佐々木喜善「聽耳草紙」 九番 黃金の臼
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]
九番 黃金の臼
昔、橫田村(今の遠野町)に孫四郞といふ百姓があつた。或日の朝、草苅りに物見山へ行つて、嶺(ミネ)の沼のほとりで草を苅つて居ると、不意に、孫四郞殿、孫四郞殿と自分の名を呼ぶ者があつた。誰かと思つて四邊を見たが人影もない。これは俺の心の迷ひだべと思つて、なほも草を苅り續けて居るとまた孫四郞殿、孫四郞殿と呼ぶ聲がする。初めて氣がつくと、沼のほとりに美しい女が立つて、こちらを手招ぎをしていた。孫四郞はこれは魔えん魔神(マシン)のものではないかと思つて魂消(タマゲ)て見て居ると、女は笑ひかけて、私は大阪の鴻ノ池《こうのいけ》の娘であるが、先年この沼へ嫁に來てから永い間實家(サト)の方サも便りをしたことがない。お前樣は近い中《うち》に伊勢參宮に上(ノボ)ると謂ふから、その序《ついで》にこの手紙を私の實家(サト)へ屆けてクナさいと言つて、一封の手紙を出した。そして大阪の鴻ノ池に往く路筋(ミチスヂ)や、いろいろな事を斯うしろあゝしろと敎へた。そしてこれは、ほんのシルシばかりだが道中の饌だと言つて錢百文を渡したうへ、この錢は皆んな使はないで一文でも二文でも殘して置くと、翌朝にはまた元の通りに百文になつてゐるから必ず少しは殘して置けと言ひ聞かせた。孫四郞は賴まれるまゝに女から手紙と錢百文を受取つて其の日は家に歸つた。
[やぶちゃん注:「橫田村(今の遠野町)」現在の岩手県遠野市のこの中央附近であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「物見山」現在の遠野町市街地の南背の遠野市綾織町下綾織にある物見山(同前)。標高九百十六メートル。
「大阪の鴻ノ池」大坂の富商。寛永二(一六二五)年に初代善右衛門が海運業を始め、主として諸侯の運送等を引き受け、のち両替商として大をなした。
「魔えん」「魔緣」は、厳密には、仏教に於いて正道を妨げる障魔となる悪縁(三障四魔)を指すが、同時に、特にそうした仏道修行を妨げる魔王である第六天魔王波旬(他化自在天)をも指し、さらに広義には、所謂、慢心した山伏らが変じた妖怪としての天狗、即ち、魔界である天狗道に堕ちた者たちの総称としても用いる。ここは「悪鬼」の謂いであろう。
「道中の饌」「饌」は「供え物・飲食すること」で、音は「セン・サン」であるが、「ちくま文庫」版では『餞(はなむけ)』とある。その方が、躓かない。]
それから間もなく村の衆どもに、伊勢參宮に往くべえという話が持ちあがり、話が順々に進んで、孫四郞もその同行の丁人に加つて上方へのぼつた。ところが沼の女からもらつた錢が、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に幾何《いくら》使つても使つても翌朝はもとの通りになつて居た。さうして漸く大阪に着いて諸所を見物してから、俺は一寸用達《ようた》しに行つて來ると言つて、同行に別れて物見山の女に敎はつた通りの道を行つた。すると一々樹木の立つてゐる樣や山の樣子が女の言つた通りであつた。山の中に入つて行くが行くが行くと、廣い池があつた。此所だと思つて、池のほとりに立つてタンタンタンと三度手を叩くと、一人の若い女が池の中から現はれた。孫四郞は俺は奧州の遠野といふ所の者だが、物見山の沼の姉樣から斯謂《かういふ》手紙を賴まれて來た。受取つてケてがんせと言つて出すと、その女は手紙を手に取つて見てから、ひどく喜んで、お前樣のお蔭で永年逢はない妹が無事で居ると謂ふことが分つて、これ程嬉しいことはない。この返事を遣《や》りたいから暫時(シバラク)待つてクナさいと言つて、其儘池の中に入つて行つたが、直ぐに一封の手紙を持つて來て、これをまた物見山の沼の妹のもとへ持つて行つて貰ひたいと言つた。孫四郞が心よく賴まれると、女はさもさも嬉しさうに禮を言つて、お前樣は私の爲めに同行に遲れたのだから是から馬で送つて上ませう。一寸(チヨツト)待つてクナさいと言つて、するすると水の中に入つて行つたが、直ぐに一疋の葦毛馬を引いて來て、さアこれに乘つて行きなさい。そして同行に追(カツ)ついたら此馬を乘り捨てるとよい。さうすれば獨りでに此所へ歸つて來るからと言つた。孫四郞は女に言はれるままに馬に乘つた。すると女は、目を瞑(ツム)つて開(ア)くなと言ふ。何もかにも女の言ふが儘にして居ると、馬は二搖(ユ)り三搖り動いて脚を止めた。孫四郞が目を開いて見ると、同行は目の前の道中の茶星で憩《やす》んで居る處であつたから、孫四郞は馬から下りた。すると馬はそのまゝもと來た道へと駈け戾つたやうであつたが、ヒラツと見えなくなつた。
同行の者等は驚いて、孫四郞お前は何處さ行つて來てア、彼《あ》の馬は何所から乘つて來たと口々に尋ねた。また其所の茶店の亭主も、お前樣の行かれたと謂ふ路に入つた者に今迄一人として戾つて來た者が無いから今も其話をして心配して居たところだつた。お前樣はどんな所へ行つて來たと頻りに仔細を問ふた。けれども孫四郞はただ夢のやうで、何が何だか一向分らないと言つて何にも言はなかつた。一同はともかくも孫四郞が無事に歸つて來たことを喜んだ。そうして[やぶちゃん注:ママ。]伊勢參宮も無事にすまして遠野に歸つた。
