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カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の813件の記事

2026/04/24

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「阿彌陀佛遁火災」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点を附加・変更した。]

 

 「阿彌陀佛遁火災《あみだぶつ くわさいを のがる》」 志駄郡《しだのこほり》東光寺村、池澤山東光寺杉本院《いけさはさんとうくわうじすぎもとゐん》【天臺、東叡山末、寺領十五石。】にあり。寺傳云《いはく》、

「永祿年中、武田信玄の爲に、伽藍、悉《ことごと》く、囘祿《くわいろく》す。時に、阿彌陀佛【聖德太子御作《おんさく》、】、火中《くわちゆう》を飛出《ちびいで》、後《うしろ》の一松樹《いつまつじゆ》の枝上《えだうへ》に止《とま》り、兵火を免《まぬか》る。其後《そののち》、當寺、中絕す。元祿年中、尊周法印、再建、諸堂、成就す。或《ある》時、盜賊、此像を奪ひ、負《おひ》て、江尻の際《きは》、姥《うば》が池《いけ》の邊《へん》に至る。時に、佛像、俄《にはか》に盤石《ばんじやく》の如く、其重き事、堪《たふ》べからず。故《ゆゑ》に、池中《ちちゆう》に捨去《すてさ》る。茲《ここ》に、當山寺領の民《たみ》、淸大夫《せいだいふ》と云《いふ》者、靈夢の告《つげ》を得て、法印に語り、急ぎ、姥が池に至り見るに、彼《かの》像、水中より出現す。卽《すなはち》、負《おひ》て、寺に皈《かへ》る。云云。」。

 

[やぶちゃん注:「志駄郡東光寺村、池澤山東光寺杉本院【天臺、東叡山末、寺領十五石。】」現在の静岡県島田市東光寺のここ(グーグル・マップ・データ)に現存する。天長七(八三〇)年に慈覚大師円仁が開いた、千手観音を本尊とする天台宗寺院。

「永祿年中、武田信玄の爲に、伽藍、悉《ことごと》く、囘祿《くわいろく》す」これは、前の鬼岩寺の話の背景と同じく、所謂、信玄の駿河侵攻で、永禄一一(一五六八)年から元亀二(一五七一)年)まで発生した、甲斐国の戦国大名武田信玄による駿河国今川領や後北条氏領への軍事侵攻を指す。

「江尻の際、姥が池」先行する「臼祖母巖」で既出既注。ここだが、にしても、東光寺からは、直線でも三十キロメートルを越える。]

2026/04/12

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「如意寳網珠」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長めなので、段落を成形し、句読点を附加・変更した。「鬼巖寺」関連第三話である。されば、同寺に就いては、前々項を見られたい。推定読みは、そちらで添えたものは繰返さない。]

 

 「如意寳網珠《によいはうまうじゆ》」 志駄郡鬼岩寺村、楞嚴山鬼岩寺門前にあり。傳云《つたへいふ》、

『享保十七年九月、門前の道路を修理する事あり。寺中《じちゆう》、護摩堂の後《うしろ》、古院《こゐん》の地、山岸《やまぎし》より、土をうがちて、切頽(きりくづ)し、門前に運びぬ。

 然《しか》るに、十日の夜、光り、寺中に赫《かがや》く。

 小坂《こさか》の里民《りみん》、是を見て、怪しみ、

「當寺、火災あり。」

として、走り來《きたり》て、見るに、事、なし。小坂に歸《かへり》て、望めば、光、あり。

 人民、深く怪《あやし》む。

 翌十一日、里民、來《きたり》て、彼地《かのち》を穿掘《うがちほる》に、土中《どちゆう》より、鈸《ばち》を以《もつ》て、上下を覆ひ、其內に、火鉢の如き器《うつは》に、愛染臺《あいぜんだい》を入《いれ》たる物を、掘出《ほりいだ》せし。

 蓋《ふた》を開《ひら》かんとするに、さびて、開かず。

 漸くして、是を開けば、內《うち》に、一玉石《いちぎよくせき》あり。

 周《まは》り八寸八分、網《あみ》をかけたるが如くして、其色、鼠也。

 後年《こうねん》、住僧某《なにがし》、御修法《おんしゆほふ》の護摩《ごま》の時、攜《たづさへ》て上京し、衆僧《しゆそう》に見せて、其名を問ふ。

 知る者、なし。

 諸卿《しよけい》、これを閱《けみ》して、終《つひ》に、殿下の高覽に備ふ。

 殿下、是を名付《なづけ》て、

「如意寶網珠成《なり》。」

と、宣《のたま》ふ。

 

[やぶちゃん注:「享保十七年九月」グレゴリオ暦一九五七年十月十二日から十一月九日。

「小坂」当時の村の字(あざ)と思われる。現在、まさに、鬼岩寺門前のここ(グーグル・マップ・データ)に「小坂(こさか)会館」という地区の集会所がある。

「鈸」「銅鈸(どうばち/どうばつ)」であろう。中国・朝鮮・日本の金属製打楽器で、インドから中国に仏教楽器として渡来した。仏教音楽にあっては「どうばち」の方が一般的である。

「愛染臺」愛染明王(梵語“Rāga-rāja” の漢訳語。「愛着染色」の意)は真言密教の神。愛欲を本体とする愛の神で、全身赤色・三目(みつめ)・六臂(ろっぴ)で、頭に獅子の冠を頂き、顔は常に憤怒の相を表わす)像を安置するための専用の台座。よく見られるのは、宝瓶(ほうびょう)や蓮華の形を模した「宝瓶台(ほうびょうだい)」が用いられる。

「八寸八分」二十六・六六センチメートル。

「諸卿」公卿。

「殿下」国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河記 上卷」(桑原藤泰著・足立鍬太郞校/出版者・加藤弘造/昭和七(一九三四)年刊)の「卷十八 志太郡卷之五」の冒頭の「鬼岩寺」の項の、「○如意寶網珠一顆」に拠れば、『關白殿下高覽あり。如意寶網珠の號を給ふと云云』とあるので、近衛家久である(当該ウィキを見よ)。

 而して、この本を管見したところ、巻頭の図集「桑原藤泰山西勝地眞景」の中に、まさに、この「如意寳網珠」の図を発見したので(ここ)、以下にトリミング補正して掲げておく(無論、「保護期間満了」)。

 

Hyoihoumoujyu

 

右方の手書きキャプションは、

   *

 如意寳網珠  鬼岩寺所藏

    周徑八寸八分

   *

2026/04/08

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「不動尊告夢」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長めなので、段落を成形し、句読点を附加・変更した。欠字「□□」は底本では長方形。本文に出る「鬼巖寺」は前項で既出既注。]

 

 「不動尊告夢」 志駄郡鬼岩寺村《きがんじむら》、楞嚴山《りやうがんさん》鬼岩寺にあり。傳云《つたへいふ》、

『當寺講堂本尊不動【興敎大師《かうぎやうだいし》の作。】は、永祿年中、武田信玄、當國亂入の時、兵火の爲に、諸堂、悉《ことごと》く、囘祿す。時に行方《ゆきがた》を失《しつ》す。寺僧、以て、「燒失す。」とす。

 然《しか》るに、當寺二十三世堅照上人、或夜、靈夢を見る。

 また、旦那村人《だんなむらびと》大楠六兵衞《おほぐすろくべゑ》と云《いふ》者、同夢を見たり。

 依《より》て、大楠、當寺に來り、上人に、「かく。」と語る。上人、夢の同じきを驚歎し、共に談合す。其靈夢の告《つげ》に曰《いはく》、

「今、甲州□□山大泉寺《だいせんじ》にあり。汝等、來《きたり》て、我を迎へよ。」

と。

 玆《ここ》に於て、二人、約して、甲州に赴く。

 途中、富士川の端《はた》に至る時、旅僧一人、甲州より來り、相共《あひとも》に茶店《ちやみせ》に憩《いこ》ふ。

 彼《かの》僧云《いはく》、

「我、負ふ所の不動尊は、靈夢の告に依《より》て、駿州藤枝の鬼岩寺に赴く也。云云《うんぬん》。」

 玆に於て、彌《いよいよ》、奇異の思《おもひ》をなし、堅照・大楠等《ら》、前條を以て、委《くはし》く告ぐ。

 彼僧、手をうつて、大《おほき》に驚き、明王《みやうをう》の靈驗を感歎す。

 因《より》て、尊像を堅照に渡して、甲州に歸る。

 二人は、富士川より歸り、佛體を講堂に安置せり。

 此負來《おひきた》る僧は大泉寺の僧也。云云。」。

 里人云《いふ》、

「永祿年中、囘祿のとき、武田信玄、此尊像と舍利塔を奪《うばひ》て、佛は、大泉寺に置き、舍利は卒後、勝賴、髙野山成慶院《せいけいゐん》に寄付す。延寶七年、同院より其內《そのうち》、三粒《みつぶ》を舍利塔に入《いれ》て、當寺に贈る。是、其塔臺《たうだい》の底に、「駿州鬼岩寺」の銘ある故《ゆゑ》也。星霜二百有餘年を經て、其《その》本《ほん》に歸る、一奇と云《いふ》べし。」。

 

[やぶちゃん注:「興敎大師」平安後期の真言宗新義派の開祖覺鎫上人(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四三)年)の勅諡号。肥前の人。保安二(一一二一)年、仁和寺の寛助から密教灌頂を受ける。高野山に伝法院を建立して座主となり、金剛峯寺座主を兼ねたが、一門の反対に遭い、根来(ねごろ)の円明寺に移った。覚鑁が起こした密教事相の流派を「伝法院流」と称する。「密厳尊者」と呼ばれた。

