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カテゴリー「兎園小説」の249件の記事

2022/09/12

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。今回は全文漢文であるため、まず、底本通りに示し(但し、底本は全部が読点であるが、吉川弘文館随筆大成版に従い、句読点交りとした)、注で推定訓読を示して、注を附した。なお、「瘞龜碑」は「えいきひ」と読み、「瘞」は「うづめる」「地中に犠牲対象や玉などをうずめて地を祭ること、或いは、その祭祀」「墓」の意である。以下、読んで戴ければ判る通り、佐渡で実際に捕獲された巨大なウミガメ(種は不詳)を埋めて祀った碑の記載である。後注で記すが、現在、この碑自体は、残念ながら、現存しない(碑の拓本はあるという)。]

 

   ○佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

瘞龜碑記【碑自然石、高匠尺四尺一寸餘、橫二尺八寸、系欄長與題額共、二尺七寸二尺三寸、五行一行十八言、字大一寸一二分。】、海之漫々。無ㇾ涯無ㇾ底。其爲ㇾ大也。固勿ㇾ論也已。故水族之怪。出沒乎其間者。鼋鼉蛟龍。不一而足也。予嘗奉吏職事佐州。居北海之濱。與魚鰕遊久矣。文政二年己卯春。州之南鄙。澁手浦漁夫獲巨龜。形狀不ㇾ凡。壯者十數人。舁以過ㇾ市。予睹而奇ㇾ之。後數日。有ㇾ人語曰。前日之龜。已就屠家。吾儕食指頗動。予聞ㇾ之惻然曰。君子之於ㇾ物也。見其生不ㇾ忍ㇾ見其死。況食其肉乎。且夫龜者靈物也。而今困於予且。死於鼓刀之手。何其慘也。何其慘也。於ㇾ是乎倍價以貿其肉殼。使州人島充睦。瘞諸妙法山蓮長寺側。寺僧曰。此寺嘗有妙見祠。夫妙見薩埵。崇德北極。耀威一天。或謂元武之神是也。今安措靈龜於此。亦如ㇾ有因緣。然請立ㇾ石記ㇾ之。充睦[やぶちゃん注:底本は「充睡」であるが、吉川弘文館随筆大成版を採用した。]亦數爲之慫慂。予性不ㇾ嗜浮華。懶放修辭遲。緩數年[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『敷年』だが、底本を採った。]。懇請不ㇾ已。遂書其事貽ㇾ之云。飯田近義撰。田中淸題額。島邦俶書。

 是碑文政十丁亥年落成。同年夏五月廿四日。借謄其拓本於關潢南父子。予戯批云。建是碑者。初看其龜不ㇾ拯焉[やぶちゃん注:一・二点を吉川弘文館随筆大成版で補った。]。死後貿肉與殼而瘞ㇾ之。則與ㇾ弔枯魚于市亦何異焉。仁乎慈乎。其不ㇾ及齋宣也遠矣。

 

[やぶちゃん注:まず、訓読を試みる(読みは推定で歴史的仮名遣で附した。また、一部で返り点とは異なる読みをした)。読み易さを考えて、段落を成形した。

   *

「瘞龜碑(えいきひ)の記」【碑は自然石、高さ、匠尺(しやうじやく)四尺一寸餘、橫、二尺八寸、系(つな)げたる欄の長さ、題額とともに、二尺七寸、二尺三寸、五行、一行は十八言(ごん)、字の大いさ、一寸一、二分。】

 海の漫々として、涯(はて)無く、底、無し。其の大(おほ)ひなるるや、固(もと)より、論ずる勿(な)きのみ。故に、水族の怪、其の間(かん)に出沒せる者は、鼋(おほがめ)・鼉(わに)・蛟龍(かうりゆう)、一つとして足らざるなり。

 予、嘗つて、吏職を奉りて、佐州に從事し、北海の濱に居(きよ)せり。魚鰕(ぎよか)と遊ぶこと、久し。

 文政二年己卯(キボウ/つちのとう)の春、州の南の鄙(ひな)、澁手浦(しぶてのうら)の漁夫、巨龜(おほがめ)を獲れり。形狀、凡(ぼん)ならず。壯者(さうしや)、十數人(じふすにん)、舁(か)きて、以つて、市(いち)を過(よ)ぎる。予、睹(み)て、之れを奇(き)とす。

 後(のち)、數日(すじつ)、人、有り、語りて曰はく、

「前日の龜は、已(すで)に屠家(とけ)に就(つ)けり。吾れ、儕(ともがら)は、食指、頗(しき)りに動かす。」

と。

 予、之れを聞きて、惻然(そくぜん)として曰はく、

「君子の物に於けるや、其の生(い)きたるを見れば、其の死せんとするを見るに忍びず、況んや、其の肉を食ふをや。且つ、夫(そ)れ、龜は靈物(れいぶつ)なり。而して、今、予且(よしよ)に困(くる)しみ、鼓刀の手に死せり。何ぞ、其れ、慘(いたま)しきや、何ぞ、其れ、慘しきや。」

と。

 是(ここ)に於いてや、倍の價(あたひ)を以つて、其の肉と殼を貿(か)ひ、州人の島充睦(しまあつむつ)をして、諸妙法山蓮長寺の側(かたはら)に瘞(うづ)めしむ。寺僧曰はく、

「此の寺、嘗つて、妙見(めうけん)の祠(ほこら)有り。夫れ、妙見薩埵(めうけんさつた)、崇德北極(そうとくほくきよく)、耀威一天(きいいつてん)、或いは謂ふ、元武(げんぶ)の神、是れなり。今、靈龜を此(ここ)に安(やすん)じ措(お)くは、亦、因緣、有るごとし。」

と。

 然(さ)れば、請ひて、石を立て、之れを記(しる)す。充睦も亦、數(たびたび)、之れを慫慂せんと爲(す)。

 予、性(しやう)、浮華(ふくわ)を嗜(たしな)まざるも、修辭に遲れ、懶放(らんはう)たり。緩(かん)たること、數年(すねん)、懇請、已(や)まず、遂に其の事(こと)を書して、之れに貽(のこ)して云へり。

   飯田近義            撰

   田中淸             題額

   島邦俶(しまはうしゆく)    書

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が最後まで一字下げ。馬琴の附記。]

 是の碑、文政十丁亥(テイガイ/ひのとゐ)の年、落成す。同年の夏、五月廿四日、其の拓本を關潢南(せきわうなん)父子、借りに謄(うつ)せり。予、戯れに批(ひ)して云はく、「是の碑を建つるは、初め、其の龜を看るも、拯(すく)はず、死後、肉と殼とを貿(か)ひて、之れを瘞む。則ち、枯魚(こぎよ)を市(いちにう)れるを弔ふに與(くみ)するに、亦、何ぞ異ならんや。仁か、慈か。其れ、齋宣(さいせん)に及ばざるや、遠し。」と。

   *

「妙法山蓮長寺」現在も新潟県佐渡市相川下寺町にある日蓮宗の寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。Lllo氏の佐渡島の総合ブログ「ガシマ」の「佐渡相川郷土史事典」の「亀碑(かめのひ)」に、『相川町下寺町の日蓮宗蓮長寺には、「瘞亀碑」が建てられていた。現在は、この碑がどのように処分されたか不明であるが、拓本が掛軸にして残されている。縦一二五㌢、幅八五㌢という大きなもので、碑文には経緯が記されている。文政二年(一八一九)己卯春に、渋手浦(真野町豊田)に漂着したウミガメ(種不明)を、佐渡奉行所の役人飯田近義』(☜)『が買い取った。碑文は相川町の島□(川嶋)充睦』(☜)『が書き、島家の菩提寺へ埋葬した。現在は、碑石の跡に亀石が置かれている』とあり、『【参考文献】 本間義治・佐藤春雄・三浦啓作『両生爬虫類研究会誌』(四一号)、本間義治・北見健彦『新潟県生物教育研究会誌』(三二号)、本間義治・石見喜一『新潟県生物教育研究会誌』(三六号)』とする。また、サイト「佐渡人名録」のこちらの「亀碑(かめのひ)」の項にも、全く同一の文章が確認出来る。せめてもと以上の参考文献が見られないかと探したが、見当たらなかった。

