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カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の848件の記事

2026/09/05

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「靑木氏家に靈有る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 靑木氏家《あをきしいへ》に靈《れい》有る事

 

 天祥院公《てんしやう》御代《みよ》、御用人《ごようにん》、相勤居《あひつとめをり》ける人、

「此家《このいへ》に、靈、有りて、見たる人、多《おほく》有りけり。」

と沙汰《さた》しけり。

 佐藤庄助《さとうしやうすけ》は、其《その》時、奧に出來《いでき》、書記役にて、每日、行(ゆき)けり。

 夏の時分にて、夕飯後に、座敷の次の閒(ま)にて、書狀など、したゝめ、すでに晚、申(さる)の刻(こく)過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也。

 用事、調度[やぶちゃん注:ここは副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。]、思ひ、雪隱(せつちん)[やぶちゃん注:厠(かはや)・便所。]へ、行(ゆき)けり。

 庭の木立《こだち》、しげり、ほのぐらき所なり。

 何心《なにこころ》なく、雪隱の戶を明《あ》けるに、內(うち)に、歲《とし》の頃、十七、八歲斗(ばかり)なる女《をんな》、居(をり)けり。

 庄助も、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。既に第一話にも出た、本書の作者の慣用誤字。]に思ひけるが、

『ぞつ』

として、身の毛も立斗(たつばかり)にや、覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺(おぼ)え」の誤記。]けり。

 其(その)まゝ戶を立(たて)、出(いで)けるが、心の內《うち》、いよいよ、ふしむ[やぶちゃん注:先に同じで「不審」。]し、

『是(これ)は。亭主の妻か。何樣(なにさま)、勝手《かつて》は、遠し。女など、入來(いりき)る所に、あらず。』

と思ふ所に、其家(その《いへ》)の若黨(わかとう)、いそぎ、來(きた)りけるが、庄助が顏色《かほいろ》も、常《つね》ならず、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、若黨、庄助に申(まうす)やう、

「御用事《ごようじ》、御調候(《おん》とゝのひさうら)はゞ、此方(この《かた》)へ御越《おこし》し候《さふら》へ。」

といふ。

 庄助、心得て、案內《あない》する所へ行(ゆき)けり。

 扨(さて)、歸りて、若黨(わかとう《→わかたう》)、庄助に申(まうし)けるは、

「何《なん》ぞ、かわり[やぶちゃん注:ママ。「かはり」(變り)。]たる事も御座候哉(ござさうらふや[やぶちゃん注:ママ。「ござさふらふや」が正しい。])。御《おん》けしき、惡敷御座候(あしくござさうらふや)。御咄候(おはなしさうら)へ。」

と、申(まうす)。

 庄助、つゝまず、右の次第を、語る。

 若黨(わかとう《→わかたう》、うなづき、

「とくにも[やぶちゃん注:「疾(とく)にも」。「もっと前から」の意。]、御咄申筈(おはなしもうすはず《→おはなしまうすはず》)に御座候所(ござさうらふところ)、失念致候(しつねんいたしさうらふ)。あの雪隱(せつちん)は、折惡敷《をりあしく》參り候(さうら)へば、每度、ケ樣(かやう)の事、御座候(ござさうらふ)。去共(されども)、くるしからぬものなり。」

と申(まうす)。

 庄助も、

「かの女を見《み》、ぞつと、身の毛立《けだち》て、顏色《がんしよく》あしく成(なる)事、若黨(わかとう《→わかたう》)のおもわく[やぶちゃん注:「思惑」。]、はづかしく存《ぞんず》る。」

と言《いひ》けり。

 其時、此(この)家に、靈、有(ある)事を、知りけり。

 夫(それ)より、十四、五年も過(すぎ)て、米村平作、御城にて、庄助《しやうすけ》に逢(あひ)、ひそかに、右の咄《はなし》、聞(きゝ)けり。

「我やしきがへ致候(いたしさうらふ)に付(つき)、其(その)實《じつ》を承度(うけたまはりたし)。」と、言《いひ》ける、と、なむ。

 其(その)時分は、庄助、御祐筆役(ごひつやく)なり。

 此(この)咄、庄助、物語(ものがた)り也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「靑木氏家《あをきしいへ》」ネット検索したところ、信頼出来る複数のサイトで「青木」姓の藩士は、いる。しかし、本話のニュアンスでは、ロケーションとなる屋敷は、一介の藩士の家ではなく、御用人・書記役が出入りする屋敷であるからには、相応の高い地位にある人物でなくてはならない。と言うより、標題の「青木氏」の「家」とする具体な表現が、本文そのものに出現しないのは、極めて奇異である。これは、青木家が、由々しき高位の人物ゆえなればこそ、姓を示すのを、遠慮したものとも考えられた。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで「因幡 青木 御用人」で検索を行ったところ、一つの論文を見つけた。大嶋陽一・四井幸子・芝田尚子共著『鳥取県鳥取藩領因幡国岩井郡大庄屋中島家「御用日記」翻刻 その二』(『鳥取県立博物館研究報告』・二〇一三年三月三十日発行)で、そこに『御郡奉行』で『吟味役』の『青木甚太夫』なる人物が記載されてあった。解説に『正徳元、二年』『(一七一二、一三)』の『当時の』『関係役人』『在方役人』であることが示されており、この青木甚太夫の十数件の記載が確認出来る。この時期は、次で注した本話の時制内に含まれている。されば、この「靑木家」とは、この『青木甚太夫』であることが、ほぼ確定出来るのではあるまいか?

「天祥院公《てんしやう》御代《みよ》」「天祥院」は因幡国鳥取藩第三代藩主池田吉泰(貞享四(一六八七)年~元文四(一七三九)年)の戒名の院号。彼は、鳥取藩主池田光仲の次男池田仲澄の長男であったが、元禄八(一六九五)年、九歳の時、鳥取藩二代藩主池田綱清の養子となった。元禄一三(一七〇〇)年、十四歳で、綱清より、家督を譲られ、没年まで藩主を務めた。

「佐藤庄助」最後に、聴き取りした際には「御祐筆役」であったとあるが、調べてみたが、不詳。

「申(さる)の刻(こく)」午後三時から午後五時だが、続いて「過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也」とあるので、午後五時過ぎである。

「用事、調度、思ひ、雪隱(せつちん)へ、行(ゆき)けり。」割注では、『副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。』と書いたが、この一文を眺めるに、文章としては、おかしい。『やらねばならない「用事」を忘れていたのを思い出したのだが、丁度、便意を催していたので、ともかく、急ぎ、雪隠に行った。』という謂いであろう。なお、「雪隱」の語源は、ネットに幾つかあるが、森本行洋(もりもとゆきよし)氏のサイト「古墳のある町並みから」の『「せっちん」の由来について考える』がよい。複数説をそれぞれ考証しており、お薦めである。

