[やぶちゃん注:底本のここ(「一 エミール・ヤニングスの藝風」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。
なお、私は映画好きであること、人後に落ちぬが(因みに私のベストは、アンドレイ・タルコフスキイ全作品(サイトの「Андрей Тарковский 断章」参照)・本多猪四郎監督「ゴジラ」(サイトの「メタファーとしてのゴジラ」参照)・グレゴーリー・チュフライ監督「誓いの休暇」(カテゴリ「ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】」参照)・ルイ・マル監督「鬼火」(私のサイト・ブログの名はこれによる。放置が永いが、『Alain Leroy ou le nihiliste couronné d'épine アラン・ルロワ または 茨冠せるニヒリスト~ロシェル/マルによる「鬼火」論考(未定稿)~』がある)・スチュアート・クーパー監督「兵士トーマス」(見たことがない方が多いであろう。YouTube のこちらで全篇を見ることが出来る)・マイケル・ラドフォード監督マッシモ・トロイージ主演「イル・ポスティーノ」(私のタルコフスキイ体験以後に感動した唯一の作品)である)、犀星の好みとは、殆んど全く共通するところがない(室生がここの前半で挙げるものはサイレント映画で、私はあまり無声映画時代のものは見ていないことにもよる)。にしても、犀星の映画分析はすこぶる現代的で鋭く、同時代の詩人・小説家の中では、その評は群を抜いて素晴らしい。一読の価値大いにあり!]
映畫時評
一 エミール・ヤニングスの藝風
最近の映畫界で特に私の記憶に新しい感銘となつて殘つてゐるものは、エミール・ヤニングスの「最後の人」「ヴアリヱテ」「肉體の道」及び最近封切になつた「タルチユフ」等の諸作品である。これらの諸作品はヤニングス物の特異な効果ある諸演技を物語るものである。
今假にロナルド・コールマンやアドルフ・マンヂュウ等の流行俳優と彼とを、その藝風の幅や大きさや深さの點で比較することは、コールマンやマンヂュウの小ささを證據立てる以外に、殆どヤニングスの敵國は全世界に一人として存在してゐないと云つてよい位である。殆ど古今獨步の大味であり映畫界切つての怪物であることは、恐らくその演技や藝風の重厚なる新鮮と近代風なグロテスクの絕頂を極めてゐる點で、彼こそは或は映畫記錄中の最大の俳優として後代に其聲名と演技の跡を殘すであらう。とは云へ徒らに私はヤニングスを過賞するものではないが、當然非難さるべき彼の演技上の「癖」や其他の欠陷はあるにしても、兎も角も彼の足跡の大きさと押の强さでは、私をして如實の言葉を爲さしむるだけのものを持つてゐる。何故と云へば彼の如き「面《つら》」と「技」とを同時に享有することは、稀有に近いことかも知れないからである。かういふ面と技との共有者は十年に一人の割合でさへ現れないやうである。卑しいロン・チヱニイの面は啻に彼の面としてのみの變化も變貌をも表情されてゐない。ヤニングスの面の變化は東洋風の百面相に近いものをもつてゐるからである。それらの面の持つリアリズムは同時にヤニングス物の奈何なる演技の困難をも剌し貫いてゐる。そして又ヤニングスはヤニングス風なリアリズムの徹底に彼だけの世界を持つてゐる點で、少しのセンチメンタリズムの破綻をも表してゐない。此の一點だけでも恐らく後人は問はず今までに無かつた人物である。
彼は多くの場合何時も演技の絕頂時に於て、硬直した立體的藝風の型を取つてゐる。そして些しの餘裕をも持たないのは彼が演技に於ける情熱の病癖であり、其故に人氣ある今日の彼を爲さしめたものである。又それらの硬さはともすると彼の中にある烈しい通俗的効果を知らず識らずの内に危險な亞米利加風の落し穴に誘惑されるかも知れぬ。然乍ら猶私には此怪物的出現が今暫く好奇心を惹くに充分であり、多くの甘たるい亞米利加式新派悲劇の涎《よだれ》を拭く暇を與ヘて吳れるだけで滿足するものである。
[やぶちゃん注:「エミール・ヤニングス」(Emil Jannings 一八八四~一九五〇年)はドイツの俳優。一九二七年、アメリカのパラマウント映画と契約を結び、ハリウッドに移った。
「最後の人」‘Der Letzte Mann’。一九二四年公開のドイツ映画。監督は私の好きな吸血鬼映画の名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens:「ノスフェラトゥ、恐怖のシンフォニー」・一九二二年)を作ったドイツ表現主義映画を代表する監督フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau 一八八八年~一九三一年)。「最後の人」は私は未見。
「ヴアリヱテ」‘Varieté’は、一九二五年公開のドイツのサイレント映画。フェリックス・ホレンダー(Felix Hollaender 一八六七年~一九三一年)の小説‘Der Eid des Stephan Huller’(「ステファン・フュラアの誓い」)をドイツ映画のパイオニアの一として知られるエワルド・アンドリュー・デュポン(Ewald André Dupont 一八九一年~一九五六年)監督で映画化したもの。公開時の邦題は「曲藝團(ヷリエテ)」であった。シノプシスは当該ウィキを参照されたい。私は未見。調べたところ、撮影は、かの画期的SF映画の名作「メトロポリス」(Metropolis:一九二七年)のカール・フロイント(Karl Freund 一八九〇年~一九六九年)であった。私は未見。
「肉體の道」‘The Way of All Flesh’。アメリカのヴィクター・フレミング(Victor Fleming 一八八九年~一九四九年)監督になる一九二七年のサイレント映画。これで彼は第一回アカデミー賞男優賞受賞している。
「タルチユフ」ウィーン生まれのハリウッドで活躍したジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督になる「タルテュッフ」(‘Tartüff’:音写は「タートゥフ」が近い。これはモリエールが造語したもので、「信心深さを利益のために乱用する信仰者」を意味する)。私は未見。
「ロナルド・コールマン」(Ronald Colman 一八九一年~一九五八年)はイギリスの名優。私は何より、記憶喪失絡みの純愛映画「心の旅路」(Random Harvest:マーヴィン・ルロイ(Mervyn LeRoy)監督。共演はイギリスの名女優グリア・ガースン(Greer Garson 一九〇四年~一九九六年))が一押し!
「アドルフ・マンヂュウ」アドルフ・マンジュー(Adolphe Jean Menjou 一八九〇年~一九六三年)はアメリカの名優。「モロッコ」(Morocco:一九三〇年)・「スタア誕生」(A Star Is Born:一九三七年)・「オーケストラの少女」(One Hundred Men and a Girl:一九三七年)で知られる。私はマレーネ・ディートリヒとゲイリー・クーパーが共演したスタンバーグ監督になる「モロッコ」と、ドイツ出身のアメリカの監督ヘンリー・コスター(Henry Koster 一九〇五年~一九八八年)の手になる一九三七年公開の「オーケストラの少女」が好きである。]
二 「最後の人」「ヴアリヱテ」「肉體の道」「タルチユフ」
渡米前の作「最後の人」の老門番としてのヤニングスは、文字通り宮殿の如き大ホテルの玄關に立つ金モール嚴しき老門番であつた。彼はその無邪氣な金モールの制服を脫がねばならぬ時に遭り合ひ、彼が人としての最後の人生への未練を殘すところは、ヤニングスの藝風の心理的素直さ、辿辿《たどたど》しささへ私に感ぜしめた。大ホテルの玄關前に盜んだ金ぴかの制服を着た老門番が、背伸びをしながら人生への涓滴的《けんてきてき》悅樂に醉ふ有樣には、充分なヤニングスの明るい或一面の持味で表現されてゐた。
[やぶちゃん注:「涓滴的」僅かな。少しばかりの。]
自分は半歲の後「ヴアリヱテ」を見て、不思議な美と魅了をもつリア・デ・プテイを發見し、デユポンの手法を見、それにも拘らずヤニングスの曲藝團の「親方」には多少の失望を感じた。此畫面ではヤニングスの硬直した力は生活の向側へ勢ひ餘つて投げ出され、膠《にかは》のやうにからからに乾燥してゐた。「睨み」のシインの如きは一枚の寫眞である外の何者でもなかつた。表情の科學化ともいふべき無意味さが繰り返されヤニングスの「病癖」が惡いチーズのやうに執拗に入念に固められてゐた。自分は當時一映畫雜誌に「ヴアリヱテ」が失敗の作であることを指摘し今さらに自分の溫かき「救ひを求むる人人」に接した幸福な日を思ひ返したくらゐであつた。一つはデユポンの監督の手法の手堅さがヤニングスに押され氣味であり餘りに固くなり過ぎた爲であらう。吾が敬愛する無名の集團であつた「救ひを求むる人人」の人人は、私をして映畫的人生が實人生と同程度までへ接近するの可能を、決して映畫が映畫としての「昨日」の物でない、「今日」の彼を暗示してゐたこと等を囘顧する時、私は殘念乍ら大ヤニングスの中に失はれてゐる素面(しらふ)の人生を思はずに居られぬ。若し素面の人生を「肉體の道」に求めるとすれば、稍それに近い好場面が無いでもないやうである。謹直平凡な一銀行員の平和な家庭生活が、その出張先に於て一淫婦の美貌に魅了される筋であるが、「面」の變化をもつヤニングスは茲《ここ》では一銀行員としての實直な心理解剖を試みてゐる。列車中の魅了されるシインや、淫婦の歡心を得ん爲にその永年の間に蓄へた美事な髭をさへ理髮店で剃るところに、寧ろ銳い皮肉が畫面のみでなく看客の中へもその唾を飛ばしてゐる。ヴイクター・フレーミングの手法の極北であると云つてよい。此場面の嫌厭すべき効果は不愉快な感情を伴ふに拘らず、何か私共の心を打ち挫く力强いものを持つて肉迫してゐる。ヤニングスの好好爺たる溫かい善良なる性質の表現も、看客に委ねられた殘酷な心理的解剖の下によいシインを顯してゐる。
[やぶちゃん注:「リア・デ・プテイ」「ヴァリエテ」のヤニングス演じる主人公ボスの恋人でヴァンプ(vamp:悪女)役のベルタ・マリーを演じたハンガリーの女優リア・デ・プッティ(Lya De Putti 一八九七年~一九三一年)。終りの方でその面容への執着を犀星は一章を設けて述べているので、ここでグーグル画像検索「Lya De Putti」をリンクさせておく。]
矢繼早に自分はまた、「タルチユフ」を見たが、これはヤニングスの脂と癖との夥しく沁み出たものだつた。自分は惡魔の如きタルチユフの型の中に既に使ひ古された型を見出しヤニングス物として拙いものであり邪道と通俗に近い妥協性さへ發見した。自分のヤニングスに最も懸念を感じることは、彼は何時も藝術ではあるが大なる通俗味を多分に抱擁してゐることである。彼の人氣のある所以は誰が見ても面白く解ることであり、その面白さは大なる通俗の上にあることである。彼の危なさの中に平然と行くところは彼の大きさの爲であらうが、「時」は彼をして逆さま落しに通俗の凡化たらしめはしないか、と自分は「タルチユフ」を見乍ら懸念と憂慮とを倂せて感じてゐた。併も惡僧「タルチユフ」は彼のお手の内のものだつた。最後に一僞善者としてのタルチユフの化の皮を自ら剝いだ時の、酒を飮み乍ら嗤笑《しせう》する彼の醜い下卑た色好きな笑ひ顏は、やはり誰の中にもある同樣の卑しい笑ひ顏であつた。それから鷄の足をしやぶる口が左から右へ大歪みに曲り込むところも、彼の面目の中の著しい藝風の特徵的丹能であらう。リル・ダゴフアの奧方には彫刻的美はあるが動く美はない。手ざはりも冷たい感じをもつてゐるけれど、カール・フロイントの撮影はその自由な表現を縱橫に試みてゐることを特記して置く。
[やぶちゃん注:「嗤笑」冷笑。嘲って笑うこと。
「リル・ダゴフア」「タルテュッフ」でミセス・エルマイア役を演じたドイツの女優リル・ダゴファー(Lil Dagover 一八八七年~一九八〇年)。
「カール・フロイント」「の撮影を担当した名カメラマンであったカール・フロイント(Karl Freund 一八九〇 年~一九六九年)。名作「巨人ゴーレム」(一九二〇年)・「メトロポリス」(一九二七年)等のカメラマンとして知られる。]
