フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の560件の記事

2024/07/15

「疑殘後覺」(抄) 巻三(第三話目) 人玉の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻三(第八話目)

   人玉《ひとだま》の事

 いかさま[やぶちゃん注:副詞で「全く以って・確かに・本当に・実際」などで、意味があるというよりも、語りの発語として「さてもまた」と言った感じであろう。]、人の一念によつて、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。仏教で三毒十悪の一つとする「自分の心に逆らうものを憎み怒ること」。]のほむらと云《いふ》ものは、有るに儀定たる[やぶちゃん注:ならわしとして確かに存在するものとされていること。]由、僧俗ともに、その說、おほし。

 しかれども、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]目に見たる事のなき内は、うたがひ、おほかりし。「がんぜん」にこれを見しより、後生《ごしやう》を、ふかく、大事に、おもひよりしなり。

 これとひとつ事に思ひしは、人每《ひとごと》に人玉といふものゝ有《ある》よしを、れきれきの人、歷然のやうにの給へども、しかと、うけがたく候ひしか[やぶちゃん注:「確かに存在するとは、受け入れがたく感じている者もあるであろうかとは思われる。」。]。

 北《ほく》こくの人、申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されしに、城にも、つよく、ふせぐといへども、多勢のよせて[やぶちゃん注:「寄せて」ではなく、「寄せて」と私は採る。]、手痛くせめ申さるるゝほどに、城中、弱りて、すでに、はや、

「明日は打死《うちじに》せん。」

と、おゐおゐ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。「追ひ追ひ」。]、「いとまごひ」しければ、女・わらんべ、なきかなしむ事、たぐひなし。まことにあはれに見えはんべりし。

 かゝるほどに、すでに、はや、日もくれかゝりぬれば、城中より「てんもく」[やぶちゃん注:天目茶碗。口径は十一~二十一センチメートルだが、通常は十三センチメートル前後が多い。掌に載る大きさである。]ほどなるひかり玉、いくらといふ、數《かず》かぎりもなく、とびいでけるほどに、よせしゆ[やぶちゃん注:「寄せ衆」。]、これをみて、

「すはや、城中は、「しによういゐ」[やぶちゃん注:ママ。「死に用意」。]しけるぞや。あの人玉のいづる事を、みよ。」

とて、われもわれも、と見物したりけり。

 かゝるによりて、

「『かうさん』して、城をわたし、一命をなだめ候やうに。」

と、さまざま、あつかひをいれられければ[やぶちゃん注:降伏開城についての種々の条件交渉を示してきたので。]、内藏介、此《この》義にどうじて[やぶちゃん注:「同じて」。同意して。]、事、とゝのふたり。

「さては。」

とて、上下《かみしも》、よろこぶ事、かぎりなし。

 かくて、その日も暮れければ、きのふ、とびし人玉、又、ことごとく、いづよりかは、いでけん、城中、さして、とび、もどりけり。

 これをみる人、いく千といふ、かずをしらず。

 ふしぎなることども也。

[やぶちゃん注:「越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されし」「大津の城」「大津」は「魚津」の誤り。現在の富山県魚津市内にあった平城。「小津城」の別名があったので、それを誤認したか。講談社「日本の城がわかる事典」によれば、建武二(一三三五)年に、『椎名孫八入道によって築城されたと伝えられている。室町時代の越中国守護の畠山氏に仕え、越中の東半分を勢力下に収めた守護代の椎名氏の居城・松倉城の支城となった。戦国時代、椎名康胤は越中国西部を領有する半国守護代の神保氏の攻勢により苦境に立った際、越後の上杉謙信の傘下に入ることで危機を逃れた。その後、康胤は謙信から離反して越中の一向一揆衆と手を結び、甲斐の武田信玄に与した。このため、椎名氏は謙信に攻められて越中から追放され、魚津城には謙信の部将河田長親が城代として入城した。その後、越前と加賀を制圧した織田信長の軍勢が越中に侵攻し』、天正一〇(一五八二)年には、『越後の前線拠点となった魚津城を舞台に』、『柴田勝家率いる織田方の大軍との間に激戦が繰り広げられた』(「魚津城の戦い」)。『攻城戦が始まって間もなく城は落ちたが』「本能寺の変」が『起こり、信長が討ち死にしたことから』、『織田軍は撤退し、上杉勢により』、『奪回された。翌』天正一一(一五八三)年、『魚津城は態勢を立て直した佐々成政』(ここに出る「佐々内藏介」(天文五(一五三六)年~天正一六(一五八八)年:安土桃山時代の武将。尾張出身。織田信長に仕え、朝倉義景攻略や石山本願寺の一向一揆へ攻撃を行い、越中富山を与えられた。しかし「本能寺の変」後は、豊臣秀吉と対抗し、「小牧・長久手の戦い」で降伏した。秀吉の「九州征伐」後、肥後の領主となったが、秀吉に、失政による肥後一揆の責任を咎められ、切腹を命じられた。なお、彼の通称は「内藏介」ではなく、「内藏助」である)『により』、『再び包囲され、須田満親は降伏して開城。上杉氏による魚津城の支配は終わり、富山城を居城とする成政の持ち城となった。その後、成政は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して、秀吉に攻められ、越中における基盤を失い、肥後国(熊本県)に国替えとなった。成政が去った後、魚津城は前田氏の持ち城となり、青山吉次などが城代をつとめたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられている。しかし、加賀藩は城を破却することなく、松倉城同様、米蔵や武器庫として利用し、城郭としての機能を存続させた。城跡には、明治の初めごろまでは堀や土塁などが残されていたが、現在、遺構はほとんど失われてしまっている。城跡は大町小学校(本丸跡)や裁判所などの敷地となっている』とある。魚津城跡はここ(グーグル・マップ・データ)。]

2024/07/14

「疑殘後覺」(抄) 巻二(第八話目) 亡魂水を所望する事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻二(第八話目)

  亡魂、水を所望する事

 備州谷野《やの》と云《いふ》所に、介市太夫《かいいちたいふ》と申すもの、夜念佛《よねぶつ/よねんぶつ》に「さんまい」を、まはる事あり。

[やぶちゃん注:「備州谷野」岩波文庫の高田氏の脚注に、『備後甲奴(こうぬ)郡矢野郷。現広島県上下町付近』とある。現在の広島県府中市上下町(じょうげちょう)矢野(グーグル・マップ・データ航空写真)。かなり、山深い地区である。

「夜念佛」夜に念仏を唱えて回向すること。

「さんまい」「三昧」。墓場。]

