「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「靑木氏家に靈有る事」
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]
靑木氏家《あをきしいへ》に靈《れい》有る事
天祥院公《てんしやう》御代《みよ》、御用人《ごようにん》、相勤居《あひつとめをり》ける人、
「此家《このいへ》に、靈、有りて、見たる人、多《おほく》有りけり。」
と沙汰《さた》しけり。
佐藤庄助《さとうしやうすけ》は、其《その》時、奧に出來《いでき》、書記役にて、每日、行(ゆき)けり。
夏の時分にて、夕飯後に、座敷の次の閒(ま)にて、書狀など、したゝめ、すでに晚、申(さる)の刻(こく)過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也。
用事、調度[やぶちゃん注:ここは副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。]、思ひ、雪隱(せつちん)[やぶちゃん注:厠(かはや)・便所。]へ、行(ゆき)けり。
庭の木立《こだち》、しげり、ほのぐらき所なり。
何心《なにこころ》なく、雪隱の戶を明《あ》けるに、內(うち)に、歲《とし》の頃、十七、八歲斗(ばかり)なる女《をんな》、居(をり)けり。
庄助も、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。既に第一話にも出た、本書の作者の慣用誤字。]に思ひけるが、
『ぞつ』
として、身の毛も立斗(たつばかり)にや、覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺(おぼ)え」の誤記。]けり。
其(その)まゝ戶を立(たて)、出(いで)けるが、心の內《うち》、いよいよ、ふしむ[やぶちゃん注:先に同じで「不審」。]し、
『是(これ)は。亭主の妻か。何樣(なにさま)、勝手《かつて》は、遠し。女など、入來(いりき)る所に、あらず。』
と思ふ所に、其家(その《いへ》)の若黨(わかとう)、いそぎ、來(きた)りけるが、庄助が顏色《かほいろ》も、常《つね》ならず、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、若黨、庄助に申(まうす)やう、
「御用事《ごようじ》、御調候(《おん》とゝのひさうら)はゞ、此方(この《かた》)へ御越《おこし》し候《さふら》へ。」
といふ。
庄助、心得て、案內《あない》する所へ行(ゆき)けり。
扨(さて)、歸りて、若黨(わかとう《→わかたう》)、庄助に申(まうし)けるは、
「何《なん》ぞ、かわり[やぶちゃん注:ママ。「かはり」(變り)。]たる事も御座候哉(ござさうらふや[やぶちゃん注:ママ。「ござさふらふや」が正しい。])。御《おん》けしき、惡敷御座候(あしくござさうらふや)。御咄候(おはなしさうら)へ。」
と、申(まうす)。
庄助、つゝまず、右の次第を、語る。
若黨(わかとう《→わかたう》、うなづき、
「とくにも[やぶちゃん注:「疾(とく)にも」。「もっと前から」の意。]、御咄申筈(おはなしもうすはず《→おはなしまうすはず》)に御座候所(ござさうらふところ)、失念致候(しつねんいたしさうらふ)。あの雪隱(せつちん)は、折惡敷《をりあしく》參り候(さうら)へば、每度、ケ樣(かやう)の事、御座候(ござさうらふ)。去共(されども)、くるしからぬものなり。」
と申(まうす)。
庄助も、
「かの女を見《み》、ぞつと、身の毛立《けだち》て、顏色《がんしよく》あしく成(なる)事、若黨(わかとう《→わかたう》)のおもわく[やぶちゃん注:「思惑」。]、はづかしく存《ぞんず》る。」
と言《いひ》けり。
其時、此(この)家に、靈、有(ある)事を、知りけり。
夫(それ)より、十四、五年も過(すぎ)て、米村平作、御城にて、庄助《しやうすけ》に逢(あひ)、ひそかに、右の咄《はなし》、聞(きゝ)けり。
「我やしきがへ致候(いたしさうらふ)に付(つき)、其(その)實《じつ》を承度(うけたまはりたし)。」と、言《いひ》ける、と、なむ。
