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カテゴリー「葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版【完】」の31件の記事

2024/09/25

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鷓鴣(しやこ) / 葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。本篇は底本の内、特異に長い。「鷓鴣」は原文は“”鳥綱キジ目キジ亜目キジ科キジ亜科Phasianinaeの内、「シャコ」と名を持つ属種群を指す。特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる、イワシャコ属アカアシイワシャコ Alectoris rufa に同定しても構わないと私は思っている。「博物誌」(私のブログ・カテゴリ『「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】』参照)にも多出し、「にんじん」(同カテゴリ『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】』参照)でも取り上げられることが多い、ルナールに親しい鳥である。

 なお、本篇を以って本書は終っている。]

 

      鷓   鴣(しやこ)

 

 鷓鴣と農夫とは、一方は鋤車《すきぐるま》のうしろに、一方は近所の苜蓿(うまごやし)のなかに、お互の邪魔にならないくらゐの距離をへだてゝ、平和に暮らしてゐる。鷓鴣は農夫の聲を識《し》つてゐる。怒鳴つたりわめいたりしても怖《こ》わがらない。

[やぶちゃん注:「苜蓿(うまごやし)」原文は“luzerne”で、これは、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha 若しくは、ウマゴヤシ属 Medicago の種。ヨーロッパ(地中海周辺)原産の牧草。江戸時代頃、国外の荷物に挟み込む緩衝材として本邦に渡来した帰化植物である。葉の形はシロツメクサ(クローバー:マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens )に似ている(シロツメクサの若葉ならば、食用になる。それなら、私も食べたことがある)ルナールの作品では、「にんじん」では、複数の重要な戸外での話の中で、常に登場するお馴染みのアイテムであり、小説「にんじん」の世界には、この「うまごやし」の青臭い香りが、主人公「にんじん」の捻くれた性格とマッチして、常に漂っていると言ってさえよいものである。

「鋤車」と言っても、若い読者はどんなものか想起出来ない方も多いだろう。フランスのサイト“L’YONNE RÉPUBLICAINE”(「共和党ヨォンヌ」はフランスのヨンヌ県オセールに本拠を置く地方日刊紙)公式サイトの“Un Postollier a perfectionné la charrue”(『「ポストール」の地が鋤車を完成させた』:「ポストール」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)はヨンヌ県に位置するフランスのコミューン)に古式の画像を見ることが出来る。因みに、この地は、ルナールの生家であり、「にんじん」等の舞台となったシトリー=レ=ミーヌから北北西百十キロメートルの位置にあり、若きルナールが活躍したパリとの中間点に当たる。]

 鋤車が軋《きし》つても、牛が咳《せき》をしても、または驢馬が啼いても、それがなんでもないと云ふことを知つてゐる。

 で、此の平和は、わたしが行つてそれを亂すまで續くのである。

 處が、わたしがそこへ行くと、鷓鴣は飛んでしまふ。農夫も落ちつかぬ樣子である。牛も驢馬もその通りである。わたしは發砲する。すると、この狼藉者《らうぜきもの》の放つた爆音によつて、一切の自然は調子が狂ふ。之等の鷓鴣を、わたしはまづ切株の間から追ひ立てる。つぎに苜蓿の中から追ひ立てる。それから、草原のなか、それから生籬《いけがき》に添つて追ひ立てる。ついでなほ、林の出つ張りから追ひ立てる。それからあそこ、それからこゝ……。

 それで、突然、汗をびつしよりかいて立ち止る。そして怒鳴る。

 「あゝ、畜生、可愛げのない奴だ、人をざんざん走らせやがる」[やぶちゃん注:「ざんざん」はママ。最初の濁音は誤植の可能性もなくはないないが、岸田の誇張表現の可能性を排除は出来ない。]

 

 

 遠くから、草原のまんなかの一本の樹の根に、何か見える。

 わたしは生籬に近づいて、その上からよく見て見る。

 どうも、樹の蔭に立つてゐる鳥の頸《くび》のやうに思はれる。すると、心臟の鼓動がはげしくなる。此草の中に鷓鴣がゐなくつて何がゐやう[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の思い込み慣用。]。わたしの足音を聞きつけて、きつと、それと合圖をしたに違ひない。そそして子供たちを腹這ひに寢させて、自分もからだを低くしてゐるのだ。頭だけがまつすぐに立つてゐる。それは見張りをしてゐるのだ。が、わたしは躊躇した。なぜなら、その首が動かないのである。間違へて、木の根を擊つても馬鹿々々しい。

