フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

カテゴリー「西尾正」の8件の記事

2025/01/02

西尾正 青い鴉 オリジナル注附

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『新靑年』昭和一〇(一九三五)年十月号(十六巻十二号)に発表。以下の底本の横井司氏の「解題」によれば、単行本に収録されたのは底本が始めてである由の記載がある。底本は、所持する二〇〇七年二月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅰ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは戦後第一弾となる』とある。なお、底本や解題では、標題を「めつかち」としているが、原作の歴史的仮名遣なら、「めつかち」でよいが、本文でも促音で「めっかち」となっているので、「めっかち」と正した。なお、主人公は既に結核に罹患し、喀血も始まっている。西尾自身の宿痾となった結核の罹患は、戦前とあるのみであるが、横井司氏の「解題」を読むに、遅くとも、本篇発表の前年の昭和十年には罹患していたと読める。既にして、登場人物の一人は西尾の影を背負っているのである。

 なお、冒頭に出る「パテエ・ベビイの映写機」については、同書の横井司氏の「解題」に、

   《引用開始》

 なお、本作品にも自伝的描写が散見される。冒頭で菓子屋が「パテエ・ベビイの映写機」で撮影する場面がある。パテーベビー Pathe-Babyはフランスのパテー社がアマチュア向けに開発した家庭用撮影・映写機で、大正末から昭和初期にかけて流行、西尾もまたパテーベビーで夫人をモデルに撮影していたそうだ(前掲「凩を抱く怪奇派・西尾正」[やぶちゃん注:これは、同解題で前掲された鮎川哲也「幻の作家を求めて・6/凩を抱く怪奇派。西尾正」(『幻影城』一九七五年十月所収)を指す。])。語り手のNと菓子屋とは「土地のテイームの野球友達」とあるが、西尾もまた海岸でやる「裸野球という軟式野球」に駆り出されていたという(同)。

   《引用終了》

とあった。ウィキの「パテベビー」によれば、『Pathé-Baby』はフランス語で、『「小型のパテ」の意』であり、一九二二年(大正十一年)に『に発売された』九・五ミリ『フィルムによる、個人映画・家庭内上映向けのフィルム、撮影機、映写機のシステムである。フランスのパテ社が開発した』ものであり、八ミリ『フィルムが登場するまで、小型映画の主流をなした』。『フランスでは』この年、『パテベビーが発表され、のちにさらに小型のパテキッド、手回し式を脱して電動でリールが回転するパテリュックス映写機を発売した』。『日本では』大正一二(一九二三)年に、『東京・日本橋の髙島屋東京支店が、その玩具売場で初めて発売するも、同年』九『月』一『日の関東大震災で高島屋が消失、翌』『年』、『東京・銀座の伴野文三郎商店(伴野は堀越商店の元パリ支店長。現在の伴野貿易)が』五『台のパテベビー映写機を輸入、改めて日本への導入が開始された』。『その後、日本における小型映画は盛んになり』、昭和二(一九二七)年、『初めての全国組織、日本アマチュア・シネマ・リーグが設立され』、昭和四年『には、時事新報社主催、同リーグ協力により、パテベビーや』十六ミリ『フィルム用撮影機によって撮影されたフィルムを集めた、初めての全国規模の個人映画コンテストが行われた』。『家庭でのパテベビー撮影機・映写機の普及とともに、マキノ・プロダクション、松竹キネマ等の映画会社が劇場用映画を家庭向けの短縮版を製作、販売するようになる。このパテベビー短縮版は、太平洋戦争などにより』、『ほとんどが失われた戦前映画の貴重な復元素材として現在では活用されている』。『伴野商店は、パテベビーのフィルムを映写できる国産の機材「アルマ映写機」を開発』し、『昭和』十年『には、名古屋のエルモ社が』十六ミリ『フィルムや』八ミリ『フィルムと互換性のある映写機を開発した』が、昭和十六年『に太平洋戦争が始まり、フィルムの入手が困難になり』、昭和二十年『の終戦後には』、八ミリ『フィルムのシステムに小型映画の主流をとって代わられることになる』とあった。

 また、既に「海蛇」で注した通り、敗戦から三年余りの昭和二四(一九四九)年三月十日(別資料では一日とする)、四十一歳の若さで、鎌倉にて肺結核のために逝去した。奥谷孝哉「鎌倉もうひとつの貌」(蒼海出版一九八〇年刊)によれば、彼は戦前の昭和八(一九三二)年頃から、鎌倉に住んでおり、海岸橋の近くに家があったとし、『乱橋材木座九七七という旧標記』があるとあるので、恐らく、滑川の左岸の乱橋(泉鏡花のドッペルゲンガーの近代小説の嚆矢たる「星あかり」(正規表現・私のオリジナル注附・PDF縦書版)所縁の「妙長寺」附近のここ。グーグル・マップ・データ)から、若宮大路の海岸橋の間に住居していたものと推定され、本作作中のロケーションも見慣れた実景を用いているのである。割注でロケーション特定をしておいた。

 傍点「﹅」は太字とした。今回はルビは表記のママに起こした。また、今回は、ブレる可能性のある語でも、読みは、割注で挿入した。]

 

 青い鴉

 

   序、菓子屋と鴉と溺死体と

 

 夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って、堤防の崖下に真っ赤な縮緬模様の波があった。西の空に縁の黒い入道雲が頑張っているので、時折陽が隠れた。――夕刻になると、何処からともなく雨雲が湧き、定(き)まって俄雨の襲来があるのが、その頃の日和癖であった。

 夏の過ぎ去った海岸一帯には、菓子屋と小僧と私より他、人影らしい者は見えなかった。海に背中を向けて小型映画撮影機のファインダアを覗いている色の真黒な団栗(どんぐり)頭の小僧の前を、白槻衣(ホワイト・シヤツ)にニッカアを穿いた菓子屋が、位置を定めるために、往ったり来たりしていた。閑人(ひまじん)の私は彼らから五間ほど離れ、膝を抱えて見物していた。

「いいな、分かったな。しくじると承知しねえぞ」菓子屋は立ち上がると、太い低音(バス)で言った。「――よし、スウイッチ!」

 微かなシャッタアの音がカタカタと響いた。

 菓子屋は一定の姿勢(ポオズ)を取ると、レンズの前でできるだけ様々な表情をして見せた。

 菓子屋は二年前まで、神田の菓子舗「風流」の職人であった。腕に自信がつくと鎌倉駅裏に一本立ちの店を開いた。二十五歳の独身だが、二年の間に土地の商人の間で相当幅を利かすようになった。独立するに際し、主家の若旦那から記念に頂戴したパテエ・ベビイの映写機があるので、いつか自分の動く姿を撮って置きたいと、出入りの得意から撮影機を借りて、仕事が終わると自転車を素ッ飛ばして来たのであった。私と彼とは土地のティームの野球友達であった。

 ――撮(うつ)し終わった時には、それまで山の上に在った陽が蔭になり、海がのたりのたりと油を流したような黝(くろ)ずんだ色になっていた。

 「どうもハッキリしませんね、毎日(まいにち)――」

 機械の始末をしている小僧を尻目に、菓子屋はこうお愛想を言いながら近寄って来た。額が狭く、唇が厚過ぎるのが何となく無智を思わせて欠点だが、鼻筋も通り、眉も濃く、背(せい)もスラリとして、中々の美男であった。左の二ノ腕が纏帯で膨らんでいるので、どうしたのかと訊くと、数日前横須賀安浦の婬売窟へ冷やかしに行って土地の与太者と斬り合いをやり、三寸ばかり剌されたとのことであった。

[やぶちゃん注:「横須賀安浦」現在の横須賀市安浦町(やすうらちょう:グーグル・マップ・データ)。海軍の本拠地であった横須賀の赤線地区の一つとして、戦後まで知られた。]

 「旦那、鴉ですよオ?」

 尻上がりの頓狂な声が起こった。見上ぐれば、何時(いつ)の間にやら真っ黒な雲が頭上低く垂れ、鴉が五六羽、その暗い空を過(よ)って渚に下り立ち、海藻の間に巣喰う虫類を啄(ついば)み始めた。菓子屋の頰に小気昧よげな微笑が認かんだ。

 「わたしア鴉が大嫌いなんです。何でもわたしの祖父(じい)さんが目黒三田村で百姓をしていた時分、作物を荒らす鴉を殺したら、そのご祟りがあって、他の鴉どもに目玉を刳(えぐ)られ盲目(めくら)にされたそうですが、その故か、鴉を見ると、どうも殺したくなるんです。いつかは殺して見せると、実ア、小僧と約束したんでね」

 菓子屋は足許の石を拾って、一歩一歩、獲物を狙う猫のような狡猾な足取りで近寄って行った。そして、それ以上一歩でも進めば飛びこ上(た)ってしまいそうな際どい位置から、体を前のめりにさせて、力委せに投げつけた。石は正しく命中したが、鴉はしかし、泣き声を立てなかった。置いてけ堀にされた一疋が俛首(うなだ)れたまま二三度試みのようにのろのろ羽根を拡げた。が、石は急所を逸(そ)れたらしく、首を亀のようにながく延ばすと、海の方へふらふら飛び立った。力尽きると、カアカア悲痛な声を挙げ、二度ほど黒々とした海面に墜落したが、必死に羽根を搏って仲間の飛んで行った陸の方、後ろの山へ飛び去って行った。……

 「さ、帰ろう」

 菓子屋が歩き出し小僧が自転車に乗った時であった。ふと目を転ずれば、――遠く堤防寄りの渚に黒山の人集(ひとだか)りが見え、私達の前をも、多勢の男女が、藻を踏み越えながら、小刻みにその方向に走っていた。

 この時砂丘を下って、私達の前へ、髪の長い面長の、一見して結核患者を思わせる、肩の骨張った男が現れた。菓子屋と同い年の画家今井であった。彼は私に目顔で挨拶し、近寄り掛けたが、傍らに菓子屋のいるのに気付くと、迫った眉に露骨な嫌忌と軽蔑の表情を現し、そのまま立ち去ろうとした。

 「今井君、何ですか、あれは?」

 と、私が呼んだ。

 「女の身投げが上がったんだそうです」

 今井はブッキラ棒にこう答えると、それきり、他の人達に混じって小刻みに遠去かって行った。

 「女か、エロだな。みにゆきませんか?」

 菓子屋がニヤニヤ笑いながら言った。私は、しかし、大した好奇心もなく、それに今にも俄雨の襲来がありそうなので、帰ると言うと、彼も、詰まらないね、溺死体なんか、わたしも帰ります、と言って二三歩砂丘を登り始めた。

 「さよなら」

 「さよなら」

 こう言い交わして左右に分かれた途端雨がサアッと降り出した。

 「いけねッ! 来やがった!」

 菓子屋はこう叫んで両手で頭を抱え、

 〽旅ホレたホレたよ、女学校のまえで

 と唄い出し、肩を揺すり、足拍子を取って駈け上がって行った。

 〽――馬がションペンして、オハラハア、地が掘れた……

 私も駈け出し、しばらく行って振り返って見ると、雨の重吹(しぶき)と夜の幽暗を通し、菓子屋の砂丘を登る猿のような姿と、遥か遠方の溺死体を取り囲む黒い人垣が浮かび、海岸に添った家々や街灯の灯が点いて、そこには言いようもない秋の寂しさがあった。とりわけ、人集りの中の提灯の火は、暗く、かそけく、何かしら死人に因む不吉なものを象徴していた。

 ――九月十七日のことであった。

[やぶちゃん注:以上に「砂丘」と出ることで、ここのロケーションが明確に限定される。冒頭で「夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って、堤防の崖下に真っ赤な縮緬模様の波があった」と言っており、「砂丘」が後半に出現するから、これは、現在の由比ヶ浜の中央に流れ出る滑川より東方部分の、俗に「坂ノ下海岸」と称される箇所に限られる。現在のグーグル・マップ航空写真の、この海浜地区である。稲村ヶ崎の東側(「江の島」側)にも、戦前は、ごく小さな砂丘が極楽寺川の右岸にあることはあったが、ここからは「夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って」見えるという景観は物理的にあり得ない。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」(明治三十五年八月二十五日発行)の、二枚目の地図を見られれば、一目瞭然である。「今昔マップ」の「1917~1924」年や、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、稲村ヶ崎の東側には砂丘の痕跡は全くない。また、稲村ヶ崎の東側は、坂ノ下海岸東端から先は、「靈山ヶ崎」と称し、古くから、断崖と岩礁帯(同前「ひなたGPS」)なっており、難所として、かなり以前から「堤防」(グーグル・マップ・データ航空写真)が作られてあったからである。また、由比ヶ浜には、中央部に向かって干渉波が寄せるため、昔の砂丘は、中央ほど、内陸部まで発達し、明治時代まで、若宮大路の一の鳥居手前附近まで、砂丘はあった。されば、「菓子屋」を「鎌倉駅裏」に持っている男のそれは、現在の駅の西口を出て、西南西に「由比ガ浜大通り」に下る「御成通り」にあったことになる(現行、西側には鎌倉市役所があることから、こちら側が正式な「駅表」であり、「こまち通り」の繁華な東口が、実は「裏駅」に当たるが、私の幼少期、「御成通り」は駅周辺以外は店もそう多くなく、夜は人通りも多くなく、淋しい感じで、私も、私を可愛がって呉れた亡き伯母も、駅西を「裏駅」と呼んでいた。これは戦前の鎌倉も同じであったと考えて問題ない。寧ろ、「由比ガ浜大通り」の方が圧倒的に老舗が多かった)。主人公の住居も、西尾正が住んでいた滑川左岸でもよいが、芥川龍之介が海軍機関学校教官時代の一時期に下宿した、現行の江ノ電「由比ヶ浜」駅から東南東に延びて、「和田塚入口」交差点の間周辺にあったとするのが、最も自然であるように思われる。「〽」は「鹿児島おはら節」の替え歌。正規歌詞は当該ウィキを見られたい。]

 

   一、お葉の顔――GHOST MOVIE

 

 締まりのない雨がびしょびしょ降り続く陰気な晩であった。「この手紙を受け取り次第すぐ来てくれ、是非聞いてもらいたい洵(まこと)に不思議な、わたし一人では解決に苦しむ事件が起こってしまった」云々(うんぬん)と、走り書きに記された菓子屋の手紙を、私は受け取った。

 先日砂丘で会って以来、どうしたことか御用聞きも来ず、目と目と会わせると借金取りにでも出会った時のように妙に他所他所(よそよそ)しく側方(そっぽ)を向き、目も何となく落ち窪んで顔色も蒼褪めている模様なので、菓子屋の身辺に何か起こったに相違ないと睨んでいた。そこへ不意の奇妙な手紙なので、私はいささか好奇心を覚え、雨を衝いて菓子屋の店を訪れたのである。

 部屋の隅に蹲(うずくま)って私の来るのを待っていた菓子屋の面上には、病的な憂悶の色が漂っていた。彼は私を見ると、オドオドと落ち着きのない素振りで室内に請じ入れたが、何とそこには、――古ぼけて地塗りの剝げたパテエ・ペビイの映写機が据えられ、雑誌や古新聞の積まれた薄汚い床ノ間には、映写幕(スクリイン)代わりに、幅三尺の掛軸が裏返しにされて下がっているではないか? 菓子屋は、暢気(のんき)らしく映写の支度などをして、一体何を見せようと言うのであろうか? 雨戸は閉め切られ、電灯が畳間近に引き下ろされているので、室内は不気味な薄暗に閉ざされ、私達の影がゆらりゆらりと壁を這って動き、小歇(こや)みもなく降りしきる雨の音がびしょびしょ絶え間なく響いている。……

 菓子屋は小僧を次の間に追い払うと、私を上目使いに覗き込みながら、呟くような小声で、

 「Nさん……」と言い掛けたが、何となく力が弱く二度ほどエヘンエヘンと痰を切った。「実は、こないだ撮った写真の中に、映るはずのない女の顔が写っているんです。わたしア怪談なんて決して信じやしません。けど、あんまり不思議なんで、Nさんに来て戴いたんです。今、現物をお目にかけますが、一体、こんなことが今時の世間にあるもんでしょうか?……いや、―その前に、わたしの過去の一伍一什(いちぶしじゅう)を聞いてもらわなければなりません。……」

 菓子屋はこう前置きすると、綿々たる長広舌を以て、次のような草双紙風の「情話」を語った。

 ――その「映るはずのない女」をお葉と言った。彼女は菓子屋が神田で年期奉公の頃惚れ合っていた近所の洋食屋の一人娘であった。お葉は周囲の婬らな環境から反動的に浮かび上がった可憐な処女で、恋愛を至高のものと考える感傷の子であった。しかし菓子屋は、多くの男がそうであるように、年期明けが待ち切れず、執拗にお葉の肉体を求め、彼女を深い悲哀のどん底に突き落とした。折も折、二人の間に、三年越しお葉に惚れ抜いていたと言う大学生が現れた。ここで、菓子屋は振られてしまったのである。――意地ッ張りな菓子屋は、女の本心を見極めもせず二度と神田の土を踏まぬ心算(つもり)で鎌倉へ逃げて来た。二年の歳月が夢のように流れ、お葉のこともいつとはなしに忘れ掛けていた。本年初頭、――お葉と学生の情事が如何なる経過を辿ったのか、当のお葉の思いも掛けぬ手紙が続け態(ざま)に菓子屋の店に投ぜられた。

 「貴男が妾(わたし)の前から急にいなくなってから毎日毎日重い神経衰弱で夜も睡られず貴男のことばかり想っては泣き暮らしている。妾の好きなのはやッぱり貴男だ。乱暴で我が儘で怒りッぽいけど、――。捨てるなら捨てられてもいい、でもどうか一度会ってハッキリ貴男の口から聞きたいんだ」と、愛の復活を図る女の愁訴が縷々(るる)と認(したた)められてあった。菓子屋は、都合の好い時には側方を向き痛い目に会ったら泣きついて来る女の露骨な態度に腹を立てた。それまでは、別れた女として秘かに甘い記憶を暖めていたのに、と思うと、何本手紙を受け取っても返事一つ書く気も起こらず、最近では読まずに竃(かまど)に指り込んでいる。そして、お葉は時折遠見に菓子屋の様子を探りに来るらしく、駅前と八幡境内をウロついている姿を数回自転車の上から見掛けた。……[やぶちゃん注:私の「駅裏」が正しいことが、この最後の箇所で判る。]

 「こういう訳で、わたしアお葉にはできるだけ冷淡にしてきたんですが、それだけで生霊が乗り移るなんてことがあるもんでしょうか?」と菓子屋は最後に言った。「――まあ見て下さい、お葉の横顔がじっとわたしを睨んでいるんです」

 菓子屋は素早く開閉器(スウイツチ)を映写機の口に切り代えた。やがてカタカタと鳴る手回しに連れて、床ノ間の掛軸が長方形の光線によって刳(く)り抜かれたのである。[やぶちゃん注:つい十年数程前まで、ルビの促音・拗音、小さな「ゥ」は小さくしないのが活版業界の常識慣例であった(この事実を知らなかった人は非常に多い、というか、知っていた人は驚くほど、少なかった。彼らは、勝手に脳の中で小文字にして読んでいたのだ。私は、青年期から気づいていた。みんな、知らないのにゾッとしたものだ)。歴史的仮名遣でも古くはルビでなくても「スウイツチ」であった。

 

   二、痴情

 

 映写の模様については精(くわ)しくは語るまい。ただ、事実、菓子屋の上半身(バスト)に二重となって誰か若い女の横顔が映っていることと、その夜の菓子屋が如何に心底からその「不可思議現象」に怖(おそ)れ戦いていたかを知ってもらえばいいのである。

 いずれにせよ、ここで問題となるのは菓子屋のお葉に対する今後の態度である。そこで私は、――もし君に女を容れてやれるだけの気持ちが残っているなら一度会ってやってその上でキッパリけじめをつけたらどうか、と言ってみた。するとまたしても、今度は進行形の、しかも私自身の知人、序章にちょっと紹介して置いた肺病画家今井の関係しているいささか、Erotique(エロテイーク)な事件が、続いて菓子屋の口から洩れた。――これにはいったん立ち掛けた私も再び腰を下ろしてしまったのである。

 「――現在のわたしにとって、お葉なんか問題じゃないんです」菓子屋はギロリとした眼に堪えやらぬ憤懣の情を漲らせて語り出した。「実は今、ある男を相手に一人の女をとるか盗られるか、命がけの角力(すもう)をとっているんです。男はあの肺病の今井です。そして女は、――こうなったら皆きいてもらいますが、わたしのお得意の家にいる春栄(はるえ)という出戻り女なんです」

 ――その家は、門から玄関までの踏み石の両側に、赤、青、白、黄、---色とりどりの大輪の花が咲き揃うて、華やかな、何かしらSweet(スイート)なものの潜んでいそうな家であった。その家にその年の四月頃からそれまで一度も見たことのない女が見え出したのである。新しい女は、それらの花が放つ雰囲気にも似た艶めかしさを発散していた。菓子屋は爾来その門を潜るのが愉しみになった。新たに菓子屋の心を捉えた女は過去のどの女とも違って、澄み切った聡明に見える瞳と、白い、静脈の浮いた手とが、彼の胸を揺すった。

 春から梅雨の期節になると、仲間の商人達の口から、彼女が旦耶に死別した出戻り女であることが耳に入った。その家の主婦の実妹で、死別したと言うのは嘘で何か不義をして離縁になったのではないかと噂している者があった。どちらが真(まこと)であるか判らなかったが、そういう疑いを起こさせるだけの陰性の色っぽさが眼や腰付きに潜んでいると菓子屋は思った。望みの法外であることを知りながらも菓子屋は日とともに春栄の肉体を慕う情欲に堪え切れず、大胆な手紙をそっと手渡して、一かバチかの骰子(さい)を投げた。ところが、先方から時日を指定し、北鎌倉の駅前へ来い、その時はあまり可笑しくないなりで、という返事が菓子屋を喜ばせた。夏も終わりの、そろそろ蛼(こおろぎ)の鳴き出そうという夜のことであった。初秋の寂寞とした田舎駅の前に菓子屋が彳(たたず)んでいると、一電車遅れて、黒い着物に赤い帯を締めた春栄の姿がちらりと歩廊(プラツトフオーム)に見えた。「――別々に歩くのよ」菓子屋はこういわれて円覚寺の方向へ女に痕(つ)いて歩いて行ったが、その間、薄月に浮かぶ女の白い頰や豊かな腰を貪るように観察し続けていた。狭い道路に空き車が乗り掛かると、春栄は立ち止まって面を伏せたまま、人違いと思われるほど冷静な調子で、「豊風園……」と運転手に命じた。豊風園と言うのは、蓊鬱(おううつ)とした松林の中の峠のような山道の中腹に在る豪奢を極めた料理屋兼旅館であった。――二人がそこを出たのは、その夜の十二時頃であった。春栄は菓子屋の指に自分の指を搦ませてから、来た時と同じように別々に帰って行った。

[やぶちゃん注:「豊風園」これは、亀谷坂(かめがやつさか)の下方にあった、戦前戦後にかけて、鎌倉文士らの交流の場になっていた、隧道坑門のような形状をした正門を持つ、旧温泉旅館「香風園」(グーグル・マップ・データ)である。現在はマンションになっている。四十年程前、私の亡き親友が、知人を泊まらせようと、部屋を見にせて貰ったが、既に連れ込み宿みたようなものになり下がっていた、と言っていた。]

 菓子屋はこの夜初めて女の肉を如何に魅力の強いものであるかを悟った。が、どうしたことか、女の方は、逆にその夜を境として急に冷淡になって行った。気紛れ(ホイム)な出戻り女の一時の戯れと菓子屋は思ったが、そう気の付いた時には前よりも一層女の痴情に狂っている自分を見出し、焦燥の裡に女の乖離の原因を探った。そしてその原因をハッキリ摑むことができたのである。すなわち、春栄は、夏以来彼女の甥に図画を教えるために繁々(しげしげ)と出入りしている今井に新しい関心を持ち始めていたのだ。[やぶちゃん注:「気紛れ(ホイム)な」英語“whim”(音写「ホイム・ホゥイム」)。「思い付き・気まぐれ」の意の名詞。思い付きが突然であることを強調する語である。]

 「わたしがどれほど春栄を慕い、今井を憎く思っているか、Nさんに分かったらなあ!」

 菓子屋は悲哀と憤怒から唇を嚙んだ。

 「いっそ今井を殺して、春栄を拐(かどわ)かそうと思ったことも、何度あったか知れやしません。――僕アもう絶望です。実は、Nさんに来て頂いたのも、新潟の親類を頼って、きょう限り鎌倉を売ろうと決心したんです。その旅費に、Nさん、三十円ばかり、ひとつ――」

 私はたちどころに不愉快になった。無軌道な菓子屋の話を真面目に聴いた「Nさん」自身こそ戯画化もんだという感じを抱き、返事をせずに家へ帰った。

 

   三、画家今井と彼の死

 

 しかしながら、菓子屋の語った事実は、満更根もないつくりごとではなかった。それらは相互に微妙な関聯を見せ、終局に読者は、四つの死を発見するであろう。――現実という奴は毎時(いつも)予想よりも不快なものなので、その度に私は悒鬱(ゆううつ)になるのだ。が、私はその最後の破局に筆を転ずる前に、春栄を繞(めぐ)る菓子屋と今井の三角関係が生んだ、海岸の球場における浅間しい争闘について記さねばならない。

 今井は知人の子供達を集めて野球をすることが好きであった。風もないのに海鳴りの強い日、私は今井の訪問を受け、請われるままに、子供試合の審判官(アンパイアー)として立ち会った。ちょうど中途から仲間に入った菓子屋が投手で今井が打者の時、菓子屋の投球が低過ぎたので「ボオル」と宣告すると、

 「ボオル? 今のがボオルというテはないでしょう!」と、つかつかと本塁に歩み寄り、変に陰に罩(こ)もった声音で、私よりはむしろ今井に搦み始めた。

 「いや、ボオルだよ。とても低過ぎたよ。無茶をいうな、無茶を!」

 今井も肺患者特有の気の強さで、対抗的に鋭く応酬した。

 「――無茶? 何が無茶だい!」

 こう叫んで躙(んじ)り寄った菓子屋の右手が将(まさ)に今井の頰に飛んで行きそうになった。と、この気配を素早く感じた今井は、ひょいと頰を避(よ)けると同時に、逆に、右手で菓子屋の横面を殴った。肉と肉の打(ぶ)つかる嫌な音がした。一撃を先手で喰った菓子屋は、何事か不明瞭な叫びを上げて今井に組みついて行った。元々体も弱く力もない今井が胸を相手の頭で突かれて後ろへ反(の)めると、菓子屋が、こん畜生! と叫びざま脇腹を蹴上げたから堪らない、見る見る今井の相貌が激怒と苦痛のために真っ青に変じた。彼は、傍らのバットを素早く摑み上げ、蹲(うずくま)ったまま死に物狂いに投げつけた。バットは、慌てて身を躱(かわ)した菓子屋の左肩を掠め、四五回クルンクルンと唸りを生じて飛んで行った。振り向いた菓子屋の顔に惨忍な光が射した。彼は、一度相手を凝視すると、のろのろとバットを拾い上げ、それをだらんと右手に下げると、再びのろのろ今井に近寄って行った。私はこれから飛んでもない事件が起こることを予感し、最早冷静に見物していることができなくなった。そこで今井に、「帰りたまえ、早く帰りたまえ!」と叫んだ。――今井も、相手の剣幕に圧倒されたのであろう、両手を胸の辺りに握り、哀願するような素振りをすると、菓子屋を瞶(みつ)めたままガクガクと震え出した。

