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カテゴリー「大手拓次」の224件の記事

2023/05/19

大手拓次訳 「墓鬼」 シャルル・ボードレール / 岩波文庫原子朗編「大手拓次詩集」からのチョイス~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。

 これを以って底本からのチョイスを完遂した。]

 

 墓 鬼 シャルル・ボードレール

 

するどい刃物の突きのやうに

いたましい わたしの胸へはひつてきたお前、

惡魔のむれのやうに 恐恐(こはごは)しく

また おろかしく みえをつくつて

 

ふみにしられた わたしの心を

そのみの臥床(ふしど)と領土とにしようとやつてきたお前、

――罪の囚人(しうと)を鎖につなぐやうに

いつこくな遊(あそ)び人(にん)を うんぷてんぷの賭事(かけごと)に

 

だらけた醉(ゑ)ひどれを 酒德利(とつくり)に

蛆蟲(うじむし)を腐つた肉にたからせるやうに

わたしの縛(しば)りつけられた人非人(ひとでなし)、

――呪はれよ 詛(のろ)はれよ お前こそ!

 

わたしは 自由をとりもどさうと

手ばやの劍(けん)にたのみをかけた

また わたしの怯儒(よわみ)を救はうと

不義の毒藥にも 談(はな)しをかけた。

 

ああ! 毒藥もその劍も

憎憎(にくにく)と さげすむやうに わたしに言つた。

お前は 詛はれた奴隷(どれい)の身から

浮ばせてやるの ねうちもない、

 

弱蟲め!――その血みどろの國土(さかひ)から

やつと お前を解きはなしてやつたとて

またも お前の接吻で生きかへすだらう、

お前の墓鬼(はかおに)の その埋められた亡骸(なきがらを!』

 

[やぶちゃん注:「刃」「劍」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

 この原詩は詩集「悪の華」(‘ Les fleurs du mal ’)の冒頭のパートである‘ Spleen et Idéal ’(「憂鬱と理想」)の第三十一篇の‘ Le Vampire ’(ル・ヴァンピール:「吸血鬼」)である。所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、本篇は『雜誌『兩世界評論』一八五五年六月一日號に發表。この時の表題は『ベアトリース』だつた。』とあり、例の『ジャンヌ・デュヴァル詩篇』であるとある。

 原詩を私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

 

                LE VAMPIRE

 

Toi qui, comme un coup de couteau,

Dans mon cœur plaintif es entrée,

Toi qui, forte comme un troupeau

De démons, vins, folle et parée,

 

De mon esprit humilié

Faire ton lit et ton domaine ;

― Infâme à qui je suis lié

Comme le forçat à la chaîne.

 

Comme au jeu le joueur têtu,

Comme à la bouteille l’ivrogne,

Comme aux vermines la charogne,

― Maudite, maudite sois-tu !

 

J’ai prié le glaive rapide

De conquérir ma liberté,

Et j'ai dit au poison perfide

De secourir ma lâcheté.

 

Hélas !  le poison et le glaive

M’ont pris en dédain et m’ont dit :

« Tu n'es pas digne qu’on t’enlève

A ton esclavage maudit,

 

Imbécile ! ― de son empire

Si nos efforts te délivraient,

Tes baisers ressusciteraient

Le cadavre de ton vampire ! »

 

   *

 最後に。

 私が底本の原子朗氏の「解説」中、激しく感動した末尾部分を引用して、終わりとする。

   《引用開始》

 以上で解説をおわるが、結びのことばとしていっておきたいことがある。口語自由詩を完成させたのは萩原朔太郎であるといった受け売りの意見を、平気で書いている本も世上には少なくない。朔太郎に先だち、朔太郎にも直接影響を与えた拓次のいち早い口語象徽詩の完成度の高さは、日本の象徴詩史の中においてばかりか、一般詩史の記述の中でも、あるいは近代日本語表現の歴史の記述の中でも、あるいはまたフランス文学受容史の中でも、ほとんど無視されるか、軽視されている。大手拓次は、少なくとも、そうしたマンネリズムのきらいのある詩史や文学史に一石も二石も投じる詩人であることを、何よりも彼の詩自身が物語っていよう。編者が解説中で必要以上に詩の成立年代にこだわったのも、彼の詩を時代にスライドさせて他の詩人を比較して読んでもらいたい、しかも時代をこえている彼の詩の特質を見てもらいたい、という意図からであった。

   《引用終了》]

大手拓次訳 「ギタンジヤリ」 ラビンドラナート・タゴール

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 

 ギタンジヤリ ラビンドラナート・タゴール

 

彼はわたしの側にきて坐つた、

けれど私は眼が覺めなかつた。

なんといふ惱ましい眠りだ、

おお、みじめな私よ!