「勝手」台所。

「若黨」武家奉公人の一種。中世では、年輩の侍である「老党」に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍に使った。近世では、大身の武家に仕えた軽輩を指し、その身分は徒士(かち)と足軽との中間に置かれ、始終、主人の身辺にあって、雑務・警固を担当した。彼らは百姓・町人出身の一季・半季の出替(でがわり)奉公人であり、給金は一ヶ年三、四両を相場とした(以上は小学館「日本大百科全書」を主文とした)。

「米村平作」国立国会図書館デジタルコレクションの「鳥取県の諸職 鳥取県諸職関係民俗文化財調査報告書」(鳥取県立博物館編・一九八六年鳥取県教育委員会刊)のここで、『享保16年、米村平作の領内大船造りの奨励策があり』とあり、時制上も問題ないので、この人物である。一応、「こめむらへいさく」と読んでおく。

「御祐筆役(ごいうひつやく)」。「祐筆」(祐筆:現代仮名遣「ゆうひつ」)は「右筆」「執筆」とも表記する。中世・近世に置かれた武家の秘書役を行なう文官。本来は、文章の代筆が本来の職務であったが、徐々に公文書・記録作成等も行った結果、事務官僚としての重い役目を担うようになっていった。]

2026/09/04

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「阿波國の浪士に生靈の付居ける事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。] 

 

 阿波國《あはのくに》の浪士《らうし》に生靈《いきりやう》の付居(つきをり)ける事

 

 光仲公《みつなかこう》御代(みよ)、阿波の浪士壹人(いちにん)、因幡に來(きた)り。身上《しんしやう》、望居(のぞみをり)ける程に、若き衆(しふ→《しゆう》)、ちなみ、多く成り、其(その)中にも、わけて、四、五輩、こむせつに[やぶちゃん注:「懇切(こんせつ)に」。]參會《さんくわい》しけり。

 然(しか)るに、此(この)浪人、夜《よる》は、咄《はなし》に出(いで)けれ共(ども)、五時分《いつつじぶん》[やぶちゃん注:近世の時刻の数え方。ここは、「夜五ツ」で、現在の夏至で午後九時過ぎ、春分・秋分では八時半頃、冬至で午後八時前頃を指す。]には、

「用事あり。」

とて、早く歸りけり。

 度々(たびたび)の事なれば、人々、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。後に複数回出るが、注は、しない。]して居(おり《→をり》)けり。

 其身(その《み》)の宅へ呼(よび)ても、五時分には、いねぶり[やぶちゃん注:「居眠り」。]ければ、咄に行(ゆき)ける人も、早く、歸りけり。

 人々、打寄(うちより)、

「いかにとしても、ふしむなり。其身(その《み》)、獨身成(な)り。外《そと》に、用事、可有(あるべき)に、あらず。如何樣(いかさま)、『忍《しの》び妻《つま》』なども有りけるや。其儀(その《ぎ》)ならば、申合(もうしあはせ《→まうしあはせ》)、四、五人、夜話《よばなし》に行(ゆき)、樣子をうかゞひ、一笑《いつしやう》すべし。」

と、三、四人、言合《いひあは》せ、暮《くれ》時分より、壹人(いちにん)づゝ、寄集(よりあつま)り、申《まうし》けるは、

「今夕(こんせき)は、幸(さいわい《→さいはひ》、何れも𨻶(ひま)也(なり)。夜更《よふけ》る迄(まで)、咄(はなす)べし。」

と、いへば、亭主も悅(よろこび)、

「忝(かたじけな)し。」

とて、もてなし、物語、時をうつしける。

 夜も、やうやう、更(ふけ)ぬれば、

「もはや、皆々、御歸り候(さうら)へ。」

と、いへば、四人の若者、申(まうし)けるは、

「『今夕(こんせき)は、迚(とて)もの事に、夜明(よあか)しに咄(はなす)べし。』とて、申合(まうしあはせ)、來《きた》りたり。御ふせう[やぶちゃん注:「御不承」。]ながら、御咄(おはなし)候(さふら)へ。」

と、いへば、亭主、打笑(うちわらひ)、

「たゞし、何も、もてなしはなけれども、夜明(よあか)しに語給(かたりたま)へ。」

とて、木枕(きまくら)取出(とりいだ)し、樂《らく》に、ねころび[やぶちゃん注:「寢轉び」。]、咄(はなし)ける。

 夜も、やうやう、丑(うし)の刻(こく)になりければ、いねぶり、しきりに付(つき)たり。

 然共(しかれども)、四人、目と目を見合(みあはせ)て、こらへたり。

 亭主は、とくより、ね入て[やぶちゃん注:「寢入(ねい)りて」。]、前後も、しらず。

 然(しか)るに、誰共(《たれ》とも)しらず、緣《えん》のしやうじを、しづかに明(あけ)て、入者(いるもの)あり。

「何ものぞ。」

と、見れば、十六、七斗(ばかり)なる、みめよき女房なり。

「さればこそ。」

とて、四人ながら、ね入(いれ)たるたい[やぶちゃん注:「體・躰」等だが、「てい」が普通。]にて居(をり)けるに、此女房、亭主が側《そば》へ、立寄(たちより)、見て、立上(たちあが)り、座敷のてい[やぶちゃん注:漢字は前に同じ。]を見て、立出(たちいで)て、又、しやうじを、しづかに明(あけ)て、外へ出《いで》て、しやうじを、たてける時、見けるに、しやうじに、かゝりける指、うつくしき事、言ふ斗(ばかり)なし。

