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カテゴリー「葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版」の22件の記事

2024/09/17

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 天牛蟲(かみきりむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      天 牛 蟲(かみきりむし)

 

 此の蟲の觸角は馬鹿に長い。此の本の中に挾んで置かうと思ふと、それを胴の方に曲げなければならない。

 

[やぶちやん注:「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、揭げたタイトルの中には「カミキリ虫」というのが含まれている。しかし、当該第五巻の「博物誌」にも、その注にも、また第五巻のその他にも、「天牛蟲(かみきりむし)」に相当するものは所収していない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ルナールがカットしたものらしい。原文を示しておく。

   *

 

     LE CAPRICORNE

 

   Cet insecte a les antennes si longues, que pour le mettre dans ce livre, il faut les lui rabattre sur le côté !

 

   *

この“capricorne”(音写「キャプリコォロン」)という単語はフランス語では、一般的な第一義はカミキリムシ類(ギリシャ語で「長い触角を持つ虫」が語源)を指し、第二義でアジア産のカモシカ、更に第三義では、星座十二宮の「山羊(やぎ)座」を指す。但し、この単語では、特定種を指すことはできないので、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae どまりである。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 螢

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 一體、なに事があるんだらう。もう夜の九時、それに、あそこのうちでは、まだ明りがついてゐる。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「螢」』はボナールの挿絵はない。「螢」の種はそちらの注を見られたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 猫

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 わたしのは鼠を食はない。そんなものを食ふ氣にはならないらしい。つかまへても、それを玩具《おもちや》にするだけである。

 遊び飽きると、命を助けてやる。それから、どこかへ行つて、尻尾の輪の中にすわると、罪の無ささうな顏をして、空想に耽る。

 然し、爪傷(つめきず)がもとで、鼠は死んでしまふ。

 

[やぶちゃん注:私のルナール初体験は中学二年の秋に読んだ明治図書中学生文庫十四の倉田清氏の「にんじん」である。「にんじん」には圧倒的な感動を覚えたのだが、同書の末に「付録」として載せられた「博物誌」の抜粋(ボナールの挿絵添えにも惹かれた。特に鼠へのペーソスとともに記憶に刻まれたのは、この「猫」であった。程無く、芥川龍之介のシニカルなアフォリズム「侏儒の言葉」(リンク先は私のブログ・カテゴリ『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】』。サイト一括版の本文のみの『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』もある)に嵌まったのであった。されば、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「猫」』は私の人生の、文学的一大転回点のスプリング・ボードであったと言ってよいのである。

2024/09/15

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 岩燕

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      岩   燕

 

 その日の夕方は、魚が一向かゝらなかつた。然しわたしは、稀な興奮をもつて歸つた。

 わたしが釣竿を垂れてゐると、一羽の岩燕《いはつばめ》その上に止まつた。

 これくらゐ派手な鳥はない。

 それは、大きな靑い花が長い莖の先に咲いてゐるやうだつた。竿は重みでしなつた。わたしは、岩燕に樹と間違へられた、それが大《おほい》に得意で、息を殺した。

 怖がつて飛んで行つたのでないことはうけ合ひである。一本の枝から別の枝に跳びうつるつもりでゐたにちがひない。

 

[やぶちやん注:最終段落の「一本の枝から」の「枝」は、底本では「杖」となっている。言わずもがなであるが、明らかな誤植であるからして、特異的に訂した。

 さて、「岩燕」であるが、和名で言うそれは、スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科イワツバメ属イワツバメDelichon dasypus であるが、そもそも、イワツバメはヨーロッパには分布しないから(当該ウィキを参照されたい)、あり得ない。原文は“LE MARTIN-PÊCHEUR”であって、これは、現在の大きな仏和辞典でも、しっかり「カワセミ」=ブツポウソウ目カワセミ科カワセミ亞科カワセミAlcedo atthis としていて、フランス語の「イワツバメ」は、“Hirondelle de fenêtre”(「穴の燕」の意)、或いは、“Hirondelle de Bonaparte”で、間違えようがないと思ったのだが、実は英語の全く同じ綴りの“martinは、「尾が有意に角ばっているツバメの種・個体」を“swallow”と区別して、かく記すことが判明した。辞書では、通常、総ての生物種を指す単語までは載せきれないから、岸田氏は、これが如何なる種なのか判らなかったのであろう。そこで、後半の“pêcheur”は、“pêche”で「魚釣り」の意であることから、英語の“martin”と重ねるなら、海岸の岩場などに、泥と枯れ草を使って巣を作る……『うん、イワツバメか!』と当て込んで、かく訳してしまわれたものと思われる。岸田氏の訳は後の岩波文庫版「ぶどう畑のぶどう作り」でも、残念なことに、「岩燕」のままであるが、後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「かはせみ」』では表題・本文ともに「かわせみ」に正しく変更されてある。

2024/09/14

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 囁き

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。以下の標題は“murmures”で「ささやき」である。因みに、後の“ Histoires Naturelles ”(「博物誌」)では、“AU JARDIN”(「庭で」)と改題しており、以下で注するように、内容・表現にも有意に違いがある。なお、男女がはっきりと判る台詞を発している場合は、それぞれの名詞の性に、概ね、従っているようだが、内容により、岸田氏は臨機応変に性に応じていることが判る。]

 

      囁   き

 

鋤。――サクサクサク…………稼ぐに追いつく貧乏なし。

鶴嘴。――お前はいつでもさう云ふが、おれだつてそれくらゐのことは云つてゐる。

[やぶちゃん注:「鶴嘴」の台詞は“ MURMURES ”の原文でも“Tu dis toujours ça, mais moi aussi.”(「君はいつもそう言うけどさ、僕も、そうだよ。」)となっていて、捻りが入っており、明らかに「博物誌」の“AU JARDIN”の方の單純な“Moi aussi.”とは異なる。ちなみに、この冒頭の「鋤」の台詞の原文“Fac et spera.”は、フランス語ではなく、ラテン語で、“Fac”は「作れ・實行せよ」、“et”は「そして」、“spera”は「望め・期待せよ」の意である。岩波書店一九九八年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注によれば、これは『「なすべきことをなして、あとは天にまかせよ」という意味』で、『イギリスのプロテスタント殉教者アスキュー(一八二一~四六)の言つた言葉。またフランスの著名な出版者アルフォンス・ルメールが編集した本の表紙に記したことわざ』だそうである。一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の当該部(全体は「庭にて」)はには、ラテン語の原文の台詞とした上で、続けて丸括弧割注のように『(人事を尽して天命を待つ)』とある。]

 

 

花。――今日は日が照るか知《し》ら。

向日葵《ひまはり》。――えゝ、あたしさえその氣になれば。

如露《じようろ》。――さうは行くめえ。おいらの量見《りやうけん》一つで、雨が降るんだ。

[やぶちゃん注:「知ら」は、当て字ではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、『「かしらぬ」のうち』、『「知らぬ」の語義が希薄になり』、『江戸時代前期に疑問の意味を表わすようになった。相手に直接質問するのではなく、自分が知らないということを表わすことに中心があり、相手が答えられないことを聞いたり、話し手限りの発話で、疑いだけを表わしたりすることができた』。その後、『明治時代に入ってから』、『語形は「かしらん」、さらに「かしら」へと移行し、現代に至った。現代では』、『どちらかといえば』、『女性らしい言い回しとなっている』とある。

