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カテゴリー「浅井了意「狗張子」【完】」の46件の記事

2022/03/19

狗張子惣目錄 / 「狗張子」全電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」の「惣目錄」の原本画像を視認した。内篇本文の標題とは大きく異なるものが有意にある。読みは特異なものと、振れると判断したもののみに限った。歴史的仮名遣の誤りはママである。一部で濁点がない平仮名ルビは好意的にとり、濁点を附したり、特に示さなかった読みもある。「付」は「つけたり」と読む。]

 

狗張子惣目錄

 㐧一

  序

  三保の仙境

  由井源藏、足柄山に入る事

  鳥𦊆(とりをか)彌二郞冨士垢離常陸坊海尊(ひたちばうかいぞん)が事

  守江の海中の亡魂

  島村蟹の事

  北條甚五郞出家冥途物語の事

㐧二

  交野(かたの)忠次郞、妻を疎(うとみ)て發心する事

  死して二人となる事

  武庫山(むこやま)の女仙(によせん)浦嶋が箱の事

  原隼人佐(はやとのすけ)謫仙の事

  形見の山吹

 㐧三

  伊原新三郞蛇酒を飮む事

  猪熊神子(いのくまのみこ)罪業を恐るゝ事朝日寺(あさひてら)觀音の奇瑞

  諸國修行の僧甲府の妖物(ばけもの)を薙倒(なぎたを)す事

  隅田宮内鄕(すだくないきやう)の家(いゑ)怪異(けい)の事

  大内義隆の歌(うた)人違(ひとたがい)の事

  深川左近が亡㚑(ばうれい)來世(らいせ)物語の事

  蜷川親當(にながはちかまさ)鳥部野妖物(ばけもの)に逢(あふ)事

 㐧四

  味方原軍(みたかがはらいくさ)犀(さい)ががけ幽㚑の事

  田上(たかみ)の雪地藏明阿僧都冥途に趣(おもむ)く事

  柿崎和泉守名馬を賣る事

  死骸(しかばね)音樂を聞(きひ)て舞躍(まいおどる)事

  関久兵衞非道に人を殺し家門滅却の事

  筒𦊆(つゝをか)權七塚中(ちよちう)の契りの事

  霞谷(かすみだに)妖物(ばけもの)の事

  小嶋加伯(こじまかはく)慳貪(けんどん)の報(むくひ)安養寺地獄(じごくの)變相の事

  不孝の子(こ)狗(いぬ)となる事

  雷公(かみなり)惡人を擊(うつ)事

 㐧五

  今川氏眞(いまかはうぢさね)沒落三浦右衞門最後の事

  常田合戰(ときだかつせん)甲州軍兵(ぐんびやう)幽靈の事

  男郞花(なんらうくわ)

  掃部(はつとり)新五郞遁世捨身(しやしん)の事

  宥快法師(ゆうかいほつし)柳𦊆(やなぎをか)孫四郞に愛着(あいぢやく)し蝟(けむし)となる事

  杉谷(すぎや)源次男色の辨

 㐧六

  塩田(しほた)平九郞怪異を見る事

  藤の杜彥八が子天狗道物語の事

  板垣信形(いたがきのぶかた)討死天狗奇特を現(あらは)す事

  松𦊆(まつをか)四郞左衞門が亡魂八幡に鎭祭(しづめまつ)る事

  杉田彥左衞門天狗に殺さるゝ事

 㐧七

  今川(いまかは)駿河守が細工人(さいくにん)、新(あらた)に唐船を造る事

  蜘蛛塚(くもづか)の事

  飯盛兵助(いゐもりひやうすけ)陰德の報土井が妻邪見の事

  五條の天神入江壽玄齋疫病を癒す事

  鼠の妖怪物その天を畏るゝ事

  死後の貞烈

 

 

狗張子惣目錄終

 

狗張子卷之七 死後の烈女 /狗張子(本文)~了

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)を使用し、トリミング補正し、適切な位置に配しておく。]

 

   ○死後の烈女

 

 福島角左衞門は、生國(しやうこく)播州姬路の者なり。

 久しく、みやづかへもせずして居(ゐ)たりしが、其の比(ころ)、太閤秀吉の内(うち)、福島左衞門の大夫とは、すこし舊好あるゆゑに、

「これをたのみ、しかるべきとりたてにも、あひ、奉公せばや。」

と、おもひ、故鄕(ふるさと)を出でて、都におもむく。

 明石、兵庫の浦えを過《すぎ》て、尼ヶ崎に出でて、やうやう、津の國高槻(たかつき)のほとりに至りぬれば、しきりに、のんど、かはきぬ。

 

Retujyo1

 

 路のかたはらをみるに、ちいさき人家あり。

 その家、たゞ、女房あり。

 そのかほかたちのうつくしさ、また、かゝる邊鄙(へんひ)には、おるべきとも、おもはれず。

 窓のあかりに向ふて、襪(たび)を縫ふ。

 角左衞門、立ちよりて、湯水を、こふ。

 女房、

「やすきほどの事なり。」

と、隣りの家にはしり行きて、茶をもらふて、あたへぬ。

 角左衞門、しばし、立ちやすらひ、その家の中(うち)を見めぐらすに、厨(くりや)やかまどの類ひも、なし。

 角左衞門、あやしみて、

「いかに、火を燒(た)く事は、したまはずや。」

と問ふ。

 女房、

「家、まづしく、身、をとろへて、飯(いひ)を炊(かし)きて、みづから養ふ事、かなはず。あたり近き人家に、やとはれて、その日を送る。まことに、かなしき世わたりにて侍る。」

と語るうちにも、襪(たび)を縫ふ、そのけしき、はなはだ忙(いそがは)しく、いとまなき體(てい)と見ゆ。

 角左衞門、其の貧困辛苦の體をみて、かぎりなくあはれにおぼえ、また、そのかほかたちの、優(ゆう)にやさしきに、みとれて、やゝ傍(そば)により、手をとりて、

「かゝる艶(えん)なる身をもちて、この邊鄙(へんひ)に、まづしく送り給ふこそ遺恨なれ。我にしたがひて、都にのぼり給へかし。よきにはからひたてまつらん。」

と、すこし、その心を挑(いど)みける。

 女房、けしからず、ふりはなちて、いらへも、せず。

 やゝありて、

「われには、さだまれる夫、侍り。名を藤内(とうない)とて、布(ぬの)をあきなふ人なり。交易のために他國へいづ。わが身は、ここにとゞまりて、家をまもり、つゝしんで舅(しうと)・姑(しうとめ)に孝行をつくし、みづから、女の職事(しわざ)をつとめて、まづしき中(うち)にも、いかにもして、朝暮(てうぼ)の養(やしなひ)をいたし、飢寒(きか)におよばざらん事を謀る。今、已に十年に及べり。さいはひ、明日(あす)、わが夫、かへり來る。はや、とく立さり給へ。」

と、いへば、角左衞門、大きに、その貞烈を感じ、悔媿(くいはぢ)て、僕(ぼく)に持らせたる破籠(わりご)やうの物をひらき、餠(もちひ)・果(くだ)もの、取り出だし、女房にあたへ、去りぬ。

 その夜は、山崎(やまざき)に宿(しゆく)しけるが、あくる朝(あさ)、かの女房の所に、所要の事、かきたる文(ふみ)、とりおとしけるゆゑ、跡へもどりける所に、道にて、葬禮にあへり。

「いかがなる人にや。」

と、たづぬれば、

「布商人(ぬのあきひと)藤内を送る。」

といふ。

 

Retujyo2

 

 角左衞門、大いにおどろき、あやしみて、その葬禮にしたがひて、墓所(はかしよ)にいたれば、すなはち、昨日(きのふ)、女房にあひし所、なり。

 今、みれば、家もなく、跡もうせて、たゞ、草(くさ)蕭々(せうせう)たる野原なり。

 その地を、ほり葬る所をみれば、藤内が女房の棺(くわん)あり。

 棺のうちに、あたらしき襪(たび)一雙(《いつ》さう)、餠(もちひ)・果(くだ)もの、ありのまゝ、見ゆ。

 又、そのかたはらに、古き塚、二つあり。

 これを問へば、すなはち、

「その舅(しうと)・姑(しうとめ)の塚なり。」

と。

 その年數を問へば、

「十年に及ぶ。」

といふ。

 角左衞門、感激にたへず、送りし者に、右のあらましを語り、鳥目(てうもく)など、くばりあたへて、ともに送葬の儀式を資(たす)け、かつ、跡のとぶらひの事まで、念比(ねんごろ)にはからひて、その後(のち)、都へのぼりける。

 あゝ、この女房、死すといへども、婦道(ふだう)をわすれず、舅姑(きうこ)に孝行をつくして、夫を、まつ。いはんや、その生(い)ける時は、知りぬべし。

 かの世の寡婦・室女(しつ《ぢよ》)、いやしくも、その夫をわすれて、再び、嫁し、或《あるい》は邪僻婬亂(じやへきいんらん)にして、終《つひ》にる媿(はづ)る心なきもの、多し。

 この女房の風儀をきかば、すこしく戒(いましむ)る所あらんか。

 

狗波利子卷之七終

 

[やぶちゃん注:以上を以って、浅井了意は「狗張子」を完結させることなく、白玉楼中の人となった。最後であるので、盛んに参照にさせて戴いた江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠って、注を附す。同注釈は詳細を極め、私が「伽婢子」以来のコンセプトとして、触れなかった典拠とした作品との考証も詳しい。是非、全篇をダウン・ロードして本作の優れた解説書として座右に置かれんことを強くお薦めする。

「福島角左衞門」不詳。江本氏も『不明』とされる。

「福島左衞門の大夫」織豊時代から江戸前期の大名福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)。通称は左衛門大夫。豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」の七本槍の一人として勇猛を馳せ、「小牧・長久手の戦い」や朝鮮出兵などで活躍した。文禄四(一五九五)年、尾張清洲城主。「関ケ原の戦い」では、徳川方につき、それによって安芸広島藩主となり、四十九万八千石を得たが、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五年、信濃川中島四万五千石に移封され、高井野に蟄居し、享年六十四歳(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。語りの内容からは、話柄内時制は「文禄の役」(天正二十・文禄元(一五九二)年よりも有意に以前の設定であろう。

「津の國高槻(たかつき)」現在の大阪府高槻市。江本氏の注に、『高山右近転封後、当市域の大部分は一時秀吉の直轄領となり、富田宿を含めて羽柴小吉秀勝が支配したと思われる(『大阪府の地名』日本歴史地名大系28)。』とある。

「山崎(やまざき)」江本氏の注に、『桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、川は天王山と男山の陰路部を通って山城盆地から大阪平野に出るが、その北側、天王山とその北・東・南山麓に位置する。古代以来、交通の要地(『京都府の地名』日本歴史地名大系26)。』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「室女(しつ《ぢよ》)」通常は未婚の女性を指す。ここは婚姻を約したものの、相手の男性が不幸にして亡くなったか、行方知らずになったケースを指すか。

「邪僻婬亂(じやへきいんらん)」江本氏の注に、『「邪僻」は根性のひねくれ曲がっていること。「婬乱」は色事に荒ぶ。』とある。

 以下に底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」の原本奥書画像を添えておく。

   *

 最後に。

 本篇を公開した今日は

ALSで召された母聖子テレジアの十一周忌

である。母は確かに

――優れた名にし負う――「聖」なる烈女――

であった。   ルカ直史記す

   *]

 

Inuharikookugaki

狗張子卷之七 鼠の妖怪

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)を使用し、トリミング補正し、適切な位置に配しておく。]

 

   ○鼠の妖怪

 應仁年中、京師(みやこ)四條の邊(ほとり)に、德田の某(なにがし)とて、巨きなる商人(あきびと)あり。

[やぶちゃん注:「應仁」一四六七年から一四六九年まで。所謂、「応仁の乱」は応仁元年に始まり、文明九(一四七七)年まで続いた。

「德田の某」不詳。]

