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カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の690件の記事

2024/10/23

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (宝曆十一巳年東將軍家御上使有ける時武江の數輩子安櫻の產婦に奇なるを聞て……) / 「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注~了

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。なお、本篇は、前話を受けているので、直にこの記事に来られた方は、前話を読まれんことを強くお薦めする。

 本篇を以って、「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注を完遂した。

 

 宝曆十一巳年[やぶちゃん注:一七六一年。前年に徳川家治の治世となった。]、東將軍家、御上使(おんじやうし)有(あり)ける時、武江(ぶかう)の數輩(すはい)、

「『子安櫻(こやすざくら)』の、產婦に奇なる。」

を聞(きき)て、妄(みだ)りに、樺皮(かばかは)を剥取(はぎとり)ければ、今年より、枯木と[やぶちゃん注:底本は「の」。国立公文書館本100)で訂した。]成りて、翌年の春より、枝葉を不出(いださず)。

 惜(をし)むべし。

 彼(かの)枯木の梢上(こづえのうへ)に、自然(おのづ)と生(しやう)ずる櫻葉(さくらば)有(あり)て、社司(しやし)等、地に、おろし、植付置(うゑつけおき)ける。

 

[やぶちゃん注:「樺皮」桜の木の皮の赤みを帯びた黄色を指している。特にその色を持つのは、バラ目バラ科サクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura であるから、ここで初めて(まあ、前話の生じた経緯から推して、普通はそうだろう)、「子安櫻」の樹種が判明した。しかしながら、現在の「兒安花神社」(ストリートビュー)は殺風景で、桜の木は、ないようだ。

   *

 なお、最後に言っておくと、私は高校時代、三年間、地理を受講し、地理Bまで修了した大の地理好きであり、ネットの地図・古地図を駆使して考証することは、楽しみでさえあるのである。しかも、高知県は私が直に足を踏み入れたことがない、数少ない県なのである(他には米原駅で乗り換えしたことは何度もあるが、滋賀県が未踏で、新幹線で通過することは何度もあるが、やはり未踏であるのが、茨城県。合せて、この三県だけである)。高知県は大学一年の夏、鹿児島の祖父の見舞いの帰りに、祖谷渓を目指したが、大歩危で台風に接近され、何にも見ずに(室戸岬まで行くはずだった)、卒論のために尾崎放哉終焉の地、小豆島へ向かって三泊した、少し苦い思い出のある場所なのであった。それだけに、イメージで高知を楽しんだ。死ぬ前には、行くぞ!!!

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (同書に云子安の櫻中の宮前左の方に靑々たる櫻木花時芥々として觀賞他に異り……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。今回は引用部に「――」を用いた。なお、「同書」とは、前話の甲把瑞益の著「仁井田郷談(にゐだがうだん)」を指す。同書については、そちらの私の注を見られたい。]

 

 同書に云(いはく)、

――子安(こやす)の櫻、中の宮前(なかのみや)、左の方(かた)に靑々たる櫻木、花時(はなどき)、芬々(ふんぷん)として觀賞、他(ほか)に異(ことな)り、行客(かうきやく)、步(あるみ)を止(とどむ)るの、名木、あり。[やぶちゃん注:前話に出た、高岡郡四万十町宮内(みやうち)にある高岡神社中ノ宮(三の宮)の脇に、「兒安花神社」(読みがどうやっても見出せないので、「こやすはなじんじゃ」と清音で読んでおく)がある(総てグーグル・マップ・データ・以下、無指示は同じ)。ストリートビューで確認出来る。御夫婦でお作りになっておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「大的神社」によれば(アドレス内に『koyasuhana』とある)、『この神社は高岡神社の境内社で、高岡神社・中ノ宮の東に隣接して鎮座しています』。『御祭神』は『木花開耶姫命』で、『由緒』(これは画像も張られてある高岡神社社務所の由来解説板から起こされたものである)『「五社のお庭の子安の桜、折って一枝欲しゅうござる」』という歌詞が記されてある。『この唄は、高南の大地四万十町(旧窪川町)で遠い昔から唄い伝えられておりました。この唄は子安神社の桜が美しいから、一枝欲しいと言うだけの意味でなく、安産で子供が健やかに育つ護り神として、霊験あらたかであり、婦女子の尊崇敬慕の心根を表現した唄でございます』。『昔、高岡神社(五社様)の境内に小さな お社が有り、土佐には珍しいしだれ桜がありました。これが子安の宮と唄われた子安神社です。このしだれ桜は、豊臣秀吉が大仏殿の修復のため全国津々浦々に大木の献木を銘じ、土佐の長宗我部元親も命を受けて大木の伐採を行い、当社(高岡神社)でも最大といわれる高さ六十余メートルの大杉を、半山城主津野孫次郎親忠に伐採を命じました。その後、切られた大木の根元は、大地鳴動と共に土中に埋没し、そのあとにぽつりと一本の桜の木がはえ、ある時いずれからともなく白髭の老翁が現われ、その桜を伏拝んでこういいました。『ここに元あった大木は、神木であった。この桜はその木の精である。神の権化である。桜は嬰の木である。即ち子供の守護神であり、安産の神である。尊び崇め祀れ、必ずや』、『ごりやくがある霊験あらたかな神である。』と言って』、『いずことも無く立ち去った。それからは、誰言うこともなく』、『その木を神として拝み、いかなる難産の婦人といえども、その桜の木の葉を護符とすると、不思議に安産したという。しかしこの桜は山内家二代忠義公が、小倉少介政平に命じて五社の五つの社を造営した際』、『慶安五年』(一六五一)年、『藩の武士や人夫が安産の御守りとして、土産に枝を折り、皮をはぎ』、『持ち帰ったため』、『桜は枯れ死してしまった。そこで』、『里人はその桜の枝に小社を造り祀った。これが子安の宮の始である。その宮のほとりに神主が新たに桜を植え』、『後に美しい花を咲かせる大木となったが、これも昭和十四・五年に枯れ、現在』、『社務所前に小木が植えられている。以上が五社神木伝説として伝え継がれており、安産の守護神、子供の守り神様として、霊験あらたかな神と崇拝され、祈願の人、解願の人のお参りも多く、また縁結びの神様としても霊験あらたかと、近年若い男女のお参りも見られます』とある。]

