[やぶちゃん注:挿絵は今回も最も鮮明な、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。]
○杉田彥左衞門天狗に殺さる
武藏國榛澤郡(はんざはのこほり)に、杉田彥左衞門といふ者あり。心操(こころばせ)、不敵にして、物におそれず。
年二十(はたち)のころより、日光の今市(いまいち)、月每(つきごと)、三たびの市(いち)に、必らず、行《ゆき》むかひ、歸り足(あし)には、山賊して、道行く人を追ひたふし、或《あるい》は、はぎとり、或は、打《うち》ころし、家の内、財寶、豐かなり。
十七、八人、ゆるゆると、世をわたり、不足なる事、なし。
ある年の九月に、今市より、馬にのりて歸るに、板橋(いたはし)のあひだにして、日光山の「孫太郞」といふ天狗あり、その身を化(け)して、長(たけ)九尺[やぶちゃん注:二メートル七十三センチメートル弱。]ばかりの山伏となり、大道(《だい》だう)に立《たち》ふさがる。
乘りたる馬は、身ぶるひして、すくみて、すゝまず。
彥左衞門、刀の反(そり)をまはし、柄(つか)に手をかけ、
「汝は日光の孫太郞か。その道、あけよ。馬を通さん。」
と、いへば、山ぶし、かたはらに退(のき)ざまに、
「さもあれ、來年四月十五日には、必らず、汝を、とるべきもの。」
とて、たちまちに、すがたを、見うしなひけり。
彥左衞門、元來、したゝかものなりければ、物ともせず、駒に鞭うつて、宿(やど)に歸る。
何となく、すさまじきやうにおぼえて、それよりは、日光へもゆかず、年も暮《くれ》て、春になり、二月の末つがたより、心地、よろしからず。
かなたこなたするあひだに、四月になりて、いよいよ、わづらひ、おもく、つひに十五日にいたり、くるしみ、甚だしく、大熱・狂亂して、死(しに)たり。
國西寺(こくさいじ)の國道和尙を引導の師として、稻荷の家より、葬禮をいだしけるに、風、あらく、雨の降(ふる)事は、うつすがごとく、墓所(むしよ)ちかく成《なり》しより、いなびかり、荐(しき)りにして、はたゝ雷(かみなり)、すでに、棺のうへに、おちかゝるやうに、おほひて、空に、聲ありて、
「その尸骸(しがい)を、こなたへ、御わたしあれ。」
といふ。
和尙は、
「一たび、契約して、師旦(しだん)となれり。たとへ、いか成事ありとも、此屍(かばね)は、わたすまじ。」
とて、菊一文字の脇指をぬきけるを、いかづち、おちかゝり、脇指をもぎとり、ねぢゆがめて、去りければ、かばねは、とられもせず、空、晴(はれ)たり。
心しづかに引導し、跡、よく、彌(いよいよ)、とぶらひ申されけり。
その脇指は、なほ、今も、この寺の什物(じうもつ)なり。
後(のち)に和尙の語られしは、
「杉田彥左衞門は、その心ね、ふてきにして、力つよき、したゝかものなり。おのれがつよき心よりして、人をば、物とも思はず、佛神天たう[やぶちゃん注:「天道」。]の冥慮(みやうり)をも慙(はぢ)おそれず、ほしいまゝに惡行(あくぎやう)をいたし、人をころし、財物(ざいもつ)をうばひ、只、よこしまをもつて、身のかざりとす。此故に、かゝるあやしき事も感じけり。『妖は、妖より、おこる。』といへり。邪氣、勝つときは、正氣(しやうき)をうばふとかや。我が心(しん)、すなはち、邪氣のもとゝなる故に、やがて、正氣をうばはれて、妖怪に、あふなり。『まなこ[やぶちゃん注:「眼」。]に一翳(えい)あれば、空花(くうげ)、散亂す。』といへり。虛空(こくう)、もとより、花ありて散(ちる)にはあらず。まなこにやまひありて、こくうのあひだに、花のちるを、みるがごとし。正氣正念の時には、外《そと》の妖邪は犯す事、なし。佛法の中に、をしゆるところ、世間の五塵六欲の境界(きやうがい)の、この心法(しんぼふ)をうばはれて、ゆきがたなく、とり失なひ、常に、まようて、くるしみを、うく。そのこゝろをとりもどして、とゞめ得たる所にこそ、靈理ふしぎの正見正智(しやうけんしやうち)は出生(しゆつしやう)すべけれ。