[やぶちゃん注:「それと」「それとなく」の意。]

 

 

 あつちこつち、樹のまはりには、黃色い斑點が、鷓鴣のやうでもあり、また土くれのやうでもあり、わたしの眼はすつかり迷つてしまふ。

 若し鷓鴣を追ひ立てたら、樹の枝が空中射擊の邪魔をするだらう。で、わたしは、地上にゐるのを擊つ、つまり眞面目な獵師の所謂「人殺し」をやつた方がいゝと思つた。

 處が、鷓鴣の首だと思つてゐるものが、いつまでたつても動かない。

 長い間、わたしは𨻶《すき》を覘《うかが》つてゐる。

 果してそれが鷓鴣であるとすれば、その動かないこと、警戒の周密なことは全く感心なほどである。そして、ほかのが、また、よく云ふことを聽いて、その通りにしてゐる。どれ一つとして動かない。

 わたしは、そこで掛引をして見るのである。わたしは、からだぐるみ、生籬の後《うしろ》にかくれて、見てゐないふりをする。と云ふのは、こつちで見てゐるうちは、向うでも見てゐるわけだからである。

 かうすると、お互に見えない。死の沈默が續く。

 やがて、わたしは顏を上げて見た。

 今度こそはたしかである。鷓鴣はわたしがゐなくなつたと思つたに違ひない。首が以前より高くなつてゐる、そして、それをまた低くする運動が、もう疑ひの餘地を與へない。

 わたしは、徐《おもむ》ろに銃尾を肩にあてる……。

 

 

 夕方、からだは疲れてゐる、腹はふくれる、すると、わたしは、獵師に應はしい深い眠りにつく前に、その日一日追ひまはした鷓鴣のことを考へる。そして、彼等がどんなにして今夜を過すだらうかと云ふことを想像して見る。

 彼らは氣狂(きちが)ひのやうになつて騷いでゐるに違ひない。

 どうしてみんな揃はないのだらう。呼んでも來ないのだらう。

 どうして、苦しんでゐるもの、傷口を嘴《くちばし》で押へてゐるもの、ぢつと立つてをられないものなどがあるのだらう。

 どうして、あんなに、みんなを怖わがらせるやうなことをしでかすんだらう。

 やつと、休み場所に落ちついたと思ふと、すぐもう誰かゞ警報を傳へる。また飛んで行かなければならない。草なり株なりを離れなければならない。

 彼らは逃げてばかり居るのである。聞き慣れた音にさへ愕《おどろ》くのである。

 彼らはもう遊んではをられない。食ふものも食つてをられない。眠つてもをられない。

 彼らは何が何んだかわからない。

[やぶちゃん注:第一段落の「どんな」は、底本では、「とんな」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]

 

 

 傷ついた鷓鴣の羽が落ちて來て、ひとりでに、此の自惚《うぬぼ》れの强い獵師の帽子にさゝつたとしても、わたしは、それがあんまりだとは思はない。

 雨が降り過ぎたり、旱(ひでり)が續き過ぎたりして、犬の鼻が利かなくなり、わたしの銃先《つつさき》が狂ふやうになり、鷓鴣がそばへも寄りつけなくなると、わたしは、正當防禦の權利を與へられたやうに思ふ。

 

 

 鳥の中でも、鵲(かさゝぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まてふとか、腕に覺えのある獵師なら相手にしない鳥がある。わたしは腕に覺えがある。

 わたしは、鷓鴣以外に好敵手を見出さない。

 彼らは實に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。然し、人はそれを逃がさないで、とつちめるのである。

 それは、深い苜蓿の中に隱れることである。然し、そこへまつすぐに飛んで行くのである。

 それは、飛ぶ時に、急に方向を變へることである。然し、それが爲めに間隔がつまるのである。

 それは、飛ぶかはりに走るのである。人間より早く走るのである。然し、犬がゐるのである。

 それは、人が中にはひつて[やぶちゃん注:ママ。]路を遮《さへぎ》ると、兩方から呼び合ふのである。それが獵師を呼ぶことになるのである。獵師に取つて彼等の歌を聞くほど氣持のいゝものはない。

[やぶちゃん注:このパートは、致命的なミスがあり、原文の、まるまる一行を、訳し落してしまっている。このパート部分の原文を引く。

   *

   Il y a des oiseaux, la pie, le geai, le merle, la grive, avec lesquels un chasseur qui se respecte ne se bat pas, et je me respecte.

