フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の481件の記事

2023/08/10

ブログ1,990,000アクセス突破記念 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」始動 /扉・「はしがき」・凡例・「会津の老猿」・「青池の竜」・「青木明神奇話」・「青山妖婆」・「赤鼠」・「秋葉の魔火」・「明屋敷神々楽」・「明屋敷の怪」・「明屋の狸」・「悪気人を追う」・「悪路神の火」・「麻布の異石」・「足長」・「小豆洗」・「小豆はかり」・「油揚取の狐」・「油盗みの火」・「雨面」・「海士の炷さし」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物で、近世の随筆書の中から、見るべき記事を抄出して、主題別に辞典型の体裁を以って配列したもので、「衣食住編」(柴田宵曲編)・「雑芸娯楽編」(朝倉治彦編)・「風土民俗編」(鈴木棠三編)・本「奇談異聞編」・「解題編」(森銑三編)の全五巻が同社から刊行されてある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。但し、総て、本登録をしないと見られない)。

 作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。漢字は新字である(ただ、時に正字を使用している箇所もある)。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 この手の怪奇談を抄録して注や解説を挿入した書は、現在も何冊も刊行されており、私も、五、六冊許り所持するが、この柴田の著作は群を抜いて優れている。現在、流通しているものは、多数の著者・編者によるものが殆んどで、全体のコンセプトが欠いた人間によってディグの深浅にばらつきが多く、中には、凡そ、その本の抄説をする資格が疑わられるような、いい加減なものも多い(私ならもっと魅力的に書けると思うものが半分以上を占める。怪奇談の裾野が浅過ぎるライターが多過ぎ)。それに対し、本書は柴田自身が、一人で作り上げており、余分な解説を極く短く、ストイックに注している点で、画期的なものである。

 踊り字「〱」「〲」は、生理的に受けつけないので、正字化した。但し、読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。但し、各項の読み等で、拗音・促音となっていない(ごく最近まで出版物のルビは読み拗音・促音はそうなっていないのが常識だった。活版印刷の無言の御約束によるもので、写植印刷になって、やっと概ね正しく印字されるようになった。半数近くの人はそれに気づいていなかった。かってに読み替えていたに過ぎない。嘘だと思うなら、十五年以上前のお持ちの本を見て御覧なさい。加工データとした筑摩書房『ちくま文芸文庫』版もそうなってまっせ)ものは、特異的に正しく修正した。また、柴田は( )で原本の割注を入れ、それをややポイント落ちにしているが、これは読み難くなるだけなので、本文と同ポイントとした。

 また、以上のような柴田の編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、一回一項或いは数項程度としたい。但し、今回は初回なので、特別に十九項目を纏めて電子化注した。なお、私は既にブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で、「妖異博物館」・「續妖異博物館」・「俳諧博物誌」・「子規居士」(「評伝 正岡子規」原題)・「俳諧随筆 蕉門の人々」の全電子化等を古くに終わっている。特に「妖異博物館」・「續妖異博物館」の二書は、本「随筆辞典 奇談異聞篇」に対し、「ちょっと何か言って欲しいなぁ」と感ずる向きには、それを満足させてくれる恰好のものとなっているので、未読の方は、是非、お薦めである。

 なお、の後に、以上のシリーズの編者四名の連名に成る「刊行のことば」が掲げられてあるが、必要を認めないので、省略した。

 なお、本記事は、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,990,000アクセスを突破した記念として始動公開する。【二〇二三年八月十日 藪野直史】]

 

 

 随 筆 辞 典

   ④ 奇談・異聞編

     柴 田 宵 曲 編

 

 

東 京 堂

 

[やぶちゃん注:以上は。「東京堂」は囲みがある。

 以下、柴田宵曲の「はしがき」。]

 

 

    は し が き

 

 束寺の門に雨宿りをした日野資朝が、その辺にいる不具者を見て、いずれも一癖あって面白いと思ったが、暫く見ているうちに厭わしくなり、やはり平常なものの方がよろしいと感ずるに至った。資朝は多年桂木を好み、枝ぶりなどの異様に曲析あるものを珍重していたが、これは畢竟不具者を愛するに外ならぬと、帰来鉢桂の木を悉く掘り棄ててしまった、という話がある。奇なるものが一応目をよろこばし、久しきに及んで厭わしくなるのは、奇である以上、何者にも免れぬところであろうか、あるいは皮相の奇にとゞまって、真の奇でない為であろうか。

[やぶちゃん注:「日野資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)は鎌倉末期の公卿・儒学者・茶人。当該ウィキによれば、『中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った』。正和三(一三一四)年、『従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保』二(一三一八)年の『後醍醐天皇即位後も院司として引き続き』、『花園院に仕えていたが』、元亨元(一三二一)年、『後宇多院に代わり』、『親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという』。『花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている』。元亨四年九月十九日(一三二四年十月七日)、『鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが』、『無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)』。元弘元(一三三一)年、『天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した』「元弘の乱」が『起こると、翌』年、『に佐渡で処刑された』とある。以上の話は、「徒然草」の第百五十四段に載る逸話である。

   *

 この人[やぶちゃん注:この前の二段が資朝関連の記事となっている。]、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に[やぶちゃん注:「であって」の意。]、異樣(ことやう)なるを見て、『とりどりに、たぐひなき曲者(くせもの)なり。もつとも愛するに足れり。』と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがて、その興(きやう)、つきて、見にくく、いぶせく覺えければ、『ただ、すなほに珍しからぬ物には、しかず。』と思ひて、歸りて後(のち)、「この間(あひだ)、植木を好みて、異樣に曲折(きよくせつ)あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かの、かたはを、愛するなりけり。」と、興なく覺えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆、掘り捨てられにけり。さもありぬべき事なり。

   *]

 奇談の奇ということも、人により書物によって固より一様ではない。余りに奇に偏し径に傾けば、久しきに及んで、厭にならぬまでも、単調に陥る虞れがないとも云えない。色彩や香気の類にしろ、刺激の強い中に暫くおれば、無感覚に近くなるようなものである。

 江戸時代には奇談と銘打った書物がいくらも出ており、奇談小説と呼ばれる一群の作品もある。随筆の筆者も亦頻りに奇談を録するに力めた。奇趣を欠いた随筆なるものは、他に多くの利用価値があっても、読む場合には索莫を免れぬ。

 本書は主として随筆中の奇談を収めると共に、巷談街説に属する異聞の類をも蒐録した。これは書物の単調化を避けたばかりではない。随筆として闘くべからざる材料だからである。但あまりに話数の多い奇談集――例えば「新著聞集」のような書物は、はじめからこれを採らなかった。これらは仮令「日本随筆大成」に収録されていても、自ら別扱いにすべきものと信ずる。

[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちょもんじゅう)は、寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。]

 本書は随筆による奇談異聞集で、話材の範囲が限られているのみならず、辞典の名にそぐわないという人があるかも知れぬ。俳しこの種の奇談異聞は、随筆中の最も有力なる談柄である。その談柄の豊富なもの、狐狸の如き、天狗の如き、河童の如き、亡霊幽魂の如きは、類聚排列することによって、いさゝか研究の領域に近づくことが出来るであろう。「随筆辞典」の奇談異聞編である本書が、奇談異聞集の随筆編として見られる結果になっても、編者に於いて格別の異議はないのである。

 奇を好み径を談ずるは趣味の正常なるものでないにせよ、人間生活の続く限り、この趣味の絶滅することは先ずあるまい。現代人も常に談柄の奇を求めつつある。たゞその奇の内容が江戸時代と異るだけで、天狗や河童が跳梁跋扈しなくなれば、他の者がその代役を勤める。行燈、蠟燭の世界と、蛍光燈、ネオン・サインの世界とに、同じ奇談が通用すべくもないが、現代に立って汀戸時代を考える場合、乃至汀戸時代の事柄を現代に推し及ぽす場合、これらの奇談が何等かの役に立つことがないとも云えぬ。

 奇談を一歩離れた異聞になると、特にその感が強い。過去と現在とに截然たる区別をつけるのは、現代人の通弊であるが、表面の事柄はともかくも、人間そのものにはそれほどの違いがあるわけではない。今の吾々が経験したり感じたりしているようなことを、存外昔の人も親しく経験したり感じたりしていたのである。それは過去の文芸作品にも現れておるに相違ないが、随筆は筆者の作為の加えられる余地が少ない為に、最も端的に読者に感ぜしむる力を持っているように思う。

 奇談異聞の内容は一目瞭然たるように見えて、細説すればなかなか面倒である。出来るだけ広汎に亘り、興味ある談柄を集める必要があるので、最初は共編にするような話であったのが、中途から編者一人の仕事になってしまった。その結果は御覧の通りで、固より不備を免れぬが、一種の奇談集として存在する位の価値は無いこともあるまい。

 「衣食住編」には原本から種々の挿画を取り入れた。第二部は殊に材料が多かったが、奇談異聞になると、適当なものが見当らない。たまたま挿画のある書物があっても、多くは読本(よみほん)じみていて、辞典に用いるには工合が悪い。清少納言は「絵にかきておとるもの」の中に「物語にめでたしといひたる男女のかたち」を挙げた。由来奇談の妙味は形似《けいじ》[やぶちゃん注:東洋画で、対象の形態を忠実に写すこと。]に現わしがたい辺に存するのだから、その空気は読者の想像に任せるより仕方がない。僅かに入れた挿画は「衣食住編」に用いたのと大差ない程度のものであった。

[やぶちゃん注:以上の清少納言のそれは、言わずもがな「枕草子」の物尽くしの章段の一つで、

   *

 繪に描(か)き劣りするもの。なでしこ。菖蒲(さうぶ/しやうぶ)。櫻。物語にめでたしと言ひたる男(をとこ)、女(をんな)の容貌(かたち)。

   *]

 挿画ばかりではない。引用書目の数も、索引の件数も、「衣食住編」に比してかなり少ないように見える。これは奇談異聞の性質上、どうしても或る随筆に集中され易い傾向のあること、各項が衣食住よりも長いこと、その他の理由に帰すべきであろう。なるべく前巻より見劣りせぬ方がいゝとうが、内容の然らしむるところだから、どうにもならぬのである。

  昭和三十五年十二月

                    柴  田  宵  曲

 

[やぶちゃん注:以下、「凡例」。底本では二段になっていて、「凡例」の上には「目次」があるが、電子化する必要を感じないものであるので、省略した。]

 

     凡   例

 

一、見出し語は現代かなづかいによって五十音順に配列し、そのふりがなも現代かなづかいによった。

一、編者が見出し語の下につけた概要、説明文は現代文により小活字で組んだ。[やぶちゃん注:電子化では、同ポイントで【 】で示した。]

一、引用の文章は原文に従った。その用字については、主として当用漢字、新字体を使用したが、内容の性質上、旧字体、異体字を使用した個所が少なくない。

一、出曲の書名は〔 〕で囲み、原文中に使用された注は(  )に統一した。

一、編者が加えた説明は六ポ活字を用い、〈 〉で囲んだ。[やぶちゃん注:電子化では、上付きにした。]

一、原文の句読点は、おおむね原本のままを踏襲したが、適当でないものについては、編者において改めたところがある。

一、また、読みやすいように仮名を漢字に、漢字を仮名に改めた個所がある。

一、随筆の記述は時に横道に入りすぎることがあるので、本文に関係のないところは時々省略した。その場合は〈略〉として、その旨を明らかにして置いた。

 

 

   随 筆 辞 典   奇談異聞編

 

[やぶちゃん注:以上は本文前標題ページ。]

 

 

        

 

 会津の老猿 【あいづのろうえん】 福島県会津地方の話〔中陵漫録巻五〕余〈佐藤成裕〉先年、奥州会津に在りて、黒沢〈現在の福島県南会津郡朝日村黒沢〉といふ処に至る。其処の山中に至つて大なる猿あり。その猿に従ふ猿二百ばかりありて、皆食を運び与へ、またその猿の居る下の枝に皆在りて、必ずしもその上に登る事なし。これ猿の王たる事しるべし。その猿[やぶちゃん注:「底本「献」。所持する「中陵漫録」(吉川弘文館『随筆大成』版)で訂した。]、常に大なる黒き円き一物を持ちて自ら玩弄す。或人、この山中に来て甚だ怪しみ、鳥銃にてこの猿を打ち落す時は、一の猿来てその一物を持ちて二十間ばかりの処に逃げて行き、その打落されたるを皆驚きて、その弾丸の穴に木の葉を取りてふさぎ、血の出るを恐れて皆驚き見て居るなり。また弾丸をこめてその一物を打殺しければ、この音にて二百余の猿ども、ひらひらと飛びて木に移りて逃げ去る。その一物を取りて来りて見れば、火箸の如く細く曲りて朽ちたる短刀なり。この猿、何(いづれ)よりこれを取り来るや、何の時に持ち居るや。この猿、猿中の王なれば、これを宝物として常に大切にすると見えたり。この猿もこの宝物ある故に、人の怪を容れて命を没す。宝物の身を災する事、多くは是の如し。また賀州〈加賀国の別称〉にて、山中の猿、常に円き一物を持てあるくを見る。或人、鳥銃にて打て見れば、木の葉にて幾重も重ね包みてある。これを破りて見れば、内に鳥銃の弾丸[やぶちゃん注:所持する「中陵漫録」では二字に「タマ」とルビする。]一つありと云ふ。凡そ獣類も人に近き者は、何となく珍しき物なりと思ひて、手に離さずして宝物と思ふなるべし。按ずるに『淵鑑類函』曰く、「瓜哇国[やぶちゃん注:ジャワの漢名。]山多猴。不ㇾ恐ㇾ人。授以果実則其二大猴先至。土人謂之猴王。夫人食畢群猴食其余」。これの猿にも王ある事知るべし。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」佐藤中陵(号。本名が成裕(せいゆう))の随筆。佐藤は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などを経て、弘道館本草教授となった。引用は、少しだけ、カットがある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。

「現在の福島県南会津郡朝日村黒沢」現在は福島県南会津郡只見町(ただみまち)黒沢(グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)。

「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、一七一〇年成立。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[437-2a]及び[437-2b]で電子化されたものと、影印本画像を見ることが出来る。なお、「夫人」は「そのひと」で猿の王を擬人化した表現である。]

 

 青池の竜【あおいけのりゅう】 兵庫県明石市久保田町付近にある青池の竜の話 〔孔雀楼筆記巻一〕享保庚戌ノ秋七月、予<清田儋叟>母氏ニ従テ明石ニユク。城下ノ半里余リ西ニ森田村〈現在の兵庫県明石市大久保町森田〉アリ。西国往還ノ大路ニアリ。右森田村ノ近所ニ、青池トイフ池アリ。道ハタノ右手ニアリ。サノミ大ナル池ニテハナケレドモ、五十余年水涸ルヽコトナシト言ヒ伝フ。ソノ年ノ八月ニ、森田ノ一民、晩ニ畠ヨリ帰リ、カノ池ニテ鍬ヲ洗フ。尺余ノ一蛇アリ。池ヨリ出テ鍬ノ柄ニノボル。払ヒオトスコト二三度、又ノボル。トキニ鍬ヲ取ナホシ、柄ニテ蛇ノ頭ヲウツ。蛇飛テ池ニ入ル。何トヤラン怖(オソロ)シカリケレバ、足ハヤク立帰ル。アヤマタズ疾風黒雲怒雨驚雷コレニ従フ。竜アリ、池中ヨリ起ル。森田ノ農家十三家ヲ、雲中ニ巻上ゲ、二里余西ナル海手ノ、東嶋・西嶋〈現在の兵庫県姫路市内か〉トイフ村ノアタリニテ、空中ヨリ散落ス。コノ夜城下モ雷雨甚シ。予ガ叔父ノ岳翁(シウト)執政間宮氏ト、ソノ隣木崎氏トノ間ニ、一大松樹アリ。雷コノ松ニ震ス。間宮氏ノ長屋ニ使ハル婢女、仆《たふ》レテ気絶ス。翌日カノ池ノアタリニテ、村民竜鱗(タツノウロコ)ヲ拾ヒ得。予モ間宮氏ノ宅ニテコレヲ見ル。六七枚連レリ。一鱗ノ大サ一寸バカリ、八角ニテ色ハ水色ニテ、鱗ハ甚ダ薄シ。表六七枚ニテ、幾クヱモ重ルコト、磨菰蕈(ヒラタケ)・シメジ〈以上担子菌類。食用茸〉ナドノ重リタルガ如シ。竜鱗ナルトナラザルトハ、知ルベカラズ。

[やぶちゃん注:「清田儋叟」(せいたたんそう 享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年)は江戸中期の儒学者。名は絢。儋叟は号で、孔雀楼もその一つ。当該ウィキによれば、『京都の儒学者伊藤竜洲の三男として生まれ、父の本姓清田氏を称した』。『長兄の伊藤錦里、次兄の江村北海とともに秀才の三兄弟として知られた』。『青年期、明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学んだ』。寛延三(一七五〇)年三十一『歳で福井藩に仕えたが、主として京都に住んだ』。始め、『徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じ』、『越前国福井藩儒とな』った。「孔雀楼筆記」は随筆。他に「孔雀楼文集」などがある。「人文学オープンデータ共同利用センター」内の「KuroNetくずし字認識ビューア」のここから原本が視認出来る。

「兵庫県明石市久保田町」「森田」現在の兵庫県明石市大久保町(おおくぼちょう)森田。接して池があり、「雲楽池(くもらいけ)」があるが、それであろう。但し、現行の池は明石市藤江雲楽(ふじえうんらく)に属する。

「二里余西ナル海手ノ、東嶋・西嶋」「〈現在の兵庫県姫路市内か〉」「トイフ村」柴田の推定する「姫路市」では遠過ぎ、「二里余」が全く合わないから違う(最短でも現在の姫路市の海に近い場所の端でも直線で二十キロ以上ある)。それらしい距離の場所を「ひなたGPS」の戦前の地図で探したところ、ここに発見した。地名『島』を中央に配し、東西に『西島』と『東島』の地名を確認出来る。ここは現在の兵庫県高砂市米田町(よねだちょう)島(しま:グーグル・マップ・データ)である。

 

 青木明神奇話【あおきみょうじんきわ】 〔閑田耕筆巻一〕近江坂田郡番場駅(ばんばのうまや)〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉より八丁[やぶちゃん注:約八百七十三メートル。]北に、能登勢村〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉のとせ川あり。『万葉』第三に「さされ浪磯越道(いそこせぢ)なる能登湍(のとせ)川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」といへる所なり。この歌のごとく、今もあまた所に滝落ちていさぎよしと、百如律師(りっし)の話なり。私《わたくし》に案ず。古く近江と註せるを、『代匠記』〈契沖著『万葉集代匠記』〉に大和の巨勢か、又こせぢは越路にて北陸道にや、能登瀬川は能登国にある歟とみゆ。然るに同『万葉集』第十二に、高湍(こせ)なる能登せの川とあるは、古訓たかせとよめれど、こせと読むべしといふ説は従ふべし。今の歌も近江にしては二の句穏かならねば、大和なるべけれど、地景のあへるもまた一奇なり。またこゝを青木の里ともいふ。あふきと称《とな》ふ。「こがらしの風のふけどもちらずして青木の里や常盤なるらん」といふ歌も有り。こゝに青木明神とまうすは、相殿大梵天王、古は大社にて、今も藪村の産土神(うぶすな)となん。因に奇話あり。一とせ請雨せしに、林頭より水気のぼりて、他よりは失火の烟歟とて、見さわぎしほどなりしが、大雨ふりて其あづかる村々のみ潤ひける。その時拝殿に人々会集せし所へ、一尺ばかりの白蛇出たるも不思議なり。また或時、大風にて数十本の樹、倒れながら五十日ばかりをへしかば、幸ひに売らんとせしに、一夜何ともしらず、物音村中にきこえ、明るあした見れば、もとのごとく起直りて、次第に繁茂せりと。回じく百如律師、其ほとりに庵居して、正しき視聴の旨をかたらる。又男資規、その辺りをよく知りて話す。この社の北の方山崖の巌の中より、三尺ばかりの椿二股なるが生ひ出たり。昔よりこの樹此の如しといふ。その二股片枝は枯れ、片枝は繁茂す。年によりてまた枯枝繁茂しかはるなり。その繁るかたにあたれるさとは田作実のり、枯れたるはよからず。としまざきに替ることもあり。二年も続き片枝のみ繁ることも有り。いとふしぎなり。もしこの木全く枯る時は、神この社にいまさじと神詫有りし由、村老はいへりとなん。

[やぶちゃん注:「青木明神」現在の滋賀県米原市能登瀬にある青木神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。

「近江坂田郡番場駅(ばんばのうまや)〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉」現在の滋賀県米原市番場のこの附近

「能登勢村〈現在の滋賀県坂田郡米原町内〉のとせ川」現在の米原市能登瀬。「のとせ川」は不詳。中西進編「万葉集事典」(講談社文庫昭和六〇(一九八五)年刊)によれば、『所在未詳。滋賀県坂田郡近江町能登瀬付近を流れる天野川(あまのがわ)か』とある。前のリンク地図を参照されたい。現在の能登瀬の北の境に沿って流れている。

「さされ浪磯越道(いそこせぢ)なる能登湍(のとせ)川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」波多朝臣小足(はたのあそみをたり)の雑歌(三一四番)。

「百如律師」不詳。

「契沖著『万葉集代匠記』」「まんようだいしょうき」と読む。国学者で「万葉集」の研究で知られる契沖が著した「万葉集」の注釈・研究書。当該ウィキによれば、『「代匠」という語は』「老子」下篇と「文選」第四十六巻の「豪士賦」の『中に出典があり、「本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう」という意味である』ともされる。『当時、水戸徳川家では、主君の光圀の志により』、「万葉集」の諸本を集めて校訂する事業を行っていて、寛文・延宝年間に下河邊長流』(しもこうべ ちょうりゅう/ながる)『が註釈の仕事を託されたが、ほどなくして長流が病』いのため、『この依頼を果たせなくなったので、同好の士である契沖を推挙した』。「代匠記」の着手は天和三(一六八三)年『頃であり、「初稿本」は貞享』四(一六八七)『年頃に、「精選本」は元禄』三(一六九〇)『年に成立した。「初稿本」が完成した後、水戸家によって作られた校本』「詞林采葉抄」が『契沖に貸し与えられ、それらの新しい資料を用いて「初稿本」を改めたのが』、『「精選本」である。「初稿本」は長流の説を引くことが多く、一つの歌に対する契沖の感想や批評がよくあらわれている。純粋に歌の解釈のみを提出し、文献を基礎にして確実であるという点では、「精選本」の方が優れているという』。『「初稿本」は世の中に流布したが、「精選本」は光圀の没後における水戸家の内紛などにより』、『日の目を見ることのないまま水戸家に秘蔵され』、『明治になって刊行された』。「万葉集」『研究としての』本書は、『鎌倉時代の仙覺や』、『元禄期の北村季吟に続いて、画期的な事業と評価されて』おり、『仏典漢籍の莫大な知識を補助に、著者の主観・思想を交えないという註釈と方法が、もっともよく出ている契沖の代表作で、以後の』「万葉集」『研究に大きな影響を与えた』とある。

「こがらしの風のふけどもちらずして青木の里や常盤なるらん」作者不詳で、実に「閑田耕筆」のこの部分に基づいて(推定)、青木神社境内に果歌碑が建てられたが、現在は風化著しく、文字の判読も困難であったため、青木神社を境内地とする後背にある山津照(やまつてる)神社の境内に非常に新しい、この和歌の碑が建っている(サイド・パネル画像)。

「藪村」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、見当たらない。]

 

 青山妖婆【あおやまようば】 〔半日閑話巻十六〕同年〈文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]〉五月青山組屋敷にて、与力滝与一郎と申す者の方にて安産有ㇾ之候処、取揚《とりあげ》ばゞ参り、右赤子を懐(いだ)き明長屋《あきながや》へ走り込み候ゆゑ、直様《ぢきさま》[やぶちゃん注:副詞で「すぐさま・直ちに」の意。]跡追かけ参り候内、また候《ぞろ》取揚ばゞ参り候間、これにて有ㇾ之べくと、縄からげに致し候処、これは実《まこと》の取揚ば’ヽにて、最初のばゞいかなるものや分り兼ね、その内に出火、跡方なしに相成候由。

[やぶちゃん注:「半日閑話」江戸後期の随筆。かの大田蜀山人南畝の著ながら、成立年は未詳。巻冊数も不定である。明和五(一七六八)年から文政五(一八二二)年まで、南畝二十歳から、死の前年の七十四歳に至るまでに見聞した市井の雑事を記したもの。元は二十二冊で「街談録」と称したが、南畝没後、「街談録」以外の南畝の著作や、他家の文を添えた二十五巻本が刊行され、「半日閑話」と改題された。原著「街談録」の部分は江戸の世相風俗資料として高く評価されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。]

 

 赤鼠【あかねずみ】 〔一話一言巻四十八〕延宝七年[やぶちゃん注:一六七九年。]四月ごろ、奥州津軽領<津軽地方>浦人(うらびと)<浦べに住む人>磯山(いそやま)<津軽地方>の頂上に登りて海原(うなばら)を見わたせば、おひたゞしく鰯のより候様に見えければ、猟船をもよほし網を下げ引上げ見れば、下腹白く、頭と脊通りは赤き鼠、億々無量《おくおくみりやう》網にかゝりあがるや、浜地へひきあげ、人々立寄りうちころしたり。その鼠の残りどもことごとく陸へあがり、南部・佐竹領まで逃げちりて、あるひは苗代をあらし、竹の根を喰ひ、あるひは草木の根を掘起し、在家へ入りて一夜のうちに五穀をそこばく費す事、際限なかりし。山中へ入りたる鼠ども、毒草こそありつらめ、一所に五百三百づつ、いやがうへにかさなりて死《しし》てありしとかや。

 近頃下総のシンカイといふ処にて、猟師の網に鼠
 かゝり網を損ぜしといふ。船子のいふに嶋わたり
 の鼠ともいふ。寛政三辛亥年、美濃国大垣〈岐阜県大垣市〉
 に鼠つきて五穀を損せしといふ。戸田采女正殿領
 分なり。

[やぶちゃん注:「一話一言」(いちわいちげん)は大田南畝著の随筆。全五十六巻であったが、六巻は散佚して、現存しない。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いたもので、歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「奥州赤鼠」である。

「磯山」現在の青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)平舘磯山(たいらだていそやま)であろう。

「億々無量」数えきれないほど異様なほど多いことを言っているのであろう。

「下総のシンカイ」現在の千葉県香取市小見川のこの附近は最近まで香取市新開町であったから、この附近であろう。

「寛政三辛亥年」一七九一年。]

 

 秋葉の魔火【あきはのまび】 静岡県秋葉山(あきはさん)付近におこる話 〔耳囊巻三〕駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊びとて、遠州の山上には、夜に入り候へば、時々火燃えて遊行なす事あり。雨など降りける時は、川へ下りて、水上を遊行なす。これを土地の者は、天狗の川狩に出たるとて、殊の外慎みて、戸などをたてける事なる由。如何なる事なるや、御用にて彼地へ至りし者、その外予〈根岸鎮衛《しづもり》〉が召仕ひし遠州の産など、語りしも同じ事なり。

[やぶちゃん注:標題の読みは底本では「あきはのま」だけである。『ちくま文芸文庫』版で補填した。また「秋葉山」のルビ「あきはさん」は底本では『あきわさん』であるのも同前書で訂した。この引用元である名町奉行根岸鎮衛の随筆「耳囊」は、ずっと以前にこちらで全篇の電子化(全訳注附き)を終わっている。当該話は「耳囊 巻之三 秋葉の魔火の事」である。そちらの注と訳を見られたい。]

 

 明屋敷神々楽【あきやしきかみかぐら】 〔享和雑記巻三〕四ツ谷内藤宿〈現在の東京都新宿区内藤町〉の明屋敷守りに五郎蔵といふ者あり。米屋といふにはあらねど、この辺りの御家人の扶持米を舂(つき)て遣る事をもて世を渡れり。五郎蔵が家居は屋敷の主の住み捨てしに入りたれば、軒朽ち草生ひたれど、八畳二タ間に六畳の勝手ありて、屋敷守りの住居には広し。夫婦者にて一人の倅《せがれ》あり。然るにこの節倅疱瘡を煩ひければ、妻はその子を連れて親の方へ逗留に参り、頃日《けいじつ》は五郎蔵一人暮し居たり。亥二月五日は初午《はつうま》に当れり。夜に入り帰り見れば、我家の内に人多く集りたると見えて、絲竹呂律《りよりつ》の拍子を揃へ、さも面白く囃し立て、舞ひ遊ぶ手拍子足拍子の聞えければ、近所の者どもが何方《いづかた》へか初午のはやしに行きたるが、立寄りし事と思ひつゝ、門の戸明けて入り見るに、その音はすれども姿は見えず。こなたかと思へば先の方に聞え、先かと行けば跡になりて聞き留め難し。五郎蔵元来大胆の者なれば、少しも動ぜず、常のごとく休みけるに、夜も明方に至れば、物音も静まりぬ。夜明けて見れば、少しも常に替りたる事なし、これよりして毎夜かくのごとく、音曲の拍子とりどりはやしけるが、日を経て止みしとなり。田舎にては神かぐらと申しならはして、稀にある事の由、狐狸の仕業なるべし。

[やぶちゃん注:初午当日のそれは、逆転層によって離れた場所で行われた祭りの音が、反響したものと考えてよい。その後日も暫く続いたのは、周囲の土蔵などで、初午の音曲・囃子太鼓に触発されて、練習をしたものが響いてきたと考えてよいと思われる。今、すぐには指し示せないが、私の電子化した江戸時代の擬似怪奇談に、そうした、どこからともなく、一定期間、太鼓や囃子が聴こえてくるので、不審に思って調べると、近隣の町人が土蔵の中でそれらの練習をしていたというオチの話が複数あった。例えば、「反古のうらがき 卷之三 化物太鼓の事」である。

「享和雑記」柳川亭(りゅうせんてい)なる人物(詳細事績不詳)になる世間話集。三田村鳶魚校訂・随筆同好会編になる国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第三巻(昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで正字で視認出来る。末尾に、

  神かぐらきねか鼓もうすめよりひく絲竹にこまい[やぶちゃん注:ママ。]一さし

とある。

「四ツ谷内藤宿」「〈現在の東京都新宿区内藤町〉」サイト「nippon.com」の「『四ツ谷内藤新宿』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第52回」に江戸切絵図と現行の地図が並んでいる。現在の新宿一丁目から三丁目及び内藤町(同町は殆んどが新宿御苑内)に相当する。

「頃日」近頃。

「亥二月五日は初午に当れり」干支から、これは享和三年二月五日庚午で、グレゴリオ暦で三月二十七日に相当する。ズレが大きいのは、この年は一月の後に小の月の閏一月があるためである。「初午」この二月初めの午の日を特に指す祭日。稲荷の祭日とされ、稲荷講の行事が行われるが、その習俗は必ずしも稲荷とは関係なく、土地により様々である。この日。初午団子を作り、子供たちが集まって太鼓をたたくことが広く行われる。全国の農村では種々の農事に係わった色々な祭りが行われることから、初午の日は、その年の豊作を予祝する意味の祭りであったと言える(小学館「日本大百科全書」の記事の、中間部にある多くの具体な各地の祭礼法をカットして載せた)。

「呂律」「律呂」とも言い、日本音楽の「律」と「呂」の音。又は広義に十二律・音律・音階・旋法・調子等を指す。現行の「ろれつが回らない」はこの「呂律」の音変化。]

 

 明屋敷の怪【あきやしきのかい】 〔耳囊巻二〕上杉家の下屋鋪や、又上屋敷や、名前も聞きしが忘れたり。近頃の事なりし由、交替の節にや、交代長屋も多く塞がりしに、相応の役格の者、跡より登りて、その役相応の長屋無ㇾ之、一軒相応の明長屋あれども、右長屋住居の者は、色々異変ありて、或は自滅し、又は身分立ち難き事など出来て、退身などするとて、誰も住居せず。主人にも聞きに入り候程の事なり。然るに右某は至つて丈夫なりけるゆゑ、右長屋に住はん事を乞ひければ、その意に任せけるに、さしてあやしき事もなかりしが、或夜壱人の翁出て、見台にて書を見居たる前へ来りて、著座なしけるを、ちらと見けれども、一向に見向きもせず居たりし。飛びも懸らむ体《てい》をなしけるゆゑ、とつて押へ、汝なに者なれば爰には来りしと申しければ、我は此所に年久しく住めるものなり、御身爰にあらば為《ため》あしかりなんと云ひけるゆゑ、大きにあざ笑ひ、我は此長屋、主人より給はりて住居なす、汝はいづ方よりの免《ゆる》しを請けて、住居なすやと申しければ、その答へに差《さし》つまりしや、真平ゆるし給へといふゆゑ、以来心得違ひ致すべからずとて、膝をゆるめければ、かき消して失せぬ。さて日数《ひかず》二三日過ぎて、屋鋪の目付役なる者、両人連れにて来り、主人の仰せを請けて来れり、面会致すべき旨ゆゑ、著用《ちやくよう》を改めその席へ出でければ、かの目付役申しけるは、御自分事何々の不届の筋御聞きに入り、急度(きつと)も仰せ付けられ候へども、自分存念を以て、覚悟の儀は勝手次第の段、申渡しければ、委細の仰せ渡しの趣《おもむき》、畏《かしこま》り奉り候。用意の内暫時御控へ下さるべき旨申述べ、勝手へ入りて召仕(めしつかひ)へ申付け、近辺住居のものを急に呼び寄せ、密かにかの目付役を覗《のぞ》かせしに、一向見覚えざるものの由ゆゑ、さこそ有るべきと、召仕どもへも申し含め、棒その外を持たせ、立ち忍ばせ、さて座敷へ出て、仰せ渡しの趣畏り奉り候間、切腹も致すべく候へども、得《とく》と相考へ候へば、一向御尋ねの趣、身に覚えなき事なり、委細その筋へ申立て候上、兎も角も致すべく、然る処我等は御在所より出《いで》て、各〻様をも御見知り申さず、御屋鋪内何方《いづかた》に住居有ㇾ之、何年勤められ候やなどと尋ねければ、我等主人の仰せ渡されを以て、申渡しに罷り越し候、余事の答へに及ばざる趣申しける故、さあるべしと思ひて、当屋鋪案内の者も呼び置きたり、全く紛れ者ゆるさじと、刀に手をかけければ、両人ともうろたへて逃出《にげだ》せしを、抜打《ぬきうち》に切りければ、手を負ひながら、形ちを顕はし逃げ去りしが、供のものをも中間など棒を以てたゝき倒しけるが、これもほうほう逃げ去りける。この後はたえて右長屋に怪異絶えけるとなり。

[やぶちゃん注:「耳囊巻二」とあり、『ちくま文芸文庫』版もママだが、私の全篇電子化(訳注附き)では、「巻二」ではなく、「巻九」であり、標題も「上杉家明長屋怪異の事」となっている。但し、「耳囊」には写本の異本(不全本を含む)がかなりあり、その中には、話柄の位置が全く異なっているものがある。そういえば、本文中の表記の中に、極めて若干ながら、相違があり、後の「耳囊」でも巻の違いがあることから、そのせいであろう。

 

 明屋の狸【あきやのたぬき】 〔譚海巻十〕寛政六年、寺社御奉行某殿にて儒者を召抱へられけるが、下屋敷に長屋を玉ひありけるに、老人なりければ御講義仕り、深更に御下屋敷まで罷り帰り候事、何とも難儀仕り候間、いかなる御長屋にても、御下屋敷まで罷り帰り候事、何とも難儀仕り候間いかなる御長屋にても御上屋敷に下され、移住仕りたき由願ひければ、長屋穿鑿ありけるが、みなみな住みて一向明長屋なく、只壱軒明長屋あれども、これは怪異ある長屋なれば、これまで住居する人なく、合羽籠など入れ置く所となし有ㇾ之よし、主人もいかゞと申されけれども、この儒者、私事妻子も御座なく候間、いかやうにても苦しからず段、達(たつ)て願ひければ、その長屋を玉ひ、修覆掃除して移りけるに、その夜より老人一人来り、隣舎に住む者のよしにて物語りしけるが、この老人殊の外珍しき事を覚え居て、往々天正頃の事など物がたりなどせしかば、儒者も興ある事に覚えて、怪異なるものをも忘れ、よき友を得たる心地して、親しくかたらふ事半年ばかりありしが、ある夜この老人来りて申しけるは、これまではつつみ居り候へども、我等事まことは人間にはあらず、年久しくこの屋敷に住居致す狸にて、かやうに御心安く罷り成り候が、我等事命数尽きて、近日に相果て候間、もはや参る事もあるまじくと申し候へば、儒者大きに驚き、そのわけを問ひければ、前年までは御台所にも、食物余計落ちすたり候も有ㇾ之て、それをたべ候て存命致し候が、所々近年御倹約つよく相成、左様なる給物も少く相成、食事とぽしきゆゑか、次第に気力も衰へて、病身に罷り成り候と申す。儒者それは気の毒なる事なり、さやうの義ならば、我等一飯をわけて遣はすべし、何とぞ存命いたす事相成申すべくや、或ひは医療等にても生き延び相成る事ならば、又いかやうにも致し遣はし申すべしと云ひければ、老人とかくさやうの事にて助かる事に候はず、全く命数尽る所なれば致方なく、是非なき事に候と申す。儒者聞て、それほどに決定《けつぢやう》したる事ならば、何ともしかたなき事とおもはれたり、然しながらこれまで懇意せし報いに、何ぞ好物のものあらば振舞ひたしといへば、千万かたじけなし、さやうならば餅を何とぞ御振舞ひ下さるべく、明夜《みやうや》参るべし、ただし明夜は有りふれたる形にて参るべし、かやうに人の体《てい》をなしてまゐる事は、われらもはなはだ窮屈なる事なるうへ、もはや気力も尽き候間、人のかたちになる事も大儀に候間、明夜参りたらば、かならずこれ迄の挨拶に仰せられ候ては、甚だめいわく仕り候よしをいひて帰りける。さて翌日の夜餅を才覚して、土間にさし置きければ、その夜九つ<午前〇時>過《すぎ》、はたして縁の下より、痩せ衰ろへ、毛も落ち、とゞろなる狸一疋出て、この餅を喰(くら)ひけるが、度々噎咳《いつがい》して漸くに喰ひをはり、また縁の下ヘ入りける。その後は絶えて見えず。右の趣、儒者主人へも申上ければ、奇怪不便なる事なり、定めてその死骸あるべし、とぶらひ葬りて遣はすべしとて、縁の下をはじめ諸所尋ねさせられけれども、一向その死骸はみえざりしといへり。

[やぶちゃん注:本篇は私のブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で、先般、この注のために、「譚海 卷之十 某御奉行長屋住居の儒者に狸物語の事」(以上が正式標題)として、電子化注してフライング公開しておいたので、そちらを見られたい。]

 

 悪気人を追う【あくきひとをおう】 〔耳囊巻二〕下谷立花〈東京都台東区内〉の屋鋪の最寄りに、少しの町有り。其所の者なる由、目黒の不動を信じ、度々参詣なし、ある時七つ時<午前四時>に出宅をすべきに、刻限早く八つ<二時>に起き出で、参詣せんと日本橋通りをまかりしに、漸く七つなれば、それより段々歩行(あるき)参り、芝口に定式《ぢやうしき》に休みなどなせる、信楽(しがらき)といへる水茶屋有り。しかるに日本橋寄りに候や、跡よりざわざわと音してつき来る者あり。ふり帰り見れば、縄やうのもの附き来り候故、早足に歩行(あるけ)ば早く追ひ、立どまればかの縄様のものも止りし故、我足又裾に糸などありて、右へからまり来るやと改め見れど、更になし。何とやら心持あしき故、急ぎて右の信楽の茶屋に立寄り、いまだ夜深故、町屋もいまだ戸をあけざれど、水茶屋は朝立ちの客を心がけ、燈など見ゆる故、歓びて立寄りければ、今日はさてさて早く出給ふと、家内にても挨拶して、茶など煮て給《たべ》させけるゆゑ、刻限をとり違へし事など咄して暫く休み、いまだ夜も明けざれど、門口の戸を見けるに、やはり附き来りし縄やうのもの、門口にありける故、内へ入り門口を〆めて、いまだ夜も明けず、気分あしき故、暫く廓(みせ)に休みたき由断り、枕など借り請けて、描になり居しが、程なく夜も明け、往来もあるゆゑ、起出て帰りにこそよるべきとて、目黒へ参詣し、身の上をも祈り、それより彼所にも尋ぬる所ありて立寄り、支度などして、夕方になつて帰り懸け、かの信楽が方を見しに、表を立て忌中の札ある故、今朝迄もかゝる事なかりしと、その辺にて聞合せければ、いかなる事にや、右茶屋の亭主首縊り相果てけると云ひしに、我身の災難を明王の加護にて逃れけるや、右縄の追ひ来るを、始めは蛇と思ひしが、縄に悪気の籠りてしたひ来りしやと、我友のもとヘ来りて語りぬ。

