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カテゴリー「室生犀星」の28件の記事

2022/08/05

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「文藝時評」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 月評家を弔す」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   文藝時評

 

 

 一 月評家を弔す

 

 往昔の文壇的事故のうちで、凡ゆる月評家はその批評の目的を達することに於て輕蔑されてゐた。卑小、狹慮、仲間褒め、下賤、乳臭、それらの標語は月評家が四方から受ける非難の聲であり、その流れ矢は或は彼等の致命傷となつて彼等の姿を一時沒落させた位だつた。凡そ月評家たらんとするものは徐ろに殺氣立たねばならず、殺氣立つた後に凡ゆる辻斬野盜の類にまで成り下らねばならなかつた。事實彼等は辻斬試斬後掛け拔打ちの外、正面から鯉口を切つた譯ではなかつた。それ故か彼等は此卑しい月評家的糊口を以て、充分に完膚なきまでに輕蔑された。往昔の月評家は例令《たとへ》その動機が辻斬の黨であつたにせよ、一脈の純粹さが無いではなかつた。しかも彼等はその目的を達することに於て敬遠され卑小視せられ、或者は悶悶たる客氣《かくき》を擁《いだ》いて空しく陋巷に飢ゑねばならなかつた。

[やぶちゃん注:「客氣」血気。]

 凡ゆる月評家達は或は勇敢に討死した。死屍の累累たる彼方に作家達は悠然として殘存してゐるのも、彼等にはどうする事もできない存在だつた。彼等の野武士風な好みも其眞向からの遣《やつ》つけ主義もみな攻勢的殺氣のわざだつた。斯くて若い文壇の野武士は次第に討死をした。凡ゆる卑しい汚名の月評の中にある一つの眞實な確證さへも、冷笑の中に封じられて終つた。誰一人として月評家風の業蹟、その仕事の跡を想ふ者とては無かつた。事實彼等のその一行の文章の跡さへも書籍の上に偲ぶことが出來なかつた。名もない犧牲のあとは徒らに文藝の王城を取卷く雜草を肥すばかりだつた。

 そして今自分の立つところの茫茫たる雜草の中から見る文藝的王城に、その一人づつの果し合ひから何物かを取らねばならない。彼等を讀破することによつて自分から「批評」なるものを引摺り出さなければならない。一人づつの手腕と力量とを知らねばならない。降參する時は降參せねばならない。打込む隙は遁すことのできない果し合ひをせねばならない。凡ゆる末路悲しい月評家風な憎しみと不愉快な的にもなり、またそれ故の月評家風な討死をせねばならない。誰一人として囘顧する者もない路傍の死屍となつた凡ゆる過去の月評家のやうに、自分もまた同じい命運の跡を殘さねばならないであらう。彼等を葬《とむら》ふところの自分の立場をも知らねばなず、――啾啾《しうしう》の聲の怨府《ゑんぷ》のうめき聲より、自分は彼らを弔はねばならぬ。そのやくざな碌でなしの墓碑の上にも春花を抛打《なげう》つて遣らねばならぬ。斯くて名譽ある併し結局は討死をする此仕事に就くであらう。

[やぶちゃん注:「啾啾」小声でしくしくと泣くさま。

「怨府」人々の怨(うら)みの集まる所。]

 

 二 肉體と作品

 

  瀧井孝作氏の「父來たる」(改造四月號)の素材は、曾て彼の最も讀者への親しみを繫いでゐる「父親」物の内の一篇である。かういふ素材と讀者との感情的關係は、それだからと言つて身邊小說の非難の的にはならない。却つて隔《はな》れた親しみの密度を感じない素材よりも、我我はどれだけ此素材への親しみを感じるか分らない。身邊的な心境消息の本體は、凡ゆる小說の骨格を爲すものであり、讀者へ生みつける關係は到底出駄羅目《でたらめ》な設計された人生の、放射線風な描寫なぞの比較ではない。五年十年といふ風に作者にも重要な人生であり得るものは、五年後七年後の讀者にも作者を知る爲に重要な人生であつて、決して假定された罐詰的人生の展開ではない。心境小說に非難の聲の起つた昨今にこそ、心境小說への睨みを强調しそれを趁《お》ひ詰めることにより、心境小說經驗者の最後の榮光を擔ふべきであらう。

[やぶちゃん注:「父來たる」昭和三(一九二八)年四月号『改造』発表。私は未読。]

 瀧井氏の描寫の中の辿辿《たどたど》しさ、素朴さ、舌足らずの吃吃《きつきつ》たる勢調、石屋が石の面を落す時の細かい用心を敢てする寧ろ木彫的な接觸は、漸く志賀氏等の文體を突破し完全に「瀧井孝作」へ塡《はま》り込んでゐることは、一讀者としての自分に小さい安心を與へた。彼の如き鈍重な肉體的なねばり氣で押してゆく種類のものは、どういふ場合にも失敗することは尠いものである。何故かといへばその肉體的な壓力の手重《ておも》さは、彼自身に問題を執るよりも今の新鋭であるための驕怠の輩に眞似のできないことだからである。新進であるための恐るべき後の日の豫測的な頽廢時期を知り、新進であるための忘失されやすい恭愼の心を約束する彼の立場は、又一文人としての持すべき眞實な傲岸な態度を保つてゐた。尠くともそれは近時の新進氣鋭の作家の中に稀に見ることであり、自分の快敵とする抑抑の所以であつた。

[やぶちゃん注:「吃吃」滑らかでないさま。

「手重さ」「容易でないさま」、或いは、「扱いが丁寧であるさま」。私は、あまり彼の小説を読んでいないが(自由律俳句はさわに読んでいる)、ここは後者であろう。]

「父來たる」の描寫力は一行あての叩き込みであり、田舍者の素朴さに溶かれた鋭い「氣持」風な疊み込みの仕上げだつた。停車場で半日を待つ彼の氣永さよりも、その氣永さを押し伸べる彼も一種の「力の人」に外ならなかつた。「無限抱擁」の中にある鈍重な行爲とその氣質のネバリは、遂に一批評家の筆端をも煩はさなかつたが、特異な位置、特異な作品としての此一書物を自分は愛讀した。何より彼が俳人として文體にその描写の力を得てゐるといふことは、到底市井の一下馬評に過ぎない。

[やぶちゃん注:「無限抱擁」大正一〇(一九二一)年から同十三年にかけて、『新小説』『改造』などに発表した四篇を昭和二(一九二七)年に合はせて発表した長編私小説の恋愛物。私は若い時に中途で投げ出したまま、完読していない。]

 彼の持つジワジワした味ひが年月とともに硬くなりはしないか、ジワジワがよい意味の皺になればよいが肉體的な皺になりはしないか、皺の中に垢がたまりはしないか、これらの不安はないでもないが、彼は體力的にこの皺をよく用ひ艶を含ませ「瀧井孝作」をこの種の固まつた一作家に膠着させてはならぬ。

 

 三 芥川、志賀、里見氏等の斷想

 

 芥川龍之介、志賀直哉、里見弴氏等は各《おのおの》名文家である。斟くとも芥川氏は凡ゆる大正時代の描寫の最極北、描寫的な文章上の最も著しい標本であつた。その氣質の鋭さに依つて從來の文章的な皮の幾枚かを剝脫し、古い明治年代の文章の上に彼自身の「皮」を張り付け是を入念に硏ぎ澄《すま》した人だつた。この年代に芥川氏ほどの「皮」を示した文學者は他にもあつたけれど、彼ほど丹念な磨きの中に精進する文學者は極めて稀だつた。彼にはいい加減の「加減」さへ分らぬ淫文家だつた。打込みは一字づつであり、一行づつの杜撰な打込ではなかつた。それ故か、彼は不思議にその文章上の苦吟に後代への「虹」を豫感してゐたもののごとく、氣質上の鑄刻的な薄命さは、顧みて又首肯《うなづ》けるところが無いでもなかつた。

 

 芥川氏の生涯の敵は志賀直哉氏の外に、何人の光背も認めなかつた。志賀氏の中に拔身を提げて這入る芥川氏の引返しには、甚しい疲勞の痕があり容顏蒼みを帶びる辟易があつた。彼の生涯の中に最も壯烈な精神的に戰ひを挑む時は、何時も志賀直哉氏を檢討することだつた。生地で行き、ハダカ身で行く志賀氏は彼の持つ「皮」の下にもう一枚ある、薄い卵黃を保つ皮のやうなものを持つてゐた。芥川氏はそれの一瞥を經驗するごとに彼自身の皮を磨くことを怠らなかつた。志賀氏は素手だつたけれど、芥川氏は何か手に持たなければ行けなかつた。彼等はその描寫の上で斯の如く斷然別れてゐた。そして彼は大正年間の描寫風な文章の型を何人よりも的確に築き上げ、これを兼て彼自身が常に總身に負ひ乍ら感じてゐたものの一つである「後代」へその八卷の全集を叩きつけて去つたも同樣であつた。

[やぶちゃん注:「八卷の全集」最初の「芥川龍之介全集」(通称「元版」)岩波書店から昭和二(一九一七)年十一月から昭和四年二月までに全八巻が刊行された。但し、犀星のこの章は昭和三年のもので、全巻発売にはまだ至っていなかった。しかし、実は室生犀星自身が編集委員の一人であったので、かく書けるわけである。而して、「芥川龍之介全集」の宣伝にも一躍かっている手前味噌でもあるのである。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 志賀直哉氏の文章の中にある「時代」はふしぎに芥川氏よりも、直接的な長命と新しさを共有してゐた。單なる新しさであるよりも以上に氣持風だつた。氣持の接觸だつた。言葉よりも頭のヒラメキを感じ美に肉感があつた。かういふ文學は凡ゆる大正年代の「文學」に於て試みられた最初のもの、その文學的な耕土の掘返しの一人者だつた。その「氣持」の掘下げは直ちに巧みに卽刻に利用され踏臺にされ、凡ゆる文學的な靑年のもつ文章に作用された。その速度ある作用は彼自身さへ知らぬ間に、美事な次への文學的な下地への吸入を敢て爲されてゐた。もうそれは志賀直哉氏のものであるよりも次の時代のものに違ひなかつた。自分は驚くべき大正年代の鏡のやうな縱斷面に、云ふまでもなく、名文家志賀直哉氏を見ることは、餘りに靜かすぎる光景であつた。その靜かさは芥川氏を圍繞《いねう》するものと同樣な靜かさだつた。

 里見弴氏も亦名文家に違ひない。芥川、志賀氏の正面的な少しもたぢろがないところの、ひた押しに迫るちからを里見氏は背負投げを食はして置いて、徐ろに彼はその巧みな餘裕のある小手先を示しこれを彼の文章の上に試みてゐた。彼のすべり、彼のなめらかさ、そして彼の最も特異な體を開いて見せる小手先、就中、彼の進んで碎けた分りのよい、鮮かさ過るほがらかさを、釣の名人か何かのやうにその糸を縱橫に投げ操つてゐた。芥川、志賀氏とは向きも姿も反對してゐたけれど、不思議な眞實を磨きあげるための描寫の中では、その蒼白い炎を上げてゐることも亦同樣な或名人型を築き上げてゐた。

[やぶちゃん注:「ほがらかさ」の傍点はママ。前の二つの傍点に徴するなら、「さ」にも傍点があるべきである。]

 彼等は日本に於て特記すべき名文家であり、文章と氣質と同樣に秤《はか》られ沁み込みを見せてゐる作家だつた。人生觀上の作家は他に求めねばならぬが、「描寫」の上に充分な記錄的存在としての三氏は、その三面相打つところの新しい「古今」を暗示してゐると言へるであらう。

 

 四 詩人出身の小說家

 

 今から七八年前に時の批評家だつた江口換氏は、自分の或一作を批評して「彼は人間を書くことを知らない。」と云つたことがあつた。自分は小癩な氣持を起して例に依つて聞き流してゐたが、事實彼の指摘する人間が書けてゐないことも、自分の胸に痞へなこともなかつた。彼のいふところは要するに詩人出の小說家が多く低迷する不用な輪廓描寫や、下らない草花や風景的な文章を抉《えぐ》り立てるところにあつた。又同時に各新聞の文藝欄に陣取る月評家等は、言合《いひあは》したやうに自分の小說がいかに詩人的であるために下らないかを品隲《ひんしつ》し、隙もなく自分の行手をふさいでゐた。併し自分は凡ゆる雜誌に腕の限り書き續けてゐるより外に、自分の力量を示すことができないやうな時代苦を經驗してゐた。自分は机にさへ對へば立ちどころに一篇の作を書くことができ、それを直ぐに叩きつけることに依つて些かも後悔を感じなかつた。此恐るべき文學的野性の中に荒唐な作をつづけた四五年の間、自分の詩は漸く衰弱し優雅な思ひは枯渴された。自分は豐かな肉を剝ぎ取られ骨だらけになつて殘存してゐた。江口換氏の所謂人間を書かずにゐて、詩的描寫のいい加減な眞向からの遣つけ仕事に親しんでゐたからだつた。

[やぶちゃん注:「品隲」品定め。]

 詩人出の作家の持つ病癖的な、胡魔化し小說といふより人生には不用な詩的描寫は、自分だけには亂次(だらし)のないものだつた。同時に詩人出小說家の八方の口は開いてゐて、何處を向いても彼の「一篇」は作ることのできるよう、多くの不用の詩や言葉や語彙や感覺を持ち合してゐた。又それ故に詩人出の小說家が飽かれること、本物の人生の眞中に行き着かないまでに沒落するのも、おもに此詩人的な素質上の濫用に原因してゐた。凡ゆる詩人出の小說家が一家を爲さない間に姿を匿し、或は滅亡するのも强ち詩人であるといふ境涯的な排斥ばかりではなかつた。詩的感情の利用から受ける輕蔑自身さへ、多くの文壇的な冷遇の所以を釀すものに近かつた。

 島崎藤村、佐藤春夫の二氏位を殘す外、詩人出に天下に地位を得てゐるものはなかつた。當然天下を二分する位に詩人出小說家の轡《くつわ》を駢《なら》ぶべき筈であるのに、殆ど寥寥《れうれう》二三氏を數へる位だつた。彼等がいかに多く詩人的であることに於て、奈何に小說家に不向きであるかが理解されるであらう。佐藤惣之助、千家元麿氏等の折折の勞作すら、殆ど凡ゆる小說的な片影さへ殘さずに沈湎《ちんめん》した。佐藤氏の「大調和」の二三の作すら決して感覺派の諸公に遲れるものではないが、作家運に惠まれない詩人出小說家の常として酬いられること皆無であつた。均しく彼等の素質的な江口換氏の指摘する「人間」を書く事をしない爲ではなからうか、さういふ江口換氏の評的の確證はともあれ、凡ゆる批評は同時に五六年の後にも猶振返つて肯定すべきものは肯定すべきであつた。月評家の須臾《しゆゆ》にして消失すべき運命的な仕事さへ、後に其作家に思當る光茫を曳くものである事も忘れてはならない。――

[やぶちゃん注:「寥寥」もの淋しいまでに数が少ないさま。

「沈湎」沈み溺れること。特に酒色に耽って荒んだ生活を送ること。

「大調和」雑誌名。佐藤春夫がよく投稿していた。

「須臾」現代仮名遣「しゅゆ」。「暫くの間」「ごく僅かな時間」の意の名詞。元は仏教用語でサンスクリット語の時間単位「ムフールタ」の漢訳。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 詩人出小說家である島崎藤村氏の近作、(女性四月号)は、どういふ方向にあつて彼は百年の大家であるかといふことを示してゐるか?――「草の言葉」一篇は島崎氏の老いたる感傷の結晶であり、冬の日の植物の心を彼自身に引當て、靜かに詩のごとく物語つたものに過ぎない。小品と銘を打たれてゐるが同時にこの老詩人の溜息を聞くやうなものである。島崎氏に於て初めてそれを公にし是を認められるであらうが、自分のごときさへ此種の文章を發表する氣がしない。かういふ寂しい氣持を盛るに何故に最つと島崎氏は人生的な織り込みを敢てしなかつたかを疑うてゐる。

[やぶちゃん注:「草の言葉」は不詳。「近作、(女性四月号)」と同一かどうかも知らぬ。「島崎藤村全集」には確かに入っていることは確認出来た。私は藤村は人間として大嫌いである。]

 

 五 時勢の窓

 

 雜誌の廢刊と圓本的墮落は新しく世に問はんとする作家に、その進路と行手を塞いで見せた。文壇への登龍門は大雜誌の光背に據る事ではなく、小刻みな雜誌によつて少しづつの聲名をつなぎ得ることに於て、漸くその名聲を小出しに羅列することすら肝要な時勢であつた。それ故新進的な湧くが如き光彩を見ることは無いであらう。新感覺と稱せられる作家等も少しづつ遲遲とした步みにより、今日の橫光利一氏、中河與一氏、片岡鐵兵氏等を爲したる外、岸田國士、岡田三郞、犬養健、稻垣足穗氏等と雖も、往年の既成作家の如き喝采の中に現れたものでない、新進の道、つねにあるが如く又その道展《ひら》けざるに似てゐるやうである。

 文藝の事たるや寧ろ小刻みな聲名による恭愼な進み方も、一擧にして表面に現れる事も其執れも惡くはないが、唯時勢は既に既成作家にすら生活的にも危機を、新進には曾て無かつた程の苛酷な試練を與へてゐる。それ故に今後新しい作家が輩出しても、或は往昔の古文人のごとき生活の苦節を敢て偲ばなければならないかも知れない。既に我我既成の徒にはその用意が出來、陋居に破垣を敢て結んでも、說を大衆に求めることも亦自らの立場を危くするものではない。未だ現れぬ新進もまた新緣の窓邊に己れを鍛へるために飢渴位は、平然として併し心で喰ひ止めて行くベき時であらう。 

 

 六 齋藤茂吉氏の隨筆

 

 歌人齋藤茂吉氏は或は文壇外の人であるかも知れぬ。文壇人であることはは齋藤氏の場合何か知ら當つてゐない、と言つても矢張り文壇の人以外ではないやうである。彼は唯作品で戰ふ文壇人でないだけで結局文壇の人であるかも知れないのである。木下杢太郞氏とともに文壇の埃や塵の外に職を持つてゐること、折折の西洋紀行の文章を發表してゐることに於て、啻《ただ》に茂吉氏が歌人でないことだけは解るやうである。

 

 昨春以來齋藤氏の滯歐紀行の數多い發表は、描寫力の素直さや洞察の鋭どさに加へて、氣質上の鈍重な併も明るい壓力を自分は感じ、さういふ描寫の少ない文壇に稀に見るよい文章だと思うた。併も齋藤氏の描寫力はいつも明るい一面と又曇天的な風景に接すると同樣な鬱陶しさをも持つてゐた。鋭どさは折折文章の下地に網の目のやうに針立つてゐたけれど、それは文章や描寫の上の企圖でさうなる職業的賣文の徒の談《かた》る鋭どさではなかつた。氣質と肉體とが行動するごとに感じる、自然な素直な鋭どさだつた。鈍重な人間のもつ深い鋭どさだつた。「西洋羈旅小品」(中央公論四月號)の一篇の中にも、歌人齋藤茂吉の吟懷は啻に齋藤茂吉の吟懷に止まらずに、その描寫の底にある誠の相貌は、人生の本道へも交涉をもたらす手腕を美事に準備し且つ表現して餘すところがなかつた。山河水色に對する氏の感情はもはやそれらを自然的な獨立性のあるものとせずに、我我と同樣な感情的な位置へまで呼込んでゐることは、彼が歌人として「赤光」以來の秀拔の偉才を示してゐるものであるが、しかし彼は山河の相貌に單に同化作用を起してゐるものでなく、實に彼は淚ある山嶽の姿に接觸するまでの、それらの自然のもろさに抱かれてゐる氣持を經驗してゐる。かういふ感情の微妙以上の微妙さの中にある茂吉氏の描寫は天下の文章に對《むか》うて挑戰せずに靜に隔月位に發表され、識者にのみ愛讀されてゐるばかりである。かういふ秀れた文人の位置に自分は感激の言葉無きを得ない。

[やぶちゃん注:「西洋羈旅小品」「斎藤茂吉全集」(岩波書店版)の目次には見当たらない。不審。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 歌人齋藤茂吉氏が大正三年代に出現したことは、當時の歌壇を粉碎し根本から建て直した。併しそれにも勝る彼の目立たぬ文章の上の仕事は文壇の外側を靜に流れてはゐるが大河は自ら人の目にふれないでゐない、――それらの描寫には左顧右眄が無く、意識的な調和や作法やうまさを練ることなく、鈍重に尖鋭な、細緻に粗大な、折折氣質上の明るい悒《いぶ》せき哀傷を沁み亘《わた》らせてゐる。時にある會話のうまさと美しさ、それは生きてゐることばをそのまま兩手にすくうて、そつと紙の上に置いたやうにまで自然な呼吸づかひを知つてゐる。不思議に文章に時代の匂や調べが査《しら》べられずに、十年後にも古くならないものを持つてゐる。歌人の臭みを帶びず、きざな氣取りが無く、しかも彫刻的であることに於て原始的な鑿《のみ》の冴えをもつてゐる。これを歌人の文章であるといふことに於て片付けることは、彼の何物をも知らぬ者であらう。事實に於て彼は歌人の境涯を拔け出てゐることは、描寫の確實な獨立性のある未來を證明してゐるからである。

 

 七 勞作の人

 

 德田秋聲氏の「日は照らせども」(文藝春秋四月號)を讀んで、何よりも事件の經過の上に、作者として凡ゆる手腕を盡せるものであることを知つた。その複雜な事件的な人生を澁滯なく押し開き、それに解決を與へないでゐるところ、凡ゆる父親の平凡性を一步も出ないでゐること、自ら處理し裁きを强調すること無きところ、尠くとも作品の上に何等の愚痴や口說きのあとがなく、白髮的な嚴霜《げんさう》を偲ばせる一父親の面目の窺はれるのは、讀者として自分の快く感じた所以だつた。

[やぶちゃん注:「日は照らせども」昭和三(一九二八)年四月発行の『文藝春秋』に発表された恋愛小説。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

「目は照らせども」の人生にはその素材の上で、もはや批評的なものの插人されない確實性を持つた作品である。かういふ人生の諸事件的な作品への斬り込みは、無理にその隙間へ鑿を入れてコヂ開けねばならぬ。さういふ俗流の批評は自分にはできない藝當である。このやうな作は若い人のためにどれだけ存在していいか分らぬ。この中に妙に人に敎へる描寫的な人生を物語り、且つ暗示してゐる。これは德田氏の中に持つものの德の一つの現れであらう。決して作品的な剌戟に據るものでなく、或親切な作品はかういふ風に書くべきであるといふ約《つ》ましい指導が、作者も意識せずに讀者はそれを何氣なく獨りで受入れ會得するやうである。作の一つも書かうと意圖する者、作家たり得る者へも此感情が働き繫がつて行くのは、他の作家には全然無いと言つてよい。作家として彼がかういふ位置にあることは、いかに彼が人生への直面的な原稿紙と彼との間に、隙間の無いことを證明するものに外ならないであらう。そして彼が何よりも小說の先生であることを否めない。彼が益益小說の先生であり得ることにより彼の實直な人生記述者である符牒を一層重い位置に押上げるであらう。

 

 昨今の文壇で活躍したのは、北村小松氏や片岡鐵兵氏、又かういふ僕自身でも無かつた。瘦魂《さうこん》よく世評に耐へ信ずるままに生活し、又數多くの勞作を爲し得た德田秋聲氏であつたらう。その人生に處するところの老骨は、彼が末期的の餘燼の中に眞率な正直過ぎる程の組立を敢てした。冷笑と漫罵の中に荒まずに一層愛すベきものを愛し、いそしむべき作を怠らなかつたのは、何と言つても「嚴霜」的であり、何處までも彼自身を以て遂に押し切つたことは美事な勇敢さであつた。數多くの作品の中にある尖りと不安とに震へてゐた愛情も、年を經て作に重要な美しさ素直さを發見されて行くであらう。例令、それが老境に點ぜられた一女性の兎角の事件であつたにせよ、包まず匿さず堂堂と寧ろ人間的なほどの發露を敢てしたことは、遂に彼の場合のみでなく一文學者としての最後の氣魄を示したことは、人目を忍ぶ老醜的痴情の多き現世に、正直なほど壯烈なる人生の最後の炎を上げたことはその作品の上に秀作を求め得られた點に於ても、我我は德田氏を先づ活躍した昨年の重なる人物としなければならぬ。

[やぶちゃん注:「北村小松」(明治三四(一九〇一)年~昭和三九(一九六四)年)は劇作家・小説家・脚本家。当該ウィキによれば、『青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校』『を経て』、『慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の』映画「マダムと女房」(昭和六(一九三一)年公開の日本初の本格的トーキー映画。五所平之助監督)など、『多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた』。「人物のゐる街の風景』(大正一五(一九二六)年)が『初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した』。また、他に翻訳もある。終戦の翌年、『公職追放を受けて活動停止追放処分とな』ったが、昭和二五(一九五〇)年に解除された、とある。]

 

 八 作家の死後に就て

 

 近松秋江氏の「遺言」(中央公論)の中には、綿綿たる子孫に對する露骨な一文學者の「遣言」的なものが書かれてゐる。かういふ内容は近松秋江氏ばかりでなく、尠くとも子供を持つてゐる作家の陰氣な午後の想念を悒《いぶ》せく曇らせて來るものである。此場合近松氏は最も己を語ることに情熱を多分に持つ饒舌家であり、その事に依つて他を憚るの人ではない。しかも憂慮や懸念の情が寧ろ敍情的な愚痴の形態を取つてゐるのは、その性質的なものの上に止むを得ないことであらうが、さういふ愚痴を愚痴ることによつて死後の「彼」自身を見ようとするのも、現世の苦勞人秋江氏が未來へ働きかける物哀しげな感情の吐息であらう。併乍ら最も壯烈な生活者としての凡ゆる俤《おもかげ》の中には、子供や遺族を思へば思ふ程押强く現世に坐り込むのが、老境の重厚な態度でなければならない、秋江氏には此境の物腰が坐り切らないで、語るに急ぐはその子を愛する感情を誇張してゐると言はれても、それが或程度までの本統[やぶちゃん注:ママ。]であることも首肯けよう。老境にあつて子を思ひ遺族への念ひを潜ませることは、常に鐵の如き意志が無ければならない。若し我我が老境に於て嘆き悲しみを敢てしなければならないとしたら、その鐵を打碎くの槪がなければならないのは、文學的老境の大地盤のできた後に何の不思議があらう。

[やぶちゃん注:「遺言」は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある「新選近松秋江集」(昭和三(一九二八)年改造社刊)で読めるPDF一括版。「287」コマ目から)。

 次の一行空けは底本のママ。]

 

 我我は作家の遺すべきものは改造社や春陽堂の印稅の計算ではない。吾吾の遺さなければならないものは只一つよき作品の威光や信賴であり、そのよき作品が命令する現世的生活の物質充塡であるとしたら、最も壯烈なる作家は葬費をも用意しないで逝去すべき榮譽を擔ふべきであらう、吾吾の死後の吾吾の遺族は改めて彼等の生活を敢て實行しなければならぬ。そのために彼等の必要とする養育費が、父親の作品の命令による當然の物質的な收入があれば兎も角、それらの收入が無かつたことは作家として後代へ傳へるものの無かつた所以である。吾吾の死後に敢て爲される吾吾の子孫の輕蔑や冷笑こそ、或意味に於ける最も辛辣な批評たり得ることは否めない。一つの叙情、子孫への公開狀であるところの「遺言」の本體も、結局は近松氏の大なる愚痴の中に、彼自身の心に養ひ得た永年の描出的遺言たるに止まつてゐるだらう、綿綿の情はよく人をとらへ得るが、吾吾の聞きたいのは鐵の自ら烈日の下に燒け伸びるごときを、「遺言」の壯烈な中に望みたいのである。しかも彼が彼の精神と肉體への衰弱期にあれほどまでに後慮の愁や心配りを敢てすることも、彼一人ではなく人の親の中にあるものであるが、同時にそのためにこそ腹の底に押し沈めて置くべき生涯の用意ではなかつたか?――何ごとも默然として老の日を步め、口を利かず敢然として御身の途を步め、かういふ言葉こそ若し老の日にあらん時に僕たちの考へることである。

 

 我我はどういふ意味にも吾吾の死後の安らかな遺族を想像することができず、又安らかな遺族を想像し得ても今日の我我には用が無い。吾吾の生きてゐる間にすら不幸な貧しい生活が、吾吾の死後に於て安らかであることは絕對にない。吾吾の遺族は我我と生活を俱にしたため、凡ゆる貧と戰ふくらゐの心の用意は既に覺悟しなければならない。吾吾の生きてゐる間にピアノを習つてゐた娘らも、或は燐寸《マツチ》の箱張りをしなければならないかも知れない。學校も中途で廢めなければならないかも知れない。さういふ窮乏の中にこそ吾吾の子供は生き育たねばならぬ。吾吾の妻はボロと垢とから立ち上り、これらの子供のために凡ゆる燐寸の箱張りや女工、派出婦まで成下り働かねばならぬ。一文人の内妻の成下りは決して不名譽ではない。敢然として一文人の妻として凡ゆる賤業に就くことは、錢餘りて飽食するよりどれだけ文人風であるかも知れぬ。我我が吾吾の遺言を敢てすることは「用意はもうできてゐるか」と唯一言で濟むだけである。この言葉こそ吾吾の全生涯へ雷鳴のごとく傳はるべきである。同時に派出婦とまでに成下つた吾吾の女らやその娘の生涯にも、依然たる此雷鳴のごとき聲を常に落し記憶させねばならぬ。一文人はその一代で亡びてしまへばいいのだ。近松氏の「遺言」一篇に依つて自分は以上數行を考ヘ得たことを謝して置く。

 

 九 「文藝趣味」の常識化

 

  自分の文藝的な生ひ立ちの時代には、單なる文藝趣味といふだけでも極めて少數な仲間にのみ限られ、文藝的な人物といふ目標だけでも可成りに新しい異端者の樣に思惟されてゐた。親兄姉は勿論の事、親戚の間柄にすら一種の左翼的な思想として吾吾の文藝趣味は危險視され嫌厭されてゐたものであつた。それらの頑迷さに最後まで戰うて來た吾吾の今日から見れば、凡ゆる文藝趣味の一般化は、常識としての文藝の存在を意味し、どういふ靑年にもなほ文藝の理解に遲れた者が無く、社會的な日常應酬にも現代の文藝が揷話されるやうになつたのは、彼等靑年の父や母の智識的成長を物語ると同時に、曾ての長髮的文藝趣味の願廢と沒落、文學者風の生活の放埒と衒氣とから完全に脫却されたものであつた。今日の靑年は詩や小說を書かないものは無く、また詩や小說を創作し得るといふことは、往昔の靑年が歌俳諧を作り得ると同程度の、廣汎な意味の常識たる以外に何等「藝術的」なる特種の人物でないことを證明するに外ならないものだつた。それ故文藝批評を以て靑年間の日常生活の目標たり得ることは、何等の疑ひもなき一般的な文藝の普及を物語るものであつた。

 文藝趣味を危險視したところの一つの封建、それらの成長が靑年間に流布されることの憂慮を以て終始してゐた道學者及び吾吾の周圍は、今日の文學的な諸《もろもろ》の表現に依るところの根本的な人間學の要素が玆《ここ》にあつたことに氣付き、再び文藝趣味に鉾を向けることは無くなつた。そして靑年の一般的な解釋による文藝趣味は、それ自身を吸入することによる離れた愛讀者風の好尙と、又文藝を制作することに依る意欲的な好尙との、自ら二手に別れて文藝城を包圍してゐることも實際であつた。文藝を文藝としての位置に客観的眺望を以てするものと、それを制作する側の位置とが凡ゆる靑年間に識別され得たのも、文藝の何物であるかと云ふことの理解を必然に會得したからであらう。才能無くして文藝の使徒たることは往昔の靑年の意企であり、今日に於ては最早問題にすらならない。

 

 十 大センチメンタリズムと長篇小說

 

 トルストイやドストエフスキイの長篇小說の中に洪水のごとく奔流して盡きなかつたもの、ニイチエやワグネルを包む重厚な城砦《じやうさい》的な感情の壓力、凡ゆるベエトオベンの組織的な會曾ての表現の内で最も完全な表現だつたシンフオニイ、ミケランゼロ、ドラクロア、ゴヤ、それらは一つとして大センチメンタリズムの蘊奧《うんあう》を極めてゐないものはない。最も有害な錄で無しの紙屑センチメンタリズムもその人間の大成期に於て「落着」を表はすことは、猶俗流の間にさへ認められないこともない。

[やぶちゃん注:「蘊奧」(「うんあう(うんのう)」は「うんあう(うんおう)」の連声) 教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。「奥義」「極意」に同じ。「薀奥」とも書く。]

 あらゆる長篇小說の軌道に必要なるものは、終始渝《かは》る無き熱情の發揚であり、大センチタリズムに磨きをかけることに依つて、その人生的な建築を爲し遂げることができるであらう。大センチメンタリズムの影を見ること無き長篇讀物は、その讀物としての性質上、ただちに倦怠を腐釀《ふぢやう》することはいふまでもない。長篇小說の上の倦怠は罪惡以上の僞瞞であることを知らねばならぬ。彼等の讀物としての用意と條件との過程に於て時代的であり、凡ゆる人生の相貌の橫縱の幅や奧、そして最も約束されねばならぬことは、何よりも思想的な時代の潛在層が唯一とされることである。彼等はそれ自身で時代の新聞でなければならず、あらゆる反射鏡的な效果ある六百萬人の抱擁をも爲し得る、大通俗のハガネによつて切斷されねばならぬ。「戰爭と平和」「罪と罰」の存在、西鶴物の各物語の存在、ワグネルとベエトオベンの唱道、そして我我は、――我我作家はその生涯の内に三つ以上は決して書き得ない長篇に手を觸れねばならないのだ。種種なデツサンを爲し終へた後の我我が必然着手しなければならない仕事は組み建てられた塔を初めから遣り直すことである。その仕事への打込みは、我我を包圍する大センチメンタリズムに據らなければならないのである。今日まで吾吾の日夜攻勢して來たところの凡ゆる弓矢の巷、あらゆる硝煙の的であつたところの一つしかない、今見紛らすと復永く打ち攻めることのできない大センチメンタリズムを攻め上げることにより、吾吾の長編小說の軌道を明らかに認識することができるであらう。

[やぶちゃん注:「僞瞞」「欺瞞」の誤用の慣用語。]

  吾吾の爲し得たところの凡ゆる作品的經驗とその量積、自然に我我を押し上げたところの一つの人生的なクライマツクス、聳える一つの塔、その塔にともしびを點すことにより、其窓窓を明るくすることに依つて、吾吾の長篇小說、生涯の仕事、吾吾の最後の情熱を盛り上げることができるであらう。吾吾のもう一度立ち上ることをも約束し、又吾吾の過去の或はやくざな仕事すら奈何に「今日」の我我を築き上げるために必要だつたかを人人は知り、人人はこれらの塔を初めて見上げて、絕えず人生への睨みを忘れなかつたところの我我及彼等を注目するであらう。

 

 十一 政治的情熱

 

 今度の選擧で自分も勞農黨のM氏に一票を投じた。政治に興味を持たない自分だつたが、何か旺《さか》んな情熱を感じ其情熱に觸れることは好ましい愉快さであつた。尠くとも其時代的な炎を自分だけのものとして手强く感じることは、日頃の倦怠や文弱の暮しから見て勇ましいものに違ひなかつた。自分は此雜然たる喧騷の中に我我も待ち得、又同感し得る情熱のあることを不愉快に思はなかつた。

[やぶちゃん注:「勞農黨」大正一五(一九二六)年三月五日に創立された左派政党である労働農民党の略称。当該ウィキによれば、前年十二月に『結成された農民労働党が共産主義と繋がっているとの嫌疑で即日禁止された』『ことから、当初は左派を排除した形で結党されていた。中央執行委員長には日本農民組合委員長だった杉山元治郎』(もとじろう)『が就任』したが、『結党後に地方支部が組織されていく過程で左派が流入、親共産主義の立場を取る左派の地方党員と反共主義の立場を取る右派の幹部が対立し』、早くも同年十二月には『右派が脱党して』「社会民衆党」『(委員長は安部磯雄)を結成』、『相前後して中間派が』「日本労農党」『(後の委員長が麻生久)を結成し』、結果して『労働農民党(委員長は大山郁夫)は左派が主導権を握った。三派が鼎立した』。『分裂後の労働農民党は大山郁夫委員長・細迫兼光書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった』昭和三(一九二八)年の第十六回衆議院議員総選挙(犀星の言っている選挙はこれ)では、『権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣営に対する弾圧は強烈をきわめた。このときの現地の運動員として、当時農民組合の指導にはいっていた後の小説家島木健作がいた。しかし、全国で無産政党最多の』二十八『万票を獲得し、水谷長三郎と山本宣治の』二『名の当選者を出』した(孰れも京都選挙区)。『山本は帝国議会で特別高等警察(特高)の拷問行為を暴露することを得意としたが、右翼青年に暗殺された』とある。

M氏」不詳。]

 菊池寬、藤森成吉《せいきち》二氏の落選には、分けて菊池氏の落選の報を得たときは何か腹立たしかつた。彼だけは公平な眼を以て當選させねばならなかつた。自分は號外を見て暗い街巷に佇んで二重に腹立たしかつた。彼が蒼蠅的新聞記者から文壇の大御所などと謳はれることは取らないが、さういふ下馬評を外にし、勇敢な彼は、文壇的一城主を負うて立つ、他の城主等の持たぬ不斷な「戰國時代」の地圖を開いて見てゐる男に違ひなかつた。神經質ではあるが「粗大」を持つてゐることも事實だつた。かういふ意味では中村武羅夫《むらお》氏もまた「租大」な野性を持ち合してゐた。彼等の此「粗大」は谷崎潤一郞氏の作品の相貌に於ける「大谷崎《おほたにざき》」たる所以のものと自ら異つてゐるが、菊池中村二氏の有つ粗大さに、何時も社會的な時代相ともいふベき、何か文壇の流れを突き拔けたものを持ち合してゐた。と言つても彼等は同時に社會的事業に加はつてはゐないが、ともに文壇社會ともいふべき雰圍氣の中に何時も何等かの「炎」を上げてゐることは疑へない事實だつた。