「向日葵」原文では“Le tournesol.(トゥルヌソル)であるが、この綴りは、まさに実際のヒマワリの一定時期の向日性に基づく単語形成であって、「向きを変える・ターンをする」の意の動詞“tourner”(トゥルネ)と、「太陽」を意味する名詞“soleil”(ソレイユ)を合成して作ったものであり、フランス語では“soleil”自体にも「ヒマワリ」の意がある(ヒマワリは“grand soleil”(グロン・ソレイユ)とも言われる)。さればこそ、日本語でも容易に判る通り、向日葵の台詞は、まさに自称そのものの――「太陽を自在に動かせる」という不遜な「自惚れ」に嵌まっている――のである。

「如露」小学館「日本国語大辞典」によれば、『ポルトガル語』の『jorro』(ネットでブラジルの方二人の発音を聴いたが、音写すると「ジョフゥ」或いは「ジョホゥ」であった)=『「水の噴出」からか』とある。

「量見」「料簡・了簡・了見」とも書くが、以上の三つの漢字表記の場合は歴史的仮名遣は「れうけん」となる。

 なお、如露の台詞は、この“MURMURES”の原文では“Pardon, si je veux, il pleuvra.”で、そっけなく終止しているのに對し、「博物誌」の“AU JARDIN”の方では、“Pardon, si je veux, il pleuvra, j'ôte ma pomme, à torrents.”(悪いけどな、「雨が降る」としたらな、儂(わし)が丸(まあ)るいこいつを外してな、ざあざあ降りってことになるだぜ。)で一捻りの面白さが加味されている。この“pomme” が原義は「林檎(りんご)」であるが、「リンゴに似たような丸い、球状のもの」の意で、“arrosoirpomme d'arrosoir”(ジョウロの口(に附ける半球状の散水器))を指す。因みに、佃裕文訳「博物誌」の当該部は、『そいつはごめんよ、降るも降らぬも、この俺さまの胸先三寸、おいらの蓮の実を外せば、土砂ぶりと来らあ』と粋な意訳になっている。]

 

 

薔薇の木。――まあ、なんてひどい風。

後見人。――わしがついてゐる。

[やぶちゃん注:「後見人」原文は“ Le tuteur. ”で、第一義の①は法律用語で、確かに「後見人」であり、同②に俗語で「保護者・後ろ楯(だて)」であるものの、第二義として造園用語として「支柱・添え木」の意がある。改版では、流石に『添え木』と改訳している。]

 

 

野苺《のいちご》。――なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだらう。薔薇の花なんて食べられやしないわ。

生簀(いけす)の鯉。――うまいことを云ふぞ。だからおれも、人が食《くい》やがつたら、骨を立てゝやるんだ。

薊(あざみ)。――さうねえ、だけど、それぢやもう遲すぎるわ。

[やぶちゃん注:「野苺」は誤訳の類いである。「木苺」ならよい。原文は“ La framboise. ”で、これは、双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属 Rubus の種群を指すからである。「野苺」はバラ亜科 Rosoideae Potentilleae Fragariinae 亜連オランダイチゴ属エゾヘビイチゴ Fragaria vesca (北半球に広く分布する種)指す。

「なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだらう」「河津バガテル公園」公式サイト内の「棘のお話」によれば、『バラの棘は樹皮が変化したものと言われて』おり、『品種によって色々な形があ』って、『小さいものとか、大きいもの、沢山あるものや』、『そうでもないもの』もあるとある。棘の役割は、『茎や枝の転倒を防ぐフック的な役割では、という説もあり』、『バラの原種の多くは、ツル性の植物で、ひとりで立ち上がることができ』ないため、『トゲを周囲にひっかけ』て『絡めれば』、『上に伸びていくことができる』という。『あとは、草食動物から実を守るためとも言われてい』る『が、しかし』、『最大の敵と思われる昆虫には』、『全くの効果』がないとし、けれども、『最大の敵でありながら、繁殖するためには必要な昆虫たちが香りにつられ』て『やって』きて、『この昆虫たちが受粉の手助けをしてくれてい』る。『多少葉っぱや花びらは食われようと、それ以上に繁殖を選択し、子孫を残すための犠牲なので』あろうかとあり、これは、『親が、子どもを育てるのに身を粉にして働くのと同じなのかもしれ』ない、と締め括っておられる。ALSで十三年前に亡くなった私の母は、大のバラ好きであった。今も、私の家の方の柵に白い薔薇が咲く。画家であることを、終生、拘って、一般の社会常識に何かと反するのを好んで旨とし、母を終生、悩ませた、今年三月に亡くなった父――幼少期に結核性左肩関節カリエスに罹患した私――何か、しみじみとしたものが、湧いてきた。

「鯉」条鰭綱コイ目コイ科コイ属コイ Cyprinus carpio だが、特にヨーロッパ原産(特にドナウ川とヴォルガ川)のニシキゴイ Cyprinus carpio carpio としておく。]

 

 

薔薇の花。――あんた、あたしを綺麗だと思つて。

黃蜂(くまばち)。――下の方を見せなくつちや。

薔薇の花。――おはいりよ。

[やぶちゃん注:「黃蜂(くまばち)」あまりよい訳とは言えない。原文は“ Le frelon. ”で、これは、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属モンスズメバチ Vespa crabro である。上野高敏(九州大学大学院農学研究院生物的防除研究施設)の公式サイト内の「モンスズメバチ」に詳しいが、そこには、『本種はユーラシア大陸に広く分布し、日本列島は分布域の東端にあたります。我が国では、北海道、本州、四国、九州の平野部から低山帯に棲息します』。『地域ごとに特徴的な斑紋パターンを示すため、多数の亜種が記載されており、日本産は亜種 flavofasciata Cameron(『黄色い帯のある』の意)に属します』とあり、『その学名である Vespa crabro ですが、世界で最初に命名されたスズメバチゆえ、なんと『 Vespa 』は『蜂』の意で、『 crabro 』は『スズメバチ』の意です。学名的には、これこそスズメバチってところでしょうか』。『ヨーロッパを代表するスズメバチであり、かつ同地域最大の社会性ハチ目昆虫となります』。『ヨーロッパでは、本種に』三『箇所刺されると死ぬと信じられていたそうです。実際にはそんなに毒性は強くありませんが、過度の恐怖心から巣を片っ端から除去した結果、個体数の著しい減少を引き起こしてしまった地域があり、ヨーロッパの一部では絶滅危惧種となっています』。『現在では、国によって保護種となっています。ドイツでは、本種を殺すと最大で』五『万ユーロ(』五百『万円以上!)の罰金だそうな』とあった。人によっては、スズメバチの類は、皆、ミツバチを襲う肉食性であると思い込んでいる方も多いが、空けたジュースのボトルに入り込んで吸引するように、『夏の時期、広葉樹の樹液に集まってくる個体をよく見かけます。また熟した果物や花の蜜を餌とします』とあり、花から蜜を舐める働き蜂の写真も添えられてある。而して、『本種はユーラシア大陸に広く分布します』。十『亜種程度が知られていますが、個体変異があることと』、『地域によっては中間型が出るので、亜種の区分はしばしば明確でないようです。私もこの辺の分類はよくわかりません』と述べられ、十二亜種が掲げられてある。その内、フランスに分布するものは、 ssp. vexator (『分布:イギリス、ヨーロッパ南部産(頭部が黄色)』)・ssp. germana (『分布:ヨーロッパ西部(ドイツ、フランス、スイス、スペイン、イタリア北部、ポーランド、ハンガリー、オーストリアなど)』が該当する。モンスズメバチは複数のネット記載で、オオスズメバチ・キイロスズメバチ(先月、業者に駆除して貰った巣が彼奴(きゃつ)であった)に次いで、攻撃性・毒性ともに高く、危険なスズメバチであると記されている。さらに、岸田氏の「黃蜂(くまばち)」は、別に、二重によろしくない。漢字の「黃蜂」は、本邦では、一般的に、スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinaeのアシナガバチ類を総称する名であることで相応しい漢字名ではないこと、さらに、ルビの「くまばち」は、確かに、地方方言で、スズメバチ類を指す語として有意にあるものの、温和な性質で、に毒針があるが、当該ウィキによれば、『巣に近づいたり、個体を脅かしたりすると刺すことがあるが、アナフィラキシー』・『ショック』(anaphylaxis shock)『が出なければ』、『たとえ』、『刺されても重症に至ることは少ない』とある、ミツバチ科マバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa(本邦には五種棲息する。タイプ種は、Xylocopa violacea )のクマバチ類(私は物心ついてより、常に「くまんばち」と呼んでいる)を指す語であるから、相応しくないのである。

