阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「水上池惡龍」
[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。欠字の「□□」部分は底本では、長方形。三つ目の漢文部分は、後で訓読する。読みの内、ネットで確認出来なかった場合、複数候補を示しておいた。長さから、ほぼ割注で対応した。
但し、この漢文部には、底本、及び、「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)ともに、訓点として、通常の訓点では、必要な助詞・助動詞の欠落・省略が、多量に、ある。丸括弧で追加しようと思ったが、余りにも、それが多過ぎるので、底本通りとし(私が追加した句読点は別)、訓読で、私が補正訓読して追加しておいた。いちいち、それを丸括弧・下線などで示すと、却って読み難くなるだけなので、指示はしていない。因みに、仏教関連の文書では、こうした省略は、ごく普通にあるものでは、ある。]
志 駄 郡《しだのこほり》
「水上池《みづかみいけ》惡龍《あくりゆう》」 志駄郡[やぶちゃん注:調べた限りでは、「志太郡」が正しい。]水上村《みずかみむら》□□山萬福寺【曹洞、富洞院末。】[やぶちゃん注:現在の静岡県藤枝市(ふじえだし)水上(みずかみ)のここ(グーグル・マップ・データ。以下、基本、無指示は同じ)。サイド・パネルのこの入り口の画像にある石造の寺名表記には、山号「大池山」とある寺の公式サイトはないので、一応、「だいちざん」と読んでおく。]にあり。「本尊水干不動緣起由」[やぶちゃん注:同前に理由で読み不詳(国立国会図書館デジタルコレクションで複数のものを見たが、ルビはない。取り敢えず、「ほんぞんすいかんふどうえんぎいう」と読んでおく。寺社の縁起で「由」がつくものは、今までの私が見たものでは、皆無である。]云《いはく》、
『水上村は、昔、一面の大洋池《だいやうち》[やぶちゃん注:「広い池」の意。]にて、東・南新屋、西・鳥帽子山、南・瀨戶新屋六地藏[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で示す。右の現代の国土地理院図でも、現在の地名として総てが生きていることが確認出来る。「瀨戶新屋」の「六地藏」もグーグル・マップ・データで調べたところ、同地区のここに現存している。]を限り、凡《およそ》周程《しうてい》三十六町餘《あまり》。
池中《ちちゆう》に、毒龍、有《あり》て、累歲《るいさい》[やぶちゃん注:「何年もの間」の意。]、徃來《わうらい》の人民《じんみん》を、なやませり。
里民《りみん》、是を患《わずら》ふ。
時に、一法師《いちはふし》、宇陀上人《うだしやうにん》と云《いふ》者、あり。密宗の祕法を修練して、髙德の聖《ひじり》なり。民人《たみびと》、是を屈請《くつしやう》[やぶちゃん注:丁重に人を招くこと。]し、池水《ちすい》を祈《いのり》て、潛龍《せんりゆう》を降伏《かうぶく》せん事を欲《ほつ》し、衆議して、上人に告ぐ。
[やぶちゃん注:「宇陀上人」調べたが、人物不詳。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河の傳說(小山有言編・昭和一八(一九三三)年安川書店刊)の「青島町」の『六八 水上池池惡龍』(これは、本底本準拠)に名が出ており、さらに、まさに以下に語られる内容とほぼ一致する(但し、龍ではなく、蛇)「七一 七ツの護摩壇」に、「傳說昔話集」を元に『又いふ。この地方は夏はこの地方は夏は一面の池になる。池には毒蛇がゐて人々を惱ました。宇陀上人がまわって來て、毒蛇退治を思ひ立ち、七ケ所に壇を築き不動尊像を安置して護摩をたいて、池水を干し涸らさしめた。毒蛇は惡鬼と化し藤枝の鬼岩寺に飛で行つた。そこで水干不動と呼び、萬福寺を建てゝ奉安した。七ツの壇は宇陀上人修法[やぶちゃん注:「しゆほふ」。]の所であつたともいはれてゐる。』とあった。]
