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カテゴリー「怪奇談集Ⅱ」の807件の記事

2025/12/31

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「水上池惡龍」

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。欠字の「□□」部分は底本では、長方形。三つ目の漢文部分は、後で訓読する。読みの内、ネットで確認出来なかった場合、複数候補を示しておいた。長さから、ほぼ割注で対応した。

 但し、この漢文部には、底本、及び、「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)ともに、訓点として、通常の訓点では、必要な助詞・助動詞の欠落・省略が、多量に、ある。丸括弧で追加しようと思ったが、余りにも、それが多過ぎるので、底本通りとし(私が追加した句読点は別)、訓読で、私が補正訓読して追加しておいた。いちいち、それを丸括弧・下線などで示すと、却って読み難くなるだけなので、指示はしていない。因みに、仏教関連の文書では、こうした省略は、ごく普通にあるものでは、ある。

 

      志  駄  郡《しだのこほり》

 「水上池《みづかみいけ》惡龍《あくりゆう》」 志駄郡[やぶちゃん注:調べた限りでは、「志太郡」が正しい。]水上村《みずかみむら》□□山萬福寺【曹洞、富洞院末。】[やぶちゃん注:現在の静岡県藤枝市(ふじえだし)水上(みずかみ)のここ(グーグル・マップ・データ。以下、基本、無指示は同じ)。サイド・パネルのこの入り口の画像にある石造の寺名表記には、山号「大池山」とある寺の公式サイトはないので、一応、「だいちざん」と読んでおく。]にあり。「本尊水干不動緣起由」[やぶちゃん注:同前に理由で読み不詳(国立国会図書館デジタルコレクションで複数のものを見たが、ルビはない。取り敢えず、「ほんぞんすいかんふどうえんぎいう」と読んでおく。寺社の縁起で「由」がつくものは、今までの私が見たものでは、皆無である。]云《いはく》、

『水上村は、昔、一面の大洋池《だいやうち》[やぶちゃん注:「広い池」の意。]にて、東・南新屋、西・鳥帽子山、南・瀨戶新屋六地藏[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で示す。右の現代の国土地理院図でも、現在の地名として総てが生きていることが確認出来る。「瀨戶新屋」の「六地藏」もグーグル・マップ・データで調べたところ、同地区のここに現存している。]を限り、凡《およそ》周程《しうてい》三十六町餘《あまり》。

 池中《ちちゆう》に、毒龍、有《あり》て、累歲《るいさい》[やぶちゃん注:「何年もの間」の意。]、徃來《わうらい》の人民《じんみん》を、なやませり。

 里民《りみん》、是を患《わずら》ふ。

 時に、一法師《いちはふし》、宇陀上人《うだしやうにん》と云《いふ》者、あり。密宗の祕法を修練して、髙德の聖《ひじり》なり。民人《たみびと》、是を屈請《くつしやう》[やぶちゃん注:丁重に人を招くこと。]し、池水《ちすい》を祈《いのり》て、潛龍《せんりゆう》を降伏《かうぶく》せん事を欲《ほつ》し、衆議して、上人に告ぐ。

[やぶちゃん注:「宇陀上人」調べたが、人物不詳。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河の傳說(小山有言編・昭和一八(一九三三)年安川書店刊)の「青島町」の『六八 水上池池惡龍』(これは、本底本準拠)に名が出ており、さらに、まさに以下に語られる内容とほぼ一致する(但し、龍ではなく、蛇)「七一 七ツの護摩壇」に、「傳說昔話集」を元に『又いふ。この地方は夏はこの地方は夏は一面の池になる。池には毒蛇がゐて人々を惱ました。宇陀上人がまわって來て、毒蛇退治を思ひ立ち、七ケ所に壇を築き不動尊像を安置して護摩をたいて、池水を干し涸らさしめた。毒蛇は惡鬼と化し藤枝の鬼岩寺に飛で行つた。そこで水干不動と呼び、萬福寺を建てゝ奉安した。七ツの壇は宇陀上人修法[やぶちゃん注:「しゆほふ」。]の所であつたともいはれてゐる。』とあった。]

 上人、招《まねき》に應じて、まづ、水想觀《すいさうくわん》に入《いり》、驗ㇾ之《これを、げんじ》、朝暮思ㇾ之想ㇾ之《てうぼ、これを、おもひ、これを、さうし》、念々無ㇾ措《ねんねん、おかず》、一夕《いつせき》、靈夢《れいむ》の告《つげ》を獲《え》て、筑紫の博多より、不動の靈像【智證大師作。】〕を迎へ、梵壇《ぼんだん》を東山《ひがしやま》に築き、これを安置し、眞言の密印を以《もつ》て、加持三昧《かじざんまい》の妙力咒禱《みやうりきじゆとう》せしかば、則《すなはち》、明王《みやうわう》の靈驗《れいげん》にや、潛《ひそめ》る猛龍《まうりゆう》、德の爲に降《くだ》せられ、洋々たる池水《ちすい》、法《ほふ》に依《より》て、陸と變ず。然《しか》してより此《この》かた、民人、始《はじめ》て、安堵《あんど》の思《おもひ》をなし、此里に居住す。云云《うんぬん》。』。

[やぶちゃん注:「水想觀」。「觀無量壽經」に説く十六観の一つ。水や氷の清らかなさまを想うことによって極楽浄土のさまを観想する方法。「水観」とも言う。]

 同郡《どうこほり》鬼岩寺村《きがんじむら》、「楞嚴山《りやうがさん》鬼岩寺《きがんじ》【眞言、髙野山無量光院末。】緣起」云《いはく》、

[やぶちゃん注:「鬼岩寺村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『現在地名』は『藤枝市音羽町(おとわちょう)一丁目・茶町(ちゃまち)一―三丁目・藤枝一―三丁目・鬼岩寺』とし、『東海道藤枝宿の北、若王子(にゃくおうじ)村の西に位置し、鬼岩寺山南麓に立地する。東海道が通り、瀬戸谷(せとのや)街道の分岐点にあたる。志太(しだ)郡に属する。東遊歌神楽歌の駿河舞の第四句にみえる「いはたしたえ」の岩田(いわた)は藤枝の旧称とされ、岩田山は鬼岩寺山のことという(掛川誌稿)。また「したえ」は志太江とされ、現藤枝市・島田市の南に広がっていた入海の浦浜の総称という(駿河記)。室町時代から鬼岩寺山麓にある鬼岩寺の門前町として栄え、戦国期には市も開かれていた。』とあった。ここ(「音羽町」をポイントし、東に「鬼岩寺」、その南直近に「藤枝」の当該丁目がある)。なお、「鬼岩寺」は高野山真言宗で、「藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課」公式サイト内の「ふじえだ東海道まちあるき」の「藤枝宿 鬼岩寺 きがんじ」に、神亀三(七二六)『年に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。』とあった。]

『靜照上人《じやうしやうしやうにん》とて、弘法大師の躅《あと》を闢《ひらき》[やぶちゃん注:「事跡を忠実に踏み開き」。]、令德雄才《れいとくゆうさい》[やぶちゃん注:「令德」とは「美徳・善行」の意。]・事敎《じけう》[やぶちゃん注:仏教で、「理」、即ち、「本体」と、「事」、即ち、「現象」とを明確に区別する教えを指す。]兼備の上人、住山《ぢゆうさん》の時に當《あたり》て、南里《みなみのさと》[やぶちゃん注:地名しては見出せないので、普通名詞として、かく読んだ。]、淵《ふち》に、巨龍《きよりゆう》在《あり》て、方里《はうり》の土民、農作耕《のうさくこう》を成《なす》事、あたはず。

[やぶちゃん注:「靜照上人」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項に拠れば、生年不詳で、『長保五年(一〇〇三)正月八日』没の『天台宗の学僧。高階成忠(たかしななりただ)の子として生まれ、出家後、賀縁の弟子となり、後に比叡山の東塔功徳院に住したというが』、『不明な点が多い。永延元年(九八七)に、円教寺講堂供養に講師、長保二年(一〇〇〇)に覚運(九五三—一〇〇七)や源信と同じくして法橋に叙任されている。また、同年法華八講の講師を務める。浄土教に関心が深く、その著に『観経』の十六観を注釈した『極楽遊意』、『無量寿経』に説かれる四十八願を注釈した『四十八願釈』各一巻などがある。』とあった。]

 上人、是を慈恕《じじよ》し[やぶちゃん注:情け深く、思いやりを成すことを言う。]、七か所に、檀《だん》を築《きづき》て、不動護摩を精修《せいしゆう》す。神效《しかう》、不可思議、湛池《たんち》[やぶちゃん注:水を湛えていた池。]、水、涸れ、燥陸《さうりく》に變ず。上人、敎化《しやうげ》して、巨蛇《きよじや》を封窂《ふうらう》す[やぶちゃん注:封じて閉じ込めた。]。云云【檀上の尊佛は鬼岩寺護摩堂の本尊也。】。

 同郡志太村□□山九景寺【淨土、藤枝、西光寺末。】所藏詩序云、鬼岩者有惡龍潜於水上池、水上池鬼岩二十町、凡人物之經スル於池邊者、無ㇾ不以葬於腹一、村民患ㇾ之、多招有驗之僧、欲ㇾ去ント惡龍、三論之俊、唯識之芼、華嚴之英、佛神之傑、不ㇾ能以伏ㇾ之、皆拱ㇾ手而退、有一法師、弘法大師之流而通金剛頂經毘盧遮那經之薀、且傳秘密之印信、先入三摩提見ㇾ之、知彼龍ヿヲ阿耨達池龍王之族一、於ㇾ是、築於池上、安不動尊像、入水想觀、詳ニシ水之淵源、抽テ二大根器神變之法、明王忽火熖、使下二池水、其壇護摩壇、其像水干不動、及ㇾ今存ㇾ跡、人尊崇之、然龍不ㇾ得其處、化成惡鬼、飛此山、法師追亡逐逃念珠鬼之頭、鬼乃開般若之眼、初菩提心、法師授ㇾ之以阿字一力、鬼高聲得道、作ㇾ禮而去。法師又以那羅延力盤石於其化處以爲之封、名之鬼岩、村民歸法師之密驗、建梵刹鬼岩寺。【下畧】云云。

