙翼辯駁之日。雄乃哀平王莽之時人。史遷固武帝時之人。而何由得預知百年下揚雄者。又自在岐互處。朱建傳謂。黥布欲反。建諫之不聽。事在黥布傳中。今黥布傳無此語。是亦古人辯駁之。由此觀之。未定之書。未足信之矣。雖然如伯夷傳。明確高論。非後人攙入。唯夷齊叩馬而諫之事。殊不見經。則疑是流傳之言。若果爲流傳之言。未足信之也。且明王直辯駁也。子輩知之乎。若未則熟視之。察之而後正其是非。盖爭者事之末。其言雖有義理。終損君子之操。願暫聽吾說。莫【莫當作勿。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とする。]爭莫譁。於是座中哄然笑。讀如故。畢伯夷傳。次讀春秋左傳。至莊公九年。齊管仲請囚之章。櫟葉門人大瓠。昭然歎曰。噫。漢土之人。何薄於忠義乎。管仲怯儒而無義魯殺子糾。召忽死之。管仲不死。以余觀之。召忽可謂之能終事君也。然孔子特稱管仲。吾竊惑之。昌齋應之曰。子惑宜矣。昔者。子路之果敢。而不能無此惑。况於足下輩乎。夫孔子之不稱召忽。而稱管仲者。稱其功業也。盖召忽一夫之材。若不死於子糾。三軍之虜也。管仲王佐之材。死子糾則不免溝瀆之死也。故孔子美其不死。而稱其功業。鳴呼。管仲功業之益於民。平王東遷。諸候内攻。夷狄外侵。周室之不亡如線。向無管仲相桓公振霸業。則中國之不被髮左袵無幾矣。可不謂非仁乎。雖然於其爲人。孔子亦賤之。傳所云。不一而足。管仲之器小哉。焉得儉。管仲不知孔。由此觀之。孔子之稱管仲。所謂門上挑之。而在夷狄則進之。猶如稱文子之淸。美藏文仲之智也。亦何怪之管仲也。且子言曰。魯殺子糾。疎漏甚哉。經云。齊人取子糾殺之。殺子糾者齊也。非魯也。大瓠擊節乾笑曰。子席讀唐土之書。偏僻于唐人。一何甚。夫仁者而必有仁之功。智者而必有智之功。既云管仲不知禮。智者而不知禮。可乎。又云。焉得儉。仁者必儉。管仲不得儉。則可謂之仁乎。昌齋曰。聞之錦城先生。曰。夫酒有淸濁之別。有醇醪之品。飮淸醇者亦醉。飮濁醪者亦醉。於爲醉之功則丁也。爲其物厚薄則異也。管仲之功。濁醪之醉也。堯舜之仁。淸醇之醉也。今夫淸醇與濁醇。固有差別。霸與王。功同而本異。然至其一匡天下一也。傳云。君子成人之美。不成人之惡。故夫子盖其不知社與器小。而特稱其功。如足下之言吹毛求疵。責人而無止。而與我聖人之道大有逕庭。於是大瓠言下敬。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]

豐民云。予記此事。既在客歲。自後以來。有定期。而爲此討論。又每會必筆。而藏諸篋笥中。今適搜篋笥中得之。亦以呈兎園社友、若有頑說。幸見敎焉。敬而受敎。

 于時文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識

[やぶちゃん注:暴虎馮河で訓読と注を試みる。段落を成形した。

   *

 六月一日。晨(しん/あした/あさ)、各(おのおの)、蓐食(じゆくしよく)し、明善堂に巢(つど)ふ。天、將に曉(あかつき)ならんとするも、月、未だ落ちず。篝(かがり)を焚き、倚、九案に燈(とも)す。

 櫟葉散人、忽ち到れり。散人は武州金杉(かなすぎ)根岸の人。常に、好んで日本の記事を讀み、其の正史・稗說に於けるや、硏究せざる所、無し。能く我が邦の治亂を辯じ、其の興廢を論ず。言辭、滔滔として、江河の决せるがごとく、驟雨の暴(ある)るに至るがごとし。沛然として、禦(ふせ)ぐるところの者、無し。以つて、予(かね)てより、酷(ひど)く西土の書の策を好めば、每(つね)に會讀に往來して難問す。

[やぶちゃん注:「蓐食」早朝に何かをする際に寝床で食事を済ませることを言う。

「明善堂」江戸のそれは不詳。

「九案」傍注に従えば「九几」で九つの机となる。二十人を超える人数が集まるので長机でないと困る。

「武州金杉根岸」現在の台東区根岸には嘗て金杉村があったが、「明暦の大火」で焼失したらしい。現在の広域の谷中地区内にあった。

「决せる」決壊する。]

