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カテゴリー「柴田宵曲Ⅱ」の78件の記事

2024/04/17

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(4)

 

   すてゝある石臼薄し桐の華 鶴 聲

 

 農家の庭などの有樣かと思ふ。桐の花の咲いてゐるほとりに、使はない石臼が捨てゝある。單に石臼が捨てゝあるだけで滿足せず、その石臼の薄いことを見遁さなかつたのは、この句の稍〻平凡を免れ得る所以であらう。

 元祿時代に「すてゝんぶし」と稱する唄がはやつたことは、人の知るところであり、其角の『焦尾琴』には「棄字ノ吟」の題下に「すてゝある」の語を詠み込んだ句十七を列記してある。この鶴聲の句は、それを引合に出すにも及ぶまいかと思ふが、時代が同じだから、いささか念を入れて置くことにする。

[やぶちゃん注:「焦尾琴」「しやうびきん」は元禄一四(一七〇一)年刊の榎本其角編になる俳諧選集。国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第二巻(勝峯晋風編・彰考館昭一〇(一九三五)年刊)のここで十七句総てが、視認出来る。なお、この所収から、この「鶴聲」は蕉門と判る。]

 

   若竹や衣蹈洗ふいさゝ水 兀 峯

 

 たゞ洗濯すると云はず、「衣踏洗ふ[やぶちゃん注:「きぬふみあらふ」。]」と云つたところに特色がある。場所ははつきりしないけれども、「いさゝ水」といふ言葉から考へると、井戶端や何かでなしに、ささやかな流の類であらう。その水に衣を浸して、足で蹈んで洗ひつゝある。若竹の綠にさす日影も明るい上天氣に違ひない。鄙びた趣ではあるが、爽な感じのする句である。

[やぶちゃん注:「兀峯」桜井兀峰(さくらいこっぽう 寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江出身で、備前岡山藩士。元禄五(一六九二)年、江戸勤番となり、俳諧を松尾芭蕉に学び、榎本其角・服部嵐雪らと交わる。同六年、編著「桃の實」を出版した。通称は藤左衛門・武右衛門。]

 

   芥子の花咲や傘ほす日の移り 烏 水

 

 芥子の句は由來散るといふことに捉はれ易い。越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」などといふのは、その代表的なものである。「芥子畑や友呼て來る蜂の荒 潘川」の如きは、さう著しく表面に現れてゐないが、それでも「蜂の荒」といふことが、散りやすい芥子に對して或危惧を懷かしめる。他の花なら何でもないことでも、芥子の場合は散り易さに結びつけられる點があるのであらう。

 然るに烏水のこの句にはそれが全くない。雨の後であらう、庭に傘が干してある、芥子もその邊に咲いていゐる、といふ純客觀の句である。「日の移り」といふ言葉は、文字通りに解すると、此方から彼方へ移動するもののやうに思はれるが、映ずるといふ意味の「うつる」場合にも、昔はこの字を使つてゐる例がある。今まで干傘にさしてゐた日が芥子に移つたと見るよりも、干傘に照る日が芥子にうつろふと見た方がよささうな氣がする。

[やぶちゃん注:最後の解説は見事!

『越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」』は「去來抄」の「同門評」に載る。

   *]

 

  ちる時の心やすさよけしのはな 越 人

 

其角・許六、共(とも)曰(いはく)、「此句は謂(いひ)不應(おうぜず)故(ゆゑ)に「別僧」[やぶちゃん注:「僧に別(わか)る」。]と前書あり。」。去來曰、「けし一體の句として謂應(いひおう)せたり。餞別となして、猶、見(けん)あり。」。

   *]

 

   撫て見る石の暑さや星の影 除 風

 

 暑さの句といふものは赫々たる趣を捉へたのが多いが、これは又一風變つたところに目をつけた。一日中照りつけられた石が、夜になつてもほてりがさめきらずにゐる。恐らく風も何もない晚で、空に見える星の影も、いづれかと云へば茫としたやうな場合であらう。作者の描いたものは、僅に手に觸れる石のほてりに過ぎぬやうだけれども、夜に入つても猶ほてりのさめぬ石から、その夜全體の暑さが自然と思ひやられるのである。

 鬼貫に「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」といふ句があり、暑さを正面から描かず、塵を吹く人をして語らしめたのが一の趣向であるが、少しく趣向らしさに墮した憾がある。除風の句の石は何であるかわからぬけれども、「撫て見る」といふ以上、小さな石でないことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「鬼貫」「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」所持する岩波文庫復本一郎校注「鬼貫句選・独ごと」に、

   *

   夕涼

 なんとけふの署さはと石の塵を吹

   *

とある。「署」はママ。]

 

   供先に兀山みゆるあつさかな 虎 角

 

 支那、朝鮮あたりを旅行してゐた人が、内地に歸つて第一に感ずるのは、山の綠のうるはしいことだといふ。兀山[やぶちゃん注:「はげやま」。]の眺[やぶちゃん注:「ながめ」。]は何時にしても有難いものではないが、炎天下の兀山に至つては、慥に人を熱殺するに足るものがある。この句は大名などの行列を作つて行く場合であらう。その供先に兀山が見える。その赭い[やぶちゃん注:「あかい」。]山肌には烈々たる驕陽[やぶちゃん注:「けうやう」。灼熱の日光。]が照りつけてゐるに相違無い。これから進んでその兀山の下を通るのか、或はそれを越えなければならぬのか、そこまでは穿鑿するに及ばぬ。たゞそこに見えてゐるだけで、暑さの感じは十分だからである。

 蕪村の「日歸りの兀山越る暑さかな」といふ句は、時間的に長い點で知られてゐるだけに、この句よりは大分複雜なものを持つてゐる。一言にして云へば、この句より平面的でないといふことになるかも知れぬ。日歸りに兀山を越えなければならぬ暑さは、固より格別であらうが、炎天下の行列の暑さも同情に値する。大勢の人が蹴立てゝ行く砂埃を想像しただけでも、何だかむせつぽい感じがして來る。

[やぶちゃん注:明和六年六月十五日(グレゴリオ暦一七六九年七月七日)の作。]

2024/04/16

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(4)

 

   味噌の香に藏の戶前や五月雨 海 人

 

 陰鬱な五月雨の空氣の中に漂ふ侘しい香を見つけた――嗅ぎつけたのである。味噌は藏の中にあるのであらう。じめじめした暗い五月雨と、プンと鼻に感ずる味噌の香とを腦裏に浮べ得る人ならば、この句の趣は說かずともこれを了するに相違無い。

 子規居士に「秋雨や糠味噌臭ふ佛の間」といふ句があつたと記憶する。季節も違ひ、場所も違ひ、匂ふものも違ふけれども、嗅覺が捉へた句中の趣には、自ら相通ずるものがある。

[やぶちゃん注:「秋雨や糠味噌臭ふ佛の間」明治三〇(一八九七)年九月三十日の『病牀日記』に記されてある句。国立国会図書館デジタルコレクションの改造社刊『正岡子規全集』第四巻(昭和八(一九三三)年刊)のここ(右ページ最上段)で確認した。]

 

   中わろき鄰合せやかんこどり 一 夫

 

「さびしさに堪へたる人の又もあれな」といふやうな山里ででもあるか、閑古鳥が啼くと云へば、自ら幽寂な境地を想像せしめる。而もそこに住んでゐる人は、鄰合つていながら仲が惡い、といふ人間世界の已むを得ざる事實を描いたものらしい。

 併し吾々がこの句を讀んで感ずるところは、それだけの興味に盡きるわけではない。嘗て『ホトトギス』の俳談會が

 

   腹あしき鄰同志の蚊遣かな 蕪 村

 

   仲惡しく鄰り住む家や秋の暮 虛 子

 

といふ兩句の比較を問題にしたことがあつた。人事的葛藤を描く上から見ると、蕪村の句が最も力があり、活動してもゐるやうであるが、句の價値は姑く第二として、自然の趣はかえつてこの句に遜る[やぶちゃん注:「ゆづる」。]かと思ふ。かういふ趣向の源もまた元祿に存することは、句を談ずる者の看過すべからざるところであらう。

[やぶちゃん注:「さびしさに堪へたる人の又もあれな」「新古今和歌集」の「卷之六 冬歌」に載る西行の一首(六二七番)、

   題しらず

 さびしさにたへたる人のまたもあれな

   庵(いほり)ならべん冬の山里(やまざと)

で、これは「小倉百人一首」の二十八番で知られるところの、「古今和歌集」の「第六 冬歌」の源宗于(むねゆき)の、

   冬の歌とてよめる

 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬとおもへば

の本歌取りである。「山家集」に収載してあり、「西行法師法師家集」では「山家の冬の心を」と前書する。

「腹あしき鄰同志の蚊遣かな」「腹あしき」は「怒りっぽい」の意。「蕪 村遺稿」にある句で、明和八(一七七一)年四月十八日の句。

「仲惡しく鄰り住む家や秋の暮」という高濱虛子の句については、国立国会図書館デジタルコレクションの大正七(一九一八)年十二月発行の『ホトトギス』誌上の「俳壇會」のここで(左ページ後ろから四行目以降)、山崎楽堂(やまざきがくどう 明治一八(一八八五)年~昭和一九(一九四四)年:能楽研究家・建築家にして俳人)が、この句を掲げて、詳細な批評を行っているので、是非、読まれたい。因みに、久女を俳壇から葬った糞虚子は、私は彼女と同様に「虛子嫌ひ」であるからして、この句も駄句以外の何物でもないと思っている。]

 

   飛ひかりよわげに蚊屋の螢かな 鶴 聲

 

 螢を蚊帳に放つといふ趣向は、早く西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、秋まで殘る螢を數包[やぶちゃん注:「かずつつ」。]みて禿[やぶちゃん注:「かぶろ」。]に遣し[やぶちゃん注:「つかはし」。]、蚊屋の内に飛ばして、水草の花桶入れて心の涼しき樣なして、都の人の野とや見るらむといひ樣に、寢懸姿[やぶちゃん注:「ねかけすがた」。]の美しく」云々と書いてゐる。

 

   蚊屋の内にほたる放してアヽ樂や 蕪 村

 

といふ句は、その放膽な句法によつて人に知られてゐるが、蕪村は果して西鶴の文中から得來つたものかどうか。蚊帳に螢を放つの一事が、それほど特別な事柄でないだけに、偶合と見る方が妥當であらう。「アヽ樂や」の句は一應人を驚かすに足るけれども、再三讀むに及んでは、蚊帳の中を光弱げに飛ぶ元祿の螢の方に心が惹かれて來る。這間[やぶちゃん注:「このかん」。]の消息は「自然」の一語を用いる外、適當な說明の方法も無ささうである。

 子規居士が「試問」として『ホトトギス』の讀者に課した中に、「子は寢入り螢は草に放ちけり」の句を批評せよ、といふ問題があつた。この句は誰の作かわからぬけれども、その答と共に居士が揭げた文章によると、享保頃に

 

   子を寢せて隙やる蚊帳の螢かな 喜 舌

 