 

彼は夜がふけるとやつて來た。

彼はその手に竪琴(たてごと)を携へてゐて、

私の夢はその琴の調に共鳴りをした。

 

噫(ああ)、どうして、私の夜夜はこのやうにして皆失はれたのか?

噫、どうして私は、その呼吸を私の眠りに觸れしめた彼の姿を、何時かまた見失ふのか?

 

[やぶちゃん注:『大手拓次譯詩集「異國の香」』では、「螢」が採られてある。所持する「タゴール著作集」の「第一巻 詩集Ⅰ」(一九八一年第三文明社刊)で確認したところ、「ギタンジャリ」の「26」である。]

2023/05/18

大手拓次訳 「輪舞歌(ロンド)」 ポール・フォル

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 輪舞歌(ロンド) ポール・フォル

 

もしも世界の娘たちがみんな揃つて手をかすならば、

娘たちは海のまはりにぐるりとロンドをやる事が出來るのに。

 

もしも世界の若者たちがみんな揃つて船乘りになるならば、

若者たちはめいめいの小舟(バルク)を波の上の樂しい橋とする事が出來るのに。

 

そして世界の人人がみんな揃つて手をかすならば、

世界のまはりにひとつのロンドをやる事が出來るのに。

 

[やぶちゃん注:フランスの詩人で劇作家としても知られるジュール・ジャン・ポール・フォール(Jules-Jean-Paul Fort 一八七二 年~一九六〇年:象徴性・単純さ・抒情性が混淆したバラードを得意とし、それらの幾つかは歌曲にも編曲されているようである)の‘ La Ronde Autour Du Monde ’(「世界を巡るロンド」)。

 フランス語の同詩篇のPDF化されたこちらを参考に、原詩を示す。

   *

 

                       LA RONDE AUTOUR DU MONDE

 

Si toutes les filles du monde voulaient s’donner la main,

Tout autour de la mer elles pourraient faire une ronde.

 

Si tous les gars du monde voulaient bien êtr’ marins,

Ils f’raient avec leurs barques un joli pont sur l’onde.

 

Alors on pourrait faire une ronde autour du monde,

Si tous les gens du monde voulaient s’donner la main.

 

   *

なお、cnz27hrio氏のブログ「カンツォーネ」の「セルジョ・エンドリゴ(SERGIO ENDORIGO)番外編 “世界をつなぐ若者”」の中に、ブログ主の「私の好きな少年少女詩 ★ 『輪おどり』 詩:ポール・フォール 訳:西條八十 (西条八十)」として、西条の訳詩が読めるので、参照されたい。また、フランス語の個人サイトのこちらで、同詩の朗読も聴くことが出来る。

「小舟(バルク)」“barque”。一般に「百トン以下の船」或いは「ボート・小舟」の意。但し、この語は海事用語で、“goélette”と同義で、「スクーナー船」、所謂、二本マストの帆船をも指す。詩篇の初読では、若者たちの小舟でいいが、世界一周(標題はそうも訳し得る)に達する時は、後者の方が絵としてはいいかも知れぬと感じた。]

2023/05/17

大手拓次訳 「信天翁」 シャルル・ボードレール / (別稿)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 異國のにほひ シャルル・ボードレール

 

秋のあつたかいゆふぐれに、

ふたつの眼をとぢて、おまへの熱い胸のにほひをすひこむとき、

わたしは、單調なる太陽の火のきらきらする

幸福の濱べのあらはれるのをみる。

 

めづらしい樹と美味なる果物とを

自然があたへるところの懶惰の島。

へいぼんな、つよい肉體をもつた男たち、

またはれやかな眼でびつくりとさせる女たち。

 

みいられるやうなこの季節にあたり、お前のにほひにみちびかれて、

わたしは、ぼうつとした海の景色につかれはてながら、

帆と帆桂とにみちた港をみる。

 