 此の日、方(まさ)に「史記」の「伯夷傳」を讀む。櫟葉、曰はく、

「嗚乎(ああ)、夷・齊、周の粟(あは)を食はずして餓う、則ち、可なり。何ぞ輙(すなは)ち其の土(ど)の薇(ぜんまい)を食はん、と。「詩」に曰はく、『普天の下、王土、非ざる莫し。』と。薇も亦、周土の生(しやう)非ずや。夷・齊の義は、周の粟を食はざれば、則ち、薇も亦食ふべからず。孔子、方(まさ)に夷・齊の賢を稱す。吾、甚だ感じたり。且つ、孟子、武王を論じて曰はく、『一夫の紂(ちう)を誅するを聞くも、未だ君を弑(しい)するを聞かざるなり。』と。孟子、何をもつて此の言を出だすや。夫れ、紂、無道にして、親戚も之れに背(そむ)くと雖も、猶ほ、天子たるなり。安(いづく)んぞ、之れ、匹夫に等しきを得んや。」

と。

 敬齋、櫟葉に揖(いふ)して進みて曰はく、

「甚しきかな。子の言の過(あやま)ちの高きや。夷・齊、周の粟を食はざるは、乃ち、是れ、夷・齊の僻(ひがごと)なり。孟子の以つて爲す所は、之れ、隘(せま)きなり。足下は、其の僻たるを知らず、而して、其の薇を食ふを貴しとす。」。

と。

[やぶちゃん注:「揖(いふ)して」(ゆうして)は両手を前で組んで会釈することを言う。唐風の礼儀。

 私はここで切れて、再び櫟葉散人の台詞として採った。]

「足下も亦、是れ、僻の、又、僻のみ。必ず、足下のごとく言はば、則ち、巢父(さうほ)・許由・卞隋(べんずい)・務光と雖も、未だ以つて、足下の心に嗛(た)らざるところ、あらざるなり。若(も)し、其の足下の心を充(み)たせる者は、其れ、於陵の陳仲子か。所謂、『蚓(みみず)にして操(みさを)を充(み)たす者』なり。我れ、孟子の所(いふところ)を取らざるなり。足下、坐して、未だ嘗つて、聖經を讀まず。是れ故、此言を出だす。退(しりぞ)きて、聖人の書を讀め。而して後、我が輩に、會へ。」

と。

[やぶちゃん注:「巢文」「巢父」の誤判読。中国古代の伝説上の隠者。樹上に巣を作って住んだという。

「許由」同時代の隠者。前の「巣父」とセットで語られることが多い。聖天子と仰がれた堯が、許由の高潔の士であることを聴いて「天下を譲ろう」と言ったところ、許由は「汚れたことを聴いてしまった」と言って潁水(えいすい)の川水で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れた。さらに巣父も堯から天下を譲られようとして拒絶した隠者であったが、その耳を洗っている許由を見、「そのような汚れた水は飼っている牛にさえ飲ませることが出来ぬ」と言い放って、引いていた牛を連れて何処かへ去ったという故事である。「荘子」の「逍遙遊」や、「史記」の「燕世家」などに見える。

「卞隋」「務光」孰れも同前の厭世隠遁を望んだ賢者。湯王が暴虐残忍な桀王を討伐するに際し、卞隋、次に務光に相談したが、まるで相手にしなかった。桀を滅ぼした湯王がそれぞれの才覚を見込んで、順に王を譲ると言ったところ、その忌まわしい話に驚愕して、二人が二人とも、入水して命を絶ったという。「荘子」第二十八「譲王篇」にある。サイト「肝冷斎日録」のこちらが、非常に判り易く説明しているので、お勧め。

「於陵の陳仲子」斉の栄誉の家臣の家系であったが、兄の得ている莫大な禄を不義のものとして、兄と母を避けて於陵(現在の山東省)の山中に遁世したが、三日間、何も食べず、餓えた。道端に李の樹を見つけ、虫が実を半分以上食っていたが、それでも這って行って拾い取り、三口、食べて、やっと耳が聞え、目が見えるようになったという。「孟子」の「滕文公章句下」に出る。但し、孟子のそれに対する議論(そこで孟子は、陳仲子のような輩は「蚓而後充其操者也」(蚓(みみず)となりて後(のち)、其の操(みさを)を充(み)たしむ者なり。)と言い放っている。なお、本文の「橾」は「操」の誤判読である)は私は甚だ不快に感じる。サイト「我読孟子」のこちらを読まれたい。]

