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カテゴリー「茅野蕭々「リルケ詩抄」」の121件の記事

2025/03/09

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「八・九」・目次 / 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版~完遂

 

       

 

 リルケの作品の思想内容等に就いては以上で不完全ながら大體を述べた。彼は此内容を盛るに如何なる樣式を用ひ、如何なる手法技巧言語を使つたか。

 先づ第一に氣づくことはリルケの詩の著しく感覺的なことである。彼が事物に對する洞察も直感も悉く精細微妙な感覺の中に溶解されて讀者の心に傳へられる。それ故粗大な精鍊されぬ感覺を持つてゐる人々の側からは、彼の詩は常に難解であり朦朧であるとの非雅を免れない。しかしながら感覺の纖細を誇り神經の遊戲に陷つて其處に美の源泉があると信ずる人々からも、彼の詩は眞の賞讃を酬いらる可きでは無い。リルケの詩は一見それ等の人々の詩風に似て居るものの、其本質に於て莫大な徑庭が橫はつて居るからである。

 あらゆる因襲を斥けて新に生れた者のやうに事物に對するリルケに取つては、その感覺も全く淸新で少しの濁りも無いものでなくてはならない。其の銳感なことは云ふ迄もない。總べての傳習的な感情の影は出來得る限りこれを避けようとしてゐる。此點でホオフマンスタアルとは可なり激しい對照をしてゐる。ホオフマンスタアルの感情は極めて精細で選練されたものであるが、同時にまた人工的であり幾分の無理があるを免れない。云はば中年の女の神經病者を見るやうであつて、異常な銳さはあるが初々しさがない。リルケの感性もまた世紀末の空氣に觸れて稍病的に亢進して居るを免れないけれども、常に子供らしい新鮮さに溢れてゐる。實際それは單に新鮮といふ位の弱い言葉では云ひ現はし難い。卒然として彼を讀む人にとつては寧ろ奇異に感ぜられる程の新鮮さである。丁度小兒の感覺が動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば大人に不思議に思はれて、實は云ふ可からざる新味の盡きないものがあると同樣である。そして之は我々が屢マウリス・マアテルリンクに見出す特色であるが、マアテルリンクの感覺が何時も神祕な美に向けられて居るのに對して、リルケの感覺は遙に明るく且つ表現に向いて居る。時に淸新ではあるが、その幼稚さに微笑[やぶちゃん注:「ほほ」。]まれることのあるは兩者共通である。憧憬にふるへる少女のこころを、「クリスマスの雪のやうに感じながら、しかし燃える」と云ひ、寂しい森の中に啼く鳥の聲を聞いては、「圓い鳥の聲はその生れた瞬閒に大空のやうに廣く枯れた森の上に休む」と云ひ、秋の歌では、「主よ、爾の影を太陽の時計に投げよ」、噴水の美しい詩では

 俄に私は噴水のことが澤山解る、

 硝子で出來た不思議の樹々のことが。

 私は大きな夢につかまれて

 嘗て流した、そして忘れてゐた、

 自分の淚のことのやうに語ることが出來る。

 と云つて居る。「太陽の時計も」「硝子の樹」も「クリスマスの雪」も、決して理智が考え出した比喩ではなくして、子供らしい純粹の感覺でなくて何であらう。これ等はただ思ひ出す儘に二、三の例を擧げたのみで、もつと適當な例はなほ隨處に發見されるであらう。

 言葉に對する彼の感覺の細かさ新しさは既に前に說いた通りである。彼の用ふる單語は決して所謂詩語ではない。寧ろ我々が日常の會話に於て使ひ古されたものが大半である。しかしそれが一度彼の詩の中に用ひられると、其の一語一語が悉く從來隱してゐた本來の意義と色彩と調子とを發揮して、全く別な語であるかと思はれる。物、時間、祈禱、歌、樹、池、手等、我々が平素何の氣もなく使用してゐる言葉が、彼の詩の中では特殊な響を帶びて聞える。思ふにこれには二つの原因がある。その一つは一語一語の持つ音樂的效果が嚴密に感受せられてゐるからである。就中リルケの詩で最も顯著なのは母音の配列法である。出來得る限り母音を生かして響かせることは純一明快な感じを讀者に與へるものであるが、其の細心な工夫と成功とに於ては近代の獨逸詩人中全くその比を見ないと云つてよい。脚韻は勿論、久しく近代の詩に用ひられなかつた頭韻、句中韻を復活按排したのも其爲であらうと思ふ。その二は語と語との連繋法である。凡そ何處の國語に於ても一つの語には他の語と連繋すべき幾つかの絲が出て居る。そして其の何れの絲で他に繋がるかといふことによつて、その語の意義の傾向は勿論、色彩も陰影も形狀も規定されるものである。これは今此處で詳論するまでもなく、少しく言葉の性質を考へた人には殆ど自明なことであらう。リルケは此點に至大な注意を拂つて居るやうに見える。そして成る可く日常普通に用ゐられる語の連繋絲を避けて、新しい連繋絲、久しく忘られてゐた連繋絲を用ゐる。その爲め彼に取つては特に詩語を選ぶ必要は毫末[やぶちゃん注:「がうまつ」。]もなく、手近にある語が悉く自在に詩の中に入れられたのである。その點に於ては彼は殆ど第一人者であると云つてよからうと思うふ。

 更に彼の詩に於て驚異に値することは、其の比喩象徵の創意的で、而もよく物の本質を剔抉する力に富むことと、其の律動の自在で且つ根原的なことである。リルケは語と語の全く新しい連繋を試みたやうに、比喩するものと比喩せられるものとを繋ぐのにも從來の詩人と全く其の趣を異にして居る。彼は一見して到底比較し得ざるようなものを比喩として用ふる。しかも兩者を相互に聯關させ、完全に統一感を呼起させる原因は、何時も其の内面的な解剖にある。彼は外面的な類似で比喩象徵を用ひない。比較される二つの物を分解して、其の最も內面的本質的に接近してゐる點で繋ぎ合せる。それ故その比喩の感能上の效果は決して喩へられるものと平行せずして、それの補充となり深めるものとなつてゐる。或は比喩されるものを征服し、それが爲に比喩されるものが解體して、一層價値の高いものに高まるのは、リルケの詩に於て屢出逢ふ處である。彼の比喩象徵はインテレクトからではなく、想像力から來てゐる。それを理解しようとする者もまた想像力を必要とする。一例を擧げてみよう。[やぶちゃん注:「インテレクト」(英語:intellect)は「知性・知恵・理知」。ここは「理知」がよかろう。]

 鎖に繋がれて搖らぐ小舟のやうに、

 花園は不確になつて、懸つてゐる、

 風に搖られるやうに黃昏の上に。

 誰がそれを解くのだらう。

 「しかし之等の比喩の眞實は決して拒否することは出來ない。それは淚ぐましい程に尖つた神經生活を示してゐる。詩人をしてファウストの母の最深の祕密への長い洞察を可能ならしめた、受苦の魂の驚嘆すべき構造編成の先覺的な心理生理的作用を語つてゐる。これは人をして魂のヒステリイを信ぜしめる程に尖らせられてゐる。」ツェッヒの此言は少しく極端に失する懼[やぶちゃん注:「おそれ」。]がないではないが、『新詩集』の中の數章は、全くこの評を至言だと思はしめる程に微に入り細に入つて、遂に痙攣に終つてゐるかと思はれる。

 大多數がソネットである『新詩集』を除いて、其他の集に於てリルケは、殆どあらゆる詩形と律動とを試みて居る。イャムブスは常に基調をなして居るけれども、そこには種々の變形が使用され、或は長短句を按排し、或は一聯の行數を自由にし、中世戀愛曲の風格に交へるに騷人調の手法を以てし、或は古詩の長所を學び、時に新詩の長所を攝取する等、工夫選練の刻苦は眞に言語に絕して居ると思ふ。就中同時代の詩人としては、矢張りゲオルゲ、ホオフマンスタアル等の影響を指摘することが出來、マアテルリンクにも一味の相通ずるものがあることは前にも述べた通りである。又リルケが好んで『時禱扁』で用ひて居る數行或は十數行に亙る長句は、ゲオルゲに見る外、在來餘り多く見ない處であつて、しかもリルケ以後の靑年詩人によつては往々路襲されてゐるものである。[やぶちゃん注:この最後の句点は、底本では、読点になっている。後の再版「詩集」で句点に訂しているので、特異的に修正した。]其他、用語、語感、手法、律動の上でリルケが現代靑年詩人に及ぼした絕大な影響は、短い紙數のよく盡し得ない程であつて、表現主義の抒情詩人の第一人者を以て許されるフランツ・ヅェルフェルの詩なぞも如何にリルケに負ふ處が多いかは、既に識者の等しく認める處である。

[やぶちゃん注:「イャムブス」ドイツ語“Jambus”。音写「イャァムブゥス」。詩学用語で抑揚(短長・弱強)格を指す。

「騷人調」中世ヨーロッパで。恋愛歌や民衆的な歌を歌いながら。各地を遍歴した吟遊詩人の詠んだ、風流染みた読み方の意か。

「フランツ・ヅェルフェル」オーストリアの小説家・劇作家・詩人のフランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel 一八九〇年~一九四五年)。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、『グスタフ・マーラーの未亡人アルマの最後の結婚相手としても知られる』。一九二〇『年代にはジュゼッペ・ヴェルディの多くのオペラをドイツ語に翻訳し、ドイツ語圏におけるヴェルディ・ブーム、いわゆる「ヴェルディ・ルネサンス」に貢献した』したとある。]

 

      

 

 ライネル・マリア・リルケに就いて述ぶべきことは以上で盡されたとは云ひ難い。特に彼が獨逸抒情詩史上に於ける意義と貢獻とに就いてはなほ云ひたいことが少くないが、彼が同時代者との關係、及び後進に與へた影響については、極めて槪略ではあるが既に處々で觸れて置いた故に、改めて書くまい。リルケの人と藝術とを說明して其理解の一助としたいのが此論文の主眼であつて、批判評價するのは他目に讓らうと思ふからである。唯しかしながらリルケが二十世紀初頭の獨逸詩壇に於ける生れながらの先覺者であつて、十九世紀が殘したものと、二十世紀が齎らすものとを一身に集め、相續者であつて同時に祖先であつた事實は、自分の特に指摘したいと思ふ處であつて、此意味から云つてもリルケの硏究は實に興味の津々たるものがある。實證主義的卽物的であると共に、靈性を高唱し神に祈禱し、近代的神經質であつて、而も原始と素朴を愛してゐる。その汎神論的な展  開の思想は可なり科學的でありながら、其の根抵には詩人的空想と憧憬とを藏してゐる。事物の靜觀に沒入してゐる沙門のよやうであつて、貧者の禮讃は往々社會的階級打破の叫びに似たものがある。そして之等種々の矛盾と見えるものが不思議な統一をなして渾然たる趣をなしてゐる。それは西歐羅巴の血と、スラヴ卽ち東洋の血とが彼の中に一つとなつて流れてゐるに似てゐるのである。

 

 

[やぶちゃん注:以下、「目次」。リーダーとノンブルは省略した。ポイントは、各所で、かなり異なるが、面倒なのと、ポイント違いでは、却って読み難くなると判断し、私の注を除き、総て12ポイントで揃えた。]

 