 抑(そもそも)、此神木(このしんぼく)は、耆老(きらう)[やぶちゃん注:「耆」は六十歳、「老」は七十歳で、年老いて徳の高い人を指す語。]、傳(つたへ)て云(いはく)、

「古へ、『五社の大杉』とて、四州[やぶちゃん注:四国。]無双の大木、有(あり)。或(あるいは)[やぶちゃん注:底本では『本ノ』と右傍注があり、以下の杉の左傍注で『云也』とある。一方、国立公文書館本98)では、『大木有【或一本杉とも云也】』(大木、有り【或いは、「一本杉」とも云ふなり】)とあって、この方が躓かずに読める。]一本杉、其(その)長き事、三十五丈余[やぶちゃん注:百六メートル超。これは神話レベルで、実際にはあり得ない高さである。]【「今[やぶちゃん注:「の」が欲しい。]、仕出原(しではら)の新社「三嶋」の前まで[やぶちゃん注:主語がない。「その木の影が」である。]、とゞきける。」となり。里談、譯傳す〕。】[やぶちゃん注:この『新社「三嶋」とは、高岡神社森ノ宮(最後の「五の宮」の南西直近にある大三島神社のことであろう。兒安花神社からは直線で百八十・四八メートルある。]。

 往昔(わうじやく)、仁井田、浦々の獵舩(りやうせん)・商舶(しやうはく)、渺〻(べうべう)たる海上(かいしやう)、廿四[やぶちゃん注:距離単位がない。通常の海上距離は「里」が用いられるが、それでは、九十キロメートル超で誇大表記としてもおかし過ぎる(まあ、神話レベルだから、あってもいいか)。反対に尋や丈では、ショボくて話にならん。調べたところ、江戸時代の土佐では、時に一里を五十町としていたケースがあることが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のここにあったが、これだと、もっと長大になってしまう。これまで!]程(ほど)を漕出(こぎいだ)し、此大杉、見えける故に、恰(あたか)も、霧海(きりうみ)の南斗(なんと)、夜途(よみち)の北斗(ほくと)に比して、船を漕ぐの助(たすけ)とす。

 然るに、關白秀吉公御時代、慶長二丁酉年[やぶちゃん注:一五九七年。]、洛の大佛殿[やぶちゃん注:方広寺大仏殿。]、御再興、有(あり)けるに、前國司秦元親(はたのもとしか)公[やぶちゃん注:長宗我部元親は自称仮冒(かぼう:偽称に同じ)で「秦氏」を名乗った。]、

「土州の產材を献上せらるべし。」

とて、邦內(くにうち)の神社・寺塔まても、大木の聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]有りけるは、悉(ことごと)く、杣人(そまびと)に仰せて、切出(きいいだ)させらるゝ。髙岡郡へは、津㙒孫次郎親忠に下知せられければ、親忠、此時、本在家郷、尾の川村三瀧社(みたきしや)の神木をも、杣を入れて、切らせられけるに、怪異の事ありければ、親忠、立願(りうぐわん)として、御帶料(おんおびれう)の太刀、三瀧の神社へ、納められ、今に社頭に傳り存(そん)す。同時、五社の大杉をも、切りけるに、切株、五間(ごけん)[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]、有りける。

 扨(さて)も、此大杉は、當社第一の神木なるを、元親公の切(きり)給ひければ、四方の里民、眉を顰(ヒソメ)め[やぶちゃん注:ダブりはママ。]、

「神慮も如何(いかが)あるべし。」

と、坐(ざ)に驚(おどろき)けるに、同四己亥年五月十九日、元親公御歲六十一歲、伏見にして、逝去し給ふ。同五庚子年、息(そく)盛親公は石田三成に與(くみ)し、「關ケ原」敗軍の後(のち)、土佐の國、召放(めしはな)され、秦家、一時に滅亡す。

 世は澆漓(げうり)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ぎょうり」。「澆」・「漓」ともに、「薄い」意で、「道徳が衰えて人情の薄いこと」を言う。]に及(およぶ)といへども、天理、未だ有(あり)けるにや、さしも名髙き神木を切らせられける元親公の、三、四ケ年間に、一族、悉く、滅却(めつきやく)し給ひける事、恐るべし。