三 ヤニングスと谷崎氏
私はエミール・ヤニングスを思ふたびに、何かしら谷崎潤一郞氏を想起するのは自分でも不思議とするところである。(これは谷崎君には迷惑かも知れない。)さういふ關連された氣持は私だけに止まるものかも知れぬが、大きさは似てゐるやうな氣がする。谷崎潤一郞氏は大谷崎《おほたにざき》である點、殆ど漠然たる直覺的思惟の下に此「大」を感ぜしめる點に於て、ヤニングス論を書く私に想起されるのは谷崎氏自身がその大きさを持つてゐるからであらう。これに深い穿鑿の必要はないのだ。今の文壇にこの「大」の字の附く人物は奈何なる作家に較べても先づ見つからない故もある。
[やぶちゃん注:寧ろ、ヤニングスに対して失礼である、と私は思う。]
四 フアンの感傷主義
自分は大正六七年代に既に映畫批評の流行前に「映畫雜感」を書いて、西洋女優が奈何に美しい肉顏《にくがん》をもつてゐるか、その肉顏は吾吾の生活に何故に必要であるか、又彼女等の新派悲劇的要素の中に吾吾の悲哀が何故にその相談對手を求めるのか、我我は映畫見物に行くそもそもの動機は何であるか、セネツトガールの白い美しい足並揃へた惡巫山戲《わるふざけ》や舞踊は、何故に我我に取つて馬鹿馬鹿しい餘計事では無かつたか?――あらゆる美と感傷の「壺」であるクローズアツプの肉顏に、我我は何故に驚嘆の溜息をつかなければならなかつたか?――我我が映畫見物の後、貧弱な家庭に於て何故に屢屢滑稽なる不機嫌を敢て經驗しなければならなかつたか、さういふ諸《もろもろ》の下卑た感傷主義はその十年の間に次第に滅び、それらの種種の問題を卒業した僕等は漸く一人前の今目のフアンとして立つことができたのである。そして我我がフアンとしての立場には、斯くて無用な末期的感傷主義の虜であることを拒絕することに據つて眞實の評價を爲し得るものであらう。
[やぶちゃん注:「肉顏」はママ。「ウェッジ文庫」では前が『肉体』で、後者二つが『肉顔』となっている。初出を見られないので、底本のままにしておく。「ウェッジ文庫」の修正は確信犯的な感じがし、確かにその方が、遙かに躓かずに読める気はする。
「セネツトガール」チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin 一八八九年~一九七七年:因みに彼はイギリス出身である)を初めて映画に出したプロデューサーであり、「喜劇王」として知られるアメリカの映画プロデューサー・監督・脚本家・俳優であったマック・セネット(Mack Sennett 一八八〇年~一九六〇年)が組織したキャンペーン・ガール及び短編映画の出演女優集団を指す。芦屋則氏のブログ「サイクロス」の「マック・セネット・ガールズ」を参照されたい。]
併乍ら自分の如きは猶夥しいセンチメンタリズムの塵埃棄場《じんあいすてば》を、人生には無用な自分に取つては可能な戀愛の吸收力を、日常親灸《しんしや》し乍ら自身にも覺つかない生活の諸諸の面《めん》や相《さう》を、極言すれば到底人力を以て濟度することのできない多くの嫌厭すべき新派悲劇的の涎や泪《なみだ》を、曾て吾吾の中から追ひ出した感傷主義の餘儀ない邂逅を經驗することに依つて、我我フアンのどうにもならない立場があるのだ。我我フアンの立場に既にかういふ現世的欲求のあることは、同時に吾吾の映畫がかういふ空氣外の存在であつてはならぬことを條件とせねばならぬ。吾吾の現世的な枯槁《こかう》された慘めな心神的ボロを、吾吾の親切な映畫的人生がつつましやかにかがつてくれれば、吾吾のボロはもう少し溫かく身に着くことになるであらう。
[やぶちゃん注:「枯槁された」ここは「すっかり萎み枯れ果てされた」ことの意。]
五 「暗黑街」とスタンバーグ
「暗黑街」を見た自分は期待的な壓迫も又窒息的な鼓動をも感ぜずに、スタンバーグの靜かな緊密な、殆ど類ひ稀な簡潔な手法と、秩序ある明快な一個の腦髓の閃めきとを感じた。「暗黑街」の人生を通じたスタンバーグは、「サルベエシヨン・ハンターズ」のテンポを一層引き締め、殆ど別人のやうな銳利な速度を全卷の上に試乘した。微塵も無駄のない、空いてゐる一コマとてもない、緊張以上の緊張を全卷に醱酵させ、それでゐて息苦しいものを與へずに、最下級の壓迫をしごかずに、それらの瞬間と咄嗟とを靜かにきめ細かく織り込み受け渡し、且つ磨き上げてゐる。
或は「暗黑街」を見た人人は評的の標準のない、餘りに漠然とした平凡な或想念に辿り着くであらうし、もつと面白くあるべきものを期待してゐたことに心附くであらう。今までの映畫に敎養されたフアンはその絕頂的興趣の無いところの、さういふ映畫的屑やボロを全然振ひ落したところの「暗黑街」には鳥渡《ちよつと》その批評の標的を失うたであらう。併し何氣なく或チクチクしたメスのやうな痛みと、妙に光つたものと同時に感じ、そこにジョセフ・フオン・スタンバーグが映畫的埃をあびてゐない淸らかな眼をもつて立つてゐることに氣づいたであらう。彼はストロハイムやチヤツプリンのカツトを既にその頭腦の中で試みてゐる。「救ひを求むる人人」以來二度までも其製作的失敗の苦い經驗をもつ彼は、殆ど出來得るだけのものをさらけ出したと言つてよいであらう。名監督であるよりも刻苦の人スタンバーグ、ちらちらする名監督的な冴えを隨所にもつてゐながら、それらを完全に近いまでに出し切つた精進の人スタンバーグ、何處までも處女性の臆臆しさと、銳どさと冴えと新鮮とを持つてゐるスタンバーグ、ジョーヂ・バンクロフトをあれまでに引き上げ、彼を指揮するに寸刻の隙も弛みをも見せず、あれ程までの鮮烈、新味ある圓熟、壓力ある把握、大きさへまでに押出し、凡ゆる現實性の確證を表現させ得た素晴しい親切なメガホンと熱情あるタクト――曾てサルベーション・ハンターズを叙情詩的な憧れへ呼びかけた彼は、最早一足飛びの本格映畫の骨髓に切迫し、これを如實に健やかに表現した。彼とバンクロフトとによる連彈的な一臺のピアノは、その最高音からピアニシモに至る魅惑の殆ど完全な渾一を、吾吾の手の痛くなるまでに拍手させたことは、スタンバーグとバンクロフトの一體的交響樂を意味するものに外ならないであらう。
[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」既に「天上の梯子」の「一本の映畫」で注し、「月光的文献」の「活動寫眞の月」でも言及されているが、再掲すると、一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照されたい。
「ストロハイム」エリッヒ・フォン・シュトロハイム(Erich von Stroheim 一八八五年~一九五七年)はオーストリア生まれでハリウッドで活躍した映画監督にして俳優。当該ウィキによれば、『映画史上特筆すべき異才であり、怪物的な芸術家であった。徹底したリアリズムで知られ、完全主義者・浪費家・暴君などと呼ばれた。また、D・W・グリフィス、セシル・B・デミルとともに「サイレント映画の三大巨匠」と呼ばれることもある』とある。
「臆臆しさ」「おくおくしさ」であるが、一般的な語彙ではない。気後れする感じ、或いは、遠慮がちな奥ゆかしさの意か。]
「暗黑街」の全卷に流れてゐる流れの量は、殆ど合一され、ヤマとクライマツクスを抹殺してゐる。彼は最後にブル・ウイードが逮捕されるところがさうだとすればさうかも知れぬが全卷の上に殆ど平面的なクライマツクスの小出的調和を試みてゐることは見遁《みのがしてはならない。
[やぶちゃん注:「ブル・ウイード」史上初のギャング映画として名高いサイレント映画「暗黒街」(‘Underworld’。私は未見)の主人公ブル・ウィード。ジョージ・バンクロフト(George Bancroft 一八八二 年 ~ 一九五六 年)。]
六 スタンバーダと志賀氏
自分は「暗黑街」を見ながら、スタンバーグの手法に何故か志賀直哉氏と共通のものを感じた。底光りと健實と少しの危氣のないスタンバーグは、志賀氏のこつくりした新味のある文章に通じてゐる「頭のよさ」を見出した。寶石商店にブル・ウイードが首飾を盜んだ後に、步道を馳け合ふ警官隊のヅボンが、飾り棚の鏡や硝子の小さいものまでに映り出されてゐる、その銳い睨んだスタンバーグの手法は、或心理描寫の上でさういふ銳角さを取りあつかふ志賀氏の、布置の中の結構や用意や落着に髣髴してゐた。
ブルツクのロールス・ロイス、ブレントのフヱザースとの或氣持の受け渡し、そこに立つスタンバーグの克明な心理描寫、就中、たるみのない全篇へ流動してゐる氣根は、志賀氏の何物かを自分に想起させた。その何物かは言ふまでもない志賀直哉氏の何物かである。同時にスタンバーグの刻苦はそれを描寫的手法の上のものとして考へ見ることができれば、志賀氏を想起するのは强ち自分一人に限られてゐないのであらう。志賀氏がくろうとの作者であるやうに、スタンバーグも亦くろうと筋の彼でなければならないからである。
[やぶちゃん注:「ブルツクのロールス・ロイス」“Rolls Royce” は「暗黒街」の主人公の一人で、アル中の紳士ブル・ウィード(本名はウェンツェル(Wensel))の綽名。イギリスの映画俳優クライヴ・ブルック(Clifford Hardman “Clive” Brook 一八八七年~一九七四年)が演じた。彼はシャーロック・ホームズを三度、また、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の「上海特急」(‘Shanghai Express’)でマレーネ・ディートリヒとともに主演したことで知られる。
「ブレントのフヱザース」同映画でウィードの親友となるシカゴの暗黒街に跳梁する稀代のギャングの親玉格であった「ブル」(次章注参照)の好きな娘で、ウィードが恋してしまうフェザース (“Feathers”。本名はマッコイ(McCoy))。アメリカの女優イヴリン・ブレント(Evelyn Brent 一八九五年~一九七五年)が演じた。後でまた彼女ために一章が組まれるので、グーグル画像検索「Evelyn Brent」をリンクさせておく。以上は、前に述べた通り、私は未見の映画なので、主に複数の英文ウィキの記載及び日本のサイト「KINENOTE」の当該映画のシノプシスを参考にして注した。次の章も同じ。]
七 「暗黑街」のバンクロフト
「戰艦くろがね號」のジョージ・バンクロフトは、彼自身の强力な心臟の上に更にスタンバーグのタクトの振動を熟視してゐた。彼の全力的な、鈍重な圖太い線、加之《しか》もそれは軟かい沁み込みと罅《ひび》とを人の心に影響してゆくところの、得も云はれぬリアリズムヘの微妙なそして確實な浸透、そしてかういふ彼の特質の上に靜かな熱情あるスタンバーグのタクトが、正確な振子のやうに動いてゐる。
ブル・ウイードは猛猛しい豹のやうな野性と、豹のやうな優しい愛情と、時に人間的な哄笑とを持つて生れた、野卑を超越した惡漢である。彼が人生について解釋するところは少しの後悔を有《も》たない「惡漢」意識を飽迄《あくまで》も强大に生活することによつて、その魂を磨く下層人的な或原始性を有つてゐる。加之もバンクロフトとブル・ウイードとの間に一枚の紙背すらない、ブル・ウイードを生活し經驗しながら、ブル・ウイードの血液、肉體を有ち、その凡ゆる行爲に何等の考察や反省すら有ち得ない野性にまで、一個の巨漢バンクロフトは行き着いてゐる。彼が酒場の階段を下りながら右の手を輕く振つて挨拶がはりにする時又街路へ出ながらの同樣な身振り、舞踊會の夜にも又繰り返す同樣な擧止、それらの野卑な挨拶の中にブル・ウイードの生活面が細かに描寫され物語られてゐる。
自分はクライヴ・ブルツクの「靜かさ」を大《だい》ぶ前から睨んでゐた。「フラ」の中のクライヴ・ブルツクはもう何時までも「フラ」の中の彼ではなかつた。バンクロフトの對手段として靜かな位置を保留することになり、彼自身は磨かるべき泥の着いた珠玉であつた。入念な視線による一動作への連結、少し氣取り過ぎてゐる所はないでもないが、酒場のブルツクの沈着なタイムある動作は、自分に充分な彼の未來への感銘を與へた。
それにしても猶自分の眼底を去らないバンクロフトの哄笑、あらゆる人生への榴彈であり彼自身への後悔なき惡の意識化であり、同時に何とも云へない子供らしい無邪氣な、罪のない誰も從《つ》かざるを得ない哄笑。――