[やぶちゃん注:冒頭で述べた通り、送り仮名その他が不全であるので、大々的に推定訓読したものを以下に示す。

   *

 同郡(どうこほり)志太村(しだむら)□□山九景寺(くけいじ)【淨土、藤枝、西光寺(さいかうじ)末(まつ)。】[やぶちゃん注:鬼岩寺と萬福寺の、やや鬼岩寺寄りの瀬戸川右岸に「九景寺古墳」があり、その近くに、「九景結社」という浄土宗寺院がある。「静岡教区浄土宗青年会」のこのページを見ると、この寺の開基は治承四 (一一八〇)年である。]所藏の「詩序」に云(いはく)、鬼岩(きがん)は[やぶちゃん注:「には」の意で採る。]、惡龍(あくりゆう)、水上池(みなかみのいけ)に潜(ひそ)む有り。水上池は、鬼岩を去ること、二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。南南西に直線で二キロ強で、まさに萬福寺がある。]、凡そ、人・物の池邊(いけべ)を經過する者、以つて、腹に葬(はう)むらざる無し。村民《そんみん》、之れを患(わづら)ふ。多(おほ)く、有驗(うげん)の僧を招きて、惡龍を去らんと欲(ほつ)し、三論(さんろん)の俊(しゆん)、唯識(ゆいしき)の芼(ぼう/もう)、華嚴(けごん)の英(えい)、佛神の傑(けつ)、以つて、之れを伏(ぶく)すること能はず、皆、手を拱(こまね)きて退(しりぞ)く、一法師(いちほふし)、有り、弘法大師の流(りう)にして、「金剛頂經(こんがうちやうきやう)」・「毘盧遮那經(るびしやなきやう)」の薀(うん)通じ、且つ、秘密の印信(いんじん)を傳へ、先づ、三摩提(さんまだい)に入り、之れを見(み)、彼(か)の龍の、阿耨達池龍王(あのくだつちりゆうわう)の族(うから)に非(あ)らざることを、知る。是(ここ)に於いて、壇(だん)を池(いけ)の上(ほとり)に築(きづ)き、不動尊像を安(あん)じ、水想觀に入り、水(みづ)の淵源を詳(つまびらか)にし、大根器(だいこんき)を抽(ぬ)きて、「神變(しんぺん)の法(ほふ)」を修(しゆ)す[やぶちゃん注:実際にそのような修法(しゅほう)があるわけではない。常人にはない特別な神通(じんつ))が備わった者が獲得出来る摩訶不思議な現象=神変を現出させる法を駆使したのである。]。明王、忽(たちま)ち、火熖(くわえん)を出(いだ)し、池の水を乾かしせしめ、其の壇を「護摩壇」と呼び、其の像を「水干不動(みづほしふどう)と號(がう)し、今に及び、跡(あと)、存し、人、之れを尊崇(そんすう)す然れども、龍、其處(そこ)に得られずして二一、化(け)して、惡鬼(あくき)と成り、此の山に飛び、法師、逐逃(ちくたう)を追亡(ついばう)し、念珠(ねんじゆ)を以つて、鬼(おに)の頭(かしら)を打つ。鬼、乃(すなは)ち、般若(はんにや)の眼(まなこ)を開き、初めて、菩提心(ぼだいしん)を發し、法師、之れに授(さづ)くに、「阿」の字の一力(いちりき)を以つて、鬼、高聲(たかごゑ)に「得道(とくだう)」を稱(とな)へて、禮を作(な)して、去る。法師、又、那羅延力(ならえんりき)を以つて、盤石(ばんじやく)を其の化(け)したる處(ところ)に投(とう)じ、以つて、之れに封(ふう)を爲す。之れ、「鬼岩(きがん)」と名づく。村民、法師の密驗(みつげん)に歸(き)し[やぶちゃん注:帰依し。]、梵刹(ぼんさつ)を建立(こんりふ)して、「鬼岩寺」と號す。【下畧。】云云(うんぬん)。

   *

「三論」三論宗。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『南都六宗の一つ。中論(中観論)・十二門論・百論の三論をよりどころとして、大乗の教えを説くもの。もともとインドでおこり、鳩摩羅什(くまらじゅう)が中国に伝え、隋の吉蔵が大成したという。日本には、推古天皇の三三年(六二五)、吉蔵の弟子、慧灌が渡来して広め、智蔵、道慈が入唐して宗旨を修めて以後、宗の名を立てた。天台宗などのような、教団として発展したものではないので、中古以後は衰え、法隆寺や東大寺などに学問として伝えられた』とある。

「唯識」同じく、仏教の認識論の一つで、『一切の諸法は識としての心が現わしだしたものに』過ぎず、『識以外に存在するものはないということ』。但し、『この識も妄分別するものとしてあるに』過ぎず、『真実にあるものではない』、『という意を含んでいる。』とある。但し、ここは前後から見て、「唯識」を別称とする「法相宗」(ほっそうしゅう)を指していると考えるべきで、同じく、『仏教の一宗派。奈良時代を通じて最も盛んであった、いわゆる南都六宗の一つ。解深密(げじんみつ)経・瑜伽(ゆが)論などをもとに、万有は唯識、すなわち』、『心のはたらきによって表わされた仮の存在にすぎず、識以外の実在はないとし、万法の諸相(法相)を分析的、分類的に説くもの。この学は玄奘によりインドから唐にもたらされ、弟子の慈恩大師窺基より一宗をなしたが、日本へは白雉四年(六五三)入唐した元興寺の道昭以後、伝えられた。行基・良弁など多くの学匠を生み、また他宗の学徒も多くこれを学んだ。現在は興福寺・薬師寺(法隆寺は一八八三年聖徳宗として独立)を大本山に七〇余の末寺をもつのみである』とある、それである。

「芼」第一義は「選ぶ・抜き取る」の意。先鋭の者。

「華嚴」華厳宗。同じく、『華厳経を所依として中国唐代杜順に起こり、賢首(げんじゅ)大師法蔵によって組織大成された大乗の一宗。日本には天平八年(七三六)唐の道璿(どうせん)が伝えたといい、同一二年、良弁(ろうべん)の請いにより』、『新羅僧審祥』(しんじょう)『が金鐘道場』(きんしょうどうじょう)『(東大寺法華堂)で』、『この経を講じたという。その後、良弁が東大寺で宣教し興隆したがやがて衰微し、鎌倉時代には高弁・凝然が出て復興に努めた。明治初年、一時』、『浄土宗に属し、同一九年(一八八六)独立して東大寺を大本山とし、現在は末寺約五十か寺、信徒約五万人。五教十宗の教判の下に、法界縁起(ほっかいえんぎ)と十玄六相の事々無礙(じじむげ)を説き、三生成仏(さんしょうじょうぶつ)を唱える。南都六宗の一つ』とある。

「金剛頂經」同じく、『通常は不空訳の「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」三巻をさす。別に金剛智訳と施護訳がある。真言密教の秘経の一つ。大日如来成仏』『の次第を通じ、釈迦』、『すなわち』、『金剛界如来が、金剛界三十七尊を出生したことや、この金剛界曼荼羅建立の儀則、弟子を曼荼羅に導入する法などを説いた経典。』とある。

「毘盧遮那經」正しくは、「大毘盧遮那成佛神變加持經」(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)で、略して「大毘盧遮那經」、或いは、「大日經」と呼び、大乗仏教に於ける密教経典である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『八世紀に、善無畏・一行の共訳による漢訳』、及び、『シーレーンドラボーディとペルツェクの共訳であるチベット語訳が相次いで成立したが、梵文原典は現存しない』。「金剛頂經」『とともに真言密教における根本経典の一つとされる』。『7世紀半の前後約30年間という栂尾祥雲1933年発表の説が一般に承認されている。500年ごろにはすでに成立していたという説もあるが定説とはなっていない』。『内容は、真言宗のいわゆる事相(行法)と教相(教理)に相当する2つの部分から成り立つが、前者である胎蔵曼荼羅(の原形)の作法や真言、密教の儀式を説く事相の部分が大部分を占める』。『仏部・金剛部・蓮華部の三部分類や、胎蔵界五仏の構成などについても説かれる』。『また、この部分の記述は具体的であるが、師匠からの直接の伝法がなければ、真実は理解できないとされている』とあり、『教相(教理)に相当するのは冒頭の「入真言門住心品」だけといってよく、ここで密教の理論的根拠が説かれている。構成は、毘盧遮那如来と金剛手(秘密派の主たるもの)の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲している』。『要諦は、金剛手の問いに対し、毘盧遮那如来が一切智智を解き明かすことにあり、菩提心とは何かを説くところにある。』とある。

「薀」仏教に於いては、「五取蘊」(ごしゅうん)、或いは「五薀」として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称であるが(詳しくは当該ウィキを見られたい)、ここは、「薀」の一般的な意味を嗅がせた、「(正しき仏教の真の知識を)積んで蓄えている者」の意で採ってよい。

「印信」密教で、「師僧が秘法を伝授した証拠として弟子に授与する書状」を指す。

「三摩提」「三昧(さんまい)」に同じ。小学館「日本国語大辞典」の「三昧」に、『([梵語]samādhi の音訳。三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す )雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三摩堤(さんまだい)。三昧正受。』とある。

「阿耨達池龍王」「阿耨達池」は小学館「日本国語大辞典」に、『阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという池。瞻部洲(せんぶしゅう)の中央、香山(こうざん)の南、大雪山』(だいせつざん)『の北にあって、周囲八百里、金、銀、瑠璃などがその岸を飾る。四つの河を分出して、清冷水により全世界を潤すという。阿那婆達多(あなばだった)。』とある。ここは、その真正の神聖なる龍族の仲間ではない、と見破ったことを指す。

「大根器」禅問答の中で見たことがある。「偉大な品性」を指す語である。]

 里人、云《いふ》、

「以上、三所《さんしよ》の記を按《あんず》るに、事蹟は同所《おなじところ》にして、其說、異《ことなる》也《なり》。何《いづ》れか、可ならん。風土を閱《み》るに、古昔《こじやく》、大池《おほいけ》成《なる》事、疑《うたがひ》なし。今、『護摩壇《ごまだん》』と稱する所、七か所あり、謂《いはれ》は『六地藏』・『西山《にしやま》』[やぶちゃん注:「ひなたGIS」の戦前の地図で調べたが、不詳。]・『曲山』[やぶちゃん注:同前。]・『南新屋』[やぶちゃん注:萬福寺のごく直近に現存する。ここ。]・『鵜糞山』[やぶちゃん注:不詳。一つ、気になったのは、萬福治の東直近にある「烏帽子山」である。]・『萬福寺』・『東山』[やぶちゃん注:不詳。]也。何《いづ》れも、山上《さんじやう》、一段、高く築上《つきあ》げ、頂《いただき》、平《たひら》にして、形《かた》ち、圓《まろ》く、經《めぐり》、五、六間[やぶちゃん注:約九・一~十・九メートル。]計《ばかり》りあり。又、水上村の中筒井[やぶちゃん注:不詳。]など掘るに、土中より、菱《ひし》・芦《あし》等《など》の實《み》、或《あるい》は、根《ね》の類《たぐゐ》、色黑きもの、多く出づ。是《これ》、洋池の證《しやう》也。又、鬼岩寺靜照上人は、養和元年[やぶちゃん注:一一八一年。前に注したデータと全く合わない。]七月十五日、寂す。今、六百四十七年に及ぶ。事跡、詳《つまびらか》ならざるも、可《か》、也《なり》[やぶちゃん注:問題はない。]。今、『瀨戶町《せとちやう/せとまち》の染飯《そめいひ》』とて、名產とする物も、此龍鱗《りゆううろこ》を、形どる遺跡也。云云。」。