といふ句があるらしい。居士は「子は寢入り」の趣向の古きものとして之を擧げたのであるが、更に遡れば元祿に

 

   ねいらせて姥がいなする螢かな たゝ女

 

といふ句がある。「試問」における居士の批評は、第一に句尾の「けり」を難じ、第二に「子は」「螢は」と二つ重ねた句法を難じ、第三に「子は寢入り」と云放したことを難じ、「若し句調を捨てゝ極めて簡單にせば『子寢ねて螢を放つ』とでもすべきか」と云つてゐる。「草に」の一語がこの場合、あまり働かぬ贅辭となつてゐることも自ら明である。

 享保の喜舌の句は、放つべき草を云はずに、今ゐる蚊帳を現した點が多少異つてゐるけれども、「隙やる」の一語は何としても俗臭を免れない。元祿のたゝ女に至ると、寢入つた子を主とせず、寢入らせた姥[やぶちゃん注:「うば」。]を主役にして、その姥が螢を放つことになつてゐる。これには草も無ければ蚊帳も無い。「ねいらせて」及「いなする」といふ言葉に厭味はあるが、「子寢ねて螢を放つ」といふことから見れば、この句が一番近いやうである。かういふ種類の句は、何時誰が作つたにしても、所詮俗を脫却し得ぬものであらう。たゞこの趣向に於いても亦、元祿の句が最も自然に近いとすれば、他の方面の事は推察に難くない。

[やぶちゃん注:『西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第三巻「井原西鶴集」(昭二(一九二七)年国民図書刊)の「好色一代男」の「卷五」の「慾(よく)の世の中に是れは又」のここ(左ページ後ろから三行目以降)で、当該部を視認出来る。

「蚊屋の内にほたる放してアヽ樂や」この蕪村の句は明和六(一七六九)年五月十日の作。

『子規居士が「試問」として『ホトトギス』の讀者に課した中に、「子は寢入り螢は草に放ちけり」の句を批評せよ、といふ問題があつた』これは明治三二(一八九九)年の「俳句問答」の一節で、『○第四問 左の句を批評せよ、』『子は寢入り螢は草に放ちけり』である。国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧大要・俳人蕪村・俳句問答・俳句の四年間」(高濱淸(虛子)編・大正二(一九一三)年籾山書店刊)のここの『第四問の答』以下で視認出来る。この子規の批評は鋭い。]

2024/04/15

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(3)

 

   美しき人の帶せぬ牡丹かな 四 睡

 

 ちよつと見ると、牡丹の咲いてゐる側に、美人が帶をしめずに立つてゐるかの如く解せられるが、實際はさうでなしに、牡丹そのものを帶せざる美人に見立てたものと思はれる。牡丹の妖艷嬌冶の態は單に「美しき人」だけでは十分に現れない。「帶せぬ」の一語あつて、はじめてこれを心裏に髣髴し得るのである。

 かういふ句法は今の人達には多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合强ひて目前の景色にしようとして、帶せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺[やぶちゃん注:「げんさい」。]されるにきまつてゐる。句を解するにはどうしてもその時代の心持を顧慮しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「嬌冶」「けうや」(きょうや)は「艶めかしい」の意。]

 

   捲あぐる簾のさきやかきつばた 如 行

 

『句兄弟』に「簾まけ雨に提來くる杜若」といふ其角の句がある。これは「雨の日や門提て行かきつばた」といふ信德の句に對したので、單に燕子花[やぶちゃん注:「かきつばた」。]を提げて通るといふだけの景色に、「簾まけ」の一語によつて山を作つたのが、其角一流の手段なのであらう。

 如行のこの句には、其角のやうな山は見えない。緣先の簾を捲上げると、すぐそこに燕子花の咲いてゐるのが見える、といふ眼前の趣を捉へたのである。簾を捲くと同時に、燕子花の色がぱつと鮮あざやかに浮んで來るやうに感ずるのは、この句が自然な爲に相違ない。自然に得來つたものは、一見平凡のやうでも棄て難いところがある。

[やぶちゃん注:「句兄弟」其角編で元禄七(一六九四)年刊。以上は、

      *

 五番

    兄 信德

   雨の日や門(かど)提(げ)て行(ゆく)かきつばた

    弟 [やぶちゃん注:ここは其角。]

   簾(すだれ)まけ雨に提來(さげくる)杜若

      *

この「信德」は伊藤信徳(寛永一〇(一六三三)年~元禄一一(一六三八)年)は京都の富商。高瀬梅盛の門人で、談林調から蕉風への一翼を担った人物として知られる。編著「江戶三吟」・「七百五十韻」などがある。]

 

   ほとゝぎす栗の花ちるてらてら日 李 千

 

 紛れもない晝のほとゝぎすである。ほとゝぎすの句といふものは、習慣的に夜を主とするやうになつてしまつたが、古句を點檢して見ると、必ずしもさうではない。この句は「てらえら日」といふのだから、相當日の照りつけている、明るい晝の世界である。

 

   ほとゝぎすあみだが峯の眞晝中 路 通

 

   郭公日高にとくや筒脚半 探 志

 

などといふのは、明に[やぶちゃん注:「あきらかに」。]晝の時間を現してゐるし、

 

   幟出す雨の晴間や時鳥 許 六

 

   ほとゝぎす傘さして行森の雨 洒 堂

 

の如きも、やはり晝と解した方がよささうに思はれる。元祿人は傳統に拘泥せず、句境を自然に求めて隨所にこの種の句を成したのであらう。

「ほとゝぎす」といふ言葉がその鳥を現すのみならず、直にその啼なく聲までを意味するのは、活用の範圍が廣きに失しはせぬかといふことを、鳴雪翁は云つて居られた。併しほとゝぎすは聲を主とする鳥で、啼く場合殆ど姿を見せぬといふことも考へなければならず、その名詞が五音であるため、他の語を添える便宜に乏しいといふ消息も認めなければなるまい。ここに擧げたのはいづれも晝のほとゝぎすであるに拘らず、一向句の表に姿を現してゐない。「栗の花ちるてらてら日」といふ明るい世界にあつても、ほとゝぎすは依然聲を主として扱はれてゐるのである。

 

   雞の餌袋おもし五月雨 胡 布

 

 雞の餌袋[やぶちゃん注:「ゑぶくろ」。]は胸のところにある。かつて少しばかり雞を飼つた頃の經驗によると、夕方雞舍をしめる時などに、よくその餌袋に手を觸れて、腹が十分であるかどうかをしらべたものであつた。貪食な雞の餌袋が一杯砂でも詰めたやうに固くなつてゐるのは常の事であるが、これは五月雨時なので、いさゝか運動が乏しく、特に餌袋の重きを感じたものかも知れない。

 この句の眼目は「おもし」の一語に盡きる。これによつて客觀的に雞の餌袋を重しと見るのみならず、何となく自分の事ででもあるかのやうな感じを與へる。雞に親しい生活の人でなければ、かういふことは捉へにくいだらうと思ふ。

 

2024/04/13

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(2)

 

   薄紙にひかりをもらす牡丹かな 急 候

 

 子規居士の『牡丹句錄』の中に「薄樣に花包みある牡丹かな」といふ句があつた。これも同じやうな場合の句であらう。「ひかり」といふのは赫奕たる牡丹の形容で、同じく子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」といふ句があり、また「いたつきに病みふせるわが枕邊に牡丹の花のい照りかゞやく」「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」などといふ歌もある。牡丹に「ひかり」といふ强い形容詞を用ゐたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てゝ「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、豐麗なる牡丹の姿に適せぬ憾みが無いでもない。「い照りかゞやく」にしろ、「光を放つ」にしろ、その形容の積極的に强い點から云へば、遙にこの句にまさつてゐる。

 尤もかういふ言葉の側から云ふと、元祿の句が稍〻力の乏しいのは、必ずしもこの句に限つたわけではない。牡丹に雨雲を配した

 

   雨雲のしばらくさます牡丹かな 白 獅

   方百里雨雲よせぬ牡丹かな 蕪 村

   雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな 虛 子

 

の三句について見ても、言葉は蕪村の「方百里」が一番强い。しかして曲折の點から云へば、元祿の句は竟に大正に如かぬやうな氣がする。蓋し長所のこゝに存せぬためであらう。

[やぶちゃん注:因みに、サイト「増殖する俳句歳時記」のこちらで、松下育男氏の評があり、岩波文庫の本条をもとにこの句を紹介されつつ、そこでは、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]柴田宵曲は『古句を観る』の中で、この句について次のように解説しています。「牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、華麗なる牡丹の姿に適せぬ憾(うらみ)がないでもない。」なるほど、これだけ自信たっぷりに解説されると、そのようなものかといったんは納得させられます。ただ、軟弱な感性を持ったわたしなどには、むしろ「ひかりをもらす」と、わざわざひらがなで書かれたこのやわらかな動きに、ぐっときてしまうのです。薄紙を通した光を描くとは、江戸期の叙情もすでに、微細な感性に充分触れていたようです。華麗さで「花の王」とまで言われている牡丹であるからこそ、その隣に「薄さ」「弱さ」を置けば、いっそうその気品が際立つというものです。いえ、内に弱さを秘めていない華麗さなど、ありえないのではないかとも思えるのです。句中の「ひかり」が、句を読むものの顔を、うすく照らすようです。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

私は、それほど大振りの牡丹の花が実は好きではないが、松下氏の感想は、宵曲の評よりも遙かに共感を感じることを一言述べておく。

「赫奕たる」「かくやくたる」或いは「かくえきたる」と読み、光り輝くさまを言う語。

「子規居士の『牡丹句錄』の中に「薄樣に花包みある牡丹かな」といふ句があつた」明治三二(一八九九)年六月『ホトヽギス』初出の「牡丹句錄」の句の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「牡丹句録册子」(森有一編・一九四四年翠松亭刊)のここで視認出来るが、

      *

   薄樣に花包みある牡丹かな

      *

とあるものの、国立国会図書館デジタルコレクションの一九四三年大塚巧芸社刊の自筆復刻版(カラー)の当該句を見ると、

      *

   薄樣花包みある牡丹哉

      *

となっていることが、判る。補正部分は塗り潰されていて、判読出来ないが、「の」かも知れない。

『子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」といふ句があり』同じく「牡丹句錄」所収で、前の活字本では、冒頭の「薄樣に」の後の四句目に、

      *

   一輪の牡丹かゝやく病間かな

      *

とある。「輝く」は古くは清音であった。また、前掲自筆本を見ると、

      *

   一輪の牡丹かゝやく病間哉

      *

である。

「いたつきに病みふせるわが枕邊に牡丹の花のい照りかゞやく」明治三三(一九〇〇)年四月二十五日の一首。前書がある。

      *

   左千夫より牡丹二鉢を贈り來る
   一つは紅薄くして明石潟と名づ
   け一つは色濃くして日の扉と名
   づく

 いたつきに病みふせるわが枕邊に

     牡丹の花のい照りかゞやく

      *

「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」前の一首と同じ日の三首目で、

      *

 くれなゐの光をはなつから草の

     牡丹の花は花のおほぎみ

      *

とある(短歌はブラウザの不具合を考えて上句と下句を分けた)。

「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」「蕪村」寛政九(一七九七)年刊の発句・俳文集「新花摘」の発句の部に出る。所持する小学館『日本古典文学全集』「近世俳諧俳文集」に、