上人、招《まねき》に應じて、まづ、水想觀《すいさうくわん》に入《いり》、驗ㇾ之《これを、げんじ》、朝暮思ㇾ之想ㇾ之《てうぼ、これを、おもひ、これを、さうし》、念々無ㇾ措《ねんねん、おかず》、一夕《いつせき》、靈夢《れいむ》の告《つげ》を獲《え》て、筑紫の博多より、不動の靈像【智證大師作。】〕を迎へ、梵壇《ぼんだん》を東山《ひがしやま》に築き、これを安置し、眞言の密印を以《もつ》て、加持三昧《かじざんまい》の妙力咒禱《みやうりきじゆとう》せしかば、則《すなはち》、明王《みやうわう》の靈驗《れいげん》にや、潛《ひそめ》る猛龍《まうりゆう》、德の爲に降《くだ》せられ、洋々たる池水《ちすい》、法《ほふ》に依《より》て、陸と變ず。然《しか》してより此《この》かた、民人、始《はじめ》て、安堵《あんど》の思《おもひ》をなし、此里に居住す。云云《うんぬん》。』。
[やぶちゃん注:「水想觀」。「觀無量壽經」に説く十六観の一つ。水や氷の清らかなさまを想うことによって極楽浄土のさまを観想する方法。「水観」とも言う。]
同郡《どうこほり》鬼岩寺村《きがんじむら》、「楞嚴山《りやうがさん》鬼岩寺《きがんじ》【眞言、髙野山無量光院末。】緣起」云《いはく》、
[やぶちゃん注:「鬼岩寺村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『現在地名』は『藤枝市音羽町(おとわちょう)一丁目・茶町(ちゃまち)一―三丁目・藤枝一―三丁目・鬼岩寺』とし、『東海道藤枝宿の北、若王子(にゃくおうじ)村の西に位置し、鬼岩寺山南麓に立地する。東海道が通り、瀬戸谷(せとのや)街道の分岐点にあたる。志太(しだ)郡に属する。東遊歌神楽歌の駿河舞の第四句にみえる「いはたしたえ」の岩田(いわた)は藤枝の旧称とされ、岩田山は鬼岩寺山のことという(掛川誌稿)。また「したえ」は志太江とされ、現藤枝市・島田市の南に広がっていた入海の浦浜の総称という(駿河記)。室町時代から鬼岩寺山麓にある鬼岩寺の門前町として栄え、戦国期には市も開かれていた。』とあった。ここ(「音羽町」をポイントし、東に「鬼岩寺」、その南直近に「藤枝」の当該丁目がある)。なお、「鬼岩寺」は高野山真言宗で、「藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課」公式サイト内の「ふじえだ東海道まちあるき」の「藤枝宿 鬼岩寺 きがんじ」に、神亀三(七二六)『年に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。』とあった。]
『靜照上人《じやうしやうしやうにん》とて、弘法大師の躅《あと》を闢《ひらき》[やぶちゃん注:「事跡を忠実に踏み開き」。]、令德雄才《れいとくゆうさい》[やぶちゃん注:「令德」とは「美徳・善行」の意。]・事敎《じけう》[やぶちゃん注:仏教で、「理」、即ち、「本体」と、「事」、即ち、「現象」とを明確に区別する教えを指す。]兼備の上人、住山《ぢゆうさん》の時に當《あたり》て、南里《みなみのさと》[やぶちゃん注:地名しては見出せないので、普通名詞として、かく読んだ。]、淵《ふち》に、巨龍《きよりゆう》在《あり》て、方里《はうり》の土民、農作耕《のうさくこう》を成《なす》事、あたはず。
[やぶちゃん注:「靜照上人」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項に拠れば、生年不詳で、『長保五年(一〇〇三)正月八日』没の『天台宗の学僧。高階成忠(たかしななりただ)の子として生まれ、出家後、賀縁の弟子となり、後に比叡山の東塔功徳院に住したというが』、『不明な点が多い。永延元年(九八七)に、円教寺講堂供養に講師、長保二年(一〇〇〇)に覚運(九五三—一〇〇七)や源信と同じくして法橋に叙任されている。また、同年法華八講の講師を務める。浄土教に関心が深く、その著に『観経』の十六観を注釈した『極楽遊意』、『無量寿経』に説かれる四十八願を注釈した『四十八願釈』各一巻などがある。』とあった。]
