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カテゴリー「佐々木喜善」の45件の記事

2023/03/21

佐々木喜善「聽耳草紙」 九番 黃金の臼

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   九番 黃金の臼

 

 昔、橫田村(今の遠野町)に孫四郞といふ百姓があつた。或日の朝、草苅りに物見山へ行つて、嶺(ミネ)の沼のほとりで草を苅つて居ると、不意に、孫四郞殿、孫四郞殿と自分の名を呼ぶ者があつた。誰かと思つて四邊を見たが人影もない。これは俺の心の迷ひだべと思つて、なほも草を苅り續けて居るとまた孫四郞殿、孫四郞殿と呼ぶ聲がする。初めて氣がつくと、沼のほとりに美しい女が立つて、こちらを手招ぎをしていた。孫四郞はこれは魔えん魔神(マシン)のものではないかと思つて魂消(タマゲ)て見て居ると、女は笑ひかけて、私は大阪の鴻ノ池《こうのいけ》の娘であるが、先年この沼へ嫁に來てから永い間實家(サト)の方サも便りをしたことがない。お前樣は近い中《うち》に伊勢參宮に上(ノボ)ると謂ふから、その序《ついで》にこの手紙を私の實家(サト)へ屆けてクナさいと言つて、一封の手紙を出した。そして大阪の鴻ノ池に往く路筋(ミチスヂ)や、いろいろな事を斯うしろあゝしろと敎へた。そしてこれは、ほんのシルシばかりだが道中の饌だと言つて錢百文を渡したうへ、この錢は皆んな使はないで一文でも二文でも殘して置くと、翌朝にはまた元の通りに百文になつてゐるから必ず少しは殘して置けと言ひ聞かせた。孫四郞は賴まれるまゝに女から手紙と錢百文を受取つて其の日は家に歸つた。

[やぶちゃん注:「橫田村(今の遠野町)」現在の岩手県遠野市のこの中央附近であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「物見山」現在の遠野町市街地の南背の遠野市綾織町下綾織にある物見山(同前)。標高九百十六メートル。

「大阪の鴻ノ池」大坂の富商。寛永二(一六二五)年に初代善右衛門が海運業を始め、主として諸侯の運送等を引き受け、のち両替商として大をなした。

「魔えん」「魔緣」は、厳密には、仏教に於いて正道を妨げる障魔となる悪縁(三障四魔)を指すが、同時に、特にそうした仏道修行を妨げる魔王である第六天魔王波旬(他化自在天)をも指し、さらに広義には、所謂、慢心した山伏らが変じた妖怪としての天狗、即ち、魔界である天狗道に堕ちた者たちの総称としても用いる。ここは「悪鬼」の謂いであろう。

「道中の饌」「饌」は「供え物・飲食すること」で、音は「セン・サン」であるが、「ちくま文庫」版では『餞(はなむけ)』とある。その方が、躓かない。]

 それから間もなく村の衆どもに、伊勢參宮に往くべえという話が持ちあがり、話が順々に進んで、孫四郞もその同行の丁人に加つて上方へのぼつた。ところが沼の女からもらつた錢が、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に幾何《いくら》使つても使つても翌朝はもとの通りになつて居た。さうして漸く大阪に着いて諸所を見物してから、俺は一寸用達《ようた》しに行つて來ると言つて、同行に別れて物見山の女に敎はつた通りの道を行つた。すると一々樹木の立つてゐる樣や山の樣子が女の言つた通りであつた。山の中に入つて行くが行くが行くと、廣い池があつた。此所だと思つて、池のほとりに立つてタンタンタンと三度手を叩くと、一人の若い女が池の中から現はれた。孫四郞は俺は奧州の遠野といふ所の者だが、物見山の沼の姉樣から斯謂《かういふ》手紙を賴まれて來た。受取つてケてがんせと言つて出すと、その女は手紙を手に取つて見てから、ひどく喜んで、お前樣のお蔭で永年逢はない妹が無事で居ると謂ふことが分つて、これ程嬉しいことはない。この返事を遣《や》りたいから暫時(シバラク)待つてクナさいと言つて、其儘池の中に入つて行つたが、直ぐに一封の手紙を持つて來て、これをまた物見山の沼の妹のもとへ持つて行つて貰ひたいと言つた。孫四郞が心よく賴まれると、女はさもさも嬉しさうに禮を言つて、お前樣は私の爲めに同行に遲れたのだから是から馬で送つて上ませう。一寸(チヨツト)待つてクナさいと言つて、するすると水の中に入つて行つたが、直ぐに一疋の葦毛馬を引いて來て、さアこれに乘つて行きなさい。そして同行に追(カツ)ついたら此馬を乘り捨てるとよい。さうすれば獨りでに此所へ歸つて來るからと言つた。孫四郞は女に言はれるままに馬に乘つた。すると女は、目を瞑(ツム)つて開(ア)くなと言ふ。何もかにも女の言ふが儘にして居ると、馬は二搖(ユ)り三搖り動いて脚を止めた。孫四郞が目を開いて見ると、同行は目の前の道中の茶星で憩《やす》んで居る處であつたから、孫四郞は馬から下りた。すると馬はそのまゝもと來た道へと駈け戾つたやうであつたが、ヒラツと見えなくなつた。

 同行の者等は驚いて、孫四郞お前は何處さ行つて來てア、彼《あ》の馬は何所から乘つて來たと口々に尋ねた。また其所の茶店の亭主も、お前樣の行かれたと謂ふ路に入つた者に今迄一人として戾つて來た者が無いから今も其話をして心配して居たところだつた。お前樣はどんな所へ行つて來たと頻りに仔細を問ふた。けれども孫四郞はただ夢のやうで、何が何だか一向分らないと言つて何にも言はなかつた。一同はともかくも孫四郞が無事に歸つて來たことを喜んだ。そうして[やぶちゃん注:ママ。]伊勢參宮も無事にすまして遠野に歸つた。

 孫四郞は鴻ノ池の主(ヌシ)から、ことづかつた手紙を持つて物見山の沼へ行つた。そしてタンタンタンと三度手を打つと、いつかの女が出て來た。孫四郞はお蔭で無事に參宮して來たことの禮を言つた後、お前樣の手紙を鴻ノ池の姉樣に屆けると、この手紙を、よこしたと言つて手紙を渡した。女は大層喜んで、この手紙を讀んで姉と逢つたと二つない喜びだ。これも是も皆お前樣のお蔭だ。けれども何もお禮に上《あげ》る物はないが、この挽臼《ひきうす》を上るから大事にしろ。この挽臼は一日に米一粒づゝ入れて一回轉(ヒトカヘリ)廻(マワ)せば、金粒が一つづゝ出る。決して一カエリの上、廻すなと言つて、小さな石の挽臼をくれた。そして女は沼の中に入つて行つてしまつた。

 孫四郞はその挽臼を大事に神棚に上げて、每日、米一粒入れて廻しては金粒一個(ヒトツ)づゝ出して、次第次第に長者になつた。ところが或日、夫の留守に其の妻が、家の人はこの臼コから獨りで金を取つて居るが、おれもホマツをすべと思つた。それには何時(イツ)も彼時(カツ)もさう勝手には出來ないから、一度にうんと金粒を出さうと思つて、ケセネ櫃《びつ》から米を大椀で一盃持つて來て、ザワリと其の挽臼に入れて、ガラガラと挽き廻した。すると挽臼はごろごろと神棚から轉び落ち、主人が每朝あげた水をこぽして、自然に小池となつて居た水溜りに滑り入つて見えなくなつてしまつた。

  (この譚は「遠野物語」にも話し、また別話ではあるが物見山の沼の譚は「老媼夜譚」にも採錄してある。ただし本話は内容が變つているから又採記錄した。決して重複ではないのである。[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないのはママ。]

  (孫四郞の末孫と謂ふのが、今現に遠野町にいる池ノ端(ハタ)と謂ふ家である。挽臼の轉び入つたと謂ふ池もあつたが、明治二十三年のこの町の大火の時に埋沒して今は無いとのことである。)

  (同譚の類話は氣仙郡廣田村の五郞沼から八郞沼と云ふに手紙を持つて行つて、萬年臼という黃金を挽き出す寶臼《たからうす》をもらつて歸つたと謂ふ男の話もある。大正十一年五月九日。釜石尾崎《をさき》神社社司山本若次郞氏談話。)

[やぶちゃん注:最後の附記は三条とも全体が二字下げのポイント落ちである。本話は同一の起源に基づく伝承が、附記の最初にある通り、「遠野物語」の「二七」に記されてある。

「ホマツ」「穗末」で、「豊饒の残りに与(あず)かること」の意であろう。

「ケセネ櫃」柳田國男の「食料名彙」(初出『民間傳承』昭和一七(一九四二)年六月~十二月)の「ケシネ」の条に(国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田國男集」第二十九卷(一九七〇筑摩書房刊)を視認して示した)、

   *

ケシネ 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡・大分・佐賀の三県でも共に弘く雑食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では発音をケセネまたはキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言集)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があって、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の経済に応じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本来は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戶の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。

   *

とある。ここでは、「米を大椀で一盃持つて來て」とあるから、米櫃である。

『「老媼夜譚」にも採錄してある』同書の「四番 黃金丸犬」を指す(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部)。

「明治二十三年」一八九〇年。

「氣仙郡廣田村」現在の陸前高田市広田町(ひろたちょう:グーグル・マップ・データ・。以下同じ)。沼の名は確認出来ない。

「大正十一年」一九二二年。

「釜石尾崎神社」岩手県釜石市平田にある尾崎(おさき)神社。三陸海岸総鎮守を名乗り、当該ウィキによれば、『当社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点が尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が当社の起こりであり、祭神は日本武尊であるとされる』とある。]

2023/03/20

佐々木喜善「聽耳草紙」 八番 山神の相談

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     八番 山神の相談

 或る時、六部《ろくぶ》が或村へ來て、山神の御堂に宿つて居た。眞夜中に人語がすると思つて眼を覺ますと、山神と山神とで話をしていた。今夜は行かなかつたな。あゝ、お客があつて行かなかつたが首尾は如何《どう》だつた。うん、母(アンバ)も子(ワラシ)も丈夫だ。それで何歲(ナンボ)までかな、イダマスども七歲(ナヽツ)までだ。そしてチヨウナン(釿《てうな》)で死ぬ……

 六部は何の話かと思つて聽いて居た。其の後七年經つて、六部が又其の村へ行くと、在る家で大工であつた親父が、子供を傍《そば》に寢かして置いて仕事をして居たが、子供の寢顏に虻(アブ)がタカツたので、手に持つてゐた釿で追ひ拂はふとして子供の頭を斬り割つたと云つて大騷ぎをして居るところであつた。

 六部は七年前の御堂での山神樣達の話を思ひ出して、あゝ神樣達はこの事を言つたのだなアと始めて思ひ當つた。

  (田中喜多美氏の御報告分の二、摘要。)

[やぶちゃん注:「六部」「六十六部」の略で、本来は全国六十六ヶ所の霊場に、一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称を「回国行者」とも称した。本邦特有のもので、その始まりは、聖武天皇(在位:七二四年~七四九年)の時とも、最澄在世(七六六年~八二二年)の頃とも、或いは、ずっと下って鎌倉時代の源頼朝・北条時政の時代ともされ、定かではない。実際には、恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、民間人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲・脚絆、甲掛(こうがけ:履き物に添える補助具。主に足の甲を保護するためのもので、形は足袋によく似ているが、底はない。材料は白若しくは紺の木綿で、強度を増すために刺子にすることが多い。これをつけるのは草鞋を履く時で、甲に紐を巻きつける際、甲や側面に擦り傷がつくのを防ぐ)、股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。彼らは、地域社会では異邦人・異人であり、各地に、迎えておいて、騙して殺害して金品等を奪ったが、その後に生まれた子が殺した六部の生まれ変わりで、仇(あだ)を成すといったタイプの「六部殺し」怪奇譚でも知られる(当該ウィキを参照されたい)。