 强齋、側に在り、抗然として、大言(たいげん)して曰はく、

「二子の言、皆、失す。」

と。

 二子、愕然として曰はく、

「何ぞ。」

「何ぞ。」

と。

 强齋曰はく、

「夫れ、道は一つのみ。二つ爲(な)り、三つ爲りを以つて、分かちて往くも、復た、散りて、千爲り、爲萬りたり。故に、陰、有りて、則ち、陽、有り。剛、有りて、則ち、柔、有り。君、有りて、必ず、臣、有り。仁、有りて、必ず、義、有り。其の所遇、或いは異なれり。則ち、其の所行も亦、殊なれり。是れを以つて、事、萬殊と雖も、其の歸る道に於いては一(いつ)なり。譬へば、之れ、『忠』の質の文に、「三代、向ふ所、同じからず。其れ、禮に合するに及びても、未だ嘗つて同しからざるなり。武王の紂を伐するや、夷・齊、武王を諫むるに、其の迹、異なると雖も、各(おのおの)、其の道を盡くす。始め、二つの致れるの有るに、非ざるなり。武王、天下の溺(おぼ)れるを見るも、之れを極めず。楊朱が爲我(ゐが)の謗りを免れず。夷・齊、馬を扣(ひきと)めて諫むるも、其の君の誚(そしり)を賊(そこな)ふを免れず。聖賢の心、偏倚なる所、無し。物に隨ひて應ずる者は、孰(いづれ)か規矩によらざる。何ぞ準繩(じゆんじよう)せざる。夷・齊の準繩を以つて武王を論ずるは、而して『不平』と曰ひ、『不直』と曰ふも、亦、其れ、宜(むべ)なり。武王の規矩を以つて、夷・齊を議すれば、而して出ずる方、圓の外なりと曰ふは、復(また)、亦、其れ、宜なり。又、之れを譬ふれば、武王の德。大陽の輝きなり。夷・齊の行は、大陰の光なり。微かに、武王、夷・齊の光を爲すに、能はず。武王も亦、夷・齊を得ず。則ち、著き得ざるなり。其の德は輝(き)なり。二聖の天下に在るは、猶ほ日月(じつげつ)の互ひに行くがごとし。而して相ひ戾らざるなり。孔子、盛んに、之れを稱すは、亦、宜ならざるか。盖(けだ)し、孔・孟の毀譽せしむ所は、必ず試ましむ所、有り。又、何ぞ其の言を疑へる。然れども、足下、孟子の命(めい)の、紂を一夫と爲すを疑ふ。是れ、何ぞ、其の意、繆戾ならんや。紂、天子を稱すると雖も、親戚・衆臣、及び、四海内に、一人として之れを助はんとする者、無し。則ち、一夫に非ずして何ぞ。宋の高宗を著せる者、亦、足下と同じ癖なり。時に問ふ、碩儒尹焞(いんとん)曰はく、『孟子、何を以つてか、之れを「一夫の紂」と謂ふか。尹焞、對して曰はく、此れ、孟子の言に非ず。武王が牧師の辭なり。曰はく、「獨り、夫のみ、受く。洪(おほ)いに、惟(こ)れ、威を作(な)す。」と。』と。是れに由りて、之れを觀るに、孟子、敢へて、新らに之れを言ふに非ず。假令(たとひ)孟子、之れを言ふとも、孟子は聖人なり。如何にして其の言を廢せんか。足下、實(げ)に、蓬心、有らんか。吾れ、丁寧に反覆すと雖も、頻りに、子に提(かか)ぐるのみ。而れば、大聲に、之れを告げたり。子、固(もと)より、褒(ほめそや)すこと、耳を充(ふさ)ぐがごとし。豈に、其れ、是非の益、有らんや。子のごとき人、之れを謂ふに、兼ねてより、襲ねて、瞽(めくら)と與(くみ)するが宜(よろ)しきかな。不得其れ、日月の光を觀るを得ず。大雅(だいが)の音を聞け。」

と。

[やぶちゃん注:「楊朱」(紀元前三九五年?~紀元前三三五年?)は戦国前期の思想家。伝記は不明で、老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。道家の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命とその安楽の保持にある」と説いたとされる。

「爲我」自分の利益のみを考え行動すること。

「繆戾」(びゅうれい)は、誤って道理から外れることを言う。

「宋の高宗」事実上の北宋最後の皇帝。

「碩儒」大儒。

「尹焞」北宋末・南宋初の儒者。

「牧師」武王の教授・祭祀師の意であろうが。不詳。

「蓬心」欲にとらわれた心。

「大雅」「たいが」とも。 非常に気高いこと。また、極めて正しいこと。]

 是に於いて、三人、相ひ爭ひ、相ひ怒る。或いは、目を瞋(いか)らし、或いは、拳を握りて喧豗すること、良(やや)、久し。

[やぶちゃん注:「喧豗」(けんかい)は喧騒に同じ。]