此正念を萬境(ばんきやう)にうばはれて、蟬のぬけがらのごとくならば、もろもろの妖邪は、しばしば、犯すに、たより、ちかし。たとへば、守(まも)りおろそかなる家には、盜人(ぬすひと)の入易(《いり》やす)きが如し。又、それ、天地廣大の中には、奇怪ふしぎの事、あるまじきにもあらず。人に魂魄(こん《ぱく》)あり。その精氣(せいき)、正心(しやうしん)なれば、正理にして、非道、なし。正念にして非義なく、德、おのづから備はるをもつて、妖邪、をかさず[やぶちゃん注:ママ。]。みづから、おこなふて、正心正念を返しもとむる事のかなはざる愚人(ぐにん)は、神に祈り、佛を賴みて、うやまひ、たふとびて、信を生ずれば、神力佛力(しんりきぶつりき)に依(より)て、おのづから、正念に成(なる)なり。そのかみは、關東がた、人、死すれば、火車(くわしや)の來りて、尸(かばね)を、うばひとり、ひき割(さき)て、大木の枝に懸置(かけおき)たる事もおほかりしを、今は、佛法のをしへ、ひろく、諸人、みな、後世(ごせ)をねがひ、佛神をたふとび、ふかく信心をおこし、正直正念に成たる世なれば、火車の妖怪も稀に成侍べり。只、おそるべきは、我らの惡行(あくぎやう)・まうねんなり。地ごく・鬼畜も餘所(よそ)よりは來らず、みづから、招く罪科(つみとが)なり。此たび、仕損じては、二たび返らぬ一大事ぞ。ふかく信じて、ねがひ、もとむべきは、佛果菩提の道なり。」
とぞ、ねんごろに、
すゝめられける。
狗波利子卷之六終
[やぶちゃん注:「武藏國榛澤郡(はんざはのこほり)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注によれば、『「和名抄」所載の郷。同書名博本に「ハンサワ」の訓がある。諸説はいずれも現埼玉県大里郡岡部町の榛沢・岡部を中心とする一帯としている。元亀二年(一五七一)頃、半沢郡で本山修験がさかんとなる(『埼玉県の地名』日本歴史地名大系11)。』とある。現在は大里郡岡部町は深谷市に編入されている。榛沢はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、東南の飛んだ位置に岡部がある。
「杉田彥左衞門」不詳。
「日光の今市(いまいち)」現在の日光市今市。荒っぽく実測しても、片道百二十八キロメートルはある。江本氏の注に(抜粋)、先立つ『中世では現在の日光から今市市域に残る頼朝街道は、日光山から七里・野口、千本木・明神・小代を通り、宇都宮方面へとのび、日光山と鎌倉を結ぶだけでなく、各地から日光山へ詣でる信仰の道でもあった。また、今市村では、会津など奥羽南部と関束を結ぶ物資流通の拠点で一七世紀後半から、会津街道沿いの村民は木製品・藁加工品などを持馬に積んで運び込み、帰路に米や生活必需品を積んで売り込む仲付稼を行った。一・六の六斎市も立ち、穀物問屋が多かったという(『栃木県の地名』目本歴史地名大系9)。』とある。「仲付稼」とは、「仲附駑者(なかづけどじゃ)」で、江戸初期から明治初年まで、会津地方と日光・今市を結ぶ会津西街道(「南山通り」「下野街道」「中奥街道」とも称した)を中心に発達した物資輸送業者やその組織を指す。「中付」「中付馬」「駑舎」とも称した。
「月每(つきごと)、三たびの市(いち)」江本氏の注に、『三斎市のことか。毎月三回定期に開かれた市。中世の市は三歳市が多かった。』とある。「三斎市(さんさいいち)」は中世より、一ヶ月に三回、定期的に開かれた市で、各地に「四日市」「五日市」など、開催日にちなんだ地名に、その名残りがある。
「十七、八人」彼は盗賊集団に首魁であったようである。
「板橋(いたはし)」江本氏の注に、『板橋村。今市市板橋。壬生通の宿場。北は上沢村、東は河内郡木和田島村、南は文挟宿』(ふばさみしゅく)。『文挟宿までは三三町と近いため、日光方面へは今市宿まで、江戸方面へは当宿から文挟を通り越して鹿沼宿まで往復継ぎ立てた。三光神社・栖克』(すみよし)『神社がある。旧板橋宿の中央にある高野山真言宗福生寺には、板橋将監の位牌がある(『栃木県の地名』日本歴史地名大系9)。』とある。現在の日光市板橋(いたばし)。今市の南東七キロメートルの位置にある。