[やぶちゃん注:同前で、古くに電子化(訳注附き)してあるので(「耳嚢 巻之九 惡氣人を追ふ事」)、そちらを見られたい。やはり、私の底本では、「巻九」であった。]

 

 悪路神の火【あくろじんのひ】 〔閑窻瑣談巻三〕伊勢国紀州御領の内にて、田丸領間弓村〈現在の三重県度会郡玉城町田丸か〉の唐子谷といふ所に、猪草(いくさ)が淵といふ大難所あり。常の道路巾十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかりの川あり。その河に杉丸太を渡して往来とせり。この丸太橋の高サ水際より十間余有り。これを渡る時は甚だ危く、怖しき事言語に絶えたり。橋の下は青々たる水の面、その底を知らず。この辺山蛭《やまびる》といふ蟲多く、手足に取付きて人を悩ます。寔(まこと)に下品の地にして、男女の形状見分けがたき程の所なり。この地に生れて他へ出ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。またこの辺に悪路神の火と号(なづ)けて、雨夜には殊に多く燃えて、挑灯のごとくに往来す。この火に行合ふ者は、速かに俯(うつむき)に伏して身を縮む。その時火はその人を通路するなり。火の通り過ぐるを待ちて逃げ出す。然《さ》も為《せ》ざる時は、彼《かの》火に近付きて忽ちに病《やまひ》を発し、煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名医、採薬の為に経歴して彼地にいたり、眼前に見聞し、帰府の後、諸国の奇事を上書せし『採薬記』にあり。

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらで挿絵入りで正字で視認出来る。しかし、これ、二〇一七年一月に『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』の本文に訳で紹介されており、その私の注で、各個、注しており、さらに同原文を電子化し、吉川弘文館『随筆大成』版の挿絵も公開しているので、そちらを見るのが、手っ取り早くてよろしいかと存ずる。

 

 麻布の異石【あざぶのいせき】 〔兎園小説第十二集〕『春秋伝』に、石の物いひし事を載せて、神霊の憑りたるよしを論ぜり。古来その例多ければ、今贅するに及ばず。抑〻余〈大郷信斎〉が住める麻布の地に、見聞せし異石五種あり。その一は、秋月家の園中に三尺ばかりなる寒山拾得の石像、いつのころにや、行夜の卒の蹤より慕ひ来けるを、斬り払ひけりとて、その瘢痕(きずあと)を存す。その二は、長谷寺の内に五六尺ばかりなる夜叉神の石像、緇素(しそ)の諸願をかくるに、その験多し。これも件の園中に在りしに、長谷の住持、霊夢によりて爰に移すといふ。その三は、山崎家の邸内の陰陽石、これを結の神に比して、その願を聞くとぞ。その四は、五嶋家の門前大路の中央に、径尺余の頑石凸起してあり。道普請の礙(さは)りなりとて掘りけるに、その根、金輪際までも入りたりとて、元の如く捨て置きぬ。往来の人、塩を手向けて足の願をかくる事、半蔵御門内の石に同じ。その五は、森川家の別㙒《べつしよ》[やぶちゃん注:別荘。]に、二尺余なる鳥帽子形の石に、日月の形顕れ出でたる有り。件の園丁茂左衛門といふ者、霊夢によりて、その郷里越後国頸城郡吉城村の畠より得たりといふ。目出たき石と申すべきか。〈『海録巻十三』に同様の文章がある〉

[やぶちゃん注:私は昨年末、曲亭馬琴の「兎園小説」を巻頭する膨大なそれの、総ての電子化注をブログ・カテゴリ「兎園小説」で完遂している。ここに出るのは、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 麻布の異石』である。そちらを見られたい。

「海録」近世後期の江戸の町人(江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子)で随筆家・雑学者山崎美成が研究・執筆活動の傍ら、文政三(一八二〇)年六月から天保八(一八三七)年二月までの十八年間に亙って書き続けた、考証随筆。難解な語句や俚諺について、古典籍を援用し、解釈を下し、また、当時の街談・巷説・奇聞・異観を書き留め、詳しい考証を加え、その項目は千七百余条に及ぶ。彼は優れた考証家であり、「兎園会」の一人でもあったが、物言いが倨傲で、遂に年上の曲亭馬琴から絶交されたことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正四(一九一五)年刊)のここの「五七麻布の五石」がそれ。]

 

 足長【あしなが】 〔甲子夜話巻廿八〕『三才図会』云ふ。「長脚国在赤水東、其国与長臂国近、其人常負長臂人、入ㇾ海捕ㇾ魚、蓋長臂人身如中人、而臂長二丈」と。これ長脚国の脚長は云はざれども、長臂を負ひ、入ㇾ海て捕ㇾ魚とあれば、長脚の長も二丈ばかりなること、知るべし。平戸城の西北二里ばかりに神崎山《こうざきやま》あり。その海辺に晴夜《せいや》、海、穩《おだやか》なるとき、或人、小舟に乗り、汀《みぎは》より、六、七十間を去《さり》て、釣を垂る。この中一士人あり。ふと海浜を顧れば、何ものか來て炬《たいまつ》をかゝげて、蜘蹰(ちちゆう)する者あり。よく視るに、腰上は常人に異ならざれども、足の長さ九尺許り、士人、その怪状に駭(おどろ)く。従者云ふ、これ、足長と呼ぶものにて、この物出《いづ》れば、必ず天気変るなり。遄(すみやか)にこの処を退かんと云ふゆゑ、そのとき天に一点の雲なし。いかで変ずることあらんやと言ひながら、舟を返して十余丁も漕行《こぎゆき》し頃、黒雲忽ち起り、雨驟《しき》りなれば、城下に歸ることを得ずして、その辺に泊す。然るに、少間にして雨歇《や》み空霽れたりと。この足長も妖怪にこそあれ、天地間の一物なれば、長脚国のあるも、虛語《そらごと》にあらじ。

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「甲子夜話」で事前に「甲子夜話卷之二十六 6 平戶の海邊にて脚長を見る事」をフライング公開(オリジナル注附きで、「三才図会」の「長脚國人」と「長臂人」も添えてある)しておいたので、参照されたい。]

 

 小豆洗【あずきあらい】 〔耳囊巻一〕内藤宿〈現在の東京都新宿区内藤町〉に、小笠原鎌太郎といへる、小身の御旗本あり。かの家の流し元にて、小豆洗ひといへる怪あり。時として小豆をあらふ如き音しきりなれば、立出て見るに、さらにその物なし。常になれば、強てあやしむ事なし。年を経る蟇(ひきがへる)の業《わざ》なりと聞きしと、人の語りしが、その傍に有りし人、外にもその事ありと、親しく聞きしが、是れひきの怪なりといひき。〔江戸塵拾巻五〕 元飯田町もちの木坂の下、間部伊左衛門といふ者宅にて、夜更におよび玄関前にて小豆を洗ふ音する事つねの事、人音《ひとおと》すれば止む。其所に行きて見るに異《こと》なる事なし。その音によつて名づく。

  この事入谷田圃にもむかし有りとぞ。加藤出雲守
  殿下屋敷の前の小橋を小豆橋といふ。

〔譚海巻八〕 むじなはともすれば、小豆洗ひ・絲くりなどする事有り。小豆洗ひは渓谷の間にて音するなり。絲くりは樹のうつぼの中にて音すれど、聞く人十町廿町行きても、其音耳を離れず、同じ事に聞ゆるなり。 〔裏見寒話追加〕古府新紺屋町<山梨県甲府市内にあり>より愛宕町へ掛けたる土橋有り。その下は富士川なり。此処を鶏鳴の頃通るに、橋下にて小豆を洗ふ音聞ゆといへり。また畳町の橋の下も斯の如しと云ふ。

[やぶちゃん注:「耳囊巻一」同前で私の底本では「耳嚢 巻之八 小笠原鎌太郞屋敷蟇の怪の事」である。

「江戸塵拾」(えどちりひろい)は江戸市中で見聞した奇物や怪異を集めた随筆。著者は蘭室主人だが、詳細事績は不明である。所持する『燕石十種』第五巻(昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊)の朝倉治彦氏の同書に就いての「後記」によれば、同書には五巻本が収録されているが、元は二巻本であったらしい。二巻本の成書は明和四(一七六七)年八月と考えられており、それを改稿し、若干の増補をしたものが、五巻本と推測されておられる。そこで朝倉氏は、著者について、『二巻本では「東本願寺におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、有馬家の儒臣山北某なるもの」となっている』ことから、『想像して、著者は、有馬家の、あるいは有馬家と関係のある人ではあるまいか』と添えておられる。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(岩本佐七編・明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで正字で確認出来る。標題は「小豆老女」である。

「元飯田町もちの木坂の下」個人サイトらしい「Discover 江戸旧蹟を歩く」の「○中坂・九段坂・冬青木坂」で確認出来る。最後の「冬青木坂」が「もちのきざか」と読む。坂は、現在の千代田区九段北一丁目・飯田橋一丁目・富士見一丁目で、ここ。「もちの木」は双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra で、「黐の木」で、樹皮から鳥黐(とりもち)を作ることが出来ることから和名の由来となった。

「〔譚海巻八〕 むじなはともすれば、小豆洗ひ……」は、事前に当該部を含む、それなりに長い「譚海 卷之八 諸獸の論幷獵犬の事」を、同前カテゴリでフライング公開しておいた。標題は「諸獸の論幷」(ならびに)「獵犬の事」のごく一節である。

「裏見寒話」(うらみのかんわ)は宝暦二(一七五二)年に甲府勤番士野田成方(しげかた)が書いた甲府地誌。その「追加」の冒頭は「怪談」。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページの「○小豆洗の怪異」がそれ。

「古府新紺屋町」「山梨県甲府市内」山梨県甲府市元紺屋町か。

 なお、妖怪・怪異現象としての「小豆洗い」は『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ』が最もディグされた論考であろう。]

 

 小豆はかり【あずきはかり】 〔怪談老の杖巻三〕麻布近所の事なり。弐百俵余程取りて、大番《おほばん》勤むる士あり。この宅にはむかしより化物ありと云ひけり。主人もさのみ隠されざりしにや、ある友だち化物の事を尋ねければ、さして怪しきといふ程の事にもあらず、我等幼少より折ふしある事にて、宿にては馴れつこになりて、誰もあやしむものなしといひけるにぞ、咄しの種に見たきものなりと望みければ、やすき事なり、来りて一夜も泊り給へ、さりながら何事もなきときもあるなり、四五日寢給はゞ、見はづし給ふまじと云ひけるにぞ、好事《かうず》の人にてやありけん、幾日なりとも参るべしとて、其夜行きて寢《い》ぬ。この間(ま)なりといふ処に、主人とふたり寢《ね》て話しけるが、さるにてもいかなる化物にやと、ゆかしき事かぎりなし。主に尋ぬれば、まづだまりて見たまへ、さはがしき夜には出《いで》ずと、息をつめて聞き居《を》りければ、天井の上どしどしとふむ様なる音しけり。すはやと聞き居《をり》ければ、はらりはらりと、小豆をまく様なる音しけり。あの音かと、聞きければ、亭主うなづき小声になりて、あれなり、まだ段々芸あり、だまつて見給へといひければ、夜著《よぎ》をかぶり息をつめて居けるに、かの小豆の音段々に高くなりて、後は壱斗程の小豆を、天井の上ヘはかる様なる体《てい》にて、間《ま》ありてまたはらはらとなる事、しばらくの間にてやみぬ。また聞きければ庭なる路次下駄《ろしげた》、からりからりと、飛石のなる音して、水手鉢《てうづばち》の水さつさつとかける音しけり。人やすると、障子をあけて見ければ、人もなきに竜頭《りゆうづ》のくびひねりて水こぼれ、また水出《いで》やむにぞ、客人も驚きて、さてさて御影にてはじめて化物を見たり、もはやこはき事はなしやといひければ、この通りなり、外になにもこはき事なし、時々上より土・紙くずなどおとす事あり、何も悪しき事はせずといはれける。其後語り伝へて、心やすきものは皆聞きたりけれども、習ひきゝてはよその者さへこはく[やぶちゃん注:ママ。]もおもしろくもなかりけり。ましてその家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。しかれどもかの士一生妻女なく、男世帯《をとこじよたい》にて暮されけり。妾《めかけ》ひとり、外《そと》にかこひおき、男女の子三人ありけり。女などのある家ならば、かく人もしらぬ様にはあるべからず。いろいろの尾ひれをつけていひふらすべし。世の怪談とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて猫の尾をさぐりあて、または鼠に額(ひたひ)をなでられなどして、云ひふらす咄し多し。この小豆はかりは何のわざといふ事をしらず。

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は既に古いブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注してある。当該話は「卷之三 小豆ばかりといふ化物」で「はかり」は「ばかり」である。恐らくは「計(ばか)り」ではなく、「量(はか)り」であることを、柴田は示したかったのであろう。]

 

 油揚取の狐【あぶらげとり[やぶちゃん注:ママ。]のきつね】 〔裏見寒話追加〕光沢寺境内の藪は、代官町〈現在の山梨県甲府市内〉ヘ抜けて行く横道なり。この道を油揚豆腐を持て通るに忽ち失ふ。商人なども度々取らるゝと。こはこの藪に狐あり。此の如き径をなすといヘり。その後小川某といふ人、鉄砲にて打留めし已来はこの妖なしと。

[やぶちゃん注:既出の国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの右ページの「○油揚取の狐」がそれ。]

 

 油盗みの火【あぶらぬすみのひ】 〔諸国里人談〕河内国平岡〈大阪府枚岡市内〉に雨夜に一尺ばかりの火の王、近郷に飛行す。相伝ふ、昔一人の姥あり。平岡社の神燈の油を夜毎に盗む。死して後燐火となると云々。さいつころ姥火に逢ふ者あり。かの火飛び来て面前に落つる。俯して倒れて潛かに見れば、鶏のごとくの鳥なり。嘴を叩く音あり。忽ちに去る。遠く見れば円なる火なり。これまつたく鵁鶄(ごゐさぎ)なりと云ふ。近江国大津〈滋賀県大津市〉の八町に、玉のごとくの火、竪横に飛行《ひぎやう》す。雨中にはかならずあり。土人の云ふ、むかし志賀の里に油を売るものあり。夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死して魂魄、炎となりて、迷ひの火、今に消えずとなり。また叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因縁右に同じ。七条朱雀の道元が火、皆この類(たぐ)ひなり。これ諸国に多くあり。

[やぶちゃん注:これは別個に立項されてあるものをカップリングしたものであって、連続したものでもなく、やりかたとしては、極めて変則的。二話の因縁から、同義性を私は認めないので、柴田の勝手な合成は恣意的に過ぎ、肯んずることは出来ない。「諸国里人談」は全篇をブログ・カテゴリ「怪奇談集」で電子化注している。以上は、「諸國里人談卷之三 姥火」と、その四項も後の「諸國里人談卷之三 油盗火」を勝手に合体したものであり、怪奇談蒐集家の私としては、許すことの出来ない鷺、基! 詐欺的仕儀である。]

 

 雨面【あまおもて】 〔思出草紙巻二〕御使番丹羽五左衛門、ひととせ御目付代として難波に登り、御役屋敷住居の折、南都順見として彼地に至りつゝ所々順見ありしに、この地はさすが旧跡の地にして、古き寺社名所旧跡多し。これに依て、諸所の霊仏霊宝等残らず開帳なすを、先例にて順見なしけり。東大寺の霊宝など多き中に、楽《がく》の面有りて、何にても出す時は、雨降らずといふ事なし。依て雨面となづけたるなり。案内の翁がいはく、今日は雨面御覧有るべし、極めて雨降るべしとの時に、その日は空はれわたりて、一点の雲もなし。丹羽五左衛門、心の内に不思議の事をいふものかな、何ぞこの日和に雨ふる事あらんと思ひながら、彼方此方順見して、已に昼時すぎ、東大寺に至らんとするに、一天俄かにくもり白日をおほひ、風するどに吹落ちて雨ふり出し、長柄の傘に雨をしのぎ、彼寺に至りてこの面を見るに、凌王《りやうわう》の古きにや。その赤きが所々まだらにはげて、古き事幾年へだたりけん。殊勝の面なり。寺僧も雨の降る事、奇妙なるを物語り、順見すぎて寺を出て、二三町も過ぎたる頃は、元の晴天となれり。奇なる事に覚えしとかや。それ不思議なるを感ずるの余りに、丹羽は何卒彼面の写しをしたゝめ呉れよとて、役僧まで頼み紙面を遺はす所に、程経て写しを差越《さしおこ》したり。よき画師《ゑし》にうつさしめたりと見えて、かの正面《せいめん》に少しも違はず。その彩色、現に見るに等しく、写しと更に思はれず。謝礼の目録なぞ遣はしぬとかや。役果て帰府なしけるに、上野に知行所有りしが、夏の炎天数日つゞき田畑も枯れそんじ、大きに難儀の訴ヘ有りし時、ふと心に思ひ出し、かの面の写しの軸ものとなせしをつかはして、この軸ものに向つてきねんさせよ、雨降るべきぞと云ひ遣はしたりしかば、程なく知行所より、かの雨面の写しを返済する飛脚来りて、注進していはく、御借給はる一軸を本尊として、有験《うげん》の僧を頼み、雨乞の祈念なしたるに、忽ち雨降り出し、田畑も潤沢なして愁ひをのがれたりしが、爰に不思議なる事は、御知行所の村境まで仕切りたる如く雨ふりて、他領は一向雨も降り候はずと訴ヘぬるとかや。奇妙なる事も有りしものなりとて丹羽氏の直談なり。今はなき人の数に入りて、今子孫の代なり。

[やぶちゃん注:「思出草紙」全十巻の奇談随筆。自序に『牛門西偶東隨舍誌』とあるが江戸牛込に住む以外の事績は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字で視認出来る。標題は「○南都の雨面」である。]

 

 海士の炷さし【あまのたきさし】 〔屠竜工随筆〕九鬼殿の家老何某は在所にて大嵐の翌日海士《あま》の集り流木を拾ひて焚火してあたりたるに、その辺りゑもいはれざるかうばしき香の薫り渡りければ、人々その香を尋ねて浜に行きたるに、伽羅《きやら》の大木を火にくべてあたり居たるを、急ぎ海の潮をかけてしめし、領主にも公(おほやけ)にも奉る故に、件《くだん》の伽羅をあまの炷さしといふとなん。然るに『日本紀』にこれに似たる事あり。二事自然と合《あひ》たるにや。

[やぶちゃん注:「屠竜工随筆」江戸後期の随筆。作者は江戸中期の俳人小栗旨原(おぎりしげん 享保一〇(一七二五)年~安永七(一七七八)年)。江戸生まれ。清水超波に学び。服部嵐雪の句を纏めた「玄峰集」、榎本其角の付句を集大成した「続五元集」などを編集した。別号に其川・伽羅庵・百万(坊)・天府庵・元斎など。句集に「風月集」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「日本古典籍ビューア」の「日本古典籍データセット(国文研所蔵)」のここで、写本の当該部が視認出来る。

「『日本紀』にこれに似たる事あり」「大阪市立科学館」の雑誌『月刊うちゅう』のこちらに(二〇一二年六月号第二十九巻・PDF)の科学館学芸員小野昌弘氏の記事に、『日本書紀二十二巻には、推古天皇3年(西暦595年)に淡路島に沈香が流れ着いたという記載があり、島民たちは、それをただの流木と思い、薪として火にくべたが、とても良い香りがしたので朝廷に届けたとのことです。このとき流れ着いたのが約1mもある沈香だそうで、とても大きい物です』とあった。]

 

2023/08/05

怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 巻之五 龍恠撫育の恩を感し老嫗を免る話 / 怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附~完遂

[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。漢文部は返り点のみ附して示し、後に〔 〕で、訓点に従って書き下し文を載せた。

 また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 標題の「撫育」は、「常に気を配り、大切に育てること。愛し養うこと。撫養」の意。「免(たすく)る」は、若干、当て訓気味。

 なお、本篇を以って「怪異前席夜話」は終わっている。]

 

 怪異前席夜話  五

 

怪異前席夜話巻之五

   〇龍恠(れうかい[やぶちゃん注:ママ。])撫育(ぶいく)の恩を感し[やぶちゃん注:ママ。]老嫗(らうう)を免(たすく)る話

 近きころの事になむ。

 上州赤城山のふもとの民、六人、山に入《いり》て、薬(くすり)を採《とり》て、歸る事を忘れしか、咽(のんど)のかわきける故、谷水を飮(のま)んに、此處、松柏(しやうはく)、悉く、生繁(おひしけ[やぶちゃん注:ママ。])り、人倫(じんりん)通ふべき道もなく、靑苔(せいたい)滑(なめらに)、巖(いはほ)をつゝみ、遙(はるか)に、水の流るゝ声(こへ[やぶちゃん注:ママ。])を聞(きゝ)て、諸人(しよ《にん》)、これを慕ひて、谷に下《くだ》るに、果して、澗水(じゆんすい[やぶちゃん注:ママ。「澗」の音は「カン・ケン」で「ジユン」の音はない。「潤」を「澗」(谷)と誤ったものであろう。])あり。その淸くして鑑(かゝみ[やぶちゃん注:ママ。])のことき[やぶちゃん注:ママ。]、砂礫(されき)、磊砢(うずたかく[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:音「ライラ」で、石などが重なり合っているさまを言う。歴史的仮名遣は「うづたかく」が正しい。]して、洞徹(すきとほり)、玉《ぎよく》のことく[やぶちゃん注:ママ。]、武陵桃源(ぶれう[やぶちゃん注:ママ。「りよう」でよい。]とうげん)の仙境も、かゝる所なりけんや、しらず。

[やぶちゃん注:「武陵桃源」知られた陶淵明の「桃花源記」に見える架空の地で、中国の晋の時代に、湖南武陵の桃の林の奥に乱を避けていた人々がおり、その人たちは時代の移ったのも知らずに暮らしていたという故事による成句で、「世間とかけ離れた平和な別天地・桃源・桃源郷」の意。]

 水を掬(くみ)て、飮(のま)んとするに、よくよく見れば、水底(みなそこ)に、その色、深黑(まつくろ)にして、光澤ある、細きもの、幾縷(いくすじ[やぶちゃん注:ママ。])といふ數(かず)をしらず、長くつらなる事、縷(いと)のことく[やぶちゃん注:ママ。]、山の腰をめぐりて、漂ひ流る。

「浮萍(うきくさ)か、水藻(も[やぶちゃん注:二字へのルビ。])のたくひにや。」

と、一人、手を延抓(のへ[やぶちゃん注:ママ。]つま)んとするに、忽(たちまち)、縮(ちゞ)んて[やぶちゃん注:ママ。]、手に上(のぼ)らず。

『怪しき事。』

に、おもひ、われも、われもと、手を出《いだ》し、取(とら)んとするに隨ひ、漸々(ぜんぜん)に縮《ちぢ》み、恰(あたか)も、水上(みなかみ)に、人、ありて、是を引(ひく)に似たり。

 いよいよ、不審、是にしたかひ[やぶちゃん注:ママ。]、岸に、つたひて、上流(みなかみ)に行(ゆき)、見れは[やぶちゃん注:ママ。]、いと窕ゝ(たをやか)なる女《をんな》の、うつふしに、伏《ふし》て、髮を澗水《たにみづ》に、あらひ居《をり》けるか[やぶちゃん注:ママ。]、その髮の、なかき[やぶちゃん注:ママ。]事、二丈ばかりも有(ある)へき[やぶちゃん注:ママ。]を、双手に綰(わがた)め[やぶちゃん注:「綰」は「わがぬ」と読み、「細長いものを曲げて輪にする」の意。「ため」は動詞「たむ」で「矯む・揉む・撓む」で、「曲がっているものを伸ばしたり、まっすぐなものを曲げたりして、形を整える。また、曲げて、ある形をつくる」の意。されば、畳語である。]、水をしぼり、

「ずつく」[やぶちゃん注:ママ。擬態語「すつく」。]

と、立《たち》て、人々を見、

「呵々(からから)」

と笑ふ声、山谷に響きたり。

 

Ru1

 

[やぶちゃん注:底本の大型画像はこちら。]

 

 年のころは、凡《およそ》十八、九斗《ばかり》、芙蓉の顏(かんばせ)、遠山(えんさん)の眉、閉花羞月(へいくわしうげつ)の色(いろ)、綽約(うるはし)く[やぶちゃん注:「綽約」「しやくやく(しゃくやく)」で、「姿がしなやかで優しいさま。たおやかなさま」の意。]、蘭姿蕙質(らんしけいしつ)[やぶちゃん注:「蕙」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科 Orchidaceaeの多年草で園芸植物・薬用植物であるセッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連       シラン属シラン Bletilla striataの異名。]の艷(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])婀娜(たをやか)なりしかは[やぶちゃん注:ママ。]、人々、大(おほき)におとろき[やぶちゃん注:ママ。]怖れ、

「あら。怪(けし)からずの髮の長さよ。人間にては、よもあらし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、肌粟毛起(みのけをたてゝ[やぶちゃん注:四字への当て訓。])、戰慄(ふるひ)、わなゝき、舊(もと)來りし路へ、迯(にげ)んとするに、夕霧(《ゆふ》ぎり)、四方に立掩(《たち》おゝ[やぶちゃん注:ママ。])ひて、咫尺(しせき)の間《かん》も、弁(わきま)へかたく、女の姿は、乍(たちま)ち、消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])しか[やぶちゃん注:ママ。]、日、すでに、晚(くれ)におよひ[やぶちゃん注:ママ。]、山谷《さんこく》、黑闇(くらやみ)と成《なり》、木ずゑに嵐(あらし)の声、喧(さは)ぎ、猿・梟の叫ぶのみす。

 六人は茫然として、痴(ち)なるかことく[やぶちゃん注:総てママ。]、醉(ゑい[やぶちゃん注:ママ。])たるかことく[やぶちゃん注:総てママ。]、澗(たに)の邊(ほとり)に立居《たちをり》けるが、遙(はるか)の谷に、火の光り、いと小(ちいさ)く見えたるは、

「樵夫(きこり)・仙人の夜嵐《よあらし》を防く[やぶちゃん注:ママ。]、燒火(たきび)にや。」

と、少しく、力を得て、是を的(めあて)に行《ゆき》、見れば、一間(《いつ》けん)の茅屋(かやや)、壁、落(おち)て、𨻶(ひま)洩(も)る爐裏(いろり)の火影(ほかけ[やぶちゃん注:ママ。])也。

 兎(と)やかくするうち、

「夜も更(ふけ)ぬらん。こよひは、爰(こゝ)に居寄(いより[やぶちゃん注:ママ。])て明(あか)し、明《あけ》なば、出行《いでゆき》て、道を尋(たづね)ん。」

と、皆々、簑戶(すと)、おしあけて、

「山みちに迷ひたる我々、止宿させたまわれ[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふに、内にて、

「いとやすき事なり。入《いり》たまへ。」

と答ふ。

 人々、心、定(おちつき)て、即ち、うちに入《いり》、見れば、一人の老嫗(はゞ[やぶちゃん注:ママ。])、頭(かしら)は、三冬(さんとう)[やぶちゃん注:旧暦の冬三カ月。他に「三年分の冬」の意もあるが、以下の「九秋」(旧暦秋の三カ月。大まかに九十日間)との対句から前者であろう。]の雪(ゆき)積り、齒は九秋の木(こ)の葉(は)と落(おち)たるが、爐(ろ)の側(かたはら)にて、紡績(をうみ)居《い》たり。みなみな、爐邊(ろへん)にあかり[やぶちゃん注:ママ。]て坐し、

「腹、いとう饑(うへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。何そ[やぶちゃん注:ママ。]食すべきものは、なしや。」

と問《とふ》に、

「山家(さんか)なれは[やぶちゃん注:ママ。]、何も侍らず。爰に、粟(くり)の、少し、はべる。これにても、やきて、食したまへ。」

とさし出せは[やぶちゃん注:ママ。]

「日本一のものなり。」

とて、打寄(うちより)て、爐に對(たい)し、食ふ。

 此時、嫗か[やぶちゃん注:ママ。]うしろにて、

「呵々。」

と、うち笑ふ声、いと高く響きける。

 人々、驚き、仰顏(あわむき)て、見れば、女の顏色、姝麗(うるはしき)か[やぶちゃん注:ママ。]、手に、なかき[やぶちゃん注:ママ。]髮を綰(わか[やぶちゃん注:ママ。])め、立《たち》たる姿、さきにみしに、少しも替らず。

「偖(さて)は、妖恠(ようくわい)の棲(すみか)に來りしよ。」

と、遽驚(あわて)まとひ[やぶちゃん注:ママ。]て、立噪(《たち》さわ)く[やぶちゃん注:ママ。]に、

嫗、制して、云《いふ》。

「客人は、わか[やぶちゃん注:ママ。]女(むすめ)の、人にまさりて、髮の多く生延(おひのび)たるを、『怪し』とばし思すらめ。[やぶちゃん注:「し」は強意の間投助詞。]彼(かれ)、全く、妖恠變化の類(るい[やぶちゃん注:ママ。])にもあらず。事、なかくは侍るか[やぶちゃん注:総てママ。「長くは侍るが」。]、嫗(うは[やぶちゃん注:ママ。])か[やぶちゃん注:ママ。]罪障懺侮(ざいしやうさんけ[やぶちゃん注:ママ。「さんげ」が正しい。])の爲、語りて聞《きか》せ申《まうす》べし。

 抑(そもそも)、姥は、此山の、ふもとの里に住(すみ)はべるものなるが、わかき時より、寡婦(やもめ)にして、一子、なく、身の行すゑの、心ほそく、やるかたなき折から、一日流(なかれ[やぶちゃん注:ママ。])の水に臨んて[やぶちゃん注:ママ。]、衣(ころも)を、あらい[やぶちゃん注:ママ。]ける時、しきりに、咽(のんど)、かわきし故、水を掬(すく)ひのむにおよんで、白き漦(あわ)[やぶちゃん注:「泡」。この漢字には「流れる・したたる」の他に、「よだれ。あわ。特に、竜の口から吐く唾(つば)」意がある。]のありしが、俄(にはか)に、腹、痛みて、難義せしまゝに、頭を挙(あげ)て見れば、木梢に、二ツの蛇(へび)、縄のことく[やぶちゃん注:ママ。]に相《あひ》まとひ、各々、口より涎沫(よだれ)を吐(はき)、流水(りう《すい》)に滴(したゞ)りて、漦(あわ)のことく[やぶちゃん注:ママ。]に見ゆ。

『此水を吞(のみ)しこそ、誤(あやまり)なれ。定《さだめ》て死すべき。』

と思ヘと[やぶちゃん注:ママ。]、せん方なく家に歸りて打臥ぬ。しかるに、身、恙(つゝか[やぶちゃん注:ママ。])なくして、是より、鬼胎(きたい)を懷(はら)み、十月(とつき)、滿(みち)て、此女(むすめ)を產む。生れし時より、髮、長さ、一尺ばかり有し《あり》。

『希有の者といひ、殊に、父なくして生れしかは[やぶちゃん注:ママ。]、野にや捨なん、殺(ころし)やせん。』

と、おもへども、さすがに可怜(ふびん)にも、おもひつゝ、また、

『我(われ)、一子を欲(ほつ)する心の、切(せつ)なる故、佛神の與へ給ひしにや。然らば、行すゑ、賴(たの)し[やぶちゃん注:ママ。送りは「み」の誤りか。]あり。』

と、恥を忍んで、取挙(おりあげ)、育てたりしに、里の古老の語りしは、

「『相兒経(さうしけい)[やぶちゃん注:ママ。]』といふ書に、『凡そ、孩兒(がいじ)の早行(はやくゆ)き、早く坐(ざ)し、はやく齒(は)生《おひ》し、はやく語るは、皆、𢙣種(あくしゆ)。』[やぶちゃん注:「𢙣」は「惡」の異体字。]とは見えたれども、早く髮の延(のび)る事、見えず。また、宋の邵康節(せうかうせつ)といふ人は、生れし時より、髮、なかかり[やぶちゃん注:ママ。]つと、きけり。漢の高祖の母は、大澤(《だい》たく)の陂(つゝみ)にて、龍の交(ましへ[やぶちゃん注:ママ。])るを夢(ゆめみ)、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]高祖を孕(はら)むといへり。かゝる奇瑞(めてたき[やぶちゃん注:ママ。])の例(ためし)あれば、父なしとて、慚(はづ)べからず。後(のち)には、王侯・貴人(きにん)の配匹(きたのかた)ともなるべき小兒ならめ。」[やぶちゃん注:「相兒経」晋の厳𦔳(げんじよ)の「孩兒」(=幼児)の身体上の特徴や性質によってその生の長短が記された一種の占い本。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、元末から明初の学者・文人であった陶宗儀が現在は散佚された物の多い漢籍を集めた叢書『説郛』の正巻第一〇九巻PDF一括版)の、55コマ目から視認出来る。老人の言う内容は56コマ目の右丁最後に載る。「邵康節」(一〇一一年~一〇七七年)は北宋の哲学者的儒者。名は雍。李之才から河図・洛書・図書先天象数の教授を受け、数(すう)による神秘的宇宙観や自然哲学を説き、二程(程顥(ていけい)と程頤(ていこう)の兄弟学者)及び朱熹に影響を与えた。著に「観物篇」「皇極経世書」「伊川撃壌集」などがある。]

と、いひたるか[やぶちゃん注:ママ。]、果して、長(ひとゝ)なるにしたかひ[やぶちゃん注:ママ。]、容貌、數百人(すひやく《にん》)にまさり、針線(はりしこと[やぶちゃん注:ママ。])蠺織(はたをり)の女紅(わざ)[やぶちゃん注:「ぢよこう(じょこう)」で「女功」とも書き、「女性の手仕事、機織り・裁縫など」を指す古くからある漢語。]なと[やぶちゃん注:ママ。]をも、自然と、衆(しゆう)に、こへたり。

 されども、里人、髮のなかき[やぶちゃん注:ママ。]を、あやしみ、誰(たれ)、娶(めと)らんと、いふ者、なく、却(かへつ)て、人類(じんるい[やぶちゃん注:ママ。])にあらざるやうに罵(のゝし)り、耳かしましきまゝに、評する事のうたてさに、里に住《ゆく》事も能わずして、此山中に引(ひき)こもり、母子、ついに、木の実を食して、五穀を食((はま)ず、すでに、三とせの月日を送り侍る。

 かゝる恠しきもの語りも、嫗(うば)か[やぶちゃん注:ママ。]すく世の業身(ごういん)[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。「業因」で「ごふいん」。]、果(はた)さんための、さんけ[やぶちゃん注:ママ。]と聞(きゝ)給わる[やぶちゃん注:ママ。]べし。」

と、こまこま[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。]と、かたる。

 人々、面《おもて》を見合《みあは》せ、

「世に、奇異なる事も候ものかな。」

と、嵯嘆(さたん)、息(やま)ず。

 かくて、物語に、夜も、ふけぬ。

「いざ、息(やすま)ん。」

と、六人は、爐邊に匍匐(はらばひ)、臂(ひぢ)を曲(まげ)て、枕とし、卧(ふし)ぬ。

 嫗は、心を付《つけ》て、「せめては、透間(すき《ま》)の風なん、避(さけ)給ふべし。」

と、筵(むしろ)もて張(はり)たる屛風を、枕もとに引𢌞(ひきまは)し、女を倡(いさな[やぶちゃん注:ママ。])ひ、奧の方に、ふしぬ。

 かくて、六人のうち、五人は、よく寐入(ねいり)、一人、いまだ目合(めあわせず[やぶちゃん注:ママ。])して居《をり》ける所に、かの屛風の上に、

「ひらひら」

と、したるもの、見えて、面《おもて》に觸(さわ)る。

 かの一人、異(あやし)みて、爐(ろ)の焚(たき)すてたる火影(ほかけ[やぶちゃん注:ママ。])にて、よく見れは[やぶちゃん注:ママ。]、長き髮の毛、蛇(じや)の蜿蜒(うねる)ことく[やぶちゃん注:ママ。]、屛風を越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])來りて、一人の咽杭(のどぶへ[やぶちゃん注:ママ。])を纏(まと)ひたり。

『こは恠(けしから)ず。』

と思へとも[やぶちゃん注:ママ。]、惣身《そうしん》、麻木(しびれ)て、声、出《いで》ねば、足にて、その人を躡(ふむ)に、恰(あたか)も死せる者のことく[やぶちゃん注:ママ。]にて、少しも動かす[やぶちゃん注:ママ。]。[やぶちゃん注:「麻木(しびれ)て」この作者、かな漢語の知識が豊富なようだ。「麻木」は現代中国語でも生きており、「マァームゥー」と発音し、「(長時間に亙る外部からの刺激や疾患によって、一部又は全部の知覚が失われて)麻痺する・しびれる・無感覚になる」の意だからである。]

 然るに、また、一※(いつは)の髮毛《かみのけ》、來りて、次に卧たる人の、咽(のど)を卷(まき)かくして、五※の髮毛、だんだんに、出《いで》て、五人を纏ひ、五人少しも、息をなさず示(しめ)[やぶちゃん注:ママ。「絞め」。]、少しも動かず。[やぶちゃん注:「※」は、「髪」の字の下方の「友」の代わりに「巴」を置いた字体。一つの束になった長い髪の毛のことらしい。後の「※」も総て同じ。]

 最後に、一※の髮毛、來り、目さめし男の頭《かしら》のうへに、近づくと見えたりしに、今は、耐(たま)りかねて、飛《とび》おき、外面(そとも)へ、はしり出《いで》る所に、かの髮、蜿蜒(ゑんゑん[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。「ゑんえん」が正しい。])と延《のび》て、蛇行(じやこう[やぶちゃん注:ママ。])し、あとより逐(おつ)て、戶の外に出《いづ》る。彼(かの)男、いよいよ、慌(あわ)てゝ、命をかきり[やぶちゃん注:ママ。]に、はしりたるに、折しも、朦朧(おぼろ)の月影、木(こ)かくれに、ほのめき見へ、山間(《やま》あひ)に、一とすじ[やぶちゃん注:ママ。]、路(みち)、ありけれは[やぶちゃん注:ママ。]、足にまかせて、逃行(にけゆく[やぶちゃん注:ママ。])ほどに、路程(《みち》ぼど)、凡《およそ》、幾里(いくり)を過(すき[やぶちゃん注:ママ。])けるをしらず、ようよう、大路《おほぢ》に出《いで》けるに、鷄(にはとり)犬(いぬ)の声、はるかに聞《きこ》へ、

『人里(《じん》りん)、あり。』

と覚へ、少しく、蘇醒(そせい)の心地(こゝち)せり。

 すでにして、夜も明けれは[やぶちゃん注:ママ。]、山中を出《いで》、はなれて、野、あり。

 側(かたはら)に祠(ほこら)のことき[やぶちゃん注:ママ。]立《たつ》るありしかは[やぶちゃん注:ママ。]

『爰に入《いり》て、やすまん。』

と、する所へ、一人の老翁(らうおう[やぶちゃん注:ママ。])、裏(うち)より出《いで》、そのけしきの愴慌(あわて)たるを、あやしみ、詰(なし)り[やぶちゃん注:ママ。「なじり」。]問《とふ》。

 男、そのとき、夕(ゆふべ)の次㐧(しだい)を物語り、

「五人の同伴(なかま)、今は、定(さだめ)て、死しぬらん。」

と、淚を落して云《いふ》。

 老翁、聞《きき》て、眉を顰(ひそ)め、

「われも、久しく、かの女か[やぶちゃん注:ママ。]事、聞《きき》ぬ。其母なるもの、もと、此邑(むら)の寡婦(やもめ)なり。かれ、交龍(こうれう[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。「蛟龍」で「かうりゆう」が正しい。])の精汁(せいじう[やぶちゃん注:ママ。「せいじふ」が正しい。])を吞(のむ)によつて、鬼孕(きよう)を受(うけ)、その生(うめ)る子、卽ち、人身《じんしん》にあらず。假(かり)に人胎(じんたい)に投(とう)する[やぶちゃん注:ママ。]のみにして、一奌(《いつ》てん)も、人の精氣を受(うけ)されは[やぶちゃん注:総てママ。]、その全身、龍にして、漢祖・邵康節の類(るい[やぶちゃん注:ママ。])とは、日を同じうして語るべからず。いはんや、漢祖誕生の奇瑞、皆、一時、人心(じんしん)を釣(つる)の虛妄(きよまう)。あに龍種(れうしゆ[やぶちゃん注:ママ。])人となるの理(り)あらんや。かの嫗か[やぶちゃん注:ママ。]生《うめ》る女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])、即時(そくじ)、龍とならずして、假(かり)に、女と化(くわ)するものは、雲雨(うんう)のときを待(まち)て、いまだ、飛升(ひしやう)せず。且(かつ)は、十月(とつき)の間《あひだ》》、胎中(たいちう)にあたゝめらるゝ恩を報ぜん爲に、猶、老嫗(うば)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を捨去るに、しのびずして、あるのみ。」[やぶちゃん注:「漢祖」劉邦。「史記」によれば、彼の母劉媼(りゅうおん)が劉邦を出産する前、沢の傍らで、転寝(うたたね)をしていると、夢の中で、神に逢い、父劉太公は、劉媼の上に龍が乗っている姿を見たとし。その夢の後に、劉邦が生まれたと記す。]