 謙齋、猶ほ、然れども笑へるがごとし。徐々に前席に曰はく、

「三子の言、倶に、理、有り。然りと雖も、未だ、其の所處、得ざるなり。夫れ、聖の道、區を以つて、之れを別く。則ち、時の有る者、仕(つかまつ)ること有る者、和すること有る者、淸きがごとき者、伯・夷のごとき者。所謂、聖の淸き者のみ。伯夷の好み、淸潔。猶ほ、顏子の好學なるがごとし。伯倫の酒を嗜むなり。天地開闢の一人なり。」

と。

[やぶちゃん注:「顏子」孔門十哲第一の清貧の賢者。

「伯倫」竹林の七賢の劉伶。]

 是(ここ)に於いて、櫟葉、又、怒りて曰はく、

「子、嘗つて、孟子の餘唾(よだ)として、將に我が言を折らんとす。孟子と雖も、再び生來(しやうらい)す。我れ、猶ほ、將に、說きて、之れを却(しりぞ)かんとす。亦、况んや、足下の輩をや。退(の)けや、退けや。」

 謙齋、亦、怒りて、四人、猶ほ戰場に死生(ししやう)を爭ひ、市中に羸利を貪(むさぼ)るがごとし。

[やぶちゃん注:「羸利」では意味が通らない(「羸」(音「ルイ」)は「瘦せる・病み疲れる・弱る」の意)。ここは「贏利」(えいり)でともに「儲ける・利益を得る」の意になるので、その誤判読ではないか。

 乾齋、曰はく、

「予、一說、有り。足下の輩、意を安んじて、之れを聽け。四人、同じく曰ふは、如何(いかん)ぞ。」

と。

 乾齋、曰はく、

「盡く、書を信じて、書の無きに如(しか)ず。書も、且つ、尙、之れを疑ふ。則ち、「史記」疑ふ無からざる能はず。吾れ、之れを聞くに、「史記」は大史公の未だ定まらざるの書なり。而も、且つ、多く、攙入(ざんにふ)あり。今、一、二を取りて、之れを證す。其の攙入は、「司馬相如傳」の贊に曰はく、『揚雄、以爲(おもへ)らく、「靡麗の賦」に、百を勸め、一(いつ)を諷(あてこす)れり。』と。趙翼、之れに辯駁して曰はく、『雄は、乃(すなは)ち、哀・平の王莽の時の人なり。史遷、固より、武帝の時の人。而して何の由(ゆゑ)を得て、百年の下(しも)の揚雄をば、預り知れるや。』と。又、「自在岐互處」に、『「朱建傳」に謂ふ、『黥布、反(そむ)かんと欲して、建の諫めの聽かず。事、「黥布傳」中に在り。』と。今、「黥布傳」に此の語(こと)、無し。是れ亦、古人、之れに辯駁す。』と。此れに由りて、之れを觀るに、未だ定まらざるの書なり、未だ、之れ、信ずるに足ず。然りと雖も、「伯夷傳」のごときは、明確にして高論たり。後人の攙入に非ず。唯だ、夷・齊、馬を叩(ひきと)めて諫めし事、殊には經に見えず。則ち、疑ふらくは、是れ流傳の言たり。若(も)し、果して、流傳の言たらば、未だ、之れ、信ずるに足らざるなり。且つ、明王が直辯の駁なり。子輩、之れを知るか。若し、未だ、則ち、之れを熟視せざらば、之れを察して、後に其の是非を正す。盖し、爭ふは、事の末たり。其の言、「義理、有り。」と雖も、終(つひ)に君子の操(みさを)を損ず。願はくは、暫く、吾が說を聽け。爭ふ勿れ、譁(かまびす)しくする勿れ。」

と。

 是に於いて、座中、哄然と笑ふ。讀むこと、故(かく)のごとし。「伯夷傳」を畢(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:「攙入」「竄入」に同じ。文中に不要な字句などが紛れ込むこと。以下で乾斎が挙げているのは清の趙翼の著になる中国の正史二十二史の編纂形式・構成・内容について考証し論評した「二十二史箚記」(にじゅうにしさっき:「箚記」とは「読書雑記を箇条書きしたもの」の意。一七九五年の自序がある)に拠る。

「揚雄」(紀元前五三年~紀元後一八年)は前漢末の文人・学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。示すのも馬鹿々々しいが、司馬遷は前漢中期の人物で生年は紀元前一四五或いは一三五年?で、紀元前八七或いは八六年?である。

「哀・平」前漢の第十二代皇帝から第十三代皇帝

「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年) 前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「爭ふ勿れ」頭書に従い、前と後の「莫」は「勿」に代えた。]

