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カテゴリー「泉鏡花」の26件の記事

2023/05/17

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「秋時雨 ――鏡花泉先生の追憶――」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 今回、本篇に先立って、芥川龍之介が幼年期より愛読者であり、売れっ子作家になってからも最も尊崇し、その全集参訂者にも名を連ねた泉鏡花に関わって、

芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集の特色

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集に就いて

芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛

を電子化注したが、龍之介は、生前、鏡花を敬して語らずという礼法を守り、随筆などには彼を語った物は殆んどない。しかし、以上の鏡花作品に就いての語りを読むに、私は、芥川は直弟子を自認していた夏目漱石よりも、寧ろ、本邦の数少ない幻想文学の巨匠として、遙かにその小説群を尊敬もし、また、真似出来ない名匠として捉えていたものと考えている。私自身、泉鏡花を偏愛しているが、上に掲げた鏡花という作家の文学史的立ち位置の解析は、全集慫慂宣伝という割引をしても、なお、今現在から見ても、正鵠を射ており、未だに古びていないものと思われる。

 以下は、晩年の芥川龍之介と泉鏡花の点景を含んだ、鏡花追悼の一篇で(昭和一四(一九三九)年九月七日に癌性肺腫瘍のため満六十五歳で亡くなった)、同年九月に書かれ、『文藝春秋』に載ったものである。]

 

秋 時 雨

 

          鏡 花 泉 先 生 の 追 憶

 九月七日に泉鏡花さんがなくなられた。享年六十七ださうである。十日の午後三時から芝の靑松寺《せいしようじ》で告別式が行はれるといふので、私は少し用をたしてから出向いたのだが、時間が早かつたので、歌舞伎座や明治座の旗の飜つてゐる寺の門前に佇んでゐると、文士らしい人や男女の俳優らしい人たちも少しは見えて來た。

 この日は二百二十日の厄日の影響とでもいふのか、ザツと驟雨が來るかと思ふとケロリと止んで日が輝き、また忽ち降つてくるといふ反覆常なき厄介な天候で、傘の用意はしてゐながら、電車の乘り替へ用たしの途《みち》すがら、幾度濡れたことであらう。

 定刻には少し早いがかまはぬといふので、我々は一般告別禮拜者のトツプを切つたわけだつた。まづ本堂正面靈柩の前に進んでで型の如く恭しく燒香を了《をは》り、くびすを返して左側整列のご婦人がた右側整列の男のかたがたに一禮しつゝ退場したのだが、多數のうちから僅かに德田秋聲翁、佐藤春夫氏、久保田万太郞氏、室生犀生氏など、よく知ってゐる人たちのほんの二三の顏だけが朧げな老眼に映じただけだつた。寺門を出るとまたパラパラと雨が降つて來た。

 泉鏡花さんには大正八九年ごろ道觀會のをりに芥川龍之介君の書齋で始めてお目に懸つた。この時の會場は田端西臺の鹿島さんのお宅だったので、澄江堂から三人打連れ、話しながら参會したのだった。

[やぶちゃん注:「道觀會」不詳。中産階級の文化サロンのようなものであろう。

「鹿島さん」田端文士村に居住していた芥川のパトロンでもあった鹿島組(現在の鹿島建設)副社長鹿島龍蔵であろう。]

 鏡花さんの噂さは、豫《かね》て聊かながら聞知《ぶんち》してはゐたが、さてお逢ひして見ると全くもつて純眞そのもの――否や、何とも言へぬ珍無類の存在だといふことを知つた。あの時代色の濃い洒落た莨入《たばこい》れの筒から、中ぼそのの銀張りを引き拔いて靜かに莨を詰め、火を點ずるやスツと一つ深く吸ふかと見れば吸殼ははや吐月峯《とげつぽう》の中に落される、クルツと指先に廻轉された煙草は、小指でぽんと拔かれた筒の中へ忽ちにして納まるといふ器用な手さばきはさながら落語家などの演ずる通人そのまゝだ。

[やぶちゃん注:「吐月峯」煙草盆に入れてある灰吹き用の竹の筒を言う語。室町時代の連歌師宗長(そうちょう)は十八歳で出家した後も、今川義忠に近侍し、書記役のようなことを務め、合戦などにも、度々、従軍していたが、義忠戦死の後、今川家を離れ、上洛し、一休宗純に参禅、また、宗祇に師事して連歌を修行した。その後、駿河国安倍郡長田村(現在の静岡市駿河区丸子(まりこ))に柴屋寺(さいおくじ)を開き、山の峰から月の出る景観の美しさを愛して、この地の山を「吐月峰」と命名したとされる。その吐月峰に産する竹が、灰吹き用の竹筒に最も適し、宗長はここで製する竹筒に「吐月峰」と産地の銘を初めて刻したと伝えられ、後、これが煙草盆の灰吹きとして広く世に用いられるようになってから、「吐月峰」は灰吹きの代名詞となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 少しアルコール利き出してからの話し振りは、聊か舌もつれの混《この》じた氣せはしい切迫調で勿論、普通の雄辯などとは甚だ緣遠いのかも知れぬが、陰翳濃まやかな抑揚自在の奇言百出、言葉の綾のもつれの面白味など如何な苦蟲黨《にがむしたう》も顎《あご》を解かずにはゐられまい。然も手振り身ぶりの妙趣に至つては、恐らく職業話し家《か》などの遠く及ばぬ自然さだからたまらない。