『日光山の「孫太郞」といふ天狗』江本氏注に、『栃木県下都賀郡駒場村岩舟山高勝寺で祀られているらしい。『大日本地名辞書』「岩舟山」の項目に、「国誌云、岩舟山は宝亀年中…是は当山の奥の院、地主権現の祠あるを、近隣の俗は孫太郎天狗と唱えて、昔は折ふし神かくしと云ふ事ありしといへばなるべし…」とある。』とある。公式サイトを見ると、現在の住所表記は栃木県栃木市岩舟町静で、真言宗「岩船山高勝寺」である。サイト「異類の会」の林京子氏「下野岩船山高勝寺奇譚―怪奇・天狗・霊験―」(報告発表の要旨レジュメ)に、興味深い内容があったので、以下に引用しておく。
《引用開始》
・岩船山は栃木県の南部に位置し、街道の分岐点のランドマークであり、日光と江戸城を結ぶライン上に位置する為、寛永期に寛永寺系列の寺院として山上に高勝寺が草創された。岩船山では多くの特撮ドラマが撮影されサブカル聖地として多くの巡礼者が訪れる。巨岩(岩船)付近ではブロッケン現象が見られる。それが神仏の示現=生身の地蔵の出現とされ法師の身体を裂いて地蔵が出現する絵が描かれた 。享保4年岩船地蔵は流行神となって山を下り、関東一円を巡行した。その理由は現在も不明である 。
・岩船山のメインの信仰は死者供養・水子供養・子授け祈願である。本堂の裏山に卒塔婆を建てる現行の死者供養の習俗は近代日本の戦死者供養との関連で発展してきたと推測される。「西院の河原」は子どもの死者を供養する場所とされる。水子供養が社会現象化すると、高勝寺は江戸時代から水子供養を行っていると主張して多くのメディアに登場した。子授け祈願では、呪物の下付や岩船と孫太郎(後述)を巡拝する宗教儀礼が行われる。平成10年頃奥の院と岩船は複製され、震災で本来の岩船は忘却される。中岡俊哉氏のような超常現象研究家や霊能者が多数岩船山を訪れ寺側は彼らから影響を受けている。
・高勝寺本堂には聖なる生身の地蔵と高勝寺の怪奇譚である「お玉の怨念の刀」や様々な怪奇なモノが同居。
・岩船山山頂には天狗である「孫太郎尊」を祀った寺の堂舎がある。かつては元旦講があり、高勝寺よりも参詣者が多かった。寺では現在も天狗のお札を配布しているが、その姿は吒枳尼天に近く、また稲荷要素も混ざっている。明治31年以降、孫太郎尊は「岩船神社」と呼ばれ多くの人の尊崇を集めた。岩田重則は戦時下天狗が流行神として現出したという見解 を取っているが孫太郎尊も同様と思われる。
・昭和30年頃には30万人が供養(戦死者?)のために彼岸の岩船山に押し寄せ、彼らを目当てに死者の口寄せをする人や傷痍軍人達も集まった。昭和の終わりには岩船石の採掘による振動で孫太郎本殿は倒壊した。
・佐野市にも孫太郎稲荷がある。平将門を討った田原藤太秀郷により天明の春日ノ岡に建てられた寺の鎮守でその後13世紀に。秀郷の子孫の足利孫太郎家綱が神社を修復し「孫太郎明神」とよばれるようになった。奈良の薬師寺の「孫太郎社」は佐野の分祀であるそうだ。栃木県では民間宗教者が祀っていたマタラ神=ダキニ天を、その後「稲荷」と呼び換える例がある 。お玉も稲荷である。佐野の孫太郎と岩船山の孫太郎も別々の場所で祀られているだけで同一ではないか。
・寛永寺子院浄名院の妙運は庶民の信仰の側に立つことを決意し、自らを地蔵比丘と名乗り八万四千躰地蔵建立運動を開始する。人々は妙運を生き仏として熱狂的に支持し、妙運が日光に異動すると彼の分身の地蔵が信者の家を巡行するようになった。1980年頃池袋方面を巡行していた地蔵は行方不明となった。
・池袋在住のKさん(女性)は、巡行地蔵の信者で巡行地蔵が来なくなり自分で地蔵を建立し家で奉斎していたが、偶然岩船山に来て強い感銘を受けて自分の墓をここに作った。2020年の夏、Kさんは亡くなり、遺族の願いで石地蔵は本堂に遷座した。妙運は転生して岩船山に帰還したのである。
