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カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の494件の記事

2024/02/09

「蘆江怪談集」 「怪談雜記」+「目次」・奥附 / 「蘆江怪談集」~了

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は、蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」である。]

 

 

    怪 異 雜 記

 

 

 怖(こは)がりのくせに、怖いものに出會(でつくわ)して見たいといふ氣持が、いつも動いてゐる。本鄕の素人下宿(しろうとげしゆく)にゐる時分だつた。長六疊のあんまり日當りのよくない上に、緣先(えんさき)に靑桐(あをぎり)がすくすくと伸(の)びてゐるので尙(な)ほ暗(くら)かつたが、夜、寄席などに行つて、遲(おそ)がけにかへつて來る時、あたりがしんとした中へ入るのだから、いろいろな奇異(きい)を想像(さうざう)する事が多かつた。

 からかみをあけて、机(つくえ)の前へすわった途端(とたん)に、机の下から瘠(や)せ細(ほそ)つた手がひよろひよろと伸びて來たらとか、外の寒(さむ)さに冷え切つた手で、埋み火[やぶちゃん注:「うづみび」。]を搔(か)き起(おこ)す途端に、火鉢の鐵瓶(てつびん)がブルブルと蓋(ふた)をゆり動(うご)かして、

「寒いね」と、人語(じんご)を發したらとか、寢支度(ねじたく)をする爲めに押入れをあけると、寢道具がひとり手に、ぼたぼたぼた[やぶちゃん注:この箇所。底本では真ん中の「ぼた」のみが踊り字「〱」となっている。]とひろがつて、疊の上へ展(ひろが)つたらとか、さまざまな空想(くうさう)を描(ゑが)くのが常だつた。

 空想(くうさう)から空想が生(うま)れて、しまひには途方もない事を考へるのに慣(な)れたものだが、其中で、我れながらゾツとした空想(くうさう)は。――

 まづ外から戾つて、部屋のからかみを開(あ)ける、入らうとして不圖(ふと)氣(き)がつくと、正面に据(す)えた机の前に人がすわつてゐる。誰(だ)れだと聲(こゑ)をかけると、坐(すは)つたまま顏だけむけた、その顏は自分と同じ顏だつた。――今でも時々(ときどき)それを空想する。

 芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが、あめりかのヲール街(がい)か、いぎりすのストランド街のやうなところで、不斷(ふだん)は幾千となく忙(いそ)がしさうな人間が、ざわついてゐる町の晝頃(ひるころ)、卽ち、皆が食事(しよくじ)に行つた爲めに、街頭に一人の人もない、打つてかはつた淋(さび)しさの時、カンカン日の照(て)つてる步道を、ある紳士(しんし)が通つた、とある角(かど)を曲(まが)らうとしたら、曲り角からひよいと現(あら)はれた紳士がある。出あひがしらにばつたり衝突(しようとつ)しさうになつて、兩方から同時に

「ヤ失敬(しつけ)い」

 と云つてすれちがつたが、其時、妙(めう)な感(かん)じがした。[やぶちゃん注:行頭の字空けはママ。]

「おや今のは」と首(くび)をひねる「おれと同じ人だつたが」さう云つてふりむいて見ると、隱(かく)れ場所(ばしよ)などはないのに、そこには何ものも見えなかつたといふ。卽(すなは)ち、同じ人間が同じ人間にぶつかつて、ふりかへつて見たら、もう消(き)えてなくなつてゐたといふのだ。この怪談(くわいだん)を讀(よ)んだ時は、總身が氷(こほり)になつたかと思つたと云(い)つてゐた。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが」事前に当該作品を「芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)」としてブログで公開しておいたので、是非、読まれたい。現行のネット上の同作の注としては、誰にも負けない自信はあるものに仕上げてある。無論、正字旧仮名である。なお、芥川龍之介は大の怪談好きで、若い頃から、怪奇談を私的に蒐集していた。私のサイト版の「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」を未見の方は、強くお勧めする(手書き本文や落書の画像もある)。それに倣って私が書いたオリジナル怪談実話集「淵藪志異」も御笑覧頂ければ、恩倖、之れに過ぎたるは莫(な)い。因みに、この内の「二」の私の祖父の怪奇談は、一九九九年十一月の『ダ・ヴィンチ』に載り、京極夏彦氏他の過褒の言葉を頂戴し、後にメディアファクトリーから刊行された京極夏彦他編「怪談の学校」にも載っているものである。

「ヲール街」Wall Street。アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークにある、世界の金融センター「ウォール街」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ニューヨーク証券取引所を始めとして、アメリカの金融史と所縁のある地区。

「ストランド街」Strand。イギリスのロンドンの、「トラファルガー広場(Trafalgar Square)」から「王立裁判所(Royal Courts of Justice)」までを結ぶ主要道路で、劇場・ホテルが立ち並ぶ繁華街。ここ。]

 自分と同じ人間が、突然(とつぜん)目の前に現はれたら、たしかに怖(こは)い事だらう。先代(せんだい)坂東秀調[やぶちゃん注:「ばんどうしうちやう」。]自身に經驗したといふ怪談(くわいだん)がやはりそれで、ある時、芝居の雪隱(せつちん)へ行つた。花かつみの中形の浴衣(ゆかた)を着て三つ並んだ便所(べんじよ)の左りのはしをあけようとしたら開かない。右のはしも開かない。いやだつたが眞中のをあけると、開(あ)いたから、入らうとしてヒヨイと覗(のぞ)くと、中には自分と同(おな)じ花かつみの浴衣を着た男(をとこ)がしやがんでゐたので、これは失禮(しつれい)といつたら、その男が、ぢろりとふりむいて自分を見上げた。と、その顏(かほ)がやつぱり自分と同じ顏だつたといふのだ。

[やぶちゃん注:「坂東秀調」歌舞伎役者三代目坂東秀調(明治一三(一八八〇)年~昭和一〇(一九三五)年)であろう。]

 多分(たぶん)つくり事であらうと思ふけれど、たしかに凄(すご)い。

 つくり事といへば、年中(ねんぢう)怪談(くわいだん)を空想(くうさう)して、それを人に話すのを仕事のやうにしてゐる人が私の友人(いうじん)にあつた。

 川尻淸潭[やぶちゃん注:「かはじりせいたん」。]氏の兄さんで、鹿鹽秋菊(かしほしうきく)といふ人、怪談製造家(くわいだんせいざうか)などと云つたら、鹿鹽氏怒るかも知れない。併(しか)し、全く、製造家と云つても好(い)いくらゐの怪談ずきで、たまに出會(であ)ふと、先づ挨拶(あいさつ)が、

「如何です、近頃(ちかごろ)は好(い)いお化(ば)けにあひませんか」といふのだ。

 どうかすると、だしぬけに、

「こないだ四谷通(よつやどほ)りで、お岩さまにお目にかかりましたよ」なんて云ひ出す、まさか、あんたによろしくと云ひましたとは云はないが、眞劍(しんけん)なんだから不思議だ。

「お岩さま、あの時は大分(だいぶ)御(ご)きげんがよござんしたよ。ちよつとお瘠(や)せになつたかとは思ひましたがね」

[やぶちゃん注:「川尻淸潭」(明治九(一八七六)年~昭和二九(一九五四)年)は演劇評論家。三木竹二主宰の雑誌『歌舞伎』に「型」の記録や芸談を寄稿、後、『演芸画報』などに執筆した。大正十四(一九二五)年には東京歌舞伎座監事室室長となっている。東京出身。商業素修学校卒。名は義豊。著作に「楽屋風呂」等がある。

「鹿鹽秋菊」前者の実弟で彼と同じく演劇評論家で、俳人でもあったらしい。本名は蕉吉。雑誌『歌舞伎新報』を復刊して盛り立てた。]

 幽靈の肥(ふと)つたなんざおかしな話なんだが、鹿鹽秋菊氏を除(のぞ)いて、私の知人中の怪談好きは、喜多村綠郞[やぶちゃん注:「きたむらろくらう」。]氏だらう。一頃(ころ)、怪談會などいふものを二三度、喜多村氏と一緖(しよ)になつてやつた事がある。喜多村氏自身の經驗談もしばしば聞いた。京都のインクラインで、卷込(まきこ)まれた水死人が、水を逆上(さかのぼ)つて、妙なところに現はれた話などは、喜多村氏の話上手(はなしじやうず)につり込まれて、何度聞いてもゾツとする。

[やぶちゃん注:「喜多村綠郞」新派の女形俳優初代喜多村緑郎(明治四(一八七一)年~昭和三六(一九六一)年)。水谷八重子に女形の芸を伝授して没した。泉鏡花や久保田万太郎と親交があり、ハイカラな文化人でもあった。著書に「芸道礼讃」・「わが芸談」等がある。]

 怪談に出會(でつくわ)した經驗(けいけん)の多い人に坂東のしほ君がゐる。少しひまでもつくつて聞いえゐようものなら、三時間ぐらゐ立てつづけに話して、まだ盡(つ)きないといふくらゐ、而(しか)もそれが皆、自分に關した實說(じつせつ)なんだから愉快だ。

[やぶちゃん注:「坂東のしほ」四代目坂東秀調(明治三四(一九〇一)年~昭和六〇・平成元(一九八五)年)。三代目の養子で、「坂東のしほ」は舞踊家としての名取。]

 その中で、一番秀逸は、のしほ君が鶴見(つるみ)の花月園で、椿茶屋(つばきぢやや)といふ貸席(かしせき)をしてゐる頃のこと、この椿茶屋に大入道(おほにふだう)が現はれるといふ話。

[やぶちゃん注:「鶴見の花月園」現在の鶴見花月園公園附近。]

 はじめ障子に朦朧(もうろう)たるかげがうつる。それが、見る見る中にはつきりして、後には鴨居にとどくほどの大入道になつて、それから影法師(かげばふし)の儘(まゝ)、座敷の中に入つて來るのださうだ。

 はじめに出會(でつくわ)した時は、すぐにも逃(に)げ出(だ)さうと思つたが、でも、あんまり度々出られると、ちつとも怖(こは)いと思はなかつた。

 しまひには、出る日と出ない日の豫想(よさう)がつくくらゐになつたといふ。

 椿茶屋(つばきぢやや)がやりきれなくなつて、のしほ一家は見じめな退却(たいきやく)をする日が來た。荷物はすつかり運(はこ)んで、最後に家人が引上げようとしたらひどい土砂(どしや)ぶり、止(や)むを得(え)ず、今一夜そこに泊(とま)らうとしたが蒲團(ふとん)がない。花月園の事務所へ借(か)りに行つたら、ありませんからと古ぼけた緋毛氈(ひもうせん)を貸してくれた。それにくるまつて、いよいよ更(ふ)けまさる秋の夜の雨を聽(き)きながら、

「ああ、坂東(ばんとう[やぶちゃん注:ママ。])のしほもここまで落ちぶれたら澤山(たくさん)だ、世の中に味方はひとりもない。せめてお馴染甲斐(なじみがひ)に大入道でも出れば好(い)いのに」

 と、愚痴(ぐち)を云つた。[やぶちゃん注:行頭一字空けはママ。]

 その言葉が切(き)れるか切れないかの刹那(せつな)、いつもよりもつとはつきり、もつと大きな大入道がニユツと現(あら)はれて、ひよこひよこひよこと目の前へ近(ちか)づいて來たといふ。居合(ゐあは)せた人全部(と云つても女ばかり三人)が、一塊(かたまり)なりになつて、キヤーツと叫(さけ)んださうだ。

  一體、役者(やくしや)には怪談が多い。

 樂屋(がくや)のつれつれ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、又は、旅興行(たびこうぎやう)のつれつれに、お互ひに出たら目を云つてゐるのが、自然とおもしろい話(はなし)にでつち上げられて了ふのかも知れない。

 が、劇場(げきじやう)といふものに何となく凄味(すごみ)のある場所が多くて、自然話はそこへゆくのだらう。殊(こと)に地方の芝居小屋などと來たら、必らず、一ケ所や二ケ所、幽靈(いうれい)の出さうな場所を備(そな)へてゐないところはない。

 便所、風呂場(ふろば)、チヨボ床の下、棧敷(さじき)のすみ等々、きつと薄暗くて、じめついてゐて、氣の弱い人は、なかなか一人ではよりつかれないやうなところがあるものだ。

[やぶちゃん注:「チヨボ床」(ちょぼゆか)は歌舞伎の義太夫狂言で、伴奏の竹本が舞台上手の上にある御簾の内で語るのが決まりで、そこを「チョボ床」と呼んだ。]

 伊井蓉峯(いゐようほう)實見(じつけん)の幽靈といふのも凄(すご)かつた。

 磐城の平の芝居ださうで、今はもう新築(しんちく)になつて元の姿(すがた)はないが、以前のは隨分(ずゐぶん)古(ふる)ぼけた芝居だつたさうな。

 そこの湯殿(ゆどの)に、目も鼻もないのつぺらぼうの坊主あたまの老人(らうじん)が、逢魔(あふま)が時といふ時分に、必らず湯につかつてゐて、人が行くと、兩手(りやうて)にひろげた手拭(てぬぐひ)で、顏をぺろりと洗(あら)つて見せるといふのだ。

 伊井は乘込んだ初日(しよにち)にそれを見た、まさか幽靈(いふれい)とは思はないし、湯(ゆ)けむりの中でのつぺらぼうの事も氣がつかず、只(たゞ)一圖(づ)に樂屋風呂の口あけを、薄汚(うすぎた)ないぢぢいに汚されたと思つて、座主(ざしゆ)をかんかんに叱りつけたといふ。

 座主(ざしゆ)は平あやまりにあやまつて、其場は濟(す)んだが、二十年目に、再(ふたゝ)び、この芝居へ伊井が來た時、始めてのつぺらぼうの話を聞いて慄(ふる)へ上(あが)つたさうだ。これはあの眞面目(まじめ)な伊井の口から直接に聞いた話(はなし)だ。

[やぶちゃん注:「伊井蓉峯」(明治四(一八七一)年~昭和七(一九三二)年)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。本名は伊井申三郎。東京生まれ。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

 水戶の狸(たぬき)といふ怪談も役者(やくしや)たちの間には有名な話で、水戶のある芝居(しばゐ)では夜半になると狸ばやしが始まる、テケテンテケテンとばかり、實におもしろくかすめたり、近(ちか)づけたりしてはやしたてるさうで、尤(もつと)も、これは只それだけの事、但し、いつでもやるんではない。こいつが聞(き)こえはじまると、必らず芝居は大入(おほいり)なのださうな。

 市川紅若といふ老優(らういう)の出會(でくわ)した話は可(か)なり凄い。福島あたりだつたと思ふ、偶然(ぐうぜん)に昔馴染(むかしなじみ)の女とめぐりあつて、とある隱(かく)れ場所(ばしよ)で出あひをしてゐた。

[やぶちゃん注:「市川紅若」(いちかわこうじゃく 明治三(一八七〇)年~昭和一三(一九三八)年)は兵庫県生まれ。明治十七年、十五歳で、中村宗十郎の門人となり、千代松の名で中座で初舞台を踏む。明治二十五年に上京し、七代目市川団蔵の門人となり。翌年、中村源之助を市川紅若と改めた。明治二八(一八九五)年、春木座にて名題(なだい:名題役者のこと。名題看板に名前が載るような幹部級の役者を指す。明治までは「大名題」・「名題」・「名題下」・「間中上分」(あいちゅうかみぶん)・「間中」・「下立役」の五階級に分かれていた)に昇進、団蔵一座の花形として巡業した。明治四十四年九月に師の七代目団蔵が没した後は、主に初代中村吉右衛門一座に勤めた(主に日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。]

 尤も芝居(しばゐ)がはねてからだから、相當(さうたう)遲(おそ)い時間、場所は地方によくある旅館料理屋(りよくわんれうりや)で、その晚は客が立てこんでゐたので、紅若たちはお藏(くら)の二階へ廻(まは)された。

 夏のことで蚊帳(かや)が吊(つ)つてある。女は眠(ねむ)つてゐたが紅若は眠(ねむ)れなかつた。すると、蚊帳のすそに人の姿(すがた)があらはれて、おやと思つて見つめてゐると、それがずんずん伸(の)びて、蚊帳より高くなり、蚊帳の天井(てんじやう)へ折(を)り曲(まが)つて、丁度紅若の顏の上まで伸(の)びて來(き)た。ぐうもすうもいへず射(い)すくめられたやうになつてゐると、天井(てんじやう)の顏が紅若を充分(じうぶん)眺(なが)めてからニヤリと笑つて消えたといふのだ。

 無論、紅若の若(わか)い時(とき)の話らしいが、今だにあの老人はこの話を滅多(めつた)に云はないさうだ。

 天井の顏(かほ)といへば、宇治(うぢ)の菊屋には天井一盃おかめの面(めん)が現はれるといふ部屋があるさうだ。夫婦ものや、男同士又は女同士(をんなどうし)の泊(とま)り客の前(まへ)には決してあらはれない。人目を忍(しの)ぶ仲(なか)の男女が泊ると、必(かな)らずあらはれて、ニコニコと笑つて見せる。

 まるでうそのやうな話だが、ある時、役者たちが多勢(おほぜい)ゐるところで、この噂(うはさ)をしたら、全くその通りです。現(げん)に私は見ましたと裏書(うらがき)をしたために、かくし事がばれたといふ。ユーモアがある。

 今の吉右衞門の父親(ちゝおや)歌(か)六老人(らうじん)は、怪談のタネを譯山(たくさん)持(も)つてゐた。尤も、この老人も、いくらか怪談製造家の氣味(きみ)はあつたが。

[やぶちゃん注:「今の吉右衞門の父親歌六」初代中村吉右衛門の実父である三代目中村歌六(嘉永二(一八四九)年~大正八(一九一九)年)。]

 大阪の北の新地(しんち)のあるお茶屋で、手水場(てうづば)へ行つて、手をあらひながら、もう何時(なんじ)だらうと云つたら、どこからともなく、モウ二時だよといふ聲が聞こえたといふ話(はなし)などは、多分歌六老人自作の怪談だらうと思(おも)はれる。

[やぶちゃん注:「大阪の北の新地」現在の大阪府大阪市北区梅田附近の江戸時代からの高級歓楽街。]

 月の美くしい晚に、子守唄(こもりうた)をうたふ聲が聞こえる。今時分(いまじぶん)、だれがどこで唄(うた)つてゐるのだらうと思ひながら、座敷を廊下(らうか)へ出て見ると、廊下は雨戶(あまど)がしまつてゐた、併(しか)し、子守唄は雨戶の外卽ち中庭(なかには)のやうなところで唄(うた)つてゐるものと思はれた。

 丁度雨戶に節穴(ふしあな)があつたので、外をのぞいて見ると、中庭の正面は笹藪(さゝやぶ)、それに靑い月の光がさしてゐて、廣々とした海(うみ)の底(そこ)を見るやうな景色(けしき)、その中庭の眞中に、黑髮をさばいた女が乳呑兒(ちのみご)を抱(だ)いて、うしろ向で唄つてゐるのだつた。

 着物は浴衣(ゆかた)で白地に黑のはつきりした瓢簞(へうたん)か何かを散して[やぶちゃん注:「ちらして」。]あつて、黑髮(くろかみ)があまり美くしく月光にゆれてゐるし、姿(すがた)が惚(ほ)れ惚(ぼ)れするほど好(い)いので、どんなに美人だらう、顏が見たいなアと思つた途端(とたん)、女は節穴の方へくるりとふりむいて、只(たゞ)一言(こと)、覗(のぞ)いちやいけないと云(い)つたさうだ。

 この話も、可(か)なり古く云ひ傳へられてゐるのだらうが、歌六老人からの又(ま)た聞(き)きでおぼえてゐる。

 芝居に關(くわん)した怪談で、一番(ばん)有名(いうめい)なのは、先代萩の床下(ゆかした)の場(ば)で、仁木[やぶちゃん注:「にき」。]が天上したといふ話だ。

 男之助[やぶちゃん注:「をとこのすけ」。]が鼠(ねづみ)を打つ、鼠がどろどろで花道のすつぽんへ入る、入(い)りかはつて、すつぽんの穴にムラムラと立ちのぼる掛煙硝(かけえんせう)のけむりと共に、印(いん)を結んだ仁木彈正がスースースーと上つて來る。

 見物は一心(しん)に仁木を見つめてゐるのだが、仁木はいつまでもいつまでも上へ上へと伸(の)びてゆく、おやおやと思ふ中、仁木の身體(からだ)は芝居の天井(てんじやう)までとどいた。よう仁木の宙乘(ちうの)りだ、妙(めう)な芝居だ、一體誰(だ)れの型(かた)だらうと云つてゐる中、仁木は天井をつきぬけて、消(き)えてなくなつたといふ。これは話し方によつては凄(すご)い。ある田舍(いなか)まはりの役者(やうしや)に、この話を始めて聞いた時には總身(そうみ)の毛が逆立(さかだ)ちしたやうに思(おも)はれた。

[やぶちゃん注:「先代萩の床下の場」当該ウィキの「床下の場」を読まれたい。

「掛煙硝」「掛焰硝」とも書く。芝居で、化け物や忍者が現れたり、消えたりする場面に、ぱっと立ち上る煙。また、その仕掛け。樟脳の粉を入れた煙硝を、火の上にかけて、出す。]

 いつぞや、實川延若君に逢(あ)つて此話をしたら、この怪談はこれだけが全部(ぜんぶ)ではなくて、前半に相當曲折(きよくせつ)があつておもしろいといふので、委(くは)しく聞く事が出來た、なるほど一篇の小說に出來てゐる。

[やぶちゃん注:「實川延若二代目」實川延若(じつかわえんじゃく 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)。大阪出身の歌舞伎役者。初代實川延若の長男として大阪難波新地に生まれた。なお、蘆江は彼を君付けしているが、蘆江より五つ年上である。]

 甲州(かふしう)の小松屋怪談とか、井戶(ゐど)の中に、女が二人つながつて落ちた話、仁木の天上、等々はいづれ、小幡小平次などの怪談(くわいだん)と同樣、芝居道の人々の間に流布(るふ)した一種の怪談物語とでもいふのだらう。物語の筋(すぢ)に人情味(にんじやうみ)があつて、話のヤマが巧(たく)みに出來てゐて、聞く人をして手に汗(あせ)を握(にぎ)らせるやうなところがある。

[やぶちゃん注:「甲州の小松屋怪談」不詳。識者の御教授を乞う。

「井戶の中に、女が二人つながつて落ちた話」不詳。同前。

「小幡小平次」私の「耳囊 卷之九 小はた小平次事實の事」、及び、「耳囊 卷之四 戲場者爲怪死の事」、また、最も新しい私の記事『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小幡小平次」』を参照されたい。]

 かうした話を皆まとめて、物語風怪談(ものがたりふうくわいだん)といふ一册(さつ)をつくつて置きたいなど思つた事もある。

 人魂(ひとだま)といふものは實際(じつさい)にあるらしい、それを見たといふ人にも隨分(ずゐぶん)出逢(であ)つてゐるが、幽靈や、おばけけなんてものは、さう無造作(むざうさ)には出ないものだ。

 大抵(たいてい)は話の中に花が咲(さ)いて、それをくりかへす中に、相當(さうたう)實(み)のある話になつて了(しま)ふんではないかと思ふ。

 曾てこんな事(こと)があつた。

 都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃、同僚(どうれう)の伊藤みはるといふ男が死んだ。生粹(きつすゐ)の江戶つ子で、すべてに齒切(はぎ)れの好(い)い男だつたが、中途でへんに固(かた)くるしくなり、酒も女もやめて了(しま)つた。それがある日、突然、品川へあそびに行かうぢやないかと云(い)ひ出(だ)したので、こいつは稀有(けう)な事だ、よし行かうと賛成(さんせい)したのが長谷川伸と私。

 萬事(ばんじ)、伊藤任せで、日どりもゆく先もきめたが、いよいよ明後日(あさつて)といふ日に伊藤は腦溢血(なういつけつ)で死んだ。

 全(まつた)くだしぬけなので、品川(しながは)ゆきも何もない、長谷川と私が葬儀委員(さうぎゐいん)になつてあと始末(しまつ)や、供養(くやう)にとりかかつた。

 あいつ、生(い)きて居つたら、今頃は、この家へ上り込んで、引(ひき)つけに坐(すは)つた時分だつけなアと云ひながら、偶然(ぐうぜん)にも定めの目の定めの時刻(じこく)に、かねて名ざした娼樓(うち)の前を、長谷川と私は通(とほ)つたのだつた。

 伊藤の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])は品川淺間臺にあつたのだから葬儀(さうぎ)や、通夜(つや)の打合せをして、一先づ我家へ引取らうとした私たちが、丁度(ちやうど)その時刻に品川の遊廓町(いうくわくまち)を通つたのは當(あた)り前(まへ)だが、何となくへんな氣がした。

 つれは二人の外(ほあ)にTといふ人がゐた。

 伊藤は思(おも)ひを殘(のこ)して死んでゐるんだから供養(くやう)の爲めに、三人で上らう、おれが伊藤の代(かは)りになつてやるよとTは云(い)つた。

 で、三人である家へ上ると、不思議(ふしぎ)といへば云はれる事が次から次に起(おこ)つて來る。先づ座蒲團(ざぶとん)が四枚出る、盃(さかづき)が四人分ならべられる、花魁(おいらん)が四人やつて來て、その中の一人は、徹頭徹尾(てつとうてつび)ものをいはずに、フイと立(た)つて消(き)えて了(しま)ふ、といふ風だつた。

 伊藤の幽靈(いうれい)がついて來てゐたんだらうと三人は笑(わら)つたが、笑ひ切れない後日話(ごじつばなし)がある。

 たしか初七日の晚(ばん)だつた、又、同じところを通りかかつたので、伊藤追善會(いとうついぜんくわい)をもう一度しようかなんて冗談(じようだん)まじりどやどやと同じ樓(うち)へ入らうとしたら、門前に半みすがかかつて、忌中(きちう)の紙が貼つてあり、家内からは盛(さか)んな香(かう)のけむりが漾(たゞよ)つてゐた。時が時なので、ぞつとするほどの驚ろき、もしや前日の無言(むごん)のおいらんが頓死(とんし)したのではないかと思つたら、それはさうでなく、その樓の家人(かじん)であつたといふ。

 こんな事(こと)が人の口から口へ云ひ傳へられて、あるひは純然(じゆんぜん)たる怪談(くわいだん)になり、三人のそばに朦朧(もうらう[やぶちゃん注:ママ。])と伊藤の姿(すがた)が見えてゐたなどいふ事になるのではないかなど、あとで噂(うはさ)をした事であつた。

[やぶちゃん注:「都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃」「都新聞」明治から昭和にかけて発行された新聞。明治一七(一八八四)年に夕刊紙『今日新聞』として創刊されたが、同二十一年に『みやこ新聞』に、翌年には『都新聞』と改題し、朝刊紙となった。芸能、特に文芸や演劇関係の記事に特徴があったが、昭和一七(一九四二)年、『国民新聞』と合併して『東京新聞』となった。蘆江は満洲放浪に後、帰国して、明治末、『都新聞』の記者となり、花柳演芸欄を担当していた。

「長谷川伸」(明治一七(一八八四)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家。横浜市生まれ。本名は伸二郎。四歳の時、実母と別れ、その思慕の情が、戯曲「瞼(まぶた)の母」(昭和五(一九三〇)年)に結晶している。小学校を中退し、煙草屋の丁稚、土建屋の使い走り、撒水夫などを転々し、その後、『毎朝新聞』を経て、『都新聞』に勤め、大正六(一九一七)年頃から、「長谷川芋生(いもお)」「山野芋作(やまのいもお)」などの筆名で雑報や小説を発表した。大正一二(一九二三)年の「天正殺人鬼」で認められ、さらに翌年、「夜もすがら検校」を書いて、短編作家としてスタートした。大衆演芸にも早くから関心を示し、「瞼の母」・「沓掛時次郎」(昭和三(一九二八)年)・「一本刀土俵入」(昭和六(一九三一)年)等を上演、上映された劇作品は実に百六十七編に上ぼる。作風は庶民性によって裏打ちされた堅実なものが大部分で、股旅物の第一人者となった。後、次第に史伝物に傾斜し、「荒木又右衛門」・「上杉太平記」・「江戸幕末志」(出版に際して『「相楽総三(さがらそうぞう)とその同志』に改題)・「日本捕虜志」・「日本敵(かたき)討ち異相」等を纏めた。捕虜志や敵討ち研究は彼のライフ・ワークであり、その姿勢に一つの世界観が示されている。昭和三七(一九六二)年、「朝日文化賞」を受賞した。『新鷹会』(しんようかい)の中心として大衆文学の新人育成に当たり、村上元三・山手樹一郎(きいちろう)・山岡荘八らを輩出した。没後、遺言により、蔵書と著作権を基に『財団法人新鷹会』が設置され、『長谷川伸賞』も制定されている(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「品川淺間臺」現在の品川区南品川のこの附近

「品川の遊廓町」現在の北品川のこの附近。]

 女郞屋には一體(たい)怪談(くわいだん)が多い。

 左團次の弟子某から聞いた話に、ある時、吉原の小見世(こみせ)へあそんだ、部屋へ入つて、女(をんな)のまはつて來るのを待(ま)つてゐると、やがて廊下(らうか)に草履(ざうり)の音がする、來たなと思つたので狸寢入(たぬきねい)りをしてしてゐたら、女は障子(しやうじ)をあけ、二三度聲をかけたあとで、屛風(びやうぶ)ごしにのぞき込んで、お前さん、寢(ね)てゐるのなら、あとでゆつくり來ますよと云(い)ひ捨(す)てて立ち去つた。

 某(ばう)は、しまつたと思つたが、あとのまつり、たつた今女が覗(のぞ)き込(こ)んで去(さ)つた屛風を空しく見つめて、チッ、薄情(はくじやう)ものと云つたが、よくよく考へれば合點(がてん)のゆかぬ話だ、屛風といふのは六曲屛風で、屛風の高さは鴨居(かもゐ)まで屆(とゞ)くほどだのに、覗き込んだ女は、胸(むね)から上をありありと屛風の上にとび出してゐたのだ、それを男は薄目(うすめ)をあきながら、見てゐたのだから、不思議(ふしぎ)とも何とも云ひやうがない。鴨居(かもゐ)から上ヘ胸(むね)までのぞかせられるやうな、そんなべら棒(ぼう)もなく背(せ)の高(たか)い女がある筈(はづ)がないと思ひはじめると、俄(にはか)にゾツと怖氣立(おぢけだ)つて飛び起きさま逃(に)げ出(だ)してかへつたといふ。

 これなどは怪談の中(うち)でも、一寸(ちよつと)類(るゐ)のかはつた怪談で、それに出逢(であ)つた時は何とも思はず、あとで考へてゾツとするといふ落語(らくご)ならば考へ落ちといふ奴だ。

[やぶちゃん注:「左團次」二代目市川左團次(明治一三(一八八〇)年~昭和一五(一九四〇)年)。]

 私たちは、怪談會といふものをしばしば催(もよほ)した事を前に云つた。

 ところが、怪談會をやる度(たび)に人が死ぬといふ慣例(くわんれい)がくりかへされた事がある。其中一番(ばん)凄(すご)い死に方は、京橋の畫博堂といふ書畫屋(しよぐわや)が、營業宣傳(えいげふせんでん)の爲めにやつた怪談會の時で、當日(たうじつ)飛(と)び入(い)りでやつて來た會員の一人が、怪談をはなしてゐる中に、顏色蒼白(がんしょくさうはく)となり、ふらふらと立ち上つたがその儘(まゝ)あの世の人となつた事がある。そこに立ち會つた人は喜多村綠郞氏(きたむらろくらうし)や、鈴木鼓村氏、それに泉鏡花氏(いづみきやうくわし)などもゐられたので、死んだ人といふのは、萬朝報[やぶちゃん注:「よろづてうほう」。]社の事務員だつた。

 話しをはじめる時、この話をすると、覿面(てきめん)に祟(たゝ)りがあるといふのですが、皆樣のはなしを聞いてゐる中(うち)に、私も何か云つて見たくなりましたから、思(おも)ひ切つてお話(はな)しいたしますと、前置(まへおき[やぶちゃん注:底本では、ルビは「まへお」のみ。脱字と断じて、特異的に訂した。])をしただけに凄みが一層はげしかつたのだ。

 其時以來、泉鏡花氏などは、怪談會は好(す)きだが、なるだけ凄味(すごみ)をつけないやうに、そして怖(こは)がらせをしないやうにして會をやつてもらひたいなどと、むづかしい注文(ちうもん)を出したくらゐだ。

[やぶちゃん注:「鈴木鼓村」(こそん 明治八(一八七五)年~昭和六(一九三一)年)は箏曲家で日本画家。宮城県生まれ。本名は映雄(てるお)。陸軍時代に箏曲・洋楽を学んだ。高安月郊・与謝野鉄幹夫妻らと交流し、新体詩に作曲して『新箏曲』を提唱し、京極流を名のった。日本音楽史に詳しく、晩年は大和絵『古土佐』に専念した。別号に那智俊宣(なちとしのぶ)。著作に「日本音楽の話」、作曲に「紅梅」等がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「萬朝報」新聞。明治二五(一八九二)年十一月一日、黒岩涙香が創刊した日刊新聞。第三面に社会記事を派手に取り扱い、「三面記事」の語を生んだ。内村鑑三・幸徳秋水らも在社し、労働・社会運動に関心を示し、日露開戦に反対したことで知られる。涙香の論説や翻訳小説で人気を集めた。昭和一五(一九四〇)年『東京毎夕新聞』に合併して廃刊となった。]

 私が世話人(せわにん)になつて井の頭翠紅亭(すゐこうてい)でやつた時も、不思議な事があつた。吉原(よしはら)の丸子といふ藝者が、幇間や藝者を誘(さそ)つて吉原を出たのが夕刻(ゆふこく)の六時、夏の六時だからまだ明(あか)るかった。その頃はまだ澤山(たくさん)はなかつた自動車に乘つて井の頭まで一直線(ちよくせん)にやつて來たので、吉祥寺の踏切(ふみきり)へ來てもまだ明(あか)るかつたさうだ。

 で、踏切で汽車の通過(つうくわ)するのを待ちながら、丁度そばに赤ン坊の守(もり)をしてゐた老人(らうじん)に、翠紅亭への道を聞いた。

 老人といふのが問題(もんだい)で、赤いほうづき提灯(ちやうちん)をぶらさげて、子供をあやしてゐたさうだが、丁寧(ていねい)に敎(をし)へてくれたので、その通りに自動車を運轉(うんてん)すると、翠紅亭へは出ずに、元(もと)の踏切へ出る、と又例の老人(らうじん)が立つてゐる、又聞く、又敎へられる、と、又(また)元(もと)のところへといふ風に、三遍(べん)くりかへして漸(やうや)く翠紅亭へ辿(たど)りついたのが、午前三時だつた。

 踏切から翠紅亭(すゐこうてい)までたつた四五丁ぐらゐの道のりなんだが、それを自動車で七時間餘もかかつたといふのだから妙(めう)な話だつた。

 鼠色浴衣(ねずみいろゆかた)で子供を負つて、赤(あか)い頬(ほう)づき提灯(ちやうちん)をぶらさげた老人、それが何遍(なんべん)でも、同じ態度(たいど)で道を敎(をし)へてくれる、その通りに行くと、ぐるりとまはつて元(もと)の道(みち)へ出(で)るといふのだから、而(しか)も五分とかからない道に七時間(じかん)もかかつたのだから、翠紅亭へついてから、丸子(まるこ)の一行は身慄(みぶる)ひをして顏色(かほいろ)をかへてゐた。

 その丸子は、その後十日目に大震災(だいしんさい)で死んだのだが。

 三萬圓とか記入した貯金帳(ちよきんちやう)を帶にはさんで、花園池(はなぞのいけ)で死んでゐたといふのだ。一時は名妓(めいぎ)と立てられた名物女(めいぶつをんな)だつたが。

[やぶちゃん注:「井の頭翠紅亭」現在の都立井の頭恩賜公園内にあった料亭。

「その後十日目に大震災で死んだ」とあるので、この怪談会は、大正一二(一九二三)年八月二十二日から二十三日未明に行われたことになろうか。この、丸子奴の話、如何にも哀れである。]

 通りがかりに道を尋(たづ)ねるといふ怪談(くわいだん)は類(るゐ)が多い。大村嘉代子女史の體驗(たいけん)といふのを、何かで讀んだ時に、隨分(ずゐぶん)凄(すご)いと思つたが、昔の怪談にもこんな類(るゐ)がある、私の記憶(きおく)に殘つてゐる中の一番凄いのは、芝(しば)の札(ふだ)の辻(つぢ)で、すれちがつた女が侍に道を聞いた。聞かれる儘(まま)に敎(をし)へた侍が、何の氣なしにすれちがつてうしろを見たら、向(むか)ふもふりむいたさうだが、その時、女は目も鼻(はな)も口(くち)もない、卵に髮を結(ゆ)はしたやうな姿(すがた)の好(い)い女だつたといふので、侍は腰(こし)をぬかしたといふ話。その女もやはり赤ン坊を負(おぶ)つてゐたさうだ。

[やぶちゃん注:「大村嘉代子女史」(明治一七(一八八四)年~昭和二八(一九五三)年) は劇作家。群馬県生まれ。日本女子大卒。岡本綺堂に師事し、大正九(一九二〇)年、「みだれ金春」で評価を得る。『新演芸』などで劇評も手がけた。作品は「たそがれ集」。「水調集」等に収められてある。]

 大震災(だいしんさい)といへば、あの時も隨分いろいろな怪談(くわいだん)がいひふらされた。被服廠(ひふくしやう)のあとに人魂(ひとだま)が出るとか、子供の泣聲(なきごゑ)がするとか、自分の死んでゐる場所を近親(きんしん)に知らせる爲めに幽靈(いうれい)がやつて來たとか。

[やぶちゃん注:「被服廠」旧陸軍被服廠。現在の東京都墨田区横網にあったが、この年、王子区(現在の北区)赤羽台に移転した後、公園化工事が行われていた。震災時、ここに避難した人だけで、実に三万八千名が巨大な火災旋風で亡くなった。詳しくは、ウィキの「横網町公園」を見られたい。]

 聞いてゐる間は、矢先(やさき)が矢先なので、大抵(たいて)の人はぞつとしたものだが、程經(ほどへ)て、よくよく考へ見ると、大抵(たいてい)はつくり話である。

 其證據には、其後、三陸の海嘯(つなみ)の時も凾館(はこだて)の大火の時も、同巧異曲(どうこういきょく)の怪談が、その土地土地の人によつて語(かた)り傳(つた)へられるので知れる。

[やぶちゃん注:「三陸の海嘯(つなみ)」「明治三陸地震」。明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時三十二分、岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震。マグニチュード8.28.5の巨大地震で、さらに、当時の本州での観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する大津波が発生し、甚大な被害を与えた(当該ウィキに拠った)。

「凾館(はこだて)の大火」「函館大火」。北海道函館市で昭和九(一九三四)年三月二十一日に発生した大規模火災。死者二千百六十六名、焼損棟数一万千百五棟を数える大惨事となった。参照した当該ウィキを見られたい。]

 こんな話は、一體(たい)だれがつくつて、だれがいひはじめるのか、昔(むかし)のはやり歌と同じで、驚ろくべき創作(さうさく)といはねばならぬ。

 さうしたつくり話の中の一二をあげて見(み)よう。

 被服廠(ひふくしやう)に近いところに救護所(きうごしよ)が出來た。そこに三三人の救護員がつめてゐると、夜の三時頃、天幕(てんと)の外で、すみませんが水を一杯飮まして下さいませんかといふ聲(こゑ)がする。アイよと答(こた)へて外へ出ようとすると、外(そと)の聲は更(さら)に、實は多勢居るんですから、手桶(てをけ)に一杯下さいましといふ。

 で、どんな人が、どんな風(ふう)にして來かかつてゐるものとも知(し)らず、兎(と)に角(かく)手桶(てをけ)一杯の水を汲(く)んで天幕(てんと)の外へ出ると、だれもゐない。只(たゞ)、眞暗な中に夜風(よかぜ)がひえひえと吹いてゐるばかり。而(しか)もどういふわけとも知れぬ陰慘(いんざん)な氣分がひしくひしと四面を壓迫(あつぱく)して來るので、思はずゾツとして、手桶をおつぽり出したまま救護員(きうごゐん)は中へ入る。と、間もなく外では、ぢやぶぢやぶと水(みづ)を汲(く)んだりこぼしたりする音が聞こえる。ざわざわと人の犇(ひし)めく聲(こゑ)もする。

 やがて、ありがたうございましたといふ聲と共(とも)にあとはしんとなるので、そつと出(で)て見(み)ると、誰(だ)れもゐない、空(から)の手桶(てをけ)のみが殘つて、そのまはりには水がびちやびちやこぼれてゐた。

 こんな事が、每晚(まいばん)つづくので、しまひには人聲がしなくても、その時刻(じこく)になると、天幕の外(そと)に水を出しておいてやる事にしたが、いつも、手桶(てをけ)はからになつてゐたといふのだ。

 大震災のあとで、この事をはじめて聞いた私は、凄(すご)い話だと思つてゐたら、其後(そのご)凾館(はこだて)の大火で燒(や)け出(だ)されて來た人も、同じ話をしてゐた。只(たゞ)ちがつてゐるのは、救護所が交番(かうばん)に、手桶がバケツに、救護員が巡査(じゆんさ)にかはつてゐるだけである。