[やぶちゃん注:「菊池寬、藤森成吉二氏の落選」菊池は同選挙に東京一区から社会民衆党公認で立候補したが、落選し、藤森は長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれで、労働農民党公認として長野三区から立候補したが、次々点で落選した。

「中村武羅夫」(明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四九)年)は、当該ウィキによれば、『北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのを』契機として明治四〇(一九〇七)年に上京し、『大町桂月、徳田秋声と親しくなり』、『彼らの紹介で、小栗風葉門下に入』った。『後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された』大正一四(一九二五)年には、『プロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として『不同調』を新潮社から刊行し、岡田三郎・尾崎士郎・今東光・間宮茂輔らを糾合』したが、昭和四(一九二九)年に休刊した。『代わって『近代生活』を創刊、新興芸術派の拠点とし』、また、前年昭和三年六月には編集長となっていた『新潮』に評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」で『マルクス主義文芸派を真正面から批判し』、『「芸術派」の結集をはかったものとして名高い』。昭和一六(一九四一)年八月に箱根の『日本精神道場で行なわれた大政翼賛会主催の第一回特別修練会に、瀧井孝作、横光利一らと共に参加。昭和』十『年代後半には日本文学報国会設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として立場を失い、新潮社を辞して』程無く、『辻堂の自宅で原稿執筆中に脳溢血を起こして死去した』とある。犀星(昭和三七(一九六二)年に肺癌で没している)は結果して「社會的事業に加はつて」『「炎」を上げ』た、彼の末路をどう考えたのか、ちょっと聴いてみた気がする。]

 ともあれ菊池氏の落選はその報を得てそれを知つた自分を極度に陰鬱にした。同じ文壇の空氣を吸つてゐる同士のよしみは、平常彼と言葉を交す機會のないにも拘らず、自ら異常な意識の下に潜り根强く働いてゐることを、自分自身のために發見もし喜びもした。藤森氏は鄕里の鬪爭ではあり當選するものと思うてゐたが、自分はその不幸な報を得て意外な思ひをした。溫恭《をんきよう》なる彼のために自分も逆流する殘念さを感じるのであつた。藤森氏が勞働もされ其道につかれたことには、自分は別に說をもつてゐる者であるが、ともあれ、あれ程の勞苦を思ふだけでも彼も疑ひなき當選者でなければならなかつた。この苦き經驗は或はよき次の時代を形づくることを自分は信じて疑はない。

[やぶちゃん注:藤森成吉は明治二五(一八九二)年生まれで、犀星より三つ年下。昭和五二(一九七七)年、散歩中、トラックに轢かれたことが原因となって死去した。]

 

 十二 大衆作品本體

 

 自分は大衆文藝といふものに未だどれだけも親愛の情を感じてゐない。一つには大正年間に發展した此新樣式の作品が、自分を根本から動搖させ感激させないからである。自分を敎育した今日までの諸種の純文藝作品は、人としての手ほどきから細かな其心持の構へにまで入り込んで、殆ど完全に自分の人間學を卒業させたと言つてよい。かういふ今の自分を建て直し牽制すべき新樣式の陣容は、全きまでに自分を壓倒して來るところの、今までに無かつた素晴しさを持つものでなければならない。尠くとも自分を永く考へさせる凝視的な集中を此新樣式の文藝の上に注ぎたい熱望を持たねばならぬ。

 大衆文學は僕のごとき文藝の士の讀物である限り、僕程度の讀書力への剌戟と牽制である限り、又凡ゆる讀書階級を抱擁する通俗の可能性を持つものであるとすれば、タテからも橫からも隙間のない渾然たる新作品の發揚でなければならない。凡ゆる過去の純文藝の鋭どさ深さをもつ作者の用意があり、それらの純文藝的氣質からも岐《わか》れて出た目覺ましい一つの進み方としての、これらの大衆作品の陣容が存在し得るとしたら、それは軈《やが》て僕を人にならしめた諸の小說中の人生への睨み方の訓育と同じい效果を、大衆自身の頭や心臟へ抛げつけるであらう。讀み物は單に面白い範圍のものは絕對に作者側の良心から抹消さるべきことであり、讀者側からは面白かつたといふ興味ではなく、面白くもありタメにもなつたといふ事實、その作品自らにあるよき營養ある人生學や人間學の諸相が、一作品の讀後にすら影響するといふことが、大衆作品のよき標準であり目的であらねばならない。大衆作品の陰鬱な過去――中間讀物時代から今日までへの脫却と進路には、まだ嚴格な内容への檢討が爲されてゐないことは、漸く大衆的なといふ呼聲の流行の鎭まりかけた今日に於て、辛辣にこれを解體し批判する必要があり、彼等がどの程度までの心臟的讀物であり得たかに就て、大衆自身が旺盛な大俎《おほまないた》を搬出するであらう。それは時を經て彼等自身の反省によつてのみ此新樣式の存續を意味するであらう。

 圓本流行の今日の大衆階級の進み方は、トルストイやドストエフスキイ、イブセンやストリンドベリイの中にある大衆性、その莫大な通俗性を嗅ぎ出したことも事實である。尾崎紅葉、夏目漱石にある通俗への妥協、凡ゆる大作家の持つものが常に藝術的であり得ると同時に、又通俗的な透明な太い線を全作品の中に刺し貫いてゐることも事實である。

「レ・ミゼラブル」の大通俗の用意、「罪と罰」の伏線、「復活」の人間學初步、これらは今日に於て殆ど何人もその大衆性のある作品であることを否む人はなからう。讀書階級が進むことは奈何なる峻峯的作家をすら一先づ大衆自身の大群衆へまで引き下ろさねば承知しない。芥川龍之介、谷崎潤一郞すらも、大衆自身は敬意ある眼付をして「面白さ」の中へ引き込んで、今日に於ては既に消化してゐるではないか。吾吾のいふ大衆作品が生やさしい樂ないい加減な仕事ではなく、一時の流行的作爲を弄するものではなく、純文藝の本流に交流すべきものであることは明白であらう。中間讀物の成上りや純文藝の苦節に耐へなかつた輩が、此群衆的な大センチメンタリズムの本道を濶步することは、軈て初めて自ら滑𥡴であつた彼自身の姿な見出すであらう。凡ゆる大衆作家は手厚い重みのある濶步を純文藝の本道の上にまで踏みつけ得ることにより、光榮ある此新樣式の中に文學としての古今に氣脈を通じるであらう。今の混戰された中ではどの程度までの大衆作品であるかといふことを識別しがたいと言つてよい。

 

 十三 稻垣足穗氏の耳に

 

 稻垣足穗氏の近代文明に對する解說、及びそれらに根をもつ制作は一時のやうに自分にその「新鮮」さを感じさせなくなつたのは、氏がその特異な材料にのみ每時も同じい開拓をしてゐる爲ではなかつたか。自體最も危險である「新鮮」を目ざして進むことは、巧みな轉期や速かに體をかはすことに於て、その「新鮮」を支持して行くものであるが、當然行くべき重厚さへも辿り着かずにゐるのはどうしたものであらう。

「黃漠奇聞《くわうばくきぶん》」を書いた彼の文學は、凡ゆる感覺派の作品の上に輝いてもゐたし、またああいふ文學は三度出ることも尠いであらう。空想の建築的量積がどの程度まで歷史的考證に運命づけられてゐるか。人間の空想力が決してその作者が一代にのみ釀成されるものでなく、稻垣氏の祖先からそれらの空想が存在してゐたものであり、彼により初めて形を爲したと言つてよいのである。さういふ「黃漠奇聞」の作者たる稻垣氏が性來の怠け癖から、樂な物ばかりを書くといふことは、我我讀者から彼の「耳」に囁いて奮勵を望まねばならぬ。彼の「耳」がそれを聞かない風をしたときに、自分は囁いた序に彼の「耳」に嚙みついてやらねばならぬ。

[やぶちゃん注:「黃漠奇聞」私は未見なので、サイト「ラバン船長のブックセイリング」のこちらを参照されたい。因みに稲垣は私は生理的にだめで(多分、若い時に見た彼の写真が原因と思う)、最後の一撃はいかにも犀星らしく、非常に爽快である。]

 

 十四 情熱と良心

 

 我我作家に恐ろしいものは情熱の膠化《かうくわ》された時代、良心の燻ぶりかけ麻痺されかかつた時である。どういふ作品の劣性の中にも情熱が一すぢ起つてない時は踉《つ》いてゆけない。讀むことも情熱の作用のない限り讀めるものではない。吾吾の不斷に鍛へかけるものは最《も》う情熱を搖り動かすことより外に、その作者としての良心の打込みがないやうである。情熱の沈潜された時はそのままの「沈潜」で讀めるものであるが、乾燥され膠化されることは作者の危機とまで言つてよい。我我にさういふ膠化した狀態は何時でも來てゐるが、それを敲き破るか、そこでもう一度振ひ立つかしなければならぬ。殆ど目に止らぬ膠化狀態にある自分を自覺することも作者の良心だ。自分で自分を胡魔化すことは止すがいい。いい加減なところで「濟す」ことはもう止めるがいい。

[やぶちゃん注:「膠化」ゼリー状に固まること。ここは「固まり始めてしまうこと」の意。

「踉《つ》いてゆけない」この「踉」には「躍る・飛び上がる」の意の他に、「行こうとするさま」の意がある。その当て訓と採った。ネットで「踉いて」で検索すると、複数の作家が「踉(つ)いて行く」というような表現を使っていることが判った。因みに、「ウェッジ文庫」版でも「つ」とルビを振っている。]

 

 十五 流行と不流行

 

 最近作家生活の危機を暗示しそれに屬する自分の道を瞭《あきら》かにした。自分の如き思ひを摧《くだ》くの作家も自ら生活の内外を警戒したであらう。雜誌や單行本の不振と作家に作を求むる事尠き近時に於て、徐《おもむろ》に破顏一笑を以て是に當るは、文人の心漸く我我に宿つたも同樣である。紅葉、露伴の昔、秋聲、白鳥の苫節の時代を思へば、今日吾吾の赤貧を以て文事に從ふは、寧ろ壯烈な誠の期臻《きた》れるものに違ひない。

 由來文壇の流行と非流行の影響が作家の心境に及ぼす憂欝なる極印《ごくいん》くらゐ、その作家を悒《いぶ》せく苛酷に取扱ふものはない。或は作家を再び立てない程度にまで卑屈にするものも、その作を求められる事無き懊惱《あうなう》の時期にあるのだ。作者はそのプロレタリアの徒であると否とに拘らず、作品を以て常に歇《や》むなき彼を示し、或は休息なき我を押し立てねばならない。それこそ苦痛に鞭打ち蒼白い嘆息の中からも、寧ろ戰慄すべき作家的炎を搔き立てねばならない。此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗敎的な雰圍氣の中にさへ押立ててジヤアナリズムの墮性と麻痺とによるものと對抗する外はない。絕對的なまで作品のみによる作家生活の本道は、この作品の苦節と打込み以外には立てないのである。今目の產業或は事業的不況に墜落した底の中でこそ、誠の作家は流行不流行に拘らず煮湯を飮み喘ぐのも亦面白い興味のあることであらう。

[やぶちゃん注:「極印」元は江戸時代に金・銀貨や器物などの品質の保証や偽造の防止などのために打った印を指し、転じて、「動かしがたい証拠・証明・刻印」の意となった。]

 作家は作中にゐない時は氣持の速度に平和はあつても、嚴格な鉾先の鋭どさを失うてゐることは事實である。作家はその作を示さない時に進步はあり得ても、それを釣り上げる鈎《はり》を失うてゐることは危險である。やはり作家は絕えず書き、書くことと同樣な頭にヒラメキを起らせる機會を失うてはならない。求められる事により一層彼は彼の鍛へを彼自身に加へなければならない。今日に於て作を求められることは其物質的表現に拘らず、それは誠の彼を求められるものに違ひなからう。全く自分らは精神の碎片(かけら)を手渡してゐる自信を持ち得てゐるのである。精神の碎片、氣持の中の雲霧、それらによりヘトヘトに疲れた大切なものを手渡しすることは、好況時代に於ける濫作時の彼や我の比較ではないであらう。

 凡ゆる編輯者は作家の中の鋭い星を射《い》り當てるものでなければならない。作家の苦節に對する一つの友情でなければならず、彼等と吾吾のよき挨拶と情熱とによる朗かな提携以上のものでなければならぬ。編輯者は又慘酷な拒絕者であり得ても、同樣に作家の雰圍氣の熾烈さを搔き分け見立てるものでなければならぬ。よき編輯者によるよき作家のつどひの美しさ、彼等と我我はその喜びに昂奮するお互ひの氣持を忘れてはならぬ。さういふ表顯《へうけん》が形づくる一つの雜誌は最早「雜誌」なるものを超えて、直接友情なるものをその讀む人人に囁くであらう。「雜誌」が何よりも輕薄な雜誌の役目を果す前に、これらの後後までも讀まれる永い讀書の種子を撒いて置かねばならないのである。

[やぶちゃん注:「表顯」具体的な形で広く世にあらわし示すこと。]

 又凡ゆる編輯者は流行不流行に拘らず、文壇にすみずみに目を行き亘らし作家の精進と努力とに絕えず眼を放つてゐなければならない者である。作することによりよくなる作家を見失うてはならず、其作家に鍛へを呼び起すものも亦大なる編輯者でなければならぬ。編輯者は同時に批評家の位置にも亦作家同樣の實力をも抱擁し、作家に肉迫し作家も編輯者へ肉迫し壓倒しなければならぬ。自分はかういふ二つの迫力の世界に我我や彼等を置きたい希望に燃えてゐるものである。

 

 十六 文藝家協會に望む

 

 文藝家協會の事業は着着實行され成績を擧げてゐることは、殆ど何人と雖も肯定し得るところである。自分は先般來圓本流行の折にも協會が干與《かんよ》し、其人名の遣漏を指摘するやうな立場に有り得たならば、作家を網羅する上に萬萬粗漏が無かつたらうにと思へる程である。

[やぶちゃん注:「文藝家協會」正式には「日本文藝家協會」。大正一五(一九二六)年に「劇作家協会」と「小説家協会」が合併して発足。初代会長は菊池寛。昭和一七(一九四二)年に一度、解散して「日本文学報国会」に吸収されたが、昭和二一(一九四六)年に再発足した。

「干與」「關與(関与)」に同じ。但し、「關與」の場合は歴史的仮名遣は「くわんよ」となる。]

 圓本に於ける作家の選定は出版書肆の成算にあることは勿論であるが、同時に書肆は協會にも建議し、協會は協會の認めるところの有爲の文人を推薦する權利を持たねばならぬ。書肆の意嚮《いかう》外の文人であつても協會の嚴格なる推薦に據る文人は、一層手强くその文人的に不滅な光榮ある作家でなければならぬ。さういふ意味に於ける作家をも書肆はこれを加へるところの、當然な雅量を自覺せねばならぬ。圓本の如きは元元作家と書肆との美事な二面相打つことに依つて、その事業を完成すベき性質のものであり、決して書肆の獨立的な事業ではない。これは强《あなが》ち圓本に限らず凡ゆる書物を出版する時に於て、著者と出版書肆の間によき感性上の融合があつて後に、世に問ひ其美や淸さや値を品隲《ひんしつ》さるべきものである。圓本の如き現象には最も親切であり事務的である協會が、自ら作家の間に甚しき遣漏を努めて避ける如きことをも、その事業の一項に加ふるべきである。上演料や著書其他と同じい結果を最近に協會が其成績の上に擧げられんことを希望する。一つには改造社あたりの文學全集が誠の全集だとするには、餘りに巨鱗を逸してゐる恨《うらみ》があるのである。併しそれは單なる片片たる改造社の問題ではなく、以後協會の爲によき指導をその杜撰な集篇の上に加へることを忘れてはならぬ。

 一代の文人は大厦高樓《たいかかうろう》の中に住むのはよい。又一代の文人は當然に其得べきものを得ずして赤貧に甘んじるのもよい。只さういふ現象が習慣的な世俗意識の中に加へられることは、各作家のために警戒すべきことであらう。同時に大厦高樓に住む文人も自ら警《いまし》めて此文藝的な溫かい愛情からも、協會と相伍して今日の資本家に當るべきであらう。

[やぶちゃん注:本邦の著作権は、国際的な著作権を定めた「ベルヌ条約」が締結された翌年の明治二一(一八八七)年に「版権條令」が制定され、二年後に「版権法」を制定しているが、「ベルヌ条約」に日本が加盟したのは、明治三二(一八九九)年年四月十八日で、同年七月十五日から国内法として「旧著作権法」が制定履行された(「版権法」等の関連旧法は同時に廃止された)。現行の「著作権法」は昭和四五(一九七〇)年であった。]

 

 十七 批評と神經

 

 自分は十年間殆ど月評する立場にあつたことがなく、從つて他人の作品に自說を持ち出した機緣の無かつたものである。自分の考へを僞瞞無く人に傳へる困難は、槪ね卑劣な場合を除く外はよく思はれる例しがない。他の作品に自分を食ひ入れることは神經の痛みを感じてならないものである。自分は他人の平穩な氣持に交涉を求めることの影響を恐れてゐるものである。さういふ細心な神經の震へに觸れる作品、神經が隈なく作品を網の手に搔き搜ることは、自分の批評の中では阻止しがたいものである。

 月評も亦修養の一つでないことも無い。頭のハタラキを自然に試驗されるところの、彼自身莫迦なら莫迦をこれ程叮嚀に告白する機會に立つてゐるものはないからである。彼等の多くは勇敢であるために倒れ、鯱のやうに尖り立つて沒落した。

 自分は批評の眼目に於て既に殺氣を感じてゐた。併も今は自分にあるものは殺氣ではなかつた。朗かな正當な、顏を赧《あか》らめる必要なき自分を握ることができたのである。凡ゆる批評の靜かさの中にゐてこそ、他人の作品の中へ入ることはできるが、文藝の値は騷騷しい殺氣の中に品隲され得るものではない。靜かな上にも靜かな、呼吸の通ふ音すらも聽えないところで自分は詰め寄るより外はないのである。さういふ自分の批評の立場にあることを闡明にすることは、或は一つの德望であるかも知れぬ。

 

 十八 武者小路氏と「時代遲れ」

 

「殺される男」(中央公論)武者小路氏のこれまで見た多くの作品の中に脈打つ、思想的な問題を取扱つたものであり、自分は何度も見たやうな氣がしたのは、恐らく彼の單純な同じい韻律を含む表現に據つたためであらう。武者小路氏のかういふ表現の型は自分には頭に這入《はひ》り過ざ、這入り過ぎてゐるために再描寫の感覺を强ひられるのである。その簡素な日常の言葉どほりの表現は、その内容の死に直面したものをありありと感じさせても、自分の心を二重三重に取圍み染染と沁み徹らせて來ない。死の問題にしても其作者の氣持の眞劍さはあつても、コナれるだけコナれてゐない。心にぴつたりと吸ひ付いて來ないのである。

[やぶちゃん注:「殺される男」は「殺される人々」の誤り。昭和三(一九二八)年五月号『中央公論』に載った。「書肆田高」のこちらを参照されたい。同号には、室生犀星が「山のほとり」を掲載していることが判る。]

  武者小路氏の新しい文章や感激といふものも、其値の新しさは持ち乍ら何か時代遲れの感じである。それは一つは時代の險惡さが灰汁のやうに押し寄せてゐるためであらう。今の世に彼の持つ淸潔な、靑年のままの考へを今までに大切に持ち越したやうな思想的な明快さは、もう今の靑年の心には作用しなくなつてゐることは事實である。併乍ら今の靑年の大背景の中にある巨石としての武者小路氏は、蘚苔《こけ》をおびながらゐることも是亦事實である。自分は彼を時代遲れといふことを肯定するものだが、彼の中にある何か一本の道、孰方《どつち》にしても人間がそれを辿るべき要素をもつ本道だけは、初めから時代遲れではあつたが、其十年前の時代遲れと今日のそれと尺度が同じいことを發見しなければならぬ。恐らくその一本の軌道だけは今後十年も適用し又時代遲れの相を帶びながらも、不思議な地位を保ち得るものであらう。それは彼の狙ひが的を外れてゐない、的確な一つものをねらうてゐるからである。神、運命、人間、さういふ彼の狙ひは十年をも打通して執拗に弓矢を番《つが》へてゐるからである。彼は最も古いものを摸索し手摑みにしようとしてゐるのだ。彼が新しいといふことは彼への氣の毒な誤謬だつた。

「殺される男」の中に自分は武者小路氏の「炎」を感じない。ラクに書いたとしか思はれない弛みを感じるのだ。或は彼の表現の流暢さは何時も其爲に彼を爲し彼を築き上げてゐるといへば云へるが、あの通りの流暢さの中にも自分に影響する鋭どさを缺いてゐる。或は上演の效果からいへば相應の成績を上げるかも知れぬが、併し我我看客は「言葉」だけを聞いて「心」を感じ得る事は出來ないであらう。何故と云へば彼は此一篇に於て運命へのどうどう𢌞り、それの輪廓を彼の流儀に依つて表現した單なる筋書に過ぎないからであつた。

[やぶちゃん注:前の二ヶ所の読みは私の好みの読みで附した。なお、私は中学二年の夏、旺文社文庫で「真理先生」を読んだ時、全く以って古臭いという印象を持ち、時間を無駄にしたと感じて以来、彼の作品を全く評価していない。]

 

 十九 背景的な作者

 

 谷崎潤一郞氏の「續蘿洞先生《ぞくらどうせんせい》」は何時か「改造」に掲載された續篇であり、相渝《あひかは》らず谷崎物である以上に何等の交涉を新時代に齎《もたら》すものではない。さういふ意味でまた菊池寬氏の「半自敍傳」を品隲するのは妥當ではないが、併し此二作家が新時代と沒交涉であるところは一致するやうである。谷崎氏はそのグロテスクな人を莫迦にするやうな時代の桁外れの大味で行き、菊池氏は飽迄眞面目な一本氣で生ひ立ちの記を綴る點に、對蹠《たいせき》的な作家の道のりを物語つてゐる。

「續羅洞先生」の完璧は骨董的な時代味であり、過去の記錄的な作品の延長である。同時に谷崎潤一郞といふ美名が正札を附けるところの、創作欄的な宣傳風な作品でなければならぬ。創作欄を何となく後援し裝飾し宜傳するところの作品は、それは作家の現在よりも逈《はる》かに過去の作品の背景が物語る魅惑であり業蹟であらう。しかも谷崎氏は特に此一作を以て何等の彼自身の起直りや勉强のあとを暗示してゐない。彼は音に彼の圖圖しい猛猛しさで突立つてゐるだけである。その圖圖しいところのものは又どういふ時代にも跨ぎかける圖圖しさである。自分はかういふ作者をもつことは新時代にあつては、何よりも歷史的である點で認めたいものだと思うてゐる。彼はその一つ一つの作品よりも何時も「谷崎」を大きく纏め上げ、すぐ「谷崎」全體を感じさせるからである。

 菊池氏の「半自敍傳」はまだ一回しか出てゐないが、創作欄の抱擁力を示す以外に充分な菊池寬氏の、一文人の中期の作品の叩き込みや起直りの精進を續けなければならぬ。第一回の作品速度には思ひ出風な韻律のままで書き出してゐるが、其處に氣質的な作の炎を上げることは何よりも肝要とすべきであらう。凡ゆる自敍傳は作者の「眉と眉との間」がくらくらする程度の、その作品の炎の中に立たねばならぬ。自分も自敍傳を書き直してゐる時に菊池氏の作品に接したのであるが、決して樂な氣持でスラスラとした味ひで行つてはならぬと思うてゐる。自分の經驗では何かもう一度息づまる創作苦を再驗しなければならぬのだ。

 菊池氏は此作品で何等文壇に寄與する考へはないらしいが、自分は彼がさういふ自敍傳を書き出したことは見遁せない。過去の作品を完全に締め付けるものであり彼の中期の氣持のスルドサとダレとの孰方かを示すべきものだからである。谷崎氏のごときは初めからの「あの調子」であるが、菊池氏は眞面目な人であり其處に彼自身の立場があり、自分は今後に於てそれを見たいと思うてゐる。

 彼等二作家の背景的な過去作品を引提げて立つことは、さういふ背景なき作家との比較では、殘念乍ら彼等の手重さを感じなければならぬ。よき文人は皆過去の光背を以て立つところのものであり、それ故にこそ彼等が寸分隙間なく疲勞なら疲勞そのものにも鞭打たなければならぬのだ。

              (昭和三年)

[やぶちゃん注:「續蘿洞先生」は大正一四(一九二五)年四月号『改造』に発表した正編「蘿洞先生」の続編で、昭和三(一九二八)年五月号『新潮』に載った。正編は「青空文庫」のこちらで読め、続編は個人サイト「悠悠炊事」のこちらで読める。因みに私は「惡魔」を始めとした、この手の変態的な谷崎の作品が生理的に受けつけられない。小説では「蘆刈」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)ぐらいしか評価しない。但し、「陰翳禮讃」「厠のいろいろ」は別格で称揚するものである。リンク先は創元社昭和一四(一九三九)年刊の作品集「陰翳禮讃」の国立国会図書館デジタルコレクションの当該作の冒頭である。後者は「谷崎潤一郎 厠のいろいろ (正字正仮名版)」として私のブログで電子化してある。

『菊池寬氏の「半自敍傳」』は昭和三(一九二八)年から翌年にかけて書かれた後、続編を含む完本として亡くなる前年の昭和二二(一九四七)年に出版されている。私は未読。]

2022/05/14

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「詩に就て」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「詩壇の柱」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

     詩に就て

 

 

 詩壇の柱

 

 或晚、本屋の店先で福士幸次郞氏の「太陽の子」を見て、直ちにこれを購ひ求めた。大正三年に出版された此詩集の中には、今のプロレタリア詩派の先驅的韻律と氣魄とを同時に持合せ、激しい一ト筋の靑年福士幸次郞の炎は全卷に餘燼なく燃え上つてゐた。自分は手擦れのした此詩集の存在に對し友情の外の敬愛を感じた。今の高村光太郞君の粗大を最う一ト握り生活面で壓搾した彼の内容的な集中感は、見渡したところ到底天下に較べるものの無い位だつた。これらの詩が大正初年の作品であることと、そして何よりも彼の性根がその時代から今までへの二十年の歲月に、悠悠と働きかけてゐる健實な新味を思はざるを得なかつた。時時「童謠も書いて見る」フラスコ風の詩人、時時注文によつて詩物語をも案じて見る三流以下の詩人、又時時人生派風の嵐や海洋やケチ臭い生活詩を歌ふ詩人、さういふ詩人の中で淸節をもつ此「太陽の子」に於ける行動と韻律を約束した二十年後の立派さは、自分の眼界に瘦軀をもつて霜を衝くところの、詩人中の詩人、過去がもつ大なる柱石的な奇峰を現出せしめた。縱令何人と雖も此一つの柱、云ひやうのない氣魄が全詩壇的な過去への大なる承認であることを知らねばならなかつた。

 自分は數句の後、大阪から來た或書店の書目の中に、彼が大正九年の版行である詩集「展望」を見て僅かに三十錢を投じて購求した。「感謝」の玲朧、「記億」の悒鬱《いふうつ》、「友情」の美と韻律、「平原のかなたに」の思慕的な熱情、そして「昏睡」の中にある現世的ライオン、此詩は、(一人の男に知惠をあたへ、一人の男に黃金のかたなをあたへ……)の呼びかけから書き出して左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記錄を絕した力勁さで終つてゐる。

 

 この男に聲をあたヘ

 この男をゆりさまし

 この男に閃をあたヘ

 この男を立たしめよ!

 

 そして又「夜曲」の美しい激越、調度と愛情。

 「われは君のかつて見た海をわすれず、君の遊ん

 だ濱を忘れず、その海によなよなうつる星のごと

 く荒いうねりに影うつす星のごとく、われは君を

 ば思ひだす……」

 その他「幸福」の幽《かそけ》さ「泣けよ」の純朴、「船乘りのうた」「この殘酷は何處から來る」それらの詩の内外にある健實な搖るがない確さは、もはや過去の詩檀に聳える奇峰的な壯大な疊み上げ、遙かに群がる諸詩人の上に光つてゐる。これらの韻律、行動、形態、表現の諸相は、今日の詩壇の最も柱石的なものであり、萩原朔太郞氏の「月に吠える」と相對ひ合うて、大なる詩歌の城をどつしりと上の方に乘せてゐる。風雲は彼らを訪れるであらうけれど彼らの拔くことのできない大なる柱は、益益その城を護るために、後代への重い役目を果すであらう。今日の詩壇に筆劍を磨くの徒は何人も彼のために一ト先づ挨拶を交し、自分のもつ敬愛を同感することに依つて、彼を知ることを得たのを喜ぶべきであらう。

[やぶちゃん注:文中に「われは君のかつて見た海をわすれず、……」は引用全体が一字下げベタなので、かく処理した。但し、以下に示す通り、引用が不全である。

『福士幸次郞氏の「太陽の子」』大正三(一九一四)年洛陽堂刊の福士の処女詩集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本全篇が読める。

『詩集「展望」』大正九(一九二〇)年新潮社刊。同前のこちらで原本全篇が読める。以下、

「感謝」はここ

「記憶」はここ

「友情」はここ(題名の後に『(千家元麿氏に)』(「せんげもとまろ」と読む)の献辞がある)

「平原のかなたに」は「ああ平原のかなたに」が正しく、ここ

「昏睡」はここで、以下の引用は最後の「昏睡」の最終連であるが、原詩は最初の三行末には読点がある。

「夜曲」はここで、以下の引用は最終連であるが、引用(一部不全)がベタなのは不満。以下に示す。

   *

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、

君の遊んだ濱を忘れず、

その海によなよなうつる星のごとく、

荒いうねりに影うつす星のごとく、

われは君をば思ひだす、

われは君をば思ひだす。

   *

が正しい。

「幸福」はここ

「泣けよ」はここ

「この殘酷は何處から來る」はここ

である。

「悒鬱」「憂鬱」に同じ。] 

 

 詩歌の道

  

 自分は若い時分から歌を詠まうといふ氣持を持たなかつた。歌に對する才能の無いのも朧氣ながら知つてゐた。併し他の歌人の詠草は努めて讀んで自分の足しになるものは、自ら恍惚としてその道の「物の哀れ」を感じ味はひ、發句や詩の境致に窺へない或は相聞風な或は自然風物の詠草に、身を入れて讀み耽ることは樂しかつた。良寬の閑境や元義《もとよし》の情熱、又は實朝の豪直なども、勞作の暇暇《いとまいとま》の心を和め慰めてくれたけれど、依然作歌の衝動を感じたことは一度もなかつた。何處まで行つても自分の作爲を動かすことはなかつた。

 昨年の夏自分は眼を病み、殆どその眼に纏帶を施してゐた關係上、かういふ時に發句でも作らうと思うて見たが、何故か發句への氣持が動かず、詩にも氣持は働かうとしなかつた。眼を病むと氣持の鬱屈することは並大抵ではなかつた。自分は或朝早く庭に小さな朝顏の花を見出し、それが土の上を這うて咲いてゐる有樣に物哀れさを身と心に沁みて感じた。歌を作りたい氣持に打込まうとしたのも、初めて經驗する靜かな又得難い衝動だつた。自分は齋藤茂吉氏の歌や島木赤彥氏の歌を讀んで見て、自分も作歌の志を立てて見たが矢張り失敗して書けなかつた。自分はふと釋超空氏の歌をよんで暫らく茫然と見詰めてゐた。實際自分は近頃これほど鋭い唐突な驚きを感じたことは稀だつた。それほど釋氏の歌は咄嵯の間《かん》に自分に關係を生じて來てゐた。「赤光」以來歌に驚きを感じたことは、初めての經驗だつた。自分は釋氏の境致には誰も手をつけてゐないことを知り、その茫茫たる道を釋氏が縱橫に步いてゐることに、ひそかに舌を卷いたのである。誰も知らぬ歌壇にこのやうな恐ろしい奴がのつそりと步いてゐたことは、全く驚いて見るだけの「押《あふ》」の强さをもつてゐた。自分は前田夕暮氏に會うた時の釋氏のことを尋ねたが、前田君も釋は怪物だといふ意昧のことを言つてゐた。自分の考へが謬《あやま》つてゐないことは兎も角、遠い文壇の彼方にぎらぎら光つてゐる眼光のあつたことは、自分を猛烈に打つて來るのだつた。自分はどういふ意味にも油斷してはならぬと思ひ、兄だか弟だか分らぬ藝術の分野に伏兵をしなければならぬ自分のネヂの弛みを締め上げるのだつた。凡ゆる詩歌の分野的仕事の隱れてゐる位置、匿れてゐなければならぬ境涯、それでゐて到底五十年を豫約する光芒の純粹さは、詩歌の大平原に朝日のごとく輝いてゐるものだった。彼らの中に一生詩歌に理もれてゐる人さへあり、それを衿持せずに微笑してゐる人もあつた。

 自分は詩歌への精進はしてゐても、最《も》う動かないものを動かさうとする詩歌の最後の中に絕叫してゐるものである。動かないものを動かすところへ行き着くことは、併し歡喜に違ひはないが進步ではなかつた。化石と同樣な慘めさと憂苦だつた。自分はその扉を蹴破らうとしながらゐて、自ら重石の下にゐるも同樣の苦衷を嘗めてゐた。それは詩が誠の「意識」から抉《ゑぐ》り出されるものだつたからだ。自分は呼べども答へない詩歌の鐵の扉を、日夜蹴破り敲くものの慘苦を經驗し、凡ゆる哄笑の中に仁王立ちに立ちあがり乍ら、身を以て打《ぶ》つかつてゐるやうなものだつた。

 最早あらゆる詩歌はその本體を搔きさぐることではなく、本體自身が本體となる前の、文章が文章とならない以前、感情の動きが既に動きとならない前のものでなければならなかつた。自分の刻苦して打つかるものも自分の感情的な皺の多い時代には、その皺を剝ぎ起さなければならなかつた。その皺の下に未だある一滴の泉を自分は靈藥のやうに目にそそぎ込まなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「元義」平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)は幕末期の岡山の国学者で歌人・書家。当該ウィキによれば、『子規が明治』三四(一九〇一)年に、雑誌『『日本』に連載していた』「墨汁一滴」に『元義を万葉歌人として称賛する文が発表され、元義の名は世に広く知れ渡った』とある。]

 

 詩と發句とに就て

 

 發句も詩も別に自分には渝《かは》りがない。渝りのあるのは詩の中にあるもので壓搾されたものが、發句の姿となり内容となるだけである。特に職業的俳人や卽興的詩人の輩に依つて區別される發句や詩の單なる形式的識別は、自分には最早問題ではない、――自分の問題とするところはそれらの根本の嚴格さを引き出すことにあるのだ。

 發句といへばさびしをりを云ふのは、假令それらの言葉の存在があるとしても直ちにそれに依つて片付けてしまふことは間違ひである。要は嚴格な、高い、登り詰めてゐる氣持をいふに過ぎぬ。我我は吾吾の最高峰を攀ぢ登つてしまうたところで、最う一度何物かを搔きさぐらねばならぬ。詩が感情的風景の域を脫してゐることは勿論、詩はそれらの上に立つ最早雲表《うんぺう》的な氣禀《きひん》の激しさから登り詰めた何物かであらう。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「雲表」遙かな雲の上。]

 

 遺傳的孤獨

 

 元祿の作者の中で特に選ばれた丈艸や凡兆は芭蕉と共に自分らを擊つのも、かれらの高峰が俗手《ぞくしゆ》の抵觸外に立つてゐる爲であらう。ホヰツトマンやヴエルレエヌの詩風は詩風の一存在として、特に僕らの靑春を襲うて共鳴してゐたのも、最早今日の僕らをしてたはいないものとして眺め飽きたのも、僕らの成人を意味する前に既に僕らが奈何に彼らよりも、より烈しい東洋風の孤獨とともに在ることに耐へる、千古不拔の遺傳的詩人であつたかが想像されるであらう。

 西洋人は遺傳的に孤獨の外の人種であり、性情に孤獨の巢をもたないやうである。稀れに露西亞人にある北方的憂欝の氣質は、トルストイやドストエフスキイの器に盛られたとしても、東洋風な、淡《あつさ》りした孤獨の城を建てることを知らない、――發句が幾たびか英譯されてゐながら、その十分の一すら味ひや甘みを傳へることのできぬのは、民族の遺傳的風習や生活樣式の相違ばかりではない。「分りかねる」ものが未永劫にまで「わかりかねる」ことであり、解らうとしてもその解るべき性質を根本から失うてゐるからに過ぎない。

 

 悲壯なる人

 

 詩が日本の靑年の間に作爲されたのは、正しい新人の努力に依つてその地盤を築き上げたのは、今から二十年前であらう。河井醉茗や澤村胡夷《こい》、蒲原有明等もその記憶にあるところのものだが、寧ろ北原白秋三木露風の二つの存在は、新人詩壇の存在を固めるに力のあつたものであらう。三木露風のねらひどころの可成りに正確な、洞察の幽邃は空虛な詩壇を一層低迷ならしめたことは萬死に値すべきであるが、併しあの時代に於て彼の詠嘆の矢弓《しきゆう》はただちに騷騷しい混鬧《こんだう》に陷入らないで、一ト通りの靜寂を覗き見ようとしてゐたのは並並でない努力であつた。白秋の邪宗門に於ける異國情調の比較的嚴格な律調も、消化されて次の時代の格律となつたことも疑へないやうである。「思ひ出」の輕い調子が後期に惡影響を與へたことは云ふまでもない。