孫四郞は鴻ノ池の主(ヌシ)から、ことづかつた手紙を持つて物見山の沼へ行つた。そしてタンタンタンと三度手を打つと、いつかの女が出て來た。孫四郞はお蔭で無事に參宮して來たことの禮を言つた後、お前樣の手紙を鴻ノ池の姉樣に屆けると、この手紙を、よこしたと言つて手紙を渡した。女は大層喜んで、この手紙を讀んで姉と逢つたと二つない喜びだ。これも是も皆お前樣のお蔭だ。けれども何もお禮に上《あげ》る物はないが、この挽臼《ひきうす》を上るから大事にしろ。この挽臼は一日に米一粒づゝ入れて一回轉(ヒトカヘリ)廻(マワ)せば、金粒が一つづゝ出る。決して一カエリの上、廻すなと言つて、小さな石の挽臼をくれた。そして女は沼の中に入つて行つてしまつた。
孫四郞はその挽臼を大事に神棚に上げて、每日、米一粒入れて廻しては金粒一個(ヒトツ)づゝ出して、次第次第に長者になつた。ところが或日、夫の留守に其の妻が、家の人はこの臼コから獨りで金を取つて居るが、おれもホマツをすべと思つた。それには何時(イツ)も彼時(カツ)もさう勝手には出來ないから、一度にうんと金粒を出さうと思つて、ケセネ櫃《びつ》から米を大椀で一盃持つて來て、ザワリと其の挽臼に入れて、ガラガラと挽き廻した。すると挽臼はごろごろと神棚から轉び落ち、主人が每朝あげた水をこぽして、自然に小池となつて居た水溜りに滑り入つて見えなくなつてしまつた。
(この譚は「遠野物語」にも話し、また別話ではあるが物見山の沼の譚は「老媼夜譚」にも採錄してある。ただし本話は内容が變つているから又採記錄した。決して重複ではないのである。[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないのはママ。]
(孫四郞の末孫と謂ふのが、今現に遠野町にいる池ノ端(ハタ)と謂ふ家である。挽臼の轉び入つたと謂ふ池もあつたが、明治二十三年のこの町の大火の時に埋沒して今は無いとのことである。)
(同譚の類話は氣仙郡廣田村の五郞沼から八郞沼と云ふに手紙を持つて行つて、萬年臼という黃金を挽き出す寶臼《たからうす》をもらつて歸つたと謂ふ男の話もある。大正十一年五月九日。釜石尾崎《をさき》神社社司山本若次郞氏談話。)
[やぶちゃん注:最後の附記は三条とも全体が二字下げのポイント落ちである。本話は同一の起源に基づく伝承が、附記の最初にある通り、「遠野物語」の「二七」に記されてある。
「ホマツ」「穗末」で、「豊饒の残りに与(あず)かること」の意であろう。
「ケセネ櫃」柳田國男の「食料名彙」(初出『民間傳承』昭和一七(一九四二)年六月~十二月)の「ケシネ」の条に(国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田國男集」第二十九卷(一九七〇筑摩書房刊)を視認して示した)、
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ケシネ 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡・大分・佐賀の三県でも共に弘く雑食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では発音をケセネまたはキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言集)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があって、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の経済に応じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本来は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戶の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。
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とある。ここでは、「米を大椀で一盃持つて來て」とあるから、米櫃である。
『「老媼夜譚」にも採錄してある』同書の「四番 黃金丸犬」を指す(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部)。
「明治二十三年」一八九〇年。
「氣仙郡廣田村」現在の陸前高田市広田町(ひろたちょう:グーグル・マップ・データ・。以下同じ)。沼の名は確認出来ない。
「大正十一年」一九二二年。
「釜石尾崎神社」岩手県釜石市平田にある尾崎(おさき)神社。三陸海岸総鎮守を名乗り、当該ウィキによれば、『当社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点が尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が当社の起こりであり、祭神は日本武尊であるとされる』とある。]