西尾正 青い鴉 オリジナル注附
[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『新靑年』昭和一〇(一九三五)年十月号(十六巻十二号)に発表。以下の底本の横井司氏の「解題」によれば、単行本に収録されたのは底本が始めてである由の記載がある。底本は、所持する二〇〇七年二月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅰ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは戦後第一弾となる』とある。なお、底本や解題では、標題を「めつかち」としているが、原作の歴史的仮名遣なら、「めつかち」でよいが、本文でも促音で「めっかち」となっているので、「めっかち」と正した。なお、主人公は既に結核に罹患し、喀血も始まっている。西尾自身の宿痾となった結核の罹患は、戦前とあるのみであるが、横井司氏の「解題」を読むに、遅くとも、本篇発表の前年の昭和十年には罹患していたと読める。既にして、登場人物の一人は西尾の影を背負っているのである。
なお、冒頭に出る「パテエ・ベビイの映写機」については、同書の横井司氏の「解題」に、
《引用開始》
なお、本作品にも自伝的描写が散見される。冒頭で菓子屋が「パテエ・ベビイの映写機」で撮影する場面がある。パテーベビー Pathe-Babyはフランスのパテー社がアマチュア向けに開発した家庭用撮影・映写機で、大正末から昭和初期にかけて流行、西尾もまたパテーベビーで夫人をモデルに撮影していたそうだ(前掲「凩を抱く怪奇派・西尾正」[やぶちゃん注:これは、同解題で前掲された鮎川哲也「幻の作家を求めて・6/凩を抱く怪奇派。西尾正」(『幻影城』一九七五年十月所収)を指す。])。語り手のNと菓子屋とは「土地のテイームの野球友達」とあるが、西尾もまた海岸でやる「裸野球という軟式野球」に駆り出されていたという(同)。
《引用終了》
とあった。ウィキの「パテベビー」によれば、『Pathé-Baby』はフランス語で、『「小型のパテ」の意』であり、一九二二年(大正十一年)に『に発売された』九・五ミリ『フィルムによる、個人映画・家庭内上映向けのフィルム、撮影機、映写機のシステムである。フランスのパテ社が開発した』ものであり、八ミリ『フィルムが登場するまで、小型映画の主流をなした』。『フランスでは』この年、『パテベビーが発表され、のちにさらに小型のパテキッド、手回し式を脱して電動でリールが回転するパテリュックス映写機を発売した』。『日本では』大正一二(一九二三)年に、『東京・日本橋の髙島屋東京支店が、その玩具売場で初めて発売するも、同年』九『月』一『日の関東大震災で高島屋が消失、翌』『年』、『東京・銀座の伴野文三郎商店(伴野は堀越商店の元パリ支店長。現在の伴野貿易)が』五『台のパテベビー映写機を輸入、改めて日本への導入が開始された』。『その後、日本における小型映画は盛んになり』、昭和二(一九二七)年、『初めての全国組織、日本アマチュア・シネマ・リーグが設立され』、昭和四年『には、時事新報社主催、同リーグ協力により、パテベビーや』十六ミリ『フィルム用撮影機によって撮影されたフィルムを集めた、初めての全国規模の個人映画コンテストが行われた』。『家庭でのパテベビー撮影機・映写機の普及とともに、マキノ・プロダクション、松竹キネマ等の映画会社が劇場用映画を家庭向けの短縮版を製作、販売するようになる。このパテベビー短縮版は、太平洋戦争などにより』、『ほとんどが失われた戦前映画の貴重な復元素材として現在では活用されている』。『伴野商店は、パテベビーのフィルムを映写できる国産の機材「アルマ映写機」を開発』し、『昭和』十年『には、名古屋のエルモ社が』十六ミリ『フィルムや』八ミリ『フィルムと互換性のある映写機を開発した』が、昭和十六年『に太平洋戦争が始まり、フィルムの入手が困難になり』、昭和二十年『の終戦後には』、八ミリ『フィルムのシステムに小型映画の主流をとって代わられることになる』とあった。
また、既に「海蛇」で注した通り、敗戦から三年余りの昭和二四(一九四九)年三月十日(別資料では一日とする)、四十一歳の若さで、鎌倉にて肺結核のために逝去した。奥谷孝哉「鎌倉もうひとつの貌」(蒼海出版一九八〇年刊)によれば、彼は戦前の昭和八(一九三二)年頃から、鎌倉に住んでおり、海岸橋の近くに家があったとし、『乱橋材木座九七七という旧標記』があるとあるので、恐らく、滑川の左岸の乱橋(泉鏡花のドッペルゲンガーの近代小説の嚆矢たる「星あかり」(正規表現・私のオリジナル注附・PDF縦書版)所縁の「妙長寺」附近のここ。グーグル・マップ・データ)から、若宮大路の海岸橋の間に住居していたものと推定され、本作作中のロケーションも見慣れた実景を用いているのである。割注でロケーション特定をしておいた。
傍点「﹅」は太字とした。今回はルビは表記のママに起こした。また、今回は、ブレる可能性のある語でも、読みは、割注で挿入した。]
青い鴉
序、菓子屋と鴉と溺死体と
夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って、堤防の崖下に真っ赤な縮緬模様の波があった。西の空に縁の黒い入道雲が頑張っているので、時折陽が隠れた。――夕刻になると、何処からともなく雨雲が湧き、定(き)まって俄雨の襲来があるのが、その頃の日和癖であった。
夏の過ぎ去った海岸一帯には、菓子屋と小僧と私より他、人影らしい者は見えなかった。海に背中を向けて小型映画撮影機のファインダアを覗いている色の真黒な団栗(どんぐり)頭の小僧の前を、白槻衣(ホワイト・シヤツ)にニッカアを穿いた菓子屋が、位置を定めるために、往ったり来たりしていた。閑人(ひまじん)の私は彼らから五間ほど離れ、膝を抱えて見物していた。
「いいな、分かったな。しくじると承知しねえぞ」菓子屋は立ち上がると、太い低音(バス)で言った。「――よし、スウイッチ!」
微かなシャッタアの音がカタカタと響いた。
菓子屋は一定の姿勢(ポオズ)を取ると、レンズの前でできるだけ様々な表情をして見せた。
菓子屋は二年前まで、神田の菓子舗「風流」の職人であった。腕に自信がつくと鎌倉駅裏に一本立ちの店を開いた。二十五歳の独身だが、二年の間に土地の商人の間で相当幅を利かすようになった。独立するに際し、主家の若旦那から記念に頂戴したパテエ・ベビイの映写機があるので、いつか自分の動く姿を撮って置きたいと、出入りの得意から撮影機を借りて、仕事が終わると自転車を素ッ飛ばして来たのであった。私と彼とは土地のティームの野球友達であった。
