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カテゴリー「室生犀星」の36件の記事

2023/05/26

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 自畫像・奥附 / 「天馬の脚」~完遂

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。傍点「﹅」は太字とした。

 これを以って二〇二二年四月一日に開始した、本随筆集「天馬の脚」の全電子化注を終了する。]

 

     畫像

 

 室生犀星論

 

    一 自己批評

 

 自選歌や自選句の類は大抵の場合作者は惡句を集纂するものではない。又自己解剖も多少の感傷を交へた肖像畫たることは、凡ゆる自畫像の病癖と云つてよい程である。感傷以外自畫像の筆觸の中に脈打つものは、慘酷な表現意識でどれだけ遣《や》つけたかといふことであらう。我我素人の眼を以てすればどれだけ彼らは、醜く異體の分らぬ自畫像を描いてゐるかも知れぬといふ事である。

 自己批評の前には、實に澎湃たる感傷主義が何時も橫はつてゐる。假りに一個の室生犀星は彼自身に取つては、世界の室生犀星であることに何の渝《かは》りはない。併乍ら世界の谷崎潤一郞は彼自身も亦さうであらうが、世界自身に取つての谷崎潤一郞であつた。これらの眞理は自己批評の前で猶且眞理の輝きを放つてゐながら、そのことで彼自身を絕望にすることは滅多にない。谷崎潤一郞が世界的であれば室生犀星も亦世界的でなければならぬ。

 凡ゆる自己批評は莊嚴な道具立の中では必ず失敗してゐる。寧ろ醜い自畫像の如き畫面に於てのみ成功するものかも知れぬ。自選歌が作者に不相意な作品を剽竊《へうせつ》してまでも、その歌集を世に問ふことは稀有の事であらう。

 

    二 文學的半生

 

 彼自身屢屢その文學的半生といふものに眼を通して見て、曾て幸福を感じたことがない。若し彼の生ひ立と彼の作家たり得たこととを結び併せ、假りに出世や成就の意味を爲すものがあらば、彼には直ちに俗流的輕蔑を感じる丈である。彼と彼の今日の慘酷な醜い賣文的生涯は、啻《ただ》に恐怖を形造る許りではなく、無限の生活苦を前方に疊み乍ら脅してゐる。

 彼は彼を幸福者の一人者であるやうに數へ上げる者があらば、まだ何事も彼を解《わか》つてゐるものではない。彼は趣味を解し築庭を解し又凡ゆる靜かさを解《かい》しようとする人である。だが波が何故に慘めな原稿を書き續けながら喘《あへ》いでゐるかといふことは、人は何も知らないことである。人の知ることは趣味を解する彼だけである。そして恐るべき原稿地獄の中に悶《もだ》えてゐる彼は、日夜に經驗する眩暈《げんうん/めまひ》のやうな疲勞の狀態から殆ど解放されることが無い。その昏迷の中から彼はやつと一導の明りを睨《にら》んでゐるだけである。彼はその一導の道では端然と廢馬のやうに坐つてゐた。そして彼は凡ゆる靜かな彼自身を置くことや又眺めることに苦心してゐる。慘《さん》たる原稿のうめき聲は彼を幸福者にする人の耳には聽えやう筈がない、……彼はそれらの賣文的地獄の中で漸《や》つと靜かになれる處でのみ、竊《ひそ》かに呼吸《いき》づいて其地獄を手を以て抑制してゐる。それ故彼が表面にある平明を虜《とりこ》にした杜撰な非心理的批評家の徒には、彼の本來のものが解らう筈がない。

 彼は凡ゆる理解に對して曾て完全な滿足をしたことがなく、又それを望む程の野暮さをも持つてゐない。唯微《わづ》かながら彼の心に觸れる程度の理解や批評に對しては、(さういふ批評さへ稀である。)力ない笑ひを漏らすことは每日のやうである。

 彼は奈何なる雜文をも粗雜に書き抛《なげう》つたことは稀れである。無力は遂にこれを宥《ゆる》さないと一般である。彼は文學的嘆息を人の前ですらしたことが無い。彼は唯何ごともなきが如く心に煩ひなきものの如く、淡淡として其〆切を恐るる者の、醜い守錢奴のやうに原稿の中で懊惱《あうなう》して暮してゐた。恐らく死のごときものすら彼の本來を解くに何の意味すら値しないであらう。そして曾て彼を目《もく》して幸福者だといふものがあらば、彼はそれを叩き返してしまふ前に例の抵抗しがたい力ない笑ひを漏らすことであらう。彼の笑ひの中に刺し透すもののあることすら、彼は人から指摘されたことの無いことを知つてゐる。

 

    三 彼の作品

 

 彼はどういふ作品の中にも彼らしい良心の姿を顯してゐる。その作の内の一箇所を抉《ゑぐ》つてゐる安心をもつてゐる。彼とても到底その作のあらゆる隅隅にまで心を籠めることはできても、弛《ゆる》みのないことは斷言できないやうである。さういふ時の彼はその一《ひと》ところに苦しみ喘いでゐる。そこに彼は彼の良心を刻み込んでゐると云つてよい。彼は拙《つたな》いものであつても良心をもつて書かれたものに曾て惡意をもつた例がないからである。

 彼は彼だけのもつ人氣を何時《いつ》も感じてゐる。併しその乏しい人氣の中に絕望や悲觀を算《かぞ》へ上げる程の幼稚はとうに卒業してゐる。唯乏しい人氣《にんき》の間に立つ物靜かさは生活苦を伴うて訪れては來るが、その爲に彼の精神的な荒筋を搔き𢌞すことは稀れである。彼の生活苦は茫茫たる山嶽に彼を趁《お》ひ立てては試練するが、彼を卑屈や墮落に陷し入れることは毛頭無い。彼の經驗によれば凡ゆる物靜かな人氣の間に立つほど、また人氣の靜まつた時ほどその作者の鎬《しのぎ》を削る底の勉强をしてゐるときがない。それらの「時」を逸するものがあるとしたら、彼は作家であるために勉强を忘失してゐるところの、又止む無き抹殺の田舍に追はるべき輩《やから》であらう。

 併乍ら彼の風流めいた小說は彼と雖も辟易してゐる。風流意識の橫溢程《ほど》作を濁すことの甚しいことはない。彼は不知不識の中に彼の望んでゐる靜かさに入ひれる[やぶちゃん注:ママ。]ならばいいが、その爲に騷騷しい風流意識を搔き立てることは、惡疾の如き恐怖を感じさせてゐる。又凡ゆる詩的意識の混淆された小說の如きも、自分は詩人であるがその爲にも嫌厭《けんえん》してゐる。小說はそれ自身既に小說であり、同時に又詩的精神すらそれ自身でなければならぬ。それらを意識に計算した小說があり得たとしたら遂に自分は身慄《みぶる》ひするくらゐ厭《きら》ひもし恐れもするであらう。

 自分は常に湧くが如き人氣を輕蔑してゐる。同時に人氣のない寂漠の作者をも輕蔑してゐる。この間に立つて我我を氣丈夫にさせるものは、例の山嶽的氣魄を持ち合《あは》すものだけであらう。寂漠を食ひ荒してゐる鷲は下をも上をも見あげてゐるが、彼は到底氣魄以外には斷じて行動しない。彼は賣文地獄の中で生肉を食ひ荒し寂寞をも喫《す》うてゐる。彼、室生犀星の時たまに見る高慢や粗野な所以は、この意味の外では見られぬ。

 

    四 生活苦

 

 彼はその前途に恐怖以上の脅威を感じてゐる。彼をして正直に言はすれば、彼は凡ゆる「文」を通じて食はねばならぬ。これ程恐ろしいことはない。彼は到底「明日」や「あなた」委《まか》せやに安じて居られぬ。彼の前途を彼の病みがちな視力を以て眺めるとしても、幾萬枚かの白紙の城砦《じやうさい》が聳立《しようりつ》してゐる。彼はそれらを永い日も短い夜も書き續けねばならぬのだ。これ程の輕蔑以上の輕蔑が何處に有り得よう。彼の目はかすんで見えぬやうになるであらう。しかも猶書きつづける「彼」であらう。

彼は凡ゆる輕蔑の中に力無き笑ひをもつて立つより外はない。……

 彼は奈何なる雜文をも營營として書いてゐる。これは直ちに彼の生活苦が誘惑する慘忍な現世への彼の宿命であるとしか思へない。百田宗治《ももたそうぢ》の言葉を籍《か》りれば室生犀星は既に厭世をすら生活する男だといふが、此言葉の中に若干の樂觀的な見方が含まれて無いでもない。本來は厭世的な行方《ゆきかた》ではあるが、その厭世の中から彼自身繊《ほそ》い絹糸のごときものを手繰《たぐ》り寄せてゐる。金錢の爲に原稿を書くといふことは最早卑しいことではなからう。それらの詩錢に寄る彼らは慘めな仕事への、微かな慰めを求めねばならぬ。彼等は本來の藝術を叩き上げねばならないとしたら、金錢を得るための原稿を書くに不名譽を感じない。佐藤春夫は彼よりも遙かに人氣を抱擁してゐることは、直ちに彼の詩的氣魄や詩に就て彼を卑屈にするものではなく、佐藤は佐藤だけの人氣の中に存在するだけであり、そのため彼の微光に影響のあるものではない。

 

    五 冷笑的風流

 

 彼を一介の風流人としてのみ論《あげつら》ふことの既に彼を理解するものでないことは述ベた。何よりも東洋的な彼は又何よりも西洋風なものを好いてゐる。西洋風なものの中に何よりも東洋的なもののあることは否めない。我我はそれらを文學にばかりでなく壯大なミケランゼエロにも感じてゐる。

 彼を風流人として數へあげることは、彼の行詰りを冷笑するものとしか思へない。東洋の風流は既に二百年の昔に滅亡した。芭蕉がその最初であり最後の一風流人だと言つてよい。然乍ら我我の風流人的な氣魄が特質の中に目覺めてゐるとしたら、それは在來の風流と事變《ことかは》つた西洋流の敎養や思想の洗禮があるものと云つた方が適當であらう。曾て一個の社會主義者だつた芭蕉のことは述べたが、近代の混亂された諸思想の中をも潜り拔けねばならぬ風流的現象も、生優《なまやさ》しいさびやしをりを餌食にしてゐるものではなく、鷲の生肉《なまにく》を食ひ荒らすことと何の渝《かは》りがないのである。彼は彼を一人の風流人的な符牒を張られる前に、先づその張り手の人相から熟視したいものである。

 

    六 詩と小說

 

 彼も亦新感覺派だつた名譽を記憶してゐる者である。のみならずその新感覺派は彼に遂に不名譽な名前の下に沒落した。沒落したのではなく今も猶彼の文章の中に連綿として續いてゐる。何人もその文章の初期的情熱の中には何時も此新感覺派の潑刺《はつらつ》たる勇氣を持つてゐるものである。

 彼も亦新進の氣勢《きせい》の下に腕の續く程度で、書き續けた男だつた。何等の後悔なしに彼は殆ど野性的にさへ諸作品を公にした。後世に問ふ作品を書かうといふ氣持よりも、殆どその時代に滅亡する潔《いさぎよ》さを標準としてゐた。標準としたよりも寧ろ彼は「彼のうたかたの世」の厭世的な氣持の上で、何時《いつ》亡びてもよい覺悟と性根とを持合してゐた。併し歲月の辛辣な剌戟と抱負とは、滅びてもよいが亡びるまでの重厚を彼に加へた。彼とともに彼の作品の亡びることはいいが、亡びて後にも遣つてもゐない幅と奧行とを考へさせた。

 詩人である彼は當然詩作品が後世に遺《のこ》ることは信じてゐる。又彼の詩よりも一層微妙な發句が燦然《さんぜん》として或光芒を彼の背後に曳くことも信じて疑はない。併乍ら多くの小說作品の遺るか否やといふことを考へると、何時も後悔と口惜しさと憂苦《いうく》とを感じさせた。彼の内の或物は殘るだらう、然し或物は殘らないであらうといふ疑惑と不安とは、彼の詩や發句を信賴する程度の平安と信仰とを與へなかつた。これは卑屈な謙遜ばかりではなく、彼を根本的に悲觀させる最大のものだつた。彼は彼自身を建て直すべきであることは勿論、最《も》う揮《ふる》ひ立つべきものだつた。彼はそれらび氣持の下にどれだけ又新しい努力をしたことか分らない。その努力と精進の頂《いただき》に立つところの彼は矢張り詩や發句の殘る意味をもその小說作品の上に信じなければならなかつた。然しそれは到底苦痛に近かつた。

 あらゆる作品を通じていい加減に書いたもの程、動機に深い考へを入れなかつたもの程彼を後悔させるものはなかつた。不幸にも彼はその折折心をこめて書いたものも、今は單なる後悔を誣《し》ひるものばかり彼の身邊に押寄せてゐる。

[やぶちゃん注:「誣ひる」事実を曲げて言う。作り事を語る。「强(し)ひる」と同語源。]

 詩は彼の小說に相應《あひあ》はぬ心の風俗や溜息を盛るに便利だつたし、小說は又人生の荒涼を模素するに役立つことは實際だつたが、本來はその孰れをも手離し兼ねるのだつた。詩は詩のいとしさを小說は小說の親密を持合《もちあは》し囁《ささや》き合《あひ》してゐた故、彼はその一つを捨て一つを樹《た》てることが出來なかつた。小說を書くために詩情や幽思《いうし》[やぶちゃん注:静かにものを思うこと。]を荒唐《くわうたう》にする惧《おそ》れはあつても、詩を捨てることが出來なかつた。かれらは孰れも姉妹のごとく相離《あひはな》れられないものだつた。彼は小說家であり詩人であり同時に俳人であり得てもよかつた。併しそのためにより小說家でありより詩人である必要はなかつた。

 

    七 再び人氣について

 

 改造社の文學全集は何故か豐島與志雄や加能作次郞や宮地嘉六の諸先輩と同樣、その作品の編入を美事に超越した。自分の諸作品の特色や存在は決して全集にある諸君に劣るものではない。寧ろその傾向と特質の相違は或意味に於て逸早《いちはや》く全集に編入し、此存在を記錄すべき必然性のあるものであつた。

 ひとり改造社の手落ばかりでなく明治大正文學の一旗幟《いちきし》を等閑《なほざり》に附したと云つても過言ではなからう。これは自分ばかりの考へではなく、何人《なんぴと》の考への中にも比較的靜かに首肯《うなづ》れるべきより多き可能性のある事實であらう。

 加能作次郞の如きはその溫籍《うんしや/おんしや》の文章結構や文章世界編輯當時に於ては、可成りに高い諸作品を公表してゐる。宮地嘉六の如きもその最近の作品にはずば拔けて佳《よ》いものがある。豐島與志雄も亦新思潮派の一將たることは何人も知るところである。これらの諸先輩の作品を編入すること無きとき、これらの事實をも他の編入された諸君子は氣附かれなかつたであらうか。諸君子は相語り合ひ又己をのみでなく極めて地味な作家のために一容言を試みなかつたであらうか。改造社の全集は改造社のものであり得ても亦同時に全文壇の全集でなければならぬ。斯ういふ時、遠く社會から隔れてゐる諸作家は各自に相伴《あひともな》ふ心を持つことは、文壇人として當然のことであらう。又武士は相互ひと云ふことを知らなかつたのであらうか。改造社も亦再考の上これらの特色ある作家の作品をも、その全集に再編の上《うへ》後代の史傳的編者の憂《うれひ》を除くことに努めねばならぬ。

[やぶちゃん注:「溫籍」心が広く、包容力があって、優しいこと。]

 我我の心がけることは人氣すくなき作者の作をも絕えず注意せねばならぬことである。これは一個の室生犀星ばかりでなく、凡ゆる場合に眼を放してはならぬことである。編輯者はあらゆる慘忍なる編輯者であり、同時にあらゆる目をこまかく作者の上に注がねばならぬ情熱の編輯者でなければならぬ。

 

    八 彼の二つの面

 

 彼の作品は人生に卽したものと、又別樣《べつやう》の風色的《ふうしよくてき》なものとの二面がある。彼は所謂熾烈な熱情的な作者ではない。彼らしい靜かさに映るもののみを克明に描くことに據《よ》つて彼は滿足してゐる。彼は藝術的な露骨な勇躍を試みることの危險を恐れてゐる者ではなく、何よりも彼以外の物に親しみを有《も》つことを好まないからである。彼に親しみのない人生は遂に彼に取つて氣の進まない人生である。まだ彼は作品によつて救ひを人生に求めたことは曾て一度もない。「彼は柔かに物語る」以外「說明しよう」氣はないのである。

 彼は時折風色ある人生を物語るときは失敗してゐない。人生を人生としてそのまま生《なま》に取扱《とりあつか》ふ時は失敗してゐる。彼の焦繰《もど》かしさもここにある。低迷してゐる彼はいつも人生の作者として物足りなさを常に感じてゐる。

 彼は彼の色附《いろつき》の人生を振り捨てようとしながら、それに敢然たることを得ないでゐる。その作品は靑年諸君に取つてなくてならぬものではなく、どうでもよい作品のやうである。併しこのどうでもよい作品すら彼には無くてはならぬ作品である。かういふ氣持を感じながら猶己れを持《じ》すことを捨てない。

 竹林の中の聖人のやうにそんなに人生を諦めてゐる譯ではないが、彼の心底はエゴに固まり膠《にかは》づいてゐる故、滅多に感じないだけである。彼は彼だけの人生をもちながらそれ以外用なき人生へは這入《はい》つて行かない。彼が時代遲れの輩の如く社會主義なぞに興味をもたないのも、エゴが固まり過ぎた故であらう。或は詭辯《きべん》を弄するならば彼の靜かさを索《たづ》ねてゐる暮しも、所詮此《この》止み難きエゴの發作より外にはなからう。彼は孤獨と寂漠の罪に問はれて其昔の人のごとく或者の處刑《しよけい》を受けるとしたら、とうの昔に受刑されてゐる「箸にも棒にも」かからぬ我儘者であつたであらう。孤獨は或意味で社會主義者よりも油斷のならない恐るべき代物かも知れぬ。

 

    九 彼の將來

 

 特に大した將來の光輝もなく一凡化としての彼は彼の成就することに據り、目立たぬ程度で其存在を續けて行くであらう。彼は現在の彼より餘程しつかり者になるだらう。彼は人目に解らぬ進步や勉强をするだらう。彼は彼の氣持の中でのみ幾度か變貌もし又改められた「新鮮」をも發見するであらう。

 彼の發句や彼の「人物」は恐らく漸次に極めて鈍重に出來上つて行くであらう。大槪の場合負目を取らぬ男になるだらう。彼は自身でも驚く位老實の烈しさを感じるであらう。

 彼の小說は益益面白くなくなるであらう。併し彼の仕事は粗雜な危期を通り越してゐる爲、讀者は彼へのみの「安心」の情を施して讀むやうになるであらう。彼は貧乏するやうになるであらう。貧乏は彼を壯年期の中で再び烈しく舞はしめ鬪はしめるであらう。彼は鳥渡《ちよつと》位《ぐらゐ》その目付が變るかも知れぬやうになるであらう。

 所詮一凡化の作者としての彼はそれ以外を出ないに決つてゐる。彼は疊の上で天命を俟《ま》つの凡夫に違ひない。頓死するやうなことがあるかも知れぬ。人知れず死ぬやうになるかも知れぬ。ともあれ彼は彼だけの一俊峯《いちしゆんぽう》たる自負の下《した/もと》に、その意味では何人《なんぴと》の背後にも立つことは無いであらう。

 さういふ自信は彼をして可成りな自尊心を高めるであらう。彼は彼の稟性氣魄の世界でのみ傍若無人の頂《いただき》にかじりついて、人生の風雪の中を往《ゆ》くだらう。あらゆる輕蔑に酬《むく》ゆるにも最早彼の後方への唾《つば》は、砂礫のやうなものに變化してゆくであらう。何事も彼は決して油斷することなき「彼」への勉强を怠らぬやうになるであらう。老ゆると同時に若くなり烈しくなるであらう。行け! そして靑年期の末期にもう一度揮《ふる》ひ立つことを忘るるなかれ。而して誰でも氣の附くその末期的《まつごてき》勇躍の下に行け!

 

[やぶちゃん注:個人的には、本書の中で厭な印象を全体に感ずる章である。犀星は、高い確率で、本章を芥川龍之介の禍々しい憂鬱なる遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私のサイト版一括)を意識的に真似していると思う。〈健康な芥川龍之介〉が自身で「芥川龍之介論」をやらかしたら、こんな代物になる気がするのである。

 以下、奥附。字配やポイントの違いは一部を除いて再現しなかった。配置・罫線等は、底本の当該部の画像を見られたい。上部から下部、左奥の順で電子化した。]

 

昭和四年二月 八 日 印刷

昭和四年二月二十一日 發行

 

  版   權

  所   有

 

                 (新榮社製本)

[やぶちゃん注:以上は全体の二重罫線外下方右側に記されてある。]

 

   天  馬  の  脚

    定 價 金 貳 圓 五 拾 錢

 

著 者   室  生  犀  星

 

發行者   山  本     美

 東京市芝區愛宕下町四丁目六番地

 

印刷者   椎  名     昇

 東 京 市 芝 區 田 村 町 十 五 番 地

 

[やぶちゃん注:以下の一行は全体の二重罫線外下方に右から左に記されてある。]

二葉印刷合資會社印刷

 

發兌 東京市芝區愛宕下町    改  造  社

   四丁目六番地

              振替 東京 八四〇二番

              { 一 一 二 一 番

       電話芝(43){ 一 一 二 二 番

              { 一 一 二 三 番

              { 一 一 二 三 番

[やぶちゃん注:「電話芝(43)」は実際には四つの電話番号の中央位置で、「{」三つは実際には大きな一つ。]

2023/04/25

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「日錄」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。

 知られた作家や、私の興味がないものには注は附さない。]

 

      日錄

 

 四月日錄

 

 四月一日

 庭のもの皆芽を吹く。土割れたる有樣は暖かさ搔き上り行く如し。

 夜、パイプの會のため三橋亭に行く。

 パイプの會は「驢馬《ろば》」同人の煙草を喫む會合也。料理は各各好きに攝り好きを飮み、己の分のみを拂ふ。今宵はクレブン・ミクスチユアの試煙にして、各自の出金によりて一鑵買ひ求むる也。

 煙草の濃厚なる食後のうまさは何に譬へん樣なし。茶を料理のあとにて味ふは茶人の心得なるが、煙草もまた料理の後その味優れたり。ことに西洋の刻みは大味の内、こまかき味をふくめりと雖も、槪ね料理の後に喫ふに相應しかるべし。クレブン・ミクスチユアは愛情あり人懷《ひとなつ》こき煙草也。その味ひ春のごとき溫かさあり。また或種類の戀愛的なる甘さをふくめるは最も愛煙に適したるものなるべし。

 歸らんとせるに北原白秋君に會ふ。

 醉餘の白秋君と暫らく話す、却却《なかなか》離さず漸漸《ぜんぜん》の𨻶を見て去る。諸同人と黑門町の或喫茶會に小憩するうち、ややありて暖かき春雨となる。

[やぶちゃん注:以上のそれは、文末に記されてあるが、昭和二年のもの。芥川龍之介が自死した年である。

「パイプの會」「月光的文献」の「一 喫煙と死」及び、前回の掉尾の「煙草に就て」を参照。]

「驢馬」詩雑誌。大正一五(一九二六)年四月創刊、昭和三(一九二八)年五月終刊で、全十二冊。編集兼発行人は十号までが窪川鶴次郎、十一号以後は宮木喜久雄が務めた。室生犀星のもとに集まっていた中野重治・堀辰雄・窪川・西沢隆二・宮木・平木二六(ひらきじろう)らが創刊した同人雑誌で、誌名は堀の提案により、表紙題字は芥川龍之介の主治医で俳人の下島空谷勳が揮毫した。伝統文学の良質部分を受け継ぎつつも、やがて革命文学を担うことになる中野と、二十世紀文学を担う気概の堀との同居が、大正末から昭和初期への同人雑誌群のなかでも重要な史的位置を占めた。中野の詩「歌」、評論「詩に関する二三の断片」や、堀のコクトー・アポリネール・ジャムなどの翻訳詩や詩論の他、犀星を介し、芥川・萩原朔太郎・佐藤春夫なども寄稿した。また、準同人格で田島(佐多)いね子(後に窪川と結婚するも、窪川が田村俊子と浮気したことが原因で離婚している)も詩を発表している。中野を筆頭に、堀を除く他の同人たちは、後にプロレタリア運動に参加していった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「クレブン・ミクスチユア」前回の「喫煙雜筆」の「二 煙管(キセル)に就て」の「クレエブンミクスチユア」の私の注を参照。]

 二日

 杏咲く、杏の枝を折りて生ける。杏は花咲けるよりも蕾の色濃きが美しき也。

 昨夜の喫煙過度にて舌の上ざらつき荒れたる如し。

 「文藝道」の記者見えられ、短册かくことを依賴さる。

 稻垣足穗君來る。例に依り稻垣君に酒を出す。靜かなるこの酒客は予が友の中の珍らしき酒豪也。けふ二日會なれば行かずやと誘ふに行くべしと言ふ。

 森川町に行きしに既に夜食始まれり。暫くの後、中村武羅夫氏見え廣津和郞君來る。小會なりしが靜かにしてよろし。

 歸途廣津君稻垣君と白十字にて茶をのむ。廣津君と親しく話したるは今夜がはじめて也。

[やぶちゃん注:「文藝道」文芸雑誌らしいが、不詳。

「二日會」錚錚たる面子だが、不詳。

「森川町」現在の文京区本郷の東大の東向かい旧町名(グーグル・マップ・データ)。]

 三日

 春陽堂の笹本君小說全集の件にて來る。要談の後、宮木喜久雄君來る。

[やぶちゃん注:「宮木喜久雄」(明治三八(一九〇五)年~?)は台湾生まれの日本人詩人。大正一四(一九二五)年二十歳の時、室生犀星を訪ね、先に注した『驢馬』の創刊に参加した。同誌終刊後は、プロレタリア文学運動に参加し、『戦旗』に作品を発表、昭和四(一九二九)年刊の『日本プロレタリア詩集』にも彼の詩が収録されている(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

 四日

 「不同調」の嘉村君原稿の件にて來る。

 下島先生子供の來診に見えらる。

[やぶちゃん注:「不同調」右派の評論家中村武羅夫が大正一四(一九二五)年にプロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として新潮社から発行した雑誌。

「下島」先の注に出た下島勳。彼は芥川だけでなく、田端文士村の御用達医師であった。]

 五日

 櫻やや色に出づ。

 夜來の春雨小止みなく庭後の杏の散ること荐《しき》りなり。

 新潮合評會に行く。

 初めての出席なればうかうかと喋りて後悔す。宮地嘉六君、心に溫みを持ち乍ら話せる有樣予の好感を惹く。廣津君の正直一圖なるもよし。

[やぶちゃん注:「宮地嘉六」先行する「人物と印象」の「宮地嘉六氏」を参照。]

 六日

 「古風な寫眞」の校正刷を中央公論社へ持つて行く。島中氏に三年振りにて會ふ。

 平木二六《じらう》君來る。引越しをなす由、詩二篇を書き平木君のため「女性」の古川君に手紙を書く。

 宮木君來る。芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり。

  空あかり幹にうつれる木の芽かな

[やぶちゃん注:「古風な寫眞」雑誌『文藝通信』昭和二年六月発行のそれに発表している。因みに、同誌の七月発行のそれには、まさにこの「四月日錄」が載る。

「島中氏」中央公論社の編集者で、この翌年に中央公論社社長となる嶋中雄作のことであろう。

「芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり」芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜で確認したところ、『この時、犀星の机上にあった書簡箋を手にとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とあった。]

 七日

 堀辰雄君來る。國元の母より干鰈《ほしがれひ》到く。

  干鰈桃落る里の便かな

 八日

 春暖漸く臻《いた》る。

 淺草東京館に「人罠」を見る。詰らず。

 中田忠太郞、宮崎孝政君來る。

  春雨や明け方近き子守唄

 

 銀座田屋にてパイプを一本買ふ。散步用の輕き小型のロンドン製也。パイプは齒に重みを感じざる程度のものをよしとなす。齒に疲勞を感じるものは重き也。散步になるべくパイプを銜へざるやうにせるは、氣障《きざ》になること屢屢なれば也。なるベく人無きところ、あるひは自宅にて喫《す》ひたしと思ふ。

 尾張町の角にて修繕したるパイプを受取り、ローマイヤにてベーコンを買ふ。

 植木屋けふにて春の手入れを終へたり。此間より竹の句作らんとして遂に三句を得るのみ。

  竹林や石叩き行く竹の風

  竹の葉に辷《すべ》る春日ぞ藪すみれ

  藪中や石投げて見る幹の音

[やぶちゃん注:「人罠」Mantrap。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。「映畫時評」の「九 文藝映畫の製作」でも映画名を出している。なお、私の「人生興奮(その二) 尾形亀之助」の中で尾形は、『先に「人罠」を見、その次に見た赤ちやん母さん――で、私はクララ・ボーが好きになつてしまつた。彼女の演技が、と、いふ意味ではなく恋心に似た気持になつてしまつた』以下、彼女への傾倒を語っている。]

 九日

 髮の毛伸び鬱陶しければヤング理髮店に行く。龜屋でバタを木村屋にてパンを買ひ、藤屋にて茶をのむ。久保田万太郞君に會ふ。

 夕方、中野重治君來る。學校なんぞ出鱈目也と新文學士嘯《うそぶ》く。

[やぶちゃん注:「龜屋」不詳。舶来品の店舗か。]

 十日

 けふ三春の行樂を追ふひと多し。庭後の沈丁花散る。

 宮崎孝政君來る。午前より日沒まで七時間坐り居れり。創庵以來の長尻の客也。窪川鶴次郞、宮木君來る。

 坂井柳々君來る。俳論あり。

「文藝時報」の中山君來る。氣の毒なれど談話を斷る。

  枯笹や氷室《ひむろ》すたれし蕗の薹

[やぶちゃん注:「宮崎孝政」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は再生と同じ石川県生まれの詩人。書肆「龜鳴屋」のサイトのこちらによれば、七尾中学校中退。大正八(一九一九)年、『『短歌雑誌』に投稿した詩「汝れよ貧しき者よ」が三木露風の選で入賞』、『この年、能登島小学校の准訓導心得とな』り、後、『母校徳田小学校の代用教員とな』った。大正十年には、『『現代詩歌』に詩を発表し』た。大正十五年には『教職を辞し』、『上京』、本篇で後に出る詩人『田中清一が創刊した『詩神』に作品を発表し始め』、同年九『月、第一詩集』「風」を刊行、昭和三(一九二八)年には『『詩神』の編集を担当。編集者としても才能を発揮する』。昭和四年九月には第二詩集「鯉」を出し、昭和六年、第三詩集「宮崎孝政詩集」を『天平書院より刊行。またこの年、京橋で「運命予言日本気学院」の看板をあげ、占い業も開始』している。『昭和』十『年正月、東京暮らしに見切りをつけ』、『帰郷したが、その後も東京へはしばしば出かけ』てはいた。昭和十二年、『自宅裏庭に「万葉荘」を建て、近所の子供たちを集めて文学の手ほどきを』始めた。『詩作活動は戦中を含み』、『続けられ、第四詩集』「寺子屋草子」を『まとめる意向があったが、陽の目を見ず、作品は』敗戦後の『昭和』二八(一九五三)『年を最後に』、『一作も発表されていない』とあった。

「坂井柳々」不詳。]

 十一日

 落花しきり也。

 宮地嘉六君來る。百田君來る。

 宮地君と動坂を步く。

[やぶちゃん注:「百田君」詩人百田(ももた)宗治。]

 十二日

 森林社同人、松江、宮崎、大黑の三君詩集の會合のため來る。

 夜、驢馬社に行き同人と散步に出づ。

 十三日

 午前、竹を伐る。庭後明るく春の日透る。

 楓の芽漸くほつれ始む。

 百田君田中淸一君と來る。田中君とは初對面也。竹村俊郞君來る。石原亮詩集の序を依賴に來る。

 けふ錢湯に行きしに高き硝子窓より落花吹き入り、浴槽に泛《うか》びたり。春やや深き思ひをなす。

 百田君の贈物、マイ ミクスチユアを喫煙す。味ひ素直にして高雅の趣あり。クレブン ミクスチユアの人懷こき味ひもよけれど、マイ ミクスチユアに越したることなし。サンキユアードは素氣なく、ゴオルデン ハバナは柔らか過ぎるきらひあり。一度マイ ミクスチユアを喫煙しては他の何物も及ばざるごとく思はる。

 ミクスチユアは味ひ複雜にして、あまさ、にがみ、强さ各各渾然たる如くして然らず。別別に舌の上に味ひ殘りゐて愛煙すべし。又パイプの暇暇《ひまひま》に紙卷を喫へばパイプの味ひ夢の如く戾り來りて愉快也。十七八年前、デザアンクルと云へる佛蘭西の租惡なる煙草を喫ひたることを思へば、マイ ミクスチユアの如きは宮殿裡にこそ喫煙すべきものならんか。

 パイプの煙は一つにはその姿美しく、又量に於て朦朧として何か旺《さか》んなるところあり。自らその煙を眺むるは悠長なりといふべし。

[やぶちゃん注:「竹村俊郞」(明治二九(一八九六)年~昭和一九(一九四四)年は詩人。山形中学卒。朔太郎・犀星らの詩誌『感情』に参加し、大正8年に詩集「葦茂る」を刊行している。その後、英・仏に遊学後、数冊の詩集を出したが、その間の昭和一四(一九三九)年には郷里山形に帰り、大倉村村長を務めた。]

 十四日

 重重しく曇れる日。

 芥川君のところへ行く。まだ炬燵の中にあり、庭前の落花しきりなるに呆然たり。

 夜雨を遠く聞きて早く寢る。

[やぶちゃん注:前記の宮坂年譜によれば、下島も合流したようで、『夕方まで俳談などをする』とある。]

 十五日

 夜、三橋亭にてパイプの會あり、マイ ミクスチユアを試煙す。澄江堂も參會、古風なるパイプを銜へたり。

 自動車にて銀座に出、日比谷から小川町に拔け、池の端を廻り公園をぬけて、元の三橋亭にて別る。十二時七分前也。

[やぶちゃん注:宮坂年譜で確認。]

 十六日

 昨日の過度の喫煙にて舌爛れて痛し。

 久しぶりに午睡をなす。午睡のできぬ癖なれど、卅分くらゐ眠りたり。うつつに風荒れるを聞く、これ春眠といふべきか。

 澄江堂よりの臼人蛙の戲畫をかける。お隣より貰へる白の大輪の椿一本を生ける。

むしろ牡丹のごとき椿なり。

 改造社の古木君用件にて來る。

 妻の姉よりさしあみ鰯送り來る。さしあみ鰯の漁れるころは金澤も春の最中なり。

李や杏も散りはてし頃ならん。來月早早に行きたしと思ふ。

[やぶちゃん注:「臼人蛙の戲畫」私は小穴隆一の「芥川龍之介遺墨」と、最新の二玄社の「芥川龍之介の書画」を所持するが、当該する戯画はなく、この謂いも初めて見た。識者の御教授を切に乞うものである。グーグル画像検索で「臼人蛙 芥川龍之介」を掛けると、呆れたことに、三分の一の画像は、何故か私のブログの関係のない絵が掛かってくる。全く以って困ったもんだ。]

 十七日

 朝子風邪の氣味也。

 主義者と名のるもの三名來る。斷然金員援助拒絕す。

 中田、黑田、相川、窪川、栗田の諸君來る。

 人浴後、新茶をのむ。昨年は五月の上旬に初めて新茶を喫みたり、走りなれど初夏の心意氣あふれゐる心地す。

[やぶちゃん注:「朝子」犀星の長女。後に随筆家になった。]

 十八日

 金澤へ搬《はこ》ぶ下草の植ゑかへをする。庭のものの若芽美しく、幸福らしきものを感ず。竹には筍《たけのこ》生えたり。

 岸田劉生氏へ打電、「庭をつくる人」の裝幀を急がしたるなり。裝幀送れりとの返電來る。

 「大調和」の記者來る。平木、窪川の二君來る。下島先生、朝子來診に見え、大したことなしと言はる。

 夜、宗紙の寬文版の句集及梅室選の嘉永版を本鄕にて買ふ。

[やぶちゃん注:「庭をつくる人」犀星の随筆集。彼のものでは、私は最も抵抗なく、なかなか面白く読み、いつか電子化してもいいと思っている作品である。国立国会図書館デジタルコレクションの全集のこちらから視認出来る。]

 十九日

 春やや闌《た》けしが如し。

 未知の紳士訪ね來りて、このたび庭つくらんと思へるが予が意見と築庭の程《ほど》話されたしと言ふ。庭はすきずきなり、人の意見聞かんより先づ己《おのれ》が好きになされよと言ひ、歸したり。予の築庭の如きは全く詰らぬものにて、斯道《しだう》の達人の如く思はるは迷惑なり。予に聽かんより寧ろ市上一介の植木屋を對手《あひて》にしたる方餘程それらしきもの作られんこと必定なり。予のごときはつねに頭にて描ける庭にのみ遊ぶ輩《やから》なり。

 岸田氏より「庭をつくる人」裝畫來る。予の好みの程あらはれ喜びとはなすなり。

西澤、宮木の二君來る。風邪の氣味なり、昨夜鼻のなか痛みしが今朝なほいたむ。

 夕方風出でて竹の鳴るのを聞けば、晚春のこころ深きをおぼゆ。夜に入り頭痛烈しく下島先生に藥餌を乞ふ。

 二十日

 昨夜より頭痛烈しく起きられず臥床す。

 窓硝子を掠《かす》めて楓の芽ひらく。龜屋よりオート・ソーテルヌ到《つ》く。

 昨日より風歇《や》まず、花の屑、木の芽、緣側に埃とともに舞ふ。新茶の味ひ今日却却にうまし。

[やぶちゃん注:「オート・ソーテルヌ」不詳。ソーテルヌ(Sauternes)というと、ボルドー地方のソーテルヌ地区で造られる極甘口貴腐ワインの名だが? ソーテルヌ地方の燕麦かぁ? 「シャート・ソーテルヌ」の誤記かとも考えたが、そんなシャートはないみたいだし……]

 金澤大火の號外出づ。朝日新聞の予が故鄕の大火を號外に出して報ずるは喜しき限也。古き町家の又失はれしかと思へば果敢《はか》なし。六百戶燒けしと云へば金澤にては古今稀れなる大火也。來月金澤に行くこと思ひ止まる。故鄕の人ら家を失ひしを眺めつつ、我が庭つくらんと思ふは氣遲れを感ずるなり。

 夜、風邪を冒して陶々亭の「森林」の會に行く。

 諸銀行休業の號外出づ。

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年四月二十一日に石川県金沢市で発生した「彦三大火(ひこそたいか)」(「彦三」は出火から延焼が広がったした町名と思われる。グーグル・マップ・データのここを見られたい。現在の「横安江町商店街振興組合」から東へ向かうと、彦三町(ひこそまち)である)。午前三時半頃、横安江町の雑貨商から出火し、秒速十五メートルの急風に、忽ち、燃え広がり、全焼七百三十三戸、焼失面積五万八千坪、推定損害額三百二十二万円という宝暦九(一七五九)年四月十日の金沢の「宝暦の大火」以来の大火となった(以上のデータは「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらの回答を参考にした)。

『陶々亭の「森林」の會』不詳。

「諸銀行休業の號外出づ」昭和二(一九二七)年三月、第一次若槻礼次郎内閣の片岡直温大蔵大臣の議会での「失言」が発信源となり、銀行の取付けが相次ぎ、金融恐慌が始まった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 二十一日

 風邪快き方也。

 昨日の暴風にて庭荒れたれば、掃除をするに稍《やや》寒さを感ず。柔らかき芽生えの折れたるが哀れ也。一人にて叶はざれば妻及女中に手傳はす。

(昭和二年)   

 

 

 輕井澤日錄

 

 七月六日、七十度。雨。輕井澤に着く。去年の別莊に入る。まだ初夏の風情也。セルに着換へ、子供らも着換へをなさしむ。西洋人など避暑客未だ少數なり。

[やぶちゃん注:次の断絶して続いている「續輕井澤日錄」から、やはり昭和二(一九二七)年の芥川龍之介自死の月の、その前の日録である。なお、幾つか注を附したい衝動にかられた箇所もあるのだが、芥川龍之介自死の後の「續輕井澤日錄」と「神無月日錄」は犀星の思いを受けとめることに専念して読んで貰いたく、注は、ほぼ附けないことにした。悪しからず。

  七日、七十二度。雨。

 町にて買物をする。荷物を解くため去年來て貰ひしお捨さんに來て貰ふ。

 畑の葱をぬき肉を煮る。

 夕方、向ひ別莊に西洋人の一行着く。

  八日、雨。七十度。

 障子を閉め火鉢に火を起しても寒し。

 けふから仕事。

 夜、薄き月出づ。

  九日、快晴。七十六度。

 朝早く山ぜみ啼く。

   山蟬のきえ入るところ幹白し

 赤腹といふ鳥終日啼き夕方霧下る。上海あたりより避暑と動亂を避ける派手なる外人門前を過ぐ。

[やぶちゃん注:「赤腹」スズメ目スズメ亜目ツグミ科ツグミ属アカハラ Turdus chrysolaus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 𪃹(しなひ) (アカハラ・マミチャジナイ)」を参照されたい。

「上海」「動亂」「四・一二事件」。この一九二七年四月十二日、蒋介石が上海で引き起こした反革命クーデター。詳しくは、参考にしたウィキの「上海クーデター」を見られたい。]

  十日、快晴。七十七度。やや暑し。

 午後霧下る。終日客無く山中の閑暇擅《ほしいまま》也。

 森の中、林の奧の別莊の燈火次第に點《とも》る。

 日曜の晚なれば讃美歌とオルガン聞ゆ。

  十一日、晴。七十七度。

 朝よく聽けば色色の小鳥啼く。

 雷鳴の後夕立あり、晴れて後《のち》通りに散步に出づ、正宗白鳥氏に會ふ。正宗氏咄嵯に菊屋を指差す。喫茶部あり小憩。再會を約して別る。

  十二日、晴。

 向ひの西洋人の女の子、うちの子と遊びませうと呼びに來る。

 

 

 續輕井澤日錄

 

 

  八月一日、晴、七十二度。

 誕生日なれば赤飯を焚く。誕生日の祝に子供からスター一個を貰ふ。

 芥川君の追悼文書かぬことに心を定む。故人を思へば何も書きたくなし。「中央公論」「改造」へ事情を云ひ斷る。

 この日、中河興一君一家族來る。

 志賀直哉氏庭前に來て長與氏へ來れる途すがらなりとて寄らる。

  同じく二日。晴。七十度。

 西洋人の子供大勢花をもらひに來る。

「文藝春秋」の菅君に自分の意思をつたへ悼文を書かぬことにする。「文章倶樂部」へも同斷。

 午後小畠義種歸京。送りながらプールに山根義雄君と行く。

  同じく三日。七十度。雨。

 山根君歸京。洋村秀剛君來る。

 中河君の奧さん別莊見つかりしとて見えらる。

  同じく四日。七十度。雨折折、霧。

 午後すぐ上手の長與善郞氏を訪ふ。病中にてすぐ歸る。

 夜、聖路加《せいルカ》病院の池田博士と助手と共に話に見えられる。數刻の後病人ありて歸らる。

 「新潮」の追悼座談會明日あれど出席しがたく返電を打つ。

  同じく五日。雨折折晴天。七十二度。

 仕事。改造の下山君來る。悼文やはり書かぬこととする。

    悼澄江堂

  新竹のそよぎも聽きてねむりしか

 中河君來る。新著「恐ろしき私」を貰ふ。村井武生君歸省の途中なりとて寄る。夕食の後別る。

 

 

 神無月日錄

 

 

 十一月二日 はれ。

 庭の奧は落葉を見んため掃かぬこととはせり。赤松月船君來る。妻子を國にかヘせしが妻子なくては淋しきなりといふ。僕も同感也。――田中淸一、淸水暉吉兩君來る。雜誌詩神改革せんとのことなり。今夜二日會なれど、話疲れて再び人中に出る勇氣なし。失禮する。

 三日 晴。梅もどき紅くなる。

 稻垣足穗君來る。例により稻垣君湯に行き僕も入浴す。食後神明町の時計屋に行き眼鏡の修繕を依賴す。高柳君の奧さん湯にはひりに見えらる。

 四日

 はらはちと時雨もよひの空なり。「新潮」の小說を書いて疲れ、淺草に「カルメン」と「魔炎」を見る。「カルメン」は最も映畫らしき映畫以上のものにあらず。「魔炎」は美しきものなれど詰らず。ロナルド・コールマンは單なる流行俳優たるのみ。其末路目に見ゆるごとし。最近に見たる「椿姬」はよき抒情詩也。ノーマ・タルマツヂの柔らかき素直なる藝風は、「椿姬」をよく生かしたり。

 五日 しぐれ。石蕗《つはぶき》の花くろずむ。

 雨の中に藥買ひに出でしに芥川君の比呂志君の學校がへりにあひしかば、お母さまによろしく言ひてよと云ひて別れたり。我死にて彼生きてもあらば、わが娘に彼のまた斯くは言はんものをと、歸りて妻に話しぬ。

 六日 快晴。庭前の楓散落す。

 瞼のマイボーム氏腺昨夜より痛みしが又腫物となりたり。七月より七囘目也。――堀辰雄君來り夕食後窪川君夫妻來る。乾鬼子君來る。夜、瞼の腫物疼《うづ》きて眠《ねむり》を得ず。されど此痛みの中に小說書くは自ら嚴しさを感ず。