「扨は、いよいよ、しのびものに、違《たがひ/ちがひ》、なし。」

と思へども、此(この)女《をんな》、入來(いりきた)る時分より、歸るまで、夢うつゝ共(とも)、しかと、覺へず[やぶちゃん注:「覺えず」が正しい。]。

 是(これ)、ふしむ[やぶちゃん注:前に同じ。]の所なり。

 とかくする內(うち)、夜明(よあけ)近くなりければ、みなみな、

「歸らむ。」

とて、亭主に、いとまごひをするに、能(よく)、ね入(いり)て居(をり)けり。

 人々、立寄(たちより)、

「もはや、目さまし給へ。」

と、いへば、亭主、目を覺《さま》しければ、四人の者、口を揃(そろへ)て、くたむ[やぶちゃん注:「件(くだん)」。]の樣子を物語(ものがたり)、

「こなたには、隨分、入魂(じつこん)に致(いたし)、御咄し申(まうす)に、かくのていは、よそがまし。」

と、うらみ、かこち、申(まうし)けれは、亭主、聞《きき》て、

「御ふしむ、御尤に候。扨々(さてさて)、はづかしき事ながら、其(その)實(じつ)を明(あか)さむ。我(われ)、生國《しやうごく》阿波(あは)にて、若き時、去(さる)町人の娘《むすめ》、みめ好(よき)に、ほだされ、ふと、なじみて通《かよ》ひけるが、元(もと)より、身上《みのうへ》、望(のぞみ)有れば、『妻など、相具(あいぐ《→あひぐ》)すべきやう、なし。』と思ひ、緣を切り、其後(その《のち》)、御當國《おんたうごく》へ參りけるが、女は、ふかく、思ひにしづみけるにや、さまざま、はなれがたきやうす[やぶちゃん注:「樣子」。]申越(まうしこし)けるが、され共(ども)、二盃《ふたつさかづき》とり、合(あひ)もせざりしに、親どもは、此事を、しらざりしにや。まもなく、同じ町人の方《かた》へ、遣(つかは)しけり[やぶちゃん注:嫁に行った。]。されば、なじみて、子も、二人、出來《できたる》たるよし。され共(ども)、此女(この《をんな》)、執心(しうしん)、今に殘りけるか、『阿波より、爰元(ここもと)へは、海上《かいじやう》を、かけ、山川(さんせん)、數十里をへだてたれ共(ども)、其(その)執心(しうしん)は、かよひ申(まうす)や』と覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」が正しい。]候《さふらふ》。しかれば、每夜、丑(うし)の刻(こく)[やぶちゃん注:午前二時。或いは、午前一時から午前三時の間。]の頃に、ゆめのやうに覺(おぼへ《→おぼえ》)、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見(まみ)え」。]來《きた》り候(さうらふ)。今夕(こんせき)、皆々へ見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ける事、近頃《ちかごろ》、近頃、はづかしき事《こと》。かならず、外《ほか》へ、御沙汰(おさた)、御無用(ごむよう)。」

と、申(まうし)ける。

 人々も、きひ[やぶちゃん注:ママ。「奇異(きい)」。]の思ひを、なしけり。

 扨(さて)、退參《たいさん》して後《のち》は、此(この)浪士、ふらふらと煩(わずらひ《→わづらひ》)けるが、半年斗(ばかり)過《すぎ》て、むなしく成(なり)けり。此咄(この《はなし》)、其(その)出合《いであひ》し四人の內《うち》、吉田氏(よしだし)の物語なり。

 

[やぶちゃん注:「光仲公《みつなかこう》御代(みよ)」因幡鳥取藩初代藩主池田光仲(いけだみつなか 寛永七(一六三〇)年~元禄六(一六九三)年:脳卒中により死去で享年六十四(満六十三歳))。徳川家康の外曾孫で、別姓は松平。寛永九(一六三二)年四月三日に父忠雄(ただお/ただかつ)が死去し、わずか三歳で家督を継いだので、後見人が充てられた。彼が領国に初入国し、鳥取城へ入ったのは、寛永一八(一六四一)年であった。貞享二(一六八五)年に長男綱清(つなきよ)に家督を譲って、隠居している(以上はウィキの「池田光仲」に拠った)。さて、この「御代」は、物理的には、事実上の寛永九(一六三二)年から貞享二(一六八五)年までを閉区間となるもの、冒頭注で示した通り、本「因幡怪談集」の所収の話の中で、年代の下限は寛延二(一七四九)年であると、校訂者伊藤龍平氏は述べておられることを考慮すると、最後に出る、実際に、この話に登場する『吉田氏』が存命でないとおかしい(未詳の本書の筆者が直(じか)に聴いた話とするのが、この手の怪談の鉄則である)ので、自ずと、この「御代」は、実際には以上の区間の、かなり後半での時制に限られてこよう。なお、初回に冒頭注でも触れたが、伊藤龍平氏は「解題」の中で、この「因幡怪談集」の作者は『武士階級に属する者であったのは間違いない』とし、さらに各話の年代設定に言及され、この光仲に係わる話を指示して、『これ以前の話は『因幡怪談集』にはない。編者が因幡藩士であることを思えば当然の仕儀ではある』と述べておられる。

   *

この話、実話談の体裁を採っており、全体に創作的な臭さが、ない。似たような怪談は私の電子化注したものには、かなりあるが、必ず、わざとらしい箇所があるのが普通である。されば、私は、これを高く評価するものである。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)~起動/「岩井郡浦留にての妖怪の事」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で『「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)』を起動する。この作品は、ネットで調べても、ちゃんとした書誌データが見当らないものであり、筆者不明で、これは、現在、鳥取県立図書館が所蔵するもの以外には存在しないものであり、恐らく、御存知ない方の方が圧倒的に多いと思われる。所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する伊藤龍平氏が校訂されているもののみが、現在、活字で読める唯一のものである。国立国会図書館デジタルコレクションで横断検索しても、ものになる記載は皆無であった。結果して、信頼出来る書誌情報は、前掲書の伊藤氏の解題に拠る以外には、ない。以下、ポイントを押さえて示す。

 本鳥取県立図書館蔵の「因幡怪談集」は、写本で、現在まで、他の伝本は見つかっていない。但し、写本を書いた人物は『裏表紙の「重松宣喜』(のぶき? のぶよし?)『蔵書」『とあり、書写の時点で』、『すでにこの題が用いられていたらしい』と述べられた後、初っ端から『成立については不分明な点が多い。』と記しておられる。そして、この写本は、実際の本文を持つ立項話は『三十八話から成るが、目録題の後には「追加」と記されており、現存の『因幡怪談集』よりも収録説話の多い原『因幡怪談集』と呼ぶべき作品が存在していたことが推察できる』とし、「目錄」の途中に、書写した重松氏によって――本文がなく、目録だけで、その当該話柄が載っていない。追って知れる者があったなら、追加して、書き入れる。――と言った意味の注意書きがあって、しかしながら、実際に、その十二の目録標題に相当する本文は、遂に写されていない、と解説され、『この点からも原『因幡怪談集』の存在が裏付られよう。』とある。しかも、私自身も、解題を読まずに、「近世民間異聞怪談集成」本文を読んだ際、奇妙に感じたのだが、本文の途中に、別な目録が十四題、突如、載るのである。そこで、伊藤氏の解題を見たところが、これを『不可解』とされ、『二つ目の目録以前の話』『と以後の話』『を比べてみると、記述に若干の相違が見られる』とされ、『前半の話に多い年代の明示』『が後半にはほとんど見られず、わずか一話にとどまる』ことなどから、『これを単純な錯簡とは見做せないのである』と述べておられる。而して、伊藤氏は、よく似た同一地方に限った怪奇談集を考証して見るに、『当時の因幡地方において、怪談が好まれる気風があったことは想像に難くない。『因府夜話』は寛保年間の成立、『雪窓夜話』は宝暦年間の成立である。『因幡怪談集』所収のうち、年代の『因幡怪談集』所収の話のうち、年代の下限は寛延二年(一七四九)で、成立はこの少し後と推察される』と述べておられる。以下、本篇の怪談を、柳田國男が提唱した『今日の説話の分類でいうところの世間話(同時代が舞台の、いくぶん真実味のある話)に相当』するとされ、さらに、各話の主人公の身分から、『原本の編者が、武士階級に属する者であったのは間違いない』と解析されておられる。伊藤氏の解題は、本「近世民間異聞怪談集成」の中でも、目から鱗で、群を抜いて素晴らしいものである。同書から、今まで複数の「怪奇談集」で基礎データを使用して電子化注をしてきたが、この本の他のものの中には、驚くべき杜撰な箇所が散見するものがあり、定価一万九千八百円という大枚に何度も憤激を感じたものだったが、今回は、溜飲を下げたものであった。そういう意味で、不肖な私乍ら、伊藤氏を非常に高く評価させて戴くものである。