   リルケ詩集目次

 

小 序

第一詩集

 家神奉幣

  古い家

  若い彫塑家

  冬の朝

  夢

  夕の王

  大學へ入つた時

  民謠

  中部ビョエメンの風景

  私の生家

 

冠せられた夢

 夢みる(四章)

   私の心は忘られた禮拜堂に等しい

   あの上に漂ふことの出來る

   一體私はどうしたのかしら

   灰白な天

 愛する(五章)

   それから愛は

   それは白菊の日であつた

   我々は考込むで

   春に、それとも夢に

   長いことだ――

基督降誕節

   基督降誕節

  贈 物(五章)

   これが私の爭だ

   私は好く

   塵まみれな飾のついた

   私は最う一度

   私の神聖な孤獨よ

  母たち(二章)

   私は折々一人の母に

   痛みと憂とが

 

舊 詩 篇

[やぶちゃん注:以上の「舊詩篇」はママ。本文中の冒頭の表紙では、「舊詩集」である。

   序 詩

   日常の中に滅びた憐れな言葉

   私は今いつまでも

   私は晝と夢との間に住む

   お前は人生を理解してはならない

   傾聽と驚きのみで

   はじめての薔薇が眼ざめた

   平な國では期待てゐた

   幾度か深い夜に

  少女の歌(八章)

   序 詩

   今彼等はもうみんな人妻

   女王だ、お前らは

   波はお前らに默つては

   少女らは見てゐる

   お前ら少女は小舟のやうだ

   少女等がうたふ

   一人の少女が歌ふ

  マリアヘ少女の祈禱(十一章)

    序 詩

    みそなはせ、私等の目は

    多くのことの意味が

    最初私はあなたの園となり

    マリアよ

    何うして、どうしてあなたの膝から

    私には明るい髮が

    それから昔はいつも

    皆は云ひます

    この激しい荒い憧れが

    祈りの後

 

    我々の夢は大理石の兜

    高臺にはなほ日ざしがある

    これは私が自分を見出す時間だ

    夕ぐれは私の書物

    屢臆病に身震ひして

    そして我々の最初の沈默は

    しかし夕ぐれは重くなる

    私は人間の言葉を恐れる

    誰が私に言ひ得る

 

形 象 篇

 第 一 卷

   四月から

   少女の憂鬱

   少 女

   石像の歌

   花 嫁

   隣 人

   最終の人

   ものおぢ

   愁 訴

   孤 獨

   秋の日

   追 憶

   秋

   進 步

   豫 感

   嚴肅な時

 

 第 二 卷

   自殺者の歌

   孤兒の歌

   侏儒の歌

 嵐の夜から(二章)

    こんな夜々には、私の前に居て

    こんな夜々にお前は街の上で

[やぶちゃん注:底本では、「嵐の夜から(二章)」の最後の丸括弧閉じるがないが、誤植と断じて、補った。]

 

時 禱 篇

 修道院生活

   時間は傾いて

   物の上にひかれてゐる

   隣人の神樣

   若したつた一度

   私が生れて來た闇黑よ

   私は總べての未だ云はれなかつた事を信ずる

   我々は慄ふ手で

   私の生活は

   私が親しくし兄弟のやうな

   若き兄弟の聲

   どうなさります、神樣

   番人が葡萄畑に

[やぶちゃん注:「どうなさります、神樣」ママ。同無題の冒頭は「何うなさります、神樣、私が死にましたら、」である。]

 巡禮の歌

   私は嵐の重壓に驚かない

   今お前はお前のところへ

   閣下よ

   永遠者よ

   彼の氣遣は

   お前は世嗣だ

   私の眼を消せ

   あなたを推測る噂が

   あなたを求める人は皆

   この村に最後の家が

   あなたは未來だ

   神よ、私は數多の巡禮でありたい

   深夜に私はお前を掘る

[やぶちゃん注:「あなたを求める人は皆」で始まるそれは、冒頭は「あなたを求める人は皆な」である。]

 

 貧困と死

   おお主よ

   私に二つの聲を伴はし給へ

   私は彼を褒めたたへよう

   大都會は眞ではない

   彼等はそれではない

   何故なら貧は

   知る者よ

   見よ、彼等を

   彼等の手は女の手のやうで

   彼等の口は胸像の口のやうで

   ああ、何處に彼の明かなる者は鳴消えたぞ

 

新詩集

 第 一 卷

   前のアポロ

   戀 歌

   犧 牲

   PIETÀ

   女等が詩人に與へる歌

   豹

   詩 人

   盲ひつつある女

   夏の雨の前

   私の父の若い肖像

   一九〇六年の自像

   橙園の階段

   佛 陀

   西班牙の舞妓

 

 第 二 卷

   アポロの考古學的トルソオ

   鍊金術者

   衰へた女

   露 臺

   海の歌

   ピアノの練習

   愛する女

   薔薇の內部

   鏡の前の夫人

   戀人の死

 

ライネル・マリア・リルケ(譯者)

 

 

[やぶちゃん注:以下、ここに奥附があるが、リンクに留める。言っておくと、本詩集には、特装版があることが「定價三圓八十錢」の右肩に記されてあり、そこに『特製は初版限り 口繪一枚。』とあるが、本書はそれではなく、挿絵はない。なお、第一刷は『昭和二年』(一九二七年)『五月七日發行』『千五百部』とある。]

2025/03/08

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「七」

 

        

 

 『形象篇』、『新詩集』を以てリルケの藝術的完成を告げるものとすれば、一九〇五年に始めて上梓せられた『時禱篇』は、彼の內面生活が漸く圓熟の境地に入つて、個々事物の凝視から漸く統一的な神に到達したことを示す詩集である。此集は『僧侶生活の卷』、『巡禮の卷』、『貧困と死との卷』三部から成立つてゐるが、其の發生から云へば第一部は一八九九年、第二部は一九〇一年、第三部は一九〇三年であつて、市に出る迄には如何に推敲選練が重ねられたかを想像することが出來る。

 リルケの思想が此『時禱篇』のやうな信仰に到達することの必然なことは、彼の作品を閱讀する者の悉く首肯する處であつて、恰も春日を浴びて薔薇の育つやうに、順次『基督降誕節』以後その發達を示して來たが、その思想の中心に明瞭に「神」の名を與へたのは、實に一九〇〇年に出版された童話集『神の話及び其他』であつた。此數篇の童話は實に「事物の神に成る」ことを中心に持つてゐた。しかし時代に對する反抗や、小兒に對する讃美や、比喩の興味やに重心が傾いてゐる爲めに、的確に率直にリルケの信仰を我々に傳へる效果が稍稀薄である。しかし彼の神の話はドグマからも敎會からも十字架像からも出發してゐないで、「物」から始まつてゐる。其處にリルケらしい最大の特色がある。「どんな物でも神樣になれる。ただそれを物に云はなくてはいけない。動物にはそれが出來ない。あれは走つて行つてしまふから。しかし一つの物は、そらね、それは立つてゐる。晝でも夜でもお前が部屋へ歸つて來ると、幾時でも其處にゐる。それは神樣になれる。」彼は個々の事物の奧深く眺め入るに從つて、其中に普遍で等しい力の働いて居るのを認め、それによつて自己と萬物とが漸次親和融合するもののあるのを感じたのである。リルケはそれに「神」と云ふ名を與へた。それ故神という名に拘泥して、直ちにクリスト敎の神や、希臘の神々の一つを思い浮べるものがあればそれは大きな謬であろう。

 私が親しくし兄弟のやうな

 これ等總べての物に私はあなたを見出す。

 種子としては小さい物の中で日に照らされ

 大な物の中では大きく身を與へてゐられる。

 此句にも明かであるやうに、リルケの神は萬物の中に內在してゐる。歌の中にも、石の中にも、老人、嬰兒、乞食の中にも、幸福の中、死の中にも、又指拔きの如き小さな物にも。人はただそれを見出せばよい。それを云へばよい。「視は祈禱」であると云ひ、「視ることは解脫だ」と歌つてゐるのも、表面現象の奧にある神の存在を確實に知つてゐたからである。そして其の同じ神はまた自己の中にもある。

 此處の內心に我の生きてるものが、彼處にある。

 彼處とここと總べての物に限界はない。

 斯う事物と我とが漸く親和融合するのを感じたリルケは、最も近いものにも、最も遠いものにも自己が流通してゐるのを見たのである。嘗て

 誰かまた私に云ひ得る

 何處に私の生が行きつくかを。

 私もまた嵐の中に過ぎゆき、

 波として池に往むのではないか、

 また私は末だ春に蒼白く凍つてゐる

 白樺では無いのか。

 と『我の祝に』で問を發していたリルケは、今や「之等總べての物に神を見出す」と云ひ得るに至つたのである。神は露でもある、女、他人、母でもある。死でもある。鷄鳴でもあり、未來でもある。綠の樹でもある。

 根の中に育ち、莖の中へ消え。

 梢では再生のやうになる。

 船には岸と見え、陸には船と見えるやうに、視點の相違によつて絕えず其形を異にしてゐるものの、神は要するに「事物の深い含蓄」である。そして此深い含蓄である神は、光や形や名稱に執著するものの知り能わぬ所である。外面的狀態の關係變化等を整理規定する理知の作用のみでは會得せられない。小兒の如き謙虛敏感な心と、沙門のような靜寂とによつて始めて近づき得るのである。リルケの信念によれば神は到る所にある。我々がそれを見ないのは、これを凝視する用意と訓練と忍耐とが缺けて居るからである。我々は神は何處に在るかと問ふ可きではない。ただ眼を開いて凝視すればよい。「問ふ者に神は來ない」。リルケは明にさう云つて居る。彼は神の心に熟するのは、丁度藝術が藝術家の心に熟するのと同樣であつて、幾多の事物の凝視が「名無きもの」となり、血と肉とに溶け入つて、始めて中から湧き來るものであると云つて居る。

 斯ういふやうにリルケの信仰は著しく汎神的である。彼の神は物卽ち自然の本質であつて、神と萬物との關係は造物主と被造物との關係でもなく、原因と結果の關係でもない。本質と狀態、内容と外形との關係である。

 しかし人は各牢獄(ひとや)から遁れようとするに似て、

 自我から出ようと力めるらしい。――

 これは實に大きな不思議である。

 私は感ずる、凡ての生命は生きられてゐると。

 では誰がそれを生きてゐるのだ。

 夕ぐれの竪琴の中に籠るやうな

 奏でられない諧調に似たものか、

 水から吹く風か。

 うなづき合つてゐる枝か。

 薰を織る花であるか。

 もの古りた長い並樹か。

 步いてゆく暖かい獸か。

 驚いて立つ鳥であるか。

 一體誰だらうそれを生きるは。神よ、神であるか――

 その生命を生きるのは。

[やぶちゃん注:「力める」「つとめる」と読んでおく。]

 リルケは萬物の中に內在する神を知り得たけれども、個々の事物を以て直に完全な神の現れと考へることは出來なかつた。彼は萬物の生命を生き甲斐あるものとは感じながらも、各個體はその與へられた形體の故に、圈圓の中に呻吟するような嵯嘆と憧憬とを持つて居ることをも認めずには居られなかつた。「我を爾(神)の側に置けば、我は殆ど無きに等しい程爾は大きい。爾は暗い。爾の緣(へり)にあると我が小さい明りは無意味だ。爾の意志は波の如くに行き、日每の日はその中に溺れ死ぬ。ただ我が憧憬のみが爾の顎の邊まで聳えてゆく」と歌つてゐるのも、一面微小な個體に囚はれた生活のみじめさを嘆いたものである。そして斯うした個體の囮囘を開いてその憧憬の中に解放する。それが卽ちリルケの藝術的創作であつたのである。彼の神の思想と藝術觀とは實に密接にして離るべからざる關係を持して居る。