      *

   方(はう)百里雨雲よせぬぼたん哉

      *

とあり、栗山理一氏の頭注で、『安永六(一七七七)年四月十三日付の書簡には中七「雨雲尽きて」の句形になっているが、初案であろう。牡丹の背景を整えるために夏空の快晴を描いたことになる』とある。牡丹は蕪村のとりわけ好きな花であったらしく、『『新花摘』には牡丹の句が十二句ある』ともあった。

「雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな」「虛子」大正七(一九一八)年の作。]

2024/04/12

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(1)

[やぶちゃん注:底本では、内容本文はここから。]

 

              

 

   湯殿出る若葉の上の月夜かな 李 千

 

 爽快な句である。湯上りの若葉月夜などは、考へただけでもいゝ氣持がする。湯から上つたあとは何時でも惡いことはないが、一脈の懶さを伴つてゐる春の夜よりも、汗を流すのを第一とする夏の夜よりも、はつきりした空氣の中に多少の冷かさを含んでゐる若葉時分の夜が、爽快な點では最も勝まさつてゐるであらう。湯殿を出た人はそのまゝ庭に立つて、若葉に照る月のさやかな光を仰いでゐるのである。時刻を限る必要も無いけれども、あまり夜の更ふけぬうちの方がよささうに思ふ。

 この句は中七字が「靑葉の上の」となつている本がある。若葉にしても靑葉にしても、爽快な點に變りはない。その方には作者が「里仙」となつているが、恐らく同人であらう。珍碩――珍夕、曲翠――曲水その他、同音別字を用いた例はいくらもあるからである。

 

      病 後

   笋ときほひ出ばや衣がへ 吾 仲

 

 病が漸う癒えて衣を更へる場合であらう。その恢復に向ふ力に對して、土を抽づる笋[やぶちゃん注:「たけのこ」。]の勢を持つて來たのである。現在それほど元氣になつたといふわけではない。笋の勢に倣はうといふので、なお病後の弱々しい影の去りやらぬことは、前書及「出ばや」といふ言葉に現れてゐる。病後の更衣はその後にも屢〻見る趣向であるが、これは主觀的に笋を扱つて、恢復に向ふ力を描いたところに、元祿の句らしい特色がある。

 子規居士にも「病中」の前書で「人は皆衣など更へて來りけり」といふ句があつた。癒ゆべからざる長病の牀に在つて、更衣の圈外に置かれた居士の氣持は、この句を誦する者に或うらさびしさを感ぜしめずには置かぬであらう。笋と共にきおひ出でむとする病者は、癒ゆべき日を眼前に控へてゐるだけに、一句の底に明るい力が籠つてゐるやうに思はれる。

 

   定紋の下に鬼かく幟かな 秋 冬

 

などといふ句も、鯉にあらざる幟の樣子を最もよく現している。とかくの說明にも及ばぬが、前の句の參考資料たるだけの價値は十分にあると思ふ。

[やぶちゃん注:子規のそれは、明治二九(一八九六)年の作で、「寒山落木 卷五」に載る以下。

   *

     病 中

 人は皆衣など更へて來りけり

   *]

 

   山ごしに顏は見えけり幟の畫 峯 雪

 

 一目瞭然、說明するまでもない句であるが、幟[やぶちゃん注:「のぼり」。]の顏といふことは、近頃の人にはちよつとわかりにくいかも知れぬ。子規居士が「定紋[やぶちゃん注:「ぢやうもん」。]を染め鍾馗を畫きたる幟は吾等のかすかなる記憶に殘りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ」と云つて歎息したのは、已に四十餘年の昔だから、今の東京に鯉幟が幅を利きかしてゐるのも、勿論已むを得ぬ次第である。

 この句の働きは「山ごしに」といふ上五字に在る。大した山でないと同時に、さう遠距離でないことは、「顏は見えけり」といふ言葉から想像出來る。この顏は幟に畫いた鐘馗か何かの顏である。「幟の畫」とある以上、如何に鯉幟が天下を風靡したところで、鯉の顏と解釋される虞はなささうに思ふが、念の爲に蛇足的說明を加へることにした。

[やぶちゃん注:子規のそれは、二十八、九歳の頃に書いた随筆「松蘿玉液」の一節である。国立国会図書館デジタルコレクションの『正岡子規全集』第一巻 (改造社『日本文學大全集』の内・一九三一年刊)の正字正仮名の当該部(右ページ上段七行目から)を参考に、所持する岩波文庫一九八四年刊の同書を更に参考にした(国立国会図書館デジタルコレクションの諸種のものを見たが、傍点が複数あるのは、これだけであったため。「﹆」は「太字」とし、「﹅」は下線とした)。当該記事執筆は明治二九(一八九二)年の五月九日と思われる。

   *

幟の節句 は東京にては新曆を用ふることゝて舊曆の三月末に當りしかも立夏に立てあひたるもをかし。儀式は大方にすたれたるを幟樹つることばかりはいよいよはやり行くを見るに子を可愛がる親の心は文明開化も同じことなるべし、それさへ定紋を染め鍾旭を畫きたる幟は吾等のかすかなる記憶に殘りて今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ。此日ある場末を通りけるに家の庇に菖蒲葺たる家あり。それをいと珍らしと見つゝ更に行けば極めて淋しき片側町の門邊に菖蒲と蓬とを束ねて掛けたるを見るに兎角に昔なつかしき心地せらる。

   君が代や縮緬の鯉菖蒲の太刀

   東京や菖蒲掛けたる家古し

   *

 なお、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本及日本人』第二巻第五号(J&Jコーポレーション一九五一年五月発行)のここで正字正仮名で、柴田宵曲の「俳諧漫筆 その八」の「幟」が視認でき、冒頭でここと同じことを述べているので、是非、見られたい。]

 

   長竿に板の武者繪や帋幟 汶 村

 

 この幟も同類である。長い竿の幟が立ててあるが、その幟は布でなしに紙で、而もその繪が肉筆でない。版で摺つてあるといふ。(板の字の傍に棒が引いてあるから、これはハンと音で讀むのである)いづれ簡畧なものであらう。その繪が武者繪であることも、この句は明にしてある。

 繪の幟の句があまり見當らぬ中に在つて、紙に板畫で武者繪を刷つたことまで描いたのは、慥に珍とするに足る。或は作者も珍しいと思つて、特に一句に纏めて置いたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「帋幟」「かみのぼり」。]

 

      五日

   旅なれや菖蒲も葺ず笠の軒 鶴 聲

 

 端午の句である。かういふ年中行事に對する古人の心持は、自ら今人と異るものがある。今日でも全く人の意識から離れ去つたわけではないけれども、各自之を守る心づかひに至つては、多大の軒輊を免れぬ。王維が九日山東の兄弟を懷ふの詩「獨在異鄕爲異客。每逢佳節倍思親。遙知兄弟登高處。遍插茱萸少一人」の如きも、單に家鄕の兄弟を懷ふだけでなく、かういふ年中行事の中に洩れた自分を顧るところに、自ら微妙な味が籠つてゐる。これは時代も古いし、さういふ懷鄕の情を正面から詠じたのであるが、一步俳諧の世界に踏入つて

 

      旅中佳節

   馬の背の高きに登り蕎麥の花 移 竹

      雨中九日病起

   試みに下駄の高きに登りけり 銕 僧

 

といふやうな句を見ると、そこに或轉化の迹が目につく。移竹の句の登高は本當の登高ではない。重陽の日も旅にあつて馬に跨りつゝあることを、「馬の背の高きに登り」と登高に擬して興じたのである。銕僧の句も重陽ではあるが、雨が降つてゐるし、病起の狀態でもあるので、高きに登ることなどは出來ない。そこで單に下駄を穿いて見たまでのことを、「試みに下駄の高きに登りけり」と誇張して云つたのである。この二句は元祿期の作ではないけれども、俳諧の一特色たる轉化の傾向を見るべきもので、正面から云ふのと違つたおかしみを伴つてゐる。

 鶴聲の菖蒲葺の句もやはりこの種類に屬する。旅中端午の節句に逢つて家鄕を想ふに當り、忽ち例の轉化を試みて、現在自分が被つてゐる笠を持出したのである。卽ち旅に在つて端午の菖蒲も葺かずにいるといふことから、笠の端を軒端に見立てゝ、そこに菖蒲を葺かぬといふことを以て一句の趣向にしたので、それが「馬の背の高き」に登つたり、「試みに下駄の高きに」登つたりするほど明快に片づかないのは、元祿調と天明調との相違によるのかも知れない。格別すぐれた句ではないが、一種の句として觀る價値はありさうである。

[やぶちゃん注:『王維が九日山東の兄弟を懷ふの詩「獨在異鄕爲異客。……」は、王維十七歳の時の七絶で、「唐詩選」にも載る有名なものである。所持する岩波書店『中国詩人選集』第六巻の都留春雄注「王維」を見ると、『多分、長安に遊学していて、故郷を憶って作ったものと推測される。因みに、彼が京兆府試』(けいちょうふし)『(都で行われるブロックごとの分館試験名)に合格したのは、十九歳の時である』とあった。所持するそれで、漢詩原文を示し、訓読は参考に留めた(新字新仮名で気持ちが悪いため)。

   *

 九月九日憶山東兄弟

獨在異鄕爲異客

每逢佳節倍思親

遙知兄弟登高處

徧插茱萸少一人

  九月九日 山東の兄弟(けいてい)を憶ふ

 獨り異鄕に在りて 異客(いきやく)と爲る

 佳節に逢ふ每(ごと)に 倍(ますます)親(しん)を思ふ

 遙かに知る 兄弟(けいてい) 高きに登る處(とき)

 徧(あま)ねく茱萸(しゆゆ)を插して一人(ひとり)を少(か)くを

   *

 陶淵明の詩で知られているから、言わずもがなだが、中国では九月九日の最も縁起の良い重陽の節句の日は別に「登高」(とうこう)と呼んで、一族が、頭髪に茱萸(ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 或いは同変種ホンゴシュユ Tetradium ruticarpum var. officinale )の実を挿して、近くの小高い山や丘に登り、菊酒を飲んで、長生を祈念した。「兄弟」王維は長男で弟が四人いた。但し、この「兄弟」はより広い(所謂「排行」で範囲指定される)父方の従兄弟を含めた広い「兄弟」である。]

2024/04/11

ブログ2,140,000アクセス突破記念 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(23) /「春」の部~了

[やぶちゃん注:因みに、この記事は、本日未明、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,140,000アクセスを突破した記念として公開するものである。【二〇二四年四月十一日 藪野直史】]

 

   雉子啼や藏のあちらの蜜柑畑 桃 先

 

