下島勳著「芥川龍之介の回想」より「秋時雨 ――鏡花泉先生の追憶――」
[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。
著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。
底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。
今回、本篇に先立って、芥川龍之介が幼年期より愛読者であり、売れっ子作家になってからも最も尊崇し、その全集参訂者にも名を連ねた泉鏡花に関わって、
芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛
を電子化注したが、龍之介は、生前、鏡花を敬して語らずという礼法を守り、随筆などには彼を語った物は殆んどない。しかし、以上の鏡花作品に就いての語りを読むに、私は、芥川は直弟子を自認していた夏目漱石よりも、寧ろ、本邦の数少ない幻想文学の巨匠として、遙かにその小説群を尊敬もし、また、真似出来ない名匠として捉えていたものと考えている。私自身、泉鏡花を偏愛しているが、上に掲げた鏡花という作家の文学史的立ち位置の解析は、全集慫慂宣伝という割引をしても、なお、今現在から見ても、正鵠を射ており、未だに古びていないものと思われる。
以下は、晩年の芥川龍之介と泉鏡花の点景を含んだ、鏡花追悼の一篇で(昭和一四(一九三九)年九月七日に癌性肺腫瘍のため満六十五歳で亡くなった)、同年九月に書かれ、『文藝春秋』に載ったものである。]
秋 時 雨
鏡 花 泉 先 生 の 追 憶
九月七日に泉鏡花さんがなくなられた。享年六十七ださうである。十日の午後三時から芝の靑松寺《せいしようじ》で告別式が行はれるといふので、私は少し用をたしてから出向いたのだが、時間が早かつたので、歌舞伎座や明治座の旗の飜つてゐる寺の門前に佇んでゐると、文士らしい人や男女の俳優らしい人たちも少しは見えて來た。
この日は二百二十日の厄日の影響とでもいふのか、ザツと驟雨が來るかと思ふとケロリと止んで日が輝き、また忽ち降つてくるといふ反覆常なき厄介な天候で、傘の用意はしてゐながら、電車の乘り替へ用たしの途《みち》すがら、幾度濡れたことであらう。
定刻には少し早いがかまはぬといふので、我々は一般告別禮拜者のトツプを切つたわけだつた。まづ本堂正面靈柩の前に進んでで型の如く恭しく燒香を了《をは》り、くびすを返して左側整列のご婦人がた右側整列の男のかたがたに一禮しつゝ退場したのだが、多數のうちから僅かに德田秋聲翁、佐藤春夫氏、久保田万太郞氏、室生犀生氏など、よく知ってゐる人たちのほんの二三の顏だけが朧げな老眼に映じただけだつた。寺門を出るとまたパラパラと雨が降つて來た。
泉鏡花さんには大正八九年ごろ道觀會のをりに芥川龍之介君の書齋で始めてお目に懸つた。この時の會場は田端西臺の鹿島さんのお宅だったので、澄江堂から三人打連れ、話しながら参會したのだった。
[やぶちゃん注:「道觀會」不詳。中産階級の文化サロンのようなものであろう。
「鹿島さん」田端文士村に居住していた芥川のパトロンでもあった鹿島組(現在の鹿島建設)副社長鹿島龍蔵であろう。]
鏡花さんの噂さは、豫《かね》て聊かながら聞知《ぶんち》してはゐたが、さてお逢ひして見ると全くもつて純眞そのもの――否や、何とも言へぬ珍無類の存在だといふことを知つた。あの時代色の濃い洒落た莨入《たばこい》れの筒から、中ぼそのの銀張りを引き拔いて靜かに莨を詰め、火を點ずるやスツと一つ深く吸ふかと見れば吸殼ははや吐月峯《とげつぽう》の中に落される、クルツと指先に廻轉された煙草は、小指でぽんと拔かれた筒の中へ忽ちにして納まるといふ器用な手さばきはさながら落語家などの演ずる通人そのまゝだ。
[やぶちゃん注:「吐月峯」煙草盆に入れてある灰吹き用の竹の筒を言う語。室町時代の連歌師宗長(そうちょう)は十八歳で出家した後も、今川義忠に近侍し、書記役のようなことを務め、合戦などにも、度々、従軍していたが、義忠戦死の後、今川家を離れ、上洛し、一休宗純に参禅、また、宗祇に師事して連歌を修行した。その後、駿河国安倍郡長田村(現在の静岡市駿河区丸子(まりこ))に柴屋寺(さいおくじ)を開き、山の峰から月の出る景観の美しさを愛して、この地の山を「吐月峰」と命名したとされる。その吐月峰に産する竹が、灰吹き用の竹筒に最も適し、宗長はここで製する竹筒に「吐月峰」と産地の銘を初めて刻したと伝えられ、後、これが煙草盆の灰吹きとして広く世に用いられるようになってから、「吐月峰」は灰吹きの代名詞となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