其(その)時分は、庄助、御祐筆役(ごひつやく)なり。
此(この)咄、庄助、物語(ものがた)り也(なり)。
[やぶちゃん注:「靑木氏家《あをきしいへ》」ネット検索したところ、信頼出来る複数のサイトで「青木」姓の藩士は、いる。しかし、本話のニュアンスでは、ロケーションとなる屋敷は、一介の藩士の家ではなく、御用人・書記役が出入りする屋敷であるからには、相応の高い地位にある人物でなくてはならない。と言うより、標題の「青木氏」の「家」とする具体な表現が、本文そのものに出現しないのは、極めて奇異である。これは、青木家が、由々しき高位の人物ゆえなればこそ、姓を示すのを、遠慮したものとも考えられた。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで「因幡 青木 御用人」で検索を行ったところ、一つの論文を見つけた。大嶋陽一・四井幸子・芝田尚子共著『鳥取県鳥取藩領因幡国岩井郡大庄屋中島家「御用日記」翻刻 その二』(『鳥取県立博物館研究報告』・二〇一三年三月三十日発行)で、そこに『御郡奉行』で『吟味役』の『青木甚太夫』なる人物が記載されてあった。解説に『正徳元、二年』『(一七一二、一三)』の『当時の』『関係役人』『在方役人』であることが示されており、この青木甚太夫の十数件の記載が確認出来る。この時期は、次で注した本話の時制内に含まれている。されば、この「靑木家」とは、この『青木甚太夫』であることが、ほぼ確定出来るのではあるまいか?
「天祥院公《てんしやう》御代《みよ》」「天祥院」は因幡国鳥取藩第三代藩主池田吉泰(貞享四(一六八七)年~元文四(一七三九)年)の戒名の院号。彼は、鳥取藩主池田光仲の次男池田仲澄の長男であったが、元禄八(一六九五)年、九歳の時、鳥取藩二代藩主池田綱清の養子となった。元禄一三(一七〇〇)年、十四歳で、綱清より、家督を譲られ、没年まで藩主を務めた。
「佐藤庄助」最後に、聴き取りした際には「御祐筆役」であったとあるが、調べてみたが、不詳。
「申(さる)の刻(こく)」午後三時から午後五時だが、続いて「過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也」とあるので、午後五時過ぎである。
「用事、調度、思ひ、雪隱(せつちん)へ、行(ゆき)けり。」割注では、『副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。』と書いたが、この一文を眺めるに、文章としては、おかしい。『やらねばならない「用事」を忘れていたのを思い出したのだが、丁度、便意を催していたので、ともかく、急ぎ、雪隠に行った。』という謂いであろう。なお、「雪隱」の語源は、ネットに幾つかあるが、森本行洋(もりもとゆきよし)氏のサイト「古墳のある町並みから」の『「せっちん」の由来について考える』がよい。複数説をそれぞれ考証しており、お薦めである。
「勝手」台所。
「若黨」武家奉公人の一種。中世では、年輩の侍である「老党」に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍に使った。近世では、大身の武家に仕えた軽輩を指し、その身分は徒士(かち)と足軽との中間に置かれ、始終、主人の身辺にあって、雑務・警固を担当した。彼らは百姓・町人出身の一季・半季の出替(でがわり)奉公人であり、給金は一ヶ年三、四両を相場とした(以上は小学館「日本大百科全書」を主文とした)。
「米村平作」国立国会図書館デジタルコレクションの「鳥取県の諸職 鳥取県諸職関係民俗文化財調査報告書」(鳥取県立博物館編・一九八六年鳥取県教育委員会刊)のここで、『享保16年、米村平作の領内大船造りの奨励策があり』とあり、時制上も問題ないので、この人物である。一応、「こめむらへいさく」と読んでおく。
「御祐筆役(ごいうひつやく)」。「祐筆」(祐筆:現代仮名遣「ゆうひつ」)は「右筆」「執筆」とも表記する。中世・近世に置かれた武家の秘書役を行なう文官。本来は、文章の代筆が本来の職務であったが、徐々に公文書・記録作成等も行った結果、事務官僚としての重い役目を担うようになっていった。]