 次いで、「春秋左傳」を讀む。莊公九年に至り、齊の管仲の囚を請ふの章、櫟葉が門人大瓠。昭然と歎じて曰はく、

「噫(ああ)、漢土の人。何ぞ忠義に薄きか。管仲、怯儒にして、義、無くして、魯の子糾を殺す。召忽(せうこつ)、之れ、死すも、管仲、死せず。以つて、余、之れを觀るに、召忽、之れ、能く、事ありて、君の終れるを、謂(おも)ふべかりしなり。然れども、孔子、特に管仲を稱す。吾れ、竊かに、之れに、惑ふ。」

と。

 昌齋、之れに應じて曰はく、

「子、惑ふ、宜なるかな。昔者(むかし)、子路の果敢にして、此の惑ひ、無きこと、能はず。况んや、足下の輩に於いてをや。夫れ、孔子の召忽を稱せずして、管仲を稱するは、稱は、其の功業なればなり。盖し、召忽、一夫の材にて、若し、不子糾に死せざれば、三軍の虜(とりこ)となるなり。管仲、王佐の材たり。子糾、死して、則ち、溝瀆(こうとく)の死を免れざるなり。故に、孔子は其の死なざるを美とし、而して其の功業を稱せり。鳴呼(ああ)、管仲の功業の、民に益するや、平王、東遷して、諸候、内攻し、夷狄、外侵し、周室の亡ばざること、線(いと)のごとくなるに、向ふもの無き管仲の相と、桓公が霸業を振ふ。則ち、中國の『被髮(ひはつ)・左袵(さじん)せざる無きは幾(いくばく)ぞ』ならん。謂ふべからざる「非仁」か。然ると雖も、其の爲人(ひととなり)に於いてや、孔子も亦、之れ、賤たり。傳ふる所に云はく、「不一にして足れるも、管仲の器は小なるかな。儉(けん)をんか得。管仲、孔を知らず。」と。此に由りて、之れを觀るに、孔子の管仲を稱すや、所謂(いはゆる)、門の上に之れを挑げて、夷狄、在れば、則ち、之に進むるに、猶ほ、「文子(ぶんし)」の淸を稱するがごとし。「美藏文仲」の智なり。亦、何ぞ、怪の管仲や。且つ、子言曰はく、『魯、子糾を殺すは、疎漏、甚しきかな。』と。經に云はく、『齊人(せいひと)、子糾を取りて、之れを殺す。子糾を殺ししは齊なり。魯に非ざるなり。』と。「大瓠擊節」、乾笑曰はく、『子、席に唐土(もろこし)の書を讀む。偏へに唐人に僻(へき)して、一つなる、何ぞ甚しき。夫れ、仁者は必ず仁の功有り。智者は必ず智の功有り。既に云ふ、「管仲は禮を知らず、智者にして禮を知らず。」と。可ならんか。』と。又、云はく、『儉を得んか。仁者は必ず儉なり。管仲、儉を得ざらんか。則ち、之れ、仁を謂ふべきか。』と。」

 昌齋曰はく、

「之れを聞くに、錦城先生曰はく、『夫れ、酒に淸濁の別、有り。醇醪(じゆんろう)の品、有り、飮むに淸醇なれば、亦、醉ふ。濁醪なるを飮まば、亦、醉ふ。醉ひの功に於いて爲(せ)ば、則ち、丁(てい)なり[やぶちゃん注:同じように強いものである。]。其の物の厚薄に爲ば、則ち、異(い)なり。管仲の功。濁醪の醉ひなり。堯・舜の仁、淸醇の醉ひなり。今、夫れ、淸醇と濁醇と、固より、差別有り。霸と王と、功は同じくして、本は異なれり。然れば、其れ、一たび匡(ただ)すに至らば、天下一なり。傳へて云ふ、『君子の人と成れる、之れ、美し。人と成らざるは、之れ、惡(あ)しし。』と。故に、夫子、盖し、其の社(ほこら)と器(うつは)と小なるを知らずして、特に其の功を稱す。足下の言、毛を吹きて、疵(いず)を求むるがごとし。人を責めて止まず。而して、我と聖人の道は、大いに、逕庭(けいてい)、有り。是に於いて、大瓠(おほふすべ)、言下に敬ふ。』

