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カテゴリー「続・怪奇談集」の15件の記事

2022/06/29

多滿寸太禮卷第四 上杉藏人逢女强盜事

 

        上杉藏人(くらんど)、女の强盜(ごうだう)に逢ふ事

 

 過《すぎ》し亨德《きやうとく》年中に、上杉憲忠の一族に、上杉藏人國忠といふ者あり。

 憲忠、討死の後、鎌倉を辭して、播州赤松に、よしみあれば、

『うちこへ、一先(ひとまづ)、賴まばや。』

と思ひて、ひそかに旅の用意して、供をもぐせず、只一人、住みなれし里を立ち出《いで》て、足にまかせて、急ぎける。

 元來(もとより)、智謀すぐれて、弓矢・打物《うちもの》に達し、廿(はたち)あまりの若者なれば、人を人とも思はず、世の乱れの最中なれば、山賊・海賊の、道にあふれて、更に往來もたやすからねども、これを事ともせず、唯一人登りける心のほど、いと恐ろし。

[やぶちゃん注:「亨德《きやうとく》」一四五二年から一四五五年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。底本版本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」・宝永元(一七〇四)序版・PDF)は「こうとく」と振る。「享徳の乱」(享徳三年十二月二十七日(一四五五年一月十五日)~文明十四年十一月二十七日(一四八三年一月六日))は、二十八年間に亙って関東を中心に断続的に続いた内乱。第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に騒乱が拡大した。現代の歴史研究では、この乱が関東地方に於ける戦国時代の始まりに位置付けられている)で知られ、まさに本篇もそれ絡み。

「上杉憲忠」(永享五(一四三三)年~享徳三(一四五五)年)は関東管領で足利持氏執事であった上杉憲実の子。永享の乱で主君であった鎌倉公方足利持氏を滅ぼした後、父とともに出家したが、長尾景仲らの要請により還俗、文安五(一四四八)年、関東管領となった。後、持氏の子成氏が公方に就任すると対立、成氏邸で結城成朝(ゆうきしげとも)らに暗殺された。

「上杉藏人國忠」不詳。山内上杉氏の系図を見たが、見当たらない。

「播州赤松」現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)赤松(グーグル・マップ・データ)。]

 ある山路《やまぢ》にさしかゝり、日は既に暮れかゝる。

 足にまかせて、麓に急ぎけるに、とある片岸(かたぎし)に、六尺あまりの大(だい)の法師、ざいほうを引《ひつ》さげて、仁王立《にわうだち》に、つゝたち、跡につゞきて、五、六人、おなじさまなる大のおとこ、得もの得ものを持ちて、つゞきたり。

 藏人、すかし見て、

「すは。くせもの、ござんなれ。」

と、中々、恐るゝけしきもなく、

「道を急ぐ旅のものなり。速(すみや)かに、そこをひらきて、通されよ。」

と、詞(ことば)をかけたりけるに、法師云ふやう、

「我々は、人の物をわが物にして世をわたる者共なれば、命おしくば、太刀・かたな・衣裝をぬぎて、通られよ。」

と、

「ひしひし」

と、取りまはす。

 藏人、云《いふ》やう、

「わが身は一人なれば、敵對すべきやう、なし。命こそ寶なれば、ちかふよつて、面々に、取給へ。」

と、ちかぢかと、つめかけ、ひそかに太刀をぬき持つて、大の法師の眞向(まつこう)、ふたつに、

「さつ」

と、わりつゝ、いで立つたる男の、左の耳の際より、肩先へ切り付けたり。

 しばしも、こらへず、左右に倒れけるに、

「すは、しれ者よ。」

と、跡の男、腰なる貝を吹きければ、四方(よも)の山々より、同じく貝を合《あはせ》て、手に手に、松明(たいまつ)ふつて、いくらともなく、蒐(か)け來(きた)る。

 藏人、

『大勢に取り篭(こ)められては、叶はじ。』

と思ひければ、あたりの者ども、蒐(か)けちらし、足を計(ばかり)に落ちたりけるに、思ひもよらぬちか道に先(さき)をまはられ、せんかたなく、松の大木《たいぼく》のしげりたるに、よぢのぼり、梢に身をかくし、息をとゞめてゐたり。

[やぶちゃん注:「片岸(かたぎし)」「きし」は「断崖」の意。片方が高く切り立って、崖になった所。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。

「ざいぼう」底本では「ざいほう」。シチュエーションから「ざいぼう」で、「尖棒・撮棒・材棒」などと漢字表記する。「さきぼう」の音変化。本来はヒイラギなどで作った災難除けの棒であるが、ここは、武器として用いる堅木の棒のこと。恐らくは法師体(てい)の盗賊に持つそれであるから、地獄の獄卒のアイテムとして知られる鉄尖棒(かなさいぼう)で、打ち振って相手を倒す、太い鉄棒の周囲に多くの鋭い突起があるものであろう。

「しれ者」「癡(痴)れ者」であるが、ここは「手に負えない者・乱暴なもてあまし者」或いは「その道(武芸)に打ち込んでいる強(したた)か者」の意である。

「跡の男」後ろにいた男。

「貝」法螺貝。

「蒐(か)け」この場合の「蒐」は「狩りあつめる」で、捕えるために駈け参ずることを意訳的に訓じたものであろう。以下の「蒐(か)けちらし」の主語は国忠で「返り討ちにし」の意。

「足を計(ばかり)に落ちたりけるに」足早に襲撃から逃れたが。]

  かくて、數(す)百人よせ集まり、草を分けて尋ね求むるに、行き方、なし。

 大將と覺しき男、

「よしよし、一人などをめがけて、詮なき骨を折るものかな。兼ねて示せし信元(のぶもと)が家《いへ》に、こよひ、おし入《いる》べし。手配(てくばり)せんまゝ、しばらく、よせ集まるべし。」

とて、大幕《おほまく》引《ひき》、大づゝ、あまた、すへならべ、かゞりを燒上(たきあげ)たりければ、日中(につ《ちゆう》)のごとし。

 藏人がのぼり居(ゐ)たる松の木を、眞中(まんなか)になしてぞ、あつまりける。

 

Uesugikunitada

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版の挿絵をトリミング補正して用いた。]

 

 かくて、大將と覺しき者は、色白く、尋常に、容貌、いつくしく、としの比(ころ)、廿あまりにして、かね、くろく、まゆをつくり、髮をからわにゆひ上げ、立(たて)ゑぼしを引《ひつ》こみ、かりぎぬの下に腹卷(はらまき)して、大口《おほぐち》のそば、高々と、さしはさみ、誠(まこと)に、器量・こつがら、千萬騎の大將とも、みえたり。

 床肌(しやうぎ)[やぶちゃん注:「肌」はママ。]に腰をかけたるをみれば、女なり。

 十八、九斗りなる女二人、おなじ裝束したるが、左右に候す。

 そのほか、ありとあらゆる、鬼とも人とも見えぬ山賊ども、數(す)百人、並びゐて、とりどり、評定しける。

『哀れ、是れは、日比(ひごろ)聞きつたへたる女强盜(《をんな》ごうだう)『今巴(《いま》ともへ)』といへる成るべし。器量といひ、姿といひ、いかにもして吾が妻として、暫く世に出《いづ》るまでの助けともせばや。』

と思ひて、なりを靜めて居(ゐ)たりける程に、酒宴、事(こと)終はり、亥の尅(こく)計りにも成りければ、

「時分、よきぞ。」

と、云ほどこそあれ、數(す)百人の者共、吾おとらじと、打立《うつたち》けり。

[やぶちゃん注:「信元(のぶもと)」不詳。当地(場所不詳)の豪族であろう。

「かね、くろく」「鉄漿、黑く」。お歯黒を黒々と塗っているさま。ここは一種の相手への威嚇のためであろう。

「からわ」「唐輪」髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作るもの(ここは実戦用で、本文及び挿絵で彼女は立烏帽子を被っているから、後頭部にそれを垂らしていると読むべきである)。鎌倉時代の武家の若党の髪形であった。「唐輪髷」(からわまげ・からわわげ)とも呼ぶ。後に児童や女の髪型となったそれのルーツではある。

「腹卷(はらまき)」中世甲冑の一様式。但し、中世初期の諸記録や軍記物語などに見られる腹巻は、右脇で引合せる甲冑であったが、後に名称に混乱が発生し、「胴丸」(どうまる)と称されていた背面を引合せ(背割(せわ)り)とする甲冑と名称が交替し、右引合せ様式を「胴丸」、背面引合せ様式を「腹巻」と称するに至った。大鎧(おおよろい)や胴丸より遅れて出現したもので、鎌倉時代以前の遺物にないことなどから、鎌倉末期頃の発生と推測される。軽快で機能性に優れ、引合せを背面に設け、しかも隙間が出来ることを特色とする。原則として兜・袖具を伴わない(非常に詳しい小学館「日本大百科全書」の頭の部分を主文に用いた)。但し、「吾妻鏡」の実朝暗殺の朝の大江広元の進言に、実朝に「腹卷」の着用を促すシーンがある(頼朝の東大寺供養の際に「腹卷」を着されたという前例を広元は添えた。しかし、文章博士源仲章が口を挟んで、「大臣大將に昇るの人、未だ其の式、有らず。」と咎めた結果、装着しなかった。私の若書きの小説「雪炎」を御笑覧あれ)。しかし、「吾妻鏡」は再編集版であって、成立時期は鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年頃とされているから、寧ろ、この「腹卷」の出るが故に、その成立の後代であったことが判るとも言えよう。

「大口《おほぐち》」「大口袴(おほくちばかま)」。裾の口が大きい下袴。元は、平安以降に公家が束帯の際に表袴(うえのはかま)の下に用いたもので、紅又は白の生絹(すずし)・平絹(ひらぎぬ)などで仕立ててある。鎌倉以後は、武士が直垂・狩衣などの下に着用した。ここは無論、後者。

「今巴(《いま》ともへ)」言わずもがな、「巴」は女荒武者として知られた木曽義仲の妻。

「亥の尅(こく)」午後十時前後。]

  藏人も、木より下(おり)て、跡につきて行くほどに、さも、おびたゞしき屋形《やかた》におし入《いり》、右往さをうに、おし破り、込み入ける程に、屋形の内に、思ひよらぬ事なれば、ねおびれたる男女(なん《によ》)ども、うちふせ、切りたふし、猶、奧へぞ切《きつ》て入《いり》にける。

 亭(あるじ)の男と覺えて、大長刀(《おほ》なぎなた)を引《ひつ》そばめ、込み入《いる》ものを、散々に切りちらし、八方(はつぱう)を、なぐり立《たち》けり。

 盜人(ぬす《びと》》共も肝をけし、表をさして崩れ出けるに、大將、これをみて、白柄(しらゑ)の長刀、かいこふで、既に馳せ向かふ。

「爰(こゝ)ぞ、能き所。」

と、藏人、

「つ」

と出て、袖にすがり、

「爰を、吾れにまかせ給へ。年比(としごろ)思ひかけ侍りつるに、よも御承引(せういん)あらじと、いひも出ださず、侍る。かくて戀しなんも同じ命(いのち)なれば、かれと討死して、君(きみ)が命に、かはり侍らん。」

とて、太刀、ぬきそばめ、はしりより、長刀(なぎなた)に、しとゞ、合付(《あひ》つけ)めぐりて、引《ひき》はづし、右の腕(かいな)を、打おとし、ひるみ、たゞよふ所を、やがて、首を打おとし、

「入《いれ》や、者共。」

と下知(けぢ)しければ、

「我れ、おとらじ。」

と亂入《みだれいつ》て、財宝、悉く、うばい取つて、手負を、かこみ、歸るをみれば、遙かに、もとの山奧(《やま》のおく)に、人もかよはぬ深谷(みたに)の洞(ほら)に入《いり》ける。

 藏人も、おなじく、續きて入てみれば、洞の内、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]少《ばかり》行きて、さも、けつかうなる屋形(やかた)ありて、數(す)ヶ所の家數《いへかず》あり。

 をのをの、をのが内に入、奪ひ來る財宝を、分かちあたへける。

 藏人にも、人なみに、わかちとらしけるを、藏人、云やう、

「さきに申《まをし》つる、御命《おんいのち》にかはり奉(たてまつ)る者也。いかで、財產を、たうべき。」

と、いへば、外(ほか)の者共に與へとらしぬ。

 かゝるほどに、をのがさまざま、かへりぬ。

 女性(《によ》しやう)、藏人が手を取《とり》て、遙かに、いく間(ま)ともなく過ぎて、寢殿とおぼしき所にともない、

「さるにても、いかなる人にて、おはすぞ。」

と、とへば、

『今は。つゝみても、よしなし。』

と思ひ、初終(はじめをはり)を語りければ、

「さればこそ、只人(たゞ《びと》)とも覺えね。わが身は、都(みやこ)ちかき、こはたの里、何某(なにがし)と申《まを》者の娘成りしが、十七の春、忍びの男を吾れを戀ふる者にうたせ、その敵(かたき)を打ち、所(ところ)のすまひも叶(かな)はずして、そことなく、まよひ出、さきに討たれ候へつる法師にいざなはれ、此の所にかくれ、そのほか、あまたの女を、かどはし、かやうにあらぬ事に世を送り侍る。此の近邊に住居(すまゐ)する山賊ども、皆、わがけんぞく也。吾れ、妻を持つ事、數(す)十人、然(しか)れども、心に叶ふ夫《をつと》、なし。みな、世を早くす。君(きみ)、かはらぬ心ましまさば、千代かけて契るべし。」

とて、酒など取り出し、食をすゝめ、

「夜(よ)も更けぬらん。」

とて、手をとりて閨(ねや)へいりぬ。

 かくて、打ちとけ、いねけるに、すべて、此世の人とも、おぼえず、心地まどひておぼえければ、

『是れにぞ、おほくの者は、死にけん。』

と、おぼゆ。

[やぶちゃん注:「ねおびれたる」「寝おびれたる」「ねぼける」或いは「怯えて目醒める」の意。後者が相応しい。

「わが身は、都(みやこ)ちかき、こはたの里、何某(なにがし)と申《まを》者の娘成りしが、十七の春、忍びの男を吾れを戀ふる者にうたせ、その敵(かたき)を打ち、所(ところ)のすまひも叶(かな)はずして、そことなく、まよひ出」ここはちょっと文脈に躓く。私は、不埒にも私の閨に「忍び」込んだ憎っくき「男」があったの「を」、他に私「を戀ふる者に」命じて、その男を「うたせ」て、「その敵(かたき)を打」ったものの、そのことが露見して、実家に住まうておることも「叶(かな)はず」なって流浪した、という意味であろう。或いは、その忍び込んだ男は土地の相応の家の者であったからであろう。或いは、敵を討たせた彼女を恋した男が犯人として搦めとられ、女の父が真相を知って困ったからかも知れない、などと推量して、個人的には理解した。

「さきに討たれ候へつる法師」国忠が真っ二つに斬り殺した法師である。「今巴」は、この法師の死には、何らの憐憫も感じていないところが(即座に酒宴を開いているではないか)、やはり、この女、恐ろしい、と私は思ったことを述べおく。

「妻」「夫」の意。]

 天性(てんせい)、此藏人は、人にすぐれて、すくやか者なりければ、更にまどはず、とし月を送りける。

 女も、

『此人ならでは。』

と、世になき事、思へり。

 藏人、つくづく思ひけるは、

『一旦、かく、世を世とも思はず、何に不足もなく、月日を心安く暮らすは、さる事なれども、さすがに氏(うぢ)ある家を、山賊・强盜(ごうだう)と呼ばれんも、口をし。ひそかに忍び出ばや。』

と思ひ、あらましを書き置きて、都をこゝろざして登りけるに、鳴海繩手(なるみなわて)にさしかゝりて、日も漸々(やうやう)暮れければ、

「熱田まで。」

と、心急ぎてゆくに、片原(かたはら)に人を葬(さう)する塚原あり。

[やぶちゃん注:「鳴海繩手(なるみなわて)」天白川左岸の愛知県名古屋市緑区鳴海町(グーグル・マップ・データ)であろう。江戸時代には鳴海宿(尾張藩は東の押さえとして重視した)として栄えた。「繩手」(田圃(道))とあるが、近代まで鳴海の東西は広大な田圃(道)である(「今昔マップ」)。「熱田」熱田神宮(グーグル・マップ・データ)は、そこから北西に五キロ弱の位置にある。]

 いくらともなき白骨(はつこつ)ども、

「むくむく」

と起きあがりて、藏人にとりつくを、踏みたふし、けちらしけるに、限りもしらず、むらがり集まり、いやがうへに重なりければ、せんかた、つきはて、怖ろしくおぼえ、逸足(いちあし)を出して逃げたりけるが、漸々、熱田の御社(みやしろ)の前にかけ上《あがり》、ため息をつぎて、休(やす)らひ、夜(よ)も更けければ、社の拜殿に、しばらくまどろみけるに、曉方(あかつき《がた》)に、かの白骨ども、さも怖ろしき形(かたち)と成りて、をのをの、御階(みはし)の本《もと》によりて、

「此御社に、われわれ裟婆の敵(かたき)、こもり居(ゐ)侍る。哀れ、給はりて、修羅の苦患(くげん)をも、たすからばや。」

と、一同に訴へければ、暫くして、神殿の御戶(みと)を開きて、衣冠正敷(たゞしき)神人、出向(《いで》むか)ひて、

「汝らが申《まをす》所、その斷《ことわり》有《ある》に似たりといへども、此者、已に發心(ほつ《しん》)の志(こゝろざし)を、まふく。たとへ、下し給はるとも、よも修羅の業(ごう)は、やむべからず。とくとく、退散すべし。」

と仰ければ、

「此上は、力、なし。」

とて歸ると覺えて、夢、さめぬ。

  藏人、思ふやうは、

『このとし月、よしなき事に組(くみ)して、多くの者の命を、とりぬ。今、目前に報ふべきを、明神、助けさせおはします事の、有がたさよ。』

と、感淚をおさへかね、夜も漸々(やうやう)明ければ、則ち、本髻(もとゞり)切《きつ》て發心し、諸國修行しけるが、猶も、むかし、覺束なく、東國行脚の折ふし、有りつる方を尋ねけるに、いつしか、屋形のかたちもなければ、誰(たれ)にとふべきよすがもなくて、草のみ茂りて、その所とも、みえざりければ、

 あはれなりこゝはむかしの跡かとよ見ざりし草に秋風ぞふく

盛者必衰無常迅速の斷《ことわり》、始めておどろくべきにあらずといへ共、一生の間に六道を經たる心地して、猶も、諸國を、めぐりける。

 我が一期(ご)の行業《ぎやうごふ》を思ふに、惡事をのみ好みて、殖《うゑ》たる善根、なし。よはひ已にたけて、冥途の旅(たび)に近づきぬ。何事を賴みてか、黃泉(くわうせん)の道の糧(かて)とせん。始めて習ひおこなふとも、佛法の理(り)もさとりがたし。いかなる計(はかりごと)をしてか、淨土(じやうど)の因(ゐん)ともせまほしくて、つらつら、案じけるが、

『世に、人の難義をすくふほどの、大きなる善根、なし。山賊・强盜は、人を殺し、世に恐るゝ事、上なき事なれば、我れ、强盜の身にまじわりて、人を助《たすく》る計(はかりごと)をして、ひそかに念佛して、往生の素懷(そくわい)をとげん。』