「イダマスども」東北地方及び岩手方言で「いだましねえども」で「惜しい(傷ましい)ことだけれども」の意。

「チヨウナン(釿)」歴史的仮名遣「てうな」は現代仮名遣で「ちょうな」。大工道具の一つ。「手斧」と書く方が一般的。柄の先が曲がっていて、先に平らな刃が柄に対して左右に伸びた形で付けた、小型の鍬のような形をした斧に似た刃物。木材の表面を平らに仕上げるために、初めに「荒削り」をするのに用いる。「ちやうな(ちょうな)」は「ておの」が転訛したもの(講談社「家とインテリアの用語がわかる辞典」を主文に用いたが、使用している絵と画像は「広辞苑無料検索」のこちらの写真がよい)。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/03/19

佐々木喜善「聽耳草紙」 七番 炭燒長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   七番 炭燒長者

 

 或る所に、隣同志の仲の良い父(トヽ)共があつて、木を伐りに山へ行き、其處の山神の御堂に入つて泊つて居ると、二人は言ひ合はしたやうに、同じ夢を見た。その夢は、自分等が泊つて居る御堂へ何處からか多勢の神々が寄り集つて、がやがやと何事か相談し合つてゐるところである。其の中の一人の神樣が、やいやい此所《ここ》の主の山神が見えぬが如何《どう》したと言つた。これは本當に可笑しい、如何したのだらうと言ひ合つて居る所に、外から其の山神が還つて來た。如何した、何處へ行つて居たといふ神々の問ひに、山神の言ふには、留守にして居て濟まなかつた。實は此の下の村に、お產があつたものだから、それを產ませてから來ようと思つて、思はず暇をつぶしたが、先づ何れも無事で此の世の中に又二人の人間が出たから喜べと言ふ。神々は、それはよかつた。して產れた子は男か女かと問ふと、山神は男と女だ、隣合つて一緖だつたと言つた。そうか、そして其の子供等の持運《もちうん》は如何だつた。そうさ、女の兒の方は鹽一升に盃一個と言ふ所だが、男の兒は米一升しか持つて居なかつたと言ふ。緣は、と又神々が訊いた。緣か、緣は初めは隣同志だから二人を一緖にしようと思ふが、とにかくそうして置いてから復(マタ)考へてみようと言つた…と思うと不圖《ふと》二人の父(トヽ)は目を覺《さま》した。そしてその夢を言ひ合つて互に不思議に堪えられず、まだ夜も明けなかつたが、共々家へ歸つた。家へ歸つて見ると、夢の通り兩方に男と女の兒が產れて居た。

 二人の子供は大きくなつて、夫婦になつた。其の家は俄に富み榮えて繁昌した。その女房は、神樣から授つたやうに、一日に鹽一升を使ひ盃が手から放れないで、出入の者にザンブゴンブと酒を飮ませた。それだから其の家の門前はいつも市のやうに賑かであつた。夫はそれを見てひどく面白くなかつた。何でもかんでも湯水のやうに使ふても、こんなに物がたまるのだから、妻が居《を》らなかつたら此上どんなに長者になれるか知れないと考へて、或る日妻を追出《おひだ》した。妻は泣いて詫びたけれども遂に許されなかつた。

 妻は夫の家を出て、何處といふ目的(アテ)もなしに步いて行つたが、其の中に日が暮れた。腹が空いてたまらぬので、路傍の畑に入つて大根を一本拔いて食べようと思つて、大根を拔くと、其の跡(アト)から佳い酒の香りがして水が湧き出した。それを掬つて飮むと水ではなくて酒であつた。妻はお蔭で元氣を取り返して、斯う歌つた。

   古酒(フルサケ)香(カ)がする

   泉の酒が湧くやら

 そして自分で自分に力をつけて、道を步いて行つた。すると向ふの山の方に赤い灯の明りが見えた。女房はそれを目宛(メアテ)に辿つて其處へ行つて見ると、一人の爺が鍛冶をしてゐた。女房は火の側へ寄つて行つて、今夜泊めてクナさいと言つた。爺は見らるゝ通りの貧乏だから、とても泊めることは出來ぬと答へた。すると女房は、お前が貧乏だと言ふなら、世の中に長者はあるまい。見申《みまを》さい、この腰掛石や敷石や臺石を、これを何だと思ひますと言ふと、爺はこれはただの石だと言つた。否々これは皆《みな》金だ、金だから町へ持つて行つて賣《う》ンもさいと女房が敎へた。

 爺は翌日其の中の一個を町へ持つて行つて見た。町では[やぶちゃん注:底本は「見た 町 は」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]何處でもこれは大したものだ。とてもこれに引換へるだけの金(カネ)を爺一人で背負つて行けるものではないと言はれた。さう言はれる程の多くの金を爺は叺《かます》に入れて背負つて歸つた。山の鍛冶小屋の附近は一體にそれであつたから、爺と女房は忽ちに長者となつた。そしてまた女房の方では、土を掘ると前のやうに酒が湧き出たので、これも酒屋をはじめ其の山は俄に町となつた。女房の先夫は、ひどく貧乏になつて、息子と二人で薪木《たきぎ》を背負つて其の町へ賣りに來たりした。

  (和賀《わが》郡黑澤尻町《ころさはじりちやう》邊にある話、家内の知つていた分。)

[やぶちゃん注:「炭燒長者」譚は日本各地に伝承される長者譚である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 炭燒小五郞がこと」(全十二回分割)を参照されたい

「和賀郡黑澤尻町」現在の岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)。

「家内」私は佐々木喜善の詳細年譜を所持しないが、この謂いからは彼の妻女はその黒沢尻の出身であったのであろう。]

2023/03/18

佐々木喜善「聽耳草紙」 六番 一目千兩

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     六番 一目千兩

 

 昔、奧州に一人のヤモメ男があつた。何とかして金儲けをしたいと思つて居た。そのうちに盆が來たので、蓮の葉を江戶へ持つて行つて、一儲けしやうと考へた。田舍で蓮の葉を買い集めると恰度《ちやうど》船で三艘あつた。それを江戶のお盆に間に合ふやうにと急いだが、江戶に着いてみると、昨日で盆が過ぎたと云ふところだつたので落膽した。

 男は甚だ困つたが、思ひきつて殿樣に謁見に及んで、私は今度奧州から美事な蓮の葉を運んで來ましたが、昨日でお盆が濟んで不用なものになりました。何卒もう一度御盆のやり直しを、殿樣から御布令《おふれ》して頂きたうございますと願ひ出た。すると殿樣は御聽き上げになつて、家來を集めて、今度奧州から珍しい蓮の葉が屆いたから、改めて又盆をしろと布令出させた。三艘の船の蓮の葉が、一艘一千兩づつに賣れて忽ちのうちに男は三千兩の大金を儲けた。

 その頃、日本中で一番美しいと云はれる女が江戶に居たが、なかなか人に顏を見せなかつた。一目見ると千兩と云ふ莫大な金が入るから、誰も三度見たことが無かつた。ただ女の居間の障子がスウと開いてすぐパタンと閉めたきりで千兩と云ふのだから、皆呆れて歸つて行くのであつた。

 奧州の男も、國の土產(ミヤゲ)に一度見て歸りたいと思い、その女の所へ出かけて行つた。まづ千兩出して賴むと障子が兩方ヘスウと開いて、忽ちバタンと閉まつた。成程女の顏は花のやうに美しかつたが、どうも夢のやうではつきり見えなかつたので、もう千兩出して賴むと、また先刻の通りであつた。それでも猶諦めかねて、三度目にまた千兩出して賴むと、またスウト障子が開いたが、今度は女が笑つて居た。けれども男は持つてゐた三千兩の金をば皆無くしてしまつたので、これからどうして國へ歸つたらよかろうかと思案して居ると、女が出て來て、お前さんはどうしてそんなに思案顏して居るかと言つた。男は俺はもう一文も無いので奧州へ歸る工夫をして居ると言ふと、女は今迄二度までは見てくれても、三度まで妾《わらは》を見てくれた者がないのにお前さんは持ち金全部を出して見てくれた、それで私はお前さんの氣象に惚れた、どうか私を女房にして奧州へ連れて行つて下さいと言つた。そして女の持ち金全部を持つて、共に奧州に歸つて長者となつた。

  (岩手郡雫石《しづくいし》村、田中喜多美氏の御報告の一《いち》、摘要。)

[やぶちゃん注:「岩手郡雫石村」岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう:グーグル・マップ・データ)。

「田中喜多美」(明治三三(一九〇〇)年〜平成二(一九九〇)年:佐々木より四つ年下)は岩手県雫石町出身の民俗学者・郷土史家。尋常高等小学校を卒業後、高等科に進学するものの、家庭の事情により退学、農業に従事しながら、全くの独学で勉学読書に励んだ。後に岩手県教育会・岩手県庁に勤務し、岩手県の歴史と文化についての研究・振興に多大な功績をあげた(サイト「神奈川大学 国際常民文化研究機構」のこちらに拠った)。]

2023/03/17

佐々木喜善「聽耳草紙」 五番 尾張中納言

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   五番 尾張中納言

 

 美女の繪姿を見て、さう云ふ女を探して千日の旅をした男があつた。その繪姿が尾張の國のお城に一枚、生家に一枚、日本國中に一枚ある。其の男は或る日床屋に一枚あるのを見て、五十兩出して其れを求めた。

 それから其の女を探し尋ねて日本國中を步いた。尋ね倦(アグ)んで山中に迷入《まよひい》つた。道を迷つて山中の孤(ヒトツ)屋にたどり着いた。其の家の門前に男禁ずと云ふ立札があつた。其の家には老婆が一人居た。其の家に泊つた。其の老婆の顏が繪姿の女の顏に似てゐたので譯を糺して訊くと、其の人の娘だと言つた。其の娘は今は尾張の國のお城の中に居ると言つた。

 男は尾張の國のお城に忍び込んだ。外門《そともん》には番人が八人、三《さん》の門には赤鬼丸と云ふ犬が居てなかなか入れなかつた。また人間一人入れば一の花が二つ咲くと云ふ花園もあつた。

  其の男は中納言になつた。(この間の内容は話者が忘れて居て、どうしても思ひ出せなかつた。)[やぶちゃん注:二字下げはママ。]

 (大正十年十一月三日、村の犬松爺の話の中の一《いち》。)

[やぶちゃん注:この話、非常に興味深いのだが、中途部分の大事な転回点が失われているのは非常に惜しい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四番 蕪燒笹四郞

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

    四番 蕪燒笹四郞

 

 或る所に蕪燒《かぶやき》笹四郞といふ極く貧乏な、そのくせ、働き嫌ひな男があつた。日々每日(ヒニチマイニチ)蕪ばかり燒いて食つて居るので、誰言ふとなくさう謂ふ名前がついて朋輩どもも見るに見兼て居た。