 

 

壁。――なんだらう、背中がぞくぞくするのは?

蜥蜴《とかげ》。――おれだい。

[やぶちゃん注:これは、後の「博物誌」では、独立項として、「庭にて」よりも遙か前に 「蜥蜴」として載っている。『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蜥蜴」』を参照されたい。本篇の、いや、「博物誌」の中でも、三本指に入るであろう名アフォリズムである。]

 

 

蜜蜂。――さ、元氣を出さう。あたしがよく働くつて誰でも云つてくれる。今月の末には、賣場の取締になれるといゝけれどなあ。

[やぶちゃん注:底本では、「末」は「未」となっているが、誤植と断じて、特異的に訂した。

「蜜蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属セイヨウミツバチ Apis mellifera 

「賣場の取締」は原文では“chef de rayon”で、まず、一義的には、“rayon”は「蜜蜂の蜂窩・蜜房(みつぶさ)」を指す語である。但し、それが二義的に、「本棚の棚の板」から、「百貨店等のディスプレイ」、「賣り場」の意へと転化して、“chef de rayon”で「売場主任」の意で用いられるようになった言語的な意味変化の経緯をもパロッているのである(これは岩波書店一九九八年刊の辻昶譯「博物誌」の「庭にて」の注を一部參考にした)。]

 

 

堇《すみれ》。――おや、あたしたちはみんなアカデミイの徽章《きしやう》をつけてるのねえ。

白い堇。――だからさ、なほさら、控へ目にしなくつちやならないのよ、あんたたちは。

葱(ねぎ)。――おれを見ろ、おれが威張つたりするか。

[やぶちゃん注:「堇」キントラノオ目スミレ科スミレ属 Viola sp.。なお、ヨーロッパで広く見られ、古くから香水の栽培もされている知られた種は、スミレ属ニオイスミレ Viola odorata である。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『聖母マリアの控えめさと誠実さを象徴する花であり、ヨーロッパでは葬儀の際に墓石に撒く習慣があった』とあった。『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」には、このスミレに訳者注があり、『謙譲を象徴』とある。

「アカデミイの徽章」原文は“d’académie”で、これは、臨川書店版全集の佃裕文氏の訳では『橄欖章』とあり、訳者注で、これはフランスの「教育功労章二等勲章」を指すとある。これは“Ordre des Palmes académiques”で、当該ウィキによれば、これは当時の勲章の意匠は、英知・平和・豊穣・栄光の象徴たる「オリーブ」(橄欖)の木と、成功の象徴たる月桂樹をデザインしたものであったが、現在は棕櫚(シュロ)の枝二本に変えられている。当時の「オフィシエ」二等の徽章の画像がある。さらに、勲章のリボンはヴァイオレット(菫色)である。

「葱」原文“ Le poireau. ”。これは言わずもがなであるが、本邦のネギ(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ  Allium fistulosum var. giganteum )ではなく、地中海原産のネギ属の一種である「リーキ」(英語:leek)=「ポワロー」(フランス語:poireau:ネイティヴの音写をすると「ポォワファオ」)=「セイヨウネギ」(意訳であって和名ではない) Allium ampeloprasum を指す。近年、市場でもよく見かけるようになり、「ポロねぎ」「ポワロ」の名が馴染みになってきている。臨川書店版全集注によれば、『俗語で農事功労章も意味する』とある。これは“ Ordre du Mérite Agricole ”である。フランス語の当該ウィキがあり、そこに「この徽章は、リボンからぶら下がる白いエナメルの星形で構成されており、そのリボンの大部分が緑色を呈しているため、『ネギ』“Poireau”(前の「葱」の注参照)というニック・ネームが付けられた。『ポワローを付ける』という表現は、この受賞した勲章のリボンの色に由来する。」といった内容が書かれてある。ただ、他の勲章に比べると、相対的にそれほど名誉的価値のあるものでもなかったらしく、この“Poireau”という呼び名も田舎の農業人に相応しいという「けなし」のニュアンスも感じられる。事実、以下の「葱」の台詞「あたしをごらん。あたしが威張つたりして?」という部分対し、辻氏は注して、『大した価値のある勲章ではないので、ポロねぎのこの気負った言葉はこっけいである』という辛口の字背をも透かしておられるのである。また、興味深いのは「堇」と「白い堇」と「葱」の会話の中の「葱」が、その台詞から、ここでは男性となっているのに対して、「庭のなか」では明白な女性となって『葱――あたしをごらん。あたしが威張つたりして?』言ってる点である。フランス語の性としては原文の見出しの定冠詞でも一目瞭然だが、葱は“le poireau”で男性名詞である。前の二人の〈菫〉〈白い菫〉が女性であるから、変化を持たせる上でも男性である方が、より、面白いとは思う。但し、これはあくまで訳者の遊びの領域とは思われる。]

 

 

アスパラガス。――あたしの小指は、あたしになんでも云ふの。

[やぶちゃん注:底本では、実は「アスパラカス」であるが、誤植と断じて濁音にした。原文は“ L’asperge. ”(音写「ラスパルジュ」)で、以下の“Mon petit doigt me dit tout.”の台詞を直訳すると、「私の小指は私に総てを教えてくれる。」という意味である。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、これについて、辻氏は、『この表現はフランスで、子供にむかって、おまえが隠していることを知っているぞ(顔に書いてあるぞ)と言って白状させるときに使う。アスパラガスは小指に似ているので、ルナールはこんな言葉を言わせているのである。』と注しておられる。岸田氏の「博物誌」の「庭のなか」では、解釈の異なる、

   *

アスパラガス――あたしの小指に訊(き)けば、なんでもわかるわ。

   *

という訳になっており、これは遙かに、ここのものよりも、よい出来になっている。]

 

 