と思ひしたゝめて、京都にのぼりて、

「强盜にまじはらん。」

といふに、さる名人(めいじん)なれば、悅びて、伴ひける。

 扨、人のもとへ入《いる》時は、眞先(まつ《さき》)にうち入《いり》て、

「しばし、しばし。」

とて、或は、人をにがし、物をかくさせて、うわべは、はしたなくみせて、ひそかに人を助けけり。

 かくして、物を分くる時は、

「入事《いること》あらば、申《まをす》べし。當時は、用、なし。」

とて、物を、とらず。

 友も、恥ぢ、思ひけり。

 かくて、念佛の功、他念、なかりけり。

 有る時、からめとられて、檢非使《けびいし》のもとに預け、いましめらる。

 奉行の者共の夢に、金色(こんじき)の阿彌陀の像をしばりて、柱に結ひ付たりとみるに、驚きて、あやしく思ひて、先《まづ》、此法師を解きゆるして、

「御坊の强盜する心は、いかに。」

といふに、

「御不審にや及び候。つたなく不道(ふだう)にして、只、物のほしさにこそ仕候《つかまつりさふら》へ。」

といへば、

「唯、すぐに、いはれよ。用ありて、とふ也。」

といへども、只、おなじ體(てい)にぞ、たびたび、こたへける。

 檢非使、夢の樣を語りて、

「あまりのふしぎさに、かく問ひ侍る。」

といへば、此法師、

「はらはら」

と泣きて、

「もとは子細あるものゝふにて候へども、何となく、後世(ごぜ)の事、恐ろしく覺え、武勇のみちに馴れたる故、『同じくは、此道を以て善根ともせばや。』と思ひ侍る。强盜の、徒(いたづら)に人を殺し、幾許(そくばく)の物を掠(かす)めとる事、不便(ふびん)におぼへ、命をも助け、物をも、かくさせてまはり、此外は、一向念佛を申さむと思ひ立て、かゝる業《ごふ》をなん、仕るなり。此事、心斗りに思ひよりて、人にも語る事、侍らざりしが、扨は。佛の御心に叶ひては、し候にや。」

と、淚を流し、隨喜しける。

 此義、上に奏聞(そうもん)して、ゆるし給ひけるが、其後は、終るところを、しらず。

 その、群類に交じはりて、衆生を濟度しけるも、ひとへに菩薩の誓願に、ひとし。誠(まこと)にきどく成《なり》し事共也。

[やぶちゃん注:最後の展開は。ちょっと珍しく面白いと思う。

「あはれなりこゝはむかしの跡かとよ見ざりし草に秋風ぞふく」和歌嫌いなれば、原拠や参考歌は不詳。]

2022/06/09

「續沙石集」巻四「第二 孝行坂得名事」

 

[やぶちゃん注:本書は鎌倉時代の無住の仏教説話集「沙石集」を範として、江戸後期浄土真宗仏光寺の僧南溟が書いたもの。全六巻・六十二話。延享元(一七四四)年京都で板行された。

 底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらから映像を視認して起こした。カタカナをひらがなに代え、読みは送り仮名で出すなどして(そのため一部の踊り字は正字化した)、一部に留めた。句読点・濁点は私が、適宜、附し、段落も成形した。「*」は、以下が、筆者評言となるので、挿入した。歴史的仮名遣の誤りはママである。漢字表記は最も一致するものを選び、字体で迷ったものは正字を用いた。踊り字「〱」「〲」は総て正字化した。]

 

 第二 「孝行坂(かうかうざか)」得名(とくめう)の事

 丹後の國に「孝行坂」と云ふ所あり、往古(わうご)は隣村(りんそん)の名を以つて呼びたるなり。

 後に此の坂の奥なる山家(やまが)に貧なる母子あり。其の子は女にて、年の程、廿歳(はたち)ばかりなるが、方々と百姓の家にやとはれありき。少しの米・錢を取りて、母を養育するに、女の事なれば、はかばかしき事もなき故に、村の者ども、云はく、

「何方(いづかた)へなりとも奉公すべし。母一人は、いかにもし、介抱しあたふべし。」

と。

 此の娘、孝心ありて、

「母を、一人指し置き侍らん事、本意(ほい)ならず。」

といへども、頻りにすゝめて、坂をこえ、里中(りちゆう)の大百姓の方(かた)へつかはしけり。

 一年程も勤めける中(うち)に、朝夕、張函(はりばこ)の盖(ふた)をあけ、拜する業(わざ)あり。傍輩(ほうばい)も是れを不審に思ひ、主人も听(き)きて[やぶちゃん注:「聽」の異体字。]、いぶかしく思ふ。されば、

『守りとする佛像もや有らん。』

と察するに、又、心を付けて、傍輩の女、見るに、外(ほか)に佛像と思ふものなく、けしかる女の面(めん)、ひとつ、見ゆ。

 弥(いよいよ)不審に思ひ、主人につげぬ。

 主人、この女の野邊(のべ)に往きたる時、右の張函を見るに、彼(か)の靣(めん)より外に、物、なし。されども、亦、もとの如くして、置きぬ。

 後(のち)、主人、試みに鬼の面を調へて、人しらぬ樣(やう)に、彼の女の靣と取り替へ置きたり。

 右の女、其の日のくれ方に、又、張箱をあけて拜せんとして、鬼の面を見て、きもをけし、忽ちに淚をながせしが、それとも得(え)いはずして、主人に對して云はく、

「今夜(こよひ)、御暇(をいとま)玉はりたし。在所に遯(のが)れがたき用事侍る。」

と。

 主人云はく、

「用事あらば、つかはすべし。然(しかれ)ども、二、三里もへだゝりたる在所、ことに坂路(さかみち)なり。斯(か)く暮れに及んでは、いかゞ。明朝(めうてう)の事にすべし。」

と。

 女、重ねて、

「明日(あす)は、とく歸るべし。常に通ひなれたる坂路、夜とても、苦しからず。何とぞ。」

と云ふにぞ、主人も、

「さらば、兎も角も。」

と、いひてけり。

 女、風呂敷、手に持ちて出(いで)て往くに、日(ひ)、已に沒(もつ/いる[やぶちゃん注:右/左のルビ。]坂の樹(き)の陰(かげ)、星の光り、初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時頃。]も過ぎがてに、峠にかゝるに、大なる男、二人、立ち出でて、

「何(なに)にても持ちたるものを渡すべし。」

と云ふ。

 女、驚きて云はく、

「われは奉公人なり。此の末(すえ)の村に母を置き侍るが、用事ありて往く身の、何も進(まいら)する物、なし。」

と。

 男、猶(なを)も、きかず、其の風呂敷を奪ひぬるに、面の樣(やう)したるものより外、なり。男の云はく、

「此れは取りても无益(むやく)ならん。」

と、なげかへす。

 女、うれしく、取りてゆかんとするを、二人の男、云はく、

「今夜(こよひ)は仕合(しあは)せあしゝ。せめて、此の女を連れゆき、茶にてもたかせ侍らん。」

とて、引きたてゆく。

 女、ことはりをいへども、聽きいれず、山の奥、十町ばかりも連れゆくかと覺ゆる處に、小家(こいえ)あり、其の家に入るに、五、六人も男ども居て、

「今夜(こよひ)の仕合せ、いかゞ。」

と問ふに、兩人、こたへて云はく、

「不埒(ふらち)なり。女、一人、通りける程に、せめて茶を燒かせ侍らんと召し連れたり。」

と。

 男共、

「よくこそ。」

と云ひて、やがて、皆々、博奕(ばくえき)をせしほどに、金銀・錢、多く取りちらしけり。

 女は、茶をたきて、是非なく持ちはこびて、彼等に、のませける中にも、

『在所の母の𣦹(し)し玉ひて、鬼になり玉はんしるしにや。此の面の函(はこ)の中にありて、我が拜(はい)したる面のなきは。』

と淚をながし、右の鬼の靣を取りいだし、拜しては、又、ながめ、或は、我が顔に掛け、案じ、わづらひたる處に、男ども、

「茶を持ち來たれ。」

と呼びければ、何意(なにごゝろ)もなく、面を掛けながら、茶を持ちゆきたり。

 男共、これを見て、肝をけし、何かを[やぶちゃん注:何もかも。]、打ち捨て、散々(ちりじり)に、にげ去りけり。

 此の女、

『不思議の事かな。』

とのみ思ふて、彼の鬼の面を掛けたる事は㤀(わす)れて、一人居たる所に、老僧一人、來たつて、

「汝、在所へ歸りたきや。」

と。

 女の云はく、

「在所へ歸りたきは、やたけに思ふことに侍れども、夜中にて、方角は、しれず、ことに、山路(やまぢ)のけはしき。仕方(せんかた)もなく候ひぬ。」

と。

 老僧、

「さらば、我れ、案内せしむべし。其の風呂敷を。」

とて、取り、かの捨て置きし金銀、ことごとく、取りあつめ、風呂敷に、つゝみ、

「是れは汝に備はりたる世財(せざい)なり。持ち來たれ。」

と、なり。

 女、云はく、「是れは何者の財寳ともしれず、取るべき樣(やう)あらじ。」

と。

 老僧の云はく、

「さらに苦しからじ。我れ、是れを與(あた)ふ。」

とありて、持たさしめ、路(みち)を案内し玉ふに、ほどなく、本道(ほんみち)出でつゝ、坂を越ゆるまでも、いたはり玉ふて、

「是れより、能く路をしらめ。」

と、わかれてかへり玉ふ。

 女、あまりの嬉しさに、『あとを見をくらん』と顧みるに、見失ひたり。

 さて、在所にいたり、母親の宿(やど)に音信(をとづれ)ければ、母の聲として、

「何物ぞ。」

と。娘、

「かへり侍る。」

といへば、母、立ち居(ゐ)も心にまかせぬほどなれど、娘の來たる嬉しさ、又、夜中に來たる氣づかはしさに、いそぎ、出でて、戸を明けぬるに、娘にはあらぬ、鬼女(きぢよ)なり。

 母、驚きて、仆(たふ)れ、頓(にはか)に生き絶えたり。

 娘、こゝろえず、

「こは、いかん。」

と、さはぎぬる間(ま)に、鬼の面をかけたるを思ひ出し、

「此れに驚き玉ひけん。ことはり。」

と思ひて、此れを取りすてゝ、水をそゝぎ、呼びいけゝるに、母は正氣づき、扨(さて)、みれば、我が娘なり。

 母の云はく、

「いかなれば、遠方より、夜更けて來たりたる事や。いかなれば、娘の顔の鬼と見えたるや。」

と。娘云はく、

「奉公に出でたる節(せつ)より母を拜する心地にて、女の面を、一つ、とゝのへ、張函に入れ置きて、朝夕、拜し上(たてまつ)る處に、この鬼の面に替はりたり。『扨は母人(ははびと)の御身に不吉の事あらん』と思ふとひとしく、胸、うちさはぎて、主人に暇(いとま)をもらひて、立ち歸(がへ)り侍るに、途中にて、ケ樣(かやう)ケ樣の難に遭ひ侍りし。」

と委細に物語りいたし、金銀をも、母に相ひ渡し侍るを、母、驚きて、

「先(ま)づは不思議なる事どもなり。何角(なにか)のよろこびに、一兩日も休息あるべし。主人の御もとへは里人(さとびと)をたのみて、御ことはり申すべし。」[やぶちゃん注:「何角(なにか)」「何角」は通常は「なにかと」と読み、「何彼と」の当て字。「あれこれと・なんやかやと・いろいろと」の意。]

と、それぞれに取りはからひけり。

 主人方には、斷りの者、往きてより、

『實(げ)にも。』

や、思ひて、

「扨々、それは難儀をかけたる事かな。靣の事は、さもあるべし。其の節(せつ)、思ひいたさば、不審なる事、なかれ。『面のかはりたるは、我が業(わざ)なり。』と、いひ聞かすべきを、急に隙(ひま)をねがひ候ふゆへ、其の事、打ちわすれたり。然れども、さほどまで、親に孝行なる者は、例(ためし)、まれなり。されば、天道のめぐりみによりて、難をのがれ、殊更、世財(せざい)を得ること、是れ、たゞ事に、あらず。老僧は、まさしく、是の化人(けにん)なるべし。」[やぶちゃん注:「化人」は天道の神仏の示現したものの意であろう。]

と、主人、頻りに感じて、直(ぢ)きに、母親の里にゆきて、

「この娘は、孝心深き者なれば、我が子の妻に、もらひ申したし。すなはち、我が子も得心(とくしん)せるなり。」

とて、其の日、主人は右の女をつれてかへり、約束の通り、

「輕(かろ)き者なれども、孝心ゆへに。」

といへば、家内、みな、同心して、彼の家の妻となる。

 里の母には、下女一人、指しそへて、何か不自由ならざる樣にこしらへければ、母子ともに、夢の心地と思ふほどに、よろこびけり。

 是れによりて、件(くだん)の坂を、誰(たれ)も、いひはじむるともなく、「孝行坂」と、なづけたるなり。

   *

 古へより、男女(なんによ)ともに學問に志しある人、又、生(むまれ)ながらにして賢德(けんとく)ある人は、すなはち、孝行の其のきこえ、あり。

 これは、女の面を拜して、鬼面にかゆるをも、得(え)察知せぬほどの癡人(ちにん)なり。然れども、其の孝行に於いては、身をすてゝ、親をとひ、命(おのち)をすてて、親を思ふ。寔(まことに)に是れ、名を坂にのこし、呼ぶも尤も理(ことはり)なり。

 佛敎の中には、何(いづ)れをか、輕んじ、何れをか、重し、と、わかたずといへども、母の恩を報ぜんことを欲(ほつ)す。

 源信僧都(げんしんそうづ)は母堂の黒髪を螺髪(らほつ)に植えて、弥陀の尊像を畫(ゑがひ)て敬禮(けうらい)したまへり。

 又、或る僧は、十月(とつき)の間(あひだ)、母体を苦しめける事を思ふて、母の像を造りて、敬禮せんとして、又、おもへらく、末々(すえずえ)にいたりて、凡人(ぼんにん)の、形相(けうさう)は誰(たれ)ともしらぬ輩(ともがら)は、此れ蔑(ないがしろ)にせん事をかなしみて、觀音の像を造り、其の裙(くん)[やぶちゃん注:すそ。]の紐(ひほ[やぶちゃん注:ママ。])を高くあらはして、母の腹帶(はらをび)の質(かたち)を表(ひやう)し、日夕(あさゆふ)、これを敬禮せり。

 世間に「腹帶の觀音・地藏」などゝいへる、皆、是の類(るい)なり。

 その外の父母孝養(けうやう)の志しを以て、佛を泥木繡畫(でいもくしうぐわ)に造り、經を書寫し、名号を拜書(はいしよ)ありし。

 其の例(ためし)や、枚擧するに遑(いとま)あらぬが、されども、是れは、多く、博學とか、才德とか、凡夫のあさましきには、あらぬなり。

 かへすがへす、此の癡女(ちぢよ)、孝によりて、難をのがれ、孝によりて、世財(せざい)を得、孝によりて、美名を、のこす。かへすがへすも、有りがたき事なり。

[やぶちゃん注:少し調べてみたが、この坂の所在は判らなかった。]

2022/06/05

多滿寸太禮卷第三 冨貴運數の辨 / 多滿寸太禮卷第三~了

 

  冨貴(ふうき)運數(うんすう)の辨 

 中比(なかごろ)、南都に、修理太夫何某(なにがし)とかやいひて、神職の者あり。いかなる故にや、究めて貧にして、朝三(てうさん)のいとなみも安からざりしかば、職を去つて、宇田(うだ)の郡(こほり)のほとりに引《ひき》しりぞき、山林に薪(たきゞ)を取り、田畠(でんはた)を耕やし、渡世とす。

[やぶちゃん注:「朝三」「荘子」の「斉物論」や「列子」(高校漢文は後者から採ることが殆んど)で知られる「朝三暮四」の橡(とち)の実の詐術に引っ掛けて、極めて貧しい食生活で、大事な朝飯まで、こと欠くことような極貧にあったことを言っている。

「宇田の郡」奈良の旧宇陀郡。現在の宇陀市附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 或る時、聊か、所用ありて、郡山(こほりやま)邊(へん)に赴きしに、はからざるに、日、暮れて、道にまよひ、そこともなく、とどまり、遙かの森(はやし)[やぶちゃん注:ママ。]の内に、燈火(とほしび)、ほのかにみへければ、嬉しく思ひ、それに便りて、行きみるに、大きなる社頭(しやとう)あり。

[やぶちゃん注:「郡山」現在の大和郡山市。]

 しんしんとして神さび、夜(よ)、靜かに、更に人跡(じんせき)なし。

「いかなる社(やしろ)やらん」

と、立《たち》めぐりみるに、爰(こゝ)に、ひとつの拜殿、金銀を以つて、みがき、色どり、

「冨貴發跡司(ふうきはつせきし)」

と、額、あり。

[やぶちゃん注:「冨貴發跡司」「發跡」は「身を起こす・出世する」の意であるが、本邦では聴いたことがない神名で、如何にも大陸風である。されば、これを調べてみると、本話は、「伽婢子」その他の本邦の怪奇小説の種本御用達として知られる明の瞿佑(くゆう)の撰になる志怪小説集「剪燈新話」の巻三「富貴發跡司志」(一三七八年頃成立)が元であることが判明する。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本のこちら(同巻一括PDF版)の冒頭から原文が読め、国立国会図書館デジタルコレクションの田中貢太郎訳(大正一五(一九二六)年新潮社刊)のここから、その現代語訳が読める。原話の話柄内時制は冒頭で「至正丙戌」とあり、一三四六年であることが判り、元代終末期の設定である(元が断絶して北へ逃げたのは一三六八年)。本話はほぼその話に拠って、本邦の話に改変しただけで、オリジナリティは極めて低いことが後者を通読すれば、お判り頂けるであろう。本篇の表現で躓く箇所は、概ね田中氏に訳で解明しはするのだが、インスパイアが上手くなく、展開上では、はっきりと鼻白むおかしな部分も、実は、あるので、まずは、本篇を通読してから、やおら訳本を見られることをお勧めするものである。なお、以下の注では幾つかは田中氏の訳を参考にした。

 太夫、もとより神主の職なれば、再拜拍手して、宝殿に手向(たむけ)し、祈り申けるは、

「某(それがし)、平生(へいぜい)、一冬(いつとう)一衣(いちゑ)、一夏(げ)一葛(いちかつ)、朝脯(てうほ)粥飯(しゆくはん)一盆(いつぼん)、初めより、用(よう)に過《すぎ》て、妄(みだり)におごる事、なし。然(しか)れども、身を置くにいとまなく、喉(のんど)をうるほすに、休息、なし。常に不足の患(うれへ)あり。冬、暖かなれども、『寒し』と、こゞへ、年(とし)、豊かなれども、飢に苦しむ。己《おのれ》をしるの心、なく、蓄へ、積むの守り、なし。妻子、一族にいやしまれて、伴ふに、交はりをたつ。飢難に苦しみて歎くに、所、なし。今、謀らずに、大神(おほかみ)、富貴の事を司どる權(けん)を、きく。是を扣(たゝ)けば、則ち、聞く事、あり。求《もとむ》るに得ざる事、なし。是、わが幸(さひはひ)に有《あり》。こひねがはくは、威嚴を新たに、告ぐるに、倘來(しやうらい)の事を以し、猶、未來の迷ひ、機(き)を指し示し、枯魚斗水(こぎよとすい)の活(くわつ)をかふむり、苦鳥(くてう)一枝(し)の易(やす)きに、つかしめ給へ。」

と、肝膽(かんたん)をくだき、再拜し、餘りのつかれに、拜殿の片陰にうづくまりて、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「朝脯」「脯」は一般に「乾し肉」の意であるが、本邦であること、主人公は神職であることから、ここは今一つの意で、前の「朝三」とも齟齬しない「果物を乾したもの」の意で採る。

「一盆」椀に一杯。やはり「朝三」に合致する。

「用に過て」最低限度の命を繫ぐ以上には。

「冬、暖かなれども、『寒し』と、こゞへ」食物の摂取量が身体を暖めるに至っていないほど乏しいからである。

「己《おのれ》をしるの心、なく」自分のことを考えるゆとりさえなく。しかし、種本原文は「出無知已之投」で、これは「知り合いの施しを受けることも出来ず」という意である。

「倘來」これは「思いがけなく得た金銭・あぶく銭」の意で、やや躓く感じがないでもない。田中氏も恐らくそう感じられたのであろう、ここを「將來」(近い未来)と訳しておられる。

「機」この状態を抜け出す契機となる様態。

「枯魚斗水の活」干乾びて死にかけた魚が一斗の水を得て復活すること。]

  やゝ深更に及びて、東西の兩殿、左右の諸社、燈燭(とうしよく)、おびたゝしくかゝやき、人馬(にんば)、騷動せり。

 只(たゞ)、太夫がいのる所の社斗(ばかり)、人、見えず。又、燈(ともしび)、幽かにして、半夜(はんや)に及ばむとす。

 忽ち、殿中に聲す。

 初めは、遠く、次第にちかく、聞ゆ。

 諸司・判官(はんぐわん)、みな、出《いで》むかへて、渴仰(かつがう)するをみれば、文紗(もんしや)の輿(こし)、かきつらね、行烈(ぎやうれつ)[やぶちゃん注:ママ。]、はなはだ嚴重なり。