――撮(うつ)し終わった時には、それまで山の上に在った陽が蔭になり、海がのたりのたりと油を流したような黝(くろ)ずんだ色になっていた。
「どうもハッキリしませんね、毎日(まいにち)――」
機械の始末をしている小僧を尻目に、菓子屋はこうお愛想を言いながら近寄って来た。額が狭く、唇が厚過ぎるのが何となく無智を思わせて欠点だが、鼻筋も通り、眉も濃く、背(せい)もスラリとして、中々の美男であった。左の二ノ腕が纏帯で膨らんでいるので、どうしたのかと訊くと、数日前横須賀安浦の婬売窟へ冷やかしに行って土地の与太者と斬り合いをやり、三寸ばかり剌されたとのことであった。
[やぶちゃん注:「横須賀安浦」現在の横須賀市安浦町(やすうらちょう:グーグル・マップ・データ)。海軍の本拠地であった横須賀の赤線地区の一つとして、戦後まで知られた。]
「旦那、鴉ですよオ?」
尻上がりの頓狂な声が起こった。見上ぐれば、何時(いつ)の間にやら真っ黒な雲が頭上低く垂れ、鴉が五六羽、その暗い空を過(よ)って渚に下り立ち、海藻の間に巣喰う虫類を啄(ついば)み始めた。菓子屋の頰に小気昧よげな微笑が認かんだ。
「わたしア鴉が大嫌いなんです。何でもわたしの祖父(じい)さんが目黒三田村で百姓をしていた時分、作物を荒らす鴉を殺したら、そのご祟りがあって、他の鴉どもに目玉を刳(えぐ)られ盲目(めくら)にされたそうですが、その故か、鴉を見ると、どうも殺したくなるんです。いつかは殺して見せると、実ア、小僧と約束したんでね」
菓子屋は足許の石を拾って、一歩一歩、獲物を狙う猫のような狡猾な足取りで近寄って行った。そして、それ以上一歩でも進めば飛びこ上(た)ってしまいそうな際どい位置から、体を前のめりにさせて、力委せに投げつけた。石は正しく命中したが、鴉はしかし、泣き声を立てなかった。置いてけ堀にされた一疋が俛首(うなだ)れたまま二三度試みのようにのろのろ羽根を拡げた。が、石は急所を逸(そ)れたらしく、首を亀のようにながく延ばすと、海の方へふらふら飛び立った。力尽きると、カアカア悲痛な声を挙げ、二度ほど黒々とした海面に墜落したが、必死に羽根を搏って仲間の飛んで行った陸の方、後ろの山へ飛び去って行った。……
「さ、帰ろう」
菓子屋が歩き出し小僧が自転車に乗った時であった。ふと目を転ずれば、――遠く堤防寄りの渚に黒山の人集(ひとだか)りが見え、私達の前をも、多勢の男女が、藻を踏み越えながら、小刻みにその方向に走っていた。
この時砂丘を下って、私達の前へ、髪の長い面長の、一見して結核患者を思わせる、肩の骨張った男が現れた。菓子屋と同い年の画家今井であった。彼は私に目顔で挨拶し、近寄り掛けたが、傍らに菓子屋のいるのに気付くと、迫った眉に露骨な嫌忌と軽蔑の表情を現し、そのまま立ち去ろうとした。
「今井君、何ですか、あれは?」
と、私が呼んだ。
「女の身投げが上がったんだそうです」
今井はブッキラ棒にこう答えると、それきり、他の人達に混じって小刻みに遠去かって行った。
「女か、エロだな。みにゆきませんか?」
菓子屋がニヤニヤ笑いながら言った。私は、しかし、大した好奇心もなく、それに今にも俄雨の襲来がありそうなので、帰ると言うと、彼も、詰まらないね、溺死体なんか、わたしも帰ります、と言って二三歩砂丘を登り始めた。
「さよなら」
「さよなら」
こう言い交わして左右に分かれた途端雨がサアッと降り出した。
「いけねッ! 来やがった!」
菓子屋はこう叫んで両手で頭を抱え、
〽旅ホレたホレたよ、女学校のまえで
と唄い出し、肩を揺すり、足拍子を取って駈け上がって行った。
〽――馬がションペンして、オハラハア、地が掘れた……
私も駈け出し、しばらく行って振り返って見ると、雨の重吹(しぶき)と夜の幽暗を通し、菓子屋の砂丘を登る猿のような姿と、遥か遠方の溺死体を取り囲む黒い人垣が浮かび、海岸に添った家々や街灯の灯が点いて、そこには言いようもない秋の寂しさがあった。とりわけ、人集りの中の提灯の火は、暗く、かそけく、何かしら死人に因む不吉なものを象徴していた。
――九月十七日のことであった。
[やぶちゃん注:以上に「砂丘」と出ることで、ここのロケーションが明確に限定される。冒頭で「夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って、堤防の崖下に真っ赤な縮緬模様の波があった」と言っており、「砂丘」が後半に出現するから、これは、現在の由比ヶ浜の中央に流れ出る滑川より東方部分の、俗に「坂ノ下海岸」と称される箇所に限られる。現在のグーグル・マップ航空写真の、この海浜地区である。稲村ヶ崎の東側(「江の島」側)にも、戦前は、ごく小さな砂丘が極楽寺川の右岸にあることはあったが、ここからは「夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って」見えるという景観は物理的にあり得ない。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」(明治三十五年八月二十五日発行)の、二枚目の地図を見られれば、一目瞭然である。「今昔マップ」の「1917~1924」年や、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、稲村ヶ崎の東側には砂丘の痕跡は全くない。また、稲村ヶ崎の東側は、坂ノ下海岸東端から先は、「靈山ヶ崎」と称し、古くから、断崖と岩礁帯(同前「ひなたGPS」)なっており、難所として、かなり以前から「堤防」(グーグル・マップ・データ航空写真)が作られてあったからである。また、由比ヶ浜には、中央部に向かって干渉波が寄せるため、昔の砂丘は、中央ほど、内陸部まで発達し、明治時代まで、若宮大路の一の鳥居手前附近まで、砂丘はあった。されば、「菓子屋」を「鎌倉駅裏」に持っている男のそれは、現在の駅の西口を出て、西南西に「由比ガ浜大通り」に下る「御成通り」にあったことになる(現行、西側には鎌倉市役所があることから、こちら側が正式な「駅表」であり、「こまち通り」の繁華な東口が、実は「裏駅」に当たるが、私の幼少期、「御成通り」は駅周辺以外は店もそう多くなく、夜は人通りも多くなく、淋しい感じで、私も、私を可愛がって呉れた亡き伯母も、駅西を「裏駅」と呼んでいた。これは戦前の鎌倉も同じであったと考えて問題ない。寧ろ、「由比ガ浜大通り」の方が圧倒的に老舗が多かった)。主人公の住居も、西尾正が住んでいた滑川左岸でもよいが、芥川龍之介が海軍機関学校教官時代の一時期に下宿した、現行の江ノ電「由比ヶ浜」駅から東南東に延びて、「和田塚入口」交差点の間周辺にあったとするのが、最も自然であるように思われる。「〽」は「鹿児島おはら節」の替え歌。正規歌詞は当該ウィキを見られたい。]
一、お葉の顔――GHOST MOVIE ?