 家、富(とみ)榮えて、家財、倉庫に盈(みて)り。

 其比、世、大に亂れ、戰爭、やむ時なく、ことに山名・細川兩家、權をあらそひ、野心を起こし、度々、戰ひに及びしかば、洛中、これがために噪動(さうどう)し、人みな、おそれ、まどひ、たゞ薄氷(はくひやう)を踏んで、深淵にのぞむおもひをなす。

 德田某も、これによりて、都の住居(すまひ)、物うくおもひ、北山・上賀茂のわたりに、親屬のありければ、ひそかに賴みつかはし、すなはち、賀茂の在所の傍(かたはら)に、常盤(ときは)の古(ふる)御所のありけるを、買《かひ》もとめ、山莊となして、

しばらく、此所に隱遁せんとす。

 しかれども、久しく人も住まぬ古屋敷なれば、いたく荒れはて、軒、かたぶき、牆(かき)、くづれて、凡そ、幾年(いくとし)經(へ)たる屋敷とも、しれず。

 德田、まづ、あらましに、掃除打ちして、徒移(わたまし)しぬ。

 京にある親屬、つたへ聞(きゝ)て、みな、來りて、賀儀(かぎ)を、のぶ。

 主人、よろこびて、賓客(ひんかく)を堂上(だうしやう)に請じて、饗應し、終日(ひねもす)、酒宴を催し、歌舞沈醉して、あそび、夜《よ》に入《いり》ければ、賓・主、共に、大《おほき》に醉《ゑひ》出(いで)て、前後もしらず、打ち臥しぬ。

 その夜(よ)、夜半(やはん)ばかりに、外(ほか)より、大勢、人の來(きた)る音して、急に、表の門を、たゝく。

 

Nezuminoyoukai1

 

 主人、あやしみ、門をひらきみれば、衣冠正しく、髭、うるわしき人、先立(さきだつ)て入りて、いふやう、

「是は、此屋敷の舊(もと)の主(ぬし)也。我、一人の子あり。こよひ、はじめて、新婦を迎へ侍(はんべ)り。その婚禮の儀式を執り行なはんとするに、わが、今、住所(すむところ)は、せばく、きたなし。たゞ今夜(こよひ)ばかり、此屋敷を、かし給へ。夜、あけなば、早々(さうさう)、立ち去りなん。」

と、いまだ、いひもはてぬに、はや、大勢、入りこみて、

「輿(こし)よ。」

「馬(むま)よ。」

と、ひしめき、挑燈(てうちん)、大小、百あまり、二行(ぎやう)につらね、まづ、さきへ飾り立たる輿、打ち續《つづい》て、乘物、かずかず、かき入る。

 その跡よりは、供の女房、いくら共なく、笑ひのゝしりて、來《きた》る。

 又、年のほど、六十有餘の老人、大小の刀を帶(おび)て、馬(むま)にのり、步行(かち)の侍、六、七十人、引き連れて、前後をかたく守護すと、見ゆ。

 その間《あひだ》に、結構に塗りみがきたる長持(ながもち)・挾箱(はさみばこ)・屛風・衣桁(いかう)・貝桶《かひをけ》のたぐひ、かずかぎりなく持(もち)つれ、貴賤男女(なんによ)、凡そ、二、三百人、堂上・堂下(だうか)に並み居(ゐ)て大《おほき》に酒宴を催し、珍膳奇羞(ちんぜんきしう)、山海のある所を盡し、かつ、まひ、かつ、うたふて、興に入るまゝに、主人(しゆじん)や賓客(ひんかく)を招き出だし、

「かゝる目出度(めでたき)折から、何か、くるしかるべき。ここへ、出《いで》て、あそび給へ。」

と、いへば、主人も賓客も、醉に和し、興に乘じ、座敷にいづ。

[やぶちゃん注:「珍膳奇羞」珍しくて美味い御馳走や、珍しい料理を指して、「珍羞」(ちんしゅう)と言う。この場合の「羞」は「御馳走」の意。]

 まづ、その新婦(よめ)とおぼしきを見るに、年、まだ、十四、五ばかりと、みゆ。

 すこし、ほそらかに、色しろく、また、たぐひなき美人なり。

 次第に、並み居(ゐ)る女房たち、いづれも艶(えん)なるかほかたち、花のごとくに出で立ちて、みな、一同に、立《たち》さわぎ、新婦(よめ)の手をとり、たわぶれて、

「こよひは、いかで、强(しひ)ざらん。」

と、大きなる盃(さかづき)をすゝむれば、新婦(よめ)、いとたへがたきけしきにて、あなたこなたに、にげかくるゝを、

「おひ、とらへん。」

と、さわぐまに、風、はげしく、ふきおちて、燈(ともしび)、のこらず、ふきけしぬ。

 主人・賓客

「はつ。」

と、おどろき、しばしして、又、火をとぼしみるに、人、一人(いちにん)も、なし。

 やうやう、夜もあけて、よくよく見れば、宵に、ことごと敷(しく)持ちはこびたる道具とおもひしは、一つも、なく、却つて、主人の、日比(ひごろ)、祕藏しける茶の湯の道具より、碗・家具・雜器にいたるまで、みな、ことごとく引きちらし、くひさき、かみちらし、そこなひ、やぶらざるもの、なし。

 そのうち、床にかけおきたるふるきかけ物、牡丹花下(ぼたんくわか)に、猫のねぶれる所、かきたる繪、あり。名、きえ、印(いん)、かすみて、誰人(たれびと)の筆ともしらず、これ、一幅斗(ばかり)ぞ、露ばかりも損ぜず、ありける。

 みな人、

「よからぬ怪異(けい)なり。」

とて、眉を、ひそむ。

 こゝに、村井澄玄(むらゐてうげん)とて、博學洽聞(かうぶん)の老儒あり。

[やぶちゃん注:「村井澄玄」不詳。]

 

Nezuminoyoukai2

 

 主人に向かひ、いふやう、

「これ、ふかくおそるゝに足らず。老鼠(らうそ)のいたす、妖怪なり。それ、猫は、鼠のおそるゝ所なり。かるがゆに、その繪といへども、あへて、近づかざる事、かくのごとし。かゝる例、傅記に載(のす)るところ、すくなからず。是れ、其の氣(き)、自然(しぜん)と相《あひ》いれずして、畏服(いふく)す。所謂、『物(もの)、其の天(てん)を畏(おそ)る』といふものなり。その類(たぐひ)、一、二を擧(あげ)て、これを、しめさん。われ、かつて、或る古記(こき)をみるに、むかし、或里の中(うち)、一つの村に、童子(わらんべ)、大きなる蛙(かへる)、數十(す《じふ》)、汚池叢棘(おちさいきよく)[やぶちゃん注:「汚池」は澱んだ水溜まり。]の下(もと)にあつまるを見る。進んで、是を捕へんとす。熟(つらつら)、視(み)れば、一つの巨蛇(おほへび)、棘(いばら)の下(もと)に蟠(わだかま)りて、恣(ほしいまゝ)に群蛙(ぐんあ)を啖(くら)ふ。群(むらが)る蛙、凝りかたまりて、啖(くら)はるゝを待ちて、あへて、動かず。又、或村の叟(おきな)、蜈虹(ごかう/むかで[やぶちゃん注:原本の右左のルビ。])、一つの蛇を逐(お)ふを、みる。行く事、はなはだ、急(すみや)かなり。蜈虹、漸(やうや)く近けば、蛇、また、動かず。口を張りて、待つ。蜈虹、竟(つひ)に、その腹に入り、時を逾(こ)えて、出づ。蛇、既に、斃(たふ)れぬ。村の叟、其蛇を、深山の中に、棄(す)つ。十日あまり過ぎて、徃(ゆ)きて、これを、みれば、小き蜈虹、數知(かずし)らず、その腐(くち)たる肉(しゝむら)を食(くら)ふ。これ、蜈虹、卵を、蛇の腹(はら)の中(うち)に產みけるなり。又、むかし、一つの蜘蛛(くも)、蜈虹を逐ふ事、甚だ、急(すみやか)なるを見る。蜈虹、逃れて、籬槍竹(りさうちく)[やぶちゃん注:不詳。籬に使う尖った竹叢(たけむら)の意か。]の中(うち)に入(い)る。蜘蛛、復た、入(い)らず。但(たゞ)、足をもつて、竹の上に跨(またが)り、腹を搖(うご)かす事、あまた度(たび)して、去る。蜈虹を伺ふに、久しく、出ず。竹を剖(さい)てみれば、蜈虹、巳に、節々、爛斷(たゞれたつ)て、黨醤(たうしやう/かにひしを[やぶちゃん注:同前。左の意訓は「蟹」をそのまま搗き砕いた「塩辛」のことか?])のごとし。これ、蜘蛛、腹を動かす時、溺(いばり)[やぶちゃん注:小便。]を灑(そゝぎ)て、是を殺せるならん。物の、其天を畏るゝ事、かくのごとし。今、鼠の、猫の繪をおそるゝや、また、同じ。豈(あに)久しくその妖怪を恣(ほしいまゝ)にする事を得んや。」

と。

 かさねて、主人に敎へて、

「其の鼠の穴を、狩らしむ。屋敷より、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり東の方(かた)に、石のおほくかさなりて、小高き所あり。その下に、大きなる穴あり。その中(うち)に、年經(としへ)たる鼠、かぎりなく、むらがれり。みな、捕へ、殺して、すぐに埋(うづみ)ぬ。

 其の後(のち)は、何の事も、なかりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「村井澄玄」の語る「物、其の天を畏る」というのは、彼の動物の具体例から見て、儒教に於ける天道思想であろう。所謂、この世界の生成消滅・断罪処分を支配するところの「天道」を、如何なる生物や物質も、本質的には敬い畏れ、決定的場面に於いては、それを忌避しようとしたりするが、その下された事態結果からは、究極に於いて、決して逃れることは出来ないということであろう。ある時は、それは一見、人知を超えた理解不能な論理的不条理にも見えるのである。さればこそ、司馬遷に、列伝第一の「伯夷列伝」で、有名な「天道、是か非か。」を言わしめたのである。]

2022/03/18

狗張子卷之七 五條の天神

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)をトリミング補正して、適切と思われる位置に配した。]

 

   ○五條の天神

 京都(みやこ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]五條西洞院(にしのとうゐん)の西に、「五條の天神」、ましませり。

[やぶちゃん注:「五條西洞院」「五條の天神」は現在の「五条西洞院」交差点の北位置となるが、現在の五條天神宮てんしんぐう)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。因みに、現在の京都府京都市下京区西洞院町(ちょう)は、この交差点を挟んだ真南の対位置にある。同神宮は当該ウィキによれば、『当初は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称された』。『社号の五條は、当社北側にある松原通がかつて五条通と呼ばれていたことに由来する』。『なお、社号の天神(テンシン)は天つ神(あまつかみ)を意味し、菅原道真を祀る天神(テンジン)とは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られ、撫で牛も設置されている』とある。現在の主祭神は少彦名命(すくなびこなのみこと)で、他に大己貴命(おおなむぢのみこと)と天照皇大神を配祀する。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『疫神と考えられたのは、東隣にあった五条道祖神との混同によるものか。』とある。現在のそれは、位置が少しずれて、五条天神宮の東に松原道祖神社として現存する。なお、原本本文を見ても、「天神」には一貫して、読みが振られていない。しかし、「目錄」を見ると、「五條天神(ごでうのてんじん)付」(つけたり)「入江壽玄斎(いりえじゆげんさい)疫病(やくぎやう)を癒(いや)す事」と読みが振られてあり、挿絵のそれも、これ、いかにも菅原道真めいた御姿なればこそ、以下を敢えて、「てんしん」と読む必要はないと私は思う。