 田舍の屋敷内などであらう。母家を離れたところに土藏があつて、その向うはずつと蜜柑畑になつてゐる。雉子はその邊まで來て啼くとも解せられるし、藏の向うに蜜柑畑の見えるやうな場所で、けんけんと啼く雉子の聲を聞いたといふことにしても構はない。

 雉子の聲の背景としては、これまでも隨分いろいろな世界を擧げて來たが、「藏のあちらの蜜柑畑」は正に一幅の畫圖である。こゝに雉子の聲を點じて、畫以上にすべてを生動せしめた。雉子の啼く頃では、蜜柑は枝頭に朱い玉をとゞめていないかも知れぬが、土藏の先に一面の蜜柑畑が展開しさへすれば、果の有無の如きは深く問ふに及ばぬであらう。

 

   山燒て峯の松見る曇かな 魚 口

 

 この句に於て多少の疑問があるのは、「山燒て」といふ言葉にかゝる時間である。山を燒いて然る後、どの位の時間を經てゐるか、それによつてこの句の味は異らなければならぬ。

 山燒の濟んだ後の峯に、何本かの松が聳そびえてゐる、燒かれて稍〻あらはになつた山の頂の松が、曇つた空に高く見える、といふ風にも解釋出來る。

 もう一つは現在なお山を燒きつゝある場合で、煙はそこら一面に流れてゐる、峯頭の松もその煙のために曇つて見えるか、或は實際曇つた空に聳えてゐるか、とにかく山燒が現に行はれてゐるものと解するのである。

「山燒て」といふ言葉は、本來はつきりした時間を現してゐないから、何方にも解し得ると思ふが、再案するに「峯の松見る曇かな」といふ十二字には、しづかに落著いた空氣が含まれてゐるので、現に火が燃えてゐる――山を燒きつつあるものとすると、感じの上においてそぐわぬところがある。やはり山を燒いてから多少の時間を經過したものと見るべきであらう。

[やぶちゃん注:後半の宵曲の推定はヴィジュアルな印象を検証したすこぶる優れた見解である。]

 

   にくまれてたはれありくや尾切猫 蘆 本

 

 猫の戀を詠んだ句は、比較的漠然たる趣のものが多く、猫そのものの樣子なり、動作なりを現したものは寧ろ少い。この句はその少い方に屬する一である。

 春の季題に猫の戀を取入れたのは誰か知らないが、戀猫といふものはそれほど雅趣に冨んでゐるとも思はれぬ。家を外に浮れ步くあの樣子は、平生猫に好意を持つてゐる人にすら、疎むとか、憎むとかいふ心持を起させ易い。さういふ猫の中に尾を短く切られたのが一匹おつて、日夜狂奔しつゝある。その樣子を皆が見て憎らしいと云ふが、猫はそんな世評には頓著せず、相變らず家を外に狂ひ步いてゐる、といふのである。

 猫を飼ふ趣味にもいろいろあつて、必ずしも同一標準に立つわけではないけれども、尾の長い方が見た恰好もいゝし、可愛らしくもある。この猫が人に憎まれるのは、尾の短いことも一理由になつてゐるかもわからぬが、作者はそれを正面に置いてはゐない。「にくまれて」はどこまでも「たはれありく」樣子にかゝるので、その猫は尾が切られてゐて短い、といふ特徵を描いたまでのものであらう。

「戀ひ負けて去りぎはの一目尾たれ猫 より江」といふ句は、さすがに近代の產物だけあつて、猫の樣子なり、動作なりについて更にこまかい觀察を試みてゐるが、「尾たれ猫」の一語は特に畫龍點睛の妙がある。蘆本の句は觀察の精粗に於て固より同日の談ではない。但この句の眼目は畢竟「尾切猫」の一語に在る。この一語が無かつたら、尋常一樣の漠然たる戀猫の句になつてしまつたに相違無い。

[やぶちゃん注:「尾切猫」民俗社会では、尻尾の長い猫が歳を重ねると、尾が二股になり、妖獣猫又になるという迷信があって、そのために尾を切るということが行われた事実もあるようである。但し、実際の切っているのではなく、元来、尻尾の短い中国から来た猫は、遺伝的に短い尻尾や鍵尻尾を持っていて、実際、江戸時代には尻尾の短い猫が好まれてきた事実があり、これも、前記のような理由から人為的に切ったのではなく、そうした猫をかく呼称したともとれる。

「より江」久保より江(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)は女流俳人・歌人。郷里の愛媛県松山で夏目漱石や正岡子規に接し、句作を始め、上京後、府立第三高女を卒業し、耳鼻咽喉科学者で歌人の久保猪之吉(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年:短歌を落合直文に学び、尾上柴舟らと「いかづち会」を結成、浪漫的な歌風で知られた)と結婚し、福岡に住み、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学び、かの美貌の歌人柳原白蓮らと交友があった。旧姓は宮本。著作に「嫁ぬすみ」「より江句文集」等がある。]

 

   晝からは茶屋が素湯賣櫻かな 菐 言

 

 これはどういふ場所であるか、櫻があつて、茶屋があつて、人が見に來るやうなところらしいが、それ以上の想像は困難である。或は不必要かも知れぬ。

 特に「晝からは」と斷つたのは、午前は何も無いが、午後からは……といふ意味に解せられる。午前はあまり人が來ないのか、茶屋が開業しないのか、それもわからない。

 反對に人があまり來過ぎるので、午後からは茶屋が茶でなしに素湯[やぶちゃん注:「さゆ」。]を飮ませてゐる、といふ意味に解すると、素湯だから冷たくはないにしても、いさゝか冷遇の意味になつて來る。「晝からは」といふ以上、午前と午後とで何か異る事情がなければならぬ。その事情は大づかみに見て、消極、積極の二通りになるが、愈〻となると斷定は下しにくいやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「菐言」寺島菐言(てらしまぼくげん 正保三(一六四六)年~元文元(一七三六)年)は江戸前・中期の蕉門俳人。尾張鳴海宿の本陣の子。貞享四(一六八七)年十一月五日、芭蕉を招いて句会を開いている。「鳴海六俳人」の一人。名は安規。通称は伊右衛門。]

 

   羽子板の箔にうけたり春の雪 吾 仲

 

 美しい句である。

 春降る雪の冬の雪と感じの違ふところはいくらもあるが、要するに季節を過ぎてゐるだけに、何となく一種のゆとりを生じて居り、雪片が大きいながらふはふはと降つて來る趣なども、この感じを大に助けてゐる。この句はその趣を捉へたもののやうに思はれる。

 箔を置いた羽子板をさしのべて、春の雪片を受けて見る。深窓に育つ羽子板の持主の嫣然たる趣を連想すれば更に美しい。「ロシヤ更紗の毛蒲團を、そつとぬけでてつむ雪を、銀のかざしでさしてみる、お染の髮の牡丹雪ぼたんゆき」といふ夢二氏の童謠を昔讀んだことがあるが、どこかそれと共通する浮世繪趣味に似たものが感ぜられぬでもない。併しそれは固より連想、餘情の範圍で、句の表に現れたものは、春の雪の降る中にさしのべた、美しい羽子板だけである。

「箔にうけたり」といふ言葉を、箔を置いた羽子板と取らずに、春の雪を受けて羽子板の箔とした――雪片そのものを箔と見る――といふ意味に解すると、多少技巧的な句になる。吾々はやはり箔ある羽子板をさしのべた、美しい句としてこれを見たい。

[やぶちゃん注:「夢二氏の童謠」は竹久夢二の「どんたく 繪入り小唄集」の中の「雪」の一節。私は彼の絵が嫌いなので所持しない。幸い、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、原本(大正二(一九一三)年実業之日本社刊)を視認出来たので(ここと、ここ)、以下に電子化する。

   *

 

 雪

 

赤(あか)いわたしの襟卷(えりまき)に

ふわりとおちてふときえる

つもらぬほどの春(はる)の雪(ゆき)。

  これが砂糖(さたう)であつたなら

  乳母(うばも)でてきてたべよもの。

ロシヤ更紗(ざらさ)の毛布團(けぶとん)を

そつとぬけでてつむ雪(ゆき)を

銀(ぎん)のかざしでさしてみる

お染(そめ)の髮(かみ)の牡丹雪(ぼたんゆき)。

 

七番藏(ばんぐら)の戶(と)のまへで

手招(てまね)きをするとうじさん

顏(かほ)ににげない白(しろ)い手(て)で

ひねり餅(もち)をばくれました。

 

納戶(なんど)のおくはほのくらく

紀州蜜柑(きしうみかん)の香(か)もあはく

指(ゆび)にそまりし黃表紙(きべうし)の

炬燵(こたつ)で繪本(ゑほん)をよみました。

 

窓(まど)からみれば下町(したまち)の

角(かど)の床屋(とこや)のガラス戶(ど)に

大阪下(おほさかくだ)り雁二郞(がんじろ)の

春狂言(はるきやうげん)のびらの繪(ゑ)が

雪(ゆき)にふられておりました。

   *

最終行の「おり」はママ。]

 

   尋よる門やしまりて梅の花 野 紅

 

 この訪問者と居住者との關係はわからない。門前を通りかゝつたから寄つて見るといふやうな漫然たる訪問でないことだけは慥である。

 折角たずねて來た門がしまつてゐる。近頃は門がしまつてゐても、必ず不在だとはきまらない。ベルを押して、取次が出て來てからでも、眞の在否のわからぬ手合さへある。作者はこの場合「門やしまりて」の一語によつて、門がしまつてゐるといふことだけでなく、主の不在であることをも現している。「九日驅馳日閑。尋君不遇復空還。怪來詩思淸人骨。門對寒流一雪滿山」といふやうな趣であるとすれば、梅花に門を鎖した主は隱者らしくなつて來るが、この句はそこまではつきり描いてゐない。門のしまつてゐる爲に得た失望の感を、「尋よる」の一語に含ませてゐるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:引用している漢詩は、「三體詩」宋の周弼撰の漢詩集。全三巻。一二五〇年成立。七言絶句・五言律詩・七言律詩三体の詩、四百九十四首を集録する。唐代中晩期の作品が中心で、「虛」(叙情)と「實」(叙景)に分類する。本邦では、室町時代に翻刻されて以来、盛んに流布した]の巻頭の「七言絕句」の「虛接」にある、中唐の韋應物の一篇。所持する朝日新聞社の『中国古典選』二十九巻(全巻吉川幸次郎監修)の村上哲見著を参考に正字で示し、訓読を示す。

   *

 

 休日訪人御不遇    韋應物

九日驅馳一日閑

尋君不遇又空還

怪來詩思淸人骨

門對寒流雪滿山

 

  休日人を訪ねて遇はず  韋應物

 九日(きうじつ)驅馳(くち)して 一日(いちじつ) 閑(かん)なり

 君を尋ねて遇はず 又た空しく還(かへ)る

 怪み來たる 詩思(しし)の人骨を淸(きよ)うするを

 門(もん)は寒流(かんりう)に對し 雪は山に滿つ

 