   Je n’aime me battre qu’avec les perdrix.

   Elles sont si rusées !

   Leurs ruses, c’est de partir de loin, mais on les rattrape et on les « corrige ».

   C’est d’attendre que le chasseur ait passé, mais derrière lui elles s’envolent trop tôt et il se retourne.

   C’est de se cacher dans une luzerne profonde, mais il y va tout droit.

   C’est de faire un crochet au vol, mais ainsi elles se rapprochent.

   C’est de courir au lieu de voler, et elles courent plus vite que l’homme, mais il y a le chien.

   C’est de s’appeler quand on les divise, mais elles appellent aussi le chasseur et rien ne lui est plus agréable que leur chant.

   *

この原文の第四段落の“Leurs ruses, c’est de partir de loin, mais on les rattrape et on les « corrige ».”が訳されていないのである。自然流で訳してみると、「彼らの作戦は、直ちに遠くへと逃げるというそれなのであるが、しかし、私たち猟師は、それを感知して、追いつき、而して、自身らの『模範解答』へと導くのである。」と言った感じか。「博物誌」のものだが、辻昶(とおる)氏の訳(一九九八年岩波文庫刊)では、『また、狩人を通り過ぎさせてしまうことだ。だが、そのうしろからあまりにはやくとびだしすぎるので、狩人はふり向いてしまうのだ。』と訳されておられる。妙な躓きをしない、平易な良い訳ではあるが、ちょっと意訳に過ぎる感じはする。一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の訳では、思い切った手法が採られてあり、前の行を含めて示すと、

   《引用開始》

 山うずらたちのなんと狡猾なこと!

――彼らの策略    

 それは、早々とその場を遁(のが)れることである。だが、彼らは捕まり、ぶたれる。

   《引用終了》

となっている。原文を巧みに組み替え、しかも躓かずに、ルナールのウィットに富んだ語りも生かされていて、よい。なお、岸田氏は、本書の改版で、訳の抜け落ちを補正しておられ、前後を入れて示すと、

   *

 彼らは実に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。しかし、人はそれをまた見つけ出し、今度は思い知らせるのである。

 それはまた猟師が行き過ぎるのを待っていることである。が、後(うしろ)から、ちっとばかり早く飛び出し過ぎて、後(うしろ)を振り返るのである。

   *

となっている。原文の換喩的圧縮を岸田風に、「いなした」という感じである。でも、『遠くから逃げること』というのは、正直、日本語としては躓く。なお、岸田氏の本書の改版では、他にも、細部で、かなりの改訳が成されてある。総てを示すと、煩瑣になるので、是非、比較されたい。

「鵲(かさゝぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まてふとか」原文の鳥名は「博物誌」と同じで、“a pie, le geai, le merle, la grive”である。但し、岸田氏の「博物誌」訳では、『鵲(かささぎ)とか、樫鳥(かけす)とか、くろ鶫(つぐみ)とか、鶫とか』に変わっている。臨川書店一九九五年刊『ジュール・ルナール全集』第五巻の「博物誌」の佃裕文氏の訳では、この一連の四種の鳥名が『かささぎ、カケス、クロウタドリ、つぐみ』となっており、岩波文庫一九九八年刊の辻昶氏訳「博物誌」では、『かささぎだとか、かけすだとか、つぐみ類だとか、つぐみだとか』となっている。鳥類の訳語は本邦に棲息しない類もあって、実に難しいが、「鵲」は、まず、スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica で問題ない。「かけす」は、タイプ種はスズメ目カラス科カケス属カケス Garrulus glandarius であるが、但し、約三十もの亜種がいるのでカケスGarrulus sp. とすべきであろう。「つぐみ」は上記の通りで、「くろ鶫(つぐみ)」と改訳しているので、それなら、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardisとなる。しかし、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鷓鴣」』の注で、私は、疑義を示し、『「くろ鶫(つぐみ)」「くろ鶇(つぐみ)!」で既注であるが、そのまま再掲すると、“Merle”は私の辞書では、確かに『鶇』とあるのだが、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis名の割には、腹部が白く(丸い黒斑点はある)、「のべつ黑裝束で」というのに違和感がある。これは「クロツグミ」ではなく、♂が全身真黒で、黄色い嘴と、目の周りが黄色い同じツグミ属のクロウタドリTurdus merulaではないかと思われる。』としたのだが、恥ずかしいことに、クロツグミ Turdus cardisは日本と中国にしか分布しないのでアウトなのであった。而して、先に示した通り、佃裕文氏の訳では、ここを、『クロウタドリ』と訳しておられ、私の後ろの比定が正しかったことが判った。岸田氏の「まてふ」は改版の注で、『不詳』としたが、これは、思うに、「眞(真)鳥」で、有象無象のツグミ類のなかで、真正のツグミという意で岸田氏は訳したものと推理した。ツグミ属も数が多く、種を同定するのは難しい。敢えて候補を挙げるならば、ヤドリギツグミ Turdus viscivorus あたりか?