[やぶちゃん注:「瀨戶町の染飯」ウィキの「瀬戸の染飯」に拠れば、『現在の静岡県藤枝市上青島である駿河国志太郡青島村付近で戦国時代から販売された黄色い米飯食品である。東海道藤枝の名物であり、文化庁の日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅』の「構成文化財」に認定された』。『瀬戸の染飯は、強飯(こわいい/こわめし・蒸した餅米、おこわ)をクチナシ(梔子)の実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や三角形(鱗形)、四角形などにして乾燥させたものである』。『江戸時代には藤枝宿-島田宿間にある瀬戸の立場(休憩所)で売られていた。漢方医学では、クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、また足腰の疲れをとるとされることから、難所が多い駿河の東海道を往来して長旅に疲れた旅人たちから重宝された』。『物語や和歌、浮世絵の題材としてたびたび取り上げられ、1792年(寛永4年)に西国を旅した小林一茶は藤枝で「染飯や我々しきが青柏」と詠んでいる。1797年(寛政9年)の『東海道名所図会』には染飯を売る茶屋の挿絵があり、葛飾北斎の1804年(享和4年)頃の浮世絵『東海道中五十三駅狂画』でも四角い染飯を売る茶屋の娘が描かれた作品がある』。『十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802-1814年初刊)にも登場する』。『その始まりは古く、『参詣道中日記』1553年(天文22年)の記録や『信長公記』1582年(天正10年)の記録に記載があるため戦国時代にさかのぼる。東海道の街道名物としては最古級である』とあった。]

 

2025/12/30

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「瘧神人と婬」【R指定】

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。而して、語注は、殆んどを割注化した。

 なお、底本の本篇では、セクシャルな部分が「△」で多量に伏字となっていて、全く以って正常に読むことが出来ない。しかし、別底本(写本)に拠る「近世民間異聞怪談集成」では、それらが、総て活字化されていることから、それを参考にして、恣意的に正字化して、復元した。その部分は太字とした。

 

 「瘧神《おこりがみ》人《ひと》と婬《いん す》」 安倍郡府中に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、一歲《ひととせ》、駿府の町々、瘧病《おこりやまひ》、大《おほい》に流行して、武家・商家、共に、人、多く、死す。

 此時、

「『吉屋傳治郞家』と門に張置《はりお》く時は、其家に、病者、なし。」

とて、戶每《とごと》に、此名を、はりけり。

 其由來を尋《たづぬ》るに、此《この》「傳治郞」と云《いふ》は、府中吳服町の住《ぢゆう》なるが、極《きはめ》て、家、富《とみ》、豐成《ゆたかなり》ければ、常に、二丁町に徃(ゆき)て、倡女《しやうぢよ》[やぶちゃん注:遊女。妓女。]、あまた、揚《あげ》て、樂《たのし》みけり。

 或夜《あるよ》、例の如く、行《ゆき》けるに、傳治郞が思ひ人、「春風《はるかぜ》」と云《いふ》姚女《えうぢよ》[やぶちゃん注:見目よい女。]、瘧り有りければ、傳治郞、心、樂まず、

「今宵《こよい》は、敏《と》く[やぶちゃん注:早く。]、歸るべし。」

とて、まだ、夜深《よふか》きに、歸りける。

 路の傍《かたはら》に、麗《うるは》し氣成《げなる》る女《をんな》の、只一人《ただひとり》、彳(たたずみ)たり。

 傳治郞、心の內に、

『定《さだめて》、戀故《ゆゑ》に、人待居《ひとまちを》るにや、其樣《そのさま》を見ばや。』

と、側《かたはら》に近寄り、星の光に、すかし見れば、其艷顏《えんがん》、譬《たと》ふるに物なく、窈窕《えうてう》たるが[やぶちゃん注:美しく淑やかな、上品で奥ゆかしいさまで。]、

「さめざめ」

と泣居《なきゐ》たり。

 傳治郞、不思議に思ひ、其旨《そのむね》を問へば、彼女《かのをんな》申やう、

「某《それがし》は、當國島田の者なるが、故在《ゆゑあ》りて、住事《すむこと》[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)では『往事』とある。私は、本書の「住」の方が、すんなり受け取れる。]、叶はず、府中の驛へと志し、夫婦諸共《めうともろとも》來りしに、昨日《きのふ》、此安倍川の邊りにて、吾夫《あがをつと》、俄《にはか》に心變りして、我《あ》を捨《すて》て、江戶に徃《ゆき》ぬ。

『吾も共に徃かん。』

と云へば、

『此府《このふ》は、江戶にも增《まさ》る繁花《はんくわ》なり。爰《ここ》に、止《とま》りて、我《われ》が登《のぼ》るを、待て。』

と別れしより、『獨り、府中に至らん。』と思へ共《ども》、行《ゆく》べき道を、知らず。詮方なくて、此處《ここ》に侍《さぶら》ふ。」[やぶちゃん注:「島田」現在の静岡市島田市。静岡県の中部で、大井川の両岸に当たる。]

と云。

 傳治郞、哀《あはれ》に思ひ、

「某《それがし》こそ、府中の者にて候へ、伴ひ申《まう》さん。」

と云《いふ》に、彼女《かのをんな》、悅び、莞爾(かんじ)としたる[やぶちゃん注:「につこりとした」。]形容《けいよう》、亦、類《たぐ》ひなき美人成しかば、頻《しきり》に、心、動き、女の手を取《とり》て、道ならぬ事抔《など》、口說《くどき》ける。女、いと恥かし氣《げ》にて、兔角《とかく》の答《こたへ》もなく、差《さし》うつ向《むき》て居《をり》たる。折節、往來の人も、なし。

『能き𨻶《ひま》也《なり》。』

と寄添《よりそ》ふに、流石《さすが》、岩木《いはき》にあらざれば、終《つひ》に、傳治郞が心に隨《したがひ》けり。[やぶちゃん注:この伝次郎の「能き𨻶也」とは、まず、「心の隙(すき)。それから生ずる態度・体勢の油断。」が第一義であり、さらに進んで、「事を行なう時期。行動をするのに都合のよい時。機会。」、即ち、その第一義の「信頼」を逆手にし、上手く懐柔して、手籠めにしようという好色性を大いに含んだものであることは言うまでも、ない。]

 夜もいたく更《ふけ》ぬれば、

「いざ。伴ひ行《ゆか》ん。」

と、すゝむるに、

「昨日よりの勞《いたはり》にて、一足《ひとあし》も步み難し。」

と云《いふ》にぞ、詮方なく、傳治郞が、脊《せ》に負《おひ》て往く事、一町《いちちやう》[やぶちゃん注:百九メートル。]計り、時しも、秋の星月夜、忽《たちまち》、やみと成り、頻《しきり》に、雨、降り、雷電、轟《どどろ》き渡《わたり》て、耳を響《ひびか》し、目を駭《おどろか》す。

 不思議や、今迄は、木《こ》の葉の如く輕かりし女《をんな》の、大盤石《だいばんじやく》よりも重く成り、傳治郞が背を押碎《おしくだ》くばかり也。

 振返《ふりかへ》りて、女を見れば、艷《えん》なりし形《かたち》は、鬼と變じ、額《ひたひ》に雙《ふたつ》の角《つの》を生じ、

「はた」

と白眼《にらみ》し、其形容、怖《おそろし》し共云計《ともいふばか》りなし。

 傳治郞、少しも、是に、恐怖せず、

「汝《なんぢ》、樣々に形を變じて、吾を駭す。察する處、古狐《ふるぎつね》の誑《たぶらかす》、と覺《おぼえ》たり。背に負《おひ》しぞ、幸《さひはひ》なれ、〆殺(しめころ)さん。」

と云儘《いふまま》に、力の限り、引《ひき》しむる。其時、彼女《かのをんな》、云《いふ》やう、

「汝、怪しむ事なかれ。吾《われ》は是《これ》、疫癘《えきれい》の司神《つかさがみ》也。それ、疫神《えきじん/やくがみ》と云《いふ》は、陽神《やうじん》は熱を司《つかさど》り、陰神《いんじん》は瘧《おこり》を司《つかさど》れり。吾夫婦《わがめをと》、久敷《ひさしく》、島田の驛に在《あり》て、數多《あまた》の人を腦[やぶちゃん注:ママ。「近世民間異聞怪談集成」でも同じであるので、原本の「惱」の誤記と思われる。]《なやま》せしに、有驗《うげん》の髙僧・神主《かんぬし》等、大法・祕法を行《おこなひ》て住所《すみどころ》を追ふ故に、住事《すむこと》、叶《かな》はず、爰《ここ》に來りしに、陽神は、昨日《きのう》の暮、旅人に附《つき》て、東方《とうはう》に往《ゆき》ぬ。一定《いちぢやう》、江戸は、熱病、流行《はや》るべし。吾は、此府中に止《とどま》りて、瘧を流行《はやら》せ、萬民を苦しません。去《さり》ながら、吾、汝に伴《ともなは》れて、是迄、來《きた》るの恩のみに非ず。亦、先《さき》の妹背《いもせ》の契《ちぎり》、有り。旁《ひとへに》深き由緣《ゆえん》あれば、汝が家には瘧疾《ぎやくしつ》を除くべし。少《すこし》も疑事《うたがふこと》、勿《なか》れ。」[やぶちゃん注:「妹背の契、有り」の台詞は、「この世と冥界の絶対的隔たりはあるが、親しい男女の関係を受け入れて、心から謂い交わした約束は、確かなことであり、人と冥界を問わず守る」という時空を超えた約束を、永劫、守る、という彼女の決意を示したものである。しかも、直後で「旁深き由緣あれば」を添えることで、「この契りは、幽冥の隔てを越えて、定まった必定であることを確かに誓約するものである」ということを断言するものであって、本邦に限らぬ幽冥怪奇談の異類冥婚の話の中でも、そうそう見ないガッチりとした台詞である、と言ってよいように思われる。

と云《いふ》かと思へば、傳治郞が足、地を離れ、空中に舞上《まひあが》り、彼《かの》鬼女《きぢよ》、背中を拔け出《いで》、行衞《ゆくゑ》も知《しら》ず成《なり》にけり。

 傳治郞は、

「どふ」

と落《おち》、現心《うつつごころ》もなかりしが、夜明《よあけ》て、心附《こころづき》、邊《あた》りを見れば、吾家《わがや》の庭內《にはうち》に落居《おちゐ》たり。

 傳治郞、深く此事を愼《つつしみ》て、口外《こうがい》せざりければ、誰《たれ》知る人もなかりしに、其後《そののち》、傳治郞、春風が許《もと》に行《ゆき》たりしに、折節《をりふし》、瘧を煩《わづらひ》て臥居《ふしゐ》たり。

 春風、心淋《こころさび》しき折《おり》にて、

「是非に。今宵は、泊るべし。」

と進むるにぞ、側《そば》に附添《つきそ》ひ、介抱するに、例の時[やぶちゃん注:瘧の劇熱症症状の発現を指す。]、至り、惡寒《おかん》、甚しく、身体《しんたい》、大《おほき》に震ひ出《いで》て後《のち》、熱氣、盛んに成《なり》ける時、春風、

「むく」

と起上《おきあが》り、傳治郞が手を、取《とり》て云《いひ》けるは、

「堵《さて》も。不思議の緣《えにし》にて、すぎし夜《よ》の妹背事《いもせごと》[やぶちゃん注:伝次郎との情事。]、忘《わすれ》やらず、『何とぞ、今一度《いまひとたび》、逢見《あひみ》る事も。』と、朝夕《あさゆふ》、願《ねがひ》しが、此春風は、御身《おんみ》の心を慰めて、常に添寢《そひね》の中《なか》[やぶちゃん注:「仲」と]と仄聞《そくぶん》たる故《ゆゑ》[やぶちゃん注:噂で聴いておりましたから。]、皮肉の內に分入《わけいり》て、執着を晴《はら》すべし[やぶちゃん注:かなり捩じれた評言で]と思附《おもひつき》たる甲斐、有りて、今の逢瀨《あふせ》の嬉しさよ。吾夫《わざをつと》は、江戶に下りて、獨り寢の、只《ただ》さへ長き秋の夜《よ》を。」