[やぶちゃん注:「元親公御歲六十一歲、伏見にして、逝去し給ふ」当該ウィキによれば、慶長四(一五九九)年三月から『体調を崩しだし』四『月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在』したが、五『月に入って重』篤『となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は』五月十日『に盛親に遺言を残して』五月十九『に死去した』とある。

『息盛親公は石田三成に與し、「關ケ原」敗軍の後、土佐の國、召放され、秦家、一時に滅亡す』当該ウィキによれば、「夏の陣」で敗走、慶長二〇(一六一五)年五月十一日、『京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された』。『その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして』五月十五『日に京都の六条河原で斬られた』。『享年』四十一。『これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した』とある。]

 扨も、奇也(きなり)ける哉(かな)。其(その)切株、一夜の中(うち)に、百千万人の鯨波(げいは)[やぶちゃん注:大きな叫び声。]、四國中(ぢゆう)、振動し、慶長二年酉十一月十五日夜、上下(うへした)ヘ立反(たちかへ)り、其上に、櫻一本、生出(おひいで)、枝葉も、世の常(つね)ならず。[やぶちゃん注:これは四国を襲った地震と読めるが、データがない。不審。

 然(しか)るに、何地(いづち)ともなく、白髮の老翁、一人、出來(いできた)り、つくづぐと、見給ひて、

「此大杉は、いか成(な)る人のきりけるぞ、神木なるを。又、此きり株、立返(たちかへ)り、櫻の生ひけるは、文字を裁(さい)して孾子(ミドリゴ)の木となるは、子安櫻(こやすざくら)、神變(しんぺん)なり。」

と、告(つげ)て、去りぬ。

 是よりして、「子安櫻」と稱し、

「婦女難產の輩(やから)に、此(この)櫻華(さくらばな)・落葉(おちば)、或(あるいは)、枝・皮等を、社家・神主、加持祓(はらへ)し玉(たまひ)、女(をんな)、水(みづ)を以(もつて)、用(もちひ)るに、立所(たちどころ)に安產する事[やぶちゃん注:この「事」は国立公文書館本99:左丁二行目中央)で補った。]、神妙也(なり)ければ。」

とて、普(あまね)く、國中に流布するのみならず、当時、施(ほどこし)て[やぶちゃん注:国立公文書館本99)では「施」に「シヒ」とルビする。「施」には「しく・おこなう・もうける・ゆきわたらせる」の意があるので、「行き渡らせる」の意であろう。]、本邦[やぶちゃん注:「本州」のことであろう。]に及べり。

 かゝる怪異の事、ありければ、大杉は、元親公の献上をも停(と)め玉(たま)ひ、切棄(きりすて)にして、御當代(おんとうだい)、慶安の御再興の時にまで、年數、五十六年が其間(そのあひだ)、棄置(すておか)れしかば、長き事は、古老、

「見知りけり。」

とぞ。[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げである。]

 「愚祖老元周累歲記」に云(いはく)、

『享保六丑八月、岩崎十右衞門、としは、八十七歲也。語(かたりて)、予(よに)、曰(いはく)、

「我(われ)、十八の年のとき、五社、御造營ありけるに、先代元親公の伐られし大杉、今、『子安櫻』のありける所に、本(もと)、ありて、三嶋の前まで、梢(こづえ)、とゞきて、橫たはり居(をり)けるを[やぶちゃん注:「た」は国立公文書館本99)に、朱で傍注があり、『本のたヲ脱スルカ』に随い、「た」を補った。]、小倉少助殿、下知せられ、東川角(ひがしかはづの)斗(ばかり)、岩(いは)、切(きれ)、拔溝(ばつこう)[やぶちゃん注:「地面が抜け落ちて、大きな溝(みぞ)になることか。]しける時の、橋に渡し、溝、切り拔(きりぬ)きける[やぶちゃん注:「有意な溝を渡れるようにした」の意か。]。」

よし、語る。

 渠(かれ)[やぶちゃん注:「彼」に同じ。この語った「岩崎十右衞門」を指す。]、天性、聊(いささかも)不說虛妄(きよまうをとかず)。その事、實跡(じつせき)、うたがひ、なし。」

と、あり。

[やぶちゃん注:「愚祖老元周累歲記」不詳。

「享保六丑」一七二一年。

「岩崎十右衞門、としは、八十七歲也」彼は寛永一二(一六三五)年生まれ。

「十八の年のとき」慶安五・承応元年。一六五二年。

「東川角」現在の四万十町東川角(グーグル・マップ・データ)。現在の仁井田の東に接し、南に高岡神社群がある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (甲把瑞益仁井田郷談に曰五社は先代一條家御再興の後年を歷て傾廃し……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。今回は引用部に「――」を用いた。]

 