そのときに、空氣のなかをとびめぐり、鼻のあないつぱいになる

みどり色の羅望女(タマリニエ)のにほひが、

わたしの靈魂のなかで水夫のうたともつれあふ。

 

[やぶちゃん注:『大手拓次譯詩集「異國の香」電子化注始動 / 序詩・「異國のにほひ」(ボードレール)』(ブログ単発版。一括PDF縦書版はこちら)を見られたいが、そちらの注では、原子朗氏の「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)に、初出『感情』のものに原氏が原詩の三、四連の行空けがないのは、雑誌編集者の恣意とされ(すこぶる同感である)、行空けを施したものを掲げておられる(196197頁)のを参考に、初出形を再現しておいた。しかし、それと、この底本のそれとは、やはり、異様に異同があり過ぎることから、本底本は別稿を元にしたものと考えるしか、ない。面倒なので、その原氏によって再現されたものを転写し、そこの異同部に【 】で注を附すこととする。「らんだ」の読みがないのは数えない。読み間違えはあり得ない熟語であり、詩集で編者が外しても、おかしくはないからである。

   *

 

  異國のにほひ ボードレール

 

秋のあつたかいゆふぐれに【←読点なし。①】

ふたつの眼をとぢて、おまへの熱い胸のにほひをすひこむとき【←読点なし。②】

わたしは單調なる太陽の火のきらきらする

幸福の濱べのあらはれるのをみる。

 

めづらしい樹と美味なる果物とを

自然があたへるところの懶惰(らんだ)【ルビなし。】の島

へいぼんな、つよい肉體をもつた男たち【←読点なし。③】

またはれやかな眼でびつくりとさせる女たち【←句点なし。④】

 

みいられるやうなこの季節にあたり、お前のにほひにみちびかれて【←読点なし。⑤】

わたしは【←読点なし。⑥】ぼうつとした海の景色につかれはてながら【←読点なし。⑦】

帆と帆柱とにみちた港をみる。

 

そのときに【←読点なし。⑧】空氣のなかをとびめぐり【←読点なし。⑨】鼻のあないつぱいになる

みどりいろの羅望子(タマリニエ)のにほひが【←読点なし。⑩】

わたしの靈魂のなかで水夫のうたともつれあふ。

 

   *]

大手拓次訳 「信天翁」 シャルル・ボードレール / (大手拓次譯詩集「異國の香」とは最終連に異同がある)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 信 天 翁 シャルル・ボードレール

 

乘組の人人は、ときどきの慰みに、

海のおほきな鳥である信天翁(あほうどり)をとりこにする、

その鳥は、航海の怠惰な友として、

さびしい深みの上をすべる船について來る。

 

板(いた)のうへに彼等がそれを置くやいなや

この扱ひにくい、内氣な靑空の主(ぬし)は、

櫂のやうに、その白い大きな羽をすぼめて、

あはれげにしなだれる。

 

この翼ある旅人は、 なんと固くるしく、 弱いのだらう!

彼は、をかしく醜いけれど、なほうつくしいのだ!

ある者は、短い瀨戶煙管(きせる)で其嘴をからかひ、

他の者は、びつこをひきながら、とぶこの廢疾者(かたはもの)の身ぶりをまねる!

 

詩人は、嵐と交り、射手をあざける

雲の皇子(プランス)によく似てゐるが、

下界に追はれ、喚聲を浴びては

大きな彼の翼は邪魔になるばかりだ。

 

[やぶちゃん注:これは既に『大手拓次譯詩集「異國の香」 信天翁(ボードレール)』(ブログ単発版。同詩集一括版縦書はこちら)で電子化してあるのだが、そこでは最終連が全三行であるものが、本底本では、そちらの最終行が、以上に二行に分かたれているので特に電子化した。なお、そちらでは、原詩を挙げてあるので、誰でも判るから注をしなかったが、老婆心ながら附け加えて言うと、「皇子(プランス)」は、フランス語の「王子」を意味する“prince”(音写「プランース」)を音写ルビしたものである。]

2023/05/16

大手拓次訳 「幻想」 シャルル・ボードレール / (四篇構成の内の三篇・注に原全詩附き)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 幻 想 シャルル・ボードレール

 

 

     

 