締まりのない雨がびしょびしょ降り続く陰気な晩であった。「この手紙を受け取り次第すぐ来てくれ、是非聞いてもらいたい洵(まこと)に不思議な、わたし一人では解決に苦しむ事件が起こってしまった」云々(うんぬん)と、走り書きに記された菓子屋の手紙を、私は受け取った。
先日砂丘で会って以来、どうしたことか御用聞きも来ず、目と目と会わせると借金取りにでも出会った時のように妙に他所他所(よそよそ)しく側方(そっぽ)を向き、目も何となく落ち窪んで顔色も蒼褪めている模様なので、菓子屋の身辺に何か起こったに相違ないと睨んでいた。そこへ不意の奇妙な手紙なので、私はいささか好奇心を覚え、雨を衝いて菓子屋の店を訪れたのである。
部屋の隅に蹲(うずくま)って私の来るのを待っていた菓子屋の面上には、病的な憂悶の色が漂っていた。彼は私を見ると、オドオドと落ち着きのない素振りで室内に請じ入れたが、何とそこには、――古ぼけて地塗りの剝げたパテエ・ペビイの映写機が据えられ、雑誌や古新聞の積まれた薄汚い床ノ間には、映写幕(スクリイン)代わりに、幅三尺の掛軸が裏返しにされて下がっているではないか? 菓子屋は、暢気(のんき)らしく映写の支度などをして、一体何を見せようと言うのであろうか? 雨戸は閉め切られ、電灯が畳間近に引き下ろされているので、室内は不気味な薄暗に閉ざされ、私達の影がゆらりゆらりと壁を這って動き、小歇(こや)みもなく降りしきる雨の音がびしょびしょ絶え間なく響いている。……
菓子屋は小僧を次の間に追い払うと、私を上目使いに覗き込みながら、呟くような小声で、
「Nさん……」と言い掛けたが、何となく力が弱く二度ほどエヘンエヘンと痰を切った。「実は、こないだ撮った写真の中に、映るはずのない女の顔が写っているんです。わたしア怪談なんて決して信じやしません。けど、あんまり不思議なんで、Nさんに来て戴いたんです。今、現物をお目にかけますが、一体、こんなことが今時の世間にあるもんでしょうか?……いや、―その前に、わたしの過去の一伍一什(いちぶしじゅう)を聞いてもらわなければなりません。……」
菓子屋はこう前置きすると、綿々たる長広舌を以て、次のような草双紙風の「情話」を語った。
――その「映るはずのない女」をお葉と言った。彼女は菓子屋が神田で年期奉公の頃惚れ合っていた近所の洋食屋の一人娘であった。お葉は周囲の婬らな環境から反動的に浮かび上がった可憐な処女で、恋愛を至高のものと考える感傷の子であった。しかし菓子屋は、多くの男がそうであるように、年期明けが待ち切れず、執拗にお葉の肉体を求め、彼女を深い悲哀のどん底に突き落とした。折も折、二人の間に、三年越しお葉に惚れ抜いていたと言う大学生が現れた。ここで、菓子屋は振られてしまったのである。――意地ッ張りな菓子屋は、女の本心を見極めもせず二度と神田の土を踏まぬ心算(つもり)で鎌倉へ逃げて来た。二年の歳月が夢のように流れ、お葉のこともいつとはなしに忘れ掛けていた。本年初頭、――お葉と学生の情事が如何なる経過を辿ったのか、当のお葉の思いも掛けぬ手紙が続け態(ざま)に菓子屋の店に投ぜられた。
「貴男が妾(わたし)の前から急にいなくなってから毎日毎日重い神経衰弱で夜も睡られず貴男のことばかり想っては泣き暮らしている。妾の好きなのはやッぱり貴男だ。乱暴で我が儘で怒りッぽいけど、――。捨てるなら捨てられてもいい、でもどうか一度会ってハッキリ貴男の口から聞きたいんだ」と、愛の復活を図る女の愁訴が縷々(るる)と認(したた)められてあった。菓子屋は、都合の好い時には側方を向き痛い目に会ったら泣きついて来る女の露骨な態度に腹を立てた。それまでは、別れた女として秘かに甘い記憶を暖めていたのに、と思うと、何本手紙を受け取っても返事一つ書く気も起こらず、最近では読まずに竃(かまど)に指り込んでいる。そして、お葉は時折遠見に菓子屋の様子を探りに来るらしく、駅前と八幡境内をウロついている姿を数回自転車の上から見掛けた。……[やぶちゃん注:私の「駅裏」が正しいことが、この最後の箇所で判る。]
「こういう訳で、わたしアお葉にはできるだけ冷淡にしてきたんですが、それだけで生霊が乗り移るなんてことがあるもんでしょうか?」と菓子屋は最後に言った。「――まあ見て下さい、お葉の横顔がじっとわたしを睨んでいるんです」
菓子屋は素早く開閉器(スウイツチ)を映写機の口に切り代えた。やがてカタカタと鳴る手回しに連れて、床ノ間の掛軸が長方形の光線によって刳(く)り抜かれたのである。[やぶちゃん注:つい十年数程前まで、ルビの促音・拗音、小さな「ゥ」は小さくしないのが活版業界の常識慣例であった(この事実を知らなかった人は非常に多い、というか、知っていた人は驚くほど、少なかった。彼らは、勝手に脳の中で小文字にして読んでいたのだ。私は、青年期から気づいていた。みんな、知らないのにゾッとしたものだ)。歴史的仮名遣でも古くはルビでなくても「スウイツチ」であった。]
二、痴情
映写の模様については精(くわ)しくは語るまい。ただ、事実、菓子屋の上半身(バスト)に二重となって誰か若い女の横顔が映っていることと、その夜の菓子屋が如何に心底からその「不可思議現象」に怖(おそ)れ戦いていたかを知ってもらえばいいのである。
いずれにせよ、ここで問題となるのは菓子屋のお葉に対する今後の態度である。そこで私は、――もし君に女を容れてやれるだけの気持ちが残っているなら一度会ってやってその上でキッパリけじめをつけたらどうか、と言ってみた。するとまたしても、今度は進行形の、しかも私自身の知人、序章にちょっと紹介して置いた肺病画家今井の関係しているいささか、Erotique(エロテイーク)な事件が、続いて菓子屋の口から洩れた。――これにはいったん立ち掛けた私も再び腰を下ろしてしまったのである。
「――現在のわたしにとって、お葉なんか問題じゃないんです」菓子屋はギロリとした眼に堪えやらぬ憤懣の情を漲らせて語り出した。「実は今、ある男を相手に一人の女をとるか盗られるか、命がけの角力(すもう)をとっているんです。男はあの肺病の今井です。そして女は、――こうなったら皆きいてもらいますが、わたしのお得意の家にいる春栄(はるえ)という出戻り女なんです」
――その家は、門から玄関までの踏み石の両側に、赤、青、白、黄、---色とりどりの大輪の花が咲き揃うて、華やかな、何かしらSweet(スイート)なものの潜んでいそうな家であった。その家にその年の四月頃からそれまで一度も見たことのない女が見え出したのである。新しい女は、それらの花が放つ雰囲気にも似た艶めかしさを発散していた。菓子屋は爾来その門を潜るのが愉しみになった。新たに菓子屋の心を捉えた女は過去のどの女とも違って、澄み切った聡明に見える瞳と、白い、静脈の浮いた手とが、彼の胸を揺すった。