 七日 快晴。地震あり。

 每年經師屋に障子張を命ぜしかど、今年は妻とともに張りたり。下島先生來る。宮木君來る。

 障子張るやつや吹きいでし梅の枝

 夜、宮本君と動坂に出で汁粉食べたり。「砂繪呪縛」を見しかど甚しく詰らず。

 八日 けふ立冬也。

 朝の内例により仕事。後、昨日の殘りの障子張りかへたり。うそ寒き曇天にて糊加減滑らかなり。掛軸の表裝も亦糊加減なりといへば障子張りも亦糊加減ならんや。

 夜、田村松魚氏宅にて駱駝の銅印めいたるものを購《あがな》ふ。卦算《けさん》[やぶちゃん注:文鎮。]に用ひんためなり。かへりて瞼の腫物の療治をなせり。其疼痛云はむ方なし。

 九日 快晴。

 昨夜の銅印今朝の明りに眺めしに詰らず、むしろリンガムの佛像めける銅印と取換へるべく妻を使《つかひ》に出す。かへれば松魚氏いまだ床中にありといふ。午後脫稿の上、若松町の百田君を訪ねかたがた新潮社に赴く。

 

 

2023/04/22

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「喫煙雜筆」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。

 なお、本章では「煙」の字がいっぱい出てくるが、底本では、「煙」の字は「グリフウィキ」のこの字体である。しかし表記出来ないので、「煙」を用いた。

 にしても、犀星が今の嫌煙社会に生きていたら、どう思うだろう。ちょっと聴いてみたい気はする。]

 

    喫煙雜筆

 

 

 喫煙雜筆

 

      一 西洋煙草

 

 パイプで喫む西洋煙草は一日の間に五六服あれば、自分には事足りてゐる。パイプの壺には柔らかに程よく煙草を詰め、最初の二三度喫ふ時のうまさは意想外である。主としてその煙の量が膨大であることにも甘さは原因してゐるが、それよりも西洋煙草の味ひが强いためであらう。自分は味の複雜なためにミクスチユア物を愛喫してゐる。ミクスチユアの味は優しいものや强烈なものや濃厚なものの交合的味覺であり、同時に百花一時に開くのうまみを包含してゐる。人知れず橫臥しながらこれらのミクスチユアのパイプを銜へ乍ら、恍惚としてゐる狀態は懶怠《らんたい》であるよりも非常に幻覺的な狀態であると云つてよい。

[やぶちゃん注:「ミクスチユア物」パイプ煙草で、煙草の葉の黄色種に、ペリキュー葉(アメリカのルイジアナ州産で、生葉を強制発酵させた黒色の葉)やラタキア葉(シリア産で、薫煙乾燥し,薫臭を伴う芳香を持つ)を配合した荒刻みの製品をスモーキング・ミクスチャー(Smoking Mixture)と言うが、幾つかの種類をミックスしたそうした系統の市販品、或いは、複数の単体葉を買って自分で調合するのであろう。「二」の冒頭に後者のそれらしい謂い方がちらりと出てくる。

「懶怠」「懶惰」に同じ。なまけ怠(おこた)ること。]

 パイプは俗にマドロス・パイプと稱へられてゐるが、自體夥しい西洋臭昧を持つてゐる故に、俗流ハイカラのそしりを免れないのは爲方《しかた》のないことである。町の散步道路などでは甚しく氣障《きざ》に見えるが、之れも亦仕方のないことである。書齋の中で一人でふかしてゐる分には天下晴れて喫《の》み樂しむことができるやうである。パイプの形體はそれ自身古風な海洋航海者の愛藏品のやうに、或東洋的なとまで言はれる程の面白さと稍骨董的な品格とを持つてゐる爲に、自分には最早ハイカラの意識的謙遜をもたないやうになつてゐる。パイプのための著書や寫眞帳やパイプ簞笥や磨き膏《あぶら》や掃除道具のあることは云ふまでもない。

 パイプの愛用者の恐しい病氣は舌癌であらう。舌端がいつもパイプの吸口に戲れるために永年《ながねん》の間に稀に起る病氣らしい。下の方へ彎曲されたパイプの吸口は就中《なかんづく》此種の疾患に襲はれ易いと云はれてゐる。此間來朝したアインスタインは終日パイプを磨いてゐたさうであるが、支那人が終日玉《ぎよく》をまさぐるやうに、西歐人はパイプを弄《らう》し慰むらしいやうである。日本人が煙管《きせる》を愛用するやうに。

 

      二 煙管(キセル)に就て

 

 自分は煙草は好きであるが喫煙道樂ではない。それ故高價なものは餘り喫まぬことにしてゐる。たまにミクスチユアを造る以外、大槪クレエブンミクスチユアで我慢してゐる。マイミクスチユアは時時喫むがそれを絕やさずに買入れて置く程度で、高價なマイミクスチユアでなければならぬことはない。

[やぶちゃん注:「クレエブンミクスチユア」クレイヴン・ミックスチェア(Craven Mixture)嘗つてロンドンにあったタバコ会社Carreras Tobacco Companyのブランドで、その主力パイプ・タバコだったもの。グーグル画像検索「Craven Mixture」で当時の市販品のケースを見ることが出来る。

「マイミクスチユア」前章で注したスモーキング・ミクスチャーのことか。私は今でも一日に三、四本紙巻き煙草を吸う。嘗つてはパイプ煙草も喫したが、教員をやめた時に、断捨離して持っていたパイプ三本も捨ててしまったので、よく判らない。]

 煙草は自分には樣樣なことを「考へる」ためにも必要であるが、惡辣なニコチン夫人の手にしがみ付かれてゐることが快樂である外、胃の底まで脂《やに》で染めることは恐しいに違ひない。然し此ニコチン夫人の手管《てくだ》の中に恍惚としてゐる味ひは到底忘られぬ。紙卷の風味は何か甚だ手賴りないが其手賴りないところが又好ましい。スターが稀にうまい味ひをもつてゐるが、パイプで喫むほどの甘美さは到底無いやうである。

[やぶちゃん注:「ニコチン夫人」という文字列を見るとと、私は反射的にチェーホフの一人芝居の戯曲「煙草の害について」を想起してしまう。ブログで「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化注してあるので、未読の方は、どうぞ。嘗つて、現代文の教科書にこれが載っていた(授業はしたことはないが、一度だけ、四十年前、女生徒から懇願されて、表現読みで朗読はしたことはあった。喝采を浴びた。

「スター」イギリスのタバコ・メーカーW.D. & H.O. Wills社製の紙巻き煙草“STAR”であろう。グーグル画像検索「W.D. & H.O. Wills STAR」をリンクさせておく。]

 日本の煙管(きせる)趣味は、文明開化と共に遂に今日では遺憾乍ら沒落した。西鶴や近松の酒落者のまさぐる銀細工の煙管の意氣は、今日の自分に何等の同情を惹くに至らないのは、一つには自分等は文明開化の奴隷であり得たこと、又一つは實用的に不便な煙草を弄する必要がなくなつた爲であらう。あれらの繊首《ほそくび》の煙管で喫煙することは今の我我には想像もできない苛苛しさである。あれらは喫煙的遊戯に近いと云つてもよい。併乍ら我我の父祖は斯如き優雅な一美術品の媒介で悠然として喫煙の中に消光《せうくわう》してゐた。その談裡に煙管の輝きを見せながら、喜怒哀樂の三百年を閱《けみ》してゐたのであつた。

[やぶちゃん注:「消光」月日を送ること。日を過ごすこと。]

 金唐皮《きんからかは》の煙草入に數百兩を揃げ打ち、その根〆《ねじめ》や目釘に金銀を鑄《ちりば》ばめたのも、もはや相應の骨董店か或は賣立以外で見られなくなつたのも時勢であらう。煙草の歷史の短い我國の慶長以來の贅澤三昧も、その比較を見ない奢りの中に一朝の煙草の如く沒落した。我我がこの三百年を一瞥する時に美しい工藝の園生《そのふ》である一極島を夢のやうに想ふのも無理のないことである。慶長以來煙草入れの金具は力の目拔や女の髮の裝飾具から、その形や姿を代へて樣樣に進化もし發明もされたのであつた。その布地は女持は女の衣裳や能衣裳から工風《くふう》され、男持に陣羽織や馬の道中覆ひから支那朝鮮の唐皮類にまで、その珍奇の用材を求め涉獵してゐた。金唐皮は一寸四方百圓もするのも素人には信じられぬことであらう。斯樣な烈しい傲奢の沙汰も明治の開花によつて殆ど形なきまでに淘汰された。といふより紙卷の流行は此煙管趣味の王國に遊ぶことを禁じたのである。自《おのづか》ら此喫煙の園生にも猶且明治初年の生活苦が浸透してゐたと云ふ見方も、一應は首肯《うなづ》くことができることであらう。

[やぶちゃん注:「金唐皮」サイト「文化遺産データベース」の「金唐皮」に、『仔牛などのなめし皮に、銀箔を貼りワニス(ニス)を塗り、模様を彫った方にプレスして、最後に手彩色して仕上げると黄金に輝く壁皮になる。金唐皮は』十六『世紀初め、イタリアで生まれ「黄金の皮革」と呼ばれ』、十七『世紀、オランダの特産となった。非常に高価で、貴族の間では「富の象徴」と呼ばれた』。本邦では、『当初、需要が少なかったが、西洋趣味の流行とともに、煙草入れや紙入れを始め、陣羽織にまで使用され、爆発的な人気を博した』とあって、『武雄鍋島家』の『武雄市図書館・歴史資料館』の金唐皮の画像が見られる。

「力の目拔」これ、「刀の目貫」の誤りではあるまいか?]

 序でだから書くが此煙管に刻む文樣は槪ね幼稺《えうち》で單純だつたのは、その煙管の極めて小さい洒落れた形の爲であつた。文樣の如きも武家の持つものは定紋章を鑄め、町家は目ら自由なものを刻んでゐた。併しこれらは悉く刀の鍔の文樣圖案から模倣されたことは、その時代の大半の風俗に較べても瞭然することである。德川中期以後これの奢が頂上だつたことも當然のことであらう。

 

      三 靜物としてのパイプ

 

 自分の目擊した或亞米利加人は五時間立てつづけにパイプを咥《くは》へ、絕えず喫煙してゐた。又西洋人は列車中の食後に心から樂しさうにマイミクスチユアを喫みながら、窓外の景色を眺めてゐた。自分は彼の橫顏にゴツホの一畫面を思ひ出し、壁にかけられてあつた數個のパイプを描いたアンリイ・マチスの心理と其動機を感じた。

 西洋のパイプなるものは其三百年以上の歷史を持つてゐるに拘らず、それ程も進步しないらしかつた。木根草皮から作られたパイプは漸くダンヒルの最上物に至るまで、形態や細工の上で我國ほど著しい進化を見ないやうである。あれらの型や形以外に進めないことは、日本の煙管が支那朝鮮の形態以上に出なかつたと同樣であらう。西歐人に比較して我國の工藝美術が肌膚(きめ)細かい自《おのづか》らな圖案や文樣を持つてゐることは、充分に注意すべきことであらう。又煙管の形が支那朝鮮では、自ら悠長な大民的な長い管と大きい壺をもつ煙管を、西洋人は最もその體質的なパイプを作り出したことも偶然ではなからう。

[やぶちゃん注:「大民的」不詳。自負心の肥大した民族意識の意か。]

 

      四 插 話

 

 自分は時時下草を買ふために植木屋の庭を訪ねた。そして其處の强慾非道の半翁に自分の入用な下草を掘らせるのが常であつた。半翁は一々奈何なる草本木皮の類にまでも、その信ずる値段を自分に告げた。自分はその度每に草本木皮が金錢の支配を受けてゐる爲めに、特にそれらの草本木皮の美しさを知るのだつた。

 然し植木屋の强慾非道は曾て自分を不愉快にしないことはなかつた。春淺い或日のこと、自分の前で美しい女の足のやうな敷島を一本袋から引きずり出し、慘酷に火をつけて燻《くゆ》らし乍ら彼は云つた。

「朝敷島一本ふかしながら芽先きを見𢌞つてゐると仲仲快い氣持です。」

[やぶちゃん注:「敷島」近代小説に最も登場することの多い、本邦の口付紙巻き煙草の銘柄。明治三七(一九〇四)年六月二十九日から昭和一八(一九四三)年十二月下旬まで製造販売していた。]

 

      五 煙草の理解

 

 自分の最初に喫煙したあやしい記億を辿るならば、異性へ近づく時の物珍しい氣持と大した變りはなかつた。加之《しかのみならず》自分は煙草を理解するために樣樣な苦心はしたものの、遂に煙草が自分だけの人生に於て何故に斯樣に貴重であり必須なものであるかが、其根本の「必要」に對して理解することが出來なかつた。それ故當時十六歲の自分はその最初の煙草を理解する努力を遂に放抛《はうき》した。自分が煙草を解するやうになつたのは幾つくらゐだつたかが、今以て甚だ漠然としてゐる。それは二十の年代に於て自分が何を考へつつ生活してゐたかといふ問題の漠然たると同樣に、極めて曖昧模糊たるものであつた。

「君は何故に煙草を好みたまふや」と往復葉書を以て囘答を促すものがあるとしたら、自分はそれは分つてゐるではないかと遂に囘答に應じないであらう。加之どの程度迄、「解つてゐる」かも能く判じがたい病疾的理解であるからである。判り過ぎてゐることは屢屢自分には無限の判明力であり、その無限故に焦點に觸れることのでき難い廣汎な意味の理解だからである。煙草の理解は最早我我が曾てダンヒル會社あたりから求めて來さうな往復葉書に對して、囘答を與へる必要のない程の愚問だとしか思へない。

 唯、自分の熟熟《つくづく》念《おも》ふのは雨の夕《ゆふべ》も風の日も煙草の朦朦《もうもう》たる煙の中から、どれだけ裏悲しい日を送つたかも知れない事實である。煙草は事實人生の詩情を盛るに猶飮酒家の如き悲しいものであつたことは、多くの人人の忘れもし想ひ起しもしないことであつた。或意味で近代の焦燥的な生活の一面に實に煙草と鬪ふ瞬間のあつたことは、何人も亦靜かに想ひめぐらすことができるであらう。そして煙草が我我の生活面に於て單に必要以上の皮肉な役目を持つてゐたことも次第に理解するであらう。

 

      六 美的感情に就て

 

 自分の紙卷煙草に對して優美の感情を誘惑される場合は、多く女の人の喫煙的ポーズの美しさにあつた。一例をあげれば今夏の或深更、信越の一山峽の驛で、自分は一老俳友を送るためにプラツトホームに佇んでゐた。送るものは自分一人であつた。自分は窓際から隔れたところで老友に一揖《いちいふ》を試みた後、不圖後方五つ目くらゐの窓ぎはから、夜半の冷たい空氣に濃い煙草の烟《けむり》が靜かに搖曳するのを何氣なく目に入れてゐた。それほど此山驛《やまえき》の夜更けは靜かだつたのである。列車の中は春のやうに明るかつたが、間もなく汽笛一聲とともに動き出した。自分の前に五つ目の窓が動いて過ぎたときに、若い婦人が白粉氣《おしろいけ》のない顏を自分の方に向け、靜かに敷島か何かをうまさうに燻らしてゐた。自分はその瞬間に可成りに放埒な優美の情を會得した。

[やぶちゃん注:「一揖」(現代仮名遣「いちゆう」。「揖」は「両手を胸の前で組み合わせて行う礼」の意。軽くおじぎをすること。一礼。]

 又一例、

 今は李園に花を競ふ人ではないが、伊太利にフランチエスカ・ベルチニといふ女優がゐた。彼女は千九百十年代の映畫の中では、鼈甲か何かの長いパイプのさきに繊いくちなしのやうな紙卷を揷《はさ》んで、靜かにトルコ絨氈《じゆうたん》の上を步く一場面があつた。自分はこの場面に同樣煙草の美しさ壯大さを理解した一看客だつたのである。歲月惱み多く今や此人も亦再び昔日の李園に艷を競ふことはないであらう。

[やぶちゃん注:「フランチエスカ・ベルチニ」フィレンツェ生まれの、無声映画時代に最も人気を博した女優の一人であったフランチェスカ・ベルティーニ(Francesca Bertin 一八八八年~一九八五年)。私は一本も見たことがない。]

 又一例、(しかしこれは美的感情を誘惑する例ではない。)

 煙草がまだ官營にならない前のことだ。自分の國の方の山間の町で煙草を產する鶴來《つるぎ》といふ處があつた。當時煙草を刻む五寸くらゐの長さの煙草刻みの庖丁があつた。其後官營になつてから此小さな庖丁はその土地の名產のやうになつて果物を剝ぐ小刀に變化した。今では金澤の城下で皮をむくための小刀は、この煙草刻みの庖丁が利用されたのである。恐らく昔の煙草が民間の手にあつた時代の遺物としては先づ此庖丁位が其著しい一つであらう。

[やぶちゃん注:「鶴來」現在の白山市鶴来町(つるぎまち)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

 因みに――私は実は、中学二年以来、今まで、ずっと煙草を吸っている。高校教師時代、喫煙で捕まり、生徒に生活指導をする都度、心の内で、『俺は一度も見つからなかったぞ!』と喉元まで出かかることが、幾度もあった……。]

 

      七 ニコチン夫人

 

 自分の少年時代にはヒーロー、サンライズ、ホームなどの煙草があつた。煙草の箱も相應に凝つたものが多く、小さい油繪めいたカードが一枚宛插まれてゐて、美しい踊り子なぞが書かれてあつた。自分の家へ親類の者で兵隊に行つてゐるのが日曜ごとに遊びに來て、そのカードを自分に吳れたものである。

[やぶちゃん注:「自分の少年時代」犀星は明治二二(一八八九)年八月一日生まれ。

「ヒーロー」「たばこと塩の博物館」公式サイトのこちらを参照されたい。明治三七(一九〇四)年に煙草専売制が導入される以前の、村井兄弟商会の主力商品の紙巻き煙草。そこに、『輸入の葉たばこを原料に欧米の最新の技術で製造されたたばこで、中にはおまけのカードも入ってい』たとあるから、以上の「小さい油繪めいたカードが一枚宛插まれてゐて、美しい踊り子なぞが書かれてあつた」というそれは、本品のそれであった可能性が高いように思う。リンク先のパッケージのそれも、それらしい。

「サンライズ」サイト「世界のたばこ」の「日本タバコの歴史」に、前注の『村井兄弟商会の両切たばこ「カメオ」のデザインを模倣し』て、婦人の『肖像を村井吉兵衛本人の写真に差し替え』たもので、『国産の在来葉たばこを原料としている』とある。

「ホーム」不詳。]

 煙草が官營になつてから煙草に用ひられるものの、工藝的現象が亡びたことは煙管や煙草入れの需用を尠《すくな》くしたことを見ても判る。自分等が少年時代に見た煙草に對する幻像すら、既にあの美しいカードの失はれてゐることだけでも、重大な意味を持つてゐる。同時に今から十年の後には全然煙管や煙草入れを懷中にする古風な婦人の好みも、必ず失はれるに違ひない。又それらの工藝品は全然滅亡するであらう。近い一例は羅宇屋《らうや》の車を引く老翁を殆ど見なくなり、昔日一片の古詩は既に埃巷《あいかう》にその姿を失うてゐる。

[やぶちゃん注:「羅宇屋」「らう」は煙管の火皿と吸口の間を繋ぐ竹管で、インドシナ半島のラオス産の黒斑竹(くろまだらたけ)を用いたのがこの名の起こりとされる。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで「らう」のすげ替えを行う羅宇屋が露店や行商で生まれた。]

 自分は二年程前に省線電車の中で、熱心に一職人風な男が敷島の箱を覗いてゐるのを見て、不思議な氣がした。次ぎの瞬間にその男が煙草の數を調べてゐることに氣づいて、自分は謙遜の德を間接に感じたのだつた。自分もそれらの煙草の數を算へながら喫煙したことがあつたが、今から思ふと鳥渡懷しい氣がしないでもない。――自分が市井に筆硯を引提げて放浪してゐたころは、一個の卷煙草にも或時は押戴いて喫煙するに近い氣持であつた。時勢は移つても今の靑少年諸君にもこれらの謙遜の美德は持ち合してゐるだらう。

 自分は先年呼吸器が弱つているやうだつた時に、紙卷の純白な筒を見て何か直覺的に毒筒《どくづつ》のやうな氣がした。又、反對に年のせゐか夜中に眼を覺して一服喫ふ甘さは、毒とは知りながら廢《すた》らずにゐるのも、よくよくニコチン夫人に愛せられてゐるからであらう。

 

 煙草に就て

 

 自分の煙草を好愛したのは十六七歲の頃に始つてゐる。自分のその頃の記憶に據れば煙草を好愛するのはハイカラを理解することであり、文明の精神を會得することでもあつた。煙草は今では自分には音樂でもあり繪畫でもある樣樣《さまざま》な空想を刺戟し、妄想をたくらむ物のごときものであつた。

 煙草は有史以前から好煙されてゐるものであることは人の知るところであるが、日本に入つて來たのは天正年間か慶長の頃であらう。ポルトガル人が持つて來たことは疑ひもないことである。自分等の祖先の體内に有害な支那地方、朝鮮地方、又歐州婦人等の血液が浸潤してゐるやうに、永い天正の頃から煙草の害と毒が流れてゐるのである。自分等が煙草を好愛するのは實に今日の趣昧ではない。

 煙草は淫《みだ》りがましい心が銜へるやうである。煙草を好愛する我國婦人の階級は殆ど上流に行はれてゐないと云つてよい。自分は煙草が非常に性慾と密接な密度を持ち喫煙の過度な疲勞は一種の性欲的なるものであることは否まれない。自分の煙草を好む所以のものは或は一事に卽してゐるかも知れないのである。

 或情死者を二十分後に檢診した一醫師は、まだその男の方の肺臟から烈しいニコチンの臭氣を感じたことを報じてゐる。情死前に如何に烈しい喫煙の快樂を擅《ほしいまま》にしたかが分る。死刑囚が一本の煙草をほのぼのと喫みふける氣持は我我喫煙家の能く理解する心持である。

 自分は此頃パイプで西洋の刻み煙草を吸うてゐる。自分の如き閑暇人《ひまじん》はパイプを左の手にしながら永日《えいじつ》閑《かん》の文を綴るに相應しく思はれる。パイプで煙草を吸ふことは何か知ら「物語」を感じるからである。煙草は心の物語を調和するものだ。人悲しめば又煙草も悲しまねばならぬ。心に憂ひを有《も》つ人の煙草の苦さは、その腸《はらわた》に滲《しみ》るやうである。酒杯を手にしながら酒に斷腸の思ひを遣るのは最早時代遲れであらう。今の世はすべからく一本の煙草に天地有情を感じ又世態《せたい》人情の儘ならぬのを嘆くのに相應しいやうである。

 自分はパイプを所藏する人人による每月の會合に出て、自分もそれらの喫煙倶樂部の一員になり、手垢や焦げや齒の痕や、煙草の脂やにまみれたパイプをお互に吸ひ乍ら、半夜の卓に對ひ何か知ら雜談を交すことを愉快に思うてゐる。これらの會員は悉くパイプを携《も》たねばならぬ。かれらはの燐寸《マツチ》に三個のパイプの壺を合《あは》して喫煙するに機敏なるものでなければならぬ。又、かれらは均しく此半夜の喫煙を以て飮酒の宴に勝る愉しさを迎へねばならぬ。かれらは均しく貧乏人でなければならぬ。

 唯われわれ會員はその焦げと手垢に古びたところの、しかもあまり高價でない薔薇の根のパイプを銜へ、電燈を眺めたり往來する婦人連を眺めたり、極めて騷騷しい喫茶店の一隅に坐つてゐるだけである。人人は嗤《わら》ふにちがひない。併しながら我我は宴會や會合の皿や匙をがちやつかすよりも、心ばかり喫煙して居ればよいのである。それは靜かでもあり本能的でもあり、又醉ふこともできるからである。

[やぶちゃん注:「自分はパイプを所藏する人人による每月の會合に出て」先行する「月光的文献」の「一 喫煙と死」を参照。]

2023/04/11

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「書籍と批評」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「德田秋聲氏」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。]なお、このにある「澄江堂雜記」は、本書の電子化注の一番最初で既に終わっている。

 

 

      書籍と批評

 

 

 裝幀と著者

 

 自分は裝幀家の裝幀には倦怠を感じ、今のところ裝幀的な考案は行き詰つてゐるも同樣である。殊に畫家の裝幀はその繪畫的な詰屈以外には出てゐない。癖のある畫家の拵へ上げた裝幀がどれ程天下の讀書生を惱ますか分らないやうである。裝幀が畫家に委ねられた時代は、もういい加減に廢《や》められてもいい。裝幀に其内容を色や感じで現はすことは事實であるが、其書物の内容や色を知るものは恐らく著者以外に求められない。著者こそは凡ゆる裝幀家の中の裝幀を司《つかさど》るべきである。裝幀に一見識をもたない著者があるとしたら、それこそ嗤《わら》ふべき下凡の作者でなければならぬ。著者はその内容を確《しつ》かりと裝幀の上で、もう一遍叩き上げを爲し鍛へ磨くべきである。作者の精神的なものが一本鋭利にその裝幀の上に輝き貫いてゐなければならぬ。

 自分は日本だけに限られてゐる書物の「凾《はこ》」に就て時時考へるのであるが、「凾」はもはや「凾」以外に出られないことである。自分は「凾」の下の橫面に和本仕立の餘韻と便宜と[やぶちゃん注:ママ。「とを」の脱字を感じさせはする。]豫測し、そこに書物の名題を附けることにした。重ねて置いてもその書物が何であるかが分るからである。或意味で此「凾」は不經濟と不用との故に廢止する說も聞かないではなかつたが、日本の書物としての特徵ある凾はもつと進んでもよいが、決して廢止する必要はない。或は最《も》つと「凾」であるために美しく製《つく》らるべきであらう。大抵凾は小包用程度の實用品であるために、相應の美を持つ凝つた裝幀本でも、凾は見搾《みすぼら》しく[やぶちゃん注:ママ。普通は「見窄らしい」と表記する。]見るに堪へないハトロン紙張りである。自分は表紙に紙[やぶちゃん注:底本は「級」。誤植と断じ、「ウェッジ文庫」版で訂した。]を用ひても凾は布を用ひたいと思ふ位である。凾に寒冷絨張りをしたものは、岸田劉生氏裝幀の武者小路實篤全集であり、これが自分の記憶するところによれば凾に布類を用ひた最初であるやうに考へてゐる。[やぶちゃん注:「寒冷絨」「寒冷紗(かんれいしや)」(かんれいしゃ)と同義だろう。荒く平織に織り込んだ布のこと。「絨(じゆう)」(じゅう)は「厚い毛織物」を指し、江戸時代の「絨」は「じよん(じょん)」とも読んで、それは、輸入の毛織物の羅紗類で、少し品質の悪いものを指した。]

 裝幀の就中《なかんづく》卑しいものは徒らに金色燦爛たるもの、用なき色彩を弄んで塗りつけたもの又しつこい好みの混亂したもの等である。裝幀は澁い飽きない、見る程よくなる好みを打込むべきである。又別な意昧で凝らず謟《へつら》はずに中間的な淡泊な味《あぢは》ひと狙ひとで行くべきである。金ピカの裝幀の賤劣さは自分の常に慄毛(おぞけ)をふるふところのものだ。

 裝幀は精神的であり力の込められたもの程自分は好いてゐる。美しくあつても其爲に古さがあればよい。裝幀を靜かに見てゐると著者の面貌を髣髴する書物はないか、自分の裝幀に就て求めてゐることは常に此「一つの事」だけである。

[やぶちゃん注:現代の訳の分からぬベロベロと本巻きついているあの「帯」という奴を犀星が見たら、椅子を振り上げて怒るだろうなぁ。あなた、あの帯って日本にしかない、余計なイラつくものだって、知ってましたか? 四十三年程前、私の最初の教え子のお姉さんが日本語以外に六つの外国語を喋ることが出来、超有名大学の図書館司書をされておられたのだが、その方から、あの「『帯』を何んと英語に訳したらよろしいか、ご存知でしょうか?」と、妹を通じて質問された(私は図書館司書の資格も所持している)ので吃驚した。その方が謂わく、外国にはこのような(帯)物はどこにもない、とのことであった。売らんかなの出版社が安易に作ったゴミのような異物なのである。あんなモノこそ、廃止すべきだね。]

 

 作家と書物

 

 自分は一年の間に一册位の書物を出したいと思うてゐる。尠《すくな》くとも十年位は人人に愛讀されもし秘藏もされたい望みも持ち、さういふ書物出版の場合には良心を打込んでゐる。「庭をつくる人」もその意味で百年位は人人に讀まれる作家的權利を自分は持ち、又今度出た「芭蕉襍記《ざつき》」も同時に芭蕉の光茫とともに、百年の後代を負ふことは勿論であらう。若し自分が不幸にして一卷の書物すら出すことができないとしたら、自分の作家運の弱さに據るものであらう。幸ひ自分は平均此一卷あての書物を世に送ることのできるのは、自分の仕事榮《しごとさかえ》を感じる所以《ゆえん》である。かういふ場合出版書肆の有名無名なぞ問題ではない、自分の書物を出版する程の出版書肆は、自分の著作の殘る意味で、その書肆も自分とともに後代への橋渡しをしてくれるであらう。

 凡ゆる作家詩人はその愛情のこもつた作集を世に送る爲に、一年に一度位は寢食を忘れて書物をつくるべきである。書物などは子供らしい等と言ふことはならない。作家が作を爲すことは前途に彼の後世へ呼びかける、「書物」の纏め上げがあるからである。片片たる雜稿の中にも我我の作家生活の苦衷を物語るものは、誠に一卷の姿を爲し裝ひを纏め上げた時、その雜稿もなほ榮光を負ふべきものである。作家はその半生に於て、誠に好き數卷の書物を著はして置くべきである。彼が世に容れられなくなつた時にも、自ら彼自身を嘆くべき數卷を抱擁し得ることもでき、顧みて自らの孤高淸雅をも持つことができるからである。

 作家が己の著書に情熱を失ふことは、その乾燥された情熱に既に退嬰《たいえい》的な或時期を見なければならぬ。自分の著書がどうでもいいやうな作家ずれは、自分の好まないところである。凡ゆる作家は新鮮な喜びをその著作に經驗することに據つて、益益よき書物の人たらねばならぬ。何人《なんぴと》もその著書によつて喜びを頒《わか》ち合はねばならない。よき作家はよき書物を殘してゆくことは、既に彼がよき作家であることを證明してゐるやうなものである。その著書を見よ。そして彼が作家としてどの程度の高さにゐるかを測るべきであらう。いい加減の作者に決してよき書物が殘る筈がないのである。

 自分は他の作家とともに益益よき書物を時時出版し、これに據る作家的な喜びを經驗したい願ひを何時も持つてゐる。併乍《しかしなが》らかういふ自分にも書物はその出版迄の樂しみであり、市上に出るころは自分と離れた感じで、校正中の意氣込みが無くなり、何か淋しい氣がする。初めて自分の書物が世に出ることに依つて彼と自分とが昨日の親密さを失うてゐることも發見するのである。

 元祿の昔、蕉門書肆に井筒屋庄兵衞といふのがあつた。その時代ですら顧客の尠い俳書を出版し、今は珍籍に加へられてゐる。彼も元より一書店に過ぎないが、上木《じやうぼく》困難な時に敢然として自ら蕉門俳書の出版に從事したことは、彼自身發句人だつたばかりではなく、矢張りその犀利《さいり》の眼底に既に遠い後世を托《たの》み得たためであらう。

[やぶちゃん注:「犀利」文章の勢いや知力の働きが鋭いこと。また、真実を鋭く突いているさまを言う。]

 圓本流行は苦苦しい輕佻な此時代に、書物を階級的所藏慾から解放したことは事實であつたが、到底十年の見越しのついたものではなかつた。寧ろ圓本は後世書屋の一隅に埃とともにあるべきもので、珍籍として保存されることは絕對に無いであらう。心ある讀書生の書棚には最早圓本はその背中をならべられてはゐない。唯《ただ》古典の復古的事業のみが其圓本的事業として所藏もされ、愛惜されるに違ひない。最近の「隨筆大系」の如きものは何よりも珍籍とされるであらう。

 漱石全集の圓本は舊版を所藏する自分に、書肆の德義を疑はしめ、又俳書大系の圓本も亦高價な舊版所藏の自分を不愉快にした。書肆はその自家の版行に自信を持ち、飽迄《あくまで》時代苦を游泳すべきである。徒らに流行の中にあつて巨利を博するために、よき讀者の心臟に影響してはならぬ。元祿の昔、二百年後をも睨んだ井筒屋庄兵衞を今は求むべきではないが、書肆もまた井筒屋の霸氣を持つことも、せち辛き現世にあつてこそ又必要なことであらう。

 圓本的運命の自覺症狀は却て出版界をもつと眞面目に、手で愛撫するやうな書物を求めるであらう。尠くとももはや天下の讀書生の求めるものは、圓本の粗雜な製本ではなく、じつくりと机の上で眺めたい書物である。押入の隅などにあつても忘れるやうな書物ではない。よき裝ひをもつ誠の友である書物の中に、彼等はその書籍の故鄕を指して急いでゐる。何と書物への憧れや喜びを失うてゐた時の欝陶しかつた事ぞ。彼等は昔、樹下にゐて繙《ひもと》いた好《よ》き書物を忘れてはゐない。書物の内容と裝幀とを結び合せたものが、何と我我に久しく遠ざかつてゐた事ぞ。――

[やぶちゃん注:共感出来る内容である。予言も当たっている。但し、十一年前以前、私は毎月コンスタントに、最低でも、五、六万円分の本を買っていたが、仕事をやめ、ネット世界にどっぷり浸かるようになってから、やっと三十五年間、死に積みにしてきた書籍のやっと半分以上までは、目を通すことが出來、しかもユビキタスによって、私は、最早、書籍を全くと言っていいほど、買わなくなった。しかし、淋しくはない。遠い外国の古い書物も、一瞬で読むことが出来るようになったからだ。犀星の初版本も、思ったより、高くないのは、買い手がすっかり減ったからだろう。本随筆集は昭和四(一九二九)年二月の出版だ。まだ百年には六年ある。そこは、ちょっと、犀星の望みは少し裏切られたかも知れないな。]

 

 「澄江堂句集」を評す

 

 澄江堂句集は故人の香奠返しとして、香花を供へた人人への高雅な配りものであつた。自分と故人澄江堂とは故人在世の折屢屢句集上板の事に言ひ及んで、自分は鄕里に和紙の出產地があり印刷も亦甚だ廉價である故を以て、自分の句集出來の後に故人も亦印刷の意嚮《いかう》を漏してゐた。併し風月の懊惱《あうなう》は君を君の好める鬼籍に選し、最大の樂しみだつた句集上板は君の一瞥をも煩はすことなく、遺族の手で印刷されたのである。

 故人の發句は曾て「新潮」誌上にこれを詳說したが、故人としての彼を見る時、その奧の方にある心得を悟達する爲に、更めて彼が奈何に發句道の達人者としての生涯の一端に觸れ得てゐたかといふことを考へて見よう。

 彼の發句は明治年間に於て子規や漱石、紅葉の諸家の俊英を以てするも、決して彼らの背後に立つものでなく、秋晴の中に巍峨《ぎが》として立つ一瘦峯《いちさうはう》としても、彼等の群峰《ぐんはう》を穩かに摩してゐた。後代明治の發句道に落筆する俳詩壇の新人は、先づ彼の發句を子規とともにその俳史の上に述說するであらう。彼が一個の小說作者である以外に發句道にいかに「靑き汗」を流した俳詩人だつたかを、念念絕ゆることなき縹茫《へうばう》の作者だつたかを嚙み當て索《さぐ》り當てるであらう。彼を元祿の靜か世にその世にその生を享《う》けしめ、蕉門の徒として存在せしめたならば彼は先づ大凡兆を越えたる作者たり得たであらう。[やぶちゃん注:「縹茫」用例がなくはないが、私は「縹渺」の誤記であろうと思う。「遙かに広いさま」を言う。]

  蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

  白桃や莟うるめる枝の反り

  茶畠に入り日しづもる在所かな

  野茨にからまる萩のさかりかな

  春雨の中や雪おく甲斐の山

 彼は改造社の講演旅行のため北海道へ旅行したが、歸來《きらい》先づ芭蕉の奧の細道の行脚は、元祿の當時では死ぬ覺悟で行かねばできぬ困難な旅行だつたことを、彼自身經驗することに依つて新しく發見したやうに自分に話してゐた。その時の發句であり彼の作句の最後の吟草は「旭川」と前書した左の穩和な一句であつた。[やぶちゃん注:「歸來」「帰って来てから」の意の副詞的用法。]

  雪どけの中にしだるく柳かな

 彼の發句に微塵も濁りを見ないのは、その稟性《ひんせい》に淸《さやか》さがあつたためであらう。何よりも彫琢を凝らした彼は或意味で彼の小說作品よりも、形式が狹小だつたためにより苦心したかも知れぬ。その全生涯を通じて百吟に猶足らない發句は、恰も凡兆が句生涯を通じて七十數句しか殘さなかつたのと同樣の苦汁である。

 彼は發句を餘技扱ひにはせずに、殆ど其打込み方は少しの弛《ゆる》みも見せてゐなかつた。何よりも我我の氣附くことは、あらゆる發句の眞實は作者がどれだけ其一句に打込み相撲《すまふ》うてゐたかと云ふことである。その意味に於て彼は堂堂と發句の宮殿裡に打込んでゐた。漱石紅葉にはそれほどの眞劍さがない。彼が子規以後の淸閑な一存在を印《いん》した所以も此處にある。後代の史家は彼の發句を特筆してその眞實的切迫を記錄するであらう。

[やぶちゃん注:芥川我鬼の句を実に正当にして正統に評価した名文と言える。但し、犀星の評論や随筆では、かなり頻繁に見られるのだが、引用時の引用間違いが、ここでも致命的に生じている。特に「てにおは」を命とする発句の場合、表記の誤りは許されない。それが判っていながら、犀星は、原記載を確認しないで、自分の漢字用法や事実誤認の記憶にすっかり頼って誤まるという救いがたいミスをしばしばやらかす。ここでも、

 蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

は、

 臘梅や枝まばらなる時雨ぞら

が正しい。私の『定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集』(全五巻)の「一 発句」を参照されたい。なお、この私の「芥川龍之介全句集」は、現在、存在している如何なる芥川龍之介の句集よりも、多く、採句しているという点で強い自負を持っているサイト版テクストである(但し、Unicode以前に原型を作成したため、一部の漢字が正字でないのは許されたい。だいぶ前から、気になっていて直したいのだが、縦書PDF版など、複数のタイプもあり、しかも、原原稿を外付けHDの致命的損壊で失っており、さらに、これ、一気に全部をやらないと意味がないため、手をつけかねているのが本音である)。なお、この芥川龍之介句集は、私は、復刻本で所持している。]

 

 句集「道芝」を評す

 

 句集「道芝」は久保田万太郞氏の發句集である。久保田氏は故芥川氏とともに文壇人の中でも、餘技的な發句以外の發句を志し又苦吟する人であることは、何人も知るところである。

 「道芝」一卷の發句に見る久保田氏は、談林の悲曲を奏で乍ら蕉風の古調にも耳傾ける人である。或發句の古さは月並の見窄らしい零落の面影をもち、或發句は芭蕉道の本流のさざなみに手をひたしてゐる。その新古鋭鈍の尺度は到底渾然の域のものではないが、自らその意識的古調の中に潛む恍惚は、自分の正眼に構へた發句道の弓箭《きゆうせん》の叫びを微かながら偲ばしてゐる。此「微かながら」の丈夫境さへ容易に俳職人ですら得られるものではない。[やぶちゃん注:「ウェッジ文庫」では「弓箭」に『ゆみや』のルビを振るが、従えない。]

  まなかひを離れぬ蝶や夏隣

  しくるゝや梢々の風さそひ

  桑畑へ不二の尾きゆる寒さかな

  假越のまゝ住みつきぬ石蕗の花

  朝寒やいさゝか靑きものゝ蔓

 これらの發句の完成された落着きは、二十年來發句道にいそしむ朝暮の彼が風色であり、二十年來久保田氏が築き上げた精進の美しさである。閑素や寂情や物佗しさの顯れがある。「しくるゝや梢々の風さそひ」の作者は机上の人であり得ても、遂に机上から離れて風物の呼吸を同時に呼吸してゐる作者でもある。「假越のまゝ住みつきぬ石蕗の花」の流轉の俳境は、同時に小說戲曲家としての彼の發句的小說面の佗しさを現はしてゐる。此句の成就もそこにある。「桑畑へ」の表現は彼が發句道にある手腕と冴えとを見せてゐるが、而も此發句の持つ味ひは自分の見立によれば、通俗的効果以外大して嚴格な感情を持つてゐない。一應の完成と一應の美しさとを索《さぐ》り得ても、底のない死的風景にすぎないやうである。

 この作者の性根にあるものは、江戶三百年が辿り着いた明治的開花の中に、まだ微かに殘る下町の人情風俗をいとほしむ心に充ちてゐる。極言すれば凡ゆる詩俳人の持つ遺傳的な回顧風の人情風景の中に、何よりも現代的な久保田万太郞氏が散步するだけである。發句道の打込み方に疎く均しく鮮銳ならぬ所以も、又ここにあると云ふのも氏を知らぬ者の言葉では無からう。

 併し彼が物思はしげな明治末期の俳人の悌をもつてゐることは、此鮮銳を缺いた平易な優情的發句道への縋り方で分るやうである。彼は發句道に向うて丁丁と打込むの達人者の氣合は初めから持合さない。唯ひたすらな縋りであると言うてよい。穩和な縋りは前記の染染《しみじみ》した句境をかたち作つてゐることは勿論、又彼が一かどの詩俳人たるの遂に最も肝要な腰を据ゑるに至つたのである。

  音立てゝ用ふりいづる春夜哉

  宵淺くふりでし雨のさくら哉

 この二面の寫實的風景の平凡は、啻《ただ》にその凡化である理由からしても得難き優しさである。彼のたまたま弱い美への縋りの最高の句であると云つてよい。彼がこの二面の寫實的感情への陶醉は、人事的陶醉の時には槪ね失敗してゐる。

  三味線をはなせば眠しほとゝぎす

  岸鈞に小さんの俥とほりけり

  竹馬やいろはにほへとちりちりに

 此等を以て淺草詩人として彼を云々するは、久保田氏も困られるであらう。しかも最も惡句を代表したものは、遂に之等のうす眠き句境である。久保田氏への自分の望みはこれらのうす眠き句の抹消されることを云ふものである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「岸鈞に小さんの俥とほりけり」の「鈞」は「釣」の誤記或いは誤植。国立国会図書館デジタルコレクションの原本「道芝」のここを見られたい。

 最後に。私は当時の文壇俳句のボス的存在であった久保田万太郎の句には一句として惹かれるものは、ない。一種、俳句道の精進者の自負を持った室生犀星の句も、まあ、久保田よりはマシという程度にしか感じていない。]

 

 「何もない庭」

 

 「何もない庭」は百田宗治君の第三か第四の詩集である。「何もない庭」は俳書のやうな裝幀で自費で出版された詩集である。

 「何もない庭」の中にある人生は極めて物閑かな、言はば市井の一陋居にたむろして、自分自身の心にも又他人へも潔癖をもつて暮してゐる男の詩集である。百田君が何時靜かな詩を書くやうになつたかと云へばそれは十年前の彼の詩集「一人と全體」に古くも深く根ざしてゐる物靜かさであつた。今日不意に物閑かさに入り込んでゐる譯ではない。何時の間にか彼は彼の心の向く方へ深まつて行つただけである。彼自身でさへ餘りに自分が靜かさに浸りすぎてゐることをその詩の中では時時心づいてなほ一層手綱を緩めてはならぬと思ふであらう。

 詩の最高峰は靜かさの中に縛《し》め付けられたものの一切で、穩かさで烈しさを叩き上げるものである。彼の詩は多難な幾樣かの生活から自ら髮ふりかざし乍ら叫ぶかはりに、沈んでその幾樣かの人生を縛め付け壓搾してゐるのである。この周到な心で戰ふことは容易なやうで却却《なかなか》できぬ。[やぶちゃん注:「却却《なかなか》」この字で用いる副詞としての「なかなか」は打消しを伴って「逆に・かえって・むしろ・とてものことに(~ない)」の意である。]

 

      出 奔

 

  妻よ外出するおまへに

  わたしは何かと氣をつけてゐる

  おまへといつしよに行くことのできぬ私は

  おまへが電車道をよぎり

  自動車をよけ

  天の加護ある子供のやうに

  無事に早く歸つてくるのを待つてゐる

  ――だのに、妻よ

  なぜおまへはこの家を出奔て行つたのだ。

 

 詩が進んで選ぶ道は少くとも今日以後に於ては最早人生の詩でなければならぬことである。これは私の十年以前からの信賴と少しも渝《かは》らない。――詩の中にさぐり當て搔き撫でる素材の如きものは、小說の中の人生をひねり潰して仕上げたもの、わづか十行の詩の中に人生の全幅に觸つて行くものでなければならぬ。單に詩が詩である意味のものは最早我我の後方に踰《こ》えて來てゐるのだ。

 出奔一篇もまたこの本物の詩を引提げて立つてゐる。在來の百田宗治君はぐつと背伸びをして立つてゐる。微塵も濁つては居らぬ。かういふ詩をいま提《ひつさ》げ立つてゐるものは、彼一人であると言つてよい。僕の見るところに疑ひなければ、彼ほど詩を勉强してゐるものは稀である。そして絕えず前へ前へと進んでゐる。俗錢名譽に走らず、念念歇《や》みがたい精進は何人《なんぴと》も嘆《たん》を久しくするところである。自分の言はうとするところも此一つの事がらだ。氣のつかない人はよく見るがよい。烈しさを靜かさで叩き上げることは簡單にできるかどうか――