   暗 黑

 

底のない悲しみの窖(あなぐら)のなかヘ

司命神(デスタン)は既に私をおとしいれた。

そこへは薔薇色に快活なる光線は決して訪れないで、

ただ 陰氣な女主人(あるじ)の、夜(よる)のみがゐる。

 

私は、物あそびする神が

暗黑の上にゑがくやうに命じた画家と同じである。

そこに、葬儀の慾を料理して

私は、私の心を沸き立たせ、私の心を蝕(むしば)ませる。

 

きらめく一瞬の間、

そして長くのび、慈悲と光彩とに成長したる幽靈を誇示する。

極東の冥想にふけりつつ

 

彼がその全き大きさに達する時、

私は、私の美しい訪問者をゆるすのだ。

それは彼女である、暗く、然れども輝ける彼女である。

 

 

    

 

   香 氣

 

貪食者よ、お前はをりにふれて

迷亂と緩慢なる貪食とをもつて呼吸したことがあるか、

あの聖堂のなかにみちてゐる燒香の顆粒(つぶ)を、

あるひは麝香のふかくしみこんだ香袋(にほひぶくろ)を。

 

現在とよみがへれる過去とのなかに

われらを醉はしむる深く不思議なる妖惑よ!

かくしてこひ人は鐘愛のからだのうへに

追憶の美妙なる花をつみとる。

 

彈力のあるおもい彼女の頭髮から、

寢室の香爐であるにほひ袋の

いきいきしたかをりはのぼつた、あらく茶色に、

 

また、淸い若さのすつかりしみこんだ寒冷紗(かんれいしや)か或はびろうどの着物からは、

毛皮のにほひがのがれさる。

 

 

    

 

   (ふち)

 

うつくしい緣が繪につけくはへるやうに、

その繪がどんなにほむべき筆づかひであらうとも、

わたしは無限の自然からはなれては、

不思議も恍惚もあらうとは思はない。

 

それとひとしく、寶玉(ビジウ)も、裝飾品(ムーブル)も、メタルも金箔(ドリユール)も。

かの女(ぢよ)のたぐひない美しさにしつくりあてはまるとはおもはない、

彼女のまどかなる玲瓏をかくすものは何ひとつとしてなく、

ただすべては緣飾りとなつてつかへてゐるやうに見えた。

 

それにまた、だれもみんな自分を愛さうとしてゐるのだといふ、

彼女の所信を世人はをりふし噂にのばすだらう。

彼女は繻子やリンネルの接吻のなかにひたつた、

 

彼女のうつくしい裸躰は身ぶるひにみちて、

そして、おそく或はすみやかに彼女のひとつびとつの動作は

猿のやうな子供らしい愛嬌をふりまく。

 

[やぶちゃん注:「慾」「躰」は底本の用字である。「Ⅲ」の太字は底本では傍点「﹅」。

 本篇は実際には単独の詩篇ではなく、四パートから成る総標題Un Fantôme (「ある幽霊(亡霊)」或いは「ある幻想」)の第三篇である。全体は‘ I  Les ténèbres (「闇」)・‘ II  Le Parfum (「香(こう)」)・‘ III  Le Cadre (「額縁」)・‘ IV  Le Portrait (肖像)から成るものである。原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の一八八~一八九ページに拓次の訳出したボードレールの『悪の華』からの詩篇リストがあるが、それによれば(そこでは総標題は「幻想」と訳されている)、原詩の内、拓次は実はこの詩篇を「 暗黑」・「 香氣」・「 緣」と訳しながら、「」は訳していないとする。『大手拓次譯詩集「異國の香」』では、「Ⅱ 香氣」と、「Ⅲ 緣」の二篇が収載されてあり(以上の本文とは「Ⅱ 縁」に決定的な異同(一行脱落。編者によるミスの可能性が高いとも思われる)がある。それはそちらで掲げて示してある)、既に電子化注してあるのだが、以上の第一篇「Ⅰ 暗黑」は収録されていない。‘ IV  Le Portrait(肖像)が含まれていない点で不完全であることに変わりはないが、せめても、この詩篇は続けて読まれるべきものであるわけであるからして、今回、電子化することとした。