 この時の會はたしか拾人ぐらゐだと思ふのだが、その十人が十入誰れひとり臍《へそ》をよらぬ者とてなくあの小杉放庵君の如き斯ういふ不思議な眞人《しんじん》は我々繪かき仲間のうちには藥にしたくも見當らない。洵《まこと》に得がたい國寶だ……などと感嘆の叫びを擧げたほどだ。兎《と》にまれこの時の道觀會は、全く鏡花先生の一人舞臺だつたのである。

[やぶちゃん注:「臍をよらぬ」「撚臍」で「へそをよる」と読む、一種の隠語で「甚しく笑ふこと」で、「おなかの皮を撚(ひね)る」と言うのに同じ。

「眞人」「超俗的で、真理を悟って人格が完成された人」の意。]

 酒は餘り强い方ではないらしいが、時々――戴くなら熱いところを……などといひながら、ご機嫌の餘り大醉されたので、芥川君香取秀眞君並びに老生と三人が、交るがはる肩にかけて動坂まで送り出したのだつた。途すがら、もつれる舌を舐めずつて――吉原へ行かう……などとおつしやるのだつた。漸《やうや》くにして自動車に乘せ、運轉手にはよくお宅を敎へてやつたのだつたが、後に聞けぱ、神樂坂の懇意な藝者屋とかに車をつけさせ、明けてから歸宅されたといふことである。

 鏡花全集の出來るころ、いま泉さんが歸つたところだといふ澄江堂をお訪ねした。芥川君の曰く――泉さんが來て僕に全集の序文を書いてくれといふのだが僕は先生やうな先輩の全集へ序文など書けない……といつてことわつた。然るにどう考へてもほかに賴みたい人がないから、是非書いてくれといふので、たうとうことわり切れずに引受けて實はよわつてゐるところだと言つてゐた。あの序文は當時有名なもので、泉さんも大さう喜んでゐられたさうである。

[やぶちゃん注:「序文」芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)を指す。]

 芥川君のおつ夜のとき、控へ室に充てられた竹村の座敷で、曾て芥川君が修善寺の某溶館の二階に滯在中、泉さんご夫婦が見えられ、下の離れ座敷でご夫婦差し向ひのところを竊《ひそ》かに寫生し、畫の上に「鏡花先生蝶々喃々之圖」と題した珍畫を郵送してくれた。

 これはペンで描いた非常に面白い傑作なので大切に祕藏してゐたのだが、ふと泉さんに見せたい氣がしたので、早速取り寄せてご覽に入れた。果せるかな忽ち珍妙な相恰現はれ、これはこれは……と三度ほど頭を叩いて見入つてゐられたが、これに戴かせて下さいますか……と言はれたので一寸ドギマギした。何れある機會に……とうまく逃げたのだつたが、その機會がなかつたので、いまだに手箱の底に收めてある。

[やぶちゃん注:この二段落、下島が鏡花の所望に応じなかった後悔のドギマギが生じたからか、文章がおかしい。なお、その絵は、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』の、これである。なお、この戯画には初稿があり、それも『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』で見られる。]

 私のところに紅紫山人の――

 

   瓢と財布春の別れを對し泣く

 

   ――といふ句を曾いた扇面がある。この話をしたら是非見たいと言つてゐられたが、これもお眼に懸ける機會がなかつた。序《ついで》ながら泉さんは、先師江葉山人の筆蹟に接するときにはまづ口と手を淸め恭しく禮拜してから觀られるのが常ださうである。一見洒々落々たるうちに謂ゆる――三尺離れて師の影を踏まず、といふ儒敎的敬虔さ義理堅さを持つてゐられたといふことは、何といふ尊いことではあるまいか。

 猶私は泉さんの短册を一點所藏してゐる。それは――

 

   紫のつゝしとなりぬ薄月夜

 

といふ鏡花さんらしい名句で、「その筆蹟も甚だ見事である。これは室生犀星から割愛されたもので、いまは芥川君の畫とともに、私のためには感慨深い遺品となつた。

[やぶちゃん注:以上の句は「紫の映山紅(つゝじ)となりぬ夕月夜」である。私の「泉鏡花句集」の「春」の部を参照されたい。]

 

     靈前に捧ぐ

   白しろと尾花の雨の寒からじ

(昭和一四・九・文藝春秋)

芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛

 

大正一四(一九二四)年三月十二日田端発信・消印十三日・麹町區下六番町廿六 泉鏡太郞樣・三月十二日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

朶雲邦誦仕候開口の拙文御よろこび下され忝く存候 何度試みても四六駢麗体の評論のやうなものしか書けず、今更あゝ言ふもののむづかしきを知りし次第、垢ぬけのせぬ所はいくへにも御用捨下され度候、御言葉に甘へ、味噌に似たものを申上げ候へばあの中野に白鶴の云々より先を書き居候時は少々逆上の気味にて眶のうちに異狀を生じ候 目下仕事やら何やらにて閉口致し居り候へどもいづれ拝眉仕る可くまづ御礼まで如斯に御坐候 頓首