 彼の靜かさは併乍ら完璧の域のものではない。詩の最高峰が淸らか靜かさ穩かさであるといふ信賴を彼がもつてゐるならば、なほ一層に澄み透らねばならぬ。澄むと云ふ事や透る事は容易に完璧されるものでなく、なほ幾樣かの數奇なる人生や心境の變選の後に自ら濁れる水の澄むごとく、極めて時間的に少しづつその淸澄の時を得るものであらう。

[やぶちゃん注:百田宗治の詩には小学生の中頃に教科書で出逢った。中学生になって詩集を買ったと記憶するが、書庫の底に沈んでいて取り出せない。どんな詩に感銘したのかも実は記憶していない。今度、探して読み返してみようとは思っている。]

 

 「鏡花全集」に就て

 

 鏡花全集の背中の黃緣と表紙の薄い紫とは何時もながら穩かな調和を藏めてゐる。鏡花氏の題字もその穩和な裝幀に當て嵌つて結構を盡してゐる。も一つ、その凾張りに内容の作品目錄を揭げ讀者が作品を繙《ひもと》く爲に便宜を計つてあるのは、誠に盡せりの感じである。

 鷗外全集や漱石全集にも書目を凾の上に表記してないために、予の如き健忘症の徒は全卷を一々繙到《はんたう》せねばならぬ不便がある。分けて俳書大系の如きは芭蕉時代や蕪村時代を別册に編成してはあるものの、これも逐一繙讀の爲に全册を當る臆劫《おくくふ》を感じてならぬ。早晚これらの全集は各册の書目を類纂の上、凾張りの上に明記すベきであらう。この點に於ける鏡花全集の便利なことは言ふまでもない。聞くところに據ると小村雪岱氏は、一々毛筆で支那版下の文字を詳細に書いた上、これを木版に付したものださうである。あれらの數百字を一々毛筆で書きつづる爲事《しごと》は、寧ろ數學的面倒と機械的の精緻を要するものであるが、小村氏がこの匿《かく》れた仕事を試みて居られるのは、私の竊かに舌を卷いて嘆賞する所以である。

 裝幀は作品と一緖に、或は全然裝幀のみの獨箇《いつこ》の値《ち》として永く後世に問はるべきものである。書物の晴衣《はれぎ》としての裝幀はその時代の結構や風俗文明の程度を後代に語るに優辯なことは、木板時代に於て元祿版や享保版の紙質や表裝の流行に伴うて、白ら元祿の典雅は享保の雅籍を超えてゐることは言ふまでもない。或意味では裝幀は百年の後に一瞥してその時代の何物かを釋明するものでなければならぬ。新潮社の「小說家全集」の如き一人一册宛の場合も、なほ凾張りに作品別を明記した方が便利で單行本購入の際に照合して缺《けつ》を補はねばならぬ。序《ついで》であるが同小說全集は手ずれがして黑表紙が剥脫した後にも書物としてよい好みを持つてゐることは、裝幀者の用意を窺ふべきである。

 裝幀は古本と姿をかへる時に初めてその味や澁みを表現すべきものであつて、すくなくとも十年見通しの裝幀に取り掛るのがその順序であらう。眼前流行の書物はそれ自身で亡びてしまふのだ。書物はその父が子の代にも子がその父となる世にも殘存してゐるもので、裝幀の堅實典雅たるべきは目前の興趣や、讀者への單なる心づくしではなく實に或意味では作品よりも一層後世に殘すべきものである。この意味で鏡花全集の「凾」は單なる「凾」ではなく、「凾」の種類に於ける好個のよき見本であらねばならぬ。以て推奬する所以である。

[やぶちゃん注:ここで犀星が指している「鏡花全集」は春陽堂版(全十五巻。大正一四(一九二五)年七月刊行開始で、昭和二(一九二七)年四月完結)のそれである。グーグル画像検索「泉鏡花 春陽堂」をリンクさせておく。犀星の底本本書は昭和四(一九二九)年二月発行である。私も所持する岩波書店の「鏡花全集」(全二十八巻)は昭和一七(一九四二)年から刊行が開始されたものである。]

 

 「芥川全集」

 

 自分は書物の裝幀程その作者の氣質の出てゐるものは無いと思つてゐる。裝幀を見て作者がどの程度まで氣持が上り詰めてゐるかといふことを見ることが出來、作者好みの中に時代の向側の何年かを睨んでゐるかといふことを感じる。(併し自分は裝幀以下の裝幀に對してはこの言葉を成す者ではない。)裝幀以下といふ言葉は充分に理解されてゐない本屋のそれをいふのだ。併乍ら裝幀にも時代と本屋との關係や經濟をも頭に入れなければならぬことは勿論である。唯作者の何者かが一本裝幀を剌し貫いてゐることを見ることができれば、自分の云ふところが通じるやうな氣がする。

 自分は詩集の如きは今年だけで百册に近く寄贈を受けてゐる。それらの裝幀は稺拙《ちせつ》ではあるが各各心を籠めてある點で、それらしい勇敢と典雅の姿をもつてゐる。坂本源といふ人は自作の裝幀に南京の黃ろい布を用ひ、その爲支那町を探ねたと書いてあつたが、その意氣と用意怠らぬことには感心した。

 芥川全集の裝幀は生前にその布の色を決定してあつたさうであるが、遺子比呂志君の文字も稺拙を超越した美事さをもつてゐる。全集の委員が比呂志君の文字を選んだことは、美しい思遣りでなければならぬ。芥川君の在來の書物の裝幀は些《いささ》か派手だつた。今、全集を見て芥川君の志もまた此處にあつたことを喜しく思うた。紺布地の粗面の美は初めて布地の美を引きずり出してゐる。併し自分としては此友もこのやうな全集の姿になつたかと思ふと、歲月の惱みが怨めしい位迅《はや》く訪ねて來たことを感じるのだ。

[やぶちゃん注:全面的に同感。なお、言っておくと、芥川比呂志氏のそれは、「芥川龍之介全集」と書かせたものではなく、当時の彼(満七歳。東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)二年生であった)の書いたものから拾い出して組み合わせたものである。

「坂本源」不詳。]

 

 「山村暮鳥全集」

 

 詩人山村暮鳥はその生涯を殆ど田舍の海濱で暮した。海濱にあつた家庭に朝日の溫かい美しさを喜び、海岸傳ひに散步する事を喜び、日常の細かい樣樣な生活の味ひを喜び、子供に自分の分身を發見する事を喜び、詩作に倦まないで其作の出來上りを喜び、――凡ゆる微妙な物の中にも、全き彼、山村暮鳥の魂魄を打込んで喜びもし生活もした人であつた。

 家庭にある溫かい朝日のひかりや、机に對《むか》うて絕えず何か書いてゐる機嫌のよい彼の住居の遠くに、既に彼を召し拉(つ)れてゆくもののあることを知らう筈がなかつた。或は彼はそれを豫め知つてゐたかも知れなかつた。併し彼の不斷な詩作を恃《たの》む後代への心がけは、さういふ彼を現世から引き離すものを考へる暇《いとま》もない位、彼を全きまでに努力させ高揚させてゐたからであつた。しかも彼は最後に氷のやうに冷たい喜びをその手に握つてゐた。

 山村暮鳥は牧師の聖職に從うてゐたが、寧ろ彼は藝術的宗敎を奉じた側の人だつた。彼が牧師を辭したことは文學の中にあるもので宗敎に勝《まさ》るもののあることを發見したからであらう。彼の生涯の中で彼を終始した宗敎、その耶蘇敎的僞瞞《ぎまん》[やぶちゃん注:「欺瞞」の誤字の慣用表現。]の中にすらある多くの眞實が彼を最後までとらへ、彼を悒鬱《いううつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。]にしたことも實際だつた。宗敎家を厭うた彼の生涯も所詮文學的表現の上では常に一つの思想としての、幽暗な匂ひのある宗敎の色や感じを搖曳してゐた。恐らく彼の生涯の中に絕えず明滅された是等の燈《ひ》は、その生ひ立《たち》からの宗敎的境涯の惰性の上からも、或は點火(とも)り或は消え或は明るく輝いてゐたものであらう。彼の詩的精神を貫ぬくものは何時も何か嚴かな物でなければ、冴えた美を射《い》り止めようとする狙ひや睨みの努力であつた。彼は此狙ひと睨みの間に悶えもし又自ら苦しみもした詩人だつた。樣式の轉換、語彙の淸新な意圖、素材への幼稚なまでの眞實性のある諸相は、軈《やが》て彼が最後まで自分を硏ぎ澄ますために怠ることなき人だつた。

 自分の何時も考へることは山村暮鳥は決して不遇な詩人でなかつたことだつた。彼を不遇として考へることは彼の素直な凡ゆる喜びに滿ちてゐる彼を憂欝にさせるものだつた。彼は彼だけの生活を拓《ひら》くために決して躊躇する人ではなく、寧ろ勇敢に進みもし突き破りもした人だつた。唯ひとつ最後に遺されてゐる彼の傳記が、彼の手で完成されなかつたことは何と言つても彼の末期《まつご》的炎を盡すことのできなかつた焦燥を自分に暗示して來るのだが、或意味に於て凡ゆる傳記的な感情の斷片ともいふべきものは、既に彼の詩の上に盛られてゐることを思へば、それすら彼の全鱗《ぜんりん》の上に何等の澁滯を來すものではなかつた。山村暮鳥は美事に完成され、そして寂しい一つの塔を日本詩壇の上に聳えさせてゐる。茨城縣磯濱の波はその塔を洗ひそそぐために、彼の好む燿《かが》やかしい朝日の光りとともに每日彼を訪れてゐるだらう。

[やぶちゃん注:太字は、底本では、傍点「﹅」。私は中学時代より暮鳥を愛してきたが、彼の全集は所持していない。但し、彌生書房版「山村暮鳥全詩集」(昭和三九(一九六四)年初版の昭和五一(一九七六)年の第六版)を所持しており、それや、ネット上の画像をもとに、ブログ・カテゴリ「山村暮鳥全詩【完】」で全詩篇の正規表現を目指した電子化注を二〇一七年五月に完遂している。なお、本篇については、加工データとして使用させて戴いている「ウェッジ文庫」の「天馬の脚」(二〇一〇年二月刊)の本篇の最後に、編集部注として、『本稿は『暮鳥詩集』(厚生閣書店、昭和三年)の序に「詩集に」の題で收載された。序の筆者は他に、萩原朔太郞、福士幸次郞、前田夕暮、土田杏村』とあった。]

2023/04/05

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「人物と印象」

 

 [やぶちゃん注:底本のここ(本文冒頭の「德田秋聲氏」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。]

 

      人物と印象

 

 

 德田秋聲氏

 

 雨戶を閉めても虫の音のするある晚、ホテルからの使だと言つて早寢の枕元に秋聲氏から手紙が來て、道が遠くなかつたら會ひたいとのことであつた。一度消息をした序でに涼しい山間に誘うて見たが、家族が海岸へ行つてゐるので行けないと言ふ返辭だつた。

 自分は着換へを濟すと懷中電燈を持つて、幾らか山のやうな位置にある自分の住居から、秋聲氏のゐられる萬平ホテルヘ出掛けた。旅行先で知友に會ふことは東京で話し合ふのと格別な懷しい氣持になるものである。ホテルの入口で秋聲氏と順子さんとが步いてゐるのに出會《であは》したが、秋聲氏はひどく疲れてゐる上、妙に落着かない風だつた。家族の心勞で松本に一晚諏訪に二泊した歸途に立寄つたといふのだが、今夜ホテルで一泊したら直ぐ明朝發つと言ふのだつた。絕えず何か心に重りかかる憂慮で、明るい氣持にならないらしかつた。自分は吉屋信子さんが來てゐることを言ひ、信子さんに電話をかけに順子さんが立つて行つた。信子さんが來てから少し賑やかになつたが、秋聲氏はここは落着かぬと言つて自分の居間へ自分等を案内した。自分はビールを飮みながらこの老大家の吃吃《きつきつ》として話す聲を耳に入れてゐた。その氣難しげな樣子は老大家以外のものではなかつた。

[やぶちゃん注:言わずもがなだが、ロケーションは軽井沢。室生犀星旧居はここで(現在の「室生犀星記念館」)、その東南東の直近に林を抜けたところに「万平ホテル」がある。因みに、私は芥川龍之介が自死の前月に最後に愛した片山廣子と逢ったのは、この万平ホテルであるとにらんでおり、それを実証するために、同ホテルに泊まり、実地検証をし、『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』(サイト版・二〇〇九年十二月公開・地図入り)を書いた。未読の方は、是非、読まれたい。

「順子」山田順子(ゆきこ 明治三四(一九〇一)年~昭和三六(一九六一)年)は小説家だが、専らスキャンダラスに、徳田秋聲や竹久夢二などの愛人として語られるばかりである。興味のある方は当該ウィキを読まれたいが(私はこういうニンフェットっぽい女性には虫唾が走る)、ウィキの「徳田秋声」を見るに、この折りの彼のメランコリックな鬱状態は、彼女との関係にあったようだ。大正一五(一九二六)年一月、秋声の『妻はまが脳溢血で急死する。その』二『年前の』『大正』十三年から『秋声に手紙を出して以降』、『時折』り、『出入りしていた山田順子は、訃音を聞きつけ秋田県から』、『急ぎ』、『上京し、秋声の愛人として徳田家に入り込み』、『ジャーナリズムを賑わしたのみか、秋声は』「元の枝へ」『などの「順子もの」と呼ばれる短編群』『で、その情痴のありさまを逐次的に書き続け、世間の好奇の目を集めた』。『しかし、派手な話題がつづき、痴態がさらされ、しかも順子への秋声の不当な買いかぶりを眼前にすると、しだいに興ざめし、非難の声も高まっていった』。『秋声は』、『当初は歳が離れすぎているため』(彼女は二十九歳年下)、『結婚は考えていないと表明していたが、順子が家出をするようになると』、『逆上して脳貧血まで起こすほどとなり』、正式な『結婚まで考えたが、順子は、自らの痔の手術をした医師や、慶大の学生(秋声の長男一穂の友人)らと浮き名を流すなど』、『曲折の末に』、作家『勝本清一郎と恋愛に陥り』、昭和二(一九二七)年、『秋声との正式結婚の直前に勝本の許へ奔った。その後』、『一時期』、『縒りを戻すが、同年の大晦日、順子は秋声宅から追い出され、翌』年一月、日本舞踊家。『藤間静枝の仲介により』、『関係に一応の終止符が打たれた。但し、以後も』、暫く『断続的に関係は続いた』とある。

「吃吃として」言葉が滑らかに出ないさま。咽喉の奥の方で、繰り返し、声を発するさま。]

 翌朝ホテルヘ行くと食堂のレースの陰に順子さんと信子さんとが何か食べながら朝の食事の最中であつた。自分は秋聲氏の居間へはひらうとすると、秋聲氏はゐなくて上草履が居間に爪先を向けて、丁寧に取そろへられてあつた。見ると次の間に座布團を三枚竝べ、その上に仰臥した秋聲氏はさも疲れた容子で、昏昏たる短い假睡《うたたね》の夢を結んでゐた。緣側に明るい高原の日ざしがぎらついてゐたが、それにも拘《かかは》らず老秋聲はうとうとと、しかし深い眠りから覺めさうもない樣子だつた。自分はその居間を默つて出て、先刻の食堂の前を通るとまだ彼女等は果物か何かを食べてゐた。

 秋聲氏は女中が着物を疊んでゐたのを覺えてゐたが、自分には氣付かなかつたらしかつた。そして秋聲氏の不機嫌はにつともしない澁面《しぶづら》だつた。自分に對《むか》うてもやはり不機嫌な卒氣《そつけ》ない調子であつた。自分も不機嫌な日を送つてゐるのだが、老秋聲の不機嫌は膠着し盡してゐるものらしかつた。自分は不機嫌も岩壁に近いのを見ると矢張り堂に入つてゐると思うた。自分は不機嫌であるための秋聲氏を心でにやりにやりと眺め入つてゐた。夏の間《あひだ》餘り人に會はなかつた自分は、この老大家の不機嫌を備前燒か何かのやうな氣持で見てゐた。どの程度までその不機嫌が嵩じても自分には應へなかつた。其度每に自分は海千山千年の老大家の形相《ぎやうさう》をその不機嫌の中から感じた。

 婦人達は町を見物することや散步することやを奬《すす》めたが、秋聲氏はそれに一々反對をした。どれにも氣が向かないらしく、依然何か一つ事に考へ耽つてゐるらしかつた。漸《やつ》と何か朝の輕い食事を濟《すま》すと少し笑ひ出した。と言ふより硬張つた顏が和らかくなつた程度である。自分は滅多に人を訪ねたことのないのも、他人の不機嫌を反射される苦痛を考へるからだつたが、不思議に秋聲氏にはそれを感じなかつた。婦人達がそれを建て直さうとする努力を見てゐるのが、むしろ氣の毒だつた位である。

 自分の國からの出身者はその文學的首途《かどで》の門を秋聲氏に出入してゐる者が多い。しかし自分は詩作人であつた爲に秋聲氏を訪ねることがなかつた。秋聲氏は記憶されてゐるかどうかは知らないが、十三年前に自分に安野と言ふ友人がゐた。彼は秋聲氏を折折訪ねてその當時既に大家であつた秋聲氏の生活を自分によく報告してくれた。友人の言ふには秋誓氏はいつも書くに疲れてゐることなどを傳へたが、それから十三年の役《やく》にもなほ依然たる老大家であり書くに疲れてゐる筈の秋聲氏は、その以後に本來の諸作品を公《おほやけ》にしたと言つてよい。十三年前に秋聲氏は今の自分ぐらゐの年齡であつたらう。そして今の僕の如き疲弊した凡下《ぼんげ》の作家ではなかつた。それにも拘らず秋誓氏は光彩なる人氣の間に立ち、壯烈な戰ひをさへしてゐる。

[やぶちゃん注:「自分の國」秋声は石川県金沢市出身。犀星も同じ。]

 寧ろ秋聲氏は、その老來《らうらい》に及んで、本物になり逞しくも勇敢になつてゐる。以前に自分は石の粉を吹く石工の丹念さをもつて比較したことがあるが、今もなほ秋聲氏は依然として石の粉を吹くつくばひ作りの工人であることに渝《かは》りはない。老眼鏡をかけ短か日の机に向うた彼は、その當時も指摘したやうに骨だらけになつても書き續けるであらう。壯烈と言ふこともこの「骨だらけ」の秋聲氏を外にした言葉ではない。彼は老將軍の如く城砦の中に皺枯れた聲量と十三年來の戰法の奧義をもつてゐる。

 秋聲氏は最後まで町やプールの見物を頑固に拒んだが、順子さんと信子さんとは出發前の一時間を停車場への途中、町家プールを見物するために出掛けた。

 「君は行かんのですか。」秋聲氏は僕も婦人達と出掛けるものと思つてゐたらしかつた。僕は頭を振つて見せた。出發の時間が迫り荷物の支度などもあつたが、さういふ事に氣の付く方《はう》の自分は反つて傍からつべこべいふ面倒を想像して默つてゐた。しかし秋聲氏は時間が切迫しても物憂ささうに依然として坐つてゐた。自分は支度したらどうですかと言ふと、まだ早いだらうと秋聲氏らしい、癇《かん》のある聲で答へ、もぞくぞして居られた。自分はその物憂い何も面白くなささうな容子を、自分の五十の年輩に想ひ描いて見て、決して人事でないやうに思はれた。

[やぶちゃん注:「もぞくぞ」ママ。意味不明。「ウェッジ文庫」もママ。金沢弁か、或いは単に「もぞもぞ」の誤植か、「もぞ」に踊り字「〱」を書いた上に「ぞ」を送ってしまったものかとも考えたが、最後のそれは、本書に限っては、まず、あり得ない。本書では私の大嫌いな踊り字「〱」「〲」は他では使用されいないからである。]

 停車場への途中故意《わざ》と自動車を西洋別莊の小徑にとり、町家を迂𢌞して、町を見物せぬこの頑固な半翁に少しの說明を試みたが、秋聲氏は子供のやうに別莊地や町の樣子を眺めてゐた。さうしてある西洋人の表札の名前を木陰に透して讀んで、

「あれは君スペイン人の名前だね。」と言ふのだつた。

 自分は今朝から變に不機嫌だつた自分自身に對《むか》うて、この瞬間から少しづつ氣持のほぐれる事を感じた。成程この半翁は子供らしい氣持をもつてゐると思うた。今は夏の中程だのに秋聲氏は冬帽をかむり、その鍔の一端が空に向け撥ねてゐるやうな冠り方をしてゐるのも、秋聲氏らしいある氣性を見せてゐた。

 自分は秋聲氏の氣質の中にある一徹な頑固さが、北國人の持つ特質や頑固さであり、内側から溶けねば外側から解けることのないことを知つてゐた。この氣質は自分も血統的に持合してゐるものらしいが、しかも秋聲氏は永年の文學的試練から積まれた特異な氣質も加へられてゐる。寧ろ自分は機嫌のよい秋聲氏を見るよりも、忌忌《いまいま》しげな不機嫌なこの人を見た方がよいと思ふのだつた。座布團の上に長長と朝の假睡をしてゐた秋聲氏は、文字通り自分には昏昏として見え、永く忘られない記憶になつて殘るだらう。

 停車場に先着してゐた二人の婦人は、人込の中にも際立つて見えた。そして暑い日中を歸らねばならぬと言ひ出した秋聲氏をいとしく思ふのだつた。

 

 正宗白鳥氏

 

 自分は未だ正宗白鳥氏には四五度位しか會はない。それも自分から訪ねた譯ではなく旅行先で偶然に邂逅したに過ぎないのである。しかも自分の受けた印象は可成りに鮮かであると云つてよい。

 自分は對等以上の人物には俯に落ちぬ話をその儘に打捨てる氣はない。解るまで聞く氣持でゐる。も一つ對等以上の人物には安心をもつて話しすることができ、心を落着《おちつ》けることが出來るやうである。正宗さんは素氣《そつけ》ない質《たち》の人ではあらうが、素氣なさの中に眞實のこもつてゐないことはない。自分は正宗さんの話術の中にいつも漂うてゐる一脈の昂奮を覗き見て、却《かへつ》て自分の如き藝術に處するに冷然たるの輩《やから》よりも、逈《はる》かに熱情家であることを感じてゐる。いつも老書生の如き氣槪が欝然として面《おもて》を壓してゐる。

 話術に少しも躊躇(ためら)つたところがなく、しかも聞き手には退屈を與へないのも素氣ない人物のみが持つ德の一つであらう。素氣ない人物といふものは何か滑稽なものである。素氣なさは荒い氣質の人には尠《すくな》いものらしく、正宗氏の氣質も可成りに細かいらしく思はれるやうである。その文藝に親しまれるのも、それさへあれば、誰にも會はなくとも孤獨でゐられる爲であらう。その少しも弛みのない顏が一度笑ひかけると全(まる)で童顏の相貌になる。その童顏の中には冷やかな或にがりの表情が一筋鮮かに走つてゐる。古い能面に滲透《しんとう》したにがりに能く肖《に》てゐる。倭小でかつちりした肢質とそれらの面貌の好印象は、何よりも對手《あひて》に微笑を用意させる程度の心安さを與へるのも、例の嚴肅なる滑稽が風格に備つてゐる爲であらう。

[やぶちゃん注:二箇所の太字「にがり」は、底本では、大きめの「●」の傍点である。]

 自分は或日、未だ幼い女の子供を連れて散步してゐて、正宗氏に會ひ喫茶店に這入《はい》つたが、正宗氏は最後まで子供へは一言の愛想も言はれなかつた。別れ際に微かに笑つて左樣ならを交《かは》されただけであつた。自分にはその左樣ならが頭に殘つた。家へ歸ると子供は今日會うた伯父さんは自分に何も言はなかつたとふしぎさうに云つた。それは彼女に取つて不思議な無愛想だつたに違ひなかつた。そして彼女はさういふ伯父さんを物珍しく時時話し出し、今度會うたら何か言はれるだらうかなどと云ふのだつた。後に正宗氏は自分の子供のことに就て夫人に話されたさうだつたが、さういふ無愛想の中にも見ることは見てゐる人だつた。

 正宗氏は活動や芝居や讀書もされる勤勉家であると同樣、文藝以外の人にも或興趣の眼を以て見てゐる人である。旅行先で自分なぞ見に行かない人形芝居なぞも見に行く人である。自分の鏡を疑ふことはないが何者をも先づ自分の鏡に映して見て、徐《おもむろ》に何か言ふ人であらう。讀書や芝居や活動をも見遁《みのが》さないのは、何かあるか知《し》らといふ田舍者のやうな氣質の物珍しさを多分に持つてゐるからであらう。

[やぶちゃん注:「正宗白鳥」は岡山県和気(わけ)郡穂浪(ほなみ)村(現在の備前市穂浪:グーグル・マップ・データ航空写真)生まれである。]

 

 高村光太郞氏

 

 晚春のある日、萩原君[やぶちゃん注:萩原朔太郎。]と話にあきた後に、久しぶりで高村光太郞を訪ねようではないかといふ話になり、駒込の高村君のアトリエを敲いた。全く四五年振りであるといつてよい。

 アトリエの入口には白い茨が靑靑と絡みついて、何となくアトリエも古びを帶びてゐて好ましかつた。高村君は相かはらず趣昧の蒐集物の間に椅子を置いて話し出したが、口髭の間は白く染つて見える程、白髮が交つてゐて中々いいなと思うた。高村君とは十年くらゐの規則正しい手紙の交際を續けて來たが、別に高村君が陋居へ出向いてくることも無ければ、また出不精な私は三年に一度ぐらゐしか尋ねない。折折の手紙を通じての尋常一樣の交際であつた。それでゐて時時妙な親密を感じることは、友人の尠い私であるから、さう感じるのであらう。

 高村君は十年前に私と萩原とが出してゐた雜誌「感情」の誌代ををさめてゐてくれた人であつた。そのころの高村君は今よりも最つと表面に立つてゐて、靑年の間に人氣があつた。

 あるひは自分もその人氣に投じてゐた一人かも知れないが、爾來十年の私の頭にある長身高村光太郞は、そのさきよりも一層奧床しい人物であつた。裏側へのびてゆく奧の深い人である。小說を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を硏《きは》め考へることは當今の文人の比ではない。話をしてゐても氣取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。曾て瀧田哲太郞氏が晚年に切拔帖を見せて、高村君が讀賣新聞に書かれた木版についての一文を私に賞揚したことがあった。恐らく彼の文章を切拔帖にをさめてゐた一人は、あるひは天下の瀧田氏一人であつたかも知れない――。

 今、話を交へてゐる高村君は、アトリエの古くなりさびのつくのと一緖に、少しの白髮を雜《まぢ》へ、よい詩人の風貌を帶びてゐる。表面に立つことを避けた人に有りがちなひがみなぞなく、今目藥を點じたやうなすつきりと美しい眼をしてゐる。どこへ出しても一流である。自分は斯樣《かやう》な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騷がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、靑年の峠を通り拔けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出來であつた。

 去夏細川侯の觀能の席上で、高村君が長髯童顏《ちやうぜんどうがん》の父君と共に、袴を穿いて坐つてゐるのを見たが、全くよい息子の感じでちやんと板についてゐる趣を感じた。自分はその快い品のある父子を一幅の間に眺めたときも羨ましかつた。かれらは靜かに夕食をとり、徐ろにささやき合うてゐるのをこの上なく美しく思うた。

 自分は彫刻のことは解らない、しかし高村君の人がらが解り、詩が解り、彼の持《じ》してゐる平明さが解るだけで澤山だと思うてゐる。

「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな氣がするね。」

 自分は萩原にさう話しかけたが、萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。それからもう二年になるがまだ合はない。會ひたいと思うてゐる。

 

 白鳥省吾氏

 

 昔、白鳥省吾の故鄕は伊達政宗の領地であつた。自分は伊達政宗といふ人物の文献に接したのは、纔《わづ》かに幸田露伴の史實の文章だけである。伊達政宗も一と通りの野性の輩ではなく、德川をして窺《ひそ》かに杞憂を懷かしむるものを有つてゐた。併乍《しかしなが》ら吾が白鳥省吾は伊達政宗の後裔でもなければ系統を引いてゐる譯ではない、――昔を今に還して見るならば白鳥省吾も伊達の一家臣、千石ぐらゐの家祿を領してゐる頑固一徹の武士であつたらう。今で云へば彼に取つて朝飯前ぐらゐにしか思はれない早稻田大學の敎授の程度であらう。彼が官途に近い緣を求めずして一市井の詩人として暮してゐることを思へば、何人も彼の性根が野にある人で、窺かに霸氣を抱いてゐることに心づくであらう。霸氣といふものは石炭箱を叩くことではない、彼の如く心からそれを抱くものにのみ燦《さん》として光を放つてゐるものである。

 白鳥省吾は人氣や流行を知らない。穩健ではあるが意地張りである。謙遜ではあるが卑屈な男ではない。――彼が大島か何かを着て悠然と坐つてゐるところは、大家の外のものではない。年來日夏耿之介との應酬には彼は彼らしい物靜かな警部のやうな物言ひを續けてゐるのに、日夏耿之介は文藝講座の中にまで白鳥に當つてゐるのは、心ある者をして顰蹙せしめたことは實際である。自分は野の人、白鳥省吾のためには何時でも筆硯を持つて彼とともに行を同じうするものである。これは藝術上のことよりも寧ろ彼と趣昧其他の何者も一致しないに拘らぬ友誼に外ならぬ。純眞の人間に心を合《あは》すことは年來の自分の希望でもあつた。又、自分はあらゆる友誼のために戰ふことを辭さない。友誼に殉ずることを以て名譽とするものは、恐らく時代遲れの人間であるだらう。

 白鳥省吾は野暮で、くそ眞面目である。彼のごとくくそ眞面目な人間はすくない。しかも其眞面目は又何人《なんぴと》をも持合《もちあは》さないところの眞摯である。彼が農民文學のやうな提案を敢て辭さない所以は、福士幸次郞の地方主義の主張と同樣に又認めなければならぬ。彼がいい加減な人物ならば疾くに今の時代に合ふやうな芭蕉論でも書いてゐたらう。しかし吾が白鳥省吾はそんな薄情者ではない。十年一日のごとくくそ眞面目な白鳥省吾である。

[やぶちゃん注:二箇所の太字「くそ」は、底本では、傍点「﹅」である。]

 自分は民衆派といふものに不尠《すくなからず》輕蔑の念を感じてゐる。併し白鳥とそれは關係のないことである。もう一度云へば彼の詩は自分の好みの外のものである。彼と人生を談じるとき自ら民衆派にも苔が生えたと思ふ事さへある。さういふ意味で民衆派と彼とを引離《ひきはな》すことができないかも知れない。彼の毒舌を聽聞《ちやうもん》するとき自分は白鳥省吾を愛するが恰も福士幸次郞を尊敬すると同樣の愛情である。今の詩壇で大家の風格をもつてゐるものを數へるなれば多士濟濟であるが、吾が白鳥省吾のごとき己にも他人へも淸節を持つてゐるものは極めて稀である。

 

 佐藤春夫氏と谷崎潤一郞氏

 

 自分の作家生活は六七年に過ぎないけれど、作を求められるときは何時も編輯者の心を讀者の代表的なるものとまで言はないまでも、それらの整然たる氣もちを感じるのであつた。第一に自分の作を求める下地の心に向ふとき、その人の心の向きを自分は銳敏に感じるのであつた。瀧田氏はいつだつたか一度、自分の作の内容の陰慘を指摘してかういふものはどうかと言つたが、これも自分のものだと言つて無理に通さうとした。そのとき瀧田氏は不愉快な顏をした。自分も同樣の表情をしたが、しかしそれは瀧田氏の言ふところが當つてゐたので、自分は數日の後に原稿を返して貰ひ、破いてしまつた。自分は當然自分の作の傾向が次第に自分の本道でないことを知つたのである。自分に好意をもつ人に作を求められることは、どうしてもよい物を書くやうになることである。作を求める人に德があるとき、作者もその德に酬いなければならぬ。この二つの心は作者と作を求める人の間に、いつも語るに言葉なくして行はれる德ではないか?――

[やぶちゃん注:太字「向き」は、底本では、傍点「﹅」。]

 此間「大調和」[やぶちゃん注:雑誌名。]の會で佐藤君が演說をしたが、その下地《したぢ》の心に自分は感激した。彼と平常話してゐるよりも、演說を聞くと一そう彼を解することが、できるのであつた。自分の小說を書き出したころは彼はもう年少で一家を爲してゐた。いつか谷崎君も同席してゐた彼の書齋で、未だ二三の作を公けにした自分の前で、谷崎氏はこんなことを言つた。

「いや室生犀星は一杯の紅茶のごときものだよ。」

 すると佐藤君は、

 「いや寧ろココアぢやないか?――」

 と言ふ意昧のことを言つた。自分は當時大名を馳せた谷崎君の言葉が一寸頭に殘り、なるほど彼から見れば一杯の紅茶かなと思うた。唯これだけの言葉であつたが、少年の時分から谷崎氏を愛讀してゐた自分は愉快に快い印象を受けた。

 ともあれ殘念乍ら年少である佐藤君は、一家の風格を持つてゐた。彼の話は聯絡《れんらく》を持つてゐるにくらべ、自分は斷片的なことしか言へないところがあつた。彼は渾

然たるものよりも半端ものを好み、自分はその反對であつた。彼はいつか自分に放浪者の魂を失ひかけてゐるといふ意味のことを言ひ、もう些《わづ》かの非難を交へたやうな調子で云つたことがあつた。その時自分はそれをよしとしてゐた。佐藤君は相當餘裕はありながらもその漂白の魂も少しは有《も》つてゐる。

 此間一年振りで會つた時は、どうも物忘れしてると頻りに言つてゐたが、茫茫とした顏付でゐながら演說は透明だつた。彼はボケたやうな顏をしながら、心に一滴の淸水の新鮮をたたへてゐるやうな人であつた。彼の老いざることは、この一滴の何ものかの爲であると言つてよい。

 

 宮地嘉六氏

 

 宮地君は見たとほりの宮地君であるかも知れません。謙抑《けんよく》な調子で對手をその謙抑一本調子で壓倒してしまふ宮地君かも知れないのです。あのやうな謙抑の情といふものは、僕には變態的な程にまで影響して來て、或る時は憂鬱にさへなる時が多いのです。つまり對手なぞの意志を認めない程度で謙抑であることは、それ自體で壓迫されることが多く、その壓迫的なるものを次ぎの瞬間でまた圓め込まれてしまふのです。それ故《ゆゑ》宮地嘉六君のこれらの情念の發する時には、暫らく感情的な僞瞞を經驗するやうな苦痛な狀態に置かれることがあり、此恐るべき謙抑な彼の戰術を飛び越えることは何人もできない困難なことかも知れません。それは勿論宮地君の戰術でないことは解つてゐますが、自分にはやはり戰術としか見えないのです。實に戰慄すべき又人人から愛敬《あいぎやう》されるところの、彼、宮地嘉六君のものの中で一番自分の參つてゐるものであります。

 細菌銀座の通りで二度ばかり偶然に宮地君に會ひ、一度は散步だけで別れ、二度目は茶を喫んで別れました。その折宮地君は家庭の事や、過去の事件的なことを話して吳れ、自分の考へてゐた女人《によにん》の數がたつた二人きりであつたこと、孰れも宮地君の夫人だつたことを知り、小說で讀み想像してゐた自分の數の謬《あやま》りであることを知つたのです。自分のやうな考へを持つてゐる人は多いかも知れないが、自分の考への刺し貰くところでは、多くは宮地君が不幸な位置にあることを、それらの不幸自身も或は宮地氏自身の氣質的宿命であることをも思はずに居られなかつたのです。徹底的に正直な氣質にある純東洋風な義理人情の踏襲者である此人の過去には、搗《か》てて加へるところの苦勞性があるため、それらの複雜な氣質的な調和がいつも女人との間に介在してゐるのが當然かも知れません。宮地君は細かい口やかましい家庭の王者でもあることは、僕自身の小言幸兵衞である所以のものと何等渝《かは》るところが無いと思ひます。しかも僕はまだ宮地君の書齋を見たことが無いのです。何故か僕が訪ねようといふと、氣欝な顏付でそれを好まないやうなところも無いでもありません。僕の家に見えたことも數へる位しか無く、坐ると直ぐに歸りさうにそはそはとしてゐますが、平常そはそはしてゐる人物が或特種な時間的に落着くときは落着くことを見越してゐる自分には、此人の落着いてゐる時を想像することができるのです。

 最近銀座で會つたことを先刻話したのですが、その一度目にはどうしてもカフエヘ這入らうとせずに、その事を最後まで固守して居られたが、僕には不思議な剛情だと思はれたのです。背丈の高い堂堂たる六尺近い風貌の中には、一緖に大通りを步いてゐても僕のごとき倭漢[やぶちゃん注:ママ。「矮漢」(わいかん)の誤記か誤植。]と違ひ、何か賴母《たのも》しい偉丈夫さを感じることが多いのです。何時でも機嫌のよささうな笑ひを含んで、昂然と上向き加減に步いてゐる宮地君には、人生に憂ふることも無いやうに見えますが、その堂堂たる風貌には平常も何か一人で散步してゐる時の淋しい感じを持つて居られるやうです。僕とはちがつて家庭の人達とも相伴《あひともなは》れて夕食をたべに出掛けることのある人は、質《たち》には善良と正直さを豐富に持つて居られることが解るのです。その善良と正直さには何らの銳い思想的なものの片影だに見せないでゐるところも、苦勞人であるためのさういふ氣質的な人がらがさう見せてゐるのかも知れません。

 では僕に何故宮地嘉六氏に親しみを感じるのか、――さういふ問題は僕にも鳥渡《ちよつと》分り兼ねるのです。宮地君の文人風な好みや愼しみの中にも、また窃《ひそ》かに水墨を擬して永日閑を樂しむの境涯にしても、僕の俗流的な心には大して影響してゐないので。話よいために話をする樂な友人といふことも、僕には大して問題にはなつてゐません。宮地嘉六といふ人がらの中に僕自身がどういふ調和を齅《か》ぎ出さうとしてゐるかも、同じく問題にはなつてゐないのです。唯一つ問題なるものは「累《かさね》」を書いた宮地嘉六氏が其作者として僕を彼の中に惹き付けてゐることです。僕の友人同士を繫ぎ得るものの中には、その人の仕事の或ものが影響して來ないかぎり、もう友人といふものの範躊を作る必要は見ないのです。絕對に作を徹し合つた友人以外に友誼は成立しない今の僕には、あの人の書いた、あの人の生涯の秀作だつた「累」が僕に結び付き呼び合うてゐることは當然なことであります。忽ち宮地嘉六君と親しく口を聞き合うたのは、僕の書いた「累」の批評がその機緣であり、その「累」を間に入れた僕らの友人的なかういふ相互批評を物色し問題化せられるところの間柄になつたのに違ひありません。

[やぶちゃん注:「累」国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の昭和二(一九二七)年學藝社刊の彼の作品集「累」のここから視認出来る。]

 此間宮地君と話し合ふ時に、哀愁のない文學は文學ではないと、宮地君は僕に言はれました。平凡であるが僕には十分にいい言葉だと思うたのです。宮地君は時時批判的な秀でた座談をされ、餘程評論家風な傾きと見識を持つてゐる人だと思ひました。彼はよく理解のある氣持で今の文壇の何人をも受け容れ、それに對抗する時も天與の素直さを持つて向つてゐるやうです。あの人が怒りあの人が叫びあの人が戰ひを挑み、あの人が躍り出すことは鳥渡想像されないことです。併しあの人が割れ出しあの人が動きあの人が深くなり、あの人が何か書き出すことは豫期されるのです。この儘ではいけないといふのがあの人の常にいふ言葉です。そして誰も皆そのやうに一應感奮《かんふん》して見るやうな言葉ですが、實際あの人はあのままではいけないかも知れません。「累」の後の宮地君はまだ何もしてゐないのです。あの人はあの人の質だけの一盃でまだ打《ぶ》つかることを考へてゐる人です。あの人の健康と骨格、堂堂たる風貌、そして自分でさへ抑制できない苛苛《いらいら》した何かしようと志す一面、何か仕ようとしながら生れつきから詩人でない一面、詩人であつたら胡魔化しの利く一面すらもないあの人は、いつも餘りに正面的な、ゆとりのない人生に向き合うてゐるのです。才人でなく鈍重でもない宮地氏は、世の常人である考へを文學者であるための誇張を强調せずに、そのあるままの力で通して來たひとであり、これからもそれによつて進む人に違ひありません。

 宮地氏に望むものは今少しく詩人風な、眼目による彼の世界の豐かさ廣さ細さを望みたいのです。叙情はあり叙情の本體をかつちりと鍔元で受けてゐる人ではあるが、それをじりじりと對手へ押し戾すために耐へるところの、詩人的なものの本體をもう一度自分は見たいのです。彼は小說を書くだけの小說家でありましたといふといふことは、誠に電信棒を見上やうな空虛なことに違ひないのです。又さういふ小說家程落莫とした感じをさせるものはありません。小說家は凡ゆる文藝の作家を表面的に代表したものであつたとしたら、彼は一ト通りの分野的作品への統一した彼自身の考へを持たなければならないのです。只何事も佗しい人生の記述者でのみあつたところの、いつも「灰色の机」を磨く宮地嘉六氏にも詩人風なものの幾面かがあれば、宮地氏の見るからに固さうなものが柔げられはしないかと思ふのです。

[やぶちゃん注:私は所持するプロレタリア文学の集成本全集で幾つかの短篇を読んだことがあるが、今は、まず忘れられた作家である。辞書類も見たが、事績は当該ウィキが一番よかろう。]

 

 加能作次郞氏

 

 大正文壇と云つても自分のことしか書けない。――しかも私自身の大正文壇は大正七年ころから始つてゐるのだから、それ以前のことは知らない。書き出すと多分小說的になるがそれでも想ひ出話であるから却て興昧が深からうと思ふ。

 大正六年の春だつたかに自分は當時「新潮」にゐた水守龜之助《みづもりかめのすけ》君あてに「海の散文詩」といふ十七枚の散文を賴まれないのに送つて「新潮」に載せて貰ふやうに手紙を添へて出したが、一週間ほど後に水守君から原稿を返送して來てどうも長くてこまると云ふ返辭であつた。自分は試作的に散文を書いた折であるから失望も大きかつた。なぜ自分は水守君に文章を送つたかと云へば、「新潮」の前に同君は中央文學の編輯をしてゐて、自分に詩の原稿を依賴されたから、その好意を自分は最《も》う一度水守君に求めた譯であつた。自分は返された原稿を味氣ない氣持ちで眺めてゐたが、それは其儘本箱にしまひ込んで置いて、別の原稿を書きはじめたのである。「抒情詩時代」といふ變な題の小說と散文との中間的な小說だつた。今度も性懲《しやうこり》もなく文章世界の加能作次郞氏へ送つて置き、一週間程して訪ね、恐る恐る先日の原稿はどうでせうとたづねた。あれは仲仲《なかなか》面白いので印刷に𢌞してある。小說としては疑問はあるが、散文として面白いものだと云つてくれたので、自分は内内《ないない》興奮をしていい按配だと思うた。當時詩人といふ埒《らち》もない美名の下に逆境を嘆いてゐた自分は、加能氏の夢にも想像しないやうな心嬉しさに雀躍したくらゐであつた。さういふことが動機になり元氣づいて自分は文章をかき始めたのであつた。加能氏があの時に斷つてしまへば或は自分は餘程平(へた)ばつたかも知れない。或は斷られてゐたら最つと勉强したかも知れない。――ともあれ自分は今日はどうやら原稿に祿を食《は》んで暮してゐる。そのためにも加能氏のあの時の溫籍《をんせき》寬容を諒とせずに居られない自分は、人にも自分にも恩愛の道を守ることを喜ぶものである。恩愛の記述は感情的であるから人間は一定の年齡と地に達すると、何かさういふ感情を厭ふやうな氣になるものであるが、自分は反對に强調したい願ひを有つてゐる。さういふことで人間が低められたりすることは無いからだ。

[やぶちゃん注:「加能作次郞」(明治一八(一八八五)年~昭和一六(一九四一)年:犀星と同じ石川県(但し、羽咋郡)生まれで、犀星より四つ年上)は編集者で小説家・評論家・翻訳家。早大文学部英文科を卒業後、博文館に入社、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表した。急性肺炎で満五十六で亡くなった。当該ウィキを参照した。

「水守龜之助」(明治一九(一八八六)年~昭和三三(一九五八)年)は兵庫県生まれの編集者にして小説家。短いが、当該ウィキがある。

「溫籍」暖かい座席。孝養の心の厚い子が、年老いた両親のために、わざわざ設ける「暖かい敷き物」。また、「席をあたためること」を言う。]

 自分は中央公論に書くやうになつてから、水守氏が、自分の原稿を斷られたことの正當を感じた。ああいふ粗雜な原稿をあの時に水守君から返されなかつたら、自分は安住をして碌なものしか書けなかつたであらう。詩の原稿をわざわざ求めてくれた水守君も、あの散文をつくづく讀み眺めて、

「これはどうも……」と思つたのは當り前の事であつた。その後水守君は茅屋を訪ねられ「新潮」への小說を依賴しに來られたが、自分は昔話のやうにこの話をしたかつたのだが、機會が無くて云へないで終つた。斷る人にも斷られた方でも、いまになると何と快い笑ひ話になつたことか?――

 

 岸田劉生氏と佐藤惣之助氏

 

 岸田劉生氏に初めて詩集「高麗の花」の裝幀をして貰うて、その裝𤲿《さうぐわ》が自分の氣もちに快い調和を與へてくれたのに尠からず喜びを感じた。童子が一枝の花を持つてゐる傍に、秋の果實の一鉢のある畫趣《ぐわしゆ》であつた。自分は本が出來上ると新潮社に行きその原圃を讓り受け、扉繪の花一輪を茶掛けに仕立てて、當時大學を出た高柳君に祝ひの意味で贈つた。「魚眠洞隨筆」の裝頓も劉生氏に工風して貰つたが、これも亦秀れた佳い出來であつた。自分は彼の畫に派手な冴えを見遁さなかつたが、その派手な中に平常も一脈の憂鬱が罩《こ》められてあつた。自分の著書は平常も自分の氣質に從うてじみな内容を盛つてゐるので、却て劉生氏の明快が内容を包んでくれるのに適當であつた。