   *

語釈しておく。

・「驅馳」走り回ること。当代の官人は、九日、働き続けて、十日目に一日だけの休暇が与えられる決まりであった)。

・「怪來」…あやしむ。「來」は助辞で、何やらん、不思議に思われることを響かせるもの。

・「詩思」村上氏は『留守を残念におもいつつ、門前の景を眺めるうちに、詩情がわいてきた』という意を採っておられる。

・「骨」村上氏は『骨髄までも清められるおもいだった』と訳しておられる。]

 

   白梅の月をさゝげて寒さかな りん女

 

 明治の末に「寒月照梅花」といふ敕題が仰出された時、誰かがいろいろ古歌の例を引いたものを見たら、月に梅を配したものはあつても、寒月といふ感じのものは少かつた。當時詠進の歌には、何かの景物によつて寒さを現したものが多かつたやうに記憶する。歌では「寒月や」といふ風の言葉が使ひにくい爲、自然配合物の力を藉る[やぶちゃん注:「かりる」。]ことになるのであらう。

 この句は春になつてからの句かも知れぬが、寒さが主になつてゐるので、「寒月照梅花」の意にも適ふかと思ふ。皎々たる月の光の下に、白い梅の花が咲いてゐるといふ、見るからに寒い感じの句である。月下の梅といふことを云はずに、「月をさゝげて」といつたのは、月が中天にかゝつてゐることを現す爲もあるが、そこに作者の技巧らしいものが見えて、さういゝ句だといふわけではない。たゞ同じ作者の句に「白梅の月をおさゆる寒さかな」といふのがあり、彼此對照すれば、やはり「さゝげて」の方が優つてゐる。「おさゆる」では作者の技巧的主觀が强くなつて、自然の趣を損ずることが多いからである。

 

   爐ふさぎや上へあがりてふんでみる 朱 拙

 

 久しい間の爐を塞いで蓋をする。一冬を賴みにして來ただけに、愈〻塞いでしまふ段になると、うら寂しい感じもするが、同時にその邊が綺麗になつて、さつぱり片付くところもある。作者はさういふ氣分の下に、今塞いだばかりの爐を上から踏んで見たのであらう。

「上へあがりて」といふと、何だか高いものゝ上に上つたやうに聞えるが、實際は爐を塞いだ疊の上を踏むに過ぎまいと思ふ。今まで明いてゐたところを急に塞いだので、その慥たしかさを蹈み試みるといふ風にも解せられる。實際は年々歲々塞ぐことを繰返し、その度にかうやつて蹈んで見るのかも知れない。若し難を云へば、「上」といふことよりも「あがりて」の方にありさうである。

 

   桃さくや古き萱屋の雨いきれ 四 睡

 

 桃の咲く時分になつて、春の暖氣は俄に加はり、降る雨にも萬物を悉く蒸し返らすやうな力を生じて來る。この句はさういふ雨に濡れた、古い萱屋根の家を描いたのである。

 瓦屋根やトタン屋根では、到底かういふ感じは起らない。萱屋根にしても、新に葺かれたばかりの家だつたら、やはり感じが異るかも知れぬ。多くの歲月を經て眞黑に古びた萱屋根が、折からの雨に濡れて、ムーツといきれたやうになつてゐる。このいきれた空氣の中に、屋根草は芽を吹き、もろもろの蟲の卵は孵り、天地の春を形づくるのであらう。野趣といつただけではまだ盡さぬ、多くの詩歌の看過する春のいぶきを、俳人は容易に捉へ得た。この蒸れるやうな雨の感じに調和するものは、他の何の花よりも桃でなければなるまい。

 或はこの句は現在雨が降つてゐる場合でなしに、雨がやんだばかりに日がさして、水蒸氣が一面に立騰るといふやうな光景でもいゝかと思ふ。春らしい實感を十分に盛り得た點で、異色ある桃の句と云ふべきである。

[やぶちゃん注:「多摩市立図書館/多摩市デジタルアーカイブ」の「多摩市史 通史編1」の「地元の句合」に、現在の多摩市にあった連光寺村の俳人名に、この人物の号が載る。]

 

   はるの月またばや池にうつる迄 諷 竹

 

「猿澤邊に圓居[やぶちゃん注:「まどゐ」。]して」といふ前書がついてゐるから、この句の場所は明瞭である。もう程なく春の月が出る。それが少し高く上れば、猿澤の池の面にうつるやうになる。それまで待たう、待つて池にうつる春の月を見よう、といふ句意らしい。

 もう十年近くも前になるか、奈良に遊んで一宿したことがある。當時は燈火管制も何も無かつたが、春の夜の町へ散步に出るのに、驚いたのは道の暗いことであつた。元祿時代の奈良は更に暗かつたであらう。作者はどんなところに圓居してゐるのかわからぬが、日が暮れてから電車で京都や大阪へ歸り得る時代でないから、月を待つてどうしようといふのでもあるまい。猿澤の池にうつるまで、月の上るのを待つて、その眺を見囃さうといふに過ぎまいと思ふ。

 奈良の月は直に「春日なる三笠の山を出でし月」を連想せしめるが、作者はさういふ傳統に捉はれず、猿澤の春月といふ新な配合を見出し、更に「池にうつる迄」といふ興味を點じた。「はるの月またばや池にうつる迄」と繰返し誦して見ると、のんびりした昔の春の心持が、我身に近く感ぜられて來る。

[やぶちゃん注:「春日なる三笠の山を出でし月」「古今和歌集」「卷第九 羇旅歌」の冒頭に掲げられてある安倍仲麿の一首(四百六番)の以下である。

   *

   もろこしにて月をみてよみける 安倍仲麿

あまの原ふりさけみれは春日(かすが)なる

      三笠(みかさ)の山にいでし月かも

    このうたは、むかしなかまろを、もろこしに
    物ならはしにつかはしたりけるに、あまたの
    年をへて、えかへりまうでごさりけるを、こ
    のくにより又つかひまかりいたりけるにたぐ
    ひて、まうできなむとて、出(い)でたりけ
    るに、めいしうといふ所のうみべにて、かの
    國の人うまのはなむけしけり。よるになりて、
    月のいとおもしろくさしいでたりけるを見て
    よめる、となむかたりつたふる。

   *

語釈する。所持する角川文庫窪田章一郎校注「古今和歌集」昭和五二(一九七七)年刊八版の脚注を参考・引用した。

・「物ならはしにつかはしたりける」元正天皇の養老元(七一七)年遣唐使多治比縣守(たじひのあがたもり)に留学生として随行したことを指す。仲麿十七歳であった。

・「又つかひまかりいたりけるに」孝謙天皇の天平勝宝二(七五〇)年藤原淸河(きよかは)を遣唐大使に任じ、同四年に渡唐した、『仲麿は淸河とともに帰国しようとしたが』、『果たせず』強『風のため』に『安南に漂流』してしまい、『帰国を断念し、名を朝衡と改め、唐朝に仕え、長安に都で没した。称徳天皇の宝亀元』(七七〇)『年にあたり』、享年『七十歳』であった。現在、「阿倍仲麻呂紀念碑」が西安の興慶宮公園にある。私は実際に詣でた。奈良市と西安市とが、友好都市締結をした一九七九年に記念して建てられたもので、この和歌も刻まれていた。]

 

   我のせよ御形咲野のはだか馬 祐 甫

 

 御形[やぶちゃん注:「ごぎやう」。]の花の咲いた野に裸馬が放し飼になつてゐる。あの馬に乘つてこの野を乘廻して見たい、己を乘せてくれぬか、と云つたのである。「我のせよ」は單なる願望の意で、若し强いて對象を求めれば、その裸馬に對して述べたことになる。

 御形はハヽコグサである。この作者の感興の背景をなすものとしては、ハヽコグサは少し寂しい。五形と書くゲンゲの方なら、一望の野を美しくするかと思ふが、作者が御形と書いてゐる以上、やはりハヽコグサの眺と解して已むべきであらう。

[やぶちゃん注:「祐甫」神戶祐甫(かんべゆうほ 寛永九(一六三二)年~宝永七(一七一〇)年)は。伊賀上野の富商。芭蕉に学んだ「伊賀三十一人衆」の一人である。作品は「猿蓑」・「炭俵」・「續猿蓑」等に採録されており、「蕉門名家句集」にも収められてある。通称は八郎右衛門。

「ハヽコグサ」「母子草」。キク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ属ハハコグサ Pseudognaphalium affine

「ゲンゲ」「紫雲英」。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。私の偏愛する花。しかし、「げんげ畑」を見たのは、七年前に西伊豆の絶景の宿「富岳群青」に行く途中の山越えの時が最後だ……。]

 

   陽炎や身を干海士の日向ぼこ 朱 拙

 

 岩の上か、砂濱か、場所はわからぬ。今しがた海から上つたばかりの海士が、身體を乾かしながら日向ぼつこをしている。そのほとりから陽炎がゆらゆら立のぼる、といふ海岸の一小景である。

「身を干」といふ言葉がこの句の眼目であらう。この一語によつて、單に日向にゐるといふだけでなしに、海から上つたばかりの海士といふこともわかれば、風も無い海邊の日和の暖さも自ら連想に浮んで來る。

 現在の歲時記では「日向ぼこ」は冬と定められてゐるが、必ずしもそう限定するには及ぶまい。身體を乾かしながらの「日向ぼこ」には、冬よりも春の方が適切であらう。ゆらゆらと立つ陽炎は、この光景を一層效果あらしめているやうな氣がする。

 

   乳呑子の耳の早さや雉子の聲 りん女

 

 この句の舞臺に登場する者は、乳を含ませてゐる母親と、乳を飮みつゝある幼兒とだけである。しづかな春の日中であらう、どこかで鋭い雉子の聲がする、といふので、その空氣は一應描かれたことになるが、「耳の早さや」といふ中七字は、考へやうによつていろいろに解釋出來る。

 主要な登場人物の一人である乳呑子が、いち早く雉子の聲を聞きつけたといふ點に變りは無いが、たゞ聞耳を立てたといふだけか、あれは何の聲だといつて尋ねたのか、或は已に雉子の聲の何者たるかを知つてゐて聞きつけたのか、そこは俄に斷じがたい。乳呑子のことだから氣がつくまいと思つたのに、いち早く聞きつけたといふのか、母親がうつかりしてゐるうちに、乳呑子の方が聞きつけたといふのか、その點も解釋が二三になりさうである。

 けれどもこゝではつきりしてゐるのは、母親の乳を含みつゝある幼兒の小さい耳が、いち早く雉子の聲を聞きつけたといふことと、その耳の早さを先づ感じた者が母親だといふことである。女性たる作者がその母親であることも、略〻推定し得る。一句の眼目たる事實が動かぬ以上、その他の小さい連想は、各自の感ずるところに從つて差支あるまいと思ふ。

 

   夜の明ぬ松伐倒きりたおすさくらかな 陽 和

 

 山中の景色であらうかと想像する。

 まだ夜の明けぬうちに杣[やぶちゃん注:「そま」。]がやつて來て、そこにある松の木を伐り倒す。巨幹は地ひゞきして倒れると、又もとの靜寂に還る。あたりには櫻がたわゝの花をつけてゐる、といふやうな光景を描いたものらしい。