  附錄に一句御披露申し候間御一笑下され度候 置酒と前書して、

   明星のちろりにひびけほととぎす

    十二日夜半          龍 之 介

   泉 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「開口の拙文」先ほど公開した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口」を指す。そちらの冒頭注で記した通り、その文章は二ヶ月後の大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告に載るのだが、この十一前の同年三月一日の夜、編者を務めた春陽堂版『鏡花全集』の出版記念会が芝紅葉館で行われており、芥川龍之介も出席している(八十余名出席。新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。そこで事前に鏡花にその広告文が披露されたのであろう。同年譜によれば、この三月上旬は『病気がちの上』、仲人を務めた作家『岡栄一郎夫妻の離婚話』、義弟『塚本八州の喀血などが重な』り、『仕事が詰り、面会日を中止して、原稿執筆に追われる』とあった。恐らくは、小説「春」の執筆に難渋していたことを指すのであろう。

「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。

「四六駢麗体」ママ。「四六駢儷体(體)」が正しい。小学館「日本国語大辞典」によれば、「駢儷」は「語句を対にして並べること」を指す語で、『漢文の文体の一つ。主に四字・六字の句を基本として対句』『を用いる華美な文体。漢・魏に起こり、六朝から唐にかけて流行し、韓愈・柳宗元が提唱した古文運動が定着するまでは、文章の主流であった。日本では、奈良・平安時代に盛んに用いられた。駢文。四六文。四六駢儷文』とある。李白の「春夜宴桃李園序」(春夜、桃李園に宴ずるの序)の授業で説明したぜ。

「眶」「まぶた」。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集に就いて

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月五日及び翌六日附の『東京日日新聞』に掲載されたもの。

 底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。総ルビであるが(なお、新聞物はもとより、雑誌発表作品でも、校正者が勝手に振るのが当たり前の時代であったから、それに従うのは、かなり危険ではあることを言い添えておく。岩波版芥川龍之介全集の元版に編集者として加わった堀辰雄は編集会議で全集を、総て、ルビ無しでと主張したが、退けられている)、一部に限った。踊字「〱」は正字化した。]

 

 鏡花全集に就いて

 

       

 

 「鏡花全集」の出づるにあたり、僕も參訂者の資格を離れた一批評家として言を立てれば、第一に鏡花先生の作品は屢(しばしば)議論を含んでゐる。これは天下の鏡花贔屓(びいき)には或ひは異端の說かも知れない。しかし先生の作品は、――殊に先生の長篇は大抵或議論を含んでゐる。「風流線」、「通夜物語」、「婦系圖」、――篇々皆然りと言つても好(よ)い。その又議論は大部分詩的正義に立つた倫理觀である。この倫理觀を捉へ得ぬ讀者は徒らに先生の作品に江戶傳來の侠氣のみを見出だすであらう。けれども僕の信ずる所によれば、この倫理觀は先生の作品を全(ぜん)硯友社の現實主義的作品の外(そと)に立たせるものである。のみならず又硯友社以後の自然主義的作品の外にも立たせるものである。

 たとへば尾崎紅葉の「多情多恨」や「金色夜叉」を先生の作品とくらべて見るがよい。前者は或ひは措辭の上に後者のプロトタイプを持つてゐるであらう。しかし先生の倫理觀に至つては全然紅葉の知らざる所である。自然主義の先生と相容れなかつたのもやはり措辭の爲ばかりではない。現に自然主義的文壇は小栗風葉氏の作品にさへ自然主義のレツテルを貼り、更にまた永井荷風氏の作品にもおなじレツテルを貼らうとした。しかも畢(つひ)に先生の作品を同臭味(どうしうみ)のものとしなかつたのは、この詩的圓光を帶びた先生の倫理觀に堪へなかつたのである。

 

       

 

 この倫理觀の夙(つと)に先生の作品を色づけてゐたことは、「貧民俱樂部(ひんみんくらぶ)」(これは今度はじめて集に入つた初期の作品の一つである。)の一篇に現れてゐる。「貧民俱樂部」の女主人公お丹(たん)の說破(せつは)する所によれば、慈善は必ずしも善ではない。その貴族富豪の徒(と)に自己弁護の機會を吳ふるかぎり、斷じて惡といはなければならぬ。貧民はたとひ饑(う)ゑるにしても、結束して慈善を却(しりぞ)ける所に未來の幸福を見出だす筈である。かういふ倫理觀の僕に興味のあるのはひとり上記の理由によるのみではない。これは明治廿何年かの先生の倫理觀たるにとどまらず、同時にまた大正何年かのプロレタリアの倫理觀ではないであらうか?………

 のみならずこの倫理觀は先生の愛する超自然的存在、――自靈や妖怪にも及んでゐる。尤も先生の初期の作品は必ずしも惡靈を避けなかつた譚ではない。「湯女(ゆな)の魂(たましひ)」の蝙蝠(かはほり)の如きはこの惡靈(あくれい)の尤なるものである。しかしその後の超自然的存在はいつか倫理的に向上した。「深沙大王(しんじやだいわう)」の禿げ佛(ぼとけ)、「草迷宮」の惡左衞門等はいづれも神祕の薄明りの中にわれわれの善惡を裁いてゐる。彼等の手にする罪業(ざいごふ)の秤(はかり)は如何なる倫理學にも依るものではない。たゞわれわれの心情に訴へる詩的正義に依るばかりである。それにもかゝはらず――といふよりも寧ろその爲に彼れ等は他に類を見ない、美しい威嚴を具へ出した。「天守物語」はかういふ作品の最も完成した一つである。われわれの文學は「今昔物語」以來、超自然的存在に乏しい譯ではない。且また近世にも「雨月物語」等の佳作のあることは事實である。けれども謠曲の後(のち)シテ以外に誰(たれ)がこの美しい威嚴を彼れ等の上に與へたであらうか?