 甲把瑞益(かつぱずいえき)「仁井田郷談(にゐだがうだん)」に曰(いはく)、

――五社(ごしや)は、先代一条家御再興の後年を歷(へ)て、傾廃し、天正十一年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一五八三年。]の春、元親公、御興起(ごこうき)ありにしより、このかた、慶長五年[やぶちゃん注:一六〇〇年。但し、長曾我部元親の病死は慶長四年五月で、誤りである。]、御滅亡ありければ、誰(たれ)、修造、加(くは)ふべきもなく、御當代、慶安[やぶちゃん注:一六四八年から一六五二年まで。]の御再興まで、其間(そのかん)、凡(およそ)、曆數、七十年に及びければ、社頭の軒端(のきば)は、いたづらに、狸鹿(りろく)の栖(すみか)と荒果(あれは)て、神器(しんき)も、大半、破壞しけるを、太守忠義公、絕(たえ)たるを、繼(つ)ぎ、すたれたるを、起(おこ)し玉へる御志(おんこころざし)ふかく、をはしましければ、此社(こやしろ)も再興なさしめ、神寳を補ひ、莊嚴(しやうごん)を磨(みがか)しめ玉ひける。

 其(その)由來を推原(たづぬ)れば、將軍秀忠公の御三男に、駿河大納言忠長卿より、御宻談の爲、諸國の大名、御饗應あり。

 忠義公[やぶちゃん注:底本では敬意のための二字の空白があって、たまたま次の丁の行頭に配されてある。]も召(めし)に應じて、

「明日(みやうにち)、御出席あるべし。」

と、兼約(けんやく)し玉ひける。

 其夜(そのよ)、御睡眠(おんすいみん)ありける御夢中(おんゆめなか)に、白髮の老翁、御枕神(おんまくらがみ)[やぶちゃん注:「神」はママ。]に立(たた)せ玉ひて、

「我は、則(すなわち)、土州(としう)の髙き岡山(をかやま)の末(すゑ)に齋(いつか)れし仁井田五社也。汝が明日の出席を止(と)むべき爲(ため)に、今、爰(ここ)に現(げん)せり。若(もし)、今、此席(このせき)に會(くわい)せば、国を失ひ、家、滅ぶべし。汝は、則(すなはち)、土佐の瑳駝山忠義上人(さたさんちゆうぎしやうにん)、變生(へんじやう)なるに、土佐の國、亂世の後(のり)、芽處(めびきどころ)なれば、此生(このしやう)を撫育(ぶいく)せんと、假-令(かり)化現(けげん)ける[やぶちゃん注:「化現け」の右に「本ノマヽ」と傍注がある。「しける」の脱字。]は、治國淸平(ちこくせいへい)の爲(ため)也。其先(そのせん)、『國土豐饒(ほうぜう)・民生安康』の證據とて、汝が名を『康豐』と稱し、今、其功德(くどく)、積りければ、『忠義』と号しける事、能(よく)明知すべし。」

と、神勅(しんちよく)ありける。

 侯、御夢(おんゆめ)、覺(さめ)させ玉ひ、御近侍に御尋(おたづね)ありけるに、五神社、疑(うたがひ)なければ、暫く、御思惟(おんしゐ)ましまし、卒(にはか)に、「御病氣」の命(めい)あり。忠長卿へも御使(ぎよし)を以(もつて)、「かく。」と言上(ごんじやう)し玉ひ、御醫療を盡(つく)され、其時の御列座(おんれつざ)に免(まぬか)れ給ふ。

 御衆會(ごしゆうくわい)の御大名方(おんだいみやうがた)、御同心の輩(やから)は、自然に露顯し、大半、御家、滅亡しける。

「忠儀[やぶちゃん注:ママ。]第一。」

と、將軍の御覺(おんおぼえ)も他(ほか)に異(ことな)り、

「かゝる不思議の告(つげ)あれば。」

とて、卽(すなはち)、小倉少助(しやうすけ)政平(まさひら)に仰(おほせ)ければ、政平、畏(かしこまつ)て、有司數輩(ゆうしすはい)を召連(めしつれ)られ、斧(ふ)を𢌞(めぐ)らして、不日(ふじつ)に五社の御造營・神器、悉(ことごと)く具(ぐ)したまひける。――

 