「匠尺」通常の曲尺(かねじゃく)のこと。

「四尺一寸餘」一メートル二十四センチ超。

「二尺八寸」八十四・八四センチ。

「系(つな)げたる欄」柵と入口の上に額を掛けた高欄があったものか。

「二尺七寸」八十一・八センチ。

「二尺三寸」約六十九・七センチ。

「一寸一、二分」三・三三~三・六三センチ。

「鼋」大型のウミガメ類。一九九三年三月発行の『富山市科学文化センター研究業績』第百四十三号の南部久男氏の短報「富山湾四方沖からのオサガメの記録」PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『佐渡を含む新潟県沿岸のウミガメ類の1922年から1990年における記録(漂着、定置網、刺網等)では、オサガメが56例と最も多く、次いでアカウミガメ27例で、その他、アオウミガメ11例、ヒメウミガメ6例である(本間、1990)。このうちオサガメは9月から3月まで記録があり、1月が多い。』とあるから、可能性が高い順に種は、

脊索動物門脊椎動物亜門爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科オサガメ科オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea

ウミガメ上科ウミガメ科アカウミガメ亜科アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta

ウミガメ科アオウミガメ亜科アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas

ウミガメ科ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea

となる。

「鼉(わに)」サメ類。

「蛟龍」所謂、想像上の海龍の一種である「みづち」。

「一つとして足らざるなり」一種というのでは、到底、言い尽くせない。

「文政二年己卯春」グレゴリオ暦で一八一九年一月二十六日から四月二十三日。

「澁手浦」現在の真野港のある新潟県佐渡市豊田地区の海辺。真野湾の小佐渡川の南東。

「屠家」動物類の屠殺業者。

「惻然」あわれに思って、心を傷めるさま。

「予且」「予且之患」(よしょのかん:身分の高い人が気付かれないように出掛けて、不幸な出来事にあうこと。「予且」は人名で、天帝の使者である白い龍が、魚の姿になって泳いでいると、漁師の予且に目を射抜かれて捉えられた、という故事に基づく)を元にした表現。

「鼓刀の手に死せり」「鼓刀」は「刀(とう)を鼓(こ)す」とも訓じ、「包丁を使って音を立てる」こと、則ち、「野生の中・大型の動物や家畜を殺して料理すること」を意味する。

「貿(か)ひ」「買ひ」に同じ。

「妙見」妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、北極星又は北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。妙見信仰はインドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星及び北斗七星信仰や星学と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来した。詳しくは参照したウィキの「妙見菩薩」を読まれたい。

「薩埵」菩薩に同じ。

「元武の神」五行思想の易や道教で言うところの「北」に応ずる四神の一つ「玄武」に同じ。

「浮華」うわべは華やかであるが、内実の乏しいこと。見掛け倒しの虚飾性(しょう)。

「修辭に遲れ」文章で表現するのに時間がかかり。

「懶放」「放懶」に同じ。「ものぐさ」の意。

「緩(かん)たること」ずるずると、文を成さずに延引すること。

「貽(のこ)して」残し伝えて。

「飯田近義」前注以外の事績は見当たらない。

「田中淸」不詳。

「島邦俶」不詳。先の引用に従うなら、正式な姓名は川嶋充睦。島邦俶は雅号或いは唐風の名乗りであろう。

「文政十丁亥」「五月廿四日」グレゴリオ暦一八二七年六月十八日。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締であった曲亭馬琴とも親しく、息子の関思亮は「海棠庵」の名で兎園会のメンバーでもあった。

「批して」批評して。

「拯はず」命を救わず。

「枯魚」魚の干物。

「齋宣」意味不明。識者の御教授を乞う。]

2022/09/05

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 農民文次郞復讐略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○農民文次郞復讐略記

武藏州豐島郡小具《おぐ》村【里俗、「おふた村」と唱ふ。】王子村、近村《きんそん》のよし。

        大御番水野伯耆守組

         阿部鑑一郞知行所

          名主       利 右 衞 門

        利右衞門養子   文  次  郞

        新御番岡田勝五郞組

         羽田鐵之助知行所

               名主   次郞右衞門

小具の渡しは、元來、百姓渡しにて、古來より、あげ錢などいふ定めはなかりしに、右の次郞右衞門、近來《ちかごろ》、あげ錢をとりて、私《わたくし》に、つかひ捨たり。然るに、かのわたし船にて、修驗者と、渡し守と、鬪諍《たうじやう》いで來《き》し折、「この沒匁(いりめ)は、渡し船のあげ錢にて、つぐなふべし。」といふにより、次郞右衞門が私慾、あらはれにけり。よりて、名主利右衞門、これを憤りて、次郞右衞門と問答に及び、「件《くだん》のあげ錢は、以來、渡し場の入用に充つべし。」といへども、次郞右衞門、したがはず。且《かつ》、「年來《としごろ》、つかひ捨たるあげ錢は、さらなり、向後《かうご》も、己《をのれ》のみの利得にせん。」といふをもて、利右衞門、いよいよ、怒《いかり》に堪ず、今茲《こんじ》、文政九年春二月十四日、「次郞右衞門を擊果《うちはた》さん。」とて、渠《かれ》が宿所に赴きしに、利右衞門は、還《かへつ》て、次郞右衞門に、きり殺されけり。こゝに利右衞門が養子文次郞といふもの、この日、親の爲體《ていたらく》を、心もとなく思ふよしありて、跡より、ゆきて見るに、親利右衞門は既に殺されたりければ、即座に、かたき次郞右衞門を討《うち》とめしといふ【或《あるい》は、いふ、利右衞門は、その身の脇差を、次郞右衞門に奪ひとられ、その刄《やいば》にて殺されたり。次郞右衞門は、既に利右衞門を殺して、兩手を組み、思案して居《ゐ》たる處へ、文次郞、走り來て、矢庭《やには》に、又、その刄を取《とり》て、次郞右衞門を擊《うち》とめしとぞ。】。しかるに、次郞右衞門に、子供、二人あり。此ものども、僞りて、わが親をも、利右衞門をも、殺したるものは、文次郞也。次郞右衞門と利右衞門と鬪諍の上、組《くみ》あひたる處へ、文次郞、走り來て、次郞右衞門を切るときに、利右衞門をも切殺《きりころ》せし也といふにより、外に雙方《さうはう》の證人もなければ、吟味の筋、分明ならず。地頭の下吟味、滯りて、埒明かねし故、二月廿三日に至《いたり》て、やうやく、公儀へさし出《いだ》しになりしかば、御勘定奉行の掛りになりしといふ。裁許の事、いまだ知らず。なほ、又、異日《いじつ》に聞くことあらば、追書すべくになん【この節、ちまたを賣《うり》ありきしものは、「文次郞」を「文吉」とし、且、『利右衞門と次郞右衞門は、劍術をよくせしより、恨みを結びし。』など、書《かき》しるせしは、そら言《ごと》也。この「小具の渡し」は兩村のかゝりにて、この事より、利右衞門は、ふかく次郞右衞門を憎みし也。次郞右衞門は、元來、心ざま、よからぬものなりとぞ。】。丙戌二月二十七日雨窓《うそう》に識《しるす》。

[やぶちゃん注:「小具村」嘗つて、東京府北豊島郡に存在した尾久町(おぐまち)の旧村か。現在の荒川区北西部に当たり、「尾久」を含む地名が今も残る。「今昔マップ」のここを参照されたい。旧荒川(現在、隅田川に分岐)の右岸に当たる。左の戦前の地図を見ると、旧荒川の尾久村の北西に「上尾久」と書いた左に「小渡」とあるのが判る。或いは、舞台はここか

「丙戌二月二十七日」文政九(一八二六)年。

「雨窓」雨降る窓辺。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 八木八郞墓石

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○八木八郞墓石

江戶伊皿子《いさらご》【臺町の先。】大圓寺に、薩藩の大力士、八木八郞の墓あり。縮圖、左の如し。【◎圖、略ㇾ之。墓石高、八尺餘[やぶちゃん注:二・四三メートル超え。]、頂部、厚、一尺二、三寸[やぶちゃん注:三十六・三~三十九・一センチ。]、底部、厚、一尺四、五寸[やぶちゃん注:四十二・四二~四十五・四五センチ。]。】。