 なお、既に「Ⅲ 緣」で注したが、本四篇は、堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の本篇(堀口氏の標題訳は「或る幽靈」である)の訳者註には、本篇全体は雑誌『『藝術家』一八六〇年十月十五日號に發表』とし、既に述べた『ジャンヌ・デュバル詩篇』としつつ、『この年デユヴァルはアルコールの過飲から激しいリューマチスにかかつて動けなくなりデュボア慈善病院に入院治療した。この詩はその不在の間の作だらうと見られてゐる』ある。

 以下に本篇の原詩(四篇全部)を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

                         UN FANTÔME

                                  I

                         Les Ténèbres

 

Dans les caveaux d’insondable tristesse

Où le Destin m’a déjà relégué ;

Où jamais n’entre un rayon rose et gai ;

Où, seul avec la Nuit, maussade hôtesse,

 

Je suis comme un peintre qu’un Dieu moqueur

Condamne à peindre, hélas! sur les ténèbres ;

Où, cuisinier aux appétits funèbres,

Je fais bouillir et je mange mon cœur,

 

Par instants brille, et s’allonge, et s’étale

Un spectre fait de grâce et de splendeur.

À sa rêveuse allure orientale,

 

Quand il atteint sa totale grandeur,

Je reconnais ma belle visiteuse :

C’est Elle ! noire et pourtant lumineuse.

 

 

                                 Ⅱ

                           Le Parfum

 

Lecteur, as-tu quelquefois respiré

Avec ivresse et lente gourmandise

Ce grain d’encens qui remplit une église,

Ou d’un sachet le musc invétéré ?

 

Charme profond, magique, dont nous grise

Dans le présent le passé restauré!

Ainsi l’amant sur un corps adoré

Du souvenir cueille la fleur exquise.

 

De ses cheveux élastiques et lourds,

Vivant sachet, encensoir de l’alcôve,

Une senteur montait, sauvage et fauve,

 

Et des habits, mousseline ou velours,

Tout imprégnés de sa jeunesse pure,

Se dégageait un parfum de fourrure.

 

                                III

                           Le Cadre

 

Comme un beau cadre ajoute à la peinture,

Bien qu’elle soit d’un pinceau très-vanté,

Je ne sais quoi d’étrange et d’enchanté

En l’isolant de l’immense nature,

 

Ainsi bijoux, meubles, métaux, dorure,

S’adaptaient juste à sa rare beauté ;

Rien n’offusquait sa parfaite clarté,

Et tout semblait lui servir de bordure.

 

Même on eût dit parfois qu’elle croyait

Que tout voulait l’aimer; elle noyait

Sa nudité voluptueusement

 

Dans les baisers du satin et du linge,

Et, lente ou brusque, à chaque mouvement

Montrait la grâce enfantine du singe.

 

 

                                  IV

                           Le Portrait

 

La Maladie et la Mort font des cendres

De tout le feu qui pour nous flamboya.

De ces grands yeux si fervents et si tendres,

De cette bouche où mon cœur se noya,

 

De ces baisers puissants comme un dictame,

De ces transports plus vifs que des rayons,

Que reste-t-il? C’est affreux, ô mon âme!

Rien qu’un dessin fort pâle, aux trois crayons,

 

Qui, comme moi, meurt dans la solitude,

Et que le Temps, injurieux vieillard,

Chaque jour frotte avec son aile rude ...

 

Noir assassin de la Vie et de l’Art,

Tu ne tueras jamais dans ma mémoire

Celle qui fut mon plaisir et ma gloire !

 

   *

最後の拓次が訳していないそれが、フランス語で判らず、もやもやされる方のために、前掲の堀口氏の当該パートを引用しておく。氏は著作権継続中であるが、本篇が四篇の部分詩であることから、引用許容の内に入ると判断するし、何より、氏の訳は正字正仮名で、私の数冊のボードレールの訳詩集の内、以上の拓次の訳の参考にするには最も相応しいと考えるからでもある。

   《引用開始》

 

    4 肖 像

 

僕等の爲めに燃え立つた、火の一切を

「病気」と「死」とが、灰にする。

切れ長の、やさしさこめて熱烈な、あの眼(なまこ)さへ、

僕が心を溺らせた、あの口さへが、

 

薄荷のやうに强烈な、あの數々の接吻も、

日の光より生(いき)のいい、あの度々の合歡も。

いま何を殘してゐるか? 魂よ、何たるこれは切なさだ!