菠薐草(はうれんそさう)。――酸模(すかんぽ)つて云ふのはわたくしのことです。

酸模(すかんぽ)。――うそよ、あたしが酸模よ。

[やぶちゃん注:サイト版「ぶどう畑のぶどう作り」では、

   *

〈菠薐草〉と〈酸模〉の会話は、両種の葉がよく似ていることに加えて、スイバ(スカンポ)の意の“oseille”という単語に、別に卑俗語として「銭・おぜぜ・お足」といつた金の意味があることから、ホウレンソウは鉄分(金属)を多く含むことに加えて、更に自ら福を呼び込むために金のシンボルたる“oseille”を詐称したいというニュアンスが込められている(これは岩波書店一九九八年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注を一部参考にした)。

   *

と注したが、今回は、自律的に、これらの語をディグし、以下のように添えることとする。

「菠薐草(はうれんさう)」原文“ L’épinard. ”。ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea 。我々の世代までは「ポパイ」の影響で、エネルギの源のように思っている者が多いが、ホウレンソウの灰汁の主成分はシュウ酸(HOOCCOOH)であり、多量に摂取し続けた場合は、鉄分やカルシウムの吸収を阻害したり、シュウ酸が体内でカルシウムと結合し、腎臓や尿路にシュウ酸カルシウム(Calcium oxalate CaC2O4 、又は、(COO2Ca )の結石を引き起こすことがあるので、要注意である(注意記載は当該ウィキを参照した)。なお、フランス語には、成句で“mettre du beurre dans les épinards”(直訳:「ホウレンソウにバターを塗る」)で「金を増やす・暮らしを豊かにする」という比喩表現がある。ルナールはそれを暗に嗅がしているらしい。

「酸模(すかんぽ)」ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa 。私は「すっかんぽ」と呼び、幼少の時から、田圃周辺や野山を散策する際に、しょっちゅう、しゃぶったものだった。なお、「すかんぽ」は本邦では、若芽を食用にすると、やはり酸っぱい味がするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ変種イタドリ Fallopia japonica ver. japonica の別名でもあるが(ヨーロッパにも帰化している)、原文の“ L’oseille. ”(ロオザィエ)は、言わずもがなだが、真正の「スイバ」を指している。なお、同じくフランス語には、俗語で“la faire à l'oseille à qn.”で「人を騙す」・「人に辛い思いをさせる」の意があるので、ルナールは前のホウレンソウのそれに、さらにこの卑語をも、二重写しさせて楽しんでいるものと思われる。

 

 

馬鈴薯《ばれいしよ》。――あたし、子供が生まれたやうだわ。

[やぶちゃん注:「馬鈴薯」双子葉植物綱ナス目ナス科ナス属ジャガイモ Solanum tuberosum 。南アメリカのアンデス山脈原産。さて、「馬鈴薯」は、ここでは、女性となっているのに対し、「博物誌」の「庭のなか」では『馬鈴薯――わしや、子供が生まれたやうだ。』と、明白な男性となっている。馬鈴薯 “la pomme de terre” (「大地の林檎」の意)は冠詞で判る通り、女性名詞である(ちゃんと言うと、“pomme”も“terre”も孰れも女性名詞なのである)。ここでは、その訳の意外的な諧謔性から言えば、単語としての性を無視し、「庭のなか」のように男性とした方が、圧倒的に面白い訳となっていると私は思う。女性では当たり前で、さっと読み過ぎて忘れるが、「おっさん」の台詞ということで、眼が吸い込まれ、永く忘れられないアフォリズムとなる。無論、これも、あくまで訳者の遊びの領域であるのだが。]

 

 

林檎の木(向い側の木に)。――梨、梨、梨、梨、その梨をこさへたいんだ、おれは。

[やぶちゃん注:「バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica 。このアフォリズムは、訳が充分でない。原文は、“Le pommier (à son voisin d’en face). — C’est ta poire, ta poire, ta poire,… c’est ta poire que je voudrais produire.”で、逐語訳すると、「林檎の木(向かいの隣人に)。―― 君の梨だよ、君の梨、君の梨、……僕が育てたいのはね、君の梨なんだ。」である。岸田氏も削ぎ過ぎた訳と思われたのであろう、改版では、『お前さんの梨(なし)さ、その梨、その梨、……お前さんのその梨だよ、わたしがこさえたいのは。』と改訳しておられる。なお、サイト版「ぶどう畑のぶどう作り」では、『〈林檎の木〉が頻りに言う「お前さんの梨」であるが、岩波書店』一九九八『年刊の辻昶譯「博物誌」の「庭にて」の注等によれば、フランス語の梨“poire”には卑俗語として「頭・腦天」「顏・面(つら)」といった意味があって、「梨」に「顏」を掛けているとするようである(實際に辻氏はここの訳で「梨」に「かお」というルビを振っている)。ただ、“poire”には』、『やはり卑俗語として「間拔け・頓馬」の意味もあり、そうした「阿呆面(づら)・馬鹿面」といつた惡意も込められていないとは言えないやうにも思われる。』と注した。これは特に変更する必要はないと思う。]

 

 

樫鳥《かしどり》。――のべつ黑裝束で、見苦しい奴だ、黑つぐみつて。

黑つぐみ。――知事閣下、わたしはこれしか着るものがないのです。

[やぶちゃん注:この対話は「博物誌」では「くろ鶫(つぐみ)!」の項として独立している。〈樫鳥〉“ Le geai. ”が〈黑つぐみ〉“ Le merle. ”のことを「見苦しい奴」と言うのであるが、ここの原文はズバり、“villain merle”で、“villain”は「百姓・平民」という意味から、形容詞化して「卑しい・下賤な」の意となった卑称語であり、“villain merle”は、これで「不愉快な男・醜い男」を意味する。]

 

 

分葱(わけぎ)。――くせえなあ!

韮(にら)。――きつと、また石竹(せきちく)のやつだ。

鵲《かささぎ》。――カカカカカ……。

蟇《ひきがへる》。――何を云つてやがるんだ、あの女は。

鵲。――歌を唱《うた》つてるのよ。

蟇。――クアツク。

[やぶちゃん注:底本では「韮」は「菲」(音「「ヒ」。意味は「薄い・粗末な・つまらない」及び「芳しい・香(かぐわ)しい」)となっているが、誤植と断じ、特異的に訂した。

「分葱(わけぎ)」原文の“ÉCHALOTE”(イシヤラォゥト)でお判りの通り、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属タマネギ変種エシャロット Allium cepa var. aggregatum 。タマネギの一種であることから、知られるニンニク(後出)・リーキ(前出)・チャイブ(別名セイヨウアサツキ(西洋浅葱): Allium schoenoprasum var. schoenoprasum )・ラッキョウ( Allium chinense )などは、総て近縁種である。

「大蒜(にんにく)」同前でネギ属ニンニク Allium sativum 

 

「クアツク」原文“couac”は、「クワック!」という音で、これは通常、鴉の鳴き声を示す擬音語である。また。これには、音樂用語で「調子外れの音」の意味があるので、〈鵲〉の歌への皮肉とも言えるかも知れない。訳文では示し得ないフランス語の深いウィットがあるのである。]

 

 