春から梅雨の期節になると、仲間の商人達の口から、彼女が旦耶に死別した出戻り女であることが耳に入った。その家の主婦の実妹で、死別したと言うのは嘘で何か不義をして離縁になったのではないかと噂している者があった。どちらが真(まこと)であるか判らなかったが、そういう疑いを起こさせるだけの陰性の色っぽさが眼や腰付きに潜んでいると菓子屋は思った。望みの法外であることを知りながらも菓子屋は日とともに春栄の肉体を慕う情欲に堪え切れず、大胆な手紙をそっと手渡して、一かバチかの骰子(さい)を投げた。ところが、先方から時日を指定し、北鎌倉の駅前へ来い、その時はあまり可笑しくないなりで、という返事が菓子屋を喜ばせた。夏も終わりの、そろそろ蛼(こおろぎ)の鳴き出そうという夜のことであった。初秋の寂寞とした田舎駅の前に菓子屋が彳(たたず)んでいると、一電車遅れて、黒い着物に赤い帯を締めた春栄の姿がちらりと歩廊(プラツトフオーム)に見えた。「――別々に歩くのよ」菓子屋はこういわれて円覚寺の方向へ女に痕(つ)いて歩いて行ったが、その間、薄月に浮かぶ女の白い頰や豊かな腰を貪るように観察し続けていた。狭い道路に空き車が乗り掛かると、春栄は立ち止まって面を伏せたまま、人違いと思われるほど冷静な調子で、「豊風園……」と運転手に命じた。豊風園と言うのは、蓊鬱(おううつ)とした松林の中の峠のような山道の中腹に在る豪奢を極めた料理屋兼旅館であった。――二人がそこを出たのは、その夜の十二時頃であった。春栄は菓子屋の指に自分の指を搦ませてから、来た時と同じように別々に帰って行った。
[やぶちゃん注:「豊風園」これは、亀谷坂(かめがやつさか)の下方にあった、戦前戦後にかけて、鎌倉文士らの交流の場になっていた、隧道坑門のような形状をした正門を持つ、旧温泉旅館「香風園」(グーグル・マップ・データ)である。現在はマンションになっている。四十年程前、私の亡き親友が、知人を泊まらせようと、部屋を見にせて貰ったが、既に連れ込み宿みたようなものになり下がっていた、と言っていた。]
菓子屋はこの夜初めて女の肉を如何に魅力の強いものであるかを悟った。が、どうしたことか、女の方は、逆にその夜を境として急に冷淡になって行った。気紛れ(ホイム)な出戻り女の一時の戯れと菓子屋は思ったが、そう気の付いた時には前よりも一層女の痴情に狂っている自分を見出し、焦燥の裡に女の乖離の原因を探った。そしてその原因をハッキリ摑むことができたのである。すなわち、春栄は、夏以来彼女の甥に図画を教えるために繁々(しげしげ)と出入りしている今井に新しい関心を持ち始めていたのだ。[やぶちゃん注:「気紛れ(ホイム)な」英語“whim”(音写「ホイム・ホゥイム」)。「思い付き・気まぐれ」の意の名詞。思い付きが突然であることを強調する語である。]
「わたしがどれほど春栄を慕い、今井を憎く思っているか、Nさんに分かったらなあ!」
菓子屋は悲哀と憤怒から唇を嚙んだ。
「いっそ今井を殺して、春栄を拐(かどわ)かそうと思ったことも、何度あったか知れやしません。――僕アもう絶望です。実は、Nさんに来て頂いたのも、新潟の親類を頼って、きょう限り鎌倉を売ろうと決心したんです。その旅費に、Nさん、三十円ばかり、ひとつ――」
私はたちどころに不愉快になった。無軌道な菓子屋の話を真面目に聴いた「Nさん」自身こそ戯画化もんだという感じを抱き、返事をせずに家へ帰った。
三、画家今井と彼の死
しかしながら、菓子屋の語った事実は、満更根もないつくりごとではなかった。それらは相互に微妙な関聯を見せ、終局に読者は、四つの死を発見するであろう。――現実という奴は毎時(いつも)予想よりも不快なものなので、その度に私は悒鬱(ゆううつ)になるのだ。が、私はその最後の破局に筆を転ずる前に、春栄を繞(めぐ)る菓子屋と今井の三角関係が生んだ、海岸の球場における浅間しい争闘について記さねばならない。
今井は知人の子供達を集めて野球をすることが好きであった。風もないのに海鳴りの強い日、私は今井の訪問を受け、請われるままに、子供試合の審判官(アンパイアー)として立ち会った。ちょうど中途から仲間に入った菓子屋が投手で今井が打者の時、菓子屋の投球が低過ぎたので「ボオル」と宣告すると、
「ボオル? 今のがボオルというテはないでしょう!」と、つかつかと本塁に歩み寄り、変に陰に罩(こ)もった声音で、私よりはむしろ今井に搦み始めた。
「いや、ボオルだよ。とても低過ぎたよ。無茶をいうな、無茶を!」
今井も肺患者特有の気の強さで、対抗的に鋭く応酬した。
「――無茶? 何が無茶だい!」
こう叫んで躙(んじ)り寄った菓子屋の右手が将(まさ)に今井の頰に飛んで行きそうになった。と、この気配を素早く感じた今井は、ひょいと頰を避(よ)けると同時に、逆に、右手で菓子屋の横面を殴った。肉と肉の打(ぶ)つかる嫌な音がした。一撃を先手で喰った菓子屋は、何事か不明瞭な叫びを上げて今井に組みついて行った。元々体も弱く力もない今井が胸を相手の頭で突かれて後ろへ反(の)めると、菓子屋が、こん畜生! と叫びざま脇腹を蹴上げたから堪らない、見る見る今井の相貌が激怒と苦痛のために真っ青に変じた。彼は、傍らのバットを素早く摑み上げ、蹲(うずくま)ったまま死に物狂いに投げつけた。バットは、慌てて身を躱(かわ)した菓子屋の左肩を掠め、四五回クルンクルンと唸りを生じて飛んで行った。振り向いた菓子屋の顔に惨忍な光が射した。彼は、一度相手を凝視すると、のろのろとバットを拾い上げ、それをだらんと右手に下げると、再びのろのろ今井に近寄って行った。私はこれから飛んでもない事件が起こることを予感し、最早冷静に見物していることができなくなった。そこで今井に、「帰りたまえ、早く帰りたまえ!」と叫んだ。――今井も、相手の剣幕に圧倒されたのであろう、両手を胸の辺りに握り、哀願するような素振りをすると、菓子屋を瞶(みつ)めたままガクガクと震え出した。
「帰れ、危ないから早く帰れ!」
私はもう一度叫ぶが早いか、ちょうど私の前を過ぎる菓子屋の下顎を力委せに突き上げた。倒れた所へ馬乗りとなり、三度今井に振り向いて、
「帰れ、帰らないか馬鹿!」と叫んだ。
すると今井の脣から、世にも浅間しい叫びが洩れた。
「キ、貴様は、俺に春栄をとられたので、それで口惜しがっているんだろう! そんならそうと、もっと堂々と戦え! いつでも来い、相手になってやる!」
仰向きの菓子屋が、畜(ちく)――生(しょう)! と唸(うめ)きながら、起き上がろうと手足をバタバタさせた。
「放せ、放してくれ、奴を殺すんだ!」