 併乍ら白露二氏の時代から今日までの詩人中の詩人、新人中の新人として數へ上げることのできるのは、中野重治でもなければ千家元麿でもない。一人の劍の折れたる戰士萩原朔太郞であらう。時代の新勢は既に萩原を乘り越えてゐるに拘らず、彼はなほ昨日の新人の如き善良なる勇邁と、作詩的末期の餘熖《よえん》に捲かれ乍ら、悲壯なる戰鬪の眞中にゐるのは滑稽以上の嚴肅さであり餘りに悲壯以上の悲壯でなければならぬ。彼自らも猶悲壯淋漓たる中に、幾たびか胴震《どうぶる》ひをして猶永く末期的餘熖の渦中に立つであらう。

[やぶちゃん注:「澤村胡夷」(明治一七(一八八四)年~昭和五(一九三〇)年)詩人で美術史家。滋賀県彦根生まれ。本名は専太郎。京都帝大文科大学哲学科美学美術史専攻で明治四二(一九〇九)年卒。文学博士。早くから『小天地』などに詩を投稿し、明治三六(一九〇三)年、詩「小猿」を発表。旧三高の代表歌「逍遙之歌」や「水上部歌」を作った。明治四十年詩集「湖畔之悲歌」を刊行。大学卒業後は『国華』の編集に従事し、大正八(一九一九)年、京帝大助教授となった。著作に「日本絵画史の研究」「東洋美術史の研究」がある。台湾訪問中に依頼を受け、昭和三年の暮れ、「胡夷」のペン・ネームとして最後の詩となる「臺灣警察歌」を作詞している。

「混鬧」現代仮名「こんどう」。遣混乱と騒擾。]

 

 十年の前方

 

 詩が今より最《も》つと注意され愛讀されるには、やはり十年の歲月を要するであらう。その十年の曉にもなほ不運であるべき詩人の嘆息は、その時に於てすら更に十年の年月を曉望するであらう。我我が詩を書き始めたころは依然十年の行手を眺めてゐた。その十年は今吾吾の存在や周圍の存在だつた。しかも我我や吾吾の若い同行の詩人たちは、詩に於て衣食することを拒絕されてゐることは勿論、詩中に呻吟することをも許されなかつた。

 詩人は詩人である爲の輕蔑、詩人でなければならぬ輕蔑の苦苦しい唾液を吐き出すまでに、可成な辛酸のあることは小說家が小說的唾液を吐き出すと一般であらう。しかも詩人は詩人である傳說的美名と、美名がもつ輕蔑とに惱まされ通してゐる。應需の尠《すくな》い詩人の社會的進出は、小說家に及ばない如く他の何者にも及ばなかつた。併も彼らは風流才子でない如く甚だコセコセした虛名に憧れなければならぬ原因があるとしたら、それは詩人自身にではなく、彼の「十年」の年月が前方にあるからだと云つた方がよからう。彼ら詩人は絕えず十年を目ざして進んでゐる。これは小說家に於ける眼の前の生活にばかり拘泥してゐるのとは、少しく事變つてゐる。彼らが彼らの受ける輕蔑の前に、先づこの晴晴しい「十年」の前方を俯仰《ふぎやう》することに依つて、他の奈何なる藝術の士にも劣らない心魂を硏ぎ澄すことを證據立てるであらう。その一事のみに依つて彼らは漸く彼らの仕事に受ける輕蔑の蒼蠅を拂ひ除けることができるであらう。

 

 詩錢

 

 千家元麿氏は或時、或本屋の門を通り過ぎ乍ら、不圖《ふと》囊中《なうちゆう》空しきを知り、鉛筆で數章の詩を書いて金に換へたさうである。これは千家氏自身から直聞《ぢきぶん》した話であるから噓ではなからう。千家の詩風であつてこそ初めて此卽興的場面が充されることを知り、僕なぞはかうゆくまいと思はれた。

 詩を書かうといふ氣持は、殆ど瞬間にして消失する再び補捉しがたい氣持である。金に換へるために書くことは決して惡いことではない。僕などの詩を書きはじめた大正元年前後には、詩に稿料を拂ふ雜誌社がなく、そのために現今の如く身を落して、詩人が雜稿を市に賣ることを潔しとしなかつたやうである。尠くとも僕自身は詩を書く外、雜文は書かないで破垣茅屋《やれがきあばらや》に甘んじて暮した。その頃から見れば今は詩人の生活も物質的に惠まれてゐると言つてよい。

 詩人にして小說を淋くことは多少輕蔑されることらしい。詩人で生涯小說を書き通すとも、よくよくの面魂《つらだましひ》をもたなければならぬ。千家氏の如く書店の門前で平氣で詩を書いて賣ることは、その平然たる面魂の中に、押しの强さがある。自分は何故かその話を面白く想出した。

 

 圓本の詩集

 

 圓本の中に詩集がその一卷の役目を持ち、改造社、春陽堂も其書册に加へてゐる。天下の詩人數十氏が年代的に後代に傳へらるべきものは、先づ此詩集位であらう。同時に凡ゆる圓本中、窺かに其後代に於て古籍本としての市價が圓本中の何物よりも以上に價高き古本の値を持つことは當然であらう。何故といへば小說本の紙價はその年代とともに低落するに先立ち、詩集類は歲月とともに其定價をセリ上げてゆくからである。萩原朔太郞の「月に吠える」や「靑描」福士幸次郞の「太陽の子」高村光太郞の「道程」日夏歌之介の「轉身の頌《しよう》」千家元麿の「虹」百田宗治の「ぬかるみの街道」北原白秋の「邪宗門」佐藤春夫の「殉情詩集」西條八十の「砂金」堀口大學の「砂の枕」等は、最早その初版は定價の二倍以上に昇り、市上これを輕輕しく求められない。

 以上の詩集はその詩人の出世作である所以もあるが、それを讀む若い人人は次から次へと成長し、又次から次へと搜し求めるからである。詩歌に熱情を持つ靑年は他の小說本の比ではない、彼等は一卷を求めるに東京中の古本屋を搔き𢌞すことは平氣である。詩歌の士は誠に此心がけがなければならず、往昔の自分もまた此道を踏んで來たものである。圓本の詩册がかういふ氣持ちを胎んでゐることはその編輯者と雖も自覺しないであらう。かういふ不斷な靑年の背景をもつ詩集の書册が、當然圓本中に於ける重大な役目を持つてゐること、及び後年その紙價を上騰させることは瞭《あきら》かなことである。

 圓本の使命はどうして之等の圓本を後代に殘すかといふ今は非營利な寧ろ藝術的熱情を感じる時である。相應營利的成果のあつた今日に於て、先づ此等の圓本を後代の史家に殘し、圓本の輕蔑を剝奪すべき良き書物の塔をどうして殘すかを考慮すべき時である。新人を加へ最善を盡し、少し位《ぐらゐ》損をしても自ら元祿の井筒屋庄兵衞をも念頭に入れるの時である。圓本時代に何人が圓本以上の仕事をしたか、その仕事に藝術的な眞摯な作用をもつ出版書肆がどれだけゐたか、さういふ決定を爲すベふ時である。自分は材料蒐集の上、これらの圓本論とその時代を論じたいと思うてゐる。圓本を檢討することは時代の腸《はわわた》に手をさぐり入れることに均しいからである。

[やぶちゃん注:「窺かに」逆立ちしても「ひそかに」と読むしかないが、「窺(ひそ)かに……持つことは當然であらう」という文脈では呼応がひどく悪い。「窺(ひそ)かに思ふには……持つことは當然であらうかとも感ぜられる」ぐらいでないと、尻が落ち着かないと私は思う。

「井筒屋庄兵衞」京都の書肆。俳書の出版で知られ、蕉門の俳書は、殆どが、この書肆より刊行されている。初代が初めて俳書を出版したのは承応元(一六五二)年で、以後百五十余年、五代にわたって出版活動を続けた。]

 

 詩情

 

 自分の詩を書いてゐた年少の時にすら、詩に遊ぶといふ氣持よりも、むしろ詩の中にゐて年少の生活を見てゐたやうに思ふ。何か心に添はず友情に叛き兄姉に離れた時には、机に對ひ詩中の悲しみを自ら經驗したやうに思うてゐる。徒らに花下《くわか》に春秋の思ひを練るといふ氣は無かつたらしい。假令、春秋の念ひを遣《や》るにしてもその折折の自分を基としてゐたやうである。

 年少の悲しさはそれ自身成長の後には詩情に似たやうなものであるけれど、年少の時は詩情どころではない。世に容れられぬと一般な悲哀であるやうだ。自分は敍情風な昔の詩を讀み返すと、それを書いた時の日光の色、樹の匂ひ、その時の心もちなぞが思ひ出されて來て、一枚の寫眞を眺め入るのと何の變化りはないやうである。自分は既に壯年の齡に行き着いてゐるけれど、詩情は昔に稀に立ち還つて自分に何か考へさせるやうである。尠くとも敍情の詩を書いた自分を不幸だとは思はない、あの頃は自分の生活の中でも一番樂しかつた頃ではないかとさへ思ふのである。考へることに濁りがなく憂愁はあつても素直な姿をもつてゐた。しかも靑春の多くの時を詩に形ををさめ、一卷として自分の年少時代を記念したことは決して不幸ではない。――振り顧(かへ)つて往時を思ふよすがともなる仕合《しあはせ》さへ感じるのである。

 その頃の自分は東京の町町を步くことを一種の旅行のやうに考へてゐた。實際、田舍に生れた自分には、海近い深川の土藏のある町通りや、大川端の古風な昔の艶を拭き出した下町を見物して步くことは、郊外から出掛けるだけでも鳥渡《ちよつと》した旅行に似た遠い感じであつた。土藏と土藏の間から隅田川を見、淺草公園では樣樣な見世物小屋に半日の心さむしい遊びをしたり、と或る店さきに眉目正しい、下町娘を見出したりして、ちよつとした旅愁を感じたものだつた。とり分けさういふ町を步きながら雨に降られたりすると、國の町のやうに傘借りることもできないなぞが、一層他鄕の感じを深めるのだつた。冷たい雨あしを眺め自分はよく淺草の知らぬ町家の軒下に佇んで、國の町でさういふ雨に降られた時のことを思ひ出して、漠然とした憂愁を感じたものであつた。この感じは東京に居馴れるに從つて次第に消えて行く感じであつたがまだ折折心を掠めて殘つてゐた。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 詩集と自費出版に就て

 

 自分が初めて愛の詩集を出版したのは大正六年の冬だつた。當時も今も處女詩集は自費出版に定《きま》つてゐる。本屋などは相手にしてくれるものではない。そのかはり幾らかの文名を贏《か》ち得た後に更めて本屋が出してくれるものである。自分の愛の詩集も後に本屋から改めて發行した。同樣「抒情小曲集」も自費で出したが今までにアルスや紅玉堂から度度《たびたび》版を重ねた。

 自費出版はそれの償ひが精神的以外に酬いられるものではない。自費出版の意義はその詩人の大成した後日に初めて生じると云つてよいであらう。市井一介の詩人としての沈沒する詩集は、本人には意昧はあつても文壇的に意義をなさないとしたら、これはよく考へた後に出版すべきものであらう。當今の如く思いつきや當座の感興などから、簡單に出版されるべきものではなく、能くその詩人の全生涯の發足的な地盤を決定すべき、ゆるぎのない作品の堅實性を信憑してから、それの出版を見るべきものであらう。後代に傳はる如き作の集成を見ることは、ひとり作者の快適とするところばかりでなく、全文壇に美しい記錄を殘すものと言つてよい。小說集は二三年にしてその書物としての形や値を失ふことが多いが、詩集本は年經るごとに高金の値を生じてゆくのは、作者に誠の心があるからである。又、別の意昧で小說集は他の刊行物として出版されるが、詩集の重版は少く、その元の版のまま稀本として傳はつて行くが爲である。一朝にして亡びる詩集を出版するくらゐなら止めた方がよいといふのも此意昧に徹するからだ。

 

 

 過去の詩壇

 

 當今では詩や小說ぐらゐ書けない靑年は稀になつてゐる。全くのところ詩や小說の眞似事くらゐ書けないやうな靑年は、その靑年たる常識を缺いてゐる程度にまで、文藝が一般に普及してゐる時代である。何も詩や小說を書くことが特殊な仕事ではなつなつてゐる。それ故これからは詩や小說を書いて世に問ふことの困難であることは勿論である。餘程秀れた才能を持ち合せてゐるか、または異常な神經や心の持主に限り、世に問ふ所以のものを有つてゐると言へるであらう。

 詩だけに就て言ふならば、その分野は既に唄ひつくされてゐると云つてもよい程である。千遍一律の詩には我我は疾くに飽きもし素讀に耐へないものがある。詩を書かうとするならば餘程の文學的敎養の達人でなければ、餘程生れながらの素直な人でなければならぬ。尋常一樣の詩作程度では、その作を擧げて天下の詩情を動かすことはできないであらう。それほど詩作する人人が多く相應の腕のある人が揃つてゐる譯である。曾て萩原朔太郞君や千家元麿君の得たる詩境と聲望をさへ、今後の詩人に於ては却却《そこそこ》容易に得ることの出來ぬのは、彼ら程の才能を持つて出て來ても時勢は彼らの二倍くらゐの才能を求めてゐるから遂に彼らの地位を得られないのである。この過去の二作家の二倍以上の作家が出て來たら、完全に後繼者を詩壇は得たるものと言つてよからう。既成や新進の爭ひは俗惡なる文壇ばかりではなかつた。詩壇にもその聲を聞くとき僕の思ふところは以上數言に盡きてゐる。――

 

 敵國の人

     萩原朔太郞君に

 

 雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれたことは、僕と雖も絕えず微笑をもつて讀むことが出來た。併し詩集「故鄕圖繪集」に論及した君は、不思議に僕の本統の姿を見失うてゐる。君が自ら敵國と爲すところの僕の生活内容が、君のいふ老成の心境でもなければ風流韻事に淫する譯のものでもない。僕は僕らしく靜かに生活して居れば僕らしい者の落着けることを信じるだけである。君が自ら僕を敵國と目ざすところは落着いて暮したい希望を捨てない僕を難ずるなら兎も角、徒に輕率な風流呼ばはりや老成じみた一介の日蔭者としての僕を論ずるならば、僕はそれを返上したいと思つてゐる。

「故鄕圖繪集」の本流はこの詩集以外には決して流れてゐない。君が諸作品の韻律や素朴に統一的な缺乏のあることを指摘し、「忘春詩集」に劣つても勝ることなきを言及してゐるが、この詩集の中にある僕らしい行き着き方を君は又幸にも見失うてゐる。君はこれらの詩が發句的要素から別れて出たものであることを指摘するのはよいが、何よりも「忘春詩集」以來かうならなければならぬ「彼」の素顏を何故に見なかつたかと云ふことである。自分は俳三昧や風流沙汰や老成心境から出發したのではなく、これらの道具立は不幸にも僕に加へられた迷惑な通り名に過ぎない。

 僕は君の如き一代の風雲見を以て自稱するものではなく、只孤獨に耐へるだけの鍛へをあれ等の詩作の上に試みただけであり、夫等の試みは直ちに君には不幸にも老人臭く見えたのであらう。我我靑年の末期にあるものは兎もすると老人臭くなるのは、事實それに近づきつつあるからでどうなるものではない。又努めて僕は書生流の詩域から脫したい願ひを持つてゐることは勿論である。

 君のいふ如く僕を慘めな一個の庭いぢりとして生涯を送るもののやうに見るのは、君が僕を見失うてゐる初めではないかと思ふのだ。僕の生活苦やその種種な面は直に君を打たないであらう。

 君は僕に二人とない益友ではあるが、然し君は僕を讀み落し見詰めてゐては吳れないやうである。離れてゐて遠くから僕を見てゐる親切氣はありながら、僕が仕事によりどれだけ昔の僕から今の僕へ進んでゐるかを見落してゐる。君に見て貰はなければならぬものを君さへ見失うてゐる。僕のいふ孤獨の鍛《きた》へといふものも、君の誤解する風流韻事と稱する間違ひも大槪ここらあたりから別れて批評されたのであらう。

 君が僕の發句を以て餘技とし月並であり陳套《ちんたう》であるといふのは、月並の薀奧《うんわう》は何者であるか、何故に僕が蕉風の古調を自ら意識に入れながら模索してゐるかが能く解らないからである。

 自分は發句を以て末技《まつぎ》の詩作と思つたことがない。或意味で僕は僕の發句や短册を市井に賣つてまで衣食したい願ひを持つてゐるのは、賣文の埃から遠退くことが出來るかと思ふからである。元祿天明の時代なら兎も角今日發句を賣つて米鹽の資を得ることは出來ない。僕は僕の本來のものを靜かに心で育てる外に僕の發句は生きないと言つてよい位である。

 僕は又永年の詩作の經驗すら一句の發句に及ばないことを知つてゐる。或意味で發句を重んじる僕の凡てで無ければ全幅を剌繡すべき肝要なものだと云つてよい。何を苦しんで無意味な餘技を弄する愚を學ばう。――僕の發句を月並だと斷ずるのは新樣破調を操らない爲の君の非難であらうが、破調の發句が出駄羅目な容易に入り易い句境であり、古調は凡夫の末技から築き上げることの困難なのは、君と雖も。一應は肯《うなづ》くであらう。

 君の發句觀は不幸にも僕の未だ能く知らないところである。又君の說く蕪村は決して元祿の諸家を理解したものではない。君が粉骨碎身流の蕪村道の達人であることも、まだ寡聞なる僕の知らぬところである。その上君が今の僕を絞め上げ止《とど》めを刺すことは、寧ろ君へのお氣の毒な挨拶しか持合《もちあは》さぬ。君が天下の發句を論ずる前に先づ僕の止めを刺し、そして君の嫌ひな芭蕉流のさびしをりを此世から退治すべきであらう。

 僕の知る限りの芭蕉は一朝のさびや風流を說いた人ではない、芭蕉といふ能書的槪念は漸く今日では、あらゆる新しい思想の向側にあるやうに思はれてゐる。併し眞實の彼は元祿から今日へまでの新人中の新人だつた。彼の異國趣味や無抵抗主義は後代のトルストイの中にさへその面影を潛めてゐる。太平の元祿にあつて彼は社會主義者になる必要に迫られはしなかつたらうが、併し彼は何よりも近代に生を享けてゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

『雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれた』これは昭和二(一九二七)年九月号の第一次『椎の木』(第十二号)に掲載された」「室生犀星君の心境的推移について(忘春詩集以後、故郷圖繪集迄)」である。調べたところ、OCRで全文を読み込んだままを校訂せずに放置してある本篇全文のページを発見したので、リンクさせておく。所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」初版では第八巻に所収しているが、私には電子化注する食指が全く動かない。

「故鄕圖繪集」昭和二(一九二七)年椎の木社刊の詩集。サイト「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」のこちらで恐らく全詩篇が電子化されてある。

「忘春詩集」大正一一(一九二二)年京文社刊の詩集。同前でここに恐らく全詩篇がある。こちらは「青空文庫」のここにもある。

「薀奧」奥義。]

 

 文壇的雜草の榮光

 

 詩が文壇の埒の外の雜草であるか否かは別として、詩は中央公論や改造や新潮には殆ど必要の無い一國の想華であることは、詩人であるが爲《ため》聰明なる吾吾の知るところである。そして又曾てそれらの大雜誌に揭載された詩が、均しく全詩壇に後世的作品を示した例は殆ど皆無であつた。吾吾の詩が今までの城砦を築き上げる爲に必要であり、我我をして忘恩せしめざるところのものは、片片たる三十二頁の同人雜誌の威力であり奮鬪であつたことは、何と文壇外の美しい榮光だつたことであらう。或營利雜誌は吾吾の詩に婦女子の寫眞を揷入れて之を揭載した。又或雜誌は出題の下に作詩せしめ且つそれに應じた低能な詩大家があつた。又或乳臭き雜誌は全詩壇の詩作人の詩を乞ひ、殘酷に作詩人を數珠つなぎとして、天下に詩人愚を梟首として揭載した。自分は一々これを拒絕したが、遂に婦女子の寫眞入りの詩だけは掠め取られた。自分は詩人が輕蔑せらるべき多くのものを、文壇人が斷乎として拒絕してゐる好例の對照を見聞《みきき》してゐる。さういふところに雜草的卑屈と强制された遠慮とが、常識的な冷笑すべき習慣となる程度までに下つてゐるやうである。

 

 ゴシップ的鼠輩の沒落

 

 ゴシツプ的鼠輩《そはい》の曲說はともあれ、僕自身が老成的壞血病詩人であることに於て、止むなき餘命を詩壇に置いてゐる譯ではないのである。僕自身は今の僕自身を役立てる爲のふくろ叩きを辭さない物好きの中に呼吸してゐるものである。凡ゆる作詩人も其中期の作品の中に悶えもし、又退屈も窺へないではないが、彼らのなかには猶ふくろ叩きや締めつけを辭さない者のある位は、又同時にゴシツプ的鼠輩の沒落した時に、その彼らの誤りであることに心づくであらう。

 

2022/04/28

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 憂欝なる庭」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

      林泉雜稿

 

 一 憂欝なる庭

 

 春になつてから庭を毀《こは》すことが最初の引越しの準備であるのに、一日づつ延期してゐるうちに芽生えが彼處此處に靑い頭を擡げ、一日づつ叡山苔の綠が伸びて行き、飛石のまはりに美しい綠を埋めてしまうた。樹や飛石、石手洗なども國の庭へ搬ばねばならなかつたが、芽の出揃うた鮮かさにはどうしても壞す氣にならなかつた。愛情といはうか、執着と言つたらいいのか、ともかく自分は一日づつ延期しながらも、早く庭の物の始末をつけたい氣持を苛立たした。隅の方にある離亭も取毀して送らねばならなかつたが、大工や人夫の入亂れる有樣、切角の芽先を踏みにじられることを思うて見ても、直ぐ取毀ちの仕事にかかる氣を挫かれ勝ちだつた。國の方の庭にこの離亭を移すと、國の俳人が月に一囘ある筈の運座の句會に此離亭をつかふことになつてゐた。大工等もその事で人を仲に入れて問合せて來たりしてゐるものの、氣乘りのしない幾らか悒欝になつた自分は、春雨の美しく霽(あが)つた叡山苔の鮮かさに見惚れながら、すぐ運送の手順に取懸かれさうもなかつた。

 自分は茲二年ばかりの間に「庭」を考へることに、憂欝の情を取除けることができなかつた。或時は自分の生涯の行手を立塞がれるやうな氣になり、或時はさういふ考へを持つときに、何か後戾りをする暗みの交つた氣持を經驗するのだ。愛する樹樹や、石のすべてが何か煩さく頭につき纏うて、夜眠つてゐても其眠りをさまたげられるやうで不快だつた。自分は心神の安逸を願ふときには努めて草木庭園のことを考へないやうにしてゐた。自分は頭の痛む午後や、變に昂奮してゐる時などに、石や草木の幻のやうなものに取つかれ、腦に描く空想を一層手强く締めつけられて來るのだつた。夢にうなされ晝は晝で疲れ、草木や石はそれぞれに何か宿命や因緣めいた姿で纏ひつき、鋭い尖つた枝枝が弱つた神經に障つてくることも珍しくなかつた。自分はかういふ境涯から離れたい爲に、つとめて自然の中に、庭庭のまはりに近寄らないようにしてゐた。

 併し自分のさういふ息苦しい思ひの中でも、習慣になつてゐるのか何時の間にか庭の中に出て、樹や石を愛し弄ぶの情を制することができなかつた。頭の痛むなかに仲びて尖端を觸れて來る樹樹の姿は、一層親密な運命的な勢力を自分の肉體の中にも揮ひ、自分は傷ついた氣持で殆ど引摺られるやうな狀態で、これらの樹木や石に對ふより外はなかつた。。かういふ珍しい氣持はあり得るものであらうか。

[やぶちゃん注:「叡山苔」ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科 Selaginellaceaeイワヒバ属イワヒバ亜属StachygynandrumクラマゴケSelaginella remotifolia の異名。標準和名の漢字表記は「鞍馬苔」であるが、この叡山苔の他にも「愛宕苔」「瓔珞苔」の異名がある。当該ウィキによれば、『時に栽培されることがあ』り、『単体での鑑賞価値には乏しいが、土の表面を覆うのに苔を育てるのと同じ』ように扱え、『普通の苔より枝葉がはっきりしていて』、『模様のようになるところがおもしろい。栽培は難しくない』とある。但し、『近縁種に姿のよく似た種が多く、クラマゴケという名称はそれらの総称としても使われる』とあるので、本種に限定することは出来ない。類似する近縁種はリンク先を参照されたい。]

 

  二 「童子」の庭

 

  自分が此家に越してから八年ばかりになり、三人の愛兒を得、その一人を最初に亡くしたのも此家だつた。自分の亡兒を想ふの情は五篇の小說と一册の詩集になるまで哀切を極めたものだつたが、併し誠の愛情には未だ觸れるに遠いやうな心持だつた。自分は「童子」といふ小說の中に可憐な一人の童が、夕方打水をした門のあたりに佇んで、つくづく表札の文字を讀むあたりから書き始め、時を經て、「後の日の童子」といふ作の中には、到底何物にも較べがたい自分の每日の物思ひの中に、何時の間にか生きて一人の童子となつた彼を描いて、殆ど書き疲れ飽きることはなかつた。亡兒の事を書くことはそれ自らが、愛情の外のもので無いため、書くことに依つて濃かな愛情のきめを感じるのだつた。

  自分は二十篇餘りになる詩をつくり、寧ろ綿綿たる支那風な哀切を盡したのも、その亡兒への心殘りの切なることを示したものだつた。亡兒と「庭」との關係の深さは「庭」 へ抱いて立つた亡兒の悌は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭の竹緣のあたりにも絕えず目に映り、自分を呼び、自分に笑ひかけ、自分に邪氣なく話しかけ、最後に自分の心を搔きむしる悲哀を與へるものだつた。或日の自分は埒もなく疊を搔きながら死兒を慕ふの情に堪へなかつたのである。

 さういふ「庭」は自然に自分の考へをも育てる何者かであり、その何者かを自ら掃き淸めることは喜びに違ひなかつた。自分はさまざまな樹木や色色な花の咲く下草、亡兒の通ふ小さい徑への心遣りをする爲、冷たい動かぬ飛石を打ち、其處に自身で心を待設《まちまう》けるところの淺猿《あさま》しい人生の「父親」の相貌を持つてゐた。單なる樹木は樹木でなく「子供」に關係した宿緣的なものだつた。庭を掃淸めることは彼ヘの心づくし、彼への供物、彼へのいとしい愛情、彼への淸い現世的な德と良心の現れだつた。自分は老いて用なき人のやうに庭に立ち、石を濡らし樹樹の蟲を捕除《とりのぞ》いたりするのだつた。事實自分の妙に空想的になつた頭の内部には、それらの庭の光景は亡き愛兒の逍(さま)よふ園生《そのふ》のやうに思はれ、杖を曳いた一人の童子を何時も描かない譯にはゆかなかつた。自分の悲むで鶴の如く叫ぶ詩の凡ては每日その一二枚あてづつの原稿紙に書かれて行き、自分が初めて詩の中に分身を見、詩中に慟哭したのも稀な經驗だつた。

 その詩や小說の中にある自分の悲哀とても、本當の突き詰めた氣持の中では到底さういう藝術的な表現では訣して滿足されるものではなかつた。藝術の樣式は遂に藝術以外のものでないところに、未練深い現世的な自分の愛慕が低迷してゐた。

 自分が天上の星を見直し或は考へ直したのも、その悲哀の絕頂にゐた頃だつた。深い彎曲された層の中にある生涯的な悲哀は、每日自分に思ふさま殆ど人間の悲哀性の隅へまで苦苦《にがにが》しく交涉し、「烟《けぶ》れる私」をつくり上げるのだつた。顏の色の益益惡くなつた自分は決して笑ふといふことを、何物かに掠め奪はれてゐたも同樣の空しさで、自ら烟れる如き凄しい顏容をしてゐた。

[やぶちゃん注:「愛情」は底本では(ここ)傍点「●」である。

「その一人を最初に亡くした」室生犀星は大正八(一九一九)年十月に田端に移り、二年後の大正十年五月に長男豹太郎が生まれたが、翌年の六月に豹太郎は亡くなってしまった。その年の十二月に京文社から刊行した「忘春詩集」は事実上、亡児への追悼作品集であった。

「童子」大正十二年一月に京文社から刊行した作品集「萬花鏡」に亡児を題材した小説「童子」があるが、ここに書いたのと同じシークエンスは冒頭や作中にはない。寧ろ、私は前の「忘春詩集」に収録された詩「童子」が思い出される。国立国会図書館デジタルコレクションに同詩集があり、当該詩篇はここ。ややスレがあって読み難いので、以下に電子化しておく。

   *

 

童 子

 

やや秋めける夕方どき

わが家の門べに童子(わらべ)ひとりたたづめり。

 

行厨(うちかひ)かつぎいたく草疲れ

わが名前ある表札を幾たびか讀みつつ

去らんとはせず

その小さき影ちぢまり

わが部屋の疊に沁みきゆることなし。

 

かくて夜ごとに來り

夜ごとに年とれる童子とはなり

さびしが我が慰めとはなりつつ……

 

   *

この「行厨(うちかひ)」とは背負子型になった弁当箱で、「草疲れ」は「くたびれ」と読む。

「後の日の童子」は大正一二(一九二三)年二月号『女性』に初出された小説であるが、上記の詩篇「童子」のシークエンスが冒頭に配されてある(同作は「青空文庫」のこちらで読める。但し、新字新仮名)のだが、或いはその辺りを作者自身が混同したものかとも思われる。そうだとしても、そこには寧ろ、未だ癒えぬ豹太郎への彼の感懐が読者にもしみじみと沁み渡ってくるような気がする。]

 

 三 季節の痴情

 

 自分は決して値の高い植木や石を購うた譯ではなかつた。寧ろ若木を育てた位で、高價な大物は植ゑなかつた。些し許りの詩の稿料や他の小使錢を四季折折に使つた外は、殆ど餘財を傾けることはしなかつた。貧しいその日暮しの中から集めたものだから、賣ることになれば端錢にもならなかつた。と言つて此儘他人に讓り渡す氣にもなれなかつた。何故かといへば自分の愛園だといふ名目にしては餘りに貧しい木石の類だつた。せめて相應の石一つくらゐでもあればいいが、雜石をつかつた庭を他人に手渡すことは、末代までの名折であり、さういふ恥を殘すよりも一草一石の端にまでも原形無きまでに取毀《とりこは》すことが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の自分の氣持だつた。

 若し愛してくれる人があれば、この儘讓り渡してもいいと考へたこともあるが、後に殘ることを考へると憂欝になり、矢張り壞すことに心を訣めるのだつた。それが自分の一つの德義でもあり良心でもなければならなかつた。自分を訪ねたことのある人人の眼に殘つてゐる小さな庭、庭らしい風致の中にある自分が、それ以上にその人人へ呼びかける必要はなかつた。潔く取毀《とりこぼ》つて又新しく移らなければならない――。

 自分が此庭を考へたことの最も烈しかつたのは、震災後一年を故鄕の山河に起居してゐる時であつたらう、その時は庭なぞいらない氣持だつたが、安つぽい鄕里の貸家には砂礫が土に雜つてゐて、何を植ゑても根をおろすことがなかつた。柔かい黑土のある東京の庭を思ひ出したのは寧ろ不思議な思ひ掛けない切ない氣待だつた。自分は家の者に何かの序に季節ごとに庭の話を繰り返しては話出し、殆ど見るに耐へない庭があれ程心に殘つてゐることは、意想外な氣持であつた。

 歸京して見た昔の庭は庭のままだつたけれど、愛情は昔に倍してゐると言つてよかつた。彼等は穩かだつたし又靜かさは一入《ひとしほ》深かつた。自分の最初に氣のついたことは庭の全面に漂ふ憂愁の情だつた。主人なくして過した一年の間に、彼等は茫茫たる十年の歲月を負うてゐる荒涼を持つてゐた。それは人間的な愛情だと言つていい位の靜かな重い荒れ樣だつた。自分が彼らの間に立つたときに自分を締めつけるものの多くを感じ、囁くものの哀切を經驗するのだつた。自分は僅かな一草の芽生えの中にも自分が六七年近く愛した情痴を感じた。全く庭を愛することも、文に淫することも凡て情痴に近いものだつた。さう言つても解り兼ねるかも知れぬが、實際人間同士の情痴以上の、重いものに心を壓せられることは愛する女以上の痴情に似たものだつた。自分が彼等の世界に住むことに頭を痛め心を暗くしたのも、それらが最早苦痛に近い樂しみであることも、やはり淸淨であるために憂欝になる情痴の表れに違ひなかつた。

[やぶちゃん注:犀星は大正一二(一九二三)年の関東大震災に田端で被災直後の十月に一家をあげて金沢に引き揚げ、上本多町川御亭(かみほんだまちかわおちん)三十一番地に落ち着いた。大正十四年十月には金沢市小立野(こだつの)にある曹洞宗の天徳院(被災後にここに滞在していた)の境内に土地を購入し、庭作りに熱中したりしていた。]

 

 四 田端の里

 

 自分は殆ど庭の中に隈なきまでに飛石を打ち、矢竹を植ゑ、小さい池を掘り、鄕里の磧にある石を搬び、庭は漸く形をつくつて行つたが、間もなく鄕里にも庭をつくりかけた關係上、鄕里の方にも庭木を送らなければならなかつた。さまざまな煩雜さに疲れた自分は一層此庭を壞し、庭のない貸家に引移りたい望みを持つやうになつてゐた。何故かといへば恣《ほしいまま》に庭のある家に居ればそれに頭をつかふことは當然なことであるから、一層庭のないところに行けば諦めもするし、樹や石を弄ぶことも自然なくなるであらう、さういふ考へで何處かに荷物の全部を預け一家こぞつて旅行に出る計畫をたてたのであつた。併し自分の執着はすぐに庭を毀す決心はしてゐても實行は益益遲れがちになつてゐた。

 自分が此田端に移つてから既《も》う十年になるが、「江戶砂子」にある生薑《しやうが》の名所である田端の村里は文字通りの田舍めいた靑靑しい生薑の畑と畑の續いた土地だつた。根津の町へ出て藍染川となる上流は田端の下臺《しただい》にあつたが、音無瀨川《おとなせがは》と呼ばれてゐた。名に負ふ煤と芥の淀み合ふ音の無い小川であつたが、それでも今の谷田橋《やたばし》附近は大根や生薑の洗ひ場になつてゐて女等の脛も見られる「江戸砂子」の風俗と俤《おもかげ》とを昔懷かしく殘してゐた。今の神明町車庫前あたりから上富士《かみふじ》への坂の中途迄、秋風の頃はざわめく黍畑《きびばたけ》や里芋の畑の段段の勾配をつくり、森や林も處處に圓い丘をつくつて見えてゐた。小川や淸水の湧く涼しい林もあつたが、今は待合や小料理屋が町家《まちや》を形づくり、昔の武藏野の風情は殆ど何處にも跡をとどめてゐなかつた。

 それでも音無瀨川の溝石の仄《ほの》ぐらい濕りには、晚春初秋の宵などに蛙の啼く聲も聞かないではなかつたが、若い椎の植木畑や生薑の畑には昔のやうな螢の飛び交ふ微《かすか》な光りさえ見られなかつた。十年の間に變つたものは單にこれらの郊外的な風致や町の姿ばかりではなく、兒を失ひ悲むだ自分には溝川のほとりを散步しながらゐる姿は昔のやうだつたが、もう子供が二人も生長してゐた。

 植木屋の多い田端の地主らも時勢と金利の關係から、植木屋は賣減《うりべ》らしにして何時の間にか貸家を建て、新建《しんだち》の小路をつくり、殆ど空地は見られない程だつた。秋口には涼しい高い木に啼く蟲の類も減つたばかりでなく春先の鶯が啼く朝なぞは年に一日か二日くらゐに過ぎなくなつた。以前は何處からともなく春を告げる鶯の聲を聞くのは、每朝の快いならひであつた。生溫かい雨の霽(あが)つた朝の食卓についてゐて、鶯を聞かない朝はなかつた。それだのに今年は鶯を聞かなかつたといふ年も近年になつてから折折に聞くやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため』、『笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は』五~十五ミリメートルで、『茎上部の節から各』一『本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。

「江戶砂子」菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)が享保一七(一七三二)年に板行した江戸地誌。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、

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 五 記錄

 

 自分の家や庭の客となる人人は、矢竹の茂りと音とを賞めてくれたが矢竹は庭一面に這出して相應の風致を形作つてゐた。一年の間に主人を三人まで持つた秋といふ女中も、自分の家を出ると不幸續きの暮しをして今では行方が分らず、彼女が風呂敷に包んで買つて來た小さい沈丁花は、六年の間に自分の背丈を越えるまで伸びてゐた。次ぎに來た女中の里である茨城の草加在の珍しい木賊《とくさ》の株も、庭の一隅に固く組み合うて、年年殖えて美しくなる一方だつた。彼女は自家から暇を取るとカフエの女になり、これも亦行方が分らなかつた。

 季節折折の子供の病氣の時の看護の女、植木屋が入代《いれかは》つてゐたそれぞれの記憶、國の母や兄、老俳友などの泊つたことのある離亭、飼猫や飼鳥の山雀《やまがら》、或時は仕事に疲れて卒倒しかけたことのある庭の奧、さういふ小さな覺えは一つとして「庭」を離れたものではなかつた。「庭」は彼らしい人生觀めいた記錄的なものを持ち、それらが今庭を壞さうとしてゐる自分に小癪なほど敍情詩めいた詠嘆の心を移さうとするのだつた。殆ど隅隅にまで手の觸れないところの無い庭土は、それに手をつけた日の記憶的な位置を今更らしく思ひ出させた。