 これ、「大己貴(おほあなむち)の命(みこと)」を、まつれるなり。

 むかし、命、少彥名命(すくなひこなのみこと)と天下(てんか)の政務を謀り給ひ、かつ、人民、疫病・疾苦のために、その療養の方(ほう)を、さだむ。

 その天下、後世(こうせい)に仁惠(じんけい)ある事、神農・黃帝の下(しも)にあらずとかや。

 故に、代々の執權・奉行職の人、殊に尊信し給ふ、といふ。

 應永年中、此《この》わたりに、壽玄齋(じゆげんさい)とて、醫師(くすし)ありけり。

[やぶちゃん注:「應永年中」一三九四年から一四二八年までの、起点切り上げ終点切り下げで三十五年間に当たる。この間の室町幕府将軍は足利義満・足利義持・足利義量。日本の元号の中では、昭和と明治に次いで三番目の長さであり、「一世一元の制」が導入以前では最長の年号である。また、前中期の応永十年から二十二年までの約十年間は戦乱などが治まり、「応永の平和」と呼ばれる。

「壽玄齋」不詳。]

 わかきより、學窓に眼(まなこ)をさらし、黃帝・岐伯(きはく)の玄旨(げんし)を探り、秦越人(しんえつじん)[やぶちゃん注:周の名医として知られる扁鵲(へんじゃく)の異称。]の深意(じんい)をたづぬといへども、いまだ、その堂奧(だうおく)に達つせず、かつ、身(み)の不遇なる事を歎げきぬ。

[やぶちゃん注:「岐伯」伝説上、黄帝に仕えた薬師(くすし)とされる人物の名。

「玄旨」物事の深遠なる道理。]

 すなはち、この天神にいのりて、信仰(しんがう)のこゝろ、おこたらず、歲時(さいじ)には、かならず、祭りて、敬(うやま)ふ事、年《とし》すでに久しくなりぬ。

 

Gojiyounotensin

 

 ある夜(よ)夢見(ゆめみ)らく、朝(あさ)、とく、宿(やど)を出(いで)て、天神の社(やしろ)にまうで、恭敬の頭(かうべ)をかたぶくる所に、辱(かたじけな)く、天神、社壇の戶びらを、おしひらき、まのあたり、壽玄齋に告げて、のたまはく、

「なんぢ、われをいのり、其の誠(まこと)をつくす。何んぞ感應なからんや。なんぢ、今、身(み)の不遇にして、困窮をなげく。しかれども、これ、すなはち、却つて、なんぢを福(さいはひ)する所なり。それ、日本(につほん)は神國也。天子は、すなはち、天照太神(てんせうだいじん)の繼體(けいたい)にして、その統道(とうだう)を、あらためず。かるがゆゑに、神道を尊崇し、王法《(わうば)ふ》を興隆し、仁政(じんせい)を施し、朝憲(てうけん)を正(ただし)うすべし。疇昔(むかし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、王法《(わうば)ふ》、神道に合(がつ)する世には、世、すなほに、民(たみ)、淳(あつ)ふして、國家、安寧なり。風雨(ふうう)、時にしたがひて、飢饉・餓死の愁へ、なし。况や、謀反弑逆(むほんしいぎやく)のわざはひ、をや。後世(こうせい)にいたりて、元曆(げんりやく)に安德天皇、承久に後鳥羽院、元弘に後醍醐天皇、これ、みな、君德、あきらかならず。叡慮、はなはだ、短(みじか)ふして、天下を、戎敵(じうてき)のために奪はれ、宸襟(しんきん)[やぶちゃん注:天皇の御心。]、つひに、安(やす)からず、或《あるい》は、變衰(へんすい)の花(はな)、空しく壇浦(だんほ)の風にまよひ、悲泣(ひきう)の月、いたづらに台嶺(たいれい)[やぶちゃん注:比叡山の異名。]の雲に隱る。いかんぞ、王威十善の德をもつて此極(きよく)に至るや。これ、神道の本(もと)をわすれて、政道人望(せいだじんばう)にそむけば也(なり)。こゝにおいて、王法《わうぼふ》、はじめて衰へて、神道も亦、廢(はい)しぬ。又、かなしからずや。しかつしより、このかた、今の世にいたりて、人道、ますます、みだれ、子(こ)として父を弑(しい)し、臣として君(きみ)をうかゞふ。上(かみ)、道(みち)のはかるなく、下(しも)、忠義のこゝろを、うしなふ。人君・國守としては、仁義に暗く、慈悲の心なく、賦斂(ふれん)、重く、課役(くわやく)、しげうして、國民を貪(むさぼ)りとり、家人(けにん)を剝ぎ盡くして、畢竟(ひつきやう)、我が身の樂しみとす。收斂無道(しうれんぶだう)の富(とみ)に誇り、亂諧不次(らんかいふし)[やぶちゃん注:本来の位階の規定順序が乱され、破格な叙任が行われること。]の賞(しやう)を、たのむ。能(のう)もなく、智略もあさく、行跡(かうせき)、非禮不義にして、善惡邪正(じやしやう)をえらばず、阿(おもね)り諂(へつら)ふ者を賞翫(しやうぐわん)し、忠孝なる者(もの)を、かへつて、罪科(ざいくわ)に行なふ。たまたま、武藝・學問に志し有る人も、利祿(りろく)・名聞(みやうもん)のためにして、忠良のこゝろざし、露(つゆ)ばかりも、なし。凡そ、武藝・學問は、みな、聖經賢傳(せいけいけんでん)の旨(むね)をあきらめて、我が忠功を達する、のみ。何(なん)ぞ名利(みやうり)を事(こと)とせんや。あまつさへ、切磋琢磨の功ををへずして、新法小利(しんはうせうり)に、はしり、先賢の古術(こじゆつ)をすてて、もつぱら、奇兵(きへい)詭譎(きけつ)[やぶちゃん注:ここは「珍しくて怪しげなこと」の意。]を先(さき)とし、また、正兵(せいへい)の極致ある事を、しらず。又、終日(ひねもす)、聖賢の書をよむといへども、行跡(ぎやうせき)、かへつて、直(すなほ)ならず。仁義のこゝろ、なく、學問(がくもん)をもつて、利慾にかへ、君(きみ)に諂(へつら)ひ、友を妬(ねた)み、素(もと)より誠(まこと)なければ、利を見て、義を忘れ、大慾無道(《たい》よくむだう)にして、一生、遊興に長じ、富貴榮花をうらやみ、衣類、美麗を好む。かくのごとく、君(きみ)、下(しも)を貪りとりて、その身の榮耀《えいやう》をきはめ、臣、又、上(かみ)に佞媚(ねいび)して、一家の奢侈(しやし)を、つくす。凡その費(ついゆ)る所(ところ)の財寶・資用(しよう)、天よりも降(ふ)らず、地よりも、いでず。これ、みな、人民の膏澤(こうたく)をしぼりとり、收斂したる所なれば、ゆくゆく、天下、ふたゝび、みだれて、人民、益(ますます)、窮し、四夷八蠻(しいはちばん)、たがひに、國を、あらそひ、大(おほき)なるは、小を幷吞(へいどん)し、强きは弱きを、しのぎ、盜竊爭鬪(とうせつさうた)、區(まちまち)にして、又、そのあひだに、飢饉疫病、流行(はやり)て、天下、手足(しゆそく)を措(お)くに、處(ところ)なからんとす。なんぢ、今、かゝる時節に、生まれたり。なんぢ、しひて[やぶちゃん注:ママ。]身の不遇を歎きて、一旦の利祿を僥倖(げうがう)すといふとも、久しく保つ事、あたはずして、却つて、災(わざはひ)あらんとす。しかし、貧(ひん)に安(やすん)じ跡を藏(かく)さんには、かつ、なんぢに、一つの靈方(れいはう)を敎へん。水上(すいじやう)の浮萍(うきくさ)、よく疫病を癒す功能あり。多くもとめ、貯へて、其の時を待つべし。」

と、今の世のありさま、將來の事變、鑑(かゞみ)にかけて[やぶちゃん注:鏡に映した鮮明な像のように、その細部まで明らかにして説きあかして。]のたまふ、と、おもへば、夢は、さめて、夜(よる)は、ほのぼのと、あけにける。

 壽玄齋、感心、膽(きも)に銘じ、盥嗽盛服(くわんそうせいふく)して、急ぎ、天神に詣(けい)すれば、夢の面影、ありありと、社壇の戶びら、すこし、ひらけ、異香(いきやう)、四方(よも)に、薰郁(くんいく)たり。

 それより、壽玄齋、世のなり行くありさまをみるに、夢中の告(こく)に、たがはず。

 永享の年(とし)に及びて、京都(きやうと)・鎌倉、確執(かくしつ)の事、おこり、鎌倉持氏朝臣、京都將軍に恨むる事ありて、謀反(むほん)す。

 京都、度々(たびたび)、大軍(たいぐん)を起こし、討手(うつて)にさし向けらる。

 持氏父子、敗績(はいせき)して、自害す。

[やぶちゃん注:所謂、「永享の乱」。「永享四(一四三二)年前後から、鎌倉公方足利持氏と室町幕府の関係は致命的に悪化し、永享十年、将軍足利義教は持氏討伐を命じ、持氏父子は鎌倉で自刃して果てた。]

 これより、諸方、戰爭、おこりて、しづかならず。

 國家衰廢、天運否塞(てんうんひそく)[やぶちゃん注:「否塞」閉じて塞がってしまうこと。]して、大(おほい)に、疫病、流行(はやり)て、人民、おほく、死亡(しぼう)せり。

 壽玄齋、かの天神の告(つげ)を思(おもひ)いで、試(こゝろみ)に、浮萍(うきくさ)を調和(てうわ)して、あたふるに、大かた、いえずといふこと、なし。

 人みな、その神効(じんこう)に服して、

「これ、正(まさ)に醫王善逝(いわうぜんせい)の變作(へんさ)なり。」

とて、おそれ、つゝしむ事、よのつねならず。

 其の後(のち)、今川(いまかは)上總介が父の疫病(やくびやう)を癒しければ、上總介、なゝめならず、よろこび、俸祿、過分に與へて招(まね)き、つひに、わが國に供(とも)なひ下りて、身、終はるまで、尊敬しけると也。

[やぶちゃん注:「醫王善逝」薬師如来の異称。「善逝」は仏の敬称の一つ。

「變作」仏教用語。姿を変えて現われること。また、特に菩薩などが世の人を救うために、仮に姿を変えて示現したり、又は、種々の事物を現わしたり、変えたりすることを指す。「化作(けさ)」とも言う。

「今川上總介」今川義元(永正一六(一五一九)年~永禄三(一五六〇)年)。戦国時代に於ける今川氏の最盛期を築き上げたが、尾張国に侵攻した際に行われた「桶狭間の戦い」で織田信長軍に敗れ、毛利良勝に討ち取られた。]

2022/03/17

狗張子卷之七 飯森が陰德の報

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)をトリミング補正して、適切と思われる位置に配した。]

 

   ○飯森《いひもり》が陰德の報(ほう)

 豐臣秀賴公の侍大將鈴木田隼人佐(すゞきたはやとのすけ)は、中《ちゆう》・西國(さいこく)の敵を押(おさ)ゆる番船(ばんせん)の下知(げち)を仰せ付けられ、穢多が城(ゑつたがじやう)に居住せらる。