[やぶちゃん注:「戰艦くろがね號」原題は‘Old Ironsides’。十九世紀初頭を舞台にした地中海の海賊掃討を題材とした歴史戦争映画。パラマウント社が一九二六年に特別作品として制作したもので、ジェームズ・クルーズ(James Cruze)が監督した。以下のバンクロフトは重要な脇役を演じた。私は未見。
「ジョージ・バンクロフト」(George Bancroft 一八八二年~一九五六年)はアメリカの映画俳優。「暗黒街」では、最も重要な主人公の一人ブル・ウィード(“Bull” Weed)役を演じた。]
八 映畫批評の立場
映畫に就ては自分のごときは何處までも素人であり、汚れたベンチに腰かける三等看客の一人に過ぎない。その素人であるための映畫を理解しようとする熱烈さの中に、大衆的な血潮さへ流れてゐる。よき映畫を見ることは其時代を經驗する喜びであり、よき映畫に接觸することによつて直接自分の生活の更新的な分子さへ攝《と》り入れねばならぬ。一口にいへば何事もその「心持」風な生活の上で、映畫の中のよい心持、よい場面、よき人生の素直さがどれだけ溶解され、心持風な讀物になつたか知れぬ。自分の性質が一個の性質として人生面への交涉を敢てする時に、映畫人生の指導によつてどれだけ多くの複雜性ある準備を加へられたか分らぬ。そのため映畫が娛樂的な視聽のみの効果ではなく、小說に於ける人間學的再經驗と同樣な有益さを與へられてゐる。それ故自分が映畫的人生への最も高い意味のリアリズムの唱道を敢てしてゐるのも、此意味の外ではない。自分等の知り學ばうとするところは自分の心理的な經驗外にある經驗を敢てすることによつて、自分を增益しなければならぬからである。
自分は映畫の機械的方面に就て何も知らない。併し自分もそれを知ることは近い中にあるだらう。自分は撮影と監督の位置は知つてゐる。しかもその撮影と監督の位置に立つたことはない。また映畫の歷史的な現象を諳《そら》んじてゐる譯ではない。唯、何處までも素人としての熱烈さを有ち、素人としてもどれほど彼が映畫を理解してゐるか、その理解は一文藝家の批評ばかりではなく、他の凡ゆる同じい素人階級の理解であるといふ點に力を置きたいのである。凡ゆる素人こそ其批評的なものの正確さを持たねばならぬのだ。
九 文藝映畫の製作
文藝映畫は一般に面白く無いとされてゐる。その作品が古今に通じた大作品であるといふことですら、既に自分には感銘の稀薄な映畫を直覺し、求めて見る氣になれない。假令《たとひ》それを見るにしても到底原作的な手厚い感じを受ける事は滅多にない。最近に於ける「フアウスト」の上映ですら、原作の重厚、壯麗なる憂欝、歷史的な詩情を欠いてゐる以外、カメラの美しさ巧緻さが持つ機械的な効果を學び得たのみであり、到底「フアウスト」の大詩情を映畫化したものではなかつた。元より自分は初めからゲーテを見ることよりも、監督とカメラを見に行つたのであるから失望はしなかつたが、今更文藝作品を踏襲する映畫がその目的に於て、又自らその出發點に於て文藝作品と全然別途にあるものであることを知つた。文藝作品の神經的なリリシズムを追從することは映畫の進出を障害させるばかりでなく、監督の感情的自由を硬化させ約束的な拘泥と佶屈《きつくつ》を與へるのみだつた。さういふ事實は映畫の本格的な精神に害があつても益されるところは無い。
[やぶちゃん注:「佶屈」「詰屈」に同じ。堅苦しいこと。特に、芸術作品が堅苦しく、判り難いことを言う。]
「罪と罰」「カラマーソフの兄弟」「レ・ミゼラブル」「復活」「ポンペイ最後の日」等の映畫化は、その最も高い映畫目的の外のものであり、第二義的作品だつたことは云ふまでもない。吾吾の感銘さへも原作を卒讀した呼吸づまる靈魂と心理上の經驗を、これらの映畫の上に見ることのできなかつたのは、一つは「讀んで知つてゐた」ことであり「見て面白くなかつた」事實であつた。讀んだ時よりも見た時の方が、逈《はるか》に感銘の深かつたといふ經驗は、文藝映畫の場合に殆ど數へる位しかない。
最近に上映された文藝風な接續をもつて相應の成績を上げたものは、「ウインダミヤ夫人の扇」「我若し王者なりせば」「椿姬」「カルメン」「ドン・フアン」「女優ナナ」等であらう。「ウインダミヤ夫人の扇」の成功の外は自分には感銘が淺かつた。しかも昨年度に於ける數十本の映畫の中の、文藝作品で上映されたものは是等の代表的なものの外、今度の「フアウスト」の上映くらゐであらう。奈何に文藝映畫の製作が其大衆的な產業方針と興行成績への危險性のあるものだかが、その製作數の少ない點に於ても明瞭に分ることである。作品の本筋と作者への藝術的良心への追從《ついしやう》は、その監督の手腕を鈍らせるばかりでなく、放射線風な映畫の大なる目的をも鈍らせるのだ。映畫はシナリオによらなければならぬといふよりも、映畫の人生を持つための天與の「速度」に據らねばならぬ。
映畫的人生の沁みこみと、文藝による沁みこみとの比較は、映畫の沁みこみの脈搏的であるところの速度と同樣にそれ自身に直接性を持つてゐる。文藝の沁みこみは寧ろ時間的な落着きをもつて讀まれるのであるから、その速度の非機械的であることに於て既に反對してゐる。昨年中に我我に感銘を深くしたものの中で、一本の文藝映畫すら無かつたが、「陽氣な巴里子」「ヴアリヱテ」「帝國ホテル」「カルメン」「人罠」「ボー・ゼスト」「最後の人」「不良老年」「女心を誰か知る」等は映畫脚本として書き下ろされたものであり、根本から映畫の組織によつて書かれたものであつた。「暗黑街」もまたこれらの映畫であるべき約束のものだつた。それらには何等の文藝的な接觸もなく、その現實性は映畫の中にある人生からの現實性だつた。若し文藝作品が映畫に全部働きかけたら、映畫は少しも進むことができないであらう。その意味に於ける文藝映畫の製作は、一つに呪ふべき澁滯であらねばならない。あらゆる文藝映畫を超越してこそまことの「映畫」が存在し得るのである。
[やぶちゃん注:「ウインダミヤ夫人の扇」オスカー・ワイルドによって書かれた四幕の喜劇(現代は‘Lady Windermere's Fan, A Play About a Good Woman’)。一八九二年にロンドンのセント・ジェームズ劇場にて初演されたが、それを一九一六年にイギリスでフレッド・ポール(Fred Paul)が監督したサイレント映画。私は未見。
「陽氣な巴里子」「巴里子」は現代仮名遣「パリっこ」。現題は‘So This Is Paris’ で、アメリカ映画のサイレント・コメディ。一九二六年公開。監督はドイツ生まれで後にアメリカに移ったエルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch)。英文ウィキのこちらで全篇を視認出来る。私は未見。
「帝國ホテル」‘Hotel Imperial’。アメリカ映画。一九二六年公開。監督はフィンランド生まれのモーリッツ・スティルレル(Mauritz Stiller)。私は未見。
「人罠」‘Mantrap’。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。私は未見。
「不良老年」‘The Ace of Cads’。一九二六年のアメリカ映画。監督は第一作となったルーサー・ロイド(Luther Reed)。私は未見。
「女心を誰か知る」‘You Never Know Women’。アメリカ映画。一九二六年公開。監督はウィリアム・A・ウェルマン。私は未見。]
十 ドロレス・デル・リオの足
「カルメン」に於けるラオル・ウオルシユは、徹底的にドロレス・デル・リオを適役に配演させた。彼女の中にある肉體的なものの隅隅、性的な表現に基づく凡ての建築的な應用を、ラオル・ウオルシユの腕の限りに示したといふより、より以上にデル・リオはその眞白な肩と腕とに就て、就中《なかんづく》足を以て美事に演技してゐた。足は伸べられ歪められ馴らされ、折りまげられ、媚をつくり嬌態(しな)をうつし、うすい糊のやうな光をふくんで絕えず行動し、流れてちからない時は柔かい餅のやうになつて橫《よこたは》つてゐた。そこに凡ゆる足が表現され且つ演技されてゐた。宿屋の食卓の上、街をゆく甃石《しきいし》の上、大雪のごとき大寢臺の上、馬車の上、そして折折大膽な大腿の露はれる肉體の瞬間的な行動、自分はラケル・メレエよりもエロテイシズムを、或はラケル・メレエ以上のカルメンを見た。ジエラルデン・フアラーの膨張した足、ポーラ・ネグリの大建築的な直角な足、そして彼女らが演技したカルメンよりも、デル・リオのその眼付の中にあるモナ・リザ風な神祕めいた感情的な一つの古典的表情が「カルメン」に助成し成功してゐることを感じた。
凡ゆるカルメンが近代の神經と性格描寫に基づくより外に、もうカルメンの存在はなかつた。カルメンの中にある劣等な美と熱情とは、凡ゆる新しい解釋によつて爲されなければならない。又凡ゆるカルメンはオペラのカルメンでなく、凡ゆる街巷《がいかう》のカルメンでなければならない。野卑と淫賣との凡ゆる近代的な多情の要素をもつカルメン、自分はそこまでカルメンを見ることの當然さを感じてゐる。そしてデル・リオのカルメン風なカルメンに妙技を終始し得たのは、何處までも惜氣もない感情を搾り出したことにあつた。
ヴイクター・マクラグレンの鬪牛士ルカも、その豪邁な頑固な性格がカルメンの媚態に據つて綻《ほぐ》れて行く經過を素直にあらはしてゐた。宿屋の場面に於て就中成功してゐた。ドン・アルヴアラードのドン・ホセの弱い線の中に、情熱的な屈辱は見ることはできるが、到底ドン・ホセの適役ではなかつた。情熱の鬪士としての展開はかういふ弱い韻律によつて爲されるものではない。――ともあれデル・リオのカルメンはその故意とらしくない藝風によつて扮し得たことは特筆すべきことであらう。
[やぶちゃん注:「カルメン」これは一九二七年公開のラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh)監督の‘The Loves of Carmen’。
「ドロレス・デル・リオ」(Dolores del Río 一九〇四年~一九八三年)メキシコ出身の女優。
「ラケル・メレエ」ブリュッセル生まれでフランスに帰化した私の好きな監督ジャック・フェデー(Jacques Feyder 一八八五年~一九四八年)が一九二六年に撮った‘Carmen’でカルメンを演じた、スペインの歌手で女優のラケル・メラー(Raquel Meller 一八八八年~一九六二年)。
「ポーラ・ネグリ」(Pola Negri 一八九七年~一九八七年)は前章に出たエルンスト・ルビッチが一九一八年に撮った‘Carmen’でカルメンを演じた女優。サイレント映画時代には妖艶なヴァンプ役として大スターとなった。ポーランド生まれでアメリカやドイツで活躍し、アメリカの市民権を取得し、テキサスで亡くなった。
「ヴイクター・マクラグレンの鬪牛士ルカ」(Victor McLaglen 一八八六年~一九五九年)は、ウォルシュ版「カルメンの愛」で仇役エスカミーロ(Escamillo:エスカミーリョ)を演じた。彼は元イギリスのボクサーからハリウッド俳優に転身した人物である。「ルカ」と言うのは、原作(ビゼーのオペラが種本としたフランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)のそれ)では「リュカス」(Lucas)という名であることによる。
「ドン・アルヴアラードのドン・ホセ」「カルメン」のヒーローであるドン・ホセ(Don José)をウォルシュ版で演じたアメリカの俳優ドン・アルバラード(Don Alvarado 一九〇四年~一九六七年)。]
十一 クララ・ボウ論
餅肌クララ・ボウ、
野卑の美、
白い蛙、
蛙の紋章、
肉體的ソプラノ、
クリイム・チーズの容積、
既に要求的な滿喫、
裸の腕のマツス、
計算と性格、惡巫山戲とコケツト、
そして怜悧と惡こすい眼付、
ジョージ・バンクロフトを與へよ、
その巨大なる抱擁を抱へよ、
餅肌クララ・ボウ、
際物的なクララ・ボウ、
甃石の上をゆくペングイン鳥、
お腹はもう胎んでゐる、