 そうじてゐ中[やぶちゃん注:「田舍」。]には、「念佛の行」と申《まうし》て、うちにては、さのみ申さず、宵より、夜のあくるまで、「さんまひ[やぶちゃん注:ママ。]」を、かね[やぶちゃん注:「鉦」。]、うちたゝきて、念ぶつして、とをり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 あるとき、谷野の「さんまい」を、石濱勘左衞門といふ人、ようの事、有《あり》て、夜中過《すぎ》にとをり[やぶちゃん注:ママ。]けるに、石塔、又、「そとば」[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]のかげより、年の比《ころ》、はたちばかりにもあるらんとみゆる、「女ばう」の、身には、しろき「かたびら」を、きて、あたまは、をどろ[やぶちゃん注:ママ。「棘(おどろ)」。草木・棘(茨(いばら)が乱れ茂っているいるさま。ミミクリーでまさに「亂れ髪」のことをも言う。]のごとく、みだしたるが、

「この石塔に、あふて、ねがわくは、水を、一くち、たび[やぶちゃん注:「賜び」]候へ。」

とぞ、こい[やぶちゃん注:ママ。「乞ひ」。]にける。

 勘左衞門は、これを見て、

「なんでう、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]は、まよひもの[やぶちゃん注:「迷いひ者」。ここでは、「亡靈」「幽靈」の意。]ゝ人を、たぶらかさんとて、きたるにこそ。」[やぶちゃん注:「なんでう」本来は「何(なん)でふ」が正しい。ここは、感動詞で「何をほざくか! とんでもない!」と、相手の言い分を強く否定する用法である。]

とて、かたな、ひんぬいて、うちければ、物にてもなく、うせたりける。

 それより、あしばやに、そこを、のきて、やどにかへりてより、ふるひつきて、わづらふほどに、はじめは、「おこり」[やぶちゃん注:「瘧」。マラリア。]のやうにありしが、後《のち》、次第におもく成《なり》て、百日をへて、うせたりける。

 この事を、介市太夫は、きゝて、

「さらば。」

とて、かね、うち、くびにかけて、よひより、かの「さんまい」へぞ、ゆきにける。

[やぶちゃん注:「かね、うち、くびにかけて」意味は判るが、言い方として、しっくりこない。「鉦、首に懸けて、打ち」と語る(書く)つもりが、ヅレを生じたものと思われる。]

 あんのごとく、くだんの「女ばう」、いでゝ、いふやうは、

「いかに。ありがたき御念佛《おんねんぶつ》のこゝろざしに侍るものかな。それにつきて、たのみ申《まうし》たき事の候。我、しゝたるきざみに[やぶちゃん注:臨終のその折に。]、あたりに出家も候はず。又、道心[やぶちゃん注:ここは、僧ではないが、仏道に帰依する人の意であろう。]もなきによりて、かみをすらず[やぶちゃん注:「剃(す)らず」。]、そのまゝ『めいど』へ、おもむきしによりて、ながき『ざいごう[やぶちゃん注:ママ。「罪業(ざいごふ)」。]』となりて、うかむ『よ[やぶちゃん注:「世」。]』候はねば、御けちゑん[やぶちゃん注:ママ。「結緣」。ここは「仏教徒による確かな供養」と同義。]に、このかみを、すりてたび候はゞ、『ぶつくわ[やぶちゃん注:「佛果」。ここは「成佛」と同義。]にいたらん事、うたがひなし」

とぞ、申《まふし》ける。

 介市、これをきゝて、

「それこそ、ふびんのしだいなり。やすきことなれども、これに、『かみすり』[やぶちゃん注:「剃刀」。]、なければ、あすのよ、きたりて、すりをろして、えさすべし。」

と申ければ、

「あら、ありがたし。其儀ならば、のど、かはき申《まうし》候まゝ、水を、一口、たび候へ。」

と、いへば、

「こころへ[やぶちゃん注:ママ。]たる。」

とて、はるばる、谷へ行《ゆき》て、「たゝきがね」に、すくふて、亡魂にぞ、あたへける。

 のみて、よろこぶ事、かぎりなし。

 さて、うちわかれて、宿《やど》にかへり、さぶらひしゆ[やぶちゃん注:「侍衆」。]に申しけるは、

「かやうなるふしぎこそ候はね。夕《ゆふ》さり[やぶちゃん注:明日の「夕方」の意。]、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、かみをすり申候あひだ、まつだい[やぶちゃん注:「末代」。]の物語に、よそながら、御けんぶつ、あれ。」

と、かたりければ、

「これこそ、おもしろき物がたりなれ。」

とて、さぶらひしゆ、

「われも、われも、」

と、ゆきて、こゝかしこに、かくれ、ゐにけり。

 さて、介市太夫は、夕べの時分よりも、おそく、ゆきて、念佛しければ、あんのごとく、「女ばう」は、いでむかひけり。

 介市は、これをみて、

「さあらば、是《これ》にて、するべし。」

とて、さて、かしらを、とらへて、念佛を申《まうし》、すゝむる、すゝむる、そろり、そろりと、するほどに、「しのゝめ」も、やうやう、しらみわたり、よこ雲も引《ひき》ければ、人々、四方八方より、たちかゝり、これをみるに、夜は、ほのぼのと、明《あけ》わたりけり。

 さて、介市太夫は、かみをする、かみをする、と、思へば、二尺ばかり有《あり》ける五輪のかしらに、つたかづらのはい[やぶちゃん注:ママ。]まとはり、苔《こけ》の「むしろ」[やぶちゃん注:「莚」。五輪塔の空輪以下を苔がびっしりと覆っていたことを言ったもの。]たるにてぞ、ありける。

 この「かづら」を、よ、ひとよ、「かみすり」にて、すりおとせしなり。

 人人《ひとびと》、

「あるべき事にこそ。」

とて、たけき武士《もののふ》も、これをみて、菩提心ぞ、深くなりにける。

 是にて、成佛しけるにや、かさねて、この「さむまひ[やぶちゃん注:ママ。]」へ、ゆきけれども、そのゝちは、いでざりけり。

[やぶちゃん注:武士らの登場からみて、この介市太夫なる人物は、相応の武将の屋敷に雇われている仏教徒であったことが判る。この話、私は、その場にいたような錯覚を起こした。素敵な怪奇談、というより、往生譚である。]

「疑殘後覺」(抄) 始動 / 巻二(第七話目) 岩岸平次郎蛇を殺す事

[やぶちゃん注:「疑殘後覺」(ぎざんこうかく)は、所持する当該書を抄録する岩波文庫「江戸怪談集(上)」(高田衛編・校注・一九八九年刊)の高田氏の解説によれば、十六世紀末『当時の伽の者によって筆録された』『雑談集』(世間話集)で、『戦国武将をめぐる挿話や、戦陣の間に行われた世間話のありようをうかがうにふさわしい資料として貴重』なもので、『写本』で『全七巻七冊』で全八十五話から成る。『編著者』は『識語』に『愚軒』とあり、そこに「文祿五年暮春吉辰」(「吉辰」は「きつしん」で、「辰の日」ではなく、単に「吉日」の意であるので、これが正しいとすれば、豊臣政権最初の改元年であった文禄の五年三月(グレゴリオ暦で一五九六年三月二十九日から四月二十七日。なお、「文禄」は、この文禄五年十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に「慶長」に改元されている)の間に識されたことになるが、当該ウィキによれば、『実際の成立年代は』、『やや下るものと見られている』とあり、『それぞれの話は』、『登場人物が語る「咄」として語られており、内容も怪談・奇談・笑話・風俗話と多岐にわたる』。『実在の人物も多く登場するが、関東・東北・九州の大名は』、『一切』、『登場』せず、『豊臣秀吉に関しては』、『絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている』とある。戻って、高田氏は、『原本の成立の時期は、ほぼこの時期』、『文禄年間(一五九二―九六)と考えて妥当と思われる』とされ、『著者愚軒については不詳だが、豊臣秀次側近衆にかかわりのある』「伽の者」『のひとりでああったかとも思われる』と述べておられ、この書は、所謂、「怪奇談集」ではなく、『収録された怪談も、まだ怪談として自立しているのではなく、あくまでも世間話の一端として行われたものであった。近世期』の『怪談集』『以前の〈怪談〉の姿を見るべく、あえて本巻に収録した』とある。