[やぶちゃん注:「岸田劉生氏に初めて詩集「高麗の花」の裝幀をして貰うて」大正一三(一九二四)年九月新潮社刊。詩集の中身は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。「ヤフオク」なので、何時、消えるか判らないが、ここで、初版の本体表紙とカバー絵を見ることが出来る。

「高柳君」不確定であるが、後の法制史学者高柳真三か。高柳は中野重治の友人で、金沢四高時代に中野を室生犀星に紹介した人物である。]

 その内、劉生氏は「童子愛魚之圖」を送つて來てくれたので、自分はそれを表裝して部屋にかけて置いて珍重した。魚を眺める童女の顏も、魚の泳ぐ有さまを寫した鉢の姿もよかつた。芥川君がこの繪を見てから後に、魚の泳ぐ鉢のまはりに擬寶珠《ぎぼうし》が生えてゐるやうな氣がすると言つてゐた。私もさういふ蒼生《あをなり》の草を見るやうな氣がしてゐた。自分はこの愛魚之圖以後劉生氏を好《す》くこと烈《はげ》しかつた。畫會に入會して二三友を語うたのも、自分の好愛からであつた。

[やぶちゃん注:「擬寶珠」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシリュウゼツラン亜科ギボウシ属 Hosta の山間の湿地などに自生する多年草の総称。

 次の一行空けは底本のママ。以下、後の三箇所も同じ。]

 

 自分は彼の藝術を云々するものではない。彼が自分に與へてゐる心を說けばいいのである。「歲寒三友」を人手したのは去年の春であつた。松竹梅の三樹交契《かうけい》の下に、三友の童子が點心菜果を前に置いて語る畫面であつた。自分はこの繪の中にやはり派手と明快とを感じたにも拘らず、小さい寂漠の蟲の這ふのを感じたのであつた。出來から云へば「愛魚之圖」は最《も》つと寂漠の情に富んでゐたらう。加之《しかのみならず》「歲寒三友」の明快は歲寒き二月の明快であつた。二月といふものを掘つて行くと「歲寒三友」の心が土の中にある、……自分の思索はかういふ風雅を踏まねばならない心であつた。

 

 自分の劉生を見るのは、單に斯樣に狹い見解であり劉生氏に取つて迷惑の事であるかも知れない。しかも自分は大方の批評が作者に迷惑の外の何者でないことを知つてゐるものである。自分は「冬瓜の圖」を見て厨房の夕《ゆふべ》を啼くこほろぎを感じたのも、また劉生氏の迷惑とするところかも知れぬ。併し自分はこほろぎの這ふことを以て喜びを感じたものである。

 藝術は穩かさ靜かさの外に、喜びを持ち運んでくれるものでなければならぬ。喜びのない藝術、喜びをささやかぬ藝術は自分の心の外のものである。彼が好んで描くところの果實の諸相は何時も子供らしい喜びをもつて素直に描かれてある。彼の蓮根と蕪《かぶ》の圖には此喜びが邪氣なく漂ひ賑うてゐる。これ等の大根蕪に眼を向けるのは、單なる彼が奇嬌のわざを衒《てら》ふためではない。彼のあはれを感じるのはそれらの疎菜《そさい》の寂しさ豐かさであつたであらう。

[やぶちゃん注:「疎菜」「蔬菜」が正しい。人が副食物とする草本作物の総称で、特に栽培植物を指したのであるが、現在は「野菜」と同義化している。]

 

 劉生氏と初めて會つたのは去年の冬、詩を書く人人の或會合の席であつた。酒客である彼は市井の一畫人としての悌《おもかげ》を持つてゐるに拘らず、又隱栖の人たる風格を窺はせた。席に佐藤惣之助君が居合せ、彼の近業「酒はまだある」の隨筆集を私は批評して一種の洒落本のおもかげのあることを話しすると、佐藤君はその洒落本の批評を劉生氏に傳へた。その時、劉生氏は洒落文と雖も一朝にして書けるものでない、單に洒落文として閑却してはならぬ意味を醉後であるとは言へ、佐藤君のために辯じたのである。

 その會合は殆ど岸田氏と初對面の人人が多かつた。交誼五年に亙る私でさへも初對面であつた。さういふ席上で古い友である佐藤のために辯じたことは、私に直ちに友情の根ざすところ深きを感じさせた。酒席であるに拘らず言葉を更めた彼の卒直さに自分は友情の美しさを感じた。しかし自分はその洒落本である所以を說明しなかつたが、端《はし》なく友情の何物かを感じた私は、劉生氏の第一印象に成果の暖かさを感じたのである。

 佐藤の「酒はまだある」の文章の姿の中に、意氣や粹や洒落氣が多かつた。無雙な嚴肅や、蒼古の感情にのみ心を走らせてゐる私には、彼の隨筆にたるみを感じてならなかつた。佐藤といふ人がらはむきにならずに直ぐに悲しく外方《そとがた》を向いて、俗事焦慮の事件の埒外《らつがい》を行く人である。

 

 佐藤の隨筆を方今《はうこん》[やぶちゃん注:「現今」「只今」に同じ。]の文壇にたづねて見れば、誠に特異な、珍らしい新姿《しんし》を有《も》つてゐると言つてよい。鏡花先生以外になほ惣之助があることを知ることは、私には樂しい心丈夫な友誼を感じるものである。彼は流行兒でも時めいた隨筆家でもない。しかし左ういふ地味な彼がひそかに稀らしい文章を抱いてゐるといふことは、世人の注意を惹かない程度のものであるとしたら、これほど私に樂しいことは無いのである。併し佐藤は或は別な考へを有つてゐるかも知れない。最つと表面に出なければならぬと思うてゐるかも知れぬ。私の信ずる佐藤惣之助氏はさういふことに頓着のない邪氣ない魂を有つてゐるやうに思ふのである。彼は彼らしい無頓着さで珠《たま》を抱いてゐるのだ。「酒はまだある」は岸田氏が言ふやうに一がいに洒落本ではない。洒落本だと言つた私は私にそれが無かつた故、稀らしいものだつた爲に左う言つたのであらう。岸田氏が彼のために辯じた所以《ゆゑん》のものは、彼の隨筆を批評する時の唯一の眞實でなければならぬ。しかもそれが單なる友情ばかりではなく、佐藤惣之助が一朝にして出來上つたものでなく、永年の心の鍛へが今やうやく彼の文章の上に艶を拭き込んで來たのである。

 

[やぶちゃん注:最後に。この後にある「澄江堂雜記」は、本書の電子化注の一番最初で既に終わっている。

2022/12/23

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「發句」

 

 [やぶちゃん注:底本のここ(本文冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。底本では本文は全体が二字下げになっているが、引き揚げた。また、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像は調べてみると、「少年發句集」の序の干支「丙寅」(ひのえとら)は大正一五(一九二六)年。後半の「魚眠洞」は犀星の別号。「少年發句集」の終り(286ページ)と「魚眠洞句集」の冒頭の(287ページ)が抜けているため(先ほど、脱落事実を国立国会図書館に通知し、了解・補訂作業に取り掛かる旨の返事も受け取り済み)、「ウェッジ文庫」を参考に恣意的に漢字を正字化して示した。]

 

 

    發句

 

 

 少年發句集

 

 ここに蒐《あつ》めたるは槪ね予が十六七歲のころより二十歲くらゐまでの詠草にして、そのころ投じたる加賀金澤の北國新聞より拾遺蒐集したるもののみ、その他多くあれど見るかげだになき句也、取すててうらみなし。

 

   丙寅正月八日

 

 

  新 年

 

  雜煮

何の菜のつぼみなるらん雜煮汁

 

 

  若菜

若菜籠ゆきしらじらと疊かな

 

  左義長

くろこげの餅見失ふどんどかな

 

  左義長

坂下の屋根明けてゆくどんどかな

 

  買初《かひぞめ》

買初めの紅鯛吊す炬燵かな

 

  鍬初《きははじめ》

鍬はじめ椿を折てかへりけり

 

  ゆずり葉

ゆずり葉の紅緖垂れし雪搔きにけり

[やぶちゃん注:「ゆずり葉」ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum は、新しい葉が、古い葉と入れ替わるように出てくる性質から「親が子を育てて家が代々続いていく」ことを連想させる縁起の良い木とされ、正月の鏡餅飾りや、庭木に使われる。この場合は庭木のそれで、同種は葉の茎部分(若枝も)が赤みを帯びる。]

 

  若水《わかみづ》

若水やこぞの落葉の森閑と 

[やぶちゃん注:「若水」は、往古、立春の日に宮中の主水司(もいとりのつかさ)が天皇に奉じた神聖な水を指した。後、元日の朝、初めて井戸から水を汲んで、神棚に供えることを指すようになった。「はつみず」「あさみず」と呼ぶ地本もある。当該ウィキによれば、『若水は邪気を除くと信じられ、神棚に供えた後、その水で年神への供物や家族の食事を作ったり、口を漱いだり茶を立てたりした』。『元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に会っても』、『口をきかない』きまり『であった。若水を汲むのは年男(正月の行事を取り仕切る家長の事を言い、干支の年男とは別)の役目とされたり、その家の女性が汲んだりした。若水を汲む時には「黄金の水を汲みます」など縁起の良い言葉を唱えた』。千葉県南部の『君津地方では』、『若水汲みは男性の役として女性にはまったく手を触れさせない。盆は女性、正月は男性の役といわれるように、元旦の若水汲みから』三『ヵ日、あるいは初卯の日までは』、『炊事は男性がやるべきものとし、女性には水に触れさせないようにする所が多かった』とある。]

 

    お降《さが》り

お降りやおもとの雪の消ゆるほど

[やぶちゃん注:「お降り」は、元日、又は、三が日の雪、又は、雨を言う。新年の季語。]

 

 

 

 

  行春

金魚賣出でゝ春ゆく都かな

[やぶちゃん注:前書は「ゆくはる」と訓じたい。]

 

  春の日

としよりの居眠りあさき春日かな

 

  菜の花

からし菜の花はすこしく哀しからん

[やぶちゃん注:アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ 変種カラシナ Brassica juncea var. cernua 。「芥子菜」「辛子菜」。日本への伝来は古く弥生時代ともされ、平安中期編纂になる「本草和名」や、源順の辞書「和名類聚鈔」に既に記載がある。]

 

  つゝじ

曲水の噴水となるつゝじかな

 

  春の霜

苗藁をほどく手荒れぬ別れ霜

  

  うららか

うららかな砂中のぼうふ摘みにけり

[やぶちゃん注:「ぼうふ」「防風」であるが、これは「濱防風」、則ち、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis のこと。海岸の砂地に植生し、浜風に耐えるために根茎は太く長い。葉は羽状の複葉で厚く、放射状に広がる。夏、茎の頂きに白色の小花を密集させる。香りのよい若葉は刺身の褄、根は本邦では民間薬として解熱・鎮痛に用いる。「伊勢防風」とも呼ぶ。なお、中医の正統な漢方生薬である「防風」(ボウフウ)は同じセリ科 Apiaceae ではあるが、全くの別属である、中国原産で本邦では産しないボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎由来(発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用を有する)であって全くの別物である。]

 

  涅槃會

おねはんの忘れ毬一つ日くれかな

 

  歸る雁

屋根石の苔土掃くや歸る雁

 

  さへずり

森をぬく枯れし一木《ひとき》や囀《さへづ》りす

[やぶちゃん注:前書の表記はママ。] 

 

  畑打

春蟬や畑打ねむき午さがり

[やぶちゃん注:「春蟬」セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」』の『34 「ハルゼミ」、一名「ナワシロゼミ」とも呼ぶ。』以下の私の注を参照。]

 

  

凧のかげ夕方かけて讀書かな

[やぶちゃん注:「ウェッジ文庫」では、初句の頭が「風」になっている。致命的な誤り。]

 

  同じく

凧の尾の色紙川に吹かれけり

 

  つくし

瓦屑起せばほめく土筆かな

 

  たんぽぽ

たんぽゝの灰あびしまま咲きにけり

 

  同じく

行く春や蒲公英ひとり日に驕る

 

  蕗の薹

日だまりの茶の木のしげり蕗の薹

 

 

 

 

 

  ひるがほ

晝顏や海水浴びに土手づたひ

 

  芥子の花

しら芥子や施米の枡にほろと散る

 

  花柘榴

塗り立てのペンキの塀や花ざくろ

 

  

鮓の石雨だれの穴あきにけり

[やぶちゃん注:「鮓の石」「すしのいし」は夏の季語。所謂、関西風の押し鮓を作る時の重しにする道具石。「鮓」が既にして夏の季語である。]

 

  避暑

避暑の宿うら戶に𢌞る波白し

 

  螢

竹の葉の晝の螢を寂しめり

 

  同じく

螢くさき人の手をかぐ夕明り

[やぶちゃん注:私は嗅いだ記憶がないが、あるネット記事では「香ばしいきな粉を炒った様な」「豆類系の匂い」とあった。但し、「いい匂い」とする方は少なく、逆に「いい匂いではない」「臭い」という記載の方が多い。地方によっては、昔の言い伝えで「蛍を触ると手が腐る」という禁忌があったらしいが、これもその臭いのせいであろう。]

 

 

 

 

 

  秋の水

秋水や蛇籠にふるふえびのひげ

 

 

  冷か

ひやゝかや花屋掃く屑雨ざらし

 

  冬近

固くなる目白の糞や冬近し

 

  渡り鳥

茶どころの花つけにけり渡り鳥

 

  落し水

田から田の段々水を落しけり

 

  山茶花

庭石や山茶花こぼる冷《ひやや》かき

 

  鬼灯

ほゝづきや廓《くるわ》ちかき子の針子づれ

 

  つゆくさ

露くさのしほれて久し虫の籠

 

  

芝栗の芝もみいでて栗もなし

[やぶちゃん注:「芝栗」は「柴栗」とも書き、「山栗」とも呼び、品種改良されていない、自生原種のクリ(ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata)で、毬(いが:葉が針状の変形したもの)のトゲトゲの初期の緑色のそれが、芝(柴)に似ているからだと私は勝手に思い込んでいる。しかも、原生種は毬も皮も剥きにくい上に、歩留まりが悪く、実部分は非常に小さい。この句はそこを洒落おとしたもの。]

 

  いなご

ちんば曳いて蝗は椽《えん》にのがれけり

 

 

 

 

 

  寒の水

寒の水寒餅ひたしたくはへぬ

[やぶちゃん注:西多寛明氏のブログ「美味しいお米を大切な貴方に! BLOG「HIRO’s Diary」2」のこちらに、古くは「大寒」の日の朝の水は一年間腐らないと言われ、容器などに入れ、納戸などに保管する家庭も多かったとあり、『そして、そのような事から昔から「寒にお餅を搗く」という風習がある』とされ、『「大寒」の水でもち米を浸漬し、そして翌日』一月二十一日『に搗く』『寒餅』を今も作っておられる。そして、それを『棒のし餅を作り』、『一年中で最も寒いこの頃に、寒風にさらして、固くなった頃、薄くお餅を切って、保存』するとある。板状にして、寒風に乾したそれはよく見かけたが、ここで犀星は「寒の水」に「寒餅」を「ひたし」て「たくはへぬ」(貯えた)とあるので、この西多氏のそれと、結果して同じことになるようには見える。ただ、私は幼少の頃、正月の余った餅(実は私は小さな頃から今も餅が嫌いである。多分、アマルガムを被せた歯がくっついて外れたのがトラウマになっているのだと思う)を、丁度、この頃、外の氷の張った水のバケツの中に沈めて、そのまま蓋をして保存していた母の姿を覚えている。私にはこの句は、あの日の母の寒そうなその仕儀を直ちに思い出させるものなのである。]

 

  

まんまるくなりたるまゝの氷なり

 

  あられ

しんとする芝居さい中あられかな

 

  あられ

水仙の芽の二三寸あられかな

 

  しぐれ

鷄頭のくろずみて立つしぐれかな

 

  

けぶり立つ雪ふり蟲や雪ならん

[やぶちゃん注:「雪ふり蟲」「雪虫」で、有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアブラムシ類の内、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称。私の『橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十年 Ⅸ』の私の「綿虫」の注を参照されたい。降雪を知らす風物詩として知られるが、別なユキムシ(セッケイカワゲラ)もそちらで示してある。]

 

  冬の日

冬の日や餌にこぬ鯉の動かざる

 

  

あさ霜の柳むし賣呼びにけり

[やぶちゃん注:「柳むし」「柳蒸鰈(やなぎむしがれひ)」のこと。条鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ亜科カレイ科ヤナギムシガレイ属ヤナギムシガレイ Tanakius kitaharae 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、『和名は東京、関東などでの呼び名から。柳の葉のようにほっっそりしており、蒸した身を思わせる上品な味をしたカレイという意味』とある。]

 

  霜枯れ

霜枯れや時なしぐさのさゝみどり

[やぶちゃん注:「時なしぐさ」特定の植物を指すわけではない、しかも、どうも、萩原朔太郎と室生犀星の二人が確信犯で共同造語したものであるようである。「原民喜 俳句 五句」の私の「時無草」の注を参照。犀星は大正七(一九一八)年感情詩社刊の詩集「抒情小曲集」の中間部のパート標題に「時無草」を設け、その頭に以下の詩篇を掲げている。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該詩篇で起こす。

   *

 

 時 無 草

 

秋のひかりにみどりぐむ

ときなし草は摘みもたまふな

やさしく日南《ひなた》にのびてゆくみどり

そのゆめもつめたく

ひかりは水のほとりにしづみたり

 

ともよ ひそかにみどりぐむ

ときなし草はあはれ深ければ

そのしろき指もふれたまふな

 

   *

朔太郎の使用例は以下の二篇。

『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 濱邊』

『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 秋』

一般には犀星の造語とされているようであるが、犀星の「時無草」の初出が何時かが判らぬので何とも言えぬ。朔太郎の二篇は大正二(一九一三)年の作であるが、この年の四月頃に朔太郎は犀星と接触し、親しくなってはいる。律儀な犀星が簡単に朔太郎の造語を使うというのは、私には、ちょっと考え難い。逆に、新しいもの好きの朔太郎なら、やりかねないとは思う。]

 

  冬がまヘ

飛驒に向ふ檜みな深し冬がまヘ

 

  水涕《みづばな》

水涕や佛具をみがくたなごころ

 

  爐をひらく

柚のいろや日南《ひなた》いろづき爐をひらく

[やぶちゃん注:「時無草」に無言で読みを入れたが、ここで注する。私がこれを「ひなた」と読む根拠は、「飯田蛇笏 靈芝 明治四十年(十句)」の私の注を参照されたい。]

 

  北窓閉《とざ》す

豆柿の熟れる北窓とざしけり

[やぶちゃん注:双子葉植物綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属マメガキ Diospyros lotus 。東北アジア原産。実は霜が降りる頃に渋が抜けることから、一部では食用にもされるが、本来は、専ら、柿渋の採取に用いられた。品種の一つに信濃柿がある。]

 

  榾《ほだ》

そのなかに芽を吹く榾のまじりけり

 

  燒芋

燒芋の固きをつゝく火箸かな

 

  さむさ

魚さげし女づれ見し寒さかな

 

  干菜

足袋と干菜とうつる障子かな

[やぶちゃん注:初句字足らずではあるが、句の狙った映像はなかなかいい。]

 

  落葉

坂下の屋根みな低き落葉かな

 

  冬木

目白籠吊せばしなる冬木かな

 

  冬すみれ

石垣のあひまに冬のすみれかな

 

  寒菊

消炭に寒菊すこし枯れにけり

 

 

 

 魚眠洞句集

 

  輕井澤九月

靑すゝき穗をぬく松のはやてかな

 

 

  同じく

きりぎりすゆさまし冷えて枕もと

 

  同じく

きりぎりす己が脛喰ふ夜寒かな

 

 

  大宮

しくるゝや飴の匂へる宮の内

 

  動坂

疊屋の薄刄をとげる夜寒かな

[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 

塀きはに萠黃のしるき小春かな

 

 

  輕井澤

山ぜみの消えゆくところ幹白し

 

  草房

しの竹の夜さむに冴えて雨戶越し

 

  草房十二月

障子張るやつや吹きいでし梅の枝

 

  金澤

莖漬《くきづけ》や手もとくらがる土の塀

 

 

しくるゝや煤のよごれも竹の幹

 

  暮鳥忌三回

朝日さす忌日の硯すりにけり

[やぶちゃん注:詩人でキリスト教日本聖公会の伝道師であった山村暮鳥は大正二(一九一三)年七月、室生犀星・萩原朔太郎と三人で詩・宗教・音楽の研究を目的とするとした『人魚詩社』を設立、翌年にはその機関誌『卓上噴水』を創刊している一方、同じ大正二年の十二月には、教会の信者や知人達を中心に『新詩研究会』を結成、その機関誌『風景』には朔太郎・犀星の他、三木露風らが参加した。しかし、大正一三(一九二四)年十二月八日、宿痾であった肺結核に腸結核を併発、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏(おにぼううら)別荘」(「鬼坊」は網元の屋号)で満四十歳で天に召された。私はブログ・カテゴリ「山村暮鳥全詩」で全詩篇の電子化を終っている。]

 

菊焚いて鵞鳥おどろく時雨かな

 

 

  昭和三年

元旦や山明けかゝる雪の中

 

 

お降りや新藁葺ける北の棟

 

 

世を佗ぶる屋根はトタンかお降りす

 

 

  新小梅町堀辰雄の家

梅の束もたらせてある茶棚かな

[やぶちゃん注:現在の墨田区向島一丁目・二丁目の旧町名。堀辰雄が震災後に建てて、養父と住んだ家は現在の一丁目にあった。]

 

  西新井村平木二六の家

かげろふや手欄こぼれし橋ばかり

[やぶちゃん注:「西新井村」現在の足立区西新井地区

「平木二六」(ひらきじろう(名はペン・ネーム。本名はそのまま「にろく」) 明治三六(一九〇三)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人。東京府立三中卒。十四年上の犀星と出逢ってより、詩作を始め、大正一五(一九二六)年、数え二十四歲の時、犀星の序文・芥川龍之介の跋文を持った詩集「若冠」(じゃっかん)を発表した。同年、中野重治・堀辰雄らと詩誌『驢馬(ろば)』を創刊した。戦後は『日本未来派』同人。]

 

  白鳥省吾を訪れて

靑梅やとなりの松葉もさし交す

[やぶちゃん注:「白鳥省吾」(明治二三(一八九〇)年~昭和四八(一九七三)年)は民衆派詩人。ホイットマンの訳詩もよく知られる(私も中学時代にその訳からホイットマンにどっぷりとつかったのを思い出す)。]

 

  金澤四月盡

おそ春の雀のあたま焦げにけり

 

 

靑梅や古下駄させる垣の枝

 

  洞底別離

竹の子の皮むく我もしまらくぞ

[やぶちゃん注:前書の読み・意味ともに不明。識者の御教授を乞う。「しまらく」は「しばらく」の万葉時代の古語。]

 

          (二年七月至三年七月)

2022/12/22

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「和歌」

 

 [やぶちゃん注:底本のここ(和歌本文冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )。底本では本文は全体が二字下げになっているが、引き揚げた。]

 

 

    和 歌

 

 

 夜半の埃

 

  童

眼を病みてひねもす臥(こや)る我なれば自(みづか)らにして眼閉ぢけり

 

  夜半の埃

市中(まちなか)の夜半のほこりにうつしみの我はくらげを食ひにけるかも

 

 

  湯鯉

伊豆のくに伊東の港にじんならと言(いい)へる魚ゐて熱き溫泉(ゆ)に住む

[やぶちゃん注:「じんなら」顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目シマイサキ科コトヒキ属コトヒキ Terapon jarbua の静岡県伊東の地方名(「ぢんなら」とも表記する)こと。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、「地方名・市場名」にこの異名が載る。海産魚で温泉水に棲息しているわけではないが、本種はリンク先にある通り、『沿岸の浅場、河川の汽水域』に棲むことから、温泉水の流れ入るそれらの附近になら、魚影を見てもおかしくはないと思ったのだが、調べたところ、ウィキに「浄ノ池特有魚類生息地」があり、そこに静岡県伊東市和田一丁目に嘗つて存在した、「国天然記念物」に指定されていた小さな池があったとし、『水面面積わずか』十五『坪のこの池は、池底より』、『温泉が常に湧出していた』『ため、水温が年間を通じ摂氏約』二十六度から二十八度の『微温湯に保たれており、淡水であるにもかかわらず』、『複数種の南方系海水魚・汽水魚が生息していたことから、特有の魚類生息地として』大正一一(一九二二)年に「国天然記念物」に『指定された』。『しかし』昭和三三(一九五八)年の『狩野川台風の影響および温泉湧出の停止等、生息域環境の変化により』、『特有の魚類は見られなくな』ったことから、昭和五七(一八六二)年に「天然記念物」『指定が解除された』とあった。さらに、『浄ノ池』『は指定解除後に埋め立てられ』、『池自体が消滅しており』二〇二〇『年現在、跡地には民間病院が建てられ』(現在はグーグル・マップ・データを見る限り、この「横山医院」のことを指しているようである。近くにストリートビューで見ると、水路が確認出来る)、『往時を偲ぶものは残されていない。しかし、かつて』浄ノ池は『家屋の密集する市街地に位置する交通の便の良い珍しい天然記念物であったことから、温泉都市伊東温泉における代表的な名所として大正期から昭和中期にかけ多くの観光客が訪れる場所であった』。『人々は池に閉じ込められた南海産の珍奇な魚類を眺め、天然のビオトープとも言える小さな水中の不思議な生物相に想いを巡らせた』とあった。されば、犀星が詠じたのは、この「浄ノ池」でのことだったと考えてよい。「今昔マップ」の一九七二年から一九八二年の「国土地理院図」内のこちらに「浄ノ池特有魚類棲息地」」表示されてあるのを見出せた。これはポイント位置から見て海岸に近いものの、内陸で、沿岸や入り江ではない。しかし、海水魚がいるということから、ここからの小流れがあって、そこを海水魚が満潮時などに遡上していたものであろう。而して、そのウィキには、そこに棲息していたとして、コトヒキを挙げているが、当時の『報告書に記載された学名、和名ともに今日とは異なる名称であるが、これが当時の』コトヒキの『シノニムであったのかを含め』、『詳しい経緯は不明である』としつつも、コトヒキを解説し、『主に本州南岸の太平洋沿岸海域で普遍的に見られることから、各地での方言名も多数ある魚であり、当地伊東では迅奈良(じんなら)と呼ばれていた。沿岸域から汽水域までを生息地とする魚であり、黒田も伊豆地方沿岸および駿河湾沿岸一帯に普通に生息する種であると報告している。大きさは通常』約十五センチメートル『以下だが』、浄ノ池には約二十一センチメートル『ほどある大型の個体が』十『尾ほど生息し、唐人川』(通りの名称などから、この伊東大川に南方から合流する小流れ(いかにも旧浄ノ池に繋がっていた雰囲気がある)がその川であると推定される)『にも小型の個体が生息しているのが確認されている。背びれのトゲを使って他の魚を刺殺すると言われ、捕獲して陸上に上げると』、『一種異様な鳴き声を発すると聞いた』報告者は、『当池で実際に試して鳴き声を確認している』。『コトヒキを含むシマイサキ科』:Terapontidae『の魚類は浮き袋に独特な発音筋を持っており』、『漁獲されたときに「グーグー」と大きな音を出す。これが標準和名「琴弾」の由来である』とある。ところが、その前に、ここに棲息していたとして、まさに文字通りの真正の「湯鯉」=スズキ目ユゴイ科ユゴイ属ユゴイ Kuhlia marginata が挙げられてあるのである。このユゴイは生活史の殆んどを河川の河口から中流域で過ごす汽水・淡水魚であるが、産卵は海で行い、稚魚・幼魚の間は海で過ごす降河回遊を行うから、名も生息地もいかにもピッタリくるのである。ウィキでは、『当地』伊東での『呼び名は他の』四『種と違い』、『標準和名と同じ湯鯉である。鱗は銀色ないし白銀色で、水中では特に明るく見えると報告書には記載されている。体長は大きいもので』、体長は約三十六センチメートル、体高は約十五~十八センチメートルで、『群遊する魚であり』『調査』された『時点で浄の池には』十五~十六『尾ほどが群れをなして泳いでいたという。また』、『唐人川にも多数遊泳していたことが確認されている』。『ユゴイはオオウナギと並ぶ』浄ノ池の『熱帯性魚類の代表的なものとして知られており、小学館発行の』「日本大百科全書」の「ユゴイ」の『項目、同じく小学館発行の』「大辞泉」、『三省堂が発行する』「大辞林」の「湯鯉」の『項目で、静岡県伊東市の浄の池が有名な生息地、生息の北限地であった等の解説がされている』とあるのである。この歌の「じんなら」はコトヒキかも知れぬが、前書は「ユゴイ」のニュアンスも感じさせる。犀星が見た魚体が判れば、幸いなのだが、贅沢は言うまい。なお、「ウェッジ文庫」は「伊東」を『伊藤』と致命的に誤っている。もう、直してあるかなぁ。]

 

 故葉(ふるかしは)

 

夕餉前しまし讀まなむ文ありて机によれば落着きにけり

 

乾干びし胡瓜の蔓に風立ちて裏山(やま)の明るみ目にしるきかな

 

葱畑の畦に溜りて降りやまぬ長雨(あめ)の光ぞ寒くなりけり

 

山家なる軒にうごかぬ白雲をまさしくは見る碓氷ねの上

 

雜草(あらくさ)の中の胡瓜のこぼれだね蔓引きければ胡瓜さがれり

 

荒松の音(と)にづる聽けば山中の道の途絕えつ歸り來にけり

 

古家の夜半の襖にかすかなる羽根搔きてゐるいなごを見たり

 

豆畑の豆の莢をばゆりゐしにつやつやし豆のまろび出にけり

 

 

 

さ庭べにむら立つ竹のさむざむと光るを見れば月はありけり

 

 屋根瓦

 

風落ちてしづくもあるか夕ばえの屋根の瓦にしまし殘れり

 

どうだんの針なす枝を交しつる寒き庭面のみづたまり見ゆ

 

しぬ竹の庭べに坐り日のうつり冬めくとのみ我はおもはむ

 

ひもすがら文かく我は心尖り叫ばむとする憂ひなるらむ

 

吾が家の煤の垂れたる軒端には寒き風吹き止まざりにけり

 

微かなる夜半の遠啼く鷄(くだかけ)に耳かたむくる我とおもへや

[やぶちゃん注:「鷄(くだかけ)」「くたかけ」とも漢字では「腐鶏」。中世以降の古語か。「ばか鶏(どり)!」で、後朝(きぬぎぬ)の別れを告げる鶏(にわとり)を罵って行った語。後にはフラットに「鶏」を指すようになった。]

 

玻璃戶越し黑き枝見ゆ斑ら葉となりつつ尖る枝見つ我は

 

  眞冬

うつしみの我のこもらふ北窓の氷はとけずかがよひにけり

 

 

  銀座

埃立つ市のくらみにひとところ氷ひかりて更けにけるかも

 

  立春

春されば丹の頰たたへつ古妻のその丹の頰はもにごりて居りけり

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「映畫時評」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 エミール・ヤニングスの藝風」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、私は映画好きであること、人後に落ちぬが(因みに私のベストは、アンドレイ・タルコフスキイ全作品(サイトの「Андрей Тарковский 断章」参照)・本多猪四郎監督「ゴジラ」(サイトの「メタファーとしてのゴジラ」参照)・グレゴーリー・チュフライ監督「誓いの休暇」(カテゴリ「ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】」参照)・ルイ・マル監督「鬼火」(私のサイト・ブログの名はこれによる。放置が永いが、『Alain Leroy ou le nihiliste couronné d'épine アラン・ルロワ または 茨冠せるニヒリスト~ロシェル/マルによる「鬼火」論考(未定稿)~』がある)・スチュアート・クーパー監督「兵士トーマス」(見たことがない方が多いであろう。YouTube のこちらで全篇を見ることが出来る)・マイケル・ラドフォード監督マッシモ・トロイージ主演「イル・ポスティーノ」(私のタルコフスキイ体験以後に感動した唯一の作品)である)、犀星の好みとは、殆んど全く共通するところがない(室生がここの前半で挙げるものはサイレント映画で、私はあまり無声映画時代のものは見ていないことにもよる)。にしても、犀星の映画分析はすこぶる現代的で鋭く、同時代の詩人・小説家の中では、その評は群を抜いて素晴らしい。一読の価値大いにあり!

 

 

      映畫時評

 

 

 一 エミール・ヤニングスの藝風

 

 最近の映畫界で特に私の記憶に新しい感銘となつて殘つてゐるものは、エミール・ヤニングスの「最後の人」「ヴアリヱテ」「肉體の道」及び最近封切になつた「タルチユフ」等の諸作品である。これらの諸作品はヤニングス物の特異な効果ある諸演技を物語るものである。

 今假にロナルド・コールマンやアドルフ・マンヂュウ等の流行俳優と彼とを、その藝風の幅や大きさや深さの點で比較することは、コールマンやマンヂュウの小ささを證據立てる以外に、殆どヤニングスの敵國は全世界に一人として存在してゐないと云つてよい位である。殆ど古今獨步の大味であり映畫界切つての怪物であることは、恐らくその演技や藝風の重厚なる新鮮と近代風なグロテスクの絕頂を極めてゐる點で、彼こそは或は映畫記錄中の最大の俳優として後代に其聲名と演技の跡を殘すであらう。とは云へ徒らに私はヤニングスを過賞するものではないが、當然非難さるべき彼の演技上の「癖」や其他の欠陷はあるにしても、兎も角も彼の足跡の大きさと押の强さでは、私をして如實の言葉を爲さしむるだけのものを持つてゐる。何故と云へば彼の如き「面《つら》」と「技」とを同時に享有することは、稀有に近いことかも知れないからである。かういふ面と技との共有者は十年に一人の割合でさへ現れないやうである。卑しいロン・チヱニイの面は啻に彼の面としてのみの變化も變貌をも表情されてゐない。ヤニングスの面の變化は東洋風の百面相に近いものをもつてゐるからである。それらの面の持つリアリズムは同時にヤニングス物の奈何なる演技の困難をも剌し貫いてゐる。そして又ヤニングスはヤニングス風なリアリズムの徹底に彼だけの世界を持つてゐる點で、少しのセンチメンタリズムの破綻をも表してゐない。此の一點だけでも恐らく後人は問はず今までに無かつた人物である。

 彼は多くの場合何時も演技の絕頂時に於て、硬直した立體的藝風の型を取つてゐる。そして些しの餘裕をも持たないのは彼が演技に於ける情熱の病癖であり、其故に人氣ある今日の彼を爲さしめたものである。又それらの硬さはともすると彼の中にある烈しい通俗的効果を知らず識らずの内に危險な亞米利加風の落し穴に誘惑されるかも知れぬ。然乍ら猶私には此怪物的出現が今暫く好奇心を惹くに充分であり、多くの甘たるい亞米利加式新派悲劇の涎《よだれ》を拭く暇を與ヘて吳れるだけで滿足するものである。

[やぶちゃん注:「エミール・ヤニングス」(Emil Jannings 一八八四~一九五〇年)はドイツの俳優。一九二七年、アメリカのパラマウント映画と契約を結び、ハリウッドに移った。

「最後の人」‘Der Letzte Mann’。一九二四年公開のドイツ映画。監督は私の好きな吸血鬼映画の名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens:「ノスフェラトゥ、恐怖のシンフォニー」・一九二二年)を作ったドイツ表現主義映画を代表する監督フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau 一八八八年~一九三一年)。「最後の人」は私は未見。

「ヴアリヱテ」‘Varieté’は、一九二五年公開のドイツのサイレント映画。フェリックス・ホレンダー(Felix Hollaender 一八六七年~一九三一年)の小説‘Der Eid des Stephan Huller’(「ステファン・フュラアの誓い」)をドイツ映画のパイオニアの一として知られるエワルド・アンドリュー・デュポン(Ewald André Dupont 一八九一年~一九五六年)監督で映画化したもの。公開時の邦題は「曲藝團(ヷリエテ)」であった。シノプシスは当該ウィキを参照されたい。私は未見。調べたところ、撮影は、かの画期的SF映画の名作「メトロポリス」(Metropolis:一九二七年)のカール・フロイント(Karl Freund 一八九〇年~一九六九年)であった。私は未見。

「肉體の道」‘The Way of All Flesh’。アメリカのヴィクター・フレミング(Victor Fleming 一八八九年~一九四九年)監督になる一九二七年のサイレント映画。これで彼は第一回アカデミー賞男優賞受賞している。

「タルチユフ」ウィーン生まれのハリウッドで活躍したジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督になる「タルテュッフ」(‘Tartüff’:音写は「タートゥフ」が近い。これはモリエールが造語したもので、「信心深さを利益のために乱用する信仰者」を意味する)。私は未見。

「ロナルド・コールマン」(Ronald Colman 一八九一年~一九五八年)はイギリスの名優。私は何より、記憶喪失絡みの純愛映画「心の旅路」(Random Harvest:マーヴィン・ルロイ(Mervyn LeRoy)監督。共演はイギリスの名女優グリア・ガースン(Greer Garson 一九〇四年~一九九六年))が一押し!

「アドルフ・マンヂュウ」アドルフ・マンジュー(Adolphe Jean Menjou 一八九〇年~一九六三年)はアメリカの名優。「モロッコ」(Morocco:一九三〇年)・「スタア誕生」(A Star Is Born:一九三七年)・「オーケストラの少女」(One Hundred Men and a Girl:一九三七年)で知られる。私はマレーネ・ディートリヒとゲイリー・クーパーが共演したスタンバーグ監督になる「モロッコ」と、ドイツ出身のアメリカの監督ヘンリー・コスター(Henry Koster 一九〇五年~一九八八年)の手になる一九三七年公開の「オーケストラの少女」が好きである。]

 

 二 「最後の人」「ヴアリヱテ」「肉體の道」「タルチユフ」

 

 渡米前の作「最後の人」の老門番としてのヤニングスは、文字通り宮殿の如き大ホテルの玄關に立つ金モール嚴しき老門番であつた。彼はその無邪氣な金モールの制服を脫がねばならぬ時に遭り合ひ、彼が人としての最後の人生への未練を殘すところは、ヤニングスの藝風の心理的素直さ、辿辿《たどたど》しささへ私に感ぜしめた。大ホテルの玄關前に盜んだ金ぴかの制服を着た老門番が、背伸びをしながら人生への涓滴的《けんてきてき》悅樂に醉ふ有樣には、充分なヤニングスの明るい或一面の持味で表現されてゐた。

[やぶちゃん注:「涓滴的」僅かな。少しばかりの。]

 自分は半歲の後「ヴアリヱテ」を見て、不思議な美と魅了をもつリア・デ・プテイを發見し、デユポンの手法を見、それにも拘らずヤニングスの曲藝團の「親方」には多少の失望を感じた。此畫面ではヤニングスの硬直した力は生活の向側へ勢ひ餘つて投げ出され、膠《にかは》のやうにからからに乾燥してゐた。「睨み」のシインの如きは一枚の寫眞である外の何者でもなかつた。表情の科學化ともいふべき無意味さが繰り返されヤニングスの「病癖」が惡いチーズのやうに執拗に入念に固められてゐた。自分は當時一映畫雜誌に「ヴアリヱテ」が失敗の作であることを指摘し今さらに自分の溫かき「救ひを求むる人人」に接した幸福な日を思ひ返したくらゐであつた。一つはデユポンの監督の手法の手堅さがヤニングスに押され氣味であり餘りに固くなり過ぎた爲であらう。吾が敬愛する無名の集團であつた「救ひを求むる人人」の人人は、私をして映畫的人生が實人生と同程度までへ接近するの可能を、決して映畫が映畫としての「昨日」の物でない、「今日」の彼を暗示してゐたこと等を囘顧する時、私は殘念乍ら大ヤニングスの中に失はれてゐる素面(しらふ)の人生を思はずに居られぬ。若し素面の人生を「肉體の道」に求めるとすれば、稍それに近い好場面が無いでもないやうである。謹直平凡な一銀行員の平和な家庭生活が、その出張先に於て一淫婦の美貌に魅了される筋であるが、「面」の變化をもつヤニングスは茲《ここ》では一銀行員としての實直な心理解剖を試みてゐる。列車中の魅了されるシインや、淫婦の歡心を得ん爲にその永年の間に蓄へた美事な髭をさへ理髮店で剃るところに、寧ろ銳い皮肉が畫面のみでなく看客の中へもその唾を飛ばしてゐる。ヴイクター・フレーミングの手法の極北であると云つてよい。此場面の嫌厭すべき効果は不愉快な感情を伴ふに拘らず、何か私共の心を打ち挫く力强いものを持つて肉迫してゐる。ヤニングスの好好爺たる溫かい善良なる性質の表現も、看客に委ねられた殘酷な心理的解剖の下によいシインを顯してゐる。

[やぶちゃん注:「リア・デ・プテイ」「ヴァリエテ」のヤニングス演じる主人公ボスの恋人でヴァンプ(vamp:悪女)役のベルタ・マリーを演じたハンガリーの女優リア・デ・プッティ(Lya De Putti 一八九七年~一九三一年)。終りの方でその面容への執着を犀星は一章を設けて述べているので、ここでグーグル画像検索「Lya De Putti」をリンクさせておく。]

 矢繼早に自分はまた、「タルチユフ」を見たが、これはヤニングスの脂と癖との夥しく沁み出たものだつた。自分は惡魔の如きタルチユフの型の中に既に使ひ古された型を見出しヤニングス物として拙いものであり邪道と通俗に近い妥協性さへ發見した。自分のヤニングスに最も懸念を感じることは、彼は何時も藝術ではあるが大なる通俗味を多分に抱擁してゐることである。彼の人氣のある所以は誰が見ても面白く解ることであり、その面白さは大なる通俗の上にあることである。彼の危なさの中に平然と行くところは彼の大きさの爲であらうが、「時」は彼をして逆さま落しに通俗の凡化たらしめはしないか、と自分は「タルチユフ」を見乍ら懸念と憂慮とを倂せて感じてゐた。併も惡僧「タルチユフ」は彼のお手の内のものだつた。最後に一僞善者としてのタルチユフの化の皮を自ら剝いだ時の、酒を飮み乍ら嗤笑《しせう》する彼の醜い下卑た色好きな笑ひ顏は、やはり誰の中にもある同樣の卑しい笑ひ顏であつた。それから鷄の足をしやぶる口が左から右へ大歪みに曲り込むところも、彼の面目の中の著しい藝風の特徵的丹能であらう。リル・ダゴフアの奧方には彫刻的美はあるが動く美はない。手ざはりも冷たい感じをもつてゐるけれど、カール・フロイントの撮影はその自由な表現を縱橫に試みてゐることを特記して置く。

[やぶちゃん注:「嗤笑」冷笑。嘲って笑うこと。

「リル・ダゴフア」「タルテュッフ」でミセス・エルマイア役を演じたドイツの女優リル・ダゴファー(Lil Dagover 一八八七年~一九八〇年)。

「カール・フロイント」「の撮影を担当した名カメラマンであったカール・フロイント(Karl Freund 一八九〇 年~一九六九年)。名作「巨人ゴーレム」(一九二〇年)・「メトロポリス」(一九二七年)等のカメラマンとして知られる。]

 

 三 ヤニングスと谷崎氏

 

 私はエミール・ヤニングスを思ふたびに、何かしら谷崎潤一郞氏を想起するのは自分でも不思議とするところである。(これは谷崎君には迷惑かも知れない。)さういふ關連された氣持は私だけに止まるものかも知れぬが、大きさは似てゐるやうな氣がする。谷崎潤一郞氏は大谷崎《おほたにざき》である點、殆ど漠然たる直覺的思惟の下に此「大」を感ぜしめる點に於て、ヤニングス論を書く私に想起されるのは谷崎氏自身がその大きさを持つてゐるからであらう。これに深い穿鑿の必要はないのだ。今の文壇にこの「大」の字の附く人物は奈何なる作家に較べても先づ見つからない故もある。

[やぶちゃん注:寧ろ、ヤニングスに対して失礼である、と私は思う。]

 

 四 フアンの感傷主義

 

 自分は大正六七年代に既に映畫批評の流行前に「映畫雜感」を書いて、西洋女優が奈何に美しい肉顏《にくがん》をもつてゐるか、その肉顏は吾吾の生活に何故に必要であるか、又彼女等の新派悲劇的要素の中に吾吾の悲哀が何故にその相談對手を求めるのか、我我は映畫見物に行くそもそもの動機は何であるか、セネツトガールの白い美しい足並揃へた惡巫山戲《わるふざけ》や舞踊は、何故に我我に取つて馬鹿馬鹿しい餘計事では無かつたか?――あらゆる美と感傷の「壺」であるクローズアツプの肉顏に、我我は何故に驚嘆の溜息をつかなければならなかつたか?――我我が映畫見物の後、貧弱な家庭に於て何故に屢屢滑稽なる不機嫌を敢て經驗しなければならなかつたか、さういふ諸《もろもろ》の下卑た感傷主義はその十年の間に次第に滅び、それらの種種の問題を卒業した僕等は漸く一人前の今目のフアンとして立つことができたのである。そして我我がフアンとしての立場には、斯くて無用な末期的感傷主義の虜であることを拒絕することに據つて眞實の評價を爲し得るものであらう。

[やぶちゃん注:「肉顏」はママ。「ウェッジ文庫」では前が『肉体』で、後者二つが『肉顔』となっている。初出を見られないので、底本のままにしておく。「ウェッジ文庫」の修正は確信犯的な感じがし、確かにその方が、遙かに躓かずに読める気はする。