上人、是を慈恕《じじよ》し[やぶちゃん注:情け深く、思いやりを成すことを言う。]、七か所に、檀《だん》を築《きづき》て、不動護摩を精修《せいしゆう》す。神效《しかう》、不可思議、湛池《たんち》[やぶちゃん注:水を湛えていた池。]、水、涸れ、燥陸《さうりく》に變ず。上人、敎化《しやうげ》して、巨蛇《きよじや》を封窂《ふうらう》す[やぶちゃん注:封じて閉じ込めた。]。云云【檀上の尊佛は鬼岩寺護摩堂の本尊也。】。
同郡志太村□□山九景寺【淨土、藤枝、西光寺末。】所藏詩序云、鬼岩者有三惡龍潜二於水上池一、水上池ハ去二鬼岩ヲ一二十町、凡人物之經二過スル於池邊一者、無ㇾ不三以葬二於腹ニ一、村民患ㇾ之、多招テ二有驗之僧ヲ一、欲ㇾ去ント二惡龍一、三論之俊、唯識之芼、華嚴之英、佛神之傑、不ㇾ能二以伏一ㇾ之、皆拱テㇾ手而退、有リ二一法師一、弘法大師之流ニ而通ジ二金剛頂經毘盧遮那經之薀一、且傳二秘密之印信ヲ一、先入二三摩提ニ一見ㇾ之、知ル三彼龍ノ非ヿヲ二阿耨達池龍王之族ニ一、於ㇾ是、築キ二壇ヲ於池上ニ一、安シ二不動尊像ヲ一、入リ二水想觀ニ一、詳ニシ二水之淵源ヲ、抽テ二大根器一修ス二神變之法一、明王忽チ出二火熖ヲ一、使下二池水ヲ一乾上、其壇ヲ呼二護摩壇ト一、其像ヲ號二水干不動一、及ㇾ今存ㇾ跡、人尊二崇之一、然龍不ㇾ得二其處一、化成二惡鬼一、飛二此山一、法師追二亡逐逃一以二念珠ヲ一打ツ二鬼之頭ヲ一、鬼乃開二般若之眼ヲ一、初テ發二菩提心ヲ一、法師授ニㇾ之以二阿字一力ヲ一、鬼高聲ニ稱二得道一、作ㇾ禮而去。法師又以二那羅延力一投ジ二盤石於其化處ニ一以爲ス二之封ヲ一、名ク二之鬼岩一、村民歸シ二法師之密驗ニ一、建二立乄梵刹ヲ一號二鬼岩寺一。【下畧】云云。
[やぶちゃん注:冒頭で述べた通り、送り仮名その他が不全であるので、大々的に推定訓読したものを以下に示す。
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同郡(どうこほり)志太村(しだむら)□□山九景寺(くけいじ)【淨土、藤枝、西光寺(さいかうじ)末(まつ)。】[やぶちゃん注:鬼岩寺と萬福寺の、やや鬼岩寺寄りの瀬戸川右岸に「九景寺古墳」があり、その近くに、「九景結社」という浄土宗寺院がある。「静岡教区浄土宗青年会」のこのページを見ると、この寺の開基は治承四 (一一八〇)年である。]所藏の「詩序」に云(いはく)、鬼岩(きがん)は[やぶちゃん注:「には」の意で採る。]、惡龍(あくりゆう)、水上池(みなかみのいけ)に潜(ひそ)む有り。水上池は、鬼岩を去ること、二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。南南西に直線で二キロ強で、まさに萬福寺がある。]、凡そ、人・物の池邊(いけべ)を經過する者、以つて、腹に葬(はう)むらざる無し。村民《そんみん》、之れを患(わづら)ふ。多(おほ)く、有驗(うげん)の僧を招きて、惡龍を去らんと欲(ほつ)し、三論(さんろん)の俊(しゆん)、唯識(ゆいしき)の芼(ぼう/もう)、華嚴(けごん)の英(えい)、佛神の傑(けつ)、以つて、之れを伏(ぶく)すること能はず、皆、手を拱(こまね)きて退(しりぞ)く、一法師(いちほふし)、有り、弘法大師の流(りう)にして、「金剛頂經(こんがうちやうきやう)」・「毘盧遮那經(るびしやなきやう)」の薀(うん)通じ、且つ、秘密の印信(いんじん)を傳へ、先づ、三摩提(さんまだい)に入り、之れを見(み)、彼(か)の龍の、阿耨達池龍王(あのくだつちりゆうわう)の族(うから)に非(あ)らざることを、知る。