 第二に先生の作品は獨特の措辭に富んでゐる。これは多言するを待たないかも知れない。たゞ僕の信ずる所によれば、先生の文章は世間一般の獨特とするよりも獨特である。先生のやうに一編の作品のうちに口語を用ひ、文語を用ひ、漢詩漢文の語を用ひ、更にまた名詞等を用ふる作家は明治大正の間にないばかりではない。若し他に匹(ひつ)を求めるとすれば、恐らくは謠曲を獨造(どくざう)した室町時代の天才だけであらう。この特色もまた先生をあらゆる文壇的陣營の外に立たせることになつたのは勿論である。第三に――第三以下を論ずることは紙面の都合上見合せなければならぬ。

 しかし上に述べた兩特色だけでも優に先生を殺すに足るものである。異を却け同を愛することは文壇も世間と變りはない。敢然と一代の風潮にさからふからには、たとひ命に別條はないにもせよ、われわれの文壇的存在は危ふいものと覺悟しなければならぬ。けれども畢に文壇は先生を殺すことに失敗した。「鏡花全集」十五卷は先生の勝利を示すものである。これは天下の鏡花贔屓の意を强(つよ)うする所以(ゆゑん)ばかりではない。詩的正義を信ぜざること、僕の如き冷血漢も大いに意を强うする所以である。卽ちこの惡文を草し、僕の一家言(かげん)を公(おほやけ)にすることにした。若しそれ先生の作品を論じてプロレタリアの倫理觀などに及んだ爲に先生の苦笑を買ふとすれば、「本是山中人、愛說山中話」――先生の寬容を待つ外はない。(修善寺にて)

 

[やぶちゃん注:「文壇は先生を殺すことに失敗した」筑摩書房全集類聚版『芥川龍之介全集』第五巻のこの部分の脚注に、『自然主義全盛時代、鏡花は逗子に住み、窮乏に耐えて、浪漫的神秘的作風を堅持し、大正期に至って後進に慕われた』とある。

「本是山中人、愛說山中話」これにはルビはない。訓読すると、「本(もと)是(こ)れ 山中(さいちゆう)の人(ひと)」「說(と)くことを愛す 山中の話(わ)」で、これは宋の禅僧で詩人でもあった蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛說山中話 五月賣松風 人間恐無價」が原拠である。芥川龍之介はこの二句を甚だ遺愛した。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集の特色

 

[やぶちゃん注:先に電子化注した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)」と同じく、大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告ページに他の参訂者は五人連名中に初出されたもの。底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。]

 

 鏡花全集の特色

 

 一 作品 泉先生の作品は小說、戲曲、隨筆の三方面に亙り、何れも天下無双の光彩を放つてゐる事は贅言するを待たないであらう。其取材構想は或は市井任俠の譚を捉へ、或は深山幻怪の事に及び、或は閨閤子女の情を寫し、あらゆる自然、あらゆる人生、あらゆる社會相を網羅してゐる。其又筆致行文は絢爛と蒼古とを併せ俱へ、殆ど日本語の達し得る最高の表現と稱しても好い。加之颯爽たる理想主義的人生觀は到る處に光芒を露し、如何に此偉大な藝術家の背後に偉大な思想家があるかを示してゐる。卽ち「鏡花全集」十五卷は明治大正の文藝のみならず、日本文藝の建造した一大金字塔と言はなければならぬ。

 二 編輯 編輯は泉先生自身之に從ひ、小山内薰、谷崎潤一郞、里見弴、水上瀧太郞、久保田萬太郞、芥川龍之介の諸氏が參訂の任に從つてゐる。泉先生の著作年月は三十餘年の久しきに亙つてゐるから、作品の敷も五百餘篇に及び、新聞雜誌に揭載された儘、單行本にならぬものは甚だ多い。泉先生の編輯方針はそれ等の斷簡零墨をも一つ殘らず集めた上、全體を小說、戲曲、隨筆の三方面に分ち、各方面それぞれ年代順に作品を排列する計畫である。卽ち「鏡花全集」十五卷は天才泉先生の精進の跡を示すのみならず、近代日本文藝史の最も光彩陸離たる一頁を造るものと言はなければならぬ。

 三 校正並びに印刷の體裁 校正並びに印刷の體裁等は小村雪岱、濱野英二の兩氏之に當り、職業的義務心を超越した獻身的情熱を注いでゐる。兩氏とも泉先生に親炙する事多年、先生の人格藝術に至大の尊敬を抱いてゐるから、坊間行はれる「全集もの」の校正並びに印刷の體裁とは自ら同日の談ではない。卽ち「鏡花全集」十五卷は字字魯魚の誤を脫し、行行珠璣の觀を具へた萬古の定本と言はなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:「閨閤」「けいかふ」(けいこう)は「閨房」と同じく「寝所」の意だが、特に「女子の居間」。転じて「女子」の意で、以下の「子女」との畳語。