 なお、以上の伊藤龍平氏校訂になる「近世民間異聞怪談集成」の本文をOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。

 ここでは、私のポリシーとして

◎漢字は、基本、恣意的に旧字に変更した。

少なくとも、その方が、結果して原本に近い可能性が高くなるという推断からである。

各個標題は五字下げポイント上げであるが、ブラウザの不具合を考え、一字下げ同ポイントとした。

◎ルビは、( )で添えた。

◎原本が歴史的仮名遣を誤っている箇所(かなり多い)は《→ 》で添えた。

◎読みの補助が必要と私が判断したものについては、推定で歴史的仮名遣で《 》を以って、訂した。読みが複数ある場合は、第一候補を前に「/」を挟んで示した。

◎句読点については、私が正しいと判断したものに変え、或いは、あった方がいいと判断した箇所には、独自に追加してある。

◎直接(間接)話法・心内語、及び、あった方が読み易いと考えた箇所は、自由に改行した。

◎心内語の場合は二重括弧で括った。

◎踊り字「〱」「〲」は、私が生理的に嫌いなので、正字に換えた。

◎概ね、若い読者を対象として、オリジナルに注を附した。

 なお、二つ存在する標題目録は、凡てが終わったところで示すこととする。]

 

 岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》にての妖怪《やうくわい》の事

 

 享保(きようほう《→きやうほう》)年中の事也(なり)。

 浦留は、鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》也。屋敷茶屋、有り、家來も數輩(すはい)、住(ぢゆう)す。

 然(しか)るに、給人分《きふにんぶん》の者何某(なにがし)、此人(この《ひと》)、夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり。

 又、或(ある)時、日暮《ひぐれ》て、秋の事也(なり)しに、例のごとく、出行(いでゆき)けり。

 常に出入(いでいり)ける町人《ちやうにん》、來り、其人を尋(たずね《→たづね》)けるに、はや、例《ためし》の通(とおり《→とほり》)、夜獵に出《いで》て、留守なり。少し用事も有《あり》けるにや、其人の歸るを待《まち》て、夜半過(やはんすぎ)まで居(をり)けれども、歸らざりければ、ふしむ[やぶちゃん注:「ふしん(=不審)」の原本の誤記。]をなし、

「いつも、亥(ゐ)の刻(こく)の時分には御歸《おんかへ》り候(さうらふ)が、何とて、ケ樣(かやう)におそく御歸候(《おん》かへりさうらう《→かへりさふらふ》)や。若(もし)、又(また)、氣分共(とも《→ども》)、惡敷(あしき)は、是(これ)、なきや、心もとなし。」

とて、

「むかゐがてら[やぶちゃん注:「迎へがてら」の誤記。]に參候半(まゐりさうらはん)。」

と、男壹人(いちにん)、召連(めしつれ)、いつも行(ゆく)山路《やまぢ/やまみち》は存《ぞんじ》の事なれば、男と貳人(ににん)、松明(たいまつ)を、とぼし、むかい[やぶちゃん注:ママ。「むかひ」。]に出(いで)けり。

 いつも行(ゆく)山路へ行(ゆき)けるに、道より、少し、ひきゝ[やぶちゃん注:「低(ひき)き」。]所、有(あり)。

 たれ共(とも)しらず、人の、ふし[やぶちゃん注:「臥し」。]たるやうに見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、松明(たいまつ)を、ふり上(あげ)、あかりにて、能々(よくよく)見れば、其(その)人なり。

 立寄見(たちより《み》)れば、息たへ[やぶちゃん注:ママ。「息たえ」。「息絕え」。]て、伏《ふ》しい[やぶちゃん注:ママ。「ゐ」]たり。

 貳人(ににん)の者、驚(おどろき)て、水など、求め、口にそゝき[やぶちゃん注:「注(そそ)き」。]ければ、いき出(いで)たり。

 やうやう、人心付(《ひとごころ》つき)、本正(ほんせう[やぶちゃん注:ママ。「ほんしやう」。])になりて、

「これは。いかやうの事にてか。」

と、尋(たずね《→たづね》)ければ、其(その)人、申(まうす)やう、

「例《れい》の通り、引(ひき)[やぶちゃん注:目的語は「犬を」。]、方々(ほうぼう[やぶちゃん注:ママ。「はうばう」。])あるきけれども、得物(えもの)も、なし。『もはや、夜、(ふけ)更たり。歸らむ。』と、犬を引(ひき)、歸りけるに、此上の山にて、犬、すゝまず。しかれ共(とも[やぶちゃん注:「ども」に同じ。])、追立(おひたて)て、前ヘ、やりけるに、犬、何方(いずかた[やぶちゃん注:ママ。「いづかた」。])へやら、不通(ふつう)に、見へず[やぶちゃん注:犬の反応がなく、闇の中に見えなくなって、姿を失ったことを言う。]。くらき夜なれば、しばし[やぶちゃん注:「暫し」。]、たゝずみ、犬を呼《よび》けるに、何ものともしらず、犬を、我(われ)に、打(うち)つけたり。『こは、いかに。』と思ひ、刀《かたな》の柄(つか)に、手をかけ、見るに、ぬけず。とやかくする內《うち》に、何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』[やぶちゃん注:何者かに中空(ちゅうくう)に投げられた。]と思へば、氣をうしなひ、前後不覺(ぜんごふかく)。」

と言(いふ)。

 犬を尋ねけるに、四、五閒(けん)[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]外《そと》の笹原《ささはら》に、二つに引(ひき)さき、捨《すて》て、有(あ)り。

「まづ、はやく、歸られ候(さうら)へ。」

と打連(うちつれ)、宿《やど》に歸りけるに、夜《よ/よる》も、ほのぼのと明(あけ)たり。

 其後(その《のち/ご》)、かはりたる事も、なし。

 思へば、天狗か、山の神の所爲(しよゐ)と見へたり。

 