世界ぢう搜しても分らない父親、
餅肌クララ・ボウ、
益益肥えるクララ・ボウ、
益益美しくなるクララ・ボウ、
蹶飛《けと》ばしたくなるクララ・ボウ、
文身《いれずみ》をしたくなるクララ・ボウ、
餅肌クララ・ボウ、
蹶飛ばしたくなるクララ・ボウ、
間もなく剝製になるだらうクララ・ボウ。
[やぶちゃん注:「クララ・ボウ」(Clara Gordon Bow 一九〇五年~一九六五年)はアメリカのトーキー時代の人気女優。実際の前半生はかなり過酷であった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。
「マツス」mass。塊り。ボリュームのある感じを指す。
「コケツト」coquette(コォケェット)。あだっぽい女・男たらし。
「ジョージ・バンクロフト」「五」で既注。]
十二 ブレノンとH・B・ワーナー
「ボー・ジエスト」の物語風なハーバート・ブレノンは、「ソレルと其の子」に極めて平凡な手法を試乘した。フアストシインに戰爭の一シインを點出したのは第一の失敗だつた。あれはロンドンの電車から降りるあたりから展開さるべきだ。妻の出發とソレルの歸宅との同じい時刻、ロンドンの骨董屋の主人の死と彼の就職到着との同時刻、子供らを二人まで負傷させた手法の繰り返し、それらの運命的なるものの自然との交換が突然であり手法の冴えを感ぜしめない。全篇小說風な平かな筋と味ひを引き締めるちからが足りないのだ。本味で行くむら氣と映畫臭を拔けようとする努力はわかるが、さういふ素晴しい本味はもつと新しいスタンバーグ以上の監督が出現しなければ行き着けないところである。ブレノンでは行けない。彼ができ得る限りの靜かな迫らない監督振りは目に見えるやうであるが、自分はその努力に注目はするけれど他の批評家のやうに斷じて取らない。
この種の父性愛を取り扱つた通俗的なセンチメンタリズムを拔け切らうとしたところにブレノンの意識的な集中は窺へるが、そのため弛んだ間の拔けた平均性のない場面的の出來と不出來とに終つてしまつた。ソレルがトランクを負うて階段を上るところも古い。唯、唯、後に妻のドラが息子を誘うて料理店にゐる場面は、今までに見なかつたよいシインだつた。これはブレノンが川岸で息子と散步をしながら馬に乘らせるシインとともに、よい小說風な効果をもたらしてゐる。
H・B・ワーナーのステイーヴン・ソレルはよく演技してゐた。久しく見なかつた快い澁好みの「面」をもつH・B・ワーナー、「面」そのものが既に哀愁をもつ彼にソレルが似合はないことは絕對になかつた。物靜かな監督への理解、「面」が運ぶ本筋的な流暢な彼に、父親としてのゆつたりした本格的な相貌をもち、飮み込みの早い彼の藝風に失敗のあらう筈はなかつた。感激のために後向きになつて壁に對《むか》うて泣くところもよかつた。ブレノンの描寫が持つ目立たない急所だつた。
「ソレルと其の子」は原作も失敗の作である。寧ろ壯烈な落着いたよい名譽ある失敗である。かういふ名譽を負うて立つところの、彼ハーバート・ブレノンを見ることは自分には寧ろ溫かい笑ひを漏らすことに近かつた。
[やぶちゃん注:「ボー・ジエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste:一九二六年公開)は、イギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)によって一九二四年に発表された冒険小説を元にしたアメリカのモノクロ・サイレントの戦争映画。監督はハーバート・ブレノン(Herbert Brenon)。ロナルド・チャールス・コールマン(Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリス生まれのハリウッド男優。名優として人気が高かった)が主人公ボー・ジェストを演じた。私はこれは未見だが、後の二度目の映画化(一九三九年・アメリカ)映画ウィリアム・A・ウェルマン監督で、ゲイリー・クーパー主演のそれは好きな一本である。
「ソレルと其の子」(Sorrell and Son)は、一九二七年のアメリカ合衆国のサイレント映画。当該ウィキによれば、『フィルムは長年にわたって消失したものとみなされていたが』、二〇〇四年と二〇〇六年にハリウッドにある(同英文ウィキで補正した)『アカデミー・フィルム・アーカイヴ』(Academy Film Archive)『によって修復版のプリントが上映された』とある。私は未見。主人ソレルはイギリスの俳優ヘンリー・バイロン・ワーナー(Henry Byron)が演じた。
「妻ドラ」ソレルの妻(Dora Sorrell)はスウェーデン生まれのアメリカ人女優でサイレント時代に人気を博したアンナ・クイレンティア・ニルソン(Anna Quirentia Nilsson 一八八八年~一九七四年)が演じた。彼女は英文ウィキによれば、一九〇七年に「アメリカで最も美しい女性」に選ばれている。]
十三 スタンバーグの「陽炎の夢」に就て
スタンバーグの「陽炎の夢」を見て、「救ひを求むる人人」「暗黑街」の同一作者と思はれない程、平凡な作だと思うたが、その手法上の辿辿しさに「救ひを求むる人人」の初初《ういうい》しさがあり、何か知ら「救ひを求むる人人」の素直さを髣髴させる優秀さがあつた。一つはスタンバーグに好意と眞卒さを感じてゐる自分は、彼の署名が無かつたら或は見落すかも知れなかつた程、何の變化の無いざらにある映畫のやうであつた。「救ひを求むる人人」が本格的な人生詩の肺俯を衝いたものとしたら、「陽炎の夢」は單なる草花詩のたはいない一篇であるかも知れなかつた。しかも此草花詩人風なスタンバーグに愛情をもつ自分は、當然辛辣であるべき批評的な眼目に於てすら、なほ一つの草花詩として「救ひを求むる人人」「暗黑街」の名監督的な冴えの陰に、微かに囁く抒情的な詩情を感ぜずに居られなかつた。「陽炎の夢」は彼として全きまでの失敗の作だつた。原作のアルデン・ブルツクスの「逃亡」を彼自身映畫化したことも、失敗の第一だつた。コンラツド・ネゲルもルネ・アドレも平常のやうに冱えた演技を窺せてゐなかつた。そしてスタンバーグ自身の緊張的な硬化性が自分に影響してゐた。「救ひを求むる人人」の古今に絕する作の完成後の彼として、又さういふ名篇と聲望とを贏《か》ち得た彼として固くなることも否めなかつた。彼の此一篇を以て問はうとした眞實な人生への欲求は、やはり彼の踏む人生以外のものではないが、どの役者も何かいぢけ何かおどおどしてゐた。スタンバーグの呼吸づかひは不幸にも彼自身の昂奮だけに停まり、彼ら俳優に感電的なリズムを刺し貫かなかつた。
併し自分は此映畫に對する感情には初めから「信賴」と「好意」が優しく感じられてゐた。葬ひの場面の送葬者の列、人形と椅子、狂人扱ひにされたプラツドが少時《しばらく》動かないでゐた非映畫なポーズ、ジプシイの馬車の毀れた板の隙間から、女の圓い大腿が見える着換へを暗示させる一場面、ジプシイ女とプラツドとが草原の上で語り合ふ時の平凡な常態、――ラストの二人が肩を組んでうしろを見せる場面で、自分は映畫的センチメンタリズムの刺戟と作用によつて、何とも言はれぬ「救ひを求むる人人」の最後の光景を呼び起すのだつた。僅かな一例ではあるが送葬の穴掘りの男が、長い弔辭朗讀に苛苛してゐる樣子が何等の動作や表情なしに、唯立つてゐるだけで表現されてゐた。さういふ失敗の中にある美事な部分的な冴えと完成とは、解體して見たら他の映畫と較べものにならない程効果的なことは勿論である。
[やぶちゃん注:「陽炎の夢」「陽炎」は「かげろふ」と訓じておく。サイレント映画。原題は‘The Exquisite Sinner’(「絶妙の罪人」)で一九二六年公開。主役ドミニク・プラッド(Dominique Prad)役はアメリカの俳優コンラッド・ネーゲル(Conrad Nagel)が演じた。私は未見。
『アルデン・ブルツクスの「逃亡」』アメリカの作家アルデン・ブルックス(Alden Brooks 一八八二年~一九六四年)の‘Escape’。一九二四年作。
「ルネ・アドレ」ジプシー(ロマ)のメイドのシルダ役はフランス出身のハリウッド女優ルネ・アドレー(Renée Adorée 一八九八 年~一九三三年)が演じた。]
十四 一場面の「聖畫」
「マザー・マクリー」は曾て同樣の母性愛を說いた「オーバー・ゼ・ヒル」の如き効果を擧げてゐない。寧ろ通俗的悲劇愚に近い作品であらう。併し自分はそのベル・ベネツトの母親が或富豪の床の上を拭いてゐて、不圖赤兒の泣聲を聽いてそのドアの中へ這入り、床に坐り乍ら赤兒を宥《なだ》め賺《すか》す場面を見て、忽ちにしてマンテニア風な、大《おほい》なるクラシツクを感じた。床拭きとして頰冠《ほほかむり》のやうな頭巾をかむつたベル・ベネツトはもはや自分には單なる現世の一女優としてのベル・ベネツトではなかつた。優しいマンテニアの畫面に漲る恍惚、からだの白い柔《やさ》しい聖畫的な母性の接觸、翼の生えた大なるクラシツクの母親だつた。
ジヨン・フオードの手法も寧ろ弛《たる》んだものだつたが、床拭きの一場面だけは奈何なる映畫の中にもなかつた生新な好場面であつた。自分はかういふ聖畫風な或は天上から辷《すべ》り落ちた一頁、ジョン・フオードも豫期しないであらう同時に生新で古風な一枚の生きてゐる繪畫が、自分の胸を閉《とざ》し頭にあるマンテニアを生《いか》してくれたことは喜ばしい限りだつた。ベル・ベネツトの靜かで豐かな稍間伸びのした演技も、手堅さの窺はれるフオードの手法と共に渾一した氣持を自分に與へた。そして自分は凡ゆる映畫を見ないで輕蔑してはならぬ事、かういふ一場面の「聖畫」の現世に於て見られ得ることは、映畫それのもつ世界の微妙な作用でなければならなかつた。漫然と見過すことのできない一場面の、その驚くべき効果は或意味に於て不易の「古代」を形づくるに充分だつたからである。
[やぶちゃん注:「マザー・マクリー」(Mother Machree)は名匠ジョン・フォード(John Ford 一八九四年~一九七三年)の一九二八年公開のサイレント映画。なお、ウィキの「ジョン・フォード」によれば、『ジョン・ウェインがノンクレジットの脇役でしたが、フォードの作品に出演した初の作品』であり、なんと、『ウェインはこの映画で小道具係も』務めたとある。
「マンテニア」壮大な着想と厳格な写実で、北イタリア・ルネサンスを代表する画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年~一五〇六年)。凄絶な構図で描かれた代表作「死せるキリスト」(Cristo morto)でよく知られる。イタリア語の彼のウィキのその画像をリンクさせておく。
「ベル・ベネツト」女主人公マザー・マクリー(本名はEllen McHugh(エレン・マクヒュー))を演じたアメリカの女優ベル・ベネット(Belle Bennett 一八九一年~一九三二年)。]
十五 ポーラ・ネグリ
ポーラ・ネグリは幅と大きさに於てエミイル・ヤニングス風なものを、その演技や風貌の中に持つてゐる。何よりも大寫しに効果のある肉體の量積、カメラに大膽な瞬きをしない瞳孔、冷たい風刺的な浮びやすい嘲笑、次第に蒼白になる表情の運動的なタイム、頰骨、割れてゐる巨大な眞白な背中、それらの中に粗大な美しい建築的な堂堂たる容姿は鳥渡《ちよつと》類のない「典型的」な、エミイル・ヤニングス風なものの多くを持つてゐる。
グロリア・スワンソンの厭味のある誇張はネグリには洗はれてゐる。スワンソンの癖や垢は彼女を益益あくどくしてゐるが、ネグリにはさういふあくどさが無い。唯その肉體的容積が彼女を偶偶《たまたま》グロテスクな感じにはさせてゐるが、その諷刺ある冷笑をあれ程辛辣に現はし得る女優は當今少ないと言つていいであらう。その背中に至つは曾てのバムパイア女優ニタ・ナルデイを遙かに超えてゐる。しかもポーリン・フレデリツクのやうなヒステリツクの銳角な線は未だ貫いてゐない、その點彼女はまだ「中年女」になり切つてゐないと云つてよい。