「永祿年中、武田信玄、當國亂入の時」これは、所謂、信玄の駿河侵攻で、永禄一一(一五六八)年から元亀二(一五七一)年)まで発生した、甲斐国の戦国大名武田信玄による駿河国今川領や後北条氏領への軍事侵攻を指す。

「堅照上人」この話は、前項でリンクした「【良縁結び・恋愛成就お寺巡り】恋に仕事、人生も。所願なら静岡県藤枝の鬼岩寺をお参り。」の『5:「静照上人の大蛇退治」と武田信玄の火攻めに負けない「不動明王像と不動堂」の因縁』に、前史も含めて、ちょっと長いが、この話が詳細に書かれてあるので、そのまま引用する。

   《引用開始》

5:「静照上人の大蛇退治」と武田信玄の火攻めに負けない「不動明王像と不動堂」の因縁

-

5-1:時は過ぎて、平安末期の長安年間(1163~1164)。鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺の住職であった静照(菱和元年寂281)は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814~892の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。

5-2:霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで【池早不動】と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、市の文化財に指定された本尊がこの【不動明王】である

5-3:永禄13年(1570)甲斐の武田信玄は駿河に攻め込み、駿府城を手に入れ、1月26日には花沢城を攻め滅ぼし、月末には田中城(藤枝の田中城跡)を攻略。この時武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。(こういうことやちゃうから歴史上、結局大敗の武田軍、子々孫々まで罰当たります)その中に鬼岩寺もあり、本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失。

 

その際、不動堂に祀られていた不動明王は行方知れずになっていた。八方捜したが見つからず、焼失してしまったのではないかと半ば諦めていたが・・・、六十年程たった寛永年間(1624~1643)23世住職堅照上人がある夜夢を見た。その夢の中に例の不動明王があらわれ、「吾、甲斐国甲府大泉禅寺にあり。汝等来たり迎えよ。」と告げたのである。

 

翌朝、堅照が夢のことを思い出していると、鬼岩寺の檀那大井神社神主の大桶六兵衛があわてた様子で寺をたずねて来た。六兵衛は昨夜見た夢のことを堅照に告げた。不思議なことに全く同じ夢であった。そこで住職と六兵衛の2人は旅仕度を整え甲斐の国、大泉寺に向けて出発した。旅を続け、富士川のほとりの茶店に寄ると、一人の旅の僧が休んでいる。

 

何の気なしに、この僧と話しはじめ、夢のお告げのことを語ると、旅の僧は大変驚いた。旅の僧が言うのには、実は私はその大泉寺の使いの僧であり、同じように不動明王の夢のお告げにより、駿河国鬼岩寺へお不動様をお返しにあがる途中であるという。鬼岩寺堅照も六兵衛も霊験あらたかなお不動様に感謝しながら、不動明王をこしに載せて帰山した。60年ぶりに不動堂の本尊が鬼岩寺に帰山。その因縁と不思議さに、改めて念の凄さを教えてくれる由緒。

 

鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)徳川幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。

   《引用終了》

「甲州□□山大泉寺」現在の山梨県甲府市古府中町(こふちゅうまち)のここ(グーグル・マップ・データ)にある曹洞宗万年山大泉寺。事績は当該ウィキを見られたい。]

2026/04/06

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「鬼巖」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加・変更した。表題「鬼巖」であるが、寺の名前は、現在の読みで「きがんじ」であるが、往々にして、寺の名とは、差別化することが多く、そもそも以下に見る通り、本文中の封じられた『魔魅』(まみ)は、広義の「鬼(おに)」であり、民間伝承に於いては、この「鬼巖」(きぐわん)ではなく、「おにいは」と読むべきであろうと考える。十年以上前の藤枝市のニュース記事の痕跡で「おにいわ」のルビを検索で確認してある。]

 

 「鬼巖《おにいは》」 志駄郡《しだのこほり》鬼岩寺村《きがんむら》、楞嚴山鬼岩寺《りやうがんさんきがんじ》【眞言。】境內にあり、「鬼岩」と號《なづ》く。經《まは》り八間[やぶちゃん注:十四・五四メートル。]計《ばか》りの巨巖《きよがん》也。當山の麓、崖の如き所に、あり。此岩の腹に、小穴、數多《あまた》あり。穴中《あななか》に小石を投《なぐ》れば、轉《ころ》び入《いる》音、あり。寺傳云《いはく》、

『弘仁年中、弘法大師、東國巡行の時、近隣に、魔魅、徘徊して、人民を、なやます事、あり。里民、此由を、歎き、訴ふ。大師、是を聞《きき》て、自《みづか》ら、五大尊を畫《ゑが》き、一七日《ひとなぬか》の間《あひだ》、眞言祕密の修法《しゆほふ》を以て、魔魅を、此《この》巖中《がんちゆう》に封窂《ふうらう/ふうろう》す。時に、雲霧《いんむ》、起り、雷電、震動する事、夥しく、方遠《はうゑん》に響《ひびき》けり。大師、行《ぎやう》、終《をはり》て、忽《たちまち》、快晴し、鳴鎭《なりしづま》る。此巖穴《いはあな》は其遺蹟也。云云《うんぬん》。』。

 

[やぶちゃん注:「志駄郡鬼岩寺村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『静岡県』『藤枝市鬼岩寺村』は『現在地名』『藤枝市音羽町(おとわちょう)一丁目・茶町(ちゃまち)一―三丁目・藤枝一―三丁目・鬼岩寺』とし、『東海道藤枝宿の北、若王子(にゃくおうじ)村の西に位置し、鬼岩寺山南麓に立地する。東海道が通り、瀬戸谷(せとのや)街道の分岐点にあたる。志太(しだ)郡に属する。東遊歌神楽歌の駿河舞の第四句にみえる「いはたしたえ」の岩田(いわた)は藤枝の旧称とされ、岩田山は鬼岩寺山のことという(掛川誌稿)。また「したえ」は志太江とされ、現藤枝市・島田市の南に広がっていた入海の浦浜の総称という(駿河記)。室町時代から鬼岩寺山麓にある鬼岩寺の門前町として栄え、戦国期には市も開かれていた。』とあった。鬼岩寺は現在は藤枝市藤枝三丁目である(グーグル・マップでここ)。高野山真言宗。当該ウィキに拠れば、神亀三(七二六)年に『行基によって開山された。寺号』『は、弘法大師空海が法力で鬼を封じ込めたと伝えられる裏山の巨岩・岩穴に由来する』とある。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図で旧町名としての「鬼岩寺」が確認出来る。同寺の公式サイトは存在せず、当該ウィキや(神亀三(七二六)年に行基によって開山されたとし、鬼岩については、裏山にある、としかない)、藤枝市のサイトを見ても、あまり収穫がない。豈図らんや、静岡市葵区にある『結婚相談所「静岡恋活デートめぐ婚」』のサイト内の「【良縁結び・恋愛成就お寺巡り】恋に仕事、人生も。所願なら静岡県藤枝の鬼岩寺をお参り。」に、大きな画像がずらりと並び、解説も非常に詳しい。それを見ると、この「鬼岩」は現在では、岩に鬼が爪で引っ掻いた痕(あと)があり、「鬼かき石」となっている。写真キャプションを引く。『左が弘法大師こと「空海」が巨岩に閉じ込めた鬼の爪あとの「鬼かき石」。7本ほど爪跡があり、爪跡を3回なでてお参りで所願とのこと。特に手芸事上達にご利益があり。』とあった。しかし、本文の岩の大きさは半端ないから、ウィキの言うように、寺の裏山に本体の岩はあるんだろうなぁ。判らんけど。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]

2026/03/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「臼祖母巖」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。標題は、珍しく「臼祖母」の部分のみに『うすばゝ』(この場合は「うすばば」と読まないとおかしい)のルビがある。「巖」は、本文内容を考えるに、「いはほ」ではなく、「いは」と読むと推定した。]

 

 「臼祖母巖(うすばゝ《いは》)」 志駄郡《しだのこほり》瀨戶新屋村[やぶちゃん注:旧志郡内で、現在の藤枝市瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)であるが、実際には、現在の藤枝市南駿河台3丁目13-4の南向いのここ(グーグル・マップ・データ航空写真拡大)で、ストーリートビューのここ。後注も参照のこと。]にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村鏡池《かがみいけ》は小池也。傍《かたはら》に巨巖《きよがん》あり、『臼祖母岩《うすばばいは》』と號《なづ》く。其形《そのかた》ち、人の口を開くに似たり。もし、此石に足をふるゝ者あれば、必《かならず》、瘧疾《ぎやくしつ/おこり》を患《わづら》ふ、云云《うんぬん》。」。

 毒石《どくせき》にや。

 

[やぶちゃん注:この石、現存する。場所であるが、個人サイトと思しい「志太の石碑・石仏めぐり」の「祠」の「うすんばあさん(姥神様) 子供の咳病平癒に霊験あらたかとされた巨岩と黒松」が、詳しい(国立国会図書館デジタルコレクションのリンクも完備している。但し、二〇二〇年二月で更新がないので、保存された方が無難である)。そこに、

   《引用開始》

 姥神様の祠の後ろに大きなくぼみがある岩が鎮座しており、そのかたわらに石祠と杉と黒松が立っています。この岩が姥神様こと「うすんばあさん」の御神体で、黒松は2代目の御神木です。うすんばあさんとは、「臼のばあさん」が訛ったもので、岩のくぼんだ形が臼に似ているためそう呼ばれていました。江戸時代に編まれた『駿河記』などには「臼祖母巌」として取り上げられています。

