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カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の741件の記事

2025/05/11

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士山北麓鼠怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号を附加した。]

 

 「富士山北麓鼠怪」 富士郡富士山の北麓にあり。「東鑑」云《いはく》。『治承四年十月二十五日、俣野五郞景久、相駿河國目代橘遠茂カ軍勢、爲ㇾ襲武田一條等源氏ヲ一、赴甲斐國。而昨日及昏黑之間、宿スル富士北麓之處、景久並郞從、所ノㇾ帶スル百餘張ノ弓ノ弦、爲ㇾ鼠被食ヒ切ラ一畢。仍テ失思慮之刻、安田三郞義定、工藤庄司景光、同子息小次郞行光、市川別當行房、聞石橋被ㇾ遂合戰、自甲州發向スル之間、於彼志太山、相景久等、各廻ラシㇾ轡飛矢攻責景久、挑刻、景久等依テㇾ絕ツニ、雖ㇾ取ルト太刀、不ㇾ能禦矢石、多ㇾ之、安田已下之家人等、又不ㇾ免、然而景久令雌伏逐電。云云』。奇と云べし。

 

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、何の注も附していないが、「東鑑」(=「吾妻鏡」)のこの記事、「治承四年十月」とあるのは、「治承四年八月」の誤りである。以下、原本(『國史大系』)と対照し、当日のカットされている頭の箇所を補い(実際には上記の記事の後も続くが、そこはカットした)、また、送り仮名が不全なので、適宜、送り仮名・難読と思われる箇所に読みを添えてオリジナルに訓読する(所持する訓読本二種を参考した)。

   *

小廿五日[やぶちゃん注:治承四年八月。ユリウス暦十一月十四日・グレゴリオ暦換算十一月二十一日。] 乙巳 大庭三郞景親、武衞の前途を塞(ふさ)がんが爲(ため)に、軍兵(ぐんぺう)を分かちて、方々の衢(ちまた)に、關、固(かた)む。

俣野五郞景久、駿河國の目代(もくだい)橘遠茂が軍勢を相具(あひぐ)し、武田・一條等の源氏を襲はんが爲に、甲斐國(かひのくに)に赴く。而るに、昨日、昏黑(こんこく)に及ぶの間、富士北麓に宿するの處、景久幷びに郞從(らうじゆう)、帶(たい)する所の百餘張(ちやう)の弓弦(ゆづる)、鼠の爲に喰ひ切られ畢(をは)んぬ。仍(よ)つて思慮を失ふの刻(きざみ)、安田三郞義定・工藤庄司景光・同子息小次郞行光・市川別當行房、石橋に於いて合戰を遂げらるる事を聞き、甲州より發向の間(あひだ)、波志太山(はしたやま/はしだやま)に於いて景久等に相逢ふ。各(おのおの)、轡(くつわ)を𢌞(めぐ)らし、矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑み戰ひ、刻(とき)を移す。景久等(ら)、弓弦を絕つに依つて、太刀を取ると雖も、矢石(しせき)を禦ぎ能はず。多く、以つて、之れに中(あた)る。安田已下(いか)の家人(けにん)等、又、劔刃(やいば)を免かれず。然れども、景久、雌伏(しふく)せしめて、逐電すと云々。

   *

鎌倉市研究をしている私には、登場人物は孰れも馴染みの人物であるから、注は附さない。悪しからず。何人かは、ウィキの「波志田山合戦」のリンク先で判る。

「波志太山」は前記リンク先でも記されてあるが、比定地が定かでない。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『波志太山』『はしだやま』『山梨県:南都留郡波志太山』『甲斐・駿河国境付近にあった山名。比定地については、現足和田(あしわだ)村と鳴沢(なるさわ)村にまたがる足和田山(一三五五メートル)、現静岡県沼津市の愛鷹(あしたか)山(一一八八メートル)などとする説のほか、波志太山は八朶山で漠然と富士山麓をさすという理解もある。治承四年(一一八〇)八月二五日、石橋(いしばし)山(現神奈川県小田原市)へ向かおうとする安田義定・工藤景光・工藤行光・市川行房らの甲斐源氏と、甲斐に攻め入ろうとした俣野景久・駿河目代橘遠茂軍との戦闘がここで行われ』、『甲斐源氏が勝利している(吾妻鏡)』とある。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士河怪」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。「□」は欠字。但し、底本では、二字の欠字は長方形である。]

 

 「富士河怪《ふじがはのくわい》」 富士郡《ふじのこほり》富士川【富士川の渡瀨は、駿東《すんとうのこほり》・庵原《いはらのこほり》の兩郡に跨るといへども、源《みなもと》、富士郡より出《いづ》、故に當郡に記す。】にあり。

 「明良洪範」云《いはく》、

『神君の姬君を、松平玄蕃頭《げんばのかみ》家淸へ遣《つかは》されし時、平松金次郞某《なにがし》事、御付《いんつき》に仰付《おほせつけ》られ御下りの時、富士川を御渡り有《あり》しに、川中《かはなか》にて、御船《おんふね》、すはりて、動かず。

 船頭、申《まうす》は、

「是は、岩淵《いはぶち》の主《ぬし》の見込《みこみ》し也。是非なき事なれば、銘々、何にても印《しるし》を付《つけ》、川へ投入《なげいれ》、しづみたる物、則《すなはち》、主《ぬし》の見入《みいり》しなれば、一人《ひとり》、入水《じゆすい》有《ある》べし。」

とて、各《おのおの》鼻紙やうの物[やぶちゃん注:鼻紙入れ(江戸時代はこれは財布と同義である)のような物であろう。]を投入《なげいれ》しに、姬君の鼻紙ばかり、沈みしかば、皆々、驚き、

「いかヾはせん。」

と云へ共、船頭は、

「大勢に一人は替《かへ》がたし。」

と申《まうす》。

 姬君の御召物、此度出來《しゆつたい》せし御上召《おんうへめし》、紅縮緬《くれなゐちりめん》なりしを、平松、申請《まうしうけ》、其外《そのほか》、付來《つけきた》りし者共に委細申合《まうしあはせ》、金次郞は御召物を羽織の樣に打《うち》かぶり、船より飛入《とびいる》とひとしく、御船《おんふね》は、動きたる。

 姬には、船より御上り有《あり》しに、其一町計り水下《みなしも》[やぶちゃん注:川下。一町は百九メートル。]にて、紅《くれなゐ》の波、水底《みなそこ》より、はね上りしに、其後《そののち》は見えず成《なり》けり。

 川下にて見し人は、

「暫くは、血の流るゝが如く、見えし。」

と云《いへ》り。

 此《これ》以後、岩淵の主、絕《たえ》て人を取《とる》事なし、とぞ。

 是までは、年每《としごと》に。三人は、きはめて、人を、とり、船を、くつがへしする事多かりしと也《なり》。云云』。

 平松は御譜代の勇士にして、御懇《おんねんごろ》の者也。水中にして彼《かの》怪を討《うち》たる天晴《あつぱれ》の働き、感ずべし、賞すべし。

 「松平主水淸良家記」云《いはく》、

『天正九年、神祖、上意を以て、御同腹の御妹君を玄蕃頭家淸に玉はりて室とす。三州竹谷《たけのや》に入輿《にふよ》、天正十八年十月十七日、逝去、時に二十二歲。法名天桂院殿月窓貞心。相州中島村□□山福巖寺に葬《はふる》、後三州西郡[やぶちゃん注:底本では以上の通り、右寄りで小さい□である。但し、「近世民間異聞怪談集成」では、ここは二字分の通常脱字となっている。]山天桂院に改葬す。入輿《にうよ/こしいり》の月日、並《ならびに》、御名《おんな》知ず《しら》。云云』。