 其の家臣飯森兵助(へいすけ)といふ人、盜賊奉行として、二心(ふたこゝろ)なく鈴木田に忠功をはげます。

 天性(てんせい)、心すなほにして、慈悲ふかく、其の意(こゝろ)、貧(まづ)しふして弱(よわ)きをあはれみ、富みて憍(おご)れるを、制(せい)す。

 故に、人、自然と、其の裁斷に服(ふく)して、欺(あざむ)くに、しのびず。

 或る時、ひとり、政所(まんどころ)に臨んで、訴訟の事を判斷す。

 一人《ひとり》の囚人(めしうど)あり、その名を土井《どゐ》孫四郞といふ。

 罪狀、まぎれなきによりて、面縛(めんばく)して誅伐せんとす。

 孫四郞、ひそかに兵助にむかひて、

「我は、もと、不義をなせるものにあらず。名ある武士なり。智謀勇力(ちばうゆうりき)、よのつねならず。あはれ、君(きみ)、よく、我が科(とが)を察して、命をたすけ、再び、故鄕(ふるさと)に歸し給へかし。しからば、かならず、君がために、力(ちから)を盡して、その厚恩を報ぜん。」

といふ。

 兵助、つらつら、かれが面顏魂(つらだましひ)をみるに、凡人にあらず、詞色(ししよく)雄長(ゆうちやう)にして、臆せず、まことに豪傑の士なり。

 兵助、心(こゝろ)に、

『これを、たすけん。』

と、おもひ、わざと佯(いつは)りて、聞(きか)ぬ體(てい)して、許(ゆる)さず。

 その夜更(よふけ)すぎ、人しづまりて、ひそかに獄屋(ひとや)の役人をよびて、かの囚人(めしうど)をゆるし、歸さしめ、すなはち、その役人も亡げ失せさせて、屋敷を出(いだ)しぬ。

 翌日(あくるひ)、

「獄中(ひとやのうち)、囚人(めしうど)一人(ひとり)、にげいでて、又、役人も、にげうせぬ。」

と披露す。

 鈴木田(すゞきた)、大《おほき》におどろき、

「これ、しかしながら、兵助が越度《おちど》なり。」

とて、しばらく出仕をやめて、閉居せしむ。

 その比(ころ)、德川家衆(とくがはけしゆ)、攝州・大坂に在陣し給ひ、蜂須賀(はちすか)阿波守に仰せ付けられ、穢多が城を攻めさせらる。

 

Intoku

 

 城中(じやうちう)、勝利を失ひて、敗北す。

 兵助も、馬(むま)にのり、士卒を下知して、命を惜しまず、ふせぎ戰ふといへども、天軍無勢《てんぐんぶぜい》にして、かなはず、つひに城(しろ)を攻め落され、鈴木田、やうやう、一方(《いつ》はう)を切り拔け、萬死(ばんし)をいでゝ、一生(《いつ》しやう)を全(まつた)ふし、秀賴公の館(たち)に歸參しぬ。

 それより、兵助、旅客(りよかく)牢浪の身となり、あなたこなた、漂泊(ひやうはく)せしが、後(のち)には、糧、盡き、囊(ふくろ)、空(むな)しふして、困窮、實(まこと)に、はなはだし。

 辛吟(しんぎん)と、さまよひて、播州の地に至る。

 或る大(おほき)なる在鄕(ざいがう)に、ゆきかゝり、その鄕(さと)の代官職の人の姓名をきけば、

「土井孫四郞。」

といふ。

『我(われ)、むかし、放しやりたる囚人(めしうど)の姓名と同じ。』

 兵助、ふしぎにおもひて、その屋敷をたづねて、案内、乞ふ。

 孫四郞、大《おほ》きにおどろき、急(きう)に、はしり出(いで)て、迎ふ。

 よくみれば、うたがふべくもなき、むかし、放しやりたる囚人なり。

 むかしの事共、語り出(いで)つゝ、

「まことに。命の親なり。ひごろ、なつかしくおもひしに、よくこそ、尋ね來り給へ。」

とて、拜謝(はいじや)、奔走(ほんそう)し、すなはち、別(べち)に座敷をきよめて、すゑ置き、晝夜(ちうや)、酒宴を催ほし、相(あひ)ともに寢臥(しんぐわ)して歡びを、きはむ。

 凡そ十日あまりに及ぶといへども、つひに、我が居宅(ゐたく)に、かへらず。

 ある夜(よ)、孫四郞、その居宅に、かへれり。

 兵助、折ふし、厠(かはや)に行きけり。

 此厠と、孫四郞居宅と、たゞ、壁、ひとへを隔てぬ。

 しづかに、事の樣(やう)をきけば、孫四郞妻(つま)の聲として、

「君(きみ)、此の間(あいだ)、ことのほかに、もてなし給ふ客は誰人(たれ《ひと》)ぞや。此の十日あまり、晝夜(ちうや)つきそひて、かへり給はず、いぶかし。」

といふ。

 孫四郞、こたへて、

「むかし、あの客の大恩(《だい》おん)をうけて、危うき命を、たすかり、今、かかる榮花(えいぐわ)をきはむるも、これ、ひとへに、あの客の隱德によれり。何(なに)をもつて、此大恩を報(ほう)ぜん樣(さま)を、しらず。」

といふ。

 妻のいふ、

「君(きみ)は。おろかなる事を、のたまふものかな。それ、人(ひと)の一生、盛衰浮沈(せいすいふちん)、古今(ここん)、めづらしからず。時を得ては、人を制し、運、窮まりては、身を屈す。なんぞ、今更、過ぎ去りしむかしの事を、かへりみん。諺にも、『大恩は報ぜず』と、いへり。かつ、君、むかし、難にあひ、囚(とらは)れにかゝり給へる事、誰(たれ)知るもの、なし。しかるに、今、かゝるふるまひし給ひ、もし、他人に、もれきこえなば、かさねての恥辱なるべし。はやく、時機にしたがひて、いかにも思慮し給へ。」

といふ。

 孫四郞、返答もせざりしが、やゝ久しくありて、

「げにも。なんぢがいふところ、尤(もつとも)なり。我(われ)、智謀をもつて、よきに、はからはん。かならず、色(いろ)をさとらるゝ事、なかれ。」

と、いひて、止(やみ)ぬ。

 兵助、聞(きゝ)すまして、大きに、おそれ、おのゝき、衣服・荷物、悉くすて置き、直(すぐ)にその家(いへ)をはしり出(いで)て、馬(むま)をかり、鞭をはやめて、逃げ去り、その夜(よ)の初更の比(ころ)までに、十里あまりを過(すぎ)て、攝州堺(さかひ)に到(いた)る。

 ある旅店(りよてん)に宿(やど)をかりぬ。

 その體(てい)、はなはだ、あはたゞし。

 兵助が僕(ぼく)、これ、何故《なにゆゑ》ともしらず、あやしみ、問ふ。

 兵助、しばらく、座を定め、胸をさすりて、具(つぶさ)に孫四郞が、たちまち、大恩を忘れて、かへりて、野心をさしはさむ次第を語り、ためいきをついて、憤激す。

 僕、これを聞きて、淚をながし、その陰德を感ずるあひだ、忽ち、旅店の床(ゆか)の下より、瘦せ枯れたる男、一人《ひとり》、刀を拔き持ちて出(いで)あらはる。

 兵助、膽(きも)を消して驚く。

 この男のいはく、

「我は、軍中忍びの達者にて、しかも、仁義の侍なり。さきの孫四郞をたのみて、君(きみ)が頭(かうべ)をとらしむ。しかれども、ふしぎに、今の物がたりを聞(きい)て、かの孫四郞が放逸無慚(はういつむざん)なる事を知り、君は、まことに智仁兼備の君子なり。あやういかな。あやまつて、殺さんとす。我、義において、君(きみ)を捨てじ。君、しばらく、寐入(ねい)る事(こと)、なかれ。すこしのあひだに、君がために、かの孫四郞が頭をとりてかへり、君が鬱憤を散(さん)ぜしめん。」

といふ。

 兵助、恐懼して、

「よきに、はからひ、給《たまは》れ。」

といふ。

 此男、刀を手に提(ひつさ)げ、門(もん)を出《いづ》るとみえし。

 屋(や)をつたひ、高塀(たかへい)を超えて、そのはやき事、飛ぶがごとし。

 既に夜半にいたり、立ちかへりて、

「敵(てき)の首(くび)を打ちおほせぬ。」

と、よばはる。

 火をとぼして、よくみれば、すなはち、孫四郞が首なり。

 その男、すぐに暇(いとま)乞(こ)ひて、歸り去る。

 その跡、たちまち、みえず。

 それより、兵助は、諸國、抖藪(とさう)して、後(のち)には都(みやこ)にのぼりて、兵術の師範となりて、その身を終はりし、といふ。

 

[やぶちゃん注:「飯森」「兵助」不詳。

「鈴木田隼人佐(すゞきたはやとのすけ)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『蒲田隼人兼相』(すすきだはやとかねすけ)とする。当該ウィキによれば、生年不詳で慶長二〇(一六一五)年五月六日没とする。『戦国時代から江戸時代初期の武将で』、『通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。兼相の前身は講談で知られる岩見 重太郎』『といわれている』。『前半生はほとんど不明』。『豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として』三千『石を領したとされる(後に』五千『石に加増)。慶長』一六(一六一一)年の『禁裏御普請衆として名が残っている』。慶長一九(一六一四)年の「大坂の陣」に参戦し、「冬の陣」においては、『浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが』、「博労淵の戦い」では、『守将でありながら』、『遊女と戯れている間に、砦を徳川方に陥落されたため』、『味方から「橙武者」と軽蔑されていた』。『その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というものであった』。「夏の陣」の「道明寺の戦い」に『おいては、渋皮色の鎧に星兜の緒を占め、十文字の槍を取り、黒毛の馬に黒鞍を置き、紅の鞦を掛けていた。三尺三寸の太刀を帯び、軍勢の先頭をきって駆けつけた(『難波戦記』)』。『十騎ばかりの敵を討ち取ったが、押し寄せる東軍のために、間もなく戦死したとされる』、『剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされている』。『薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て』、天正一八(一五九〇)年、天橋立にて、『ついに広瀬を討ち果たした。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされる』。『大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている』。『この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた』。『悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い』、六『年間』、『そのように続けてきた』。七『年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った』。『翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという』とある。芥川龍之介にズバリ、「岩見重太郞」という面白い作品がある。未読の方は、是非、読まれたい。私の詳細注附きのサイト版テクストである。

「番船(ばんせん)」港湾近辺や海浜に近い関所などで、必要に応じて警固・見張りを行なう船。「ばんぶね」とも呼ぶ。

「穢多が城(ゑつたがじやう)」不詳。

「土井《どゐ》孫四郞」不詳。

「面縛(めんばく)」両手を後ろ手に縛り、顔を前にさし出しさらすこと。打ち首の仕儀であろう。

「詞色」言葉遣い及びその発言の仕方。

「雄長(ゆうちやう)」雄々しく勝れているさま。

「德川家衆(とくがはけしゆ)、攝州・大坂に在陣し給ひ……」所謂、「大坂夏の陣」。結末は御存じの如く、慶長二〇(一六一五)年五月七日、大坂城の豊臣軍は多くの将兵を失って、午後三時頃には壊滅した。

「初更」凡そ現在の午後七時から九時まで。

「野心」江本氏の注に、『大坂役』(おおさかのえき)『当時の播州の東半分は姫路城は徳川家康の女婿池田輝政、明石城は正輝の甥の池田出羽守由之に治められていた。土井は徳川方の大名に飯森兵助を差し出すつもりであったと考えられる。』とある。

「抖藪(とさう)」本来は仏教用語で、「衣食住に対する欲望を払い除け、身心を清浄にすること」及び「その修行」を指すが、ここは「雑念を払って、心を一つに集めること」を意味している。]

2022/03/14

狗張子卷之七 蜘蛛塚

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)の二幅をトリミング補正して、適切と思われる位置にそれぞれ配した。]

 

  ○蜘 蛛 塚(くもづか)