 或る日の夕方何處から來たか一人の旅の女が、笹四郞の家の玄關に立つて、今晚一夜泊めてクナさいと言つた。笹四郞は俺の所には食ふ物も飮む物も無いから、外の家さ行つて宿を乞ふて見ろと言つた。すると其女は、例へ飮むものも無くてもよいからどうか泊めてクナさいと言つてきかなかつた。笹四郞も仕方がないから、ほんだら泊れと言つた。女は其晚泊つたが、それから其翌日も其次の日も立つフウがなかつた。さうして笹四郞と夫婦になつた。

 其女は極く々々利巧な才智のある女であつた。良人がさうして每日蕪ばかり燒いて食つて居るのを見て、これは困つたことだ。何とかして一人前の人間にしたいものだと思つて、自分の衣類や髮飾等を賣拂つて旅金《りよぎん》を作り、これこれ此金を持つて何處へでもいゝから行つて一仕事して來てがんせ。そのうち私は此家に待つて居るからと言つた。笹四郞もそんだら俺もさうするからと言つて家を出て行つた。ところが其日の夕方ぶらりと家へ戾つて來た。そして俺はどうしてもお前が戀しくて旅には出られないから還つて來たと言つた。それでは私の繪姿を畫《か》いてやるからそれを持つて行つたらよいと言つて、女房は自分の姿を繪に畫いて夫に渡した。

 笹四郞は女房の繪姿を持つて再び旅に出た。途中も女房が戀しくて堪らず、懷中(フトコロ)から繪姿を出して見い見い行つた。そして或る峠の上でまた出して擴げて見て居ると、ぱツと風が吹いて來て姿繪をバエラ吹き飛ばしてしまつた。笹四郞はこれは大變だと思つて、泣くばかりになつて其處邊《そこらへん》をいろいろと探してみたけれども、如何《どう》しても見付からなかつた。仕方がないから復《また》女房の許へ戾つて來た。女房はお前がそれほど妾《わらは》を戀しいなら何處へも行かないで、家で草鞋《わらぢ》でも作つて居てがんせと言つた。笹四郞は喜んでそれではさうすべえと言つて、女房の側《そば》にいて、每日々々草鞋を作つて居た。[やぶちゃん注:「バエラ」「ばっと」のオノマトペイアの方言であろう。]

 笹四郞が女房の繪姿を風に攫はれた翌日、所の殿樣が多勢の家來を連れて其の峠を通つた。高嶺に登つて眺めると餘り景色がよいものだから、四邊の景色に見惚れて居た。すると或る木の枝に美しい女の繪姿が引懸つてゐるのを見付けた。あれは何だ。あれを取つて來いと家來に言ひつけて、手元に取り寄せた。殿樣はそれを見て、世にも斯んなに美しい女があるものか、誰か此女を見知つて居るものはないかと言つた。すると家來のうちに、それは此峠の下の蕪燒笹四郞と云ふ者の女房であると言ふ者があつた。それでは其女を見たいと言つて俄に用事を變へて、笹四郞の家へ寄つた。寄つて見ると、其の女房は繪姿にも增さる美女であつたので、厭(ヤンタ)がるのを無理やりに自分の駕籠に入れて、お城へ連れて行つた。

 笹四郞はたつた獨りになつて心配して居た。其所へ朋輩が來て、笹四郞お前は何をそんなに心配顏をして居ると言つた。笹四郞は斯々《かくかく》の譯だ、ナゾにすべえと言ふと、朋輩はそれでは俺の言ふ通りにして見ろと言つて、ある智惠を授けた。

 笹四郞はその翌日、ボテ笊《ざる》に柿や梨の實等を入れて擔いで、梨や柿やアとフレながら殿樣のお城へ行つた。笹四郞の女房はその聲を聽きつけて、はてはて自分の夫の聲に似たなアと思つて、柿賣の男を見たいと殿樣に言つた。何でもかんでも女房の言ふことは聽く殿樣だから、そんだらその柿賣をお庭に廻せと家來に言ひつけた。女房は柿賣り[やぶちゃん注:ここ以降では「り」を送っている。]の入つて來たのを見ると如何にも自分の夫であつたので思わず莞爾(ニツコリ)と笑つた。[やぶちゃん注:「ボテ笊」「ボテ」は「ぼてふり(棒手振り)」の略で、その「てんびん棒」で擔(かつ)ぐ笊籠を言う。]

 今迄どんなに機嫌を取つても、なぞな事をしても、笑顏を見せなかつた女が初めて笑つたので、殿樣はこれは此女はあんな裝(フウ)な物賣りの姿が氣に入るんだなと思つた。そこで喜んで、こりや柿賣屋お前の衣物も道具も皆此方《こつち》さ寄こせと言つて、笹四郞から衣物《きもの》だの物賣り道具などを取上げて御自分の體に着たり持つたりした。それから自分の立派な衣裳をば笹四郞に着せて、自分の居座《ゐぐら》にすわらせた。そして御自分で柿の入つたボテ笊を擔いで、はい柿や梨やアと物賣りのまねをして、庭中《にはぢゆう》を彼方此方と步いた。それを見て女房は大層可笑しく思つて體を屈めて笑つた。すると殿樣はまた大きに興に乘つて、果ては道化《だうけ》たまねまでして、いよいよ大聲に叫んで、屋敷の中を彼方此方と步き廻つた。其時笹四郞は女房に敎へられて斯う聲をかけた。狼籍者がまぎれ込んだア。早く外へ追ひ出せ追ひ出せと言つた。其の聲を聞きつけて多勢《おほぜい》の家來共が走《は》せて來て、厭がる殿樣を城の外に追ひ出した。

 さうして笹四郞夫婦はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]其のお城の殿樣となつた。

  (同前の三)

[やぶちゃん注:「王子と乞食」型の昔話である。柳田國男は「炭燒小五郞が事 八」及び同「一〇」でも、この話に言及している(リンク先は私のブログの電子化注)。

「同前」はと、前の前の話柄の附記(情報提供者その他)を指示する。]

2023/03/16

佐々木喜善「聽耳草紙」 三番 田螺長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

    三番 田螺長者

 

 昔、或る所に大層な長者どんがあつた。田地、田畠、山林、原野もあり餘るほどあつて、村の人達からは彼所《あそこ》の長者どんでは何も不自由だと謂ふことを知らないこツたと云はれてゐた。

 所がその長者どんの田を作つて居る名子(ナゴ)の中に、其の日の煙《けぶ》りも立てゝ行けぬほどの貧乏な夫婦があつた。夫婦ははア四十も越して居たが、子供と云ふものがない。夜などは嘆いて、ナゾにかして子供を一人欲しいもんだ。吾が子と名の付いたもんだら、ビツキ(蛙)でもいゝ、ツブ(田螺)でもいゝ。さう言つて御水神樣へ詣つて願掛けをした。御水神樣は水の神樣であるから百姓には此れ位ありがたい神樣はないのであつた。[やぶちゃん注:「名子」中世以降、荘園領主や有力名主に隷属した下層零細農民。農繁期には領主・名主の農地耕作などを手伝い、農閑期には山林労働に従事したりして生活を支えた。「脇名百姓」(わきみょうびゃくしょう)「小百姓」(こびやくしょう)などと、荘園によって呼び名が色々あった。なお、地方によっては、近世に至っても、本百姓に隷属している者もあった(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 或日のこと、女房は田の草取りに行つてゐて、いつものやうに日なが時なが、御水神樣もうし、其所《そこ》ら邊りにゐる田螺のやうな子供でもよいから、どうぞ俺ラに子供を一人授けて賜(タ)もれや、あゝ尊度(トウタ)い々々々と思つたり言つたりしてゐると、急に腹が痛くなつて、なやなやめいて來た。忍耐(ガマン)すればする程痛みが增して來るので、遂々《たうとう》耐(タマ)りかねて家ヘ屈(コヾ)み々々歸ると、夫は心配して、いろいろと介抱をしたが、どうしても直らなかつた。お醫者樣を賴みたいにも金はなし、はてナゾにしたらよからうと思つた。近所に幸ひコナサセ產婆(婆樣)があつたから、少し筋道は違ふと思つたけれども、賴んで來て診て貰ふと、婆樣はこれは普通(タヾ)の腹痛ではない。女房(ガカ)が身持ちになつて、兒どもが生れるところだと言つた。それを聞いて夫婦は喜んで、にわかに神棚にお燈明を上げたりなどして、一心に安產させて下さいと願ふと、やや一時(ヒトトキ)あつて、一匹の小さな田螺(ツブ)が生れた。[やぶちゃん注:「コナサセ產婆」岩手の方言で「ナサ」は同氏「なす」で「産む」の意であり、その使役形で「子を産まさせる者」。「產婆」の畳語である。]

            ×

 生れた田螺の子には皆驚いたが、これは何でも御水神樣の申し子だからと云ふので、お椀に水を入れて、其の中へ入れ、神棚に上げて、大事にして育てゝ居たが、不思議なことに、其の田螺の子は生れてから二十年にもなるが、少しも大きくならなかつた。それでも御飯などは普通に食べるが物は一聲《ひとこゑ》も言へなかつた。

 或る日のこと、齡取つた親父は、大家(オホヤ)の長者どんに納める年貢米を馬につけながら、さてさて切角《せつかく》御水神樣から申し子を授かつて、やれ嬉しやと思ふと、あらう事かそれが田螺の息子である。田螺の息子であつて見れば何の役にも立たない。俺は斯うして一生働いて妻子を養はなければなるまいと歎くと、それでは父親(トヽ)々々、今日は俺がその米を持つて行く…と云ふ聲が何所《どこ》かでした。父親は驚いて四邊をきよろきよろ見廻したけれども誰も居らぬ。不思議に思つて、そんな事を言ふのは誰だと云ふと、俺だ々々、田螺の息子だ。今迄長い間えらい御恩を受けたが、もうそろそろ俺も世の中に出る時が來たから、今日は俺が父親(トヽ)の代りになつて、檀那樣の所へ、年貢米を持つて行くと言つた。どうして馬を曳いて行けヤと訊くと、俺は田螺だから馬を曳いて行くことは叶はぬが、米荷の間に乘せてくれさへすれば、何の苦もなく馬を自由に曳いて行けると言ふ。父親は今まで物も云はなかつた田螺が物を云ひ出したばかりか、自分の代りに年貢米を納めに行くと謂ふのであるから大變驚いた。然しこれも御水神樣の申し子の言ふことだ。背いたなら又どんな罰《ばち》が當るかも知れないと思つて、馬三匹に米俵をつけて、言はれる通りに、神棚のお椀の中に居る田螺をつまんで來て、其の荷の間に乘せて遣ると、田螺は普通の人間のやうな聲で、それでは父親(トト)も母親(ガカ)も行つて來る。ハイどう、どう、しツしツと上手に馬どもを馭《ぎよ》して家のジヨノクチを出て行つた。

 父親は出しには出して遣つたが、息子のことが心配でならぬので、その後を見えがくれについて往くと、丁度人間がやるやうに水溜りや橋のやうな所をば、はアい、はアいと聲がけして、シヤン、シヤンと進んで行く。そればかりか美しい聲を張り上げて、ほのほのと馬方節《うまかたぶし》などを歌つて行くが、馬もその聲に足並を合はせて、首の鈴をジャンガ、ゴンガと振り鳴らし勇みに勇んで行く。往來や田圃に居る人達はこの有樣を見て驚いて、聲はすれども姿は見えぬとは此の事だ。あの馬は慥かにあの貧乏百姓の瘦馬に相違ないが、一體あの聲は何所で誰が歌つて居ることだと、不思議がつて眺めて居た。