 貞享三丙寅六月十七日

 正山常眞庵主

  薩州生緣     八 木 八 郞

                行年十九歲

傳云《いはく》、八木八郞は多力也。この石、泉嶽寺の揚げ場にて、數《す》十人かゝりて、船より引あげんとしつゝ、あげかねたる折、八郞、其處《そこ》をよぎるとて、見つゝ頻りに笑ひしかば、船頭、車力等《ら》、これを怒りて、その笑ふゆゑを問ふに、八郞こたへて、「汝等、かばかりの石を、數十人して、なほ、引あげる事、得ならぬか。わが笑ひしは、この故也。」といふに、衆、みな、いよいよ怒りて、「おん身、今、この石を引あげて見せ給はゞ、石を、まゐらすべし。」と、いひけり。折から、雨後の事なりければ、八郞、木履《ぼくり》をはきながら、件《くだん》の石を引かつぎ、大圓寺の門前へもて來て、寺へ、あづけおきけり。この寺は八郞が菩提所なるによりて也。そのゝちに、八郞、早世しければ、則、その石をもて、墓表にしつと、いひ傳へたり。予、この事を聞《きき》て、その墓を見ぬるに、享和中の事なりき。大圓寺の墓所に到れば、衆墓に抽《ぬきんで》て、いと高きをもて、聞ずして、八郞が墓なりけりと知るに足れり。かくて、文政のなかばに至りて、「鱗齋漫錄」といふ寫本を閱《けみ》せしに、その書に、亦、この墓の事を載たり。鱗齋云、『余が近き邊の伊皿子に、大圓寺といへる薩州の菩提所あり。其墓所に「八木八郞」といへる士の石碑あり。竪の長さ、七、八尺、橫幅、下に至りては三尺程もあるべし。此石、もとは高輪なる薩州の下やしきの庭に、年久しく埋みありしが、其時分の主候、一時の戲れに、「かゝる石を引起す力量の者もあるべきや。」など聞えしに、八郞なるもの、年十九歲なりしが、たゞちに彼石を震起《ふるひおこ》し、大きなる井戶綱やうのものにて、身にからみ、庭上、二、三遍、負《おひ》あるき、又、もとの所に居置《すへおき》たり。主候をはじめ、其怪力に驚かざる者、なし。かゝりし程に、彼《かの》八郞、其夜、總身《さうみ》、いたみ、氣息、頻りにつまりて、終《つひ》に十九歲を一期《いちご》として、なき人の數に入たりし。主候、殊に惜み給ひ、「益なき事に、あたら若者を失ひしは、我言によれり。」とて、其跡、念頃《ねんごろ》に佛事、なし、彼大石《だいせき》を、とりあへず、墓じるしとは、なしたり。今、其石をはかるに、究竟《くつきやう》の鳶のもの、手引、十、四五人ならでは、車にて引くこと、なしがたしといへり。卽ち、八郞は延享の頃の人なりし。「南史」に、『羊侃嘗戲以數石、人八尺大圍者、執以相擊、悉皆破碎。』。「五雜俎」に、『三原王大孃、以ㇾ首戴十八人而舞。』など、昔より怪力のことを、和漢にしるせしもおほければ、疑ふべきことにもあらず。』。【以上、「鱗齋漫錄」の全文なり。この書には、墓石の圖もなく、歲月も、しるさず。只、延享の比の人といふのみ。延享は貞享のあやまりか。】。今、按ずるに、「漫錄」にいふ所、その實を得たるが如し。とまれかくまれ、八木八郞は、蜀の五丁力士《ごていりきし》の風あり。もし、戰國に生れなば、妻鹿《めが》孫三郞と伯仲すべきものなるに、この墓石をだも、知るものゝ多からぬは、遣憾ならずや。

[やぶちゃん注:サイト「科学技術振興機構」のこちらから、問芝志保氏の論文「明治大正期の東京における名墓の観光化」(『宗教学・比較思想学論集』第二十所収・PDF)がダウン・ロード可能であるが、そこに八木八郎の紹介がなされてある(墓碑写真有り)。ところが、そこには、彼の死について、驚天動地の別説が示されてある。以下である。『小姓の八郎が、薩州家の庭で家臣らに対して頻りに力自慢をするので、皆は「この大石を担いで池の周りを歩けるか」と八郎を煽った。すると八郎は本当にその石を担いで池を三周してみせたため、一同は大変驚いた。ところが』、『八郎の父は、八郎は』、『生来』、『人を侮る癖があり、このままでは』、『いずれ』、『主君に害を及ぼす』、『と厳しく咎めた。しかし』、『八郎がそれを聞き入れなかったため、立腹した父は』、『なんと』、『八郎を手討ちにしてしまった』というのである。こちらの方が、私は本当らしいと感じたことを言い添えておく。

「江戶伊皿子【臺町の先。】大圓寺」旧芝伊皿子町(しばいさらごまち)にあった曹洞宗泉谷山(せんこくざん)大圓寺。この当時は、現在の港区三田四丁目の「NTTデータ三田ビル」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のある位置にあったが、同寺は後に東京都杉並区和泉(いづみ)に移転している。

「貞享三丙寅六月十七日」グレゴリオ暦一六八六年八月五日。綱吉の治世。但し、後に「八郞は延享の頃の人なりし」とある。しかし、延享は一七四四年から一七四八年までで、この「貞享」よりも後になるから、これは筆者が「貞享」とすべきところを誤ったものとする馬琴説に従う。

「行年十九歲」「貞享三」年から数えで機械逆算すると、彼の生まれは寛文八(一六六八)年。家綱の治世。

「享和中」一八〇一年から一八〇四年まで。

「文政のなかば」文政は十三年までで、一八一八年から一八三〇年まで。

「鱗齋漫錄」不詳。

「其時分の主候」第二代薩摩藩主島津光久。

「南史」中国の正史で「二十五史」の一つ。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の代に成立。南朝の宋・斉・梁・陳の四国の正史を改修した通史。南朝北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集したもの。

『羊侃嘗戲以數石、人八尺大圍者、執以相擊、悉皆破碎。』推定訓読する。「羊侃(やうがん)は、嘗つて、戲れに數石(すうせき)を以つてし、人の八尺の大圍《だいゐ》の者、執りて、以つて、相ひ擊ち、悉く、皆、破碎せり。」。羊侃(ようがん 四九五年~五四九年)は北魏及び梁の武将にして政治家。文武孰れにも秀でた人物とされる。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「三原王大孃、以ㇾ首戴十八人而舞。」「三原王大孃(さんげんわうだいじやう)、首を以つて、十八人を戴(の)せて舞ふ。」。「三原王大孃」は不詳。

「蜀の五丁力士」伝説上の人物。蜀の王が、山道を穿たせるために、命じた五人の力士。

「妻鹿孫三郞」南北朝時代の武将妻鹿長宗(めがながむね 生没年未詳)の通称。播磨妻鹿の功山(こうやま)城主。「太平記」によれば、力が勝れ、相撲では日本六十余州に無敵とする。正慶/元弘三(一三三三)年の「元弘の乱」では、一族十七名とともに、赤松則村方に組みし、北条勢と戦った(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

2022/08/26

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 筑後稻荷(とうか)山の石炭

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○筑後稻荷(とうか)山の石炭

西原老人與關生書中云《にしはららうじん、せきせいにあたふるしよちゆうに、いはく》、『黑崎よりの道は、深浦・深谷・手鎌・橫洲・大ぬた・すは・かなう・早米、磯にて御座候。此出先は「四ツ山」に御座候。是より、大ぬた迄、歸り、三池に入《いり》、「とうか(稻荷)山」と申《まをす》所より、石炭を出し申候。燒かへ申[やぶちゃん注:底本にはママ注記がある。]燒たて候間、近きつもりにて、登りかゝり候處、甚《はなはだ》遠く御座候。行なやみ候へ共、馬の足跡をしるべに登り申候處、石炭をほり候穴を「まぶ」と申候。今日は朔日故、休みにて、穴の内、暗く、入《いり》がたく候よしに付、番人をたのみ、松明《たいまつ》にて二十間ほど入り申候。去《さる》冬も、三人、石にうたれ死候由、危き事に御座候。穴の内は、外と、ちがひ、甚、冷氣にて、汗を入申候。其石を掘り候もの、每日百人餘づゝ穴に入申候。二、三間に燈火をてらし申候。鍬と鶴の觜《はし》にて、外《ほか》におもしろき道具は無ㇾ之。燈火も、かわらけにて御座候。山間に、二、三間四方程に、かりに屋根を拵へ、一尺ほど、生石《しやうせき》を敷並《しきなら》べ、火を入候て、其《それ》、宜《よく》燒《やき》候時、灰をかけ候へば、かたまり候よし、勘解由《かげゆ》の領分、草野と中山よりも出候』云々【解、云、「石炭は余るも、二、三種、藏弃《ざうきよ》す。その圖、「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし。】

