茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「夏の雨の前」
夏の雨の前
急に庭苑のすべての緣(へり)から、
何かしらぬ或物が取去られた。
庭苑が窗々に近よつて、默つてゐるのが
感ぜられる。木立からは雨告鳥が
さし迫つて强く聞えて來る。
ヒイロニムスのやうな人が思はれる。
それ程にある寂しさと熱意とが
この一つの聲から高まる。その聲を
大雨は聞くだらう。廣間の壁は
その畫と一所に我々から遠ざかつた。
我々の云ふことを聞いてはならぬやうに。
色のあせた壁紙のうつすのは、
子供の時に恐れられた
午後の、あの不確(ふたしか)な光。
[やぶちゃん注:この原詩は、ドイツ語の「Wikisource」のここで、電子化されてある(リルケのドイツ語フル・ネームと「ヒイロニムス」の綴り(ドイツ語の“Hieronymus (Kirchenvater)”(“Kirchenvater”は、「教父」のドイツ語で(音写「キィルヒェン・ファータァ」)、ウィキの「教父」によれば、『キリスト教用語で古代から中世初期』、二『世紀から』八『世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々を』指す、とある)のフレーズで見出せた)。
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VOR DEM SOMMERREGEN
Auf einmal ist aus allem Grün im Park
man weiß nicht was, ein Etwas, fortgenommen;
man fühlt ihn näher an die Fenster kommen
und schweigsam sein. Inständig nur und stark
ertönt aus dem Gehölz der Regenpfeifer,
man denkt an einen Hieronymus:
so sehr steigt irgend Einsamkeit und Eifer
aus dieser einen Stimme, die der Guß
erhören wird. Des Saales Wände sind
mit ihren Bildern von uns fortgetreten,
als dürften sie nicht hören was wir sagen.
Es spiegeln die verblichenen Tapeten
das ungewisse Licht von Nachmittagen,
in denen man sich fürchtete als Kind.
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しかし、これを見ると、第一連一行目、
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Auf einmal ist aus allem Grün im Park
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は、機械翻訳に手を入れるなら、
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急に公園のすべての綠(みどり)から、
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の誤訳(茅野は、わざわざ「へり」とルビを振っていることから、恐らく、茅野自身の初期訳稿で「綠」としたものを、自ら判読を誤って――しかも、原詩との対照点検を怠って――「緣(へり)」としてしまったこと)が推定される。事実、岩波文庫の校注に、一『行目「縁(へり)」は』再版『『詩集』でもこのままだが、「緑」の誤りと思われる』とあるのである。
「雨告鳥」(あまごひどり)原詩“Regenpfeifer”。これは、ドイツ語のウィキのここによって、鳥綱新顎上目チドリ(千鳥)目 Charadriiformes を指すことが判る。チドリ目はウィキの「チドリ目」によれば、『チドリ類、カモメ類、アジサシ類などの水鳥・海鳥を中心に』十九『科、約』三百九十『種を含む』とあるが、そもそも「雨告鳥」という和語は、一般的ではない。小学館「日本国語大辞典」にも見出しがない。但し、同辞典には、「あまごい-どり」があり、『【雨乞鳥】』とあって、『(この鳥が鳴くと雨が降るというところから)』鳥の『「あかしょうびん(赤翡翠)」の異名(初出例を「大和本草」とする)とある。ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda は、当該ウィキによれば、「伝承」の項に、『和歌山県では本種を方言名でミズヒョロと呼ぶ』。「中辺路町誌」(なかへちちょうし)『に「ミズヒョロと呼ぶ鳥」との記事があり』、その内容は、『「果無山脈」(はてなしさんみゃく:和歌山県と奈良県の県境沿いに位置する山脈)『など』の『奥地に』、『赤く美しい鳥が』、『雨模様の時に限って』「ひょろひょろ」『と澄んだ声で鳴く。この鳥は』、『元は娘で、母子二人、この山の峰伝いで茶屋をしていた。母が病気になり、苦しんで娘に水を汲んでくるように頼んだ。娘は小桶を持って谷に下ったが、綺麗な赤い服を着た自分の姿が水面に映っているのに見とれてしまった。気がついて水を汲んで戻ったときには母はすでに事切れていた。娘は嘆き悲しんで』、『いつしか赤い鳥に生まれ変わった。