 輿の内より、符君(ふくん)、端正美容(たんしやうびよう)にして、威儀を正し、神殿の正面に座し給ふ。

[やぶちゃん注:「符君」原拠では「府君」。一般的には太守・尊者などの意であるが、田中氏は『城隍祠の府君』と訳しておられる。城隍神(じょうこうしん)は中国の民間信仰に於ける土地の守護神を指す。]

  諸衞(しよゑ)・判官、悉く拜謁し、皆、本座につく。

 政事を行ひ給ふ。

 發跡司(はつせきし)の官人(くわんにん)、殿上より來たる。符君を拜して、座に着す。皆、裝束(しやうぞく)、布衣(ほい)のごとく、赤衣(しやくゑ)を着たり。

[やぶちゃん注:「布衣」ここは、出版当時の読者向けの説明で、江戸時代の大紋に次ぐ武家の礼服を指し、絹地無文で裏のない狩衣を指している。]

 各(をのをの)、判斷する所を、のぶ。一人のいわく、

「駿州三保郡(みほこほり)浦上(うらかみ)の里の、何がしの長(ちやう)が藏米(くらまい)二千石(せき)、去(さんぬ)る比より、水損(すゐそん)して相續(あひつゞ)き、米(よね)高直(かうちよく)にして、隣境(りんをく)、飢渴、野(や)に餓死の骸(かばね)、みちみちたり。藏(くら)をひらき、是れを救ふ。ないし、賣り出だすに高利をとらず。又、粥を煮て、貧乏の者に施(ほどこ)し、活(くわつ)を蒙むる者、數へがたし。昨日(きのふ)、其の郡神(ぐんしん)、本司(ほんし)に申《まうし》上げ、符君に奏す。已に天庭(てんてい)にしられ奉り、壽命十二年をのべて、を六千四百石(せき)、賜ふ。」

[やぶちゃん注:「三保郡浦上」現在の静岡県清水市清水区内と思われるが、不詳。

「水損」水害。

「高直」「こうぢき」が一般的。売値が高騰すること。

「隣境」ここは村界の意ではなく、「その地方一帯」の意。

「天庭」 天上の天帝の宮廷。]

 又、一人の曰《いはく》、

「尾州知多郡(ちたこほり)野田の何某が妻、姑(しうと)につかへて、甚だ、孝あり。其の夫(おつと)、他國に有り。姑、おもき病ひを得、巫(ふ)・醫、しるし、なし。思ひに絕《たえ》かね、沐浴結斉(けつさい)して、香を燒(たき)、諸天に訴へ、

『願はくは、身を以つて代はらん。』

と、ちかひ、丹精をぬきむでしかば、則ち、愈ゆる事を得たり。昨日(きのふ)、天符(てんふ)、下行(げぎやう)して云く、

『某の婦(ふ)、孝、天地(てんち)に通じ、誠情(せいせい)、鬼神(きしん)を伏(ぶく)す。貴子(きし)二人を產ましめ、君(きみ)の祿をはむで、其の門(もん)を光影(くわうゑい)し、終《つひ》に位《くらゐ》をすゝめて、これに報ぜん。』

と。今、已に福籍(ふくせい[やぶちゃん注:ママ。])にしるす。」

[やぶちゃん注:「知多郡野田」愛知県知多郡美浜町野間野田

「巫」巫女或いは民間に咒(まじな)い師。

「福籍」幸福な人生を送ることを約定した天帝の人命帳簿。]

 又、一人のいわく、

「相州中村官主(くわんしゆ)某、爵位、尊(たつと)く、奉祿、又、厚し。國民に報ぜん事を思はず、只、鄕民を貧(むさぶ)り、錢(ぜに)千疋(びき)を受けて、法をまげて公事(くじ)に勝たしめ、銀五百兩を取つて、非理(ひり)に良民を害す。符君、上界(じやうかい)に奏し、則ち、罪(つみ)せんとす。本人、頗る宿福あり。此の故に、是非なく、數年(すねん)をふる。いまに滅族の禍ひに、あはず。早く命(いのち)を奉りて、凶惡を、しか、す。只、時の至るを、待つのみ。」

[やぶちゃん注:「相州中村」神奈川県足柄下郡下中村か(「歴史的行政区域データセット」。地図有り)。

「官主」代官の意か。]

 一人の云く、

「城州八瀨(やせ)の里の某、田(た)、數(す)十町あり。貪欲にして、猶、あく事、なく、隣田(りんでん)の境ひを論じ、『押(おさ)へて、わが數(すう)に合(あは)せん。』とて、價(あたひ)を賤(いや)しふして、是を奪ふ。剩《あまつさ》へ、其のあたひを返さず。此の故に、先(さき)の田主(たぬし)、怒りをふくみ、終に空しく成りぬ。冥符、本司に申(まふし)て、追尋(ついじん)して獄に入る。又、身を化(け)して牛(うし)となし、生(しやう)を隣家(りんか)の主(ぬし)に托(たく)して、その負(お)ふ所を、つぐのふ。」

[やぶちゃん注:「城州八瀨」京都府京都市左京区の八瀬地区

「價を賤しふして、是を奪ふ。剩へ、其のあたひを返さず」値切りに値切って安く奪うようにして買って、しかも、その代金をさえ払わず、踏み倒したことを言っている。

「獄」冥府の牢獄。原拠の天帝が道教であるから、地獄と訳すのは上手くない。畜生に生まれ変わるというのは別に六道思想を持ち出すまでもなく、中国の民間信仰にこうした転生思想は独自にある。]

 諸司の言談(ごんだん)、終はりて、本司、怱ち、眉をあげ、目を見はりて、衆司(しゆし)に謂ひて云く、

「諸公、各《おのおの》、其の職を守り、その事を治め、善を褒美(ほうび)し、惡を罰す。天地運行のかず、生靈(しやうれい)厄會(やくくわい)の期(ご)、國、漸くおとろふ。大難、まさに至らむ。諸司、よく政斷すといへども、それこれを、いかむ。」

[やぶちゃん注:「生靈厄會の期」魂を持った存在が災厄に邂逅する定まった時期。]

 諸司、おどろき、故をとふ。本司、申給はく、

「我、たまたま、符君にしたがひ、天帝の所に上朝(てう)し、諸聖(しよせい)の將來の事を論ずるを、きく。數年(すねん)の後(のち)、兵戎(へいじう)、大きに起り、五畿内の人民(にんみん)、三十余萬、死せむ。正(まさ)に、此ときなり。自(をのづか)ら、積善(しやくぜん)、仁をかさね、忠孝の者にあらずむば、まぬかるゝ事、ならじ。生靈(しやうれい)の助けなく、塗炭(とだん)におちん。運數、已に定まる。のがるべからず。」

[やぶちゃん注:「生靈の助けなく」どうも意味がとれない。田中氏はこの前後部分を『まして、普通一般に人民では天の佑(たすけ)が寡(すくな)いから』となっている。]

 諸司、色を失ひ、各、散じ去る。

 

Huukiunsuunoben

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」のそれをトリミングした。右幅の左上の木立の下に平伏した太夫がいる。以下の冒頭のシーンを切り取ったものととっておく。]

 

 太夫、初めより、つくづく、これを聞《きき》、身の毛、いよだち、ふるひふるひ、這い出でて、拜す。

 本司、つくづく見給ひ、小吏に命じ、薄札(はくさつ)を取りよせて、太夫に告げ給はく、

「汝、後(のち)に、大に、福祿、あらん。久しき貧窮に、あらず。今より、日々《ひにひに》に安(やす)かるべし。暗きより、明(めい)にむかふがごとくならん。」

 太夫、申けるは、

「願はくは、其の詳かなる事を、示し給へ。」

と申せば、則ち、朱筆(しゆふで)を取りて、大きに十六字を書して、是れを授けて云く、

「日に逢ひて康(やす)く、月にあふて發(はつ)す。雲に逢ふておとろへ、因《いん》によつて沒せん。」

[やぶちゃん注:「十六字」原拠では「遇日而康 遇月而發 遇雲而衰 遇電而沒」とある。後注参照。]

 太夫、これをいたゞき、懷中して、再拜し、出《いづ》ると思へば、夜、已に明(あ)く。

 いかなる社(やしろ)ともしらず、懷中を搜るに、朱書、なし。則ち、歸りて、妻子に告げて、悅びあへり。

 數日(すじつ)ならずして、同所日比野(ひゞの)何がしと云ふ者、太夫に神道の傳授して、月ごとに、三石(せき)の米穀を送る。

 是れより家居(いゑゐ)も安く、その館(たち)を作る。

 數年(すねん)にして、應仁の兵亂(へうらん)、出で來て、細川・山名、大に戰ひ、五畿七道、悉く、亂る。

 山名が軍族に、斯波(しば)の某、神道の士を好む。

 修理太夫、策(むち)を加持して獻ず。

 其の心に叶ひ、則ち、幕下に奉士(ほうし)して、馬(むま)・物具(ものゝぐ)・僕從、あたりをかゝやかし、一所懸命の地を領す。

 同役に、桃井雲栖齋(もゝのいうんせいさい)といふもの、太夫と、甚だ不和にして、さまざま、讒言して、遂に、斯波の領國、因州一郡の代官とす。太夫、心に、

『かの神詫(しんたく)の、「日(じつ)」・「月(げつ)」・「雲(くも)」の三字、みな、驗(しるし)あり。』

 深く、恐れつゝしみ、敢へて非義(ひぎ)をなさず。已に二とせを送る。

 或る時、太夫が支配の領地に、往來の道を造る。その領境(れうざかい)の札(ふだ)を書する事を乞ふ。

 則ち、太夫、筆を下して、

「因州何のさかい」

とかく内に、風、怱ちに吹きて、「因」の字の下に一尾(いつび)を曳き出だし、一の「因」の字を、なす。大きに心にかけて、下夫(しものふ)に命じて、かへざらしむ。

 此の夜(よ)より、疾ひを煩らひ、自(みづか)ら、愈《いえ》がたき事を知りて、湯藥(とうやく)を用ひず。家財・譜・寶を書き置きし、妻子にいとま乞ひし、遂に死す。

 神の述ぶる所は、聊かも違(たが)ふ事なし。將來の事、露斗(つゆばかり)も違はずして、應仁の兵亂(ひやうらん)うちつゞき、畿内近國の戰死の者、豈(あに)三十萬のみならんや。是れを以つて、つくづく思へば、普天(ふてん)の下(した)、率土(そつと)の濱(ひん)にして、一身(しん)の榮枯通塞(つうそく)、大いにして、一國の興衰治亂、みな定數(でうすう)あり。博移(ばくしや)すべからず。妄庸(まうよう)の者、則ち、智術を其間にほどこさむとす。いたづらに、みづから、くるしむもの、ならじ。

[やぶちゃん注:「日比野何がし」不詳。但し、この「日」が先の本司の示した「十六字」の「日」に当たる。

「山名が軍族」「斯波の某」この当時の斯波姓で山名方となると、斯波義廉(よしかど 文安二(一四四五)年~?)がいる。室町幕府管領にして越前・尾張・遠江守護。彼の母は山名宗全の伯父山名摂津守(実名不詳)の娘とされている。しかし、順序から言うと、この男の名に前述の「月」がなくてはならないのにそれがないのが、不審である。「あたりをかゝやかし」はあるが、これを「月」と採るのは、太夫の側の盛隆の表現であり、逆立ちしても、これは「月」ではない。なお、次の次の注で、彼ではないことが判る。

「桃井雲栖齋」不詳。但し、これが先の十六字の「雲」である。

「斯波の領國、因州一郡の代官とす」斯波義廉は御覧の通り、因幡を領地として持っていないから、彼ではない。なお、原拠では明白で、主人公(何友仁(かゆうじん))が出逢うのが、群の豪家「英」で、次に逢うのが、「大師達理沙」で、最後に絡む同僚の名が、「石不花」という人物である。作者は何故、適当な人物として「月」を含む名を出さなかったのか、甚だ不審である(「秋月」でもなんでもよかろうに)。それとも「斯波」という姓には「月」が隠れているんだろうか? 識者の御教授を乞うものである。なお、原拠は最後の死に至る予言では、先に示した通り、「遇電而沒」で、友仁は雷州の書記官に左遷されたが、ある時、上申書で「雷」の字を書こうとして、同じように風が吹いて、「電」の字になってしまい、ほどなく亡くなったというすこぶる判り易い話になっているのである。「日」・「月」・「雲」・「電」の自然現象としての親和性といい、「因」の字の書き間違いというヘンテコなオリジナルを接いだ作者は、完全に失敗しているとしか思えないのだが……

「非義」抗議。

『「因」の字の下に一尾(いつび)を曳き出だし、一の「因」の字を、なす』かったるい言い方で、「因」の字の下方に「因」の字に接して墨は一画入ってしまったような字になってしまったのである。

「譜」「譜寶」という熟語は私は知らないので、分けた。「譜」は「彼の家系譜」(を記す)という意味で採った。或いは、家財家宝のリストかも知れぬが、だったら、この文字列は私は不審である。

「博移」意味不明。

「妄庸」愚劣。]

2022/05/18

「續沙石集」巻一「第六 夢中現映像事」

 

[やぶちゃん注:本書は鎌倉時代の無住の仏教説話集「沙石集」を範として、江戸後期浄土真宗仏光寺の僧南溟が書いたもの。全六巻・六十二話。延享元(一七四四)年京都で板行された。

 底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらから映像を視認して起こした。カタカナをひらがなに代え、読みは送り仮名で出すなどして、一部に留めた。句読点は私が、適宜、附し、段落も成形した。漢文脈部分は後に( )で訓読を示した。「*」は、以下が、筆者評言となるので、挿入した。「源氏物語」の「葵」の帖からの引用部は前後に「――」を入れた。]

 

 第六 夢中現映像事(夢中(むちう)に映像を現ずる事)

 中京(なかぎやう)のる或人の内に居(ゐ)たる女、その主人の親屬なる人の男と、そのびに情(こゝろ)をかよはして、末の松山、波こさじ、約(ちぎり)けるが、彼(か)の男、本妻を迎へんとするの相談をきゝけり。

 此の女、頻りにうらめしく、心のうちは、もゆるばかりなれども、流石(さすが)に、人、しんじて、契(ちぎ)りし事なれば、柰何(いかん)ともしがたく、埋火(うづみび)の下にのみこがれ侍りて、其の夜も卧(ふ)したるけるが、半夜(よなか)、まへになり、此の女世におそろしげなる聲して、呌(さけ)び、起きたり。枕をならべて卧したる傍輩(ほうばい)の序し(おなご)ども、其の聲に驚きて、各(おのおの)目をさましぬ。此の女、汗水になりて云ひけるは、

「何町通(なにまちどほり)何町(なにてう)の門(もん)を超えて向ひの方(かた)へゆかんとするに、向うより、人の來たるあり、是れ故に、傍らにかくれんとするを、彼(か)の人、來たる人、劔(つるぎ)をぬきて、我れを一打(ひとたち)にきりつくる。我れ、まさにきらるゝと思ふと、夢みて、今、覺めたる。」

と、かたる。

 扨(さて)、夜明けて、此の女、

「件(くだん)の物思ひありて、夢をや、見つらん。」

と、傍輩の中に別(べち)して親しき者に密かに物語りして居たりけるに、外(ほか)より、人、きたりて、云はく、

「今日は、珍らしき事ありて、只今まで、其の事にかゝりて、往反(わうへん)せり[やぶちゃん注:あちこちを行ったり来たりで閉口した。]。昨夜、更けて、半夜(よなか)まへ比(ころ)、我が相ひ識りたる醫者、何町通何町の門を通りすぎんとする時、髮をさばきて、世にうらめしき樣(さま)したる若き女、行き違はんとして、又、たちかへりて、傍らにより、かくる。醫者のこゝろには、

『何者ぞ、もし、狂氣したる者か。』

とみれば、人に、かくれんとする躰(てい)あり、又、影の如くにて、進退に、脚音(あしおと)、なし。

『化(け)したる者か。』

と思ひ、聲、掛をかけて、とがめても、物、いはず。其の間(ま)に、身の毛、卓竪(いよだち)て、をそろしかりければ、帶劔(たいけん)を拔きて、きりつけたり。

 忽ち、きえて、其の人、なし。

 よりて、劔(つるぎ)を、すて置きて、此の醫者、かへり、其の劔を、今朝(こんてう)より、其の町へ、ゆきて、『たまはれ。』と云ふに、『捨てたる劔、聊爾(れうじ)には[やぶちゃん注:そういい加減には。]、かへすまじ。』と、むつかしくなりて、漸(やうやう)、只今、事、すみてげり。」

と。

   *

 其の所、其の町(てう)の名も、たしかに聆(き)きぬれども、尚(まだ)十年にだも事ふりぬ故に、わざと其の町(てう)、所の名を、もらしぬ。

 されば、此の女、彼の男をうらみ、思ひねにせし一念、影のごとく、人目に見ゆるばかり、あらわれ、男のもとにゆかんとする途中にて、醫者にきりつけられ侍りるに究(きは)まれり。珍しく思ひて、此の事はきゝしより、わすれず、今、書き付け侍るなり。

 朝綱(あさつな)「婚姻賦」に、「彼情感之好通雖父母禁禦」(彼(か)の情感(ぜうかん)の好通(かうつう)は、父母(ぶも)と雖も、禁禦し難し)と見えて、男女の閨怨(けいゑん)、互ひに大方(おほかた)ならず。

 これが爲めに、命(いのち)を失ふ事、多し。

 其の内、別して、思ひつめて、晴方(はるゝかた)なきは、女の情(ぜう)なり。

――六條御息所(ろくでうのみやすどころ)、嫉妬の思ひ、深く、御座(ましま)して、葵上(あほひのうへ)を、なやまし玉ふ時、光君(ひかるぎみ)、さまざま、なぐさめ玉ふに、葵上の御氣色(ごきしよく)、かはりて、

「いてあらずや、身(み)のくるしきを、やすめ玉へ。」

と聞くらんとてなん、

「かく參りこんとも、さらに思はぬを、物思ふ人の、たましゐは、實(げ)に、あるかるゝものになん有りける。」

と、最(いと)なつかしげにいひて、

 なげきわび空(そら)にみだるゝわが靈(たま)をむすびとゞめよしたがひのつま

と、の玉ふ聲、けはい、其人にも、あらず、かはり玉へり。

『最(いと)あやし。』

と、おぼしめしぐらすに、只(たゞ)、

『かの御息所なりけり。浅ましく人の兎角いふを、「よからぬ者どもの云ひ出づること。」と聞きにくゝおぼしてのたまひけつ[やぶちゃん注:「消(け)つ。」]を、目に、みすみす、世には、かゝることこそは有りけり。』

と、うとましくなりぬ。――

と、「源氏物語」に見えたり。

 されば、女の一念、みづから、あらはれて、恨みをなし、或ひは、人につきて、其の怨みをかたること、古今にわたり、上下に通じて、其ためし、まゝ多く、寔(まこと)に是れ、をそろしき者なり。元來、「女」と云ふ字は、女の心の、こだはりて一すぢなるにかたどりたるにて、六書(りくしよ)の中には象形(しやうげう)の字なり。佛經の中には、ふかく女をいましめて、『たとひ、毒蛇にはちかづくとも、女人には、ちかづくこと、なかれ。』と見えたるも、宜(むべ)なるかな。

   *

大修館書店「廣漢和辭典」の「女」の「解字」には『両手をしなやかに重ねひざまずく女性の象形』とあるが、「語家族」の部分の最後に』『努や怒は奴から派生した語であろう』とはある。しかし、ここで南溟が言っているような、字義は「女」の本来の字素にはない。仏教上の差別的な「変成男子」(へんじょうなんし)思想を勝手に託けたものであろう。「六書」は言わずもがな、漢字の成立と使用についての六種の分類。象形・指事・会意・形声・転注・仮借。]