 リルケは個體を囹圄[やぶちゃん注:「れいご」。牢屋・獄舎。]と見てゐる。しかし既にその內に神の存在を信じて居る故に、外的自我の貧弱微小は必ずしも意に介する處ではなかつた。寧ろそれは貧しければ貧しい程よかつた。『時禱篇』第三部に於て專ら貧者を讃美してゐるのは全く此處に由來する。彼が弱い者、惱む者、苦しむ者に多大の同情と暖い心を寄せたことは既に述べた。それが今は

 貧者の家は聖檀の龕のやうだ、

 その中では永遠なものが食物となる。

 といふ禮讃に高まつて居る。而も貧者は倨傲な富者の閒に苦しむで、熱病の發作に見るやうな惡寒に慄へながら燃えてゐる。あらゆる家から逐はれて見知らぬ白痴のやうに夜中に彷徨してゐる。でも「貧こそは內部からの偉大な光耀である。」

 見よ、彼等は生きよう。己を增すだらう。

 時代に强ひられまい。

 森の苺のやうに育つて

 甘味で地を蔽ふだらう。

 彼等は幸だ。一度も自己から遠ざからず、

 屋根がなくて雨の中に立つてゐる。

 彼等にこそ總べての收穫が來るだらう。

 その果物は充實しよう。

 彼等は總べての終を越えて續き、

 意味の零れ消える富者よりも長く續かう。

 そして總べての階級と

 總べての國民の手の疲れ果てたとき、

 休み盡した手のやうに上るだらう。

 貧者の禮讃が社會的階級的意識にまで到達してゐることが解る。此處に於てもリルケはまた來る可きものを夙に豫感してゐたのである。彼が貧困を稱へたのは「屋根なく」して天の雨をうけ、「凡ての收穫が得らるる」からである。內在する生命を貧しくするのでないことは云ふ迄もあるまい。

 既に我々の存在を神の一狀態一表現に過ぎないと信じ得る者にとつて、死はさして恐る可きことでは無い筈である。リルケの言を借りれば、我々の生活が花であり果實の肉であれば、死は卽ち實であり種子である。彼は又云つて居る。「我々が日每にその頭蓋骨を見下して居る死が、我々の憂愁や不幸であらうとは信じられない。」だから我々の念ず可きことは次ぎの祈禱でなくてはならない。

 おお、主よ、各自に彼れ自らの死を與へ給へ、

 彼が愛と、意義と、困厄とを持つた

 その生活から出てゆく死を。

 では我々の生は何うであらう。死が恐る可きもので無いならば、生も惜むに足らぬものであらうか。抑また我々の生に力を與へ、それに强い意義を附するものが他にあるであらうか。リルケは此處に「神の成熟」の思想を持つて來る。

 リルケの考に從ふと、事物は單に神の狀態である許りでなく、更にまた神を成熟せしめ、神を發達せしめ、既に長い過去に於て偉大であつたものを一層偉大ならしめる任務を負うて居る。かうして

 爾(神)の國は

 熟しゆく。

 我々の生活が邪路に迷ひ入らぬ限り、其處に內在する神は常に成熟しつつあるのである、空しく消えたやうに見える過去の事物も、一つとして今の我々を培つてゐないものはない。そして又現在の我々は少なからず未來の發育に與つて居る。換言すると過去は我々の父であり、未來は我々の子である。そして長い過去に養はれて居る現在は、正當なる狀態に於ては過去よりは大きくなくてはならない。

 子は父よりは大きい。

 父のあつた總べてであるのみか、

 父のならなかつたものもまた子の中に生ひ育つ。

[やぶちゃん注:最後の一行は、底本では、『父のならなかつもたのもまた子の中に生ひ育つ。』となっている。誤植錯字であるので(岩波文庫の校注では、再版「詩集」で修正している)特異的に訂した。]

 そして萬物に溢れて居る神は、無限の過去から現在を貫いて永遠の未來に生きてゐる。彼の視線は多く未來の神に向けられる故に、神は未來だといひ、神は我が子だとも歌ひ、

更に斯うも云つて居る。

 お前は世嗣だ。

 子等は世嗣だ、

 何となれば父たちは死に

 子等は立つて花を開く。

 お前は世嗣だ。

 そして我々の成熟と共に神も成熟するのであるから、永遠の末來に成熟を續ける神の偉大さは到底測り知ることは出來ない。「神は父なり」と云ふ思想は之に比較して、著しく神を有限的に見てゐることが解る。そして人の心の不思議さはこの無限永遠の神の姿をば、夢想と憧憬とに於て暗示し、藝術の三昧境に於て啓示する。

 しかし時をり夢の中で

 私はお前の部屋を見渡すことが出來る。

 深く始から

 屋根の黃金の尖頭(さき)まで。

 それから又見る。私の感官が

 最後の飾を

 作り營むのを。

 此處にリルケの思想の神祕な詩人的な飛躍がある。

 

2025/03/07

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「六」

 

      

 

 個々の事物を注視して其内に隱れてゐる深い心を引出し、それ自體では怠惰である現實から、靈化され生命化された創造を遂げ、而も所謂一般象徵詩のやうに一種の思想、槪念、氣分、又はそれ等の雰圍氣の中に止まらないで、個々の對象を能ふ限り忠實に表現して居るものは實に一九〇二年に出た詩集『形象篇』である。痛ましい憧憬と逡巡とに充ちてゐた『我が祝に』から此集に移つて來れば、丁度少女の居間から出て、廣い、天井光線に照らされる彫刻展覽室に入つたやうな心持がする。戲曲『日常生活』や小說『最終の人々』に說かれた藝術家リルケの成熟した姿が此處には覗はれる。

 リルケは一九〇三年の著『アウギュスト・ロダン』の中でロダンに就いて云つて居る。「彼の藝術は一つの大思想の上に建設されて居るのでは無い。良心に從つて行はれる小さい眞實化の上に建てられる。彼の中には傲慢はない。自分が見、呼び、判斷し得る目立たぬ重い美に加擔する。他の大なる美は、小なる美が總べて完成した時に來るのである。恰も夕暮に獸が水飮場へ來るやうに」と。又斯うも云って居る。「彼は廣く探る。第一印象をも正しいとはしない。第二印象及びそれ以下の印象をも正しいとはしない。彼は觀察し記錄する。云ふに値しない運動や、囘轉や、半囘轉や、四十の痙攣、八十の橫顏を記錄する。彼はモデルを疲勞した時、將に表情の成立しようとする時、努力の時に驚かして、習慣的なものと、偶然的なものとを探る。彼は顏面に於ける表情のあらゆる過渡を知つて居り、何處から微笑が來、何處へ消えてゆくかを知つて居る。彼は自分が與つてゐる舞臺のやうに顏面を體驗するのである。彼は其眞中に立つて居る。彼に起る事は一つとして何うでもよいことはない。又彼に見逃されもしない。彼は當事者には何も語つては貰はない。彼は自分の見るもの以外には何事も知らうとは思はない。しかし彼は凡てを見るのである」と。

 私は之等の言葉をば移して又詩集『形象篇』に於けるリルケの說明としたい。リルケもまたその對象を最後の根抵まで見ないでは止まない。眼瞼の些細な上下、筋肉の幽かな脹らみ、內心の不安の微妙な顫動をも見てゐる。彼は慾情や神經末端の最後の發熱をも感得する。特に目立たないもの、手近にあるもの、凡眼には無意味に見える徵候を、全然新しい光の下に置いて見る。しかし此處には、浪漫的の空想とか、感覺の陶醉とか云ふ種類のものは絕無である。寧ろニイチェがディオニソス的の對照に置いたアポロン風がある。立體的の明晰がある。――序ながらパウル・ツェッヒは此リルケのアポロン風はロダン其他の影響ではなくして、リルケに先天的なものであり、彼が一步一步健實に步む道であると論じて居るのは首肯される。――そして物それ自體となつて現はれて來る。もつと精確に云へば、物それ自體であつて、而もそれだけではなく現はれてゐる。物が天の下、神の下に置かれて居る。大空の光と影とを宿してゐる平埜の木の葉のやうに現はされてゐる。そして此明晰と此暗示?との相矛盾した二要素を繋ぐものは實にリルケ獨得の音律であるが、それは項を改めて說くことにするとして、集中の『戀人』、『花嫁の歌』、『聲』數章、『嵐の夜』、『盲人』、『石像の歌』、『讀む人』等の諸作は、全く單に對象そのものの內面的眞實の姿を表現して遺憾のないものであつて、我々はその對象が微細な部分に至るまでも詩人によつて熟知され、透徹されて、如何に因襲の牢舍から開放されて、それ自らの光の中に輝いて居るかに驚くばかりではなく、全體として彼の所謂「他の大なる美」卽ち宇宙の奧深い心とでも云ふ可きものが、其の內面に匂つてゐることを感ぜずにはゐられない。

 彼の詩が斯ういふ境地に進んで來たことは彼にとつて必然の結果であるとはいへ、同時にまたロダンの偉大な藝術が彼に多大な促進を與へたことは疑へない。ロダンは自分の知らなかつた幾多のことを敎へてくれた許りではなく、自分の既に知つてゐたことに明かな形を與へてくれたといふ意味をリルケは云つてゐる。周到な視と、銳敏な觀察と、犀利な直覺とはロダンとリルケの藝術を形成する共通な要素であるが、更に肝要で本質的の類似は、前にも云つた「手近なもの」から始める「良心に從つて行はれる眞實化」にある。此精神から生れる一種の單純化、又は個々事象の髙潮である。實際、人は種々の束縛に制せられて、個々の事象を正當に觀察し享受する自由を失つてゐる。計畫や利用の僻見から全く脫却してその眞實の本質を凝視する力が無くなつてゐる。其處に我々の誤謬が伏在し、不純不透明が橫はつている。リルケが小兒の一重心を尊重し、平野の簡明を喜ぶ所以も、この誤謬不純不透明を去らうとする爲に外ならない。例へば街頭の行人も、默想に耽る水邊の遊步者も、その步行が彼の全身を、――敢て云へば彼の精神をさへ――如何に變化せしめつつあるかを更に熟知してゐない。しかし一度ロダンの『步む人』を見れば、步行が全人の上に擴がつて居るのに驚かずには居られない。此像に於て步行でないものは何一つ見られない。それはただ足や手の筋肉のみではない。その唇にもその眼にもある。卽ち步行といふ一事象が完全にせられ、生命をえてゐるのである。步行と本來何等の關係の無い總べての環境や屬性は悉く排斥除外されて、唯々步行のみがある。『形象篇』に於けるリルケの詩もまた之と趣を一つにして居る。『戀人』は最早や『冠せられた夢』の中の戀人ではない。頭の上に垂れ下る葡萄の房や、近くに匂ふヤスミンの花で飾られる戀人ではない。「小川のせせらぎの石のやうに靜かで」あつた昨日の自分を「知らない何人かの手に、あはれな暖い運命が委ねられた」やうに感ずる「戀」に捕われた人間である。