 是を以《もつて》考《かんがふ》るに、富士川難《なん》の事、家淸が許《もと》に入輿の時には、あらざるべし。

 

[やぶちゃん注:主ロケーションは、「富士川の渡し」で、ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、この「姬君」=「天桂院」については、サイト「LocalWiki」の「小田原」の「天桂院の墓」がよい。全文を一部のリンクを生かして引用する。

   《引用開始》

 

天桂院の墓

 

天桂院の墓天桂院の墓(てんけいいんのはか)は、中町の福厳寺境内の墓地にある、徳川家康の妹・天桂院(高瀬君)の墓。天桂院は、天正18年(15901017日、数え年22歳のときに、今井の陣屋(寿町4丁目、今井権現社のあたり)で死去した。曹洞宗の寺院に葬って欲しいとの遺言により、福厳寺に埋葬されたという。法名「天桂院殿月窓貞心大禅定尼」。墓には宝塔が1基あり、五輪塔で高さ約15寸(45cm)。(1)

天桂院は、天正9年(1581)に松平玄蕃頭家清の室となっていたため、その没後、福厳寺は毎年、松平家清の家(19世紀前半の子孫の家は旗本の松平主水清良)から仏供料を贈られ、また自身が東海道を通行するときに参拝を受けていた。毎年の忌日には小田原城主からの代拝もあった。(1)

葬地に関する疑義

『風土記稿』は、松平主水家の系譜には「号天桂院殿月窓貞心大姉、葬所武州八幡山、一寺起立仕、号月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同国西郡へ改葬、右寺も同所に移す、其後慶安二年(1649)、天桂院全栄寺を一箇寺に仕、龍台山天桂院と改」とあるため、武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市児玉町)八幡山に「天桂院」という寺院を建立して葬地とし、のちに三河国に改葬されたと考えられ、福厳寺が葬地とされていることには疑義がある、としている(1)

しかし、福厳寺は19世紀前半に至るまで、松平主水の家や小田原藩主から香奠を受けているので、別に理由があるのだろう、として、国替えの際の旅行中に具合が悪くなるなどして、まだ今井の陣屋が破却されていなかったため、同書にしばらく滞在して養生するなどしたのではないか、と推測している(1)

参考資料

 1.『風土記稿』中島村 福厳寺[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像が視認出来る。]

   《引用終了》

ウィキの「天桂院」によれば(一部のリンクを残した)、『天桂院(てんけいいん、永禄12年(1569年)天正181017日(15901114日))は戦国時代の女性。徳川家康の異父妹。名は於きんの方高瀬君とも』。『久松俊勝の娘で母は於大の方。天正9年(1581年)、竹谷松平家6代当主・松平家清に嫁ぎ』、『松平忠清を産んだ。初め』、『竹谷城(蒲郡市)に住んだが、天正18年(1590年)より家康から竹谷松平家に与えられた武蔵八幡山に住んだ』。『お産のため死去。墓所は福巌寺(小田原市)の他』『蒲郡市』の『天桂院にも墓碑がある』とある。

「明良洪範」江戸中期成立の逸話・見聞集。十六世紀後半から十八世紀初頭までの徳川氏・諸大名その他の武士の言行、事跡等を七百二十余項目で集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?~宝永四(一七〇七)年:俗姓真田)の著。正編二十五巻・続編十五巻。成立年は不詳(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションで(明治四五・大正元(一九一二)年国書刊行会刊)視認でき、当該部はここ(左ページ上段四行目から)。最後のカットされた部分を以下に示す。

   *

右小田原氏の物語りに度々聞し事なり今平松金右衛門と云て主水家の長臣にて此家に右の記錄あり。金次郞兩人の內一人は子孫今に殘れる士は忠臣を第一とすべき事なり

   *]

2025/05/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「人穴の怪」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]

 

  「人穴《ひとあな》の怪《くわい》」  富士郡《ふじのこほり》富士山にあり。人穴と號《なづく》く。

 里人云《いふ》、

「或時、修行者【名を失す。】あり、穀を絕《たた》ん事を誓《ちかひ》て、富士の林間に隱れ、松葉を食して、凡《およそ》三日を過ぐ。

 爰《ここ》に一人《ひとり》の老翁、何國《いづこ》ともなく來て、

「我、住所《すみどころ》に來《きた》れ。」

と、袖を携《たづさへ》て誘《さそひ》、行《ゆく》事、百步計《ばかり》にして、一《ひとつ》の朱門に至る。其《それ》、鮮明、云計《いふばかり》なし。

 又、白沙《はくさ》を行く事、數《す》十町[やぶちゃん注:六掛けで、六・五四五キロメートル。]にして、水晶・珊瑚を以て造れる大殿あり。「欄葉閣」と號《なづ》く。內には雲母《うんも》の扉を儲《まう》け、玉花《ぎよくくわ》の簞[やぶちゃん注:ママ。「ひさご」(瓢箪)ではおかしい。「近世民間異聞怪談集成」では、『簟』とし、「たかむしろ」とする。竹又は葦で編んだ目のあらい筵・莚(むしろ)であるから、それで採る。「玉花の」は「華麗な」の意でとっておく。]を敷けり。

 日《ひ》は南陸《なんりく》に行《ゆき》て暖《あたたか》に[やぶちゃん注:日差しはまるで遙か南の大陸に行ったように暖かで。]、蘭麝《らんじや》の香《かう》[やぶちゃん注:非常によい香り。]は四方に芬芳《ふんぱう》たり。

 又、其《その》東には、金(こがね)の山を疊み、池には瑠璃の砂を敷き、珍魚、躍り、奇鳥、聯《つらな》る。

 其觀《そのくわん》、譬《たとふ》るに、ものなく、心、忙然として、歸らん事を忘る。

 時に、翁、告《つげ》て曰《いはく》、

「汝、此境に居る事、年久しといへども、故鄕、猶《なほ》、忘るべからず、まさに今、送り歸さんとす。其道を敎ゆべし。」

とて、行《ゆく》事、漸《やうや》く十步計り、忽《たちまち》、當國、鹿原《ししはら》と云《おふ》所に出《いで》たり。

 爰《ここ》に於て、今年の支干《えと》を問へば、延寳三年卯の五月也。

 往時、富士山に隱れしは、万治三年子五月某《なにがし》の日也。

 星霜、已に十六年を經《へ》、其間、只、片時《へんじ》に過《すぎ》ざるの思《おもひ》をなせり。

 奇なる哉《かな》、此人穴は、往昔《わうじやく》、將軍賴家卿の命《めい》に依《より》て、仁田四郞忠常《につたしらうただつね》の入《いり》たりし神仙の栖《すむ》穴也。云云」。

 今、猶《なほ》、神仙の瑞《ずい》を現《あらは》す。實《げ》に、本朝無双の名山也。

 