一枚の淡彩の鉛筆描きの色褪せた素描だけとは、

 

それさへが、僕も同樣、孤獨のうちに泊えて行く、

「時」といふ名の理不盡な老いぼれの

嚴(きびし)い翼に日每日每に擦(こす)られて‥‥

 

ああ、時よ、「生命」と「藝術」の腹黑い暗殺者よ、

さしもの君も、殺し得まいよ、僕の快樂であり、光榮でもあつた

かの女を僕の記憶から消し去る事だけは!

 

   《引用終了》]

2023/05/15

大手拓次訳 「イカールの嘆息」 シャルル・ボードレール

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 イカールの嘆息 シャルル・ボードレール

 

うかれ女の情人(いろ)は

幸福で、愉快で、滿足だ。

私はと云へば、私の腕は多くの人を抱きしめた爲に傷(いた)んでゐる。

 

空の底にあまねく燃え上るものは

比類なき天體の惠みである、

つかれきつた私の眼が

太陽の思ひ出のみを見るために。

 

私は徒らに、空間に極と中心とを探さうとして、望んだ、

私が火の眼の何かを知らないので

私は、翼の衰へてゆくのをおぼえる。

 

そして、至善の愛によつて溫められて、

墓場(おくつき)に仕へるために

あの世に於ける私の名をあたへるところの

莊嚴の名譽を私は持たないだらう。

 

[やぶちゃん注:「イカール」フランス語“Icare”の音写。言わずもがな、ギリシア神話に登場する人物で、蜜蠟で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に近づき過ぎて、蠟が溶けて翼がなくなり、墜落して逝った、かのイカロス(ラテン文字転写:Icarus)である。

 本篇は、所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、本篇は『『惡の華 補遺』 一八六六年――一八六八年』(非常に詳細なフランス語ウィキの‘Les Fleurs du malによれば、一八六八年版で追加されたとある)の中の「第九」(‘Ⅸ’)篇で、原詩初出は『『廣小路』一八六二年十二月二十八日號に發表』とあり、『この時は題詞として、トーマス・グレーの四行詩がつけてあつた。この詩はすでに、ボードレールがその栅『不運』の末段にも借用しているものだ。』とある(トマス・グレイ(Thomas Gray 一七一六年~一七七一年)はイングランドの詩人・古典学者で、ケンブリッジ大学教授)。その詩篇「不運」は‘ Le Guignon ’で、「悪の華」の冒頭のパート、‘ Spleen et Idéal’(「憂鬱と理想」)の第九篇に配されてあるものであるが、同前の堀口氏の「註」によれば、『この詩篇は、殆んど全部が、ロングフェロー』(アメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)『の『人生讃歌』“ A Psalm of Life ”と、トマス・グレーの『村の墓地で書いた悲歌』“ Elegy Written in a Country Church-yard ”からの借物である。卽ち、第一、第二、第五、第六行はボードレールの自作だが、第三、第四、第七、第八行と第六行の半分はロングフェローであり、最後の二聯は全部がトマス・グレーの作である。また、第四行はヒポクラテスに倣ふと原稿に記入がある』とある、途轍もないパッチ・ワーク詩篇である。

 閑話休題。以下に本篇の原詩を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

 

  LES PLAINTES D’UN ICARE

 

Les amants des prostituées

Sont heureux, dispos et repus ;

Quant à moi, mes bras sont rompus

Pour avoir étreint des nuées.

 

C’est grâce aux astres nonpareils,

Qui tout au fond du ciel flamboient,

Que mes yeux consumés ne voient

Que des souvenirs de soleils.

 

En vain j’ai voulu de l’espace

Trouver la fin et le milieu ;

Sous je ne sais quel œil de feu

Je sens mon aile qui se casse ;

 

Et brûlé par l’amour du beau,

Je n’aurai pas l’honneur sublime

De donner mon nom à l’abîme

Qui me servira de tombeau.