 かの男、是を聞(きゝ)て、いわく、

「我、きく。『龍は、九渕(きうゑん)に潛(ひそ)んて[やぶちゃん注:ママ。]眠り、起(おこ)る時は、雲に駕(か)[やぶちゃん注:ママ。]し、霧に乘じ、氣を吸(すい[やぶちゃん注:ママ。])、風を、くらい、その神靈(しんれい)なる、玄々(げんげん)微妙にして、はかるべからず。』と。形、あれども、無(なき)かことく[やぶちゃん注:総てママ。]、かの三停(てい)九似(し[やぶちゃん注:ママ。])の說のことき[やぶちゃん注:ママ。]は、画師(ゑし)のために設(まうく)るのみ。未だ、龍の人を食(くらい[やぶちゃん注:ママ。])たるを聞(きか)ず。かの女、ゆふべ、已(すで)に、わか同伴(なかま)五人を殺す。是、魑魅妖物(ようぶつ[やぶちゃん注:ママ。])にして、龍には、あらじ。御身の言葉、全く、信じかたし[やぶちゃん注:ママ。]。」[やぶちゃん注:「三停九似」南宋の博物誌「爾雅翼」では、竜の姿を「三停九似」、つまり首・腕の付け根・腰・尾の各部分の長さが等しく、角は鹿、頭は駝、眼は兎、胴体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛に、それぞれ似るとあることを指す。]

 老翁、笑《わらひ》ていわく、

「龍を神霊(しんれい)のものとする事は、孔子の、老聃(らうたん)[やぶちゃん注:老子の字(あざな)。]を称して、取(とつ)て喩(たとへ)とするに始(はしま[やぶちゃん注:ママ。])れり。しかれども、是、後世、司馬遷の徒(ともから[やぶちゃん注:ママ。])、文飾の詞(ことば)にして、孔子を誣(しい)るものなり。夫《それ》、龍は虵(へび)の類《たぐい》のみ。荆似(けいし)・非椒(ひしやう)・丘訢(きうきん)・周處(しうしよ)・趙昱(てういく)[やぶちゃん注:人名の読みは総てママ。人名は調べる気はない。以下の人名も同じ。悪しからず。]の輩(ともがら)、絞龍を殺す事、往々、書に見えたり。古ヘ、八珎(はちちん)に『龍肝(りうかん)』あり。★竜氏(けんれうし)[やぶちゃん注「★」は「養」の下中央の「良」の代わりに「豕」を入れたものであるが、こんな字は知らない。「初期江戸読本怪談集」では『拳』で起こされてあるが、その異体字には、このような字はない。]・御龍氏(きよれうし)[やぶちゃん注:人名の読みは総てママ。同じく人名は調べる気はない。]、能(よく)、龍を屠(き)る。朱萍漫(しゆへいまん)、此道を學ぶときは、龍、神霊(しんれい)の物にして、豈(あに)人に食(しよく)せられ、或は、人に殺されんや。唯(たゞ)、龍は、𩵋蟲《ぎよちゆう》[やぶちゃん注:「𩵋」は「魚」の異体字。]の中《うち》、最傑(もつとすぐれし)の物にして、雲霧(うんう)を得て、飛揚(ひよう[やぶちゃん注:ママ。])する事、猶、鳥雀(ていじやく)の風《かぜ》に乘じ、虛(そら)を排して、飛(とぶ)に同じ。されば、愼子(しんし)いわく、『飛龍、雲に乘り、騰蛇(とうじや)、霧に遊ぶ。雲雨(うんう)、霽(はるゝ)る[やぶちゃん注:ママ。]時は、蚯蚓((みゝず)に同し[やぶちゃん注:ママ。]。』と。世人《せじん》、しらずして云《いふ》。『雲は、龍に從ひ、風は、虎に隨ふ故に、龍、唫(ぎん)[やぶちゃん注:「吟」に同じ。]すれは[やぶちゃん注:ママ。]、雲、起り、虎、嘯(うそむけ[やぶちゃん注:ママ。])ば、かぜ、生ず。』と。龍虎、何《なん》そ[やぶちゃん注:ママ。]風雲を致すものならんや。是、雲、起《おこり》て、龍、是に隨《したがひ》て、飛(とび)、風、生(しやう)して[やぶちゃん注:ママ。]、虎、是に應じて、嘯(うそむ[やぶちゃん注:ママ。])くなり。普の成公綏(せいこうすい)の賦に、『飛廉鼓于幽燧、猛虎應于中谷。』〔飛廉(ひれん)幽燧(ゆうすい)に鼓(こ)し、猛虎(まうこ)中谷(ちうこく)に應(おう)ず。[やぶちゃん注:ここでは本文の読みの内、歴史的仮名遣の誤りは総て訂してある。]〕と造りしは、よく此理を、さとしたり。韓非子、いへる事あり。『龍の蟲たる、押(おし)て騎(のる)べし。』と。夫(それ)、龍は蟒虵(うはばみ)の類(るい[やぶちゃん注:ママ。])にして、玄々微妙の神靈、あるものならずといへども、其変化(へんくわ)、飛揚(ひよう[やぶちゃん注:ママ。])する、たとへば、狐狸(こり)の、形を變じて、人心を蠱惑(まよとはわせ)、白蓮敎(いづな)をなすものゝ幻術によりて、人の精神を奪ふかことく[やぶちゃん注:総てママ。]、天の、物を生ずるに、同し[やぶちゃん注:ママ。]からず。龍、偏(へん)に禀(うく)る所の伎倆(けいじゆつ[やぶちゃん注:ママ。])有《あり》て、よく、雲に跨(また)かり[やぶちゃん注:ママ。]、霧に乘(のる)を、世人、龍を「神靈」とし、狐狸(こり)のたぐひに至(いたつ)ては、「妖物(ようぶつ)」と、おもへり。何そ[やぶちゃん注:ママ。]龍の「幸(さいわいゐ[やぶちゃん注:ママ。])」にして、狐狸の「不幸(《ふ》かう)」なる。時、維(これ)、十一月の始《はじめ》、陰、極《きはまり》て、一陽を出《いで》ず。龍は陽物(ようぶつ)なり。其氣候に應じて、飛昇(ひしやう)すべし。」

と、いひけるが、山嶽、俄に震動して、雲霧、白日を遮り、暴風、木の葉を捲(まい)て起る。

[やぶちゃん注:「成公綏」(せいこう すい 二三一年~二七三年)は晋代の文人で官僚。当該ウィキによれば、『経書や春秋三伝を広く渉猟し、若くして詞賦の才能を見せた。「天地賦」を作って、張華に文才を見出され、太常に推薦され、博士として召し出された。秘書郎を経て、秘書丞となり、中書郎に転じた。ことあるごとに武帝に命じられて、張華とともに詩賦を作り、また賈充らとともに法律の制定に参与した』。『作品に「楽歌王公上寿酒歌」「中宮詩二首」「仙詩」があった』とある。引用は「嘯賦」の一節。「維基文庫」のこちらで、全賦が電子化されている。その第三段落中にある。

「白蓮敎(いづな)」「白蓮敎」(びゃくれんきょう)は、南宋代から清代まで存在した中国の宗教。当該ウィキによれば、『本来は東晋の廬山の慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた』。『創始者は南宋孝宗期に天台宗系の慈昭子元だが、当初から』、『国家や既成教団からも異端視されていた。それは、半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたからだとされる。教義は、唐代三夷教のひとつ明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。マニ教は、中国には』六九四年に『伝来し、「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」とも表記された。則天武后は官寺として首都長安城にマニ教寺院の大雲寺を建立している』。『元代には、廬山東林寺の普度が』「廬山蓮宗宝鑑」十巻『を著し、大都に上京して白蓮教義の宣布に努め、布教の公認を勝ち得たが、すぐにまた禁止の憂き目に遭った。元代に、呪術的な信仰と共に、弥勒信仰が混入して変質し、革命思想が強くなり、何度も禁教令を受けた』。『元末、政治混乱が大きくなると』。『白蓮教の勢力は拡大し、ついに韓山童を首領とした元に対する大規模な反乱を起こした。これは目印として紅い布を付けた事から』「紅巾の乱」『とも呼ばれる』。『明の太祖朱元璋も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると』、『一転して白蓮教を危険視し、これを弾圧した。朱元璋が最初から白蓮教をただ利用する目的だったのか、あるいは最初は本気で信仰していたが』、『皇帝となって変質したのか、真偽のほどは不明である』。『清代に入ったころには』、『「白蓮教」という語彙は』、『邪教としてのイメージが強く定着しており、清の行政府は信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した民間宗教結社をまとめて白蓮教と呼んだ』。『この時代、宗教結社側が自ら「白蓮教」と名乗った例は一例もなく、白蓮教と呼ばれた団体にも白蓮教徒としての自己認識はなかった』。『邪教として弾圧されることにより』、『白蓮教系宗教結社は秘密結社化し』一七九六『年に勃発した』「嘉慶白蓮教徒の乱」『へとつながった』。『清代の白蓮教系宗教結社には、長江中流域の民間宗教である八卦教や清茶門教を淵源とする共通の宗教観が見て取れる[3]。根源的な存在である「無生老母」への信仰と、やがてくる「劫」と呼ばれる秩序の破局の際に老母から派遣される救済者によって、覚醒した信者だけが母のもとへ帰還できるという終末思想である。一般的に救済者は弥勒仏とされる場合が多いが、清茶門教系の経典『九連経』では阿弥陀仏になっている。救済者は聖痕を持った人間として地上に転生するとされ』、「白蓮教徒の乱」『の際には各団体が』、『それぞれの救済者を推戴していた』とある。一方、作者が勝手に振ったルビの「いづな」は「飯綱」で、本邦のブラック・マジック及び民間の特定の家系に伝承される架空の妖獣に基づく邪法「飯綱(いづな)の法」であり、「飯綱」(いづな)は、その妖術師が使役するダークな妖怪「管狐(くだぎつね)」のことを指す。これを語り出すと、また、エンドレスになるので、それは「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」の本文と私の注を参照されたい。にしても、ここに至って、作者の衒学趣味が頂点に達し、甚だ厭な生理的拒否感が横溢してしまう。中国の「白蓮教」に「いづな」と場違いな当て訓によって、中国と本邦の起原民俗を一緒くたにして気取った謂いが、逆に半可通を感じさせるからである。]

 

Ru2

 

[やぶちゃん注:底本の大型画像はこちら。]

 

 老翁、ゆひ[やぶちゃん注:ママ。]さして云《いふ》。

「赤城山中(やまなか)の妖龍、今こそ、其ときを、得たり。見よ、見よ、山の麓の村落(むらおち[やぶちゃん注:ママ。未だ嘗つて、こんな読みは見たことも聴いたこともない。])、みな、巨#(ぬま)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]と成《なる》ヘし[やぶちゃん注:ママ。]。[やぶちゃん注:「#」は(へん)は「氵」、(つくり)は「くさんかんむり」の下の中間部に「夆」の「丰」を除いたようなものを配し、その下に「巳」を配した奇体な字である。「初期江戸読本怪談集」では、「蟒」の「虫」を「氵」に代えた字で起こされているが、そのような字には私の底本は見えない。まあ、巨大な沼の意ではあろう。]汝、幸《さひはひ》に、迯(のかれ[やぶちゃん注:ママ。])來りて、此所にあり。」

 其詞(ことば)、なを[やぶちゃん注:ママ。]、終らざるに、赤城山のかたより、同國、白根(しろね)か嶽[やぶちゃん注:ママ。日光白根山(にっこうしろねさん)。]、信州、朝熊山(あさくまやま)[やぶちゃん注:不詳。浅間山のズラしかね?]、遠近(えんきん)に、雲、立おゝひ[やぶちゃん注:ママ。]て、霡霖(こさめ)、半天に降り出し、須臾(しゆゆ)にして、烈風(かぜはげしく)、梢(こずゑ)をを[やぶちゃん注:ママ。]折(おり[やぶちゃん注:ママ。])、急雨(きうう)、盆を傾くることく[やぶちゃん注:ママ。]、霹靂(へきれき)、閃電(せんでん)、岩石(がんせき)を崩し、高岸(かうがん)を劈(つんざき)て、大《おほき》さ、屋(いへ)のことき[やぶちゃん注:ママ。]䃲石(ばんせき)[やぶちゃん注:「䃲」は底本では「石」が「皿」の上に「般」の左に並置されてある。]、飛揚(ひよう[やぶちゃん注:ママ。])して、八方に落來(おちきた)る、その音、天も崩れ、地も塌(おちい)るかと疑われ[やぶちゃん注:ママ。]て、かの男は、肝(きも)を喪(うしな)ひ、魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])を落(おと)し、老翁の側(そば)に、潛居(すくみい[やぶちゃん注:ママ。])たるに、その一日一夜、大風・迅雷(じんらい)、止(やま)す[やぶちゃん注:ママ。]。山嶽、鳴響く事、おびたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]、纔(やうやう)、暁(あけ)にいたりて、鎭(しつま[やぶちゃん注:ママ。])りぬ。

 老翁、此とき、一ツの白き餅を、かの男にあたへ、食(くわ[やぶちゃん注:ママ。])しむるに、仍(よつ)て、その間、少しも饑(うへ[やぶちゃん注:ママ。])る事なく、夜明(《よ》あけ)におよひ[やぶちゃん注:ママ。]て、戶を、ひらき、外に出《いで》て、見わたせは[やぶちゃん注:ママ。]、実(げ)にも、いひしに違(ちが)わ[やぶちゃん注:ママ。]ずして、遠近(えんきん)の村里(そんり)、人家、一ツもなく、淼(ひよう)〻[やぶちゃん注:ママ。「べうべう」が正しい。]たる水溜りと成(なり)て、人(にん)馬(ば)鷄《けい》犬《けん》、死(しに)つくして、その尸(かばね)だに、なし。

 かの男、大《おほい》に、おどろき、

「我(わ)か[やぶちゃん注:ママ。]住里(すむさと)も、定《さだめ》て、墟(ぬま)[やぶちゃん注:底本の漢字の字体は「グリフウィキ」のこの異体字だが、表字出来ないので正字で示した。]となりけむ。いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と問《とは》んとする時に、老翁の姿は、見えず。

 弥(いよいよ)、

「奇異の事。」

とし、かの祠(ほこら)をたち出《いで》、鷄樓(とりい[やぶちゃん注:ママ。「鳥居」。])のうへに、一ツ、扁(へん)の額(がく)あるを、省(かへりみ)れは[やぶちゃん注:ママ。]

「八幡宮」

の三字あり。

「さては。神霊、わか[やぶちゃん注:ママ。]命を救ひ、危難を免かれしめ給ふなり。」

とて、始《はじめ》て、さとり、感淚、眸(まなじり)に灑(そゝ)ぎて、社壇に、再び、詣(けい)して叩頭(ぬかつき)し、それより、廟(ほこら)を出《いで》て、向ふを見るに、たまり水の中に、浮木(うきき)の流れ漂ふうへに、人、ありて、危き、よふ子(す)[やぶちゃん注:ママ。「樣子」。]に見ゆるまゝ、

「定《さだめ》て、なんに逢(あい[やぶちゃん注:ママ。])て免(まぬか)れ來れるものならん。」と、急き[やぶちゃん注:ママ。]、扶(たす)けて岸に上《あがり》たるに、山中に有《あり》し老嫗(らうう)なり。

「こは、いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]して、免れ來りし。」

と問(とふ)に、嫗(うば)、語りけるに、

「わか[やぶちゃん注:ママ。]女(むすめ)、われにおしへ、

『此枯木(かれき)に乘(のり)て、谷の流れに隨ひ、元(もと)住(すみ)し里へ、出《いで》よ。我は、今、龍身を現(あらは)し、飛昇(ひしやう)するなり。』

とて、辭し、別《わか》る。姥(うば)、そのおしへに從ひ、浮木(うき《き》)に乘(のり)て、澗水《たにみづ》に入《いり》けるが、半途(はんと)にして、山嶽(さんかく[やぶちゃん注:ママ。])、鳴響(なりひゞき)し音(おと)、夥しきに驚き、魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])を失ひ、夫(それ)より後(のち)は知らず。唯(たゞ)、夢中(むちう)のごとく也。」

と語る。

「さては。女(むすめ)の撫育(ぶいく)の恩を謝せんために、老嫗(うば)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を免れしめし。」

と、益(ますます)、神霊の苦(つげ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「告」の誤刻。]、尊(たつと)く覚へ、嫗(うば)に此事をものかたりして、倶(とも)に奇瑞を感し[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 夫より、路をたづね、彼(かの)山、遠く、龍難(りうなん)を蒙(かふむら)ざる村里に、老嫗(らうう)もろとも、住(すみ)けりとぞ。「怪異話大尾」

 

怪異前席夜話卷之五終

[やぶちゃん注:以下、奥書であるが、底本のリンクに留める。]

2023/08/01

怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 巻之四 抂死の寃魂讎を報ずる話

[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。

 また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 なお、本巻之三は本篇一篇のみが載る。

 標題の「抂死」は、この場合は、尋常・正当でない死を意味している。]

 

怪異前席夜話  四

 

怪異前席夜話卷之四

   〇抂死(わうし)の寃魂(ゑんこん)讎(あた[やぶちゃん注:ママ。])を報ずる話

 享保の頃、北國の士、穗津美官治(ほつみかんじ[やぶちゃん注:ママ。])といふもの、江都(ゑど[やぶちゃん注:ママ。])の藩邸(やしき)に、おもむきける。

 旅途、信州・諏訪の邊(へん)にさしかゝりて、日、既に暮におよびけれは[やぶちゃん注:ママ。]、宿をとり、とまりけるに、その夜、隔壁(となり)の坐敷に、女の三弦を弄(らう)し、曲(うた)をうたへるものあり。

 其声の妙(たへ)なること、梁(うつはり)の塵(ちり)もとび、遊魚(いうぎよ)も出《いで》て聞(きゝ)なんと、おもほえけれは[やぶちゃん注:ママ。]

『定《さだめ》てこれは、七宝帳中(たまのごてん)の花の姿なるらめ。』

と、神魂(こゝろ)、坐(そゞろ)に瓢蕩(ひやうとう[やぶちゃん注:総てママ。])し、垣間見ほしくはおもへども、

『さすかに[やぶちゃん注:ママ。]、士の、他の亭中(ざしき)を覘(のぞか)んも、いかゞ。』

と、おもひ、いろいろ、工風(くふう)をめぐらして、夛葉粉《たばこ》などのみて、しばし考て居《をり》けるうちに、曲(うた)も止み、寂莫(せきばく)として、外(そと)に人のありとも覚へざりしかは[やぶちゃん注:ママ。]、夜、深(ふけ)、人、靜(しづまり)て、潛(ひそか)に起出(おき《いで》)、そつと候(うかゝ[やぶちゃん注:ママ。])ふに、灯(ともしび)、ふきけしてあり。[やぶちゃん注:「坐」は明らかに(へん)に「口」にみえるものが附帯している。「坐」の異体字には「𡊙」があるが、それとは違う。表字出来ないので、通用字とした。]

 心ときめき、徐徐(しづか)に、障子、押明(おしあけ)て入るに、無端(ふと)、かの女か[やぶちゃん注:ママ。]卧(ふし)たる、まくらに、さぐりあたる。

 能(よく)寐入(ね《いり》)しと覚ヘて、鼾睡(いびき)の声、微(かすか)に、脂粉(べにおしろい)のにほひ、鼻を穿(うが)つ。

『たとへ、木人石心(ぼくじんせきしん)なりとも、爰にいたりて、いかてか[やぶちゃん注:ママ。]の毒龍(ほんのう[やぶちゃん注:ママ。「煩惱(ぼんなう)」或いは「本能」の当て訓。])を制せんや。』

と、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、夜衣(《よ》ぎ)を、靜(しづか)にひらきて、這入(は《いる》)に、女、おどろき、醒(さめ)て、

「誰(たそ)。何人《なんぴと》や。」

と問《とふ》。

 士、ふるへ聲にて、

「われは隣亭(となりざしき)の旅客(たびかく)なり。嚮(さき)に、君か[やぶちゃん注:ママ。]微妙の声を聞(きく)、戀慕、止(やみ)かたく、『たとひ、誰(たれ)ともしらぬひの、筑紫(つくし)の果(はて)にすむ人なりとも、一樹の影も苟旦(かりそめ)ならぬ深き緣。』と思ひ給ひ、わか[やぶちゃん注:ママ。]一𭴙赤心(《いつ》てんのまこと)を、無下(むげ)に、なしたまひそ。」[やぶちゃん注:「𭴙」「點」(点)の異体字。]

と、やかて[やぶちゃん注:ママ。]女をかき抱(いだ)きしかば、あへておとろき[やぶちゃん注:ママ。]遽(あわて)る光景もなく、燕語鴬(うるわしき[やぶちゃん注:ママ。])声を發して、[やぶちゃん注:「遽」は「グリフウィキ」のこの異体字だが、表字出来ないので通用字とした。]

「屑(をのくづ)ならざる妾(せう)が身を、慕ひ玉わる[やぶちゃん注:ママ。]うれしさよ。妾は、まだ定まれる主もなく、世を萍(うきくさ)の根をたへ[やぶちゃん注:ママ。]て、誘引(さそふ)水を、まつ折(おり[やぶちゃん注:ママ。])なれば、何しに、否(いなみ)侍《はべら》ふべき。但(たゞ)恐らくは、假そめの、御戲(たわむれ[やぶちゃん注:ママ。])の空言(あだしごと)には、非ずや。」[やぶちゃん注:「屑(をのくづ)」「初期江戸読本怪談集」(底本は違う)では、『ものかづ』とルビを起してある。少なくとも、私の底本は(左丁後ろから三行目)頭のルビは「も」には見えない。そちらなら、歴史的仮名遣が誤りとして、「物數(もの[の]かず)ならざる」と解することは可能で躓かないとも思えなくはないが、私は当てている漢字を何故「屑」としたのかに着目して、「斧屑(をのくづ)」と採った。「斧[や鉋(かんな)]の削り屑(くづ)ならざる]の意である。大方の御叱正を俟つ。

といふ。

「いかて[やぶちゃん注:ママ。]戲《たはふれ》侍らむ。われを不信(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])と思《おぼ》し給はゝ[やぶちゃん注:ママ。]、暾目(てんとう[やぶちゃん注:ママ。「天道(てんたう)」。])を誓ひに立《たて》ん。」

など、さまさま[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]に汎說(くどき)つゝ、

「鳥羽玉《うばたま》の闇(くら)き夜を、氷人(むすふのかみ[やぶちゃん注:ママ。「結ぶの神」。仲人(なこうど)。])の心して、かくは、斗《たたか/あらが》ひ給ふならん。」

と、悅ひ、ついに比翼の翅(はがひ)を、うちしき、枕かわせし夢のうちに、鷄(とり)もなき、かねも聞ゆる暁(あかつき)にぞ、すこし、睡眠(まどろみ)、起出(おき《いで》て、此とき、はじめて、女か[やぶちゃん注:ママ。]顏を、旭のひかりに見てあれば、妹者(びじん)と想(おも)ひしは、天淵(さうい)にて、両眼、つぶれて、みつちやのことく[やぶちゃん注:ママ。]、髮、あかく縮み、

『無塩・嫫母(ぶゑん・ぼも[やぶちゃん注:ママ。])も、これには過《すぎ》じ。』[やぶちゃん注:斉の宣王の夫人鍾離春こと無塩君と、中国神話の黄帝の妃嫫母。中国では代表的な醜女とされる。]

と、おそろしき斗《ばかり》なる醜惡に、官治は、大《おほい》におとろき[やぶちゃん注:ママ。]、呆れしが、今は曷(いかん)とも爲(す)べき方(かた)なく、さて、かの瞽女(ごぜ)もろとも、早膳(あさめし)のしたゝめし、旅宿を出《いで》て、それより、此女を具して下るに、道すがら、思ふに、[やぶちゃん注:「妹者」は「初期江戸読本怪談集」では「妹」に傍注して『姝』(音「ス・シュ」で「美しい」「美人」の意。)の誤記とする。「天淵」(てんえん)天と淵(ふち)。天地。転じて、「遠く隔っていること・かけはなれていること・相違の甚だしいこと」で「雲泥」に同じ。]

『我、一時(いちじ)の淫欲にて、かゝるふきれう[やぶちゃん注:ママ。]の女、しかも、五官鈌(かけ)たるもの共(とも)しらず、夫婦の契約なせしこそ、悔(くや)しけれ。何とぞ、紿(あざむ)て、道に弃去(すてさら)ん。』[やぶちゃん注:「鈌」は「刺す」の意の他に、「缺」と通字である。]

と、萬方(いろいろ)、謀(はかりこと)を、めくらし[やぶちゃん注:ママ。]けれども、その𨻶(ひま)を得ずして、峽中(きそ)[やぶちゃん注:「木曾」の当て訓。]の桟道(さんとう[やぶちゃん注:ママ。])に、さしかゝる。

 早(はや)、斜輝(ゆふひかり[やぶちゃん注:「夕光」の当て訓。])をかくし、霧、たちおゝひ[やぶちゃん注:ママ。]て、遠近(おちこち[やぶちゃん注:ママ。])、朦朧なるに、もとより、此地は仰顏(あをのけ[やぶちゃん注:ママ。「仰(あふ)のけ。」])は[やぶちゃん注:ママ。]、斷崖、天を揷(さしはさ)み、下を臨めば、幽谷、数《す》百丈にして、底を、しらす[やぶちゃん注:ママ。「知らず」。]。樹木(じゆもく)、生繁(おひしけ[やぶちゃん注:ママ。])りて、人家、なけれは[やぶちゃん注:ママ。]、前後、人の往還、たへたり。

 女、云けるは、

「日、くれぬと、覚へたり。君、はやく、宿につき給わん[やぶちゃん注:ママ。]や。」

 官治か[やぶちゃん注:ママ。]いわく[やぶちゃん注:ママ。]

「此翠嶽(とうげ)を踰(こへ[やぶちゃん注:ママ。])なば、旅宿あるなれは[やぶちゃん注:ママ。]、今、すこし、いそき[やぶちゃん注:ママ。]給へ。」

と、手を携(たづさへ)て、嶺(みね)に、わけのぼるに、また、女のいふ[やぶちゃん注:ママ。]けるは、[やぶちゃん注:「携」は異体字のこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので、かく、した。後に出るものも同じ処理をした。]

「石、高く、草鞋(わらじ[やぶちゃん注:ママ。])、破れ、足、疼(いた)て、あゆみがたし。少時(しはらく[やぶちゃん注:ママ。])、息肩(やすめ)給へかし。」

 官治、

「げに、われも、倦(くた)びれに堪(たへ)ず。しばらく、爰にて憩(やすむ)べし。」

と、女と倶に、岩頭(がんとう)に、腰、打《うち》かけ、芬(たばこ)などとり出《いだ》し、官治、熟々(つくつく[やぶちゃん注:ママ。]底本では後半は踊り字「〱」。)おもひけるは、

『浩(かゝ)る女を携て、江戶のやしきに至りなば、他人の嗤(あざけり)を如何(いかゞ)にせん。是ぞ、我ために大《おほい》なる孼障(じやま)なれ。不仁(《ふ》じん)のいたりなれども、今、此處に、捨ゆかんには、しかじ。』[やぶちゃん注:「孼」は「わざはひ」(「禍」)の意。]

と、不圖(ふと)、心づきければ、女か[やぶちゃん注:ママ。]背(うしろ)に、たちまわり、なにこゝろなく居《をり》たる所を、おもひかけずも、突(つき)ければ、何かは、暫(しばし)も鼬豫(ためらは)ん、かの千丈の絕壁より、さかさまにおちこちの、たつぎもしらぬ山中に、

「阿(あつ)。」

と、叫(さけび)し声さへも、迥(はるか)下にぞ、聞へたり。

 

Kisootosikettei

[やぶちゃん注:底本の大型画面はこちら。]

 

「今は、こゝろ、やすかりつ。」

と、夫より、道を、いそき[やぶちゃん注:ママ。]つゝ、山路(やまじ[やぶちゃん注:ママ。])を出《いで》て、止宿し、斯(かく)て、行々(いきいき)て、日をかさねるほと[やぶちゃん注:ママ。]に、江戶の邸(やしき)にこそは、いたりけり。

 途中にてかゝる事のありしとは、朋友にも、もの語りせず、包みかくしてぞ、居たりしに、光陰矢のことく[やぶちゃん注:ママ。]、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に一年を、おくりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、すでに、仕官の任、滿(みち)て、明年の秋、ふたゝひ、歸國のとき、來りければ、支度、とゝのへ、發足(ほつそく)するに、旅ほど、おかしきものは、あらじ。夜は星を戴(いたゞき)て、やどにつき、暁(あけ)は、霧を拂つて出《いで》、死人(しにん)の床にも卧(ふし)、癘子(らいし)の椀(わん)に、ものくひて、明(あか)しくらして行(ゆく)ほと[やぶちゃん注:ママ。]に、峽(きそ)の桟道(やまみち)にいたりける。

[やぶちゃん注:「死人の床にも卧」「旅宿で急死した旅人の傍らに寝たり」の意であろう。

「癘子の椀」「癘」は流行病(はやりやま)い。女中がそうだったか、或いは、それに罹った同宿人の使った椀で食事をもし、の意であろう。]

 此時、何某の國守(くにのかみ)、就國(にうぶ[やぶちゃん注:「入部」の当て訓。国守に就任して初めて国入りすること。])にて、此邊に止宿(しゆしゆく)あり。

 旅宿、問屋、人、みちみちて、宿中(《しゆく》ぢう)、市(いち)のことく[やぶちゃん注:ママ。]にありける故、宿をかるべき方もなく、日暮、猶、道、遠けれは[やぶちゃん注:ママ。]、せん方なく、山寺(《やま》てら)のあるに、

「是《これ》へなり、押《おし》かけて、今宵は、明し候わん。」

と、門、うちたゝきて、しばらくまちて、裏より、僧、出《いで》て、

「何國(いづく)よりか、わたらせ候。」

と問(とふ)に、いさゐ[やぶちゃん注:ママ。]を、もの語りして、止宿を馮(たの)むに、心よく留《と》めぬ。

 やかて[やぶちゃん注:ママ。]、厨房(くり)のかたにまわり、草鞋を、ときて、上にあかり[やぶちゃん注:ママ。]、見るに、山中の寺なれば、僧、両三人ならでは、なく、折しも、小雨ふり出《いで》て寂漠(つれつれ[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。])なるまゝに、爐邊(ろへん)に居集(《ゐ》あつま)りて、夜食を、たべ終りて、種々(しゆしゆ)樣々の浮世の話、江都(《え》ど)の噂も、花(はな)めづらしく、初夜[やぶちゃん注:午後八時頃。]過《すぐ》るまで、もの語りするうちに、住僧の、風圖(ふと)、云けるは、

「此寺中《てらうち》に、怪しきことの、あり。寺僧は、つねに、心得て侍るなれば、驚きもせずといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、旅客は、定(さため[やぶちゃん注:ママ。])て、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]給ふべきなれば、豫(あらかじ)め、ものかたり申《まうす》なり。去年(きよねん)の秋のはしめ[やぶちゃん注:ママ。]つかた、此山の澗水(たにみづ)のなかに、女のかばね、あり。その粧(よそほ)ひ、岩石に、頭を碎(くだ)き、手足も損じて、朱(あけ)に成《なり》たるが、半分、水に落入(おちいり)てありしを、野樵(きこり)牧豎(うしかひ)の們(ともがら)、見付《みつけ》、

『行路人(ゆきしのひと)の、誤りて、たにに、おち死せしならめ。』

と、哀れみ、此寺に扛(かき)來りて、葬るべきよし申けれは[やぶちゃん注:ママ。]、野衲(われ)も不怜(ふびん)におもひ、寺の後(うしろ)の方《かた》に瘞(うづめ)て、懇(ねんごろ)に吊(とむら)ひけり。その夜より、其墓所(はかしよ)より、燐火(りんくわ)、隱々(いんいん)と、燃出(もへ[やぶちゃん注:ママ。]《いで》て、いと、ものかなしく破(しばかれ[やぶちゃん注:ママ。「しはがれ」。])たる聲して、

『眼(め)なき我を、殘忍(むごく)も殺せしよな。命(いのち)を償(つくの[やぶちゃん注:ママ。])ひ、還(かへ)せよ。』

と叫ぶ声、暁(あけ)にいたりて、止む。每夜、かくのことし[やぶちゃん注:ママ。]。想ふに、是、山道(やまみち)より、投(かげ)おとされて、死せるものならん。ことに、その女、瞽女(ごぜ)と覚へたり。はしめ[やぶちゃん注:ママ。]のほと[やぶちゃん注:ママ。]は、寺中のものとも[やぶちゃん注:ママ。]、怖れ入り、いろいろ、經を誦(じゆ)し、弔ひをなすといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、止(やま)ざれは[やぶちゃん注:ママ。]、後(のち)には、つねのことにおぼへて、さのみ懼(おそ)れ侍らず。今宵も、かくこそあるへけれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、かねて、心得たまへ。」[やぶちゃん注:「野衲」歴史的仮名遣「やなふ」或いは「やだふ」、現代仮名遣「やのう」「やどう」で、「のう」は「衲」の呉音。「衲衣」(のうえ:僧の着る衣。「襤褸布を綴り合わせて作った粗末な衣」の意の仏教語)の意で、「田舎の僧・野僧」で、転じて、僧が自分をへりくだっていう自称語で「拙僧・愚僧」に同じ。]

と語るに、官治、此話を聞(きく)うちにも、身軀(みうち)、掉栗(おのゝき)て、面色、(かほいろ)、土(つち)のことく[やぶちゃん注:ママ。]、脇のしたより、冷汗を流して、しばし、こと葉も出《いで》さりしか[やぶちゃん注:総てママ。]、纔々(やうやう)に、声、顫わし[やぶちゃん注:ママ。]て、いふは、[やぶちゃん注:「掉栗」は歴史的仮名遣「てうりつ」で、「戦慄する」の意。「掉」(音「トウ・チョウ」)は「振り動かす」の意がある。]

「かゝる叓[やぶちゃん注:「事」の異体字。]を承り、蘊(つゝ)み匿(かくす)べきにあらねば、わか[やぶちゃん注:ママ。]不善を、語るべし。」[やぶちゃん注:「蘊」には「貯える」・「奥底」の意がある。]

とて、去年、此山中にて、瞽女を谷に突落(つきおと)し、殺せる始末を、一々に、さんけ[やぶちゃん注:ママ。「懺悔」で「さんげ」が正しい。「ざんげ」は明治以降のキリスト教の読みとして確定しもので、江戸以前は「さんげ」が正しい用法である。]しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、住僧、大《おほき》におどろき、

「汝か[やぶちゃん注:ママ。]惡行、ざんけ[やぶちゃん注:ママ。]のうへは、論じて、益(えき)なし。爰(こゝ)に、指(ゆび)を屈(くつ)すれば、已に期年(きねん)におよべとも[やぶちゃん注:ママ。]、今に怨氣(ゑんき)の消散(しやうさん)せずして、夜每(《よ》ごと)に出《いで》て、命を、もとむることを、罵(のゝ)しる。今宵ぞ、讎人(あだ《びと》)に逢(あひ)ぬれば、定《さだめ》て、冥間(めいかん)、積欝(せきうつ)の寃屈(うらみ)を伸(のべ)んとすらん。宿世(すくせ)の業尹(がういん[やぶちゃん注:ママ。]「業因」。「ごふいん」が正しい。)、いかんとも、なし難し。」

と眉(まゆ)を頻(ひそ)むれは[やぶちゃん注:ママ。]、官治、ますます、怖れ周障(あは)て、淚を流して、いふは、

「此上、せんかた、なし。今は、いかにも、御僧をたのみ參らする。偏(ひとへ)に、我を、救ひてたまへ。」

と膝行頓首(しつこう[やぶちゃん注:ママ。]とんしゆ)、士(し)の礼義[やぶちゃん注:武士の面目。]をうしなひて、只願(ひたすら)[やぶちゃん注:ママ。]に、たのみけるこそ、あわれ[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 さすかに[やぶちゃん注:ママ。]、住僧も恤(あはれ)みをなし、

「さわ[やぶちゃん注:ママ。「さは」或いは「さば」。]。」

とて、官治を、ともなひ、おくの方丈に連行(つれゆき)て、「盤若心經[やぶちゃん注:ママ。]」のまきもの、おゝく、とりいたし[やぶちゃん注:ママ。]、官治か[やぶちゃん注:ママ。]五体を纏ひ、両三人の僧、方丈の前に集(あつま)り、燈明を照(てら)し、かの經を、声、たかくと、讀あげけり。

 また、きんむらの健(すこやか)なる農夫を招き、おのおの、棒を、もたせ、庫裏・𢌞廊に充滿し、妖鬼來らば、防(ふせ)がしめんための用意たり。

 官治も、段々、住僧の厚情(あつきなさけ)によつて、少しく、心をやすくし、住僧の世話を、いと、たのもしく思ひけり。

 その夜、雨は、いよいよ、烈しく降來り、山風、つよく吹落(ふきおち)て、外は、もの騷かしき[やぶちゃん注:ママ。]梢の葉音、梵唄(どくじゆのこへ[やぶちゃん注:ママ。])の、耳にもいらざるほどの大嵐。

 蓮漏(とけい[やぶちゃん注:時計。中国で水時計を古くは、かく、表記した。])は、既に、三更[やぶちゃん注:午後十一時から午前一時までの間。真夜中。]を造(つぐ)るころ、寺僧、漸々(だんだん)につかれはて、ねぶり声に成《なり》て、讀經も怠り、燈明、かけ、くらく、靜かになれば、𢌞廊にあるものども、こぶしを曲(まげ)て、うち倒れ、前後も、しらで、寢入たり。

 かゝる折しも、寺のうしろの方に、叫ぶ声するに、官治は、

『是こそ、寃鬼ぞ。』

と、おもへば、尙々、肝をけし、毛越(みのけをたて)、おそれ、を慄(おのゝ[やぶちゃん注:ママ。「をののく」が正しいので、「を」は衍字であろう。])く事、限りなし。

 果して、寺僧のいひつるに違わず[やぶちゃん注:ママ。]

「兩眼、くらき、われなるを、心つよくも、殺せしものかな。命を還(かへせ)々、」

と罵る声、しだいしだいに響き出《いで》て、東に行(ゆき)、西に𢌞り、すてに[やぶちゃん注:ママ。]寺の厨房(くり)のかたにあり。

官治は、魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])、空(そら)に、とび、五體、三萬六千の毛のあな、一同に粟(あわ[やぶちゃん注:ママ。])のことく[やぶちゃん注:ママ。]に起(おこ))り、舌を掉(ふるわ[やぶちゃん注:ママ。])し、歯を咬(かみ)ならせど、寺僧は、みな、卧(ふし)て、いびきのみぞ。

『かゝる寂莫(さみしさ)は、いかにせん。』

と、たゞ、しほしほとして居《をり》たりしうちに、乍(たちま)ち、

「呵々(からから)」

と笑ふ声して、

「嗚呼(あな)、うれしや。今宵こそ、仇人(あた[やぶちゃん注:ママ。]《びと》)に逢(あひ)ぬ。」

と呼(よば)わる[やぶちゃん注:ママ。]、その声、耳に、つらぬきて、霹靂(へきれき)の落(おち)かゝるかと、すさましく覚へけれは[やぶちゃん注:ママ。]、官治、今は耐得(たまり《え》)ず、はしり出《いで》て、寺僧を呼起(よひ[やぶちゃん注:ママ。]おこ)さんとするに、前靣(ぜんめん)、隔(へたて[やぶちゃん注:ママ。])の戶を、蹴(け)はなして、寃鬼の姿、とび入《いり》たり。