「セネツトガール」チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin 一八八九年~一九七七年:因みに彼はイギリス出身である)を初めて映画に出したプロデューサーであり、「喜劇王」として知られるアメリカの映画プロデューサー・監督・脚本家・俳優であったマック・セネット(Mack Sennett  一八八〇年~一九六〇年)が組織したキャンペーン・ガール及び短編映画の出演女優集団を指す。芦屋則氏のブログ「サイクロス」の「マック・セネット・ガールズ」を参照されたい。]

 併乍ら自分の如きは猶夥しいセンチメンタリズムの塵埃棄場《じんあいすてば》を、人生には無用な自分に取つては可能な戀愛の吸收力を、日常親灸《しんしや》し乍ら自身にも覺つかない生活の諸諸の面《めん》や相《さう》を、極言すれば到底人力を以て濟度することのできない多くの嫌厭すべき新派悲劇的の涎や泪《なみだ》を、曾て吾吾の中から追ひ出した感傷主義の餘儀ない邂逅を經驗することに依つて、我我フアンのどうにもならない立場があるのだ。我我フアンの立場に既にかういふ現世的欲求のあることは、同時に吾吾の映畫がかういふ空氣外の存在であつてはならぬことを條件とせねばならぬ。吾吾の現世的な枯槁《こかう》された慘めな心神的ボロを、吾吾の親切な映畫的人生がつつましやかにかがつてくれれば、吾吾のボロはもう少し溫かく身に着くことになるであらう。

[やぶちゃん注:「枯槁された」ここは「すっかり萎み枯れ果てされた」ことの意。]

 

 五 「暗黑街」とスタンバーグ

 

「暗黑街」を見た自分は期待的な壓迫も又窒息的な鼓動をも感ぜずに、スタンバーグの靜かな緊密な、殆ど類ひ稀な簡潔な手法と、秩序ある明快な一個の腦髓の閃めきとを感じた。「暗黑街」の人生を通じたスタンバーグは、「サルベエシヨン・ハンターズ」のテンポを一層引き締め、殆ど別人のやうな銳利な速度を全卷の上に試乘した。微塵も無駄のない、空いてゐる一コマとてもない、緊張以上の緊張を全卷に醱酵させ、それでゐて息苦しいものを與へずに、最下級の壓迫をしごかずに、それらの瞬間と咄嗟とを靜かにきめ細かく織り込み受け渡し、且つ磨き上げてゐる。

 或は「暗黑街」を見た人人は評的の標準のない、餘りに漠然とした平凡な或想念に辿り着くであらうし、もつと面白くあるべきものを期待してゐたことに心附くであらう。今までの映畫に敎養されたフアンはその絕頂的興趣の無いところの、さういふ映畫的屑やボロを全然振ひ落したところの「暗黑街」には鳥渡《ちよつと》その批評の標的を失うたであらう。併し何氣なく或チクチクしたメスのやうな痛みと、妙に光つたものと同時に感じ、そこにジョセフ・フオン・スタンバーグが映畫的埃をあびてゐない淸らかな眼をもつて立つてゐることに氣づいたであらう。彼はストロハイムやチヤツプリンのカツトを既にその頭腦の中で試みてゐる。「救ひを求むる人人」以來二度までも其製作的失敗の苦い經驗をもつ彼は、殆ど出來得るだけのものをさらけ出したと言つてよいであらう。名監督であるよりも刻苦の人スタンバーグ、ちらちらする名監督的な冴えを隨所にもつてゐながら、それらを完全に近いまでに出し切つた精進の人スタンバーグ、何處までも處女性の臆臆しさと、銳どさと冴えと新鮮とを持つてゐるスタンバーグ、ジョーヂ・バンクロフトをあれまでに引き上げ、彼を指揮するに寸刻の隙も弛みをも見せず、あれ程までの鮮烈、新味ある圓熟、壓力ある把握、大きさへまでに押出し、凡ゆる現實性の確證を表現させ得た素晴しい親切なメガホンと熱情あるタクト――曾てサルベーション・ハンターズを叙情詩的な憧れへ呼びかけた彼は、最早一足飛びの本格映畫の骨髓に切迫し、これを如實に健やかに表現した。彼とバンクロフトとによる連彈的な一臺のピアノは、その最高音からピアニシモに至る魅惑の殆ど完全な渾一を、吾吾の手の痛くなるまでに拍手させたことは、スタンバーグとバンクロフトの一體的交響樂を意味するものに外ならないであらう。

[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」既に「天上の梯子」の「一本の映畫」で注し、「月光的文献」の「活動寫眞の月」でも言及されているが、再掲すると、一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照されたい。

「ストロハイム」エリッヒ・フォン・シュトロハイム(Erich von Stroheim 一八八五年~一九五七年)はオーストリア生まれでハリウッドで活躍した映画監督にして俳優。当該ウィキによれば、『映画史上特筆すべき異才であり、怪物的な芸術家であった。徹底したリアリズムで知られ、完全主義者・浪費家・暴君などと呼ばれた。また、DW・グリフィス、セシル・B・デミルとともに「サイレント映画の三大巨匠」と呼ばれることもある』とある。

「臆臆しさ」「おくおくしさ」であるが、一般的な語彙ではない。気後れする感じ、或いは、遠慮がちな奥ゆかしさの意か。]

「暗黑街」の全卷に流れてゐる流れの量は、殆ど合一され、ヤマとクライマツクスを抹殺してゐる。彼は最後にブル・ウイードが逮捕されるところがさうだとすればさうかも知れぬが全卷の上に殆ど平面的なクライマツクスの小出的調和を試みてゐることは見遁《みのがしてはならない。

[やぶちゃん注:「ブル・ウイード」史上初のギャング映画として名高いサイレント映画「暗黒街」(‘Underworld’。私は未見)の主人公ブル・ウィード。ジョージ・バンクロフト(George Bancroft 一八八二 年 ~ 一九五六 年)。]

 

 六 スタンバーダと志賀氏

 

 自分は「暗黑街」を見ながら、スタンバーグの手法に何故か志賀直哉氏と共通のものを感じた。底光りと健實と少しの危氣のないスタンバーグは、志賀氏のこつくりした新味のある文章に通じてゐる「頭のよさ」を見出した。寶石商店にブル・ウイードが首飾を盜んだ後に、步道を馳け合ふ警官隊のヅボンが、飾り棚の鏡や硝子の小さいものまでに映り出されてゐる、その銳い睨んだスタンバーグの手法は、或心理描寫の上でさういふ銳角さを取りあつかふ志賀氏の、布置の中の結構や用意や落着に髣髴してゐた。

 ブルツクのロールス・ロイス、ブレントのフヱザースとの或氣持の受け渡し、そこに立つスタンバーグの克明な心理描寫、就中、たるみのない全篇へ流動してゐる氣根は、志賀氏の何物かを自分に想起させた。その何物かは言ふまでもない志賀直哉氏の何物かである。同時にスタンバーグの刻苦はそれを描寫的手法の上のものとして考へ見ることができれば、志賀氏を想起するのは强ち自分一人に限られてゐないのであらう。志賀氏がくろうとの作者であるやうに、スタンバーグも亦くろうと筋の彼でなければならないからである。

[やぶちゃん注:「ブルツクのロールス・ロイス」“Rolls Royce” は「暗黒街」の主人公の一人で、アル中の紳士ブル・ウィード(本名はウェンツェル(Wensel))の綽名。イギリスの映画俳優クライヴ・ブルック(Clifford Hardman CliveBrook 一八八七年~一九七四年)が演じた。彼はシャーロック・ホームズを三度、また、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の「上海特急」(‘Shanghai Express’)でマレーネ・ディートリヒとともに主演したことで知られる。

「ブレントのフヱザース」同映画でウィードの親友となるシカゴの暗黒街に跳梁する稀代のギャングの親玉格であった「ブル」(次章注参照)の好きな娘で、ウィードが恋してしまうフェザース (“Feathers”。本名はマッコイ(McCoy))。アメリカの女優イヴリン・ブレント(Evelyn Brent 一八九五年~一九七五年)が演じた。後でまた彼女ために一章が組まれるので、グーグル画像検索「Evelyn Brent」をリンクさせておく。以上は、前に述べた通り、私は未見の映画なので、主に複数の英文ウィキの記載及び日本のサイト「KINENOTE」の当該映画のシノプシスを参考にして注した。次の章も同じ。]

 

 七 「暗黑街」のバンクロフト

 

「戰艦くろがね號」のジョージ・バンクロフトは、彼自身の强力な心臟の上に更にスタンバーグのタクトの振動を熟視してゐた。彼の全力的な、鈍重な圖太い線、加之《しか》もそれは軟かい沁み込みと罅《ひび》とを人の心に影響してゆくところの、得も云はれぬリアリズムヘの微妙なそして確實な浸透、そしてかういふ彼の特質の上に靜かな熱情あるスタンバーグのタクトが、正確な振子のやうに動いてゐる。

 ブル・ウイードは猛猛しい豹のやうな野性と、豹のやうな優しい愛情と、時に人間的な哄笑とを持つて生れた、野卑を超越した惡漢である。彼が人生について解釋するところは少しの後悔を有《も》たない「惡漢」意識を飽迄《あくまで》も强大に生活することによつて、その魂を磨く下層人的な或原始性を有つてゐる。加之もバンクロフトとブル・ウイードとの間に一枚の紙背すらない、ブル・ウイードを生活し經驗しながら、ブル・ウイードの血液、肉體を有ち、その凡ゆる行爲に何等の考察や反省すら有ち得ない野性にまで、一個の巨漢バンクロフトは行き着いてゐる。彼が酒場の階段を下りながら右の手を輕く振つて挨拶がはりにする時又街路へ出ながらの同樣な身振り、舞踊會の夜にも又繰り返す同樣な擧止、それらの野卑な挨拶の中にブル・ウイードの生活面が細かに描寫され物語られてゐる。

 自分はクライヴ・ブルツクの「靜かさ」を大《だい》ぶ前から睨んでゐた。「フラ」の中のクライヴ・ブルツクはもう何時までも「フラ」の中の彼ではなかつた。バンクロフトの對手段として靜かな位置を保留することになり、彼自身は磨かるべき泥の着いた珠玉であつた。入念な視線による一動作への連結、少し氣取り過ぎてゐる所はないでもないが、酒場のブルツクの沈着なタイムある動作は、自分に充分な彼の未來への感銘を與へた。

 それにしても猶自分の眼底を去らないバンクロフトの哄笑、あらゆる人生への榴彈であり彼自身への後悔なき惡の意識化であり、同時に何とも云へない子供らしい無邪氣な、罪のない誰も從《つ》かざるを得ない哄笑。――

[やぶちゃん注:「戰艦くろがね號」原題は‘Old Ironsides’。十九世紀初頭を舞台にした地中海の海賊掃討を題材とした歴史戦争映画。パラマウント社が一九二六年に特別作品として制作したもので、ジェームズ・クルーズ(James Cruze)が監督した。以下のバンクロフトは重要な脇役を演じた。私は未見。

「ジョージ・バンクロフト」(George Bancroft 一八八二年~一九五六年)はアメリカの映画俳優。「暗黒街」では、最も重要な主人公の一人ブル・ウィード(“BullWeed)役を演じた。]

 

 八 映畫批評の立場

 

 映畫に就ては自分のごときは何處までも素人であり、汚れたベンチに腰かける三等看客の一人に過ぎない。その素人であるための映畫を理解しようとする熱烈さの中に、大衆的な血潮さへ流れてゐる。よき映畫を見ることは其時代を經驗する喜びであり、よき映畫に接觸することによつて直接自分の生活の更新的な分子さへ攝《と》り入れねばならぬ。一口にいへば何事もその「心持」風な生活の上で、映畫の中のよい心持、よい場面、よき人生の素直さがどれだけ溶解され、心持風な讀物になつたか知れぬ。自分の性質が一個の性質として人生面への交涉を敢てする時に、映畫人生の指導によつてどれだけ多くの複雜性ある準備を加へられたか分らぬ。そのため映畫が娛樂的な視聽のみの効果ではなく、小說に於ける人間學的再經驗と同樣な有益さを與へられてゐる。それ故自分が映畫的人生への最も高い意味のリアリズムの唱道を敢てしてゐるのも、此意味の外ではない。自分等の知り學ばうとするところは自分の心理的な經驗外にある經驗を敢てすることによつて、自分を增益しなければならぬからである。

 自分は映畫の機械的方面に就て何も知らない。併し自分もそれを知ることは近い中にあるだらう。自分は撮影と監督の位置は知つてゐる。しかもその撮影と監督の位置に立つたことはない。また映畫の歷史的な現象を諳《そら》んじてゐる譯ではない。唯、何處までも素人としての熱烈さを有ち、素人としてもどれほど彼が映畫を理解してゐるか、その理解は一文藝家の批評ばかりではなく、他の凡ゆる同じい素人階級の理解であるといふ點に力を置きたいのである。凡ゆる素人こそ其批評的なものの正確さを持たねばならぬのだ。

 

 九 文藝映畫の製作

 

 文藝映畫は一般に面白く無いとされてゐる。その作品が古今に通じた大作品であるといふことですら、既に自分には感銘の稀薄な映畫を直覺し、求めて見る氣になれない。假令《たとひ》それを見るにしても到底原作的な手厚い感じを受ける事は滅多にない。最近に於ける「フアウスト」の上映ですら、原作の重厚、壯麗なる憂欝、歷史的な詩情を欠いてゐる以外、カメラの美しさ巧緻さが持つ機械的な効果を學び得たのみであり、到底「フアウスト」の大詩情を映畫化したものではなかつた。元より自分は初めからゲーテを見ることよりも、監督とカメラを見に行つたのであるから失望はしなかつたが、今更文藝作品を踏襲する映畫がその目的に於て、又自らその出發點に於て文藝作品と全然別途にあるものであることを知つた。文藝作品の神經的なリリシズムを追從することは映畫の進出を障害させるばかりでなく、監督の感情的自由を硬化させ約束的な拘泥と佶屈《きつくつ》を與へるのみだつた。さういふ事實は映畫の本格的な精神に害があつても益されるところは無い。

[やぶちゃん注:「佶屈」「詰屈」に同じ。堅苦しいこと。特に、芸術作品が堅苦しく、判り難いことを言う。]

「罪と罰」「カラマーソフの兄弟」「レ・ミゼラブル」「復活」「ポンペイ最後の日」等の映畫化は、その最も高い映畫目的の外のものであり、第二義的作品だつたことは云ふまでもない。吾吾の感銘さへも原作を卒讀した呼吸づまる靈魂と心理上の經驗を、これらの映畫の上に見ることのできなかつたのは、一つは「讀んで知つてゐた」ことであり「見て面白くなかつた」事實であつた。讀んだ時よりも見た時の方が、逈《はるか》に感銘の深かつたといふ經驗は、文藝映畫の場合に殆ど數へる位しかない。

 最近に上映された文藝風な接續をもつて相應の成績を上げたものは、「ウインダミヤ夫人の扇」「我若し王者なりせば」「椿姬」「カルメン」「ドン・フアン」「女優ナナ」等であらう。「ウインダミヤ夫人の扇」の成功の外は自分には感銘が淺かつた。しかも昨年度に於ける數十本の映畫の中の、文藝作品で上映されたものは是等の代表的なものの外、今度の「フアウスト」の上映くらゐであらう。奈何に文藝映畫の製作が其大衆的な產業方針と興行成績への危險性のあるものだかが、その製作數の少ない點に於ても明瞭に分ることである。作品の本筋と作者への藝術的良心への追從《ついしやう》は、その監督の手腕を鈍らせるばかりでなく、放射線風な映畫の大なる目的をも鈍らせるのだ。映畫はシナリオによらなければならぬといふよりも、映畫の人生を持つための天與の「速度」に據らねばならぬ。

 映畫的人生の沁みこみと、文藝による沁みこみとの比較は、映畫の沁みこみの脈搏的であるところの速度と同樣にそれ自身に直接性を持つてゐる。文藝の沁みこみは寧ろ時間的な落着きをもつて讀まれるのであるから、その速度の非機械的であることに於て既に反對してゐる。昨年中に我我に感銘を深くしたものの中で、一本の文藝映畫すら無かつたが、「陽氣な巴里子」「ヴアリヱテ」「帝國ホテル」「カルメン」「人罠」「ボー・ゼスト」「最後の人」「不良老年」「女心を誰か知る」等は映畫脚本として書き下ろされたものであり、根本から映畫の組織によつて書かれたものであつた。「暗黑街」もまたこれらの映畫であるべき約束のものだつた。それらには何等の文藝的な接觸もなく、その現實性は映畫の中にある人生からの現實性だつた。若し文藝作品が映畫に全部働きかけたら、映畫は少しも進むことができないであらう。その意味に於ける文藝映畫の製作は、一つに呪ふべき澁滯であらねばならない。あらゆる文藝映畫を超越してこそまことの「映畫」が存在し得るのである。

[やぶちゃん注:「ウインダミヤ夫人の扇」オスカー・ワイルドによって書かれた四幕の喜劇(現代は‘Lady Windermere's Fan, A Play About a Good Woman’)。一八九二年にロンドンのセント・ジェームズ劇場にて初演されたが、それを一九一六年にイギリスでフレッド・ポール(Fred Paul)が監督したサイレント映画。私は未見。

「陽氣な巴里子」「巴里子」は現代仮名遣「パリっこ」。現題は‘So This Is Paris’ で、アメリカ映画のサイレント・コメディ。一九二六年公開。監督はドイツ生まれで後にアメリカに移ったエルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch)。英文ウィキのこちらで全篇を視認出来る。私は未見。

「帝國ホテル」‘Hotel Imperial’。アメリカ映画。一九二六年公開。監督はフィンランド生まれのモーリッツ・スティルレル(Mauritz Stiller)。私は未見。

「人罠」‘Mantrap’。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。私は未見。

「不良老年」‘The Ace of Cads’。一九二六年のアメリカ映画。監督は第一作となったルーサー・ロイド(Luther Reed)。私は未見。

「女心を誰か知る」‘You Never Know Women’。アメリカ映画。一九二六年公開。監督はウィリアム・A・ウェルマン。私は未見。]

 

 十 ドロレス・デル・リオの足

 

「カルメン」に於けるラオル・ウオルシユは、徹底的にドロレス・デル・リオを適役に配演させた。彼女の中にある肉體的なものの隅隅、性的な表現に基づく凡ての建築的な應用を、ラオル・ウオルシユの腕の限りに示したといふより、より以上にデル・リオはその眞白な肩と腕とに就て、就中《なかんづく》足を以て美事に演技してゐた。足は伸べられ歪められ馴らされ、折りまげられ、媚をつくり嬌態(しな)をうつし、うすい糊のやうな光をふくんで絕えず行動し、流れてちからない時は柔かい餅のやうになつて橫《よこたは》つてゐた。そこに凡ゆる足が表現され且つ演技されてゐた。宿屋の食卓の上、街をゆく甃石《しきいし》の上、大雪のごとき大寢臺の上、馬車の上、そして折折大膽な大腿の露はれる肉體の瞬間的な行動、自分はラケル・メレエよりもエロテイシズムを、或はラケル・メレエ以上のカルメンを見た。ジエラルデン・フアラーの膨張した足、ポーラ・ネグリの大建築的な直角な足、そして彼女らが演技したカルメンよりも、デル・リオのその眼付の中にあるモナ・リザ風な神祕めいた感情的な一つの古典的表情が「カルメン」に助成し成功してゐることを感じた。

 凡ゆるカルメンが近代の神經と性格描寫に基づくより外に、もうカルメンの存在はなかつた。カルメンの中にある劣等な美と熱情とは、凡ゆる新しい解釋によつて爲されなければならない。又凡ゆるカルメンはオペラのカルメンでなく、凡ゆる街巷《がいかう》のカルメンでなければならない。野卑と淫賣との凡ゆる近代的な多情の要素をもつカルメン、自分はそこまでカルメンを見ることの當然さを感じてゐる。そしてデル・リオのカルメン風なカルメンに妙技を終始し得たのは、何處までも惜氣もない感情を搾り出したことにあつた。

 ヴイクター・マクラグレンの鬪牛士ルカも、その豪邁な頑固な性格がカルメンの媚態に據つて綻《ほぐ》れて行く經過を素直にあらはしてゐた。宿屋の場面に於て就中成功してゐた。ドン・アルヴアラードのドン・ホセの弱い線の中に、情熱的な屈辱は見ることはできるが、到底ドン・ホセの適役ではなかつた。情熱の鬪士としての展開はかういふ弱い韻律によつて爲されるものではない。――ともあれデル・リオのカルメンはその故意とらしくない藝風によつて扮し得たことは特筆すべきことであらう。

[やぶちゃん注:「カルメン」これは一九二七年公開のラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh)監督の‘The Loves of Carmen’。

「ドロレス・デル・リオ」(Dolores del Río 一九〇四年~一九八三年)メキシコ出身の女優。

「ラケル・メレエ」ブリュッセル生まれでフランスに帰化した私の好きな監督ジャック・フェデー(Jacques Feyder 一八八五年~一九四八年)が一九二六年に撮った‘Carmen’でカルメンを演じた、スペインの歌手で女優のラケル・メラー(Raquel Meller 一八八八年~一九六二年)。

「ポーラ・ネグリ」(Pola Negri 一八九七年~一九八七年)は前章に出たエルンスト・ルビッチが一九一八年に撮った‘Carmen’でカルメンを演じた女優。サイレント映画時代には妖艶なヴァンプ役として大スターとなった。ポーランド生まれでアメリカやドイツで活躍し、アメリカの市民権を取得し、テキサスで亡くなった。

「ヴイクター・マクラグレンの鬪牛士ルカ」(Victor McLaglen 一八八六年~一九五九年)は、ウォルシュ版「カルメンの愛」で仇役エスカミーロ(Escamillo:エスカミーリョ)を演じた。彼は元イギリスのボクサーからハリウッド俳優に転身した人物である。「ルカ」と言うのは、原作(ビゼーのオペラが種本としたフランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)のそれ)では「リュカス」(Lucas)という名であることによる。

「ドン・アルヴアラードのドン・ホセ」「カルメン」のヒーローであるドン・ホセ(Don José)をウォルシュ版で演じたアメリカの俳優ドン・アルバラード(Don Alvarado 一九〇四年~一九六七年)。]

 

 十一 クララ・ボウ論

 

 餅肌クララ・ボウ、

 野卑の美、

 白い蛙、

 蛙の紋章、

 肉體的ソプラノ、

 クリイム・チーズの容積、

 既に要求的な滿喫、

 裸の腕のマツス、

 計算と性格、惡巫山戲とコケツト、

 そして怜悧と惡こすい眼付、

 ジョージ・バンクロフトを與へよ、

 その巨大なる抱擁を抱へよ、

 餅肌クララ・ボウ、

 際物的なクララ・ボウ、

 甃石の上をゆくペングイン鳥、

 お腹はもう胎んでゐる、

 世界ぢう搜しても分らない父親、

 餅肌クララ・ボウ、

 益益肥えるクララ・ボウ、

 益益美しくなるクララ・ボウ、

 蹶飛《けと》ばしたくなるクララ・ボウ、

 文身《いれずみ》をしたくなるクララ・ボウ、

 餅肌クララ・ボウ、

 蹶飛ばしたくなるクララ・ボウ、

 間もなく剝製になるだらうクララ・ボウ。

[やぶちゃん注:「クララ・ボウ」(Clara Gordon Bow 一九〇五年~一九六五年)はアメリカのトーキー時代の人気女優。実際の前半生はかなり過酷であった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「マツス」mass。塊り。ボリュームのある感じを指す。

「コケツト」coquette(コォケェット)。あだっぽい女・男たらし。

「ジョージ・バンクロフト」「五」で既注。]

 

 十二 ブレノンとH・B・ワーナー

 

「ボー・ジエスト」の物語風なハーバート・ブレノンは、「ソレルと其の子」に極めて平凡な手法を試乘した。フアストシインに戰爭の一シインを點出したのは第一の失敗だつた。あれはロンドンの電車から降りるあたりから展開さるべきだ。妻の出發とソレルの歸宅との同じい時刻、ロンドンの骨董屋の主人の死と彼の就職到着との同時刻、子供らを二人まで負傷させた手法の繰り返し、それらの運命的なるものの自然との交換が突然であり手法の冴えを感ぜしめない。全篇小說風な平かな筋と味ひを引き締めるちからが足りないのだ。本味で行くむら氣と映畫臭を拔けようとする努力はわかるが、さういふ素晴しい本味はもつと新しいスタンバーグ以上の監督が出現しなければ行き着けないところである。ブレノンでは行けない。彼ができ得る限りの靜かな迫らない監督振りは目に見えるやうであるが、自分はその努力に注目はするけれど他の批評家のやうに斷じて取らない。

 この種の父性愛を取り扱つた通俗的なセンチメンタリズムを拔け切らうとしたところにブレノンの意識的な集中は窺へるが、そのため弛んだ間の拔けた平均性のない場面的の出來と不出來とに終つてしまつた。ソレルがトランクを負うて階段を上るところも古い。唯、唯、後に妻のドラが息子を誘うて料理店にゐる場面は、今までに見なかつたよいシインだつた。これはブレノンが川岸で息子と散步をしながら馬に乘らせるシインとともに、よい小說風な効果をもたらしてゐる。

 H・B・ワーナーのステイーヴン・ソレルはよく演技してゐた。久しく見なかつた快い澁好みの「面」をもつH・B・ワーナー、「面」そのものが既に哀愁をもつ彼にソレルが似合はないことは絕對になかつた。物靜かな監督への理解、「面」が運ぶ本筋的な流暢な彼に、父親としてのゆつたりした本格的な相貌をもち、飮み込みの早い彼の藝風に失敗のあらう筈はなかつた。感激のために後向きになつて壁に對《むか》うて泣くところもよかつた。ブレノンの描寫が持つ目立たない急所だつた。

「ソレルと其の子」は原作も失敗の作である。寧ろ壯烈な落着いたよい名譽ある失敗である。かういふ名譽を負うて立つところの、彼ハーバート・ブレノンを見ることは自分には寧ろ溫かい笑ひを漏らすことに近かつた。

[やぶちゃん注:「ボー・ジエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste:一九二六年公開)は、イギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)によって一九二四年に発表された冒険小説を元にしたアメリカのモノクロ・サイレントの戦争映画。監督はハーバート・ブレノン(Herbert Brenon)。ロナルド・チャールス・コールマン(Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリス生まれのハリウッド男優。名優として人気が高かった)が主人公ボー・ジェストを演じた。私はこれは未見だが、後の二度目の映画化(一九三九年・アメリカ)映画ウィリアム・A・ウェルマン監督で、ゲイリー・クーパー主演のそれは好きな一本である。

「ソレルと其の子」(Sorrell and Son)は、一九二七年のアメリカ合衆国のサイレント映画。当該ウィキによれば、『フィルムは長年にわたって消失したものとみなされていたが』、二〇〇四年と二〇〇六年にハリウッドにある(同英文ウィキで補正した)『アカデミー・フィルム・アーカイヴ』(Academy Film Archive)『によって修復版のプリントが上映された』とある。私は未見。主人ソレルはイギリスの俳優ヘンリー・バイロン・ワーナー(Henry Byron)が演じた。

「妻ドラ」ソレルの妻(Dora Sorrell)はスウェーデン生まれのアメリカ人女優でサイレント時代に人気を博したアンナ・クイレンティア・ニルソン(Anna Quirentia Nilsson 一八八八年~一九七四年)が演じた。彼女は英文ウィキによれば、一九〇七年に「アメリカで最も美しい女性」に選ばれている。]

 

 十三 スタンバーグの「陽炎の夢」に就て

 

 スタンバーグの「陽炎の夢」を見て、「救ひを求むる人人」「暗黑街」の同一作者と思はれない程、平凡な作だと思うたが、その手法上の辿辿しさに「救ひを求むる人人」の初初《ういうい》しさがあり、何か知ら「救ひを求むる人人」の素直さを髣髴させる優秀さがあつた。一つはスタンバーグに好意と眞卒さを感じてゐる自分は、彼の署名が無かつたら或は見落すかも知れなかつた程、何の變化の無いざらにある映畫のやうであつた。「救ひを求むる人人」が本格的な人生詩の肺俯を衝いたものとしたら、「陽炎の夢」は單なる草花詩のたはいない一篇であるかも知れなかつた。しかも此草花詩人風なスタンバーグに愛情をもつ自分は、當然辛辣であるべき批評的な眼目に於てすら、なほ一つの草花詩として「救ひを求むる人人」「暗黑街」の名監督的な冴えの陰に、微かに囁く抒情的な詩情を感ぜずに居られなかつた。「陽炎の夢」は彼として全きまでの失敗の作だつた。原作のアルデン・ブルツクスの「逃亡」を彼自身映畫化したことも、失敗の第一だつた。コンラツド・ネゲルもルネ・アドレも平常のやうに冱えた演技を窺せてゐなかつた。そしてスタンバーグ自身の緊張的な硬化性が自分に影響してゐた。「救ひを求むる人人」の古今に絕する作の完成後の彼として、又さういふ名篇と聲望とを贏《か》ち得た彼として固くなることも否めなかつた。彼の此一篇を以て問はうとした眞實な人生への欲求は、やはり彼の踏む人生以外のものではないが、どの役者も何かいぢけ何かおどおどしてゐた。スタンバーグの呼吸づかひは不幸にも彼自身の昂奮だけに停まり、彼ら俳優に感電的なリズムを刺し貫かなかつた。

 併し自分は此映畫に對する感情には初めから「信賴」と「好意」が優しく感じられてゐた。葬ひの場面の送葬者の列、人形と椅子、狂人扱ひにされたプラツドが少時《しばらく》動かないでゐた非映畫なポーズ、ジプシイの馬車の毀れた板の隙間から、女の圓い大腿が見える着換へを暗示させる一場面、ジプシイ女とプラツドとが草原の上で語り合ふ時の平凡な常態、――ラストの二人が肩を組んでうしろを見せる場面で、自分は映畫的センチメンタリズムの刺戟と作用によつて、何とも言はれぬ「救ひを求むる人人」の最後の光景を呼び起すのだつた。僅かな一例ではあるが送葬の穴掘りの男が、長い弔辭朗讀に苛苛してゐる樣子が何等の動作や表情なしに、唯立つてゐるだけで表現されてゐた。さういふ失敗の中にある美事な部分的な冴えと完成とは、解體して見たら他の映畫と較べものにならない程効果的なことは勿論である。

[やぶちゃん注:「陽炎の夢」「陽炎」は「かげろふ」と訓じておく。サイレント映画。原題は‘The Exquisite Sinner’(「絶妙の罪人」)で一九二六年公開。主役ドミニク・プラッド(Dominique Prad)役はアメリカの俳優コンラッド・ネーゲル(Conrad Nagel)が演じた。私は未見。

『アルデン・ブルツクスの「逃亡」』アメリカの作家アルデン・ブルックス(Alden Brooks 一八八二年~一九六四年)の‘Escape’。一九二四年作。

「ルネ・アドレ」ジプシー(ロマ)のメイドのシルダ役はフランス出身のハリウッド女優ルネ・アドレー(Renée Adorée 一八九八 年~一九三三年)が演じた。]

 

 十四 一場面の「聖畫」

 

「マザー・マクリー」は曾て同樣の母性愛を說いた「オーバー・ゼ・ヒル」の如き効果を擧げてゐない。寧ろ通俗的悲劇愚に近い作品であらう。併し自分はそのベル・ベネツトの母親が或富豪の床の上を拭いてゐて、不圖赤兒の泣聲を聽いてそのドアの中へ這入り、床に坐り乍ら赤兒を宥《なだ》め賺《すか》す場面を見て、忽ちにしてマンテニア風な、大《おほい》なるクラシツクを感じた。床拭きとして頰冠《ほほかむり》のやうな頭巾をかむつたベル・ベネツトはもはや自分には單なる現世の一女優としてのベル・ベネツトではなかつた。優しいマンテニアの畫面に漲る恍惚、からだの白い柔《やさ》しい聖畫的な母性の接觸、翼の生えた大なるクラシツクの母親だつた。

 ジヨン・フオードの手法も寧ろ弛《たる》んだものだつたが、床拭きの一場面だけは奈何なる映畫の中にもなかつた生新な好場面であつた。自分はかういふ聖畫風な或は天上から辷《すべ》り落ちた一頁、ジョン・フオードも豫期しないであらう同時に生新で古風な一枚の生きてゐる繪畫が、自分の胸を閉《とざ》し頭にあるマンテニアを生《いか》してくれたことは喜ばしい限りだつた。ベル・ベネツトの靜かで豐かな稍間伸びのした演技も、手堅さの窺はれるフオードの手法と共に渾一した氣持を自分に與へた。そして自分は凡ゆる映畫を見ないで輕蔑してはならぬ事、かういふ一場面の「聖畫」の現世に於て見られ得ることは、映畫それのもつ世界の微妙な作用でなければならなかつた。漫然と見過すことのできない一場面の、その驚くべき効果は或意味に於て不易の「古代」を形づくるに充分だつたからである。

[やぶちゃん注:「マザー・マクリー」(Mother Machree)は名匠ジョン・フォード(John Ford 一八九四年~一九七三年)の一九二八年公開のサイレント映画。なお、ウィキの「ジョン・フォード」によれば、『ジョン・ウェインがノンクレジットの脇役でしたが、フォードの作品に出演した初の作品』であり、なんと、『ウェインはこの映画で小道具係も』務めたとある。

「マンテニア」壮大な着想と厳格な写実で、北イタリア・ルネサンスを代表する画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年~一五〇六年)。凄絶な構図で描かれた代表作「死せるキリスト」(Cristo morto)でよく知られる。イタリア語の彼のウィキその画像をリンクさせておく。

「ベル・ベネツト」女主人公マザー・マクリー(本名はEllen McHugh(エレン・マクヒュー))を演じたアメリカの女優ベル・ベネット(Belle Bennett 一八九一年~一九三二年)。]

 

 十五 ポーラ・ネグリ

 

 ポーラ・ネグリは幅と大きさに於てエミイル・ヤニングス風なものを、その演技や風貌の中に持つてゐる。何よりも大寫しに効果のある肉體の量積、カメラに大膽な瞬きをしない瞳孔、冷たい風刺的な浮びやすい嘲笑、次第に蒼白になる表情の運動的なタイム、頰骨、割れてゐる巨大な眞白な背中、それらの中に粗大な美しい建築的な堂堂たる容姿は鳥渡《ちよつと》類のない「典型的」な、エミイル・ヤニングス風なものの多くを持つてゐる。

 グロリア・スワンソンの厭味のある誇張はネグリには洗はれてゐる。スワンソンの癖や垢は彼女を益益あくどくしてゐるが、ネグリにはさういふあくどさが無い。唯その肉體的容積が彼女を偶偶《たまたま》グロテスクな感じにはさせてゐるが、その諷刺ある冷笑をあれ程辛辣に現はし得る女優は當今少ないと言つていいであらう。その背中に至つは曾てのバムパイア女優ニタ・ナルデイを遙かに超えてゐる。しかもポーリン・フレデリツクのやうなヒステリツクの銳角な線は未だ貫いてゐない、その點彼女はまだ「中年女」になり切つてゐないと云つてよい。

 ネグリ物はネグリの演技的存在と同時に、どういふ主役にも餘り失敗してゐない、ヤニングス物が度外れな失敗をしてゐないと同樣な、濃厚な落着と危氣《あぶなげ》のない藝風によつて固められ表現されてゐるからである。「帝國ホテル」のネグリの厚みや、「鐵條網」の彼女、そして「罪に立つ女」のネグリの位置は、モーリス・ステイラーの靜かな常識的なまで正確なリアルな手腕で、彼女をおさへ、彼女の癖を消し試《た》めさうとし、その生地の中のヤサシイものを、母の愛情へ呼び出す努力によつて表現されてゐる。病人の額へまで夫の目前で接吻させるステイラーは、監督的な位置をそれが當然であるところの手法を潔く試みてゐる。殺しの場もよい、それらのネグリは殆ど完全なままで在來の藝風の集中され、秀れた極地の表現であつた。彼女をここまで纏め(よい意味で)上げたものは、やはり彼女の力倆ではあるが、モーリス・ステイラーの中のものが彼女に働きかけたことは、云ふまでもないことである。凡ゆる監督の光輝ある位置も亦此最大を約束してゐるのだ。監督の握り方の厚みによつて爲されるものそれ、役者に冴えて出る演技それでもあるのだ。

[やぶちゃん注:「ポーラ・ネグリ」(Pola Negri 一八九七年~一九八七年)はポーランド出身の女優。サイレント映画時代に活動し、妖艶なヴァンプ役で大スターとなった。当該ウィキによれば、『第一次世界大戦の終わり頃までには、ワルシャワで人気舞台女優となって』おり、一九二二『年にはハリウッドに招かれ』たとある。グーグル画像検索「Pola Negri」をリンクさせておく。

「グロリア・スワンソン」(Gloria Swanson 一八九九年~一九八三年)はシカゴ生まれのアメリカの女優。サイレント時代に活躍したが、一九五〇年のビリー・ワイルダー監督のヒット作「サンセット大通り」(‘Sunset Boulevard’)で、自身の影のような、サイレント時代の栄光を忘れられない往年の大女優を演じたのが忘れられない。

「バムパイア女優ニタ・ナルデイ」ニタ・ナルディ(Nita Naldi 一八九四年~一九六一年)はニューヨーク生まれの女優。サイレント期に最も成功したヴァンプ女優の一人。

「ポーリン・フレデリツク」ポーリン・フレデリツク(Pauline Frederick 一八八三年~一九三八年)はボストン生まれの舞台及び映画女優。

「鐵條網」‘Barbed Wire’ は一九二七年公開のモーリッツ・スティルレル(犀星の「モーリス・ステイラー」は同人物)の監督作品。サイレントの戦争絡みのラヴ・ロマンス映画。ヒロインのモナ・モロー(Mona Moreau)役をネグリが演じた。

「罪に立つ女」‘The Woman on Trial’は一九二七年公開の同じくスティルレルの監督作品。ネグリは主役のジュリー(Julie)を演じた。]

 

 十六 コンラット・ファイト

 

 自分は「或男の過去」のジヨージ・メルフオードに危氣は感じなかつたが、定石的な監督の布置には不滿足だつた。餘りに樂樂とこなしもし、餘りに作り物の感じだつた。

 コンラット・ファイトの立體的なポーズには、熱情も苦心も窺へなかつたけれど、フアイト特有の妙に演技的であり乍ら決して左うでない自然性、自然性の演技的同化ともいふべきものが何時も乍ら感じられた。彼は棒のやうに突つ立ち乍ら、澁い軟味を流暢に曳いてゐた。それは永い間スクリイン生活をした人でなければ、持ち合はせない自然な軟味《やはらかみ》であつた。「カリガリ」以來、「プラーグの大學生」まで彼は依然として棒のやうに突つ立ち、すこし俯向きがちの背後姿を見せた人である。肩、背中、首すぢの歷史的な吾吾の記憶を辿るとしても、彼は依然たる「うしろ向き」のフアイトであり、首を少し垂れた疲れを見せてゐるコンラツトであつた。澁い藝風が彼の持味となったのも當然であるかも知れない。

 ヤニングスの豪邁はまだ澁さには達してゐないが、フアイトの一應「憂欝」なそれ自身から出發してゐる藝風は特に「巧まう」とせず、演技的に執拗ではなく、又「熱」を見せてゐないところの餘りに沈着な、餘りに有りのままな普段着の動作を生活するフアイトであつた。「我若し王者なりせば」の慘忍な王に扮した時の物凄い彼の形相の中にも、依然として彼らしい沈着が、その焦燥の王者の中にあつた。しかもその時は彼は彼の立體的なポーズから離說してゐた。

 自分はフアイトの「うまさ」を見ようとしてゐたが、どういふ點でフアイトであり得るかに就て、自分は彼を刺し貫く眼光をもたねばならぬ努力を敢てしてゐた。併乍ら吾コンラツト・フアイトはゆつくりと大膽に、しかも妙に子供らしい憶憶しさのある步調でスクリインの中を步いてゐた。彼は決して監督を輕蔑も壓倒もしなかつた。ゲルマン風な眞面目な努力で押し通し、自分だけのものを自分らしく消化することによつて、すこし疲れた軟かい立體的なポーズを繰り返し、吾吾の歷史的な記憶の首すぢを少し垂れたフアイトであつた。自分はもう彼のうしろ向きの姿以外に、彼を見る必要はなかつた。「プラーグの大學生」の中の彼、生活をしないスクリインの幽靈だつた彼は、すくなくとも「或男の過去」の中ではともあれ生活的なものを生活することに存在してゐた。それはどう云ふ意味にもコンラツト・フアイトの顏さへ見れば、彼の溫和《おとな》しい象徵詩の分子を含む立體的な背後姿さへ見れば、我我は特に何事も言ひたくない妥協的な、彼への好意を支拂ふことに據つて批評の筆を擱《お》くであらう。それほど彼はスクリインの中の人、スクリインの中で衰ヘと老と疲れとを感じ併せてゐる人、もはや彼を烈しく鞭打つ必要のない人、そのフアイト風な顏さへ見せれば相應の効果を擧げることによつて、決して失敗を繰り返すことのない人であつた。彼自身古典的な演技記錄の上の或標準であり、生きてゐる立體的なポーズの骨董品であつた。

[やぶちゃん注:文中の「コンラット・ファイト」「コンラツト・フアイト」の混雑はママ。ここに出る映画作品は、初めて、殆んどが私の好きなものばかりである。

「コンラット・ファイト」コンラート・ファイト(Conrad Veidt 一八九三年~一九四三年)はドイツ出身の俳優であったが、ナチスを嫌悪し、一九四〇年代にハリウッドへ移住した。誰もが知っている作品では、名作「カサブランカ」(ハンガリー出身でハリウッドで活躍したマイケル・カーティス(Michael Curtiz)監督作品。一九四二年公開)で現地司令官であるドイツ空軍の悪玉シュトラッサー少佐(Major Heinrich Strasser)を演じた。

「或男の過去」‘A Man's Past’。以下のジョージ・メルフォードの監督になるサイレント映画。一九二七年。私は未見。

「ジヨージ・メルフオード」(George Melford 一八七七年~一九六一年)はアメリカの俳優・監督・プロデューサー。

「カリガリ」私の偏愛する革新的なドイツのサイレント映画「カリガリ博士」(Das Cabinet des Doktor Caligari:「カリガリ博士の箱」)。制作は一九一九年で、翌一九二〇年に公開された。監督は現在はポーランドのヴロツワフ生まれのロベルト・ヴィーネ(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)。当該ウィキによれば、本作は『一連のドイツ表現主義映画の中でも最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い作品である』とある。シュールレアリスム映画の濫觴と言ってもよいと私は感じている。

「プラーグの大學生」‘Der Student von Prag’。オーストリア生まれのヘンリック・ガレーン(Henrik Galeen 一八八一 年~一九四九年)の監督になる一九二六年のドイツのサイレント映画。私は大学時代に見、映画館から帰る足で本屋に行ってシナリオの訳本を買ったほどに、好きな作品である。主人公の学生バルドゥイン(Balduin)をファイトが演じた。「ファウスト」伝説を下敷きにしているが、実は一九一三年の同名のドイツ映画(監督はデンマーク生まれのステラン・ライ(Stellan Rye 一八八〇年~一九一四年))のリメイクである。

「憶憶しさ」ママ。この「憶」は「臆」の代用字であろう。気遅れがちな様子の意ととる。]

 

 十七 スタンバーグとチヤツプリン

 

 「サーカス」が上映されても些しの刺戟を感じなかつた自分は、第一週の公開の日には何故か見に行く氣になれなかつた。自分には解り切る位解つてゐたからである。彼の縁起の常套と情勢、後へも先へも出られない行詰りで呼吸を窒《つ》めてゐる彼、自分の殼を生涯低迷することしか知らない彼、中途で藝術的な自覺と天才的煽動の綱渡りをして、マンマと彼の喜劇的生活を生活したまでの、演技的舊時代の英雄。――

[やぶちゃん注:「サーカス」(The Circus)は、一九二八年に公開されたアメリカのサイレント映画。チャールズ・チャップリンが監督・脚本・演出・音楽・主演総てを務めた。公私ともに最も困難な時期の一作であるが、私はあのラストに限りない悲しみを感じた。但し、彼の諸作の中では、それほど高く評価はしない。]

 自分は「サーカス」を見て思はず笑はされ、他の看客も同じく雷の如く笑殺されてゐた。その間にチヤアリイ・チヤツプリンは二卷物時代の再描寫を臆面もなく繰り返してゐた。彼獨特のポーズヘの興味は自分を倦怠させ、嫌厭の欠呻《あくび》となり、寧ろ十年に近い今日迄最初の演技を打通《うちとほ》した彼の自信に今更ながら驚き、それをそのまま受け容れてゐるお人善しな我我に不愉快を感じた。我我は笑へない生活をしてゐる者ではない。唯我我は笑ふ時を、笑ふやうな事情を、笑はなければ居られぬものを時時感じることは事實である。心から笑つて見たい願望は疲勞した神經がこれを要求してゐる。我我はチヤアリイを見て笑ひ、「我」を離れて久振りで笑ひ、さうしてチヤアリイに別れて館を出たあとに、笑ひの滓《かす》の如きものすら頭に殘らなかつた。「サーカス」の中の人生をかかる强い絃《げん》が、一本も頭に餘韻をつたへなかつた。凡そチヤアリイほどの頭に殘らないものの甚しいものはなかつた。映畫的な新聞紙を演技する彼ではない。併しながら自分の頭の中には「ソレルと其の子」の如き失敗の作の中にあつたものすら感銘しなかつた。

「ゴールド・ラツシユ」や「キツド」の悌《おもかげ》よりも一層古色蒼然たる「綟子の戾り」かけた彼、手法の困憊《こんぱい》と疲勞、疲勞以上の絕望的な衰退期、――喝采と拍手との中に、彼の運命をも暗示する拍手が交つてゐることは、聰明であるべき彼の特に心付いてゐることであらう。