[やぶちゃん注:「岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》」平凡社「日本歴史地名大系」の「浦富村 うらどめむら」に拠れば、旧『鳥取県岩美郡』(いわみのこおり)『岩美町』(いわみちょう)『浦富村』とし、現在地名を『岩美町浦富』とし、『現岩美町域の中央北端に位置する。する。正確には、現在は鳥取県岩美郡(いわみぐん)岩美町(いわみちょう)大字(おおあざ)浦富(うらどめ)で、ここである(グーグル・マップ)。以下、『正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に浦住宿とみえる。元禄郷帳作成時に浦富村と改めたが(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、浦留』(☜)『とも記し(「在方御定」など)、南の町浦富(まちうらどめ)村に対して、本浦住村・本浦留(もとうらどめ)村・浜浦富(はまうらどめ)村とも通称された(「檀徒寄進帳」金剛院旧蔵など)。天正九年(一五八一)から慶長五年(一六〇〇)まで巨濃(この)郡を領有した垣屋恒総』(かきやつねふさ)『が南西の桐山(きりやま)城を本拠地として桐山東麓に居館を構えていた。西にある支村の田後(たじり)村は享保一九年(一七三四)以前に領内限りで一村となっていたと考えられる(同年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」など)。藩政期の拝領高は六三〇石余。本免は四ツ九分。山役米一斗を課されており、天保三年(一八三二)の山林は二八町三反余(藩史)。鵜殿氏』(☜)『の給地であった(給人所付帳)。前掲「因幡誌」によれば高八七〇石、竈数四〇余。文政五年(一八二二)の岩井郡組合帳(勝山家文書)によれば家数九五』とあった。

「享保(きようほう《→きやうほう》)」一七一六年から一七三六年まで。謂わずと知れた吉宗の治世。

「鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》」まず、鵜殿氏であるが、しばしばお世話になっているサイト「城郭放浪記」の「因幡 鵜殿大隅陣屋」に拠れば、『鵜殿氏は鳥取藩主池田氏の家老で五千石を領した。池田光仲の父池田忠雄の生母督姫は家康と鵜殿長持の娘との間に生まれた子で、鳥取藩鵜殿氏はその縁によって家老を務めた。』とある。そして、ネットで調べると、この鵜殿氏は、代々、通称として「大隅(おおすみ)」を名乗る人物(「鵜殿大隅守」など)を多く輩出しており、彼らが治めた鳥取県内の自分手政治(じぶんてせいじ:家老が独自の裁量で治める特別な領地)の区域・拠点を「大隅領」あるいは「大隅陣屋」と呼ばれたのであった(ネットのサイトによっては、「大隅」を「大隈」と表記するものもある。読みは同じであろう)。而して、現在、浦富地区に「旧:御陣屋(鵜殿大隅陣屋跡)」がある。本話のロケーションを理解し易くするため、同陣屋後背にある山地地帯を見ることが出来るグーグル・マップ航空写真をリンクしておいた。また、左のサイド・パネルのこの画像で、岩美町教育委員会による解説板「御陣屋跡」を視認出来るので、見られたい。

「屋敷茶屋」これは、狭義には、恐らく「お茶屋屋敷」で、江戸初期に徳川家康が上洛の往還に際し、休泊のために岐阜県大垣市に設けた施設を指すが(当該ウィキを見よ)、ここでは、鳥取藩(因幡国・伯耆国)にあって、前に出した重臣が治めた自分手政治の特別な地区内の武家屋敷(陣屋・自分屋敷)の周辺に、商業的な茶屋が附属的にあったものを言っているものと思われる。

「給人分《きふにんぶん》の者」この場合は、広義の、主君から領地・扶持(俸禄)を貰っている家臣の上・中級の武士を指していよう。下級武士になると、領地はない場合もあろうが、この男、「夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり」とあることから、以上のように採った。でなければ、夕刻から夜間に、年がら年中、自由に、正式には陣屋領である後背の山間などに入って、自由に狩猟をするなどというのは、絶対にあり得ないことだからである。

「亥(ゐ)の刻(こく)」定時法では、ほぼ午後九時から午後十一時。不定期法では、秋は九時頃から十時四十~五十分頃まで。

「山の神の所爲(しよゐ)」個人的には、これには違和感がある。山の神は禁忌に厳しいとされ、山の神の祭日とされる期間の人の入山を嫌い、ウィキの「山の神」には、『長野県南佐久郡』の例として、『大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』とある。当事者の語りの中の『何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』』という異常体験と、やや似ているように見えはするが、私が知っている限りで、確かに「山の神」の行為として――犬をまっ二つに引き裂いて捨てる――という残忍な仕打ちをするというのは、彼女らしくないからである。

2026/09/02

「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注~同怪奇談の部の「目錄」(全)

[やぶちゃん注:今年の六月九日に本文注を終えていたのだが、他の複数のプロジェクトがあったこと、及び、私の意志ではない下界の仕事が意想外に増えたため、最後に「目錄」を附すのを、すっかり忘れていた。ここに、お詫びする。

 底本では「目錄」は、ここからと、ここからに分離してある。原文は御覧の通り、四段組であるが、ブログのブラウザの不具合を考え、二段組とした。また、底本が綺麗に各標題を各段で均等割にしてあることや、字下げ・各中標題(郡名)・標題の中の字空け等は、一部を除いて、再現していない。各話へのリンクも面倒なので、附していない。但し、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」を開いた状態でご覧になられれば、容易に当該話を見出せるので、それでお願いする。]

 

駿 國 雜 志 卷之廿四上目錄

 

   怪    異

    有  渡  郡

天女失羽衣      子安神奇

献蠶產成字      㷠火

猫蜜柑        龍飛舟

石燈龍靈驗      馬骨治病馬

地藏佛食麪      笛吹松

神戱         姥か池

櫻塚         古墳靈驗

靈佛顯梢上      地藏佛好酒

面形有靈       村神忌縨

楠皮治瘧       臺所町無井

奇獸         蛇怪

弁忍田池龍      彌陀佛苗植

軍神坊の奇      狐唄謠

釜領の怪

    庵  原  郡

諸貝化石       北條氏堯現靈

孕女爲崇       龍落爪爲山名

龍爪神異       三角白鹿

白髭社怪       牛化石

布疊         蛸化爲僧

奇兒現橋上      幽靈火

藥師佛乘蟹出現    菊女爲祟

大船若經の奇怪    淸見關觀音告凶

    富  士  郡

雨灰         大宮神木發煙

獵師殺鬼       毒龍受牲

人穴怪        富士河怪

富士山北麓鼠怪    富士沼水鳥怪

人穴奇怪       富士山奇景

曾我祐成幽魂告苦

 

 

 

駿 國 雜 志 卷之廿四下目錄

 