「こゝにこそ。」

と、いふもあへず、官治か[やぶちゃん注:ママ。]頭(かうべ)を引《ひつ》つかみ、

「去年(きよねん)の秋をば、わすれしや。」

といふ声、空(そら)に聞《きき》しと、おぼへて、

「阿(あつ)。」

と、叫びて、絕死(せつし[やぶちゃん注:ママ。])する。

 

[やぶちゃん注:底本の大型画面はこちら。]

 

 此ひゞきに、衆僧(しゆそう)は驚き、醒(さめ)て、側(かたはら)を見れば、燈明も、きへて、闇々(あんあん)として、もの云(いふ)者、なし。

 いそき[やぶちゃん注:ママ。]、火を点(てん)じ、村民どもを、皆、起(おこ)し、まづ、方丈に入《いり》て、官治を、たつねる[やぶちゃん注:ママ。]に、いつ地《ち》[やぶちゃん注:ママ。]へゆきけん、形も、見へず。

「外(そと)、覚束(おほつか[やぶちゃん注:ママ。])なし。」

とて、松を㸃(とぼ)して[やぶちゃん注:「㸃」は、底本では、下方の(れっか)が「火」となっている字体である。]、探しゆくに、かの盲女(もうぢよ[やぶちゃん注:ママ。「まうぢよ」が正しい。]を[やぶちゃん注:ルビに送られてある。])埋(うめ)たる塚の、卒塔婆(そとわ[やぶちゃん注:ママ。])のしたに、衣類の裳(もすそ)、見へたり。

 急き[やぶちゃん注:ママ。]、穿(ほり)かへして、塚穴を見たりしに、盲女か[やぶちゃん注:ママ。]尸(かはね[やぶちゃん注:ママ。])は、朽(くち)もやらず、猶、ありしときの姿にて、官治を、かき抱(いだき)き[やぶちゃん注:ママ。ルビの衍字。]、咽杭(のどぶへ[やぶちゃん注:ママ。])を咬付(かみつき)たるまゝ、もろともに、死に居《ゐ》たり。

 是を、みるもの、身(み)を掉(ふる)わし[やぶちゃん注:ママ。]て、おそれ、おのゝかずといふこと、なし。

けにや[やぶちゃん注:ママ。]、因果、車(くるま)の両輪(りやうりん)にひとしく、怨讎(ゑんしう)の聚(あつま)るは、結(むすべ)る水の、陰(かげ)にあるに、ことならず。

 一點の淫欲より、三昧(《さん》まい)の業火(がう[やぶちゃん注:ママ。]くわ)、その身を燒(やき)て、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に冥路(めいろ)の客(かく)と、なる。

 おそれ愼しむべきは、これなり。

 寺僧、せん方なく、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]、塚を築(つき)て、官治・盲女か[やぶちゃん注:ママ。]ために、石碑を建(たて)て、懇(ねんごろ)に念佛せしより、再ひ[やぶちゃん注:ママ。]、怪異、更に、なし。

 

 

怪異前席夜話巻之四 終

[やぶちゃん注:本篇は、シークエンスの順序や、一部の展開部を変えてあるが、寛文三(一六六三)年刊の知られた怪奇談集の仮名草子「曾呂利物語」正規表現版 第三 四 色好みなる男見ぬ戀に手を執る事』をインスパイアしていることが、明白である。

2023/07/30

怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 巻之三 匹夫の誠心剣に入て霊を顯す話

[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。

 また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 なお、本巻之三は本篇一篇のみが載る。]

 

怪異前席夜話  三

 

怪異前席夜話巻之三

    匹夫(ひつふ)の誠心(せいしん)剣(けん)に入《いり》て霊(れい)を顯(あらは)す話

 中花(ちうか[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:中華。中国。]に劍匠(けんせう[やぶちゃん注:ママ。])の少《すくな》き事は、「遵生八𤖆《じゆんせいはつせん》」に見えて、「鋳剱(とうけん[やぶちゃん注:ママ。「刀劍」の当て訓だが、「たうけん」が正しい。])の術、不ㇾ傳(つたわらず[やぶちゃん注:ママ。])。典籍、また不之載(これをのせす[やぶちゃん注:ママ。])。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に)今無劍客而(けんかくなくして)、世少名劍。」と、いへり。干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)は、いざしらず、我國の古しへより、剱匠の出るもの、數を、しらず。中に妙巧を極むるもの、甚た[やぶちゃん注:ママ。]多し。

[やぶちゃん注:「遵生八𤖆」。明の高濂 (こうれん) 著になる随筆。 全二十巻。自序は一五九一年に記されてある。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百名の事跡が記されてあり、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「干将・莫耶」先般、電子化注した「奇異雜談集巻第六 ㊁干將莫耶が劔の事」のことを読まれたい。]

 中古(ちう《こ》)、京師に関何某(《せきなに》がし)といへる神工(しんこう)あり。昆吾(こんご)の石を砥(と)となして、精鐵(せいてつ)を鋳(きた)ふに、石を切《きる》事、恰(あたか)も泥(どろ)のことく[やぶちゃん注:ママ。]、王侯・貴人、これを爭ひ買(かふ)て、百金を惜まず。

[やぶちゃん注:「中古」現代のそれの平安時代ではない。江戸時代を起点にした、「中昔」(それほど古くない過去)で、概ね鎌倉・南北朝から室町・戦国時代中・後期頃までを指す。

「関何某」古い刀剣で「關物」がある。これは美濃国関の刀工らによる刀剣で、南北朝時代から室町時代における美濃の作刀は「備前物」に次いで繁栄し,その中心地が関(現在の岐阜県関市(グーグル・マップ・データ)であったので,「関物」といえば、「美濃物」の代名詞となっている。南北朝時代には「正宗(まさむね)十哲」の一人,志津兼氏(しづかねうじ)とその一族があり,さらに直江に移った兼次・兼友、同じく正宗の門人で関鍛冶の祖となった金重(きんじゅう)一門がある。室町時代は戦乱の時代で,戦闘方法の変遷などを背景として打刀(うちがたな)が流行し,多量の武器の需要により、粗製乱造になった。この時代に最も繁栄した「備前物」(末備前物)に次いで,美濃鍛冶が前代に続き、ますます発展し,孫六兼元・兼定を巨頭とし,その他「兼」の字を冠する刀工が多数出て、隆盛を極めた。その作風は実用性に優れ,刃文は共通して関の「尖り互(ぐ)」の目で、なかでも兼元の三本杉・入道雲・兼房の乱(みだれ)などは著しい特色である。美濃鍛冶は各地に移住、或いは、出張して、諸国の刀工に影響を与え、また、新刀時代の良工には関鍛冶の系統に属するものが少くない(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。この人物も、その流れを汲む者という設定である。

「昆吾の石」小学館「日本国語大辞典」によれば、「昆吾の剣」という連語があり、周の時代、現在の新疆ウイグル自治区哈密(クムル)県(現在は市)にあった国名が昆吾で、そこで作られた剣で、鉄や玉をも切る利剣とされた。そこに『昆吾渓の宝剣』ともあったが、無論、そこから石を得た訳ではなく、「昆吾の剣」にあやかった、優れた砥石の謂いであろう。]

 その弟子に佐伯好隣(《さ》いきよしちか)なるものあり。若年より放蕩にして、宋玉(そうきよく)が人となりを慕ひ、或は、東家(となり)の女(むすめ)を挑み、あるひは、花柳(くわりう)の春色(しゆんしよく)を愛して、曾て、こころを鋳剣に留(と)めざれば、師のおしへを受(うけ)るといへども、いまた[やぶちゃん注:ママ。]その妙を究むる事あたぱす。

[やぶちゃん注:「宋玉」(そうぎょく 生没年不詳)は戦国末期の楚の辞賦作家。伝記も明らかでないが、往古の記録から推せば、楚の鄢(えん:現在の湖北省宜城県)の人。貧士の出身で、頃襄(けいじょう)王(在位紀元前二九八年~紀元前二六三年)に仕えて小官となり、やがて唐勒(とうろく)・景差とともに楚の宮廷文壇に参加し、艶めかしく美しい作風を以って頭角を現したらしい。彼の作風は、以後に展開する漢代宮廷辞賦の先駆をなすものといえる。その作品は、もと十六編あったとされるが、現在伝わる辞賦の内、ほぼ確実なものは、「楚辞」所収の「九弁」・「招魂」、「文選」所収の「風賦」・「高唐賦」・「神女賦」・「登徒子好色賦」の六篇のみである。孰れも、甘美で哀切な叙情に富む作品である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。また、ウィキの「倩兮女」(けらけらおんな:江戸時代の妖怪名)の解説中に、「文選」巻十九集に『載る「登徒子好色賦」に記されているよく知られた逸話』として、『美男として有名な中国の文人・宋玉が「自分は決して好色ではない、隣に住んでいた国一番の美女が牆(かき)からその姿を見せ』、三『年間』、『のぞき込まれ』、『誘惑され続けたが』、『心を動かした事は一度も無かった』。『私のことを好色と称する登徒子(とうとし)こそ好色である」と王の前で反論した故事(宋玉東牆)』があるとあり、ここで主人公佐伯好隣が彼に惹かれているニュアンスがよく判る。]

 一日(ある《ひ》)、一人の賎夫(せんふ)來りて、好隣に逢(あひ)て、

「僕(われ)は山﨑の幽僻(かたほとり)、農家に傭(やとわ[やぶちゃん注:ママ。])れて、力作(はたらき)する奴(やつこ)なり。君の師、剱を、鋳給ふ事の、霊妙なるを聞(きく)。冀望(のぞむ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]事、年、久し。願《ねがは》くは、その價(あたい[やぶちゃん注:ママ。])を聞(きか)む。」[やぶちゃん注:「幽僻」の「幽」の字は、底本では、この異体字(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、通用字を用いた。]

 好隣、笑《わらひ》て、

「我師は、王公より、需(もとめ)給ふ事ありても、期年(いちねんのゝち)に非《あらざ》れば、鋳(うつ)て献(けん)ぜす。汝ことき[やぶちゃん注:ママ。]、妄意(のぞむ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])所に、あらず。」

といふ。

 かの奴、

「しかれども、その價、幾(いくば)くぞ。」

と問《とひ》てやまず。

 好隣、戯(たはむれ)て、いわく、

「汝、左《さ》ほどに、望むぞ。ならば、十金の價《あたひ》を、齎來(もちきた)らは[やぶちゃん注:ママ。]、わか[やぶちゃん注:ママ。]師に乞《こふ》て、剱を賣りあたふべし。」

と、奴に語れば、これを信然(まこと)とし、

「我、卑賎の役夫(えきふ)、十金の直(あたへ)は、これ、なしといへども、力を労(らう)し、年を積(つみ)なば、辨(とゝのへ)ざる事、あらし[やぶちゃん注:ママ。]。必(かならず)、約を違(たがへ)給ふな」

と、別れて去る。

[やぶちゃん注:「信然」(しんぜん)は「信じる値打ちのあること・そのさま」を言う語。

「十金の直(あたへ)は」の「直」は判読に迷った。底本のここ(左丁の四行目行末)。「初期江戸読本怪談集」では、『価』の字で起こしてあるが、私の底本の字は、その崩しとは到底、思えない。「直」は「價(あたひ)」の意があり、崩し字としても、これで採れるので、かく起こした。]

 是より、かの奴、耕耘(たかやし[やぶちゃん注:ママ。])のいとま、或は、山に樵薪(しばかり)し、野に滯穗(おちぼ)を拾ひ、或は、夙(つと)に茅(ちかや)[やぶちゃん注:ママ。]を苅(かり)、夜は寢(いね)ずして索絢(なはなひ)、千辛万苦の労、空しからず、三年過(すぎ)て、漸(やうやう)、十金を積(つみ)得たり。

 嬉しくおもひて、いそき[やぶちゃん注:ママ。]、よし、隣かたへもち行て、剣を乞ふ。

 よしちかは、只《ただ》、苟旦(かりそめ)の戯言(たはむれ)なりしを、今は、かくとも、辞(いなむ)に、こと葉なく、奴を給(あざむい[やぶちゃん注:漢字ともにママ。「紿」の誤記であろう。])て云《いひ》けるは、

「汝に約束せし剱、わか[やぶちゃん注:ママ。]師、すでに鋳(うち)給へり。いまだ錯礪(さくさい)せず。明日、來るべし。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、與(あたへ)ん。」

と、いふに、奴は歸れり。

 好隣、よしなき約をなし、今はいかんとも、せんかたなく、師に苦(つげ)なば、呵責(しかり)を受《うけ》ん事を、おそれ、潛(ひそか)に、市中《いちなか》に於て、鉛刀(なまくら)一口(《ひと》ふり)、買求(かいもと[やぶちゃん注:ママ。])め、つくろひ磨礲(とき[やぶちゃん注:ママ。「とぎ」。研磨。])して、明日、奴、來りしかは[やぶちゃん注:ママ。]、則ち、是をあたへけるに、奴は、

「望み、足(たり)ぬ。」

とて、大《おほき》によろこひ[やぶちゃん注:ママ。]、厚く謝し、十金お[やぶちゃん注:ママ。「を」。]、送りて、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「礲」は音「ロウ」で、「とぐ・みがく」の意がある。]

 是より、かの奴は、坐卧行住(《ざ》くわかうぢう[やぶちゃん注:ママ。])、身を放さず、しばしのあいだも、わするゝ事なく、無比(うへもなき)の拱壁[やぶちゃん注:ママ。](たから)となして、祕襲(ひそう[やぶちゃん注:ママ。「祕藏」。])しけり。

[やぶちゃん注:「拱壁」「初期江戸読本怪談集」では、傍注で『璧』(へき:宝玉の意)の誤字とする。]

 さても、その后(のち)、好隣は、女色に感溺(おぼるゝ)癖、やまずして、ついに[やぶちゃん注:ママ。]師の怒りに触(ふれ)、さまざま、陳謝(わび)するといへども、許されずして、逐出(おいいだ)されければ、只得(ぜひなく)。その身は、郷籍(ふるさと)豐後國、蒲戶(かまど)か[やぶちゃん注:ママ。]﨑に歸りける。

[やぶちゃん注:「豐後國、蒲戶(かまど)か﨑」現在の大分県佐伯(さいき)市上浦(かみうら)大字最勝海浦(にいなめうらうらかまと)に蒲戸港があり、その東方に蒲戸崎(かまどざき)が延びている(グーグル・マップ・データ)。]

 渠(かれ)か[やぶちゃん注:ママ。]親、庄司(せうじ[やぶちゃん注:ママ。])は、冨貴(ふうき)の 農(ひやくせう)にして、屋宅(おくたく[やぶちゃん注:ママ。])・田圃(てんほ[やぶちゃん注:ママ。])、あまた、もち、庄司は、家を、好隣に、讓りあたへ、その身、落髮して、世の営(いとなみ)を息(やめ)ければ、好隣は、近邑(きんむら)の豪民(がうみん)何某か[やぶちゃん注:ママ。]女(むすめ)を、親迎(むかへ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]て、妻(さい)となし、琴瑟(ふうふ)の中も、むつましく、家を治め、業(げう[やぶちゃん注:ママ。])を守れり。

 一日《いちじつ》、好隣、早(とく)行(ゆく)事のありしか[やぶちゃん注:ママ。]、路(みち)の傍(かたわら[やぶちゃん注:ママ。])に、一人の少(わかき)女《をんな》の、容色、艷麗(ゑんれい)に鄙陋(いやし)からざるが、徒跣(すあし)にて、步みかね、木蔭(こかけ[やぶちゃん注:ママ。])に愒(やすら)ひ、立《たて》るあり。[やぶちゃん注:「愒」には「やすらう・休む」の意がある。]

 好隣、不圖、詞(ことは[やぶちゃん注:ママ。])をかけ、

「若き乙女の倶(ぐ)せる紀綱(ともひと)もなく、夙(とく)より、(ひとりあるき)し給ふは、いかに。」[やぶちゃん注:「紀綱」「紀」は「細い綱」、「綱」は「太い綱」の意で。これは「国家を治める上で根本となる制度や規則・綱紀」の意であり、「同行人」を指す語ではない。どうも、この篇、作者の過剰にして半可通な衒学的(ペダンティック)のひけらかし傾向が感じられ、ちょっと厭な感じがする。されば、以下、私の躓く部分以外は語注・字注をしないので、悪しからず。]

と問ふ。

 女、顧(かへりみ)て、ため息し、

「行路(ゆきし[やぶちゃん注:ママ。「ゆきぢ」。])の人、いかで、わか[やぶちゃん注:ママ。]心の愁(うれへ)を、しりなんや。心づくしの、問(とひ)ことかな。」

と、由ありげなる風情なりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、好隣、ちかく寄(より)て、

「女子《によし》、抑(そも)奚自(いづくより)、來りたまふ。年(とし)、幾許(いくばく)ぞや。何事のありて、愁へ給へる。試みに語り、御身の力(ちから)になり參らせん。」

と、念頃に尋(たづ)ぬ。

 女、そのとき、黯然(しほしほ)と、ふくめる淚をぬぐひて、[やぶちゃん注:「黯」は底本では「黒」の(れっか)が下方全体に広がった字体(右丁後ろから二行目下方)。「暗い」の意。なお、「初期江戸読本怪談集」(玉川大学図書館蔵本底本)では、『黙』と起こしてある。]

「嬉しき人の仰(おゝせ[やぶちゃん注:ママ。])かな。行路の人にはあらて[やぶちゃん注:ママ。]、君は我か[やぶちゃん注:ママ。]爲の鮑叔(ほうしゆく)なりしそよ[やぶちゃん注:ママ。]。何をか匿(かく)し參らせん。妾(せう)は、當國、西の浦の漁夫の女《むすめ》、とし十八歲なるが、幼き時、父母におくれ、伯父(おば[やぶちゃん注:ママ。])なる者に育はれしに、伯父の子、賭博(ばくゑき[やぶちゃん注:ママ。])を好み、家資(しんだい)、みな、烏有(うゆうと)なし、近頃、伯父も死し去りしかば、妾に、せまり、豪民(かうみん[やぶちゃん注:ママ。])何某か[やぶちゃん注:ママ。]家に、妾を、身價(みのしろ)十金にうり、その金をとりて、行衞知れずになりぬ。妾か[やぶちゃん注:ママ。]うられつる朱門(いへ)の、嫡(ほんさい)、嫉妒[やぶちゃん注:「妒」は「妬」の古形。]、つよく、妾を、昼夜、罵詈(のゝしり)、楚捷(うちたゝ)く事、やむ間なくて、その苦しみ、いわんかたなし。『よしや、深き淵に此身を沈め、乃邊に輕體(からだ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を弃(すつ)るとも、此くるしみを受(うけ)るには、勝りなん。』と、夜は紛(まき[やぶちゃん注:ママ。])れて、のかれ[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)ぬ。」

と、語りも、あへぬに、淚、雨のことく[やぶちゃん注:ママ。]に泣(なく)。

 好隣か[やぶちゃん注:ママ。]いふ。

「息壤(やくそくのことば)、前に、あり。こゝろのかきり[やぶちゃん注:ママ。]は、力に、なりまいらせん。幸《さひはひ》、敞𢨳(わかいへ[やぶちゃん注:ママ。])近きにあれは[やぶちゃん注:ママ。]、いざ、たちより給へ。」

と、手を携へて、おのか[やぶちゃん注:ママ。]別莊に俦(ともな)ひ、[やぶちゃん注:「携」は異体字のこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので、かく、した。以下も同じ。]

「此所《ここ》は、常に人の出入事《でいりごと》もなければ、心やすく安歇(やすみ)たまへ。」

と、饔飱(したゝめ)など、いたさせ、彼これ、遺(おち)なく、世話すれば、女か[やぶちゃん注:ママ。]云、[やぶちゃん注:「饔飱」「饔」は「食物」、特に「よく煮た食べ物」の意、「飱」は「夕食」の意。]

「おもひよらす[やぶちゃん注:ママ。]、君に逢(あひ)まひらせ、かく、あわれみを受(うけ[やぶちゃん注:ママ。])べしとは。肝に銘じ、大恩、忘(わすれ)侍らし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、愁眉(しうび)をひらき、笑(わらい[やぶちゃん注:ママ。])をふくめる姿、西施が五湖に携(たつさへ[やぶちゃん注:ママ。])られ、蔡文姬(さいぶんき)か、胡國(ごこく)を逃(のが)れし、歡(よろこ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]も、かくや、とばかりに、おぼへ、もとより、淫男(たわれお[やぶちゃん注:ママ。])の好隣、心地(こゝち)、まどひ、[やぶちゃん注:「蔡文姬」後漢の女流詩人蔡琰(さいえん 一七七年?~?)の字(あざな)。陳留(河南省)の人。後漢の学者蔡邕(さいよう)の娘で、父同様、博学であった。最初の夫と死別したのち、後漢末の動乱の際に匈奴に捕らわれ、左賢王の妻となって二子を産んだ。十二年後、蔡邕と親交のあった曹操が、邕に後継ぎがないことを哀れみ、琰を購(あがな)って帰国させ、のちに董祀(とうし)と再婚した。自らの数奇な生涯を歌った「悲憤詩」二首と「胡笳(こか)十八拍」が名高い。両詩篇は、その真偽を巡って古来より議論があるが、「悲憤詩」は唐の杜甫の「北征」などに影響を与えたとされている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

「いかで、此儘、やみなん。」

と、その夜は、榻(しぢ[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:ここは「寝台」のこと。]をともになし、巫陽(ふやう)の夢路(ゆめぢ)を倡(いざ)なひける。[やぶちゃん注:「巫陽の夢路」は「楚辞」にある、天帝が屈原の魂が彷徨っているのを憐れんで、この世に呼び戻したという故事に基づく。「巫陽」はその際に道術を使った巫女(ふじょ)の名である。]

 これより。好隣は、此女か[やぶちゃん注:ママ。]事、忘れがたく、本莊(ほんそう)には、しばしも居《ゐ》ず、夜ことに[やぶちゃん注:ママ。]行通(ゆきかよ)ひしかは[やぶちゃん注:ママ。]、好隣か[やぶちゃん注:ママ。]ほんさいは、賢女なりしが、日頃の偕老、かれかれ[やぶちゃん注:ママ。「枯れ枯れ」で「かれがれ」。]となりけるうへに、夫の顏色(かんしよく[やぶちゃん注:ママ。])、日々に、惟悴(しやうすひ[やぶちゃん注:ママ。])するを、あやしみ、一日《いちじつ》、詰(なし[やぶちゃん注:ママ。]。)り問(とひ)けるに、好隣、やむ事を得ず、かの女か[やぶちゃん注:ママ。]ことを語りたり。

 妻は、妬(ねた)める色もなく、

「『嫁眉(いろ)は、性(せい)を伐斧(きるおの)。』とやらん聞(きゝ)ぬ。色にふけりて、隕身(ほろぶる)もの、古今、その例、おゝし[やぶちゃん注:ママ。]。况(まし)てや、野合(やこう[やぶちゃん注:ママ。])のいたづらもの、出處(しゆつしよ)も、明白(さだか)ならず。必《かならず》、渠(かれ)に蠱惑(まどわ[やぶちゃん注:ママ。])され給ふな。」

と、諫(いさむ)といへども、一向、承引せず、却て、是を、

「嫉妒なり。」

と、罵りて、妻(さい)を疎(うと)み、いよいよ、女か[やぶちゃん注:ママ。]もとに行(ゆく)ほどに、いつしか、精髓(せいずい)、枯竭(かれつき)て、肌肉(きにく)、次第に羸瘦(るいそう)し、病《やまひ》》を得て、別莊に打卧(うちふし)、數日(すしつ[やぶちゃん注:ママ。])、本莊(ほいいやしき)に歸らず。

 妻は、不安(こゝちもとなく)おもひ、

「そも、いかなる花月妖(いたづらおんな[やぶちゃん注:ママ。])なれば、わが夫をは[やぶちゃん注:ママ。]、かくまで、沈溺(まよわ[やぶちゃん注:ママ。])するやらんぞ。」

と、

「覘來(うかゝひ[やぶちゃん注:ママ。]《きた》らん。)

と、一夜(あるよ)、密(ひそか)に、侍婢(こしもと)を倶(ぐ)し、別莊に行《ゆき》見れば、門は、かたく鎖(とざ)して、燈《ともしび》、微(かすか)に、見へたり。

 月、さし入《いり》たるに、庭の垣(かき)、狗竇(いぬあな)あるを幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に、くゝり[やぶちゃん注:ママ。]入《いり》、伺ふに、障子に、かげは、写りぬれども、物語(ものかたり)の声も、聞へず。

 忍びて、廡下(のきば)に、さしより、𨻶(ひま)より、裏面(うち)を覦見(のぞき《み》》れば、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])好隣は、牀蓐(とこ)に卧(ふし)、昏々(こんこん)と熟睡せし躰《てい》なり。

 かの妾《せう》と覚しく、妹(かはゆき)女の、側(かたわら[やぶちゃん注:ママ。])に在(あり)て、好隣か[やぶちゃん注:ママ。]顏色を、つくづく游睇(ながめ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]居《をり》けるが、俄に、宛轉(ゑんてん)たる嫁眉(かび)、変じて、煤(すゝ)のことく[やぶちゃん注:ママ。]に黒み、両眼、鏡(かゝみ[やぶちゃん注:ママ。])のことく[やぶちゃん注:ママ。]光り、一室(《いつ》しつ)の中(うち)を、てらし、嬋娟(せんげん[やぶちゃん注:容姿のあでやかで美しいさま。「せんけん」以外に濁音表記もある。])たる雲の髮(びんづら)、化(け)して、棘(おとろ[やぶちゃん注:ママ。])の髮と、乱れ、皤腹(おゝいなる[やぶちゃん注:ママ。]はら)[やぶちゃん注:「皤」自体に「腹が大きい」の意がある。]、ちゝめる[やぶちゃん注:ママ。]頭(かしら)・手足、岐(みつかき[やぶちゃん注:ママ。「蹼(みづかき)。」])ありて、龜(かいる[やぶちゃん注:ママ。蛙。挿絵は巨大な蟇蛙(ひきがえる)である。])に似たり。

 

Hippuseisin1

[やぶちゃん注:底本の大型画像はこちら。]

 

 舌を延(のべ)て、好隣か[やぶちゃん注:ママ。]惣身《そうしん》をなめけり。

 まことに、威怖(おそろしき)ありさま、いはんかたなく、

「こは。淺間(あさま)し。」

と、好隣か[やぶちゃん注:ママ。]妻は、毛骨《まうこつ》[やぶちゃん注:ここは一身全体の意。]、竦然(しようぜん)として、魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])、体(たい)に、つかず、走り、外面(そとも)に出《いで》つゝ、侍女に、かくと、語りも、あへず、足にまかせて、もろともに、本莊(《ほん》そう)に迯(にげ)かへりぬ。

 一夜をあかすこと、三秋のおもひにて、暁(あけ)にいたりて、疾(とく)、家の長(おさ[やぶちゃん注:ママ。])何かし[やぶちゃん注:ママ。]を呼(よび)て、申《まふし》けるは、

「籃輿(かご)を奴僕(けらい)に扛(かゝ)せて、別莊の夫を、むかへかへるべし。」

といふに、いそき[やぶちゃん注:ママ。]、各々、別莊にゆき見るに、好隣、すでに、病(やまひ)に卧(ふし)てより、此女、愈(いよいよ)、側(そば)を去(さら)ずして、日夜朝暮、雲雨(うんう)の情(じやう)を、いとみ[やぶちゃん注:「挑(いど)み」であろう。]、魚水(きよすい[やぶちゃん注:ママ。])の契り、止む事なさに、よしちかも、少しく、心に厭(いとへ)ども、身體(しんたい)を、くるしめ、跬步(あゆむ)事さへ叶わねは[やぶちゃん注:ママ。]、本莊に歸る事あたわず。[やぶちゃん注:「跬步」は現代中国語で「僅かな距離」を言う語。]

 せんかたなかりし折から、家の長、迎ひに來りけるを見て、大によろこび、歸らんとするに、此女、牢(かた)く率(ひき)とどめ、

「きみの病《やまひ》、舊(もと)、風寒(ふうかん)の外傷(くわいしやう)なれば、若(もし)、路次(ろし)にて、再(ふたゝひ)、風に能冒(あたり)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]玉《たま》わは[やぶちゃん注:総てママ。]、大事なり。唯(たゞ)、いつ迄も、此所にて、輔養(ほよう[やぶちゃん注:ママ。])し給へ。妾(しやう)、心を盡(つく)して、仕へまいらせ[やぶちゃん注:ママ。]、君か[やぶちゃん注:ママ。]平生(ひころ[やぶちゃん注:ママ。])の恩愛、萬分(まんぶん)の一ツをも、報ぜん。」[やぶちゃん注:「風寒」漢方医学で悪寒を代表症状とする症状を指す。現在の感冒・インフルエンザ等に相当する。]

と、淚、玉《たま》をあらそへば、さすがに、戀々(れんれん)として、別るゝに忍びさる[やぶちゃん注:ママ。]を、家長(おさ[やぶちゃん注:ママ。])、大《おほい》に女を叱りて、遠ざけ、强(しい)て、主人を輿(かご)にのせしめ、飛《とぶ》かことく[やぶちゃん注:総てママ。]家に歸りける。

 さて、妻は、よしちかにむかひ、前夜見しありさま、逸々(いちいち)に、ものがたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、夫は、始《はじめ》て、大に、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]、舌を吐(はい)て、物も、いわず。

 良(やゝ)ありて、淚を流して云《いふ》。

[やぶちゃん注:以下の語りは長いので、段落・改行・記号を加えた。回想の直接会話記号は鍵括弧で示した。]

「わか[やぶちゃん注:ママ。]命(いのち)。正(まさ)に盡(つき)ぬべし。われ、汝に包むべきにあらねば、巨細(ことごとく)、語りきかすべし。

 われ、若き時、京師(みやこ)の剣匠關何某か[やぶちゃん注:ママ。]家につかへ、名にをふ花の都、春は、東山のさくらを探ねては、島原(しまばら)の色香を思ひ、秋は桂川(かつらか[やぶちゃん注:ママ。]わ)の紅葉(もみち[やぶちゃん注:ママ。])を觀て、祗園の面俤(おもかけ[やぶちゃん注:ママ。])を慕ひ、目に絕(たへ)へ[やぶちゃん注:総てママ。]せぬ興(きやう)を催して、夜晝となく、翠帳紅閉(すいてうこうけい[やぶちゃん注:総てママ。])のうちに、うかれ遊び、更に、月日の流るゝを、しらず。或時、郭(くわく)何某か[やぶちゃん注:ママ。]亭にて、芳野といへる遊女と綢繆(かたらひ)、いもせの誓淺からぬ中に、夏は、森の下、すゞみ、連理のゑだを喩(たとふ)れは、冬はうつ見火(みび)[やぶちゃん注:「埋火」。]のもとに、鴛鴦(ゑんおう)の羽(は)をうちかさね、

「汝か心、鏡のことくならは[やぶちゃん注:総てママ。]、わか[やぶちゃん注:ママ。]心は、玉にひとしく。」

起請誓詞(きせいせいし)、いふも、くだくだしく、恩愛、たとふるにものなし。[やぶちゃん注:「綢繆」「ちうべう(ちゅうびゅう)」の当て訓。「睦み合うこと。馴れ親しむこと」の意。]

 是に仍(よつ)て、我か[やぶちゃん注:ママ。]鋳冶(かぢ)の業(わざ)も、わすれ果(はて)、師の怒りに逢(あひ)て、家を逐出(おひいだ)されけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、芳野か[やぶちゃん注:ママ。]事、露《つゆ》、わすられず、猶も、靑樓に、はまりて、不絕(たへず[やぶちゃん注:ママ。])通ひしに、いつしか、芳野は風(かぜ)の心地(こゝち)の煩(わつらひ[やぶちゃん注:ママ。])して、やまふ[やぶちゃん注:ママ。]の床に卧(ふし)、日々《ひび》に重(おも)りけるに、晝夜、側(そば)を、はなれず、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]に醫療を盡せども、効(しるし)、更になくして、苒荏[やぶちゃん注:「初期江戸読本怪談集」では編者の傍注があり、『荏苒』とある。荏苒(じんぜん)は「なすことのないまま歳月が過ぎるさま・物事が延び延びになるさま」の意。](しだい)に、よわりし故、

「こは。いかに。」

と、遽(あはて)まとひ[やぶちゃん注:「遽」は異体字だが、表示出来ないので通用字とした。]、神祠(しんし)に祷(いのり)、佛寺にいのりて、心のかきり[やぶちゃん注:ママ。]、芳野か[やぶちゃん注:ママ。]病、愈(いへ[やぶちゃん注:ママ。])なん事を、悲しみ、求むれども、造化(そうくわ[やぶちゃん注:ママ。])の小兒(しやうに)[やぶちゃん注:病気の擬人法。]、付纏(つきまと)ひて惱(なやま)し、無常の風、吹來《ふききた》りて、誘引(ゆういん)するを如何(いかん)。

 十八歲の暁(あかつき)に、地水火風の假(かり)の世を、空しく見なして、果(はて)にけるにぞ、狂氣のことく[やぶちゃん注:ママ。]に、精神、乱れ、甲斐なき亡骸(ぼうがい[やぶちゃん注:ママ。])、肌(はだへ)に抱(いだ)き、紅淚、膓(はらわた)を断(たつ)といへども、いかにとも、せんかたなく、枕に残りし薬のみそ、恨めしく、かくても、有(ある)べき事ならねば、亭(うち)の長(てう)[やぶちゃん注:芳野を抱えていた遊廓の主人。]と議(はかり)て、鳥部野一片の烟(けむり)となせしが、相應に吊《とふ》らひして、墓間(はか)の供養、怠たらず。

 已(すで)に七七《なななぬか》の忌日にあたりしかは[やぶちゃん注:ママ。]、夙(とく)、起出(おき《いで》)て芳野か[やぶちゃん注:ママ。]墳(つか)に詣(まいり[やぶちゃん注:ママ。])、香花(かうはな)を手向(たむけ)んとするに、石の印(すりし)のうへに、一の蛙(かはづ)、在(あり)けるが、我か[やぶちゃん注:ママ。]面《おもて》を、つくづくと見て、両眼に、淚を流す事、雨のことし[やぶちゃん注:ママ。]

 奇異の事におもひしか[やぶちゃん注:ママ。]、翌日、また、行《ゆき》、見るに、蛙、その所を、去らす[やぶちゃん注:ママ。]居《ゐ》て、我を見ては、淚を流す。

「是こそ、日ころの誓詞に、心を残し、死たる女の、幽鬼(ゆうき)[やぶちゃん注:「幽」は異体字だが、表記不能のため、通用字とした。]、蛙と変し[やぶちゃん注:ママ。]たるにや。よし、さもあらは[やぶちゃん注:ママ。]あれ、わか[やぶちゃん注:ママ。]三世《さんぜ》を約せし妻の、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]、陽間(このよ)に於《おい》て、相逢《あひあ》ふは、かの漢宮の李夫人の、武帝に見《まみ》え、楊大眞が玄宗に値(あい[やぶちゃん注:ママ。])し例(ためし)に同し。」

とて、かの蛙にむかひて、さまさまに、私語(さゝめこと)し、平生《へいぜい》の哀情(あいじやう)を訴ふに、蛙の姿は、きへ[やぶちゃん注:ママ。]うせて、それより後、再ひ[やぶちゃん注:ママ。]見えす。

 かくて、故郷に歸りしに、老親、われに、家をゆすり[やぶちゃん注:ママ。]、御身を迎へて、年月、かさね、芳野か[やぶちゃん注:ママ。]事も、諺にいふ、『去るもの日々に疎(うと)く』して、思ひ出す事も、なかりし。

 然《しか》るに、往(ゆき)つる頃、路次《ろし》にて、邂逅(ゆきあひ)し女に、不圖、心を迷はし、戀慕のきづな、きれども、きれず、煩惱の火、逐(おへ)ども來り、見ぬ夜をかこては[やぶちゃん注:ママ。「かこちては」。]、逢(あは)ぬ夕べを、うらみ、以前、芳野と、ちきり[やぶちゃん注:ママ。]しに、少しも違はぬ、恩愛なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、さては、渠(かれ)か[やぶちゃん注:ママ。]、生(しやう)を更(うけ)て、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]我に見へしなるへし[やぶちゃん注:ママ。]。縱(たとへ)、われ、かれと、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])て、別莊にゆく事なく共《とも》、かれ、かく迄、我に、執心、残す。終(つい[やぶちゃん注:ママ。])には、死㚑(しれい)の為に、一命を、失ふべし。」

と、語(かたり)、鏡を、とりて、面《おもて》を映(うつ)し、始て、わがかたちの、枯稿(おとろへ)たるを見、淺間敷(あさましく)おぼへげれば、

「かくては、黃泉(かうせん)のみち、遠かるまじ。身のうへを、占(うら[やぶちゃん注:ママ。])ひ見ん。」

と、夫《それ》より、好隣は、衣を、とゝのへ、强(おし)て立(たつ)て、家人に扶(たすけ)られ、市中《いちなか》、賣卜(うらなひしや)の肆(みせ)に、いたりぬ。

 好隣、算命者(うらないしや[やぶちゃん注:ママ。])にむかひて、支干(しかん)を告(つけ[やぶちゃん注:ママ。])、卦(くわ)を賴むに、算命(うらなひ)、一卦を、もうけ、見るに、「履(り)」の卦に當りたり。

 曰(いはく)、

「履虎尾不ㇾ咥ㇾ人。(とらの、をゝふむ。ひとを、くわ[やぶちゃん注:ママ。]ず。)」

 先生いわく[やぶちゃん注:ママ。]

「危(あやう)きかな。されども、うらかた、あしき事、なし。今宵、汝か[やぶちゃん注:ママ。]家に、客(かく)あり。これ、吉(きつ)を司(つかさど)る。此客、よく、恠(くわい)を驅(のぞく[やぶちゃん注:ママ。])くべし。」

と判斷するに、好隣、少し、心易く、急き[やぶちゃん注:ママ。]、家に、かへり、其日、暮かたに、一人の士(さむらひ)來り、

「某(それがし)は、東國の矦家(かうけ[やぶちゃん注:ママ。])に仕へる稗官(かるきぶし)、曾根平内(そねへいない)といふものなり。主用にて、西國に趣くが、日暮るゝによつて、貴莊を、一夜、かり明(あか)さん。何卒、許容あれかし。」

といふに、好隣、いそき[やぶちゃん注:ママ。]、坐敷に通し、臧獲(けらい)を咄嗟(げち)して、酒(さけ)・肴(さかな)・飯《めし》までを、新鮮(きよらか)に調理せしめ、慇勤[やぶちゃん注:ママ。](いんぎん)に執成(とりなし)けるに、客、大によろこひ[やぶちゃん注:ママ。]て、元より、田舎武士の、禮儀をも、しらす[やぶちゃん注:ママ。]、酒・肴・飯まて[やぶちゃん注:ママ。]を、飢(うへ[やぶちゃん注:ママ。])たる鷹のことく[やぶちゃん注:ママ。]、給終(たへおわ[やぶちゃん注:総てママ。「食べ終(をは)」。])り、その身は、滿醉(まんすい)して、床に入《いり》て臥(ふし)、鼾睡(いびき)、牛のことく[やぶちゃん注:ママ。]なれば、好隣は、

『案に相違して、我《われ》此客を怙(たのみ)て、妖鬼を除き、災害(わさはひ)を免(まぬか)れんと、思ふ所に、此客、かくのことく[やぶちゃん注:ママ。]に醉臥(よひふし)たり。いかゞはせん。』

と、案事(あんじ)けるか[やぶちゃん注:ママ。]、せん方なければ、燈燭(あかり)、白昼(はくちう)のことく[やぶちゃん注:ママ。]に、てらし、その身は、客の側(そば)に卧(ふし)て、猶、動靜(ようす)をうかゝふ[やぶちゃん注:ママ。]に、既に夜半の頃、暴風、一陣(《ひと》しきり)、

「さつ」

と、吹通《ふきとほ》り、戶の外(そと)に、もの音し、

「薄情(はくぜう[やぶちゃん注:ママ。])の郞君(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])、いづくに、あるや。何とて、我を弃(すて)しや。あら、うらめしの郞君や。」

と、呼(よば)わる[やぶちゃん注:ママ。]その声、軒端(のきば)の嵐(あらし)に、はげしく、耳もとに、ひゝきけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、好隣は、亡論(もと)より、家内の男までも、肝をけし、驚き、噪(さは)ぎ、かの客を、喚起(よび《おこ》)さんとするに、はや、妖鬼は、せまり來て、一重(《ひと》へ[やぶちゃん注:ママ。])の隔(へだて)は、