 この家に來て自分の仕事をした數は、文字通り枚擧に暇が無いくらゐだつた。詩集「高麗の花」や「田舍の花」「亡春詩集」を書き、「童子」「嘆き」「押し花」「人生」「我こと人のこと」「わが世」等で亡兒に對する嘆きの限りを綴つたものである。その他數十篇の小說物語の類は自分でも覺えてゐない夥しい數だつた。どこの雜誌に出たかも分らず、それを搜し出すこともできないで散逸された小品隨筆の類は、殆ど數限りのない位だつた。さういふ反古《ほご》同樣の仕事に注いだ自分の制作的な情熱を考へるだけでも、自分は何か目當てもなく茫然とし、その情熱の費消によつて十年は命を縮めてゐると言つてよかつた。それすら自分には何一つ殘つてゐないことを考へると、情熱を賣買した天壽の制裁の空恐ろしさを思はない譯にはゆかなかつた。

 自分は第一流の文人である自信はあり實力もあるのだが、併し自分の書いたものか秋風の下に吹晒《ふきさら》され、しかも殘らないことを考へることは苦しかつた。自分にさへ其行衞の判らない原稿のことや雜誌のことを思ふだけでも陰鬱になり息窒《いきづま》る思ひだつた。その頃に書いたものの心の持ち方の低さ、氣持の張りの足りなさを考へると訂正削除の朱筆は動かしてゐても、自分の文章や意嚮《いかう》の拙劣さを犇犇と感じられるのであつた。或は却《かへつ》て原稿が散逸された方がよかつたかも知れない。惡文十年の罪を失した宜い機會であるかも知れぬ。唯自分はそれらに注いだ取り返しのつかぬ情熱の濫費だけは何と言つても一生の過失だつた。どういふ時にもよい仕事をすることは、永い安心を形づけるものであり、朝朝の寢ざめを淸くするものであるが、いい加減な仕事をした者の末路は自分で氣の付く時は、もう遲いに違ひない、併しその遲い時期に踏止まることも亦肝要なことに違ひなかつた。

 

 六 別れ

 

 自分は或日、まる一日外出をする機會があり、その間に植木屋に命じて樹木の幾株かを荷造りさせて、國へ送るのであつたが、幸ひ自分の歸宅したのは夜に入つてからだつたから、其樹木を拔いた跡は見ないで濟んだのである。次の日にも外出の折を見て飛石を拔き又次の目にも石を搬ばせるやうに命じて置いて何時も夜になつてから歸宅するのだつた。雨戶を開けることがないので、庭の模樣は分らなかつた。寢床で想像する淋しい庭のありさまは誰かを怨みたい氣持だつた。

 築庭造園は財を滅ぼし、人心に曲折ある皺を疊み込み、極度に淸潔を愛する者になることは事實である。自然に叛逆することは、自然を模倣すると同樣な叛逆だつた。彼は「庭」を造らうとしながら實は「自然」を造らうとするものらしかつた。そこに何か突詰めると淺ましい人間風な考へがないでもなかつた。それだから面白いといふ築庭的な標準は、自分には既《も》う亡びかかつてゐる考へであつた。それなら自分は後の半生を何に費したらいいだらうか?――自分の如きものの才能は何に向つて努力すべきだらうか、かういふ消極的な問題を自分の中に持出して、自分は荒れた破壞された庭の中を步いて見たが、何か永い間に疲れたものが拔け切つたやうな、それこそ精神的な或平和をさへ感じるのであつた。その感じは自分を一層孤獨な立場に勇敢に押出してくれ何よりも平穩と濶達とを與へて吳れた。小さな風流的な跼蹐《きよくせき》[やぶちゃん注:身の置き場所もない思いをすること。]から立ち上つた自分の行手は、寧ろ廣廣とした光景の中に數奇《すき》ある人生的な庭園を展いて見せてゐた。自分はその庭園を見ることに泉のごとき勇敢を感じた。自分はそれ故今は眼の前で此小さな「庭」の壞されることを希望し、過去の庭園に靜かに手を伸べてその姿に別れを告げるのであつた。

 

 七 曇天的な思想

 

 何時か自分は「過去の庭園」を物してから、庭を壞し離亭を取毀したが、いまは一草一木も無くなり、明るい空地になつて了うた。自分の氣持は爽快になり頭は輕くなつた。矢竹も掘り盡したが筍が處處に餘勢を示し、垣根に添うて殘つてゐる。

 自分は庭を壞して見て埋られた飛石は勿論、凡そ石といふ石の數の多いのに驚いた位である。雜石をあしらひ急仕立に自分の氣持を紛らはしたその折折の、自分の氣持の低さには熟熟(つくづく)呆れるばかりだつた。庭などといふものは決して間に合せの石や樹を植ゑて置くものではない。それは必ず棄てなければならぬ時期があるからである。周到な注意と懇切な愛好の下に、生涯それらの木石に心を寄せるほどのものを選ぶべきであつて、いい加減な選擇は嚴格に退けるべきであつた。

 自分は庭を壞しても決して淋しい思ひはしないばかりか、何か前途に最つと好い庭がありさうに思へるからである。庭はそれ自身が東洋の建築としつくり色を融け合せて生きてゐるもので、決して庭だけで生きてゐるものではない、東洋の寂しい建築と其精神とに彼は其姿を背景とせねばならぬ。建築の淋しい哀愁を劬(いたは)るものは、女人のやうに優雅な、しかも健康な「庭」でなければならぬ。誠に美しい庭に立つことは我我の愛する女人と半夜を物語ることと、どれだけも隔たつてゐるものではない。

 自分は梅雨曇りが廣がつてゐる中に、每日のやうに其美しい曇天を眺入つてゐた。その中に壞された庭を少時思ふに適した。折折の低い雲、蒼い空をも眺め、どうやら自分がこれから後にめぐり會ふべき、石や木、庭のありさまなども好《よ》き想像のうちに描くことができた。そして自分は半年ばかり極端に質素な、往昔の文人が試みた旅行のやうなものを實行するために、家具を友人の家に預け、永年の埃や垢を洗はうとするのである。文人の榮華の醒めた不況の時に昔の生活を抛《なげう》つことは、自分の好みにもあひ、今はその「時」を得てゐるからである。それ故自分は曇天の中に美しさを知ることも、人一倍の熱情を感じるからである。

 自分のやうな人間は何かしら「心」で飜弄(いぢ)る物の要《い》る種類の人間である。詩や詩情をいぢることにも倦きてゐないが、同樣に戀愛にも未だ飽きてゐない。戀愛的な雰圍氣は決して女人の間にばかりあるものではなく、それの正確な精神は凡ゆるものの美しさを詳かに眺め取入れることであらう、曇天も陶器も又女人もその内の重《おも》なるものであらう。

 荒土になつた庭の上に、杏の實が、今年もあかあかと梅雨曇りの中に熟れてゐる。此の杏は家に附いてゐる樹であるが、每年春は支那風な花を見せ、何時も今頃の季節には美しい實を見せてゐた。今日も机の上から見る朱と黃とを交ぜた杏の實は、堪へがたい程美しい。自分も家の者もこれを取らうとはせず、此儘次ぎに越して來る人の眼を樂しますであらう。

 杏は國の方にも今頃は熟れて輝いてゐるが、東京では滅多に見られない。何時か小石川の或裏町で見かけたことがあるが、その美しさ豐さは莫大な印象だつた。子供の時にその種子を石で磨つて穴を開け、笛のやうに吹いたことを覺えてゐる。「杏の笛」と言ふと幼い詩情を感じることが夥しい。今も鄕里の童子はその「杏の笛」を吹くことを忘れないであらう。

 矢竹は國の庭へも送つたが、根は庭ぢうに這ひ亂れてゐた。森川町(もりかはちやう)の秋聲氏からの使ひにも數株を分けたが、使ひの植木屋はかういふ美しい竹は植木屋も持つてゐないと褒めてゐた。自分もさういふ褒言葉を喜ぶものである。初め辻堂の中村氏に約束をしたが、辻堂までの車を仕立てることは困難だつた。中村氏の庭を訪れた秋聲氏との間に竹の話が出たものらしかつた。

 自分は初め此矢竹を靑山といふ禪客から讓り受けたものである。今度は色色手分けして頒けたが、雨が多く分け切れなかつた。關口町の佐藤君からの植木屋も、漸つと今朝になつて分けた竹を掘りに來た。ともあれ自分は後二日で半年の旅行に出るのだが、あとを亂したくないので土の穴や掘り返しを埋めさせてゐて、微妙な哀愁を感じた。多くの秋と冬の夜、これらの竹の葉擦れの音を聽いたが、春の深いころと晚秋の頃とが一番葉ずれの音がよかつた。皮を剝いで膏《あぶら》で拭いた幹は靑く沈んだ好い色をしてゐた。芥川君は此竹のある方を何時も「窓の穴」と言つてゐた。同君の庭にも竹があつたが二三日續いて庭を掃いて見て、氣持がよかつたといふ話も耳に殘つてゐる。――

 震災の時にも上野あたりからの灰が吹かれて、葉の上に白く埃をためたが、さういふ思ひ出も却却《なかなか》忘れられなかつた。自分は每年筍が出ると、古竹を粗い簾に編ませ、それを煤の垂れる軒に吊るして置いたが、野趣があつて粗雜な感じではあつたが好きだつた。

[やぶちゃん注:「辻堂の中村君」作家・評論家の中村武羅夫(むらお)。]

 

 八 壽齡

 

 この春母の危篤の報を得て遙遙と歸國して行つたが、母は七十八の高齡の中で死生の間を往來してゐた。自分は母が二三日のうちに絕命するであらうと思ひ、人として數奇な彼女の生涯と運命とに就て、絕えず頭をつかひ兎も角も死ぬことを氣の毒に思ひ、自分も出來るだけの藥餌の祕術を盡すやうに努力するのであつた。彼女を支配した運命はその晚年に物質的な苦衷を與へず、自足と平安とをのみ溫かに惠んでゐた。自分は父の死の前後が斯樣に平安で無かつたことを考へ、いぢらしい父への思ひ遣りを切ない氣持で顧みない譯に行かなかつた。

 四五日の後に母は急性肺炎の症狀から完全に救はれ、運命の惰勢は再び母を安逸な生活の中に取殘すもののやうだつた。彼女は粥を啜り魚の肉を食べ潑溂として餘生を盛り返し

て來た。自分は七十八年も生延びた彼女の止みがたい生活力が、その餘勢の上で舞ひ澄む獨樂《こま》のやうに停《とどま》ることを知らないのを恐ろしく思うた。血色を取り戾した一老母の戰ひは遂に現世的生活へまで再び呼戾《よびもど》され、暴威を揮ふ時は揮ふ苛酷な運命さへ、母の前ではその暗澹たる翼ををさめてゐると自分は思うたが、さういふ母を見ることは別な意味で壯烈な氣がしないでもなかつた。

 母を圍繞《ゐねう》する人人及び古い昔の彼女の知合《しりあひ》の悉くは、母が今度死ぬであらう豫測と天與の壽齡とに、寧ろその長命と平安とを祝福して、自分に一一その由を傳へて挨拶を交すのであつた。自分も母の壽命の終るの近きを思ひ、働く能力を缺いた人間は訣して六十以上は生きる必要の無いといふ、漠然とした通俗的な槪念を得たのだつた。六十以上生きるといふことは死を期待され、死を祝福されるのみで、死を激しく傷み悲しまれることは尠《すくな》いことらしかつた。ことに田舍の人人の率直な言葉は一つとして死を哀傷する情を披瀝せずに、不足のない死を、或は死そのものに利子的な計算を敢てすることにより、恰《あたか》も當然訪れるべき死の遲きを皮肉るやうなものだつた。

 母は自分に決して今度は生き延びたくなかつた事、唯ひたすらにお詣りがしたかつた事、再《ま》た御身らに厄介になることが心苦しい事などを、取盡《とりつ》した靜かな生活の中から物語るのであつた。自分は何よりも運命がまだ彼女を犯さなかつたことに就て、ひそかに運命の力が近代に至つて次第に稀薄になつてゐるやうに思はれてならなかつた。そして病室の窓の外にある執拗な一塊の殘雪は、北に面した杏の古い根にしがみつき、世は春であるのに凝り固り却却消えようとしなかつた。殘雪と運命、さういふ昔の文章世界の寄稿家の物するやうなことを考へ、我が尊敬すべき運命ヘの超越者、自分の母親を熟熟見守るのだつた。

[やぶちゃん注:「母」ここで彼が語っているのは彼の養母ハツである。犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、金沢市裏千日町に生まれた。加賀藩足軽頭であった小畠弥左衛門吉種(当時六十四歳)と、小畠家の女中ハル(同三十四歳)との間に私生児として生まれた。世間の評判を嫌った父は、生れたこに名もつけず、生後間もなく、生家近くの雨宝院(真言宗)の住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに貰い子として引き取られ、ハツの私生児として「照道」の名で戸籍に届出された。住職の室生家に正式に養子として入ったのは、七歳の時で、この時、室生照道を名乗ることとなった。犀星は私生児で、実の両親の顔を見ることもなかった。この赤井ハツは気の弱い住職を尻に敷いて朝から大酒を飲み、子供たち(貰い子は犀星を含めて四人であった)を理由もなく折檻し、「馬方ハツ」の異名をとるほどの、当時はかなり強烈な恐ろしい女丈夫であったという(所持する昭和四二(一九六七)年新潮社刊『日本詩人全集』第十五巻「室生犀星」の年譜に拠った)。ハツはこの後の昭和四(一九二九)年四月に永眠した。]

 

 九 邦樂座

 

 久振りで仕事も一先片づいて、冬がこひを施した樹樹の蓆を解いて見たが、彼らは藁の溫さの中に既に春の支度を終へてゐた。何か酸味を帶びた匂が自《おのづか》ら立つ埃とともに、自分の胸を妙に惱ましく壓してゐた。自分は少時《しばらく》日の當る土の上に踞んでゐたが、昨日邦樂座の玄關の段の上から辷《はづ》れ落ち、背中を打つた重い痛みが斯ういふ明るい日ざしの中で餘計に感じられた。

 何時か雨上りの電車道で轉んで危く轢かれようとしたが、さういふ不慮の出來事の起るときは、頭がひどく疲れてゐる時に違ひなかつた。健全だと思うてゐる頭腦も刺戟のある映畫見物の後には、每時《いつ》も烈しい疲勞を心身に感じてゐた。目まぐるしい電車道に立竦んで、少時頭の働きを待つやうな狀態になる時は、頭腦の働きよりも車や往來の烈しさが迅速に感じられるのだつた。或晚自動車から下り立つた自分は初めて帽子を冠つてゐないことを知り、自動車を見返るともう明るい街巷の中に紛れ込んでゐた。自分は帽子を冠らないで步く、無態な頭に何か締りの無いことを感じた。一昨日も邦樂座で危く頭を打てば或はそれきり腦貧血を起したかも知れなかつた。人間の命を落すやうなことがどれだけ自然に何等の注意力の無い時に起り、それが却つて偶然に救はれてゐることがあるかも知れなかつた。

  庭の中は眩しい春の日當りで一盃になり、竹の葉の上にあぶらを注いだやうな一面の光だつた。自分は自然の美しさを感じ、その自然がもう自分の心身にカツチリと塡つてゐる人生的な或事件でさへあるやうな氣がし、自ら感情的な此事件を懷しむの情に耐へなかつた。かういふ物の考へ方をする自分には、最早花や樹の美しさよりも自分の考へに思ひ耽る美しさが、どれだけ事件的なことを搬ぶかも知れなかつた。自分は身に沁みて人の死を感じ、その死を自ら企てた人のことも斯ういふ春光の下で餘計に沁沁感じられた。現世の美しさを深く感じることは死ぬことに於て、一層美しく見えることに違ひなかつた。現世に執着するほど死にたくなる念ひを深めることは、よき魂をもつた人間の最後の希望にちがひない――生活、金、死、女、そして目前に迫る何かの芽生えの狀態に、折折氣を取られながら殊勝に少時靜かにしてゐたが、昨日の背中のいたみは鈍重に徐ろに自分に影響してゐた。女達の華かに立つた光つた階段から墜ちた自分は、單に階段から落ちたばかりではなかつた。或はその時に當然不幸な運命の逆襲に遭ふべき自分が、その又運命の端に繫がつて怪我をしなかつたのかも知れなかつた。邦樂座の大玄關から自分は死の何丁目かヘ送られる筈はないと思うたものの、自分は常に新鮮な運命に立向ふ用意をせねばならないと考へるのだつた。それは自分ばかりではない、凡ゆる人間がいつもその準備に就かなければならない事だつた。何時どういふ不安と不詳事が待ち構へてゐるかも分らないからだ。誰がその不慮事の前に立ち得ることができよう。――

[やぶちゃん注:「邦樂座」現在の「丸の内ピカデリー」の前身の劇場。]

 

 十 短册揮毫

 

 自分のところへも每月短册や色紙の揮毫を迫る人が多く、氣の進まぬ時は一方ならぬ憂欝をすら感じてゐる。平常何も知らぬ人に自分の惡筆を献上することは、最早自分には神經的に嫌厭《けんえん》を感じてゐる位である。千葉縣の某と云ふ人なぞは先に短册を送り到《つ》けて置いて、每月揮毫の督促を根氣よく殆ど一年間續けて行うてゐた。その最後に短册返送を迫ることは勿論、或は謝儀を送るとか云ひ子供でも宥《なだ》め賺《すか》すやうであつた。併し自分は怒りを嚙み潰してゐた。かうなると脅迫的なものに近いやうである。

 自分は短册色紙の送り付けは其儘卽座に返還してゐる。今後奈何なる意味に於ても揮毫はしないことにした。その爲自分のやうな惡筆の品定めされる後代の憂を除きたいと考へてゐる。併乍ら自ら進んで書きたい時があれば、惡筆を天下に揮ふことの自信も無いではない。欲しきは私に取つて何事も勇躍だけである。

 

 十一 「自敍傳」

 

 自分は此頃もう一度今のうちに書いて置きたいと考へ、自敍傳小說を書き始めた。自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した。それは言ふまでもなく詩的雜念の支配を受け、センチメンタリズムの洗禮を受けたからである。自分は噓を交ぜた、いい加減の美しさで揑ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、それで自分は自敍傳を完成した如き氣持でゐたが、此頃の自分にはその噓が苛責的に影響し、苦痛の感情を伴うて來たのである。自分は暇を見て書き直した上、少しも文學的乃至詩的移入のない自傳の制作に從はなければならず、事實その仕事に打込んでゐた。

 自敍傳は作家の最初に書くものでなければ、相應の仕事をした後期の仕事でなければならない。その仕事は何處までも成年後の彼の見た「生ひ立ちの記」でなければならず、峻烈な自分自身への批評に代るべきものでもあらう。

[やぶちゃん注:「自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した」大正八(一九一九)年に『中央公論』に発表した「幼年時代」であろう。小説家としては処女作である。]

 

 十二 「大槻傳藏」の上演

 

 帝國ホテルで自分の作「大槻傳藏」の道化座の公演を見て色色感心した。僕の戯作は幸か不幸か未だ公演されたことはなかつた。又自作が劇評家等の筆端に觸れたことも極めて斟いことだつた。自分はこれらの戯作が作集や叢書にさへ未だ談判を受けたことすら無いのを、大した不名譽に思つてゐないものである。それに據つて自信を逆挨《ぎやくね》ぢにする程稺拙《ちせつ》の心を有たない僕は、今度自作の公演を見に行く氣持の張方は、少少悲觀的でもあり又眞向からの自信では可成餘裕を持つてゐた。

 「大槻傳藏」は自作の中では唯一つの時代劇でもあり、或程度までの用意はしてある作品である。その公演を見て「大槻傳藏」が歌舞伎や帝劇で上演されないことを不思議に思ふ位、成功してゐた。道化座は無名の劇團であり大槻傳藏を演じた市川米左衞門氏は、その道の通でない自分には新しい名前である。玄人らしいところはあつたが自分には好印象を與へた。自作の場合大抵役者を貶《けな》すことがその批評の眼目であり條件である世の中で、自分は或程度までの滿足を以て見物した。かういふ自分を素人として笑ふものがあれば、それは物の素直さをわきまへない人人であらう。――自分は此劇を見物してゐる間、絕えず漫然として劇を書いてゐた自分が振顧《ふりかへり》みられた。必然性無き會話の受け渡しも目前で諷刺された位だ。自分は一層努めねばならぬ事、氣持の張方を少しも弛めてはならぬ事を忠告されたやうなものであつた。これは自作が最初に上演されたためであらう。

[やぶちゃん注:「大槻傳藏」人物としての彼は元禄一五(一七〇二)年生まれで寛延元(一七四八)年に自害した、江戸中期の加賀藩の家臣。諱は朝元。所謂、「加賀騒動」の中心人物である。第六代藩主前田吉徳に起用され、権勢を揮ったが、延享二(一七四五)年に吉徳が急死すると、反対派によって排斥され、五箇山に幽閉、配所で自死した。この事件は藩主後嗣紛争も絡んで、陰惨な諸説を生み、後世、色々と脚色された。犀星の同題の戯曲は読んだこともなく、調べても、よく知らなかった。悪しからず。]

 

 十三 茶摘

 

 自分の家の庭は廣くはなかつたが、茶畠が少し殘つてゐて季節には茶摘みもしたものだつた。李の樹の下に蓆を敷いて母は煙草盆を持出し、まだ小さかつた妹は茶を用意したりした。自分も茶摘みの手傳ひをしたが、一時間も同じい事を繰返す仕事には直ぐ退屈をし、風のある目は摘んだ茶の新葉が吹かれてよい匂ひがした。

 茶の根には古い去年の茶の實がこぼれ、僅な枯葉の間に蕗の芽が扭《ねぢ》れて出てゐた。母は退屈しないで丹念に摘んでゐたが、自分の摘む芽の中に古葉さへ雜つてゐて、臺所でそれ蒸しては莚の上でしごいてゐる姉から小言が出た。臺所は湯氣で一杯だつた。姉と雇の婆さんとが忙しく立働いてゐた。自分は茶といふものに恐怖を感じる程、摘むことに飽飽してしまつた。かういふ時に必ず誰か近くの母の友達が表から聲をかけ、母はうつ向いたまま返事をしてゐる記憶があつた。又定《きま》つて强い風が出るやうな日が多かつた。

 蒸された茶は餅のやうな柔らかい凝固になり、揉まれると鮮かな靑い色を沁み出してゐた。その莚を乾かしたあと、四五日といふものは矢張り茶の芽の匂ひがし、その匂ひは庭へ出ると直ぐに感じられた。二番茶を摘むころは日の當りが暑かつた。じりじりと汗を搔く母を見ることは、氣苦勞できらひだつた。

 

 十四 朝飯

 

 或初夏に伊豆の下田の旅籠屋に泊つて、その庭に桃に交る僅な綠の芽立を見たことが忘れられなかつた。それは優しい人情的と溫かみのある綠だつた。自分は朝飯の時にその風景の何ものかを、その膳の向うについた春のおひたしと一緖に嚙み味うたやうな氣がした。それに烟りながらに罩《こ》めてゐた雨は、此暖國にある早い些かの若綠の艶を深くしてゐた。自分が靑い梅の實に朝燒けのやうに流れてゐる茜色を覗き見たのも、此旅籠屋で初めて發見したやうな氣持だつた。何か棄石《すていし》を取圍む鋭い尖つた芽の擴がり、それらの葉が一樣にとかげのやうな光を見せる日光の直射に、自分は眼に靑い薄い膜のやうなものを絕えず感じるのだつた。

 自分は午後から晴れた庭土の上に、若木の綠をうつらうつら見惚れながら、さういふ風景に意識を集中され、餘りに永い間茫然としてゐる自分の中に何か白痴めいたものを感じ出し、靜かさが呼ぶ不安を一心に感じ恐いやうな氣がした。餘りに靜かなときに人間は知らずに命を落すものかも知れないやうな氣がした。さういふ不安は反對に益益自分を靜かにし、自分にハガネのやうな鈍い光を感じさせてゐた。

[やぶちゃん注:ここでの太字は底本では傍点「﹅」である。

「罩めてゐた」ニュアンスとしては、霧のような細かな雨が景色を覆うように、濃淡を変化させながらも、たちこめているさまを言っている。

「棄石」日本の庭園で主たる要となる石ではなく、風趣を添えるために所々に配した石を言う。]

 

 十五 童話

 

 自分は凡ゆる童話に僞瞞を感じてゐた。それ故、童話を書かうといふ氣が起らず、また子供等に自ら童話を書きつづつて見せる氣もなかつた。童話といふものは卽座に作爲され同時に亡びていいものかも知れなかつた。ストリンドベルヒも童話を書いてゐるが、自分には性質の上からも童話は書けさうもなかつた。

 支那のお伽話も自分は大仕掛で好かなかつた。自分はどういふ話をしていいか、それらの話がどうしたら子供たちに喜び迎へられるかを考へると、しまひに憂欝になる外はなかつた。これは自分が作家であるための選擇上の苦衷に違ひない。作家は最後まで子供への讀物を選べないのが本當かも知れない。假令選擇はしても自分の物にして、子供等に薦めたかつた。いい加減な話を子供に說くことは何よりの僞瞞だつた。

 自分は童話の國のことは知らないが、よい子供は自身彼のものであるべき童話を作るべきであり、我我の示す必要のないものであるかも知れなかつた。童話が作家の煙草錢だつた時代はもう過ぎたらうが、自分はさういふ作家が朗かな高い美しい氣持で、童話を作つて書くことに尊敬を持つてゐる。さういふ作家の優しい愛情の中に我我は子女を連れ込みたい希望を持つが、さういふ作家は果して天下に幾人ゐるだらうか。さういふ秀れた作家を自分で見出すことができるだらうか。現世の卑俗な一作家たる自分にもその雅量を披瀝することができる作家を見ることがあらうか。――自分はそれを疑ひ、その疑ふことに依つて憂欝を感じてならないのだ。朗かであるべき童話の國に入るさへ、自分は並並ならぬ現世的な止み難い憂欝の情に先立たれてゐる。

[やぶちゃん注:「ストリンドベルヒも童話を書いてゐる」「令嬢ジュリー」や「死の舞踏」は私の偏愛する戯曲であるが、童話は不学にして知らなかった。サイト「福娘童話集」の「海の落ちたピアノ ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの童話」を読んだ。彼らしい翳のある掌篇で、いい。]

 

 十六 童謠

 

 自分の子供はやはり北原白秋、西條八十氏等の童謠を唄ひ、母親自身もそれを敎へてゐるが、自分は童謠を書いた經驗がないので默つて聽いてゐる外はなかつた。兩氏以外の「コドモノクニ」の童謠をも唄うてゐるのであるが、中には到底自分の如き詩人を以て任ずる家庭に、鳥渡《ちよつと》聞き遁しがたい劣つた作品もないでもなかつた。併しそれに交涉することは自分の敢てしない方針であつた。

 自分の經驗では北原氏西條氏、または稀に百田宗治氏等の童謠が娘によつて唄はれることに、その作家等に知遇を得てゐる關係上、決して惡い氣持になることはなかつた、北原氏、百田氏などは時時子供等にも接する機會があるので、餘計に親しさを彼女の方で持つらしかつた。ともあれ童謠の作家等に望みたいのは、かういふ子供の世界から見た童謠詩人の人格化が、我我の家庭にまで行き亘る關係もあり、大雜誌には少し位樂なものを書いても、子供雜誌の場合は充分によい作品を發表されるやうにされたい。自分も漫然として童話などを書き棄てた既往の惡業を思ひ返すと、それを讀む小さい人人へ良くない事をしたやうに思はれてならない。何事も藝道の影響が子供へまで感化して行くことを考へると自分の如きは童話や童謠の淸淨の世界へは、罪多く邪念深いために行けないやうな氣がした。

 

 十七 輕井澤

 

 

    一 蟲の聲

 

 今年くらゐ諸諸の蟲の聲を聽いたことがない。まだ宵の口の程に啼くのや、淺い夜半に啼くのや、眞夜中に啼くのや夜明け方に啼き始めるのや樣樣な蟲がある。宵の口は賑やかに烈しく淺い夜には稍落着いて低めに、眞夜中には少少澁みのある嗄《しやが》れた聲がしてゐる。明け方には聽えるか聽えぬかくらゐに低く物佗しい。

 それらの蟲の聲の變つてゐることは言ふまでもないが、每年涼宵に聞く筈のこれらの蟲の音が、年齡の落着きとともに我物になるほど身を以て聽き入れられるのは、聽き落さずに心も次第に落着いて用意されて來てゐるからであらう。我我は今日《けふ》眺めたものは又明日どれほど新鮮に眺められるかも知れない。彼らは變らないが我我は日日に變つてゐるからであらう。來年は最つと今年よりも多く蟲を聽くことができよう。

 

    二 螢

 

 日が暮れてから散步に出ようとすると、乾いた豆畑の畝の上に何やら光るものを見たが、隣の燈火が映る露ではないかとも思うた。よく見ると明滅する螢火だつた。海拔二千七百尺の高原では螢のからだは米粒くらゐな小ささだつた。光にも乏しく淺間の熔岩の砂利屑の乾いたのに、取縋《とりすが》つて光つてゐる有樣は憐れ深かつた。

[やぶちゃん注:私は、この時、犀星が「飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅱ たましひのたとへば秋のほたるかな」の句を想起していたことは間違いないと思っている。

「二千七百尺」約八百十八メートル。例えば、軽井沢駅は標高九百四十メートル、犀星や龍之介が散歩した軽井沢町追分の国道十八号線沿道路は標高千三メートル、二人の定宿であった「鶴屋旅館」(現在は「つるや」は平仮名表記)九百七十メートルである。]

 

    三 夜の道

 

 今朝道端を步きながら晝顏の花を久濶《ひさしぶ》りで眺め、しまひに蹲んでじつくりと見恍《みと》れた。美しさ憐れさは無類にしをらしかつた。感傷的になつてゐる自分は此頃氣持にのしかかるものを多分に感じてゐた。昨夜Sの書いたAの追悼文をよんで、暗い山間の道ばたを考へ乍ら反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた。

 家へかへると、啼き出したきりぎりすは一夜每に數をふやして、雨の中を通り拔ける程だつた。自分は懷中電燈できりぎりすの啼いてゐる豆の葉を照し、その靑い翼をひろげて無心に啼き續けてゐる姿を見て故もなく感心した。

[やぶちゃん注:「昨夜Sの書いたAの追悼文」これは、間違いなく、萩原朔太郎が雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号に書いた「芥川龍之介の死」である。何故、断言出来るか?――ここで犀星は、そうでなくても、龍之介との思い出の残るこの軽井沢――龍之介が欠損した時空間のここで、ひどく「感傷的になつてゐる」のであり、さらに「此頃」、「氣持に」、何か「のしかかるものを多分に感じ」ているメランコリックな状態にあったのであり、そんな中、「昨夜」、犀星自身が登場し、彼が朔太郎と龍之介に対して強烈な一語を吐き、そこで朔太郎が田端の坂の上に呆然と立ち尽くした龍之介の影に手を振る――そうして、それが、作者と龍之介とが逢った最後であったと記す――「Sの書いたAの追悼文をよんで」、思わず堪え切れなくなり、「暗い山間の道ばたを考へ乍ら」、「反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた」と述懐していると読めるからである。いや! 芥川龍之介を愛した室生犀星が、これほど強いパッションを受け得る、優れた芥川龍之介の追悼文というものは、萩原朔太郎のそれをおいて、ない、と私は断言出来るからである(地名が気になる方のために、グーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。中央下方に「つるや旅館」、その北北東に愛宕神社に向かって上る道が「愛宕山通り」である)。

 

    四 旅びと

 

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかは心やすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

 

          (芥川龍之介氏遺作)

 

 

    旅びとにおくれる

 

  旅びとはあはれあはれ

  ひと聲もなき

  山ざとに「白桃や

  莟うるめる枝の反り」

 

    註。「山吹や」は芭蕉の句。

    「白桃や」は芥川君の句。

    これらは朗讀風にくちずさ

    まば一入あはれをおぼゆ。

[やぶちゃん注:各詩の後の添え辞は底本とは異なり、一行空けとし、ブラウザでの不具合を考えて、位置を上げ、後者のの「註」はベタ一行であるのを、行分けして添えた。

 前者の最後に鍵括弧で添えた句は芭蕉のもので、

   山吹や笠に揷すべき枝の形

で、元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて、芭蕉四十七歳の作である。岩波旧全集の後記によると、元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとする。とすれば、前の一篇は龍之介満三十歳の作である。この詩は自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように公にされた。但し、これは犀星が仰々しく掲げた「遺作」ではなく、リンク先を読んで頂く判るが、予定されたものであり、たまたま自死後に公開されたに過ぎない。脱稿は六月二十一日。ただ、この前日、彼は確信犯の遺作「或阿呆の一生」の決定稿を秘かに書き終えているから、広角的視野で見れば、確かに遺作と言えるのである。

   *

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

   *

 一方、後者は室生犀星の前者への相聞歌である。私の「龍氏詩篇 室生犀星」の「二、旅びとに寄せてうたへる」を参照されたい。犀星が言うように、この、

  白桃や莟うるめる枝の反り

は、生前、龍之介が捨てに捨てて厳選した七十七句を収録する「澄江堂句集」(没後に私家版として四十九日法要の香典返しとして配られた)にも採られてある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)。]

 

    五 命令者

 

 雨上りの道路を自分は五つになる女の子供と一緖に散步してゐた。彼女は洗はれて美しい砂の洲になつてゐる處を自分に踏んではならぬと嚴然として命令するのだ。そして彼女自身もそこだけ步かなかつた。披女の美しいものを愛し保護する氣持を自分は認め、愉快な畏敬の念をさへ抱くのだつた。併乍ら自轉車や他の散步する人人は、それらの白砂の宮殿の上に惜氣もなく靴や下駄の跡を殘して行くのだつた。併乍ら彼女は父親である自分にのみ苛酷な程、その命令を散步の終へるまで自分に守らせるのであつた。自分はあらゆる柔順なる父親の如くその命令に唯唯《ゐゐ》として服してゐた。

 

    六 山脈の骨格

 

 軒も朽ち、板戶は風雨に曝されて年輪を露《む》き出してゐる、峠の上の村落だつた。風雨も多年の間には煤のやうに黑ずむらしく、此村落は暗い夕立雲の下にあつた。石も人の顏も黑ずんで見えた。自分はとある石の上に腰をおろした。

 信越の山脈が聳えて眼の前にある。-併し自分は茫乎《ばうこ》とそれらを打眺めた。自分はこれらの山脈が自分の滅亡後に猶聳えてゐることを考へると平和な落着いた氣持になれた。彼らの骨格が信じられるのだ。

[やぶちゃん注:「茫乎」ぼんやりと摑みどころのないさま。]

2022/04/06

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「月光的文献」

 

[やぶちゃん注:今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。なお、この章、全く芥川龍之介への言及がなく、一見、無関係なパートのように見える。しかし、これは巧妙な確信犯であると私は思う。それは標題の「月光」である。芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」が公開された際、直ちに諸氏の間で問題となった謎の女性――月光の女――がいるからである。同作中の「十八 月」、「二十三 彼女」、「二十七 スパルタ式訓練」、「三十 雨」の四章に出現する。この謎の女性については、私は三十近くの芥川龍之介の記事でこの〈月光の女〉を考察しており、特にその中の一つを選ぶことは読者に特定の女性をイメージさせてしまう虞れがあるので、敢えて掲げないが、最終的には龍之介の〈月光の女〉とは、龍之介が恋愛感情を抱いた複数の女性たちのハイブリッドな象徴総称であると言ってよい(その女性の姓名を私は、最低でも絶対的確信性を持った四人を即座に挙げられる。妻の文さんを除いて、である)。犀星は恐らくその中の片山廣子(犀星は龍之介よりも先に軽井沢で廣子を直に親しく知っていた。但し、龍之介は、それよりもずっと以前の大学生の時、彼女の歌集「翡翠」(かはせみ)の好意的書評を『新思潮』に載せたことから、ごく軽い交流はあった。なお、私は廣子こそ芥川龍之介の最後の至上の愛の対象者であったことを確信はしている)を「月光の女」に比定しているとまず断言してもよかろうとは思う。ともかくも私が言いたいのは、犀星は――この標題に龍之介の〈月光の女〉を匂わせている――ことは確実だということである。]

 

    月光的文献

 

 一 喫煙と死

 

 每月十五日に我我は小さい會合を催した。そして殆ど終夜喫煙を擅《ほしいまま》にするのだつたが、これはパイプの會と名付けられてゐた。會員には資格はないが一本のパイプを携へることが條件だつた。薔薇の根でつくつたパイプさへ携(も)てば、そして會員の内の誰かの懇切な紹介さへあればいいのであつた。パイプの會であるから珍しい煙草を試煙することは言ふまでもないが、會員は既にマイ・ミクスチユアの濃厚な直ぐ舌の上に重い氣分を感じさせるのに飽いて、寧ろクレブン、ミクスチユアを常用する程になつてゐた。

[やぶちゃん注:総標題の「月光的文献」の「献」の字はママである。底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参照されたい。

「マイ・ミクスチユア」「クレブン、ミクスチユア」煙草の銘柄のようである。前者は見つけたが、後者は不明。「コレブン」の後が読点なのはママ。「マイ」の後の中黒は普通より大き目である。孰れも底本を参照。]

 彼らは啻《ただ》に喫煙するばかりではなく、料理をも併せて註文する關係上、上野の或大きな西洋料理店の階上か、或はオオケストラの聞える階下の特別なボツクスを選ぶのだつた。ボツクスは奇體に急行列車のやうに駢《なら》んで、オオケストラの起ると同時に恰も疾走してゐる感じを持つてゐた。併乍らこれは大抵會員が酒に醉うてゐる爲に、さういふ感じを與へられるのかも知れなかつた。ともかく可成りハイカラな此會合には主として或同人雜誌の關係者が多かつた。大學生、大學助手、詩を書く男、小說家といふ順序だつた。彼らは酒飮むものがそれに心を傾けるやうに、喫煙によつてそれぞれの心を傾けてゐた。