 さて、私は「怪奇談」以外の本書の諸篇を電子化するつもりは、全くない。そもそもこの時代の歴史には、殆んど興味がない上に、秀吉は大嫌いだからである。そこで、私は、岩波文庫が採用抄録した「疑殘後覺」からの十二篇を電子化することとした。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの『續史籍集覽』第七冊(近藤瓶城(へいじょう 天保三(一八三二)年~明治三四(一九〇一)年:漢学者で『史籍集覽』の刊行者)編・昭和五(一九三〇)年近藤出版部刊。リンク先は巻第一巻の「目錄」冒頭)を視認して電子化注することとした。なお、時間を節約するため、上記岩波文庫版の本文をOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴くこととし、その高田氏の脚注も参考にさせて貰うこととした。ここに御礼申し上げる。

 なお、各標題には通し番号がないので、整理するために、標題の前に、私が丸括弧で「巻二(第七話目)」というふうに添えておいた。

 本底本は戦前のもの乍ら、漢字の一部は新字体相当のものが、かなりある。と言うより、漢字表記が極めて少ない。それは忠実に示した。無論、「ひらがな」であるために却って読み難くなっている箇所には、割注で、漢字表記(正字)を示す割注を入れた。また、濁点は全く打たれていないが、これは、余りにも読み難いので、私の判断で濁点を附した。但し、「は」は「ハ」で記されてあるが、「は」で起こした。

 底本には句読点が、一切、ないため、甚だ読み難いので、私の独断で句読点を打ち、字下げ・改行・改段落・記号を自由に追加してある。

 読み(ルビ)は附されていない。私が必要と感じたところには、《 》で読みを添えた。

 踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字表現とした。

 以下の初回の篇は、原書の「巻第二」の「岩岸平次郎虵を殺す事」(同巻の「目錄」では「蛇」は「虵」となっている)で、ここからである。]

 

巻二(第七話目)

  岩岸平次郎、蛇を殺す事

 美濃國へ、「岩成《いはなり》」かた[やぶちゃん注:「方」。]より、用の事、ありて、くだりけるが、山中、ふかくいりて、やうやう、山をうち越え、平の[やぶちゃん注:「平野(ひらの)」。一般名詞。]に、いでけるに、谷のかたはらより、「まむし」の、きたりて、なごりもなく、とびかゝるほどに、「わきざし」を引《ひき》ぬいて、ほそくびを、

「ちやう。」

と切り、きりすまして、なにの事もなく、そろそろと、ゆくほどに、岩村といふ在所に付(つき)にける。

[やぶちゃん注:「岩成」岩波文庫で高田氏は『備後国深津郡岩成郷。現』広島県『福山市内』とされる。この辺りなのだが(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、ちょっと「美濃國」とは距離が離れ過ぎていて、私には、気になる。と言っても、江戸以前に遡る「岩成」或いは「石成」の地名は、ピンとくるものも、ないのだが。一瞬、愛知県春日井市岩成台(いわなりだい)を考えたが、「ひなたGPS」で見ると、戦前の地名には「岩成」の影も形もないので、違う。

「なごりなく」「名殘もなく」。高田氏の脚注に、『容赦なく、いきなり、の意』とある。

「岩村」岐阜県恵那市岩村町(いわむらちょう)。]

 こゝにて、客僧[やぶちゃん注:ここは修行僧の意。]の、あとより來けるが、いふやうは、

「なふなふ、それへ、おはします旅人、御身は、今日《けふ》、殺生《せつしやう》を、し給ふか。」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「なふなふ」「なうなう」が正しい。感動詞「なう」を重ねた「呼びかけ」の言葉。「もしもし」。平安中期には既にあった語である。]

あらそう[やぶちゃん注:ママ。]べきにあらざれば、

「なかなか。道に蛇のありて、我をさゝん[やぶちゃん注:「刺さん」。蛇が「咬む」ことを「刺す」と称するのは、ごく一般的な表現である。]とするほどに、たちまちに、いのちを、とどめて候。」

と申《まうす》。

「げにも。さあると、みへて候。御身のいのちは、こよひのほどと、おぼしめせ。あけなば、いのちを、とられたまふべき。」[やぶちゃん注:最後は詠嘆の連体中止法。]

と、いへり。

 平次郎、大《おほい》に、おどろき、

「それは、何として、死ぬべき。」

と、いふ。

 客僧の、いはく、

「あまり、いたはしく候へば、御命《おいのち》を救ふて、まいらせん。」

と、いふ。

平次郎、

「それは。かたじけなし。」と云《いふ》。

「さあらば、『やど』へ、つき給へ。宿《やど》にて、事を行ひはんべらん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申せば、

「もつとも。」

とて、打《うち》ぐして、岩村の宿へぞ、付《つき》にける。

 やがて、きやく僧は、行ひをして、そのゝち、いふやうは、

「これの、汲みをく[やぶちゃん注:ママ。]水桶《みづをけ》を、たれ人《ぴと》も、いらひ給ふな。あした、あけて、底を見給へ。いさゝかも、こよひ、この水を、のみたまはゞ、たちまち、うせたまはん。」

と、いふほどに、

「かしこまる。」

とて、おきにける。

[やぶちゃん注:「行ひをして」ある修法(しゅほう)を執り行い。

「たれ人《ぴと》も、いらひ給ふな」「貴殿は勿論のこと、その外の人であろうと、誰(たれ)も、この水槽に触れたり、弄(もてあそ)んだりさせては、なりませぬぞ!」。]

 さて、夜あけて見ければ、水桶のそこに、へびのあたま、め[やぶちゃん注:「眼」。]を、見いだしながら[やぶちゃん注:眼球を飛び出させた状態で。]、しして、ゐたりけり。

「これは。さても、ふしぎなる事かな。」

と、いへば、きやく僧、

「さればこそ。昨日《きのふ》、御身のあゆみ給ふあとより、このくび、ひたもの[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、とひて[やぶちゃん注:「跡(と)ひて」。跡(あと)を追って。]、つけてゆくほどに、さてこそ、それがし、蹟ひしなり」といふほどに、「さてもふしぎなる事かな。御かげによりて、いのち、ひろひ申す。この水は、さだめて、どくすい[やぶちゃん注:「毒水」。]にて候はん。」