2022/05/06

多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖

多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖

[やぶちゃん注:本話は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で、一度、電子化しているが、今回は原版本に基づき、零から電子化注した。私の大好きなしみじみとした哀れな異類婚姻譚である。漢詩は原本では二段であるが、一段で示し、後に丸括弧で訓読を載せた。挿絵は今まで使っている国書刊行会の「江戸文庫」版のそれが、汚損がひどくいやな感じなので、今回は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該挿絵画像(単独JPG版)をリンクさせるに留めた。]

 

   柳情(りうせいの)靈妖(れいよう)

 文明の年中、能登の國の太守、畠山義統(よしむね)の家臣に、岩木(いわき)七郞友忠と云ふ者、有《あり》。幼少の比《ころ》より、才智、世に勝れ、文章に名を得、和漢の才(ざへ)に冨みたり。ようぼう、いつくしく、いまだ廿(はたち)にみたず。

[やぶちゃん注:一四六九年から一四八七年まで。室町幕府将軍は足利義政・足利義尚で、後半は「応仁の乱」の余波が未だ続いていた。

「畠山義統」(?~明応六(一四九七)年)は父義有(よしあり)が永享一一(一四三九)年か翌年頃、大和の陣中で死去したため、幼くして跡を継ぎ、祖父義忠の後見を受けて享徳元(一四五二)年に能登守護となった。義忠の隠居の後、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅ(しゅう):室町時代、将軍が殿中で宴を催し、また、諸将の宴に臨む時、相伴役としてその席に陪従する者。有力守護大名家から選ばれた)となり、寛正五(一四六四)年の「糺河原勧進猿楽」にも列席した。畠山宗家の争いでは、幕命により、義就(よしひろ/よしなり)に味方し、「応仁の乱」でも義就のバックにあった山名氏が率いる西軍に属した。文明九(一四七七)年、能登に下国し、能登府中に長くあって、領国支配に専念したが、長享二(一四八八)年、加賀の富樫政親を救援すべく、出兵、明応二(一四九三)年の細川政元のクーデタで越中に逃れた前将軍足利義材(よしき)をも支援した。祖父義忠に似て、和歌。連歌に優れ、歌会を催し、臨済僧で歌人として知られる清巌正徹(せいがんしょうてつ)や、その門下の正広とも親交があった。

「岩木七郞友忠」不詳。]

 義統、愛敬(あいきやう)して、常に祕藏し給ふ。

 生國(しやうこく)は越前にして、母、一人、古鄕(こきやう)にあり。世、いまだ、靜かならねば、行《ゆき》とぶらふ事も、なし。

 或るとし、義統、將軍の命をうけ、山名を背(そむ)き、細川に一味して、北國(ほつこく)の通路をひらきぬ。杣山(そまやま)に、山名方(かた)の一城(いちじやう)あれば、

「是を責めむ。」

とて、義統、杣山の麓に出陣して日を送り給へば、此ひまをうかゞひ、母の在所も近ければ、友忠、ひそかに、只(たゞ)一人、馬(むま)に打ち乘り、おもむきける。

[やぶちゃん注:「杣山」福井県南条郡南越前町大字瓜生にあった杣山城か。サイト「城郭放浪記」の「越前 杣山城」が地図もあり、詳しい。但し、文明六(一四七四)年に『越前国守護斯波氏の家臣増沢甲斐守祐徳が城主となったが、斯波氏に叛いて朝倉孝景(敏景)に攻められ』、『敗れた。朝倉氏は家臣河合安芸守宗清を城主とした』とあるだけで、畠山が攻めた事実はないようである。]

 比《ころ》しも、む月の始めつかた、雪、千峯(せんほう)を埋(うづ)み、寒風(かんふう)、はだへを通し、馬、なづむで、進まず。

 路(みち)の旁らに、茅舍の中(うち)に、煙りふすぶりければ、友忠、馬をうちよせてみるに、姥(むば)・祖父(ほゝぢ)、十七、八の娘を中に置き、只、三人、燒火《たきび》に眠(いねふ)り居(ゐ)たり。その體(てい)、蓬(よもぎ)の髮(かみ)は亂れて、垢、付《つき》たる衣(ころも)は、裾みじかなれども、花のまなじり、うるはしく、雪の肌(はだへ)、淸らかにやさしく媚(こび)て、

『誠に、かゝる山の奧にも、かゝる人、有《あり》けるよ。しらず、神仙の住居(すまゐ)か。』

と、あやしまる。

 祖父(ぢい)夫婦、友忠をみて、むかへ、

「たつていたはしの少人(せうじん)や。かく山中に獨りまよはせ給へるぞや。雪、ふり積り、寒風、忍びがたし。先《まづ》、火によりて、あたり給へ。」

と、念比(ねんごろ)に申せば、友忠、よろこび、語るに、

「日、已に暮れて、雪は、いよいよ降りつもる。こよひは、こゝに一夜を明《あか》させ給へ。」

と佗(わ)ぶれば、おゝぢ、

「かゝる片山陰(かたやまかげ)のすまひ、もてなし申さむよすがもなし。さりとも、雪間(ゆきま)をしのぐ旅のそら、こよひは、何かくるしかるべき。」

とて、馬の鞍をおろし、ふすまをはりて、一間(ひとま)をまふけて、よきにかしづきける。

 此娘、かたちをかざり、衣裳をかへて、帳(ちやう)をかゝげて、友忠をみるに、はじめ見そめしには、且つ、まさりて、うつくしさ、あやしきほどにぞ有ける。

「山路(やまぢ)の習ひ、濁り酒など、火にあたゝめ、夜寒《よざむ》をはらし給へ。」

と、主(ぬし)よりして、はじめて、盃(さかづき)をめぐらしける。

 友忠、何となく、むすめに、さす。夫婦、うち笑ひ、

「山家(やまが)そだちのひさぎめにて、御心にはおぼさずとも、旅のやどりのうきをはらしに、御盃《おん》(さかづき)をたうべて上《あげ》まいらせ。」

と、いらへば、娘も、貌(かほ)うちあかめて、盃をとる。友忠、

『此女のけしき、よのつねならねば、心をも引《ひき》みむ。』

と思ひて、何となく、

  尋(たづね)つる花かとてこそ日をくらせ明ぬになどかあかねさすらん

と口ずさみければ、娘も、又、

  出る日のほのめく色をわが袖につゝまばあすも君やとまらむ

とりあへず、『その歌がら、詞(ことば)のつゞき、只人(たゞうど)にあらじ。』と思ひければ、

「さいあいのつまも、なし。願(ねがはく)は、我れに、たびてんや。」

といへば、夫婦、

「かくまで賎(いや)しき身を、いかにまいらせん。たゞかりそめに御心をもなぐさめ給へかし。」

と申せば、むすめも、

「此身を君にまかせまいらするうへは、ともかくもなし給へ。」

と、ひとつふすまに、やどりぬ。

 かくて、夜も明けければ、空もはれ、嵐もなぎて、友忠、

「今は暇(いとま)を申さん。又、逢ふまでの形見《かたみ》とも、み給へ。」

とて、一包(つゝみ)の金(こがね)を懷中より出して、これを、あたふ。主(あるじ)のいはく、

「これ、さらによしなき事なり。娘によき衣(きぬ)をもあたへてこそ參らすべきに、まづしき身なれば、いかゞせん。われら夫婦はいかにともくらすべき身なれば、とくとく、つれて行《ゆき》給へ。」

と、更に請けねば、友忠も力なく、娘を馬にのせ、別れをとりて、歸りぬ。

 かくて、山名・細川の兩陣、破れて、義統も上洛して、都、東寺に宿陣ありければ、友忠、ひそかにぐして、忍び置きけるに、如何(いかゞ)しけむ、主(しう)の一族なりし細川政元、此女を見そめ、深く戀ひ侘び給ひしが、夜にまぎれ奪(ばい)とらせ、寵愛なゝめならざりしかば、友忠も無念ながら、貴族に敵對しがたく、明暮(あけくれ)と思ひしづみける。

 或る時、あまりの戀しさに、みそかに傳(つて)をもとめ、一通のふみをかきて遣しける。その文のおくに、

 公子王孫逐後塵

 綠珠埀淚滴羅巾

 候門一入深如ㇾ海

 從ㇾ是蕭郞是路人

(公子王孫 後塵を逐(お)ふ

 綠珠 埀(た)れ 淚 羅巾を滴(した)つ

 候門(こうもん) 一たび入りて 深きこと 海のごとし

 是れより 蕭郞(せうらう) 是れ 路人(ろじん))

とぞ書《かき》たりける。

[やぶちゃん注:この漢詩の原拠(唐の憲宗の元和年間(八〇六年~八二〇年)に秀才(科挙制度の前段階の一つである院試に及第した者)になった詩人崔郊(さいこう)の詩としてよく知られた「贈去婢」(去る婢に贈る)という題の七言絶句。事実、彼はこの詩を以って愛人をとり返したとされる)と意味は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で詳注してあるので、参照されたい。

「細川政元」(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年)は細川勝元の嫡男。足利義澄を擁して将軍とし、管領となって幕政の実権を握ったが、養子とした澄之(すみゆき)・澄元・高国の家督争いに巻き込まれ、澄之派に暗殺された。ただ、彼はこの友忠の妻を掠奪する役としては、正直、相応しくない。当該ウィキによれば、『政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけることなく』、『生涯』、『独身を通した。そのため、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり』、「足利季世記」では『京管領細川右京大夫政元ハ、四十歲ノ比マデ、女人禁制ニテ、魔法飯綱(いづな)ノ法・アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ。或時ハ經ヲヨミ、陀羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人、身ノ毛モ、ヨタチケル。」『とある(ただし、政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い、各地の情報や動向を探るなどの手段ともしていた)』。『とはいえ、衆道は嗜んだようであり、家臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする見方もある』とあるからである。]

 いかゞしけむ、此の詩、政元へ聞えければ、政元、ひそかに友忠を召《めし》て、

「物いふべき事あり。」

と云ひ遣しければ、友忠、

「思ひよらず。一定《いちじやう》、これは、わが妻の事、顯はれ、恨みの程(ほど)を怖れて、吾れを取り込め、討たむずらん。たとへ、死すとも、いま一たび、見る事もや。折もよくば、恨みの太刀(たち)一かたなに。」

と、思ひつめて行《ゆき》ける。

 政元、頓(やが)て、出《いで》あひ、友忠が手をとりて、

「『候門一たび入て 深き事 海のごとし』と云ふ句は、これ、汝(なんぢ)の句なりや。誠に、ふかく感心す。」

とて、淚をうかめ、則ち、かの女を呼び出《いだ》し、友忠にあたへ、剩(あまつ)さへ、種々(しゆじゆ)の引手物して、返し給ふ。こゝろざし、いとやさし。

 尤も文道(ぶんだう)の德なりけり。

 これより、夫婦、偕老同穴のかたらひ、いよいよ深く、とし月を送るに、妻の云ひけるは、

「吾れ、はからずして、君(きみ)と五とせの契りをなす。猶、いつまでも、八千代をこめむと思ひしに、ふしぎに、命(いのち)、こよひに究まりぬ。宿世(すくせ)の緣を思ひたまはゞ、跡、よく弔(とむら)ひ給へ。」

と、淚、瀧のごとくにながせば、友忠、肝(きも)をけし、

「ふしぎなる事、いかに。」

と、とへば、妻、かさねて、

「今は何をかつゝみ候はん。みづから、もと、人間の種(たね)ならず。柳樹(りうじゆ)の情(せい)。はからずも、薪(たきゞ)の爲めに伐られて、已に朽ちなむとす。今は、歎くに、かひ、なし。」

とて、袂をかざすとぞみえしが、霜の消ゆるごとくに、衣(ころも)斗(ばか)り、のこれり。

「これは。」

と思ひ、立《たち》よれば、小袖のみにして、形體(かたち)も、なし。

 天にこがれ、地にふして、かなしめども、さりし面影は、夢にだに、みえず。

 せんかたなければ、遂に、もとゞり、切《きつ》て、諸國修業の身とぞ成《なり》にける。

 妻の古鄕(ふるさと)のもとへ尋ねて、ありし跡を見るに、すべて、家も、なし。

 尋ぬるに、隣家(りんか)もなければ、たれ、しる人も、なし。

 唯(たゞ)、大(おゝ)きなる柳(やなぎ)のきりかぶ、三《み》もと、殘れり。

『うたがひもなき、これ、なんめり。』

と思ひ、其傍らに塚をつき、なくなく、わかれ去りけり。

 

2022/05/05

多滿寸太禮卷第三 强盜河邊惡八郞が事

 

        强盜(ごうだう)河邊(かはべの)惡八郞が事

 

  元享(げんこう)年中に、和州三輪郡(みわこほり)に、川邊惡八郞といへる强盜の大將、有《あり》。

 かれ、幼(いとけな)き比《ころ》、父母にをくれ、叔父に養はれ、おさなき時より、生れつき、余の者に勝(すぐ)れ、强力(ごうりき)にして、身、かろく、足、はやき事、鳥の飛(とぶ)がごとく、いかなる駿馬(しゆんめ)もつゞきがたし。

 十一歲にて、叔父(おぢ)の供して、南都に赴(おもむ)く。

 路(みち)にて山賊にあひ、叔父、已に組みしかれ、危(あやう)く見へしに、賊(ぬすびと)の喉笛に喰付(くひつき)て、終可(つひ)に、くらいはなし、叔父を助けたりしかば、世に「惡八郞」とぞ呼(よば)れける。

 從弟なる者と妻を諍(あらそ)ひ、打ち殺したれば、所の住ひ、成《なり》がたく、浪牢の身となりて、爰《ここ》かしこ、さまよひけり。後には、强盜(ごうだう)、數(す)十人したがへ、宇治大路、小幡(こわたの)山中(やまなか)に出《いで》て、切取(きりとり)・追剥(おひはぎ)して、世を世ともせず、をくりけり。年、いまだ三十をこへず、せいは七尺に及び、色、白く、にうはにして、常に、好むで、立烏帽子(たてゑぼし)を着たりければ、世の人、「立ゑぼし」と異名して、怖れあへり。

[やぶちゃん注:「河邊惡八郞」不詳。この「悪」は「強い」の意であって「悪い」の意味はない。平安後期以降、武士の通称によく用いられた。頼朝の異母兄源悪源太義平など。

「元享」一三二一年から一三二四年まで。天皇は後醍醐天皇、鎌倉幕府執権は北条高時。鎌倉最末期。

「美輪郡」行政地名として奈良の美輪地区(現在の奈良県桜井市三輪はここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に鎌倉時代に「美輪郡」が置かれていた形跡はない。

「宇治大路」宇治橋から三室戸(みむろど)に至る道の通称。この辺り

「小幡(こわたの)山中」前注の北方の、現在の宇治市木幡(こばた)の東方部(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「切取」切取り強盗。人を斬り殺して、金品を奪い取ること。]

Akuhatirou

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 或る時、うちつゞき、仕合《しあはせ》も惡(あし)ければ、奈良にうち入《いり》、興福寺の、ある寺院に忍び入て、天井に上り、息をとゞめて、人の靜まるを待居《まちゐ》たり。

 あるじの僧、夜(よ)、更(ふく)るまで、兒(ちご)・同宿(どうしゆく)に、もの敎へ給ひしが、「法華經」を習ふ兒のありしに、「今此(こんし)三界《さんがい》皆是(かいぜ)我(が)其中(ごちう)衆生悉是(しつぜ)吾子(ごし)」と云《いふ》文に至り、老僧、和訓して、

「『今、この三界は、みな、これ、わが國也。その内の人間は、悉く、是、わが子なり。』と、敎主釋尊の說き置《おか》せ給ひつるぞ。」

と語り給へば、八郞、一々、天井にてこれを聞《きき》、

「三界の衆生、みな、佛の子ならば、吾れも、佛の子、成《なる》べし。此者共も、佛の子なれば、吾れも、まさしき兄弟の物を盜みとらんは、不道の上の、重罪なるべし。」

と、忽ちに發起(ほつき)して、其の寺より、歸りけり。

 其後《そののち》、いくほどなくて、頓(とみ)に死けり。

[やぶちゃん注:「興福寺」ここ

「仕合」巡り合わせ。運。事の成り行き現行では「幸せ」と書いて、専ら運の良いことしか言わぬが、古くは上義で、運は良い場合にも悪い場合にも用い、「しあはせよし」とか、「しあはせわろし」のように言い表わした。

「今此三界皆是我其中衆生悉是吾子」同経の譬喩品(ひゆほん)第三の一節。以下、「而今此處唯我多師諸患難一人能爲救護」(にこんししよゆいがたしげんなんいちにんのうゐくご)と続く。「今、此の三界は、皆、是れ、我が有(いう)なり、其の中(うち)の衆生は、悉く、是れ、我が子なり。而(しか)も、今、此の處は、諸々(もろもろ)の患難(げんなん)多し。唯だ、我れ一人のみ、能く救護を爲す」で、「現存在の総ては、これ、私が完全な大安心に導いてゆく世界である。即ち、そこに生きている総ての人々は、これ、一人残らず、 私の子どもである。 しかも、今の世界は、ありとあらゆる、身体と心の苦悩に満ち溢れている。唯だ、私一人だけが、 そこから衆生を救い導き、 守ることが出来る。」の意。]

 元より、賊中の事なれば、あたりの野原に捨てける。いかゞしけん、犬・狼・鳥・獸(けだもの)も、くらはず、七日《なぬか》を過《すぎ》たり。

 かれがけむぞく[やぶちゃん注:「眷屬」。]の盜人ども、行《ゆき》てみるに、忽《たちまち》に、よみがへり、起居(をきゐ)たり。

 或は怖れ、或《あるい》は、よろこぶといへども、人に面《おもて》をむかふこともなく、物いふ事も、なし。

 此者共、肝(きも)をけし、恐れて逃げ歸りぬ。

  爰に、興福寺の僧、不淨觀を修(しゆ)せん爲に、每夜(まいや)、葬場・古墓(こぼ)をめぐりけるが、此者に逢ひぬ。

 僧、

「何者ぞ。」

と問へば、

「我は、『立烏帽子』といへる賊(ぬすびと)也。近く、より給へ。物、申さむ。」

といへば、此僧、名を聞《きき》、

『哀れ、日比(ひごろ)聞及《ききおよ》びつる惡黨也。我を害せんとするにや。』

と思ひながら、近か付きて尋ぬるに、彼(か)の者、申《まうす》やうは、

「我は、是、天下第一の賊、『川邊惡八郞』と申《まうす》者也。はからず、死して、七日にまかり成《なり》さぶらふ。我、『死《しぬ》。』と思へば、鐵卒(てつそつ)と申《まうす》怖ろしき者、三人、來り。我を取りこめて、『車卒(しやそつ)』と云ふ者、火の車を持來《もちきた》り、吾れを、とつて、のせ、五體を火車に燋(こが)せば、熱苦(ねつく)忍びがたく、中々、人間《じんかん》の火は、かれになぞらへては、水のごとし。次に、『壷卒(こそつ)』と云《いひ》て、一人、來り、『神壷(しんこ)』と云《いふ》袋に、わが魂(たましひ)を取つて入《いれ》、又、繩にて、しばり、泣けども、淚、たらず、炎火(えんくわ)、面(おもて)をこがす。さけべども、聲、いでず。鐵丸(てつぐわん)、喉(のど)をやき、助くべき人も、來らず、哀れむべき人も、なし。苦患(くげん)、たとへむかたなし。普通の罪人は、廳前(ちやうまへ)にて、勘聞(かんもん)すといへども、大王を初め、冥官(みやうくわん)・冥衆(みやうしゆ)、出で會ひて、

『國中第一の惡人、深重(じんぢう)の罪人なり。無間地獄(むけんぢごく)におとすべし。但《ただし》、あまりに、にくきやつ也。爰にて、先《まづ》、さいなみ、うつべし。』