 元は現在調整池となっている烏帽子山北側の山沿いにありましたが、昭和50年(1975年)頃に始まった駿河台の宅地造成のため現在地に移転しました。旧地にあった頃には、先代の御神木黒松が岩をまたいで生えており、これらを一体のものとして祀っていたそうです。また、この前に「姥の鏡田」という清水が湧く水田がありました。

 旧地にあった先代の御神木黒松は、樹齢350年以上・樹高21mほどという立派なものでしたが、戦後間もなく火災にあい被害を受けてしまったそうです。現在地に移転する際に先代御神木の一部をとって移したものが、現在の御神木です。

 うすんばあさんは子供の咳に霊験があるとされ、足蹴にする者があれば必ず瘧疾(熱病)を患うともいわれていました。かつては多くの参詣者があり、近隣だけでなく遠州からわざわざ訪れる人もいたそうです。満願のお礼参りには竹筒に入れた酒を供えました。例祭日は43日とのことです。

 うすんばあさんが咳にご利益があるとされた由来は不明ですが、『駿河記』には「其形人の口を開きたるに似たり」とあり、案外そんなところから連想されてご利益が生まれたのかもしれないと想像しました。

 説明看板によると、旧地は調整池のほとりにそのまま残っているということです。しかし、調整池へ下りる道が封鎖されているため、おそらく立入禁止と思われます。なお、昭和59年(1984年)発行のゼンリン住宅地図には、この調整池に「姥ヶ池」というキャプションが付いていました。

 説明看板の設置者が瀬戸新屋町内会なのは、うすんばあさんの旧地が元は瀬戸新屋地内だったためと思われます。現在も南駿河台の南側に瀬戸新屋の飛地がありますが、昭和の初め頃には現・緑の丘付近と烏帽子山の東麓から富洞院あたりまでが瀬戸新屋に含まれていました。

   《引用終了》

さても、同ページの下方のゼンリン地図等が機能しないので、グーグル・マップ・データで調べたところ、サイト主が述べておられる『うすんばあさんの旧地』の『調整池のほとり』というのは、現在の航空写真では、ここの、地番「14」が打たれてある箇所で、私がストーリートビューのここの南東直近であることが判った。その後者の画像を見ると、現在の「うすんばあさん」の社には、角のフェンスが外されてあり、参拝することが出来るようになっていることが判るのである。

 なお、現在の「うすんばあさん」という呼び名は、推定だが、江戸後期から近代の庶民の呼称と思われる。その辺りを伺えるのが、リンクが機能する国立国会図書館デジタルコレクションの靜岡縣志太郡役所編になる「靜岡縣志太郡誌」(大正五(一九一六)年刊)の、ここの『【姥神御神木】(靑島村)』の項である。当該部を起こす(字空け・字配等は再現していない)。

   *

【姥神御神木】(靑島村)

所在地     瀨戶字壠川。

地上五尺の周圍 一丈五寸。

大約の樹高   十二間。

大約の樹齡   三百五十年。

傳說記錄の大要

往古より姥神御神木と稱し、巨巖を踏跨て[やぶちゃん注:「ふみまたぎて」。]樹に別に御神体[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なく、只この巨巖と大松とを以て御神体とするが如し。巖は正面中央窪くして。其の形臼に似たるを以て、「臼ンバーサン」と云ふ。駿國雜志には、臼祖母巖とあるは此巖の如し。前に水田あり、內に形圓き[やぶちゃん注:「まろき」。]荒田あり、芦生立て[やぶちゃん注:「おひたちて」。]、古來之を御鏡田[やぶちゃん注:「おんかがみだ」。]と稱す。此の姥神は、小兒の咳疾(俗にシーラシヤアキと云ふ)に靈驗ありとて、近鄕は勿論、遠く遠州地方より參詣者多し。中古[やぶちゃん注:これは、日本文学史のそれではなく、漠然に「その時代からある程度隔たった昔・なかむかし」の意。]迄は每年三月三日祭典を行ひしも、今は祭典を行はず。立願果しに竹の筒に酒を入れて供ふること昔と同じ。

   *

「瘧疾」厳密には「わらはやみ」=マラリアを指すが、この場合は、流行性感冒等を広く指しているように思われる。]

2026/02/27

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「大蛇」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。「□□」の欠字は、底本では長方形で凡そ二字分。]

 

 「大蛇」 志駄郡《しだのこほり》[やぶちゃん注:前項と同じく、「志太郡」が正しい。]瀨戶新屋村[やぶちゃん注:現在の藤枝市南部の、藤枝駅の北西直近にある瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)。]にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村鳥帽子山[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で確認出来る。現代の瀬戸新屋直近の北西に烏帽子山がある。]の後《うしろ》、一の谷・二の谷・三の谷と稱する地、あり。一の谷と二の谷の際《きは》に小瀧《こたき》ありて、旱魃にも、水、かれず。傍《かたはら》に洞《ほら》あり。

 或時、里童《さとわらは》兩三人、夏草刈《なつくさがり》に此谷に至るに、洞中《ほらうち》に鼾《いびき》の音《おと》す。其響《ひびき》、雷《かみなり》の如し。草刈等、怖《おそれ》て、走り去る。

 後《のち》、茲《ここ》に遊べる小童《こわらは》、同郡《こほり》水上村□□山萬福寺【曹洞。】に集《あつま》り居《をり》て、此事を語る。

 住僧【姓名を失す。】云《いはく》、

「是は、巨蟒《うはばみ》の巢窟成《なる》べし。斯《かく》の如きものは、後歲《こうさい》、必《かならず》、災《わざはひ》を、なさん。既に先證《せんしやう》あり。我に一法《いつはふ》、あり。」

とて、不動尊の前に幣《ぬさ》を建《たて》、一七日《いちしちにち》[やぶちゃん注:七日間。]、修法《しゆほふ》し、彼《かの》幣を、一の谷の洞口《ほらぐち》に押立《おしたて》て、去る。

 然《しか》るに、一夜、風雨、甚《はなはだ》、强く、一の谷、山、崩る[やぶちゃん注:「こと」が欲しい。]數十間《すじつけん》[やぶちゃん注:一間は十八・一八メートルであるから、六掛けで百九メートル。現在は同山の北東部は宅地化しているものの、「ひなたGIS」の戦前の地図を見るに、旧烏帽子山背後に、その程度の崩壊が起こったとしても違和感はない。]、小瀧水《こたきみづ》、燥《かはき》て、落ちず。

 此時、蛇《じや》、他《ほか》に去る。

 是《これ》、近歲《きんさい》の事也《なり》。云云《うんぬん》。」。

 

2025/12/31

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「水上池惡龍」

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。欠字の「□□」部分は底本では、長方形。三つ目の漢文部分は、後で訓読する。読みの内、ネットで確認出来なかった場合、複数候補を示しておいた。長さから、ほぼ割注で対応した。

 但し、この漢文部には、底本、及び、「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)ともに、訓点として、通常の訓点では、必要な助詞・助動詞の欠落・省略が、多量に、ある。丸括弧で追加しようと思ったが、余りにも、それが多過ぎるので、底本通りとし(私が追加した句読点は別)、訓読で、私が補正訓読して追加しておいた。いちいち、それを丸括弧・下線などで示すと、却って読み難くなるだけなので、指示はしていない。因みに、仏教関連の文書では、こうした省略は、ごく普通にあるものでは、ある。

 

      志  駄  郡《しだのこほり》

 「水上池《みづかみいけ》惡龍《あくりゆう》」 志駄郡[やぶちゃん注:調べた限りでは、「志太郡」が正しい。]水上村《みずかみむら》□□山萬福寺【曹洞、富洞院末。】[やぶちゃん注:現在の静岡県藤枝市(ふじえだし)水上(みずかみ)のここ(グーグル・マップ・データ。以下、基本、無指示は同じ)。サイド・パネルのこの入り口の画像にある石造の寺名表記には、山号「大池山」とある寺の公式サイトはないので、一応、「だいちざん」と読んでおく。]にあり。「本尊水干不動緣起由」[やぶちゃん注:同前に理由で読み不詳(国立国会図書館デジタルコレクションで複数のものを見たが、ルビはない。取り敢えず、「ほんぞんすいかんふどうえんぎいう」と読んでおく。寺社の縁起で「由」がつくものは、今までの私が見たものでは、皆無である。]云《いはく》、

『水上村は、昔、一面の大洋池《だいやうち》[やぶちゃん注:「広い池」の意。]にて、東・南新屋、西・鳥帽子山、南・瀨戶新屋六地藏[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で示す。右の現代の国土地理院図でも、現在の地名として総てが生きていることが確認出来る。「瀨戶新屋」の「六地藏」もグーグル・マップ・データで調べたところ、同地区のここに現存している。]を限り、凡《およそ》周程《しうてい》三十六町餘《あまり》。

 池中《ちちゆう》に、毒龍、有《あり》て、累歲《るいさい》[やぶちゃん注:「何年もの間」の意。]、徃來《わうらい》の人民《じんみん》を、なやませり。

 里民《りみん》、是を患《わずら》ふ。

 時に、一法師《いちはふし》、宇陀上人《うだしやうにん》と云《いふ》者、あり。密宗の祕法を修練して、髙德の聖《ひじり》なり。民人《たみびと》、是を屈請《くつしやう》[やぶちゃん注:丁重に人を招くこと。]し、池水《ちすい》を祈《いのり》て、潛龍《せんりゆう》を降伏《かうぶく》せん事を欲《ほつ》し、衆議して、上人に告ぐ。