ネグリ物はネグリの演技的存在と同時に、どういふ主役にも餘り失敗してゐない、ヤニングス物が度外れな失敗をしてゐないと同樣な、濃厚な落着と危氣《あぶなげ》のない藝風によつて固められ表現されてゐるからである。「帝國ホテル」のネグリの厚みや、「鐵條網」の彼女、そして「罪に立つ女」のネグリの位置は、モーリス・ステイラーの靜かな常識的なまで正確なリアルな手腕で、彼女をおさへ、彼女の癖を消し試《た》めさうとし、その生地の中のヤサシイものを、母の愛情へ呼び出す努力によつて表現されてゐる。病人の額へまで夫の目前で接吻させるステイラーは、監督的な位置をそれが當然であるところの手法を潔く試みてゐる。殺しの場もよい、それらのネグリは殆ど完全なままで在來の藝風の集中され、秀れた極地の表現であつた。彼女をここまで纏め(よい意味で)上げたものは、やはり彼女の力倆ではあるが、モーリス・ステイラーの中のものが彼女に働きかけたことは、云ふまでもないことである。凡ゆる監督の光輝ある位置も亦此最大を約束してゐるのだ。監督の握り方の厚みによつて爲されるものそれ、役者に冴えて出る演技それでもあるのだ。
[やぶちゃん注:「ポーラ・ネグリ」(Pola Negri 一八九七年~一九八七年)はポーランド出身の女優。サイレント映画時代に活動し、妖艶なヴァンプ役で大スターとなった。当該ウィキによれば、『第一次世界大戦の終わり頃までには、ワルシャワで人気舞台女優となって』おり、一九二二『年にはハリウッドに招かれ』たとある。グーグル画像検索「Pola Negri」をリンクさせておく。
「グロリア・スワンソン」(Gloria Swanson 一八九九年~一九八三年)はシカゴ生まれのアメリカの女優。サイレント時代に活躍したが、一九五〇年のビリー・ワイルダー監督のヒット作「サンセット大通り」(‘Sunset Boulevard’)で、自身の影のような、サイレント時代の栄光を忘れられない往年の大女優を演じたのが忘れられない。
「バムパイア女優ニタ・ナルデイ」ニタ・ナルディ(Nita Naldi 一八九四年~一九六一年)はニューヨーク生まれの女優。サイレント期に最も成功したヴァンプ女優の一人。
「ポーリン・フレデリツク」ポーリン・フレデリツク(Pauline Frederick 一八八三年~一九三八年)はボストン生まれの舞台及び映画女優。
「鐵條網」‘Barbed Wire’ は一九二七年公開のモーリッツ・スティルレル(犀星の「モーリス・ステイラー」は同人物)の監督作品。サイレントの戦争絡みのラヴ・ロマンス映画。ヒロインのモナ・モロー(Mona Moreau)役をネグリが演じた。
「罪に立つ女」‘The Woman on Trial’は一九二七年公開の同じくスティルレルの監督作品。ネグリは主役のジュリー(Julie)を演じた。]
十六 コンラット・ファイト
自分は「或男の過去」のジヨージ・メルフオードに危氣は感じなかつたが、定石的な監督の布置には不滿足だつた。餘りに樂樂とこなしもし、餘りに作り物の感じだつた。
コンラット・ファイトの立體的なポーズには、熱情も苦心も窺へなかつたけれど、フアイト特有の妙に演技的であり乍ら決して左うでない自然性、自然性の演技的同化ともいふべきものが何時も乍ら感じられた。彼は棒のやうに突つ立ち乍ら、澁い軟味を流暢に曳いてゐた。それは永い間スクリイン生活をした人でなければ、持ち合はせない自然な軟味《やはらかみ》であつた。「カリガリ」以來、「プラーグの大學生」まで彼は依然として棒のやうに突つ立ち、すこし俯向きがちの背後姿を見せた人である。肩、背中、首すぢの歷史的な吾吾の記憶を辿るとしても、彼は依然たる「うしろ向き」のフアイトであり、首を少し垂れた疲れを見せてゐるコンラツトであつた。澁い藝風が彼の持味となったのも當然であるかも知れない。
ヤニングスの豪邁はまだ澁さには達してゐないが、フアイトの一應「憂欝」なそれ自身から出發してゐる藝風は特に「巧まう」とせず、演技的に執拗ではなく、又「熱」を見せてゐないところの餘りに沈着な、餘りに有りのままな普段着の動作を生活するフアイトであつた。「我若し王者なりせば」の慘忍な王に扮した時の物凄い彼の形相の中にも、依然として彼らしい沈着が、その焦燥の王者の中にあつた。しかもその時は彼は彼の立體的なポーズから離說してゐた。
自分はフアイトの「うまさ」を見ようとしてゐたが、どういふ點でフアイトであり得るかに就て、自分は彼を刺し貫く眼光をもたねばならぬ努力を敢てしてゐた。併乍ら吾コンラツト・フアイトはゆつくりと大膽に、しかも妙に子供らしい憶憶しさのある步調でスクリインの中を步いてゐた。彼は決して監督を輕蔑も壓倒もしなかつた。ゲルマン風な眞面目な努力で押し通し、自分だけのものを自分らしく消化することによつて、すこし疲れた軟かい立體的なポーズを繰り返し、吾吾の歷史的な記憶の首すぢを少し垂れたフアイトであつた。自分はもう彼のうしろ向きの姿以外に、彼を見る必要はなかつた。「プラーグの大學生」の中の彼、生活をしないスクリインの幽靈だつた彼は、すくなくとも「或男の過去」の中ではともあれ生活的なものを生活することに存在してゐた。それはどう云ふ意味にもコンラツト・フアイトの顏さへ見れば、彼の溫和《おとな》しい象徵詩の分子を含む立體的な背後姿さへ見れば、我我は特に何事も言ひたくない妥協的な、彼への好意を支拂ふことに據つて批評の筆を擱《お》くであらう。それほど彼はスクリインの中の人、スクリインの中で衰ヘと老と疲れとを感じ併せてゐる人、もはや彼を烈しく鞭打つ必要のない人、そのフアイト風な顏さへ見せれば相應の効果を擧げることによつて、決して失敗を繰り返すことのない人であつた。彼自身古典的な演技記錄の上の或標準であり、生きてゐる立體的なポーズの骨董品であつた。
[やぶちゃん注:文中の「コンラット・ファイト」「コンラツト・フアイト」の混雑はママ。ここに出る映画作品は、初めて、殆んどが私の好きなものばかりである。
「コンラット・ファイト」コンラート・ファイト(Conrad Veidt 一八九三年~一九四三年)はドイツ出身の俳優であったが、ナチスを嫌悪し、一九四〇年代にハリウッドへ移住した。誰もが知っている作品では、名作「カサブランカ」(ハンガリー出身でハリウッドで活躍したマイケル・カーティス(Michael Curtiz)監督作品。一九四二年公開)で現地司令官であるドイツ空軍の悪玉シュトラッサー少佐(Major Heinrich Strasser)を演じた。
「或男の過去」‘A Man's Past’。以下のジョージ・メルフォードの監督になるサイレント映画。一九二七年。私は未見。
「ジヨージ・メルフオード」(George Melford 一八七七年~一九六一年)はアメリカの俳優・監督・プロデューサー。
「カリガリ」私の偏愛する革新的なドイツのサイレント映画「カリガリ博士」(Das Cabinet des Doktor Caligari:「カリガリ博士の箱」)。制作は一九一九年で、翌一九二〇年に公開された。監督は現在はポーランドのヴロツワフ生まれのロベルト・ヴィーネ(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)。当該ウィキによれば、本作は『一連のドイツ表現主義映画の中でも最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い作品である』とある。シュールレアリスム映画の濫觴と言ってもよいと私は感じている。
「プラーグの大學生」‘Der Student von Prag’。オーストリア生まれのヘンリック・ガレーン(Henrik Galeen 一八八一 年~一九四九年)の監督になる一九二六年のドイツのサイレント映画。私は大学時代に見、映画館から帰る足で本屋に行ってシナリオの訳本を買ったほどに、好きな作品である。主人公の学生バルドゥイン(Balduin)をファイトが演じた。「ファウスト」伝説を下敷きにしているが、実は一九一三年の同名のドイツ映画(監督はデンマーク生まれのステラン・ライ(Stellan Rye 一八八〇年~一九一四年))のリメイクである。
「憶憶しさ」ママ。この「憶」は「臆」の代用字であろう。気遅れがちな様子の意ととる。]
十七 スタンバーグとチヤツプリン
「サーカス」が上映されても些しの刺戟を感じなかつた自分は、第一週の公開の日には何故か見に行く氣になれなかつた。自分には解り切る位解つてゐたからである。彼の縁起の常套と情勢、後へも先へも出られない行詰りで呼吸を窒《つ》めてゐる彼、自分の殼を生涯低迷することしか知らない彼、中途で藝術的な自覺と天才的煽動の綱渡りをして、マンマと彼の喜劇的生活を生活したまでの、演技的舊時代の英雄。――
[やぶちゃん注:「サーカス」(The Circus)は、一九二八年に公開されたアメリカのサイレント映画。チャールズ・チャップリンが監督・脚本・演出・音楽・主演総てを務めた。公私ともに最も困難な時期の一作であるが、私はあのラストに限りない悲しみを感じた。但し、彼の諸作の中では、それほど高く評価はしない。]
自分は「サーカス」を見て思はず笑はされ、他の看客も同じく雷の如く笑殺されてゐた。その間にチヤアリイ・チヤツプリンは二卷物時代の再描寫を臆面もなく繰り返してゐた。彼獨特のポーズヘの興味は自分を倦怠させ、嫌厭の欠呻《あくび》となり、寧ろ十年に近い今日迄最初の演技を打通《うちとほ》した彼の自信に今更ながら驚き、それをそのまま受け容れてゐるお人善しな我我に不愉快を感じた。我我は笑へない生活をしてゐる者ではない。唯我我は笑ふ時を、笑ふやうな事情を、笑はなければ居られぬものを時時感じることは事實である。心から笑つて見たい願望は疲勞した神經がこれを要求してゐる。我我はチヤアリイを見て笑ひ、「我」を離れて久振りで笑ひ、さうしてチヤアリイに別れて館を出たあとに、笑ひの滓《かす》の如きものすら頭に殘らなかつた。「サーカス」の中の人生をかかる强い絃《げん》が、一本も頭に餘韻をつたへなかつた。凡そチヤアリイほどの頭に殘らないものの甚しいものはなかつた。映畫的な新聞紙を演技する彼ではない。併しながら自分の頭の中には「ソレルと其の子」の如き失敗の作の中にあつたものすら感銘しなかつた。
「ゴールド・ラツシユ」や「キツド」の悌《おもかげ》よりも一層古色蒼然たる「綟子の戾り」かけた彼、手法の困憊《こんぱい》と疲勞、疲勞以上の絕望的な衰退期、――喝采と拍手との中に、彼の運命をも暗示する拍手が交つてゐることは、聰明であるべき彼の特に心付いてゐることであらう。
[やぶちゃん注:「綟子《もぢ》の戾り」「綟子(もぢ(もじ))は麻糸で織った目の粗い布を指す。夏衣・蚊帳などに用いるものだが、どうもそれでは意味が通らない。「ウエッジ文庫」もそのままでルビもないが、どう考えてもおかしい。思うに、これは「戾り」という表現から「捩子」の誤字ではあるまいか? 「螺子」、「捩じる・捻じる」から「捩子・捻子」とも書く、「ねじ」である。
「ゴールド・ラツシユ」通常、本邦では「黄金狂時代」(The Gold Rush)と邦題する。一九二五年製作で、チャップリンが監督・脚本・主演を務めた喜劇映画。文句なしの彼の傑作の一つ。
「キツド」(The Kid)は一九二一年公開のサイレント映画。彼が監督・脚本・主演(サウンド版では音楽も担当)を務めた。やはり名作である。]
只彼の中に知りたいものは彼が在來の作品から、どれだけ身をかはしたかといふ事、どれだけの速度で轉換期的な演技上の新鮮を表現し得たかといふ事である。チヤアリイ・チヤツプリンは昔のままの彼であり、昔のままの氣の好い子供對手のチヤツプリンであり、遂に今日の吾吾の「失笑」を盛り返すだけのものは、どういふ意味にも彼は最早持合さなかつた。凡ゆる天才の常軌的な行動は彼の上にもその勢ひを揮ひ、今日の我我に通用する映畫的なレツテルは最早我我には興味がなかつた。彼は「時代」をその演技の獨特な世界に於て嚥《の》み下してゐた。併し彼の嚥み込んだ「時代」の年號は正しく千九百二十年前後だつた。併乍ら此天才の莫大なる信憑に據れば千九百二十年の年代と、千九百二十七年の年代との間に、何等の急速度な精神的な時代の變貌がなかつた。變貌ばかりではない、此時代に特に欠くことのできない「心理」すら彼が幾度とない再描寫的の繰り返しに過ぎなかつた。これは他の俳優ならば兎も角、彼の場合見逃すことのできない僞瞞[やぶちゃん注:ママ。「欺瞞」の慣用誤字。]に近い狹い藝風であつた。