 

 その若い一組は、もう親鳥から離れて、別に新しい生活をし始めた。わたしは、夕方、畑のそばで、それを見つけたのである。彼等は、ぴつたり寄り添つて、翼と翼とを重なり合ふやうにして舞ひ上つた。その一方を殺した彈丸(たま)は、もう一方を引き放したと云へるのである。

 一方は何も見なかつた。何も感じなかつた。然し、もう一方は、自分の連れ合ひが死んでゐるのを見、そのそばで自分も死ぬやうな氣がした。それだけのひまがあつた。

 この二羽の鷓鴣は、地上の同じ場所に、少しの愛と、少しの血と、それから、いくらかの羽根とを殘したのである。[やぶちゃん注:この段落の「鷓鴣」は、「●」とも言えない奇妙な違った二つの異様な紋を透かせている黒丸様になっている。これは、思うに、植字工が滅多に使わない「鷓鴣」の両活字を、この場面で、手持ち分を使い切ってしまい、追加注文している間、仮に判るように入れておいた記号であって、それが来てから、うっかりして、ここに再植字するのを忘れたもの、と私は推理する。この後には、二回、「鷓鴣」が印字されているからである。]

 獵師よ、お前は一發で、見事に二羽を擊ち止めた。早く歸つてうちのものにその話をしろ。

 あの年を取つた去年の鳥、孵(か)へしたばかりの雛を殺された親鳥、彼等も若いのに劣らず愛し合つてゐた。わたしは、彼等がいつも一緖にゐるのを見た。彼等は逃げることが上手であつた。わたしは、强いてその後を追ひかけようとはしなかつた。その一方を殺したのも全く偶然であつた。それで、それから、わたしは、もう一方を探した。可哀さうだから殺してやらうと思つて探した。

 或るものは、折れた片脚をぶらさげて、丁度わたしが、絲で括《くく》つてつかまへてでも居るやうな形をしてゐた。

 或るものは、最初ほかのものゝ後について行くが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]翼が利かなくなる。地上に落ちる。ちよこちよこ走《ばし》りをする。犬に追はれながら、身輕に、半ば畝《うね》を離れて、走れるだけ走るのである。

 或るものは、頭の中に鉛の彈丸(たま)を打ち込まれる。ほかのものから離れる。狂ほしく、空の方に舞ひ上る。樹よりも高く、鐘樓の雄鷄《をんどり》よりも高く、太陽を目がけて舞ひ上るのである。すると獵師は、氣が氣ではない。しまひにそれを見失つてしまふ。そのうちに、鳥は重い頭の目方を支える[やぶちゃん注:ママ。]ことができなくなる。翼を閉ぢる。遙か向うへ、嘴を地に向けて、矢のやうに落ちて來る。

 或るものは、犬を仕込むために、その口へ投げつける切れ屑のやうに、ぎゆつとも言はず落ちる。

 或るものは、彈丸が中《あた》ると、小舟のやうにぐらつく。そして、ひつくり返る。

 また、或るものは、どうして死んだのかわからないほど、傷が羽の中に、深くひそんでゐる。

 或るものは、急いでカクシ[やぶちゃん注:ポケット。]の中に押し込む。自分が見られるのがこわい[やぶちゃん注:ママ。]やうに、自分を見るのが怖いやうに。

 或るものはなかなか死なゝい。さう云ふのは絞め殺す必要がある。わたしの指の間で、空《くう》をつかむ。嘴を開く、細い舌がぴりぴりつと動く。すると、その眼の中に、ホオマアのいわゆる、死の影が下りて來る。