【まとめ】
・恐山や川倉地蔵堂などと同じように、高勝寺は戦争を契機として知名度を高めた。現在の塔婆の景観と「死者に会える場所:供養霊場」という言説は戦没者に対する多くの人々の慰霊行動が創り出したものであろう
・高勝寺では死者供養と子授け、生と死が表裏一体であるので、怪奇なモノと聖なるモノが混然としており寺は近世の創建からずっと民間宗教者や様々な言説から都合が良いものを取り込み続けている。
・岩船山は変身ヒーロー縁起のはじまりの場所であり、現在も人智を超えた霊験が現実世界に噴出している。装いを変え、文脈を組み替えて、分厚い信仰の古層の中から再構築され続ける岩船山の宗教民俗を今後も注視していきたい。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
「國西寺(こくさいじ)」不詳。江本氏も未詳とされる。
「國道和尙」同前。
「稻荷の家」不審に思ったが、江本氏の以下の注で腑に落ちた。『『新編埼玉県史』によると「埼王県では普通イッヶとかイッキとかいうことばで本分家関係を表現する。この本分家関係で社を祀る同族も多い。県内では同族で祀る神をもっていても、自宅の敷地内には屋敷神を祀るという家が一般的。地方によって多少異なる。祀る社の神は、稲荷・諏訪・お手長様(天手長雄命)・天狗(大山祗命)など様々であるが、伏見稲荷大社の影響も強く、稲荷が多い。祭場は同族の本家筋や、その社の勧請などに由来する家で祀るのが一般的で、敷地内や所有する山林などに石宮や木造の宮を建てている」。「武井稲荷と呼ばれている社が大里郡岡部町後ろ榛沢にあり、武井イッケで祀っている。この稲荷には武井イッケの人たちだけでなく、近所の人が事ある毎に参拝し、病気平癒の祈願などでお百度参りもされている」とある。』とあった。
「はたゝ雷(かみなり)」「霹靂神(はたたがみ)」に同じ。「はたたく神」の意で、激しい雷。雷を神格化した謂い。
「師旦(しだん)」江本氏の注に、『師檀か。(仏)師僧と檀那。寺僧と檀家。「師檀」(易林本)、「師且 シタン」(合類)。』とある。
「菊一文字」同前で、『一文字則宗およびその子助宗の打った太刀に、特に菊紋を切ることを許されたもの。銘には菊紋だけで、一の字は切らない。これを後鳥羽上皇の作とみる説と、一文字親子の傑作刀に特に下賜されたとみて、一文字親子の作とみる説がある。現今では前説を採っているが、則宗を菊一文字則宗と呼ぶことは後説を採っていることになる。』とある。
「和尙の語られしは……」以下、多数の仏教用語が現われるが、総て江本氏の詳細な注に譲り、ここでは略す。
「關東がた、人、死すれば、火車(くわしや)の來りて、尸(かばね)を、うばひとり、ひき割(さき)て、大木の枝に懸置(かけおき)たる事もおほかりし」江本氏の注では、『「火車」は、仏語。火炎をあげて、燃える車。『大智度論』一四によれば、生前に悪事を犯した者を乗せて地獄へ運ぶ車とされ、また『観仏三昧経』五によれば、地獄にあってそれに死者を乗せ、生前の諸悪行を責める火の車ともされる』(下略)とある。私の
「諸國百物語卷之五 二 二桝をつかいて火車にとられし事」
の注なども参照されたい。但し、私はこの叙述で、何故に、「關がた」と限定するのかが、甚だ不審である。この怪異は、私は直ちに「片輪車」を想起するからである。私の「怪奇談集」にはあまた登場するのだが、例えば、
「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」
「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」
「諸國里人談卷之二 片輪車」
などを見ても、こちらは京都の妖異であるからで、了意がどうして関東に限ったのかが、すこぶる気になるからである。了意は内心、関東の原風俗を野蛮なものと見ていたのではあるまいか?]