[やぶちゃん注:「人穴」地名としては、富士宮市人穴(グーグル・マップ・データ)。

「鹿原」現在の静岡市清水区宍原(ししはら:グーグル・マップ・データ)であろう。

「延寳三年卯の五月」グレゴリオ暦一六七五年六月二十三日から七月二十二日相当。次も合わせて第四代将軍徳川家綱の治世。

「万治三年子五月某の日」同前で一六六〇年六月八日から七月七日相当。

   *

 さても、最後に示された頼家の命令で仁田忠常が人穴に入った話は、私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郞富士人穴に入る」に詳しいので見られたい。十全なる私の注も附してある。また、同一の作者になると思われる、本篇と酷似した私の電子化注「伽婢子卷之九 下界の仙境」も、是非、読まれんことを、強くお薦めする。挿絵もある。

2025/04/24

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「毒龍受牲」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]

 

 「毒龍受牲《どくりゆう いけにへを うく》」  富士郡□□村[やぶちゃん注:底本では、二字分の長方形。]砂山の下、「牲淵《いけにへぶち》」にあり。里人云《いふ》。

「牲川は、吉田、依田橋川の下流にて、海渚《うみのなぎさ》に近し。又、うるゐ河、吉原川、三《みつ》の流《ながれ》、落《おち》て湊《みなと》となり、川船も往來す。牲淵は吉原砂山の西の方也。此砂山を天の香久山《あまのかぐやま》共《とも》云《いへ》り。吉原川は柏橋と云《いふ》。此川下、三俣と云《いふ》深き淵あり。

 むかし、此河の淵に毒龍ありて、洪水をなし、此鄕民のうちより、少女一人をとりて、牲に備ふ。

 或時、富士の麓、傳法村□□[やぶちゃん注:同前。]山保壽寺【曹】開山・芝源和尙、此事を歎き、牲を備ふるころ、和尙。彼《かの》淵に望み、咒《じゆ》を誦《じゆ》して敎化《きやうげ》し、毒龍の邪害《じやがい》をいましめけり。其夜、美女一人、和尙の許《もと》に來り、

「我は牲川の龍女なり。鄕民を害する事を止む。此後《こののち》は、每年、我を祭《まつり》て誦經し、食物を供せよ。」

と。

 和尙、聞《きき》て、

「善哉《よきかな》、汝、暴惡をひるがへし、善心におもむく。必《かならず》、佛果得脫せん。汝、我を欺《あざむか》ずんば、一《ひとつ》のしるしを殘して、誓《ちかひ》をなせ。」

と。

 時に、龍女、みどりの鱗《うろこ》三箇を殘して去《さり》けり。

 夫《それ》より、此村鄕、洪水の災《わざはひ》なく、牲も止《やみ》ぬ。

 其龍鱗《りゆうりん》、今に、此寺の什物《じふもつ》として、あり。是より、今に至《いたり》て、保壽寺の住僧、每年六月二十八日、此牲川の淵に望み、誦經、供養して供物を備ふ。云云」。

 事は當寺緣起に詳《つまびらか》也【或《あるいは》云《いふ》、「天香久山の麓に、牲池と云《いふ》淵あり。川上は陽明寺より流《ながれ》て、驛道《えきみち》に至る。橋あり、川井橋と云。是《これ》牲川也。云云」。】。

 又、云。

「下總國下河邊庄、古河《こが》より都へ登る「あち」と云《いふ》女《をんな》あり。此宿に泊りけるを、土民、捕へて、牲にせんとす。此事、遠く叡聞に達しけるに、敕命、有《あり》て、牲をとヾめ玉ふ。故に止みけり。云云」。

 又云、

「尾州熱田に住《すめ》る采女《うねめ》と云《いふ》女、貧にして、父母の爲に、其身、財にかへ、此《この》牲となる。時に、天神、彼《かの》采女が孝心を感じ、其身も障《さはり》なく、毒龍をも、失ひ玉ふ。今此川下にある社《やしろ》も、彼女を後に祭る所也。云云」。

 此說、種々あり、何れか是ならん。

 

[やぶちゃん注:まず、ウィキに「三股淵」(みつまたふち)がある。いろいろ書かれてあるが、この本文の伝承、及び、ロケーションとして重要な箇所と思われる部分を引くと(注記号はカットした)、『静岡県富士市に位置する和田川(生贄川)と沼川の合流地点を指す歴史的地名である』。『三股淵は他に「牲淵」「贄淵」「富士の御池」「牲池」「牲渕」「三ッ又」といった表記・呼称がある。三股淵は民間伝承の地であり、大蛇が住んでいるとされた場所で、大蛇に生贄(女子)を捧げる人身御供譚が伝わっている。特徴として、在地の者ではなく』、『旅人が生贄の対象となっている点が挙げられる』。『多くの地誌で言及されている他、歴史の中で能〈生贄〉といった三股淵を舞台とした芸能作品も成立した』。『この三股淵の伝承は主に民俗学の分野で研究対象とされてきた。古くは柳田國男が』明治四四(一九一一)『年の論考の中で能〈生贄〉と六王子神社に触れ、また』昭和二(一九二七)『年の論考にて』、『やはり』、『能〈生贄〉に言及しており、人身御供の考察の中で引き合いに出されている』。『阿字(阿兒)という少女が三股淵の大蛇に捧げる生贄となる伝承が様々な史料に伝わっている。各史料により異同があるが、大筋では共通している』(ここの『→詳細は「阿字神社」を参照』とある)。『例えば』、『駿河国の地誌である『駿河記』には以下のようにある』。『巫女六人、官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす。(中略)其婢阿字と云女これを嘆、里人に暫の暇を乞て皇都に至り、其由を朝に聞す。(中略)これより後永く生贄を取ることを止みぬ。依て里人其得を貴び功を追て、六人の巫女を神に斎祭る』(以上は『『駿河記』巻二十四富士郡巻之一「柏原新田」』に拠る)。『このように、柏原新田の里人が巫女を捕らえ生贄に備えるといった内容が記されている。この場合、阿字は巫女の下女としての立場である。また『田子の古道』には以下のようにある』。『三つ又、皆川上瀬となり水の巻め深き事を知らず。広き淵となりて悪れい住み、年々所の祭りとして人身御供を供えて生贄の□と富士の池と作りこの□の祝言に大日本国駿州富士郡下方の庄鱗蛇の御池にして、生贄の少女を備え、それを奉り作る(中略)又、一説に関東の御神子京都へ七人連れにて登る(中略)七人の神子の内、若き輩なるおあじという神子、御鬮取り当たり人身御供になる。残る六人の神子これより関東に引き帰るとて、柏原村まで来て所詮生きて帰る事を恥じて浮島の池へ身をなげ(中略)その翌日生贄に供えられたるおあじ、富士浅間の神力にて毒蛇しずまる(中略)この六人の事聞きて、これも同身をなげ死す。その時、見付老人この事を聞きて、その神子故に毒蛇しずまり、今よりして所の氏神と祭る。柏原新田、六の神子というこれなり』。(以上は『『田子の古道』天保』一五(一八四四)年『書写「野口脇本陣本」』に拠る)。『この場合、阿字は神子である。神子を氏神として祭った「見付(の)老人」の「見付」は現在の富士市鈴川一帯のことで阿字神社の鎮座地であり、また「柏原新田、六の神子というこれなり」とあるのは六王子神社のことである』(ここに『→詳細は「六王子神社」を参照』とある)。『江戸時代の「駿河国富士山絵図」によると、阿字神社付近を指す地名として「字 生贄」とある』。『三股淵には龍女にまつわる伝承もあり、『駿国雑志』等に記される』(本書のこと)。『あらすじは以下のようなものである』。『あるとき伝法村』『の保寿寺の芝源和尚は、三股淵に毒龍がおり』、『洪水を引き起こし』、『生贄を求めるなどしていたと聞き及んだ。芝源は民を守るため、三股淵で読経しこれを鎮めようとする。その夜、芝源の元に美女が現れ、「我は牲川の龍女なり」と述べる。龍女は続いて、毎年祭りを行い』、『読経し』、『食物を供奉すれば、厄災をもたらさないと述べる。芝源が誓いを求めると、龍女は「みどりの鱗三箇」を残して去った。それより洪水と生贄は止んだという』。『この伝承は保寿寺』(注釈に『『田子の古道』「野口脇本陣本」に「この寺所替して、伝法村の地へ上る。寺跡(中略)五輪石仏捨て残りありて、ここを仏原村という」とある。保寿寺が伝法村に所替し、五輪・石仏が残された寺跡は「仏原村」と呼ばれたとある』とあった)『に伝わる元禄』一五(一七〇二)年『の奥書を持つ縁起書にも記されている他、『田子の古道』に「蛇の鱗、厚原保寿寺の什物となりてあり」とある。同寺の口碑によると、この三股淵の毒龍調伏は徳川家康の命によるものであり、天正』十五(一五八七)年六『月のことであるという』。『津村淙庵『譚海』』(寛政七(一七九五)年跋)『には以下のようにある』として記すが、私は「譚海」を全文電子化注しているので、「譚海 卷之十 駿州富士郡法華寺の住持浮島ケ原いけにゑにて每年七月法事ある事」を見られたい。『また、この功により、家康の命で相模国鎌倉郡海宝院の住寺として之源が召呼されたという』。文化九(一八一二)年『の奥書を持つ相模国の地誌『三浦古尋録』には以下のようにある』。『東照宮ノ御差図ヲ以テ駿州保寿寺ノ之源和尚ヲ住持二召呼シ此寺建立有(中略)此和尚保寿住職ノ節富士川ノ大蛇ヲ化度致サレシヨシ故二保寿寺ノ宝物二大蛇ノ鱗幷蛇牙有ト云』(出典は『『三浦古尋録』中巻「沼間村」』とする)。『このように相模国側の伝承においても、大蛇(龍女)の鱗は保寿寺の宝物とある。また龍女の鱗は保寿寺に』七『片納められており、之源が海宝院の住寺となる際には村民より得た鱗』二『片を持参してきたというが、海宝院のものは伽藍焼失の際に失却したと伝わる。保寿寺の鱗』七『片については、現在も宝物として管理されている』。『三股淵は牲淵と呼称され、また吉原驛や青嶋の地一帯が「生贄郷(池贄)」と称されていたことから、『日本書紀』安閑天皇』二『年』五『月』九『日』の『条に見える「駿河国の稚贄屯倉」との関係性を指摘するものがある。稚贄が転じて生贄となったとして、鈴川(元吉原)を稚贄屯倉の所在地に比定する説がある』とあった。