二羽の鳩。――おいで、ポツポ……おいで、ポツポ……おいで、ポツポ。

[やぶちゃん注:原文は“Les deux pigeons. — Viens mon grrros, viens mon grrros, viens mon grrros…..”である。この訳は、ちょっとうまく出来ているとは、正直、言えない。臨川書店一九九四年刊の『ジュール・ルナール全集』第五巻の佃裕文氏の訳「博物誌」の当該部は、鳩の鳴き声のオノマトペイアに、ルビで仏文の和訳をつけるという、面白い趣向で訳されてある。こうである――

   *

二羽の鳩――ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……

   *

「博物誌」の注で岸田氏自身が記しているやうに、これは、鳩の鳴き聲である“mon grrros”(モン・グルルロ)は、戀人の男に女が呼びかける「モン・クロ」“mon cœur”に掛けているのであるが、この訳では、その感じが、フランス語を知らない読者には、これ、全く理解されない。]

 

土龍《もぐら》。――靜かにしろ、やい、上のやつ。仕事をしているのが聞こえやしねえ。

[やぶちゃん注:標題は“ La taupe. ”で、モグラは女性名詞だが、台詞のキツさから、男の怒号としてやったものであろう。仮にヒステリーの女性のそれとして訳したら、ちょっと地下から響く迫力が伝わらないので、この方が、トレビァンだ。なお、本篇は「博物誌」では、「鵲」(と「蛙」)のシチュエーションの中に、解消的に発展して、取り込まれてしまうのだが、ここでは、舞台が先行する自然景観全体へと広がっており、上の木立の〈鵲〉と直上の〈蟇〉のそれぞれの声、それに対位法的にからまってくる別の木立の〈鳩〉の声を〈土龍〉が受ける構造となり、ポリフォニックな効果的配置となつていると言える。ちなみにこの“MURMURES”の原文では、鵲は“Cacacacaca.....”と鳴き、「博物誌」の鵲は“Cacacacacaca.”と鳴いている。岸田氏の訳の「カ」の数は、それに、それぞれ、ちゃんと律儀に対応しているのである。ただ、〈土龍〉の「仕事をしてゐるのが聞こえやしねえ。」という訳文(岸田訳「博物誌」も、ほぼ同じで「仕事をしているのが聞えやしねえ」である)には、実は、以前から違和感を感じ続けている。土龍自身が自分のしている仕事の中に、耳で聞き取らなければならない重要な何かがあって、それが聞こえないじゃないか! と怒つているという訳文であるが、その土龍が聞き分けねばならぬ「何か」というのが不分明だからである。臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」の佃裕文氏の訳では、『もう仕事も出來ねえじやないか!』、岩波書店一九九八年刊の辻昶氏の訳では『仕事の打ち合わせができないじゃないか!』と訳してある。前者は、五月蠅いこととの因果関係性が示されていない。後者が自然体で、よい、と私は思う。]

 

 

蜘蛛。――法律の名によつて、封印を貼りつけます。

[やぶちゃん注:ここでは他の台詞と同じく“Au nom de la loi, j'appose mes, scellés.”と一人称直接話法であるが、「博物誌」では、独立項「蜘蛛」の二つ目のアフォリズムとなって、さらに、三人称となって客観表現となり、“Toute la nuit, au nom de la lune, elle appose ses scellés.”「一晚じゅう、月の名によつて、彼女は封印を貼(は)りつけている。」と印象がすっかり変っている。]

 

 

羊。――メエ……メエ……メエ……。

牧犬《ぼくけん》。――然《しか》しも糞《くそ》もない。

[やぶちゃん注:原文は以下。

   *

 Les moutons. — Mée… Mée… Mée…

 Le chien de berger. — Il n’y a pas de mais.

   *

「博物誌」では、独立項「羊」の最後に、添えるように、辛うじてアフォリズムとして配されてあり、「牧犬」の台詞は原文自体が、“Il n'y a pas de mais !”で、エクスクラメンション・マークを用いている(「ぶどう畑のぶどう作り」の翻訳では初版・改版ともに(特に初版)岸田氏は訳に際しては、「?」や「!」を自身の判断で加えることは、まず、していない)。「博物誌」の岸田氏の戦前版では、まず、羊の台詞(鳴き声)を、総てに「しかし」と訳し、それに「(メエ)」のルビを打つ形に変更しており、牧犬の台詞には、「然し」に「(メエ)」のルビを打ち、「然し(メエ)も糞もねえ!」とされておられる。後の岸田氏の改版の「ぶどう畑のぶどう作り」の方では、流石にフランス語を知らない読者には、半可通で、不親切であることが気になられ、羊の台詞の直下にポイント落ちで、『(訳者注。メエは mais に通じ「しかし」の意)』と、岸田氏としては特異的に割注を施しておられ、こちらの方が読者にはベストである。]

 

[やぶちゃん注:底本では、台詞が二行以上に及ぶ場合は頭の一字空けがなされているが、ブラウザでの不具合を考えて行っていない。本作は「博物誌」の「庭のなか」と似るが、ルナールの原文自体が、意味内容の相違を伴う有意な相違が隨所に認められる。それは配置や訳のみではなく、原典自体の有意な改稿としてあるのである。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には、先の「雄鶏」以降については、『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、この「囁き」を所収しないのであるが、途中の注で私が述べたように、これだけ多くの有意な相違点と、カットされたり、別な独立項に組み込まれたりしている以上、これを『そのまま収録』しているとは、逆立ちしても言えないのである。全集としてのテクスト校訂の観点から見ても、私は極めて不適切な行為であると断ずる。担当訳者が異なっていることに拠る意思疎通不全と弁明しても、ルナールを愛する読者は、一人残らず、激しく不満を持つことは、火を見るよりも、明らかだからである。

 なお、臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」第五巻の「博物誌」の「庭にて」の項の訳者佃裕文氏の注によれば、この初出は、一八九九年二月號の雜誌『ヴォーグ』で、題名は「博物誌、リュシアン・ギトリーに』であり(Lucien Germain Guitry(一八六〇年~一九二五年)は当時のフランス劇壇の名優。ルナールと親交があつたか)、そこではドレフュス事件等の当時の政治狀況を反映した、動植物達の対話で締め括られている、とする。そこでは削除された台詞が、すべて、当該注で、復元されて訳されていて、非常に興味深いのであるが、これは、それを探し出し、訳して下さった、佃氏の翻訳の御苦労考えると、安易な引用は出来ないと感ずるので、控える。興味のある方は、同書三六一~三六二ページを、是非、參照されたい。