[やぶちゃん注:「西原老人」「關生」柳河藩藩士西原好和と書家関其寧(きねい)。先のこちらの注を参照。

「黑崎」現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。北九州市の副都心に位置付けられており、江戸時代は長崎街道の宿場町として栄えた。

「深浦」「深谷」孰れも不詳。「今昔マップ」で戦前の地図を見ると、福岡県北九州市八幡西区野面附近に「深田」「山浦」の地名が見出せる。

「手鎌」福岡県大牟田市手鎌

「橫洲」不詳。

「大ぬた」福岡県大牟田市があるが、ここでは柳川を通り越してしまう。

「すは」福岡県久留米市諏訪野町(すわのまち)なら、ある。

「かなう」福岡県福岡市西区今宿上ノ原に叶嶽(かのうだけ)がある。

「早米」福岡県大牟田市早米来町(ぞうめきまち)なら、あるが、ここも柳川の先である。但し、古くはここは「磯」であったと推定される。一言言っておくと、西原はずっと江戸住まいで、実際には九州の地名には弱いのではないかと思われ、或いは、以上の幾つかの表記も怪しい気がしている。

「四ツ山」熊本県荒尾市四ツ山町(よつやままち)は前の早米来町の直近であり、ここは東北直近に「三池炭鉱宮原坑」の跡があるから、どうも、西原は素直に蟄居を受け入れて、おとなしく帰藩していないのではないかと思われ始めた。蟄居する前に存分に周辺を遊山したくなる気持ちは判る。しかし、藩では、相当、ヤキモキしていただろうな。

「とうか(稻荷)山」サイト「大牟田・荒尾の歴史遺産」の「江戸時代の三池炭鉱 1.三池炭山の発見」に、『三池で初めて石炭が発見されたのは、文明元』(一四六九)年一月十五日の『こととされている。伝承によると、三池郡稲荷村(とうかむら)の農夫である伝治左衛門』『夫婦が、薪を拾いに出かけた稲荷山(とうかやま)において、焚き火をしている折に石炭を発見したという。この伝承が正しければ、国内で最も早く石炭が発見されたのは三池の地ということになる』。但し、『この話が採録された最も古い文献でも安政』六(一八五九)『年のものにすぎ』ず、『そのため』、『この伝治左衛門による石炭発見の伝承がどの程度』、『事実を伝えているものなのか分からない』とあった。以下、この「稲荷山(とうかやま)」の考証が行われているが、一筋縄ではいかない問題のようである。ともかくも、その最終的な推定では、大牟田市のこの辺りの広域が旧稲荷山(グーグル・マップ・データ航空写真)であったらしい

『石炭をほり候穴を「まぶ」と申候』小学館「大辞泉」に出、漢字表記は「間府・間分・間歩」とし、『鉱山で、鉱石を取るために掘った穴。坑道』とあった。石炭に限らず、金属の鉱山の坑を言うようである。因みに、今に「マブダチ」(本当の親友)の意の語があるが、これは実は、この坑道の意から出たものだ、という説がサイト「雑学ネタ帳」の『「マブダチ」の語源・由来』に載っていた。それによれば、『「間歩」というのは「鉱山の坑道」(トンネル)を表す言葉だった。なぜ「トンネル」が「本物」という意味に変わったのか』というと、『盗賊たちの間では「金脈に通じる」ことから、「本物である」「良いものである」という意味に変化していった。江戸時代の盗賊にとって鉱山のトンネルは本物の金や銀が』ウマウマと『盗める場所だった』。そこから、『「本物」という意味だけが残り、現在の「マブ」になったと考えられている』『そして「マブ」に「友達」を意味する「ダチ」が付けられ、「マブダチ」という言葉が生まれた』とある一方、『一説によると「マブ」は、祭りや縁日などに露店を営む的屋が使っていた隠語だったという情報もある』とある。私は微妙に留保したい気がしている。

「今日は朔日故、休みにて」流石に重労働で過酷にして危険であったから、月の一日には全休となっていたらしい。

「二十間」三十六・三六メートル。

「汗を入」「汗がひく」の謂いであろう。

「二、三間」三・七~五・四五メートル。

「鶴の觜」鶴嘴(つるはし)。

「生石」掘り出した原石の石炭。

「勘解由」江戸幕府の勘定方の異称。

「草野」旧常磐炭田の福島県いわき市内の草野地区か。

「中山」山形県新庄市鳥越にあった中山炭鉱。

「藏弃」整理しないで、所蔵していること。

『「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし』国立国会図書館デジタルコレクションのこの「花炭」か。『豊後國臼杵の産』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 樂翁老侯案山子の賛

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題を含め、底本ではただ三行(吉川弘文館随筆大成版では二行)で「兎園小説」中、最も短い記事である。初行の読点は除去して、最初のそれは空欄とした。

 「樂翁」は「寛政の改革」を断行した老中松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)の号。]

 

   ○樂翁老侯案山子の賛

 矢引たるは勇なり はなさゞるは仁なり

  智のひとつかけてをかしきかゞしかな

 

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 熱田宮裁讃橋(「裁讃橋」は「裁斷橋」の誤り)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「裁讃橋」は吉川弘文館随筆大成版でも同じであるが、これは「裁斷橋」の誤りである。但し、この橋は現存しない。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「裁断橋」によれば、この『橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた』。永正六(一五〇九)年の「熱田講式」には『既にその名が見られるという』とあり、『擬宝珠の銘文には、天正』一八(一五九〇)年の『小田原征伐で死去した堀尾金助という』十八『歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が』三十三『回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている』。『伝承によっては、母親は橋を』二度、『かけ直しているとするものもある。息子の』三十三『回忌の橋の架け替えは』二『度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門』が元和八(一六二二)年に『架け替えたとされ、この際に「息子(金助)の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる』。『しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある』。ともかくも、『この銘文は日本女性三名文』(後の二つは「成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃりのはは)の集」(成尋阿闍梨母(永延二(九八八)年?~?)は平安中期の女流歌人。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊(せいそん)の二子を生んだ。夫とは早くして死別した。家集「成尋阿闍梨母集」は宋へ渡る子の成尋を思う母親の心情を詠んだものとして、古来、有名。この歌集は日記的なもので、延久五(一〇七三)年五月で終わっていることから、これ以降に没した推定される)と「ジャガタラ文(ぶみ)のお春の消息」(「お春」(寛永二(一六二五)年~一六九七(元禄一〇)年)は江戸初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へ追放されたイタリア人男性と日本人女性の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙が「ジャガタラ文」)と注にある)『のひとつにかぞえられている』とあり、本篇に出る銘文も載っている。また、ウィキの「堀尾金助」によれば、『安土桃山時代の武士』で、天正元(一五七三)年出生で、『堀尾吉晴』(後で注する)『の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが』、『続柄には異説がある』。天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐に吉晴と共に参戦したが』、六月十二日に『陣中で死去した。享年』十八で、『死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳。弟の忠氏が吉晴の継嗣となった』。『吉晴が菩提を弔うため』、『妙心寺塔頭に俊巖院を建立する。寺名は金助の戒名「逸岩世俊禅定門」による』。『金助については、熱田の裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠銘文にその名が見える』としつつ、以下、「出自と死因」の項では、『諸書の記述によって』、『吉晴との続柄が違う。どの説も決定的なものは無く、金助母の続柄も変わる』として、五つもの説が示されてある。馬琴は結果して、堀尾吉晴の実子説を採用している。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 銘文二種は底本では、孰れも上・下段に分離してしまっているが、トリミングして合成し、補正を加えて掲げた。

 