と。

[やぶちゃん注:「管仲」管夷吾(かんいご ?~紀元前六四五年)は春秋時代の斉の政治家。桓公に仕え、彼を覇者に押し上げた人物として知られ、一般には字(あざな)の仲で知られ、旧友で同じく斉を支えた官僚鮑叔との「管鮑の交わり」で知られる。ここの話は当該ウィキの以下の引用の後半で状況が簡明に記されてある。『管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している』。『「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が』、『逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合と』、『そうでない場合があるのを心得ていたからだ。私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが』、『彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時』、私の同僚であった『召忽は殉死したが』、『私は囚われて辱めを受けた。だが』、『鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」』と。『二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ』。『二人は斉』(せい)『に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし』、『時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は』、『糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった』。『ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て』、『車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり』。「春秋左氏伝」『などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして』、『車を走らせて』、『その場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は』、『自分の死を確認する刺客が』、『再度』、『到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため』、『管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白と』、『その臣下たちが』、『既に国内を纏めており、管仲と公子糾は』、『やむなく』、『再び魯へ退却した』。『斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく』、『軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と』、彼を支えた二人の重臣『管仲』及び『召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した』(☜)。『しかし、管仲は斉に入ると』、『拘束を解かれ』た。『魯を攻めるにあたり、桓公は初め』、『糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒』(こうけい)の二『人で十分です。しかし』、『天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて』、『考え直したためである』とある。

「溝瀆の死」汚ない「みぞ・どぶ」の中での無益な死を言う。故事成句「溝に縊(くび)る」「溝瀆に縊る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)が知られる。

「平王」周の第十三代の王(在位:紀元前七七一年~紀元前七二〇年)。彼以降、周は縮小した東周となった。ここは突然、原初が儒教の理想国家とされる周王室とその滅亡の比喩を比喩らしくなく、突如として挿入しているのである。これは、「論語」の「憲問第十四」にある以下に出る、『子曰、「微管仲、吾其被髮左衽矣。」。』(子曰く、「管仲、微(な)かりせば、吾れ、其れ、被髮(ひはつ)・左衽(さじん)せん。」と。)に基づく。「被髪」は、結髪しない「ざんばら髪」、「左衽」は着物を左前に着ることで、「異民族に支配されていたであろう」ということを指す。

「論語」「八佾(はちいつ)第三」 の「子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲儉乎。曰。管氏有三歸。官事不攝。焉得儉。然則管仲知禮乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮。孰不知禮。」(子曰はく、「管仲の器は小なるかな。或るひと曰はく、『管仲は儉(けん)なるか。』。曰はく、『管氏に三歸(さんき)有り。官の事ことは攝(か)ねず。焉(いづくん)ぞ儉なるを得ん。』と。『然らば、則ち、管仲は禮を知れるか。』と。曰はく、『邦君は樹して門を塞ぐ。管氏も亦、樹して門を塞ぐ。邦君は兩君の好(よし)みを爲すに、反坫(はんてん)有り。管氏も亦、反坫、有あり。管氏にして禮を知らば、孰(たれ)か禮を知らざらん。』と」と。)に基づく。「儉」は倹約。「三歸」は「三つの邸宅」或いは「三つの姓の女を娶ったこと」とも言う。「家の事」家臣としての事務。「邦君」一国の君主。「樹塞門」土塀を門の内側に築いて目隠しとした。「樹」は衝立、「塞」は「蔽」の意。「兩君」両国の君主。「反坫」土で作った盃(さかずき)を置く台で、献酬が済んだ盃をそこに裏返しにして置いたが、これを自邸に置くのは諸侯にのみ許されたものであった。

「文子」老子の弟子で道家の書「文子」を書いたとする人物がいるが、それか。

『「美藏文仲」の智』不詳。「美」しく艶めいたものを内に「藏」(かく)し、「文」子のような老子のお「仲」間という逃げ道を隠した「智」恵という謂いか。

『「大瓠擊節」乾笑』書名も人物も不詳。以下の内容からは江戸時代の読本らしいが。

「錦城先生」乾斎中井豊民の師匠である儒者太田錦城。

「醇醪」混じり気のない濃い酒。

「丁(てい)なり」「同じように強いものである」の意。

 以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]

 豐民云はく、

「予、此の事を記すは、既に客歲(かくさい)たり。自後、以來、定期、有りて、此の討論を爲す。又、每會、必ず、筆して、諸(もろもろ)の篋笥の中(うち)に藏(をさ)む。今、適(たまた)ま、篋笥の中を搜すに、之れを得たり。亦、以つて「兎園」が社友に呈す。頑ななる說、有るがごとし。幸ひにして敎へらる。敬して敎へをも受くものなり。

 于時(ときに)文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識す

   *

「客歲」去年。

「文政八年乙酉」一八二五年。

「小春念三」陰暦の十月二十三日。

 以上の訓読は全くの我流で、判ったような振りをしているだけの箇所も、勿論、ある。おかしな部分や、よりよい訓読があれば、御指摘戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。