私は菓子屋に間違いを起こさせてはならぬと、必死になって押さえつけた。今井はこの有り様を尻目になおも二言三言[やぶちゃん注:「ふたことみこと」。]強がりを吐いたが、傍らの春栄の甥の手を引いて一散に砂丘を駈け上がり、見えなくなってしまった。菓子屋は、追うことを諦めたのであろう、眼を閉じ体をぐったりさせてしまった。と同時に、目には見る見る泪が湧き出し、ウーウーと情けない声を立てて哭(な)き出した。……
[やぶちゃん注:「傍らの春栄の甥」ここで初めて、これを出したのは、西尾の確信犯だろうが、どうだろう? 私は、初めに出しておいた方が、カタストロフの予兆を不安させる効果は、より出ると思うが。]
それから数日の後、散歩の途上、光明寺裏の今井の独居を訪れた折、私は今井のあまりにも憔悴した姿を見て驚いた。薄暗い部屋一面には、ひとりでに気の滅入り込む孤寂の気配が測々として漲り、窓下に寝床が敷いてあって、その前に胡座を搔いて滅切り落ち窪んだ眼を、――そしてそのためにますます陰険になった眼を力なげに瞬きながら、来春の展覧会に尠(すくな)くとも三点は出品する意気込みだと言って、「夏日游泳」と題する油絵で言えば十五号ぐらいの十度刷りにあまる木版画を、見るも痛々しい瘦せ腕でゴリゴリ板を削っていた。菓子屋に会うかと訊くから、その後会わないと答えると、彼は仕事の手を休め、青白んだ額を伝う生汗[やぶちゃん注:「なまあせ」。]を拭き拭き、次のようなことを述べた。
「……この頃、僕、あまり外出しませんが、体に悪いからだけじゃないんです。実は、菓子屋の素振りがどうも訝(いぶか)しいんですよ。先だってなど、こないだの喧嘩のお詫びだといって、出来立てのアップル・パイを持って来て、喰ってくれというじゃありませんか。それから後も、注文違いや半端もんをチョクチョク持って来るんです。そうかと思うと、道で会っても顔をそむけて通りすぎるし、風呂屋で偶然一緒になると、気味の悪くなるほど僕の体をジロジロ眼めるんです。やなもんですね、体を見られるのは――。気になるのはそればかりでなく、夜淋しい所を歩いていると、奇態に出ッ喰わすんです。いつかの怨みを根に持っているんじゃないかと思うと、警察ヘ一応話しておこうかとも考えているんですがねえ。何(な)アに、奴(やつこ)さんは誤解しているんですよ。こないだは、僕も機勢(はずみ)で心にもないことをいってしまいましたが、奴さん、ある女に片思いして相手にされないもんで、僕とその女とが関係があるようにいいふらして困るんです。――僕、今の所、女なんて興味ありませんよ。ふふふふ……」
こう猾(ずる)そうに苦笑いをしたまではよかったが、一気に喋って息が切れたらしくクフンクフンと咳き込むと、胸を両手で押さえて立ち上がり、北窗(きたまど)を開くと、私の方をチラッと盗み見ながらドロリと痰を吐いた。それが紅生姜のように真っ赤であった。
この今井が、それから間もなく、突如大喀血に襲われ、ぽっかり死んでしまったのである。
しかし、事件はこれで終結したのではない。
四、夜半の散歩
……月の明るい静かな晩であった。今井が死んでから四日の後のことであった。私は晩食後書斎に籠もり、庭に射し込む青い透明な光に、時折疲れた眼を休ませながら、上田秋成の「雨月物語」を読んでいた。もう寝ようかと気付いた時は既に夜半の一時に近く、ちょうど「浅茅(あさじ)が宿」の「――窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに、途の長手に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり」という所へ栞[やぶちゃん注:「しおり」。]を挟んで立ち掛けた時、何者かが家の前を駈け上がる慌ただしい跫音(あしおと)を聞いた。波の音も死んで四囲(あたり)が閴然(げきぜん)たる[やぶちゃん注:ひっそりとして淋しいさま。静かで淋しいさま。]静寂であるために、その男の、――男であることはすぐ判った、――苦し気に喘ぐ逼迫した息までがはっきり聞き取れるのだ。私は、跫音が何方(どちら)へ消えるかじっと耳を済ませていると、意外それは私の家の門前で留まり、と同時に、ドンドン……今晩は今晩は……ドンドンと、憚るように木戸が鳴った。私は、何者が今時分訪ねて来たのであろう、ことによったら心中の片割れが跳び込んで来るのではあるまいか、と臆測を巡らせながら戸外(そと)へ出て見た。するとそこには、眩いばかりの月光を顔の半面に浴びて、小綺麗な洋服を纏うたモダン・ボオイが、口を開けてぶるぶる震えながら立っていた。そして、よくよく見ると、その男こそ野球場の喧嘩以来一度も顔を見せなかった菓子屋だったのである。私は、何はともあれ彼を座敷にあげて、一杯の葡萄酒をのませてやった。
[やぶちゃん注:『「浅茅(あさじ)が宿」の「――窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに、途の長手に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり」』これは私の偏愛する「雨月物語」の、「卷之二」の「淺茅が宿」の、農家を再興せんとして、商人となって永く無沙汰していた主人公勝四郎が、故郷『葛飾郡(かつしかのこほり)眞間(まま)の鄕(さと)』の茅舍に戻り、待ち続けていた最愛の妻宮木(みやぎ)に逢い、その夜、二人で共寝に就くシークエンスの終行である。翌早朝、目覚めれば、家は朽ち果てており、妻の姿はない、というカタストロフが続く、哀しくも印象的なシークエンスが続くジョイント部である。原文は新字体だが、全原文が電子化されている「紺雀 – Konjaku」氏の優れたサイト「日本古典文学摘集」のこちらを見られたい。現代語訳もある]
「夜中の海岸て、気味の悪いもんですねえ!」と、菓子屋は突然至極平凡なことを口走った。
「――Nさんはチョクチョク夜中の散歩をするそうですね。わたしも今夜眠られないんで、真似をして海岸を歩いてみたんです。けど、飯島岬の手前まで行ったら無性に怕(こわ)くなって、一散に逃げ帰って来た始末なんです。窓に灯もついているんで、一人じゃ怕いから、Nさんと一緒に歩いてみたいと思ってお訪ねしたんですよ」
[やぶちゃん注:「飯島岬」(いいじまみさき)由比が浜の東側の材木座海岸の東南の、御崎(みさき)で、鎌倉時代からある地名である(但し、現行では「飯島」で、「飯島岬」と呼ぶ人は少ない)。ここ(現在は、酷い開発によって、全体の形状が全く変化してしまっているので、「ひなたGPS」の戦前の地図の方を見られたい)。直近の東の海上には(干潮時は岩礁を伝って先端まで行ける)、現存する鎌倉時代最古の築港である「和賀江島」(わかえじま)がある。]
一体、――この無造作を装う菓子屋を信じてもいいのであろうか? 私は、彼に対する疑惑の一層深まるのを覚えながらも何とかして本音を引き出してやろうと、警戒を忘れずに黙って立ち上がった。