と、傳治郞に抱附く。

[やぶちゃん注:この台詞は、非常に凝った構造を持っているので、細心の注意が必要である。これは、一見、春風の語りのように見せかけつつ、実は、瘧神の女の語りへと、漸次、中間部で台詞が、二者の混淆が生じ、異様なメタモルフォーゼしているものなのである。そのコペルニクス的転回点のポイントは、「此春風は」である。これは、春風自身の一人称の言葉では――ない――のである! 既にして――女瘧神の言う三人称としての「この恨めしき春風は」という嫉視を強く含んだそれ――なのである。この台詞を、現代語訳してみよう。

   *

「さても……不思議な縁(えにし)にて……かの過ぎ去った……あの夜(よる)の……情事が……忘れられぬ!……『どうか、何卒(なにとぞ)、今、一たび、逢い見ること、ありかし!……』と、朝夕、願いておりましたが……この「春風」という女は……『あなたさまの、み心を慰めて、添い寝する、しっぽりとした仲の女だ。』と、世間で噂されていることを、ちらと、聴いてしまったから……この憎(にっ)くき遊び女(め)の皮肉の間(あいだ)に分け入って……やすやすと潜り込み……妾(わらわ)の……あなたさまへの……こんな女とは違って……はるかに強い私の愛着(あいじゃく)を晴らさんと思いついたのです……その甲斐が、見事に成就致しました!……今、私(わたくし)とあなたさまとの逢う瀬を得た嬉しさよ!……私の夫は江戸に下って、私は、ただでさえ、独り寝をかこっておりましたのです! この長い秋の夜を!……」

   *

である。而して、もう、多くの方は判っておられるであろうから、謂わずもがなではあるのだが、まず、これは――知られた「源氏物語」の第九帖「葵」で、源氏が、葵の見舞いに来た折り、病床で語る葵の上の言葉が、実は御息所の物の怪の語りであったという戦慄のクライマックスのシークエンスを見事にインスパイアにしたものに他ならない――と断定してよいのである。

 始《はじめ》の程は、

『熱に犯されて、根なし事、口走るか。』

と思《おもひ》しが、聞每《きくごと》に、心に覺《おぼえ》の有《あり》けるにぞ、何と答るよしも無く、物をも、いはで、居《をり》たりしが、

『所詮《しよせん》、彼《かれ》が心に、まかせ、飽迄《あくまで》交合《まじはり》せば、執着《しうぢやく》も、晴《はれ》ぬべし。』

と、一決《いつけつ》し、夜半《やはん》の下紐《したひも》、解け合《あひ》けり。

 然《しか》るに、此傳治郞、精水不漏《せいすいふろう》の術《じゆつ》を得たりければ、終夜、交《まぢは》れ共《ども》、冐子《ぼうし》、凋事《おとろふこと》、なかりけり。

[やぶちゃん注:「精水不漏の術」射精を、自身の意志でしないようにする閨房術。「冐子」見かけない熟語であるが、「冐」には「露わにする・曝け出す」の意があるので、「子」は「精子」を指し、エレクトを持続しつつ、しかも射精をせずに持続することを指しているものと読める。]

 病者、悅び、うなれ[やぶちゃん注:「唸れ」。]共《ども》、熱の强《つよき》にや、とて、更に疑ふ者《こと》なし。[やぶちゃん注:「者」には、特定の事柄を指す「こと」の意がある。]後には、疫神も弱り果て、

「免《ゆる》せ、免せ。」

と、わぶるにぞ、傳治郞、漸《やうや》く、手を放《はな》ち、別れ別《わまれ》に成《なり》ける。

 春風、目を覺《さま》し、元の正氣《しやうき》に立歸《たちかへ》り、

「さても。怖敷《おそろしき》夢を、見たり。」

とて、白湯《さゆ》など呑《のむ》に、傳治郞、

「瘧は、必《かならず》、落《おち》たれば、心安し。跡《あと》の療養こそ、肝要なれ。」

と云《いふ》に、春風、其謂《そおいはれ》を、問ふ。

 傳治郞、白地《あからさま》にも云兼《いひかね》て、

「家《いへ》の祕法にて、發熱して前後を知《しら》ざる時、咒《まじなひ》を、なしたれば。」

とぞ、答《こたへ》ける。

 果して、瘧は落《おち》たり。

 是より、婦人の瘧を煩ふ者、賴《たのみ》ければ、四方に屛風《びやうぶ》を立廻《たてめぐら》させ、人の出入を禁じて、此《この》傳《でん》を行ひけり。

 男子には、吾《わが》家札《いへふだ》を張らせけるに、皆、落《おち》けり。

 此年《このとし》、江戶には、熱病、大《おほい》に流行し、人、多く、死《しに》ける。

 故有《ゆゑあり》て、深川の水屋淸七と云《いふ》者に、疫神、

「恩を請《うけ》たり。」

とて、彼《かの》名札《なふだ》を張置《はりお》く家には、疫癘《えきれい》[やぶちゃん注:流行性の質(たち)の悪い病気。「疫病」に同じ。]なかりし、とぞ。

 彼《かの》鬼女《きぢよ》の云《いひ》ぬる事、符節《ふせつ》を合せたるが如し。[やぶちゃん注:「符節を合せたるが如し」「割符(わりふ)を合わせたように、必ず、見事に実現した。」の意。]

「美男子には非ざれ共《ども》、疫病神に迄《まで》、戀慕《こひした》はれしは、此《この》傳治郞成《なり》。」

とて、自讃しての物語り也、云云《うんぬん》。

 

[やぶちゃん注:「瘧神」「瘧」は、熱性マラリア(ドイツ語:Malaria/英語:malaria/語源は「悪い空気」を意味する古イタリア語の“mala aria”に基づく)のこと。マラリア原虫(真核生物ドメインアルベオラータ上門Alveolataアピコンプレックス門 Apicomplexa無コノイド綱 Aconoidasida住血胞子虫目 Haemosporidaプラスモジウム科 Plasmodiidaeプラスモジウム属 Plasmodium )(約二百種)のうち、少なくとも、十種がヒトに感染する。ハマダラカ(羽斑蚊・翅斑蚊=双翅(ハエ)目カ(長角・糸角)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科 Anophelini 族ハマダラカ属 Anopheles 。約四百六十種が知られている内、凡そ百種がヒトにマラリアを媒介させることが可能とされる)の♀が媒介するマラリア原虫が病原体であり、原虫の違いにより「熱帯熱マラリア」(一般にマラリア原虫をヒトに媒介しているのは、そのうちの三十 から四十種とされ、ハマダラカで最も知られている種は、マラリア原虫の中でも、最も悪性である熱帯熱マラリア原虫( Plasmodium falciparum )を媒介するガンビエハマダラカ( Anopheles gambiae )である。)・「三日熱マラリア」・「四日熱マラリア」・「卵形マラリア」・「サルマラリア」の五種類に大別される。当該ウィキの「日本」から、まず、引く。『1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5,000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した』。『しかし、『現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある』。『日本もマラリア対策に協力しており、その一つに伝統的な蚊帳づくりがある』。以下、「日本におけるマラリア」の項。『日本では、1903年時に全国で年間20万人のマラリア患者があったが、1920年には9万人、1935年には5,000人へと激減し、戦中・戦後の混乱期にもかかわらず減少を続け、1959年に滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者が消滅している』。『沖縄県ではアメリカ統治下の1962年に消滅した』。『日本の古文献では、しばしば瘧(おこり)・瘧病(おこりやまい/ぎゃくびょう)と称される疫病が登場するが、今日におけるマラリアであると考えられている。養老律令の医疾令では、典薬寮に瘧の薬を備えておく規定がある』。『『和名類聚抄』には別名として「和良波夜美(わらわやみ)」「衣夜美(えやみ)」が記載されている(アーサー・ウェイリー訳ではague「マラリア」と訳してある)。前者は童(子供)の病気、後者は疫病の意味であると考えられている。『源氏物語』の「若紫」の巻では光源氏が瘧を病んで加持(かじ)のために北山を訪れ、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上)を垣間見る設定になっている。『御堂関白記』『日本紀略』には東宮敦良親王が寛仁2年(1018年)8月に瘧病を病んだとの記述があり、天台座主慶円の加持を受けたことが分かる』。『中世日本においてマラリアはありふれた病気であり』、平清盛、『九条兼実、藤原定家、夢窓疎石といった人物が発病している他、『言継卿記』には』、『作者山科言継の妻、南向が病んだ「わらはやみ」について詳しい記録がある』。『近代以前には西日本の低湿地帯において流行がみられた。歌舞伎の『助六由縁江戸』の口上は「いかさまナァ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いておけ。まず第一、瘧が落ちる(熱病が治る)…」である。江戸時代の川柳の題材としてもしばしば用いられていた』。『20世紀に沈静化した』とする。最後に。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

2025/12/29

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「淸水御櫓の奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「淸水御櫓《しみづおやぐら》の奇《き》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

「今は昔、駿府御城內に淸水櫓と云《いふ》御櫓あり。此御櫓より、江尻・淸水の邊《あたり》、目の下に見ゆる故、『淸水櫓』と云《いふ》とかや。此御櫓、

『三重《さんじゆう》めの板敷《いたじき》を、釘を以《もつ》て張る時は、必《かならず》、破壞す。』

と云傳《いひつた》ふ。

 故に、只、板を竝べ置く事とかや。

『然《しか》れ共《ども》、其事實を知る者、なし。』

と、在番の健士《けんし》大久保某《なにがし》の物語り也。云云。

 

[やぶちゃん注:「江尻・淸水」これは、櫓の上から見えるという以上、それぞれ、当時の「旧江尻城」及び「旧清水袋城」(単に「袋城」「清水城」とも呼称した)の旧跡周辺を指しているものと思われる。ここである(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキに拠れば、江尻城は、永禄一三(一五七〇)年に甲斐国の武田氏により築城されたが、『武田氏滅亡後は徳川氏の勢力下になり、徳川氏の庇護を受けた穴山勝千代(信治)が城代となるが、勝千代の夭折により』慶長六(一六〇一)年『に廃城になった』とあり、一方の清水(袋)城は、個人サイトと思われる「綺陽堂」の「袋城」のページに、「武田三代記」では、永禄一二(一五六九)年、本「駿國雜志」『では』同一三年『に、武田信玄の下命で馬場美濃守信春が縄張り・築城したとされる』とし、『武田氏が滅亡すると、駿河の武田水軍は徳川氏に継承されたが、袋城の詳しい扱いについては定かでない。ただし、城自体はその後も存続していたようで、慶長』一九(一六一四)年『に駿府城の大御所となっていた徳川家康の命によって廃城となった。城跡は堀を埋めて清水の町場とされ、今日に至っている』とあった。

「健士」ここは、特に武勇に優れた武士の意。]

2025/12/28

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「燈明榎の怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。やや長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「燈明榎《とうみやうえのき》の怪《くわい》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、駿府御城內東小屋に、「燈明榎」とて、大木、有り。木の廻《めぐ》り、十圍《とかかへ》計りにして、二本に成り、生茂《おひしげ》りけるが、如何《いかが》しけん、一木《いちぼく》は枯《かれ》にけり。