 「帰れ、危ないから早く帰れ!」

 私はもう一度叫ぶが早いか、ちょうど私の前を過ぎる菓子屋の下顎を力委せに突き上げた。倒れた所へ馬乗りとなり、三度今井に振り向いて、

 「帰れ、帰らないか馬鹿!」と叫んだ。

 すると今井の脣から、世にも浅間しい叫びが洩れた。

 「キ、貴様は、俺に春栄をとられたので、それで口惜しがっているんだろう! そんならそうと、もっと堂々と戦え! いつでも来い、相手になってやる!」

 仰向きの菓子屋が、畜(ちく)――生(しょう)! と唸(うめ)きながら、起き上がろうと手足をバタバタさせた。

 「放せ、放してくれ、奴を殺すんだ!」

 私は菓子屋に間違いを起こさせてはならぬと、必死になって押さえつけた。今井はこの有り様を尻目になおも二言三言[やぶちゃん注:「ふたことみこと」。]強がりを吐いたが、傍らの春栄の甥の手を引いて一散に砂丘を駈け上がり、見えなくなってしまった。菓子屋は、追うことを諦めたのであろう、眼を閉じ体をぐったりさせてしまった。と同時に、目には見る見る泪が湧き出し、ウーウーと情けない声を立てて哭(な)き出した。……

[やぶちゃん注:「傍らの春栄の甥」ここで初めて、これを出したのは、西尾の確信犯だろうが、どうだろう? 私は、初めに出しておいた方が、カタストロフの予兆を不安させる効果は、より出ると思うが。]

 それから数日の後、散歩の途上、光明寺裏の今井の独居を訪れた折、私は今井のあまりにも憔悴した姿を見て驚いた。薄暗い部屋一面には、ひとりでに気の滅入り込む孤寂の気配が測々として漲り、窓下に寝床が敷いてあって、その前に胡座を搔いて滅切り落ち窪んだ眼を、――そしてそのためにますます陰険になった眼を力なげに瞬きながら、来春の展覧会に尠(すくな)くとも三点は出品する意気込みだと言って、「夏日游泳」と題する油絵で言えば十五号ぐらいの十度刷りにあまる木版画を、見るも痛々しい瘦せ腕でゴリゴリ板を削っていた。菓子屋に会うかと訊くから、その後会わないと答えると、彼は仕事の手を休め、青白んだ額を伝う生汗[やぶちゃん注:「なまあせ」。]を拭き拭き、次のようなことを述べた。

 「……この頃、僕、あまり外出しませんが、体に悪いからだけじゃないんです。実は、菓子屋の素振りがどうも訝(いぶか)しいんですよ。先だってなど、こないだの喧嘩のお詫びだといって、出来立てのアップル・パイを持って来て、喰ってくれというじゃありませんか。それから後も、注文違いや半端もんをチョクチョク持って来るんです。そうかと思うと、道で会っても顔をそむけて通りすぎるし、風呂屋で偶然一緒になると、気味の悪くなるほど僕の体をジロジロ眼めるんです。やなもんですね、体を見られるのは――。気になるのはそればかりでなく、夜淋しい所を歩いていると、奇態に出ッ喰わすんです。いつかの怨みを根に持っているんじゃないかと思うと、警察ヘ一応話しておこうかとも考えているんですがねえ。何(な)アに、奴(やつこ)さんは誤解しているんですよ。こないだは、僕も機勢(はずみ)で心にもないことをいってしまいましたが、奴さん、ある女に片思いして相手にされないもんで、僕とその女とが関係があるようにいいふらして困るんです。――僕、今の所、女なんて興味ありませんよ。ふふふふ……」

 こう猾(ずる)そうに苦笑いをしたまではよかったが、一気に喋って息が切れたらしくクフンクフンと咳き込むと、胸を両手で押さえて立ち上がり、北窗(きたまど)を開くと、私の方をチラッと盗み見ながらドロリと痰を吐いた。それが紅生姜のように真っ赤であった。

 この今井が、それから間もなく、突如大喀血に襲われ、ぽっかり死んでしまったのである。

 しかし、事件はこれで終結したのではない。

 

   四、夜半の散歩

 

 ……月の明るい静かな晩であった。今井が死んでから四日の後のことであった。私は晩食後書斎に籠もり、庭に射し込む青い透明な光に、時折疲れた眼を休ませながら、上田秋成の「雨月物語」を読んでいた。もう寝ようかと気付いた時は既に夜半の一時に近く、ちょうど「浅茅(あさじ)が宿」の「――窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに、途の長手に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり」という所へ栞[やぶちゃん注:「しおり」。]を挟んで立ち掛けた時、何者かが家の前を駈け上がる慌ただしい跫音(あしおと)を聞いた。波の音も死んで四囲(あたり)が閴然(げきぜん)たる[やぶちゃん注:ひっそりとして淋しいさま。静かで淋しいさま。]静寂であるために、その男の、――男であることはすぐ判った、――苦し気に喘ぐ逼迫した息までがはっきり聞き取れるのだ。私は、跫音が何方(どちら)へ消えるかじっと耳を済ませていると、意外それは私の家の門前で留まり、と同時に、ドンドン……今晩は今晩は……ドンドンと、憚るように木戸が鳴った。私は、何者が今時分訪ねて来たのであろう、ことによったら心中の片割れが跳び込んで来るのではあるまいか、と臆測を巡らせながら戸外(そと)へ出て見た。するとそこには、眩いばかりの月光を顔の半面に浴びて、小綺麗な洋服を纏うたモダン・ボオイが、口を開けてぶるぶる震えながら立っていた。そして、よくよく見ると、その男こそ野球場の喧嘩以来一度も顔を見せなかった菓子屋だったのである。私は、何はともあれ彼を座敷にあげて、一杯の葡萄酒をのませてやった。

[やぶちゃん注:『「浅茅(あさじ)が宿」の「――窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに、途の長手に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり」』これは私の偏愛する「雨月物語」の、「卷之二」の「淺茅が宿」の、農家を再興せんとして、商人となって永く無沙汰していた主人公勝四郎が、故郷『葛飾郡(かつしかのこほり)眞間(まま)の鄕(さと)』の茅舍に戻り、待ち続けていた最愛の妻宮木(みやぎ)に逢い、その夜、二人で共寝に就くシークエンスの終行である。翌早朝、目覚めれば、家は朽ち果てており、妻の姿はない、というカタストロフが続く、哀しくも印象的なシークエンスが続くジョイント部である。原文は新字体だが、全原文が電子化されている「紺雀 – Konjaku」氏の優れたサイト「日本古典文学摘集」のこちらを見られたい。現代語訳もある]

 「夜中の海岸て、気味の悪いもんですねえ!」と、菓子屋は突然至極平凡なことを口走った。

 「――Nさんはチョクチョク夜中の散歩をするそうですね。わたしも今夜眠られないんで、真似をして海岸を歩いてみたんです。けど、飯島岬の手前まで行ったら無性に怕(こわ)くなって、一散に逃げ帰って来た始末なんです。窓に灯もついているんで、一人じゃ怕いから、Nさんと一緒に歩いてみたいと思ってお訪ねしたんですよ」

[やぶちゃん注:「飯島岬」(いいじまみさき)由比が浜の東側の材木座海岸の東南の、御崎(みさき)で、鎌倉時代からある地名である(但し、現行では「飯島」で、「飯島岬」と呼ぶ人は少ない)。ここ(現在は、酷い開発によって、全体の形状が全く変化してしまっているので、「ひなたGPS」の戦前の地図の方を見られたい)。直近の東の海上には(干潮時は岩礁を伝って先端まで行ける)、現存する鎌倉時代最古の築港である「和賀江島」(わかえじま)がある。]

 一体、――この無造作を装う菓子屋を信じてもいいのであろうか? 私は、彼に対する疑惑の一層深まるのを覚えながらも何とかして本音を引き出してやろうと、警戒を忘れずに黙って立ち上がった。

[やぶちゃん注:前注の戦前の地図を見れば判るが、嘗つては、飯島御崎の辺縁の岩礁と狭い砂浜の海岸を廻り込んで、現在の逗子市小坪へ行けた。]

 ……菓子屋が小坪の方へ行ってみたいと言うので私達は渚を左に歩き始めた。その夜満月は鎌倉一帯を真昼のごとく明るく照らし出していた。人は誰もいなかった。海岸に添うて、所々に土岩[やぶちゃん注:「つちいわ」と読もうと思ったが、後で「土岩性」という熟語が出るので、「どがん」と読んでおく。]の肌を露した森の姿は、遠く月光を透して樹々の色彩か黝(くろ)ずみ、物淋しい骸骨のように絡み合っていた。ザザン、サア……という海の歔欷(すすりなき)と、何やら得体の知れぬ音のような大気の感覚が、深々と私の胸に響いて来る。――私は脚に力を入れて、サクサクと砂を踏んで行った。

 左に渚が尽きると、そこが飯島岬である。この岬を登って右に海を瞰下(みお)ろし、左に山を仰ぎながら崖淵[やぶちゃん注:「がけぶち」。]の道を進めば、小坪海岸に出るのだが、何故か菓子屋はこの近道を避け、砂丘を上って隧道(トンネル)を潜り本道を通ろうと言い出した。私達が緩い勾配(スロウプ)を登り始めた頃、菓子屋の素振りが次第に変化して行った。眉間には深い皺が刻まれ、運ぶ歩調も鈍った。隧道を抜けると、眼前に長い山が展(ひら)け、細い下り勾配が、青々と光を湛えて一直線に続いていた。両側には亜鉛(トタン)屋根の藁葺きの粗末な家々が並び、いわゆる「風雅な別荘(コツテエジ・オルネエ)」は全く影を潜め、軒からは薄汚い腰巻きや髪の毛のような若布(わかめ)がぶら下がって、強烈な肥料の臭気がそれまでの海の香に代わってプウンと鼻を衝いた。小坪は、花やかな避暑地の雰囲気の一毫一厘も見出されぬ。暗い、陰鬱な漁村の風貌を具えているのだ。ぶらりぶらりとその道を下り始めると、菓子屋は最早堪えられぬもののごとく語り始めた。――

[やぶちゃん注:「砂丘を上って隧道(トンネル)を潜り本道を通ろう」これは、飯島の御崎の頭頂部にある「住吉隧道」(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう(但し、そこに登る途中には、まず、当時でも砂丘はなかったはずである。この当時は段状の地面(旧農地)であったと思う。なお、この隧道は逗子市内になっている)。私は二十代に二度、不法に通行している(当時は隧道を抜けたところが私有地(と張り紙にあった)であって、栅があったのを越えて入った。この存在は、その頃、一般には殆んど知られていなかった)。現在は、通行出来るように整備されているようだが(HETIMA.NET氏のブログ「HETIMA DIARY 産業遺産・廃道・廃線・隧道など」を見られたい)、飯島の正覚寺の裏を登った先にある。私が探索した際のそれは、廃道研究家平沼義之のHP「山さ行がねが~」にあるものが、かなり近い。画像を見るだけでもゾクゾクワクワクしてくること請け合いだ。「謎のゲジ穴」(前編後編)をご覧あれ! 私が行った時も、隧道内の天井部に、わんさか、ゲジゲジがいた。但し、私の二度の踏破では、奥は閉鎖されておらず、二度目の時は、この小説の通り、山上に出て、小坪に向かって下った。私は、長く、この隧道は、近代のものではなく、戦国時代の三浦氏が、光明寺後背の山から小坪にかけて建造した山寨(さんさい)「飯島城跡」の中の、「くらやみやぐら」と呼ばれる隧道であると思い込んでいたが、実際には、現在の「住吉隧道」は、戦後、地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものであることが判明している。実際の「くらやみやぐら」は、この「住吉隧道」より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が嘗つてはあり、それこそが真の「くらがりやぐら」なのであった。十年も前のものだが、私の「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉古城蹟」の私の注を、是非、見られたい。いや! まてよ? 本作は戦前の作品だぞ?! ということは……実は! 「くらやみやぐら」は、戦前には、残っていたのではないか!?! なお、この城の実戦史は、後の永正九(一五一二)年に、北条早雲に追われた三浦同寸が籠ったものの、三日で落城した記録のみである。

 「Nさん、僕ア人を殺したんです、殺したに相違ないんです!」

 来たぞ、――と私は身構えた。

 「――いや、そう驚かずに、どうか終いまできいて下さい。……あんたは、今井さんが肺病で死んだんだと思っているでしょう? けど、そいつア見当違いで、実はこのわたしが、毒を盛って殺したんです。今でこそわたしア、あの出戻り女が底知れぬ毒婦に思われて、いやでいやでなりません。けど、一時はマルッキリのぼせ上がって、あの女を他愛なく横取りした今井が憎くて憎くてならず、何とかして怨みを晴らしてやろうと、毎日毎夜、仕事そっちのけで考えていました。――するうちに、わたしの店にしょっちゅう出入りしている友達の薬剤師に、半年ほど前、キチガイナスビという毒を貰って、机の曳出しに蔵(しま)っておいたことを思い出したんです、そんな時アたぶん、毒って珍しいもんだという気持ちで、そっと蔵っておいたに相違ありません。あんたは、今井さんがどんなに甘党だかよく知っているこってしょう。一通りや二通りじゃありません。夜中に起き出して砂糖壺を舐めるほど、まアいってみりゃあれも一種の病的なんです。そいつに思いつくと、わるいことをするのが変に嬉しくなり、体中がブルブル震えました。そうだ、こいつで今井を殺してやろう、と決心したんです!」

「しかし――」

「ま、し、静かにして下さい。お願いです!……で、で、――一遍にたくさん盛ったんじゃ必ずバレるに違いない。だからわたしア、菓子の中に少し宛(ずつ)いれて半端もんだといっちゃ持ってって、あの人にたべさせたんです。そのうちに、案の定、今井さんは、段々体が弱っていきました。毒が利いたに間違いはないんです! 何でも、あいつをのむと、徐々に体が参って、気が変になり、終いには死んでしまうんですから! ああ、僕ア、今井さんを殺してしまったんだ!」

 私は驚くよりもむしろ呆気にとられて菓子屋を見戍(みまも)った。ちょっと考えればこんな馬鹿気た話はないのである。もし今井の死が毒殺に拠るものであるならば、彼を診察した医師がそれを見逃すはずはないし、真実に菓子屋が菓子の中にキチガイナスビ(atropin(アトロピン))を投じたとしても、毒物の知識を欠く菓子屋が罪の発覚を惧(おそ)れるあまり、全然無害に終わる程度の少量を混じたに過ぎないのではあるまいか。仮に一歩を譲って、それが致死量であったにしても、菓子屋の不審な挙措[やぶちゃん注:「きょそ」。]に感付いてそれとなく警戒していた今井に、前陳[やぶちゃん注:「ぜんちん」。「前述」に同じ。]のごとき頓狂な贈物を胃の俯に収める勇気があったであろうか。私は菓子屋の肩を抱き、根もない杞憂に心を曇らせる愚を説いた。そして一刻も早く菓子屋を家まで送り帰すに如(し)かず、と左に曲がり掛けた。すると相手は、私の袂を押さえ、まだ帰らないでくれ、もっと聴いてもらいたいことがある、と哀願するので、止むなく右に歩き出した。溝(どぶ)に添うて数十間(けん)行くと、我々の前に再び深夜の海が展開した。

[やぶちゃん注:「キチガイナスビ」「(atropin(アトロピン))」この場合は、「ダチュラ」の名で私は親しい、双子葉植物綱ナス目ナス科チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)属チョウセンアサガオ Datura metel である。当該ウィキによれば、『薬用植物で毒性も著しく強く、「キチガイナスビ」といった別名を持つ』。『全草、特に種子に有毒なアルカロイド成分を含み、誤食すると瞳孔が開き、強い興奮、精神錯乱から、量が多いと死に至る』。『成分はヒヨスチアミン(Hyoscyamine)、スコポラミン(Scopolamine)などのトロパンアルカロイドなどである。植物体の汁が目に入っても危険である』。『なお、キダチチョウセンアサガオ』(木立朝鮮朝顔)『属』(ナス科キダチチョウセンアサガオ属 Brugmansia )の『などの仲間もすべて有毒である』。以下、「中毒事例」の項。『家の畑から引き抜いた植物の根を使って調理したきんぴらを食べた人』二名『が、約』三十『分後にめまい、沈鬱となり、以後瞳孔拡大・頻脈・幻視等の症状を呈して入院。ゴボウと「チョウセンアサガオの根」を間違えて採取・調理し食べていた』。『家庭菜園でチョウセンアサガオを台木としてナスを接ぎ木し、実ったナスを加熱調理し喫食したところ、意識混濁などの中毒症状を発症した』とある。「アトロピン」(但し、英語の綴りは“Atropine”)はC17H23NO3のアルカロイド(alkaloid)。当該ウィキによれば、『アトロピンは天然ではl-ヒヨスチアミンとして存在する。他の抗コリンアルカロイド同様、主にナス科の植物に含まれる』として四種を挙げた中に、「チョウセンアサガオ」が挙がっている。]

 

   五、九月十七日

 

 「そうでしょうか、本当にそうでしょうか?」

 陸に上げられた大きな伝馬船[やぶちゃん注:「てんません」。]に二人が倚り掛かると、菓子屋は再び語り出した。

 「――そうだとすれば本当に助かります。けど、だからといって、わたしの自殺の決心はなくなりやしない!――Nさん、今夜に限って一帳羅(いっちょうら(の洋服を着、夜中の海岸をホッツキ歩いたのにも、チャアンとした訳があるんです。死ぬ時には精々キレイな身なりをしたいと思いましてねえ。……」

 一体菓子屋は、次々に何を語り出そうと言うのであろうか? さすがに物好きな私も、そろそろこの辺から菓子屋に圧倒され始めて来た。それではならじと、視線をギユッと相手に縛りつけて観察の眼を据えた。

 「――それはお葉のことなんです。春栄に邪慳(じゃけん)にされると、わたしの胸に甦ってくるのは、やっぱしお葉の幻影でした。わたしのような一文の値打ちもないヨタモンを、あれほどまでに思い暮ってくれる女はお葉をおいて他にゃアいなんだ、今でもお葉がわたしを容(い)れてくれるならその日にでも鎌倉へつれてきて、二人で一生懸命働こう、-―こう決心すると、昨日の晩、とるものもとりあえず、久方ぶりに神田のお葉の店を訪ねました。ところが、二年前と少しも変わらぬ懐かしい神田の街や店や人ではありましたが、ただ、お葉だけが、もうとっくに、ちっぼけな、情けない、位牌に変わっていました。……」

 「……?」

 「遅すぎたんだ、俺の気のつきようが遅すぎたんだ! お葉のお袋は、泣きながらその新聞を見せてくれました。――」

 「……新聞を?」

 「九月の十七日――Nさんは憶えているでしょう、海岸で雨の降った日、長谷の海岸で女の溺死体の上がった日のことを? あの溺死体がお葉だったんです。お葉はわたしを怨みながら、病体をわざわざ鎌倉まで運んで、そして海へとびこんだんです。――あの日撮った写真にお葉が映ったのも、お葉が死んでいたとなりゃア肯(うなず)けます」

 これはしかし、かなり大きな衝動(シヨツク)であった。あの雨の中の夕景が妙に物淋しく、不吉の風が漂っていたが、もしあの時菓子屋が溺死体を見に行ったとしたら、この度の事件も、後述するようにこれほどアクドイ経過を辿らなかったかも知れぬのだ。私は、一種の宿命論的な虚無感に襲われ、危うく菓子屋が、最早芝居ではなく芯から恐怖している所の幽霊映画の神秘に憑(つ)かれそうになった。私の胸には、幽霊写真に関する米人Hartmanや英人Beattieの記録や数年前東京府下✕✕✕✕橋開通記念写真に現出した竣工犠牲、三人の自由労働者の「幽霊像事件」の未解決に埋没した事実が、徂徠[やぶちゃん注:「そらい」。「去来」に同じ。行き来すること。]した。

[やぶちゃん注:「霊写真に関する米人Hartman(ハートマン)や英人Beattie(ビイテイ)の記録」孰れも不詳。

「数年前東京府下✕✕✕✕橋開通記念写真に現出した竣工犠牲」不詳。

『三人の自由労働者の「幽霊像事件」』不詳。前の三点について、何かご存知の方は、御教授を願うものである。]

 だが、この怪奇(バロツク)も永くは続かなかった。と言うのは、それまで無言で私を凝視していた菓子屋がぐうっと重苦しくのし掛かって来ると、私の手首をギユッと握り締めたからである。私がハッとして思わず、何をするんだ、と詰問すると同時に、右手がガアンと私の左頰に飛んだ。私は突然の故無き乱暴に面喰らい、何をするんだ何をするんだを繰り返し、両手を翳して[やぶちゃん注:「かざして」。]顔面を擁護しながら、後へ後へと退いて行った。菓子屋は顔中を引き攣(つ)らせ、餓鬼大将に苛められた弱虫のようにワアワア泣き喚き[やぶちゃん注:「うめき」。]ながら、続けざまに拳を振り下ろした。最初に受けた鋭い一撃が、私自身の過去における懐かしい殺伐な生活を思い出させた。と、私は奇妙に冷静になり、相手の発作的逆上を鎮めるにはこうするに如(し)かずと、形の崩れを待って力委せの応酬を返した。菓子屋は砂を蹴上げて後ろへつんのめった。そして、案の定、再び起き直らずに、砂地に丸く蹲(うずくま)ったまま、一層高々と泣いた。

 「すんません……かにして下さい[やぶちゃん注:堪忍して下さい。]……Nさんを殴る心算はなかったんだ……ただ無性に、やみくもに乱暴がしたくなったんだ! わ、訳なんてありません……僕、僕アたぶん、気が変になってしまったんだ!」

 それは恐らく噓ではあるまい。私は最早救い難い神経の倒錯を目の辺り[やぶちゃん注:「まのあたり」。]に見て、施す術(すべ)もなく暫時は放心していたのである。

[やぶちゃん注:「怪奇(バロツク)」ウィキの「バロック」に、一六九四『年(バロック期の最中)には、この語』(フランス語:baroque)『はアカデミー・フランセーズ』(l'Académie française:フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する五つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミー)『の辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」と定義されていた』。一七六二『年、バロック期の終結した頃には、第』一『義に加え』(☞)『「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」』『という定義が加わった』とある。]

 

   六、黎明の惨死

 

 夜が、――明けた。春、ではないが、「ようよう白くなりゆく」時が来た。それまでの青黝(あおぐろ)い大気が次第に紫色に変じ、青がことごとく空に吸い込まれると、代わって赤が勝ち、眼を射るような真紅の太陽が闇の底から首を出した。月も星も消え去り、海面の一部が血を流したようにゆらゆらと揺れ始めた。薄(う)っすら霞がかった沖にはあたかも幽霊船のような絵の島[やぶちゃん注:「江の島」のこと。]がぽっかり浮かび出し、大空の扉から流れ出るように薔薇色の微風が私達の頰を撫でた。万象(ものみな)が醒(さ)めたのだ! 夜の次に朝が来るというのは、何という有り難い神様の思し召しだろう! 嗟(ああ)、現世のあらゆる鬼火(イブネス・フアトウイ)を消し払う白色の明るさ!――私は菓子屋を促して、材木座海岸に出る砂丘を登り始めたのである。

[やぶちゃん注:「鬼火(イブネス・フアトウイ)」これは、英語の“ignis fatuus”であろう。特に、「沼地のような場所に、夜、見られる青白い鬼火」を言う。これはラテン語の“ignis fatuus”(音写「インギス・ファトウス」)の同義の熟語が語源であろう。]

 菓子屋は、今流した泪で心の陰(くも)りがすっかり霽(は)れた、もうNさんに心配をかけることはない、僕は今井さんを殺したんじゃないんですね、それで安心だ安心だと繰り返しながら、歩(はこ)ぶ歩調にも力が罩(こ)もって来た。やがて二人は、鎌倉と小坪の海岸を繋ぐ崖淵の、二間幅の狭い道路に差し掛かった。右には電光状の亀裂を生じた数十丈の裸岩[やぶちゃん注:「はだかいわ」。]が屹立し、左には、七八丈の眼下に海を瞰下(みお)ろす豁然(かつぜん)たる展望(パノラマ)が開けていた。崖縁《がけふち》の脊の高い枯れ薄(すすき)がそよそよと弱い音を立て、土岩性[やぶちゃん注:「どがんせい」。]の道に二人の跫音(あしおと)が疳(かん)高く鴫った。潮は最高の干潮時で、眼に入る岸辺の大部分が褐色の岩を露出し、その間を置いてけ堀にされた水がちょろちょろと流れていた。[やぶちゃん注:この岩礁帯が、先に注した「和賀江島」である。]

 心に痛手を負う者は遠くの眺望を避けるものだが、菓子屋は知り合い初めた頃のごとく快活な調子で、懐かしいオハラ節を唄い出した。それが終わると、例によってトゼルリのセレナタに変わった。そして、私より数間先に立って、

 「Nさん、きょうこれから、皆で野球をしませんか? わたしももうだいぶカーヴが抛れる[やぶちゃん注:「なげれる」。]ようになりましたよ。Nさんにもそうそう打たせやしませんよ。ね、しましょうよ、ね?」

 と言いながら、女学生のようにぴょんぴょん跳び撥ねて行った。

 ……数間先の菓子屋が突然立ち留まった。そこは薄も栅もない、二本の丸太ん棒で崖崩れの防いである危険な曲がり角であった。彼は、ちょっとの間崖下を覗いていたが、突然くるりと振り向くと、

 「Nさアん!」と呼び掛けた。「――ここ、ここですよ、わたしがさっきNさんのお宅にゆく前に、春栄を突き落とした所は! あんたは、夜鴉の鳴き声を聞いたことがありますか? あいつア気味の悪いもんですぜ? 僕ア奴と無理心中をする心算(つもり)で、言葉巧みにここまで誘い出して来たんです。すると、どこからか、ガアガアと、ゾッとするような声が聞こえて来ました。そいつが、殺せ殺せ? と聞こえたんです。僕ア急に惨忍な気持ちになって、欺し討ちにやっちまいました。僕ア奴に、死ぬほど惚れているんだ! ははは……Nさんは常談だと思っていますね? ホラホラ見てごらんなさい、わたしもこれから曲芸をやらかすデス!」

 私が駈け寄った時は、既に言い終わっていた。菓子屋は、光なく生気なく、瞳さえないように見える眼に儚い笑いの痙攣を起こすと、体が丸まったままぷいと崖縁から消えた。と同時に、ドスンと鈍い音が響いて、続いてバサバサバサ……と、何かの羽音が黎明の沈黙を破って聞こえた。そして、一疋の、小犬ほどもある大鴉が髪の毛のようなものを啣(くわ)えて眼下から遠く海面に飛び立った。度胆を抜かれた私の砕けた鏡のような眼に、岩と岩との間に墜死した血みどろの菓子屋の姿が、さながら踏み潰された弁慶蟹の形で、幾つにも映った。そして、そこから一間ほど離れた水溜まりの中には、蠟色の下半身を丸出しにした春栄の仰向けの屍体が転がっていた。更にそして、面喰らったことには、――菓子屋の落下に驚いて飛び立った鴉の、嘴も胴も羽根も脚も、要するに何処から何処までが、私には青く見えたのである。

[やぶちゃん注:「弁慶蟹」短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedius 。私の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 コブシガニ / ベンケイガニ』を見られたい。]

 

     ○    ○    ○

 

 付記――最後に読者諸氏は、撮影日と屍体の上がった
 日とが一致を示した幽霊映画の神秘に関して、一応の解
 決を要求するかも知れない。しかし、フィルムは既に焼
 き捨てられて再点 検のよすがもなく、ただ、次の事実
 を付記して、疑問のまま、突っ放すより詮方ない。すな
 わち、―空家となった菓子屋の部屋から、映写の際、ス
 クリイン代わりに用いられた、古 ぼけた掛軸、広耕散
 史作「歌をよむ女」が発見されたが、その裏には表の女
 の顔が浸み出ていたのである。