と、いへば、客さう、

「『をけ』ともに、谷へ、すて給へ。」

と、あるほどに、

「かしこまる。」

とて、ふかき「ふち」へぞ、ながしにける。

 かならず、「しう心[やぶちゃん注:ママ。「執心(しふしん)」。]」ふかき、「どくはみ」[やぶちゃん注:「毒蛇(どくはみ)」]なれば、かやうの事は、よく聞《きき》おくべき事なり。

 このあたま、はい[やぶちゃん注:ママ。「灰(はひ)」。]にやきて、ちらせしなり。

 おそろしき事どもなり。

2024/07/13

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十四 ねずみのふくを取報來り死事 / 「善惡報はなし」正規表現オリジナル注~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇は、第二参考底本は最初の四行分のみが視認出来る他は、それ以降は下部が大幅に破損してしまっているため、第一参考底本を参考に電子化するしかなかった。なお、本篇を以って、「善惡報はなし」は終っている。]

 

 㐧十四 ねずみのふくを取《とり》、報(むくい)來り、死(しぬる)事

〇都とうじの邊(へん)にて、さる農人(のうにん)、はたを、うちけるに、土手(どて)より、ねずみ、一つ、出《いで》て、錢(ぜに)を一文(《いち》もん)、をきて[やぶちゃん注:ママ。「置きて」。以下同じ。]、もとのあなへ、かへりぬ。

 其次(《その》つぎ)に、また、一つ、出て、みぎのごとく、錢を、をきて、かへりぬ。

 䑕(ねづみ)、五、六十も出《いで》て、次㐧次㐧《しだいしだい》、ならぶる。

 此男、ふしぎに思ひ、見る所に、

「ひた」

と持《もち》て出《いづ》る。

『いかさま、とらばや。』

と、おもひ、やがて、かきよせ、皆、取《とり》てけり。

 又、ねずみ、出《いで》て、錢の、なき事を、ふしぎさうにして、かへり、一つのねずみ、ちいさき「つぼ」を、一つ、くわへ[やぶちゃん注:ママ。「啣(くは)へ」。]出《いで》て、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]、手を、「つぼ」の中へ、さし入《いれ》て、かへる。

 次㐧次㐧[やぶちゃん注:後半は原書では、踊り字「〱」。]、出《いで》て、手をさし入て、かへる。

 此男、つくづく、みて、

『ふしぎをする事かな。』

と、おもひ、

『いか成《なる》事か、しつらん。』

と、おもひ、をのが[やぶちゃん注:ママ。]手を、さし入てみるに、別の事なく、それより、家に、かへりしが、其ゆび、何(どこ)ともなく、次㐧に、くさり入《いり》て、四、五日の中《うち》に、手くびより、くさり、おちけり。

 家(か)しよく、ならずして、後には、乞食と也《なり》[やぶちゃん注:漢字はママ。]、終《つひ》に、としへて、かつゑ、死《しに》けり。

「扨《さて》は。鼠の『むくひ』なり。」

と、人、口〻《くちぐち》に、いひあへり。

                 萬屋庄兵衞【開板】

[やぶちゃん注:最後の「【開板】」は二行割注で、第一参考底本では、右から左に横書になっており、全体が、下二字上げインデントである。

「家(か)しよく」「家職」(=家業:この場合は農耕)を考えるが、私は「稼穡」(穀物を植えることと収穫すること。 則ち、農業)の方が、しっくりくるように感じられた。本書では、漢字の当て字も稀にあり、多くの漢字とすべき部分が、読者の便を考えて、ひらがなにしてある箇所が甚だ多いから、「稼穡」でもよいと考えている。

 なお、第一参考底本の吉田幸一氏の巻末の本書の解題のここ(右ページ)によれば、本書が『諸国咄的怪異小説であ』り、ロケーションは、東は『常陸、下総、下野』、北陸は『能登、佐渡』、西は『備州、石見、九州の筑後にまで及んでゐる』ことから、不詳の作者について、『仏教的な因果応報譚であることゝ併せて、諸国』『遍歴の経験をもつた僧侶の著述であらう』と推定され、『各はなしは聞書の形式をとり、その敍述の方法といひ、内容といひ』、『正三』(しょうさん)『道人の聞書たる「因果物語」と似てゐる。或ひは』(ママ)『「因果物語」を模した作品と言つても過言でないと思ふ』と述べておられることを附記しておく。因みに、そこで吉田氏が示された、鈴木正三「因果物語」は、片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版を底本として、このブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で、既に二〇二二年十月に全電子化注を終えているので、未読の方は、どうぞ。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十三 同行六人ゆどの山ぜんじやうの事幷内一人犬と成事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ぜんじやう」(「禪定(せんぢやう)」:ここは、「修験道に於いて、白山・立山などの高い霊山に登って行う修行」を指す)はママ。]

 

 㐧十三 同行(どうぎやう)六人、ゆどの山(さん)、ぜんじやうの事幷《ならびに》内《うち》、一人、犬と成《なる》事

○寬文元年[やぶちゃん注:一六六一年。]の事成《なる》に、「あふみ」のもの、三人、丹波(たんば)のもの、二人、「かわち」のもの、一人、以上、六人、同道(どうだう)にて、ゆどの山へ、あがりける。

[やぶちゃん注:「ゆどの山」湯殿山。現在の山形県鶴岡市、及び、同県西村山郡西川町にある、標高千五百メートルの山。月山・羽黒山とともに「出羽三山」の一つとして修験道の霊場である。ここ(国土地理院図。「出羽三山」を南北(南に湯殿山と月山、北に羽黒山)に入れた)。]

 元來(もとより)、「れいげん」あらたなる[やぶちゃん注:「あらたかなる」に同じ。]山なれば、いづれも淸淨(しやうじやう)けつさい[やぶちゃん注:「潔齋」。]なり。

 いづれも、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、坂(さか)、過半(かはん)あがると、おぼしき内に、江州(がうしう)のものゝうち、一人、かつて、見えず。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、ふしぎの思ひを、なしける所に、いづくともなく、白き犬、一つ、來りて、さきだつて、ゆく。

 何《いづ》れも、山を、めぐるに、此犬も、ともにはなれずして、

「ひた」

と、付《つき》まとひて、行く。

 扨《さて》、「大日御はうぜん」[やぶちゃん注:湯殿山の別当寺であった両部大日如来を祀った湯殿山大日坊。明治になって、おぞましき廃仏毀釈の結果、湯殿山は没収され、さらに焼き討ちで焼失、昭和一一(一九三六)年に規模を縮小して移転している。その現在地の東南東直近の、この第十二代景行天皇の皇子であった御諸別皇子(みもろわけのおうじ)の陵墓に植えた県指定天然記念物の樹齢千八百年の老杉「皇壇(おうだん)の杉」(グーグル・マップ・データ)のある位置にあった。]に參りて、それより下向(げかう)しけるにも、かの犬、離れず。