「ものかは。」

と、戶を蹴放(けはな)して、飛入《とびい》る所に、

「錚然(はつし)」

と、ひゞきて、かの客の、枕もとなる襆(つゝみ)の中より、一すじ[やぶちゃん注:ママ。]の小虵(《こへび》》、顯《あらは》れ、鱗(うろこ)の光は、金・銀・珠玉、紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。])の舌を巻(まき)て、たゞ、ひとのみと、かゝりける。

 

Hippuseisin2

[やぶちゃん注:底本の大型画像はこちら。

 

 妖鬼は、たちまち、色(いろ)をうしなひ、あわてゝ、外へ、しりそき[やぶちゃん注:ママ。]出《いづ》るを、小虵は、追缺(おつかけ)、逐廻(おひまは)し、その疾(はやき)事、風(かぜ)のごとし。

 終《つひ》に、妖鬼に、とひ[やぶちゃん注:ママ。]かゝり、鮮血、

「颯(さつ)」

と、はしるとみヘしか[やぶちゃん注:ママ。]、妖鬼の姿は、いつく[やぶちゃん注:ママ。]ともなく、きへ[やぶちゃん注:ママ。]うせたり。

 只、一口(《ひと》ふり)の刀(かたな)のみ、外に殘りて、小虵の形は、見えざりしに、かの武士、此もの音に、驚き、目覚(《め》さめ)て、枕もとを見るに、

「我か身命(しんめい)の、かゝる宝貨(ほうくわ)は、何ものか、盜みしや。」

と、寢間を探し、戶外《こがい》を尋ねるに、宝剣、落《おち》てあるを、削(さや)[やぶちゃん注:本来の「削」は刀の鞘の意であるので誤りではない。]に、おさめ、襆《つつみ》の中に、押入《おしいれ》て、枕とし、再(ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。])、卧しにけり。

 好隣か[やぶちゃん注:ママ。]小蛇と思ひしは、彼(かの)刀なり。

 ほとなく[やぶちゃん注:ママ。]、晨光(あさひ)、東の窗(まど)を輝(斯くやかし)けるに、家來のものも、起出《おきいで》て、戶の外を見せしむるに、血、夥しく、流れたり。

 跡を、引尋(ひき《たづ》)ね、遙々(はるはる[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。])ゆくに、別莊にいたりて、止(とゞ)まる。

 各々(おのおの)、坐敷に入《いり》、見るに、盤(たらい[やぶちゃん注:ママ。])に齊(ひと)しき、蛙《かいる》、あり。

 頭腦(づのう[やぶちゃん注:ママ。])を、裂(さか)れて、朱(あけ)に染(そみ)、死し居《ゐ》たりしを、みなみな、集(あつま)りて、是を觀(みて)、大きに驚き、やかて[やぶちゃん注:ママ。]穴をふかく堀(ほり)[やぶちゃん注:漢字はママ。]、蛙の尸(かばね)を葬(ほうむ)り、墳(つか)を築(きづ)いて、「蛙塚(かいるづか)」と名付《なづけ》、今にかの所に殘れりと云《いふ》。

 此後、好隣か[やぶちゃん注:ママ。]家には、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])て怪事なかりしかは[やぶちゃん注:ママ。]、好隣夫妻、悅ひ[やぶちゃん注:ママ。]、不斜(なのめなら[やぶちゃん注:ママ。返って読めということらしい。])。

 かの客、曾根平内を、數日(すじつ)、滯留なさしめ、饗應、心を盡し、さて、好隣は、平内に向(むかい[やぶちゃん注:ママ。])て、いわく、

「御身の所持し給ふ刀は、いかなる名工の作なれば、かゝる奇瑞のありけるぞや。某(それがし)も、むかしは、鋳剱(とうけん)を学びし故、許多(あまた)の剱を見侍れども、未た[やぶちゃん注:ママ。]、かゝる事をは[やぶちゃん注:ママ。]、聞《きき》も及はす[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いふに、平内、襆《つつみ》の中《うち》より、錦(にしき)の袋を、とき、一挺(《ひと》ふり)の刀を取出《とりいだ》し、好隣に見する。

 好隣、見るに、銘もなく、漫理(みだれやき)なれども、鉛刀(なまくら)にひとしき、鈍剣(どんけん)、更に賞ずべき所、なし。仍(よつ)て、再ひ[やぶちゃん注:ママ。]驚き、不審、晴(はれ)やらねば、平内、その時、語《かたり》ていわく、

「抑(そも)、此刀は、徃昔(そのむかし)、京師(みやこ)に名高き剱匠(かぢ)関何某か[やぶちゃん注:ママ。]鋳(うち)給ふ所なり。某、匹夫(ひつふ)たりしとき、山﨑の邑(さと)、農民の家に傭(やとわ[やぶちゃん注:ママ。])れ、あり。兼て、関氏の剱を聞及(きゝおよ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、望(のぞみ)、限りなく、よつて、耕作の暇(いとま)には、薪(たきゞ)を折(おり[やぶちゃん注:ママ。])、荷を擔(になひ)、しばしも、息(やす)む間なく、人の役(えき)をなして、賃(ちん)を取り、家に有《あり》ては、冬夜に、寒嚴(かんげん)を單(ひとへ)の衣(きぬ)に凌(しの)ぎ、三度の飯(めし)も減じ、飢を春の日の長きに忍(しの)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、月下に索縄‘なはなひ」、星(ほし)を戴(いたゝき[やぶちゃん注:ママ。])て起(おき)、三年のあいた[やぶちゃん注:ママ。]、風雨・雷電・寒暑のいとひなく、積貯(つみたくわ[やぶちゃん注:ママ。])へたる、十金の價(あたい[やぶちゃん注:ママ。])にて、やうやうに、求め得たる剣(けん)なり。仍(よつ)て、身に添(そう[やぶちゃん注:ママ。])影のことく[やぶちゃん注:ママ。]に秘臟(ひそう)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。]し、深山(しんざん)に入(いる)時は、魑魅魍魎のおそれなく、闇行(あんこう[やぶちゃん注:ママ。])には、狐狸盜賊の難をのかれ[やぶちゃん注:ママ。]、わか[やぶちゃん注:ママ。]精神、偏(ひとへ)に、此剣の外に、なし。」

といふ。

 よしちか、是(これ)におゐて[やぶちゃん注:ママ。]思ひ出《いだ》し、

『是社(こそ)、已前、己(おのれ)か[やぶちゃん注:ママ。]、市(いち)にて買求め、あざむいて、渠(かれ)にあたへしが、渠、三年の艱苦(かんく)を嘗(なめ)て後、調得(とゝのへえ)たりし。十金を貪取(むさぼり《とり》)たる冥罰(めうばつ[やぶちゃん注:ママ。])、自然(しぜん)と報い來て、既に妖鬼の祟(たゝり)を受(うけ)、命を失わん[やぶちゃん注:ママ。]とせしに、われ、却《かへつ》て、かれか誠心(せいしん)、名剱と思へる精神(たましい[やぶちゃん注:ママ。])の、鉛刀(ゑんとう[やぶちゃん注:ママ。])の切先(きつさき)に入《いり》て、かゝる奇瑞を、顯しけるゆゑ、萬死(まんし)をまぬかれし事、古今未曾有の奇事也。』

とて、始て、

「己(おの)か[やぶちゃん注:ママ。]身の上を、かたり聞せ申《まうす》べし。徃昔(そのむかし)、給(ざむひ)て[やぶちゃん注:前に同じ。「紿」の誤字。]、此鉛刀《なまくら》を賣(うり)し事を、さんげし、御身、實に、わか[やぶちゃん注:ママ。]師の剣を望み給はゝ[やぶちゃん注:ママ。]、わか[やぶちゃん注:ママ。]所持せし、刀、一ふりあり。これぞ、まことに關何某、百日、注連(しめ)を張り、斎(ものいみ)して、鋳(うち)たる名作なり。御身の鉛刀の、奇瑞には、及ばし[やぶちゃん注:ママ。]。なれども、鉛刀だに、精神《たましひ》、凝(こつ)ては、奇瑞あり。いわんや[やぶちゃん注:ママ。]、名剣に於ておや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、則(すなはち)、取出《とりいだ》し、

「價(あたい[やぶちゃん注:ママ。])に不及(およばず)なり。」

と、平内に、あたへ、また、以前、給《あざむ》[やぶちゃん注:同前で誤字。]きとりし、十金の代《しろ》を返し、外に五十金を贈り、

「御身は、わか[やぶちゃん注:ママ。]再生(さいせう[やぶちゃん注:ママ。])の父母(ふぼ)なり。」

とて、夫婦、厚く謝しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、平内も、不測(ふしぎ)の事にあひて、年の假念(けねん)を晴(はら)し、まことの名剣を、得るのよろこび、おゝかた[やぶちゃん注:ママ。]ならず。[やぶちゃん注:「」「多」の異体字。]

 夫(それ)より、別れて、發足(ほつそく)せし、となり。

 

怪異前席夜話卷之三終

 

2023/07/28

怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 巻之二 「二囘 狐鬼 下」(巻之二は本篇のみ)

[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。

 また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 なお、本話は「巻之一」の「二囘 狐精鬼靈寃情を訴ふる話」の続篇であるので、そちらを読まれていない方は、まず、そちらから読まれたい。

 

 怪異前席夜話  二

 

怪異前席夜話巻之二

   〇狐鬼(こき) 下

 斯面(かくて)つく[やぶちゃん注:ママ。「次ぐ」。翌日。]の夕べ、蘭(らん)は藥(くすり)を携へきたりて、暁(さとあき)明に、すゝむ。

 暁明、その時、戲(たわむれ[やぶちゃん注:ママ。])て云(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])けるは、[やぶちゃん注:前回分で述べたが、「携」は異体字のこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので、かく、した。以下も同じ。]

「汝を、『きつねなり。』といふ人あり。我は信にせずといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、傳へきく、『狐は、人を惑(まどは)するものにて、その人、かならす[やぶちゃん注:ママ。]、命(めい)を失ふ。』といへり。こゝにおゐて、少しく、おそれなきにあらず。」

 蘭、是を聞(きゝ)て、忽(たちまち)おとろき[やぶちゃん注:ママ。]

「何人《なんびと》か、我を、きつねと、いふしや。」

と問《とふ》。

 暁明、うち笑ひて、「是や、わか[やぶちゃん注:ママ。]一時の戲言(たはむれ)なり。」

 蘭[やぶちゃん注:ママ。]か、いわく、

「狐は、人を惑せども、人の命を害する事、なし。人を害するは、鬼霊(きれい)にて候覽(《さふらふ》らん。今、妾(せう)か[やぶちゃん注:ママ。]來(きた)るを知(しり)て、背後(かげ[やぶちゃん注:蔭。])にて、そしるものありと、覺ゆ。君、包まずして語りたまへ。」

 暁明、なを[やぶちゃん注:ママ。]、笑(わらつ[やぶちゃん注:ママ。])て、こたへず。

 蘭は、いよいよ責(せめ)て問。

 全方(せんかた)[やぶちゃん注:ママ。「詮方」。]なく、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に白露か[やぶちゃん注:ママ。]ことを語りしかは[やぶちゃん注:ママ。]、蘭、大《おほき》に、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]

「あれは、もとより、君の顏色(かんしよく[やぶちゃん注:ママ。])、憔悴(おとろへ)給ふを不思儀なりと覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しに、偖社(さてこそ)、君を蠱惑(まどわす[やぶちゃん注:ママ。])もの有《あり》けるよ。是、定《さだめ》て、人間に、あらじ。妾、しばらく、身を匿(かく)すべき間《あひだ》、きみ、かれを、まねき、密(ひそか)に、妾に窺(うかゝわ[やぶちゃん注:ママ。])せたまゑ[やぶちゃん注:ママ。]。その邪正(じやせい)を监定(めきゝ)すべし。」[やぶちゃん注:「监」「鑑」の異体字。]

と、おくの方にいりて、身を隱し居《を》るに、暁明、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、かの練絹(ねりきぬ)を、とり出して、手に弄(らう)すると斉(ひと)しく、白露、戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に來り、伺ふ。

 暁明、その手を携へて、坐敷に俦(ともな)ひ入(いり)、つねのことく[やぶちゃん注:ママ。]、もの語りするに、白露、よろこふ[やぶちゃん注:ママ。]氣(け)しきなく、いふけるは、[やぶちゃん注:俦「儔」(ここは「伴う」の意)の異体字。]

「君、すてに野狐(やこ)を愛し給ふ。妾、まことを盡(つく)すとも、ついに[やぶちゃん注:ママ。]秋の扇(おふき[やぶちゃん注:ママ。])と、すてられ、婕妤(しやうよ[やぶちゃん注:ママ。]「せふよ」が正しい。)が怨(うらみ)を懷(いだか)んのみ。」[やぶちゃん注:後半部は、班婕妤(はんしょうよ)の故事。班婕妤(班女とも呼ぶ)は前漢の女官(婕妤は女官の階級名)。成帝に仕えたが、寵を趙飛燕姉妹に奪われ、その後は退いて、太后に仕えた。君寵の衰えた我が身を秋の扇に喩えて作ったとされる「文選」所収の「怨歌行」、別名「団扇歌」は、その時の悲しみを歌ったものされ(但し、擬作とされている)、男の愛を失った女の喩えとして「秋の扇」という故事成句が出来た。]

抔(な)ど、言葉の終らざるうちに、奧のかたにて、咳嗽(しばふき[やぶちゃん注:ママ。])の声、しきりに聞へけれは[やぶちゃん注:ママ。]、しら露、遽(あわ)てる風情にて、

「君か[やぶちゃん注:ママ。]斉中[やぶちゃん注:以前にも出たが、「書斎の中」(実際には書斎を中心とした屋敷の意)。]は、外(ほか)に人ありと覺へたり。妾は、いそき[やぶちゃん注:ママ。]、歸らん。」

とて、

「ずつ」

と、はしり出《いで》て去る。

[やぶちゃん注:「咳嗽」通常、「しはぶき」と訓ずる。ここは、「わざと咳(せき)をすること・咳払い」の意。

「遽」の字は底本では異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、通用字とした。]

 此時、蘭、奧より出來《いできた》りけれは[やぶちゃん注:ママ。]、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]、いふ。

「汝は、今の、白露を、見しや。」

と聞《きこえ》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、蘭、ため息して、

「扨々(さてさて)、危(あやふ)き事かな。君か[やぶちゃん注:ママ。]命、風前(ふうぜん)の燈火(ともしび)、日かけ[やぶちゃん注:ママ。「日蔭」。]まつ間《ま》の蜉蝣(かけろう[やぶちゃん注:ママ。「かげろふ」。以上は、カゲロウ類が朝に生まれて夕べに死ぬとされたことから。但し、実際の同類や「カゲロウ」という和名を持つ複数の全くの別種類は(私の「橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(23) 昭和二十三(一九四八)年 百十七句」の「薄翅かげろふ墜ちて活字に透きとほり」の句の注を参照されたい)、実際には成虫の寿命はもっと短い種(最短では一~二時間)さえある。])のことし[やぶちゃん注:ママ。]。妾、今、かれを伺ふに人間にあらず。既に此世を秋風(あきかぜ)の、芒(すゝき)生出(おひ《で》)る斗《ばかり》なり。髑髏(されかうべ)にては候也。君、かれを、親しみ給ふときは、ついに、病、膏肓(かうかう[やぶちゃん注:ママ。「かうくわう」が正しい。])に入《いり》、䐡(ほぞ)[やぶちゃん注:「臍」の異体字。]を噬(かむ)とも益(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])なからん。願《ねがは》くは、此後(《この》のち)、かれと恩愛の情を割(さき)、ふたたび近づけ給ふな。」

といふに、暁明、笑《わらひ》て云《いひ》けるは、

「あのことき[やぶちゃん注:ママ。]淑女(たをやめ)、何をもつて髑髏とは、いふぞ。また、我病《わがやまひ》は、曽(かつ)て、なし。汝、さほどに、ねたみ給ふな。」

と、正色(まかほ)になりて、蘭に語れは[やぶちゃん注:ママ。]

「妾は、緣ありてこそ、同床(《おなじ》とこ)の恩を受(うけ)、君(きみ)の危きを見るに、うち捨(すて)もいかゝ[やぶちゃん注:ママ。]と、拯(すく)ひ參らせんとすれば、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、金言(きんけん[やぶちゃん注:ママ。])、耳にさからひ、却(かへつ)て嫉妬の名を、かうむる。悲しいかな、傷ましいかな。是より永く、訣(わk)れ參らせん。」

と、淚を流し、出行《いでゆ》けり。

 暁明、あわてゝ留《とどめ》んとせしか[やぶちゃん注:ママ。]、はやくも、姿は、見へさり[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 独(ひとり)殘りし暁明は、ぼう然として居《をり》けるに、

「よしや、芳野の[やぶちゃん注:底本では「の」は踊り字「ゝ」であるが、躓くので、かく、した。]中(なか)絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])て、妹背(いもせ)の山は隔(へだ)つとも、爰(こゝ)にも人のありけり。」

と、又、練絹を手に取れは[やぶちゃん注:ママ。]、白露、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]來りたり。

 暁明、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、かき抱き、

「我、汝を愛する事、璧(たま)のことしといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、汝を、『髑髏なり。』と、いふもの、あり。少しく、疑(うたがひ)、なきに、あらず。」

と、いふけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、白露、愕(おどろ)く面色(めんしよく)にて、淚を流し、

「是、察するに、野狐の精(せい)か。君と妾《せう》との恩愛を、嫉妒《しつと》[やぶちゃん注:「妒」は「妬」の異体字。]する心より、谗言(そらごと)[やぶちゃん注:「谗」は「讒」の異体字。]せしならん。もし、かれか[やぶちゃん注:ママ。]言葉を、誠とし給わゝ[やぶちゃん注:総てママ。「給はば」。]、妾は、ふたゝび、來るまし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]ひざにうち倒れて、暗々(さめさめ[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。])と泣(なく)すがた、正(まさ)に是こそ、昨夜、春風(しゆんふう)、惡(あし)く、桃李の花(はな)の散(ちり)なんとする粧(よそほひ)。

 暁明、心地(こゝち)まとひ、百計(とかふ[やぶちゃん注:ママ。副詞「とかく(兎角)」の変化した「とかう」の当て字・当て訓。「あれやこれや」の意。])慰め、

「今のこと葉は、戲《たはむれ》ぞかし。必、心に介(かけ)給ひぞ[やぶちゃん注:総てママ。「そ」でないと意味が通じない。]。」

と、是より、いやましの愛着(あいぢやく)、片時(へんし)の間(ま)も側(そば)を去(さら)しめず、昼夜(ちうや)、偕老同穴(かいらう《どう》けつ)のちかひは、いふもくたくたし[やぶちゃん注:総てママ。底本では後半の「くた」は踊り字「〱」。「くだくだし」。]

 かくて一月ほども過(すぐ)るに、暁明、ふと、病(やまひ)を得、身体、大《おほい》に困頓(くるしみ)、漸々(せんせん[やぶちゃん注:ママ。]底本では後半は踊り字「〱」。)に重(おも)るほどに、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、水も、咽(のど)に、くだらす[やぶちゃん注:ママ。]、粒類(ごく[やぶちゃん注:ママ。]《るゐ》)を食(くう[やぶちゃん注:ママ。])に、たちまち、呕出[やぶちゃん注:「呕」は「嘔」の異体字。但し、底本では、(つくり)の「区」の明いている右部分にもしっかり縦画があり、誤刻と思われる。]し、形(かたち)、甚《はなは》た[やぶちゃん注:ママ。]おとろへ、一絲(ひとすじ[やぶちゃん注:ママ。])の息(いき)は通(かよ)へども、精神、恍惚として、日《ひ》に、幾度(いくど)か、死し[やぶちゃん注:失神・気絶の意。]、また、甦(よみがへ)る。

 苦しきなかにも、白露か[やぶちゃん注:ママ。]、側《そば》に在(ある)を知つて、長嘆して、云けるは、

「我、悔(くへ[やぶちゃん注:ママ。])らくは、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]詞を用ひず、命(いのち)、旦夕(たんせき)に、せまりける。」

 白露、是を聞(きゝ)て、抑首(うつむき)て、更に、詞(ことば)、なし。

 暁明、今は、せん方なく、

「嗚呼(あゝ)、苦しいかな。」

と叫ひしか[やぶちゃん注:総てママ。]、忽(たちまち)に、目を瞑(ふさ)き[やぶちゃん注:ママ。]、やゝありて、蘇生(そせい)し、あたりを見れば、白露は、いつ地(ぢ)[やぶちゃん注:ママ。]へ行(ゆき)けん、姿は、見ヘず。

 暁明、いよいよ、後悔する所に、戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に、人、來《きた》るあり、声、低(ひきゝ[やぶちゃん注:ママ。])いふは、

「郞君(きみ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、妾(せう)か[やぶちゃん注:ママ。]詞《ことば》、今こそ、思ひ知らせ給はん。」

といふ。

 その声、正(まさ)しく蘭なれは[やぶちゃん注:ママ。]、暁明、あるひ[やぶちゃん注:ママ。]は、よろこび、或は、悲しみ、起(おき)んとすれども、身體(しんたい)重くて、心にまかせねは[やぶちゃん注:ママ。]、苦しき息をつぎて云《いふ》。

「我、汝に負(そむ)きたり。願くは、日頃の契り、空(むなし)うせず、命をすくひ得させよかし。」

 蘭、答《こたへ》ていふは、

「君か[やぶちゃん注:ママ。]病ひ、たとへ、扁藉(へんじやく[やぶちゃん注:ママ。「へんしゃ」が正しいか。ただ、この熟語、意味不明である。])、再生すとも、施すべき術《すべ》あらんや。妾、一旦、別れ參らせぬれども、日頃の夫妻の情(じやう)、忘れがたく、いとま乞(こひ)を爲(す)べきためにこそ、假(かり)に、再(ふたゝ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]見(まみゆ)るなり。」

 暁明、是を聞(きゝ)て、大に悲しみ、泪(なみだ)、漣如(はらはら)として、床の下より、一疋の練絹、とり出《いだ》し、

「只、恨めしきは、此《この》物件(もの)なり。われに代り、引(ひき)さき捨(すて)よ。」

と投出(なげ《いだ》)すを、蘭、とりあけて[やぶちゃん注:ママ。]、燈(あかり)の下におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、よくよく見るに、白露、斎の戶を、押明(おしあけ)、入り來りしか[やぶちゃん注:ママ。]、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]居《をり》たるを見、急に、迯(にけ[やぶちゃん注:ママ。])いださんとするを、蘭、走り出《いで》、抱《いだ》きとめ、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]まくらもとに、引來《ひききた》る。

 

Koki1

[やぶちゃん注:底本の大型画像はここ。] 

 

 暁明、恨(うら)める顏色(かんしよく[やぶちゃん注:ママ。])にて、

「わか[やぶちゃん注:ママ。]今日の危きに至るは、みな、汝か[やぶちゃん注:ママ。]所爲(なすところ)ぞかし。しかるに、我を捨行(すて《ゆき》し薄情(はくじやう)、うらみても、猶、うらめしけれ。」

 白露、是を聞《きき》、いわんとすれとも[やぶちゃん注:総てママ。]、むね、せまり、声さへ、出《いで》す[やぶちゃん注:ママ。]して、ひたふるに、雨の淚にむせへ[やぶちゃん注:ママ。]ば、蘭、笑《わらひ》て、いわく、

「今日《けふ》、始(はじめ)て、妻妾(さいせう)、相見(たいめん[やぶちゃん注:「對面」の当て訓。])する事を得たり。聞《きき》しに勝(すぐ)れる、美人。われ、女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])なれども、猶、憐(いとおし[やぶちゃん注:ママ。])む。いかに、况(いはん)や、男子たるもの、迷ひ玉へるも理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])りぞかし。抑(そもそも)、御身は、いかなるものぞ。來歷を、くわしく語り給へ。」

 しら露、淚を揮(ぬぐふ)て、いわく[やぶちゃん注:ママ。]

「妾、何をか、包むべき。誠は陽間(このよ)の人に、あらず。東邑(ひかし[やぶちゃん注:ママ。]むら)の庄屋、兒玉何某(こたま《なに》がし)が女《むすめ》なり。幼き時、父母を、うしなひ、伯母なるものに育(やしなは)れ、今年、十六歲の春、梢(こづへ[やぶちゃん注:総てママ。「こずゑ」が正しい。])の花と、ちり行《ゆき》し身のうへ、語り侍らんあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、聞《きき》て、憐み給へかし。妾か[やぶちゃん注:ママ。]隣家、棟を連ね、壁を隔てゝ、日下部左近(くさかべ《さこん》)と云もの、住(すめ)り。平生(へいぜい)、妾か[やぶちゃん注:ママ。]容色を愛(あいし)、或夜、伯母の留守を考(かんかへ[やぶちゃん注:ママ。])て、密(ひそか)に來りて、非道を行わん[やぶちゃん注:ママ。]とす。妾(せう)は、『人ならぬものに、身を汚(けが)さじ。』と、あへて從わず[やぶちゃん注:ママ。]、却(かへつ)て、罵(のゝし)り辱(はじ[やぶちゃん注:ママ。])しめければ、左近、大《おほい》に怒り、情なくも、妾を縱死(くひり[やぶちゃん注:ママ。]ころ)し、後(うしろ)の堤(つゝみ)の下に持行(もち《ゆき》》、深く埋(うづ)みて、去《さり》けり。その夜は、風雨、烈しくて、更に人の知る事なけれは、妾か[やぶちゃん注:ママ。]拄死(わうし)の寃(うらみ)をは[やぶちゃん注:ママ。]、訴(うつたへ)なん所なく、魂魄、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に消散せず、堤の邊りをはなれやらず。死したる時のすかた[やぶちゃん注:ママ。]にて、恥を世に揚(あげ)むとせし所に、君か[やぶちゃん注:ママ。]ふかき惠みを被(かふむ)り、妾か[やぶちゃん注:ママ。]首(くび)に纏(まとひ)たる、練絹を、とき玉わりし故、冥路(めいろ)の苦しみ、やゝ輕く、仍(なを[やぶちゃん注:ママ。])も、君を、たのみまいらせ、仇(あた[やぶちゃん注:ママ。])を報わん[やぶちゃん注:ママ。]爲《ため》、苟旦(かりそめ)の綢繆(ちきり[やぶちゃん注:ママ。])をなしぬ。此練絹こそ、妾か[やぶちゃん注:ママ。]此世の命を斷(たち)たる怨(うらみ)のきづな。人の、手にふるゝ時は、陽間(このよ)へ引《ひか》れ來て、姿を顯(あらは)し侍《はべら》ふ也。然るに、君との愛着《あいぢやく》、夜々《よよ》ことに[やぶちゃん注:ママ。「每(ごと)に」であろう。]加《まさ》り、うらみも、仇も、うちわすれ、云出《いひいだ》すべき心なく、月日を空しく過《すぐ》るうち、君、妾《せう》故《ゆゑ》に、重き病を受(うけ)給ふ。ちきり[やぶちゃん注:ママ。]し初(はじめ)、おもひきや、君、かく成果(《なり》はて)玉わん[やぶちゃん注:ママ。]とは。今は悔(くやみ)ても、あまりあり。願くは、御身、霊藥(れいやく)を用(もちひ)、君のいのちを、すくひ、妾か[やぶちゃん注:ママ。]幽冥の罪(つみ)を重ねずは、此恩、深く、感ずべし。」

と。

 亦、暁明に、うちむかひ、

「今こそ、君上(きみうへ)、永く訣(わか)れん。君、必《かならず》、藥(くすり)をふくし、御身を保ちたまへかし。」

と、紅淚、千行(《せん》かう)す、と、見えし姿は、失《うせ》て、練絹のみ、坐敷に殘り留《とどま》りぬ。

 暁明、始て、大におとろき[やぶちゃん注:ママ。]、あきれはてゝぞ、居《ゐ》たりける。

 蘭か[やぶちゃん注:ママ。]また、暁明に向《むかひ》ていわく、

「今は、何を包み申さん。妾《せう》も、是、人間にあらず。南山(なんざん)に年を厯(へ)て[やぶちゃん注:「厯」は「歷」の異体字。]、子孫、あまたもちたる狐にて、さむろふ[やぶちゃん注:ママ。]。此たひ[やぶちゃん注:ママ。]、人、ありて、府尹(ぶぎやう[やぶちゃん注:前編の冒頭に出た通り、「奉行」の当て訓。])に訟(うつた)へ、『南山を切(きり)ひらいて、墾(あらきばり[やぶちゃん注:新たに開墾することを言う。])して、新田とせば、大《おほい》なる民の利なり。』と、いふによつて、府尹、是に隨わん[やぶちゃん注:ママ。]とす。かくては、我か[やぶちゃん注:ママ。]すむ窟穴(ほらあな)、杲發(ほりあば)かれて、わが子孫も盡《ことごと》く殺されるの、悲しく、此事を止むべき人、君(きみ)ならであらし[やぶちゃん注:ママ。]と、假(かり)に人身《じんしん》に変(へん)し[やぶちゃん注:ママ。]、一夜は、東西に行《ゆき》て、食を求め、子孫の狐を、やしなひ、一夜は、來りて、君とかたらひ、かくまて[やぶちゃん注:ママ。]親しみ參らせぬ。然るに、君、今、重き病を得給ふ故、もし、死したまひなば、妾か[やぶちゃん注:ママ。]願《ねがひ》、果(はた)さゝる[やぶちゃん注:ママ。]事の悲しさに、凡《およそ》、日本六十八州の深山・幽谷[やぶちゃん注:底本では「幽」はこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので通用字で示した。]に、いたらぬくまもなく、あしにまかせて、奔走し、辛労(しんろう[やぶちゃん注:ママ。])して、やうやう、仙人石室(《せんにん》せきしつ)の霊薬(れいやく)を採得(とり《え》)、持來(もちきた)りはべる。是、見給へ。」[やぶちゃん注:「仙人石室の」深山の仙人が隠し部屋である石室に封じた秘密の仙薬。]

と、袖のうちより一包《いつぱう》の藥を出《いだ》し、また、云けるは、

「我か[やぶちゃん注:ママ。]本身《ほんしん》を語りし上は、暫くも留《とどま》るへき[やぶちゃん注:ママ。]にあらず。今は、まことに、別れ參らせん。願くは、君、此藥をふくし、病(やまひ)癒(いへ)給ふの後(のち)、妾《せう》か[やぶちゃん注:ママ。]ため、左擔(せわ[やぶちゃん注:「世話」の当て訓。])のちからを勞し、南山墾田(こんでん)の事を、止(や)め給わゝ[やぶちゃん注:ママ。]、生々(せいせい)の大恩、何事か、是に過(すぎ)ん。われ、君か[やぶちゃん注:ママ。]子孫の、冨貴長壽(ふうきてう[やぶちゃん注:ママ。]じゆ)ならん事を誓ひ候半《さふらはん》。」

と、云終(いひおわ[やぶちゃん注:ママ。])りて、立《たち》あかりしが、さすがに、恩愛、捨がたきにや、戀々(れんれん)として顧盼(ふりかへりて)、佇立(たゝずみ)て、泣居(なき《をり》)ける。

 暁明は、

「狐狸は、おろか、豺狼(さいらう)[やぶちゃん注:野犬やオオカミ。]の変化(へんげ)なりとも、かく迄、情(じやう)の深かりし、いもせのちかひ、此侭(このまゝ)に、いかてか[やぶちゃん注:ママ。]捨ん。」

と、起出(おき《いで》)て、引(ひき)とめんとするに、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]すがたは、はや、見えず。

 暁明、跌足(すりあし)して、泣(なく)といへども、爲方(せんかた)なく、屹(きつと)、心を定めて云《いふ》。

「此うへは、わかいのちを全ふし、渠(かれ)か[やぶちゃん注:ママ。]望(のぞみ)を果(はた)し得《え》させ、日頃のよしみを、報ぜん。」

と、枕の上にありける薬をとり、自(みづか)ら煎じ、腹[やぶちゃん注:ママ。](ふく)するに、精神、忽(たちまち)、爽(さはやか)になり、日を經て、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に本復(ほんぶく)す。

 こゝに於て、長崎の尹(いん)、何某邸(《なに》がしやしき)に行(ゆき)、

「かゝる不側(ふしぎ[やぶちゃん注:「不思議」の当て訓。])の事、侍りき。」

と、始《はじめ》より終り迄、一々、語り、

「南山新田開發の事、何とぞ、止(や)め給われ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、悲しみ、訴ふ。

 尹、おどろきて、

「奇異の事。」

とし、

「此度(《この》たび)、墾田(こんでん)の事を、ひそかに、我に、すゝむるもの、ありといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、他人、知るもの、なし。然るに、足下(そつか)、これを、いふ。是、霊狐(れいこ)の告(つぐ)る所、疑ふべきにあらず。心やすくおもひ給へ。此事を止めん。」

と、則(すなはち)、かの苦首(そしやうふん)[やぶちゃん注:「初期江戸読本怪談集」の本文(読みは「そしやうぶん」とある)では、「苦」の左に『(告)』と補訂注がある。「告首」は進言した当の本人の意であろう。後に示す挿絵では、月代を剃らず、ぼさぼさの頭であるから、姓もあればこそ、所謂、浪人者のようには見える。別な潘から流れてきたもので、相応の才覚は持っており、奉行に直接に提案するほどには取り立てられてはあった者であったのであろう。]、日下部左近を召(めし)て、

「此たひ[やぶちゃん注:ママ。]、新田、あらきばりの一件、無用たるべき。」

の、むねを、喩(さと)す。

 然(しか)るに、暁明、「日下部左近」か[やぶちゃん注:ママ。]姓名、きゝ申連(《まふし》たて)[やぶちゃん注:奉行が対象者の名を言ったのを「聴き申し上げたことろが」の意。]、かの白露(しらつゆ)を殺せし次㐧(しだい)を申《まうす》に、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]府尹、聞て、

「さては。渠《かれ》、かゝる惡行ありけるや。」

と驚きて、左近を、からめさせ、責問(せめとふ)ところに、

「覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なし。」

と陳(のぶ)る。

 

Koki2

[やぶちゃん注:底本の大型画像はここ。] 

 

 是によつて人、を遣(つかが)して、堤(つゝみ)の下を堀(ほら)[やぶちゃん注:漢字はママ。]らしむる所に、果して、女の死骸、出《いで》たり。

 斯日を經(へ)るといへども、少しも、朽(くち)ず、身体面容(しんたいめんよう)、生(いき)るかことし[やぶちゃん注:総てママ。]

 左近、是を見て、大におとろき[やぶちゃん注:ママ。]、毛骨(みのけ)、森然(しんぜん)として[やぶちゃん注:所謂、恐ろしさの余り、「総毛立つ」ことを言う。]、顏色(がんしよく)、土(つち)のことく[やぶちゃん注:ママ。]にして、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、白露を殺せし事を招(はくでう)す。

 府尹(ぶぎやう)、怒りにたへず、卽刻、左近を斬罪し、暁明に命(めい)し[やぶちゃん注:ママ。]、白露か[やぶちゃん注:ママ。]尸(かはね[やぶちゃん注:ママ。])をは[やぶちゃん注:ママ。]、ちかき寺院に葬(ほうむ)らしむ。

 その夜、暁明は、白露を夢みしに、彼(かの[やぶちゃん注:ママ。])の恩志を、厚く謝していわく[やぶちゃん注:ママ。]

「君の力をもつて、仇(あた[やぶちゃん注:ママ。])をほうじ、冥路の、寃魂消(えんこん[やぶちゃん注:ママ。])散し[やぶちゃん注:ママ。通常は「散じ」。]、天堂(てんとう[やぶちゃん注:ママ。六道の「人間道」の上の「天上道」のことであろう。]に生《しやう》を得たり。」

とて去りぬ。

 亦、暁明、一日(ある《ひ》)、南山に、いたりて、狐窟(こくつ)を、たづね、「蘭」に、今一たひ[やぶちゃん注:ママ。]見(まみ)ゑん[やぶちゃん注:ママ。]ことを、いのるに、窟中(ほらのなか)より、一匹の雌狐(めきつね)、あまたの小《こ》きつねを連(つれ)て出《いで》、暁明に、むかひ、首を、ふし、拜を、なして、また、穴(あな)に《いり》入たり。

 是よりのち、暁明は、儒業、いよいよ、すゝみ、門人數千にいたり、四方の士、みな、秦山・北斗のごとく、尊(たつと)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に府尹(ふきやう[やぶちゃん注:ママ。])の女(むすめ)を、めとり、子孫、多く、一門、枝葉(しよう[やぶちゃん注:ママ。])、蔓延(はびこり)し、冨貴に至る。

「今に、長崎に、その子孫あり。」

といふ也。

 

怪異前席夜話卷之二終

 

2023/07/26

怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 巻之一 「二囘 狐精鬼靈寃情を訴ふる話」 /巻之一~了

[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。

 また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ○狐精(こせい)鬼靈(きれい)寃情(ゑんしやう)を訴ふる話

 寬延之比、肥前國長崎に、一儒生、菅生圖書暁明(すげうづしよさとあき)といへるものあり。尹(ぶきやう)何某(《なに》かし[やぶちゃん注:ママ。])か[やぶちゃん注:ママ。]邸に出入《でいり》し、舌耕(かうしやく)を以て、五斗米(《ご》とべい)を宛行(あてかわ[やぶちゃん注:ママ。])れ、くちすき[やぶちゃん注:ママ。]となす。

[やぶちゃん注:「寬延」一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。

「尹(ぶきやう)」「奉行」の当て訓。「尹」(イン)は中国で官職の「長官」の意。本邦では「弾正台」(律令制で、非違の取締・風俗の粛正などを司った役所であるが、検非違使が置かれてからは形骸化した。江戸時代は武士の有名無実の名乗りに「弾正」が、よく用いられた。但し、ここは長崎奉行を指す。

「舌耕(かうしやく)」「講釋」の当て訓。才知ある弁舌。

「五斗米」 五斗の米(現在の約五升の米)で、ここは「年に五斗の扶持米」の意から、「僅かばかりの扶持米、則ち、俸祿(ほうろく)を指す。

「くちすき」「口過ぎ」。「食物を得ること」から転じて、「暮らしを立てること・生計・糊口(ここう)」の意。]

 ある夜、只ひとり、我家に坐するの處、密(ひそか)に、戶をたゝくの声(こへ[やぶちゃん注:ママ。])するを聞て、扉をひらけは[やぶちゃん注:ママ。]、一人の婦(ふ)、その姿色(ししよく)、美麗にして、傾國の珠(あてやか)なる。

 やかて[やぶちゃん注:ママ。「やがて」。]入りて、暁明に、むかひて、礼を述(のぶ)る。

 おどろきて、

「誰(たれ)。」

と問《とふ》に、

「妾(せう)は、丸山の遊女「蘭《らん》」といふものなり。君の芳名をきくによつて、敎(おしへ[やぶちゃん注:ママ。])を受(うけ)んことを願ふの日、久し。昼は、人の議論をおそるゝ故、夜にまぎれて、大膽(そつじ)に、きたりたり。」

といふ。

[やぶちゃん注:「丸山」は長崎の旧花街「丸山遊廓」として知られた町。現在の長崎市丸山町(まるやままち)及び寄合町(よりあいまち)附近に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「人の議論をおそるゝ」他人が見かけて、噂になっては、御迷惑を掛けると恐れて。

「大膽(そつじ)に」「卒爾に」の当て訓。「突然に・俄かに」。]

 暁明、

『奇なる女。』

と、おもひ、則(すなはち)、書(しよ)を取《とり》て讀(よま)しむるに、一たひ[やぶちゃん注:ママ。]誦(よみ)して了悟(さとし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]。

 問答・辨舌、水のなかるゝことし[やぶちゃん注:総てママ。]

 暁明、大《おほい》によろこひ[やぶちゃん注:ママ。]、手を携へていわく[やぶちゃん注:ママ。]、[やぶちゃん注:「携」は異体字のこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので、かく、した。後に出るものも同じ処理をした。]

「斉中(さいちう)[やぶちゃん注:書斎の内。]、幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に、人、なし。汝と、いもせの交(ましはり[やぶちゃん注:ママ。])をなさん事を、ほつす。」

 かの女も、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]、年わかく、容貌(ようぎ)[やぶちゃん注:「容儀」の当て訓。]、閑麗(かんれい)なるに、心動きしや、欣然として居たりし。

[やぶちゃん注:「閑麗」上品で美しいこと。雅やかで、麗しいさま。]

 これにおゐて[やぶちゃん注:ママ。]終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、雲と成(なり)雨と成るの情(じやう)、いとこまやかにして、暁(あけ)になりて、別れ去(さら)んとするに、蘭(らん)か[やぶちゃん注:ママ。]云(いふ)。