少しアルコール利き出してからの話し振りは、聊か舌もつれの混《この》じた氣せはしい切迫調で勿論、普通の雄辯などとは甚だ緣遠いのかも知れぬが、陰翳濃まやかな抑揚自在の奇言百出、言葉の綾のもつれの面白味など如何な苦蟲黨《にがむしたう》も顎《あご》を解かずにはゐられまい。然も手振り身ぶりの妙趣に至つては、恐らく職業話し家《か》などの遠く及ばぬ自然さだからたまらない。
この時の會はたしか拾人ぐらゐだと思ふのだが、その十人が十入誰れひとり臍《へそ》をよらぬ者とてなくあの小杉放庵君の如き斯ういふ不思議な眞人《しんじん》は我々繪かき仲間のうちには藥にしたくも見當らない。洵《まこと》に得がたい國寶だ……などと感嘆の叫びを擧げたほどだ。兎《と》にまれこの時の道觀會は、全く鏡花先生の一人舞臺だつたのである。
[やぶちゃん注:「臍をよらぬ」「撚臍」で「へそをよる」と読む、一種の隠語で「甚しく笑ふこと」で、「おなかの皮を撚(ひね)る」と言うのに同じ。
「眞人」「超俗的で、真理を悟って人格が完成された人」の意。]
酒は餘り强い方ではないらしいが、時々――戴くなら熱いところを……などといひながら、ご機嫌の餘り大醉されたので、芥川君香取秀眞君並びに老生と三人が、交るがはる肩にかけて動坂まで送り出したのだつた。途すがら、もつれる舌を舐めずつて――吉原へ行かう……などとおつしやるのだつた。漸《やうや》くにして自動車に乘せ、運轉手にはよくお宅を敎へてやつたのだつたが、後に聞けぱ、神樂坂の懇意な藝者屋とかに車をつけさせ、明けてから歸宅されたといふことである。
鏡花全集の出來るころ、いま泉さんが歸つたところだといふ澄江堂をお訪ねした。芥川君の曰く――泉さんが來て僕に全集の序文を書いてくれといふのだが僕は先生やうな先輩の全集へ序文など書けない……といつてことわつた。然るにどう考へてもほかに賴みたい人がないから、是非書いてくれといふので、たうとうことわり切れずに引受けて實はよわつてゐるところだと言つてゐた。あの序文は當時有名なもので、泉さんも大さう喜んでゐられたさうである。
[やぶちゃん注:「序文」芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)を指す。]
芥川君のおつ夜のとき、控へ室に充てられた竹村の座敷で、曾て芥川君が修善寺の某溶館の二階に滯在中、泉さんご夫婦が見えられ、下の離れ座敷でご夫婦差し向ひのところを竊《ひそ》かに寫生し、畫の上に「鏡花先生蝶々喃々之圖」と題した珍畫を郵送してくれた。
これはペンで描いた非常に面白い傑作なので大切に祕藏してゐたのだが、ふと泉さんに見せたい氣がしたので、早速取り寄せてご覽に入れた。果せるかな忽ち珍妙な相恰現はれ、これはこれは……と三度ほど頭を叩いて見入つてゐられたが、これに戴かせて下さいますか……と言はれたので一寸ドギマギした。何れある機會に……とうまく逃げたのだつたが、その機會がなかつたので、いまだに手箱の底に收めてある。
[やぶちゃん注:この二段落、下島が鏡花の所望に応じなかった後悔のドギマギが生じたからか、文章がおかしい。なお、その絵は、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』の、これである。なお、この戯画には初稿があり、それも『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』で見られる。]
私のところに紅紫山人の――
瓢と財布春の別れを對し泣く
――といふ句を曾いた扇面がある。この話をしたら是非見たいと言つてゐられたが、これもお眼に懸ける機會がなかつた。序《ついで》ながら泉さんは、先師江葉山人の筆蹟に接するときにはまづ口と手を淸め恭しく禮拜してから觀られるのが常ださうである。一見洒々落々たるうちに謂ゆる――三尺離れて師の影を踏まず、といふ儒敎的敬虔さ義理堅さを持つてゐられたといふことは、何といふ尊いことではあるまいか。
猶私は泉さんの短册を一點所藏してゐる。それは――
紫のつゝしとなりぬ薄月夜
といふ鏡花さんらしい名句で、「その筆蹟も甚だ見事である。これは室生犀星から割愛されたもので、いまは芥川君の畫とともに、私のためには感慨深い遺品となつた。
[やぶちゃん注:以上の句は「紫の映山紅(つゝじ)となりぬ夕月夜」である。私の「泉鏡花句集」の「春」の部を参照されたい。]
靈前に捧ぐ
白しろと尾花の雨の寒からじ
(昭和一四・九・文藝春秋)