 夜をついて荒馬に騎りながら、

 解いた髮のやうに、驅ける爲の

 大風に靡く、炬火を持つてゆく

 人々の一人になりたい。

 私は眞先に立ちたい。舟の中のやうに、

 そして擴げられた旗のやうに大きく。

[やぶちゃん注:老婆心ながら、「靡く」は「なびく」と読む。]

 と歌ひ始めてゐる『男童』は、服裝も身分も境遇も才能も知られない、ただ一人の赤裸の男の子として讀者の前に置かれてゐる。かうして『息子』も、『ツァア等』も、『視る人』も、『夜の人々』も、『噴水』も、『秋』も、『狂氣』もうたはれてゐる。

 『形象扁』についで出た詩集は『時禱篇』であつたが、純藝術的の立場から、此集の續篇とも見るべきは寧ろ『新詩集』及び『新詩集別册』の二卷であらう。『形象篇』に於てはなほ幾分限られてゐた對象の範圍が、此二集に至つて一層擴大せられて來たことは、リルケの技能と共に人としての包容が漸く大きくなつて來たことを示すものとも云ひ得るであらう。その「手の屆く」事象が、希臘の諸神や、ヨズア、ザウル、ダビデ[やぶちゃん注:底本は「ダビテ」だが、再版「詩集」で「ダビデ」と訂しているので特異的に訂した。]、エリア等を始め遠く東洋の佛陀にまで及んで居る。また單一なもののみではなく、複雜煩瑣なものも大膽に又巧みに歌ひこなされるやうになつた許りか、あれほど排斥した都會の中にさへその題材を選んでゐるものが少くない。『公園』、『露臺』、『馬上環走』、『スペインの舞妓』等の外にも、パリ、ナポリ、ヹネチア等の都會をうたつて居るものが十數章ある。靜寂な地に純一素朴な物を愛していた詩人も、今や騷しく目まぐるしい四圍によつて心を亂し、複雜と紛糾とによつて蠱惑されずに、よく其の奧底に徹する餘裕を生じて來たのであらう。

 嘗てゲオルグ・ヘヒトはリルケの詩を論じて次の如き意味を述べてゐた。曰く從來の詩は主として作者の感情や氣分を傳へる種類のものであつて、詩人は自己の經驗を暗示的に叙して、讀者をして共に詩人の感情を經驗する思ひあらしむれば十分であつた。そして詩が單に事物のみを歌はうと、その環境を描寫しようと、またその經驗が如何なる種類であらうと、要は詩人の感情情調瞑想等が最も重要の點であつた。しかしながら時勢は變轉して詩は漸く其の感情の重みに堪へ難くなつた。讀者も詩人も等しく詩に盛られた感情や氣分に飽いて來た。是に於て種々の試みが企てられた。先づ詩に盛られる感情氣分の種類に變化が行はれた。次ぎにその新感情を生む環境や事情を淸新なものにしようと試みた。けれどもその中樞であり主眼であるものは常に詩人その人の感情であつた。氣分であつた。リルケは之に反して全然別種の詩を創始した。彼は詩を全く感情の重荷から脫せさせた。勿論リルケの詩にも、作者の感情氣分が漂つてゐないのではない。しかしそれが詩の中樞ではない。重心ではない。焦點ではないのである。彼は對象を對象その物として表示しようとする。詩人の感情氣分は單にその雰圍氣とし背景として役立つに過ぎない。從つてリルケの詩で重要なのはその具象性と直觀性であると。私がこれ迄屢述べたリルケの詩の特色を捕へて、簡約に在來の詩と比較したものであるが、同じ事をリルケ自らも又云つてゐる。彼が屢引用するマルテ・ラウリッド・ブリッゲの言葉に從ふと、之等の詩は最早や感情ではなくして經驗(エルフアルング)である。之等の詩の中の意味と甘味とは全生涯を費して集められたものである。詩人は之等の詩の一つの爲にも多くの都會を見、人間や物や動物を知り感じた。如何に鳥が飛ぶか、如何なる身振で小さい野花が朝日にあつて開くかを學んだのである。しかしながら、ブリッゲの言を借りてリルケが要求する處に依ると、「人が記億を持つてゐるだけでは十分ではない。それが多くなれば人は記憶を忘れ得るに相違ない。そしてその再來を待つ大忍耐を持合せなくてはならない。何故かと云ふと記億そのものはそれではない。それが我々の中に血となり、視となり、身振となり、名も無く、最早や我々自身と區別せられなくなつて、其時始めて極めて稀な時間に詩の第一語が彼等の眞中に彼等の中から發生するのである。」

[やぶちゃん注:「マルテ・ラウリッド・ブリッゲ」通称「マルテの手記」の名で知られる、一九一〇年に発表された、リルケ唯一の長編小説「マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記」( Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge )の主人公。当該ウィキによれば、『デンマーク出身の青年詩人マルテが、パリで孤独な生活を送りながら街や人々、芸術、自身の思い出などについての断片的な随想を書き連ねていくという形式で書かれている。したがって、小説でありながら筋らしいものはほとんどなく散文詩に近い』。『主人公マルテのモデルとなっているのは、実際にパリで生活し、無名のまま若くして死んだノルウェーの詩人シグビョルン・オプストフェルダー』(Sigbjørn Obstfelder 一八六六年~一九〇〇年:英語のウィキに彼のページがあるので参照されたい)『である。もっとも』、『リルケは、この人物について』、『それほどくわしくは知らないとも語っており』、一九〇二年から一九一〇年の『間、妻子と離れてパリで生活していたリルケの生活や心情が、彼のプロフィールに重ね合わされる形で書かれている』ものである。『作品は』一九〇四年から六年の『の歳月をかけて書かれた』。本作『発表後のリルケは、長い間』、『まとまった著作を発表しておらず、後期作品の代表詩である『ドゥイノの悲歌』と、『オルフォイスへのソネット』が発表されるのは、十数年を経てからとなった』とある。

「經驗(エルフアルング)」ドイツ語“Erfahrung” 。音写「エアファールング」。写植以前のため、ルビの小文字化はなされていない。岩波文庫版では『エルファルング』となっているので、そう読み代えて問題ない。]

 斯ういふ風に長く經驗し體驗しそして忘却し、記憶の中に物質性を失つて再び浮上つて來た事物に優しく親むに隨ひ、そして神經的に纖細な感性が銳くなればなる程、當初にあつては幾分その跡を見ることの出來た强いもの、優れたものに對する心の傾きは漸く消えて、軟いもの、深いもの、謙虛なもの、宗敎的なもの、弱いもの、色の褪せたもの、疲れたものに對する同情が著しく眼立つやうになつて來てゐる。デカダンの王樣やツァア等を愛し理解して微妙に歌い得てゐることで、恐らくリルケの右に出る詩人は一人も無いであろう。シュテファン・ゲオルゲの『アルガバアル』の燦爛として人の眼を眩ますのに比較すると、等しく王者を歌つても其差の如何に大きいかが明かになるであらう。『橙園の階段』のやうなどちらかと云へばゲオルゲに近い詩でさへ、其の結末のほのかに煙のやうな處、兩者の氣稟の著しい差が知られるであろう。又リルケは繰返し盲人を歌つて居るが、その洞察の深くて多面的なことは、恐らくマアテルリンクに比して數等であらうと思ふ。『盲ひつつある女』の如きは其證とするに足りよう。又夕暮と死とはホオフマンスタアルの常に好んで使つた題材であるが、そしてその情調に溢れる精妙な描寫は何人も驚異の眼を見張り、不知不識に其中へ引入れられる程の魅力に富んでゐるものであるが、その偏に[やぶちゃん注:「ひとへに」。]感覺的情況的の美に比べると、リルケの歌つた夕暮は、夕暮そのものの本質であり、内面から湧き出でる美であるやうに思はれる。特に死に就いては殆ど何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも嘗て見られなかつた程に美しい數章の詩があるが、それもまた如何に死が來るか、如何に人が死ぬか等の屬性的のものでなくして、直接に死そのものの深遠な意味に觸れる思ひがする。或る批評家はリルケの詩集を『事物の福音書』とさへ名づけて居るが、彼の歌ふ事物は決して單なる現實の事物ではなく、その靈化であり、その完成である。その靈化完成の精妙を示すものは實に『新詩集』二卷であつて、『形象鎬』には鑿[やぶちゃん注:「のみ」。]の匂がなお殘つて居るやうな太い線に圍まれたものが多い。それ故力の感じに於ては却つて『形象篇』の方が優つて居るとも云はれよう。

[やぶちゃん注:「ツァア」「ツァーリ」に同じ。ロシア語“car'” で、ローマ皇帝の称号「カエサル」に由来する語。帝政ロシアの皇帝の公式の称号で、イワンⅢ世が初めて用い、正式には、一五四七年、イワンⅣ世の戴冠から、一七二一年にピョートル大帝がインペラートルの称号をとるまでであるが、その後も併用された。音写は「ツァー」「ツァール」とも表記する(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「氣稟」「きひん」。生まれつき持っている気質。]

2025/03/06

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「五」

 

      

 

 以上を以て不完全ながら嚴肅の意味に於ける彼の第一詩集に就いて說明した私は、順序として次ぎの詩集『形象篇』に移る可きであるが、使宜上暫らく彼の自然及び神に關する詩想を先に述べて置きたい。

 主觀的感情の高潮や奔騰によつて自他の限界を超躍しようとせずに、個々の事物を重んじて、之に滲透し徹底し、その本質を會得して、これを完全にすることを以て藝術の本義であるとしたリルケは、一面自己を明鏡のやうな平靜の境地に置いて、自己の中に映發する事物の姿を可及的に攬亂しないやうに力めると共に、他面事物そのものを能ふ限り本來の姿に於て眺めようと望んで居ることは既に說いた。それ故にあらゆる故意と作爲とに充ち、蠱惑と混亂とに支配されてゐる都會生活を遁れて、「自然の大寂寞」を戀慕つた。そこには事物が赤裸々の姿で橫はつてゐて、既成の槪念や因襲の重い影に蔽はれてゐない故である。それは先づ都市に對する厭離となつて現はれた。

 大都會は眞ではない。

 日を、夜を、動物を、小兒を彼等は詐いてゐる。

 彼等の沈默は僞つてゐる。彼等はまた

 騷音と……事物とで僞る

[やぶちゃん注:「あざむいてゐる」。]

 物質の文明に勝誇り、外的知識と物慾の滿足とに惑はされ、恍惚として深い生命の力に觸れる暇もない生活はリルケの堪へ得る處ではなかつた。それ故「主よ、大都會は失われたもの、解體したもの」、「其處には人々は惡く生活し」、「小兒はいつも同じ陰影の中にある窗の側に生育って、戶外で花が呼ぶのを知らず」、「若い女らは知らない人の爲に花を開き……慄へながらまた萎えてゆき」、「鎖に繋がれた如く死に、乞食のやうに去る」と嘆いてゐる。

 しかし都會は自分のものだけを欲し、

 總べてを自分の步みに引摺り込む

 動物をば空(うつろ)の樹のやうに毀(こぼ)ち、

 多くの民衆を烈しく使ひへらす。

 