「妾(せう[やぶちゃん注:ママ。「せふ」が正しい。])、これより、隔夜(かくや)に來りて、枕席(ちんせき)を、すゝむべし。」

と約して、その暁(あかつき)は歸りぬ。

 かくて、綢繆(ちぎり)をなすほどに、互に、恩情、厚く、膠漆(かうしつ)のことく[やぶちゃん注:ママ。]なりしが、一日(あるひ)、暁明、近邑(きんむら)にゆきて歸るに、日、くれ、雨、そぼふりて、往來のひとも見へさる[やぶちゃん注:ママ。]闇(やみ)の路(みち)、堤のうへの、木、おひ繁りし下に、十四、五歲の女の、縊(くひ)れ[やぶちゃん注:ママ。]死(し)したるもの、あり。

[やぶちゃん注:「綢繆」「ちうべう(ちゅうびゅう)」の当て訓。「睦み合うこと。馴れ親しむこと」の意。

「膠漆」「にかわ」と「うるし」。接着剤。]

 

Satoaki1

[やぶちゃん注:底本の大型画像はこちら。] 

 

「怜《あはれ》むへし[やぶちゃん注:ママ。]。何《いづ》れの家の誰が子なるや。」

と、立寄(たちより)見れば、顏色(がんしよく)、生(いけ)るかことく[やぶちゃん注:総てママ。]、手足、動くやうにおぼへしまゝ、

『いまだ、死せずやありけむ。拯(すく[やぶちゃん注:ママ。])ばや。』[やぶちゃん注:「拯(すくは)ばや」の脱字。「拯」(音は現代仮名遣「ジョウ・ショウ」)は「救う・助ける」の意。]

と、おもひ、首(くび)にまとひし絹(きぬ)を、靜(しづか)に解(とき)すてゝ、樹上(きのうへ)より下(おろ)し、その容貌を、よく見れは[やぶちゃん注:ママ。]、玉顏(《ぎよく》かん[やぶちゃん注:ママ。])、櫻桃(ようとう[やぶちゃん注:ママ。])の雨に逢(あひ)、海棠(かいどう)の露(つゆ)を帶(おび)、睡(ねぶ)れることき[やぶちゃん注:ママ。]に、愈(いよいよ)、あわれ[やぶちゃん注:ママ。]におもひ、

「かゝる美人の、可惜(あたら)はなを、ちらせし事よ。」

と、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]つゝ、肌(はだ)を、とき、懷(ふところ)に入(いれ)、温(あたゝ)むるに、雪のことく[やぶちゃん注:ママ。]、脂(あぶら)に似て、たくひ[やぶちゃん注:ママ。]まれなる佳人なり。

[やぶちゃん注:「櫻桃」「あうたう」が正しい。この時代のそれは、双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa で、サクランボに似た実をつけることで知られるが、ここは、その花を指す。グーグル画像検索「ユスラウメ 花」をリンクさせておく。]

 とかくするうち、一條(《ひと》すじ[やぶちゃん注:ママ。])の息、出《いだ》し、目をひらきて、暁明を見、忽ち、再ひ[やぶちゃん注:ママ。]拜して云(いふ[やぶちゃん注:ママ。])けるは、

「妾《せふ》、今日《けふ》、强盜(がうだう)のために、縊(くび)り殺されしものなるか。君の拯(すく)ひによりて、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]蘇甦(そせい)し侍《はべら》ふ事、活命(くわつめい)の大恩、濸海(さうかい)・太山(たいさん[やぶちゃん注:ママ。])、たとふるに、たらず。」

[やぶちゃん注:「濸海」「滄海」に同じ。大海。

「太山」「たいざん」。ここは「大きな山」でよい。]

 暁明も、かれか[やぶちゃん注:ママ。]蘇生したるを見て、大《おほい》に、よろこひ[やぶちゃん注:ママ。]

「汝、いつ方[やぶちゃん注:ママ。「いづかた」。]の者ぞ。」

と問。

 こたへて、いわく、

「近邑(きんむら)の農夫のむすめ、名を「白露(しらつゆ)」といふ。父母、定《さだめ》て、妾(せう)を、たつねむ[やぶちゃん注:ママ。「尋ねむ」。「探しているでしょう」。]。はやく家路にかへり、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]君の住處(ぢうしよ[やぶちゃん注:ママ。])を訪(とひ)參らせ、活命の大恩を、報(むく)ひ奉らん。」

とて、堤(つゝみ)を下るを、暁明、

「我、汝か[やぶちゃん注:ママ。]家に送るべし。」

と、いへは[やぶちゃん注:ママ。]

「君、いまだ、年(とし)、少(わか)し。妾と一所(《いつ》しよ)に行(ゆき)たまはゞ、父母(ふぼ)の意(こゝろ)に、いかゞ思ふらめ。妾、ひとり、歸らん。」

とて、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、いつ地[やぶちゃん注:ママ。「何地(いづち)」。]に行(ゆき)けん、その行方(ゆきがた)を、見うしなふ。

 暁明は、心に、

『一ツの陰德(いんとく)を施しぬ。』

と、よろこび、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、家にかへりけるに、其夜、深更(しんこう)に及(およひ[やぶちゃん注:ママ。])て、斎(さい)の戶を、たゝく者、あり。

「誰(たれ)ぞ。」

と問へは[やぶちゃん注:ママ。]

「向(さき)に、すくひたまへる女なり。」

と答ふ。

 急き[やぶちゃん注:ママ。]、戶をひらけは[やぶちゃん注:ママ。]、入來(いりきた)りて、礼を述(のべ)て、たちふるまひ、甚《はなはだ》靜(しつやか[やぶちゃん注:ママ。])にして、恭(うやうやし)く、賤(いやし)しき[やぶちゃん注:「し」のダブりはママ。]ものゝ女とは思われ[やぶちゃん注:ママ。]ず。

 暁明、戲(たわむれ)れて[やぶちゃん注:「れ」のダブりはママ。]いふに、

「なんじ、わか[やぶちゃん注:「し」のダブりはママ。]恩をわすれすは[やぶちゃん注:ママ。]、一夜《ひとよ》を爰(こゝ)に明(あか)さん。」

といふに、女、更に否(いな)むけしきなく、夫《それ》より、ついに[やぶちゃん注:ママ。]手を携へ、楚岫(そしう)の雲(くも)に分(わけ)まよひ、鷄《とり》、東天紅(とうてんこう)をつぐる時、起(おき)て別れんとす。

[やぶちゃん注:「楚岫の雲」「楚岫」は「楚」の国の霊山巫山(ふざん)の「岫」=「山頂」にある洞穴を指し、そこから湧き出づる「雲」の意であるが、「楚雲湘雨」の成句が元曲にあり、「男女の細やかな情交」を指す。これは遙かに古い「雲雨巫山」「巫山雲雨」で知られる故事成句に基づいたもの。「巫山」は中国の四川省と湖北省の間にある、女神が住んでいたとされる山の名で、戦国時代のの懐王が昼寝をした際、夢の中で巫山の女神と情交を結んだ。別れ際に、女神が「朝には雲となって、夕方には雨となって、ここに参りましょう。」と言ったという故事がそれ。]

 白露か[やぶちゃん注:ママ。]いふ、

「妾、情(なさけ)の緣(くづな)に引《ひか》れ、葳蕤(いすい[やぶちゃん注:ママ。])の守を失ひて、君と結びし赤縄(ゑん[やぶちゃん注:ママ。]のいと)の、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])せず、訪ひ(とふら)ひ來《きた》るべし。穴(あな)かしこ、人に、な、洩(もら)し給ふな。」

と。

[やぶちゃん注:「葳蕤」歴史的仮名遣は「ゐすい」が正しい。この場合は、「草木の花が咲き乱れるさま」を言い、処女の持つ清廉な操(みさお)を指していよう(この熟語には単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科アマドコロ連アマドコロ属 Polygonatum を指す意味があるが、ここは違う)。]

 暁明、聞(きゝ)て、

「わが斎中、外に、人、なし。誰(たれ)にか洩しなん。但(たゞ)、ちかきあたり、靑楼の遊女(いふ《ぢよ》)、『蘭』といへるか[やぶちゃん注:ママ。]、隔夜(かくや)に、我許(もと)に來(きた)る。かれか[やぶちゃん注:ママ。]、來らざる夜は、汝、ひそかに來り候へ。」

 白露、心やすくおもひ、また、袖のうちより、一匹(いつひき)の白練(しろねり)、とり出《いだ》し、暁明に、あたへて、云《いふ》。

「君、独り居《ゐ》て、徒然(つれつれ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。])なる時、此きぬを、とり出《いだ》して、弄(もてあそ)び給ふならは[やぶちゃん注:ママ。]、自(みづか)ら、情(こゝろ)を慰むる種(たね)と成《なる》べし。」

と。

 終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、たち出《いで》て行《ゆき》ぬ。

 是より、暁明、獨坐(ひとりざす)とき、徒然のおりおり[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」]は、かの絹を、とり出して弄ふときは、忽ち、白露、外より、きたる。

 怪(あやし)んて[やぶちゃん注:ママ。]、そのゆへ[やぶちゃん注:ママ。]を問《とふ》に、しら露、打(うち)わらひ、

「君か[やぶちゃん注:ママ。]寂莫(つれつれ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。])の情(こゝろ)、妾か[やぶちゃん注:ママ。]誠(まこと)の心に徹(てつ)し、偶然、(おもはず)、來り見へ參らす。これ、すく世《せ》の奇緣なり。」

 暁明、聞て、「まことや。『曾子か[やぶちゃん注:ママ。]至孝成(なる)、他(た)に出《いで》て、歸らざるとき、その家に、客(かく)、來《きた》る。曽子(そうし)か[やぶちゃん注:ママ。]母、『曾子か[やぶちゃん注:ママ。]歸り來よかし。』と思ふて、指を、自(みつか[やぶちゃん注:ママ。])ら咬(かむ)ときに、曾子、俄(にはか)に驚悸(むなさはぎ)し、家に歸る。』と、書(しよ)に見えたり。是(これ)、母至(ほし)[やぶちゃん注:ママ。せめて「母の思ひの至れるにて」ぐらいにはして欲しい。相手は十四、五の小娘だぜ?]、誠(せい)の感ずる處。それは孝行、是は恩愛。そのあとは、異(こと)なれども、誠(まこと)は、同じ理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])り。」

とて、少しも疑はずして、是より、同床《どうしやう》の和好(ちきり[やぶちゃん注:ママ。])、いやましに、

「二人の愛着(《あい》ぢやく)を、海にくらふれは[やぶちゃん注:総てママ。]、濸溟(そうかん[やぶちゃん注:ママ。無茶苦茶な読みやなぁ。])も淺く、山に喩(たとふ)れば、崑崙(こんろん)、高きにあらず。あるひ[やぶちゃん注:ママ。]は、膠(にかわ[やぶちゃん注:ママ。])と漆(うるし)、いまた[やぶちゃん注:ママ。]堅(かた)からず。」

と、わらへば、

「魚(うを)と水(みづ)、なを[やぶちゃん注:ママ。]、親(した)しとするに、足(たら)ず。」

と、あさけり、心肝(しんかん)、割(さき)がたきを、うらみ、肌肉(ひにく)、皮(かわ[やぶちゃん注:ママ。])を隔(へだ)つを、憾(かこて)り。

 一夜(あるよ)の私語(さゝめこと)に、白露、問《とひ》ていわく、

「君か[やぶちゃん注:ママ。]愛(あひし[やぶちゃん注:ママ。])たまふ情(こゝろ)、かの遊女と、妾(せう)と、いつれか、まさる。」

こたへて云(いふ)。

「汝に、しかず。」

 又、問。

「容貌、妾と蘭と、くらべは[やぶちゃん注:ママ。「ば」であろう。]、如何(いかん)。」

 暁明、いふ。

「紅桃(こうとう[やぶちゃん注:ママ。])・素李(そり)、いつれ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]をか、捨(すて)、いつれを、取(とら)ん。さは、いへ、蘭女(らんぢよ)は、肌(はだへ)、溫(あたゝ)かにして、かの合德(がつとく)が温柔乡(おんしうきう[やぶちゃん注:ママ。])も、是には過じとおもほゆる。」

[やぶちゃん注:「德」は底本では異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、正字で示した。「乡」は「鄕」の異体字である。

「素李」双子葉植物綱バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina の花か。グーグル画像検索「Prunus salicina 花」をリンクさせておく。

「合德が温柔乡」「合徳」は前漢第十一代皇帝成帝の妃趙合徳。「中国史・日本史メイン 非学術イラストサイト」の「史環」のこちらによれば、『合徳は』『豊満な体を誇る女性で』、『成帝は彼女を「温柔郷」と呼び、彼女の体に溺れてい』ったとあり、『やがて成帝が病にかかって精力が衰えると、シン卹膠(シンジュツコウ)という精力剤を使って帝と閨を共にしてい』たが、『あるとき、一粒でよいところを酔った勢いで七粒も服用させてしまい、そのため帝はそのまま崩御してしまったとされて』おり、しかし、『合徳は取り調べに際し』、『「私は帝を赤児のように扱い、世を傾けるほどの寵愛を受けた。今更帝との房事について言い争うことなどするものか。」と言い、胸を叩いて憤死したという』とあった。なお、「溫柔鄕」は歴史的仮名遣で「をんじうきやう」であり、現行では、「遊里・花柳界」を指す一般名詞となっている。]

 白露、聞(きゝ)て、悅ばさる[やぶちゃん注:ママ。]風情(ふぜい)ありて、云(いふ)。

「しからば、妾(せう)、蘭女には、及ばし。遮莫(さもあらば)、渠(かれ)、いかなる美人なれば、かくばかり、君の譽(ほめ)給ふぞや。もし、明夜《みやうや》、來りなは[やぶちゃん注:ママ。]、妾、ひそかに、その容色を、うかゝひ[やぶちゃん注:ママ。]見ん。必、漏し給ふな。」

と、約してぞ、かへりける。

 こゝに、蘭は、夜を隔てゝ、暁明かたに來《きた》る事、已に、二、三月《ふた、みつき》におよび、その夜も、來り、枕を幷(なら)べ、私語の序(すいで[やぶちゃん注:ママ。])に、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]いふは、

「不審や。君、此ほど、形容(かたち)、甚た[やぶちゃん注:ママ。]焦枯(しやうこ)して、精神(こゝろ)、蕭索(つかれ[やぶちゃん注:「疲れ」。])見え給ふ事、日こと[やぶちゃん注:ママ。「ごと」「每」。]に、まさる。是、蠱惑(こわく)の病(やまひ)なり。定《さだめ》て、妾《せう》》か[やぶちゃん注:ママ。]外《ほか》に、相逢(《あひ》あふ)ものゝ、あるならん。」

[やぶちゃん注:「蠱惑の病」人の心を妖しい魅力で惑わし誑かす霊的な外因性の危険な病いを指している。]

 暁明、云《いふ》。

「此事、さらに、覺へす[やぶちゃん注:ママ。]。」

 蘭、その時、脉(みやく)を診(しん)じ、大《おほき》におどろきて云けるは、

「妾、幼きより、醫の道を、ならひ、人の病(やまひ)を見る事を、さとしぬ。今、君の脉を診(しん)するに、これ、鬼症(きしやう)の沈病(やまひ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]なり。[やぶちゃん注:ここには、「然るに」ぐらいは、入れて欲しいぞ!]『何そ[やぶちゃん注:ママ。]覺へなし。』と宣(のたま)ふ。恐らくは、後(のち)、ついに[やぶちゃん注:ママ。]君か[やぶちゃん注:ママ。]身、危(あやう)きに至らんか。妾、なを[やぶちゃん注:ママ。]、明夜《みやうや》、藥をもとめ、來《きた》るべし。」

とて、辞(じ)し、出行《いでゆき》ぬ。

[やぶちゃん注:「鬼症(きしやう)の沈病(やまひ)」「何らかの霊鬼或いは死霊に接触することによって発症した長く癒えることのない重い病い」の意。]

 

Renka

 

[やぶちゃん注:右幅の女が「蘭」である。暁明の手元に、白露の渡した絹布がある。左幅は、正体を現して去ってゆく髑髏化した「白露」である(最初の幅の服の模様が同じ)。無惨! 底本の大型画像はこちら。] 

 

 そのとき、暁明、かの絹を弄(らう)すれは[やぶちゃん注:ママ。]、白露、やかて[やぶちゃん注:ママ。]入來《いりきた》りたる。

「汝、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]すがたを、伺ひしや。」

と、問《とふ》。

 白露、いふ。

「然(しか)り。まことに、古今、たぐひなき美人、なかなか、人間とは思わ[やぶちゃん注:ママ。]れねば、妾、竊(ひそか)に、かれか[やぶちゃん注:ママ。]歸る跡を、とめて[やぶちゃん注:尾行して。]、したひ行《ゆく》に、南山(なんざん)の狐窟(こくつ)に、入《いり》たり。かれは、野狐(のきつね)の精(せい)なる事、疑ひなし。きみ、近つけ[やぶちゃん注:ママ。]給ふべからず。」

 暁明、笑《わらひ》て云《いふ》。

「かれかことき[やぶちゃん注:総てママ。]艷色(ゑんしよく[やぶちゃん注:ママ。])、よしや、狐にもあれ、我、おそれず。汝、さのみ、な、妬(ねた)みぞ[やぶちゃん注:ママ。「そ」。]。」

とて、白露が手を携へ、閨(ねや)に、いさなふといへども、白露、少しも、悅ばす[やぶちゃん注:ママ。]

 やゝ黙然(けんぜん[やぶちゃん注:ママ。底本の異なる「初期江戸読本怪談集」では『てんぜん』とする。私には私の底本では、の崩しは絶対に「て」には見えない。ただ、彫師が「黙」を「」と誤認して誤刻した可能性はあるようには思う。)として居けるが、「君、かの野狐の精を愛し給はゝ[やぶちゃん注:ママ。]、妾、誠(まこと)を盡(つく)すとも、その甲斐、なからん。」

と、ふかく、怨(うらみ)し顏色(かんしよく[やぶちゃん注:ママ。])にて、別れてぞ、出行《いでゆき》けり。

[やぶちゃん注:本篇は、丸山遊廓の蘭が、実は女狐の化身であり、「白露」が最後に死霊であることが示唆されている。しかし、どうも、この話、語りの中の表現やシチュエーションに、何とも言えず、中国的なニュアンスがちりばめられていることに、一読、思われる人が多いはずである。学のある狐の女妖怪の定期の訪問というのは、如何にも日本的ではなく、極めて中国的なのである。しかも、その女狐が主人公を救おうとするというプロセスも日本の妖狐譚ではメジャーなものではない。実は、これは、私の偏愛する清初の蒲松齢の文語怪異小説集「聊斎志異」の中の一篇「蓮香」を翻案(但し、かなり、展開の改変が行われてあり、理屈がつくように外堀を埋めた部分が却って無理を感じさせて、それが全体に怪奇談の流れを澱ませてしまっているように私は感じる)したものである。絶妙な自在な訳で知られる柴田天馬訳「定本聊斎志異」巻六(一九五五年修道社刊)の当該話をリンクさせておく(電子化しようと思ったが、少し長いので、今回は諦めた。ちょっと疲れているから。悪しからず)。主人公の名は「桑(さう)秀才」であるが、名は『曉(げう)』で『字を小明』と称し、本篇の主人公の名もそこから改名してあるので、誰が見ても判然とする。

 なお、本篇は「巻之二」の「狐鬼 下」に続いており、これで終わりではない。

2023/07/25

怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 始動 / 「叙」・「目禄」(ママ)・巻之一 「一囘 旅僧難を避て姦兇を殺す話」

[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。

 また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 「叙」の表示字は、かなり凝った崩し字が使用されているが、使用可能な物以外は、「初期江戸読本怪談集」の活字を参考比較し、通常の最も近い字体で示した。]

 

怪異前席夜話  一

 

   叙

 昔、怪力亂神の語らざる說、誠(まこと)に、鬼神(きしん)、造化(ざうくわ)の常(つね)、不正(ふ《せい》)にあらす[やぶちゃん注:ママ。]といゑ[やぶちゃん注:ママ。]ども、窮理(きうり)の事は明羅(あきら)め易(やす)からずと、宋儒(そうじゆ)の註文。また、和漢、「切」・「燈」の名、紛々(さいさい)、これ有るをもつて、近來(ちかころ[やぶちゃん注:ママ。])、書肆、樟(あづさ)[やぶちゃん注:「樟」はママ。「梓」が正しい。]にちりばめて、童蒙(どうもう)の戯(たまむ)れ、勝て(あけ[やぶちゃん注:ママ。「舉(あ)げて」。])、かぞへかたし[やぶちゃん注:「數へ難し」。]。雖然(しかりといへども)、もとより、不肖にして、其《その》是悲、知る事、あたわす[やぶちゃん注:ママ。]。依(よつ)て、序文のいとま、辭すること、再三なり。爰(こゝ)に親友文榮堂なる者、叱諫(しかりいさめ)て、曰(いはく)、「今や、邪說(じやせつ)の空言(くうげん)勿ㇾ論(ろんすること なかれ)。唯(たゞ)、故人(こしん[やぶちゃん注:ママ。])の茶談(ちやだん)の珎說(ちんせつ)、五條を選(えらみ)て、世に弘(ひろ)むる而已(の《み》)也(なり)。」とす。すゝめに應(おう[やぶちゃん注:ママ。])じ、漸ゝ(よふよふ[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。])毫(ふで)をとれば、怔忡(せいちう)に、ゑり、本(もと)、ひやつく。是(これ)、世上、こわきに非ず、おそるゝにあらず。只、うたかふ[やぶちゃん注:ママ。]らくは、此怪談、我(わ)か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]心を、うこかす[やぶちゃん注:ママ。]歟(か)。「嗚呼(ああ)、見る人、油斷あるな。」と、億而(おくして)序

于時《ときに》寛政二春正月

          反古斉謹識

          〔落款〕 〔落款〕

[やぶちゃん注:上方の落款は陽刻で「東都」とあり、後者は陰刻で「反古斉」か。

『和漢、「切」・「燈」の名、紛々、これ有る』本邦で爆発的に好んで読まれ、翻案物が多く作られた「牡丹燈記」を含む明代に瞿佑によって書かれた怪異小説集「剪燈新話」、及び、その影響下に後の明代の李禎の「剪燈餘話」や、邵景瞻の「覓燈因話」(べきとういんわ)等の志怪小説集や、本邦のその翻案物の、「牡丹燈籠」系の改作怪談総てを指す。

「怔忡(せいちう)にゑり」「怔忡」は、動悸のうつでも、体を動かしていると強まる重症のものを言う。「恐ろしさに、心の臟を、バクバクさせながら、撰(えら)び(=「書き」)」の意であろう。

「本(もと)、ひやつく」「ひやつく」は「冷(ひ)やつく」で、「恐ろしさに、書いている私が、心本(こころもと=心底)、慄(ぞ)っとする」の意か。]

 

怪異前席夜話目禄

 

   一囘

 旅僧(りよそう)難(なん)を避(さけ)て姦兇(かんきう[やぶちゃん注:ママ。「かんきよう」でよい。])を殺(ころ)す話

   二囘

 狐精(こせい)鬼霊(きれい)寃情(ゑんしやう[やぶちゃん注:ママ。])を訴(うつた)ふる話

 同狐鬼(こき) 下

   三囘

 匹夫(ひつふ)の誠心(せいしん)剣(けん)に入て霊(れい)を顯(あらは)す話

   四囘

 抂死(わうし)の寃魂(ゑんこん)を報(ほう)ずる話

   五囘

 龍恠(れうくわい)撫育(ぶいく)の恩(をん[やぶちゃん注:ママ。])を感(かん)し[やぶちゃん注:ママ。]老嫗(らうう)を免(たすく)るの話

 

   已上

 

 

怪異前席夜話巻之壹

   ○旅僧難を避て姦兇を殺すの話

 昔、延享(えんけう[やぶちゃん注:ママ。])の頃、都に僧あり。浮雲流水(ふうんりうすい)を身に比(くら)べて、世の中の富貴(ふうき)をば、孫晨(そんしん)か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]藁席(わらむしろ)よりも薄(うす)んじ、樹下石上(しゆ[やぶちゃん注:ママ。]かせきしやう)を、家となして、人間の營みをは[やぶちゃん注:ママ。「をば」。]、許由(きよゆう[やぶちゃん注:ママ。])か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]瓢簞(ひやうたん[やぶちゃん注:ママ。])より輕しと覺へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、身は北嵯峨に緇染(すみぞめ)の、衣(ころも)の外(ほか)は一鉢一杖(いつはついちてう[やぶちゃん注:「いちてう」は「一挺(いちちやう)」の当て訓であろう。)、飄然として、東西に行《ゆき》、南北にあゆむ。

[やぶちゃん注:「姦兇」ここは、心が邪(よこし)まな性根っからの悪人のことを言う。

「延享」一七四四年から一七四八年まで。九代将軍徳川家重の治世。

「孫晨」が「藁席……」以下は、「徒然草」の十八段に基づく。まず、同段の後半に書かれた、

   *

孫晨は、冬の月(つき)に、衾(ふすま)なくて、藁一束(わらひとつか)ありけるを、夕(ゆふべ)には、これに臥(ふ)し、朝(あした)には、をさめけり。

   *

に基づく。孫晨は、古代中国の隠者で、清貧にあまんじたことでよく知られる人物で、「蒙求」(もうぎゅう)に見える故事。「許由」は中国古代の伝説上の人物で、帝尭(ぎょう)が位を譲ろうと言うと、「汚(けが)れたことを聞いた。」と、潁水(えいすい)で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れたと伝えられる高士。同段の前半は以下。

   *

 人はおのれをつづまやかにし、奢りを退(しりぞ)けて、財(たから)を持たず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀れなり。

 唐土(もろこし)に許由(きよいう)と言ひける人の、さらに身に從へる貯(たくは)へもなくて、水をも、手にして、捧げて飮みけるを見て、なりひさこ[やぶちゃん注:ヒョウタンの異名。]といふ物を、人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、「かしかまし。」とて捨つ。また、手にむすびてぞ、水も飮みける。いかばかり心のうち涼しかりけん。

   *

で、先の許由に繋がり、最後に、

   *

唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記(し)るしとどめて、世にも傳へけめ、これらの人は、語り傳ふべからず。

   *

「けめ、……」は『「こそ……(已然形)、~」の逆接用法。中国の人々はちゃんとこうして後世にこの清貧の王道を伝えたけれども、「これらの人」=「ここの日本人の者ども」は、凡そ、そうしたことを語り継いだり、書き伝えたりもせぬであろう、という慨嘆の謂いである。]

 一とせ、東路(あづまじ[やぶちゃん注:ママ。])に心さし、膝栗毛(ひざくりげ)の、太く逞しきにまかせつゝ、いつかは、歸り逢坂(あふさか)の、關を霞(かすみ)と倶(とも)に出《いで》て、やうやう、秋風わたるころ、奧の白河のこなたなる、白阪(しらさか)の邑(むら)に、いたる。

[やぶちゃん注:「白坂」現在の福島県白河市白坂(グーグル・マップ・データ)。]

 かの西行か[やぶちゃん注:ママ。]、「道の邊(べ)の淸水流るゝ」と讀(よみ)し、遊行柳(ゆきやうやなき[やぶちゃん注:ママ。])の古蹟など尋ね、むかしの人は見えねとも、「細柳爲ㇾ爲誰綠(さいりうたれかためにみとり[やぶちゃん注:ママ。但し、ルビは分解されて附されあり、返り点に従って整序した。])なる」と、杜少陵か[やぶちゃん注:ママ。]句を想ひ出《いあ》して、折(おり[やぶちゃん注:ママ。])に合《あは》されど[やぶちゃん注:ママ。「ざれど」。]、いと興ありて覚へたり。

[やぶちゃん注:「西行」が『「道の邊(べ)の淸水流るゝ」と讀し、遊行柳』私の、かなりリキを入れた『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅14 遊行柳 田一枚植ゑて立ち去る柳かな』の私の注を参照されたい。

『「細柳爲ㇾ誰綠」と、「杜少陵」』が「句」杜甫の七言古詩「哀江頭」(江頭(かうとう)に哀しむ)の第四句だが、不全。「細柳新蒲爲誰綠」で「細柳(さいりう)新蒲(しんぽ)  誰(た)が爲にか綠(みどり)なる」である。所謂、人事の無常と不易の自然の感慨の吐露である。全篇はサイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「杜甫 哀江頭」がよい。]

 西山《にしやま》の入日《いりひ》に、遠寺(ゑんじ)の鐘の聲、晚風(ばんふう)に謝(うた)ふ頃(ころ)、淼茫(びやうぼう[やぶちゃん注:ママ。「べうばう」が正しい。])たる曠原(りろはら)枯野の草の葉末より、一かたまりの燐火、陰々と燃出(もへいで[やぶちゃん注:ママ。])、風に隨(したかつ[やぶちゃん注:ママ。])て、

「ひらひら」

とす。

[やぶちゃん注:「謝(うた)ふ」はママ。崩し字は「謝」に確かに見え、「詠」・「謠」・「謳」・「謌」などとは読めない。「初期江戸読本怪談集」でも『謝(うた)ふ』と起こしてある。しかし、いくら調べても、「謝」の字には「うたふ」の意味はない。甚だ不審である。

「淼茫」水或いは単一の対象状態が広々としているさまを言う。]

『怪し。』

と見るうち、亦、一ツの團火(だんくわ)、同し所より現(あらは)れ、相《あひ》逐(を)ふて、上下し、飛𢌞(とびめぐ)り、霎時(しばし)にして、たちまち、消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])ぬ。

[やぶちゃん注:「霎時(しばし)」。「初期江戸読本怪談集」では『しばしば』と振る。確かに後半部は踊り字「〱」に見える(前の「し」に対して、明かに頭が右側に傾いてはいる)が、どうも「しばしば」では、流れがおかしく、躓く。私は「し」と判じた。

「実(けに)や、昔人(せきじん)の詩に、「一将功成(いつしやうこうなり) 萬骨枯(はんこつ[やぶちゃん注:ママ。] かるゝ)」と賦(ぶ[やぶちゃん注:ママ。])したる、古戰場、目(ま)のあたり、是や、人血(じんけつ)の化(くわ)する所ならん。抑(そもそも)、源姓(けん[やぶちゃん注:ママ。]せい)か、平氏(へいし)か、何《いづ》れの時の戰ひ、誰人(たれひと)の鬼火(きくわ)なるや。此邊(《この》あたり)に知る人し[やぶちゃん注:「し」は強意の間投助詞。]あらは[やぶちゃん注:ママ。]、聞《きき》まほし。」

と、彷徨(たちやすら)ひ、筇(つゑ)[やぶちゃん注:「杖」に同じ。]に倚(すがり)て、たち居《をり》たるに、側(かたはら)に、老人、有(あり)。

[やぶちゃん注:「一将功成 萬骨枯」「一將(いつしやう)功(こう)成りて 萬骨(ばんこつ)枯(か)る」故事成句で、「たった一人の武将が城を築くのに、万人の百姓を苦しめた」という謂い。晩唐末期の詩人曹松(そうしょう)の詩「己亥(きがい)の歲(とし)」の一節。戦乱に苦しめられる庶民の暮らしを心配した上で、「君に憑(たの)む 話(かた)る莫(な)かれ 封侯(ほうこう)の事を 一將 功 成りて 萬骨 枯る」(お願いだから、軍功を挙げて、高い地位を得たいなどと言わないでくれ。一人の将軍が功名を上げる陰で、おびただしい数の人骨が朽ちていくのだから)に基づくもの。]

「御僧(《おん》そう)は、かく、あれはてたる草はらの中に、何の感ずる事ありて、延佇(たゝずみ)て詠(なかめ[やぶちゃん注:ママ。])給ふ。」

と問《とふ》。

「されは[やぶちゃん注:ママ。]こそ。斯(かゝ)る事の侍りぬ。此地は、古への垓下(せんじやう)には非(あらざ)る歟(か)。倘(もし)知(しろ)しめす事もあらは[やぶちゃん注:ママ。]、物語し給へ。」

と云《いふ》。

[やぶちゃん注:「垓下(せんじやう)」無論「戰場」の当て訓。高校の漢文で必ずやる、劉邦に攻められ、項羽の虞美人と別れるシークエンスで知られる最終集団戦となった「垓下の戦い」に擬えたもの。]

 老人、頭(かしら)を掉(ふり)、

「是、古戰場に、あらず。又、狐狸《こり》の所爲(なすところ)にても、なし。近き頃、此𠙚(《この》ところ)にて、死せし者の、さむらふ[やぶちゃん注:ママ。「候(さふらふ)」。]。瑣細(くだくだし)けれども、語り聞(きこ)へん。旅中の疲勞(つかれ)を慰めなから[やぶちゃん注:ママ。]、聞《きき》て、話柄(はなしのたね)ともなしたまへ。」

 ……往昔(むかし)、寬保(かんぽ)の頃[やぶちゃん注:一七四一年から一七四四年まで。徳川吉宗の治世。]、これも御僧のことく[やぶちゃん注:ママ。]、諸國を經歷し給ふ衲子(しゆけ)[やぶちゃん注:ママ。「出家」。「衲子」(のつす(のっす))。「衲衣(のうえ)を着る者」の意で、特に禅僧を指す。]、此地に來られつる、その折しも、陽月(かみなづき)[やぶちゃん注:陰暦の十月。]のはしめ[やぶちゃん注:ママ。]に、荒(あれ)のみ増(ます)る木嵐(こがらし)の、落葉(おちば)するやとはありなから[やぶちゃん注:総てママ。「落ち葉する宿は有り乍ら」。]、月たに[やぶちゃん注:ママ。]もらぬ板庇(いたひさし)、しかも周迊(まはり)の柴垣(しばかき)さゑ最(も)、偏疎(まはら)なる[やぶちゃん注:ママ。「疎(まば)らなる」。]に寒蛩(こうちき)[やぶちゃん注:「カンキヨウ」は〙 秋の末に寂しげに鳴く蟋蟀(こおろぎ)を指す語。]、吟(すだく)、夕まくれ、さし寄せたる竹の扉(とぼそ)に、火影《ほかげ》の映(さす)を力《ちから》に、たちより、投宿(やとかる[やぶちゃん注:ママ。])事を乞(こひ)しとき、かの白屋(くづや)のうちより、わかき女《をんな》一人《ひとり》、立出《たちいで》て、

「今宵は、主(あるじ)は他(た)に行《ゆき》ぬ。ことに、御僧に、まいらすべき儲(もうけ)[やぶちゃん注:供養するもの。ここは主に供応する食物を指す。]もなけれは[やぶちゃん注:ママ。]、宿(やど)し參らせん事、叶(かなふ)まし[やぶちゃん注:ママ。「まじ」。。」

 僧、おしかへし、

「さりとも、廡下(のきした)になりとも、卧(ふせ)しめたまへ。雨露(うろ)をだに、かふむらずは、我に於て、事(こと)足(たり)ぬ。もとより、此身は、木の斷(はし)[やぶちゃん注:木の切れ端。木っ端。]か、炭(すみ)の塊(おれ)[やぶちゃん注:板炭の折れ落ちた屑。]とも云《いは》ば、いひなん、のぞみなき心。再ひ熾(をごる)べき憂(うれへ)無(なれ)ば、縱(たちひ)、今、主、歸り給ひても、さのみ、恠(あや)しみ給ふまし[やぶちゃん注:ママ。]。食物は預備(ようひ[やぶちゃん注:ママ。「予備」或いは「用意」か。])もはべれは[やぶちゃん注:ママ。]、こゝろつかひに及は[やぶちゃん注:ママ。]ず。」

と、いふに、扉(とほそ[やぶちゃん注:ママ。])を明(あけ)て入れぬ。

 僧は、草桂(わらじ[やぶちゃん注:ママ。])とく。

 とく[やぶちゃん注:直ぐに。底本では「とく」の後に踊り字「〱」があって続いており、句点も存在しない。されば、このようにシーンを分けてみた。]上にあかり[やぶちゃん注:ママ。]、扨《さて》、かの女を見れば、年は廿(はたい)に、二ツ、三ツ、あまりぬらん、春笋(つまはづれ)[やぶちゃん注:「褄外れ・爪外れ」で、本来は「着物の褄の捌き方」を言うが、転じて、「身のこなし」の意。ここは後者。]、細小(しんしやう[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:「しんしやう」の読みは不審だが(「身小」或いは「芯小」などを想起した。)、意味は、身柄が細っそりとして小柄な手弱女風の体つきを指すのであろう。]にして、顏色《がんしよく》、賤《いや》しからず。野花(やくわ)、人の目に、美(うるはし)と、浩(かゝ)る鄙(ひな)には珍らしかるべし。

 僧は、竃(かまと[やぶちゃん注:ママ。])の前の、竹簀((ゆか)に、頭陀袋(づだぶくろ)を枕に、ふしぬ。

 女も、燈火(ともしび)、吹《ふき》けして、一間なる所に、入て、寢(ね)たり。

 賊風(すきまのかぜ)の、さむしろに、夜《よ》を、寢(ね)かねしまゝ、こし方・ゆくすゑの、おもひ出《いで》られ[やぶちゃん注:ここは自発。]、僧は、夢も結ばて[やぶちゃん注:ママ。「結ばで」。]有(あり)し處に、主の、歸りぬと、覚へて、謦欬(しはぶき)[やぶちゃん注:咳払い。]の戶外(そとも)に聞ゆるにそ[やぶちゃん注:ママ。]、女、一間より、出來り、何やらん、もの語《がたり》して、そのまゝ、伴ひ入(いり)ぬ。

 やゝありて、また、跫(あしをと[やぶちゃん注:ママ。])のして、戶を、あららかに打敲(うちたゝ)き、主(ぬし)、

「今こそ帰りたり。」

といふに、女、

「唯(い)。」

と、應(いらへ)て、たち出《いづ》。

 戸を押明(おしあけ)、

「おもひの外に、おそかりつ。御身の留守に、旅僧(たびそう)の、宿を乞(こひ)しまゝ、おもやに卧(ふさ)しめたり。」

と、いへは[やぶちゃん注:ママ。]、主、聞《きき》て、

「よくこそ、したり。僧を供養するは、その功德(こうとく)、七級浮圖(しちしやうのとう)を造るに、まされりと、きく。まいて、旅僧の、日(ひ)、晚(くれ)、道、遠きに、宿、求むべき方《かた》なきは、さこそ、難義ならん。」

と、云《いひ》つゝ、草鞋・脚半(きやはん)[やぶちゃん注:「脚絆」はこうも書く。]なと[やぶちゃん注:ママ。]、脫(とき)すてゝ、足を濯(あら)ひ、飯(したゝめ)なと[やぶちゃん注:ママ。]するに、僧、

『さては。向來(さき)に入來《いりきた》りしは、主に非ず。』

と知(しり)て、また、思ふに、

『一樹の蔭だに、假(かり)そめならぬ因緣なるを、まいて、それにも勝(まさ)りし今夜の宿、一禮《いちれい》を謝(しや)せん。』

と、起出(おき《いで》)んとせし処に、主は、遠路(とを[やぶちゃん注:ママ。]みち)を踰(こへ[やぶちゃん注:ママ。])きたりし勞(つかれ)にや、一間に入《いる》と斉(ひと)しく、いびきの声、雷(らい)のことく[やぶちゃん注:ママ。]に聞ゆ。

[やぶちゃん注:「七級浮圖」古代インドの仏塔ストゥーパに倣いながら、中国で建立された仏塔の内、重層楼型のものを、「浮屠」・「浮圖(図)」と呼んだ。「七級」は七層の楼の荘厳(しょうごん)を指すのであろう。]

 

Ryosounanwosaskete

[やぶちゃん注:底本の大型画像はこちら

 

 夜半の嵐に、遠寺(ゑんじ)の鐘も、殷々(かうかう)たる比(ころ)しもあれ、俄(にわか)に、一間に、もの音し、

「吁(あな)、くるしや、誰(たれ)そ、扶(たす)けよ、』

と、呻吟声(うめくこへ[やぶちゃん注:ママ。])するは、

『何事にか。』

と、僧は驚くうちに、一人の大男、長き刀を、腰にはさみて、一間より出《いで》、女を呼(よべ)ば、最前(さいぜん)より、眠(ねぶら)ずと見えて、はや、起《おき》て、

「いかに仕課(しおゝせ[やぶちゃん注:ママ。])給ひしか。」

と問《とふ》。

 男か[やぶちゃん注:ママ。]、いふ。

「叓(こと)[やぶちゃん注:「事」の異体字。]、馴(なれ)たり。外《ほか》に、しるもの、なしや。」

 そのとき、指さして、云(いふ)。

「宵に、止宿(ししゆく)させつる旅僧(りよそう)のみ、此事を知りけむ、はかりかたし。」[やぶちゃん注:「知っているかも知れず、それは、どうともいえない。」の意。]