 もう一つは、屍骸(しがい)の澤山ゐるところに人魂(ひとだま)がふはりふはりととんで、時折(ときをり)助(たす)けてくれ助けてくれと叫(さけ)ぶ聲がするといふのだ。あまりにもその噂(うはさ)が高くなつたので、警察(けいさつ)でも打棄(うつちや)つておけず、巡査が六人づれで人魂探檢(ひとだまたんけん)をすると、なるほど鈍(にぶ)い光(ひか)りがぽかりぽかりと屍骸(しがい)の上にゆれはじめた。六人の巡査は手をつなぎ合はして、人魂を追(おつ)かけると、どうしたものか人魂がパツと消(き)えた。尤もその前(まへ)から消えたりついたりはしてゐたさうだ。

 ところがこの時(とき)は、消えたばかりでなく若い女の姿(すがた)が、人魂(ひとだま)のそばをふわふわ[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]と浮いて見えたさうだ。それも人魂と共(とも)に消(き)えたのだといふ。

 ソレツといふので、見當(けんたう)をつけてそばへゆくと、むしろをかぶせた屍骸(しがい)ばかりで、何の異狀(いじやう)もない。ぢつ見つめてゐるとたん、屍骸(しがい)にかぶせたむしろがムクムクと動(うご)いた。

 巡査たちは勇を鼓(こ)してむしろをひきめくつたら、そこには若い女が屍骸の中にまぎれて寢(ね)ころがつてゐた。

 なぜそんなところにゐるんだと引起(ひきおこ)すと、女は御ゆるし下さい御ゆるし下さいと泣(な)いて訴(うつた)ヘる、よくよくしらべて見たら、この女は、屍骸の口に殘つた入齒(いれば)の金や、指環(ゆびわ)の類時計の類を盜(ぬす)む女盜[やぶちゃん注:「ぢよたう」。]だつたといふ話。

 これが凾館(はこだて)の大火の時にも、そつくりその儘(まま)、實話として傳(つた)へられた。をかしい事には、この話のあとに必らず云(い)ひ添(そ)へる言葉がある。

 若い女のくせに、むごい事をするぢやありませんか、指環(ゆびわ)なんぞぬけにくいものですから、指ごと切つて取つて、風呂敷(ふろしき)にくるんでゐたさうです。警察ではその儘留置場へはふり込(こ)んだといひますが、まだしらべは濟まないさうです、ですけど、あまりにも無慘(むざん)な仕方(しかた)なので、新聞記事も差止(さしと)めてあるんださうですよ。と、かういふ風(ふう)にいふんだ。

 あまりにも殘酷(ざんこく)だから新聞には出させないといふ文句(もんく)の絡まつてゐる事は、當然(たうぜん)、この話がつくり話だといふ事を裏書(うらがき)してゐるのだから愉快だ。

 こんな風(ふう)にして書いてゐると、際限(さいげん)はないが、兎もあれ、人の口から口へ傳(つた)へられる怪談といふものは、一人が一人へ話(はな)す度(たび)に、いろいろな訂正(ていせい)が加へられ、尾ひれがついて、おもひがけなく面白(おもしろ)い話になるものだと思ふ。

[やぶちゃん注:以上を以って「蘆江怪談集」は終っている。

 以下、ペンディングしていた「目次」を示す。底本のここから。但し、リーダとページ・ナンバーは省略した。字間はそれとなく似せただけで、正確な再現ではない。「表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江」は「怪異雜記」の「記」の字の左中央位置から始まっているが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。]

 

  蘆 江 怪 談 集  目  次

 

序 … … 妖 怪 七 首

お 岩  伊  右  衞  門

空 家 さ が し

靑   眉   毛

[やぶちゃん注:頭に「怪談」がないのはママ。]

二 十 六 夜 待

火 焰 つ つ じ

鈴 鹿 峠 の 雨

天   井  の   怪

惡  業  地  藏

縛  ら れ   塚

う  ら 二   階

投   丁    半

[やぶちゃん注:「投げ」でないのはママ。]

大   島   怪  談

        ✕   ✕   ✕

怪   異  雜   記

 

  表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。全体を上下を有意に空けて、中央に二重罫線で囲み、そのまた中央に罫線を上下に挟んで「蘆江怪談集」が右から左に太字で示されてある。この裏に同書店から刊行された「平山蘆江先生名著五種」と題した広告があるが、省略する。上段・中段・下段の順に電子化した。ポイント・字間・行空けはそれとなく合わせただけで、再現していない。]

 

《上段》

本 書 定價一圓貳拾錢[やぶちゃん注:右端。]

 

岡   倉   書   房[やぶちゃん注:右端。]

 

《中段》

 集 談 怪 江 蘆

 

《下段》

著  者 平 山 蘆 江

裝  幀 平 山 蘆 江

用紙提供 小  山  洋  紙  店

美術印刷 渥  美  堂

製  本 柏  谷  秀  二  郞

印  刷  所  東 京 市 牛 込 區

     鷹 匠 町 八 番 地

     高  木  活  版  所

印刷責任 高  木  文  之  助

發  行  者 岡 村 祐 之

發  行  所 東 京 市 神 田 區

     淡路町貳丁目七番地

發  賣 岡 倉 書 房

振  替 東  京  貳五九參碁盤

印  刷  日 昭和九年七月二十六日

發  行  日 昭和九年七月三十一日

定  價 壹圓貳拾錢 送料十錢

2024/02/07

「蘆江怪談集」 「大島怪談」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は冒頭に蘆江の添書がある通り、「市川八百藏」氏の実話である。彼は歌舞伎役者で俳優の八代目市川中車(明治二九(一八九六)年~昭和四六(一九七一)年)本名は喜熨斗倭貞(きのししずさだ)。初代市川猿之助の次男である。詳しくは当該ウィキを見られたい。写真もある。添書は一行であるが、ブラウザの不具合を考えて、二行に分けた。

 なお、本篇で怪談小説篇は終わっており、後に蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」が載る。]

 

 

    大 島 怪 談

 

 

    これは、市川八百藏君の實驗談である、
    文中私とあるは八百藏君自身である。

 

       

 

 私は曾(かつ)て自殺の覺悟(かくご)をした事がありました。まだ二十歲(はたち)になる前で、只(たゞ)無やみに死にたくなつたのです。今(いま)から考へて見れば、一つも死ななければならぬ理由(わけ)などはありません。けれども、其時の私(わたし)は、どうでもかうでも死んで了(しま)ひたいと思ひ込んで居(を)りました。

 いよいよ死なうと覺悟(かくご)した時、私は二つの條件(でうけん)を自分自身に定(き)めました。

 第一は人に邪魔(じやま)をされず、悠々と死ねる場所を探(さが)す事、

 第二は死んだあとで死骸(しがい)を人に見(み)つからないやうにする事、

 どちらも六ケ敷い條件(でうけん)です。いろいろ考へた末火山(くわざん)の噴火口に飛び込む事に思ひ當(あた)りました。

 火山といへば淺間(あさま)か伊豆大島の三原山が手近(てぢか)にあります。

 その二つの中で淺間山(あさまやま)の方では、山へ登(のぼ)つてゐる間に追ひかけられる恐(おそ)れがある、三原山なら海を渡(わた)つてゆくだけにその心配(しんぱい)がありません。

「三原山にしよう」と私(わたし)はきめました。

 まだ袷衣(あはせ)を着てたやうに思ひますから初夏(しよか)の頃ででもあつたでせう。私の目的(もくてき)は着々と進んで間もなく私は三原山(みはらやま)の頂上へ只一人誰にも妨(さまた)げられずに立つ事が出來(でき)ました。

「これなら思(おも)ふ通りに死ねる」と思つて、私は落付(おちつ)いた心持になりました。全くあ時(とき)のやうな落付(おちつ)いた心持になつた事はあとにも先(さき)にも只の一度(ど)もありません。

 足許(あしもと)をすくはれさうな强い風を全身(ぜんしん)に受けながら私は一步々々上がります。[やぶちゃん注:底本では、句点はないが、『ウェッジ文庫』に従い、特異的に打った。]眼前(がんぜん)は次第に次第にひろびろと開(ひら)けてゆきます。而も目の下は縹渺(べうしや[やぶちゃん注:ママ。「へうべう」が正しい。])たる大海です。私の心持(こゝろもち)はいやが上のびのびとして來ました。愈々(いよいよ)頂上に達した私は死(し)といふものに、直面(ちよくめん)した喜びに胸を轟(とゞろ)かしながら、頂上の火口を覗(のぞ)き込みました。

 朦々(まうまう)と吹上げる硫黃(ゆわう[やぶちゃん注:「いわう」は古くはこうも読んだ。])の烟は濃霧のやうに私の顏を蔽(おほ)つて、一寸先も見(み)えません、むせかへるばかりの硫黃(ゆわう)の香に呼吸を壓(あつ)せられながら私は暫(しば)らく立ちつくしてゐますと、火口(くわこう)を吹きまくる風は始終(しじう)四方へ舞つて居ります。その風の爲めに硫黃(ゆわう)の烟は、パツと亂れて向ふへ吹(ふ)き拂(はら)はれました。

 此のひまにと思(おも)つて、私は岩角(いはかど)へすがりながら、火口を見下(おろ)しました。見下すと共にアツと叫びました。

 こゝこそ屈竟(くつきやう)の死に場所と思つた私の考へはがらりと外(はづ)れて了つてゐます。

 今が今まで火口(くわこう)だとばかり私が思つてゐたのは、舊火口(きうくわこう)の方で、目の下は七八丈[やぶちゃん注:二十一・二一~二十四・二四メートル。]もあらうと思はれる深さの斷崖(だんがい)でした。この斷崖(だんがい)の谷を越して向ふは丘その丘(をか)の彼方こそ本當(ほんたう)の噴火口です、卽ちこの山の火口(くわこう)は二重丸のやうになつてゐるのです。ですから頂上(ちやうじやう)まで上つたところで噴火口の側(そば)へは寄りつく事が出來(でき)ないといふわけになります。

 三原山が新舊(しんきう)二つの噴火口(ふんくわこう)を持つてゐる複式火山であらうとは今が今まで心付(こゝろづ)かなかつた。私は只呆然(ぼうぜん[やぶちゃん注:ママ。])として舊火口の緣(ふち)に坐つた儘、谷底を睨(にら)みつけてゐました。

「折角(せつかく)來たのだからこの谷へ飛(と)び込まうか、併し、これでは死骸(しがい)が見える。新火口まで行く方法を考へようか。迚(とて)も考へたところで人間業(にんげんわざ)では出來ない事(こと)だ、あゝどうしようどうしよう」

 と私は只々(ただただ)考(かんが)へました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]

 轢死を企(くはだ)てる人が線路をまくらにしてゐても、汽車の轟(とゞろ)きを聞くと、慌(あは)てゝ飛び起きるものだといひます。切腹(せつぷく)をしかけてゐる人の前へ石を投(な)げつけると思はず知らず危(あぶ)ないといふさうです。

 如何に死を決心(けつしん)しても、愈々といふ土坦場(どたんば)[やぶちゃん注:「坦」はママ。「土檀場」が正しい。]に坐ると、死にたくないといふ心(こゝろ)がひしひしと身に迫つて來るといふ事は平生(へいぜい)人(ひと)の話に聞いてゐました。話にばかり聞(き)いてゐる時は、それは決心(けつしん)が足(た)りないからだと思(おも)ひつめて居りました。

 併し、今時分が其場(そのば)に當つて見ると、全くその通(とほ)りだといふ事がしみじみ感(かん)じられます。

「死(し)なうか、止さうか」と思ひ迷(まよ)ひながら、丁度三時間(じかん)、私はこの舊火口の斷崖(だんがい)の上に坐つて考へましたが、兎に角死場所(しにばしよ)をかへようといふ心の方が勝(か)つて山を下(くだ)りはじめました。

 さあさうなると、晴れ晴れとして上つた山道が、急に怖(おそ)ろしくなつて、始終(しじう)何者かに追ひ迫(せま)られるやうで足は滿足(まんぞく)に地につきません。私は只々(ただただ)、あとを見ずに一目散に驅(か)け下りました。麓の船着場の旅館(りよくわん)に私は宿を取つて居(を)りました。

 追手(おつて)に追はれた落人のやうな心持(こゝろもち)で、私は息を切らして宿(やど)の戶口へ駈(か)け込みました。

 

       

 

 宿には私が山へ登る前(まへ)に同じやうに、美術學校(びじゆつがくかう)の生徒が三人と、品(ひん)のよい若女房が一人泊(とま)つて居りました。

 若女房(わかにようぼ)と云つても、もう二十五六にはなつてゐたでせう。この人(ひと)は少し、離れた座敷(ざしき)を借りてゐるので、私は美術學生(びじゆつがくせい)三人だけと懇意(こんい)になつて居りました。

「頂上まで行(ゆ)きましたか」

「實に天下の壯觀(さうくわん)と云ひ得られる景色(けしき)でせう、さうは思ひませんか」

 などと三人は口々(くちぐち)に話しかけました。私はそれに對(たい)して本當の私の心持をいふ事が出來(でき)ません。好い加減に相槌(あひづち)を打つた儘、疲(つか)れたからといふので其夜は早く床(とこ)につきました。

 丁度(ちやうど)私が山を下り切つた時から島は激(はげ)しい風に襲(おそ)はれました。島が根こぎに持(も)つて行かれるかと思ふくらゐの物凄(ものすご)さです。

 枕(まくら)につくが早いか私は一日の疲(つか)れでぐつすり寢ましたが、間(ま)もなく雨戶を打破(うちやぶ)るほど吹きつける風の爲(た)めに目をさまされました。それからといふものどうしても眠(ねむ)れません。只何となく冴(さ)え冴(さ)えとして來る目を見張(みは)つて、床の上で寢(ね)がへりばかりしてゐますと隣(とな)りの部屋で俄(には)かに人聲が仕始(しはじ)めました。

「今時分(じぶん)まで行くところもないのに、一體(たい)どうしたのだらう」

「風に吹き飛(と)ばされやしないかね」

「一體(たい)何時(いつ)頃から出かけたんです」といふのは美術學生(びじゆつがくせい)たちの聲。

「夕方前(ゆふがたまへ)でございました。一寸(ちよつと)散步(さんぽ)して來ると仰しやつて」といふのは宿の主人の聲。

 だんだん聞いてゐると離室(はなれ)の若女房が出たつきりかへつて來ないといふ騷(さは)ぎらしい。矢先(やさき)が矢先ですから、私(わたし)はすぐに、――自殺――といふ心持が浮(うか)び出ました。そして頭から水を浴(あ)びせられたやうにぞつとしました。もう寢(ね)てなんぞ居られません。

 直ぐに私もその評定(へうじやう[やぶちゃん注:ママ。])の仲間に入りました。

「何(いづ)れにしましても、一寸(ちよつと)お部屋を調べて見たいと思ふのでございますが」と主人(しゆじん)が云ひますと美術生(びじゆつせい)たちは一齊に

「それが好(い)いそれが好い」と同意しました。

「では、甚だ恐(おそ)れ入りますが、皆樣でお立會(たちあ)ひを願ひたうごさいます」と主人は先に立つて離室(はなれ)の客間(きやくま)へ入りました。四人(にん)はぞろぞろとそのあとへついてゆきました。

 離室(はなれ)に何一つ取り散(ち)らしたものもありません。

 部屋の主が一寸(ちよつと)散步(さんぽ)にと出かけたあとのやうな事は少(すこ)しもありません。

「馬鹿に片付(かたづ)いてるね」

「少し怪(あや)しいぞ」と美術生(びじゆつせい)は口々に云ひました。

 押入(おしい)れを開けて見てもきちんとして居ります。押入(おしい)れの中のものに手をつける前(まへ)に、床の間に据(す)ゑた鏡臺をしらべましたが、鏡臺(きやうだ)の抽斗(ひきだし)のどれにも異狀はありません。

「君その筥(はこ)の中を見たまへ」と一人がいふので、學生(がくせい)の一人が鏡臺の側に置いてあつた櫛疊紙(くしたゝみがみ)のやうなものを開けて見ますと、櫛(くし)やすき油がきちんと入れてある下(した)に何やら半紙(はんし)が一枚入つて居ります。

 何氣(なにげ)なしに主人が半紙を引き出して、折(をり)かへして見ました。一同の視線(しせん)は一度に此の半紙に集まりました。

 ところが果して果して

 此の半紙(はんし)一枚が卽ち「書置(かきおき)の事」であります。

「探(さが)して見よう、今から探したら、喰(く)ひとめる事が出來るかも知れない」と、私は眞先(まつさき)に云ひました。

 

       

 

 思へば妙(めう)な話です、數時間と隔(へだ)つる其日の午前中までは堅(かた)い堅い決心で死(し)なうとしてた私が、仕遂(しと)げなかつた自殺の歸り途(みち)に、今度は同宿の人の自殺(じさつ)を止めようとする身の上(うへ)になつてゐるのです。私としてはとりわけ身(み)にしみてこの若女房の身の上に同情(どうじやう)するのに當然(たうぜん)でせう。宵に一寢人りした私は、もう夜明(よあ)け近くだと思つて

ゐたのですが、まだ十二時前(じまへ)といふ刻限(こくげん)でした、私たちは主人と番頭(ばんとう)を加へて都合六人手に手に提灯(ちやうちん)を降りかざしながら、外へ出ました。風(かぜ)はまだ少しも止(や)みません。

 主人と番頭(ばんとう)が道案内で、私たちは島の海外(かいがん)[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』版もそのままだが、この「外」は「岸」の誤記か誤植。]へ木の茂みを、それからそれと足(あし)に任(まか)せて步きました。

 益々吹き募(つの)る風(かぜ)に、幾度か提灯の火をとられながら、六人は高聲(たかごゑ)に叫(さけ)び合つてはどんよりと暗い海岸を隨分(ずゐぶん)長い間逍遙(さまよ)ひました。

 が、何しろ只さへ早寢(はやね)ぐせの大島です、然も眞夜半(まよなか)ですから、人一人通る事(こと)ではない。私たちはだんだん宿(やど)から遠く離(はな)れてうろつきました。

「少し風が止(や)んでくれないかな」

「さうだ、これで風(かぜ)が止んでさへくれれば、一寸(ちよつと)愉快な探(さが)しものだぜ」

「どうだい、三原山(みはらやま)の烟が眞赤になつて燃(も)え上る眞夜半(まよなか)を、かうして山をめぐツて、步いてゐる心持は、爽快(さうくわい)をきはめたものだぜ」

「うん、一寸この經驗(けいけん)は我々一生の中に、又味はふ事の出來ないほど、深い印象(いんしやう)を殘す事だと思ふね」

「それあ全(まつた)くさうだ」と云つた風に美術學生(がくせい)たちはもう少し好い心持になりかけて居(を)ります。そして中には好(い)い心持さうに軍歌(ぐんか)などを歌ひはじめるものもありました。

 が、私(わたし)一人はどうしても、其樣(そんな)な氣になれません。

 私の身體は、けふの晝頃(ひるごろ)あの山の頂上にあつたのだ、いや本來(ほんらい)ならば、今頃(いまごろ)はあの山の頂上の底知(そこし)れぬ穴の中に燒けただれて了)しま)つてゐなければならなかつたのだ。そして、人の自殺(じさつ)を探すどころか自分自身が行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])を氣づかはれて探(さが)されなければならなかつたのだ。それが今は、主客轉倒(てんたふ[やぶちゃん注:ママ。])して、かういふ一行(かう)の中に交(まじ)つて、あの怖ろしい山の裾(すそ)をめぐる事になつてゐる。

 あまりといへば手(て)のうらをかへすやうな運命(うんめい)の不思議さを私は胸一杯に考へさせられ、眞赤(まつか)な三原山の火の下に彷徨(はうくわう)させられてゐるのですから、ものをいふ元氣(げんき)さへありません。萬(まん)一、あの若女房の自殺(じさつ)を喰ひとめる事が出來なかつたら、それは私が殺したも同然(どうぜん)な因緣(いんねん)になるのではあるまいか、あの若女房(わかにようぼ)は私の身代りに死ぬやうな運命(うんめい)を强ひられたのではあるまいかと、いろいろな考へが頭の中に渦(うづ)を卷くにつけ、どのやうな困難(こんなん)を冒してでも、助(たす)けなければならないと思ひつめました。

 丁度私の時計(とけい)が三時を過した頃です。私たちの一行は長根岬(ながねさき)といふところへ出ました。[やぶちゃん注:「長根岬」大島西端長根岬(グーグル・マップ・データ)。実は東端にも同名の岬があるが、女性であることからの位置と捜索の経過時間、及び、「海岸を隨分長い間逍遙ひました」という表現と、以下の「突堤のやうにつき出た岬」という表現から、そちらと同定した。]

 突堤(とつてい)のやうにつき出た岬(みさき)でしたが、そこの鼻まで行つて見ようと道芝(みちしば)の草を踏みわけて進む中に先頭の番頭(ばんとう)が、ぴたりと止(とゞ)まりました。次に立つた主人も止まりました。

「何かありますか」と三番目に進(すゝ)んでゐた私が覗き込みますと、番頭がさしかざした提灯(ちやうちん)の光りの下に女の下駄(げた)が一足揃(そろ)へてあります。

「うむ、こゝだこゝだ」と學生(がくせい)たちは口々に云ひました、主人は下駄(げた)を仔細(しさい)に見て、

「どうもさうらしい」と云(い)ひました。

 番頭(ばんとう)にとつても見おぼえのある彼の[やぶちゃん注:「かの」。]若女房(わかにようぼ)の下駄です。

「こゝに下駄(げた)を脫ぎすてたとすると、この邊(へん)から身を投げたものに相違(さうゐ)ないが、海の中(なか)をどうして探(さが)したものだらう」と學生(がくせい)の一人が云ひます。

「まだ其處(そこ)の草の茂みに居るんぢやないか」といふ人(ひと)もあります。

「若し海(うみ)の中とすると舟を出さなければなるまいが、此(この)夜更(よふけ)で、而もこのあらしでは迚(とて)も舟を出す事も出來まい」と二の足を踏(ふ)む人(ひと)もあります。

「兎に角、この岬(みさき)をすつかり調(しら)べて見ようぢやありませんか」と私は岬の鼻(はな)の方ヘ一足(あし)進(すゝ)みました。

 其時海(うみ)の方から眞面(まとも)に吹きしきつてゐた風はぴたりと止んで、前方から壓(お)し戾されるやうになつてゐた私の身體(からだ)は、不意に前のめりにのめらせられるやうな心持がしました。途端(とたん)に私は何ともつかず、ぞつとおぞ毛立(けだ)つて、身慄(みぶる)ひを感じました。皆の連中が

「さうださうだ、岬(みさき)を調べよう調べよう」と云つて私に從(した)がはなかつたら、私の足はこの儘(まゝ)すくんで了つたかも知(し)れません。

 私たちは岬の、兩側(りやうがは)の葭[やぶちゃん注:「よし」又は「あし」。この時の縁起担ぎの心持ちからは「よし」を採りたい。]の茂みに提灯さしつけさしつけして、到頭(たうとう)岬のとつ先まで進(すゝ)みました。

 私が不圖(ふと)うしろを振かへると[やぶちゃん注:「ふりかへると」。]、三原山の烟(けむり)は一際一團の大きな人塊(ひとだま)[やぶちゃん注:「塊」はママ。『ウェッジ文庫』も修正はしていない。]のやうになつて、パツと立つてゐました。

 うつかりとその火焰(くわえん)に見入らうとする時

「それ、そこだそこだ」といふ聲(こゑ)が二三人の口から湧き出ました。振(ふ)りかへつて見ると、岬(みさき)の鼻の岩の上に無殘(むざん)な姿で打上げられてゐる女の屍骸(しがい)が見えます。

 

       

 

 下駄を說ぎすてゝあつたのは岬の中程で、屍骸(しがい)は鼻のところです、思ふに若女房(わかにようぼ)は岬の中程から身を投げたのですが、折からの風浪(ふうらう)に打ちかへされてすぐに岬の鼻へ打上(うちあ)げられたのでせう、左程水(みづ)も呑まなかつたと見えて、姿(すがた)は亂(みだ)れてゐましたが、佛は殆(ほと)んど其儘でした。

 とは云へ、もうどうする事もなりません。屍骸(しがい)をずつと引上(ひきあ)げて置いて、學生の一人と番頭(ばんとう)とは宿へ駈(か)け戾つて屍骸(しがい)を運ぶ戶板をとりに行きました。私たち四人は殘(のこ)つて屍骸(しがい)の張り番をしてゐます。

 顏かたちの整(とゝの)つた美人で、只何となく淋しい姿(すがた)で、始終沈んでゐるやうな樣子(やうす)をしてゐる女でした。まだ漸々(やうやう)二十四五の盛りの花を、むざむざと殺(こ)ろしたものだと、皆は噂(うはさ)を仕合つて居ります。

 やがて戶板(といた)が來て皆が交(かは)る交(がは)る荷(かつ)ぎながら宿へつれ戾(もど)つたのはもうほのぼのと夜は明ける頃(ころ)でした。

 宿ではとりあへず、宿帳(やどちやう)によつて電報を打つやら檢視(けんし)を願ひ出るやら、それぞれ手筈(てはず)を運びます。

 宿帳(やどちやう)には東京日本橋區何々とあつたさうで何でも相當(さうたう)に大きな商家の若女房(わかにようぼ)であつたらしい。

 死なねばならぬほどの理由(りゆう[やぶちゃん注:ママ。])は何であつたか、此の女がどれほどの苦しい心を抱(いだ)いて身を投(な)げたかは私たちの知(し)る事(こと)ではない、けれども、私は只此の人が私の身代(みがは)りといふ心持ばかしが心にひしひしと當(あた)つて他の人たちよりも、一層惱(なや)ましい心持になつてゐました事はいふまでもありません。

 美術學生たちと私とは一通り手傳(てつだ)ひをすると、好い加減(かげん)にして、廣間へ集(あつ)まりました。

 それやこれやで殆(ほと)んど一日を費して夕飯(ゆふはん)を食べる時も皆が始終一緖(しよ)に集まつてゐました。冷々別の部屋(へや)に居る事が何となく薄氣味(うすきみ)惡さを覺(おぼ)えられてたまらないのです。

「今夜は迚(とて)も別々に寢(ね)られないね」

「何だか淋(さび)しくつてたまらない」

「いつそ一緖(しよ)に寢る事にしようぢやないか」と皆(みな)で申し合つて私も美術生の仲間入(なかまい)りをさしてもらひ五人には少し狹(せま)い部屋へ固(かた)まりました。

 其日の話(はなし)をすると、あまり好い心持はしませんから、なるだけ他(ほか)の話をしたいと思(おも)ひましたが、兎角(とかく)話は其れになつて了(しま)ひます。

「どうも厭(いや)な事が出來上つたものだね」

「實に氣持(きもち)がわるいね」と云ひかはしてゐるところへ、番頭(なんとう)が來て

「どうも皆さん、大層(たいそう)御迷惑(ごめいわく)をかけまして濟みません。只今お湯(ゆ)を湧(わ)かさせましたから、一風呂身體をお淸(きよ)めなすつてお伏せりを願(ねが)ひます」と云ひましたのが、渡りに舟、五人(にん)揃(そろ)つて湯殿へ入りました。

 かれこれ九時を過(す)ぎてゐました。いや十時にもなつてたか知(し)れません。この時もまだ風は相變(あひかは)らず吹(ふ)きすさんで居ります。

 湯殿(ゆどの)へ入ると、五人とも一寸氣持が變(かは)つたので、少しは冗談(じやうだん)もいふやうになつてゐました。

 が、話はこれからが怪談(くわいだん)になるのです。ところがこゝにこの湯殿(ゆどの)の位置を說明(せつめい)して書かなければならない。

 この宿屋は旅館(りよくわん)とは云ひ條[やぶちゃん注:「でう」。]、伊豆大島といふ離れ小島の淋しい旅籠屋(はたごや)の事ですから、海岸(かいがん)の廣場に面した頑丈(ぐわんじやう)な母屋が立つて居り、其の母屋のうしろ手に湯殿は廊下續(らうかつゞ)きの別の棟(むね)になつて居ります。湯殿(ゆどの)の前は濱つづきの空地で、その空地(あきち)に丸太を二本立てゝそれを物干場(ものほしば)にしてある湯殿の中の光(ひかり)はこの物干から取(と)り入(い)れるやうになつてゐます。

 さて私たち五人は思ひ思ひに湯(ゆ)につかつて好い心持で雜談(ざつだん)を始めました。湯(ゆ)けむりはムラムラと立つて脫衣場(だういば)に釣つた釣(つり)ランプの光を曇(くも)らして了つてゐました。

 充分に溫(あつた)まつた美術生の一人(ひとり)は、

「誰れか上(あが)らないか」と、實は廊下傳(らうかづた)ひに母屋へ行くまでが、一寸薄氣味惡(うすきみわる)いと見えて、さそひかけながら流(なが)し場へ上り、何心なく物干場(ものほしば)に向つた高窓の側へよつて、外の樣子を一寸(ちよつと)見ようとしました。

 多分(たぶん)風がいつまでも止まないので明日の天氣(てんき)はどうだらうとでも思つたのでせう、不用意(ふようい)に高窓の格子(かうし)ごしに外の物干場(のもほしば)を見たかと思ふと、

「アツ」といふ聲(こゑ)を出してドシンと尻餅をつきました。

「どうしたんだどうしたんだ」と二三人がばらばらと飛び出して來ると、倒(たふ)れた學生は、齒の根(ね)をガタガタ云はせながら窓(まど)の外を指さしてゐるばかり、一言も聲(こゑ)を出しません。

「何をワクワクしてるんだい、君(き)」と云ひながら次の一人が又(また)窓(まど)の外を見ますと、これも續(つゞ)いてワツと聲(こゑ)を立てゝ打倒(うちたふ)れました。

 餘り變(へん)ですから、今度は殘りの三人が一緖(しよ)に窓から外を見ました。私も其の三人の中(うち)の一人です。

 窓の外は薄月夜(うすづきよ)です。その薄月の明[やぶちゃん注:「あかり」。]の下に物干竿(ものほしざを)が長々と橫たはつてゐる。この物干竿に女(をんな)物の袷衣が(あはせ)ぶら下げてある。これは水死した若女房の着物を脫(ぬ)がして、經帷子(きやうかたびら)に着せかへたといひましたから、脫(ぬ)がした着物を夜干しにしてあるのでせう、死人の着物(きもの)を干してあつたからつて膽をつぶして尻餅(しりもち)をつくには當るまいと思ひながら、よく見るとうしろ向(む)きにひろげて干(ほ)してある着物の襟(えり)のところには眞黑(まつくろ)なものがもやもやとなつて垂(た)れ下つて居ります、よく注意(ちうい)すると女の髮(かみ)の毛です。而も向ふむきにうなだれてゐる女の頭(あたま)です。もう一つ云ひかへれば、物干竿(ものほしざを)にかけた着物の襟(えり)から女の頭が出て、それが向ふ向(む)きにうなだれてゐるのです。不思議(ふしぎ)はこればかりでなく、兩側(りやうがは)へひろげた袖の袖口のところには手首(てくび)がだらりと下つてゐるのです。

 と見ると、三人(にん)とも、キヤツと聲(こゑ)をあげてぞうと[やぶちゃん注:ママ。「ぞつと」の誤植であろうが、『ウェッジ文庫』版もそのままである。]なりました。

 何しろ五人(にん)もゐる人數ですから、遉(さす)がに氣絕をするやうな事もありませんが、五人とも屹度(きつと)顏の色が眞靑(まつさを)になつてゐた事でせう。齒の根はがちがち鳴(な)つてゐた事でせう。

 折角(せつかく)溫まつた身體が冷え切(き)つて了ふまで五人とも坐(すわ)つて顏を見合してゐましたが、それにしてもあるまじき事、屹度(きつと)心の迷(まよ)ひだらうと思ひはじめましたので、勇氣(ゆうき)を起して

「も一度(ど)見直(みなほ)して見よう」と誰いふとなくとぼとぼと立上りました。

 そして今度(こんど)は五つの顏を窓際(まどぎは)へ並べて、改めて外を見ますと、物干竿(ものほしざを)に干した着物の襟と兩袖から垂(た)れ下(さが)つてゐる手と頭は以前の通りです。而(しか)も前にはハツと思(おも)つたので氣(き)が付きませんでしたが、脊(せ)に垂(た)れた長い髮の毛からはダラダラと水が垂(た)れて居ります。どう見直(みなほ)しても、五人が五人とも幻影(げんえい)ではありません。只もう總毛立つて了つて、我(わ)れ先に濡(ぬ)れた身體に着物を引(ひつ)かけると一散に廊下(らうか)を走つて座敷へ戾(もど)つてもう肩の息(いき)になつて居りました。

 翌朝(よくてう)になつて五人は申し合(あは)せて、手をつなぎながら、この物干(ものほし)を三度見直したのですがこの時はもう水死人(すいしにん)の着物が干してある許りで何の不思議(ふしぎ)もありませんでした。

 とこれだけの話(はなし)をして、市川八百藏君は、ぶるぶると身ぶるひをして居た。「晝間(ひるま)だからこれだけの話が出來(でき)るけれど、夜では十年過ぎた今でさへも、此の事を思ひ出すさへ恐(おそ)ろしいと思ひます」と云つた。

[やぶちゃん注:本篇は、実話であり、その元の語り手が、当時の有名な歌舞伎役者であったこと、しかも、その八代目市川中車自身が自殺をせんとして赴き、躊躇したその直後に起きた怪奇現象であることが、強烈なリアリズム怪奇談に仕上がっており、何らの疑問(集団錯覚)を差し入れる余地も、全く、ない。なお、彼は大正七(一九一八)年十月に「市川八百蔵」の名跡を譲られて襲名している(満二十一歳)から、蘆江が彼からこの話を聴いたのは、本「蘆江怪談集」刊行の昭和九(一九三四)年七月を閉区間とする十六年余りの間ということになる。極上の怪奇実話の一つと言える。

2024/02/06

「蘆江怪談集」 「投げ丁半」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は御覧の通り、パート章題があり、全四パートからなる。但し、オムニバスではない。]

 

 

    投 げ 丁 半

 

 

        音 な し の 宮

 

「けさ出がけに天井(てんじやう)から蜘蛛(くも)が下つたの」

「いやだな」

「いやな事ないわ、えんぎが好(い)いんでせう。朝の蜘蛛(くも)だから」

「どうだか」

「茶(ちや)ばしらが立つて、自動車の番號(ばんごう)も汽車の番號も、皆んな丁目(ちゃうめ)だし」[やぶちゃん注:原本では、「丁目」のルビは「ちやうわ」となっている。誤植と断じて、特異的に訂した。言わずもがな、「偶数」の意。]

「いやにかつぐね」

「かつぐわ、洗(あら)ひ髮(がみ)でもないのに、前髮は割(わ)れるし」

「割(わ)れるとどうなんだ」

「思(おも)はれるつていふの」

「フウン」

「あんた、氣(き)がないのね、思はれるつてわけ知(し)つてる」

「知らない」

「前髮は顏(かほ)のおもてにあるでせう。それが割(わ)れるから、誰れかに思(おも)はれるつて……」

「宿(やど)へかへらう」

 男はへんに無愛想(ぶあいさう)だつた。女だつて相當(さうたう)に話しかけたが、男のそばに寄(よ)り添(そ)ふなんて事はしなかつた。こんなに暗い、人影(ひとかげ)のない社(やしろ)の裏の川つぷちだのに。

「音(おと)なしの宮(みや)つて云つたわね」

「うん」

「なぜ音なしの宮なんだらう」

「賴朝と政子姬(まさこひめ)と逢曳(あいびき)をしたところだから」

「逢曳はおとなしくしろつていふことなの、ほほほ」

「まさか」

「この川(かは)が音なし川で……」

 云ひかけて、女はアツと叫(さけ)んだ。

 雜木(ざうぎ)の生(お)ひ茂(しげ)つた社殿のうら手は、しけ臭(くさ)くて、靑臭くて、晝間にしてあんまり好(い)い氣持(きもち)ではない。で表の方へと拜殿(はいでん)の橫をぬける時、古木の梅(うめ)の枝(えだ)が、女の鬢(びん)に引かゝつたのかと、男は思つた。それほど道(みち)が狹(せま)かつた。

「どうした」

「えりりに何(なに)か入つたの」

「毛虫か」

「おゝいやだ」

 女はむづむづして、拜殿(はいでん)の前へ出た。そこに燈籠(とうらう)がともつてゐる。

「取つて頂戴(ちやうだい)」

 えりをぐつとはだけて、女は美(うつ)くしいえりあしを脊筋(せすぢ)へかけて男の面前(めんぜん)にさらした。

 男は遠(とほ)くの方から覗(のぞ)き込んで、

「何もゐないよ」

「もつとよく見てよ。身(み)を入(い)れてさ」

「見てるよ」

 もう賴(たの)まないといふ氣持を、足どりに見せて、女は、どんどん鳥居(とりゐ)の方へあるいた。そこには緣日(えんにち)がちらりほらりと見世を片付(かたづけ)けはじめてゐる。もうそんな時間だ。

 男は遣(や)る瀨(せ)なげに、無言(むごん)で女のあとについた。

 とある露店(ろてん)に立つて、女は買(か)ひものをしはじめた。

 柳の枝に大福帳と、福助(ふくすけ)と、小判と、一升枡(しやうます)ほどの張子(はりこ)の賽(さい)コロなどがぶらさげてあるのを、女はかついでゐた。こんな繭玉(まゆだま)を、こんなところで賣つてゐるのも不思議(ふしぎ)だが、一夜泊(やとま)りの溫泉で、そんなものを女が買ふのは、尙(な)ほ更(さら)、妙な氣まぐれだつた。[やぶちゃん注:「繭玉」本来は旧正月の飾り物の一種で、桑や赤芽柏(かめがしわ)の枝に、繭のようにまるめた餠や団子を数多くつけ、小正月に飾るもの。その年の繭の収穫の多いことを祈って行なった。後には、葉のない柳や笹竹などの枝に、餠や菓子の玉をつけたり、七宝・宝船・千両箱・鯛・大福帳などをかたどった縁起物の飾りを吊るしたりしたものになった。神社などで売っているのを買って神だなや部屋に飾る。「なりわい木」「まゆだんご」等とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

「どうするんだえ、そんなもの」

 男はよびかけたが、女は返事(へんじ)をしなかつた。

 「里(さつ)ちやん、持つてやらうよ」

 男がいくらかお世辭(せじ)の氣味(きみ)で、追ひすがつて柳(やなぎ)の枝に手をかける。女がいぢわるく前へ引く、はづみに、大(おほ)さいころが、ポトリと落(お)ちた。

 カラカラと石疊(いしだゝみ)から土の上へころがつて、暗い地上(ちじやう)で、白々とうづくまつた。

「丁(ちよう)」

 女は走りよつて、さいころの表に鼠鳴(ねずな)きをした。[やぶちゃん注:「人が鼠の鳴き声を真似て口を尖らして「チュッ!」と出す声。人の注意を促したり、合図をしたりする際にする。]

「二が出た」

 男も云つて、さいころを拾(ひろ)つた。

 それを女が引(ひつ)たつくつて、

「丁か半(はん)か」

 改(あらた)めて投げるつもりだ。

「半」

「いやよいやよ、丁でなけあ」

 丁出ろと大きく念(ねん)じて、ポンと投(な)げる。又前の通りに二が出た。女はとびかゝつて、抱(だ)きとるやうにして嬉(うれ)しがつた。

「うしろ側(がは)の五のところが、重いんだよ、張(は)り子(こ)だから」

「雀部(さゝべ)さん、あんたケチをつけるつもり」

 女があんまりムキになつたので、男(をとこ)はまごついた。

「猿島(さしま)、そろそろ着(つ)く時分だぜ。早くかへらう」

 女は耳にも入れずに、あるきながら、三度目(どめ)のさいころを投(な)げた。

「それ御覽(ごらん)、今度は二ぢやありません。でもちやんと丁が出ましたよ」

 石の上に落(お)ちた大さいころは六になつてゐた。

「もう止(よ)せよ、早くかへらう」

「止せといふなら、いつまででもやつてゐるわ」

 四度、五度のさいころを振(ふ)つてはあるき、振つてはあるき、梢々(やゝ)人通(ひとどほ)りの絕(た)えかけた溫泉町の暗(くら)い小溝(こみぞ)に沿(そ)つて、女は餘念(よねん)なくさいころを振つた。併(しか)し、振つても、振つても、丁は出ないで一が出たり、五が出たり。

 女はぢりぢりして道(みち)の眞中(まんなか)に立ちどまつた。

「おい、里(さつ)ちやん、どうしたといふんだ。猿島(さしま)が着く時分だといふのに。ねえ里奴(さとやつこ)」

 雀部(さゝべ)は行きすぎて戾(もど)りかけた。

 按摩(あんま)の笛(ふえ)が、遠いのと近いのと、互(たが)ひちがひに響いて、何かの合圖(あひづ)でもしてゐるやうだつた。波の音が、凉しい夜風(よかぜ)を送つて、伊豆(いづ)の伊東(いとう)の夜をゆり動かした。

[やぶちゃん注:「音(おと)なしの宮(みや)」現在の静岡県伊東市音無町(おとなしちょう)にある音無神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『源頼朝と八重姫』(北条政子との関係以前の女性)『の逢瀬の場としても知られ、頼朝が対岸の』「日暮八幡(ひぐらしはちまん)神社」(伊東市桜木町。前掲地図に西に配してある)で『日が暮れるまで待ってから』、『音無神社で』その監視役であった在地豪族伊東祐親の三女八重姫と逢瀬を重ねたと『され、境内の玉楠神社には、彼ら』及び、の間に生まれた男児『千鶴丸』(祐親の命により川に沈められて殺害された)『が祀られている』とある。個人的には参拝して、祈願するなら、政子と頼朝所縁の密会の地、熱海の伊豆山神社の方を、断然、お薦めするものである。