[やぶちゃん注:『甲把瑞益(かつぱずいえき)「仁井田郷談(にゐだがうだん)」』サイト「四万十町地名辞典」の『Vol.10 「仁井田郷談」の地名』によれば、「仁井田郷談」は、明和七(一七七〇)年に、『儒者であり』、『医師であった甲把瑞益』(かっぱずいえき)『が、戦国時代を中心にして、仁井田郷の由来、区画検地(石高調査)、仁井田五人衆七人士の居所分限郎従と』、『その興亡を記したもので、郷土史研究の原典ともいうべき貴重な著述である』とあり、「窪川町史」から引用され、『瑞益は元文』三(一七三八)年、『西川角村』(にしかわづのむら)『の郷士の家に生まれ、名を長恒、号を南巣恕行斎』『といった』。『高知城下野町少蘊に医業を学んだ後、京都の日本近代医学中興の祖といわれる吉益東洞の門下生となる』。『瑞益の学問は和魂漢才、儒学、医業等あらゆる学問に通じていた。医術に特にすぐれ、かつて医術行脚のため』、『各国をまわり、紀州では、花岡瑞軒に「日本国中に自分に優る医者が一人いる。それは土州の瑞益である」といわしめた』。『瑞益は土佐に帰り、幡多郡佐賀村から妻をめとり、西川角村より東川角村に移り、幡多郡下田に移って医者をしていた』。『瑞益は医者として優れていただけでなく、仁井田郷を実地踏査して戦国時代の歴史本を書いた。これが有名な』「仁井田郷談」と「仁井田之社伝記」『で、今日』、『仁井田郷の郷土史研究の貴重な文献である。文中には「瑞按ずるに」と私見を述べ、不可解なところは「後日正すべし」というように、独断速断をさけて周到な記述をしている』。享和三(一八〇三)年十月四日、六十七『歳で没した。墓は中村の百笑為松山麓に現存している』とある。但し、以下に注があり、彼の『生年に』は元文二(一七三七)『年の説もある』とあり、『生誕地は西川角となっているが、神ノ西説もある。元慶が神ノ西に在郷していたことによるか』とされ、『瑞益の号を町史では「南巣恕行斎」となっているが』、「仁井田郷談解説」(辻重憲著)『は「南崇恕行軒」とある』とある。最後に、『町史では瑞益の没年を「享保三年(一八一八)」と』して『いるが』、『享年から推定するに享和年間ではないか』。同町史の二三〇ページ『の甲把家系図には「享保三年十月没」とある。ただし、長恒の説明書きに誤記が多いことから』、『信憑不明』とある。この「仁井田郷」は、平凡社『日本歴史地名大系』によれば、『高知県』『高岡郡窪川町仁井田郷』で、『高岡郡西南部、四万十』『川上流域の高南(こうなん)台地を中心とした地域の称。仁井田庄とも単に仁井田ともいう。長宗我部検地の結果は天正一六年(一五八八)の仁井田壱斗俵村地検帳一冊と同一七年の仁井田之郷地検帳九冊にまとめられているが、仁井田之郷地検帳の第一冊に「仁井田之庄」とみえるのみで、他は仁井田之郷となっている。これらの地検帳によると』、『郷域は現』在の『窪川町全域と』、『中土佐』『町の一部にあたる』。『足摺の金剛福(あしずりのこんごうふく)寺(現土佐清水市)供養の奉加官米を「幡多庄官百姓」に割当てたときの正安二年(一三〇〇)一一月日付左大将一条内実家政所下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「仁井田山参斛五斗」とみえるので、古くは一条氏領幡多』『庄(現中村市・幡多郡など)に含まれていたことが知られる。仁井田之郷地検帳の宮内(みやうち)村・仕出原(しではら)村・川津野(かわづの)村に足摺分四一町六反余が打出されているのは、金剛福寺に寄進された幡多庄「仁井田山」の名残といえるかもしれない。応安四年(一三七一)後三月一三日付の足利義満御教書(長福寺文書)には「幡多庄仁井田村内新在家」とあり、仁井田村とよばれたこともあったようである。この地域が』、『いつのころから幡多庄に属したかは不明であるが、建長二年(一二五〇)一一月日付の九条道家初度惣処分状(九条家文書)にみえる幡多庄の加納地「久礼別符」が現中土佐町久礼(くれ)付近に推定されており、「久礼別符」の成立と大いに関連すると考えられる』とあった。現在の狭義の高岡郡四万十町仁井田はここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)であるが、ここで語られている「五社」は、現在の「高岡神社」で、「一の宮」から「五の宮」まで、総てが、四万十町仕出原(しではら)にある。但し、「五社」の「一の鳥居」は、ずっと北北東の四万十町西川角のここにある(鳥居は現在の仁井田の東直近、五社は南西に当たる。

「先代一条家」小学館「日本大百科全書」の「一条家」によれば、『藤原氏北家』、『五摂家』『の一つ。鎌倉時代の初め、実経(さねつね)が父九条道家』『から』、『所領と邸宅を譲られたことから始まる。この邸宅が一条室町』『にあったことから一条殿といわれ、家名となった。代々摂政』・『関白』『に任ぜられ、近衛』『家、九条家などとともに、公家』『でも重きを置いた。室町中期の兼良(かねら)は学者としても名高い。兼良の長子教房(のりふさ)は戦乱を避け、家領土佐国』『幡多荘(はたのしょう)に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家といわれ、戦国大名化したが、長宗我部』『氏に滅ぼされた。京都では教房の弟冬良(ふゆら)が継いだ。兼良の子で興福寺大乗院門跡』『に入った尋尊(じんそん)も有名である。近世初めには、後陽成天皇』『皇子兼遐(かねとお)(昭良(あきよし))を迎え、家名を存続した。明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は忠香(ただか)の三女である。明治維新後、華族に列し』、『公爵を授けられた』とある。

「忠義公」土佐藩第二代藩主山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。当該ウィキによれば、『山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれ』、慶長八(一六〇三)年に『伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る』。同十年、『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長』一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦した。なお、この時』、『預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し、豊臣方に加わるという珍事が起きている』。翌慶長二十年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』慶長十七年に『法令』七十五『条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永』八(一六三一)年『からは』、『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月三日に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「駿河大納言忠長」卿徳川忠長 (慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)世に「駿河大納言」とも称せられる。第二代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。第三代将軍家光の弟。甲府二十万石に始まり、寛永元(一六二四)年、甲斐・駿河などで五十五万石を領し、駿府城に入る。才知にすぐれ、父母に寵愛されたため、家光には、うとまれたとされ、また一六三〇年頃から乱行が目立ったため、寛永八(一六三一)年、甲府に蟄居、翌年、上野高崎城に幽閉され、寛永一〇(一六三三)年、自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。詳しい奇行・乱行は当該ウィキがよい。