 其木《そのき》、朽《くち》て、大成《おほきな》る虛《うつ》ろ、在り。

 何《いつ》の頃にか有《あり》けん、一歲《ひととせ》、六、七月の間《あひだ》、此《この》虛穴《うつろ》より、夜々《よなよな》、金色《こんじき》の光、さし輝きけり。

 皆人《みなひと》、怪《あやし》みしを、或《ある》者、見出《みいだ》してより、日每《ひごと》に、大勢、集り、數千《すせん》の玉蟲《たまむし》を取得《とりえ》たり。

 是より、彼《かの》光明《こうみやう》は消失《きえうせ》たり。

 それより、四、五日もすぎて、亦、光明を發する事、每夜也。

 此度《このたび》は、玉蟲には非《あら》ずして、

「大《だい》の法師《ほふし》の黑染《くろぞめ》の衣《ころも》を着《き》、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》りて、燈明の油《あぶら》を吸《すふ》。」

と、流說《りうせつ》するに、違《たが》はず。

 宿老《しゆくらう》、評議して、

「御番衆《ごばんしゆ》織田某《なにがし》は、力量、衆《しゆ》に越え、心《こころ》、剛《かう》なれば。」

迚《とて》、

「變化退治《へんげたいぢ》の將《しやう》。」

と定む。

 織田、悅び、

「生捕《いけどり》て、高名《かうみやう》せん。」

と、只一人《ただひとり》、東小屋《ひがしごや》に立向《たちむか》ひ、彼《かの》榎を見渡せば、聞《きき》しに違《たが》はず、光明を發し、大の法師、菅笠に顏《かほ》さし入《いれ》て彳《たたずみ》たり。

 織田、

「つかつか」

と、側《かたはら》により、

「得たり。」

と、組付《くみつく》に、動かず、腰の太さ、手も廻《まは》らず。

 組伏《くみふさ》んとするに、其强き事、譬《たちへ》るに、物、なし。

 兼《かね》て用意の早繩《はやなは》を取り出《いだ》し、十重二十重《とへふたへ》に繩《くく》り付《つけ》、大音《だいおん》あげ、

「先祖平の忠盛、祇園行幸《ぎをんぎやうかう》の例《ためし》に倣《なら》ひ、燈明榎の大法師を、織田某《それがし》、生捕《いけどり》たり。」

と呼《よば》はれば、東小屋に有合《ありあふ》者共、

「劣《おと》らじ。」

と缺付《かけつき》て、前後左右より、取卷き、押せども、動かず。

 人々、不審に思ひ、挑燈《てうちん》にて、すかし見れば、榎の切口《きりくち》に、下男《げなん》の麻看板《あさかんばん》を掛《かけ》たる也。

 餘りの事に、興《きやう》、さめて、彼《かの》看板を取除《とりの》れば、土器《かはらけ》に、油《あぶら》、さし、燈《ともし》附《つけ》て、虛《うつろ》に入れ、雨よけに、上より、古菅笠《ふるすげがさ》を覆《おほひ》たり。此《この》麁服《そふく》は、風よけに張《はり》けるなりけん。

 何者の仕業《しわざ》にや、知る者、更に、なかりき。

 やがて、

「此度《このたび》の褒賞《はうしやう》。」

迚、彼《かの》菅笠を、織田に贈られしが、終《つひ》に、家《いへ》の重器《ぢゆうき》と成《なり》ける。

「其榎も、今に朽《くち》ずして、『燈明榎』と呼《よぶ》也。」

と、府中の道具屋惣兵衞と云《いふ》者の語りし也。云云《うんぬん》。

 

[やぶちゃん注:「榎」双子葉植物綱バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。小学館「日本大百科全書」に拠れば、『本州、四国、九州の低地に生え、朝鮮、中国南部、インドシナに分布する。名は』、『餌(えさ)の木の意味ではないか』、『といわれ、榎と書くのは、道端に茂って木陰をつくることから、夏の木の意味の』国字『である』とし、また、『植物学者前川文夫博士の説によれば、この木は古くは』、『神の木として信仰の対象にされ、神が降下するという長野県諏訪』『明神のタタイ木は、元来』、『エノキであり、その名はタタイノキ→タタエノキ→エノキと変化したとする。またかつては道路の一里塚や屋敷の北西に植えられたが、これらも神木であった名残(なごり)で、東京都板橋区本町にある「縁切榎(えんきりえのき)」もその変形とする。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に名がみえ、『万葉集』にも1首詠まれている。』とある。但し、諏訪神社の『タタイ木』というのは、現在の同神社が正式に認めている呼称ではない。

「玉蟲」鞘翅(コウチュウ・甲虫)目多食(カブトムシ)亜目Elateriformia下目タマムシ(玉虫)上科タマムシ科ルリタマムシ(瑠璃玉虫)属タマムシ Chrysochroa fulgidissima

「宿老」「宿德老成の人」の意。本来は「十分に経験を積んだ老人」を広く指す語であるが、そこから転じて、「古参の臣」や「家老」等の重職の地位に就く者の称となった。参照した当該ウィキに拠れば、『江戸時代では』、『幕府における老中や諸大名家に』於ける『家老を指す称として用いられた』とある。

「御番衆」「番」を編成して宿直警固に当たる者たちを指す。

「得たり」この場合は感動詞で、一般的に「と」を伴って用いる。小学館「日本国語大辞典」によれば、『物事が自分の思う通りにうまくいったと思われるときに発することば。しめた』! の意。

「早繩」小学館「日本国語大辞典」に、『人を捕えた時に手早く縛るようにたずさえている縄。捕縄(とりなわ)。』とある。

「麻看板」武家の中間(ちゅうげん)や小者(こもの)などが、お仕着せとして貰った麻製の短い衣類で、その背に主家の紋所などを染め出したもの。

「虛《うつろ》」「洞(ほら)」と同義で、老大木の根元や大木の朽木などにある、中のうつろな穴を言っている。

「麁服」粗末な衣服、布地の粗悪な服のこと。]

2025/12/20

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「神隱《かみかくし》」

[やぶちゃん注:底本はここ。やや長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「神隱」 安倍郡《あべのこほり》府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、駿府御城內に「神隱し」と云《いふ》事ありて、自然に、人の見えざる事[やぶちゃん注:何らの理由や原因なしに、人が行方知らずになること。]、有り。

 何《いつ》の頃にや有《あり》けん、岩手伊左衞門某《なにがし》と申《まうす》人、駿城《すんじやう》に、在番《ざいばん》有りしに、其家士《かし》に浪足金六郞《なみあしきんごらう》と云《いふ》者、あり。生得《しやうとく》、儀《ぎ》なる人[やぶちゃん注:実直な人。]にて、能《よく》勤《つとめ》ければ、岩手氏も、甚《はなはだ》、寵愛されにけり。

 然《しか》るに、此金六郞、

「聊《いささか》、風邪に犯《おかさ》れたり。」

迚《とて》、一兩日、臥居《ふしゐ》たりけるが、一夜《ひとよ》、以《もつて》の外《ほか》、苦《くるし》みければ、朋友等《ら》、夫々《それぞれ》に心付《こころづけ》て、樣々《さまざま》に介抱しければ、惱亂《なうらん》、漸々《やうやう》靜《しづま》りけり。

 附添《つきそひ》し人々、

「今は、心安し。」

とて、各《おのおの》、其傍《そのかたはら》に轉《まろ》び宛《つつ》、宵《よひ》よりの勞《いたはり》に、前後も知らず、臥居《ふしゐ》たり。

 時に、金六郞、起上《おきあが》り、枕元に掛置《かけおき》し己《おのれ》が刀《かたな》を拔き持《もち》て、裏の方《かた》へ出《いで》けり。

 附添し人々は、一寢入《ひとねいり》して、目を覺《さま》し、あたりを見れば、金六郞が刀の、鞘《さや》のみ、貽《のこ》り有《あり》て、金六郞は居《をら》ざりけり。

「こは、いかに。」

と怖《おそれ》て、家內《かない》[やぶちゃん注:家人の者ら。]を起《おこ》し、如々《しかじか》の由を告げ、挑灯《ちやうちん》・松明《たいまつ》にて、尋《たづね》ける。

 時しも、八月下旬にて、庭に茂りし一村《ひとむら》の薄《すすき》の中《なか》に立居《たちゐ》たり。

 見附《みつけ》し者共、聲、掛け、

「金六郞は、爰《ここ》に居《をり》たるぞ。」

と云ふ。

 人々、悅び、駈付《かけつき》しを、薄の中より、走り出《いで》、向《むか》ふ者を、二、三人、數か所に、創《きず》を負《おは》せければ、恐《おそれ》て、近付《ちかづく》者もなく、只《ただ》、遠卷《とほまき》にして見居《みをり》たるに、不思議哉《や》、金六郞、鳥《とり》の如くに、舞上《まひあが》り、虛空《こくう》をさして、翔《かけ》り行く。

 並居《なみをり》し人々、膽《きも》を消《け》し、

「あれよ、あれよ、」

と云《いふ》內《うち》に、土居《どゐ》[やぶちゃん注:高級な武家屋敷の防御目的の相応の高さの土塁を指す。]より、高く、舞上《まひあが》り、龍爪山《りゆうさうざん》に飛行けり。是天狗の業成りとぞ。

 其後、菅沼圖書《すがぬまづしよ》某《なにかし》の家士芦原源藏《あしはらげんざう》某《なにがし》と云《いふ》者、神隱しにあひて、見えざりけるが、謂《いはれ》、有りて、其譯《そのわけ》、立《たち》がたし。終《つゐ》に、菅沼家、斷絕す。

 亦、其後《そののち》、御定番《ごじやうばん》金田遠江守某、中間《ちゆうげん》源藏と云《いふ》者、神隱しにて、行衞《ゆくゑ》、知れず。

 亦、其後、御城代《ごじやうだい》杉浦出雲守某、中間金六と云《いふ》者、神隱しにあひけり。

「金六・源藏と名乘る者、四人迄、神隱しにあひけるも、不思議成《なり》し事。」

と、府中吳服町《ごふくちやう》の肴屋太兵衞《さかなやたへゑ》と云《いふ》者、語りし也《なり》。

 

[やぶちゃん注:家士は、主家によりけりであるが、プレッシャーは相対的に大きい。実直にしてよく勤ていたとあり、主人も重用していたからには、精神的には、逆に、かなり気配りを過剰に行っていたものと推察出来る。こうした、生まれつき、神経質な人物は、往々にして、生得的に癲癇気質を持っていたり、ストレスが限界を超えると、他虐的な統合失調症状に至ることは、まま、ある。一番、典型的なのは、菅沼図書某の家士である芦原源蔵某のケースで、「謂、有りて、其譯、立がたし。終に、菅沼家、斷絕す。」という部分で明白である。この主人菅沼図書某は、恐らく、城代等にも仕事や人格・素行に問題があると知られていた人物であったものと思われ、されば、家士の理由不明の失踪が、主人の扱いに耐え切れずに出奔したものと城代が判断したからこそ、相応の主人側の不埒な家士の扱いが悪しき「謂われ」こそが元凶であると断罪され、一家断絶となったと考えられるからである。後半に出る中間の場合は、もっと地位が低く、社会的安定性も極めてよくないことから、適当にこなすズル賢い知恵がない、却って真っ正直な者に限って、上手く立ち回ることが出来ず、情緒不安定に陥る可能性は、いや高くなる。これは、私が電子化注してきた有象無象の江戸の市井談集や怪奇談集の登場人物に、しばしば、半グレその者のような輩が、結構、見られ、その反対の実直な誠実な中間も、これまた、相応に、いるからである。