 その晚は十五日のせゐか混んでゐて、我我會員の席が漸《や》つと取れたくらゐだつた。勿論音樂は夕方から引切りなしに續いて、街路の電車道では諸《もろもろ》の車が動いてゐたことは言ふまでもない、それが女達のゐる控部屋の鏡に映つて、この西洋料理店全體がメリイ・ゴオラウンドのやうに動いてゐた。先にも言つた樣に我我は醉うてゐたし音樂は夕方から歇《や》む間もなく續いてゐたし、それに我我は二時間以上も喫煙してゐたから、階上で客同士の喧嘩のあつたことも、すぐ屋後《をくご》の洗濯屋に小火《ぼや》のあつたことも知らなかつた。我我は我我同士のパイプの壺が段段に熱してくることや、醉と喫煙との過度からお互同士の顏が縱に長く伸びて見える事、舌の尖端に花火のやうな剌激のある痛みなどをそろそろ感じる頃であつた。我我のボツクスから勘定場のすぐ前の椅子に、我我に背後を見せてゐる一人の靑年が、酒場の方に向ひながら靜かに茶を喫《の》んでゐるのを見た。その後頭から頸、頸からの線が猫背になつてゐるところは我我に親しい誰かに似てゐた。併し我我はすぐ想ひ出せなかつた。我我同士はその誰かに肖《に》てゐるといふ考へを皆口に出しては云はずに、皆の氣持の中で感じ合うてゐた。

 夜が更けるとメリイ・ゴオラウンドのやうな料理店のボツクスの中では、六人の會員は音樂のまにまに映畫觀賞家の特異な或感覺に依つて、悲劇中の女主人公を物色するのであつた。彼女らは客の間を縫ひながら又引き返しては、注文書に料理の名前を書き入れる爲に鉛筆を走らせてゐた。

 常夜パイプの會員は十二時七分前までメリイ・ゴオラウンドに坐つてゐたから、都合夕方から六時間喫煙してゐた譯だつた。が、彼らの中の最年長者である籾山が顧みた時には酒場の鏡に向ひ背後を見せて坐ってゐた男は、とうにその姿を消してゐた。

[やぶちゃん注:「籾山」不詳。]

 

 二 月と歷史に就て

 

 千九百十二年六月下浣《げくわん》の月のある晚、自分は何の爲か塔の七階目から一度市街の燈火を眺め、更に十二階目から家根の上を見下ろしてゐた。曾て斯樣に彼は彼の住む都會を見下ろした經驗を持たなかつた。彼の視界はフイリスチアン、ロツプスの畫面と同樣な、奇異な蝙蝠の暗い翼の羽ばたく音を幾度となく耳に入れた。其他の光景は何の誇張もなくロツプスの神祕と惡戯との世界であつた。

[やぶちゃん注:「千九百十二年」明治四十五年。翌月末に明治天皇が崩御した。

「下浣」月の最後の十日間。下旬。

「塔」浅草の「十二階」。

「フイリスチアン、ロツプス」ベルギーの画家で、エッチングやアクアチント技法の版画家フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)。エロチックな幻想的怪奇的作品がよく知られる。]

 暗い屋根裏に錢を算へる老婆や、女の裸の足を嚙る男の數珠つなぎになつてゐるのや、また八度目のお化粧を仕直す女、煙草を拾うて喫《の》む男が義眼を落した騷ぎや、小路の奧の下水に陷ち込んでそれきりで絕命したのや、其他樣樣の出米事が此千九百十二年代の公園を中心として起つたのである。つづめて云へば千九百十二年代の此公園はロツプスとゴヤとを捏《つ》き交ぜ、フツクスとモールの寫眞版の複製で一杯だつた。その證據には美しい池の水は夜は石油のやうな虹色をぎらつかせ、それに映るものは可憐な玉乘少女であつた。その可憐な少女を描くことは當時の新しい畫家の好題目だつたに違ひない、――自分ら千九百十二年代の詩人の多くは槪ね此癡情ある風景の中で擅に飮食し生長した。あらゆる惡德をも見遁さなかつた。最も美しい彼女らの中の一人が彼らの上に乘りかかり呶鳴るのであつた。

「ああ此文なしの畜生。」

 塔の上で自分らの發見した「思想」は、遂に神を呪はないところの正しい生活を慾望してゐた。痴情ある風景から田舍の新鮮を思惟するところと一般であつた。そして今日の自分は凡人の一賣文者であり、何れの惡德にも超然とするところの一紳士の假面をかむつてゐた。しかも今はその塔の上に再び登り彼の生活を俯仰することができなくなつたのである。千九百十二年代の病欝なる月光が再び我我の上に無いやうに、その公園すら昔日の「歷史」の中に編纂されるだけだつた。

[やぶちゃん注:「フツクス」オーストラリアの印象派の画家エマニュエル・フィリップ・フォックス(Emanuel Phillips Fox 一八六五年~一九一五年)。

「モール」不詳。音写に問題があるか。]

 

 三 月から分れたる者

 

 月から分れて出て來た男は、やはり同樣の女と冷たいアスパラガスの料理を食ベてゐたが、彼女の指はアスパラガスと同樣に白い冷たいものだつた。

 

 四 月光的詩人

 

 若し月光的詩人といふ言葉があれば、ボオドレエルやヴエルレエヌはより多き生彩ある月光的詩人であらう。ボオドレエルには病欝な黃ろい月光を、ヴエルレエヌには明鏡的な同時に詠嘆的な都會的古典趣味を各各感じるであらう。近代にはアポリネエルやコクトオや、或はポール・モオランの諸短篇にも各各月光的なる詩人の精神を閃かしてゐる。その外グウルモンにせよ、フランシス・ジアムにせよ、レニヱにせよ、新古典へ送り込まれた彼等の孰れも、月光的精神以外の詩人ではない。大摑みに云へば西歐の諸詩人は月か星かの匂ひを含まない詩は稀だと云つてよい。彼らは月光をも溶解して製られた舶來の石鹸のやうに、時に我我の心腸を洗滌して吳れると云つてよいのである。

[やぶちゃん注:フランスの外交官で作家のポール・モラン(Paul Morand 一八八八年~一九七六年)。短編集「夜ひらく」(Ouvert la nuit :一九二二 年)や「夜とざす」(Fermé la nuit :一九二三年)で、一躍、ベストセラー作家となった。]

 今の詩壇でこれらの詩人と比較して匂高い昨日の石嶮に數へらるべきものは、約言すればその月光的精神を生かしてゐるものは僅に詩集「月に吠える」の著者であつ萩原朔太郞氏であらう。大正五年代以前に萩原氏が既に「月に吠える」と稱する奇拔斬新の命題を撰んだことは、云ふまでもなく何等かの先覺的な使命を、當時にあつて上包《うはづつみ》を解かれざる新しい石鹸であつたことも實際であつた。當時新しがりの私でさえ此締りなき散文的な「月に吠える」を餘りによき命題だとは思はなかつた。寧ろ彼が斯樣《かやう》に新しがる程効果のない題意を窺に[やぶちゃん注:「竊に」(ひそかに)の誤字ではなかろうか。]萩原氏に傳へた程であつたが、彼は深く信據《しんきよ》するところがあつたのであらう、後になつても更めることがなかつた。

 萩原氏が月光的詩人であるとすれば、ボオドレエル型の黃ろく歪んだ屋根の上の月光とでも云つた方が適當であらう。明明皓皓の月光でない限り物凄い利鎌の如きものでもない。彼は病(やみ)しげで加之《しか》も片雲の間に漏れる黃ろい月光であると云つてよい。――併乍ら彼の詩の中で月光を唄ったものは殆ど稀だと云ってもよい程である。

 

  五 活動寫眞の月

 

 明治四十三、四年といふ年代に自分は東京に出て、初めて活動寫眞を見物したものであつた。當時にあつては歐洲諸國の文明開化をもつてすら未だ活動寫眞といふものは、人生の數奇多樣の生活を現すものではなく、奈何にして自然の美を會得せしむべきものであるかと云ふことに腐心してゐた。ロツキイ山脈や砂漠の映寫は、我我を生きたる寫眞として感激させたことは云ふまでもない、――二十數年後に「カリガリ博士」や又五年の後に「サルベエシヨン・ハンターズ」が表れるなどといふことは、殆ど當時に於て夢にさへ見られなかつたことだつた。

[やぶちゃん注:先行する「天上の梯子」の「十一 一本の映畫」の私の注を参照。次の段落の示すのもその文章である。]

 自分らは樂しい明治末期の活動小屋の中にゐて、奇異なる文字通りの活動寫眞を見物してゐたことを前以て述べた。しかも自分らはダンスといふものが西歐人の肢體によつて斯くも完全に、斯くも私どもの前に如實の如く踊り演じられることに、又なき好奇の眼を睜《みは》つたことは新しい喜びでもあり驚きでもあつた。當時は月光の中から瞬きしてゐる間に、數人の女が羅布《らふ/うすぎぬ》を纏ひながら、嫣然《えんぜん》[やぶちゃん注:美人が艶やかにほほ笑む様子。]として我我の面前で踊り續けるのであつた。彼らは月光から分れて出たもののやうに美しい長い手足を素早い動作によつて左右にヘシ曲げ、或は飛上つたりするのであつた。月ばかりではなく花束や或は星の群からも、手品師の扇からも、卓の上の煙草入れからも、舞うてゐる胡蝶や小鳥の籠や手帕《しゆはく》[やぶちゃん注:ハンカチーフ。]の皺からも、殆ど總《あら》ゆる物體の化身のやうに彼女らは舞ひ出てくるのだつた。しかも夫等《それら》の花や月から女が出る前には、必ず一人の奇怪な惡魔が、絕えず畫面の中を指揮し彷徨してゐるのだつた。

 當時自分は映寫中の一美人が嫣乎《につこり》と微笑する時、何となくきまり惡い思ひをし、そして何となく羞恥の情や赮面《かめん》[やぶちゃん注:赤面すること。]の面持をしたことは、强ち年少な好色にのみ耽つてゐた譯ではなく、餘りに我我の眼に近く物言ふごとく囁くごとく現れ踊つたからであつた。自分は永い間艶美で露骨な西洋人の微笑に惱まされてゐたのも、これらの映寫中の美人が物言ふごとく迫つてゐたからである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 六 上田秋成

 

 上田秋成もまた月光的詩人であらう。

「淺茅が宿」や「靑頭巾」や「蛇性の婬」の物語には、軒漏る月かげでなければ、蔭をつくる物凄い月が射してゐる。或は彼らしく淸閑の月がほのかに照してゐる。西行も月の大家であるとしたら亦芭蕉も月の大家でなければならぬ。亦秋成も大家の外のものではない。彼の文章の中に何か仄かな月のあかりが漂ひ、不斷な「淺茅が宿」をあらはしてゐる。

      初    秋

 月あかき夜を誰かはめでざらん、ふん月望のこよひ、庵を出て、わづかに杖をひけば、鴨の河面なり、雨ふらぬほどなれば、月は流を尋ねやすむらん、音をしるべにとめくれば、むべも淸しとて、人々手にむすび、かいそうぶりなどして遊ぶ、風高く吹き、雲消え、影さやかにて、何をか思ふくまのあるべき、――(藤簍册子)

 十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやふきに、夢路にやすらふがごとし。(雨月物語)

 やよひの望の夜ごろ、かすみながらに、夕かけて月いと花やかにさしのぼりて、庭の梅が枝に先かかれる影の、花の色あらそふは、似て物もなくあはれ也。(つゝらふみ)

[やぶちゃん注:標題の「初秋」以降は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した。

「藤簍册子」は最後の「つゝらふみ」と同じ。これで「つづらぶみ」と読み、上田秋成著の歌文集。全六巻六冊。前三冊は享和二(一八〇二)年自序で文化二(一八〇五)年刊。後の三冊は文化三(一八〇六)年刊。和歌・紀行・文集から成る。歌は万葉調と古今調の中間的な作風で才気に溢れ、紀行・文集では流麗な雅文体によって、その文才を示している。歌人秋成の面目を窺うに足る作品集である。

「ふん月」陰暦七月の「文月」(ふみづき)の音変化。

「とめくれば」「尋(と)め來れば」。たずね求めて来たれば。

「かいそうぶり」歴史的仮名遣がおかしいが、「搔(か)添ふ振り」であろうか。「ぴったりと寄り添うような仕草をすること」のことである。]

 

 七 古い月

 

 芭蕉は月光の大家であるよりも、月の大家とあると言つた方が適當である。月光の新體詩人に冠すべきであるが、單にの大家であらう。しかも芭蕉の月の句は彼の英才を以てしても、大して新しくはない、と言っても決して古くはない。その句の殆ど總てに前書があり、偶吟といふよりも紀行や題意に叶うて詠じたものが多いやうである。「三日月や蕣《あさがほ》の夕べつぼむらん」旅中の吟「悌や姨《をば》ひとり泣く月の友」悼遠流天宥法印「其の玉を羽黑へかへせ法《のり》の月」燧山《ひうちやま》「義仲の寢覺の山か月悲し」稍《やや》晚年の作「秋もはやはらつく雨に月の形《なり》」等枚擧に暇がない。みな古風な、それ自身月の面影を持つてゐる。芭蕉は或は月の大家ではないかも知れぬ。彼はそれ以上の明明皓皓たる何者かであらう。或は蒼古二百年の古い月かも知れない。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。この条はいろいろと問題がある。

 まず冒頭の「芭蕉は月光の大家であるよりも、月の大家とあると言つた方が適當である」という部分で、非常に判り難い。私は、犀星は、

――芭蕉は「世間的に言うところの『風流の月の大家』と称すべき存在」なのではなく、「世間的に『月の大家』などと称されてしまっているところの不当な存在」と言うのが正しい――

という意味と採る。それは而して哲学的であって、最後の部分で、

――芭蕉はまさに時空間を突き抜けて「明明皓皓たる何者かであ」るところの「蒼古二百年の古い月」を、心象の中に『真の月存在』として確かにつらまえているところの、正に芭蕉自身が絶対的存在としての『月』的な存在であったのではないか?――

と言いたいのではないかと感じている。

「三日月や蕣《あさがほ》の夕べつぼむらん」「ウェッジ文庫」ではこの「蕣」に「むくげ」と読みを振ってしまっている。話にならない、大変な誤りである。

『悼遠流天宥法印「其の玉を羽黑へかへせ法《のり》の月」』私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 42 羽黒山 其玉や羽黑にかへす法(のり)の月』を参照されたいが、犀星が挙げているのは、「奥の細道」に採った句の異形である。]

 

 八 月光的感情に就て

 

 私は所謂月光派の詩人でもなければ、又特に古い月を詠むところの俳人でもない。併乍ら私の文學的生涯の過半には、いみじき月影は不斷に射してゐたに違ひないやうである。今も私の喜怒哀樂の夕には或は月光以上の明りが射し込んでゐる。私は今は西行のやうに月見れば悲しむといふ古への思想を輕蔑してゐるものに近いかも知れない。――日本に於ける總《あら》ゆる和歌や發句道の精神はこの月に事寄せて哀歡の情を述べたものであつたが、私は却てこの古き歷史と文學の背景とをもつところの月光に、直ちに情を述べる文學に贊成することができないやうである。萬葉集や元祿俳人の詩的精神、ボードレエルやヴエルレエヌの哀調を育て來たことを思へば、後代の月光も亦別樣な文學の榮光を生みつけるであらう。併し月に事寄せる文學は今のところ行き盡いてゐることも實際である。殆ど洗ひつくしたと云つてよい。

 高山樗牛が月夜の美感を書いたころは、今から二十年も昔であつた。空虛な文字ではあつたが當時にあつては私は愛讀したものであつた。彼には彼の熱情に依つて仄かに射すところの月光があつたことを私は記憶してゐる。德富蘆花や尾崎紅葉もまた月光的新派の一旗幟《きし》を持つてゐた。尾崎紅葉は何かしら一月十七日の月光を自分に印象させたことは、未だに可笑しい記億を殘してゐる。

[やぶちゃん注:「旗幟」「はっきりした態度・明確にした立場」の意。

「德富蘆花」ママ。蘆花は自ら姓は「德冨」という字体であることに拘った。

「尾崎紅葉は何かしら一月十七日の月光を自分に印象させたこと」「金色夜叉」の熱海の河岸のシークエンスは一月十七日である。]

2022/04/02

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 扉(タイトル)・序・「天上の梯子」

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連に特化した本書の「澄江堂雜記」パートから開始したが、他の部分は原本の最初に戻って電子化する(他にも龍之介関連の文章は本書に散在するが、それだけを先に抜いて電子化注するのは、室生犀星に対して失礼と存ずれば、以下では既にこのブログ・カテゴリ「室生犀星」で終わった「澄江堂雜記」まで冒頭からの順列で電子化する。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。

 但し、私は室生犀星については、正直、芥川龍之介と関連のある事績にしか知識がない。されば、龍之介関連に箇所で気になる部分には注するが、その他の非芥川龍之介関連の随筆・評論には、私が躓いたところ、及び、よほど気になった部分以外には注を附さないこととする。私は注で拘って本文から脱線する傾向が強く、読者によっては五月蠅いだけの駄文となろうかとも思われるからである。【二〇二二年四月一日 藪野直史】

 

 

  天馬の脚

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションは、残念ながら、外装が損壊したためであろう、修理されて館内用のそれに作り替えらえてしまっており、原表紙ではない。幸いにして、K. Kojima氏のサイト「室生犀星書籍博物館」のこちらで、小さな画像であるが、本書原本の函及び表紙を見ることが出来る。孰れも上記の書名が太枠罫に毛筆で記されている題簽を視認される。この題簽の揮毫者は、目録の末尾から、芥川龍之介の主治医にして友人であった、田端に住んでいた、龍之介の遺体の検死者にして死亡診断書も書いた医師で俳人でもあった下島勲(俳号・空谷)であることが判る(私の下島勲「芥川龍之介氏のこと」や、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』を参照されたい)。さればこそ、本書には、どこを開いても、芥川龍之介の遺香が、仄かに漂っていると言えるのである。]

  

Tennmanoasi

 

[やぶちゃん注:扉。毛筆。室生自身の筆か。国立国会図書館デジタルコレクションではここだが、国立国会図書館の蔵印・内交印(内務省検閲済印)]・「納本」印が捺されてあり、あたかも検死解剖台のような様相を呈していて、とても画像として挙げられる代物ではない。そこで、所持する「ウェッジ文庫」版の目録の後に挿入されてある原本から加工補正したと推定されるページを画像で取り込み、裏の写り込みその他を補正・清拭して掲げた。なお、文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品等の写真には著作権は発生しないと規定しており、この同文庫のそれも、写真で撮ったものを補正・清拭ものと推定されるから著作権侵害にはならない。]

 

 

 

 

 自分は最近隨筆ばかり書いて暮してゐた。隨筆も小說や詩と同樣に苦しい作品であることを經驗し、文章に自分の心境身邊の雰圍氣を沁み込ませることも、容易な仕事ではなかつた。自分は此隨筆的な愛すべき境致にゐて、靜かに自分を鍛へることに喜びを感じてゐた。

 自分は自ら好む閑文字と倶に文藝評論や映畫の時評をも試み、これまでの隨筆的佶屈《きつくつ》を蹶破つて出た明るい感じを經驗してゐた。「天馬の脚」と題したのも、そ

の明るさを表象したものに過ぎない。[やぶちゃん注:「閑文字」「かんもんじ」或いは「かんもじ」と読み、「無駄な字句や言葉」、「無用の文章」の意。「蹶破つて」敢えて読むならば、「ふみやぶつて」であるが、迫力がない。「蹴破つて」で「けりやぶつて」「けやぶって」なら最も腑に落ちる。しかし「蹶」に「ける」の意味はない。或いは犀星の誤字か慣用語なのかも知れない。]

 原稿は當然破棄すべきものを捨てて、自分の氣に入つたものだけを本集にをさめた。林泉的閑文字の中にも後日の集に讓つたものも尠《すくな》くない、主として「天馬の脚」には何か自分の變りかけてゐる、氣持の中に光る鋭いギザギザなものを蒐めたものである。[やぶちゃん注:「林泉的閑文字」「林泉」は隠棲の地として選ばれるような場所を指す。悠々自適晴耕雨読といった感じで勝手気儘に書いた自分の文章を謙遜して表現したもの。]

 

              著   者

 

[やぶちゃん注:この後に「天馬の脚目錄」が続くが、それは総ての電子化注を終えた後に回す。

 以下はパート標題。]

 

 

   天上の梯子

 

 

 一 純文藝的な存在

 

 現代に於て純文藝的な作品のみで、一作家が生活を支へることは最早危險なことに違ひない。詩人が頑固に詩作ばかりで生計を爲すことは、最早現今に於ては不可能のことにされてゐるやうに、凡ゆる文藝の士もまた純粹な藝術的表現でのみ、その牢乎《らうこ》[やぶちゃん注:しっかりしているさま。ゆるぎないさま。]たる藝術的潔癖を手賴ることは危險に近い努力であらう。一作家の氣魂にまで割り込んで行くところの熱と愛とをもつ讀者は、殆ど文藝的な忠實な使徒以外には求められず、多くは興味本位のものを要求しそれを愛讀するに至るであらう。

 自分のごときは天下に百萬の讀者を持つものではないが、併し猶百騎の讀者を信じることに於て人後に落ちるものではない、俊英と愛慕との百騎はそれ自身後代ヘの續きを意味し、百萬の蜉蝣《かげらふ》はそれ自體何時しか散り易きものの常として散り失せるであらう。誠を愛し讀み味ふことは、却却(なかなか)讀者に求められるものではない。併も今日のごとく讀者が右往左往する時代に、何人が彼らの心臟的讀物たることを期し得よう。誠に淸節であり得た讀者は一作家にどれだけも無いやうに、又その讀者の烈しい淸節さは陰乍《かげなが》らよく努める作家らの轡《くつわ》を嘸でて、なほ溫恭の陣頭へ送り込むことは昔と渝《かは》りはないのだ。

 併しかういふ大衆化の時勢に於てこそ、純文藝的な作品の透明を持することが出來、嚴しき朝暮の霜を人人に思はしめるであらう。純文藝風なものの存在の危ない時にこそ、その輝かしい烈しいものを叩きあげることが出來、詩錢を得ざる詩もなほ後代を信じることが出來るのだ。自分の如く何事にも融通の利かない作風すら此儘押し上げることにより、役立たない才能を役立てることにより後代を信じることが出來るであらう。益益純文藝的な、寧ろ頑固なまでの薀奧《うんわう》[やぶちゃん注:「うんおう」の連声(れんじょう)。教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。奥義に同じ。]を刺し貫いた古代と新代との續きにかがり[やぶちゃん注:「縢り」。布の裁ち目などがほつれないように縫い糸やしつけ糸でからげることからの喩え。]、胡魔化し捩ぢ伏せて純粹なものに取り縋《すが》ることにより、我我の存在が決して輕蔑できない處にまで、行くところに行き着く氣槪と勇勵とを併せ感じるであらう。純文藝的なものの呼吸づかひのヤサシさ、そのきめの細かさ、粗大に優れた量積、「時」を抱きしめてゐる雄雄しい姿を人人は見るであらう。仕事場にゐる彼を見直し彼の仕事場にある「時代」の新しい面容を見ることが出來るであらう。

 我我が大衆に割り込むことの不可能な才能を信じ、我我の過去の文學が大衆をどういふ風に育てたかを思ふ時に、我我の文學に大衆は間もなく踵《きびす》を返すことを信じて疑はない。また我我の純文藝の立場にまで彼らを引き戾すことは、我我の古代のよき藝術がいつもそれに力があつたやうに、決して不思議な徒勞な現象ではない。我我はツルゲエネフの過去から既にその用意があり、それを迎へるに寧ろ微笑《うすわら》ひながら談《はな》し得るであらう。

 

 二 文藝の士

 

 紅葉、露伴や漱石、藤村なども文藝の士ではあるが、各發句や詩情を述べるに遂に一代の大名を爲してゐる。西鶴も亦俳諧をよくし、芥川や久米三汀も亦發句道の達人である。齋藤茂吉の隨筆も亦自ら風格ある重厚な文章を爲し、古くは虛子も亦數編の小說を書いてゐる。

 自分は文人的好みを普遍的に叙說する時文家《じぶんか》の徒ではないが、歌人俳人が小說を書くことや小說家が發句和歌を物することは、各《おのおの》その道の難きを知り自らその道の苦衷を慮る上に於て、我我文藝の士のみが感じる或親愛さへ念ふものである。これらを以て直に文人墨客趣味とは云はない、藝術の士はその分野の分けがたき雜草をも分け入り、岐路の微妙を大悟することは當然といへば當然過ぎることであらう。徒らに俳詩人のみが詩俳諧の殿堂に弓箭を番《つが》へることは、小說家がなほ小說の宮殿に己れを護るの頑愚と一般である。凡《あら》ゆる藝術の士は又凡ゆる藝術の諸道に通じ、それの作者たることに遠慮は要らないと同樣、それらの作品を齎《もたら》すことに據つて美事な文藝の士たることは恥ではない。又別の意味で文藝の士の資格たるや歌俳諧の秘術を露くことも其一つではなからうか。[やぶちゃん注:「時文家」現代文学評論家或いは「文人的好みを普遍的に叙說する」というところまで裾野を広げるならば(狭義の文人の辺縁や外延まで及ぶとなら)、寧ろ、社会評論家も含むことになる。]

 小說家であり得て生涯小說を物してゐるのも惡いことではないが、なほ一藝に秀でるは一層作者たるの所以を手厚くするやうである。秋聲に句道の志あり、鏡花に小唄や發句の閑境を窺ひ見られるからである。一代の文藝の士の諸道になほ一見識を持つことは、輓近漸く廢れて、荒野に花を見ることなきは詩情漸く地に墜ちようとするに似てゐる。とは云へ强《あなが》ち文人趣味無き文人をなみする譯ではないが、荒涼たる人生の記述者にも此詩情あることは我我一讀者としても望むところである。

 自分の如きは詩人ではあり幼にして文藝的生ひ立ちの朝暮には、和歌や發句や詩の道に己れを學ぶ機會を與へられ、長ずるに之らの精神を感じてゐながら遂に忘却の時をさへ强ひられたが、今にして顧るに之らの文藝的苗代《なはしろ》の時代に學び得たるものが、蓊鬱《をううつ》[やぶちゃん注:元は「草木が盛んに茂るさま」で、そうした様態の喩え。]として胸裡に蟠《わだかま》るの幸福は、徒らに作者たるのみの面目を持するの徒にくらべ、遙に喜びであるに違ひない。詩情は得難く法度に卽《つ》かざるの嘆きは、遂に今日では自分に繰返す要がないやうである。

 今、五十代の人人は多くは漢籍詩史により明治中期の、しかも明治人として最後の文人的資質の典型人として殘つてゐるが、彼ら以後今四十代に近からんとする人人には、明治人としての平淺粗笨《へいせんそほん》[やぶちゃん注:「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。]の時勢的惡夢の時永く、文人的好尙の時を經ないでゐる。しかも時勢とは用なき之らの漢籍詩史の埒外《らちがい》の敎育は第三期の今の二十代の靑年には、殆ど視目に觸れる事なく用無き徒事《あだごと》として忘れられてゐる。況やその道の士にして顧ることなき文藝的枝葉の成果は、今後益益滅び行くであらう。自分が又一讀書家として、彼ら文藝的達人の徒が己れの城砦《じやうさい》にのみ籠るの域を出て廣き諸道の光彩を手に取り詠ずることを望むのは、荒唐の世に背く譯ではなく、荒唐の世に處するの素志であることを說きたいからである。[やぶちゃん注:「徒事」は「とじ」「ただごと」とも読める。]

 

 三 文人趣味への反逆

 

 あらゆる文人墨客の趣味は、當代にあつては一つの心境上に試用される洗練や彫琢の類ではない。その趣味が社交的な隱遁生活者の一つの資格であり得た時代、爲人《ひととなり》としての嚥《の》み込みによつて煩雜な時代の相貌に嘲笑しかける卑怯な「思ひ上り」であつた時代、何事も文人趣味に己れのみよしと決定したいい加減な心境者の時代はもう過ぎた。凡ゆる文人趣味の表面的な爲人振りである誤謬は、遂にそれらの淸閑と目された精神的高揚の中には、何等の霸氣もなく徒らに沈んだ退屈そのものだといふよりも、何よりもその趣味は當代にあつては完成されざる「心境上の疾患」であるといふ冷笑をさへ浴びせられるのも、いい加減な風流才子の輩出が起因してゐた。

 あらゆる風流意識や傳統保持者の持つ「古い黃金」を粉碎してみて存外瓦石を發見することが多かつたのは、彼らの持つ心境が一時的のものであり、氣質的のものでないことに原因してゐた。隱遁それ自身の隱れ蓑だった風流意識は、我我が幾たびも之をたたき破ることによつて、誠の心境者、戰國時代風な心境者を形づくることに、己れを鞭打ち練磨を怠らせなかつたものだつた。凡ゆる文明の中にある寧ろ戰鬪的な思想をすら、その心境上の背景に抑制してゐる一種の寂靜な心境、しかも橫からも縱からも打ち込む隙間もない四方に鏡をもつ境涯にゐてこそ、初めて心境の達眼者たることも得、また風流者の資格をも得るものであらう。些《わづか》の茶事造園の著書によりながら、また些の睨みをそなへる自信に媚びることによる今日の鼠輩が、風流を單なる文字面の淺慮な解釋によつて斬り捨てることは、彼自身の名譽を重んじることによつて自ら口を襟《つぐ》むべきことであらう。風流はそれ自身個個の氣質がもつ凡ゆる藝術的な分野を領し得るところの、それぞれの達人者によつて名づけられる名稱であり、一つの辭書的な解釋による單なる風流でないことが分つて來た今の時代には、何人も風流人であり得る譯だ。これを嘲り笑ふことは彼自身の淺薄さを我我に暴露するものに外ならない。

 我我はもはや「古い黃金」の中身に欺かれず、またそれを欲しようともしない。唯我我の求めるものは中身もまた輝くところの「古い黃金」の心境であるものに限るのだ。風流が單なる風流意識の封建的な埒の外に、あらゆる世相を抱へ込むことを怠らない限り、初めて完成されるのだ。いい加減な枯淡思想は一種の胡魔化しを吹き込むことによつて、もう亡びてゐることは事實である。我我が輕蔑されて來たこれらの明快な悒欝《いふうつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。但し、「憂鬱」の歴史的仮名遣は「いううつ」である。]を拒絕した意識の下では、もはや何人の前にも「風流」そのものがなほ一時逃れのものでなく、我我の生涯を圍饒《いねう》する鋭い新鮮な一つの「今日の思想」であることに心付くであらう。

 

 四 僕の文藝的危機

 

 自分の熟熟《つくづく》この頃おもふことは樂な仕事をしてはならぬといふことである。樂な仕事それ自身三枚書けば三枚分だけだらけ、五枚書けば五枚分だけだらける習慣が永い間に恐ろしい病疾になるからだ。樂な友人交際には何の緊張もなくダラけ切つてしまふのだ。自分は不惑の年齡にゆきあうて又思ふことは、もう最後に緊め付け打ち込まねばならぬと云ふことである。もう一度立ち直らねばならぬ事、いま立たねば飢ゑかつゑてしまふ事、それは絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局は絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局妻子や一門を嘆かすことの前に私自身が是が非でも力一杯で打《ぶ》つかつていかねばならぬ事、力一杯で打ち込むことは必ずもう一度立つことを意味するであらう。根《こん》の限り揮ひ立たねばならぬ。樂なものは一枚でも書いてはならぬことである。それはどういふ意味に於ても必要であり、自分の死物狂ひを正氣まで引き戾し勉强させるであらう。

 芥川君の死は自分の何物かを蹶散《けち》らした。彼は彼の風流の假面を肉のついた儘、引《ひつ》ぺがしたのだつた。彼は僕のごとき者を其末期《まつご》に於ては輕蔑したであらう。自分は漸く友の溫容の中に一すぢ烈しい輕蔑を感じることに依つて、一層この友に親しみを感じた。自分は自分自身に役立たせるために此友の死をも攝取せねばならぬ。何と云つても彼が作の上にないもの、僕自身が勝手に考へ耽るものを僕の中に惹き入れることに據つて彼自身を閻魔の廳から引き摺り出さねばならぬのだ。彼自身が持つ僕への微かな輕蔑の情を彼自身の爪によつて、自分の諸《もろもろ》の仕事に據つて取り消させることが出來るであらう。彼の死を僕の或文藝的の危期から立つことに依り、劃然としきることが出來るであらう。

 彼の長髮瘦軀は實際自分には樣樣な場所に見えた。自動車のドアから下りようとする彼、動坂の埃と煙の中から出て來る彼、田端の垣根と垣根の間を步く彼、そして僕の彼から取り戾すことは此一つの輕蔑の思念だつた。

 

 五 時代の經驗

 

 或日自分のところに支那の古硯を商ふ男が來て、掘出し物の古い壺を見せてくれ、自分はそれらの壺を人目には氣永に丹念に捻《ひね》り𢌞して眺めてゐた。其座に來合せてゐた一靑年は、時折自分と陶器とを見較べゐたが、硯を商ふ男が歸ると、一靑年は徐《おもむろ》に自分に對《むか》うて質《ただ》すがごとく云ふのであつた。

「あなたが陶器を見たり硯に息を吹きかけてゐられるのを見てゐると、僕らの氣持とは全然異つてゐるやうに思はれるのです。あなたはああいふ硯や陶器を見ることは愉快なんですか。」

「君はどうです。」

「僕には解らないんです。併し今の僕らの氣持はああいふ陶器なぞに絕對に好意を持ちません。」

 自分は此靑年が歸つたあと、靑年が硯や陶器を見て興味の起らない氣持に同感することが出來、彼の人生には死んだ表情をしか見られない硯や陶器に就ては、絕對に必要の無い路傍の瓦石の類と同じであらう。詩や小說への熱情を持ち、凡ゆる新しい時代の氣持を嚙み分けようとする年若い彼に取つて、古陶の精神や硯の石質に就て思ひを碎くことは、愚昧なる戯事でなければ骨董屋の手すさびとしか見えなかつたであらう。自分がそれを捻り𢌞してゐる時に、彼は靑年らしく自分を恐らく輕蔑した氣持で見てゐたかも知れない。さういふ靜寂さは靑年に取つて息塞《いきづま》る退屈なものであり、充分に輕蔑すべき事柄であつたかも知れない。

 靑年には古い物質から新しい物を考へようとする氣持、秀れた古さの中に必然に身ごもる新しさの潜《ひそ》みが、彼の短い生涯からは見えよう筈がなかつた。凡ゆる新しい時代の呼吸づかひを生活しようとする劇しい氣質の中にある彼には、古代の背景と光とをもつ新しさよりも目前の新しさがどういふ新しさでも其形をもつて居ればよかつた。新しさのもつ危機、新しさのもつ輕佻と淺薄とさへも彼らは屢屢忘れ勝ちな程の新時代の靑年だつた。併も靑年の人生にはさういふ古さを引摺る生ぬるい必要はなかつたのだ。

 自分は性質として凡ゆる古代を渴愛した。古代の精髓の中にある新鮮を汲むことを熱望した。陶器にせよ硯にせよ文學にせよ、それらの古色蒼然の中からは百代に光茫を搖曳する新鮮を見極めることによつて、嚴格無雙の「古代」の額緣の中にある新しさを發見しなければならなかつた。これは永い生涯を經驗したもののみが讀み分けられる特異な新しさではなかつたか、我我の生涯へまで彼らが來なければ見られぬ「古代」の姿ではなかつたか。

 人間はそれ自身生きることの深い層をたたむことによつて、彼自身の存在を明かにすることは云ふまでもない。靑年と自分との分岐點、自分と彼との、存在の距離には、自分としては生き得た光茫とともにあることも、軈《やが》て彼もまた生き得て後に初めて今日の自分を理解することであらう。

 

 六 生活的な流浪

 

 自分は此頃物を書く時には机のわきに一物を置くことさへ、神經的な煩しさを感じ、もう絕對に書物や茶器を手元に置かないことにしてゐる。一帖の原稿紙に鋭い冬の寒氣の揮ふ中に坐つて居れば、心足りるやうな思ひがしてゐる。自分のやうな表面的にも落着いた生活をしてゐるものは、年年歲歲その生活の古い枝葉が組み合ひ鳥渡《ちよつと》引越すにしても並大抵の苦勞ではない。石を起し樹を移し代へるだけでも自分には重荷である。陶器や書物、器物なども年年に殖えて數を增し、生活は複雜な層を作るばかりである。さういふ通俗的な複雜さは彌《いや》が上にも自分を憂鬱にし、身動きの出來ないやうな退嬰的な狀態に置き、心に固い物質的な感覺ばかりをこだはらせ、それらの古い由緖をもつ物質の中に坐つてゐると、神經の疲勞は日に增して重く苛立たしく募つてくる許りである。自分は身輕に立ち上るためにそれらの生活を、身悶えしながら其鎖を斷ち切らうとしてゐる。

 自分は此春になつて荷物を引纏めて何處かの知人の許に預け、幾つかの行李とトランクを携へたまま、一家を擧げて漂然と旅に出ることを考へてゐる。半年くらゐ流浪の暮しをしたら心も自由になり、身輕な朝夕を送ることができよう。今のままでは落着くだけ落つく危險さが感じられてならぬ。最初信州へ行き二三ケ月を山の中で暮し、故鄕へ𢌞り其處でしばらく遊び、京都で二三ケ月をくらした上で、歸鄕して來たら少しは氣持に廣さができ、佶屈と憂鬱さから解き放たれるやうになるだらう。さういふ長期の旅行には一家をあげて流れ步くのが、生活の重みを感じられていい。自分一人で旅へ出るよりも一家とともに行くのが、何か自分の意嚮《いかう》とぴつたりしてゐて氣の張り方も感じられる。尠くとも土地土地の人情を感じるにしても、一家の生活から沁み出してくるものから感じるのが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の物を的確に思ひ當て搜ぐることが出來るのだ。