「依田橋」は現在の静岡県富士市依田橋町(よだばしちょう:グーグル・マップ・データ)であり、ここの西橋を流れる川が、この「牲川」、現在の「和田川」である(「川の名前を調べる地図」)。而して、この地図を拡大すると、田子の浦湾に流れ込む河川名が、本文に出る川名が、悉く、一致するのである。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図を掲げておく。田子の浦港が開拓される以前の原形がよくわかり、ロケーションの附近には、四つの川が合流して、海に流れ込むが、最終的な河口には、東から流れてくる「沼川」(途中で「瀧川」が合流している)の名が示されており、これが主流河川名であったことが判明する。これだけの川が合流する、河口から少し上の附近は、洪水や河川氾濫が起こり易い地形であり、旧和田川交流地点辺りは、まさに「龍」が住む淵として、危険な地域であったことが明確に判るのである。

「保壽寺」富士市伝法ここに現存する。

「天香久山の麓に、牲池と淵あり」「ひなたGIS」の戦前の地図を拡大して見ると、まさに、このロケーションと思われる和田川が沼川に合流した直ぐ下流の右岸(西岸)に辺りに、池を確認出来た。

「陽明寺」不詳。

「川井橋と云。是牲川也」「ひなたGIS」で沼川の方に遡上すると、ここに、左右新旧図に「河合橋」を確認出来る。

「下總國下河邊庄、古河」八潮市立資料館のサイト「八潮の歴史文化ナビ」の「下河辺荘」(しもこうべのしょう)に、『江戸川西岸から古利根川東岸の地域に広がる荘園。その荘域は、八潮市域周辺にあり、幸手市・三郷市を含む埼玉県』『北葛飾郡のほぼ全域と越谷市・春日部市・旧岩槻市(現さいたま市岩槻区)などを含む南埼玉郡の一部、千葉県旧関宿町(現野田市)・野田市の一部、さらに茨城県旧総和町(現古河市)・五霞町及び古河市の一部などにまたがる極めて広大なものと推定される』(太字は私が附した)とあった。古河市はここ(グーグル・マップ・データ)。]

2025/04/17

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「獵師殺鬼」

[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]

 

 「獵師殺鬼《りやうし おにを ころす》」  富士郡内野村足形【枝鄕《えだがう》也。】にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村に次兵衞と云《いふ》獵師あり。

 或夜、庚申待《かうしんまち》とて、內野に行《ゆく》途中、芝川の橋を過《よぎ》る時に、橋上に異形の鬼、立《たて》り。

 其名を問ふに、言《いは》ず。

 次兵衞、深く怪《あやしみ》て、携《たずさへ》る所の鐵炮に、鉄・銅の二たまを込《こめ》て、是をうつに、あやまたず、橋下《はしした》に打落《うちおと》して、家に歸れり。

 鬼、其夜、同郡人穴村《ひとあなむら》の□□山淸岸寺に徃《ゆき》て、住僧に疵藥《きずぐすり》をこへり。

 住僧、熖硝《えんしやう》を竹筒に入《いれ》、火繩を添《そへ》て與へて曰《いはく》、「是を富士の『三つ澤』と云《いふ》所に持行《もちゆき》て、此筒《このつつ》を疵に當《あて》て火を付《つけ》よ。速《すみやか》に愈《いえ》ん。」

と敎《をしへ》たり。

 鬼、欺《だまさ》れて、敎の如くす。

 時に火、疵より、腹中に發し、燒死す。云云」。

「今に鬼骨、此所《このところ》にあり。是より、此橋を「鬼橋《おにばし》」と唱へ、足形者《は》、節分に、豆蒔《まめまき》、せず。鬼打木《おにうちぎ》を出《いだ》さず。

次兵衞が子孫、七郞右衞門と號して、今にあり。云云」。

 

[やぶちゃん注:「内野村足形」現在の静岡県富士宮市内野足形(うつのあしがた:グーグル・マップ・データ)。グーグル・マップ・データ航空写真のここに今も「鬼橋」がある。左の「富士富士宮線の車道のある方が「新鬼橋」(ストリートビュー1)であり、その画像の向こう側に古い元の「鬼橋」があるのである。反対側から撮ったここにその橋にある「鬼橋」の文字を確認出来る(ストリートビュー2)。静岡新聞社の「SBS NES」の『「節分に豆まき…知らなかった」富士山麓に“鬼がいない村” 爆破した⁉から「退治いらない」』の動画附きの記事が、非常によい! 何んと!この橋下には「鬼の足形」とされる岩の凹みがあるのである(動画にもあり。まあ、甌穴ではある)。是非見られたい。実際に、この「足形」地区では、「鬼がいない」から、今も! 節分をしないのである!!!