   怪    異

    駿  東  郡

神木鳴動       釜化河伯

箭柄墳奇事      桃澤池奇怪

小龍爲佛身      私雨

    安  倍  郡

國分寺大蛇呑經    國分寺藥師佛奇

賤機山奇瑞      白狐裂死

雨米花        稻荷神爲方違

山吹猫        出世猫

禁杜若謠       禿榎

山姬井        杜若小屋

狸小屋        嘹小屋

逆柱爲怪       良眞靈

花畠怪        僧眞範怨鬼

兩蝕         怪男

奇男         奇火

夕日如火       府中町怪異

飛神         怪雷告凶

怪雲         大風雨遲速

飢饉騷動       狸施灸治

陰摩羅鬼       法明寺楠

椎田池怪       木枯森奇

鯨池龍        海野某顯靈

淺畑池夥池雩     肥付石

老婆殺河伯      異人行翁

祖益化牛       淚雨

異獸         こもとうの靈

山神悅惣髮      山男

產女         生奇竹

壯士契亡妻      うば狐

芭蕉謠の怪      杜若の精靈告凶

御城內犬の奇     神隱

燈明榎の怪      淸水御櫓の奇

瘧神人と媱

    止  駄  郡

水上池惡龍      大蛇

臼祖母岩       鬼巖

不動尊告夢      如意寳網珠

阿彌陀佛遁火災    翡翠啄佛像

富土見井       狼携嬰兒

震動         楚世乃木

狒々         隣村禁婚

鬼火         於魯知

蛇蛻         奇火

朝比奈河奇      蛇崩

白蛇         沙中木佛示靈

蛇玉         木葉天狗

    益  頭  郡

巨蟒化美童      猪田墓

僞の橋        福井長者爲念佛質

神木古楠       觀音奇瑞

逢異叟        めやかし

舟幽靈        楓樹の奇火

怪榎         諸木爲柊

餅米代        靑池雩

幽靈歸舊里謁寺僧

 

 

2026/06/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「幽魂歸舊里謁寺僧」 / 「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注~完遂

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。なお、最後の次行には、下インデント二字空けで『――(卷之二十四下終り)――』とあるが、これは、刊行編集発行した担当者が添えたものであるので、ここで記しておく。

 これを以って、昨年の一月二十八日に起動した「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注を完遂した。他の複数のプロジェクトと同時進行であったので、凡そ一年三ヶ月かかったが、今までの「怪奇談集」の中では、非常にレベルが高い内容であったので、大いに満足している。無論、「怪奇談集Ⅱ」での新シリーズは、近々、始動しようと思っている。

 

 「幽魂歸舊里謁寺僧《いうこん きうりに かへり じそうに えつす》」 益頭郡《ましづのこほり》郡村《こほりむら》、繁林山源昌寺【曹洞、止駄郡《しだのこほり》若王子村洞雲寺末。】に、あり。傳云《つたへていふ》、

「田中の城主本多遠江守正意《まさおき》、家士《かし》山口郡司《ぐんし》某《なにがし》と云《いふ》者、文化二年、江戶に勤番す。

 此年、□月□日、惡疾《あくしつ》を病《やみ》て、死せり。

 其夜、菩提所源昌寺《げんしようじ》に詣《まひ》りて、對面を乞《こふ》。

 和尙、遠路を來り問ふを悅《よろこび》て、物いはんとすれば、忽ち、形《かたち》を失《しつ》して、徃方《ゆきがた》を知らず。

 寺僧、

『奇《き》。』

とし、疑ふ事、凡《およそ》四日、時に、其父、惣右衞門某《そうゑもんなにがし》の許《もと》より、書を送りて、郡司が死を告げ、作善追福《さぜんついふく》を賴めり。

 爰《ここ》に於《おい》て、先《さき》に來《きた》れる時日を合《あは》せ考《かんがへ》るに、卒《そつ》の時尅《じこく》に、聊《いささか》、違《たが》はず。

 幽魂、纔《わづか》、一尅《いつこく》の間《あひだ》に、行程四十八里餘を來徃《らいわう》して、墓地に至り、和尙に面謁《めんえつ》す。

 其志《そのこころざし》、偏《ひとへ》に、祖先と葬穴《さうけつ》を同《おなじ》ふせん事を求《もとむ》るに、あらん。

 是、『最期《さいご》の一念、牛を引《ひく》。』の謂《いひ》にして、誣《そしる》べからざるの怪談也《なり》。

 

[やぶちゃん注:「文化二年」一八〇五年。徳川家斉の治世。なお、本書を書いた旗本阿部正信は文化一四(一八一七)年九月に駿府加番となって、駿府城の守衛などを担った。任期は一年間であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土などを調査して書き上げたものが「駿國雜志」であった。これは、その中の怪奇談集パートに過ぎないが、しかし、このエンディングに覚悟ある家士山口郡司の霊の来訪譚を据えて、実に相応しい静謐にして荘厳(そうごん)なる終曲を奏でていると言える。

 

「四十八里」百八十八・五〇九キロメートル。GoogleAIに「現在の藤枝市にあった田中城から、江戸の田中藩上屋敷までの距離を、旧東海道経由だと、どれぐらいになりますか?」と聴いたところ、約百九十八キロメートル(江戸時代の尺度で約五十里余り)と出た。穏当な数値であろう。

「最期の一念、牛を引。」「牛に引かれて善光寺参り」の伝説通り――信心のなかった強欲な老婆が、軒先に干していた布を「牛」(実は「仏の化身」であった)の角に引っ掛けられて、それを追いかけて行くうちに善光寺に辿り着き、仏の教えに目覚めて成仏した、――という話にあるように、「牛に引かれる」は、仏教説話やその死生観に於いて――他者の導きによって悟りや浄土へ向かうこと――を象徴している表現である。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「靑池雩」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。「雩」は音「ウ」で、第一義は「雨乞(あまごい)の祭り。夏季の日照りの時に雨が降るように祈る祭祀。」の意。第二義に「雨乞いの祭りをする。」。第三義に「虹」の意があるが、これは第一・二義と親和性が強い。]

 

 「靑池雩《あをいけ あまごひ》」 益頭郡《ましづのこほり》郡村《こほりむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村に『靑池(あをいけ)』と云《いふ》池あり。辨才天を安置す。池の主を「なめだらうし」と唱《とな》ふ。

 此ぬし、吠《ほゆ》る時は、近き內《うち》に、極めて、雨、降る。

 其聲、近き所より、返《かへり》て、遠き所に響《ひびき》けり。

 又、旱魃《かんばつ》の年、農夫、藁にて大牛《おほうし》を造り、鉦《あね》・太鼓を鳴らし、踊りて、此うしを、水穴《みづあな》に打入《うちい》れば、必《かならず》、三日の內《うち》に、雨、降る。云云《うんぬん》。」。

 又、云《いふ》、

「此池、いか成《なる》旱魃にも、水、減る事、なし。

 池底《いけぞこ》に、水穴、七《ななつ》ありて、淸水を、吹き出す。

 領主の獵場たる故《ゆゑ》に、常《つね》は、殺生《せつしやう》を禁ぜり。

 凡《およそ》、田中領《たなかりやう》の用水、此靑池より、出《いづ》。其川筋を『六間川《ろくけんがは》』と云《いふ》。此池、遠州佐倉《さくら》の池に續くにや。

 徃昔《わうじやく》、六月、佐倉、池祭《いけまつり》の日、池中《いけなか》に納《をさめ》たりし赤飯櫃《あかめしびつ》の、浮《うか》み出《いで》たる事、あり。云云《いんぬん》。」。

 水脈成《なる》べし。 

 