 誠の意嚮は物質的な固い氣持から放れるだけでよい。四五年の生活的な埃や垢から立ち上るだけでも少しは氣持の淸淨と新鮮とを感じられるだらう。どういふ家庭でも三年目くらゐにその生活を新鮮な方に引寄せる必要がある。又どういふ家庭でも三年目くらゐにそれ自身に或轉期を醗酵させることも有勝ちのことだ。倦怠を叩き破ることも左ういふ時に勇敢に進まなければ、その機會を外す怖れがある。自分の一家を擧げて流浪しようとする氣持の根ざしも、その機會をうまく自分の氣持に添はせる爲に外ならない、――そして又新しい自分を親しみ合せることに喜びと努力とを感じたいのだ。

 

 七 詩錢と稿料

 

 自分は今までに詩や文を賣つて不安ながら今目の生活を支へてゐる。。僅か一枚の詩稿でも需《もとめ》に應じて金に換へてゐるが、詩の稿料の場合はどうかすると微《かす》か乍ら感傷的な氣持になり、成可く有用な家事につかふことにしてゐる。年少詩を志して上京した自分は、まだ此幼い王國に遊行した日の種種な憂苦を忘れることが出來なかつた。この私に何時も絕えず良心の刺戟があつたからであらう。

 自分は三十歲まで詩錢や原稿料を取ることが出來なかつた。併も自分には其等の不平や呪咀の經驗を持たなかつた。自分は父の遺產を僅かづつ取り出して暮してゐたからである。その頃の大抵の詩人は詩の稿料を取ることが出來なかつたのも殆ど當然だつた。自分は詩の稿料に相應の金を求めるのも、天下に恥ぢる事無き今日までの「我々」への感謝の氣持があるからだ。曾て或日詩錢を得て一羽の鶯を飼うてゐたが、春暖の候に佐藤春夫が來てその話を聞いて、甚だ不機嫌な顏付をして恰も鶯を飼ふ自分が贅澤のやうな口調だつた。併し自分は間もなく彼が他の小鳥を飼養してゐるのを見て、夫子自ら辯無きことを思うた程であつた。四五年の後に彼が果してその小鳥が、偶々「鶯」だつた爲に、自分に攻勢的態度を取つたのではないかと思ひ付いた。そのころ自分は既に「鶯」の境涯を卒業してゐたばかりでなく、凡ゆる小鳥を飼ふ氣持の中に烈しい寂莫の情を感じ出してゐたからである。さういふ安價なその爲に烈しい寂莫の想ひは到底自分には我慢のできる程度のものでは無かつた。

 自分は三十歲後に小說を書いて漸つと生計上の一人前の資格を得たが、同時に小說を書き出してから、その仕事から人間が次第に出來上つてゆくことを感じた。詩に遊ぶこと十五年だつたが小說を書いて二三年の間に、どれだけ自分は人になれたかも知れなかつた。作の上の苦衷は自ら自分を新しく組立てるに忙しい程だつた。自分が人前に立つことの出來る所以は、凡下の微笑裡に悠然と自分を疊み得ることも、小說を學んだための餘光を浴びたからであらう。小說學の途に就かない前の自分は依然として草花詩人の群の中に、聞くに耐へない囈言《たわごと》を綴り乍ら或は一生を終つたかも知れなかつた。自分の如きは元より學園に友無く又その榮光をさへ負はないものであるが、それ故に「人に」ならうとする氣持の烈しい中に立つたものかも知れない。さういふ意味で小說學は物質的といふより寧ろ「人に」なるための鞭や笞《しもと》の熾烈さを、自分のごときぼんくらの腦漿にひびき立てて打ち卸されるものの一つであらう。

 不思議なことには自分は未だに原稿料について、それを得ることに或謙遜を感じてゐる。これは狡猾な言葉で無い意味で自分の中にある或物質的センチメンタリズムである。それ故にこそ自分は時に原稿料のことにケチ臭く奮鬪するのである。穩やかな交涉の中にそれらの取引を了することは、同時に仕事の幸福さを思ひ益益それに昂じてはならぬと思ふ程である。併乍らそれらの期日の相違に反射される不愉快な氣持で、殘酷な文人墨客的平靜の努力に敢て就かなければならぬことは何たる文人墨客的不幸さであらう。さういふ時に自分に取つて美しい謙遜の情は消え失せるのが常である。

 

 八 第一流の打込み

 

 心境小說に就て餘り人人は最《も》う云はないやうである。併も私自身にはどういふ意味にも心境小說の存在を捩ぢ上げ驅逐することができない、――心境小說はそれ自身どういふ非難の中に立ち辣み乍らも、益益自身を掘り下げ磨き上げ、次から次へと新鮮な彼自身の役目を發見することに據つて、僕の場合には依然として存在するであらう。心境小說の病根は寫眞を引き伸したやうな日記的生活の腐肉を抉ることにより、漸く人人に飽かれもし沒落もしたのであらう。

 凡ゆる藝術は優秀な作家的心境を外にして立ち得るものではない。唯その心境にまで達し得ないもの、既に腐肉的心境の墮勢を綴ることによつて下り坂のものは、到底救ひ得ないものであらう。そして又沒落したものは既にさういふ種類のものであつたらう。それらの心境の練磨や進步や度外れの勇躍に對しては、我我は非難の劍を取つて袈裟がけに斬り下す必要はないやうである。唯、恐るべきことは書きよいために心境小說をかくことは飽迄我我の中から退治しなければならぬ。心境へ這入ることは容易なことであつて、同時にその縹渺を手摑みにすることはその道の達人でなければ、出來ない仕事である。我我にしろ彼らにせよ、危い日記的陷穽《かんせい》と寫眞引伸し的の境涯を完全に蹶散《けちら》し蹈み破ることの把握の大きさにより、私は私の心境的小說を示し又彼らにも承認させねばならぬ。寫眞引仲し的小說の壁を衝《つ》き拔けることは、云ふごとくして行はれざる至難の道であり、同時に我我の鳥渡した油斷してゐる間に小說自身がそれを搬《はこ》ぶからである。三四行ばかりの引伸し的描寫自身の運びが恐ろしい日記的引伸しの機運を與へ、それの弛みが全篇に物憂い疲勞を漂はすからだ。心境小說にはそれらの危險を油斷なく虱潰しにしてゆくことによつて、光榮ある存在をその將來に於て益益物語るであらう。

 或意味に於て心境小說は第一流の切迫的な打込みを要し、又第一流の新鮮な文章以前の文章の素朴を要するであらう。彼らに肝要なものは最早あらゆる藝術的要素の最高のものありと凡《あら》ゆるうまさ氣高さ、その比類のない濁らぬ禀性《ひんせい》から出發すべき條件を忘れてはならない。日記引伸し的作者の心境が既に我我のいふ心境のかたちさへ保つてゐない如く、我我の溫順の情を有つてさへそれらを振顧る必要はない。我我の心境にある埃や瓦や石やブリキや當用日記や生活ボロが騷然と入り交つてゐても、それらの上になほ不斷にきりつとしてゐるものや、眞面目な一杯の力や、每日幾らかづつ良くなるやうに心掛ける努力あつてこそ、我我の心境は人前に怖ぢず又彼らに匹敵し、次第に良くなつて行くであらう。

 

 九 「巖(いはほ)」

 

 自分は機會があつて昨年中に文學者に接見することが多かつた。そして島崎藤村氏にも或會合で度度お會ひした。自分は藤村氏の端正すぎる文藝的身構に或恐怖と誤解とを有《もつ》つてゐたことを、卽座に逐《お》ひ出すことが出來て仕合せだつた。凡ゆる老大家のもつところの又優れた人人のもつ「巖」を藤村氏は有つて居られた。秋聲、臼鳥の二氏も亦その「巖」に手をかけられてゐるが、藤村氏には就中それが强く感じられた。自分のこの見方を朗らかに藤村氏に達し得たことは、私自身に快適な心持であつた。

 自分も亦「巖」を戀してゐると云つたら人人は嗤《わら》ふだらう。自分はむしろ「巖」に壓迫されて呻吟することもよいが、自分の見た「巖」は瞬間的に何ともいへずよい氣持であつた。自分の文學的小學時代に「島崎藤村」といふ名前は實に遙かに高い處にあつた。「春」や「破戒」を讀んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかつた。しかも「島崎藤村」とは自分の生涯の中で、それと膝を交へて語ることの機會の無いことは覺悟してゐた。そして漸く昨今「島崎藤村」と膝を交へ、話すことができたのは、自分の年少にして熱烈な文學的希望めいたものを、何等の面倒や辭令無くして叶へられたと同樣の喜ばしさだつた。誰かの言草ではないが、手におへねえ餓鬼の手柄だつた。自分は白哲童顏の「島崎藤村」を一瞥した時に、他の言葉は知らず直ちに「島崎藤村」を理解するに十分間を要しなかつた程だつた。十年間「島崎藤村」を讀んだものとしては當然の事であらう。

 自分は不惑の年になり色色の機會あるごとに、文壇の諸君子の風咳に接したい熱望をもつてゐる。その樂しい最初の十分間に自分は行き會ふだけのものを用意し、大抵人見知りや厭な氣持にならずにゐたいものである。自分はかういふ用意のできる時を持つために話をしなかつた人人に、會うて又敎へられるところを攝らねばならない。

 

 十 作家生活の不安

 

 輓近雜誌の廢刊や世上の不況から、作家は一荐《ひとしき》りのやうな收入を得るに困難であり、同時にこれらの不景氣は心ある文人をして昔の「破垣《やれがき》を結ぶ」氣持の烈しさヘ追ひ戾されたことは實際である。眼光自らその「時代」の落着いた美の中に住むことに慣れて、より良き作家はかういふ時に徐ろに立つであらう。

 一圓本流行はそれらの標的になるべき作家を網羅したものの、さういふ印稅は作家を一年半位しか休息させないことを考へると、大して稅務署まで騷ぐ必要はなからう。當然酬いらるべき作家の「もの」だつたものが、年月を經て作家の手に落ちて來たものに過ぎないであらう。何も改造社や新潮社春陽堂の仕事ばかりでなく、作家と和合半ばした共同事業のそれであると云つてもよい位、彼らに酬いらるべきものば酬いられたと云つてよいであらう。風雨の永い歲月の間に一年くらゐの休息は精神勞役に近い仕事にたづさはる者には、當然酬いられてよいことであらう。自分はこれらの印稅的現象は大して作家を樂にさせないと思うてゐる。不況の時代は一層その底を洗ふとしても、我我は既にその用意が出來てゐるとしか云へない。

 我我は約(つつま)しやかな破垣を結ぶことにより、生活の幅をちぢめることにより、その底に物凄い昔の苦行的な自身に再會することにより、決して良くなつても萎え凋むことはなからう。圓本に漏れるものは或者は猶十年後の圓本を超越してまでも、一行二行の苦節を守ることに精神するであらう。我我は遂に百萬の讀者を失うても、我我の子女は靜に夕方の涼しい蔭をつくる楡の木の下で、我我の「靑い汗」を慈《いつく》しみ讀み耽るであらう。我我や我我の友は遂にさういふ誠の一人か二人かの讀者を後代に選み出して、安らかに眠りに就くであらう。安んぜよ、我我と我我の友よ。

 

 十一 一本の映畫

 

 自分は何時か生涯のうちに一本の映畫を自分で監督し乍ら製作したい考へを持つてゐる。自分は最早文學の力を用ひず映畫の表現により、總《あら》ゆる自分の自叙傳的なものの曾て自分に取つて失ふことの出來ない光景、過去の幽靈、または既に剝落されたその時代の經過的な文明、さういふ自己を表現することは最早文學に於て陳套であり、又敢て先人の道を踏むに耐へない思ひがするからである。

 映畫はあらゆる文學に淸新な肉づけを爲し、又映畫自身のサイコロヂイを文學に寄與することに依つて、我我は我我の自叙傳的な受難と數奇と情熱とを完全に把握し描寫することができるであらう。文章に表せない我我の情操的なエエテル、千九百十年代の淺草の糜亂した韻律、その瞬間的な經過、結局音樂的な表出による我我の悲哀化は美事に製作され完成されるであらう。我我はその影靑き世界に充分に號泣もし又少しも妥協することなき命運への反逆、惡を蹶落《けおと》すところのサルベーシヨン・ハンターズ風な立場を獲得することが出來るであらう。誠に自分は今は映畫が單なる他山の石や形式ではなく、既に自分に役立つ藝術上の一樣式だつたことを發見し、今後の自分が奈何に映畫を自分の内外に生かすかと言ふことに就いて、自分は今日もこの選ばれた生涯の中に「一本の映畫」を考へ耽つてゐる。[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照。]

 

 十二 フリイドリヒ・ニイチエ

 

 自分は或不機嫌な朝に山の頂を彷徨してゐる風體の惡い男を一氣に蹶落した。彼は殆ど抵抗することも無く千仭《せんじん》の谷間に逆さまに墜落して行つた。

 自分は彼のゐた後を叮嚀に見𢌞つたけれど、鳶色の反古紙一枚殘されてゐなかつた。自分は自分の疳癪を起したことをさへ遂に後悔した。餘りに永い間擅《ほしいまま》に自分の中に巢喰ひ、餘りに永い間自分に影響を殘さうとしてゐた彼を、自分は谷の上から慘酷な目附で見下ろしてゐた。自分は寧ろ耶蘇に溫かい愛情を感じた。縱令《たとひ》同じ噓吐き同志であるにせよ、彼程完全に我我の中にその傲岸の泥足をもつて、猛猛しく居直ってゐた男はなかつた。爾《なんぢ》、フリイドリヒ・ニイチエ!

 

 十三 東洋の眞實

 

 あらゆる西洋の作家はその晚年に至つて或宗敎を完成し表現した。彼らは均しく宗敎風な觀念に美と愛とを感じてゐた。トルストイ、ドストエフスキイは云はずもあれ、ルツソオ、ストリンドベリイ、ヴエルレエヌ、――併乍ら東洋の諸詩人は宗敎よりも一層手厚い眞實を自然や人情の中に求めてゐた。芭蕉や元義《もとよし》、西行や蕪村、子規や龍之介、彼等は眞實を搜ね求めるために、或は生涯妻を求めず、又永い間病褥《びやうじよく》にあり乍ら天地の幽遠に思を馳せることを怠らなかつた。[やぶちゃん注:「元義」江戸後期の歌人・国学者平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)のことであろう。岡山藩中老池田憲成家臣平尾長春の子。弟に家督を譲り、国学研究に没頭、天保三(一八三二)年に脱藩、自由な身分となって古典籍の抄録・研究に努めた。美作(みまさか)飯岡に「楯之舎塾」を開き、国学の傍ら、万葉調の和歌を門人に指導した。飲酒と好色の癖、甚だしく、破滅的な人生を送ったが、その鮮烈な歌風は近代になって評価され、特異な人間像とともに脚光を浴びるに至り、近代短歌に影響を与えた人物でもある。]

 詩人芥川龍之介の求め喘いでゐたものも、眞實以外の人生ではなかつた。また正宗白鳥があれ程永い間人間の荒凉の中にうろついてゐるのも、結局眞實を的確に握り締める以外彼の誠の欲望は無かつた。西洋の諸詩人が均しく宗敎の觀念へ辷り込むのも、彼らの本質的な寧ろ血液的な傳統にまで逆流するに外ならない現象だつた。チントレットやダ・ヴインチ、ルウべンスやマンテニア、ミレーの昔から彼らの中に交流してゐる宗敎だつた。[やぶちゃん注:「チントレット」イタリア・ルネサンス期の画家でドラマティクな宗教画を多く描いたティントレット(Tintoretto 一五一八年~一五九四年)。「マンテニア」やはり宗教画が多い同期の画家・版画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年 ~一五〇六年)。細部の凄絶なリアリズム描出で知られる。]

 東洋の寂しい諦めは鳥羽僧正の戲𤲿をして、七百年の昔の高雅な諷刺や嘲笑に變貌させ、芭蕉をして眞實の中に微かな宗敎の炎を仰がしめたことは事實であるが、それらは眞實の掟以外、斷じて宗敎的な基督敎的憂欝を帶びるものではなかつた。唯彼らには何か知ら佛敎的な法悅の微風の中にゐることは否めなかつたが、併乍ら子規や龍之介の時代には――殊に龍之介は一切を自己の中に叩き込んでゐた。自己の中に整理されない人生をも彼は苦虫を嚙み潰して耐へてゐた。彼を喜ばしめたものは啻《ただ》に藝術の止むなき一途あるのみだつた。彼は最後まで正直な藝道の使徒でありペテロだつた。わが正宗白鳥は、最後まで下駄ばきのまま人生の殿堂に詣でいそしみ、露骨に眞實を訪れることは昨日と何等の渝《かは》りは無かつた。彼白鳥の如く寂しくその道を丹念に步き求める人があらうか? 風流韻事を憎惡しながら何と彼は空寂な氣持で押切る詩人だつたらうか?――

 

 十四 ドラクロア

 

 自分は烈しい寒さの中に窓外を過ぎる鐵の蹄の音を聞いてゐた。自分は書き物をしながら時時ちらりとそれらの馬上の者を見過してゐたが、自分は書き物に夢中となりそれらの者を折折忘れてゐた。彼らは自分を呼び出さうとするのか? 鐵の蹄の音は殆ど絕え間もなく石の上を敲いて過ぎてゐた。自分は其時初めて獅子の群を、若いドラクロアの姿を鬣《たてがみ》のかげに眼に入れたのだつた。靑い獅子の上に跨る若いドラクロア、自分自身の中に既に失ひかけてゐるドラクロア風な情熱、自分はペンを擱《お》いて窓外を四顧した。天氣は既に暗澹たる雲の中に凄じく亂れかけてゐた。わがドラクロアはその雲間を目がけて馳り續けてゐるのであらう。鐵蹄に似た音は自分の机のほとりにまで入り亂れてゐた。自分は激しい身震ひを感じながら、ドラクロアの大册を埃の中から引摺り出した。そして「靑い獅子」を搜りはじめた。自分は永い間この獅子の姿を忘れてゐたからだつた。

 

 十五 賣文生活

 

 自分が賣文の嘆きを綴るのも亦久しいものである。自分は何時此嘆きから釋放されるかは疑問であるが、恐らく生涯同じい嘆息と喘ぎとを續け乍ら、些か壯烈な思ひがしないでもないやうである。燃え殘りの熱情に鞭打つものの無慘さは、遂に心神の疲勞以外何物も殘さないであらう。人はみじめに最後まで生活するものであらば、自分もその慘めな一役の道化を演じてゐるに過ぎない。

 芭蕉や萬葉の諸詩人は決して賣文の嘆きを繰り返してはゐない。或は芭蕉も拙劣な句撰の嘆きを同じうしたかも分らぬ。唯それはそれとして彼は彼の生活の内外に煩はされるところが無かつたかも知れぬ。彼の詩人としての潔癖と高踏風な布置は、その賣文生括に觸れた一句をさへ示してないやうである。併も彼程生活の中には入つてゐるものは稀であると言つてよい。唯彼は日常些細の嘆きを己の魂に鍊《ね》り込んごゐたに過ぎないやうである。波の嘆きは彼の詩の中にのみ喘いでゐたであらう。彼は彼の生活的困窮をさへ彼の詩の中へ追ひ込み、しかも彼は莞爾たる溫姿のうちに、言無きがごとく淸風面《おもて》を過ぎるが如き面持でゐたであらう。[やぶちゃん注:「溫姿」私は見たことがない熟語である。「温顔」(穏やかな、温かみのある顔つきのこと)と同義でとる。]

 併乍ら後代の蕪村には生活苦は犇犇《ひしひし》として逼《せま》つてゐたらしい。百年の後には自ら世相も又元祿の悠長を夢見られなかつたことは勿論であらうが、蕪村は自ら𤲿と句との卷を作り之を賣つてゐた。その詩句も生活苦に直面したものも少數ではない。 芭蕉がその魂魄の中に溶解しつくした生活苦すら、天明の時代には許されなかつたのであらう。

 自分の賣文の嗟嘆はこれらの諸詩人に較べては、或は贅澤の沙汰かも知れぬ。時勢は既に賣文の嘆きをすら嘆かして置かないやうになるかも知れぬ。併も今は自分に殘るものは此嘆き以外の物ではないのである。古來の支那の諸詩人は皆同じく斗酒の中に醉吟を擅にした。併し彼らも亦生活苦の域を脫する事ができなかつた。ヴエルレエヌも亦一章の詩を書肆に賣つてゐたことは、彼の賣文的嗟嘆に據らずとも容易に想像することが出來よう。最早我我に一途あるものはあらゆる疲弊盡したる賣文の徒も、猶あらゆる慘忍なる編輯者とともにその喝采の慘忍たる光榮の道を進まねばならぬ。又あらゆる我我廢馬的心神に甦る「天馬」の美しい脚なみを調練せねばならぬ。斯くて我我の嘆きは次第に消失するであらう。[やぶちゃん注:このコーダに於いて本随筆集の標題の意味が明らかにされる。]

 

 十六 ミケランゼロ

 

 自分らは何時も目に見えぬ無數の惡魔と戰うてゐる。此惡魔の中には借金取も戀敵も又生活苦も雜つてゐる。夜半に目覺めて描くところはミケランゼロの壁畫と變りのない地獄の中に、常に顚倒してゐる自身の呻吟のみである。惡魔は外に低迷してゐるものでなく、遂に無慘にも「我」の中で暴風のやうに荒れ狂うてゐた。

 惡魔は百本の足を持つて自分を趁《お》うてゐる。夢の中で犬に嚙付かれたやうに惡魔はもはや自分を離れようとはしない。自分は彼と追ひくらをしながら暮してゐるやうなものである。ミケランゼロは又その莊嚴なる貧窮の中に自分の錯覺するところのものを日夜夢見たであらうか。自分も亦地獄篇の中に喘ぐところの現世の我である。

 

 十七 時なき人

 

 この頃自分はよく「時」に關係のない淸爽な人間にたびたび出會し、その人と話を交す氣持になることがある。その人は自分の記億の中にももう無くなつてゐる人だが、無くなつてゐるといふ事實が一層記億に新しかつた。自分はかつて「時」の人であつた彼が「時」の境域を拒絕してから、一倍彼を熱慕するに耐へなかつた。

 「時」の人だつた彼へ書くその追憶文を自分は諸所から求められた。しかし時を拒んだ彼へ送る追憶の文は墓下にある彼を騷騷しくするために、自分は一切書かなかつた。しかし自分は殆ど每日氣持の中で追悼文を書いてゐたといつてよい。精神で書き疲れてゐた自分は彼への活字の文は書かなかつた。

 自分は常に一介の賣文の徒だつた。時を拒んだ人へは、自分はその業を休んで謹んでゐたのである。正直な靴屋は昔その童話の國の同じ兄弟の死に遭うては、王者の靴をさへ縫はなかつた。今人《きんじん》である自分が時なき人への恭愼《きようしん》の情を護るためには、その文をも暫く封ずべきであつた。尠くとも性利發ならざる自分の信ずるところは、その愚直なる一途の謹愼あるのみであつた。

 時なき人は現世の自分の前に無言のまま佇んで、「時」を持つ自分を愍《あはれ》むに近かつた。自分もその「時」の煩しさ辛さを感じながらも、仕方なしに彼の前に躊躇しながら佇んでゐた。時なき人は何時かは鞭を持つて自分を打つであらう。

 打て、然して君のなほ自分に敎へんとするところを示せよ。[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは無論、芥川龍之介へのそれである。]

 

 十八 雲

 

 自分は今年信州の高原に夏百目を送り、秋風を肌身に感じながら每日雲の去來を見て暮した。朝に湧き夕に散る片雲の去來は、容易に自分達人類の滅びた後にもなほその惡魔の如き形相を示すことを歇《や》めないであらう。彼はまさに「時」なき不斷なる惡魔だつた。

 自分は彼を數へるに數十の惡鬼の姿を想像し、又あらゆる知己朋有の面相を思ひ描いて見た。彼は優しい或女の顏をさへ浮ばせて見せた。あらゆる宮殿や高雅なる園庭をも、遙か下界の椅子の上に臥てゐる自分にひろげて見せた。自分の妻子や朋友の凡てがなくなつても、彼、漠漠たる片雲のみがこの世を領してゐることは疑ヘなかつた。彼は自分の死滅の靜寂さへも浮べてゐたからである。自分がかう考へてゐる中にも、山上の密雲はぎらぎら底光りを潜ませ、悠悠と或は奇峰や深淵や斷續を續けながら迫つてゐた。それを見てゐると自分は何か恐怖以上の恐怖を感じるのが常だつた。

 彼は時をも又何者をも持たなかつた。唯、その物凄い千古の形相は百萬の惡魔を日夜に駈り立てて靜かに仰臥してゐる自分を脅かした。自分はこの密雲のぎつしりした息苦しさを双肩に感じてゐた。

 

 十九 彼

 

 惡魔も持たない如く神も亦「時」を持ち合はさないであらう「時」を持つものは我我人間の外には無いのかも知れぬ。[やぶちゃん注:「持ち合はさないであらう」の後に句点がないのはママ。]

 

 二十 或平凡

 

「時」の無い國に曾て「時」を經驗した人人が、山吹や蓮の莖をお互の手に持ち合ひ乍ら坐つてゐた。自分は彼らに退屈かどうか、愉樂はあるかどうかを尋ねて見ようと心がけてゐたが、自分のこの考へは直ぐ彼らに見破られてしまふ不安の方が先立つので、默つて眺めてゐた。彼らは物憂く動いてゐたが、孰れもその動作に超時間的なゆつたりしたものを顯してゐた。

 自分は味氣なく笑ひかけて見たが、彼らは決して笑はうとはしなかつた。曾て笑つた人も笑はなかつた。彼らは皆一樣に眞面目な顏付をしてゐて、笑ふまいといふ努力などしてゐないやうであつた。

 自分は何時の間にか、これらの山吹の枝や蓮の莖を手に持つところの、彼等の中の一人に姿や形相を變へて、石の壇の上のやうなところに腰かけてゐた。自分は實際をかしくも又味氣ないこともなかつた。昏昏として半睡のやうな狀態が永く續いてゐるだけだつた。自分は他のものと話をしたい欲望も起らなければ、他の者の存在意識が少しも自分に影響しない不思議さが打ちつづくだけだつた。

 自分はその時やつと氣付いたことは物を食ひたい欲望の喪失されてゐる、干乾びた狀態だつた。その狀態に氣づいた時、自分は絕望的にさへ嘆息した。しかしもう自分は遲いやうに思はれた。もう自分はとうに山吹の枝を持ち、彼等の中に坐つてゐたから、――彼らの如く何も興味のない顏付で、苦り切ることもできず又燥《はしや》ぐこともできない、例の眞面目過ぎる狀態に壓せられてゐた。

 

[やぶちゃん注:最後に、この「天上の椅子」は前半はやや長めのアフォリズム集であるが、後半は強い散文詩体となり、しかもその内容は私の偏愛するツルゲーネフの「散文詩」を、確信犯で、強く意識して書かれてあると断言出来る。未読の方は、サイト一括版(中山省三郎譯)(私の注附き)、或いは、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」の神西淸の訳、上田敏の訳、生田春月の訳なども完備しているので、是非、読まれたい。

2022/03/31

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川龍之介氏を憶ふ

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。なお、向後、不詳の場合は、この最後の注は附さない。

 若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 芥川龍之介氏を憶ふ

 

 芥川君が亡くなつてから早一週年の忌日も間近くなつたが、自分は此偉大なる友を憶ふ氣持には、漸く鋭い熱情が、日を經る每に感じ出された。熱情は益益同君を純粹にも淸淨にもし、同君を友人とする自分の間に距離を感じさせるのである。その距離は現世に存在しない彼が持つ縱橫無盡な淸淨さであり、その淸淨さは無理にも現世《げんせい》に踠《もが》く自分を必然的に引離して行かうとするのだ。

 自分は此友の死後、窃かに[やぶちゃん注:底本は「窺かに」であるが、後の再録版「芥川竜之介の人と作」の上巻のこちらで確認し、特異的に訂した。]文章を丹念する誓を感じ、それを自ら生活の上に實行した。同君の死の影響を取入れ自分の中に漂はすことに、後世《こうせい》を托す氣持に自分はゐるのである。同君に見てもらひたいのは今日の自分であり、交友濃かだつたあの頃の自分の如き比例ではない。同君も今日の建て直された自分を見てくれたら、別な氣持で交際《つきあ》つてくれると思ふ。今日の自分は微かに同君が自分に不滿足を感じ、輕蔑すべきものを輕蔑してゐた氣持は解ると思ふ。友人同士は互ひに輕蔑すべきものを持ち合してゐることは、それを感じる時に其値を引摺り出すことができるのだ。芥川龍之介君は自分を輕蔑してゐた。かういふ事實は彼の中で遂に埋沒され、永く同君の死とともに抹殺された。併し自分はそれを掘り返して補ふのである。自分が文事に再び揮ひ立つことのできるのは、あの人の影響だと思うてゐる。佐藤春夫君に芥川君の死は役に立つたかと尋ねたら、彼は暫らく默つた後に役に立つたと低い聲で答へたが、自分はその時にも一種のセンチメンタリズムを感じた。自分は彼といふ一文人の死でなくとも、死は多くを敎へるものを持つてゐることを感じてゐる。

 芥川龍之介は理智と情熱とを混戰させてゐる人であつた。或はその旺盛な情熱が彼をああいふ死に誘うたのかも知れぬ。所詮自ら滅することは情熱の命令の後に行はれるからである。彼は死なうと考へながら「時」を延長させるだけ延長させた人である。晚年二年位は同君に取つて莫大な長年月だつたに違ひない。百年の歲月をも遂に同君に取つてその晚年には興味のない無爲の歲月であつたらう。

 自分は芥川君に會ふ每に最初の五分間は每時《いつも》も壓迫を感じてゐた。芥川君の仕事や爲人《ひととなり》、偉さが自分に影響してゐた。自分はそれを完全に自分と同君との間に退治したのは、最近二年位の間だつた。それは同君が自分の書齋を訪ねて來る時に經驗し、又同君の書齋でも次第に退治することができたのである。かういふ心理上の壓迫感は靜かに料理され試練されるものである。同君は何時もずつと高いところにゐたことは疑へない。併しその高さを僕自身へまで引下ろすことはできないが、其處まで僕自身が行かなければならないのである。全く同君は自分に取つて苦しい友人であり、その苦しさは自分によい結果となり今までに影響して來たのである。

 

 芥川君の好む人物は半端者があり、他の人間と交際しにくい氣質を同君は能く容れるものを持つてゐた。槪ね孤獨を友とするやうな人格の中に、同君は何時も心ひそかに愛を感じてゐるらしかつた。他の人格の中に孤獨の巢を發見することは彼の藝術的な作用に外ならないのであらう。併乍ら同君はさういふ一面とまた眞實な一面とを持ち合せ、眞實で打《ぶ》つかる人間には眞實以外のものを見せなかつた。あの人の眞實性はその根本では情熱から動いてゐた。彼が晚年に若い詩人達に物質的にも眞實な好意を動かしてゐたことは、自發的なものが多かつた。

 自分と芥川君との交際は普通の動機からであつて、何も特筆すべきことはない。自分の子供が女子であり同君の子供は男子であるが、同じい聖學院の幼稚園に通うて、最初の間は往きも手をつないで一緖に登園するのであつた。自分はさういふ現世の情景に對しては詩人的であるよりも、寧ろ小說家風の立場に自分の考へを置く機會が多かつた。生前の同君と自分との戯談が生きた情景に變つて眼前にあるのだ。自分はさういふ小童少女の世界に感懷を交へることを些か逡巡するものであるが、併し顧みて現世に美を感じ出すことは人一倍の自分の努力でもある。

 自分は芥川君を億ひ出す機會を同じ田端に住んでゐる關係上、他の人と餘計に感じてゐた。或人は田端の驛の坂の上で、荷車が坂を登るのを芥川君が眺めてゐたと言ひ、さういふ些事が自分の胸に應える[やぶちゃん注:ママ。]ことが多かつた。三河島一帶の煙や煤で罩《こ》められた[やぶちゃん注:覆われた。]曇天の景色は、あの人の頭に永く殘つてゐたものに違ひない。同君が、好んで曇天の景色を描くことに妙を得てゐるのも、さういふ景色の中に永續きする動かない「景色のサネ」を抉り取つてゐたからであらう。

 震災の翌年の五月金澤へ來たときも、その勝れた景色には感心してゐた。併し有繫《さすが》に川料理ばかり食べさせる金澤では、料理は餘り褒めなかつた。ああいふ人でも淡泊な料理ばかりでは困るのであらう。食物はいつも自分は芥川君の二倍位は食べてゐた。輕井譯の宿屋でも芥川君は大抵オムレツと冬瓜の煮付けを食べてゐた。決してビフテキやスチユ[やぶちゃん注:シチューのこと。]は取らなかつた。隣室にゐて早寢をしてゐる自分は夜更けて後架に立つと、芥川君は濠濠たる煙草の煙のなかに、反り身になつて原稿に苦吟してゐた。そして自分が寢てゐると遠慮して雨戶を繰るのにも、靜かな心置きを用意してゐた。その濛濛たる煙の中に坐つてゐた芥川龍之介君は、決して自分の眼底を去らない苦吟の人芥川龍之介君であつた。

 

 去年の七月二十四日のお通夜明けに、椎の木の頂に夜の白むのと同時に啼き出した蟬の聲は、自分の現世のあらん限り忘られぬ凄じい蟬の聲だつた。自分は菊池、久米、佐佐木の三君と緣側の板の上に、通夜の人口の散じた後にも坐つてゐた。そして何日か芥川君が仕事をしてゐて、夜明けの蟬の聲を聞く程氣持のよいことはない。さう云つた言葉を端なく思ひ出した。疲勞と眼病に惱んでゐた自分を根本から動搖もさせ、靜肅にさせてたものは、鶴のやうな幽遠無類の蟬の聲だつた。今もなほ蟬の聲は自分の耳の遠くにある。

 自分は此友達の中からまだまだ攝取すべきものがあり、自は貪婪にそれに打《ぶ》つかつて行くべき筈であつた。かういふ精神的な陣營を感じ出す友達といふものは訣して、ざらにあるべきものではなかつた。話をしてゐても珍しい言葉に感激し、他人のどういふ部分にも正確な藝術的な氣持を以て見、それに共感する時は幼稚なほどの驚きをする、さういふ人は稀なものであつた。ああいふ驚き、驚いて喜ぶところ、露骨に志賀直哉氏をほめるところ、小穴隆一君を信ずる寧ろ不思議過ぎる友愛には、實に無類に善良な彼が立つてゐた。さういふ芥川龍之介君には微塵も渴《か》れない氣質が感じられた。

 晚年近くに書いた詩は詩人としても逈《はる》かに一流にまで飛び越えた彼がゐた。詩に睨みの利いた芥川君は、就中「旅びと」の叙情詩、「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」なども、立派な出來榮えを示してゐた。實際芥川君は何よりも詩人だつたといふことは、何よりも詩人中の詩人だつたことを證明するものであつた。誠の詩人といふものの恐るべき「天火」を彼は搉《いだ》いてゐた。我我凡俗の詩人は最早「彼がどうして死んだか」などと念うてはならない。默つて暗夜に沒するその長髮瘠身《ちやうはつせきしん》の姿を見て居ればよい。その後姿は何と懷しい限りのものであるか、笑ひも感激もゴオルデンバツトも、鳥の手のやうな手も、半分かけた金齒も、そつくり彼は何時でも思ひ出させるものを持つてゐる……

 芥川君は或日、自分の家に來て芭蕉の「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」といふ句を示し、この句には驚いたと言つた。北海道の旅行から歸つた就死前のことである。芭蕉の此句は修驗光明寺の句で、行者の履《はきもの》を拜む心を詠んだものである。ともあれ芥川君はさまざまな書物の中に、自分のそのころの心持の丈を搜つて見てゐたことが解る。「旅びと」の詩にも芭蕉の「山吹や笠にさすべき枝のなり」が詠み込まれ、ぢかに芭蕉を百讀してゐたものらしい。さういふ芥川君の沈着と高雅の情には心惹かれるのである。

 先日駒込慈眼寺に下島先生と打連れて墓參をしたが、風淸く穩かな日であつた。芥川君風にいふと、蟲の食つた老いた葉櫻のかげに「近代風景」を持つた靑年が一人、寺境の雜草を距てた釣堀の水を眺めてゐた。

     墓詣

       (塚も動け我が泣く聲は秋の風  芭蕉)

   江漢の塚も見ゆるや茨の中

 

[やぶちゃん注:ちょっと看過出来ないひどいミスを所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の「天馬の脚」に見つけてしまったので、ここに後注で終りの部分の注を纏める。

『「旅びと」の叙情詩』これは、以下の犀星の謂いから、結局、芥川龍之介の死直後に発表されたアフォリズム随想「東北・北海道・新潟」に無題で載る、

   *

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

   あはれ、あはれ、旅びとは

   いつかはこころやすらはん。

   垣ほを見れば「山吹や

   笠にさすべき枝のなり。」

 

   *

を指すと考えてよい。但し、個人的には、或いは犀星は、「旅びと」ではなく、最後に愛した片山廣子に捧げた旋頭歌「越びと」を暗に匂わせているのではないかと私は強く疑っている(リンク先は孰れも私のサイト版)。

『「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」』表記に誤りがある。正しくは「僕の瑞威(スヰツツル)から」である。本書刊行の一年前の昭和三(一九二八)年二月一日発行の雑誌『驢馬』に「僕の瑞威から(遺稿)」として掲載された詩群の第八番目にある、「手」である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を見られたい。

「搉《いだ》いてゐた」ここをウェッジ文庫版では「摧(くだ)いてゐた」とするのだがが(読みはウェイジの編者が附したもの)、これは漢字の誤謬に加えて、読みの屋上屋の大穴空きの家根を附けてしまったトンデモ・誤謬ルビを附してしまったものだ。落ち着いて考えれば、天火を砕いてしまっちゃうのは、ミューズの霊感は無くなっちまうさね。歴史的仮名遣採用の堅実な文庫なだけに、ちょっと痛過ぎるミスである。悲しい。