[やぶちゃん注:「ホオマア」紀元前八世紀末の古代ギリシャのアオイドス(吟遊詩人)であったホメーロス(ラテン文字転写:Homerus:フランス語:Homère)。臨川書店版『全集』第五巻の「博物誌」の佃裕文氏の訳では『「死の闇が降り」る』とあり、後注に、『ホメロスの『イリアッド』『オデッセイ』によく出て来る表現。』とあった。]

 

 

 向うで、百姓が、わたしの鐵砲の音を聞きつけて、頭を上げる。そして、わたしの方を見る。

 それは審判者である……此の働いてゐる男は……。彼はわたしに話しかけるかもわからない。嚴かな聲で、わたしを恥じぢ入らせるに違ひない。

 處がさうでない、それは時としては、わたしのやうに獵ができないので剛を煮やして[やぶちゃん注:ママ。「業(がふ)」が正しい。]ゐる百姓である。時としては、わたしのやることを面白がつて見てゐる、そして、鷓鴣がどつちへ行つたかをわたしに告げるお人好しの百姓である。

 決して、それが義憤に燃えた自然の代辯者であつたためしがないのである。

 

 

 わたしは、今朝、五時間も步きまはつた揚句、空のサツク[やぶちゃん注:原文“carnassière”。猟師の獲物を入れる袋。]を提げ、頭をうなだれ、重い鐵砲をかついで歸つて來た。嵐の暑さである。[やぶちゃん注:いい訳ではない。原文は“Il fait une chaleur d’orage”で、逐語的にはそうなるが、「今にも雷雨の来そうなムシムシした暑さで」の意。]わたしの犬は、疲れきつて、小走りにわたしの前を行く。生籬に添つて行く。そして、何度となく、木蔭にすわつて、わたしの追ひつくのを待つてゐる。

 すると、丁度、わたしが生き生きした苜蓿の中を通つてゐると、突然、彼は飛びついた。と云ふよりは、止《とま》ると同時に腹這ひになつた。ぴつたり止つた。そして、植物のやうに動かない。たゞ、尻尾の端の先の毛だけがふるへてゐる。わたしは、てつきり、彼の鼻先に、鷓鴣が何羽かゐるなと思つた。そこにゐるのだ。互にからだをすりつけて、風と陽《ひ》とを除けてゐるのだ。犬を見る。わたしを見る。わたしを多分見識つてゐるかも知れない。こわくつて、飛べない。

 麻痺の狀態からわれに返つて、わたしは準備をした。そして、機を待つた。

 犬もわたしも、決して向う[やぶちゃん注:ママ。]よりも先に動かない。

 と、遽《にはか》に、前後して、鷓鴣は飛び出した。どこまでも寄り添つて、一かたまりになつてゐる。わたしは、そのかたまりの中に、拳骨でなぐるやうに、彈丸を打ち込んだ。そのうちの一羽が、やられて、宙に舞ふ。犬が飛びつく。血だらけの襤褸《ぼろ》みたいなもの、半分になつた鷓鴣を持つて來る。拳骨が、殘りの半分をふつ飛ばしてしまつたのである。

 さあ、行かう。これで空手(からて)で歸ることにはならない。犬が雀躍(こおどり[やぶちゃん注:ママ。])する。わたしも、得々としてからだをゆすぶつた。

 

 

 あゝ、この尻つぺたにへ、一發、彈丸(たま)を打ち込んでやつてもいゝ。―――完―――

 

[やぶちやん注: 臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」第五巻の「博物誌」(佃氏訳注)の本篇に相当する「山うずら」の注によれば、本篇の初出は一八九九年一月二日發行の新聞『エコー・ド・パリ』であつたが、これに先立つ一八九七年頃から、ルナールは、その日記に狩猟に関わる嫌悪感を記し始めており、一九〇五年十月を最後に、日記での狩獵の記錄は見当たらないとし、一九〇九年八月三十日の書簡で『わたしはもう狩猟はやらない』と記しているとする。こうして銃を捨てた「イマージュの狩人」は、真の「狩りの達人」となったのであった。]

2024/09/23

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蛇

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 あんまり長すぎる。

 

[やぶちゃん注:原文は、

   *

 

        LE SERPENT

 

   Trop long.