 それを見た父親は大變に思つて、直ぐに家へ引返して、神棚の前に行つて、もしもし御水神樣、今迄は何にも知らなかつたものだから、田螺をあゝして置きましたが、大變ありがたい子供をお授け下されんした。それにつけても無事息災に向ふへ行き屆くやうに、あの子や馬の上を、どうぞお護り有(ヤ)つてクナさいと、夫婦で一心萬望《いつしんまんばう》神樣を拜んで居つた。

            ×

 田螺はそんな事には頓着なく、どんどん馬を馭して、長者どんのもとへ行つた。下男どもが、それ年貢米が來たと言つて出て見ると、馬ばかりで誰も人間がついて居ない。どうして斯う馬ばかり寄こしたベツて話して居ると、米を持つて來たから、どうか下(オロ)してケデがいと云ふ聲が馬の中荷の所でした。何だ誰がそんな所に居《ゐ》れヤ。誰もいないぢやないかと云つて、中荷の脇を覗いて見ると、小さな田螺が一ツ乘つて居た。田螺は俺はこんな體で馬から荷物を下すことが出來ないから、申譯ないが下してケデがい。俺の體も潰さないやうに、椽側《えんがは》の端の上にでもそつと置いてケテガムと言つた。下男どもは驚いて、檀那樣シ檀那樣シ田螺が米を持つて來《き》んしたと聞かせると、檀那樣も驚いていそいそ出て來て見れば、如何にも下男の云ふ通りであつた。そのうちに家の人達もぞろぞろと出て來て見る。そして皆々不思議なことだと話し合つた。

 其の中に田螺の指示で米俵も馬から下して倉に積み、馬には飼葉を遣り、田螺をば内に入れて御馳走を出した。お膳の緣《ふち》にタカつて居る田螺は、他人の目には見えぬが、お椀の御飯がまづ無くなり、其の次には汁物が、魚がと云ふ風に無くなつて、仕舞ひにはもう充分頂きんした、どうぞお湯をなどと云ふのであつた。檀那樣は、かねて御水神樣の申し子が田螺の息子だと云ふことは聞いて居たが、こんなに不思議な物とは思つて居なかつた。恰度人間のやうに物を言つたり働いたりするべとは居なかを思はなかつたので[やぶちゃん注:「居なかを」はママ。現行の衍文か、誤植であろう。]、これを自分の家の寶物にしたいと思つた。そして、田螺殿々々々お前の家と俺の家とはお互に祖父樣達《じいさまたち》の代から代々出入りの間柄の仲だ。俺の所に娘が二人居るが、其の中の一人をお前のお嫁に遣つてもよいと云つた。こんな寶物をたゞで家のものに、することは出來まいと思つたからであつた。

 田螺はそれを聽いて大層喜んで、それは眞實《まこと》かと念を押した、檀那樣は、本當だとも、二人の娘のうち一人を上げやうと堅い約束をして、其の日は田螺に色々な御馳走をして還した。

            ×

 父親母親は、田螺のこと、なんたら歸りが遲かベヤ、何か途中で間違ひでもなければよいがと案じて居るところに、田螺は三匹の馬を連れてえらい元氣で歸つて來た。そして夕飯時に、俺は今日長者どんの娘さんをお嫁に貰つて來たと云つた。父母はそんな事が有る筈がないと目を睜《みは》つたけれども、何云ふも御水神樣の中子の云ふことだから、一應長者どんに人を遣つて訊いて見べえと思つて、伯母を賴んで聞きに遣ると、田螺の云ふのは眞實のことであつた。

 そこで檀那樣は二人の娘を呼んで、お前達のうち誰か田螺の所にお嫁に行つてケろと言うと、姉娘は誰が蟲螻(ムシケラ)のところなんかさ嫁《い》く者があんべや、 [やぶちゃん注:字空けはママ。]俺厭《や》んだと云つてドタバタと荒い足音を立てゝ座を蹴立てゝ行つてしまつた。それでも優しい妹娘の方は、父樣(トヽ)が切角あゝ云ふて約束された事なんだから、田螺の所には私が嫁くから心配してがんすなと云つて慰めた。伯母はさう謂ふ長者どんからの返辭を持つて歸つて來て知らせた。

            ×

 長者どんの乙娘《おとむすめ》[やぶちゃん注:「下の娘」の意。]の嫁入り道具は、七疋の馬にも荷物がつけきれないほどで簞笥長持が七棹づつ、其の外の手荷物は有り餘るほどで、貧乏家にはそれが入れ切れないから、長者どんでは別に倉を建てゝくれた。聟の家には何にもない。親類も無いから、父母と伯母と近所の婆樣とを呼んで來て目出度い婚禮をした。

 花コよりも美しい嫁子を貰つて、父母の喜びは物の例へにも並べられない。それにまた娘が實の父母よりも親切に仕へる。野良へも出て働いてくれるので、前よりはずつと生活(クラシ)向きも樂になつた。これも皆神樣のお影だと云つて、父母は一生懸命に御水神樣を拜んで居た。

 其の中に月日が經《た》つ…お里歸りを何日にしやうと相談すると、やつぱり四月八日の村の鎭守の藥師樣の祭禮が濟んでからと謂ふことにした。さうして居る中に春になつた。花コも咲けば鳥コらも飛んで來て鳴くやうになつた。いよいよ四月八日のお藥師樣の御祭日になつた。

 娘は祭禮を見に行くとて、美しく化粧して、長持の中から綺麗な着物を出して着た。見れば見るほど天人とも例(タト)へられない。花コだとも例へられないほど美しい。仕度が出來上つてから、田螺の夫に向つて、お前も一緖にお祭を見に參りませうと言ふと、さうかそれでは俺も連れて行つてケ申せ。今日は幸ひお天氣もいゝから久しぶりで外の景色でも眺めて來るべなどと云ふ。そこで娘は自分の帶の結び目に夫の田螺を入れて、お祭禮場さして出かけて行つた。

 その途中も二人は睦ましく四方山《よもやま》の話をしながら行く。道往く人や行摺《ゆきず》りの人達は、あれあんなに美しい娘子が、獨りで笑つたり語つたりして行く。可愛想に氣でも違つたものだべなアと言つて眺めて行く。そんな風で二人は遂々《たうとう》お藥師樣の一の鳥居の前まで來た。すると田螺は、これこれ俺は譯あつて、これから先きへは入《はひ》れぬから、どうか道傍(ミチバタ)の田の畔の上に置いてケろ。そしてお前が一人で御堂に行つて拜んで來てケろ。そのうち俺は此所で待つて居るからと云つた。それでは氣をつけて烏などに見付けられないやうにして待つて居てクナさい。私は一寸行つて拜んで來るからと言つて、娘は御坂を登つて行つた。そして御堂に參詣して歸つて來て見ると、大事な良人の田螺が居なかつた。

 娘は驚いて、此所彼所《ここかしこ》と探して見たがどうしても見付からない。鳥が啄んで飛んで行つたのか、それとも田の中に落ちてしまつたかと思つて、田の中に入つて探したが、四月にもなつたから田の中には澤山の田螺がゐる…それを一つ一つ拾ひ上げて見るけれども、どれもこれも自分の夫の田螺には似もつかぬものばかり…

  田螺(ツブ)や田螺(ツブ)や

  わが夫(ツマ)や

  今年の春になつたれば

  烏(カラス)といふ馬鹿鳥に

  ちツくらもツくら

  剌されたか…

 と歌つて、田から田に入つてこぎ探して居るうちに、顏には泥がかゝり、美しい衣物《きもの》は汚れてしまひ、そのうちに日暮時ともなつて、祭禮の人達はぞろぞろと皆家路に還る。そして嫁子の態《さま》を見て、あれあれあんな綺麗な娘子が氣でも違つたか、可愛想な…と口々に云つて眺めて通つた。

 娘はいくら探しても夫の田螺が見つからぬから、これは一層《いつそ》のこと田の中の谷地眼(ヤチマナコ)の深泥(ヒドロ)の中さ入つて死んだ方がいゝと思つて、谷地マナコに飛び込もうとして居ると、後《うしろ》から、これこれ娘何をすると聲かけられる。振り向いて見ると、水の垂れるやうな美男が、深編笠をかぶつて腰には一本の尺八笛をさして立つてゐる。娘は今迄の事を話して、私は死んでしまうからと言ふと、其の美男はそれならば何も心配することはない。其許(ソナタ)の尋ねる田螺はこの私であると言ふ。娘はさうではないと言ふと、若者は其の疑ひは尤もだが、俺は御水神樣の申し子で今迄は田螺の姿で居たが、それが今日、お前が藥師樣に參詣してくれたために、斯のやうに人間の姿となつた。俺は御水神樣にお禮參りをして此所へ還つて來ると、お前が居ないので、今迄方々尋ねて居たのだと言つた。そこで二人は喜んで一緖に家へ歸つた。

            ×

 娘を美しいと思つたが、田螺の息子がまたそれにも增さるほどの美しい若者で、似合ひの若夫婦が揃つて家へ還つた。父親母親の驚きと喜びやうツたら話にも昔にもないほどである。直ぐに長者どんの方へも知らせると、檀那樣も奧樣(カヽサマ)も一緖に田螺の家へ來て見て、大喜びで、こんなに光るやうな息子を聟殿を、こんなむさい家には置かれないと言つて、町の一番よい場所どころに立派な家を建てゝ、其所で此の若夫婦に商業(アキナヒ)をさせることにした。ところが田螺の息子と云ふことが世間に評判になつて、うんと繁昌して忽ちのうちに町一番の物持ちとなつた。そして老いた父親母親も樂隱居をし、一人の伯母子も良い所ヘ嫁に行き、田螺の長者どんと呼ばれて、親族緣者みな喜び繁昌した。

  (同前の二。)

[やぶちゃん注:所謂、異類婚姻・貴種流離譚の大団円型一つで、姉妹で運命が異なる「猿の婿入り」型のモチーフも含まれていると言えよう。「田螺長者」譚の最も典型的な記載例である。小学館「日本大百科全書」によれば、『小さな動物の姿で生まれた人の冒険を主題にする異常誕生譚』『の一つ。子供のいない夫婦が神に子授けを願い、タニシを授かる。タニシは一人前の年齢になると、馬を引いて働く。長者と親しくなり、長者の娘を見そめる。米を袋に入れて持ち、長者の家に行き泊まる。米の袋をたいせつなものであるといって、長者に預ける。長者は、預かった米をなくしたら、なんでも好きなものをやると約束する。夜中に、タニシはその袋から米を出し、娘の口の周りに生米をかんだものをつけておく。翌朝タニシは、米の袋がなくなっていると騒ぐ。娘の口に米がついているので、約束どおり、長者はタニシに娘をやる。娘がタニシといっしょに祭りに行くとき、タニシがカラスにつつかれて田の中に落ちる。娘が泣いていると、タニシはりっぱな男の姿になって現れる。婚礼をやり直し、タニシの若者は栄え、長者になる。主人公をカエルにした類話も多い』。『小さなものが突然にりっぱな若者に変身し、幸福な結婚をするところに特色があるが、そうした物語形式は昔話や御伽草子』『の「一寸法師」と共通している。「田螺長者」には、打ち出の小槌』『で打つと一人前の若者になったという例もあり、「田螺長者」と「一寸法師」とは、ただの混交とは思えない全体的な交錯がある。朝鮮、中国、ビルマ(ミャンマー)など東アジアにも、主人公が他の巻き貝類やカエルやヘビになった類話がある。動物の殻や皮を脱ぎ捨てて人間になるという変身の趣向が語られているのが普通である。巻き貝が殻をもち、カエルやヘビが変態・脱皮をすることが、これらの動物がこの昔話の主人公になっている理由であろう。日本ではタニシを水神の使者とする信仰があり、この昔話は、そうした宗教的観念を背景にして成り立っていたらしい』とある。当該ウィキも三諸されたいが、そこには、『田螺の方から呼びかける例、子になるべき田螺を野外で偶然発見する例など』や、『田螺でなくカタツムリ(新潟・群馬)カエル(九州)サザエ(鳥取・岡山)ナメクジ(島根)などの例が存在する。また』、『人間への変化も殻の破壊、湯または水による変化、参詣による変化などがある』とある。