「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅9 黑羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拜む首途哉   芭蕉』を見られたい。「山吹や笠にさすべき枝のなり」つまらぬ評釈だが、芥川龍之介に触れているので、私の「山吹や笠にさすべき枝の形 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)」をリンクさせておく。

「塚も動け我が泣く聲は秋の風」私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を参照されたい。]

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 淸朗の人

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。

 若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 淸朗の人

 

 鵠沼へ行く前後から芥川君は餘り書畫骨董に趣味を持たなかつた。陶器のことでも興味を感じないと云ひ、實際面白くなささうな氣持らしかつた。お互ひの家庭の話が出ると、此頃妻がいとしくなつたと山手線の電車を待ち乍ら話してゐた。自分自身の生活でもそれが分るやうな氣もちで居ることがあるので、賛成して俱によい氣もちになつた事がある。

 

 何時か自分のところで芥川君がお時宜をして、顏をあげようとして黑い足袋が片方すぐ間近にあつたのを見て、顏色を變へて驚いたことがあつた。去年の六月ころだつたらう。あの時分神經衰弱がかなり酷かつたのかもしれぬ。新聞の記事などでよく「こたへる」と云つてゐた。

 

 歌舞伎座にあつた改造社の招待會の歸途、例に依つて一緖に出かけたが歸りも一緖の約束だつた。最後の幕を見て、下足を漸《や》つと受取つて出た自分は、芥川君の姿を見失うて却て宇野君が一人佇んでゐるのに行き會うた。其翌朝、芥川君は實は昨夜谷崎佐藤兩君に會ひ、帝國ホテルで一晚話し込んで今しがたその歸りだと云つて、どうも失敬したと態態《わざわざ》斷りに來たのである。芥川君はさういふ細かい氣づかひをする人である。

 

 自殺に就ては何時も藥品の話が出た。そして僕がその話の中では何時も芥川君よりも長生するやうなことになつてゐた。自分はからだの弱いものは長持ちする者だと言つたら、彼は反對に犀星は却却《なかなか》死なんよと快よささうに笑つてゐた。

 

 芥川君は生前自分の零細な作品にまで眼を通して、短い的確な批評を能くして勵まして吳れた。去年自分の「文藝春秋」に出した「神も知らない」といふ作品は或女性の自殺未遂を書いたものであるが、芥川君は此小說では女の中から這入つて書いた方がよかつた、最も女の中から書くことは難かしくもあり却却苦しいと批評して吳れた。自分は女から書くには分りかねることがあるといふと、それは分らんよと云つてゐた。六月の末のことで芥川君が世を辭す三週間程前である。

 

 芥川君の遺書を讀んで自分は立派だと思ひ、何處までも藝術の砦の中にゐる人だと思うた。自分は芥川君がそれほどまでの重大さに負けないで、目常の應酬や作品の精進につとめてゐたことは、凡夫の自分には及ばないところだと思うてゐる。胸に重大を疊んで平氣をよそうてゐてこそ、ああして落着いてゐられたのだとも思うてゐる。

 遺書にある平和は芥川君を圍繞《ゐねう》してゐたものと見える。自分は彼の死に驚き次ぎに感じたものは淸らかさであつた。何よりも淸らかさが自分を今も刺戟してゐる。

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川君と僕

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 芥川君と僕

 

 漸《や》つと二度ばかり會つた芥川君から、發句の運座を卷くから來ないかと誘はれて、芥川君の家へ確か二度目くらゐに行つた。梅雨の霽れた爽かな一日であつた。卽題は夏羽織と梅雨ばれと其外の何かであつた。主人を初め久米、菊池の兩君や岡君江口、佐佐木君なども來てゐて、自分は久し振りで發句を作つた。その時にどういふ氣持か自分は久米君に題して時めく小說家としての彼をねぎらうた句を、夏羽織に事よせて作つたのだ。久米君はかういふ發句はいかんと云ふやうなことを云つたが、自分は引身《ひけみ》を感じた。何時か久米君にあの時の話をして談笑したいと今でも思つて居る。

 芥川や久米君は作家生活の物慣れた世間をずつと見通しが利いてゐる時分であるのに、自分はまだ何も分らぬ井蛙の野人であつた。自分のよしとしたことも却て人に不快を與へる程の、まづい稺拙な挨拶振りに過ぎなかつた。自分は夕方早めに歸つたが、明らかに彼らに在るものと、自分との間に非常な洗練のきめの違ふことを感じたが、どうも隔離を感じ過ぎ手の付け樣が無かつた。今から考へるとあの時分には久米君にしろ芥川君にしろ、自分とは格別な高さと聲望とに鍛へられた何物かを持つてゐた。その高さは根本的に爲人《ひととなり》を叩き上げ、斬り込む隙間もない手堅さであつた。あの時に自分は反感を有《も》たなかつたことは好いことであつた。自分はその後も芥川君とつきあひ、彼の難攻不落の城に入りながらどれだけ得をしたかも知れなかつた。自分は時に彼の高びしやな調子が彼自身では常識にまで漕ぎつけてゐることに、必然に微笑みを感じるのであつた。

 自分は芥川君とつきあふ樣になつてから、全く彼からの巧みな誘ひ出しに惹かれて、自分の中に眠つてゐたものを醒されたと云つてよい。彼は針の穴からも覗き込んで來てゐるに驚き、開いた戶からもやあと云つて這入つて來るのに驚いた。雜談の中からも色色聞くべきことが多かつた。自分は良友を持つてゐるけれど、自分を叩き上げるために要のある人は尠《すくな》い。それに自分は樂な交友ばかりしてゐたせゐか、頭の坐りが低かつたとも云へた。人間は樂な交友をしてゐたらしまひに馬鹿になるものだ。彼の云ふことは自分に取つて物珍らしいといふより、當然自分の感じもし考へてもしてゐることを、彼の言葉で話されると快い調和をさへ感じるのであつた。

 今から思ふと自分が小說の書き出しころに芥川君と早く知り合うてゐたら、最《も》つと得をしたらうと思うた。最後に書く自敍傳をさきに書いたりして、作家としての本道を取り違へたことが多かつた。全く小說といふものは餘程心が決つてゐて、人物ができてから書くものだといふことを此頃沁沁《しみじみ》感じてゐる。底のある如くして底のないものは小說であらう。

室生犀星 随筆集「天馬の脚」原本正規表現版 始動 / 澄江堂雜記 芥川龍之介氏の人と作

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連部分から開始し、原本の順列には従わない。

 以下の本書の「澄江堂雜記」パート、その冒頭の「芥川龍之介氏の人と作」から始めるが、実は本作は、昭和二(一九二七)年六月号の『新潮』に掲載されたものが初出で、私は既にその初出形を二〇一三年一月にサイト版でここに電子化してしている(但し、筑摩版全集類聚「芥川龍之介全集」別巻に載るものを恣意的に漢字を正字化したもの)ため、昨日、それを本随筆版で全面改稿しようと考えたのだが、やり始めるや、直きに初出から再録する際、有意な改変が行われていることに気づき、やめた。そこで、仕切り直して、「天馬の脚」版「芥川龍之介氏の人と作」として全くの零から電子化することとする。

 なお、室生犀星は、昭和一八(一九四三)年に、さらに「芥川龍之介氏の人と作」という上下二巻本を刊行しており、この「芥川龍之介氏の人と作」もそこに含まれてあるのだが、またまた、そこでは、改変に加えて独立・分離が行われている。これも国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る(上巻がこちらで、下巻がこちら。孰れも目次頁で示した)。これは、満を持して芥川龍之介に特化して書いたものであるが、実際に見て戴くと判るが、上巻の中間以降は、室生の芥川龍之介の当該作への評を添えて、その作品を掲げるという、まあ、文字通りと言えば、文字通りの「芥川龍之介氏の人と作」という体(てい)のものである。こちらの犀星の評論部も後に抜粋して電子化したいとは思っているが、その目次を見て戴ければ判る通り、原「芥川龍之介氏の人と作」の後半は各作品評部に移行されて膨らまさせてあるものの、元の「芥川龍之介氏の人と作」の統一された共時的(初出時は芥川龍之介はまだ存命であった)総評感覚の鋭さが散漫になってしまった憾みがある。

 私がこの評論(特に初出)に拘るのは、昭和二(一九二七)年五月に書かれ、そうして、死の直前の芥川龍之介自身が読んだ、短いながらも、彼の数少ない心から信頼出来る盟友が書いた芥川龍之介論だったという点にある。サイト版初出の私の冒頭注で言ったように、『室生が『生前の芥川との最後の会見の際に感想を聞いたら、「その時殆聞えるか聞えないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと云つた」』』という言葉の重さを噛みしめながら、それでも、二度も改稿再録した室生に思い致す時、この作の原初出はある種、親友渾身の――彼の「生」を讃え励ますところの――芥川龍之介論であると言えるのである。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。

 さらに、若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示した。サイト版では注は殆んど附さなかったが、今回はその初出テクストと差別化するために、段落末に簡単に注を添えた。五月蠅ければ飛ばせばよい。以上の凡例はまずは本「澄江堂雜記」パート内の四篇全部に適用するが、後の電子化もそれにほぼ準ずる予定である。【二〇二二年三月三十一日 藪野直史】

 

 

 芥川龍之介氏の人と作

 

 

    一 彼、人

 

 芥川龍之介か佐藤春夫の孰方かの碎けた評論めいた人物印象を大部のものに書いて貰へないだらうか、左ういふ中村武羅夫氏からの依賴を聞いて、自分は佐藤春夫は萬年靑年であるし今鳥渡《ちよつと》書く氣がしないし適當とは思へない。芥川龍之介はまだ料理したことのない鯱《しやち》のやうなもので、自分の俎《まないた》に乘るかどうかは疑はしい。自分はむしろ秋聲先生に俎の上に乘つて戴かうと思ふのであるが、中村武羅夫は是非芥川龍之介論の方をと言ひ、自分もその氣になり引受けたのである。[やぶちゃん注:「中村武羅夫」は当時『新潮』の中心的編集者として活躍した評論家。プロレタリア運動を痛烈に批判し、大政翼賛会に自律的に参加、戦中の「日本文学報国会」設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として見る影もなくなった。]

 一體芥川龍之介論とは何の事だらう。自分は不意に演說を指摘されたやうにまごつく、――芥川龍之介といふ小說家を君は知つているかね、田端にゐるんだが會つたら面白いかも知れんよ、左う云うたのは今から十年前の萩原朔太郞であつた。此間詩集を送つたら手紙を吳れたが今度歸京したら會つて見たらどうかと、彼の故鄕前橋で私の最も親懇な萩原の口から、印刷にならない芥川龍之介といふ名前を初めて聞いたのである。併し私は彼の前に當時の意氣軒昂の槪を示し鳥渡《ちよつと》胸を反らし乍ら云つたものであつた。「小說家に態態《わざわざ》こちらから訪ねて行くのも不見識ではない

か、我我は左ういふことまでして交際をする必要がない。」萩原は當時既に谷崎潤一郞を知つてゐたし、何かの紛れにも能く此谷崎潤一郞といふ拓本のやうな名前の感じを、私の前に話してゐた矢先で少少私は胸くそもので小癪に障つてゐた。私はといへば交友に有名な男がなく其意味で萩原は既に一家の交詢的な周圍を有つて些か私に當つたものであつた。「一體小說家といふものは氣に食はん」私はともすると議論めいて來る彼の鋒先を避け乍ら、小說家といふものを目の敵にしてゐたので、芥川龍之介なぞに會ふもんかと思ふのであつた。[やぶちゃん注:「交詢」「詢」は「まこと」の意で、互いに交際を親密にすること。]

 自分が初めて芥川に會つたのは日夏歌之介の詩集の出版記念會であつた。圓卓の向うに自分は紹介された芥川の顏を見ると、直ぐ此種の端正な顏貌に好意よりむしろ容貌自身から來る引身《ひけみ》を、逆に何か苦手な氣の合はない人間のやうな氣がした。が、其歸り途に一緖に步き乍ら色色の話をすると、樂な親しみ易い打解けたところのある、寧ろ碎けた人のやうに思はれた。その翌日だつたか彼の書齋を背景にしてゐる彼を見て、處狹いまでの書物の埋積や談論の自在な彼を打眺めて、戯談《じやうだん》まじりの話をしながらも却て歸途にはそれにも拘らずひどく陰鬱な氣持であつた。今から思ふと自分は彼に抵抗する精神的武器がなかつたらしく、それが自分にあれば彼麼《あんな》に陰欝に考へ込まなかつたであらう。何を言つても自分はまだ市井破垣《しせいやれがき》を結ぶ[やぶちゃん注:在野人。処士。]の一詩人であつた。しかも一詩人の威力を打通すだけのものが自分の胴中を貫いてゐなかつた。それに幸か不幸か芥川は餘りにらくに自分の前であけすけに話してくれたのが、一際自分を陰氣にしたのだらうと思うてゐる。人間は時に屢屢自分以下のものには樂に碎けることを愉快に念ふものだが、彼の碎け方はその氣持の上で種類が違つてゐるやうだつた。對手を窮屈がらせない一種の座談に慣れることに據つて、爲されたそれのやうにも思はれた。當時の世間知らずであり文壇めくらであつた私が、彼と對坐しただけで遺憾ながら彼を自分以上のものであると云ふ、心からの承認では無かつたとは云へ、徐ろにその朧氣なものを感じたことは拒めなかつた。自分は春夫が最初谷崎潤一郞を嫉視した氣持を、今から思へば多分に雜《まじ》へてゐたのである。有名に對抗する故なき嫉視と憤怒に似たものを白面一介[やぶちゃん注:「はくめんいつかい」。色の白い若い取るに足らぬ男。]の彼に感じたことは、私のこれまでの生涯に於て北原白秋と同樣のものであつた。北原白秋に會つた最初は二十二歲だつただけに、羽根が立たぬやうな自分でもあつたからいいとしても、彼の場合には自分は最う二十九にもなつてゐたから、刺戟や壓迫などと云う生優しいものではなかつた。自らを鞭打つ激情に似たものを彼から感じたのだつた。自分は三四囘目に會つた時は「幼年時代」といふ小說をひそかに家にゐて、彼にその話をして見てくれるかどうかといふ意味を、恰もお世辭に似た心からでない曖昧な氣持で彼に述べたが、彼は一寸慌てたやうにいや僕の如きは何とか言ひ、すぐその話は素早くよそに逸れてしまつた。その時自分に應酬する彼が談偶偶《たまたま》小說に及んだことで、彼の面にかすかな迷惑らしいものが掠めたことを自分は感じた。(後に考ヘると彼の當惑らしい表情はだしぬけに云つた自分に感じたのは當然であつたが、その當惑の戶を敲きこはすことのできない自分だつたことにも氣がついてゐた。人間は時に屢屢自分を叩き上げるために對手の當惑の戶を叩きこはさなければならぬものだ。自分はあの時この友の當惑を紋め上げて置いたら、彼とは別な意味で種種のものを攝取(とりい)れできたらうと思うた。)[やぶちゃん注:犀星が龍之介に逢ったのは大正七(一九一八)年一月十三日日曜日に行われた日夏耿之介の処女詩集「転身の頌(しょう)]出版記念会(日本橋のフランス料理店「鴻の巣」で行われた。前年六月の「羅生門」出版記念会もここ)であった。]

 その後自分は彼をたづねたが最初に受けた印象は渝《かは》らなかつた。その日の都合でいい加減なことを云ふ男でないことが判つた。唯、彼の物の云ひ方に或高びしやがあり、それが彼の場合非常に自然に受取れるのが不思議である。おもに批評的になる話題にそれがあつた。――ずつと後、震災後金澤へ來た時に或老俳人の前で、彼は北枝[やぶちゃん注:蕉門十哲の一人で北陸蕉門の重鎮として知られる加賀の立花北枝。]の句のことなぞを土地柄であるとは云へ話し出したりした。後で私の畏敬する老俳人は芥川といふ人物に感心して、金澤へ度度人も來たが、あれほど若くてしつかりしてゐる男は初めてだと感服してゐた。自分はその時も紹介甲斐のある點で、彼の人物を釋明する必要がなかつた。しかも老俳人はまだ彼の一作をも讀破してゐなかつたのである。[やぶちゃん注:芥川龍之介の金沢行は大正一三(一九二四)年五月十五日から十九日まで。表向きの所用は龍之介が媒酌人を引き受けた友人の作家岡栄一郎の岡の親族と逢うためであった。この老俳人は、彼を歓待するために犀星が設けた発句会に同席した、当時の北陸俳壇の双璧と言われた桂井未翁・太田南圃の孰れかであろう。]

 自分に彼を紹介した萩原朔太郞が上京して田端に住むころには、却て芥川に萩原を紹介するやうな顚倒した位置と役目に私はゐた。萩原は芥川に會へば議論もするらしいが、私と萩原との趣味が一致しないやうに、芥川と私との生活振りは全然違つたものだつた。一緖に旅行してゐても私は晚は九時から十時に寢に就き、彼は夜中の二時三時といふのに煙草のけむりの中に起き上り何か書いてゐる。私が朝の散步から戾つて來て仕事に取り掛る頃は、彼は漸つとむづむづと床から起きるのであつた。彼は少く軟かい物を食ひ、私は多く固いものが好きだつた。彼は手當り次第に讀み私は嫌ひな物は一切讀まなかつた。彼は滅多に人見知りを露骨に色に現はさない東京人であるのに、私はがりがりした露はな田舍人の粗暴と人見知りとを持つてゐた。彼は話好きで夜更しを平氣で遣り私はその反對の方の人間であつた。彼は芭蕉を五年もさきに讀み上げ一と通り卒業してゐたが、私はやつと此二三年身を入れて讀み出す位だつた。唯一つ陶器だけは一步先きなくらゐで何事も私のよくつかふ文字であるが殘念乍ら先きに步いてゐた。全く殘念乍ら! 人は芥川龍之介の有名に反感はもつとしても、彼の人物にはさういふものを持つことはできぬであらうと今でも思うてゐる。

 

    二 文 人

 

 佐藤春夫は幾十編かの詩をその文學的靑年時代に有つてゐる。この頃では古調を帶びてゐて春夫自身も意識しながらその古き調べの中に折折文筆の塵や埃を避けてゐる。龍之介も亦春夫の場合と同じく數十句の發句を窃かに匣底に祕藏してゐる。龍之介の自ら元祿の古詞にならうてゐる所以のものは、單に古きしらべに從いてゐるのではなく、巍然《ぎぜん》たる[やぶちゃん注:高く抜きんでて。]元祿の流れを汲んでゐるのである。碧梧桐以後に幾度となく波瀾重疊した俳壇の諸公から見れば、彼の發句は一見陳套の嘲《そしり》を買ふかも知れない。今更ら蕉風に低迷しなくともよいではないかと、彼等の内の精英は云ふかも知れぬ。併乍ら龍之介のねらひは元祿諸家の古調や丈草去來のさびしをりを學んでゐるのでは無い。ただ叮寧に蕉風のねらひを今人の彼が心に宿してゐるだけである。彼は元祿人が引いた弓づるをその的を最《も》つと强く引いてゐるに過ぎない。

 今の文壇に文人の風格をもつてゐるものは永井荷風を別格としたら先づ漱石以來では芥川龍之介や志賀直哉であらう。そして又佐藤春夫もその俤を有つてゐる。併し芥川龍之介は何と言つても極めて自然な、ひとりでに文人の風格を築き上げてゐると言つてよい。彼が發句を詠み書畫骨董の鑑識を有つてゐると言ふだけで文人だといふのではない。心から文人の好みを持つてゐるからである。氣質が既に縹渺《へうべう》や古實や詩情を交ぜて宿してゐることだ。佐藤の文人的なものには新しさからあと戾りした氣もちがあるとすれば、芥川はその古さの中に新しさを搜る鋭い爪を有つてゐると言つた方が適切であらう。芥川の爪は時に閑暇を得るときに木の肌や人事の縹茫《へうばう》の中に搔き立てられてゐる。鷲や鷹の爪でなく、黑鷹のやうな精悍さを有ち合ってゐるやうである。[やぶちゃん注:「縹渺」現代仮名遣「ひょうびょう」。「広くはてしないさま」を言う形容動詞で、以下の並列対象とは、普通なら、噛み合わない。が、しかし、犀星は、確信犯で、そうした龍之介の内実にあるところの真の芸術家の持つところの「茫漠にして縹渺たる精神世界」の意で用いている。それは以下を読み進めるとお判り戴けるであろう。「縹茫」あまり一般的な熟語ではないが、「広くぼんやりしているさま」である。「黑鷹」先の「鷹」と区別しているからタカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 辺りを指すか。]

 佐藤の詩が無用の長物だと言ふ詩壇の新鋭があるとしたら、龍之介の發句もまた無川の長物であるといふ俳壇の古武士があるだらう。彼らを思ふとき此無用の長物をも併せ思はねばならぬとしたら、また彼等が均しく藝術の士として後世の筆端に煩はされるとしたら、先づ此無用の長物も見遁さないであらう、彼等を見る上に之等の詩や發句は有益の文字であることを、後世の輩は感じるかも知れない。

 夏目漱石は完全な渾一された好箇の文人であつた。あらゆる意味での文人の心意氣や典型を有つてゐた。漱石を文人の外のものとして考へたくない程の、彼を論《あげつら》ふ上の必要の文人だつた。だが泡鳴を文人だといふことはできない。詩をも書いた彼を文人として曲指するに躊躇するのは、がらと質とに何か叛いた文人以外の氣持が混つてゐるからであつた。漱石の文人的なるものの感化は、また金釦を胸に飾つてゐたころの芥川にあつたのは當然のことである。又或は進んで漱石の感化裡に飛び込んでゐたかも知れない。併し彼はそのままでは決して頂戴はしなかつた。彼は彼らしく修正し補足したにちがひない、――その證據にはあれ程の大文人であつた漱石の發句は、折折光つたものを見せてはゐるものの、全幅に枯寂の俤を缺いてゐるばかりではなく、遺さなくともよい程の拙い句を殘してゐることを考へると、漱石は惡い句も棄てなかつたらしく思はれる。或は句集編纂者がでたらめに蒐集したのかも知れないが、ともあれ彼ほどの大家の發句として殘さずともよい句が可成りに多數に上つてゐるのは、漱石が棄てなかつたことに原因してゐる。あらゆる發句は粟てなければならない。心殘りなく棄てなければならない、――その意味で吾が龍之介は棄てることの名人であつた。或は彼は発句を棄ることに於てより多く名人であつたかも知れなかつた。彼の潔癖ときづものを厭ふ氣もちが左うさせたことは勿論であるが、何よりも彼は棄てることに於て元祿の芭蕉を學んだのかも知れぬ。[やぶちゃん注:犀星の漱石の俳句に対する見解は諸手を上げで賛同称賛するものである。私は彼の句の九十%は駄句と感じ、残りも採って、鞠するに当たらぬ凡句としか思えない。私は永遠に彼の選句集さえ作る気は、ない。]

 紅葉の句の拙いことは鏡花にまで影響してゐることは、彼等には巍然たる山脈の光茫を握つてゐないからであつた。漱石は子規時代の何人も其樣であつた如く、天明の豪邁な調子に乘り合うてゐた。子規が蕪村を出られず漱石が子規の間を彷徨してゐたことも爲方《せんかた》のないことであつた。何故彼等が一足飛びに元祿の豐饒な畑に種子を拾ひ得なかつたかと言へば、彼等の時勢が天明調以外に芭蕉の光輝すら幽かに漏れる夜半の明りほどにも、賴りない仄かなものであるらしかつたからだ。その時勢は芭蕉すらも月並といふ言葉の中にあしらはれてゐた時勢だからである。

 彼が何よりも元祿に心を向け其調べに從うたのは、古きに新しきを汲む心があつた爲であらう。漱石に於ける蕪村を芭蕉に補足してゐる彼は、その潔癖と苦澁と洗練との砦の中で、迥《はる》かに元祿の城を打眺めてゐた。それがいかにも彼らしい好みで又それ以外に彼の心が向ふとは想像もされないことである。彼の謂ふところの發句もまた全幅の藝術上の精髓だといふのも、彼の苦澁があつた後に初めて言ひ得る言葉であらう。

 併乍ら自分は全然彼の發句に異議なしに賛成するものではない。彼の好んでつかふ古調は時に發句に皮かぶりの古さをつけないことも無いではない。別離の句に、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の如き離愁は一應その氣もちは分りながらも菅笠の如きは、餘りに古きに從《つ》き過ぎ倣ひ過ぎるやうである。「しぐるゝや堀江の茶屋に客ひとり」の情景にしても、そのまま取入れられるにしても這入り過ぎてゐる調子ではないか。彼のねらふ縹渺は彼の凝りすぎる證據には「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の卽吟を彼は隨筆集に訂塗再考して「ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき」としてゐる。彼は三日後には原句を動かして打つて付け、付けては動かしてゐる。彼のいはゆるボオドレヱルの一行を認める所以は、彼の中では是認されなければならぬ一行でもあるのだ。併乍ら「尻立てゝ」の卽情卽景が「ひたすらに……」の後の句に添削され、原句の卽情の境を離れてゐることは彼と雖も首肯するであらう。[やぶちゃん注:「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の句については、私のサイトの初出版の冒頭の私の注を必ず参照されたい。]

  蝋梅や枝まばらなる時雨ぞら

  白梅や莟うるめる枝の反り

  茶畠に入日しづもる在所かな

  松風をうつつに聞くよ夏帽子

 彼は一槪に風流人でも俳人でもない。爐を去れば世上の埃や文壇諸公との應酬に遑なき匇忙《そうばう》[やぶちゃん注:甚だ忙しいこと。慌ただしいこと。]の男である。文壇の垢や埃の中に或時は好んでお饒舌をする男である。さういふ意味の文人臭を拔け上つた生の味の文人であらう。この意味で志賀直哉は最つと風流人であり文人の骨格をもつてゐるかも知れぬ。志賀の淸澹《せいたん》[やぶちゃん注:淡白にして無欲なこと。]は環境自身が補うてゐることも、ほぼ芥川と似てゐる。芥川が好んで曇天の美しさを見、枯れ葉の靜かさを詠むところの境致は又彼が小說の中にある「或夕暮」「或薄曇り……」のと好んで書くのと孰れも渝《かは》らない。

 彼が一句の發句にも藝術の大事を稱ふることは、細微なるものは最大のものを意味する點でロダンの說と一致してゐる。彼が此處に心を止めることは詩情を解する所以を表してゐる。すくなくとも芭蕉の詩情を狙ふ彼は自ら好んで古調の沈潜の中にゐるのは、彼の彼らしく又動かない彼自身を知つてゐるものであらう。

 

    三 流行とは

 

 芥川龍之介は不斷の流行を負うてゐることは佐藤春夫と同樣である。彼は宜い加減なものを書いてよいときにさへ、(若し恁《か》ふ云ふ言葉があれば、又假りに彼にさういふ機會があつたとしても)曾てその手綱を弛めたことがない。焦らずゆつくりと作家としての峠にゐる彼である。世に出たときにさへ谷崎潤一郞のやうな烈しい喝采を拍した[やぶちゃん注:ママ。普通は「喝采を博した」である。]譯ではない。少しづつの讀者を年年に緊めつけ年とともに數を殖してゆくやうな彼である。浮薄な讀者の間に忘られてゆくそれではなく、彼を讀むものはそのまま彼のまはりに何時までも群れ留つてゐる。「芋粥」から「玄鶴山房」まで餘り讀者は渝《かは》らないやうである。かういふ作家といふものは稀れにしか無い。これは彼の人德ではなく彼の堅め付け方が信じられてゐるからである。昨日の讀者は今日の讀者ではなく、讀者は作家の二倍くらゐの速力で進みもし先きにもゐるものだ。それを彼は知らん顏で踏まへ留めてゐることは、地味なしかも渝らない不斷の流行を擔うてゐる所以であらう。すくなくとも讀者の心に信じられてゐるからだ。

 佐藤春夫や里見弴の人氣には能く觀ればまだ浮いた人氣がないでもない。彼等は明るくて常に一種の、「華美」な雰圍氣の中にゐるからである。併乍ら志賀直哉や芥川龍之介や宮地嘉六や德田秋聲には浮いた人氣は消熄してゐる。それは人氣以上のもので人氣と名づけられない單にいい作家とだけ稱ふべきものかも知れぬ。――彼、芥川龍之介の場合はいい加減な作を作らない所以、彼の苦澁が彼を何時までも搖がせない。强ひて言へば小憎らしい不斷の流行を負ふに原因してゐるかも知れぬ。自分の如きは求められるままに濫亂の作を市に抛《なげう》つに急であつた爲に、今日の「我」をして悲しみを大ならしめた所以だが、人は志を更めるに恥を知るものではない。彼、龍之介の今日あるは又自分の大いに學ばねばならぬものだと思うてゐる。語を換へれば彼ばかりの場合でなく一國一城の各作家の弓矢や楯や兵法や築城には、それぞれに學びそれぞれに敎はらねばならぬものの多くを自分は感じてゐる。分けても彼の氣鋭は「羅生門」「芋粥」の時代から何時も同じい芥川龍之介の地盤を固めてゐる。未定稿のままの「大導寺信輔」を書いた頃から作を絕つてゐたものの、却て今年になつてからぐつと伸び上つてゐる。何時も燃えるやうな拍手喝采のそれではなく、何時も何か彼は讀者との間に信じられてゐるやうである。

 

    四 詩的精神

 

 詩にある文章や小說といふものに冷笑を感じてゐることは、久しい間の自分の偏屈な併も誠實な習慣であつた。詩のある小說とは美しくだらだらと宜い加減の文章の綾や折曲を綴り合うたものだとしたら、又世の批評家諸公の謂ふところのものであつたら、自分は彼等に根本的に詩を說明してかからなければならない手數と厄介さを感じるだけである。佐藤春夫が詩のある小說家だといふのは、彼の文章のつやであつたとしたら、佐藤もその詩のある文章といふ贋物の冠を返上するであらう。

 詩的なるものとは文章の表面ではなく、行と行との間字と字との間に、棚引く縹渺たる作者の呼吸づかひや氣魄や必逼的なものを言ふのだ。芥川の文章の中にいつも此標茫たる何物かがあるのは、諸君の悉知せらるるところであらう。志賀直哉は實に際どいところまで行くが、いつも淸らかで美しい。「暗夜行路」や「赤い帶」其他女中を書いたものにそれがある。併乍ら芥川の脈脈たる縹渺がない。芥川はいつも何か靑い煙を感じる程度の、彼自身の文章のやうな氣魄や肉體を有つてゐる。「枯野抄」の縹茫は今から彼自身が見ても、枯寂な一個の魂に對する詠嘆としか思はれないであらう。彼は充分な縹渺や枯寂を「枯野抄」では表し得なかつたと言つてよい。去來丈草の諸門弟を一々描いただけで、それだの彼のねらひが餘りに「その空氣」を表すに道具立が多かつたと言つても過言では無からう。併乍ら大正四年代に悠悠として「羅生門」を書き、越えて七年に枯寂な「枯野抄」を描かうとした彼の用意は並一と通りのものではない。彼は實に樂しみながら古實から新鮮を掘り當ててゐる。或は彼は彼自身樂しく書いてゐないと言ふかも知れぬ。何人も作者は苦吟するが故に愉しんでゐないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでいないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでゐないとは言へない。「藪の中」にすら彼自身愉しみ乍ら運命のはらわたを搔きさぐってゐる。彼の作の凡てがさうのやうに此作も橫縱から油斷のない手法で矢繼早に固めてゐる。然も此中の女の美しさは異狀なまでに感じられるのは、强ち物語の稍うがち過ぎたためでは無からう。

 何よりも彼は前人未到的な物語風なものに凝つたのも、彼の唯一の好みばかりでなく彼の聰明な文學的發足點であつたのであらう。そして此種の物語風な作品は不思議に今から思ふと、大正文壇の記錄的な作品の種類に這入つてゐる。再びああいふ種類の作品は我我に必要のない程度までの、それ程肝心な一小說體を爲してゐることは特記してよい。自然主義以來藝術的な物語風の小說としては、彼の諸作品は重きを爲すことは當然である。

 彼は最近物語風なものから脫けようとするほど、彼は彼の文學的過去に於て物語の作家であつた。どういふ作品も物語の範圍は出てゐない。それ故何時讀んでも退屈を感じない文字通りの小說的の効果を讀者は受け味ふことができるのだ。彼が可成り高踏的な作家であり乍らも、なほ通俗的な所以のものは一つには此物語風の姿を有つてゐることであり、話と筋とが透《とほ》つてゐるためであらう。そして此種の作品が後世の識者を問ふとしたら好箇の「記錄的な作品」として評價されるに違ひない。

 今の文壇で漱石鷗外のあとを繼ぐもの、彼ら以外の大家として殘るものは何人であるか分らない。併し我我の頭を去來するものは殘念乍ら芥川や志賀かその孰方かであらう。決して谷崎潤一郞ではない。谷崎は國寶的作家であらうが、漱石鷗外と併稱さるべきものではない。國家は稀れに取止めもない建築や器物に國寶の冠を與へると一般なものを、我我は谷崎潤一郞に感じることも無いでもない。しかも今は何となく大谷崎の大の字を與へられる作家は、芥川や志賀ではなく、實に大谷崎潤一郞だけである。併しながら漱石鷗外の後繼的氣分を我我の文學的爐邊にしばしば語られ釀すところのものは、龍之介と直哉とでなければならぬ。

 

    五 自分と彼

 

 谷崎潤一郞論の中で佐藤春夫は彼から文學的才能を蘇生させられ、培養させられたことを囘顧と感激とをもつて云つてゐる。自分も亦芥川龍之介から得たものは、意味は違つてゐても同樣のものであることを否めない。自分と彼とは僅か七八年くらゐの交際に過ぎない。しかも其間に自分は彼から種種なものを盜み又攝り入れたことは實際である。彼は殘念乍ら一步づつ先に步いてゐるからである。或は一步どころではなく十歩くらゐ先方を步いてゐたかも知れぬ。或は田舍生れの自分は田舍の辯で用途を滿してゐる牴牾《もど》かしさを、東京に生れた彼が東京辯で用を辯じてゐる速力の相違であつたかも知れぬ。

 萩原朔太郞が此間室生犀星論を三十枚ばかり書いて久濶を叙する意味で自分に示して吳れた。自分の市井生活の荒唐無稽を露骨なまでに曝き、「この頃の取澄した」自分を粉碎し又理解した文章であつた。その中に私と芥川とを批評して恁《か》ういふ意味のことを言つてゐる。「彼が芥川龍之介と知り合ひ彼等が均しく慇懃であるのは、兼て室生が欲してゐるところの敎養あり、典雅な人物に彼が行き會うたからである。彼自身の中に潜んでゐる當然典雅なるべき彼を築き上げたい夢想を、次第に彼は芥川を知つてから實顯し出したやうである。少くとも當然彼の中で睡つてゐて起きないものまでをも、芥川龍之介なる人物に刺戟されて搖り起されたと言つても過言ではなからう。」と云つてゐる。彼の言葉を藉《かり》れば敎養ある高雅の人物を私は永い間望んでゐた。そしてその人物に邂逅したことは彼の氣質からなる風雅なるものを、一層建て直したと言つてよいといふ論旨であつた。自分は萩原の言ふところに不賛成ではない。寧ろ彼は離れてゐる間にも彼の友である私を遠く注意深く睨んでゐることは、彼の唯一の友であるが故に賴母しい氣がしたくらゐである。

 菊池寬の言葉を籍れば芥川龍之介は人がいいさうである。彼に逢つたどういふ人も彼を惡く言ふことを聞いた事がない。會はない前から見れば會つてよかつたといふ懷しさを感じさせるらしい。そこが彼の人のいい、隱し立をしない人がらであるかも知れぬ。彼の上機嫌は彼を長廣舌にさせる事は暫らく擱《お》いても、彼は妙な人見知り氣取りや故意《わざ》とらしい氣障《きざ》からとくに卒業してゐることは實際である。人間が出來上ることは人見知りや氣取りの必要のないことであらう。しかも彼は皮肉でなく正直に言つてゐる。「僕は誰とでも或程度までは交際《つきあ》へるがその或程度までで又引歸して來る。」と彼らしい氣持の手堅さを見せてゐる。かういふところは人が善いのだか惡いのだか分らない。或は或意味で菊池寬の方がよほど彼よりも人がいいのかも知れぬ。

 一槪に萩原の所謂「典雅なる人物」との邂逅に依つて、自分の全幅が影響されてゐると言ふのや、彼に依つて初めて自分が搖り起された譯ではない。彼に據つてほんの少しづつ自分は彼のものを盜んだ丈である。彼の中にあるもので自分に取つて解らなかつたものが解るやうになつたことは、或意味で重大なことかも知れない。とにかく彼は却却《なかなか》の苦勞人である。しかも彼の苦勞人の所以のものは妙に垢じみた薄暗いそれではなく、明るい冬の朝のやうなそれである。彼は學問や經驗の上からも、自分とは全然反對であるが、しかも彼は經驗せずして經驗する程度のものを直覺する男である。彼は或意味で世間的に云へば恐るべき早熟だとも云へるのである。或は彼があれだけの才能を不良性のまま驅り立ててゐたら、どうにもならぬ人間になつたらうと思へる程である。麼《か》ういふことは禮を失するかも知れぬが、彼が不良の徒だとしたら才氣煥發で一世を震骸させるかも知れない。

 

    六 「玄鶴山房」の内容

 

 彼は最近「彼」第一第二「點鬼薄」「河童」「玄鶴山房」等を次つぎに發表した。そして批評家諸公の謂ふ神經衰弱でへとへとになつた彼を見直さした。今では神經衰弱もまた彼の一轉期だつた風に云ふかも知れない、――獨逸人は病氣をしない人間は莫迦だと云ふさうである。又古く長與善郞は餘りに健康で肥つた人間も莫迦だと言つたやうに覺えてゐる。