[やぶちゃん注:「益頭郡郡村」藤枝市郡(こおり)。現行では、二箇所に分かれて、田中城跡北部と、城跡から西に離れた部分に認められる。ここである(グーグル・マップ)。さて、その後者の南西、交差点を挟んだ、南直近に池があるのが判る(グーグル・マップ航空写真)。而して、現行では、藤枝市緑町一丁目内にある「青池公園」なのだが、

ここを「ひなたGIS」の戦前の地図で見てみると――

★「郡」(こほり)の位置が「郡」と「稻川」と「益津下」という地名の境(さかい)のような位置にあり、さらに、明らかにこの全体を示す「益津村」の広域の内である

ことが判るのである。

 さらに、「静岡県」公式サイト内の「中部地域施設概要:青池」には、『青池は、静岡県藤枝警察署の東、国道1号線の南に位置する農業用水を貯留しておくためのため池で、江戸時代以前に築造されたと伝えられ、地元で、民話「青池の大蛇」も伝えられる施設です』。『地元関係者によりますと、この池には昭和20年代までは豊富な湧き水がありましたが、国道1号線の整備とともに池の約3分の1程度が埋めたてられ、その頃から湧水量が減少しているとのことでした。この池は現在も農業用のため池として管理されていますが、池を含む隣接地一帯は、平成12年に青池公園として整備されています。』とあった。まず、この池で、ロケーションは決まりである。

「六間川」グーグル・マップのここで、青池公園の北東の流れが、それであることが判る。

「遠州佐倉の池」静岡県御前崎市佐倉にある「桜ヶ池」(グーグル・マップ)。直線でも二十八キロメートル超えで、あり得ません!

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「餅米代」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]

 

 「餅米代《もちごめしろ》」 益頭郡《ましづのこほり》濱當目村《はまたうめむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「濱當目村、大崩《おほくづれ》の麓《ふもと》の海を『鐘が淵《かねがふち》』と云《いふ》。

 是《これ》、虛空藏堂《こくうざうだう》の鐘《かね》也。

 徃昔《わうじやく》、山崩《やまくづれ》の時、落入《おちいり》て、再度《ふたたび/さいど》、あがらず。

 此所《このところ》、常は、漁事《りやうじ》を禁じて、舟を、よせず。

 もし、大卅日《だいの さんじふにち》に到《いたる》まで、魚獵《ぎよれふ》なき時、爰《ここ》に、網を下《おろ》せば、極《きはめ》て、大獵《たいれふ》あり。手を、むなしくせざるが故に、『餠米代(もちごめしろ)』と號《なづけ》て、漁父等《ぎよふら》、祕藏の所とす。云云《うんぬん》。」。

 是もまた、一奇なる哉《かな》。

 

[やぶちゃん注:「濱當目村」何度も出た、現在の焼津市浜当目(はまとうめ:グーグル・マップ航空写真)。ここで言っている「鐘が淵」は、そこにある「御座穴」の周辺か、その沖の旧呼称であろう。ここ陸側のピークは「虚空蔵山(こくうぞうさん)」で、そこには虚空蔵菩薩を祀る曹洞宗の当目山香集寺(こうしゅうじ)がある。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、当寺は『815年(弘仁6年)、弘法大師空海によって開山された。当初は真言宗の寺で「香信楽寺」という名称であったが、戦国時代の戦乱で焼失した。1617年(元和3年)、曹洞宗の「香集寺」として再興された』。『当寺の本尊は虚空蔵菩薩で、聖徳太子作と伝えられている。「日本三大虚空蔵尊」の一つとしても挙げられている』。『毎年223日には、縁日として「ダルマ市」が開かれている』とある。

「餠米代(もちごめしろ)」これは、殺生をしている漁夫たちが、稲の「稲霊(いなだま)」にあやかって、漁獲のそれを虚空蔵菩薩が下さったものと考えたものであろう。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「怪榎」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]

 

 「怪榎《くわいえのき》」 益頭郡《ましづのこほり》、田中城にあり。傳云《つたへいふ》、

「當城大手內《おほてうち》『白子(しろこ)』と云《いふ》所に、本多豊前守某《なにがし》家士《かし》小池文藏と云《いふ》者の屋敷に、鎭守の稻荷社《いなりしや》あり。

 此邊りに、諸木《しよぼく》を植《うう》るに、悉《ことごと》く、柊《ひひらぎ》となる。

 松のみ、變ぜず。故《ゆゑ》に『松屋敷』と稱す。云云。」。

 一奇《いつき》、と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:「榎」双子葉植物綱バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。博物誌・民俗学は、取り敢えず、私の『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 榎』を見られたい。「お化け榎」「縁切り榎」等、怪異植物物(もの)には、榎は常連である。本書では、先行するものに『阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「燈明榎の怪」』が、ある。

「當城大手內『白子(しろこ)』と云所、本多豊前守某家士小池文藏と云者の屋敷に、鎭守の稻荷社あり」こう表現する以上は、以上は、どれも、田中城内内郭の中になくては、おかしい。しかし、内郭の旧配置などは、家士レベルでは、内郭の辺縁部としか想像できず、全く、判らない。「鎭守の稻荷社」とあるが、それらしいものは、グーグル・マップのここ(旧内郭相当)には見当たらない。一つ、「白子(しらこ)」という名前の由来に就いてのみは、情報を見出せた。個人ブログ「地域の歴史秘話を求めて~日本全国探訪記~」の「静岡県藤枝市」「■2016年6月25日(土)」の中の「1:藤枝(市街)」の「【出来事】」の「①白子町誕生秘話~鈴鹿市白子との関わり~」に、

   《引用開始》

現在の藤枝宿は藤枝市街の商店街になっており、当時の面影は残っていない。

ちなみに、旧藤枝宿白子町は、白子(鈴鹿市白子)出身の小川孫三に因む。

家康の伊賀越えの際に家康を助け、白子から舟で常滑に送った孫三は、家康からのお礼として藤枝に土地を頂き、移住し、白子町の発祥となった。

小川孫三の末裔が営む小川眼科医院に、白子由来記の碑がある。

   《引用終了》

しかし、以上の内容からは、小川孫三は家士ではなく、郭外に住んだ民間人である。何故、家士小池と小川との関係性も判らず、郭内にその「白子」を冠した屋敷があるのかも、判らない。これまでである。因みに、最後に出る由来記を彫った碑は、ここの眼科医院の敷地内である(グーグル・マップ)。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「楓樹の奇火」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]

 

 「楓樹《かへでのき/ふうじゆ》の奇火《きくわ》」 益頭郡《ましづのこほり》、田中城にあり。傳云《つたへいふ》、

「當城、一《いとつ》の郭內《かくない》に『新右衞門屋敷《しんゑもんやしき》』と字《あざな》する空地《あきち》、あり。

 徃昔《わうじやく》、本多《ほんだ》豊前守某《なにがし》、家老《からう》野口新右衞門某、爰《ここ》に住居のとき、園中《ゑんちゆう》に、一《ひとつ》の大楓《おほかへで》、あり。