   ○熱田宮裁讃橋

文政乙酉の首夏《しゆか》、西原梭江《ひこう》、筑後柳川へ移住の後、通家[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはここにママ注記があるが、これは「つうけ」と読み、ここは「昔から親しく交わってきた家」の意で問題ない。]關《せき》氏へ消息の文中に、熱田の宮「裁讃橋」の銘を寫しておこしたりしを、その婿《むこ》關思亮《しりやう》に借《かり》、抄す。

[やぶちゃん注:「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「首夏」初夏、或いは、陰暦四月の異称。

「西原梭江」「兎園会」会員の一人であった松蘿館こと柳河藩藩士西原好和、或いは、一甫(いっぽ 宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)。幼少より、江戸で生活し、定府藩士として留守居や小姓頭格用人などを勤めたが、江戸に馴れ過ぎたせいか、幕府から「風聞宜しからず」として、国元筑紫への蟄居の譴責を受け、この文政八年四月に江戸を退去させられている。「兎園小説」冒頭の大槻氏の序の解説を参照。その「都落ち」での一コマということになるのである。恐らくは、彼の「兎園会」、引いては馴染んだ江戸への惜別の贈り物のつもりででもあったのであろうと思われる。

「關氏」書家關其寧(きねい)。

「關思亮」(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の前の「婿」は「孫」の誤り。「兎園会」会員で海棠庵で頻出。三代に亙る書家。其寧の孫で、克明(こくめい)の子。常陸土浦藩士。父に学び、藩の右筆手伝などを務めた。書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集を助けた。]

梭江云、『四月廿四日』云々、『宮宿《みやのしゆく》に投宿仕候。宮の宿の入口に橋御座候。この橋の擬寶珠《ぎぼし/ぎぼうしゆ》に何か銘御座候間、すり申度《まをしたく》、駕《かご》より下り申候。文字も、よくわかり申候。誰朽[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版孰れもママ注記がある。「擬寳珠」の誤記か。]珠、四所に御座候。東南の柱に「裁讃橋」[やぶちゃん注:くどいが、「裁斷橋」の誤り。以下総て同じ。]とあり。その外は「裁談橋」[やぶちゃん注:これは事実。]とあり。西北の柱には六月十八日とあり。其外は六月十二日とあり。西南の柱ばかり、假名なり。銘、左の如し。

[やぶちゃん注:「宮宿」、東海道五十三次四十一番目の宿場町。東海道でも最大の宿場で、愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮の南表の、この附近に当たる。

 以下は底本では御覧の通り、全体が罫線で囲まれてある。電子化では、本文と関好和の附記はそれぞれ繋げた。]

 

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熱田宮裁讃橋

右檀那意趣者、堀尾金助公、去天正十八年六月十二日、於相州小田原陣中逝去。其法號「逸岩世俊禪定門」也。慈母哀憐餘修造也。此橋以充卅三年忌、普同供養之儀矣。

 好和、按《あんずる》に、天正十八年より三十三年は、元和八戌年に當るか。

[やぶちゃん注:訓読する。

   *

右(みぎ)檀那の意趣は、堀尾金助《ほりをきんすけ》公、去《いんぬ》る天正十八年六月十二日、相州小田原陣中に於て逝去す。其の法號は「逸岩世俊禪定門(いつぐわんせいしゆんぜんぢやうもん)」なり。慈母、哀憐の餘り、修造せり。此の橋、以つて、三十三年忌に充てて、普(あまね)く供養の儀を同じうせり。

   *]

 

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てんしやう十八ねん二月、十八日に、をだはらの御ぢん、「ほりをきん助」と申《まをす》十八になりたる子を、たゝせてより、又、ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま、このはしをかける事、はゝの身には、ゑんるいともなり、そくしんじやうぶつ、し給へ。いつがんせいしゆんと、後のよの、又、のちまで、此かきつけを見る人は、念佛申《まをし》給へや。卅三のくやう也。

[やぶちゃん注:「ゑんるい」「緣類」(仏縁の類(たぐ)い)か。それだと、歴史的仮名遣は「えんるゐ」である。或いは「緣累」(仏縁を累(かさね)ること)ならば、「えんるい」でよい。

「いつがんせいしゆん」意味不明。或いは「一願成就」の読みの誤りか?

「くやう」「供養」。]

 

解《とく》、按《あんずる》に、堀尾帶刀《たてはき》先生吉晴、天正十八年の秋、遠江州濱松の城を賜ふて居ㇾ之《これにをり》。かくて、慶長五年の春二月、豐臣家の仰《おほせ》として、越前の府の城に移り、關ケ原の役《えき》、果て、出雲・隱岐二州を下されて、廿三萬五千石餘を領したりしに、吉晴の孫山城守忠晴、寬永十九年九月廿日、三十五歲にて卒《そつ》しぬ。子なければ、家、絕《たえ》たり。吉晴の内室、領分にもあらぬ尾州宮驛《みやのえき》の橋をかけ給ひしは、故《ゆゑ》あらん。なほ、考ふべし。

解、云《いはく》、この「裁讃橋の銘」は、「東海道名所記」をはじめとして、近ごろの印本「東海道名所圖繪」にも漏《もら》したれば、人の知ること、稀なりしを、抑りべ人、とー來、好事《かうず》の甲斐ありて、よくも見いだしぬるものかな。錄しもて、好古の人に示すのみ。

[やぶちゃん注:「堀尾帶刀先生吉晴」(天文一二(一五四三)年~慶長一六(一六一一)年)は安土桃山・江戸前期の武将。尾張丹羽郡の土豪堀尾泰晴(吉久)の長男。初め、織田信長に仕えたが、早くに主を豊臣秀吉に変え、天正元(一五七三)年、近江長浜の内に百万石を与えられ、同十三年には近江佐和山城主四万石となった。同十五年の「九州攻め」の後、従五位下・帯刀先生に任ぜられ、同十八年の「小田原攻め」の後、遠江浜松城(十二万石)に移った。秀吉の信任厚く、所謂、「三中老」の一人に任ぜられたが、秀吉死後の慶長四(一五九九)年、越前府中で五万石を与えられた際に、家督を子忠氏に譲り、越前府中に隠居することになった。翌五年七月に新領地へ赴く途中、三河の池鯉鮒(ちりふ:現在の知立市)で、同じ秀吉の家臣加賀井重望(しげもち:「秀望」とも称した)に切られて傷つき、九月の「関ケ原の戦い」には参戦できなかった。戦後、子の忠氏が出雲に転封されたのに従った。忠氏の早世後は孫忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年:享年三十五。彼は亡くなる直前に末期養子を幕府に申し立てたが、その嘆願は認められず、無嗣・断絶、改易となり、大名家としての堀尾家は消滅してしまう)を補佐し、松江城を築いている(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「東海道名所記」私の好きな浅井了意の著になる仮名草子。六巻六冊。万治二(一六五九)年の成立。諸国を遍歴してきた青道心楽阿弥(らくあみ)が、まずは江戸の名所を見物し、その後、連れの男とともに東海道の名所を見物、気楽な旅を続けながら、京に上るという構成で、名所名物の紹介・道中案内・楽阿弥らの狂歌や発句・滑稽談などを交えて、東海道の旅の実情を紹介したムック本のはしり。

「東海道名所圖繪」は六巻六冊。寛政九(一七九七)年刊行。京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡・宿場記事・特産物などに加え、歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて、三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれている。著者は京の俳人秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)。絵師は円山応挙・土佐光貞・竹原春泉斎・北尾政美・栗杖亭鬼卵など錚々たる絵師約三十名が二百点を越える挿絵を担当している(当該ウィキ他に拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 小泉兄弟四人幷一媳褒賞之記 / 「兎園小説余禄」巻二~開始

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「媳」は「よめ」(嫁)。また、二男の「小泉大内藏」の名は「おほくら」。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

兎園小說餘錄第二

 