「濱野英二」(生没年未詳)は編集者。早稲田大学英文科卒。明治四三(一九一〇)年に雑誌『金と銀』(後に『象徴』に受け継がれた)を鈴木十郎・牧野信一らと創刊した。泉鏡花の崇拝者で、後、この春陽堂版『鏡花全集』の編纂の中心的立場に立っていた(以上は岩波新全集の「人名解説索引」に拠った)。

「行行珠璣」「ぎやうぎやうしゆき」「珠璣」まるい玉(ぎょく)と角ばった玉。大小様々な美玉で、宝玉のような美しい文章を指す。]

芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告ページに他の参訂者(校訂にに加わった者)は五人連名中に初出されたもの。底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。

 注は若い読者を考え、難読なもののみに限って、読み、又は、意味を添えた。]

 

 鏡花全集目錄開口

 

 鏡花泉先生は古今に獨步する文宗なり。先生が俊爽の才、美人を寫して化を奪ふや、太眞閣前、牡丹に芬芬の香を發し、先生が淸超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛宅外、楊柳に啾啾の聲を生ずるは已に天下の傳稱する所、我等亦多言するを須ひずと雖も、其の明治大正の文藝に羅曼主義の大道を打開し、艶は巫山の雨意よりも濃に、壯は易水の風色よりも烈なる鏡花世界を現出したるは啻に一代の壯擧たるのみならず、又實に百世に炳焉たる東西藝苑の盛觀と言ふ可し。

 先生作る所の小說戲曲隨筆等、長短錯落として五百餘篇。經には江戶三百年の風流を吞却して、萬變自ら寸心に溢れ、緯には海東六十州の人情を曲盡して、一息忽ち千載に通ず。眞に是れ無縫天上の錦衣。古は先生の胸中に輳つて藍玉愈溫潤に、新は先生の筆下より發して蚌珠益粲然たり。加之先生の識見、直ちに本來の性情より出で、夙に泰西輓近の思想を道破せるもの尠からず。其の邪を罵り、俗を嗤ふや、一片氷雪の氣天外より來り、我等の眉宇を撲たんとするの槪あり。試みに先生等身の著作を以て佛蘭西羅曼主義の諸大家に比せんか、質は擎天七寶の柱、メリメエの巧を凌駕す可く、量は拔地無憂の樹、バルザツクの大に肩隨す可し。先生の業亦偉いなる哉。

 先生の業の偉いなるは固より先生の天質に出づ。然りと雖も、其一半は兀兀三十餘年の間、文學三昧に精進したる先生の勇猛に歸せざる可からず。言ふを休めよ、騷人淸閑多しと。瘦容豈詩魔の爲のみならんや。往昔自然主義新に興り、流俗の之に雷同するや、塵霧屢高鳥を悲しましめ、泥沙頻に老龍を困しましむ。先生此逆境に立ちて、隻手羅曼主義の頽瀾を支へ、孤節紅葉山人の衣鉢を守る。轗軻不遇の情、獨往大步の意、俱に想見するに堪へたりと言ふ可し。我等皆心織筆耕の徒、市に良驥の長鳴を聞いて知己を誇るものに非ずと雖も、野に白鶴の迥飛を望んで壯志を鼔せること幾囘なるを知らず。一朝天風妖氛を拂ひ海内の文章先生に落つ。噫、噓、先生の業、何ぞ千萬の愁無くして成らんや。我等手を額に加へて鏡花樓上の慶雲を見る。欣懷破顏を禁ず可からずと雖も、眼底又淚無き能はざるものあり。

 先生今「鏡花全集」十五卷を編し、巨靈神斧の痕を殘さんとするに當り、我等知を先生に辱うするもの敢て謭劣の才を以て參訂校對の事に從ふ。微力其任に堪へずと雖も、當代の人目を聳動したる雄篇鉅作は問ふを待たず、洽く江湖に散佚せる萬顆の零玉細珠を集め、一も遺漏無からんことを期せり。先生が獨造の別乾坤、恐らくは是より完からん乎。古人曰「欲窮千里眼更上一層樓」と。博雅の君子亦「鏡花全集」を得て後、先生が日光晶徹の文、哀歡双双人生を照らして、春水欄前に虛碧を漾はせ、春水雲外に亂靑を疊める未曾有の壯觀を恣にす可し。若し夫れ其大略を知らんと欲せば、「鏡花全集」十五卷の目錄、悉載せて此文後に在り。仰ぎ願くは瀏覽を賜へ。

   大正十四年三月

 

[やぶちゃん注:「鏡花全集」泉鏡花数え五十三歳の大正一四(一九一五)年七月から刊行が始まり、昭和二(一九二七)年七月(奇しくも芥川龍之介自死の月であった。芥川の葬儀では鏡花が先輩総代として第一番に本人によって弔辞を読んでいる。私の『泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」』(ブログ版)を参照。PDF縦書サイト版もある。鏡花の自筆年譜のそこには、『七月、期に遲るゝこと八ケ月にして「全集」成る。この集のために、一方ならぬ厚意に預りし、芥川龍之介氏の二十四日の通夜の書齋に、鐵瓶を掛けたるまゝの夏冷き火鉢の傍に、其の月の配本第十五卷、蔽を拂はれたりしを視て、思はず淚さしぐみぬ。』と記されてある)に最終巻が配本された。全十五巻で、参訂者は小山内薫・谷崎潤一郎・里見弴・水上龍太郎・久保田万太郎、そして、芥川龍之介であった。