「音なし川」両神社の間を貫流している「伊藤大川」は別に「音無川」「松川」の異名を持つ。]

 

        蜘 蛛 の 振 舞

 

 暖香園(だんかうえん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])のはなれ座敷、例の柳の枝を脇床(わきどこ)に立てかけて、男は女にかまはず、手拭(てぬぐひ)をぶらさげ、浴槽(よくさう)へ行かうとしてゐた。[やぶちゃん注:「暖香園」明治二〇(一八八七)年開業の老舗温泉旅館である伊東温泉暖香園(グーグル・マップ・データ)。今はすっかり巨大ホテル化している。]

 出あひがしらの閾際(しきゐぎは)で、遲(おく)れてかへつた里奴(さとやつこ)は、

「フン」と鼻をならして、肩(かた)をいからしたまゝ座敷(ざしき)へ入る。例の大さいころはしつかり抱(だ)いたまゝで。

 雀部(さゝべ)は知らん顏をして廊下(らうか)へ出たが、立戾つて一言(ごん)、

「猿島(さしま)來(こ)ないよ。コンヤイカレヌ、アスアサイクだとさ」

 女は返事もせずに卓臺(ちやぶだい)の上の電報をひろげた。男は廊下傳(らうかづた)ひに浴槽(よくそう[やぶちゃん注:ママ。])に行つて了つた。

 一風呂浴びて男が戾(もど)つて來た時、里奴(さとやつこ)はさいころを疊の上でやけに振(ふ)つてゐた。

「湯に入らないの。誰(だ)れもゐないで、好(い)い湯(ゆ)だぜ」

「どうしても、丁(ちやう)が出なくなつた」

 最後の賽(さい)を叩(たゝ)きつけて、平手で押しつぶした。

「おつれさん、お見(み)えにならないんですつてね」

 丁度(ちやうど)閾際(しきゐぎは)へ來てさう云つた女中へ、

「さうだつてさ、猿島の珍(ちん)ケイトウ奴(め)、いつでもこの手ですつぽかすんだよ」[やぶちゃん注:「珍(ちん)ケイトウ」不詳。綽名で、頭髪が逆立っているか、赤ら顔なのか。後の里奴の彼を評する台詞からは、優柔不断で摑みどころのない奇天烈な人柄を鶏頭のふにゃふしゃした奇体な花に喩えたもののようには、見える。]

 手拭をぎくりと摑(つか)んで、無愛想(ぶあいさう)に廊下へ出て行つた。

「お孃(ぢやう)さま御かんむりだ。――ところで、猿島(さしま)が來ないときまつたら、御飯にするかな」

「畏(かし)こまりました」

 女中は返事(へんじ)のしようがなくて引下つた。

 猿島は里奴の旦那で、雀部(さゝべ)は猿島の親友である。

 猿島は下田(しもだ)へ用足(ようた)しに行つてゐる。

「土曜日の晚、伊東(いとう)へ行く。君も出て來い、その時、迷惑(めいわく)でも里奴(さとやつこ)をつれて來てくれ」

 かういふ打合(うちあは)せが猿島(さしま)と雀部(さゝべ)の間に出來てゐた。で、二人はけふ、東京から暖香園(だんかうえん)へ來たのだが。

「仕方がない、飯(めし)にしやう[やぶちゃん注:ママ。]」

 里奴が湯(ゆ)から戾つて來た時、雀部は膳(ぜん)の前に坐(すは)つてゐた。かれこれ十一時である。

「姐(ねえ)さん、お銚子(てうし)を一本」

 里奴は鏡臺(きやうだい)の前へ來て、團扇(うちわ[やぶちゃん注:ママ。])をつかつてゐる。烏羽玉(うばたま)の黑髮が、しとっしとと浴衣(ゆかた)の脊中へ流れてゐた。

「まア、美(うつ)くしいおぐし」

 惚れ惚れと[やぶちゃん注:「ほれぼれと」。底本では後の「惚れ」が踊り字「〲」で前にはルビは、ない。]里奴のうしろ姿に見惚(みと)れた女中は、板場(いたば)へ立つて行つた。

「飮むのか困(こま)るなア」

「あんた見てゐらつしやい」

「よせやい」

「ねえ、雀(さあ)さん」

「何だ」

「醉(よ)つても好(い)いでせう」

「いけない」

「くどくかも知れない」

「どうぞ御白由(ごじいう)に」

 手を肩(かた)ごしにうしろへ𢌞して、ぬれ髮(がみ)をバラバラと乾(かは)かしながら女はちやぶ臺ヘやつて來た。

 雀部(さゝべ)と向ふ前にならべた食器(しよくき)を、橫へ置きかへて、男の膝(ひざ)と自分の膝とを、すれすれぐらゐの角合せに坐(すは)ると、團扇の風を柔(やは)らかに男へ送つた。

 お銚子(てうし)が來ると、女中を追ひやつて、

「ねえ貴郞(あなた)、思ひざし」など、しなだれて見せる。[やぶちゃん注:「思ひざし」「思ひ差し」で、「この人と思う人に杯を差すこと・相手を指定して酒をつぐこと・その杯」を言う。]

「どうかしてるね」

「どうもしないわ。これが私の本性(ほんしやう)なの。はつきり云ふとあんたつて人を好(す)きなのよ」

「どうもありがたう」

「冗談(じようだん)ごかしにしないで、身を入れて聞いてよ」

「聞いてるよ」

「あんたのお友(とも)だちだけど、あの猿島(さしま)つて人、一體血が通(かよ)つてると思ふ」[やぶちゃん注:最後は疑問文。]

「あいつは口下手(くちへた)だからなア」

 女はやけに手を振つて、否定(ひてい)して、

「口下手でも、情合(じやうあひ)つてものが、どこかに見えるものよ。一週間(しうかん)に一遍(ぺん)か十日に一遍、それも、こつちから電話(でんわ)をかけなけあ出て來ないし、忙(いそ)がしいんですかつても、いや。閑(ひま)ですかと云つても、いや。額(ひたひ)に玉の汗(あせ)を搔(か)いてるから、扇(あふ)いでやれば、うるさいといふし、上衣をおとんなすつたらといへば、さうしちやゐられないといふし、さうかと思(おも)ふと、新聞(しんぶん)か何か一つところを何時間も見つめたあとで、フワフワ[やぶちゃん注:ママ。]と立上(たちあが)つて、さよならでも何でもなく、もう靴(くつ)を穿(は)いてるんだから。およそあんな珍(ちん)ケイトウの、碌(ろく)でなしの、張合(はりあひ)なしと云つたら、類(るゐ)がないわねえ」

「そこが好(い)いといふ人もあるんだとさ」

「何(なに)が好(い)いもんですか。あんた、友だち甲斐(がひ)に、もう少しは叩(たゝ)いて音(おと)のするやうに、仕込んでやつてよ」

「あれはあれで好いんだよ」

「よかないつたら」

「好いつて證據(しようこ)には、君ほどの女が、ぞつこん惚(ほ)れてるぢやないか」

「へん、誰れが惚(ほ)れてなんぞゐるものですか。緣(えん)あつてお世話(せわ)になつてるから、旦那にしてあげてるばかしよ」

「うそをつけ、惚(ほ)れてるからこそ、慾(よく)が出て、いらいらするんだ。惚(ほ)れてゐないものなら、とうの昔(むかし)切(き)れて了(しま)ふか、浮氣をするか――尤(もつと)も、浮氣つて奴あ、別(べつ)なものだが」

「別なものといふと」

「氣(き)が堅(かた)いから、浮氣なんて君にや出來ない。もう少し世間(せけん)の女なみに、柔(やは)らかいところがあつたら、氣まぐれの浮氣でもして、紛(まぎ)れるところなんだが、何しろ、固いからなア」

「アラ、蜘蛛(くも)、蜘株」

 二三尺(じやく)飛(と)びのいて、里奴は騷(さは)ぎ立(た)てた。

 丁度、二人の眞中(まんなか)あたり、疊(たゝみ)の上に、足長蜘蛛(あしながぐも)が、逃げもせず走りもせずに、八本の脚(あし)をつゝぱつて、二人を睨(にら)んでゐる。[やぶちゃん注:「足長蜘蛛」狭義の標準和名の種は、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科アシナガグモ科アシナガグモ属アシナガグモ Tetragnatha praedonia である。同種は田圃や池などの水辺に棲息するが、都市部の家内に出現することも稀にある。しかし、巣を作る種であり、私はここで言うのは、足が長い蜘蛛の意で、そうなると、現代住宅にもかなりの頻度で出現する、網を張らずにゴキブリなどの獲物を待ち伏せ、目の前に来た獲物を捕食する益虫である、本邦に棲息する徘徊性クモ類では最大種であるところの、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria の中型個体と考える。私の建て替える前の家内にも掌大の個体がおり、夜中に、顔が誰かに摑まれたような気がして、飛び起きて見ると、実にグローブ大のそ奴がおり、叩き潰したことがある。未だに、あの顔面のひきつけた感触は忘れるものではない。但し、彼らは、大型になると、敏捷であるから、以下のシークエンスが相応しくないと考えて、中型とした。]

「困つたな。おれも嫌(きら)ひなんだ」

「意氣地(いくじ)なしね、夜の蜘蛛(くも)は親に似(に)ても殺せつていふから」

「だけど……」

 雀部(さゝべ)は尠(すくな)からずまごついたが、女中がおはちの上へ置きつぱなしにしておいた黑(くろ)ぬりのお給仕盆(きふじぼん)をとつて、蜘蛛(くも)の上へ、べつたり冠(かぶ)せた。

「これで好(い)い。其中、女中が來たら始末(しまつ)をしてもらはう」

「何だか氣味(きみ)がわるいわ」

 女は反對側へすわりなほして、盃(さかづき)を重(かさ)ねた。

「早く、御飯(ごはん)にしたまへ」

「待つてよ、せめて一本だけ飮(の)んで了(しま)はなけあ、くどけないわ」

「まだ、くどくつもりか、散々(さんざん)、猿島(さしま)ののろけを云つておきながら」

「のろけぢやない、愚痴(ぐち)を云つたのよ」

「愚癡はのろけの化身(けしん)にして、惡態は未練の權化(ごんげ)なり」

「うるさいね」

 女は盃をつき出した。男が受取(うけと)らうとすると、やけに首を振つて、

「お酌(しやく)」と云つた。

「ヘイヘイ」

「今夜(こんや)は、おとなしく私のお守(もり)をするのよ」

「ありがたき仕合(しあは)せで」

「雀(さあ)さん」

「何だ」

「なぜ私が賽(さい)ころを振(ふ)つたか知つてる」

「知らない」

「あんた、盆(ぼん)くらね、今夜(こんや)猿島(さしま)が來るか來ないかを占なつてたの」

「當(あた)つたかい」

「だからさ、あんなに喜(よろこ)んだぢやないの。丁(ちやう)が出るやうに出るやうにつて、東京を立つ時から念(ねん)じてゐたわ」

「丁が出ればどうなるんだ」

「二人なら丁で、三人は半(はん)でせう。判(わか)らないのかなア」

 男は聞き流して鈴(りん)を押(お)しに立つた。

「お膳(ぜん)を片付けてくれたまへ、この人にあんまり飮(の)ましちやいけない」

 女は最後(さいご)の一たらしを盃(さかづき)にうけてゐるところだつたので、女中の方がまごついた。

「姐(ねえ)さん、お給仕盆の下に、蜘蛛(くも)が伏せてありますから、始末(しまつ)して頂戴(ちやうだ)、この人、男のくせに、いくぢなしなの」

「ほほほ、でも蜘蛛と長虫(ながむし)は隨分(ずゐぶん)おきらひな方がおありでございますわ」

 女中は片手に紙片(かみきれ)、片手で給仕盆(きふじぼん)を、そつと、そつと開けて、のろのろと這(は)ひ出(で)る怪物(くわいぶつ)を、パツと押(おさ)える。……つもりだつたが、お盆(ぼん)の下には何もゐなかつた。

「おやつ」

「あら」

 二人は息(いき)づまるほど驚ろいた。

「へんだなあ、たしかに押(おさ)へておいたんだが」

「こんな事、よくあるんでございますよ。蜘蛛(くも)になめくじ、なめくじなんぞ、一間(けん)[やぶちゃん注:一・八一メートル。]でも二間でも飛ぶんださうです」

「魔(ま)ものだつてね」

 三人とも默(だま)つて了(しま)つた。

 ガサリ。

 變な音が突然器(うつは)に起つた。

「あれつ」

 女中が飛びのいたうしろには、柱(はしら)かけの一輪(りん)ざしから、大きな白百合(しらゆり)の花が落ち

てゐた。

 脇床(わきどこ)に立てた繭玉(まゆだま)の柳が、ぼそぼそと搖(ゆ)れてゐる。

 女中は慌(あわた)だしく食卓(ちやぶだい)を片付けた。

 

        洗  ひ  髮

 

 雀部(さゝべ)は廊下(らうか)に出て風を入れた。

「いやに蒸(む)して來た」

 誰(だ)れにいふともなく、眞暗(まつくら)な中庭を眺(なが)めてゐる。

「風がぴつたり凪(な)ぎましたから」

 輕く合槌(あひづち)を打つて、女中は食器(しよくき)を運び去つた。

 眞暗な中庭(なかには)を見つめてゐると、丁字(つやうじ)の香りが匂(にほ)つて、どうだんつゝじの小枝(こえだ)が、おぼろげながら見えはじめて、しんとした土(つち)の上を、によつきり立つた石燈籠(いしどうらう)が、ずるずると近よつて來さうな夢(ゆめ)の國(くに)のやうな風景(ふうけい)だつた。

 空には星(ほし)一つ見えない。露(つゆ)の落ちる音(おと)まで聞こえさうなしづかさ。

 くどくどと云(い)つたくせに、女はうしろ向(む)きになつて、おとなしく寢(ね)てゐる。

 雀部(さゝべ)は、ぬき足して自分の蒲團(ふとん)を壁際(かべぎは)の方へ、女のから引はなした。

 ごろりと足腰(あしこし)をのばして、改(あらた)めて座敷を見まはすと、目の上には墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)がかいてあり、床には投網(とあみ)を干(ほ)した海岸の繪が下つて居り、二疋(ひき)蟹(かに)の黑つぽい置きものがあり、床柱の一輪(りん)ざしには、首のもげた百合(ゆり)のむくろがのぞいて、脇床からは例(れい)の繭玉(まゆだま)の柳(やなぎ)が手をさしのべてゐる。

 それやこれやを見まはしてゐる中に、心(こゝろ)が落(お)ちついて來た。途端(とたん)に、女が、うしろ向の儘(まゝ)で、

「雀(さあ)さん、眠(ねむ)れる」と聞いた。

「うむ」

「眠れないでせう」

「うむ」

「どつちさ」

「君(きみ)は」

「なぜ布團(ふとん)をそつちへ引張つたの」

「知(し)つてたかい」

「知らなくてさ。――ねえ雀(さあ)さん。やけないのか知ら」

「やけないかとは」

「猿島(さしま)がさ」

「二人きりで、こゝに泊(とま)つてるからか」

「今夜(こんや)ばかりぢやないわ。いつかもこんな事があつたぢやないの」

「うむ、あれは箱根(はこね)だつたね。あいつは商賣熱心だからなア」

「いくら商賣熱心だからつて、一度(ど)ならずこんなすつぽかしを食ふと、何だか馬鹿(ばか)にされたやうな氣(き)がするわ」

「ひがみだよ」

「この頃(ごろ)ぢや、もう馴(な)れたから、何とも思つてやしないけど、でも、たまには腹(はら)の立(た)つ事もあるわ。お荷物にされてるつて感(かん)じね」

「何しろ性分(しやうぶん)つてやつは――」

「雀(さあ)さん、今夜寢かさないよ」

「困(こま)るなア」

「寢かしませんとも、せめて、夜(よ)つぴて、話(はな)してませう」

「困るよ」

「明日(あす)になつても、あの人きつと來ないと思ふわ」

「そんな事はない」

「いゝえ、箱根の二の舞(まひ)をさせられるやうな氣がします」

「何しろ、猿島(さしま)はあやかりものだよ。君ほどの人間(にんげん)をこんなにいらいらさせるんだから」

「雀(さあ)さん、怒(おこ)るわよ」

「怒つても好い。僕(ぼく)のいふ事に間違(まちが)ひはないんだから」

「いゝえちがひます」

「ちがひません。ちがはないわけを云(い)つて見(み)やうか[やぶちゃん注:ママ。]」

「云つて御覽(ごらん)なさい」

「君が宵(よひ)の口(くち)から、むやみにモーシヨンをかけてゐるのは、僕を猿島(さしま)に見立てゝゐるんだよ。もし、僕がつり込(こ)まれたら、君はポンと蹴(け)つて飛(と)びのくだらう」

「そんなこと……」

「猿島がそつけないから、君の方で、追(おつ)かける氣になるんだ。若(も)し、あいつが積極的(せつきよくてき)に出て來たら、きつと君は逃(に)げ腰(ごし)になるよ」

「うそ、そんな事、斷(だん)じてありません」

「あります。追(おつ)かければ逃(に)げる、逃げれば追かける、男と女は皆(み)んなさうだ。何しろ皮肉(ひにく)に出來てるよ」

「さう見える」

「さういふものなんだ」

「ですけど雀(さあ)さん。あんたがそんなにいふなら、本當(ほんたう)の事をいひませうか」

「うむ」

「止(よ)さう――私、寢るわ」

 里奴(さとやつこ)はくるりとうしろ向きになつた。枕(まくら)の向ふへ捌(さば)いた黑髮(くろかみ)がねぢれて散らばつた。

「ははは圖星(づぼし)をさゝれたものだから」

「待合(まちあひ)の女中さんに、さあさんがと云はれた時、私は一圖(づ)に、ほかのさあさんだと思つたの」

「ほかのさあさんて」

「猿島(さしま)のさあさんでないさあさんよ」

「卜だつてて雀部(さゝべだからアさんだが、……」

「默(だま)つてらつしやい。さあさんと聞いて早合點(はやがてん)で喜んだ私が惡(わる)かつたんだわ」

「だけど、猿島(さしま)はあの時分、まる一ケ月(げつ)通(かよ)つて、君を呼(よ)んでたといふぢやないか、あんな無口な男だから、いやに手數(てすう)ばかりかけやがつて……それほどのさあさんを前において、さあさんを間違へるなんて、そんな見當(けんたう)ちがひの早合點(はやがてん)があるものか」

 女は身を揉(も)んだ、立上つた、いきなり自分の寢道具(ねだうぐ)を男の方へ引よせる。

 男もごそりと起(お)きて、夜具を壁際(かべぎは)へぴつたり、以前(いぜん)の通りの間隔(かんかく)を保(たも)つ。女は蒲團をすつぽりかぶつた。枕(まくら)の上はばらばらになつた黑髮(くろかみ)ばかりが、海松(みる)のやうに流れ出て、五燭(しよく)の光りで伸びつちゞみつするやうに見(み)えた。[やぶちゃん注:「五燭」五カンデラ(ラテン語:: candela)の電灯。ほぼ八ワット。寝室や便所の常夜灯。]

 云ひ落したが、二人の寢床(ねどこ)は大きな蚊帳(かや)で包まれてゐた。

 雀部は、女の髮(かみ)をぢつと見つめて、勝氣(かちき)な女は可愛(かあい)さうだなアと思つてゐた。

「雀(さあ)さん」

 蒲團(ふとん)にもぐつたまゝで女が云つた。

「うん」

「私、猿島(さしま)と別れようと思ふ」

「それも好(い)いだらう」

「馬鹿にされてるとは思はない。だけど、およそあんなつまらない、面白(おもしろ)くない人つてないわ」

「だけど……」

「こつちもつまんないが、向(むか)ふだつてつまんないでせう。顏(かほ)を見合はせたつて、二三時間(じかん)も默(だま)りこくつてゐる事、のべつなんだもの。人情(にんじやう)つて、そんなもんぢやないわ」

「だけど……」

「ねえ雀(さあ)さん」

「何だ」

「猿島と切(き)れたら、あんた私のいふ事を聞(き)いてくれる」

「馬鹿、猿島はおれの親友(しんいう)だよ」

「知つてるわ、猿島(さしま)とあんたの間柄(あひだがら)だからこそいふのよ。それに、猿島は腹(はら)の中で、あんたと私を結(むす)びつけようとしてるにちがひない」

 どこかで、ボンボン時計(とけい)が鳴つた。たつた一つ、あとを聞かうとした雀部(さゝべ)の耳ヘは風の音だけがさやさやと入(はい)つたばかりだつた。

 十二時半かしら、一時(じ)かしら、一時半(じはん)かしら、そんな事を雀部(さゝべ)は、しきりに考ヘやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。

「もう寢(ね)たまへ、遲(おそ)いから」

 女は返事(へんじ)をしないで泣(な)いてゐるらしい。

 「もつと氣を安らかに持つ修業(しゆげふ)をしたまへ、猿島(さしま)つて男は、君が思つてるほど情(じやう)なしぢやない。口にこそ出さないが、腹(はら)の中は君の事で一杯(ぱい)なんだ。僕は君をこれほど思(おも)つてると、はつきり言葉で云はなけれあ、女には得心(とくしん)が行かないものかもしれないが、男の立場(たちば)からいや、さうぢやない。思(おも)へば思(おも)ふほど、ものを云はないもんだぜ」

「もう止(よ)してよ」

 蚊帳(かや)ごしに照(てら)す電燈で、ちらちらと底光りのする黑髮(くろかみ)から、雀部(さゝべ)はどうしても目が離(はな)せなかつた。

 見つめてゐると、黑髮(くろかみ)の一筋一筋(すぢ)が、もやもやと伸(の)びて、こちらの枕へ忍び寄つて來るやうに思(おも)はれる。

「雀(さあ)さん、もつと低(ひく)い聲で、私の耳(みゝ)のそばで、今の話をして下さらない」

「耳のそばだつて――」

「だから蒲團(ふとん)をもつと寄(よ)せてさ」

「おれを困(こま)らせるなよ」

 雀部はぐるりと仰向(あふむ)けになつた。

「思つても思つても思ひがとゞかない辛(つら)さ、叩(たゝ)いても音の聞(き)こえないさびしさ。それは誰(だ)れに持つてゆきやうもない苦(くる)しみなんだが、君のは、もう一つ瘠(や)せ我慢(がまん)と負けずぎらひの輪(わ)がかゝつてるんだから、自分の本當(ほたう)の氣持が、自分に判(わか)らないんだよ」

 獨(ひと)り言(ごと)のやうに云つて、雀部はほうつと溜息(ためいき)をついた。

 

        蜘 蛛 を 抱 く

 

 うとうととしたやうにもあり、眠(ねむ)れなかつたやうにもあり、何時間(なんじかん)すぎたかも判(わか)らなかつた。

 仰向(あふむ)けになつてゐた雀部の額(ひたひ)へ、つめたいものがばさりと落ちた。

 かきのけようとする手に女の黑髮(くろかみ)がからんだ、蚊帳(かや)ごしの電燈はへんに靑(あを)ずんだ光に見えた。

「寄(よ)つちやいけない」

 雀部(さゝべ)は、黑髮のぬしをおしやるやうにした。が、黑髮のぬしは鈴(すゞ)を張つたやうな瞳(ひとみ)で、雀部を見つめて、口許(くちもと)にわらひを含んで、ぴつたり男により添(そ)つたまよ動かうともしない。

「寄つちやいけない」

 雀部の聲はだんだん弱(よわ)くなる。

「雀(さあ)さん、なぜ私が賽(さい)ころを振つたか知つてる、丁(ちやう)が出れば好(い)い、丁が出れば好いつて念じつめて振(ふ)つたさいころ。振つても振つても二が出た時、私はどんなに嬉(うれ)しかつたか、だのに、あんたつて人は、人の氣(き)も知(し)らないで――」

 女はひしひしと迫(せま)る。美くしい手が、雀部(さゝべ)の首に卷きついてゐた。强(つよ)い强い力だ。こんな力が女の腕(うで)にあるのかと思ふほど强(つよ)い力(ちから)。

 女の手が首(くび)から胸(むね)へかゝつてゐるので、雀部は返事(へんじ)が出來なかつた。女の身體(からだ)が、雀部の片手を下敷(したじき)にしてゐるので、押(お)しのける事も出來なかつた。

「人にばかりものを云はせて、なぜ返事(へんじ)をして下さらないの、あんたは意氣地」いくぢ)なしよ。あんたの本心を當(あ)てゝ見(み)ませうか、あんたつて人は、私が好(す)きで好きでたまらないんだわ。

 さいころの丁(ちやう)が出て喜(よろこ)ぶのは、私ばかりでなくて、あんたもさうなの。だけど、あんたは、猿島(さしま)といふものに氣がねをして自分の本心(ほんしん)をいふ事も出來ず、意氣地(いくぢ)もなく、いぢけてちゞみ上つてゐるんだわ。女の私(わたし)に、これほどものを云(い)はせて、これほどの思ひをさせて、それでも、逃げ腰(ごし)になつてゐる、あんた見たいな踏(ふ)んばりのつかない、意氣地なしは、このくらゐにしないと、本心を明(あ)かさないでせう。あんたは卑怯(ひけふ)だわ。さもさも私を敎(をし)へるやうにして、さつきから默(だま)つて聞いてれあ、猿島の心持(こゝろもち)を云ふやうな振(ふり)をして、皆んな御自分の事(こと)を云つてるんだわ。卑怯なさあさん、意氣地(いくぢ)なしのさあさん、踏(ふみ)ぎりのわるいさあさん、さあ、本心を、はつきり聞(き)かして下さい。ねえ、雀(さあ)さんたら」

 男の胸(むね)をむちやくちやにゆすぶつて、女は身(み)をもだえた。女の頰(ほゝ)が、黑髮が、唇(くちびる)が、男の顏の上で、段々に亂(みだ)れた。

 雀部(さゝべ)はもうたまらなくなつた。

「里(さつ)ちやん、どうなつても好(い)い。何もかも君は知つてゐるんだ。かうなつたら、友だちの義理(ぎり)も糸瓜(へちま)もない。――なアに、猿島(さしま)だつて、おれが、君の事を一生懸命(しやうけんめい)に思つてゐるのも、ちやんと察(さつ)してゐるんだ、だからあいつ、かうして二人に逢(あ)はせる機會をつくつてくれたんだ。箱根の時だつてさうだ、里(さつ)ちやん、僕の里ちやんになつてくれるか」

 男の手の力が女の手に負(ま)けないほど働(はた)らきかけた。

 靑(あを)ずんだ光の中で、ゆめうつゝのやうな蚊帳(かや)の波に包(つゝ)まれて、二人の身體は一つになつて了(しま)ふかと思はれた。

 苦しい、切(せつ)ない抱擁(はうよう)の中から、男はかすかに目をあいて、女の顏を見た。

 紅を含(ふく)んだやうな唇に、きらきらと光(ひか)る瞳(ひとみ)、しつかり見つめてゐる間に、唇は血(ち)がにじみ出るかと思はれ、瞳(ひとみ)は火を吐(は)くかと見えた。

 男はあまりに銳(するど)い女の瞳(ひとみ)と唇を少しよける爲めに、蚊帳(かや)の外へ目をそらした。

 と、額に描(か)いた墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)が、一かゝへもあるほど大きくひろがつた。首のない柱(はしら)かけの百合が、毛(け)むくじやらの細く長い手になつて、蚊帳(かや)の中に伸(の)びて來さうだつた。

 脇床の柳(やなぎ)の枝(えだ)も、一本一本のび切つて、蚊帳ごしにつきさゝつて來る。柳の枝に吊つた大福帳(だいふくちやう)と福助と、繭玉が空(そら)に舞(ま)ひ上つた。掛地の繪の投網(とあみ)はいやが上にひろがつて、蚊帳へかぶさりかかると共に、部屋一杯(おあい)の蜘蛛(くも)の巢(す)になつた。

 男はあはて[やぶちゃん注:ママ。]ながら、眼(め)を女の顏へもどしたが、その時、女(をんな)の顏(かほ)はもう美くしい里奴(さとやつこ)ではなかつた。大きな大きな蜘蛛(くも)の精(せい)が、爛々(らんらん)たる眼を見張り、熱火(ねつか[やぶちゃん注:ママ。])のやうな唇を洞穴(どうけつ)のやうにあいて、ニヤリニヤリと笑(わら)つてゐる。

 男は右に左に顏をそむけて、逃(に)げようとしたが、怖(おそ)ろしい笑ひ顏は、男の顏のよける方へ、よける方へと向つて來る。雲(くも)のやうな黑髮をふり亂した蜘蛛(くも)の精(せい)が雀部を抱(だ)きしめてゐるのだ。蚊帳と一緖(しよ)に見え、投網(とあみ)と見えたのは蜘蛛の巢(す)であつた。墨繪の牡丹でさへも、小蜘蛛になつて、雀部の身のまはりを踊をど)り狂(くる)つた。中に眞白(まつしろ)な蜘蛛が、疊の上をひらめくやうに亂舞(らんぶ)してゐる。黑い二つの目をつけた眞白な蜘蛛、それは時折(ときをり)押(お)しつぶされた賽ころの姿に變(かは)つたりしながら。

 賽(さい)ころ蜘蛛(くも)の差圖(さしづ)につれて、幾つもの白蜘蛛が踊(をど)つた。それは各々、柳の枝につるした繭玉(まゆだま)であり、大福帳(だいふくちやう)であり福助であつたりした。

「苦しい、助(たす)けて、うゝむ」

 雀部はある限りの聲と、ある限りの力で蜘蛛(くも)の圍(かこ)みを逃(に)げようとしたが聲も力も出なかつた。

 只(たゞ)いたづらに、

 「苦しい」と叫(さけ)びつゞけるばかりである。

 「雀(さあ)さん、雀さん」

 どこかでかすかに、やさしい聲(こゑ)がよびかける、それを力(ちから)に、やうやく立上らうとして、見ひらいた目には、何もなかつた。何もかもが、寢(ね)る前と同じ姿(すがた)であつた。もう朝だ。

 いつの間にか蚊帳は綺麗(きれい)に片付けてあつた、里奴(さとやつこ)はあけ放(はな)つた緣側(えんがは)に、あらひ髮のうしろ姿を見せて、靑葉(あをば)を見ながら、すがすがしく立つてゐた。

「僕、苦(くる)しんでたかい」

 雀部は起上る力(ちから)もなかつた。

「いゝえ。ちつとも――どうかしたの、眞靑(まつさを)になつてるわ。それとも靑葉(あをば)のかげがうつゝてるせゐかしら」

 女の手には電報(でんぽう)がひろげられてあつた。

「どうもしやしないが、いやな夢(ゆめ)を見(み)た」

「ねえ、あいつ、又(また)電報(でんぽう)をよこしたわ。ドウシテモイカレヌ、ユツクリアソンデ、マツテテクレだとさ。相變(あいひかは)らずの珍(ちん)けいとうね」

 電報を見せに、里奴(さとやつこ)が枕もとへ來た。男(をとこ)ははね上るやうに起きて、浴衣(ゆかた)の着くづ

れをきちんと直(なほ)した。

「二三日この儘(まゝ)であそびませうよ。十國峠(こくたうげ)でもドライブして」

 女はわだかまりもなく云(い)つた。

「いやかへらう」

「いやよ、かへるなんて、それにもう自動車も賴(たの)んだし」

「いや、兎(と)に角(かく)かへらう」

「どうして、もうくどきやしないわよ。ゆうべのあなたの話で私、すつかり猿島の氣持(きもち)が判(わか)つたから、私おとなしく、猿島(さしま)を思つてゐるといふ事にきめたのよ。安心(あんしん)して下さい」

 女はニコニコしてゐた。

 男(をとこ)はちつともうれしくなかつた。

「やつぱりかへる方が好(い)いんだ」の一點張(てんば)りで、女のやさしい眼(め)を逃げて、浴場ヘ行つた。

[やぶちゃん注:個人的には、どうも好きになれない一篇である。三人の登場人物のそれぞれ、ある種の極め利己的な変態的嗜好を隠し持っており、その誰にも私は共感や憐憫をさえも全く感じないからである。]

2024/02/05

「蘆江怪談集」 「うら二階」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。また、本篇もまた、最後に蘆江が添えているように、実話談を元にして創作されたものである。

 なお、「うら二階」「裏二階」とは、正式な二階ではなく、屋根裏などが二階になっているところを言う語である。]

 

 

    う ら 二 階

 

 

      

 

 ある都會(とくわい)の下町、と云つても仕舞屋(しもたや)ばかりの物靜かな河岸通(かしどほ)りに賃家が一軒(けん)出來(でき)た、これが貸家札を貼(は)つてから三日目にふさがつた。

 引越して來たのはこれまで山(やま)の手(て)に住んでゐた萩原精(はぎはらせい)一といふ人の一家(か)。

 夫婦(ふうふ)の間に七つの子が一人。

「三人家内に少し廣(ひろ)いけれど、家賃(やちん)が割(わり)に安いからね」と家の中の一通(とほ)り片付(かたづ)いたところで精(せい)一は下座敷の障子(しやうじ)をポンと開(あ)け放(はな)して初秋の風を家の中一杯(ぱい)に入れた。

「本當(ほんたう)ですね、好(い)い家(うち)が目付かりましたわ、家の中が廣(ひろ)いと少しお掃除が厄介(やくかい)ですけれど、どうせ私の身體(からだ)は大して用がないんですから」と妻君(さいくん)のおきみは良人の側(そば)に煙草盆(たばこぼん)を持出す。

「なあに掃除が面倒(めんだう)なら、女中を一人雇(やと)ふさ、何しろ五間(ま)もあるんだからなあ」

「それには及びませんわ、精太郞(せいたらう)だつてもう七つですもの、手(て)のかゝる子ぢやなし、學校にでも行くやうになつたら、朝寢坊の我儘(わがまゝ)が出來ないから、そしたら女中を置(お)いても好(い)いけれど、それまではまア、當分(たうぶん)此儘(このまゝ)でやつて見ませうよ」

「でも何だぜ、これまでの家(うち)のやうに木戶の中と違(ちが)つて、これでも通り筋(すぢ)だから、まるつきり留守(るす)にして外へ出るわけにも行かないしね、留守居のつもりにでも女中を置いた方が可(よ)かないか」

「なるだけ留守にしなければ好(い)いでせう、それに女中とは云へ、水入(みづい)らずの内輪(うちわ)ばかりで暮(くら)して來た中へ、一人でも他人(たにん)が交(まじ)ると、萬事(ばんじ)が違つて來ますから」と女は何かにつけて大マカな事をいふ。[やぶちゃん注:「大マカな」は底本では『ヤマカな』となっている。『ウェッジ文庫』版で訂した。]

「ぢやまア、お前の好(す)きなやうにやつて見るさ」と精一も賛成(さんせい)した。

 入つて取付(とつつき)が三疊(でふ)、つゞいて八疊が客間(きやくま)、それにつゞいた四疊半が茶(ちや)の間(ま)、茶の間の橫に六疊の書齋(しよさい)がある、その書齋と茶の間との間の廊下(らうか)のつき當りに杉戶(すぎと)が一枚立つてゐる、これが開き[やぶちゃん注:「ひらき」。]になつてゐて、開(あ)けると中をヲドリ場をつけて曲(まが)り角(かど)のある暗い梯子だん、この梯子だん[やぶちゃん注:「はしごだん」。]を上ると二階が六疊一間といふ妙(めう)な間(ま)どり、

「どつちかといふと、此家は二階(かい)の六疊だけが不用(ふよう)なようだね、一寸(ちよつと)使(つか)ひ道(みち)がないぢやないか」

「さうですね、間貸(まが)しでもするには好(い)いかも知れませんが」

「あれだけは全(まつた)く離(はな)れ島だ、尤(もつと)もあの二階だけはお神樂屋臺(かぐらやたい)になつてゐるやうだね、あとから何かの必要(ひつえう)があつてくつゝけたものだらう」

「さうらしうございますわ、何しろ遊(あそ)ばして置くのは勿體(もつたい)ないから、貸間(かしま)にでもしませうか」

「いや、いけないいけない、女中を置(お)いてさへ氣兼(きが)ねがあるやうな事(こと)を云つてゐるお前ぢやないか、況(ま)して他人を同居(どうきよ)させるなんて以(もつ)ての外だ」

「それもさうですね」

 ゆつたりとした心持で二人が家(うち)の中を見まはしてゐる中に、お君(きみ)は不圖(ふと)氣(き)が付(つ)いた、

「精太郞(せいたらう)はどこへ行つたのでせう」

「さうだね、先刻(さつき)まで茶の間に遊(あそ)んでゐたやうだつたが」と覗(のぞ)いて見たが居ない、玄關(げんくわん)の三疊にも居(ゐ)ない。

「精ちやん精ちやん」とお君(きみ)が呼(よ)ぶと、ずつと遠(とほ)いところで、

「ハーイ」と答(こた)へる。

「何處にゐるの、何(なに)かおいたをしてゐるんぢやありませんか」

「何もしないよ、僕(ぼく)ね、只(たゞ)遊(あそ)んでるの」と云ひながら廊下(らうか)の方からぬつと出て來た。

「何處へ行(い)つてたんです」

「あのお二階(かい)で遊んでたよ」

「お二階で、まアお前さん、よく淋(さび)しくないね、今お蕎麥(そば)が來ますから、こゝにいらつしやい」

 お蕎麥(そば)が來ると、それを親子三人が車座(くるまざ)になつてたぐり込(こ)んだあとで、お茶づけを輕(かる)く濟(す)ましてこれが夕(ゆふ)めし。

 往來の河岸通りで、蜻蛉(とんぼ)を釣(つ)る子供たちががやがやと一しきり、何となくお盆(ぼん)すぎらしい蟲賣(むしうり)の蟲(むし)の聲(こゑ)がしんみりとざわついたあとは、とつぶりと日が暮れた、萩原(はぎはら)一家(か)の新居の第一夜が來る。

[やぶちゃん注:主人公一家は引っ越したその日の最初の食事を「蕎麥」にしているのは、所謂「引っ越し蕎麦」の風習の名残りである。「出雲そば 本田屋」公式サイトの「引っ越しそばの由来と起源は? 引っ越しのご挨拶マナーも紹介」を見られたい。]

 

         

 

 翌日(よくじつ)から精一が會社へ出勤(しゆつきん)するのは朝の八時、そのあとはおきみと精太郞(せいたらう)と二人きり、落付(おちつ)いたとは云へ、まだ引越(ひつこし)したばかりの新宅(しんたく)、家の中がそここゝと片付(かたづ)かないので、お君は殆んど終日(しうじつ)こそこそ動いてゐた。

 精太郞はその母親の側(そば)へ時々顏を見せては又(また)どこかへ行つて一人でよく遊(あそ)んで來る。

「往來(わうらい)に出るんぢやありませんよ、大川へ落(おつ)こつたら大變(たいへん)ですから」と母親がいヘば「表へなんぞ出やしないよ」と云つては、ちよこちよこと廊下(らうか)を走(はし)つてゐる。

 其晚、精(せい)一が歸つて來て、親子三人夕餉(ゆふげ)の膳を圍(かこ)んだ時、おきみは眉(まゆ)をひそめながらかう云つた。

「ねえ、貴郞、此邊(こへん)の人、隨分(ずゐぶん)變(へん)なんですよ、それほど品(ひん)の惡い人が住んでる樣子(やうす)もないんですがね、どうしたわけだか、人の家を覗(のぞ)きにばかり來るんですよ」

「なあに氣(き)にする事はないよ、新しい人が越して來たから、どんな人かと思つて覗(のぞ)き込(こ)むんだらう、當座(たうざ)の間の事さ、その中二三日も經(た)つたら、自然(しぜん)顏馴染(かほなじみ)にもなつて氣心(きごころ)も知れるだらうよ」

「ですけれどね、こんなに仕舞屋(しもたや)つゞきではお馴染(なじみ)なんざ中々出來さうもありませんわ」

「出來なけれあ、いつそ出來ないが好いさ、其(そ)の方(はう)がいくら氣樂(きらく)だか知れない」

「でもあんなに迂散(うさん)さうに覗き込まれると、私(わたし)、いやになつて了(しま)ふわ」

「まあなるだけ氣にしないでゐるさ、――精坊(せいばう)や、お前はどうだ、先(せん)のお家と今度のお家とどつちが好(い)い」

「僕、今度(こんど)のお家の方がよつぽど好(い)いや、だつてお二階(かい)があるんだもの」

「ははは、お二階(かい)があるか、だけど精坊、お二階(かい)へ上つたり下りたりしてゐると今に落(お)ちるよ、お母さんに捕(つか)まへてもらふやうにしなければいけないよ」

「お母(かあ)ちやんなんかつかまへてくれなくても好(い)いよ、叔母(おば)ちやんがちやんと坊や坊やつて抱(だ)つこしてくれるよ」

「叔母さんて誰(だれ)だえ」と精(せい)一は妙(めう)な顏をした。

「叔母さんさ、二階の叔母さんぢやないか、父(とう)ちやん知らないのかな」

 精(せい)一は目をぱちくりさした。

「二階の叔母さんて誰(だ)れの事だらう」

「誰れも居やしないぢやないの、精坊(せいぼう[やぶちゃん注:ママ。以下同じく混雑する。])」

「居るよ、知(し)らないのかな、お父さんもお母さんも知(し)らないんだ。好(い)い叔母さんだぜ」と「誰れだらう」「誰れだらう」と夫婦(ふうふ)は顏を見合せたが、親子(おやこ)三人家内、外に人が居さうな事(こと)はない、精太郞は其樣事(そんなこと)に頓着(とんちやく)しないで繪本などをひねくつて獨(ひと)り言(ごと)をしてゐたが、