だから普段は静かに山の中に隠れ、雨模様になると』「ひょろひょろ」『と鳴き渡る」』とあるとあり、和歌山県日高郡の旧『美山村での伝説として』「みずひょうろう」として、『母子がすんでいたのは』、『この話では』、『美山村の上初湯川(かみうぶゆかわ)で、娘は素直に母の言葉を聞かない子だった。そのため』、『明日をも知れぬ状態の母はどうしても水が飲みたくて』「赤い着物を着せてあげる」『から汲んできて欲しいと願う。娘は大喜びで着替えて井戸に向か』ったが、『井戸に映った』自身の『姿に見とれ、結局』、『汲んで戻ったものの』、『母はすでに死んでいた。娘は自分を恥じて泣き、とうとう井戸に飛び込んだ。そこに白い毛の神様が出てきて』「お前のように言うことを聞かない子は鳥にでもなってしまえ」『と言うと、娘は赤い鳥に変わり、今もこの地方の山奥で』「ミズヒョロ、ミズヒョロ」『と鳴いている、という』とあった。他に、『龍神村でも』、『この鳥の伝説を拾ってあ』るが、『上記二つの話を』、『さらに簡素にしたようなものである』。そこでは、『夏に日照りが続くほど』、『高いところで鳴き、雨が続くと』、『里に下』って『くること、その泣き声が哀調を帯びていて』、『母を助けられなかった嘆きのようだとある』。『龍神村では』、『また』、『単にミズヒョロが鳴くと雨が降る』、『との言い伝えもあったらしい。さらに上記の伝承との関連か』、『ミズヒョロは』「水欲しい、水欲しい」『と鳴いているとも伝えられ』、或いは、『子供に川に洗濯にやらせたとき、あまり遅いと』「そんなことをしていると、ミズヒョロになるぞ」『と脅したとも言う』と、興味深い民話しがあるものの、アカショウビンの分布は、『北は日本と朝鮮半島、南はフィリピンからスンダ列島、西は中国大陸からインドまで、東アジアと東南アジアに広く分布する。北に分布する個体はフィリピン諸島、マレー半島、ボルネオなどで越冬する』とあって、ドイツには棲息しないから、これには同定出来ない。茅野(長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身)が、何故、「チドリ」を「雨告鳥」と訳したのか、よく判らない。チドリ類は水辺に近いところに棲息するが、ドイツ語の「チドリ目」を機械翻訳しても、雨を告げるといった内容は、見当たらない。そもそも、「雨告鳥」という語を見た日本人は、まず、大多数は、燕の低空飛行を想起するであろう。ウィキの「ツバメ」によれば、『ツバメが低く飛ぶと雨が降る』という俚諺は、『観天望気(天気のことわざ)の一つで、天気が悪くなる前には湿度が高くなり、ツバメの餌である昆虫の羽根が水分で重くなって低く飛ぶようになり、それを餌とするツバメも低空を飛ぶことになるからと言われている』とある。しかし乍ら、ツバメはチドリ目とは無縁な、スズメ目 Passeriformesツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica である。万事休す。識者の御教授を切に乞うものである。
「ヒイロニムス」エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus 三四二年頃、或いは、三四七年頃~四二〇年)は、平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『聖書学者、聖人。英名ジェロームJerome。《ウルガタ》版ラテン語聖書の翻訳者』。イタリアの『アクイレイア近傍のストリドンの出身。ローマで学び』、三七四『年』頃、『東方に向かった。アンティオキア』(トルコ南部の小都市アンタキヤの古称)『でアポリナリオス』(Apollinarios:シリア生まれ。キリスト論に関する異端アポリナリオス主義の主唱者)『の講義を聞いて大いに刺激されたが、非キリスト教文学への関心が修道生活の妨げとなることを悟って、シリアの砂漠に逃れ』、四、五『年の間、隠修士の生活をおくり、その際にヘブライ語を習得した』。三八二年~三八五『年にはローマに戻り、教皇ダマスス』DamasusⅠ『世』『の秘書をつとめた。その後』、『再び東方に赴き、ベツレヘムに落ち着き、新設の修道院を主宰しながら聖書の研究と翻訳にたずさわった』。四『世紀の後半、聖書のラテン語訳はさまざまの版が流布し、混乱状態にあった。そこで教皇ダマススはヒエロニムスにラテン語訳の改訂をすすめた。新約聖書のうち』四『福音書の改訂』乃至『改訳は』三八四『年に終わったが、他の部分にはヒエロニムス自身は手をつけなかったらしい』「旧約聖書」『について、ヒエロニムスは』、『まず』、『正典の考え』方『に立ち、今日』、『外典』(がいてん:アポクリファ(Apocrypha))『とされる部分を省き、次にヘブライ語原典からの翻訳を主張して、それを実行した。ヒエロニムスの訳業が』直ちに『西方教会で採用されたわけではないが』、次第に『その優秀さが認められ、後代の手が加えられて、《ウルガタ》版が成立した。これが』十六『世紀後半のトリエント公会議で』、『カトリック教会の唯一の公認ラテン語訳聖書と定められた。ヒエロニムスはそのほか、エウセビオスの』「教会史」、オリゲネスやディデュモス『などの著作のラテン語訳を行い、異端との闘いにも積極的に加わった』。彼の図像は、『一般に老人の姿をとり、手にした石で裸の胸を打つなどの苦行場面(』十五~十八『世紀に好まれた)、机に向かって翻訳や読書に励むさま、枢機卿(彼はその役割を果たしていた)の服と帽子をつけた姿などが表される』。「四大ラテン教父」『の』一人『としても登場する。持物は、足の刺(とげ)を抜いて助けたところ、以後』、『聖人に仕えたと伝えられるライオン、悔悛を象徴する』髑髏(どくろ)、『伝説にまつわるツグミなど』である、とある。]