 なお、最後に、ちょっと淋しいことを言っておく。私が最も偏愛する芥川龍之介の作品に「動物園」というお洒落なアフォリズム集がある。大正九(一九二〇)年一月及び十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載され、後に第五短篇集『夜來の花』(大正一〇(一九二一)年新潮社刊:中国特派の直前の出版)に所収されたものである。私の電子テクストでは、十六年前、同僚に頼まれて、読書会用に新字新仮名で電子化したものを、正字正仮名でサイト版にして二〇〇六年二月に公開したものがあるので、見られたいが、これは私には、本ルナールの「囁き」、及び、「博物誌」を引き写したかと思われるアフォリズムが満載なのである。この岸田氏の「葡萄畑の葡萄作り」(大正一三(一九二四)年刊)より、少し前の発表であるから、恐らく、龍之介は、多分、「博物誌」の英訳本のそれを読んでいたものと思われる(龍之介は英語が専門でドイツ語も守備範囲であったが、フランス語を読みこなすのは、やや苦手であったと思われる)が、インスパイアと好意的に採るよりも、ルナール好きの私としては、ただ少しばかり龍之介特有の強いシニカルは感じられるものの、ルナールの作品の亜流にしか見えないのである。そもそも、この時期、芥川龍之介は、短い生涯の中で停滞期にあったことは、専門家がはっきりと認めていることであり、ルナールのそれを、大いに参考にして、手っ取り早く、悪く言えば、お手軽に書いた作品という印象を与える作品なのである。吉田精一も『ルナアルほどの鋭さがない』(「芥川龍之介」昭和一七(一九四二)三省堂刊)と言っている。芥川龍之介自身、大正八(一九一九)年十一月十八日附佐々木茂索宛書簡で、『SSSへ小品動物園を送つた輕薄浮薄なのにつき君の如き博雅の君子はなる可く見ないやうにしてくれ給へ但し原稿料はなる可くよくしてくれるやうに斡旋してくれ給へ、尤もちよいとうまい所もある』と書いている。この言い方は、完全なオリジナルな発想ではないことを暴露したものと私は感じるのである。だから、残念なのである。未読の方は、是非、読まれたい。

2024/09/12

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 象

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 それは、若いダニエルが象の見まはりをする時刻である。

 いつもの見物が彼を待つてゐた――勞働者、兵卒、娘、放浪者、それから外國人。

 「さ、好い顏をして見ろ」ダニエルは、指を擧げて云ふ。

 象は、一度ではうまく行かなかつた。重くるしいからだを、やつと起したかと思ふと、前に倒《たふ》れる。そして鼻を鳴らす。

 「もつと上手に」ダニエルは突慳貪《つつけんどん》に云ふ。すると、象は檻《をり》よりも高く立ち上る。そして恐ろしい、どえらい、太古時代の唸(うな)りを發する。あたりの空氣は水晶のやうにひゞり[やぶちゃん注:「罅(ひび)」に同じ。]がはひる[やぶちゃん注:ママ。]。

 「さうだ」ダニエルが云ふ。

 象はもう四本の脚《あし》で立つてもいゝのである。鼻を眞直ぐに擧げて、口を開《あ》けてもいゝのである。ダニエルは、その中に、遠くから麵麭《パン》のかけらを投げ入れる。狙ひがうまいと、麵麭のへた[やぶちゃん注:「端っこ」の意と採れるが、如何なる辞書にも載らない、一般的でない言い方である。]が、黑い、爛《ただ》れた口の奧で音を立てる。つぎに、手のひらへのせて、一つ一つ野菜の切屑《きりくず》を與へる。ざらざらした、しかし銳敏なその鼻が栅の間を行つたり來たりする。そして、丁度、象が、その中で息を吐いたり吸つたりしてゐるやうに、曲つたり伸びたりする。

 糸で引つ張つてあるやうな薄い耳が、滿足げに飜《ひるがへ》る。然し、小さな眼は、相變らずどんよりしてゐる。

 最後にダニエルは、紙で包んだ美味(うま)いものを口の中へ投げ込む。その紙包みは、納屋の拔穴《ぬけあな》を猫が通るやうにはひつて[やぶちゃん注:ママ。]行く。

 

 象はたつたひとりになると、家の留守番をしてゐる村の老いぼれ爺《じじい》のやうなものである。彼は戶の前で、からだを曲げ、ぼんやり鼻をぶらさげて、靴を引《ひき》ずつてゐる。

 上の方へ穿《は》きすぎた股引《ももひき》の中に殆どからだが隱れ、そして、その股引から、紐のはしがだらりと垂れてゐる。

 

[やぶちやん注:本篇は、後の「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には、先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、掲げたタイトルの中には「象」も含まれている。しかし、該当第五巻の『博物誌』にも、その注にも、また第五巻の解説にも「象」が載っていないことへの注記が、どこにも、ない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ともかくも、ルナールが削除したことは間違いない。これは叙述から、彼の動物の芸に対する憐憫の思いから書かれたものであることは明白であり、その動物虐待への「ノン!」の主張表明であるが、それへの嫌悪が、ルナールの中で、後、より深刻にイメージされてしまった結果、削除されたものと私は思う。私は幼少期から、動物園や水族館の芸を見る都度、面白いと思いながら、同時に、終わった後、ある種のやるせないペーソスを感じるのを常としてきた。だから、大人になってからは、自分から見ることはなかった(最後に自律的に見たのは、二十三の時だった。短期間の興行であったことから、殆んどの人は知らない、江ノ島水族館でのラッコの芸だった。鎌倉に訊ねてきた私を愛した高校時代の後輩の女性に見せるためだった。その後は、教員最後の高校の遠足の引率で金沢八景シーパラダイスで見たイルカ・ショーが事実上の最後だ。嘗つての教え子の一人が飼育員だったから、敢えて見た)。特に象は幼稚園の時、サーカスで見たのだが、芸をしながら、糞をボロボロと零しているのを見て、幼な心に、強く、悲惨に感じたのを忘れない。

原文を掲げておく。

   *

 

       L’ÉLÉPHANT

 

   C’est l’heure où le jeune Daniel fait sa visite à l’éléphant.

   Son public ordinaire l’attend : l’ouvrier, le soldat, la fille, le vagabond et l’étranger.

   Fais le beau, dit Daniel, un doigt levé.

   L’éléphant ne réussit pas du premier coup. Il se dresse à peine, pesamment, retombe et grogne.

   Mieux que ça, dit Daniel d’un ton sec.

   Il se dresse alors plus haut que la grille, et terrible, énorme, antédiluvien, il pousse un barrit dont l’air est fêlé comme du cristal.

   Bien ! dit Daniel.

   L’éléphant peut se remettre à quatre pattes et, la trompe droite, ouvrir la bouche. Daniel y jette, de loin, des morceaux de pain et, quand il vise avec adresse, la croûte sonne au fond du palais noir et gâté. Puis il offre, au creux de sa main, une à une, des épluchures. La trompe rugueuse et délicate va et vient entre les barreaux, se ferme et se déroule comme si l’éléphant aspirait et soufflait dedans.

   Les oreilles minces, tirées par quelque ficelle, planent de satisfaction, mais le petit œil reste morne.

   Pour finir, Daniel jette à la bouche le papier qui enveloppait les bonne choses et qui passe comme un chat par une chatière de grange.

 

   L’éléphant seul n’est plus maintenant qu’un pauvre vieux de village qui garde la maison. Il traîne ses chaussons devant la porte, courbé, tête vide, nez bas. Il disparaît presque dans sa culotte trop remontée et, derrière, un bout de corde pend.