と、あれば、獄卒、鐵丈(てつぢやう)を以《もつて》、誠(まこと)に威を振(ふるう)て、うたむとする時、貴僧、壱人《ひとり》、來りて、

『不便(ふびん)なり。』

と仰られしかば、大王・冥官等(たう)、草の風に、ふすがごとく、皆、一統に平伏し、尊敬禮拜(らいはい)す。爰に貴僧の云はく、

『三界の衆生は、皆、是、我子なり。其中にも、此者は、我を父として、盜みの心をやめたる者也。父として、孝子(かうし)を哀れまずんば、有《ある》べからず。』

と、のたまひて、我を乞ひ請け給ひ、則ち、錫丈を以て、道を敎へて、

『速かに閻浮(ゑんぶ)に歸るべし。我は敎主釋尊なり。』

と仰らるゝと覺えて、今、爰に、蘇生したり。

 けんぞく、來りて、

『いかん。』

と問へども、吾れ、生(しやう)を賊(ぬすびと)の中に受けて、惡業(あくごう)、多く作る故に、まさしく、無間地獄におつべしなれば、彼等をみるに付《つけ》ても、心、うかりしかば、返事もせず、面も、むけず。尺尊(しやくそん)の御助《おんたす》けなれば、御僧、なつかしく思ふゆへに、かやうに申《まうす》なり。急ぎ、我を、出家せさせて、たび候へ。」

とて、血の淚を流せば、僧も、ふしぎに、又、哀れにおぼえて、住所(ぢうしよ)の寺につれ歸り、出家させて、沙彌(しやみ)と成して、難行苦行して、「法華經」を讀誦(どくじゆ)しけるが、本《もと》より、勇猛精進にして、持戒持律の僧と成《なり》ぬ。

[やぶちゃん注:「不淨觀」観(法心に仏法の真理を観察し、明らかにせんとする修法)の一つで、修行者が執着心を除くために、肉体の死んで亡びゆくさまを想起したり、実際を観察して、その不浄の実際を悟ることを言う。

「車卒」以下の「壷卒」や「神壷」ともに、私は知らない。作者は前回の「秦兼美幽冥禄」と同じく、この手の想像設定が好きらしい。

「勘問」罪状を調べながら訊問すること。責め問うこと。

「無間地獄」サンスクリット語「アヴィーチ」の漢訳語。後には「むげんじごく」と濁っても読む。八熱地獄の第八番目で最下底の最悪の地獄である。我々の住む閻浮提(えんぶだい)の地下二万由旬(ゆじゅん:サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。古代インドにおける長さで、換算値に諸説あるが、一説では一万三千三百キロメートル)にあるとされる。五逆罪(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢(サンスクリット語「アルハト」の主格形「アルハン」の漢音写。「尊敬を受けるに値する者」の意。声聞(しょうもん:仏弟子)の到達しうる最高の位。菩薩の下位)を殺すこと・僧の和合を破ること・仏身を傷つけること)の大罪を犯した者がここに落ち、一劫(いっこう:サンスクリット語「カルパ」の漢音写。通常は「非常に長い時間」という意であるが、数理学的に厳密な仏教では、上下四方四十里の巨大な城一杯に小さな芥子(けし)の実を満たし、三年ごとに一粒ずつ、その実を取り除き、それが総て無くなる時間を「一劫」と説明した「芥子劫」が一般的)の間、間断なく責苦を受ける所。「阿鼻地獄」と同じ。

「錫丈」「錫杖」のこと。]

  或る年、南都北領(ほくれい)[やぶちゃん注:「領」はママ。]、遺恨をむすび、興福寺の衆徒(しゆと)、をのをの、戰場に赴きけるに、此入道も、さるものなれば、語(かた)らはれて、甲冑を帶し、已に打出《うちいで》けるが、

「我、一たび、たぐひなき黃泉(くわうせん)の責めをうけ、釋門(しやくもん)に入《いり》て、又、先業(せんごう)に歸る、あさましさよ。」

と、心に悔み、かなしみ、急ぎ、鎧をぬぎ捨て、宇治山の深洞(しんとう)にかくれて、おこなひすまし居《ゐ》けるに、或る夜(よ)、人、來りて、庵室をめぐり、入道を呼ぶ。

 曉に至りて、音、なし。三夜、おなじごとくに呼ぶといへども、更に、いらへず。あまりによべば、

「吾れを呼ぶは、何者ぞ。入り來りて、云《いふ》べし。」

と、いへば、うちに入《いり》ぬ。

 見れば、長(たけ)六尺有余[やぶちゃん注:二メートル超え。]の者、面の色、靑く、目を見はり、口、大きにして、耳のもとまできれ、黑き衣を着(ちやく)し、僧のまへに來りて、合掌しけり。入道、つらつら、みる事、やゝ久し。

「汝、寒きや。此火の本へよりて、身を、あたゝめよ。」

と、いへば、化物、則ち、座につゐて、火に、あたりぬ。

 一言(いちごん)も、語らず、只(たゞ)、經をよみ居(ゐ)けり。

 夜(よ)も五更に成《なり》ぬ。化物、火にや、よひけむ、口をひらき、目を閉ぢて、爐(ろ)のもとに打臥《うちふし》、いびきを、かく。

 入道、そばに有《あり》ける杓子(しやくし)といふものに、あつき灰(はい)を救(すく)ひて、其口の中に埋《うづ》み入《いれ》たり。

 妖物(ばけもの)、大きに叫び起きて、門をさして、走り出(いで)る。

 つまづき、倒(たふ)れたる聲して、後(うしろ)の山に登ると覺えて、夜(よ)、已に明けたり。

 入道、そのつまづきたる所をみれば、木の皮、一片、あり。いま、はぎたるものゝごとし。これを持ちて、山に登りてみるに、十四、五町[やぶちゃん注:十四、五キロメートル。]もゆきて、ある谷陰に、大きなる桐(きり)の木、有《あり》。幾世(いくよ)ふるともしらぬ老木(おひき)にして、其の木のもと、くぼみて、新らしく缺けたり。

 入道、かの木の皮をつけて、くらぶるに、ぢやうと、あひて、透間(すきま)、なし。木の半ばに、疵(きず)、あり。落ち入《いり》たること、深さ、六、七寸に及ぶ。

 かの妖物(ばけもの)の口にして、あつ灰(ばい)、そのうちにあり。久しく、猶《なお》、火氣(くわけ)、あり。入道、火を以て、その木を燒き倒(たふ)すに、此の後(のち)、ながく妖怪(ようけ)、なし。

 入道も、二度(ふたゝび)この山を出《いで》ずして、行ひすましたりしが、其の終りを、しらず。

[やぶちゃん注:最後の古木の変化(へんげ)を唐突に配することで、怪談自体のリアリズムが、逆に、増している。この作者、なかなか侮れないとみた。

「興福寺の衆徒、をのをの、戰場に赴きけるに」ウィキの「興福寺」によれば、『鎌倉時代や室町時代には』、『武士の時代になっても』、『大和武士』及び『僧兵等を擁し』、『強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って』、『織豊政権に屈し』、文禄四(一五九五)年の『検地では、春日社興福寺合体の知行として』二万一千余石とされ、『江戸幕府からも寺領』として同じく二万一千石を『認められた』とある。

「宇治山」京都府宇治市の南東部にある喜撰山。喜撰法師の住居跡がある。標高四百十六メートル。]

2022/05/02

多滿寸太禮卷第三 秦兼美幽冥禄

 

  秦兼美(はたのかねみ)幽冥禄(ゆうめいろく)

 

 承久の比(ころ)、深水形部秦兼美(ふかみぎやうぶはたのかねみ)といふ者は、もとは京家(きやうけ)の學匠なり。さうなき儒者にて、相州鎌倉の屋形(やかた)へめされ、闕所(けつしよ)の領知を給はり、桐が谷(ヤツ)の邊(へん)に居住し、日夜、儒書を講談し、五經・易に通ず。門人數輩(すはい)、市(いち)をなし、性(せい)、學を恣(ほしいまゝ)にして、專ら佛道をよろこばず。よりより、その門弟にあへば、則ち、誹(そし)りあざむきて、

「四民の内、たとひ士と成、農となり、工とならずんば、せめては商人(あきうど)ともなれかし。なんぞ釋氏(しやくし)となりて身を捨てむや。」

 「警論」といふ書を、三卷、作(さく)し、人性(にんじやう)を正し、世の敎へを扶(たす)けなす。その上篇の畧(りやく)にいはく、

「先づ、儒のいはく、『天は則ち理(り)なり』といへり。其形體(ぎやうたい)を以《もつて》いふ時は、是を帝(てい)といひ、帝は、則ち、天(てん)、天は則ち、帝。蒼天の上に、別に一天(てん)、宮居(ぐうきよ)・端閣(たんかく)、この世のごとき帝王のいますに、あらず。是れ、全く釋氏の妄語なり。 又、所謂(いわゆる)、三天・九天・三十三天、十方《じつ》(はう)の諸帝、いかに天の多(おほふ)して、帝(てい)の多き事や。これを思へば、いまだ階級の形(かた)ちのときを、まぬかれず。帝、又、割據の爭ひある事まぬかれず。漢の張道陵を尊(たつと)むで天師(てんし)となす。天、豈(あに)師あらむや。宋の林氏の女を以、天妃(てんひ)となす。天、いかに妃あらむや。それ、天は理のいづる所(ところ)。聖人(せいじん)は天にのつとる。道陵、たとひ、聖(せい)なりとも、亦、人鬼(じんき)なり。林女(りんによ)、既に死す。是れ又、遊魂のみ。なんぞ天たる事を得むや。 天を敬(うやま)ふ所以(ゆゑん)にして、此の說をなす事は、天を慢(あなど)る所なり。世に人、只、天にあるの天を、しる。此故に、日月星辰の光り、風雨霜露(さうろ)のあらはれを見る。吉(きつ)と凶とは天のしわざ、禍(くわ)と福とは天の降(くだ)すなり。をのが天ある事を、しらず。丹扃(たんけい)煌々(くわうくわう)は天の君なり。靈臺(れいだい)湛々(たんたん)は天の帝なり。三綱五常(さんかうごぢやう)、眼晰(がんせき)は日月星辰の光りにあらずや。禮樂法度(れいがくはつと)の明白正大(めいわくしやうだい)なるは、風雨霜露の敎へにあらずや。をのが君と、天の君と、たがふ時は、凶禍(けうくわ)なり。かならず類(るい)を以、したがふ。天の帝と、をのが帝と、合(かな)ふ時は、吉福(きつふく)なり。達する者は、これを信じ、愚者は、則ち、懵(あやま)るなり。」

 其の論篇、大むね、かくのごとし。

[やぶちゃん注:「秦兼美」「深水形部秦兼美」私は鎌倉史には常人より詳しいつもりだが、全く不詳。百済からの渡来した有力豪族秦氏の末裔という設定であろう。初期の幕府御家人では二階堂行政の妻が熱田神宮の巫女で秦氏が出自である。

「承久」一二一九年から一二二二年。京を舞台としており、「承久の乱」を挟むから、設定はその前後の短い期間しか設定不能である。以下の「闕所」云々とあって鎌倉に住んでいるところからは、乱後か。

「闕所」持ち主のない土地。特に中世に於いて、罪を犯して没収されたり、訴訟によって改替されたり、或いは、知行者が死亡して幕府や領主が直接支配することになった所領を指す。

「桐が谷(ヤツ)」カタカナは原本にママ。材木座の桐ヶ谷(きりがやつ)。但し、この谷戸名は現代に受け継がれていない。諸資料からみると、この中央の丘陵の中の谷の一つであったと考えられる(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「五經・易」と、わざわざ「易」を出しているところからは、五経の「易経」(周易)に基づいえ発展した広義の易学に詳しかったようだ。

「釋氏」仏僧。

「警論」不詳。

「張道陵」(三四年~五六年)後漢の道士。天師道(五斗米道(ごとべいどう))の祖。本名は張陵。蜀の鵠鳴山に入って、天人から道を授かり、それによって治病に尽くし、民衆から信奉されたという。

「宋の林氏の女を以、天妃となす」中国沿海部を中心に現在でも信仰を集める道教の女神、で航海・漁業の守護神媽祖(まそ)天后は、宋代に実在した官吏の娘黙娘が神となったものであるとされている。当該ウィキによれば、黙娘は九六〇年に興化軍莆田(ほでん)県湄州島(びしゅうとう)の都巡であった林愿(りんげん)の『六女として生まれ、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得て』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ』、『崇められた。しかし』、二十八『歳の時に父が海難に遭い』、『行方知れずとな』り、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。また、他に、『父を探しに船を出し遭難したという伝承もあ』り、『福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』とある。

「丹扃」強く赤く輝く宮門か。

「三綱五常」儒教で説く絶対に守るべき基本徳目。三綱(君臣・父子・夫婦間の恭順)と五常(五徳とも。仁・義・礼・智・信)。

「眼晰」明確に表れた実在。

「懵る」この漢語は本来は「愚かである」「呆ける」の意。]

 

  或る時、兼美、聊か、病ひをまふけ、數日(すじつ)、療治す。門弟、うれへて、神祇(じんぎ)に祈る。

 兼美、聞きて、

「各《おのおの》、書をよむといへ共、理(り)をてらす事、いまだ、徹せず。鬼神(きしん)、なんぞ酒米(しゆべい)を私(わたくし)にすべけむや。人の命(いのち)、豈(あに)紙錢(しせん)を以《もつて》買ふべけんや。吾、誰(たれ)をか欺かむや、天をあざむかんや。」

と云《いひ》て、此の夜(よ)、遂に卒(そつ)す。

 しかれども、胸のほとり、やゝ暖かなれば、しばらく葬むらず。門弟、各、これを守る。

 七日七夜を過《すぎ》て、衣(ころも)、うごく。をのをの、驚き、うかゞへば、鼻のなか、氣を、いだす。急ぎ、藥をあたへ、良(やゝ)久敷(ひさしく)して、眼(まなこ)をひらき、四五日を經て、漸々(やうやう)もとのごとくに成りて、妻子・けむぞく・門弟を集めて、淚をながして云く、

「釋門の偉(おゝい)なる鬼神(きしん)の、誠(まこと)なる事、至れる事を、我れ、日比(ひごろ)、癖見(ひやくけん)してあやまり、佛神を毀(そし)る。今(いま)、官をけづられ、祿をへらさる。已(すで)に生(しやう)する事、あたはず」。

 門人、おどろき、

「いかに。」

と、とへば、

「我、常に怪しみを語らず。然れども、御邊らに、果報の空(むな)しからざる事をしめさむ。

 はじめ、我れ、病ひ、少し、おこたる時、二つの大きなる蠅《はへ》の、床(ゆか)のまへにおつるをみるに、其のまゝ變じて、人、となる。靑衣《せいえ》をきて、黃(き)なる巾(きん)をかうふり、吾に、

『地府(ちふ)、急ぎ、汝を召す。とく、赴き給へ。』

と云ふ。我れ、

『地府とは、いかに。』

黃巾、答へて、

『閻羅王。』

と、こたふ。我れ、聞きて、

『冥途、黃泉(くわうせん)は、道(みち)、異(こと)にして、いかにしてゆかむや。それ故、吾れをはなれて、いかで、冥地(めいち)あらむや。』

使者のもの、いかりて、予(われ)を、大きなるかわ袋(ぶくろ)の中に入、あみのごときなる細き繩にて、口を、ゆひ、兩人、中(ちう)にひつさげて、行く事、疾風のごとし。諸木の梢をふむ事を、きく。

 其の後(のち)、しきりに闇(くら)き空(そら)をゆく。使者、袋を平地(へいち)に置きて、中より、我を引き出だす。兩人して引はり、あゆむともなく、一つの鐵門に至る。

 守る者、或《あるい》は、高き鼻、深き眼(まなこ)、鬚髭(びんはつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]そらさまに生ひたり。

 使者に問ふに、

『朱印(しゆいん)なり。』

と答(こた)ふ。

 又、紅衣(こうい)の者、一人の男、三人の女を引きて來《きた》る。守る者、又、問ふ。

『墨印(こくいん[やぶちゃん注:ママ。])なり。』

と答ふ。

『印を、みん。』

といへば、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]札(ふだ)を出《いだ》して見する。長さ二寸斗《ばかり》。我を引居(ひきゐ)たる靑衣の札は朱字、紅衣の札は墨字(こくじ)なり。

 使者、門を入《いり》て、吾れをともなひ、左の廊下に行《ゆく》。

『いかなる所ぞ。』

と問へば、

『冥都(めいと)㐧一の關(せき)なり。』

といふ。

 爰(こゝ)にて、兼美、死(しゝ)たる事を、しる。

 又、前の朱墨(しゆぼく)の札を、とふ。答へていわく、

『冥司(みやうじ)、人を呼びに來りて、又、蘇生する者には、朱を以《もつて》書き、永く返らざる者には、墨(すみ)を以(もつてす)。』

 かくて、行く事、數里(すり)にして、鐵圍城(てつゐじやう)に入《いる》。

 城門の守護、使者に、とふ。さきのごとく、答ふる。俄かにして、禁庭(きんてい)に入《いる》。使者のいふやう、

『御邊(ごへん)、重罪なしといへ共、黃泉(くわうせん)の道は嚴重にして、凡世(ぼんせい)にあらず。』

とて、繩を解きて、わが首に付(つ)く。ひきて入《いり》、まづ、冠服司(くわんふくし)に入(い)る。主司(しゆし)は、六旬にこへたる白髮の老女なり。其の長(た)け八尺あまり。則ち、わが衣(ころも)をはぎて、

『罪巾(ざいきん)、おさむ。』

と、いへば、我、漸々(やうやう)、肌着斗りに、繩を帶びてゆく。

 聽門(ちやうもん)に及びて、一人の使者さきに入、しばらくの間に、五、六人を引《き》て出《いづ》るをみれば、おめき、さけぶ。

 吾れを、とらへて入る。

 階下にひざまづきおるに、大王、尊服寶冠を着(ちやく)し、臺上(うてなのうへ)に居住(きよぢう)す。

 侍衞(じゑ)の官人、四方に、ゐねうす。我にむかつて曰《いはく》、

『汝は、相州の儒士、秦兼美(はたのかねみ)にあらずや。汝、儒に尊(たつと)ぶ所は、上(かみ)、鴻濛(こうもう)をうかゞひ、中《なか》、聖智(せいち)に法(のつと)り、下(しも)は物理を究め、乾(けん)をひらき、坤(こん)を閉づ。妙に至り、微(み)にいたる。精醇(せいじゆん)を陶治(たうぢ)し、元和《げん》(わ)を橐(ゆふ)す。無中有象(む)《ちゆう》(うざう)の薀(うん)をきわめ、陰陽(ゐんやう)動靜の根(ね)を妙にし、翕忽變化(うこつへんくわ)を用とす。出入(しゆうにふ)に方(かた)なく、三つにして一つに會す。これを儒と云《いふ》。しかも鬼神(きしん)もうかがふ事、あたはず。[やぶちゃん注:「橐」の字はこの字の異体字で、最上部が「右」のこの字体(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、かくした。]

  今、汝、ひとへに己(をのれ)が見(けん)をとりて、文詞(ぶんし)を作り、神を謗(そし)り、佛(ほとけ)を毀(そし)る。天、至つて大なるに、階級し、帝、至つて尊(たつと)きに、割據(かつきよ)を以《もつて》これに戲むる。妄りに天子の號を論じ、妄りに天妃の稱を弁ず。其の罪(つみ)、大いなり。且、儒書の中に天を云《いふ》事は、一つならず。「春秋」に「天王」と書し、「詩」には「天の妹(まつ)」に、たとふ。昊天(くわう)《てん》其の子(こ)といへるがごとし。皆、汝が論ずる、天、已(すで)に師なし、「妃、なし」と論ぜば、なんぞ王あり、妹(まい)有《あり》、子あり、といはんや。汝が學、誠(まこと)に拘(かゝは)りて通(とう)せず。滯(とゞこほり)て、さゝはりあり。さゝわり[やぶちゃん注:ママ、]あれば、鄙癖(ひへき)なり。誠に、俗賤虛妄(ぞくせんこもう)の士、なんぞ儒者の名を犯すや。汝、もとは六品《りく》(ほん)の官となり、花閣(くわかく)に出入《でいり》す。汝、神佛と信(しん)ぜず、鬼神(きしん)をなみする。殊に降(くだ)して七品《しち》(ほん)とす。』