 

   *

ルナールのアフォリズムの最大の名品。改版では、

   *

 

    蛇

 

ながすぎる。

 

   *

で、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蛇」』では、

   *

 

   蛇                Le Sepent

 

 長すぎる。

 

   *

「博物誌」のそれが、訳の決定版であると言える。教え子諸君は、恐らく、私が、好んで扱った、安倍公房の随筆「日常性の壁」を思い出すだろう。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「しちめんてう」。]

 

      七 面 鳥

 

 道の上に、またも七面鳥の行列。

 每日、天氣がどうであらうと、彼女らは散步に出かける。

 彼女らは雨を怖れない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾《すそ》は捲《まく》れない。また、日光も怖れない。七面鳥は日傘を持つて出たことがない。

 

[やぶちゃん注:この原文は、

   *

 

        DINDES

 

   Sur la route, voici encore le pensionnat des dindes.

   Chaque jour, quelque temps qu’il fasse, elles se promènent.

   Elles ne craignent ni la pluie, personne ne se retrousse mieux qu’une dinde, ni le soleil, une dinde ne sort jamais sans son ombrelle.

 

   *

この一行目は十全に訳されたものとは言えない。問題は“le pensionnat”を訳していないからである。この単語は、第一義は「(私立の)寄宿学校」で、第二義で「何らかの寄宿舎・寄宿寮」を指し、第三義に集合的総称呼称としての「寄宿生等(ら)」の意味である。則ち、この一行の映像的な対象把握と、比喩を判るように補助して訳すなら、

「何時(いつも)の道を行くと、これ、またぞろ、寄宿学校の寮生どもよろしく、七面鳥が、ぞろぞろとやって来る。」

であろう。この私立寄宿学校自体が、若き日のルナールが、いろいろと悲喜こもごもの経験してきた忘れ難い実体験の場であるから、この一見、お茶らかして笑いを醸す一行には、実際には、そうしたルナールの過去寄宿学校時代の苦い思い出や記憶に裏打ちされているものと読まねばならない。彼の作品の残酷な、或いは、悲惨で惨めな主人公の行動や、捩じれた感懐には、殆んどが、そうした過去の若き日の惨めな、捩じれた心傷的経験と直結しているからである。ただの、小洒落(こじゃれ)た換喩ではないのである。

 されば、ここは、そうしたルナールの仕掛けを、この初版の訳は、残念ながら、全く、そうしたユーモラスに見える、自身の経歴を元にした、自傷的にネガティブな投影を嗅がせているところを、全く漂白してしまっているのである。

 流石に、岸田氏も、その欠落を気にされたものであろう、後の改訳版では、

   *

 道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。

 毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。

 彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。

   *

と改訳しておられる。

 なお、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』では、やや長いアフォリズムに続けて、本篇を「Ⅱ」として添えてある。

「彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。」前のリンク先でも問題にしてあるが、この原文の“dinde は、特にシチメンチョウの♀を指す女性名詞である。しかし、所謂、我々が通常、想起する形象はシチメンチョウの♂であり、フランス語では別に“dindon”の語で表わす。無論、この単語は男性名詞である。ところが、最終段落は、ルナールの自己撞着が図らずも現われてしまっているのである。この「彼女ら」(☜)「は雨をおそれない」。それは、「どんな女も」「七面鳥ほど」には「上手に裾(すそ)はまく」ることは出来ないからであり、「七面鳥は」常に巨大な「日傘(ひがさ)を持」っているから、「日光もおそれない」というカリカチャアの部分は、シチメンチョウのではあり得ないのである。この「日傘」というのは、私達が百人が百人、直ちに想起するところの、だけが持つ襞飾りのある羽や扇形の尾を広げたシーンを換喩したものだからである。

2024/09/22

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鶺鴒(せきれい)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      鶺   鴒(せきれい)

 

 よく飛びもするが、よく走ることも走る。いつもわれわれの脚《あし》の間で、馴れ馴れしくするかと思ふと、なかなかつかまらいない。小さな叫び聲を立てゝ尻尾《しつぽ》で步くなどは、人を嬲《なぶ》つてゐる。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鶺鴒(せきれい)」』では(原文同じ)、私は「鶺鴒」(セキレイ)について、『フランスに棲息する確かな一般的な種はキセキレイ Motacilla cinerea と、タイリクハクセキレイ亜種 Motacilla alba alba と考えられる』と注したが、今回、先に使ったフランス語のウィキ“ Motacilla の各個種のページを再度、総て精査し、さらに、日本語とフランス語の鳥類のネット記載の同属についての記事等を、一から調べてみた結果、フランスに棲息(渡り鳥を含む)する種は、