「太眞」かの玄宗の美妃楊貴妃の道号。

「鄒湛」(すうたん ?~二九九年頃)は西晋の官僚・文人。当該ウィキによれば、『若くして才能と学問で名を知られ、魏に仕えて通事郎・太学博士を歴任し』、『生前に書かれた詩や時事を論じた』二十五『首は、当時』、甚だ『重んじられた』とある。

「宅外、楊柳に啾啾の聲を生ずる」鄒湛の詩篇と思われるが、簡体字などを用い、いくら調べても、彼の詩篇に当たることは出来なかった。識者の御教示を乞うものである。

「濃に」「こまやかに」。

「啻に」「ただに」。

「炳焉」「へいえん」。明らかなさま。著しいさま。

たる東西藝苑の盛觀と言ふ可し。

「緯」「ゐ」。

「藍玉愈溫潤に」「らんぎよく。いよいよ、をんじゆんに」。

「蚌珠益粲然たり」「ばうしゆ、ますます、さんぜんたり。」。「蚌珠」は淡水産の斧足綱イシガイ目イシガイ科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata から採れる真珠。

「加之」「しかのみならず」。

「夙に」「つとに」。

「輓近」「ばんきん」。最近。

「擎天」「けいてん」。ここは、全世界の文芸を支えるところの貴重な存在の意。

「偉いなる哉」「おほいなるかな」。

「兀兀」「こつこつ」。凝っと腰を据えて物事に専心するさま。絶えず努めるさま。

「屢」「しばしば」。

「頻に」「しきりに」。

「困しましむ」「くるしましむ」。

「隻手」「せきしゆ」。(ただ先生お一人が、しかも)片手で。

「頽瀾」「たいらん」。波頭の崩れ落ちてゆく波。ここはロマン主義の衰退を指す。

「心織筆耕の徒」「しんしきひつかうのと」。ここは、「文学を活計とする者ども」の意。

「良驥」「りやうき」。千里を走る駿馬。転じて才能のある人物を指す漢語。

「白鶴」「はくかく」。同前。

「迥飛」「くゑいひ」(けいひ)。遙かに空高く舞い飛ぶこと。

「鼔せる」「こせる」。

「妖氛」「えうふん」(ようふん)。禍いを及ぼす悪しき気。妖気。

「海内」「かいだい」。

「噫」「ああ」。

「噓」「きよ」。感動詞的用法。長い溜息をつくことを意味する。

「辱うするもの」「かたじけなうする」。

「謭劣」「せんれつ」。あさはかで、劣っていること。

「校對」「かうつい」。校正。

「聳動」「しようどう」。恐れ、動揺すること。

「鉅作」「くさく」。傑作。

「洽く」「あまねく」。

「萬顆」「ばんくわ」。

「別乾坤」「べつけんこん」。

「完からん乎」「まつたからんか」。

「欲窮千里眼更上一層樓」。私も好きな、漢文の教科書にも載る、盛唐の詩人王之渙の五絶「登鸛雀樓」の著名な転・結句。通常、「眼」は「目」である。

   *

 登鸛雀樓

白日依山盡

黃河入海流

欲窮千里目

更上一層樓

  鸛雀樓(くわんじやくらう)に登る

 白日(はくじつ) 山に依りて 盡き

 黃河 海に入りて 流る

 千里の目(め)を窮めんと欲して

 更に上(のぼ)る 一層樓

   *

この「一層樓」を「一層の樓」と訓ずるのは、私は嫌いである。

「哀歡双双」哀しみと歓びとが二つながらともに。

「虛碧」「へききよ」。本来は「晴れ渡った青空」を指すが、ここは前後から春の水の流や淵の奥深い碧(あお)いそれを指す。

「漾はせ」「ただよはせ」。

「恣に」「ほしいままに」。

「瀏覽」「りうらん」(りゅうらん)。「くまなく目を通すこと」が第一義だが、ここは別に、「他人を敬って、その人の著作を閲覧すること」を言った謙遜表現。]