   〇小泉兄弟四人一媳褒賞之記

          【品川新宿牛頭天王神主

             小泉上總介忰】

        總領  小泉出雲守【酉三十三歲。】

        二男  小泉大内藏【酉三十歲。】

        三男  小泉覺次 【酉二十六歲。】

        四男  小泉淸之助【酉十八歲。】

        出雲守妻  か よ【酉二十七歲。】

右上總儀は、去る文化八年の頃より、中風にて、今、以《もつて》、打臥罷在《うちふしまかりあり》、幷に同人妻儀も、十餘年以前より、持病の血暈《けつうん》、度々差發《さしおこり》致難儀候由、然處《しかるところ》、右之子供四人、幷《ならびに》、出雲、妻かよ、其孝行にて、晝夜無油斷看病介抱いたし、猶、亦、大内藏儀は、芝神明社家、相務罷在候に付、社務の暇、有ㇾ之候へば、早朝より、父母の方に罷越、看病いたし、兄弟四人・かよ共に、孝行、大かたならず、凡、十三、四年の間、異體一心に志を盡し候趣、相聞え、請取《うけとり》、しらべに相成《あひなる》。今玆《こんじ》、文政八年乙酉春三月日、右之者共、寺社御奉行所へ被召出、御褒美として、小泉出雲ヘ御銀《おぎん》十枚、外四人へ、御銀五枚づゝ、被ㇾ下ㇾ之候由。同年三月下旬、右之趣を印行《いんぎやう》して賣步行《うりあるき》候間、卽、使買取《かひとらしめ》、尙、亦、外も聞合《ききあはせ》候處、相違無ㇾ之事の由に付、しるしおく。かく、一家うち揃ひての孝行は、世に有がたし。尤《もつとも》美談たるべきもの也【乙酉四月廿三日。】。

[やぶちゃん注:「品川新宿牛頭天王」「品川区」公式サイト内の「東海道品川宿のはなし 第10回」によれば、『品川宿の6月の行事は貴布禰社』(きふねしゃ)『(今の荏原神社)と北品川稲荷社(今の品川神社)の牛頭天王祭から始ま』るとある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「文化八年」一八一一年。

「血暈」産後に「血の道」で、眩暈(めまい)がしたり、体が震えたりする病気。「血振(ちぶるい)」とも呼ぶ。

「芝神明社家」現在の東京都港区芝大門一丁目に鎮座する芝大神宮。一時期には准勅祭社とされた東京十社の一社であった。

「文政八年乙酉」一八二五年。

「印行して」瓦版にして。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 僞男子 / 「兎園小説余禄」巻一~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、改行を施した。標題は「にせなんし」と読んでおく。

 

   ○僞男子

麹町十三丁目なる蕎麥屋の下男に【「かつぎ男」といふものなり。】吉五郞といふものあり。

此もの實は女子也。人、久しく、これを知らず。

年、廿七、八許《ばかり》、月代《さかやき》を剃り、常に、腹掛を、かたくかけて、乳を顯さず。

背中に、大きなる、ほり物あり。俗に「金太郞小僧」といふものゝかたちを刺《ほ》りたり。この餘《ほか》、手足の甲までも、ほり物をせぬところ、なし。そのほり物に、ところどころ、朱をさしたれば、靑・紅、まじはりて、すさまじ。

丸顏、ふとり肉《じし》にて、大がら也。

そのはたらき、男に異なること、なし。

はじめは、四谷新宿なる引手茶屋にあり。そのゝち、件の蕎麥屋に來て、つとめたりとぞ。

[やぶちゃん注:「引手茶屋」遊廓で遊女屋へ客を案内する茶屋。江戸中期に揚屋(あげや)が衰滅した江戸吉原で、特に発達した。引手茶屋では、遊女屋へ案内する前に、芸者らを招いて酒食を供するなど、揚屋遊興の一部を代行した形であった。そこへ、指名の遊女が迎えにきて、遊女屋へ同道した。引手茶屋の利用は上級の妓女の場合に限られたから、遊廓文化の中心的意義を持った(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

誰いふとなく、

「渠《かれ》は、『僞男子』也。」

といふ風聞ありければや、四谷大宗寺橫町なる博突うち、これと通じて、男子を、うませけり。是により、里の評判、甚しかりしかば、蕎麥屋の主人、吉五郞には、身のいとまをとらせ、出生の男子は、主人、引とりて、養育す。

[やぶちゃん注:「四谷大宗寺橫町」(よつやだいそうじよこちやう)は現在の新宿区新宿一・二丁目相当。]

かくて、吉五郞は、木挽町のほとりに赴きてありし程、今茲、天保三年壬辰秋九月、町奉行所へ召捕られて入牢したり。これが吟味の爲、奉行所へ召呼るゝとて、牢屋敷より引出さるゝ折は、小傳馬町邊、群集して、觀るもの、堵《かき》の如くなりしとぞ【こは、十一月の事なり。】。

[やぶちゃん注:「天保三年壬辰」一八三二年。]

或は、いふ。

「此ものは、他鄕にて、良人を殺害《せつがい》して、迯《にげ》て、江戶に來つ。よりて、『僞男子』になりぬ。世をしのぶ爲也。」

など聞えしかども、虛實、定かならず。

四谷の里人に、此事をたづねしに、何の故に男子になりたるか、その故は詳《つまびらか》ならず。

四谷には、渠に似たる異形《いぎやう》の人、あり。

四谷大番町なる大番與力某甲の弟子《おとうとご》に、「おかつ」といふものあり。幼少のときより、その身の好みにやありけん、よろづ、女子《によし》のごとくにてありしが、成長しても、その形貌を更めず、髮も髱《たぼ》を出し、丸髷にして櫛・笄《こうがい》をさしたり。

[やぶちゃん注:女性の結髪の後部に張り出した髪を、撓めて作った、襟首に下がる部分の名称。日本髪の美しさのポイントとなる部分である。]

衣裳は勿論、女のごとくに廣き帶をしたれば、うち見る所、誰も男ならんとは思はねど、心をつけて見れば、あるきざま、女子のごとくならず。

今茲は【天保三年。】四十許歲《しじゆうばかりのとし》なるべし。妻もあり、子供も幾人かあり。

針醫を業とす。四谷にては、是を「をんな男」と唱へて、しらざるもの、なし。年來《としごろ》、かゝる異形の人なれども、惡事は聞えず、且、與力の弟なればや、頭より、咎《とがめ》もあらであるなれば、彼《かの》「僞男」吉五郞は、此「おかつ男」をうらやましく思ひて、男の姿になりたるか。いまだ知るべからず、といへり。

とまれかくまれ。珍說なれば、後の話柄になりもやせん、遺忘に備《そなへ》ん爲にして、そゞろに記しおくもの也。

 

兎園小說餘錄第一 

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鼠小僧次郞吉略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 ご存知、義賊として知られる「鼠小僧次郎吉」(寛政九(一七九七)年?~天保三年八月十九日(一八三二年九月十三日)の記事。彼については、当該ウィキが詳しいので参照されたい。]

 

   ○鼠小僧次郞吉略記

此もの、元來、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ。いとはやくより、放蕩無賴なりけるにや。家を逐れて武家の足輕奉公など、しけり。文化中、箱館奉行より町奉行に轉役して、程なく死去せられし荒尾但馬守の供押を勤め、其後、荒尾家を退きて、處々の武家に渡り奉公したり。依ㇾ之、武家の案内に熟したるかといふ一說あり。寔に[やぶちゃん注:「まことに」。]稀有の夜盜にて、この十五ケ年の間、大名屋敷へのみしのび入て、或は長局、或は納戶金をぬすみたりしといふ。その夜盜に入りける大名屋敷、凡、七十六軒、しのび入て、得ぬすまざりける大名屋敷十二軒、ぬすみとりし金子、都合三千百八十三兩二分餘、【軒別・金別は「聞まゝの記」にあり。】是、「白狀の趣なり。」とぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「木挽町の船宿某甲が子なりとぞ」当該ウィキでは、『歌舞伎小屋』『中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる』(注に『愛知県蒲郡市という説もあるが、日本橋説の方が有力である』とある)としており、以下の荒尾但馬守以下と合わせて、もう、この頃には、あることないことの「鼠小僧伝説」が始まっているようである。

「文化中」一八〇四年から一八一八年まで。徳川家斉の治世。

「荒尾但馬守」荒尾但馬守成章。詳細事績不詳。町奉行は文政三(一八二〇)年から文政四(一八二一)年一月まで務めてはいる。芥川龍之介「戯作三昧」(リンク先は私の古い電子化。も別ページである)の「七」で、鼠小僧に言及した馬琴の話相手の本屋和泉屋市兵衛の台詞の中にも、この話が出るが、これは、現在、研究家によって「戯作三昧」 の典拠の一つとされる饗庭篁村の「馬琴日記紗」の「鼠小僧の事」がソースとされているので、ループしてしまっているので、原拠は不明である。