自分は曾て名俳優であるよりも、寧ろ名監督であることを何等かの機會を得て述べて置いたが、實際彼の俳優として演技の絕頂時である「ゴールド・ラツシユ」と「サーカス」と較べて見て、彼は再び新しく立つの彼でないことを手痛く感じた。比較的輕快とされた道化の行動さへも、今は到底莫迦莫迦しくて見るべくもない。それは持味とするには餘りに常套的な持味である。假に文藝作品に於て彼が踏襲するところの再描寫が繰り返されるとしたら、殆ど再讀するに堪へない惡趣味を强制するであらう。
自分は「サーカス」を見た後に、何となく「巴里の女性」を想起した。彼が監督の位置のみでなく自ら演技しなければ居れぬ氣持は解るが、何故俳優の位置を放棄することに依つて彼の手腕の中にある「監督」的な、鮮明な腦髓を思ふさま振はないであらうか。それは永い間俳優としての彼の最も思ひ切りの惡い困難な放棄に違ひない。併し今日の「サーカス」一篇が「巴里の女性」への人生的な効果と表現美を擧げてゐないことは、誰しも氣の付くことである。「喜劇」が彼の中に丸め込まれてゐる間、世界の喜劇が成長しないといふ譯ではないが、その澁滯した停止線を彼が持つてゐることは事實である。同時に凡ゆる喜劇は不用意な運命と機會との命令によつて生じ、最初からそれに目的されたものに誠の喜劇的條件は有り得ても、その喜劇の爛熟は有り得ないと同樣である。自分は俳優としての彼に何等の將來を感じない。尠《すくな》くとも永い間踏襲したあれらの惡趣味な娛樂の媚に甘えた彼から「飛出さない」限り、自分は遂に何等の期待をも感じ得ない。
[やぶちゃん注:「巴里の女性」(A Woman of Paris)はチャップリンが監督・脚本・製作を務めた、一九二三年公開の長編サイレント映画。私はこの一篇は見ていない。当該ウィキによれば、特異的にチャップリン自身は『駅の場面で荷運び人として一瞬カメオ出演しているのみである。この出演はあまりにも目立たないものであるため、クレジットすらされていない。この映画を見たほとんどの人は、それがチャップリンだと気付かなかったが、それこそチャップリンが実際に意図したことだった』。そうして、『また、もう一つの他のチャップリン映画との大きな違いは、本作が喜劇ではなく、シリアスなドラマである点である』とある。シノプシスはそちらを見られたい。]
自分はチヤアリイ・チヤツプリンとスタンバーグとの距離、時代、睨み、速度、構へ等に就て當然比較さるべきものを感じた。「救ひを求むる人人」一卷を携へて彼を訪ねたスタンバーグは、もはや無名の何處へ行つても買手の無かつた時代のスタンバーグではなかつた。チヤアリイは無名の彼を認め彼に力を盡した。彼の「救ひを求むる人人」を世に紹介したのもチヤアリイだつた。スタンバーグの手腕に驚嘆と讃同と激勵とを與へたものもチヤアリイだつた。或はチヤアリイが居なかつたらスタンバーグの世に出ることは、今少し位は遲れてゐたであらう。スタンバーグに取つて大家であるチヤアリイの懇切さは、絕大な喜びであつたに違ひない。
併乍らスタンバーグは昨日のスタンバーグではなかつた。「暗黑街」を持つて立つた彼の周圍には敵手のないまでに鮮かな出現の地位を贏《か》ち得てゐた。彼の目的されたものの精神には妥協の過程を踏むことはなかつた。決して顧みることなき人生派の詩人の踏み出しを敢行し明日と其明後日へ働きかけてゐることは「暗黑街」を評價した折に述べたところであるが、チヤアリイは此間に造花に似た本物に近い一本のばらの花を、伺時までも振り廻してゐるとしか思はれなかつた。回想と昨日の眞實に跼蹐《きよくせき》してゐる彼の身悶えは、結局チヤアリイを疲勞させ澁滯させ、出口のないところに趁《お》ひ詰めてゐた。彼が「サーカス」の鏡の間に追ひ込まれたのは、何と皮肉な彼への、出口のない昏惑と行詰りを意味し運命と自然との何と快い折檻であることか、――全く彼は鏡の間に於ける八方に映る彼を見きはめ、その幻影的な囘想的な抒情詩への拒絕を以て立たなければならないのだ。
[やぶちゃん注:「彼は鏡の間に於ける八方に映る彼を見きはめ」映画「サーカス」で、チャーリー演ずる主人公が警察に追われ、見世物小屋に逃げ込み、ミラー・ハウスに入ってしまって迷うシークエンスを皮肉に使った謂い。当該ウィキに、その画像がある。]
チヤアリイの神經は間伸びがしてゐる。スタンバーグは今の時代にピツタリと身を寄せ、身を寄せることに依つて全神經の銳どさ新しさに立脚してゐる。併し何とチヤアリイは時代から離れた胡散《うさん》な顏付をしてゐることだらう。彼は彼をさヘ胡魔化してでもゐるやうな古色蒼然たる「サーカス」の中に、ハロルド・ロイドの調子を繰り返してゐる、自分は綱渡りの中にも彼の姿を見たに過ぎない。
[やぶちゃん注:「ハロルド・ロイド」(Harold Lloyd 一八九三年~一九七一年)はアメリカのコメディアン。一九二〇年代のバスター・キートン(Buster Keaton 一八九五年~一九六六年)とチャールズ・チャップリンとともに活躍したサイレント映画の喜劇王の一人。]
ともあれ一代のチヤアリイ・チヤツプリンと雖も、もう時代遲れであることは疑へない。これ以上彼と步調尾《を》を揃へる「時代」は世界中に滅びてもゐるし、彼の演技に於て既に亡びかかつてゐる。彼に望《のぞみ》をかけることは最早監督としての彼の外の物ではない。「サーカス」の場面への檢討と嚴格な批評では、到底彼の未來を暗示し物語るものはない。自分は彼の「サーカス」を二年間の沈默の後の作品などといふ、いい加減な胡魔化しと曖昧な常套的な手法でマヤかされることは、彼の爲にもしないつもりである。
ハロルド・ロイドやダグラスやデニーの喜劇的な世界に於て、チヤアリイが唯一の「蒼白さ」を持つてゐたことは曾て自分の說いたところである。彼が人生の中の「蒼白さ」を喜劇の中にこもらした事、決して喜劇が喜劇で停《とど》まらないところの、彼らしい悲喜劇的な人生構圖も自分は認めるものである。過去に於る凡ゆる喜劇俳優の中に最も意識的な彼であり、最も徹底した喜劇が悲劇に代辯すべき程度にまでの高揚を敢て演技したものも彼である。併乍ら彼を說くことは何よりも未來を釋明することでなく、過去を計算するところの最早記錄的な「數字」でしか無いのである。
[やぶちゃん注:犀星のチャップリンへのこの時点での以上のそれは、超辛口の批判である。戦後まで生きた犀星(昭和三七(一九六二)年三月二十六日:肺癌・満七十二)に、その後のチャップリンの映画について感想を聴き、この嘗つてのチャップリンへの引退勧告のような記事をどうするか、聴いてみたいものである。]
十八 コールマンとマンジウ
アドルフ・マンジウは何時も短篇と小品の中に、彼一流の演技をこなしてゐる。新しくも古くもない、氣の利いた持味で充分に行動してゐる。「セレナーデ」の彼は最近にない好技の潤ひを出してゐた。
ハリー・ダラストの鮮かな韻律は、マンジウを隨所に引締めてゐた。最初の貸間を見に行くところ、グレツチエンが夜の石段に腰かけてゐたところ、その以前の植木に水を遣つてゐるところもよかつた。――マンジウのフランツが夜遊びから更けて歸つて來て、臂《ひぢ》をタオルで拭いて女の口紅がタオルに殘るところも、强い韻律的な表現であつた。ともあれ妙に小品風な、或型を起すことに秀《ひいで》てゐる彼は、行くところに小さい締つた成功をしてゐた。ダラストの手際も纏つた冴えを見せてゐる。「婦人に給仕」程の冒險は無いが、文字通りの「セレナーデ」風な、纏つた作品である。
ロナルド・コールマンとマンジウとは好一對のスタイルを持ち、どちらも些かアメリカ臭を脫してゐる點が、自分に好ましさを與へてゐる。コールマンには妙な憂愁味があり、藝風は地味な行方をし、マンジウは派手で「派手の澁味」を出さうとしてゐる。彼等の孰方《いづかた》も澁味へ落着く俳優にちがひない、あれらの演技的極北は到底澁味以外に落着くところがないからである。彼はねらふこと無くして自然に澁味に辿り着くであらう。演技といふものは結局幅の問題ではなく、奧行の問題に過ぎない。マンジウの時には喜劇的なポーズの中には、西洋人のハイカラがあり贅澤があり、それらに向く「面」を持つてゐる。コールマンのハイカラと妙な高踏風なポーズには、弱い憂愁的な抒情詩が窺へないでもない。彼らは殆ど好みに合はないアメリカ物の俳優の中、僅《わづか》に自分の好きな俳優である。
[やぶちゃん注:「セレナーデ」‘Serenade’。一九二七年制作。監督はアルゼンチンのブエノスアイレス生まれでハリウッドに移住したハリー・ダバディ・ダラスト(Harry d'Abbadie d'Arrast 一八九七 年~一九六八年)。主役のフランツ・ロッシ(Franz Rossi)をマンジューが演じた。但し、このフィルムは現存していない。]
十九 大河内傳次郞氏の形相
或晚劍劇を看て初めて大河内傳次郞の物凄い形相を見て、靜かな陋居《ろうきよ》にかへつた後にも、彼の形相が記憶力の減退と空想の衰弱した頭に百年の夢魔の如くに絡《まと》はり殘つて安らかな夢さへ結べなかつた。しかも劇中牢舍の中で一武士が退屈の餘りから考へついて、自分の肢體の陰影を操り乍ら犬や狐や狼の形をあらはしてゐる凄慘な光景が永い間自分を惱ました。
犬河内物は其後二度ばかり見て、彼も阪東妻三郞の如く世に出るだけのものは、どういふ意味に於いても持つてゐることに感心した。惡どい峰のやうな形相も摸倣や熟練によつて表現されるものではない。彼もまた何百年かの祖先から約束され壓《お》し出され、その昔から殘つてゐた形相《ぎやうさう》を偶然に持ち合してゐるからである。歌舞伎劇なぞのやうな生優しいものではなく、いつも形相の銳どさが把握する力だけを手賴る劍劇では、僕等に於けるペンを把《と》る右の手よりも大切であらう。此意味に於てロン・チエニイよりもその形相に於ては夥しい創造をもつてゐることを疑へぬ。阪東氏は餘裕を置いてゐるが彼は絕えず一杯に當つてゐるやうである。尠くとも一杯の力で當る程度に見せるといふことが、それ自身形相から來る感じや幅が左う見せる爲かも知れない。自分は餘り舊劇以外のものは見てゐないが、舊劇による背景の築地《ついぢ》や橋梁や往還や土手や白壁や寺院には、ふしぎに百年以上の或光景ををさめ得てゐることは、不思議とすれば稀有のことである。「時代の摸倣」はその劇中人物よりも舊劇に取つては、就中肝要なことはその背景の重要なる表出であり、そのものによる時代の古色蒼然を髣髴することに於て、渾然たる成功を得るであらう。
[やぶちゃん注:「大河内傳次郞」(明治三一(一八九八)年~昭和三七(一九六二)年:福岡生まれ)は後の阪妻とともに数少ない私の好きな日本の俳優である。一番好きなのは、黒澤明の「虎の尾を踏む男達」(一九五二年)の弁慶である。「姿三四郎」(一九四三年)の矢野正五郎も忘れ難い。私は日本映画はあまり好まないので、ここで犀星が見た作品が何であるかは判らない。
「阪東妻三郞」(明治三四(一九〇一)年~昭和二八(一九五三)年)は東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の生まれ。歌舞伎修行から大正八(一九一九)年に国際活映のエキストラに出演したのが、映画界入りの最初。何と言っても! 何をおいても! 「無法松の一生」が一番! 昭和一八(一九四三)年十月公開。大映の製作で、監督は稲垣浩、脚本は伊丹万作。しかし、戦時の内務省の検閲で松五郎が、親しくしていた陸軍大尉の故吉岡小太郎の未亡人よし子に密かな愛情を告白する部分、それに纏わる回想シークエンスなどが検閲で削除され、戦後になってからもGHQによって軍国主義的と誤解され、一部が削除されるという二重の裁断を余儀なくされた不幸な作品である。また、「よし子」を演じた園井恵子(大正二(一九一三)年~昭和二〇(一九四五)年八月二十一日)は岩手県出身で宝塚音楽歌劇学校卒。しかし、所属していた移動劇団「櫻隊(さくらたい)」が、当時、活動の拠点としていた広島市で、八月六日の原子爆弾投下に遭い、半月後の同月二十一日、原爆症により、三十二歳で亡くなっている。特に「黒澤組」の宮川一夫の撮影が素敵で、特に終盤近くの小倉祇園太鼓の「乱れ打ち」に乗って沸き立つ雲をカット・バックするシークエンスは凄いぞ!]