[やぶちゃん注:「広耕散史」不詳。]

2024/12/11

西尾正 めっかち

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『月刊探偵』昭和一一(一九三六)年六月号(二巻一号)に発表。以下の底本の横井司氏の「解題」によれば、単行本に収録されたのは底本が始めてである由の記載がある。底本は、所持する二〇〇七年二月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅰ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは戦後第一弾となる』とある。なお、底本や解題では、標題を「めつかち」としているが、原作の歴史的仮名遣なら、「めつかち」でよいが、本文でも促音で「めっかち」となっているので、「めっかち」と正した。また、主人公(「語り手」)は既に結核に罹患し、喀血も始まっている。西尾自身の宿痾となった結核の罹患は、戦前とあるのみであるが、横井司氏の「解題」を読むに、遅くとも、本篇発表の前年の昭和十年には罹患していたと読める。既にして、この「語り手」は西尾の影を背負っているのである。

 

 読者に語り手を紹介せねばなるまい。

 ……四五年前のこと、僕は或る目的のためしばらく都会から身を隠す必要上、東京からは大分距(へだ)たった或る海岸地のなるべく人目に立たぬ区域を、間借り探しに歩いたことがあった。

 僕は思想上の犯罪者だったのである。

 しかし――金は持っていた。駅前の貧しい寿司屋で、この辺に独居に適当な部屋を貸す家はないかと問うと、その家のお神は僕の服装をしげしげと検した後――僕は意識的に贅沢ななりをしていた、――少し高いかも知れぬがと言い、或る家の地理を告げてくれた。

 そこは駅から乗合バスで三十分以上も揺られて行かねばならぬ不便な地点であったが、家は北方に山を背負う平家建ての庭に泉水などの見える、豪壮な邸宅であった。朝晩吐く痰の中に血の混じるようになった虐げられた肉体を養うためにもそこは最適であった。

 呼鈴(ベル)の音に現れたのが色白の肉乗りのいい、四十歳前後の見るからに健康そうな女であった。話はすぐ纒(まと)まり、纒まりついでに茶を飲んで行けと言うので案内をされた茶ノ間に入ると、壁には三味線が寄り懸かり、部屋の調度も何がなく艶めかしく、年増女(としまおんな)の残(のこ)んの色香が仄(ほの)ぼのと漂うているのであった。長火鉢を間(あいだ)に、営利の目的で部屋を貸しているのではないこと、――事実間代(なだい)は莫迦に安かった、家が広過ぎて物騒(ぶっそう)でもあるし淋しくもあるので、なるべく永くいてもらいたいとか、かなりみず瑞(みず)しい声で語ったが、その間中(あいだじゅう)、絶えず白い足袋の破れを繕(つくろ)っているのであった。それが室内の雰囲気とはうらはらのすこぶる淑(つつ)ましい感じで、見ると、盛り上がった膝の前には空の蜜柑箱が置かれ、その中には繕わるべき白足袋が一杯詰まっているのであった。[やぶちゃん注:「残(のこ)んの」(底本にはルビはない)は連体詞で、「殘(のこ)りの」の音変化。「未だ残っている」の意。]

 僕は翌日から庭に面した離れの八畳に住むことになったのである。

 主人は女とは同年配くらいの色白の、しかしひょろひょろに瘦せた、寒巌枯木(かんがんこぼく)のような男であった。職業はよく判らなかったが、朝はあまり早く出掛けず帰宅する時間もまちまちで、いずれは道楽半分に何かの外交でもしているのではないかと思われたが、性格は極端に無口で人見知りで、しかも常住(じょうじゅう)左眼(ひだりめ)に黒いガーゼの眼隠しを当てがい、それを取り外したことがなかった。が、悪人でないらしいことは偶(たま)に廊下などで出会う時(とき)体をもじもじさせいたたまれぬくらいのはにかみを見せる点や、髪を青年のように房(ふさ)ふさと長く延ばし、もう一つの眼のぱっちり澄んでいる所など、幼児のように無邪気な感じを与えた。暗い、秘密ありげな眼隠しなど除(と)ってしまえば、顔だけは、相当の美男であると想われた。[やぶちゃん注:「寒巌枯木」(底本にはルビはない)世俗に超然とした悟りの境地のたとえ。「枯れた木と冷たい巌(いわお:高く大きな岩)」の意から。仏教、特に禅宗で、「枯木」・「寒巖」を、「情念を滅却した悟りの境地」に譬える。また、情味がなく、冷淡で取っつき難い態度・性質などの喩えに用いられることもある(ここでは、初回印象には後者の意も含まれる)。「寒巖枯木」とも言う。]

 総て家庭のヘゲモニイを握っているのは奥さんの方であるらしかった。と同時に奥さんは主人を必要以上に劬(いたわ)っているようであった。単純な風邪でもチブスのように大騒ぎをした。そういう時でないと存在を忘れてしまうくらい主人は陰気で、影のように目立たなかった。[やぶちゃん注:「ヘゲモニイ」(ドイツ語:Hegemonie /英語:hegemony ) 原義は「指導的・支配的な立場」。また、「そうした権力・主導権」。緩やかな意味の主導権の意である。「チブス」「チフス」に同じ(ドイツ語:Typhus /オランダ語: typhus )「腸チフス」・「パラチフス」・「発疹(ほっしん)チフス」の略称であるが、特に「腸チフス」を指すことが多い。]

 家は静かで淋しかった。聞こゆるものとては、時折思い出したように起こる裏山のざわめきと、寺院の打ち出す儚(はかな)い鐘の音や名の知れぬ山鳥の鳴き声だけであった。僕は明け暮れ小説本ばかり読んで過ごした。するうちに女が、僕の部屋へ話し込みに来るようになった。僕は事実懺悔(ざんげ)をするような気持ちで自分の身分を打ち明けたが、女は別に動ずる気色(けしき)もなく、此処は田舎だからたぶん戸籍調べにも来ないでしょうよ、と言い、如何にも苦労人らしい恬淡(てんたん)さを示した。この夜を堺(さかい)に主人と間借り人との間は急に親しくなって行った。[やぶちゃん注:「恬淡」(底本にはルビはない)は名詞・形容動詞で、「あっさりしていて物事に執着しないさま・心やすらかで欲のないこと(そのさま)」を言う。]

 「幸福なのか不幸なのか、今ではともかく平和にくらしてはおりますが、わたくしどもの過去はめったに人さまには語れぬ、ふしぎな因果につきまとわれていたのです……」

 女はこう前置きをすると、次のような怪談染みた身の上噺(みのうえばなし)を語った次第なのである。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 霜凍(しもこお)る初冬の冷たい夜のことであった。尚子は俯向(うつむ)いたまま或る郊外の道を大股に歩いて行った。時折鋭い風が彼女の頰を剌した。生来(しょうらい)あまり健康でない尚子は、晩秋から初冬への移り代わりに起こる不意打ちの無作法な寒さには、いつも悒鬱(ゆううつ)になるのであった。

 夜の九時――新開地の商店街は早目に灯を落として眠り四周(ししゅう)は暗く、寂寥(せきりょう)として、尚子の下駄が霜を含んだ地面にさくさくと鳴った。

 その夜(よ)尚子は友人の加留多(かるた)の稽古に招かれたのであった。会半ばにして何となく悪感(おかん)を覚えた尚子は好い加滅に義理を済ませ、一人窃(そ)っと逃(のが)れて来たのであった。寒さに怯(おび)え、明日(あした)辺り風邪で起きられないのではないかと案じつつ、深ぶかとショオルに顎を埋め、一層大股に歩いた。

 郊外の田舎駅は閑(は)ねた後の芝居小屋のようにひっそりしていた。周囲に暗い野原が展(ひら)け、構内だけが弱い電灯の光を放ち、幻灯のように浮かび上がって見えた。そしてその中に、改札口の駅員がパンチを措(お)き、脇眼もふらず部厚い書物に読み耽っている姿があった。[やぶちゃん注:「措(お)き」(底本にはルビはない)手元からのけて。]

 尚子は小刻みに改札口へ近寄って行った。切符を渡し何気なく駅員の顔を見遣った時、尚子の胸は震えた。

 もちろん駅員の方は尚子を見知っている訳はなかった。彼は無造作に切符を戻し、新来の客に機械的な一ベつを与えただけですぐまた、読みかけの書物に眼を落とした。

 古ぼけた、頂辺(てっぺん)に埃の浸み込んだ駅員帽、色褪せた纔(わず)かにアイロンのかかった制服――男は平凡な駅員に過ぎなかった。ズボンの裾が先の持ち上がった黒靴の上に被(かぶ)さり、短い上衣(うわぎ)の下から垂るんだ臀(しり)の突き出ている態(てい)は如何にも見すぼらしく、背を一層畸型的(きけいてき)に細く見せていたが、帽子の下から髪にかけてはみ出している真黒な頭髪、濃い両眉から真っすぐに浮かび上がった鼻梁(びりょう)、幾分か尖り気味のおとがい、そしてそういう鋭い線の中に、打って変わった柔和に輝く双眸(そうぼう)、むしろやや寠(やつ)れ気味の青白い頰――それらは尚子の記憶から古く、遠く、遠離(とおざ)かるともなしに遠離かり行き、今や全く意識の外に在った男、そしてよし一時は念頭から消えていたとは言え、最早癌のように固く根を張った面影、それであった。

 ――尚子は七八歳の頃から奇妙な夢を見続けていた。両親をはじめ誰もが一斉にそれを夢であると断定したが、尚子自身にはどうしても単純な夢とは思えなかった。

 夜中であった。それも静かな、雨や風の音のない、森羅万象が尽(ことごと)く深い眠りに堕ち大気が微動だもせぬ、死のような沈黙の夜に限っていた。尚子は何処(どこ)からともなく聞こえて来るびいんびいんと言う得体の知れぬ音のために定(き)まって眼を覚ますのであった。それは博(う)っている胸の鼓動と同じテンポであたかも彼女の弱い心臓を脅かすように、幽(かす)かに、その癖(くせ)重おもしく響いた。

 びい――ん

 びい――ん

 びい――ん

 尚子は、その音の正体を確かめようとし、耳を澄ませた。それは蚊細い絃(げん)を何処か遠くの空からピツィカアトで奏でている音律に似ていた。が、音響的なハアモニイもなく、ただ徒(いたずら)にびいんびいんと響くのみでそれがかえって不気昧に思われた。彼女は両手で耳を披(おお)うた。それでも聞こえた。段(だん)だん尚子は恐ろしくなった。固く、聴くまいとすればするほど音は弥(いや)が上にも高くなり優(まさ)り行くように思われた。彼女は仰向けに横たわったまま布団から首だけ出し、聞くまいとする試みを諦め、眼の前の壁をぱっちりとみつめた。[やぶちゃん注:「ピツィカアト」ピッツィカート(イタリア語:pizzicato)は、ヴァイオリン属などの、本来は弓で弾く弦楽器(擦弦(さつげん)楽器)の弦を指で弾くことによって音を出す演奏技法。]

 と、――その壁に男の顔が映り始めた。彼女は最初誰かが彼女の寝室を覗(のぞ)いているのではないかと思った。数日前尚子の母が、誰か母の入浴姿を覗く者がいると語ったのを聞いていたから……。しかし、そこに窺(のぞ)かるべき窓のないことは尚子自身が一番よく知っていた。そこは一面の冷たい灰色の壁であった。

 男の映像は次第にはっきり泛(う)かび上がった。長い真黒な髪の毛、青白い面長(おもなが)の顔、秀でた鼻、薄い真赤な唇、そして――男はめっかちであった。

 尚子は夢だ夢だと心で叫んだ。するうちに達者な右の眼が時折ぱちりぱちりと瞬き、唇が微笑を含んで、歪んだ眼も唇も柔和であった。が、それだけ怕(こわ)かった。眠がやがて眠るように閉じられてしまう。

 八歳の尚子はいたたまれず、あっと叫びを立て、廊下を距てて眠っている母の胸許(むなもと)に飛び込み、震えた。

 「――ママ、怕いの、ママ!」

 この時は既に絃の音も壁の中の男も消え、澄み切った薄明(はくめい)と静寂があるばかりであった。

 夢中遊行、小児ヒステリイ、欧氏管(おうしかん)カタル、有熱児、――尚子を診察した医師はこう様ざまに呼んだ。が、その医師の尽くが、年頃になれば丈夫になるかも知れぬと言い、一斉(いっせい)に転地療養を薦めた。[やぶちゃん注:「欧氏管(おうしかん)カタル」(底本にはルビはない)滲出(しんしゅつ)性中耳炎。中耳内の滲出液によって発症する。急性中耳炎の不完全な治癒、又は、感染を伴わない耳管閉塞に起因する。症状は難聴・耳閉塞感・耳の圧迫感などがある。大半の症例は二~三週間で回復する。一~三ヶ月経っても、改善がみられなければ,何らかの形の鼓膜切開術が適応され、通常は鼓膜チューブの挿入を併用する。抗菌薬、及び、鼻閉改善薬は効果がない(サイト「MSDマニュアル・プロフェッショナル版」の「中耳炎(滲出性) (漿液性中耳炎)」を参照したが、私は航空性中耳炎原発の同疾患をヴェトナム到着前に左耳管に罹患し、同地の救急病院の女医で英語で症状を述べ、処方を受けた経験がある。旅(四泊五日)から帰って一週間ほどで、ほぼ治ったが、高音の聴覚低下が後遺症として今も残っている)。「欧氏管(おうしかん)」(底本にはルビはない)中耳の鼓室と咽頭腔を繋ぐ「耳管」(じかん)の別名。イタリアの医学者・解剖学者エウスタキス・バルトロミオ・エウスタキオ( Eustachius Bartolommeo Eustachio 一五〇〇年又は一五一四年~一五七四年)が発見したことに由来し、「エウスタキオ管」(英語:Eustachian tube )とも呼ぶ。女医が「エウスタキオ」と私が言った際、笑って、頷いていたのを思い出す。「有熱児」乳幼児は、成人よりも平熱が高く、摂氏三十七・五度以上を発熱とすることが一般的である。発熱は受診の目安にはなるが、熱の高さは必ずしも疾患の重症度と相関しない。]

 長ずるにつれ案の定尚子の木のようであった胸や腰にも肉がつき美しい娘にはなったが、夢は一度で消えはしなかった。そしてこの娘の青白い情熱が奇怪な方向に注がれて行った。尚子は幻の男に一種の懐かしさを覚えるようになったのであった。眠られぬ物倦(ものう)い春の宵など、尚子は自身その夢を見るよう秘かに祈ることがあった。その祈りが真夜中に叶うと彼女の胸は妖しく高鳴り、此方(こちら)から微笑(ほほえ)み返してやりたい淡い衝動を覚えた。かつて恐ろしかった絃の音ですらも、若い、恋に憧れる血を搔き立てるセレナタの爪弾(つまび)きに似ていた。[やぶちゃん注:「セレナタ」所謂、本邦では「夜曲(やきょく)・小夜曲(さよきょく)」と呼ばれる、夜に恋人のために窓下などで演奏される楽曲。セレナーデ(ドイツ語: Serenade)で、ここは、イタリア語のSerenata(音写「セレナ(ァ)タ」)の音写。]

 壁の中の幻の恋人!

 弱々しい陰性の花にも慕い寄る雄蝶(おすちょう)は多かった。尚子は、しかしこれらに眼を呉れる先に、この言葉に憑かれていた。

 (――あの人……あの人はいったい誰なんだろう? 一度も見たこともなければ、誰にも似ていない、あの人……ことによったら、この世に実際いる人なのではないだろうか? そして、いつか、出会うことができるのではないかしら?……)

 この感傷は根強かった。夜半寝室にただ一人(ひとり)蠟燭を灯して鏡を覗くと未来の夫となる男の面影が映るという伝説とともに、尚子は多分それは彼女自身にしか体験し得ぬ不図した神秘のサジェスチョンによって、この固定観念を抱いたに相違なかった。――幻の男、身分も素性も判らぬめっかちの男こそ、彼女の夫となる男であるに違いないと。[やぶちゃん注:「サジェスチョン」英語:suggestion。示唆。暗示。]

 ――言うまでもなく、加留多会の帰途尚子の見た田舎駅の改札係こそ、壁の中のめっかちに生き写しの男であった。

 駅員の二つの眼は、しかし、健全であった。

 

 小石川蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)裏手の貧乏長屋であった。尚子の姿がこの裏街の不潔な溝川(みぞがわ)の傍らにたたずんでいた。尚子の前に庇(ひさし)の低い、亜鉛屋根の階屋が埃を浴びて並立してい、路地路地の口からは夕餉(ゆうげ)の鮭を焼く煙が無風の、幾分雨気を含んだ低い空に向かってゆらゆらと立ち昇っていた。[やぶちゃん注:「蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)」(底本にはルビはない)現在の東京都文京区小石川二丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「源覚寺」によれば、『寛永元』(一六二四)年に『定誉随波上人(後に増上寺第』十八『世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保』一五(一八四八)年の『大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ、寛文』一二(一六七二)年に『に修復された記録がある』一『メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間』(一七五一年~一七六四年)『に一人の老婆が眼病を患い』、『この閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来』、『この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年』一『月と』七『月には閻魔例大祭が行われる』とある。――いや! 何より――私の教え子たちは、夏目漱石の「こゝろ」の最初のクライマックスに登場することで、記憶にあるであろう。私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」を見られたい。先に示した地図の中央附近に、先生とKの高級下宿は、あったのである。

 何処かで豆腐屋のラッパが鳴った。

 尚子は電柱の蔭から斜めに、駅員と彼の老母との佗びずまいを窺(うかが)っていた。無細工な格子の奥で、緋に寛(くつろ)いだ駅員と老母が小さな膳を囲んで夕飯を認めていた。

 何時ぞや、よもやの幻と現実に逢い初めて以来、尚子は如何なる第三者にもこの秘密を秘め隠した。秘密はすなわち恐怖であったが、物思いは哀恋に似た感情であった。何者にも優(ま)して強烈な乙女の好奇心は、幾度窃(そ)っと遠見に駅員の動静を探りに行ったか知れなかった。

 この日駅員の姿は改札口に見えなかった。尚子は失望したが再び構内に戻った時、彼女と同方向に向かう電車に乗る彼を認めた。早退(はやび)けに相違なかった。尚子は己(おの)が端(はし)たなさに嫌悪を感じながらも、男の痕(あと)を尾行しない訳には行かなかった。

 駅員は車中絶えず部厚い赤い表紙の書物を眼から離さなかった。電車が春日町(かすがちょう)に着くと几帳面に栞(しおり)を挟み小脇に抱え、眼を前方に向けたまま脇眼も振らず伝通院(でんづういん)の方に足早に歩いて行った。それは理想や希望に燃える生真面目(きまじめ)な青年を想わせた。溝川に添うた道を右に入ると、街の風貌が突然暗くせせこましくなった。男は「室井健」と書かれた標札の下りている長屋の土間に入り、奥に向かって快活に呼ばわった。[やぶちゃん注:「春日町(かすがちょう)」(底本にはルビはない)当時の東京都電の駅名。現在の春日町交差点(グーグル・マップ・データ)附近にあった。「伝通院」現在の文京区小石川にあり、正式には浄土宗無量山伝通院寿経寺(じゅきょうじ)。やはり、「こゝろ」の重要なロケーションのマルクメールの一つである。前の地図の左上方に配しておいた。]

 「――ただいまア!」

 茶ノ間には何時(いつ)か電灯が灯っていた。茶ノ間の奥にはこじんまりとした仏壇が飾られ、その前で腰の曲がった老母と居住居(いずまい)正しく夕餉の箸を運んでいるプラトニックな青年の姿が、何故か尚子の心を叩いた。窓を通して仄見(ほのみ)える人の世の営みこそ、もののあわれ――それが平和で幸福なものであればあるだけ、尚子は居堪(いたまた)まれぬ佗しさを感じた。

 少女時代からの恋人があまりにも見すぼらしい一介の改札係に過ぎないことも、最早尚子には問題ではなくなっていた。

 

 翌々年の春二人は結婚した。男は既にその時母を喪った孤児であった。春とは言い条(じょう)、大きな牡丹雪が音もなく舞い落ちる冷えびえとする日、尚子と駅員の肉と心とが厳(おごそ)かな神前で一つに結ばれたのであった。

 男は詩人であった。が、彼の「室井健」という名は一度も活字に刷られたことがなかった。

 二人の新家庭は室井の希望で、市中からはずっと奥まった草深い田舎に設けられた。家の前には魚の骨のような寒ざむとした雑樹林(ぞうきばやし)が立ち並び、その向方(むこう)に古沼が澱んでいた。遠くに市外電車の土手が見えた。夜になるとこの電車の警笛が、身に浸み入るように淋しく聞こえた。

 室井は尚子を心から愛した。愛し過ぎるほど愛した。尚子の外出の時間が長いとどんなに淋しかったか知れないと、べそを搔きつつ怨み言を言った。けれど尚子は、室井が彼女を愛するほど、彼を愛してはいなかった。

 (わたしは室井を、もっともっと愛さなければいけないんだわ。……)

 尚子はこう自分に言い聞かせ、燃え立たぬ熱情を悲しんだ。過去一切の交際を絶ち、二人だけの生活に閉じ罩(こ)もろうとし、下女すらも二人の巣を破壊する闖入者(ちんにゅうしゃ)として使(つか)おうとはしなかった。夫は書斎に閉じ籠もり、瞑想と思索の時間を送った。

 雨の降る日など、

 「尚子さん、僕アいつか立派な詩を書きます。どうかそれまで待っていて下さい。……」

 室井はこう前置きしてから、「嘆きのピエロ」の Jacques Catelain のような夢見るような表情で、自作の詩を高らかに唄って聞かせることがあった。中音の、声それ自身は歌唄いのように美しかったが、作品はしかしあまりにも稚拙で、人の真の喜びや哀しみに触れたものではなかった。[やぶちゃん注:「嘆きのピエロ」「Jacques Catelain」フランスの映画人ジャック・カトランが、脚本・監督・主演を担当した‘ La Galerie des Monstes ’(直訳で「怪物たちの展示場」)の邦題。一九二四年制作のサイレント映画。シノプシスは、サイト「映画.com」のこちらを見られたい。私は、映画の評論で話としては知っているが、生憎、作品自体を見ていない。]

 が、尚子は極まって、

 「……素敵だわ」

 と、低い声で言った。

 詩作に飽きると壁際に寝転び、細い脚を重ね、

 「ああかかる日のかかるひととき……」

 とか、

 「小諸なる古城のほとり

 雲白く

 游子悲しむ……」

 とか、大きな声で唄いながら、煙草の煙を吐いたりした。晴れた日には、近所の沼へ鮒(ふな)を釣りに行くのだと言い、魚籠(びく)を提げ、釣竿を担ぎ、口笛を吹き鳴らしつつ颯爽と出て行くのであった。

[やぶちゃん注:「ああかかる日のかかるひととき」は、梶井基次郎の「城のある町にて」の冒頭にある「ある午後」のコーダ部分に出てくる。正確には、少し、表記が異なるので、前後(ラストまで)を引用する。

   *

 空が秋らしく靑空に澄む日には、海はその靑より稍々溫い深靑に映つた。白い雲がある時は海も白く光つて見えた。今日は先程の入道雲が水平線の上へ擴つてザボンの內皮の色がして、海も入江の眞近までその色に映つてゐた。今日も入江はいつものやうに謎をかくして靜まつてゐた。

 見てゐると、獸のやうにこの城のはなから悲しい唸聲を出してみたいやうな氣になるのも同じであつた。息苦しい程妙なものに思へた。

 夢で不思議な所へ行つてゐて、此處は來た覺えがあると思つてゐる。――丁度それに似た氣持で、えたいの知れない想ひ出が湧いて來る。

「あゝかゝる日のかゝるひととき」

「あゝかゝる日のかゝるひととき」

 何時用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――

「ハリケンハツチのオートバイ」

「ハリケンハツチのオートバイ」

 先程の女の子らしい聲が峻[やぶちゃん注:「たかし」。主人公の名。]の足の下で次つぎに高く響いた。丸の內の街道を通つてゆくらしい自動自轉車の爆音がきこえてゐた。

 この町のある醫者がそれに乘って歸つて來る時刻であった。その爆音を聞くと峻の家の近所にゐる女の子は我勝ちに「ハリケンハツチのオートバイ」と叫ぶ。「オートバ」と言つてゐる兒もある。

 三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。

 遠い物干臺の赤い張物板ももう見つからなくなった。

 町の屋根からは煙。遠い山からは蜩。

   *

なお、全文は「青空文庫」のここで、全文が読める。但し、新字新仮名である。

「小諸なる古城のほとり……」は、言わずもがな、私の大嫌いな島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」の冒頭の二行。

 けれど――この平和、平和な退屈(アンニュイ)も、二年とは続かなかった。何故か尚子はまたしても物倦(ものう)い不眠症に襲われ出した。[やぶちゃん注:「退屈(アンニュイ)」フランス語 ennui 。「退屈・倦怠感」及び「何かをする気力や興奮がなく、時間が過ぎるのを、ただ待つだけの状態」を指す語で、英語にも取り入れられている。特に十九世紀のフランス文学に於いて、よく用いられ、社会や生活に対する無感動、飽き飽きした感情を表現する代名詞でもあった。]

 

 室井には結婚前から恋人がいるらしいのであった。ほとんど手紙など着いたことのない二人の家庭にしばしば男名前ではあるが女文字の手紙が室井の手許に配達されるようになった。室井はそれらの手紙をできるだけ尚子の前から隠そうとした。その癖(くせ)決して破り捨てようとはしなかった。或る日尚子は、見るともなしに不図(ふと)室井の日記帳を繰った時、そこに過去の女を讃える数篇の詩作を発見した。純情を装う室井の心の奥底から、凄まじい悪魔の吐息を感じた。かつて貧しく寄る辺(べ)のない室井が安逸な生活のための手段として自分を喰いものにしたのではないかと疑った。

 と同時に、室井の心を捉えている見えざる女に対し劇しい嫉妬を覚えた。

 

 (――無能で、平凡で何一つ取柄のない室井……こんな男のどこにもわたしは魅力を感じてはいないのだ。ただわたしは、わたしの運命を支配する幻の実体として室井と結婚したのだ……だのに、どうしてこんなにもはげしい嫉妬にくるしまなければならないのだろう?)

 ……不眠のまま茫然と天井をみつめている時や入浴時裸体で鏡の前に立つ時など、尚子はつくづくこのまま生活を続けて行ったら、何時か大きな破綻が来るのではないかと惶(おそ)れた。鏡に写る彼女の肉体は、一時(いちじ)の撥溂(はつらつ)さを全く喪(うしな)い、そこにあるものは細い、冷たい蠟燭のような肢体――恐ろしい少女時代の再現に過ぎないのであった。彼女は迫り来る破局を予感し、そういう時、薄い胸を抱いて震えた。

 

 驚くほど真暗(まっくら)な夜であった。下界は無限の暗闇(くらやみ)に呑まれ恐怖に竦んだ、深い沈黙に動かぬ夜であった。

 びいん……びいん……びいん……絃の音がまた何処からか聞こえ出し、尚子はぱっちり眼を覚ました。

 それは十年以上も聴かなかった、例の静寂の大気が顫(ふる)え出す音のような暗示であった。尚子ははっとして身を縮めているうちに、音は今まで経験したことのないほど次第に早く、大きくなり優って行った。

 びいーん

 びいーん

 びいーん

 尚子は怖しくなった。

 と同時に、それは何と言う奇態な、胸の膨らむような懐かしさなのであろう?