 むかし、諸國行脚の山伏、覺圓といふ者あり。

 紀州熊野に參籠し、それより、都にのぼり、先(まづ)、淸水寺(せいすゐじ)に詣(まうで)んとす。

 五條鳥丸(からすま)わたりにて、日、漸(やうやく)、暮れたり。

 こゝに、大善院とて、大きなる寺院あり。

 覺圓、

「幸ひなり。」

と、寺僧に請ふて、一夜をあかさんとす。

 寺僧、すなはち、相ひ許して、堂のかたはらなる、いかにも、きたなき小屋を借(か)しけり。

 覺圓、大きにいかりて、

「一夜ばかりの宿、僧徒の身として、此修業者(しゆぎやうじや)に、かゝる不德心(ふとくしん)は、何事ぞや。」

といふ。

 寺僧、打わらひて、

「これ、まつたく、修業者をあなどるには、あらず。實(まこと)は、此本堂には、年久しく、妖(ばけもの)ありて、住めり。凡そ三十年の内、三十人、その死骸さへ、見えず。このゆゑに、本堂をば、借さず。」

といふ。

 覺圓、聞て、

「何條(なんでう)、左樣の事、あらん。『夫(それ)、妖は人によりて、起こる。』といへり。豈(あ)に此の知行兼備の行者を犯す事、あらんや。」

と。

 寺僧は、再三、諫(いさ)むといへども、あへて用ひざれば、やむことを得ずして、本堂の戶をひらき、あらましに掃除して、誘(いざ)なへば、覺圓、しづかに、佛(ほとけ)を禮(らい)し、念佛して、心を澄(すま)し、坐し居(ゐ)たり。

 しかれども、彼《かの》寺僧の詞(ことば)のすゑ、おぼつかなく思ひ、腰の刀を、半ば、ぬき出だし、柄(つか)を手に持ちながら、ねぶりゐるところに、夜《よ》、すでに二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時からの二時間を指す。]に及ぶ比(ころ)、

「ぞつ」

と寒くなり、堂内、しきりに震動して、風雨、山をくづすがごとし。

Kumoduka1

 その間(あひだ)に、天井より、大きなる、毛おひたる手をさし出し、覺圓が額(ひたひ)を、なづ。

 すなはち、持たる刀をふりあげ、

「てう」

と、きる。

 物に、きりあてたる聲ありて、佛壇の左のかたに、おつ。

 夜、まさに四更[やぶちゃん注:午前一時又は午前二時からの二時間を指す。所謂、牛の刻である。]にいたる比、又、さきの手を、さしのぶ。

 此度(たび)も、すかさず、刀をふりあげて、

「はた」

と、きる。

 やうやく、夜、あけて、寺僧、心もとなく思ひ、たづね來たる。

 覺圓、前夜の樣子をかたるに、寺僧、奇異の思ひをなし、急ぎ、佛壇のかたはらをみるに、大きなる蜘蛛(くも)、死してあり。

 ながさ、二尺八寸[やぶちゃん注:八十五センチメートル弱。]ばかり、珠眼(しゆがん)圓大(ゑんだい)にして、爪に、銀色(ぎんしよく)あり。

 寺僧、ますます、驚き、堂の傍(わき)に、これを、ほりうづめ、塚をつきぬ。

Kumoduka2

 かつまた、此山伏の、行德(ぎやうとく)いちじるき事を感じて、しばらく、此所にとゞめ、一通の祭文(さいもん)を書(かゝ)しめ、かの塚を、まつり、ふたゝび妖怪なからん事を祝(しゆく)す。

 今にいたるまで、その塚ありて、「蜘蛛塚」といふとかや。

 

[やぶちゃん注:「覺圓」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『『日本仏教人名辞典』によると、平安中・後期の天台宗の僧と鎌倉後期・南北』朝『時代の日蓮宗の僧がいるが、本話のモデルは未詳とすべきか。』とある。本文も挿絵もしっかりガッツリの山伏であるので、それを支持する。

「淸水寺(せいすゐじ)」ここは現在の清水寺(きよみずでら:グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。一般的に現在は訓で読まれている寺も、古くは音読みで呼ばれることもあった。知られた清水寺は、室町時代に書かれた謡曲「湯谷(ゆや)」の謡本中では「せいすいじ」と読みが振られてある。

「五條鳥丸(からすま)」この中央

「大善院」江本氏注に、『『雍州府志』などでは、「五条ノ北鳥丸」にあったとする。なお、『京町鑑』では「大政所町……東がは大善院と云本山派の山伏の住居門がまへの家有。今は宗外と成たるよし此寺に蜘塚とて有。むかし此所に土蜘」(つちぐも)『住て夭怪』(「妖怪」に同じ)『有しゆへ退治して地に埋しとぞ」と伝えている。『大日本寺院総覧』では、熊野郡海部村、下京区高倉通仏光寺下ル新開町にあった二院が確認できる。』とあり、更に最後の「余説」でも、『大善院にまつわる蜘蛛塚の由来は、後に刊行された『雍州府志』「蜘蛛塚 五条ノ北烏丸大善院ノ中ニ在リ。古へ斯ノ処大ナル蜘蛛妖怪ヲ為ス。遂ニ之ヲ殺乄土中ニ埋ム。是ヲ蜘蛛塚ト号ス」(貞享三年刊・巻十)などをはじめ、『京羽二重織留』(元禄二年刊・巻五)、『名所都鳥』(元禄三年刊・巻六)などの地誌にも見られる。』とある。了意は京都の真宗寺の住持であったから、そうした伝承にも詳しかった。]

狗張子卷之七 細工の唐船 / 最終巻に突入!

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、合成(幅を接近させた)した。適切と思われる位置に示した。唐船の細部がはっきりと見えるのは、こちらであったからである。なお、今回はごく僅かな文中注に留めた。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注が詳細を極め、殆んど私の躓くところを概ねカバーしておられるからである。]

 

   ○細工の唐船(たうせん)

 永享四年九月、將軍義敎卿、富士山御詠覽のため、東國駿河の國に進發(しんはつ)を催さる。[やぶちゃん注:「永享四年」一四三二年。この年、義教が中断していた勘合貿易(日明貿易)を復活させている一方、鎌倉公方足利持氏と室町幕府の関係が致命的に悪化した時期である(永享十年に持氏は自刃した)。「伽婢子」「狗張子」の中でも、相当に遡った時制設定となっている点で、かなりの特異点と言える。]

 此事、前年より思し召し立たれ、駿河の國守今川駿河守範政に、かねて仰付らるといへども、執權斯波・細川・畠山等(とう)、各(おのおの)、諫言をすゝめて、

「今、天下、しばらく武威の化(くわ)に屬(しよく)すといへども、大亂(だいらん)の後(のち)にして、國、おとろへ、民、疲れて、しかも南方(なんぼう)の强敵、いまだ、ことごとく亡びず、かゝる時節は、好事(かうじ)も、なきには、しかず。たゞ、こひねがはくは、おぼしめし、とまり給へ。」

と、たびたび、いさめ申すにより、延引に及べり。

 しかれども、多年の御深望(しんまう)たるにより、終に、思し召し、止(とゞま)らず。

 駿河守は、此事、前年より承知して、おもふやう、

『將軍、はじめて、此地にきたり給ふ。饗應、よのつねにして、かなふべからず。』

と思案して、家臣共をよびあつめ、いひけるは、

「來年九月の比(ころ)、京都の將軍、富士川御詠覽のため、此地に來臨あるべきよし、先(さき)だつて御敎書(みぎやうしよ)あり。しかるに、此請待(しやうだい)いたすべき御主殿(ごしゆでん)の前に、大きなる泉水(せんすい)あり。此水の上にて、何か、めづらしき御慰(なぐ《さ》)みの事は、あるまじきや。」

と、せんぎ有《あり》ければ、末座(ばつざ)に、一人、ありて、

「それがし、細工に妙を得たり。あはれ、一年の御いとま給らば、國本(くにもと)へまかり歸り、何ぞ、御なぐさみにもなるべき事、工夫、仕《つかまつ》らん。」

と申ければ、駿河守、

「それこそ、やすきあひだの事。國にかへり、いかにもして、細工仕り見候へ。」

とて、いとまを、たびけり。

 細工人、よろこび、國にかへり、一間所(ひとまどころ)へ引こもり、たゞひとり、あけくれ、工夫をつひやして、こしらへける。

 すでに同年(おなじとし)九月、將軍、駿河守が館(たち)に御入りあり。

 やがて、御主殿に請待(しやうだい)し、恭敬(きやうけい)の心、おこたらず、珍膳佳肴、數をつくして、饗應す。

 將軍も、感悅、甚しく、夜(よる)は舞樂の宴《えん》を催し、晝は高亭(かうてい)に登りて、富士山を詠覽し給ひ、

  みずばいかに思ひしるべきことの葉も

     及ばぬ富士と兼(かね)て聞しも

かく詠じ給へば、駿河守、返歌、

  君がみむ今日のためにやむかしより

     つもりは初(そめ)し富士のしらゆき

 かくて、將軍の御機嫌を見合(みあはせ)、かの細工人に仰せて、細工の物を取りよするに、何とはしらず、ひとつの大きなる箱を獻上す。

 將軍、

「これは、いかに。」

とて、ひらかせ見給ふに、長さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]、橫五尺[やぶちゃん注:約一・五二メートル。]ばかりの結構にこしらへたる「唐船(たふせん)」にてぞ、ありける。

 むかし、隋の煬帝(やうだい)の、數千(すせん)の大舶(《だい》はく)を作り、あまたの宮女もろ共に、舞樂を奏し、棹歌(たうか)して、かの西園(せいゑん)の名木奇花をたづねしありさまも、かくや、と、おぼえて、おびただし。

 龍頭鷁首(りやう《とう》げきしゆ)、あざやかに、王樓金殿、かゝやけり。

 

Saikunotousenss

 

 すなはち、前なる泉水に泛(うかべ)しかば、數多《あまた》の人形、動きいで、桂の櫂(かぢ)、蘭の槳(さを)、滄海に棹(さを)さして、船うた、うたふ。[やぶちゃん注:「槳(さを)」橹(ろ)よりも短く小さいオール状のもの。]

 そのけしき、げにも巧みに操(あやとれ)り。

 しばらくありて、色黑き人形共、橫になしたる帆柱を、

「そろりそろり」

と、引あげて、おしたつれば、おほくのつなを、たぐりつゝ、

『日よみのてい』[やぶちゃん注:「日よみ」「日和見」。]

と、うちみえて、まがくしする人形も、あり。[やぶちゃん注:「まがくし」は「眼隱し」で、直(じか)の日差しを避けて眼の上に手を翳し、海や空の様子を遠く観望することであろう。]

 又、年のほど、七、八十ばかり、これより、明州(みやうじう)の津(つ)までは、八百里、海底にいりたる大石もや、あるらん。又、大風(たいふう)の變をあんじ、破軍・武曲・文曲のひかり、北斗のほしに參(しん)・商(しやう)の二つの星を考へ、時變・運氣に心をくるしめ、凝然(ぎようねん)として、立(たち)たる人形もあり。

 さて、管絃のはじまると見えて、うるはしく裝束したる伶人(れいじん)の人形、それぞれの樂器をもち、六律(りくりつ)・六呂(りくりよ)の調子をそろへ、「大平樂」を奏すれば、また、うるはしき美人の人形、五、六十人、けつこうなる裝束(よそほひ)し、音樂の調子にあはせ、舞踏して、しづかに簾中(れんちう)に引入(ひきい)れば、又、さも、しほらしき「から子」の人形、百ばかり、てん手(で)に、拍手、うちそろへ、「還城樂(げんじやうらく)」のさしあし、「ばとう」の上の、ばちがへり、げに、ありありと、舞ふたりけり。[やぶちゃん注:「ばとう」「坺頭」或いは「撥頭」で舞楽の曲名。髪を振り乱した恐ろしい形相の面を被り、撥(ばち)を持って一人で舞う。後の「ばちがへり」は、その舞い振りを「撥返り」と呼んでいるのである。]