2021/10/20

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高須射猫

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。これ、実は五年前に、「柴田宵曲 妖異博物館 化け猫」の注で、一度、電子化して、注も附してある。今回、再度、一からやり直してあるが、そこで行った考証注は、基本、修正を必要としないと判断した。但し、リンクの不備や、少し情報を追加して作り直しておいた。

 

   ○高須射猫

 

 某候【鳥井丹波守。】の家令高須源兵衞といふ人の家に、年久しく飼ひおける猫、去年【甲子。】のいつ比にや、ふと、行方しれずなりぬ。

 その比より、源兵衞が老母、人に逢ふことを、いとひて、屛風、引きまはし、朝夕の膳も、その内におし入れさせて、給仕もしりぞけて、したゝむるを、かひまみせしかば、汁も、そへものも、ひとつにあはせて、はひかゝりて、くふ。

「さては。むかし物がたりに聞きしごとく、猫のばけしにや。」

と、いぶかりあへる折から、その君の、ゆあみし給ひて、まだ、ゆかたびらもまゐらせざりし時、なにやらん眞黑なるもの、飛び付きたり。君、こぶしをもつて、つよくうたれしかば、そのまゝ、迯げ去りぬ。

 その刻限より、かの老母、

「せなか、いたむ。」

と、いひければ、いよいよ、うたがひつゝ、親族に、

「かく。」

と告げゝれば、

「ものゝふの身にて、すておくべきに、あらず。心得有るべし。」

と、いはれて、とかくためらふべきにあらざれば、雁股の矢をつがひて、よく引きつゝ、人して、屛風をあげさせたれば、老母、おきなほりて、むねに、手をあて、

「とても、母をいるべくは、こゝを、射よ。」

と、いふに、ひるみて、矢を、はづしたり。

 又、親族にかたらひけるは、

「それは、射藝のいたらぬなり。すみやかに、いとめよ。」

と、いはれて、このたびは、たちまちに、きつて、はなちたれば、手ごたへして、母、にげ出で、庭にて、たふれたり。

 立ちより見るに、母にたがふ事、なし。

 やゝしばし、まもり居たれども、猫にもならざれば、

「こは。いかにせむ。腹きりて、死なん。」

と、いふを、おしとゞめて、

「あすまで、まち、見よ。」

と云ふ人、有り。

 心ならず、一夜をあかしたれば、もと、かひおける猫のすがたになりぬ。

 其のち、たゝみをあげ、ゆかを、はなちて、見しかば、老母のほねとおぼしくて、人骨いでたり。

 いかにか、なしかりけん、このこと、ふかくひめて、人にかたらざれば、人、しるものなし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、最後まで全体が二字下げ。]

 評云、「この鳥居の家老高須氏は、關潢南の、しる人、なり。はじめは定府なりしが、今は勤番にて去歲より、江戶にあり、といふ。又、當主は、今玆十五歲にならせ給ふなり。右の物語り、かたく、いぶかし。もし、在所にての事か、さらずば、昔の事を、今のごとくとりなして、人のかたり聞かせしに非ずや。」。

[やぶちゃん注:「鳥井丹波守」後に「去年【甲子。】」とあるのが不審で、本発会は文政八(一八二五)年十月二十三日で、前年は文政七年甲申であるから、「去年」は「去る年」の意ととるしかない(干支の誤りは資料としては致命的で、それだけで嘘と批難されても文句が言えないのが近世以前の語りのお約束である)。これ以前の甲子は文化元(一八〇四)年である。そうなると、これは下野國壬生(みぶ)藩(藩庁壬生城は現在の栃木県下都賀(しもつが)郡壬生町(まち)にあった)第四代藩主鳥居丹波守忠熹(ただてる 安永五(一七七六)年~文政四(一八二一)年:鳥居家第二十七代当主)ということになる。

「高須源兵衞」鳥居家をずっと遡った信濃高遠藩の初代藩主で鳥居家第二十二代藩主鳥居忠春(寛永元(一六二四)年~寛文三(一六六三)年)の代の筆頭家老に「高須源兵衛」なる人物がいたことが、LocalWiki  伊那」の「大屋敷町」の記事によって判る。彼の後裔と考えられないことはない。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。既に曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 根分けの後の母子草』でも注した。彼は兎園会の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は海棠庵の名で兎園会のメンバーであったかったから、屋代の知人でもあった。