「お母さん、僕(ぼく)眠(ねむ)くなつちやつた」とお君の膝(ひざ)に這(は)ひ上(あが)つてぐつたりしたと思つたが、小さな欠伸(あくび)を一つして、もうすやすやと眠(ねむ)つた。

「何を云つてるんだか判(わか)つたもんぢやない、寢(ね)かしておやり」

「ほんとに何か思(おも)ひ違(ちが)ひでもしてゐるんでせうよ」

 精太郞を寢(ね)かしてから良人(をつと)は新聞など膝(ひざ)の上にひろげてゐたが、針仕事(はりしごと)を始めたお君が頻(しき)りに手足を動(うご)かしてゐるのを見て、

「下町はまだ中々(なかなか)蚊が多いね、少し早いけれど寢るとしようか」

「え、さうしませう」とお君(きみ)は床を展(の)べる、精一はまだ新宅(しんたく)の何となく落付(おちつ)かないので、戶締りを見まはつて來ませうと下の部屋々々(へやへや)をまはりながら二階(かい)へ上つた。

 やがて二階(かい)から下りて來た精一が

「おきみ、精坊(せいぼう)のいふ二階の叔母さんが判つたよ」といふ。

 お君は一寸(ちよつと)驚(おどろ)いて振向くと、

「ほら、お母さんの寫眞(しやしん)を引伸(ひきの)ばして額にしたらう、あれが裏(うら)二階(かい)の額になつてるものだから、その事を云(い)つてるんぢやないか」

「あ、さうですか、裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」

「うん、こんな子供でも、自分(じぶん)を可愛がつてくれた人の事は中々(なかなか)忘れないものと見える」

 これで精太郞(せいたらう)のいふ「二階の叔母さん」は一應(おう)解決(かいけつ)がついて、夫婦は寢支度(ねじたく)にかゝつた。

[やぶちゃん注:「大川」「一」の冒頭で、「ある都會(とくわい)の下町」とあったが、萩原一家の言葉遣いに訛りがなく、「大川」(おほかは)とくれば、これは隅田川で、その「下町」「河岸通(かしどほ)り」とくれば、東京都墨田区の凡そ南半分を範囲とする本所附近がモデル・ロケーションであると言える。

「裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」ちょっと躓くような表現だが、これは、精一の母は、ここへ引っ越す有意な前に亡くなっているようで、而して、その母の写真を額にして、新居の、この二階を、母の霊の隠居所にちょうどいいと言って、精一が掲げた、というのである。]

 

         

 

 三日(か)經(た)ち、四日經ちしてゐる間に、夫婦(ふうふ)は此の家に追々(おひおひ)馴染(なじ)みがついて來た、住(す)めば住むほど居心のよい家(うち)といふ事になつた。

「只近所の人がいやだわ、相變(あひかは)らず覗(のぞ)きに來るんですもの」とお君はそれを氣にしたが、

「仕方がないよ、一つぐらゐは惡(わる)い事がなけれあ、それに覗(のぞ)かれたつて不都合(ふつがふ)な事のあるやうな家の中ぢやないんだから、覗(のぞ)く奴(やつ)には覗かして置けば好(い)いぢやないか」と良人(をつと)は笑ひ消して了つた。

 五日六日經(た)つと、

「この頃(ごろ)精坊(せいばう)が大變大人(おとな)しくなつたぢやないか、お前、さうは思(も)はないか」と良人(をつと)が云つた。

「え、私もさう思つてるんですの、此家(このうち)に來てからといふもの打(う)つて變(かは)つて大人(おとな)しい子になりましたわ」

「病氣(びやうき)でもあるんぢやないか」

「いゝえ、身體(からだ)は何ともないらしいやうですよ、あの淋(さび)しい裏(うら)二階(かい)が馬鹿に氣に入つたと見えて、此頃は終日(いちんち)裏(うら)二階(かい)を上つたり下りたりして遊(あそ)んでますわ」

「よくあんな淋しい部屋へ獨(どく)りで行けるね、子供(こども)といふものは、家の中でも人の居(ゐ)るところにばかり居たがるものだが、裏二階で何(なに)をして遊(あそ)んでゐるんだ」

「それがね、可笑(をか)しいんですよ、今日なんざ半日(はんにち)の餘(よ)も裏二階に上つたきりですから、何(なに)をして遊んでるのかと思つて、そつと階子段(はしごだん)から覗いて見ましたら、床の間を枕(まくら)にして、寢そべつたままで獨りでお話しをしてるんですの、精坊(せいばう)や、お前何を云(い)つてるんだえと私が聲(こゑ)をかけましたらね、私の方は振向(ふりむ)きもしないで、お母さん、今(いま)叔母(をば)さんとお話してるんだよ、お母さんも上つていらつしやい、なんて濟(す)ましてるんです」

「ははは、床の間に枕(まくら)をすると、丁度目の上へお母さんの額(がく)があるといふわけだね、他愛(たあい)もない奴だな」

「でもよく飽(あ)きないと思つて感心(かんしん)しましたわ」とそれで其日は濟(す)んだ。

 が更に二三日(にち)經(た)つたある日、おきみは良人(をつと)のかへりを待ち受けて、一寸(ちよつと)聲(こゑ)をひそめながら、

「貴郞(あなた)、精太郞に何か憑(つ)きものでもしてるんぢやないでせうか]といふ。

「何故(なぜ)、どうかしたかい」

「いゝえ、どうもしませんが、その二階(かい)の叔母(をば)さんといふのが、私は變(へん)だと思ふんです」

「二階の叔母(をば)さんならお母さんの事ぢやないか、氣にする事はない」

「いゝえ、それがね、今日(けふ)汚穢屋(をわいや)さんが來て臭くつて仕樣(しやう)がありませんから、二階の地袋(ぢぶくろ)まで香盒(かうごふ)をとりに上りましたらね、いつもの通(とほ)りに床の間を枕にして獨話(ひとりばな)しをしてた精太郞が、だしぬけに泣(な)き出(だ)したんですの」

「びつくりしてかえ」

「いゝえ、だしぬけにお母(かあ)さんが上つて來るものだから、叔母(をば)さんが何處かへ行つて了(しま)つたと云つておいおい泣(な)くんです、お前の祖母(おばあ)さんならちやんとこゝに居(を)らつしやるぢやないかとあのお寫眞(しやしん)を指さして見せましたら、この祖母(おばあ)さんぢやないんだ、いつでも坊を抱(だつ)こしてくれる叔母さんだ、何處(どこ)かに行つちやつた。叔母(をば)さん叔母さんと云つて、只(たゞ)泣(な)いてばかり居るんです」

「ふうむ、それは變(へん)だね、さうすると、精太郞(せいたらう)のいふ叔母(をば)さんはお母さんの寫眞(しやしん)の事ぢやなかつたのかね」

「え、どうもさうらしいんですのよ」

「それで、其後(そのご)はどうした」

「それから下へ連れて來て、お菓子(くわし)をやつたりして、やつと機嫌(きげん)を直させると、又(また)こそこそお二階(かい)へ上つて行きましたが、今度は又先の通り大人(おのな)しく遊(あそ)んでましたわ、相變(あひかは)らず獨(ひと)りでお話をして」

「變(へん)な子だね」

「それに裏(うら)二階(かい)へばかり行きたがるのが、私にはどうしても不思議(ふしぎ)でなりませんわ」

「うん、それは只(たゞ)蟲(むし)が好(す)くんだとばかり俺(おれ)も思つてゐたが、さうなつて見ると、ちつと可怪(をか)しいね、今も行つてるかえ」

「え、多分(たぶん)さうでせう、精坊や精坊や」と呼べば、案(あん)の定(ぢやう)、裏二階の方で「ハーイ」と返事(へんじ)をしてちよこちよこと下りて來(き)た。

「お二階の叔母(をば)さん、どうしたい」と精(せい)一が聞くと、

「お二階の叔母さんね、今僕に猿坊(えて)のお話をしてくれたよ、お月樣(つきさま)がね、ずつと遠(とほ)くのお山の中のお池(いけ)へ下りていらつしやるんだつて、さうするとね、猿坊(えて)がね、木の枝にとまりながら、お池の中で行水(ぎやうずゐ[やぶちゃん注:ママ。既に先行す作品で注したが、「水」の音の正しい歴史的仮名遣は、現在では「すい」が正しい。])してるお月樣を捕(つか)まへてやらうと思つて手を伸(のば)して、ヒヨイと飛び込むと、お月樣の方が早(はや)いもんだから、ピンと天へ上つて了(しま)ふんだつて、そしてどうしても捕(つか)まらないんだつて」

「猿喉水月(えんこうすゐげつ)か、ほう洒落(しやれ)た話を知つてるね、そんな事を二階の叔母(をば)さんが坊やに話して下すつたのかい」

「あゝ。もつと澤山(たくさん)話してくれるよ、雨の神さまとお天道樣(てんたうさま)と喧嘩(けんくわ)した話も、それから鼠が描の仇討(あだうち)をするお話も、それから――」

「二階(かい)の叔母(をば)さんてどんな人だい」

「お父さん知らないの、變(へん)だな二階(かい)の叔母さんはお父さんの事も、お母さんの事も、よく知(し)つてるよ、好(い)い叔母(をば)さんだよ、僕が行くとすぐに抱(だつ)こしてくれるよ、それから面白(おもしろ)い話をいくつもいくつもしてくれるよ、お母(かあ)さん見たいに、うるさいなんてちつとも云はないや」

 お君は笑(わら)つたがすぐ眞面目(まじめ)になつて良人(をつと)と顏を見合した。

「變(へん)でせう」

「うむ、妙(めう)な事を云つてるね」

 それから長い間かゝつて、精(せい)一が精坊の話(はなし)で聞いたところによると、二階(かい)の叔母さんといふのは、切下(きりさ)げ髮にした色の白い老女(らうぢよ)で、紋羽二重の被布(ひふ)を着て白足袋[やぶちゃん注:「しろたび」。]を穿(は)いてゐるといふ事だけは判(わか)つた。

 其樣人(そんなひと)が裏二階に居さうな事がない、それにさういふ姿(すがた)をした人は親類の中に一人も居ない。

 夫婦(ふうふ)はぞつとした。

 精太郞を寢(ね)かしてから、

「一體(たい)何(なん)でせう」

「何だらう」と暫(しば)らく云ひ合つて見たが、解決(かいけつ)のつきさうな筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])がない。

 兎に角裏二階を調(しら)べて見ようといふ事で、夫婦が懷中電燈を照(てら)しながら、そつとと上つて見たが何の異狀(いじやう)もない、押入れ、地袋、床(とこ)の隅々(すみずみ)、屛風(びやうぶ)のうしろなどゝすつかり調(しら)べて見たが、更に異狀はない、矢張(やは)り

「變(へん)ですね」と云ひながら下りて來るより外はなかつた。

[やぶちゃん注:「汚穢屋(をわいや)さん」文化式溜め便所の汲み取り屋さんのこと。私が小学生六年生頃には、今住んでいる家の旧家屋には、近くのお百姓さんが、桶を担いで、汲み取り、お百姓が、お金を払って買って行かれていた。私は三十二歳で結婚して家を新築するまで、ぽっとん便所だった。今や、それを知らない若者が多くなったな。

「猿喉水月」「欲に駆られて身のほどを忘れ、命を落とすこと。」の喩えで、仏語。猿猴は猿こと。昔、インドの波羅那(ハラナ)城で、五百匹の猿が、樹下の池の面に映った月を取ろうとし、互いに他の猿の尾をつかんで高い枝を下りて池に臨んだが、遂には枝が折れて、皆、水に落ち、溺れ死んだ、という故事で、仏陀が比丘たちを戒めたと伝える、東晋の仏書「僧祇律」(そうぎりつ)の載る。単に「猿猴が月」とも、また「猿猴の水の月」猿猴が月に愛す」「猿猴月を取る」とも言う(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「切下(きりさ)げ髮」髪の毛を首のつけ根のあたりで切りそろえ、束ねて後ろに垂らしておく髪型。中国で夫の死後、操(みさお)をたてるためにした髪の模倣で、多く未亡人が行ない、大正時代頃まで行なわれた。「下げ毛」「切髪」「切り下げ」とも言う。

「紋羽二重」(もんはぶたへ(もんはぶたえ))は「紋織りの羽二重」。文様を浮き織りにした羽二重(平織りと呼ばれる 経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。

「被布(ひふ)」着物の上に羽織る上衣。襠(まち)があり、たて衿(えり)と小衿がつき、錦の組み紐で留める。江戸時代、茶人や俳人などが着用して流行し、後、一般の女性も用いた。おもに縮緬・綸子(りんず)などで作る。]

 

         

 

 其の翌日、精太郞が不意(ふい)に居なくなつた。丁度午後の四時頃の事、お君(きみ)が臺所(だいどころ)で煮物(にもの)をしてゐると、表へ廣告(くわうこく)の樂隊が來た、煮物の傍(そば)に居た精太郞は急いで飛んで出た、それまでは判(わか)つてゐる。

 が、その樂隊(がくたい)が遠くへ行つて了つても、精太郞(せいたらう)は戾(もど)つて來なかつた。

「精坊や、精坊や」とおきみが呼んだのはものゝ二十分も經(た)つてからの事、が、どこにも精太郞の返事(へんじ)は聞こえなかつた。

 お君はすぐに裏(うら)二階(かい)に上つて見た、併(しか)しその裏二階にも居ない、さあ心配(しんぱい)になつて來た、煮物は打棄(うつちや)らかして、おきみは往來(わうらい)へ出て見た、通りの方へも行つたし河岸通(かしどほ)りをすつかり探(さが)しながら、其處にゐる子供(こども)たちにも聞いて見た、が、どうしても見えない、手近の交番(かうばん)へ行つて、其の事を話して置いて、まるで氣(き)ぬけのしたやうになつて戾(もど)つて來た。

 其處へ精一が會社(くわいしや)から戾つて來た。

 今度は夫婦で氣を揉(も)んで、精一は勤めに出る洋服(やうふく)を着た儘で可成(かな)り遠くまで探しまはつた、けれども到頭(たうとう)行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。])は知れない儘(まゝ)に夜は十時といふ時間になつて了(しま)つた。

 お君はもう泣(な)き倒(たふ)れて正體もないくらゐ、精一もボーツとなつて、女房(にようぼ)を勵(はげ)ます勇氣(ゆうき)もなくなつてゐた。

 穩(おだや)かな家庭が、急(きふ)にじめじめとした家庭になつて了つた。

 十時半(じはん)になつても、十一時になつても、二人とも寢(ね)ようとする氣(き)にもなれなかつた。

 夫婦の中に一粒種(つぶだね)、而(しか)もかけがへのない男の子を、あれだけに仕上(しあ)げてから、もうこれつきり顏を見る事が出來ないのかといふ心持に二人ともなつてゐた。

 十二時といふ時間(じかん)になつたので、二人はさらばかうもしてゐられない。

「なあに、明日(あした)になつたら判るだらう、あの子は利口(りこう)な子だから迷見(まひご)になつても、多分こゝの町名(ちやうめい)番地(ばんち)をお巡査(まはり)さんに云ふ事が出來るだらうから、そしたら何(なん)とかして誰れかゞ送(おく)つて來てくれるに違ひない」と精(せい)一はお君に氣休(きやす)めを云つて、一先(ま)づ床(とこ)につく事にした、お君(きみ)とてもそれだけの事は判(わか)つてゐるが、それは只氣休めだ、氣休めで自分の心(こゝろ)を押(おさ)へるとあとからあとからと怖(おそ)ろしい想像(さうざう)が攻めつけて來るので寢(ね)ても寢ても寢つかれない。

 一時の時計の音(おと)も耳に響(ひゞ)いた、二時も判(わか)つてゐた、その二時が打つて二人が溜息(ためいき)をしながら寢がへりをした時、二人は外(そと)で

「お母さん」といふ聲(こゑ)を聞いた。

 夫婦は一齊(せい)に枕(まくら)を上げた。

「お母さん」と又(また)一聲(こゑ)。

「精坊かい」と夫婦は一緖(しよ)に飛び起きた。

「お父(とう)さん」

「おゝ歸(かへ)つて來たか歸つて來たか」と夫婦は一緖(しよ)に飛び出して戶を開(あ)けた。

 外には精太郞が滾(こぼ)れ落(お)ちるほどちらついてゐる星月夜(ほしづきよ)の下に悄然(せうぜん)と立つてゐる。

「どうしたんだ、どこへ行(い)つたんだ」

「まアよく歸(かへ)つて來ておくれだね」と左右(さいう)から手を取つて内へ入れると、精坊(せいばう)は到(いた)つて平氣な顏をして、

「僕ね迷兒(まひご)になつちやつたの、それで以(もつ)て困(こま)つてね、僕オーオーつて泣(な)いたの、さうすると二階の叔母(をば)さんが迎(むか)ひに來てくれたんだよ」といふ、夫婦(ふうふ)は此時ぞつと水を浴(あび)せられたやうな氣がした。

「そして二階の叔母さんはどうなすつて」

「今僕と一緖(しよ)に立つてたでせう、おや居ないや、お父(とう)さん、二階の叔母さんを閉(し)め出(だ)しちやいけないや、表(おもて)にゐるよ、きつと」と慌(あは)てゝ表の戶の際(きは)へ驅(か)けよつた、精一はそれに引かれるやうにして表の戶を開けたが、外(そと)は川水にうつる星(ほし)の光(ひかり)ばかりであつた。

「居ないや居ないや、二階(かい)の叔母さん」叔母さんと精太郞は狂氣(きやうき)したやうに外へ驅(か)け出(だ)さうとするのを父親がしつかり捕(つか)まへて、

「おいおい、折角歸つて來て又(また)飛(と)び出(だ)しちやいけない、早(はや)く中へ入つておいで」と引戾(ひきもど)す時、精太郞は急に廊下(らうか)の方を振(ふ)りかへつた。そして、につこりして、

「何だ、叔母(をば)さん、もうちやんと二階(かい)に上つてらあ」と安心(あんしん)した樣子をする。

 夫婦は顏を見合(みあは)せた、二階の叔母(をば)さんの正體を見屆(みとゞ)けるのはこゝだといふ心持。

「精坊や、叔母さんとこへお父さんたちを連(つれ)てつておくれ、お禮(れい)を云はなけれあならないから」と云(い)へば、

「あゝ」と優(やさ)しく返事(へんじ)をして精坊は先に立つて、とんとんと二階(かい)へ上る。

 夫婦がそのあとへ跟(つ)いて行つたが、二階(かい)はいつもの通り何の異狀(いじやう)もない。

「叔母さん、居(ゐ)ないぢやないか」

「居るよ、あそこにゐらあ、叔母(をば)さんありがたう」と精太郞(せいたらう)だけがどんどんとと床(とこ)の間へ進(すす)んでちやんとお辭儀(じぎ)をする。

 又しても夫婦(ふうふ)はぞつとした、もうそこに立つてる空(そら)はなかつた。

 翌朝(よくてう)になつておきみが勝手口(かつてぐち)で出あひがしらに隣(となり)の内儀(おかみ)とばつたり出逢つて、

「昨日(きのふ)はどうもお世話樣(せわさま)でございました、お庇(かげ)で昨晚遲がけに歸つて來ました」と禮(れい)をいふと、

「そんな樣子(やうす)でございましたね、それにしてもよくお歸(かへ)んなさいましたわね、どこに行つてらしたんでございます」

「矢張り迷兒(まひご)になつたんださうでね」とありの儘の話をすると、内儀は變な顏して、身慄ひをしたが、

「それぢや矢張り出(で)るんでございますか」と云つた。

 これが話の緖(いとぐち)になつて、隣(となり)の内儀の目からほぐれた話は、忽(たちま)ち二階の叔母さんの謎(なぞ)を解(と)いた。

 それは七八年の前までこの家に住んでゐた淺田(あさだ)といふ一家の人々の事である、夫婦(ふうふ)に子供一人それに老母と合せて四人家内(にんかない)であつたが、八年ほど前に夫婦が流行病(りうかうびやう)にかゝつて殆(ほと)んど三四日前後したくらゐで死(し)んだ、あとは子供一人と老母一人、尤(もつと)も當分(たうぶん)食(た)べて送るだけの貯(たくは)へはあつたらしい、老母(らうば)が孫(まご)一人を大事にかけて一年ほどもこの家で暮(くら)した、孫はその時十五ぐらゐになつてゐたので、あと四五年も辛抱(しんばう)して仕込めば、どうにか稼(かせ)いでくれる、それを樂(たの)しみにして、まアまアそれまでのつなぎはつけられさうだから、と、貯金(ちよきん)の利子(りし)と恩給(おんきふ)で暮してゐたらしいが、その孫が又しても一年目に兩親(りやうしん)のあとを追(お)つた、矢張り流行病である。

 ひとりぼつちになつた老母(らうば)の力落(ちからおと)しはいふまでもない。

「今貴女の仰(おつし)やる通り、切髮でね、披布(ひふ)を着て白足袋を穿(は)いた品(ひん)のよいお方でしたが、每日々々お墓詣(はかまゐ)りばかりしながら私は何の爲めに世の中に生殘(いきのこ)つてゐなけれあならないんでせうと云ひくらしてゐらつしやる中(うち)、お二階の軒(のき)の梁(はり)に紐(ひも)を釣(つる)して首をくゝつて死んでおしまひなすつたんですよ」と内儀(おかみ)は凄(すご)い顏をして說明した[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「私はその姿を見ましたので今でも目(め)をつぶるとあれがはつきり目の前に浮びますが、本當(ほんたう)にお氣の毒だと思(おも)ひました、それからこつち、此處(ここ)の家はどうも越して來る人が長續(ながつゞ)きしないんですよ、何でも裏二階で始終(しじう)お念佛(ねんぶつ)の聲がするんですつて、今だから申しますが、お宅(たく)で越(こ)してらつした時にも何か變(かは)つた樣子(やうす)が起るだらう起るだらうつて、近所で噂(うはさ)をしましたの」

「道理で、私どもを覗(のぞ)き込(こ)む人が多かつたんですわね」

「え、左樣(さう)でございます、それが一向(かう)平氣(へいき)で落ちついていらつしやるでせう、だから、幽靈(いうれい)ももう七年忌(ねんき)がすんだから諦(あき)らめたのかしらなんてね、皆で蔭口(かげぐち)を申して居りましたわ」

「まアさういふわけですか、して見(み)ると、私どもの家族(かぞく)が矢張り夫婦に子供一人だものですから[やぶちゃん注:行末で禁則処理が組版上、出来ないため、読点が、ない。]自分の孫(まご)のつもりで私らの坊(ぼう)やにだけ自分の姿を見せて始終(しじう)庇(ば)つてくれるんですね」

「どうもさうらしうございます、さう云(い)へば思ひ當(あた)る事がありますわ、七年の間(あひだ)に、約そ[やぶちゃん注:「およそ」。]何十人といふ人が越(こ)して來ましたが、十四五から下のお子さんのいらつしやる一家(か)は只一度でしたがね、その方がいらつしやる間(あひだ)は少しも念佛(ねんぶつ)の聲も聞こえないし、内の方も平氣(へいき)でいらした樣子です、それでたしか三四年も住(す)んでいらしたでせう、他(ほか)の家(うち)は大抵(たいてい)三月が關の山ですもの」

「その方(かた)はどうなすつたんです」

「御主人が地方へ轉任(てんにん)とかをなさるについてお引上(ひきあ)げなすつたんです」

「まアさうですか、それでやつと判(わか)りました、私どもでも坊やが時々(ときどき)變(へん)な事を申しますので、不思議だ不思議だと云(い)つて居(を)つたんでございます、でも、そのお婆さんの魂(たましひ)が自分の孫(まご)のつもりで私どもの坊を守(まも)つて下さるんですわね」

「え、さうなんですよ、多分(たぶん)お子さんのいらつしやらない御(ご)一家(か)が住んでると幽靈(いうれい)が淋しいとでも思(おも)ふんでございませうよ」

「何にしても、不思議(ふしぎ)な事があるものですね、それにこんな事(こと)があるので家賃(やちん)も安いんでございませう、どうも安(やす)すぎると思ひましたわ」

 とおきみは、薄氣味(うすきみ)の惡いやうな、安心したやうな心持になつて、早(はや)く話(はな)してやりませうと良人(をつと)の歸りを待受(まちう)けた。そして例の通り二階へ遊びに行つてゐる精太郞のうしろ姿を水口の前から見上げて變(へん)な氣持(きもち)になってゐた。

                       ――これは二十數年前橫濱にあった話  

[やぶちゃん注:「交番」に精一が行くという表現があるが、当該ウィキによれば、明治七(一八七四)年に『東京警視庁が設置され』た年に『巡査を東京の各「交番所」(交番舎)に配置した。当初は施設を伴うものではなく、巡査が警察署から徒歩でパトロールを行いながら、交代で立番(りつばん)などを行なう場所として指定された地点を示した』が、同年の八月には、『「交番所」に設備を設置して周辺地域のパトロールなどを行う拠点』としたとある。しかし、明治一四(一八八一)年には、『「交番所」から「派出所」に改称された』とあり、「派出所」の正式名称が「交番」に再決定されたのは、平成六(一九九四)年であるとある。しかし、本篇の雰囲気は、凡そ明治七年から同十四年の雰囲気ではない。第一、私は昭和三二(一九五七)年生まれだが、幼年期・少年期を通して、私は「派出所」という言い難い呼称を使った覚えは、一度も、ない。総て「交番」であったし、そう認識していた。「廣告の樂隊」というのが、やや古い印象を与えるようにも思われるが、これは所謂、「チンドン屋」ではなく、中規模の西洋楽器を用いたそれで、明治中期には行われており、本書の初版は昭和九(一九三四)年刊であるから、最後の蘆江の附記から、明治四一(一九〇八)年前後が話柄内時制であると考える。則ち、本書の中でも、ごく近代の実話が元なのだと断ずるものである。則ち、私のブログカテゴリ「怪奇談集」「怪奇談集Ⅱ」全篇の中でも、最も現在に近い、しかも、子どもにだけ見え、子どもを愛し、守るところの老女の霊の哀話にして、正統な都市伝説(アーバン・レジェンド)の古層の逸品として、私は、すこぶる好きな一篇なのである。

「蘆江怪談集」 「縛られ塚」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。なお、本篇は冒頭に以下の通りあるように、前回の実話怪談「惡業地藏」ように、実話談を元にして創作されたものである。標題は「しばられづか」と読んでおく。

 なお、冒頭の作者の附記は、ポイント落ちで五字下げ二行下インデントであるが、プラウザの不具合を考え、一行字数を減じた。読み難くなるので、ポイントは少しだけ落とした。]

 

 

    縛 ら れ 塚

 

 

     別項「惡業地藏」に書いたやうな實話から
     生み出したのが、この一篇です。私の小說
     の種明しといふ意味で、採錄して置きます。

 

         

 

「法華宗(ほつけしう)のお堂と見かけてお賴(たの)み申(まを)します。病ひの爲めに難澁(なnじふ)いたして居りますもの、しばらくの間板緣をお貸(かし)し下さい」と旅の僧は脇腹(わきばら)を片手でおさへながら云つたが、堂(だう)の中からは返事がない。

「お賴み申す、お賴み申す」とくりかへしたが何(なん)と答(こた)へる人もない。

 旅僧(たびそう)はもう苦しさに堪(たへ)られなくなつたらしい、お堂の前の賽錢箱(さいせんばこ)の橫にぺたりと腰(こし)を落し、片手を賽錢箱(さいせんばこ)へかけてぐつたりとなつた。それから二聲三聲呻(うな)り聲をあげて、その儘息も絕(た)え絕(だ)えになつた。

 お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂で、時(とき)は秋(あき)のはじめの晝さがりであつた。

 旅(たび)の僧(そう)がぐつたりとなつたあと、何程も經(た)たぬ時分にこの堂(だう)の前を通りかかつたのは炭燒(すみやき)の杢助(もくすけ)、何の氣なしに旅僧の倒(たふ)れた姿(すがた)を見つけて抱き起したり、介抱(かいはう)をしたりすると、漸(やうや)く細々と目をあいた。

「お坊(ぼう)さん、どうなされたな」

「ハイ」

「氣がつかれたか、私はところのものぢや、お氣分(きぶん)でも惡(わる)いかな」

「ハイ、ありがたうござります、持病(じびやう)の癪(しやく)がさし込みまして身動(みうご)きもなりませぬ、少しの間ここへ休(やす)まして頂(いたゞ)くつもりで腰を下しましたまではおぼえて居(を)りましたが――」[やぶちゃん注:「癪」多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部、或いは、腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。]

「ほう、それからあとは判(わか)らなくなつたと仰(おつし)やるのか、併(しか)し、よいところへ私が通り合はせました。もう少(すこ)しでも遲(おそ)かつたらどうにもとりかへしがつかなんだかも知(し)れぬ、兎に角、まだ本當(ほんたう)の囘復(くわいふく)ではなささうぢや、この堂(だう)の中で心おきなく養生をなさるがよい」と杢助爺(もくすけぢい)は旅僧の手を取つて、堂の奧へ入れたり、氣付けの藥(くすり)などをどこからか運(はこ)んで來て手厚(てあつ)い介抱(かいはう)をしてやつた。

「ありがたうござる、もう大丈夫(だいじやうぶ)でござります。飛(と)んだ御造作(ござうさ)に預(あづ)かつて、お禮の申し上げやうもござらぬ」と少(すこ)し元氣(げんき)が出ると、今にも立上りさうにする。

「これこれ、その樣な輕はずみをして、又道中で再發(さいはつ)したらどうなさる、幸(さいは)ひここは住む人のないお堂ぢや、幾日(いくにち)でも心置なく養生(やうじやう)して行きなさい、殊(こと)によつたら、お前さまの御都合で、いつまでも堂守(だうもり)をして下さるがよい」

 なるほど無住(むぢう)らしい。と、旅の僧はあたりを見(み)まはした。

「ここの住職(ぢうしよく)は半歲[やぶちゃん注:「はんとし」。]ほど前から行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])が判(わか)らなくなつたのでな、その時以來、このお堂も無住(むぢう)の儘で立ちぐされになつて居りますのぢや。併(しか)し、御本尊(ごほんぞん)もその儘(まゝ)にある事ぢやし、折角の御堂(みだう)の事ゆゑ、私が折々見まはつては掃除(そうぢ)もしたり、炭小屋で寢にくい時はここで寢泊(ねとま)りもする事もありますわい。まアまア今(いま)では私の爲めに出來てゐる寮(れう)のやうなものぢや、いつその事、お前樣(まへさま)が住みつづけて、お堂守(だうもり)をして下さると、結句(けつく)、兩爲め[やぶちゃん注:「りやうだめ」。]といふものではあるまいか」と云つた。

「先住(せんじう)の行方(ゆくえ)はどうしても判りませんか」

「ハイ、少し樣子が變(へん)だと思はないでもなかつたのでございますから、まア、氣が狂うたのぢやな、そしてうかうかとここを飛(と)び出(だ)したものかと思はれまする、尤(もつと)も飛び出すところを誰れも見屆けたわけではないが、いつもここでお勤(つと)めをしてゐた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の人が、ひよつくり居なくなつて、その儘、半年も月日(としつき)が經(た)つて見れば、まア、氣が狂うて飛び出したものとでも見(み)るより仕方(しかた)がありませんな」

 旅僧は默(だま)つて聞(き)いてゐたが、その内に日(ひ)は暮(く)れかかる、今から山路(やまみち)にもかゝれぬので「兎に角それではお言葉に甘(あま)えて、少しの間このお堂に居させて頂(いたゞ)きませうわい。私は房州船形(ぼうしうふながた)から參つたものぢや、妙兼(みやうけん)と申す尼(あま)でございます」と名乘つた。

「ほゝ、尼樣(あまさま)でござつたか、道理でどことなく物言(ものい)ひの優(やさ)しいお人ぢやと思ひました。それではまア、一先(ま)づここで落付く事にして下され、あとで私の小屋に預(あづ)かつてある臺所道具(だいどころだうぐ[やぶちゃん注:底本は「だうぐ」は「たうぐ]であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。])や諸道具(しよだうぐ)も一通り運んで置いて進(しん)ぜる」と親切(しんせつ)さうに杢助(もくすけ)は炭燒小屋へ駈(か)け出(だ)して行つた。

[やぶちゃん注:「房州船形」現在の千葉県館山市船形(ふなかた:清音。グーグル・マップ・データ)。]

 

          

 

 一人お堂に殘(のこ)つた妙兼尼(めうけんに)は、先づ堂の中をそこここと見まはした。お堂の中の須彌檀(しゆみだん)のうしろ手に三尺にも足らぬ厨子(ずし)が据(す)ゑてある。妙兼は厨子の前に鄭重(ていちよう)に禮拜(らいはい)してそつと扉(とびら)をひらいた。

 そして扉の中を覗(のぞ)いた妙兼は思(おも)はずハツと飛びすさつた。眞暗(まつくら)な中に白蛇(はくじや)がこんもり高くとぐろを卷いてゐる。妙兼(めうけん)は扉をぴつたり閉(し)めると、兩手を合はして題目(だいもく)をくりかへした。

 が、暫(しば)らくしてから何となく考へた。扉をあけた機(はづ)みに、ちらりと見た本尊(ほんぞん)を正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]とぐろを卷いた白蛇と思つたが、よくよく考へて見ると、どうも白蛇としては合點(がてん)のゆかぬ形でもある。

「ハテ、薄暗(うすくら)がりに慌(あは)てて居つたので、見損(みそこ)なひかも知れぬ」と獨(ひと)り言(ごと)をいひながら、妙兼は又こつそり扉(とびら)へ手をかけた。

 今度は一心に題目(だいもく)を唱(とな)へ、目を見据(みす)ゑるやうにして、そろそろと扉をあけると、白蛇(はくじや)ではなかつた。

 ぐるぐるとうづ高く卷上げた荒繩(あらなは)であつた。併(しか)し卷上げた荒繩のかたまり、それが何でこの厨子(づし)へ入れてあるのかと妙兼(めうけん)は小首をひねつた。

 どう考(かんが)へても判らない、判らない儘に、手燭(てしよく)をかざして厨子の中側(なかがは)を仔細(しさい)に見ると、又ちがつた。

 荒繩(あらなは)のかたまりと思つたのは、さうばかりでもない、どうやら荒繩の内側に何ものか卷(ま)き込(こ)めてあるらしい。

 と見、かう見してゐる間(うち)に、荒繩(あらなあ)にはほぐれ小口があつて、それが厨子(づし)の扉の方へ長くつき出てゐる。その小口を一寸(ちよつと)引(ひ)くと荒繩のかたまりは上の方からずるずるとくづれさうになつた。繩(なは)のくづれた下には靑黑(あをぐろ)いものが見える。[やぶちゃん注:「小口」(こぐち)は「切断面・切り口」の意。]

 とだけで、まだ正體が知れぬので、妙兼(めうけん)は鄭重(ていちよう)に荒繩を解(と)きはじめた。

 さて、上の方から解(と)きほごして見ると、今妙兼の目前(もくぜん)の厨子の中に鎭座(ちんざ)してゐるのは二尺に足(た)らぬ自然石(しぜんせき)を彫(ほ)つた一基の石塔(せきたふ)であつた。

「石塔がどうしてこんな事に」と妙兼は只々(たゞたゞ)呆氣(あつけ)にとられた。

 厨子こそ堂(だう)の床[やぶちゃん注:「ゆか」。]の上に區切(くぎ)つてはあるが、厨子は底(そこ)なしで、石塔は床下から立つてゐるが、その石碑(せきひ)を荒繩ですつかり縛(しば)り上(あ)げてあるといふ。[やぶちゃん注:文末は不全。「上げてあるといふ按配である。」或いは「上げてあるのである。」ぐらいがよかろう。]

「妙な事をしたものぢや、一體何の因緣(いんねん)で、このやうに荒々(あらあら)しい事をしたのであらう」と獨(ひと)り言(ごと)を云つてゐたが、石塔を縛り上げるなどの所由(いはれ)はどう考へても判(わか)らなかつた。

「兎に角、出家にあるまじい事ぢや、かうして私(わたし)の目に見た以上(いじゃう)は、何が何であらうと解(と)いてやる事にしませう」と妙兼(めうけん)はそつと繩の小口(こぐち)をほごして行つた。

 荒繩(あらなは)をすつかりほごして、石碑(せきひ)の面(おもて)を撫(な)で𢌞してゐたが、手燭(てしよく)の火に石碑の表をすかした妙兼は又更に驚(おど)ろかされた。

 石碑の表は「丑年(うしどし)の女、俗名(ぞくみやう)おかね」と大きく彫(ほ)つてある、いそいそとうしろヘ𢌞(まは)ると、裏には「伊豆稻取(いづいなとり)の出生」とだけ。

「わたしの石塔ぢや、わたしの石塔を一體(たい)誰(だ)れが建(た)てたのであらう、建てたばかりでなく、何故縛つたのであらう、縛る爲めに建(た)てたのか、何れにしても容易(ようい)ならぬ沙汰(さた)ぢや」と、妙兼は題目(だいもく)を唱へながら塚の前に突立(つゝた)つてゐた。

 

         

 

「どうぢや、馴(な)れぬ塒(ねぐら)で寢られなかつたぢやろ」と翌朝(よくてう)早々(さうさう)とやつて來た杢助(もくすけ)に、

「杢助さん、一體(たい)先住(せんぢう)といふ人は、どのやうな人でござつたのぢや」と妙兼は聞いた。

「先住(せんぢう)かな、日道(にちだう)さんというて、元は伊豆(いづ)の人ぢやさうなが、默(だま)つてばかりゐる人ぢやつた。何でも以前は瀨戸物師(せとものし)とやらでな、このお堂に籠(こも)ると其日から朝晚のお勤(つと)をしたあとは一心に瀨戶物ばかりをして居られたやうぢや、それそれ、うら手に今でも瀨戶物燒(せとものやき)のかまが殘(のこ)つて居りますがな、瀨戶物もなみの皿(さら)茶碗(ちやわん)は燒かんで、女の姿の人形(にんぎやう)ばかり造つては燒いて居つたが、おしまひに氣(き)に入(い)つた人形が出來たと見えて、それはそれは私へも自慢(じまん)にして見せましたな」

「その人形(にぎやう)はどうしましたえ」[やぶちゃん注:最後は「へ」であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。]

「さあさあ、あとを聞(き)きなさい。その造(つく)り上げた人形に何(なん)でもおかねといふ名をつけてな、大層(たいそう)大事にかけて居(を)りましたわい」

 妙兼は目を異樣(いやう)に輝(かゞや)かして、杢助爺の顏を見つめた。杢助爺は一向(かう)無頓着(むとんちやく)に、

「その人形が出來てからといふもの、それをすつかり活物扱(いきものあつ)かひにしましてな、始終(しじう)獨(ひと)り言(ごと)を云つては喜(よろこ)んで居りましたわい」

「どのやうな事を云うて居(を)りましたな」

 私が何の氣なしにこのお堂の側(そば)を通(とほ)りかゝるとな、おいおかねや、さあかうなつたら、私の側から逃(に)げ出(だ)す事はなるまい。逃げるなら逃げて見やれ、元々(もともと)は私(わし)の手で造(つく)つた人形ぢやが、今ではおぬしの魂(たましひ)がしつかり籠(こも)つて居る。私の目から見れば、活(い)きて居るおかねなのぢや。見事(みごと)、活(い)きてゐるおかねどのなら、私の手から逃げる氣ぢやらう。さあ、逃げて見(み)い、逃げられるなら逃げて見なされと、どうかするとなあ、それはそれは物凄(ものすご)い顏をして人形を睨(にら)みつけて居る時もありましたな、ある時(とき)などは、あんまり呶鳴(どな)り聲が高いので、本物(ほんもの)の人間が居るのかと思うて、破目板(はめいた)からそつと覗(のぞ)いて見ましたら、なあに、やつぱり人形(にんぎやう)を相手のくり言(ごと)ぢや、そのおかねどのをな、かう橫抱(よこだ)きにきつと抱きしめてな、ぎらぎら光る目で睨(にら)みつけながら、くりかへして居りましたが、段々(だんだん)くりかへしてゐる中にぼろぼろと大粒(おほつぶ)の淚(なみだ)をこぼして、泣(な)き伏(ふ)して了ひました。何しろ妙(めう)な坊(ぼう[やぶちゃん注:ママ。])さんでござんした――」

 妙兼は聞いてゐる中に、顏色(かほいろ)が變つて來た。杢助(もくすけ)の目をぢつと見たままで返事(へんじ)さへしなくなつた。と思ふと、額際(ひたひぎは)ににじみ出る汗(あせ)は玉のやうにタラタラと、果(は)ては顏一面に流れるほどであつた。

「妙兼さん、どうかしましたか、又(また)氣分(きぶん)でも惡(わる)くなつたのか」

「いえ、何(なん)ともない、それでどうしました」

「それでな、さうかと思(おも)ふと、大層(たいそう)優(やさ)しくなつて、人形を相手に、おかねどんや、御飯(ごはん)にしようかの、お茶(ちや)でもいれやうかのつて、仲(なか)よく話しをしてゐる時もあります。それが、機嫌(きげん)よく話をしてゐるかと思ふと、よいがよいにならんのでな、忽(たちま)ち風向(かざむき)が變つて來るし、ある時は、ものをひやかしでもするやうに、ヘヘヘ、活(い)きた人間を相手(あひて)にするから、捨(す)てられもする、嫌(きら)はれもする。今宮(いまみや)の來山(らいざん)ではないが、人形を相手にして居れば、第一に嫌(きら)ふ氣(き)づかひがない、寢(ね)かさうと思へば寢(ね)る、起さうと思へば起きる、何(なに)から何まで私の心の儘(まゝ)ぢや、のう杢助爺(もくすけぢい)さん。などと上機嫌の時もあります。いやはやどうも、他愛(たあい)もない人でござつた」