 音樂・躍歌(をどりうた)の聲、玉(たま)のやうらく、風(かぜ)にひゞき、こがねの瓦は、日にひかり、こゝろも、言葉も、およばれず。

 凡そ、五、六百の人形、みな、それぞれのはたらきありて、一時(《いつ》とき)ばかりの藝をつくすと見えたりしが、そののち、ちひさき人形、一人、帆柱のもとにて、何やらん、火うちのやうなる物を取り出だし、二つ、三つ、打(うつ)とおもへば、鐵炮の、どうぐすりを入(いれ)、はねさせける程に、その音、天にひゞきて、おびたゞし。

 數多(あまた)の人形、ひとつも、のこらず、打ちはらひ、唯、泉水のしらなみのみぞ、殘りける。

 滿座、大きにおどろき、たゞ忙然(ばうぜん)と、あきれたるばかりなり。

 將軍、興をさましたまひ、かの細工人を召しけるに、彼(か)の鐵炮のさはぎに、亡(うせ)さりて、尋(たづぬ)れども、しれざりける。

「これは、いかさま、天下、ふたゝび兵亂(ひやうらん)起りて、人民、うせ、ほろぶべき前表(ぜんひやう)ならん。」

と、みな人、さた、しあひければ、將軍も、駿河守も、共に眉をひそめて、

「ふかく隱密(おんみつ)すべき。」

旨(むね)、仰せ出だされければ、その、一、二年の中(うち)は、さだかに知る人もなかりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:さても。この謎の細工師は無名者として登場するのであるが、今川範政の評定の末席におり、その命を受けて、一年もの間、勝手次第とさせたからには、相応の信頼と、細工師としても、超弩級の知恵者であり、技術者でもあった。その彼が、最後の最後に姿をひょいと晦ましているのは、まさに、最後の鉄砲のそれは、この男が確信犯で仕組んだものであり、将軍足利義教に対し、兵乱の兆しを確信犯で嗅がせるための仕儀だったのではないかと思わせるものがある。顔の見えない「忍びの者」の後ろ姿が闇に消えてゆくようでなかなかサスペンスを感じさせる。諸辞書によれば、この義教、足利義満時以来廃絶していた綸旨を奏請して、持氏を自害に追い込み、守護家の家督にも積極的に介入し、衆議に名を借りて、細川氏を除く殆んどの宿老家の人事に手入れを行った。さらに守護大名一色義貫(よしぬき)・土岐持頼を暗殺、幕府管領畠山持国を追放するなどしたため、各守護大名は恐慌をきたし、先手を打つことで将軍の魔手を逃れんとした赤松満祐により、自邸に招かれ、宴席中で斬殺されている(「嘉吉の変」)。性格的に激烈で、権威主義的な点では、父の義満に似ず、後の織田信長に類似するとされる。]

2022/03/13

狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる / 狗張子卷之六~了

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回も最も鮮明な、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。]

 

  ○杉田彥左衞門天狗に殺さる

 武藏國榛澤郡(はんざはのこほり)に、杉田彥左衞門といふ者あり。心操(こころばせ)、不敵にして、物におそれず。

 年二十(はたち)のころより、日光の今市(いまいち)、月每(つきごと)、三たびの市(いち)に、必らず、行《ゆき》むかひ、歸り足(あし)には、山賊して、道行く人を追ひたふし、或《あるい》は、はぎとり、或は、打《うち》ころし、家の内、財寶、豐かなり。

 十七、八人、ゆるゆると、世をわたり、不足なる事、なし。

 

Tengunikorosaru

 

 ある年の九月に、今市より、馬にのりて歸るに、板橋(いたはし)のあひだにして、日光山の「孫太郞」といふ天狗あり、その身を化(け)して、長(たけ)九尺[やぶちゃん注:二メートル七十三センチメートル弱。]ばかりの山伏となり、大道(《だい》だう)に立《たち》ふさがる。

 乘りたる馬は、身ぶるひして、すくみて、すゝまず。

 彥左衞門、刀の反(そり)をまはし、柄(つか)に手をかけ、

「汝は日光の孫太郞か。その道、あけよ。馬を通さん。」

と、いへば、山ぶし、かたはらに退(のき)ざまに、

「さもあれ、來年四月十五日には、必らず、汝を、とるべきもの。」

とて、たちまちに、すがたを、見うしなひけり。

 彥左衞門、元來、したゝかものなりければ、物ともせず、駒に鞭うつて、宿(やど)に歸る。

 何となく、すさまじきやうにおぼえて、それよりは、日光へもゆかず、年も暮《くれ》て、春になり、二月の末つがたより、心地、よろしからず。

 かなたこなたするあひだに、四月になりて、いよいよ、わづらひ、おもく、つひに十五日にいたり、くるしみ、甚だしく、大熱・狂亂して、死(しに)たり。

 國西寺(こくさいじ)の國道和尙を引導の師として、稻荷の家より、葬禮をいだしけるに、風、あらく、雨の降(ふる)事は、うつすがごとく、墓所(むしよ)ちかく成《なり》しより、いなびかり、荐(しき)りにして、はたゝ雷(かみなり)、すでに、棺のうへに、おちかゝるやうに、おほひて、空に、聲ありて、

「その尸骸(しがい)を、こなたへ、御わたしあれ。」

といふ。

 和尙は、

「一たび、契約して、師旦(しだん)となれり。たとへ、いか成事ありとも、此屍(かばね)は、わたすまじ。」

とて、菊一文字の脇指をぬきけるを、いかづち、おちかゝり、脇指をもぎとり、ねぢゆがめて、去りければ、かばねは、とられもせず、空、晴(はれ)たり。

 心しづかに引導し、跡、よく、彌(いよいよ)、とぶらひ申されけり。

 その脇指は、なほ、今も、この寺の什物(じうもつ)なり。

 後(のち)に和尙の語られしは、

「杉田彥左衞門は、その心ね、ふてきにして、力つよき、したゝかものなり。おのれがつよき心よりして、人をば、物とも思はず、佛神天たう[やぶちゃん注:「天道」。]の冥慮(みやうり)をも慙(はぢ)おそれず、ほしいまゝに惡行(あくぎやう)をいたし、人をころし、財物(ざいもつ)をうばひ、只、よこしまをもつて、身のかざりとす。此故に、かゝるあやしき事も感じけり。『妖は、妖より、おこる。』といへり。邪氣、勝つときは、正氣(しやうき)をうばふとかや。我が心(しん)、すなはち、邪氣のもとゝなる故に、やがて、正氣をうばはれて、妖怪に、あふなり。『まなこ[やぶちゃん注:「眼」。]に一翳(えい)あれば、空花(くうげ)、散亂す。』といへり。虛空(こくう)、もとより、花ありて散(ちる)にはあらず。まなこにやまひありて、こくうのあひだに、花のちるを、みるがごとし。正氣正念の時には、外《そと》の妖邪は犯す事、なし。佛法の中に、をしゆるところ、世間の五塵六欲の境界(きやうがい)の、この心法(しんぼふ)をうばはれて、ゆきがたなく、とり失なひ、常に、まようて、くるしみを、うく。そのこゝろをとりもどして、とゞめ得たる所にこそ、靈理ふしぎの正見正智(しやうけんしやうち)は出生(しゆつしやう)すべけれ。此正念を萬境(ばんきやう)にうばはれて、蟬のぬけがらのごとくならば、もろもろの妖邪は、しばしば、犯すに、たより、ちかし。たとへば、守(まも)りおろそかなる家には、盜人(ぬすひと)の入易(《いり》やす)きが如し。又、それ、天地廣大の中には、奇怪ふしぎの事、あるまじきにもあらず。人に魂魄(こん《ぱく》)あり。その精氣(せいき)、正心(しやうしん)なれば、正理にして、非道、なし。正念にして非義なく、德、おのづから備はるをもつて、妖邪、をかさず[やぶちゃん注:ママ。]。みづから、おこなふて、正心正念を返しもとむる事のかなはざる愚人(ぐにん)は、神に祈り、佛を賴みて、うやまひ、たふとびて、信を生ずれば、神力佛力(しんりきぶつりき)に依(より)て、おのづから、正念に成(なる)なり。そのかみは、關東がた、人、死すれば、火車(くわしや)の來りて、尸(かばね)を、うばひとり、ひき割(さき)て、大木の枝に懸置(かけおき)たる事もおほかりしを、今は、佛法のをしへ、ひろく、諸人、みな、後世(ごせ)をねがひ、佛神をたふとび、ふかく信心をおこし、正直正念に成たる世なれば、火車の妖怪も稀に成侍べり。只、おそるべきは、我らの惡行(あくぎやう)・まうねんなり。地ごく・鬼畜も餘所(よそ)よりは來らず、みづから、招く罪科(つみとが)なり。此たび、仕損じては、二たび返らぬ一大事ぞ。ふかく信じて、ねがひ、もとむべきは、佛果菩提の道なり。」

とぞ、ねんごろに、

すゝめられける。

 

 

狗波利子卷之六終

 

[やぶちゃん注:「武藏國榛澤郡(はんざはのこほり)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注によれば、『「和名抄」所載の郷。同書名博本に「ハンサワ」の訓がある。諸説はいずれも現埼玉県大里郡岡部町の榛沢・岡部を中心とする一帯としている。元亀二年(一五七一)頃、半沢郡で本山修験がさかんとなる(『埼玉県の地名』日本歴史地名大系11)。』とある。現在は大里郡岡部町は深谷市に編入されている。榛沢はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、東南の飛んだ位置に岡部がある。

「杉田彥左衞門」不詳。

「日光の今市(いまいち)」現在の日光市今市。荒っぽく実測しても、片道百二十八キロメートルはある。江本氏の注に(抜粋)、先立つ『中世では現在の日光から今市市域に残る頼朝街道は、日光山から七里・野口、千本木・明神・小代を通り、宇都宮方面へとのび、日光山と鎌倉を結ぶだけでなく、各地から日光山へ詣でる信仰の道でもあった。また、今市村では、会津など奥羽南部と関束を結ぶ物資流通の拠点で一七世紀後半から、会津街道沿いの村民は木製品・藁加工品などを持馬に積んで運び込み、帰路に米や生活必需品を積んで売り込む仲付稼を行った。一・六の六斎市も立ち、穀物問屋が多かったという(『栃木県の地名』目本歴史地名大系9)。』とある。「仲付稼」とは、「仲附駑者(なかづけどじゃ)」で、江戸初期から明治初年まで、会津地方と日光・今市を結ぶ会津西街道(「南山通り」「下野街道」「中奥街道」とも称した)を中心に発達した物資輸送業者やその組織を指す。「中付」「中付馬」「駑舎」とも称した。

「月每(つきごと)、三たびの市(いち)」江本氏の注に、『三斎市のことか。毎月三回定期に開かれた市。中世の市は三歳市が多かった。』とある。「三斎市(さんさいいち)」は中世より、一ヶ月に三回、定期的に開かれた市で、各地に「四日市」「五日市」など、開催日にちなんだ地名に、その名残りがある。

「十七、八人」彼は盗賊集団に首魁であったようである。

「板橋(いたはし)」江本氏の注に、『板橋村。今市市板橋。壬生通の宿場。北は上沢村、東は河内郡木和田島村、南は文挟宿』(ふばさみしゅく)。『文挟宿までは三三町と近いため、日光方面へは今市宿まで、江戸方面へは当宿から文挟を通り越して鹿沼宿まで往復継ぎ立てた。三光神社・栖克』(すみよし)『神社がある。旧板橋宿の中央にある高野山真言宗福生寺には、板橋将監の位牌がある(『栃木県の地名』日本歴史地名大系9)。』とある。現在の日光市板橋(いたばし)。今市の南東七キロメートルの位置にある。