2022/08/11

泉鏡花 怪異と表現法 (談話) 正規表現版 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:これは表現からも判る通り、談話を記者が筆記したものである。底本とした所持する昭和一七(一九四二)年岩波書店刊「鏡花全集」巻二十八によれば、昭和四二(一九六七)年四月というクレジットが載るものの、原ソースが記されていない。なお、加工データとして、加工データとして嘗つて大変お世話になった(私の鏡花の俳句集のこちらのものは、サイト主が贈って下さったものである)サイト「鏡花花鏡」で公開されていたHTML版の本篇(春陽堂版全集底本で総ルビ)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字化した。これは実際、電子化した際に、ユニコードのそれを配しても、気持ちの悪さに変わりはないからである。また、今回は、「Googleブックス」で春陽堂版「きよう花全集 卷十五」をダウン・ロードして参考にした。但し、春陽堂版のルビは談話という性質上、ルビは鏡花が附したものではあり得ず、談話の聴き取り手の編集者が勝手に歴史的仮名遣で附したものと断じ、底本通りで示し、不審な箇所は、注で春陽堂版のルビを参考にして、各段落末の注の中に配して示した。そういう訳で、ルビが殆んどない以上、本篇はPDF縦書版化はしない。但し、底本の九ヶ所のルビと傍点(ここでは太字に代えた)も、読み難いので、恐らくは岩波版編集者が「春陽堂版」を参考に附したものではあろうと推定はする。而して口語で語られた本篇は、寧ろ、現代仮名遣で示す方が原話には相応しいと言えるが、そうしたものは現代の出版物で既に活字化されているから、ここはそれ、底本通りとして電子化し、それらと差別化することとする。なお、幸い、「鏡花花鏡」で公開されていたものとPDF縦書版が、「Geolog Project」のアーカイブで辛うじてネットのこちらに残っているので(私は公開時に保存しているが、そこでは明朝体で、リンク先のゴシックのようには気持ち悪くない)、それを考えれば、なおのこと、縦書版の屋上屋は不要と言えると判断する。]

 

 怪異と表現法

 

 不思議と云ひましても色々ありますが、此處では靈顯、妖怪、幽靈なぞの類に就いて云ふのでありまして、是等のものを文學上に表現致します態度に就て、まあ、お話したいと思ひます。

 不思議を描く。先づ第一に不思議を描くには不思議らしく書いては不可ません。斯うやつてお話してをります中に、疊の中から鬼女の首が出現(あらは)れたなぞと申しましても、あんまり突拍子もなくて凄味もありません。ですから、幽靈を幽靈とし、妖怪を妖怪として書いては怖くない、只何となく不思議のものが出て來て、物を云つたり何かする方が恐しいのです。

[やぶちゃん注:「をります中に」の「中」は「うち」。春陽堂版に従う(以下、断りのないものは同じ)。一方で、「疊の中から」の「中」は「なか」である。]

 其處で幽靈なら幽靈の形を表現(あらは)すのは未だ容易ですが、夫に口を利かせるとなると、サア中々難かしくなつて來ます。何故なら怪異には地方的特色と云ふものがあつて、例へば牛込の化物を京橋へ持つて行けば、工合が惡くなる樣なもんですから、其の時と場所に相當した言葉を使はなければならぬ。是が中々大變です、昔私の故鄕(くに)の某所に、一の橋があつて其處へ每夜貉が化けて出て通行人に時刻を問ひ返事をすると、齒を出してニヤリと笑ふ、と云ふ話がありますが、其時間を問ふ時の言葉は「何時(なんどき)ヤー」と云つて長く引張るのです。其引張る調子が如何にも氣味が惡うござんすが、是を若し巢鴨か早稻田邊の橋の袂で、「君今何時です」と訊かれたつて少毫(ちつと)も恐い事はありません。併し此の場合には、

[やぶちゃん注:「未だ」「まだ」。

「例へば」は春陽堂版では「假令(たと)へば」。

「每夜」「まいよ」。但し、「鏡花花鏡」で公開されていたPDF縦書版では「まいばん」と振り、私はこれが正しいように感じるている。

「貉」「むじな」。]

 註入りの意味 「何時ー」てんですから、東京人にも意味が判りますけれども、或る地方の言葉なぞになると、全く東京人には判らぬのがある。そんな言葉で幽靈が何と云つたつて、東京人には少許(ちつと)も恐(こは)く感ぜられない場合があります。ト云つて「右は何々の意味に侯」と註を入れる譯にも行かないから、どうしても仕方がありません、言葉の難かしいと云ふ例には斯んな話もあります。昔の化猫の話に、猫が鴨居を傳はつて 行つて、鼠を捕らうとして取落したときに「南無三」と云ふ。此「南無三」と云ふ言葉は此場合に一種の凄味があるけれども、若し「しまつた」と云つたら何だか猫が肌脫ぎに向鉢卷でもして居さうで氣が脫けてしまふでせう。

[やぶちゃん注:「難かしい」「難」には「むづ」とルビする。

「化猫」は無論、「ばけねこ」だが、春陽堂版は「猫化」で「ねこばけ」とルビする。]

 あら怨しや 昔の幽靈は紋切形の樣に「あら怨めしや」と云ひますけれども、こんな言葉は近代人の耳には凄くもなんともない。さうかと云つて「チチンプイプイごよの御寶」とも猶更云へず、譯の判らぬ漢語やギリシヤ文字を並べる事ことも固もとより出來できず、全まつたく幽靈いうれいの言葉位厄介ことばぐらゐやくかいなものはありやしません。

[やぶちゃん注:「チチンプイプイごよの御寶」「御寶」は「おたから」と読む。僕らは、母に「ちちんぷいぷい痛いの痛いの飛んでけ!」と言われたものだが、「深川不動堂」公式サイト内の「おまじない!? ~ ちちんぷいぷいのお話 ~」には、『古くは』これは、『ちちんぷいぷい御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)』と言ったとあり、『この語源には諸説ありますが、江戸幕府三代将軍徳川家光公の乳母である春日局と関係があるという説があります』。『幼少の頃、泣き虫であった家光公に春日局が「知仁武勇は御代の御宝(ちじんぶゆうはごよのおんたから)」と云いました』。『則ち、「あなたは武士の頭領と成るべく徳を備えた徳川家の宝なのですから、泣くのではありません」と諭し、家光公が泣き止んだという伝記です』とある。