「庚申待」ウィキの「青面金剛」をもとにしつつ、庚申信仰を概説しておくと、『インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる』。この「三尸」とは道教に由来する人間の体内に潜んでいるとする上尸・中尸・下尸の三匹の虫。これら三匹が六十日に一度巡って来る庚申(かのえさる/こうしん)の日、人が眠りに就くのを見計らって人の体内から抜け出し、天帝にその宿主である人物が六十日の間に成した悪業を総て報告し、その人の寿命を縮めると言い伝えられた(本来の道教には地獄思想はなく、その代わりに悪事を働くとその分プラグマティクに寿命が縮まると考えるのである)ことから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と呼んだ。参考にしたウィキの「三尸」によれば、『日本では平安時代に貴族の間で始まり』、一人では睡魔を堪えるのが難しいなどというのを口実として、村落や町単位で集団でこれを行うことを主目的とした庚申講が江戸時代におおいに盛んとなり、『会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまっ』て、夜通し酒宴を行うという庶民の一大イベントとともなったのであった。

「同郡人穴村」富士宮市人穴(グーグル・マップ・データ)。

「□□山淸岸寺」この寺は現存しないが、先の動画によれば、その跡地とされるものが現存するとあり、その場所も映る。

「富士の『三つ澤』」二つ、考えた。一つは、文字通り「三ッ澤」で、現在の富士市三沢(みつざわ)。「ひなたGIS」でここ。しかし、ここだと、再び、鬼形を経由して行くのが、どうも気になった。そこで、富士宮市で探してみたところ、富士宮市市街から南西位置の富士宮市大鹿窪に三沢寺(さんたくじ:寺名だが、「ひなたGIS」の戦前の地図では地名で出る)とあり、同じくその南東に「三澤」の小字名らしきものが、確認出来た。後者としたい気もするのだが、本文では明らかに「みつざは」で、「富士の」とあるわけで、ちょっと迷うものの、前者に同定しておく。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「大宮神木發煙」

[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。読点・記号を一部に打った。]

 

 「大宮神木發煙」  富士郡富士山大宮淺間《ふじさんおおみやせんげん》境內にあり。傳云《つたへいふ》、「天正七年春、富士大宮の神木老杉《おいすぎ》の梢より、煙立《けふりたつ》事、連日にして止《やま》ず。武田四郞勝賴、吉田守警齋《よしだしゆけいさい》を呼《よび》て、吉凶を占はしむ。守警齋、『不吉。』の由を述《のべ》て、いましむ。勝賴、聞《きか》ず。人、以て、武田家滅亡の前表《ぜんへう》とす。」

 

[やぶちゃん注:このシークエンスは、pip-erekiban氏のブログ「武田勝頼激闘録」の「甲相手切(六)」から、次の「湖畔の巨城(一)」に詳しい。

「富士山大宮淺間」現在の富士山本宮浅間大社の起源となる山宮淺間神社(やまみやせんげんじんじゃ:グーグル・マップ・データ)であろう。富士宮市観光協会公式サイト内のここによれば、一九〇〇『年以上の歴史を誇り、富士山をご神体として祀っています。社殿が存在せず、遙拝所から富士山を臨む参拝形式で、古の富士山信仰を今に伝える神社です。日本武命により』、『この地に移されたともいわれています』とある。

「天正七年」一五七九年。

「吉田守警齋」国立国会図書館デジタルコレクションの『日本秀歌 十二』の「戦国武将歌」(川田順・昭和三二(一九五七)年春秋社刊)のここに、『易の博士とのみ、他は不明』とある。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「雨灰」

[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。読点を一部に打った。]

 

        富  士  郡

 「雨灰」  富士郡《ふじのこほり》富士山下にあり。「續日本紀」云《いはく》、『光仁天皇天應元年秋七月癸亥《みづのとゐ》、駿河國言《まう》、富士山(フモト)、雨(フレ)リㇾ灰之所ㇾ及、木葉、彫萎《ほれ しぼむ》。云云。

 

[やぶちゃん注:「富士郡」当該ウィキによれば、『富士山の名は富士郡から来るという平安前期』九『世紀の詩がある』。『富士郡は歴史的に潤井川』(うるいがわ:ここ。グーグル・マップ・データ)『右岸の富士上方』『と潤井川左岸の富士下方』『とに分けられていた。富士郡の、特に富士上方と称された地域を富士氏が長きにわたって支配し続けていた。また、室町時代後期に今川氏親を後見した伊勢盛時(北条早雲)は富士下方を与えられたが、後に盛時が伊豆国を得て子孫が今川氏より自立して北条氏と称すると、この地域の支配権を巡って今川氏と北条氏の争いの一因となった』とある。

「光仁天皇天應元年秋七月癸亥」七月六日。ユリウス暦七八一年七月三十一日。グレゴリオ暦換算八月四日。これは、恐らく、公式の記録に載る、富士山の小噴火(降灰のみ)を記す最古の記録のようである。

2025/04/12

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「淸見關觀音告凶」

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、記号などもふんだんに用いた。]

 

 「淸見關觀音告凶《きよみがぜきの くわんのん きようを つぐ》」  庵原郡《いはらのこほり》奧津驛淸見關に有り。

 傳云《つたへていふ》、

「某の年、武藏國の住人吉見二郞某、大番に當《あたり》て、其弟男衾三郞《おぶすまさぶらう》某と共に上京す。

 途中、遠江國多賀志山《たがしやま》に於て、山賊と戰ひ、利なくして、二郞、討《う》たる。

 郞等《らうだう》權守《ごんのかみ》家綱、主《あるじ》の首《くび》、幷に、形見の品々を携へ、本國に歸るとて、淸見關に至る時、海中より、觀世音菩薩、出現し、二郞が女《むすめ》、慈悲が身の成行《なりゆき》を告《つげ》給ふ。

 後、果して然り。」。

 「大須磨三郞繪卷物」云《いはく》、

『昔、東海道のすゑに武藏の大介といふ大名あり。其子に吉見二郞・をふすま三郞とて、ゆゝしき二人の兵《つはもの》ありけり。常に聖賢の敎をまもり侍《はべり》ければ、よの兵よりも、花族、榮耀、世にいみじくぞ聞えける。

 吉見の二郞は、色をこのみたる男にて、みやつかへしけるある上﨟女房を迎《むかへ》て、たぐひなく、かしづきたてまつり、田舍の習《ならひ》には、ひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びわをひき、月花《げつくわ》に心をすまして、あかしくらし給ふほどに、なべてならず、うつくしき姬ぎみ、一人いでき給ヘり。