 (この音だ、この音だ!)

 尚子は心中から叫びつつそれがどういう音律に変化して行くか、果してまた、あのめっかちの男が壁の中に現れるか、全身を眼と耳にして待ち構えた。

 びん……びん……びん!

 音は尚子の心臓とともに震え始めた。

 と――壁面の一部が薄雲のように揺れ始め、見る見る例の周囲のぼやけた vignette 風の幻の男が現れた。[やぶちゃん注:「vignette」これは、元はフランス語で「ヴィニェット」、「輪郭をぼかした絵」の意であろう。英語にも取り入れられている。他にも別な意味はあるが、ここは前の形容から、それで、決まりである。]

 「うーん、うーん……」

 尚子は唸った。

 久し振りで尚子に会いに来た男は八歳の頃と寸分の相違もなかった。尚子は年を取ったが、男は依然若く、青白く右の眼を屢(しばしば)叩(はた)きつつ、思いなしか、奥深い瞳の裡(うち)には隠し切れぬ懐かしさを湛(たた)えているように見えた。

 (神様、どうぞどうぞ教えて下さい!)

 尚子は荒れ狂う感情の暴風の中で、両手を胸の上に組み、一心不乱に祈った。

 (神様、――現在の室井は、この壁のなかの男とは違うのでしょうか?……そうだ、そうだ、確かに違う!……室井はふたつの眼を持っている!)

 音はますます烈しく鳴った。のみならず片眼だけがにやりにやりと嘲笑(あざわら)い、一ノ字(いちのじ)に結ばれた蚯蚓(みみず)のような唇が冷酷に蠢(うごめ)いた。

 

 むっくり、尚子は起き直った。息を殺し、隣に眠っている室井を伺った。

 室井は就寝前必ず本を読み、書いた原稿は几帳面に閉じ、枕許に揃えて置くのが習慣であった。そして緑色のスタンド・ランプが、原稿の束の上に、鋼鉄の鋭い尖端を晃(ひか)らせた一本の錐(きり)を冴えざえと照らし出していた。

 (夢だ、わたしがしようとしていることは、みんな夢なんだ)

 尚子は窃(そ)っと錐を取り上げた。

 「どうしたの、尚子さん、どうしたの?」

 それまですやすやと快い寝息を立てていた室井がぱっちり澄み切った眼を開いた。その眼には、近頃病身の尚子を劬(いた)わる優しい光があった。その呑気な、お人好しな、些少(すこし)も警戒の色を見せぬ無心の室井が、キリキリと尚子の嗜虐心(しぎゃくしん)を煽(あお)った。[やぶちゃん注:「些少(すこし)も」底本にはルビはない。通常なら「さしょう」と読むところだが、このシークエンスに於いて、「さしょう」では、リズムが上手くないと判断して、かく、読んだ。]

 「いいえ、何でもないのよ。ただ眠られなかっただけなのよ。何でもないの、何でもないの」

 尚子も笑って見せた。左手を突き、息を詰め、体をよじるようにして握った錐を室井の左眼に突き立てた。

 「な、何をする!」

 室井は尚子の手を払おうとした。が、それは尚子の手首に逸(そ)れて行った。錐は最初白眼(しろめ)を突いたのであろう、固いゴム鞠(まり)に似た鈍重(どんじゅう)な弾力があった。尚子はすかさず持ち直した。柔軟なむしろ快い感覚で、錐の尖端が二寸ほどズブリと剌さった。

 「尚子、尚子!」

 室井は無気味に叫び、両手で顔を抱えたまま、転げ回った。

 白い敷布がたちまち赤点(せきてん)で彩られた。

 ……何時の間にやら壁の中の男は消え、啻(ただ)濫(みだ)らに絃の音が前よりも一層早く烈しく鳴り続けていた。それがぴたりと歇(や)んだ時、尚子ははじめて我に帰った。

 事前の幻想は眼前の酷(むご)たらしい現実に転じた。彼女ははじめて何をしたかを悟った。

 「ああ、ああ!」

 尚子は口をまんまるにし幼児のように哭(な)き出した。

 「こわいよオ、ママ、こわいよオ!」

 尚子の半狂乱の姿がその家から逃れ出た。一直線に畔(あぜ)を伝って疾走する彼女の姿は狂った犬族(いぬぞく)に見えた。畔が尽きると、雑木林の奥の真黒な闇の中に、尚子の体が吸い込まれた。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 「その時、どこをどう走っているのだかただ夢中で走りました。そうして、とうとう林の奥の沼のなかへとびこんでしまったのでございます」

 長い話をこう語り来(きた)った女、すなわち尚子夫人は、次のように結尾(むすび)を付した。

 「――これで、わたくしの永年の迷妄もすっかりさめてしまいました。はい、そうです、げんざいの夫が室井なのです。――それで、それで……」

 夫人はちょっと言い澱(よど)み、再び過去の恐怖に憑(つ)かれたかのように空間をじっとみつめた時、玄関の開く音が聞こえ室井の帰って来た気配に、つと立って襖(ふすま)まで行き振り返り、しかし眼は、依然として左(さ)あらぬ方を凝視したまま、秘めやかに、その癖せかせかと囁いた。

 「……それで、それなり、ほんとうならば古沼におぼれてしまったのでしょうが、運というものはまことにふしぎなものですわね。その夜、ちょうどその沼で夜釣りをしていた人に助けあげられたのです。ふちのくさむらに寝かされてすぐ気がつきましたが、くらやみのなかのほのかなカンテラの灯影(ほかげ)に照らしだされた男の顔を見た時には、キャッとさけんでもういっぺん悶絶してしまいました。あとでわかって、その命の恩人はふきんのアトリエに住む絵かきさんでしたが、こういうことにどういう理屈をつけたらよろしいのでございましょうね。その方こそ壁のなかのまぼろしにすこしもちがわぬ、めっかちの男だったんですよ」

 

[やぶちゃん注:最後に一言。冒頭、狂言廻したる「語り手」について、一人称で『僕は思想上の犯罪者だったのである』と語らせている。初回の前注で、ちょっと述べたが、西尾は、戦前の後期に一度、筆を折って、保険会社に勤務しており、戦中は、彼は作品を書かず、沈黙を守っている。この「語り手」の言葉には、実は、海外の小説を、かなり読んでおり、近現代ヨーロッパの知識も芸術上の相当にある(彼は慶應の経済学卒である)。実は、彼は内心、社会主義者とまでは言わずとも、その心情的なシンパであったか、少なくとも、良心的反戦主義者であったのではなかったか? と感じていることを言い添えておきたい。

2024/12/03

西尾正 守宮(いもり)の眼

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『ぷろふいる』昭和二一(一九四六)年七月号(通巻一号)に初出。底本は、所持する二〇〇七年三月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅱ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。傍点「﹅」は太字に代えた。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは』西尾正の『戦後第一弾となる』とある。]

 

 守宮(いもり)の眼

 

 ……馭者が急に手綱(たづな)を引いたために、馬が鬣(たてがみ)を振って跳躍し、ひひーんと一声高く嘶(いなな)いた。

 車輪がそれに伴(つ)れて、乾き切った街道に苦し気な軋音(きしりおん)を挙げて、車体は、前後左右にがらがらと揺れた。

 この馭者の処置はどうも普通ではない。

 何故なら行く手は、森こそ深く繁るれ、長い、平坦な道が白々と続いて、邪魔者らしいものは何一つ視界を遮ってはいないのだから。

 与志枝は突嗟に揺り上げられ、体が平衡を喪(うしな)って、覚えず青沼の腕に縋(すが)りついた。

 はっとして身を引いた時は既に男の、鋭い、見透かすような眼を頰に感じ、辛うじて蹴込(けこ)みに視線を落としたまま、しばらく胸の動悸をそれとなく押し殺していた。[やぶちゃん注:「蹴込み」この場合は、馬車に乗り降りする階段(ステップ)を指している。]

 「どうしたんだ?」

 青沼の声は、容貌の端麗な割りに、重い低音(バス)である。

 馭者が大仰(おおぎょう)に両眼を眩(みは)って、振り返りざま喘(あえ)ぐように言った。

 「旦那、青斑猿(あおまだらざる)に邪魔されました。もうこれ以上、車を進める訳には行きません!」

 陽に灼けた逞(たくま)しい頰からは血の気が失せ、手綱を握り締めた腕がぶるぶる震えて、中腰に己(おのれ)を支えている態(てい)は、何か、よほどの心的衝動(ショック)を受けたものと見える。

 何時(いつ)か与志枝の手は、同乗の青年の女のように細く、白い指に握られていた。彼女はそれを反撥しようとする意思と、従おうとする感情との相剋(そうこく)に、自分を腹立たしく思った。

 青沼は、逃れようとする女の指を、別に追おうともしない。

 「何だね、その青斑猿というのは?」

 「旦那はまだ、青斑猿のたたりを知らねえですかね?」

 馭者は意外の面持ちとともに、背後に己を脅かすものの潜むのを惶(おそ)れるように、窃(そつ)と声を忍ばせた。

 「こいつア恐ろしい奴です。こいつに道を横切られると、三日のうちに身内のもんが死人になるとか、家から理由の判らねえ火が出るとか、いろいろ取り沙汰されて居りますだ」

 そして、賺(すか)すように恐る恐る行く手に首を捻じ向けると、途端に嗄(しゃが)れた、頓狂(とんきょう)な叫びを挙げた。

 「ほら、ほら、あすこです!」

 車上の青年は馭者の唐突な驚き方に、腹を立てるよりかむしろ、可笑(おか)しくなったらしい。

 しかしなるほど、指差(ゆびさ)した所は十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ほど距たった苔蒸した岩で、その岩は、渓流に沿い、後ろに紅葉(もみじ)の繁みがあった。薄暗がりの中に一疋の野猿(やえん)が後脚(うしろあし)だけで立ち、腹部を見せて三人を代わるがわる瞶(みつ)めていた。その眼は変に疲れたようだった。両手を力なくだらんと垂らしてい、胸から胴に掛けて青黒い毛並みが、暮近い弱い夕陽の加減で斑(まだら)のように見えた。

 その鈍い様子ではよほどの老猿(ろうえん)なのであろう、が、好奇と恐怖の物々しい三つの視線を受けていることを悟ると、さすがに気まずくなったものか、照れるように面(おも)を叛(そむ)けて岩から岩を伝い、渓流の水際に繁茂する樹立(こだち)の中へ、ぴょんぴょんと跳び去って行った。

 「仙造、お前のような若者が下らぬ迷信に取り憑(つ)かれていては困るね。第一、こんな所で降ろされては、ここにおいでの美しいお嬢さんが、途方に暮れてしまうじゃないか。やってくれ、早く!」

 「迷信? 飛んでもねえこった」

 仙造と呼ばれた単純な馭者は、ひたむきにこう反駁(はんばく)した。

 「俺も始めア馬鹿らしい迷信だと思って居りました。けンど、源(げん)の野郎がやられてからは迷信たア言っていられなくなりましただ」

 「源?」

 「はあ。源は猟師です。山からの帰るさ、この街道で、猿に道を横切られました。源は剛毅(ごうき)な奴です。この野郎とばかり肩の道具を持ち直して、逃げようとする所を背後から、一発で射ち殺したんです。ところが、――(と、勝ち誇ったように)内(うち)へ帰って見ると、達者でぴんぴんしていた奴の嚊(かか)が、名の知れねえ病気でおっちんで居りましただ。それを俺ア、この眼で見て居りますだ」

 「分かった、分かった」

 この土地に伝わる馭者の古めかしい伝説に対して、合理主義の教養を身につけた車上の美青年は、不幸にして一向に不感症であるらしい。彼は相手の深刻な悩みに今度は濃い眉を寄せ、一瞬神経的な焦燥を見せると、衣囊(ポケット)から紙巻きを撮(つま)み出したが、火を点ぜぬうちに再び元の冷酷な表情に帰っていた。

 「仮に青斑猿の祟りが本当だったとしても、もう我々が出会ってしまったのだから、今更悔やんだとて仕方があるまい。それよりも、我々を目的地に着けてこそ、難を逃れる功徳(くどく)になると思うが」

 この論理はさすがに無智な馭者を納得させたらしい。彼は渋々手綱を引き始めた。

 馬車は再び陽を背負うて東へ東へ、M山中腹の館(やかた)「紅炫荘」を差して奥多摩の清冽な流れに添い、蜿蜒(えんえん)たる街道を疾走して行った。[やぶちゃん注:「M山」「奥多摩」で溪谷を遡っていることから、この山は「三頭山」(みとうさん:標高千五百三十一メートル。グーグル・マップ・データ)と思われる。「紅炫荘」は「こうげんそう」と読んでおく。無論、架空の私邸の別荘の名である。なお、現在の小河内ダム(起工式は昭和一三(一九三八)年十一月だが、「第二次世界大戦」の激化により、建設工事は昭和一八(一九四三)年十月に中断し、再開は後の昭和二三(一九四八)年九月で、竣工は私が生まれた昭和三二(一九五七)年の、十一月二十六日であった)によって形成された人造湖である奥多摩湖(正式には「小河内貯水池」)は、公開当時は、未だ、全く存在していない。「今昔マップ」の左の一八九四年~一九一五年の国土地理院図を見られたい。南西に三頭山を配しておいた。]

      *    *    *

 馬車が進むに伴(つ)れ、初夏の暮れ靄(もや)に霞んでいた、さながら絵のようだったM山も次第に物体化し、緑濃く鮮明に映り始めた。

 山麓から見上げる登山道は左右に曲がりくねった樹下道で、その行方(ゆくえ)が頂きへ続いていた。[やぶちゃん注:先の推定した「三頭山」であれば、サイト「山旅旅」の「【日帰り登山】東京の三頭山-難易度別ルート紹介&アクセス情報!初心者向けルートも紹介」が、写真・地図が完備しているので、見られたい。私(神奈川の県立高校教師時代、二校でワンダーフォーゲル部と山岳部の顧問を勤めた)は、残念ながら、登ったことがない。]

 車は四十五度の角度を保ち、速度を緩めてがらがらと登り始めた。与志枝も青沼も、それから憶病な馭者も、終始無言だった。

 やがて彼らの面前に古ぼけた二階建ての屋敷が現れた。そこは山の中腹を刔(えぐ)り取った台地であったが、背後の雑木林は、屋根甍(やねいらか)を被(おお)い隠すように茂っている。そこが目的の館(やかた)「紅炫荘」であった。

 館の前には、頭の禿げた腰の曲がった老僕が、額の汗を拭い拭い、彼らの着くのを待っていた。半纒(はんてん)に股引(ももひき)の泥に塗(まみ)れた百姓姿である。館から半町[やぶちゃん注:約五百四十六メートル。]ほど距たった窪地に畑が拡がり、草茸き屋根の粗末な小屋が見え、そこが老僕の住居であるらしかった。

 「嘉吉(かきち)。部屋は綺麗になっているかね? 二三日逗留する心算(こころづもり)だが早速(さっそく)風呂を焚いて欲しい」

 「は、はい!」

 老爺は手拭いを堅く握り、烈しく腰を跼(かが)めて肯(うなず)いたが、どうやら主人に対して、因業(いんごう)な田舎親爺に有り勝ちの頑(かたくな)な反感があった。

 青沼に続いて降りる与志枝の横顔をちらりと盗み見た眼も、ひどく侮蔑的である。その侮蔑の中に、或る種の敵意すら認められた。

 別荘は滅多に使われぬと見え、朽ち掛けた古風な冠木門(かぶきもん)から玄関まで、蓬々(ほうほう)たる雑草に狭(せば)められた前庭(まえにわ)が続いていた。その前庭に歩み入る時、嘉吉の眼にはもう変化が起こっていた。

 それは敵意や侮蔑ではなかった。とげとげしかった瞳は、何時(いつ)か劬(いた)わるような憐憫(れんびん)の情を宿(やど)し始めている。与志枝は何故(なぜ)ともなく、この老人に好意を覚えた。[やぶちゃん注:底本のルビの少なさには、本カテゴリを始めた最初から、かなり呆れている。「劬(いた)わる」なんぞ、とても若い読者には読めんぜ?]

 玄関が嘉吉の手によって開けられ、与志枝は青沼の跡に随って最初に雨戸の繰(く)られた、そこだけが洋風の、瞭(あき)らかに青沼が所有主になってから建て増されたらしい、白塗りの露台(バルコン)に入って行った。

 陽は全く西の山端(やまのは)に没して、その紅い余映が眼下の水面に揺れ、霧とも霞ともつかぬ濠々(もうもう)とした気流が無風の両岸に漂うている。しかもその戸外の風光が刻一刻黝(くろ)ずんで来るのが、その露台からよく判った。

 青沼は白襯衣(ホワイト・シャツ)の衿(えり)を拡げ、氷の破片を嚙みながら、籐椅子(とういす)の上に脚を延ばした。与志枝はまだ彼に背を向けたまま露台の端に立って、茫乎(ぼんやり)渓流の行方を瞶(みつ)めていた。

 「如何です、お気に入りましたか?」

 「ええ。……でも少し、淋し過ぎますわ」

 青沼が優しく問い掛けるのを彼女は、そのままの姿勢で答えた。顔を見られることが、心を見られるように思われたから。

 「ほう?」

 青沼は如何にも意外という風に、

 「貴女(あなた)はしかし、殊更淋しい所を御所望だったじゃありませんか?」

 淋しい所、人目の立たぬ所、そうだ、この男を殺すには、こういう辺鄙(へんぴ)な土地こそ好都合なのではないか!

 与志枝は腰紐と帯の間に奥深く潜り込ませてある短銃(コルト)の重圧を、今更のように強く強く感じた。[やぶちゃん注:「短銃(コルト)」隠れ銃器フリークの私としては、注したくなる。これは英語“Colt”で、アメリカ人サミュエル=コルト(Samuel Colt)が、一八三四年に発明した、世界初のシングル・アクション・リボルバー(Colt Single Action Revolver:回転式連発拳銃)のことである。以上の英文のグーグル画像検索をリンクさせておくが、ちょっと「腰紐と帯の間に奥深く潜り込ませ」るには、重い(約六百グラム)が、“The Fitz Special”辺りか(リンク先は英文ウィキの“Colt Detective Special”)。]

 それは彼女を苛立(いらだ)たせる鞭に似ている。

 彼女は劇しい胸の惑乱を感じた。

 「わたくし、ちょっと散歩をして参ります。何ですか、車に揺られて頭が重いのです……」

 処女はとかく逡巡するものだ、が、ここまで来た以上この女もやがて俺のものになる、焦(あせ)ることはない、焦ることはない。

 扉口に、蹌踉(よろ)めいて行く与志枝の後ろ姿を見送る青沼の白い顔が、黄昏(たそがれ)の余光の中に、仄(ほん)のり浮いていた。

      *    *    *

 彼女は、青沼との恋に破れて悶死した姉への誓いを果たすために、今宵彼の誘いに応じて紅絃荘にやって来た。表面は誘いに応じたように装うてはいたが実は、彼女は永い間この機会を待っていたのだった。

 姉雪枝は確かに美しい女だった。が、その美しさは、何かこう冷たい宝石のような陰性の美しさで、涙を垂らせば溶けてしまいそうな女だった。生まれつき病身であったことは謂うまでもない。その病身が彼女を暗い女にし、喜びも悲しみもたった一人の妹与志枝にすら明かさぬような女になっていた。

 その雪枝が、同じ会杜に慟いている青沼と恋をした。妹は、恋を求めるほど健康になった姉を祝福したが、結果は胎内に子供を宿し、しかもその子供を生まぬうちに結核に襲われた。(作者はこの、どこにでも有り勝ちの、雪枝の平凡な悲劇について、詳述しようとは思わない)

 与志枝は姉が二度も自殺を企てようとする所を救ったことがあった。二度目に失策(しくじ)った時、胎内に子供があること、そして相手の男が青沼であることを告げたのである。

 姉の屍体は枯れ枝のように長々と、アパアトの二人の部屋に横たわっていた。眼は、二つとも大きく何かを瞶(みつ)めているように開かれ、冷淡な、強くものに執着する力のない虚無感が妹には変に醜く見えた。彼女の死を悶死と形容するのは或いは適切でないかも知れない。何故なら与志枝がその開いている瞼(ひとみ)を閉じようとした時、男の愛撫を受けるように、姉の顔が微(かす)かに笑いで歪んだから。与志枝は慄然とした。

 最期まで彼女は青沼を憎むとは言わなかった。

 しかし与志枝の勇気は、この惨めな姉の忍従で百倍した。

 姉の死から半年あまり経った。この間(かん)与志枝は姓を秘して、徐々に青沼に接近することに成功した。彼が莫大な親の遺産を受け継いだ、そしてその遺産をたった一つの目的たる漁色行脚(ぎょしょくあんぎゃ)に費やしている一種の色魔(ドンファン)であることが判った。

 姉は、爛熟した女体に飽満した男の、新鮮な犠牲だったのだ。

 殺しても飽き足りない奴!

 ――与志枝の青沼に抱いたこの想念は、しかし、次第に変化して行かなければならなかった。何故なら青沼は、不思議に女性を惹きつける、得体の知れぬ魅力の所有者だったから。しかもその魅力は、精神的なものよりも肉体的なものの方が強かった。それが、精神的に憎み、肉体的に離れようとする女の意力を挫(くじ)いた。が、精神的に惹きつける所のない男に、愛を感じるとは考えられなかった。そこで与志枝は、その本態を探ろうとしたが、辛くも手許まで手繰(たぐ)り寄せられそうになる。その時、極まって首を出し思考を濁水(だくすい)に投ずるのが、青沼の生き生きとした唇や烈しい息使(いちづか)いだった。

 生きて青沼のものとなるか、殺害後自分も姉の許に行くか、この迷妄に彼女は悩み抜いた。

 彼女は日記に、「自分の最も軽蔑して来た恥ずかしい女、婬奔女(いんぽんおんな)、それが私だ! 生きる資格がない!」と書いた。

 それが今宵(こよい)、目前に迫っている。

 後(あと)数時間のうちに、いずれかの手段を選ばねばならない。与志枝は力なく首垂(うなだ)れ、渓流に沿うて、暗い方へ歩いて行く。

 振り返ると、河下(かわしも)の森の端(はし)に月が昇り始めていた。ミルクのように棚曳いていた霧が微かに青色を帯びて光り始めていた。思い乱れ、千々に悩む心情に操られて、足許もとかく蹌踉(よろ)めき勝ちなのである。

 歩むに伴れ、流れの響きが大きくなり優って行くようであった。そこは河鹿(かじか)の啼く淀みである。彼女はその啼き声に誘われるように、樹叢(じゅそう)の小道を伝い下(お)りようとした時、背後に人の蹤(つ)けて来る気配を感じ、ぎょっとして振り返った。[やぶちゃん注:「河鹿(かじか)」この場合は、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri を指す。本種を含み、別に異なる動物の「かじか」については、私のカテゴリ「日本山海名産図会」の複数の記事の中で、ガッツりと考証しているので、お暇な方は、是非、お読みあれかし。]

 月見草の生い繁った藪の中に、与志枝を見下ろして立っているのは、淡い光を半面に受けた老僕嘉吉の姿である。

      *    *    *

 嘉吉はしばらくの間、黙って与志枝を見下ろして立っていた。

 が、やがて、

 「お嬢さん。お前さんはまさか、早まったことをするんじゃあるめえな?」

 声音(こわね)は朴訥(ぼくとつ)ではあったが、自分の娘に言うように優しい。

 与志枝はじっと黙ったまま相手の眼を瞶(みつ)めていた。

 嘉吉は腕組みをし、また、探るようにぽつんと言った。

 「お前さんは今、危ねえ橋を渡ろうとしていなさる。俺の言うことが分かるかの?」

 「…………」

 「俺(おら)アお前さんのような、綺麗な娘が、若旦那のおもちゃになるのを、黙って見てはいられなくなっただ。お嬢さんは若旦那が、どねえに恐ろしい鬼だかまだ知んなさらねえのか?」

 与志枝は年老いた忠言者の言葉に魅せられたように、ほとんど無意識に、首を横に振った。

 「姿形は人並み以上じゃが心は鬼とは、ちょうど若旦那のことを言いますだ。先代の御主人が亡くなって若旦那がここの別荘の主におなんなすってから今日(きょう)が日まで、都(みやこ)から連れて来られた女子衆(おなごしゅ)の数は、十本の指じゃ利きましねえだよ」

 老爺は与志枝の手を取って元の道の方へ引き返し始めた。

 「中にゃアじごくや売女(ばいた)なんどもいただが、お前さんのような無垢な娘もいなすった。悪いことア言わねえ、とっとと東京さ帰んなさるがいい。もし決心がついたら、何時(いつ)でも俺(おら)が家の戸を敲(たた)いてくんろ。俺ア何時でも貴女(あんた)を逃がしてやりますだ」[やぶちゃん注:「じごく」特に最下級の売春婦。私娼。]

 彼は果敢な忠言を施しているという自己陶酔から、彼自身、眼に泪(なみだ)を溜め込んでいるようである。与志枝は一瞥以来、この老爺に感じていた好意が、偶然でないことを悟った。

 がしかし、告げられた事実は、皆与志枝の百も承知していることばかりではないか。憎むベき相手が憎めなくなった悩み、こんなことを単純な正義感に燃えた老爺に告げたとて何になろう。

 嘉吉は直ちに彼女の心中を看て取ったらしい。それは彼がこれまで、忠言を与えた女達が、一様に、与志枝のような態度を示したからに相違ないのだ。だから彼の瞳には一瞬絶望の光が射したが、すぐそれがまた、憐憫に変わった。ともかく諫めるだけは諫めてみよう、この一途(いちず)の意図が、縦に刻まれた眉間(みけん)に現れた。嘉吉は言った。

 「お前さんは、この館の恐ろしい出来事を知っていなさるかの? あれは鬼の家、先代からの邪婬の家なのじゃ!」

 与志枝は、紅絃荘の前の持ち主が誰であったか、そしてどういう事件が起こったかを知っていた。

 それは関西の某実業家夫妻だった。良人は永らく胃潰瘍を病み、静養地としてこの館に住んでいた。或る雨の夜、良人に較べて年若い妻が裏二階の寝室で、何者かに咽喉を刔(えぐ)られて死んでいた。容疑者として挙げられたのが、その土地を行商して歩く呉服商の、役者のような男だった。彼は山麓の料理屋で入浴中逮捕された。妻は良人に隠れてその男を慰(なぐさ)んでいたのである。しかし男は、被害者との醜行(しゅうこう)を、そしてその夜(よ)或る時間を夫人の寝室で過ごしたことを潔く自白しながら、犯行だけは必死に否定した。間もなく料理屋の番頭によって不在証明が立てられた。結局犯行は男の退去直後遂げられたことが明白となったが、屍体の咽喉笛(のどぶえ)から噴き出した血潮が床(ゆか)一面に流れ、それが何者かによって攪拌されたらしく、そこら中(ぢゅう)べたべたと足跡が印(しる)せられてあったが、それが人間の足跡ではなかった。続いて行商人は、寝室の窗(まど)に青斑猿(あおまだらさる)が覗いていたという「伝説」を持ち出した。当局は万全を期し、犯人捜査の手を緩めなかったが、村民は尽(ことごと)く不倫の妻が青斑猿の怒りに触れたものと信じ出した。しかも咽喉の斬り傷が刃物以外の何か鋭利な歯(は)乃至(ないし)牙(きば)によって刻(きざめ)られたことが後(のち)に推定され、どうやらこの勝負は村民側の勝ちに思われ出した。十年以上も前の出来事である。爾来その部屋はお定まりの「あかずの間」とされ、新しい持ち主の青沼が、殺された夫人の遠縁の血続きであるという。