[やぶちゃん注:「宇陀上人」調べたが、人物不詳。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河の傳說(小山有言編・昭和一八(一九三三)年安川書店刊)の「青島町」の『六八 水上池池惡龍』(これは、本底本準拠)に名が出ており、さらに、まさに以下に語られる内容とほぼ一致する(但し、龍ではなく、蛇)「七一 七ツの護摩壇」に、「傳說昔話集」を元に『又いふ。この地方は夏はこの地方は夏は一面の池になる。池には毒蛇がゐて人々を惱ました。宇陀上人がまわって來て、毒蛇退治を思ひ立ち、七ケ所に壇を築き不動尊像を安置して護摩をたいて、池水を干し涸らさしめた。毒蛇は惡鬼と化し藤枝の鬼岩寺に飛で行つた。そこで水干不動と呼び、萬福寺を建てゝ奉安した。七ツの壇は宇陀上人修法[やぶちゃん注:「しゆほふ」。]の所であつたともいはれてゐる。』とあった。]

 上人、招《まねき》に應じて、まづ、水想觀《すいさうくわん》に入《いり》、驗ㇾ之《これを、げんじ》、朝暮思ㇾ之想ㇾ之《てうぼ、これを、おもひ、これを、さうし》、念々無ㇾ措《ねんねん、おかず》、一夕《いつせき》、靈夢《れいむ》の告《つげ》を獲《え》て、筑紫の博多より、不動の靈像【智證大師作。】〕を迎へ、梵壇《ぼんだん》を東山《ひがしやま》に築き、これを安置し、眞言の密印を以《もつ》て、加持三昧《かじざんまい》の妙力咒禱《みやうりきじゆとう》せしかば、則《すなはち》、明王《みやうわう》の靈驗《れいげん》にや、潛《ひそめ》る猛龍《まうりゆう》、德の爲に降《くだ》せられ、洋々たる池水《ちすい》、法《ほふ》に依《より》て、陸と變ず。然《しか》してより此《この》かた、民人、始《はじめ》て、安堵《あんど》の思《おもひ》をなし、此里に居住す。云云《うんぬん》。』。

[やぶちゃん注:「水想觀」。「觀無量壽經」に説く十六観の一つ。水や氷の清らかなさまを想うことによって極楽浄土のさまを観想する方法。「水観」とも言う。]

 同郡《どうこほり》鬼岩寺村《きがんじむら》、「楞嚴山《りやうがさん》鬼岩寺《きがんじ》【眞言、髙野山無量光院末。】緣起」云《いはく》、

[やぶちゃん注:「鬼岩寺村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『現在地名』は『藤枝市音羽町(おとわちょう)一丁目・茶町(ちゃまち)一―三丁目・藤枝一―三丁目・鬼岩寺』とし、『東海道藤枝宿の北、若王子(にゃくおうじ)村の西に位置し、鬼岩寺山南麓に立地する。東海道が通り、瀬戸谷(せとのや)街道の分岐点にあたる。志太(しだ)郡に属する。東遊歌神楽歌の駿河舞の第四句にみえる「いはたしたえ」の岩田(いわた)は藤枝の旧称とされ、岩田山は鬼岩寺山のことという(掛川誌稿)。また「したえ」は志太江とされ、現藤枝市・島田市の南に広がっていた入海の浦浜の総称という(駿河記)。室町時代から鬼岩寺山麓にある鬼岩寺の門前町として栄え、戦国期には市も開かれていた。』とあった。ここ(「音羽町」をポイントし、東に「鬼岩寺」、その南直近に「藤枝」の当該丁目がある)。なお、「鬼岩寺」は高野山真言宗で、「藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課」公式サイト内の「ふじえだ東海道まちあるき」の「藤枝宿 鬼岩寺 きがんじ」に、神亀三(七二六)『年に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。』とあった。]

『靜照上人《じやうしやうしやうにん》とて、弘法大師の躅《あと》を闢《ひらき》[やぶちゃん注:「事跡を忠実に踏み開き」。]、令德雄才《れいとくゆうさい》[やぶちゃん注:「令德」とは「美徳・善行」の意。]・事敎《じけう》[やぶちゃん注:仏教で、「理」、即ち、「本体」と、「事」、即ち、「現象」とを明確に区別する教えを指す。]兼備の上人、住山《ぢゆうさん》の時に當《あたり》て、南里《みなみのさと》[やぶちゃん注:地名しては見出せないので、普通名詞として、かく読んだ。]、淵《ふち》に、巨龍《きよりゆう》在《あり》て、方里《はうり》の土民、農作耕《のうさくこう》を成《なす》事、あたはず。

[やぶちゃん注:「靜照上人」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項に拠れば、生年不詳で、『長保五年(一〇〇三)正月八日』没の『天台宗の学僧。高階成忠(たかしななりただ)の子として生まれ、出家後、賀縁の弟子となり、後に比叡山の東塔功徳院に住したというが』、『不明な点が多い。永延元年(九八七)に、円教寺講堂供養に講師、長保二年(一〇〇〇)に覚運(九五三—一〇〇七)や源信と同じくして法橋に叙任されている。また、同年法華八講の講師を務める。浄土教に関心が深く、その著に『観経』の十六観を注釈した『極楽遊意』、『無量寿経』に説かれる四十八願を注釈した『四十八願釈』各一巻などがある。』とあった。]

 上人、是を慈恕《じじよ》し[やぶちゃん注:情け深く、思いやりを成すことを言う。]、七か所に、檀《だん》を築《きづき》て、不動護摩を精修《せいしゆう》す。神效《しかう》、不可思議、湛池《たんち》[やぶちゃん注:水を湛えていた池。]、水、涸れ、燥陸《さうりく》に變ず。上人、敎化《しやうげ》して、巨蛇《きよじや》を封窂《ふうらう》す[やぶちゃん注:封じて閉じ込めた。]。云云【檀上の尊佛は鬼岩寺護摩堂の本尊也。】。

 同郡志太村□□山九景寺【淨土、藤枝、西光寺末。】所藏詩序云、鬼岩者有惡龍潜於水上池、水上池鬼岩二十町、凡人物之經スル於池邊者、無ㇾ不以葬於腹一、村民患ㇾ之、多招有驗之僧、欲ㇾ去ント惡龍、三論之俊、唯識之芼、華嚴之英、佛神之傑、不ㇾ能以伏ㇾ之、皆拱ㇾ手而退、有一法師、弘法大師之流而通金剛頂經毘盧遮那經之薀、且傳秘密之印信、先入三摩提見ㇾ之、知彼龍ヿヲ阿耨達池龍王之族一、於ㇾ是、築於池上、安不動尊像、入水想觀、詳ニシ水之淵源、抽テ二大根器神變之法、明王忽火熖、使下二池水、其壇護摩壇、其像水干不動、及ㇾ今存ㇾ跡、人尊崇之、然龍不ㇾ得其處、化成惡鬼、飛此山、法師追亡逐逃念珠鬼之頭、鬼乃開般若之眼、初菩提心、法師授ㇾ之以阿字一力、鬼高聲得道、作ㇾ禮而去。法師又以那羅延力盤石於其化處以爲之封、名之鬼岩、村民歸法師之密驗、建梵刹鬼岩寺。【下畧】云云。

[やぶちゃん注:冒頭で述べた通り、送り仮名その他が不全であるので、大々的に推定訓読したものを以下に示す。

   *

 同郡(どうこほり)志太村(しだむら)□□山九景寺(くけいじ)【淨土、藤枝、西光寺(さいかうじ)末(まつ)。】[やぶちゃん注:鬼岩寺と萬福寺の、やや鬼岩寺寄りの瀬戸川右岸に「九景寺古墳」があり、その近くに、「九景結社」という浄土宗寺院がある。「静岡教区浄土宗青年会」のこのページを見ると、この寺の開基は治承四 (一一八〇)年である。]所藏の「詩序」に云(いはく)、鬼岩(きがん)は[やぶちゃん注:「には」の意で採る。]、惡龍(あくりゆう)、水上池(みなかみのいけ)に潜(ひそ)む有り。水上池は、鬼岩を去ること、二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。南南西に直線で二キロ強で、まさに萬福寺がある。]、凡そ、人・物の池邊(いけべ)を經過する者、以つて、腹に葬(はう)むらざる無し。村民《そんみん》、之れを患(わづら)ふ。多(おほ)く、有驗(うげん)の僧を招きて、惡龍を去らんと欲(ほつ)し、三論(さんろん)の俊(しゆん)、唯識(ゆいしき)の芼(ぼう/もう)、華嚴(けごん)の英(えい)、佛神の傑(けつ)、以つて、之れを伏(ぶく)すること能はず、皆、手を拱(こまね)きて退(しりぞ)く、一法師(いちほふし)、有り、弘法大師の流(りう)にして、「金剛頂經(こんがうちやうきやう)」・「毘盧遮那經(るびしやなきやう)」の薀(うん)通じ、且つ、秘密の印信(いんじん)を傳へ、先づ、三摩提(さんまだい)に入り、之れを見(み)、彼(か)の龍の、阿耨達池龍王(あのくだつちりゆうわう)の族(うから)に非(あ)らざることを、知る。是(ここ)に於いて、壇(だん)を池(いけ)の上(ほとり)に築(きづ)き、不動尊像を安(あん)じ、水想觀に入り、水(みづ)の淵源を詳(つまびらか)にし、大根器(だいこんき)を抽(ぬ)きて、「神變(しんぺん)の法(ほふ)」を修(しゆ)す[やぶちゃん注:実際にそのような修法(しゅほう)があるわけではない。常人にはない特別な神通(じんつ))が備わった者が獲得出来る摩訶不思議な現象=神変を現出させる法を駆使したのである。]。明王、忽(たちま)ち、火熖(くわえん)を出(いだ)し、池の水を乾かしせしめ、其の壇を「護摩壇」と呼び、其の像を「水干不動(みづほしふどう)と號(がう)し、今に及び、跡(あと)、存し、人、之れを尊崇(そんすう)す然れども、龍、其處(そこ)に得られずして二一、化(け)して、惡鬼(あくき)と成り、此の山に飛び、法師、逐逃(ちくたう)を追亡(ついばう)し、念珠(ねんじゆ)を以つて、鬼(おに)の頭(かしら)を打つ。鬼、乃(すなは)ち、般若(はんにや)の眼(まなこ)を開き、初めて、菩提心(ぼだいしん)を發し、法師、之れに授(さづ)くに、「阿」の字の一力(いちりき)を以つて、鬼、高聲(たかごゑ)に「得道(とくだう)」を稱(とな)へて、禮を作(な)して、去る。法師、又、那羅延力(ならえんりき)を以つて、盤石(ばんじやく)を其の化(け)したる處(ところ)に投(とう)じ、以つて、之れに封(ふう)を爲す。之れ、「鬼岩(きがん)」と名づく。村民、法師の密驗(みつげん)に歸(き)し[やぶちゃん注:帰依し。]、梵刹(ぼんさつ)を建立(こんりふ)して、「鬼岩寺」と號す。【下畧。】云云(うんぬん)。