 さて、本話、屋代も不審を示している通り、この話、どこか奇妙で、何となく実在人物を臭わせながらも、それがまた変に非リアルな漢字を与える作りとなってしまっているように私には思われてならない。屋代が「又當主は今玆」(こんじ:今年)「十五歳」と言っているのは、報告当時の文政八(一八二五)年のことで、この時は鳥居家は改易・立藩・移封を経て壬生藩藩主となり、先に示した第四代藩主鳥居忠熹の次男である鳥居丹波守忠威(ただきら 文化六(一八〇九)年~文政九(一八二六)年)の治世であった。更に屋代の謂いも(重箱の隅をほじくるようだが)おかしく、文政八年当時、忠威は数え「十五歳」ではなく「十七歳」である(翌年に夭折)。ともかくも、屋代の言う如く「在所にての事か」或いは「昔の事を今のごとくとりなして、人のかたり聞かせし」ものという、如何にも都市伝説臭の強いものである可能性が極めて濃厚であると言える。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 越後烈女

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○越後烈女        輪  池

 ことし八月の末つかたに、小石川水道端に住める與力藤江又三郞の宅に、强盜入りしことあり。

 あるじは、やも男[やぶちゃん注:「やもを」。「鰥夫」「寡男」。]にて、俳諧の會に行き、老母は親類がり行きて、下女と下男のみ、留守に居たり。

 よる亥の刻過ぐる比、門をたゝく音す。

『あるじのかへりたるならん。』

と思ひて、男、出でて、あけたれば、白刄を提げしもの、五人、おし入りて、この男をしばりあげ、部屋に入れて、二人は、まもりをり。三人は内にいらんとせしを、下女、窓よりのぞきみて、とみに歸り入り、燈火をふきけし、

「誰、おきよ。かれ、起きよ。」

と、有合ひもせざる人を、あるがごとくによばゝり、さて、雨戶を、音たかくあけて、うしろのかたにさけ、椽を下りて、庭に出で、玄關の前に行きて、うかゞふに、人影、なし。

 あたりをみれば、稻荷の祠の垣のかげより、さきにみし、ぬす人三人、出でたり。

 女、少も、さわがず、

「こなたへ、き給へ。みづから、道びきすべし。いざ。」

とて、先に立ちて、刀を前にさげて、椽をあがり、物かげにかくれて、まちゐたり。かくて、ひさしくまてども、入りきたらず。

『いかゞせしならん。』

と、もとの如く、庭にいでゝみるに、さらに、かげも、なし。

 垣のかげを、のぞきみても、あらず。

「さては。にげさりしならん。」

と、あけたる門の戶をたて、戶ざしする音を聞きて、男は、ふるへ聲にて、女を、よぶ。女、

「いかゞせしや。」

と、とへば、

「かく、しばられたり。ときて、たべ。」

と、いふ。すなはち、繩をときながら、

「此有さまを、かならず、人にかたるまじ。あるじにも申すまじ。」

と、いひきかせて、うちに入り、子過ぐる比に、あるじかへりたれば、事、ゆゑなきさまにて、やすませたり。

 あくる日、あるじ、錢湯にゆきたれば、となりの同僚に逢ひたり。

 同僚の、いはく、

「夜邊は、そこには、何ごと、有りしや。」

と。あるじ、

「それがしは他行して、しり侍らず。」

と。

「いかゞなる事にや。たゞならぬ物おとしければ、耳たてゝきゝをり、『猶、物おとせば、出で逢ふべし。』と、身がまへせしが、その内に、納りたれば、うちやすみぬ。」

と。

 あるじ、かへりて、

「かのひとの、かくいはれしは、なにごとか有りし。」

と、とへば、

「しかじか。」

と、こたふ。

「さばかりのことを、いかで告げざるや。」

と、いへば、

「さん候。ぬす人、おしいりたるのみにて、物も、うせず、人もあやまたず候へば、申す迄もなし、とおもひしなり。」

と、こたへて、打ち過ぎぬ。

 わがちかきあたりに、この家あるじの姊あり。長月なかばに、この女、つかひにきたり、姊がいふやう、

「さきに、ぬす人しりぞけしは、たぐひなき、ふるまひなりき。その時、いかゞの覺悟にて有りしぞ。」

と。

 女は、

「堅固の田舍人にて、覺悟と申すことは、しり侍らず。おしはかりても、み給へ。白刄さげしものゝ、いくたりも、入りきたれば、みづからが命は、なき物と、おもひしのみにて侍り。」

と、こたへし。

 越後のむまれにて、年廿あまり三になる、とぞ。酉彥といふものゝ、かたりきかしゝなり。

[やぶちゃん注:最後の方は、当家主人の姉が、直に、その下女に問うたところが、下女が、かく答えたのを、その姉が、たまたま訪ねて行った輪池屋代弘賢に話したというシチュエーションであろうととった。

「小石川水道端」文京区小日向一丁目及び水道一・二丁目。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

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