 

   *

「莊嚴」老婆心ながら、これは“sublime”(「壮絶な」・「崇高な」・「卓抜な」・「高貴な」)の訳であり、あくまで「さうごん」(そうごん)と読むものあって、「墓場(おくつき)に仕へるために」とあるのに引かれて、知ったかぶって、本邦で専ら、「智慧・福徳・相好などで浄土や仏の身を飾ること」・「仏像や仏堂を、多くの装飾品で厳(おごそ)かに飾ること及び、その装飾物」を指す「しやうごん」(しょうごん)とは、決して読んではいけない。稀れに、本邦の作家でも、前者の意味で「しょうごん」を使う者がいるが、私は、それを見ると、常に鼻白むのを常としているからである。少なくとも、原氏がルビをしていないのは、拓次が「さうごん」と読みを振っているからであると信ずるものである。]

2023/05/14

大手拓次訳 「田舍のワルツ」 D・フォン・リリエンクローン

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 田舍のワルツ D・フォン・リリエンクローン

 

わたしは城の露臺へ導かれ、

優しい、うつくしい、まばゆい公女の前に朗讀をさせられた。

わたしはゲーテのタツソーをえらんだ。

夏の夕べのなかを、もはや夜の小蟲がとびはねてゐる。

來の雲は灼灼と輝いて綠を帶び、しづんだ日のこなたにたなびいてゐる。

われらの下の靜かな花園はますます暗い影のなかに取りまかれてゐる。

またもやナイテインゲールが鳴きはじめる。

召使はランプをテーブルの上に置いた、

その光はありとしもない徵風にゆらめきつつ定まらない。

村の方からわれ等のもとへ音が聞える。

この暗黑と光の條(すぢ)との上に明るく

舞踏室の窓は閃めき輝いてゐる。

うはの空なる組組はわたしの後ろをさつとすぎた。

 

時時、扉が開けたままになつてゐるとき、

足ぶみの音、叫ぶこゑ、またみだれたるバスなど。

その歡樂は抑へがたくある。

わたしが、しばし讀みつづけつづけ行けば、

知らず識らず混沌たる喜びは

昔のはかない繪の如くひらめき通る。

そして、恰度(ちやうど)この句(ライン)に來たときに、

「臺杯(だいさかづき)は保つことが出來るか、

泡だちつつ沸騰し、うめきつつ溢るる酒を。」

わたしは眼をあげてながめると

姬は心なく、左の手を欄干にもたせてわたしの聲も耳に入らない、

彼女の褐色の眼はあこがるる夢幻に滿ち、

物うささうにこの粗野なる踊り手の上におててゐる…………

「どうしたら、お前の高い樂慾が許すだらうか、

そこへ行つて樂しいワルツの舞へ加はることを。」

そして、彼女はため息をした。

『おお、どんなにかそれはわたしを喜ばすだらうに!』

わたしがもし、彼女の聲(トーン)がまねられたら、

彼女が云つたやうにその言葉をわたしにあたへよ、

いま、「どんなに」と「だらう」の調子にふと思ひあたつた。

彼女が云つた「どんなに」を云つて見よう、

『おお、どんなにかそれはわたしを喜ばすだらうに!』

 

[やぶちゃん注:ドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)は、当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。彼の詩の訳は、『大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)』があり、拓次は彼が好きで、「綠の締金 ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――」という彼に捧げた献詩もある。

「ゲーテのタツソー」かの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が一七九〇年に発表した、十六世紀イタリアの叙事詩人トルクァート・タッソー(Torquato Tasso 一五四四年~一五九五年)を主人公とした戯曲‘ Torquato Tasso ’(ドイツ語音写「トルクワト・タッソ」)。]

大手拓次訳 「見事な菊」 ライナー・マリア・リルケ

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 見事な菊 ライナー・マリア・リルケ

 

あの日に、菊はどんなにうつくしかつたか。

わたしは、もう、その輝くばかりの白さにふるへた………

それから、お前はわたしの心を奪(うば)はうとして來た

眞夜なかに………

 

わたしは恐れを持つてゐた、そしてお前は、あやふくつつしみ深く來た、

丁度、ある夢がわたしの前にお前をぱつとあらはした時、

お前は來たのだ――フエアリーの脣からでる歌のやうに

夜のなかに鳴り出でた………。

 

[やぶちゃん注:作者は、無論、知られたオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)である。]

大手拓次訳 「ふくろふ」 (シャルル・ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 ふくろふ シャルル・ボードレール

 