[やぶちゃん注:「綟子《もぢ》の戾り」「綟子(もぢ(もじ))は麻糸で織った目の粗い布を指す。夏衣・蚊帳などに用いるものだが、どうもそれでは意味が通らない。「ウエッジ文庫」もそのままでルビもないが、どう考えてもおかしい。思うに、これは「戾り」という表現から「捩子」の誤字ではあるまいか? 「螺子」、「捩じる・捻じる」から「捩子・捻子」とも書く、「ねじ」である。

「ゴールド・ラツシユ」通常、本邦では「黄金狂時代」(The Gold Rush)と邦題する。一九二五年製作で、チャップリンが監督・脚本・主演を務めた喜劇映画。文句なしの彼の傑作の一つ。

「キツド」(The Kid)は一九二一年公開のサイレント映画。彼が監督・脚本・主演(サウンド版では音楽も担当)を務めた。やはり名作である。]

 只彼の中に知りたいものは彼が在來の作品から、どれだけ身をかはしたかといふ事、どれだけの速度で轉換期的な演技上の新鮮を表現し得たかといふ事である。チヤアリイ・チヤツプリンは昔のままの彼であり、昔のままの氣の好い子供對手のチヤツプリンであり、遂に今日の吾吾の「失笑」を盛り返すだけのものは、どういふ意味にも彼は最早持合さなかつた。凡ゆる天才の常軌的な行動は彼の上にもその勢ひを揮ひ、今日の我我に通用する映畫的なレツテルは最早我我には興味がなかつた。彼は「時代」をその演技の獨特な世界に於て嚥《の》み下してゐた。併し彼の嚥み込んだ「時代」の年號は正しく千九百二十年前後だつた。併乍ら此天才の莫大なる信憑に據れば千九百二十年の年代と、千九百二十七年の年代との間に、何等の急速度な精神的な時代の變貌がなかつた。變貌ばかりではない、此時代に特に欠くことのできない「心理」すら彼が幾度とない再描寫的の繰り返しに過ぎなかつた。これは他の俳優ならば兎も角、彼の場合見逃すことのできない僞瞞[やぶちゃん注:ママ。「欺瞞」の慣用誤字。]に近い狹い藝風であつた。

 自分は曾て名俳優であるよりも、寧ろ名監督であることを何等かの機會を得て述べて置いたが、實際彼の俳優として演技の絕頂時である「ゴールド・ラツシユ」と「サーカス」と較べて見て、彼は再び新しく立つの彼でないことを手痛く感じた。比較的輕快とされた道化の行動さへも、今は到底莫迦莫迦しくて見るべくもない。それは持味とするには餘りに常套的な持味である。假に文藝作品に於て彼が踏襲するところの再描寫が繰り返されるとしたら、殆ど再讀するに堪へない惡趣味を强制するであらう。

 自分は「サーカス」を見た後に、何となく「巴里の女性」を想起した。彼が監督の位置のみでなく自ら演技しなければ居れぬ氣持は解るが、何故俳優の位置を放棄することに依つて彼の手腕の中にある「監督」的な、鮮明な腦髓を思ふさま振はないであらうか。それは永い間俳優としての彼の最も思ひ切りの惡い困難な放棄に違ひない。併し今日の「サーカス」一篇が「巴里の女性」への人生的な効果と表現美を擧げてゐないことは、誰しも氣の付くことである。「喜劇」が彼の中に丸め込まれてゐる間、世界の喜劇が成長しないといふ譯ではないが、その澁滯した停止線を彼が持つてゐることは事實である。同時に凡ゆる喜劇は不用意な運命と機會との命令によつて生じ、最初からそれに目的されたものに誠の喜劇的條件は有り得ても、その喜劇の爛熟は有り得ないと同樣である。自分は俳優としての彼に何等の將來を感じない。尠《すくな》くとも永い間踏襲したあれらの惡趣味な娛樂の媚に甘えた彼から「飛出さない」限り、自分は遂に何等の期待をも感じ得ない。

[やぶちゃん注:「巴里の女性」(A Woman of Paris)はチャップリンが監督・脚本・製作を務めた、一九二三年公開の長編サイレント映画。私はこの一篇は見ていない。当該ウィキによれば、特異的にチャップリン自身は『駅の場面で荷運び人として一瞬カメオ出演しているのみである。この出演はあまりにも目立たないものであるため、クレジットすらされていない。この映画を見たほとんどの人は、それがチャップリンだと気付かなかったが、それこそチャップリンが実際に意図したことだった』。そうして、『また、もう一つの他のチャップリン映画との大きな違いは、本作が喜劇ではなく、シリアスなドラマである点である』とある。シノプシスはそちらを見られたい。]

 自分はチヤアリイ・チヤツプリンとスタンバーグとの距離、時代、睨み、速度、構へ等に就て當然比較さるべきものを感じた。「救ひを求むる人人」一卷を携へて彼を訪ねたスタンバーグは、もはや無名の何處へ行つても買手の無かつた時代のスタンバーグではなかつた。チヤアリイは無名の彼を認め彼に力を盡した。彼の「救ひを求むる人人」を世に紹介したのもチヤアリイだつた。スタンバーグの手腕に驚嘆と讃同と激勵とを與へたものもチヤアリイだつた。或はチヤアリイが居なかつたらスタンバーグの世に出ることは、今少し位は遲れてゐたであらう。スタンバーグに取つて大家であるチヤアリイの懇切さは、絕大な喜びであつたに違ひない。

 併乍らスタンバーグは昨日のスタンバーグではなかつた。「暗黑街」を持つて立つた彼の周圍には敵手のないまでに鮮かな出現の地位を贏《か》ち得てゐた。彼の目的されたものの精神には妥協の過程を踏むことはなかつた。決して顧みることなき人生派の詩人の踏み出しを敢行し明日と其明後日へ働きかけてゐることは「暗黑街」を評價した折に述べたところであるが、チヤアリイは此間に造花に似た本物に近い一本のばらの花を、伺時までも振り廻してゐるとしか思はれなかつた。回想と昨日の眞實に跼蹐《きよくせき》してゐる彼の身悶えは、結局チヤアリイを疲勞させ澁滯させ、出口のないところに趁《お》ひ詰めてゐた。彼が「サーカス」の鏡の間に追ひ込まれたのは、何と皮肉な彼への、出口のない昏惑と行詰りを意味し運命と自然との何と快い折檻であることか、――全く彼は鏡の間に於ける八方に映る彼を見きはめ、その幻影的な囘想的な抒情詩への拒絕を以て立たなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「彼は鏡の間に於ける八方に映る彼を見きはめ」映画「サーカス」で、チャーリー演ずる主人公が警察に追われ、見世物小屋に逃げ込み、ミラー・ハウスに入ってしまって迷うシークエンスを皮肉に使った謂い。当該ウィキに、その画像がある。]

 チヤアリイの神經は間伸びがしてゐる。スタンバーグは今の時代にピツタリと身を寄せ、身を寄せることに依つて全神經の銳どさ新しさに立脚してゐる。併し何とチヤアリイは時代から離れた胡散《うさん》な顏付をしてゐることだらう。彼は彼をさヘ胡魔化してでもゐるやうな古色蒼然たる「サーカス」の中に、ハロルド・ロイドの調子を繰り返してゐる、自分は綱渡りの中にも彼の姿を見たに過ぎない。

[やぶちゃん注:「ハロルド・ロイド」(Harold Lloyd 一八九三年~一九七一年)はアメリカのコメディアン。一九二〇年代のバスター・キートン(Buster Keaton 一八九五年~一九六六年)とチャールズ・チャップリンとともに活躍したサイレント映画の喜劇王の一人。]

 ともあれ一代のチヤアリイ・チヤツプリンと雖も、もう時代遲れであることは疑へない。これ以上彼と步調尾《を》を揃へる「時代」は世界中に滅びてもゐるし、彼の演技に於て既に亡びかかつてゐる。彼に望《のぞみ》をかけることは最早監督としての彼の外の物ではない。「サーカス」の場面への檢討と嚴格な批評では、到底彼の未來を暗示し物語るものはない。自分は彼の「サーカス」を二年間の沈默の後の作品などといふ、いい加減な胡魔化しと曖昧な常套的な手法でマヤかされることは、彼の爲にもしないつもりである。

 ハロルド・ロイドやダグラスやデニーの喜劇的な世界に於て、チヤアリイが唯一の「蒼白さ」を持つてゐたことは曾て自分の說いたところである。彼が人生の中の「蒼白さ」を喜劇の中にこもらした事、決して喜劇が喜劇で停《とど》まらないところの、彼らしい悲喜劇的な人生構圖も自分は認めるものである。過去に於る凡ゆる喜劇俳優の中に最も意識的な彼であり、最も徹底した喜劇が悲劇に代辯すべき程度にまでの高揚を敢て演技したものも彼である。併乍ら彼を說くことは何よりも未來を釋明することでなく、過去を計算するところの最早記錄的な「數字」でしか無いのである。

[やぶちゃん注:犀星のチャップリンへのこの時点での以上のそれは、超辛口の批判である。戦後まで生きた犀星(昭和三七(一九六二)年三月二十六日:肺癌・満七十二)に、その後のチャップリンの映画について感想を聴き、この嘗つてのチャップリンへの引退勧告のような記事をどうするか、聴いてみたいものである。

 

 十八 コールマンとマンジウ

 

 アドルフ・マンジウは何時も短篇と小品の中に、彼一流の演技をこなしてゐる。新しくも古くもない、氣の利いた持味で充分に行動してゐる。「セレナーデ」の彼は最近にない好技の潤ひを出してゐた。

 ハリー・ダラストの鮮かな韻律は、マンジウを隨所に引締めてゐた。最初の貸間を見に行くところ、グレツチエンが夜の石段に腰かけてゐたところ、その以前の植木に水を遣つてゐるところもよかつた。――マンジウのフランツが夜遊びから更けて歸つて來て、臂《ひぢ》をタオルで拭いて女の口紅がタオルに殘るところも、强い韻律的な表現であつた。ともあれ妙に小品風な、或型を起すことに秀《ひいで》てゐる彼は、行くところに小さい締つた成功をしてゐた。ダラストの手際も纏つた冴えを見せてゐる。「婦人に給仕」程の冒險は無いが、文字通りの「セレナーデ」風な、纏つた作品である。

 ロナルド・コールマンとマンジウとは好一對のスタイルを持ち、どちらも些かアメリカ臭を脫してゐる點が、自分に好ましさを與へてゐる。コールマンには妙な憂愁味があり、藝風は地味な行方をし、マンジウは派手で「派手の澁味」を出さうとしてゐる。彼等の孰方《いづかた》も澁味へ落着く俳優にちがひない、あれらの演技的極北は到底澁味以外に落着くところがないからである。彼はねらふこと無くして自然に澁味に辿り着くであらう。演技といふものは結局幅の問題ではなく、奧行の問題に過ぎない。マンジウの時には喜劇的なポーズの中には、西洋人のハイカラがあり贅澤があり、それらに向く「面」を持つてゐる。コールマンのハイカラと妙な高踏風なポーズには、弱い憂愁的な抒情詩が窺へないでもない。彼らは殆ど好みに合はないアメリカ物の俳優の中、僅《わづか》に自分の好きな俳優である。

[やぶちゃん注:「セレナーデ」‘Serenade’。一九二七年制作。監督はアルゼンチンのブエノスアイレス生まれでハリウッドに移住したハリー・ダバディ・ダラスト(Harry d'Abbadie d'Arrast 一八九七 年~一九六八年)。主役のフランツ・ロッシ(Franz Rossi)をマンジューが演じた。但し、このフィルムは現存していない。]

 

 十九 大河内傳次郞氏の形相

 

 或晚劍劇を看て初めて大河内傳次郞の物凄い形相を見て、靜かな陋居《ろうきよ》にかへつた後にも、彼の形相が記憶力の減退と空想の衰弱した頭に百年の夢魔の如くに絡《まと》はり殘つて安らかな夢さへ結べなかつた。しかも劇中牢舍の中で一武士が退屈の餘りから考へついて、自分の肢體の陰影を操り乍ら犬や狐や狼の形をあらはしてゐる凄慘な光景が永い間自分を惱ました。

 犬河内物は其後二度ばかり見て、彼も阪東妻三郞の如く世に出るだけのものは、どういふ意味に於いても持つてゐることに感心した。惡どい峰のやうな形相も摸倣や熟練によつて表現されるものではない。彼もまた何百年かの祖先から約束され壓《お》し出され、その昔から殘つてゐた形相《ぎやうさう》を偶然に持ち合してゐるからである。歌舞伎劇なぞのやうな生優しいものではなく、いつも形相の銳どさが把握する力だけを手賴る劍劇では、僕等に於けるペンを把《と》る右の手よりも大切であらう。此意味に於てロン・チエニイよりもその形相に於ては夥しい創造をもつてゐることを疑へぬ。阪東氏は餘裕を置いてゐるが彼は絕えず一杯に當つてゐるやうである。尠くとも一杯の力で當る程度に見せるといふことが、それ自身形相から來る感じや幅が左う見せる爲かも知れない。自分は餘り舊劇以外のものは見てゐないが、舊劇による背景の築地《ついぢ》や橋梁や往還や土手や白壁や寺院には、ふしぎに百年以上の或光景ををさめ得てゐることは、不思議とすれば稀有のことである。「時代の摸倣」はその劇中人物よりも舊劇に取つては、就中肝要なことはその背景の重要なる表出であり、そのものによる時代の古色蒼然を髣髴することに於て、渾然たる成功を得るであらう。

[やぶちゃん注:「大河内傳次郞」(明治三一(一八九八)年~昭和三七(一九六二)年:福岡生まれ)は後の阪妻とともに数少ない私の好きな日本の俳優である。一番好きなのは、黒澤明の「虎の尾を踏む男達」(一九五二年)の弁慶である。「姿三四郎」(一九四三年)の矢野正五郎も忘れ難い。私は日本映画はあまり好まないので、ここで犀星が見た作品が何であるかは判らない。

「阪東妻三郞」(明治三四(一九〇一)年~昭和二八(一九五三)年)は東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の生まれ。歌舞伎修行から大正八(一九一九)年に国際活映のエキストラに出演したのが、映画界入りの最初。何と言っても! 何をおいても! 「無法松の一生」が一番! 昭和一八(一九四三)年十月公開。大映の製作で、監督は稲垣浩、脚本は伊丹万作。しかし、戦時の内務省の検閲で松五郎が、親しくしていた陸軍大尉の故吉岡小太郎の未亡人よし子に密かな愛情を告白する部分、それに纏わる回想シークエンスなどが検閲で削除され、戦後になってからもGHQによって軍国主義的と誤解され、一部が削除されるという二重の裁断を余儀なくされた不幸な作品である。また、「よし子」を演じた園井恵子(大正二(一九一三)年~昭和二〇(一九四五)年八月二十一日)は岩手県出身で宝塚音楽歌劇学校卒。しかし、所属していた移動劇団「櫻隊(さくらたい)」が、当時、活動の拠点としていた広島市で、八月六日の原子爆弾投下に遭い、半月後の同月二十一日、原爆症により、三十二歳で亡くなっている。特に「黒澤組」の宮川一夫の撮影が素敵で、特に終盤近くの小倉祇園太鼓の「乱れ打ち」に乗って沸き立つ雲をカット・バックするシークエンスは凄いぞ!

 

 二十 伊藤大輔氏の「高田の馬場」

 

 伊藤大輔氏の「高田の馬場」は大河内傳次郞氏を生かしてゐる。神經的な銳どさ尖りを持つ大河内氏の安兵衞は、最後の井戸水を浴びるところ、手紙を繙讀《はんどく》するところ、飯を食ふところ、江戸市中を彷徨するところ等に最も適當な効果を擧げてゐた。伊藤氏の手法もかつちりと鍔鳴りを感じさせる程度の手堅さがあつた。

 浪宅に於《おけ》る同じい朝と夕方のシインの再描寫に、或効果を豫想してゐる伊藤氏は此點寧ろ愛すべき稺氣《ちき》があつた。ああいふ場面の繰り返し、(多少ポーズとデテエルの變化は見たが、)は危險な失敗を見ることが多い。それを遣つて退《の》けたのはいいが、失敗は立派な失敗だつた。もう一つお勘婆さんの馬場へ馳けつける大向《おほむかう》を豫期した手法も、むしろ無駄な插話的な失敗だつた。安兵衞の長長しい驅つこも、効果の少ない徒勞に近いものだつた。興行的方面の喝采からも、かういふ陳套《ちんたう》な幾度か繰り返された場面は省略すべきであつた。浪士の江戶市中を彷徨するあたりに目立たない場面の變化を試みたところに、地味な鮮かさが印影されてゐた。それらのリズムの一見變化の無いやうに見える「變化」は、殊に矢場や矢場のある附近の光景に多かつた。伊藤氏の試乘的なものに絕えず努力の跡の窺はれるのは、何よりも自分を快適にした。

 大河内傳次郞氏には度たび論及したが、何時かの「彌次喜多」何何いふ天下の愚を集めた映畫の中に彼を見た時ほど、腹立しいことはなかつた。何故ああいふ映畫に妥協するのか、自分は大河内氏の大成を信じなければならない、それ故ああいふ愚昧主義の安價な妥協に攻勢を取らなければならない、――いい加減な映畫にいい加減な演技を揮ふことは、それだけの場面的な惡い馴致《じゆんち》が恐ろしい、未來の演技的な高さへまで影響もし、又その妥協への卑俗性がダニのやうに憑《つ》き纏ふのだ。凡ゆる俳優の陷穽《かんせい》的惰勢は何時もここから呪はれて行くのである。大河内氏よ、伊藤氏とよりよく取組め。そして第一流から辷り落るな、決して妥協するなかれ、これは貴君を愛する一人の看客の聲であることを忘れるな、貴君を愛することに於て熱情をもつものの聲を、絕えず貴君は背後に感じ演技し行動しなければならない。

[やぶちゃん注:『伊藤大輔氏の「高田の馬場」』「血煙高田の馬場」(昭和二(一九二八)年・日活)の中山安兵衛役を大河内が演じた。監督伊藤大輔(明治三一(一八九八)年~ 昭和五六(一九八一)年)は時代劇映画の基礎を作った名監督の一人で、「時代劇の父」とも呼ばれる。部分的にネット上の動画を見たが、私は多分、見ていない。

『何時かの「彌次喜多」何何』は日活のコメディ時代劇シリーズ「弥次㐂多」の三作で喜多役を演じた。「弥次喜多 尊王の巻」(昭和二(一九二七)年)・「弥次喜多 韋駄天の巻」(昭和三(一九二八)年)・「弥次喜多 伏見鳥羽の巻」(前と同年)である。]

 

 廿一 詩情と映畫

 

 映畫に詩情のないものは稀である。だが映畫に誠の詩情を見ることも極めて稀である。監督の詩情的な試乘は却《かへつ》て映畫をだれたものにし、甘いものとする以外、餘り成功した例しがないようである。

 最近に自分は「最後の命令」「暗黑街」「シヨウ・ダウン」等の諸作にその演技を揮うてゐるエヴリン・ブレントに、並並ならぬ牽引を感じ、人生詩の薀奧《うんおう》を味ひ感じた。リリアン・ギツシユやメイ・マレーに墮落した美の常踏者であつた自分は、メイ・マツカーボーイの餘韻ある美に心惹れた。それは品と雅とを兼ねた溫和な美しさであつた。美の中にある詩情は勿論常識的ではあつたが、皮膚に音樂的な恍惚と滑かさとが現れてゐた。彼女に最も豐なものは「そよかぜ」の頰を過ぎる優しいタツチの美である。刺戟を含まず、自分等の心に柔らかくなよなよして來る感じであつた。決してリア・デ・プテイの如き銳い肢體を摩擦される如き感覺ではない、リア・デ・プテイの特徴は彼女の中にはないが、彼女の呼吸づかひは文字通りの「花」を感ぜしめるやうである。

 エヴリン・ブレントの美はマツカヴオイやリア・デ・プテイの如き表面的なものではない。彼女の美は直接自分らの心理的接觸を敢てして來る、性格美であり個的な、類型のない冷かな美しさである。稀にはその美の中に酷《むご》たらしい冷却された失笑が苦汁のやうに滴つてゐる。「最後の命令」の中のスパイに扮した彼女が窓際から街路を見下すところがある。冷かな動かない表情が窓枠を其儘額緣に塡《は》め込み、一枚の生きてゐる「寫眞」のやうに見せてゐた。自分は蒼白に近い彼女の冷酷な表情の中に、刺し貫いてゐる烈しい人生詩の美を感じた。それは自分等の心に疼いて來る美であり、蜂のやうに刺してくる美の針のやうなものである。「暗黑街」のブレントは辿辿《たどたど》しい初初しさがあり、「最後の命令」の中の女ほどコナれてゐなかつた。しかしスパイとしてのブレントは最早長足に進步もし、突き込む氣力を演技の端端に表してゐた。自分は何となくリア・デ・プテイを想起し、その白痴的な美を囘顧しながら、ブレントの中にある氷のやうな美を手摑みにしながら、自分の飢ゑをしのいでゐたのである、全く自分は永い間ブレントのやうな美に飢ゑ餓ゑてゐた。ああいふ美は自分を烈しい矢のやうな銳角さで影響して來るのであつた。

 凡ゆる女優の美の中で最も恐るべきものは、派手な甘い常套的な美であつた。過去に於るアメリカ型の美は寧ろ低級な、性欲に擦《さす》りを與へる單なる標準美であるに過ぎなかつた。これらの美は映畫の本質に融和すべきものではあつたが、何等の藝術的な一流の本質美を築き上げるものではなかつた。女優に於る美が映畫を通俗と藝術との間に低迷させることは事實である。エヴリン・ブレントの通俗化はどういふ意味にも行はれることではない。冷嚴の中に謎を含んだ人生詩の内容は、ブレントの表情の中に橫溢してゐるばかりでなく、それらを統《す》べてゐる寂莫《じやくまく》の情は限りなく美しい。寂莫の情を圍繞《ゐねう》するものはブレントの冷たいキビシサである。自分の心に疼《うす》いて來る美も、又かういふ美の外のものではない。スタンバーグが生かした詩的精神は決して失敗してゐない。立派な搖がない焦點に効果を上げてゐる。或意味に於て最近に詩情ある映畫詩は、エヴリン・ブレントの中に僅かにあると言つてよい、恐らく今後に於るブレントの演技と藝風及びその性格的な把握は、益益銳どい人生詩の眞の姿や其接觸を示すであらう、決して彼女ごときは輩出する女優の中に求められない「珍しい」女優であるに違ひない。

 映畫の巾にある詩及び詩情は、寧ろ監督の意識的表現であるよりも、何よりも我我高級な達者な達眼者のみ看客が發見する「詩」でなければならない。我我が映畫の中に見る詩は決していい加減な監督や女優の意圖ではなく、吾吾の中にある詩や詩情が彼らの中のものを發見し、呼應もするのである。第一流の看客は同時に又監督級の立場、精神、考究、把握の諸式を持ち、そこに行ふ批判も自らその竣烈《しゆんれつ》であるべき、當然の權利を持つ者をいふのであらう。

[やぶちゃん注:「最後の命令」‘The Last Command’ (一九二八年)はスターンバーグが監督したサイレント映画。エミール・ジャニングス主演。彼は翌一九二九年、この映画と前に出たフレミング監督の「肉体の道」での演技でアカデミー主演男優賞を受賞している。neco-chats氏のブログ「監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」1928年」で全篇の動画を見ることができ、「映画の中の映画」という入れ子になった興味深いストーリーのシノプシスもよく説明されてある。必見。エヴリン・ブレントはナタリー・ダブロワ(Natalie "Natacha" Dabrova)役を演じている。犀星が言うシーンは3135以降にある。

「シヨウ・ダウン」‘The Showdown’(一九二八年)はアメリカの作曲家で映画監督でもあったヴィクター・シャーツィンガー(Victor Schertzinger 一八八八年~一九四一年)監督作品で、ヒロイン役のシビル・シェルトン(Sibyl Shelton)役をイヴリンが演じた。

「リリアン・ギツシユ」アメリカの女優リリアン・ギッシュ(Lillian Gish 一八九三年~一九九三年)は、サイレント時代を代表する映画スターで、「国民の創生」(‘The Birth of a Nation’)・「イントレランス」(‘Intolerance’)などで知られるデヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith 一八七五年~一九四八年)監督の作品で、清純可憐な役柄を演じたことで知られ、「アメリカ映画のファーストレディ(The first Lady of American cinema)」と呼ばれた。

「メイ・マレー」(Mae Murray 一八八五年~一九六五年)アメリカのサイレント映画の女優。ニューヨーク出身。ダンスの名手として人気を誇った。

「メイ・マツカーボーイ」メイ・マカヴォイ(May McAvoy 一八九九年~一九八四年)はアメリカのサイレント映画の女優。知れれた作品では、「ジャズ・シンガー」(‘The Jazz Singer’:一九二七年)のヒロインのメアリー・デール(Mary Dale)役がある。最終章で、彼女について犀星は語っているので、ここでグーグル画像検索「May McAvoy」をリンクさせておく。

 エヴリン・ブレントの美はマツカヴオイやリア・デ・プテイの如き表面的なものではない。彼女の美は直接自分らの心理的接觸を敢てして來る、性格美であり個的な、類型のない冷かな美しさである。稀にはその美の中に酷《むご》たらしい冷却された失笑が苦汁のやうに滴つてゐる。「最後の命令」の中のスパイに扮した彼女が窓際から街路を見下すところがある。冷かな動かない表情が窓枠を其儘額緣に塡《は》め込み、一枚の生きてゐる「寫眞」のやうに見せてゐた。自分は蒼白に近い彼女の冷酷な表情の中に、刺し貫いてゐる烈しい人生詩の美を感じた。それは自分等の心に疼いて來る美であり、蜂のやうに刺してくる美の針のやうなものである。「暗黑街」のブレントは辿辿《たどたど》しい初初しさがあり、「最後の命令」の中の女ほどコナれてゐなかつた。しかしスパイとしてのブレントは最早長足に進步もし、突き込む氣力を演技の端端に表してゐた。自分は何となくリア・デ・プテイを想起し、その白痴的な美を囘顧しながら、ブレントの中にある氷のやうな美を手摑みにしながら、自分の飢ゑをしのいでゐたのである、全く自分は永い間ブレントのやうな美に飢ゑ餓ゑてゐた。ああいふ美は自分を烈しい矢のやうな銳角さで影響して來るのであつた。

 凡ゆる女優の美の中で最も恐るべきものは、派手な甘い常套的な美であつた。過去に於るアメリカ型の美は寧ろ低級な、性欲に擦《さす》りを與へる單なる標準美であるに過ぎなかつた。これらの美は映畫の本質に融和すべきものではあつたが、何等の藝術的な一流の本質美を築き上げるものではなかつた。女優に於る美が映畫を通俗と藝術との間に低迷させることは事實である。エヴリン・ブレントの通俗化はどういふ意味にも行はれることではない。冷嚴の中に謎を含んだ人生詩の内容は、ブレントの表情の中に橫溢してゐるばかりでなく、それらを統《す》べてゐる寂莫《じやくまく》の情は限りなく美しい。寂莫の情を圍繞《ゐねう》するものはブレントの冷たいキビシサである。自分の心に疼《うす》いて來る美も、又かういふ美の外のものではない。スタンバーグが生かした詩的精神は決して失敗してゐない。立派な搖がない焦點に効果を上げてゐる。或意味に於て最近に詩情ある映畫詩は、エヴリン・ブレントの中に僅かにあると言つてよい、恐らく今後に於るブレントの演技と藝風及びその

「峻烈」非常に厳しいこと。]

 

 廿二 「十字路」

 

 自分は武藏野館に「在りし日」を見る爲例によつて時間を聞き合せて出掛けたが、「十字路」は既に映寫を終つたところであつた。自分に「十字路」を見る氣持は些しも動いてゐなかつた。「十字路」ばかりではない。自分の信じることのできない作品は一切見ないことにしてゐたからである。

 自分の近くの動坂松竹館に「十字路」が上映され、自分は散步しながら何か「十字路」に氣持が動いてゐた。客の少數《すくな》い晝間の上映時間を聞き合せ、その翌日自分は「十字路」を見たのである。自分は眩しい午後三時過ぎの外光の中を自宅へ歸りながら、稀《めづら》しく昂奮を感じ、その昂奮の中に自分が「十字路」を武藏野で見なかつた頑固さと後悔を感じた。自分は日本の映畫にもつと打込んだ素直さを持つべきであることを染染《しみじみ》感じた。さういふ自分に「十字路」は徹頭徹尾苦しい作品であつた。衣笠貞之助氏の作に苦しむ氣持が影響し、その影響はこれ程まで苦吟してゐる男がゐたかといふ、その良心が自分を感動させた。かういふ良心的な力一杯の作は自分には稀に見る感激であつた。

 自分は衣笠貞之助氏の中にあるエロテシズムの不徹底も、リアリズムの非感情的であることも、演劇的であることによる非寫實的な統一も感じてゐたが、彼の「心臟」は尠くとも全卷的に自分へも鼓動してゐた。此鼓動は到底日本で得られるものではない。伊藤大輔氏の或種の表現にはそれがあつたが、自分の見た衣笠氏の中のものは日本で初めてであつた。尠くとも彼の鼓動は自分につたはり自分はよき編輯者がよき作家を發見した時に感じる、その喜びさへ感じた。自分はストロハイムやスタンバーグをも、「十字路」に見ないことはなかつた。殊に「救ひを求むる人人」の影響も感じないではなかつた。併乍らそれは批評を目標とする自分の病癖だとしても、「十字路」は明瞭に凡ゆる現代の映畫的なるものの上の第一流を勇敢に押切つてゐた。かういふ良心、苦吟狀態を續けてゐるものは賤商の徒の夢にも知らぬところであつたらう。

 誇張に過ぎた時代的な大味は兎もすると、厭味を交へてゐたが、千早晶子氏の姉と、矢場の女に扮する小川雪子氏との對照、十手を拾つた男の相馬一平氏の性格描寫の中には、衣笠氏の試乘的な成功は疑ひなかつた。殊に千早晶子氏は自分は初めて見る人であるが、危ない初初しい、齒ぎれのよくない演技の中に「姉」を感じさせるものが充分にあつた。一場面に賣られた女が一人坐つてゐるところがあり、すぐカツトしてあつたが印象はよかつた。矢場の光景はくどくどしく、失明昏倒の描寫的な種種な手法ももつと簡潔を肝要とすべきであらう。矢場女の小川雪子氏のそれらしい嗤笑《しせう》も、充分な呼應を監督との間に共鳴してゐた。

 テムポは甚しく不統一ではあつたが、これ程に仕上の利いたことは、夜の撮影ではあり苦衷は充分に外面ににじみ出てゐる。ともすると暗きに過ぎることは何か演劇的な構圖へ吾吾の神經を誘はないでもなかつたが、苦しい作品として自分を感動させたことは稀しいことである。かういふ作の上で苦しむ人も今のところ日本に數ある譯ではない。

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年に公開された悲劇的時代劇映画でサイレント。監督・脚本は衣笠貞之助(明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。衣笠映画聨盟制作。私は大学一年になった昭和七五(一九七五)年に、岩波ホールでエキプ・ド・シネマ主催によって同監督の「狂つた一頁」(大正一五(一九二六)年に公開された日本初の本格的なアヴァンギャルド映画。サイレント。主演は井上正夫。衣笠が横光利一や川端康成などの新感覚派の文学者と結成した新感覚派映画聯盟の第一回作品)とともに、このサウンド版の特別上映を観た。後者には激しい衝撃を受け、「十字路」も近代の悲惨小説を思わせるそれが、デフォルメと不思議に強烈なリアリズムとともに、古さを感じさせないもので、私の乏しい日本映画の数少ない中で、孰れもベスト作品であり続けている名品である。

「千早晶子」(明治四一(一九〇八)年~?)は大阪生まれの女優。昭和一一(一九三六)年に出演作品の多くを監督した衣笠貞之助と結婚している。

「小川雪子」詳細事績不詳。

「相馬一平」後に芸名を高勢實乘(たかせみのる 明治三〇(一八九七)年~昭和二二(一九四七)年)と変えた時代劇俳優。北海道函館生まれ。後に喜劇役者としても知られるようになった。]

 

 廿三 エキストラガールの魅惑

 

 名もないエキストラガールは一秒間乃至五秒間位で、その畫面から消えてしまふ。消えたが最後自分達が生涯の間に再び見る機會のない最早「過去」の娘達である。女給仕、女中、或群衆の中の一人、步道の通行人としての凡ゆるエキストラガールの新鮮な美しさは、自分が既往に見た混沌たる映畫的人生の中に、今も鮮かな驚く程の美しさを殘してゐる。恰《あたか》も自分等が電車や散步の途中などで行き會うた美しい女人の感銘が、何時の間にか記憶の中に滅びてゐるに拘らず、或日の或感覺的想念の中に生生《いきいき》と考へ浮んでくるのと同樣の感じである。

 エキストラガールは布面の三秒間のために一週間もスタジオに通ふことは人人の知るところであるが、その三秒間のために彼女等の演技や藝術がないとは云へない。尠くとも自分のこれ迄に見た多くのエキストラガールは、全くその顏や動作には甚しい辿辿しい幼稺《えうち》なところはあつたが、しかもその選拔された美しさは映畫の上の「作つた」美しさではなく、全くの美人の生地をそのままに顯した美しさであつた。

[やぶちゃん注:「布面」スクリーンのことだが、読みが判らぬ。「ふめん」か「ぬのめん」か。]

 街路を步む彼女は通行人の消えやすい魅惑を持つてゐた。その「新鮮」さは却つてスターのそれには見難いが、女給仕や女中としての彼女等の一秒間の名もない演技に顯れてゐた。ドアから廊下へ消えて行く彼女のすがすがしい容姿は、それだけで私の覺えのアートペエパーの中に「魅惑」の一女性として殘つてゐるのである。

 エキストラガールは一の映畫を刺繡する以外にも、効果を擧げてゐることを忘れてはならぬ。エキストラガールの選拔は最も重要な急所であり、その插話的感銘は常に新しいフアンの心臟にほくろのやうに殘つてゐる。四五年前に或競賣臺の上で女奴隷を賣る場面を見たことがあつたが、その折の女奴隷に扮したエキストラガールは悉く乳房を露出し、有繫《さすが》に顏は見えぬやうに寫されてゐた。自分は其時は何か知ら切なげな彼女等に同情した。人魚の眞似をする場面には同情できないが、エキストラガールとしての最も苦痛以上な乳房の露出は、自分の最高級の德にも影響をたらしたことは事實であつた。

[やぶちゃん注:この当時、映画のエキストラの女性に一章を割いた犀星に対し、大いに賞賛を揚げるものである。]

 

 廿四 リア・デ・プテイ

 

 自分はキヤメラの中にひた押しに進む氣持を感じる。あらゆる銳角な、寸刻も惑はないキヤメラの中に犇犇《ひしひし》と挾り立てて行く氣持の烈しさを感じる。自分はリア・デ・プテイの肉顏の中に白痴のやうな美しさを見た。彼女がアメリカ人でなかつた故かも知れない。「曲藝團」の親方に射竦《いすく》められた時の肉顏の驚きの表情には、彼女もデユ・ポンも知らないでゐた「白痴」の美しさがあつた。處女の驚きは同時に「白痴」の驚きに外ならないものである。

 キヤメラマンの呼吸《いき》づかひ、速度以上の速度、すぐ消える音樂以上に迅《はや》い表情、捕捉しがたい夢、自分は自分の中にあるものと戰ひながら、「彼女」等を見、又經驗するたびに殊にリア・デ・プテイの中にある「白痴」に喝采し拍手した。惡魔のごとく自分は喝采した。自分はカラマーゾフのミーチアの心理を一應經驗した位だつた。

 自分はあらゆる映畫の好シーン、好き觸覺に身を委ねるごとに、餓鬼のごとく正直に戰慄をし、又餓鬼のごとく貪り啖《くら》ふのが常であつた。同時にあらゆるフアンの中にある「餓鬼の相」をも兼ねてゐた。リア・デ・プテイの表情にある「白痴」、それに相對《あひむか》ふ私の性情にある「白痴」、あらゆる女の所有(も)[やぶちゃん注:二字への一字ルビ。]つものであり同時にあらゆる女の中に抹殺されようとしてゐる「白痴」、又あらゆるクララ・ボウ式女性の中にある「白痴的近代」、女が白痴の心性に陷沒乃至その傾向をもつ時の魅惑、聰明と相隣り合ふ白痴の美しさ惑《まど》はしさは、不思議にリア・デ・プテイに對ふ私に快よき苦痛を與へたのである。

 

 廿五 メイ・マツカヴオイの脂肪に就て

 

 脂肪ある女の肉顏は大槪の場合その色は白い。脂肪それが皮膚に潤澤を與へ、顏の厚みと深みを組み立てるに力があるからである。勿論脂肪があつても色の黑い女はあるが、それは稀有のことで脂肪ある肉顏には快い微かな張のあるつやを持つてゐて、鼻なぞは寧ろなまなましい美しさに疼いてゐる。メイ・マツカヴオイの美はそれらの脂肪が適度に調和されてゐた。ウヰンダミヤ夫人としての彼女の容姿は、取りも直さず脂肪の音樂的交響を暗示するものであつた。ウヰンダミヤ夫人としての「脂肪」に品もあり或銳い男を撥くものも同時に共有してゐた。ヴイルマ・バンキーの「脂肪」は彼女のそれよりも若いが、その「鼻」に働きかけてゐる微妙な美しい些細な脂肪の練り方は、その型のアメリカ風であるに拘らず、寧ろ英國風なスタイルに近い現代アメリカ型の絕頂を裝ひ盡したものであり、メイ・マツカヴオイと双壁の「鼻」の美を所有してゐる。これらの比較ではペテイ・ブロンソンの子供らしい併し脂肪なき、かすかな貧弱な絕望的な「鼻」を思ひ併せる時、やはりウヰンダミヤ夫人として彼女は適當な配役的構圖中の人物であらう。

[やぶちゃん注:メイ・マカヴォイは既注。そちらで挙げてあるが、再度、グーグル画像検索「May McAvoy」をリンクさせておく。

「ヴイルマ・バンキー」ヴィルマ・バンキー(Vilma Bánky 一九〇一年~一九九一年)はハンガリー系アメリカ人の無声映画女優。彼女の英文ウィキはこちら。また、グーグル画像検索「Vilma Bánky」をリンクさせておく。]

 映畫中の女優の美は本來の肉顏の美に加へられた映畫的人生の諸相からも、それからの境涯的美の變遷からも本物より以上に美しく吾吾の視神經を刺戟するのである。吾吾の萎《しな》びた紙屑的ロマンスが甦生《そせい》するのも亦さういふ時である。畫面に一肉顏としてのみ寫るマツカヴオイの皮膚には、白粉《おしろい》をしのぐ脂肪のつやを自分等に感知せしめる。又彼女等の鼻のかげが頰の上にうつる或咄嗟の美しさは、その鼻を如實に寫すところの脂肪それ自身の潤澤が左うさせることを見遁してはならない。我我が凡ゆる畫面に立つ彼女等の二重美に刺戟されるのは、小說的女性美が人生の濾過的條件の下に說明される美であるやうに、映畫的人生が溶解し又加へるところの彼女らの「二重美」であらう。エルンスト・ルビツチが彼女の中に高雅な脂肪を見遁さなかつたのは同時に彼の中にあるウヰンダミヤ夫人の空想を攝取したものに違ひなからう。ノーマ・タルマツヂは白い兎の圖のやうな年增脂肪をもつてゐる。自分はポーリン・フレデリツクに較べ年增《としま》の强烈さと反對の「靜かな」脂肪を感じるのであるが、此二人の女性はアメリカの末期的脂肪を代表したものに外ならない。野卑と粗雜、チーズとベエコンの混血兒であるクララ・ボウの肉顏には、脂肪の野蠻性、それの活勤や混亂、血液的モダンの初潮、同時に彼女の脂肪は月經と同樣の働きを營むところのものであらう。彼女の脂肪がどういふ意味にもマツカヴオイのそれと同時代のものであることは考へられない。或はそこにクララ・ボウの立場があるとしなければならないが、ベエコン式脂肪はそれ破裂するか、若くは墮落するかの二つであらう。脂肪はそれの靜寂を營むことにより漸く「その人」をつくり上げてゆくからである。メイ・マツカヴオイの品と高雅、その輪廓正しく美しい鼻、それらに過度に行き亘つてゐるところの脂肪の微妙さは、同時に脂肪それ自身が營むところの美しさであらう。彼女やヴイルマ・バンキーの肉顏の輝く所以のものは、自分の說く「脂肪」が第一義的女性美を輪廓づけ、肉づけることにより彼女らの美を釋《と》く自說と一致するのである。

[やぶちゃん注:「エルンスト・ルビツチが彼女の中に高雅な脂肪を見遁さなかつた」よく判らないが、データを調べるに、ルビッチの一九二四年公開の「三人の女性」(‘Three Women’)で、主役級のジーニー ウィルトン(Jeanne Wilton)役に当てたことを指すか。

「ノーマ・タルマツヂ」ノーマ・タルマッジ(Norma Talmadge 一八九四年~一九五七年)はニュージャージー州生まれの映画女優。]

2022/08/05

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「文藝時評」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 月評家を弔す」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   文藝時評

 

 

 一 月評家を弔す

 

 往昔の文壇的事故のうちで、凡ゆる月評家はその批評の目的を達することに於て輕蔑されてゐた。卑小、狹慮、仲間褒め、下賤、乳臭、それらの標語は月評家が四方から受ける非難の聲であり、その流れ矢は或は彼等の致命傷となつて彼等の姿を一時沒落させた位だつた。凡そ月評家たらんとするものは徐ろに殺氣立たねばならず、殺氣立つた後に凡ゆる辻斬野盜の類にまで成り下らねばならなかつた。事實彼等は辻斬試斬後掛け拔打ちの外、正面から鯉口を切つた譯ではなかつた。それ故か彼等は此卑しい月評家的糊口を以て、充分に完膚なきまでに輕蔑された。往昔の月評家は例令《たとへ》その動機が辻斬の黨であつたにせよ、一脈の純粹さが無いではなかつた。しかも彼等はその目的を達することに於て敬遠され卑小視せられ、或者は悶悶たる客氣《かくき》を擁《いだ》いて空しく陋巷に飢ゑねばならなかつた。

[やぶちゃん注:「客氣」血気。]

 凡ゆる月評家達は或は勇敢に討死した。死屍の累累たる彼方に作家達は悠然として殘存してゐるのも、彼等にはどうする事もできない存在だつた。彼等の野武士風な好みも其眞向からの遣《やつ》つけ主義もみな攻勢的殺氣のわざだつた。斯くて若い文壇の野武士は次第に討死をした。凡ゆる卑しい汚名の月評の中にある一つの眞實な確證さへも、冷笑の中に封じられて終つた。誰一人として月評家風の業蹟、その仕事の跡を想ふ者とては無かつた。事實彼等のその一行の文章の跡さへも書籍の上に偲ぶことが出來なかつた。名もない犧牲のあとは徒らに文藝の王城を取卷く雜草を肥すばかりだつた。

 そして今自分の立つところの茫茫たる雜草の中から見る文藝的王城に、その一人づつの果し合ひから何物かを取らねばならない。彼等を讀破することによつて自分から「批評」なるものを引摺り出さなければならない。一人づつの手腕と力量とを知らねばならない。降參する時は降參せねばならない。打込む隙は遁すことのできない果し合ひをせねばならない。凡ゆる末路悲しい月評家風な憎しみと不愉快な的にもなり、またそれ故の月評家風な討死をせねばならない。誰一人として囘顧する者もない路傍の死屍となつた凡ゆる過去の月評家のやうに、自分もまた同じい命運の跡を殘さねばならないであらう。彼等を葬《とむら》ふところの自分の立場をも知らねばなず、――啾啾《しうしう》の聲の怨府《ゑんぷ》のうめき聲より、自分は彼らを弔はねばならぬ。そのやくざな碌でなしの墓碑の上にも春花を抛打《なげう》つて遣らねばならぬ。斯くて名譽ある併し結局は討死をする此仕事に就くであらう。

[やぶちゃん注:「啾啾」小声でしくしくと泣くさま。

「怨府」人々の怨(うら)みの集まる所。]

 

 二 肉體と作品

 

  瀧井孝作氏の「父來たる」(改造四月號)の素材は、曾て彼の最も讀者への親しみを繫いでゐる「父親」物の内の一篇である。かういふ素材と讀者との感情的關係は、それだからと言つて身邊小說の非難の的にはならない。却つて隔《はな》れた親しみの密度を感じない素材よりも、我我はどれだけ此素材への親しみを感じるか分らない。身邊的な心境消息の本體は、凡ゆる小說の骨格を爲すものであり、讀者へ生みつける關係は到底出駄羅目《でたらめ》な設計された人生の、放射線風な描寫なぞの比較ではない。五年十年といふ風に作者にも重要な人生であり得るものは、五年後七年後の讀者にも作者を知る爲に重要な人生であつて、決して假定された罐詰的人生の展開ではない。心境小說に非難の聲の起つた昨今にこそ、心境小說への睨みを强調しそれを趁《お》ひ詰めることにより、心境小說經驗者の最後の榮光を擔ふべきであらう。

[やぶちゃん注:「父來たる」昭和三(一九二八)年四月号『改造』発表。私は未読。]

 瀧井氏の描寫の中の辿辿《たどたど》しさ、素朴さ、舌足らずの吃吃《きつきつ》たる勢調、石屋が石の面を落す時の細かい用心を敢てする寧ろ木彫的な接觸は、漸く志賀氏等の文體を突破し完全に「瀧井孝作」へ塡《はま》り込んでゐることは、一讀者としての自分に小さい安心を與へた。彼の如き鈍重な肉體的なねばり氣で押してゆく種類のものは、どういふ場合にも失敗することは尠いものである。何故かといへばその肉體的な壓力の手重《ておも》さは、彼自身に問題を執るよりも今の新銳であるための驕怠の輩に眞似のできないことだからである。新進であるための恐るべき後の日の豫測的な頽廢時期を知り、新進であるための忘失されやすい恭愼の心を約束する彼の立場は、又一文人としての持すべき眞實な傲岸な態度を保つてゐた。尠くともそれは近時の新進氣銳の作家の中に稀に見ることであり、自分の快敵とする抑抑の所以であつた。