   *

「三論」三論宗。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『南都六宗の一つ。中論(中観論)・十二門論・百論の三論をよりどころとして、大乗の教えを説くもの。もともとインドでおこり、鳩摩羅什(くまらじゅう)が中国に伝え、隋の吉蔵が大成したという。日本には、推古天皇の三三年(六二五)、吉蔵の弟子、慧灌が渡来して広め、智蔵、道慈が入唐して宗旨を修めて以後、宗の名を立てた。天台宗などのような、教団として発展したものではないので、中古以後は衰え、法隆寺や東大寺などに学問として伝えられた』とある。

「唯識」同じく、仏教の認識論の一つで、『一切の諸法は識としての心が現わしだしたものに』過ぎず、『識以外に存在するものはないということ』。但し、『この識も妄分別するものとしてあるに』過ぎず、『真実にあるものではない』、『という意を含んでいる。』とある。但し、ここは前後から見て、「唯識」を別称とする「法相宗」(ほっそうしゅう)を指していると考えるべきで、同じく、『仏教の一宗派。奈良時代を通じて最も盛んであった、いわゆる南都六宗の一つ。解深密(げじんみつ)経・瑜伽(ゆが)論などをもとに、万有は唯識、すなわち』、『心のはたらきによって表わされた仮の存在にすぎず、識以外の実在はないとし、万法の諸相(法相)を分析的、分類的に説くもの。この学は玄奘によりインドから唐にもたらされ、弟子の慈恩大師窺基より一宗をなしたが、日本へは白雉四年(六五三)入唐した元興寺の道昭以後、伝えられた。行基・良弁など多くの学匠を生み、また他宗の学徒も多くこれを学んだ。現在は興福寺・薬師寺(法隆寺は一八八三年聖徳宗として独立)を大本山に七〇余の末寺をもつのみである』とある、それである。

「芼」第一義は「選ぶ・抜き取る」の意。先鋭の者。

「華嚴」華厳宗。同じく、『華厳経を所依として中国唐代杜順に起こり、賢首(げんじゅ)大師法蔵によって組織大成された大乗の一宗。日本には天平八年(七三六)唐の道璿(どうせん)が伝えたといい、同一二年、良弁(ろうべん)の請いにより』、『新羅僧審祥』(しんじょう)『が金鐘道場』(きんしょうどうじょう)『(東大寺法華堂)で』、『この経を講じたという。その後、良弁が東大寺で宣教し興隆したがやがて衰微し、鎌倉時代には高弁・凝然が出て復興に努めた。明治初年、一時』、『浄土宗に属し、同一九年(一八八六)独立して東大寺を大本山とし、現在は末寺約五十か寺、信徒約五万人。五教十宗の教判の下に、法界縁起(ほっかいえんぎ)と十玄六相の事々無礙(じじむげ)を説き、三生成仏(さんしょうじょうぶつ)を唱える。南都六宗の一つ』とある。

「金剛頂經」同じく、『通常は不空訳の「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」三巻をさす。別に金剛智訳と施護訳がある。真言密教の秘経の一つ。大日如来成仏』『の次第を通じ、釈迦』、『すなわち』、『金剛界如来が、金剛界三十七尊を出生したことや、この金剛界曼荼羅建立の儀則、弟子を曼荼羅に導入する法などを説いた経典。』とある。

「毘盧遮那經」正しくは、「大毘盧遮那成佛神變加持經」(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)で、略して「大毘盧遮那經」、或いは、「大日經」と呼び、大乗仏教に於ける密教経典である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『八世紀に、善無畏・一行の共訳による漢訳』、及び、『シーレーンドラボーディとペルツェクの共訳であるチベット語訳が相次いで成立したが、梵文原典は現存しない』。「金剛頂經」『とともに真言密教における根本経典の一つとされる』。『7世紀半の前後約30年間という栂尾祥雲1933年発表の説が一般に承認されている。500年ごろにはすでに成立していたという説もあるが定説とはなっていない』。『内容は、真言宗のいわゆる事相(行法)と教相(教理)に相当する2つの部分から成り立つが、前者である胎蔵曼荼羅(の原形)の作法や真言、密教の儀式を説く事相の部分が大部分を占める』。『仏部・金剛部・蓮華部の三部分類や、胎蔵界五仏の構成などについても説かれる』。『また、この部分の記述は具体的であるが、師匠からの直接の伝法がなければ、真実は理解できないとされている』とあり、『教相(教理)に相当するのは冒頭の「入真言門住心品」だけといってよく、ここで密教の理論的根拠が説かれている。構成は、毘盧遮那如来と金剛手(秘密派の主たるもの)の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲している』。『要諦は、金剛手の問いに対し、毘盧遮那如来が一切智智を解き明かすことにあり、菩提心とは何かを説くところにある。』とある。

「薀」仏教に於いては、「五取蘊」(ごしゅうん)、或いは「五薀」として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称であるが(詳しくは当該ウィキを見られたい)、ここは、「薀」の一般的な意味を嗅がせた、「(正しき仏教の真の知識を)積んで蓄えている者」の意で採ってよい。

「印信」密教で、「師僧が秘法を伝授した証拠として弟子に授与する書状」を指す。

「三摩提」「三昧(さんまい)」に同じ。小学館「日本国語大辞典」の「三昧」に、『([梵語]samādhi の音訳。三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す )雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三摩堤(さんまだい)。三昧正受。』とある。

「阿耨達池龍王」「阿耨達池」は小学館「日本国語大辞典」に、『阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという池。瞻部洲(せんぶしゅう)の中央、香山(こうざん)の南、大雪山』(だいせつざん)『の北にあって、周囲八百里、金、銀、瑠璃などがその岸を飾る。四つの河を分出して、清冷水により全世界を潤すという。阿那婆達多(あなばだった)。』とある。ここは、その真正の神聖なる龍族の仲間ではない、と見破ったことを指す。

「大根器」禅問答の中で見たことがある。「偉大な品性」を指す語である。]

 里人、云《いふ》、

「以上、三所《さんしよ》の記を按《あんず》るに、事蹟は同所《おなじところ》にして、其說、異《ことなる》也《なり》。何《いづ》れか、可ならん。風土を閱《み》るに、古昔《こじやく》、大池《おほいけ》成《なる》事、疑《うたがひ》なし。今、『護摩壇《ごまだん》』と稱する所、七か所あり、謂《いはれ》は『六地藏』・『西山《にしやま》』[やぶちゃん注:「ひなたGIS」の戦前の地図で調べたが、不詳。]・『曲山』[やぶちゃん注:同前。]・『南新屋』[やぶちゃん注:萬福寺のごく直近に現存する。ここ。]・『鵜糞山』[やぶちゃん注:不詳。一つ、気になったのは、萬福治の東直近にある「烏帽子山」である。]・『萬福寺』・『東山』[やぶちゃん注:不詳。]也。何《いづ》れも、山上《さんじやう》、一段、高く築上《つきあ》げ、頂《いただき》、平《たひら》にして、形《かた》ち、圓《まろ》く、經《めぐり》、五、六間[やぶちゃん注:約九・一~十・九メートル。]計《ばかり》りあり。又、水上村の中筒井[やぶちゃん注:不詳。]など掘るに、土中より、菱《ひし》・芦《あし》等《など》の實《み》、或《あるい》は、根《ね》の類《たぐゐ》、色黑きもの、多く出づ。是《これ》、洋池の證《しやう》也。又、鬼岩寺靜照上人は、養和元年[やぶちゃん注:一一八一年。前に注したデータと全く合わない。]七月十五日、寂す。今、六百四十七年に及ぶ。事跡、詳《つまびらか》ならざるも、可《か》、也《なり》[やぶちゃん注:問題はない。]。今、『瀨戶町《せとちやう/せとまち》の染飯《そめいひ》』とて、名產とする物も、此龍鱗《りゆううろこ》を、形どる遺跡也。云云。」。