 なお、タニシ(腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称。本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する)の博物誌は、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」や、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」、及び、サイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「たにし たつび 田螺」の項を参照されたい。

「同前」前回の「二番 觀音の申子」を指す。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二番 觀音の申子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。「申子」は「まをしご」。]

 

    二番 觀 音 の 申 子

 

 或る所に爺樣と婆樣があつた。もはや六十にも餘る齡《とし》であつたが、子供がないので如何《どう》しても一人欲しいものだと日頃信心して居る觀音樣に行つて願かけをした。それから丁度百目目の滿願の日に、觀音樣が婆樣の枕神に立つて、お前たち夫婦に授ける子寶とては草葉《くさば》の下を探したとて、川原の小石の間を尋ねたとて無いのだけれども、餘り切ない願掛けだから、今度だけは聞いてやると云つた。それから當る十月(トヅキ)目になつて生れたのが玉のやうな男の子であつた。

 爺、婆の喜びは話の外(ホカ)で、爺樣は每日々々山から柴を刈つて來て、それを町へ持つて行つて賣つて、子供のためにいろいろなベザエモノ(菓子)類を買つて來たり、また自分等は三度々々の食物さへも控目《ひかへめ》にして子供大事と育てて居つた。けれども、どうにも斯うにも爺樣婆樣は段々齡を取つてしまつて、柴刈りも洗濯も出來なくなつたので、又二人は觀音樣へ行つて、觀音樣申し觀音樣申しお前樣から授かつた此の子の事で、あがりました。とてもこの爺イ婆二人は老いてしまつて、大事なこの子を育て上げることが叶はなくなつたから、どうか觀音樣が引き取つて育てゝクナさい。どうぞお願ひでありますと言つた。觀音樣も日頃の爺イ婆の心掛けを知つて居るものだから、あゝよいからよいからと言つて、其の子を引き取つて御自分の手許に置くことにした。

 さうはしたが實は觀音樣も差し當り何斯《なにか》にと困つて、まづ自分の上衣を一枚脫いで子どもに着せ、參詣人の持つて來て上げる僅かのオハネ米《まい》などで、如何《どう》やら斯うやら其の日其の日の事をば足《た》して許た。そして子どもには色々な學問諸藝を授けて居た。其の子どもは又何しろただの子どもでは無いのだから、利發なことは驚くほどで、一を聽いては十を知ると云ふやうな利口ぶりであつた。さうして觀音樣の許《もと》で二十の齡(トシ)まで育てられて居た。[やぶちゃん注:「オハネ米」「御刎米」で、「刎米」とは、江戸時代、貢米納入の際に品質不良のために受納されない米を指す。]

 或る日のこと、觀音樣は息子にむかつて、お前も二十《はたち》にもなつたし、俺の目から見ればそれで一通りの學問諸藝を授けたつもりである。このまゝ此所《ここ》に居つてもつまらないから、どうだこれから諸國を廻《まは》つて修業をして立身出世をしろ。そして老齡(トシヨリ)の爺樣婆樣を養へと言つた。さう云はれて息子も喜んで諸國修業の門出をした。

 息子は觀音樣から貰つた衣物を着て深編笠をかぶつて、尺八を吹いて廻國した。そしてそれから何年目かの或る日大層大きな町に差しかゝつて、その町の一番の長者どんの家の門前に立つて尺八を吹いて居た。すると其の隣りの小さな家から婆樣が出て來て、その笛の音色を聽いて居たが、なんと思つたか、息子の側《かたはら》へ寄つて來て、虛無僧樣ちょツと私の家サ寄つて憩《やす》んで行けと言葉をかけた。息子も疲れて居つたから、云はれるまゝに内ヘ入ると、婆樣はお茶や菓子などを取り出してもてなし、それから、これこれ旅の虛無僧樣、實はこの隣りの長者どんではこの頃若者一人欲しいと云つて居たが、何とお前樣が行つてみる氣はないかと言つた。息子も永い年月の間旅をして淋しかつたものだから、さう云ふ所があつたら、暫く足止めをしてみてもよいと思つたので、婆樣それでは行つてみてもよいと云ふと、婆樣は喜んで、さうかそれがよい。だがお前のその着物ではワリから、この着物と着替《きがへ》ろと言つて、一枚の粗末なボロ着物を取り出して息子に與へた。はいはいと言つて息子は婆樣の云ふ通りに、其のボロ着物に着代へて、婆樣に連れられて長者どんの館《やかた》に行つた。長者どんの檀那樣は息子に三八と云ふ名前をつけて、竃場《かまどば》の火焚き男に使ふことにした。三八は何事も檀那樣の云ふ通りに、はいはいと云つて、奉公大事に每日々々働いて居た。

 この長者どんの館には家來下人が七十五人あつた。それから分家出店《でみせ》が諸國諸方に七十五軒もあつた。檀那樣には娘が二人あつて姉をお花、妹をお照と云つた。或る時鎭守の祭禮に、檀那樣は娘二人を馬に乘せて遣《や》ると云ふたら、姉のお花はオラは馬に乘つてもよいと言つたが、妹のお照はオラは馬に乘るのがあぶなくて嫌だ、駕籠で往くと言つた。それで姉は馬に乘り、妹は駕籠で行くことにした。ところが向《むかふ》から深編笠をかぶつて尺八を吹いて來る若衆《わかしゆ》があつた。馬で行つた姉のお花はひよつと見ると、その人は水の滴りさうな美男(イイヲトコ)であつた。それからは祭禮を見ても何を見ても一向面白くなくなつた。お照の方は駕籠で行つたものだから何も知らなかつた。お花は其の日祭禮から歸ると、オラ案配(アンバイ)がワリますと言つて、下女に奧の間に床をとらせて寢てしまつた。

 父親母親は大層心配して、醫者山伏を每日のやう賴んで來て診《み》せるが、誰一人お花の病氣を直せる者がなかつた。すると或る夜、親たちのところに觀音樣が夢枕に立つて、心配するな娘の病氣は家族の中に想ふ男がある故(セイ)だから、其の者と一緖にすれば直ぐ治(ナヲ)ると云ふお告げがあつた。そこで長者どんでは三日三夜の間家來下男どもを休ませて、娘の御機嫌を伺ひさせることにした。

 七十五人の家來下男どもは、喜んで俺こそ之《こ》の長者どんの美しい娘樣の聟殿になるにいゝかと思つて、朝から湯に入つて顏を洗つて、一人々々奧の一間のお座敷に寢て居るお花の枕邊へ行つて、姉さま、お案配はナンテがんすと言つた。それでもお花は一向見るフリもしなかつた。其の中《うち》に皆伺ひ盡して後(アト)には竃の火焚き男の三八ばかりがたつた一人殘つた。アレにもと云ふ者もあつたが、何しろ俺達が行つてさへ一向見向きもしないのだもの、あんなに汚い男が行つたら、尙更御アンバイがワルくなるべたらと、皆して聲を揃へて笑つた。すると其所へ隣家の婆樣が來て、とにかくあの竃の火焚き男も遣つて見ろ、アレも男だものと云つた。そこで三八も俄に風呂に入つて髮を結つて、觀音樣から貰つた衣裝を出して着て、靜かに奧の間へ通ふると[やぶちゃん注:ママ。]、お花は一目見て顏を赤くして、何か聽えない位の聲で云つて、息子を放さなかつた。そして見て居るうちに病氣もすつかり直つた。

 其の時息子の美しい男ブリを見て、妹のお照もあの人を自分の聟樣にしたいと云つて床に就いた。親々もそれには困つて、これは如何(ナゾ)にしたらよいかと息子に相談した。すると息子はそれでは斯《か》うしなさい。庭前(ニハサキ)の梅の木の小枝にアレあの通り雀がとまつて居りますが、あの小枝を雀がとまつたまゝ飛ばさぬやうに手折《たを》つて來た方を妻に貰ひませうと言つた。

 親たちは姉妹を呼んで其の事を話すと、それではと云つて早速妹娘が庭前に駈け下《お》りて、梅の木の側《そば》に行くと、雀はブルンと飛んで行つてしまつた。妹は顏を眞赤にして戾つて來た。

 その𨻶にまた雀が飛んで來て元の梅の木の小枝にとまつた。今度は姉娘が降りて行くと、雀はそれを喜ぶやうに、チユツチユツと鳴いて、そして枝コをパリツと折つても飛ばなかつた。それを其のまゝ持つて來て息子の手に持たせた。二人は目出度く夫婦の盃事《さかずきごと》をした。其の後息子は鄕里(クニ)から爺樣婆樣を呼び寄せて、觀音樣の云つた通りに親孝行をして孫《まご》繁《し》げた。それこそ世間に名高い三八大盡《さんぱちだいぢん》と呼ばれる長者となつた。

 それから妹のお照の方にも、其の中《うち》に良緣があつて、分家になつてこれも相當榮えて繁昌したと云ふことである。

  (遠野町《とほのまち》、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一《いち》。大正九年の冬の採集の分。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。本篇は典型的な貴種流離譚のハッピー・エンド譚である。

「小笠原金藏」不詳。

「松田龜太郞」不詳。

「大正九年」一九二〇年。]

佐々木喜善「聽耳草紙」(正規表現版)始動 / 序(柳田國男)・凡例・「一番 聽耳草紙」

 

[やぶちゃん注:以前からやりたかった佐々木喜善の「聽耳草紙」を正規表現で電子化注を始動する。本書は昭和六(一九三一)年二月、三元社から刊行された佐々木の故郷遠野に伝わる民話を採集した昔話集成の一つで、全百八十三章からなり、再録された話は実に三百三話に上り、佐々木の「遠野物語」(「佐々木の」としたことについては後述する)を含めて五冊ある代表的な昔話集では、最大の話数を誇るものである。「ちくま文庫」版「聴耳草紙」の益田勝実氏の「解題」によれば、本書を読んだ小説家宇野浩二は『このように面白いものは類をみないとまで賞め』た、とある。現在、ネット上には全電子化はなされていない。