 いづれも、一人、見えざる事を、いよいよ、ふしぎにおもふ所に、くだんの犬、人の、物いふごとく、いひて、

「かたがたは、一人、見えざる事を、『ふしん』し給ふ事、もつとも也。其《その》見えざるは、我《われ》也。はづかしながらかたり參らせん。我、親に不孝の『つみ』、あり。其《その》『いしゆ』[やぶちゃん注:「意趣」。]は、親、ぞんしやう[やぶちゃん注:「存生」。]の時、さまざまの『なんぎ』[やぶちゃん注:「難儀」。]にあはする事、たびたびなり。されば、いつしやう[やぶちゃん注:「一生」。]の内、一日もやすからしめず。よろづにさからひ、こゝろに、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、親とおもふ事も、なく、ある時はあつかう[やぶちゃん注:「惡口」。]し、『いつまで、ながらへありけるぞ、はやくさり給へかし。』と、おもひ、かくのごとくの『ねんりよ』[やぶちゃん注:「念慮」。]、ふかくして、其むくひによりて、今、此《この》山にて、犬と、なりたり。我身の事は、身よりいだせる『とが』[やぶちゃん注:「咎」。]なれば、せんかた、なし。されども、心にかかる事は、故鄕(こきやう)にありつる妻子(さいし)の、なげかん事、ふびんに候。『われは、業力(ごうりき[やぶちゃん注:ママ。])の犬となりて、山に、ひとり、とゞまる也。我《わが》あと、ねんごろに、とふて、くれよ。』と、かたりて、たべ。なごり、おしく[やぶちゃん注:ママ。]候。」

と云ひて、きなるなみだ[やぶちゃん注:「黃なる淚」。嘆き悲しんで流す涙。多く、獣の涙に言う語で、既に南北朝期の「太平記」に用例がある。]を、

「はらはら」

と流して、猶、山深く、入《いり》にける。

 いづれも、あはれにおもひ、皆、なみだをぞ、ながしける。じせつ[やぶちゃん注:「時節」。その時の彼の境涯の有様。]とは申《まうし》ながら、こきやうにて、「いぬ」ともならずして、此の山に詣でて、「いぬ」となりける事こそ、ふしぎなれ。

 さればこそ、「しやうじやうけんご」の御山へ、不孝(ふかう)むざん[やぶちゃん注:「無慚」。]のともがらが、さんげ[やぶちゃん注:「懺悔」。]の心もなき身として、「ぜんぢやう」するこそ、もつたいなし。かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、世の、みせしめに、やがて、むくひの犬と、なさしめ給ふ。

 あさましき次㐧ならずや。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。後半は原本では踊り字「〱」。]。

 此のはなし、少しも、僞(いつは)りなき、よし。

[やぶちゃん注:この一篇、ロケーションもさりながら、私は、最後の道話を除いて、モノクロームの強いリアルな映像を見るような、静謐乍ら、強い印象を与える傑作と思う。個人的には、これが全話柄の内の白眉と言えると感じた。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十二 わきざし衣類をはぎ取うりあらはれ死罪にあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の読み「いるい」はママ。]

 

 㐧十二 わきざし・衣類(いるい)をはぎ取《とり》、うり、あらはれ、死罪(しざい)に、あふ事

○三河の人、遠江(とをとをみ)へ、ゆきけり。

 兩国(りやうごく)のさかい[やぶちゃん注:ママ。]にて、ある「ばかもの」ありて、此男を、をし[やぶちゃん注:ママ。]ふせて、きる物[やぶちゃん注:「着る物」。]・「わきざし」まで、はぎ取て、すぐに、三河へゆき、さる「ふるてや」[やぶちゃん注:「古手屋」。古着や古道具を売買する店。]へ、はいりて、此二《ふた》いろを、うりけり。

 亭主、出合《いであひ》、きる物・わきざしを見て、

『是は。まさしく、我子の「わきざし」・きる物なり。さては。かれが、はぎ取《とり》て、きたるらん。』

と、おもひ、

「其方は、いか成《なる》人にて、いづくへ、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふ。」

と、とへば、

「それがしは、是より、はるか、をんごくのものにて候が、國本(くにもと)へ、かへるべき「ろせん」[やぶちゃん注:「路錢」。]に、さしつまり、是を、うる也。」

と、こたへける。

 ていしゆ、きゝて、

「もつとも。さも、あるらん。かふて参らせん。きる物の事は、べちに、めきゝも、いらず候。わきざしは、我ら、ぞんぜぬ事なれば、人に見せて、其後、きわめ申さん。是に、しばらく待《まち》給へ。」

とて、さけを、いだし、すゝめなどし、すかさゞるやうに、もてなし、扨《さて》、亭主は、となりへ、ゆき、

「しかじかの事あり。」

と、かたれば、

「さらば。」

とて、何《いづ》れも「ちゐん」かた[やぶちゃん注:ママ。「知音(ちいん)方」。]、彼是(かれこれ)、四、五人ばかり、來りて、まづ、此ものを、かこみをき[やぶちゃん注:ママ。]て、さまざま、せんぎしけるに、此もの、

「しさい、なき。」

よしを、たつて、あらそひける。

「さらば。」

とて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、奉行所ヘ、うつたヘける。

 奉行所にて、いろいろ、がうもん[やぶちゃん注:「拷問」。]にあひ、やがて、白狀しける。

「さては。僞(いつは)りもなき、とがにん也。」

とて、其まゝ、死罪に、おこなはれける。

 かやうなるむくひは、世に、おほき事也。其衣類・わきざし、他所へも持(もち)てゆかずして、なんぞや、其ぬしのもとへ、持参する事は、是、いふばかりなき天罸なり。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。原本は後半は踊り字「〱」。]。

 是は、「とをとをみ」の人の、はなし也。

[やぶちゃん注:本文には、書かれていないが、古手屋の主人の子の安否が記されておらず、主人も、生存を頼みとするなら、奉行所に突き出す前に、それをこそ、糺すであろうに、それが行われておらず、奉行所も詮議一決で死罪としているところから、この息子は殺されているものと推測される。本書は、全体に、そうした肝心のリアルな人情・感情表現の部分に、欠落があるものが、先行する話に於いても、かなり目立つ。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  㐧十一 妄㚑(まうれい)と、くみあふ事

○近年(きんねん)、「あふみ」在所(ざいしよ)、其人の名も失念しける。

 邪見のものにて、其さとのものどもは、いふに及(およば)ず、りんがう[やぶちゃん注:「隣鄕」。]のものまでも、にくみそねむ下人に、左介と申《まうす》もの、あり。

 四、五才の比より、飼(かい[やぶちゃん注:ママ。主家(恐らく先代の主人だろう)が養っていたことを言う。])をきたるものなり。

 ある時、此佐助、すこしの、あやまりあるを、主人、ふくりう[やぶちゃん注:「腹立」。]のあまりに、まくらを、もつて、なげうちけるに、あたるとひとしく、聲をも、たでず、死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「まくら」。状況から見て、完全な「木枕」であろう。籾殻などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上に乗せたものもあるが、基部のそれは、固い安定の良い相応の大きさの木材で出来ていたから、直近から投げ、頭部を直撃すれば、打ち所によっては、死んでも、おかしくはない。]