『日光山の「孫太郞」といふ天狗』江本氏注に、『栃木県下都賀郡駒場村岩舟山高勝寺で祀られているらしい。『大日本地名辞書』「岩舟山」の項目に、「国誌云、岩舟山は宝亀年中…是は当山の奥の院、地主権現の祠あるを、近隣の俗は孫太郎天狗と唱えて、昔は折ふし神かくしと云ふ事ありしといへばなるべし…」とある。』とある。公式サイトを見ると、現在の住所表記は栃木県栃木市岩舟町静で、真言宗「岩船山高勝寺」である。サイト「異類の会」の林京子氏「下野岩船山高勝寺奇譚―怪奇・天狗・霊験―」(報告発表の要旨レジュメ)に、興味深い内容があったので、以下に引用しておく。

   《引用開始》

・岩船山は栃木県の南部に位置し、街道の分岐点のランドマークであり、日光と江戸城を結ぶライン上に位置する為、寛永期に寛永寺系列の寺院として山上に高勝寺が草創された。岩船山では多くの特撮ドラマが撮影されサブカル聖地として多くの巡礼者が訪れる。巨岩(岩船)付近ではブロッケン現象が見られる。それが神仏の示現=生身の地蔵の出現とされ法師の身体を裂いて地蔵が出現する絵が描かれた 。享保4年岩船地蔵は流行神となって山を下り、関東一円を巡行した。その理由は現在も不明である 。

・岩船山のメインの信仰は死者供養・水子供養・子授け祈願である。本堂の裏山に卒塔婆を建てる現行の死者供養の習俗は近代日本の戦死者供養との関連で発展してきたと推測される。「西院の河原」は子どもの死者を供養する場所とされる。水子供養が社会現象化すると、高勝寺は江戸時代から水子供養を行っていると主張して多くのメディアに登場した。子授け祈願では、呪物の下付や岩船と孫太郎(後述)を巡拝する宗教儀礼が行われる。平成10年頃奥の院と岩船は複製され、震災で本来の岩船は忘却される。中岡俊哉氏のような超常現象研究家や霊能者が多数岩船山を訪れ寺側は彼らから影響を受けている。

・高勝寺本堂には聖なる生身の地蔵と高勝寺の怪奇譚である「お玉の怨念の刀」や様々な怪奇なモノが同居。

・岩船山山頂には天狗である「孫太郎尊」を祀った寺の堂舎がある。かつては元旦講があり、高勝寺よりも参詣者が多かった。寺では現在も天狗のお札を配布しているが、その姿は吒枳尼天に近く、また稲荷要素も混ざっている。明治31年以降、孫太郎尊は「岩船神社」と呼ばれ多くの人の尊崇を集めた。岩田重則は戦時下天狗が流行神として現出したという見解 を取っているが孫太郎尊も同様と思われる。

・昭和30年頃には30万人が供養(戦死者?)のために彼岸の岩船山に押し寄せ、彼らを目当てに死者の口寄せをする人や傷痍軍人達も集まった。昭和の終わりには岩船石の採掘による振動で孫太郎本殿は倒壊した。

・佐野市にも孫太郎稲荷がある。平将門を討った田原藤太秀郷により天明の春日ノ岡に建てられた寺の鎮守でその後13世紀に。秀郷の子孫の足利孫太郎家綱が神社を修復し「孫太郎明神」とよばれるようになった。奈良の薬師寺の「孫太郎社」は佐野の分祀であるそうだ。栃木県では民間宗教者が祀っていたマタラ神=ダキニ天を、その後「稲荷」と呼び換える例がある 。お玉も稲荷である。佐野の孫太郎と岩船山の孫太郎も別々の場所で祀られているだけで同一ではないか。

・寛永寺子院浄名院の妙運は庶民の信仰の側に立つことを決意し、自らを地蔵比丘と名乗り八万四千躰地蔵建立運動を開始する。人々は妙運を生き仏として熱狂的に支持し、妙運が日光に異動すると彼の分身の地蔵が信者の家を巡行するようになった。1980年頃池袋方面を巡行していた地蔵は行方不明となった。

・池袋在住のKさん(女性)は、巡行地蔵の信者で巡行地蔵が来なくなり自分で地蔵を建立し家で奉斎していたが、偶然岩船山に来て強い感銘を受けて自分の墓をここに作った。2020年の夏、Kさんは亡くなり、遺族の願いで石地蔵は本堂に遷座した。妙運は転生して岩船山に帰還したのである。

【まとめ】

・恐山や川倉地蔵堂などと同じように、高勝寺は戦争を契機として知名度を高めた。現在の塔婆の景観と「死者に会える場所:供養霊場」という言説は戦没者に対する多くの人々の慰霊行動が創り出したものであろう

・高勝寺では死者供養と子授け、生と死が表裏一体であるので、怪奇なモノと聖なるモノが混然としており寺は近世の創建からずっと民間宗教者や様々な言説から都合が良いものを取り込み続けている。

・岩船山は変身ヒーロー縁起のはじまりの場所であり、現在も人智を超えた霊験が現実世界に噴出している。装いを変え、文脈を組み替えて、分厚い信仰の古層の中から再構築され続ける岩船山の宗教民俗を今後も注視していきたい。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「國西寺(こくさいじ)」不詳。江本氏も未詳とされる。

「國道和尙」同前。

「稻荷の家」不審に思ったが、江本氏の以下の注で腑に落ちた。『『新編埼玉県史』によると「埼王県では普通イッヶとかイッキとかいうことばで本分家関係を表現する。この本分家関係で社を祀る同族も多い。県内では同族で祀る神をもっていても、自宅の敷地内には屋敷神を祀るという家が一般的。地方によって多少異なる。祀る社の神は、稲荷・諏訪・お手長様(天手長雄命)・天狗(大山祗命)など様々であるが、伏見稲荷大社の影響も強く、稲荷が多い。祭場は同族の本家筋や、その社の勧請などに由来する家で祀るのが一般的で、敷地内や所有する山林などに石宮や木造の宮を建てている」。「武井稲荷と呼ばれている社が大里郡岡部町後ろ榛沢にあり、武井イッケで祀っている。この稲荷には武井イッケの人たちだけでなく、近所の人が事ある毎に参拝し、病気平癒の祈願などでお百度参りもされている」とある。』とあった。

「はたゝ雷(かみなり)」「霹靂神(はたたがみ)」に同じ。「はたたく神」の意で、激しい雷。雷を神格化した謂い。

「師旦(しだん)」江本氏の注に、『師檀か。(仏)師僧と檀那。寺僧と檀家。「師檀」(易林本)、「師且 シタン」(合類)。』とある。

「菊一文字」同前で、『一文字則宗およびその子助宗の打った太刀に、特に菊紋を切ることを許されたもの。銘には菊紋だけで、一の字は切らない。これを後鳥羽上皇の作とみる説と、一文字親子の傑作刀に特に下賜されたとみて、一文字親子の作とみる説がある。現今では前説を採っているが、則宗を菊一文字則宗と呼ぶことは後説を採っていることになる。』とある。

「和尙の語られしは……」以下、多数の仏教用語が現われるが、総て江本氏の詳細な注に譲り、ここでは略す。

「關東がた、人、死すれば、火車(くわしや)の來りて、尸(かばね)を、うばひとり、ひき割(さき)て、大木の枝に懸置(かけおき)たる事もおほかりし」江本氏の注では、『「火車」は、仏語。火炎をあげて、燃える車。『大智度論』一四によれば、生前に悪事を犯した者を乗せて地獄へ運ぶ車とされ、また『観仏三昧経』五によれば、地獄にあってそれに死者を乗せ、生前の諸悪行を責める火の車ともされる』(下略)とある。私の

「諸國百物語卷之五 二 二桝をつかいて火車にとられし事」

の注なども参照されたい。但し、私はこの叙述で、何故に、「關がた」と限定するのかが、甚だ不審である。この怪異は、私は直ちに「片輪車」を想起するからである。私の「怪奇談集」にはあまた登場するのだが、例えば、

「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」

「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」

「諸國里人談卷之二 片輪車」

などを見ても、こちらは京都の妖異であるからで、了意がどうして関東に限ったのかが、すこぶる気になるからである。了意は内心、関東の原風俗を野蛮なものと見ていたのではあるまいか?

狗張子卷之六 亡魂を八幡に鎭祭る

 

   ○亡魂を八幡に鎭祭(しづめまつ)

 寬永のはじめつがた、吉川某(きつかはなにがし)の家人(けにん)松岡四郞左衞門と聞えし者は、武篇(ぶへん)にほまれあり。心ざし、しぶとく、正直の武侍(ものゝふ)なり。

 しかるを、傍輩(はうはい)の讒(ざん)によりて、打首にして、殺されたり。

 すでに死期(しご)におよびて、云(いふ)やう、

「口惜しくも、あらぬ讒言に依(より)て命を失なふ事は、ちから、なし。せめて、腹をだにきらせず、打首にせらるゝこそ、無念なれ。來世、たましひ、きえて果てなば、是非なし、きえずして、ある物ならば、此うらみは、報ずべきものを。」

とて、齒がみをして、首をぞ討(うた)れける。

 七日の後(のち)、四郞左衞門が亡靈、あらはれて、生きたる時の姿のごとく、讒せし者は、親子ながら、打つゞきて、死絕(しにたえ)たり。

 それのみにかぎらず、道に行《ゆき》あふともがら・男女(なんによ)・老少、立ちどころに死するもの、一千餘人に及べり。

 僧をやとうて、經をよみ、種々(しゆじゆ)、事《こと》とぶらへども、しるし、なし。

 埋(うづ)みたる塚をかざり、陰陽師(おんやうじ)に仰せて、まつらるれども、しづまらざりければ、社(やしろ)をつくりて、「八幡」と號し、祭(まつり)を初めて、祝ひ、鎭めしより、亡魂のうらみ、とけて、そののちは、ながく靜まりぬ。

 

[やぶちゃん注:挿絵はない。「伽婢子」「狗張子」を通じて最も短い話柄か。

「寬永のはじめつがた」寛永は二十一年まであり、一六二四年から一六四四年まで。徳川家光の治世。

「吉川某(きつかはなにがし)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、『ここでは、吉川広家か。広家は吉川元春の三男。毛利氏の武将として各地を転戦した後、慶長六年(一六〇一)周防岩国城主となった。三万石。寛永二年九月死去。吉川氏は周防国岩国藩主。藤原家南家の一支流で、駿河国入江荘吉河邑(静岡県清水市)に居館を構えた経義を始祖とする。在地名により吉川氏を称した。後、吉川興経の養嗣子として毛利元就の次男元春をむかえ、吉川氏は毛利氏の未家となった。元春は小早川家をついだ弟隆景とともに「毛利両川」と称され、主家毛利氏を補佐して中国平定に尽力。その子広家も、関が原の戦いでは徳川家康に内応し、西軍の将となった毛利氏に周防・長門(山口県)二カ国を確保した。江戸時代には吉川氏は宗家毛利氏の家老格として周防岩国六万石を領し、幕末にいた』ったとある。

「松岡四郞左衞門」不詳。

「八幡」江本氏は『岩清水八幡宮か』とされるが、私は絶大なる源氏の武将八幡太郎義家にあやかって御霊(ごしょう)化したものと感じた。]

狗張子卷之六 板垣信形逢天狗

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回も最も鮮明な、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。]

 

   ○板垣信形逢天狗(板垣信形(いたがきのぶかた)、天狗に逢ふ)

 板垣信形は、甲斐の信玄、いまだ、武田大膳大夫晴信と號せしときより、武勇の名たかく、諸方の軍(いくさ)に手柄をあらはせし者なり。晴信祕藏の勇士なりければ、家の重寄(おもよせ)も、他人にすぐれたり。されども、忠節ありて、思慮なく、勇にして、頑(かたくな)なる故に、楚忽(そこつ)なる事、おほしとかや。