是(ここ)に於いて、壇(だん)を池(いけ)の上(ほとり)に築(きづ)き、不動尊像を安(あん)じ、水想觀に入り、水(みづ)の淵源を詳(つまびらか)にし、大根器(だいこんき)を抽(ぬ)きて、「神變(しんぺん)の法(ほふ)」を修(しゆ)す[やぶちゃん注:実際にそのような修法(しゅほう)があるわけではない。常人にはない特別な神通(じんつ))が備わった者が獲得出来る摩訶不思議な現象=神変を現出させる法を駆使したのである。]。明王、忽(たちま)ち、火熖(くわえん)を出(いだ)し、池の水を乾かしせしめ、其の壇を「護摩壇」と呼び、其の像を「水干不動(みづほしふどう)と號(がう)し、今に及び、跡(あと)、存し、人、之れを尊崇(そんすう)す。然れども、龍、其處(そこ)に得られずして二一、化(け)して、惡鬼(あくき)と成り、此の山に飛び、法師、逐逃(ちくたう)を追亡(ついばう)し、念珠(ねんじゆ)を以つて、鬼(おに)の頭(かしら)を打つ。鬼、乃(すなは)ち、般若(はんにや)の眼(まなこ)を開き、初めて、菩提心(ぼだいしん)を發し、法師、之れに授(さづ)くに、「阿」の字の一力(いちりき)を以つて、鬼、高聲(たかごゑ)に「得道(とくだう)」を稱(とな)へて、禮を作(な)して、去る。法師、又、那羅延力(ならえんりき)を以つて、盤石(ばんじやく)を其の化(け)したる處(ところ)に投(とう)じ、以つて、之れに封(ふう)を爲す。之れ、「鬼岩(きがん)」と名づく。村民、法師の密驗(みつげん)に歸(き)し[やぶちゃん注:帰依し。]、梵刹(ぼんさつ)を建立(こんりふ)して、「鬼岩寺」と號す。【下畧。】云云(うんぬん)。
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「三論」三論宗。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『南都六宗の一つ。中論(中観論)・十二門論・百論の三論をよりどころとして、大乗の教えを説くもの。もともとインドでおこり、鳩摩羅什(くまらじゅう)が中国に伝え、隋の吉蔵が大成したという。日本には、推古天皇の三三年(六二五)、吉蔵の弟子、慧灌が渡来して広め、智蔵、道慈が入唐して宗旨を修めて以後、宗の名を立てた。天台宗などのような、教団として発展したものではないので、中古以後は衰え、法隆寺や東大寺などに学問として伝えられた』とある。
「唯識」同じく、仏教の認識論の一つで、『一切の諸法は識としての心が現わしだしたものに』過ぎず、『識以外に存在するものはないということ』。但し、『この識も妄分別するものとしてあるに』過ぎず、『真実にあるものではない』、『という意を含んでいる。』とある。但し、ここは前後から見て、「唯識」を別称とする「法相宗」(ほっそうしゅう)を指していると考えるべきで、同じく、『仏教の一宗派。奈良時代を通じて最も盛んであった、いわゆる南都六宗の一つ。解深密(げじんみつ)経・瑜伽(ゆが)論などをもとに、万有は唯識、すなわち』、『心のはたらきによって表わされた仮の存在にすぎず、識以外の実在はないとし、万法の諸相(法相)を分析的、分類的に説くもの。この学は玄奘によりインドから唐にもたらされ、弟子の慈恩大師窺基より一宗をなしたが、日本へは白雉四年(六五三)入唐した元興寺の道昭以後、伝えられた。行基・良弁など多くの学匠を生み、また他宗の学徒も多くこれを学んだ。現在は興福寺・薬師寺(法隆寺は一八八三年聖徳宗として独立)を大本山に七〇余の末寺をもつのみである』とある、それである。
「芼」第一義は「選ぶ・抜き取る」の意。先鋭の者。