 觀音に申《まうし》たりしかば、やがて、

「『慈悲』と、いはむ。」

とてこそ、なづけ給ける。

 おとなしくなり玉ふまゝに、いとヾなまめき給へり。

 八か國の中に聞及《ききおよび》て、こゝろをかけぬ大名・小名ぞ、なかりける。

 其中に、

「上野(かうづけの)國難波の權守が子息・難波の太郞を、むこに、なさん。」

とて、難波より吉見へ、ふみを、つかはしければ、

「これをば、きらふべきに、あらず。」

とて、陰陽に吉日をみせられければ、占《うら》、申すやう、

「今三年と申《まうす》、八月十一日いぬの時よりこのかた、吉日、見へず候。」

といふに、この樣《やう》を返事したりければ、權守、

「いつまでも、約束、變改あるまじくは」

とぞ、悅びける。

 をふすまの三郞、あにヽは、一樣、かはりたり。【中畧。】

 かくて、八月下旬の頃、吉見二郞兄弟、大番つとめにとて、京上《きやうのぼり》せられけり。

 み川[やぶちゃん注:三河。]の道の山賊ども、七百人、遠江の、たかし山にて、寄合《よりあひ》、

「たから、とらむ。」

とぞ、待《まち》うけたる。

「大勢は、宿々の煩《わづらひ》成《なる》べし。」

とて、をふすまの三郞は、一日、さきだちて、のぼらる。

 山賊どもヽ、聞《きき》おそれてぞ、とをし[やぶちゃん注:ママ。「通(とほ)し」。]たてまつる。

 後陣にさがりて、吉見二郞、一千餘騎にて、のぼり給ふ。【中畧。】

 盜人の張本、尾張國にきこえ候、「へんはいしやうじ」と申《まうす》もの、

「『きみの御寶《おたから》を給はり侯はヾや。』とて、これに候。」

と、いひもはてさせで、吉見郞等《らうだう》權守家綱といふもの、つよくひきとりて、

「これ、ほしがり申《まうす》。たから、とらせん。」

とて、はなつ矢に、「へんはいしやうじ」、くびほね、ゐさせて、たふれにけり。

 やぶれしやうじ[やぶちゃん注:ママ。やぶれし「しやうじ」の脱字であろう。]には、おとりたり。

 其子、二郞太郞、おやを、うたれて、やすからず、

「寶をとりても、なにかはせむ。」

とて、ひきとり、ひきとり、はなつやに、吉見御曹司、よろひのひきあわせ、射《い》ぬかれて、馬より、さかさまに、おち給へば、「うとう太夫」、かたに、ひきかけたてまつりて、坂のしもへぞ、くだりける。

 權守、是を見て、二郞太郞に打合《うちあひ》て、生取《いけどり》にして、くびを、きり、なぎなたのさきにぞ、つらぬきたる。

 ほめぬものこそ、なかりける。

 山賊共も、五百人は、みな、うたれぬ。

 吉見の侍・郞等も、二百餘人はうたれにけり。

 先陣にのぼるを、ふすま三郞のもとへ、早馬、たてたりければ、この事、聞《きき》て、いそぎ、立《たち》かへる。

 吉見二郞、悅《よろこび》て、遺言をぞ、せられける。

「三十六所の所知をば、三郞殿にたてまつる。其中《そのうち》、一所と、吉見の家とは、女房と、ひめとに、たび給へ。正廣・家綱には、中田下鄕《なかたしものがう》を(あ)たふべし。各《おのおの》そ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、これを、たしかに、きけ。姬を、みはなち給ふんなよ。これぞ、この世に、おもひをく[やぶちゃん注:ママ。]事。」

とて、つひに、はかなくなり給ひぬ。

「さてしも、あるべきならねば。」

とて、三郞は京へのぼらる。

 武藏へは、家綱かたみと、くびとを、ひたゝれに、つゝみて、もちつヽ、はせくだりける。

 次の日のくれ程に、するがの國淸見關にぞ、はせつきたる。

 馬より、おりて、しばらくやすむ程に、ひとつのふしぎぞ、いできたる。

 夢ともなく、うつゝともおぼえずして、みぎはより、海の中ヘ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりありて、浪のうへに、觀音の靈像、現じ給ひて、ひたゝれにつゝみたるくびへ、ひかりを、さし給ひて、

「これは、慈悲がなげきのあはれにおぼゆれば、まづ、ふだらく山へ、むかふるなり。」

と、おほせらるヽ、とおもふほどに、程なく、かきけすやふにうせ給ひぬ。

 たのもしさに、悅のなみだをぞ、ながしたる。

 武藏の吉見には、かヽる事とも知《しり》玉はず、夜もすがら、くまなき月をながめて、女房たち、おはしけるに、姬君、のたまふやう、

「すぎぬる夜の夢に、家綱がきたりつるが、左の手に『たか』をすへて、右の手に、かぶとをもちてありつるが、鷹は、そりて、西のかたへ、とびゆき、かぶとは、つちに、おちつる。」

と、のたまへば、母うへ、聞《きき》給ひて、

「弓とりは、『たか』とみゆるは、魂《たましひ》にて、あんなり。かぶとゝみゆるは、頭《かしら》にてあるなるものを、何事のあるべきやらむ。」

と、むねのうちさはぎ給ふほどに、曉がたに、家綱、きたりて、淚をながしつヽ、

「これ、御覽侯へ、御館《おんたち》の、御ありさまよ。」

とて、くびと、かたみとを、椽《えん》に、さしをきて、庭にたふれぬる。

 女房、おさなき人々、なみだにくれて、かなしみ給ふ事、かぎりなし。

 家綱、ありつるありさま、淨見が關の事を申《まうす》にぞ、すこし、なぐさみ給ひける云云。」。

 今、世に一卷を傳へ、中・下の二卷、失《う》す。故に事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「衾三郞」「世界大百科事典」の「男衾三郎絵詞」(おぶすまさぶろうえことば)より引く(コンマは読点に代えた)。『鎌倉時代』、十三『世紀末ころの絵巻。後半を欠く』一『巻が現存するのみで全体の構成はわからないが、観音の霊験譚としてまとめられた恋愛物の一種であったと想定される。物語は、武蔵国で都ぶりの生活を送る吉見二郎と、あえて醜女をめとって武芸のみに生きる男衾三郎という地方武士の兄弟の対比から始まる。観音の申し子である吉見の美しい娘(おそらく主人公)は、父の死後、許婚とも引き離され、男衾のもとで虐待される。その後の物語展開は不明。絵には独特の強い筆癖があり、人物の容貌にも誇張がみられるが、随所に描き込まれた四季の風物によって、画面は趣豊かなものとなっている。画風から』「伊勢新名所歌合繪卷」『と同じ絵師の手になると思われ、鎌倉時代における絵画制作の状況を考えるうえで興味深い。他の物語絵巻に比べ、地方武士の生活を題材としている点で珍しく、史料としても貴重である』とあった。

「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津にある古代から鎌倉中期まであった関所。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が後に記した』「更級日記」『には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが窺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」・「平家物語」『の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み』、『軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』。『設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された』として、第六代鎌倉幕府将軍宗尊親王の「續(しよく)古今和歌集」より、

 忘れずよ淸見が關の浪間より

   かすみて見えしみほの浦松

の一首が掲げられてある。

「多賀志山」恐らくは、本文の周縁の地方名から、栃木県宇都宮市にある古賀志山(こがしやま)のことと思われる。

 なお、以上に注した以外について、これと言ってソースがないので、これまでとする。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「淸見關觀音告凶」

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、記号などもふんだんに用いた。]

 