「瑳駝山忠義上人」不詳。

「小倉少助政平」天正一〇(一五八二)年~承応三(一六五四)年)は土佐高知藩士。家老野中直継の信任を得て、仕置役を務める。林産資源の活用を企て、輪伐制(森林を区画に分けて、一区画ずつ、順番に、樹木を伐採・植栽し、一巡する頃までには伐採した森林を再生させる林業政策を指す)を導入、留山(とめやま:領主が優良材の確保・財政赤字補填等を目的に、農民による利用を排除し、面的に取り込んで支配下に置いた直轄林のこと)・留木(とめぎ)制(領主が用材確保や森林保全を目的として特定の樹種を指定し、伐採を制限・禁止した制度)を行った。直継の死後は、野中兼山の補佐役として藩政を推進した。]

2024/10/22

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (潮江山のうちに昼魔といふ所有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 潮江山(うしほえやま)のうちに、「昼魔(ひるま/ひりま)」といふ所、有(あり)。

「魔所也(ましよなり)。」

とて、人、常に、行かず。

「此所(ここ)に『鳶石(とびいし)』とて、鳶の踞(うずくま)りたる如き石あり。」

と云(いふ)。

 

[やぶちゃん注:「潮江山のうちに、「晝魔」といふ所、有(あり)」旧「潮江村」(現代仮名遣「うしおえむら」)は、この場合、「ひなたGPS」で示すと、狭義の近代の浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である「潮江」よりも、遙かに、広域を指す。具体的には、ざっくり示すと、浦戸湾の東側広域の、この中央全体が江戸時代の「潮江村」であった。さて、『この奇体な地名では、ネットでは、位置を調べられないだろうなぁ……』と思いつつ、幾つかの漢字をフレーズで組んで検索したところ、驚くべきことに、二種の、本篇の地名と酷似する資料データを見出すことが出来た(太字は私が附した)。一つは、『四万十町地名辞典付属資料』と称する『394010高知市の字一覧』(PDF)で、その『地域コード』の『3881』の15潮江114に『大字』『深谷町』『ふかだにちょう』内に『昼魔ヶ谷』『ひるまがたに』とあった。今一つは、同じくPDFで、『四万十町地名辞典資料』の『高知県の地名(書籍・記事索引)』で、ページでは『40/142』にある『№』『2987』に、『ひまがたに』『昼魔ヶ谷』・『コード』『39403』とし、『高知市』とし、『地検帳に「ヒルマ」とある。潮入地(不干沼・ひぬぬま)が干拓された昔面影を残す地名』という解説があり、出典を「土佐地名往来(高新)」とする。この二つを、総合して見ると、潮江村の『潮入地(不干沼・ひぬぬま)が干拓された』というのは、戦前の地図の、この水田部分を指している。而して「深谷町」は、国土地理院図で見てもらうと、この干拓地の南方のこの山間部に相当する。この岬の根本部分は、「宇津野山」(標高二百五十八メートル)・「鷲尾山」(同三百六メートル)・「烏帽子山」といった山岳が連なっている。この内、「宇津野山」と「鷲尾山」の間にある谷、或いは、現在の深谷町の谷川の奥の方、北中山地区の丘陵上にある「土佐塾中学・高等学校」のあるあたりのピーク下の谷間が、この魔所「昼魔」の候補地になるのではなかろうか?

「鳶石」不詳。]

2024/10/20

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (元祿年中吾川郡中嶋村の郷士二淀川原にて……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]、吾川郡(あがはのこほり)中嶋村(なかじまむら)の郷士(がうし)、二淀川原(によどがはら)にて、丸き五寸斗(ばかり)の川原石(かはらいし)の、色、黃を帶(おび)て、甚(はなはだ)、見事なるものを拾ひ來りて、愛翫せり。

 然(しかる)に、此石、夜〻(よよ)、薄き烟(けむり)の如き、氣(き)、出(いで)て、空へ登る程、廣く成(なり)、天を覆(おほ)ふが如し。一在所(ひとざいしよ)の人〻(ひとびと)、奇異のおもひをなしけるに、六、七日以後(いご)、此石、鳴動して二ツに裂(さけ)て、其內(そのうち)より、小(ちさ)き守宮(やもり/ゐもり)の如くなるもの、出(いで)て、庭前の土用竹(どようだけ)に上(のぼ)ると見へ[やぶちゃん注:ママ。]けるが、忽(たちまち)、風、吹來(ふききた)り、小雨(こさめ)、降(ふり)て、行所(ゆくところ)を不知(しらず)。

 古老、いふ、

「是(これ)は、龍(りゆう)の、こもれる石也(なり)。」[やぶちゃん注:「と。」が欲しい。]

 

[やぶちゃん注:「吾川郡中嶋村」現在の土佐市中島(グーグル・マップ・データ)。

「郷士」何度も既出既注だが、再掲しておくと、土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きもひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。