 この場合の松と櫻は、たゞ近くにあるといふだけで、深い因緣や交涉があるわけではない。「花の外には松ばかり」といふ山中自然の配合であらう。未明の天地に木を伐るといふ一の活動が起つて、間もなく松は伐倒される。その背景として爛漫たる櫻を描いたといふよりも、櫻の背景の前にかういふ活動が行はれたものと解すべきである。

 人の姿を點出せずに、たゞ松と櫻のみを描いたのは、如何にも未明伐木の光景にふさはしい。伐られる松と、しづかに咲いてゐる櫻とを對照的に扱つて、とかくの辯を費すが如きは、抑〻無用の沙汰であらう。

[やぶちゃん注:「陽和」山岸陽和(ようわ ?~享保四(一七一九)年)は伊賀上野の人。藤堂家に仕えた。芭蕉に学び、「有磯海」・「枯尾花」に句が収められてある。妻は芭蕉の姉である。名は宥軒。通称は重左衛門。]

2024/04/10

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(22)

 

   早梅や奧で機織長屋門 吏 明

 

 もうだんだん少くなつてしまつたが、それでも古い屋敷などで長屋門を存してゐるところが、東京にもいくつかある。門の兩側が長屋になつて、人の住むやうに出來てゐる、いかめしいと云へばいかめしいが、現代の邸宅にはちよつと緣の遠い門である。

 この句の早梅[やぶちゃん注:「さうばい」。]の花は、長屋門のどこに咲いてゐるかわからない。門のほとりに咲いてゐるとしないでも、長屋門のある屋敷の中なり、或は近所なり、とにかく背景的に存在すればいゝのである。その長屋門の奧で機[やぶちゃん注:「はた」。]を織つてゐる――目に見えるのでなしに、音が聞える方だらうと思ふが、それがこの句の眼目になつてゐる。早梅の花と、長屋門の奧に聞える機の音とが、季節的に或調和を得てゐることはいふまでもない。

[やぶちゃん注:「吏明」伊賀生まれの蕉門で月空居士露川の門下。]

 

   鶯やついと覗てついとゆく 白 雪

 

 鶯が庭先か何かにやつて來て、ちよつと覗くやうにしてゐたかと思ふと、そのまゝついと行つてしまつた。相手が鶯である以上、見つけた者はその啼くことを期待する。鶯に取つては迷惑かも知れぬが、人間の方で勝手にさうきめてゐる。しかし人間のために啼かなければならぬ理由は無いから、鶯は啼きたくなければ構はず澄して行つてしまふ。その期待外れのやうなところを詠んだのである。

 作者はこの句に「鳴はせで」といふ前書をつけた。前書があれば一層はつきりはするけれども、「ついと覗てついとゆく」といえば、その鶯が御誂通り啼かぬことは言外に含まれてゐる。「鳴はせで」と斷るのは蛇足である。今の人はあまりかういふ前書をつけないが、昔は屢〻前書によつて句意を補ふといふ方法を取つた。それだけ世の中がのんびりしてゐたのであらう。

[やぶちゃん注:「白雪」太田白雪(はくせつ 万治四(一六六一)年~享保二〇(一七三五)年)は三河新城(しんしろ)の富商で、庄屋。蕉門。各務支考・高島轍士らと親交があった。郷土史や百人一首の研究に努めた。名は長孝。通称は金左衛門。編著に「誹諧曾我」・「三河小町」等がある。]

 

   梅さぶし灯もきえず朝餉 素 覽

 

 この句にも「寒梅」といふ前書がある。特に寒梅と斷らずとも、「梅さぶし」の語がこれを現してゐるやうに思ふが、或は春立つ以前の――冬の梅といふ意味で、特にこの前書を置いたのかも知れぬ。

 朝餉は「アサガレヒ」である。宮中の場合に特に用ゐられることもあるが、この句はさういふ特別なものではあるまい。早朝の膳に向つて食事をする。この「灯[やぶちゃん注:「ともし」。]」は何の灯かわからぬが、前夜來の灯でなしに、曉の暗い爲に點したものらしく思はれる。寒梅のほのかに薰る早朝に、さういふ灯の消えぬ下で膳に向ふといふ、何となく引緊つた感じの句である。その感じを主にすれば、必ずしも如何なる家であるかを穿鑿する必要はない。

 

   種まきや當字だらけの紙帒 左 岡

 

 種を蒔かうとして去年しまつて置いた袋を取出す。その袋には種の名か何かが書いてある。いづれ農家の事であらうから、本當の名前を知つてゐるわけではない。いゝ加減な當字ばかり書いてある。滑稽といふほどでもないが、ちよつと微笑を誘ふやうなところがある。

 昔は敎育が普及してゐなかつたから、餘計さういふ傾があつたらうと思ふが、現代と雖もこの種の當字は絕無ではあるまい。專門語の中には、仲間だけに通用する特殊な當字があるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「紙帒」「かみぶくろ」。]

 

   山やくや舟の片帆の片あかり 水颯

 

 湖か、川か、あるいは海に近い山を燒く場合であるか、とにかく春になつて山燒をする。その火の明りが水にうつり、またそこを行く舟の片帆にうつる、といふ西洋畫にでもありさうな景色である。

 一茶に「山燒の明りに下る夜舟の火」といふ句がある。『七番日記』には「夜舟かな」となつてゐるが、その方がかえつていゝかも知れない。山燒の明りが火である上に、更に火を點ずるのは、句として働きが無いからである。片帆に片明りするの遙に印象的なるに如かぬ。山燒と舟といふ稍〻變つた配合も、元祿の作家が早く先鞭を著けてゐたことになる。

[やぶちゃん注:筑前蕉門の久芳水颯。kenji氏のブログ「久芳姓の歴史上の人物」の「久芳(Kuba) 久芳姓について」に、『筑前の芭蕉門下で名の知れた俳人』で、『安芸国(広島)出身で当主の「忠左衛門」は東京の「久芳淳七氏」、門司の「久芳勇氏」の先祖にあたるそうです。俳号を「水札」と号していましたが、後に「水颯」と変えました』。『関屋も本陣守の竹屋の久芳家も分限者』『で、黒崎宿に伝わる古い謡(よう・唄)に歌われていました』とあり、

 花の黑崎 酒屋が五軒 心とむるな久芳 関屋

及び、

 久芳も關屋も 昔の事よ 今は熊手の 住吉屋

が掲げられてある。『黒崎の「御茶屋守」の竹屋の久芳氏の出身地、安芸国(広島県)には、中世に大内系国人「久芳氏」が見られるようです。また、「久芳」と言う地名も広島市近郊に残っています。この久芳と何らかの関係がある人物と考えられます』とあった。一応、姓の「くば」で読んでおく。

「山燒の明りに下る夜舟の火」これは「七番日記」の嘉永版の句形。]

 

   江戶留守の枕刀やおぼろ月 朱 拙

 

 主人が江戶に出てゐる場合であらう。留守の心細さに枕許に刀を置いて寢る。折からの朧月夜であるが、何となく寂しい留守の狀態を詠んだものであらう。

 天明期の作者は、屢〻かういふ複雜した場合を題材に採る。併し元祿期の作者も、全然興味が無かつたのでないことは、この句のみならず、「江戶留守」を詠んだ句が散見するによつて證し得られる。

 

   江戶留守や笋はえて納戶口 露 竹

 

   江戶留守を見込で鳴やかんこ鳥 宵 月

 

   江戶留守を嫁々の岡見ぞをかしけれ 涓 流

 

 江戶留守を題材にした點は同じであるが、一句の働きに於ては朱拙の朧月を首[やぶちゃん注:「はじめ」。]に推さなければなるまい。

 蕪村の「枕上秋の夜を守る刀かな」といふ句は、長き夜の或場合を捉へたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違無いが、江戶留守といふ事實を背景としてゐる爲に、もつと味が複雜になつてゐる。朧月といふものは必ず艷な趣に調和するとは限らない。かういふ留守居人の寂しい心持にも亦調和するのである。

[やぶちゃん注:「笋」「たけのこ」。

「枕上」(まくらがみ)「秋の夜」(よ)「を守る刀かな」岩波文庫「蕪村俳句集」(尾形仂校注・一九八九年刊)によれば、推定で、明和五(一七六八)年九月一日の作とする。]

 

   蹈なほす新木の弓やはるの雨 孟遠

 

 弓に關する知識は皆無に近いから、頗るおぼつかないけれども、新木[やぶちゃん注:「あらき」。]で拵へた弓は狂ひ易いといふやうなことがあるのであらう。春雨に降りこめられたつれづれに、その弓を足で蹈んで狂ひを矯め[やぶちゃん注:「ため」。]やうとする、といふ意味ではないかと思はれる。或は新木で拵へた弓である爲に、雨降の時には狂ひを生ずるといふやうなことがあるのかも知れぬ。

 弓から「はる」といふことを持出したので、「はるの雨」は「張る」にかけたのだ、といふやうな解釋を下す人があつても、それは取らない。さういふ解釋を妥當とするには、元祿より更に前に遡らなければならぬ。後世蕪村等の用ゐた緣語と雖も、勿論これとは趣を異にする。たゞこのまゝの句と見るべきである。

[やぶちゃん注:「孟遠」山本孟遠(もうゑん 寛文九(一六六九)年~享保一四(一七二九))は近江彦根藩士。森川許六の高弟。正徳四(一七一四)年に出家し、中国・九州に彦根蕉風を広めた別号に須弥仏(しゅみぶつ)・横斜庵。編著に「俳諧桃の杖」等がある。]

 

   魚懸にあたまばかりや春の雨 朱 拙

 

 西鶴の『永代藏』であつたか、『胸算用』であつたか、臺所に魚懸[やぶちゃん注:「さかなかけ」]といふものがあり、年末に鰤でも懸けてあるのを見て、出入の者がもう春の御支度も出來ましたと云ふ條があつたと記憶する。この句はさういふ魚懸の魚をだんだん食べてしまつて、頭だけが殘つてゐるといふのである。春の用意に懸けた魚が、春雨頃に頭だけになるのは自然の數であらう。

 魚懸は現在の吾々には緣が遠い。吾々が臺所にぶら下つてゐたのを知つてゐるのは、鹽引の鮭位のものである。「鹽鮭の頭ばかりや……」と云へば、今の人には通じいゝかも知れない。だんだんに食べて頭ばかりになつた魚と春雨との間には、趣としても相通ふものがある。

[やぶちゃん注:「西鶴の『永代藏』であつたか、『胸算用』であつたか、臺所に魚懸といふものがあり、……」「世間胸算用」の「七 祈るしるしの神の折敷(をしき)」の一節。但し、表記は「肴掛」。戦後のものであるが、正字正仮名の「日本永代藏・世間胸算用評解」の再版(守随憲治・大久保忠国共著/一九五二年有精堂刊)のここで確認出来る(左ページの最終行)。次のコマに「語釋」があり、そこに『○肴掛――干魚などを掛けて置く鉤。』とある。]