○鳥綱スズメ目セキレイ科セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea

○セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種(タイプ種)タイリクハクセキレイ Motacilla alba alba

○セキレイ属ツメナガセキレイ Motacilla flava フランス語の同種のウィキでは、この種をさらに十種に分けてリストしてある。その中には独立種とされることもあるニシツメナガセキレイ Motacilla flava flavissima や、フランス南西部にも分布するとするイベリアセキレイ Motacilla flava iberiae がいる)

○セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種 Motacilla alba yarrellii (イギリスからの渡り鳥)

の六種は確実にいることが判った。

 原文を私なりに訳してみる。

   *

 彼女は飛ぶのと同じように走り廻り、そして、何時(いつ)だって、私たちの足の間に纏わりついて、馴れ馴れしくするくせに、これまた、如何ともし難い難攻不落のツワモノであって、その小っぽけな鳴き声でもって、私たちに「尻尾を踏んでみてごらんな!」とチョッかいを出すのである。

   *]

2024/09/21

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 ポピイ

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。「ポピイ」(標題“les coquelicots”)は。音写すると、「ル・コクリコ」で、狭義には、「雛罌粟・雛芥子」=双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas を指す。本邦では「虞美人草」の名でも知られる。フランスでは野原で普通に見られる親しい花であり、国花の一つである、フランス国旗の右の赤のラインも本種をイメージしている(因みに、左の青は後注する「矢車菊」=キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus を、中央の白はマーガレット=「仏蘭西菊」=キク科キク亜科フランスギク属フランスギク Leucanthemum vulgare が元である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく)。ヒナゲシの学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。フランスでは、幾つかの地方名があり、coquelicotpavot-coqpavot des champspavot sauvagepoinceauponceau等がある。なお、本邦ではケシ科 Papaveraceaeケシ属 Papaver のケシ類を総じて英語の「ポピー(poppy)」で通称しているが、英語で単に“poppy”と言った場合は、イギリス各地に自生している園芸種としても盛んに栽培されている、本種ヒナゲシ(“corn poppy”:コーン・ポピー)を指す。一方、日本語で単に「ケシ」と言って、それが同時に種を指している場合には、麻薬であるアヘンの元であるケシ Papaver somniferum を指すので、注意が必要である。]

 

      ポ ピ イ

 

 彼等は麥の中で、小さな兵士のやうに、氣取つてゐる。然し、もつともつと綺麗な赤い色。それに、あぶなくはない。

 彼等の劍《つるぎ》は芒(のげ)である。

 風が吹くと飛んで行く。そして、めいめいに、氣が向けば、畝(うね)のへりで、同鄕出身の女、矢車草《やぐるまさう》の花と、つひ[やぶちゃん注:ママ。]話が長くなる。

 

[やぶちゃん注:「彼等の劍《つるぎ》は芒(のげ)である。」原文は“Leur épée, c’est un épi.”。この“épi”は「(麦・稲などの)穂」の意。「芒」は「のぎ・のげ(野毛)・ぼう・はしか」と読み、漢字では「芒」と同語源で「禾・鯁」(後者は専ら「喉に刺さる小さな魚の骨」として使われる)とも書く。

「矢車草」既に『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「ひなげし」』で注してあるが、再掲すると、ヤグルマソウ=キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus 当該ウィキによれば、『一部でヤグルマソウとも呼ばれた時期もあったが、ユキノシタ科のヤグルマソウと混同しないように現在ではヤグルマギクと統一されて呼ばれ、最新の図鑑等の出版物もヤグルマギクの名称で統一されている』とあった。原文では、“bleuet”で、フランス語のウィキでは Cyanus segetum で標題するも、これはヤグルマギクのシノニムであるので、間違いない。いやいや、何より、ヤグルマギクは既に述べた通り、フランスの国花の一種なのである。フランス語のウィキ“Emblème végétal”(「植物の紋章」)のフランスの条に、『ヤグルマギク、デ​​イジー、ポピーはフランスの花の象徴である(ヤグルマギクは第一次世界大戦のフランス退役軍人のシンボルであ』る、と記されてある。これは、フランス語のウィキでは、『ボタン・ホールに附けられたフランスのヤグルマギクは、退役軍人、戦争犠牲者、未亡人、孤児 に対する記憶と連帯の象徴である』とある。但し、同種の花の色は、青というより、明るい紫色である(グーグル画像検索「ヤグルマギク」をリンクさせておく)。]