[やぶちゃん注:「瀨戶町の染飯」ウィキの「瀬戸の染飯」に拠れば、『現在の静岡県藤枝市上青島である駿河国志太郡青島村付近で戦国時代から販売された黄色い米飯食品である。東海道藤枝の名物であり、文化庁の日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅』の「構成文化財」に認定された』。『瀬戸の染飯は、強飯(こわいい/こわめし・蒸した餅米、おこわ)をクチナシ(梔子)の実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や三角形(鱗形)、四角形などにして乾燥させたものである』。『江戸時代には藤枝宿-島田宿間にある瀬戸の立場(休憩所)で売られていた。漢方医学では、クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、また足腰の疲れをとるとされることから、難所が多い駿河の東海道を往来して長旅に疲れた旅人たちから重宝された』。『物語や和歌、浮世絵の題材としてたびたび取り上げられ、1792年(寛永4年)に西国を旅した小林一茶は藤枝で「染飯や我々しきが青柏」と詠んでいる。1797年(寛政9年)の『東海道名所図会』には染飯を売る茶屋の挿絵があり、葛飾北斎の1804年(享和4年)頃の浮世絵『東海道中五十三駅狂画』でも四角い染飯を売る茶屋の娘が描かれた作品がある』。『十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802-1814年初刊)にも登場する』。『その始まりは古く、『参詣道中日記』1553年(天文22年)の記録や『信長公記』1582年(天正10年)の記録に記載があるため戦国時代にさかのぼる。東海道の街道名物としては最古級である』とあった。]

 

2025/12/30

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「瘧神人と婬」【R指定】

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。而して、語注は、殆んどを割注化した。

 なお、底本の本篇では、セクシャルな部分が「△」で多量に伏字となっていて、全く以って正常に読むことが出来ない。しかし、別底本(写本)に拠る「近世民間異聞怪談集成」では、それらが、総て活字化されていることから、それを参考にして、恣意的に正字化して、復元した。その部分は太字とした。

 

 「瘧神《おこりがみ》人《ひと》と婬《いん す》」 安倍郡府中に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、一歲《ひととせ》、駿府の町々、瘧病《おこりやまひ》、大《おほい》に流行して、武家・商家、共に、人、多く、死す。

 此時、

「『吉屋傳治郞家』と門に張置《はりお》く時は、其家に、病者、なし。」

とて、戶每《とごと》に、此名を、はりけり。

 其由來を尋《たづぬ》るに、此《この》「傳治郞」と云《いふ》は、府中吳服町の住《ぢゆう》なるが、極《きはめ》て、家、富《とみ》、豐成《ゆたかなり》ければ、常に、二丁町に徃(ゆき)て、倡女《しやうぢよ》[やぶちゃん注:遊女。妓女。]、あまた、揚《あげ》て、樂《たのし》みけり。

 或夜《あるよ》、例の如く、行《ゆき》けるに、傳治郞が思ひ人、「春風《はるかぜ》」と云《いふ》姚女《えうぢよ》[やぶちゃん注:見目よい女。]、瘧り有りければ、傳治郞、心、樂まず、

「今宵《こよい》は、敏《と》く[やぶちゃん注:早く。]、歸るべし。」

とて、まだ、夜深《よふか》きに、歸りける。

 路の傍《かたはら》に、麗《うるは》し氣成《げなる》る女《をんな》の、只一人《ただひとり》、彳(たたずみ)たり。

 傳治郞、心の內に、

『定《さだめて》、戀故《ゆゑ》に、人待居《ひとまちを》るにや、其樣《そのさま》を見ばや。』

と、側《かたはら》に近寄り、星の光に、すかし見れば、其艷顏《えんがん》、譬《たと》ふるに物なく、窈窕《えうてう》たるが[やぶちゃん注:美しく淑やかな、上品で奥ゆかしいさまで。]、

「さめざめ」

と泣居《なきゐ》たり。

 傳治郞、不思議に思ひ、其旨《そのむね》を問へば、彼女《かのをんな》申やう、

「某《それがし》は、當國島田の者なるが、故在《ゆゑあ》りて、住事《すむこと》[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)では『往事』とある。私は、本書の「住」の方が、すんなり受け取れる。]、叶はず、府中の驛へと志し、夫婦諸共《めうともろとも》來りしに、昨日《きのふ》、此安倍川の邊りにて、吾夫《あがをつと》、俄《にはか》に心變りして、我《あ》を捨《すて》て、江戶に徃《ゆき》ぬ。

『吾も共に徃かん。』

と云へば、

『此府《このふ》は、江戶にも增《まさ》る繁花《はんくわ》なり。爰《ここ》に、止《とま》りて、我《われ》が登《のぼ》るを、待て。』

と別れしより、『獨り、府中に至らん。』と思へ共《ども》、行《ゆく》べき道を、知らず。詮方なくて、此處《ここ》に侍《さぶら》ふ。」[やぶちゃん注:「島田」現在の静岡市島田市。静岡県の中部で、大井川の両岸に当たる。]

と云。

 傳治郞、哀《あはれ》に思ひ、

「某《それがし》こそ、府中の者にて候へ、伴ひ申《まう》さん。」

と云《いふ》に、彼女《かのをんな》、悅び、莞爾(かんじ)としたる[やぶちゃん注:「につこりとした」。]形容《けいよう》、亦、類《たぐ》ひなき美人成しかば、頻《しきり》に、心、動き、女の手を取《とり》て、道ならぬ事抔《など》、口說《くどき》ける。女、いと恥かし氣《げ》にて、兔角《とかく》の答《こたへ》もなく、差《さし》うつ向《むき》て居《をり》たる。折節、往來の人も、なし。

『能き𨻶《ひま》也《なり》。』

と寄添《よりそ》ふに、流石《さすが》、岩木《いはき》にあらざれば、終《つひ》に、傳治郞が心に隨《したがひ》けり。[やぶちゃん注:この伝次郎の「能き𨻶也」とは、まず、「心の隙(すき)。それから生ずる態度・体勢の油断。」が第一義であり、さらに進んで、「事を行なう時期。行動をするのに都合のよい時。機会。」、即ち、その第一義の「信頼」を逆手にし、上手く懐柔して、手籠めにしようという好色性を大いに含んだものであることは言うまでも、ない。]

 夜もいたく更《ふけ》ぬれば、

「いざ。伴ひ行《ゆか》ん。」

と、すゝむるに、

「昨日よりの勞《いたはり》にて、一足《ひとあし》も步み難し。」

と云《いふ》にぞ、詮方なく、傳治郞が、脊《せ》に負《おひ》て往く事、一町《いちちやう》[やぶちゃん注:百九メートル。]計り、時しも、秋の星月夜、忽《たちまち》、やみと成り、頻《しきり》に、雨、降り、雷電、轟《どどろ》き渡《わたり》て、耳を響《ひびか》し、目を駭《おどろか》す。

 不思議や、今迄は、木《こ》の葉の如く輕かりし女《をんな》の、大盤石《だいばんじやく》よりも重く成り、傳治郞が背を押碎《おしくだ》くばかり也。

 振返《ふりかへ》りて、女を見れば、艷《えん》なりし形《かたち》は、鬼と變じ、額《ひたひ》に雙《ふたつ》の角《つの》を生じ、

「はた」

と白眼《にらみ》し、其形容、怖《おそろし》し共云計《ともいふばか》りなし。

 傳治郞、少しも、是に、恐怖せず、

「汝《なんぢ》、樣々に形を變じて、吾を駭す。察する處、古狐《ふるぎつね》の誑《たぶらかす》、と覺《おぼえ》たり。背に負《おひ》しぞ、幸《さひはひ》なれ、〆殺(しめころ)さん。」

と云儘《いふまま》に、力の限り、引《ひき》しむる。其時、彼女《かのをんな》、云《いふ》やう、

「汝、怪しむ事なかれ。吾《われ》は是《これ》、疫癘《えきれい》の司神《つかさがみ》也。それ、疫神《えきじん/やくがみ》と云《いふ》は、陽神《やうじん》は熱を司《つかさど》り、陰神《いんじん》は瘧《おこり》を司《つかさど》れり。吾夫婦《わがめをと》、久敷《ひさしく》、島田の驛に在《あり》て、數多《あまた》の人を腦[やぶちゃん注:ママ。「近世民間異聞怪談集成」でも同じであるので、原本の「惱」の誤記と思われる。]《なやま》せしに、有驗《うげん》の髙僧・神主《かんぬし》等、大法・祕法を行《おこなひ》て住所《すみどころ》を追ふ故に、住事《すむこと》、叶《かな》はず、爰《ここ》に來りしに、陽神は、昨日《きのう》の暮、旅人に附《つき》て、東方《とうはう》に往《ゆき》ぬ。一定《いちぢやう》、江戸は、熱病、流行《はや》るべし。吾は、此府中に止《とどま》りて、瘧を流行《はやら》せ、萬民を苦しません。去《さり》ながら、吾、汝に伴《ともなは》れて、是迄、來《きた》るの恩のみに非ず。亦、先《さき》の妹背《いもせ》の契《ちぎり》、有り。旁《ひとへに》深き由緣《ゆえん》あれば、汝が家には瘧疾《ぎやくしつ》を除くべし。少《すこし》も疑事《うたがふこと》、勿《なか》れ。」[やぶちゃん注:「妹背の契、有り」の台詞は、「この世と冥界の絶対的隔たりはあるが、親しい男女の関係を受け入れて、心から謂い交わした約束は、確かなことであり、人と冥界を問わず守る」という時空を超えた約束を、永劫、守る、という彼女の決意を示したものである。しかも、直後で「旁深き由緣あれば」を添えることで、「この契りは、幽冥の隔てを越えて、定まった必定であることを確かに誓約するものである」ということを断言するものであって、本邦に限らぬ幽冥怪奇談の異類冥婚の話の中でも、そうそう見ないガッチりとした台詞である、と言ってよいように思われる。

と云《いふ》かと思へば、傳治郞が足、地を離れ、空中に舞上《まひあが》り、彼《かの》鬼女《きぢよ》、背中を拔け出《いで》、行衞《ゆくゑ》も知《しら》ず成《なり》にけり。

 傳治郞は、

「どふ」

と落《おち》、現心《うつつごころ》もなかりしが、夜明《よあけ》て、心附《こころづき》、邊《あた》りを見れば、吾家《わがや》の庭內《にはうち》に落居《おちゐ》たり。