二十 伊藤大輔氏の「高田の馬場」
伊藤大輔氏の「高田の馬場」は大河内傳次郞氏を生かしてゐる。神經的な銳どさ尖りを持つ大河内氏の安兵衞は、最後の井戸水を浴びるところ、手紙を繙讀《はんどく》するところ、飯を食ふところ、江戸市中を彷徨するところ等に最も適當な効果を擧げてゐた。伊藤氏の手法もかつちりと鍔鳴りを感じさせる程度の手堅さがあつた。
浪宅に於《おけ》る同じい朝と夕方のシインの再描寫に、或効果を豫想してゐる伊藤氏は此點寧ろ愛すべき稺氣《ちき》があつた。ああいふ場面の繰り返し、(多少ポーズとデテエルの變化は見たが、)は危險な失敗を見ることが多い。それを遣つて退《の》けたのはいいが、失敗は立派な失敗だつた。もう一つお勘婆さんの馬場へ馳けつける大向《おほむかう》を豫期した手法も、むしろ無駄な插話的な失敗だつた。安兵衞の長長しい驅つこも、効果の少ない徒勞に近いものだつた。興行的方面の喝采からも、かういふ陳套《ちんたう》な幾度か繰り返された場面は省略すべきであつた。浪士の江戶市中を彷徨するあたりに目立たない場面の變化を試みたところに、地味な鮮かさが印影されてゐた。それらのリズムの一見變化の無いやうに見える「變化」は、殊に矢場や矢場のある附近の光景に多かつた。伊藤氏の試乘的なものに絕えず努力の跡の窺はれるのは、何よりも自分を快適にした。
大河内傳次郞氏には度たび論及したが、何時かの「彌次喜多」何何いふ天下の愚を集めた映畫の中に彼を見た時ほど、腹立しいことはなかつた。何故ああいふ映畫に妥協するのか、自分は大河内氏の大成を信じなければならない、それ故ああいふ愚昧主義の安價な妥協に攻勢を取らなければならない、――いい加減な映畫にいい加減な演技を揮ふことは、それだけの場面的な惡い馴致《じゆんち》が恐ろしい、未來の演技的な高さへまで影響もし、又その妥協への卑俗性がダニのやうに憑《つ》き纏ふのだ。凡ゆる俳優の陷穽《かんせい》的惰勢は何時もここから呪はれて行くのである。大河内氏よ、伊藤氏とよりよく取組め。そして第一流から辷り落るな、決して妥協するなかれ、これは貴君を愛する一人の看客の聲であることを忘れるな、貴君を愛することに於て熱情をもつものの聲を、絕えず貴君は背後に感じ演技し行動しなければならない。
[やぶちゃん注:『伊藤大輔氏の「高田の馬場」』「血煙高田の馬場」(昭和二(一九二八)年・日活)の中山安兵衛役を大河内が演じた。監督伊藤大輔(明治三一(一八九八)年~ 昭和五六(一九八一)年)は時代劇映画の基礎を作った名監督の一人で、「時代劇の父」とも呼ばれる。部分的にネット上の動画を見たが、私は多分、見ていない。
『何時かの「彌次喜多」何何』は日活のコメディ時代劇シリーズ「弥次㐂多」の三作で喜多役を演じた。「弥次喜多 尊王の巻」(昭和二(一九二七)年)・「弥次喜多 韋駄天の巻」(昭和三(一九二八)年)・「弥次喜多 伏見鳥羽の巻」(前と同年)である。]
廿一 詩情と映畫
映畫に詩情のないものは稀である。だが映畫に誠の詩情を見ることも極めて稀である。監督の詩情的な試乘は却《かへつ》て映畫をだれたものにし、甘いものとする以外、餘り成功した例しがないようである。
最近に自分は「最後の命令」「暗黑街」「シヨウ・ダウン」等の諸作にその演技を揮うてゐるエヴリン・ブレントに、並並ならぬ牽引を感じ、人生詩の薀奧《うんおう》を味ひ感じた。リリアン・ギツシユやメイ・マレーに墮落した美の常踏者であつた自分は、メイ・マツカーボーイの餘韻ある美に心惹れた。それは品と雅とを兼ねた溫和な美しさであつた。美の中にある詩情は勿論常識的ではあつたが、皮膚に音樂的な恍惚と滑かさとが現れてゐた。彼女に最も豐なものは「そよかぜ」の頰を過ぎる優しいタツチの美である。刺戟を含まず、自分等の心に柔らかくなよなよして來る感じであつた。決してリア・デ・プテイの如き銳い肢體を摩擦される如き感覺ではない、リア・デ・プテイの特徴は彼女の中にはないが、彼女の呼吸づかひは文字通りの「花」を感ぜしめるやうである。
エヴリン・ブレントの美はマツカヴオイやリア・デ・プテイの如き表面的なものではない。彼女の美は直接自分らの心理的接觸を敢てして來る、性格美であり個的な、類型のない冷かな美しさである。稀にはその美の中に酷《むご》たらしい冷却された失笑が苦汁のやうに滴つてゐる。「最後の命令」の中のスパイに扮した彼女が窓際から街路を見下すところがある。冷かな動かない表情が窓枠を其儘額緣に塡《は》め込み、一枚の生きてゐる「寫眞」のやうに見せてゐた。自分は蒼白に近い彼女の冷酷な表情の中に、刺し貫いてゐる烈しい人生詩の美を感じた。それは自分等の心に疼いて來る美であり、蜂のやうに刺してくる美の針のやうなものである。「暗黑街」のブレントは辿辿《たどたど》しい初初しさがあり、「最後の命令」の中の女ほどコナれてゐなかつた。しかしスパイとしてのブレントは最早長足に進步もし、突き込む氣力を演技の端端に表してゐた。自分は何となくリア・デ・プテイを想起し、その白痴的な美を囘顧しながら、ブレントの中にある氷のやうな美を手摑みにしながら、自分の飢ゑをしのいでゐたのである、全く自分は永い間ブレントのやうな美に飢ゑ餓ゑてゐた。ああいふ美は自分を烈しい矢のやうな銳角さで影響して來るのであつた。
凡ゆる女優の美の中で最も恐るべきものは、派手な甘い常套的な美であつた。過去に於るアメリカ型の美は寧ろ低級な、性欲に擦《さす》りを與へる單なる標準美であるに過ぎなかつた。これらの美は映畫の本質に融和すべきものではあつたが、何等の藝術的な一流の本質美を築き上げるものではなかつた。女優に於る美が映畫を通俗と藝術との間に低迷させることは事實である。エヴリン・ブレントの通俗化はどういふ意味にも行はれることではない。冷嚴の中に謎を含んだ人生詩の内容は、ブレントの表情の中に橫溢してゐるばかりでなく、それらを統《す》べてゐる寂莫《じやくまく》の情は限りなく美しい。寂莫の情を圍繞《ゐねう》するものはブレントの冷たいキビシサである。自分の心に疼《うす》いて來る美も、又かういふ美の外のものではない。スタンバーグが生かした詩的精神は決して失敗してゐない。立派な搖がない焦點に効果を上げてゐる。或意味に於て最近に詩情ある映畫詩は、エヴリン・ブレントの中に僅かにあると言つてよい、恐らく今後に於るブレントの演技と藝風及びその性格的な把握は、益益銳どい人生詩の眞の姿や其接觸を示すであらう、決して彼女ごときは輩出する女優の中に求められない「珍しい」女優であるに違ひない。
映畫の巾にある詩及び詩情は、寧ろ監督の意識的表現であるよりも、何よりも我我高級な達者な達眼者のみ看客が發見する「詩」でなければならない。我我が映畫の中に見る詩は決していい加減な監督や女優の意圖ではなく、吾吾の中にある詩や詩情が彼らの中のものを發見し、呼應もするのである。第一流の看客は同時に又監督級の立場、精神、考究、把握の諸式を持ち、そこに行ふ批判も自らその竣烈《しゆんれつ》であるべき、當然の權利を持つ者をいふのであらう。
[やぶちゃん注:「最後の命令」‘The Last Command’ (一九二八年)はスターンバーグが監督したサイレント映画。エミール・ジャニングス主演。彼は翌一九二九年、この映画と前に出たフレミング監督の「肉体の道」での演技でアカデミー主演男優賞を受賞している。neco-chats氏のブログ「監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」1928年」で全篇の動画を見ることができ、「映画の中の映画」という入れ子になった興味深いストーリーのシノプシスもよく説明されてある。必見。エヴリン・ブレントはナタリー・ダブロワ(Natalie "Natacha" Dabrova)役を演じている。犀星が言うシーンは31:35以降にある。
「シヨウ・ダウン」‘The Showdown’(一九二八年)はアメリカの作曲家で映画監督でもあったヴィクター・シャーツィンガー(Victor Schertzinger 一八八八年~一九四一年)監督作品で、ヒロイン役のシビル・シェルトン(Sibyl Shelton)役をイヴリンが演じた。
「リリアン・ギツシユ」アメリカの女優リリアン・ギッシュ(Lillian Gish 一八九三年~一九九三年)は、サイレント時代を代表する映画スターで、「国民の創生」(‘The Birth of a Nation’)・「イントレランス」(‘Intolerance’)などで知られるデヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith 一八七五年~一九四八年)監督の作品で、清純可憐な役柄を演じたことで知られ、「アメリカ映画のファーストレディ(The first Lady of American cinema)」と呼ばれた。
「メイ・マレー」(Mae Murray 一八八五年~一九六五年)アメリカのサイレント映画の女優。ニューヨーク出身。ダンスの名手として人気を誇った。
「メイ・マツカーボーイ」メイ・マカヴォイ(May McAvoy 一八九九年~一九八四年)はアメリカのサイレント映画の女優。知れれた作品では、「ジャズ・シンガー」(‘The Jazz Singer’:一九二七年)のヒロインのメアリー・デール(Mary Dale)役がある。最終章で、彼女について犀星は語っているので、ここでグーグル画像検索「May McAvoy」をリンクさせておく。
エヴリン・ブレントの美はマツカヴオイやリア・デ・プテイの如き表面的なものではない。彼女の美は直接自分らの心理的接觸を敢てして來る、性格美であり個的な、類型のない冷かな美しさである。稀にはその美の中に酷《むご》たらしい冷却された失笑が苦汁のやうに滴つてゐる。「最後の命令」の中のスパイに扮した彼女が窓際から街路を見下すところがある。冷かな動かない表情が窓枠を其儘額緣に塡《は》め込み、一枚の生きてゐる「寫眞」のやうに見せてゐた。自分は蒼白に近い彼女の冷酷な表情の中に、刺し貫いてゐる烈しい人生詩の美を感じた。それは自分等の心に疼いて來る美であり、蜂のやうに刺してくる美の針のやうなものである。「暗黑街」のブレントは辿辿《たどたど》しい初初しさがあり、「最後の命令」の中の女ほどコナれてゐなかつた。しかしスパイとしてのブレントは最早長足に進步もし、突き込む氣力を演技の端端に表してゐた。自分は何となくリア・デ・プテイを想起し、その白痴的な美を囘顧しながら、ブレントの中にある氷のやうな美を手摑みにしながら、自分の飢ゑをしのいでゐたのである、全く自分は永い間ブレントのやうな美に飢ゑ餓ゑてゐた。ああいふ美は自分を烈しい矢のやうな銳角さで影響して來るのであつた。
凡ゆる女優の美の中で最も恐るべきものは、派手な甘い常套的な美であつた。過去に於るアメリカ型の美は寧ろ低級な、性欲に擦《さす》りを與へる單なる標準美であるに過ぎなかつた。これらの美は映畫の本質に融和すべきものではあつたが、何等の藝術的な一流の本質美を築き上げるものではなかつた。女優に於る美が映畫を通俗と藝術との間に低迷させることは事實である。エヴリン・ブレントの通俗化はどういふ意味にも行はれることではない。冷嚴の中に謎を含んだ人生詩の内容は、ブレントの表情の中に橫溢してゐるばかりでなく、それらを統《す》べてゐる寂莫《じやくまく》の情は限りなく美しい。寂莫の情を圍繞《ゐねう》するものはブレントの冷たいキビシサである。自分の心に疼《うす》いて來る美も、又かういふ美の外のものではない。スタンバーグが生かした詩的精神は決して失敗してゐない。立派な搖がない焦點に効果を上げてゐる。或意味に於て最近に詩情ある映畫詩は、エヴリン・ブレントの中に僅かにあると言つてよい、恐らく今後に於るブレントの演技と藝風及びその
「峻烈」非常に厳しいこと。]
廿二 「十字路」
自分は武藏野館に「在りし日」を見る爲例によつて時間を聞き合せて出掛けたが、「十字路」は既に映寫を終つたところであつた。自分に「十字路」を見る氣持は些しも動いてゐなかつた。「十字路」ばかりではない。自分の信じることのできない作品は一切見ないことにしてゐたからである。