 佐々木喜善(ささききぜん 明治一九(一八八六)年十月五日~昭和八(一九三三)年九月二十九日:名は「繁」とも称した)は民俗学者で作家。既に「遠野物語」電子化注の冒頭で述べたが、今回、新たにブログ・カテゴリとして「佐々木喜善」を設けるに当たって、それを概ねそのまま転写する。ウィキの「佐々木喜善」によれば、『一般には学者として扱われるが』、『佐々木自身は、資料収集者であり』、『学者ではないと述べている』。『オシラサマやザシキワラシなどの研究と』、四百『編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される』。『岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。祖父は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、上京して哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し』、『早稲田大学文学科に転じ』、明治三八(一九〇五)年頃より、『佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始め』た。明治四一(一九〇八)年頃、『柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている』。明治四三(一九一〇)年に『病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続ける傍ら、土淵村村会議員・村長』(在任期間は大正一四(一九二五)年九月二十七日から昭和四(一九二九)年四月四日)『を務め』たが、『慣れない重責に対しての心労が重なり』、『職を辞』した。『同時に』、『多額の負債を負った喜善は』、『家財を整理し』、『仙台に移住』、『以後』、『生来の病弱に加え』、生活も困窮、満四十六歳で持病の腎臓病のため、病没した。『神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという』。彼に与えられた『「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの』である。また、大正八(一九一九)年、『「ザシキワラシ」の調査のために照会状を出して以来』、二年ほど、「アイヌ物語」『の著者である武隈徳三郎と文通があ』り、また、かの宮沢賢治(私はリンク先で宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版・附全注釈を完遂している)『とも交友があった』。昭和三(一九二八)年、賢治の童話「ざしき童子のはなし」(詩人尾形龜之助(私はリンク先その他で彼の多くの電子化を手掛けている)主宰の雑誌『月曜』(大正一五(一九二六)年二月号に掲載された)の『内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけで』、その後、昭和七(一九三二)年には、喜善が『賢治の実家を訪れて数回』、『面談し』ている。『賢治は当時既に病床に伏していたが、賢治が居住していた花巻町(現:岩手県花巻市)と遠野市の地理的な近さもあり、晩年の賢治は』、『病を押して積極的に喜善と会っていたことが伺われる』。喜善は『幼少期から怪奇譚への嗜好があり、哲学館へ入学したのは井上円了の妖怪学の講義を聞くためだった』から『という。しかし、実際は臆病な性格だったらしく、幼少時、祖父から怪談話を聞いた夜は一人布団に包まってガタガタ震えていたこともあった。また、巫女や祈祷師にすがったり、村長をつとめていた際も』、『自身の見た夢が悪かったため出勤しないなどの行動があった』。明治三六(一九〇三)年『にはキリスト教徒となるが』、後、昭和二(一九二七)年には『神主の資格を取得』、二年後の昭和四年には、『京都府亀岡町(現:亀岡市)の出口王仁三郎』(おにさぶろう)『を訪問し、地元に大本教』(おおもときょう)『の支部を作っている。また、佐々木は一般に流布しているイメージのような「素朴な田舎の語り部」ではなく、モダン好みの作家志望者であり、彼が昔話の蒐集を始めるようになったのは、作家として挫折したためである』。主な著作に昔話集「紫波(しわ)郡昔話」「江刺郡昔話」「東奥異聞」「農民俚譚」「聴耳草紙」「老媼夜譚(ろうおうやたん)」、研究及び随筆としては「奥州のザシキワラシの話」「オシラ神に就いての小報告」「遠野手帖」「鳥虫木石伝」他がある。以上の引用に出た、晩年の柳田が「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」というのは、「遠野物語」成立に就いて、しばしば語られるエピソードであるが、これ自体が、柳田が本書を自作の代表作と自負し、それを正当化するために述べた言い訳としか私には思われない。実際、後の佐々木の本書「聴耳草紙」や「老媼夜譚」を読むに――「遠野物語」など、とても書けそうもない、方言丸出しで、それが直せそうもないレベルの人品をそこに見ることは全く不可能――である。勿論、柳田が聴き取りを整序するに、『漢文訓読体に近い独特の』『文語文体を採用した』ことが『他に類を見ない深い陰影に富んだ独特の文学的世界を獲得し』(「ちくま文庫」版全集の永池健二氏の「解説」より)得た事実は、認めよう。しかし――柳田國男は狭義の文学者・作家ではなく――農務官僚・貴族院書記官長・枢密顧問官などを歴任した――辛気臭くお上のご機嫌を伺うことままある官僚――であり、民俗学なんたるやの右も左も判らない時代の多分に権威的な民俗学者の一人に過ぎない。また、私は、彼と折口信夫の間には、性的象徴問題を民俗学で扱うことについて、意図的に制限しようというような密約があったのではないかとずっと疑っている。実際に南方熊楠は柳田國男のそうした偏頗を鋭く批判している。それほど、本邦の民俗学は、現在でも未だに、どこか妙に一般的に非現実的に健全に過ぎ、嘘臭く、漂白剤の臭いがする。私は彼の一部の考察には面白さ(但し、都合の悪い事例を除いて仮説を構築するという学者としては許されない資料操作も多々ある)を感じ、「蝸牛考」や「一つ目小僧その他」等の電子化注もこのカテゴリ「柳田國男」で手掛けてきたが、柳田國男の文体や表現が――文学的に洗練されているとは私は逆立ちしても思わない――。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本(リンク先は扉)を視認する。但し、所持する「ちくま文庫」版「聴耳草紙」(一九九三年刊)をOCRで読み込んだものを加工データとして使用する。

 踊り字「〱」「〲」は生理的に受けつけないので正字化する。ルビがないもので、読みが振れると判断したものは、《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。不審箇所は「ちくま文庫」版を参考にした。注はストイックに附す。一日一章以上の電子化注を心掛けるが、それでも総てを終わるのには半年はかかる。【二〇二三年三月十六日:藪野直史】]

 

 

 

 佐佐木喜善著

 

  

 

        東 京 

 

[やぶちゃん注:以上は扉。表紙は底本では作り直してあるため、判らない。ネット画像で原本表紙を探したが、新版(昭和八(一九三三)年中外書房刊)のものしか見当たらなかった。全体が薄い罫線に囲まれてある。標題の下地に老翁が大きな樹の根元にしゃがんでいる絵がやはり薄色で描かれてある。

 以下、柳田國男の序文。底本ではここから。]

 

 

   

 

 佐々木喜善君のこれ迄の蒐集は本になつただけでも、すでに三つある。その三つのうち一番古いのは「江剌郡昔話」であつて、これは我々の仲間では紀念の多い書物である。二十二年程前、初めて佐々木君が遠野の話をした時分には、昔話はさ程同君の興味を惹いてゐなかつた。遠野物語の中には、所謂「むかしむかし」が二つ出てゐるが、二つとも未だ採集の體裁をなしてゐなかつた。それが貴重な古い口頭記錄の斷片であるといふ事はずつと後になつて初めて我々が心づいたことである。それから十年餘りしてから我々が松本君と三人で、東北の海岸を暫く一緖に步いたことがある。その時に丁度佐々木君は江剌郡から來ている炭燒きと懇意になつて、しばしば山小屋へ出掛けて、いくつかの昔話を筆記してきたといふ話を私にした。それは非常に面白いから出來るだけもとの形に近いものを公けにする方がいゝと、いふことを、私が同君に勸請したのもその時である。それから二年過ぎて、私が外國に遊んでゐる間に「江刺郡昔話」が出版せられた。新たに「江剌郡昔話」を取出して讀んでみると佐々木君が、先づ第一に、聞いた話の分類に迷つてゐる事がよくわかる。口碑と言つている中には、社寺や舊家の歷史の破片と共に昔話から變形したものもまじつてゐるのだから、今の言葉で言へば傳說にあたるものである。それから民話と言つてゐる部分は近頃何人かゞ實見した話として傳へられてゐるのだから、直接「むかしむかし」の中に入れられないのは當然だが、これとても又「むかしむかし」と内容の一致があつて何人かゞ「むかしむかし」からこれへ移入したといふ事が想像出來る。そしてこれが、我々が興味を以て考へようとしている世間噺といふものである。世間噺は新聞などの力で事實と非常に近くなつたけれども、以前は交通が不便で、そうそうは噺の種もないから、勢ひ古くからの文藝がその中へまぎれこんでゐたのである。東北といふ地方は、何時までも昔話を子供の世界へ引渡さずに大人も參加して樂しんでヰた結果昔話がより多く近代的な發達を經てゐる、[やぶちゃん注:句点はママ。]この事實が、この本で可成りはつきり證明された。その事實に最も多く參加した盲法師、すなわち奧州で「ボサマ」と言つてゐるものの活動の後を跡づけてみようと私が思つた大いなる動機は此處にある。

 「ボサマ」の歷史は近頃になつてから、全く別の方面からも、おひおひ知られて來たけれども、純粹なフォークロアの方法によってゞも、東北地方でなら調《しらべ》ることが出來る。例へば南部で言ふ「ガントリ爺」が、我々のお伽噺の「花咲爺」になつてくる迄の經過は、あちらではこれを文藝として改造した作品が現に殘つてゐるのだから、可成り具體的にその過程を說く事が來る[やぶちゃん注:ママ。「出來る」の脱字。誤植であろう。]。「ボサマ」は人を喜ばせるのが職務だから、或程度迄の繰返しを重ねると今度は意外なつくりかへ若しくは後日譚の方へ出て行かうとする。眞面目であつた話をやゝ下品な滑稽へ持つて行かうとする。從つて話題が發達してくる。同時にこれを聞く者の態度も幼少な子供等とは違つて、少しも、昔ならそんな事があつたかも知れんといふやうな信仰を持たずに、これを純空想の作品として受け入れやう[やぶちゃん注:ママ。]とする、卽ち今日の落語なり滑稽文學なりの文字以前の基礎をつくつてしまつたのである。大げさに言ふなら、今日の文藝と昔の文藝との間に橋をかけたやうなものだとも言へる。半分以上類似したやうな話でもこの意味から、出來るだけ多く集めてみやう[やぶちゃん注:ママ。]とした理由が、初めて此處に生じた。それには恰度佐々木君のやうな飽きずに何時迄も集められる蒐集家が非常に役立つた。

 佐々木君も初めは、多くの東北人のやうに、夢の多い銳敏といふ程度まで感覺の發達した人として當然あまり下品な部分を切り捨てたり、我意に從つて取捨を行なつたりする傾向の見えた人であつた。それが殆んど自分の性癖を抑へきつて、僅かばかりしかない將來の硏究者のためにこういふ客觀の記錄を殘す氣になつたのは、決して自然の傾向ではなく、大變な努力の結果である。

 これ迄普通に鄕里を語らうとしてゐた者のしばしば陷り易い文飾といふものを、殊にこの方面に趣味の發達した人が、己をむなしふして捨て去つたといふ事は、可成り大きな努力であつたと思はれる。問題は、將來の硏究者が、こういふ特殊の苦心を、どの程度迄感謝する事が出來るかといふ事にある。私は以前「紫波《しは》郡昔話集」「老媼夜譚《らうあうやたん》」が出來た時にも、常にこの人知れぬ辛苦に同情しつゝ、他方では、同君自身の文藝になつてしまひはせぬかと警戒する役に廻つてゐた。もう現在では、その必要は殆んど無からうと思ふ。能《あた》ふべくんば、この採集者に若干の餘裕を與へて、これほど骨折つて集めて來たものを、先づ自分で味ふやうにさせたい事である。それには、單純な共鳴者が此處彼處《ここかしこ》に起るだけでなく、この人と略々《ほぼ》同じやうな態度を以て、將來自分の地方の「むかしむかし」を出來るだけ數多く集めてみる人々が、次々に現れ來ることである。

 

   昭 和 五 年 十 二 月

           柳  田  國  男

 

[やぶちゃん注:個人的には、「自分のことを棚に上げてよく言うぜ!」とカチンとくるところが、複数箇所あるが、それは冒頭の私の鬱憤でお判り戴けるであろうから、敢えて指示や注はしない。

「江剌郡昔話」郷土研究社『炉辺叢書』の一冊として大正一一(一九二二)年に刊行されたもの。昔話二十話・民話十話・口碑四十六話から成る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本を視認出来る。