 此木の梢《こづえ》より、每夜、奇火、燃出《もえいで》たり。

 後《のち》、住む者、なく、終《つひ》に、空地と、なれり。

 楓は、今に繁茂し、奇火も又、徃々《わうわう》、見る者、あり。

 

[やぶちゃん注:「楓樹」ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer で、種は多いが、特に本邦で代表的な種は、紅葉(もみじ)の代表種である、

イロハモミジ(伊呂波紅葉) Acer palmatum

である。

「新右衞門屋敷」恐らく藤枝市の公式パンフレットと思われる「田中城散策コース」PDF・『〔第5版/平成22年4月〕』のクレジット有り)の中に、地図入りで解説があるが、その『三之丸土塁と家老屋敷跡』に、『田中城の三之丸を取り囲むように築かれたのが、三之土塁です。記録によれば、総延長544間(約980mありました。三之丸には、田中藩本多家』(ほんだけ)『の家老屋敷3軒の広大な敷地がありました。この場所は、本多家譜代の家老・馬渕新右衛門の屋敷に当たります。』とあった。さても、本文注の「家老野口新右衞門某」とあるのだが、

この「野口」=「のぐち」は、「馬渕」=「まぶち」の誤り

ではあるまいか? 識者の御意見を俟つ。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「舟幽靈」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]

 

 「舟幽靈《ふないうれい》」 益頭郡《ましづのこほり》城の腰村《じやうのこしむら》、及び、燒津村等《など》の海に、あり。傳云《つたへいふ》、

「每年、七月十五、十六兩日《りやうじつ》の夜《よ》、深更に及《および》て、海上に、人の悲しむ聲、あり、更に、其所《そのところ》を定めず。

 或《あるい》は、朦朧《もうろう》たる沖に、忽ち、數十《すじふ》の白帆《しらほ》を顯《あらは》して、徃來《ゆきき》す。

 里人《さとびと》、是を『舟幽靈』と號《なづ》く。

 凡《およそ》、此《この》兩日《りやうじつ》は、漁父《ぎよふ》、かたく、舟を出《だ》す事を禁じて、獵《れう》をなさず。云云《うんぬん》。」。

 是《これ》、亡者《まうじや》の執念《しふねん》、消滅せずして、此怪をなせるが故に、獵事《りやうじ》を、とどめて、追福《ついぶく》に備《そなふ》るの心底《しんてい》成《なる》べし。

 

[やぶちゃん注:「城の腰村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、現在の『焼津市城之腰』(じょうのこし)で、『北新田(きたしんでん)村の南に位置し、益津(ましづ)郡に属する。西は堀(ほり)川(黒石川)を境に焼津村、東は駿河湾に臨み、焼津湊がある。』とある。グーグル・マップのここである。この村名の名乗りの意味に疑問があったので調べたところ、「焼津市」公式サイトの「焼津市の歴史・文化」「昔話」の中の「鰯ヶ島の御殿屋敷」(「鰯ヶ島」は「いわしがしま」と読み、現在、海岸沿いの地名であり、現在の城之腰に、南で接する海浜である(グーグル・マップのここ)。但し、過去に島であった事実はない。但し、島があったという伝承はあるようである)に以下のようにあった(行空けはカットした)。

   《引用開始》

鰯ケ島に、今でも近所の人々から御殿とよばれている場所があります。そこには昔、御殿屋敷があったと言われています。

その場所は、鰯ケ島から城之腰の札の辻の小路にかけての、海がわのあたりです。

このあたりは、他の場所より、1メートルから1.5メートルくらい高くなっています。屋敷の一部は、今では、海の中にしずんでいるそうですから、その広さは見当もつきませんが、かなりの広さだったのでしょう。

なぜ御殿屋敷とよばれるようになったのでしょうか。

江戸時代に作られた本で、駿河の国(今の静岡県)のことが書かれている「駿河記」や「駿河雑誌」の文の中に、「将軍が京都へ上るとき、田中城が将軍のお休み所になる。そのため、田中城の城主は、鰯ケ島のうら畑の、松の大木のある所に仮の館を作り、そこに移って浜の警護をした」と書いてあります。

この館のことを、人々は「御殿屋敷」とよぶようになったということです。また、札の辻の小路に、「二門小路」と今でも呼ばれているところがあり、館の二の門だったとも考えられますが、たしかなことはわかりません。

もう一つ、こんな言い伝えが残っています。

大坂夏の陣に敗れた大坂方の武士三人が、この地にやって来ました。三人は、ここに住みつき、海岸の松のある付近に畑を作り、農作物を作ったり、漁師の手つだいをしたりして生活していました。

ところが、三人のうち二人が、きびしい労働と心配ごとがかさなったためか、つづいてなくなりました。残った一人は、悲しみにくれていましたが、近所の人の世話で、近くの漁師のむすめと結婚しました。

二人は一生けんめい働いて、このあたりでは見たこともないような、京都風の家を建ててくらしました。この家があまりにもりっぱであったので、人々は、「御殿のようだ」、「御殿屋敷だ」というようになったということです。

この二人には、子どもがなかったため、二人がなくなると、あとが絶えてしまったそうです。

   《引用終了》

これを読むに、ずっと昔は、やや高いここに、満潮時に海水が左右から回り込んで、浅い水路或いは潟が出現し、島のように見えたからとすれば、「鰯島」は納得出来るのである。而して、そこに北で並ぶ「城之腰」も、以上に、『鰯ケ島から城之腰の札の辻の小路にかけての、海がわのあたりで』(☜「!」)『このあたりは、他の場所より、1メートルから1.5メートルくらい高くなってい』るからして、人間の「腰」のように、「周囲より一段高くなっている斜面や山裾・段丘の端」であり、即ち、これは、規模のごく小さい「土塁」、原始的な天然のプチ「城砦」のようであると言える。さればこそ、「城の腰」という名を負うて、なんら、不自然ではないのである。

「燒津村」同前に拠れば、現在の『焼津市焼津一―六丁目・本町(ほんまち)二―六丁目・小川新町(こがわしんまち)一丁目・焼津』が相当する。『小石(こいし)川河口の南に位置し、益津(ましづ)郡に属する。古代の焼遣(やきづ)・焼津(やいつ)の遺称地とされ、中世には焼津(やいづ)郷とよばれた。村内に式内社焼津(やいづ)神社があり、集落は同社の北と東に形成された。』とある。

「舟幽靈」これに就いては、私の過去の電子化注で、非常に多くある。中でも、内容が豊富であるもの、文芸性の強いものをチョイスして、以下に掲げておくので(古い記事順)、見られたい。これらは、古いものも、既に正字化不全を直してある。

『柴田宵曲 妖異博物館 「舟幽靈」』

「古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事」

『小泉八雲 化け物の歌 「七 フナユウレイ」  (大谷正信譯)』

『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「舟幽霊」』

最後のものは、最初に掲げたものと同一作者のものであるが、テッテ的に注を増してあり、多くの私の舟幽霊関連の記事のリンクも添えてあるので、或る意味では、最も使い勝手が良いと言える。

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