 都會の人々は文明に仕へて、

 平均と適度から深く墮落し、

 その蝸牛の步みを進步と云つてゐる。

 靜かに步むところを驅け走り、

 娼婦のやうに感じ閃めき、

 金屬と硝子とで聲高に騷ぐ。

 

 日ごとの虛僞は彼等を弄び

 最う自己の姿がない……

[やぶちゃん注:「蝸牛」「くわぎう」と音読みしていよう。]

 斯うまで彼が都會を厭つて自然の懷に入らうとしたのは、既に說いたやうに、小兒の心に歸り、原始の姿を喜び、人生と自然とを全然新しい關係に於て結集しようと願つた爲であつたから、その所謂自然といふものも、從來の詩人藝術家の指す處と甚しく趣を異にしてゐた。浪漫的の人々が空想の中に理想化した自然とは異つて、實際眼前にある自然そのものでなくてはならないことは、第一章に於て述べて置いた。リルケは時代の推移に伴つて凝視される自然の側面にも自ら相違のあることを叙し、我々の祖先が自然精神の啓示を見、感情の濃淡思想の複雜化を味ひ來つた城塞や谿谷に飾られる所謂奇勝絕景の類は、自覺ある現代の靑年にとつては、單に「未來を考へることも出來ない古風な部屋の樣に感ぜられ」て、一種の倦怠を覺えさせられるのみか、時としては都會と同じに其の强い刺戟によつて人心を蠱惑して、著しく偏狹な信念に傾かせる危險を伴ふものとさへ考へてゐる。次に少し彼の語を引用しよう。

「我々の祖先が馬車の窗を閉ざし、退屈に苦しみながら、やつとの思ひで通過したやうな場處を我々は要求するのである。彼等が欠伸をする爲に目を開いた處で、我々は視る爲に眼を開く。何故かといふと、我々は平埜と天との表號の中に生きるからである。平野と天とは二つの言葉である。しかし元來唯一つの平野といふ體驗を包んでゐる。平野こそ我々がそれによつて生きる感情である。我々は平野を了解する。平野は我々にとつて手本となる可き或物を持つてゐる。其處では凡てが重要である。地平線の大きな圈も、單一に有意義に天に向つて立つて居る僅少な事物も。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]その天そのものからがさうである。その明るくなり暗くなることをば濯木の數千の葉が各異つた言葉で語つて居る。夜となると都會や森林や丘陵の上にあるよりは、更に多數の星を此處の空は持つてゐる。」

 リルケが『時禱篇』の詩想を得たといふ露西亞で見た自然もこのやうな自然であつたに相違ない。彼が其後久しく住居したヺルプスヹエデも實に同じやうな平野であつた。「それは不思議な土地である。ヺルプスヹエデの小さい砂山の上に立つと、人は展開された周圍を見ることが出來る。それは暗色の地の四隅に花模樣の光つてゐる肩掛のやうに見えるのだ。皺は殆ど無い平面である。道路や水路が遠く地平線の中に沒してゐる。其處から始まつてゐる蒼穹は筆紙に盡し難い程の變化と偉大とを持つてゐる。そしてあらゆる樹木の葉の上に反映してゐる。凡ての物がその天と交涉してゐるやうに見える。」彼は斯ういふ平野の中の寒村にゐて、フオオゲラアの畫いた白樺の間や砂山の上を步きながら、朝に夕に貧しい泥炭掘の生活を眺め、人工によつて蔽はれることの少ない事物を凝視した。其處には何一つとして同じものはなかつた。一刻として同じ時はなかつた。「各自が自己の世界を自己の内に持ち、山のやうに闇黑に充ちてゐた。深い謙遜を持して己れを低くすることを少しも懼れてゐなかつた。凡てが敬虔であつた。」リルケは斯うして事物を洞察することによつて、漸次に自然の核心に喰入らうとした。「眞理は遠隔な處にある。忍耐する人々にのみ徐に近寄るものである」と信じてゐた彼は、一九〇六年の『自畫像に題する詩』にも告白して居るやうに、「蒔き散らされた事物で遠くから嚴肅なもの現實なものを企てる」人である。譬へリルケは創作的燃燒の瞬間に於て、萬物奧底の統一界を味ひ得たにしても、それ故に直ちに自然を一つの統一的なものとして愛したのではなくして、靜寂な自然の中にあつてのみ、個々の事物が瞭然と自己の本質を示し、その個々物質の中に永遠が指唆されてゐるのを喜んだ爲である。斯う考へて來れば、リルケを驅つて白然に赴かしめた要求は同時にまた彼の藝術上の要求と一致してゐることを發見するのである。すなわち個々の事物を離れずして、而もその後にある意味と價値とを把握し、其處に普遍的生命の流れを見るといふ一事が、あらゆるリルケの思想行動の中心であり根源であると思はれる。

[やぶちゃん注:「ヺルプスヹエデ」これは、現在のドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスターホルツ郡に属する町村であるヴォルプスヴェーデ (ドイツ語: Worpswede/低地ドイツ語:Worpsweed) 当該ウィキによれば、『この町は、ブレーメンの北東、ハンメ川』『に面しており、トイフェルスモーア(泥湿地)の中に位置している。この町は州の保養地に指定されている。町は平地に囲まれた高さ』五十四・四メートル『の丘陵ヴァイヤーベルク沿いに位置する』。『この町は芸術家の生活・創作共同体としてのヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー』『で知れられている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「フオオゲラア」ドイツの画家・建築家ヨハン・ハインリヒ・フォーゲラー(Johann Heinrich Vogeler 一八七二年~一九四二年)。当該ウィキによれば、『ブレーメン出身』で『ヴォルプスヴェーデに住んでいた』とある。リルケのウィキによれば、『ロシア旅行に先立つ』一八九八『年に』、『リルケはイタリア旅行を行なったが、このとき』、『フィレンツェで』、この『フォーゲラーと知り合い』、『親交を結んだ。フォーゲラーは北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでおり、リルケは』一九〇〇『年』八『月に彼の招きを受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家のオットー・モーダーゾーン、女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家と交流を持った』。翌年四月、『リルケは彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた』とある。]

 それから彼れが文人畫風の英雄的山水を愛しないで、平明普通な風景を選むで居るのは、彼れが自然から求めるところのものが特殊異常の場合でなく、且又感覺的の興奮や驚駭ではなくして、其內面に橫はつて居る心であつたことを說明してゐる。自然な平野やうに單純で透明であればある程、原始的に素朴であればあるほど、それを内面化すること、それを精神化すること、否な其內にある精神を抽出し、其の內部の力を發揮させることが容易に思はれた故である。そして自然風景に對するリルケの此の態度は、實に獨逸詩界に於ける最近の新風景感の淵源とも云ふべきであつて、オスカア・リョエルケにせよ、イナ・ザイデル女史にせよ、テオドオル・ドイブラアにせよ、リルケ無くしては彼等の精神化した新風景感を作ることは出來なかつたかも知れない。リリエンクロオンが『荒野の姿』の諸作でしたやうに、單に自然の風景の情景を克明に描寫するに止まらないのは勿論、ホオフマンスクアルやゲオルゲに於けるやうに風景を作者の魂の狀態として現はすのでもなく、人間そのものが自然となり、風景となつてしまふといふ如き、之等新風景感の發生には、どうしても客觀的な個々の事物を重ずると同時に、其の背後に共通普遍な靈の力を承認する汎神論的の信仰を藏してゐるリルケの如き詩人の出現が必要であつたらうと考へられる。

 

2025/03/05

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「四」

 

      

 

 私は詩集『我の祝に』にもう一度立歸りたい。それは初めて生れたもの、待つてゐるものとしてのリルケの姿が極めて明瞭に覗はれると思ふからである。『日常生活』や『最終の人々』で語つて居るやうな瞬間的な神の啓示に至る迄のリルケが此集に於て最も直接に出てゐると見られるからである。

[やぶちゃん注:初行の「にもう」は、底本では「に」がないが、おかしい。脱字か誤植であろう。再版「詩集」で「に」が補われたことが、岩波文庫の校注で判明したので、補った。]

 彼が自我探求の結果、原始への復歸を必要とし、其處に先づ切實な憧憬の念を見出したことは前に說いた。『少女の歌』、『マリアヘ少女の祈禱』等はそれであるが、更にまたリルケは鋭敏な感覺と、微妙な直覺とを根本的なものと見た。

 傾聽と、驚きのみで、靜かであれ、

 私の深い深い生命よ。

 風が欲することを、

 白樺もふるへぬ先に知るために。

 

 そして若し沈默がお前に語つたら

 お前の官能にうち勝たせろ。

 凡ての氣息に身を與へろ、從へ。

 氣息はお前を愛し搖るだらう。

 

 さうしたらまた私の魂よ、廣くなれ、廣くなれ、

 お前に人生が成功するやうに。

 晴著のやうにひろげろ、

 ものを思ふ事物の上へ。

 感覺を銳利にし、直覺を精細にするだけでは彼には十分ではなかつた。それと同時に自己の心を鏡のやうな靜寂な境地に置いて、外物によつて蕩搖攬亂されないやうにしなくてはならなかつた。彼の知らうとする處は、變化する事物の外形ではない。紛糾を極める生活の諸相ではない。あらゆる屬性を離脫した本質的のものである。そして其の本質的なものは事物そのものの持つてゐる魔力にあり、決して封鎖されない變轉性にあり、名狀し難い處にある。事物は例へば願へる絃である。それを荒い手で摑めば其の音は消え、生命は失はれる。「離れ居よ。私は物の歌ふをきくを好む」といい、「人生を理解しようとするな。すると人生は祭のやうになる」と歌ひ、落花の下を行きながら、その花片を集め貯へることをせずして、徐に髮にかかる葩[やぶちゃん注:「はなびら」。]を拂つて、更に新しいものに兩手を差出す子供を禮讃して居るのも蓋し同じ心である。事物そのものでなくして、事物を繞る騷がしいもの、事物の置かれて居る環境に心を勞することはリルケの性情に適しない處である。進んで複雜な人世の大河に飛入つて、自から社會の波をあげ、事業の嵐を呼ぶことを斷念して、事物の奧底に橫たはる生命を念とする詩人としての自覺に至つた彼は、事物その物をも成るべく簡素單一な姿のものを愛したのである。それ故にリルケは又好んで追放された者、斥けられたもの、貧しい者、瀕死の者等に對して無限の同感と、周密な注意とを持つて居る。地位財產階級門地等、複雜な外面的裝飾に支配されない之等の人々に、赤裸の人性の發露を見たからである。そしてリルケが其處に見たものは人間と動物とを等しなみに壓迫してゐる物理的機制の力ではなくして、その正反對の精神の世界、生命の世界であつた。この卑しきもの、貧しき者、惱める者の禮讃についてはなほ詳しく後章に述べたいと思ふが、シュテファン・ゲオルゲが好んで壯麗豪奢を歌つたのと面白い對象を爲すものであつて、彼が騷擾と紛雜とを囘避するのは決して貴族的な態度でもなく、また「藝術册子」一派の美の僧院への遁世でもなくて、物それ自體を重んずる根本的詩想の上に立つものであることを立證してゐると云へるであらう。