「松本君」松本信廣(のぶひろ 明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。事績は当該ウィキを参照されたいが、そこにも書かれている通り、彼は戦中に『「大東亜戦争の民族史的意義」を唱え、南進論を主張』し、一九三〇『年代に、大日本帝国が南進政策を展開しはじめると、日本神話と南方の神話の類似を指摘する松本の研究は、日本が南方に進出し、植民地支配を正当化する根拠を示すという点で、政治的な意味を持つようにな』った結果を惹起しており、好きでない。

「紫波郡昔話集」郷土研究社『炉辺叢書』で大正一五(一九二六)年に佐々木が刊行した岩手県紫波(しわ)郡の民譚集。同旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「老媼夜譚」同じく佐々木が郷土研究社『郷土研究社第二叢書』の一冊として昭和二年に刊行した、岩手県上閉伊(かみへい)郡で採取した昔話集。全百三話を収録する。]

 

 

      凡 例

 今度の昔話集は私の一番初めの「江刺郡昔話」の當時(大正十一年頃)集めた資料から、つい最近までの採集分をも交へて、一つの寄せ集めを作つて見たのである。

 分類と索引とを附けたかつたが、これは兩方ともかなり復雜[やぶちゃん注:ママ。]な技術と經驗とを要するので、俄には出來さうも無いから後日のことにした。實はこれくらゐの話集をせめてあと一二册も纏め、話數の千か或はそれ以上も集めて見て始めて可能な仕事である。私はこれまでに五百六十餘種の說話を土から掘り起して明るみに出したと思ふけれどもそれは重《おも》に東北の陸中の中央部に殘存して居たものを集めて見たに過ぎなかつた。この興味が全國的に盛んになつて、方々の山蔭の里や渚邊《なぎさあたり》の村々に埋れてゐる昔話が千も二千も現はれ來《きた》る其日もさう遠くはあるまいと感じて居る。その曉に於てこそ充分に比較硏究と分類方法とが餘薀《ようん》なく執《と》らるべきであらう。

 この集には百八十三番、凡そ三百三話ばかりの話を採錄して見た。話の中《うち》全然從來の所謂昔噺と云ふ槪念からは遠い、寧ろ傳說の部類に編入すべきもの、例へば諸々の神祠の緣起由來譚らしいものや、又簡單至極な話、例へば「土食い婆樣」其他の話のやうな、單に或老人が土を食つて生きて居《を》つたと謂ふやうなものも取つた。私は殊更にこれだけの物をも收錄して見た。これは私の一つの試みであつた。私の考へでは或一部の說話群の基礎根元をなした種子が、或は斯う云ふものではなかつたのではあるまいかと謂ふ想像からで、これらの集合や組立てでもつて、一つの話が構成され且成長されたかのやうな暗示もあつたからである。

 又一方、際無し話のやうな、極く單純な、ただ言葉の調子だけのやうなものをも出來るだけ採錄した。一部の昔話の生のまゝの形が暗示される材料であるからであつた。

 斯うして見ると、或觀方《みかた》によつて分類して行つたならば、ほんの四五種類の部屬に配列することが出來ると思ふ。例へば、

 1 自然天然の物を目宛《めあて》に語り出した話の群。

 2 巫女や山伏等が語り出した說話群。

 3 座頭坊の語り出した話の群。

 4 話と傳說の中間を行つたもの、或は傳說と話との混合

   がまだ整頓しきれずに殘つてゐる話の群。

 5 及び普通の物語と云ふものの類。

 である。なほ又これを細別して見たなら、幾つかの部屬ができるであらう。例へば、子守唄的な語りものから、單純な調子のみの語りもの、動物主人公の話から、和尙小僧譚、愚かしやかな者の可笑しな話の群、輕口噺のやうな部類、又別に生贊譚型、冒險譚型、花咲爺型、瓜子姬型からシンデレラ型、さうして緣起由來譚から、普通の物語と云ふやうにもなり、或は考へやう觀方の相異では、どんなにも分類配列することが出來やうと思ふのである。

 然し私はこの集では、ただ重に便利上《べんりじやう》話の中の主人役とか、又は内容の多少似寄つたものを、比較的近くに寄せて配列して見たに過ぎなかつた。だから餘りに暢氣《のんき》な整理の仕方であると云ふ謗《そし》りはまぬかれぬであらう。

 此集中の話で特に私の爲に御面倒を見て御報告をして下された方々の分には、一々御芳名を明かにして置いた。何の記號もない分は私の記憶其他である。

 なほ此集を世に出すに當つて、貴重なる資料を下された諸兄に、さうして亦特に私の爲に序文を書いて下された柳田先生及び三元社の萩原正德氏に一方ならぬ御世話になつたことを、玆《ここ》に謹んで御禮を申上げる次第である。

 

   昭和六年一月

 

               佐 佐 木 喜 善

 

[やぶちゃん注:以下、底本では目次となるが、これは総ての電子化注が終わった後に附すこととする。

 以下、本文に入る前の標題ページ。]

 

 

  本書を柳田國男先生に捧ぐ

 

 

    聽 耳 草 紙     佐 佐 木 喜 善

 

 

     一番 聽耳草紙

 

 或る所に貧乏な爺樣があつた。今年の年季もずうツと押詰まつたから、年取仕度《としとりじたく》に町仕《まちつか》ひに行くべと思つて野路を行くと、路傍(ミチバタ)の草むらの中に死馬(ソマ)があつて、それに犬どもがズツパリ(多く)たかって、居た。それを此方(コツチ)の藪の蔭コから一疋の瘦せた跛狐(ビツコキツネ)が、さもさもケナリ(羨し)さうに見て居たが、犬どもが怖(オツカナ)いもんだから側(ソバ)に近寄りかねて居た。それを見た爺樣はあの狐がモゼ(不憫)と思つて、しいツしいツと言つて、犬共(イヌド)ば追(ボ)つたくツて、死馬の肉を取つて狐に投げて遣つた。さウれ、さウれそれを食つたら早く山さ歸れ、お前がいつまでもこんな所に居るのアよくないこツた、と言つて聽かせて町へ行つた。

 その歸りしなに、爺樣が小柴立ちの山の麓を通りかゝると、今朝の瘦狐が居て、爺樣々々俺ア先刻(サツキ)から此所《ここ》で爺樣を待つて居た。ちよツと此方(コツチ)に來てケてがんせと言つて、爺樣の袖を食わへて引張るから、何をすれヤと言つてついて行くと、其山のトカヘ(後(ウシロ))の方さ連れて行つた。其所《そこ》まで行つたら狐は、爺樣々々一寸(チヨツト)眼(マナグ)を瞑《つむ》つて居てゲと言ふ。爺樣が眼を瞑つて居ると、狐は爺樣眼開(ア)けてもええまツちやと言ふから開(ア)くと、爺樣はいつの間にかひどく立派な座敷に通つて居た。そこへ齡取《としと》つた狐が二匹出て來て、今朝ほどア俺所(オラトコ)の息子が大層お世話になつてありがたかつた。俺達はこんなに齡取つてしまつて、ハゲミに出るにも出られないで每日每日斯うやつて家にばかり居ります。その上に息子が片輪者で困つて居ります。今夜の年越もナゾにすべやエと心配して居ると、爺樣のお影で、まづまづ上々吉相の年取りも出來て結構でござります。そのお禮に爺樣に何か上げたいと思ふけれども、御覽の通りの貧乏暮しだから大したことも出來ぬが、これを上げます。これは聽耳草紙と謂ふもので、これを耳に當てがると、鳥や獸や蟲ケラの啼聲囀聲《さへづりごゑ》まで、何でもかんでも人の言葉に聽き取られる。これを上げるから持つて歸つてケテがんせと言つて、一册の古曆《ふるごよみ》ほどの草紙コを爺樣の前に出した。爺樣はそんだら貰つて行くと言つて喜んで、その本コを手さ持つて、又先刻の跛狐に送られて野原の道まで出て、家へ歸つた。

 正月ノ二日の事始めの日の朝であつた。爺樣は朝(アサマ)早く起きて、東西南北を眺めわたすと、吾が家の屋棟《やむね》の上に一羽の烏がとまつて居た。すると又西の方から一羽の烏が飛んで來てカアカアと鳴いた。こゝだ、あの草紙コを試して見る時はと思つて、爺樣は急いで家の中さ入つて、古草紙コを出して來て耳さ押し當てゝ聽くと、烏共の言ふ言葉が手に取るやうによく解つた。その言ふことは、どうだモラヒ(朋輩)どの、此頃に何か變つたことアないかアと言ふと、西から來た烏は、何も別段珍しい話もないが、此頃城下の或る長者どんの一人娘が懷姙したが、それが產月になつても兒どもが生れないので、娘が大變苦しんで居る。あれは何でもない、古曆と縫針(ハリ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]とを煎じて飮ませれば兒どもも直ぐに生れるし苦痛(クルシミ)もなくなるものだのに、人間テものは案外淺量(アサハカ)なもので、そんなことも知らないと見える。はてさてモゾヤ(哀れ)なものだよ、カアカアと言つた。

 爺樣はそれをすつかり聽き取つて、これはよいこと聽いたもんだ。婆樣やエ婆樣やエ俺ア烏からよいこと聽いたから、これから城下さ行つて八卦《はつけ》置いて來るから仕度《したく》せえと言つて、婆樣に旅仕度して貰つて、城下町さして出かけて行つた。行つて見ると、其家は聞きにも增さつて立派な長者どんであつた。如何にもその長者どんの一人娘は難產で四苦八苦の苦しみをして居ると云ふことを、町さ入ると直ぐ聞いた。行つて見ると、屋方《やかた》には多勢《おほぜい》の醫者や法者《はふしや》が詰めかけて額を寄せて居るけれども、何とも手の出しやうがなくて、只うろうろしてばかり居た。そこへ汚い爺樣が行つて、私は表の立札の表について參つた者だが、お娘御樣が難產でござるさうな、この爺々が安產おさせ申上ますべえと言つた。あまり身成りが汚いものだから、其所に居た連中が、こんな百姓爺々に何が出來るもんかと、皆馬鹿にして居た。けれども長者どんでは、若《も》しやにかられて爺樣を座敷へ通すと、爺樣は六尺屛風を借りてぐるりと立廻《たちまは》し、その中に入つて、唐銅火鉢《からかねひばち》にカンカンと火を熾《おこ》して貰ひ、それに土瓶を借りてかけて、持つて行つた古曆と縫針(ハリ)とを入れてぐたぐたに煎《せ》んじて、娘に飮ませた。すると直ぐに娘の苦しみが拭(ヌグ)ふやうに取れて、おぎやア、おぎやアと、玉のやうな男の兒を生み落した。

 さあ長者どん一家の喜びは申すに不及《およばず》、上下と喜び繁昌して居るうちに、其所に居つた多勢の醫者や法者は何時《いつ》去るともなしに、一人去り二人去りして、遂々《たうとう》散り散りばらばらに立つて皆居なくなつて居た。そこで爺樣は長者どんから大層なお禮を貰つて、家へ歸つて榮えて活(クラ)したと。ハイハイどんど祓《はら》ひ、法螺《ほら》の貝ツコをポウポウと吹いたとさ。

  (昭和二年四月二十日、村の字《あざ》土淵《つちぶち》足洗川《あしあらひ》の小沼秀君の話の一《いち》。私の家に桑苗木を堪えに來て居て[やぶちゃん注:「堪え」はママ。「ちくま文庫」版は『植え』。正しくは歴史的仮名遣で「植ゑ」。漢字は誤植。]、デエデエラ野と云ふ山畠のほとりに憩《やす》みながら語つた。私は話の筋としてはさう珍しくなく、曩《さき》の老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾と系統を同じくするものではあるが、便宜上これを第一話に置いて直ちに、これを此集の名前にした。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。