[やぶちゃん注:前注の戦前の地図を見れば判るが、嘗つては、飯島御崎の辺縁の岩礁と狭い砂浜の海岸を廻り込んで、現在の逗子市小坪へ行けた。]
……菓子屋が小坪の方へ行ってみたいと言うので私達は渚を左に歩き始めた。その夜満月は鎌倉一帯を真昼のごとく明るく照らし出していた。人は誰もいなかった。海岸に添うて、所々に土岩[やぶちゃん注:「つちいわ」と読もうと思ったが、後で「土岩性」という熟語が出るので、「どがん」と読んでおく。]の肌を露した森の姿は、遠く月光を透して樹々の色彩か黝(くろ)ずみ、物淋しい骸骨のように絡み合っていた。ザザン、サア……という海の歔欷(すすりなき)と、何やら得体の知れぬ音のような大気の感覚が、深々と私の胸に響いて来る。――私は脚に力を入れて、サクサクと砂を踏んで行った。
左に渚が尽きると、そこが飯島岬である。この岬を登って右に海を瞰下(みお)ろし、左に山を仰ぎながら崖淵[やぶちゃん注:「がけぶち」。]の道を進めば、小坪海岸に出るのだが、何故か菓子屋はこの近道を避け、砂丘を上って隧道(トンネル)を潜り本道を通ろうと言い出した。私達が緩い勾配(スロウプ)を登り始めた頃、菓子屋の素振りが次第に変化して行った。眉間には深い皺が刻まれ、運ぶ歩調も鈍った。隧道を抜けると、眼前に長い山が展(ひら)け、細い下り勾配が、青々と光を湛えて一直線に続いていた。両側には亜鉛(トタン)屋根の藁葺きの粗末な家々が並び、いわゆる「風雅な別荘(コツテエジ・オルネエ)」は全く影を潜め、軒からは薄汚い腰巻きや髪の毛のような若布(わかめ)がぶら下がって、強烈な肥料の臭気がそれまでの海の香に代わってプウンと鼻を衝いた。小坪は、花やかな避暑地の雰囲気の一毫一厘も見出されぬ。暗い、陰鬱な漁村の風貌を具えているのだ。ぶらりぶらりとその道を下り始めると、菓子屋は最早堪えられぬもののごとく語り始めた。――
[やぶちゃん注:「砂丘を上って隧道(トンネル)を潜り本道を通ろう」これは、飯島の御崎の頭頂部にある「住吉隧道」(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう(但し、そこに登る途中には、まず、当時でも砂丘はなかったはずである。この当時は段状の地面(旧農地)であったと思う。なお、この隧道は逗子市内になっている)。私は二十代に二度、不法に通行している(当時は隧道を抜けたところが私有地(と張り紙にあった)であって、栅があったのを越えて入った。この存在は、その頃、一般には殆んど知られていなかった)。現在は、通行出来るように整備されているようだが(HETIMA.NET氏のブログ「HETIMA DIARY 産業遺産・廃道・廃線・隧道など」を見られたい)、飯島の正覚寺の裏を登った先にある。私が探索した際のそれは、廃道研究家平沼義之のHP「山さ行がねが~」にあるものが、かなり近い。画像を見るだけでもゾクゾクワクワクしてくること請け合いだ。「謎のゲジ穴」(前編・後編)をご覧あれ! 私が行った時も、隧道内の天井部に、わんさか、ゲジゲジがいた。但し、私の二度の踏破では、奥は閉鎖されておらず、二度目の時は、この小説の通り、山上に出て、小坪に向かって下った。私は、長く、この隧道は、近代のものではなく、戦国時代の三浦氏が、光明寺後背の山から小坪にかけて建造した山寨(さんさい)「飯島城跡」の中の、「くらやみやぐら」と呼ばれる隧道であると思い込んでいたが、実際には、現在の「住吉隧道」は、戦後、地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものであることが判明している。実際の「くらやみやぐら」は、この「住吉隧道」より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が嘗つてはあり、それこそが真の「くらがりやぐら」なのであった。十年も前のものだが、私の「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉古城蹟」の私の注を、是非、見られたい。いや! まてよ? 本作は戦前の作品だぞ?! ということは……実は! 「くらやみやぐら」は、戦前には、残っていたのではないか!?! なお、この城の実戦史は、後の永正九(一五一二)年に、北条早雲に追われた三浦同寸が籠ったものの、三日で落城した記録のみである。]
「Nさん、僕ア人を殺したんです、殺したに相違ないんです!」
来たぞ、――と私は身構えた。
「――いや、そう驚かずに、どうか終いまできいて下さい。……あんたは、今井さんが肺病で死んだんだと思っているでしょう? けど、そいつア見当違いで、実はこのわたしが、毒を盛って殺したんです。今でこそわたしア、あの出戻り女が底知れぬ毒婦に思われて、いやでいやでなりません。けど、一時はマルッキリのぼせ上がって、あの女を他愛なく横取りした今井が憎くて憎くてならず、何とかして怨みを晴らしてやろうと、毎日毎夜、仕事そっちのけで考えていました。――するうちに、わたしの店にしょっちゅう出入りしている友達の薬剤師に、半年ほど前、キチガイナスビという毒を貰って、机の曳出しに蔵(しま)っておいたことを思い出したんです、そんな時アたぶん、毒って珍しいもんだという気持ちで、そっと蔵っておいたに相違ありません。あんたは、今井さんがどんなに甘党だかよく知っているこってしょう。一通りや二通りじゃありません。夜中に起き出して砂糖壺を舐めるほど、まアいってみりゃあれも一種の病的なんです。そいつに思いつくと、わるいことをするのが変に嬉しくなり、体中がブルブル震えました。そうだ、こいつで今井を殺してやろう、と決心したんです!」
「しかし――」
「ま、し、静かにして下さい。お願いです!……で、で、――一遍にたくさん盛ったんじゃ必ずバレるに違いない。だからわたしア、菓子の中に少し宛(ずつ)いれて半端もんだといっちゃ持ってって、あの人にたべさせたんです。そのうちに、案の定、今井さんは、段々体が弱っていきました。毒が利いたに間違いはないんです! 何でも、あいつをのむと、徐々に体が参って、気が変になり、終いには死んでしまうんですから! ああ、僕ア、今井さんを殺してしまったんだ!」