「それがどうして行方(ゆくえ)も知(し)れなくなつたのでござんす」

「さ、それは私(わし)にも分らんのぢや」

「一體(たい)そのおかねさんといふのは」と妙兼は云ひかけて、杢助(もくすけ)の顏をぢろぢろと見ながら、

「おかねさんといふ女に、日道(にちだう)さんとは、どういふ關係(くわんけい)になつて居つたのぢや」

「さあわしは日道さんから、これこれの次第(しだい)と聞いたわけぢやないのでよくは知(し)らんが、何でもその日道さんが、俗人(ぞくじん)であつた折に、從妹(いとこ)にあたる女におかねといふ人があつて、そのおかねどんにぞつこん惚(ほ)れたものと見えますな、ところが、そのおかねは別(べつ)にいろ男でも出來たか、日道(にちどう[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。])さんをふり捨て逃げて了(しま)うたものぢや。それからといふもの、日道さんは、すつかり世(よ)の中(なか)を味氣なく思つた揚句(あげく)が、坊さんになんなすつたものらしい、それでも發心(ほつしん)が出來ぬからして自分(じぶん)の在所を飛び出し、諸國(しよこく)を經(へ)めぐつた揚句8あげく」、この土地へ足をとめる因緣(いんねん)になつたわけぢやと思はれますな。坊さんになつても思(おも)ひ切(き)れずに、切(せ)めて人形に名をつけて、よしない心やりにして居られるのでありませう、それにつけても相手(あいて)のおかねさんとやら、よくよく邪樫(じやけん)な仕打(しうち)ぢや、今頃はどこにどう暮(くら)してゐる事か、何でも日道さんの獨(ひと)り言(ごと)の口ぶりでは、其のおかねさんは色男(いろをとこ)が出來た爲めに、許嫁(いひなづけ)であつた日道さんを振り捨てて色男と一緖(しよ)につつ走(ぱし)つたものらしいが、どうせ許嫁をふりすてる位(くらゐ)の女ぢや、今頃(いまごろ)はどこかで色男に捨(す)てられて、女郞(ぢやらう)にでもなつて居るかも知れませぬなあ」

 杢助は屈托(くつたく)もなささうに云つたが、妙兼(めうけん)は笑ひ顏一つ見せず、ものも云はずに考(かんが)へ込(こ)んでゐたが、

「杢助さん、それで日道(にちだう)さんとやらは行方が判(わか)らなくなつたとしても、その人形といふのはどうなりましたえ」

「さあ、それも私には判(わか)らんのでな、尤(もつと)も、日道(にちだう)さんが、いよいよお堂を立退(たちの)いたと判つた時にどこかに行方(ゆくえ)の手がかりでもあるかと、隅(すみ)から隅まで探(さが)しまはりましたが、人形をどこへ藏(しま)ひ込(こ)んだか、それともお堂を出る時、自分の手の中にしつかり抱(だ)いて去(い)つたか、さらに樣子(やうす)は判りませぬ。尤(もつと)も人形といふのも、見つかつたところで滿足(まんぞく)な人形ではござらぬ。日道(にちだう)さんが居なくなる少し前の事ぢやから、さうさな、去年(きよねん)の秋(あき)ぢや、私がこの窓下(まどした)を通りかかりますとな、やい薄情(はくじやう)もの、强情(がうじやう)ものめ、人形にまで性(しやう)をうつして、私を捨(す)てやう[やぶちゃん注:ママ。]とするのか。と大聲をあげたのを橫恵手の窓(まど)から私がそつと覗(のぞ)いて見るとな、日道さんは人形(にんぎやう)を膝(ひざ)の下に敷いて、兩手で人形の咽喉佛(のどぼとけ)をぐいぐと押(お)し伏(ふ)せて居りますのぢや、けふは少し手荒(てあら)いなと思うて居る中(うち)、怖(おそ)ろしい聲を出して、握(にぎ)り拳(こぶし)で人形の頭をグワンと叩(たゝ)いたのが、一心ぢやな、おかねさんの橫面(よこめん)から肩(かた)ぶしにかけて滅茶々々(めちやめちや)に破(こは)れました。そして人形の顏(かほ)が血(ち)みどろになりましたな」

「人形から血(ち)が出ましたか」

「いや、人形から出たのではない、日道(にちだう)さんの握り拳がくづれて血を吹(ふ)いたのぢや、物凄(ものすご)いほどの血糊(ちのり)ぢやつた。私もびつくりして思はず知らず庵室(なか)へ飛び込みましたわい、あとで考へて見れば可笑(をか)しな話ぢやが、私にしても、相手(あいて)を人形とは思つてゐられなくなりましてな」

「其時に氣(き)が狂(くる)うたのかえ」

「いや、其時はまだ正氣(しやうき)ぢやつた、只(たゞ)人形(にんぎやう)を見つめてゐる中に、人形がものを云う[やぶちゃん注:ママ。]たらしいのぢや、あれだけに魂を吹込(ふきこ)まれた人形なら、何かの拍子(へうし[やぶちゃん注:ママ。])でものを云はんとも限(かぎ)らぬからなあ、それで人形のものの云ひ方が、よくよく氣(き)にさはつたのぢやろ。飛(と)び込(こ)んだ私が段々と宥(なだ)めてやると一旦は心持が納(をさ)まつた、あとはしくしくと泣(な)いてゐなすつたが、人形の缺片(かけら)をつき合せたり、拾ひ集めたりしたあげ句(く)の果(はて)が、おかねを弔(とむ)らうてやらうと言ひ出してな、それで後(あと)とも云(い)はず、その場から石(いし)を切(き)つて、石塔の表もうらも自分の手で彫(ほ)り上(あ)げてな、人形塚(にんぎやうづか)を建てたのぢや、その人形塚といふのが、――」と杢助(もくすけ)が云はうとするのを、

「判(わか)

りました、その人形塚がこのお厨子(づし)の中でござんしよ」

「ハイハイ、お前さまはそれではもう御覽(ごらん)になりましたな」

「うむ、それで人形塚を祀(まつ)つたいはれは判(わか)りましたが、あの塚(つか)を、まア、むごたらしいがんじがらみに縛(しば)つてあるのはどうしたわけでござんす」

「さあ、その事は私(わたし)にも判(わか)りませぬ。いつ頃(ごろ)どういふわけで、あんな事をしたものか、判らぬがああして人形を叩(たゝ)きこはした時の事から思ふと、ああして石塔(せきたふ)にまでした人形が、やつぱり石塔になつての後も尙、日道さんの手許(てもと)を逃(に)げ出しさうな樣子ぢやから、ああして縛(しば)つたものではないかと思ひます。人形に籠(こも)つてゐる女の一心が恐(おそ)ろしいのか、その女を思(おも)ひつめてゐる日道さんの一心が恐(おそ)ろしいのか、いやどうも物凄(ものすご)い話ぢや、此上は、お前(まへ)さまにまでその日道さんの生靈(いきりやう)がとつつかぬとばかりは云(い)はれぬ、どうぞお厨子(づし)にさはらぬやうに、況(ま)して、石塔に指(ゆび)でもさはらぬやうにして下され」とくりかへしくりかへし云つて、杢助(もくすけ)は、身慄(みぶる)ひをしながら出て行つた。

 

         

 

 杢助のうしろ姿を見送(みおく)ると、やがて妙兼(めうけん)は厨子の方へふりかへつた。

 妙兼の顏は眞靑(まつさを)になつてゐる。その眞靑な顏は眞直(まつすぐ)に石塔(せきたふ)を見すゑて座(ざ)を占(し)めた。

「丑年(うしどし)の女、おかね」と石碑(せきひ)の表を聲に出して讀(よ)み上(あ)げた。

「日道、日道」と又(また)云(い)つた。

 そしてあとは目を瞑(つぶ)つて默々(もくもく)と石塔の前に端座(たんざ)した。晝になつても晝下りになつても、もの一つ食(た)べようともせず、どこへ行く樣子(やうす)もなく、ただぼんやりして石塔を見つめた。正(まさ)に釋迦趺坐(しやかふざ)といふのである。日は追々(おひおひ)西(にし)にまはつて、只さへ暗(くら)い堂の中はもう人顏(ひとかげ[やぶちゃん注:ママ。])も見分ぬほどになつた、それでも妙兼(めうけん)は動かなかつた。

 初秋の雲は低(ひく)くお堂の緣(えん)へ垂(た)れて、石塔の苔(こけ)が鬼火(おにび)のやうにちらつきはじめた。今、大宇宙(だいうちう)の惡鬼妖魔(あつきようま[やぶちゃん注:ママ。])が天地の間に徘徊(はいくわい)するといふ逢魔(あふま)が時である。

 妙兼の心の中には惻々(そくそく)として鬼氣(きき)が食入つたにちがひない。

「日道さん」と悲痛(ひつう)な聲が出た。

「日道さん、岩(いは)五郞(らう)さん」と、もつと强(つよ)い聲で呼(よ)んだ。

「お前さんはどこまでも執念深(しうねんぶか)いんです、なるほど私はお前さんといふ許嫁(いひなづけ)をふり切つて、甚四郞さんと夫婦(ふうふ)になりました、なつた事(こと)はなつたが、お前さんにそれほどまで恨(うら)まれる覺えはありません。お前さんと私の間は許嫁(いひなづけ)といふだけで、夫婦の盃(さかづき)を交(かわ)したわけではなかつたんです。況(ま)して私は、お前さんのおもはく通り、甚(じん)四郞(らう)さんに捨(す)てられて今では一人ぼつちになつてゐる身體です。ましてお前さんも坊主(ばうづ[やぶちゃん注:ママ。])、私も坊主、坊主同士になつて何のいがみ合(あ)ふ事(こと)があるでせう。一體(たい)何(なん)の爲めにお前さんは坊主になつたんです。何の爲めにこんなお堂にまで住(す)む身體(からだ)になつたんです」

 尼(あま)の聲(こゑ)はだんく强くなつた。そして眞暗(まつくら)なお堂の中で、ぢりぢりと(ひざ)膝を進(すゝ)めた。

 進んだ膝がお厨子(づし)の中へ入ると、膝がしらが床(ゆか)からトンと外(はづ)れた。そして妙兼の身體は床下へ落ちこんだあふりで前(まへ)のめりになつて、繩(なは)を半分ときかけた儘(まゝ)の石塔へしつかり抱(だ)きついた。が、捨て身でよりかかつた妙兼の身體(からだ)を支(さゝ)へるには石塔(せきたふ)のまはりがあまりにぐらぐらであつた。妙兼は白分の石塔と一緖(しよ)にどさりと橫倒(よこだふ)しに倒れた。

「畜生め、岩五郞の畜生(ちくしやう)め、そつちがその氣(き)なら、こつちだつて、なあに、お前なんぞに引戾(ひきもど)されやしないぞ」と呻(うな)つた。

 呻ると共にぐつと起上(おきあが)らうとすると、起(お)きられない。手足をばたつかして、上體(じやうたい)をぐんぐん起さうとしたが、どうにもならない。妙兼(めうけん)は左の腕を石塔(せきたふ)の下に敷き込まれてゐたのであつた。

 敷(し)き込(こ)まれながら、妙兼は、

「畜生(ちくしやう)め畜生め」と云ひつづけた。そしてもがきつづけた。が、女の力では倒(たふ)れた石塔一つをどうする事も出來(でき)なかつた。

 到頭(たうとう)精(せい)も根(こん)もぬけ果てて、呻(うな)り聲(ごゑ)さへ立たなかつた。かうして夜は深々(しんしん)と更(ふ)けてゆく。

 朝になつて、杢助(もくすけ)がお堂の前を通りかかる時、かすかな聲(こゑ)が、

「杢助さん」と呼(よ)んだ。杢助は一寸あたりを見まはしたが、さて、外(ほか)に人のゐる筈(はづ)もないので、つかつかと堂の中へ入ると、厨子(づし)の扉は壞(こは)れ、厨子は半分(はんぶん)倒(たふ)れかかつてゐる。

「妙兼(めうけん)さん、妙兼さん」と呼びかけながら、厨子の中を覗(のぞ)き込(こ)むと、妙兼は石塔(せきたふ)の下から顏を半分出した儘(まゝ)で、

「杢助さん、この石塔をどけて下さい」と片息(かたいき)になつてゐる。

「何で又そのやうなところへ人つたのぢや。それだから私(わし)がどうぞ厨子(づし)にさはらぬやうにと云(い)つて置いたのに、厨子(づし)をいじるもんぢやから、そんな事(こと)になるのぢや。どれどれ待(ま)ちなされ。動くか動かぬか、一つやつて見(み)ませう」と石塔(せきたふ)に兩手(りやうて)をかけていろいろにいぢつたが、漸々(やうやう)の思ひで石塔が少(すこ)しゆれた。

 妙兼はほつとして、身體(からだ)を半分(はんぶん)起(おこ)し右手をつかつて塚の臺石(だいいし)につかまりながら、ぐんと起き(お)ようとすると、今度は臺石(だいいし)がガタリと搖(ゆ)れた。と思ふと、妙兼(めうけん)の身體は、ひらり飜(ふるが)へつて[やぶちゃん注:底本では、ここのルビは「ひるがへ」であるが、衍字と断じて、特異的に「へ」を除去した。]臺石の下へかくれ、影(かげ)も形ちも見(み)えなくなつた。

 杢助がびつくりして臺石(だいいし)のまはりをぐるぐるまはりながら仔細(しさい)に見ると、どうも臺石(だいいし)の下に穴(あな)が掘(ほ)つてあるらしい。妙兼(めうけん)が消えたのは、その穴の中に落(お)ち込(こ)んだものらしいが、さて塚(つか)の墓石を取(と)りのぞくまでには大分の手數(てすう)と力が要(い)つた。

 杢助は加茂(かも)まで一散(さん)に走つて、二三人の百姓たちを呼(よ)んで來ると、早速(さつそく)塚の臺石をとりのけて見た。塚(つか)の下から人形の壞(こは)れが出て來たのは當然(たうざん)だが、妙兼の身體も怪我(けが)をした上に生埋(いきう)めの有樣だつたので、掘(ほ)り出(だ)された時には人形同樣の壞(こは)れ方(かt)であつた。そして更(さら)にもう一つの不思議は、穴へ落ち込んだ妙兼の細腰(ほそごし)を大きな腕(うで)がしつかり抱(だ)いたやうにしてゐるのがちらと見え、妙兼を引上げるにつれて、その腕の主(ぬし)が、穴(あな)の中からずるずると出て來た。

[やぶちゃん注:「加茂」冒頭で、「お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂」とあったから、これは、伊豆半島の先端部分に当たる旧静岡県賀茂郡の内の村落を指すと考えらえれる。資料によっては、古くは「加茂郡」とも表記した。]

 穴の中から妙兼(めうけん)の屍骸(しがい)に引ずられて出て來た人、――いや穴の中へ妙兼を引ずり込んで生埋(いきう)めにしたのは半年前(はんとしまへ)に行方不明(ゆくえふめい)になった日道の岩(いは)五郞(らう)であつた。無論半年も穴の中に埋(う)まつてゐて生きて居る筈(はづ)はないが、思ひ込んだ女を縛(しば)りつけて、我が手もとから離(はな)すまいとした一生(しやう)の怨念(をんねん)は正に成功(せいこう)したわけであつた。

 坊主(ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。])あたまの二つの屍骸(しがい)が、お堂の外に掘(ほ)り起(おこ)された時、杢助が加茂(かも)からつれて來た百姓の中に、稻取(いなとり)の人間が交(まぢ[やぶちゃん注:ママ。])つてゐた。二つの屍骸(しがい)をそつと覗(のぞ)き込(こ)んで、

「尼(あま)の方はおかねといふ女で、男の方は岩(いは)五郞(らう)だ、どつちも稻取(いなとり)で生れて從兄弟(いとこ)だつた。幼少から女の方が男を嫌(きら)つてゐたが、結納(ゆひなふ)まで取りかはしたところで甚四郞といふ奴(やつ)と逃げたんだ。然し逃(に)げは逃げても、やつぱりこの二人は緣(えん)があつたんだ、一つ穴の中で無理往生(むりわうじやう)するんだから本望(ほんまう)だらう」と云(い)つてゐた。

[やぶちゃん注:「稻取」静岡県賀茂郡東伊豆町(いずちょう)稲取(グーグル・マップ・データ)。而して、この稲取の百姓が、妙兼(おかね)と日道(岩五郎)と言い当てている以上、妙兼が冒頭で「房州船形(ぼうしうふながた)から參つたものぢや」と言ったのとは、一見、矛盾を感じる。少なくとも、二人は俗人であった時、稲取にいたと考えてよい。でなければ、半年も経った岩五郎の遺体を見て、「彼だ」と名指すことはあり得ないからである。但し、棄てられた「おかね」が日蓮宗の寺院で尼となったならば、日蓮所縁の房総で剃髪したとすることは、強ち、おかしくはなく、矛盾とは言えない。さらに、やはり、冒頭で、この「お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂で」あったと言っているから、この中央東西(グーグル・マップ・データ航空写真)附近がロケーションと読める。

 さて、本篇は、無住の堂での数日の出来事であり、コーダを除いて、妙兼と炭焼き杢助の二人で語られる構造になっている。これは過去の話に出る人物が、ごっちゃごちゃになって五月蠅かった前の似たシークエンスを用いている「惡業地藏」に比して、遙かに自然で、躓きがなく、一気に読ませる佳品と言える。

2024/02/04

「蘆江怪談集」 「惡業地藏」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここなお、この前のページのパート標題は、実は、「惡 業 地 獄」となっている。しかし、「目次」では「惡 業 地 藏」となっている。しかし、本文の左ページの柱は開始位置から最後まで「惡 業 地 藏」である。『ウェッジ文庫』版の奥附の前にある編集部による「編集附記」の最後に、『「悪業地蔵」は原本作品扉に「悪業地獄」と記されているが、本文柱・目次等では「悪業地蔵」と記載されており、また内容から推しても扉の表記は誤植と考えられる。本書では「悪業地蔵」とした』と記してある。これらから、『ウェッジ文庫』編集部の見解が正しいと考え、特異的に標題を「惡 業 地 藏」と訂することとした。読みは、私の判断で「あくごふぢざう」と読んでおく。

 

 

    惡 業 地 藏

 

 

         

 

 根岸に手頃(てごろ)な家を見付(みつけ)けましたので、引移(ひきうつ)しました。目當りもよし、間取(まど)りもよし、第一家賃が、馬鹿に格安(かくやす)な上に、庭も相當(さうたう)廣(ひろ)くて、どことなくのんびり出來た家でした。

 引移しの騷(さわ)ぎが、すつかり片付いたのは夕方(ゆふがた)、行水(ぎやうずゐ)をすまして、表へ出ると、うしろからいつもの通(とほ)りジヨンがついて來(き)ます。

 まだ御行(おぎやう)の松が靑々(あをあを)と茂つてゐる頃でした。土地柄(とちがら)、蚊(か)の多いのは閉口(へいこう)ですが、皆、しもた家のつゞきで夕方の散步(さんぽ)ごゝろもよし、煙草の烟(けむり)だつて、ふわりふわり[やぶちゃん注:ママ。但し、底本では後半は踊り字「〱」。]と淀(よど)むやうな靜かな町です。左へ出れば花見寺(はなみでら)、右へ出れば日暮里道と思(おも)ひながら片側町(かたがはまち)にさしかゝると、今までキヨトキヨト走(はし)つてゐたジヨンが、ぴつたり、足(あし)をとめて、そばの空[やぶちゃん注:「から」。]どぶをのぞき込みながら頻(しき)りと吠(ほ)え立(た)てます。

「ジヨンジヨン」と呼(よ)んでも犬(いぬ)は身動きもせず、

「へんな奴がゐるんですよ。一寸(ちよつと)こゝまで戾(もど)つて下さいまし」とでも、いひさうな顏(かほ)で、どぶに首をつゝ込んでは、吠(ほ)える。

「何だい、何(なに)を吠(ほ)えてゐるんだえ」

 といひながら、どぶを覗(のぞ)き込(こ)むと、圓い石に、目鼻の彫(ほ)つたのがころがつてゐる。

 地藏樣(じぞう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の首らしいと、思つて、どぶの向(むか)ふを見ると、そこには首のない地藏の胴體(どうたい)が、臺座(だいざ)の上でのんきさうに立(た)つておいでになる。

 首なし地藏なのです。いや地藏樣の首(くび)をチヨン切(ぎ)つて、どぶへ捨(す)てゝあると云つた方が早判(はやわ)りです。

「ジヨンの奴(やつ)、いやに信心氣(しんじんき)を出して、お地藏樣の首を拾(ひろ)つてやれといふのか」

 私はかう思つて、首(くび)をひろひました、十二三の子供(こども)の頭ほどもありましたが、兩手(りやうて)に持つて、づゝしり持重(もちおも)りのするほどなのを、どうやら持上(もちあ)げて、胴體(どうたい)の上へ載(の)せて見ますと、割れ目がぴつたり合つて、地藏樣(ぢぞうさま)はニツコリお笑(わら)ひになつた。かと思はれる氣持です。

「ジヨンや、これで氣(き)が濟(す)んだかえ」といへば、ジヨンの奴(やつ)も、滿足(まんぞく)さうに小首をひねつて、またウーウーと呻(うな)つてゐる。

「もしもし、そんないたづらをしちやいけません」

 突然(とつぜん)、橫あひから聲をかけたのは、大家(おほや)さんでした。

「いたづらなもんですか、勿體(もつたい)ない、お地藏樣の首を、どぶの中へ轉(ころ)がしてあつたから胴體(どうたい)へお載(の)せ申(まを)したんです」

「飛(と)んでもない、これは首なし地藏で通(とほ)つてゐるんです。此首(このくび)をつなぐと、祟(たゝ)りがあります」

 大家さんはかう云(い)つて、いろいろ先例(せんれい)を並(なら)べはじめました。此前の住人(ぢうにん)は、此首をつないだゝめに腦溢血(なういつけつ)で死んだの。其前の人は夫婦別(ふうふわか)れをしたの。ある通りがゝりの人が、首(くび)をつなぐと、何丁もあるかぬ中に、踏切(ふみきり)で汽車に轢(し)かれて死んだの、……凄(すご)い話ばかりです。

 私も一寸(ちよつと)驚(おどろ)きましたが、如何にも理窟(りくつ)が合はない。

 「冗談(じようだん)云(い)つちやいけない、大家(おほや)さんの前だけれど、お地藏樣の首(くび)を刎(は)ねて、どぶの中へ蹴轉(けころ)げしたらそれこそ罰(ばち)が當(あた)るつて事もあるだらうが、とれたお首をつないでわるいんです」と、こんな風(ふう)に云(い)ひ張(は)つて見ました。すると、大家さんは、

「へん、勝手(かつて)になさいまし、人のいけないといふ事(こと)をやつて、いまに思(おも)ひ知(し)る事があるから」と、づけづけ云(い)つてゐます。さりとて、此首(このくび)を橫(よこ)あひから、他の人が乘(の)せたつて、災難(さいなん)をのがれるわけのものぢやないさうで、結句(けつく)、首(くび)なし地藏(ぢざう)は私によつて、首あり地藏となつたのです。

 ところが、それかあらぬか、私のうちでは覿面(てきめん)に不幸續(ふかうつゞ)き、災難つゞきといふわけです。私が病氣(びやうき)になる。私の仕事にまちがひが起る、家族(かぞく)の誰れかれが病氣になる。遠國(ゑんごく)にゐる伯父(をぢ)さんまでが電車にはね飛(と)ばされて、瀕死(ひんし)の重傷を負ふといふ風で、いやもう散々(さんざん)です。

「きつと、あのお地藏樣が、祟(たゝ)つたんでせう」と、家内は怖(こは)がつてしきりに、お地藏樣の首(くび)をはづして置(お)けといひつゞけるのです。

「あ、その中(うち)に、はづすよ」とは云つたものゝ、私としては、折角(せつかく)どぶから拾(ひろ)ひ上(あ)げたお首を、私の手で引(ひつ)ぱづして、どぶへ捨(すて)るつて事がいかにも勿體(もつたい)なくて、出來兼(できか)ねます。つひつひ、其儘に過(す)ごして、お地藏樣の首は安穩(あんをん)につながつておいででした。

 

          

 

 ところへ、もう一つ不思議(ふしぎ)が持上りました。不思議といふのは、每晚(まいばん)夜半(よなか)の二時といふ時間にきまつてジヨンが遠吠(とほぼ)えをはじめる事です。始めの中は

「火事(くわじ)でもあるしらせか」などゝ云(い)つてましたが、あんまり每晚(まいばん)つゞくので、ヘンだなといふ事になりました。

「泥棒にでも覘(ねら)はれてゐるのか」

「二時ごろから啼(な)きはじめて、あけ方の四時(じ)に、ぴつたり止(や)める、といふのがをかしい」

 ある晚(ばん)、犬がほえはじめた午前二時に、私は下男(げなん)をつれて、鳥打帽子(とりうちばうし)に尻(しり)ばしより、木太刀(きだち)と棍棒(こんぼう)を抱込(かゝへこ)んで、家のまはりを見(み)まはりはじめました。

 裏口から出て、塀(へい)に沿ふて、表の方へと、家の裏手(うらて)へかゝると、そこに、ジヨンの奴(やつ)、足を踏(ふ)んばりながら、家の中に向つて、やけに吠(ほ)えつゞけてゐます。そこは物置(ものおき)のあるところです。

「いつでも、こゝで吠えるやうだな」

「さうでごぎいます。ご時打つと同時に吠(ほ)えはじめて、四時(じ)が打つと、ぴつたりやめて、犬小屋(いぬごや)へ入(はい)つて了(しま)ふやうです」

「塀(へい)の下に、蛇(へび)でもゐるんぢやないか」

「あるいは物置の中に鼬(いたち)か貂(むじな)でも死んでるのかも知れません」

 兎(と)に角(かく)といふので、翌日(よくじつ)、物置と、塀(へい)のあたりを、家中總がゝりで調(しら)べはじめました。

[やぶちゃん注:「貂(むじな)」の漢字はママ。「貂」は「てん」で、「むじな」とは読まない。「貉」の誤植か、或いは、蘆江の思い込みの誤用か。因みに、「むじな」は狭義にはニホンアナグマを指すが、本邦の民俗社会では、ホンドタヌキ、或いは、ハクビシン(私はハクビシンは近代に台湾から齎された外来種と考えているので、「貉」と同義とすることには否定的である)を指す。]

 

         

 

 全體(ぜんたい)この家は、以前、ある大身(たいしん)の旗本が下邸(しもやしき)に建てた家で、廣い母屋(おもや)の外に隱居所(いんきよじよ)のやうな離れが出來てゐます。その離(はな)れを、先住者の軍人が二つに仕切(しき)つて、一方を馬丁(ばてい)の住居に、殘(のこ)りの一しきりを物置(ものおき)に使つてゐたらしく、私が往(す)むやうになつてからは、別に馬丁(ばてい)などもゐないので離れそつくりを、物置(ものおき)につかつてゐましたのです。

 で、早速(さつそく)、翌日は早朝(さうてう)から、その物置の大掃除(おほそうぢ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])をはじめました。部屋の中、床下(ゆかした)、屋根(やね)うらまで、手の屆(とゞ)く限り掃除もし、つゝきはしても見ましたが、鼬(いたち)の死骸(しがい)も出なければ、大蛇などのもぐつてゐる穴(あな)もありません、結局犬の吠える理由(りいう)は判(わか)らずじまひでした。

 次の日は朝から雨で、近頃(ちかごろ)めつきり陰氣(いんき)になつた家の中が、更に欝陶(うつたう)しさを增(ま)しましたので、家中集まつて花合(はなあは)せでもしようかといふ事になりました。といふのは、きのふ、物置の掃除(さうぢ)の折に、思ひがけない場所へ、花札(はなふだ)をしまひ込んでゐた事を發見(はつけん)したからです。

 で、物置の簞笥(たんす)のひきだしまで、花札(はなふだ)をとりに行つた女中が、戾(もど)つて來る時に、顏色(かほいろ)をかへて

「あのね、奧樣(おくさま)、物置がへんなんでございますよ」といひます。

 一同の目は女中の顏(かほ)へ集(あつ)まりました。

「簞笥(たんす)の橫から、靑い火が、ポツポツと燃(も)えてゐます」皆、ぞつとしました。

 兎に角と、皆(みんな)がつながるやうに行つて見ると、なるほど、簞笥の橫手(よこて)に、もやもやとけむりのやうな火(ひ)のやうなものが見える。

 きのふ、掃除の時に、簞笥(たんす)の置(お)き場(ば)をかへたのですが、丁度(ちやうど)靑(あを)い火のもえてゐるところは、前に簞笥(たんす)のかげになってゐた場所です。

「化(ば)けもの正體(しやうたい)が、こゝにあるんだな」

 懷中電燈を照(てら)して見ると、別に何もない。只(たゞ)疊(たゝみ)が五寸四方ばかりづゝ三ケ所、どす黑(ぐろ)く腐(くさ)つたやうになつてゐるだけです。

「血(ち)の痕(あと)ぢやありませんか」

 だれかゞずつと昔(むかし)、この疊で腹でも斬(き)つたのが、あとになつて……などゝすぐに考(かんが)へましたが、

「だつてお前、この疊(たゝみ)は、うちでかへたんだから」といふわけで、どうも、シミの原因(げんいん)が判(わか)らない。

 疊(たゝみ)をあげて見ると、ねだ板が、ヘンに腐(くさ)つてゐます、ねだ板のくさりが疊の底(そこ)から上へ通(とほ)したのかと思はれるやうなくさり方です。

「たしかに、血(ち)の痕(あと)だ。ずつと以前、恐らくこの家が旗本邸(はたもとやしき)であつた時分、そして、此の物置が隱居所(いんきよじよ)の佛間でゞもあつた頃、こゝで切腹(せつぷく)をした人があるのかも知れないよ」

 話はかういふ風に解決しました。併(しか)し、犬の吠える原因(げんいん)については何の解決もつきません。

「あの隱居所で、だれが切腹(せつぷく)したんですか」と、大家(おほや)さんへ、カマをかけて見ましたら、大家さん、目を丸(まる)くして

「誰にお聞きでした」と問(と)ひかへす。

「一寸(ちよつと)あるところで聞いたのですが」と、話(はなし)の糸口(いとぐち)を引ぱり出すと、

「實は、お聞(き)かせするやうな話ぢやありませんが、旗本邸(はたもとてい)であつた時分、その主人が切腹(せつぷく)をしたのださうで」と云ひました。

 どんな理由(りいう)で切腹をしたにもせよ、こんな腐(くさ)つたねだ板(いた)を、其儘(そのまゝ)にして置くのは氣持が惡(わる)いからと大家さんにも相談(さうだん)の上、ねだ板を仕(し)かへる事になりました。

 すぐに大工(だいく)を入れましたが、仕事(しごと)にかゝつた大工が

「もし旦那、あの隱居所(いんきよじよ)には、かくれ間(ま)がつくつてあるのですか」と聞きに來た。

「いや、かくれ間なんぞ、そんなものはない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])だが」

「さうですかねえ、實はあの板ばりへ金槌をあてたら、カーンカーンと響(ひゞ)いて、へんな音を立てますんでねえ」と迂散(さん)くさゝうに云ひます。

「どんな音(おと)がするんだ」

「羽目板の向ふに、もう一間、祕密(ひみつ)の部屋が出來てゐるやうなんです」

「をかしいね、第一、そんなゆとりはないぢやないか、すぐ外(そと)は堀(ほり)なんだから」

「さあ私も、さうは思(おも)つてゐるんですが、それにしてもへんだな」

 大工は小首(こくび)をひねつて、合點(がてん)のゆかぬ樣子でしたが、

「あの羽目板を、少しばかりはづして見(み)てもよいでせうか」といひます。

 恰度(ちやうど)幸(さいは)ひ、殊(こと)によつたら、犬の吠(ほ)える理由も判るか知れないと、板張(いたば)りを外させる事にしました。

 板ばりは食ひ合せのしつかりした、手丈夫(てじやうぶ)な仕事になつてゐましたが、どうやら外(はづ)して見ると板の向ふから、すうつと冷(つめ)たい風(かぜ)が來るといふのです。

「やつぱりさうだ、この奧(おく)に隱(かく)し部屋(べや)がつけてあるんですよ」

 五寸巾(すんはゞ)の板を二枚(まい)はづしたら、果して、板ばりの向ふは奧行(おくゆき)二尺ぐらゐの空地(あきち)をとつてあるやうで、眞暗(まつくら)でつめたくて、何となく悽慘(せいさん)な氣持です。

 と思ふ途端(とたん)に、ジヨンの奴(やつ)が盛んに吠えはじめました。火のつくやうな聲(こゑ)で吠(ほ)えるかと思ふと哀しさうに遠吠(とほぼ)えをします。而(しか)も、尻尾(しつぽ)をすっかり股(また)の下へ折り込んでゐるところを見ると、怖(こは)くてたまらない、といふ樣子(やうす)なのです。

 到頭大工は板を三枚ほどめくりました。そこへ懷中電燈(くわいちうでんとう)をさしつけると、今まで、隱居所(いんきよじよ)の板張だと思つたのは、上(うは)ばりで、その奧(おく)へ更(さら)に二尺ぐらゐ隔(へだ)てたところに本當の壁(かべ)がついてゐる。つまりこの部屋(へや)は不思議な二重張(ぢうばり)の壁(かべ)になつてゐるのだといふ事が判(わか)りました。

「祕密室(ひみつしつ)でもないやうですが、妙(めう)な事をしたものですね。廣(ひろ)くつかへる部屋に、わざわざ、こんな仕切りをつけて、狹(せま)くするなんて」獨(ひと)り言(ごと)をいひながら大工は、氣昧惡(きみわる)さうに、仕切りの中をのぞき込(こ)んでゐましたが、

「アツ」と奇妙(きめう)な聲をあげました。

「何(なん)だ、何があるんだ」

「あそこに、あそこに、へんなものが」

 少し慄(ふる)へ聲(ごゑ)です、大工の指す方へ電燈(でんとう)をさしつけると、古(ふる)い古い藁(わら)むしろをかぶつたものが薄暗(うすぐら)く冷(つめ)たい空間(くうかん)に、しよんぼりと立つてゐます。

「人間の屍骸を、菰(こも)でまいて、立たせてあるんでせうか」

 大工はかう云ひました。私も無論(むろん)さうだと思つて、その莚(むしろ)づゝみのあるあたりの破目板(はめいた)がはづれた時、そつと、莚(むしろ)の𨻶間(すきま)をのぞくと、この人型(ひとがた)の莚づつみの内側には、荒繩(あらなは)がまきつけられてある。

「莚(むしろ)をとつて見ませうか」

「お待ち、警察(けいさつ)へ屆(とゞ)けなけあいけないだらう」

「さうでござんすね」大工は尙(な)ほ仔細(しさい)に隅々を檢分(けんぶん)してゐましたが、

「旦那、こいつは人間の屍骸(しがい)ぢやございません。人間の形(かたち)はしてゐるが、石の地藏(ぢぞう[やぶちゃん注:ママ。])のやうなものですよ」

 それなれば別段(べつだん)、警察(けいさつ)にも及ぶまい、稍々(やゝ)安心(あんしん)してむしろを取りのけました。

 身の丈二尺ほどの石の地藏をこんな狹くるしいところへ建(た)てた上に、荒繩(あらなは)で、がんじがらみに縛(しば)り上(あ)げてあるのです。

 

         

 

 この家は妙(めう)な家だ。表には首(くび)なし地藏(ぢぞう)、裏には縛(しば)られ地藏、一體(たい)何(なん)のいはれで、このお地藏樣たちは、あんな慘たらしい責苦(せめく)にお逢(あ)ひなさるのだらう。

 と、その晚、例(れい)によつて、犬が吠(ほ)えはじめた時(とき)、私たちは云ひました。

「ジヨンはあのお地藏さまを吠えてゐるんでせうか」

「さうかも知(し)れない、始めに、表(おもて)の首なし地藏の首に吠えたんだ」

「あなた、あのお首(くび)を早く、引ぱづして、どぶの中へ戾(もど)して下(くだ)さい」女房は、これをしきりに氣にしてゐました。

「うん、さうかも知(し)れない」と私はいひましたが、翌朝(よくてう)になると、不圖(ふと)考(かんが)へました。首なし地藏と縛(しば)られ地藏、何か關係(くわんけい)があるに相違(さうゐ)ない。とすると表(おもて)のお地藏樣のお首をつないであげたのだから、裏(うら)のお地藏樣のお繩(なは)も解(と)いてあげたら、好いではないか。で、早速(さつそく)、表のお首(くび)を引ぱづす代りに、裏(うら)の地藏の繩(なは)を切りほどいて了(しま)ひました。丁度、表の地藏と同じやうな大きさで、同じやうなお姿(すがた)です。で、繩を解きほごした時、地藏の胸(むね)のあたりからぱらりと落(お)ちたものがある。ぼろぼろになつた手紙(てがみ)一通(つう)です。何十年縛られてゐたものか、ぼろぼろになつて、字性(じしやう)も判(わか)らず紙質も黑(くろ)ずんでゐますが、文字(もじ)のどす黑い樣子(やうす)が、血で書いたものではないかと思はれる。

 四十二歲男……石切國七郞……奉祈(ほうき)……墮地獄(だじごく)……

 などといふ文字(もじ)が拾(ひろ)ひ讀(よ)まれました。紛(まぎ)れもない呪咀(じゆそ)の文言(ぶんげん)です。私は、地藏を水で洗つてあげて、胴體(どうたい)をすつかりしらべて見ると、ずつと裾(すそ)の方に、かすかな刀(かたな)のあとがあつて、

 願主(ぐわんしゆ)二十二歲女。とあります。

 その文字を讀(よ)みとつてゐる中に不圖(ふと)氣(き)がつきましたので、すぐに、表へ出て、表の地藏の裾(すそ)のあたりをよくしらべて見ると、これにも果(はた)して、

 願主(ぐわんしゆ)廿二歲女。とありました。

 同じ二十二歲女とあるからは一人の女が、二人の男(をとこ)を呪ふために建(た)てた地藏かあるひは[やぶちゃん注:ママ。]、二十二歲の女の思ふ男二人を誰(だれ)か他(た)のものが呪(のろ)つたのか、何れにしても、二體(たい)の地藏尊につながりのある事だけは判(わか)りました。

 で、もう一度(ど)大家(おほや)さんへ行つて、旗本(はたもと)の名前といふのを聞きますと、

「さあ、私も、よくは存(ぞん)じませんが、服部(はつとり)とかいふやうに聞いて居ります。何でも彰義隊(しやうぎたい)の戰爭に出た人だとかいふ事でございますよ」といひました。中年者(ちうねんもの)の大家さんですが、俄成金(にはかなりきん)で、この家を買(か)つたまでの事で、文字(もじ)[やぶちゃん注:ここは「學問」の意であろう。]もなければ、趣味(しゆみ)もないといふ人物(じんぶつ)ですから、これ以上、話相手にはなりません。前(まへ)の家主が、山の手に、逼塞(ひつそく)してゐるやうだから、あしたになつたら、聞きに行つて見ませうと思ひ思ひ、其晚(そのばん)はやすみました。[やぶちゃん注:最後の一文は、ちょっと不全である。]

 不思議に其晚から、犬(いぬ)が吠(ほ)えなくなりました。

「それ御覽(ごらん)、お地藏樣のお繩を解(と)いてあげたからなんだ」

 かう云つて、私は好(い)い心持(こゝろもち)になつてゐました。

「きつと二十二の女が、自分の良人(をつと)か情人(じやうにん)かを、四十二になる岩切何某(いはきりなにばう)といふ男にいぢめられるのがくやしくつて呪(のろ)ひをかけたんぢやないか」と私がいひますと、

「でも、それならば縛(しば)つたり首(くび)を落(おと)したりする筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はないぢやありませんか」と女房がいひます。

「いや、それは、岩切といふ奴(やつ)が殘つたんだらう」[やぶちゃん注:「殘つた」「そこなつた」と訓じておく。]

「でも、お地藏樣(おじぞうさま)二體(たい)おまつりするのは、どういふわけでせう」

「さあこれが、つまり女つてやつは、執念(しうねん)が深いし愚痴(ぐち)なもんだから、一つで足(た)りなくて――」

「え、え、どうせさうですよ」

 女房(にようぼ)はツンとして了(しま)つた。いつものヒステリーが起(おこ)りはじめた、えらい事になりさうなところまで行つた時、天井(てんじやう)で、カタリと音(おと)がした、かと思ふと、トンと落ちて來たものがある。それが丁度女房と私の枕(まくら)の眞中です。

 見ると、疊の上に、短刀(たんたう)が一本、ぬき身の儘(まゝ)で、疊に突(つ)き剌(さ)さつてゐます。短刀の柄(つか)には紐(ひも)が結(むす)びつけてある。

 天井はと見ると、丁度、短刀(たんたう)の刄先(ほさき)がえぐりぬいたほどに割(わ)れてゐる。

「あぶないなア、此短刀を屋根うらからつりさげてあつたんだぜ。紐(ひも)が古(ふる)びたものだから、自然(しぜん)に落(おち)て來(き)たんぢやあるまいか」と、私がいひましたら、女房が凄(すご)い顏をして、