 其後、此下人、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]や、おもひけん、よなよな、來(きたつ)て、せむる事、たへがたし。

 主人、あまり、「めいわく」し、いろいろ、「きたう」し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「やふだ」[やぶちゃん注:「屋札」。岩波文庫の高田氏の脚注に、『戸口や窓にはる御符』とある。]を、をし[やぶちゃん注:ママ。「貼(お)し」。]けるに、是に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]てや、四、五日も、來らず。

 ある夜、用ありて、うらへ、出《いで》ければ、何ともしれず、うしろより、

「ひた」

と、だく[やぶちゃん注:「抱く」。]。

「あつ。」

と、おもひ、ふりかへりて、引《ひつ》くみ、

「どう」

と、おちて、其まゝ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けり。

 下部のものが、此おとを聞《きき》て、やがて、火をたてゝ、見ければ、主人、石を、一つ、いだきて、ふしける。

「こは、いか成《なる》ありさまや。」

と、ひきたて見ければ、息、たへけり[やぶちゃん注:古典では、先の「絕入(たえいる)」ともに、まず、気絶・失神止まりの様態を指す。ここも、それ。]。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、おどろき、いしやを、よび、さまざましければ、やうやう、いき、つきけり。

 其後、六十日ほどして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

「さては。左助が妄㚑、きたりて、とりころしける。」

と、人、くちぐちに、いひて、のしりけり。

 此はなしは、寬文四年の事也。

[やぶちゃん注:「寬文四年」閏五月があったので、グレゴリオ暦で一六六四年一月二十八日から一六六五年二月十四日まで。]

2024/07/12

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  第十一 妄㚑(まうれい)とくみあふ事

○近年(きんねん)、「あふみ」在所(ざいしよ)、其人の名も失念しける。

 邪見のものにて、其さとのものどもは、いふに及(およば)ず、りんがう[やぶちゃん注:「隣鄕」。]のものまでも、にくみそねむ下人に、左介と申《まうす》もの、あり。

 四、五才の比より、飼(かい[やぶちゃん注:ママ。主人が養っていたことを言う。])をきたるものなり。

 ある時、此佐助、すこしの、あやまりあるを、主人、ふくりう[やぶちゃん注:「腹立」。]のあまりに、まくらを、もつて、なげうちけるに、あたるとひとしく、聲をも、たでず、死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「まくら」。状況から見て、完全な「木枕」であろう。籾殻などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上に乗せたものもあるが、基部のそれは、固い安定の良い相応の大きさの木材で出来ていたから、直近から投げ、頭部を直撃すれば、打ち所によっては、死んでも、おかしくはない。]

 其後、此下人、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]や、おもひけん、よなよな、來(きたつ)て、せむる事、たへがたし。

 主人、あまり、めいわくし、いろいろ、「きたう」し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「やふだ」[やぶちゃん注:「屋札」。岩波文庫の高田氏の脚注に、『戸口や窓にはる御符』とある。]を、をし[やぶちゃん注:ママ。「貼(お)し」。]けるに、是に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]てや、四、五日も、來らず。

 ある夜、用ありて、うらへ、出《いで》ければ、何ともしれず、うしろより、

「ひた」

と、だく[やぶちゃん注:「抱く」。]。

「あつ。」

と、おもひ、ふりかへりて、引《ひつ》くみ、

「どう」

と、おちて、其まゝ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けり。

 下部のものが、此おとを聞《きき》て、やがて、火をたてゝ、見ければ、主人、石を、一つ、いだきて、ふしける。

「こは、いか成《なる》ありさまや。」

と、ひきたて見ければ、息、たへけり[やぶちゃん注:古典では、まず、気絶・失神止まりの様態を指す。ここも、それ]。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、おどろき、いしやを、よび、さまざましければ、やうやう、いき、つきけり。

 其後、六十日ほどして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

「さては。左助が妄㚑、きたりて、とりころしける。」

と、人、くちぐちに、いひて、のしりけり。

 此はなしは、寬文四年の事也。

[やぶちゃん注:「寬文四年」閏五月があったので、グレゴリオ暦で一六六四年一月二十八日から一六六五年二月十四日まで。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事

○明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしけるが、ちいさき「かねぶくろ」を、とりいだして、みちすがら、ひた物、ぜにを、かいける。

[やぶちゃん注:『明曆の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしける』これは「抜け参り」と呼ばれるものである。後には、「御蔭参り」と呼ばれるようになった、幕末の「ええじゃないか」と同じ、一種の集団ヒステリーとまでは言えないが、爆発的な多数の人間が、主家や親に断りを入れずに、伊勢参宮をするという、宗教的な突発的信仰行動である。梗概はウィキの「お蔭参り」が読み易いが、私は『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』以下で、詳細に記しているので、ご存知ない向きは、是非、読まれたい。後には、犬や豚が単独で参詣するという、驚くべき事実もあったのである。私の「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」や、「耳囊 卷之九 奇豕の事」を見られたい。

「かいける」「掛(懸)く」(「かい」は「かき」のイ音便ととる)には、「複数のものを数えて加える」の意があるから、「数えていた」という意であろう。]

 「つち山の九郞次郞」といふもの、京都へのぼり、下りに、「みなくち」の邊(へん)にて、此むすめの、かねぶくろを見て、[やぶちゃん注:「つち山」後の文で判るが、地名で、現在の滋賀県甲賀市土山地区である。以下の水口の南西方の広域である。「みなくち」現在の滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう:孰れもグーグル・マップ・データ)。]

『何とぞして、とらん。』

と、おもふ心、付て、それより、道づれに成《なり》て、わらんべの事なれば、みちすがら、さまざまの事を、いひをどし、すかしなどして、ゆくほどに、我家、ちかく成《など》ほどにて、此男、申やう、

「こなたは、わらんべ一人の事なれば、むさとしたる宿(やど)にとまり給はゞ、かならず、はがれ[やぶちゃん注:所謂、「身包み剥がれる」ことを指す。]給はん。さなくば、ころして、其かねを、とるべし。我、みちづれしたるこそ、さいはい[やぶちゃん注:ママ。]なれ。つち山にては、我らが所に、御やどめされ候へ。余人(よじん)に宿をかり給はゞ、心もとなく候。」

と、

「ひた」

と、をどし[やぶちゃん注:ママ。]て、つゐに、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が家に、とまらせけり。

 扨《さて》、かれ[やぶちゃん注:娘。]がもちけるかねを、うかゞひ、よく、ねいりたる時分に、さがし出し、とりて、わづか、ぜに、一貫ばかりのあたい程、のこしをけ[やぶちゃん注:ママ。]り。