[やぶちゃん注:「吃吃」滑らかでないさま。

「手重さ」「容易でないさま」、或いは、「扱いが丁寧であるさま」。私は、あまり彼の小説を読んでいないが(自由律俳句はさわに読んでいる)、ここは後者であろう。]

「父來たる」の描寫力は一行あての叩き込みであり、田舍者の素朴さに溶かれた銳い「氣持」風な疊み込みの仕上げだつた。停車場で半日を待つ彼の氣永さよりも、その氣永さを押し伸べる彼も一種の「力の人」に外ならなかつた。「無限抱擁」の中にある鈍重な行爲とその氣質のネバリは、遂に一批評家の筆端をも煩はさなかつたが、特異な位置、特異な作品としての此一書物を自分は愛讀した。何より彼が俳人として文體にその描写の力を得てゐるといふことは、到底市井の一下馬評に過ぎない。

[やぶちゃん注:「無限抱擁」大正一〇(一九二一)年から同十三年にかけて、『新小説』『改造』などに発表した四篇を昭和二(一九二七)年に合はせて発表した長編私小説の恋愛物。私は若い時に中途で投げ出したまま、完読していない。]

 彼の持つジワジワした味ひが年月とともに硬くなりはしないか、ジワジワがよい意味の皺になればよいが肉體的な皺になりはしないか、皺の中に垢がたまりはしないか、これらの不安はないでもないが、彼は體力的にこの皺をよく用ひ艶を含ませ「瀧井孝作」をこの種の固まつた一作家に膠着させてはならぬ。

 

 三 芥川、志賀、里見氏等の斷想

 

 芥川龍之介、志賀直哉、里見弴氏等は各《おのおの》名文家である。斟くとも芥川氏は凡ゆる大正時代の描寫の最極北、描寫的な文章上の最も著しい標本であつた。その氣質の銳さに依つて從來の文章的な皮の幾枚かを剝脫し、古い明治年代の文章の上に彼自身の「皮」を張り付け是を入念に硏ぎ澄《すま》した人だつた。この年代に芥川氏ほどの「皮」を示した文學者は他にもあつたけれど、彼ほど丹念な磨きの中に精進する文學者は極めて稀だつた。彼にはいい加減の「加減」さへ分らぬ淫文家だつた。打込みは一字づつであり、一行づつの杜撰な打込ではなかつた。それ故か、彼は不思議にその文章上の苦吟に後代への「虹」を豫感してゐたもののごとく、氣質上の鑄刻的な薄命さは、顧みて又首肯《うなづ》けるところが無いでもなかつた。

 

 芥川氏の生涯の敵は志賀直哉氏の外に、何人の光背も認めなかつた。志賀氏の中に拔身を提げて這入る芥川氏の引返しには、甚しい疲勞の痕があり容顏蒼みを帶びる辟易があつた。彼の生涯の中に最も壯烈な精神的に戰ひを挑む時は、何時も志賀直哉氏を檢討することだつた。生地で行き、ハダカ身で行く志賀氏は彼の持つ「皮」の下にもう一枚ある、薄い卵黃を保つ皮のやうなものを持つてゐた。芥川氏はそれの一瞥を經驗するごとに彼自身の皮を磨くことを怠らなかつた。志賀氏は素手だつたけれど、芥川氏は何か手に持たなければ行けなかつた。彼等はその描寫の上で斯の如く斷然別れてゐた。そして彼は大正年間の描寫風な文章の型を何人よりも的確に築き上げ、これを兼て彼自身が常に總身に負ひ乍ら感じてゐたものの一つである「後代」へその八卷の全集を叩きつけて去つたも同樣であつた。

[やぶちゃん注:「八卷の全集」最初の「芥川龍之介全集」(通称「元版」)岩波書店から昭和二(一九一七)年十一月から昭和四年二月までに全八巻が刊行された。但し、犀星のこの章は昭和三年のもので、全巻発売にはまだ至っていなかった。しかし、実は室生犀星自身が編集委員の一人であったので、かく書けるわけである。而して、「芥川龍之介全集」の宣伝にも一躍かっている手前味噌でもあるのである。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 志賀直哉氏の文章の中にある「時代」はふしぎに芥川氏よりも、直接的な長命と新しさを共有してゐた。單なる新しさであるよりも以上に氣持風だつた。氣持の接觸だつた。言葉よりも頭のヒラメキを感じ美に肉感があつた。かういふ文學は凡ゆる大正年代の「文學」に於て試みられた最初のもの、その文學的な耕土の掘返しの一人者だつた。その「氣持」の掘下げは直ちに巧みに卽刻に利用され踏臺にされ、凡ゆる文學的な靑年のもつ文章に作用された。その速度ある作用は彼自身さへ知らぬ間に、美事な次への文學的な下地への吸入を敢て爲されてゐた。もうそれは志賀直哉氏のものであるよりも次の時代のものに違ひなかつた。自分は驚くべき大正年代の鏡のやうな縱斷面に、云ふまでもなく、名文家志賀直哉氏を見ることは、餘りに靜かすぎる光景であつた。その靜かさは芥川氏を圍繞《いねう》するものと同樣な靜かさだつた。

 里見弴氏も亦名文家に違ひない。芥川、志賀氏の正面的な少しもたぢろがないところの、ひた押しに迫るちからを里見氏は背負投げを食はして置いて、徐ろに彼はその巧みな餘裕のある小手先を示しこれを彼の文章の上に試みてゐた。彼のすべり、彼のなめらかさ、そして彼の最も特異な體を開いて見せる小手先、就中、彼の進んで碎けた分りのよい、鮮かさ過るほがらかさを、釣の名人か何かのやうにその糸を縱橫に投げ操つてゐた。芥川、志賀氏とは向きも姿も反對してゐたけれど、不思議な眞實を磨きあげるための描寫の中では、その蒼白い炎を上げてゐることも亦同樣な或名人型を築き上げてゐた。

[やぶちゃん注:「ほがらかさ」の傍点はママ。前の二つの傍点に徴するなら、「さ」にも傍点があるべきである。]

 彼等は日本に於て特記すべき名文家であり、文章と氣質と同樣に秤《はか》られ沁み込みを見せてゐる作家だつた。人生觀上の作家は他に求めねばならぬが、「描寫」の上に充分な記錄的存在としての三氏は、その三面相打つところの新しい「古今」を暗示してゐると言へるであらう。

 

 四 詩人出身の小說家

 

 今から七八年前に時の批評家だつた江口換氏は、自分の或一作を批評して「彼は人間を書くことを知らない。」と云つたことがあつた。自分は小癩な氣持を起して例に依つて聞き流してゐたが、事實彼の指摘する人間が書けてゐないことも、自分の胸に痞へなこともなかつた。彼のいふところは要するに詩人出の小說家が多く低迷する不用な輪廓描寫や、下らない草花や風景的な文章を抉《えぐ》り立てるところにあつた。又同時に各新聞の文藝欄に陣取る月評家等は、言合《いひあは》したやうに自分の小說がいかに詩人的であるために下らないかを品隲《ひんしつ》し、隙もなく自分の行手をふさいでゐた。併し自分は凡ゆる雜誌に腕の限り書き續けてゐるより外に、自分の力量を示すことができないやうな時代苦を經驗してゐた。自分は机にさへ對へば立ちどころに一篇の作を書くことができ、それを直ぐに叩きつけることに依つて些かも後悔を感じなかつた。此恐るべき文學的野性の中に荒唐な作をつづけた四五年の間、自分の詩は漸く衰弱し優雅な思ひは枯渴された。自分は豐かな肉を剝ぎ取られ骨だらけになつて殘存してゐた。江口換氏の所謂人間を書かずにゐて、詩的描寫のいい加減な眞向からの遣つけ仕事に親しんでゐたからだつた。

[やぶちゃん注:「品隲」品定め。]

 詩人出の作家の持つ病癖的な、胡魔化し小說といふより人生には不用な詩的描寫は、自分だけには亂次(だらし)のないものだつた。同時に詩人出小說家の八方の口は開いてゐて、何處を向いても彼の「一篇」は作ることのできるよう、多くの不用の詩や言葉や語彙や感覺を持ち合してゐた。又それ故に詩人出の小說家が飽かれること、本物の人生の眞中に行き着かないまでに沒落するのも、おもに此詩人的な素質上の濫用に原因してゐた。凡ゆる詩人出の小說家が一家を爲さない間に姿を匿し、或は滅亡するのも强ち詩人であるといふ境涯的な排斥ばかりではなかつた。詩的感情の利用から受ける輕蔑自身さへ、多くの文壇的な冷遇の所以を釀すものに近かつた。

 島崎藤村、佐藤春夫の二氏位を殘す外、詩人出に天下に地位を得てゐるものはなかつた。當然天下を二分する位に詩人出小說家の轡《くつわ》を駢《なら》ぶべき筈であるのに、殆ど寥寥《れうれう》二三氏を數へる位だつた。彼等がいかに多く詩人的であることに於て、奈何に小說家に不向きであるかが理解されるであらう。佐藤惣之助、千家元麿氏等の折折の勞作すら、殆ど凡ゆる小說的な片影さへ殘さずに沈湎《ちんめん》した。佐藤氏の「大調和」の二三の作すら決して感覺派の諸公に遲れるものではないが、作家運に惠まれない詩人出小說家の常として酬いられること皆無であつた。均しく彼等の素質的な江口換氏の指摘する「人間」を書く事をしない爲ではなからうか、さういふ江口換氏の評的の確證はともあれ、凡ゆる批評は同時に五六年の後にも猶振返つて肯定すべきものは肯定すべきであつた。月評家の須臾《しゆゆ》にして消失すべき運命的な仕事さへ、後に其作家に思當る光茫を曳くものである事も忘れてはならない。――

[やぶちゃん注:「寥寥」もの淋しいまでに数が少ないさま。

「沈湎」沈み溺れること。特に酒色に耽って荒んだ生活を送ること。

「大調和」雑誌名。佐藤春夫がよく投稿していた。

「須臾」現代仮名遣「しゅゆ」。「暫くの間」「ごく僅かな時間」の意の名詞。元は仏教用語でサンスクリット語の時間単位「ムフールタ」の漢訳。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 詩人出小說家である島崎藤村氏の近作、(女性四月号)は、どういふ方向にあつて彼は百年の大家であるかといふことを示してゐるか?――「草の言葉」一篇は島崎氏の老いたる感傷の結晶であり、冬の日の植物の心を彼自身に引當て、靜かに詩のごとく物語つたものに過ぎない。小品と銘を打たれてゐるが同時にこの老詩人の溜息を聞くやうなものである。島崎氏に於て初めてそれを公にし是を認められるであらうが、自分のごときさへ此種の文章を發表する氣がしない。かういふ寂しい氣持を盛るに何故に最つと島崎氏は人生的な織り込みを敢てしなかつたかを疑うてゐる。

[やぶちゃん注:「草の言葉」は不詳。「近作、(女性四月号)」と同一かどうかも知らぬ。「島崎藤村全集」には確かに入っていることは確認出来た。私は藤村は人間として大嫌いである。]

 

 五 時勢の窓

 

 雜誌の廢刊と圓本的墮落は新しく世に問はんとする作家に、その進路と行手を塞いで見せた。文壇への登龍門は大雜誌の光背に據る事ではなく、小刻みな雜誌によつて少しづつの聲名をつなぎ得ることに於て、漸くその名聲を小出しに羅列することすら肝要な時勢であつた。それ故新進的な湧くが如き光彩を見ることは無いであらう。新感覺と稱せられる作家等も少しづつ遲遲とした步みにより、今日の橫光利一氏、中河與一氏、片岡鐵兵氏等を爲したる外、岸田國士、岡田三郞、犬養健、稻垣足穗氏等と雖も、往年の既成作家の如き喝采の中に現れたものでない、新進の道、つねにあるが如く又その道展《ひら》けざるに似てゐるやうである。

 文藝の事たるや寧ろ小刻みな聲名による恭愼な進み方も、一擧にして表面に現れる事も其執れも惡くはないが、唯時勢は既に既成作家にすら生活的にも危機を、新進には曾て無かつた程の苛酷な試練を與へてゐる。それ故に今後新しい作家が輩出しても、或は往昔の古文人のごとき生活の苦節を敢て偲ばなければならないかも知れない。既に我我既成の徒にはその用意が出來、陋居に破垣を敢て結んでも、說を大衆に求めることも亦自らの立場を危くするものではない。未だ現れぬ新進もまた新緣の窓邊に己れを鍛へるために飢渴位は、平然として併し心で喰ひ止めて行くベき時であらう。 

 

 六 齋藤茂吉氏の隨筆

 

 歌人齋藤茂吉氏は或は文壇外の人であるかも知れぬ。文壇人であることはは齋藤氏の場合何か知ら當つてゐない、と言つても矢張り文壇の人以外ではないやうである。彼は唯作品で戰ふ文壇人でないだけで結局文壇の人であるかも知れないのである。木下杢太郞氏とともに文壇の埃や塵の外に職を持つてゐること、折折の西洋紀行の文章を發表してゐることに於て、啻《ただ》に茂吉氏が歌人でないことだけは解るやうである。

 

 昨春以來齋藤氏の滯歐紀行の數多い發表は、描寫力の素直さや洞察の銳どさに加へて、氣質上の鈍重な併も明るい壓力を自分は感じ、さういふ描寫の少ない文壇に稀に見るよい文章だと思うた。併も齋藤氏の描寫力はいつも明るい一面と又曇天的な風景に接すると同樣な鬱陶しさをも持つてゐた。銳どさは折折文章の下地に網の目のやうに針立つてゐたけれど、それは文章や描寫の上の企圖でさうなる職業的賣文の徒の談《かた》る銳どさではなかつた。氣質と肉體とが行動するごとに感じる、自然な素直な銳どさだつた。鈍重な人間のもつ深い銳どさだつた。「西洋羈旅小品」(中央公論四月號)の一篇の中にも、歌人齋藤茂吉の吟懷は啻に齋藤茂吉の吟懷に止まらずに、その描寫の底にある誠の相貌は、人生の本道へも交涉をもたらす手腕を美事に準備し且つ表現して餘すところがなかつた。山河水色に對する氏の感情はもはやそれらを自然的な獨立性のあるものとせずに、我我と同樣な感情的な位置へまで呼込んでゐることは、彼が歌人として「赤光」以來の秀拔の偉才を示してゐるものであるが、しかし彼は山河の相貌に單に同化作用を起してゐるものでなく、實に彼は淚ある山嶽の姿に接觸するまでの、それらの自然のもろさに抱かれてゐる氣持を經驗してゐる。かういふ感情の微妙以上の微妙さの中にある茂吉氏の描寫は天下の文章に對《むか》うて挑戰せずに靜に隔月位に發表され、識者にのみ愛讀されてゐるばかりである。かういふ秀れた文人の位置に自分は感激の言葉無きを得ない。

[やぶちゃん注:「西洋羈旅小品」「斎藤茂吉全集」(岩波書店版)の目次には見当たらない。不審。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 歌人齋藤茂吉氏が大正三年代に出現したことは、當時の歌壇を粉碎し根本から建て直した。併しそれにも勝る彼の目立たぬ文章の上の仕事は文壇の外側を靜に流れてはゐるが大河は自ら人の目にふれないでゐない、――それらの描寫には左顧右眄が無く、意識的な調和や作法やうまさを練ることなく、鈍重に尖銳な、細緻に粗大な、折折氣質上の明るい悒《いぶ》せき哀傷を沁み亘《わた》らせてゐる。時にある會話のうまさと美しさ、それは生きてゐることばをそのまま兩手にすくうて、そつと紙の上に置いたやうにまで自然な呼吸づかひを知つてゐる。不思議に文章に時代の匂や調べが査《しら》べられずに、十年後にも古くならないものを持つてゐる。歌人の臭みを帶びず、きざな氣取りが無く、しかも彫刻的であることに於て原始的な鑿《のみ》の冴えをもつてゐる。これを歌人の文章であるといふことに於て片付けることは、彼の何物をも知らぬ者であらう。事實に於て彼は歌人の境涯を拔け出てゐることは、描寫の確實な獨立性のある未來を證明してゐるからである。

 

 七 勞作の人

 

 德田秋聲氏の「日は照らせども」(文藝春秋四月號)を讀んで、何よりも事件の經過の上に、作者として凡ゆる手腕を盡せるものであることを知つた。その複雜な事件的な人生を澁滯なく押し開き、それに解決を與へないでゐるところ、凡ゆる父親の平凡性を一步も出ないでゐること、自ら處理し裁きを强調すること無きところ、尠くとも作品の上に何等の愚痴や口說きのあとがなく、白髮的な嚴霜《げんさう》を偲ばせる一父親の面目の窺はれるのは、讀者として自分の快く感じた所以だつた。

[やぶちゃん注:「日は照らせども」昭和三(一九二八)年四月発行の『文藝春秋』に発表された恋愛小説。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

「目は照らせども」の人生にはその素材の上で、もはや批評的なものの插人されない確實性を持つた作品である。かういふ人生の諸事件的な作品への斬り込みは、無理にその隙間へ鑿を入れてコヂ開けねばならぬ。さういふ俗流の批評は自分にはできない藝當である。このやうな作は若い人のためにどれだけ存在していいか分らぬ。この中に妙に人に敎へる描寫的な人生を物語り、且つ暗示してゐる。これは德田氏の中に持つものの德の一つの現れであらう。決して作品的な剌戟に據るものでなく、或親切な作品はかういふ風に書くべきであるといふ約《つ》ましい指導が、作者も意識せずに讀者はそれを何氣なく獨りで受入れ會得するやうである。作の一つも書かうと意圖する者、作家たり得る者へも此感情が働き繫がつて行くのは、他の作家には全然無いと言つてよい。作家として彼がかういふ位置にあることは、いかに彼が人生への直面的な原稿紙と彼との間に、隙間の無いことを證明するものに外ならないであらう。そして彼が何よりも小說の先生であることを否めない。彼が益益小說の先生であり得ることにより彼の實直な人生記述者である符牒を一層重い位置に押上げるであらう。

 

 昨今の文壇で活躍したのは、北村小松氏や片岡鐵兵氏、又かういふ僕自身でも無かつた。瘦魂《さうこん》よく世評に耐へ信ずるままに生活し、又數多くの勞作を爲し得た德田秋聲氏であつたらう。その人生に處するところの老骨は、彼が末期的の餘燼の中に眞率な正直過ぎる程の組立を敢てした。冷笑と漫罵の中に荒まずに一層愛すベきものを愛し、いそしむべき作を怠らなかつたのは、何と言つても「嚴霜」的であり、何處までも彼自身を以て遂に押し切つたことは美事な勇敢さであつた。數多くの作品の中にある尖りと不安とに震へてゐた愛情も、年を經て作に重要な美しさ素直さを發見されて行くであらう。例令、それが老境に點ぜられた一女性の兎角の事件であつたにせよ、包まず匿さず堂堂と寧ろ人間的なほどの發露を敢てしたことは、遂に彼の場合のみでなく一文學者としての最後の氣魄を示したことは、人目を忍ぶ老醜的痴情の多き現世に、正直なほど壯烈なる人生の最後の炎を上げたことはその作品の上に秀作を求め得られた點に於ても、我我は德田氏を先づ活躍した昨年の重なる人物としなければならぬ。

[やぶちゃん注:「北村小松」(明治三四(一九〇一)年~昭和三九(一九六四)年)は劇作家・小説家・脚本家。当該ウィキによれば、『青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校』『を経て』、『慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の』映画「マダムと女房」(昭和六(一九三一)年公開の日本初の本格的トーキー映画。五所平之助監督)など、『多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた』。「人物のゐる街の風景』(大正一五(一九二六)年)が『初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した』。また、他に翻訳もある。終戦の翌年、『公職追放を受けて活動停止追放処分とな』ったが、昭和二五(一九五〇)年に解除された、とある。]

 

 八 作家の死後に就て

 

 近松秋江氏の「遺言」(中央公論)の中には、綿綿たる子孫に對する露骨な一文學者の「遣言」的なものが書かれてゐる。かういふ内容は近松秋江氏ばかりでなく、尠くとも子供を持つてゐる作家の陰氣な午後の想念を悒《いぶ》せく曇らせて來るものである。此場合近松氏は最も己を語ることに情熱を多分に持つ饒舌家であり、その事に依つて他を憚るの人ではない。しかも憂慮や懸念の情が寧ろ敍情的な愚痴の形態を取つてゐるのは、その性質的なものの上に止むを得ないことであらうが、さういふ愚痴を愚痴ることによつて死後の「彼」自身を見ようとするのも、現世の苦勞人秋江氏が未來へ働きかける物哀しげな感情の吐息であらう。併乍ら最も壯烈な生活者としての凡ゆる俤《おもかげ》の中には、子供や遺族を思へば思ふ程押强く現世に坐り込むのが、老境の重厚な態度でなければならない、秋江氏には此境の物腰が坐り切らないで、語るに急ぐはその子を愛する感情を誇張してゐると言はれても、それが或程度までの本統[やぶちゃん注:ママ。]であることも首肯けよう。老境にあつて子を思ひ遺族への念ひを潜ませることは、常に鐵の如き意志が無ければならない。若し我我が老境に於て嘆き悲しみを敢てしなければならないとしたら、その鐵を打碎くの槪がなければならないのは、文學的老境の大地盤のできた後に何の不思議があらう。

[やぶちゃん注:「遺言」は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある「新選近松秋江集」(昭和三(一九二八)年改造社刊)で読めるPDF一括版。「287」コマ目から)。

 次の一行空けは底本のママ。]

 

 我我は作家の遺すべきものは改造社や春陽堂の印稅の計算ではない。吾吾の遺さなければならないものは只一つよき作品の威光や信賴であり、そのよき作品が命令する現世的生活の物質充塡であるとしたら、最も壯烈なる作家は葬費をも用意しないで逝去すべき榮譽を擔ふべきであらう、吾吾の死後の吾吾の遺族は改めて彼等の生活を敢て實行しなければならぬ。そのために彼等の必要とする養育費が、父親の作品の命令による當然の物質的な收入があれば兎も角、それらの收入が無かつたことは作家として後代へ傳へるものの無かつた所以である。吾吾の死後に敢て爲される吾吾の子孫の輕蔑や冷笑こそ、或意味に於ける最も辛辣な批評たり得ることは否めない。一つの叙情、子孫への公開狀であるところの「遺言」の本體も、結局は近松氏の大なる愚痴の中に、彼自身の心に養ひ得た永年の描出的遺言たるに止まつてゐるだらう、綿綿の情はよく人をとらへ得るが、吾吾の聞きたいのは鐵の自ら烈日の下に燒け伸びるごときを、「遺言」の壯烈な中に望みたいのである。しかも彼が彼の精神と肉體への衰弱期にあれほどまでに後慮の愁や心配りを敢てすることも、彼一人ではなく人の親の中にあるものであるが、同時にそのためにこそ腹の底に押し沈めて置くべき生涯の用意ではなかつたか?――何ごとも默然として老の日を步め、口を利かず敢然として御身の途を步め、かういふ言葉こそ若し老の日にあらん時に僕たちの考へることである。

 

 我我はどういふ意味にも吾吾の死後の安らかな遺族を想像することができず、又安らかな遺族を想像し得ても今日の我我には用が無い。吾吾の生きてゐる間にすら不幸な貧しい生活が、吾吾の死後に於て安らかであることは絕對にない。吾吾の遺族は我我と生活を俱にしたため、凡ゆる貧と戰ふくらゐの心の用意は既に覺悟しなければならない。吾吾の生きてゐる間にピアノを習つてゐた娘らも、或は燐寸《マツチ》の箱張りをしなければならないかも知れない。學校も中途で廢めなければならないかも知れない。さういふ窮乏の中にこそ吾吾の子供は生き育たねばならぬ。吾吾の妻はボロと垢とから立ち上り、これらの子供のために凡ゆる燐寸の箱張りや女工、派出婦まで成下り働かねばならぬ。一文人の内妻の成下りは決して不名譽ではない。敢然として一文人の妻として凡ゆる賤業に就くことは、錢餘りて飽食するよりどれだけ文人風であるかも知れぬ。我我が吾吾の遺言を敢てすることは「用意はもうできてゐるか」と唯一言で濟むだけである。この言葉こそ吾吾の全生涯へ雷鳴のごとく傳はるべきである。同時に派出婦とまでに成下つた吾吾の女らやその娘の生涯にも、依然たる此雷鳴のごとき聲を常に落し記憶させねばならぬ。一文人はその一代で亡びてしまへばいいのだ。近松氏の「遺言」一篇に依つて自分は以上數行を考ヘ得たことを謝して置く。

 

 九 「文藝趣味」の常識化

 

  自分の文藝的な生ひ立ちの時代には、單なる文藝趣味といふだけでも極めて少數な仲間にのみ限られ、文藝的な人物といふ目標だけでも可成りに新しい異端者の樣に思惟されてゐた。親兄姉は勿論の事、親戚の間柄にすら一種の左翼的な思想として吾吾の文藝趣味は危險視され嫌厭されてゐたものであつた。それらの頑迷さに最後まで戰うて來た吾吾の今日から見れば、凡ゆる文藝趣味の一般化は、常識としての文藝の存在を意味し、どういふ靑年にもなほ文藝の理解に遲れた者が無く、社會的な日常應酬にも現代の文藝が揷話されるやうになつたのは、彼等靑年の父や母の智識的成長を物語ると同時に、曾ての長髮的文藝趣味の願廢と沒落、文學者風の生活の放埒と衒氣とから完全に脫却されたものであつた。今日の靑年は詩や小說を書かないものは無く、また詩や小說を創作し得るといふことは、往昔の靑年が歌俳諧を作り得ると同程度の、廣汎な意味の常識たる以外に何等「藝術的」なる特種の人物でないことを證明するに外ならないものだつた。それ故文藝批評を以て靑年間の日常生活の目標たり得ることは、何等の疑ひもなき一般的な文藝の普及を物語るものであつた。

 文藝趣味を危險視したところの一つの封建、それらの成長が靑年間に流布されることの憂慮を以て終始してゐた道學者及び吾吾の周圍は、今日の文學的な諸《もろもろ》の表現に依るところの根本的な人間學の要素が玆《ここ》にあつたことに氣付き、再び文藝趣味に鉾を向けることは無くなつた。そして靑年の一般的な解釋による文藝趣味は、それ自身を吸入することによる離れた愛讀者風の好尙と、又文藝を制作することに依る意欲的な好尙との、自ら二手に別れて文藝城を包圍してゐることも實際であつた。文藝を文藝としての位置に客観的眺望を以てするものと、それを制作する側の位置とが凡ゆる靑年間に識別され得たのも、文藝の何物であるかと云ふことの理解を必然に會得したからであらう。才能無くして文藝の使徒たることは往昔の靑年の意企であり、今日に於ては最早問題にすらならない。

 

 十 大センチメンタリズムと長篇小說

 

 トルストイやドストエフスキイの長篇小說の中に洪水のごとく奔流して盡きなかつたもの、ニイチエやワグネルを包む重厚な城砦《じやうさい》的な感情の壓力、凡ゆるベエトオベンの組織的な會曾ての表現の内で最も完全な表現だつたシンフオニイ、ミケランゼロ、ドラクロア、ゴヤ、それらは一つとして大センチメンタリズムの蘊奧《うんあう》を極めてゐないものはない。最も有害な錄で無しの紙屑センチメンタリズムもその人間の大成期に於て「落着」を表はすことは、猶俗流の間にさへ認められないこともない。

[やぶちゃん注:「蘊奧」(「うんあう(うんのう)」は「うんあう(うんおう)」の連声) 教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。「奥義」「極意」に同じ。「薀奥」とも書く。]

 あらゆる長篇小說の軌道に必要なるものは、終始渝《かは》る無き熱情の發揚であり、大センチタリズムに磨きをかけることに依つて、その人生的な建築を爲し遂げることができるであらう。大センチメンタリズムの影を見ること無き長篇讀物は、その讀物としての性質上、ただちに倦怠を腐釀《ふぢやう》することはいふまでもない。長篇小說の上の倦怠は罪惡以上の僞瞞であることを知らねばならぬ。彼等の讀物としての用意と條件との過程に於て時代的であり、凡ゆる人生の相貌の橫縱の幅や奧、そして最も約束されねばならぬことは、何よりも思想的な時代の潛在層が唯一とされることである。彼等はそれ自身で時代の新聞でなければならず、あらゆる反射鏡的な效果ある六百萬人の抱擁をも爲し得る、大通俗のハガネによつて切斷されねばならぬ。「戰爭と平和」「罪と罰」の存在、西鶴物の各物語の存在、ワグネルとベエトオベンの唱道、そして我我は、――我我作家はその生涯の内に三つ以上は決して書き得ない長篇に手を觸れねばならないのだ。種種なデツサンを爲し終へた後の我我が必然着手しなければならない仕事は組み建てられた塔を初めから遣り直すことである。その仕事への打込みは、我我を包圍する大センチメンタリズムに據らなければならないのである。今日まで吾吾の日夜攻勢して來たところの凡ゆる弓矢の巷、あらゆる硝煙の的であつたところの一つしかない、今見紛らすと復永く打ち攻めることのできない大センチメンタリズムを攻め上げることにより、吾吾の長編小說の軌道を明らかに認識することができるであらう。

[やぶちゃん注:「僞瞞」「欺瞞」の誤用の慣用語。]

  吾吾の爲し得たところの凡ゆる作品的經驗とその量積、自然に我我を押し上げたところの一つの人生的なクライマツクス、聳える一つの塔、その塔にともしびを點すことにより、其窓窓を明るくすることに依つて、吾吾の長篇小說、生涯の仕事、吾吾の最後の情熱を盛り上げることができるであらう。吾吾のもう一度立ち上ることをも約束し、又吾吾の過去の或はやくざな仕事すら奈何に「今日」の我我を築き上げるために必要だつたかを人人は知り、人人はこれらの塔を初めて見上げて、絕えず人生への睨みを忘れなかつたところの我我及彼等を注目するであらう。

 

 十一 政治的情熱

 

 今度の選擧で自分も勞農黨のM氏に一票を投じた。政治に興味を持たない自分だつたが、何か旺《さか》んな情熱を感じ其情熱に觸れることは好ましい愉快さであつた。尠くとも其時代的な炎を自分だけのものとして手强く感じることは、日頃の倦怠や文弱の暮しから見て勇ましいものに違ひなかつた。自分は此雜然たる喧騷の中に我我も待ち得、又同感し得る情熱のあることを不愉快に思はなかつた。

[やぶちゃん注:「勞農黨」大正一五(一九二六)年三月五日に創立された左派政党である労働農民党の略称。当該ウィキによれば、前年十二月に『結成された農民労働党が共産主義と繋がっているとの嫌疑で即日禁止された』『ことから、当初は左派を排除した形で結党されていた。中央執行委員長には日本農民組合委員長だった杉山元治郎』(もとじろう)『が就任』したが、『結党後に地方支部が組織されていく過程で左派が流入、親共産主義の立場を取る左派の地方党員と反共主義の立場を取る右派の幹部が対立し』、早くも同年十二月には『右派が脱党して』「社会民衆党」『(委員長は安部磯雄)を結成』、『相前後して中間派が』「日本労農党」『(後の委員長が麻生久)を結成し』、結果して『労働農民党(委員長は大山郁夫)は左派が主導権を握った。三派が鼎立した』。『分裂後の労働農民党は大山郁夫委員長・細迫兼光書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった』昭和三(一九二八)年の第十六回衆議院議員総選挙(犀星の言っている選挙はこれ)では、『権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣営に対する弾圧は強烈をきわめた。このときの現地の運動員として、当時農民組合の指導にはいっていた後の小説家島木健作がいた。しかし、全国で無産政党最多の』二十八『万票を獲得し、水谷長三郎と山本宣治の』二『名の当選者を出』した(孰れも京都選挙区)。『山本は帝国議会で特別高等警察(特高)の拷問行為を暴露することを得意としたが、右翼青年に暗殺された』とある。

M氏」不詳。]

 菊池寬、藤森成吉《せいきち》二氏の落選には、分けて菊池氏の落選の報を得たときは何か腹立たしかつた。彼だけは公平な眼を以て當選させねばならなかつた。自分は號外を見て暗い街巷に佇んで二重に腹立たしかつた。彼が蒼蠅的新聞記者から文壇の大御所などと謳はれることは取らないが、さういふ下馬評を外にし、勇敢な彼は、文壇的一城主を負うて立つ、他の城主等の持たぬ不斷な「戰國時代」の地圖を開いて見てゐる男に違ひなかつた。神經質ではあるが「粗大」を持つてゐることも事實だつた。かういふ意味では中村武羅夫《むらお》氏もまた「租大」な野性を持ち合してゐた。彼等の此「粗大」は谷崎潤一郞氏の作品の相貌に於ける「大谷崎《おほたにざき》」たる所以のものと自ら異つてゐるが、菊池中村二氏の有つ粗大さに、何時も社會的な時代相ともいふベき、何か文壇の流れを突き拔けたものを持ち合してゐた。と言つても彼等は同時に社會的事業に加はつてはゐないが、ともに文壇社會ともいふべき雰圍氣の中に何時も何等かの「炎」を上げてゐることは疑へない事實だつた。

[やぶちゃん注:「菊池寬、藤森成吉二氏の落選」菊池は同選挙に東京一区から社会民衆党公認で立候補したが、落選し、藤森は長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれで、労働農民党公認として長野三区から立候補したが、次々点で落選した。

「中村武羅夫」(明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四九)年)は、当該ウィキによれば、『北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのを』契機として明治四〇(一九〇七)年に上京し、『大町桂月、徳田秋声と親しくなり』、『彼らの紹介で、小栗風葉門下に入』った。『後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された』大正一四(一九二五)年には、『プロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として『不同調』を新潮社から刊行し、岡田三郎・尾崎士郎・今東光・間宮茂輔らを糾合』したが、昭和四(一九二九)年に休刊した。『代わって『近代生活』を創刊、新興芸術派の拠点とし』、また、前年昭和三年六月には編集長となっていた『新潮』に評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」で『マルクス主義文芸派を真正面から批判し』、『「芸術派」の結集をはかったものとして名高い』。昭和一六(一九四一)年八月に箱根の『日本精神道場で行なわれた大政翼賛会主催の第一回特別修練会に、瀧井孝作、横光利一らと共に参加。昭和』十『年代後半には日本文学報国会設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として立場を失い、新潮社を辞して』程無く、『辻堂の自宅で原稿執筆中に脳溢血を起こして死去した』とある。犀星(昭和三七(一九六二)年に肺癌で没している)は結果して「社會的事業に加はつて」『「炎」を上げ』た、彼の末路をどう考えたのか、ちょっと聴いてみた気がする。]

 ともあれ菊池氏の落選はその報を得てそれを知つた自分を極度に陰鬱にした。同じ文壇の空氣を吸つてゐる同士のよしみは、平常彼と言葉を交す機會のないにも拘らず、自ら異常な意識の下に潜り根强く働いてゐることを、自分自身のために發見もし喜びもした。藤森氏は鄕里の鬪爭ではあり當選するものと思うてゐたが、自分はその不幸な報を得て意外な思ひをした。溫恭《をんきよう》なる彼のために自分も逆流する殘念さを感じるのであつた。藤森氏が勞働もされ其道につかれたことには、自分は別に說をもつてゐる者であるが、ともあれ、あれ程の勞苦を思ふだけでも彼も疑ひなき當選者でなければならなかつた。この苦き經驗は或はよき次の時代を形づくることを自分は信じて疑はない。

[やぶちゃん注:藤森成吉は明治二五(一八九二)年生まれで、犀星より三つ年下。昭和五二(一九七七)年、散歩中、トラックに轢かれたことが原因となって死去した。]

 

 十二 大衆作品本體

 

 自分は大衆文藝といふものに未だどれだけも親愛の情を感じてゐない。一つには大正年間に發展した此新樣式の作品が、自分を根本から動搖させ感激させないからである。自分を敎育した今日までの諸種の純文藝作品は、人としての手ほどきから細かな其心持の構へにまで入り込んで、殆ど完全に自分の人間學を卒業させたと言つてよい。かういふ今の自分を建て直し牽制すべき新樣式の陣容は、全きまでに自分を壓倒して來るところの、今までに無かつた素晴しさを持つものでなければならない。尠くとも自分を永く考へさせる凝視的な集中を此新樣式の文藝の上に注ぎたい熱望を持たねばならぬ。

 大衆文學は僕のごとき文藝の士の讀物である限り、僕程度の讀書力への剌戟と牽制である限り、又凡ゆる讀書階級を抱擁する通俗の可能性を持つものであるとすれば、タテからも橫からも隙間のない渾然たる新作品の發揚でなければならない。凡ゆる過去の純文藝の銳どさ深さをもつ作者の用意があり、それらの純文藝的氣質からも岐《わか》れて出た目覺ましい一つの進み方としての、これらの大衆作品の陣容が存在し得るとしたら、それは軈《やが》て僕を人にならしめた諸の小說中の人生への睨み方の訓育と同じい效果を、大衆自身の頭や心臟へ抛げつけるであらう。讀み物は單に面白い範圍のものは絕對に作者側の良心から抹消さるべきことであり、讀者側からは面白かつたといふ興味ではなく、面白くもありタメにもなつたといふ事實、その作品自らにあるよき營養ある人生學や人間學の諸相が、一作品の讀後にすら影響するといふことが、大衆作品のよき標準であり目的であらねばならない。大衆作品の陰鬱な過去――中間讀物時代から今日までへの脫却と進路には、まだ嚴格な内容への檢討が爲されてゐないことは、漸く大衆的なといふ呼聲の流行の鎭まりかけた今日に於て、辛辣にこれを解體し批判する必要があり、彼等がどの程度までの心臟的讀物であり得たかに就て、大衆自身が旺盛な大俎《おほまないた》を搬出するであらう。それは時を經て彼等自身の反省によつてのみ此新樣式の存續を意味するであらう。

 圓本流行の今日の大衆階級の進み方は、トルストイやドストエフスキイ、イブセンやストリンドベリイの中にある大衆性、その莫大な通俗性を嗅ぎ出したことも事實である。尾崎紅葉、夏目漱石にある通俗への妥協、凡ゆる大作家の持つものが常に藝術的であり得ると同時に、又通俗的な透明な太い線を全作品の中に刺し貫いてゐることも事實である。

「レ・ミゼラブル」の大通俗の用意、「罪と罰」の伏線、「復活」の人間學初步、これらは今日に於て殆ど何人もその大衆性のある作品であることを否む人はなからう。讀書階級が進むことは奈何なる峻峯的作家をすら一先づ大衆自身の大群衆へまで引き下ろさねば承知しない。芥川龍之介、谷崎潤一郞すらも、大衆自身は敬意ある眼付をして「面白さ」の中へ引き込んで、今日に於ては既に消化してゐるではないか。吾吾のいふ大衆作品が生やさしい樂ないい加減な仕事ではなく、一時の流行的作爲を弄するものではなく、純文藝の本流に交流すべきものであることは明白であらう。中間讀物の成上りや純文藝の苦節に耐へなかつた輩が、此群衆的な大センチメンタリズムの本道を濶步することは、軈て初めて自ら滑𥡴であつた彼自身の姿な見出すであらう。凡ゆる大衆作家は手厚い重みのある濶步を純文藝の本道の上にまで踏みつけ得ることにより、光榮ある此新樣式の中に文學としての古今に氣脈を通じるであらう。今の混戰された中ではどの程度までの大衆作品であるかといふことを識別しがたいと言つてよい。

 

 十三 稻垣足穗氏の耳に

 

 稻垣足穗氏の近代文明に對する解說、及びそれらに根をもつ制作は一時のやうに自分にその「新鮮」さを感じさせなくなつたのは、氏がその特異な材料にのみ每時も同じい開拓をしてゐる爲ではなかつたか。自體最も危險である「新鮮」を目ざして進むことは、巧みな轉期や速かに體をかはすことに於て、その「新鮮」を支持して行くものであるが、當然行くべき重厚さへも辿り着かずにゐるのはどうしたものであらう。

「黃漠奇聞《くわうばくきぶん》」を書いた彼の文學は、凡ゆる感覺派の作品の上に輝いてもゐたし、またああいふ文學は三度出ることも尠いであらう。空想の建築的量積がどの程度まで歷史的考證に運命づけられてゐるか。人間の空想力が決してその作者が一代にのみ釀成されるものでなく、稻垣氏の祖先からそれらの空想が存在してゐたものであり、彼により初めて形を爲したと言つてよいのである。さういふ「黃漠奇聞」の作者たる稻垣氏が性來の怠け癖から、樂な物ばかりを書くといふことは、我我讀者から彼の「耳」に囁いて奮勵を望まねばならぬ。彼の「耳」がそれを聞かない風をしたときに、自分は囁いた序に彼の「耳」に嚙みついてやらねばならぬ。

[やぶちゃん注:「黃漠奇聞」私は未見なので、サイト「ラバン船長のブックセイリング」のこちらを参照されたい。因みに稲垣は私は生理的にだめで(多分、若い時に見た彼の写真が原因と思う)、最後の一撃はいかにも犀星らしく、非常に爽快である。]

 

 十四 情熱と良心

 

 我我作家に恐ろしいものは情熱の膠化《かうくわ》された時代、良心の燻ぶりかけ麻痺されかかつた時である。どういふ作品の劣性の中にも情熱が一すぢ起つてない時は踉《つ》いてゆけない。讀むことも情熱の作用のない限り讀めるものではない。吾吾の不斷に鍛へかけるものは最《も》う情熱を搖り動かすことより外に、その作者としての良心の打込みがないやうである。情熱の沈潜された時はそのままの「沈潜」で讀めるものであるが、乾燥され膠化されることは作者の危機とまで言つてよい。我我にさういふ膠化した狀態は何時でも來てゐるが、それを敲き破るか、そこでもう一度振ひ立つかしなければならぬ。殆ど目に止らぬ膠化狀態にある自分を自覺することも作者の良心だ。自分で自分を胡魔化すことは止すがいい。いい加減なところで「濟す」ことはもう止めるがいい。

[やぶちゃん注:「膠化」ゼリー状に固まること。ここは「固まり始めてしまうこと」の意。

「踉《つ》いてゆけない」この「踉」には「躍る・飛び上がる」の意の他に、「行こうとするさま」の意がある。その当て訓と採った。ネットで「踉いて」で検索すると、複数の作家が「踉(つ)いて行く」というような表現を使っていることが判った。因みに、「ウェッジ文庫」版でも「つ」とルビを振っている。]

 

 十五 流行と不流行

 

 最近作家生活の危機を暗示しそれに屬する自分の道を瞭《あきら》かにした。自分の如き思ひを摧《くだ》くの作家も自ら生活の内外を警戒したであらう。雜誌や單行本の不振と作家に作を求むる事尠き近時に於て、徐《おもむろ》に破顏一笑を以て是に當るは、文人の心漸く我我に宿つたも同樣である。紅葉、露伴の昔、秋聲、白鳥の苫節の時代を思へば、今日吾吾の赤貧を以て文事に從ふは、寧ろ壯烈な誠の期臻《きた》れるものに違ひない。

 由來文壇の流行と非流行の影響が作家の心境に及ぼす憂欝なる極印《ごくいん》くらゐ、その作家を悒《いぶ》せく苛酷に取扱ふものはない。或は作家を再び立てない程度にまで卑屈にするものも、その作を求められる事無き懊惱《あうなう》の時期にあるのだ。作者はそのプロレタリアの徒であると否とに拘らず、作品を以て常に歇《や》むなき彼を示し、或は休息なき我を押し立てねばならない。それこそ苦痛に鞭打ち蒼白い嘆息の中からも、寧ろ戰慄すべき作家的炎を搔き立てねばならない。此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗敎的な雰圍氣の中にさへ押立ててジヤアナリズムの墮性と麻痺とによるものと對抗する外はない。絕對的なまで作品のみによる作家生活の本道は、この作品の苦節と打込み以外には立てないのである。今目の產業或は事業的不況に墜落した底の中でこそ、誠の作家は流行不流行に拘らず煮湯を飮み喘ぐのも亦面白い興味のあることであらう。

[やぶちゃん注:「極印」元は江戸時代に金・銀貨や器物などの品質の保証や偽造の防止などのために打った印を指し、転じて、「動かしがたい証拠・証明・刻印」の意となった。]

 作家は作中にゐない時は氣持の速度に平和はあつても、嚴格な鉾先の銳どさを失うてゐることは事實である。作家はその作を示さない時に進步はあり得ても、それを釣り上げる鈎《はり》を失うてゐることは危險である。やはり作家は絕えず書き、書くことと同樣な頭にヒラメキを起らせる機會を失うてはならない。求められる事により一層彼は彼の鍛へを彼自身に加へなければならない。今日に於て作を求められることは其物質的表現に拘らず、それは誠の彼を求められるものに違ひなからう。全く自分らは精神の碎片(かけら)を手渡してゐる自信を持ち得てゐるのである。精神の碎片、氣持の中の雲霧、それらによりヘトヘトに疲れた大切なものを手渡しすることは、好況時代に於ける濫作時の彼や我の比較ではないであらう。

 凡ゆる編輯者は作家の中の銳い星を射《い》り當てるものでなければならない。作家の苦節に對する一つの友情でなければならず、彼等と吾吾のよき挨拶と情熱とによる朗かな提携以上のものでなければならぬ。編輯者は又慘酷な拒絕者であり得ても、同樣に作家の雰圍氣の熾烈さを搔き分け見立てるものでなければならぬ。よき編輯者によるよき作家のつどひの美しさ、彼等と我我はその喜びに昂奮するお互ひの氣持を忘れてはならぬ。さういふ表顯《へうけん》が形づくる一つの雜誌は最早「雜誌」なるものを超えて、直接友情なるものをその讀む人人に囁くであらう。「雜誌」が何よりも輕薄な雜誌の役目を果す前に、これらの後後までも讀まれる永い讀書の種子を撒いて置かねばならないのである。