 ――二人の前に館が現れた。

 「その婬らな血が、若旦那の体にも流れて居りますだ。よく考えなさるがいい。一生の岐(わか)れ目ですぞ」

 老爺はこう言い残してよちよちと暗い方へ進んで行った。

 「わたくし今夜、その『若且那様』を射ち殺すかも知れなくってよ。ピストルで」

 与志枝は収拾のつかない惑乱からやんぱちになったのかも知れない、そう叫んだ。

 嘉吉は驚いて振り返った。

      *    *    *

 暗い廊下を伝いながら、与志枝は自分に呟いた。「私はやっぱりこの館へ帰って来た。帰って来たということは、男に身を投げ出す意思なのだろうか、それとも、復讐の念からだろうか?」

 まだ不決断のままである。

 不決断のまま光の流れ出る半開きの扉を開けると、緩(ゆる)い藤色室内着(ラブエンダア・ガウン)を纒(まと)うた青沼の長身が、揺れ椅子の中に、折れ曲がったようになって淋しそうな顔で待っていた。[やぶちゃん注:「藤色室内着(ラブエンダア・ガウン)」lavender gown。]

 彼は時々、何か悲しみにでも虐げられた後のような、淋しい顔をしていることがあった。こういう時、お前を殺すぞと言ってピストルを突きつけても、彼はその引き締まった頤(あご)に自らを軽蔑するような笑いを浮かべ、こんなやすっぽい体、貴女に射たれれば本望です、というように欣然(きんぜん)と両手を拡げて来るように思われた。

 「お腹(なか)は空(す)きませんか。浴室の支度がしてありますよ」

 青沼が劬(いた)わるように言った。

 「はい」

 与志枝は用心深く浴室の方へ導かれて行った。浴室は長い廊下を出端(ではず)れの母屋(おもや)の端(はし)に在った。近づくと、そこから、郷愁のような湯気(ゆげ)の匂いがぷうんと鼻を搏(う)った。

 彼女は今、裸になろうとしているのである。それほど彼女は、男の魅力の前に信頼を置いているのであろうか。

 内部は白ずくめのタイル張りだった。が、所々剝げ落ち、天井から釣るされた電灯にも笠がなく、北の明かりとりの小窗(こまど)から夜空の星がきらきらと燦(きら)めいて見えた。

 タイルの床(ゆか)はひやりと冷たい。彼女は足の拇指(おやゆび)を折り縮めて湯槽(ゆおけ)に近寄って行った。

 四囲(まわり)は一層の静けさである。音といえば、遠くの水のせせらぎと、杜切(とぎ)れ杜切れの河鹿(かじか)、虫の声ばかりである。[やぶちゃん注:「四囲(まわり)」当て訓は私がした。]

 彼女がまさに体を浸そうとした時、浴室の扉がこつこつと鳴った。彼女は慌ててタオルで身

を被い、本能的に身を縮め、伺うようにそちらに向き直った。

 「与志枝さん」

 青沼の声である。が、毎時のきびきびした低音(バス)とは異なり、何故か脅えたような声音(こわね)である。与志枝は全裸のまま一層体を硬張(こわば)らせた。

 青沼のおどおどした声が続いた。

 「失礼お許し下さい。今まで居間にいましたが、何かに脅迫されているようで、怕(こわ)くて堪らないのです。淋しい、というか、怕い、というか、……」

 ぽつんと杜切(とぎ)れ、今度はすたすたと、早足で立ち去ろうとする気配がした。

 「青沼さん!」

 跫音(あしおと)は立ち止まった。

 彼女の呼び留めたのは、罪人の自ら掘った穴に自らが陥ち込んで行く寂寥(せきりょう)に、何かしら犇(ひし)としたものを覚えたからであった。しかしそれ故、この際与うべき言葉はない。短い沈黙があった。男の喘(あえ)ぐような声が聞こえた。

 「与志枝さん、屋根裏の物置に武器が蔵(しま)ってあります。それを取って来ます!」

 最後を叫ぶように言い、性急に階段を駈け上がる気配がし、戸を開ける音、曳出(ひきだ)しの軋音(しきりおん)、そして後(あと)は元の静寂に返る。

 与志枝は義務的に湯槽に浸った。

 荒廃した浴室の中に彼女の乳房が仄白(ほのじろ)く浮かんでいる。その白さが湯のあたたまりとともに、柔らかな紅味(あかみ)を増し、粘りつくような全身の皮膚が、今度はぴちぴちした弾力に充ち溢れ始めた。

 秘(ひ)めやかに水を使う音がする。石鹸が泡立ち纒(まと)いつく。

 と、何処かで、雨滴(あましづく)のような音がする。[やぶちゃん注:「雨滴(あましづく)」は私が勝手に降った。]

 二度、三度、与志枝はふと手を休めた。

 遠いようでもあり近いようでもある。

 何だろう?

 彼女の眼が自(おのずか)ら湯槽の中へ注がれた。仄(ほの)かな湯気を漂わせている表面に、真赤な、ダリアの花のような血点(けつてん)がぱっと散った。

 ぽちゃーん……続いての血滴(ちしづく)は、再前の血の拡がりの上に落ち、それが湯に崩れて卍巴(まんじどもえ)に、揺れ、散り、沈んで行く。[やぶちゃん注:「卍巴」「卍」や「巴」の模様のように、ある二つの対象が、互いに追い合って、入り乱れることを言う。]

 与志枝の全感覚が硬張(こわば)った。その硬直の視線が操られるように、燻(くす)んだ天井に移って行った。雨漏りのような赤い汚染が刻一刻拡がり、支え切れなくなると、丸い血滴となって真下の湯槽に落ちる。そこがつい先刻青沼の登って行った裏二階の物置であることに間違いはない。

 与志枝はもどかしいように着物を纒うた。後はただ機械的な動きに従っているだけである。ほとんど無意識に、屋根裏への階段を駈け上がって行った。

 扉は半開きになってい、室内の灯は消えていた。饐(す)えたようなものの異臭が、古黴(ふるかび)の毒気に混じって、与志枝の鼻腔を突き剌した。窗から斜めに月光が射し込み、末拡がりに床の半分を画然(かくぜん)と照らし分けている。そしてその光(ひかり)と暗(やみ)の堺目に、青沼が手足を投げ出して倒れていた。与志枝はむしろ本能的に彼を抱き起こそうとしたが、姉の幻影がそれを妨(さまた)げた。彼女はそれを硝子(ガラス)を打ち破るように打ち破り、ぐたりと延びた青沼の体を抱き起こした。首が嚙み切られ、血潮が噴出するその度(たび)に、飛び出た咽喉仏(のどぼとけ)がぴくぴくと痙攣していた。

 もどかしい裏切り者に代わって姉の復讐を遂げたものは、誰であろう?

 壁に住み、壁を爬行(はこう)するもの、――屍体から噴き出した血が一条の流れを為(な)し、足許に澱(よど)んでいた。その澱みには咬々(こうこう)たる月光が射し、小猫ほどもある一疋の守宮(やもり)が黒光りのする頤(あご)を涵(ひた)して、貪婪(どんらん)の胃の腑(ふ)を満たしていた。[やぶちゃん注:「爬行」這って歩くこと。]

 与志枝は、弾(はじ)かれたように、屍体から壁に跳び退(しざ)った。魔物はその気配に身の危険を感じたのか、それとも本能が飽満の域に達したのであろうか、やおら首を起こすと、鈍い五趾(ごし)の音をぼとんぼとんと床(ゆか)に響かせて、壁根(かべね)から次第にその吸盤を利(り)し、ぼろぼろに腐れ落ちた壁から、梁(はり)の喰い違った暗い天井裏に爬(は)い登って行った。そして中ほどまで来ると、ぴたりと腹をつけて留(と)まり、営養に怒張した胴体を蒟蒻(こんにゃく)のように震(ふる)わせて、間然(かんぜん)たる沈黙の夜気(やき)を引き千切(ちぎ)るように、げっこうげっこう、とけたたましい叫びを挙げた。

 自(みずか)らは一夫一婦の戒律に生き、不義を最も憎むと言われている守宮! 今二人目の犠牲者を血祭りに挙げて、それは制裁の歓喜か、裏切り者への怒りの叫びか、――与志枝はただ凝然として守宮の瞳を見た。

 鈍重(どんじゅう)で、陰性で、空虚で、張りも輝きもない、義眼のような姉雪枝の、臨終の瞳とそっくりであった。

 

[やぶちゃん注:最後に言っておくと、我々が、ごく普通に見かける「ヤモリ」は、爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属ニホンヤモリ Gekko japonicus である。私の家にも、二十四年来、同じ一族が何世代も繁栄しており、よく、トイレの窓に挨拶に来る。私は、勝手に、彼らが私の家(うち)の強力な守り神と信じている。さて、この話で、ヤモリが鳴いているのだが、実は、鳴き声を立てるヤモリは、日本の本土には棲息しないので、これは、フィクションである。沖縄に棲息するヤモリ亜科ナキヤモリ属ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus は鳴くが、「チョッチョ」とごくごく可愛い鳴き声である(YouTubeのM K氏の「沖縄 やもりの鳴き声」を見られたい)。本作のヤモリの鳴き声である「げっこうげっこう」は、私は、よく知っているが(タイとベトナムで、しっかり見、キョウレツな声も聴いた)、ヤモリ属トッケイヤモリ Gekko gecko である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ヤモリ属の模式種。別名トッケイ、オオヤモリ』。『インド北東部、インドネシア、カンボジア、タイ王国、中華人民共和国南部、ネパール、バングラデシュ、東ティモール、フィリピン、ブータン、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス。台湾にも分布するが、自然分布か移入されたかは不明。アメリカ合衆国(フロリダ州、ハワイ州)などに移入・定着し、ブラジルでの発見例もある』。『全長』十八~三十五『センチメートル。頭部は、三角形で大型。背面は細かい鱗で被われるが、やや大型の鱗が混じる。体色は淡青色で橙色の斑点が入る個体が多いが、個体変異や地域変異がある。斑点は、尾では帯状になる』。『森林に生息するが、農耕地や都市部でもよくみられる。名前は、鳴き声に由来する。おどされると噴気音を出して威嚇する』。『昆虫、ヤモリ類、小型鳥類、小型哺乳類などを食べる』。『繁殖様式は卵生』で、一『回に』二、三『個の卵を産む』。『伝統的に、タイなどの東南アジア地域では食用とされる他、薬用になると信じられていることもある。地域によっては、本種の鳴き声を』七『回連続で聞くと』、『幸福が訪れるという言い伝えがある』。『分布域が非常に広域で生息数も多いと考えられ、種として絶滅のおそれは低いと考えられている。一方で薬用になると信じられ』、『大規模に商取引されることによる影響も懸念されており、中華人民共和国では開発による生息地の破壊や乱獲により生息数が激減している』。二〇一九『年にワシントン条約附属書IIに掲載された』。『ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。主に野生個体が流通するが、扱いが悪く状態を崩していることもある。顎の力が強いうえに歯が鋭く、気性も荒いため思わぬ怪我をすることもあるので取り扱う場合は注意が必要。枝や流木・コルクバークなどを立てかけて、隠れ家にする。協調性がないため、単独で飼育する』とある。しかも、まさに私の経験では、「げっこうげっこう」と聴こえたのである。「嘘だ。」という御仁は、YouTubeの「フィリピン農園だより」氏の「【神秘の鳴き声】トッケイヤモリ(Gekko gecko)の鳴き声【トッコー】」を聴いて貰いたい。而して、問題は、生前、国外に出ていない西尾正が、どうして、この鳴き声をオノマトペイアとして正確に音写出来たのか? という疑問である。思うに、戦後、南方戦線から復員してきた知人から、トッケイヤモリの鳴き声の強烈なそれを、話しとして聴いていたのではないか? と、私は思うのである。

2024/11/26

西尾正 謎の風呂敷包み

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『探偵と奇譚』昭和二四(一九四九)年三月号(巻号記載なし)に初出。底本は、所持する二〇〇七年三月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅱ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。傍点「﹅」は太字に代えた。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。]

 

   謎の風呂敷包み

 

 Nさん――

 お宅をおいとました三十一目の晩、Nさんとその日の新聞にのった「首なし裸体事件」の話をしましたね。

 ――八月二十九日夜十一時半頃東京I駅――M駅間のいわゆる「魔の踏切」と呼ばれている踏切付近で折柄通過せんとする山手線電車に跳び込み自殺を企てた身許不明の青年があった。しかし屍体が全裸である点から他殺説が濃厚で、犯人はどこか異なる場所(たぶん現場付近)で殺害した後、痕跡を曖昧にし被害者の認定を不可能にする目的から屍体を全裸にし線路上に運んで車輪による切断を図ったらしい。車輪は四肢を全然別個の物とし枕木を鮮血で彩ったが、肝心の首が見当たらなかった。屍体の営養発育状態から見ると二十四、五歳の青年らしく、体格はいいが筋肉労働の経験なく、良家の子弟らしい。当局は生首の行衛と被害者の身許を鋭意捜査中である。――[やぶちゃん注:『I駅――M駅間のいわゆる「魔の踏切」』この踏切は山手線の池袋駅―目白駅間にあった「長崎道踏切」である。サイト「赤猫丸平の片付かない部屋」の「山手線、長崎道踏切 東京の栞(019)」に在りし日の踏切の画像とキャプション『山手線の池袋-目白間にあった長崎道踏切(20051月廃止)。東京都豊島区西池袋2-1、南池袋1-152003313日。』がある。グーグルマップでは、この中央部に当たり、「今昔マップ」の『1965~1968年』の国土地理院図が、はっきりと、道が山手線を横切っていて、踏切であることが判る現在の当該地はストリートビューのここである。これを、右に回して背後を見ると、緑色のビルが見えるが、これが、前者の踏切のキャプションのある真上の写真の踏切の向こうに見えるビルであることから、断定される。ここは西武池袋線が高架であるため、目白方向からの外回りでは、踏切の東側から入った直後の歩行者は見え難いと判断される。それが「魔の踏切」の由縁か。]

 確かこんな記事でした。それから僕がふと、「中村が……」と言いかけたらNさんも「ウン、僕も中村君のことを考えていたのだ」と言い、そこで中村には次郎という一つ違いの弟がいてそいつが最近ぐれて兄貴が尠(すくな)からず手古摺っていることなどを話し合いましたが、一体なぜあの時、中村のことなど思い浮かべたのでしょう。理由もないのに突然しかも同時に二人が念頭に泛(う)かべたというのは、後の事件と思い合わせると、やはり一種の精神感応(テレパシー)とか思想伝達(ソオト・トランスペアレンス)とでもいうのでしょうか。[やぶちゃん注:「精神感応(テレパシー)」「思想伝達(ソオト・トランスペアレンス)」telepathyと、thought tranceparencetranceparence:透明性・透明)は、ウィキの「テレパシー」によれば、『ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されること』『で、 超感覚的知覚(ESP)』(Extrasensory Perception:五感や論理的類推などの通常の知覚認識手段を介することなく、外界や他者の情報を得る超能力)『の一種』、且つ、『超能力の一種』とされるもの。但し、『この用語ができる以前は、思考転写 (thought-transference)と呼ばれていた』とある。]

 アポロとディオニソス、フロオラとフオーナ、――よく僕達は人間の性格を二つに類別して、気性の烈しい熱情的な男を「ディオニソス・フオーナ」秀才型の冷静な男を「アポロ・フロオラ」と呼んでいましたが、Nさんが初めて中村を見た時僕達の流行語を使って「中村君はあれでなかなかディオニソス・フオーナだね」と評したのには日頃中村を女性的な優しい男すなわちフロオラだと意見が一致していた僕達にとっては意外でした。しかしこの度(たび)の破局を見ればNさんの評言は当たっていたのです。僕は単なる脇役に過ぎなかったのですが、あんな恐ろしかったこと初めてです。旨くは書けませんが、作家であるNさんの何かの参考になればと思い、経験したままを卒直に誌してみましょう。[やぶちゃん注:「アポロとディオニソス」小学館「日本大百科全書」から引く。ドイツ語『apollinisch』・『dionysisch』。『ギリシア神話の酒神ディオニソスのうちに示される陶酔的・創造的衝動と、太陽神アポロンのうちに示される形式・秩序への衝動との対立を意味する。すでにシェリング』(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling(一七七五年~一八五四年):ドイツの哲学者。神秘的直観を重視し、「合理主義哲学」の限界を批判、絶対者に於いて自然と自我とが合一すると説く「同一哲学」を主唱した)『は、内容が形式に優越する詩と、両者が調和した本来の詩との対立を、またニーチェの師リッチュルは笛(ギリシア語でアウロス』(ラテン語転写:『aulos)と竪琴』『(ドイツ語でキタラKithara)との対立を、この対概念』(ついがいねん)『でとらえている。しかし』、『この対概念が広まった機縁は、ニーチェの』「音楽の精神からの悲劇の誕生」(‘ Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik ’。一八七二年刊。専ら「悲劇の誕生」の縮約タイトルで知られる)『である。すべてを仮象のうちに形態化・個体化する造形芸術の原理としてのアポロン的なものが、個体を陶酔によって永遠の生のうちに解体する音楽芸術の原理としてのディオニソス的なものと結び付いて、ギリシア悲劇が誕生する。それはいったん楽天的・理論的なソクラテス主義によって滅亡したが、ワーグナーの楽劇のうちに再生すると若いニーチェは考えた。ただし、後年のニーチェはこの対概念を用いず、永遠に創造し』、『破壊する生の肯定という彼の哲学の核心を、ディオニソス的と規定している』とある。「フロオラとフオーナ」フローラ(ラテン語:Flōra)はローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。「日本大百科全書」によると、『オウィディウスの』「祭暦」(Fasti)『によれば、彼女はもともとクロリスChlorisという名のギリシアのニンフであったが、西風ゼフィロスに求愛されて』、『すべての花を支配する力を与えられたという。彼女は古くから崇拝され、花と花による実りを守護した。その祭礼「フローラリア」では、豊作を祈る祭りにふさわしく、陽気でしかも卑猥』『な行事「フローラリア祝祭劇」が催された。またその神殿は、パラティンの丘にあったという』とある。現行の「植物相」(フローラ)の語源である。対する「フオーナ」は“fauna”で、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠れば(コンマを読点に代えた)、「ファウナ」「フォーナ」とも言う。『特定の地域や水域にすむ動物の全種類。動物群について昆虫相魚類相など、地域について日本の動物相、南極の動物相など,環境について森林動物相、土壌動物相、湖沼動物相など、生活様式について浮遊動物相、遊泳動物相などが区分される。地球上の特徴のある違った動物相をもつ区域を動物区に区分する。動物群集が量的な集団であるのに対し、動物相は種を同定して決定される定性的な概念。植物相と合せて生物相 biotaを構成する』とある。植物相は原母的で、包括的集団的で単位生殖可能な総支配的女性性を、動物相は孤独性と支配性・闘争性をシンボライズし、精神分析学では、前者がエレクトラコンプレックス(ドイツ語・ Elektrakomplex)や、歯を持つヴァギナ、原初的創造者としてのグレート・マザーへ、後者はエディプスコンプレックス(同:Ödipuskomplex)と、リンガを切り取る「子殺し」の支配的暴力的モチーフへと展開する。]

 

 あの晩駅へ着くと際どいところで上りを逃してしまい、まだボストン・バッグには米が二升ばかり残っていたのと、残暑の厳しい東京へ帰るのも憂鬱でしたので、ふらふらと問題のJ島へ行ってしまったのです。[やぶちゃん注:「まだボストン・バッグには米が二升ばかり残っていた」発表年から判ると思うが、ヤミ米を買い出しに来ていたのである。]

 S湾、M半島の突端に浮いている小さな、戸数わずか百二三十戸の、雨で名高いJ島、戦時中の要塞から目下観光島に早変わりしようとしているJ島は、ほとんど灯を落として月のない暗澹たる夜空に黝々(くろぐろ)と浮かんでいました。[やぶちゃん注:「J島」は私の好きな城ケ島であり、「S湾」は相模湾、「M半島」は三浦半島である。「戦時中の要塞」城ケ島の東の安房崎の中央にあった旧城ヶ島砲台(グーグル・マップ・データ航空写真)。東京湾要塞研究家デビット佐藤氏のサイト「東京湾要塞」の「城ヶ島砲台」に、画像や構造図もあり、説明も詳しい。『関東大震災後の東京湾要塞復旧工事の一環で新設された砲台』で、『廃艦となった戦艦安芸の砲塔を改造して設置した。最大射程は約』二十四キロメートルで、『これは房総半島の洲崎まで届く距離であり、同じ砲塔砲台である洲崎第一砲台とともに、東京湾口防御の第一線を担っていた』。『城ヶ島の東半分が砲台用地で、砲塔は東西に約』八十メートル『隔てて』二『基(』四『門)が設置され、空から秘匿するため』、『屋根が掛けられていた。また、周辺には偽民家が建てられるなどの擬装が施されていた。砲塔は人力操作で、地下砲側庫は砲塔から離れた地下に設けられ』、『隧道で砲塔の下まで通じていた』。『戦後、砲塔は爆破され、二つの大穴が残されていたが、昭和』二五(一九五〇)『年に城ヶ島公園』設置が決定され(本篇の発表はこの前年の昭和二十四年)、昭和三三(一九五八)年に開園し、今に至っている。]

 島に渡ったのが十時頃、大体ここには旅館などないのですが、この頃は魚を仕入れに来る闇商人が泊まり込む半職業的な宿のあることを聞いていましたので、それらしいとある一軒家にあたりをつけました。すると小女(こむすめ)が出て来て、それでも思ったより愛想よく出迎えてくれたのですが、靴を脱ぎながら見るともなしに見ると、下駄、地下足袋などが散乱している土間の片隅にこんな場所には不似合いなチョコレエト色のスマートな女靴が一足、ちょこなんと脱ぎ捨てられてあるのです。女の靴というものは変に艶めかしいものですね。中国女の纏足(てんそく)は股を太くするためだと言いますが、それはいかにもキュッと締まった踵の低いスポオテイな型で、穿き主の小さな足から上方へすくすくと延びた肉付きのいい、靴下の破れそうな、白く逞しい腿を聯想させるのです。こんな陰気な闇宿(やみやど)に果して想像したような若い女が泊まっているのでしょうか。僕は何かを期待する故なき好奇心を覚えながら小女の後に従いました。[やぶちゃん注:「踵」「かかと」。「くびす」「きびす」とも読む。個人的には「きびす」と読みたい。「中国女の纏足(てんそく)は股を太くするためだと言いますが」ウィキの「纏足」に、『唐の末期から辛亥革命ごろまで中国で女性に対して行われていた』悪しき『風習』で、『当時の文化人は女性の小さい足を「金のハス」』(蓮)『に例えるなど美の対象と考えており、人工的に小さくする施術が考案された。具体的には幼少期から足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛って足の整形(変形)を行うことで、年齢を重ねても足が小さいままとなる』。『理想的な大きさは三寸』(凡そ九センチメートル強)]『であり』、『これを「三寸金蓮」と呼び、黒い髪、白い肌と共に美しい女性の代名詞となった』。『小さく美しく装飾を施された靴を纏足の女性に履かせ』、『その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである』。(☞)『また、バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた』(☜)。『足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした』とある。]

 通された二階の部屋はあまりいい部屋ではありません。襖仕切りの隣室は南向きの海に面して涼しそうですが、既に先客があると見えて堺の欄閒に電灯がぼうっと反映していました。時々人の動く気配や咽喉をきる音が聞こえて来、どうやら馥郁(ふくいく)とした香料の匂いが漂うて、それはもう明らかに若い女のつくり出す雰囲気に相違ないのです。僕はその女が先刻土間で見た靴の主であるに相違ないと断定しました。寝つきのいいので有名な僕がその夜晩(おそ)くまで輾転反側したと言ったらNさんは笑われるかも知れませんが、僕だって若いし張りきっているし、それに多少は夢想家ですからね。若い女がたった一人でこんな田舎のインチキ宿に泊まるなんてどうも解せないな、きっとあとから男でも来るのだろう、一晩悩まされるのは敵(かな)わんぞ、と、こんな下らぬことを考えているうちに、さすがに昼間の疲れが出てそれきり前後不覚に寝入ってしまいました。

 どのくらい眠ったのか、何か夢にうなされたらしく、ふと眼を覚ましました。時計を見たら三時です。もう一寝入りしようと寝返りを打って眼をつぶると、潮騒の音もない沈々(しんしん)たる夜気(やき)のしずもりの中に、女の歔欷(すすりなき)と嗚咽(おえつ)が微(かす)かに微かに聞こえて来るではありませんか。どうやらうなされた夢はその泣き声に関聯(かんれん)がありそうです。とすると、僕の眠っているうちから女は泣いていたらしいのです、そこで僕は寝たまま隣室に向き直ってじいっと耳をすませました。[やぶちゃん注:「歔欷」は「きょき」「すすりなき」と読むが、個人的な好みは、後者である。しかし、次の段落で「啜り泣く」とするので、読みは読者に任せよう。]

 何か女はぶつぶつ独り言を呟いているらしいのですね。何を言っているのかハッキリ聞きとれないのですが、誰かそこにいる相手に向かって搔き口説(くど)いているらしく、言葉と言葉の間に、「ね?……ね?」と、甘えたような間投詞が入り、それから啜り泣くのです。

 身も消え入るような悲しみ、頬を伝って幾条(いくすじ)にも流れる押さえ切れない泪(なみだ)、――こんな風に 想像されるのですが、そのうちに好奇心がとうとう僕を床の上に起き直らせてしまいました。想像だけでは足らなくなって一眼覗いて見ようと、襖の隙間に片眼を押しつけたのです。

 電灯はついたままで蚊遣香(かやりこう)の煙が細々と立ち昇り、女は薄物をかけているだけで寝床に横になっていました。僕には部分を通してわずかな寝姿しか見えないのですが、その部分の中に女の上半身が入っています。寝巻も着ず恐らくはシュミイズ一枚なのでしょう、むっちりした二の腕は裸でした。そして女は顔の前に一個の丸い風呂敷包みをしッかり抱いて、その包みに向かって何やら口説いたり泣いたりしているらしいのですね。時々堪えられなくなったようにその包みを頰ずりするのですが、その度(たび)に枕に散ったパーマネント・ウェエヴの房々とした黒髪が震えます。女が半裸に近い姿態で眼前に啜り泣いている光景は旅の放縦さと隙見(すきみ)などという条件と搦み合ってかなり肉感的なものですが、実際は不気味さの方が先に立ちます。僕は以上のようなことを確かめただけで再びごろりと元の寝床に横たわりました。泣き声はとぎれとぎれにいつまでも続いていたようでしたが、もうじき夜も明けるのだろうと思っているうちにいつか眠りに落ちて行きました。

 

 翌朝寝坊をして歯を磨きながら隣室を覗いて見ると、女はいませんでした。持ち物らしいものが部屋の隅においてあるところを見ると、宿を発ったとは思われません。僕は昨夜のことを考えながらボンヤリ歯ブラシを動かし、見るともなく眼下の庭の生垣と向かいの家の間にある狭い路地に眼を落としていましたが、そこで思いがけない男の姿を見つけたのです。その男は破れた生垣の合間から腰を蹲めてこっちを覗いているのです。帽も被らず髪は乱れ、白い開襟シャツが目立ちました。あちこちと視線を移している模様で、やがて二、三歩あとずさりをすると今度は二階の方を見上げ、その瞬間に僕との視線がバッタリ出会ったのです。