「守宮(やもり/ゐもり)」「近世民間異聞怪談集成」では、編者によって『いもり』(ママ)とルビが振られている。歴史的仮名遣の誤りは目を瞑るとして、納得は出来る。実際に、「守宮」を「ゐもり」と読むケースは近代以前の作品で頻繁に出るからである。私の怪奇談の電子化にも頻繁に見られるからである。例えば、ウィキの「守宮(妖怪)」の脚注の「3」で、『イモリ』(両生綱有尾目イモリ上科イモリ科 Salamandridae のイモリ類)『とヤモリ』(爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類)『は形や大きさが似ているため、かつての日本ではこれらの区別が曖昧であり、本来ヤモリを指す「守宮」を「いもり」と読む例が多々見受けられた』と、「イモリと山椒魚の博物誌」(動物学者碓井益雄著・一九九三年工作舎刊)から引いている。本篇も川原で拾った石であるから、作者が「いもり」として書いた可能性は、確かに、あり得る可能性はあり、その可能性は寧ろ、高いとも言えるかも知れない。しかし、私は、やはり、個人的には、従えない。そこで並置しておいた。なお、そのウィキで紹介されている、私の電子化注「伽婢子卷之十 守宮の妖」(「ゐもり」と読んでいる)を参照されたい。

「土用竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ホウライチク(蓬莱竹)属ホウライチク Bambusa multiplex の異名。当該ウィキによれば、『多年生常緑竹で』、『地下茎を伸ばさず』、『株立状となるため』、『バンブー類』(bamboo【英語の「竹」とは異なる植物学的種群を指す語であるので注意】:タケ類の内、分蘖(ぶんけつ:イネ科 Poaceae などの植物の内、根元付近から、新芽が伸びて、株分かれする性質を指す)で増えるもの)『に分類される。東南アジアから中国南部にかけての熱帯地域を原産とし、桿』(かん:大型のイネ科植物の内、メダケ・ネザサ・アイアシなどの茎を指し、しばしば木化する)『の繊維を火縄銃の火縄の材料とするため』、『日本へ渡来し、中部地方以西に植栽されている』。『桿の高さは』三~八『メートル程、直径は』二~三センチメートル、『節間は』二十~五十センチメートル『と長く、節からは多くの小枝が束状に出る。葉は枝先に』三~九『ずつで』、『やや密に束生し、長さ』六~十五センチメートル『の狭披針形で』、『先は鋭く尖り、葉脈は平行脈のみで、横脈を欠く。タケノコは初夏から秋にかけて出る』。『桿が肉厚で重く』、『水に沈むことからチンチク(沈竹)、タケノコが夏に生えるので土用竹、高知ではシンニョウダケとも呼ばれる』。以下、「変種・品種」の項で十種が挙げられてあるが、省略する。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (伊㙒村に鍛冶が谷といふ所あり……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 伊㙒村に「鍛冶(かぢが)が谷(たに)」といふ所あり。

 「杉本大明神」、昔、この所に、あり。後、今の地へうつす。

 此「鍛冶が谷」に小(ちさ)き谷川、あり。

 此川に住む虫・魚(うを)の類(たぐひ)、皆、「一眼(カンヂ)」也。

 「鍛冶が谷」といふは、「一眼(かんぢ)が谷」なるべし。

 

[やぶちゃん注:「伊㙒村」これは現在の吾川郡いの町の、この附近(グーグル・マップ・データ)が狭義の旧村である。「ひなたGPS」を見ても、「鍛冶が谷」は見当たらないが、対岸の旧『川內村』、現在の日高村に「鍛冶屋(かじや)」「奥谷(おくたに)」「木屋ヶ谷(こやがたに)」の地名が、現在もある。ここと関係があるかどうかは別として「谷」は清音で添えた。

「杉本大明神」これは現在の吾川郡いの町大国町の仁淀川左岸にある「椙本神社」(すぎもとじんじゃ)である。公式サイトの「由緒」によれば、『祭神の事蹟は寛文六年(1666年)の仁淀川洪水で古記録が流失したため』、『明瞭を欠いておりますが、大和の国三輪から神像を奉じて、阿波を経て吉野川を遡り、伊予国東川の山中に至り、その後、仁淀川洪水の時に河畔に流着したのを加治屋谷に斎き祀ったといわれております』。『社伝によりますと創祀の時は延暦十二年(793年)であると伝えられています』。『その後、元慶年間(880年代)に現在地へ祀られるようになりました』。『いのの大国さまと称されて古くから上下の信仰を受けていますが、慶長九』(一六〇四)『年、山内一豊が参詣した時、籾五俵を奉納する旨の一豊直筆の文書が現存し、それ以来、社殿の造営は手元普請となり』、『江戸時代に六回の修築が行われました』とある。漢字表記が違うが、この『加治屋谷』というのは、現在の日高村「鍛冶屋(かじや)」と北西直近の「奥谷(おくたに)」を合わせた旧称のように思われる

「一眼(カンヂ)」この読み、不詳。「ガンヂ」(ガンイチ:眼一)かとも思ったが、底本では、滅多に濁点を打たないのに、この読みは「ヂ」とちゃんと打ってあるので、それではない。私は、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で、柳田國男の「一目小僧その他」を電子化注してあるが、この神社の話は採録されていない。椙本神社の片目の動物の話もネット上には載らない。万事休す。識者の御教授を乞うものである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (朝倉村に楠崎の渕といふ有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 朝倉村に「楠崎の渕」といふ有(あり)。

「此渕に、昔、大䖳(だいじや)、住めり。」

と、いふ。

 