大きに怒り、述べたまふ。

 吾、頓首して禮謝して、

『過(とが)を改めむ。』

と乞ふ。尊王のいわく、

『此人、面(おもて)には請けぬれども、後(しりへ)に誹(そし)りて、退(しりぞひ)て後(のち)、又、いわむ。獄中をみせて、その心を折服(せつふく)さすべし。』

と。

[やぶちゃん注:「罪巾」「巾」はここでは「布切れ」で、ここは罪人の衣服を指しているようである。下着だけ残すというのは、彼に対する最小限度の心遣いであろう。但し、挿絵の亡者は褌のみであるが(一人だけの女性の亡者が着衣であるのは寧ろ違和感が大である)、兼美は衣服はそのままである。本文では地獄巡りの後に、服は返されている。挿絵師はちゃんと本文を読んでいないようである。

「元和を橐(ゆふ)す」「元和」は本来の恒常的絶対的平穏和平の意か。「橐」は「袋」の意であるから、「元和」の状態をしっかりと包み込むという意か。

「無中有象」本来の無常なる仮初めの現実世界の儚い実体の意か。仏教的だが、中国の古来の諸思想でもそこは根本的には共通していると思われるから、問題はあるまい。

「薀」蓄え、保存すること。現実世界を安定させることか。陰陽思想に基づく「陰陽動靜の根を妙にし」もそれを言っている。

「翕忽變化」「翕忽」は「速やかなこと」。道家的であるが、前注のそれと同じく、現実世界に対する盗撮は儒家もそのような見かけの変容を認めていよう。

「用」現存在への作用の意か。

「階級し」勝手に対象を区分・差別化し、自然には存在しない絶対的強権力や架空の至上の称号を捏造することであろう。

「詩」「詩経」。『「天の妹」に、たとふ』は「大雅」の「文王之什」(ぶんわうのじゆう)の「大明」(だいめい)の一節に出る。

   *

大邦有子

俔天之妹

文定厥祥

親迎于渭

造舟爲梁

不顧其光

(大邦子有り

 天の妹に俔(たと)ふ

 文をもつて厥の祥(しやう)を定めて

 親(みづか)ら渭(い)に迎へり

 舟を造りて梁(はし)と爲(な)す

 顧(あきら)かならずや其の光)

   *

「文」は周末期の文王(紀元前十二世紀から紀元前十一世紀頃)、「天の妹」と称されたのは、彼の妃太姒(たいじ)。当該ウィキに、『有莘似』(ゆうしんじ)『氏の娘として生まれた。文王は渭水に舟を並べて橋を作り、太姒を迎えた。太姒は太姜や太任を慕って、朝に夕に勤労し、婦道を推し進めた。太姒は号を文母といった』。『太姒は文王とのあいだに』十『人の男子を産』み、『太姒が』その子らを『教育すると、子どもたち』は『成長しても悪癖を見ることがなかった』「詩経」に『「大邦有子、俔天之妹、文定厥祥、親迎于渭、造舟為梁、不顕其光」(大国に優れた娘があり、天の妹にもたとえられる。文王は礼をもってその吉祥を定め、自ら渭水に迎えに行き、舟を並べて橋を作った。その栄光の輝かしいことよ)』『と謡われ、また「太姒嗣徽音、則百斯男」(太姒は太任の名声を継いで、たくさんの男子を生んだ)』『と讃えられた』とある。同詩篇全体は『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらがよい。現代語訳も附されてある。

「昊天」大空。

「六品」正従・(じゅ)六位。以下の七品も同様。

「花閣」御殿。ここは鎌倉幕府を指すのであろう。

「鬼神」ここは邪悪なそれではなく、仏教に於ける超人的な能力を持つ存在の総称。

「なみする」「無みする・蔑する」で、本来は「無」の方で、形容詞「無(な)い」の語幹に接尾語「み」(「そのようなものとして捉える」の意か)の付いた「なみ」に、動詞「す」の付いたもので、「そのものの存在を無視する・ないがしろにする・あなどる」の意。ここは「無視する」でよかろう。

「此人、面には請けぬれども、後に誹りて、退て後、又、いわむ。獄中をみせて、その心を折服さすべし」という閻魔王の台詞から、彼が地獄に来たのは、そうした訓戒を告げるための方便としての仮死であったことが明らかとなる。]

 

 數卒(すそつ)、予(われ)を挾(さしはさ)むで、下(くだ)し、附(ふ)す。

 使者、領して、さり行く。

 其の道に、寶塔、一器、あり。僧堂の傍らに立ちて、香爐を執りて居(きよ)す。

 使者、再拜す。

 我も又、同じく拜す。

 僧、塔をひらきて、一つの大珠《だい》(じゆ)をとりて、金盤(きんばん)にのせて、出《いだ》す。

 使者、頂戴して行く。予(よ)、したがひゆくに、その道、幽暗にして、くらき事、限り、なし。我、道すがら、問ふ。

『僧は、たそ。』

 答へて、云はく、

『六道能化(のう)《げ》の地藏菩薩なり。』

 又、とふ、

『玉《たま》は、なんぞ。』

『菩薩の願珠(ぐわんじゆ)なり。獄中の業《ごふ》深く重きは、珠光(しゆくわう)を照らし、破(やぶ)るを賴む。さもあらざれば、鬼王、暗中(あん)《ちゆう》におひて、人の心肝(しんかん)をくらふて、出《いづ》る事を得ず。』

[やぶちゃん注:「六道能化」六道の辻に立って、死者を導き、六道に亙って衆生を教化(きょうげ)することの出来る者の意で、地蔵菩薩の別称。]

 

Hatajigoku
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングした。地蔵菩薩の願珠は右から捕まえている冥吏が持っている。これがないと、暗黒の地獄では見学が出来ないから、気の利いた小道具として、映像的には優れていると言える。作者の創作部分では、かなり読者に向けた以下のシークエンスへの現実的且つ親切な効果を持っていることを見逃してはなるまい。]

 

 さるほどに、一つの獄中に至る。

『不義を罰する地獄。』

と云《いふ》。

 大きなる庭に、炭火(すみび)をうづたかくおこし、炎、のぼりて、空(そら)に、みつ。罪人を呼びて、ひざまづかせ、火中(くわ)《ちゆう》の鐵丸(てつ)《ぐわん》、大きさ、ゆびのごとくなるを刺して、人の眼(まなこ)に入れ、十五、六をつらねて、串に、さす。干魚(ひを)をかくるがごとし。

 使者のいはく、

『此の罪人ども、世にある時、大倫《だい》(りん)を輕んじ、財利の爲めに兄弟親族をつらくし、敵(てき)のごとく、かろしめて、此の報(むくい)をうくる也。』

[やぶちゃん注:「八熱地獄」に付随する「鉄丸地獄」か。串刺しは「八大地獄」の「焦熱地獄」=「炎熱地獄」でも見られる。後者の罪状の一つに「邪見」があり、これは「仏教の教えとは相容れない考えを説き、或いは、それを実践する」罪で、兼美に見せる最初としては腑に落ちる。]

 

 次(つぎ)の地ごくは、不和をいましむる獄なり。

 皆、女人老少、まじはり、人ごとに舌のうへに、一つの釣(つりばり)をかけ、おもりの石を、かく。くるしみいふ斗《ばかり》なし。後(のち)は瓜(ふり[やぶちゃん注:「うり」の古語。])をまろばすごとく、こけ倒れて、舌出《いで》て、長事、一尺斗《ばかり》。

 使者のいはく、

『此もの、世にある時、ひたすら色をこのみ、閨房にまよひ、女の道を守る事を、せず。夫(おつと)の家を分けさせ、中《なか》ごとを云《いひ》て、あだをむすばする、むくひなり。』

[やぶちゃん注:舌に関わる刑罰は多くの地獄でポピュラーなものとして活用される。

「瓜(ふり)」「うり」の古語。]

 

 東南の一獄は、「閻浮惣獄(えんぶそうごく)」といふ。此地ごくの北を「剔鏤(けつろう)」といふ。人を柱にからめ付《つけ》て、刀(かたな)を以て、つゞる。蓑(みの)のごとくし、うちわを以《もつて》、あふぐ。あつ酢(す)をかけ、絕して、又、よみがへる。水をそゝげば、皮肉、もとのごとし。惡逆にして、善人を生害《しやう》(がい)する者、爰に落(おつ)る。

[やぶちゃん注:「閻浮惣獄」不詳。作者の創作らしい。しかし、「閻浮」は「閻浮提」で仏教に於ける人間世界を指すので、何となく変な感じがしはする。

「剔鏤」不詳。同前。「剔」は「えぐる」、「鏤」は「刻みつける」の意。これは等活地獄の定番。]

 

  其の隣り、「穢溷獄(ゑこんごく)」といふ。大糞《だい》(ふん)の池(いけ)、沸々(ほつほつ)として、湯のごとくわき、臭くして、近づくべからず。鬼ども、長き熊手を以《もつて》、人をかけて、煮る。しばらくして潰爛(つえたゞ[やぶちゃん注:ママ。])れ、化(くわ)して蟲(むし)と成《なる》。これを鍋の中に入《いれ》て炒(い)る。灰とし、糞水(ふんすい)を汲みて、そゝぐに、又、人となる。これは、小人にして君子を謗り、智人(ち)《じん》をあざむくもの、こゝに來《きた》る。

[やぶちゃん注:「穢溷獄」不詳。同前。「溷」(音「コン」等)は「便所」「穢れる」等の意がある。「大糞の池」は等活地獄の「屎泥処」(しでいしょ)がよく知られる。]

 

  其の次は、數十人を裸にして、羅刹、錢(ぜに)の繩(なわ)を以《もつて》、八、九人の罪人を引き來たり、刀(かたな)を以つて、裸の者の胸・股(もゝ)の間《あひだ》の肉を、さいて、鍋の中にて、煮て、これを餓鬼に、くらはしむる。業風(ごうふう)、一たび吹けば、支體(したい)、もとのごとし。是、皆、人間、官祿の役人、權(けん)を專らにして、賄路を入れ、世を欺き、名をぬすみ、或《あるい》は、知行所・檢斷所(けんだんどころ)にても、表(うへ)は廉潔をみせ、内にはひそかに金銀を受け、或は非義の公事(くじ)を勝たせ、人をむさぶり、己(をのれ)を利する者、みな、其の中に有《あり》。

 兼美、日比(ひごろ)むつびし友も有り、淺ましなむども、おろかなる事ども也。

[やぶちゃん注:地獄名がないが、やはり創作であろう。作者はオリジナルな地獄を創案するのを楽しんでいる傾向が見られるが、それにしては、奇抜なオリジナリティがないのは、ちょっと残念である。ここの処刑も極めて総ての地獄で一般的だが、餓鬼を処刑に使役しているのはちょっと面白い。餓鬼道は畜生道同様、独立した別界ではなく、人間道とも別次元的に共時する世界であるから、問題はない。なお、ここを最後に配したのは、亡き友人の官吏が苦しむのを見せて、幕府から取り立てられている官人としての兼美自身の罪意識を駄目押しする効果として、よく効いている。]

 

 ことごとく、見終りて、かへる。

 使者、珠(たま)をおさめて僧に返し、又、王の前に至る。

 王、又、示して、のたまはく、

『まさに此の後(のち)の罪を改むべし。むかしの非(ひ)を、なす事、なかれ。若し、改めずは、罪を、まぬかるまじ。』

とて、使者に命じて、送りかへらしむ。

 此の時、始めて、繩を解き、身體、自由なる事を、おぼゆ。

 冠服司にゆきて、衣服をとりて、きせ、

『暫く、まち給へ。符をとりて、歸るべし。』

とて、捷徑(せうけい)を取りて歸る。

[やぶちゃん注:「捷徑」近道。]

 

 もとの道には、いでず、多くの關門を越ゆるに、爰に新敷(あたらしき)樓門の關(くわん)あり。「蜉蝣關(ふゆうくわん)」と云《いふ》。

 吾、儒者なる事を知りて、

『「蜉蝣門」の銘を作らしめむ。』

と云《いふ》。

 われ、重ねて、

『いかなる故に「蜉蝣」と名づくや。』

 鬼王の云はく、

『生《しやう》を人間に受くるものは、悉く、これより、出《いづ》る。しかれども、久しからずして、又、至る。蜉蝣の、朝(あした)に生じて、夕(ゆふべ)に死するが如し。』

 吾、則ち、數語(すご)をゑらむで、これに、むくふ。其の文(ぶん)に曰《いはく》、

[やぶちゃん注:「蜉蝣關」不詳。やはり作者の創作であろう。ただ、「徒然草」を原拠とした見え見えの鬼王の台詞はちょっと鼻白む。なお、閻魔王は地獄界のあらゆる場所を遠隔視認出来、そこに言葉を伝える超能力を持っていることが判る。これは作者の思いついた中では、意外にも王の声が聴こえてくる点で、なかなか効果的な思いつきとして評価出来る。

 なお、底本原本では以下の銘文全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

「尊(たつと)き事有《ある》者は關鎭厚(くわんちんこう)の地なり。赫(かく)たる事あるは、それ、威關(いくわん)の史なり。これを蜉蝣と名づく。凡そ、その生ずる事、有《ある》物は、是より、ゆく。去つて、又、時を越《こえ》ずして、やゝ又、至る。何ぞ此の蟲の一日の中《なか》に生死《しやうじ》あるに、異(こと)ならむ。南、閻浮提、光陰、かはる。往來して、なんぞ憩(いこ)ふ事、稀れなる。此名を見て、そのたとへを、さとらざらむ。六道四生、はやく出離(しゆつり)し、逍遙無方功利《せうえう》(むはうこうり)を證し、皆、天人と成《なり》て、此の關(くわん)、永く廃すべし。敬(けい)して予が銘(めい)を聞《きき》て、佛誓《ぶつせい》をはつせよ。あゝ、幽靈、守りて、かはる事、なかれ。」

[やぶちゃん注:「關鎭厚」不詳。見たことがない熟語である。一種の地獄の門域を言っているようではある。

「四生」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「無方」方位の制限がなく、際限がないこと。制限がないこと。自由自在なこと。

「功利」真に仏教的な意味での幸福と利益(りやく)の意であろう。]

 

 鬼王、よろこびて、則《すなはち》、吾れを、はなちて、ゆかしむ。

 二更に至りて、わが家に歸り、身(み)、床(ゆか)の上に臥し、燈(ともしび)、からげ、妻子・門人、取り𢌞(まは)し、嘆くを、みる。

 使者、一たび、うしろより、おす。吾、おぼえずして、跌(けつまづ)き、屍(しかばね)の内に入《いる》。恍然(くわうぜん)として、悟(さめ)たり。」

 其後、兼美、ふかく佛神を敬(うやま)ひ、淸愼廉潔(せいしんれんけつ)にして、世を送りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「二更」午後十時及びそれを中心とする二時間。

「恍然」心がうっとりとしているさま。恍惚に同じ。]

2022/04/10

多滿寸太禮巻㐧二 四花の爭論 / 多滿寸太禮巻㐧二~了

 

[やぶちゃん注:詩歌本文にはベタで入っているが、改行して独立させ、和歌は上・下句を分離し、漢詩は句で改行した。漢詩の一部は白文を示した後に、( )で訓点に従った訓読を示し、一部に字空けを施した。但し、一部は読み下しと訓点が混入しているため、そこは臨機応変の処置をとった。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングした。]

 

        四花(しくわ)の爭論

 住古(そのかみ)、出雲の國に、一人の聖(ひじり)あり。名を連藏といへり。常に深山幽谷を栖(すみか)とし、法華を讀誦し、ながく人倫を離れ、二十余年のとし月を送り給ひける。あやしき柴の庵(いほり)をむすび、嵐にむせぶ軒の松風、夢を破り、深洞(しんとう)に月をうけて、夜すがら、讀經(どくきやう)おこたらず。衣(ころも)、つきては、木葉(このは)を重ね、苦修練行(くしゆれんぎやう)に身をやつし給ひしが、壯年のころより、四季の草花を愛し、庵の四面、岩のはざまに、色々の花をやしなひ、すべて、春より、冬の雪間(ゆきま)にも、花なき事をいとひて、明暮、これをもてたのしみ給ひけるに、いつのほどよりか、四人の從者(ずさ)、日にかはり夜に代り、水を汲み、薪(たきゞ)をこり、菓物そのほか、無數(むしゆ)の供物を捧げて、隨從給仕しける。

Sikuwanosautonn
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

  その一人は、白髮の翁(おきな)、常に靑き衣を着たり。

 一人は、容貌、いつくしくみえし童(わらは)の、かみをみだして有《あり》。

 又一人は、よはひ、さかむに[やぶちゃん注:「かさむに」の錯字か。]、美麗の女性(によしやう)、髮をからわにゆひあげ、常に紫の衣をきたり。

 今一人は、紅衣(こうゑ)を身にまとひたる小法師にてぞ有ける。

 かれら、明暮、一人、二人づゝ、日がわりに、かしづきて、御經(おんきやう)、聽聞(ちやうもん)しけり。かくする事、年、久し。

 聖も、誰(たれ)ととがむる事なく、或る時、四人(よつたり)ひとつに出來(いでき)て聽聞しけるが、女性(によしやう)、すゝみ出《いで》て云ひけるは、

「各(をのをの)、としごろ、師につかへて私(わたくし)、なし。此の御經の功力(くりき)にひかれて、佛果菩提に至らむ事、誠に有り難からずや。我等、たまたま生(しやう)をうくるといへども、一朝の間(あひだ)に、如幻(によげん)[やぶちゃん注:「無常」に同じ。]のかたちを、なす。然りといへども、我れ、百花の長(ちやう)とし、人の心を、なぐさむ。いかに、かく、禮をみだして、吾を、かく下座に、をくや。されば、歐陽永叔(おうやうえいしゆく)も、牡丹を「花の王」とす、とこそ見へたり。又、家隆卿(かりうきやう)の歌にも、

 紫の露さへ野邊のふかみ草

  たが住(すみ)捨(すて)し庭のまがきぞ

和漢の才人、詩歌によせ、わが名を尊(たつと)ぶ。いかでか、凡草(ぼんさう)の及ぶ事、あらむ。」

[やぶちゃん注:「歐陽永叔」唐宋八大家の一人、北宋の政治家にして詩人・学者として知られる欧陽修(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)。永叔は字(あざな)。彼は「洛陽牡丹記」という文で、「洛陽地脈花最宜、牡丹猶爲天下奇」(洛陽の地脈は花に最も宜しく、牡丹は猶ほ天下の奇とす。)と呼び、中国に於ける「花の王」牡丹の美しさを讃え、これを以って牡丹は中華のまさに第一の花とする習慣が定着した。

「家隆卿」音読みは有職読みで尊敬を示す。鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆の「壬二集」(みにしゅう)の「建保四年百首」(一二一六年)の「夏」に載るもの。]

 中にも、小法師の云ふやうは、

「仰せはさる事に候へども、千草萬木(せんさうばんぼく)、何れを尊とし、何れを卑しとせん。 仰(そもそも)、荷葉(かよう)は花の君子として、周茂蓮符(しうもれんふ)の樂(がく)となる。それのみならず、諸佛諸菩薩も、蓮花に坐せしめ、一切の經王(きやうわう)にも、妙法蓮華を以つて題號(だいがう)とす。されば、

 點溪(てんけい)に 荷葉は 疊む靑錢(せいせん)

とは、杜甫が句なり。

 荷花(かくわ) 嬌(けう)として 欲ㇾ語(かたらんとほつす)

とは、李白が詩なり。退之は、

 太華峯頭 玉井《ぎよくせゐ》の蓮(れん)

と、いへり。又、歌にも、

 浪に入《いる》海より西の夕日こそ

    蓮(はちす)の花の姿なりけり

其の外、世々(よゝ)の詩人・歌人、もて遊ばずといふ事、なし。いかに、我等こそ、人々に、おとらめや。」

[やぶちゃん注:「點溪に 荷葉は 疊む靑錢」杜甫の七絶「絕句漫興 九首 其七」の起・承句。杜甫草堂での吟。紀頌之氏の「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」がよい。

「荷花 嬌として 欲ㇾ語」李白の五絶「淥水曲」(りょくすきょく)」の起・承句。やはり同じ方の別ブログ「漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩・唐詩・詩詞 解釈」のこちらがよい。