 或時、信形、おもてに出たるに、年のころ、五十あまりとみえし、山伏一人、來りて、齋料(ときれう)を、こふ。

 そのさま、世の常の人ともおぼえず、眼(まなこ)ざし、すさまじく、色、くろうして、長(たけ)たかく、筋ふとく、骨あれて、まことに行法(ぎやうぼふ)に苦勞したるものとみえたり。

 信形、心にあやしみ、内に呼(よび)いれて、

「客僧(きやくそう)は、いづくの人ぞ。」

と尋ねしに、

「是は、出羽國羽黑山(はぐろさん)の行人(ぎやうにん)なり。去年(きよねん)は大峯(おほみね)・葛城(かづらき)におこなひ、それより、熊野にいたり、年ごもりして、此ごろ、爰(こゝ)に下(くだ)れり。やがて、羽黑山に歸り、一夏(《いち》げ)をおこなひ申さんとて、かたがた、齋料(ときれう)をこふ事にて候ふ。」

といふ。

 信形、重ねて問ひけるやう、

「御房、只、一人にて候や。又、同行(どうぎやう)の侍るか。」

といふ。

 山伏、こたへて、

「あはせて、十人、候。それも、打《うち》ちりて、家々、齋料のために、めぐり候。」

と云ふ。

信形、いふやう、

「見ぐるしく候へども、今夜は、是《ここ》に御宿(《おん》やど)申すべし。同行の山伏達をも、これへ、よびよせ給へ。」

といふ。

 山ぶし、聞《きき》て、

「近ごろ、有がたう候。さらば、同行をも、よびさふらはん。」

とて、門《かど》に出つゝ、腰につけたる螺(ほら)の貝を手にとり、「よせ貝」とおぼしくて、暫らく吹(ふき)ければ、山ぶし、九人、俄に、あつまり來《きた》る。

 其中にも、前の山伏は、先達(せんだち)とみえて、九人の山ぶしは、いづれも、年わかく、しかも、つゝしみ、うやまふ體(てい)なり。

 日も暮がたに及びしかば、ともし火をとり、非時(ひじ)の料(れう)、したゝめ、さまざま、もてなしけり。

 信形、年比は、物ごと、つゝしみふかく侍べり。いかゞ思ひけん、山ぶし達を、

「馳走のため。」

とて、子息(しそく)彌次郞を初めて、被官の中間(ちうげん)、五、三人、その座に呼び出《いだ》し、すでに酒宴に及び、客僧も、主(あるじ)も、數盃(すはい)を、かたぶけたり。

 先達の山ぶし、いふやう、

「思ひかけざる御芳志にあづかり、心をのぶるのみならず、旅のつかれを休め候こそ有がたけれ。我ら、一生、もろもろの行法をつとめ、諸方の名山靈地、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、おこなふ所に、みな、奇瑞をかうぶらずということ、なし。されば、我らの成就する所、常には、ふかく愼て、あらはさぬ事なれども、此上は、何をか、さのみに秘すべき。それ、何にても、奇特(きどく)をいたして、あるじにみせまゐらせよ。」

といふ。

 下座(げざ)の山ぶし、

「畏(かしこまり)候ふ。」

とて、座中の膳にありし箸ども、取あつめ、何やらん、唱(となへ)て、印を結び、座の傍(かたはら)なる暗き所に、投(なげ)たり。

 暫しありて、長(たけ)一尺ほどの鎧武者、百人斗《ばかり》、くり出《いで》たり。

 信形も、彌次郞も、目をすまして見居(《み》ゐ)たりければ、座敷の眞中(まんなか)に、「魚鱗(ぎよりん)」に備へて、立《たち》たり。

 先達の山伏、云やう、

「迚(とて)もの事に、軍(いくさ)をさせて、御目にかけよ。」

と申す。

 次の座の山ぶし、座をたちて、鉢に入たる薯蕷子(ぬかご)をとりて、うしろの方(かた)に蒔きければ、又、鎧武者、二百ばかり、「鶴翼(かくよく)」に備へて、おし出つゝ、兩陣、たがひに、いどみ、戰かふに、ちいさき聲にて、

「曳々應々(えいえいわうわう)。」

と、おめきさけびて、突き合ひ、切りあふ有さま、人間の軍(いくさ)するに、少しも、たがはず。

 首をとり、刺し違へ、暫らく戰(たゝか)ふて、兩陣、

「颯(さつ)」

と、引のくか、とみえしかば、箸のさきに、薯蕷子を、つきさし、つきさし、打たふれたるものなり。

 信形、あまりのおもしろさに、

「某(それがし)は、當家譜代(ふだい)の者にて、近年(きんねん)、諸方の强敵(がうてき)を對治(たいぢ)するに、いつも、先手(さきて)をうけ給はり、むかふ所、打かたずといふこと、なし。敵がた、たとひ、金石(きんせき)をもつてふせぐとも、破らずしては、かなふまじと、身命(しんみやう)をかへりみず、つひに殿(おくれ)[やぶちゃん注:「殿(しんがり)」を広義に意味を持たせたもの。ここは不本意に遅れをとること。或いは、先陣を切れないこと。]をとりし事、なし。世には、武勇の者は稀にして、臆病者のみおほしと思ひとりて候ふ。軍法も、日どりも、方角もいらず、只、武勇なれば、小勢(こぜい)にても、大勢の臆病者は、突崩すに手間(てま)もいらずとこそ覺え侍《はべり》つれ。子にて候《さふらふ》彌二郞は、少し、心の後《おく》れたれば、某が鉾(ほこ)先には似申すまじ。あはれ、めづらしき術法の、軍(いくさ)にたよりとなるべき事あらば、つたへて給(た)べかし。」

とぞ、申されける。

 先達の客僧、聞て、

「何にても、軍のたよりに成べき事、有まじきにては、侍べらず。去りながら、座中の輩(ともがら)を、のけ給へ。あるじ一人に、をしへ申さん。」

といふ。

「さらば。」

とて、彌二郞も、中間をも、みな、旁(かたはら)へ出《いだ》して、劔術・兵法(ひやうほう)の傳受をぞ、いたしける。

 下座の山ぶし、うけ太刀して、信形に指南する木刀・竹刀(ちくとう)、取出し、打ち合ひ、突きあふ音、しきりにして、夜《よ》、すでに、ほのぼのと、明けわたる。

 中間・若黨ども、障子の隙(ひま)よりも忍びてのぞきみれば、山伏とおもふ者は、人にはあらで、或《あるい》は、鼻のさき、高くそばだち、或は、口のほど、鳥の觜(くちばし)のごとく、又は、身に翅(つばさ)あり、異類異形(いぎやう)の者どもなり。

「これは。そも、いか成事ぞ。」

とて、中間・若黨ども、

「太刀よ、長刀よ。」

と、ひしめき、障子をあけて、こみ入ければ、十人の山ぶしどもは、いづちへか行けん、みな、きえうせて、信形は、前後もしらず、勞(つか)れ、臥したり。

 精進奇麗の膳部・肴(さかな)以下は、少しも喰はず、捨てちらし、酒は、こぼし流し、疊の上には、鳥の足跡のごとくなるが、よごれて踏みたる有さま、疑がふ所もなく、

「天狗どもの、あつまりけり。」

と、家中の上下は、おそれ、つゝしみけり。

 信形は、其日の暮がたに、やうやう睡(ねぶり)さめて、起きあがりけれども、只、もうもうとして有けり。

 元來、したゝか者なりければ、別の事はなく、

「何條(なんでう)、かやうのためしは、武家には、ある物なり。おどろき、おそるゝに、足らず。」

とは、いひながら、他所(たしよ)へ披露はせさせず、陰密(をんみつ)してありしかども、後《のち》に聞えて、評議、あり。

 信形、此頃、武篇の名、世にたかく、むかふ所、軍(いくさ)にかたずと云ふ事なければ、武勇(ぶよう)に慢(まん)をおこし、敵方(てきがた)には手足もなきものゝやうに思ひあなどり、家人原(けにんばら)も同じくほこり、慢心を起こせし故に、かゝる妖怪を、もうけたり。

 是より、信形、心だて、上氣(うはき)になり、分別あしく、軍法の備(そなへ)も、ちがひ、危き怪我をいたし、終《つひ》に、信州上田原の軍(いくさ)に打死しけるも、心のたがひし故なり、とかや。

 

[やぶちゃん注:「板垣信形」(?~天文一七(一五四八)年)は甲斐武田氏の親族衆で重臣。武田晴信(信玄)の傅役(もりやく)となり、信玄の父信虎の追放に貢献した。甘利虎泰とともに両職として信玄を補佐し、信濃諏訪の郡代を務めた。天文十七年二月十四日、村上義清との「信濃上田原の戦い」で討ち死にした。名は「信方」とも書く(講談社「日本人名大辞典」に拠る)とあり、当該ウィキでも、晴信が村上義清を『討つべく小県郡へ出陣』したが、その「上田原の戦い」で『武田軍は敗北し、信方は甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門と共に討死した』とある。但し、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注では、『戦死については天文一六年(一五四七)八月二四日に上田原で討死というのは誤り。天文一七年(一五四八)二月二十四日に信州塩田原で討死(『甲斐国志』九六)。』とある。年月日は一致しているのだが? 戦国史には全く冥いので、取り敢えず齟齬を示しておくに留める。

「重寄(おもよせ)」非常に信頼されること。

「楚忽(そこつ)」「粗忽」に同じ。

「齋料(ときれう)」僧侶に施す食事や金品。「齋(とき)」は「食すべき時の食事」の意で、仏教で食事のこと。インド以来の戒律により、本来は午前中に食べるのを正時とした。それでは実際にはもたないので、午後のそれは「食すべき時ではない時刻の食」の意から「非時 (ひじ)」 と称した。山伏への食の供応についても、同じ語を用いた。

「一夏(《いち》げ)」「一夏九旬(いちげくじゆん)」或いは「夏安居(げあんご)」。仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼び、解夏の日は多くの供養行事があるため、僧侶は満腹するまで食べるのが許された。

「信形、年比は、物ごと、つゝしみふかく侍べり」これは、特に他国からの旅人であるこの山伏たちに対して、本来の彼ならば、疑いを抱き、用心深く対応するような心積もりを指して言っていよう。既にして、天狗の妖術に無意識に心を動かされていたと読むべきところであろう。

「五、三人」数字に意味はなく、不定数称。数人の意。

「魚鱗(ぎよりん)」軍陣の陣形の一つ。魚の鱗(うろこ)の形のように、中央を突出させ、「人」の字形にしたもの

「薯蕷子(ぬかご)」「ヌカゴ」「零余子」「珠芽」とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。なお、「ぬかご」という読みもあり、梅崎春生の訛りではない。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の「日刊☆こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)」の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。

「鶴翼(かくよく)」やはり、陣立ての一つ。鶴が翼を広げたような「V」形に兵を並べて、敵をその中に取りこめようとする陣形で、「魚鱗」の陣の正対語である。ネットの『精選版 日本国語大辞典「鶴翼」』の図(矢印(進軍方向)はそのまま)を参照。この陣の上下をひっくり返したものが「魚鱗」である。

「あるじ一人に、をしへ申さん」現代思潮社で神郡氏はここに注して、『甲越軍記』によれば、不思議な山伏から深秘な戦術の極意を学んだのは原隼人佐』『の父加賀守昌俊としてかかれている』とある。この父子の奇談は了意の好んだ素材で、先行する「伽婢子卷之五 原隼人佐鬼胎」、及び、本書の「狗張子卷之二 原隼人左謫仙」で、それを正統なる正続編として描いているので読まれたい。]

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