「今まで隱(かく)してゐましたが、實(じつ)はこれと同じ短刀が、あの隱居所(いんきよじよ)の天井にもつるしてあつたのをはづさして置(お)いたんです」といひました。

「兎に角、あしたの事だ。この家(うち)にゐる[やぶちゃん注:ママ。「ゐた」の誤植か。]前の家主に聞いても判るだらう」と、その晚は不審(ふしん)ながらも寢入(ねい)りました。

 翌日(よくじつ)、前の大家さんといふのもすぐに見付(みつ)かりました。そして、二體地藏(たいじぞう)の始末(しまつ)がどうやら判りました。

 旗本(はたもと)は服部半左衞門と云つて、立派な若者(わかもの)だつたさうですが、同じ旗本から二十二になるおさめといふ女を嫁(よめ)にもらひました。ところが、外に薩藩(さつぱん)の岩切長七郞といふ人の妹(いもうと)おときといふのが、この半左衞門に惚(ほ)れて、命にかけても、自分の良人(をつと)にしたいと云(い)ひ張(は)つた上、おしかけ女房にやつて來ました。亂暴(らんばう)な話ですが、どうも大變(たいへん)氣(き)の强(つよ)い女だつたらしい。半左衞門はいろいろ斷りを云つて、おときを岩切家(いはきりけ)へかへさうとしたのですが、長(ちやう)七郞(らう)が、馬鹿な妹思ひだものですから、却々(なかなか)おいそれと引取つてくれません。おまけに、服部家(はつとりけ)では、前々から岩切家によつて、救(すく)はれた事があるといふわけで、斷(ことわ)りを押し通すわけにいかない。

 といふ騷(さは)ぎのところへ、彰義隊(しやうぎたい)の戰爭がはじまりました。そしておさめの弟の光岡大助(みつをかだいすけ)といふのと共に半左衞門は上野(うへの)の山へ走らうといふ相談(さうだん)をしてゐる、それを立聞(たちき)いたのがおときで、思ふ男を戰爭(せんさう)にやつては一大事と長七郞にダヾをこねたのです、ところが長七郞の方は元より薩州藩(さつしうはん)ですから、いざ戰爭となれば、上野の山を攻(せ)めなければならない、いつその事半左衞門を味方に引入れた方がなどゝ考(かんが)へて、長年の恩誼(おんぎ)をかせに足どめにかゝつた。

 困(こま)つたのは半左衞門です、おときとおさめは、彰義隊(しやうぎたい)も薩州もない、自分の思ふ男をそばに引つけて置(お)けば好(い)いのだから、その目的(もくてき)の爲めに、それとなく地藏樣のお姿(すがた)に僞(いつは)りて、おときは大助を、おさめは長(ちやう)七郞(らう)を目あての地藏をつくらせた。そして、一方は首(くび)を刎(は)ねてのろひ、一方は縛(しば)り上げてのろつたのださうです。

「でも兩方(りやうはう)とも、二十二の女とありますが]と云つたら、大家さんは

「いや、おときも、おさめも同じ年なんです」と云つた。

 ところが、こののろひが相方に利(き)いたものか、長七郞は上野の山下で討死(うちじに)をする、大助は捕(とら)はれの身となつたが、良人(をつと)の半左衞門は一旦(たん)彰義隊(しやうぎたい)に入つたが、首尾(しゆび)よく落人(おちうど)となつて、我家へこつそり戾(もど)つて來た。

 その時、おさめとおときは隱居所(いんきよじよ)と、母屋(おもや)の書齋とに、双方(さうはう)とも、閉(と)ぢこもつて、お互に相方の女をのろひ殺す爲めに斷食の行(ぎやう)をしてゐたといふ事が判つた。

 そのもの凄(すご)い有樣を見た半左衞門は、白分の身體(からだ)は彰義隊のお尋(たづ)ねものである上に、二人の女に、かほどまで怖(おそ)ろしい思はれ方をしてゐる事が辛(つら)くなつて、隱居所の簞笥(たんす)のかげで腹を切つたのだといふわけでした。天井(てんじやう)につるした短刀は、女二人が、自分たちの斷食荒行(だんじきあらぎやう)に、身を責(せ)める爲めの道具(だうぐ)だつた。

「それで、女二人の最期(さいご)といふのがあはれですよ。目當(めあて)の男がかへつて來たのも知らず、切腹したのも知らず、一心に念じつめた揚句、二人とも、餓鬼(がき)のやうになつて、殆(ほと)んど同日同刻に死んでゐたさうです」と大家(おほや)さんは云ひました。

[やぶちゃん注:展開は読ませるが、怪奇談としては、個人的には食い足りない終わり方で、二人の女のおぞましい怨念とするのも、今一、好きになれない。二人の女の映像が、少しも脳裏に浮かばないのが瑕疵である。但し、次の「縛られ塚」の冒頭にある筆者の附記によれば、これは『実話から生み出した』作品(『ウェッジ文庫』の東雅夫氏の解説によれば、当時、文人の間で盛んに行われた怪談会や『百物語等で語られた実話怪談』とされる)であることを明かしてはいる。だとすると、詳細を聴き出し、人物像をリアルにさせることは、出来ぬことではないが、話者が蘆江と親しくない場合、やり難い。或いは、最後の因縁話が痩せているのも判らなくはない。にしても実話そのままではないわけで、エンディングのバラシは、もう少し、二人の女の造形を浮き彫りにすべきであったと思うのである。]

2024/02/03

「蘆江怪談集」 「天井の怪」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。鈴鹿峠や諸地名については、前回の「鈴鹿峠の雨」の注で紹介した「亀山市生活文化部文化スポーツ課まちなみ文化財グループ」作成の「東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠 イラスト案内図」PDF)のイラストが判り易い。但し、検索で本篇に来られた方は、前回の「鈴鹿峠の雨」を先に読んで戴けるよう、お願い申し上げるものである。続き物ではないものの、この二つを並べたのは、蘆江の確信犯であろうから。

 

 

    天 井 の 怪

 

 

 阪(さか)は曇(くも)つてゐた、鈴鹿峠にかかつて、大粒(おほつぶ)の雨がぽつりぽつり、峠の茶屋を目のあたりに見ると共に、橫なぐりのどしやぶり、笠(かさ)を打ちぬくほどに覆(くつが)へして來る、二人はたゞやみ雲(くも)に茶見世へ逃げ込んだ。

「間もなく止(や)みませうから」と茶見世の婆(ばあ)がいつてくれる言葉(ことば)をたよりに待つても待つても止みさうになく、かれこれ茶見世の緣先(えんさき)に半時(はんとき)か一時も休(やす)んだ。

 どうやら小降(こぶ)りになつたのを幸ひ、これから江州水口(ごうしうみづぐち[やぶちゃん注:前回の注で示した通り、「みなくち」が正しい。以下同じ])まで一のし、日のある中に行きつければ好(い)いがといひながら、峠(たうげ)を下り道にかゝつたが、更らに半時(はんとき)と經(た)たぬ中に、又しても降りしきる雨。

 男は絲楯(いとたて)[やぶちゃん注:前回の注を参照。]をはづして女の肩にかけてやり、すべりやすい足元を、かばひつゝ急ぎに急いだ、時からいつても、疲れぐあひから見ても、水口(みづぐち)は兎に角、土山[やぶちゃん注:「つちやま」。]ぐらゐは通(とほ)らねばならぬと思つてゐるのに、どうしたものか、茶見世(ちやみせ)を出て以來家(うち)らしいもの一軒(けん)見受(みうけ)けず、人つ子一人あはず、道さへだんだんに狹(せば)まつて來る。

「どこで踏(ふ)みまよつたのであらう」と心づいた時分には、現在(げんざ)手(て)をとりあつた女の顏(かほ)さへはつきりは見(み)えなくなつてゐた。

「到頭日が暮(くれ)ました、見渡す限り笹藪(さゝやぶ)と雜木山ばかり、一體(たい)これはどうなるのでござんせう」と女が心細(こゝろぼそ)い事をいふのを、

「なあに、道(みち)がある以上は、人里(ひとざと)のない事もあるまい、どうせ迷(まよ)うた道(みち)ならば、今夜は人家の見つかり次第、一夜の宿(やど)を無心して、明朝(みやうえう)本街道(ほんかいだう)へ案内してもらふ事にしよう」と男は氣强(きづよ)く慰(なぐさ)めたが、

「吉(きち)さん、私は心細うなつて來ました」と女はたゞ男の袖(そで)へしつかりと、とりすがつた。

「おぬひさん、今更(いまさら)そんな弱い事をいふ約束(やくそく)ではなかつた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])だ、どのやうな苦勞(くらう)をしてもと、江戶を出たではないか、鈴鹿峠(すゞかたうげ)といへば、京まではいくらの道でもない、ここまで來て平太張(へたば)つたら、江戶つ子の恥(はぢ)ぢや」

「それでも吉さん、私(わたし)は」

「いやどうも困(こま)つた弱虫(よわむし)だぞ、しつかり私の手につかまつたがよい、町人(ちやうにん)でこそあれ、武士の胤(たね)ぢや、尺三寸關(せき)の孫六(まごろく)、祖父(ぢい)さまのかたみがちやんと腰(こし)に頑張(ぐわんば)つてゐる」と吉之助は女の心を引立てた。

[やぶちゃん注:「關の孫六」(生没年未詳)美濃国の刀工孫六兼元、また、その後継者の鍛えた刀剣。室町後期から江戸時代まで数代に渡り、始め、美濃国赤坂、後に同国関で作刀された。「三本杉」と呼ばれる刃文に特色があり、業物(わざもの)として著名である。]

「あい、もう怖(ぢ)けません、お前(まへ)といふ人をたよりに江戶(えど)を出たからは、どんな山の奥でも厭(いと)はぬ筈(はづ)の私でござんした。道(みち)を迷(まよ)うたのでつい弱い事をいひましたが、もう何が來ても驚(おどろ)く事ではござんせぬ」と女は甲斐々々(かひがひ)しく絲楯(いとたて)をゆり上げて、

「吉さん、私がこれをとり上(あ)げては、お前こそ、びしよ濡(ぬ)れで氣味(きみ)が惡(わる)うござんせう、いつその事、これをかうして半分(はんぶん)づゝかけようではないかえ」と片手(かたて)をのばして、絲楯(いとたて)の端を男の肩へ引かける。

「吉(きち)さん」

「何(なん)だ」

「嬉(うれ)しいといふ事さ」

「何の、いま更(さら)らしい」

「それでも」

 二人の體は一枚(まい)の絲楯(いとたて)に、しつくり包(つゝ)まつて、身も心も一つになつたやう、互(たがひ)に身をすりよせ縺(もつ)れるやうな足どりで熊笹(くまざゝ)を踏(ふ)みしめた。

 それから何里(なんり)あるいた事やら、何時(なんどき)あるいた事やら、いくらあるいても、水口(みづぐち)の水も見えねば土山の土も見えない、初秋(しよしう)の日は暮れて、眞暗(まつくら)な道中になつた。

 さすがに男も途方(とはう)に暮(くれ)て、あるく勇氣(ゆうき)もなくなる。女は元より男の側(そば)にぴつたりとすがりついたまゝ、二人はとある大木の下露(したつゆ)にぬれながら、立ちつくした。

 雨は少(すこ)し止(や)んだ、が、風(かぜ)がさらさらとわたるにつれて、夕立(ゆふだち)かと思ふもの音が騷(さわ)ぐのは、二人の身體が深(ふか)く茂つた藪(やぶ)だたみの中に立つてゐるしるしである、立つ足元(あしもと)に笹(さゝ)の葉の茂(しげ)りの多いのは、ふだんさへ、人通(ひとどほ)りのない道(みち)である事を示(しめ)してゐる。[やぶちゃん注:「藪(やぶ)だゝみ」藪が幾重にも重なって茂っている所。]

 男は空(むな)しく眞暗(まつくら)な中を、見まはしたが、

「おぬひさん、あれ、あのあたりに灯(ひ)がちらついて居るとは思(おも)はないか」

「さうぢや、たしかに灯りでござんす」

 二人は聊(いさゝ)か力づいた。

 辿(たど)りついたのは一軒(けん)の古寺である。

「道を迷(まよ)つて難儀(なんぎ)をして居るもの。近頃(ちかごろ)御無心(ごむしい)ながら、一夜の宿(やど)を願(ねが)へますまいか」と廣い庫裏(くり)のくぐり戶をあけて男が賴(たの)んだ。[やぶちゃん注:最後の「だ」は脱字らしく、一字空けであるが、訂した。『ウェッジ文庫』でも『だ』である。]

 柱(はしら)も縁(えん)も黑光りに光つた庫裏の奧の杉戶(すぎと)を重(おも)さうに開けて出て來たのは小づくりの坊主(ばうづ[やぶちゃん注:ママ。])であつた。

「それはそれはお困りでござんせう、早くお上りなさい、御覽(ごらん)の通りの荒(あ)れ寺(でら)ゆゑ、何もおもてなしも出來ませんが、雨露(あまつゆ)だけはどうやら凌(しの)げませう、さあさあ」ともの優しく、すゝぎの水を取つたり、冷々(ひえびえ)と肌寒さをおぼゆる山寺の初秋(しよしう)の夜に、ふさはしく圍爐裏(ゐろり)に榾(ほだ)などさしくべる。

 二人はほつとして、顏(かほ)を見合せながら、先づ一安心(あんしん)と爐(ろ)の側(そば)にさしよつた、ぱつと燃え上る榾火に三人の顏(かほ)がはつきりと見交(みかは)されると、坊さんが先づ

「お、お見受(みう)けするところ、まだお若(わか)い方(かた)のやうぢやが、どこからどこへおいでになる道中でございますな」と聞く。

「京都(きやうと)までまゐりませうと思(おも)うて四日市の方から來(き)ました」

「鈴鹿を越(こ)して西(にし)へ向いて步いた人が、一體どんな風(ふう)に迷(まよ)へば、この山の中へ出るのでござんせう、これは鈴鹿峠(すゞかたうげ)につゞいた勢州寄(せいしうよ)りの山の中でござるが」

「さうしますと、京都へ出ます本街道は」

「ハイ、それは一寸口では申(まを)されません、まづ今夜(こんや)はここへお泊りなされて、明日にでもなつたら、私が街道(かいだう)まで御案内(ごあんない)いたしませう、兎に角、この寺(てら)のうしろ山を越して兎(うさぎ)の通(とほ)るやうな道をぬけますと、ざつと三里ばかり、丁度(ちやうど)鈴鹿峠の頂上の茶見世(ちやみせ)のうしろへ出られます」

 唐茄子(たうなす)の粥(かゆ)に古菜漬(ふるなづけ)、何はなくとも、あるじの僧(そう)は甲斐々々しく二人をもてなしてくれる。

 女はその時、一寸(ちよつと)吉之助に囁(さゝや)いた。

「尼(あま)さんのやうに見えますが」

「お見受(みう)け申し(まを)ますところ、お一人住居[やぶちゃん注:「おひとりすまひ」。]のやうでござんすが」

「ハイ、愚憎(ぐそう)一人でござる、尤(もつと)も、去年までは老僧(らうそう)がをられましたが、入寂(にふじやく)せられましたので」

「失禮(しつれ)ながら尼僧樣(にそうさま)でおいでの御樣子」

「ほほほ、お判(わか)りでござつたか、もう幼少(ようせう)の頃から母親(はゝおや)とたゞ二人でこの寺にをりました。去年滅(めつ)しました老僧といふのが、卽ち私の俗緣(ぞくえん)の母でもあり、師(し)の御坊でもありといふ次第で」

「まるで、石童丸(いしどうまる)の昔話に伺(うかゞ)ひますやうなお話」とおぬひは心を動(うご)かされた。

[やぶちゃん注:「石童丸」説経節の「苅萱」(かるかや)に出てくる幼い主人公の名。この元になる話は,中世の高野山の蓮華谷や往生院谷あたりの「萱堂」(かやんどう)に住む聖(ひじり)の間で生まれたもので。それが後に、謡曲の「苅萱」と説経節に分かれて展開したものである。説経節「苅萱」の世界は、筑紫麓ヶ国の所領と家族を捨てて、東山黒谷から高野山へ逃れた苅萱を追って、御台所と石童丸が還俗(げんぞく)を迫る話である。御台所と姉の千代鶴姫は死に、石童丸は、父と対面しながらも、真実の父とは知らずに別れ、高野と善光寺で、別々に往生するところで終わっている。石童丸については、石童の名が、石堂・石御堂・石塔と言う地名が全国に多いところから考えると、石堂(辻堂)を拠点とする聖に関係する名で、塚と死者の埋葬を営む聖との深い交渉の中から生じたものであろう。なお、説経節「苅萱」の伝承を今日まで残し、苅萱道心と石童丸の親子地蔵をまつる寺が、善光寺周辺に二つある。苅萱山寂照院西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と苅萱堂往生寺という(私は大学一年の時、前者の寺に参り、凡そ一時間に亙って、住職から父の苅萱上人についてのお話しを伺って、はなはだ感銘したのを思い出す)。西光寺の所在が妻科村石堂(現在の長野市北石堂町。苅萱山寂照院西光寺の所在地)西光寺となっているのは、石堂に拠る聖と、幼い主人公の因縁が、偲ばれる一つの証しである。高野山の萱堂聖や、善光寺周辺の石堂の聖の間で語られた話を統合したものに、時宗化した高野聖の存在が考えられるが、彼らは高野山と善光寺を往還しながら、説経節「苅萱」の成立に深く関与したことは、間違いない。父が苅萱であることを、生涯、知らずに終わり、母や姉の死を見届けて、荼毘(だび)にするなど、「苅萱」の主題である家族の解体と死に、最後まで立ち会ったのが石童丸であった(以上は、主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

「いや、それがな、今も申す通り幼少からの住居ゆゑ、山中の一木一草皆(みな)幼馴染(おさななじみ[やぶちゃん注:ママ。])、とんと寂(さび)しいとか心細(こゝろぼそ)いとか申す事を知りませぬ、何しろ街道筋(かいだうすぢ)からこゝまでの山には、蛇(へび)の巢(す)もあれば梟(ふくろ[やぶちゃん注:こうも訓ずる。])の森もござる、狼(おほかみ)こそをりませぬが山猿(やまざる)などは、時たま、本堂の緣(えん)へ來て遊(あそ)んでをります」

「蛇の巢と申しますと」とおぬひは眉(まゆ)をひそめる。

「蛇谷(へびだに)と申しましてな、何萬匹となく蛇が木(き)の枝(えだ)、谷(たに)の流(なが)れ、石のかげ、などにのた打(う)つてをりますところで、後學(こうがく)のため、あした、御案内(ごあんない)しても宜しうござるが」

「いやもうそのやうなところへは參(まゐ)りたうもござんせぬ」

「ほほほ、おいやならば、無理(むり)にお目にかけようとはいひませぬが、蛇(へび)といふものは、あれで、中々(なかなか)情合(じやうあい[やぶちゃん注:ママ。「愛」の当て字ならば、問題はない。])の深いものでござる」

「御冗談(ごじようだん)ばかり」

「いや、あれで中々(なかなか)毛(け)ぎらひをいたしますな、交(まじ)りの時がまゐれば枝から枝へ傳(つたは)つてこれと思ふ相手を探(さが)すものでな、あれほど一心(いつしん)の强(つよ)いものはありませぬ」

 尼僧(にそう)の話は蛇物語りになつた。

 梢(こずえ)から下枝へ下りるには、梢の枝一杯に身をからまして、下枝の距離(きより)を計(はか)り、ここと思ふ頃、尻尾だけを梢に食ひとめて、だらりと眞(ま)つ逆樣(さかさま)にぶら下る、それでも下枝(したえだ)へまだ屆(とゞ)かぬとなれば逆樣に下つた身體(からだ)にはずみをつけて搖(ゆ)り動(うご)かした上、何かしら側(そば)の枝(えだ)をかかり場にして、トンと落ちて首尾(しゆび)よく下枝へ卷(ま)きつく。

 下枝から梢の相手(あひて)に上る時は、眞(ま)一文字(もんじ)に身を起こして、のび上り、梢(こずえ)の枝へ頭をかけてからみつく、さし出た枝と枝とへ飛(と)びうつる時は、尻尾(しつぽ)にはずみをくれて、體(からだ)を宙(ちう)に投げかける、などと、女は聞(き)く中(うち)にはや、ちぢみ上つた。

「そのやうなところを、通(とほ)らねば、本街道(ほんかいだう)へ出られませんか」

「さ、蛇谷を通(とほ)らぬとすれば、深い森の中をぬけてゆくのぢやが、その梟(ふくろ)の森には、一つ厄介(やくかい)な奴(やつ)がをります」

「狼(おほかみ)でも」

「いや、狼は滅多(めつた)にをりますまい、蛭(ひる)といふ虫を知つておいでか」

「黑血を吸(す)はせる虫でござんすな」[やぶちゃん注:「黑血」(くろち)は腫れ物などに生ずる腐敗して黒みを帯びた血。]

「さうぢや、あれが夥(おびただ)しく梢(こずえ)にをりましてな、人が通ると、ばらばらと木の枝(えだ)から落(お)ちかかります」

 おぬひは靑くなつた。

 二人の寢間は八疊(でふ)ばかりの客間(きやくま)に設けてあつた、尼僧(にそう)は方丈へ入つて寢たらしい、まだそれほどの夜更(よふ)けとも思はれぬが、淋(さび)しさは深夜(しんや)のやうであつた、本堂の方でごとごとと怪(あや)しげなもの音の聞こえて來るのは鼠(ねずみ)かも知れぬ、寺の外から、時折(ときをり)風音(かぜおと)にまぎれて、ウーンとうなつて來るのは何であらう。

「吉(きち)さん、又うなります」

「さあ何であらうな、兎(と)に角(かく)今夜一夜ぢや、さあ關(せき)の孫(まご)六を枕元(まくらもと)に引つけて置いてやらう、どれほどの妖魔(ようま)でも、この名刀が拂(はら)つてくれる筈だ」

「あれ、又(また)うなりました」

 吉之助は突伏(つゝぷ)して慄(ふる)へてゐるおぬひを膝近(ひざちか)く引よせてやつて、ぢつと耳(みゝ)をすましたが、俄(にはか)に笑ひ出した。

「おぬひさん、あれは何でもない、鐘樓(せうろう[やぶちゃん注:ママ。「しようろう」でよい。])の鐘(かね)に風がわたつて、風の音が鐘に響(ひゞ)くのぢや」

 あたりの靜(しづ)かさは一入(しほ)深(ふか)くなりまさる、折から又(また)異樣(いやう)のうなり聲が今度は天井(てんじやう)の方に聞こえはじめた。

「あれ、又(また)」

「なに鐘(かね)のゆれ音であらう」

「いゝえ、今度のは天井(てんじやう)でござんす」

「風の工合で天井のやうに聞(きこ)えるのであらう」とはいつたが、前(まへ)のうなり聲(ごゑ)とは全くちがつた聲である。

 赤子(あかご)の泣(な)く聲とも思はれる。

 鞭(むち)などを振まはして折檻(せつかん)する音とも思はれる。

 女の責(せ)め殺(ころ)される叫び聲のやうな時もある。

 一種(しゆ)異樣(いやう)の哀音(あいおん)がワーンと響(ひゞ)いて今度はやむ時もなく一しきり呻(うな)り立(た)てた。

「うむこれは不思議ぢや、おぬひさんお前(まへ)蒲團(ふとん)の中にくるまつてゐて下され、私が仔細(しさい)を聞きとどけて見よう」と關の孫六を引(ひき)よせながら、音のする見當(けんたう)へぢりぢりと進んで天井を睨(にら)んだ。

 おぬひもぢつとはしてゐない。

「お前ひとりはやられませぬ、見屆(みとゞ)けるのなら私も一緖(しよ)に」と吉之助の帶際(おびぎは)につかまりながら、一と足一と足進む。

 天井(てんじやう)のうなり聲はあたりが靜(しづ)かになるにつれていよいよ激(はげ)しくなつて來た。

 どう聞きなほしても赤子(あかご)の啜(すゝ)り上げる聲である。でなければ責(せ)められる女の苦(くる)しむ聲(こゑ)である。

 吉之助は道中差(だうちうざし)をすらりとぬいて靑眼(せいがん)にかまへた、今にもあれ、天井(てじやう)から何ものかが落ちかかつたら、ズブリと一突(つき)、突上げるだけの身がまへをして、うなり聲(ごゑ)に可(か)なり近(ちか)いところまで進んだ。

 二人は息(いき)をひそめて天井(てんんじやう)を見つめてゐる、天井の聲(こゑ)は丁度二人の眞上のところに强(つよ)く、それが折々橫へそれ、うしろへ逃(に)げ、又(また)前(まへ)へまはつては

「ウーンウーン」と泣き「ワーツワーツ」と叫(さけ)ぶ。

「尼樣(あまさま)に知らして見ようか」

「いゝえ、あの尼樣(あまさま)が恐ろしい人かもしれぬ」

「いや、それはお前(まへ)の思ひひがみであらう」

「それにしても、わざわざ人のいやがる話(はなし)をあのやうに長々(ながなが)とするのでござんすもの、私はたゞものではないと思ひます。第一、どこの誰とも知(し)れぬのに、私たちの宿(やど)をすらすらと引受(ひきう)けた事も不思議(ふしぎ)、こんな山寺に女一人で暮(くら)してゐるといふのも、受取(うけと)れぬ話です」

 その中におぬひは疊(たゝみ)の上を指(ゆび)さして慄(ふる)へはじめた。

 おぬひの指の方向にはいつの間(ま)に落(お)ちたか、血汐(ちしほ)の一しづく、それが八疊(でふ)の眞(ま)ん中(なか)の古疊にぽたりと落ちてパツと散(ち)つてゐる。

「血だ」吉之助の目前(もくぜん)に又一滴(てき)、ぽたり、つづいて又ぽたり、忽(たちま)ちの間に疊(たゝみ)の上に五六滴もの血汐が天井(てんじやう)から滴(したゝ)つて來た。

 と思ふ中に、天井の聲(こゑ)は一しきり

「ワーン」と高く響(ひゞ)いた、おぬひはもうたまらなくなつて、氣を失つた。

 吉之助(きちのすけ)はおぬひの耳に口をあてて、

「おぬひやあい」と呼(よ)んだ。

「どうなされましたな」と眞(ま)つ暗(くら)な廊下に朦朧(もうろう)と現れた人かげ。それは尼僧(にそう)であつた。

「尼樣(あまさま)、おつしやつて下さいませ、包(つゝ)み隱(かく)しをなさらずに、あの天井から落ちて來る血汐(ちしほ)の仔細(しさい)を、もし、人に話(はな)してならぬ事なら、決して洩(も)らしはいたしませぬ。さあどうぞおつしやつて」と吉之助は片手(かたて)におぬひをかばひ片手に關(せき)の孫(まご)六の鯉口(こいくち)を切つてつめよつた。

 が、尼僧(にそう)は顏色もかへなかつた、不思議(ふしぎ)さうに吉之助の樣子(やうす)に目をつけながら、

「天井の血」ふり向いた尼僧(にそう)は、俄(にはか)に笑ひ出した。

「どうも濟(す)まん事(こと)でござつた。これは血(ち)ではありません、蜜(みつ)でござる、蜜蜂(みつばち)でござる、いや、今夜は大層(たいそう)出來(でき)ましたと見えますな、なるほど、大分(だいぶ)羽音(かねおと)がやかましいやうぢや」と天井を見上げた。吉之助の不思議(ふしぎ)はまだ解(と)けなかつた。

 尼僧は兎に角と、おぬひを介抱(かいはう)して、

「御無理(ごむり)はござらん、實は私も最初(さいしよ)は驚きましたのぢやが、この寺の天井(てんじやう)にはいつの頃からか、蜜蜂が巢す」を作(つく)つてをりましてな、あのうなり聲は蜜蜂(みつばち)の羽の音、こゝに落(お)ちて來(く)るのは蜂(はち)がつくつてくれる蜜(みつ)でござる」

「それにしても、血(ち)の色(いろ)をしてをります」

「いや、これは血(ち)の色(いろ)ではない、何しろ古寺(ふるでら)でござる、天井を洩(も)れて落ちる蜜が媒(すゝ)を溶(と)かして、この通りの色(いろ)になります。袖(そで)すり合ふも他生(たしやう)の緣(えん)ぢや、明日は一つこの天井へ蜜箱をつくる手傳(てつだ)ひをして下さらぬか」

[やぶちゃん注:この寺のモデルは地図上を探したが、見当たらなかった。

 さても、一読、お判り戴けることと思うが、本擬似怪談は、ロケーションと言い、蛇と蛭の話と言い、遠く泉鏡花の傑作「高野聖」へのオマージュであることが判る。なお、怪音が蜂の音というオチは、江戸期の擬似怪談に枚挙に遑がない。]

「蘆江怪談集」 「鈴鹿峠の雨」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。]

 

 

    鈴 鹿 峠 の 雨

 

 

         

 

 考(かんが)へて見れば十五年も前の事です、私は樂(たの)しみが半分(はんぶん)、止(や)むを得(え)ずが半分、一人旅で東海道(とうかいだ)を步(ある)いて京へ上りました。四日市を早立(はやだち)で、其日の中に江州(ごうしう)へ入りたいと痛む足を踏〆(ふみし)め踏〆步きました。[やぶちゃん注:「鈴鹿峠」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、「四日市」市街は、その東北。]

 坂(さか)へかゝつて、宿[やぶちゃん注:坂下宿。]外(しゆくはづ)れで草鞋(わらぢ)を穿代(はきか)へながら、小荷物の紐(ひも)を結び直してゐますと、茶見世の婆さんが「峠(たうげ)へかかつて降らんだら好(えゝ)がなあ」といひますので、不圖(ふと)空(そら)を見上げましたら、成程、今が今まで晴(は)れてゐた空がドンョリと曇(くも)つて、今にもざあと來さうな樣子です「何だか怪(あや)しい雲(くも)が出たね、まア降(ふ)られたらそれまでさ、急(いそ)ぐとしやう」と私はさつさと步(ある)き始(はじ)めました。

 坂(さか)は照る照る鈴鹿(すゞか)は曇る、といふ唄(うた)[やぶちゃん注:「鈴鹿馬子唄」。線翔庵氏のサイト「庵主の趣味の間 線翔庵」の「鈴鹿馬子唄」に解説があり、歌詞はこちら。そこ出る「あいの土山」については、諸説があり、「甲賀市」公式サイトの『あいの土山の「あい」の意味について』に詳しい。]は此處の事です、坂へかかる時晴れてゐたのが、此處まで來て急に曇つて、曇つた儘(まゝ)で鈴鹿を越(こ)せば、後(あと)は下り道の土山邊(ついやまあた)りで雨が降るのかも知(し)れまい、出來る事なら峠(たうげ)を上り詰(つ)めてから降つて貰(もら)ひたいものだと思ひ思ひ、足を急がせました。

 本街道(ほんかいだう)でも、もう汽車が通つてゐる世の中ですから、往來(わうらい)を步(ある)いてゐる人なんてありません、廣い道を私一人で七曲(まが)りの樣な處ヘテクテク步きかけると、何處ともなく人の聲(こゑ)がします。

 何處で何を話(なに)してゐたのか、男か女か、若(わか)い者か老人(らうじん)か、些(ちつ)とも判(わか)りませんが、人の話聲が私の頭の眞上(まうへ)で聞えます、ずつと上を向いて見ましたが、只(たゞ)崖(がけ)の雜木(ざうき)がこんもりと頭の上へ冠(かぶ)さつてゐる許(ばか)りです、山男とかいふ者が私を何(なん)とかしようと云つて相談(さうだん)でもしてゐるのではあるまいかと、私は迷(まよ)ひました、誰れか道連(みちづ)れが欲しいものだと思ひ思ひ私は更(さら)に足を早めました、私の足の早まるに連れて、話聲は髙(たか)くなつて來ます、足を止(と)めて見ると、話聲も止まる、又(また)步(ある)き出すと又聞える、妙(めう)な事があるものだと思ひ思ひ、尙(なほ)道(みち)を急ぐ中にポツリポツリと落ちて來ました、私は菅笠(すげがさ)の紐を締(し)め直し、絲楯(いとたて)を身體に纏(まと)ひつけて、やつしやつしと上りました、雨は一足每に强くなつて行く、そして山に上るに從(した)がつて深(ふか)くなつて行く、其れで、前の話聲(はなしごゑ)はいつまでもいつまでも私の耳に響(ひゞ)きます。

[やぶちゃん注:「絲楯(いとたて)」「糸立て」で、「いとだて」。糸を入れて補強した渋紙。簡易の雨具。]

 

         

 

 私は不圖(ふと)此の話聲は、私より半町(はんちやう)[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]許(ばかり)り先に上(のぼ)る人の聲(こゑ)ではないかと思ひました、私は足を急がせて七曲(まが)りの三つ目をぐつと曲つて見ますと、果(はた)して、女と男と二人連れで話(はな)しながら行くのでした。

[やぶちゃん注:「七曲(まが)り」正しくは「八町二十七曲り」。「亀山市生活文化部文化スポーツ課まちなみ文化財グループ」作成の「東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠 イラスト案内図」PDF)のイラストが判り易い。その解説の「鈴鹿峠」に、『伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山の脇を縫うように越えるのが鈴鹿峠越えです。古くは「阿須波道」と呼ばれ』、仁和二(八八六)年に『開通したとされています。「鈴鹿山」は、本来は「三子山」のことを指しているとみられますが』、「今昔物語」や『和歌などに登場する「鈴鹿山」は鈴鹿峠越えを指しているものが多いようです。なだらかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました』とある。この「七曲りの三つ目」というのは、下方のイラストの『⑮燈籠坂』か、その上の部分かと思われる。以下に出るそれより上の「曲がり」は、各自で確認されたい。]

 男は藍微塵(あいみじん)の素袷(すあはせ)に八端の三尺帶を締め、女は髮を馬の尻尾(しつぽ)といふのに結んで、辨慶(べんけい)の單衣(ひとへ)、黑繻子(くろじゆす)と茶献上(ちやけんじやう)の腹合せの帶を手先さがりに引かけ、裾(すそ)をぐつと片端折(かたはしをり)に腰紐へ挾(はさ)み、裾へ白い腰卷をだらりと見せて、二人とも跣足(はだし)で、番傘(ばんがさ)を相合傘といふ姿です、鈴鹿峠といふ上方道で迚(とて)も見かけられさうもない姿です、私は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならず驚(おどろ)きました、而(しか)も、それが私の足音を聞いて、二人一緖(しよ)に振返(ふりかへ)りました、女は眉毛(まゆげ)の跡靑々と、男は苦味走(にがみばし)つた顏立といふのが、又私に取つて頗(すこぶ)る異樣(いやう)に見られました、私は私の身體(からだ)が一足飛びに東京近在へ引戾(ひきもど)されてゐるのではないかと思ひ迷(まよ)はされながらも、足を早めて其の二人を通(とほ)り越(こ)しました、そして私の足は四曲(まが)り目で曲つて急な坂道を一氣(き)に上りました、二人を通り過ごすと同時に、今まで聞(きこ)えた話聲(はなしごゑ)は聞えなくなつて、只雨の音ばかりがしとしとと耳に響(ひゞ)きます。

[やぶちゃん注:「藍微塵(あいみじん)」縞柄の一種。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)ともに藍染糸を二本ずつ、濃淡の藍を用いた格子縞、又は、その布を言う。

「素袷(すあはせ)」下に肌着類を着けずに、袷だけを着ること。

「八端」「八反」とも書く。「破れ斜文」や「山形斜文」などの綾組み織りに織った絹織物で、縞や格子などの先染めにしたものや、捺染(なっせん)などの加工を施したものがある。

「馬の尻尾(しつぽ)」髷がなく、垂らした髪を単に結んだものを言う。田舎娘や女房がこうした髪をしていた。

「辨慶(べんけい)の單衣(ひとへ)」「弁慶格子」の単衣物。ギンガム・チェックのような、白地に黒の格子柄を指す。縦より横の方が少し太くなっている。

「黑繻子(くろじゆす)」「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。その黒染めのもの。

「茶献上(ちやけんじやう)」江戸時代、博多藩主から将軍へ献上したところから、上等の博多織りの茶色の帯地。また、その帯。「献上博多」。

「腹合せの帶」表と裏を異なる布で仕立てた女帯。もと、黒ビロードと白繻子(しろじゅす)とを合わせて作られたところから、白と黒を昼と夜に喩えて「晝夜帶(ちうやおび)」とも呼ぶ。他に「鯨帯」とも。]

 五曲り目を曲る時までは何の異狀(いじやう)もなかつたのですが、六曲り目を掛(かゝ)らうとする時、又しても頭の上で話聲がします、第二の一組が次(つぎ)の曲(まが)り目から上に步(ある)いてゐるのかと私は思ひながら、六曲り目をぐるりと曲(まが)つて見ますと、何(ど)うでせう、現在(げんざい)今(いま)追(お)ひ越(こ)した許りの二人の男女の姿(すがた)が、半丁ばかり先(さき)に前の通りな形で步(ある)いてゐます。似た如(やう)な人もあるものだと私は思ひながら、その二人を又追越さうとすると、又しても前(まへ)の通(とほ)りに、此の二人が私を振返(ふりかへ)りました、通り越すと同時に話聲は絕(た)えました。

 七曲りを上り詰(つ)めて、鈴鹿峠の頂上にはがつしりとした昔普請(むかしぶしん)の家が二軒(けん)並(なら)んでゐます、昔は嘸(さぞ)繁昌(はんじやう)したらうと思はれる茶見世(ちやみせ)ですが、此處では汁粉(しるこ)と名物お團子の看板が出てゐます、私は其家の屋根(やね)の見える頃から、又足を急がせました、漸々(やうやう)屋根(やね)を見盡し、軒(のき)が現はれ、椽臺(えんだい)が見える處まで上つたら、何うです、前の二人の姿(すがた)が、私よりも先に上り着いてゐて、茶見世の椽臺(えんだい)に腰をかけて茶を啜(すゝ)つてゐるではありませんか。

[やぶちゃん注:「茶見世」先のPDFのイラストの峠にある『⑱峠の茶屋跡』。解説に、江戸時代には、『鈴鹿峠山頂の伊勢と近江の国境には、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の六軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人々でにぎわっていました。現在でも当時の茶屋の石垣が残されています』とある。]

 

         

 

 私の足はもう此(こ)の二人を追越す勇氣(ゆうき)がありません、此の二人の腰(こし)をかけてゐる茶屋の隣(となり)の茶見世に倒(たふ)れかゝる樣(やう)に腰(こし)を下しました[やぶちゃん注:句読点はない。]「お茶(ちや)を一つ」と小娘が私に宥(すゝ)めました、私は之れを呼び止めて「姐(ねえ)さん、あの二人は土地の人かえ」と指(ゆび)さして聞きますと、小女(こをんな)は指される方を覗(のぞ)いて見て「あの二人て誰(だ)れです」と聞きます[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「隣(おなり)に休んでゐる二人連れさ」と云ひましたら小女は「誰(だ)れも居りません」と素氣(すげ)ないものです[居ない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はない、隣の茶見世で休(やす)んでゐるぢやないか、男と女二人連れでさ]と說明(せつめい)しながら、私はそつと隣を覗いて見ました、すると又しても意外(いぐわい)な事には、確(たしか)に今休んでゐた筈の二人が影(かげ)も形も見えません、ハツと思ふと、天も地も眩(まばゆ)くなりました、都合(つがふ)三度(ど)脅(おびや)かされた私は、もう後へも先へも步(ある)く氣(き)がなくなりました、と云つて其處へ腰をかけてゐる事も出來ない、そこそこにして茶見世(ちやみせ)を立ちかけた、隣(となり)の家を、も一度、覗(のぞ)き込(こ)んで見ましたが、矢張何の姿(すがた)も見えませんでした、斯(か)うなると、もう一刻(こく)も早く此の薄氣味(うすきみ)の惡い鈴鹿峠(すゞかたうげ)を越して了ひたいと其(そ)ればかり思ひ入つて、小止(こや)みもなく降り頻(しき)る雨の中を、私は一散(さん)に駈下(かけお)りました、鈴鹿峠を下り切つた處は、一面に杉(すぎ)樅(もみ)の木の林のこんもりとした處です、天氣の好い日でさへ暗(くら)からうと思はれる程ですから、況(ま)して雨の日の旅(たび)の道(みち)、宵闇(よひやみ)の中を步いてゐるとしか思はれませんでした、若(も)しこんな處であの不思議(ふしぎ)な二人に會つたら、什麼(どん)なでしたらうか、併(しか)し幸(さいは)ひに、もう其後は全く姿(すがた)も見せず、頭の上の話聲もしなくなりました、そして其日の夕方(ゆふがた)江州水口(ごうしうみづぐち)の町に入りました。

[やぶちゃん注:「江州水口」「みづぐち」ではなく、「みなくち」が正しい。滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう)水口(みなくち)。江戸時代は東海道五十三次の土山(つちやま)宿と石部(いしべ)宿の間の宿駅。加藤氏二万五千石の城下町として発達した。]