   *

「さ、好い顏をして見ろ」原文は“Fais le beau”で、「見栄えを、良くしなよ!」という意である。後の岸田氏の改版では、「さ、ちんちんだ」で、直後に続く動作から、言い得て妙である。]

2024/09/11

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蟻と鷓鴣

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「ありとしやこ」。]

 

      蟻 と 鷓 鴣

 

 一匹の蟻が、雨上りの轍(わだち)の中に落ち込んで、溺れやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。その時、一羽の鷓鴣の子が、丁度水を飮んでゐたが、それを見ると、嘴《くちばし》で拾ひ上げ、命を助けた。

 「此の御恩はきつと返します」と蟻が云つた。

 「わたし達はもうラ・フオンテエヌの時代にゐるのではありません」と懷疑主義者の鷓鴣が云ふ「勿論あなたが恩知らずだと云ふのではありません。が、わたしを擊ち殺さうとしてゐる獵師の踵《かかと》に、あなたはどうして食い附くことができます。今時の獵師は素足で步きませんよ」

 蟻は、餘計な議論はしなかつた。そして、急いで、仲間の群《むれ》に加はつた。仲間は、一列に並べた黑い眞珠のやうに、同じ道をぞろぞろ步いてゐた。

 處が、獵師は遠くに居なかつた。一本の樹の蔭に、橫向きになつて寢てゐた。彼は、件《くだん》の鷓鴣が、刈つた秣《まぐさ》の間で、ちよこちよこ、餌を拾つてゐるのを見つけた。彼は立ち上つて、擊たうとした。すると、右の腕がむずむずする。鐵砲を構え[やぶちゃん注:ママ。]ることができない。腕が、ぐつたり垂れる。鷓鴣は獵師が取り直すのを待つてゐない。

 

[やぶちゃん注:「鷓鴣」まず、和名「シャコ」は、狭義には、キジ科キジ亜科Phasianidaeシャコ属Francolinusに属する鳥を言い(本属は本邦には棲息しない)、広義には、キジ科の中のウズラ( Coturnix 属)よりも大きく、キジ( Phasianus 属)よりも小さい鳥類をも言う。但し、原作では“perdreau”(ペルドロー)とあり、これは一般的に、フランスの鳥料理で、キジ亜科ヤマウズラ Perdix (本属も本邦には棲息しない)、及び、その類似種の雛を指す語である(親鳥の場合は「ペルドリ」“perdrix”)。食材としては“grise”(グリース。「灰色」という意味)と呼ぶヤマウズラ属ヨーロツパヤマウズラ Perdix perdix と、“rouge”(ルージュ。「赤」)と呼ぶアカアシイワシャコ Alectoris rufa (同属もキジ亜科)が挙げられ、特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる後者が、上物として扱われることが、昨年の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蟻」』の注の再検討の最中に新たに知り得たので、特にお知らせしておく。

「ラ・フオンテエヌ」十七世紀のフランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine 一六二一年~一六九五年)。「イソップ寓話」を元にした「寓話詩」( Fables :一六六八年刊)で知られる(有名なものに「北風と太陽」「金のタマゴを産む牝鶏」などがある)。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、注があり、その『『寓話詩』のなかに、おぼれかかったありを救ったはとを、ありがあとですくって恩返しをする話がある(二の一二)』とある。

 なお、この話は、“ Histoires Naturelles ”(初版は一八九四年)の一九〇四年版で採録されたものの、一九〇九年版では削除されている(一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の後注に拠った)。ルナールは、あまりに寓話臭さが強過ぎるので、後年、気に入らなくなってしまったものかも知れない。

2024/09/10

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鶸(ひわ)の巢

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

     (ひわ)  の  巢

 

 庭の櫻の叉になつた枝の上に、鶸の巢があつた。見たところ、それは綺麗なまん丸によくできた巢で、外側は一面に毛で固め、内側はまんべんなく生毛(うぶげ)で包んである。その中で、四つの雛が卵から出た。わたしは父にかう云つた。

 「あれを捕つて來て、自分で育てたいんだけれどなあ」

 わたしの父は、これまで度々《たびたび》、鳥を籠に入れて置くことは罪惡だと說いたことがある。が、今度は、多分同じことを繰り返すのがうるさかつたのだらう。わたしの向つて一口も返事をしなかつた。數日後、私は彼に云つた。

 「しようと思やわけないよ。はじめ、巢を籠の中に入れて置くの。その籠を櫻の木に括《くく》りつけて置くだらう。さうすると、親鳥が籠の目から食ひ物をやるよ。そのうちに親鳥の必要がなくなるから」

 わたしの父は、此の方法について、自分の考へを述べようとしなかつた。

 さう云ふわけで、わたしは籠の中に巢を入れて、それを櫻の木に取り附けた。わたしの想像は外《はづ》れなかつた。年を取つた鶸は、靑蟲を嘴《くちばし》にいつぱい咬《くは》へて來ては、わるびれる樣子もなく、雛に食はせた。すると、わたしの父は、遠くの方から、わたしと同じやうに面白がつて、彼等の花やかな往《ゆ》き來《き》、血のやうに赤い、また硫黃《いわう》のやうに黃色い色の飛び交ふ樣を眺めてゐた。

 或る日の夕方、わたしは彼に云つた。

 「雛はもう可なりしつかりして來たよ。放しといたら飛んで行つてしまふぜ。親子揃つて過ごすのは今夜つきりだ。あしたは、家の中へ持つて來る。僕の窓へ吊《つる》しとくよ。世の中に、これ以上大事にされる鶸はきつとないから、お父さん、さう思つてゐておくれ」

 わたしの父は、此の言葉に逆はうとしなかつた。

 翌日になつて、わたしは、籠が空になつてゐるのを發見した。わたしの父も、そこにゐた。わたしのびつくりしたのを見て知つてゐる。

 「もの好きで云ふんぢやないが」――わたしは云つた。「どこの馬鹿野郞が此の籠の戶を開けたのか、そいつが知りたいもんだ」

 

[やぶちゃん注:「鶸」「父」等については、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鶸(ひわ)の巢」』の私の注を見られたい。]

2024/09/09

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 豚と眞珠

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      豚 と 眞 珠

 

 草原に放すが否や、豚は食ひはじめる。その鼻は決して地を離れない。

 彼は柔らかい草を選ぶわけではない。一番近くにあるのにぶつかつて行く。鋤鍬《すきくは》のやうに、または盲《めくら》の土龍《もぐら》のやうに、行き當たりばつたりに、たゞ前へ前へと押して行く。よく鼻が草臥《くたび》れない。

 それでなくても漬樽《つけだる》のやうな形をした腹を、もつと丸くすることより考へてゐない。天氣がどうであらうと、そんなことは一向おかまひなしである。

 肌の生毛(うぶげ)が、正午の陽ざしに燃えやう[やぶちゃん注:ママ。]としたことも平氣なら、今また、霰《あられ》を含んだあの重い雲が、草原の上に擴《ひろ》がりかぶさらうとしてゐても、そんなことには頓着しない。

 鵲(かさゝぎ)は、それでも、彈機(ばね)仕掛けのやうな飛び方をして逃げて行く。七面鳥は生籬《いけがき》の中に隱れてゐる。そして、幼々《よはよは》しい仔馬は柏《かし》の木蔭に身を寄せてゐる。

 然し、豚は食ひかけたものゝある所を動かない。

 彼は一口も殘すまいとする。

 彼は、いくらか大儀になつたらしく、尻尾を振らない。

 雹《ひやう》がからだにパラパラと當ると、やうやく、それも不承々々唸《うな》る。

 「うるせえやつだな、また眞珠をぶつけやがる」

 

[やぶちゃん注:本篇の訳は、随所で、岸田氏による、意訳ではなく、確信犯で(やや恣意的とも言える)、日本人に判りやすいものに書き変えられている。例えば、

・第三段落の『漬樽《つけだる》のやうな形をした腹』というのは、原文では“un ventre qui prend déjà la forme du saloir”で、『既に塩漬けに(家で)使う壺のような形になってしまっている腹』の意である。