2024/09/19

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 魚

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。「魚」は「さかな」と訓じておく。]

 

      

 

 さては、いよいよ、かゝらないな。おほかた、今日が漁の解禁日だと云ふことを御存じないと見える。

 

[やぶちやん注:「博物誌」では『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「かは沙魚」』の終りに、このアフォリズム本文が添えてある。本篇の標題は“LE POISSON”で、この語は、広義の「さかな・魚類」である。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 葡萄畑

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      葡 萄 畑

 

 どの株も、添へ木を杖に、武器携帶者。

 何をぐづぐづしてゐるんだ。葡萄の實は、今年はまだ生《な》らない。葡萄の葉は、もう裸體像にしか使はれない。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「葡萄畑」』を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蝸牛

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      蝸   牛

 

 せい一杯步きまはる。それでも、舌で步くことしかできない。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蝸牛」』では、「一」でルナールによって増補・改稿された形で、第二段落目に出る。本原文は、

   *

 

        L’ESCARGOT

 

   Il se promène le plus qu’il peut, mais il ne sait marcher que sur sa langue.

 

   *

であるが(逐語訳では、「彼は可能なだけ歩き回るものの、舌で歩くことしか出来ない。」)、“ Histoires Naturelles ”では、

   *

 

   Il se promène dès les beaux jours, mais il ne sait marcher que sur la langue.

 

   *

で「彼は天気のいい日は散歩に行くものの、舌で歩くことしか出来ない。」である。]

2024/09/18

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蜚蟲(あぶらむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      蜚   蟲(あぶらむし)

 

 鍵の穴のやうに、黑く、ひつついてゐる。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「あぶら蟲」』では、最後を『ぺしやんこだ。』と改訳している。逐語的には、こちらの方が正しいし、改訳では、ブッ叩いたアブラムシを想像して、私には不快感がある。「ひっついてゐる」ようで、「鍵の穴のやうに」平べったい(まさに「ぺしやんこ」)種で、フランス中部に棲息するもの、そして、如何にもな脚や突起物が目立たないことを考える(「鍵の穴」の見かけ)と、我々にもお馴染みな、ゴキブリ目オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica が相応しいように思われる。当該ウィキによれば、『ゴキブリ成虫の雌雄は尾部に突起物(尾刺突起)があるかないかで区別されるところ、本種にはこのような突起はない』とあるからである。なお、同種『はクロゴキブリなどが属する狭義のゴキブリ科』Blattellidae『の仲間ではなく、ゴキブリ科と近縁にあたるシロアリとも縁遠い種類である』とあった。しかし、色は茶褐色であるから(子どもの時は黒い)、同定としては、その点でアウトだ。黒いとなると、本邦のクロゴキブリに、やや見かけが似ているゴキブリ科  Blatta 属トウヨウゴキブリ Blatta orientalis が有力候補となるか当該ウィキによれば、『クリミア半島および黒海、カスピ海地域が原産であるが』、『現在では世界中に分布している』とあり、フランス語のウィキのゴキブリ目=「Blattaria」「有害種」の項に上がっているから、フランスにもいることは確実である。]

2024/09/17

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 天牛蟲(かみきりむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      天 牛 蟲(かみきりむし)

 

 此の蟲の觸角は馬鹿に長い。此の本の中に挾んで置かうと思ふと、それを胴の方に曲げなければならない。

 

[やぶちやん注:「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、揭げたタイトルの中には「カミキリ虫」というのが含まれている。しかし、当該第五巻の「博物誌」にも、その注にも、また第五巻のその他にも、「天牛蟲(かみきりむし)」に相当するものは所収していない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ルナールがカットしたものらしい。原文を示しておく。

   *

 

     LE CAPRICORNE

 

   Cet insecte a les antennes si longues, que pour le mettre dans ce livre, il faut les lui rabattre sur le côté !

 

   *

この“capricorne”(音写「キャプリコォロン」)という単語はフランス語では、一般的な第一義はカミキリムシ類(ギリシャ語で「長い触角を持つ虫」が語源)を指し、第二義でアジア産のカモシカ、更に第三義では、星座十二宮の「山羊(やぎ)座」を指す。但し、この単語では、特定種を指すことはできないので、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae どまりである。]

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