 「あ、中村……」

 思わずこう大声で呼びかけました。この頃は毎日曇って暗い灰色の空の下、それも相当の距離をおき生垣の蔭に瞬間認めたわけですからハッキリ中村だとは断言し得ないのですが、その時はふしぎとそんな疑問や逡巡は起こらなかったのです。男は呼びかけられてまじまじと僕の顔を見上げていましたが、別に際立った表情も現さず、どうやら蹲んだような格好をしたと思ったらそれなり消えたように見えなくなってしまいました。顔色の悪い、面寠(おもやつ)れのした前髪垂れの、科人(とがにん)のような凄い形相だったのですね。僕は眼を屢叩(しばたた)きました。続けて二度三度「中村――おうい、中村!」と呼びながら廊下の隅まで走り圭した。路地には誰の姿も見えません。変だなと思いましたが、東京世田ケ谷の中村がJ島くんだりを野良犬のようにうろつているわけがないのです。僕は匆々に朝飯をすませると、何となくしかし奥歯にもののはさまったような気持ちで海岸へ出て見ました。

 雨雲に被われた海の渺茫たる拡がりは油のように澱(よど)んでいました。僕は砂丘を下り、さくりさくりと渚を往還しながら、ここへ来ると誰でもが思い出す「J島の雨」を口笛で吹き始めました。[やぶちゃん注:「J島の雨」知られた歌謡曲嫌いの私が特異的に幼少期より好きな「城ヶ島の雨」である。作詞は北原白秋で、作曲は梁田貞(やなだ ただし/てい)により、大正元(一九一三)年十月に発表された。北原白秋は、この三年前から、当時住んでいた青山の隣家の新聞記者松下某の夫人俊子と不倫関係となっていたが、この年の七月に俊子が白秋のもとへ走った結果、姦通罪で告訴され、二週間、市ヶ谷未決監に拘留された。翌月には示談が成立し、無罪・免訴となったが、流星の如く現われた新鋭詩人としての名声は一気に失墜した。翌大正二年一月、憔悴と絶望の果て、自殺をせんとして、海路で三崎に渡ったが、参照した所持する『日本詩人全集』第七巻「北原白秋」(昭和五三(一九七八)年新潮社刊)の年譜によれば、白秋は『「私はあきらめられなかった。突きつめても死ねなかった」』と述べており、『同月、処女歌集『桐の花』を東雲堂』(しののめどう)『より刊行。日本の短歌に新しい生命を吹き込むものとして称讃の批評が次々と書かれ、汚名をぬぐいさる。四月、夫と離別した俊子と再会し、結婚。五月、新生を求めて、一家をあげて神奈川県三崎郡三崎向ヶ崎』(みさきむこうがさき:現在の三浦市向ヶ崎町八―八に旧住居跡がある。グーグル・マップ・データ))『へ移り、通称異人館へ入る』とある(但し、翌年の七月には俊子と離別している)。なお、同歌を刻んだ詩碑(グーグル・マップ・データ)が城ケ島大橋の城ケ島側に建つが、これは、ずっと後の昭和四九(一九七一)年の建立である。もっと前の白秋生前に歌碑建立計画はあったようだが(白秋は昭和一七(一九四二)年十一月二日に糖尿病と腎臓病のため、阿佐ヶ谷の自宅で逝去した)、「西尾正探偵小説集Ⅱ」の横井司氏の「解題」によれば、『歌碑の建立が遅れたのは』、大正一五・昭和元(一九二六)『年に』先に注した『城ケ島砲台が竣工されたから』である、とある。なお、「城ヶ島の雨」は、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらに、作曲の経緯等が非常に詳しい。それの『2. レコードについて』によれば、『大正時代に「城ケ島の雨」がレコード化されていたかどうかの記述は見つけることができ』なかったとあり、『昭和初期』、『初めて「城ケ島の雨」のレコードが発売されたのは』昭和七(一九三二)年九『月で』、『歌手は「和田春子」』であったとある。]

 長く尾を曳いて海面へ消えて行く口笛はちょっといい気持ちです。自分で自分に酔っていたのですから世話はありませんが、どこからか急にその口笛に乗って同じ歌が聞こえて来たのには驚いてしまいました。立ち止まって見返ると、少し離れた丘の上にいつの間に来たのか洋装の若い女がほっそりした脚を擁(かか)えて、朗々と唄っているのです。穿いている靴、両腿の上に乗っている丸い風呂敷包み、――確かめるまでもなく僕の隣の部屋に泊まっていた女、夜通し泣き明かした女であることに相違はありません。

 僕は思わず黙礼しました。すると女も微笑を泛(う)かべてもじもじしましたが見入って来た眼は大胆でした。若いと言っても僕らと同年輩か、ことによると一つ二つ年上かも知れません。どういうものか僕達親がかりの学生連中は年上の爛熟した女に強く惹きつけられるようです。フロイドは母親代償(マザー・コンプレックス)と言ってこの性心理を説明していますが、僕はたった一眼でその女に魅せられた自分を悟らないわけには行きませんでした。

 僕達は当然言葉を交わしました。

 彼女は僕の来た前の晩にこの島へ来ているのです。前に来たことがあり、それ以来とても好きになったからと言っていました。僕の着ている上衣の金ボタンを見て懐かしそうに、あたしのお友達も貴方と同じ学校に行っていると言って、それから急に気を許したようです。僕が午後から近所の名所旧蹟を歩いて見るつもりだというと、一緒につれてってくれというのですね。

声音と言い態度と言い実に快活で、夜通し泣き明かした女だとは思いようがありません。[やぶちゃん注:作者は慶應義塾大学経済学部卒である。]

 それからその辺をしばらくぶらぶらしてから一緒に宿へ帰りましたが、その間中片時も風呂敷包みを身辺から離しません。紫地にトンボ模様の平凡な風呂敷でしたが、短い間の散歩にも部屋へ置いて来ないところを見ると、よほど大切な品物なのでしょう、だんだん僕の好奇心はその風呂敷包みに注がれて行きました。それほどに女とそれとの関係は異様だったのです。

 

 その日の午後半島めぐりを終えて路傍のとある註車場で帰りのバスを待っている時に、僕達は烈しい夕立に会いました。田舎の凸凹の街道の上に太い両脚がはね返って、行方が霞んでいるのは陰鬱な風景でした。女は恋人のように僕に寄り添い、片方の小脇にそれを濡らすまいと、例の物をしっかと抱え込んで、何だか悲しげな顔をしていました。バスの来る前に彼女はこんなことを言いました。

 「――あなたは幽霊をお信じになる?」

 「幽霊? お化けのこと?」

 「そうよ。――幽霊って、ほんとうにいるものかしら?」

 あまり相手が真剣なので思わず僕は失笑しました。「――信じる者にはいるし、信じない者にはいないでしょう」

 「いいえ、あたしの意味は、幽霊って、実在するかどうかっていうことなの」

 「それは問題だな、今日の科学では」

 「では、あなたはどうなの?」

 「僕は信じませんね」

 女は――仮にF子と呼びましょう――肯いて黙りました。僕はからかってやろうと思い、「さては、恋人の幽霊でも見たんですね?」[やぶちゃん注:この直接話法は底本では、版組上は(「さては」以下は次行に亙っている)、この通りに前の行に続いていて、改行されていない。]

 しかし女は笑いませんでした。笑わないばかりか、なぜか瞳を動揺させて明らかに狼狽の素振りを示しました。平素の自分ならば、首なし裸体事件――丸い風呂敷包み――中村に似た男の出現――幽霊――何かしら秘密を持ったF子――と、これだけの材料を思考の同一線上に結びつけて当然或る種の結論を抽き出し得たはずなのですが、やはり眼の前の女の艶めかしい体臭が邪魔をしていたのですね、その日帰京する予定のところをF子がもう一晩泊まるというので、ずるずる引き摺られて宿へ帰ってしまったのです。

 帰ると雷雨は一層ひどくなりました。僕と入れ違いにF子が入浴中電気が消えました。稲妻がぴかりぴかりと空を裂き、その度に室内が鮮やかに光ります。僕は風呂敷包みを開いて見るのは今だと思いました。さすがに風呂場に下りている間だけは部屋の隅に置いて行ったのです。慌てて彼女の部屋に入り、震える手で結び目を解き始めました。元通り結び直せる平凡な結び方だったのが僕にこんなことをさせたのです。悪いとは思いつつも結局好奇心には勝てなかったのですね、両手で支えてみると意外に重いのには驚きましたが、風呂敷の中に更に数枚重ねられた新聞紙を開いて見て一種異様な物の腐敗臭が鼻腔を鋭く突いた時、さすがに躊躇せずにはいられませんでした。最初は嬰児の腐敗屍体かと思ったのですが、瞬間稲妻がきらめいてそこにハッキリ一個の男の生首を照らし出しました。驚いたのはそればかりではありません。首の切断口こそ石榴(ざくろ)のようにうぢゃぢゃけて血に塗(まみ)れてはいましたが、顔は生ける者のごとく平静で人相などハッキリ判ります。Nさん、それが他でもない、中村一郎の首だったのです。

 

 恐怖は急には湧かないものですね。包みを元通り結び直すと急いで自分の部屋に帰り仰向けに寝転んでだんだん力を失って行く雷鳴を聞くともなしに聞いていると、ぞオっと奇妙な戦慄が全身を走りました。女はその頃やっと風呂場から上がって来て襖越しに何か話しかけたようですが、僕の様子が何となくおかしいのを問題の風呂敷包みを見られたのではないかと危惧したのか、それきり僕の方へ来ようとはしませんでした。雷が遠のいて煌々たる月光が部屋に射し込むのが、電気の再び点(つ)いたのより早いくらいでした。僕は眼を見はりながら奇妙なことを考え始めました。恐怖が僕を女の魅力から遮断し、思考の方向に一転機を与えたのです。すなわち冒頭に誌した「首なし裸体事件」と生首との関係です。もちろん不充分な状態で見たのですから中村の首だと断定することはできません。のみならずその日の朝思わず名前を呼びかけるほど中村によく似た人物を見ているのです。生首が中村一郎であっていいものでしょうか。しかし逆に言えばあの人物が中村であると断定することも同様に困難なわけですから、東京で「首なし事件」が起こってから三日間依然として生首の行方が分からず未解決のまま推移している現在、得体の知れぬ女が生首を携帯している事実を突き止めた以上、最早二つの事実に関聯なしと見ることはできません。僕は急いで部屋の隅にしわになっているその日(九月一日付)の新聞に眼を通しました。ところがどうでしょう、「首なし屍体の身元ほぼ判明す」という小さな見出しで、事件当夜から行方不明となっている世田ケ谷在住の某人学生中村一郎の名が誌してあるではありませんか。

 あとから考えると、これは検察当局の大きな見込み違いだったのですが、この記事を読んで僕はもう遮二無二女の持っている生首が中村一郎であると断定しました。いかなる原因から女が中村を殺しその首を持ち歩いているのであろうか。――

 いや、この場合生首の首が誰であろうと、女の行動は既に明らかに不穏です。時を移さず警察に引き渡すことが僕の責務です。しかし正直に言いますと、その時の僕の心理は複雑でした。僕は彼女に奇妙な憐憫(れんびん)を感じたと同時に事柄の異様さに恐怖をも覚えていたのです。また他人の私物を盗み見た後ろめたさと女がじっとしているので、こっちに行動を起こさせる心理的抵抗がないのです。一言で言えば事件全体が若輩の僕には重過ぎたのですね。こんな気持ちで女の様子を伺っていたのですが、いつまで経っても動く気配もなければ、特徴のある咽喉をきる音も聞こえません。もしやと思い慌てて襖をあけますと、果して女の姿は例の風呂敷包みもろとも消えているのです。僕はしまったと思いました。情勢の不利を悟った女は巧みに風呂場を通って裏口から逃亡したに相違ありません。果して生垣の前の狭い路地、――中村と覚しき男の立っていたところを小走りに跳(と)んで行く女の姿がちらっと映りました。その方向は戦時中立ち入り禁止の太平洋に面した断崖なのです。この女の行動がキッカケとなって抵抗が起こり、憶していた[やぶちゃん注:底本のママ。「臆」の作者自信の誤字か誤植かと思われる。実はこの後にも同じ誤りがあるので、底本の誤植はあり得ないと思われるのである。]心が一挙にして勇猛心に変わりました。僕は裸足のまま宿を跳び出し、女のあとを風を切って追いました。

 僕の出足がもう三十秒も遅れたならば、そして女が伝馬船(てんません)の傍らに拡げられた網に躓(つまず)いて転ばなかったならば、断崖の下の荒立つ怒濤の中に彼女の姿を見失ってしまったことでしょう。際どいところで取り押さえることができました。

 「放して下さい、放して! 死なせて、死なせて……」

 女は僕の両腕の中で悶搔(もが)きました。女といえども必死の力は強いものです。例の風呂敷包みを小脇に擁(かか)えながらも全身で抵抗を続けます。僕も全身で押さえ込みました。とうとう女は力尽きてくたくたと僕の足許に崩折(くずお)れ、今度は大声で泣き出しました。

 話を簡単にいたしましょう。

 女の不穏な行動について彼女自身語るところはこうだったのです。――

 彼女は都下の或るダンス・ホールのダンサアでした。身許(みもと)はしかし案外いいらしいのです。ダンスもうまくからだに特殊の魅力があったので言い寄るものも多かったのですが、中でも彼女に熱情を注いだのが中村の弟次郎だったのです。中村に一つ違いの弟がいたことは冒頭に紹介しておきましたが、兄の一郎が学業も優秀な、教師や学生仲間から一目おかれていた立派な青年であるに反し、弟子(ていし)の次郎は戦場で荒んで復員して来てからぐれ出し、闇屋や竊盗(せっとう)などの嫌疑を受けたこともあり、兄の家を飛び出してM町の焼け跡(首なし屍体の現場付近)にバラックを建て、二、三の不良仲間を引き入れては毎日遊び暮らしていました。[やぶちゃん注:「弟子」にルビはない。しかし「弟子(でし)」には「弟(おとうと)」の意はないので、「年の若い者・幼い者」の「弟子(ていし)」で読みを振った。]

 故郷の父は愛想をつかし、財産の全部を兄に譲る手続きをしていたと言います。

 F子は次郎を通して一郎を知ったのです。

 彼久は次郎を愛してはいたのですが、あまりにも放埒(ほうらつ)な性絡に嫌気がさし、だんだん愛情が弟から兄に移って行ったのです。兄弟はF子を間に挟んで諍(あらそ)いをするようになりました。弟はとうとうよからぬことを思い立ったのです。

 恋と財産、――この二つのものこそ時代や国柄を越えて悪への動機たり得るのですね、弟はこの一石二鳥を狙ってF子を囮(おとり)にF子と共謀で兄を殺してしまおうと企んだのです。彼は前以て近所の家には故郷へ帰るから二、三日留守にすると言っておき、F子に兄とその家で逢曳(あいびき)の約束をさせたのです。女は不決断なものですね、ずるずると半ば脅迫されて弟の計画を受け入れてしまったのです。

 次郎はF子の愛情が兄に移りかけていることを知っていました。それと同時に高圧的に出れば女が自分の意に従うだろうことも知っていました。その頃はもう二人は深い関係にあったのです。

 事件の夜、ホオルを早目にしまってF子は次郎の家に向かいました。問題の踏切のところまで来るともう五分とは掛からないのですが、さすがに彼女の脚は憶して[やぶちゃん注:ママ。前掲割注参照。]もう一歩も進めなかったと言います。その時彼女はハッキリ自分の愛しているのは次郎ではなく、一郎であると悟りました。弟が彼女の来るのを待っているはずです。十一時に来る兄を暗闇の中で弟が取り押さえている間に彼女が風呂敷を首に巻いて絞殺する手筈なのです。途中幾度か逡巡したために時計はもう十一時を二十分も過ぎていました。

 もうその頃は物騒(ぶっそう)で人っ子一人通らない焼け跡の暗いところを選(え)るようにして前蹲(まえかが)みに、何か重い物を背負った男の姿がぽかりと線路の上に浮き上がりました。F子は突嵯に反対側の土手に身を潜めました。次郎が計画通りの仕事を単独で済ませたのだと確信したのです。男は背負った物を線路の上に横たえましたが、それから間もなく電車が驀進して来(き)、あっと言う間もなく骨の刻まれる音、急ブレエキの軋音(きしみ)が起こって、突嗟(とっさ)にこの場を逃れ去ろうとするF子の足許に生首がはね跳ばされて転がって来たのです。彼女は前後の見境もなく「愛する人」の首を包んで無我夢中で駈け去りました。[やぶちゃん注:「軋音(きしみ)」読みは私が振った。]

 やはりこの行為は正常ではありませんね。一種の節片婬楽(ソエティシスムス)或いは偶像愛着症(ピグマリオニスム)とでも言うのでしょうか、翌朝になって自分のおかれている位置を悟り、驚いて以前一郎と一緒に来たことのあるJ島へ、もちろん生首の主が一郎であると思い込んでいるのですから、もろともにここから断崖から身を投げてしまおうと逃げて来たというのです。かつてF子と一郎は断崖の上のタンポポの咲く草原でまる半日も荒れ狂う波や茫洋たる海原を瞶(みつ)めて過ごした、その思い出が彼女にここを死場所に選ばせたのだと思います。[やぶちゃん注:「節片婬楽(ソェティシスムス)」ルビ(実際には「スエテシスムス」である)から見て、ドイツ語の“Fetischismus”を作者なりに音写したものであろう。所謂、フェティシズム(英語:fetishism)である。「偶像愛着症(ピグマリオニスム)」ドイツ語“Pygmalionismus”の音写。所謂、「ピグマリオン・コンプレクス」(和製英語:Pygmalion complex)である。ウブで判らない方は当該ウィキを見られたい。ドイツ語では“Agalmatophilie”、英語では“Agalmatophilia”で、訳すなら「彫像愛」ある。告白すると、私は幼少期から、この二種の異常性愛が、かなり、強いタイプである。]

 

 しかしながらNさん、貴方が夙(つと)に想像されたように、殺された生首の主は一郎ではなかったのです。無頼漢だという弟の次郎だったのです。だから傍らの伝馬船の中から当の中村が僕達の前へ忽然と現れた時には、僕も女も肝の潰れるほどビックリしてしまいました。今度こそ幽霊だと思いました。次元の認識が狂って何かとんでもない錯覚に捉われているのだと思いました。月に浮かんだ男の顔をまじまじと瞶めてしばらくは口もきけません。確かに中村に相違ないのです。しかもこの日の朝(あさ)生垣(いけがき)の蔭に潜んでいた男に相違ないのです。前髪の乱れた青い額、埃(ほこり)に塗(まみ)れたシャツ、よれよれの夏ズボン、――それにしても何だって僕もF子も生首の認定を過ってしまったのでしょう。兄弟で似ているとは討え、あまりにも迂濶でした。人間の視覚などというものはホンのちょっとした先入見(せんにゅうけん)には全く無力だという根本問題に触れないわけには行きません。

 中村は一種の感動から身を震わせて泣くF子を片腕に抱きながら、こんな風に自己の行動を説明しました。

 彼は弟の殺意を少しも知らずあの夜次郎の家へF子に会いに行きました。真暗な室内で兄の来るのを待っていた次郎は突然兄に躍り懸かりました。背後から首へ縄をかけて絞めつけたのです。不意を衝かれて中村も面喰(めんくら)いましたが、自堕落に身を持ち崩したアルコオル中毒の弟は所詮スポオツで体を鍛えた兄の敵ではなかったのです。兄は襲撃者が弟であることを悟りましたが、その場の成行きでついに弟を絞め殺してしまったのです。彼の行動は明らかに正当防衛ではありますが、それを敢行させたものがF子に関聯して弟に抱いていた憎念(ぞうねん)に他なりません。ふだんからこのならず者を持てあましてはいましたが、もしF子を愛さなかったら弟は殺さずに済んだでしょう。それでなければその後の彼の行動、――犯跡韜晦(とうかい)の惨虐(ざんぎゃく)手段の説明がつきません。すなわち彼は一時烈しい悔恨に襲われ、自首して出ようと思ったのですが、彼はふとかつて目撃したことのある轢殺屍体の有り様(さま)を想起し、最近の治安の紊乱(びんらん)と警察力の低下との間隙を狙って万が一の僥倖(ぎょうこう)を頼んだのです。彼は屍体を丸裸にし、車輪がそれを寸断するであろうことに期待をかけて鉄道線路へ運びました。

 それから彼は烈しい眼舞いに襲われ、現場の空家へ這いずり込んでぶっ倒れたまま余儀なく一夜を明かしました。翌朝恐怖と発覚の不安に眼覚めた彼は、突然F子が恋しくなり、彼女のアパートヘ走りましたが、その時は既にF子がJ島へ発(た)ってしまったあとでした。F子が行先を洩らしたのか、アパートの者の口裏(くちうら)から彼女がJ島へ渡ったことを直観し中村はそのあとを追ったのです。それが三十日の夜でした。彼はきょう(九月一日)まで伝馬船の中に隠れてF子を探していたと言います。F子が夕立に会った時幽霊のことを聞いたのも、どこか遠見ででも中村の姿を認めたからだったのでしょう。しかしこの時まで二人は出会う機会に恵まれなかったというわけです。

 「事態がこうなった上は、僕も卑怯な真似はしたくない。どうかしばらく僕達二人だけにしておいてくれないか。どうせ自首して出る以外に道はないのだから」

 彼は意外に冷静に、僕の知っている頼もしい中村に立ち戻ってこう言いました。僕は迂潤にも彼の提言を容(い)れました。きっと君達の来るのを待っていると言いおいて先に宿へ帰りました。しかしいつまで待っても二人は戻っては来ないのです。僕は不安になりました。もしやと思い急遽(きゅうきょ)断崖の上へ引き返したのですが、やはり僕の予感は当たっていました。Nさん、僕は何も殊更に奇を好んでこの最後の場面を綴ろうとするのではありません。彼らの異常さを具体的にハッキリ説明し得ると信ずるからです。まるでマントを脱ぐように善から悪へ顚落(てんらく)した中村、利欲のために兄を殺そうとした弟、行動に中心がなくその時その場合を全く無自覚に生きて行くアモラル(無道徳)なF子、――これらは我々現下の思想を失った青年男女の象徴でなくて何でしょう。

 幾日ぶりかで顔を出した秋の月は、夜半に至ってますます冴え亘(わた)りました。海も岡も万象(ばんしょう)昼のように明るく、崖上(がけうえ)の草原は一面に鮮やかな青絵ノ具が刷(は)かれました。そこは淵に向かって緩いスロオプを描いていて、その上をころころと転がって行くふしぎか形の物を見ました。中村とF子がぴったり重なり合っているのです。どちらがそのような運動を起こしているのか、ころころと丸くなって崖淵の方へ転がって行くのです。

 それは明らかに計画的な心中であり、彼らが追い求めた悦楽の最後の饗宴だったのです。浅黒い男模様と真白な女模様の肉塊は、眼の覚めるような月光を浴びながら、そのまま数十丈の崖下へ、怒れる巨濤(おおなみ)の中へ落ち込んで行きました。

 ――あとには置いてけ堀にされた次郎の生首が、ひとりポツネンと、さあらぬ方を瞶めていました。……

2024/11/23

ブログ・カテゴリ「西尾正」創始・「海蛇」やぶちゃん版校訂本文+オリジナル注附

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「西尾正」を創始する。私は既に古く十七年前、サイト版で、「骸骨 AN EXTRAVAGANZAをオリジナル注を附して、二〇〇七年五月に公開している。私の西尾体験は、大学一年の春、「骸骨」を大学図書館でレファレンスし、読んだことに遡る、古くから好きだった作家である(彼は鎌倉に住み、鎌倉をロケーションとしている作品が多いことが、私の郷土史研究・鎌倉探索癖と完全にシンクロしたのである)。その後、正規表現版で彼の作品を電子化する目論見を忘れなかったのではあるが、驚くべく、国立国会図書館デジタルコレクションには、彼(実際には彼の本格的活動時期前期は戦前であった)の作品は一つも発見出来なかったため、永いペンディングをしていたのだが、今朝、調べて見ても、何故か、やはり、全く見出すことが出来なかった。されば、諦めて、所持する二〇〇七年二月・三月に論創社から刊行された「西尾正探偵小説集Ⅰ・Ⅱ」(新字新仮名)を用いて、電子化注を開始することにした。

 探偵小説家西尾正(にしおただし:明治四〇(一九〇七)年~昭和二四(一九四九)年)は本名同じで、別名を「三田正」とも称した。東京(旧東京府東京市本鄕區)生まれ。当該ウィキによれば、『作品は全て短編かつ怪奇小説的な作品である』。『代表作に「骸骨」「海蛇」「青い鴉」など』。『亀の子束子』(たわし)『の製造で知られる西尾商店の一族として生まれた』。『慶應義塾大学経済学部に進学し、卒業後の』昭和八(一九三四)年に『雑誌『ぷろふいる』六月号に「陳情書」を発表してデビュー』した(但し、同作は発表直後に発禁となった)。『その後も『ぷろふいる』『新青年』などの雑誌に、コンスタントに短編を発表し続けた。太平洋戦争中は沈黙、戦後には執筆を再開している』。『米国のパルプ・マガジンに取材した異色作なども発表している』、昭和二二(一九四七)年、『雑誌『真珠』』十一・十二『月合併号に掲載した「墓場」は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフト』(Howard Phillips Lovecraft:一八九〇年~一九三七年:私は邦訳ではあるが、その殆んど読んでいるラヴクラフト好きでもある)『作「ランドルフ・カーターの陳述」に着想を得た作品であり、やや変則的な形ではあるものの』、『ラヴクラフト作品が初めて日本語訳されたものである』。『評論家・東雅夫は本作を『怪奇への狂熱ぶりにおいて相似た資質を有し、かたや『ウィアード・テイルズ』』、『かたや『新青年』という怪奇小説のメッカとなった雑誌を舞台に、太平洋の此岸と彼岸で』、『ほぼ同時代に活躍した両作家の軌跡が、この翻案作品において交錯する次第は、なにやらん運命的なものをすら感じさせます』と評価している』。『この他にAW・カプファー』(A.W. Kapfer)の「幻想の薬」(‘ The Phantom Drug ’一九二六年発表)『を下敷きにした「幻想の魔薬」、WF・ハーヴィー』(William Fryer Harvey)の「炎天」(‘ August Heat ’)『を元にした「八月の狂気」がある』。しかし、戦前から罹患していた結核が、戦中・戦後の食糧欠乏の結果、悪化し、敗戦から三年余りの昭和二四(一九四九)年三月十日(別資料では一日とする)、四十一歳の若さで、鎌倉にて逝去した。奥谷孝哉「鎌倉もうひとつの貌」(蒼海出版一九八〇年刊)によれば、彼は戦前の昭和八(一九三二)年頃から、鎌倉に住んでおり、海岸橋の近くに家があったとし、『乱橋材木座九七七という旧標記』があるとあるので、恐らく、滑川の左岸の乱橋(泉鏡花のドッペルゲンガーの近代小説の嚆矢たる「星あかり」(正規表現・私のオリジナル注附・PDF縦書版)所縁の「妙長寺」附近のここ。グーグル・マップ・データ)から、若宮大路の海岸橋の間に住居していたものと推定される。

 私の好みで、上記二冊の中から、チョイスする。本文は、当該書をOCRで読み込む。ここに御礼申し上げる。但し、「青空文庫」が先行して公開している「陳情書」「墓場」「放浪作家の冒険」の三篇は、オリジナル注をしても、屋上屋となるので、電子化対象から外す。

 最初は、代表作の一つで、現在、評価の高い「海蛇」とする。初出は『新靑年』昭和一一(一九三六)年四月号である。なお、底本の「西尾正探偵小説集」カバーに記されてある西尾の履歴では、この「海蛇」を公開後、昭和十四年まで、一旦、筆を断って保険会社に勤務したとある。これは、戦中の沈黙に続いており、西尾の思想的な立ち位置をそれとなく感じさせるものがある。但し、読みについては、別に所持する立風書房一九九一年刊の『新青年傑作選』第三巻の同作を対照して、適宜、追加することとする。