[やぶちゃん注:「表顯」具体的な形で広く世にあらわし示すこと。]

 又凡ゆる編輯者は流行不流行に拘らず、文壇にすみずみに目を行き亘らし作家の精進と努力とに絕えず眼を放つてゐなければならない者である。作することによりよくなる作家を見失うてはならず、其作家に鍛へを呼び起すものも亦大なる編輯者でなければならぬ。編輯者は同時に批評家の位置にも亦作家同樣の實力をも抱擁し、作家に肉迫し作家も編輯者へ肉迫し壓倒しなければならぬ。自分はかういふ二つの迫力の世界に我我や彼等を置きたい希望に燃えてゐるものである。

 

 十六 文藝家協會に望む

 

 文藝家協會の事業は着着實行され成績を擧げてゐることは、殆ど何人と雖も肯定し得るところである。自分は先般來圓本流行の折にも協會が干與《かんよ》し、其人名の遣漏を指摘するやうな立場に有り得たならば、作家を網羅する上に萬萬粗漏が無かつたらうにと思へる程である。

[やぶちゃん注:「文藝家協會」正式には「日本文藝家協會」。大正一五(一九二六)年に「劇作家協会」と「小説家協会」が合併して発足。初代会長は菊池寛。昭和一七(一九四二)年に一度、解散して「日本文学報国会」に吸収されたが、昭和二一(一九四六)年に再発足した。

「干與」「關與(関与)」に同じ。但し、「關與」の場合は歴史的仮名遣は「くわんよ」となる。]

 圓本に於ける作家の選定は出版書肆の成算にあることは勿論であるが、同時に書肆は協會にも建議し、協會は協會の認めるところの有爲の文人を推薦する權利を持たねばならぬ。書肆の意嚮《いかう》外の文人であつても協會の嚴格なる推薦に據る文人は、一層手强くその文人的に不滅な光榮ある作家でなければならぬ。さういふ意味に於ける作家をも書肆はこれを加へるところの、當然な雅量を自覺せねばならぬ。圓本の如きは元元作家と書肆との美事な二面相打つことに依つて、その事業を完成すベき性質のものであり、決して書肆の獨立的な事業ではない。これは强《あなが》ち圓本に限らず凡ゆる書物を出版する時に於て、著者と出版書肆の間によき感性上の融合があつて後に、世に問ひ其美や淸さや値を品隲《ひんしつ》さるべきものである。圓本の如き現象には最も親切であり事務的である協會が、自ら作家の間に甚しき遣漏を努めて避ける如きことをも、その事業の一項に加ふるべきである。上演料や著書其他と同じい結果を最近に協會が其成績の上に擧げられんことを希望する。一つには改造社あたりの文學全集が誠の全集だとするには、餘りに巨鱗を逸してゐる恨《うらみ》があるのである。併しそれは單なる片片たる改造社の問題ではなく、以後協會の爲によき指導をその杜撰な集篇の上に加へることを忘れてはならぬ。

 一代の文人は大厦高樓《たいかかうろう》の中に住むのはよい。又一代の文人は當然に其得べきものを得ずして赤貧に甘んじるのもよい。只さういふ現象が習慣的な世俗意識の中に加へられることは、各作家のために警戒すべきことであらう。同時に大厦高樓に住む文人も自ら警《いまし》めて此文藝的な溫かい愛情からも、協會と相伍して今日の資本家に當るべきであらう。

[やぶちゃん注:本邦の著作権は、国際的な著作権を定めた「ベルヌ条約」が締結された翌年の明治二一(一八八七)年に「版権條令」が制定され、二年後に「版権法」を制定しているが、「ベルヌ条約」に日本が加盟したのは、明治三二(一八九九)年年四月十八日で、同年七月十五日から国内法として「旧著作権法」が制定履行された(「版権法」等の関連旧法は同時に廃止された)。現行の「著作権法」は昭和四五(一九七〇)年であった。]

 

 十七 批評と神經

 

 自分は十年間殆ど月評する立場にあつたことがなく、從つて他人の作品に自說を持ち出した機緣の無かつたものである。自分の考へを僞瞞無く人に傳へる困難は、槪ね卑劣な場合を除く外はよく思はれる例しがない。他の作品に自分を食ひ入れることは神經の痛みを感じてならないものである。自分は他人の平穩な氣持に交涉を求めることの影響を恐れてゐるものである。さういふ細心な神經の震へに觸れる作品、神經が隈なく作品を網の手に搔き搜ることは、自分の批評の中では阻止しがたいものである。

 月評も亦修養の一つでないことも無い。頭のハタラキを自然に試驗されるところの、彼自身莫迦なら莫迦をこれ程叮嚀に告白する機會に立つてゐるものはないからである。彼等の多くは勇敢であるために倒れ、鯱のやうに尖り立つて沒落した。

 自分は批評の眼目に於て既に殺氣を感じてゐた。併も今は自分にあるものは殺氣ではなかつた。朗かな正當な、顏を赧《あか》らめる必要なき自分を握ることができたのである。凡ゆる批評の靜かさの中にゐてこそ、他人の作品の中へ入ることはできるが、文藝の値は騷騷しい殺氣の中に品隲され得るものではない。靜かな上にも靜かな、呼吸の通ふ音すらも聽えないところで自分は詰め寄るより外はないのである。さういふ自分の批評の立場にあることを闡明にすることは、或は一つの德望であるかも知れぬ。

 

 十八 武者小路氏と「時代遲れ」

 

「殺される男」(中央公論)武者小路氏のこれまで見た多くの作品の中に脈打つ、思想的な問題を取扱つたものであり、自分は何度も見たやうな氣がしたのは、恐らく彼の單純な同じい韻律を含む表現に據つたためであらう。武者小路氏のかういふ表現の型は自分には頭に這入《はひ》り過ざ、這入り過ぎてゐるために再描寫の感覺を强ひられるのである。その簡素な日常の言葉どほりの表現は、その内容の死に直面したものをありありと感じさせても、自分の心を二重三重に取圍み染染と沁み徹らせて來ない。死の問題にしても其作者の氣持の眞劍さはあつても、コナれるだけコナれてゐない。心にぴつたりと吸ひ付いて來ないのである。

[やぶちゃん注:「殺される男」は「殺される人々」の誤り。昭和三(一九二八)年五月号『中央公論』に載った。「書肆田高」のこちらを参照されたい。同号には、室生犀星が「山のほとり」を掲載していることが判る。]

  武者小路氏の新しい文章や感激といふものも、其値の新しさは持ち乍ら何か時代遲れの感じである。それは一つは時代の險惡さが灰汁のやうに押し寄せてゐるためであらう。今の世に彼の持つ淸潔な、靑年のままの考へを今までに大切に持ち越したやうな思想的な明快さは、もう今の靑年の心には作用しなくなつてゐることは事實である。併乍ら今の靑年の大背景の中にある巨石としての武者小路氏は、蘚苔《こけ》をおびながらゐることも是亦事實である。自分は彼を時代遲れといふことを肯定するものだが、彼の中にある何か一本の道、孰方《どつち》にしても人間がそれを辿るべき要素をもつ本道だけは、初めから時代遲れではあつたが、其十年前の時代遲れと今日のそれと尺度が同じいことを發見しなければならぬ。恐らくその一本の軌道だけは今後十年も適用し又時代遲れの相を帶びながらも、不思議な地位を保ち得るものであらう。それは彼の狙ひが的を外れてゐない、的確な一つものをねらうてゐるからである。神、運命、人間、さういふ彼の狙ひは十年をも打通して執拗に弓矢を番《つが》へてゐるからである。彼は最も古いものを摸索し手摑みにしようとしてゐるのだ。彼が新しいといふことは彼への氣の毒な誤謬だつた。

「殺される男」の中に自分は武者小路氏の「炎」を感じない。ラクに書いたとしか思はれない弛みを感じるのだ。或は彼の表現の流暢さは何時も其爲に彼を爲し彼を築き上げてゐるといへば云へるが、あの通りの流暢さの中にも自分に影響する銳どさを缺いてゐる。或は上演の效果からいへば相應の成績を上げるかも知れぬが、併し我我看客は「言葉」だけを聞いて「心」を感じ得る事は出來ないであらう。何故と云へば彼は此一篇に於て運命へのどうどう𢌞り、それの輪廓を彼の流儀に依つて表現した單なる筋書に過ぎないからであつた。

[やぶちゃん注:前の二ヶ所の読みは私の好みの読みで附した。なお、私は中学二年の夏、旺文社文庫で「真理先生」を読んだ時、全く以って古臭いという印象を持ち、時間を無駄にしたと感じて以来、彼の作品を全く評価していない。]

 

 十九 背景的な作者

 

 谷崎潤一郞氏の「續蘿洞先生《ぞくらどうせんせい》」は何時か「改造」に掲載された續篇であり、相渝《あひかは》らず谷崎物である以上に何等の交涉を新時代に齎《もたら》すものではない。さういふ意味でまた菊池寬氏の「半自敍傳」を品隲するのは妥當ではないが、併し此二作家が新時代と沒交涉であるところは一致するやうである。谷崎氏はそのグロテスクな人を莫迦にするやうな時代の桁外れの大味で行き、菊池氏は飽迄眞面目な一本氣で生ひ立ちの記を綴る點に、對蹠《たいせき》的な作家の道のりを物語つてゐる。

「續羅洞先生」の完璧は骨董的な時代味であり、過去の記錄的な作品の延長である。同時に谷崎潤一郞といふ美名が正札を附けるところの、創作欄的な宣傳風な作品でなければならぬ。創作欄を何となく後援し裝飾し宜傳するところの作品は、それは作家の現在よりも逈《はる》かに過去の作品の背景が物語る魅惑であり業蹟であらう。しかも谷崎氏は特に此一作を以て何等の彼自身の起直りや勉强のあとを暗示してゐない。彼は音に彼の圖圖しい猛猛しさで突立つてゐるだけである。その圖圖しいところのものは又どういふ時代にも跨ぎかける圖圖しさである。自分はかういふ作者をもつことは新時代にあつては、何よりも歷史的である點で認めたいものだと思うてゐる。彼はその一つ一つの作品よりも何時も「谷崎」を大きく纏め上げ、すぐ「谷崎」全體を感じさせるからである。

 菊池氏の「半自敍傳」はまだ一回しか出てゐないが、創作欄の抱擁力を示す以外に充分な菊池寬氏の、一文人の中期の作品の叩き込みや起直りの精進を續けなければならぬ。第一回の作品速度には思ひ出風な韻律のままで書き出してゐるが、其處に氣質的な作の炎を上げることは何よりも肝要とすべきであらう。凡ゆる自敍傳は作者の「眉と眉との間」がくらくらする程度の、その作品の炎の中に立たねばならぬ。自分も自敍傳を書き直してゐる時に菊池氏の作品に接したのであるが、決して樂な氣持でスラスラとした味ひで行つてはならぬと思うてゐる。自分の經驗では何かもう一度息づまる創作苦を再驗しなければならぬのだ。

 菊池氏は此作品で何等文壇に寄與する考へはないらしいが、自分は彼がさういふ自敍傳を書き出したことは見遁せない。過去の作品を完全に締め付けるものであり彼の中期の氣持のスルドサとダレとの孰方かを示すべきものだからである。谷崎氏のごときは初めからの「あの調子」であるが、菊池氏は眞面目な人であり其處に彼自身の立場があり、自分は今後に於てそれを見たいと思うてゐる。

 彼等二作家の背景的な過去作品を引提げて立つことは、さういふ背景なき作家との比較では、殘念乍ら彼等の手重さを感じなければならぬ。よき文人は皆過去の光背を以て立つところのものであり、それ故にこそ彼等が寸分隙間なく疲勞なら疲勞そのものにも鞭打たなければならぬのだ。

              (昭和三年)

[やぶちゃん注:「續蘿洞先生」は大正一四(一九二五)年四月号『改造』に発表した正編「蘿洞先生」の続編で、昭和三(一九二八)年五月号『新潮』に載った。正編は「青空文庫」のこちらで読め、続編は個人サイト「悠悠炊事」のこちらで読める。因みに私は「惡魔」を始めとした、この手の変態的な谷崎の作品が生理的に受けつけられない。小説では「蘆刈」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)ぐらいしか評価しない。但し、「陰翳禮讃」「厠のいろいろ」は別格で称揚するものである。リンク先は創元社昭和一四(一九三九)年刊の作品集「陰翳禮讃」の国立国会図書館デジタルコレクションの当該作の冒頭である。後者は「谷崎潤一郎 厠のいろいろ (正字正仮名版)」として私のブログで電子化してある。

『菊池寬氏の「半自敍傳」』は昭和三(一九二八)年から翌年にかけて書かれた後、続編を含む完本として亡くなる前年の昭和二二(一九四七)年に出版されている。私は未読。]

2022/05/14

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「詩に就て」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「詩壇の柱」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

     詩に就て

 

 

 詩壇の柱

 

 或晚、本屋の店先で福士幸次郞氏の「太陽の子」を見て、直ちにこれを購ひ求めた。大正三年に出版された此詩集の中には、今のプロレタリア詩派の先驅的韻律と氣魄とを同時に持合せ、激しい一ト筋の靑年福士幸次郞の炎は全卷に餘燼なく燃え上つてゐた。自分は手擦れのした此詩集の存在に對し友情の外の敬愛を感じた。今の高村光太郞君の粗大を最う一ト握り生活面で壓搾した彼の内容的な集中感は、見渡したところ到底天下に較べるものの無い位だつた。これらの詩が大正初年の作品であることと、そして何よりも彼の性根がその時代から今までへの二十年の歲月に、悠悠と働きかけてゐる健實な新味を思はざるを得なかつた。時時「童謠も書いて見る」フラスコ風の詩人、時時注文によつて詩物語をも案じて見る三流以下の詩人、又時時人生派風の嵐や海洋やケチ臭い生活詩を歌ふ詩人、さういふ詩人の中で淸節をもつ此「太陽の子」に於ける行動と韻律を約束した二十年後の立派さは、自分の眼界に瘦軀をもつて霜を衝くところの、詩人中の詩人、過去がもつ大なる柱石的な奇峰を現出せしめた。縱令何人と雖も此一つの柱、云ひやうのない氣魄が全詩壇的な過去への大なる承認であることを知らねばならなかつた。

 自分は數句の後、大阪から來た或書店の書目の中に、彼が大正九年の版行である詩集「展望」を見て僅かに三十錢を投じて購求した。「感謝」の玲朧、「記億」の悒鬱《いふうつ》、「友情」の美と韻律、「平原のかなたに」の思慕的な熱情、そして「昏睡」の中にある現世的ライオン、此詩は、(一人の男に知惠をあたへ、一人の男に黃金のかたなをあたへ……)の呼びかけから書き出して左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記錄を絕した力勁さで終つてゐる。

 

 この男に聲をあたヘ

 この男をゆりさまし

 この男に閃をあたヘ

 この男を立たしめよ!

 

 そして又「夜曲」の美しい激越、調度と愛情。

 「われは君のかつて見た海をわすれず、君の遊ん

 だ濱を忘れず、その海によなよなうつる星のごと

 く荒いうねりに影うつす星のごとく、われは君を

 ば思ひだす……」

 その他「幸福」の幽《かそけ》さ「泣けよ」の純朴、「船乘りのうた」「この殘酷は何處から來る」それらの詩の内外にある健實な搖るがない確さは、もはや過去の詩檀に聳える奇峰的な壯大な疊み上げ、遙かに群がる諸詩人の上に光つてゐる。これらの韻律、行動、形態、表現の諸相は、今日の詩壇の最も柱石的なものであり、萩原朔太郞氏の「月に吠える」と相對ひ合うて、大なる詩歌の城をどつしりと上の方に乘せてゐる。風雲は彼らを訪れるであらうけれど彼らの拔くことのできない大なる柱は、益益その城を護るために、後代への重い役目を果すであらう。今日の詩壇に筆劍を磨くの徒は何人も彼のために一ト先づ挨拶を交し、自分のもつ敬愛を同感することに依つて、彼を知ることを得たのを喜ぶべきであらう。

[やぶちゃん注:文中に「われは君のかつて見た海をわすれず、……」は引用全体が一字下げベタなので、かく処理した。但し、以下に示す通り、引用が不全である。

『福士幸次郞氏の「太陽の子」』大正三(一九一四)年洛陽堂刊の福士の処女詩集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本全篇が読める。

『詩集「展望」』大正九(一九二〇)年新潮社刊。同前のこちらで原本全篇が読める。以下、

「感謝」はここ

「記憶」はここ

「友情」はここ(題名の後に『(千家元麿氏に)』(「せんげもとまろ」と読む)の献辞がある)

「平原のかなたに」は「ああ平原のかなたに」が正しく、ここ

「昏睡」はここで、以下の引用は最後の「昏睡」の最終連であるが、原詩は最初の三行末には読点がある。

「夜曲」はここで、以下の引用は最終連であるが、引用(一部不全)がベタなのは不満。以下に示す。

   *

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、

君の遊んだ濱を忘れず、

その海によなよなうつる星のごとく、

荒いうねりに影うつす星のごとく、

われは君をば思ひだす、

われは君をば思ひだす。

   *

が正しい。

「幸福」はここ

「泣けよ」はここ

「この殘酷は何處から來る」はここ

である。

「悒鬱」「憂鬱」に同じ。] 

 

 詩歌の道

  

 自分は若い時分から歌を詠まうといふ氣持を持たなかつた。歌に對する才能の無いのも朧氣ながら知つてゐた。併し他の歌人の詠草は努めて讀んで自分の足しになるものは、自ら恍惚としてその道の「物の哀れ」を感じ味はひ、發句や詩の境致に窺へない或は相聞風な或は自然風物の詠草に、身を入れて讀み耽ることは樂しかつた。良寬の閑境や元義《もとよし》の情熱、又は實朝の豪直なども、勞作の暇暇《いとまいとま》の心を和め慰めてくれたけれど、依然作歌の衝動を感じたことは一度もなかつた。何處まで行つても自分の作爲を動かすことはなかつた。

 昨年の夏自分は眼を病み、殆どその眼に纏帶を施してゐた關係上、かういふ時に發句でも作らうと思うて見たが、何故か發句への氣持が動かず、詩にも氣持は働かうとしなかつた。眼を病むと氣持の鬱屈することは並大抵ではなかつた。自分は或朝早く庭に小さな朝顏の花を見出し、それが土の上を這うて咲いてゐる有樣に物哀れさを身と心に沁みて感じた。歌を作りたい氣持に打込まうとしたのも、初めて經驗する靜かな又得難い衝動だつた。自分は齋藤茂吉氏の歌や島木赤彥氏の歌を讀んで見て、自分も作歌の志を立てて見たが矢張り失敗して書けなかつた。自分はふと釋超空氏の歌をよんで暫らく茫然と見詰めてゐた。實際自分は近頃これほど銳い唐突な驚きを感じたことは稀だつた。それほど釋氏の歌は咄嵯の間《かん》に自分に關係を生じて來てゐた。「赤光」以來歌に驚きを感じたことは、初めての經驗だつた。自分は釋氏の境致には誰も手をつけてゐないことを知り、その茫茫たる道を釋氏が縱橫に步いてゐることに、ひそかに舌を卷いたのである。誰も知らぬ歌壇にこのやうな恐ろしい奴がのつそりと步いてゐたことは、全く驚いて見るだけの「押《あふ》」の强さをもつてゐた。自分は前田夕暮氏に會うた時の釋氏のことを尋ねたが、前田君も釋は怪物だといふ意昧のことを言つてゐた。自分の考へが謬《あやま》つてゐないことは兎も角、遠い文壇の彼方にぎらぎら光つてゐる眼光のあつたことは、自分を猛烈に打つて來るのだつた。自分はどういふ意味にも油斷してはならぬと思ひ、兄だか弟だか分らぬ藝術の分野に伏兵をしなければならぬ自分のネヂの弛みを締め上げるのだつた。凡ゆる詩歌の分野的仕事の隱れてゐる位置、匿れてゐなければならぬ境涯、それでゐて到底五十年を豫約する光芒の純粹さは、詩歌の大平原に朝日のごとく輝いてゐるものだった。彼らの中に一生詩歌に理もれてゐる人さへあり、それを衿持せずに微笑してゐる人もあつた。

 自分は詩歌への精進はしてゐても、最《も》う動かないものを動かさうとする詩歌の最後の中に絕叫してゐるものである。動かないものを動かすところへ行き着くことは、併し歡喜に違ひはないが進步ではなかつた。化石と同樣な慘めさと憂苦だつた。自分はその扉を蹴破らうとしながらゐて、自ら重石の下にゐるも同樣の苦衷を嘗めてゐた。それは詩が誠の「意識」から抉《ゑぐ》り出されるものだつたからだ。自分は呼べども答へない詩歌の鐵の扉を、日夜蹴破り敲くものの慘苦を經驗し、凡ゆる哄笑の中に仁王立ちに立ちあがり乍ら、身を以て打《ぶ》つかつてゐるやうなものだつた。

 最早あらゆる詩歌はその本體を搔きさぐることではなく、本體自身が本體となる前の、文章が文章とならない以前、感情の動きが既に動きとならない前のものでなければならなかつた。自分の刻苦して打つかるものも自分の感情的な皺の多い時代には、その皺を剝ぎ起さなければならなかつた。その皺の下に未だある一滴の泉を自分は靈藥のやうに目にそそぎ込まなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「元義」平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)は幕末期の岡山の国学者で歌人・書家。当該ウィキによれば、『子規が明治』三四(一九〇一)年に、雑誌『『日本』に連載していた』「墨汁一滴」に『元義を万葉歌人として称賛する文が発表され、元義の名は世に広く知れ渡った』とある。]

 

 詩と發句とに就て

 

 發句も詩も別に自分には渝《かは》りがない。渝りのあるのは詩の中にあるもので壓搾されたものが、發句の姿となり内容となるだけである。特に職業的俳人や卽興的詩人の輩に依つて區別される發句や詩の單なる形式的識別は、自分には最早問題ではない、――自分の問題とするところはそれらの根本の嚴格さを引き出すことにあるのだ。

 發句といへばさびしをりを云ふのは、假令それらの言葉の存在があるとしても直ちにそれに依つて片付けてしまふことは間違ひである。要は嚴格な、高い、登り詰めてゐる氣持をいふに過ぎぬ。我我は吾吾の最高峰を攀ぢ登つてしまうたところで、最う一度何物かを搔きさぐらねばならぬ。詩が感情的風景の域を脫してゐることは勿論、詩はそれらの上に立つ最早雲表《うんぺう》的な氣禀《きひん》の激しさから登り詰めた何物かであらう。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「雲表」遙かな雲の上。]

 

 遺傳的孤獨

 

 元祿の作者の中で特に選ばれた丈艸や凡兆は芭蕉と共に自分らを擊つのも、かれらの高峰が俗手《ぞくしゆ》の抵觸外に立つてゐる爲であらう。ホヰツトマンやヴエルレエヌの詩風は詩風の一存在として、特に僕らの靑春を襲うて共鳴してゐたのも、最早今日の僕らをしてたはいないものとして眺め飽きたのも、僕らの成人を意味する前に既に僕らが奈何に彼らよりも、より烈しい東洋風の孤獨とともに在ることに耐へる、千古不拔の遺傳的詩人であつたかが想像されるであらう。

 西洋人は遺傳的に孤獨の外の人種であり、性情に孤獨の巢をもたないやうである。稀れに露西亞人にある北方的憂欝の氣質は、トルストイやドストエフスキイの器に盛られたとしても、東洋風な、淡《あつさ》りした孤獨の城を建てることを知らない、――發句が幾たびか英譯されてゐながら、その十分の一すら味ひや甘みを傳へることのできぬのは、民族の遺傳的風習や生活樣式の相違ばかりではない。「分りかねる」ものが未永劫にまで「わかりかねる」ことであり、解らうとしてもその解るべき性質を根本から失うてゐるからに過ぎない。

 

 悲壯なる人

 

 詩が日本の靑年の間に作爲されたのは、正しい新人の努力に依つてその地盤を築き上げたのは、今から二十年前であらう。河井醉茗や澤村胡夷《こい》、蒲原有明等もその記憶にあるところのものだが、寧ろ北原白秋三木露風の二つの存在は、新人詩壇の存在を固めるに力のあつたものであらう。三木露風のねらひどころの可成りに正確な、洞察の幽邃は空虛な詩壇を一層低迷ならしめたことは萬死に値すべきであるが、併しあの時代に於て彼の詠嘆の矢弓《しきゆう》はただちに騷騷しい混鬧《こんだう》に陷入らないで、一ト通りの靜寂を覗き見ようとしてゐたのは並並でない努力であつた。白秋の邪宗門に於ける異國情調の比較的嚴格な律調も、消化されて次の時代の格律となつたことも疑へないやうである。「思ひ出」の輕い調子が後期に惡影響を與へたことは云ふまでもない。

 併乍ら白露二氏の時代から今日までの詩人中の詩人、新人中の新人として數へ上げることのできるのは、中野重治でもなければ千家元麿でもない。一人の劍の折れたる戰士萩原朔太郞であらう。時代の新勢は既に萩原を乘り越えてゐるに拘らず、彼はなほ昨日の新人の如き善良なる勇邁と、作詩的末期の餘熖《よえん》に捲かれ乍ら、悲壯なる戰鬪の眞中にゐるのは滑稽以上の嚴肅さであり餘りに悲壯以上の悲壯でなければならぬ。彼自らも猶悲壯淋漓たる中に、幾たびか胴震《どうぶる》ひをして猶永く末期的餘熖の渦中に立つであらう。

[やぶちゃん注:「澤村胡夷」(明治一七(一八八四)年~昭和五(一九三〇)年)詩人で美術史家。滋賀県彦根生まれ。本名は専太郎。京都帝大文科大学哲学科美学美術史専攻で明治四二(一九〇九)年卒。文学博士。早くから『小天地』などに詩を投稿し、明治三六(一九〇三)年、詩「小猿」を発表。旧三高の代表歌「逍遙之歌」や「水上部歌」を作った。明治四十年詩集「湖畔之悲歌」を刊行。大学卒業後は『国華』の編集に従事し、大正八(一九一九)年、京帝大助教授となった。著作に「日本絵画史の研究」「東洋美術史の研究」がある。台湾訪問中に依頼を受け、昭和三年の暮れ、「胡夷」のペン・ネームとして最後の詩となる「臺灣警察歌」を作詞している。

「混鬧」現代仮名「こんどう」。遣混乱と騒擾。]

 

 十年の前方

 

 詩が今より最《も》つと注意され愛讀されるには、やはり十年の歲月を要するであらう。その十年の曉にもなほ不運であるべき詩人の嘆息は、その時に於てすら更に十年の年月を曉望するであらう。我我が詩を書き始めたころは依然十年の行手を眺めてゐた。その十年は今吾吾の存在や周圍の存在だつた。しかも我我や吾吾の若い同行の詩人たちは、詩に於て衣食することを拒絕されてゐることは勿論、詩中に呻吟することをも許されなかつた。

 詩人は詩人である爲の輕蔑、詩人でなければならぬ輕蔑の苦苦しい唾液を吐き出すまでに、可成な辛酸のあることは小說家が小說的唾液を吐き出すと一般であらう。しかも詩人は詩人である傳說的美名と、美名がもつ輕蔑とに惱まされ通してゐる。應需の尠《すくな》い詩人の社會的進出は、小說家に及ばない如く他の何者にも及ばなかつた。併も彼らは風流才子でない如く甚だコセコセした虛名に憧れなければならぬ原因があるとしたら、それは詩人自身にではなく、彼の「十年」の年月が前方にあるからだと云つた方がよからう。彼ら詩人は絕えず十年を目ざして進んでゐる。これは小說家に於ける眼の前の生活にばかり拘泥してゐるのとは、少しく事變つてゐる。彼らが彼らの受ける輕蔑の前に、先づこの晴晴しい「十年」の前方を俯仰《ふぎやう》することに依つて、他の奈何なる藝術の士にも劣らない心魂を硏ぎ澄すことを證據立てるであらう。その一事のみに依つて彼らは漸く彼らの仕事に受ける輕蔑の蒼蠅を拂ひ除けることができるであらう。

 

 詩錢

 

 千家元麿氏は或時、或本屋の門を通り過ぎ乍ら、不圖《ふと》囊中《なうちゆう》空しきを知り、鉛筆で數章の詩を書いて金に換へたさうである。これは千家氏自身から直聞《ぢきぶん》した話であるから噓ではなからう。千家の詩風であつてこそ初めて此卽興的場面が充されることを知り、僕なぞはかうゆくまいと思はれた。

 詩を書かうといふ氣持は、殆ど瞬間にして消失する再び補捉しがたい氣持である。金に換へるために書くことは決して惡いことではない。僕などの詩を書きはじめた大正元年前後には、詩に稿料を拂ふ雜誌社がなく、そのために現今の如く身を落して、詩人が雜稿を市に賣ることを潔しとしなかつたやうである。尠くとも僕自身は詩を書く外、雜文は書かないで破垣茅屋《やれがきあばらや》に甘んじて暮した。その頃から見れば今は詩人の生活も物質的に惠まれてゐると言つてよい。

 詩人にして小說を淋くことは多少輕蔑されることらしい。詩人で生涯小說を書き通すとも、よくよくの面魂《つらだましひ》をもたなければならぬ。千家氏の如く書店の門前で平氣で詩を書いて賣ることは、その平然たる面魂の中に、押しの强さがある。自分は何故かその話を面白く想出した。

 

 圓本の詩集

 

 圓本の中に詩集がその一卷の役目を持ち、改造社、春陽堂も其書册に加へてゐる。天下の詩人數十氏が年代的に後代に傳へらるべきものは、先づ此詩集位であらう。同時に凡ゆる圓本中、窺かに其後代に於て古籍本としての市價が圓本中の何物よりも以上に價高き古本の値を持つことは當然であらう。何故といへば小說本の紙價はその年代とともに低落するに先立ち、詩集類は歲月とともに其定價をセリ上げてゆくからである。萩原朔太郞の「月に吠える」や「靑描」福士幸次郞の「太陽の子」高村光太郞の「道程」日夏歌之介の「轉身の頌《しよう》」千家元麿の「虹」百田宗治の「ぬかるみの街道」北原白秋の「邪宗門」佐藤春夫の「殉情詩集」西條八十の「砂金」堀口大學の「砂の枕」等は、最早その初版は定價の二倍以上に昇り、市上これを輕輕しく求められない。

 以上の詩集はその詩人の出世作である所以もあるが、それを讀む若い人人は次から次へと成長し、又次から次へと搜し求めるからである。詩歌に熱情を持つ靑年は他の小說本の比ではない、彼等は一卷を求めるに東京中の古本屋を搔き𢌞すことは平氣である。詩歌の士は誠に此心がけがなければならず、往昔の自分もまた此道を踏んで來たものである。圓本の詩册がかういふ氣持ちを胎んでゐることはその編輯者と雖も自覺しないであらう。かういふ不斷な靑年の背景をもつ詩集の書册が、當然圓本中に於ける重大な役目を持つてゐること、及び後年その紙價を上騰させることは瞭《あきら》かなことである。

 圓本の使命はどうして之等の圓本を後代に殘すかといふ今は非營利な寧ろ藝術的熱情を感じる時である。相應營利的成果のあつた今日に於て、先づ此等の圓本を後代の史家に殘し、圓本の輕蔑を剝奪すべき良き書物の塔をどうして殘すかを考慮すべき時である。新人を加へ最善を盡し、少し位《ぐらゐ》損をしても自ら元祿の井筒屋庄兵衞をも念頭に入れるの時である。圓本時代に何人が圓本以上の仕事をしたか、その仕事に藝術的な眞摯な作用をもつ出版書肆がどれだけゐたか、さういふ決定を爲すベふ時である。自分は材料蒐集の上、これらの圓本論とその時代を論じたいと思うてゐる。圓本を檢討することは時代の腸《はわわた》に手をさぐり入れることに均しいからである。

[やぶちゃん注:「窺かに」逆立ちしても「ひそかに」と読むしかないが、「窺(ひそ)かに……持つことは當然であらう」という文脈では呼応がひどく悪い。「窺(ひそ)かに思ふには……持つことは當然であらうかとも感ぜられる」ぐらいでないと、尻が落ち着かないと私は思う。

「井筒屋庄兵衞」京都の書肆。俳書の出版で知られ、蕉門の俳書は、殆どが、この書肆より刊行されている。初代が初めて俳書を出版したのは承応元(一六五二)年で、以後百五十余年、五代にわたって出版活動を続けた。]

 

 詩情

 

 自分の詩を書いてゐた年少の時にすら、詩に遊ぶといふ氣持よりも、むしろ詩の中にゐて年少の生活を見てゐたやうに思ふ。何か心に添はず友情に叛き兄姉に離れた時には、机に對ひ詩中の悲しみを自ら經驗したやうに思うてゐる。徒らに花下《くわか》に春秋の思ひを練るといふ氣は無かつたらしい。假令、春秋の念ひを遣《や》るにしてもその折折の自分を基としてゐたやうである。

 年少の悲しさはそれ自身成長の後には詩情に似たやうなものであるけれど、年少の時は詩情どころではない。世に容れられぬと一般な悲哀であるやうだ。自分は敍情風な昔の詩を讀み返すと、それを書いた時の日光の色、樹の匂ひ、その時の心もちなぞが思ひ出されて來て、一枚の寫眞を眺め入るのと何の變化りはないやうである。自分は既に壯年の齡に行き着いてゐるけれど、詩情は昔に稀に立ち還つて自分に何か考へさせるやうである。尠くとも敍情の詩を書いた自分を不幸だとは思はない、あの頃は自分の生活の中でも一番樂しかつた頃ではないかとさへ思ふのである。考へることに濁りがなく憂愁はあつても素直な姿をもつてゐた。しかも靑春の多くの時を詩に形ををさめ、一卷として自分の年少時代を記念したことは決して不幸ではない。――振り顧(かへ)つて往時を思ふよすがともなる仕合《しあはせ》さへ感じるのである。

 その頃の自分は東京の町町を步くことを一種の旅行のやうに考へてゐた。實際、田舍に生れた自分には、海近い深川の土藏のある町通りや、大川端の古風な昔の艶を拭き出した下町を見物して步くことは、郊外から出掛けるだけでも鳥渡《ちよつと》した旅行に似た遠い感じであつた。土藏と土藏の間から隅田川を見、淺草公園では樣樣な見世物小屋に半日の心さむしい遊びをしたり、と或る店さきに眉目正しい、下町娘を見出したりして、ちよつとした旅愁を感じたものだつた。とり分けさういふ町を步きながら雨に降られたりすると、國の町のやうに傘借りることもできないなぞが、一層他鄕の感じを深めるのだつた。冷たい雨あしを眺め自分はよく淺草の知らぬ町家の軒下に佇んで、國の町でさういふ雨に降られた時のことを思ひ出して、漠然とした憂愁を感じたものであつた。この感じは東京に居馴れるに從つて次第に消えて行く感じであつたがまだ折折心を掠めて殘つてゐた。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 詩集と自費出版に就て

 

 自分が初めて愛の詩集を出版したのは大正六年の冬だつた。當時も今も處女詩集は自費出版に定《きま》つてゐる。本屋などは相手にしてくれるものではない。そのかはり幾らかの文名を贏《か》ち得た後に更めて本屋が出してくれるものである。自分の愛の詩集も後に本屋から改めて發行した。同樣「抒情小曲集」も自費で出したが今までにアルスや紅玉堂から度度《たびたび》版を重ねた。

 自費出版はそれの償ひが精神的以外に酬いられるものではない。自費出版の意義はその詩人の大成した後日に初めて生じると云つてよいであらう。市井一介の詩人としての沈沒する詩集は、本人には意昧はあつても文壇的に意義をなさないとしたら、これはよく考へた後に出版すべきものであらう。當今の如く思いつきや當座の感興などから、簡單に出版されるべきものではなく、能くその詩人の全生涯の發足的な地盤を決定すべき、ゆるぎのない作品の堅實性を信憑してから、それの出版を見るべきものであらう。後代に傳はる如き作の集成を見ることは、ひとり作者の快適とするところばかりでなく、全文壇に美しい記錄を殘すものと言つてよい。小說集は二三年にしてその書物としての形や値を失ふことが多いが、詩集本は年經るごとに高金の値を生じてゆくのは、作者に誠の心があるからである。又、別の意昧で小說集は他の刊行物として出版されるが、詩集の重版は少く、その元の版のまま稀本として傳はつて行くが爲である。一朝にして亡びる詩集を出版するくらゐなら止めた方がよいといふのも此意昧に徹するからだ。

 

 

 過去の詩壇

 

 當今では詩や小說ぐらゐ書けない靑年は稀になつてゐる。全くのところ詩や小說の眞似事くらゐ書けないやうな靑年は、その靑年たる常識を缺いてゐる程度にまで、文藝が一般に普及してゐる時代である。何も詩や小說を書くことが特殊な仕事ではなつなつてゐる。それ故これからは詩や小說を書いて世に問ふことの困難であることは勿論である。餘程秀れた才能を持ち合せてゐるか、または異常な神經や心の持主に限り、世に問ふ所以のものを有つてゐると言へるであらう。

 詩だけに就て言ふならば、その分野は既に唄ひつくされてゐると云つてもよい程である。千遍一律の詩には我我は疾くに飽きもし素讀に耐へないものがある。詩を書かうとするならば餘程の文學的敎養の達人でなければ、餘程生れながらの素直な人でなければならぬ。尋常一樣の詩作程度では、その作を擧げて天下の詩情を動かすことはできないであらう。それほど詩作する人人が多く相應の腕のある人が揃つてゐる譯である。曾て萩原朔太郞君や千家元麿君の得たる詩境と聲望をさへ、今後の詩人に於ては却却《そこそこ》容易に得ることの出來ぬのは、彼ら程の才能を持つて出て來ても時勢は彼らの二倍くらゐの才能を求めてゐるから遂に彼らの地位を得られないのである。この過去の二作家の二倍以上の作家が出て來たら、完全に後繼者を詩壇は得たるものと言つてよからう。既成や新進の爭ひは俗惡なる文壇ばかりではなかつた。詩壇にもその聲を聞くとき僕の思ふところは以上數言に盡きてゐる。――

 

 敵國の人

     萩原朔太郞君に

 

 雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれたことは、僕と雖も絕えず微笑をもつて讀むことが出來た。併し詩集「故鄕圖繪集」に論及した君は、不思議に僕の本統の姿を見失うてゐる。君が自ら敵國と爲すところの僕の生活内容が、君のいふ老成の心境でもなければ風流韻事に淫する譯のものでもない。僕は僕らしく靜かに生活して居れば僕らしい者の落着けることを信じるだけである。君が自ら僕を敵國と目ざすところは落着いて暮したい希望を捨てない僕を難ずるなら兎も角、徒に輕率な風流呼ばはりや老成じみた一介の日蔭者としての僕を論ずるならば、僕はそれを返上したいと思つてゐる。

「故鄕圖繪集」の本流はこの詩集以外には決して流れてゐない。君が諸作品の韻律や素朴に統一的な缺乏のあることを指摘し、「忘春詩集」に劣つても勝ることなきを言及してゐるが、この詩集の中にある僕らしい行き着き方を君は又幸にも見失うてゐる。君はこれらの詩が發句的要素から別れて出たものであることを指摘するのはよいが、何よりも「忘春詩集」以來かうならなければならぬ「彼」の素顏を何故に見なかつたかと云ふことである。自分は俳三昧や風流沙汰や老成心境から出發したのではなく、これらの道具立は不幸にも僕に加へられた迷惑な通り名に過ぎない。

 僕は君の如き一代の風雲見を以て自稱するものではなく、只孤獨に耐へるだけの鍛へをあれ等の詩作の上に試みただけであり、夫等の試みは直ちに君には不幸にも老人臭く見えたのであらう。我我靑年の末期にあるものは兎もすると老人臭くなるのは、事實それに近づきつつあるからでどうなるものではない。又努めて僕は書生流の詩域から脫したい願ひを持つてゐることは勿論である。

 君のいふ如く僕を慘めな一個の庭いぢりとして生涯を送るもののやうに見るのは、君が僕を見失うてゐる初めではないかと思ふのだ。僕の生活苦やその種種な面は直に君を打たないであらう。

 君は僕に二人とない益友ではあるが、然し君は僕を讀み落し見詰めてゐては吳れないやうである。離れてゐて遠くから僕を見てゐる親切氣はありながら、僕が仕事によりどれだけ昔の僕から今の僕へ進んでゐるかを見落してゐる。君に見て貰はなければならぬものを君さへ見失うてゐる。僕のいふ孤獨の鍛《きた》へといふものも、君の誤解する風流韻事と稱する間違ひも大槪ここらあたりから別れて批評されたのであらう。

 君が僕の發句を以て餘技とし月並であり陳套《ちんたう》であるといふのは、月並の薀奧《うんわう》は何者であるか、何故に僕が蕉風の古調を自ら意識に入れながら模索してゐるかが能く解らないからである。

 自分は發句を以て末技《まつぎ》の詩作と思つたことがない。或意味で僕は僕の發句や短册を市井に賣つてまで衣食したい願ひを持つてゐるのは、賣文の埃から遠退くことが出來るかと思ふからである。元祿天明の時代なら兎も角今日發句を賣つて米鹽の資を得ることは出來ない。僕は僕の本來のものを靜かに心で育てる外に僕の發句は生きないと言つてよい位である。

 僕は又永年の詩作の經驗すら一句の發句に及ばないことを知つてゐる。或意味で發句を重んじる僕の凡てで無ければ全幅を剌繡すべき肝要なものだと云つてよい。何を苦しんで無意味な餘技を弄する愚を學ばう。――僕の發句を月並だと斷ずるのは新樣破調を操らない爲の君の非難であらうが、破調の發句が出駄羅目な容易に入り易い句境であり、古調は凡夫の末技から築き上げることの困難なのは、君と雖も。一應は肯《うなづ》くであらう。

 君の發句觀は不幸にも僕の未だ能く知らないところである。又君の說く蕪村は決して元祿の諸家を理解したものではない。君が粉骨碎身流の蕪村道の達人であることも、まだ寡聞なる僕の知らぬところである。その上君が今の僕を絞め上げ止《とど》めを刺すことは、寧ろ君へのお氣の毒な挨拶しか持合《もちあは》さぬ。君が天下の發句を論ずる前に先づ僕の止めを刺し、そして君の嫌ひな芭蕉流のさびしをりを此世から退治すべきであらう。

 僕の知る限りの芭蕉は一朝のさびや風流を說いた人ではない、芭蕉といふ能書的槪念は漸く今日では、あらゆる新しい思想の向側にあるやうに思はれてゐる。併し眞實の彼は元祿から今日へまでの新人中の新人だつた。彼の異國趣味や無抵抗主義は後代のトルストイの中にさへその面影を潛めてゐる。太平の元祿にあつて彼は社會主義者になる必要に迫られはしなかつたらうが、併し彼は何よりも近代に生を享けてゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

『雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれた』これは昭和二(一九二七)年九月号の第一次『椎の木』(第十二号)に掲載された」「室生犀星君の心境的推移について(忘春詩集以後、故郷圖繪集迄)」である。調べたところ、OCRで全文を読み込んだままを校訂せずに放置してある本篇全文のページを発見したので、リンクさせておく。所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」初版では第八巻に所収しているが、私には電子化注する食指が全く動かない。

「故鄕圖繪集」昭和二(一九二七)年椎の木社刊の詩集。サイト「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」のこちらで恐らく全詩篇が電子化されてある。

「忘春詩集」大正一一(一九二二)年京文社刊の詩集。同前でここに恐らく全詩篇がある。こちらは「青空文庫」のここにもある。

「薀奧」奥義。]

 

 文壇的雜草の榮光

 

 詩が文壇の埒の外の雜草であるか否かは別として、詩は中央公論や改造や新潮には殆ど必要の無い一國の想華であることは、詩人であるが爲《ため》聰明なる吾吾の知るところである。そして又曾てそれらの大雜誌に揭載された詩が、均しく全詩壇に後世的作品を示した例は殆ど皆無であつた。吾吾の詩が今までの城砦を築き上げる爲に必要であり、我我をして忘恩せしめざるところのものは、片片たる三十二頁の同人雜誌の威力であり奮鬪であつたことは、何と文壇外の美しい榮光だつたことであらう。或營利雜誌は吾吾の詩に婦女子の寫眞を揷入れて之を揭載した。又或雜誌は出題の下に作詩せしめ且つそれに應じた低能な詩大家があつた。又或乳臭き雜誌は全詩壇の詩作人の詩を乞ひ、殘酷に作詩人を數珠つなぎとして、天下に詩人愚を梟首として揭載した。自分は一々これを拒絕したが、遂に婦女子の寫眞入りの詩だけは掠め取られた。自分は詩人が輕蔑せらるべき多くのものを、文壇人が斷乎として拒絕してゐる好例の對照を見聞《みきき》してゐる。さういふところに雜草的卑屈と强制された遠慮とが、常識的な冷笑すべき習慣となる程度までに下つてゐるやうである。

 

 ゴシップ的鼠輩の沒落

 

 ゴシツプ的鼠輩《そはい》の曲說はともあれ、僕自身が老成的壞血病詩人であることに於て、止むなき餘命を詩壇に置いてゐる譯ではないのである。僕自身は今の僕自身を役立てる爲のふくろ叩きを辭さない物好きの中に呼吸してゐるものである。凡ゆる作詩人も其中期の作品の中に悶えもし、又退屈も窺へないではないが、彼らのなかには猶ふくろ叩きや締めつけを辭さない者のある位は、又同時にゴシツプ的鼠輩の沒落した時に、その彼らの誤りであることに心づくであらう。

 

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