 街道(かいだう)に沿(そ)つた一本町[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』では、『一本道』と訂してある。]をずつと通つてゐると、中に舊家(きうか)らしい宿屋がありますので、元より路用(ろよう)の乏(とぼ)しい旅の事、こんな宿(やど)の方が手堅(てがた)くてよからうと私は其處ヘ一夜(や)の宿を定めました[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「お世話を願ひます」と云(い)ひながら、椽(えん)に腰をかけて、草鞋(わらぢ)を解(と)き、出された洗(せんそく)足の盥(たらひ)へ兩足をすつと入れた時、表の方で、雨の音が一しきり、ザヽザツと强(つよ)くなりましたので、不圖(ふと)見(み)るともなしに往來を見ると驚(おどろ)いた、鈴鹿峠で見た相合傘(あひあひがさ)の粹(いき)な二人が、傍目(わきめ)も振らずに西の方へと此の家の前を通り過ぎる處でした。私は濡(ぬ)れた足の儘で飛び上つて、手當り次第に宿の座敷(ざしき)へ飛び込んで了ひました。

 

         

 

「どうなされましたのかいな」と女中が呆氣(あつけ)に取られながら、私に尋(たづ)ねたので、私は漸(やつ)と心を落付けてから、實(じつ)はこれこれと鈴鹿峠(すゞかたうげ)を上る時の話をしますと、女中は左程(さほど)驚(おどろ)いた顏もせず「餘程足の早い人どつしやろ」と簡單(かんたん)に打消(うちけ)して了ひました、私は合點(がつてん)ゆかぬ思ひをして自分の座敷(ざしき)へ入りました、斯(か)うして女中の爲に一口に打消(うちけ)されて見たり、腰(こし)を落付(おちつ)けても見ると、どうやら心も落付くので「取敢(とりあへ)ず一と風呂(ふろ)汗(あせ)を流した上で御飯にしたいが」と云ひましたら、女中は氣の毒さうに「竈(かまど)が壞(こは)れましたので、お氣の毒ですが、もう一時間も經(た)たんと湯が湧(わ)きまへんので」と云ひます、仕方なしに御飯(ごはん)を濟(す)ませ、其日の旅日記(たびにつき)など書き、差當りの手紙など二三本書いて、そしてゴロリとなりましたが、まだ湯(ゆ)が湧(わ)いたといふ知(し)らせが來ません。

 秋の日は例の釣甁落(つるべおと)しといふので、宿へ着いた時にまだ明(あか)るかつたのが、草鞋(わらぢ)を脫ぐ中に暮れて了つたのですから、彼(か)れ此(こ)れ九時頃でしたらう「お湯が湧きましたから」と云(い)つて來(き)たので、浴衣(ゆかた)一つで長い廊下(らうか)をずつと奧まで行つて、此處と示(しめ)された湯殿(ゆどの)の扉(とびら)を開けると、非常に廣い湯殿でした、三間(げん)[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方もあらうかと思はれる板(いた)の間の眞中(まんなか)に、三四人は悠々(いういう)入れようと思はれる湯槽(ゆぶね)が片付きよく出來てゐます、

そして其湯槽の壁際(かべぎは)に照射(てりかへ)し附きの洋燈がしよぼしよぼと瞬(またゝ)いてゐる上に、湯(ゆ)の煙が濛々(もうもう)と立昇(たちのぼ)つてゐますので、型(かた)の通りにどんよりとして見えます、浴衣(ゆかた)を脫(ぬ)いで板(いた)の間(ま)ヘ一足下した時、私は何の爲か、ぞつと水(みづ)を浴(あ)びせられるやうな心持がしました、風邪(かぜ)でも引いたか知らと思(おも)ひながら、汲(く)んである小桶(こをけ)の湯をざつと身體へ浴(あ)びせて、よい心持で湯槽へずつと身體を漬(つ)けようとすると、何かは知らず、湯槽(ゆぶね)の湯に浮いてゐる物(もの)が二つあります[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「何だらう」と思はず呟(つぶや)きながらぢつと見ると、男と女の首(くび)が後ろ向(む)きに浮(う)いてゐるのでした、無論私は息(いき)も止(とま)るばかりに驚いて、危(あぶ)なく倒(たふ)れやう[やぶちゃん注:ママ。]としましたが、必死(ひつし)の勇(ゆう)を奮つて足を踏(ふ)み〆(し)め、尙(なほ)一度(ど)見定(みさだ)めましたら、二つの首はくるりと此方(こちら)を向きました、そして「お先(さき)に」と私へ會釋(ゑしやく)をしました、首(くび)が浮(う)いてゐるのではなかつたので、正(まさ)に男と女と二人が入(はい)つてゐたのですから何やら安心が出來て、動悸(どうき)の高まつた胸(むね)を押へながら浴槽(ゆぶね)へ入つて、成るたけ此の男と女の方を見ないやうにしてゐました。

 もうめつきり寒(さむ)さを覺える晚秋(ばんしう)の頃でしたから、ゆつくり溫(あたゝ)まつてゐたいのですが、私の心は其日一日脅(およや)かされてゐますので、尻(しり)を落付(おちつ)ける事が出來ません、ざつと溫(あたゝ)まつて板の間へ上らうとしながら湯槽(ゆぶね)を見𢌞したら、現在人つてゐて會釋(ゑしやく)をした男と女との顏は何處(どこ)にも見えませんでした「いつの間に上つたらう」と板(いた)の間(ま)を見、脫衣場(だついば)を見ても影さへ見えません、可笑(をか)しな人があるものだ、それにしても餘程(よほど)素敏(すばし)こい人達だと思つて、私は板の間で汗(あせ)を流(なが)し始めました、石鹸(せつけん)を使ひながら不圖(ふと)考(かんが)へ付くと、今の二人の顏は鈴鹿峠で逢(あ)つた男女の顏(かほ)に似(に)てゐたやうです、ハツとして思はず聲を出して、私は碌々(ろくろく)身體(からだ)を流しもせず、湯(ゆ)を飛(と)び出(だ)して了(しま)ひました。

 

         

 

 私には譯が判りません、何(ど)う云ふ譯であの二人に付纏(つきまと)はれてゐるのか、あの二人は私を何しようと云ふのか、生(い)きた人間(にんげん)か死んでるのか、思へば思ふ程薄氣味(うすきみ)が惡(わる)いので、私は其儘(そのまゝ)蒲團(ふとん)へ潛(もぐ)り込んで、一夜をまんじりともしませんでした、屹度(きつと)人が靜(しづ)まつて了つた時分に何事か起るのだらうと思ふ心(こゝろ)が止(や)みませんので、寢返(ねがへ)りばかりを打つてゐましたが、意外(いぐわい)にも其夜は何事もなくもう二人の姿も見えず、厭(いや)な夜(よ)はほのほのと明けました、朝飯(あさめし)の時に、宿の女中へ又私は湯殿(ゆどの)の首の事を話して「一體何か譯(わけ)があるのか」と聞(き)きました、女中は初め中々云ひませんでしたが、私があんまり神經(しんけい)を惱(なや)ましてゐるのを見ると、仔細(しさい)を話してくれました、其仔細といふのは斯(か)うです。

 其頃(そのころ)から尙三年も前に、伊勢(いせ)の桑名の博突打(ばくちうち)が、親分の女房と人目を忍(しの)ぶ仲(なか)になつて、桑名を逃げ出し、街道筋(かいだうすぢ)を眞直ぐに此の水口まで逃(に)げて來た事がある、丁度(ちやうど)昨日(きのふ)の樣(やう)に雨の降る日の事[やぶちゃん注:行末で禁則処理の読点が打てない版組みである。]藍微塵(あいみぢん)の着物を着た男と、小辨慶(こべんけい)の單衣(ひとへ)を着た女とが番傘(ばんがさ)を相合傘にして、びつしより濡(ぬ)れて飛び込んだのが此(こ)の宿屋(やどや)であつた、秋近い頃の日(ひ)の暮(く)れ方(かた)であつたので、冷(ひ)え切(き)つた身體に二人とも胴慄(どうぶる)ひが止(や)まないと云ひながら、宿へ着くなり湯槽(ゆぶね)へ飛び込んで溫(あたゝ)まつたまではよかつたが、それが病氣の因(もと)で、男は其晚(そのばん)からの大熱(おほねつ)でどつと床に付いて了つた、女はそれを熱心(ねつしん)に介抱(かいはう)して一日も早(はや)く治(なほ)さねば、此處に此儘(このまゝ)でゐては追手(おつて)のかゝる心配があるといふので、餘程苦しんでゐたが、到頭(たうとう)看病(かんびやう)の甲斐(かひ)もなく僅(わづ)か一週間で男は息(いき)を引取つて了つた、女は落膽(がつかり)したが、さて何する事も出來ない、旅費(りよひ)と云つても漸(やうや)く五十圓あるかなしだつたらしいので、一週間(しうかん)の宿料(しゆくれう)と醫者の藥禮(やくれい)とに拂つて了(しま)へば、餘(あお)は男の屍骸(しがい)の始末をする金さへ乏(とぼ)しいらしいので、頭のものを女中に賣らせたりして、それを補(おぎな)ひに佛(ほとけ)の始末をしようかと云つてゐる處へ追手(おつて)が訪(たづ)ねて來た、もう絕體絕命(ぜつたいぜつめい)で、女は隨分張の强い樣子であつたにも拘(かゝは)らず、おろおろして了(しま)つて、其夜を追手と共に明し、翌日(よくじつ)は止(や)むを得(え)ず連れ戾されねばならぬと定まつた其(そ)の晚(ばん)、人の𨻶(すき)を見て、湯に入る樣子をして、湯殿へ臺所の庖丁(はうちやう)を持込み、美事に咽喉(のど)を突(つ)いて死んで了(しま)つたといふのです[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「其の幽靈はんどつしやろ[やぶちゃん注:底本では「とつしやら」。『ウェッジ文庫』に従って訂した。]、雨の日の一人旅で東から桑名(くわな)を進(すゝ)んで來やはるお客(きやく)はんと云(い)ふたら、屹度(きつと)此(こ)の二人の衆(しう)が踉(つ)いて見えはります、貴郞(あなた)はんが昨日(きのふ)お着きだした時にも、又かいなと思うて居(を)りました、何にもアタはしまへん、好(い)い人どすけど、薄氣味(うすきみ)の惡(わる)いものどすえなあ、雨の日に東から來やはる一人旅(ひとりたび)の男の人でなければ見えしまへんのやろ、私達(わたしたち)は見た事おまへん」と女中は云ひ添(そ)へました。

[やぶちゃん注:私の読んだ怪奇談の中でも、例を見ないオリジナリティに富んだ哀しい情話怪談である。]

2024/02/02

「蘆江怪談集」 「火焰つつじ」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。]

 

 

    火 焰 つ つ じ

 

 

         

 

 あとの汽車(きしや)にしたらと云はれたのを聞かずに重助(ぢうすけ)は重い荷物を持つて上州筋(じやうしうすぢ)の汽車に乘つた。其夜の中に先方へ着(つ)いて置く事が、翌日(よくじつ)の仕事の手順(てじゆん)の上から都合(つがふ)がよかつたので、强情を張つたのだが、目的(もくてき)の停車場へ着いた時には一寸(ちよつと)後悔(こうくわい)した。雨だ。而(しか)もどしや降り。

 其れも車(くるま)があれば、それを呼んで宿まで駈(か)けさせるのは譯(わけ)はないのだが、其の車がないと來てゐる。加之(おまけ)に荷の重い吳服物(ごふくもの)の見本を持つてゐるのである。

 重肋は停車場の出口(でぐち)で呆然(ばうぜん)と暫らく立つてゐた。

「まあ酷(ひど)い降(ふ)り」といふ聲が、自分のすぐうしろで、思ひがけなく聞えたので、振(ふ)りかへつて見ると、二十四五の水々した女が一人、これも今(いま)の汽車(きしや)を下りたものらしい。

 女の言葉は强(あなが)ち重助に云つたのではなかつたが、かうなれば乘(の)り合(あ)ふ舟(ふね)のよしみ、お互ひに懷(なつか)し相手の欲(ほ)しい時である。

「酷い降ですね」と重助(ぢうすけ)は水を向(む)けた。

「貴郞(あなた)、雨具(あまぐ)がお有(あり)なさらないんですか」と女はいふ。

「ありませんとも、なあに空身(からみ)ならばね、尻端折(しりぱしを)りで駈(か)け出しても好(い)いんですが、どうもこんな物を持(も)つてゐますので」

「まア、御難儀(ごなんぎ)ですわね、どうしたら好いんでせう」

「さあ殆(ほと)んど途方(とはう)に暮れましたね」

 此樣事(こんなこと)を云つてる間に、停車場はもうあとに來る汽車(きしや)もないので、二人を閉(し)め出(だ)しにして、邪慳(じやけん)に扉をどんと閉めて了つた。

「待(ま)つても車は來ないでせうか」

「迚(とて)も來ませんね」

「失禮ですが、今(いま)何時(なんじ)でせう」

「一時一寸[やぶちゃん注:「ちよつと」。]まはりました。いつもは此處に一臺(だい)や二臺の車は屹度(きつと)居(ゐ)るんですがね」

「どうしたら、好(い)いんでせう」

「さあ」と考(かんが)へても、どうしようといふ智惠(ちゑ)は一寸出なかつた。

 暫(しば)らく二人とも無言で、降りしきる雨を睨(にら)んで立ちつくした。やがて女が、

「貴郞(あなた)はどちらまで被入(いらつしや)るんですか」と聞く。

「本町(ほんまち)まで行きます、本町の越後屋(えちごや)といふのが定宿(ぢやうやど)ですがね、貴女は」

「私も本町の越後屋といふ宿を聞いて參(まゐ)つたのです、遠(とほ)いんでせうか」

「さうですね、六七丁(ちやう)はありませうよ、始(はじ)めてですか」[やぶちゃん注:「六七丁」六百五十五~七百六十四メートル。]

「はい、一寸(ちよつと)止(や)みさうもありませんわね」

「中々、兎に角お困(こま)りですね、何かよい工夫(くふう)は……」と考へてゐる中に重助は不圖(ふと)思(おも)ひついた事がある、それは荷物(にもつ)の中に入れてある桐油紙(とうゆがみ)であつた。

「かうして夜明(よあけ)まで立つてるわけにも參りませんが、私は桐油紙(とうゆがみ)を二枚(まい)持(も)つてゐます。一枚は小さいんですから、この荷物(にもつ)の蔽(おほ)ひにしまして、あとの一枚を合羽(かつぱ)のつもりでお被(かぶ)んなさい、私は外套(ぐわいたう)を着てますから、そして二人が足ごしらへをして步(ある)きませうぢやありませんか」といひいひ荷を解いて油紙(あぶらがみ)を出した。

 大きな油紙をうけとつた女は、それを擴(ひろ)げて見(み)て、

「あの、これを私だけ頂(いたゞ)いては、貴郞(あなた)に申し譯がありませんから、寧(いつ)そお一緖(しよ)に被(かぶ)つて參つては如何(いかゞ)でせう」と云ひ出した。

「なるほど、それはよい工夫(くふう)です、併し御迷惑(ごめいわく)ですね」

「いゝえ私(わたし)こそ」

 二人はすつかり身仕度(みしたく)をして跣足(はだし)になると、重助は荷物を背中に背負(せお)うて、一枚(まい)の大桐油紙の中に女と一緖(しよ)に包(くる)まつた。

 女も男も一寸(ちよつと)ためらつたが、ためらつては兩方(りやうはう)濡(ぬ)れるので、すぐにぴつたり寄(よ)り添(そ)つた、さうして雨の中へ突(つ)き進(すゝ)んだ。

 

         

 

 越後屋(えちごや)へ着いた時、二人の身體が骨(ほね)の髓(ずゐ)まで泌(し)み入るほど濡(ぬ)れてゐた事はいふまでもない、丁度寢入り端(ばな)で中々起きないのを叩(たゝ)き起(おこ)して、漸々(やうやう)二人は中へ入ると、直ぐに湯殿(ゆどの)へ行つて、冷めかかつた湯で手足を洗(あら)ひ身體を拭(ふ)いた。

 さうして薄暗(うすぐら)くなってゐる廊下(らうか)を幾曲(いくまが)りかして、此方(こちら)へと入れられた座敷は八疊の一間であつた。

「もう何も出來ないだらうかね」といふと、番頭(ばんとう)は眠(ねむ)さうな目で、而(しか)も物をいふのさへ不足(ふそく)らしく、

「ヘイ」とばかり「どうぞお寢(やす)みなすつて下(くだ)さいまし」と云つた。

 番頭の不機嫌(ふきげん)も無理はないと思つて、重助はすべての我儘(わがまゝ)を控(ひか)へて默(だま)つてゐた。それに構(かま)はず番頭はお辭儀(じぎ)だけ恭(うやうや)しく直ぐに引下つた。

「仕方がない贅澤(ぜいたく)はいへませんね」といふと女が、

「え、何しろ遲(おそ)いんですから」とこれは左程(さほど)困(こま)つた顏もせず「でも身體を拭(ふ)いたので、さつぱりしましたわ」と云つた。

「相宿(あひやど)といふ始末でお迷惑(めいわく)ですね」

 女も冷(つめ)たくなつた茶を啜(すゝ)つた。

「いゝえ貴郞(あなた)こそ本當に御迷惑ですわね」

「どういたして……併(しか)し緣(えん)といふものは妙(めう)なものですね」

「全(まつた)くですわね」

「や、失念(しつねん)いたしましたが、御安心の爲に私の名剌(めいし)を差上(さしあ)げて置きませう]と重助はさすが商人である、實は相手の素性(すじやう)を聞いて置く爲めに白分の名刺を女に差(さ)し出(だ)した。

「御丁寧(ごていねい)に」と女はそれを受取つて、自分の名刺(めいし)を重助に差出した。名刺には東京××區××町の岩崎(いはさき)すみとあつた。

 そしてお互(たが)ひにお寢(やす)みなさいと云つて、寢にくい寢にくい枕(まくら)についた。

 何處かで時計が三時を打つのを聞(き)いた時(とき)、女は、

「お暑(あつ)かありませんか」と聞いた。

「暑うござんすね、まだ此樣(こんな)陽氣(ようき)でない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])だのに」

「一寸(ちよつと)雨戶(あまど)を開けませうか、雨のしめりで幾何(いくら)か凌(しの)ぎよいかも知れません」と女はもう起上(おきあが)つてゐた。

「どうも憚(はゞか)り樣(さま)」と重助が云つた頃には雨戶を一枚(まい)繰(く)りあけたが、どうしたのか「アツ」と細(ほそ)く悲鳴(ひめい)をあげて、直ぐにぴつたり戶を閉(し)めた。

「どうしました」と重助(ぢうすけ)が身を起した時に、女は重助の傍近(そばちか)く俯伏(うつぶ)せになつてゐた。

「どうしました、何があつたんです」と重助は不安(ふあん)心さうに、女の背中(せなか)のあたりを見つめた。[やぶちゃん注:「不安(ふあん)心」「ふあん」は「不安」の二字にのみある。「不安」と同義の「ふあんしん」もあるので問題はないが、個人的には、三字で「ふあん」と当て訓したい気はする。]

「どうしました」と重(かさ)ねて聞く重助の言葉(ことば)に女は、

「どうぞ、わけを聞(き)かないで下さい、それよりも何か面白(おもしろ)い世間話(せけんばなし)をして下さい、譯(わけ)は明日(あす)、夜が明(あ)けたらお話しいたしますから」とのみ云(い)つた。

 重助は女の怯(おび)えてゐる樣子を氣(き)の毒(どく)がつて、成るたけ毒にも藥にもならぬやうな世間話(せけんばなし)をしつつ、女の心を紛(まぎ)らしてやらうとした。

 女は其れに氣(き)を紛(まぎ)らされようとしながらも、重助を賴(たよ)る樣子であつた。

 女の樣子が、幾分(いくぶん)づつ安(やす)まつて來るに從(した)がつて、重助の心は平(たひ)らになつて行つた。

 改(あらた)めていふが、女は二十四五、男は三十を三つ越(こ)したばかりである。

 

         

 

 夜(よ)が明(あ)ける頃、二人はぐつすり眠(ねむ)つた。

 驚(おどろ)いて目をさましたのは彼(か)れこれ十時頃であつた。

「そろそろ起(お)きませうかね」と重助が云ふと、

「え」と女は重助(ぢうすけ)の顏を見(み)た。

「けふはこれから何方(どつち)へ行くの」と重助は、全(まつた)く打解(うちと)けた言葉を使つた。

「これからね、又三里山の中へ入(はい)つて行(い)くんです」

「東京へは歸(かへ)らないんですか」

「え、歸(かへ)りたくも歸れません」

「どうして」

「歸る家がないし、それから東京(とうきやう)に落付(おちつ)いてゐるわけに行かない身體(からだ)です」

「昨夜(ゆふべ)なぜあんなに怯(おび)えてゐたんです、もう夜が明けたから話しても好(い)いでせう」

「え、雨戶(あまど)を開けない中(うち)に話しますわ」

「話して下さい、一體(たい)何(なに)が居たの」

「何も居やしません、居ないことは判(わか)つてゐるんですけれど、それが怖(こは)くてたまらなかつたんです」

「居ない事が判(わか)つてて怖(こは)いといふのは」

「私には生靈(いきりやう)がとつついてゐるんださうです」

「生靈」

「え、女の生靈(いきりやう)ですつて、それがね、不斷(ふだん)は何ともないんですけれど、つつじの花が咲(さ)いてるところに行くと其生靈が業(わざ)を始(はじ)めるんです」

「つつじの花と生靈とどんな關係(くわんけい)があるんです」

「恥(はぢ)を云はなきあ判(わか)りませんが、私は二十の年まで東京で藝者(げいしや)をしてゐまして、その秋に落籍(ひか)されて、ある人のお妾(めかけ)になつたんですの」

「ぢや本妻(ほんさい)の生靈とでもいふんだな」

「え、さうなんです、何も彼(か)もお話ししますわ、落籍(ひか)されてから、半年ばかりは旦那の本妻(ほんさい)に知れない儘(まゝ)で暮(くら)してゐました、けれど、其中に不圖(ふと)した事から奧樣に知れましてね、私も旦那も一寸(ちよつと)困(こま)つたんですけれど、今更(いまさら)仕方(しかた)がありませんわ、面倒(めんだう)になつたら私は身を引くつもりでゐましたの、するとね、其の奧樣が大層(たいそう)捌(さば)けた方でね、家を二軒(けん)持(も)つてゐては物入りも大變(たいへん)だし、お自分も氣(き)づまりだらうから、いつそ一緖(しよ)になつたら如何(どう)ですと仰(おつし)やり始めたんです、本妻と妾(めかけ)と一緖(しよ)になる事はあんまり好(い)い事とは思ひませんでしたけれど、それを嫌(いや)だといへば何だか依估地(いこぢ)に當りますから、まあ不性無性(ふしやうぶしやう)に一緖に住(す)まふ事にいたしました」[やぶちゃん注:「依估地」「意固地・依怙地」が一般的だが、この「估」を用いる場合もある。]

「一緖(しよ)になると、本妻が貴女(あなた)を邪魔(じやま)に仕始めたな」

「處(ところ)が、さうぢやないの、何事につけても私を立ててくれるし、それはそれは大事(だいじ)にしてね、よく庇(かば)つて下さいました」

「それがどうして生靈(いちりやう)になつたんです」

「今(いま)足許(あしもと)の雨戶を開けると見えますが、この家の庭に眞赤(まつか)なつつじが咲(さ)いてゐます、其のつつじの咲いてゐる頃に一緖(しよ)の家に住むやうになつて、二度目の花(はな)が咲(さ)いた時ですから、まア一年目ですわね、私に赤(あか)ン坊(ぼう[やぶちゃん注:ママ。])が出來たんです」

「ふん、ぢや、一緖の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。「居」は当て字で「すまひ」が正しい。])になる時分(じぶん)から宿(やど)つたんですね」

「え、まアさうですわね、旦那(だんな)の家のお庭(には)にもつつじの花がありました、それが眞盛(まつさか)りに咲いてゐる時、私は無事(ぶじ)に身二つになつて、而(しか)も男の子を生(う)みました。私に子が出來ると、奧(おく)さんはそれはそれは喜(よろこ)んでね、といふのは、奧(おく)さんと旦那とは十年から連(つ)れ添(そ)つてゐるのに、子供がない爲め、いろいろな養生(やうじやう)をなすつたんださうです。其位(それくらゐ)欲(ほし)しがつて被居(いらつしや)るところですから、私の生んだ赤ン坊は私よりは奧さんに馴(なづ)く[やぶちゃん注:「なつく」は「なづく」とも書く。]ほどに、奧さんが可愛(かあい)がつて下すつたんです、私も全(まつた)く仕合(しあは)せな身の上だと思つて居りました、それで奧樣(おくさま)が赤ン坊を可愛(かあい)がつて下さるので、私は其子の行末(ゆくすゑ)の爲め、いつそ奧樣(おくさま)の子のやうにして置(お)いた方が好(い)いかも知れぬといふ氣が出まして、奧樣の思ふまゝに、成(な)るだけお任(まか)せ申して、私の方へ三度(ど)抱(だ)く間に、奧樣の手へ五度(ど)以上(いじやう)渡(わた)すやうにく渡すやうにとしてゐました、尤(もつと)も其の子の籍(せき)も奧さんの胎(はら)から出たやうに屆(とゞ)けてあるんです、かうしてゐる中に、どうもその子が何處(どこ)が惡いといふのでなく弱(よわ)いのです、年中醫者と藥(くすり)は絕(た)やした事はない有樣(ありさま)だものですから、私も奧さんも旦那も元より隨分(ずゐぶん)苦勞(くらう)をしました、けれども一向(かう)强(つよ)くなりません」

「貴女(あなた)のかげにまはつて、奧樣が子供を苛(いぢ)めるんではないか」

「いゝえ、さうぢやないんです、奧樣(おくさま)は全つたく可愛(かあい)がつてでした[やぶちゃん注:ママ。会話表現としては私は躓かない。]、それに利口(りこう)な奧樣(おくさま)でしたからね、私といふものは、イザとなつたら追(お)ひ出(だ)す事の出來る身體(からだ)ですが奥樣と子供とは引放(ひきはな)す事の出來ない戶籍(こせき)の關係(くわんけい)になつてゐるんでせう、だから奧樣としては子供(こども)を大事にすればする程(ほど)弱味がつくんですわ」

「成(な)る程(ほど)、それもさうだな」

「何しろ餘(あん)まり心配ですから、私はある時、人に勸(すゝ)められる儘(まゝ)に、銀座の易者(えきしや)に見て貰(もら)ひに行つたのです、さうすると易者が不思議(ふしぎ)な事を云ひました」

「不思議な事(こと)」

「え、私と子供の身(み)の上(うへ)に生靈(いきりやう)がとりついてゐるといふのです、若(も)し子供(こども)の身體が丈夫になる事があれば、其時、私の身體に故障(こしやう)の出來(でき)る時だつて」

「はあ、矢張(やは)りよくは見せても本妻(ほんさい)のやきもちだな」

「いゝえ、そればかりは誰(だ)れが何と云つても少(すこ)しもない事は私が承知(しようち)して居ります、決(けつ)して奧樣に其樣(そんな)心持(こゝろもち)は毛程(けほど)もありません」

「ぢや誰(だ)れの生靈(いきりやう)だらう」

「それが私にも判(わか)りませんから、一體(たい)どうすれば私と子供の身體(からだ)が兩方とも丈夫(じやうぶ)になるのかと聞きましたら易者(えきしや)は、私といふものが旦那(だんな)の家に入つてゐる事がいけないのださうです」

「それぢや矢張り本妻の生靈といふ事になるぢやないか」

「まア、さうだわね、それで私は決心(けつしん)して旦那におひまを頂(いたゞ)く事にはしましたものの、扨(さて)、それが云ひ出せないんです、旦那にも奧樣にも隨分(ずゐぶん)義理(ぎり)があるんでせう、其樣(そんな)水(みづ)くさい事が云ひ出せないほど奧樣は親切(しんせつ)にして下さるんですもの、今日は云はうか明日(あす)云はうかと思(おも)ふままに、一年は過(す)ぎて、又つつじの花の眞赤(まつか)になる頃になつて了(しま)ひました。するとある日旦那も奧樣(おくさま)もお留守(るす)の時の事です、私は不圖(ふと)緣側(えんがは)へ出ますと、お庭(には)の端(はし)にムラムラと火焰(くわえん)が上つて、大きな庭一面を燒(や)き盡(つく)しさうにしてゐる樣な樣子を見ました」

「庭(には)の火事つてのは可笑(をか)しいね」

「ですけども、全く庭が燃(も)えてるんです、私びつくり仕了(しちま)つて、あツ誰(だ)れか來ておくれと云つたまでは覺(おぼ)えてゐましたが、もう其あとは何も判(わか)らなくなりました、漸(や)つと氣(き)が付(つ)いた時は、もう私の身體は蒲團(ふとん)の上に寢(ね)かされて醫者(いしや)は來てゐるし、奥樣はちやんと枕許(まくらもと)について下すつて、頭を冷(ひや)して下すつたり何か大變(たいへん)な騷ぎなのです」

「庭を見た時、目が眩(くら)んだんだらう」

「いゝえ、目は決(けつ)して眩みません、確(たし)かに燃(も)え上る火を見たにちがひないんです、其れが眞晝間(まつぴるま)なんでせう、たしかに火でした、今(いま)考(かんが)へても目の前にちやんと見えますわ、燃(も)え上(あが)る火の下には私の大事な子供(こども)が、素裸(すつぱだか)になつて轉(ころ)がされてゐるんですもの、あツ、私は、もう此話は止(よ)しませう、貴郞(あなた)、雨戶は閉(し)めてありますか」

「あ、閉(し)まつてゐるよ、もう十一時(じ)位(くらゐ)だらうけれど、こんなに暗(くら)いぢやないか、まあ私がついてゐるんだから怖(こは)い事はない、貴郞のは神經(しんけい)なんだよ、それからどうしたの、話しをした方が紛(まぎ)れて好(い)いんだから」

 重助は女の背中(せなか)を撫(な)でさすつてやつた、女は少しづつ氣(き)が落(お)ちついたらしかつたが、顏(かほ)の色(いろ)は眞靑(まつさを)になってゐた。

 

         

 

「でもね、神經(しんけい)だつたかも知(し)れないんですわねえ、あとで怖々(こはごは)庭を覗(のぞ)いて見ましたら、たしかに火焰(くわえん)が上つたと思ふ場所(ばしよ)には、例(れい)のつつじの花が眞赤に咲いてゐて、子供が裸(はだか)に轉(ころ)がされてゐたと思ふ場所には、靑石の捨石(すていし)が一つあつたのですもの、だけれどそれが私には神經(しんけい)と思はれないほどはつきりしてゐるんですよ」

「銀座(ぎんざ)の易者先生がすつかり祟(たゝ)つたんだ、脅かされちや不可ませんよ」[やぶちゃん注:「祟(たゝ)つたんだ」は、底本では、「崇(たゝ)つたんだ」。誤植と断じ、特異的に訂した。]

「火焰(くわえん)の事があつてから三日目でしたか、ある日、晝間(ひるま)の用向が張物(はりもの)だの、解(と)きものなので、奧樣も私も相應(さうおう)に忙(いそ)がしくて、日一杯で仕事が納(をさ)まらず、到頭(たうとう)暮(く)れて了(しま)つてから、其處中[やぶちゃん注:「そこうち」。]を片付けて、私が庭先(にはさき)の戶じまりをしに行きました、其時(そのとき)庭先(にはさき)には、いつの間にか雨(あめ)が降り出してましてね、眞暗(まつくら)でしたが、其眞暗な中からヒーヒーつて聲がするんです、何(なん)の聲だらうと思(おも)つて耳をすましてゐると、確(たし)かに子供の泣(な)き聲(ごゑ)でせう、ああ坊やが泣(な)いてるのかしらと聲のする方へ目をつけると又(また)驚(おど)ろきましたね」[やぶちゃん注:「泣(な)いてるのかしら」この「かしら」は、底本では、「しから」。誤植と断じて、特異的に訂した。]

「又(また)火焰(くわえん)ですか」

「いゝえ、今度は坊(ぼう)やがね、矢張(やは)り裸(はだか)にされて庭先に轉がされてゐるんです、而(しか)も腋(わき)の下から胸のあたり、顏(かほ)へかけて、血(ち)みどろなんです」

「それもつつじだな」

「貴郞は自分に關係(くわんけい)のない事だから、そんなに同情(どうじやう)のない事を仰(おつし)やるけれど、私は眞劍(しんけん)ですよ」

「私も眞劍に聞(きい)てるからこそ、神經(しんけい)だといふんです」

「何とでも仰(おつし)やいな、私は知らないわ」と女はくるりうしろを向(む)いた、そして何と云つても、もう重助の方を振(ふ)りかへらなかつた。

 重助は遉(さす)がに持餘(もてあま)して、

「少しお前さんの厭(いや)がらない方の雨戶を開(あ)けようね、そしたら氣(き)が晴(は)れるかも知れないから」と捨臺詞(すてぜりふ)のやうに云ひながら、ついと立つて雨戶を二三枚(まい)繰(く)つた。

 雨はいつの間にか止(や)んで、きらきらと眠不足(ねぶそく)の目を刳(えぐ)るやうな日が當つてゐた。

「さあ、頭をあげて御覽(ごらん)なさい、こんな好(い)い天氣になつたから」

 女はやうやう氣を變(か)へた樣(やう)になつた。

「氣分(きぶん)はなほつたかえ」

「え、もうさつぱりしたわ、だけど、それ以來(いらい)つつじの花(はな)が咲くと、さういふ事が必(かな)らず一度(ど)づつあるんですもの。」

「昨夜(ゆふべ)だつてそれなんです」[やぶちゃん注:言わずもがなだが、これも前と続けて同じ岩崎すみの台詞である。一息入れて、きっぱりと言ったととれば、私は違和感はない。

「矢張りつつじが燃(も)え出(だ)したのかえ」

「いゝえ、子供(こども)が血みどろになつたんです、後生(ごしやう)ですから彼方側(あつちがは)の雨戶は開(あ)けないでおいて下さいね」

「ああ、好(い)いとも、然しもうお午(ひる)だぜ」

「え、何だか始(はじ)めて泊(とま)つた宿で、こんなに寢坊をしてきまりが惡(わる)いわ」

「始めての宿なら好(い)いが、始終(しじう)定宿(じやうやど[やぶちゃん注:ママ。])にしてゐる僕はもつときまりの惡(わる)い人だよ、いつでも商賣用で來るんだから、店(みせ)の者を連(つ)れて來るか、さもなければ一人だのに、すつかり連(つ)れ込(こ)み扱(あつか)ひにされたんだからね」

「御迷惑(ごめいわく)さまですわね」

「どういたしまして、手前(てまへ)こそ」

 

         

 

 どうやら女の心持(こゝろもち)も治(なほ)つて、二人とも顏を洗(あら)つてさつぱりしたところで、座敷(ざしき)ヘ戾ると「開けないで置いて下さい」と女が云つた雨戶(あまど)は名殘(なご)りなく開(あ)け放(はな)してあつた。稍々(やゝ)深(ふか)くなりかけた庭木の綠(みどり)は、目(め)を射(い)るやうに照(て)りかへした雨後の初夏の日蔭(ひかげ)に、きらきらと輝(かゞや)いてゐた。

「ヤ、開けて了つたね、もう好(い)いだらう」と重助が努めて元氣よく云ふと、女は、

「え」ともう氣(き)にもしないらしく云つた。

 お茶を淹(い)れてゐる女の手つきのしとやかさをぢつと見ながら、重助(ぢうすけ)は、

「そして到頭(たうとう)旦那(だんな)と別れて了(しま)つたのかえ」と聞いた。

「え」

「子供(こども)は」

「子供は先方(せんぱう)へやりました、大方無事に達者(たつしや)に育(そだ)つてゐると思ひます」

「いつ別(わか)れたの」

「つい二三日前(にちまへ)です」

「旦那は無事に納(をさ)まつたかえ」

「大分(だいぶん)六(むつ)ケ敷(し)かつたんですけれど」

「それで東京に居(ゐ)たくないといふわけだな」

「え」

「ここから三里先の田舍(ゐなか)つてのは、親(おや)の家(うち)かえ」

「いゝえ、兄(あに)の家(うち)なんです」

「兄さんの家では少し氣兼(きが)ねだな」

「え、ですけれど仕方がないんですもの」と淹(い)れたお茶を重助(ぢうすけ)の前へさしよせた、襟足(えりあし)がくつきりと白い橫顏(よこがほ)の美くしい、頰(ほゝ)のあたりに得難(えがた)い愛嬌(あいけう)のある女だと重助は思つた。

「兄の家に行(い)つてどうするつもり」

「どうと云(い)つて的(あえ)はありませんけれど」

 重助(ぢうすけ)はかねがね思つてゐる事を考(かんが)へて居た。かねがね思つてゐる事とは、月(つき)に一度(ど)づつはこの土地へ來なければならぬ商賣(しやうばい)を持つてゐるのだから、其都度(そのつど)宿屋住居(やどやずまゐ[やぶちゃん注:ママ。]でなく、出張所を一軒(けん)造(つく)らうかと思つてゐるのであった、併(しか)しそれには經費(けいひ)と收入(しうにふ)とがしつくり合ふかどうだかと思つてゐたのであるが、このおすみの住居を(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])造つてやつて、それを出張所にして置(お)いたらと思ひついた事である。そして思(おも)つた事を直(すぐ)と云ひ出した。

「お前さん、此(この)土地(とち)で家を持つ氣になれないか、さうすれば私がうしろ楯(だて)にならうぢやないか」

「嬉(うれ)しいわね、願(ねが)つてもさうして頂(いたゞ)きたい位よ」と女も無造作(むざうさ)だつた。昨夜一夜の雨でお互ひに心持は充分(じうぶん)判(わか)り盡してゐた。

「うん、きまりが早(はや)くて好(い)い、さうしちまはうよ」

「え、どうぞお願(ねが)ひします」

「これも緣(えん)だらうさ」

「ほんとに奇體(きたい)な御緣(ごえん)ですわね」と二人はすがすがとした心持になつてゐた。

「さう極(きま)つたら早速(さつそく)、家を探(さが)す事にしよう、今日中に私は當用(たうよう)を片付けて、それから場所を探さうぢやないか、其の代り私の東京にゐる間(あひだ)は店(みせ)の用もしてくれなければならないよ」

「私(わたし)に出來るなら」

「出來るさ、出來ない用向(ようむき)には私が出て來るから」

「好(い)いわね、好いわね」と女は子供のやうに喜(よろこ)んで、重助の男らしい顏(かほ)をしげしげと見た。

 重助はのびんのびとして莨(たばこ)を燻(くや)らしながら廊下(らうか)を出た、それは夜前(やぜん)、おすみが氣分を惡(わる)くした方の廊下(らうか)であつたが、其處へ出た重助の目(め)の前(まへ)にはキラキラと光るものがあった、と思ふと庭の一隅(ぐう)から火が燃(も)え出して、それが庭一面に擴(ひろ)がつた、ハツと思ふ途端(とたん)に、重助の身體はトンと倒(たふ)れた。

 庭には三株(かぶ)四株のつつじの花が眞盛(まつさか)りであつた。女はアツと云つて重助の身により添(そ)つた。

 

 重助の身體はおすみの介抱(かいはう)で間もなく治(なほ)つたが、治つた時、おすみは重助の前に手をついて聞(き)いた。

「貴郞(あなた)にはお内儀(かみ)さんがおありでせう」

「うむ」

「あの、折角(せつかく)お親切(しんせつ)にお考へ下すつたんですけれど、只今のお約束(やくそく)はおやめなすつて下さいませんか、私は氣兼(きが)ねでも矢張り兄の家の食客(ゐさうらう)になります」と淚(なみだ)と共に云つた。

 重助は何(いづ)れとも返事はしなかつたが、長い嘆息(ためいき)をついてゐた。

[やぶちゃん注:本篇は、上州の停車場での未明の二人の出逢いから、凡そ十二時間足らずの越後屋の宿部屋を舞台時制としている。怪奇現象は、概ね、山崎すみの回想によるものであるが、あたかも、その異様なホラー・シーンが読者の脳裡に適正確実にフィードバックするように、リアルに語られており、遂に、最後には、重助も、実際に「火焰つつじ」の怪異に襲われることになる。まことに、「燻(いぶ)し銀」の文体で、無理が全くない。重助はさかんに、彼女の語りを、「神經」の齎した幻覚であると評する。私も、読みながら、「奥樣」に対する申しわけないという心理が、強迫神経症的な妄想幻覚を惹き起こしたものと考えていたのを思い出す(但し、「生靈」とは、やはり、「奥樣」の無意識化の嫉妬が引き起こしたものとは言えるように今も感ずる。「易者」は、明らかに「奥樣」とグルである。重助の遭遇した怪火と短時間の昏倒も、重助自身が、山崎すみへ、半ば確信犯的に、懸想してしまっていることへの、同じく一過性の強迫神経症による重助の自責の念が生み出した幻覚であるとも、今も、私には思われる)。しかし、重助自身が、その怪異を見てしまうというコーダは、甚だ、鮮烈である。本篇は、それらを総合して、優れた怪奇談の逸品と言えるのである。

2024/02/01

「蘆江怪談集」 「二十六夜待」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。「二十六夜待(にじふろくやまち)」は、江戸時代、陰暦一月と七月の二十六日の夜に月(下弦の月)の出る(「月の出」を待って拝むこと。月光の中に彌陀・観音・勢至の三尊の姿が現われるとされ、高輪から品川辺りにかけて、盛んに行なわれた。多くは「七月」のそれを指し、単に「六夜待」とも言う。冒頭に「今から六十年も前の話」とあるので、刊行時から機械計算すると、明治七(一八七四)年となる。既に西暦が採用されているが、西暦の当日(「前日」とあるので七月二十五~二十六日)の「月の出」は午後二時四十分で、シークエンスと全く合わない。されば、ここは陰暦で言っていると判断できるので、旧暦換算すると、同年六月十三~十四日に当たり、「月の出」は〇時十五分でピッタリである。