 男、首肯(うなづき)て、

「心やすかれ。我、計較(なすべきかた)あり。」[やぶちゃん注:「計較」「けいかう」が正しいが、慣用読みで「けいかく」とも。「はかりくらべること・比較してみること」の意だが、ここは「仕方・計略」の意。]

とて、聲を勵(はけま[やぶちゃん注:ママ。])し[やぶちゃん注:大声で。]、僧を、よひ[やぶちゃん注:ママ。]起す。

 僧、心におもへらく、

『彼(かれ)、必定(ひつでう[やぶちゃん注:ママ。])、女か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]ための奸夫(かんふ)にて、向來(さき)にきたりて、隱れ在(あり)、主の帰るを、まち、殺せるならん。我をも、活(いき)ては置(おく)まじ。』

と、心寒(むねつぶれ)たれど、答應(いらへ)もせず、故(わざ)と、鼾息(いびき)の音して居《をり》たるに、かの男、枕元を、踏轟(ふみとゝろか[やぶちゃん注:ママ。])し、

「旅僧に、煩(たのむ)べき事、あり。夙(とく)、起(おき)候へ。」

と呼(よば)わる[やぶちゃん注:ママ。]に、僧、

「應(おゝ)。」

と、いゝて、起たり。

「主《あるじ》、歸り給ひしか。今宵は、宿を許されまいらせ、辱(かたじけ)なき事よ。」

と、始《はじめ》て目の醒《さめ》つることく[やぶちゃん注:ママ。]に、もてなすに、男、一間より、葛籠(つゝら[やぶちゃん注:ママ。])を扛(かき)て出《いで》、僧の前に置(おき)、

「我は、此家の主にあらず。宿の主は、此中に在《あり》。いさ[やぶちゃん注:ママ。]、擔(にな)ひて、我に隨ひ來《く》れよ。」

と云。

「是を、荷《にな》ひて、いづくに、行き侍らん。」

と、とへば、

「ともかくもあれ、速(すみやか)に負(おひ)候へ。我、行《ゆく》べきかた、あり。」

と、眼(め)を大《だい》になし、声を暴(あらゝ)け[やぶちゃん注:ママ。]ていふに、詮方(せんかた)なく、僧は、かの葛篭(つゝら[やぶちゃん注:ママ。])を、おひぬ。

 男は鍤(くわ[やぶちゃん注:ママ。])を荷(かつぎ)つゝ、夫《それ》より外面《とのも》に出《いで》、先に立(たち)て步み行《ゆく》。[やぶちゃん注:「鍤(くわ)」の「鍤」は(つくり)を貫く縦画が、下まで伸びている(縦画のみは「グリフウィキ」のこれに近い)。(つくり)の「臼」型の部分が出ている当該字で代えた。但し、ここに附された読みは誤りで、「くは(鍬)」ではなく、「すき(鋤)」の意である。

 むさし野にあらされ[やぶちゃん注:ママ。]ども、草《くさ》より、草に入る月の、影をしるべに、果(はて)もなき、廣莫(ひろの)を、四、五十けん[やぶちゃん注:七十・七二~九十・〇九メートル。]も來《きた》りぬらんと思ふころ、

「旅僧、しばらく、息肩(やすみ)候へ。」

と、いふに、葛籠を下(おろ)しぬ。

 男は鍤をもて、土を穿(うか[やぶちゃん注:ママ。])つに、腰間(こし《ま》)なる刀の障礙(じやま)と成るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、脫(ぬい)て、僧に、わたし、

「少時(しばし)、これを、あつかり[やぶちゃん注:ママ。]得させよ。」

と云に、太阿(たいあ)を倒(さかしま)に持(もち)し仇人(あだ《びと》)に授(うく)るの諺(ことわざ)、これや、因果報應顯然(けんぜん)の理(ことわり)ならん、僧、心に思ふは、[やぶちゃん注:「太阿」は「史記」などに見える中国古代の銘剣。諺の出所や原文は知らぬが、意味は納得出来る。]

『此もの、穴を堀[やぶちゃん注:ママ。]おわら[やぶちゃん注:ママ。]ば、我をも、殺して、かの尸(かばね)と倶(とも)に合葬(かつそう[やぶちゃん注:総てママ。])すなるべし。あに、手を束(つか)ねて、死を待(また)んや。況(まし)てや、かゝる兇𢙣(きやうあく)[やぶちゃん注:「𢙣」は「惡」の異体字。]の徒、佛法王法の許さるゝ處なり。渠(かれ)を害して一夜《ひとよ》の宿《やど》の主《あるじ》の仇《あだ》を、むくゆべし。弥陀の利剣、多門[やぶちゃん注:四天王の一天なる多聞天(=毘沙門天)。宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)や、時に三叉戟を持って造形される。]の矛(ほこ)、方便(はうべん)の殺生、此ときなり。』

と、かの刀を拔出(ぬき《いだ》)し、男か[やぶちゃん注:ママ。]穴をほり居《をり》たる背後(うしろ)より、唯《ただ》一刀《ひとかたな》に斫付(きり《つけ》)たり。

「吁(あ)。」

と、叫んで、轉(ころ)ぶところを、たゝみ懸《かけ》て斬伏(きりふせ)て、力まかせに突殺(つきころ)し、僧は、夫より、足を早めて、南をさして走る程に、凡《およそ》百步ばかりも過《すぎ》て、兩三軒の民家、比屋(のきをならべ)て立《たて》るあり。

 立寄《たちより》て、戶を、うちたゝけば、人、出《いで》て、

「何誰(たそ)。」

と問。

 僧、

「かゝる事、ありき。」

と、始《はじめ》より、尓々(しかしか)もの語れは[やぶちゃん注:ママ。]、大勢、起《おき》て云《いふ》。

「然らは[やぶちゃん注:ママ。]、その女をとらへなは[やぶちゃん注:ママ。]、善𢙣・真偽、粉墨(わかる)べし。」[やぶちゃん注:「粉墨(わかる)」は不審な読みである。「粉墨」とは白粉。眉墨で粉飾することであるから、「粉墨を落として、元の面を露わにする」というのなら判る。]

と、俄に、四隣(しりん)の健(すこやか)なる男を擇(ゑら[やぶちゃん注:ママ。])みて、僧を、あんないし、かの、ひろはらの孤家(ひとつや)へぞ、向ひゆく。

 未だ寢(ね)ずして、消息(おとづれ)をまち侘(わび)ぬと見へ[やぶちゃん注:ママ。]、女は、燈火(ともしび)、明(あかる)くして居(い[やぶちゃん注:ママ。])けるか[やぶちゃん注:ママ。]、表に、ひそやかに足音のするを、聞(きゝ)、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、立出《たちいで》、戶を、明《あけ》たり。

「いかに。僧をも、殺し給ひしや。」

と問《とふ》とき、思ひかけずも、農夫あまた、柴の戶のうちに、こみいり、乍(たちま)ちに、女を、とらへ、絏紲(からめ)ぬ。[やぶちゃん注:「絏紲」は孰れも罪人を縛る繩を指す漢語。]

 鷄(とり)も、しばしば、うとふころ、東林(とうりん)、しらみければ、人を遺(つかは)して、かの尸《かばね》を尋《たづね》させ、僧もろとも、女を引《ひき》て、郡(こほり)の守(かみ)の奉行所へ、いたる。

 郡守、諸人《しよにん》の訴訟を聞《きき》、女を責問(せめとは)れけるに、隱す事、能(あた)はず、ことことく[やぶちゃん注:ママ。後半の「こと」は踊り字「〱」。]、招(はくでう[やぶちゃん注:ママ。])す。

 依(よつ)て、女か[やぶちゃん注:ママ。]首を斬(きら)しめ、奸夫(かんふ)の首と倶に、梟木(きやうぼく[やぶちゃん注:ママ。]「けふぼく」が正しい。)に曝(さら)し、宿《やど》の主か[やぶちゃん注:ママ。]尸(かばね)をば、其僧に命(おゝせ[やぶちゃん注:ママ。])て、ちかき寺院に送り、葬(ほうむ)り吊(とむら)ひを、なさしめて後《のち》、その行所《ゆくところ》に任(まか)されけり。

 斯(かく)て、その后(のち)、土民等(どみんら)、淫婦・姦夫の二ツの首を、此ひろ野に埋(うづめ)しか[やぶちゃん注:ママ。「しが」。]、陰雨(いんう)のときは、二ツの鬼火(きくわ)、相雙(《あひ》ならび)て、飛出《とびだ》し、こゝに、閃爍(ひらめき)、かしこに燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])、瓢蕩(ひやうとう[やぶちゃん注:総てママ。「へうたう」が正しい。当てもなく漂うこと。])としては、又、屮(くさ)むらに入《いり》て消滅す。[やぶちゃん注:「    屮」「草」の異体字。]

「唯除五逆(ゆいじよごぎやく)ときく時は、弥陀の慈悲にも洩(もれ)たる者、幽鬼と成《なり》ては、冥間(めいかん)を出離(しゆつり)する事、あたわ[やぶちゃん注:ママ。]ずして、猶、業身(ごういん[やぶちゃん注:ママ。])を見すにこそ、御僧も、只今、かゝる物語を聞《きき》給ひ、三佛乘(さんぶつじやう)の緣とも覚(おぼ)し、吊《とふら》ひ得させ給へかし。」

と云《いふ》に、僧も、

「あわれ[やぶちゃん注:ママ。]なる事、承りぬ。これや、煩惱卽菩提のたねならめ。老人の御庇(《お》かけ[やぶちゃん注:ママ。「御蔭」。])にて、旅行の苦(うさ)をも、晴(はら)し候。」

と、鉦(かね)、うちならして、念佛し、かの老人に別れをなして、猶も、奧へそ[やぶちゃん注:ママ。]趣きけり。

[やぶちゃん注:「唯除五逆」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「唯除五逆誹謗正法」(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう:現代仮名遣)に拠れば、『念仏を称える衆生は全て救われるのであるが、ただ』、『五逆の罪および正法を謗る罪を犯したものだけは救われないということ』とある。詳しくは、リンク先と、解説の中のリンク先を読まれたい。

「三佛乘」サンスクリット語では「トリーニ・ヤーナーニ」或いは「ヤーナ・トラヤ」と称し、孰れも「三つの乗り物」の意を表わす。「乗」(乗り物)は、人々を乗せて仏教の悟りに至らしめる教えを譬えていったもので、大乗仏教では、それに声聞(しょうもん)乗(仏弟子の乗り物)、縁覚(えんがく)乗(独りで悟った者の乗り物)、菩薩乗(大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)の三つがあるとする。但し、部派仏教(いわゆる小乗仏教)ではこの内の菩薩乗を説かず、代わりに仏乗(仏の乗り物)を立てる。初期大乗経典である「法華経」では、三乗は一乗(仏乗・一仏乗ともいう)に導くための方便であり、本来は、真実なる一乗によって、凡ての衆生は、等しく仏になると説いている(小学館「日本大百科全書」に拠った。

本篇は、シークエンスの順序や、一部の展開部を変えてあるが、寛文三(一六六三)年刊の知られた怪奇談集の仮名草子『「曾呂利物語」正規表現版 第五 五 因果懺悔の事』をインスパイアしていることが、明白である。これは、本書に先行する延宝五(一六七七)年の「宿直草」でも分割転用されており、それらの話もリンクさせてあるので、是非、読まれたい。

2023/07/16

奇異雜談集巻第六 ㊂弓馬の德によつて申陽洞に行三女をつれ歸り妻として榮花を致せし事 / 奇異雜談集~全電子化注完遂

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 因みに、本篇は、前回と同じ仕儀がなされてある。則ち、再び「剪燈新話」からの和訳である。原文は以前に紹介した「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、影印本で視認できこれが一番良い(但し、右にある電子化されたものはダメである。機械判読で、とんでもない字起こしになっているから)。何故なら、これ、実は、逆輸入(後の本文の私の注を参照)版で、日本語の訓点附きだからである。

 本篇を以って「奇異雜談集」は終わっている。]

 

   ㊂弓馬(きうば)の德によつて申陽洞(しんやうだう[やぶちゃん注:ママ。「だう」は「どう」でよい。])に行(ゆき)三女(《さんぢよ》をつれ歸り妻として榮花(ゑいぐは)を致せし事

 「申陽洞の記」は、「剪燈新話」にあり。いま、心をとつて、やはらげて記す。

 元朝のすゑ、天曆(《てん》りやく)年中の事なるに、隴西(ろうせい)といふ所に、李生德逢(りせい・とくはう)といふものあり。年、廿五。よく、馬に、のり、よく、弓を、いる。勇(けなげ)[やぶちゃん注:読み「健氣」は、ここでは「勇ましく気丈なさま」の意。]をもつて、稱ぜ[やぶちゃん注:ママ。]らる。

[やぶちゃん注:「元朝のすゑ、天曆年中」一三二八年から一三三〇年まで。元の文宗トク・テムル及び明宗コシラの治世で用いられた元号。明宗コシラの死後、アスト軍閥のバヤンが独裁権を握り、元末の軍閥政権時代が幕を開け、一三六八年、モンゴル帝国第十五代カアン(元としては第十一代皇帝)トゴン・テムル(恵宗。明による追諡は順帝)、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した(北元の始まり)。

「隴西」旧隴西郡相当の地方名。同旧郡は秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省東南部の、現在の甘粛省天水市(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に置かれていた。現在、隴西県があるが、これは甘粛省定西市にあり、旧隴西郡の北西で、ずれる

「李生德逢」「生」は「~という者」の意。「德逢」が名。さても、「隴西」の「李」姓となると、私の偏愛する中島敦の「山月記」(リンク先は私の古いサイト版)を直ちに想起される方が多かろう。私は高校二年生の現代文(私の高校時代は「現代国語」と言った)の初っ端はこの「山月記」の朗読をブチかまして、生徒たちから「李徴」という有難い綽名を貰ったものだった。その私の『中島敦「山月記」授業ノート』もサイト版で公開している(そちらでは、教師駆け出しの頃に作成し、当時、使用した配布用資料の教授用(小汚い書き込み附き)原本『別紙ダイジェスト「人虎傳」』も画像(三分割。)で公開してある)。同作は、唐代伝奇の晩唐の李景亮撰になる「人虎傳」(これは先行する晩唐の張読の伝奇小説集「宣室志」にある「李徴」のインスパイア作品である)を元としている。「剪燈新話」の作者瞿佑(くゆう)は、まず以って「李徵」及び「人虎傳」を意識して主人公の本貫と李姓を使用しているものと考えてよかろう。「李徴」も「人虎傳」も主人公李徴について、『皇族子』則ち、「唐の皇族の子」と設定している。されば、そうした貴種流離譚的ニュアンスも、ここでは主人公に示唆されているものと読んでよいのではなかろうか。

「勇(けなげ)」読みの「健氣」は、ここでは「勇ましく気丈なさま」の意。原作では、ここは『以膽勇稱』となっている。]

 妻子を、ことゝせず、鄕黨に崇敬せられず。

[やぶちゃん注:原文では、妻子がいないという部分はなく、『然而不事生產、爲郷黨賤棄』で、「狩猟にうつつを抜かし、何らの生産的なことに興味を持たなかったことから(ちゃんとした仕事にも就かなかったから)、郷里の成人男子たちからは軽蔑されていた」とある。]

 桂州といふ国に、交友あるをもつて、ゆきて、これをとふに、すでに死して、今は、なし。滯留じ[やぶちゃん注:ママ。]て、かへる事、あたはず。

[やぶちゃん注:「桂州」タワー・カルストの林立する景観で知られる現在の広西チワン族自治区桂林市。ロケーションとしては、まさにツボに嵌まっている。]

 郡に、名山、おほし。日〻に、獵射(れうしや)をもつて、事として、やまず。

 みづから、おもへらく、

『たのしみを、えたり。』

と。

 こゝに、大氏(たいし)[やぶちゃん注:名門の豪族の意であろう。]錢翁(せんをう)といふもの、あり。財寶、おほきをもつて、郡にしやうくはん[やぶちゃん注:「召喚」。]せらる。

 子、たゞ一女《いちぢよ》、あり。とし、十七にをよぶ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]

 はなはだ、鐘愛(しあい[やぶちゃん注:ママ。])す。

 いまだかつて、門を見ず[やぶちゃん注:寵愛のあまり、彼女は家から出たことがないのである。]。親類・隣里(となりのさと)といへども、また、これをみる事、まれなり。

 一夕(《いつ》せき)、風雨(ふうう)、はなはだしく、くらきに、女の在所(おりところ[やぶちゃん注:ママ。])を、うしなへり。

 門(かど)・窓(まど)・戶(と)・扉(とびら)、閉-鎖(とざし)、もとのごとし。

 したがひゆく所を、しること、なし。

 官所(くわんじよ)に、きこえ[やぶちゃん注:行方不明の届けと捜索を頼み。]、仏神(ぶつじん)に、いのり、方〻《はうばう》に、これを、とふ。やゝ[やぶちゃん注:少しも。]、その跡、なし。

 錢翁、女(むすめ)をおもふ事、切(せつ)にいたり、誓(ちかひ)をまうけて、いはく、

「よく女の在所(ありところ)を知(しる)ものあらば、ねがはくは、家財をもつて、これに、つかへん。」

と。

 もとめたづぬるの心、はなはだ、せつなりといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、まさに半年にをよぶまで、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]音信(いんしん[やぶちゃん注:ママ。])を絕(ぜつ)する也。

 李生、一日《いちじつ》、ゆみやを、もつて、城(さと)を出《いで》て、一《ひとつ》の鹿(しか)に、あへり。

 これを、おふて、すでに、嶺(みね)をこえ、谷(たに)をこえ、よく、をよぶ事、なふして[やぶちゃん注:ママ。追い捕まえることが出来ずに。]、日、すでに、くれたり。

 きたれるみちに、まよひ、ゆくべき所を、しること、なし。

 日、くれたり。

 虎(とら)、うそぶくこゑ[やぶちゃん注:遠吠え。]、さだかに、きこえぬ。

「いづれの所にか、宿(しゆく)せん。」

と、はるかに山上《さんじやう》をみれば、一《ひとつ》の古堂(ふるだう)あり。

 ゆきて、これに宿せむと欲(ほつ)す。

 塵(ちり)、ふかくつもりて、人の跡、なし。

 たゞ、鳥(とり)・けだ物《もの》の跡、あり。

 はなはだ、おそるといへども、いかんとすべきことなく、堂の内にありて、いまだ、すこしも、ねぶらざるに、おほき衆(しゆ)、同行(どうぎやう)の声(こゑ)を、きく。

 とをく[やぶちゃん注:ママ。]よりして、いたる。

 おもふに、

『深山、しづかなる夜、いづくむぞ、かくあらん。うたがふらくは、これ、鬼神(きじん)ならん。又、おそらくは、盜人(ぬすびと)のありく[やぶちゃん注:「歩く」。]か。』

と。

 高梁(かうりやう)[やぶちゃん注:堂の棟の高い梁(はり)の上。]に、のぼりて、そのなす所を、うかゝふ[やぶちゃん注:ママ。]

 須庾(しゆゆ)にして、門に、をよんで、二(ふたつ)のともしびを、かゝげて、さきに、みちびく。

 首人(しゆじん)[やぶちゃん注:「首魁」。親分。]たるもの、頂(いたゝき[やぶちゃん注:ママ。])に、三山《さんざん》の冠(かふり)を、ちやくし、黃(き)なる袍(うはぎ)、玉(たま)の帶(おび)、高官(かうくわん)の人のごとく、正案前(しやうあんぜん)によつて、座(ざ)す。

[やぶちゃん注:「三山の冠」所持する二〇〇八年明治書院刊の竹田晃他編著の『中国古典小説選」第八巻「剪灯新話」の注に、『古来、朝賀や即位式で被る儀礼用の冠』とある。

「正案前」原作では(二行目下)、『神案』とあるから、この古い堂に祀られた神の神前の礼拝用の机を指す。]

 從者(しうしや[やぶちゃん注:ママ。])十餘輩(《じふ》よはい)、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]兵具(ひやうぐ)をもつて、階下(かいか)につらなりおれ[やぶちゃん注:ママ。]り。

 よくみれば、皆、猿(さる)のたぐひなり。

 こゝに、李生、邪魅(ばけもの)たることをしつて、腰の間《ま》の箭(や)をとりて、弓に、はげ、十分に、ひゐて[やぶちゃん注:ママ。]、はなつ。

 正面に座したるものゝ肘(ひぢ)・膝(ひざ)に、あたる。

 声を、うしなふて、はしる。從者(じうしや[やぶちゃん注:ママ。])、一度に退散す。ゆく所を、しること、なし。

 後はしづかにして、また音をきかず。

 李生、かりねして、あしたを、まつに、すでに、夜《よ》、あけぬ。

 そのあとをみれば、血、こぼれて、おほく引(ひき)て、門外にいたる。

 路(みち)にしたがつて、たえず、李生、これを、とめて[やぶちゃん注:「尋(と)めて」。]ゆけば、山の南より、まさに五里にをよばんとす、一《ひとつ》の、おほきなる、穴、あり。

[やぶちゃん注:「五里」明代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、凡そ二キロ八百メートルである。]

 血のあと、穴に入《いる》。

 李生、あなの、はたに、のぞんで、下を、のぞけば、草、ふかくしげり、草のね、やはらかにして、なめらかなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、ふみはづし、おぼえずして、おちいりぬ。

 穴ふかき事、數(す)十丈、天《そら》をあふぎみること、あたはず。

[やぶちゃん注:「數十丈」明代の一丈は三・一一メートル。六掛け六十丈で換算すると、凡そ百八十七メートル前後となる。]

 みづから、

『かならず、死す。』

と、おもへり。

 かたはらに、

『すこしき、みち、あり。』

と、おぼゆ。

 これを、たづねてゆけば、にはかに、あかくして[やぶちゃん注:ぱっと明るくなって。]、一《ひとつの》の、石室(せきひつ)、みゆ。

[やぶちゃん注:「石室」これは自然のものではなく、意図的に作られた石造建物を指す。]

 額、あり、「申陽洞」と記(き)す。

 門を、まもれるもの、數輩(すはい)、そのしやうそく[やぶちゃん注:「裝束」。]、昨夕(さくせき)、堂のまへにみし所のごとし。

 李生をみて、おどろきて、いはく、

「汝(なんぢ)、いかんとして、こゝに、きたるや。」

と。

 李生、礼をなして、こたへて、いはく、

「下衆凡人(げしゆほん[やぶちゃん注:ママ。]じん)、ひさしく城-都(みやこ)に居(きよ)して、醫道(いだう)をもつて業(ぎやう)とす。藥種(やくしゆ)に、ともしきがゆヘに、山に入《いり》て、たづね、とる。すゝみ、きたりて、おほえ[やぶちゃん注:ママ。]ず、足を、あやまつて、こゝに、おちたり。ねがはくは、じひ[やぶちゃん注:「慈悲」。]をたれ給へ。」

 門をまもるもの、いふことをきゝて、よろこぶ色あり。

 李生に、とふていはく、

「汝、すでに醫を業とせば、よく、人のために治療(ぢりやう)せんや。」

 李生がいはく、

「是、やすき事なり。」

と。

 門を、まもるもの、おほきに、よろこび、手をもつて、空をさし、

「天なり、天なり、」

といふ。

 李生、そのびやうじや[やぶちゃん注:「病者」。]のゆらい[やぶちゃん注:「由來」。発症の様態。]を、とふ。

 門をまもるもの、いはく、

「我君(わがきみ)申陽侯(しんやうこう)、昨夕(さくせき)、出《いで》て、あそばるゝに、流矢(ながれや)のために、あてられ、やまひにふして、床(とこ)にあり。汝、しぜん[やぶちゃん注:「自然」。自ずから。]、こゝに、きたる。是、天神(てんしん)、醫をも、もつて、たまものせらるゝなり。」

と。

 すなはち、李生を請(しやう)じて、門中に座(ざ)せしめ、はしりゆきて、此むねを、そうす。

 則(すなはち)、主人のことばをつたへて、李生につげていはく、

「予(われ)、養生(ようじやう)を、よく、せず、みだりに、出《いで》あそび、肱股(ここう[やぶちゃん注:ママ。この文字列では「こうこ」。「股肱」が普通で、「股」は「腿(もも)」、「肱」は「肘(ひじ)」で、「股肱」で「手足」の意となる。漢字の誤刻か。])の毒、骨髓(こつずい)にながるゝことを、えて、殘命(ざんめい)つくるを、まつ。いま、さいわゐ[やぶちゃん注:ママ。]にして、神醫(しんい)きたりて、良藥を服(ふく)することを得べしとは。」

 しかるゆへに、李生を請容(しようよう)す。

 李生、衣(ころも)をかきおさめて、入《いり》、重門(てうもん[やぶちゃん注:ママ。])を、わたり、曲廊(きよくらう)をすぎ、幕際(まくのきは)に、をよぶ。

 裀-褥(しとね)、きはめて、はなやに、うるはしゝ。

 一《ひとつ》の老猿(おいざる)有(あり)て、石の床(ゆか)の上に、のべふす。呻(によふ[やぶちゃん注:「呻(によ)ふ」。苦しそうに呻(うめ)く。])こゑ、たえず。

 美女、かたはらに侍るもの、三人。みな、たえたる[やぶちゃん注:「絕えたる」。絶世の。]色(いろ)にして、うつくしき也。

 李生、主人に、ちかづき、その脉(みやく)を診(しん)じ、その瘡(きず)をなでゝ、いたはるよしゝて、いはく、

「あに、いたみなからんや[やぶちゃん注:ここの反語は、「その傷みは御心配には及びません」の意。]。予、仙術の藥《くすり》あり。たゞやまひを治(ぢ)するのみにあらず、かねて、長生(ちやうせい)すべし。今の、あひあふ事[やぶちゃん注:互いに出逢うことが出来たことは。]、けだし、また、緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])あるのみ。」

 つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、ふくろを、かたぶけ、藥(くすり)を出《いだ》して、これを、ふくせさしむ。

 群猿(むらさる[やぶちゃん注:ママ。])、「長生(ちやうせい)の說(せつ)」を聞《きき》て、長生をえむことを、のぞみ、みな、前につらなりて、拜していはく、

「尊醫(そんい)、まことに、是、神人《じんじん》なり。さいわひ[やぶちゃん注:ママ。]にして、あひあふ。我君、すでに仙藥(せんやく)をえて、命をながくす。我等[やぶちゃん注:「等」は底本では異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、正字で示した。後の「等」も同じ。]に、なんぞ、一刀圭(かたなのさきひとすくひ)[やぶちゃん注:三字へのルビ。小刀の先で一掬いしただけの僅かな量。]、たまはることを、えざらんや。」

 李生、つゐに、そのつゝみもてるを、つくして、あまねく、これをあたふ。

 みな、ころびおどり、あらそひ、うばふて、これを、ぶくす。

 群猿《むれざる》、すなはち、にはかに、地に、たふれ、まなこ、くれて[やぶちゃん注:「眩れる・暗れる」で眼が見えなくなって。]、しる事、なし。

 けだし、此毒藥(どくやく)は、獵師たるもの、みな、これをもつて、矢(や)じりにぬり、鳥・けだ物をいるに、たとひ、毛羽(けは)にあたるといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、つゐに、毒氣、とをり[やぶちゃん注:ママ。]て、死す。

 いはんや、今、ぢきに、かれらが口にいれしゆへに、たちまちに、たふるゝなり。

 きのふ、李生、山に人《いり》て、鹿をいるゆへに、これをもつて、今、これをもちゆ。

 又、こゝに、寶剱(はうけん)、石壁(せきへき)にかゝりてあるをみて、すなはち、李生、これをとつて、ことごとく、これを、きる。

 およそ、猿をころす事、大小、三十六頭(かしら)なり。

「かの三人の美女、これもまた、ばけたる猿なるべし。おなじくこれを、ころすべし。」

といへば、みな、泣《なき》ていはく、

「我等、みな、人《ひと》にして、猿にあらざるなり。いのちをゆるされば、ふたゝびうまるゝの主(しゆ)たらん。」[やぶちゃん注:「生きて帰られることは、生まれ変わったのと同じことで御座いますから、蘇生の御(おん)主人として、お仕え申し上げます。」の意。]

と。

 李生、ちなみに、その姓名・居所(ゐどころ)を、とふ。

 三女、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]つぶさにかたるをきけば、そのひとりは、錢翁がむすめなり。その二女もまた、近里良家(きんりりやうけ)のむすめなり。

 李生、三女を引《ひき》て、おなじく出《いで》んと欲(ほつす)といへとも[やぶちゃん注:ママ。]、その道をしらずして、いきどをり[やぶちゃん注:行くに滞ってしまい。]、まよふところに、たちまちに、老夫(らうふ)、四、五人、きたれり。

 みな、身(み)に褐裘(かはたはころも)[やぶちゃん注:粗末な皮革製の着衣。]を、きたり。ひげ、ながく、頷(をとがひ[やぶちゃん注:ママ。])ほそきものなり。

 つらなりて拜する中《なか》に、白衣(はくゑ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])のもの、ひとり、すゝむで、いはく、

「我等は、二十八宿のうち、虛星(きよせい)の精(せい)なり。久しく此所《ここ》にあつて、ちかごろ、妖猿(ばけざる)のために、うばゝる。我等、ちから、よはくして、敵たい[やぶちゃん注:「敵對」。]に、あたはず。他方(たはう)にさりて、そのたよりをまつところに、はからざるに、君、よく、われらがために、たいぢし給ふ。」

と、いふて、よろこびて、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]袖(そで)の中より、金玉(きんぎよく)のたぐひを出して、李生がまへに、をけり。

[やぶちゃん注:「虛星」中国の天文学・占星術で用いられた「二十八宿」の一つである「虚宿」(きょしゅく・とみてぼし)。当該ウィキによれば、「北方玄武七宿」の第四宿。『距星はみずがめ座β星』で、『主体となる星官(星座)としての虚はみずがめ座β、こうま座αの』二『つの星から構成される』とあり、『虚宿には』十『の星官がある』として、それらが司る対象内容が記してある。先に示した明治書院刊『中国古典小説選」第八巻「剪灯新話」の注には、『ネズミは虚星の精であると言われる』とあった。]

 李生がいはく、

「なんぢら、すてに[やぶちゃん注:ママ。]、神通(じんづう)を、ぐす[やぶちゃん注:「具す」。備える。]べし。なんぞ、すなはち、かれに、あざむかるゝや。」

と。

 白衣(はくゑ)のもの、いはく、

「吾(わが)壽(いのち)、たゞ、五百歲。かれ、すでに、八百歲。こゝをもつて、敵(てき)すること、あたはず。しかるに、群猿(むれざる)、此ときに、めつばうす。けだし、かれら、人をたぶらかし、世をわづらはするゆへに、咎(とが)を天にえて、手を君に、かるのみ。しからずば、かれらがあくしん[やぶちゃん注:「惡心」。原作では『兇惡。』]、あに、君一人して、よく制する所ならんや。」

といふて、よろこぶなり。

 ちなみに、李生、とふて、いはく、

「洞(とう)を『申陽(しんやう)』となづくるは、その儀(ぎ)、いづくか、あるや。」

 白衣のいはく、

「猿(さる)は、すなはち、『申(さる)』のたぐひなり。かるがゆへに、これをかりて、もつて、美名(びめい)をもつてす。我土(わがくに)の旧号(きゆうがう)にあらざるなり。」

 李生が、いはく、

「予(われ)、あやまりて、こゝに、おちいりたり。ねがはくは、歸路にみちびくことを、えさしめよ。」

 白衣(はくゑ)のいはく、

「汝、目をとづること、しばらくせば、歸路を得べし。」

と。

 李生、その、いふがごとくす。

 則(すなはち)、耳(みゝ)のほとりに、たゞ、疾風(しつふう)暴雨(ぼうう)のこゑを、きく。

 声(こゑ)やんで、目をひらけば、一《ひとつ》の大白鼡(はくそ/しろねつみ[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:右左のルビ。]見(けん/みへ[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:右/左のルビ。]して、前に、あり。

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵の大きな画像がこれ

 

 群鼡(ぐんそ)、豕(いのこ[やぶちゃん注:ママ。])のごとくなるもの[やぶちゃん注:豚の大きさほどの鼠の意。]、數輩(すはい)、これに、したがふ。

 かたはらの古穴(ふるあな)をうがちて、歸路(きろ)に通達(つうだつ)することを、えさしむ。

 李生、すなはち、三女を、ひゐて、ともに出《いで》てかへる。

 しかうして、錢翁が門(かど)をたゝきて、さきの事を、かたる。

 すなはち、錢翁、おほきにおどろき、そのかへる事を、よろこぶ。

 すなはち、もと、いひしごとくに、おさめて、婿となすなり。その二女の家に、また、これに、したがはんことを、ねがへり。

 李生(りせい)、一身(《いつ》しん)にして、三女《さんぢよ》をめとるなり。

 冨貴繁昌(ふうきはんじやう)するなり。

 しかしながら、勇敢のちから歟(か)。

 

竒異雜談集卷第六終

[やぶちゃん注:本篇は後発の「伽婢子卷之十一 隱里」で翻案されているので、是非、読まれたい。

 因みに、底本では奥書に以下のようにある。

   *

     孟春穀日

     江都富野治右衛門 繡

     京上茨木多左衛門 梓

   *]

2023/07/15

奇異雜談集巻第六 ㊁干將莫耶が劔の事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 因みに、本篇は、前回と同じ仕儀がなされてある。則ち、冒頭にある漢籍の原著「祖庭事苑」(字典。八巻。宋の睦庵善卿撰。一〇九八年から一一一〇年にかけて刊行された。「雲門録」などの禅宗関係の図書から熟語二千四百余語を採録し、その典拠を示して注釈を加えたもの)からの和訳である。私には、この話、とても懐かしいもので(リンク先で語っている)、二〇一七年で正字化に不全があるのだが、『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』の注で、原文と、私の訓読を示してあるので、まずは、それを参照されたい。

 本文中に漢詩が出るが、返り点のみを附し、後に〔 〕で読み・送り仮名を参考に訓読文を示すこととした。

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)では、これ以降は総て掲載されていない。]

 

   ㊁干將(かんしやう)莫耶(ばくや)が劔(つるぎ)の事

 干將・莫耶が劔の事、「祖庭事苑(そていじゑん)」に見えたり。いま、心をとつて、やはらげて[やぶちゃん注:「和訳して」の意。]、こゝにしるす。

[やぶちゃん注:「祖庭事苑」仏教系の字典の一種。全八巻。宋の睦庵善卿撰。一〇九八年から一一一〇年にかけて刊行された。「雲門録」などの禅宗関係の図書から熟語二千四百余語を採録し、その典拠を示して注釈を加えたもの。]

 むかし、楚国(そこく)の大裏(だいり)に、鉄(くろがね)のはしら、あり。

 夏、はなはだ、あつきとき、宮女(きうぢよ)、身(み)をひやさんために、鉄のはしらを、いだく。

 いだけるごとに、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])をいだくおもひを、なせり。

 その念、つもりて、くはいにん[やぶちゃん注:「懷姙」。]す。

 つゐに[やぶちゃん注:ママ。]一《ひとつ》の丸鉄(まるくろかね[やぶちゃん注:ママ。])を、うめり。

 是、奇異の事なり。

 楚王、此丸鉄をもつて、干將に命じて、劔を、つくらしむ。

[やぶちゃん注:「楚王」名が出されていないので、特定は不能である。]

 干將は、そのときの鍛冶(かぢ)のめい人なり。

 于將、すなはち、かの鉄をもつて、双劔(そうけん)をつくる。一《ひとつ》は雌(し)、一は雄(ゆう)。これ、大事の劔をつくる法なり。

 剱、すでに、なる。その雌劔(しけん)一《ひとつ》をもつて、楚王に、さゝぐ。王、よろこんで、つるぎのはこに、おさむ[やぶちゃん注:ママ。]

 夜々(よなよな)は、この内にして、かなしみ、なける、こゑ、あり。

 王、あやしむで、群臣に、とはる。臣が、まうさく、

「剱は、かならず、雌雄(しゆう)二つ、あり。此劔、雌(し)ひとりなるゆヘ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、雄(ゆう)を、おもふて、なくものなり。」

と。

 王、おほきにいかつて、のたまはく、

「まさに、雄劔(ゆうけん)、あるべし。これを出《いだ》すべし。」

と。

 于將、すなはち、その、ころさるべきことを、しつて、雄劔をもつて、わがやの、はしらの内にかくし、わが子、ようせうなるゆへに、我妻の莫耶に、いひをき[やぶちゃん注:ママ。]す。

「わが子の眉間尺(みけんじやく)、せいじむ[やぶちゃん注:「成人」。]の時、これを、しめすべし。」

と、いふて、詩、一首を、かきのこす。

[やぶちゃん注:「眉間尺」古代中国の説話に見える勇士の綽名(あだな)。身長が高く、顔が大きく、眉と眉との間が一尺(中国で最も古いそれは二十二・五センチメートルである)もあるところからいう。後、呉の勇士呉子胥(ごししょ)のことを指し、また、ここに出る刀剣の名工干将の子の名としても有名である。転じて、「眉間の広いこと・眉間の広い人」を言う(小学館「日本国語大辞典」に拠った))。]

 はたして、干將、王命(わうめい)をうけて、ころされし也。

 のちに諸人(しょにん)、その詩をみるに、よむことをえず。詩の文に曰(いはく)、

 日出北戶 南山有ㇾ松 松生於石 劔在其中

  〔日(ひ) 北戶(ほつこ)に出づ

   南山(なんざん)に 松(まつ) 有り

   松 石に生(しやう)ず

   劔(つるぎ) 其の中(なか)に在り〕

と云〻。

 のちに、その子、せいじんす。「眉間尺」と、なづく。けだし、面(かほ)大なる者が、とし十五にして、母に、とひて、いはく、

「父(ちゝ)は、いづくにあるや。」

 母、すなはち、つぶさに、前事(ぜんじ)をかたりて、かの詩を、あたふ。

 子、これをみて、久しく、しゆい[やぶちゃん注:「思惟」。]して、はしらを、ほりて、劔を、えたり。

 此儀、すなはち、世に、ふうぶんす。

 王、きゝて、又、その劔を、こはる[やぶちゃん注:「請(こ)はる」。]。

 尺、出《いだ》さざるときんば、その、ころさるべきことを、おそれて、劔をいだきて、とをく[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、のがる。

 王、世にせんじ[やぶちゃん注:「宣旨」。]してのたまはく、

「眉間尺をえたる人あらば、あつく褒美せん。」

と云〻。

 尺も、また、父のあた[やぶちゃん注:ママ。「仇(あだ)」。以下同じ。]を、王にむくひんことを、おもふ。

 尺、とをき所におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、客(かく)に、あふ。客の、いはく、

「汝、あに眉間尺にあらずや。」

 尺がいはく、

「然(しか)なり。」

 客のいはく、

「吾は甑山人(そうさんじん)なり。我、よく、汝がために、父のあたを、王にむくひしめん。」[やぶちゃん注:「甑山人」不詳。但し、後を見ると、凄絶な奇法を駆使出来る道士のようである。]

 尺、よろこびて、かたつて、いはく、

「我父、つみ、なふして、まげて、罪科(ざいくは)せらる。君、いま、惠念(けいねん)あり。いかんが成(なる)べきや。」[やぶちゃん注:「惠念」強い情(なさ)けの心。]

 客(かく)のいはく、

「まさに、汝が頸《くび》、ならびに、なんぢが劔を、得べし。」

 尺、すなはち、みづから、頸を、きつて、頸(くび)、劔(けん)を、あたふ。

 客、是をえて、都(みやこ)にゆき、大裏(だいり)にまうでゝ、奏(さう)していはく、

「我は甑山人なり。眉間尺がくびを、もつて參る。」

と。

 王、おほきに、よろこぶ。

 甑人のいはく、

「ねがはくは、これを烹(に)て、ゑいらん[やぶちゃん注:「叡覽」。]に、そなへん。」

と。

 王、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、鼎(かなへ)を出《いだ》して、これに、あたふ。

 甑人(そう《じん》)、えて、もつて、くびを烹(にる)に、生色(いきいろ)、変ぜざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、數日(すじつ)、これを、にる。

 甑人、王を、あざむひて、まうさく、

「久しくにるに、いまだ、たゞれず。請(こう[やぶちゃん注:ママ。])、王、きたりて、のぞき見給へ。」

 王、すなはち、きたりて、鼎中を、のぞみ見らる。

 甑人、うしろより、かの剱をもつて、王のくびを、うつて、鼎中(かなへのうち)に、おとす。

 二のくぴ、あひかむ。

 甑人、尺が、かたざることを、おそれて、すなはち、みづから、くびをはねて、鼎にいるゝ。

  