2024/04/09

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(21)

 

   寺の菜の喰のこされて咲にけり 龜 洞

 

 寺の中に畠があつて菜が作つてある。いづれ坊主どもの食用であらうが、その食ひ殘りの菜に薹が立つて花が咲いた、といふ風に解せられる。事實としては寺の畠の菜に花が咲いたといふに過ぎぬが、それを坊主どもに食ひ殘されたと見たのがこの句の眼目である。「喰のこされて」の一語によつて、この菜は油を取る目的や何かで花を咲かせたものでないことがわかると同時に、花の分量がそう多くないことも想像出來る。

「春雨や食はれ殘りの鴨が鳴く」といふ一茶の句がある。春まで池か沼にゐる鴨に對して、人に捕られず、食はれずに命を全うしたと見るのは、いさゝか持つて廻つた嫌があつて、素直に受取りにくいが、畠の菜が食ひ殘されて花が咲くといふ方は、句に現れた通り感じ得るやうに思ふ。それが寺の畠であるといふことも、場所に關する連想を補ふ效果があつて、而も不自然に亙る弊からは免れ得てゐる。奇拔といふ點から云へば、一茶に一籌[やぶちゃん注:「いつちう」。]を輸[やぶちゃん注:「ゆ」。]せねばならぬけれども、食はれ殘りの鴨よりは、食ひ殘されて春に逢ふ菜の花の方に眞のあはれはあるのである。

[やぶちゃん注:「龜洞」比企郡番匠村(現在の埼玉県比企郡ときがわ町)の、代々、在村医で俳諧を嗜んだ小室家の二代田代通仙(享保一七(一七三二)年~文化 三(一八〇六)年)は幼名を波門と称し、俳号らしき自在庵亀洞を持つが、彼か。

「春雨や食はれ殘りの鴨が鳴く」「七番日記」所収。そこでは、

   春雨や食れ殘りの鴨が鳴

である。自筆本では下五が異なり、

   春雨や食はれ殘りの鴨の聲

である。]

 

   染物をならべて掛る柳かな 路 健

 

 綺麗な感じである。染物の色は何だかわからぬが、柳の綠に映發する鮮な色のやうな氣がする。色彩を表面に現さないで、色彩が目に浮ぶから妙である。

「ならべ」といふ言葉は、柳に竝んで染物を掛けたといふ風に解されぬこともないが、染物をいくつも竝べて掛ける、卽ち複數の場合と見る方が自然であらう。この十七字を誦して、駘蕩たる春風を面に感ぜぬ者は、竟に詩を解するの人ではない。

 

   笠かけて笠のゆらるゝ柳かな 荻 人

 

 この方は柳に掛けるものと見ていゝやうである。柳に近く茶屋の柱とでもいふべきものがあつて、そこに笠を掛けたのでも差支ないが、特に柳の木から切離す必要もなささうに思ふ。

 春風は徐に空を吹き、又柳を吹く。柳の枝の靡くにつれて、そこに掛けた笠も搖れるのである。笠を掛けて憩ふ者は旅人であらう。場所を描かず、人を描かず、柳と笠とだけで一幅の畫圖を構成してゐるから面白い。

「笠かけて笠の……」といふ風に同語を繰返す句法は、後世にも好んで用ゐる人がある。見方によれば一種の技巧であるが、この句の場合の如きは極めて自然で、一向斧鑿痕は感ぜられぬ。

[やぶちゃん注:「荻人」「てきじん」と読んでおく。蕉門であることは判った。]

 

   目ぐすりの看板かける柳かな 呂 風

 

 ついでだからもう一つ同じやうな句を擧げて置かう。

 讀んで字の如き市中の小景で、說明を要する點も無いが、この句に至ると、染物の句ほど柳を離す必要も無し、笠の句ほど柳につける必要も無い。配合趣味ともいふべきものが强くなつてゐる。「目ぐすりの看板かけむ絲柳」となつてゐる本もあるが、いづれにせよ店の前に柳の垂れた、長閑のどかな景色が目に浮ぶまでで、强ひて柳と看板との關係を限定するにも及ばぬやうである。

 この三句を併觀すると、柳といふ一の季題に關し、期せずして同じところへ落込んだといふ風にも考へられる。併しその落込んだ狹い領域の中で、三句三樣の變化を示してゐるのを見れば、俳諧の天地は容易に窮まらぬといふ感じもする。俳諧の變化は毛色の變つた句の中に求めるよりも、かういふ近似した句の中に求めた方が、却つてよく會得出來るのかも知れない。

 

   春雨や音こゝろよき板庇 蘆 角

 

 雨に古今の變りは無いが、之を受けるものには變りがある。この句は板庇に當る雨の音を快しと聞いたので、從つてこれは音もなく煙るやうな春雨でない、もつと强い降り方の場合と思はれる。

 香取秀眞氏が大學病院で詠まれた歌に「風の音あめのしづくの音聞かむ板葺やねを戀ひおもふかな」といふのがあつた。これは「雨ふれど音の聞えず、しぶきのみ露とぞ置く」コンクリート建築に慊焉たる結果、爽な[やぶちゃん注:「さはやかな」。]雨の音に想ひを馳はせられたものであらう。板庇にそゝぐ雨の音を愛づることは同じであつても、茅葺屋根に居住する人の心持と、トタン葺に馴れた人の心持とでは、その間に多大の逕庭あるを免れまい。この句の眼目は春雨の音を主にした點に在る。閑居徒然の耳を爽にする春雨は、相當降りの强い場合でなければならず、之を受けるのも板葺でなければならぬ。トタンでは爽を通り越して、少々やかましい憾がある。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」既出既注

「慊焉」(けんえん)あきたらず思うさま。不満足なさま。]

 

   白鷺の雨にくれゆく柳かな 諷 竹

 

 柳に鷺の配合は、日の出に鶴ほどではないかも知れぬが、畫材としては頗る陳腐なものである。それに雨を添へただけでは、まだ格別のことも無い。たゞ「くれゆく」といふ時間的經過が加はるに及んで、稍〻陳套を脫すると同時に、繪畫の現し得る以外のものを取入れたことになる。

 柳の上にぢつとしてゐる鷺は、下の水にゐる魚でも狙つてゐるのであらうか、先刻から少しも動かぬ。霏々たる雨のやまぬ中に、水邊の空氣は徐に暮れかけて來た。白い塊のやうな鷺の姿も、影のやうな柳の木も、一つになつて夕闇の中に見えなくならうとしてゐる。――かう解して來ると、見慣れた常套的畫景の外に、何等か新なものが感ぜられる。作者が腦裏に組立てた景色でなく、實感より得來つた爲であらう。

 

   花の雨鯛に鹽するゆふべかな 仙 化

 

 これだけのことである。到來の鯛でもあるか、それに鹽をふつて置く。かういふ事實と、花の雨との間にどういふ繫りがあるかと云へば、こまかに說明することは困難だけれども、そこに或微妙なものが動いてゐる。その微妙なものを感ずるか、感ぜぬかで、この句に對する興味は岐れるのである。

 花の雨といふことに拘泥して、花見の料に用意した鯛が、雨の爲にむだになつたのを、夕方になつてから鹽をふるといふ風に解すると、誰にもわかり易いかも知れぬが、それでは一句が索然たるものになつてしまふ。この句の眼目は、鯛に鹽をふるといふことと、花の雨との調和にあるのだから、どうして鯛に鹽をふらなければならなくなつたか、といふ徑路や順序に就て、さう硏究したり闡明したりする必要は無い。そんなことが何處が面白いかといふやうな人は、むしろ最初からこの句に對する味覺を缺いてゐるのである。この作者が都會俳人であることは、贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「仙化」(生没年不詳)「仙花」とも書いた。江戸の人。蕉門。俳諧撰集「蛙合(かへるあはせ)」(貞享三(一六八九)年刊)を編している。「あら野」・「虛栗」・「續虛栗」などに入句している。]

 

   灸居てみる山近しはつ櫻 吾 仲

 

「灸居て」は「スヱテ」である。灸をすゑながら山を見るといふのか、灸をすゑてから山を見るといふのか、その邊は俳句の敍法の常で判然しないが、とにかく而して見た山の端に初櫻を認めた、といふ句意らしく思はれる。

 その山は近くに在る。從つてその櫻も霞か雲かと見まがうやうなものではない。初櫻といふものは花の量の乏しいことを現すと同時に、季節に於て稍〻早いといふところを蹈へてゐる。そこに灸をすゑる爲に脫いだ肌の寒さといふやうなものが感ぜられて來る。初櫻と灸との間には、それ以外に何の因緣も無ささうである。

 

   菜の花のふかみ見するや風移り 路 健

 

 一面の菜の花に風が吹渡る。さう强い風ではないが、花から花へと風の移つて行くのを見送ると、今更のやうに菜の花畑の廣さ、奧行の深さといふやうなものが感ぜられる、といふ意味であらう。

 ちよつと變つた句である。點景もなければ背景もない。たゞ菜の花といふものを――一本一輪の微[やぶちゃん注:「び」。]でなしに、一面に咲いた菜の花を見つめたところに、この句の特色がある。

 

   春雨の足もと細しみそさゝい りん女

 

 春雨の中を餌でもあさつてゐるのであらう、鷦鷯[やぶちゃん注:「みそさざい」。]がちよこちよこしてゐる、その足もとを細しと見たのである。

 小鳥の中でも小さい鷦鷯の足もとが細いといふことは、格別特異な觀察でもないが、作者は見た通り、感じた通りを句の中に持つて來た。この場合、鷦鷯がどこにゐるといふやうなことは問題にせず、細い足だけに注意を集中してゐる。鳥よりもむしろ人間に近い感じがせぬでもない。そこに女流の作たる所以があるかと思ふ。

[やぶちゃん注:スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。

「りん女」既注だが再掲すると、蕉門女流俳人。蕉門の筑前秋月の医師遠山柳山の妻。]

 

   菜畠に藪の曇りや雉子の聲 風 國

 

 菜畠の向うにどんより曇つた日の藪が見える、といふのがこの句の背景で、さういふしづかな舞臺の空氣を破つて、突然鋭い雉子の聲がした、といふのである。古風な云ひ方をすれば、靜中動ありとか何とかいふことになるのかも知れない。

 この菜畠は花が咲いてゐてもよし、春をよそにした靑菜畠であつても差支無い。要するに雉子が登場するまでの背景をつとめれば足るのだから、畫家の手心で一面の綠にしても、少々黃色をなすつても、そこは深く問ふに當らぬであらう。

 

   棚解てよごるゝ藤の長さかな 探志

 

 何かの必要があつて藤棚ふじだなの竹を解いたので、そこに下つていた藤の長房が地に垂れて、花の末を汚した、といふ意味であらう。藤棚の藤を句にする場合、その棚の竹を解く光景などは、容易に頭に浮ぶものでないから、こういふ實景に逢著して詠んだものに相違ない。