自分の近くの動坂松竹館に「十字路」が上映され、自分は散步しながら何か「十字路」に氣持が動いてゐた。客の少數《すくな》い晝間の上映時間を聞き合せ、その翌日自分は「十字路」を見たのである。自分は眩しい午後三時過ぎの外光の中を自宅へ歸りながら、稀《めづら》しく昂奮を感じ、その昂奮の中に自分が「十字路」を武藏野で見なかつた頑固さと後悔を感じた。自分は日本の映畫にもつと打込んだ素直さを持つべきであることを染染《しみじみ》感じた。さういふ自分に「十字路」は徹頭徹尾苦しい作品であつた。衣笠貞之助氏の作に苦しむ氣持が影響し、その影響はこれ程まで苦吟してゐる男がゐたかといふ、その良心が自分を感動させた。かういふ良心的な力一杯の作は自分には稀に見る感激であつた。
自分は衣笠貞之助氏の中にあるエロテシズムの不徹底も、リアリズムの非感情的であることも、演劇的であることによる非寫實的な統一も感じてゐたが、彼の「心臟」は尠くとも全卷的に自分へも鼓動してゐた。此鼓動は到底日本で得られるものではない。伊藤大輔氏の或種の表現にはそれがあつたが、自分の見た衣笠氏の中のものは日本で初めてであつた。尠くとも彼の鼓動は自分につたはり自分はよき編輯者がよき作家を發見した時に感じる、その喜びさへ感じた。自分はストロハイムやスタンバーグをも、「十字路」に見ないことはなかつた。殊に「救ひを求むる人人」の影響も感じないではなかつた。併乍らそれは批評を目標とする自分の病癖だとしても、「十字路」は明瞭に凡ゆる現代の映畫的なるものの上の第一流を勇敢に押切つてゐた。かういふ良心、苦吟狀態を續けてゐるものは賤商の徒の夢にも知らぬところであつたらう。
誇張に過ぎた時代的な大味は兎もすると、厭味を交へてゐたが、千早晶子氏の姉と、矢場の女に扮する小川雪子氏との對照、十手を拾つた男の相馬一平氏の性格描寫の中には、衣笠氏の試乘的な成功は疑ひなかつた。殊に千早晶子氏は自分は初めて見る人であるが、危ない初初しい、齒ぎれのよくない演技の中に「姉」を感じさせるものが充分にあつた。一場面に賣られた女が一人坐つてゐるところがあり、すぐカツトしてあつたが印象はよかつた。矢場の光景はくどくどしく、失明昏倒の描寫的な種種な手法ももつと簡潔を肝要とすべきであらう。矢場女の小川雪子氏のそれらしい嗤笑《しせう》も、充分な呼應を監督との間に共鳴してゐた。
テムポは甚しく不統一ではあつたが、これ程に仕上の利いたことは、夜の撮影ではあり苦衷は充分に外面ににじみ出てゐる。ともすると暗きに過ぎることは何か演劇的な構圖へ吾吾の神經を誘はないでもなかつたが、苦しい作品として自分を感動させたことは稀しいことである。かういふ作の上で苦しむ人も今のところ日本に數ある譯ではない。
[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年に公開された悲劇的時代劇映画でサイレント。監督・脚本は衣笠貞之助(明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。衣笠映画聨盟制作。私は大学一年になった昭和七五(一九七五)年に、岩波ホールでエキプ・ド・シネマ主催によって同監督の「狂つた一頁」(大正一五(一九二六)年に公開された日本初の本格的なアヴァンギャルド映画。サイレント。主演は井上正夫。衣笠が横光利一や川端康成などの新感覚派の文学者と結成した新感覚派映画聯盟の第一回作品)とともに、このサウンド版の特別上映を観た。後者には激しい衝撃を受け、「十字路」も近代の悲惨小説を思わせるそれが、デフォルメと不思議に強烈なリアリズムとともに、古さを感じさせないもので、私の乏しい日本映画の数少ない中で、孰れもベスト作品であり続けている名品である。
「千早晶子」(明治四一(一九〇八)年~?)は大阪生まれの女優。昭和一一(一九三六)年に出演作品の多くを監督した衣笠貞之助と結婚している。
「小川雪子」詳細事績不詳。
「相馬一平」後に芸名を高勢實乘(たかせみのる 明治三〇(一八九七)年~昭和二二(一九四七)年)と変えた時代劇俳優。北海道函館生まれ。後に喜劇役者としても知られるようになった。]
廿三 エキストラガールの魅惑
名もないエキストラガールは一秒間乃至五秒間位で、その畫面から消えてしまふ。消えたが最後自分達が生涯の間に再び見る機會のない最早「過去」の娘達である。女給仕、女中、或群衆の中の一人、步道の通行人としての凡ゆるエキストラガールの新鮮な美しさは、自分が既往に見た混沌たる映畫的人生の中に、今も鮮かな驚く程の美しさを殘してゐる。恰《あたか》も自分等が電車や散步の途中などで行き會うた美しい女人の感銘が、何時の間にか記憶の中に滅びてゐるに拘らず、或日の或感覺的想念の中に生生《いきいき》と考へ浮んでくるのと同樣の感じである。
エキストラガールは布面の三秒間のために一週間もスタジオに通ふことは人人の知るところであるが、その三秒間のために彼女等の演技や藝術がないとは云へない。尠くとも自分のこれ迄に見た多くのエキストラガールは、全くその顏や動作には甚しい辿辿しい幼稺《えうち》なところはあつたが、しかもその選拔された美しさは映畫の上の「作つた」美しさではなく、全くの美人の生地をそのままに顯した美しさであつた。
[やぶちゃん注:「布面」スクリーンのことだが、読みが判らぬ。「ふめん」か「ぬのめん」か。]
街路を步む彼女は通行人の消えやすい魅惑を持つてゐた。その「新鮮」さは却つてスターのそれには見難いが、女給仕や女中としての彼女等の一秒間の名もない演技に顯れてゐた。ドアから廊下へ消えて行く彼女のすがすがしい容姿は、それだけで私の覺えのアートペエパーの中に「魅惑」の一女性として殘つてゐるのである。
エキストラガールは一の映畫を刺繡する以外にも、効果を擧げてゐることを忘れてはならぬ。エキストラガールの選拔は最も重要な急所であり、その插話的感銘は常に新しいフアンの心臟にほくろのやうに殘つてゐる。四五年前に或競賣臺の上で女奴隷を賣る場面を見たことがあつたが、その折の女奴隷に扮したエキストラガールは悉く乳房を露出し、有繫《さすが》に顏は見えぬやうに寫されてゐた。自分は其時は何か知ら切なげな彼女等に同情した。人魚の眞似をする場面には同情できないが、エキストラガールとしての最も苦痛以上な乳房の露出は、自分の最高級の德にも影響をたらしたことは事實であつた。
[やぶちゃん注:この当時、映画のエキストラの女性に一章を割いた犀星に対し、大いに賞賛を揚げるものである。]
廿四 リア・デ・プテイ
自分はキヤメラの中にひた押しに進む氣持を感じる。あらゆる銳角な、寸刻も惑はないキヤメラの中に犇犇《ひしひし》と挾り立てて行く氣持の烈しさを感じる。自分はリア・デ・プテイの肉顏の中に白痴のやうな美しさを見た。彼女がアメリカ人でなかつた故かも知れない。「曲藝團」の親方に射竦《いすく》められた時の肉顏の驚きの表情には、彼女もデユ・ポンも知らないでゐた「白痴」の美しさがあつた。處女の驚きは同時に「白痴」の驚きに外ならないものである。
キヤメラマンの呼吸《いき》づかひ、速度以上の速度、すぐ消える音樂以上に迅《はや》い表情、捕捉しがたい夢、自分は自分の中にあるものと戰ひながら、「彼女」等を見、又經驗するたびに殊にリア・デ・プテイの中にある「白痴」に喝采し拍手した。惡魔のごとく自分は喝采した。自分はカラマーゾフのミーチアの心理を一應經驗した位だつた。
自分はあらゆる映畫の好シーン、好き觸覺に身を委ねるごとに、餓鬼のごとく正直に戰慄をし、又餓鬼のごとく貪り啖《くら》ふのが常であつた。同時にあらゆるフアンの中にある「餓鬼の相」をも兼ねてゐた。リア・デ・プテイの表情にある「白痴」、それに相對《あひむか》ふ私の性情にある「白痴」、あらゆる女の所有(も)[やぶちゃん注:二字への一字ルビ。]つものであり同時にあらゆる女の中に抹殺されようとしてゐる「白痴」、又あらゆるクララ・ボウ式女性の中にある「白痴的近代」、女が白痴の心性に陷沒乃至その傾向をもつ時の魅惑、聰明と相隣り合ふ白痴の美しさ惑《まど》はしさは、不思議にリア・デ・プテイに對ふ私に快よき苦痛を與へたのである。
廿五 メイ・マツカヴオイの脂肪に就て
脂肪ある女の肉顏は大槪の場合その色は白い。脂肪それが皮膚に潤澤を與へ、顏の厚みと深みを組み立てるに力があるからである。勿論脂肪があつても色の黑い女はあるが、それは稀有のことで脂肪ある肉顏には快い微かな張のあるつやを持つてゐて、鼻なぞは寧ろなまなましい美しさに疼いてゐる。メイ・マツカヴオイの美はそれらの脂肪が適度に調和されてゐた。ウヰンダミヤ夫人としての彼女の容姿は、取りも直さず脂肪の音樂的交響を暗示するものであつた。ウヰンダミヤ夫人としての「脂肪」に品もあり或銳い男を撥くものも同時に共有してゐた。ヴイルマ・バンキーの「脂肪」は彼女のそれよりも若いが、その「鼻」に働きかけてゐる微妙な美しい些細な脂肪の練り方は、その型のアメリカ風であるに拘らず、寧ろ英國風なスタイルに近い現代アメリカ型の絕頂を裝ひ盡したものであり、メイ・マツカヴオイと双壁の「鼻」の美を所有してゐる。これらの比較ではペテイ・ブロンソンの子供らしい併し脂肪なき、かすかな貧弱な絕望的な「鼻」を思ひ併せる時、やはりウヰンダミヤ夫人として彼女は適當な配役的構圖中の人物であらう。
[やぶちゃん注:メイ・マカヴォイは既注。そちらで挙げてあるが、再度、グーグル画像検索「May McAvoy」をリンクさせておく。
「ヴイルマ・バンキー」ヴィルマ・バンキー(Vilma Bánky 一九〇一年~一九九一年)はハンガリー系アメリカ人の無声映画女優。彼女の英文ウィキはこちら。また、グーグル画像検索「Vilma Bánky」をリンクさせておく。]
映畫中の女優の美は本來の肉顏の美に加へられた映畫的人生の諸相からも、それからの境涯的美の變遷からも本物より以上に美しく吾吾の視神經を刺戟するのである。吾吾の萎《しな》びた紙屑的ロマンスが甦生《そせい》するのも亦さういふ時である。畫面に一肉顏としてのみ寫るマツカヴオイの皮膚には、白粉《おしろい》をしのぐ脂肪のつやを自分等に感知せしめる。又彼女等の鼻のかげが頰の上にうつる或咄嗟の美しさは、その鼻を如實に寫すところの脂肪それ自身の潤澤が左うさせることを見遁してはならない。我我が凡ゆる畫面に立つ彼女等の二重美に刺戟されるのは、小說的女性美が人生の濾過的條件の下に說明される美であるやうに、映畫的人生が溶解し又加へるところの彼女らの「二重美」であらう。エルンスト・ルビツチが彼女の中に高雅な脂肪を見遁さなかつたのは同時に彼の中にあるウヰンダミヤ夫人の空想を攝取したものに違ひなからう。ノーマ・タルマツヂは白い兎の圖のやうな年增脂肪をもつてゐる。自分はポーリン・フレデリツクに較べ年增《としま》の强烈さと反對の「靜かな」脂肪を感じるのであるが、此二人の女性はアメリカの末期的脂肪を代表したものに外ならない。野卑と粗雜、チーズとベエコンの混血兒であるクララ・ボウの肉顏には、脂肪の野蠻性、それの活勤や混亂、血液的モダンの初潮、同時に彼女の脂肪は月經と同樣の働きを營むところのものであらう。彼女の脂肪がどういふ意味にもマツカヴオイのそれと同時代のものであることは考へられない。或はそこにクララ・ボウの立場があるとしなければならないが、ベエコン式脂肪はそれ破裂するか、若くは墮落するかの二つであらう。脂肪はそれの靜寂を營むことにより漸く「その人」をつくり上げてゆくからである。メイ・マツカヴオイの品と高雅、その輪廓正しく美しい鼻、それらに過度に行き亘つてゐるところの脂肪の微妙さは、同時に脂肪それ自身が營むところの美しさであらう。彼女やヴイルマ・バンキーの肉顏の輝く所以のものは、自分の說く「脂肪」が第一義的女性美を輪廓づけ、肉づけることにより彼女らの美を釋《と》く自說と一致するのである。
[やぶちゃん注:「エルンスト・ルビツチが彼女の中に高雅な脂肪を見遁さなかつた」よく判らないが、データを調べるに、ルビッチの一九二四年公開の「三人の女性」(‘Three Women’)で、主役級のジーニー ウィルトン(Jeanne Wilton)役に当てたことを指すか。
「ノーマ・タルマツヂ」ノーマ・タルマッジ(Norma Talmadge 一八九四年~一九五七年)はニュージャージー州生まれの映画女優。]