 実は、ルビは、そちらとは、これ、かなり異なるからである。恐らく、「西尾正探偵小説集Ⅰ」と立風書房版のそれとは、注記がないが、孰れも、ルビをそれぞれ独自に選択しているようである。例えば、冒頭の「貞子(さだこ)」には、立風書房版では、ルビは存在しないからである。また、基礎底本の冒頭から三段落目の最初の部分の「距(へだ)たる」と「余り」とあるのが、立風書房版では、ここは「距(へだた)る」と「余(あまり)」とになっていたりするのである。

 いやいや! 送り仮名・ルビ違いどころではなく、本文そのものの相違(改行・行空け・漢字表記・送り仮名違い等々)さえ、かなりある、のである。

 思うに、「西尾正探偵小説集Ⅰ」が底本としたものは、初出版ではなく、後に再録された際に作者が手を加えたものである可能性が高いようである。

 されば、この本文については、概ね、私は、立風書房版の方が初出に近い表記であると判断しており、多くを、そちらに代えた箇所も多い。

 さらに、私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた。それは、当時のこの手の雑誌は、総ルビであることが多かったからである。

 しかし、この細部の変更を、いちいち、注記するのは五月蠅いだけなので、それらは、原則、示さない。

 但し、両者の表記が大きく異なる箇所は、例外的に、割注で、細かく指摘しておいた。

 なお、両書ともに、電子印刷の端境期に当たり、ルビの促音・拗音表記がなされていないので、適宜、修正してある。

 さらに、立風書房版では、ひらがなになっている箇所が、「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、漢字になっている箇所も多い。これは、或いは原作では、ひらがなである可能性が高いと思われるものの、作品の気品を引き締めるためにも、ここでは、後者の漢字表記(作者による再録時の変更と採って)を多く採用した。しかし、その逆転の場合もあり、立風書房版を採用している箇所もある。また、同義の漢字の別字や異体字の相違もあるが、そこは、私が勘案して、選んだ(これは幾つか割注で述べた)。さらに以降の電子化でも見られることになるので、言っておくと、この「西尾正探偵小説集」では、漢字が新字ではない正字体や異体字で示している箇所が、かなりある。これは「舊漢字崇拜者」たる私にとっては、願ってもないものなので、しっかり活字化してある。

 さればこそ、則ち、

 

――この私の電子化本文そのものが――出版物に同じものは一つとしてない――全く新しい――やぶちゃん版「海蛇」となっている――

 

のである。

 なお、本文の「海蛇」には、一切、両者ともルビがない。「うみへび」と読んでおく。傍点「﹅」は太字とした。]

 

   海 蛇

 

 貞子(さだこ)

 ……滅多に手紙など書いたことのない俺が突然こうした長々しい手紙を送れば、お前はきっとよほど俺が心境に変化を来たしたか、或いは、都会を遠く離れた僻地に孤独な療養生活を送っている俺の身辺に、何か起こったのではないかを案ずるかも知れぬ。――そうだ。その通りだ、到頭恐ろしい異変が襲って来たのだ。

 お前はこれまで俺がちょっとでも突飛な行動に出(い)でようものなら、闇雲に俺を気違いか有り難くもない天才扱いにして、損の行く時だけは驚き慌(あわ)て、そうでない場合には座興にして、くすくす盗み笑いをして来たのが為来(しきた)りであった。お前は齢(よわい)二十八歳にして既に諸々の哲理を悟り澄ました最も月並みな俗物、お偉い合理主義者なのだ。だがどうか今度だけは俺の言うことを真面目に受け取ってくれ。

 ここは東京を汽車で距(へだた)ること十時間余(あまり)、南日本の一角、海辺の寓居だ。俺の眼の前には今一段と低く、どす黒い凄惨な浪がざぼおんざぼおんと踊り狂っている。俺の借家は崖(がけ)の頂辺(てっぺん)に立った一軒家だ。部屋は八畳一間切りだ。後ろは高い山だ。森林が北方の空を被(おお)い尽くしている。来た当座は狂い波の響きが木谺(こだま)して煩(うるさ)くて眠られなかったが、三月も暮らせば平気にもなる。左方にI岬(アイみさき)の突出した入江があるが、右方前方は何一つ遮(さえぎ)る物のない海、海、海の連続だ。遠くは紫色に霞んで何にも見えぬ。荒海ではあるが時として幕のように鎮(しず)まり返る凪(な)ぎの日の続くことがある。手摺(てす)りに凭(もた)れ、無心に海を眺(なが)めていると堪らなく物倦(ものう)くなる。体中の毛穴からは汗が滲(し)み出(だ)し、神経が飴のように溶(とろ)けてしまう。

 

 海岸の二月には時たま春のように暖かい夜の訪れるのをお前は知っているか。そういう夜は如何(いか)に病的な俺だとて人並みに烈しい精神の高揚を覚える。寒気に萎縮していた空想は奔放(ほんぽう)となり、五体は熟(う)れ上がって誰でも好(い)い、ただ女でさえあればそいつを全身で我武者羅(がむしゃら)に搦(から)み締(し)めたい衝動でわくわくするのだ。窗外(そうがい)には、森にも海にも岩蔭にも牛乳色の靄(もや)が棚曳(たなび)いて月が眠(ねむ)た気(げ)にぼやけていた。俺は当てもなく瓢然(ひょうぜん)と部屋を立ち出で、足に委(まか)せて漫歩を続けて行くうちに、不知不識(しらずしらず)、I岬の突端まで来てしまったのだ。それが今日(こんにち)の恐怖の種を蒔いた最初の夜であるとは誰が知ろう。月はだいぶ落ち掛けていた。海は神秘の情操を綾(あや)どる天来の音楽だ。嘘のようだが全くこれに相違はない。俺は陶然と小一時間も立ち続けていたが岡へ上がろうと踵(きびす)を巡(めぐ)らせた時、反対に岡の方から突端へ歩いて来る一人の女を認めたのだ。夜半女に出会うのは気味の好いものではない。しかも、洗い髪の若い女なのだ。女はよほど岩伝いには馴れている者と見え身も軽々と駈け下りて来たが、見知らぬ男の彳(たたず)むを認めると慌てて裾から洩れる白い脛(すね)を隠し、草履(ぞうり)の音も秘そやかにそろりそろりと近寄って来た。下膨(しもぶく)れのぽっちゃりした顔であったが教養はありげで土着の女ではないらしい。摺(す)れ違う時、体を堅くしながらも上眼遣(うわめづか)いに凝(じっ)と俺の眼に見人ったが、それは警戒ではなくむしろ大胆な流眄(ながしめ)であった。俺はその後姿(うしろすがた)を見送りながら一体何者であろうと考えた。俺と同じように戸外の夢幻に誘われたのであろうか? 何分深夜だ。俺は半ばの好奇心と半ばの気味悪さを覚えながら、もう一度俺の方へ近寄って来たら言葉を掛けてみようと、煙草(たばこ)の火を点じ、岩蔭に蹲(かが)んでその後ろ姿を窺(うかが)っていた。

 けれど女はそれ切りこっちを向かなかった。あたかも満潮時で折々沖の方から黒々としたうねりが足許(あしもと)を渫(さら)うように押し寄せて来るのだが、その波が岩の両脇に別れて消えることをよく知っているらしく、悠然と袂(たもと)に入れた手を胸の辺りで重ねたまま相変わらず沖を見ている。雲の中にたたずむその幽婉(ゆうえん)な後ろ姿は幾分か淋し気で、背中に俺の視線を意識しながら言葉の掛けられるのを待っているようにも見えた。と、――訝(おか)しなことが起こった、女が突然くるりと振り向き艶(つや)やかな頰にあるかないかの小さな靨(えくぼ)を浮かべ、嫣然(えんぜん)媚笑(びしょう)したと見るや、ぷいと海の中へ見えなくなってしまったのだ。[やぶちゃん注:「幽婉な」奥ゆかしく美しいさま。「嫣然」「艶然」とも書き、「にっこりほほえむさま・特に美人が笑うさま」を言う。「媚笑」男の気を惹くような笑い。艶(なま)めかしい笑い。]

 俺は無論啞然(あぜん)とした。が、次の瞬間たちまち恐ろしくなった。汗ばんだ皮膚にぞっと悪寒(おかん)が襲った。俺は、変だなあ変だなあと、無意識に衝(つ)いて出る呟(つぶや)きを何遍も何遍も繰り返しながら、来た時よりは早足で家に帰った。

 部屋に落ち着いて俺は考えた。或る記録に拠(よ)れば、この地方はレプラ患者の多い漁村で、海浜に平行して連なる山脈の或る区域には人目を避けた部落が営まれ、年頃の漁夫の娘などは発病の症候と同時に山奥に送り込まれてしまうと誌(しる)されてある。往時から漁村にレプラの多いのは鮪(まぐろ)が細菌を媒介するからだと謂う。都会からも、だいぶ入り込んでいる噂であるから、彼女もそういう種類の女であの夜(よる)自殺を決意して岩に渡り、最後の虚無的な笑いとともに俺の瞬(またたき)の間(ま)を利用して変化のない鈍重なうねりに肉体を委(まか)せてしまったのではないか、と考えた。この解釈は如何にも不満ではあったが、幾分の安神(あんしん)を得たことは事実であった。眠りに堕ちた時は暁(あかつき)の鳥が鳴き、雨戸の透間(すきま)から白々(しらじら)とした光の射し込み始める頃であった。[やぶちゃん注:「レプラ」ハンセン病。旧称の「癩病」は、字背に差別的ニュアンスが濃厚にダブっているので、使用してはならない。ハンセン病は細菌門放線菌門放線菌綱放線菌目コリネバクテリウム亜目マイコバクテリウム科マイコバクテリウム属マイコバクテリウム・レプラ Mycobacterium leprae による純粋な感染症であるが(現行、種名和名を「らい菌」とするが、私はこの謂い方も「癩病」を廃している以上、廃するべきと考える)、歴史的に永い間、「生きながら地獄の業火に焼かれる」といった「天刑病」「業病」の差別、潜伏期が長いことから(一般的には三~五年であるが、十年から数十年の後に発症する症例もある)感染症とは考えにくいという誤認、後の悪法「らい予防法」(昭和二八(一九三三)年)などに見るように、日本政府自らが優生学政策を掲げたことなどから、「遺伝病である」というとんでもない誤解が広まってさえいたのである(実際、私のブログで電子化している怪奇談集の中には、江戸時代、癩病筋(すじ)の家系をモチーフとした実話奇談物が存在する)。そうした顕在的潜在的差別意識に対して充分に批判的視点を持ってお読みになられるようお願いする。そうして、かくも誤った認識によって、かくも凄絶に孤独に死んでいったハンセン病に罹患した人々が、大勢いた事実を記憶に刻み込んで戴きたいのである。なお、この「I岬」のロケーション・モデルを考証しなかったのは、この部分を考慮したためである。但し、後で、ここには鉄道が通っており、「I岬駅」があるとするのは、西尾に具体なモデル駅があったのだろうと考えられはする。「安神」「安心」に同じで、「後漢書」に現われる古い漢語である。]

 翌日になっても若い女の溺死体が流れ着いた模様もなかった。ではやはり俺の錯覚だったのかと数日を過ごすうち、同じように暖かい月明(つきあかり)の夜、同じ所で同じ女に、またしても出会ったのだ。[やぶちゃん注:「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、ここで、このように、改段落行空け行われているが、立風書房版では、そのまま次の段落に繋がっている。これは、原初出は改行・行空けはないものと考えられるが、効果としては、あった方がよいと考えて、かくした。]

 

 相手が何らの怪異の対象でもなく、一個の熟(う)れ切った肉塊であると思い始めると、何時(いつ)か俺の体内に生温(なまあたた)かいものが流れ出した。俺は毎夜(まいよ)岬へ出て女を待った。三度、五度、六度、――こうして女は、はじめて眼と眼と戛(か)ち合う時、唇許(くちもと)を歪(ゆが)め上眼遣いに例のあるかないかの微笑を泛(うか)べて見せた。俺は或る目的のために特に強烈な酒を呷(あお)り、婬(みだ)らな欲望にうずきながらついに嫌がる女を欺(だま)し欺し部屋に引き摺(ず)り込んではじめて肉体を知った。何気なく女の素性(すじょう)を問うた時、女の眉間(みけん)に悲し気(げ)な陰(くも)りが、窗(まど)に落ちる黒い島影(しまかげ)のごとく射すかと見ると素早く消え去った。ただあなたと同じように体(からだ)のためにきているのよ、どうかそれ以上はなんにもきかないで頂戴、と答えるのみで、更に追求すれば切れの長い眥(まなじり)を怒らせて、棘々(とげとげ)しい素振(そぶ)りを見せた。やがて異様な疲れが、嗚呼(ああ)眠(ねむ)るぞ眠るぞと呟(つぶや)く俺を死人のごとき眠りに吸い込んだ。既に陽(ひ)の高い頃眼覚めた時、寝床には生々しい体臭が残っているだけで女は見えなかった。体中がびっしょり生汗(なまあせ)に濡れていた。[やぶちゃん注:「戛(か)ち合う時」「窗(まど)」は「西尾正探偵小説集Ⅰ」を採用した。二つの、一般的でない漢字の効果が、ともに影響し合って奇体なシークエンスを装飾していると考えたからである。それに合わせて、前に一度出ている「窓」も「窗」に代え、以下、最後までそれで通した。立風書房版では、前者は、「搗(か)ち合う」、後者は、「窓」、である。「生汗(なまあせ)」両書ともルビはないが、私が附した。但し、作家によっては、これで単に「あせ」と読むケースもある。]

 

 ところが昨日(きのう)のことだ、俺は別に深い仔細(しさい)もなく例のI岬へ釣りに出掛けたと思ってくれ。海は干潮から満潮に移る頃であった。俺はあちこちに凸出(つきだ)した岩肌に石炭酸を打(ぶ)ち撒(ま)けてイソメをふんだんに掘り出した。生憎(あいにく)昨日は弱い弱い北風で、相当の深間(ふかま)でも判然(はっきり)透き通って見えるくらい水が澄んでいた。二時間ぐらいは辛抱していたが餌を代える機会さえ来ないのだ。俺は自棄(やけ)を起こし竿(さお)を畳むと、碌々(ろくろく)使いもしない餌(えさ)を手摑(てづか)みにして海に投げ込んだ。すると、ちりぢりに四散してやがて水底(みなそこ)に舞い落ちようとする餌に向かって、海草や岩の間から種々雑多な珍しい小魚(こうお)の群(むれ)が飛び出して来(き)、彼方(かなた)に走り此方(こなた)に戻り猛烈な争奪戦を開始したのだ。俺は癪(しゃく)に障(さわ)った。が、眼舞苦(めまぐる)しい光景が面白いので立ち掛けた腰を下ろし、飽かず見入っていた。と、海底に、ゆらりゆらりと這うように流れて行く黄色い女の帯(おび)のような物が眼に留まった。俺は怪訝(けげん)に捕らわれて眼を瞠(みは)っていると、その帯のような物は必ずしも水の流れに従ってはいないのだ。言い換えれば、一定の生物の運動動作を以て海草を薙(な)ぎ倒しながら、そいつは騒然たる小魚どもを尻目に懸けて尖った口をパクリパクリ開いて俺の投げ入れた餌を喰(くら)っているのだ。[やぶちゃん注:「石炭酸」フェノール類(英語:phenolbenzenol)。化学式ArOH当該ウィキによれば、『毒性および腐食性があり、皮膚に触れると薬傷をひきおこす。絵具に似た臭気を有する。毒物及び劇物取締法により劇物に指定されている』とある。「イソメ」環形動物門多毛綱イソメ目イソメ上科イソメ科Marphysa 属イワムシ Marphysa iwamushi 。私の『畔田翠山「水族志」 (二四九) イソメ (イワムシ)』を見られたい。残念ながら、「イソメ」は「磯蚯蚓・磯目」で、「磯女」ではない。]

 貞子、それが身長六尺以上もあろうと思われる海蛇なのだ。――お前は恐らく海蛇がどんな動物であるか知るまい。動物! そうだ、彼奴(あやつ)は魚類には相違ないのだが、ふと動物と呼びたくなるほど陸上の毒蛇に近い感じを備えている。全身茶色で一面に黒い斑点(はんてん)がある。ただ腹だけが白い。眼かカツと大きく、吻が尖っていて歯が鋭い。漁師はなだと呼び、喰いつかれたら殺されても放れぬ執念深い妖魚として食用にもならぬままにむしろ恐れ遠去(とおざ)けているのだ。体は縦に扁平で鰭(ひれ)がないからぬらぬら光っている。鰭はただ一個所胸鰭(むなびれ)があるだけだ。しかもそれが極度に発達しているので、砂上ぐらいは這い回り、敵に向かって嚙みつくぐらいの跳躍力はもっている。俺はかつて地曳き網に入った奴を見たことがあるので、其奴(そやつ)が海蛇であることはすぐ判ったが、俺の見たのは高々三尺ぐらいであったので、一間以上もある奴が海底をうねうね這い回っている態(さま)を見て漫(そぞ)ろに寒気(さむけ)を覚えた。心なしか、其奴は俺の存在に気付いているらしく時折瞳を凝らして俺の様子を窺うが、するとまた嘲笑するようにぬらりぬらり這い回り始める。体の向きを代える度に背中の虎班(とらふ)が鈍い色に晃り、それが人の五体を痺(しび)れさす魔薬に似た鬼気を放つのだ。一分……三分……五分……俺はその鬼気に憑(つ)かれ、苦行僧のごとく身動きも出来なくなった。息苦しい無音の時間が刻一刻と過ぎて行った。と、俺はぴょんと跳ね上がった。今眼前の海蛇こそ女の本体なりとの疑惑が通り魔のごとく俺の胸を掠(かす)めたのだ。俺は下駄の角を岩のあちこちに打(ぶっ)つけながら這(ほ)う這(ほ)うの態で我が家に逃げ帰った。[やぶちゃん注:「虎班(とらふ)」立風書房版の読みを採用した。「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、「虎班(こはん)」で、音が硬く、しっくりこない。]

 

 さて、右の事実によって布衍(ふえん)させる俺の悲劇については、お前の想像に委(まか)せる。ただそれをどう処置したら宜(い)いかが問題なのだ。この事実は最凶の疫病よりも恐ろしい。だが貞子よ、安堵してくれ、俺は昨夜来の襖悩(おうのう)の果(はて)、やっと自身満足の行く解決法を見出した。それは女をできるだけ惨虐(ざんぎゃく)な方法でいびり殺すことだ。すなわち復讐だ。動物の頭蓋には頂点に一個所比較的脆弱(ぜいじゃく)な部分があるとのことだ。そこで俺はもう一度女を誘(お)びき寄せ、あいつの脳天に五寸釘を打ち込むことに決心したのだ。

 貞子、以上で俺の近況報告は終わった。お前はことによったら怒っているかも知れぬ。だが、許してくれ、そしてどうか打遣(うっちゃ)っといてくれ、俺が目的を敢行した暁(あかつき)にこそお前を呼び寄せよう。その時こそ俺の生まれ変わる日だ、もう一度都会へ帰り、愛するお前と新しく始めから生活を遣(や)り直す、春の雲のような、愉(たの)しい愉しい希望の燃える日なのだから。……

     三月二十九日   喬太郎(きょうたろう)記

 

     ※  ※      ※  ※

 

 前掲の手紙はかつての絢爛(けんらん)たる浪漫(ろうまん)主義者今日(こんにち)の敗惨の人黒木喬太郎が、その妻わたくしに与えた文(ふみ)でございます。これによってもわかりますように、黒木は思いきって変質者と呼んでもさしつかえのない人で、結婚前からかずかずの不審な行動がございました。今でもはっきり憶えておりますのは、ある日銀座の珈琲店(コオフイてん)で向かいあっておりますと、突然なんの外部的な衝撃もなしに白い珈琲盃(コオフイ・カップ)をとりおとして真っ青になった日のことで、まだあまり黒木の性格をしない許嫁(いいなずけ)時代のわたくしはあっけにとられてしまいました。黒木はその時、僕はいまひどい神経衰弱でささいなことにも驚くのだ、コオフイ・カップの柄をもたずに口へもっていったら、柄が眼球のまじかにせまり奇態な距離の錯覚をおこして、薄(うす)ぐらいテエブルの下から一匹の白鼠(しろねずみ)が組んでいた脚をつたってのどの方へかけあがってくるようにみえたのでギョッとして手をはなしてしまったのです、と説明して額の生汗をぽたりぽたりテエブルに落としたままじっと心臓の動悸をしずめている模様でした。[やぶちゃん注:「珈琲店(コオフイてん)」「珈琲盃(コオフイ・カップ)」ここは、立風書房版と「西尾正探偵小説集Ⅰ」を折衷し、一部に手を加えた。まず、「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、この二箇所は『珈琲(コーヒー)店』・『珈琲盃(コーヒー・カップ)』となっている。立風書房版では、『珈琲(コオフイ)店』『コオフイ・カップ』である。]

 病気はつねづね自分からいっておりましたように婦人病以外はたいてい患(わずら)いつくしたようなもので、その癖ねこむようなことはめったになく体の芯になにかこう強靭な鋼鉄線でも貫いているかのようで、仕事はひとときなど時流(じりゅう)のまにまに三人分くらいは果たしました。同棲してみますと極端なわがままもので、女性の肉体にいだく感情もけっして正常でないことがわかりました。犬や猫や鶏(にわとり)を飼った上で獣姦の文献をあつめたり、家系も血統も調べずに結婚したわたくしを非難する人もございましたが、もともとわたくしはあるったけの愛をささげて黒木の異常な病癖をためられるならためてやろうといういわばヒロイックな気持ちから一緒になったこととて、驚きもし悲しみもしましたがなかなか失望はしませんでした。それだけ黒木がすきだったのでございましょう。

 ところが黒木は昨年の夏から秋にかけて病名のわからぬ病気におかされて突然卒倒してしまいました。医者は全身の極度なる疲労で肺結核もあるし腎臓もわるいし脳組織もめちゃめちゃに破壊されているといい、もはやなおそうともせず死を宣告しましたが黒木は二三年も前からもうなにも書けなくなり、幻想をよびおこすために親しい医師から奪取するさまざまの魔薬を喫して小説をかいたり、一度獲得した名声の喪失をおそれるのあまりワルアガキがひとかたではなくその心労から一種の発狂状態に陥り、自殺企図や誇大妄想や、骨も髄(ずい)もくたくたに亡びて次に卒倒に移行したのでございます。尊(たっと)い自己を犠牲に魔薬の力をかりてまでも小説をかかなければならないというのはなんという愚かなことでございましょう? わるあがきをする前に適度に人生を軽蔑してこころにゆとりの流れるいわば諦観の境地に漬(ひた)ることができれば、それこそ真の積極(せっきょく)の道であるのに黒木にはそういう東洋的な教養がなく、この意味で救われない悲劇的(トラギッシュ)な人でございました。けれど、――黒木の体はどこまで強靭なのでございましょう、三月(みつき)ほどもするとふたたびシャンとして二三本宛名(あてな)のわからぬ手紙を往復しておりますと、突然I岬沿岸に療養かたがた仕事をはじめるのだといいだして、本年正月匆々(そうそう)仕度(したく)もそこそこに放たれた鳥のように飛びたっていってしまいました。空気のいい海のこととてたって反対する筋もないので時期をみてつれもどす考えで賛成してしまいましたが、極端に手紙ぎらいの黒木から三月ぶりで手紙をもらいました時にはなにかしら不吉な胸さわぎのしたのは事実でございます。なにしろ便りのないことは平和を立証することになりますから、ない間はむしろ安心していたのでございます。ですからわたくしは翌朝匆々の列車で、黒木の転地先をおとずれてゆきました。

 

 「I岬」が駅名になっておりますI岬駅をおりたら馬車に一時間もゆられやっと目的の黒木の借家につくことのできたのは、さすがに永い春の陽ざしも斜めにおちかかり赤あかともえた空がもうやがてたそがれどきにくれようとするわびしい夕ぐれでございました。でも駅をでた時は明るい春の光がいっぱいで、早いタクシイもありましたがなんとなくただのんびりと古風な馬車にゆられてゆきたいと思い、馬車をえらびました。家並みのたてこんだ駅前をはなれると馬車はまもなく山と山とのあいまの田圃(たんぼ)にかこまれた道にはいり、そろそろ山間僻地(さんかんへきち)の風貌がひらけはじめました。馬車は海に近よったとみえ、新鮮な磯の匂いがぷうんと鼻にせまりました。やれやれという思いで馬車が山のふもとをめぐるあらたな道を眼をみはって眺めましたが海はまだみえずに左に山、右に岩石のつらなる細ながい道が行く手に、白(しろ)じろと展(ひろ)がります。道はよほどかたいものとみえ馬の蹄(ひづめ)が戛々(かつかつ)と一層たかくなりひびきました。すぐ右手が海なのだが岩にさえぎられてみえぬのだと初老の馭者(ぎょしゃ)が鞭(むち)をうちふりうちふり答えました。なるほど囂々(ごうごう)たる潮鳴(しおな)りが遠雷のように響き過ぎゆく岩と岩とのわれめからは時折どろりと黝(くろ)ずんだ海の面(おも)が古代の想像動物(イマジンド・モンスタア)のおなかのように物倦(ものう)げなスロオ・モオションでゆれている点景がほのみえ、癩病部落はどこだときくと、もっといったらしらせるといい、ほどなく行く手はゆるい登り勾配となり、崖の麓(ふもと)には飲食店や薬屋が軒をならべ、そこをゆきすぎると、のぼりきった右手の崖ふちにちっぽけなあばらやがぽつんとたっておりました。それがとりもなおさず黒木の寓居だったのでございます。

 馭者は今度は下り勾配となる蜿蜒(えんえん)たる道の彼方(かなた)の森を指さし、あのくらいところが部落ですと答え、馬車をひき返してゆきました。雑草のはえた前庭(まえにわ)の道をすすんで素通(すどお)しの格子(こうし)の前にたつと、垢(あか)じみたよれよれの青紬(あおつむぎ)をきて座敷の真ん中にあぐらをかいて蹲(うずくま)っている黒木のなつかしい後ろ姿がのぞけました。それにしてもなんという荒涼とした住居(すまい)なのでございましょう。屋根のかわらはおち、木材という木材はことごとく薄墨色(うすずみいろ)にくちかけ、周囲(まわり)にはえしげる雑草のなかに「水死精靈供養塔南無觀世音菩薩」と刻まれた青苔(あおごけ)の石碑がたち、右手についた木戸も蝶番(ちょうつがい)ははずれ地にひくくたおれかかっております。わたくしはいっそきたことを驚かせてやろうと木戸をあけ、海向きの窗(まど)の方へ薄(すすき)の音をころしころし足音をしのばせて近よっていきました。その三尺にもたらぬ小路(こみち)はそのまま波のあたる崖に通じているらしくみえ、正面の窗には回れそうもないので、幸いあいていた西窗から首をいれ、こんにちはあ! と頓狂(とんきょう)によびかけようとしましたが、三月余(あまり)もみぬまの黒木の横顔があまりにもみじめにやつれはてているさまにせっかくの声ものどの奥につかえてしまいました。転地前の黒木はいかにも病人じみた青瓢簞(あおびょうたん)ではありましたが、髪の手入れもし髯(ひげ)もそり、瞳には微(かす)かながらもはりつめた意欲の輝きがひそんでおりましたのに、眼の前の黒木は東京で苅ったままともみえる蓬髪(ほうはつ)を衿首(えりくび)のあたりまでふさふさとためこみ、肉のいっそう殺(そ)げおちた額から頰に近くおどろおどろに散らしながら一心不乱と形容したいくらい夢中になって、いつのまに買いこんだのか金槌(かなづち)やヤットコや鑢(やすり)をつかいおぼつかぬ手つきで、なにやら太い針金のようなものをギイギイガアガア磨いております。そこへにゅうっと首をだしたので、突嵯(とっさ)にあわてふためきぴょんとはねあがるや、そこいら中(ぢゅう)にちらばっている道具類を部屋の隅に蹴(け)こんでしまってから、なにものだ? と詰問するような眼差(まなざし)で防禦の姿勢をとりつつわたくしにするどい一瞥をなげつけました。かれはちょっとの間(ま)そうしてむかいあっている女がわたくし、自分の女房であることが信ぜられぬように眼の光も暫時(ざんじ)警戒から怪訝(けげん)の色に移りましたが、やがてわたくしであることがわかると一時(いっとき)に緊張のゆるみ、深い溜息をふう……とはきだすと、なんだ貞子だったのかと唇許(くちもと)に安堵の笑(えみ)をうかべてふらふらと部屋の真ん中にくずおれるようにあぐらをかき、するともう、なにしにきやがったといわぬばかりの邪魔者あつかいの色が顔中(かおじゅう)に瀰漫(びまん)し、あらためてわたくしをみかえしました。[やぶちゃん注:「水死精靈供養塔南無觀世音菩薩」は、正字版を電子化出来ない鬱憤ばらしに、せめても、正字で示した。「瀰漫」一面に広がり満ちること。蔓延(はびこ)ること。]