「並べる」春陽堂版では「並」は「竝」。]

 夫で話は又後へ戾りますが、不思議をかいて讀者に只の不思議と思はせずに、何となく實(まこと)らしく、凄く思はせる好い例は講釋師の村井一(はじめ)が本鄕の振袖火事の話をして、因緣のある振袖を燒いたら空へ飛上つて、スツクと人の形の樣に突立つて、パツと飛散ると共に本堂の棟へ落ちて、それが爲めあの大火事になつたと話しましたが、其話をする前に、前提として、自分が曾て下谷の或る町を通ると、突然後方(うしろ)の空中で「チヤラチヤラ」と異樣の響がした。不思議に思つて振返ると、夫は風鈴屋が旋風の爲に荷を卷上げられて、風鈴が一度に「チヤラチヤラ」と鳴つたのでした、と云ふ話をしました。比話をしておいて、振袖火事の方をやつたから、普通なら振袖が自然に飛上つて、人の樣な形をするのは餘り不思議で信じ難いのを、此話をきいた爲にそんなに不思議でもなくなつた。是は實に話を人にきかせる周到な用意で、別に人を欺く手段ではないのです。一寸とした事ですが、此用意を吞込まなければ、中々不思議の事を書くのは難かしいのです。

[やぶちゃん注:「好い」「よい」。

「村井一」講釈師としての芸名は「邑井一(むらゐはじめ)」が正しい。本名は村井徳一(天保一二(一八四一)年~明治四三 (一九一〇)年)は江戸牛込南町生まれ。田安家の御家人(御納戸同心)の子として生まれ、幕末には彰義隊に加わったこともあった。十五歳の頃、上方の講釈師旭堂南鱗(きょくどうなんりん)の弟子になろうとしたが、断られ、十六の時、初代真龍斎貞水(二代目一龍斎貞山)に入門、「菊水」を名乗った。後に「巴水」とし、貞水が貞山を襲名した際、「貞朝」と改名、さらに初代貞吉の三代目貞山襲名に伴い、二代目一龍斎貞吉(ていきち)を名乗った。後に本名の村井姓に因んで、二代目邑井貞吉と改め、真打ちとなり、後、長男吉雄に三代目を譲って、邑井一と改名した。得意な演目に「五福屋政談」・「玉菊灯籠」・「小夜衣双紙」・「加賀騒動」・「伊達騒動」・「曽我物語」・「紀伊国屋文左衛門」・「鈴木主水」などがあり、特に写実的な世話物を得意とした。武家の出身だけあって、行儀正しく、品格の備わった名手と伝えられ、無本で弁じたが、地の言葉が、そのまま、文章を成していると称賛された(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。

「振袖火事」「明暦の大火」の後の異名。明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した江戸の大半を焼いた大火災。江戸本郷丸山町から出火し、江戸城本丸を始め、江戸市中を焼き尽くした。死者は十万人以上とされ、江戸城も西丸を残して焼失、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転や、寺社の外辺部への移転などを進め、町屋も道幅を広げ、広小路や火除地を設定し、家屋の規模を定めるなどの措置をとった。翌年には定火消(じようびけし)を置いている。なお、「振袖火事」の名の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が因縁のある振袖を燃やした火が同寺本堂に移り大火となったという話は、史実とは言いがたい(ここまでは主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。当該ウィキが詳しく、出火については、幕府が意図的に放火したとする驚天動地の説と、火元が老中屋敷であったために、『幕府の威信が失墜してしまう』ことを恐れて、本妙寺が火元を引き受けた、とする説が記されている。なお、そこに、哀れな因縁の振袖供養の出火伝承について書かれた最後に、『小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている』とあるが、八雲のそれは“ FURISODÉ ”で、私の「小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)」で読める。

「實に」「じつに」。なお、春陽堂版では最後に『(話。)』とある。]

2022/08/10

泉鏡花の童謡・民謡・端唄風の唄集成「唄」公開

泉鏡花の童謡・民謡・端唄風の唄集成「唄」をPDF縦書ルビ版「心朽窩旧館」に公開した。

2022/07/16

泉鏡花生前最後発表作「縷紅新草」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を公開

泉鏡花の生前最後の発表作となった「縷紅新草」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/06/26

サイト「鬼火」開設十七周年記念テクスト 泉鏡花「繪本の春」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)公開

2005年6月26日のサイト「鬼火」開設の17周年記念テクストとして泉鏡花「繪本の春」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を、「心朽窩旧館」に公開した。
【※昨日、以上を投稿をしようとしたが、ブログ接続がサーバー元の不具合によって投稿出来なかったため、昨夕刻の投稿しようとした時刻に遡って時間を設定して投稿したことをお断りしておく。】

2022/06/19

ブログ・アクセス1,760,000アクセス突破記念 泉鏡花「茸の舞姬」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)

ブログ・アクセス1,760,000アクセス突破記念として、

泉鏡花「茸の舞姬」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)

「心朽窩旧館」に公開した。かなりマニアックな注を附してある。御笑覧あれかし。

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