「太華峯頭 玉井の蓮」韓愈の七律「古意」。邦文では適切なものがない。全詩を中文繁体字のこちらでリンクさせて示しておく。

「浪に入海より西の夕日こそ蓮の花の姿なりけり」藤原為家の一首で「夫木和歌抄」に載る。「日文研」の「和歌データベース」で確認(03523番)。

   *

なみにいる うみよりにしの ゆふひこそ はちすのはなの すかたなりけれ

   *]

と、なごやかに申せば、童子(どうじ)の云《いふ》、

「各、其の威をまして、我身の德を述べ給ふ。誰(たれ)とても、いはれなき身は、あらじ。屈原が、秋菊(しうきく)の落英(らくえい)をくらひ、淵明が、東籬の下(もと)に菊を愛す。自然の醇精(ふせい)、たれか、もてあそんで、看執(かんしう)せざらん。それのみならず、荊州(けいしう)の菊潭水(きくたんすい)、三十余家(《さんじふ》よか)の長壽をたもち、慈童、八百歲の齡(よわひ)を、ふる。王荊公(わうけいこう)が詩(し)に、

 千花萬草凋零後 始見閑人把一枝

 (千花(せんくわ)萬草(ばんさう) 凋零(しうれい)の後(のち)

  始めて見る 閑人(かんじん) 一枝を把(と)る)

されば、定家卿の歌に、

 此里の老(おひ)せぬ千世(ちよ)はみなせ川

             せき入《いる》る庭の菊の下水

又、

 白かねと金のいろに咲(さき)まがふ

       玉のうてなの花にぞ有ける

其外、古人、これを愛し、家々(いへいへ)の詩歌、かぞへがたし。かゝる聖花(せいくわ)を下に置かむはいかに。恐れ、なからんや。」

[やぶちゃん注:「屈原が、秋菊の落英をくらひ」「楚辭」の知られた、屈原の「離騷」の一節。「夕餐秋菊之落英」(夕(ゆふべ)には秋菊の落英を餐す)。サイト「碇豊長の詩詞」のこちらがよい。

「淵明が、東籬の下に菊を愛す」授業でも盛んにやった、陶淵明の詩篇では最も知られる五言古詩「飮酒」二十首の「 其五」の一節。全体は古くからお世話になっている「WEB漢文大系」のこちらをリンクさせておく。

「醇精(ふせい)」読みはママ。「じゆんせい」が正しい。混じり物のない純粋なエッセンス。

「荊州の菊潭水」荊州は現在の湖北省一帯。そこにあるとされる「菊潭」の水は不老長寿の妙薬とする伝承があり、恐らくはこの不老水、本家より本邦の方が人気があって、和歌や能の「菊慈童」の素材となっている。

「千花萬草凋零後 始見閑人把一枝」北宋の政治家で詩人・文学者としても知られた王安石。「荊国公」を贈られたことから「荊公」とも呼ばれる。彼の「菊」の詩として引かれているが、検索しても、中文サイトでも、この二句の部分しか出ない。不審。

「此里の老せぬ千世はみなせ川せき入る庭の菊の下水」「日文研」の「和歌データベース」の定家の「拾遺愚草」では(01931番)、

   *

このさとに おいせぬちよは みなせかは せきいるるにはの きくのしたみつ

   *

と初句が違う。

「白かねと金のいろに咲まがふ玉のうてなの花にぞ有ける」不詳。]

 翁、眉をしはめて、

「何れも、やさしきあらそひ、其人によつて、其人をあひす[やぶちゃん注:「相(あひ)す」か。或いは「愛す」の転訛か。]。いづれを是(ぜ)とし、何れを非とせん。吾は、玄冬(げんとう)の寒きをいとはず、春を逐(おつ)て開く。此の故に、梅(むめ)を兄(あに)とし、山茶(さんさ)をもつて弟(おとゝ)とす。淸香(せいかう)幽美にして、『凌波(れうは)の仙子』ともいはれたり。其の外、貴文(きぶん)が詩にも、

 早於桃季晚於梅

 氷雪肌膚姑射來

 明月寒霜中夜靜

 素娥靑女共徘徊

 (桃季より早く 梅(むめ)より晚(おそ)し

 (氷雪 肌膚(きふ) 姑射(こや)來たる

  明月 寒霜 中夜靜なり

  素娥(そが) 靑女(せいぢよ) 共に徘徊す)

[やぶちゃん注:転句には原本では「静」という訓点が打たれてある。]

と、いへり。ある歌に、

 白妙に庭のきり芝ふる雪に

  しらず貌《かほ》なる水仙のはな

と、よめり。賢聖の、もてあそびと、なれり。

 凡そ、花木草花(くわぼくさうくわ)は、たゞ品(しな)を、いはず。時にふれ、興(けう)にめでて、人の氣(き)を、なぐさむ。豈(あに)尊卑高下(かうげ)をあらそはむ。夢の世に、かりなる生(しやう)をうけ、飛花落葉をかなしみ、我れと、吾が身に、着(ぢやく)を、のこす。かの唯摩居士(ゆいまこじ)の「佛道、猶《なほ》捨(すつ)べし。いかにいはんや、非法(ひほう)をや。」と、說き給ふ、むべなるかな、此事。かならずしも、爭ひ給ふべからず。只(たゞ)、「草木國土悉皆成佛(さうもくこくどしつかいじやうぶつ)」の金言をたのみ、かゝる尊(たうと)き聖人(しやうにん)に、ちぐうし、たてまつり、猶《なほ》し、菩提の種(たね)をも、うへ給へ。」

と、念比(ねむごろ)に宥(なだ)め、をのをの、退散しけり。

[やぶちゃん注:「山茶」山茶花。

「凌波の仙子」水仙の美称。波をかきわけて進むような軽やかな美人の仙女の歩みに喩えたもの。

「貴文(きぶん)が詩」「水仙花」という題名で宋代に纂せられた「彭城集」に載るが、この作者は不詳。識者の御教授を乞うものである。

「唯摩居士」普通は「維摩居士」。まあ、漢訳だからどうでもいいが。大乗仏教の一経典「維摩詰所説経」(クマーラジーバ訳・略称「維摩経」)の中で中心となって活躍する居士の名。「維摩」は「維摩詰」の略で、サンスクリットの原名は「ビマラキールティ」。同経の玄奘による別訳が「無垢称」と訳しているように「無垢という評判をとった(人)」という意で、「浄名」とも訳される。古代インドの商人で釈迦の在家の弟子となった。「多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓」で注したので参照されたい。

「草木國土悉皆成佛」「涅槃経」で説かれるかなり知られたフレーズ。草木や国土のような非情なものも、仏性(ぶっしょう)を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく、六世紀頃の中国仏教の中に出現するが、特に本邦でもて囃された。日本では空海が最初とされ、次いで天台宗の円珍や安然らによって説かれた。それが鎌倉新仏教の興隆台頭の中、親鸞・道元・日蓮らによって再び説法の中で主張されるようになった。]

  聖(ひじり)、つくづくと、是を聞給ひ、

「誠(まこと)に。草木(さうもく)といへども、かりの執心をとゞむるにしたがひて、をのが形(かた)ちを顯はす。此とし月、多くの草花(さうくわ)をやしなひ、愛しける事の、うたてさよ。」

と、日比の心を捨(す)て、此の後(のち)、ながく、愛心(あいしん)をとゞめ給へば、四人の者も、をのづから、來らず。

 いよいよ、勤修(きんじゆ)おこたらず。

 天(てん)の童子《どうじ》、二人、いつとなく來りて、聖人(しやうにん)に給仕し給ひけれ。

 こゝに、妙慶といへる尊(たつ《と》)き僧、一旦、此の山にまよひ入《いり》給ふに、遙かの峯に鐘の音(ね)を聞きて、尋ね行き、見給ふに、柴の庵、あり、獨りの僧、「法花」をよむ。其とし、いまだ三十計り。妙慶をみて、經をとゞめて、内に請じて、やゝ物語りし給ふ。

 妙慶、申されけるは、

「幾年(いくとせ)をか、此山に住(ぢう)し給ふ。」

 聖、答へて、

「我れ、人倫をはなれてこのかた、麓に下(お)りず。花咲き、雪ふるを、かぞへてみるに、とし、已(すで)に、一百余歲。」

 こゝに於《おい》て、唯人(たゞひと)ならぬ事を、しる。

 「安樂行品(あんらくぎやうほん)」を、よみ給ふ。

「天乃諸童子以爲給仕(てんのしよどうじいゐきうじ)。」

の句に、二童子、忽ちに顯はれ、一人は供物をさゝげ、一人は蓋(がい)をおゝふ。聖、供物をふたつに分け、一ぶんは、くひ、一分を妙慶に與(あた)ふ。

 其の味、甘露のごとく、人中(にんちう)の食(しよく)に非ず。聖、仰せけるは、

「此の地、常の人の來たる所に、あらず。今、ふしぎに對顏(たいがん)して、昔を語る事の嬉しさよ。」

 妙慶、三拜して、

「吾れ、不思義に此の所に至る。再會、期(ご)し難し。今、尊前の所行、世に傳へむと思ふに、更に印(しるし)なし。片原(かたはら)に有《あり》ける『木のは衣(ころも)』を、吾れに與へ給へ。」

と、あれば、聖、惜しむ氣色(きそく)あり。忽ちに、十人の童子、顯はれ、此の衣を、守る。

 妙慶、本(もと)より、不動尊に歸して、多年、有驗(うげん)ありければ、しばらく觀念ありしに、金伽羅(こんがら)・勢多伽(せいたか)の二童子、形(かた)ちを現じて、衣を、奪ひ取《とり》給ふ。

 十童子、これを、つよく引《ひき》て、いかる。

 其の衣、半ばより烈(さけ)て、二つ、となる。

 一衣(いちゑ)は聖(ひじり)のもとに有《あり》、一衣は妙慶の手に、わたる。

 則ち、これをたづさえて、後生(ごしやう)を契り、歸り給ふ。

  又の春、かの聖の庵室(あんしつ)を尋ね給ふに、いづちへか、おはしけん、垣(かき)も、とぼそも、苔むして、その行方(ゆきかた)、なし。庵室の窓下(まどのもと)に、

 一枕仙遊足自娛

 蕭然情思離塵區

 (一枕(いつしん)の仙遊 自(おのづか)ら娛(たの)しむに足(た)るを

  蕭然(せうぜん)たる情思(せいし) 塵區(ぢんく)を離(はな)る)

此の句、書き付けて有《あり》しを、妙慶、なくなく、是を形見に取りて、歸りたまひ、世に傳へ給ひけるとかや。

[やぶちゃん注:「十童子」不詳。密教に於いて、不動明王の使者である八人の童子がいる(慧光(えこう)・慧喜・阿耨達(あのくだつ)・指徳・烏倶婆迦(うぐばか)・清浄・矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)の八大(金剛)童子)がいるが、これは以下に出る不動のそれと重なっているから、違う。因みに引っ張り合う妙慶方の「金伽羅」と「勢多伽」は不動尊像に脇侍としてよく造形される童子である。]

2022/04/07

多滿寸太禮巻㐧二 芦名式部が妻鬼女と成事

 

   芦名(あしな)式部(しきぶ)が妻(つま)鬼女(きぢよ)と成事

 むかし、遠江國に、芦名式部大輔(しきぶのたゆふ)と聞えし人は、家、とみ、榮へ、郡(こほり)、あまた領して、妻は、四とせ以前に、同じ國、池田の邊(へん)より迎へて、寵愛しけるが、或る時、都にのぼり、大番(おほばん)つとめて歸るさに、忍びて契りける女を具して、古鄕(ふるさと)に歸り、本妻に深くかくして、片里(かたさと)なる所をしつらひ置《おき》て、忍びに通ひける。

[やぶちゃん注:「芦名式部大輔」不詳。同名通称で鎌倉末期から南北朝初期の武将で蘆名式部太輔高盛(蘆名遠江守盛員の嫡男)がいるが、彼は文保二(一三一八)年生まれで、建武二(一三三五)年、相州藤沢の片瀬川で父とともに十八歳で討死しており、違う。]

 いつとなく、此女、懷姙して、月、みち、既に產むとせし比、此の事を、本妻、聞き傳へて、大きに妬(ねた)みいかり思ひけれども、さすが、夫に向ひ、うらむべきよすがもなく、心にとめて、ねたみ思ひける。

  後(のち)は、あからさまに、人も、のゝしり、

「若子(わこ)なんど出來(でき)させ給はゞ、めでたき事、なんめり。」

と、聞つたへければ、いよいよ、いかり、つよく、

『いかなる事をもして、此の『目かけ』を、殺さばや。』

と思ひけれども、家人(けにん)どもゝ、懷姙の後(のち)は、ふかく、彼方(かのかた)をのみ、慕ひければ、折りもあらで、思ひ煩ひけるが、あまりの妬さに、衣(ころも)、ひきかづきて、臥しける。

 かくて、

『やみやみと死なむも口惜し。』

と思ひめぐらし、或る夜(よ)、打ちふけて、貌(かほ)にも身にも、「べに」といふものをつけて、白き絹をうちかづきて、髮をみだし、をそろしくつくりなし、ひそかに忍び行《ゆき》、庭の草村に伏しかくれて、人の靜まるをまちて、かの女の寢屋(ねや)に忍びいりて、枕もとに立ちよりて、おどろかし、

「ぢやう」

と、にらまへたりければ、

「わつ。」

と、さけびて、息、たえぬ。

『しすましたり。』

と思ひ、いそぎ、我もとにかへり、しらず貌(かほ)にて、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「ぢやう」は「定(ぢやう)」で「真っ向から確かに睨み据えた」ことの様態をさすものかとは思うが、ここはそうした強烈な目つきの特異なオノマトペイアとして、かく表記した。

「息、たえぬ」「気絶した」の意。]

 隙(ひま)をうかゞひ、かくする事、たびたび、なれば、女の方(かた)にも守りを付けて、宿居(とのゐ)させければ、忍ぶべき便りもなくて、日數(ひかず)、經(へ)ければ、遂に男子(なんし)をうみ出しけるに、父、大きに悅び、あまたの人を付けて養育しける。

 かくて、三七夜(さんしちや)[やぶちゃん注:出産から二十一日目に行う祝いの夜。]も過ぎんとしけるに、宿(との)ゐの者も、あまりに草臥(くたびれ)て打《うち》ふし、つぎつぎの者も、いつとなく、おこたりければ、

「よき隙(ひま)ぞ」

と、例のごとく、出立て、忍び行き、枕によりて、にらまへければ、つぎつぎの女ばらを始めて、二目(ふため)とも見ず、

「わつ。」

と、さけびて、息、たえぬ。

 

Kijyo1

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

 則ち、喉(のんど)の下(した)に喰ひ付き、胸のあたりまで、くひちらして、歸りぬ。

 かくて、時うつりて、女(め)の童(わらは)ども、やうやう、人心ちつきてみれば、むなしき形(かたち)は、朱(あけ)の千入(ちしほ)に、そみてあり。

 とのゐの者ども、おどろき、あはて、いそぎ、式部に、

「かく。」

と申ければ、

「これはいかなる事やらむ」

と、おどろき、さはぎあへり。

 歎きて叶はぬ事なれば、なくなくも葬(ほうむり)てげり。

 されども、子息(しそく)は、つゝがなふして、養育す。

 かゝる程に、女房は、人しれず本望(ほんまう)を達し、胸の熖(ほのほ)も晴れて、心よく思ひ、口に付きたる血を、洗へども、更に落ちず。貌につけたる紅も、はげず、皮のごとくにとぢ付《つき》、喉(のんど)をくらひける時、口も、さけて、大になり、肌(はだへ)は、血、

「ひし」

と、つきたり。にらみたる眼(まなこ)も、ふたゝび、歸らず。

「いかゞせん。」

と、心も空(そら)になりて、洗へども、猶、赤く、とかくする程に、額(ひたい)に、角(つの)、生ひ出でて、さながら、夜叉のごとくに、なれり。

 我が身ながら、せんかたなく、夜の物、打かぶりて、二、三日は、

「心ち、例(れい)ならぬ。」

よしして、居たりけれども、しきりに飢(うへ)て、傍らに伏したる女の童に喰ひ付きたりければ、

「わつ。」

と、叫びて、逃げ出でたるを、

「にがさじ。」

と、追ひめぐりける程に、家内(かない)、大きに噪(さは)ぎて、上下、ふしまろび、にげ、ふためき、

「鬼よ。」

「鬼よ。」

と、さけびて、人、ひとりもなく、逃げ失《うせ》たれば、爲方(せんかた)なく走り出《いで》、高師山(たかし《やま》)のおくへ蒐(かけ)入《いり》けり。

[やぶちゃん注:「高師山」(たかしやま)は現在の豊橋市高師町から静岡県湖西市新居町にかけて広がる丘陵地を指していたという。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、この北部或いは浜名湖西南の丘陵となるか。同前で後者の静岡県湖西市新居町浜名に高師山の地名(交差点)は残る。但し、ここは現在は平地である。さすれば、この北の丘陵か。]

 其後《そののち》よりは、

「此《この》山に、鬼の住《すむ》。」

とて、木こり・杣人(そま《びと》)も、入《いる》事なければ、まして、里人は稀れにも麓に立《たち》よらず。

 國の守(かみ)も、大勢を催(もよを)して、山をとり卷き、求むれども、出《いで》あはず。

 其の後(のち)、年月、重なりて、式部が兒(こ)、成人(せいじん)して、出家となりて、下の醍醐(だいご)に學文して、顯密有驗(けんみつうげん)の僧と成《なり》て、其名を「智見(ちけん)」と云けるが、[やぶちゃん注:「下の醍醐」ウィキの「醍醐寺」によれば、京伏見の真言宗醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を「上醍醐」と呼び、そこを中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜七(九〇七)年には醍醐天皇の御願により、薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長四(九二六)年には、醍醐天皇の御願により、釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立して発展した、とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

「我れ、壯年の昔より、學業におこたらず、三密瑜伽(《さん》みつゆが)の窓(まど)に入《いり》て、いまだ一日も犯戒(ほんかい)せず。つたへ聞《きく》、繼母(けいぼ)、生きながら鬼と成《なり》て、わが實母・けんぞく、あまた、取《とり》くらいて、深山(しんざん)に入たるよし。急ぎ、尋ね下り、敎化(けうけ)をもし、降伏(ごうふく)せばや。」[やぶちゃん注:「三密瑜伽」修行者の「身・口・意」の「三密」が、仏菩薩の「三密」と相応し、融合することを言う。]

と思ひ立《たち》て、人にもしらせず、只一人、都を出《いで》て、やうやう、遠江に下り、昔の父の旧跡を尋《たづね》、なきあとの墓に詣で、なくなく、𢌞向《えかう》し、かの山の麓、あれたる御堂の有けるに、暫く立ちより給ふに、年比、聞ゆる魔所(ま《しよ》)とて、人の往來(ゆきゝ)もたえだえに、煩惱卽(そく)菩提の窓の前には、善惡迷語の雲きえ、生死(しやうじ)卽(そく)涅盤(ねはん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]の床《ゆか》のうへには、邪正我執(じやしやうがしう)の風、靜かにて、本《もと》より、一心法界の源をさとりたまへば、吹毛(すいもう)の和風(くわふう)、遙かにあふひで、三世不可得(さんぜふかとく)の妙智を顯はし、身に隱形(をんぎやう)の印を結びて、座禪三昧に入《いり》給ひ、寂莫(じやくまく)として、居《ゐ》給ひけるに、さも、はなやかに出立《いでたち》たる小法師原(こぼうしばら)、數百人(すひやくにん)、玉(たま)の輿(こし)を舁きつらね、堂の緣にかきすへければ、輿の内より、淸らかに、色白く、いとけだかき僧の、素絹(そけん)の衣(ころも)に、大口、きて、打刀《うちがたな》、さし、[やぶちゃん注:「打刀」太刀続いて室町後期から武士の主流となった日本刀の一種。太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣で、主に白兵戦用に作られた刀剣であり、通常は太刀とは逆に、刃を上に向けて帯刀する。室町中期以降に広まり、以降は「刀」というと打刀を指す場合が多い(当該ウィキに拠った)。]