 「淸見關觀音告凶《きよみがぜきの くわんのん きようを つぐ》」  庵原郡《いはらのこほり》奧津驛淸見關に有り。

 傳云《つたへていふ》、

「某の年、武藏國の住人吉見二郞某、大番に當《あたり》て、其弟男衾三郞《おぶすまさぶらう》某と共に上京す。

 途中、遠江國多賀志山《たがしやま》に於て、山賊と戰ひ、利なくして、二郞、討《う》たる。

 郞等《らうだう》權守《ごんのかみ》家綱、主《あるじ》の首《くび》、幷に、形見の品々を携へ、本國に歸るとて、淸見關に至る時、海中より、觀世音菩薩、出現し、二郞が女《むすめ》、慈悲が身の成行《なりゆき》を告《つげ》給ふ。

 後、果して然り。」。

 「大須磨三郞繪卷物」云《いはく》、

『昔、東海道のすゑに武藏の大介といふ大名あり。其子に吉見二郞・をふすま三郞とて、ゆゝしき二人の兵《つはもの》ありけり。常に聖賢の敎をまもり侍《はべり》ければ、よの兵よりも、花族、榮耀、世にいみじくぞ聞えける。

 吉見の二郞は、色をこのみたる男にて、みやつかへしけるある上﨟女房を迎《むかへ》て、たぐひなく、かしづきたてまつり、田舍の習《ならひ》には、ひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びわをひき、月花《げつくわ》に心をすまして、あかしくらし給ふほどに、なべてならず、うつくしき姬ぎみ、一人いでき給ヘり。

 觀音に申《まうし》たりしかば、やがて、

「『慈悲』と、いはむ。」

とてこそ、なづけ給ける。

 おとなしくなり玉ふまゝに、いとヾなまめき給へり。

 八か國の中に聞及《ききおよび》て、こゝろをかけぬ大名・小名ぞ、なかりける。

 其中に、

「上野(かうづけの)國難波の權守が子息・難波の太郞を、むこに、なさん。」

とて、難波より吉見へ、ふみを、つかはしければ、

「これをば、きらふべきに、あらず。」

とて、陰陽に吉日をみせられければ、占《うら》、申すやう、

「今三年と申《まうす》、八月十一日いぬの時よりこのかた、吉日、見へず候。」

といふに、この樣《やう》を返事したりければ、權守、

「いつまでも、約束、變改あるまじくは」

とぞ、悅びける。

 をふすまの三郞、あにヽは、一樣、かはりたり。【中畧。】

 かくて、八月下旬の頃、吉見二郞兄弟、大番つとめにとて、京上《きやうのぼり》せられけり。

 み川[やぶちゃん注:三河。]の道の山賊ども、七百人、遠江の、たかし山にて、寄合《よりあひ》、

「たから、とらむ。」

とぞ、待《まち》うけたる。

「大勢は、宿々の煩《わづらひ》成《なる》べし。」

とて、をふすまの三郞は、一日、さきだちて、のぼらる。

 山賊どもヽ、聞《きき》おそれてぞ、とをし[やぶちゃん注:ママ。「通(とほ)し」。]たてまつる。

 後陣にさがりて、吉見二郞、一千餘騎にて、のぼり給ふ。【中畧。】

 盜人の張本、尾張國にきこえ候、「へんはいしやうじ」と申《まうす》もの、

「『きみの御寶《おたから》を給はり侯はヾや。』とて、これに候。」

と、いひもはてさせで、吉見郞等《らうだう》權守家綱といふもの、つよくひきとりて、

「これ、ほしがり申《まうす》。たから、とらせん。」

とて、はなつ矢に、「へんはいしやうじ」、くびほね、ゐさせて、たふれにけり。

 やぶれしやうじ[やぶちゃん注:ママ。やぶれし「しやうじ」の脱字であろう。]には、おとりたり。

 其子、二郞太郞、おやを、うたれて、やすからず、

「寶をとりても、なにかはせむ。」

とて、ひきとり、ひきとり、はなつやに、吉見御曹司、よろひのひきあわせ、射《い》ぬかれて、馬より、さかさまに、おち給へば、「うとう太夫」、かたに、ひきかけたてまつりて、坂のしもへぞ、くだりける。

 權守、是を見て、二郞太郞に打合《うちあひ》て、生取《いけどり》にして、くびを、きり、なぎなたのさきにぞ、つらぬきたる。

 ほめぬものこそ、なかりける。

 山賊共も、五百人は、みな、うたれぬ。

 吉見の侍・郞等も、二百餘人はうたれにけり。

 先陣にのぼるを、ふすま三郞のもとへ、早馬、たてたりければ、この事、聞《きき》て、いそぎ、立《たち》かへる。

 吉見二郞、悅《よろこび》て、遺言をぞ、せられける。

「三十六所の所知をば、三郞殿にたてまつる。其中《そのうち》、一所と、吉見の家とは、女房と、ひめとに、たび給へ。正廣・家綱には、中田下鄕《なかたしものがう》を(あ)たふべし。各《おのおの》そ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、これを、たしかに、きけ。姬を、みはなち給ふんなよ。これぞ、この世に、おもひをく[やぶちゃん注:ママ。]事。」

とて、つひに、はかなくなり給ひぬ。

「さてしも、あるべきならねば。」

とて、三郞は京へのぼらる。

 武藏へは、家綱かたみと、くびとを、ひたゝれに、つゝみて、もちつヽ、はせくだりける。

 次の日のくれ程に、するがの國淸見關にぞ、はせつきたる。

 馬より、おりて、しばらくやすむ程に、ひとつのふしぎぞ、いできたる。

 夢ともなく、うつゝともおぼえずして、みぎはより、海の中ヘ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりありて、浪のうへに、觀音の靈像、現じ給ひて、ひたゝれにつゝみたるくびへ、ひかりを、さし給ひて、

「これは、慈悲がなげきのあはれにおぼゆれば、まづ、ふだらく山へ、むかふるなり。」

と、おほせらるヽ、とおもふほどに、程なく、かきけすやふにうせ給ひぬ。

 たのもしさに、悅のなみだをぞ、ながしたる。

 武藏の吉見には、かヽる事とも知《しり》玉はず、夜もすがら、くまなき月をながめて、女房たち、おはしけるに、姬君、のたまふやう、

「すぎぬる夜の夢に、家綱がきたりつるが、左の手に『たか』をすへて、右の手に、かぶとをもちてありつるが、鷹は、そりて、西のかたへ、とびゆき、かぶとは、つちに、おちつる。」

と、のたまへば、母うへ、聞《きき》給ひて、

「弓とりは、『たか』とみゆるは、魂《たましひ》にて、あんなり。かぶとゝみゆるは、頭《かしら》にてあるなるものを、何事のあるべきやらむ。」

と、むねのうちさはぎ給ふほどに、曉がたに、家綱、きたりて、淚をながしつヽ、

「これ、御覽侯へ、御館《おんたち》の、御ありさまよ。」

とて、くびと、かたみとを、椽《えん》に、さしをきて、庭にたふれぬる。

 女房、おさなき人々、なみだにくれて、かなしみ給ふ事、かぎりなし。

 家綱、ありつるありさま、淨見が關の事を申《まうす》にぞ、すこし、なぐさみ給ひける云云。」。

 今、世に一卷を傳へ、中・下の二卷、失《う》す。故に事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「衾三郞」「世界大百科事典」の「男衾三郎絵詞」(おぶすまさぶろうえことば)より引く(コンマは読点に代えた)。『鎌倉時代』、十三『世紀末ころの絵巻。後半を欠く』一『巻が現存するのみで全体の構成はわからないが、観音の霊験譚としてまとめられた恋愛物の一種であったと想定される。物語は、武蔵国で都ぶりの生活を送る吉見二郎と、あえて醜女をめとって武芸のみに生きる男衾三郎という地方武士の兄弟の対比から始まる。観音の申し子である吉見の美しい娘(おそらく主人公)は、父の死後、許婚とも引き離され、男衾のもとで虐待される。その後の物語展開は不明。絵には独特の強い筆癖があり、人物の容貌にも誇張がみられるが、随所に描き込まれた四季の風物によって、画面は趣豊かなものとなっている。画風から』「伊勢新名所歌合繪卷」『と同じ絵師の手になると思われ、鎌倉時代における絵画制作の状況を考えるうえで興味深い。他の物語絵巻に比べ、地方武士の生活を題材としている点で珍しく、史料としても貴重である』とあった。