かれらをまもる、くろいいちゐの樹のしたに、

ふくろふたちはならんでとまつてゐる、

見しらない神さまのやうに、赤い眼をはなちながら。

かれらは沈思してゐる。

 

そのままうごかないでとまつてゐるだらう、

ななめになつた太陽をおひやりつつ、

暗黑があたりをこめてくる

いううつなときまでも。

 

彼等の容子(やうす)はかしこき人に

この世のなかでは騷擾(さうぜう)と動搖とを

恐れなければならぬことを示してゐる。

 

「すぎてゆく影に」ゑうた人は

場所をかへようと欲したので

つねに懲罰をうけてゐる。

 

[やぶちゃん注:最終連二行目の「欲」の字体には「慾」があり、拓次は詩集「藍色の蟇」ではその両方を用字として使用している。しかし、実は底本の原氏の「大手拓次詩集」では、それが原氏によって使い分けられており、「女よ」では、「慾」の字で示してあることから、ここは底本通り「欲」とした。太字は「いちゐ」は底本では傍点「﹅」。

 本篇は、所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、『『議會通信』一八五一年四月九日號に發表』とある。原詩を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を元に以下に示すこととした。

   *

 

                  LES  HIBOUX

 

Sous les ifs noirs qui les abritent,

Les hiboux se tiennent rangés,

Ainsi que des dieux étrangers,

Dardant leur oeil rouge. Ils méditent !

 

Sans remuer, ils se tiendront

Jusqu’à l’heure mélancolique

Où, poussant le soleil oblique,

Les ténèbres s’établiront.

 

Leur attitude au sage enseigne,

Qu’il faut en ce monde qu’il craigne

Le tumulte et le movement;

 

L’homme ivre d’une ombre qui passe

Porte toujours le châtiment

D’avoir voulu changer de place.

 

   *

「ふくろふ」梟。本篇の多くの訳詩の標題訳では、圧倒的に「梟」(ふくろう)ではある。しかし、私の所持する大学以来愛用の大修館書店「スタンダード佛和辭典 像法改訂版」(一九七五年刊)では、“hibou”(“hiboux”は複数形)『みみずく』とする。仏文サイトでも、どうも「フクロウ」と「ミミズク」は混用されているようだが、鳥類学的ではなく、頭部形状としては異なり、フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、本邦での古名は「ツク」で、「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。しかも、羽角があってもフクロウを名に持つ種がおり、やはり古典的博物学的形態分類に過ぎない)。ここでは、それを詳細すると、えらく長くなってしまうので、『和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)』の私の注を見られたい。また、ネットを調べると、別に、フランス語教師によれば、“hibou”は♂を、“chouette”は♀を指す、という記載があったが、私の辞書では、“chouette”は『梟(ふくろう)』とある。まあ、フクロウでよいのだろうが、私は羽角のあるミミヅクが好きだから、それをイメージする。

いちゐ」「櫟」(いちい)。本邦産のそれは、裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata 当該ウィキによれば、『果肉を除』いて、『葉や植物全体に有毒』の『アルカロイドのタキシン(taxine)が含まれて』おり、『種子を誤って飲み込むと』、『中毒を起こす。摂取量によっては痙攣を起こし、呼吸困難で死亡することがあるため注意が必要である』が、『果肉は甘く』、『食用になり、生食にするほか、焼酎漬けにして果実酒が作られる』。『アイヌも果実を「アエッポ(aeppo)」(我らの食う物)と呼び、食していたが、それを食べることが健康によいという信仰があったらしく、幌別(登別市)では肺や心臓の弱い人には進んで食べさせたとされ、樺太でも脚気の薬や利尿材として果実を利用した』とあるが、この種はヨーロッパには分布しない。この場合は、同属の内、唯一ヨーロッパに自生するヨーロッパイチイ Taxus baccata となる。なお、フランス語の当該ウィキによれば、有毒性は同じである。但し、本種のフランス語としての“abritent”は、現在は使用されていない模様で、辞書やフランス語のサイトでもかかってこないし、前記フランス語ウィキにもこの単語はない。なお、この「いちい」の歴史的仮名遣はブレがあるようで、所持する小学館「日本国語大辞典」では「一位」の項の中に本種が出るから、ここの通り、「いちゐ」で正しいのだが、ネットの辞書類を見ると、「いちひ」とするものが多い。]

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