「小法師原、罷り出でて、遊び候へ。」

といへば、

「はらはら」

と、堂の大場(おほには)に出《いで》て、踊りあそびけるに、主(しう)の僧、御堂に入《いり》て、智見(ちけん)に向ひ、

「やゝ。御房の隱形の印こそ、わるけれ。敎へ奉らん。」

とて、則ち、傳へ、

「それにてこそ、御姿(おんすがた)も、見えね。『小法師原に見せ奉らじ』と思ひてこそ出《いだ》し侍る。今は、とくとく罷《まかり》歸れ。」[やぶちゃん注:最後の指示は恐らく、首尾よく姿を消す「隱形の印」を習得したので、さてこそ「今は、印を解いて、元の姿に帰って姿を見せなさい。」と言ったものであろう。当初は伴って来た小法師連中への退去命令と読んだが、どうもそれではおかしいと感じた。]

と、御堂の内に呼び入れて、酒飯をちらし、をどりあそびけるが、客僧(きやくそう)、智見にさゝやきけるは、

「君が繼母、鬼と成て、此山の峯の北原《きたはら》に、大《おほき》なる洞(ほら)あり。その内に篭りてあり。行《ゆき》て、敎化(けうげ)し給へ。」

とて、夜も東雲(しのゝめ)になれば、各(をのをの)、堂を出《いで》けるが、行衞しらずに成けり。

 かくて、夜も、漸々(やうやう)、明けければ、則ち、峯に至りて、敎へのごとく、大なる洞岩(ほらいわ)あり。

 

Kijyo2

 

 人倫のかよひ、なければ、茅萱(ちがや)、生ひ茂り、諸木、枝をつらねて、分け入いるべき便りもなきに、漸々にして彼(か)の所にゆきて見給ふに、洞(ほら)のあたりは、白骨累々として、鹿(しか)・兎を引き割(さ)き、くらひのこせし有樣は、身の毛もよだち、怖ろしとも云斗《いふばかり》なし。

 されども、智見は、暫く穩形の印を結び、うかゞひ寄《より》、見給ふに、風一しきり吹き落ちて、ものすさまじきに、例の鬼、鹿をつかみて、弓手(ゆんで)にさげ、髮はおどろをみだし、兩の眼(まなこ)は、日にかゝやき、二つの角は熖につゝみ、洞の口に鹿をねぢふせ、引き裂き、くらふありさまは、淺ましともいふ斗なし。鬼は、人有ともしらずして、悉く、鹿を食(くらひ)て、洞に入ぬ。[やぶちゃん注:「江戸文庫」版では、何故か、最後の一文が前の段落文の最後に続いている。国立国会図書館デジタルコレクション本・国立国会図書館本・早稲田大学図書館「古典総合データベース」本の他に、富山大学「ヘルン文庫」所蔵本も見たが、三本とも総てがここにある。不審。

 智見、此ありさまを見て淚をながし、則ち、妙典(めうてん)の紐(ひぼ[やぶちゃん注:ママ。])をとき、洞に向ひて尊(たふと)く讀み給へば、鬼は、人音(《ひと》おと)を聞て、洞より飛んで出《いで》、摑まむとするに、五體、すくみて、働らかず。

 其時、智見、鬼に向ひて呪文を唱へ、御經を以つて頭(かしら)をなで給へば、ふたつの角(つの)、

「はらはら」

と落ちて、忽ちに、形體、もとのごとくに變じければ、則《すなはち》、本心に歸りて、手を合せ、

「吾れ、一念の嫉妬にしづみ、生きながら、鬼と成《なり》て、多くの者の命を斷ちて、ながく鬼畜の身となる所に、御僧(お《ん》そう)の法力にて、ふたゝび、鬼道をまぬかれ申《まうす》事、生々世々(しやうじやうせせ)の報恩を、いかでか報じ盡くさむ。」

と、淚をながし申せば、智見、

「吾は、是《これ》、君(きみ)が繼兒(けいし)也。かゝる御ありさまと承り、『二度《ひたたび》、もとの姿となし奉らばや。』と、年比の願望(ぐわんまう)にて、死《しし》たる母に、ふたゝび、相ひ見る心ちよ。」

とて、墨染の袖をしぼり給へば、繼母も、もろ共に、恥ぢ嘆き給ひて、夜すがら、昔の事ども、語りつゞけて、明ければ、麓に伴ひ、ゆかりを尋ねて、有《あり》つる父の屋形《やかた》の跡に、一宇の伽監(がらん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]を建立して、繼母、すなはち、發心(ほつしん)して、此寺を守り、智見は、上京し給ひ、官位に進み、時めき給ひ、後には「醍醐僧正(だいごのそうじやう)」とかや申《まうし》て、聖宝(しやうぼう)の法跡(ほつせき)をつぎ給ひしとかや。

 

[やぶちゃん注:個人的には、この話、好みである。なお、「醍醐」の「僧正」と呼ばれた「智見」なる僧は、ネットで調べる限りでは見当たらない。]

多滿寸太禮巻㐧二 岩成内匠夢の契の事

 

   岩成内匠(いわなりたくみ)夢の契(ちぎり)の事

  過《すぎ》し元龜の初め比(ころ)、淀の城主岩成主稅亮(ちからのすけ)が猶子(いうし)に、内匠晴光(たくみはるみつ)といへるものあり。先年、桂川の一戰に、十六歲にて初陣に、敵三騎、馬上にて渡りあひ、二騎の武者を、切つておとし、のこる一騎と引組(ひつくみ)、川中(かわなか)へ落ち入、水中にて差し通し、三《みつ》の頸(くび)とつて、比類なき働きし、其の後(のち)、たびたびの戰ひに、每度、手柄を顯はし、誠に一騎當千の兵(つはもの)なり。力(ちから)、よのつねに越へ、情け、ふかく、近國無双(ぶさう)の男色(なんしよく)にて、みる者、心をよせずといふ事、なし。

[やぶちゃん注:「岩成内匠」「内匠晴光」不詳。

「元龜の初め比」「元龜」は一五七〇年から一五七三年までで、元亀四年までしかないから、永禄十三年四月二十三日(ユリウス暦一五七〇年五月二十七日)に元亀に改元しているから、この元年の後半か、下っても、翌二年内であろう。この時代の天皇は正親町天皇で室町幕府将軍は足利義昭だか、最早、戦国時代である。

「淀の城主岩成主稅亮」山城国久世郡淀(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にあった淀城であるが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、この話柄内時制では、城自体が存在していない。従って、「岩成主稅亮」も架空の名前と思われる。当該ウィキを参照されたい。

「猶子」公卿や武家社会で、兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子。

「桂川の一戰」「桂川原(かわら)の戦い」とも呼ぶ。大永七年二月十二日(一五二七年三月十四日)夜半から二月十三日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは「堺公方」の誕生のきっかけとなった。詳しくはサイト「戦国ヒストリー」の東滋実氏の『「桂川原の戦い(1527年)」細川高国の敗北。政権は堺公方へ』が地図も完備しており、よい。しかし……作者は迂闊にして杜撰に過ぎる! これでは――内匠晴光は――作品内の主時制では――当年とって六十歳のジジイ――になってしまうぞッツ!?!

「男色」この場合は男性の同性愛の意ではなく、単に美男子、ハンサムなことを言っている。

 八幡(やわた)の別當何がしの御房、いつぞの比より、ふかく戀ひわび、千束(ちつか)にあまる文(ふみ)の數(かず)、さすが『哀(あはれ)』とや思ひけむ、折々、かよひ行けり。年(とし)已(すで)に廿一、器量・骨柄、又、双(なら)ぶ者、なし。軍さに打立《うつたつ》折からは、御房の同宿(どうじゆく)に、小大貮(こだいに)・少進房とて、大力(だいりき)の法師二人を晴光に付られけり。かれら三人は、いつも、一方をかけやぶらずと云《いふ》事なし。

[やぶちゃん注:「八幡(やわた)の別當」淀城とあるからには、直近の南西にある石清水八幡宮の別当僧であろう。同八幡宮は平安前期の創建以来、明治の神仏分離までは、ずっと境内の護国寺と一体となる宮寺形式をとり続けてきた。往時は多くの堂宇が立ち、山麓も壮大であった。だから、授業でやった「徒然草」の「仁和寺にある法師、年寄るまで石淸水を拜まざりければ、……」の痛い失敗談が腑に落ちるわけである。]

 春も漸々(やうやう)半ばより、遠山の殘雪も霞の衣(きぬ)にぬぎかへ、餘寒のあらしも、東風(こち)ふくかぜに、實(げに)、所がらなる川水に、花をうかめ、浪の聲も靜かに、

「『人、更に若き時なし、常に春ならず。酒をむなしうする事なかれ。』と、故人もいへれば、いざや、夜と共に神崎(かんざき)・枚方(ひらかた)のほとりへ、小船に竿さして、蒙氣(もうき)をはらさむ。」

と、二人の法師もろともに、下部(しもべ)、少々(せうせう)召し具して、何となくうかれ出《いで》、川下に行くに、男山の姿も妹背の中(なか)、芦邊(あしべ)の葉、分けて、けふも入日の鳴戶、波風もなき人の心に、『唯だ、殘鶯《ざんあう》と落花とに別る。』といへる、誠(まこと)なる哉《かな》、たなゝし小舟(をぶね)棹(さほ)さして、芦間(あしま)にあさる漁人(ぎよじん)になぐさみ、浪(なみ)にうかべる鷗(かもめ)の、入日に、をのが影を洗(あら)ふも、おかし。

[やぶちゃん注:「人、更に若き時なし。常に春ならず。酒をむなしうする事なかれ。」「竹林の七賢」や陶淵明の詩文にありそうだが、前半部で、ぱっと浮ぶのは授業でやった劉希夷の「代悲白頭翁」の「年年歲歲花相似 歲歲年年人不同」だろうな。

「蒙氣」気分が塞ぐことを言う。

「男山」石清水八幡宮のある山

「妹背」一般に川などを挟んで対する山を妹背山と呼ぶことが多い。但し、どこを称しているかは、私には判らない。男山は宇治川左岸の独立峰だからである。川下に向かっているので、枚方附近の丘陵に包まれてゆくことを言うか。但し、ここは同じ左岸であり、しかも、この丘陵、古い地図を見ても、高いところでも八十メートルほどしかない。

「殘鶯《ざんあう》」底本では「ざんわう」と歴史的仮名遣を誤っている。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右丁後ろから五行目)、さらに後刷の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像PDF一括版・九コマ目・同前)を見られたい。さらに指摘しておかねばならないのは、国書刊行会の「江戸文庫」の「浮世草子怪談集」(同書の底本は上の国立国会図書館の蔵本である)で、致命的なミスを犯していることである。そこでは『殘鷲』となっているのだが、「鷲」の崩し字では、上の部分は、こんな簡略には絶対にならない。これは絶対に「鶯」である。また、鷹は「渡り」をするが、秋であって、シークエンスとしてもあり得ない。字起こしをした学生のデータも「鷲」になっており、木越治先生の見落としである。「江戸文庫」はどれも高い。本書は購入時、四千六百円であった。ちょいと、ムッときたね。

「たなゝし小舟」「棚無し小舟」船棚(ふなだな:中世以降の和船で航(かわら:和船の船首から船尾に通す長く厚い舟底の板材)以外の外板)のない小さな舟。丸木舟や一枚棚の小舟などを指す。船端の上部にとくに握り手や座れるような補助材が全くないのである。]

 夫(それ)より神埼(かんざき)の入江にうかれよるに、いづちともなく、春風かすかに、琴(きん)の音(ね)をおくり、遙香(ようかう)ほのかに、袖にうつれり。

[やぶちゃん注:「神埼(かんざき)の入江」よく判らぬが、宇治川の下流で、右岸で分岐する川があり、これが神崎川である。「今昔マップ」の古い地図で見ると、この分岐の辺りに「江口」の地名を確認出来る。]

 人々、興に乘じて、この琴の音を便りに、舟をさし行《ゆく》に、とある岸に造りかけたる大家(たいか)あり。一間なる書院の障子おしひらき、簾下(すだれした)に一つの風鈴(ふれう)をさげ、おばしまに、色々の小鳥を、ならべ置きたり。

「いかなる人か、住みて。」

と、奧ゆかしく、ちかぢかと、舟をよせてみしに、大なる酒店(しゆてん/さかや[やぶちゃん注:右/左のルビ。])にてぞ有ける。遙かのおくに、十六、七の、容顏美麗の女たゞ一人、春の夕暮にあくがれて、琴(きん)をしらべてあり。そのさま、更に輕粉(けいふん)をぬらずして、をのづからの風流、よろづ、つくろはぬさま、此の世の人とも、見へず。

 心も空(そら)に成《なり》て、なりを靜めて、ながめ入《いり》たり。磯にねむれる子がひの水鳥の、船のよるせに驚きて、馴し欄檻(らんかん)に飛びあがるに、此の娘、

「いかなるものゝ、おどろかすにや。」

と、ふと立《たち》て、人々を見つけ、うちおどろきたるが、晴光が男色(なんしよく)に忽ち、まよひ、

「世には。かゝる人も、有《あり》けるよ。」

と、あからめもせず、ながめ立《たち》たり。

「折から、船中に酒をむなしくなし侍る。酒、もとむべき家《いへ》も侍らば、敎へ給へ。」

と、詞(ことば)をかはせば、此女、貌(かほ)うちあかめ、

「此の家こそ往來の酒家(さかや)にてさむらへ。あがらせ給ひて、もとめ給へ。」

と、いらへければ、人々、うれしく、舟をつけて、かの家に立入《たちいり》、

「こよひは、月もくまなきに、春の夜(よ)、爰(こゝ)にて、暫く休らひ侍らんに。」

と、いへば、亭(あるじ)、よろこび、さまざまの珍味をとゝのへ、酒を、すゝめける。

「先(さき)に聞つる琴(きん)の音(ね)こそ、ゆかしけれ。」

と、口々《くちぐち》にいひのゝしれば、主(あるじ)、

「それこそ野人(やじん)が娘の手すさびもて遊びさぶらふ。中々、御見參(《ご》げんざん)に入《いれ》奉るべき物に、あらず。」

とて、つれなき返事に、たかぬさきよりこがれて、障子の間(あい)より、此女と、目とめを見あはせ、心に物をいはせて、千々(ちゞ)に思ひをくだきけるに、さすが、人めもはづかしく、既に夜も更けゆけば、

「さのみは、いかゞ。」

と、をのをの、いとまを乞ひて、又のよるせをちぎり、舟に棹さして歸りぬ。

[やぶちゃん注:「たかぬさきよりこがれて」「焚かぬ先より焦がれて」であろうか。洒落である。]

 かゝる程に、此の娘、晴光を見初めて、

「我、たまたま、人界(にんがい)に生(むま)れ、思ふ人にもそはざらむこそ本意(ほい)ならね。今までの通(かよ)はせ文《ぶみ》、あげてだに見ず。世の人に『情けしらず』と名にたつも、心にそまぬ故ぞかし。わが心をも『哀れ』と思ひ給はゞ、二世(《に》せ)かけてのゑにしを結び給へ。」

と、天にあこがれ、俄かに口ばしり、心みだれ、手がひの虎の綱を引《ひき》、長刀(なぎなた)のさやをはづし、持ち出《いづ》れば、人、あたりへも、よりつかず、漸々(やうやう)、めのと[やぶちゃん注:乳母。]、命(いのち)を捨てて、すがりつき、

「彼(かの)人を媒(なかだち)し、御ねがひの通り、夫婦(ふうふ)となしまいらせん。」

と、さまざま、すかしいたはるに、次第に、たのみ少く、禰宜・神主にはらひし、佛神にいのるに、更に甲斐なし。

 あるじ夫婦も、

「たとへいかなる人なりとも、吾が子の思ひ入《いり》たらむに、などか逢はせざらむ。」

と、いろいろ、尋ね求むるに、いづちの人ともしらねば、爲方(せんかた)なく、只、ひたすらに、

「かの人に、今一たび、めぐり合《あはせ》て、たび給へ。」

と、氏神に祈誓申《まうし》けるこそ、せめての事と、哀れなり。

「かく身のうへを取り亂しなば、後(のち)の世の罪も、いかならん。」

と、色々に看病しけれども、今はかぎりのうき世と、時をまつ折ふし、枕を、我(われ)と上げ、

「うれしや。かの人、あすの夕ぐれには、こゝにおはすべし。かしこを掃き、こゝを拂(はら)へ。」

と、よろこび、いさむ、けしきあり。

『これも、例(れい)のうつゝ事よ。』

と思ひながら、町のはづれに人を置くに、案のごとく、内匠(たくみ)、いつぞや見初めし折からより、夜每に相ひ逢ふて、夢にちぎりをかはしけるが、あまりに不思義(《ふ》しぎ)に思ひける間(あいだ)、又、かのほとりへ、さすらひ行《ゆき》けるを、かの家にいざなひ、主(あるじ)、ひそかに、始終(はじめをはり)を語る。

「いかなる御方(おんかた)にて侍るも、いさ、しらねども、且つは、人を助くる道なれば、草の枕の一夜(《ひと》よ)をも、情けをかけて助けさせおはしませ。」

と、淚をながし、夫婦ともに、ふししづみ、くどきけり。

[やぶちゃん注:「いさ」副詞後に「知らず」の意の語句を伴って「さあ、どうだか」「さてまあ、どうなるか判りませぬが」の意。]

 晴光も、あはれに引《ひか》れありし事ども、語り出《いだ》し、あまりのふしぎに、これまで來《きた》る事を說(と)く。

 やがて、枕にちかづき、よりて見るに、すべて、夢にみし俤(おもかげ)に違(たが)ふ所、なし。

 娘、忽ちに起き上がり、もとの姿となり、年月(としつき)の思ひを語る。

「身はこゝに有《あり》ながら、魂(たましひ)は前々(さきざき)に付《つき》そひ、人こそしらね、幻しのたはむれ。」

「あるときは、難波(なには)・住吉(すみよし)をめぐりて、天王寺(てんわうじ)の御坊にて、一夜をあかし、旅の衾(ふすま)の下(した)にこがれて、物いはぬ契りをこめ、夢中に、かはせし。」

かたみの者も、互ひの袖にくらべて、うたがひをはらし、二世(《に》せ)の契りをこめ、とし比《ごろ》かよひけるに…………

……中三《なかみ》とせを過ぎて、織田信長公、數萬(すまん)の軍士を卒(そつ)して、淀の城、十重廿重(とへはたへ)にとり卷き、月を經て攻め給へば、籠城の人々も、網代(あじろ)の魚(うを)のごとくに忍びて、通ふ事もなく成《なり》しかば、娘は、あるにもあられずして、淀のほとりに徘徊しけるを、佐久間信盛(さくまのぶもり)が手にとられ、暫く、陣中に有《あり》ける。

『猶、これまでも、何とぞし、城内へ入《いり》、今一度(いまひとたび)、逢ひ見ばや。』

と やたけに思へど、女の身の淺ましさ、空しく日數(ひかず)をふるほどに、終《つひ》に、元龜四年七月廿七日に、城(しろ)、おちて、一族、ことごとく自害して、一朝(《いつ》てう)の煙(けふり)と立《たち》のぼる。

 此まぎわに、石をふところに入《いれ》て、淀川のふかみに身を投げて、底の、みくづとなり、共に貞女の道を失はず。

「誠に。やさしき事どもや。」

と、諸人(しよにん)、袖をぞ、ぬらしける。

 

[やぶちゃん注:本篇には挿絵はない。

 なお、以上のエンディングにジョイントする部分は、ちょっと原文に難がある。二人の幸せが急激に暗転する部分の展開を焦るあまり、詞が足らず、どうも上手くない。そこで特異的に点線を用いて、そのぎくしゃくする部分を、かく改行して示した。

「織田信長公、數萬の軍士を卒して、淀の城、十重廿重にとり卷き、月を經て攻め給へば」既に淀城の注で述べた通り、このような史実は確認出来ない。

「佐久間信盛」(?~天正一〇(一五八二)年)当時は織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧、及び、松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され(誰かの讒言によるともされる)、高野山に入って落飾した。

「やたけ思へど」「彌猛に思ふ」は「心が勇み立ってあせる・気が揉めて苛立つ」の意。

「元龜四年七月廿七日」ユリウス暦一五七三年八月二十四日(グレゴリオ暦換算九月三日)。まさにこの月、信長は足利義昭を追放し、室町幕府は名実ともに滅亡した。]

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