[やぶちゃん注:「ぜに、一貫」正規には一貫は銭一千文であるが、江戸時代には、実際には九百六十文が一貫とされた。現在の二千四百円程度に当たる。]

 むすめ、よあけ、おきて、かねぶくろを、みれば かね、わづかあり。

『こは、いかゞ。』

と、おもひ、ていしゆにむかひ、

「しかぐかの事候。こよい[やぶちゃん注:ママ。]の事なれば、よも、よそへは、ゆかじ。わづかのこり候やう、ふしぎにおぼえ候。何と候や。」

「此方には、しらず候。もし、みちにても、おとし、給はぬか。よく、おぼえ給へ。」

と、いへば、此むすめ、さめざめと、なきくどきけるは、

「うらめしの事かな。此かねなくしては、さんぐうする事、ならず。又、國本《くにもと》へ、かへらん事も成《なる》まじければ、とやせん、かくや、」

と、あんじ、

「何とぞして、此かねの、出るやうにして、給はれ。」

と、なき、くどきければ、亭主、大きに、いかつて、いふやう、

「なんぢがかねのなき事を、我、しるべきやう、なし。はやはや、いでされ。」

と、大(だい)のまなこを、いからして、おどしければ、此いきをい[やぶちゃん注:ママ。]に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、なくなく、そこを、たち出《いで》てけり。

[やぶちゃん注:以上の経緯を見るに、この宿の主人は、確かに「つち山の九郞次郞」の親族か姻族の経営になるものであり、しかも、この主人もまた、「つち山の九郞次郞」の同じ穴の貉、「グル」であることが判明するのである。]

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。]

 其後、此男、大ぶんのかねを、ぬすみ取《とり》て、是を、もとでとして、「あふみ」の「かづら河《がは》」へ、ゆき、大ぢしんにあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、山ぞこへ、うちうめられて、古鄕(こきやう)へ、また二度(《ふた》たび)とも、かへらざりける。

 あらた成《なる》かな[やぶちゃん注:霊験あらたかなる。]太神宮(だいじんぐう)へ、さんけいするものゝ、ろせん[やぶちゃん注:「路錢」。]を、ぬすみし天ばつにて、おもひよらざる、かつら河の山下のつちとぞ、なりにけり。

 古(いにしへ)、今(いま)に、いたるまで、參宮者の物を、盗(ぬすみ)、ばつをうるもの、おほし。

 をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、つゝしむべき事也。

 是は、これ、ひとゝせ、道中にて、もつぱら、人ごとに、いひあへり。

[やぶちゃん注:『「あふみ」の「かづら河《がは》」』近江と言っているので、原文の「かつら河」は「葛川」と採れる。琵琶湖の西岸の、この滋賀県大津市の南北の葛川地区である(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、明暦が終わって(明暦四年七月二十三日(グレゴリオ暦一六五八年八月二十一日)、万治を経た、寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)巳の刻から午の刻(午前九時から午後一時頃)、琵琶湖西岸の花折断層北部と若狭湾沿岸の日向断層を震源とする、二つの連動する地震が発生している。マグニチュード七・五前後と推定されるこの地震で、震源の近江国・若狭国を中心に、京都・大坂まで広域が被災した。参考にした「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「ヨミモノ シバブン シンブン」の「新近江名所圖会 第198回 江戸時代の大地震―寛文地震とその痕跡-大津市葛川町居町・葛川梅ノ木町」(「葛川」の地名に注目!!!)によれば(北原治氏の記事)、『とくに琵琶湖岸の軟弱地盤に立地した膳所城では多くの石垣が崩れ、櫓や門などが破損・崩落し、再建にあたっては本丸と二の丸の間の堀を埋めて新たな本丸とするなど、縄張りそのものを変更しなければならないほどの大きな被害を受けました。また、現在の大津市浜大津一帯にあった幕府の大津蔵屋敷ではすべての蔵が破損したほか、彦根城でも』五百から六百『間の石垣が崩れるなどの被害が知られています』。『しかし、こうした琵琶湖周辺の被害は、震源付近の安曇川上流部の被災状況に比べれば』、『ずっと軽微なものといえるかもしれません。高島市朽木にあった旗本朽木氏の陣屋が倒壊し、元領主の朽木宣綱を圧死させた激震は大規模な山崩れ「町居崩れ」を引き起こし』、二『つの村を消し去っていたからです』。『かつて、大津市葛川明王院の北約』一・五キロメートル『の安曇川沿いには榎村と町居村のという』二『つの村がありました。これらの村は地震にともなう奈良岳の崩壊によって、一瞬にして土砂に埋まったのです。これにより両村の』五百六十『名もの村人が生き埋めになって死亡しました。町居村では』三百『人の村人のうち、生き残った者がたったの』三十七『名であったと伝わっています』。『村を襲った大量の土砂は』、『安曇川の流れを堰き止めて天然ダムを造り、新たな災害を発生させました。崩れた土砂は安曇川の流れを完全に堰き止め、湛水面積』四十八『万』平方メートルにも『及ぶ、巨大な天然ダムを出現させたのです。これにより』、『隣村の坊村は集落の大部分が水没しました』。「明王院文書」に『よると、葛川明王院の境内まで水位が達し、坊村の屋敷などが残らず』、『流失したと記されています。地元の言い伝えによると、明王院の本堂(重要文化財)の石段が下から三段目まで水没したとされます』。『さらに、恐れていたことが起こってしまします』十四『日後の』六『月』三十『日午前』九『時頃、最大湛水量』五百九十『万』立方メートルに『達した天然ダムが崩壊したのです。その結果、朽木谷などの安曇川下流域が洪水に襲われました。高島市朽木岩瀬にある志子淵(しこぶち)神社は、この時の洪水によって社殿を流されたため、現在の場所に移ったと伝わっています』。『寛文地震の被害状況を今に伝える「町居崩れ」跡は大津市葛川梅ノ木町にあります。江若交通町居バス停から国道』三百六十五『号線を北に』八百メートル『ほど進むと』、『道の東側に山頂付近から山の斜面をえぐるような大きな谷地形があります。これが「イオウハゲ」と呼ばれる「町居崩れ跡」です。崩壊長約』七百メートル『・最大幅』六百五十メートル『比高』三百六十メートル『・推定崩落土砂量』二四〇〇『万』立方メートルに『及ぶ大規模な山崩れの痕跡が現在も確認できます』。『また、この対岸には、高さ』百メートル『ほどの低い丘陵が川へ向かって伸びていますが、この小山は崩落した土砂が谷を堰き止めて造った天然ダムの一部です』。『ここから川の上流に目を転じて、はるか遠くに見える家並みが』、『当時』、『水没した葛川坊村ですが、天然ダムは坊村を越えて、さらに上流の中村付近まで達しました。現地で災害の痕跡を見ていただければ、当時起こった寛文地震の被害の大きさを理解できると思います』。『被災した町居村は災害の後、生き残った』三十七『名の村人により、現在の地へ移転して再建されました。旧村は集落のはずれにある観音寺の北側であったと伝わっています。なお、観音寺には、旧村跡から掘り出された宝篋印塔が移築されています』とあり、現在の被災地の跡地の写真が載るので、是非、見られたい。これは、寛文末年から四年後に実際発生した激甚地震とその後に続いた大災害である。この怪奇談、多くの読者は、さっと読んで、そんな悲惨な地震が、事実、あったことを検証しようとは、あまり思わないだろう。私のマニアックな癖で、調べてみて、愕然とした。江戸時代の、この地震を知っている庶民は、この一篇を読んで、恐れ戦いたことは、間違いない。本書の開板は元禄一〇(一六九七)年以前と推定されているから、この災害から三十五年以内の刊行である(因みに、この作者は不詳だが、関西の人間であったであろうことが、感じられるのである)。――則ち――この話は、当時の恐るべき悲惨極まりない現実のカタストロフを交えた「都市伝説」となっている――のである!!!