「龍爪山」複数回既出既注。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「府中吳服町」現在の静岡市葵区呉服町(ごふくちょう)。]

2025/12/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「御城內犬の奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。なお、太字部分は、底本では、総て、欠字で、『△』になっているのだが、別底本の「近世民間異聞怪談集成」では、しっかり表示されているので、それを採用した。但し、この欠字、どうも、内容から、風紀上、よろしくないと判断して、本底本の出版社の編者が、政府を憚って、わざと伏字にした可能性が高いように思われる。他で欠字を『△』としたものが、無いからである。

 

 「御城內犬の奇《ごじやうない の き》」 安倍郡《あべのこほり》府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、駿府御城內に、犬、數多《あまた》、あり。東西《とうざい》に分れて、能く黨《たう》を結《むす》び、東の犬、西に往《ゆ》く時は、忽《たちまち》、是を喰殺《くひころ》す。西の犬、東に來《きた》る時は、亦、然《しか》り。其《その》强き事、譬《たとふ》るに、物《もの》、なし。人には、よく馴《なれ》たり。

 居人《すむひと》、代《かは》れ共《ども》、年來《そしごろ》、飼《かひ》たるが如し。夜中《よなか》、人を、吠へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。

「牝牡《めすをす》、交合するに、婬穴《いんけつ》に、陽根《やうこん》止《とどむ》る事、なし。故《ゆゑ》に、其《その》とつぐを、見る者、なし。」

と、通詞《つうじ》淸右衞門と云《いふ》者、語りし也。云云。」。

 猛犬、黨を結ぶ事、累年、互《たがひ》に、威《い》を逞《たくまし》ふす、と、いへども、人を害せず。「奇。」と云《いふ》べし。

[やぶちゃん注:実話性が高い、しかも、他に類を見ない動物怪奇談と言える。

「通詞」幕府附きの阿蘭陀通詞。]

2025/12/07

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「芭蕉謠の怪」・「杜若の精靈」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。続く後者の話が、同じ出典で、しかも、属性が極めて酷似するので、特にカップリングして示すこととした。

 

 「『芭蕉《ばせう》』謠《うたひ》の怪《くわい》」 安倍郡《あべのこほり》府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、駿府御城內に於て、「芭蕉」の謠を停止《ちやうじ》す。其《その》權輿《けんよ》[やぶちゃん注:「權」は「秤(はかり)の錘(おもり)」、「輿」は「車の底の部分」の意で、どちらも最初に作る部位であるところから、「物事の始まり・事の起こり・発端」の意。]を尋《たづぬ》るに、國主今川義元、織田信長公と、國を爭ひ、

「尾州鳴海《なるみ》に出張すべし。」

とて、軍兵の列を糺《ただ》す。

 此時、義元、道途《だうと》に「芭蕉」のくせを謠はる。

 近習《きんじゆう》の士、松田左膳、是を聞き、

「御出陣の門出《かどで》に、『身は古寺の軒の草』とは、忌《いま》はしき文句也。御止《おや》め候《さふらひ》て、愛度《めでたく》、御出陣、あれかし。」

と申す。

 義元、怒《いかり》て、

「それ、勝敗は、時の運也。何ぞ、謠の吉凶に、よらん。汝、無用の舌を動《うごか》して、人情を折《くじ》く。不忠の甚しき者也。」

と、只《ただ》、一刀に斬殺《きりころ》し、

「必《かならず》、信長をして、汝が如く、なすべし。」

と云つヽ、氣色《けしき》ばふて、出陣す。

 時に此戰《いくさ》、大《おほい》に利あり。

 義元、心、驕《おご》り、諸軍《しよぐん》に向《むかひ》て、

「先《さき》に、左膳、兵《つはもの》の英氣を折《くじ》く。我《われ》、是を殺して、信長に譬《たと》へ、其勢ひを以て、出陣す。故に、只《ただ》、氣强《きづよ》く戰ひ、大《おほい》に勝《かち》を得たり。惜《をしむ》らくは、今日《こんにち》、信長が首を、見ざる事を。」

と云《いふ》時、不思議哉《や》、空中に、聲、有りて、

「よしや 思へば 定めなき 世は芭蕉葉《ばせふば》の 夢のうち」

と大音《だいおん》に謠ひ、

「見よ、今に、思ひ知らせむ。」

と云《いふ》かと思へば、

――忽《たちまち》、天、かき曇り、俄然《がぜん》として、大風《おほかぜ》、起《おこ》り、砂石《させき》を飛《とば》し、古木《こぼく》、折り、降る雨、篠《しの》を衝《つく》が如く、雷電《らいでん》、大《おほい》に、はためき渡りて、恐怖せざる者、なし。……

義元、戰《いくさ》を止《とど》め、甲冑《かつちゆう》を脫ぎ、幕《まく》をたれて、酒宴す。

 信長公、

「時分は、よし。」

と、本陣に突入《つきいり》、義元を、討《うつ》とる。

「是、偏《ひとへ》に、左膳が靈《りやう》の所爲《しよゐ》也。」

と沙汰せり。

 或《あつひ》は、

「『芭蕉』を謠へば、左膳が亡魂、顯《あらは》る。」

など流說《りうせつ》して、終《つひ》に、

「謠《うた》はざる事。」

と、なりぬ。

 元和《げんな》の末《すゑ》、中將賴宣卿、在城の時、

「今は、御代《みよ》も替《かはり》たれば、芭蕉の謠も、忌《いむ》べきに非《あら》ず。」

とて、初《はじめ》て、此能、有りけるに、其年、紀州へ、國替《くにがへ》あり。

 是より、大納言忠長卿の領《りやう》と成り、在城の時、此《この》能を催《もよふ》されしに、其年、謂《いはれ》、有りて、御番城と成る。

 是より、彌《いよいよ》、此謠を停止す、と。

 此事《このこと》、町奉行久松忠次郞某《なにがし》、組同心《くみどうしん》坂本元右衞門某と云《いふ》者、語りき。云云《うんぬん》。』。

[やぶちゃん注:本話の主人公今川義元が、織田信長に討たれたのは、「桶狭間(おけはざま)の戦い」で、義元は、永禄三(一五六〇)年五月、那古野城《なごやじやう》を目指し、駿河・遠江・三河の二万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始した。織田方に身動きを封じられた大高城(おおだかじょう:現在の名古屋市緑区大高にあった。ここ。グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)を救うべく、大高周辺の織田方の諸々の砦(とりで)を松平元康などに落とさせた。幸先良く、前哨戦に勝利した報せを受けて、沓掛城(くつかけじょう:ここ)で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところが、その途上、桶狭間山(今川義元本陣跡碑をポイントした)で休息中、信長の攻撃を受け、松井宗信らとともに奮戦するも、織田家家臣毛利良勝に愛刀「義元左文字」と首級を奪われた。永禄三年五月十九日(ユリウス暦一五六〇年六月十二日/グレゴリオ暦換算で同年六月二十二日)で、享年四十二であった(以上はウィキの「今川義元」を参考にした)。

「駿府雜談」書誌不詳。本電子化注では、今までに出たことがない。識者の御教授を乞う。

『「芭蕉」の謠』私の「怪談登志男 八、亡魂の舞踏」、及び、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 中川喜雲京童の序の辯 謠曲中の小釋』の、それぞれの本文とオリジナル注が、かなり参考になるはずである。

「尾州鳴海」現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町。ここ

「松田左膳」不詳。

「元和の末、中將賴宣卿、在城の時」家康の十男であった徳川頼宣は、慶長一三(一六〇八)年に家康が駿府で大御所政治を始めると、頼宣も同所に移っている。同十六年三月に近衛権中将となる。元和二(一六一六)年、彼が十五歳の時、家康が死去、翌年に従三位権中納言となっている(この時点で公卿となる。但し、翌日に権中納言を辞退している)。同五年七月、十八歳の時、秀忠から紀伊国・伊勢国の内、計五十五万五千石への転封を命ぜられ、紀伊国和歌山藩初代藩主となり、紀州(紀伊)徳川家の祖となった。但し、元和は十年までであるから、「末」というのは謂いとしては、おかしい。

大納言忠長卿」駿河国駿府藩藩主で、第二代将軍秀忠の三男にして第三代将軍家光の弟であった徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)。家光の命で自害させられた。『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 草加屋安兵衞娘之事』(文宝堂発表)の私の「駿河大納言」の注を参照。その問題行動から、人格異常が疑われる人物である。当該ウィキによれば、寛永七(一六三〇)年十一月、『浅間神社付近にある賎機山』(しずはたやま:ここ)『で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近で行なった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ』、『殺す事自体が禁止されており、更にこの浅間神社は祖父家康が』十四『歳の時に元服した、徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そのような場所で猿狩りを行うのは』、『将軍家の血を引く者といえど』も『許されない事であったが、止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と、田畑を荒らす猿を駆除するという理由で反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は』千二百四十『匹もの猿を殺したとされている』。『更に』、『その帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及び、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている』とある。]

 

  •   *   *

 

 「『杜若《かきつばた》』の精靈《せいれい》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云、

『今は昔、大納言忠長卿の時、三州八《やつ》はしの杜若を取寄《とりよせ》給ひて、御庭《おには》の池に植《うゑ》させ給ふ。

 或年の彌生《やよい》下旬、雨、降り、徒然《つれづれ》なる日、花の盛りを、御覽有りて、「杜若」を謠ひ給ふ。

 をりふし、年《とし》、二八計《にはち》[やぶちゃん注:十六歲。]《ばか》りなる上﨟《じやうらう》の、いと、艷《つややか》に麗《うるは》しきが、かね黑《ぐろ》に眉《まゆ》付《つけ》て、紫の衣《ころも》、うち被き、緋の袴着《はかまぎ》、妻紅《つまべに》の扇《あふぎ》をもて、顏《かんばせ》を覆ひ、池の邊りに彳《たたずみ》たり。