「供押」「ともおし」か(同前の「戯作三昧」の「七」で、市兵衛は『御供押し』と出る。中間(ちゅうげん)、或いは、その下の位か。

「長局」(ながつぼね)は、長く一棟に造って、幾つにも仕切った女房の住居。宮中・江戸城・諸藩の城中などに設けられていたとあるので、謂いとしては、相応しくない。]

かくて今茲[やぶちゃん注:「こんじ」。]【天保三壬辰年。】五月[やぶちゃん注:ここに底本では囲み字で『原本脫字』とある。]の夜、濱町なる松平宮内少輔屋敷へしのび入り、納戶金をぬすみとらんとて、主候の臥戶の襖戶をあけし折、宮内殿、目を覺して、頻に宿直の近習を呼覺して、「云々の事あり。そこらをよく見よ。」といはれしにより、みな、承りて見つるに、戶を引あけたる處、あり。「さては、盜人の入りたらん。」とて、是より、家中迄、さわぎ立て、殘す隈なく、あさりしかば、鼠小僧、庭に走出、屛[やぶちゃん注:塀(へい)。]を乘て、屋敷外へ「摚」[やぶちゃん注:「だう」。「支える・拒む・遮る」の意であるが、ここは、「ドン!」というオノマトペイアである。]と飛をりし折、町方定廻り役【榊原組同心大谷木七兵衞。】夜廻りの爲、はからずも、その處へ通りかゝりけり。深夜に武家の屛を乘て、飛おりたるものなれば、子細を問ふに及ばず、立地(たちどころ)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では漢字は『立処』。]に搦捕たり。扨、宮内殿屋敷へしのび入りしよし、白狀に及びしかば、留守居に屆けて掛合に及びしに、「途中捕りの趣に取計くれ候樣」賴[やぶちゃん注:「たのむ」。宮内殿の留守居が主語。]に付、右の趣に執行ひて[やぶちゃん注:「とりおこなひて」。]、向寄の町役人に預け、明朝、町奉行所へ聞えあげて、入牢せられ、度々、吟味の上、八月十九日、引廻しの上、鈴森に於て梟首せられけり。

このもの、惡黨ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩をうけたる惡黨、おのおの、牢見舞を遣したるも、いく度といふことを知らず。刑せらるゝ日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には白練[やぶちゃん注:「しろねり」。]のひとへをかさね、襟に長總の珠數をかけたり。年は三十六、丸顏にて、小ぶとり也。馬にのせらるゝときも、役人中へ丁寧に時宜をして、惡びれざりしと、見つるものゝ話也。この日、見物の群集、堵[やぶちゃん注:「かき」。垣。]の如し。傳馬町より日本橋、京橋邊は、爪もたゝざりし程也しとぞ。鼠小僧の妹は、三絃の指南して、中橋邊にをり、召捕られし折まで、妹と同居也しといふ。虛實はしらねど、風聞のまゝを記すのみ。

[やぶちゃん注:「越後縮」(えちごちぢみ)は麻織物の一種。新潟県魚沼地方を主産とする。カラムシ(双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )を用い、地の縦糸に強い撚りをかけて織り上げることで、ちじみしぼ(皺)をつけた主に夏用の織物のことを言う。

「帷子」「かたびら」。裏地を付けない一重のこと。

「白練のひとへ」「ひとへ」は「單衣」で、生糸で織った練られていない真っ白な絹で作った小袖(袖口の小さく縫いすぼまっている着流し風の上着)を言うかと思う。

「長總」「ながふさ」で、「小さなものが集まって垂れ下がっているもの」を言う。

「中橋」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 西丸御書院番衆騷動略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 なお、本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。本事件については、より詳細な松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」を先に電子化注しておいたので、そちらをまずは読まれたい。静山は立場上、より詳しい一次資料文書を記しているからである。

 

   ○西丸御書院番衆騷動略記

西丸御書院番松平外記、其相番に遺恨有ㇾ之。文政六年癸未四月廿二日申の時、於西丸御書院番部屋、及刄傷者如ㇾ左。

          西丸御書院番

            酒井山城守組

          高八百石 卽死  本 多 伊 織

                    年五十八歲

          高八百石 卽死  沼 間 左 京

                    年二十一歲

           式部卿殿用人

             戸田可十郞忰

          高三百石 卽死  戶田 彥之丞

                   年三十二歲

          高三百石 手負  間部 源十郞

                   年五十八歲

          高千五百石 手負 神尾 五郞三郞

                     年三十歲

           西丸御小納戶

             松平賴母伜 

          高三百石 自害  松 平 外 記

                   年三十三歲

一、右相手五人の内、三人者、卽死す。二人は、手負也。此内、一人は、翌日、死す。御書院番部屋二階にての事也。迯去者も有ㇾ之。後及御吟味云。

        其節の外科 天 野 良 節(養イ)

[やぶちゃん注:「養イ」は別な一本では「良養」とするの意。]

一、松平外記者、即時に自害せし也。右遺恨の趣は、御番所新加入の時、故老のともがら、慮外非法[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『非道』。そちらの方が躓かない。]擧動有ㇾ之。依ㇾ之、外記、度々、恥辱に及びしかば、堪忍なりがたく、今日、擊果せし也。懷中に書置有ㇾ之。

一、外記の目ざす相手は、本多伊織と外に一人あり。その人、この日、當番ならざりければ、必死を免れしといふ風聞あり。姓名、憚あれば、略ㇾ之。

當日、番頭酒井山城守と、御目附新庄鹿之助と、内談して、「この儀、内濟にせん。」と執計ひしに、上より御沙汰有ㇾ之。依ㇾ之、内證にて不相濟御詮議の上、酒井山城守、御目附加番新庄鹿之助、本番阿部四郞次郞は御役被召放訖。この日、相番の御番所も、小普請入被仰付、しもの、多く、有ㇾ之【阿部は本番なれども、この日、「いたはることあり」とて、新庄をたのみて、登城せず。翌日、出仕して、新庄とともに御咎を蒙りしとなり。】

[やぶちゃん注:「内濟」(ないさい)は、表沙汰にしないで(この場合は殿中刃傷であるから、当然、正式な幕閣に於てするべき評定を指す)をせずに、内々で事を済ませること。]

一、當日相番の何がし、うろたへて自分の屋敷まで迯かへりしを、所親、諫めて推戾したりなどいふ風聞もありけり。彼故老の輩、非法多かりし中に、外記の着たる肩衣の紋を、墨にてぬり消したること、しばしばなり。その肩衣は御紋つきもありしを、憚らで、ぬり消したりとぞ。外記殿の叔母は、御本丸の老女なりければ、その前日に件のぬりけされたる、御紋服の肩衣の御紋を、いくつか切ぬきて、ふみ箱に收め、叔母御へ委細を消息して、「かゝる事も候へば、堪忍なりがたく、覺悟仕りたり。」など聞えしかば、その叔母御より、ひそかに上へも聞えあげられしにや。上には、はやく知食て[やぶちゃん注:「しろしめされて」。]、廿二日の騷動の折、西丸へ御たづねの旨、あらせられしにより、西廳にも驚せ給ひて、御沙汰ありしかば、頭のはからひ、いたづら事となりて、御咎をかうむりたり、なんど、いふ。これらは下の風聞なれば、虛實はしらねど、さもあらんかと、ある人、いひけり。

一、松平外記、實は二十七歲也。居屋敷は築地小田原町にあり。父松平賴母は御納戶御膳番にて、年來、奉公の人也。外記自害の上は、父に、咎め、なし。相替らず勤めらるゝと言。部屋住たるによりて也。

[やぶちゃん注:かく書かれているが、アップ・トゥ・デイトな松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」、及び、ウィキの「千代田の刃傷」及び「松平忠寛」によれば、父松平忠順は御役御免となっているが(心情から、とても続けてはいられぬであろう)、改易はされていないし、忠寛の子が家督も継いでいる。]