「華嚴」華厳宗。同じく、『華厳経を所依として中国唐代杜順に起こり、賢首(げんじゅ)大師法蔵によって組織大成された大乗の一宗。日本には天平八年(七三六)唐の道璿(どうせん)が伝えたといい、同一二年、良弁(ろうべん)の請いにより』、『新羅僧審祥』(しんじょう)『が金鐘道場』(きんしょうどうじょう)『(東大寺法華堂)で』、『この経を講じたという。その後、良弁が東大寺で宣教し興隆したがやがて衰微し、鎌倉時代には高弁・凝然が出て復興に努めた。明治初年、一時』、『浄土宗に属し、同一九年(一八八六)独立して東大寺を大本山とし、現在は末寺約五十か寺、信徒約五万人。五教十宗の教判の下に、法界縁起(ほっかいえんぎ)と十玄六相の事々無礙(じじむげ)を説き、三生成仏(さんしょうじょうぶつ)を唱える。南都六宗の一つ』とある。
「金剛頂經」同じく、『通常は不空訳の「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」三巻をさす。別に金剛智訳と施護訳がある。真言密教の秘経の一つ。大日如来成仏』『の次第を通じ、釈迦』、『すなわち』、『金剛界如来が、金剛界三十七尊を出生したことや、この金剛界曼荼羅建立の儀則、弟子を曼荼羅に導入する法などを説いた経典。』とある。
「毘盧遮那經」正しくは、「大毘盧遮那成佛神變加持經」(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)で、略して「大毘盧遮那經」、或いは、「大日經」と呼び、大乗仏教に於ける密教経典である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『八世紀に、善無畏・一行の共訳による漢訳』、及び、『シーレーンドラボーディとペルツェクの共訳であるチベット語訳が相次いで成立したが、梵文原典は現存しない』。「金剛頂經」『とともに真言密教における根本経典の一つとされる』。『7世紀半の前後約30年間という栂尾祥雲1933年発表の説が一般に承認されている。500年ごろにはすでに成立していたという説もあるが定説とはなっていない』。『内容は、真言宗のいわゆる事相(行法)と教相(教理)に相当する2つの部分から成り立つが、前者である胎蔵曼荼羅(の原形)の作法や真言、密教の儀式を説く事相の部分が大部分を占める』。『仏部・金剛部・蓮華部の三部分類や、胎蔵界五仏の構成などについても説かれる』。『また、この部分の記述は具体的であるが、師匠からの直接の伝法がなければ、真実は理解できないとされている』とあり、『教相(教理)に相当するのは冒頭の「入真言門住心品」だけといってよく、ここで密教の理論的根拠が説かれている。構成は、毘盧遮那如来と金剛手(秘密派の主たるもの)の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲している』。『要諦は、金剛手の問いに対し、毘盧遮那如来が一切智智を解き明かすことにあり、菩提心とは何かを説くところにある。』とある。
「薀」仏教に於いては、「五取蘊」(ごしゅうん)、或いは「五薀」として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称であるが(詳しくは当該ウィキを見られたい)、ここは、「薀」の一般的な意味を嗅がせた、「(正しき仏教の真の知識を)積んで蓄えている者」の意で採ってよい。
「印信」密教で、「師僧が秘法を伝授した証拠として弟子に授与する書状」を指す。
「三摩提」「三昧(さんまい)」に同じ。小学館「日本国語大辞典」の「三昧」に、『([梵語]samādhi の音訳。三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す )雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三摩堤(さんまだい)。三昧正受。』とある。