『こは。見馴《みなれ》ぬ女《をんな》の、何故《なにゆゑ》に爰《ここ》には來りしやらむ。』

と、不思議に思《おぼ》し召《めし》、立出《たちいで》給ひて、

「汝《なんぢ》は何者ぞ、變化《へんげ》の者成るか、平直《へいちよく》に[やぶちゃん注:率直に。]申せ。」

と、の給へば、彼女《かのをんな》、恥かし氣《げ》にて、

「名乘るも、恐《おそれ》ある事に候へ共《ども》、吾は、是《これ》、杜若の精靈也。久敷《ひさしく》、八橋の名所に住《すまひ》して、其名、高し。然《しか》りといへ共、適《たまたま》、在五中將の唐衣《からころも》の詠《えい》より外《ほか》、亦《また》、問ふ人も候らはず。然《しか》るに、今、公の御庭に植られて、朝夕、御慈愛を蒙《かうぶ》る、身《み》に取《とり》ての面目《めんぼく》也。官位も尊《たつと》くおはします御人《ごじん》の、訪《つぶらひ》給ふ有難《ありがた》さに、是《これ》まで、顯《あらは》れ候也。『草木《さうもく》心《こころ》なし』とせず、常々の御惠《おほんめぐみ》を謝《しや》せんが爲《ため》、聊《いささか》、申上《まうしあぐ》べき事、有り。必《かならず》、捨《すて》させ給ふなよ。抑《そもそも》、公は、御性質、剛强《がうきやう》に在《ましま》して、大器《たいき》に渡らせ給へ共《ども》、平常《へいじやう》の御所行《おほんしよぎやう》、惡敷《あしき》が故に、臣、下服《かふく》し奉《たてまつ》らず、只《ただ》、君臣の威、違《たが》へるを以て、從ふのみ也。御惡行《おほんあくぎやう》、日々《ひび》に重過《ぢゆうくわ》し、臣、離れ、民《たみ》、散《さん》ずる時は、國家を亡《ほろぼ》すのみに非《あら》ず、終《つゐ》に、御身《おんみ》を失ふに至る。其《その》萌《きざし》[やぶちゃん注:この「萌」は、実は、底本では、「性」であるが、如何にも上手くない。特異的に、別本底本である「近世民間異聞怪談集成」の『萌』を採用した。]、既に至る處、既に顯《あらは》る。嗚呼《ああ》、悲《かなし》むべく、歎《なげく》べきの、甚《なはなはだ》しきに非《あら》ずや。公、今日《けふ》より、御所行を改め給はヾ、天地共《とも》に、社禝《しやしよく》[やぶちゃん注:原義は「社」は「産土神(うぶすなしん:土地神)を祭る祭壇」、「稷」は「穀物の神を祭る祭壇」の総称名。元来は、周代諸侯の祭祀であったが、秦・漢以降、天壇・地壇・宗廟等とともに、国家祭祀の中枢を担うことを指した。そこから転じて、「国家・国体」を意味するようになったもの。ここでの「国」は「駿河国」を指す。]を保ち、永く、富貴《ふうき》を御子孫に殘し給ふべし。『玆《ここ》に仁を行へば、仁、こヽに至る。』と、いへり。公、よく、是を監《かんが》み給へ。」

と、諌《いさめ》つヽ、二足《ふたあし》、三足《みあし》、行《ゆく》か、と、すれば、姿は、見えず成《なり》にけり。

 公、少しも、是を御心《みこころ》にかけ給はず、御所行、益々《ますます》、荒《あら》かりき。

 其後《そののち》、「杜若」を謠《うたは》せらるヽ每《たび》に、彼女《かのをんな》、顯れて、愁《うれふ》る色、有り。

 近習《きんじゆう》の士、是《これ》を見知り、樣々《さまざま》に、とり沙汰《ざた》して、此《この》謠《うたひ》を愼《つつし》みけり。

 果《はた》して、御事《おんこと》、ありて、御番城《ごばんじやう》となる。

 其頃、御番衆に、大久保某《なにがし》と云《いふ》人、有《あり》しが、「杜若」を謠《うたひ》けるに、彼《かの》池の內より、大音《だいおん》にて、

「植《うゑ》をきし昔の宿の杜若 色ばかりこそむかし成《なり》けり」

と謠けり。

 是より、彌《いよいよ》、

「謠はざる事。」

とす。

 其池の在《あり》し所は、今の組頭小屋《くみがしらごや》の庭也。

 近頃迄、彼《かの》杜若、殘り在《あり》て、花の時は、合番衆《あひばんしゆう》等、招請《しやうせい》ありし。

 此小屋を『杜若小屋《かきつばたごや》』など、云《いひ》けるよし。

「今は、枯《かれ》て、一本も、なし。」

と、府中兩替町《ふちゆうりやうがへちやう》の肴屋仁兵衞《さかなやにへゑ》と云《いふ》者の、語りし也。云云。

 

[やぶちゃん注:本話は、私の「譚海 卷之十二 駿河御城杜若長屋の事」の本文とオリジナル注が、大いに参考になるものと思う。

「府中兩替町」現在の葵区にある両替町通り附近。]

2025/11/28

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「うば狐」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「うば狐《ぎつね》」 安倍郡府中に有り。「駿臺雜話」云《いはく》、

『むかし、駿府の御城に、「うば狐」といひ傳へし狐あり。人、是に手巾《てぬぐひ》をあたふれば、それをかぶりて舞《まひ》しが、聲ばかりして、形は見えず。たヾ、手巾、空に飜轉《ほんてん》して、回舞のやうを見せし程に、人々、興《きやう》に入《いり》けり。人、手巾を、あたふる時に、受取る形は見えねど、もたる手を、ものヽすりて通るやうに覺へて、其まヽ取《とり》て、ゆきける。わかき人々、

「わざと『渡さじ』と、あらがふに、なにと、堅く持《もち》ても、とられぬといふ事、なし。」

と語るを、大久保彥左衞門、聞《きき》て、

「我は、とられじ。」

とて、手巾を、もちて、

「これ、とれ。」

と、いふに、取《とり》得ず。

 さて、いふは、

「さても無分別の人よ、あな、おそろし。」

とて、にげさりぬ、とぞ。

 彥左衞門は、手に覺《おぼえ》のある時、

『わが手ともに、きりて、おとさん。』

と、思ひつめけるを、狐、さとりしなり。

 されば、武士の心、剛《かう》にして、一筋に直《ぢき》なるさへ、其《その》氣燄《きえん》[やぶちゃん注:ここは「傲慢なこと」の意。]になき程に、狐も、妖《やう》を、なしえず。まいて、正人君子《せいじんくんし》[やぶちゃん注:品行方正な人。]に於て、をや。本より、邪《じや》は正《せい》に敵せねば、正氣《しやうき》にあふては、氷の、日にむかふて、忽《たちまち》に消《きゆ》るが如し。云云《うんぬん》。」。

 彥左衞門、諱《いみな》は忠敎《ただよし》、始め、平助と號す。七郞右衞門忠世《しちらうえもんのただよ》の弟也。

 

[やぶちゃん注:「駿臺雜話」室鳩巣(むろきゅうそう)の随筆。全五巻。享保一七(一七三二)年、成立。朱子学の立場から学術・道徳を奨励した教訓的な内容である。

「うば狐」「姥狐」か。妖怪・怪奇現象名には、しばしば「姥」がつく。学術的根拠がないが、サイト「動物妖怪名録」のここでは、「姥狐」としている(出典は前書)。

「回舞」読み方が判らない。辞書に出ない。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本倫理彙編 朱子學派の部 卷之七」の「駿臺雜話」(井上哲次郞・蟹江義丸編/明治三五(一九〇二)年育成會刊)では、『廻舞』となっている。取り敢えず、「めぐりまひ」「まはりまひ」等が当たるか。所謂、対象が「くるくると舞い踊ること」の謂いではあろう。

「大久保彥左衞門」ご存知の好漢の武将・旗本であった「天下のご意見番」として知られる大久保忠教(永禄三(一五六〇)年~寛永一六(一六三九)年)。当該ウィキを見られたい。

「七郞右衞門忠世」(天文元(一五三二)年~文禄三(一五九四)年)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、松平氏(徳川氏)家臣。三河国碧海郡上和田(現在の愛知県岡崎市)の大久保氏の支流であった大久保忠員(ただかず)の長男。「蟹江七本槍」・「徳川十六神将」の一人に数えられる名将。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「壯士契亡妻」

[やぶちゃん注:底本はここから。特異的に長い。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「壯士契亡妻《さうし ばうさいに ちぎる》」 安倍郡府中に有り。里人《さとびと》云《いふ》、

「慶長年中、浪人成田治左衞門某《なにがし》と云《いふ》者、有り。

 夜々、亡妻の幽魂、來りて、遇す。

 諸人《しよにん》、是を怪《あやし》みしが、後《のち》、何方《いづかた》に往《ゆき》しにや、其行衞《ゆくへ》を知らず。」。

≪と≫。

 「近代武將感狀記」云《いはく》、

『慶長の頃、成田治左衞門と云者、有り。京師にて、妻を迎《むかへ》て、情意《じやうい》、殊に深かりしが、三年《みとせ》にして、妻、病《やみ》て死せり。死期《しき/しご》に臨《のぞみ》て、成田が手を執《とり》て、淚を流し、

「形は煙《けむり》ともなれ、土《つち》共《とも》なれ、魂《たましひ》は君邊《きみのべ》を立《たち》はなれじ。」

と云《いひ》けるが、死して、數日《すじつ》の後《のち》、深夜に、亡妻、來りて、成田が枕もとに居寄《ゐよ》りて、打《うち》しほれたる姿也。

 成田、信ぜず、

「死《しし》たる者の、二度《ふたたび》來《きた》るべき理《ことわり》、なし。汝は定《さだめ》て、妖魔《えうま》ならん。然《しか》れ共《ども》、妻の形なれば、斬《きる》には、忍びず。」

と云《いひ》ければ、

「今はの時、申せし詞《ことば》を忘《わすれ》させ給ふや、殿を慕ひ參《まゐ》らする魂《たましひ》の參る也。無き形は斬《きり》給ふ共《とも》、創《きず》、つかじ。」

とて、三年《みとせ》の間の契《ちぎり》、深かりし事共《ことども》、言出《いひいだ》して、泣《なき》かこち、明方近く成《なり》て、立皈《たちかへ》る。

 此《これ》より、每夜、甚雨疾風《じんうしつぷう》にも來りければ、後《のち》には、馴《なれ》て、厭心《いとふこころ》もうせ、存生《ぞんじやう》の時の如く、枕並《ならべ》て、うち語らふ。

 され共《ども》、心根《こころね》、さらに解《とき》がたくて、俄《にはか》に駿府に下《くだ》りて、是を、避《さ》く。

 翌る夜《よ》、妻、又、來りて、

「生《しやう》を隔《へだた》れども、心を隔てず、何とて、嫌ひ給ふや。」

と、執心《しふしん》、愈《いよいよ》深ければ、成田、一月《ひとつき》ばかり、斯《かく》て在《あり》しが、

『さらば、海路を隔《へだて》ん。』

と思ひ、早馬《はやむま》にて、大坂に上《のぼ》り、船に乘《のり》て、中川修理大夫《しゆりのだいぶ》秀重の城下に赴《おもむ》く。

 折節《をりふし》、順風にて、六、七日にて、下り着《つき》ぬ。未だ、三日も過《すぎ》ざるに、妻、又、來りて、

「縱《たと》ひ、千・萬里の大海なり共《とも》、思ひ人《びと》たる魂《たましひ》の通《かよ》はぬ方《はう》は、なき物を。心盡《こころづくし》に、所、な、かへ給ひそ[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、『在る「所」を、決して、「變(か)へ」なさるるな。」の意である。]。秋津洲《あきつしま》[やぶちゃん注:老婆心乍ら、日本の古名。]の中《うち》は、まだ、近し、高麗(こま[やぶちゃん注:「かうらい」では、女詞(おんなことば)としてよろしくないと判断した。])・唐土《もろこし》の果《はて》までも、殿《との》の住《すみ》給はん方《かた》に參るべし。」