2024/07/11

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧九 女金銀をひろいぬしにかへす事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ひろい」はママ。]

 

 㐧九 女、金銀を、ひろい、ぬしに、かへす事

○「するが」の「ふちう」に、さる人、下女を、一人、つかひけり。

[やぶちゃん注:駿河国の旧国府がおかれた場所で、現在の静岡市葵区の静岡中心市街地にほぼ相当する(グーグル・マップ・データ)。]

 武州より、ある人、京都へ上り、木佛(もくぶつ)を、一たい、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。]、さる寺へ、「きしん」申《まうす》べきために、のぼり、「するが」の「ふちう」に、一宿(《いつ》しゆく)しける。

 金子(きんす)五十兩、さいふに入《いれ》、立《たち》ざまに、うちわすれ、出《いで》て、京へつきて、かのふくろを、もとむるに、なかりけり。

「こは、いかに。」

と、おどろきて、

「はるばる、のぼりたる『かひ』も、なき事かな。此かね、なくては、『大ぐはん』の望(のぞみ)、かなひがたし。いかゞすべき。」

と、あんじ、わづらひける。

『正《まさ》しく、「ふちう」の宿(やど)にて、おとしつる。』

と、たしかに、おぼゆ。

『引《ひき》かへし、くだりたりとも、とても、くれまじ。しよせん、くだらぬは、しかじ。」

と、おもひ、

「とかく、佛《ほとけ》の御緣(えん)、うすき、いはれならん。」

と、ふかく、なげきしが、されども、當所(たうしよ)のやどに、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]を、具(つぶさ)に、かたりければ、宿(やど)の、いはく、

「心やすかれ。それがし、御望(《おん》のぞみ)を、かなへ參らせん。金銀、なくとも、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。これは用法としては、おかしい。「安(やすん)じ」で、「安心して」の意であろう。]給へ。」

と申ける。

 此人、いよいよ、よろこび、やがて、おもふまゝに、つくり奉りて、其まゝ、もりて[やぶちゃん注:大切に所持して。]、くだりける。

 又、「ふちう」の宿(やど)へ、よりて、何んとなく、をと[やぶちゃん注:ママ。「音」。]を、すまして、きく所に、なにの「しさい」も、なくして、やゝありて、下女、ぜんを持《もち》て出《いで》、ひそかに、よりて、申やう、

「こなたには、御のぼりの折《をり》から、何にても、わすれ給ひたる物や、ある。」

と問(とふ)。

 此人、

「されば。此はしらの折《をれ》くぎに、ふくろを、一つ、かけをき[やぶちゃん注:ママ。]、とらずして、上り、京都にて、おもひ付《つき》、はるばるの道なれば、かへりて、とふべきやうも、自由(じゆう)ならず、うち過《すぎ》ぬ。」

と、申ければ、下女、かの、ふくろを、取出《とりいだ》して、

「此事にてや、あるらん。」

と、申せば、此人、

「扨《さて》も。ありがたき心ざしなり。」

とて、四、五兩、とりいだし、下女に、くれける。

 下女の、いはく、

「をろか[やぶちゃん注:ママ。]の人の心や。此かねを、すこしにても、うくる心のあらば、何事にか、此ふくを参らすべき。すこしも、申《まうし》うくる事、おもひも、よらず。まして、ほとけ、ざうりうの、かねなり。」

とて、とるべき気色(けしき)あらざれば、此人、

『扨は。世の中の「けんじん」とは、かやうのものをや、いふやらん。此女は、世に、また、たぐひなきものかな。』

と、おもひ、宿(やど)のあるじに、此下女(げぢよ)を、もらい[やぶちゃん注:ママ。]、武州へ、ぐして、くだり、我子に引合(ひきあはせ)ける。

 此女、來りてより、家、とみ、さかヘ、はんじやうする事、なゝめならず。

 さてこそは、『正直は、一たんの「ゑこ」[やぶちゃん注:ママ。「依怙」。たまたまの一時の頼り。]にあらず。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、天の「あはれみ」を、うくる。』と、いふは、是なるべし。

 世に、人、おほしといふとも、「むよく」のものは、まれならん。一たんのよくを、はなるれば、「一しやう」のたのしみを、うくる。『げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。』也。

[やぶちゃん注:「げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。」「現世安穩後生善處」。「法華經」の「藥草喩品(やくさうゆほん)」から。『「法華経」を信ずる人は、現世(げんせ)では、安穏(あんのん)に生きることができ、後生(ごしょう)では、よい世界に生まれるということ。』。]

 おほくは、一たんの「よく」に、まよひ、現當(げんたう)二世(《に》せ)ともに、大《おほ》ぞんを、うる事、「がんぜん」の「きやうがい」なり。たれか、是を、あらそはん。はづベし、はづべし。

[やぶちゃん注:「現當(げんたう)二世(《に》せ)」現在世(げんざいせ)と当来世(とうらいせ)の二つの世。この世と、あの世。「現當兩益(げんたうりやうやく)」(現世の利益と当来(来世)の利益)の意にも用いる。単に「現當」「現未」とも言う。]

 此物がたりは、「あべ河」より、元三(げんさん)と申《まうす》人、上りて、はなされけり。近年(きんねん)の事也。

 

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「和漢三才圖會」植物部 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐々木喜善 佐藤春夫 兎園小説【完】 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 只野真葛 和漢三才圖會 禽類(全)【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 和漢三才圖會卷第三十九 鼠類【完】 和漢三才圖會卷第三十八 獸類【完】 和漢三才圖會抄 和漢卷三才圖會 蟲類(全)【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 室生犀星 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 小酒井不木 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 怪奇談集Ⅱ 日本山海名産図会【完】 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 柴田宵曲Ⅱ 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生日記【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 泉鏡花 津村淙庵「譚海」【完】 浅井了意「伽婢子」【完】 浅井了意「狗張子」【完】 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介 書簡抄 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔 芸術・文学 萩原朔太郎 萩原朔太郎Ⅱ 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