 わたくしは手紙をみてそういう神秘的な土地が急に恋しくなったから無断できてしまったのですと、ことさら冗談めかしくいいながら部屋に上がり、火鉢に火をおこしたり敷きっぱなしの布団やくちゃくちゃの衣類をかたづけはじめました。いいえ、冗談というよりもむしろ本音(ほんね)で、一昔前の怪談ばかばかしいお伽噺(とぎばなし)をもちだし人をかついで興(きょう)がっている黒木はなんという好人物でしょう。黒木が海蛇の精に誘惑されたというのですからふきだしたくなるのもむりがないではございませんか。くる時にはもしや手紙にあるような有閑女(ゆうかんマダム)となにか関係でもできたのではないかと疑ってもみましたが、剥(は)げおちた壁、稜毛(のげ)の逆立った古畳、室内の乱雑さから古手拭(ふるてぬぐ)いのように薄汚(うすぎた)ない黒木のさままでおよそ女でいりのありそうな模様はみあたらないのでございます。けれど、窗から首をだすと、海の形容だけは、黒木の手紙にすこしの誇張もないことがわかりました。崖にあたった波が、沖にひきかえし沖からおしよせるうねりと衝突して真っ白い飛沫を発し、方向を逸した二条の浪脈が互いに嚙みあいぶつかりあい、四分五裂にあれまわる狂い波と変ずるさまは、折りしも夕暮れの暗澹(あんたん)たる空、轟々たる咆哮(ほうこう)とともに凄(すさ)まじい限りで、それに黒木は一口に「窗」とよんでおりますが実際は窗ではなく、海に面した縁先で、それが淵[やぶちゃん注:ママ。「縁(ふち)」であろう。]いっぱいギリギリに崖際(がけぎわ)にのぞんでいるために危険千万ですから、ホンの申しわけのようにあとから急(きゅう)ごしらいの手摺(てす)りをつけたという感じで、この家の持ち主や建てた大工の神経を疑りたくなるくらいトボケた造作で、折しも荒れくるった怒濤(どとう)がこの家の土台岩(どだいいわ)に白い歯をたてて震動をおぼえるくらいがむしやらに嚙みついておりました。思わず吸いこまれそうになるのを手摺りにしがみついて下をのぞいてみると、崖の中腹にたった三尺幅くらいの道が横につづいて一方はみえなくなっているので、この道がどこに通じているのかきいてみると、――I岬へゆく近道だがはじめてのお前には足がすくんで通れやしないよ、と軽蔑するように答えました。道の一方の行方(ゆくえ)はさきほどわたくしが木戸をあけてはいった小路の上り口に通じているのでございます。[やぶちゃん注:「浪脈」このような熟語は見たことない。前のジョイントから「二条(にじょう)の浪脈(ろうみゃく)」と読まざるを得ないが、個人的には、女性の直接話法であるから、「二条(ふたすじ)の浪脈(みお)」と読みたいところだ。]

 かたづけものを終え、座敷もはきだしたころ、すすけた天井からぶらさがっている裸電燈にぽっと灯(あかり)がともりました。やれやれという思いで食事のことを気にかけはじめますとあたかも格子口(こうしぐち)に板草履(いたぞうり)と自転車をよりかける音がして、とりつけの蕎麦屋(そばや)が夕食をとどけてきました。こういう風にして毎日毎日東京の二倍以上もするその癖(くせ)大変そまつな食事をくりかえしているのかと思うと済まない気持ちでいっぱいになり、むりにでも東京へつれもどさなければ身もこころもめちゃめちゃになってしまうにきまっておりますし、仕事も読書もできぬ味気ない毎日では下らぬ妄想の遊戯にふけって人一倍大事にしなければならぬ神経をいっそう不健全にしてしまうのもむりはないと思われました。ところが黒木は、くどくもいう通りわたくしがきたことすら邪魔あつかいにし、いっしょに帰ろうという申し出には、肩を怒らせて反対しました。食事もそこそこにすますと薄くらい電灯の下でせむしのようにかがみこんだままギイギイガリガリ、きた時と同じ作業をつづけます。頑丈な釣針でもつくって例の海蛇でもつりあげようとでもいうのでしょうか? もしそうだとすると文字通り正気のさたではございません。けれど今さからうことは相手をますます意固地(いこじ)にさせるだけですから、ではわたくしはせっかくきたのだから蕎麦屋の一間(ひとま)でもかりて二三日海の空気を吸ってから帰るつもりだ、なにか用でもできたらいつでもよんでくれ、あなたの獲物もたのしみにしている、わたくしがいる間になんとかしてその怪物をとらえたいものですわねと、あたらずさわらずの軽口をききながら帰りかけますと、黒木はもうわたくしの言葉などまったく耳にはいらぬ様子で壁に骸骨のような影をうつしながら、いっそう高だかと鑢(やすり)の音をならしはじめました。

 

 それから数日の間は黒木の生活になんの変哲もおこらぬまま、幸い蕎麦屋の二階があいておりましたので、毎日毎日を付近の近海を歩いたり山端(やまのは)づたいに深緑の森を逍遙(しょうよう)したり、時には一日中部屋の窗をあけてうつらうつら居眠りをしたりして、そぞろ帰京するのがいやになるくらいすがすがしい命(いのち)の洗濯をしてすごしました。黒木はいる時といない時がございました。いない時はたぶんI岬へ釣りにでかけたあとなのでございましょう、嫌がるのでべつに探ってもみませんでしたが、まるたん棒のような太い竿に麻繩(あさなわ)のような糸をつなぎ親指ほどもあるイソメの箱をぶらさげてでかけてゆくところにゆきあわせたことがございます。漁師ですら相手にしない海蛇をどうしても釣りあげるつもりなのでしょうか、そういう途徹もないことに血道をあげている黒木はものずきを通りこしてあわれでございました。

 五日目の夜半、わたくしはなんのいわれもなくハツとめざめたのでございます。ねついてからこころよく熟睡したはずでしたのにめざめると急に胸のあたりがむかむかして今にもはきだしそうな悪寒(おかん)をかんじるので、夕飯のお惣菜を考えてみましたがそれが今ごろまで胃にもたれているはずのない消化のいいものですから、ムカツキがつのるばかりではきだすものがなく、大変くるしい思いをしました。床にうつぷしになったまま凝(じっ)と胸のくるしみを押さえておりました。と、次第に呼吸がらくになるにつれ、なんとなく黒木のことが気になりだしました。これが虫のしらせとでもいうのでしょう、ただむやみに黒木のことが心配でならないのです。今時分黒木は昼の疲れでねむっているか、でなければ暗(やみ)のなかで眼をパチクリさせてなんといって女房のやつをおいかえしてやろうかなどと考えこんでいるに相違ないと、思いこもうとすればするほど底しれぬ不安はますますつのってくる上に、いつからふきはじめたのかなまぬるい烈風が硝子窗(ガラスまど)をがたがたゆすぶり、それがゆけゆけと促(うなが)すように鳴っているのです。もういてもたってもいられません。着がえもいらだたしく蒼惶(そうこう)と蕎麦屋の二階をとびだしてしまいました。[やぶちゃん注:「悪寒」は立風書房版を採用した。「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、『悪感』(ルビなし)となっているが、これは「あくかん・あっかん」で、「不愉快な感じ・悪感情」を意味するので相応しくない。「蒼惶と」「慌(あわ)てふためくさま・慌ただしいさま」。]

 ところが戸外へとびでたわたくしは一瞬いすくんでしまいました。中天にまんまるな物凄い月がかあっと耀いているのです。わたくしはきょうまであれほど逞(たくま)しい月に出会ったことがありません。いわゆる花鳥風月にうたわれる「名月」のような、そんななまやさしい月ではございません。なにかしら物質的な、悪魔的(デモニッシュ)な、――そんな感じのする研(と)ぎすまされた途方もなく大きな月で、それがすぐ眼の前にぶら下がっているようにみえるのでございます。わたくしはまずこの圧力に似た眩(まば)ゆさに立ちすくんでしまいました。これではならじと五体をふんばりなおし、濺(そそ)ぎかかる月光をきりはらいきりはらい息つく間(ま)ももどかしく、真昼のような崖道(がけみち)を一心不乱に走りつづけました。勾配の頂辺(てっぺん)についた時、眼前に水平線のむやみに高い夜半の海が展開しました。空には風があおられたちぎれ雲があとからあとから北へ北へと、その怪鳥に似た黒い影が凸面鏡(とつめんきょう)のような海面に伸びたり縮んだりして映ってはしり、その海の中間に首をつっこんだ小舟のような黒木の家がゆらゆらとゆれているようにみえました。わたくしは辛(かろう)じていなおると、――黒木のような夫をもったわたくしはいついかなる時でも己(おの)れだけはとりみだしてはならぬと強制したのでしょう。脚(あし)に力をいれ、一歩一歩格子にすすんでいこうとしましたが、まだ五歩と歩まぬうちに室内からドタンバタンと手足の畳にぶつかる格闘の音と、それに混じってなめし革(がわ)をよじるようなキュウキュウという得体のしれぬ叫びが聞こえてきました。思いきって格子をあけ土間に右足をいれると同時に、格闘の音もやみました。[やぶちゃん注:「かあっと」の傍点は、「西尾正探偵小説集Ⅰ」では「と」まで振られてある。立風書房版を採用した。]

 その時の恐ろしい光景はとうてい忘れることができません。髪ふりみだした猿又(パンツ)一枚の黒木が窗に背をむけ、両腕をだらんとたらしてゴリラのように突っ立っているのです。眼のなれるにつれ、黒木の右手にはしっかと金槌が握られ、しかも全身が血みどろであることがわかりました。青い鱗(うろこ)をはりつけたような顔はぱくりぱくりと痙攣(けいれん)をみせ、眼はうつろにわたくしを睨んだまま、とうとう殺(や)った、とうとう殺(や)っつけてやった!………と喘(あえ)ぎつつ、どうしたことか体が一歩一歩手摺りの方ヘズリ動いてゆくのです。あわててひき戻そうとした時はもう遅かったのでございます。黒木は同じことを呟(つぶや)きつつ歪(ゆが)んだ会心(かいしん)の笑みをうかべたとみるや、二三歩ツツーとあとじさりした時にメリメリッと木のくだける音がして、仰(あお)むけざまに眼のとどかぬ崖下(がけした)へ消えてしまいました。むだとはしりつつみおろせば、今(いま)可哀想な黒木喬太郎をのんだ黒い海は青白い飛沫をあげ砕けつつ、いかに荒れ狂うことができるかとわたくしどもに納得させるように囂々(ごうごう)と鳴っておりました。ああ、わたくしが黒木を殺したのです。殺したも同然なのです!

 おや? 崖の中腹に家守(やもり)のように両手をひろげて吸いつき、真下からわたくしをみあげている若い女はなにものなのでしょう? ああそうだ、この女こそ黒木の狂念の正体なのだ!

 女はたった今(いま)淫楽の逢瀬(おうせ)におもむいたのでございましょう、直前の変事もしらぬげに、それが癖(くせ)のかすかなかすかなあるかないかの媚笑(びしょう)を仄白(ほのじろ)い頰にうかべて凝(じっ)とわたくしの眼にみいったのは、わたくしを黒木とみちがいしたに相違なく、まもなく窗の首が男でないことがわかると一瞬ギョッと眼をみはり慌てて面(おもて)をふせると、横づたいに素早く崖の蔭に姿を消してしまいました。こうして最後に室内の異変をただす時がきたのです。窗際《まどぎわ》から身をおこした時にわたくしのながい影が左にうごいて、昭々(しょうしょう)たる月光が流れこむようにそれまでくらかった部屋の隅をてらしだしました。そこでわたくしははっきりとみたのです、――西窗の下に血しおにまみれた布団がもみくちゃにされ、その上に六尺あまりもある一疋の海蛇が、ぬらりくらりと断末魔の痙攣にもだえている態(さま)を、そしてこの、正しく獣(けだもの)とでも形容したい異形な性物のぬめぬめした脳天には手裏剣(しゅりけん)にも似た太い針(はり)がつきささり、その根元からはまっくろな血しおがドクリドクリとふきだしているのでございました。

 

[やぶちゃん注:さて。この『海蛇』(うみへび)とは何か?

・『身長六尺』(体長一・八二メートル)『以上もあろうと思われる海蛇』

・『魚類には相違ないのだが、ふと動物と呼びたくなるほど陸上の毒蛇に近い感じを備えている(ここで、真正のヘビ類=海生に適応したヘビ脊椎動物亜門爬虫綱 Reptilia有鱗目 Squamataヘビ亜目 Serpentesウミヘビ科 Hydrophiidaeのウミヘビではないことが示される)

・『全身茶色で一面に黒い斑点(はんてん)がある。ただ腹だけが白い。眼かカツと大きく、吻が尖っていて歯が鋭い

漁師はなだと呼び喰いつかれたら殺されても放れぬ執念深い妖魚として食用にもならぬままにむしろ恐れ遠去(とおざ)けている』

以上の条件を総てほぼ満たすのは、私の考えでは、ちょっと長過ぎであるが、水中でくねっている個体を岸辺から見たりした際には、倍近い長さに見えるのは常のことなので、

硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭(しんき)区カライワシ下区ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科ウツボ亜科ウツボ属ウツボ Gymnothorax kidako

と同定比定してよい。なお、同種の最大個体は九十一センチメートル(英文ウィキの同種の数値)である。

 小学館「日本大百科全書」の「ウツボ」(広義・狭義を含む)を引く。『うつぼ』/『鱓』/英名『moray eels』『硬骨魚綱ウナギ目』Anguilliformes『ウツボ科』Muraenidae『の総称、またはそのなかの』一『種。世界には』十五『属』百八十五『種ほど知られているが、日本近海には』十『属約』五十七『種が報告され、そのうちの多くは沖縄諸島以南に分布する。体は細長くて側扁(そくへん)し、皮膚には鱗(うろこ)がなく、一般に肥厚する。鰓孔(さいこう)は小さくて丸く、舌がない。腹びれと胸びれがなく、多くは背びれと臀(しり)びれがあって尾びれと連続する。後鼻孔(こうびこう)は目の前縁の上方に開き、種類によっては』、『よく発達した鼻管を形成する。体色および斑紋』『は多様で変化に富み、種類の判別上重要な特徴となる。また、歯の形状とその配列も属や種の特徴となる』。『ウツボ類はウツボ亜科Muraeninaeとキカイウツボ』(喜界鱓:ネットでは素人方が「キカイ」に「機械」を宛てているのを見受けるが、可笑しい)『亜科Uropterygiinaeに分類される。ウツボ亜科はゼブラウツボ属、ハナヒゲウツボ属、モヨウタケウツボ属、コケウツボ属、タケウツボ属、アラシウツボ属およびウツボ属を含み、多くのウツボ類はウツボ属に入る。垂直鰭(すいちょくき)がよく発達し、背びれは肛門』『より前方から始まる。キカイウツボ亜科はタカマユウツボ属、アミキカイウツボ属およびキカイウツボ属を含み、日本での種数は少ない。その特徴はひれがまったくないか、あるいは尾端部にのみ存在することや、尾部の長さが躯幹(くかん)部(胴部)の長さにほぼ等しいことなどである』。『ウツボ類のレプトセファルス』(leptocephalus:「レプトケファルス」(leptocephalus)とも呼ぶ。ウナギ・ウミヘビ』(この場合は、前に掲げた本物の海蛇ではなく、魚類の顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区真骨亜区カライワシ下区ウナギ目アナゴ亜目ウミヘビ科Ophichthidae、或いは、同科ウミヘビ属 Ophisurus を指す)『・カライワシなどの幼体で、柳の葉形で半透明のもの。変態して稚魚になる)『(葉形(ようけい)幼生)は、一般に非常に退化した胸びれをもち、また尾端部が通常は幅広くて丸みを帯びる。消化管はまっすぐで膨らみがない』。『多くの種類は、浅海の岩礁域やサンゴ礁に生息するが、やや深い所の泥底にすむものもいる。夜行性で、性質が荒く、一般に貪食』『である。鋭い犬歯をもつ種類にかみつかれると』、『危険である。南方産のウツボの仲間には、かみつくときに毒液を出すものや、食べると中毒をおこすものがある。日本産のウツボ類のうち、ウツボ、トラウツボ、コケウツボなどは地方により食用とされている。捕獲には網籠(あみかご)(ウツボ籠)が使われ、餌』『にはタコが効果的である』。『ウツボGymnothorax kidako(英名kidako moray)は岩手県以南の太平洋沿岸、島根県以南の日本海沿岸、東シナ海、朝鮮半島南部、台湾南部の海域などに分布する。学名の kidako は神奈川県三崎』『地域の方言の呼称である「キダコ」に由来する。体は長くて側扁し、体高は比較的高い。前鼻孔は管状で長く、吻端(ふんたん)付近に開口する。後鼻孔には鼻管がない。口は大きく、およそ頭長の』二『分の』。一。『上下両顎』『の歯は』一『列に並び、長三角形で、各歯の縁辺に鋸歯(きょし)』は『ない。鋤骨(じょこつ)(頭蓋床』(とうがいしょう)『の最前端にある骨)に』三、四『本の歯が』一『列に並ぶ。背びれと臀びれはよく発達し、腹びれと胸びれはない。体は黄褐色で、暗褐色の不規則形の横帯がある。臀びれは白く縁どられる。口角部と鰓孔(さいこう)は黒い。水深』二~六十『メートルの岩礁、砂地、軽石帯、サンゴ礁などにすむ。昼間は穴や割れ目に隠れて、頭だけ出している。夜間に外に出て活動するため、夜釣りで釣れることがある。おもに魚類、軟体類、甲殻類、貝類などを食べる。最大全長は』九十二『センチメートルほどになるが、普通は』七十五『センチメートルほど。産卵期は』七~九『月』で、『卵径はおよそ』三・五『ミリメートル。孵化仔魚(ふかしぎょ)は上顎に』三『本、下顎に』四『本の歯を備える。自然の産卵行動は』昭和五五(一九八〇)年『に三宅』『島の水深』十二『メートルで観察されている。そのときの記録では全長約』九十『センチメートルの雌雄が尾部をからませ、突然』、『腹部を押しつけた後、離れて抱卵と放精。卵は丸く、浮性で、卵径は』二『ミリメートルであったとされている。本種はおもに延縄(はえなわ)、籠、筒、突き、釣りなどで漁獲される。日本ではもっともよく利用されているウツボ類で、干物、煮物、鍋物(なべもの)、湯引き、たたき、フライなどにする。和歌山県南部には干物にしてから佃煮』『にするウツボ料理があり、また、滋養強壮の食材として利用し、妊婦に食べさせる風習がある。皮膚は厚くて』丈夫『なので、なめして財布などに利用できる』。『鋭い歯をもつ奇怪な顔つきから、昔から恐ろしい魚とされてきた。ヨーロッパでは古くからタコの天敵といわれ、日本でもウツボとタコの闘争の話が各地に伝わっている。ウツボは実際にタコを捕食するので、この習性を利用し、タコの大好物であるイセエビをタコから守るため、イセエビの増殖を目的とする人工魚礁の中に見張り役としてウツボを飼うというアイデアが出されたこともある』とある。

 何時もお世話になる、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたい。その「生息域」の項に、『海水魚。浅い岩礁地帯』。『島根県〜九州の日本海・東シナ海、千葉県館山〜九州南岸の太平洋、瀬戸内海、屋久島、奄美大島』。『朝鮮半島南部、済州島、台湾』とあるので、本篇のロケ地である「南日本」に合致し、「地方名・市場名」の最後に、『ナダ』として、採集「場所」として『神奈川県三崎』が挙げられてある。なお、博物誌としては、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「きたご あふらこ 鱓」を見られたい。ブログでは、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」と、「大和本草卷之十三 魚之下 ひだか (ウツボ)」、さらに、「大和本草卷之十三 魚之下 きだこ (ウツボ〈重複〉)」がある。なお、ウツボは江戸時代には、江戸で「海鰻」と呼ばれた。私の「譚海 卷之九 同所漁獵の事」を見られたい。]

2007/05/04

西尾正 骸骨 AN EXTRAVAGANZA 新底本による再校了版!

公開していた西尾正「骸骨」の底本は、双葉社昭和51(1976)年刊の鮎川哲也編「怪奇探偵小説集」正編を用いたものであったが、その後、より厳密な校訂と思われる論創社2007年刊の横井司解題「西尾正探偵小説選」を入手したので、そちらを新底本として再校訂を行った。実際に原底本と新底本では、ルビのあるなし・ルビの表記の違い・送り仮名等、極端に異なっている。最大の驚きは副題の存在である。正しくは「骸骨 AN EXTRAVAGANZA」でなくてはならなかったのだ。30年前の恋人に逢ったような新鮮さだった。注やスタイルにも一応、凝ってみた。僕のテクストの中では、かなりしっかりしたものとなったと秘かに自負している。未読の方にも、既読の方にもお薦めできる。但し、救いのない作品だけれど。本作中の未だ見ぬ謎の『シレエヌのヴェニコス像』の情報も、よろしく!

2007/01/25

骸骨 不明語句残り一つ

不明語句を4つ残したまま、昨日公開した西尾正の「骸骨」の後注の内、3つを自力で解読した。久し振りに、仏和辞典を真剣に引いた。

 

残すところは、後注の9、

 

『シレエヌのヴェニコス像』

 

「シレエヌ」はフランス語 Sirènes で、ギリシャ神話の女怪「セイレーン」のことであろうか。すると、「ヴェニコス」はセイレーンの一人の名と言うことになる。それとも、全くの勘違いで「シレーヌ」は造型作家の名前か。いや、その像の出土した地名なのか。ギリシャ彫刻の呼称表題だとすれば、丹念に欧文のリストを検索すればいいのだろうが、落ち着いてそれをする時間が、如何せん、ない。お分かりの方が居たら、是非、ご教授をお願いしたい。

2007/01/24

西尾正 骸骨

西尾正「骸骨」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。久々に新しい作家の電子テクストである。

 

この作品には、事の外、深い思い入れがある。

 

大学1年の時、僕は鎌倉の郷土史研究に没頭していた。鎌倉に関わった作家の鎌倉を舞台にした作品を貪るように読んでは、交通費節約のために、林檎一個を一日の食い物にして、渋谷の3畳間の下宿から鎌倉に出向いては、山野寺社仏閣を気儘に跋渉したものだった。

 

そんな中で、さる鎌倉近代文学関係書の中にあった、推理小説界の芥川龍之介と異名をとったという彼に、異様(ウトレ)に惹かれた。大学の図書館で、その由比ヶ浜を舞台とした「骸骨」をレファレンスすると、大宅文庫の「新青年」そのものを読むしかないと言われて、呆然とした。図書館司書の資格を志したのはその年の暮れで、とても当時は、ジャーナリストの名を冠した有難そうな所へとても行ける都会人では、僕はなかったのだ(大宅文庫は後に、床が抜けるほどに有象無象のどうしようもない雑誌まで蒐集している、どうってことのない気軽な文庫であることを知ることになる。だって、僕の駄文である小説「雪炎」の載った大学のクラス雑誌も、今、大宅文庫に入っているのだもの。永久保存で)。

 

ところが、その翌年の春、渋谷の本屋で手に取った鮎川哲也の「怪奇探偵小説集」(既にカバーを失っているが、映画の「エクソシスト」の場面を無断流用して、ドラキュラ然とした男の横顔のモンタージュという、完膚なきまでにキッチュな装丁だったと思う)に、これを見出した時、僕は快哉を叫んだ。ちなみに、挿絵は30代になってとことん耽溺することとなる花輪和一であった。この挿絵、どれも一見、忘れ難い秀作だ。

 

しかし、この衒学的な、これといって驚愕のない小説のどこが、因縁かって? 小説としての意外性は、まるでないかも知れない。しかし、この由比ヶ浜に消えてゆく吉田の姿は、西尾の鼻につくペダントリーをふと忘れさせるほどに、僕は、好きなことは事実なのだ。

 

いや、正直に言おう。そんなことはどうでもいいんだ、それは僕の因縁の核心ではない。

 

……僕は、これを読んだ、その年の3月、終電で鎌倉に赴き、まさにこの吉田が入水した場所で、寒風の砂浜に坐ったまま、朝まで、打ち返す吉田が死んでいった、「その海」を見つめていたことを、鮮やかに思い出すのだ。

 

一人では、なかった。

 

僕が、生まれて初めて、心から結ばれたいと思った女性と共に、朝焼けの空になるまで、見ていた。ただ、見ていた。ただ、朝まで。打ち返す波の波頭を……。彼女のために、確かに言おう、ただ、見ていたのだ。

 

それは、確かに僕の、馬鹿馬鹿しいほどに、純粋奇体な青春だったと言ってよい……。

 

 

本テクストは、異例の公開をした。外来語の後注の一部に、不明な箇所を残してある。僕は勿論、不断に調べるが、もしお分かりになる箇所があれば、どうかメールなりで御教授願えれば幸いである。

 

ともかく、これは、僕の青春の墓碑銘であることに違いはない。愚かにして、笑われるべき……たかが/されど……

 

……僕と同じように、西尾正の「骸骨」を読みたいと感じる「いけない」「みすぼらしい」青年に、僕は、僕のテクストで読んでもらいたいと、ふと「愚かにも」思ったのだ……。

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】 「和漢三才圖會」植物部 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐々木喜善 佐藤春夫 兎園小説【完】 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 只野真葛 和漢三才圖會 禽類(全)【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 和漢三才圖會卷第三十九 鼠類【完】 和漢三才圖會卷第三十八 獸類【完】 和漢三才圖會抄 和漢卷三才圖會 蟲類(全)【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 室生犀星 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 小酒井不木 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 怪奇談集Ⅱ 日本山海名産図会【完】 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 柴田宵曲Ⅱ 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生日記【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 泉鏡花 津村淙庵「譚海」【完】 浅井了意「伽婢子」【完】 浅井了意「狗張子」【完】 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介 書簡抄 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔 芸術・文学 茅野蕭々「リルケ詩抄」 萩原朔太郎 萩原朔太郎Ⅱ 葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版【完】 蒲原有明 藪野種雄 西尾正 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