・第四段落の『霰《あられ》を含んだあの重い雲が、』は、“gonflé de grêle,”で、これはエンディングのシークエンスの『雹』と同じ“grêle”が用いられている。但し、この単語は第一義に「雹」であるが、「霰」をも指す語ではある。フランス語の「雹」相当のウィキは“Grêle”であり、「霰」相当のウィキは“Neige roulée”(「巻いた雪」「ロール状になった雪」「丸めた雪」意)で、後者は二語で、使い勝手は、ちょっと悪い。ルナールなら、ここで「霰」としようと思ったとしても、使わない気はする。ともかくも、岸田は確信犯で、『霰』として、敢えて最後の方を『雹』と訳したのである。それは『眞珠』の洒落を最大限に「大きな真珠」=『雹』を読者に与えるためで、優れた確信犯の訳なのである。

「豚と眞珠」この題名に就いては、一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の注によれば(そこでは標題は『豚に真珠』)、『「豚に真珠」(値うちのわからぬものにりっぱな物をやっても無意味である)ということわざ(『新約聖書』「マタイによる福音書」(七の六)をもじったもの』とある。「ウィキソース」の永井直治氏の一九二八年訳「マタイ傳聖福音(新契約聖書) 」第七章第六節を引く。

   *

犬に聖なるものを與ふる勿れ。また豚ぶたの前に汝等の眞珠を投ぐる勿れ。恐らくは彼等これをその足にて蹈みつけ、ふり返りて汝等を裂かん。

   *

「鵲(かさゝぎ)」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica 。ルナールの作品にはよく登場する。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。

「七面鳥」キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo 『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』の私の注を見られたい。

「幼々《よはよは》しい」としか読めない。通常は、これで「うひうひしい」だが、それでは意味が通らないので、改版が『弱々(よわよわ)しい』としていることから、かく読んだ。これも一種の岸田風の個人的表現である。

「柏《かし》」これはフランスであるから、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とすることは出来ない。本邦のお馴染みの「カシワ(柏・槲・檞)」は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にのみ植生するからである。原文では“chêne”で、これはカシ・カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称である。則ち、「オーク」と訳すのが、最も無難であり、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名は common oakQuercus robur を挙げてもよいだろう。

 なお、後の「博物誌」では、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「豚」』のパートの後に同じく『豚と眞珠』の標題で添えてある。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 牝牛

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「めうし」。]

 

      牝   牛

 

 これがいゝ、あれがいゝと、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]探しあぐんで、彼女には名前を附けないでしまつた。彼女のことはたゞ「牝牛」と呼ばれる。そして、それが一番彼女に應《ふさ》はしい名前であつた。

 それに、そんなことはどうでもいゝ、彼女は食ふものだけのものは食ふのだから――靑草で御座れ、乾草で御座れ、野菜で御座れ、穀物で御座れ、麵麭や鹽に至るまで、何んでも欲しいだけ食つた。何に限らず、何時《いつ》でも彼女は二度づゝ食つた。吐き出してまた食うのだから[やぶちゃん注:反芻を指す。]。

 彼女がわたしを見つけると、輕い細《ほそや》かな足取りで、割れた木靴を引つかけ、肌の皮を、白靴下のやうに脚《あし》の邊《あたり》に張り切らせて走つて來るのである。彼女は、わたしが何か食ひものを吳れると思ひ込んでやつて來るのである。彼女の姿を見てゐると、わたしは、その度每《たびごと》に、『さ、おあがり』と云はないではをられない。

 然し、彼女が呑み込むものは、脂肪にはならないで、みんな乳になる。一定の時刻に、乳房が一杯になり、眞四角になる。彼女は乳を永く溜めて置くと云ふことができない――永く溜めて置く牝牛もあるが――護謨のやうな四つの乳首から、一寸おさへただけで、氣前よくありつたけの乳を出してしまふ。彼女は足も動かさなければ、尻尾も振らない。が、その大きな柔らかな舌で、乳を搾る女の背中を舐めるのである。

 獨り暮しであるにも拘はらず、盛《さかん》な食慾が彼女の退屈を忘れさせる。最近に生み落した犢(こうし)のことを思ひ出して、啼くやうなことも稀れである。たゞ、彼女は人の訪問を悅ぶ。額の上ににゆつと生えた角、一筋《ひとすぢ》の涎《よだれ》と一《ひ》とすべの草とを垂らした、御馳走に飽きたらしい唇とで、愛想よく迎へるのである。

 怖いものなしと云ふ男達は、そのはぢ切れさうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獸(けもの)がそんなにおとなしいのを見て驚く。そして、彼女の愛撫だけには、まだ氣をゆるさないにしても、それがどんなに樂しいかと云ふことについて空想をめぐらすのである。

 

[やぶちやん注:この最終段落は、改版では、『こわいものなしという男たちは、そのはち切れそうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獣(けもの)がこんなにおとなしいのを見て意外に思う。それで、まだ用心をしなければならないのは、例の愛撫だけということになる。そして彼女らは幸福の夢を描くのである。』で、未だ、日本語としては、やや、ぎくしゃくしている。原文がルナールによって改訂増補されており、補正決定版の戦前の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「牝牛」』の訳では、『男たちは、怖(こは)いものなしだから、そのはち切れそうな腹を撫でる。女どもは、こんな大きな獸(けだもの)があんまりおとなしいので驚きながら、もう用心するのも、じやれつかないやうに用心するだけで、思ひ思ひに幸福の夢を描くのである。』となっていて、この方が自然体で、すんなりと、意味が採れる。以下に、本底本の原文を示しておく。

   *

     LA VACHE

   Las de chercher, on a fini par ne pas lui donner de nom. Elle s’appelle simplement « la vache » et c’est le nom qui lui va le mieux.

   D’ailleurs, qu’importe, pourvu qu’elle mange ! et l’herbe fraîche, le foin sec, les légumes, le grain et même le pain et le sel, elle a tout à discrétion, et elle mange de tout, tout le temps, deux fois, puisqu’elle rumine.

   Dès qu’elle m’a vu, elle accourt d’un petit pas léger, en sabots fendus, la peau bien tirée sur ses pattes comme un bas blanc, elle arrive certaine que j’apporte quelque chose qui se mange, et l’admirant chaque fois, je ne peux que lui dire : Tiens, mange !

   Mais de ce qu’elle absorbe elle fait du lait et non de la graisse. À heure fixe, elle offre son pis plein et carré. Elle ne retient pas le lait, — il y a des vaches qui le retiennent, — généreusement, par ses quatre trayons élastiques, à peine pressés, elle vide sa fontaine. Elle ne remue ni le pied, ni la queue, mais de sa langue énorme et souple, elle s’amuse à lécher le dos de la servante.

   Quoiqu’elle vive seule, l’appétit l’empêche de s’ennuyer. Il est rare qu’elle beugle de regret au souvenir vague de son dernier veau. Mais elle aime les visites, accueillante avec ses cornes relevées sur le front, et ses lèvres affriandées d’où pendent un fil d’eau et un brin d’herbe.

   Les hommes, qui ne craignent rien, flattent son ventre débordant ; les femmes, étonnées qu’une si grosse bête soit si douce, ne se défient plus que de ses caresses et font des rêves de bonheur.

   *]

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