[やぶちゃん注:『「藝術册子」一派』見当外れであるなら指摘されたいが、これは、ドイツ詩に於ける象徴主義を代表する詩人シュテファン・アントン・ゲオルゲ(Stefan Anton George 一八六八年~一九三三年)が、一九〇二年に芸術至上主義の『芸術草紙』を創刊し、そこに集ったフーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal)を筆頭とする所謂、「ゲオルゲ派」のことを指すように思われる。]

 思ふに少女のやうに銳感な神經と纖細な感覺とを重んじ、蕪雜な現實から脫出し、軟いもの、さだかならぬもの、夕ぐれと夜とを愛するのは獨逸新浪漫派の精神であつて、その點に於てリルケもまた傾向を同じくして居る。しかしザムエル・ルブリンスキイが『近代の末路』で論じてゐるやうに、新浪漫派の病弊は感受性の過重である。彼等は早計にも銳敏な神經を以て既に新主觀であり新世界であると信じて居る。その爲め高潮された其內部生命といふものも、實質が甚だしく空疎無力であつて、單なる美、單なる感覺の滿足、形式上の修飾以外に出でない憾みが多い。之に反してリルケにあつては感覺の世界、神經の世界が決して總べてではない。彼はそれによつて大きな生命を感得しようとし、永遠の神を招來しようとしてゐる。云はば手段に過ぎない。隨つて彼の藝術は單なる美を求めて居るのではない。各の對象の中に藏されてる永遠を啓示するにある。その事は彼の著『ダルプスヱエデ』の中にも明言されている處である。

 私の筆は思はず滑つて、また既に說いたリルケの藝術の本質に歸つて來たが、詩集『我が祝に』に見られるリルケは、生れた許りのやうな新鮮で精細な感受性を持つて、尙「常に待ちつつある人」である。「人生の外に立つ人」である。そして沙門のやうな虔(つつまし)さと、少女のやうな憧憬を以て、將に來らんとするものの前に震へ戰いてゐる。『少女の歌』はその象徵とも見られるであらうが、「私は一つの園でありたい。」「私は晝と夢との間に往む」等の詩は最もよく彼の姿を現はすものである。

 詩集『我が祝に』はまた其用語と手法と形式と音律とに於て、漸く因襲的なもの、學習によつて得たものを離れて、自己獨得なものを示して居る。强いて範を先蹤に求めればノヷアリスと一味の通ずるものが無いではないが、それも勿論決定的に云はる可き程では無い。「リルケの比喩形象は神祕化された肉感から滴つてゐる。典型化された(卽ち束縛された)欲望ではなくして、芽ぐみつつある、羞らつて震へて居る欲望である」とツェッヒの評して居るのは、稍穿ち過ぎて居る觀がないではないが、リルケの淸新で豐冨な感覺の處女性をよく指摘して居る言であらう。彼の視點は全く在來の詩人とは異つた處に向けられて居る。其の感情の方向は末だ嘗て一度も觸れられなかつた處を指して居る。しかも決して我々に未知のものでもなく、奇異なものでもない。彼れは使い古され、塵まみれになつて居る言葉に數千種の新しい美を見出し、その本來の意義を再生させてゐる。

 日常の中に滅びたあはれな言葉、

 眼だたぬ言葉を私は愛する。

 私の宴から私がそれに色を與へると、

 言葉は微笑むで、徐に喜びだす。

 

 彼等が臆病に內へ押入れた本性が

 はつきりと新たになつて、誰にでも見えてくる。

 一度もまだ歌の中で步まなかつたのが、

 震へながら私の小曲の中で步いてゐる。

 此詩集以後のリルケの詩を讀む者は、何人と雖も彼の此言を其儘受入れざるを得ないであらう。そして彼の新しい用語例は其後の靑年詩人に著しい影響を與えて、その恩澤に浴しないものは殆どないと云つても過言ではない位である。

 

2025/03/04

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「三」

 

      

 

 『人生に沿ひゆく』は詩集『家神奉幣』に現はれて居るやうなリルケの素質を語つて居る點で興味のある短篇又はスケツチ集であるが、彼が無偏無黨に周圍の事物、出來事を受入れ、それを理解し、愛さうとする態度は寧ろ一層鮮明に現はれて居る。此點では『プラアク二話』も同樣であるが、技能の上から見ると末熟の跡の蔽ふ可からざるものがある。彼が一八九九年の序文に「自分は今日だつたら斯うは書かなかつたであらう。隨つて槪して書かずにしまつたらう」と云つて居るのも肯かれる。ただ其中にも優しい軟い愛情が、燒くやうな强さでは勿論ないが、稍感傷的に、しかし眞底から各の作品に溢れて居る。最初は貧しい者、疲れたもの、悲み惱むものに對する同情となつて―例へば一八九三年の作といわれる『子の基督』に於けるやうに―現はれ、後には一般の事物や人間に對する愛として出て居る。短篇『白い幸福』の如きは藝術的に最も成功して居るものであらうし、スケッチ『聲』は事件、出來事を描寫しないで、物それ自體の本質に滲透しやうとするリルケの大きな特性を裏切つて居る作であらう。ゲオルグ・ヘヒトが之等の作品を通ずる精神はホレエショの叡智 Aurea mediocritas 卽ち黃金の中正道であると云つて居るのは當らずと雖も遠くない批判であらう。

[やぶちゃん注:「ゲオルグ・ヘヒト」不詳。

Aurea mediocritas」ラテン語。音写「アウレア・メディオクリタース」。サイト「山下太郎のラテン語入門」のこちらに拠れば、古代ローマ時代の南イタリアの詩人クィントゥス・ホラティウス・フラックス(ラテン語:Quintus Horatius Flaccus 紀元前六五年~紀元前八年)『の言葉です』(「詩集」2.10.5)。『日頃「心のバランス」という言葉を耳にすることがあります。キケローも「人生を通じて心のバランスを保つことは素晴らしい。いつも変わらぬ表情と顔つきをしていられることもまた素晴らしい」と言っています。ローマの格言をいろいろ見ていると、心の激しい浮き沈みを戒める言葉がたいへん多いです』。『「心のバランス」と言えば、ホラーティウスの「黄金の中庸」(アウレア・メディオクリタース)がもっとも有名です。「なにごともほどほどが一番」というくらいの意味です。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」とも言われるように、何事にせよバランスを取るのは大切です』。『ホラーティウスは、逃れられない死の定めについて、また人生の無常について、繰り返し詩の中で語っています。権力や富への過度の欲望にとらわれるべきでないこと、今ある質素な暮らしに満足し、「今日この日を楽しめ」と歌います。「Carpe diem. カルペ・ディエム」の詩でも有名ですね』。『英語でも「中庸」のことをゴールデン・ミーンと言いますが、ホラーティウスの「アウレア・メディオクリタース」に遡ると考えられます。アクセントは「アウ」と「オ」に落ちます。二語から成る言葉なので覚えやすく、それでいて重みのある言葉なので、座右の銘にお勧めです』。『ホラーティウスは、死という逃れられない定めについて、また人生の無常について、繰り返し説いています。そこから、権力や富への過度の欲望にとらわれるべきでないこと、今ある質素な暮らしに満足し、「今日この日を楽しめ」と歌うのです』。『ある意味で、エピクロス派の幸福観を想わせます』。『ホラーティウスは、中庸の徳を大切にした人です』として、以下に詩篇が示されてある。]

 しかしリルケの自己摸索の有樣を示し、詩人的自覺の内容を語るものは、小說『最終の人々』と、戲曲『日常生活』であると思ふ。

 小說『最終の人々』の主人公ハラルトはリルケと等しく古い貴族の末裔である。彼の祖先には將軍あり、國王もあり、僧正もあつた。ハラルトは之等祖先の基礎の上に立つてゐる。彼の背後に橫はつて居る數百年の發達は彼の上に悉く其影を落して居る。それ故の彼の戀人マリイの語を借りて云へば、「何人も氣づかぬ程の人生の出來事でも彼を見れば直ぐ解る。彼の言葉も、眼眸も、身振も、直ちに一つの出來事を意味する」のである。斯うしたリルケの考へ方を見ると、彼もまた自然主義の人生觀と等しく、自我又は個人の中に幾多の祖先が嚴然として生存して居ることを信じてゐるやうである。遺傳の事實を否定しない一人であるらしく思はれる。そして外的生活で嘗て支配者であつた祖先のことを屢その詩作の中で語ることは、フリイトリッヒ・ニイチエが自分の祖先をポオランドの貴族として一種の誇を禁じ得なかつたことと思ひ合せると中々面白い。しかしながらリルケと自然主義者との相違は、其遺傳の力に全然屈伏するか、それを凌いでそれ以上に出るかにある。『旗手クリストオフ・フォン・リルケ』等を見れば、彼が自我を訊ねて祖先へ遡ることは祖先によっての決定を信ずる悲觀的定命論者とは異つて、嘗てあったものが滅びないことを證明しようとし、引いては可死者に永遠の命を與へる樂觀者であり、變轉と發達とを信ずる理想主義の面影を持つてゐることがわかる。彼が祖先の中に見るものは決して單なる物的肉體的のものではなく、其の中に籠つてゐる靈性であり、變轉と發達とを信ずる理想主義の面影を持つてゐることがわかる。彼が祖先に中に見るもの決して單なる物的肉體的のものではなく、其の中に籠つてゐる靈性であり、力であることは、リルケが物に卽しながら其の形骸と物理的機械的作用にみ捕へられなかつたと同樣であつた。此點は特に注意して置かなくてはならない處である。

 さて主人公ハラルトは社會改良事業の爲に日夜營々として、種々の困難に遭遇しながら奮鬪を續けて數年を經た。そして彼の爲には最後の一滴の血まで惜むまいと思つてゐるマリイの助けをも得た。しかしやがて彼は自己の努力の無益なことを覺醒した。世人は蒙昧、偏見、貪婪等あらゆる罪惡の中に浸つてゐて、却つてそれに執著している。過去の羈絆[やぶちゃん注:「きはん」。「牛馬をつなぐ」の意から、「足手纏(まと)いとなる身辺の物事」の意。]に捕へられて之を脫する努力を缺いてゐる。不治愚鈍な怠慢である。彼は自己の生活を顧みて、其の效果は老母が沈默の間に編み上げた一枚の卓布にも及ばないことを感じた。彼の生活は愛の浪費に過ぎなかった。

「私は愛を熟させなかつた。私は餓ゑて居る人々に靑い果物を投げ與へた。」

 彼は斯うした悔恨を抱いて重い病の床に橫はつた。ハラルトの此告白が我々に告げる處は、外面的物的生活の革新は先づ我々の内面生活の充實を得て後でなくてはならないとの意味である。内にある愛を熟さしめる、その考は實に大戰後の獨逸文檀に澎湃として潮のやうに高まつたものであつたが、それに先立つこと二十年、末だ一種の夢想家の如く思かれてゐた靑年詩人リルケによつて道破せられたところであつた。そして其內なる愛を養ふには何うしたらよいか。ハラルトは死に隣つてゐる病床にゐて少年時代を回顧する。

「私は最う一度子供時代から始める。子供時代は全く總べてのものから獨立した國である。國王たちの住む唯一の國である。我々は何故其處から追放されるのだらう。何故あの國で年を重ねて成熟しないのだらう。何故他人の信ずるものに自分を馴らさなくてはならないのだらう。それが純一な子供心に信じてゐたものよりは、幾分でも多い眞理を含むでゐる故であらうか。私は今でも思ひ出すことが出來る。……あの頃には一々のものが特殊の意味を持つてゐた。そして無數のものがあつた。何れも價値は同じであつた。それ等のものの上には公平があった。各のものが唯一つに見えた。運命であり得た。」