[やぶちゃん注:底本の大きな画像はここ。まさに甑山人が眉間尺を助っ人するために、自らの頸を落とす直前を切り取った瞬間を絵にしたものである。

 

 もつて、尺を、たすく。

 三《みつ》の頸、あひ、かむ。

 その二劔、つゐに、ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] を、しらざるなり。

 本《もと》、「孝子傳」に、みえたり。

[やぶちゃん注:「孝子傳」現行、確かに本話の原拠はこの書とする。例えば、「今昔物語集」の「卷九 震旦孝養」の「震旦莫耶造釼獻王被殺子眉間尺語第四十四」(震旦(しんだん)の莫耶(まくや)、釼(つるぎ)を造。りて王に獻(けん)じたるに子(こ)の眉間尺(みけんじやく)殺されたる語(こと)第四十四)を所持する「新日本古典文学大系」版「今昔物語集二」で見ると、脚注で『原拠は孝子伝・下・21』とする。漢籍の「孝子傳」は複数存在するが、本邦には平安時代に伝来している「孝子傳」があるものの、原本は古逸本で、後代の引用集成もので分散して伝わっているようである。私は、かの「神搜記」版のものを、高校時代に読んだ。]

 又、「龍泉(れうせん)・太阿(たいあ)」の二劔あり。「醫學源流」を按ずるに、晋(しん)の醫者張華(ちやうくは)、よく、天文・地理をしる。

[やぶちゃん注:「醫學源流」明の熊宗立(ようそうりつ)の撰になる、古い医学処方書。

「張華」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)。彼の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻はよく知られる。]

 夜(よる)、紫氣(しき)を見る。地より、天にのぼりて、斗牛(とぎう)の間《かん》に、いたる。

[やぶちゃん注:「斗牛」星座の二十八宿の中に隣り合う「斗宿」と「牛宿」の間。「斗」は「射手座」の一部、「牛」は「山羊座」の一部で、「わし座」の南方にある。]

 これを、豫章(よしやう)の雷煥(らいくはん)に、つぐ。

[やぶちゃん注:「豫章の雷煥」(二六五年~三三四年)は西晋の豫章郡(現在の江西省北部にあった。ここ。グーグル・マップ・データ)南昌出身の天文学者。当該ウィキによれば、『天文に通じた人物として有名であり、恵帝の時代に司空の張華に引き立てられ、豊城の県令となった。同地で龍淵(龍泉)、太阿(泰阿)の名剣を発掘し』、『龍淵を張華に献上し、太阿は自らが所持して子孫に遺し伝えたと言われる』。『また、干宝の志怪小説である』「捜神記」においても、『張華と共に登場し、張華のもとに書生の姿で現れた千年生きた斑模様の狐の正体を見破る助言をする者として登場する』とある。]

 雷煥、また、よく天文・地理をしれる人なり。

 ともに高樓(かうらう)にのぼりて、夜々《よよ》、かの氣を見て、雷煥が、いはく、

「是は、寶劔の氣なり。豊城縣(ほうじやうけん)の地より、天にのぼりて、斗牛の間にいたるものなり。」

[やぶちゃん注:「豊城縣」現在の江西省宜春市豊城市(グーグル・マップ・データ)。]

 雷煥、すなはち、豐城縣の獄基(ごくき)を、ほる事、四丈(《し》ぢやう)[やぶちゃん注:十二・一二メートル。]あまりにして、一の石凾(いしのはこ)を、えたり。

[やぶちゃん注:「獄基」「嶽の麓」の意であろう。とある山岳のふもと。]

 中に双劔(さうけん)あり。

 銘に、一《いつ》を「流泉」といひ、二をば、「大阿」といへり。

 その一を張華に、をくる[やぶちゃん注:ママ。]

 その時に、雷煥が、いはく、

「霊異(れいい)の物は、まさに化(け)して、さるべし。」

と云〻。

 又、一は、雷煥みづから、佩(はけ)り。

 帳花[やぶちゃん注:ママ。「張華」。]が死するときに。その剱の所在を、しらず。

 雷煥、死してのちに、その子、かの剱をはきて、延平津(ゑんべいしん[やぶちゃん注:総てママ。])の河邊(《かは》へん)をすぐるに、その劔の、脇(わき)の間《あひだ》より、みづから出《いで》て、おどり[やぶちゃん注:ママ。]て、水に入《いり》、人《ひと》をして、これを、もとめしむれば、たゞ、兩龍(りやうりう)、相(あひ)繞(まとふ)を見る。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、長(たけ)、數丈(すぢやう)[やぶちゃん注:六掛けで約十八メートル。]なり。

 おそれて、かへりぬ。

 雷煥がいひしこと、あたれり。

 「玉海(ぎよくかい)」卷(まきの)百五十一をみるに、張華が、いはく、

「『龍泉』・『太阿』は、その劔の文《ぶん》を、つまびらかにするに、すなはち、『干將』なり。」と云〻。

[やぶちゃん注:「玉海」玉海』南宋の王応麟によって編纂された類書(百科事典)の一種。全二百巻。当該ウィキによれば、『科挙試験の参考書として編まれたものだが、大量の書籍を引用しており、中でも現在では見ることのできない宋代の実録の類を使用しているため、資料価値が高い』。但し、『宋代には出版されず、元』(げん)『の後至元』(こうしげん)六(一三四〇)年に『はじめて刊刻された』とある。]

 又、註にいはく、『汝南《ぢよなん》の西平縣(せいへいけん)に「龍泉水(《りう》せんすい)」あり。刀剱(たうけん)を淬(にぶらす)に、ことに、かたふ[やぶちゃん注:ママ。]して、利(とし)。汝南は、すなはち、楚分野(そぶんの)なり。」と云〻。

[やぶちゃん注:「汝南の西平縣」現在の河南省東南部及び安徽省阜陽市一帯に設置された汝南郡の内、現在の河南省駐馬店(ちゅうばてん)市西平県(グーグル・マップ・データ)。

「淬(にぶらす)」「淬」は音「サイ・シュツ」(現代仮名遣)で、刀剣を鍛える際、「刃(やいば)を焼いて、水入れする」ことを指す。

「楚分野」旧楚地方に含められた原野の意か。]

 かるがゆへに、「龍泉」と題するなり。

 「大阿」は、所の名(な)なり。

 「干將・莫耶」は、楚王の劔。

 「祖庭事苑」、『「甑人」の註につまびらかなり』と云〻。

 わたくしに、いはく、

「むかし、干將がつくる所の雄劔・雌劔、つゐに偶(ぐう)して[やぶちゃん注:二つ揃えて。]、石凾(いしのはこ)に入《いれ》て、地下にあり。年を經て、晋(しん)の時に、ほり出《いだ》し、兩人《りやうにん》、わかちて、佩(はけり)といへども、つゐに、龍と化(け)して、水中におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、偶するなり。異(こと)なるかな。」。

 

2023/07/13

奇異雜談集巻第六 目錄・㊀女人死後男を棺の内へ引込ころす事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は二行割注。本篇ではダッシュを一部で用いた。

 因みに、本篇は、前回と同じ仕儀がなされてある。則ち、同前の原著「剪灯新話」の和訳である。それも同原著の中でも、最も本邦の怪談としてインスパイアされ続けた「牡丹灯記」のそれである。前回と同様に、私の五月蠅い注と同じく、作者の解説が冒頭からガッツリと本文に繰り込まれているから、それが五月蠅いとする御仁は、原作の原書の原文を読まれるに若くはない。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、影印本で視認出来るから、これが一番良い(但し、右にある電子化されたものはダメである。機械判読で、とんでもない字起こしになっているから)。「中国語では読めない。」と言う方、ご安心あれ! これ、実は、逆輸入(後の本文の私の注を参照)版で、日本語の訓点附きなのだ!

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵(本篇では二幅ある)をトリミング補正して、適切と思われる箇所に掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

竒異錄談集卷第六

          目錄

㊀女人死後(しご)男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])を棺(くわん)の内へ引込(ひきこみ)ころす事

㊁干將莫耶(かんしやうばくや)が剱(けん)の事

㊂弓馬(きうば)の德(とく)によつて申陽洞(しんやうとう[やぶちゃん注:ママ。])に行(ゆき)三女(ぢよ)をつれ歸り妻(つま)として榮花(えいくは)を致(いた)せし事

 

   ㊀女人《によにん》死後男を棺の内へ引込ころす事

 唐(から)には、正月十五日の夜、家々の門(かと[やぶちゃん注:ママ。])に、ともしびをあかし、種々(しゆじゆ)、いぎやう[やぶちゃん注:「異形」。]のとうろう[やぶちゃん注:「灯籠」。]をはりて、門《かど》にかくるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、男女(なんによ)諸人(しよにん)、是をみて、曉(あかつき)にいたるまで、あそびありく事、日本(にほん)の盆(ぼん)のごとくなり。是は、「三元下降(《さん》げんげかう)の日《ひ》」といふて、一年に三度、天帝(てんてい)、あまくだりて、人間の善業(ぜんごう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])・惡業(あくごう)を記(き)する日《ひ》也。正月十五日を「上元《じやうげん》」といふ。此の夜を「元宵(げんせう)」とも「元夕(げんせき)」ともいふなり。七月十五日を「中元《ちゆうげん》」といふ。十月十五日を「下元《げげん》」といふなり。此のゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、唐には、上元の夜、家々(いけいへ)の門に、ともしびを、あかして、天帝を、まつる。すなはち、是、七月否卦(ひのけ)十五日に、鬼霊(きれう[やぶちゃん注:ママ。])をまつる日に、あたるなり。

  「牡丹灯記(ぼたんとうのき)」 牡丹の枝(えだ)
  のさきに、花、二つ、あひならふ[やぶちゃん注:ママ。]
  形を、灯籠に、はるたり。是を「双頭の牡丹灯」と
  いふなり。

[やぶちゃん注:「鬼霊」。中国語では、本来、「鬼」はフラットに死者を指す。従って、ここでは「亡き人の霊」の意である。]

 元朝(げんてう)のすゑの至正(しせい)年中のことなるに、明州(みやうしう)の鎭明嶺(ちんめいれい)のもとに、喬生(きやうせい)といふものあり。妻をうしなひて、やもめにして閑居す。

 正月十五夜にいたりて、諸人、みな出《いで》て、灯籠を見て、遊び行(ありく)といへども、喬生は、ひとり、門(かど)に、たゝずみて、みちに出《いで》あそばす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]

 夜半のすぎになりて、道に、人もなく、月のみ、あきらかなるに、丫鬟(あくはん[やぶちゃん注:ママ。「あくわん」が正しい。以下同じ。]/びんづう[やぶちゃん注:右左のルビ。左は意訳。以下同じ。])の童女、一人《ひとり》ありて、双頭の牡丹灯を、かたに、かかげて、さきにゆけば、後(あと)に、窈窕(ようぢやう[やぶちゃん注:ママ。「えうてう」が正しい。]/みやびやめ[やぶちゃん注:「雅や」(かなる)「女(め)」。])たる美女一人、したがつて、西(にし)にゆく。

 喬生、これを見て、やむことをえず、すなはち、出行(いでゆき)て、ちかくみれば、はなはだ、すぐれたる美女なり。年に約(やく)せば、十七、八、くれなゐの裙(もすそ)、みどりの袖(そで)にして、ゆるやかに步む。氣(け)だかき躰(てい)、まことに国をかたぶくべき色(いろ)なり。

[やぶちゃん注:「至正年中」元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。一三四一年から一三七〇年。一三六八年に元が大都(現在の北京)を追われた後も、北元の元号として使用された。但し、原作では冒頭、「方氏之據浙東也」(方氏(はうし)の浙東(せつとう)に據(よ)るや)とあり、「方氏」は元末の戦乱の嚆矢となった反乱指導者の一人であった方国珍(一三一九年~一三七四年)で、浙江で反乱を起こし、浙江省東部を占拠した。当該ウィキによれば、『塩の密売を行っていたが』、至正八(一三四八)年に『海賊と繋がっているとの讒言を受け、やむを得ず』、『数千の衆を集めて弟の方国瑛と共に反乱を起こした』。『元はこれに対して討伐軍を出してくるが、その軍は弱く、方国珍は大勝し』、『江浙行省参知政事ドルジバル(朶爾直班)を虜にした。討伐が難しいと思った元政府は方国珍に対し』、『県尉の役職を授けて懐柔しようとし、方国珍も』、『一旦は』、『これを受けて矛を収めたが、その後』、『再び背』き、『再び送られた政府の討伐軍は』、『また』して『も敗れ、江浙行省左丞相ボロト・テムル(孛羅帖木児)は虜となった。その後、方国珍に対し』、『政府は前よりも高い官職を授けた』。『その後、何度もこれを繰り返し、その度に官職が高くなり、最終的に』至正二六(一三六六)年九月に『江浙行省左丞相・衢国公にまで登』ったとある。彼は後に、明の初代皇帝となる朱元璋に降伏している。なお、彼は『朱元璋と争った群雄の中で』、『唯一』、『天寿を全うした』ともある。実は原作では「至正庚子之嵗」とあるので、さらにユリウス暦で一三六〇年に限定出来ることになる。

「明州の鎭明嶺」現在の浙江省寧波市であるが、岩波文庫の高田氏の注よれば、「鎭明嶺」は『市内の小高い街区の名』とある。グーグル・マップ・データ航空写真で同区を見るに、現在では、元は丘陵地であったかと思わせるものでしかない。

「喬生」「生」は中国語では「~の者」を指す名詞を作る語素である。なお、岩波文庫では『喬正』となっている。

「丫鬟」現代中国語の音写では「ィア フゥァン」。岩波文庫の高田氏注に、『頭髪を両脇にまとめた少女の髪型。転じて、少女をいうことがある』とあり、ここでも後者で、「年少の侍女・召使い・婢」を指す。より正確には、髪を左右に分けて角形(丸い塊り状)に結った髪型で、本邦の「あげまき」(総角)に相当する。中文サイト「中文百科」の「丫環」に写真がある。]

 喬生、心もまどふばかりにて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]あとにしたがひ行く。あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、さきになり、あるひは、あとになりて、ゆくこと、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかりにして、美女、たちまちに、喬生を見て、微哂(すこしわらひ)ていはく、

「旧(もと)、見し人に、あらず。月下(げつか)に、はしめて[やぶちゃん注:ママ。]見る。もと、知(しる)の心に、似たり。」

といへば、喬生、よろこんで、さしよりて、いはく、

「我家(わがいへ)、ほど近し。來たりて、やどり給はんや、いなや。」

といへば、女、すなはち、うけがふ。

 丫鬟(あくわん)をば、名を「金蓮」といふ。牡丹灯をかかげて、さきにゆくぞ。

 すなはち、女の手をとりて、我家に引《ひき》て入れり。

 金蓮をば、はしのま[やぶちゃん注:「端の間」。]に居(きよ)せしめ、女を中堂(ちうのま)に請(しやう)じいるゝなり。

「はからざるの佳遇(かぐう)。」

とて、帳(とばり)を、たれ、枕を、ならべ、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]、歡悅(くわんえつ)を、きはむ。

 世にたぐひなき、多情(たせい[やぶちゃん注:ママ。])なり。

[やぶちゃん注:「多情」(たじやう)情が深くて、感じやすいこと。

「もと、知(しる)の心」高田氏の注に、『以前からの知り合いのように思われる、の意』とある。]

 因(ちなみ)に、その姓名と居所(きよしよ)をたづねとへば、女のいはく、

「姓は符氏(ふし)、名は麗卿(れいけい)、字(あざな)は芳叔(はうしゆく)。すなはち、故(こ)奉化州判(はうくはしうはん)の娘なり。先人《せんじん》、早く、さつて、父母兄㐧(《ぶも》けいてい)もなく、親類一族も、なし。家居(いへゐ)もれいらく[やぶちゃん注:「零落」。]し、世の緣も、おとろへつきて、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]金蓮と二人、居(きよ)を湖西(こせい)によするのみなり。こよひの、にひまくら[やぶちゃん注:「新枕」。]、わするへからす[やぶちゃん注:総てママ。]。鳥(とり)、なき、天(そら)、あくる。」

と、いふて、出《いで》さるなり。

[やぶちゃん注:「奉化州判」高田氏の注に、『「奉化」は浙江省奉化州。「州判」は裁判所の書記官』とある。「奉化州」は現在の浙江省寧波市奉化市(市轄区:グーグル・マップ・データ)。

「湖西」この湖は後に出るが、月湖(げつこ/がつこ)である。先の鎮明区の西直近にある(グーグル・マップ・データ:地区は寧波市海曙区)。その西岸の意。地図を見られると判る通り、この湖は「三日月」の形を成しているのである。当該ウィキによれば、『人造湖』であって、初『唐の貞観』一〇(六三六)『年に開鑿され、当初は町の西にあることから西湖と呼ばれていたが、宋の元祐年間』(一〇八六年~一〇九四年)『に現在の規模に整備され』、『三日月に似た形状から、月湖と名付けられる』とある。]

 喬生、ゆめのさめたるがごとくして、人と、かたる事なく、よろこび、たのしめり。

 夜(よ)にいたりて、美女、また、きたる。

 これより、夜夜(よなよな)、きたり、朝朝(あさなあさな)にさること、まさに半月(はんげつ)ならんとす。

 

Botantouki

 

[やぶちゃん注:底本の大きなそれはこちら。髑髏(どくろ)の麗卿と対していながら、それに気づかない喬生。右手端に覗く隣家の老翁。下方左手の屋外の軒下に牡丹燈籠を持った、何となく不思議な姿勢で固まって突っ立っているように見える(これは確信犯の描き方で、後で判明する)金蓮。但し、この挿絵は原話に即して中国の景物で描かれてあり、例えば、喬生と髑髏の麗卿のいるのは、中国でも相応の富人の家の御堂風の中で、隣りの老翁は、本文では実際に同じ棟の長屋のような構造の隣り合せであって、壁にあった穴から喬生の部屋の怪異を覗くことになっており、金蓮も喬生の家居の別の部屋にいることになっているから、甚だ違和感がある。]

 

 隣家(りんか)の老翁(らうをう)、これを、うたがひ、壁の穴より、これをうかゞひみるに、粉(こ)をぬり、よそほひしたる髑髏(どくろ/されかうべ)の女、一人、ともしびの下に、喬生とならび居《を》るを、見る。

 老翁、おほきにおどろきて、明日《みやうじつ》、これをつぐれば、喬生、祕(ひ)して、さらに、いはず。

 老翁の、いはく、

「ああ、なんぢにわざわひ[やぶちゃん注:ママ。]あり。なんぢは、すなはち、いたつて、さかんなる陽氣(やうき)、かれ[やぶちゃん注:かの者(存在)。]は、すなはち、いたつて、けがれたる陰氣(いんき)なり。今、汝、骸骨(がいこつ)の妖魅(ばけもの)と、おなじく座(ざ)して、しらず。邪氣(じやき)の幽霊と、おなじく臥(ふ)して、さとらず。汝、日々《ひにひに》に、きりよく、おとろへ、つき、家に、時々、さいなん、出(いで)て、をかさん[やぶちゃん注:「犯さん」。「災難が出来(しゅったい)して、それに致命的に襲われることになるぞ!」。]。おしゐかな[やぶちゃん注:総てママ。]、若年(ぢやくねん)の身にして、にはかにめいど[やぶちゃん注:「冥土」。]の人とならん事、かなしまざるべけんや。」

といへば、喬生、はしめて[やぶちゃん注:ママ。]おとろき[やぶちゃん注:ママ。]おそれて、つぶさに、その由來をかたる。

 老翁のいはく、

「かれ、『湖西に居を寄(よす)』と、いひしや。しからば、なんぢ、まさにゆき、ねんごろに、よく、たづねば、しかるべし。」

といふ。

 喬生、そのをしへのごとく、月湖(くわつこ[やぶちゃん注:ママ。])の西にゆき、長堤(ちやうてい)の上、高橋(かうきやう)の下《もと》に、ゆきゝして、所の人に、とひ、旅人(たび《びと》)に、とへは[やぶちゃん注:ママ。]、みな、しらざるなり。

 日、まさに暮れんとす。

 喬生、湖心寺(こしんじ)の門《もん》に入りて、東(ひがし)の廊架(らうか)[やぶちゃん注:「廊下」に同じ。]を、ゆきつくして、西の廊架に、うつりて、ゆけば、らうかの、つくる所に、一《ひとつ》の小堂(せうだう)あり。

 内に、柩(ひつぎ)あり。

 白紙(はくし)に、その名を、かきて、貼(をし[やぶちゃん注:ママ。])したり。[やぶちゃん注:押し貼り付けてあった。]

 文(もん)にいはく、

――故(こ)奉化(はうか)符州判(ふしうはん)のむすめ麗卿の柩――

と云々。

 前に、双頭の牡丹灯を、かけ、下に、一(ひとつ)の丫鬟(あくはん)の童女(どうによ)を立《たて》たり。

 そのうしろに「金蓮」の二字、あり。

 喬生、これを見て、身(み)の毛(け)だち、鳥(とり)はだ立《たち》て、はしりて、寺を出《いで》て、後(うしろ)をかへりみずして、かへるなり。

[やぶちゃん注:「潮心寺」高田氏の注に、『月湖の中の島にあった寺院』とする。種々の論文その他をさんざん調べた結果、現在の月湖の中の島の中にある、かの本邦の画僧雪舟を記念した「雪舟紀念館」が、旧湖心寺の跡地に建っている(グーグル・マップ・データ)ことが確定的に判った(航空写真に切り替えた場合は、大きなズレが生ずるので注意されたい)

「丫鬟の童女」高田氏の注に、『原話「明器婢子」。童女人形』とある。「中國哲學書電子化計劃」影印本版では、ここで(【 】は二行割注。一部は所持する太刀川清「牡丹灯記の系譜」(平成一〇(一九九八)年勉誠社刊)の巻末にある「剪灯新話句解」所収の原文で補った)、『燈下盟【音明】器婢子【器。禮喪服小記陳器從ㇾ葬明器也此明器蒭人也】背上二字金蓮』とある。何となく、お判り戴けると思うが、太刀川氏の当該書本文冒頭にある「『剪灯新話』と「牡丹灯記」」の中で、国書刊行会昭和六二(一九八七)年刊の『叢書江戸文庫』の「百物語怪談集成」の月報に載る高田衛氏の「百物語と牡丹灯籠怪談」の引用があり(実は私は同書を所持しており、同書の怪奇談の総てを電子化注終えているのだが、その作業中、当該「月報」を、どこかに放置してしまい、今、見出せないため、孫引きにて悪しからず)そこに、『「冥器婢子」(侍女の人形、死者への副葬品)』とあって、金蓮は、その人形が化した呪的人形(ひとがた)であったことが明らかになっているのである。この太刀川氏の著書は、私が読んだ漢籍関連の論考(偏愛する李賀の論考類は別にする)では、甚だ興味深い論文であった。例えば、この章の、この前後では、「牡丹灯記」に於ける、この人形(ひとがた)の呪的人形(にんぎょう)でしかない「金蓮」こそが――麗卿ではなく、である――主人公を致命的な災厄へと導くところの、魔的にして深刻な、おぞましい誘導・起動装置に他ならず、それこそが、ここに現れた「翁」によって何よりも第一に『糾弾され弾劾されなければならな』いところの呪的存在であった、と太刀川氏(高田氏も含めて)は指摘されておられるのである。なお、太刀川氏は『金蓮とは纏足』(てんそく)『の美称であり、「金蓮歩」と言って美女の艶麗な歩みをおいう語でもある』とあり、既にして、この名にも男が魅了されてしまう呪的意義が含まれているのであった。]

 此の夜、となりの、おきなが家に宿(やど)をかりて、つぶさにかたりて、うれへ、おそるゝなり。

 老翁の、いはく、

「玄妙觀(げんみやうくわん)の魏法師は、政開府(せいかいふ)の王眞人(わうしんじん)の弟子なり。符(ふ)のきどく[やぶちゃん注:「奇特」。]、當時(たうじ)㐧一とする也。汝、急(きう)に、ゆきて、是を、もとめよ。」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「玄妙觀」道教の道観(寺院)の一つの固有名詞。所持する竹田晃他編著になる二〇〇八年明治書院刊の『中国古典小説選』第九巻「剪灯新話<明代>」によれば、『現在の浙江省鄞県にある道教の寺』とある。現在は、浙江省寧波市鄞(ぎん)州区(グーグル・マップ・データ)。

「政開府」不詳。

「王眞人」不詳。但し、「眞人」は、老荘思想や道教に於いて「人間の理想像とされる存在や仙人の別称」として、よく用いられる語である。

「符」護符。高田氏の注には、『道教で、福を招き、災』(わざわい)『をさけ、魔物をおさえ、鬼神をつかうためのお札』とある。]

 明旦(みやうたん)に、喬生、玄妙觀の内に詣(けい)ずれば、法師、その至(いた)るを見て、驚きて、いはく、

「妖氣(ばけもの)、をかす[やぶちゃん注:ママ。]事、はなはだ、深く、染(しみ)たり。いかんしてか、こゝに、來たるや。」

と。

 喬生、すなはち、座下(ざか)に拜(はい)して、つぶさに、その事をかたば、法師、朱(しゆ)の符、二つう[やぶちゃん注:「通」。]を、さづけて、一《ひとつ》をば、門(もん)に、をき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、一をば、座(ざ)に、をかしむ。これを、いまめて、いはく、

「ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]、湖心寺に行くこと、なかれ。」

と、かたく、しめすなり。

[やぶちゃん注:「座」原作では「榻(とう)」で、寝台。「座」にはその意味はない。]

 喬生、符を受けて歸りて、そのいふがごとくすれば、かの霊(りやう)、はたして

、きたらざる事、一月《ひとつき》あまりなり。

 喬生、知音(ちん)に語りて、いはく、

「われ、衮繡橋(こんしうきやう)のあたりにゆきて、友を、とはん。」

と、いひし。

[やぶちゃん注:「衮繡橋」の「中國哲學書電子化計劃」の影印本や明治書院刊の『中国古典小説選』版では、この「衮」の字を用いている。岩波文庫は「袞」を当てている。迷ったが、底本の崩し字は、どちらかというと「衮」に近く見えたため、かくした。但し、これ、同字の異体字である(リンク先は「グリフウィキ」の「袞」)から、実際にはどちらでも問題はない。なお、『中国古典小説選』版ではこの橋名に注があり、『現在の浙江省鄞』(ぎん)『県の西南にある橋』とある。しかし、岩波文庫の高田氏の注は、『月湖にかかる橋の名』とする。もし、前者であるとすれば、その現行の地区(先に出した寧波市鄞(ぎん)州区)で同じであるなら、わざわざ月湖を通って行く必要は、ない。寧ろ、高田氏の言うそれなら、どこにその橋が架かっているか判らないが、その橋の西側(月湖の西岸一帯のどこか)に友がいるとなら、月湖を大きく南回りするか、或いは北回りして、月湖を渡らずに行くことは可能であり、それほど面倒とは言えない(計測してみたが、短ければ、二キロ程度、長くても、三~四キロである)から、されば、往路では、魏法師の禁制を守って、それを選んだとすれば、すこぶる、腑には落ちるのである。但し、その友人の家が月湖の西岸のほぼ中央附近にあったとすれば、月湖に架かる湖心寺の脇(南)を通る橋を横切った方が、確実に近いことは確かである。

 そのゝち、數日(すじつ)、喬正を、みざれば、知音、その、久しく歸らざることを怪しんで、衮繡橋の邊(へん)にゆきて、その友の家を、とへば、友のいはく、

「喬生、數日《すじつ》さきに、こゝにをいて[やぶちゃん注:ママ。]、酒をのみて、よひて、かへる。湖心寺の道を行くとみて、そのゝちは、しらず。」

といふ。

[やぶちゃん注:「よひて」は「醉(ゑ)ひて」の誤りなら、ママ注記で済ますところだが、実はこの妙に細かい部分は、原作にないので、何とも言えない。原作では、友と溜飲してしまい、魏法師の戒めを、うっかり忘れて、湖心寺の脇を抜ける橋を渡ってしまったところが、寺の門のところで……金蓮が礼拝して彼を待っていた……(以下のカタストロフは実景として語られてある。影印本はここ)。さて、数日、喬生が帰ってこないことを心配して、探しに出たのは、隣りの老翁で、湖心寺へ直行しているのである。「知音」は登場してこないである)。何故なら、岩波文庫版では、ここの原文が『夜(よ)びて』となっており、高田氏は注して『夜になって』とされておられるからである。

 知音の、おもへらく、

「酒にゑひて、魏法師の戒めを、わすれ、又、湖心寺にゆくや。」

と、いひて、湖心寺の門に入《いる》。

 西廊を、ゆきつくせば、古堂(こだう)の内に柩(ひつぎ)あり。「ひつぎ」の間より、衣(きぬ)の裳(も)、すこし、出でたり。

 是、喬生が裳、よく、見しりたり。

 柩のめい[やぶちゃん注:「銘」。]、白紙(はくし)にかける所、さきに、喬生が、かたる所、ならびに、双頭の牡丹灯を、かけ、童女(どう《ぢよ》)のうしろに、「金蓮」の二字等(とう)の事、まつたく、さきにきく處と、おなし[やぶちゃん注:ママ。]

 寺僧につげて、柩のふたを、のみ[やぶちゃん注:「鑿」。]をもつて、あけてみれば、喬生、死して、うつぶきて、上に、あり。

 女は、あふのきて、下に、あり。

 女のかほばせ、いけるがことし[やぶちゃん注:ママ。]

 寺僧、歎(たん)じていはく、

「これは、故奉化州符判君のむすめなり。死せる時、年十七、柩に、おさめて[やぶちゃん注:ママ。]、こゝに、をく[やぶちゃん注:ママ。]。そのとき、親族一家(け)中、皆、こゝにきたる。そのゝち、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]音信を絕(ぜつ)する事、十二年なり。おもはざりき、妖怪となることの、かくのことく[やぶちゃん注:ママ。]ならんとは。」

と。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]二つ

のかばねの柩、ならびに、金蓮人形(きんれんのにんぎやう)を、西門(さいもん)の外(ほか)に送りてうづむ。

 このゝち、空(そら)のくもるゆふべ、月のくらき夜(よ)、往々(わうわう)に、喬生と、女と、手をたづさへて、おなじく、步あるく。一《ひとり》の丫鬟(あくわん)、双頭の牡丹とうを、かゝげて、さきにみちびき、ゆくを、みるなり。

 是にあふものは、すなはち、重病をえて、寒熱(かんねつ)、往來(わうらい)す。

[やぶちゃん注:この病態は熱性マラリアのそれである。]

 いのるに、くどく[やぶちゃん注:「功徳」。]をもつてし、祭るに、牢醴(らうれい)をもつてすれば、粗(ほゞ)いゆる事をえ、いなやのときんば、いへえさるなり[やぶちゃん注:総てママ。]

[やぶちゃん注:「牢醴」高田氏の注に、『牛・羊・豕』(いのこ:ブタのこと)『の三種のいけにえと』、『酒を供えること』とある。]

 在所(ざいしよ)の衆《しゆ》、おほきにおそれて、玄妙觀に、きそひゆきて、魏法師にあふて、これを、うつたふれば、法師のいはく、

「わが符(ふ)は、たゞその邪氣の、いまだ、ふかゝらざるを、よく治(ぢ)す。いま、たゝり、ふかくなれり。我(わが)しる所に、あらず。きく、鐵冠道人(てつくわんだうにん)といふ人、あり、四明山(しめいざん)のいたゞきに居(きよ)す。行力(ぎやうりき)[やぶちゃん注:霊験力(れいげんりょく)。神通力(じんつうりき)。]、げんぢうにして、鬼神(きじん)をがうぶく[やぶちゃん注:「降伏」。]す。なんぢがともがら、行《ゆき》て、これを、求むべし。」

といへり。

[やぶちゃん注:「我しる所に、あらず」「自分が持っている力で退治せしめることが可能な範囲を超えてしまっているため、それは不可能である。」。

「鐵冠道人」高田氏の注に、『本名を張中または張景華といい、元末に実在した道教の僧』とある。本邦では、芥川龍之介が大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『赤い鳥』に掲載した童話の「杜子春」(リンク先は私の古いサイト版)に登場させている仙人の名「鐵冠子」で、専ら、知られる。但し、原作には登場しない(私のサイト版の杜子春 李復言(原典)やぶちゃん版訓読語註現代語訳を見られたい)。

「四明山」浙江省寧波西方(ピークとしての「四明山」は紹興市の県級市である嵊州(じょうしゅう)市に属する:グーグル・マップ・データ航空写真)にあって、天台山から北東方に連なる山一帯を指す。「日月星辰に光を通ずる」の義から四明山と呼ばれる。寧波の古称である「明州」(めいしゅう)もこの山名に因む。山中には雪竇山資聖寺(せっちょうざんししょうじ)・天童山景徳寺(てんどうざんけいとくじ)・阿育王山寺(あいくおうさんじ)など、歴史的に有名な仏教寺院があるが、道教でも、この山は「第九洞天」と称して尊ぶ。十世紀末、阿育王山寺の義寂(ぎじゃく)に天台を受けた知礼(ちれい)は、明州の延慶寺(えんけいじ)に住して「山家(さんげ)派」と称し、「山外(さんがい)派」の梵天慶昭(ぼんてんけいしょう)・孤山智円(こざんちえん)を論破して「四明尊者」と称され、以後の中国天台宗教学は「四明派」に覆われるに至った。本邦の比叡山山頂を「四明ヶ岳」(しめいがたけ)と称するのも、この山名に因む(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 衆《しゆ》、みな、山にのぼる。葛(くづ)、藤(ふぢ)を、よぢて、けはしき崕(がけ)をわたりて、すぐに山のいたゞきに、いたれば、はたして、草庵、一所あり。

 道人(だうにん)、几(おしまつき)に、よりかかりて座(ざ)す。

[やぶちゃん注:「几(おしまつき)」「おしまづき」が正しい。物を載せたり、肘(ひじ)や腰を掛けたりする足附きの台・机を言う。音は「キ」。その和訓で「脇息(きょうそく)・机」の意。]

 かたはらに、童子(どうじ)、鶴(つる)を愛する、あり。

 衆、みな、庵下(あんか)に、つらなつて、拜す。つぶさに、上來(しやうらい)[やぶちゃん注:今までのかの霊を見てしまうことによって生ずる悪しき事態全般。]のゆへ[やぶちゃん注:総てママ。]をつぐれは[やぶちゃん注:総てママ。]、道人の、いはく、

「山林(さんりん)の隱士(いんし)、旦暮(たんぼ)に、かつ、死せん。いづくんぞ、きどく[やぶちゃん注:「奇特」。]あらん。君がともがら、誤ち聞けり。」

[やぶちゃん注:「儂(わし)は巷間(こうかん)を厭うて、このような深山に隠棲した者であって、今日の暮れか、明日の早朝にでも、直ちに死んじまうような老いぼれに過ぎん! どうして、ぬし等(ら)が言うような、そんなありがたい通力(つうりき)を持っていようはずはないんじゃ! あんたら、何かの聴き違いをしたんじゃて!」。]

 人衆(にんしゆ)をこばむこと、はなはだ、いつくし[やぶちゃん注:極めて頑固であった。]。

 衆の、いはく、

「それがし[やぶちゃん注:複数形。「わたくしども」。]、もと、しらず。けだし、玄妙觀の魏法師、さしをふる[やぶちゃん注:「差し敎ふる」。]ところ、しかり。」

といへば、はじめて、ほどけたり[やぶちゃん注:苦虫を潰して「解かったわい!」という顔をした。]。

 しかうしていはく、

「老夫(らうふ)、山を、くだらざる事、六十年なるに、玄妙觀の小子(《しやう》す)、繞舌(ねうぜつ)に口をきいて、わが出行(しゆつぎやう)をわづらはす。」

[やぶちゃん注:「小子」「小僧っ子めガッツ!」。

「繞舌に口をきいて」「お喋りに過ぎて、ベラベラと吹聴しよるからに!」。

「わが出行をわづらはす」「儂の出動を煩わしおったわッツ!」。]

 すなはち、童子と、山をくだる。

 行步(ぎやうぶ)かろく、すこやかにして、たゞちに西門(さいもん)の外(ほか)にいたりて、一丈四方の壇(だん)をむすんで、むしろをのべて、端座す。

 符をかきて、これを、たけば[やぶちゃん注:「焚けば」。]、たちまちに、符のつかはしめ數輩(すはい)、化現(けげん)す。符の煙(けふり)より、出でたり。

[やぶちゃん注:「つかはしめ」岩波文庫原文では『吏女(つかわしめ)』(同書のルビは悲しいかな、現代仮名遣である)とする。原作では「符吏」(ふり)であり、女の姿を指示していない。呪符によって呼び出されて出現した幽鬼を取り締まる道教の冥府系の断罪をこととする酷吏であり、正直、女の姿はあり得ないと私は思う。]

 すなはち、是、道人(だうにん)の吏(つかはしめ)、護法(ごはう)のたぐひなり。

[やぶちゃん注:以上の一文は本書の作者による解説。「護法」は概ね、本邦に於いて広義には、仏法に帰依して三宝を守護する神霊・鬼神の類いを指すが、狭義には、密教の奥義を極めた高僧や修験道の行者・山伏たちの使役する神霊・鬼神を意味する。童子形で語られることが多いため、「護法童子」と呼ぶことが広く定着しているが、実際には、所謂、鬼や、動物のような姿で描かれることも多い。]

 そのかたち、みな、黃(き)なるぼうし、にしきの襖(おほころも)、こがねのよろひ、ゑりもの[やぶちゃん注:「彫(ゑ)り物」。]したる戈(ほこ)、おのおの、長(たけ)一丈あまり、みな、壇の下に、

「きつ」

と、たてをきて[やぶちゃん注:ママ。]、身を屈し、かうべをたれて、道人の命(めい)をうけて、うやまひ、おれ[やぶちゃん注:ママ。]り。

 道人、これに命じていはく、

「此間(こゝもと)に邪氣のたゝりをなして、人民(にんみん)をおどろかし、わづらはすもの、あり。なんぢがともがら、是をしるべし。かり出《いだ》して、こゝにいたれ。」

といへば、吏(つかはしめ)、すなはち行《ゆき》て、時をうつさず、枷(てがせ)・鎖(くさり)をもつて、三人ともに、ひいてきたり。

[やぶちゃん注:「三人」喬生・符麗卿・金蓮。]

 むち[やぶちゃん注:「鞭」。]を、もつて、うつ事、はかりなし[やぶちゃん注:際限がなく、容赦もない責めであることをいう。]。

 血、ながれて、やまず。

 道人《だうじん》、ことばをもつて、かしやく[やぶちゃん注:「呵責」。]する事、やや久し。

 三人のゆふれい[やぶちゃん注:ママ。]、みな、諾伏(だくふく)して、いはく、

「あへて、ふたたび、たゝりをなし、人をわづらはす事、あるべからず。」

と、いふて、拜(はい)し、さつて、見えず。

 道人と吏《つかはしめ》と、ともに、さりて、かへるなり。

 翌日、衆(しゆ)、みな、山にのぼりて、謝(しや)せんとすれば、たゞ、草庵のみありて、道人、なし。

 又、玄妙觀に行《ゆき》て、魏法師に謁(ゑつ[やぶちゃん注:ママ。])すれば、唖(をし[やぶちゃん注:ママ。])にして、物いふ事、あたはざるなり。

 けだし、鐵冠道人の、なせるところか。

[やぶちゃん注:本話は、後の浅井了意の「伽婢子」(リンク先で全篇正規表現で昨年電子化注を終えている)の名翻案「卷之三 牡丹燈籠」で、大ブレイクしたことから、そちらを先に読み、ここに至る読者が多いとは思う。他にも、幾つもの、翻案・改作が繰り返されたから、それらの時系列を逆に読んでしまうと、本篇は、ちょっと食い足りない感じは残る。しかし、市井に公刊された「牡丹燈記」の濫觴として、やはり、優れたものであり、本邦の大衆に判るように、注形式ではなく、作者が登場して、解説を本文に差し入れて語っているそれは、まことに画期的と言うべきで、もっと本篇は高く評価されるべきものと思う。私のこの電子化が、その一助となれば、恩幸、これに過ぎたるはない。]

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐々木喜善 佐藤春夫 兎園小説【完】 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 只野真葛 和漢三才図会巻第三十九 鼠類【完】 和漢三才図会巻第三十八 獣類【完】 和漢三才図会抄 和漢三才圖會 禽類【完】 和漢三才圖會 蟲類【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 室生犀星 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 小酒井不木 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 怪奇談集Ⅱ 日本山海名産図会【完】 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生日記【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 泉鏡花 津村淙庵「譚海」 浅井了意「伽婢子」【完】 浅井了意「狗張子」【完】 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介 書簡抄 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔 芸術・文学 萩原朔太郎 萩原朔太郎Ⅱ 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