「法者」民間の呪術者。山伏や巫女(みこ)のような連中を指す。

「昭和二年」一九二七年。

「村の字土淵足洗川」現在の岩手県遠野市土淵町土淵六地割にある地名(グーグル・マップ・データ)。

「小沼秀」不詳。

「デエデエラ野」佐々木喜善の生家の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現行では「デンデラノ(野)」と表記される。

「老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾」国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで視認出来る。]

2019/01/01

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一九 獅子踊歌詞集・広告・奥附 /「遠野物語」(初版・正字正仮名版)~完遂

 一一九 遠野鄕の獅子踊【○獅子踊はさまで此地方に古きものに非ず中代[やぶちゃん注:中世。]之を輸入せしものなることを人よく知れり】に古くより用ゐたる歌の曲あり。村により人によりて少しづゝの相異あれど、自分の聞きたるは次の如し。百年あまり以前の筆寫なり。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体は一字下げで、歌詞は二行に渡る場合は二行目が二字下げになっているが、ブラウザの不具合を考えて無視して以下のように全部行頭に引き上げて示した。また、歌詞は方言を多量に含み、私の手に負えないため(柳田國男自身にも不明なものが多いと見た)、今回は注を一部の読み(本条は原典にはルビがないので、「ちくま文庫」版全集のみを参考とし、歴史的仮名遣で附した)及び疑問の例外箇所を除いて注は附さないこととした。]

    橋ほめ

一 まゐり來て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの

一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで

    門ほめ

[やぶちゃん注:「かどほめ」。]

一 まゐり來て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門

一 門のびらおすひらき見申せや、あらの御せだい

   ○

一 まゐり來てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら

一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也

[やぶちゃん注:「御人」は「おひと」。「ひた」はママ。無論、飛騨。]

   小島ぶし

一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門

一 白金の門びらおすひらき見申せや、あらの御せだい

一 八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上(かみ)におひたるから松

一 から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども吞めどもつきひざるもの

一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人

一 天からおづるちよ硯水、まつて立たれる

   馬屋ほめ

[やぶちゃん注:「まやほめ」。]

一 まゐり來てこの御臺所見申せや、め釜を釜に釜は十六

[やぶちゃん注:「め釜」のみは「めがま」。]

一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る

[やぶちゃん注:「御代」は「ごよ」。]

一 其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり

[やぶちゃん注:「小萱」は「こがや」。]

一 かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする

[やぶちゃん注:「かげ駒」は「かげこま」。「足がき」は「あがき」。]

   ○

一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし

一 われわれはきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり

一 しやうぢ申せや限なし、一禮申して立てや友だつ

   桝形ほめ

[やぶちゃん注:「ますがたほめ」。]

一 まゐり來てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也

[やぶちゃん注:「也」は「なり」。]

一 まゐり來て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申

   町ほめ

一 參り來て此お町を見申せや、竪町十五里橫七里、△△出羽にまよおな友たつ

[やぶちゃん注:「竪町」は「たてまち」。]

【○出羽の字も實は不明なり[やぶちゃん注:この謂いから「△△」は単に判読不能字を指していることが判る。]】

   けんだんほめ

一 まゐり來てこのけんだん樣を見申せや、御町間中にはたを立前

[やぶちゃん注:「御町」は「おんまち」、「立前」は「たてまへ」。]

一 まいは立町油町

一 けんだん殿は二かい座敷に晝寢すて、錢を枕に金の手遊

[やぶちゃん注:「手遊」は「てあそび」。]

一 參り來てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札

[やぶちゃん注:「御札」は「おふだ」。]

一 高き處は城と申し、ひくき處は城下と申す也

   橋ほめ

一 まゐり來てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし

[やぶちゃん注:「こ金」は「こがね」。]

   上ほめ

一 まゐり來てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本

[やぶちゃん注:「御堂」は「おだう」。]

一 扇とりすゞ取り、上さ參らばりそうある物

【○すゞは珠數、りそうは利生か】

[やぶちゃん注:「珠數」はママ。「數珠」(じゆず(じゅず))のことであるが、この表記は古典でもしばしば見られる。全集は「数珠(じゅず)」。]

   家ほめ

一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち

【○こりばすら文字不分明】

   浪合

[やぶちゃん注:「なみあひ」。]

一 此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし

一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさららすかれ

【○雲繝緣、高麗緣なり】

一 まぎゑの臺に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く

一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく

一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる

一 さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ

一 正ぢ申や限なし、一禮申て立や友たつ、京

   柱懸り

一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない〻

[やぶちゃん注:「〻」という踊り字は正規には漢字の下に用いて、その漢字の訓を二度繰り返すのに用いるが、ここでは前の一文節或いは表紙上で繰り返すに足る詩句を繰り返すものとして読むしかない。則ち、ここは一文節でよく、「すんげないすんげない」となる。ところが厳密な一文節ではリズムが悪い箇所も多く見られ、もっと前の、囃言葉としてのソリッドな最小詞句節分、時には二文節分(それを論理的に規定することは私には出来ないが)、例えば、次の場合は「庭めぐる」を二度「庭めぐる庭めぐる」と詠んでいるようであるし、以下、「若くなるもの若くなるもの」、「ちたのえせものちたのえせもの」と読まないとおかしいだろう。]

一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻る庭めぐる〻

【○すかの子は鹿の子なり遠野の獅子踊の面は鹿のやうなり】

一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの〻

【○ちのみがきは鹿の角磨きなるべし】

一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの〻

【○ちたは蔦】

[やぶちゃん注:「蔦」は「つた」。]

一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無れやぶろりふぐれる〻

一 京で九貫のから繪のびよぼ、三よへにさらりたてまはす

【○びよぼは屛風なり三よへは三四重か此歌最もおもしろし】

   めず〻ぐり

[やぶちゃん注:ここに限っては「めずめずぐり」ではなく、通常の「ゝ」と同じ(「〻」を「ゝ」と同じ用法をする作家は結構多い)で「めずすぐり」である。「遠野郷しし踊りの由来と紹介」というページに「雌じし狂い(めずすぐり)」とある。後注で柳田國男の注は如何にも「雌鹿(めず=めす)」「擇(す)ぐり」のように読めるが、以上のページの表記はこれは「雌鹿(めずす=めじし)」のために雄がエキサイトして「狂(ぐ)り=狂るひ」となるというのが元なのではないと思わせるし、その方が遙かに腑に落ちる。]

一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ〻

【○めず〻ぐりは鹿の妻擇びなるべし】

一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな〻

一 女鹿たづねていかんとして白山の御山かすみかゝる〻

[やぶちゃん注:「女鹿」は「めじか」、「白山」は「はくさん」。]

【○して字は〆てとあり不明】

一 うるすやな風はかすみを吹き拂て、今こそ女鹿あけてたちねる〻

【○うるすやなは嬉しやな也】

一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる〻

一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる

[やぶちゃん注:上記の一詞は底本の組版の一行文目一杯で終わっており、前後から見ても囃し言葉から考えても、「〻」を討ち損ねたものである可能性が高いように私には思われるが、後の諸本、総て「〻」は、ない。]

一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの〻

一 奧のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候〻

一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな〻

一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの〻

一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる〻

一 沖のと中の濱す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物〻

   なげくさ

一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい

[やぶちゃん注:「如何」は「いかな」。]

一 この代を如何な大工は御指しあた、四つ角て寶遊ばし〻

一 この御酒を如何な御酒だと思し召す、おどに聞いしが〻菊の酒〻

一 此錢を如何な錢たと思し召す、伊勢お八まち錢熊野參の遣ひあまりか〻

[やぶちゃん注:「錢た」の「た」はママ。現行本も「た」。]

一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし

【○播磨壇紙にや】

[やぶちゃん注:「壇」はママ。現行諸本は「檀」。誤字か誤植であろう。「檀紙(だんし)」は奈良時代に出現し、常に儀式や和歌用の懐紙及び贈答の包紙に用いられてきた高級和紙である。播磨は古来からの和紙の名産地。]

一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり〻、おりめにそたかさなる

【○いぢくなりはいずこなるなり三内の字不明假にかくよめり】

 

[やぶちゃん注:以下、枠囲みで柳田國男の近作宣伝と奥附(罫入り)。画像を配し、活字部分のみを電子化する(「■」は汚損による判読不能字。他の著作の奥附で確認しようとしたが、複数当たったものの、何故か彼の住所が記載されていない)。ポイントは総て同じとした。

 

Kinkann

   柳田國男近業

後狩詞記

石神問答    聚精堂發賣

時代と農政   近刊、同上

舊日本に於ける銅の生産及其用途 近刊

[やぶちゃん注:「後狩詞記」「のちのかりのことばき」と読む。副題は「日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」。「猪狩」は「ししがり」と読んでいるようである。明治四二(一九〇九)年三月自家版。日本の民俗学の草創期に於ける古典的作品とされる。伝統的山村の一つであった当時の宮崎県東臼杵郡椎葉(しいば)村で行われていた狩猟伝承の実態を記録した内容で、狩り言葉やその作法の他に、狩猟儀礼伝書(洪水で消失して原本は現存しない)を活字化した「狩之巻」を付録として収載している。明治中期以後、鉄砲の普及により狩猟の方法が大きく変化したが、本書は鉄砲が用いられなかった時代の山村の生業としての狩猟の古伝を椎葉村区長椎葉徳蔵から口頭と文献によって聴き取りをし、貴重な資料集として纏めたものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全文が読める。

「石神問答」既出既注。明治四三(一九一〇)年五月刊。日本の民俗学の先駆的著書とされ、本邦に見られる各種の石像神像(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神。象頭神等)に就いての考察を、著者と山中笑・伊能嘉矩・白鳥庫吉・喜田貞吉・佐々木繁らとの間に交わした書簡をもとに編集した特殊な構成に成るため、考証過程の変遷が辿れるが、通常の論文とは埒外の書き方となっている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全文が読める。

「時代と農政」同明治四十三年十二月、やはり同じく聚精堂から刊行。正確には公刊標題は「時代ト農政」。これは柳田國男が「全国農事会」(後の「帝国農会」)の幹事として全国各地で講演したものの集成。内容は、「一 農業経済と村是」・「二 田舍對都會の問題」・「三 町の經濟的使命」・「四 日本に於ける産業組合の思想」・「五 報德社と信用組合との比較」・「六 小作料米納の慣行」の六章から成り、農業に対する当時の官憲による強権的政策を批判し農民の自立意識を鼓舞する内容となっている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全文が読める。

「舊日本に於ける銅の生産及其用途」これは予告されながら、遂に刊行を見なかった論文である。石井正己氏の論文「『遠野物語』の成立過程(上)」(一九九四年発行『東京学芸大学紀要』所収・PDFによれば、これは「日本産銅史略」(『国家学会雑誌』明治三六(一九〇三)年十月号・十一月号及び翌年四月号連載)を『もとにした本作りを構想していたのだろう』とある。]

Tounokuduke明治四十三年六月十一日印刷

明治四十三年六月十四日發行 (實價金五拾錢)

 不

    著者兼  東京市牛込區市ケ谷加賀町二町目■十番地

 許  發行者      柳 田 國 男

         東京市本鄕區駒込千駄木林町百七十二番地

 複  印刷者      今 井 甚太郞

         東京市本鄕區駒込千駄木林町百七十二番地

 製  印刷所      杏  林  舍

         東京市本鄕區龍岡町三十四番地

賣捌所 (振替口座東京三〇五八) 聚 精 堂

    (電話下谷 一六七二番)

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