 

 

    

 

 

          

 

 二十六夜(や)の前の晚といふのですから、隨分(ずゐぶん)暑(あつ)い時分の事です、薩摩邸(さつまてい)の御用を承(うけたま)はつてゐる松原新五郞といふ人が、品川宿(しながはじゆく)の送り茶屋田中家といふ家(うち)で一杯(ぱい)やって居りました。もう今から六十年も前の話(はなし)です。六十年前の薩摩邸と云つたら、羽振(はぶり)のよいものの骨頂(こつちやう)でしたから、自然其の邸のお出入なら、松原新五郞さんの威勢(ゐせい)も大したものです。おきくといふ深(ふか)い馴染(なじみ)の女に家を持たして、品川に見世(みせ)を出させたのが、この田中家(たなかや)ですから、つまり新五郞さんは今自分の家で飮(の)んでるも同然(どうぜん)なのです。海近い二階の廣間を開(あ)け放(はな)して、お臺場(だいば)から吹きさらしの風をうけて、品川中の景氣(けいき)を一人で背負(せお)つた心持になつて、全盛を極(きは)めて居りますと、この田中家の裏木戶(うらきど)あたりで「やあ、心中(しんじう)だい、心中だい、心中が流(なが)れて來たアイ」と犇(ひし)めき立つ人の聲がしました。「妙(めう)な事を云つてるぢやねえか、誰れか見て來ねえ」と云ひながら、廊下(らうか)に便々(べんべん)たる[やぶちゃん注:太って腹が出ているさま。太鼓腹であるさま。]肌(はだ)を寬(くつろ)げて大安座(おほあぐら)になってゐた新五郞が、不圖(ふと)、櫺子(れんじ)[やぶちゃん注:竹などの細い材を、縦又は横に一定の間隔を置いて、窓や欄間に取り付けたもののこと。]から外を眺(なが)めると、櫺子の下は頃しも上(あ)げ汐(しほ)の事ですから、滿々(まんまん)たる水がぽちやりぽちやりと波打(なみう)つてゐます。それへもう澄(す)み切(き)つた下弦(かげん)の月が低(ひく)くうつろつて、波がしらがきらきらと光(ひか)る、其の波のはづれ、自分が見下した櫺子(れんじ)の眞下(ました)のところへ、成程(なるほど)心中(しんじう)ででもありませう。二つの屍骸(しがい)が、ぴつたりくつついた儘(まゝ)、ふはりふはりと流れついてゐます。

「成る程本當の心中だ。可愛(かあい)さうに、どこから流れて來たのか知らねえが、こゝヘ流(なが)れ着(つ)くのも因緣事(いんねんごと)だらう。葬(はうむ)つてやりてえが、今と云つちや手が付けられめえ、それとも何(なん)とかなるかえ」と幇間(たいこもち)に聞きますと、幇間の新(しん)八が、

「さうでござんすね。この上(あ)げ汐(しほ)で、流れ着いた場所が場所ですから、一寸(ちよつと)弄(いじ)りにくうござんすね」

「さうか、ぢや仕樣(しやう)がねえ」と新五郞さんは屍骸(しがい)をぢつと見下してゐましたが、

「お前も緣(えん)があつて來たんだらうから、私に始末(しまつ)をさしてくれ。其の淺間(あさま)しい姿を隱(かく)して貰(もら)ひたかつたら、何處へも行きなさんなよ」と、云ひ聞かせるともなく獨(ひと)り言(ごと)を云ひました。と同時に波(なみ)がざぶりと來て、二つの屍骸(しがい)が一ゆりゆつたかと思ふ死骸は波にさらはれたのか、見えなくなつて了(しま)ひました。

[やぶちゃん注:「田中家」「海近い二階の廣間を開け放して、お臺場から吹きさらしの風をうけて」「品川」以上と最後のシークエンスから、「田中家」は現在の高輪・東品川附近の海岸端にあると考えてよい。現在では干拓が有意に行われているので、「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。]

 

         

 

 翌(あく)る朝(あさ)になりますと、一旦波に隱(かく)れたかと思つた心中ものの屍骸(しがい)は、波にも風にもさらはれず田中家の家の臺石(だいいし)に引かかつた儘、腰(こし)から上は陸へ上つて居ります。

「心中が引(ひつ)かかつてるよう」といふ聲が又、近所の者の口から口へ傳(つた)はりました。

「成る程、緣(えん)があつたんだと見える。引上げて見ねえ、何か持物(もちもの)を調(しら)べて、若し何處の者だか手がかりでもあつたら、送(おく)り屆(とゞ)けさせよう」と新五郞は、自分(じぶん)で下へ下りて見ました。屍骸は二人とも同じやうに白無垢(しろむく)を着て、二人の胴中(どうなか)を赤い扱帶(しごき)でしつかりと結(ゆは)えてあります。立派な覺悟(かくご)の死裝束(しにしやうぞく)ですから、袂(たもと)にも懷(ふところ)にも名前の手がかりさへありません。加之(おまけ)に幾日の間か水の中を浮きつ沈(しづ)みつしてゐた爲めか、二人が二人とも目鼻口(めはなくち)のあともなく、只のつぺらぼうの顏になってゐるので人相を推量(すいりやう)する事さへ出來ません。

「何にも手がかりはございませんね」と賴(たの)まれて屍骸(しがい)を引上げた町の若いものが云ふので、新五郞も一寸(ちよつと)困(こま)つたが、

「ぢや仕方(しかた)がねえ。折角家の前へ流れ着いたものを、彼方此方(あつちこつち)持步(もちある)いちや可愛さうだから家の橫手の空地(あきち)へそうつと埋(う)めといてやんなせえ」とそれぞれ差圖をして、二つの屍骸を一緖(しよ)の棺(くわん)に入れて、田中家の橫手(よこて)の空地へ埋め、其處へ印(しるし)のものを樹(た)てて坊主(ばうず)を呼んで來てお經(きやう)を一卷上げてやりました。

「死ななくつても濟(す)んだらうに好(い)い若(わか)い者を可愛(かあい)さうな事をした」と新五郞は一寸ひよんな氣(き)になりました。其夜(そのよ)は前にも云ふ二十六夜の當夜(たうや)ですから、田中家で月待(つきまち)をすれば申し分はないし前(まへ)の晚(ばん)から其のつもりで、末社(まつしや)[やぶちゃん注:「幇間」の異名。]どもをも呼び集めてあつたのですが、新五郞どうしても、心持(こゝろもち)が引立たない。心中塚(しんぢうづか)のお經(きやう)が濟むと直ぐに、高輪の駕籠を呼んで、ぶらりと何處へか舁(かつ)がして行きました。

「俺(おら)あ何處かで心持を直して來るから、若(も)し連中(れんぢう)が來たら、俺に構(かま)はず、飮まして遊ばしといてやんな。張出(はりだ)しの座敷で月待なら頂上だから、其の中氣持が直つたら、俺(おれ)も歸(かへ)つて來るか知れねえ」と云ひ置いたので、田中家(たなかや)では二十六日のお晝時分(ひるじぶん)から末社どもばかりで、頭[やぶちゃん注:「かしら」。]ぬきの散財(さんざい)が始まりました。新五郞さんだつて氣(き)づまりな人ではありませんが、それさへ居(ゐ)ないとなると末社どもこゝを先途(せんど)と大噪(おほはしや)ぎの有樣です。

 末(ひつじ)の下刻(げこく)といふのですから、今の午後三時頃です。餘(あま)り騷(さわ)いで、騷ぎ氣臥(きづか)れた藝者のお粂(くめ)が、張出しの端先(はなさき)へ出て酒にほてる顏を濱風(はまかぜ)に吹かせながら、お臺場(だいば)の沖(おき)を見渡さうとすると、羽田沖の方から同じ大きさの舟が何れも二挺櫓(ちやうろ)を立てて、やつしやつしと漕(こ)いで來ます。あとからあとからと都合五隻(せき)を數(かぞ)へました。[やぶちゃん注:「羽田沖」現在の東京国際空港附近(ひなたGPS)。]

「何處へ急ぐ舟なんだらう、大變な勢(いき)ほひだねえ」と獨り言を云ひ云ひ、見るともなしに見てゐると、五隻の舟はずんずん近よつて、この張出しの側(そば)まで來ました。

 「おやおやここへ着(つ)くのか知ら」と思ふ中に張出しの前を通(とほ)りぬけて、芝浦(しばうら)の方ヘ入らうとしましたが、又(また)何時(いつ)とはなしに五隻の舳(へさき)が向きかはつて、矢張り田中家の裏手(うらて)へ戾(もど)つて來る、田中家へ着くのかと思ふと、又(また)沖(おき)へ出る、沖へ出るかと思ふと戾(もど)つて來ると云ふ風に、掛聲(かけごゑ)と威勢(ゐせい)ばかりは大したもんですが、舟はいつまでもいつまでも同(おな)じ處(ところ)をぐるぐると𢌞(まは)つてゐるばかりです。

「どうしたといふんだらうね、一寸(ちよつと)お仲(なか)さんあの舟は一體何だらう」とお粂(くめ)が不審(ふしん)を打ち出したのを始(はじ)めとして、張出(はりだ)しにゐた五六人が一同に、その舟(ふね)を見ましたが、舟は相變(あひかは)らず田中家のうら手を中心(ちうしん)にして、只(たゞ)一つところを五隻が𢌞(まは)つてゐるばかりです。

「成る程妙(めう)な舟だ、何の爲めに乘(の)りまはして居るんだらう」

「一體何處へ行く舟(ふね)だらう」

「妙(めう)な舟ぢやないか」といふ風に、張出しでは總立(そうだ)ちになつて騷(さわ)いでゐる。すると、舟の方でもよくよく持餘(もてあま)したと見えて、五隻に乘つた十人の舟子(ふなこ)が、もうぐたぐたに弱(よわ)つてゐるらしい、動(やゝ)もすれば櫓(ろ)は流されさうな有樣でしたが、到頭(たうとう)、漕(こ)ぐ手を止めて、一人二人がぼんやり立つて了ひました、と、あとの七八人も張合(はりあひ)なげに手をやめて、

「どうも驚ろいた、幾何(いくら)漕(こ)いでも、漕ぐ方へは行かねえで、ここの家(うち)へばつかり戾(もど)つて仕樣がねえ」

「迚も此上は俺達(おれたち)の力に了(を)へねえから、一先づここらで休(やす)まして貰(もら)はうぢやねえか」などと云ふ聲が張出しへも聞こえます。乘(の)つてる客もすつかり引締(ひきしま)つた顏になつて了つて、

「さうださうだ此上(このうへ)漕(こ)いでて、引くり返されでもしたら往生(わうじやう)だ、心中ものの行方を探(さが)しに來て、心中もののお供(とも)をするなア、餘り丁寧(ていねい)に過ぎらあ」

「此家は送(おく)り茶屋(ちやや)らしいから、一つここへ着けて暫(しば)らく休(やす)まして貰(もら)はうぢやねえか」などと云つて居ましたが、直(すぐ)に田中家の水門(すゐもん)へ、五隻の舟が着(つ)きました。

 どやどやと裏口から上つて來たのは、商家(しやうか)の手代(てだい)らしい人が七八人に、廓(くるわ)の若い衆[やぶちゃん注:「しゆ」。]やうなのが二三人、それに六十を越(こ)して見えるお婆(ばあ)さんが一人といふ顏觸(かほぶ)れです。

「私たちは探(さが)しものをする爲めに、四日前から舟を出して、房州沖(ぼうしうおき)までも乘りまはして來たもんだが、五日目の今日(けふ[やぶちゃん注:底本では、「けけ」。誤植と断じて特異的に訂した。])、ここまで來ると、この家の前で、舟(ふね)が五隻とも何うしたものか動(うご)かなくなつたから、まやかしに着(つ)かれたのかも知れません。少し氣を拔く間、休(やす)まして下さい」

 といふ口上ですから、サアサアと仔細(わけ)もなく、この裏口(うらぐち)からの客を二階(かい)へ通しました。其處で不圖(ふと)氣(き)がついたのはお粂(くめ)です。側に居た幇間(たいこもち)の新八の袖(そで)を一寸引きました。

[やぶちゃん注:「送り茶屋」吉原で言う「引手茶屋」(遊郭で客を遊女屋へ案内する茶屋)を、品川などでは「送り茶屋」と呼んだ。]

 

          

 

「あの舟は何(なに)か引寄(ひきよ)せるものがあるんぢやないかね、お前(まへ)さん、何う思ふへ」とお粂(くめ)が云ひますと、

「さうですねえ、殊(こと)によつたらさうかも知(し)れない。私は今一寸見當つけた事(こと)があるんで、實はいやな氣持(きもち)になってゐるところさ」

「いやな氣持(きもち)つて、あの一件ぢやないの」

「其通り其通り、旦那が今朝(けさ)埋(う)めておやりになつた心中ものでせう」

「さうよ。先刻(さつき)、舟を上る前に、心中者を探(さが)しに出たとか云つた事から考(かんが)へ合(あ)はせると、殊によったら、昨夜(ゆふべ)の心中者の幽靈(いうれい)が、その舟を引寄せてゐるんぢやあるまいか、と私は思(おも)ふのさ」

「姐(ねえ)さんも、さう思ひますか、兎(と)に角(かく)、あの人たちに知らしてやつて見ませう」

「さうした方(はう)が好(い)いわ」で、二人は直ぐに五隻(せき)の舟の乘手のところへ思つた儘(まゝ)を申し出して見ました。それと聞(き)くと、舟の連中(れんぢう)は橫手を打つて「成るほどそれに違えねえ、兎に角掘(ほ)り起(お)して貰つて見(み)よう」となつた。

 さあかうなると、田中家は又(また)しても一騷(さわ)ぎです。町役場(まちやくば)へ驅(か)け付けて、役人に立會を賴(たの)むものは賴む、人足(にんそく)を呼びに行く奴は行く、といふ風で、空地(あきち)に埋(う)められた二つの死骸(しがい)は又元の通りの姿で塚穴(つかあな)を出ました。例(れい)ののつぺらぼうで白裝束(しろしやうぞく)をした二つの死骸は、五隻の舟(ふね)の人たちに取り圍(かこ)まれて、いろいろに調(しら)べられたが、何しろ、顏はのつぺらぼうだし、持物(もちもの)は何もなくて、着物は白裝束、僅(わづ)かに見分けをつける目途(めあて)になるのは二人の身體(からだ)を結び合はした赤い扱帶(しごき)ですが、これとても無地の非縮緬[やぶちゃん注:ママ。「緋縮緬」の誤記か誤植。]、目印(めじるし)であつて目印の用を成(な)しません、尋(たづ)ねる死骸と定めてよいのか何だか全(まつた)く見當がつかない。

「困(こま)つたね」とばかり顏を見合せました。

「一體(たい)貴郞方(あなたがた)のお探(さが)しになる心中ものと云ふのは、何處の方です、決(けつ)して他言(たごん)はいたしませんから」と田中家の女將(おかみ)のおきくさんが尋(たづ)ねますと、舟に乘つてゐた人たちが、交(かは)る交(がは)る話しを始めました。

 

         

 

 吉原(よしはら)で玉屋といへば當時の大見世(おほみせ)です。其の玉屋のみつぎといふ花魁(をいらん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])に初見世からの馴染(なじみ)で通ひつめたのが馬喰町(ばくろちやう[やぶちゃん注:同町はこうも呼んだ。])三丁目の和泉屋(いづみや)といふ砂糖問屋(さたうとんや)の若旦那で吉太郞と云ふ男、女も例(れい)の憎(にく)からず思つた末(すゑ)が、二人とも無理の仕放題(しはうだい)、揚句(あげく)には手も足も出なくなつたので心中と出かけて、丁度二十六夜(や)から七日前といふのだから、十九日の夜(よる)であらう。吉太郞が豫(か)ねて自分の家の出入の吳服屋に男ものと女ものと死裝束(しにしやうぞく)を仕立てさせ、それを持つて家出をしたので、廓(くるわ)を裲襠(しかけ)の儘で拔けて來た女と、吉野橋(よしのばし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。吉原の南東直近。江戸時代は「山谷橋」と呼んだが、明治二(千八百六十九)年の地区名改称で変更されている。]で落合つて、人目を忍び忍び、吾妻橋(あづまばし)[やぶちゃん注:ここ。]へ出た。彼れこれ夜も子(ね)の刻下(こくさがり)卽ち午前一時頃といふのだから、人通りも殆(ほと)んど絕(た)えてゐます、其吾妻橋の上で二人は白裝束(しろしやうぞく)に着かへました。男の縞(しま)の上布(じやうふ)、女は水色無地絹の長襦袢(ながじゆばん)に、露芝(つゆしば)[やぶちゃん注:中央の膨らんだ弧と、大小の点で、芝と露を表わした紋様。]の繡(ぬひ)をした藤色絹の裲襠(しかけ)を着て居りましたが、それを一まとめにして今まで、白裝束を包(つゝ)んであつた風呂敷(ふろしき)に丸め込みました。

[やぶちゃん注:「吉原」「玉屋」江戸新吉原江戸町一丁目の妓楼角の「玉屋」(「火焔玉屋」とも称した)。

「裲襠(しかけ)」「打ち掛け」に同じ。他の衣類の上から、打ち掛けて着るところから、着流しの重ね小袖の上に羽織って着る小袖。古く室町以降の武家女性の礼服で、夏季を除いて用いた小袖で、色は白・黒・赤を正式とし、紗綾(さや)か、綸子(りんず)の地に、金糸などで、総模様を差し縫いしてあるものを指した。羽織のようにうちかけて着るので「打掛」と呼ぶが、歩く際、裾をかいどるので「掻取(かいどり)」とも称した。江戸時代になると、富裕町人の婚礼衣装にも用いられ、また、遊女も「仕掛(しかけ)」と称して、道中着に用いた。貸衣装の普及とともに現代でも婚礼衣装として多く用いられるようになった(主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

「さあこれで、いつでも死(し)ねます」と女が男の顏を月かげに見上げますと、

「あ、心靜(こゝろしづ)かに死なうね、もつと此方(こつち)へお寄り」

「え、貴郞(あなた)、しつかり抱(だ)いて下さいな」と云ふ風に二人の身體(からだ)がぴつたり寄り添つた機(はぢみ)にこの橋下からのそりと現はれたのが、橋下(はしした)を定宿(ぢやうやど)にしてゐる乞食(こじき)の常公でした。橋の上で何やら人聲がすると思つて、顏(かほ)を上げて見たのですが、眞白の着物を着た人間が目の前に突立(つゝた)つてゐたのですから、野郞(やらう)驚(おど)ろいた。

「ワーツ」と頭を抱(かゝ)へて、其場へ腰(こし)を拔(ぬ)かして了つたので、此方の二人がそれと氣付(きづ)くと、不圖考(かんが)へ出した事があります。

「橋(はし)の下にゐる乞食だらう、よい事がある、二人の身體(からだ)をあの乞食の力で、しつかり結(ゆは)へさせやう、そして二人が抱(だ)き合(あ)つた儘(まゝ)、大川へ突落して貰(もら)はうではないか」

「やつてくれるでせうか」

「何有(ななに)金さへやれば、何でもしてくれる、ここに使(つか)ひ餘(あま)りが三兩二分ある、これとお前と私の着物をやつて賴んで見やう[やぶちゃん注:ママ。]」突差(つきざし)に極(き)めて「おいおい若いの、少し賴まれてくれないか」と呼(よ)びかけました。

 乞食(こじき)は腰(こし)をぬかした體(てい)で「へいへい、どうぞお助けなされて下さりませ」とおどおどしてゐるのを宥(なだ)めるやうにして吉太郞は側(そば)へ寄つた、そして片手に持つた三兩二分の金を金入(かねい)りぐるみ乞食の手へ渡(わた)しました。

 づつしりと手にこたへる金入れの重(おも)みに、乞食も少しは人心(ひとごゝろ)がついたらしい「何のお用でございますか」と云ふと、

「ここに扱帶(しごき)があるから、それで二人の身體(からだ)をしつかり結び合はしてくれないか」

「これで結(むす)ぶんですか、そして何(どう)なさらうと云ふのです」

「結び合はしたらね、お前の力で、二人を橋(はし)の上から突落(つきおと)しておくれ」

「えツ、橋(はし)の上から、冗談(じようだん)ぢやない、旦那、橋の下は大川ですぜ」

「大川は判(わか)つてるよ」

「大川へ突落したら死(し)にますよ」

「さうよ、死にたいから賴(たの)むのさ」

「死にたいから、そ、そ、そんな事が出來るもんで御座(ござ)いますか」

「出來ても出來なくつても賴(たの)むからやつておくれ、いやなら其金(そのかね)は返(かへ)してくれ、其金は持つた儘で私たちが勝手(かつて)に飛び込むまでの事さ」

「あ、あ、あ、氣(き)が早(はや)い、私が突落さなければ貴郞方(あなたがた)は勝手(かつて)に飛び込むといふんですか、それではお金までが水の泡(あは)になつて了ひますが」

「さうだよ、お前が呍(うん)と云つてくれれば、お金はお前の手に渡(わた)るんだ、その上、ここに是(こ)れだけの着物(きもの)があるが、これもお前にやらう、どうだね、賴(たの)まれてくれるかえ、いやなら、いやでも可(い)い」

 かう云はれると、乞食(こじき)の常公、一寸(ちよつと)迷(まよ)つてゐたが、

「ようがす、やりませう」と造作(ぞうさ)もなく引受けました。

「やつてくれるか、其れで私達(わたしたち)も安心した、ぢや直(す)ぐに持つてくれ、人の來ない中に早(はや)く早く」と吉太郞(きちたらう)はみつぎを引寄(ひきよ)せて、二人がにつこり笑ひながら抱(だ)き合(あ)ひました、常公はみつぎが出した緋(ひ)ちりめんの扱帶(しごき)で、二人の胴中(どうなか)をしつかりと結(ゆは)へてから、二人の顏を始めて見上げたさうですが、月の光を眞橫(まよこ)に受けて、二つの美くしい顏が、蠟(らう)のやうに透(す)き通(とほ)つてゐたと申します。

「おみさ、思(おも)ひ殘(のこ)す事はないかえ」

「何にもありません、吉さん、嬉(うれ)しく死にます、抱(だ)いた手を放さないで下さいまし」

 

「あ、放(はな)すものか、それぢや若いの、もう少し欄干(らんかん)の際(きは)まで行くから、思ひ切つて突飛(つきと)ばしておくれ」

 「ハイ、よ、よ、よろしうございます」と常公(つねこう)、今更(いまさら)になつておどおどしてゐます。

 

         

 

 かうして二人を大川(おほかは)へ突落した乞食は、翌日(よくじつ)すぐに女と男の着物を屑屋(くづや)に賣りました。それが間もなく馬道の(うまみち)の古着屋(ふるぎや)にぶら下つたので、手がかりとなりました、玉屋からと、和泉屋(いづみや)からと出た人數が、件(くだん)の通り五隻の舟に乘り別れて、先づ大川筋(おほかはすぢ)を芝浦(しばうら)沖へ下り、それから木更津(きさらづ)あたりから房州(ぼうしう)までも探し探し、五日に亘(わた)つて漕(こ)ぎ𢌞つたのですが、どうしても其れらしい屍骸は見當(みあた)りません。五目目といふのが、廿六夜待(やまち)の當日です、もうすつかり力を落して例(れい)の品川沖まで戾つて米ると、田中家の前で船がぐるぐる𢌞(まは)りを始(はじ)め、漕(こ)いでも漕いでも動かなくなつたといふ始末(しまつ)です。

「さういふ譯(わけ)でしたら、云ふまでもなく、この白裝束(しろしやうぞく)といひ、緋ぢりめんの扱帶(しごき)といひ、紛(まぎ)れもない尋(たづ)ぬるお方でせう」と女將(おかみ)のおきくが云ひますと、和泉屋の手代(てだい)は、

「え、元(もと)よりそれに相違(さうゐ)はないと思つては居ますが、何しろ二人が二人とも、この通(とほ)りのつぺらぼうの顏になつてゐるのですから、萬一同じやうな死態(しにざま)がありまして、それと取違(とりちが)へる事にでもなりましてはね」

「さあそれもさうですがね」と此樣事(こんなこと)を云ひ合つてゐる中に、舟に乘つた連中(れんぢう)の中の六十位の婆(ばあ)さんが堪らなくなつたやうにして、進み出ました、この婆さんといふのは卽ち花魁(をいらん)みつぎの實の母親です、つかつかと進むと、人々を兩方(りやうはう)へかき分けて、

「これ娘(むすめ)、どうぞ證據(しやうこ)を見せておくれ、若しお前が私の娘なら、これほどに親(おや)を迷(まよ)はせる事はあるまい、本當(ほんたう)に娘だつたのなら、どうぞ一目何か證據(しようこ)を見せておくれ、これ娘、それとも赤の他人か、さあどうだえどうだえ」と言つてる中に、もう氣(き)はそぞろになつて、白裝束(しろしやうぞく)の屍骸にすがりつくばかりになり、人目(ひとめ)も恥(は)ぢず泣(な)きました、すると不思議や、今が今まで、抱(だ)き合(あ)つてぐつたりと息(いき)を引取つてゐた、のつぺらぼうの二人の屍骸(しがい)の中、女の方の屍骸の顏が、氣の所爲(せい[やぶちゃん注:ママ。])でかむらむらとゆらめいた樣(やう)でしたが、のつぺらぼうの鼻と思はれるあたりから、タラタラタラと生々(なまなま)しい血が流れて來ました。

 お婆(ばあ)さんの樣子の哀(あは)れさは譬(たと)ふるに物もありません「娘か矢張り娘であつたか、ああ飛(と)んだ事をしてくれた、お前ばかり勝手(かつて)なところへ行つて、年(とし)を老(と)つた私はどうなると思ふのだえ、アヽ情(なさけ)ない事をしておくれだ」とばかり止(と)め途(ど)もなく、泣(な)き狂(くる)ひました。

 この上はこの屍骸(しがい)に何の疑(うた)がひもありません、探(さが)し舟(ぶね)を引寄せた事、血を見せて親子の知らせをした事、この二つを證據(しようこ)と認(みと)めて、お役人もこの死骸の引取りを許しました、が、ここに今一つ障(さは)りがあります。

 其頃の掟(おきて)として、かういふ變死人(へんしにん)の死骸は最初に假埋葬(かりまいさう)などをしてやつた人の許しを得なければお役人(やくにん)でさへも動かす事が出來ないのです、卽(すなは)ちかうなると一刻(こく)も早く、松原新五郞さんに立會つて貰(もら)はなければならぬといふ一埒(らち)なのです。

 元より其以前から幇間(たいこもち)の新八が、旦那の行方を探(さが)しに出てはゐるのですが、心當(こゝろあた)りを次から次にと尋(たづ)ねて𢌞(まは)つても、皆目(かいもく)行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。])が判りません、辿(たど)り辿つて吉原へ見當をつけ、かねて行きつけの茶屋(ちやや)三軒(げん)の中、二軒まで尋ねた時にはもう亥(ゐ)の刻(こく)過ぎ、卽ち夜の十時過ぎでありました。

「あとは長崎屋(ながさきや)一軒(けん)だな、ここにおいでがなかつたら、もう當(あた)りがつかないが、困(こま)つたもんだ」と獨(ひと)り言(ごと)を云ひ云ひ、草臥(くたび)れ切つて新八は、三軒目の茶屋の敷居(しきゐ)をまたぎました。

 

         

 

 心中の死骸(しがい)を見て、すつかり氣をくさらして了(しま)つた新五郞さんは、駕新(かごしん)の駕籠にゆられる間も氣持わるく一散(さん)に白魚河岸(しらうをがし)へ乘りつけさせました、そして荒木屋(あらきや)の二階で酒の力を借(か)りて氣を晴さうとしましたが、どうしても心(こゝろ)がさらりとなりません、日(ひ)の暮(く)れかゝつた時分に又してもこゝを出て柳橋(やなぎばし)へ行きました、場所をかへたらと思つたのですが、それでも心は晴(は)れません、只(たゞ)の半時も過ぎぬ中に、猪牙(ちよき)を山谷堀(さんやぼり)へ着けさせました、そして吉原の引手茶屋(ひきてぢやや)長崎屋(ながさきや)へ、へとへとになつた身體(からだ)を送り込まれ、どつしり御腰(みこし)を落付けて、追ひかけ追ひかけ茶碗酒(ちやわんざけ)をあふりました。藝者たちをどれほど叱(しか)りつけたか、女中にがみ付いた[やぶちゃん注:「かみつく」に同じ。]か、其樣事(そんあこと)は一切お構(かま)ひなしで、丸で平生(へいぜい)の新五郞さんが人違(ひとちが)へをしたほどのやんちやを云つた揚句(あげく)、發しなかつた酒が一氣に欝結(うつけつ)して、二階坐敷にごろりとなつて了(しま)ひました。

 寢(ね)るともなしにうとうととしてゐますと、

「御免下(ごめんくだ)さいまし、御免下さいまし」といふ聲(こゑ)が何處やらでしてゐます。

「はて、誰(だ)れが何處(どこ)で、誰れを呼(よ)んでゐるんだらう」と思つて、うるささうに寢がへりを打つと又しても

「御免下さいまし、御免下さいまし」と云(い)ひます。今度は其聲(そのこゑ)が、つい手近の枕許(まくらもと)に響きます。

「誰(だ)れだえ」

「へい、私でございます、一寸(ちよつと)お目にかゝりたうございます」

「誰(だ)れだつたらう、只私ぢや判(わか)らねえ」

「へい、お目にかゝれば判りますが、名前(なまへ)を申してもお思ひつきが御座(ござ)いますまい、一寸ここをお開(あ)け下さいまし」

「うるさいな、好(い)い心持で寢(ね)てるのに、まア何でも好いから、開(あ)けて入(はい)んなせえ」

「へい、難有(ありがた)うございますが、當り前のところからは入りにくうございますから、どうぞこゝをお開(あ)け下さいまし」

「こゝつて何處(どこ)だえ」

「書院棚(しよゐんだな)の障子でございます」

「書院棚の障子(しやうじ)、妙なところを開けたがる奴だな、何でも好い、構(かま)はず開けなさい」

「ハイ、ではお言葉に甘(あま)へまして、開けたうございますが、何ですか、かう、手が黏(ねば)つて開けられませんから、恐(おそ)れ入(い)りますが、お開けなさつて下さいまし」

「何、手が黏つて開けられない」と鸚鵡返(あふむがへ)しに自分の目で云つて見たが、どうしたものか其時(そのとき)ぞうつと身の毛(け)がよだつた。

「手(て)が黏(ねば)る」

「ハイ、手が黏りますから、どうぞ旦那(だんな)のお手で」

「チヨツ、仕樣(しやう)がねえな」と云つて、書院棚の障子(しやうじ)をガラリと開けました。小振の上に滑(すべ)りの好い書院棚の障子は、つるりと走(はし)つて柱(はしら)ヘポンと打突り、ガラリと跳(は)ねかへつて一尺ばかりの𨻶(すき)を造(つく)りました。

 機(はづ)みに、冷(つめ)たい風が、じめじめと入つて來たかと思ふと、

「へい、御免下(ごめんくだ)さいまし」と云つて、其の一尺の𨻶(すき)から、ぬうと顏を出し、書院棚へ外からぴたりと兩手(りやうて)をついたものがあります。

 新五郞さんが起直(おきなほ)つて振向(ふりむ)くと、其者は顏をずつと書院棚へ低(ひく)くすりつけて、

「誠(まこと)にありがたうございました、お庇樣(かげさま)で只今宿許へ引取(ひきと)られて參るところでございます、一寸旦那樣にお禮(れい)を申し上げたいと思ひまして、伺(うかゞ)ひましてございます」と、病人(びやうにん)のやうな聲を出して云つて了(しま)ふと、不意と顏(かほ)を上げた、其顏は、其顏は……

 新五郞さんは一言(ごん)の聲も出ません、新(たゞ)油汗(あぶらあせ)をぐつしより搔(か)いて、其場へ突伏(つゝぶ)して了ひましたがもうあとは前後不覺(ぜんごふかく)です。

 

         

 

 暫(しば)らくして目を覺(さ)ましますと、夜はしんしんと更けた樣に思(おも)はれながら、外の方は可成(かなり)賑(にぎ)やかな樣子(やうす)です。

「一體、今のは夢(ゆめ)だつたのか知ら、それとも現(うつゝ)だつたのか」と氣味わるわる、あたりを見(み)まはしますと、自分の手で開(あ)けたおぼえのある書院棚(しよゐんだな)の障子は正に開いて居ります、而(しか)もポンと開けた力が餘(あま)つて跳(は)ねかへり、結局一尺ばかりの開きになつた、其の通りに開(あ)け放(はな)されて居ります。

「アツ、開けたまゝだ」と口に出して云つた新(しん)五郞(らう)は只(たゞ)茫然(ばうぜん)となつた。其耳許へ、又しても、又しても、

「御免下(ごめんくだ)さい、御免下さい」といふ聲がします。もう誰れだと勇氣(ゆうき)さへなくて、聲のする方を見返らないやうにして、ポンポンと手(て)を打(う)ちました。が其の手は鳴(な)りません。

「御免下さい、旦那樣(だんなさま)、お寢(やす)みですか、開けましても宜しうございますか」と、今度は云ひ方が少(すこ)し違(ちが)ひます。

「誰(だ)れだ」

「私でございます、お目覺(めざ)めですね」

「誰れだ」

「私、新八でございます、へいどうもお妨(さまた)げをいたしまして相濟(あひす)みません」と云ひく葭障子[やぶちゃん注:「よししやうじ」。]を開けて入つて來たのは、紛(まぎ)れもない幇間(たいこもち)の新八でした。

「何だ新公(しんこう)か、何ぞ用でもあつて來たのか」

「へい少々(せうせう)」

「歸(かへ)れといふんだらう」

「へえ、よく御存(ごぞん)じで」

「うむ、大抵(たいてい)判(わか)つてる、心中ものゝ身許(みもと)が知れたのか」

「おやおやおや、これはこれは驚(おどろ)きましたな、どうも、全(まつた)く其通りでございます、夕刻(ゆふこく)に判りまして、早速(さつそく)引取(ひきと)つて參りたいと申しましたが、何分旦那が被居(ゐらつしや)らないと引渡す事が出來ませんので、併(しか)しどうして旦那には、それがお判(わか)りになりました」

「今(いま)、知らせが來た」

「えツ、誰(だ)れか手前より先に參(まゐ)つたものがありますか」

「うむ、今(いま)來(き)た」

「へえ、誰れが參(まゐ)りました。手前の外には誰(だ)れもお迎(むか)へに出なかつた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])でございますが」

「いや、來(き)た」

「金孝(きかう)でございますか」

「いや、違(ちが)ふ」

「では茶利兵衞(ちやりべゑ)でございますか」

「いや違(ちが)ふ」

「では駕新(かごしん)の若い者でも」

「いや違ふ」

「一寸當りが付(つ)きませんね、誰れでございませう」

「本人(ほんにん)が來たんだ」

「本人、本人と申(まを)しますと」

「本人は本人さ、心中(しんぢう)の本人」

「えツ、心中の本人、では幽靈(いうれい)でございますね」

「先(ま)づさうよ」

「へヘヘヘ、お冗談(じようだん)ばかり」

「いや、冗談ぢやない、其處にその通(とほ)り、來たあとが殘(のこ)つて居るぢやねえか」

「幽靈(いうれい)の來たあと、ええ、氣味(きみ)の惡い事ばつかり」

「その書院棚の障子(しやうじ)を見て御覽(ごらん)」

「えつ、本當(ほんたう)ですか」

「本當どころか、現在其の障子をおれが開(あ)けてやつたんだ、そして、お庇樣(かげさま)で只今、宿元(やどもと)へ引取られて參(まゐ)るところで――と云ひながらひよいと上げた顏を見るとね、――ああ、意氣地(いくぢ)がねえやうだが、俺(おら)あもう一生(しやう)忘(わす)れられねえぜ」

「へえ、………」

「其の書院棚(しよゐんだな)の外から、ピタリと手をついて、突伏(つゝぶ)してゐる間は正に一人の姿(すがた)で、誰れだらう、いやに白い着物(きもの)を着てゐやあがるなあと思つてゐただけだが、今(いま)のやうに云つて、すうつと顏を上げると、それが目も鼻も口もないのつぺらぼうさ。而(しか)も、一つの首(くび)から二つの顏が並(なら)んで出てな、一人の方は本當(ほんたう)ののつぺらぼうだが、一人の方は、鼻のあたりと思(おも)はれるところから血がタラタラタラタラと流(なが)れてゐたつけ。現在、俺が昨日(きのふ)葬(はうむ)つてやつた心中ものゝ顏ぢやねえか、ぐうもすうも云(い)へなくて突伏して了つたが、其のあとの事は何にも知らず、それからだ、それからやがて目がさめてから、今のは夢(ゆ)かと思ひながら、その書院棚(しよゐんだな)を第一に見るとどうだえ、一度も開けた事のねえ書院棚の障子(しやうじ)が、俺の手で跳(は)ねただけ開け放してあるぢやねえか、心中の幽靈がお禮(れい)に來たのは夢(ゆめ)としても、書院棚の障子を開けた事だけは實際(じつさい)なのだから、俺(おいら)どうしても、かうしても、こゝに居られなくなつたところへ、お前が煮(に)え切れねえ聲を出してやつて來たもんだから、あの通り怒鳴(どな)りつけたわけだあね、いや、これぢや、迎(むか)へが來なくとも、かへりたい、すぐに駕籠(かご)を云ひつけてくれ」と、新五郞さんは、一刻(こく)の猶豫(いうよ)も出來ません。新八と一緖(しよ)に夜の更けるのも厭(いと)はず田中家へ引(ひき)かへして來(き)ました。

 かうしてのつぺらぼうの死骸(しがい)二つは、それぞれ親許(おやもと)へ引取られようとしましたが、こゝにも亦不思議が起(おこ)りました。二つの身體を結び合はしてゐた緋(ひ)ぢりめんの扱帶(しごき)が、二人の身體にしつかり食ひ入つて了つて、どうしても解(と)けなくなつてゐるのでございます。

「遉(さす)がは、思ひ合つての心中だ、一緖(しよ)に埋(う)めてくれといふのでゞもあらうよ、和泉屋さんも玉屋さんも、これは一番(ばん)然(しか)るべきお計(はか)らひをしておやりなすつたら如何(どう)です。こんな事にまで私が口を出しては濟(す)まないわけですが」と新五郞は口添(くちぞ)へをしました。

 和泉屋(いづみや)の番頭も、玉屋(たまや)の番頭も異存(いぞん)はありません。みつぎ花魁(をいらん)のお母も一寸考ヘてはゐましたが、直ぐに承知(しようち)をしました。それで、二人の死骸(しがい)は、結び合はしたなりで、馬喰町[やぶちゃん注:前に徴して「ばくろちやう」と読んでおく。後も同じ。]へ引取られて行きました。そして和泉屋の墓地(ぼち)へ、夫婦(ふうふ)として葬られました。

 松原新五郞さんの息子(むすこ)さんは今(いま)兜町(かぶとちやう)に出入りをしてゐます。其の二代目新五郞さんが、

「まだ十四五の時から、よく此の話を親爺(おやぢ)に聞かされましたつけ、あんな薄氣味(うすきみ)の惡い目に會つた事は、俺(おいら)あ、六十年の生涯(しやうがい)に只つた[やぶちゃん注:「たつた」と訓じておく。]一度だ。思ひ出してもぞつとするねと、死ぬまで云つてゐましたつけ」

 と云はれました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]

 因(ちな)みに申します、吉原の玉屋は其後(そのご)間(ま)もなくなくなり、馬喰町の砂糖問屋(さたうとんや)は二十年ほど前まで續いてゐましたが、今(いま)はありません。

 ですからこの心中者の比翼塚(ひよくづか)は今どうなりましたか、二代目松原氏は知(し)らないとの事です。

[やぶちゃん注:加工データの『ウェッジ文庫』版の東雅夫氏の本篇の解説に、『この作品には典拠となった原話がある。大正八年(二九一九)七月十九日夜、向島百花園の喜多の家茶荘で開催された納涼怪談会の席で、「株式に出ている松原という人」が、父親の実体験談として披露した話なのだ。泉鏡花や新派の名女形・喜多村緑郎らが中心となって催されたこの怪談会の模様は、「都新聞」紙上で一ケ月近く(七月二十一日~八月十四日)にわたり詳報されており、その概要を知ることができる。原話には心中者の細かな来歴などは端折られているものの、大筋は同じである。ちくま文庫版』「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」『(二○○九)に「向島の怪談祭」として全話が復刻収録されているので、読み較べてごらんになるのも一興だろう』『なお』、「芸者繁昌記」『所収の随筆「怪談」(前掲』「鏡花百物語集」『に併録)には、「怪談会というものの発起人となって、都合三度ほどやった事がある。第一回は向島の喜多の家茶荘、第二回は井の頭の翠紅亭、第三回は私の宅の二階で」とあって、蘆江もこのとき発起人の一人に名を連ねていたことが分かる。そればかりか、文章の書き癖や内容から推して、大正期の「都新聞」にしばしば掲げられた怪談関連記事の多くは、蘆江自身の筆になる可能性がきわめて高いのである』とあった。私は二十五年前、『ウェッジ文庫』版を買って本篇を読み、以上の「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」を買い、確かに読んだのだが、書庫の藻屑の底に沈んで、同書をサルベージ出来ないのが、遺憾である。]

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