 彼は斯うして「全く手本のない生活」をし、あらゆる因襲から得て來た知識を自分に應用せずに、「始めて人間として生れて來たやうに振舞はう」と思つた。其處には「無數のものが同價値であり、個々の物が唯一つに見え」なくてはならなかつた。短篇『一致』の主人公が「十年の努力は唯全く生れた元のところへ歸つて來る爲に費されたのです」と叫んでゐるのも同じ心持に外ならない。それ故リルケにあっては自我の探求は殆ど自我の解體であり消滅であつた。否な自我の本質、總べての原始への復歸であつた。根本的に最初から、始めて人間として生れて來たやうに、感じ、味ひ、愛し、考へ、表現する。其處に眞の藝術の母胎がある。此覺醒からリルケは主人公ハラルトをして、外面生活の支配者であつた種族の「最終人」として、人間の內部生活にたづさわる詩人としての任務を決定的に負はせたのであつた。云はば自傳小說とも云ふべき此作で、リルケは自己の詩人としての覺醒を語ると共に、その詩作の如何なるものである可きかを規定してゐるやうに思はれる。「我々は多くの藝術を持つてゐるが、實は一つも持つてゐない。多くの憧憬はある。そして一つの充足もない。」何故といふと「世界のあることを知るのは藝術では無くして、それは一つの世界を作ることで無くてはならない。見出すものを破壞することではなくして、「單に未完成なもの」を見つけることにある。可能性のみ、願望のみ。そして突如として滿足があり、夏があり、太陽を持つ……」其處に藝術の不可思議があるのである。在來の總べてのものは唯神へまで導いたに過ぎなかつた。「常に惟神へ迄至つて、それを越えたことが無い。恰も神が岩ででもあるやうに。」しかし其處に新しいものが覗はれなくてはならない。神は越え難い岩ではない。「彼は花園であり、海であり、非常に大きな森である。」――「人は神の罷む處、疲れたところから始めなくてはならない。其處で進入しなくてはならない。」その能力あるものが、その惠まれたものが卽ち藝術家である。リルケが神を如何に考へたかは後章の說明に讓るとして、彼れがかうした永遠と生命との交感とも云ふ可き藝術創作の刹那の感激的禮讃は、戲曲『日常生活』にも見ることが出來る。

 此戱曲の女圭人公ヘレエネは戀愛と藝術的靈感とを同樣であるとして、戀愛から結婚に進もうとする靑年畫家に告げて云ふ。「近代の藝術家は、一つ一つの閱歷にそれ相當の調子を與へて、それを一つ一つの完全なものにし、一つ一つの生活にし」なくてはならない。斯くの如き人にして始めて「一生の間に千萬の生活を閱し、千萬の死を死しながら千萬の死を凌ぐ」ことが出來る。此異常事を爲遂げる素質と能力とを持つてゐるものが眞の藝術家であつて、藝術家が靈感に打たれてゐる一時間は決して唯の一時間ではない。彼の過去未來に於ける數千百日が此一時間に折り重なつてゐるのである。云ふベくんば彼の永劫さへ此一時一刻に縮まつてゐる。而もその一刻は規則と便宜とに支配されてる世界の眞中で、又此の高い交合と受胎とを見ることも感ずることも出來ない人々の眞中で、突如として詩人を襲ふこと、戀愛が電のやうに人の頭上に落ちるに似てゐるのである。そしてかういふ燃燒の時間は譬へ數時間繼續するにしても、其後に來る時間に比すると眞に瞬間である。後に來る時間とは卽ち日常生活であり、期待であり、勞作であり、無理な行爲であり、敬虔であり、謙遜であり、困難な始めであると。

 どうされます神樣、私が死んだら、

 私はあなたの瓶、(若し私が碎けたら、)

 私はあなたの飮物、(若し私が腐つたら、)

 あなたの著物だ、あなたの蝶鉸(てふつがひ)だ。

 私と共にあなたの意味は失はれる。

 

 私の後には、近い暖い言葉で

 あなたに話しかける家もないでせう。

 あなたの疲れた足からは天鷲絨の鞋(サンダアル)が落ちる。私はそれだ。

 又リルケは或る詩で「我は神の口だ」とも云つて居る。斯ういふ瞬間の體驗から、彼は萬物の後に活らゐて[やぶちゃん注:「はたらゐて」。]ゐる永遠者の存在の信念へ導かれた。主觀的ではなくて客觀的であり、個性的だといふよりは卽物的であつた彼としては、明かに一つの神祕的飛躍である。今やリルケに取つて眞に人生的意義のあるものは、萬物の深い心であつた。ものそれ自身であつた。その名や形等外面的なものではなくて、其の本體であつた。彼が自己の周圍のみを照らして截然[やぶちゃん注:「せつぜん」。]たる區別を敢てする小さな光よりは、總べてのものの一樣に溶け入つて區々の差異から脫出する闇と夕暮とを喜んだのも其爲であろう。「私は人間の語を恐れる。人々は皆これは犬、彼は家、此處に始があり、彼處に終があると」いふ、しかし名は例へば牆壁である。

 言葉はただ牆壁、

 その背後の常磐の山にこそ深い心は輝くのだ。

 詩人が其常磐の山に突入する「未聞の異常事を爲す」瞬間を持ち、「本來沈默としてのみ考へらるる或事を語り、」「恰もその言葉無くしては餓死せずにはゐられない數千の人々が眼前に立つてゐるかの如く、熱して、聲髙く、息もつがずに呼ば」ずにはゐられない者であることを體驗し、其れを藝術の本義であるとした事は、リルケを知る上に於て重大な點であつて、彼のあらゆる詩作を解く鍵であるが、更にまた彼が「日常生活」と呼ぶところの、その燃燒的境地に對する憧憬と期待、準備と勞作、敬虔と祈禱こそ、一層人としてのリルケの特性を示すものであるやうに思はれる。

 

2025/03/02

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「一」

[やぶちゃん注:以下は、底本の末尾に配されてある茅野蕭々氏の九章から成る、リルケ論「ライネル・マリア・リルケ」である。

 なお、引用される詩篇は五字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて、一字下げとした。

 また、前回の後注で述べた通り、現在、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全とミス・タイプ、及び、注の検証という大仕事を行っているため、一日一章の電子化しか出来ない。注も必要最小限(調べるのに時間が掛かると思われたものは(例えば、以下の、『或る評家がリルケを名づけて婦人魂(フラウゼン・ゼエレ)』(“Frauen Seele”)『の所持者と云つた』という評論家が誰か等々)に限らせて頂くので、御了承方、お願い申し上げるものである。また、経歴・作品については、彼の邦文ウィキ、及び、最も詳しいドイツ語のウィキを見られたい。

 

   ライネル・マリア・リルケ

 

      

 

 ライネル・マリア・リルケは一八七五年十二月四日今のチェッコ・スラヺアの首府――-當時獨逸領ビョエメンの都市――プラアクに生まれた。古い貴族の後裔であるといふ。彼の寫眞を見ても、其中正な鼻と、瘠せぎすな上品な頰の線と、廣い額と、澄み極つて凄味さへある眼眸とは、明に彼が髙貴な血統であることを思はせる。小さな時から孤獨と平靜とを好んだことは、彼の自敍傳とも云ふ可き小說『最終の人々』にも覗はれる。名族の最終人としての自覺が夙うから彼の重荷となつてゐたやうである。彼の最も愛したものは、繪本、人形、銀糸、孔雀の羽根、靜に搖曳する白雲等であつたといふから、彼が如何に女らしい小兒であったかが想像される。或る評家がリルケを名づけて婦人魂(フラウゼン・ゼエレ)の所持者と云つたことも思ひ合はされる。父に就いては彼は多くを語らないけれども、蹉躓[やぶちゃん注:「さち」。人生に「つまずいたこと」・「失敗すること」を言う。]の人であったことは推測するに難くはない。そして稀に父に向けられている辭句も愛に溢れた調子を帶びて居ることは殆ど無く、唯一度基督降誕節に捧げられた子供らしい歌の中に「クリスマスの樹の下の我が良き父よ」と云われている位のものである。之に反して髯のあるその顏は折々實際に浮き上って、見知らぬ、敵意ある假面の象徵として『時禱篇』中に現はれる。

 一體人は父を愛するか。……

 彼れの枯れた言葉をば、稀に讀む

 古い書物の中に置きはしないか。

 

 人は分水地からのやうに、彼の心から

 離れて快樂と惱みとに流れはしないか。

 父は我々にはあつたものではないか。

 異つて考へられた過去の歲月、

 古ぼけた身振、死んだ衣裳、

 咲き衰へた兩手、白むだ髮ではないか。

 その上(みかみ)は英雄であつたにせよ、

 彼は、我々の育つ時、落ちる葉だ。

[やぶちゃん注:詩篇の八行目は、底本では、『古ぼけな身振、死んだ衣裳、』となっているが、意味が通らない。後の再版「詩集」でも、「古ぼけな」のままであるが、岩波文庫では、誤植と断じて、訂してある。そちらに、特異的に従った。

  彼の氣遣ひは我々には夢魔のやうだ、

  彼の聲は我々には石のやうだ。――

  我々は彼の話を聞きたいが、

  言葉は半ば聞えるのみだ。

  彼と我々との閒の大きな戲曲は

  互に理解するには騷がし過ぎる。

  我々は綴が落ちて消えてゆく、

  彼の口の形を見るばかり。

 云ふまでも無く此詩に於ける父は眞實の父を指して居るのではないが、かういふ象徵として父を用ふる處に、彼が父に對する暖かでない心を裏切るものがあるやうに思はれる。そしてそれは單にリルケの個人的の體驗によるばかりではなく、其後獨逸文學に於て極めて顯著になつた「父子の契機」(フアタア ゾオン モケイフ)、卽ち父に對する子の反抗と非難の先驅が既に隱約の間に認められるような氣がしないでもない。之に反して母に關する追憶は種々の作品に、優しくまた暖かく現はれてゐる。彼が常に切實な感謝と愛慕の情を母に寄せてゐるのを見れば、此の婦人が如何に豐かな愛をこの神經質な小兒に傾注してゐたかがわかる。「私は屢自分の母に憧れる。白髮を頭に戴く靜かな婦人に」と云ひ、母を聖母とも戀人とも思ひ、裳裙[やぶちゃん注:「もすそ」。]を長く曳き無限に優しく手を撫でてくれる天使のやうにも、また冷たく蒼ざめてゐる『受苦聖母(マアテル ドロロツサ)』とも、基督の死骸を抱いて泣くピエタの姿とも眺めた。「父」の中に敵を見出しながら、「母」に對しては槪して同情と理解とを示している新時代の風潮が、夙に此處にも動いてゐるやうに觀測される。