「阿耨達池龍王」「阿耨達池」は小学館「日本国語大辞典」に、『阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという池。瞻部洲(せんぶしゅう)の中央、香山(こうざん)の南、大雪山』(だいせつざん)『の北にあって、周囲八百里、金、銀、瑠璃などがその岸を飾る。四つの河を分出して、清冷水により全世界を潤すという。阿那婆達多(あなばだった)。』とある。ここは、その真正の神聖なる龍族の仲間ではない、と見破ったことを指す。
「大根器」禅問答の中で見たことがある。「偉大な品性」を指す語である。]
里人、云《いふ》、
「以上、三所《さんしよ》の記を按《あんず》るに、事蹟は同所《おなじところ》にして、其說、異《ことなる》也《なり》。何《いづ》れか、可ならん。風土を閱《み》るに、古昔《こじやく》、大池《おほいけ》成《なる》事、疑《うたがひ》なし。今、『護摩壇《ごまだん》』と稱する所、七か所あり、謂《いはれ》は『六地藏』・『西山《にしやま》』[やぶちゃん注:「ひなたGIS」の戦前の地図で調べたが、不詳。]・『曲山』[やぶちゃん注:同前。]・『南新屋』[やぶちゃん注:萬福寺のごく直近に現存する。ここ。]・『鵜糞山』[やぶちゃん注:不詳。一つ、気になったのは、萬福治の東直近にある「烏帽子山」である。]・『萬福寺』・『東山』[やぶちゃん注:不詳。]也。何《いづ》れも、山上《さんじやう》、一段、高く築上《つきあ》げ、頂《いただき》、平《たひら》にして、形《かた》ち、圓《まろ》く、經《めぐり》、五、六間[やぶちゃん注:約九・一~十・九メートル。]計《ばかり》りあり。又、水上村の中筒井[やぶちゃん注:不詳。]など掘るに、土中より、菱《ひし》・芦《あし》等《など》の實《み》、或《あるい》は、根《ね》の類《たぐゐ》、色黑きもの、多く出づ。是《これ》、洋池の證《しやう》也。又、鬼岩寺靜照上人は、養和元年[やぶちゃん注:一一八一年。前に注したデータと全く合わない。]七月十五日、寂す。今、六百四十七年に及ぶ。事跡、詳《つまびらか》ならざるも、可《か》、也《なり》[やぶちゃん注:問題はない。]。今、『瀨戶町《せとちやう/せとまち》の染飯《そめいひ》』とて、名產とする物も、此龍鱗《りゆううろこ》を、形どる遺跡也。云云。」。
[やぶちゃん注:「瀨戶町の染飯」ウィキの「瀬戸の染飯」に拠れば、『現在の静岡県藤枝市上青島である駿河国志太郡青島村付近で戦国時代から販売された黄色い米飯食品である。東海道藤枝の名物であり、文化庁の日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅』の「構成文化財」に認定された』。『瀬戸の染飯は、強飯(こわいい/こわめし・蒸した餅米、おこわ)をクチナシ(梔子)の実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や三角形(鱗形)、四角形などにして乾燥させたものである』。『江戸時代には藤枝宿-島田宿間にある瀬戸の立場(休憩所)で売られていた。漢方医学では、クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、また足腰の疲れをとるとされることから、難所が多い駿河の東海道を往来して長旅に疲れた旅人たちから重宝された』。『物語や和歌、浮世絵の題材としてたびたび取り上げられ、1792年(寛永4年)に西国を旅した小林一茶は藤枝で「染飯や我々しきが青柏」と詠んでいる。1797年(寛政9年)の『東海道名所図会』には染飯を売る茶屋の挿絵があり、葛飾北斎の1804年(享和4年)頃の浮世絵『東海道中五十三駅狂画』でも四角い染飯を売る茶屋の娘が描かれた作品がある』。『十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年-1814年初刊)にも登場する』。『その始まりは古く、『参詣道中日記』1553年(天文22年)の記録や『信長公記』1582年(天正10年)の記録に記載があるため戦国時代にさかのぼる。東海道の街道名物としては最古級である』とあった。]