と云《いふ》。

 成田、力に及ばず、茲《ここ》に一兩年[やぶちゃん注:「一~二年」の意。]を送れり。

 成田、生資《せいし》[やぶちゃん注:私は使ったことはない熟語だが、「禀性」「気性」の謂いであろう。所謂、「『生』まれつき、人に備わっている『資』質の意。]、愛敬《あいぎやう》[やぶちゃん注:「親愛と尊敬の念を持つこと・人から愛され敬われること」。時代的には「あいきやう」と読んでもよい。]有る者にて、相親《あひしたし》む人、多かりしが、成田、夜話《やわ/よばなし》[やぶちゃん注:私の後注に「近代武將感狀記」の太字部分を見られたい。]を好《このま》ず。强《しひ》て止《とどむ》れば、止《とどま》りながら、亥《ゐ》の時になれば、睡入《ねぶりいり》て、何事も覺《おぼえ》ぬ躰《てい》也。其故《そのゆゑ》を問へ共《ども》、笑《わらひ》て言はず。成田、閨中《ねやうち》に入れば[やぶちゃん注:この場合は、夜の勤番の休息所を指す。]、

「誰共《たれとも》なく、さヽやく聲、外に聞ゆ。」

など云《いふ》者、有れば、大《おほき》に是を怪《あやし》みて、毛利內膳・舟橋半左衞門・石田半右衞門・尾關源右衞門・村井津右衞門《つゑもん》、五人、云合《いひあは》せて、日暮《ひぐれ》より、成田が宅に行く。

 出合《いであい》て、例の如く、早く夜食を出《いだ》す。

 五士、

「今夜《こんや》、此に來《きた》る事は、常々、貴殿に不審する事を見屆《みとど》む爲《ため》也。明《あく》る共《とも》、歸るべからず。」[やぶちゃん注:最後の部分は、全員の意志の強固なことを誇張した謂い。]

と云へば、成田、其座に居《ゐ》たるが、夜《よ》の更行《ふけゆく》に隨ひて、睡り入るを、推動《おしうご》かせば、驚《おどろき》しが、後《のち》に、橫に臥《ふし》て、鼻息ばかりは有《あり》ながら、死人《しびと》の如く、小袖を引被《ひきかづ》けて、傍《かたはら》に置き、五士、相向《あひむかひ》て座せり。

 夜半過《すぐ》る比《ころ》、身の毛、立《たち》ふるひ、わなヽきて齒も合はず、互《たがひ》に拳《こぶし》を握り、膝《ひざ》に當《あ》て、目と目を見合《みあは》すれ共《ども》、相手なければ、

「こは、いかに。」

と云《いふ》計《ばか》り也。

 半時《はんとき》程、有りて、漸《やうや》く、胴《どう》も、をさまりけるに、外《そと》より、障子を明《あく》る音、有り。

 是を見れば、十七、八には過ぎじと見ゆる女《をんな》の、色、白く、髮、長きが、閨《ねや》の中に步み入《いる》。

 舟橋・石田、後《あと》に付《つき》て、走り入《いり》て、先《まづ》、戶を閉《とぢ》る。

 毛利・尾關・村井、燈《ともし》を持《もつ》て、つヾら・挾箱《はさみばこ》のくまぐま、搜《さぐ》り求《もとむ》るに、衣服・器物《きぶつ》の外は、何も、なし。

 五士、

「さらば、是迄《これまで》ぞ。」

とて、各《おのおの》、家に歸れば、已に鷄鳴《けいめい》に至る。

 明旦《みやうたん》、五士共《とも》に、成田を訪《おとなひ》て、見る所を語り、

「今は、廋《かく》されぞ。其故《そのゆゑ》を聞《きか》ばや。」[やぶちゃん注:「廋」は音「シウ(シュウ)・ソウ・シユ(シュ)・ソウ・ス」(括弧は現代仮名遣)で、「隠す」の意である。表現が、やや文法的に問題があるが、意味としては、「今となっては、隠すことは出来んぞ!」の強意を含んだ不可能・禁止・命令のニュアンスは判る。]

と云へば、成田、亡妻の事を、始終、具《つぶさ》に語る。

「亡妻、『其《その》事を洩《もら》さヾれ。もらさば、命を縮む。』と申せしが、『さも、あらん。』と覺ゆ。我、死なば、日來《ひごろ》の好《よし》みを思出《おもひい》で、愍《あはれ》まれよ。」

と云《いふ》。

「深く弱き心よりこそ、亡魂《ばうこん》も見入《みいれ》けれ。嚴《げん》に、思ひ、絕ちなば、何事か、あらん。」[やぶちゃん注:この台詞は、五士らの、叱咤を含めつつ、成田への希望的慰藉(いしゃ)に他ならない。シチュエーションからは、五士が、代わる代わる、発したものを、一つに纏めたもの、と、とるべきものである。]

とて、歸りけり。

 其夜《そのよ》より後《のち》、妻、來らず。

 成田、忙然《ばうぜん》[やぶちゃん注:ぼんやりとするさま。]として、夢ともなく、現《うつつ》ともなくて、居《をり》たりけるが、十日計《ばかり》有りて、俄《にはか》に、死す。

 奇怪なりける事也。云云《うんぬん》。』。

 

[やぶちゃん注:「慶長年中」一五九六年から一六一五年まで。安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。

「浪人成田治左衞門某」不詳。

「行衞《ゆくへ》」この漢字では、歴史的仮名遣は「ゆくゑ」となるが、本来は「行方」が正し、その歴史的仮名遣は「ゆくへ」以外には、ない。近代作家たちのルビでは、二種の読みをが、混淆してはいるが、古語辞典でも立項は「行方」で「行衛」はなく、「広辞苑」・「言海」も立項は「行方」で「ゆくへ」であるから、敢えて「ゆくへ」と振った。

「近代武將感狀記」これは、「武將感狀記」である。当該ウィキによれば、『熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳6年(1716年)に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記である。全10巻、250話からなる』。『『砕玉話』ともいう』。『戦国時代には戦地で功績のあった者に、主君が感状を与えるのが慣わしであった。家臣に対する賞賛を書状に認』(したた)『め』、『勲記としたり、または褒賞の目録的な意味合いをなすものでもあった。しかし、本著は実際にそうした感状の類を集成したものではなく、著者が見聞した評伝を、独自の価値判断のもとに好んで採録した逸話集である。その内容は戦国時代や安土桃山時代、かつ江戸時代初期の逸話が中心となることから、封建道徳に即した武士特有の倫理観によって評価された物語と考えられる』。『採録された逸話は必ずしも戦闘に関するものだけではない。石田三成と豊臣秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話が記されているのは本著である』。『一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた』、『しかし』、『東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった』。『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』。『逸話集という性質、並びに記事の年代と刊行年の隔たりから、史料的価値は高くないと考えられている。本著にしか採録されていない逸話もあるが、著者の出自が不明なことなどから記事の裏付けがとれず、これも信憑性に欠ける点とされている。ただ、刊行年のころの武士の価値観を推し量る材料としては有用との評価がある。小説の材料としても重宝されている』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの博文館文庫(「208」番)刊(昭和一六(一九三一)年刊の「武將感狀記」(博文館編輯局編)の当該話を確認したが、何らの引用上の問題はなかった。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「武将感状記」(熊沢淡庵著・真鍋元之訳・一九七二年・金園社)の現代語訳版の当該話「亡霊に魅入られた成田治左衛門」を見つけたので、リンクしておく。ここからで、訳者は、二部構成にしておられ、幾つかの箇所で、真鍋氏の意訳部分がまことに好ましい(江戸以前の怪談現代訳としては、特異的に極めて上質である)。例えば、「2」の冒頭では、『夜間、灯火(ともしび)をかこんで、戦場での手柄話を語り合うのを〈夜話(よばなし)〉という。』と添えて、「夜話」の始まりの箇所も、光景が具体に表現されてある(以下の注でも紹介する)。

「心根、さらに解がたくて」真鍋氏の訳では、『うす気味わるいものが、やはりどこやら、こころの一隅(ひとすみ)に残っていたのであろう。』と絶妙な補訳となっている。

「中川修理大夫秀重」これは、安土桃山から江戸初期にかけての武将・大名であった豊後国岡藩(現在の大分県にあった藩で、藩庁は岡城で、現在の大分県竹田市(たけたし)のここ(グーグル・マップ・データ)である。領地は豊後国の直入郡・大野郡・大分郡に跨り、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩とも呼ばれる)の初代藩主中川秀成(なかがわひでしげ)のことである。事績は当該ウィキを見られたい。

「毛利內膳・舟橋半左衞門・石田半右衞門・尾關源右衞門・村井津右衞門」調べれば、具体な事績が見つかる者もあろうとは思うが、本話では、一種の狂言回しの役柄であるから、調べるのはやめた。

「半時程、有りて、漸く、胴も、をさまりけるに」真鍋氏の訳では、ここで(下段八行目)、『馬脾風(ばひふう)(マラリア)のような、はげしい胴震えは、小一時つづいてやっと治(おさ)まったが、』とある。直後に、五士皆が見る怪異が起こる転回点となる胆(キモ)が示される。

「挾箱」小学館「日本国語大辞典」に、『近世、武家の公用の外出に際して必要な調度装身具を納めて従者にかつがせた箱。挟竹』(はさみだけ:物を挟むために、一端を割ってある竹を言う。)『にかわって用いられるようになった長方形の浅い箱で、ふたに棒を通してかつぐようにしたもの。』とある。]

2025/11/27

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「生奇竹」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。二個の脱字は底本では長方形。なお、寺の下の欠字は、明らかに右下に、小さくして、ある。これは、作者が引用した際、その書に割注のように見えるものの、判読出来なかったことを指していると推定される。しかし、注で示した私の同書では、そのようなものはない。思うに、筆者が、不全な同書の写本を見て、汚れか、虫食いがあったのを、忠実に再現したものであろうと推定される。なお、珍しく、底本に、七つもの、ルビがある。]

 

 「生奇竹《あやしきたけ しやうず》」 安倍郡《あべのこほり》府中寺町□□山□□寺にあり。「諸國里人談」云《いはく》、

『駿河國《するがのくに》府中の寺に、元祿の頃、一夜(あるよ)の中《うち》、庭に假山(つき《やま》)のごとくに、地、凸(たか)になりたり。

「あやし。」

と見るに、一兩日《いちりやうじつ》たちて、笋(たかんな)、生出《おいいで》たり。近隣に、藪、なし。

 異《い》なるに、日を追《おひ》て成長し、竹になりたる處《ところ》、目通りにて、凡《およそ》三尺周《まは》り、あり。

「未聞《みもん》の事なり。」

と、諸人《しよにん》、見物す。

 或年、御番衆《ごばんしゆ》、見物に來り、座興のやうに、所望ありしに、住僧の云《いはく》、

「所詮、此竹ありて、人、かしまし。幸《さひはひ》に、まいらせん。」

と、無下《むげ》に伐《きり》たり。

 人々、これを配分して、おもひおもひの器物《きぶつ》に拵へけり。丸盆・たばこ盆などなして、珍《ちん》とす。

 或人《あるひと》、飯注子(めしつぎ)にして、江戶へ持來《もちきた》り、土臺《どだい》などにせしよし也。

 其器を當(まさ)に見たる人の談也。

 其大《おほひ》さ、徑(わたり)、八、九寸ありしと也《なり》。云云《うんぬん》。』。

 

[やぶちゃん注:私は、既に二〇一八年に「諸國里人談」の全文をオリジナル注を附して、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」(正編:1000記事で満杯)で公開してある。今回、その「諸國里人談卷之四 大竹」を、一部の正字不全を修正しておいたので、見られたい。

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