 しかしリルケの詩作の中で重要の役目を演じて居るものは、獨り血族の中の最も近しい者のみではない。否な寧ろ距離によつて一層强められたもののやうに、遠い祖先が屢その對象に選ばれて居る。これは後に梢詳細に述べたいと思ふ彼の自我模索の一階梯としてではあったが、彼の視線は未來に向けられずして先づ過去に延びた。そして最も幸福な時間にあつてさへ、祖先等の生活にそれとパラレルを成すもののあることを指摘せずにはゐられなかった。パウル・ツェッヒの云ふやうに、「彼はただ總べての現在の中の過去を生きて居る」とも考へられる。「私は父の家を持たず、また失ひもしなかった。……私は幸福を持ち悲哀を持つ。そして總べてを獨りで持つてゐる。それでもなほ私は色々のものの相續者だ。私の族(やから)は二つの枝となつて森の中の七つの城で花を開いた。そして紋章に疲れて、最う古くなり過ぎてゐる」と彼が云つて居るやうに、リルケは自己の祖先であつた異敎的國王の生活に自己自身を見出したのであつた。それは前述の小說『最終の人々』の他に『ランゲナウの主、旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道』を讀む者の、必ず心づく處であろう。

[やぶちゃん注:「パウル・ツェッヒ」ドイツの作家パウル・ツェッヒ(Paul Zech 一八八一年(西プロイセンのブリーゼン生まれ)~一九四六年ブエノスアイレス没)であろう。ドイツ語の彼のウィキを参照。

[やぶちゃん注:「ランゲナウの主、旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道」但し、小説の正式名は、‘ Die Weise von Liebe und Tod des Cornets Christoph Rilke ’である。一九〇六年刊。茅野の訳の「ランゲナウの主」というのは、物語の発端部分で、一六六三年の「第四次オーストリア・トルコ戦争」で戦死したリルケの先祖クリストフ・リルケの財産分与が弟のオットーに譲るという文書に始まり、そのクリストフ・リルケ(Christoph Rilke von Langenau)のランゲナウからハンガリーへの旅と、そこでの死の物語が語られている(同書のドイツ語のウィキを参考にした)。]

 さて兩親の離別は强ひて彼を幼年學校へ入れた。しかし粗暴と喧騷と抑壓とに充ちた軍隊的生活は、到底リルケの堪へ得る處ではなかつた。士官となる希望を放擲した彼は、五年在學の後其處を去つて、全力を盡して働いていたが、一八九四年からは諸處の大學の講義を聽いて步いた。しかし何處にも長く止ることが出來なかつた。リルケの期待するものを與へる處が無かつたからである。此頃から彼の精神の奧底に橫わつている詩人的素質は漸く鏡のやうに輝いて來た。『人生に沿いて行く』の中に收められた短篇『子の基督』は既に一八九三年に出來てゐた。『人生と小曲』(一八九四年)、『家神奉幣(らあれんおつぷヘル)』(一八九五年)、『冠せられたる夢』(一八九六年)等の詩集、『今と我等が死滅する時に』と題する戲曲的のスケッチが相前後して出版されたが、勿論未だ世間の注意を牽くに足りるものは無かつた。

 一八九六年から翌年へかけてミュンヒェンに滯在したリルケは、やがて首府ベルリンを訪れて、所謂中央文壇の人々と交誼を結んだけれど、蕪雜と蠱惑と焦噪との他には何物も無いやうな大都會の生活は、當時のリルケのよく堪へる處ではなかつた。間もなく彼は旅途の人となつた。フィレンツェを始めトスカナの諸市は大いに詩人の心に叶つて、『新詩集』二卷の中には水都ヹネチアを始め之等[やぶちゃん注:「これら」。]の諸市を歌つた作が少くないが、伊太利から轉じて露西亞に入つた彼は、人間と自然との率直な交涉をつくづくと眺めて深い感銘を受けたのであつた。現代に於ける唯一の祈禱詩集であり、リルケの到達した神の思想を明示する重要な記錄である『時禱篇』も、その起源を露西亞の旅に發していると云はれてゐる。

 露西亞から歸つて來た詩人は北獨逸のディットマルシェンの荒野にある一寒村ヺルプスヹヱデに居をト[やぶちゃん注:「ぼく」。]して、長らく身を「自然の大寂寞」の中に委ねようと思つた。當時其處に屯[やぶちゃん注:「たむろ」。]してゐたマッケンゼン、モオデルスゾオン、ハンス・アム・エンデ及びフォオゲラア等の靑年畫家と共に深く精しく自然の姿を見、萬象の背後にある永遠なるものに滲透[やぶちゃん注:「しんとう」。]しようと思つた。彼の著『ヺルプスヱエデ』の序に次ぎの言葉がある。

 「獨逸の浪漫派の人々の中には自然に對する大きな愛があつた。しかし彼等が自然を愛するは、丁度ツルゲニエフの小說の主人公があの娘を愛したのに似てゐた。その主人公は斯う云つてゐる。「ソフィアが特に私に氣に入つたのは、私が坐つて彼の女に背を向けていた時、すなわち私が彼の女のことを思つてゐた時、心の中で自分の前に居るあの女を見た時である。わけて夕暮に高臺の上で云……」と。恐らく彼等の中自然と面接したものは唯一人である。それはハンブルグの人フィリップ・オットオ・ラングである。……」

 之を以て見ると、リルケは自然を空想の中に於て愛しようとする態度に慊らず[やぶちゃん注:「あきたらず」。]して、直接これに觸れ、深くこれを摑むことを望んでゐることは明かである。彼はマッケンゼンを讃へて云つて居る。「彼にあつては視は卽ち愛である」と。恐らくこれはまたリルケの場合でもあつたであらう。斯うして『時禱扁』に現れてゐる汎神論的思想の成熟は、此の平凡無奇な一寒村と、その周圍の平野とに負ふところがあつたことは疑ふ餘地が無い。その事に就いてはなほ後に說きたいと思ふ。「平野と天、これこそは我々の生活の表號である」とリルケは云つてゐる。

 此時リルケをこの自然の懷から拔き取つて、あれ程嫌つてゐた大都會の眞中に移したものは、實にロダンの偉大な藝術であつた。彼は終にロダンの許に走つて一種の祕書役を勤めることになつた。藝術が自然に勝つたのか、抑もリルケにあつては自然の精神が卽ち藝術の精神であつて、神、自然、藝術の三位一體が顯現したのであるか。これは彼を硏究するものに取つて興味ある問題でなくてはならない。

 一八九八年以來、リルケの作は相續いて公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]にせられて、其名も漸く世に知られて來たのみか、リヒャルト・デエメル、シュテファン・ゲオルゲ等と共に、今日にあつては一流の抒情詩人として、其の功績はあらゆる文學史家によつて認められるに至つた。すなわち小說類では『プラアク二話』、『人生に沿いゆく』(一八九八年)、『神の話其他』(一九〇〇年)、『最終の人々』(一九〇〇年)、『旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道』(一九〇七年)、『マルテ・ラウリッド・ブリッゲの略記』(一九〇七年)。戲曲には『早寒』(一八九七年)、『現在無し』(一八九八年)、等初期未成熟の作二、三の外に、『日常生活』(一九〇一年)、『白衣の夫人』(一九一〇年)。詩集には『家神奉幣』(一八九五年)、『冠せられたる夢』(一八九六年)、『基督降誕節』(一八九八年)。――以上は後年『第一詩集』として一緖に纏めて公にされた――『我が祝に』(一九〇一年、後改題『舊詩集』)、『形象篇』(一九〇二年)、『時禱扁』(一九〇三年)等の他に一九〇七、八年に跨つて刊行された『新詩集』及び『新詩集別卷』がある。彼の詩作は其の發表の當時にあつては、女性らしい弱々しさの爲めに、その新味と才能とは稱讃されながら、時代を指導する力なきものとして、常に文藝批評家の滿足を得ることを得なかつたやうであるが、歲月の經過は之等批評家の短見を暴露して、彼が新時代の靑年詩家に對して、どれ程大きな影響を及ぼしたかを實證した。そしてそれは單に用語形式の上ばかりではなく、實に詩想の方向に係はつてゐるのであつて、此點ではリルケは、繪畫界に於けるセザンヌのやうに、丁度分水嶺の役目を演じて居るやうに見える。彼の言葉を借用するならば、彼は實に敎會の塔上に立つ風見旗のようなもので、街上の人々の末だ感じない時代の風を敏感して、將に來らんとする嵐を告げたものだといふことが出來る。なお彼の及ぼした影響については後段別に述べたいと思ふ。が、徹頭徹尾謙遜を以て終始して居るやうに思はれる彼の事業が、豫期されなかつた大きな波紋を起したのを見て、昨冬五十年の祝祭を迎へた彼は如何に感じたであろう。恐らくは彼が嘗てロダンに就いて云つたやうに、「聲名の加はるに從つて愈孤獨になつてゆく」彼であるかもわからない。

 

2025/03/01

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「第二卷」 「戀人の死」 / 底本訳詩篇部~了

 

 戀人の死

 

死は我々を取つて沈默の中へ押入れると

萬人の知ることだけを彼は死について知つてゐた。

しかし彼女が彼から引奪(ひつたく)られはせずに、

そつと彼の眼から解きほどかれ

 

未知の蔭へ滑り去つたとき、

そして彼方の人々は今

月のやうに彼女の微笑で

彼等の習(ならは)しをよくするのを感じた時、

 

その時死者たちは彼の知己となつた。

恰も彼女によつて一人一人と

全く近い親戚になつたやうに。

 

[やぶちゃん注:本詩篇を以って、底本の詩篇部は終わっている。

 以下、訳者に拠る「ライネル・マリア・リルケ」と標題する全九章から成る論考がある。これも無論、電子化するが、現在、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全とミス・タイプ、及び、注の検証という大仕事を行っているため、一日一章の電子化しか出来ない。悪しからず。]

2025/02/28

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「第二卷」 「鏡の前の夫人」

 

 鏡の前の夫人

 

寢酒の中の香料のやうに、

流れるやうに澄む鏡の中へそつと

夫人は疲れた容姿を溶かして

その微笑を全く入れる。

 

そして待つ、液體の上るのを。

それから髮の毛を鏡へ注ぎ、

驚くべき肩をば

夕暮の物著から出しながら、

 

靜に夫人は自分の姿を飮む。

愛する男が陶醉して飮むやうに、

疑惑に溢れて、試(ため)しながら。

 

そして鏡の底に、燭光や、

簞笥や、遲い時間の薄暗さを見ると

始めて夫人は侍女(こしもと)をさしまねく。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注には、後の本詩集の再版である「詩集」で「著物」『に訂正された』とあるが、「物著」(ものぎ)という語は「衣服を着(き)て、飾ること」の意があり、私は初読の際も、誤記・誤植のようには全く感じなかった。]

2025/02/27

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「第二卷」 「薔薇の內部」

 

 薔薇の內部

 

何處にこの内部に叶ふ

外部がある。どんな痛みを

人はかういふ麻布で蔽ふのか。

なんといふ天が此中に映ずるのだ。

これ等の開いた薔薇の、

憂のない花の

內海に。見よ、

彼等がゆるやかの中に緩かに

橫つてゐるさまを、慄へる手が

彼等を散りこぼすことも出來ぬやうに。

彼等は殆ど自分をも保てない。

多くの花は溢れさせ、

內部から流れ越え、

いよいよ充ちてゆく

日の中へこぼれ入る。

全き夏が一つの部屋になるまで、

夢の中の一つの部屋に。

 

[やぶちゃん注:「橫つてゐるさまを」「よこたはつてゐるさまを」。]

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