 藤の花はさう壽命の短いものでもないにせよ、棚の修理でもするなら、花が過ぎてからにしてもよささうな氣がする。何か事情があつたものと思ふが、作者はそんなことは穿鑿しない。たゞ眼前に棚を解いた爲、藤の花房が垂れて地に汚れてゐる、といふ事實だけを捉へてゐる。棚を外された藤などは慥に變つた眺であり、そこに又一種の趣も存する。

[やぶちゃん注:「探志」(生没年未詳)は元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の近江膳所の鞘師。蕉門。作品は「ひさご」「千句づか」などに載る。通称は小兵衛。別号に探芝・探旨。]

2024/04/08

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(20)

 

   梅が香や樣子の替る伯父の跡 岱 水

 

「伯父の跡」といふのは伯父の亡き跡――それも稍〻時間の經過した跡を指すのであらうと思ふ。一家の主人たる伯父が亡くなつて、その跡嗣の時代になると、どこといふことなしに家の樣子が變つて來る。必ずしも舊慣を悉く廢棄するわけでもないが、主人公が異るにつれて、その空氣に變化を生ずるのである。

 變化は家の内にはじまつて、漸次庭にも及んで來る。そこにある梅は昔ながらに咲いてゐるが、あたりの樣子は大分變つた。在りし日のまゝに梅が咲いてゐるといふ方を主とせず、跡の變化した方を描いたのが、この句の主眼であらう。

「伯父の跡」といふ言葉は、嘗て伯父の住んでゐた跡――屋敷跡と解せられぬこともない。その屋敷が人手に渡つて、面目一變したといふ風に見ると、どうやら吾々の周圍によくある現象のやうになつて來るが、强ひてさういふ變革を望むには當らぬ。先づ跡嗣の代になつて家の樣子が大分變つた、といふ程度に見て置きたい。いづれにしてもこの作者が「伯父の跡」の變化を喜んでゐないことだけは明である。

[やぶちゃん注:「岱水」(生没年不祥)江戸蕉門の一人。初め、苔翠と称した。芭蕉庵の近くに住み、芭蕉と頻繁に接していた。「木曽の谿」(宝永元(一七〇四)年序)を編している。岱水亭で開かれた影待(=日待:人々が集まって前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。本来は、旧暦正月・五月・九月の三・十三・十七・二十三・二十七日、或いは吉日を選んで行なうとされるが、毎月とも、正月十五日と十月十五日に行なうともされ、一定しない。ただ、後には大勢の男女が寄り集まって徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものと変じた)で、芭蕉は、以下の一句を詠んでいる。貞享四(一六八七)年五月で田植えを終えているので、十三日以降の四日の孰れかであろう。

     岱水亭影待に

   雨折々思ふことなき早苗哉

と詠んでいる。挨拶句と考えると、岱水も田を持っていたものと思われ、当時の深川には多く田圃が広がっていたことが判る。なお、元禄六(一六九三)年にも同じく、

     岱水亭にて

   影待や菊の香のする豆腐串(とうふぐし)

の句もある。これは秋の句であるから、収穫後の九月吉日の作であろう。]

 

   里坊の碓聞クやむめの花 昌 房

 

「里坊」は「山寺ノ僧ナドノ別ニ人里ニ構ヘ置ク住家」と『言海』に見えている。「里坊に兒やおはしていかのぼり」といふ召波の句の里坊と同じものである。

 米でも搗いてゐるのであらう、ずしりずしりといふ重い碓の音が里坊から聞えて來る、あたりに梅が咲いてゐる、といふ卽景を句にしたもので、里坊を持出して、特に趣向を凝したやうな跡は見えない。そこへ行くと召波の句は、里坊が非常に働いてゐる代りに、多少斧鑿の痕の存するを免れぬ。

 上五字が「里坊に」となつてゐるのもあるが、全體の意味は大差ないやうに思はれる。「聞クや」といふ言葉も、殊更に聽耳を立てたわけでなく、「聞ゆ」といふほどの意に解すべきである。

[やぶちゃん注:「碓」「からうす」。「唐臼」。

「召波」黒柳召波(享保一二(一七二七)年~明和八(一七七一)年)は京都の俳人。別号、春泥舎。服部南郭に漢詩を学ぶ。明和初(一七六四)年頃、蕪村の「三菓社」に加わり、俳諧に精進した。「春泥発句集」が知られる。]

 

   雨氣つく畠の梅のよごれけり 鼠 彈

 

 讀んだ通りの句である。梅の花の白さはあまり鮮麗なものでないから、曇つた日などは多少薄ぼんやりした感じを與へることがある。この句は雨催[やぶちゃん注:「あめもよひ」。]の畠の中にある梅の花で、或は稍〻盛を過ぎてゐるのかも知れない。花の色が汚れて見えるといふのである。

 取立てゝ云ふほどの句でもないし、俳句としては珍しいこともないが、文人趣味、南畫趣味でなしに、野趣橫溢の梅を描いたのが面白い。畫にするならば正に俳畫の世界である。どんよりした空の下に汚れた色の梅が咲いてゐるなどは、漢詩人も歌よみも恐らくは喜ばぬ趣であらう。自然を生命とする俳人の眼は、元祿の昔に於て悠々と如是[やぶちゃん注:「によぜ」。]の景を句中に取入れてゐる。

[やぶちゃん注:「雨氣」「あまけ」。雨の降りそうな様子。雨模様。雨はまだ降っていないので注意。]

 

   鶯の障子にかげや軒づたひ 素 覽

 

 鶯が庭に來て、軒端に近い木を彼方此方[やぶちゃん注:「あちらこちら」。]と飛び移つてゐる、その影が障子にうつる、といふのである。

 歌ならば「軒端木づたふ」といふところであらう。俳句は字數が少いから、「軒づたひ」の五字で濟してしまつたが、鶯の性質から考へて、軒端の木から木へ飛び移りつゝあることは疑を容れぬ。それだけなら平凡に了るべき景色を、障子にうつる影によつて變化あらしめたのが作者の手際である。

 一杯に日の當つた南軒の障子が目に浮んで來る。軒端木づたふ鶯の影は、その障子にはつきりうつるのである。障子のうちの作者は、影法師の動きだけで十分に鶯たることを鑑定し得るのであらうが、それだけではいさゝか曲が無い。一杯に日の當つた南軒の障子に對しても、影の主はその嬌舌を弄する義務がある。

[やぶちゃん注:「嬌舌」(きやうぜつ)は「艶めかしさ」「愛らしさ」の意。]

 

   谷川やうぐひすないて鮠二寸 水 札

 

 まだ谷の戶を出でぬ鶯が頻しきりに啼いている、谷川の鮠は已に二寸位になつている、といふ山間早春の景を敍したのである。「うぐひすないて」といふ中七字は、現在鶯が啼いていることを現すだけでなしに、もう鶯が啼くやうになつたといふ、季節の推移を現しているやうな氣がする。

 鶯と二寸位の鮠との間には、格別交涉があるわけではない。早春の季節が谷川を舞臺として、一見沒交涉らしい兩者を繋ぐ。そこに一種生々の氣が感ぜられる。

[やぶちゃん注:「水札」「すいさつ」であろうが、この語は「けり」も読むと、鳥綱チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を指す。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 計里 (ケリ)」を見られたいが、この人、鳥好きの俳人であったものと思われる。

「鮠」「はえ」或いは「はや」と読む。複数の淡水魚を指す総称で、「ハヤ」という種はいない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之上 𮬆 (ハエ) (ハヤ)」の私の注を見られたい。]

2024/04/07

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(19)

 

   行燈の一隅明しはるの雨 紫貞女

 

 古ぼけた行燈の隅のところだけ明るい、といふ風に一應解せられる。春雨が音もなく降るやうな晚、座邊の行燈をぢつと見つめて、かういふ趣を發見したのであらう。

 併し再案するに、行燈だけの一隅と解するのは、少しく世界を局限し過ぎる嫌がある。行燈を置いた座の一隅がぼんやり明るいといふ、やや廣い場合に解した方がいゝかも知れない。今から考へれば何の威力もなささうな行燈の光が、それだけ明るく感ぜられるといふことは、昔の夜の暗さ――戶外の闇ばかりでなしに、室内の暗さを語るものである。

「一隅明し」といふところにこの句の主眼がある。女流の句だから「イチグウ」とよまずに「ヒトスミ」とよむべきかと思ふ。

[やぶちゃん注:「紫貞女」木村紫貞女(していじょ)。現在の佐賀県三養基郡基山町園部の夫の与市とともに蕉門(野坡系)であった、裕福であったらしい女流俳人である。]

 

   鳴さかる雲雀や雨のたばね降 沙 明

 

 雨中の雲雀である。「たばね降」といふ言葉はあまり耳にせぬようであるが、相當强い降りであることは想像に難くない。ザアザア降る雨の中に、しきりに雲雀の聲が聞える、といふ意味らしい。

 太閤の「奧山にもみぢふみわけなく螢」の時に細川幽齋が持出した「武藏野やしのをつかねてふる雨に螢よりほかなく蟲もなし」といふ歌は、出所曖昧の三十一字だけれども、「たばね降」はこの「しのをつかねて」の意味に當るのではないかと思ふ。但地方語として何か特別の意味があれば、もう一度出直してかゝる必要がある。

[やぶちゃん注:「沙明」筑前蕉門。黒崎宿(現在の北九州市八幡西区)の町茶屋である脇本陣を経営していた関屋沙明。]

 

   氣うつりに酒のみ殘す櫻かな 桃 妖

 

 櫻に酒はつきものである。年々歲々相似たる花を見る人は、歲々年々同じやうに酒を飮んで、春を短しと歎ずるのであらう。是故に花見の句には古往今來、紛々たる酒氣がつき纏ふのを常とする。

 この句の主人公も型の如く酒を携へて出たのではあるが、愈〻出かけて見ると、それからそれへと氣が移るために、遂に持つて行つた酒を飮み殘した、といふのである。

 眼目であるべき酒を飮み殘したといふところに、別な意味の花見氣分が窺はれる。隨處の春が人を支配する爲であらう。

[やぶちゃん注:「桃妖」(たうやう)長谷部桃妖(はせべとうよう 延宝四(一六七六)年~宝暦元(一七五二)年)は「奥の細道」好きなら、横手を打つ著名な俳人。加賀山中温泉の旅宿「泉屋」の後の主人。元禄二(一六八九)年、「奥の細道」の旅で宿泊した松尾芭蕉から「桃妖」の号を贈られた美少年、謂わば〈芭蕉のタドジオ〉である。通称は甚左衛門。別号に桃葉。忠実な曾良が永い「奥の細道」の旅で、ここで胃痛激しくして、別れて先行したというのは、如何にも嘘臭フンプンで、実は芭蕉が彼を偏愛したことで最終的に(その直前の立花北枝が二人に同行したことも大いに気に入らなかったものとは思う)キレたのが真相の一つであると私は信じている。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ』以下、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 79 名月の見所問はん旅寢せむ』までを、ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で追体験されたい。

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