私は驚くよりもむしろ呆気にとられて菓子屋を見戍(みまも)った。ちょっと考えればこんな馬鹿気た話はないのである。もし今井の死が毒殺に拠るものであるならば、彼を診察した医師がそれを見逃すはずはないし、真実に菓子屋が菓子の中にキチガイナスビ(atropin(アトロピン))を投じたとしても、毒物の知識を欠く菓子屋が罪の発覚を惧(おそ)れるあまり、全然無害に終わる程度の少量を混じたに過ぎないのではあるまいか。仮に一歩を譲って、それが致死量であったにしても、菓子屋の不審な挙措[やぶちゃん注:「きょそ」。]に感付いてそれとなく警戒していた今井に、前陳[やぶちゃん注:「ぜんちん」。「前述」に同じ。]のごとき頓狂な贈物を胃の俯に収める勇気があったであろうか。私は菓子屋の肩を抱き、根もない杞憂に心を曇らせる愚を説いた。そして一刻も早く菓子屋を家まで送り帰すに如(し)かず、と左に曲がり掛けた。すると相手は、私の袂を押さえ、まだ帰らないでくれ、もっと聴いてもらいたいことがある、と哀願するので、止むなく右に歩き出した。溝(どぶ)に添うて数十間(けん)行くと、我々の前に再び深夜の海が展開した。
[やぶちゃん注:「キチガイナスビ」「(atropin(アトロピン))」この場合は、「ダチュラ」の名で私は親しい、双子葉植物綱ナス目ナス科チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)属チョウセンアサガオ Datura metel である。当該ウィキによれば、『薬用植物で毒性も著しく強く、「キチガイナスビ」といった別名を持つ』。『全草、特に種子に有毒なアルカロイド成分を含み、誤食すると瞳孔が開き、強い興奮、精神錯乱から、量が多いと死に至る』。『成分はヒヨスチアミン(Hyoscyamine)、スコポラミン(Scopolamine)などのトロパンアルカロイドなどである。植物体の汁が目に入っても危険である』。『なお、キダチチョウセンアサガオ』(木立朝鮮朝顔)『属』(ナス科キダチチョウセンアサガオ属 Brugmansia )の『などの仲間もすべて有毒である』。以下、「中毒事例」の項。『家の畑から引き抜いた植物の根を使って調理したきんぴらを食べた人』二名『が、約』三十『分後にめまい、沈鬱となり、以後瞳孔拡大・頻脈・幻視等の症状を呈して入院。ゴボウと「チョウセンアサガオの根」を間違えて採取・調理し食べていた』。『家庭菜園でチョウセンアサガオを台木としてナスを接ぎ木し、実ったナスを加熱調理し喫食したところ、意識混濁などの中毒症状を発症した』とある。「アトロピン」(但し、英語の綴りは“Atropine”)はC17H23NO3のアルカロイド(alkaloid)。当該ウィキによれば、『アトロピンは天然ではl-ヒヨスチアミンとして存在する。他の抗コリンアルカロイド同様、主にナス科の植物に含まれる』として四種を挙げた中に、「チョウセンアサガオ」が挙がっている。]
五、九月十七日
「そうでしょうか、本当にそうでしょうか?」
陸に上げられた大きな伝馬船[やぶちゃん注:「てんません」。]に二人が倚り掛かると、菓子屋は再び語り出した。
「――そうだとすれば本当に助かります。けど、だからといって、わたしの自殺の決心はなくなりやしない!――Nさん、今夜に限って一帳羅(いっちょうら(の洋服を着、夜中の海岸をホッツキ歩いたのにも、チャアンとした訳があるんです。死ぬ時には精々キレイな身なりをしたいと思いましてねえ。……」
一体菓子屋は、次々に何を語り出そうと言うのであろうか? さすがに物好きな私も、そろそろこの辺から菓子屋に圧倒され始めて来た。それではならじと、視線をギユッと相手に縛りつけて観察の眼を据えた。
「――それはお葉のことなんです。春栄に邪慳(じゃけん)にされると、わたしの胸に甦ってくるのは、やっぱしお葉の幻影でした。わたしのような一文の値打ちもないヨタモンを、あれほどまでに思い暮ってくれる女はお葉をおいて他にゃアいなんだ、今でもお葉がわたしを容(い)れてくれるならその日にでも鎌倉へつれてきて、二人で一生懸命働こう、-―こう決心すると、昨日の晩、とるものもとりあえず、久方ぶりに神田のお葉の店を訪ねました。ところが、二年前と少しも変わらぬ懐かしい神田の街や店や人ではありましたが、ただ、お葉だけが、もうとっくに、ちっぼけな、情けない、位牌に変わっていました。……」
「……?」
「遅すぎたんだ、俺の気のつきようが遅すぎたんだ! お葉のお袋は、泣きながらその新聞を見せてくれました。――」
「……新聞を?」
「九月の十七日――Nさんは憶えているでしょう、海岸で雨の降った日、長谷の海岸で女の溺死体の上がった日のことを? あの溺死体がお葉だったんです。お葉はわたしを怨みながら、病体をわざわざ鎌倉まで運んで、そして海へとびこんだんです。――あの日撮った写真にお葉が映ったのも、お葉が死んでいたとなりゃア肯(うなず)けます」
これはしかし、かなり大きな衝動(シヨツク)であった。あの雨の中の夕景が妙に物淋しく、不吉の風が漂っていたが、もしあの時菓子屋が溺死体を見に行ったとしたら、この度の事件も、後述するようにこれほどアクドイ経過を辿らなかったかも知れぬのだ。私は、一種の宿命論的な虚無感に襲われ、危うく菓子屋が、最早芝居ではなく芯から恐怖している所の幽霊映画の神秘に憑(つ)かれそうになった。私の胸には、幽霊写真に関する米人Hartmanや英人Beattieの記録や数年前東京府下✕✕✕✕橋開通記念写真に現出した竣工犠牲、三人の自由労働者の「幽霊像事件」の未解決に埋没した事実が、徂徠[やぶちゃん注:「そらい」。「去来」に同じ。行き来すること。]した。
[やぶちゃん注:「霊写真に関する米人Hartman(ハートマン)や英人Beattie(ビイテイ)の記録」孰れも不詳。
「数年前東京府下✕✕✕✕橋開通記念写真に現出した竣工犠牲」不詳。
『三人の自由労働者の「幽霊像事件」』不詳。前の三点について、何かご存知の方は、御教授を願うものである。]
だが、この怪奇(バロツク)も永くは続かなかった。と言うのは、それまで無言で私を凝視していた菓子屋がぐうっと重苦しくのし掛かって来ると、私の手首をギユッと握り締めたからである。私がハッとして思わず、何をするんだ、と詰問すると同時に、右手がガアンと私の左頰に飛んだ。私は突然の故無き乱暴に面喰らい、何をするんだ何をするんだを繰り返し、両手を翳して[やぶちゃん注:「かざして」。]顔面を擁護しながら、後へ後へと退いて行った。菓子屋は顔中を引き攣(つ)らせ、餓鬼大将に苛められた弱虫のようにワアワア泣き喚き[やぶちゃん注:「うめき」。]ながら、続けざまに拳を振り下ろした。最初に受けた鋭い一撃が、私自身の過去における懐かしい殺伐な生活を思い出させた。と、私は奇妙に冷静になり、相手の発作的逆上を鎮めるにはこうするに如(し)かずと、形の崩れを待って力委せの応酬を返した。菓子屋は砂を蹴上げて後ろへつんのめった。そして、案の定、再び起き直らずに、砂地に丸く蹲(うずくま)ったまま、一層高々と泣いた。