 傳治郞、深く此事を愼《つつしみ》て、口外《こうがい》せざりければ、誰《たれ》知る人もなかりしに、其後《そののち》、傳治郞、春風が許《もと》に行《ゆき》たりしに、折節《をりふし》、瘧を煩《わづらひ》て臥居《ふしゐ》たり。

 春風、心淋《こころさび》しき折《おり》にて、

「是非に。今宵は、泊るべし。」

と進むるにぞ、側《そば》に附添《つきそ》ひ、介抱するに、例の時[やぶちゃん注:瘧の劇熱症症状の発現を指す。]、至り、惡寒《おかん》、甚しく、身体《しんたい》、大《おほき》に震ひ出《いで》て後《のち》、熱氣、盛んに成《なり》ける時、春風、

「むく」

と起上《おきあが》り、傳治郞が手を、取《とり》て云《いひ》けるは、

「堵《さて》も。不思議の緣《えにし》にて、すぎし夜《よ》の妹背事《いもせごと》[やぶちゃん注:伝次郎との情事。]、忘《わすれ》やらず、『何とぞ、今一度《いまひとたび》、逢見《あひみ》る事も。』と、朝夕《あさゆふ》、願《ねがひ》しが、此春風は、御身《おんみ》の心を慰めて、常に添寢《そひね》の中《なか》[やぶちゃん注:「仲」と]と仄聞《そくぶん》たる故《ゆゑ》[やぶちゃん注:噂で聴いておりましたから。]、皮肉の內に分入《わけいり》て、執着を晴《はら》すべし[やぶちゃん注:かなり捩じれた評言で]と思附《おもひつき》たる甲斐、有りて、今の逢瀨《あふせ》の嬉しさよ。吾夫《わざをつと》は、江戶に下りて、獨り寢の、只《ただ》さへ長き秋の夜《よ》を。」

と、傳治郞に抱附く。

[やぶちゃん注:この台詞は、非常に凝った構造を持っているので、細心の注意が必要である。これは、一見、春風の語りのように見せかけつつ、実は、瘧神の女の語りへと、漸次、中間部で台詞が、二者の混淆が生じ、異様なメタモルフォーゼしているものなのである。そのコペルニクス的転回点のポイントは、「此春風は」である。これは、春風自身の一人称の言葉では――ない――のである! 既にして――女瘧神の言う三人称としての「この恨めしき春風は」という嫉視を強く含んだそれ――なのである。この台詞を、現代語訳してみよう。

   *

「さても⋯⋯不思議な縁(えにし)にて⋯⋯かの過ぎ去った⋯⋯あの夜(よる)の⋯⋯情事が⋯⋯忘れられぬ!⋯⋯『どうか、何卒(なにとぞ)、今、一たび、逢い見ること、ありかし!⋯⋯』と、朝夕、願いておりましたが⋯⋯この「春風」という女は⋯⋯『あなたさまの、み心を慰めて、添い寝する、しっぽりとした仲の女だ。』と、世間で噂されていることを、ちらと、聴いてしまったから⋯⋯この憎(にっ)くき遊び女(め)の皮肉の間(あいだ)に分け入って⋯⋯やすやすと潜り込み⋯⋯妾(わらわ)の⋯⋯あなたさまへの⋯⋯こんな女とは違って⋯⋯はるかに強い私の愛着(あいじゃく)を晴らさんと思いついたのです⋯⋯その甲斐が、見事に成就致しました!⋯⋯今、私(わたくし)とあなたさまとの逢う瀬を得た嬉しさよ!⋯⋯私の夫は江戸に下って、私は、ただでさえ、独り寝をかこっておりましたのです! この長い秋の夜を!⋯⋯」

   *

である。而して、もう、多くの方は判っておられるであろうから、謂わずもがなではあるのだが、まず、これは――知られた「源氏物語」の第九帖「葵」で、源氏が、葵の見舞いに来た折り、病床で語る葵の上の言葉が、実は御息所の物の怪の語りであったという戦慄のクライマックスのシークエンスを見事にインスパイアにしたものに他ならない――と断定してよいのである。

 始《はじめ》の程は、

『熱に犯されて、根なし事、口走るか。』

と思《おもひ》しが、聞每《きくごと》に、心に覺《おぼえ》の有《あり》けるにぞ、何と答るよしも無く、物をも、いはで、居《をり》たりしが、

『所詮《しよせん》、彼《かれ》が心に、まかせ、飽迄《あくまで》交合《まじはり》せば、執着《しうぢやく》も、晴《はれ》ぬべし。』

と、一決《いつけつ》し、夜半《やはん》の下紐《したひも》、解け合《あひ》けり。

 然《しか》るに、此傳治郞、精水不漏《せいすいふろう》の術《じゆつ》を得たりければ、終夜、交《まぢは》れ共《ども》、冐子《ぼうし》、凋事《おとろふこと》、なかりけり。

[やぶちゃん注:「精水不漏の術」射精を、自身の意志でしないようにする閨房術。「冐子」見かけない熟語であるが、「冐」には「露わにする・曝け出す」の意があるので、「子」は「精子」を指し、エレクトを持続しつつ、しかも射精をせずに持続することを指しているものと読める。]

 病者、悅び、うなれ[やぶちゃん注:「唸れ」。]共《ども》、熱の强《つよき》にや、とて、更に疑ふ者《こと》なし。[やぶちゃん注:「者」には、特定の事柄を指す「こと」の意がある。]後には、疫神も弱り果て、

「免《ゆる》せ、免せ。」

と、わぶるにぞ、傳治郞、漸《やうや》く、手を放《はな》ち、別れ別《わまれ》に成《なり》ける。

 春風、目を覺《さま》し、元の正氣《しやうき》に立歸《たちかへ》り、

「さても。怖敷《おそろしき》夢を、見たり。」

とて、白湯《さゆ》など呑《のむ》に、傳治郞、

「瘧は、必《かならず》、落《おち》たれば、心安し。跡《あと》の療養こそ、肝要なれ。」

と云《いふ》に、春風、其謂《そおいはれ》を、問ふ。

 傳治郞、白地《あからさま》にも云兼《いひかね》て、

「家《いへ》の祕法にて、發熱して前後を知《しら》ざる時、咒《まじなひ》を、なしたれば。」

とぞ、答《こたへ》ける。

 果して、瘧は落《おち》たり。

 是より、婦人の瘧を煩ふ者、賴《たのみ》ければ、四方に屛風《びやうぶ》を立廻《たてめぐら》させ、人の出入を禁じて、此《この》傳《でん》を行ひけり。

 男子には、吾《わが》家札《いへふだ》を張らせけるに、皆、落《おち》けり。

 此年《このとし》、江戶には、熱病、大《おほい》に流行し、人、多く、死《しに》ける。

 故有《ゆゑあり》て、深川の水屋淸七と云《いふ》者に、疫神、

「恩を請《うけ》たり。」

とて、彼《かの》名札《なふだ》を張置《はりお》く家には、疫癘《えきれい》[やぶちゃん注:流行性の質(たち)の悪い病気。「疫病」に同じ。]なかりし、とぞ。

 彼《かの》鬼女《きぢよ》の云《いひ》ぬる事、符節《ふせつ》を合せたるが如し。[やぶちゃん注:「符節を合せたるが如し」「割符(わりふ)を合わせたように、必ず、見事に実現した。」の意。]

「美男子には非ざれ共《ども》、疫病神に迄《まで》、戀慕《こひした》はれしは、此《この》傳治郞成《なり》。」

とて、自讃しての物語り也、云云《うんぬん》。

 

[やぶちゃん注:「瘧神」「瘧」は、熱性マラリア(ドイツ語:Malaria/英語:malaria/語源は「悪い空気」を意味する古イタリア語の“mala aria”に基づく)のこと。マラリア原虫(真核生物ドメインアルベオラータ上門Alveolataアピコンプレックス門 Apicomplexa無コノイド綱 Aconoidasida住血胞子虫目 Haemosporidaプラスモジウム科 Plasmodiidaeプラスモジウム属 Plasmodium )(約二百種)のうち、少なくとも、十種がヒトに感染する。ハマダラカ(羽斑蚊・翅斑蚊=双翅(ハエ)目カ(長角・糸角)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科 Anophelini 族ハマダラカ属 Anopheles 。約四百六十種が知られている内、凡そ百種がヒトにマラリアを媒介させることが可能とされる)の♀が媒介するマラリア原虫が病原体であり、原虫の違いにより「熱帯熱マラリア」(一般にマラリア原虫をヒトに媒介しているのは、そのうちの三十 から四十種とされ、ハマダラカで最も知られている種は、マラリア原虫の中でも、最も悪性である熱帯熱マラリア原虫( Plasmodium falciparum )を媒介するガンビエハマダラカ( Anopheles gambiae )である。)・「三日熱マラリア」・「四日熱マラリア」・「卵形マラリア」・「サルマラリア」の五種類に大別される。当該ウィキの「日本」から、まず、引く。『1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5,000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した』。『しかし、『現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある』。『日本もマラリア対策に協力しており、その一つに伝統的な蚊帳づくりがある』。以下、「日本におけるマラリア」の項。『日本では、1903年時に全国で年間20万人のマラリア患者があったが、1920年には9万人、1935年には5,000人へと激減し、戦中・戦後の混乱期にもかかわらず減少を続け、1959年に滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者が消滅している』。『沖縄県ではアメリカ統治下の1962年に消滅した』。『日本の古文献では、しばしば瘧(おこり)・瘧病(おこりやまい/ぎゃくびょう)と称される疫病が登場するが、今日におけるマラリアであると考えられている。養老律令の医疾令では、典薬寮に瘧の薬を備えておく規定がある』。『『和名類聚抄』には別名として「和良波夜美(わらわやみ)」「衣夜美(えやみ)」が記載されている(アーサー・ウェイリー訳ではague「マラリア」と訳してある)。前者は童(子供)の病気、後者は疫病の意味であると考えられている。『源氏物語』の「若紫」の巻では光源氏が瘧を病んで加持(かじ)のために北山を訪れ、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上)を垣間見る設定になっている。『御堂関白記』『日本紀略』には東宮敦良親王が寛仁2年(1018年)8月に瘧病を病んだとの記述があり、天台座主慶円の加持を受けたことが分かる』。『中世日本においてマラリアはありふれた病気であり』、平清盛、『九条兼実、藤原定家、夢窓疎石といった人物が発病している他、『言継卿記』には』、『作者山科言継の妻、南向が病んだ「わらはやみ」について詳しい記録がある』。『近代以前には西日本の低湿地帯において流行がみられた。歌舞伎の『助六由縁江戸』の口上は「いかさまナァ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いておけ。まず第一、瘧が落ちる(熱病が治る)…」である。江戸時代の川柳の題材としてもしばしば用いられていた』。『20世紀に沈静化した』とする。最後に。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