「玄鶴山房」には最近の彼が懷いてゐる憂欝な氣魂が沁み出てゐる。「玄鶴山房」には壓搾の美がある。出來得るだけ纏めつけた上に彼の好んで恍惚とする壓搾の美しさを彫つてゐる。木彫の美であるかも知れない。そして又甲野は種種な家庭から家庭へ渡り步く看護婦としての天職に苛酷なほど忠實であることが、時折その眼を上げて、徐ろに觀察の微妙をその女性らしい心に落してゐる。

「玄鶴山房」は在來の彼の物語であるよりも一層物語のさねに障つてゐるところの、彼の鋭い爪に據られ[やぶちゃん注:適切な読みが浮ばない。私はここは「抉」(えぐ)「られ」とあるべきところかと思うのだが。]彫られたしごとの一つである。自分はこれらの人生に各各一人づつの人間に美を感じた。玄鶴には玄鶴の美、甲野には甲野の美、お芳にはお芳の美、其他の人間にも美を會得した。これを「秋」と較べると幽かな新派哀愁とも云ふべきものが、最《も》う重疊された憂欝をたたんで「玄鶴」に聳立《しようりつ》してゐる。しかも色で云へば「玄鶴」は澁好みであると云つてよい。讀み終へて舌ざはりに殘るものは彼の澁好みであらう。

 小說は落筆前の材科で一度作者を苦しめるものであることは事實であるが、彼の場合時折息苦しい折疊をこころみてゐる時に、いつでも何か美がある。赤松月船もまた彼の論文の中にチラチラ光るものを感じると言つてゐるが、それは彼の文章の構成や結構が折りたたむ氣魄の一種ではないか。これは又彼から見遁してはならないものだ。此チラチラ光るものは要するに彼の質の冴えのやうなもので、永年彼が知らず織らず[やぶちゃん注:「識らず」の誤植。初出は「識」である。]の間に磨き上げたものだと思ふ。遺憾乍ら「河童」の中にチラチラ光るものがあれば、アートペエパアを捌くやうなそれであり、「玄鶴」の中にある冴鋭《ごえい》なるチラチラではない。「羅生門」の丹の剝げた柱にきりぎりすを點出した彼は、「秋」の宵口に電燈の球に止つてゐる蒼蠅を按配した。これは決してチラチラの中のものではない。彼はつひに「玄鶴」に甲野さんを按配するのは殆ど當然のことであつたらう。

 或批評家は「河童」を彼の智識的なる產物として批評した。また或月評家はこれを童話として品隲《ひんしつ》した[やぶちゃん注:品評した。世間的に分類した。]。また或批評家は彼でなければ書けぬものだと所斷した。孰れも當り孰れも當らないやうであつた。自分に言はすれば「河童」は彼の苦汁のやうなおもちや箱を彼が整理して見たまでのものであるやうな氣がする。或はさうでないかも知れぬ。併乍ら彼のおもちや箱は何時もああいふふうの品品に滿ち、ああいふふうのおもちやが一盃に詰つてゐることは噓ではない。――彼はさまざまな河童をならべ其等に迷ひ子札を一々克明に提げた。

 

    七 描寫に就て

 

 彼の文章に壓搾の美のあることは既に述べた。同時に材料もともに壓搾されてゐることも見遁されぬ。志賀は生のままの文章で行くが、彼の縹渺の趣を缺いてゐることも述べたとほりである。しかも里見のうがちは無く谷崎の壯大は窺へないかも知れないが、脈脈として糸吐く蠶の縹渺を含んでゐる。又凝り上ると峻嚴な、練るほどつやを吐く糸のやうである。樹で云へば常磐木の美であるかも知れぬ。隨筆集「點心」の中に彼は文藝上の作品では簡潔なる文體が長持ちのする所以を述べてゐる。彼は文章の荒糸だけを丹念に拔いてそれを統べたり編んだりしてゐる。大正十一年作の「トロツコ」には手堅い寫實的な、淡《あつ》さりした手法を用ひて効果を得てゐる。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が三字下げのポイント落ちであるが、前後を一行空けて、同ポイントで示した。]

 

或夕方、――それは二月の初旬だつた。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロツコの置いてある村外れへ行つた。トロツコは泥だらけになつた儘、薄明るい中に竝んでゐる。が、その外は何處を見ても、土工たちの姿は見えなかつた。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロツコを押した。トロツコは三人の力が揃ふと、突然ごろりと車輪をまはした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかつた。……(トロツコ。)

 

 此描寫の中に無駄は一字もない。或意味で寫實の奧を搔きさぐつてゐるやうなところがある。自分は世にいふ名文といふものは知らないが、恐らく名文といふものには此種に文章が名づけられてもいいものであらうと思つてゐる。此中に壯麗も見榮も氣取もない。あつさりと餘裕のある、まだ幾らでも書ける筆勢が見えるやうである。愛すべき小品「蜜柑」の中の「しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかゝつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい葦屋根や瓦屋根がごみくと狹苦しく建てこんで、……」[やぶちゃん注:以上の引用は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントとした。以下でも同じ仕儀としたので、そちらでは略す。]の數行は、その布置が稺氣《ちき》[やぶちゃん注:子供っぽいこと。]の見えるまでに正直な、その上或る憂欝のある景色を描いてゐる。「トロツコ」の人生は活發な人生である。[やぶちゃん注:底本には句点が行末で組めなかったか、句点がないが、補った。]「蜜柑」も同樣に子女をあつかひ乍らも、人生の風雪は著早《いちはや》く「蜜柑」の少女を傷めてゐる。行文に一味の陰欝が窺はれるのもその爲であらう。併し乍ら「蜜柑」は大正八年の作であり或意味で「トロツコ」の淸澄簡潔には及ばない。

「子供の病氣」は彼の生活的な日錄のやうなものであるが、時に妙に思ひ上つた樣なところのある「保吉」物よりも私の愛讀するものである。これは彼の所謂素直物[やぶちゃん注:所謂私小説風の物の謂いであろう。]の一つであるかも知れない。彼の散文詩めいた物の中にも素直物が折折にある。「仕事は不相變捗どらなかつた。が、それは必しも子供の病氣のせゐばかりではなかつた。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出した。」夏の雨らしい大粒な景色が描かれてゐる、これは彼が發句に丹念してゐるために締付けられた文章と見るのは當を得てゐない、――自分は彼の大作よりも何故か寧ろ小品に近い物ばかり擧げてゐるやうであるが、これは自分の趣味ばかりではなく彼の小品めいたものを愛讀するからである。

 彼を理智の冷徹な作家とすることも一評的であらうが、寧ろ人生には愛情のある作家であることは特記して置きたい。彼といふ人物や生活には人懷こいものがあるやうに、存外冷徹な理智者の彼に自分はその愛情の匂ひを嗅いでゐる。「お時儀」の中の人生は誰でも屢屢經驗するところのものであるが、汽車から降り立つ何時も宜《よ》く逢ふ女の人に、思はずひよいとお時儀をする彼は全く彼らしい人の善い氣輕な氣持を有つてゐる。それにこの作の中に愛情を有つ彼が愉快げに佇んでゐるのが行間に沁み出てゐる。「――お孃さんは今日の前に立つた。保吉は頭を擡げたまゝ、まともにお孃さんの顏を眺めた。お孃さんもぢつと彼の顏へ落着いた目を注いでゐる。二人は顏を見合せたなり、何ごともなしに行き違はうとした。」

「丁度その刹那だつた。彼は突然お孃さんの目に何か動搖に似たものを感じた。同時に又殆ど體中にお時儀をしたい衝動を感じた。」彼の謂ふところの簡潔と壓搾とが遺憾なく表現され、その折の氣もちが鮮鋭に透《とほ》つてゐる。彼は此お孃さんを可成り高びしやな、上から見卸すやうにしてゐながら、遂にお時儀をしたい衝動を感じてゐるところに、彼らしい氣もちが出てゐる。これだけに絞つて書くことは却却《なかなか》容易なことではない。

 彼の文章に型のあることは總《あら》ゆる作家に型のあると又同樣である。併乍ら彼の型は彼を苦しめはすれ樂にはさせてゐない。大槪の作家は樂樂と型に這入つて行くが、彼はいつも身悶えをしてその型に這入つて行く。しかも「玄鶴山房」あたりには、型の角がとれてゐた。内側から型にふくらみを付けたことは實際である。内容が文章の上へ出てゐる、――文章が下地になつてきらきらしてゐることに氣がつく。誰でもかうなるとは決まつてゐない。「彼等は竃に封印した後、薄汚い馬車に乘つて火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀の前に佇んだまゝ、彼等の馬車に目禮してゐた。重吉はちよつと狼狽し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乘せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走つてゐた。」又甲野といふ看護婦を描くのに彼は刺し徹すやうな數行を四の末端で結んでゐる。彼の簡潔の中に並並ならぬ深い用意のあることを感じる。「お鈴の聲は「離れ」に近い緣側から響いて來るらしかつた。甲野はこの聲を聞いた時、澄み渡つた鏡に向つたまゝ、初めてにやりと冷笑を洩らした。それからさも驚いたやうに「はい唯今」と返事をした。」彼の諸種の作品の内でこの數行の如き透徹冷嚴の旨(うま)みは、容易に見出せるものではない、殊に第二聯の逆手を打つた逆描の冴えは、他人は知らず自分の推賞したいところである。全く歷歷(ありあり)と目に見えるまでに描いてゐる。かういふ彼の中にあまさは微塵もなくぎりぎりに詰めてゐる。

 彼の描く人生の量や幅や深淺の程度は、いつも文章と喰ひちがいなく嵌り込み、食み出してゐるところは少しもない。「點鬼薄」は「點鬼簿」以外のものではなく、さながらの過去帳であり點鬼簿である。そのまま四六判の書物になり小穴隆一の裝幀を思ふほど、四六判へ辷つて[やぶちゃん注:「すべつて」と読むしかないが、今一つ、変な表現である。私は「辿つて」の誤りのような気がする。但し、初出も「辷」である。]行く作がらである。彼のどの作も金緣の額へではなく好ましい額ぶちへはまり込んでゐる。

 彼のどの作にも同じ種類の人生、同じい生活の再出は見られぬ。一作ごとに何等かの變化を全然異つた人生を表はすことに苦心してゐる。樂なものを後方に左うでない難しいものへ進んでゆくことは特記に値する。絕えず毛色の違つたものへの進展は、樂樂と書けさうなものを後𢌞しにさせてゐる。しかも彼は彼の自敍傳らしいものに殆ど手をつけてゐない。作家の最初に手を付けるものを彼は最後に𢌞してゐるのも、奧床しくないことはない。「就中恐る可きものは停滯だ。いや藝術の境に停滯といふことはない。進步しなければ必ず退步だ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかりを書く事だ。」[やぶちゃん注:ここは底本でも同ポイントであるが、「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』初出。後に作品集『點心』『梅・馬・鶯』に所収された)の六番目のアフォリズム中の一節である。リンク先は私の古いサイト版電子化注。]彼はさうも言ひ停滯の危險なことを警戒してゐる。藝術家の死に瀕してゐるものは同じ事ばかりを書く事であることを言つてゐる。

 彼のどの作も彼自身に取り又私だけの見方としては、何時も試みらしい作のやうに思へてならなかつた。絕えず材料の轉換に悶えてゐる彼には、作を透《とほ》してさへ其等の氣持がぢかに感じられてゐた。あらゆる作家の内で彼ほど描かれた小說の事がら以外に、彼の「藝術」を感じられる作家は殆ど稀なやうである。何か彼らしいものを(これは一種の文章がもつ人格的なものかも知れない。)自分はその小說以外に感じられてならなかつた。これは志賀の場合には感じられる氣魄的な文章のもつ靈魂みたいなものである。決して亡靈ではない。(文章の靈魂とは變な言葉であるが、さういふものが存在してゐるやうな氣がするのだ。他の何者にもそれがなくとも文章にはその靈魂がこもつてゐるやうに思ふ。)恐らく彼の文章は次第に「玄鶴山房」に見るがやうに、殆ど内容を盛るだけの用を爲すに停まり、在來の文章そのものの肉を避けて行くやうになるであらう。文章のすぢばかりを彼一流の氣魂で練り上げて行くやうになるに違ひない。

 彼の名文家でないことは述べたが、しかも彼は大正時代に於て文章が單なる文章の肉を必要としないところの、淸瘠《せいせき》の一文態を築き上げたこと、その一文態は在來の描寫が有《も》つ病的なほど過剩された文字の埋積から、完全に隔れた一新樣式を練り上げたことは認めてよいことである。あれだけの文章はただ簡勁だといふに片づけてはならぬ。あれだけのものを今日に於て築き上げたことは誰も氣付いてゐないやうである。しかも其等の文章は第三期新進諸君(同人雜誌)のために、最もよき踏臺となつてゐることを自分は注意して見てゐるものである。あらゆる文章の進んでゆく速度は恐らく十年目くらゐに或變化を與へてゐる。硯友社時代と獨步時代、そして大正時代との間に徵しても明らかである。今後十年近くの間に變化が起るとすればわが龍之介の壓搾の美も、彼らには可成りな健實な踏臺となるに違ひない。あらゆる藝術的なるものは次の時代の足つぎになることに存在するからである。

 此小論を書くにあたり諸家の高名を禍《わざはひ》したことは、作者の至らざるところであり、作者の至らざるところは文章の至らざるところである。豫めお佗びして置く。

            (昭和二年五月作)

2022/03/16

室生犀星 碓氷山上之月

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの室生犀星著「魚眠洞隨筆」(大正一四(一九二五)年六月新樹社刊)の「日錄」パートのここから始まる「碓氷山上之月」を視認して電子化した。

 傍点「﹅」は太字とした。なお、本文中に四ヶ所出る「妹」は活字は孰れも「妺」であるが、「妹」に代えた。

 注したいことがゴマンとあるのだが(無論、芥川龍之介と松村みね子=片山廣子に関わる部分で)、今回は急に思い立って仕儀であったので、躓いた箇所にのみ、語注を附すに留めた。

 

      碓 氷 山 上 之 月

 

  ぽつたりと百合ふくれゐる株の先

 その百合の花が一本に四つの花をもつてゐる。四つといふ數はきらひである。それゆえその一つを剪つてしまふ。ところが最う一本の百合にも四つの蕾がふくれてゐる。やはり剪ることにした。

 澄江堂はとなりの襖を隔てた部屋で、予は入口の方に室を撰んだ。窓の前に小さい池があつて噴水がのぼつてゐる。筧に穴をうがつてあるところから一間くらゐの水が輪のやうに池の面を敲いてゐる。まるで誰か小便をしてゐるやうで、見てゐるのが呼吸苦しくなる。……

 澄江堂と襖一重ではあとになつてお互ひ窮屈にならぬかと思ふ。澄江堂は君さへよければ關はぬといふ。しかし君にどうかといふ。なるべく隣室でない方がよいけれど、室がないからお互ひにがまんすることに仕やうといふことになつた。(大正十三年八月三日、七十九度)

        ×

 朝六時に起きる。散步してかへつて來ても澄江堂はまだ床にゐる。が、とくに眼をさましてゐるらしく起きて出てくる。……」

 「あゝよく寢た。……」

 と云ふ。よく寢たらしい顏附である。

 澄江堂はパンとミルクの朝飯だが、予はあたり前の朝のおぜんである。この宿に五十幾人かの避暑客はゐるがみんなパンとミルクの朝飯である。日本食は予ひとりくらゐださうである。パンとミルクで朝飯をたべると茶がうまく飮めない。も一つはパンとミルクで朝飯をすますと朝飯のかんじがしない。あれは朝寢坊のたべものだらうと考へた。

 「この宿にゐる間だけパンとミルクにして、家へかへると日本食ぢやないかな。」

 さういふと澄江堂はたいがいさうだらうと言つた。

 「けふたつちやんこが來るが、別の室をたのんで置いた。」

 「たつこちやんが來たらホテルヘ行つて飯を食はう。」

 たつちやんこを聞きちがへてたつこちやんと澄江堂はいふ。たつこちやんは少しをかしい。その辰ちやんは此間から予の鄕里の家で泊つてゐたのだが、予が輕井澤へ行くのと一日おくれて歸京するので、こゝヘ途中下車をして一泊することになつてゐるのである。

 「風蘭や暑さいざよふ石の肌はどうぢや。」

 澄江堂はいつの間にか予の田舍訛を覺てしまつた。が、また、「どうも上の句がしつくりしないな。」さう言いて、「石菖や暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。

 「藤棚や暑さいざよふ……これもいかん。」

 澄江堂は七へんばかり上の句をなほし、たばこをすぱすぱ喫つてゐる。「日盛りや暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。かれはいかんいかんを續けなりに言つた。

 午扱、堀辰雄君來る。そして家の方で、昨日朝子が乳を吐いて一日泣き通してゐたと言つた。又かと思ふ。心すぐ暗くなる。

 「消化不良だね、よく注意しないといけない。葉書でも出しときたまへ。そばにゐるやうに力になるものだよ。」

 澄江堂は濕布その他の手當の話などをした。

 晚、輕井澤ホテルヘ三人で行く。すぐ脇隣りに岩谷天狗のやうな西洋人がゐて、四合入の牛乳の甁を控ヘビールのやうにどくどく飮んでゐた。

 「あれをみんな飮むつもりか?――」

 予は尠なからず恐怖した。

 「君、ちやんと聞いてゐるよ、あつち向いてゐてもね。」

 澄江堂はしつしつといふやうな顏をる。……なるほど、田舍へ行つてから聲が大きくなつた矢先きだし、あわてて予は緘默した。

 西洋人は予らが食卓を離れるまでに完全に牛乳の四合入りを一滴あまさすに飮んでしまつた。予はいまさらに世界地圖に一覽を與へたやうな悠大な氣がした。

 喫煙室に坐つてゐるうち去年見た西洋人が泊つてゐないことに氣がついた。三人の子供に順繰りに本をよんで聞かせてゐた美しい異人の母親は來てゐなかつた。外へ出てから予は辰ちやん子に囁いた。

 「去年とはさぴしいやうだね。」

 「そんな氣がしますね。」(四日、七十六度)

        ×

 マンペイホテルヘ茶をのみに行つた。暗い木の茂みが橋の上をつつんでゐるところで、予は突然右の人差指がこの冬ぢゆう痺れてゐて、溫かくなつて癒つてゐたが二三日中に急にそのしびれが冷氣のために來てゐるのに氣づいた。

 「これが君、またしびれ出して……」

 さう言つて人差指をさし出すと、澄江堂はわつと言つて吃驚りした。

 「ああびつくりした。こりや――」

 葉のこまかい枝が夜ぞらに恩地君の版畫のやうに浮き出してゐる。「怕かつた――」と言つて吃驚したのぢやないと言つた。

 散步からかへつてから松村みね子さんが室の前を通つて、お寄りになる。去年おあひをしてから話をするやうになつてゐる。それもいつも輕井澤だけである。

 あとでお菓子を松村さんに持たせてやる。

 辰ちやん子歸京。(五日、七十五度)

        ×

 朝、あんまをとる。

 澄江堂は仕事をしてゐる。あるだけの戶を閉めきつてゐる。予は開けてゐるが反對である。それから予は晚は九時には床にはいるが、澄江堂はたいがい一時ごろ寢るらしく、起きてゐるのか寢てゐるのか分らないほど靜かである。

 松村さんから大きた栗饅頭六つ、紙に包んで女中にもたせて來る。手のひらくらゐある大きさである。澄江堂はその大きなのを一つ晝飯後にたべる。一たい食後にすぐ菓子をたべるのは胃によくないと言つたが、いつのまにか食べるやうになつた。予が國から持つて來た金玉糖を一つづつ食べるやうになつたのは、甘好きの澄江堂の風習がうつつてしまつたのらしい。

 楓と鬼齒朶のかげから朝日グラフの記者がひよつこり顏を出して、ぱちつと二人の寫眞を撮つた。――それから向ふの座敷にゐる兄妹と母親との一族の、その兄らしい少年が散步からかへつてくると、澄江堂をぱちつと撮つてゐた。そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。予を閉却するも甚だしい。が、水蜜桃だけは一つ食べた。[やぶちゃん注:「そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。」はママ。「そのおれいに罐詰の水蜜桃を澄江堂へと持つて來た。」の誤字か誤植であろう。「閉却」もママ。「閑却」の誤植であろう。]

 その少年の妹さんはべつぴんである。かの女はいたづらに椽側へ靴下の足を投け出してゐるのが、予の机の方から見えた。れいの「暑さいざよふ」敷石のまはりの芝をけふは手がけをかけた里女が刈つてゐる。その遠景にまつつぐに一とすぢの噴水が今日から上がつた。その芝と噴水との景色はよかつた。予はしきりにほめたが澄江堂は默つてゐた。しばらくしてから、

 「なるほど、いいな。」と言つた。

 そしてまた暫らくしてから「僕はちよつと睡るからね。」と言つて睡いかほをした。昨夜二時に起きて小用を達しに行つたら、かれの部屋のひらきが椽側の方へ二尺ばかり開いて、濛濛たる煙草のけむりの中に端然と坐つて仕事をしてゐた。予は默つて小用を達して睡つたのである。それゆえ[やぶちゃん注:ママ。]睡いのであらう。――

 二時間ほどすると洗面したやうにさつぱりした眼つきをして、

 「ああよく寢た。」

 と言つた。

 晝寢のできない予はこのああよくたは羨しかつた。睡たいときにはほろりと睡れるらしいからである。

 「ほんとによくねたよ。」

 

 

 夜、マンペイホテルヘ飯をたべに行く。樹の間透く電燈が美しい。食卓のもう一つ向ふの食卓にひとりの美人が家族に交つて坐つてゐた。笑ふと白い齒が揃つてそれが屈託なささうに淸潔な感じをさせた。

 一年間西洋人を見なかつた田含ぐらしの予の眼に、西洋人が珍らしかつた。一たい輕井澤は妙に上品振つてきらひである。しかし凉しいのは好きである。ことしは西洋人が見られるのが一つよけいな樂しみになつた。

 「谷崎君が好きかも知れない。」

 澄江堂はかう言つたが、予は春夫はどうだらうと言つた。そして予はまた、春夫は苦情なしにはここに居るまいと思つた。(六日、七十六度)

        ×

 朝起、冷たい雨を見た。

 椽さきの山百合が雨垂を含んでうなだれてゐる。家からの手紙に朝子乳吐くことと、東京から遊びにきてゐるひろちやんの耳の中へおできができた、多分、水泳のためであらう、なるべく早くかへれとあつた。予はまた心欝した。

 澄江堂起きてくる。――

 「夏に子供をあづかるのは考へものだ。」

 さう言つた。

なるほど考へものであると思つた。[やぶちゃん注:一字下げ無しはママ。誤植であろう。]

 二人で食事をするのは每度のことである。しかし予はまだ澄江堂が洗面をせずにゐることに注意を拂つた。が、かれは平然と箸の先きで木つつき鳥のやうに半熟の卵のからをこくめいに叩いて、その破れたところから剝ぎはじめた。洗面をせすに飯をくふつもりらしい。飯が終つた。

 「据風呂に犀星のゐる夜さむかな、はどうぢや。」

 「ひととほりはいいな。」

 かれの脊中は形よい小ぢんまりした肉をもつてゐる。ちよつと鮎の感じがあるなと思つた。かれは湯をあびながら、

 「けさ顏を洗ふのを忘れてしまつたよ。」

 さう言つて洗面した。「僕はちやんと知つてゐたんだが默つてゐたんだ。」さう予は言つた。

 午後、部屋にこもつて苦吟してゐるらしかつた。それが二三日前から烈しくなつたやうな氣がした。

 夕方、裏門きはの女中部屋の戶板に向ひ、立つたままで女中のお雪が泣いてゐた。――色も白く浴衣も白い名もお雪といふ此の女中は、どこかの小間使ひをしてゐたので能く料理番なぞに叱られると聞いてゐたが、可愛さうな氣がした。

 「さつき百合が泣いてゐた。……」

 「可哀さうにいぢめられるんだね。――」

 澄江堂と予とはこの女を百合と言つてゐたのである。百合は一日くらゐ客の間の世話を燒くと、つぎからつぎへと新手の客に代へられた。(七日、七十八度)

        ×

 雨になつて雷嗚がした。次第に烈しくなる。……いままで靜まり返つてゐた澄江子は何か叫びながら、玄關さきの應接間へ飛んで行つた。予は折柄、あんまをとつてゐたが、療治はもう終りかかつてゐたけれど、澄江堂が馳け出してから少し怕くなつた。それにまだ肩先きにあんまが薄暗く取りついてゐる。――

 「大丈夫か、あんまさん。」

 「ぴりぴりと來る奴はあぶなうござんすが、まだごろごろくらゐでは大したことはありません。」

 「だんだん烈しくなる。……」

 「しまひにぴしつと來ます。そいつは恐いが……」

 雷鳴が次第に近くなつた。雨は底ぢゆうに溜つた。池の水があふれた。

 「もう止すよ、君!」

 予はあんまを止めてもらつた。そして、「君はこの部屋にゐても大丈夫かね。」とさう尋ねた。

 「なあに雷くらゐは――」

 予は應接間へ行くために庭の雨の中を走つた。應接間には松村さん、そのお孃さんが、もう避難してゐた。澄江堂も神妙に椅子によりながら、酷いかみなりだなあと言つて、氣がついたやうに、

 「君、あんまはどうした。」

 「置いて來た。」

 予は椽側に泰然と坐つてゐた先刻のあんまさんの姿を、勇勇しく思ひ返した。

 「置いて來たは驚いた。……」

 松村さんもびつくりしたやうな顏をした。

 「かあいさうに――」さう言つて、女中にあんまさんをつれて來ておあげなさいと言ひつけられた。

 「あんまは大丈夫だと言つてゐましたよ。」

 「でもね、こんなに降つてゐるんですもの。」

 お孃さんもさういふ。が、かみなりはやまなかつた。稻光りがするごとに松村さんのお孃さんが、

 「おかあさま、大丈夫?――。」

 怕さうにさう言つた。

 晚、松村さん、お孃さん、大學へ行つてる坊ちやん、澄江堂の四人で散步をした。大學ヘ

行つてゐて坊ちやんはをかしいと予は松村さんに言つた。松村さんと予との間に風月論が出た。澄江堂は松村さんに議論を吹きかけた。松村さんは穩やかな人である。(八日、八十度)

        ×

 はじめ澄江堂と襖合せではおたがひに仕事の都合がわるくないかと思つたが、一しよにゐると澄江堂といふひとはよくできた人物だと思つた。却つて襖どなりでお茶にしやうかとこちらで言ふと、又、向ふから少し步かうかと言ひ、すこしも氣が置けなかつた。晚、予は予の規則をまもるために九時半には床へ這入つたが、澄江堂は應接室へ行つてかへつてくるのにも、靜かに雨戶をあけて歸つた。

 「また客か?――」

 さう寢床から聲をかけると、

 「眼がさめたのか。――」

 と言つた。

 「いや・まだ起きてゐたのだ。よくお客があるな。」

 澄江堂は間もなく仕事を初める。……予はねむるのである。こんな風に暮しが反對であつたが、そのもたれが無かつた夜中であつた。

 予が厠へ椽側づたひにゆくと、澄江堂が椽側にあるお湯を取りに出るのと一しよであつた。兩方でびつくりした。

 「わあ――」

 「ああびつくりした。」(九日、七十八度)

        ×

   秋ぜみの明るみ向いて啞かな[やぶちゃん注:「啞かな」は「わらふかな」と読む。]

  松村みね子さんが咋夜二階の段梯子をふみはづして、足のゆびを傷められたと女中が言つた。そこで一句、

   草かげでいなごがひとり微笑うた[やぶちゃん注:下句は「うすわらうた」か。]

 澄江子も和歌一首をしたゝめ、お見舞ひのかはりに持たせる。――晩、二人で松村さんの部屋へはじめて遊びにゆく。(十日、八十度)

        ×

 朝、散步してゐると美しい西洋人の姉妹が別莊道から下りて來た。二人とも樂譜を持つてゐる。ひとりは藍色で妹は純白な服を着てゐる。姉の肩つきは富士山によく似てゐた。えりくびは乳のやうに白かつた。

 

 この旅館の應接間は客がみんな食前とか食後には、よく出て來て椅子に坐つた。三年つづけて挨拶をしてゐたが、その五十がらみの人の好い顏の客が醫學博士であることや、白足袋でゴードを喫むのが齒科の先生であることや、毛糸のジヤケツを著てゐるのが千葉の地主であることや、三人のお孃さまをつれてきてゐるのが田端の地主であること、また每年のやうに演說會の事務を取りにくるのがレヴエヂヤトフに似てゐることや、朝から賑やかに若い妻君と出步いてゐるのが神奈川の金持ちであることや、その他の人人がみんな應接間へ坐つては休んでゐた。予は誰にも馴染みになれなかつた。[やぶちゃん注:「ゴード」不詳。「ゴルフ」のことか? はたまた、テニスの「コート」? 或いは葉巻の銘柄? 判らん! 「レヴエヂヤトフ」不詳。]

 

 齒科の先生は輕井澤の金棒引きで、土地と別莊をもつてゐた。そして談たまたま輕井澤のことに及ぶと、昂然として言つた。

 「輕井澤にはもう土地なんてありませんよ。」

 

 夕方、澄江堂と散步しに出て射的をした。かれは二つパツトを落した。予も同樣二つ落した。予は生れて鐵砲を手にもつたことが初めてであつた。

 「このつぎは五つの内四つまで落す自信はあるがなあ。――」

 この前さう言つた澄江子は、たつた二つしか落せなかつた。(十一日、八十度)

        ×

 朝子の帽子を二つ、マントのやうな毛糸編みのちやんちやんを二枚、レースを一丈、それだけを買つてかへりかけると、れいの裏門の女中部屋でまたお雪が唏いてゐた。予はすぐ神經質ですぐ對手に應へる顏の番頭を思ひ出した。每年の老番頭のかはりに新しく來た番頭であつた。老番頭の仕事はいくらか浮いて氣の毒であつた。時代はこの三千尺の山の上の旅館の上にまで、その餘勢をもつて訪づれてゐた。[やぶちゃん注:「唏いてゐた」「ないてゐた」と読んでいよう。「唏」は「なげく」「かなしむ」以外に「すすりなく」の意がある。]

 室へはいると澄江子はすぐ起きて出て、

 「ああよく寢た。」と又言つた。そして、

 「今夜は徹夜ぢや、すこし瘦せたかな。」

 と、その頰へ手を持つて行つた。予が來てからも少し瘦せたやうに思はれた。

 「お雪がまた泣いてゐたよ。」

 澄江堂は不愉快な顏をした。その不愉快さは次第に憐愍の表情に變化つた。戶板の方を向いてしくしくと泣いてゐるのが、予に鬪係のないことだけに哀れを催した。

 「ああいふぼんやりした顏といふものは憎み出したらきりもなく憎くなる顏立ちだが…」

 「さうだよ、だから可哀さうだよ。」

 澄江子はさう言つた。

 二人とも庭へ出た。澄江子はそこにある高い楓の木の枝移りにするすると木登りをはじめた。何か腹が立つたやうにである。

 

 晚、マンペイホテルヘ茶を飮みに行つた。

 食堂の電燈がいつもよりも數多く點れてゐて、音樂が夜色を縫うた植込みの中から起つてゐた。

 「何かあるんだな今晚は?――」

 「さうらしいね。」

 サロンに集つてくる人達ち[やぶちゃん注:ママ。]は、西洋人もさうだが、日本人もつくりが派手らしく見えた。肌を露(む)いた西洋人が食堂の方へでかけるときに、サロンにゐる日木人の娘や夫人にあいさつをして行く。……あれらはみな知り合ひと見えるな。しばらくして今喪はダンスがあるので、宮さまもおいでだといふことであつた。二人はぽつ然[やぶちゃん注:ママ。]として坐つてゐたが、不調和な空氣を感じた。

 「出やう。――」

 二人は同時にさう言つて、玄關わきの美しい西洋人の間をすりぬけた。

 「輕井澤では星が少し大きく見えるよ。」

 さう言へば星が大きく見えた。これまで氣がつかなかつた。――宿の應接間に松村さんが居られた。どちらへ?――マンペイへ行つて來ましたと予はこたへた。(十二日、八十度)

        ×

 二三日上らなかつた正面の噴水がけふから又上つた。刈つた芝が美しい。百合はみんな凋れて了つた。ばらばらと通り雨があつたあとに、全く秋の半ばのやうな凉風が吹いた。

 夕方から碓氷峠の上へ月を見に行かうといふことになり、松村さんとお孃さん、旅館の主人、澄江堂と予とが自動車に乘つた。峠へは登り道ばかりで、松村さんは少し蒼い顏をして、

 「恐うございますね。」と言つた。

 お孃さんは十七であるのに、お母さんにしつかり抱きついてゐた。自動車はげつくりとはずみを食ひながら、樹の間から見える月の山峽を登つて行つた。屛風に描き分けた峽の道を指呼の間に上るやうな氣がした。

 碓氷村は峠の頂に黑ずんだ屋根をならべ、その低い庇に四隅に紙房のある古風な切子燈籠を軒ごとに吊してあつた。けふは月遲れのうら盆の日である。

 「あの燈籠はいいなあ。――」

 自動車から下り立つた澄江堂は、仄暗い明りにやつと見分けられる家の中を覗き込みながら言つた。十二三の女の子がらんぷの下で何かの本を讀んでゐるのが、うす暗いので同じ家内でもずつと遠くのやうに見えた。

 「賴んだら吳れないかね。」

 燈籠の骨と紙とが四邊(あたり)の荒い風色と關係があるやうにも思はれた。暗さになれるとその燈籠を吊した庇の下に、何かの葉の硬い石菖のやうな草が磊落たる石の間に蓬蓬と茂つてゐた。

 熊野權現へ參詣した。

 松村さんもお孃さんも權親さまの石段の下で羽織を着た。見晴臺へ行くと、妙義山一帶の山脈が煤まみれのむら雲の中に、月の片曇りをあびながらどんより重疊してゐた。茫茫たる歲月を封じ込んでゐるやうで、むしろ騷騷しい挑んだ荒凉たる景色であつた。

 二三人の西洋人が七輪に炭火を起して、お茶をあたためながら、ベンチに同勢らしい二三の若い娘さんたちと何か話してゐた。こんな景色は繪よりも文章よりも音樂に近いかなあと澄江子が言つた。

 「そんなにおさむくはございませんね。」

 松村さんは羽織着のほつそりした姿で、旅館のあるじとさう話してゐる。――予はうちの朝子が乳を吐いたことや、ひろちやんの耳のおできや、けふ來た手紙でうちのものの乳にこりのできたことなどを思ひ浮べた。雲は北方へ吹きよせられ東方の山道が見えて來た。雲がないので刷いだ[やぶちゃん注:「はいだ」。]山峽は靜かであつた。

 「あれが暴れ出したら大變だな。」

 淺間山はこんもりと象のやうに跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]、どこか遠方で鎖がつないであるやうな氣がした。煙は上州へながれてゐるので見えなかつた。輕井澤の町もすぐ眼の下に見えた。

 見晴臺から茶店へ行つた。黑い瘦せた猫が圍爐裏にゐたが、松村のお孃さんが呼んだのですぐその膝の上にあがつた。が、また思ひ返して圍爐裏のへりへ行つた。「あひにく力餅がみんなになりましてな。」無器用な口つきで、卒氣なく茶店の老人が言つた。すこしくらゐなら今から拵へると言つた。べつに食べたくもなかつたが待つことにした。――

 吹きぬけの山風が裏の山脈から通りすぎた。

 「お雪といふのはどんな女中でございますの。縹緻のいい子ですか?――」[やぶちゃん注:「縹緻」「きりやう」。「器量」に同じ。]

 「いや、あれとはちがひます。」

 れいの、お雪の話が出たのである。――旅館のあるじは、あのお雪はおしやべりで困る、それに沓掛のカフエにもゐたことがあると言つた。予の哀れは變らなかつた。お雪は白いゆかたを着け、すこしおしろいのある顏で、そして納戶に向いて泣いて居ればいい……さう思つて笑つた。

 餅をたべ茶をのんで、峠を下りはじめた。明るい脚光に浮き出された山中に多い白い蛾が紙きれのやうに片片として舞うてゐた。

 「かへりは少しもこはくはありませんかね。」

 松村さんがさう言つた。坦坦として辷つて行つたからである。

 「乘せてくれんか?」闇の中で、旅館のあるじの知り合ひらしいのが、これも月見のかヘりらしく道端から聲をかけたが、自動車は默つてしづかに辷つて行つた。(十三曰、八十度)

        ×

 昨日、けふ發つことにしておいたが、夕景近くなると名殘り惜しい氣がした。しかし子供のことが氣になつて仕方がなかつた。

 晚食後に疊の上に何か落ちてゐたので、觸つて見ると何かの骨であつた。

 「鯛のほねたたみにひろふ夜さむかなはどうぢや。」

 予はさう言つて澄江堂に示した。

 「なるほど、それはうまい!」

 十一時五十幾分だから夜はゆつくりひまがあつた。松村さん一族がお別れに散步いたしませう、來年までおあひできませんからと言つた。澄江子を加へ五人づれであつた。町の中をひと𢌞りした。

 「ことしは何かさびしいやうですね。」

 と、松村さんが言ふ。全く去年とくらべるとそんな氣がした。踏切りから裏通りの別莊の前通りへ出た。風月を樂しむといふ話が出た。テニスコートの通りへ出ると敎會堂からさんびかが起つてゐた。風は秋の十月くらゐの凉しさであつた。

 「お國に入らつしやるとお年を召すやうな氣がいたしませんか?――」

 松村さんがさう言つた。

 「ええ、それは、そんな氣もしますが……」

 散步から歸ると、遲いから見送りをおことわりした。澄江堂と例の應接間に居殘つた。十一時十分過ぎに車が來てみんなに別れた。(十四日、八十度)

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