「すんません……かにして下さい[やぶちゃん注:堪忍して下さい。]……Nさんを殴る心算はなかったんだ……ただ無性に、やみくもに乱暴がしたくなったんだ! わ、訳なんてありません……僕、僕アたぶん、気が変になってしまったんだ!」
それは恐らく噓ではあるまい。私は最早救い難い神経の倒錯を目の辺り[やぶちゃん注:「まのあたり」。]に見て、施す術(すべ)もなく暫時は放心していたのである。
[やぶちゃん注:「怪奇(バロツク)」ウィキの「バロック」に、一六九四『年(バロック期の最中)には、この語』(フランス語:baroque)『はアカデミー・フランセーズ』(l'Académie française:フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する五つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミー)『の辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」と定義されていた』。一七六二『年、バロック期の終結した頃には、第』一『義に加え』(☞)『「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」』『という定義が加わった』とある。]
六、黎明の惨死
夜が、――明けた。春、ではないが、「ようよう白くなりゆく」時が来た。それまでの青黝(あおぐろ)い大気が次第に紫色に変じ、青がことごとく空に吸い込まれると、代わって赤が勝ち、眼を射るような真紅の太陽が闇の底から首を出した。月も星も消え去り、海面の一部が血を流したようにゆらゆらと揺れ始めた。薄(う)っすら霞がかった沖にはあたかも幽霊船のような絵の島[やぶちゃん注:「江の島」のこと。]がぽっかり浮かび出し、大空の扉から流れ出るように薔薇色の微風が私達の頰を撫でた。万象(ものみな)が醒(さ)めたのだ! 夜の次に朝が来るというのは、何という有り難い神様の思し召しだろう! 嗟(ああ)、現世のあらゆる鬼火(イブネス・フアトウイ)を消し払う白色の明るさ!――私は菓子屋を促して、材木座海岸に出る砂丘を登り始めたのである。
[やぶちゃん注:「鬼火(イブネス・フアトウイ)」これは、英語の“ignis fatuus”であろう。特に、「沼地のような場所に、夜、見られる青白い鬼火」を言う。これはラテン語の“ignis fatuus”(音写「インギス・ファトウス」)の同義の熟語が語源であろう。]
菓子屋は、今流した泪で心の陰(くも)りがすっかり霽(は)れた、もうNさんに心配をかけることはない、僕は今井さんを殺したんじゃないんですね、それで安心だ安心だと繰り返しながら、歩(はこ)ぶ歩調にも力が罩(こ)もって来た。やがて二人は、鎌倉と小坪の海岸を繋ぐ崖淵の、二間幅の狭い道路に差し掛かった。右には電光状の亀裂を生じた数十丈の裸岩[やぶちゃん注:「はだかいわ」。]が屹立し、左には、七八丈の眼下に海を瞰下(みお)ろす豁然(かつぜん)たる展望(パノラマ)が開けていた。崖縁《がけふち》の脊の高い枯れ薄(すすき)がそよそよと弱い音を立て、土岩性[やぶちゃん注:「どがんせい」。]の道に二人の跫音(あしおと)が疳(かん)高く鴫った。潮は最高の干潮時で、眼に入る岸辺の大部分が褐色の岩を露出し、その間を置いてけ堀にされた水がちょろちょろと流れていた。[やぶちゃん注:この岩礁帯が、先に注した「和賀江島」である。]
心に痛手を負う者は遠くの眺望を避けるものだが、菓子屋は知り合い初めた頃のごとく快活な調子で、懐かしいオハラ節を唄い出した。それが終わると、例によってトゼルリのセレナタに変わった。そして、私より数間先に立って、
「Nさん、きょうこれから、皆で野球をしませんか? わたしももうだいぶカーヴが抛れる[やぶちゃん注:「なげれる」。]ようになりましたよ。Nさんにもそうそう打たせやしませんよ。ね、しましょうよ、ね?」
と言いながら、女学生のようにぴょんぴょん跳び撥ねて行った。
……数間先の菓子屋が突然立ち留まった。そこは薄も栅もない、二本の丸太ん棒で崖崩れの防いである危険な曲がり角であった。彼は、ちょっとの間崖下を覗いていたが、突然くるりと振り向くと、
「Nさアん!」と呼び掛けた。「――ここ、ここですよ、わたしがさっきNさんのお宅にゆく前に、春栄を突き落とした所は! あんたは、夜鴉の鳴き声を聞いたことがありますか? あいつア気味の悪いもんですぜ? 僕ア奴と無理心中をする心算(つもり)で、言葉巧みにここまで誘い出して来たんです。すると、どこからか、ガアガアと、ゾッとするような声が聞こえて来ました。そいつが、殺せ殺せ? と聞こえたんです。僕ア急に惨忍な気持ちになって、欺し討ちにやっちまいました。僕ア奴に、死ぬほど惚れているんだ! ははは……Nさんは常談だと思っていますね? ホラホラ見てごらんなさい、わたしもこれから曲芸をやらかすデス!」
私が駈け寄った時は、既に言い終わっていた。菓子屋は、光なく生気なく、瞳さえないように見える眼に儚い笑いの痙攣を起こすと、体が丸まったままぷいと崖縁から消えた。と同時に、ドスンと鈍い音が響いて、続いてバサバサバサ……と、何かの羽音が黎明の沈黙を破って聞こえた。そして、一疋の、小犬ほどもある大鴉が髪の毛のようなものを啣(くわ)えて眼下から遠く海面に飛び立った。度胆を抜かれた私の砕けた鏡のような眼に、岩と岩との間に墜死した血みどろの菓子屋の姿が、さながら踏み潰された弁慶蟹の形で、幾つにも映った。そして、そこから一間ほど離れた水溜まりの中には、蠟色の下半身を丸出しにした春栄の仰向けの屍体が転がっていた。更にそして、面喰らったことには、――菓子屋の落下に驚いて飛び立った鴉の、嘴も胴も羽根も脚も、要するに何処から何処までが、私には青く見えたのである。
[やぶちゃん注:「弁慶蟹」短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedius 。私の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 コブシガニ / ベンケイガニ』を見られたい。]
○ ○ ○
付記――最後に読者諸氏は、撮影日と屍体の上がった
日とが一致を示した幽霊映画の神秘に関して、一応の解
決を要求するかも知れない。しかし、フィルムは既に焼
き捨てられて再点 検のよすがもなく、ただ、次の事実
を付記して、疑問のまま、突っ放すより詮方ない。すな
わち、―空家となった菓子屋の部屋から、映写の際、ス
クリイン代わりに用いられた、古 ぼけた掛軸、広耕散
史作「歌をよむ女」が発見されたが、その裏には表の女
の顔が浸み出ていたのである。
[やぶちゃん注:「広耕散史」不詳。]