2025/12/29

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「淸水御櫓の奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「淸水御櫓《しみづおやぐら》の奇《き》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

「今は昔、駿府御城內に淸水櫓と云《いふ》御櫓あり。此御櫓より、江尻・淸水の邊《あたり》、目の下に見ゆる故、『淸水櫓』と云《いふ》とかや。此御櫓、

『三重《さんじゆう》めの板敷《いたじき》を、釘を以《もつ》て張る時は、必《かならず》、破壞す。』

と云傳《いひつた》ふ。

 故に、只、板を竝べ置く事とかや。

『然《しか》れ共《ども》、其事實を知る者、なし。』

と、在番の健士《けんし》大久保某《なにがし》の物語り也。云云。

 

[やぶちゃん注:「江尻・淸水」これは、櫓の上から見えるという以上、それぞれ、当時の「旧江尻城」及び「旧清水袋城」(単に「袋城」「清水城」とも呼称した)の旧跡周辺を指しているものと思われる。ここである(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキに拠れば、江尻城は、永禄一三(一五七〇)年に甲斐国の武田氏により築城されたが、『武田氏滅亡後は徳川氏の勢力下になり、徳川氏の庇護を受けた穴山勝千代(信治)が城代となるが、勝千代の夭折により』慶長六(一六〇一)年『に廃城になった』とあり、一方の清水(袋)城は、個人サイトと思われる「綺陽堂」の「袋城」のページに、「武田三代記」では、永禄一二(一五六九)年、本「駿國雜志」『では』同一三年『に、武田信玄の下命で馬場美濃守信春が縄張り・築城したとされる』とし、『武田氏が滅亡すると、駿河の武田水軍は徳川氏に継承されたが、袋城の詳しい扱いについては定かでない。ただし、城自体はその後も存続していたようで、慶長』一九(一六一四)年『に駿府城の大御所となっていた徳川家康の命によって廃城となった。城跡は堀を埋めて清水の町場とされ、今日に至っている』とあった。

「健士」ここは、特に武勇に優れた武士の意。]

2025/12/28

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「燈明榎の怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。やや長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「燈明榎《とうみやうえのき》の怪《くわい》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、駿府御城內東小屋に、「燈明榎」とて、大木、有り。木の廻《めぐ》り、十圍《とかかへ》計りにして、二本に成り、生茂《おひしげ》りけるが、如何《いかが》しけん、一木《いちぼく》は枯《かれ》にけり。

 其木《そのき》、朽《くち》て、大成《おほきな》る虛《うつ》ろ、在り。

 何《いつ》の頃にか有《あり》けん、一歲《ひととせ》、六、七月の間《あひだ》、此《この》虛穴《うつろ》より、夜々《よなよな》、金色《こんじき》の光、さし輝きけり。

 皆人《みなひと》、怪《あやし》みしを、或《ある》者、見出《みいだ》してより、日每《ひごと》に、大勢、集り、數千《すせん》の玉蟲《たまむし》を取得《とりえ》たり。

 是より、彼《かの》光明《こうみやう》は消失《きえうせ》たり。

 それより、四、五日もすぎて、亦、光明を發する事、每夜也。

 此度《このたび》は、玉蟲には非《あら》ずして、

「大《だい》の法師《ほふし》の黑染《くろぞめ》の衣《ころも》を着《き》、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》りて、燈明の油《あぶら》を吸《すふ》。」

と、流說《りうせつ》するに、違《たが》はず。

 宿老《しゆくらう》、評議して、

「御番衆《ごばんしゆ》織田某《なにがし》は、力量、衆《しゆ》に越え、心《こころ》、剛《かう》なれば。」

迚《とて》、

「變化退治《へんげたいぢ》の將《しやう》。」

と定む。

 織田、悅び、

「生捕《いけどり》て、高名《かうみやう》せん。」

と、只一人《ただひとり》、東小屋《ひがしごや》に立向《たちむか》ひ、彼《かの》榎を見渡せば、聞《きき》しに違《たが》はず、光明を發し、大の法師、菅笠に顏《かほ》さし入《いれ》て彳《たたずみ》たり。

 織田、

「つかつか」

と、側《かたはら》により、

「得たり。」

と、組付《くみつく》に、動かず、腰の太さ、手も廻《まは》らず。

 組伏《くみふさ》んとするに、其强き事、譬《たちへ》るに、物、なし。

 兼《かね》て用意の早繩《はやなは》を取り出《いだ》し、十重二十重《とへふたへ》に繩《くく》り付《つけ》、大音《だいおん》あげ、

「先祖平の忠盛、祇園行幸《ぎをんぎやうかう》の例《ためし》に倣《なら》ひ、燈明榎の大法師を、織田某《それがし》、生捕《いけどり》たり。」

と呼《よば》はれば、東小屋に有合《ありあふ》者共、

「劣《おと》らじ。」

と缺付《かけつき》て、前後左右より、取卷き、押せども、動かず。

 人々、不審に思ひ、挑燈《てうちん》にて、すかし見れば、榎の切口《きりくち》に、下男《げなん》の麻看板《あさかんばん》を掛《かけ》たる也。

 餘りの事に、興《きやう》、さめて、彼《かの》看板を取除《とりの》れば、土器《かはらけ》に、油《あぶら》、さし、燈《ともし》附《つけ》て、虛《うつろ》に入れ、雨よけに、上より、古菅笠《ふるすげがさ》を覆《おほひ》たり。此《この》麁服《そふく》は、風よけに張《はり》けるなりけん。

 何者の仕業《しわざ》にや、知る者、更に、なかりき。

 やがて、

「此度《このたび》の褒賞《はうしやう》。」

迚、彼《かの》菅笠を、織田に贈られしが、終《つひ》に、家《いへ》の重器《ぢゆうき》と成《なり》ける。

「其榎も、今に朽《くち》ずして、『燈明榎』と呼《よぶ》也。」

と、府中の道具屋惣兵衞と云《いふ》者の語りし也。云云《うんぬん》。

 

[やぶちゃん注:「榎」双子葉植物綱バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。小学館「日本大百科全書」に拠れば、『本州、四国、九州の低地に生え、朝鮮、中国南部、インドシナに分布する。名は』、『餌(えさ)の木の意味ではないか』、『といわれ、榎と書くのは、道端に茂って木陰をつくることから、夏の木の意味の』国字『である』とし、また、『植物学者前川文夫博士の説によれば、この木は古くは』、『神の木として信仰の対象にされ、神が降下するという長野県諏訪』『明神のタタイ木は、元来』、『エノキであり、その名はタタイノキ→タタエノキ→エノキと変化したとする。またかつては道路の一里塚や屋敷の北西に植えられたが、これらも神木であった名残(なごり)で、東京都板橋区本町にある「縁切榎(えんきりえのき)」もその変形とする。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に名がみえ、『万葉集』にも1首詠まれている。』とある。但し、諏訪神社の『タタイ木』というのは、現在の同神社が正式に認めている呼称ではない。

「玉蟲」鞘翅(コウチュウ・甲虫)目多食(カブトムシ)亜目Elateriformia下目タマムシ(玉虫)上科タマムシ科ルリタマムシ(瑠璃玉虫)属タマムシ Chrysochroa fulgidissima

「宿老」「宿德老成の人」の意。本来は「十分に経験を積んだ老人」を広く指す語であるが、そこから転じて、「古参の臣」や「家老」等の重職の地位に就く者の称となった。参照した当該ウィキに拠れば、『江戸時代では』、『幕府における老中や諸大名家に』於ける『家老を指す称として用いられた』とある。

「御番衆」「番」を編成して宿直警固に当たる者たちを指す。

「得たり」この場合は感動詞で、一般的に「と」を伴って用いる。小学館「日本国語大辞典」によれば、『物事が自分の思う通りにうまくいったと思われるときに発することば。しめた』! の意。

「早繩」小学館「日本国語大辞典」に、『人を捕えた時に手早く縛るようにたずさえている縄。捕縄(とりなわ)。』とある。

「麻看板」武家の中間(ちゅうげん)や小者(こもの)などが、お仕着せとして貰った麻製の短い衣類で、その背に主家の紋所などを染め出したもの。

「虛《うつろ》」「洞(ほら)」と同義で、老大木の根元や大木の朽木などにある、中のうつろな穴を言っている。

「麁服」粗末な衣服、布地の粗悪な服のこと。]

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