[やぶちゃん注:「朝倉村」現在の高知市朝倉(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)附近。鏡川右岸。

「楠崎の渕」「ひいなたGPS」で調べたが、「楠崎」も「淵」も見出せない。鏡川の淵であることは確かである。国土地理院図を見ると、対岸に「岩ヶ淵」(高知市岩ヶ淵)という地名がある辺りの対岸か。しばしば、民俗社会では、村が変わると、同じ淵を別な名を附すことがある。なお、関係があるかどうかは不明だが、朝倉東町と直近の朝倉横町に「朝倉くすのき保育園」及び同「分園」がある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (江ノ口村に柳が渕と云ふ所あり……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 江ノ口村に「柳が渕」と云ふ所、あり。

「昔、此淵にて、女(をんな)、身を投げて、死す。」

と、いふ。

 今は、侍屋敷、又、奉公人の住居(すまゐ)の地と成れり。

「百年以前までは、其(その)人家の座敷へ、深夜に、下げ髮(がみ)したる女、出(いで)ける。」

と也(なり)。

 今は、此事、なし。

 

[やぶちゃん注:「江ノ口村」現在の高知城跡東北一帯の高知市江ノ口町(えのくちちょう:グーグル・マップ・データ)。

「柳が渕」旧村域がよく判らないので、この淵、村域の南北に流れる江ノ口川か、久万川(くまがわ)か、判らない。「ひなたGPS」の戦前の地図の「江口」を見るに、久万川の方が幅が広く、蛇行している箇所が北直近にあり、淵があって然りといった気はするが、江の口川周辺の城寄りは、早くから城下町として整備された地域であり、「今は、侍屋敷、又、奉公人の住居(すまゐ)の地と成れり」とあることから、「江ノ口川」と断定する。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (五臺山の尾崎に法師がはなと云ふあり……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 五臺山(ごだいさん)の尾崎(をさき)に「法師がはな」と云ふあり。

 古(いにしへ)、此國の太守、此山に入(いり)て、狩(かり)したまふに、一つの大鹿(おほじか)、出(いで)けるを、

「射(い)玉はん。」

と、するに、忽(たちまち)、此鹿、大法師(だいほふし)と成(なり)て、此所(ここ)に隱れぬ。

 夫(それ)より、「法師がはな」と、呼來(よびきた)れり、とぞ。

[やぶちゃん注:『五臺山(ごだいさん)の尾崎に「法師がはな」と云ふあり』の「五臺山」は地名。現行ではここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。「尾崎」は地名ではなく(五台山の村の南の東に「尾崎神社」「尾崎公園」があるが、ここは、調べたところ、旧「五臺山村」の村域ではない)、原義の「山の尾根筋の先端」の意で「ひなたGPS」で「法師岬」を確認出来た。高知港湾奥東岸にある「はな」=「鼻」=「岬」である。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (神田村大的大明神の傍に蟹が池と云ふ池有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 神田村(こうだむら)、「大的大明神(おほまとだいみやうじん)」の傍(かたはら)に、「蟹が池」と云ふ池、有(あり)。

 此(この)池、昔(むか)し、甚(はなはだ)深き渕(ふち)也。

 此池の端(はし)に、蹈石(ふみいし)の如き、蟹、住めり。

 或時、所の婦人、此池へ、洗濯に來(きた)りて、

『蹈石。』

と、おもひ、蟹の甲(かふら)に登りぬ。

 蟹、暫(しばらく)有(あり)て、池中(いけなか)に入(い)らんとするに、此女(このをんな)も、ともに、沈(しづま)んとす。

 農夫、是を見付(みつけ)て、引上(ひきあげ)たり。

「蟹は、此池の主(ぬし)。」

と、いひ傳ふ。

 今は、此池、淺く成りて、何處(いづこ)へか、蟹も行(ゆき)けん、見えず。

 

[やぶちゃん注:『神田村、「大的大明神」』現在の高知市神田(こうだ)にある大的神社(おおまとじんじゃ)である。「ひなたGPS」の戦前の地図には『神田(コーダ)』と読みがある。御夫婦でお作りになっておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「大的神社」によれば、『神社はかなり交通量の多いT字路の角にあり、ご神木のムクノキは目立ちますが、前面には狛犬や鳥居の他に玉垣など境界を示す遮蔽物は何もなく、開放的な造りをしています。拝殿は本殿の鞘堂を兼用している造りで、鳥居にも拝殿にも「大的宮」と書かれた額が掛かっています』と述べられ、『御祭神』は『経津主大神』(ふつぬしのかみ)・『武甕槌大神』(たけみかづちのおおかみ)・『大山咋大神』(おおやまくいのかみ)で、『古来より、松ノ木地区の産土神であ』り、『勧請年月』・『縁起』・『縁革』は『未詳』であるが、延享二(一七四五)年八月『再興、大的大明神本社拝殿の棟札があるので、此れ以前の鎮座である』。『元、大的大明神、又、松ノ木大明神とも称したが、明治元年大的神社と改称』し、『元、無格神社であったが』、『昭和』二一(一九四六)年に、『宗教法人大的神社とな』ったとある。

「池」サイド・パネルの画像や、ストリートビューも見たが、現在、池は見当たらない。]

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