「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津にある古代から鎌倉中期まであった関所。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が後に記した』「更級日記」『には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが窺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」・「平家物語」『の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み』、『軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』。『設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された』として、第六代鎌倉幕府将軍宗尊親王の「續(しよく)古今和歌集」より、

 忘れずよ淸見が關の浪間より

   かすみて見えしみほの浦松

の一首が掲げられてある。

「多賀志山」恐らくは、本文の周縁の地方名から、栃木県宇都宮市にある古賀志山(こがしやま)のことと思われる。

 なお、以上に注した以外について、これと言ってソースがないので、これまでとする。]

2025/04/05

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「大般若經の奇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。]

 

 「大般若經の奇怪」  庵原郡瀨名村、戶倉社に有り。里人云《いふ》、

「庵原郡龍爪山に『般若沙』と云所、有り。是、推古天皇二十八年四月、『大般若經』、天より降《くだ》りし事、有り。故に此名、有り。或云、『推古天皇十八年、聖德太子、令を傳へ、小野妹子を隋國に遣《やり》り、前生《ぜんせい》に持《じ》する處の「法華經」を求め給ふ。此時、衡山寺に天竺將來の「大般若經」有り。妹子、卽《すなはち》、彼《かの》寺に至り、乞《こひ》得て、歸朝し、太子に奉る。太子、深く尊《たつと》み給ふの餘り、

「帝都近きは失火の災《わざはひ》、計り難し。しかじ、遠境に置《おか》むには。」

とて、此山に納め給ひしを、いつの頃よりか、龍爪山《りゆうさうざん》の南麓、瀨名村の戸倉明神の社《やしろ》に、こめたり。此經は、黃紙《きがみ》に梵字に書《かけ》り。朱塗足付の箱に入《いれ》、二箱、有り。內《うち》に「守護神」と號《なづけ》て、一尺計りの赤き蛇一《ひとつ》、蟠《わだかま》れり。二箱とも、然《しか》り。經箱は、雨に濡《ぬるる》をも厭《いとは》ず、社壇の外に居《す》へたりしが、近頃は社內に納《をさめ》て、見る者、なし。此神社は、古くより、いますにや、今川家再建の棟札《むねふだ》、今に存す。」云云。

佛經の降る事、赤蛇の經を守護する事、共に前代未聞の奇怪と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:この話、どうも、ディグする気が起こらない。以下の注は、お茶濁しである。悪しからず。

「庵原郡瀨名村、戶倉社」現在の静岡市葵区瀬名にある戸倉神社(グーグル・マップ・データ)であろう。「静岡ミステリー倶楽部(シズミク)」のブログに「竜爪山の般若経伝説を追う 【竜爪登山 編】」があり、『竜爪山は昔から山岳信仰、修行の山として有名でした』、『山伏のような人や、それこそ忍者、天狗伝説など、もっぱら“険しい山”として恐れられ親しまれていたのでしょう』とあり、『穂積神社は竜爪権現と言われ、空海が作らせたと思われる経文が発見されていることから、平安時代に建立され現在に至るのではないかと言われています。高野山のように山岳信仰という点からも、空海や真言宗との関わりが深いと考えられています』と続き、『昔から、信仰心が強い人たちが昼夜を問わず行き来していたと言われ、参道(山道)は松明の灯りで灯され続けていたと言われています』、『竜爪山の般若平には』六百『巻の大般若経が舞い落ち、三方に分けて祀られているという伝説があります』とあった。この前のスレに、「竜爪山探索 【概要】」があり、『推古天皇の時代、竜爪山の山頂に大般若経』六百『巻が天から舞い落ちたという伝説があります』。六百『巻の内』二百『巻は般若嶽という場所に、また』二百『巻は竜宮(?)へ納めた後に盗まれ、残りの』二百『巻は戸倉大明神の森に納めたと言われています』。また、『別の説では、般若平という場所に』六百『巻が舞い落ち』、二百『巻は石の祠?棺?に納め、埋めた⇒般若嶽とも言う』。二百『巻は利倉明神社に朱塗りの箱に入れて納めた』。二百『巻はその辺(どの辺?)に寺を立てて納めたが、地域住民が火を焚き煙にして天上に返そうとしたところ、空中で二つに分かれた』とされ、別に、百『巻は北沼上に落ち、そこに寺を立てた(良富院)』、また、百『巻は浅畑北村に落ち、そこに寺を立てた(竜禅寺)』という伝承があることが記されてあった。生憎、後の「般若沙」はなかった。

「龍爪山」以前にも出たが、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「般若沙」修験道絡みなら、「はんにやしや」か。]

2025/04/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「菊女爲祟」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「菊女爲祟《きくぢよ たたりを なす》」  庵原郡高橋村、東の路傍にあり。傳云、「當村の路傍に一小塚あり。上に石の祠を建《たて》て、稻荷を祭れり。里俗、『於菊稻荷』と云《いへ》り【是、菊が鎭守共《とも》、靈を祭る共云也《いふなり》。】。是、往昔、此地往還《わうくわん》たりし時、菊と云《いふ》女《をんな》、和會物《あへもの》【壺なり。】を賣《うり》て渡世とす。或時、旅行の士某、いか成《なる》謂《いはれ》有《あり》てか、菊を殺す。其後《そののち》、菊が靈、旅客に祟りをなす事、止《やま》ず。故に、祭りて、祠《ほこら》を建つ。里人《さとびと》、『あひなんじやう』と號す。諸人、願《ぐわん》を祈るに、和會物を苞《つと》にして賽《まつり》するは、此緣也。今に此所《このところ》を『和會物所《あへものどころ》』と云り。云云」。

 

[やぶちゃん注:「庵原郡高橋村」郡から推して、現在の静岡県静岡市清水区高橋と思われる(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、集落があるものの、周囲は田圃と桑畑である。東海道の内側であるが、近く、また側道の北海道が高橋を横切っている。本文では、「往昔、此地往還たりし時」とあることから、これは、江戸時代より前か、東海道が整備されるごく初期の殺害事件であったと読むべきであろう。但し、現行では、「於菊稻荷」は見当たらず、ネット検索でも、ヒットしない。

「和會物《あへもの》【壺なり。】」「あへもの」は「近世民間異聞怪談集成」のルビに拠ったが、所持する小学館「日本国語大辞典」でもこの「壺」の意味は載らない。識者の御教授を乞う。

「あひなんじやう」不詳。「會難場」か。]

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