一、外記殿、この日、登城の折、用人某、「明日、おん迎は例刻に可指上哉。」と問[やぶちゃん注:「とひ」。]まうせしに、「否、迎は入らず。大かた、駕にて退出するならん。」といはれしを、こゝろ得がたく思ひしに、果して、この凶事ありしとぞ。

一、この年、本多伊織の門松のほとりへ、正月元目の朝、かひ犬が、人の首を啣來て[やぶちゃん注:「くはへきて」。]、捨置たり。未曾有の事なれば、驚きあやしまざるものもなく、主も家來も、いまいましがりて、はやくとり隱せしが、四月に至りて、かゝる珍事あり。「その身は、枉死したりける前兆なりしを、後に知る。」といふ。ある人の話也。

この頃、例の落頌落首、いくらともなく、いでたり。抑、「この騷動ありしより、御番所の風儀、改りて、新加入の人、動[やぶちゃん注:「やや」。]易くなりぬ。この外記の恩澤也。」など、いひけり。

[やぶちゃん注:「枉死」(わうし)は、災害に遭遇したり、殺害されたりして、非業の死を遂げることを言う。なお、他に「冤罪で死ぬこと」の意にも使う。]

按ずるに、寬永五年十一月六日の夜、西丸御番所奈良村孫九郞、その相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門に遣恨ありて擊果したり[やぶちゃん注:「うちはたしたり」。]。是、則、大猷院樣御代にて、今を距[やぶちゃん注:「へだた」。]ること百九十六年、前後、兩度、かゝる珍事あり。奈良村氏の事は、「寬永年錄」に見えたるを、左に抄錄す。

[やぶちゃん注:「寬永五年十一月六日」一六二八年十二月一日。馬琴の言うように、「年錄」(江戸幕府の諸役所で公務について記した日記を類を指す。現在はその中の幾つかが、写本編纂されて、いくつかの伝本が伝えられてある。国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、この写本の、確かに、寛永五年十一月六日のここからで確認できた)に載っている。但し、この事件、殿中刃傷事件(死者は結果して一名)であるにも拘わらず、ネット上の記載が、何故か、頗る少ない。しかも、

その事件発生時制をネット上の数少ない記事では、圧倒的に「寛永四年」としている

のである(出典不詳)。而して、

もし、この寛永四年が正しいとするなら、実は、この事件が――殿中刃傷の最初――ということになる

のである。雑学専門サイト「草の実堂」のrapports氏の『江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」』(こう標題しているものの、以下に見る通り、本事件が事実としての最初の刃傷とされている)で、「実は」の標題で、

   《引用開始》

実は「豊島重明事件」が起きる前の寛永4年(1627年)116日に、小姓組・楢村孫九郎が木造三左衛門と鈴木宗右衛門を襲った事件が起きた。

江戸城名で一緒に勤めていたものの喧嘩が原因で楢村孫九郎が抜刀したが、木造三左衛門と鈴木宗右衛門は逃げて無事だった。しかし止めに入った別の2人が大怪我を負い、その内の1人が落命している。

襲った楢村孫九郎は切腹となったが、逃げた木造三左衛門と鈴木宗右衛門は「卑怯」として家名断絶となっている。

武闘派で知られる小姓組内で起きた出来事だったが「逃げた」という点で余り表には出ることもなく、「豊島重明事件」が殿中での最初の事件だとされている。

   《引用終了》

とあるのである。ネット上では、何故か、少ない記載であるにも拘わらず、皆、一様に、刃傷犯人の名を「奈良村」ではなく、「楢村」としているから、彼らの引用ソースは国立国会図書館デジタルコレクションのそれではないことは明白である。なお、「wikiwand」の「曾我近祐」(そがちかすけ)に(太字は私が附した)、『江戸時代前期の幕臣』で、後に『大坂町奉行』となったとし、寛永三(一六二六)年に二百俵で出仕し、『寛永4年(1627年)116日夜、西の丸小姓組の同僚楢村孫九郎が木造三郎右衛門・鈴木久右衛門に刃傷に及ぶ事件が発生する。居合わせた近祐は倉橋忠尭とともに傷を受けながらも』、『即座に孫九郎を取り押さえた。この功により』、『下総国小金領400石を与えられ、後に1020石に加増さ』れた、とある。ここでも寛永四年である。なお、この刃傷の原因は、「年錄」でも、『遺恨』とのみあって、具体的な内容は判らない。

一、十一月大、云々、同月【寬永五戊辰年。】六日夜戊刻、西之丸にて御番所察良村孫九郞と申人、相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門兩人に、意趣にて切かゝり申候。兩人手負、全、敗北。介橋惣三郞と申者、相手には無ㇾ之候へ共、中へ入、深手を負、當座に相果申候。曾我又左衞門孫九郞を組留申候。夜中、燈をふみけし、殊の外、殿中諍動[やぶちゃん注:「じやうどう」。]、諸人、多く、馳參候。

一、鈴木、木造、日來、奈良村をあなどり、堪忍難ㇾ成候得共、相手二人に御座候間、一處に打果し可ㇾ申と存、相待候處、今夕、すでに御夜詰、過申候時、又慮外の儀候間、孫九郞、是をとゞめ、切かゝり申候。此節、相番所、皆、以、小脇指相口[やぶちゃん注:「あひくち」。匕首(歴史的仮名遣:あいくち)鍔のない短刀。懐剣の類。]にて、突留可ㇾ申外無ㇾ之候。孫九郞は、心がけ、日暮時分より、大脇ざしを、つゞらより出し、指替罷在候間、何も[やぶちゃん注:「いづれも」。]刀は手遠に置、小脇指計[やぶちゃん注:「ばかり」。]にて、むかひ、夜中の事なれば、大脇指にて、切たてられ、難儀不及是非。其後、火をたて、幸、鎭り[やぶちゃん注:「しづまり」。]、則、孫九卽は永井信濃守へ御預け被ㇾ成。十一月十三日に、於信濃守所切腹被仰付候。廿四歲。信濃守家來鈴木長作介錯之。孫九郞辭世、

    はたちあまり四ふゆの空の飛鳥川誰わが跡のなきをとはまし

一、其頃、歌人の聞えありし、信濃守内、佐賀和田喜六が、奈良村を追善に詠歌【詞書あり。今、略ㇾ之。喜六は、奈良村と竹馬の友なりしよし、詞書に見えたり。】、

 南  夏さびしわが身ならずば大かたの

       世のことわりに聞ましものを

 無  むら雨のさだめなき世のならひをも

       しらずがほにてぬるゝ袖かな

 阿  あはれてふことのみわびて世の人の

       わればかりなるなげきせましや

 彌  みづくきのあとをとゞむる袖の上は

       かはくときなきものにぞ有ける

 陀  たれか世にあはれをかけぬ人やあると

       とへばこたへずためしなの身や

 佛  ふたつなくみつなき法のちからにて

       にしにうまれん人をしぞおもふ

  寬永五年霜月十六日     高  昌 俊

[やぶちゃん注:「永井信濃守」当時、老中であった永井尚政(なおまさ 天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)。上総国潤井戸藩主・下総国古河藩二代藩主・山城国淀藩初代藩主。当該ウィキによれば、『東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する』とある。

「佐賀和田喜六」不詳。

「高昌俊」不詳。]

 今の御番所は、かゝる事ありとだに聞もしらぬが

 多かるか。さればにや、前車の誡に、うとくして、

 家をほろぼし、身をうしなふに至れり。怕るべし、

 つゝしむべし。

[やぶちゃん注:「前車」(ぜんしや)「の誡」(いましめ)は「前車の覆(くつがへ)るは後車の戒め」は「誰かの失敗は後に続く者の戒めとなること」の喩え。中国で古くから使われている諺。例えば、「漢書」の「賈誼(かぎ)伝」に、紀元前二世紀の文人賈誼の文章に、「短期間しか続かなかった秦王朝の失敗からも学ぶことがある」ということを述べるために、「前車の覆るは、後車の誡」(前を走る車が転覆することは、後から行く車にとって戒めとなる)と引用されており、同様の表現は、「大戴礼記」の「保傅」(ほふ)や、「呉越春秋」の「勾践(こうせん)帰国外伝」などにも見られる(円満字二郎編「故事成語を知る辞典」に拠った)。]

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